慶應義塾大学医学部教授、生物学者の小泉丹は、昭和初期に南房総の旧保田町の鱚ヶ浦海岸に別荘を構えました。小泉は保田での日々を日記「保田日記」に残しています。本書は保田日記を郷土資料ととらえ、解説を記したものです。
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解説1 小泉丹について
解説2 小泉丹別荘 滴水居について
解説3 小泉丹 保田日記について
解説4 保田について
千葉県鋸南町保田の南に鱚ヶ浦(きすがうら)という海岸地がある。現在では魚の鱚の字があてられ、一般にはキスガウラと呼ばれているが、古来‘ギスガウラ‘とも、頭音を濁音で呼ばれてきた土地である。この海岸沿いには国道127号が走っており、夕暮れ時には車を停めカメラを構える人も多い景勝地である。私の家はこの海岸地にある。家の向かいには一軒の古い別荘が建っている。私の祖父は五十年来、この別荘の世話を続けてきた。本書をまとめるに至ったのは、この別荘について懐いていた個人的な疑問を調べ始めたことに端を発する。
別荘地ではその所有者が近隣の住民に鍵を渡し、留守中に建物や敷地内の管理を頼むことがある。幼い頃から日常的にその仕事を傍らで見ていた私は、この建物は誰がなぜここに建てたのかという疑問を懐いていた。幼いころ祖父から「何かのハカセが建てたらしい」と聞かされたことがあった。房総半島の南にある田舎に、なぜ急に「ハカセ」なのか、いっそう気が引かれたのを覚えている。
別荘の敷地を見やると、下見板とベランダの石積みが、茂る木々の間から顔をのぞかせていて風情がある。周辺の住宅とは違った雰囲気をまとっている。その景観は幼心に魅力的で、生活空間の中に常時佇む不思議な謎であり続けた。私は二〇一二年の八月三十日の晩に、かねてより懐いていた疑問を聞こうと別荘に避暑に来ていた二組のご夫婦を訪ねた。私はそのとき初めて、この別荘が小泉丹(こいずみまこと)という生物学者が建てた「滴水居(てきすいきょ)」というものと知った。私の幼いころから知っている「別荘の人たち」は小泉丹の令孫のご夫婦だったのである。別荘のいわれや小泉丹の人物像を聞くことで、懐いてきた疑問が明らかになり、膝を打つ思いだった。お話をしてくれた二組のご夫婦は、七十年来避暑に滴水居を訪れており、保田という土地にも愛着を持っておられた。会話の節々に滴水居に小泉丹という人物の歴史を刻んでおきたいという気持ちが感じられた。室内には心地よい夏の夜風が流れていた。楽しげな懇談の声色が壁に染み入り、建物が生き生きと喜んでいるような印象を覚えた。
話の中で、小泉が保田を訪れた際に書き留めていた日記『保田日記』なるものがあると教えられ、後日見せていただいた。保田日記には当時の地域住民や別荘人との交流などが綴られていた。私はその日記の内容にがぜん興味を持った。日記の内容を理解するには、小泉丹という人物を知ると同時に、およそ七、八十年前の地域に暮らした人々の記憶に頼る必要があった。私は小泉丹に関連する書物を読むのと同時並行で、周辺の高齢者に対して聞き込みを始めた。本書は、保田日記を郷土資料と捉え、日記の内容に補足、解説を附したものである。小泉丹と当地の所縁を記録し、紹介するものである。
調査の途上で鱚ヶ浦界隈、ひいては旧保田町に形成された保養地別荘地としてのエピソードを多数知り得た。私は保田日記を紐解くことで地域の新たな魅力に触れることができた。知り得た事柄は別冊『保養地保田 きすがうら事典』にまとめているところである。
本書が地域文化を見なおすひとつとなる事を望む。
小泉丹(こいずみまこと・一八八二年 - 一九五二年)は、生物学者(動物学・寄生虫学)。通称は「たん」。鋸南町吉浜の鱚ヶ浦に別荘滴水居(てきすいきょ)をかまえた。
慶応義塾大学医学部寄生虫学教室の教授をつとめ、日本の寄生虫学の第一線に立った学者で、人体の病気の原因となる寄生原虫や伝染病などを調査、研究した。進化学の紹介、国内の農漁村や戦地での公衆衛生関する調査研究など、多彩な学術活動を展開した。とりわけ人体の小腸に寄生する回虫(蛔虫)に関する研究は生涯を通して取り組んだ。寄生虫予防協会の初代理事をつとめ、国内に蔓延していた回虫の研究とその駆虫におおきな業績を上げた。主著は昭和二十五年に慶応義塾賞を受賞した『蛔虫の研究』など。
日本寄生虫学会では昭和二十九年に小泉丹が日本の寄生虫学に残した功績を記念した「小泉賞」を制定。以来、年に一度学会に貢献した研究者に賞をおくっている。同賞は、平成二十八年で六十三回を迎えている。
岩波書店の企画『岩波講座 生物学』の監修をつとめた。この仕事は小泉をいわゆる岩波文化人として周知させ、これを機に小泉の活動も次第に広範になった。科学雑誌や新聞などで筆をふるい、随筆家・著述家・社会批評家の一面もあった。このほか文化学術の発展に寄与することを目的とした民間学術団体「国民学術協会」(中央公論社社主・嶋中雄作が発起)に齋藤茂吉らと加入した。
慶應義塾大学医学部教授、国際連盟保健部マラリア委員会の委員として国内外での保健衛生学会に出席。また、戦争時局が本格的になると、中国や南洋でマラリア病防調査、保健衛生の仕事にも従事した。一九五二年、七十歳を迎える約一か月前に急性膵臓疾患の為、急逝した。
小泉は秀でた文才と広範な学識を持ったまさに博覧強記の人物だった。また、学者として常にきびしい態度を持っており、物事への姿勢は、独立独歩といった風で、物事の部分全体、実際的な問題を吟味した上で、間違っているものには間違っていると批判を辞さなかった。小泉は「やかましやのガンコおやじ」と自称し、慶大医学部では、「雷おやじ」というあだ名で通っていた。結婚式の席などでは、新郎新婦に過大な賛辞を呈する人を苦々しく思い、自分が述べる祝辞では、その人物のありのままを話すのが常であったという。自己を包みかくしたり、紳士ぶった人を嫌い、自分のありのままを現す直情径行の人物を好んだ。一方、令孫の話によると、駄菓子グリコのおまけになっていたおもちゃを集めるなど、無邪気な一面もあったという。
門下生にはその人格や人柄が厚く慕われ、逝去に際しては、小泉を慕った日本医師会会長武見太郎が葬儀委員長をつとめ、慶大医学部長をつとめた松林久吉氏などの門下生が多数追悼文を記している。
小泉の学術活動の特徴は、医学界と生物学界を横断的に対象としたことである。その心境を著書『眉毛眼上集』(改造社、一九四一年)で次のように語っている。
「私は生物学を学び、医学の社会に入り込んで、以来三十年近い年月の間、生物学と医学の接触界の学業を専攻の部門としている。昼と夜の境に飛ぶ蝙蝠の如きものが学界に於ける私の姿でもあろうか」 (十八頁)
「生物学と医学の接触界を専攻の局面としていることは、狭い意味の生物学の世界に立てこもらぬことを要求する。そこに立てこもっても別段差し支へはない道理であるが、私はそこから動き出して接触界における両界の空気を吸い、両界の食物を摂って貧しいながら両界の要素のシンセンシスの獲物を身のものとせんと努めることが課せられた仕事であるとしている・それで十数年来、回虫毒の研究というものに嵌まり込み、続いて二三年来は回虫の生理といふ問題に喰らいついている次第であって、かかる専攻の学が私を雑学的なものにしている。そして自身としてはそれが為に得られる極めて大きい学問的の喜びを感じている」 (十九頁)
小泉の幅広い教養と、博覧強記の源泉は父親の性向が多分に影響していると思われる。小泉は著書『遺伝』(南山堂書店、一九二〇年)の中で自身について父の性向と合わせてこのように記している。
「父は知識欲が旺んで、読書を愛好した。如何なる方面の書をも瞭解の出来る限り読まんとして、休暇に、自分達の携へ帰る書籍などをも、一々披見した。蔵書も可なりに多くて、余裕の乏しい身分の自分に其の保管が一つの苦心になつて居る。自分はまだ尋常小学校の時代から、よく雑誌や書物を買つて貰つた。又父の知識欲は読書では満足されず、いろいろのことを手づから試みた。葡萄酒を醸したり、晩年になつて地学協会の学術旅行に加はるといつたりした。このやうな一面には世俗的でないという点があつて、其が現世的な幸福を享得することを少なくしたやうに見える。かくの如き父に生まれた自分は、いろいろの父の性能がたつぷりと自分に遺伝してきて居ることを感じて居る。なほ又、父の同胞や、二、三代前に当る砲術に長して居つたという人などに就て、語り伝へてあるところによると、一派の特殊な血液が、流れ続いて来るのを感ずる次第である。」
父、小泉忠武は会津藩士であった。会津戊辰戦争の戦乱で斗南藩への強制移住を強いられた後に、明治政府の司法省顧問をつとめたフランス人法学者、ボアソナードの教育を受け司法官の職についた。仙台での勤務の時退官して家族で会津に戻り、数年後に胃を患い小泉丹が高等学校を卒業した時に六十歳で没した。小泉丹は、家族が会津に戻った際に会津の中学に転入、その後仙台の旧制第二高校に進学んだ。中学の頃には、親から大学に行かせる金が無いから専門学校へ行くように言われていたが、「学費は自分で工面しますから」と、高校進学を申し出たのだった。高校、大学はそれぞれ寮と下宿生活で、育英会の貸與金をうけて通った。中学中級の頃に生物学者になろうと決め、高校に入ってからは動物学をやろうと思っていたという。
小泉丹の弟に小説家の小泉鉄(まがね)がいる。小泉鉄は一八八六(明治十九)- 一九五四(昭和二十九)。若く文学を志し東京帝国大学哲学科を中退し、後に武者小路実篤に共鳴し一九一一年(明治四十四)より『白樺』の同人となった。著書にはポール・ゴーギャン『ノア・ノア』の訳本(洛陽堂、一九一三年)のほか、『自分達二人』『三つの勝利』(ともに洛陽堂、一九一五年)などの小説がある。関東大震災以後、大原社会問題研究所の嘱託を務めた。大正十四年から昭和三年の四年間は、台湾に渡り原住民の人類学的調査に取り組み、『蕃郷風物記』(建設社、一九三二年)や『台湾土俗史』(建設社、一九三二年)を著した。社会学、人類学、法律学などに深く幅広い教養を持った人物であった。
小説家、英文学者の小沼丹(おぬまたん)、本名小沼救(おぬまはじめ)は、小泉丹に影響を受けた一人で、筆名の丹は小泉丹からとったものであるという。中村明著「随感ゆりかごの小沼丹」(早稲田大学日本語学会『早稲田日本語研究』二〇〇六)という文章には、小沼の祖父の姉妹の嫁ぎ先が小泉丹で、小泉に惹かれたことがペンネームの由来であると書かれている。小沼は日常を題材とした小説のほか、随筆の名手としても知られる。早稲田大学では文学部の教授として教鞭を執った。
参考:雑誌『心』(一九四九 平凡社 ):『ゲーテと骨学』小泉丹:『遺伝』小泉丹:『馬留胆抄』小泉初子
寄生虫学者としての顔
小泉は明治三七年に東京帝国大学理科大学動物学科に入学した。当時同学科の教授陣には、日本において動物学、寄生虫学の見識が乏しかった時代に海外でそれらを学び国内に紹介した学者が名を連ねていた。日本において初めて寄生虫学の講義を開講し、同学の専門書『人体寄生虫動物編』を著した飯島魁(いいじまいさお)や、アメリカ留学後に日本初の動物学教授となった箕作佳吉(みつくりかきち)はその代表的な人物だった。小泉は彼らの指導をうけて人体の病気の原因になる寄生原虫学の研究に関心を持ったようである。小泉は遺著の『馬留胆抄(まるたんしょう)』で、卒業作業の時に両氏から恩顧を受けたと書いている。小泉は卒業論文ではミミズに寄生する虫類の研究に取り組んだ。卒業後は、「日本近代医学の父」と呼ばれる医学者、細菌学者の北里柴三郎が主宰する伝染病研究所に入所。同所では寄生虫学と医学を横断的に研究した寄生虫学者、宮島幹之助に師事した。宮島は飯島魁の弟子で慶應大寄生虫学部(国内で最も古い寄生虫の専科)の初代教授を勤めた人物である。小泉は伝染病研究所在籍当時、国内のペスト流行地の現場に入り伝染媒介のノミの研究などに携わった。次いで三十二歳で台湾総督府研究所衛生学部に赴任。技師と医学学校教授の職務を兼任し、六年間にわたりマラリアやデング熱などの熱帯病研究に従事した。マラリアなどの熱帯病は日本の植民地経営上重要な課題だった。熱帯病は、温暖な地域に生息する寄生虫や昆虫が媒介する疾病で、医学と動物学の二つの源流を持つ研究領域である。
小泉は、約三年間の欧州遊学を経て四十二歳(大正十三年)の時に帰朝し、慶應義塾大学医学部の教授となった。宮島幹之助から同大寄生虫学部の教授を引き継ぎ、「寄生虫学教室」を開設した。当時の日本では回虫はありふれた人体寄生虫であったが、その病害については研究が十分にされておらず、この分野の研究に携わる研究者も少なかった。教室の小泉一門は、回中毒の研究にあたり、昭和十九年には十二年間におよぶその研究成果をまとめた大著『蛔虫の研究』(大日本出版)を著し、高く評価された。
小泉は定年後、回虫が蔓延し、日本人の多くが回虫を保有していた国内状況に対し、武見太郎や松林久吉などと寄生虫予防協会を作った。この団体は学校や会社から駆虫や予防に関する依頼を多く受けた。社会疾患としての当時の回虫の様子については、小泉が監修した岩波写真文庫『蛔虫』に詳しい。
参考:小泉丹『科学的教養』二四二頁:背戸口明久『医学・寄生虫学・昆虫学-日本における熱帯病研究の展開-』:小泉丹『視界』一〇七頁:森下薫『日本における寄生虫学発達史』(目黒寄生虫館発行):大島正満『鬼に鉄棒 飯島魁先生の思い出』(目黒寄生虫館発行):小林勇『彼岸花 追憶三十三人』:三輪和雄『猛医の時代 武見太郎の生涯』
○寄生虫学関連の著作
『最近寄生原虫学』南山堂 1910
『人体寄生動物学』南山堂書店 1912
『寄生虫国日本』岩波書店 1929
『寄生虫学提要 第1分冊 原虫篇』南山堂書店 1932
『人体寄生虫通説』岩波全書 1935
『常識の科学性 寄生虫の実際問題』岩波新書 1941
『蛔虫の研究 蛔虫毒の形態学的生理学的化学的研究』大日本出版 1944
『寄生虫の話』主婦之友社 1949
『蛔虫読本』中央公論社 1950
『人体寄生虫』岩波全書 1952
『蛔虫毒の研究 その形態学的、生理学的、化学的研究』岩波書店 1954
進化学者としての顔
小泉は進化論の古典を翻訳したほか、『進化学経緯』『進化学の源流』『進化学の展開』などの解説書を著した。日本の進化学の定着期を代表する学者、啓蒙家でもあった。小泉が本格的に進化学の勉強に取り組んだのは、台湾総督府での赴任を終え、慶大教授に就任する間の二年間ほどの欧州遊学からだった。遊学では台湾を出発し、イギリス、イタリア、ドイツ、フランスなど欧州各地の生物学、進化学ゆかりの地などを巡った。特にパリでは学生街カルチェラタンの安宿で生活。国立自然博物館に出入りして、ビュッフォン、ラマルク、キュヴィエー、センチレールなどの博物学者や進化論者に愛着の念を懐くようになったという。(『進化学経緯』 二頁)また、この機会に進化学の古本を多数購入し、これらを後に翻訳し国内に紹介した。本の購入のために、食べ物はジャガイモを煮たような簡素なものでしのいだという逸話も残る。
小泉は進化学への取り組みについて、動機と経緯をこのように記している。
「自分が進化学の勉強を始めたのは十二年前のことである。(中略)卒業当日から伝染病研究所で恩顧を受けて以来、自分は医学関係の研究所で仕事をしてきた。平和克服を機会にロンドンに渡り、そこで持って行った二つの仕事を形づけて大陸に渡った。そして其を機会に医学の畠から生物学の仲間に戻らうといふ志望を懐いた。財布の底の残り金のあるうち滞在する、それからの数カ月の間の仕事の一つとして始めたのが進化学の文献の蒐集と其の勉強であった。(中略)帰朝して二、三年の苦慮の末に前記の志望は擲って、続いて医学校の教室生活を専心にすることになったが、進化学の文献蒐集を勉強は本業の余力で続けてきた。そしてこの十年ほどの間に二、三の翻訳を出版し、或いは依頼を受けて或いは自発的に、臆面もなく大小二十ばかりの文章を書いた。」(『進化学序講』(岩波書店、一九三三年)より)
「学術の潮流は惶忙として漲り進んでいる。其一領域に身を置いて泳ぎ勉めることは、日々の極めて愉快なる苦労である。そこで、ゆとりのある世界にも進んで、学会の他の分野を巡礼者の心持ちで静かに彷徨したい願望を私は懐いている。そして、十数年来、その境地を進化学に求めてきた。そこで私は、(中略)行き着く先を限らず、泊まりを急がぬ巡礼者の気持で、その世界の状景を探り、情緒を味はひ、また教道を求めることを心掛けて来た。」(『生物学巡礼』(岩波書店、一九三六年)より)
小泉は、仙台二高に学んでいたころ、動物学者・丘浅次郎が著した大衆向けの進化論解説書過『進化論講話』を熟読するなど、進化論を生物学のひとつとして当時から興味を懐いていたようである。大学卒業以降、伝染病研究所や台湾総督府で、医学畑での研究活動に専念してきた小泉が、その任務が一区切りを終え、休養の時期に「進化学」取り組んだことは純粋な生物学への興味好奇心の現れのように思える。
○進化学関連の著作
・翻訳書
ドゥラージュ・ゴールドスミス共著『進化学説』1924
ラマルク『動物哲学』1927
フランシス・ダーウィン『チャールズ・ダーウィン自敍伝宗教観及び其追憶」1927
メンデル『雑種植物の研究」』1928
ダーウィン『種の起源』1929
『ラマルク動物哲学・ダーウィン種の起原』岩波書店・大思想文庫 1935
・自著
『生物学巡礼』岩波書店 1936
『進化学序講』岩波書店 1933
『進化学経緯』鉄塔書院 1930
『進化学の源流』玄理社 1948
『進化学の展開』玄理社 1948
参考:『医学通信』昭和二十八年二月二一日号:『小泉丹先生』松林久吉:『進化学者としての小泉丹』風間敏:『生物学史研究47号』一九八六)
公衆衛生分野での仕事
公衆衛生医学は、伝染病をはじめとした「社会的な広がりを持つ疾患」を対象とした学問である。小泉が研究してきた寄生原虫類は、病気の媒介者であり、伝染病の要因ともいえる。このため小泉の学術活動は、公衆衛生医学の領域でも展開された。小泉は、大学卒業後ただちに入所した伝染病研究所では国内のペスト流行地に乗り込んで調査活動に従事。台湾総督府研究所ではマラリアなどの熱帯病研究に携わるなど、社会疾患の「現地」での調査研究活動に携わった。小泉は疾患の現場を見て回る機会を得た。小泉は、随筆集『眉毛眼上集』で「万般の学問はジャーナリズムに通じる」と書いている。物事の実態を現場で見てきた体験から体得した信条であろう。
慶大教授時代には当時世界的な保健衛生事業を展開した国際連盟保健部やロックフェラー財団主催の視察や会議に出席した。小泉がこの役に選出されたのは、第一に小泉自身が適任者としての経歴を持っていたことであろうが、同大医学部が同財団と「生物学の進歩に資する」ための提携関係を結んでいたこと、伝研時代に師事した宮島幹之助が国連保健部の委員を務めていたことも大きな要因と思われる。ちなみに、小泉は視察旅行での旅行記を随筆に多く記している。生物の見聞を広めたり、独特の視点で風物をたのしんだようである。出席した会議は「極東熱帯医学会」や「万国熱帯病会議」、「国際マラリア学会」、「東洋農村衛生国際会議」などであった。極東熱帯医学会(FEATM)は、「印度以東の全アジア、濠洲、北米太平洋岸に至るまでの、医学者の学術的交歓の機関である」(『視界』一九三頁)とある。万国熱帯病会議は、列強国の医学界から研究者が出席する会議だったた。農村問題会議や、国際マラリア学会は国際連盟主催で、小泉は国際連盟保健部マラリア委員会の委員として列席した。
小泉が公衆衛生分野の仕事で最も大きな成果、業績を上げたのは、戦後日本で蔓延していた寄生虫「回虫」の駆虫である。小泉は生涯この回虫の生理や人体への毒害について研究した。小泉は寄生虫予防協会の理事となり、駆虫を提唱した。新潟では出雲崎と魚沼の農漁村で生活実態調査に取り組んだ。寄生虫や病気の罹患状態について生活文化や風習も含めた視点での調査だった。(この仕事については、『武見太郎私の履歴書』に詳しい。魚沼の調査の発端は、小泉の弟子が当地にある組合病院に赴任したことだという。小泉は、この仕事で弟子の奮闘ぶりに感動し、小規模農村における衛生の実態を調べることに興味を持っていたという。これは後に農林省経済更生部の援助があり、教室の生徒らを率いて実施されたという。(『視界』二五一頁・『眉毛眼上集』三一二頁)また、新潟県中魚沼の旧川西町(現十日町市)では、この調査が契機になり、無医の村に医療が根付いたという。(昭和六十二年二月と平成三年八月の『広報かわにし』に詳しい)。『広報かわにし』によると、地元で教職につき、農林省の事務官であった人物が、無医の村へ医師を招へいしようと小泉丹に相談、その結果、小泉一門の医学博士漢京淳氏が同地に赴任したという。保田の滴水居には門下生らの寄せ書皿があり、そこには「韓京淳」の名が記されている。
小泉は『保田日記』の昭和十一年十一月十一日で農村調査の報告について記しており、同年に『農村及ビ其生活ノ調査及ビ考察』を発表している。このほか、保田日記には館山の富﨑村で「調査」を行った旨が記されている。この調査には、後に日本の公衆衛生の向上を目的とした調査研究機関国立公衆衛生院で衛生統計部長をつとめる川上理一氏と同行している。調査の詳しい内容は不明だが、農村調査の一環ではなかったかと思われる。
戦争時局にともない、小泉は戦地での熱帯病の調査研究活動に従事した。日支事変から太平洋戦争に向かう途上で、日本の医学界は、東南アジアや中国大陸でのマラリアなどの風土病の研究調査や対処が大きな課題として軍や社会から要請された。慶応義塾医学部から海外出張に赴くものも多かった。小泉は、台湾在住中に現地でのマラリアの実態についての研究に携わった他、国際連盟保健部マラリア委員として欧州やアフリカへの視察経験も豊富であったため、各地に出向くことが要請されたと思われる。小泉や松林久吉らは相次いで中国大陸に出張。戦地での保健衛生や、主にマラリアなどの伝染病研究に従事した。小泉は昭和十四、十五年の二年間で三度大陸にわたっている。昭和十八年には松林らと激戦地ラバウルにも現地入りしたが、時局悪化に伴い予定を切り上げ帰国した。
その他の活動
▽「岩波講座 生物学」の監修をつとめる。
岩波講座は一つの科目が数冊の本で完結する膨大な企画であり、小泉は一九三〇年(昭和五)からその生物学を担当した。
「岩波茂雄は小泉の博学と性格を愛し、昭和五年から三年間にわたって「岩波生物学講座」の企画を依頼していた。小泉はほとんど独りで、テーマや執筆者の選定、ページ構成に至るまでを決め、岩波書店の番頭と言われるほどの才能を発揮し、この大講座を完成させた。その結果、小泉は岩波書店に関係する多くの科学者たちと交際するようになった」(三輪和雄著『猛医の時代 武見太郎の生涯』より)
小泉は仕事や人脈において、この監修の仕事が契機となり、いわゆる岩波文化人として周知されたようである。このころから随筆家や社会批評家としての一面が表われてくる。翌年の昭和六年には同書店で創刊された雑誌『科学』の編集員となった。同七年には、「唯物論研究会」の幹事(翌年寺田寅彦らと脱退)となり、同十五年には文化学術の発展に寄与することを目的とした民間学術団体、国民学術協会に齋藤茂吉、田邊元らと加入。岩波の仕事と並行して、活動範囲が広まっているのがわかる。(付録の年譜を参照)
▽岩波書店 雑誌『科学』の編集員をつとめる
