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アラムの祖母は、変わり者として知られていた。
家の近所で電気工事があったとき、汗だくの作業員たちを見かねた彼女は、ライム入りの水を配った。最後の一人に渡そうとしたところで、仲間の作業員に「こいつは日本人なんで」と止められても、祖母は無視して「暑いでしょう」と水を渡し、その場の全員を驚かせた。なかでもいちばん驚いていたのは、当の日本人だったという。この出来事は近隣で噂になり、しばらくは白い目で見られたが、彼女はまったく意に介さなかった。そして娘のアイシャに、こう言って聞かせた。
「工事をするのに、日本人だのオクト人だの、関係ないだろ。日本人にも善い人はいるし、オクト人にも悪い人はいる。日本人だってだけで水もあげられないなんて、そんな馬鹿な話があるかい」
祖母の影響でアイシャも、日本人の子供と平気で遊んでいた。アラムは十代のころに母アイシャからその話を聞いて、一度も会うことのなかった祖母を尊敬し、また母親のことも誇らしく感じた。そして、もし今後の人生で日本人に会うことがあったら自分も同じようにしようと心に決めた。
その思い出話から十数年を経て、アラムが三十になった年の暮れ、久しぶりに母アイシャの暮らす実家に帰り、一緒にテレビの選挙特番を観ていたときのことだった。『ルストロ』という新党の女性党首が、直近の統計で人口の一パーセントを超えた日本人について、「自滅した国から逃げてきた連中の子孫がオクト人の職を奪っている」とし、補助金制度を即刻廃止するよう訴えていた。そのとき、アイシャが驚くべきことを口走った。
「まったく、日本人ってのはロクなもんじゃないね。私はやっぱり、日本人が嫌いだよ」
覚悟を決めて意思表明をしているというのではなく、猫が嫌いだとか、納豆が嫌いだとかというのと同じ軽い調子で、何の気なくこぼしていた。アラムは心を曇らせたが、実家で差別について議論をしても仕方ないと思い、黙っていた。
そのときアラムがおぼえた感情は、悲しみだった。十数年の月日が、ここまで母アイシャの心を頑迷に変えてしまったのかと、情けなくなった。日本人になにかされたわけではなく、ただ彼女が老いて、その寂しさから、特定の集団を見下すことを癒やしにしていると映った。
* *
アラムは多言語のドキュメント制作を仕事にしているため、職場には東西のさまざまな人種がいる。
日本人も四人いて、全員が非正規の「ハケン」と呼ばれる雇用形態だった。もともとは日本語で、本拠地から離れた場所で仕事をするために送られる労働者を指す語だったのが、本来の意味から離れ、非正規の職員全般の呼称になっている。彼らは給料の五割を仲介人に納めていると噂に聞くが、日本人は日本人と一緒にいることが多いため、アラムも誰も、詳しいことは知らない。
アラムは、オクト人はもとより、インド、中国、アメリカ、ドイツ、ブラジル人など、どこの出身の人間に対しても、上下をつけて接しているつもりはなく、仕事を離れた場でも親しくしていた。また彼らも、口数こそ少ないものの穏やかで実直なアラムを好み、よく食事やパーティーに招いた。独身で顔立ちや体つきが整っていることもあり、たまには女性の職員から言い寄られることもあった。
最近とくに接近しているのは、同じ時期に中途入社したナージャだった。ゆっくりと話し、大らかで接しやすく、よく昼食をともにしている。先月恋人と別れてから、アラムのことを異性として意識しているようだった。
「今夜日本食の店に行こうって話があるんだけど、アラムもどう?」
駅前の店で、アラムも何度か行ったことがあった。イナゴや蜂の子が美味で、裏メニューとして馬の刺身を出されたときには度肝を抜かれたが、それも無理して食べるうちに癖になった。
「今夜か。あとは誰が来る予定?」
「エリサと、ハンスと、ココと……あと、ゴライかな」
ゴライの名を聞いた瞬間、アラムはすっと視線を落とした。
「いや、じつは……うちに甥っ子が遊びに来るんだよね。会うのを楽しみにしてるみたいだから、今夜はやめとこうかな」
「そっか……」
ナージャはナンでミルワームのカレーを掬いながら、何度かうなずいた。
「やっぱりゴライとは折り合いよくないみたいね、アラム」
「え、そんなことないよ」
そんなことはない。少なくとも、アラムはそう思っている。ただ、ゴライの側がアラムを目の敵にしている気配は、なんとなく感じている。ゴライはマネージャー職で、入社当初はアラムを買ってくれていたようだったが、だんだんと、当たりが強くなっていた。とくに、アラムが女性職員と話しているときには漏れなく割って入ってきて、些細な仕事上の注意をいくつもぶつけてきた。
「ゴライも、そんなに悪い人じゃないと思うよ。指導も丁寧だし」
ナージャの弁護も、アラムには理解できる。たしかに、仕事の腕は良く、面倒見もいいほうだと思う。嫉妬についても、なるべく、気のせいだと思うようにはしている。アラムの側から対立する意志はなく、深く関わらなければそれでいいと思っている。ただ、ナージャへの指導だけとくに丁寧すぎるのではないかと、疑わないでもない。
「次は参加するよ」
ナージャは浅くため息をつく。
「アラムが行かないなら、私もやめとこうかな」
面接の順番待ちで出会ったときから丸二年になるが、ナージャの瞳にひろがるグレーの光彩はいまでも、その美しさに魂を抜き取られそうで、正面から見られない。ずっと封印してきたアラムの気持は、彼女が恋人と別れたと聞いてから徐々に、変わりつつあった。ただ急がず時間をかけて、ゆっくりと距離を近づけるほうが、二人の関係にはふさわしい気もしていた。
「じゃあ、今度は二人で行こうか。甥っ子が遊びにきてない日にね」
ナージャに嘘を見抜かれるのは、心地よかった。
翌日、ナージャは会社を休んだ。
結局、昨夜は日本食の店へ行ったらしいが、どれほど深酒をしても翌朝にはケロッとした顔で働いているのが常だったので、アラムはなにか嫌な予感をおぼえた。
翌日も、その翌日も、オフィスにナージャの姿はなかった。欠勤の四日目からは連絡すら入っていないと聞かされて、心配になったアラムは、ナージャに短い見舞いのメッセージを送った。返信はなく、夜になってから電話をかけてみても出なかった。
丸一週間が過ぎたころになって、ココから妙な話を聞かされた。
「ナージャ、たぶんゴライになにかされたんだと思う」
「なにか?」
ココはアラムのディスプレイに視線を置きながら、仕事の話を装って続けた。
「うん。二次会の居酒屋で、ナージャがトイレに行ったすぐあとで、ゴライも席を立ったの。十五分くらいしてから、ゴライだけが先に帰ってきて、ずいぶん遅れて戻ってきたナージャは、あいさつもなしに、荷物持って帰っちゃったんだよね。翌日から、ずっと休み。顔色も悪かったし、絶対なんかあったんだよ」
ココがナージャの家に行ってみるというので、アラムも付きあうことにした。なんとなく察しがついたので気が重かったが、勝手に想像して怒ったり落ちこんだりしているよりはましに思えた。
郊外にある彼女のマンションの前からメッセージを送ると、近くのファミリーレストランで待っていてほしいと返事があった。ココと二人で待ったものの、いつまで経ってもナージャは現れず、やはりもうしばらくはそっとしておくべきかと席を立ちかけたところで、ようやく姿を見せた。
普段は質素ながらも身ぎれいにしていたナージャが、毛玉だらけの部屋着にボサボサの頭で現れたので、アラムは面食らった。しかしそれ以上に、濃い隈や痩けた頬など、憔悴しきった顔に驚いた。
「ごめんね、こんな遠くまで来てもらっちゃって」
かすれて消えてしまいそうな声を、無理やり出している。アラムは痛ましさに呆然としてしまい、かける言葉を失った。これは、無理に言い寄られた程度ではないかもしれないと、覚悟を決めなければならなかった。
「無断欠勤してるって聞いて、心配しちゃって。私たちでよかったら、事情を聞かせてもらえないかな」
女同士だから、というわけでもないのだろうが、ココのしっかりと落ちついた態度は頼もしかった。
「もしぼくがいると話しにくいようだったら、ココにだけでも、話せる範囲で話したほうがいいと思う」
「ありがとう。私も、このままでいるつもりはないんだけど……まだどうしても、力が出なくて。ベッドから出るのもつらいくらいだから」
「ゴライになにかされたんじゃない?」
ココの口からゴライの名が出た瞬間、ナージャの体がびくりと強ばるのがわかった。
「やっぱり。あいつすごい酔っぱらってたもんね。体触られたりしたんじゃないの?」
ココがずけずけと尋ねる。ナージャは目を伏せたまま、力なく何度かうなずいた。
「マジで? 最低じゃんあいつ。訴えようよ」
「そうね……そういうことも、やっていかなきゃいけないと思う。私もあれからいろいろ調べたんだけど、どこから手をつけていいかわからなくて」
まるで気を遣わないココの勢いに引っ張られたのか、ナージャの声にも少し元気が出てきたようだった。このタイミングなら口を挿めそうな気がして、アラムは浅く息を吸いこんだが、ナージャの目からふっと生気の抜けるような瞬間があり、やはり飲みこんでしまう。
「え、それで、具体的にはなにされたの? 胸とかお尻とか触られたの?」
率直すぎるものの、ココの声には怒りの響きがあったため、嫌な印象は受けなかった。
「私がトイレから出て、戻ろうとしたら、ゴライが後ろから抱きついてきて、そのまま男性用トイレの個室まで引きずりこまれた」
ひと息にナージャが言うと、ココの勢いもぴたりと止まった。ナージャへの気遣いからまごまごするばかりだったアラムも、ここで自分の感情がはっきりと切り替わるのを感じた。胸のなかが引火した。
「それで、どうなったの。まさか……」
恐る恐る尋ねるココに、ナージャは歪んだ笑みを返した。そのまま顔がバラバラと崩れ落ちてしまいそうな笑みだった。
「嘘でしょ……刑法犯じゃん、完全に。なにそれ」
「私にも、隙があったのかもしれないし……」
それを聞いて、アラムは猛然と否定した。
「後ろから襲われたナージャが、自分の隙なんか反省する必要はまったくないよ」
そう言いきってすぐに、もしかすると自分の落ち度を考えるほうが本人は紛れるのかもしれないと思って後悔した。ナージャは深々とため息をつく。
「どうしようかな、これから。ずっと黙ってる気はないけど、少し休ませて。もうちょっとしたら、反撃する力も湧いてくると思うから」
テーブルの上に出された白い手に、ココの褐色の手が添えられる。そのとたんに、ナージャの目からぼろぼろと涙が落ちた。
「ありがとうココ、アラムも。帰って横になりたい。ごめんね」
店を出て、ナージャを送ってから駅へ向かい、列車に乗って別れるまで、アラムはほとんどなにも話さなかった。「絶対許さない」「ゴライ潰そう」などと息巻くココにも、生返事しかできなかった。
その後も、ナージャの欠勤は続いた。
少し休んでから反撃すると聞いたとき、アラムは彼女の精神力の強さに驚いたが、やはり並大抵のことではないようだった。
その間も、ゴライは何食わぬ顔でオフィスに居座りつづけていた。アラムとしては食ってかかりたい気持もあったものの、へたに動けばナージャの噂が広まってしまうと思い、自重した。ゴライのデスクに立てられた幼い愛娘の写真が白々しく、腹立たしかった。
仕事を辞めるとナージャに聞かされた日、ココの怒りは頂点に達した。ココは、とくにナージャと親しかった数人の女性職員たちに真相を話し、集団で経営者のオフィスに乗りこんだ。しかし、本人がなにも言ってこないうえに証拠もないということで相手にされず、直談判も空しく、ゴライが責任を問われることはなかった。
そしてココたちは、手段を選ばない実力行使に出た。ゴライがしたことのすべてを、二〇〇人弱の職員ほぼ全員に伝わるよう隅々まで、噂として流したのだ。勤勉で素朴なナージャは男女問わず好かれていたので、三フロアあるオフィスの全域に、ゴライへの怒りと憎しみが蔓延した。
