「お前たちは二人でやっと一人前だ。だから、何方が欠けても店は無いものと思え!」
親方にそう言われた割烹店の板前とその妻だけでなく、人は誰しも一人では不完全な半人前である。信頼し合う二人が支え合い補い合って漸く一人前になる。
この短編集はそんな「半欠け」の二人が信じ合い解り合って人生を紡いで行く感動の珠玉の物語である。
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この本はタチヨミ版です。
「済みません、無理を言って」
「良いのよ、そんなに気にしなくても。弟さんが結婚することになって、今夜はその相手の人を連れて来ると言うのでしょう、良い話じゃないの」
ママは、弟が結婚の相手を連れて、美香の処へ挨拶にやって来ることを喜んでくれていた。
「それじゃ、週末の忙しい時に申し訳ありませんが、今夜は休ませて頂きます」
そう言って、美香はクラブ「華」を出た。
美香は「華」のホステスである。普段は午後八時の開店に合わせて店に出、着替えを済ませて化粧や髪を入念にチェックした後、客の酒の席に着く。昔は閉店後に客とホテルへ付き合うような店を転々としたこともあるが、「華」はそういう店ではなかった。「華」に勤めてもう五年になる。
美香は繁華街の本通りを東に歩いて、メインストリートに出た。そして、コンビニの角を曲がって、その先の小川に懸かる橋に向かった。美香の住む瀟洒なマンションは橋を渡って少し坂を上った所に在る。美香は降り注ぐ春の陽光をまぶしく感じながら歩いた。
メインストリートには多くの人が往き来していたのに、一歩曲がった脇の通りは閑散としていて、美香が歩いて行く道の前方に、二人ばかり小さな人影が動いているだけであった。
通りを横切って川の袂に出た所で、目の前をすいと掠め過ぎたものがあった。それはあっという間に白く濁った春の空へ駆け上がり、射差しを受けてきらりと腹を返すと、今度は矢のように水面に降りて来た。
あっ、つばめだわ・・・・・
美香は立ち止まって、水面すれすれに川下の方へ姿を消すつばめを見送った。今年初めて見るつばめだった。今年どころか、もう何年もつばめなど見たことは無かったように思う。
美香の父は早く亡くなったが、暫くして、残った母も病気で倒れた。二人とも癌だったと、美香と弟の面倒を見てくれた叔父夫婦が言った。叔父夫婦は、店舗を持たない帯地の仲買人をやっていた。
美香の母親が床から起き上がれなくなると、叔父夫婦は美香が高校を卒業すると同時にバーに世話した。手っ取り早く金を稼げる仕事に就けたのである。美香が十八歳の時であった。
「お前ももう一人前だ。辛抱して、頑張って働くのだぞ」
叔父の言う意味はよく解った。
美香はそれまでも、学校に通いながら、身体の弱い母親の代わりに家事をこなし、近くに在る食品スーパーのレジや和菓子店の販売等のアルバイトを掛持ちで、数々やっていた。しかし、そこで手に入る賃金は多寡が知れた額で、母親が病気になって寝込むと、そんなものでは忽ち暮らして行けなくなった。病気の母親の医者代や薬代を稼がなければならなかったし、弟は未だ小学生であった。病人と弟の面倒を見てくれる叔父夫婦にも、何がしかの生活費は払わなければならなかった。堅気の商売ではなく、時給の高い水商売に入るのも止むを得ない、と美香は思った。
働き始めたバーで、仕事に慣れ、客とも馴染んだ頃、ママに中年の常連客と寝ることを強要された。驚いた美香は、早々に逃げ出したが、次に勤めた処でも同じであった。初めは嘆き哀しんだ、が、やがて心が麻痺して何とも思わなくなって行った。何時までも泣いてはいられなかったし、そんなことでは生きても行けないと美香は自分自身に居直った。その頃には、叔父が言った辛抱しろという言葉には、こういうことも含まれていたのだと解っていた。波に流されるように、浮世の仕組みの中を無感情に流れて行った。