雑誌『科学』は、科学界と社会を結ぶ雑誌として、昭和六年四月に石原純、寺田寅彦らを中心に岩波書店から創刊された。小泉は同年二月より編集員として参加した。小泉は、岩波生物学講座の監修を務めて以来、岩波書店創業者の岩波茂雄、二代目の小林勇、齋藤茂吉らとも親交があり、いわゆる岩波文化人の人脈にも明るかった。小林は自著『彼岸花追憶三十三人』の中で小泉について記している。石原純とは、大正十三年にドゥラージュの『進化学説』の翻訳でともに仕事をしている。この本は小泉の進化学関連の最初の著書である。石原は大正十一年、保田町本郷の保田小学校の裏山に、洋館の新居「靉日荘(あいじつそう)」を建て、女流歌人の原阿佐緒と移り住んだ。この出来事は世間を賑わすスキャンダルとして当時新聞などで報道された。小泉は保田日記の中で保田に散歩した際近くの山から、「靉日荘が見える」と書いているが、当時石原は保田に住んでいなかった。石原は原が去った翌年の昭和4年に東京に転居し、昭和16年に保田の家に戻る。この期間は保田日記の書かれた時期と重なっている。小泉、石原、齋藤の三者はともに国民学術協会の会員でもあった。
▽伝記「野口英世」を著す
小泉の著書の中で広く読まれたものに野口英世の伝記『野口英世』(岩波書店、一九三九年)がある。小泉は一九二一年(大正十)、欧州遊学の帰路にニューヨークのロックフェラー研究所で野口英世と面会した。小泉は同書のあとがきで、その時の様子や会話を書いている。ともに会津の産であり、共通の人物の話で意気投合した様子が伝わる内容である。
小泉は『眉毛眼上集』(四十八頁)のなかで、同書についてこう記している。
「個人の伝記では、その人物がとかく事件の重要位置を占めがちである。少なくも正當以上の地位に置かれる傾がある。この種の伝記が正伝であるかのやうに思はせるが、然らざる点の少なくない場合が稀でない。(中略)この種の伝記を文字通りに読んだりするのは甚だ科学的でない。この感を深くもつてゐるので、先年野口英世伝の執筆を依頼された節に、私の信ずるところによつて、学人、人間としての野口英世を伝してみた。出来上つたものは数多くある野口英世伝とは多くの点に於て同じくないものになつている。そしてそれは私が対象を正しく見ようとして力を盡(つく)した結果である。しかし私の作はどこまでも小泉丹の野口英世伝である。」
参考:科学創刊二十周年にあたって/慶祝と希望/眉毛眼上集/鋸南町史
▽岩波書店社長の小林勇の随筆『彼岸花』によると、小泉は晩年には、万葉集に歌われた植物について研究し文学博士の学位論文にしようと試みていたが実現はしなかったとある。
▽「日本人の頭脳、科学性について」
小泉は、戦時中、戦地の衛生について現地入りし、調査にあった事は先に記した。小泉はこれらの仕事をしながら、個人的な思索のテーマを見出していた。それは「日本人の頭脳、科学性について」だった。『進化学の展開(一九四八)』の序文には次のようにある。
「私は事変以来、長年やってきた進化学の勉強から全く遠ざかっていました。しばしば大陸へ行き、後には遥かラバウルに出向いたりなどして、戦病、戦域病の仕事に身を入れて(中略)時局の動きは私に日本人、日本人の頭脳の吟味という課題を切実に考えさせ、その仕事に熱を持たせました」
ここに出てくる「日本人の頭脳の吟味」というテーマについては、一九四二年(昭和十七)に出版された『科学的教養』(初版)に集約されている。同書は戦時中という局面において、大衆に対し、自身が信条として懐いてきた科学的に物事を吟味、判断することの重要性や方法を述べたものである。小泉は同書の序文で「広い世間の万人、何方にも通じ、何方のものでもあるべしと思っていることを丹念に談じようとした」と記している。
同書の「発端」では次のように記されている。
「世界が戦っている。陸で海で、空で。東で、西で、南で。而してわが日本、日本人は、その最も大きいものを戦っている。軍が戦っている。国民が戦っている。其は兵器戦である。体力戦である。知能戦である。精神力戦である。かゝる時に、私は国民の科学的教養といふ問題をとり上げてペンを執る。国民と科学に関して何がいはれているだらうか。専ら科学知識の普及、発達、生活の科学化といふ類のことのやうである。 茲に科学的教養といふ名に於ていはんと欲するものは、此等のものゝ根底に於て存すべきもの、此等の浄化者であるべきもの、と私の信ずるものである。(中略)科学知識の豊富なことが個人にとつて必要であることはいふまでもない。此はその人を幸福にする。生活の実際に於ても。また生活の滋味の上でも。併し眞に人生を幸福にするものである為には、其が淘汰され浄化されたものでなくてはならない。科学知識の豊富は、個人の格質の指標の一つである。(中略)国家の異常時にあって、国民の側に現実に痛切なものの一つとして私は流言と其による動揺といふものを考える。戦争の主要な仕事の一つとして宣伝がある。(中略)国民に必要とされるものは、それ等の宣伝の判断の仕方、其に由来する行動の仕方である。国民の頭の問題である。国民の落ちつき、逆にいつて国民の盲動である。茲に私は国民の教養といふことを考へるのである。」
同書には身近な物事から怪談にいたるまで、様々なテーマについての科学的な物の見方、とらえ方、考え方が書かれている。「科学はファンタジーを必要とする」など、小泉独自の科学に対する見解も語られている一冊である。
○随筆などの著作
『遺伝』南山堂書店 1920
『岩波講座 生物学』監修 1930~1933
『麻刺利亜』鉄塔書院 1934
『生物学巡礼』岩波書店 1936
『視界』岩波書店 1938
『野口英世』岩波新書 1939
『眉毛眼上集』改造社 1941
『科學的教養』大日本出版 1942
『生物体の機構』中央公論社・国民学術選書 1943
『日本科学史私攷 初輯』岩波書店 1943
『学生に語る』帝国書院 1946
『人間生物学の課題』大日本出版社 1947
『科学的教養』春秋選書 1948
滴水居(てきすいきょ)は、生物学者、慶応義塾大学医学部教授の小泉丹(こいずみまこと)が戦前に旧保田町吉浜(現鋸南町吉浜)の鱚ヶ浦(きすがうら)のほとりに構えた別荘である。現在も令孫の夫妻らによって別荘として使われている。滴水居の土地は、昭和八年に小泉丹名義で登記されている。翌年の昭和九年は、小泉が五十二歳、慶応大医学部教授について十年が過ぎたころである。翌々年に支那事変が起こり、時代は太平洋戦争へと向かっていき、小泉の学術活動はさらに多様になっていった頃だった。時局上、戦地での保健衛生調査が必要となり、小泉は慶応医学部から中国大陸や南洋でマラリアをはじめとした熱帯病研究のため幾度となく現地に赴く。滴水居はこのような時代の流れの中で小泉の個人的な休息や学生らとの共有の場、書斎として使われていたようである。
小泉丹の令孫夫妻によると、滴水居は、「学生らと海洋生物の研究をすることを主な目的に建てられたもので、建物の主要部分は信州の庄屋から移築された」と伝えられているという。また、「現在の滴水居の敷地は海岸沿いの国道から三区画目であるが、もともとは県道(現国道127号)まで敷地だった」という。
建物の外観は、古典的な平屋造りのバンガロー型である。間取りは、八畳と六畳の続き間の北側に厠、南側には六畳の書斎と台所、風呂場がある。続き間の西側には幅一間ほどの土庇が伸び、その下の空間はポーチと一段高い位置にウッドデッキのベランダが配されている。ポーチは玄関の役目も兼ねている。ポーチの床面は洗い出し仕上げの三和土(たたき)になっている。ポーチを支える柱は房州石の石組みで作られており、杉板の下見板張りと相まって、建物の外観に異国的な情緒を与えている。石場立ての基礎石と囲炉裏の縁の下部分にも房州石が使われている。令孫夫婦によると、当初の外壁は弁柄色、瓦屋根は灰緑に仕上げられていたという。現在では瓦、外壁ともに色が褪せているが、瓦には一部当時の色が確認できる。茅葺きの多かった昭和初期の同海岸界隈にあって、ひときわ異彩を放った存在であったろう。北欧やイギリスのフェロー諸島など、欧米の岸辺に佇むコテージの情景が想像される。
いっぽう建物の内観は、純和風造りで、廊下と台所以外はすべて畳敷きである。続き間の欄間には無垢の一枚板が使われている。続き間の片室には囲炉裏が切ってあり、船底天井から燻された色みの自在鉤(じざいかぎ)が垂れている。続き間の西面は海に向いており、横額障子の掃き出し窓になっている。障子を開けるとポーチと一体的に使うことができ、たいへん解放感がある。現在は家屋や国道の往来が遮っていて室内から海を広く見ることはできないが、当時は亀ヶ﨑や対岸の三浦半島、富士山が悠々と見渡せたであろう。
大正から昭和初期には一般住宅や別荘に和洋折衷を特徴とした「文化住宅」が流行する。映画「となりのトトロ」に出てくる家のように在来の和風建築に洋室が増築されたような型が一般的だが、滴水居の場合は内外で和洋がすっかり切り替わっているのが特徴だろう。この特徴は欧米の学問や各地の見識を持ちながら、戦争時局下では日本人の精神性の吟味を自身の課題とした小泉の姿にどこか重なるような気もする。
小泉は、著書に滴水居で過ごした様子を記している。その箇所を抜粋する。
・ 『眉毛眼上集』「秋の想ひ」より
「草を焚くことを私は甚だ好む。房州の海岸に逃避行してゐる日は、これを日課のやうにしてゐるが、落葉は煙が濁ってゐて、臭ひが不純で気持ちよくない」
・ 『視界』「水平線は曲つてゐる」より (昭和十一年『東京朝日新聞』に寄稿)
「つい近年のこと、私は、房州の海岸で、間近い島と彼方遥かの城ヶ島の間に見ゆる短い水平線が曲っていることに気がついた。馬鹿らしいことで、お話にならぬ次第であるが、独り自身の愚を笑ったわけであった。
・ 『視界』「草を毟る」より (昭和十二年『婦人の友』に寄稿)
「私は年に数回房州の海岸へ数日間の逃避行をする。週日・日曜・祭日の差別なしで、ぶつ続けの平常生活の日曜休みに相当するものである。この逃避行には、仕事は持って行かずに、般若心経手習第百巻の成就を仕事にしているのであるが、それはなかなか許されないで、何か仕事を持って行かねばならぬことになりがちであり、心経も足かけ三年になるが、まだ七十巻台で、発願の第百巻にはまだ遠い。この逃避行で、仕事があっても無くても、心経を書いても書かなくても、必らず為る仕事が草毟り(草抜きといふ方がよい)である。春から秋まではさるまた一点の裸でやる。照る日にはぢりぢり照りつけられてやり、背の日焼けは年中残って居る。
雨の日にも晴れ間にやる。特に雨上がりに毟るに適した草があるのである。(中略)私は花の咲く樹を好まず、鋏を入れて仕立てた樹を好まない。図太く勝手次第に枝を延ばし、或は密に葉の繁る樹を好む。いともささやかな家の周囲百坪に足らぬ地面に、若干の雑木を植え込んであるが、至って貧相である。一昨年女房が数株の月見草を貰って来て植えたら、その種子が散布して昨年は至るところに芽生えて、あちこちに叢が出来た。その壮観が頗る私達をよろこばせた。今年は小家の周囲大部分が月見草の叢になるであろうことを楽しみにしている。(中略)草を毟って地面を綺麗にすることは、私の目的の一部であるには相違ないのであるが、其は一部分であって、草を毟り抜くことそれ自体が目的の大部分であり、興味の大部分であり、草を毟りながら雑草を鑑賞し、頭に湧いてくる考へや、浮かんでくる思ひ出などを味わふのが、楽しみなのである」
・ 『視界』一八八頁「原始種族を思ふ」より
「房州では五月頃から十月頃まで荒い海風に吹かれ、強い日光に照られ、或は小雨に打たれて、裸体生活の無類の快味を満喫する。雑草や小枝を一日乾かして、それ等を夕暮に燃やす。眞白い煙が海邊の空気の波動に揺られて、小さい家とその四周に勝手気儘に漂々流れ廻はるのが、これまた無上の快味である。(中略)裸一つで、穴を掘って瓦の破片を埋めたり、折れ散った小枝を焚いて風呂を沸かし、半乾きの草を焼いて漂々たる白煙を浴びて皮膚を晩夏の日光に赤褐色に色上げしてゐる。文明社会の原始人みたいな私である。」
このように、小泉は草むしりや、写経をこの別荘での個人的な愉しみとし、多忙な仕事の合間の息抜きとしていたようである。また、保田日記には、主宰する寄生虫学教室の学生らとの交流や学術的な活動、著述の仕事についての記述がある。小泉は滴水居に複合的な用途を見出していたと思われる。
小泉は、2つの自著の序文で署名とともに「滴水居」の名を記している。『生物学巡礼』(昭和十一年)では「保田滴水居にて 著者 昭和十一年九月一日」、『眉毛眼上集』(昭和十六年)では「昭和十六年三月三十日 連日の校正を終わって保田滴水居にて記す」とある。
現在滴水居には令孫らにより、小泉丹ゆかりの品が保存されている。
小泉の妻は小泉初子(はつこ)といい、旧姓は橋爪(はしづめ)であった。橋爪氏は小泉家同様会津の士族で、父は橋爪捨蔵という司法官だった。小泉の父、忠武も会津藩士で、司法官である。令孫夫婦によると、初子は大変手先が器用で、おしゃれな人物であったという。夫が写経した紙をカゴに貼って電気の傘を作ったり、百貨店の展示物をじっと観察して、子供服を型紙から自作したりと、考え手を動かすのが楽しみだったようだ。初子は、基督教女子青年会(YWCA)の機関紙『女性新聞(昭和二六年六月一日刊)』のコラム「わたしの工夫」に、自作の電気傘のことを書いている。また、夫の帽子はいつも初子の手作りだったという(巻頭の写真を参照)。初子は夫の死後、遺稿『馬留胆抄』を自費出版した。この本の表紙には小泉の背広の生地が使われているという。
アントンドールン(一八四〇-一九〇九)は、ドイツ人動物学者。一八三七年にイタリア、ナポリの海岸に私費を投じてナポリ臨海実験所(動物学研究所)を設立。世界各地の研究者が席を置き、共同利用する方式が特徴だった。世界で最古の臨海動物実験所として知られる。動物学者箕作佳吉は東京帝大の油壺臨海実験所のは創設時にアントンドールンに手紙で助言を仰いだ。小泉は同大在学中に油壺に通うのが楽しみであったと『馬留胆抄』に記している。小泉は『生物学巡礼』にナポリ臨海実験所の探訪記を書いており、アントンドールンのことを事業家として評価している。この肖像写真は滴水居の書斎の額の中に保存されていた。小泉は保田の海辺にかまえた別荘にこの写真を飾り、何を思ったろうか。
保田日記(ほたにっき)は小泉が保田に滞在した時の出来事を綴った私日記である。日記はA5判で厚みが四.五センチメートル、天金が施された重厚感のあるハードカバーの市販の日記帳に記されている。本のサイズからして、滴水居に常備していたものだろうと思われる。昭和十年から昭和十六年までの六年間、約一九〇日分の手記が綴られている。保田日記が書かれた日付を追っていくと、小泉が滴水居に滞在したのは年に三から八回。正月に約一週間と夏季に約二週間の滞在を中心に春秋には三日あるいは五日間ずつ訪れていたようである。年ごとの滞在日数は昭和九年と翌十年、昭和十三年が約四十日間。次いで昭和十五年の二十六日、その他は約二週間ずつである。日記は昭和十六年十一月六日、日米開戦のおよそ一か月前で終わっている。
日記の中に最も頻繁に登場するのが、松山という人物である。明治~昭和期の茶人、茶書研究家で、本名は松山米太郎。大倉高等商業学校教授を務め、引退後に松山吟松庵(ぎんしょうあん)と号した。保田日記の最初のページには松山から送られた茶釜の事が記されている。松山は、滴水居から北に二百メートル程の所、字「日影」の自宅に、残月庵という庵を構え、妻と暮らした。保田日記を読むと、小泉は妻の初子や主宰する教室の学生らとも松山を訪ねたり、独りで散歩の道すがら寄ったりと、親交がうかがえる。
松山の保田での暮らしぶりについては『房総風雅史』(小倉光夫著:思文閣出版)にこうある。
「明治四十年頃から毎夏房州保田海岸に避暑することを常としていた。風光明媚、富岳遠望を喜び、保田吉浜の長閑な山が海岸に迫る日影の茶屋あたりに昭和五年土地を求めて農家の古屋を用いて残月庵とし、翌年そこに移住し、陸舟庵を設けた。」
「吟松庵は保田海岸において茶書の研究著作に専念精進し、吟松庵不朽の名著といわれる『茶道四祖伝書』が昭和八年に、『三冊名物集』が昭和九年に、『宗及茶湯日記』『台子と珠光』が昭和十二年にそれぞれ刊行された。(中略)これらの仕事に対して「近来茶道流行に連れて茶書の刊行も夥しい数に上るが、何れを見ても感服するものは一つもない。その中に只一人保田に隠棲して居られる吟松庵主人の著作のみは典拠確実引証該博必ず世に残るものと敬服に耐へない」と雑誌『文芸春秋』誌上で賞辞された。」
「保田の冬季の夕景は、赤い大きな太陽が芙蓉富士の雪峰を背景に沈んでゆく荘厳なものである。日沈んだあとの濃い夕焼け空に富士が波の上に黒々と影を見せて、この光景こそが、世の中から毅然として一人美しく保田に生活する吟松庵の心境を現していた。」
小泉と松山は、ともに滴水居の隣地にある地元の吉浜小学校の卒業式に数度列席している。地域の古老の話では、習字の課題でよくできた者には小泉賞があったという。筆者の祖父も賞を貰ったことがあるという。保田日記の中に小泉が東京の百貨店で記念品を選んでいる記述がある。吉浜小学校の子どもたちへの品と思われる。
小泉は自身の主宰する慶応義塾医学部の寄生虫学教室の学生や関係者を頻繁に滴水居に招いている。保田日記に記された教室生の名字はおよそ六十人にのぼる。学生らとは滴水居で自炊をしたり、鋸山への登山に出かけたりしていたようである。教室を挙げて取り組んでいた「回虫毒」の研究や農村の保健調査についてなども当然語らっただろう。学生の滞在は夏がもっとも頻繁で、六人から十人ほどが日帰りや泊まりがけで日々訪れていたのがわかる。昭和十五年の夏には、保田臨海保健所宿泊日割というメモがあり、教室生らの名前が日にちごとに割り振られている。教室を挙げての何かしらの事業を行っていたことがうかがえる。小泉没後に寄生虫学教室と回虫毒の研究、寄生虫予防協会理事を引き継ぎ、後に慶応医学部の七代目学部長になる松林久吉も、しばしば滴水居を訪れている。松林は昭和六年に小泉の寄生虫学教室に入室。昭和十八年に小泉らと共に戦時下の南洋ラバウルにマラリアの研究調査に出向いた。一九五二年には『小泉丹先生の業績』(国立国会図書館蔵)を記している。
国内の観光の歴史において戦争はその営みにピリオドを打つ大きな出来事である。特に房総半島は帝都東京の要塞地帯として位置づけられた。そのため、当時のエピソードとして、避暑地に向かう電車では車窓のブラインドを下ろすよう指示されたり、個人別荘が将校の住まいとして使われたり、当時の観光絵葉書では軍部の検閲により故意に背景が消されるなどはよく聞くところである。それだけ当局の機密保護の目が光っていた。保田日記にも列車内でブラインドを下ろすよう声がかかったとある。保田日記の内容を紐解くことで、戦前に保田の鱚ヶ浦に芽生えた保養、別荘地としての文化を伺い知ることができる。保田日記は貴重な郷土資料と言えるだろう。
保田は、千葉県安房郡鋸南町に属する一地域である。鋸南町は東京都心から直線距離で南南東に六十キロメートルほどに位置し、自動車なら高速道路を使って一時間半ほど、鉄路では東京駅から普通電車を乗りついで約二時間で到着する。同町の北は鋸山(のこぎりやま)、西は東京湾に面しており、鋸山にある古刹日本寺と、大仏は房総の代表的な観光地として古くからよく知られている。保田の沿岸には風光明媚な海岸線が続き、港には毎朝房州の新鮮な魚が水揚げされる。
鋸南町は、昭和三十四年に旧勝山町と旧保田町が合併して誕生した。町名は、南房総の観光名所「鋸」山の「南」に位置することから名づけられた。これを機に、旧保田町は保田という地名に、旧勝山町は勝山という地名となった。保田の街は古くから外房鴨川から半島を横断する長狭街道と、館山に続く街道、保田の港との交点周辺に育まれ、南房総内外の人や物が行きかっていた。江戸時代には保田の元名(もとな)で栽培された水仙が船で江戸に出荷され、「元名水仙」と親しまれ、広く流通していたという。
明治二十五年に館山の旅館主人、山崎房吉が著した『房州避暑案内』(国立国会図書館蔵)には保田の地域特性がよくあらわれている。
「保田ハ京房間往来ノ汽船就航し長狭郡及ビ夷隅郡南部ノ人必携ノ地ナレバ可ナリニ繁昌シ暑
中の海水浴ノ人杯モ毎年来遊し、吉田屋枡屋等の旅店は申迄モナク~」
又、同書では鋸山をこのように紹介している。
「天然の勝景ハ千古変ラズ亦以テ無比野偉観ナリ此地ニ遊ブモノ必ズ登覧試ムベキ名区ナリ」
南房総地域において保田の街がこのような特徴をもつようになったのは、鋸山の存在を抜きにしては語れない。房総半島を南北に分けるその山容は、屏風のごとく立ちはだかり、人の往来を阻んでいるかのようである。西端の明鐘岬は東京湾に険しく突き出しており、近代的な交通手段が発達する以前、ここの往来の厳しさは、かつて「関東の親不知」と呼ばれるほどであった。
このような鋸山の「塞き止め効果」と地域外に開かれた港の存在により、房州最北の港町保田は、昔から房州に住む人、房州を訪れる人との交点であったと思われる。特に房州を訪れる人にとっては、船で最初に着く房州の港で、アクセスの良い避暑保養の地として認識されていたはずである。
滴水居がある鱚ヶ浦(きすがうら)は、旧保田町の中心(現在の保田駅周辺)から南に約2キロに位置する閑静な海岸地で、遠浅の海に静かな波音が響く景勝地である。戦前ここでは東京の旧制中学などの学校が遊泳合宿を営んだり、教育者や実業家などが集中して別荘や自宅をかまえた。滴水居もその一つである。別荘群のエピソードなどについては、別冊『保養地保田 きすがうら事典』にまとめた。
近代交通の発達と保養地保田の発展
明治時代に近代的な交通手段が発達すると、関東近郊に別荘地や保養地が形成されていった。
数々の宰相が別荘や邸宅を構え、「政界の奥座敷」といわれた神奈川県の大磯では、明治二十年に東海道線の大磯駅が開業。保養・療養の目的で大磯に多くの著名人が長期滞在や別荘を建てるようになったという。大磯ではこれより二年先、海水浴の医療的な効用をうたった松本順(初代軍医総監)の働きかけで、日本初の海水浴場が開設されるなどの土壌があった。
保田への往来の変化について最初にあげられるのは、明治十一年に東京の霊岸島と保田や北条などの房州の港を結ぶ汽船が就航したことである。この汽船は館山町の運送業者が東京魚河岸問屋の協力を得て創立した「安全社」が運営した。旅客や鮮魚、干魚、その他の物資を扱い、貨客船として房州と東京を結んだ。その後、明治十四年ころから同業社が参入していった。明治二十年の夏にはジャーナリスト徳富猪一郎(徳富蘆花の兄)が、明治二十二年の夏には夏目漱石が、保田を訪れている。また、明治四十年ごろには後に鱚ヶ浦に移住する茶書研究者、松山吟松庵が毎夏保田に避暑に来ていた。明治三十九年の夏には東京の早稲田中学校が鱚ヶ浦近くの妙本寺に来泊し、鱚ヶ浦で遊泳を行っている。大正、昭和にかけて内房の海水浴地帯が発達していくと、菊丸や橘丸といった豪華優秀船が就航。館山を終点として、日に数度往復した。東京の霊岸島から金谷に着き、順次房州の港を経て館山に向かった。しかし戦争に伴って船舶数は減便され、橘丸などは病院船として徴用され、運行が中止されたという。終戦後は東海汽船㈱が新たに発足し昭和二十三年に房州航路が再開。夏季の海水浴客激増に対応し、保田や勝山にも接岸のための施設が設けられた。
大正時代は「鉄道」が南房総にも開通し、東京からの大衆旅客の来房が本格的に可能になった。大正六年には保田駅が開業。難所とされてきた鋸山にも鉄道のトンネルが通り、鉄路で保田を訪れる人が劇的に増えた。これを機に保田の街には駅前の商店街が形成され、保田に別荘を構えたり土地を手に入れる都人士が増えて行った。大正時代の鉄道開業以降も汽船は就航を続け、避暑客や別荘人はどちらの手段でも来保が可能だった。『保田日記』でも小泉は、電車と汽船両方をその時々に使い分けていた様子が見てとれる。
このように、保田における交通史の変遷は、明治期の汽船の就航で弾みがつき、大正時代の鉄道開業と相まって花開いたと言える。鉄道や汽船で人々が保田を目指すようになったその背景には、保田町には早くから発電所があった事が影響していると思われる。明治四十四年から発電事業が始まり、近隣の勝山町、岩井村、君津郡金谷村に送電した。これらの地域では大正三年に電灯が初めて点灯したという。保田町に早くから近代的な生活のインフラがあったことは特筆すべき点であろう。