ゴライもさすがに肩身が狭くなり、大きかった声はだんだんと萎んで、顔がやつれ、白髪も増えていった。それでもゴライは、半日たりとも仕事を休むことはなかった。一歩でも退けば罪を認めることになってしまうと、恐れているようでもあった。
日が経つにつれ、ナージャとのつながりが弱い者から順に、怒りの輪から離れていくようになり、ゴライも時々は冗談など口にするくらい元気になっていった。引き潮の原因は、ほんとうになにが起きたのかは突き詰めれば当事者たちにしかわからないというのが、ひとつ。もうひとつは、ゴライが有能で高い地位にあるということだった。ナージャに同情はするものの、自分の生活をなげうってまでゴライを追いつめようとする覚悟のある者は、いなかった。
そしてアラムもまた、覚悟のない者の一人だった。たしかにナージャとはいい雰囲気だったが、プライベートで二人きりになったこともなく、恋人の仇を討つというほど強い動機がない。ゴライを罵倒して辞めてしまえばすっきりするだろうが、すっきりしてどうなる、とも思う。動くか動くまいか、もやもやと迷いながら過ごす日々が続いた。
ある日ココと昼食をとっていると、彼女が苦々しい顔で言った。
「あいつ、日本人だって噂だよ」
アラムはココの真意を測りかねて、眉をひそめた。
「あいつって……」
「ゴライ。中国系だって言ってるけど、ほんとは日本人の二世らしいよ」
だからなんなんだ、と思う。たしかにアラムはゴライを憎んでいるが、そのことと彼の血筋にはなんの関係もないはずだった。
「あ、そうなんだ」
アラムは無関心の、高い声で応じた。ココは一瞬だけ、探るような目でアラムを見て、すぐに笑顔をつくった。
「まあ、だからなんだってわけじゃないけどね。私もべつに、ハケンの日本人と仲いいし。差別とか、ぜんぜんないからさ」
「そりゃそうだよね、わかってるよ」
「うん、もちろん」
数秒ではあるものの、明白に、白けた空気があった。その後ココは、いつもと変わらず明るく喋りつづけ、アラムもわだかまりなく接した。
同じ日の午後、アラムはゴライに呼び出された。
会議室に入ると、ゴライは顎でドアを閉めるよう促し、「座って」と低い声で言った。
「アラム、最近たるんでないか。どうした?」
たしかに、苛ついて仕事に集中できない時間は増えたが、目立った影響はないはずだった。
「そうですかね……最近、ですか」
「そうですかね、じゃないんだよ。これ見て」
アラムのつくったドキュメントが数点、プロジェクターでボードに映し出される。
「ここも……あと、こことか、ミスばっかだろ。女の子たちと仲良くするのもいいけどよ、仕事中はちゃんと業務に集中しろよな」
噂が沈静化して、ゴライはすっかり元気を取りもどしていた。そして、ナージャやココと親しいアラムのことは、真相を深く知る者の一人として、以前よりはるかに疎ましく思っているようだった。呼び出すほどではないにせよミスはミスなので、開き直るわけにもいかない。
「こんなことが続くようだったら、ほかのやつに仕事振るからな。気をつけろよ」
追い出す前触れのようなことも口にしはじめている。
「はい……すみません」
下げた頭のなかにふっと、「日本人のくせに」という言葉が浮かんで、アラムは奇妙な感覚に陥った。なにを考えているんだおれは、という自戒と、それでも確実に感じられる癒やしとが、アラムを混乱させた。
「なんだよ」
ゴライの目が怒りを帯びて暗く沈む。
「え、なにが?」
「なにが、じゃねえよ。なんでニヤニヤしてんだ、おまえ。ナメてんのか」
ニヤけているのも、無自覚だった。
帰りの列車で、アラムは疲れた顔のまま携帯端末を眺めていた。
サッカーの記事を見ていたつもりが、いくつかリンクを踏んでいくうちに、気づけば日本人に関する記事ばかりを立てつづけに読んでいた。
なかでも充実していたのは、新党ルストロが大手出版社の協力のもと運営するニュースサイトだった。物騒なタイトルが並ぶなかで、「パリ人肉食事件」が目に留まった。一九七〇年代の衝撃的な殺人事件で、ストーンズの「Too Much Blood」のモチーフになっているのはアラムも知っていた。あの事件の犯人も日本人だったか。アラムは馬の刺身を思い出しながら、リンクを開いた。
記事には、サガワという文学の修士が、家に招いたオランダ人女性を背後から撃ち、死姦したのちに尻や股の肉を食べたと書かれている。戦争や遭難の極限状況でやむを得ず食べたという話ならともかく、この事件は、病弱で繊細な男が、平時に、性的な満足のために人を殺して食ったという点で、その不気味さが突出していた。しかし、記事のライターが特筆しているのは、犯人の残虐性以上に、彼の手紙を小説化した作品が権威ある文学賞を受賞しているということの異常さだった。
「アクタガワ賞は、新人の作家を対象にした、日本で最も有名な文学賞だった。サガワの思想や感性を綴ったこの作品が受賞した、その背景には共感があり、すべての日本人の無意識にサガワが眠っていることを示している。いま、あなたの職場や教室にいる日本人は、一見穏やかで、従順に見えるかもしれない。すっかり打ち解けて親しくなったと思い、油断した我々が背中を向けた瞬間、彼らはその細い目の奥を鈍く光らせて、こう思っている。刺身がいいかな、と。これが日本人の正体なのだ」
アラムは思わず、車内を見渡してしまう。日本人は中国人と見た目が似ているので、はっきりとはわからないが、それらしき者が二人ほどいる。ナージャとゴライのことを思い出すと、恐怖よりも怒りが湧いてきた。
記事の末尾にあるリンクのなかから、「オウム真理教、地下鉄サリン事件」のリンクを開く。
一九九〇年代に、カルト教団が地下鉄で神経ガスを散布し、死者十三人、負傷者六三〇〇人余りを出した大規模なテロ事件だった。カルトによる殺人ならアメリカのマンソン・ファミリーも有名だが、ヒッピーたちとオウム信者とは、似ているようでちがう、と記事の筆者は言う。
「オウム信者たちの多くは、ヒッピーたちよりはるかに生真面目で禁欲的だ。医師や研究者など、高学歴で専門知識を持つ信者も数多くいた。彼らは生真面目に信じ、生真面目に教団のために働き、生真面目に神経ガスを撒いた。幼いころから受験勉強に没頭し、難関大学に入学したとたんに目標を失って道に迷い、なんでもいいから誰かゴールを用意してくれと欲していた若者たちの、なれの果てだ。いま、あなたの近くにいる日本人を、よく見てほしい。彼らは、ゴールさえ用意してやれば、その質は問わず死ぬまで邁進していく、自動操縦の化け物だ。こんな危険な人種が世界に存在しつづけることを、許しておいていいだろうか?」
アラムは、社内にいるハケンの日本人たちを思い出す。たしかに、彼らは勤勉で、オフィスに遅くまで残って働きつづけたり、休日に出勤したりすることを誇りにしているように見える。残業代がつかないよう終業の処理を済ませてから何時間も働きつづけるのは、不気味ですらあった。そんな生活を続けているせいで時々、鬱病で退職する者が出るが、残された者たちは淡々と働きつづけ、代わりに似たような日本人が補充されるというくり返しにも慣れきっている。サリン散布の実行犯に捨て駒として使われるのは、あんな連中だと思う。
記事を読み、身近な日本人を思い出すと、アラムの気持は昂揚してきた。日本人に比べれば、自分のほうがだいぶマシだと思える。そう感じることで、仕事の疲れや、ゴライに叱責された苛立ちが解消されていく。そういえばゴライも、繁忙期でない時期でも無闇やたらと遅くまでオフィスに残りたがる。
日本人がいかに下劣な人種かを論じる記事は、まだまだあった。次にアラムの気を引いたタイトルは「美しい海と沿岸地域を地獄に変えた日本人」だった。
一世紀前に日本人がレベル7の原発事故を二度も引き起こしたのは、南の隣国であるオクト国民でなくても、世界じゅうの誰もが知っている。放射能漏れの話かと思ってリンクを開くと、記事の内容は、一九五〇年代の公害病に関するものだった。
アラムは聞いたことがなかったが、化学工場から流出した水銀で魚が汚染され、その魚を食べた人々が中毒になる「ミナマタ病」という公害病があったらしい。高度成長期の公害病自体は、資本主義の競争に遅れて参加した国ではよくあるものの、死者が一〇〇人を超え、被害認定者が申請者も含めると一万人を超えるというのは、加害者を特定できる種類の公害病としては異例の規模だった。ライターは言う。
「日本の公害病はいつも、自然豊かな地方で発生する。計算高い日本人は、いつでも最悪の事態を想定していたからだ。以前インタビューしたミナマタの研究者は、『国や企業が支払った賠償金の合計よりも、チッソが生み出した国益のほうが金額としては大きい。ミナマタは標的として選ばれ犠牲を強いられた』と嘆いていた。化学工場のみならず、米軍基地や原発にも、まったく同じことがいえる。和を重んじ、穏やかな笑みを浮かべる日本人たちの足下にはいつでも、地方の血塗られた犠牲者たちの屍が積まれているのだ。いまあなたの周りにいる日本人はすべて、地方の弱者を食い物にして生き延び、衰退した故国から脱走してきた犯罪者の子孫たちであるということを、忘れてはならない」
読み終えて、アラムはなるほどと思う。学者や作家などは「日本人」というとすぐにマイノリティだの弱者だのといって庇護しようとするが、日本の凋落後にオクトに渡ってきたような連中は、日本人のなかでは恵まれた、狡猾に立ち回ってきた者たちの末裔なのだ。へたに同情などしていたら、こちらが足下をすくわれかねない。
アラムは車内に据えつけられたディスプレイを見て、あと三駅で乗り換えだとたしかめる。もうひとつくらいは読めそうだった。「隠れ日本人まとめ」の記事を開く。
政治、経済、芸能、スポーツなど各分野の著名人で、日本人の血筋であることを公表していない人物の一覧だった。リストの冒頭では、そもそも民族や人種ではない「日本人」を便宜的に「国籍法の成立以降に日本国籍を有する者とその子孫」と定義し、さらに「法改正前のオクトでは戸籍改竄が可能だったため、ここに掲載されている隠れ日本人はごく一部である」と前置きしていた。
ざわつく気持を抑えながら名前を見ていくと、アラムの好きな女優やサッカー選手などの名前が次々と出てきて、ショックを受けた。気品といい表現力といい、不世出の女優ではないかと惚れこんでいたイ・ドゥナがじつは日本人で、伊東佑奈なる本名を持っていたと知ると、急に安っぽく、汚らわしく感じられてきた。アジア一のドリブラーでフリーキックの名手でもあるスリアン・ハミリは幼いころから憧れてよくプレーを真似したりしていたが、その正体が日本人の羽田翔吾と知ってしまったいまは、もうファンを公言するのはやめようと決めた。好んでいた食品メーカーやアパレルブランドも、経営者やデザイナーが日本人だと知ると、今後はなるべく選択肢から外すようにしようと思った。
続く日本人の重犯罪者リストは、圧巻だった。銃乱射や幼児惨殺など、近年ニュースを賑わせた凶悪犯がずらりと並び、それぞれに日本人としての本名が併記されていた。どこまで信憑性があるのだろうかと疑う一方で、サガワやオウムの記事を読んだ直後なだけに、日本人とはこういう人種なのだろうと腑に落ちるところもあった。
それでも、とアラムは立ち止まる。自分は差別主義者などではない。無実の日本人を、日本人だというだけの理由で蔑んだりはしない。
ただ、もし日本人が罪を犯せば、ほかの誰かが同じことをしたときよりも、深い憎しみを抱いてしまうかもしれないとは思った。
「あいつ、日本人だって噂だよ」
ココの声が、耳の奥に甦る。だから、それがどうした……。
アラムは携帯端末を胸ポケットにしまって、列車を降りた。
でも、ゴライはぜひとも日本人であってほしい。
改札から流れ出る人の群れ、雑踏の風景が、今朝までよりも鮮明に見えた。一人ひとりの輪郭が際立って、アウターの下に隠された光も影も見える気がした。
エスカレーターに運ばれて地上に出ると、冷たい空気に触れた耳が街のざわめきを捉える。アラムは意識するともなく、日本人の声を探していた。
* *
ゴライに対する憎しみが、アラムとナージャを結びつけた。
