「きっとすぐ別れるさ。この店で知り合ったカップルはみんなそうだ」
ザキさんとサヤ――矢崎一利と佐谷田和敏の〈ダブルカズトシ〉コンビはそんなジンクスにも負けず同居三年目を迎えようとしている恋人同士。
日勤のサラリーマンと遅番メインのスイミングインストラクターという職業の違いから生活時間は多少ちぐはぐではあったが、相思相愛のおしどりカップル。行きつけのゲイバーの常連仲間にひやかされるほどの熱々ぶりは今も続いている。
だがふたりには心に秘めた重い秘密を互いに打ち明けられずにいた。
行きずりの相手として出会ってしまった六年前の背徳の一夜のこと。
ただ欲望に身を任せ、嗜虐の蜜をすすりあっただけ。彼にとっては相手など誰も良かったはずなのだ。
だから言えない。あのとき恋をしたなんて……。
あのときの熱を今も切ないほどに求め続けている気持ちは、決して彼には告げられない。
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この本はタチヨミ版です。
「こほっ……」
喉の奥にわだかまっていた吐息の粘着く重さに小さく咳込んだ。
揺れる視界に、常夜灯のほのかな光。耳元で聞こえる恋人の荒い息遣いに煽られて、呼吸器の奥がむず痒く疼いている。
だがやはり……。
奔放に喘ぐことへの躊躇を、佐谷田和敏は捨て切れなかった。
紳士的な恋人は、挿入しているあいだも佐谷田を愛撫し続けてくれる。乳首を弄ったり、感じやすい耳朶に触れたりもするけれど、ダイレクトに性器を刺激することを選ぶほうが多い。共に絶頂を迎えることを好んでいるようでもあった。
佐谷田の男性器を包み込んだ恋人の手は少し前から上下することを忘れている。さっきまでくすぐったいほどに繰り返されていたキスも、今は止んでいた。その代わりに鋭敏なすぼまりを押し広げて出入りする屹立はさらにその硬さを増しているように感じられた。
彼自身がすでに射精間近なのだろう。
ローションをたっぷり塗りつけた恋人の手のひらの、少し強過ぎる圧迫。ゴツゴツした指の関節のひとつひとつが、今、おまえも俺をこんな風にいやらしく震えながら締め付けているんだと告げているようでもあった。
恋人の身の内に潜むSの気配がじわじわと滲み出して、佐谷田を責めたがっていた。
佐谷田もまた、今にも溢れ出てしまいそうな快楽を堪えている。だが、もう少しこのままで彼の手のひらを味わいたい。この息苦しい快楽の予感にずっと身を浸していたかった。
「ザキさん……」
思わずそう、恋人に呼びかけていた。
それでも、もっと、痛くして……と、口をついて出そうになった言葉は何とか飲み込んだ。
佐谷田は不感症ではなかったし、不能でもない。男性器は問題なく機能している。今は恋人がいるし、それ以前もさほど頻度は高くはなかったが、自らしごいて処理をすることだってある。放っておけば鬱々と溜まっていく性欲を手っ取り早く晴らすにはそれが一番だとも思っている。
だが相手がいるときには……別だ。
遠慮なしに後孔を突き上げて身勝手に中出しするような男を相手にしているほうが、呆気ないくらい簡単に絶頂を迎えられた。こうして丁寧に愛撫され、男性器を刺激されて男としての反応を求められると、逆に快楽の糸口を見失いそうになってしまう。もしこのまま射精したとしても、きっと気持ちは置いてきぼりになったままだ。
(駄目だ。だめ……。馬鹿なこと考えるな。下手なことを口走ったら、何もかも全部おしまいだ)
そう自分に言い聞かせた。
油断すれば懸命に隠し続けてきた自身の闇をぶちまけてしまいそうだった。淫らな本性も、汚い過去も、何もかも。
本当は、もっと責められたいのだ。
両腕を拘束されて目隠しをされ、ペットか玩具のように扱われたい。
優しくされたいなんて望んでいない。
悲鳴を上げるまで……いや、悲鳴を上げても容赦ないくらいに責め立てられたいのだ。
そういう横暴さで「おまえは俺のものだ」と主張したがる男を、佐谷田は何人も知っていた。