鋸南町史には、昭和八年八月十日現在の東京近郊における主要な避暑地での滞在者数が記されている。これによると、鎌倉が一一九三六人、軽井沢が七四九三人、逗子が七二八三人、保田が六六三九人、藤沢が五四〇二人、御殿場が四六六一人、箱根が三三九〇人、熱海が三一八七人、南房総では安房北条(館山)が四七六〇人、富浦が五三二三人、鴨川が二〇〇二人などとある。これをみると、当時の保田は南房総においても中心的な避暑地であり、東京近郊の避暑先としても広く認知されていたことが伺える。当時保田町は、観光客に対して「ボルナ、オゴルナ、キラワレルナ」をモットーとし、受け入れ態勢の施設、海水浴場の設備の充実に努めたほか、前年の避暑客に年賀状を送るなど独自の取り組みを展開した。別荘保有者には他町村よりも税を安くし、住み心地良く長期滞在ができるように配慮した。昭和九年十二月には保田観光協会が発足し、保田町を避暑海水浴地として、近郊に宣伝・紹介した。
保田の海岸では、昭和五年に明治製菓が、昭和九年には森永製菓が、夏季販売喫茶店「キャンプストア」を開き、海の家やバー、各種イベントを展開。互いに都市部に宣伝を打ち、保田への集客が促され、賑わいに拍車がかかった。両社は当時内房外房の海岸に多数キャンプストアを展開していた。大半が学生による運営であったのに対して、保田と北条は直営店舗であった。
大正時代から昭和初期にかけてピークを見せたこの賑わいは、国内に戦時色が色濃くなった昭和十六年ころを境に衰退していったようである。個人別荘の利用は可能だったが、旅行そのものが自粛、制限された。房総半島は帝都東京を護る要塞地となった。個人別荘が軍に貸し出され、将校の住まいとして使われるケースもあった。旅行の制限は終戦直後の昭和二十一年には解除されたというが、国内の状況上、かつてのように大衆が余暇に興ずる現象は見られなかったという。
戦後、昭和三十年代に入ると日本経済の回復と成長に伴い、中流層の生活が変化したことで、あらたな避暑のスタイルが生まれた。レジャー志向やマイカーの台頭によって、保養に訪れる新たな客層がうまれ、ふたたび海岸は賑わいをみせた。
一月二日。
晴。〇時半の汽車で着。
町は年末正月の飾りでうるさい。うちの門にも
大きい松竹が立ててあるのは恐縮。
空気がすんでいる心地。
夜松山氏にまねがれる。金沢風ならん、鴨、昆布
だしの雑煮。ラジオで三五郎の猪の洸洸をきく。
帰り路が真っ暗。燈台の火が甚だ明るく、路ば
たの茂りや家の壁が明るくなる。
松山氏から茶釜が一つ贈って来てある。チーン
と鳴る。
※松山氏・・明治〜昭和期の茶人、茶書研究家の松山吟松庵(ぎんしょうあん)のこと。明治三年に加賀金沢の骨董・古美術商、松山喜太郎(青柯・吟松庵)の家に生まれる。同志社大学に入るが、帝国大学国史科専科に転入。大正三年に大倉高等商業学校(現東京経済大)教授となった。大正七年遠州流家元小堀宗明と出会い、同家の顧問となり茶の湯の世界にかかわる。大正八年、五〇歳になり教授を退職。本格的に茶書研究に入る。保田へは明治四〇年頃から毎夏避暑にきていたが、退職翌年の大正九年吉浜の日影(滴水居とは二百メートルほどの距離)に土地を求め、夫婦で移住し「陸舟庵」「残月庵」を営んだ。以降茶書研究・著作に没頭。昭和十七年十二月、胃を患い保田吉浜日影の自宅にて没した。享年七十二歳。主著に『茶道四祖伝書』の註訳『評註 津田宗及茶湯日記』『三冊名物集』がある。
松山は古美術商の三輪六郎(松山長女の夫)と東京で骨董屋を営んだ。三輪六郎も鱚ヶ浦に土地を購入した。また、大倉商業で同僚であった英語教師の長岡拡や無線技師で実業家の茨木悟も松山との縁で鱚ヶ浦に別荘を構えた。
一月三日
今日も晴。
臼屋が家の前で杵を作っている。
心経書写一巻。本は読まず。
夜松山氏夫婦来訪
夜半十二時地震、その後また一回。
※臼屋・・滴水居北西、斜向かいの家のこと。屋号は喜八。故笹生道太郎の父親と思われる。臼を作る仕事をしていた。この家の娘「キヨ」は、東京・芝の骨董商、三輪六郎(詳細は一月二日を参照)の家に女中奉公に行っている。
※心経・・般若心経書のこと。小泉は自著の随筆で、写経の手習いと草むしりが保田での愉しみであると記している。
一月四日
晴。
二人で勝山まで散歩に行く。バスで帰る。
伊豆の陸が見えて、富士山が腰の上をすっかり
出す。午後光線の具合で円錐状に見ゆる。
これまで見た富士は平たいものだった。珍ら
しく眺める。
長左ヱ門方から赤飯と「らっきょう」を貰ふ。
朝は雑炊、昼は餅、夜は赤飯。
心経一巻書写。本を読み出したが、寝込む。
夜になって寒くなる。いささか退屈。
空には星が一ぱいだが、対岸は暗くて、燈台の
光がお線香の光径にしか光らぬ。
※長左ヱ門・・滴水居の東隣、藤平家の屋号。
一月五日
曇。風吹き寒々。気温六度にて最低な
りし由。
心経書写一巻。
寒くて、風が吹いていまいましき故午后三時
頃から鋸山に登る。山中静かにてまことに
心地よろし。バスで帰る。
夜松山氏を訪ねて、九時半帰る。
今日は城ケ島の燈台の火が見える。
夜半より風甚だ強く、家がギシギシと
いふ。
朝雑炊、昼餅、夜雑炊。うまし。
※城ヶ島・・三浦半島南端にある島。保田、鱚ヶ浦あたりからは東京湾を挟んで、ちょうど対岸にあたる。灯台は明治三年に初灯。明治時代には三浦半島、房総半島の東京湾沿岸は帝都を護る要塞地帯とされ、砲台や海堡が多数造営された。城ケ島には大正時代に砲台が設置された。保田の近くでは、富浦の大房岬や金谷に砲台があった。
一月六日。
晴。
町に買ひ物に行く。
心経書写一巻。
松山氏夫婦を夜食にまねぐ。酒一合半
ばかり、マカロニー、風呂ふき大根、油揚めし。
松山老人曰く。マカロニーといふはマカロ
を煮たものだと思っていたことがあったと、
面白い話。
今日は寒の入りといふことにて、お寺の坊さ
ん豆太鼓を打ちつつ托鉢に出る。
※町に買ひ物・・二〇一〇年に亡くなった女優長岡輝子の著作『父からの贈り物』(一九八四 草思社)にはこのような記述がある。「震災後、私たちは毎年の夏休みを房州の保田と勝山のあいだにある鱚ヶ浦で過した。」「ここには一軒の店もなく、小さな小学校と妙本寺という日蓮宗の大きなお寺のほかは、農業のかたわら、あわびや磯物をとりにいく住民たちがひっそり住む小さな村だったが、少し足をのばせば右手は保田、左手は勝山と、このへんではちょっとした町があったので日常の買い物もそこで間に合った。」
一月七日
今日も晴。
お寺にて謝恩式といふものあり。行ってみたれ
どすぐ帰る。
夕方浜に出て引潮のあとの砂原に六尺四
方大の字を書く。ことの外に愉快。
心経書写一巻及び半。
お正月で軍艦を見ざりしが、今日飛行機編
隊にて通る。
※お寺・・妙本寺のこと。保田にある日蓮宗興門派の大本山。一三三五年(建武二)に開創。鱚ヶ浦から山に向かって参道が続く。滴水居はこの参道沿いに位置する。
明治30年代以降、妙本寺には、早稲田尋常中学校や東京府立第五中学校が臨海学校のために訪れている。早稲田尋常中学校については、「明治三十九年夏早稲田尋常中学校生徒妙本寺に来泊」と鋸南町史にある。府立五中については、同校同窓会「紫友会」によると、大正時代から臨海学校の宿舎として使っており、昭和四年には臨海学校用の宿舎を境内に建てた(現在は同寺が所有)。地元の高齢者には「昔、夏は五中が来て賑やかだった」と振り返る人が多い。鱚ヶ浦の海底は遠浅のため、児童生徒らの遊泳練習には好都合であったのだろう。
一月八日
よく晴れ、無風。
午前心経書写半巻。
午后帰京。
滞留七日。まるで書を読まず。心経書写
六巻。まことによい頭の休養。連日字を
書きつづけると自得することが多い。風呂の
火のたき具合に似ている。
三月十四日
例刻九時半の汽車で来る。初子と二人。
列車二等室も殆んど満員。軍需工業景気の
ような気がする。
午后になって対岸が闇黒な雲になって、其が此方
に押してくる。其が高く上って、相州はうす曇り、海
は暗黒色。やがて雲がすだれの如く條をなして下
る。雨だ。そのうちに降って来て、霰となる。明る
くて、よい風景。一時ばかりと過ぎる。
勇次郎、長左ヱ門、権兵衛外一人、「もち」十四本
を運び来って樹えつける。夕刻までに仕事終
る。県道側の石垣出来ている。
松山老夫婦来訪。
夜、月明。なかなか寒し。飛行機上空を越ぶ。
心経書写半巻。
※初子・・小泉丹博士の妻、小泉初子のこと。旧姓は橋爪初子。明治二十四年十一月七日会津藩士の家に生まれた。父、捨蔵は司法官であった。夫小泉丹も会津藩士の家で父の忠武は司法官だった。橋爪氏の家系には三井物産の関係者が多かったという。
※霰・・あられ
※勇次郎・・大六の網代家(屋号「嘉右ヱ門」)の網代勇次郎氏のこと。昭和十年当時年齢は三十三歳で土建業、鋸山の石業にも従事していた。鱚ヶ浦界隈の、小泉別荘滴水居、茨木別荘悟心庵、吉田別荘、松山邸残月庵などの管理や面倒を見ていた人物。豪傑な風で社交的、地元では一目置かれ頼られていた存在であったという。戦線での功績により昭和十五年四月二十九日に金鵄勲章(功七級)を受章した。工兵として戦線に参加。戦地で土木、井戸等の技術を得て、帰朝後に軽土木の仕事を始めた。
※権兵衛・・妙本寺内の笹生氏、屋号ゴンベエのこと。笹生氏。滴水居の土地の登記簿には、「昭和八年、笹生伊勢松より取得」とある。笹生伊勢松は当時の権兵衛の主人
三月十五日
晴。午前心経半巻
午后一時すぎ、粕谷君和田から来訪。
松山夫婦、余等三人、勇次郎と碁石山に登
る。桜七分咲。林間で茶を飲む。
粕谷君到来の「めじ」を料理して、松山夫妻と会
食。粕谷君九時すぎの汽車にて帰るといっ
て、月明を勝山に帰る。
※粕谷君・・旧和田町の出身の人物か。不詳。昭和十三年五月七日付け日記に「和田浦下車、粕谷君を訪ねる」とある。
※碁石山・・妙本寺東方にある小山。頂上付近の尾根には礫が多く見られ、さざれ石の露頭が散在する。
※めじ・・まぐろの幼魚のこと。めじまぐろのこと。
三月十六日
朝から南風ひどく吹く。時に雨を交える。併し空は
明るい。大きい波が立ち、西から寄せる波頭に南
風が当てて霧のように●び●びる。亀ケ崎の鼻の
波も大きくて愉快。
午后五時から松山家に晩食によばれる。昨日粕谷
君土産の「みじ」の一部を「てんぽろ」といふものにして食
する。
心経書写一巻半。
※●び●びる・・「吹び延びる」と読める。
※みじ・・前日の「めじ」のこと。
※てんぽろ・・天ぷらのことか。但し、七月二十日の日記には「天夫羅」と記している。
三月十七日
晴れ、無風、波大きい。
午后蛍●から、碁石山に登り、横手の谷に
下る。のどがなることこの上もない。松山氏に立寄りて帰る。
夕刻の汽車で帰る。
※蛍●・・「蛍谷」と読める。地名か。
四月二十日
早朝七時三十二分発の列車に乗る。同行、中村、笹
田、山田、松林の四君。
不定、雨、曇の続いた天気が案外に快晴となる。
昼食后、碁石山に行く。蛇屋のおやじ来て居り、
蛇の話に一同大いによろこぶ。蛇四〇頭受取る。
夕食、ねぎまに山田君苦心し、笹田君飯をたく。
九時頃まで、愉快に食事。
十七日の月清く出る。
※松林・・松林久吉氏(まつばやしひさきち一九〇七-一九七八)のこと。医師、寄生虫学者。第七代の慶応義塾大学医学部部長、防衛医科大学校初代校長を歴任した。昭和六年、慶応義塾医学部を卒業し、卒後は、ただちに小泉の主宰する医学部寄生虫学教室に入室した。小泉丹没後は、小泉の主宰した寄生虫学教室と、同じく小泉が理事を務めた寄生虫予防協会などを引き継いだ。追悼文『小泉丹先生の業績』を記している。
※蛇四〇頭・・当時研究していたと思われる蛇の寄生虫の研究材料であろう。
四月二十一日
今日も晴れ、風少し強く、波頭白くて愉快。
山田君と松林君、寄贈の植木を見に勇公と
山に行く。
正午前、初子来る。
午后松山氏を一同にて訪問、お茶一席あり。
夕刻、勇公の蛇のはなし、
夜松山老夫婦来訪。十一時すぎまで放談。
月が清しい。
※寄贈の植木・・六月二十八日に「教室諸君の寄贈植木」とある。小泉の主宰した慶応義塾大学医学部寄生虫学教室の門下生からの寄贈と思われる。
※勇公・・大六・嘉右ヱ門の網代勇次郎氏のこと。昭和十一年六月二十三日付け日記に「勇公の全家で来て草をむしっていた」とある。茨木別荘の主人、茨木二郎氏によると、茨木別荘の庭の松は網代勇次郎がみつくろって植え付けて行ったものであるという。勇次郎は、豪快な人で、まわりから勇さんと慕われていたという。小泉は愛称として勇公と呼んでいたのではないか。
四月二十二日
とてもよい天気。
午前九時半の汽車にて帰京。
六月二十八日
初子朝九時の汽車にて来り。自分は午前学校
の用をかたづけて二時の汽車で来る。五時着。
教室の諸君の寄贈の植木ついている。なんだか
少し散漫の気味、味柑を一本追加するとよいと思
ふ。ポプラ、プラタナス、皆芽をふいている。雑草
まことに勢よし。
日没まで草むしり。
田植がすんだ田で蛙が鳴く。月見草が六分咲
きで美しい。
松山夫婦来訪。九時半帰らる。
※学校・・小泉が医学部教授をつとめた慶応義塾大学のことか。
六月二十九日
晴。風強い。
午前、午后草むしり。
心経書写半巻。
夜九時頃の汽車にて山田君松林君来る。
六月三十日
勝山の手前の家に腫物のある鶏を見に行く。
蛇捕りおやじ来る。
台所手入れ、隣りとの目がくし造りに大工二人
終日働らく。
日曜日なので家さがしの東京客ぼつぼつ来れ
る様子。山中峯太郎夫人、通りかけて立寄る。
夜松山夫人来食。地震の話。
心経書写一巻半。
※大工二人・・網代工務店先代社長の網代孝氏は、取材時に「親の事かもしれない」と話した。
※山中峯太郎・・やまなかみねたろう(一八八五-一九六六)陸軍軍人、小説家、革命家、戦中の子ども向け漫画作者としても知られる。明治四十三年陸軍大学校入学。在学中に中国から留学生として来日した民主革命家らと交流。大正二年、中国の辛亥革命後に袁世凱が行った専制に反対する第二革命に参加、戦線にも立った。陸大は退校となり、大正三年依願免官後、東京朝日新聞社に入社。その後も第三革命にも関与。孫文の信頼も厚く、のちに満州総参謀長にも任命。インド革命を志すボースの面倒もみたことがある。
「中央公論」「東方時論」「新小説」などに評論や読み物、小説を発表。大正六年淡路丸偽電事件の首謀者として逮捕され朝日新聞を退社、下獄。大正八年出獄後、自らの宗教的告白『我れ爾を救ふ』を出版。この頃から「主婦之友」などの婦人雑誌に家庭小説や宗教小説を執筆するようになる。さらに倶楽部雑誌、少年少女雑誌でも活躍。昭和二年講談社から「少年倶楽部」に登場、昭和5年「敵中横断三百里」で人気を博した。(戦後に監督森一生、脚本黒澤明により「日ロ戦争勝利の秘史・敵中横断三百里」として映画化)。『亜細亜の曙』『大東の鉄人』などのシリーズも広く知られた。
山中夫人が滴水居を訪れた理由は定かではないが、「家探しの東京客」とあるので、別荘や住まいを構える意があったのかもしれない。山中氏と鱚ヶ浦をつなぐものを考えると、滴水居の近くに当時あった「結城別荘」が考えられる。結城別荘は、鱚ヶ浦沿岸を南に歩き、亀ヶ﨑をまわったところに当時あった。結城氏とは、福岡の炭鉱の経営者でありながら、玄洋社の主要人物でもあった。玄洋社とは、旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって、一八八一年(明治十四年)に結成したアジア主義を抱く政治団体。結城別荘には、玄洋社の総帥頭山満や、孫文が訪れたという話が鋸南町史に記されている。
七月一日
前風甚だ強かりし様子。
山田、松林君九時の汽車で帰京
心経書写一巻。
夕六時半の汽車で帰京。
七月十九日
葵丸にて来る。
同行、中村、笹田、戸帳、落合、佐野、田辺の六君。
海上曇。潜水艦三船と並航。
草焼き、となりも草焼き、白煙面白い。
夜食、かじきの刺身、あじの吸物(戸張君の板前)
夜笹田君持参のあぶり出の占に興ずる。
明日の用意に握り飯二〇個を作りて焼く。
軍艦サーチライトを照らす。
心経書写一巻
※明日の用意に握り飯二〇個・・翌日は来泊者らとともに鋸山で登山をしている。登山用の食事の準備だろう。
※葵丸・・昭和八年に就航した大型客船葵丸(九三七トン)、東京・大島・下田航路に就航。明治二十二年に設立された東京灣汽船株式會社は、東京湾沿岸諸港を始め、房総、伊豆、伊豆諸島間に船を就航させていた。
※明治期以降に形成された避暑、保養地の発展には、交通手段が大きく関わっている。明治期から東京霊岸島の港と房州の港には館山を終点とした航路があり、保田への主要な交通は汽船だった。鋸南町史には明治十一年には東京と保田を結ぶ汽船が就航していたことが書かれている。明治期に保田について書かれたものには、ジャーナリストの徳富蘇峰(蘆花の兄)の著作『関東探勝記』(昭和三)がある。同書には、明治二十年に保田を訪れたことが記されている。また、明治二十二年には学生だった夏目漱石が友人との房総旅行の際に保田を訪れ、当時の様子を漢詩紀行文『木屑録』に記している。ちなみに保田海岸にはこれを記念して、「房州海水浴発祥の地碑」が建立されている。大正三年に発行された漱石の『こころ』には保田が出てくる。
その後、一九一七年(大正六年)に木更津線(現内房線)浜金谷駅 - 安房勝山駅間の延伸開業にともない保田駅が開業。東京の両国駅から保田までの鉄路が実現した。その三年後、館山の北条駅が開業。房州避暑客にいっそうの大衆化が促された。鉄道開業にともない駅前にも商店街が形成され、地域経済も賑わいを見せていった。大正九年に保田町商工団が結成された。鱚ヶ浦に別荘がた建てられたのも、大正時代に鉄道が開通して以降に増加した。
小泉が教授を勤めた慶応義塾大学医学部は、東京四谷にあった。そこからは汽船の港である霊岸島(現新川)や鉄路の両国駅へはそれぞれ直線でおよそ5キロメートルの距離。保田日記の文面から、小泉らは汽船と汽車を併用して来保していたことがわかる。当時の保田はアクセスの面からも別荘地として適していたと思われる。
七月二十日
朝四時半の目ざましで起床。鋸山登山。
晴れなれども、見晴らしきがず。山上の朝めしうまし。
九時頃帰宅。海岸のはだし帰り、何より心地よし。
小猫戸袋にしめこまれる。少しく珍、
早朝魚売りの婆からいかを買ふ。
海岸も町もまだにぎはずしてよし。
佐野君帰京
がレき焼きの煙、並んで海になびいて見る風情よろし。
心経書写半巻
午后松山老夫妻来訪。天夫羅を貰ふ。骨董売
主の話一席
※滴水居から鋸山頂上までは、保田の街を通って片道およそ五キロメートルの距離。鋸山は三二五メートルの低山だが、起伏に富んだ山道。山頂からは房州の大地と海原、遠く伊豆の大島、天城、富士山、丹沢山系、空気の澄んだ日には南アルプスの白根三山が一望できる。
※がレき焼き・・「瓦礫焼き」か。
七月二十一日
晴天、波高し
山田君来、落合君、中村君帰京
心経書写一巻分
ベランダーで夕食をやる。
七月二十二日
快晴、まことに夏らしい空、海上平らで波至って大きい。
笹田、山田両君帰京
夜庭前で草を焼く、愉快
心経書写一巻分
べランダー夕食よろしい。
戸張君の板前にて毎御馳走あり。
七月二十三日
朝五時起床。風呂の水を樹や月見草に一
杯づつやる。
草をぬいて晩の燃き料を集める。
九時すぎの汽車で初子と六屋と来る。
夕食後戸張、田辺両君帰京
夜に入りて草を燃やす。
七月二十四日
朝、昨日の順序を繰り返してやる。具合よろし。
午前心経半巻、これで四巻目了。
山田君の家族一行到着。
午食后、昼寝していて、放送局からの電報で
起こされる。手紙を書いて郵便局まで行く。
快晴、ジリジリと照る。対岸は曇って見えず。
波静かなり。
七月二十五日
晴、涼し。昨日は東京三一度ありし由。
朝日課昨日通り。
午后潤子来る。六屋帰す。
心経書写一巻半分。
放送局へ原稿後半送る。
中央公論と文芸春秋を買ふ。
寝床で中央公論を見たら、河合栄四郎
氏は夏休みに原稿を三つ四つも書いて置い
て秋になって押し売りをするなどと書いて
ある。
※河合 栄治郎(かわい えいじろう、一八九一 - 一九四四)のことか。社会思想家、経済学者。第二次世界大戦前夜における、著名な自由主義知識人の一人。中央公論などでも筆をふるった。
※潤子・・小泉丹、初子夫妻の三女(大正四年生まれ)のこと。潤子氏このとき二十歳。六年後の昭和十六年には美術史家の澤柳大五郎と結婚した。澤柳大五郎氏は早稲田大学教授、東京教育大学名誉教授をつとめた美術史家で、古代ギリシア美術が専攻だった。著作に『鴎外剳記』(十字屋書店、一九四九)『ギリシアの美術』(岩波新書青版、一九六四)『ヘゲソの鼻』(みすず書房、一九九六)などがある。同氏の父は、文部官僚で東北帝国大学初代総長や京都帝国大学第五代総長などをつとめ、成城学園を創立した教育者の澤柳政太郎(一八六五 - 一九二七)である。
七月二十六日
今日は涼しい。波頗る平らか。対岸は遠近が
ついて見える。朝の仕事平日通り。
午前、文芸春秋の原稿を書く。
心経書写半巻。これで六巻目了。
午后散歩。
随筆を十数葉書く。
夜町に出て、熊手一本買ふ。
お寺の山で梟がホーホーと鳴く。
七月二十七日
晴、
午后四時前の「さざなみ」で帰京
今回滞在中の読書「佐々木氏・人文地理学提要」
八月八日
朝の船で村上、堀田、大田、佐藤君来る。
○時三分の列車で管野君と同車で来る。
快晴。丁度真半の月出る。
雨戸を食卓にして、山田君を加えて夕食。
草を焼く。
八月九日
晴、午前夕立一しきり。
午后ひるね少時。
心経書写一巻(第五〇)
一行松山氏訪問、夜七時半の汽車で帰京。
夜草焼き。
正面の沖で軍艦がしきりに探照燈を光らす
八月十日
終日曇り。時に小さい雨。心地よいが、はっきり
しない心地。
ラマルクの仕事。二章半分やる。
早朝連合艦隊館山から横須賀に行く。昨年ほ
ど壮観でない。
心経書写三分の一巻。
夜山田君来談。雨しょぼしょぼ降る。
※ラマルクの仕事・・ラマルク(一七四四 ‐ 一八二九)は、フランスの生物学者・博物学者。進化論における初期の論者と言われる。主著は『動物哲学』。小泉は、同書の翻訳を2度行っている。最初は、一九二七年(昭和二)に山田吉彦と共訳し、岩波書店より出版した。二度目は、『ラマルク動物哲学・ダーウィン種の起原』のタイトルで、一九三五年(昭和十)に、ダーウィンの『種の起源』の翻訳と合わせて進化学の源流をなすものとして一冊の本にして岩波書店から出版。この日記のラマルクの仕事は、後者の原稿作成の事であろう。
八月十一日
前夜から可なりの雨、午前中降り通す。草木に
まことによい滋雨。モボ・モガに不平の雨ならん。愉快
というべし。
硯水に雨水を採って一瓶分を得たり。
午后小雨なほ降りつづく。
竜島に散歩。
ラマルクの仕事夕方まで四〇葉ばかり終る。
夜に入りて、雨を得たる蛙鳴く。
心経書写うまく行かず。
※モボ・モガ・・大正末期から昭和初期頃に、西洋文化の影響を受けてうまれた日本の若者文化のこと。「モダン・ボーイ」「モダン・ガール」の略。
八月十二日
晴れ。相当照る。
ラマルク第六章をやり終わる。四六葉
月太って出る。草焼き。
今日も蛙なく。
初子午后二時すぎの汽車で帰京。
心経休み。
八月十三日
曇り。
ラマルク第七章夜までかかってやる。四六葉
熙子、あっちゃんと十一時頃の汽車で来る。
午后一時間ばかり昼寝。
曇って月が出ない。
イエノエ著、今岡十一郎氏訳「人文地理の基礎知識」読了。
今岡氏はブタペストでの旧知、訳文はうまい。
※熙子・・小泉丹、初子夫妻の二女(ひろこ・大正元年生まれ)のこと。熙子氏このとき二十三歳。二年後の昭和十二年には、湖沼学者の吉村信吉(一九〇七 - 一九四七)と結婚した。吉村信吉氏は気象技師で中央気象台海洋課陸水掛長をつとめ、実地調査により日本の湖沼や地下水について独自の研究をおこなった。田中阿歌麿によって創始された日本の湖沼学を引き継ぎ、日本の湖沼学を体系化した学者でもあり、日本陸水学会創立の主唱者だった。昭和二十二年の冬に諏訪湖上での調査中に殉職した。主著に『湖沼学』(三省堂、一九三七)がある。