最初は純粋に心配し、少しでも力になれればと思って連絡を取った。ナージャは、事件のことを思い出したくないという気持と、誰かに話したいという気持の両方を、同じくらいの重さで抱えているようだった。アラムは彼女の求めるがままに、忘れさせたり、語らせて浄化させたりするよう努めた。
そうしたなかで、アラムにとってひとつだけ、どうしても気になることがあった。それは彼女がさかんに、自分の責任について言及しようとすることだった。
「私が招いてる面もあると思う」
一度や二度なら、「そんなことないよ」と弱く否定しながら聞き流せたが、三度目になると、ただの決まり文句や多面的な思考などとはちがう、明確な意味があるように聞こえた。
「どうしてそう思うの?」
初めてナージャの部屋に入った夜、アラムは真意を尋ねてみた。同じソファーに離れて腰かけた彼女は、少し迷ってから笑顔になり、「こんな話をしたら嫌われちゃうから」と話題を変えようとしたが、アラムが「絶対に嫌ったりしない」と念を押すと、ようやく話しだした。
「たぶん……ゴライみたいなタイプの人間には、私みたいな人間のことがわかるんだと思う。普通の人にはないフィルターを持ってて、それを通すと私なんかは、ほかの人とはっきり色がちがって見えるんだよ」
ズブロッカのグラスに視線を落としながら、アラムが尋ねる。
「私みたいな、って?」
「その……少しくらい強引にされても嫌じゃないっていうか。あ、もちろん、相手のことが好きだったらの話だよ。ゴライなんかぜんぜん好きじゃないから。そこはあいつの勘ちがいだったんだけど」
マゾヒストか。アラムはグラスに口をつけて、唾を飲むのをごまかした。どの程度のものか聞きたかったが、そこは言葉を選ぶ。
「趣味はいろいろだから、その点はべつに問題ないと思うよ。昔からそうなの?」
「ほら、私、先月別れたって話したでしょ? その人と付きあってから、少しずつ、自分の好みを自覚できるようになって……気がついたら、けっこうヤバいところまでどっぷり浸かっちゃってた。このままじゃ危ないなって思って、どうにか脱けだしたっていうのが実際なんだよね」
「危ないっていうのは……」
「うん、体がもたないって。あのままエスカレートしたら、最後は殺されるしかなかったんじゃないかな。私、夏でも長袖でしょ?」
たしかに、そうだった。ロシア系の彼女にオクトの夏は耐えがたい暑さのはずだが、袖をまくっている姿も見たことがない。ナージャは悲しげに目を伏せて、ニットの袖をめくり上げた。青い血管の透ける細い腕には、赤紫色の歯形が無数に残されていた。無残な有様に、アラムは声を出しそうになったが、小さくうなずいて平静を装った。
「最初は、軽く歯を押しあてる程度だったんだ。私は驚いたんだけど、同時にゾクゾクする感じもあって、そういう反応を見られてからは、もう止まらなかった。普段は、優しいままなんだよ。でも、そのときになると、別人だった。めちゃくちゃだったよ。ほんとに……」
ナージャの声が震えている。性癖を打ち明けるのに緊張している、ということもあるかもしれない。しかしそれ以上に、かつての恋人との「めちゃくちゃ」を思い出して、神経がよろこびに震えているように見えた。妄想が止まらなくなっていたアラムは、ナージャの目つきが厳しく変わっているのに気づいて、我に返った。
「やっと脱けだした、ようやく変われると思ったのに……あいつが、ゴライがぜんぶ、ぶち壊した。私は自分が恥ずかしくて、情けなくて、朝目が覚めても自分の惨めさに押しつぶされて、動けなかった。ゴライのしたことは、リハビリ中の患者に無理やり麻薬を注射したみたいなものよ」
アラムは、胸の高鳴りが止められなくなっていた。ナージャのかつての恋人にも、ゴライにも、殺したいほどの憎しみが湧いたが、その情念のすべてが、この場でいますぐナージャを痛めつけたい欲望へと転化し、陸に打ちあげられた魚のように体内で暴れ狂った。
うつむいて堪えていると、ナージャの「普通の人にはないフィルター」という言葉を思い出した。彼女もまたそのフィルターを持っていて、アラムを選んで部屋に招いたのではないかと想像すると、少しだけ冷静に戻れた。自分は、ゴライやサガワとはちがう。
「でも、ナージャが恥じることはないよ。ゴライが勝手に、無理にしたことであって、ナージャが望んだわけじゃないんだから」
ナージャがグラスを手にして、半分以上残っていたズブロッカをひと息に飲む。口もとに流れた筋を手の甲でぬぐいながら、言った。
「望んでない人が、ものの数分で二度もいくかな」
つい堪えきれず、アラムは深いため息を漏らす。せっかく落ちつきかけた心が、また揺さぶられる。そんなこと言うべきじゃない、とナージャを諫めたかったが、自分を抑えるので精一杯だった。ナージャは訥々と告白を続ける。
「あいつは、普段の生活から私を観察して、どういう人間か見抜いてた。だから最初から、確信をもって、めちゃくちゃしてきたよ。個室に入ったとたん、私の頭をつかんで便器に押しつけて、そのまま……」
「やめろよ」
やっと、声をしぼり出せた。アラムはナージャに近づいて、手を握った。
「ナージャはきれいだ。もうこれからは、そんな世界に関わることはない。もっとすばらしいところへ、ぼくが連れていく」
そう言って、アラムはできるだけ優しく繊細に、ナージャに口づけた。握った手に温かい愛情を込めながら、もう一方の手で、彼女の体に触れるか触れないかの微弱な愛撫をした。ナージャは息を荒くして、いつ嵐が襲いかかってくるかと心待ちにしているようだったが、アラムは慎重に、そよ風だけを送りつづけた。ナージャはお預けを食った犬のように、妙な唸り声をあげて耐えていた。
アラムは、暴力的な交わりとはちがう、愛のある結びつきをしたいと思っただけだった。破壊ではなく、ゆっくりと紡いでいく愛の先にある世界へ、ナージャとともに行きたかった。ナージャは驚くほど興奮して、泣きながら体を震わせていたが、しかしそれは、愛がどうこうというよりも、サディズムの対極にある責めかたを突然つきつけられて、もどかしさに苦しみ悶えることで結局はマゾヒズムを満足させることができてしまった、ということのようだった。
互いの見ている世界は食いちがっていたものの、アラムとナージャの最初の交わりは、それぞれにとって幸福な終わりを迎えた。
心を許して寝入っているナージャの顔を見ながら、アラムは、欲望が収まったこともあって、あらためてゴライや、彼女のかつての恋人に対する憎しみを募らせた。
こんなに美しい、清らかな寝顔を持つ彼女を、汚らわしい地獄の世界へ引きずりこんで玩んだ連中が、この世に存在し、息をしていると思うと、がまんがならなかった。ナージャの屈辱の姿を記憶し、その手に彼女の感触を残している人間たちは、一人残らず葬り去りたかった。
なかなか寝つけず、時刻を見ようと携帯端末を手に取ると、画面に新着ニュースの通知が表示されていた。最近は日本人に関するニュースばかり見ているせいで、レコメンドもその手の記事で埋められている。
新着リストのなかに「ルストロ党が日本人検出アプリをリリース」というタイトルを目にして、どういうことだろうかと首をかしげながら開いてみる。
「我らがルストロが、またまたやってくれた。日ごろから日本人を目の敵にしてる彼らは、音声科学の専門家を巻きこんで、トンデモないアプリをつくりあげてしまった。なんと、そのアプリを起動してマイクから音声を吹きこむと、声紋鑑定が実行され、声の主が日本人であるかどうかを判別できてしまうというのだ。そんな馬鹿なと笑ってしまうが、声紋研究の世界的な権威であるバフロール・カーン博士が監修していると聞くと、ちょっとシャレにならない現実味をおぼえてしまうのも事実。ちなみに筆者が試したところ、判定結果は無事シロでした。……って、いや、べつに日本人でもいいんだけどね。あなたもご家族やお友達、恋人の声で試してみては?」
記事の末尾には「トライトーン」という名のアプリへのリンクが貼られている。無料だったので、とりあえずインストールしてみた。
アプリを起動すると、シンプルなグレーの画面が表示され、最下部に「録音スタート」という赤いボタンがあった。アラムはナージャに背を向けて口を手で覆いながら、録音ボタンをタップして「あー」と声を出してみる。
グレー地に黄色い波形が現れ、次いで「鑑定中……」と待機画面になる。二〇秒ほどでゲージが満たされると、「日本人の声紋は検出されませんでした」という結果画面に切り替わった。ただ、それだけのアプリだった。アラムが冷たく鼻で笑ってアプリを閉じようとすると、「鑑定結果を登録しますか?」というダイアログが表示された。そんなことをしてもなんの得もないと思い、無視してアプリを終了させる。
アラムは端末をベッドの脇に放り、天井を見つめた。
ルストロ党が掲げるスローガンは、かつて米軍がベトナム戦で使った作戦に因む「サーチ&デストロイ」で、「社会問題の根を見つけて潰す」というのが表向きの意味だったが、その真意は「日本人を見つけて殺す」ではないかと噂されている。あらゆる政策について夢想的な極論ばかり唱えていて、誰もまともには取りあっていないのに、純白のコスチュームや荒々しい演説がメディア映えするせいか、ニュースで取りあげられる頻度だけはどの政党よりも高い。無茶ばかりしている連中と思っていたが、今回はまたずいぶんと、コストをかけてくだらないアプリをつくったものだ。日本人を嫌う気持はわかるが、声紋鑑定のアプリなどばらまいて、いったいどんなメリットがあるというのか。
「……メリット?」
アラムは、はっとして、スリープしている端末を見た。そして「鑑定結果を登録しますか?」というダイアログ画面を思い出す。
もし、日本人と判定された者が、その結果を登録したら……。
そして、アラムのなかにある考えが浮かぶことも、必然だった。
もし、ゴライの声を鑑定できたら……。
アラムは薄明かりのなかで、握りしめた手を口にあてたまま、じっと端末を見つめつづけた。
* *
印刷した原稿をデスクに置いたまま、アラムはボールペンで自分の手の甲を軽く叩きつづけていた。
いつもならここで、原稿を校正担当に回すところだが、アラムは原稿を見つめては、時折首を伸ばして、パーティションの向こうを窺っていた。
初回の校正は、日本人のハケンがおこなっている。できれば周りに人がいないときに、原稿を持っていきたい。アラムは携帯端末を見て「トライトーン」が起動していることをたしかめる。
目当ての日本人が一人になったのを見計らって、アラムは立ちあがった。録音開始タイマーをセットして端末を胸ポケットに入れ、マサと呼ばれる日本人のデスクへ近づいていく。ただ二言、三言、言葉を交わすだけなのに、暗殺でもしにいくように腹の底が冷えて震えた。
「やあ、マサ。どう今日は、けっこう原稿入ってる?」
ちょうど録音がスタートするタイミングでマサが声を発するよう、質問をぶつけた。先に自分の声が入れば台無しになる。
「そうだね……年末だし、まあまあ入ってるかな」
ぼそぼそと小さい声の返事に不安をおぼえつつ、アラムはポケットに手を入れて、録音を止める。
「そっか。これは午後一ぐらいでだいじょうぶだから。よろしくね」
原稿をデスクに置いてポンポンと叩き、その場を後にする。
「アラム」
振りかえったところで呼び止められて、息を飲んだ。
「だいじょうぶ? なんだか、顔色が悪いみたいだけど」
乾いた唇をひとつ舐めてから、マサのほうを向いてほほ笑みかける。
「そう? あ、もしかして風邪かな。早退しちゃおうかな」
「無理しないほうがいいよ」
日本人はマサに限らず、軽口に付きあわない。それは生真面目さというより、無関心や省エネという印象だった。しかし声音や表情は柔らかく、殺伐とした雰囲気でもない。アラムも調子を合わせて、当たり障りのない返事をしておいた。
「そうだね、ありがとう」
自分のデスクには戻らず、トイレへ直行した。個室に入ってすぐに「トライトーン」の判定開始ボタンをタップすると、録ったばかりのマサの声がサーバーに送られる。三〇秒後、薄暗い個室のなかで、どぎつい赤を基調にした画面が光った。
「日本人の声紋が検出されました」
アラムは自分の呼吸を聞きながら、赤い画面に見入った。本物だ。このアプリはほんとうに、日本人の声を検出できる。