男同士のセックスはサル山の順位付けと同じ行為だ……と、文字通り体に覚えこまされた記憶。その過去を、佐谷田はまだ振り切ることができないでいる。誰も彼もががむしゃらに上を目指していく中で、カーストの最下層に追いやられ、性的な搾取の対象にされていたあのころ……。
彼らは本質的にはゲイではなく、佐谷田にも佐谷田の体にも愛情などひとかけらも持っていなかった。問題をおそれ、根性論を振りかざして若い性欲を締め付けようとするコーチたちへの苛立ちをぶつけるのに、佐谷田が格好の存在だったというだけだ。そして彼らは禁足状態で女を抱けないときに、その代わりになる物を欲していた。
持て余した性欲を佐谷田の体で発散させてはいても、他の仲間にゲイだと誤解されてはマズイという感覚もあったのだろう。だから、容赦がなかった。
佐谷田だって彼らに対しては――あのときも今も――憎しみしか感じていなかった。あんな場所に戻りたいと思っているわけじゃない。
それなのにあの残忍なまでに甘い快楽が、時折堪らなく恋しくなる。
(どうかしてる、俺……)
ふと我に返って、佐谷田はくちびるを噛んだ。
相思相愛の恋人に抱かれているさなかだというのに、過去の男たちとの淫らな行為を反芻している後ろめたさ。そんな自分に気づいて、ちくりと胸が痛んだ。
こんな気持ちを味わうのは今夜が初めてではなかった。
この男・矢崎一利と暮らし始めて二年――。
こうして抱かれるたびに、佐谷田はその苦い強張りを抱き続けている。
罪の味ということかもしれない。
嘘で誤魔化して彼を誘惑した、その報い。
(不誠実だ、こんなの)
その反応に違和感を覚えたのか、佐谷田の足を抱え込んでいた矢崎の手が、ふ……っと、離れる。その矢崎の手が、シーツの上に投げ出された自分の手首のすぐそばに降りてきた瞬間、佐谷田の体は、びく……びくんっと激しく震えた。
「あ……っ」
まるで怯えた子犬みたいに情けない声までが口から飛び出している。
手首を掴み上げられるのだと思った。
その行為への警戒感が、心臓を突き刺すような痛みとなって襲い掛かってくる。
実際には矢崎の手は佐谷田に触れてさえいなかった。佐谷田の手首に戒めのように絡みついているブレスレットを、彼の指先がほんの僅かにかすめただけだ。
……ただの、誤解。
それなのに、心臓が爆発しそうだった。
矢崎は決して佐谷田の手首に触れたりしない。もうそんなこと、わかっていたはずなのに。
『ヤッてる最中に手を掴まれるの、嫌なんだ』
つきあい始めたばかりのころに佐谷田が口にしたその言葉を、矢崎は重く受け止めたようだった。そしてその行為を、まるで禁忌だとでもいうように避け続けている。
「イッたのか? おまえにしちゃ珍しく早いな、サヤ」
矢崎が口にした言葉の意味よりも、〈サヤ〉という呼びかけにどきりとしていた。
矢崎も佐谷田も揃って〈かずとし〉だったから、下の名前で呼び合うのは不便この上なかった。つきあい始めてからは、ずっと苗字の短縮形で呼び合っている。ザキさんと、サヤ。もうすっかり馴染んだつもりになっていたのに、初めてそう呼ばれたときに抱いた苦い気持ちが蘇ってきた。
『俺がザキさんなら、そっちはサヤちゃんか?』
あれはつきあい始めるより前のことだ。まだ、行きつけの店でたまたま隣の席に座った常連同士に過ぎない間柄だったとき。
矢崎のその一言で、佐谷田は〈サヤ〉になった。ひとり客の佐谷田和敏から、常連客曰くの〈ダブルカズトシ〉の片割れになった瞬間。
そしてあの言葉が矢崎からの最初のアプローチだったのだ……とも、佐谷田には思える。
抱かせろよ。俺のものになれ。
そう言われたような気がした。
それまで矢崎は店にいても無言で飲んでいるばかりで、常連客同士の会話にもめったに加わらなかった。佐谷田が隣に座っても他の連中のようにあからさまなお誘いをすることもなく……どちらかと言えば佐谷田には無関心でいたようにも見える。それなのにあのときは、まるでこの場で押し倒すぞと言わんばかりのギラギラした男臭い口調だった。
女の名前にしか聞こえないその呼びかけには、矢崎の欲望の一切合財がひとまとめに詰め込まれていたように感じられる。飢えていることも、相手にどういう役回りをさせたがっているのかも。おおっぴらには口にできないハードな性行為を好んでいることまでが、あの言葉には滲んでいた。それをド直球で投げつけられたようなものだ。