※あっちゃん・・熙子氏のいとこ。
※今岡十一郎・・島根県出身のハンガリー語学者。(一八八八 - 一九七三)。日本におけるウラル語の先駆者と呼ばれ、ハンガリーでは日本文化の紹介者として知られる。小泉は、昭和五年に北アフリカで行われた国際マラリア学会に慶應義塾大学医学部員として出席。学会出席後はロックフェラー財団の客人として東欧視察旅行に赴いた。ハンガリーの首都、ブタペストはこの時に訪れたと思われる。
八月十四日
朝から小雨。
ラマルク原稿終了。
午后三時すぎの「さざなみ」で帰京
※さざなみ・・房総線で運用されていた電車の名前。房総半島の内房・外房線がほぼ現在のように形成されたのは、上総興津〜安房鴨川間が開通した昭和四(一九二九)年四月だった。
昭和初期、現在の内房線と外房線は「房総線」と総称されていた。房総線は昭和八(一九三三)年四月一日に安房鴨川を境に西は房総西線、東は房総東線に改称。その全通時は両国橋(現・両国)を始終着とした房総半島循環列車が運転されていた。
戦前の房総半島では、昭和十年から、夏の海水浴客のため、愛称名付きの「海水浴列車」が運行されていた。代表的なものとしては、房総西線(両国〜安房鴨川区間)経由で安房北条(現館山)駅までの「漣」(さざなみ)。房総東線(両国〜安房鴨川)経由で安房小湊駅迄の「うしほ」があった。「さざなみ」は六往復、「うしほ」は四往復運転された。これらの列車は、日中戦争の時局柄、昭和十五(一九四〇)年に愛称名なし列車に戻った。戦前の房州海水浴の賑わいを象徴する電車である。
八月二十五日
朝七時一分の車にて発、保田を素通りして北条に
下車。省栄バスで富崎村に至る。千葉から同車
の予定の櫛田主事乗車せず、単独。
負債整理組合事務所で、「野原氏」、村長翁と
相談。一汽車遅れて櫛田氏着。
三時四〇分のバスで帰途につく。バシバシして暑苦しく、
波高く、測候所に、赤青の吹流しが出ている。
保田に帰着。震三郎君来ている。
初子とおかっちゃん午前に着し居る。
夕方の時間を草むしり。
かなり疲労しているのですぐ眠る。
中村氏の一家八人夜来訪。山田君も来訪。
※省栄バス・・「省営バス」の誤り。鉄道省が運営するバスのこと。昭和七年には鉄道省運輸局に自動車課が設立。翌八年には鉄道の付帯事業という位置付けだった省営自動車事業は「鉄道に関連する国営自動車事業」と改められ、運営基盤が確立されることとなった。同年一月、北条・千倉駅間において「北倉線」の運行が開始された。小泉が乗ったのはこの北倉線であろう。
※富崎村・・館山市南部に存在した村。一九五四年に館山市に編入した。現在の、相浜・布良地区あたりをいう。
※バシバシ・・ムシムシのことか。
※震三郎君・・不詳。長岡家長女妙子の長男雄二郎の甥に「震太郎」がいるが、別人と思われる。
※測候所・・測候所とは、観測した気象資料の通報や報告をおもな業務とする気象庁管区気象台の下部組織。館山では、戦前から同市南端の富崎地区に富崎測候所のデータを使用していたが、1968年3月末に閉鎖された。現在では市街地長須賀に移転されている。
※おかっちゃん・・小泉家のお手伝さん。新潟の人。
※負債整理組合事務所・・一九三〇年から国内に甚大な経済影響を及ぼした昭和恐慌に対し、政府は農林省の事業として農山漁村経済厚生運動に着手した。一九三三年(昭和八年)には農村負債整理組合法を公布。農村で組合を形成して負債を整理する手法を取った。国内各地では集落単位で負債整理組合が設立され、国庫からの低利融資の受け皿となった。
館山市図書館蔵の『富崎村古文書』(富﨑村古文書保存会)によると、富崎村布良(現館山市富崎)では、昭和九年三月七日に千葉縣安房郡富崎村布良負債整理組合が設立された。布良港は古くから和船によるマグロ延縄漁やブリ網漁等が盛んで部落民の経済は非常に豊かであったが、漁業が機械化されていく時代の流れには、それを実行するだけの資本に乏しかったため、同集落の漁業は衰微の一路を辿っていたという。昭和十年八月二十四日の富崎村長神田信吉から千葉県経済部長宛の報告書には「沿岸漁業の不振と負價ノ低落トハ累年多額ノ負債ヲ生ゼシメ 近時魚家ノ収入ハ生活費ヲ控除セバ負債ノ支払ヲモ満シ得ザルノ苦境ニ陥リ尋常一様ノ手段ヲ以ハコノ重圧ノ軽減ハナシ得ザルノ状態トナレリ。」とある。
小泉が訪れたのは、まちがいなく富﨑村布良地区に設立された同組合の事務所だろう。日記の書かれたのは右記の報告書の翌日であるから、小泉が会談した村長翁とは神田信吉と思われる。また、同報告書には、功労者として組合長、野原肇氏と記されている。日記にある野原氏とはこの人物だろう。千葉からの櫛田主事とは、千葉県経済部の人物だろうか。千葉県立図書館のホームページで調べたところ神田真吉について「富崎村の人。富崎校長、学務委員としての多年の功労に対し文部大臣より表彰をうく。(大正2年)」(千葉県安房郡史六五五頁)という記述があった。
小泉は農林省の事業で新潟の出雲崎の農漁村の生活衛生調査を行ったことがある。小泉が布良でどのような調査を如何なる経緯で行ったかは不明だが、新潟での事業との関連がなかったろうか。保田日記の布良に関する記述は昭和十年十月十日の日記に単独で事務所と役場に行き村長と会談、布良の港などを見て回っている。翌年の二月二十六日の日記には「布良調査の途中一泊」とある。数日間の仕事の間に滴水居に泊まったようである。調査には門下生と、国立公衆衛生院の衛生統計学部初代学部長となる川上理一氏も参加している。
八月二十六日
かなぶんの音で目がさめ、間もなく鶏めの声にな
やまされ、飛び起きて追し、下駄をなげて当ら
す。片方を稲田に落す。
午前、今氏「日本の民家」を読み出し、だいぶ眠る。
藤田の子二人、午前に来たり午後に帰京
夕方までに「日本の民家」読み終わる。
夜草焼き、心地よく燃える。
空よく晴れて星が美しい。
※稲田・・滴水居敷地の海側の隣地は戦前、稲田であったという。(一月四日写真資料を参照)
※今氏・・今 和次郎(こん わじろう、一八八八 - 一九七三)は、東京美術学校卒の民俗学研究者、画家。早稲田大学理工学部建築学科で長く教壇に立ち、日本生活学会会長、日本建築士会会長もつとめた。建築の実作では、雪の里情報館(旧農林省積雪地方農村経済調査所 昭和八年築 山形県新庄市)がある。観察、筆記、スケッチ、写真などで、研究材料を採集し、分析を行なう「考現学」を提唱した。関東大震災で荒れ地となった東京で、今がそこでの 人々の行動を分析し、記録したことが「考現学」の始まりとされる。大震災後には一般人が建てたバラックに装飾をほどこす「バラック装飾社」を興した。画家の中川紀元、神原泰、横山潤之助らと協力し、被災した商店、工場等の修復再建、内装を請け負って前衛的な都市景観の実現を企図したものだった。大正十四年には初の考現学調査「銀座街風俗」を雑誌に発表した。小泉が読書した「日本の民家」は、今が一九一七年から五年間にわたり、北海道から九州までの漁村、農村、郊外の民家を記録したのをまとめた本である。一九二二年、『日本の民家 田園生活者の住家』を刊行した。「民家」という言葉を世に広めた本として知られる。
小泉は随筆で、電車の車内で学生の服装や、街角でのマスクの着用率など社会現象を独自の視点から分析している。これは考現学の活動とどこか共通するところがある。
「考現学」は後の美術界などに影響を与えている。前衛美術家・随筆家・作家の赤瀬川原平(二〇一四年没)、建築家の藤森照信らの「路上観察学会」に引き継がれている。赤瀬川は一九五〇年に岩波書店から「岩波写真文庫 赤瀬川原平セレクション 復刻番版」を発刊した。岩波書店が以前に企画した写真文庫から赤瀬川が選んだものを復刻したもので、このうちの一つに小泉が監修した「蛔虫」がある。
八月二十七日
晴、波高い。
松崎、青木、小方、藤瀬、千葉、五君来る。一同泊る。
おかっちやん船で帰京。
八月二十八日
晴。前日の一行六人、午前中に帰る。
田宮、余吾、神岡、井上(太)、松島及び子供の一行来る。
井上君泊り、他は夕刻帰る。
草焼き。
小川氏「人文地理学研究」読み了る。
八月二十九日
昨夜は少し雨が降ったらしい。少し風があって、波が白
く、対岸は見えない。パラパラと時々降りて来る。
井上君、震ちゃんと子供二人が十時四〇分の列車で帰
るといってたつ。その頃から風がひどく吹き出して来
た。浜の脱衣所の小屋掛が一息に吹き飛んで、ぐしゃ
となる。定期船も来ない。
正午まで風はひどく吹きつのる。雨がザアと来る。痛
快、井戸ばたの樵木までが跳び上る。唐もろこしたち
まち根倒し。午后に入りて風雨ますます荒れ、海面は一町
位しか見えず。壮快この上なし。
松山老、みの、跣足、頬かぶり、塩鮭をもって見舞に来らる。
夕刻に近づいて雨はやみ、風も衰へ、入日が円く照り、珍らし
く、雲の横切れに富山上が六合目以上位黒く出る。
夕刊を持って来ず。電燈しきりに明滅。
文芸春秋の原稿書き上げる。
※井上君、震ちゃんと、子ども二人・・ここにいう「震ちゃん」は八月二十五日にある「震三郎君」と同一人物か。仮に、長岡家長女・妙子の子「震太郎」だとしたら、小泉博士と長岡家との交友関係が深かったことになる。なお、妙子の夫、井上鳳吉は戦後三菱事務機販売会社社長に就任、昭和四十二年勲三等瑞宝章受章。井上一家、長岡家に一時身を寄せている。
※浜の脱衣所の小屋掛・・海水浴客のために砂浜に建てた小屋で脱衣所・休憩所として使用された。大正時代、房総半島に避暑客や海水浴客が大勢訪れるようになると、保田町では、他町村に先駆けて海水浴場に脱衣場や休憩所を設けたという。また、昭和初期の不況において、保田町は観光産業に力を入れた。避暑避冬客の誘致や、別荘保有者に対して他町村よりも税金を安くするなどの策を講じた。
※樵・・「きこり」「たきぎ」。薪のことだろう。
※みの・・蓑のことか。蓑は藁等を編んで作った体を覆う雨具。
※跣足・・「せんそく」。素足のこと。
※文芸春秋・・『文藝春秋』は、株式会社文藝春秋が発行する月刊雑誌(総合誌)。国立国会図書館のデジタルコレクションには、昭和十四年九月に発行された同誌(十七巻十七号)の目次があり、『マラリア餘談』の題で著者に小泉丹という名が確認できる。
八月三十日
快晴。波も至って静か。
午前、富士が腰から上を表らはし、天城も見える。
松山氏を訪ね、少しばかり林の奥をみる。
八月三十一日
小雨が降っているが空は明るくて、よい心地
午前から風呂を立てて、読書したり、横になったり。
小田内氏の「郷土研究」、「集落地理論文集」佐々木
氏「村の人文地理」等、今日までに必要な部分を
読み了る。
夜山田君来談
※小田内氏・・小田内通敏(一八七五‐一九五四、おだうちみちとし)大正、昭和時代の地理学者。早大や慶大などで教えるかたわら、大正十五年に『人文地理』を発刊。昭和五年、文部省嘱託となり郷土教育連盟を創立。郷土地理研究と郷土教育運動につくした。戦後は国立(くにたち)音大教授。昭和二十九年死去。主著は『郷土地理研究』『日本郷土学』など。
※佐々木氏・・佐々木彦一郎(一九〇一‐一九三六、ささきひこいちろう)村落地理学者。柳田国男の下で民俗学を学び、早くから生活や文化への関心を示した。代表作に『村の人文地理』(一九三三)がある。
九月一日
小雨が降って、ドンヨリ雲って、少し寒い位、
夕刻の汽車で帰京
十月十日
朝八時七分の汽車で初子とたつ。
初子は保田で下車、北条まで行く。
ハイアーで富崎に行く。暖くて気持が悪い位。
海がひどく静かである。
事務所で用談をすまし、漁家を見廻はり、村を
見物する。築港がよく出来ている。望楼の見え
るところまで行き、郷社に参る。七十八才の村長頗る
る元気、性質よろしく、多少の学儀もあるらしく、珍
らしい気持のよい人物。事務所で用をかたづけ
て役場に再び村長さんを訪ね、小学校に行き、バス
を待ち合はせて帰途につく。
勝山で下車、バスが無くて歩いて来る。
十三日の月がよく出る。松山両老来談。皆で海
岸に出る。男女二人で小さい地曳あみをあげてい
る。ごんずい、黒鯛の子、海老など入っている。夜光
虫が少しばかり光っている。平和な光景。早く寝る。
「いそひよ」が家のまわりを飛び遊びあそぶ。
※望楼・・物見やぐらのこと。
※いそひよ・・イソヒヨドリ(磯鵯)。
十月十一日
予想に反して雨。
晴れ間に草を焼く。気持よく燃え出したが、雨で
消える。
朝から風呂をわかして入る。
ぶりき屋が来て雨樋を修復する。
ダーウィンの原稿四十七枚書く。残り少ない。
夜に入ってシトシトと降っている。それでも月の光が
あるらしく海から空まで一つづきに牛乳のように白い。
たいした霧でもないらしいのに
剱ケ崎の燈台が光らない。
雨もなかなか落ちついてよろしい。と思ふ。
※ダーウィン・・小泉の訳著に、『ラマルク動物哲学・ダーウヰン種の起原』がある。昭和十年十二月五日に岩波書店から発行された。日記にあるダーウィンの原稿とは、この本の事と思われる。
小泉は、進化学の重要書として『動物哲学』と『種の起源』を併せて一つの本として作った。進化学においてダーウィンの『種の起源』が一般に流布しているなかで、それより五十年前に書かれたラマルクの『動物哲学』を進化学の創生期の重要書に、また、『種の起源』をその再興期の重要書として定義し、進化学の歴史の流れに一連の意味を見出だし、提示したものである。
※剱ケ崎・・三浦市剱崎のこと。東京湾を挟んでちょうど保田の対岸にあたる。
十月十二日
晴、暖かい。
午后初子と勇公を案内にして大六廻はり、神
社に行き、味柑の木などを見る。百舌がないている。
旧十五日の月がよく出る。
夜松山氏を訪ねる。「かさご」「せいご」の焼いたので
ビールを少し飲む。
海上月明かりが美しい。大きい火をたいて漁をし
ている舟が二つある。
※勇公・・昭和十年三月十四日にある網代勇次郎のこと
※百舌・・野鳥のもず
※せいご・・スズキ(鱸)の幼魚名。
十月十三日
今日はまた馬鹿にあたたかい。ふんどし一つで草む
しりをする。雑草の勢はすごいもんだ。此と抗
争するのは少なからず興味がある。
今はお会式だ。うす屋の前に店が二、三軒出る。柿
の店を出したので、早速行って買ってきて食ってみ
たらまずかった。お寺へ行ってみたが、人が一人もいない。
午后三時御開扉とある。
朝、うらとうす屋から赤飯をもらう。昼食にまた
寿司をもらふ。
ダーウィンの原稿仕上げる。
午后四時すぎの汽車で帰京。
※お会式・・日蓮聖人の御命日法要。旧暦十月十三日。現在は新暦十一月十三日。
一月二日
午前九時五四分の汽車で来る。
東京は前夜から雨であったが、朝は殆んどやんで
居た。汚ない二等車が満員に近い。パス乗りが多
いのは此方は迷惑の気持。
鋸山まで小雨。保田は曇。
八日頃の月。星はないが、空は明るい。月光で大
き草をむしる。(月夜に草をぬく)。海は銀色に
空に連なる。
久しぶりの心経書写始める。
夜勇公来り、図満江岸の話をして、夜明
になべづるの群が降りた話などする。
※パス乗り・・不正乗車の一種と思われる。切符の乗車範囲を通過「パス」した行為か。
※図満江岸・・朝鮮北方の中国との国境・豆満江岸のことか。
※なべづる・・鶴の一種。中国東北部、ロシア東南部、モンゴル北西部などで繁殖し冬季になると日本、朝鮮半島南部、長江下流域へ南下し越冬する。世界の生息数はおよそ一万羽と推定されており全体の九割が鹿児島県出水市で冬を越すという。
一月三日
朝曇り、やがて快晴。海平らかで、富士、
天城までかなりよく出る。
午后になって風強く出て、海面白波が立ち
満つる。それでも陽光はテカテカと照る。
心経一巻午后四時頃までに終る。
草をむしる。植木の枯枝を切る。風呂を
たく。
松山老夫婦夜来談。
風ますます強く、月は冴えて明るい。
一月四日
快晴
午前、勇公と味柑の木を見に行く。午后八ツ手
の木を見に行く。
富士が裾まで見え、天城から大島がよく見
える。海には余波がある。
心経書写一巻。
夜空気まことにみす、城ケ島の燈台の外に遥
かに沖の方に一つ燈台が光る。此を見たのは今
夜が始めて。
正月のため、軍艦も飛行船も来ない。
※みす・・「澄み」か。
一月五日
快晴。
対岸は曇って見えぬ。
午前、勇公と味柑の木の婆と来り、一幕
あり、更に来って第二幕。円満に幕下る。
心経三巻目終り、風呂に入り、夕刻から
松山氏に行き、夕食をよばれて六時の
汽車で帰京。
二月二十六日
布良調査の途中一泊。
午前九時五四分発。中村、太田、落合三君同行。それ
に川上理一君をさそう。
一昨日だいぶ降ったのに、今日もまた彩雪。
午後一時半に着、夜に至るまで霏々として降る。
珍しい保田の雪景色。
七時頃空からりと晴れて、四日月美しく海面に幅く
うつる。雪の数多い。やがてまた曇る。
※布良調査・・八月二五日の日記にある富崎村での農村負債整理組合に関連した調査活動と思われる。(詳しくは八月二五日へ)ちなみに画家の青木繁は明治三七年、東京美術学校を卒業したのち夏に館山の富﨑村、布良に滞在。名画『海の幸』を描いた。
※川上理一・・かわかみりいち(一八九五 - 一九八二)、厚生科學研究所教授。医学博士。国立公衆衛生院の衛生統計学部初代学部長。遺伝学や優生学に関する著書がある。昭和十六年には、人口問題研究会 の『人口問題資料. 第四六輯 東北人口』に「青森縣の出生率に就いて」の題で論文を寄せている。国立公衆衛生院は、日本の公衆衛生の向上を目的とした調査研究機関。(二〇〇二年(平成十四年)に改組・廃止)公衆衛生院の建物および設備は、アメリカ・ロックフェラー財団から日本政府へ寄贈された。
※彩雪・・彩は「いろどる、美しい」の意。
※霏々・・雨や雪がしきりに降る様。
※幅く・・「はばく」。広くの意。
二月二十七日
晴。勇公来り。ラジオのニュースなりとて東京大事
件を伝へる。昨朝、四谷署出入の者の話あいにて
耳にしたが、半信半疑で来たのであった。今朝の
新聞は来らず、差止められたものか、などと話しあ
ふ。
川上君九時半の汽車で帰京。一行は十一時の汽
車で北条に向ふ。
停車場にて号外を買って、実相第一報を見る。
※東京大事件・・二、二六事件の事。昭和十一年二月二十六日から二十九日にかけておきたクーデター、反乱未遂事件。「昭和維新・尊皇討奸」を掲げた陸軍皇道派の青年将校らが率いる約千五百人の反乱部隊が、岡田内閣総理大臣ほか内閣の有力政治家や高級官僚たちの邸宅を襲撃した。高橋是清(これきよ)蔵相、斎藤実(まこと)内大臣らが殺害された。反乱部隊は陸軍省、参謀本部、警視庁などを占拠、永田町周辺を封鎖した。小泉の職場、慶応義塾医学部のある四谷と永田町は直線にして二キロと無い。
三月二十七日
朝八時七分両国発で初子と同道。
晴れてあたたか。房州の村は既に春が来ている。
そらまめが花が咲き、蔓は延び、ほうれんそうが育
っている。越後の村の雪に埋もれた風情を思
ふ。
午后、原稿書き。初子、松山老と「つくし」をつむ。
勇公と長左ヱ門が「やつで」を運んで来て庭前
に植える。「つきみそう」の種子が散って一面に芽生えているの
で、草をむしる。「つきみそう」畠にするつもり。
潮がひく。四日月が出る。
松山老夫婦夜来談。
※越後の村の雪に埋もれた風情を思ふ。・・小泉は昭和四年と昭和十年に新潟県出雲崎の漁村と魚沼地方の農村で保健衛生調査(寄生虫の罹患状況や地域の衛生状態など)に取組んだ。また、越後での情景や風物については、随筆『視界』の「雪に埋もれる農村」で記している。
※つきみそう・・敷地に月見草が茂るのを喜んだことを、随筆の『視界』(一八八頁)に記している。
三月二十八日
晴、無風、暖。
午前に原稿書上げ。
味柑三本、もち一本(震三郎君分)移植、
「つきみそう」 手入れ夕刻まで。
五・六日頃の月美しく出る。
三月二十九日
晴、午后になって風出る。
ユッカの移植、味柑の風よけ。
草むしり。
松山氏で夕食をよばれて、六時の汽車で帰る。
六月二十三日
初子と来る。午前八時七分の列車。
汽車の唯乗りの多いのが、この房総線で目立つ。
今日の客は、賃払い八人(四組)、背広無賃一夫婦、
制服無賃四人。今日は少ない方。
勇公の全家で来て草をむしっていた。蜜柑の根を
積み込み、一隅には高さ三尺の山。
すぐ草むしり、二時昼食。
月見草が一部大きくなって既に盛んに咲いている。傍
枝の沢山出るのと少しも出ない一本のとがある。品種
の差ではあるまいか。まだ小さいのが沢山ある。中間の
株がない。この理如何。
昼のうち風可なり強い。波の音が高い。雲の切れ
目に富士の頂きがのぞく。
臼屋の田植えはすんでいる。汽車の沿道では、田植
をしていた。蔓はみんな刈って積んである。二毛田は
田植が一毛田よりも遅れるわけか。
夜に入って蛙が鳴く、よろしい。五日ばかりの月。
心経書写半巻。
寝床で、寒山詩を読む。
※汽車の唯乗り・・無賃乗車の事。
※この理如何・・別荘の庭に茂る月見草を観察し、その植生について吟味している。理系研究者らしい観点があらわれている。
※寒山詩・・中国、唐代の詩作品。三一〇首。七~八世紀頃寒山(寒山拾得)の作。
六月二十四日
晴、時にパラパラと来る。
昨日高い音を立てていた海は、今日は無音。
草むしり。焼きたいのだが、うまく焼けぬ。
午后松山老夫人来談。
心経一巻半書写。
夜松山氏訪問。
空一杯のうす雲。月が一寸顔を出したばかり。
妙本寺の山でふくろが鳴く。
六月二十五日
快晴、陽光きびしく照る。
午前草むしり、書経。
午后草焼き、書経。
夕刻、木の枝切り。
月がだいぶ太って、夜は明るい。
昨日、一昨日見えなかった軍艦は今は一挙に出て
来た。駆追が先づ八隻、次で戦艦が一つ、巡洋等三。
夜松山夫妻来談。
夜半に起きて見たら、よい月夜で、四方に蛙の声が
一面、蛙の声のなかに寝ているような風景。
心経書写一巻弱。
八雲全集を読む。
※八雲・・小泉 八雲(こいずみ やくも、一八五〇-一九〇四)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。出生名はラフカディオ・ハーン。イザベラ・バード、アーネスト・フェノロサ、ブルーノ・タウトらとならんで著名な日本文化紹介者の一人といわれる。八雲は何事も日本風を好んだ人物だったという。
一八九六年(明治二九年)に日本国籍を取得して小泉八雲と名乗った。一時期島根県の松江市に在住した。当時の旧居は国の史跡、記念館として今も広く知られている。主著は一九〇四年出版の怪奇文学作品集『怪談』。八雲の妻である節子から聞いた日本各地の伝説、幽霊話などを再話し、独自の解釈を加えて情緒豊かな文学作品としてよみがえらせた。滴水居には現在も『小泉八雲全集』が残っている。小泉丹は、随筆で妖怪や怪談の類についても触れている。特に『科学的教養』『河童随筆』には伝承をもとに動物学的な観点から河童について吟味している。
ちなみに滴水居の北側、太鼓打場下の海岸に伝わる土地の妖怪「相撲とるべえ」というのがある。このことについては別冊『保養地保田 きすがうら事典』に記した。
六月二十六日
晴れていて時に突か雨が降る。
心経の第三巻目残り書上げ。
木の枝切り。
夕食を松山氏でよばれて帰京
七月二十三日
晴
船で来る。笹田、青木(大)、落合三君同道。
十時少し過ぎ着。
畳ほし、夜具ほし、掃除。
夜の料理
オムレツ。トマト。グリンピース添え(笹)
大あじ塩焼、大根下し添え
きうりもみ(青)
月見草の発育思はしからず。夕方大いに
水をやる。
七月二十四日
風強し。昨日あたり、九州颱風。(今朝は東京
大風雨であった由)。
朝五時起床。草木に水をやる。
十一時頃、中食して青木君帰途につく。
午后三時おやつ、おにぎりまことにうまい。
長左ヱ門がお赤飯を呉れる。
夜食。ひじきのさしみ(笹)
なす、じゃがいもの煮もの、トマト、寒天ゼリ(笹)
松山氏二人、食事の時に来訪。十時帰る。
夕方草木に水をやる。
心経書写一巻。
七月二十五日
晴。
今朝も草木に水をやる。
草焼き。
落合君うなぎをとる。