「鑑定結果を登録しますか?」
昨夜と同じダイアログが表示された。試しに「はい」をタップしてみたところ、名前と電話番号を入力する画面になった。気持が悪くなったアラムは、すぐにダイアログを閉じてもとの録音待機の画面に戻り、そのまま端末の画面をロックする。
「なんだ、これ……」
アラムはあらためて、「トライトーン」の不気味さを感じた。名前と電話番号がわかれば、個人を特定することは容易だ。まちがいなくルストロ党は、日本人のリストをつくりたがっている。そしてこのアプリは、録音開始タイマーといい、ハードボタンによるアプリ操作といい、まるで盗み録りを前提にしているかのような機能をいくつも備えている。さらには、このアプリの名前と、三叉の矛が描かれたアイコン。海神「Triton」はローマの観光名所「真実の口」のモデルだが、口に手を入れると悪人だけ手首を切り落とされるという、あの伝説に、声紋鑑定を準えているのだろうか。
「切り落とされる、か……」
アラムは個室を出て、汗でべたつく手を洗った。そういうことなら、ぜひとも手を突っこませてやりたいやつがいる。噛みちぎられようが、そのまま引きずりこまれてミンチにされようが、微塵も同情を感じないであろう絶好の標的が、いま同じ建物の、同じフロアにいる。どうにかして、あいつの……。
「よう、アラム」
水を止めたアラムは、鏡越しにトイレの入り口を見る。
「サボってんじゃねえぞ、こんなとこで」
顎の大きい、暗い目つきの男がトイレに入ってきた。誰かがトイレに立つと、思い出したように追随する、この男の気色悪い習性が、なんの因果か、いま、このタイミングで出てくれた。
「サボってなんかいませんよ……ゴライさん」
ならば、いま、やるしかない。数日かけてじっくり計画を練ろうと考えていたアラムは、急転して腹をくくり、ハンカチを探すふりをしながら、ポケットのなかの携帯端末に触れた。生体認証でロックを解除し、ボリュームボタンを所定の順に押しつつ尋ねる。
「年末年始は……実家に帰るんですか? どこの出身でしたっけ」
録音が始まる。小便をするゴライが妙な間を置いてなかなか返事せず、アラムは苛ついた。ナージャの恨みが燃えあがり、いますぐゴライの頭を便所の壁に叩きつけたい衝動に襲われたが、体が動く寸前で堪えた。
「うるせえな、関係ねえだろ」
録れた。アラムはなにも返さずに便所を後にして、急いで自分のデスクに戻ると、すぐにゴライの声をサーバーに送信した。待機画面でゲージが満たされていくのを見つめながら、アラムは、どうか日本人であってくれと祈りつづけていた。画面は一瞬だけ暗く落ちて、次の呼吸で、真っ赤に切り替わった。
「日本人の声紋が検出されました」
自分の唾を飲む音が、はっきりと聞こえた。やった。噂どおり、あいつは日本人だった。アラムは固く拳を握りこんだ。
「鑑定結果を登録しますか?」
さっと左右を覗い、素早くゴライの姓名と電話番号を入力する。送信を完了してひとつ息をつくと、三叉の矛をモチーフにしたルストロ党の紋章が現れた。
「ご協力ありがとうございました。続いて、あなたが発見した日本人について、かんたんなアンケートのご記入をお願いします」
私用の端末を堂々と使いつづけられる状況ではなかったため、いったん画面を消す。アラムは携帯端末をポケットにしまい、デスクの上の資料に目をやったが、頭のなかは別のことで一杯だった。
最後は、妙な感覚だった。味わったことのない気持で、なかなか落ちつかない。アプリの設定画面やヘルプを見ていてもルストロの名は一度も出てこなかったのに、日本人を登録したとたんに紋章が大きく表示されるというのは、だまされたわけではないものの、どこか後味の悪さが残る。それでいて、緊張からの解放とタイミングが重なっていたせいか、試練を乗り越えて仲間と認められたような充足感も、心の隅にはたしかにあった。アラムの胸には、まだ小さく微かではあるものの、三叉の矛が焼きつけられていた。
アラムは帰りの列車で、あらためて「トライトーン」を開き、アンケートの内容をたしかめてみた。
全十問で、対象者の年齢や職業、家族構成、推定年収などといったプロフィールから、癖や好き嫌いなどの性格に関することまでを選択する方式だった。アラムは、ゴライのプロフィールを知る限り正確に、そして性質についてはやや悪意的に答えを選んで、送信ボタンをタップした。
なにしろ相手はあのルストロ党だ。まともな組織なら絶対にしないが、連中なら、実名を晒すくらいのことはやりかねない。もしそうなれば、ゴライがハケンになるのを見られる日が遠からず来るだろう。
アラムは車窓を流れる夜の景色を眺めながら、転落していくゴライの姿を思い描き、期待に胸を膨らませた。
* *
アラムの曽祖父トゥグルクは、東京の郊外でインド料理店を営んでいた。
若いころはムンバイのホテルでシェフをしていたが、通信社の駐在員だった日本人女性と親しく会話するうちに、日本という国に興味を持った。トゥグルクは家と車を売って資金をつくり、日本に渡って店を開いた。日本人女性の助言も手伝って、なんとか大きい赤字を出さない程度の経営はできていたが、ある出来事が宣伝になって、店は大繁盛した。近所で痴漢に襲われた少女を、トゥグルクが助けたのだ。トゥグルクは警察から表彰され、被害者である少女の「彼はインドからはるばるやって来て私を助けてくれた」というコメントが報道されたのをきっかけに、次々と情報番組の取材が入るようになった。サービス精神旺盛に対応したトゥグルクの個性に加えて、もともと味が良かったこともあって、店は連日満員の盛況となった。店には食品衛生責任者の免許やタレントのサインに並んで、警察署からの表彰状が飾られていたという。
トゥグルクが四十歳の一月、日本はフクシマを超える大震災と原発事故に見舞われて破綻し、住まいや職を失いながらもわずかな余力のある者たちは、放射能汚染や治安の悪化を恐れて南の隣国であるオクトに移り住んだ。トゥグルクもまた、日本への愛着を捨てて、彼らとともに海を渡った。
トゥグルクの子アイバクがオクト人女性と結婚して国籍を取得し、以降アラムの家系はオクト人になった。当時、富裕層を除く日本人移住者たちは、かつて敵国だった歴史もあって被差別の対象となり、日本人であるというだけで逮捕されたりリンチを受けたりといった光景もめずらしくなかったが、アイバクは父トゥグルクの教育もあって、生活に支障のない範囲でなるべく日本人をかばうようにしていた。
アイバクは七人の子をもうけ、その末娘がアラムの母アイシャだった。アイシャも幼いころは、父母が日本人移民たちをオクト人と分け隔てなく扱うのを見て育っている。差別意識が代々受け継がれるのと同様に、反差別の意識もまた、アラムの家系では代々受け継がれている伝統だった。母アイシャの教育で、アラムにも、日本人に対する差別意識はない、はずだった。
ナージャと付きあいはじめて二ヶ月ほどが過ぎると、事件の記憶もだいぶ薄れ、彼女は次の勤め先を探しはじめるまでに回復していた。
隠れ日本人であることをアプリで密告したにもかかわらず、ゴライはなにも変わることなくオフィスでのさばっていたが、そうした苦い思いも、明るさを取り戻したナージャの笑顔を見ていると、束の間、忘れることができた。
蜜月が続く日々のなかで、アラムはナージャとの将来を考えるようになった。互いに独身で三十代なので、結婚を考えるのは自然なことで、ナージャもまた、時おり「海の近くに住みたい」とか「子どもは女の子が欲しい」とかといった話を、他愛ない会話の流れではあるものの、口にするようになっていた。
三月に入った最初の週末、アラムはナージャを連れて母アイシャの住む実家を訪れた。ともに家庭を築き、子孫を繁栄させていく未来の伴侶として、ナージャを母親に紹介しておきたかった。おっとりとして素朴な人柄のナージャは、きっと母アイシャに気に入ってもらえると思った。
アイシャは、祖母に教わったというインド料理を準備して、ナージャを歓迎してくれた。
「この子がこんなにきれいな娘さんを連れてきてくれるなんてねえ」
ずいぶんと紋切型の母親らしいことを口にするものだなと、アラムは照れくさくなったものの、大事な第一歩なのでいたって真剣に紹介した。
「こちらはナージャ。仕事の関係で前から知りあいだったけど、お付きあいを始めたのは二ヶ月前くらい……だよね?」
水を向けられたナージャは「そうね」とうなずいてから、どこで教わったのかきちんと合掌して「ナマステイ」とあいさつした。アクセントがややおかしかったものの、アイシャは満足げにほほ笑んで、同じように返した。アラムも、ナージャが先祖の文化に敬意を払ってくれたことがうれしかった。
「お母様のことはいつも、アラムから聞いていました。お目にかかれて光栄です」
「あら、どんな話かしらね。まあまあ、堅苦しいことは抜きにして、お食事にしましょう。お酒も召しあがるでしょう?」
ナージャにはあらかじめ、母も酒を飲むから遠慮しなくていいと教えてあった。
「ワインでいいかしら。ビールもあるし、あとウォッカもあるのよ」
グラスに赤ワインが注がれ、会食は和やかに進んだ。想像どおり、母アイシャはナージャを気に入った様子で、上機嫌だった。煮込み料理は豆やジャガイモのほかに、チキンを用意している。世界的な食料不足から肉や魚は高価で、一般家庭のタンパク源といえばワームが主流だが、少し奮発したらしい。
「うちは早くに父親を亡くしてねえ。この子には苦労かけたけど、反抗期もなかったし、ほんとによく支えてもらったの」
「アラムは、お母様が精神的に強くて、とても頼りになったと話していました」
「やだこの子、そんなふうに思ってたのね」
ナージャの言葉に不意を突かれ、母一人で子育てしてきた苦しい時期を思い出したのか、アイシャの目にうっすらと涙が浮かんだ。湿っぽくならないように気遣って、アイシャが話題を変える。
「ナージャは髪も黒いし、瞳は……グレーかしらね。とてもきれいね」
「ロシアにはモンゴロイドも大勢います。写真で見た祖父も、見た目は中国人によく似ていました。母はブロンドでしたが、髪は父に似たようですね」
「そう。黒髪もいいけど、ブロンドもよく似合いそうね」
アラムは、たしかにとうなずく。ブロンドに染めたナージャも見てみたいと思った。
「私は顔の骨格もあまりはっきりしていないので、このあいだ電車に乗っていたら、広東語で話しかけられました」
「その人にはメガネが必要ね。中国人には見えないわよ。フランスの女優さんみたい」
母親はにこやかな顔のまま、軽い口調で言った。
「中国人ならいいけど、日本人とまちがえられたらたいへんね」
アラムは、まずいと思ってナージャの顔色を覗った。ゴライが日本人かもしれないという話は、すでに伝えてある。彼のことを思い出して、ナージャが平静でいられるか心配だった。
「ほんとに。そしたら、その人にはメガネじゃなくて弁護士が必要ですね」
ナージャが同じ調子の冗談を返して、アラムはほっと胸をなでおろした。以前はナージャもどちらかというと差別をしない側だったが、ゴライの一件以来、すっかり日本人が苦手になったらしい。同じ気持と知って、母アイシャはがぜん勢いづいた。
「私ね、ナージャ、あの……ルストロ党? 彼らが言ってることも、最近は、そんなに馬鹿げてるとは思えなくて。日本人は、金儲け以外になんの楽しみもない人種でしょう? どうも最近、じわじわと日本人の移民が力をつけてきてる気がして、怖くなることがあるの。与党の幹部とか、財界にも潜りこんでるっていう話だし、そのうちオクトも乗っ取られちゃうんじゃないかしら」
アラムも、その手の話は毎日ニュースサイトで見て知っている。最近は記事を読むだけでなく、匿名ではあるが日本人排斥に賛成するコメントを書きこむようにもなった。冗談半分に、ルストロ礼賛の言葉を連ねたこともある。それでも、ネット以外の場で露骨に差別感情を表現することはなく、職場でもいたって穏やかに日本人のハケンたちに接していたため、初対面の人間相手に堂々と日本人への嫌悪を口にする母親は、いささか不用意に映った。
「私は今度の選挙、ルストロの候補者に投票するつもりです」