その衝撃に佐谷田は眩暈さえ覚えていた。
そういう男がこんな普通のセックスで満足する……? 否。どう考えたってありえない話だ。
薄暗い室内で表情のすべてが読み取れるわけではないけれど、矢崎が笑みを形作っているのは明らかだった。たった今まで佐谷田の顔ではなく、繋がった下腹部を見下ろして悦に入っていたことをその表情が語っている。矢崎が身の内に隠している仄暗い思いは、そうして時々鎌首をもたげるように垣間見える。
今もまだ彼の身の内には炎のような欲望があって、それを佐谷田の体にぶつけたがっているのだ。
――本当は、もっと別の形で。
「……」
とっさには声が出なかった。
その佐谷田を見下ろして矢崎は少し迷ったようだったが、すでに中断できるような段階は過ぎているのだろう。そのまま無言で腰を動かし始める。すでに佐谷田がドライで極めたと思ったからか、それとも焦りからか、いつもより少し……その動きは性急だった。息遣いもさらに乱れて、まるで悪態を堪えているようだ。
『勝手にイキやがって』
そう言い放たれたような気がした。
佐谷田が待ち望んでいるその言葉を、ついに口にしてくれたのだと……。
『もっと愉しませろよ。無理やり突っ込まれるのが大好きなおまえの孔をたっぷり汚して犯し尽くしてやるから』
そんな言葉を矢崎が口にしたことなど一度だってない。それなのに耳の奥にこだまするように聞こえてきたのは紛れもなく彼の声だった。煙草も吸わないのに、少しいがらっぽくかすれて佐谷田の耳朶をくすぐる……恋しい男の声だ。
矢崎に揶揄された通り、いつもはなかなか極められずにいる絶頂。それなのに今日は意図せぬうちにそのまっただ中に飛び込んだような心地だった。男性器に与えられる刺激と後孔を穿つ刺激とが同調して、大波のように佐谷田を翻弄する。
「ん……っ、あっあっ……ああぁーっ」
繰り返される力強い抽送に、佐谷田はついに堪え切れずに粘着く喘ぎを漏らしてしまった。
その瞬間、高校二年生の全国大会の情景が脳裏をかすめた。
クラスで一番目立たない生徒だった佐谷田を、一躍〈水泳部のエース〉に押し上げた試合――。
あのとき、水に飛び込む瞬間から佐谷田は自らの勝利を確信していた。
やれる。
今日の俺は、実力のすべてを発揮して完璧に泳ぎ切ることができる!
単なるうぬぼれではなくそう思えたのだ。そしてその思いの通りに佐谷田は会心のタイムを叩き出した。
あれほど興奮した試合は他にはない。ゴールした瞬間には、水から顔を上げるなり、声の限りに叫んでいた。湧き上がる喜びを押しとどめることもできず、気づいたら声を上げていたなんて、佐谷田にとっては初めての経験だった。
しかも会場内にはその佐谷田の声を掻き消すほどの歓声が渦巻いていて……。
その誇らしさに体の震えが止まらなかった。
「……シーツ、変えるか?」
口ではそう言いながら、矢崎は佐谷田の返事も待たずにふたり分の精液で汚れたシーツの上にばったりと体を沈み込ませた。新しいシーツで寝たいならそれに伴う作業はひとりで勝手にやってくれ……と、口には出さずともその態度が如実に語っている。
「んー、いいよ、このまんまで。なんか面倒くさい。明日やる」
佐谷田も動けなかった。濡れたシーツが肌に貼りつく感触は決して心地よいものではなかったけれど、もう何をするのも億劫だ。
まさかド平日の上に佐谷田が遅番の今日、深夜にセックスなんて事態にもつれ込むとは考えていなかった。明日は佐谷田の誕生日+同居しはじめた記念日で、夜は一緒に出かけることになっている。矢崎が求めてくるとすればそのときだろうと思っていたのだ。予期していれば今日は休憩時間に泳ぐのはもっと控えめにして体力を温存していたのに……。
いや、そうでなかったとしてもこの状況ではどうにもなるまい。シーツを変えようと思ったら、まずはパンツも履かずに転がっている中年男をベッドから蹴り出すところからのスタートだ。物理的には可能かもしれないが、いくら何でも事後の余韻を味わっている恋人にそんな仕打ちはできっこない。