三年後に母親が亡くなった。一人きりになった弟は叔父夫婦が引取って面倒を見てくれた。しかし、美香はいかがわしいバーの勤めから、直ぐに足を抜くことは出来なかった。母親の死んだ後には、少なからぬ借金が残っていた。父親と母親の葬儀費用は叔父夫婦が立て替えていたし、中学から高校へ通う弟の生活費や学費の額も馬鹿にはならなかった。 そういうものを粗方綺麗に精算し、高校の進路指導課の紹介で呉服卸の会社へ就職した弟の身支度を整え終わった時には、美香は二十四歳になっていた。その間に、美香は二人の男と援助交際をした。男二人はそれぞれに熱心で、借金の清算から弟の学費まで面倒を見てくれたが、美香はその男達と寝る時には鳥肌が立った。金の為だけに付き合った男達であった。美香の方から入れ揚げた男もあった。弟など捨ててしまおうかと思うほど一途に惚れ込んだ男も、結局は、美香を裏切って堅気の女の処へ逃げて行き、二度と美香の前には現れなかった。淫女というレッテルが自分に貼り付けられたような気がした。その頃から美香は深酒をするようになった。正体も無く飲み続けて、身体を壊し、長く寝込んだこともある。
弟の勇一がサラリーマンになって二年ほどが過ぎた頃に、美香は今の店に勤めを替えた。本当は水商売の足を洗って堅気に戻りたかったのだが、どう足を洗って良いかも判らないほど、美香は水商売の世界に身も心も染まり切っていた。しかし、普通のサラリーマンの道を歩み始めた弟の為にも、せめて金で男に抱かれるようなことだけは止めようと美香は心に決めた。
頑張って十年も勤めれば、勇一も一人前の仕事人になるだろうし、結婚もすることになるだろう。そういうことを考えると、美香は胸の中がほのぼのと明るくなるのを感じた。自分には射さなかった陽の光が、弟の上に射しかけるのを見たい、と美香は思った。
しかし、そういう風に事が運ぶには、弟も金が要るだろう、たった一人の身内として、肩身の狭い思いをさせてはいけない、弟が結婚する時には、ささやかでも、少しでも足しになるように、金を貯めておいてやりたい、美香はそう考えた。
それが済んだら・・・・・・
美香がそういう話を仲の良い親しい胞輩にすると、彼女達は言った。
「今度はあんたが自分の幸せを考える番だよ。良い男を見つけなさいよ、早く」
この歳になって良い男なんて見つかるものか、馬鹿を言うんじゃないよ、と美香は思う。だが、先刻のように、つばめが忽ち戻って来て、白い腹を見せて頭上を飛び過ぎるのを見たりすると、何か良いことが有りそうな予感がして、美香は胸を膨らませた。
初つばめ・・・・・
今日、初つばめを見た、と弟にも相手の娘にも話してやろうと思いながら、美香はマンションへと続く道を、橋を渡って急ぎ足に歩いた。
食品スーパーの前を通り過ぎようとした美香は、つと、立ち止まった。そして、一瞬、冷蔵庫に残っている食材に思いを巡らせてから、その店に入り、野菜や豆腐等と一緒にワインを2本買って、マンションへ戻った。
買ってきた品物をダイニングキッチンに置くと、美香はささやかな幸福感を胸に、部屋の掃除を始めた。掃除機の音も心なしか今日は静かに聞こえた。