ナージャの言葉に、アラムは思わず「えっ」と声をあげてしまった。そんな話は一度も聞いたことがなかった。
「あら、ナージャも? よかった、じつは私もなのよ」
アラムは再び、耳を疑った。ネットで日本人をこきおろすための燃焼剤として使うにはいいが、実際にルストロ党が政治の場で活躍するというのは、少々問題がある気がする。母親が真顔で続けた。
「そんなに驚くことでもないわよ、アラム。あの人たち、最初のころはたしかに極論とか白い制服だけで目立ってたけど、最近は政策もほかの党よりよっぽどはっきりしたビジョンがあるし、アメリカの銃器メーカーが資金援助してるから体力もあるし、なにより実行力があるでしょう。消去法で考えても、ルストロ党しかないんじゃないかしら」
饒舌に、すらすらと喋る。一人で年中、そんなことばかり考えているのだろうか。
「ここだけの話、胡弓教室の友達も、みんなルストロに入れるって言ってるわよ」
そう言われて、アラムはなるほどと腑に落ちる。カルチャースクールに影響力のある人物がいて、高齢の生徒たちに日々刷りこんでいるということか。反論しないまでも難しい顔をしているアラムに、ナージャが笑顔で補足した。
「だいじょうぶよ……心配しなくても。私もお母様も、もちろん、ルストロが与党になるなんて思ってないから。ただ、彼らみたいな考えかたもあって、それに賛同する人たちもある程度はいるんだぞっていうのを、形にしたいだけ。そうですよね、お母様」
アイシャは「そう、そのとおり」と力強くうなずく。すっかり意気投合したらしい。
本心を言えば、今度の選挙に限ってはアラムもささやかな意思表示としてルストロ党に入れるつもりだったが、彼らがネットのコミュニティの外にも人気を拡大しつつあるのを感じると、若干のとまどいをおぼえた。冗談を真に受けられて後に退けなくなったような、妙な居心地の悪さがあった。
* *
ナージャを家族に紹介することができ、そのまま大きく進展するものと思っていた結婚の話は、以前より少し現実味を帯びた程度で、アラムの生活はあまり変わらなかった。
話が進まないのは、どちらかといえば自分のせいだと、アラムも自覚していた。毎日仕事が忙しく、疲れているアラムにとって、週末にナージャと会うひとときは純粋に癒やしの時間にしたいというのがあった。住まいや子供のこと、その前提となる収入やら昇進やらのことを考えると重苦しい心地になるため、つい避けてしまい、そのまま四月、五月と日々が過ぎていった。ナージャも、まだしばらくは恋人の関係を楽しみたがっているように見えた。
ナージャに会えない平日の夜はいつも、ルストロ党の運営するコミュニティや動画チャンネルを見て過ごしていた。仕事でミスをしてゴライに叱られたり、同僚と噛みあわずギクシャクしてしまった日などはとくに、激しく日本人を攻撃する書きこみをして、悶々とした心を晴らした。優れたコメントはルストロのスタッフによって選別されたうえでトップページに掲載され、さらにそこで獲得したポイントの蓄積に応じてコミュニティ内での階級が上がっていくのも、アラムの自尊心をくすぐった。明かりを消した部屋のベッドで夜な夜な持論を展開し、気がつけば朝を迎えていたこともしばしばあった。曽祖父の名に因んだアラムのアカウント「トゥグルク」は、現在「少尉」にまで昇進している。
コミュニティで「トゥグルク少尉」と呼ばれるのは誇らしく、アラムはいつしか、トゥグルク少尉としての自分こそが本来の姿であって、なんの称号もなく会社でこき使われているアラムは仮の姿だと感じるようになっていた。
社内では、ネタ探しのために、以前より注意深く日本人ハケンたちの言動を観察するようになった。もっといい記事を書くためにも生の情報が欲しいと思い、昼休みに一人で買い物に出たマサに声をかけ、食事に誘ったこともあった。普段クールなマサが案外素朴によろこぶのを見て、少し心が揺らぎかけたが、日本人は裏表が激しいのを思い出し、あくまで芝居と割りきったうえで楽しげに過ごした。
マサと一緒にオフィスに戻ってきたアラムを見て、その日の午後、同僚たちはどこか冷ややかだった。給湯室で紅茶を淹れていたココは、アラムに背を向けたまま「どういうつもり?」と尋ねてきた。
「どういうって……なにが?」
ココは抑えた小声で言う。
「日本人のハケンと食事なんて。ナージャの恨みを忘れたの? もう彼女が辞めて会わなくなったから関係ないってこと?」
もう四ヶ月以上も前のことだが、ココのなかではまだまだ怒りの火が絶えることなく燻っているようだった。しかしそれなら、アラムも同じ気持だった。
「恨みがあるのは、ゴライに対してだよ。同じ日本人だからって、マサは関係ないだろ」
「そんな建前……優等生ぶったって、いいことないよ」
たしかに、建前だった。オフィスではトゥグルク少尉を温存し、「アラム」の言いそうなことしか言わないようにしている。
「それにねココ、ぼくは、ナージャには会ってるよ。けっこう前から付きあってて、このあいだ親にも紹介した」
「えっ?」
ココが驚いて振りかえる。
「ごめん、話そうと思ってたんだけど、タイミングがなくて。心配でちょくちょく連絡取ってるうちに、流れでいつの間にかこうなってたんだ」
「ああ、そう……」
日本人の件で怒っていた勢いは消えて、ココは困惑気味に小首をかしげながら、小さい両手でマグカップを包んでいる。最初は、アラムに気があってがっかりしたのかと自惚れた想像をしたものの、どうもそうでもないようだった。
「まだ、結婚がどうこうっていうんじゃないけどね」
間を埋めるようにアラムが言う。ココは視線を斜め下、シンクのほうへ落としたまま、黙ってなにか考えている様子だったが、やがて、うんとうなずいた。
「そう、いいんじゃないかな。アラムとナージャなら、お似合いだと思うよ。二人とものんびりしてるしね」
アラムは思わず顔をほころばせて、「ぼくは彼女ほどじゃないよ」と返す。ココはカップを手に給湯室を出ていきざま、どこか含みのある口調で言った。
「アラムのほうが、ぼんやりしてると思う」
ココが去った給湯室で一人、コーヒーを淹れながら、アラムは「のんびり」が「ぼんやり」に変わっていたことに、遅れて気がついた。
週末、シャワールームから微かに響いてくる水の音を聞きながら、アラムはぼんやりと、ナージャの携帯端末を眺めていた。
ココが給湯室でぽつりと落としたひと言は、繊維にからんだタンポポの種のように数日のあいだアラムの胸にまとわりついて、ついにいま、根をおろしつつあった。
アラムはローテーブルに放られた端末にじりじりと近づき、画面を覗く。ロックされた黒いガラス面に、緊迫した目つきのアラムが映った。浴室のほうへ首を伸ばして耳をそばだて、まだ水が流れているのをたしかめてから、端末のパワーキーを押す。
生体認証をキャンセルすると、パスコードの入力画面が表示された。不用心なナージャはアラムの目の前で何度もコードを入力していたため、番号なら知っている。なにも疚しいことがないからと思っていたが、たんに不用心なだけだったのかもしれない。
女性同士のつながりはアラムから見ると複雑で、表と裏が極端にちがうこともめずらしくない。しかし少なくとも、ナージャが辞める前に最も親しくしていたのがココであることは、まちがいがない。彼女がわざわざ「アラムのほうがぼんやりしている」と強調したのは、やはり気になる。そう言われて振りかえれば、妙に思えることも大小いくつかあった。
四桁の番号を三桁まで入力したところで、アラムは手を止めた。
もしいま、最後まで入力したら、結果がどうあれ、自分とナージャの関係は終わってしまうのではないか。
深く息をついて端末を置き、またじりじりと距離を置く。やはり駄目だ。こんなことをしたら、誇りを失う。アラムは気高いトゥグルク少尉の心を呼び起こして、下世話な欲望を抑えた。ちょうど、浴室からの水の音が止まった。アラムはテレビをつけて、音量を上げる。
ニュースは、昨年末の選挙で野党第二党に躍進し、さらに勢力を拡大しているルストロ党を特集していた。四原色で物を見ることができるという特異体質の女性党首オウナが、透きとおったよく響く声で演説をしている。
「オクトの失業率は八年連続で上昇を続け、この春ついに、三〇パーセントを超えました。三十代までの若年層に限って見れば、四〇パーセントを超えています。街には職を失ってうろつく若者があふれ、栄養失調による死者も年々増えつづけています。これ以上、なにを待てというのでしょうか。北の隣国日本は国家としての機能をほぼ失っていますが、南西部にはまだまだ有用な資源が残されています。オクトが南北の列島を統一し、すべての日本人を中部以北の汚染地域へ強制移住させることができれば、まだ未来への希望はあります。我々には、この道しかないのです。胸に手をあてて、心の声を聞いてください。知性ある有権者たちの心の声がこの空の下に堂々と響き渡るとき、オクトは力強く、再生への一歩を踏み出すことができるでしょう」
アラムは引き締まった、トゥグルク少尉の顔になって、演説に聴き入っていた。やはり、ルストロ党はいい。ルストロ以外の政治家や財界人が話すのを聞いていても、どこか靄がかかったようで眠くなってくるが、ルストロだけは冷たく冴えて、醒めている。彼らだけが、甘えも建前もない真剣で勝負している。党首オウナの声を聞いていると、自分の顔や体にまとわりついた膜が弾きとばされ、陽の光を地肌に浴びるような心地よさがある。勇気が湧いてくる。
脱衣所から出てきたナージャは、黒髪にタオルをあてている。
「あ、ルストロの特集やってるんだ。やっぱり制服かっこいいな。有名なデザイナーなんだよね。誰だっけ、あの……」
陶酔から覚めないアラムは、超然とした微笑をたたえたままナージャを迎えた。
「ちょっとそこへ座って、ナージャ。聞きたいことがあるんだ」
ソファーに腰をおろしたナージャは「なあに?」とふざけた調子で顔を近づけてくる。
「ひと月くらい前かな……なぜかぼく、性病になったんだ。いままで、一度もなったことがないのに。もう治ったけどね。ぼくは風俗には行かないし、浮気もしてない。どうしてなったと思う?」
ナージャの顔が強ばった。
「え……なにそれ、私が移したって言うの?」
「やっぱり、そう聞こえるか。断定はしないけど、ぼくもいまのところ、ほかに心当たりがない。ナージャには、思い当たることがある?」
「ないよ、そんなの、あるわけない」
「そうか。それならいい。変なことを聞いてすまなかったね。今夜は帰るよ」
ナージャは「うん……」と小さくうなずいたきり、引き留めない。ここはひとまず帰ってもらって独りで考えをまとめたい、というふうに見えた。ほんとうに心当たりがないなら、もっとムキになって、どういうつもりかと追求してくるほうが自然だ。ナージャとの四ヶ月ほどの付きあいのなかで、最も奇妙に感じていたことを率直にぶつけてみたら、案外かんたんにボロが出た。アラムは玄関に出て、淡々とスニーカーを履く。
「さよなら、ナージャ」
ドアがゆっくりと閉まるまで、耳をすまして歩いていたアラムの背に、返事はかえってこなかった。
* *
ナージャの態度でほぼ確信したアラムは念のため、証拠も集めた。
セキュリティの甘いナージャのクラウドは、ハッキングの経験がないアラムでもかんたんに侵入できた。連絡先やメッセージ、SNS、GPSデータなどをまとめて解析ソフトにかけ、人間関係の相関図を表示させると、アラムやココなどよりもはるかに強いつながりを持つ一人の人物が浮かびあがった。
ゾーマという、一重まぶたの鋭い顔つきをした男の写真が最も大きく、配置もナージャのすぐ近くで、つながりの強さを示す線の太さもずば抜けていた。太い線の色は赤で、これは、テキストマイニングによって分析された両者の関係が「恋愛」であることを示している。この結果は、とくに問題ない。
次にアラムは、分析するデータの範囲を四ヶ月以内に絞りこんで、相関図を再表示させてみた。すると今度は、アラムの写真が最も大きく、つながりの線も太くなった。が、ゾーマという男も依然アラムに次ぐつながりを持っていて、線の色は変わらず赤だった。分析範囲を直近の一ヶ月に絞ると、再びゾーマがアラムを逆転した。