松崎、池田、小方君来る。一時すぎの汽車で落合
君帰る。午后四時の船で笹田君帰京。
岩波書店から、「温泉の物理」贈らる。
朝から山城の峯が見え、夕方から箱根まではっきりと
見えて、夜に入って航空燈台がよく光る。
七日の月が沈むところが凄かった。
心経半巻。
夕刻日没まで月見草の手入れ、水かけ。
※温泉の物理・・昭和十一年に岩波書店から出版された書籍。地球地理学者・福富孝治(一九〇八 - 一九九七)の著作。福富は、大分県出身、東京帝大理学部地震学科卒、北海道帝国大学理学部教授。日本温泉科学会会長などをつとめた。
※山城の峯・・山城とは、山の地形を利用して築かれた城郭のこと。文面から判断して、三浦半島の山容の事か。
※航空燈台・・目視で航路を決定する「有視飛行」が主流の頃、夜間の定期航空(郵便物等の運搬)のために設置されていた灯台。飛行コース(東京~大阪~福岡)に沿って立てられ、夜間の飛行の安全のために活躍した。第一期の航空灯台は、昭和七年十月から昭和八年の間に整備され、昭和八年から、東京~岡山間で点灯された。滴水居から見えていたものは、地理的、文面から考えて「箱根航空燈台」だろう。この灯台は昭和七年に箱根の十国峠に建造され運用されたが、終戦直後に伊豆の達磨山に移設され、その後、使われなくなった。
航空燈台は、戦後、無線飛行が主役になった結果、昭和四十三年に航空灯台は廃止が決まり、消灯され、昭和四十四年にかけて撤去された。
七月二十六日
だいぶ暑い。早朝水かけ例日の如し。
永山、堀田両君船で来り、午后戸張君来る。
小方君夕刻帰る。
宅から郵便物転送し来る。岩波文庫検印
一千五百ケ。
茂平来り日除の仕事にかかる。
夜花火をあげてさわぐ。
心経四分の一巻。
※岩波文庫検印・・書籍の奥付に著者が発行部数を検するために押す印。印税を計算するうえでの基準数となっていたため以前の出版業界では一般的に行われていたが、事務の電子化や在庫管理が高度化して行き、廃止となった。一五〇〇もの印を押すのはかなりの手間であったろう。小泉の著作を見ると、「丹」と書かれた印が数種使われている。
※茂平・・滴水居と松山吟松庵邸・陸舟庵の間にある川崎家の屋号。茂平の川崎佐和氏は、東京、芝の松山亥三雄(松山吟松庵の息子)の家に女中に行っていた。また、滴水居の斜向かいの笹生家(屋号「臼屋」)の娘は川崎佐和氏と同級生で、松山吟松庵の娘の夫、三輪六郎宅(芝で骨董屋をやっていた)に女中に行っていた。お互いに御遣いで行き来していたという。
七月二十七日
快晴。暑い。
中央公論の校正転送し来る。仕上げて返送。
神岡、青木(忠)二君船にて来。佐藤君不来。
松崎、池田、堀田君午前帰去。
茂平、勘七の子、日除けの仕事。
岩波に検印送る。下駄など買いもの。
夕食に校長さんをよぶ。九時まで話す。
神岡君八時すぎの汽車で帰る。
※勘七・・滴水居から近くにある大六の家。名字は網代。屋号は勘七。
※校長さん・・吉浜小学校長、和田憲一校長。昭和十年四月から昭和十三年三月まで赴任。吉浜小は保田の吉浜に存在した小学校で、昭和四三年に保田小に統合するまでの九三年間、地域の学び舎であった。卒業生総数は一八〇八人。明治七年に吉浜尋常小学校として開校。昭和二二年に吉浜小学校と改称。開校時、校舎は妙本寺を借り受け、明治十六年に同寺境内に校舎(通称「上の校舎」)を新築。昭和二五年には、鱚ヶ浦海岸沿いの土地に校舎(「下の校舎」)を構えた。二つの校舎は鱚ヶ浦から妙本寺にむかう参道沿いにあり、小泉丹別荘「滴水居」は二つの校舎に挟まれた位置である。現在、上の校舎跡地は妙本寺の駐車場となり、「吉浜小学校跡地」の記念碑がある。
七月二十八日
快晴。今日一番暑い心持。
金子、井上(太)君船で来り、佐藤君汽車で来る。
戸張君午后帰り、青木君泊る。
茂平等の日除け日没後に仕上る。結果よき故、延
長を命ずる。
明日のための握飯焼き。
心経四分の一巻。これにてやっと二巻目了。
※明日のための握飯焼き・・翌日の鋸山登山のための準備だろう。一年前の昭和十年七月十九日にも握り飯を作っている。小泉一門の恒例行事であったのだろう。
七月二十九日
快晴。暑し。
四時半にめざましをかけて置いて起きる。それでも
出発は五時半頃になる。万歳を起こして、山下
まで自動車。頂上は深い霧で、何も見えず。そ
のうちに付近が見える。下山して浜に出て、保田ま
で波際を歩む。町から自動車で帰宅。
中村、上野、千葉君来る。
佐藤、井上、青木君帰る。
夜に入りて空まことによく晴れて、月が清い。
夜中にとても暑かったような心地。
初子から手紙。
岩波から挿図小包到着。
東京から持って来て貰った手紙のうちに田中君
のものがある。藤巻健次発●の報告。
七月三十日
「生物学顧望」原稿書留小包で発送。
太田、重浦、武石君船で来る。
夜食後上野、千葉君帰る。
心経書写三分の一巻。
今日も月が清い。砂上で話す。
朝蛇屋のおやじ来る。「やま」四五匹。青の馬鹿
に大きいのを二匹持ち来る。
茂平日陰の追加の仕事に一日かかる。出来上
がり。
※やま・・蛇の「ヤマカガシ」のことか。
※青・・蛇の「アオダイショウ」の事と思われる。
七月三十一日
晴。昨日、一昨日よりは涼し。早朝一同で太鼓打山に登る。
初子、ロクを連れて来る。
夕刻四人帰り、教室の予定終わる。
心経書写三分の一巻。
日没から月明に月見草には雀蛾が来る。朝には
蜂が来る。
八月一日
晴。
連日対岸が見えなかったが、今日は少し見える。
茄子畠の草とり、水かけ。
夜九時前の列車で潤子来る。
心経三分の一巻。これで三巻目了。
八月二日
日曜。南西の風強く、波頭白く、壮快。
今日は年中の書入れ日、来遊者頂上の予定日だと
いふ。定期の船の外に三船も来る盛況。風波のた
め亀島に上陸させる。上陸終りが一時半。家の内
ひどくざわつく。
最後の船で章次君来る。八時すぎの汽車で帰る。
※来遊者頂上・・「来遊客はこの日がもっとも多い」の意か。鋸南町史によると、保田町では大正十一年から毎年八月十日の朝に滞在者数を調査していたとある。調査初年は一六四七人、震災後の同十五年は三九六三人、昭和六年は五二六六人、昭和十年は六六三九人と、右肩上がりの数値となった。この日記の八日後、昭和十一年の数値は六九四六人で最多を記録した。ちなみに当時の保田町の人口は約五六三八人(昭和三年の数値)ほどだった。しかし、翌年の昭和十二年に日中戦争が起こった事で避暑客は減少し始めていったようである。小泉の日記は戦前避暑客のピークの様子を伝える記述といえるだろう。
昭和八年の東京を中心とした主要避暑地での滞在数は、鎌倉が一一九三六人、箱根が三三九〇人、軽井沢が七四九三人、藤沢が五四〇二人、熱海が三一八七人などとあり、房州では、鴨川が二〇〇二人、勝浦が四一六七人、富浦が五三二三人、北条が四七六〇人、勝山が二八五四人とある。当時保田は房州で最も賑わい、首都圏の避暑地観光地の中でも認知度が高かったと考えられる。
※亀島・・現在真珠島と呼ばれている字「亀ケ崎」先端の島状の部分。真珠島は、戦後勝山を中心に水族館や遊園地を展開した事業「勝山自然公園」の一環として、真珠の養殖や海女による実演などが行われていた時の呼び名。
八月三日
久しぶりに曇り、ぬか雨も時に降る。
夕刻六時すぎの汽車で帰京
※ぬか雨 ・・こぬかあめ。霧雨のこと。
八月二十五日
早朝発汽船で来る。松林、西垣、坂元、余吾、武石君
同道。
観音崎砲台が射撃をしていた。
潤子と熙子夕刻帰る。
余吾君、坂元、武石君終列車で帰る。
※観音崎砲台・・神奈川県の観音崎にあった砲台の事。観音崎は千葉県の富津岬とともに東京湾を塞ぐように海につき出しており、その地形から明治時代には帝都東京を守る東京湾要塞のひとつとして、 日本軍により砲台が築かれた。現在は観音崎公園として開放されている。
※潤子と熙子・・小泉丹の娘二人、二女の熙子氏(このとき二十四歳)と、三女の潤子氏(このとき二十一歳)のこと。当時二人は鱚ヶ浦で遠泳や釣りをして、夏の保田でのひと時を楽しんでいたという。
八月二十六日
岩波から校正刷来る。
船で笹田君、汽車で山田君来る。
植田氏来る。雑誌の件。夕方帰る。
山田君終列車で帰る。
夜に入りて雲が出て、後ザアザアと降る。
松林、西垣君船で帰る。
校正終日。二台分。
※岩波から校正刷来る・・『生物学巡礼』(岩波書店、昭和十一年十月二五日初版)の校正こと。
小泉は国際連盟保健部委員や慶應義塾大学医学部代表として、アジアやヨーロッパなど海外での会議や視察に数多く赴いた。小泉は仕事の予定の間に生物学ゆかりの地を巡った。同書は、各地での見聞や、解説が記された著作。序文には「昭和十一年九月一日 保田 滴水居にて 著者」と記されている。
八月二十七日
朝降っていたが、後晴れ。
笹田君船で帰る。
終日校正。二台分で終り。新校正来らず。
富士に珍らしい雲がかかり、夕刻姿をあらわす。
涼しい。
大砲射撃の演習、●岸前の沖合に落ち
て水煙を上げる。
※●・・対岸か
八月二十八日
晴、風頗る強く、終日夜半まで吹く。
(東京は頗る暑く三三・九度ありし由)
校正来る。郵便局に行っ
て返送。残りの分校正終る
八月二十九日
晴、風吹く。
校正来る。郵便局に行き一封返送。今日の
分夕方までに校了。
軍艦煙幕の演習をしている。
大砲の演習今日は大きいものをやるらしく、家
にひびく。
月は雲飛ぶ。草を焼く。
八月三十日
晴、風少なし。
校正来る。
索引の仕事始める。
川上理一君来る。
夜月頗る美し。草を焼く。
※川上理一君・・二月二六日の日記を参照。
八月三十一日
風なく、暑い。
川上君早朝鋸山に行く。船で帰る。
校正来。校正了。索引を作る。
群馬から半田老、須藤町長自動車で来る。
何と今年は変った来客のあることぞ。
今夕は満月。但し更けて雲が出る。
茂平台所の仕事を始める。
ここ数日中にお葬式が三つ妙本寺に来た。
多いような心地がする。
九月一日
晴。校正来。
午后群馬の松本氏来。泊る。
九月二日
晴。
校正来。全部校閲して、返送
松本氏帰る。
九月三日
晴。風なし。白いもやが対岸にかかる。
朝十時頃電報群馬から来る。
返電を発する。
萩原氏留守中に見えた由。
十二時すぎ、お寺の茶がまづいといって、食后の茶を
のみに帰宅。夕食后更に茶をのみに来。七時
四〇分から練習に行き、九時に学生数名をつれて
三度来。西瓜を切る。
索引の仕事、出来るだけの分量完了。
※萩原氏・・昭和十三年九月五日の日記に出てくる「音楽学校の萩原教授」か。
九月四日
晴。
夕刻帰京。
十一月十一日
初子が七日から来ていた。
農林省のごたごた(●●の件など)、科学ペンの原稿
たのみなど、うるさくて逃避したかったのだが、仕事
があったので駄目。九日・十日の両日、朝起きをして
仕事を進め、十日の夜は村井奨学寮で話を
して約束をはたし、今日早起きして、午前中に
仕事を片づけ、農村調査の報告を三つ今
月発表するようにして印刷に渡し、午後二時
二八分の汽車で来た。
東京はここ連日曇って寒く、今日は小雨で一
層寒い。夕方から房州は荒空。保田では横
しぶき。夜に入って晴れたらしく、北斗七星が光っ
て見えた。
※●●・・「勇市」と読める
※科学ペン・・一九三六年から一九四一年まで三省堂から発行された科学雑誌のこと。
※村井奨学寮・・キリスト教団体「救世軍」が運営した学生寮。昭和四年に開寮。
村井とは、明治、昭和時代前期の実業家。村井保個のこと。愛媛出身、慶應義塾に学んだ。福沢諭吉の推薦で貿易商社森村組にはいり、ニューヨーク支店に勤務。明治三七年森村市左衛門、大倉孫兵衛らと日本陶器(現ノリタケ)を設立。陶磁器食器の製造と輸出につとめる。育英・社会事業にもつくした。貧しい学生らのために育英制度や寄宿寮「村井奨学寮」をつくった。村井は救世軍の応援者であったという。小泉自身も高校時代から貸費生で寮生活をしながら学んだ経験を持つ。
※農村調査・・小泉は昭和十年から農村地域における保健や衛生についての調査を行っている。昭和十一年には「農村及ビ其生活ノ調査及ビ考察」を発表している。
十一月十二日
昨夜は風がだいぶ吹いた。
夜半だか、夜明か知らないが、要塞の巨砲の練習が、ド
ドン、ドドンと響く。
今日は朝から晴、快晴になって照って来る。襌一つで風
呂をたく。
海岸の岩に「かいづ」釣の連中が沢山。
朝草むしりをしていると村の子供がうようよ来て
相手になる。先生の家の児の初ちゃんというのが
いる。
日没時に天城がよく見える。よい山に見える。
戦艦二つ出て来て、練習をやる。ゴースタンで
速力を出したりして珍らしい。いろいろの軍艦が来た。
※要塞の巨砲の練習が、ドドン、ドドンと響く・・観音崎砲台の大砲射撃訓練と思われる。小泉は昭和十一年八月二十五日の日記で「観音崎砲台が射撃をしていた」と記しており、その後も連日大砲演習などが行われたと記している。二十九日には「大砲の演習今日は大きいものをやるらしく、家にひびく」とある。観音崎以外に考えられるのは、南房総市の大房岬要塞の砲台だろう。(保田の南方約十キロ)。大房岬の砲台は、昭和七年に竣工している。
要塞とは東京湾要塞(とうきょうわんようさい)のこと。東京湾周辺の防衛を目的に設置された要塞、軍事施設の集合体のこと。砲台及や海堡等の建築物を東京湾要塞司令部が管理をした。明治時代に建設が始まり、逐次設備を増やしつつ、太平洋戦争(大東亜戦争)の終了時まで運用された。大日本帝国帝都東京を脅かす海からの攻撃に備えるため、明治政府によって一八八四年より建造が開始された。当初は中国やロシア太平洋艦隊の来攻を想定した施設だった。主要な設備は、千葉県館山市の洲崎から富津市の富津岬にかけての沿岸と、浦賀水道を囲む形で神奈川県三浦市の城ヶ島から横須賀市の夏島にかけての沿岸に建造された沿岸砲台(観音崎砲台など)、三つの海堡(かいほう)からなる。昭和時代には、沿岸砲台には軍縮によって余剰となった艦砲が海軍から移管・設置され、東京湾の湾口部全体を射程に納めることとなった。これにより東京湾要塞は沿岸砲台の射線を第一線、海堡と横須賀近辺の射線を第二線とし、二段構えで湾内に侵攻する敵艦隊の撃破が可能となった。
※襌・・「ふんどし」のこと。
※かいづ・・黒鯛の呼称。
※先生・・不詳。吉浜小学校の教師のことか。
※ゴースタン・・(船の)前進・後進をゴーヘイ・ゴースタンという。
十一月十三日
昨夜は八時前に寝てしまう。
朝、うす暗いうちに目がさめた。起きたら馬鹿に目
がまわる。始めてのことで一寸面くらう、も一度ね
て起きてもまだ変である。初子と二人で散歩
に出て帰って朝食をする。少しよいようだが、
ねる。起きて、心経を始める。十一時半頃松
山氏を訪ねて一時間ばかりで帰る。「陸放翁
詩鈔」を借りて来る。
午后、木の枝切り、心経。夕刻までに頭の具
合快恢。
夕食に校長さんをよび、十時頃に帰る。
心経一巻大部分。
午后風吹き、海荒れて愉快。
※陸放翁詩鈔・・「リクホウオウシショウ」。享和元年(一八〇一)に刊行された。この書は中国の清王朝時代の書物「宋四名家詩鈔」のひとつ。
十一月十四日
快晴。
勇公と手伝一人たのんで庭木の仕事をさせる。
「しゅろ」二本貰って来る。「なぎ」の植え更え。其他
夕方までかかる。
心経明日の残り二葉。夜までに更に一巻。
論文訂正一篇。
午后海頗る静か。
※なぎ・・椰の木(ナギの木)。常緑の高木。
十一月十五日
朝、しとしとに降っている。あてがはづれる。
午前松山老を訪ねて、通談をきく。
午前中にからりと晴れる。
午后二時すぎの列車で帰京
十二月二十七日
〇時三分発の列車で、松林君と二人で来る。
快晴。汽車のなかでとろとろと眠って、着車前に
松林君に起こされる。松林君飯をたき、あらまきで夕食。
月頗る美し。枯草やごみを焼く。
松山のおばあさん香のものを持って来てくれる。
※あらまき・・新巻鮭野こと。内臓を除いた鮭を甘塩で漬けたもの。
※松山のおばあさん・・松山吟松庵の妻、松山下枝(旧姓三輪)のことと思われる。下枝の生年月日は不詳。『茶人の研究』(末宗広著)によると、松山吟松庵は「明治二九年に三輪下枝を娶り」とある。ちなみに松山吟松庵、下枝夫婦の娘は、東京、芝で骨董商を営む三輪六郎と結婚した。松山は、三輪六郎の骨董屋に合流し、共に東京で骨董を商ったという。
十二月二十八日
今朝も快晴。
午前から風呂をわかす。
午后、町に出て、焼豆ふ、番茶など買う。
松山氏に立寄り、お茶をよばれ、金沢のお菓
子をよばれ、もち、味噌、汁の実の菜など貰い、
干柿、梅の枝も貰って帰る。
魚屋のばあさんが持って来た「さば」、八百屋やの
おかみさんから買った人参、畠のねぎと菜と焼豆
ふですき焼をたらふく喰ふ。
今日も月が真円で美しい。
新島大地震の号外を見る。
「種の起源」の翻訳三頁
※新島大地震・・昭和十一年十二月二十七日に起こった新島近海での地震。マグニチュード六・三、最大深度四(伊東市)死者4人。
※「種の起源」・・『種の起源』は、チャールズ・ダーウィンにより一八五九年に出版された進化論についての著作のこと。小泉は一九三五年(昭和十)に、ラマルクの「動物哲学」とダーウィンの「種の起源」を、進化論の源流をなす二作として一つにまとめた翻訳書を著している。このほか、種の起源のみの翻訳にも取り組んだ。この翻訳書は上巻と中巻に分かれており、上巻は一九二九年に、中巻は一九三八年に岩波書店から出版された。
十二月二十九日
快晴。少し寒し。
午前大六の方面に散歩。
勇公のところから餅、長左ヱ門から卵、勘七から卵
を買ふ。
夜食、餅雑炊うまし。
夜月まことに美し。寒し。
「種の起源」翻訳四頁
十二月三十日
朝臼屋餅をもって来る(一四)、勇公餅を沢山に持
って来てくれる。
「種の起源」翻訳二頁。
二時すぎの汽車で帰京。
一月二日
午后〇時三分両国発。初子と同道。
房州にしては寒い。
夕刻、蛙の鳴くような声がするので、出て見たら「いそ
ひよ」がベランダに鳴いていた。
夜松山氏からラジオをききに来よとよばれる。残月
で薪をぼんぼんもやしてよばれる。
帰途まるで暗い。
「種の起源」翻訳二頁。
※残月・・保田吉浜の日影にあった松山吟松庵邸敷地内にあった家屋のこと。残月庵(ざんげつあん)と名付けられていた。松山の敷地に母屋とは別に設けられ、客人を招いたものと思われる。松山没後、戦中には、勝山に地縁のある実業家・池貝庄太郎が下佐久間の現小澤牧場と勝山学園の敷地にまたがってかまえた農場「神代荘」に残月庵を買い取り移築した。移築を行った当人、網代孝氏によると、確かに建物には「残月庵」と書いてあり、築三百年近い古民家だったという。『鋸南町史』「池貝兄弟と鋸南」によると、農場神代荘は昭和十九年に隣地の安房中分校の拡張のために敷地が売却されたという。残月庵は現存しない。その後どうなったかは不明。
同荘の管理をしていた吉田修氏によると「戦時中はボースという名の人物が一時匿われていた」という。インド独立運動活動家のラスビハリボースのことと思われる。(写真は昭和十一年十一月十三日を参照)
一月三日
曇。寒い。
午后、村上眞君、船方より帰宅立寄る。「やま
ばと」を二羽さげて来て、串焼きにして夕食。うまい。
六時半の汽車で帰る。
そのあとへ松山亥三雄氏夫婦来訪、十一時す
ぎまで話して帰る。
「種の起源」翻訳四頁。
※船方・・館山市の「船形」か。
※松山亥三雄・・まつやまいさお、松山吟松庵の息子。東京芝で医院を開業した。妻はみどりといい、医師であったという。川崎佐和氏(大正十四年生まれ・屋号「茂平」)は松山亥三雄の家に女中に行っていたという。鱚ケ浦に別荘を構えた「三田無線研究所」創業者の茨木悟氏や、同じく鱚ケ浦に土地を求めた骨董屋の三輪六郎氏(松山吟松庵の長女が嫁いだ)は近所で、川崎佐和氏はよくお遣いのため行き来していたという。
一月四日
晴。
翻訳四頁。
一月五日
快晴、馬鹿にあたたかい。
室内には大蝿がぶんぶん来て、とてもうるさい。
まるであつい位。
中央公論の原稿に加筆して、送る。
午前保田の方をだいぶ散歩したので、二度
行くのはいやで勝山に行く。
帰途に茨木氏方に立寄る。
翻訳五頁ばかり。
※茨木氏・・ラジオ機器制作会社の「三田無線研究所」創業者、茨木悟(いばらきさとる・一九〇〇 ‐ 一九九四)のこと。事業が成功し無線関連の特許権を取得。息子の療養のためその特許を売却し、松山氏の陸舟庵に近い鱚ヶ浦に昭和十年、別荘「吾心庵」(ごしんあん)を構えた。この名は松山吟松庵が名づけた。茨木氏は創業の際、松山米太郎氏の家を仕事場として借りており、かかわりが深かった。独立して麻布に新しい工場兼自宅を構えた際にも、松山氏とは近所であったという。茨木一家は別荘を構える以前から、保田の松山の家に避暑に訪れていたという。
一月六日
昨夜は途方もなくあたたかで夜具をはがしてね
た。
朝起きて見たら雨風だ。消防の出そめで、大六
のポンプが、元気なく行く。威勢の悪いことである。
午前に晴れる。日が照ってまことにあたたか。
草をむしる。
夜松山氏に話に行く。
翻訳五頁あまり。
今日は寒の入りだといふ。お寺から寒行の四
人づれが出て行く。太鼓の調子がよくない。万事
きびきびしていない土地であるわい。
一月七日
朝少雨。後晴れたれど終日曇。
妙本寺で三時から初御開帳。行ってみる。至って
つまらない。
夜、松山老夫人、孫さん二人をつれて来て、あそぶ。
翻訳四頁。丁度きりまで仕上がる。
夜寝てから、手と足が馬鹿にだるくて、関節
がうづく。
※孫さん二人・・松山吟松庵の孫のこと。松山の孫には松山 俊太郎(まつやま しゅんたろう・一九三〇 - 二〇一四)がいる。インド学者、幻想文学研究家。英語やサンスクリット語の他、フランス語やアラビア語などにも堪能だった。女子美術大学教授、國學院大學講師、多摩美術大学講師、美学校講師などを歴任した。
このほか、三輪誠也氏(松山長女の嫁いだ骨董商三輪六郎の息子)がいる。二〇一五年に電話で取材をしたときに「松山俊太郎とよく保田に行った。松山のおじいさんは優しい人だった。」と話した。孫さん二人とはこの二人のことか。
一月八日
快晴。
昼食を松山氏でよばれて、二時の汽車でたつ。
三月十九日
九時五十四分の列車で立つ。
車中に、どこの国かの海軍の将軍の一行三名が同乗、
彼等は木更津で下車した。陸軍の少佐が三名、
此等は青堀で降りた。
房州にしては寒い。二、三日前に暴風があった由、
もちが一本倒れた。
夜、和田校長をよんで、賞品の打合せをする。
「中央公論」を読む。茂吉さんの、戦死者の顔つきを
解剖学的とする文が面白い。
月見草の根の太くなっているのは驚く。
銀杏三本、ユッカ五株植える。
※茂吉・・斎藤 茂吉(一八八二 - 一九五三)のこと。大正から昭和前期にかけてのアララギ派の中心人物。小泉丹とは、岩波人脈で知り合ったようである。また昭和十五年には共に国民学術協会の会員に選ばれた。二〇一二年に世田谷文学館で開かれた「齋藤茂吉と『楡家の人びと』展」では、茂吉が長男茂太にあてた手紙が展示された。手紙の内容は、茂吉が動物学の方面に進みたいと進路に迷っている二男のことについて書いたもので、「小泉丹先生の意見をたづねてみてもよい」などと記されているという。
三月二十日
半晴半曇。午后突か雨。
午前松山夫婦来訪。和田校長来。習字、評点。
午后二時終る。各組男女各金賞一人、銀賞二人
乃至四人。六年生の下手なること目立つ。一二年生の
が面白い。
三月二十一日
晴れだが風あり。
午后松山夫妻にさそわれて、遠足に出かける。
大六から佐久間村に入り、勝山に出て帰る。四時
間位。大そう面白い散歩。
三月二十二日
晴、対岸見ゆ。
午前保田に煙草を買ひに行く。道廣くされ、手入
れが出来、街は舗装している。
海では大望あみが仕事を始めている。
午后学校に行って書き方作品を列べる。
夜松山氏を訪ねる。
月が頗る明るい。海が静か。
「通論」再刷のための通読。
※大望あみ・・大望網。定置網の一種。
※書き方作品・・吉浜小学校児童の習字の課題のこと。網代工務店の先代社長、故網代孝氏(二〇一三年に取材)によると、「吉浜小に通っている頃、習字の課題があった。うまく書けた者には、小泉先生や松山先生からの賞があった。硯や文珍を貰ったことがあった」という。