弟と相手の娘は、午後六時前、陽が落ちる少し前にやって来た。弟はドアを開けて中に入る時、頭を打ちそうになって、慌てて首を竦めて潜って入った。濃紺のスーツに薄いブルーの無地ネクタイを締め、胸には白いハンカチが覗いている。社会人になって最初に貰った給料で、美香への誕生日プレゼントを買い、ジーパンにジャンパーを羽織ってやって来た昔に比べると、見違えるほど大人になっている。
そして、弟の後ろから身を竦めるようにして、遠慮がちに部屋へ入って来た相手の娘を見て、美香は眼を見張った。着ているものはブランド品の流行もので、色はやや地味だが、いかにも高価そうである。無造作に手にしているバッグも舶来の高級品であった。
その上、肌は滑らかに白く、身体もほっそりしている。艶のある長い黒髪は肩まで垂れ下がり、切れ長の細い眼は知的であった。弟の嫁になる人と言うから、てっきり会社勤めのОLだと思っていた美香は、虚を衝かれた思いだった。俯いて入って来た娘は、事務員でも店員でもなかった。
この娘は・・・何処かのお嬢さんだわ、と思ったが、気を取り直して美香は声をかけた。
「さあさあ、狭いところですが、どうぞお掛け下さい」
今、お茶を入れますから、と言って美香はキッチンへ立った。柱に隠れて手で髪を直したが、髪を直したくらいでは追いつかないだろう、と美香は思った。店から帰って来て直ぐに、一通り化粧は直したものの、夜の商売につきものの寝不足と酒とで浮腫んだ顔は、明るい蛍光灯の下では隠しようも無かった。
美香は急に弟に腹が立って来た。相手があんなお嬢さんなら、それならそうと事前に話しておいてくれたら良かったのに、いきなりじゃ、面食らうじゃないか、と思った。別にお嬢さんだからと言って、どうということは無いが、勇一の姉でございます、と名乗るには、少し気が引ける思いがした。そのことが腹立たしかったのである。
「わざわざこんなむさ苦しい狭いところへ来て頂いて・・・」
美香はお茶を出しながら、そう言った。気持が卑屈になっているのが自分でも解る。
「何回も言わなくてもいいよ。狭いのは見れば解るんだから」
弟がやや不機嫌な口調で応じた。そして、美香がお茶を勧めると、娘に、姉だよ、俺の親代わりなんだ、と言った。
「姉さん、この人が福本智恵さんだ」
それまで、やや俯き加減にしていた娘が顔を上げてはっきりと美香を見た。
「初めまして、福本智恵を申します。宜しくお願い致します」
色白のほっそりした顔だった。少し濃い目の化粧を丹念に施している。
未だあどけなさが残る可愛い顔であるが、切れ長の眼だけが瞬きもせずに自分を見たのを、美香は感じた。冷たい眼だと思った。見定められたような、値踏みされたような感触が残った。
この娘は、気が強くて、我が侭かもしれない・・・弟はこんな娘と一緒になって大丈夫だろうか、と美香は思った。が、直ぐに気を取り直して挨拶を返した。
「勇一の姉です、宜しくね」
娘は丁寧に頭を下げて応えた。
「さあ、兎に角、初めて来られたんだから、先ずは一寸気分を解すのに、ワインでも開けようか」
美香はそう言って冷蔵庫の方へ立とうとした。すると、弟が手を振った。
「いや、酒はいいよ。この人は酒が駄目なんだ」
「でも、形だけでも」
「いいと言ったら、いいんだよ」
弟は素っ気なく言った。
「じゃ、お前だけでも少し飲めば。お祝い事だもんね」
「今日はいいんだよ。要らないと言っているだろう」
弟が思いがけない尖った声を出した。
「そうかい、でも何だか恰好が付かないわね」
美香が言うと、智恵がまた顔を上げて美香を見た。細長の眼に笑いが見えたような気がした。が、智恵は笑った訳でもないようであった。おや、この眼は何だろう、と美香が思ったとき、智恵はもう顔を伏せていた。
「それじゃ、お酒は止めにして、ご飯にしようか」