「こいつか……」
全データにおけるつながりの強度と種別から、ゾーマという男がナージャのかつての恋人であることは明らかだった。彼女の白い体に無数の歯形を残す噛みつき魔、どうやらこの男とナージャは、最近になってよりを戻している。分析結果の相関図は、そう語っていた。
アラムはラップトップの画面を閉じ、顔を冷たく強ばらせたまま部屋のなかを歩きまわった。ゾーマに噛みつかれてよがり狂うナージャの姿が浮かぶと、鎖で締めつけられているように頭が痛んだ。爬虫類を想わせる、見事に冷血な面構えの男が、ナージャの美しさや優しさのすべてを両手に捕らえたうえで、そんなものにはなんの価値もないと踏みにじり、当の彼女も、人格を無視され道具のように扱われるよろこびに悶えている。アラムは疼く頭を掻きむしって、ベッドに顔を押しつけた。
ゾクゾクと寒気が走り、吐き気がした。銀色に滲む世界のなかに、微かな声が響いている。声は「どうせ……じゃないか」とアラムを慰めているようだったが、肝心なところが聞こえない。なぜ、あいつなんだ。ほかに男ができるのはまだいいとして、どうして、命からがら逃げ出してきたはずの、あの男のもとに、ナージャは戻っていったのか。性癖の相性はあるにせよ、SMの真似事で満足させるくらいのことなら、やろうと思えばできる。母アイシャへの紹介を拒まなかったのは、どちらと付きあっていくべきか、頭ではわかっていたからだろう。それでもどうしても、ゾーマとの腐った絆を断ち切れなかったのは、なぜなのか。なぜ幸福な結婚を目の前にしながら、薄汚れた世界に引き戻されてしまったのか。なぜ、どうしてと考えるほどに、矛先がじりじりと自分の魅力の乏しさへと向かってくる気がして、アラムは顔をあげた。
「どうせ日本人だろ、あいつらも。お似合いじゃないか」
嘲笑混じりに声に出してみると、頭痛が和らぐ。複雑にからみ合って自分の首を絞めていた線がほどけ、まっすぐに点と点を結んでいく。すべての疑問の答えが、心地よく次々とつながっていく。そうだ、日本人だ。そう考えれば、すべてのつじつまが合う。
なんの根拠もなく、ただ急場しのぎの痛み止めとして口にしたことだったが、いったん打ちたててみると、あながちデタラメとも思えない仮説だった。ゾーマという男が人喰いサガワと同じ人種なら、肉に噛みつくことが快感と結びついているのは当然だろう。一重まぶたの切れ長の目も、日本人に多い特徴だ。一方でナージャも、祖父は中国人に似ていると言っていた。そしてあの、まっすぐで光沢ある黒髪と、滑らかな肌、地道で生真面目な性格、隠された狂態……。
アラムは携帯端末を手に取り、履歴からナージャからの音声メッセージを探して再生した。
「明日の中華だけど、面接が入っていけなくなっちゃった。ごめんね。これ聞いたら連絡ください」
ナージャの柔らかい囁きは、三十を過ぎているのに少女の声のように聞こえる。年齢より幼く聞こえる声も、日本人によくある特徴だった。収録の秒数、ノイズの少なさとも、「トライトーン」で声紋鑑定にかけるには充分な状態にある。物は試し、だ。アラムはアプリを起動して録音開始ボタンをタップし、バックグラウンドで音声メッセージを再生した。
ナージャの音声がサーバーに送信され、待機時間のゲージが表示される。アラムは静かな部屋で自分の呼吸を聞きながら、結果を待った。もしナージャが日本人と判定されたら……。
判定されたら、どうするつもりだ?
ナージャの名前と番号を登録し、ルストロ党に引き渡すのだろうか。日本人排斥を掲げる彼らの言動は日々エスカレートし、支持者も着実に増やしている。噂される与党との連立が実現すれば、日本人は、生活のあらゆる場面でいま以上に大きい不利益を被ることになるだろう。再就職など、夢のまた夢だ。オクト人の何倍も優秀でなければ、日本人はハケンの仕事すら得られない。大げさでなく、彼女の未来を閉ざす行為になるかもしれない。かまうものか、やってやると覚悟を決めたとき、待機ゲージが満たされ、アプリの画面が緑色に切り替わった。
「日本人の声紋は検出されませんでした」
アラムは、いつの間にか止めていた息を、大きくつく。恨みを込めて始めたはずの判定だったが、結果が出てみれば、明らかにほっとしている自分がいた。アラムは、数秒前の自分を嘲笑う。
それはそうだ。ナージャが、日本人であるはずがない。だいたいが、彼女はルストロ党の支持者で、ゴライをあれほど忌み嫌っていたのだ。いくらいま彼女のことが憎いからといって、日本人かと疑うのは、あまりに冷静さを欠いている。
そして、あらためてナージャへの気持を自覚すると、涙が出てきた。これほど手ひどい裏切りにあっても、まだ彼女のほほ笑みが見たいと思う、声を聞きたいと思う。ゾーマに会うのがたんに中毒の再発だとすれば、まだ救い出せる道もあるかもしれない。もしそれができれば、苦しみを乗り越えた彼女と、以前よりも強く結びつくことができるだろう。そのためにも、まずは彼女とゾーマを引き離さなければならない。
アラムはラップトップを開き、ナージャのクラウドからゾーマの音声メッセージを探そうとする。しかし、すぐにその必要がないことに気がついて、携帯端末を手にした。
「トライトーン」を起ちあげ、判定したまま登録せず保存してあった日本人ハケン、マサの音声データを開く。そして、ゾーマの名前と番号を登録し、プロフィールを正確に入力して、ルストロのサーバーに送信した。
* *
あくまで平穏に、一介の労働者として日々を送りながら、同時にアラムは、日本人ハンターとしての生活も密かに送っていた。
ルストロ党のコミュニティが「トライトーン」と連携し、密告一件ごとに膨大なポイントを付けるようになってから、アラムは毎日、胸に忍ばせた小型マイクで、出会う人々の声を採集しつづけた。
年々増加しているとはいえ、所詮は人口の一パーセントしかいないだけあって、そうかんたんに日本人を見つけることはできなかった。しかし、たった一人の隠れ日本人を発見しただけで、これまで地道に努力してもなかなか超えられなかった中尉の壁をあっさりとクリアできたことで、アラムの情熱は俄然かき立てられた。アラムは職場や取引先のほかにも、電車のなかやカフェの一角、量販店などで人の声を集めつづけ、ひとたび日本人を見つけたら、名前と番号を突きとめるまで尾行でもハッキングでもなんでもした。
アラムのアカウント「トゥグルク」が大尉に昇進したのと同じころ、野党第二党だったルストロは、かねてから噂のあったとおり、連立によって与党の仲間入りを果たした。取り残された野党の代表者たちは口をそろえて「不況続きで人気の落ちた与党が猛獣使いの道を選んだ」「ルストロ党を手なずけることなどできるはずがない」とその危険性を喧伝した。
そして、コミュニティのユーザーたちが薄々予感し、また期待していたとおり、累積ポイントはただの名誉ではなく、実益と結びつくようになった。
日本人に関する有益な情報を提供したユーザーは、その階級に応じて、税制の優遇や、奨励を名目とする補助金を受けられるようになった。施行前の実績もさかのぼって評価され、大尉であるアラムの口座にはある朝突然二万オクト・ドルが振り込まれた。残高を照会したアラムは最初目を疑い、何度もゼロを数えなおしたが、やがて気を引き締め、さらに貪欲に日本人狩りに励もうと心に誓った。
それからは、端末の画面だけでなく、実生活のなかでも、目に見える変化が現れはじめた。
最初にアラムが直面した大きい変化は、上役のゴライがなんの前触れもなくオフィスから姿を消したことだった。事後的に、両親の介護のために故郷に帰ったと説明を受けたが、ゴライにそんな殊勝な面があるとは考えにくく、そもそも、まだ関係が険悪でなかったころ話に聞いた記憶では、ゴライの両親はすでに他界しているはずだった。
そして、日本人の雇用促進を目的とした補助金制度が廃止されたことにより、マサを含む日本人ハケンは全員、契約満了となって退社した。彼らはみな有能だったが、世の中がすでに「日本人を抱えていると企業ブランドが損なわれる」という風潮に変わっていたため、オクトの国全体で同じ光景が見られた。
アラムとナージャの関係は、終わっていた。
アラムはどうにか元に戻ろうと、彼女に連絡を取って食事をともにしたものの、目の前にいる相手を以前と同じように見ることはできず、ナージャの幽霊かホログラムか、なにか実体のない残像のようなものと話している気がして、虚しくなった。それほどの痛手だったのかと、アラムは自分の身に起きたことの大きさを、あらためて思い知った。愛情は残っているつもりでも、信頼なのか現実味なのか、もう片方の車輪が決定的に破壊されていて、前へ進める気がしなかった。車輪が壊れたのが、ナージャの端末を覗こうとしたときなのか、クラウドデータを解析したときなのか、それとも彼女の声を「トライトーン」で判定したときなのか、アラムにはわからなかったが、なんにしても、すべてがはっきりと終わっていた。
ナージャが密かに会いつづけているゾーマのSNSも、何度か訪れてみた。しかし、ゴライと同じように日本人として密告したはずのゾーマは、以前と変わらず週二、三回のペースでコメントを更新しており、かつてナージャに教えたことのあるバーが「いい店発見!」と写真入りで紹介されているのを見て心が曇っただけだった。一方で、ゴライのアカウントは、どのSNSからも跡形もなく消え去っていた。
当然といえば当然だが、ルストロ党は「トライトーン」のユーザーによる日本人登録を、鵜呑みにしているわけではないらしかった。密告に対し独自の調査をおこなってから、ほんとうに日本人かどうかを判定しているようだ。そうでなければ、ゴライとゾーマのちがいを説明できない。
こんなことなら、やはりゾーマ本人の声を鑑定しておくべきだった。マサの声にゾーマの名を付けて送っても、少し調べればすぐにばれるのは、わかりきっている。ポイント稼ぎのためにも、いずれはゾーマの正体を暴いてやりたいが、しばらくはナージャのクラウドに近づく気になれなかった。
ゴライの件について書きこもうと、ルストロ党のコミュニティにアクセスしてみると、トップページにダイレクトメッセージの受信通知が表示されていた。最近は、コミュニティの規模が急激に拡大して、毎週のようにインターフェースが変わるうえに、新参者たちからのDMも頻繁で、どうも騒がしい。アラムはかつての、選ばれし者たちだけの場だった時代を懐かしみつつ、ため息まじりにメッセージの一覧を眺めた。リストのなかに「コミュニティ運営局」という送信者を見つけて、昇進のタイミングでもないのになんだろうと首をかしげつつ、開封してみる。表示された本文を見て、アラムは息を飲んだ。
「あなたは、ルストロ入党資格試験の一次審査を通過しました。つきましては、二次審査にお越しいただきたく、ご案内さしあげます。下記の日程一覧より、ご都合のよい日時を選んでお知らせください」
悪戯だろうかと疑い、送信者のアカウントを確認してみたところ、まちがいなく運営局からのメッセージだった。アラムは入党試験など受けたことがなく、そもそも入党を考えたこともない。コミュニティで称号を得たり賞金を稼いだりすることと、政治団体の一員として生きていくこととは、まったく別の話だった。
「冗談じゃねえよ……」
アラムはメッセージを見つめながら、ぼそりとつぶやく。本来アラムは、政治に興味がない。ただ日本人を攻撃できればよく、それらしいコメントを書くためのツールとして、政治や近代史の言葉が必要なときはネットから拾ってきて継ぎ接ぎしているだけのことで、真剣にオクトという国の行く末を考えたことなど一度たりともない。政治の世界で実名を晒して生き、信念をもって有権者に働きかける自分の姿は、到底イメージできなかった。失業したらどうかわからないが、少なくともいまは仕事があり、給料も悪くないので、現状維持でいいと思っている。勝手に一次合格などと言われても、ありがた迷惑だった。
「ほんとに……いい迷惑だ」