※通論・・一九三五年(昭和十)に岩波書店から出版された『人体寄生虫通説』のことか。
三月二十三日
快晴、対岸はもや。暖かで、本当の春の心地。
午前九時から、小学校卒業式。松山氏と参列する。
卒業終って、書き方の授賞式をする。
村の顔役十数人、巡査さん、妙本寺の若僧など。
寿司と地酒の御馳走あり。十二時頃帰る。
午后、初子松山さんをさそうて、裏の山に春
菊をとりに行くといふ。同伴する。柴草を刈っ
た跡の周囲に沢山に花が咲いていて愉快。
山桜があちこちに咲き出し、梅の真っ盛りもあり、
すもももある。蔓が少し延びそらまめの花盛り。
郵便伝送し来る。西川満君から「猫寺」一冊、岩
波君から市議選挙の挨拶の葉書等。
夜に今夜も月影明るい。海はまるで静か。飛行
機が二台飛ぶ、星のような燈をつけて。
心経一巻だけ終り。
※小学校・・吉浜小学校のこと。滴水居の隣地にあった小学校。
※猫寺・・小説家、詩人西川満(にしかわ みつる・一九〇八 - 一九九九)の著作『猫寺 おとぎばなし』(一九三六、媽祖書房)のこと。西川は小泉と同じ会津の生まれで、著作に『わがふるさと会津』がある。
※岩波君・・岩波書店創業者の岩波茂雄(一八八一 - 一九四六)のことと思われる。長野県生れ。東京帝大哲学科選科出身。一九一三年(大正二)神田に岩波書店を創業。夏目漱石(そうせき)の知遇を受け、一九一四年『こゝろ』を出版し、出版業に乗り出す。岩波文庫やその他学術書の出版を通じて日本文化の向上に寄与した。貴族院議員。文化勲章。明治から大正にかけて教養人や文化人だけに独占されていた書物を、手軽で廉価な「文庫」や「新書」という形で出版し、一般市民の間に普及させた。このほか多くの全集、講座、学術書を出版し、文学、社会科学、自然科学などにわたる総合的出版社としての岩波書店を作り上げた。岩波の周辺には多くの文学者や学者が集まり、「岩波文化」とも称される独自の出版文化が築かれた。
小泉は一八八二年生まれで、岩波茂雄とは一年の年齢差。同世代である。小泉は昭和五年から三年間、岩波書店の叢書シリーズ『岩波講座』における「生物学」の編著を担当したのを皮切りに、同社との関係が始まった。岩波書店は、昭和六年に雑誌『科学』を創刊。これは、自然科学の向上と普及に大いに関心を寄せた岩波茂雄が、当時の日本にドイツのNaturwissenschaftやイギリスのNatureのような理論雑誌のないことが、久しく学界で遺憾とされていることを知って、この雑誌を創刊するに至ったものである。小泉は編集者の一員として参加した。編集主任は保田に暮らした物理学者・石原純で、その他の編集員は安藤広太郎・岡田武松・柴田桂太・寺田寅彦・柴田雄次・坪井誠太郎など一流の学者らが名を連ねた。
※市議選挙・・不詳。岩波茂雄がこの年にかかわった選挙のエピソードとして、長野県出身の羽田武嗣郎(ぶしろう・一九〇三 ‐ 一九七九)の第二十回衆議院議員総選挙の当選がある。羽田は、同年六月に岩波茂雄の勧めで「羽田書店」を創業。学術図書や児童図書の出版に心血をそそいだ人物。
三月二十四日
あけ方から降りだして、本ぶりになる。寒い。
早朝火をたいて風呂をあつくして、午前中に二度
入浴。
夕食を松山氏でよばれて帰京。
十月二十六日
今年の夏は瓜哇行で来なかった。
夏の村に事変でさびしかった由。沢山の人達が
応召して行った。勇公、茂平、タクシのでぶ公等々。
月見草が盛りに咲いたといふ。
九時四五分の汽車で初子と来た。
晴天であたたかだ。
夏は日でりで稲も黄色になり、欅も枯れたといふ。
拙宅の欅はあまり痛んでいないが、大きい「やつで」や
「もち」などの枝が枯れている。
ユッカが大きい花穂を出して、咲いている。暖地らし
い心地だ。
裏の長左ヱ門のおやじが先月亡くなったといふ。
今度は瓜哇の会議の得命の書類を書くため
に用意してきた。
夕方まで庭仕事をする。
夜松山氏にラジオを聞きに行き、大場頭、等
占拠の臨時ニュースがあった由を聞く。七時のラ
ジオはたいした事なし。
※事変・・支那事変のこと。一九三七年(昭和十二)の盧溝橋事件を発端として北支(北支那、現中国の華北地方)周辺へと拡大した戦闘のこと。八月の第二次上海事変勃発以後は中支(中支那、現中国の華中地方)へも飛び火、次第に中国大陸全土へと飛散し、日本と中華民国は戦争の様相を呈していった。
※瓜哇・・インドネシアのジャワ島のこと。小泉は昭和十二年、ジャワ島のバンドンで開かれた「東洋農村衛生会議」(国際連盟主催)に出席した。盧溝橋事件の電報を航海中に受け取った。
※沢山の人達が応召して行った・・鋸南町史に当時の保田町からの出征の様子を記した文章がある。
「戦争はだんだんと範囲を広げ、郷土には、次から次へと召集令状が発令されました。保田・勝山の駅には、応召軍人の見送りで一日中混雑したといわれます。大勢の町村民や肉親の「歓喜の声」に送られて、出征者はつぎつぎと征途についていったのです。」
(『鋸南町史』一〇三二頁) 小泉は昭和十五年一月九日の日記で、出征者出発式のためお社に行った旨を記している。
※勇公・・前述の網代勇次郎の事と思われる。
※茂平・・川崎佐和氏のおじにあたる川崎栄吉氏か。鱚ケ浦に海浜寄宿舎を持っていた高千穂学校の生徒らに水泳を教えていた人物。保田町の中でも早い時期に応召されたという。
※欅・・けやき
※大場頭・・不詳。
十月二十七日
仕事を始める。
初子女中をたのみに富浦に午后行く。
松山のおばあさん午前に来訪。江湾ちんも占
拠し、全線大勝利だといふ。
夕食後祝杯をあげようと白鶴一本
を携えてラジオをききに行く。祝杯の用意が
してあるといって、ビールを一本のんで飲み酔い、
白鶴はぶら下げて帰る。
※江湾ちん・・江湾鎮。中華人民共和国上海市虹口区にある地名。
十月二十八日
快晴。
午前仕事。但しあまり進まず。
午后二時頃の汽車で初子東京に帰る。
間もなく松林君来る。
学校の手紙を持って来て呉れる。教授一同が
上海勝利祝賀の宴会を湯島で催ほすとい
ふ。どうせ留守にて欠席すれど、我々が祝賀
に酒を飲むといふような手はないと思ふ。
夜七時のニュースをききに松山氏に行く。
今回もビールとサイダを一本持参したれど、夕
食に二人で一本飲んだビールに全く酔ってい
て、飲まずに帰る。
十月二十九日
晴。ぽかぽかしてまるで秋らしくもない。
裸で庭仕事や風呂たきをする。
午前報告書の仕事。
昼食後、二人で浅間神社に登る。尾根の男坂
は岩だらけで、可なりの登山路の風がある。女坂を帰る。
明良屋で、舌平目二尾買ふ。
午后で仕事一つ終り。
夕食後松山氏にラジオを聞きに行く。八時すぎ
帰る。
朝長左ヱ門のおっかあ 例によって赤飯をもって来て
呉れる。
※浅間神社・・保田川沿いの浅間山(標高一三三m)の山頂で、現在の「足立区立鋸南自然の家」東方上にある。
※明良屋・・保田の汽船波止場の野布良港近くにあった魚屋のこと。
十月三十日
快晴。風昨夜から強く吹き出し、波頭白し。
昼を松山氏で、お寿司をよばれ、二時の汽車で帰る。
一月四日
二日に、例年の通りに来る予定であったが、初子が
一日から風邪気で、二日から寝てしまったので、今日ま
で延ばし、今日来る約束になっていた松林君と同道で
来る。
晴。
夜松山氏を訪問、ラジオを聴く。
津、千歳山の喜多村氏、堀佛庵、半泥子、紺野浦二氏の
来訪の話など聞く。
※津、千歳山の喜多村氏、堀佛庵、半泥子、紺野浦二氏・・伊勢の豪商の家に生まれた陶芸家・実業家・政治家の川喜田半泥子(かわきた はんでいし、一八七八 - 一九六三)のことと思われる。川喜田は津市の千歳山に暮らし「東の魯山人、西の半泥子」、「昭和の光悦」などと称された著名な風流人だった。銀行頭取や、津市市議会議員、三重合同電気社長、明治生命の監査役などを務めた。本名は久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)、幼名は「善太郎」。号は「半泥子」の他に、「無茶法師」「其飯(そのまま)」「紺野浦二(こんのうらじ)」「部田六郎(へたのろくろう)」「莫加野(耶)廬(ばかやろう)」「鳴穂堂(なるほどう)主人」等がある。書画、茶の湯、俳句、写真など多彩な趣味を持ち、いずれに対しても形にとらわれず伸びやかな姿勢で風雅に遊んだ。
小泉の記した千歳山の「喜多村」とは「川喜田氏」、堀佛庵とは「泥仏堂」の事と思われる。
川喜田の随筆「泥仏堂日録」には松山吟松庵が津市の川喜田を訪ねたという記録があり、交流がうかがえる。「泥仏堂」は昭和八年に家業の川喜田商店創立三百年を記念して、従業員一同が川喜田半泥子に贈った登窯のこと。芸術文化活動に秀でた川喜田は、五十歳を過ぎた昭和八年に津市千歳山の自宅に窯を開き本格的な作陶をはじめた。小泉は川喜田氏と堀佛庵・半泥子・紺野浦二氏を別人と理解していたのではないか。
一月五日
朝馬鹿に寒い。井戸のポンプが氷って動かない。
天気は快晴、天城も見ゆる。
午前「我が闘争」を読みながら寝てしまふ。
午后、二人で松山に散歩、魚一匹、鯨付の乾物五
曳分買って帰る。卵、足袋など買ふ。
長左ヱ門から卵とコリフラワーを貰ふ。
※我が闘争・・ナチ党指導者のアドルフ・ヒトラーの著作。ヒトラーの自伝的文章と政治的世界観の表明などから構成されている。
※鯨付・・くじらつき。イワシクジラと一緒に遊泳しているカツオなどの群れのこと。
一月六日
昨夜、朝寒かったら暗くなるまで寝ていようとい
って寝た。起床九時半頃。松林君は二十分ばかり
前に起きた由、昨夜寝たのは八時半頃らしいから、
十三時間位寝た勘定になる。※
朝食を仕舞ったら十時すぎ。大六神社へ散歩に
行く。石金に立寄る。ばあさんの話に、大六さまは
戦の守り神さまで、十五人出征して居るがまだ戦
傷者も出ないといふ。
途中で松山老夫婦と遇ふ。帰宅したら梅の枝が届けて
あった。やがて老夫婦来訪。いろいろと大六神社の話
などあり。日露の時には三人ばかり死傷者が出た由。
また流行病がない由。神様を粗末にするグループで
は病人など多い由。
※長左ヱ門のおっかあにあったら、今朝はいつまで
も戸があかぬので、お帰りになったのかと思ったといった。
夜松山氏へラジオをききに行き、浪花節がすんで
餅を焼いて、よばれる。
細い月が出た。
※大六神社・・だいろくじんじゃ。滴水居から南に七〇〇メートルほどのところ、大六の字「切通」にある神社。南北朝時代、吉浜神社と共に妙本寺の鎮守として創建された。妙本寺の法華経八巻を御神体とし、大六天を祀っている。また明治初年、神仏混淆と共に天照大神の弟にして猛々しい性格を有していた素盞鳴尊が戦の神としてまつられたとされる。
※石金・・大六にあった商店の名。酒等を売っていた。現在のデイサービスセンター「さざなみ」の場所にあった。
一月七日
今日風があるが暖かい。
長左ヱ門から餅と菜を貰う。今日は七草ですからといった由。
午前から風が出て波頭が白い。
二人で保田へ買出しに行く。風邪気とれぬ故、うがい薬
を買ったら、トリパフラビン剤を呉れた。ハイカラーになった
ものと感心する。焼豆腐、らっきょう等買ふ
午后になって、風ますます強く、海全面の白波。夕刻に
になってますます荒れる。
五時すぎの汽車で、笹田君、甲州から、成田に参
って来着。持参の牛肉すきやきをやる。
風ますます強く電燈停電のため、チラチラし、終に
消ゆる。
終夜ものすごい風と波の音。
一月八日
波頭少し白けれど無風、対岸はっきりとして、珍
らしく大島も見える。
朝餅雑煮をやり、十一時頃から出かけ、松山氏
に立寄り、十二時頃鹿峯の観音堂に行く。
路なかなかよく、堂の付近もよい。保田の眺めもよ
く、曖日荘が真向かいに見ゆる位置なり。房州三
十三所のうち九番なり。太い松がある。
三時頃帰って見たら、食卓の上に菓子、鯵の寿
司などあり。またどこからか御馳走の供給来れり
など、よろこびて、よく見るる少し変なり。座敷
にボストンバックがあるので初子が来たことがわ
かり、松山氏に行っているのだろうといふ
ので笹田君遭いに行く。
初子手紙二通(奉天の韓君。浜松の中山君)及び名
刺一葉持ち来る。村尾英沢とあり。入室希望と
いって玄関に来れる由。一同にて大笑す。
今朝買って置いた「さば」の開きを焼き、笹田君ねぎ
の卵とぢのお汁を造り、ビールを一本のむ。うまい夜
食。
いろいろの話が長延いて、寝たのは十二時半であっ
た。
※鹿峯の観音堂・・保田の大帷子(おおかたびら)にある曹洞宗鹿峰山信福寺観音堂のこと。
本尊は如意輪観音で、通称「子授け観音」。
※奉天の韓君・・奉天は中華民国と満州国にかつて存在した現在の瀋陽市に相当する都市。滴水居の居間にある絵皿に「韓京淳」とあるのがこの人物か。
※曖日荘・・旧保田小学校裏山にあった洋館のこと。石東北帝国大学物理学教授で、歌人、科学ジャーナリスト、アインシュタインの相対性原理を紹介した人石原純は妻子を持ちながらも女流歌人原阿佐緒と恋仲になり保田に洋館を建てて暮らした。この出来事は一大スキャンダルとして報じられ世間を賑わせた。二人が移住してから保田には文化人が集まるようになったという。小泉は昭和六年に雑誌「科学」(岩波書店)の創刊時に編集員となったが、編集主任は石原であった。
一月九日
午前の汽車で笹田、松林二君帰京。
晴。
パース老著。野村氏等の訳「動物の移行と進化」(訳
名悪し)を読み、特に文献表を調らべる。
夕方、魚を買ひに保田に行き、黒鯛一尾、壺焼の
いも五●買って帰る。
連日月頗る明らか。今日は八日頃と見ゆる。
夜松山氏に行く。和風堂の話が出る。瑞渓の硯
を一つ貰ふ。加州の学者で家●をやっていた
加藤ワタルという人が死ぬまで用いていたものの由。
加州一の勇者といはれた人の由。
※「パース動物の移行と進化」・・A.S. Pearseの著作。野村七録・石田周三・永野為武訳。昭和十二年発行。
※壺焼のいも五●・・「壺焼のいも五戔」か。戔(さん)はわずかの意。あるいは「壺焼のいか五曵(ひき)」か。
※和風堂・・文具商・馬場一郎こと馬場一路(一八八八 ‐ 一九六五)が営んでいた店の名前。馬場は、夏目漱石や岩波書店の岩波茂雄らとも交流のあった人物。馬場は一八八八年群馬県出身。中学卒業後上京し、中国貿易商・晩翠軒に就職。書画・陶器などの見識を磨き、二十三歳で晩翠軒を退職して独立し、「馬場一郎商店」を開いた。商売が軌道に乗り、文人墨客との交流も深まった二十六歳の時、夏目漱石が屋号を「和風堂」と命名。四十歳になると丸ビルに「和風堂」を新設した。文中には小泉が松山から硯石をもらったことが記されている。松山も骨董品や美術品などを扱っていた人物であるため、同業の話から和風堂のことが話しに出たのだろう。小泉は岩波茂雄とも旧知であったため、和風堂を知っていたのではないだろうか。
※端渓硯・・たんけいけん。中国四大名硯、端渓・歙州・トウ河緑石・澄泥のひとつ。端渓に産する古生代の輝緑凝灰岩を使う。色は黒・青・緑・紫などがあり、最高級の硯石として有名。
※加州の学者で家●をやっていた加藤ワタルという人・・加州は加賀の国の別称。加藤ワタルは不詳。松山家は金沢の古物商であった。金沢藩士を調べたところ、加藤恒(かとう ひさし)という人物がいたが、日記の人物と同一であるかは不明。
加藤恒(かとう ひさし・一八四三 - 一八九九)は、幕末から明治時代の武士、官吏で、天保(てんぽう)十四年生まれ。藩主前田斉泰(なりやす)の世子前田慶寧(よしやす)の守役となる。明治にはいり金沢藩大属、金沢区長などを歴任した。のち旧藩主前田家の家政の責任者である家令をつとめた。明治三十二年死去。五十七歳。通称は久也。号は松塢。著作に『北藩事実文録』などがある。
一月十日
晴。
今日は帰らぬことにする。
パースの書物新刊紹介の原稿を書く。
夜松山氏にラジオを聴きに行く。
昨日の硯を洗ってみたら、魚脳斑、其色いろいろの
紋があり、面白い。多年実用にしたもの故、黒
だらけにて風変りなり。
夜松山老夫婦来訪。
月頗る明るく、横須賀の辺にサーチライト光る。
※魚脳斑・・魚脳凍(ぎょのうとう)のことか。魚脳凍は硯にみられる石紋の一種。白濁したまだら模様が浮かび上がる。このような紋がでるものは収蔵家や文人に珍重されていたという。
一月十一日
晴れなれど、相当寒い。対岸はかすみて見えず。
飛行船終日多数飛ぶ。午后航空母
艦沖に行き夕暮れに帰る。連合艦隊横須賀に居
るならん。
joffrey west : charles Darwinを朝から読む。
夜初子松山氏に行き、余は九時少し前までにダー
ウィンを一読し了って、遊びに行く。風が可なり出て来
た。月はまことに明るい。空気がすんでいると見えて
燈台の光に尾がまるで無い。
床に入って潤一郎の「吉野葛」を読む。
※joffrey west : charles Darwin・・一九三八(昭和十三)年にアメリカ、コネチカット州のイェール大学から出版された書籍のこと。進化論者チャールズダーウィンの幼少期の体験や自然への興味をいかにして持ったかなど、ダーウィンの素顔に焦点を当てた伝記である。タイトルは『Charles Darwin A Portrait by Geoffrey West』。著者のジョフリーウェストは不詳。
小泉は、翌年の昭和十四年に伝記『野口英世』(岩波文庫)を著している。小泉はニューヨークのロックフェラー研究所で野口英世と談話したことがあった。二人は共に会津の産という共通点がある。小泉は、自の信じるところによって、学人、人間としての野口英世を伝するというのを同書を著すうえでのテーマにした。これは、小泉が、著者として野口の人生を正しく見ようとして力を尽くした結果であった。小泉はこの日、後に著す『野口英世』の参考のためにダーウィンの伝記を読んでいたのかもしれない。
※潤一郎・・谷崎潤一郎。近代日本文学を代表する小説家の一人。吉野葛は、谷崎の中編小説。
一月十二日
風あり。沖曇り、陸日光美し。
大型駆逐艦編隊にて出る。
昼食を松山氏でよばれて、午后二時の汽車で
帰京。
三月二十一日
九時五十四分の列車で両国をたつ。初子と同道。
晴。沿線の田圃には摘草の子供。赤い椿の花
が一ぱいに咲いている。
家の夏蜜柑が大きく黄色になっている。夏の日
照りと風で蜜柑の木がひどく傷んでいる。
夜松山老人夫婦来宅を乞い、校長さん、成績を
もって来て評点をする。
「人間学序説」一冊目を通す。
※人間学序説・・一九三八年(昭和十三年)十月に、理想社出版部から出版された叢書『人間学講座』のうちの文章と思われる。小泉は同叢書監修者の一人だった。
※校長さん・・吉浜小学校の校長の事と思われる。田舎の小学生の校長が近くの生物学者の別荘で成績をつけている。古き良き時代を感じる。
三月二十二日
夜中に雨の強い音が耳について寝ていた。
朝になっても降っている。
大六へ少し買いものに行く。
終日ぽつぽつ降って庭仕事も出来ず。本を読
む気持にもならず。賞品の包みなどをする。
夕方学校に行って、展列の手伝をして夜に入る。
夜になってすることはなし、九時頃寝てしまふ。
床の中で佐藤春夫の「李太白」を読む。
※大六へ少し買いもの・・女優の故長岡輝子の著作『父からの贈り物』にこのような記述がある。
「震災後、私たちは毎年の夏休みを房州の保田と勝山のあいだにある鱚ヶ浦で過した。亀ケ崎と呼ぶ秀麗な緑のこんもり繁った島が岸から少し離れたところに浮いているので、ちょうどその島のために海岸が内海になり、紺碧に澄んだ水は湖のようになめらかで、まるで天然のプールのようだった。水平線の向いには大島、城ヶ島が見え、夜になると三崎と観音崎の灯台の火がピカリ、ピカリと明滅する。この海岸線に沿った細い国道は館山、北条へと延びていて反対側は鉄道線路をひかえて山や畑や田圃があって藁葺屋根の農家が点在しており、枇杷や夏蜜柑の山のあいだから瓦を焼く煙が見えた。ここには一軒の店もなく、小さな小学校と妙本寺という日蓮宗の大きなお寺のほかは、農業のかたわら、あわびや磯物をとりにいく住民たちがひっそり住む小さな村だったが、少し足をのばせば右手は保田、左手は勝山と、このへんではちょっとした町があったので日常の買い物もそこで間に合った。」「房州・鱚ヶ浦の春」より 長岡輝子(一九八四 草思社)
※佐藤春夫の李太白・・佐藤春夫は、明治末期から昭和日本の詩人・作家。詩歌と小説、文芸評論・随筆・童話・戯曲・評伝・和歌とその活動は多岐に及んだ。『李太白』は、佐藤が中国の伝説や説話をもとに描いた小説。
三月二十三日
朝から降っている。
九時から小学校の卒業式。商品を贈る。
今年は、あとまで残るような品という校長さんの希
望で、卒業生の分は去年通り硯、五年から二年ま
では文鎮にした。一年生は帳面。
午后、賞品をもらった子供達が記念写真。なかなか
可愛いい児がいる。
午前から午後の六時頃まで松山のおばあさん来訪。
老人は昨日上京して今日は留守。
終日しとしとと降って、庭仕事も出来ず。それとて
本も読めず。全く以て雨の降る日は天気が悪い。
夜は九時前に寝てしまふ。床のなかで、小泉八雲
の「神国日本」を読む。訳文が気に入らぬところあり。
※神国日本・・日本研究家・随筆家・小泉八雲の著作。日本人の信仰観や精神性がテーマの本。
三月二十四日
昨日は今日も雨かとうんざりして寝たら、朝からからっ
と晴れていて愉快だった。
午前中に「人間学序説」を読み返して、大体かた
づける。
草むしり。飛行機がしきりに来る。
午後、井戸の水をポンプでくみ乾(かわか)す。三ケ所から
漏水することを認める。四時頃、終りがけると雨が
またポツポツやってくる。
うす暮れに勘七が藤を掘って持って来てく
れる。大きい株である。日除けの桎のところに植え
る。次手に銀杏を移植する。
お彼岸で、ぼたもち、寿司をもらふ。
寝て子母沢寛「国定忠次」を読む。
※子母沢寛「国定忠次」・・小説家の子母澤寛(しもざわかん・一八九二 ‐ 一九六八)の代表作。国定 忠治(くにさだ ちゅうじ・一八一〇 – 一八五一)は、江戸時代後期の侠客。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談や映画、新国劇などの演劇の題材となった。
三月二十五日
午前快晴。草むしり、書きもの。
午后西が出て来て、海は白波。可なり強く吹く。
夕刻保田へ郵便を出しに行く。あみほしの竹がわれたのに風が当って、シンフォニーを奏する。四つ位の音が
区別される。
勘七「もち」の苗木をもって来てくれてる。
夜和田校長、女中の母子来る。
習字。
寝て「アントニーとクレオパトラ」を読む。
※アントニーとクレオパトラ・・シェイクスピアの戯曲。古代ローマに題材をとり、恋に身を滅ぼすアントニウスとクレオパトラを描いたもの。
三月二十六日
快晴。あたたか。
庭の仕事。
夕刻の汽車で帰京。
五月七日
昨日教室の春の遠足で天津に来た。
午前六時五分両国発の列車。千葉で朝の弁当、木更津
乗換。亀山下車。三石山十一面観音。昼食。清澄演習
林を通って、清澄寺。山内を少時見物、バスで天津に下る。
山椒の「すりこぎ」二本買ふ。
夜中降雨、朝小雨。宿屋(中屋)は港に面している。
六、七時頃発動機漁船が順次に出航して沖に出る。女中は
漁船が出るから天気はよくなるんだという。少し沖に出
た漁船は左右に別れて何れも列になって行く。
一同ぼつほつ出立。自分は中村、樋口両君と九時五分
の汽車で北条経由の列車に乗る。鴨川からの横断バス
に乗る予定だったのを変更したのである。雨はれる。
中村君二人で和田浦下車、粕谷君を訪ねる。ステーシ
ョンは町の一端から少し離れて設けられ、粕谷君の家は
反対の端にあった。
土蔵の二階座敷でビールと寿司の御馳走になって昔
話などをして次の列車をミッスしてしまい。三時二十七分の
列車で立つ。海岸を散歩する。全く晴れ。
この辺草花作り盛んなる。魚港としては、千葉県で六三
番目だとのこと。初子来ている。
勝山で下車。バスなし、歩って保田に来る。四時頃。
夕暮まで草をむしる。月見草可成よく育っている。
新しく芽が育って木が大きくなっているのはまこと