美香が言うと、弟と智恵が顔を見合わせている。智恵が弟の背広の袖を引っ張ったのが目に入ったが、美香は見なかった振りをした。
「今日はお店を休ませて貰って、姉さんが料理の腕を振るったのよ。別にこれと言って大したものも出来なかったけどね」
「・・・・・」
「本当はワインぐらい軽く飲みながら、色々と話を聞かせて貰おうと思ったんだけど、まっ、良いか。食べながらでも話は出来るわよね」
「姉さん」
「何だい、怖い顔をして」
「姉さん、ご飯は要らないよ」
美香はキッチンへ行こうとして立ち上がっていた身体を、ゆっくりと椅子に沈め直して、二人を見た。
「ふ~ん。お酒も飲まずご飯も食べないで、どうするのよ?」
「用意してくれて悪いんだけど・・・」
弟は、名前を聞けば誰もが知っている高級料理店の名前を言った。繁華街の本通りに在る名店である。
「今夜は二人でそこへ行くことになっているんだ」
「予約してあるの?」
「うん。七時の予約だよ」
「へ~え。豪勢なもんだね」
美香は頬の辺りから血の気が引き、顔色が変わるのを自分でも意識した。
「それだったら、こんな狭いむさ苦しい処で、ご飯なんか食べてはいられないわね」
「嫌味は止めてくれよ、姉さん」
弟は笑おうとしたが、顔が少し引き攣った。
「嫌味じゃないわよ。本当のことを思った通りに言っただけよ」
「いや、悪いとは思ったんだけど、この人のお父さんに、飯でも食って来いとお金を貰ったものだから」
「別に引き止めはしないよ、安心して行っておいで」
美香は二人の前から湯飲み茶碗をお盆に移して、立ち上がった。
「それじゃ、少し話を聞かせて貰おうか。先方さんの名前も碌に知らないんじゃ、姉として話にならないからね」
「当たり前だよ、それを話しに来たんじゃないか」
そう言う弟の声を聞き流して、美香はポットのお湯を急須に注ぎ足した。そして、キッチンの隅でコップに冷酒を注いで一息で飲み干した。
一寸思案してから、美香はもう一杯酒を注いだ。それを、顔を仰向けて一気に呷ると、口を拭ってリビングの方へ引き返した。短いカーテンだけで仕切られたキッチンであるが、上手く柱の陰に隠れて飲んだので、二人の座っている場所からは見えなかった筈である。
「この人のお父さんは会社の社長なんだ」
和装小物を中心に呉服も帯も扱う、着物に関する総合小売会社のオーナー社長であり、大企業ではないが、うちの会社の上得意先なんだ、と弟は席に戻った美香に言った。
弟は営業係長として、得意先である智恵の父親の会社へ商売で出入りする内に、何時とは無しに智恵と知り合った。呉服の業界では今も、大きな商社であっても、畳敷きの広い日本間で正座して、着物や反物を拡げて商談するところが多い。役職の名前は部長、課長であっても、昔の番頭、手代、丁稚といった雰囲気が大いに残っていたりもする。スーツ姿で礼儀正しくきちんと正座し、爽やかな物言いで商談を進める弟と、偶に店に姿を現わす知恵が何度か顔を合わせているうちに、互いに好意を持ったのだと言う。
「そんな訳で・・・」
弟は話を締め括った。
「今度の話も先様から切り出されたんだ」
「ふ~ん、お前も見込まれたもんだね」
智恵がふっふっふと笑った。美香はそれを無視して聞いた。
「社長のお名前は何と仰るんだい?」
「あ、福本剛と言うんだ。会社は㈱福乃本呉服店だよ」
「そう、社長令嬢か。我々とは住んでいる世界が違うんだね」
キッチンで飲んだ酒が、一気に効いて来る気配を美香は感じた。
「でもね、社長さんだからと言って恐縮することは無いよ。私をホテルに誘うのは、大抵、どこぞの会社の社長さんだからね。金で女を買おうという根性がさもしいよね」
「姉さん、変なこと言うなよ」