声に出してみたところで、そうだろうか、と思いとどまる。このまま一人の労働者として細々と生きて、その先になにがあるのか。ナージャを失ったいま、未来への希望などなにもない。いま、ルストロ党が起こした大きい波に乗って、とことんやってみるというのも、それほど馬鹿げた選択肢とは思えない。オフィスではいくらでも代わりのきく一兵卒でも、ルストロのコミュニティのなかなら大尉だ。ルストロ党は、自分を求めている。必要としている。
アラムは、ほんとうに行くかどうかは別として、とりあえず出向くことが可能な日時を入力して、返信するだけしておいた。三ヶ月も先の話なので、気が変わったらキャンセルすればいいと思っていた。
* *
アラムが二次審査の案内を受けた翌月、国会議事堂で爆破事件が起きた。
建物の損壊や火災は小規模だったが、爆発と同時に神経ガスのソマンが散布されたことで、与野党の幹部を含む三二人が死亡し、二〇〇人余りが重軽傷を負う事態となった。
アラムのオフィスでは、ほぼ全員が仕事を放りだして会議室に集まり、騒然とする現場の中継に見入っていた。
「なにこれ……どうなっちゃうんだろう」
ココが呆然としながら、誰にともなく声を漏らす。アラムが見る限り、女性の職員はおおむね驚きと恐怖をおぼえ、男性職員はそこに多少の高揚感が加わっているようだった。議事堂とオフィスは二キロほど離れているため、毒ガスが届くはずもなかったが、混乱して窓を閉めて回る職員もいた。
「ルストロ党……かな」
ココが小声でそう口にするのを聞いて、アラムは肘で突いた。誰もが頭に思い浮かべることではあったが、声には出さないほうがいい。日本併合を掲げながら議会で足踏みを続けるルストロ党が、軍と警察を実質的に掌握したことで、なにか急進的な手段に打って出るのではないかという噂は、ネットでもよく見かけた。さらに、被害に遭った議員の名前と政党がテロップで次々と流れるなかに、一人もルストロの議員が出てこないのも、明らかに不自然だった。中継の画面が、スタジオのキャスターに切り替わる。
「ただいま、新しい情報が入りました。爆破の犯人とみられる男を警察が確保したとのことです。詳しい情報が入り次第お伝えします」
キャスターは何度も同じ文句をくり返す。
「早くない?」
ココの疑問は、これもまた、おそらく報道を見ている全員が感じている。爆発があったとされる時刻から、まだ一時間も経っていない。すべてが乱暴で、露骨だった。こうなるとアラムは、このあとの筋書きも完全に読めた。
「警察の発表によると、容疑者は日本人の男とのことです。犯人は、日本人です。くり返します。容疑者は……」
アラムは、つい口角をあげている自分に気づいた。強引な展開を見破って嘲笑したはずの、同じ笑みが、一瞬で路線を切り替えて、やはり日本人の仕業だったか、という納得の笑みになった。キャスターが「容疑者」と「犯人」を何度もまちがえているのが故意なのか、そんなこともどうでもよかった。ココの顔を見ると怒りに燃えていて、アラム同様、「日本人」という呪文によって、細かい疑いなどは吹き飛んだようだった。一緒に画面を見ていた経営者が、机を叩いて一喝した。
「ふざけるな、恩知らずのサルどもが」
おそらくオクトじゅうで、同じことが起きている。うっかり「まだ日本人と決まったわけじゃない」などと口にしようものなら、どんな目に遭わされるかわからない。アラムは興奮する同僚たちを見て、かえって冷静になった。
頭に血がのぼるのもけっこうだが、それよりまずは、逮捕された男の仲間が国外へ逃亡できないように空港や港を封鎖するべきだろう。
一労働者のアラムではなく、トゥグルク大尉としての考えだった。
* *
二次審査当日。
アラムは新調したグレーのスーツを身にまとって、面接がおこなわれるビルの来客スペースにいた。髪はオールバックに固めて、普段はうっすらと生やしている無精髭もきれいに剃ってきた。だいじょうぶだ、大尉が二次で落ちるはずがない、次の最終審査も通過して、必ず党員になれる。アラムは緊張に痺れる顎を上下に動かしてほぐしながら、自分に言い聞かせた。
本部に来るまでの道中、駅のホームで、痩せこけた日本人が袋叩きにされているのを見かけた。見た目は中国人に似ていても、日章旗の腕章を着用することが義務づけられているため、すぐに見分けがつく。軍や警察が日本人を殴っているのは最近ではめずらしくない光景で、一般人でも日本人の店に石を投げる程度のことはよくあったが、白昼堂々のリンチを見たのは初めてだった。通行人はみなアラムと同じように冷ややかな視線を送るだけで、割って入った鉄道警察は薄汚れた日本人だけを連行した。
名前を呼ばれ、応接室に入ると、面接官は一人だけだった。党員がずらりと並んで待ち構えているものと想像していたため少し拍子抜けし、リラックスしすぎてしまいそうになる気持を立て直さなければならなかった。アメリカの銃器メーカーの支援を受けて資金は潤沢なはずだが、建物も内装も簡素だった。
「二次審査の面接を始める前に、かんたんな検査をおこないます」
目尻の下がった、真顔でも笑っているような顔の男にそう言われて、アラムはやはりそうかと得心する。面接はもっと厳かにおこなわれるのだろう。
「先にお断りしておきますが、私はルストロ党員ではありません」
そういえば、党員にしては雰囲気に鋭さが感じられず、そもそも白い制服を着ていない。
「私たちは、人事の請負をおこなっている民間の一企業です。ルストロ党から今回の二次審査を委託されています」
アラムは落胆を顔に出さないように気をつけた。初めて生の党員に会って話ができると興奮していたのに、ひどい肩すかしを食った格好だった。コミュニティでは大尉の階級にある者をわざわざ呼びつけて、三ヶ月も待たせたうえに党員が顔を出すことすらないとは、無礼が過ぎるだろうと憤った。
「党首オウナの本はすべて読んでいますか?」
すべてといっても、二冊しか出ていない。当然読んでいる。アラムは、馬鹿なことを聞くなと言わんばかりに肩をすくめて「もちろん」と答えた。
「そうですか。ルストロにおいて党首の存在は絶対ですから、著書を読んでいなければ即不合格でした。私からの質問は、以上です。では、こちらのマイクに向かって五秒以上、発声してください」
係の男が卓上スタンドマイクをアラムに向ける。デスクの上のディスプレイには「トライトーン」のインターフェースによく似た画面が表示されている。
「これは……」
「念のため、ご協力をお願いします。携帯端末向けのアプリより高精度です。ルストロ党がまちがって日本人を迎え入れるわけにはいきませんからね」
期待に胸を膨らませてこの日を迎えたというのに、次から次へと不快なことばかりだった。アラムはもう、苛立ちを隠す気もしなくなり、不機嫌な低い声をマイクにぶつけた。
「もう結構です」
五秒を過ぎてもやめないアラムを、係の男が制する。アプリ版とはちがって待機ゲージは数秒で満たされ、赤く変わった画面に結果が表示された。
「日本人の声紋が検出されました」
アラムはつい、舌打ちをしてしまう。こんな質の悪い下請けに面接を委託しているようでは駄目だと、すでに党員になったつもりで人事の改善を考えた。ため息混じりに尋ねる。
「もう一回やればいいんですか?」
係の男は細い目の奥からアラムの顔をじっと見すえ、答えた。
「その必要はありません」
* *
連立与党の少数派だったルストロは、国会毒ガス事件の混乱に乗じて多数派となり、その後の選挙で圧勝して党首オウナが首相の座に就いた。
政権はオクト国民の熱狂的な支持を得て、満を持して日本併合への道を歩みはじめた。開戦はオクトが窮乏から脱するための唯一にして確実な道であるとする政権の主張に異を唱える者は少なく、少数の反対者たちが捕らえられ処刑されるようになると、ルストロ党を止められる力は存在しなくなった。日本の同盟国であるアメリカに対しては、国会毒ガス事件を主導した国家との対テロ戦争だと主張したうえで、米軍基地周辺への攻撃はおこなわず、また併合後は現在の日本より積極的に世界規模での軍事協力をおこなうとの条約を交わして、介入を阻んだ。
開戦とともに、日本人は被差別マイノリティから敵国民に変わり、オクト国内の日本人は捕虜として収容所送りとなった。日本人居住区に隔離されていたわずかな富裕層も、戦況が進むにつれて例外とは見なされなくなった。
日本人との判定を受けたアラムもまた、オクト最北端の収容所に放りこまれていた。なにかのまちがいだと必死で訴えても聞き入れられず、卒倒するまで殴られるだけだったので、証明する方法が見つかるまでなんとか生き延びることを考えるほかなかった。
収容所での生活はアラムにとって、すり鉢でゴリゴリと心身を潰されていくような苦しみだった。飢えや強制労働の肉体的な苦痛に加えて、これまで差別し密告しつづけてきた日本人たちと寝食をともにしなければならないことが、なにより精神を蝕んだ。もっと悪いことには、その忌み嫌ってきた日本人たちの多くが、収容所の苦境にあって互いに労りあい、肌の色の異なるアラムにも親切なことだった。
なに、もっと追いつめられればすぐに化けの皮が剥がれて汚い本性を晒すに決まっている。アラムはそう信じることで自責の念から逃れようとして、実際、月日を重ねるにつれ少ない食料を仲間から奪ったり女を襲ったりする者も現れたが、それでもほとんどの日本人は、理性を保ちつづけた。このため、もともとは壮健だったアラムも、心労を深めて周囲の同年代より早く疲弊していった。
この時代にこんな肉体労働をしてなんの意味があるのかと思うような、一〇〇キロ以上あるパネルやレールなどを人力でひたすら運搬しつづける仕事が、毎日朝から晩まで課せられた。おそらくアラムたちの労働はなんの利益も生み出しておらず、ただ肉体を痛めつけることだけが目的だった。衰弱した体でパネルを背負い、震える腕や膝が限界に達して下敷きになったアラムを、日本人の男が駆け寄ってきて助けた。
「やっぱりアラムか」
救い出されたアラムは、突然名前を呼ばれて驚き、顔をあげた。そこにいたのは、オフィスでハケンとして働いていたマサだった。
「昨日見かけたときにまさかと思って、今日もずっと働きながら探してたんだ」
見知った顔を見て、声を聞いて、アラムはつい涙を落とした。仕事上の付きあいしかなく、一度昼食をともにしただけの相手に会って、これほど心を動かされるとは、自分のことながら意外だった。
「マサ、ありがとう。ごめん、ほんとうに、ごめん……」
疲れと飢えで意識が朦朧としていたこともあって、思いついた言葉を脈絡なく発してしまう。
「謝ることないだろ。それより早く立ったほうがいい」
監視の鞭打ちを恐れて、マサがアラムの体を引きあげる。
「一緒に持とう、アラム」
マサがパネルの一端を持ちあげて、アラムを励ました。この重さのパネルを二人で運べば罰せられる恐れがあったが、もはやどうあがいても独力では持つことができなかったので、マサの厚意に甘えた。
「また会えてうれしいよ、アラム。こんな場所じゃなかったら、もっとよかったんだけど」
運びながら、マサが小声で言う。アラムも同じ言葉を返したかったものの、喉が渇いて声を出すのも苦しく、黙ってうなずいた。
「昔……アラムが、ぼくをランチに誘ってくれたことがあったよね。うれしかったけど、不思議でもあったんだ。当時もう日本人への風当たりは強くなってたし、どうして誘ってくれたのかなって。ここでアラムに会って、そういうことかって思った。日本人であることを明かして生活するつらさももちろんあるけど、隠して生きるのも、つらかっただろう」
ちがうんだ、と正直に告げたくなる。ネットで日本人を攻撃するネタ探しのために、取材としておまえを誘ったんだよ。そんなことを言えば、いくら温厚なマサでもパネルを持つ手を離し、アラムに殴りかかってくるかもしれない。殴られようと蹴られようと、文句を言える立場ではない。
「それにしても、ぼくたちがいた会社には、隠れ日本人が多かったんだね。ゴライとナージャだけかと思ったら、まさかアラムまでとは思わなかったよ」
ゴライの名前は、ずいぶん久しぶりに聞いた気がして、もはや懐かしさすら感じた。もとはといえば、あの男がきっかけだった。ゴライに出会っていなかったら、ルストロ党に心酔することも、収容所に送られることもなかったかもしれない。ゴライと、そしてナージャ……ナージャ?