に愉快である。新校長立花清治氏来訪。清澄の
小学校に十五年勤務したといふ。
半月清く照る。裏手に蛙の声がきこえる。清夜だ。
夜三好先生の「学軒集」を半分読む。明治二十年頃
の植物学雑誌第一巻掲載の文章などあり、珍で
ある。
※三石山十一面観音・・千葉県君津市の三石山山頂にある真言宗智山派の寺院。山号は三石山。通称「三石観音」。本尊は十一面観世音菩薩と薬師瑠璃光如来。山頂の大きな三つの石が奇観をなす。
※清澄演習林・・東京大学大学院農学生命科学研究科に属する演習林。名は「千葉演習林」。演習林とは、大学や高校において林業関連学科の実地研究・教育に役立てるために、学校が経営する森林のこと。千葉演習林はわが国最初の大学演習林として一八九四年に創設された。当初は清澄周辺の山林三三〇ヘクタールで発足したが、一八九七年に清澄より北側の奥山地区山林を加えてほぼ現在の面積(約二二〇〇ヘクタール)となった。演習林の南部は南房総国定公園に、北部は県立養老渓谷奥清澄自然公園に属している。演習林内には林道が通っており、首都圏自然遊歩道(関東ふれあいの道)に指定されている。小泉が歩いたのは、現在『モミ・ツガの道』の一部になっている三石歩道と思われる。
※清澄寺・・千葉県鴨川市清澄にある日蓮宗の大本山。山号は千光山。日蓮が出家得度および立教開宗した寺とされ、久遠寺、池上本門寺、誕生寺とともに日蓮宗四霊場と呼ばれる。本堂は清澄山(きよすみやま)にある。
※宿屋(中屋)・・鴨川市の天津にあった中屋旅館のこと。江戸時代、天保年間に創業。大正から昭和にかけて外房に鉄道が開通した頃は安房天津駅近くにあった。このころ、童謡「赤いくつ」や「しゃぼん玉」を作詞した歌人・野口雨情もよく中屋旅館を訪れていたという。天津とその隣町の小湊は古くから日蓮聖人生誕の地として知られ、誕生寺や清澄寺は江戸期から遠路より参詣に訪れる人も多く、名跡、名勝の地として親しまれた。中屋旅館は、現在、天津の城崎海岸に移転し「宿中屋」として営業を続けている。
※土蔵・・現在和田の駅近くの安房屋という商店の敷地に土蔵がある。店主によると明治に建てたものという。もうひとつこの近くには土蔵があったが関東大震災で崩れてしまったという。
※新校長立花清治氏・・吉浜小学校第十四代校長。昭和十三年四月から六月まで在職(急死)旧大山村生まれ。昭和十三年四月一日~同年六月三十日まで赴任。
※三好先生の「学軒集」・・三好学(みよしまなぶ・文久元年 - 昭和十四)は、明治・大正・昭和時代の植物学者、理学博士。日本の植物学の基礎を築いた人物の一人。特に桜と菖蒲の研究に関しての第一人者であった。「学軒集」は随筆(岩波書店 一九三八)
五月八日
朝曇り。先づ風呂たき。洗面、草むしり、入浴。枯枝切り。
ウィグモアの「法の進化」一篇通読。月見草畑の手
入れ。小雨降り来る。これで午前過ぎる。
草むしり。保田に行き途中松山氏に立寄る。町で
下駄一足。鼻緒を買いて帰る。また小雨。大きい鳶
が来て、捨てたごみ場の魚の頭をもって行く。今は木
が茂っているのに「よくも見つけるものかな。夕暮れに寺
の松のこのはづくの声らしいものを聞く。
夜食にこちの沖すき、村の酒「ひびき」を冷やでやる。
美まい。
夜「学軒集」読み終了。
夜小雨、月ささず、海上一面白いきり。乳の如し。
遥かに汽船の大笛が伝はって来る。危険防止ら
しい。珍らしいことなり。
床に入って古泉千樫氏の歌の本を読む。
「皐月空あかるき国にありかねて吾はも去なめ君のかなしも」
「皐月空あかるき国」がよし。国を出たのはこの月の二十五
日のことだとある。
「おのづから野を思ふこころ 祭すぎて野に出づる通の
曼珠沙華の花」祭は九月の秋祭だという。
「牛の子のまだいとけなき短か角ひそかに撫でて寂
しきものを」房州らしい。
「夕寒み竈にひとり火を焚きて牛の
湯を沸かすその牛の湯を」同上。
「ひんがしの長狭細野の傳右衛門(でんえむ)の古き厩
に牛も馬もなし」痛実。
※ウィグモアの「法の進化」・・アメリカの法学者、ジョン・ヘンリー・ウィグモアの著作。
※古泉千樫・・鴨川市内細野の農家の長男として生まれ、伊藤左千夫、斎藤茂吉、島木赤彦らとともに雑誌「アララギ」の発展に尽くし、日本近代短歌史に名を刻んだ歌人。
※このはづく・・コノハズク。鳥綱フクロウ目フクロウ科に分類されるフクロウ。
※こちの沖すき・・コチ(鯒)。「沖すき」とは魚すきのことで、大阪の郷土鍋料理。庶民の特別な日の食事として好まれていた。沖の魚を使用することから、「沖すき」と呼ばれる。
五月九日
好いお天気ですよ、といって起こされた。実によく晴れた。
草むしり、月見草畑の始末大体つく。散在するも
のは咲かさぬつもり。風呂くみ更へ、焚く。ウィグモ
―アの「法の進化」のノート完成。
早ひるを喰して初子と出かけ松山氏をさそって四
人で鹿峯観音に行く。日はかげったが、通●
な天気模様、寺の前の高地の松の下でお茶
をのみ、菓子を喫する。帰路は鴨川街道に出
て帰る。帰宅四時頃。
和田前校長来訪。夜食に和田氏も会食、立花氏をよび九時頃まで
話す。
月清し。
五月十日
晴、起床直ちに風呂を焚き、草むしり。
勘七来り玉蜀黍を植えて呉れる。
枯枝切り。
巡洋艦、飛行機通る。
松山氏に寄りて四時すぎの列車で帰京。
※玉蜀黍・・とうもろこし。
七月二十日
八時の汽車で来る。各等殆んど満員。
船で来た西垣、松林、重浦、池尻に四
君先着。
暑し。電燈に来る小甲蟲はげし。
夜松山君を訪ねる。
木の延びて繁っているのが意外。ポプラがだいぶ
倒れている。月見草盛り。庭前のやつで梢元気
となる。
※小甲蟲・・小さな甲虫類のこと。
七月二十一日
重浦君帰る。
上野君来る。
文庫校正
七月二十二日
帰る者、来るもの共になし。
初子より手紙。
文庫校正
七月二十三日
晴。朝あけがた寒い気持。
池尻君、上野君早朝、青べらを釣って来る。どくどくしい魚なれど、釣るときは面白い由。
文庫校正二来る。河出書房より「進化主義」。
工大の村瀬氏原稿を持ちて来る。迷惑。
金子君、永山君汽船にて来る。大こうち山に登る。
中村君汽車にて来る。上野君帰る。
校正二台返送。
夜焚火気持よく煙る。
となりの小林君友人と来る。
夜涼し。戸を閉じて眠る。
※進化主義・・河出書房は『廿世紀思想』(全十一巻)という叢書を刊行していた。編集者はアインシュタイン来日の際の講演通訳や解説を務め、保田に暮らした著名な物理学者の石原純、戦前における日本の代表的法哲学者の恒藤恭、 京都学派の哲学者で『人生論ノート』著者の三木清ら三者によるものだった。「全体主義」「理想主義」「伝統主義・絶対主義」「進化主義」「人間主義」「実用主義」「神秘主義・象徴主義」「自然科学思想」などのタイトルで、当時の思想的な潮流を紹介した。このうち日記にある「進化主義」は第五巻にあたり、昭和十三年七月に出版されている。
ちなみに小泉は第九巻の『自然科学思想』(昭和十三年)に「進化論」という文章を寄稿している。八月三日の日記に「河出書店の原稿書く」とあるがこのことか。同巻の他のタイトルと著者は以下の通り。「自然科学思想概論」(石原純)「 相対性理論」(石原純)「 量子論」(仁科芳雄)「生物学方法論」(林髞)
※大こうち山・・太鼓打山のこと。太鼓打場ともいう。妙本寺裏山山頂付近。戦国時代里見氏が物見台を置いた場所。地名は戦国時代に物見のために同地で太鼓を使っていた事に因む。
七月二十四日
晴。
午前一同で鹿峯観音に行く。百合を切って帰
る。
金子君、池尻君船で帰る。
中村君午后汽車で帰る。
井上君、石川君船で来る。石川(幸)船と汽車で
来る。
永山君夜の汽車で帰る。
七月二十五日
昨夜は涼しかった。
石川(●)君朝の汽車で帰る。
鈴木君と福岡君と船で来る。
石川(幸)君二時の汽車で帰る。
井上君汽船で帰る。
夜松山老夫婦来談。
校正一封来(文庫)
七月二十六日
夜、雨どしゃ降る。ものすごい音に目をさます。日除
けのすのこを打つ音のためならん。戸外物すごい暗
黒。
朝ねして速達に起こされる。校正三封(文庫一、視
界二)。不足六十六銭は馬からしい。
勘七を半日たのんで藤棚等の仕事
七月二十七日
午前鈴木君福岡君と松山氏訪問、
関君船で来る。
船で鈴木、福岡両君帰る。
校正速達また二十二銭とられる。
勘七半日来りてポプラの手入れ。
一昨日「たこ」を半分買って、ゆでたら足が三本し
かなかった。けしからんと話していた。今日その話
をしたら、けんかしてよく足を喰はれるのだとい
ふ。なるほどと思ふ。
七月二十八日
松崎君、関根君、太田君来る。
関君帰る。
今日の速達は不足をとらない。おかしい。
関君の曰く。ここには蛙はいない。鳴いているの
は雨蛙だ、と。
七月二十九日
船にて三君帰る。
一人で夕食。
小川君と外一人学生来訪。
校正二台。
七月三十日
六時に起きて、片づけ、風呂わかし、朝食八時ま
でかかる。
十一時頃初子来る。
懸命で視界の校正にかかる。
校正四台返送
※視界・・小泉の著した科学随筆集のこと。昭和十三年十月十日に岩波書店から出版された。同書には小泉が保田の滴水居で過ごしているときのエピソードが数多く収録されている。(該当部分は本書の「解説2 小泉丹別荘 滴水居について」に抜粋してある)。書名の通り、小泉の自然科学者らしい視点、風景のとらえ方、解釈のしかたが伝わってくる一冊。保田日記と並んで小泉が保田に過ごしたことを伝える貴重な書籍だ。
七月三十一日
校正勉強。
小さい甲蟲が夜燈火に来て仕事が出来ない。
ばつてらむしも混じている。夜寝床に侵入して
来るには弱った。
八月一日
校正勉強。
二十日に来てから校正で本は殆んど読めない。
井上吉次郎氏の「手と足」を走り読み。衛藤利
夫氏の「韃靼」を読み始め、大体読了。
※井上吉次郎氏の「手と足」・・(いのうえ きちじろう・一八八九 - 一九七六)は、ジャーナリスト、社会学者。和歌山県出身。東京帝国大学卒。東京日日新聞社入社、大阪毎日新聞社出版局次長。『手と足』は人文書院から一九三六年(昭和十一)に出版された。
※衛藤利夫氏の「韃靼」・・衛藤利夫は、図書館員。満州文化史研究者。東京帝国大学司書、満鉄大連図書館司書を経て一九二二年に満鉄奉天図書館長となる。著作『韃靼』は、満州の文化史について書かれたものという。
八月二日
夜なかに雨の音でめがさめる。よしずで雨の音が強い
わけだ。
午前中降る。波少し高く。少しく愉快。
視界校正午前でやっと終って返送。これで一先
づ気が安い。
今日は校正刷来らず。
八月三日
理想社の原稿浄書して、速達で送る。
河出書店の原稿書く。
※理想社の原稿・・不詳。ちなみに小泉は昭和十一年に同社から出版された『戦争論』に「戦争の原始形態」を寄稿している。
※河出書店の原稿・・七月二十三日の注訳を参照のこと。
八月四日
文庫の校正に専念する。
本日から予備燈火管制。保田の町も暗い。
※文庫の校正・・一九三八年六月(昭和十三)に岩波書店から初版が出版された訳書『種の起原 : 附・解説 中巻』(岩波文庫)の校正のことと思われる。八月一日に「二十日に来てから校正で本は殆んど読めない」とあるが、小泉の多忙さを物語る日記が続いている。
※予備燈火管制・・灯火管制(とうかかんせい)は、戦時における夜間空襲への予防、対処法で、民家や軍事施設の電灯、ローソクなどの照明の使用を制限すること。建物からの明かりが漏れないようにして夜間空襲を防ぐために用いられた。民家でも窓を塞いだり、照明に覆いをつけたりした。昭和十二年には防空法が施行され、昭和十三年六月には、軍部指導の下、赤十字博物館が啓発ポスターを作成。当時内務省防空課は、戦争に備え、国民に「防空思想」を浸透させることを課題としていた。同法は、防空業務として、灯火管制、消毒、防毒、避難、救護と、これらの実施に要する監視・通信・警報を規定し、灯火管制実施時に限り、国民に灯火を制限する義務を負わせた。
日記にある「予備灯火管制」とは、このような国内の動きに伴い保田町で灯火管制が試験的に行われていたことを示している。
八月五日
正午まで文庫校正。二〇八頁までかたづける。
これで校正総計五百六十頁ばかり。文庫の残り
百三十頁ほど残る。
午後の汽車で帰京。初子女中と残る。
九月四日
朝八時七分の汽車で出立。
亀戸付近まだ出水退かず。
一日未明の暴風。中心房総の先端から、
神奈川方面に通過。保田一帯も被害多し。
家の荒らされ方は案外に多きい。瓦五六十枚とん
だと通知があったが、破片散乱している。
プラタナス四五本、桜二本倒れて、あたりを損じて
いる。ユッカの大もの一つ折れ倒れる。
日除傾き、折れたところあり。
雨もり殆んど無し。
洋服をぬぎ捨てて直ちにプラタナスの枝を切る。
夕刻近く勘七来る。無理らしかったが、手伝はせ
て形付け。ポプラを頭と枝を切り、立てる。プラ
タナスを立てる。
夜松山老夫婦来訪。臼屋喜八来る。息子出征
せん別をやった挨拶ならん。
電気今日も来ていず、吉浜は今日から
来た由。
肉体労働は可なり疲れを来す。
※電気今日も来ていず・・八月三日の日記にある「予備燈火管制」が続いていることを示している。
ちなみに、保田における電気の歴史については鋸南町史にこのような記述がある
「明治四十四年、房総電気株式会社が創設され、保田に本社がおかれた。翌年には発電所が完成し、保田町、勝山町、岩井村、君津郡金谷村に送電した。これらの地域では大正三年に電灯が初めて点灯した。明治十一年に日本で初めて電灯がついてから三十六年を経て、これら辺地の農漁村にも文化が巡ってきたのだった。大正九年には安房郡曦町(あさひまち・現南房総市千倉)の曦電気と合併し、豊国電気を設立。事務所は保田に置かれた。大正十年には帝国電灯株式会社に吸収され、大正十一年には新たに元名字芝原一〇六四(保田駅北方鉄道西側)にガス発電三十キロワットの発電所が設置された。が、経営上の合理化から両発電所ともほどなく姿を消した。」
保田には早い段階から「電気」という近代の生活インフラが存在していた。このことは、保田が別荘地として発展していく諸条件の一つといえるだろう。
九月五日
午前日光が射したが小雨が来る。午后は殆んど降り
夕方になって風が来て、空の雲が早足に通る。空
は暗くないからたいしたことはないやうに思ふ。
夕方から海の岸の波が大きくなる。海面には白いものが見
えずに、岸の波の高いのは子供の時に見た海だ。
勘七今日は来らず、片付けも出来ず。縁台の船側
板半日かがりで仕上る。油木が沢山でる。泥を
つけて縄で表面をこする。なかなかとれぬ。
音楽学校の萩原教授の一行来る。先生たち数人
お茶をのみ、楽品を保つ。
夕刻大六、砂田の方に行ってみる。東側の被害大い。
屋根がそっくり飛ばされた家、傾いて潰れかかった
家築。
妙本寺の大銀杏の幹中途から折れて、房のひさしを打ち
破る。あちこちの銀杏みな幹や太い枝がぼきりぼ
きりと打れている。大風の時は銀杏の付近は注意すべ
きと思う。今日は実が豊作であった由。実の豊作
と枝の強さなど関係があるかも知れぬ。
夜に入って月が出る。
電燈今夜も来らず。
蝋燭の火で、「蒙古風土記」を読む。なかなか面白い。
八時すぎ、寝る。風も雨の音、波の音頗る高
い。
※音楽学校の萩原教授・・大六のペンションアヴェールの場所には、明治~昭和期の文部官僚、教育者で、東京音大の校長、晩年は日本教育音楽会会長をつとめた乗杉嘉寿(よしひさ)氏の別荘があった。萩原教授とは乗杉氏との関係がある人物か。乗杉別荘の母屋は吉祥寺に、離れの洋館は神奈川の鶴見に移築されたという。
※蒙古風土記・・中国駐在の外交官で陶磁器の研究者、米内山庸夫(一八八八年青森県生まれ)の著作。一九三六年から外務省文化事業部に勤務。中国各地に赴任した際、米内山は機会のあるたびに古蹟名勝を訪れ、見聞きしたことや感じたことを『蒙古風土記』(一九三八)や『支那風土記』(一九三九)をはじめとする著作に詳細に書き記した。また、中国各地で古い瓦などを収集した。美術的価値の高いものではなく、小さな破片や未製品、窯道具といった地味な考古学資料を集め、観察し、その土地に暮らす人々の生活や価値観を見つめる姿勢が特徴だった。
小泉は、海外での仕事の合間には学術的な見聞を広めるために、積極的に生物学ゆかりの地を訪れた。その見聞録を随筆や著作『生物学巡礼』などに著している。
九月六日
風あれど晴。時に夕立のように雨が来る。
午前木の枝形づけ。大小の山一つづつ出来る。
船側縁台手入れ
午后勘七仕事に来る。屋根瓦修理。大仕事。
終って日除の柱手入れ。植木立直し二、三。
夜松山氏に行き九時前に帰る。
留守中に置手紙がある。改造社の田中氏。原
稿をたのみに来たと書いてある。こう東京から用
を持って人が来ることになっては困まる。
雲あれど月照る。
電燈つく。
「蒙古風土記」を読む。
九月七日
夜なかに降った由。朝から快晴、久しぶりに黒い富
士を見る。
勘七朝から仕事に来る。屋根杉皮あて。
六時頃起床、風呂をたき。縁台板の下面のお
仕事。十時までかかって板や横木をはづす。
改造社田中氏来訪。
勘七夕方まで働らき、形付け大体完了
大ごみ焼き。だいぶせいせいする。
中谷宇吉郎氏より来信
夜になって、肉体の疲労、まことに心地よくて、仕事
も何も出来ず。八時頃から寝る外なくなる。
※中谷宇吉郎・・中谷宇吉郎(なかや うきちろう・一九〇〇 - 一九六二)日本の物理学者、随筆家。北海道帝国大学理学部教授、北海道大学理学部教授などを歴任。一九三六年(昭和十一年)三月十二日には大学の低温実験室で人工雪の製作に世界で初めて成功。気象条件と結晶が形成される過程の関係を解明した。他にも凍上や着氷防止の研究など、低温科学に大きな業績を残した。「雪は天から送られた手紙である」という言葉を残した事でも知られる。出身地である石川県加賀市には「中谷宇吉郎雪の科学館」が設立されており、雪の結晶を模した外観を持つ六角形の建物となっている。
昭和十二年、中谷は体調を崩して伊東で療養していた。それを案じて岩波書店の岩波茂雄は小泉に相談。小泉はすぐに武見太郎を呼び「死ぬまで診てもらいたい」と話し、武見が主治医となった。その夏、中谷は、小泉と岩波に連れられて武見の診察を受けた。検査の中で、便から肝臓の寄生虫「肝臓ジストマ」が発見され、小泉が確認。診断が確定した。診療後は全快した。
武見太郎(一九〇四- 一九八三)は、医師。日本医師会会長、世界医師会会長を歴任した。直情径行の性格で、厚生省の官僚との徹底的な対決をも辞さない姿勢はケンカ太郎の異名をとった。一九二二年(大正十一)、旧制慶應義塾大学医学部に入学。学生時代から小泉を慕っていた。自らを「やかまし屋のガンコおやじ」と称した小泉は武見を気に入り、小泉の趣味であった寺院巡りも共に足を運んだという。武見は後に小泉の逝去の際に葬儀委員長をつとめた。
武見は、一九二九(昭和四)年、小泉の紹介で岩波茂雄氏と知り合い、氏の好意により岩波学派といわれた西田幾多郎、安倍能成、和辻哲郎、小宮豊隆等の話を直接聞く機会に恵まれるようになり、岩波書店二代目番頭の小林勇氏との交友も始まったという。
昭和十四年には東京銀座に武見診療所を開業。設計は中谷宇吉郎がした。開業医として生計を立てながら政財界の要人とも交わるようになったという。
昭和十二年には戦争の時局を読んで、いち早く疎開先の土地を千葉の柏に求めた。この家には多くの知人が訪れ、小泉も夫婦で訪れている。単行本「私の履歴書 武見太郎」には小泉夫妻らとの写真がある。
参考:『小林勇 彼岸花-追憶三十三人-』『猛医の時代 武見太郎の時代』
九月八日
朝早く起きて風呂焚き。
瓦を埋める穴掘り。
校正(文庫)伝送して来る。
ごみ焼き。
今日は夏らしい天気。
夜十五日の月まことに明るし。
九月九日
快晴。晩夏の陽光盛んなり。
午前、改造社の原稿書き
午后、松山老十徳着用、道具持参にてお茶を
馳走に来らる。
夕刻より夜まで原稿を書き、三十葉ほど出来る。
岩波の島崎さんから葉書(視界の件)
ビールを一本傾ける。
月は今後もよろし。
※十徳・・脇が縫いふさがれている男子用和服。古くは僧衣の「直綴(じきとつ)」で、室町時代、下級武士の着た脇を縫った素襖(すおう)のこと。江戸時代には腰から下にひだをつけ医師・儒教者・絵師などの礼服となった。絹・紗などを用い、色は黒に限った。
九月十日
快晴、心地よい暑さ。少し秋めく。
午前、形づけ。文庫校正二台。
正午松山氏に行き、赤飯をよばれ、二時すぎの
列車で帰京。
滞在中殆んどよい天気、裸で陽光をあびて、背
面と腕と栗饅頭の皮のようになる。
壱月壱日
昨日東京発、天津に泊り、今朝清澄山で日
の出を迎えて、正午近い汽車で着いた。
十一時半頃早食事しているところへと濱松の中
山一郎君が来た。入室の件で相談である。食
事しながら話し、正午教室を出かける。池尻
君同行。汽車は千葉仕立なので、そこまで電
車。中山君両国まで同行。千葉行の電車
だったので、乗換なし、千葉着早すぎる。
午后一時十九分発車、外房線は今度が初め
だ。山のなかは至ってさびしい。太平洋岸に出て
海はさすがに内湾よりはよいと思ふ。畑地の砂
や砂丘が畑になっているのも面白い。五時少し前
に天津に着、中屋に行く。二階からの眺めもよい。
車中の凱旋兵の一行あり、酔っぱらって、千鳥足
で下車、駅前には出迎の村人達雲集。ちと
珍奇な風景。天津で下車した連中で酔って
居るのがあり、野性そのものの声で呼び話す。心
地よくない。
宿に数人の一団飲みに来る。更に二三人の一団
来りたるらし。
八時頃、四時に目ざましをかけて寝る。別館
から、酔払いの歌声がきこえる。其等の退却で
目がさめる。十二時。
目ざましが鳴るまで眠浅い。
起床、洗目、四時半出立。握燈を一つもつ。
全然人にあはず。山上まで一里二十六町とい
ふ。頂上近くなって少しあかるくなる。そしてお
寺の大鼓の音がドーン、ドーンと聞えて
来た。急ぎ足で行く。
本堂には電燈が一つつき、あかるく、扇太
こをたたいて歩っている人が一人境内にある
ことがわかる。洋服の青年一人余等に先
んじて上堂。
堂を下ると寺の人が一人登って来た。お早いお参りでといふ。お
守を戴けますかといふと、どうぞといふ。戻っ
て其を求める。だいぶ明るくなった。
旭ケ森に行って日の出をまつ。池尻君さる
また一点になって、駆足と体操をやる。
水平線に雲あって、やや迷惑。万歳、々々、
日本帝国万歳。頑張れ、々々と叫ぶ。
少し下ったところで日が雲から出る壮観、々
々。
帰り途も存外時をとって宿に帰ったら八時だ
った。風呂をあびる。陽光極めてうららか。ぽ
かぽかする心地。雑煮。
十時七分の列車で出立。正午前着。
風呂がわかしてある。汽車弁で中食をす
ます。
松山氏訪問。夕食の材料の野菜を貰っ
て帰る。益田鈍翁の話いろいろ。
午后から日かけかげって少し寒し。明日の天
気面白くなさそうなり。
夜食雑煮。
※中屋・・鴨川市の天津にあった旅館。小泉は昭和十三年五月七日の日記でも「教室の春の遠足」で、天津に行き中屋に泊まったと記している。
※山上 旭ケ森・・鴨川にある清澄山のこと。清澄山には、日蓮が立教開宗をした清澄寺がある。日蓮は一二五三年に太平洋から昇る朝日に向かい経を唱え立教宣言をしたといわれる。この場所は旭ケ森と呼ばれている。小泉は清澄山麓の宿中屋に泊まり、清澄山の旭ケ森に初日の出を見に行ったのである。現在も清澄山は初日の出の名所として賑わいをみせる。
※益田鈍翁 ・・益田 孝(ますだ たかし・一八四八 - 一九三八)実業家、茶人、男爵。草創期の日本経済を動かし財界の頂点に立った実業家。明治維新後世界初の総合商社・三井物産の設立に関わり、日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した。茶人としても高名で鈍翁と号し、「千利休以来の大茶人」と称された。不白流川上宗順に就いて茶道を学び、大師会・光悦会などの大茶会を催すなど茶道復興に大きく寄与した。茶道具をはじめ、仏教美術・古い筆などの蒐集や、小田原隠棲後の懐石研究でも知られ、数奇者として名高い。昭和十三年没、九十一才。