弟が智恵と美香に忙しく眼を配りながら言った。
「そんな言い方は、この人に失礼だろう」
「別に失礼じゃないよ。この人とは関係無いことなんだから。ただ、金持ちの社長と言ったって、どうってこと無いよ、と言っているだけ」
「参ったな、もう。姉はさ、仕事が仕事だから口が悪いんだ。気にしないでくれよな」
「何を謝っているんだよ、お前は」
美香は抑えていた酔いが一気に噴き出して来たのを感じた。
「謝らなくてもいいよ。第一、この人がお前を見染めたんだろう、結構なことじゃないの」
「何だ、姉さん、酒飲んでいるのか?」
やっと気づいた弟が声を荒げた。
「いつの間に飲んだんだ!」
「酒ぐらい飲んだって良いだろう。祝い酒よ」
美香は、細い眼を据えて薄笑いを浮かべた表情で此方を見ている智恵を見返した。
「勇一、何もへいこらすることは無いんだよ。お前の結婚費用は全部私が面倒見てやるからね。先方に遠慮することは無いんだよ。その為に一生懸命働いて貯金して来たんだから」
「金は要らないよ」
「何言っているのよ、金が無きゃこの世の中、生きて行けないだろうが」
「本当に金は要らないよ。結婚費用ぐらいは俺も貯めているよ」
持て余し気味に弟が言った。
「結婚したら、家と車を買って貰って、仕事もこの人のお父さんの会社へ移るんだ。下に妹さんが一人居るだけだから、いずれ俺が社長に就任するんだよ」
へ~え、と言って、美香は二人を見比べた。
「それじゃ丸抱えじゃないの」
「丸抱えって言うことはないだろう」
「だってそうじゃないの。なんだ、呉服屋に婿入りするのか。がっかりしちゃうなあ」
美香はふらりと立ち上がった。キッチンからウイスキーとグラスと氷を持って来て、テーブルの上でオンザロックを作った。
智恵の顔に不安の色が浮かんだ。酒が入ると美香の心は鋭く冴えわたって、どんなことも見逃さない。怯えた智恵が手を伸ばして弟の袖を引っ張ったのも、目敏く見ていた。グラスのウイスキーを呷ってから言った。
「何も怖がることはありませんよ、お嬢さん。あなたまで取って食べようとはしませんからね」
「じゃ俺、そろそろ・・・」
智恵に袖を引っ張られて、弟がそう言った時、未だよ、と美香が鋭く言った。
「未だ肝心の話が済んでないでしょうが」
「肝心の話?」
「結婚式は何日になるのよ」
「ああ、それ・・・」
弟は智恵と顔を見合わせた。
「未だ決まってないけど、決まったら連絡するよ」
「決まったら連絡する、だって!」
美香はグラスのウイスキーを一息に飲み干した。
「私はね、痩せても枯れても、お前のたった一人の身内だよ。大事な弟の結婚の日取りを姉の私に相談するのが世の中の筋ってもんでしょう。何日、先方の社長に会いに行きゃ良いのか、それを聞いているのよ」
若い二人はまた顔を見合わせた。そして、同時に美香を見た。智恵は少し青ざめて、弟は口の辺りに薄笑いを浮かべていた。二人の眼には同じものが現れていた。
それはさっきまで、智恵の眼の中に在ったものである。堅気の者が水商売の女を無意識に蔑む眼の色であった。
薄笑いを浮かべたまま、弟が言った。
「それは、まあ、明日にでもこの人のお父さんと話してみるけど・・・」
「もういいよ」
「何しろ、忙しい人だから」
「もういいって、言っているだろう!」
美香はウイスキーを瓶ごと口に運んで、ごくりと一口飲んだ。
若い二人はたじろいで立ち上がった。弟は庇うように智恵の肩を抱いてやっている。
「もうお帰りよ!二度と来るんじゃないよ!堅気の、伝統ある呉服屋さんじゃ、水商売の女は、商売の相手としちゃ結構なお客であっても、身内となりゃお呼びじゃないんだ。解っているよ!」