アラムは、運搬の歩みを止める。
「どうしたのアラム、まずいよ止まっちゃ」
マサが監視のほうをちらちらと覗いながら急かす。乾いてくっついた唇をどうにか離して、アラムは声をしぼり出した。
「マサ、いまナージャって言ったよね」
「うん、居住区で会った」
マサがアラムの目を見て、しっかりとうなずく。居住区? ナージャが? アラムはまだ話を飲みこめない。
「彼女は、日本人居住区でゴライと一緒に暮らしてた。驚いたよ。ナージャが日本人だったのも意外だけど、それ以上に、二人のあいだに起きたことは、ぼくたち日本人のハケンでも多少は聞いてたからね。ゴライのせいで仕事を辞める羽目になったのに、仲良く暮らしてるなんて、理解できなかった」
理解できなくて当然だ。理解などしてはならない、とすら思う。しかしアラムには、ほんの一端、理解できるところがあった。もし彼女が隔離された閉鎖的な場所で心細くしているときに、ゴライに再会してしまったら、どんな過程を経るかはわからないにしても、結末はなんとなくわかる。アラムと付きあいながらかつての恋人ゾーマのもとに戻ったときと同じように、最後には理性が折れ、彼女はゴライを受け容れるだろう。
「え、でも……」
「歩きながら話そう、アラム」
マサに促されて、アラムもやっと足を前に進める。
「でも、それはおかしいよ、マサ。ほんとにナージャだった?」
「通りで会って、短い時間だけど会話もした。まちがいなく彼女だよ。ゴライとのことは、ナージャ自身の口から聞いた」
「そんなはずはないんだよ。だって彼女は、電話で声紋鑑定を受けたことがあるって言ってた。日本人じゃないって判定されたことがあるはずなんだ」
これは、嘘だった。ただ、方法は嘘でも、判定結果は嘘ではない。アラムは自分の目でたしかに、彼女が日本人でないことをたしかめた。
「電話で……か。その場合、上下の周波数がカットされてるから、正確な声紋鑑定ができなかったのかもしれない。彼女は、地区ごとの抜き打ちテストで検出されたって言ってたよ」
めまいがして、アラムは膝をついた。
なぜ、どうしてこんなことになったのか。日本人だから、それがなんだというのか。鑑定を受ける前と後で、アラムやナージャが別人に変わるわけではない。誰かが日本人であるというだけで、なぜこれほど多くの、耐えがたい苦痛が生み出されなければならないのか。
マサが声をかけても、アラムの耳には入らない。監視がなにか怒鳴りながら近づいてくるのがわかっても、立ちあがる気力がなかった。やがて襲ってきた、肉を裂き骨の髄まで響く鞭の痛みに、アラムは自分の命が消えていくのを感じた。
* *
ルストロ・オクトは九ヶ月で東京を制圧しながら、地方の局地戦で一進一退をくり返し、二年が過ぎても戦争を終結させることができずにいた。
そして、開戦時に八万人いた収容所の日本人は、餓死や病死、処刑などにより二年間で半数以上が命を落とし、生存者たちもほとんどが半死半生の状態にあった。
入所から二週間も経たないうちに疲労と鞭打ちで絶命しかけたアラムは、マサの助けもあってどうにか命を長らえていた。なんのために生きているのかはもはやわからなかったが、生きるのに目的や目標が要るという感覚も、すでになくなっていた。
苦しみしかない生のなかで、唯一アラムの心の慰めとなっていたのが、壁画だった。アラムはさほど信心深いほうではなかったが、幼いころに寺院で見た女神ラクシュミ像の姿を思い出して壁に描くと、その美しさや豊かさに癒やされる心地がした。最初のうちはベッドの仕切りの壁に小さく描き、上達して自信をつけてからは、台所や浴室の壁に大きく描いた。蓮の花の上に立つ女神の顔は、母アイシャに似ているときもあれば、ナージャに似ているときもあった。宗教にあまりこだわらない日本人たちは、純粋に絵画としてアラムの絵を評価し、楽しんでくれた。
ナージャはまだ生きているだろうか。母アイシャも日本人と判定され捕らえられているのだろうか。そんなことを考えながら洗面所で自作を眺めていると、マサがあわてて駆けこんできた。
「アラム、所長が呼んでる」
収容所に二年間いて、個人として所長に呼び出されるなどというのは初めてのことだった。いよいよ終わりが来たかと覚悟を決めて所長室に向かい、部屋に入ると、そこには笑顔の所長と、険しい顔をしたルストロ党員がいた。
「おう、来たな。君がアラムか。いい報せがある」
やめてくれ、と思う。いまさら多少のいい報せなど、必要ない。ただヘマをせず、鞭に打たれることなく、無事に一日が過ぎていけばそれでいい。アラムは目を伏せたまま、抑揚なく「そうですか」と応じた。
「なんだ、その気の抜けた返事は。よろこべアラム、ルストロ党の再調査のおかげで、君の潔白が証明された」
「……潔白?」
もともと、罪など犯していない。白い制服を着たルストロ党員が、話を引き継いだ。
「入党試験の審査データを整理しているときに、あなたの音声と鑑定結果に不審な点が見られました。そこで、当時より解析精度の高い最新バージョンで再検査をおこなってみたところ、今回、あなたの声から日本人の声紋は検出されませんでした。無実のオクト国民を日本人扱いして収容所に送り、二年間も強制労働をさせてしまい、ほんとうに申し訳ありませんでした。本件につきましては、今後手厚く補償させていただきます」
党員は深々と頭を下げる。アラムは混乱し、シラミのついた体を掻きながら「なんだよ」とぐずるような声をあげた。
「なんなんだよ、いったい……日本人だとか、やっぱり日本人じゃなかったとか。なにしてんだ、おまえら」
「誠に、申し訳ございません」
つかみかかって、引きずりまわしてやりたかった。しかし、謝る声がどこか威圧的に低く、あまり逆上してごねると「取消の取消」があるのではないかと恐れて、ぐっと堪えた。
「当然、即刻釈放し、お母様の住むご実家まで車で送らせていただきます。住居や再就職先など補償の詳細については、係の者が一両日中にお伺いします」
「わかりました」
背を向けていったん宿舎に戻ろうとするアラムに、所長が声をかける。
「どこ行くんだアラム。もう戻らなくていいんだぞ。出口はあっちだ」
「いや、ちょっとあいさつに……」
二年間ともに地獄を生き延びたマサに、ひと言、感謝を伝えておきたかった。彼がいなければ、アラムは半年と生きられなかった。このまま出れば、二度と会えないかもしれない。
「駄目だ。民間人がこの収容所に入ることは許されない。日本人と口をきくことも」
「二年も閉じこめておいて、数分くらいかまわないでしょう」
「そのことと、収容所のルールとは別だ」
所長は頑として聞かず、アラムは心残りを抱えながら、党員とともに収容所を後にした。
* *
実家に着くと、連絡を受けていた母アイシャがマンションの外で待っていた。車を降りたアラムに寄り添って、涙を流し洟をすすりながら中へ導いた。本来なら敬礼を義務づけられているルストロ党員には、一瞥もくれなかった。
アラムは用意されていた食事や菓子、ジュースを五分ですべて平らげ、入浴を済ませてから、ゆっくりと眠った。疲労から二、三日は目を覚まさないかもしれないと思っていたが、収容所の習慣が脱けず、四時間ほどで起きてしまった。見ると母アイシャが、アラムの枕元に腰かけたまま寝息をたてていた。彼女も、眠れない日々を過ごしていたにちがいなかった。アラムはアイシャの呼吸を聞きながら、もう一度目を閉じた。
翌朝、朝食を済ませてからようやく、アイシャと話をした。
アラムが入党審査で日本人判定をされて以来、アイシャは署名を集めて嘆願書をつくり、再検査を訴えつづけていた。父母がオクト人なのに息子のアラムだけ日本人などということはあり得ないと主張したものの、すでに他界している父親を鑑定する術がないとして却下された。日本との戦況が膠着するにつれ、苛立ちを噛みつぶすように収容所の捕虜たちが殺されていき、アイシャはいつ悪い報せが届くかと、気が気でなかったという。
「おまえがこんな目に遭うのは日本人のせいだと思って、あいつらが憎くて仕方なかった。気持はみんなと一緒に、日本人を殺せって叫びたかったよ。でもおまえが収容所にいると思うとそれもできなくて、心が引き裂かれるみたいだった。やっと胸を張って、思ってることを口にできるよ」
ほんとうによかったとしみじみ語る母親に、アラムは、胸にすきま風でも吹きこむような、薄ら寒い心地をおぼえた。
息子を取りもどして、よろこんでいるのはわかる。二年の空白で仕事も友人も失ったアラムにとって、母アイシャの存在がどれほどありがたいかも、身にしみている。苦労をかけたぶんも、これからは年老いた母を支えていきたい。その思いに偽りはなかったが、どうしようもなく白けていく気持と、果てしなく遠い心の距離もまた、偽ることができなかった。
2017年7月31日 発行 初版
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