そもそも替えのシーツがちゃんと洗濯済みかどうかも定かではなかった。かろうじて記憶にあるのは一昨日一戦交えたあとにひっぺがしたシーツを洗濯カゴに投げ込んだところまでだ。
ついでと言っては何だが、
(洗濯……今週は俺の番だったかも)
……などということも思いついてしまっていた。おそらくこれはそっと胸のうちにしまっておくべき事柄だろう。
物持ちのいい矢崎なら押し入れかなにかにシーツのストックの一枚や二枚隠してあったとしても不思議ではなかったが、それを出させるのはおそらく一苦労だ。せっかくのふたりの時間を台なしにするよりは、このまま眠りに落ちてしまったほうがまだマシだ。
「……シーツはともかく、ザキさんシャワー浴びなくていいの? 明日も出勤なんでしょ」
「それも明日だな。朝起きたら浴びる」
「またまたご冗談を」
ついそう混ぜっ返してしまう。
セックスの翌朝といえば、毎度毎度目覚まし時計のスヌーズ機能と格闘し、夢うつつで洗顔と髭剃りをこなしているうちにタイムリミット、朝食を食べ損なったまま会社へ向かう……というのが矢崎の常だ。佐谷田はその矢崎をせっつく役を二年も続けてきた。朝シャワーなんて殊勝な言葉をいまさらハイそうですかと聞き流せるはずはなかった。あれで遅刻が皆無というのだから、自称社畜は侮れない。
「シャワー浴びたって、このシーツで寝るんじゃどうせ元の木阿弥だろ」
矢崎の言葉にも面倒臭さが滲んでいた。枕に突っ伏したまま、顔を上げようともしない。
口調も、もうかなり眠そうだった。
……まあ、すでに午前三時を過ぎていて、矢崎は六時半起きで会社に行かねばならないのだから、無理もないことかもしれない。その上、三十過ぎの身の上で今週三度目の〈夜のおつとめ〉を終えたところ。疲れていないはずがなかった。お盛ん過ぎる。八年経って今の矢崎の年齢になったときに同じことができるとは、佐谷田には到底思えなかった。
(一緒に暮らして半年も経てば、セックスの回数はむしろ減るもんだと思ってたんだけどな……)
小さくため息が漏れる。
恋人との同居するのは佐谷田にとって初めての経験だが、周囲でよく耳にする愚痴を総合すると(それがノンケのカップルでもゲイのカップルでも)世間一般ではそういうことになっているような気がするのだ。
……が、そんな気配は一向にない。
(ちゃんと満足できてないってことかな……)
そういう疑問を、佐谷田は今も捨て切れずに持っていた。
「なあ、サヤ。おまえ、なんかあったのか?」
「うっわ、ビックリした。寝たんじゃなかったのかよ。――なんかって、何? 俺……どっか変だった?」
もう矢崎は眠っていると思ったのに、突然そう声をかけられてぎくりとした。多分、ため息はしっかり聞かれてしまっただろう。声の調子がいつもより重かった。
「いや、変ってこともないけどな。今日はずいぶん激しかったから……」
少し躊躇うように、矢崎が言葉を濁した。
『おまえのことが心配なんだ』
矢崎がそう言いたがっているのがわかる。
佐谷田の気持ちを図りかねて、矢崎が不安を感じていることも。
このところセックスの回数が微妙に増えているのも、多分そのせいだ。
だから余計に、佐谷田は矢崎の言葉を茶化して〈ノリの軽い、イマドキの若いの〉を演じてしまうのだ。
タチヨミ版はここまでとなります。
2017年7月22日 発行 第2版
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・竹の子書房「煙管の作法とパイプのメソッド」(実用書 共著)
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現在はアプリゲームや電子書籍などのキャラクターイラストを中心に活動中。
2015年 株式会社インターリンク主催「猫耳女子キャラクターディション」二次元部門グランプリ受賞。七代目にゃこ式部キャラクターデザイン
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