「・・・・・」
「ぐずぐずしてないで早くお帰りよ。勇一、お前だって、こういう姉が居ることが今じゃ迷惑なんだろう。本心言い当てられて怒るのか?」
「無茶苦茶言っているよ。手が着けられないや。じゃ、俺たち帰るからね。いいな」
「さっきから帰れと言っているだろう!立派なお店で旨いご馳走をたっぷり食べて来りゃ良いじゃないか!」
二人がほうほうの態で出て行くと、美香はキッチンから塩を持ち出して、自室のドアの外に威勢良く撒いた。それから改めてグラスにウイスキーを注ぐと、ストレートで飲み始めた。
肌寒さに身震いして美香は眼が覚めた。慌てて起き上がったが、当然ながら、部屋には誰も居なかった。隣の寝室に行って眠らなきゃあ、と美香は立ち上がったが、その前にキッチンに行った。少しふらついたが、頭が少々痛むだけで、気分はそんなに悪くはなかった。ただ、身体が重くて節々が痛かった。美香は暗いキッチンで、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して、ボトルのまま水を二口、三口飲んだ。喉を滑り落ちる冷たい水が、この上なく美味かった。
美香はリビングに戻った。もう何時頃なのか?窓の外は暗かった。
それから、徐に寝室に入って行った美香は、鏡台に向かって、自分の顔を覗き込んだ。少し顔に浮腫みが来ていた。
つまらぬことを言っちゃったな・・・ぼんやりとそう思った。
弟が一人前になったということか?結構なことじゃないか!それなのに、結婚式の日取りがどうの、身内がどうの、と下らないことを言ったものだ、と美香は思った。
突然、美香は自己嫌悪に襲われた。
二人揃って、姉ちゃん有難う、とでも言ってくれると思っていたんじゃないのか、馬鹿じゃないか、私は・・・・・小さい時に親代わりみたいなことをやったと言っても、弟は男である。一人前になればいずれ離れていくものであろう。今日がその日になったのかもしれない。それなら、あんな言い方をしないで黙って祝福してやれば良かったのだ。ひょっとして私は、あの智恵という娘に弟を持って行かれるのが淋しかったのではなかろうか、美香はそう思って、一瞬、はっとした。
「しかし・・・」
美香はふと、独り言を言った。つまらないわね、生きるっていうことは。身体を売ってまでして、あんな嫌やな思いまでして、生きる為に金を稼いで、それが何になると言うのだろう、美香は空しさに胸が塞がる思いがした。
三十一歳か・・・三十一の女がたった一人、取り残されたね、と思った。
誰も居ない淋しい道に、ぽつんと一人で立っている自分の姿が見えた。その姿は此方に背を向けて、途方に暮れているようである。寂しさがひしと身体を締め付けて来て、美香は自分の胸を強く抱いた。そうしないと心のすすり泣きが外に洩れてしまいそうだった。
誰かがピンポーン、ピンポーンと呼び鈴を鳴らしている音がする。
美香ははっと我に帰って立ち上がった。ドアの前まで足音を忍ばせて行って、覗穴から外を覗いた。幼なじみの酒井俊介が立っているのが見えた。ロックを外してドアを開けた美香の眼の前に、大柄の逞しい俊介の姿が在った。
「まあ、俊ちゃん。どうしたの、今頃?」
酒井俊介は、昔、美香の家が在った下町の町内で一緒に遊んだ幼なじみで、歳も美香と同い年であった。二人は小学校、中学校と一緒だったが、俊介は工業高校へ進学して、植木職人であった父親の後を継ぐ為に、造園業の勉強に精を出した。美香は小さい時から、いつも弟の勇一を連れていたので、俊介は弟の勇一も可愛がってくれたし、遊びの面倒もよく見てくれた。弟もよく俊介に懐いていた。
昔と少しも変わらない日焼けした浅黒い顔に微笑を湛えて、俊介は立っている。
「いや、その・・・」
俊介は少し口籠もった。
「勇ちゃんから携帯に電話があってね、ちょっと姉貴を覗いてくれないか、と言うものだからさ」
「勇一が?」
あの馬鹿、此方につれなくして気が退けたか、と美香は思ったが、現金なもので、気持ちは幾分和らいだ。
「それであんた、あんな遠い所からわざわざ見に来てくれたの?そりゃ、済まなかったわねえ。しかし、よく此処が判ったわね」
「うん。勇ちゃんが丁寧に教えてくれたからね」
俊介は子供の頃から生真面目なところがある男だった。美香がいかがわしいバーから足を抜いて今の店に変わって直ぐ、未だ固定した馴染み客が殆ど付いていない頃に、偶然に俊介が店にやって来たことがある。
「美香ちゃんが今でもこんな仕事を続けているとは知らなかった、早く足を洗わしてやりたいよ」
そう言った俊介も父親の後を継いで独り立ちしたばかりで、毎日の仕事は決して楽ではないようであった。
それから後も俊介は、得意先を連れて何遍もやって来た。金は全て俊介持ちのようであった。接待費と言っても、個人経営の俊介は、悉く自腹を切っている筈であった。
「お客を連れて店に来てくれるあんたの気持ちは有難いけど、こんな値段の高い店はあんたの来る所じゃないわ、もっと気軽に気さくに飲める店を紹介するから、此処にはもう来ない方が良いよ」
美香が俊介に意見したことも有った。歳は同じでも美香の方がずっと世間を知っていて、考え方も辛酸を舐めた分、現実的であった。しかし、俊介はその後も、時々は店に一人でやって来た。そういう時は、偶には、美香の驕りにしてやることもあった。
「悪かったねえ、こんなに遅くに」
「未だ午後八時前だ。そんなに遅い訳じゃないよ」
「車を飛ばして来たのでしょう。一寸入ってお茶でも飲んで行ってよ。お酒を一杯飲んで帰ってと言う訳にもいかないけどさ」
「いや、俺も仕事を終わって家に帰ったばかりだったからよ、そうもしていられないんだ。心配なことが無いのなら、このまま帰るよ」
「心配なことなんか何も無いけど、でも、プライベートに会うのなんて久し振りじゃないの。直ぐ帰るんじゃ、淋しいよ」
「なに、これで家が判ったから、また、改めて昼間に来るよ」
「そんなこと言わないでさ、立ち話もなんだから、まあ一寸入ってよ、ね」
先にたってスリッパを揃え、中に入った美香の後ろから、それもそうだな、と俊介が逡巡しながらも従いて入って来た。
「今、お茶の用意をするから、そこに座って一寸待っていてよ」
リビングの椅子に俊介を座らせて、美香はキッチンへ立った。
「俊ちゃん、仕事の方はその後どう?順調に行っている?」
お茶の用意を整えてリビングに戻った美香に、俊介が黒い顔を一撫でして応えた。
「まあな。まだまだ順調じゃないけど、一応は自前でやっている。漸く一寸、目鼻が付いて来たよ」
「そう、そりゃ良かった。でもあんた、偉いわね。で、奥さんは?」
「居ないよ。俺は未だ独身だ」
「あら、勿体無い。早く奥さんを貰わなきゃ」
「歳は三十を越した、口喧しい母親は居る、そんな母ひとり子一人の所に嫁に来るような物好きな女は、そう簡単には、居ないよ」
「あっ、お母さん、未だ元気なんだ」
息子と同じように色が黒くて、口八丁、手八丁だった俊介の母親を思い出して、美香はふっと微笑を誘われた。
「ああ、未だ六十歳前だから、元気なもんだよ」
「そりゃそうと、俊ちゃん、夕飯未だじゃない?車だからお酒は駄目だけど、ご飯なら大丈夫でしょう。私も未だなのよ、一緒に食べてよ、ね」
弟達と食べようと昼間作った手料理を頭に浮かべて、美香は俊介に晩御飯を勧めた。
「そう言えば、腹ペコだな」
「そうよ、仕事から帰って直ぐに駆けつけてくれたんだもの」
全く勇一ったら仕様の無い奴だ、生真面目な俊介にこんな面倒を頼んで、自分はさっさと料理屋へ行ってしまった、と美香は俊介を少し気の毒に思った。
「今、支度するからね」
ご飯は電器炊飯器に入っているし、料理は電子レンジで温めればよい、十五分もあれば用意出来るだろう、と美香は再びキッチンへと立った。気持ちは大分明るくなって来ていた。
「勇一とは時々会っていたの?」
「いや、それがさ」
と俊介が、キッチンの美香に聞こえるように少し声を大きくして、言った。
「もう大分前になるが、一寸大きな呉服店の、坪庭の仕事を頼まれたことがあってさ。そこの庭づくりをしていたら、偶然に勇ちゃんに会ったんだよ。その会社で営業の仕事をしていると言うから吃驚しちゃったよ、全然知らずに行ったからさ」
「へ~え、そんな事も有るんだ」
「で、仕事が終わった後、随分久し振りだからって、二人で飲んだんだ。その後も、偶に、勇ちゃんから電話を貰って、一緒に飲んだけどね。あいつは何時もあんたのことを心配し、感謝しているみたいだったぜ」
「へ~え、どうだか・・・」
しかし、勇一は子供の頃によく面倒を見て貰った俊介を、実の兄のように慕っていたのかもしれないな、と美香は思った。
「勇ちゃんも立派になったな、係長だと言うからね」
「あのね、今日の昼過ぎにさ」
美香は話題を変えた。頭上を飛び過ぎたつばめの姿が頭に思い浮かんでいた。
「家に帰る途中で、つばめを見たのよ。あれ、今年初めて見たような気がするわ」
「つばめ?そうか、初つばめか。初つばめは何か良いことがある前兆れだと言うからな」
そう言いながら、俊介の中で、何かが、ぱん!と大きく弾けた。
「美香!」
突然、俊介が強い口調で呼びかけた。
「勇ちゃんが結婚したら、次は美香の番だな」
「そうね・・・・・」
「美香、相手は俺じゃ駄目か?」
「えっ、あっハッハッハッハッハ」
余りに唐突な話に美香は思わず笑い出した。
「だってね、私は十年以上も水商売の世界にどっぷりと足を突っ込んで来た女よ。こんなすれっ枯らしを嫁にしたら、世間様から後ろ指を差されるよ。それは止した方が良いよ、俊ちゃん」
「美香は、すれっ枯らしじゃないよ!子供の頃から母親の看病をし、家の用事をし、弟の面倒をよく見て来た優しい奴だよ。それは俺が一番よく知っているよ」
俊介は食事の箸を置いて、真剣な強い眼差しで、美香をじっと見つめていた。
「真実に、俺じゃ駄目か?」
「駄目じゃないけど・・・・・」
「なら、真面目に考えてみてくれよ、な、美香」
美香もじっと俊介の眼を見返した。
「うん。ありがとう。考えておくわ」
俊介が帰った後も、美香の心には彼の強い真剣な視線が突き刺さっていた。
俊ちゃんと一緒になって、植木屋の嫁さんになるか・・・・・。そうなると、水商売の足を洗わなければならないなあ。それから、造園や植木の勉強もしなければならない。そうして水商売の気がすっかり抜けたら、俊ちゃんの嫁さんにして貰おうか・・・・・。
然し、彼女は其処でふっと笑った。一瞬膨らんだ希望が破れた風船のように萎んで、美香は冷酷な現実に立ち戻った。何を馬鹿な夢を見ているんだい、小娘じゃあるまいし・・・。
だが、美香の胸には温かいものがじわ~っと拡がっていた。その安らかな感慨に美香は暫し心を泳がせた。
タチヨミ版はここまでとなります。
2017年7月26日 発行 初版
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