松山は昭和八年に遠州流小堀家の委嘱で「茶道四祖伝註解」を刊行し、これを益田に贈ったことを機に書簡の交流が始まったという。益田はその書籍を称えると同時に、現代の茶会も記録して後世に伝えてほしいなどと文をしたためた。益田と松山はその後二十三年間ほど、月に二、三度ずつ書簡をやり取りしたという。益田は松山の人柄と学識を尊敬し、書簡には大博士と記したという。年に三、四回は松山を自身が小田原にかまえた別邸「掃雲台」にまねいたが、自身の研究に支障をきたすものは潔く断る性格の松山は、これを拒んだ。
また、益田は松山が保田で取り組んでいた著作「津田宗及茶湯日記」に対し刊行後援会に名を連ね金銭的な援助も惜しまなかった。この後援会には文学者の谷崎潤一郎、帝国美術院長の正木直彦ら各界一流の十六人が参加した。谷崎は松山が府立一高教師のころの教え子であった。正木は同書の序文を記したほか、明治四十四年の夏には保田の大行寺に滞在し家族と西条八十らを含む一行と鋸山を訪れている。
松山と益田の書簡にはこのようなやり取りがあったという。
安房相模波は幾へに隔つとも 富士を翁が面影にして (松山)
安房人は呼べども来らず相模山 うらみてのみも立ちわたるかな (鈍翁)
参考:『鈍翁・益田孝 下巻 白崎秀雄 中央公論社』『茶人の研究 末宗廣 思文閣』『房総風雅史 小倉光夫 思文閣』
壱月弐日
夜雨の音が高かった。
朝ねして八時起床。雨はやんでいたが、波が大きい。
そのうちに晴れて来て、白い富士が美しく現らはれ
る。勘七のおっかあ あん餅をもって来て呉れる。
初子来る。
午后、池尻君と吹き落ち瓦の始末、ユッカの根分け、
すぎ等の手入。ポプラの枝切り等。
温かい。
中谷宇吉郎氏の手紙、日本評論社より、河合栄治郎
氏名義の手紙、「学生と読書」等初子持来。
※河合栄治郎・・かわいえいじろう。第二次大戦前に活躍した日本の社会思想家、経済学者、自由主義知識人。東京帝国大学法学部を首席で卒業後、農商務省に入省。五年同省で仕事をしたのち退官し、東京帝国大学助教授となる。
※学生と読書・・編者が河合栄治郎の本。学生に対して本の読み方や意義などについて書かれた文章が収録されている。小泉は、「読書・購書」というタイトルで寄稿している。
壱月三日
池尻君午后二時すぎの汽車で帰る。
買物に保田に行き、帰り途に松山氏に立寄り、
支那人名辞書で包孝粛を調らべてみつかる。
萬日大年表にも出ていた。宋の人だった。明を調ら
べていたのでみつからなかった筈なり。
昨日から科学の原稿「秦佐八郎」を書き上げて
池尻君にたのんで東京で投函して貰ふ。
中谷君に礼状。
※包孝粛・・包拯(ほうじょう)は、中国・北宋の政治家。字は希仁、廬州合肥の出身。真宗咸平二年(九九九)に生まれ、仁宗嘉祐七年(一〇六二)に六十四歳で死去した。諡は孝粛。包公、包青とも呼ばれ、中華圏では子供から老人まで、あらゆる世代に知られた人物。
※科学・・岩波書店が発行していた雑誌『雑誌 科学』の事。昭和六年、石原純、寺田寅彦らの発案により科学界と社会を結ぶ雑誌として創刊。小泉は創刊時からの編集員として携わった。
※秦佐八郎・・秦 佐八郎は島根県出身の細菌学者。伝染病研究所に入り北里柴三郎に師事。明治四十年、当時難病であった梅毒の特効薬サルヴァルサンをドイツのパウル・エールリヒと共に開発し、多くの患者を救ったことで知られる。慶大教授。
壱月四日
午前に初子と勝山に行く。炬燵を買ふ。
そば屋で食事、港を出てぶらぶら帰る。納豆を
買ふ。
「種の起源」の旧譯稿の手入れ始め。
※種の起源・・小泉は一九三九年(昭和十四)に『チャールズ・ダーウヰン「種の起原」上巻』の改訂版(岩波文庫)を著している。オリジナルは一九二九年(昭和四)に岩波書店から出版されたもので、日記の「旧譯稿の手入れ」とは改訂版のための作業であろう。
壱月五日
寒い。曇。
朝から「種の起原」旧稿手入れ、夜中まで勉強してだい
ぶ進行する。
町に買ひものに行く。
夕方、風が更はって、小さい雲がとぶ。
夜九時、白雪が坂の上を白くしている。亀島が雪
空にぼんやりしている景色がなかなかよい。
壱月六日
甚だ寒い。井戸のポンプが氷りついていた。
終日、「種の起原」
夜、松山氏訪問。昨夜より高橋龍雄老
来泊中。両老共に今年七十歳となる。
月まん円く、空気すみ。この上もない寒月。
※高橋龍雄・・明治元年~昭和二十一年。慶大教授として国語、国文学を教えるかたわら、茶道の研究に打ちこみ、「大正名器鑑」作製事業の推進役を果たした人物。茶号は梅園といった。明治三十一年、国学院を卒業。大正二年以降茶道に傾倒。大正末期には茶人・箒庵(高橋義雄)とともに「大正名器鑑」の調査、編集につとめた。主著は「茶道」 (大岡山書店、 昭和四年)
参考:『「日本的」美的概念の成立(二)-茶道はいつから「わび」「さび」になったのか?-』岩井茂樹著
壱月七日
快晴。朝氷る。後至って暖。
前の海でぼら漁。あまり多からず。勘七岸で八匹
ついて大漁の由。
四時すぎの汽車で帰京
種の起原の仕事仕上げ。
三月二十七日
昨日は戸張君の結婚式にて、今日来保不能。松
林、福岡両君に来て貰ふ。
四時すぎ起床。トーストと紅茶をゆっくりやって、出
立。五時駅を出る。まだ暗い。乗客上下ともだい
ぶあるのは案外。四谷あたりで明るくなり、両国
駅のホームで真赤なお日様のあがるのを見る。
六時五分発。昨日の少しの疲れと、眠不足で、
車中だいぶ寝る。木更津で弁当。八時四八分
着車。
九時半頃から終業式。賞品授与。
午后写真撮影。
六畳の日あたりで一時間ばかり眠る。よい気
持ち。
夕方松山氏訪問。
細い月、静かな海。
海に妙なものが沢山いるといふので見に行く。大き
い「うみうし」
小堀氏「大数学者」読み出す。
※小堀氏「大数学者」・・昭和期の数学者、数学史研究者の小堀 憲(こぼりあきら一九〇四-一九九二)の著作。三高教授、京都大学助教授を経て、昭和二十四年教授に就任。退官後、四十二年京都府立大学学長、四十六年京都産業大学副総長を務めた。著書に『大数学者』『過物語数学史』『十八世紀の数学』がある。
三月二十八日
曇、無風、割合に暖かし。
午前保田に散歩、お寺を一廻はりする。時々
小雨が来るが、空はからりとしている。
午后ひる寝一時間ばかり。庭仕事夕暮まで
やる。
鳶がとび、磯ひよが来る。
学校の男児、掃除をして呉れる。
「大数学者」読了。
「ふた」を地に伏せる。生えるや否や。
三月二十九日
晴。気持よき天気。
午前ポプラ刈り込み。
昼食して遠足に出かける。勝山まで歩って汽車
那古で下車、観音参り、崖の観音に参る。
バスで富浦へ、徒歩若干、バスで帰る。
夕方和田前校長来訪。夕食にまねぎ、十時
まで話して帰る。高橋氏も来談。
勇公に月見草の移植をさせる。
※高橋氏・・吉浜小学校教諭・高橋忠治氏かと思われる。昭和九年四月から十九年四月まで赴任。
三月三十日
晴
今日は午后松崎君母堂の告別式、家中村家の結婚
披露あり。帰らねばならぬ。
九時三十何分かの汽車でたつ。
※家中村家・・「中村家」の誤りか。「中林家」とも読める。
七月二十日
支那行きのため、今年は来保不能と思っていたが、
東京発二十七日と決定して、五日間来ることにした。
八時すぎの汽車で来る。同行なし。
汽車の窓から山百合の美しいのを見る。
福岡、村上、鈴木、関の四君汽船にて先着。
木が茂っていて愉快、やつでまことに景気がよい。
蜜柑も大そうよくなっている。
今年は草木にまことによかったらしい。
午后松山氏を訪ねる。
東京よりはよほど涼しいらしい。
四五日頃月美しく出る。
※支那行き・・日中戦争の時局上、小泉は中国での熱帯病研究の要請を受け、慶応義塾大学の研究者らとマラリア研究に赴いた。これには松林久吉も同行している。(随筆 『眉毛眼上集』に詳しい)
七月二十一日
晴、連日雨なき由にて地面ポカポカなり。
船にて吉賀、品川、朝隈三君来る。
聖上陛下連合艦隊御観閲。御召艦等十時頃
行き、五時頃お帰り。
戦艦館山より出て来りて皇礼砲を放つ。
終日何回も戦艦沖に来る。航空母艦も通る。
福岡、鈴木、村上、関の四君夕方帰る。
月美し
※御召艦・・おめしかん。天皇陛下や皇族が乗る戦艦のこと。
七月二十二日
朝、土も草も湿っていた。小雨でも降ったのかなと思ふ。
そのうちに降って来て、やがてザーと来り、間もなく
晴れる。よい気持。水平線に頗る低く虹が出
る美しい。
飛行機が三四回来って、馬鹿に低くとぶ。
河出書店への「知性」の原稿やっと仕上げる。
初子から葉書、伝送の手紙三本。河出書店、
文芸春秋社、井田正二氏のもの。
鳴海、猪俣、中島君船で来る。午后中山一郎君来
る。吉賀、品川、朝隈君帰る。
今日は防空演習の予行演習だといふ。吉浜の海岸
でおっかあ連中の演習が行われている。
夜の汽車で戸張、田辺、武部、関根君来る。
山中君終列車で帰る。
※知性・・河出書房から発行されていた月刊総合雑誌。哲学者の三木清、小説家の豊島与志雄、文芸批評家の中島健蔵らを編集顧問とし、三木清の『哲学ノート』などを連載、学生、知識人から新鮮な印象で迎えられたが、言論統制の進行するなか一九四四年八月号で終刊となった。
※吉浜の海岸でおっかあ連中の演習・・地域住民が参加した防空演習のこと。防空演習とは空中からの攻撃にそなえて行う実地訓練のこと。
昭和十二年(一九三七)四月、防空法が公布された。この法律は、航空機開発の進展にともない各国が航空戦力を増強しつつあった当時、空襲がおこなわれる可能性があることに備え制定されたもの。その後同年十月一日の防空法施行に伴う防空法施行令公布施行などにより防空に関する法制度が整えられた。昭和十三年(一九三八)には空襲の可能性が高まる中、国内では防空活動への準備がすすめられていった。
防空演習は、地域の「隣組」単位での参加が主で、内容は、敵機が来襲し、焼夷弾が投下された事を想定した訓練などが一般だったという。吉浜の海岸でも、防火衣に身を包んだもんぺ姿の女性たちがバケツリレーでの消火や、けが人の担架移送の訓練をしていたのかもしれない。
七月二十三日
松林、石氏、金子君来る。
正午十二人にて会食、壮観なり。
亀ケ崎に散歩に行く。水たまりの岩凹に「はぜ」を
入れてぼうふらを喰わせる。
武部、中島、鳴海、猪俣、石氏君来る。
夜花火をあげてさわぐ、松山老夫婦も来る。
朝の汽車にて戸張、金子、田辺君帰る。
松林君と二人夕刻の汽車で帰る。
勇公来りて戦争の話をする。
十月十日
初子、潤子と三人で来る。
八時両国発。曇り、途中で小雨。
樹木、草茂り居る。
先日来、松山老胃淡痬にて臥床中。案外元気なり。
ハックスリー訳少々。
汽車中よりモーテーニュ伝読み始め。
夜月なし。蟲の声少なくてさびし。
※松山老胃淡痬・・胃を患った松山は、昭和十七年に保田吉浜日影の自宅で逝去した。息子松山亥三雄は「折から満天を彩る夕照のもとを、里人の曳く車で鋸山山麓の葬場に運ばれた」と追悼している。享年七十三歳、東京青山墓地に葬られた。晩年の一句。
「程もなき我が世あくとも後の世の 世にまで残れ有明の月」
※ハックスリー・・トマス・ヘンリー・ハクスリー(一八二五 ‐一八九五)はイギリスの生物学者。「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名で知られ、チャールズ・ダーウィンの進化論を弁護した。小泉はこの人物の著書『科学談義』を翻訳。昭和十五年の六月十八日に岩波書店から出版している。
※モーテーニュ・・ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(一五三三- 一五九二)は、十六世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者。
十月十一日
晴。久しぶりの晴天だといふ。
午前三人で亀が崎に散歩する。
軍艦が通り、蛸壺をあげている舟がある。みんな
空である。
午后一時間ばかり昼寝。
勇次郎来る。採血。昨日より服薬始め。
臼屋と二人で垣を竹で造る。日没までかかって仕上
げる。材料は大望で使用した太い竹。なかなかよ
く出来る。
ハックスリーの仕事可成りやる。
モンテーニュ伝を読む。
十月十二日
終日雨。夕刻より暴風の景色となる。但し風あ
まり強からず、低気圧の中心、遥かに太平洋中を過
ぎ居るといふ。
午前松山老を見舞ふ。
ハックスリー訳稿の仕事。
モンテーニュ伝を読む。
渡部良吉君より明日来保の電報。
※渡部良吉君・・早稲田大学卒の出版人。岩波書店社員の渡部良吉氏のこと。謡(うたい)にも精通した人物だった。同社が読書人向けに発行した月刊雑誌『図書』の編集を担当した。同僚には、後に同社の代表となる小林勇や日本出版学会を創立した布川角左衛門らがいた。昭和二四年には、小山書店の小山久二郎を中心に、日本評論社の鈴木利貞、白水社の寺村五一、河出書房の河出孝雄、筑摩書房の古田晃、創元社の小林茂、有斐閣の江草四郎、ダイヤモンド社の石山皆男などの出版人らとともに「BOOKSの会」を結成。この団体は機関誌や当時の文化人一二〇〇人の住所録が記載された手帳を発行するなど、会社の垣根を越えて日本の出版界の向上や発展を下支えする役目を担っていたと思われる。
渡部良吉氏は小泉丹と公私ともに関係が深く、小泉丹没後に妻の初子が自費出版した遺稿『馬留胆抄』のあとがきには、渡部良吉氏と小林勇氏の好意によって出版することができたとある。息子の渡部汪氏は、小泉家の長男として一時期養子に入っている。同氏は現在も妻の三沙氏と滴水居に避暑に訪れており、著者の調査に協力をいただいた。渡部汪・三沙夫妻の仲人は小林勇がつとめたという。
能楽「宝生流」の、ある一派の一番弟子であった渡部良吉氏は、母校早稲田大学の能楽同好会で、学生に謡を教えていた。また、仕事を通じて知り合った画家の有島生馬にも教えていた。息子の汪氏も幼い頃から父から手ほどきを受け、子役として能楽の舞台に立っていた。「なんでも興味を持ち、何事も納得するまで理解することが大切だ」というのが父の教えだったという。
十月十三日
嵐のあとの快晴。
藤棚の仕事をする。裸で丁度快適。
渡部君来る。
昼にビールを一本ぬいて、多愛もなく酔って寝る。
今日はお会式だ。近所の家々で御馳走が出来
て、赤飯、寿司などもらふ。
夜に入って萬燈を掲げて太鼓を打って二組みが
来る。至ってさびしいが、よい光景だ。
渡部君泊る。
十月十四日
晴。
ハックスリー訳稿勉強。夕食後までに大体終る。
夜松山氏へラジオを聞きに行く
夜モンテーニュ伝読了。
十月十五日
朝霧が海に深い。沖の汽船が交々汽笛を吹く。
陸は心地よい秋晴。蟲の声家をめぐって賑やか。
九時半の汽車で帰京。
一月六日
三日に吉村家慶事。ために年末年首滞京。
二日無事なりしにより、今日保田に来る。
美馬、中山、佐藤三君と同行。
不定期列車と知らずに八時五〇分発に集会。十時
五四分で立つ。〇時半頃着。
晴天。晴天しばらく続いている由。物みな乾燥してい
る。
午后風が出てて、だいぶ強い。
夜食に酒を二合飲み、甚だしく酔ふ。
水滸傳を読み始める。
十一時頃火事だと火の番が呼ぶ。戸をあけてみると勝
山の空が少し明るい。そのまま寝る。
雨の音がする。
※吉村家慶事・・小泉家二女の熙子氏と湖沼学者・吉村信吉氏の長男、吉村信敏氏の誕生の事。小泉丹の初孫である。
一月七日
晴天、無風。甚だ暖気。
午前ハックスリー訳稿若干。一同で松山氏訪問。
午后、勇公来り、武勇談一席、そこへ松山氏老夫婦
来訪。碁石山を登り一廻りする。
夜食に七草のおかゆを作る。上出来。
夜水滸傳を読む。
一月八日
終日烈風、方向少しく斜にて、家にはあまり当らねど、勢な
かなかすさまし。海面一面の白波
昼食時松林君来る。
午后、妙本寺に行き、大鼓打山に登る。松を吹く風の音
すさまじ。頂上は風至って無し。崖を吹き上ぐる風流甚
だ強く、其に打ついて風はとまるらし、少し上方の風の強い
ことは見事。棒を投げ上げたりしてあそぶ。
亀ケ崎の白波を見て、其を見に行く。橋を渡るのに吹き
飛ばされんず力なり。岬は飛抹の雨、とても鼻には出ら
れず岩に偲び上って顔だけ出して眺める。
美馬君、佐藤君八時すぎの列車で帰京。
一月九日
今日は雪。朝からハラハラと降って美しい。
勘七の息子入営出発。お社の式に行って送る。入営團
者合計十二人。社内に團隊、個人など多数、雪が可なり
盛んに降る。但しあまり非壮な観も起らぬ。
帰り途に松山氏に立寄る。残月庵で炉に柴をたい
て御馳走になる。
帰って炉を形づけて焚火をする。けぶたいがよい気持、
そとは雪がサンサンと降る。
中山君夕方の汽車で帰京。
校長、高橋先生来談。
温い湯に入って風邪をひきそうになる。但し無事。
※お社の式・・軍に応召された人々を送り出すための式典。お社とは保田神社のことと思われる。
※校長・・吉浜小学校校長、石井松太郎氏のこと。昭和十三年七月から昭和十七年三月まで赴任。
※高橋先生・・高橋忠治氏のこと。昭和九年四月から昭和十九年四月まで赴任。高橋先生は前年の三月二十九日の日記でも滴水居を訪ねている。
一月十日
晴天なれど寒い。朝は二度位であった由。今年冬
最後の寒気だといふ。風も少しあり。
空全く晴れ、三浦半島の方三段となって見え、富士も
函根も美しく見ゆる。天城も見え、其が続いて見ゆる。
海はうねりありて、紺緑美し。
午前大六へ用達しに行く。勇次郎方の子牛可笑らしい。
長岡氏昨日来訪の由なりし故、戸口まで挨拶に行く。
午后ハックスリー論文訳終り。
夕方より風強し。
長岡夫人百合の煮ものと「ふき」の煮たのを持って来らる。
夜松山氏へラジオを聞きに行き十時帰る。
今日は風呂を少し熱い位にして置いて浴する。
床のなかで「水滸傳」
※長岡氏・・鱚ケ浦の長岡氏のこと。明治、大正期に中学校高等学校の教授をつとめ、英語教科書の編集者でもあった長岡拡(ながおかひろむ)は、大正十二年に鱚ケ浦に土地を購入し、昭和三年ころに同地に別荘を建てたが、その二年後の昭和五年に亡くなった。この家は、娘の女優長岡輝子ら兄弟に愛され、憩いの家として機能した。長岡は土地を購入する前から夏に鱚ケ浦の民家を借りて避暑に来ていたという。長岡は松山吟松庵ともに大倉商業学校の教師をしていた事があり、その縁から鱚ケ浦に来ていたという。滴水居に訪ねてきたのは、長岡拡の妻か家族だろう。
一月十一日
晴天、あたたかし。
午後四時すぎの汽車で帰る。
三月二十七日
二十五日朝北支三十余日の旅から帰る。今日の小学
校の卒業式に来ること不確実であったが、やはり
来ることにする。
二十五の午後学校に行き、翌日まで種々の用件
を処置する。話に上海から清水君上京し居り。
両日とも会談、二十六日夜は松崎、松林両君とすえ
ひろで夕食を共にする。
二十六日朝、初子潤子と伊勢丹に行き賞品を
買ふ。
四時少しすぎに起床、五時に家を出て、一番列
車に乗る。初子同道。
天気よく、無風、あたたかし。
十時から卒業式。終って賞品授与。
午后松山老をよびにやって記念撮影
松山氏に行き、「劉向新序」を借りて来て読み
出す。
※北支三十余日の旅・・支那事変から戦局が発展するにつれて戦地の衛生は軍の保健課題となった。小泉、松林らは、軍の要請により慶應義塾医学部より中国大陸にマラリアの現地調査に赴くことが増えた。昭和十四年は年末から華北の調査に行っている。
※劉向新序・・中国前漢末政治家、学者の劉向という人物の書で、故事や説話を集めた書物。
三月二十八日
今日は久しく風あり。
植木の移動など。
夜松山氏を訪問。九時すぎ帰る。
アノーフェレス蚊翔び居るのを捕える。
※アノーフェレス蚊 ・・熱帯病マラリアの媒介虫。小泉は大正三年から約十年間赴任した台湾総督府中央研究所で、マラリアを中心とした熱帯病研究に従事した。また昭和十六年に出版された随筆集の『眉毛眼上集』の短編「マラリア」で「私は、三十年来マラリア病の仕事に縁をもつて来た」と記している。
三月二十九日
朝ね。入浴。
保田に散髪に行く。帰ったら正午。
晴、無風。但し沖曇る。
大砲の音が一しきりする。軍艦の演習だという。
松山老来訪。
裏山の方を散歩する。
三月三十日
晴、無風。
八月九日
中村敬孝君脳溢血にて倒れ、翌日空しく永眠。本日青
山葬場にて葬儀。一時から葬儀、三時まで告別式。
式終って急ぎ教室に帰り、初子に来ていて貰って、
服を更へ、支度をして信濃町駅にかけつける。
永山君と南摩君と同行。四時二〇分の列車にうま
く行く。
千葉で小さい雨らしいのが降っている。木更津付近
に来て、傘をさして自転車にのったのが多く見ゆる。
保田に近づいて本降り。
自動車なし。急遽によびに行って貰ったが、なかな
か来ない。その時ドシャ降りが来る。
やっと車があって来る。
勇公来て居り、戦争談十時までやる。
八月十日
八月十一日
八月十二日
今日はからりと晴れた。
品川君、若林君正午頃汽車で来る。
石氏君、猪俣君、石川君帰る。
保田臨海保健所宿泊日割
日
九 金 永山 南摩
一〇 土 永山 南摩 関 中島 呉 戸張
一一 日 永山 南摩 関 中島 呉 戸張 猪俣 石川 石氏
一二 月 猪俣 石川 石氏 若林 品川
一三 火 若林 品川 中山 木下 松林
一四 水 中山 木下 松林 高橋
一五 木 中山 松林 関根 太田
一六 金 関根 太田
※保田臨海保健所・・保田の別荘「滴水居」の事を指すのか否かは不明。記されている名は小泉が主宰する慶大寄生虫学教室の学生と思われる。小泉丹の孫、横井朝子氏によると、別荘は学生たちが研究する場として建てられたと聞いているという。推測だが、小泉は保田の別荘を寄生虫学教室の学びの場としても使っており、その呼び名が「保田臨海保健所」だったのではなかろうか。
※南摩・・南摩文綱のこと。会津藩士で教育者の日本弘道会を作った南摩綱紀の孫。昭和十二年に小泉の主宰する慶応医学部の寄生虫学教室に入室。その後軍医として活動した。(弘道九二五号より)
八月十三日
八月十四日
晴。
木下君来る。
町に買ひものに行き、そのうちに船早く着いて
木下君来ていた。
夜流星煙火をやる。一発屋根うらに当ってぐる
ぐる廻って床下に入り、大奇観。大いに笑ふ。
明朝鋸山に登ることにする。握り飯をつくり、食
物の用意などして、少し早めに寝る。
※煙火 ・・花火のこと。
八月十五日
四時少しすぎ目ざまし時計で起床。晴れている。四時半
出発。山の七合目以上位は白雲だ。登山の一行がぽ
つぽつ行く。丸やけの薬師堂、本堂を通ってやや登
ると霧のような雨のようなもので、冷たい位。大きい
虹が出る。対岸は見えない。頂上は少し寒い位。朝
食甚だうまい。
下山は大仏様のコースを下る。草が深い。小学校
の登山などあって、可なり人が多い。
例によって海岸に出て、砂上で鑵づめの梨子を食
ったりして帰る。納豆を買ふ。
松山氏に立寄り帰宅。
午后松山老茶器持参にて来訪。栗原孝太郎
といふ男作の大茶碗にてお茶の馳走をして帰る。
木下君午后早く帰る。中山君船にて帰る。
太田君と関根君と来る予定のところ、遂に来ら
ず。
月美しく照る。
※丸焼けの薬師堂・・一九三九年(昭和十四)、鋸山では登山者の過失による山火事があった。この火災で同山にある日本寺の仏像や本堂を含む建造物などの文化財が焼失した。その後、すぐに復興計画が立てられたものの、戦時にともない鋸山が軍の要塞となったことや、その後の国定公園指定化、援助者の死去などにより復興が遅れ、現在に至っているという。小泉の記した薬師堂は平成九年から平成十九年にかけての復元作業で再建された。二〇一七年現在、日本寺は本堂の新築と周辺施設を建設している。
八月十六日
午前中に初子来る。
汽船で高橋、松林君帰る。
八月十七日
八月十八日
潤子と大五郎君と来る。
※潤子と大五郎君・・小泉丹、初子夫妻の二女の潤子氏と、美術史家で大学教授の澤柳大五郎氏のこと。二人はこの日記から約半年後の昭和十六年二月に結婚する。
八月十九日
大五郎君朝の汽車で帰る。
八月二十日
八月二十一日
朝の汽車で帰京。
十月二十八日
午前九時五四分の汽車で立つ。
松林君、高橋君と同行。午后一時着。
両君二時から四時まで釣って九尾をあげる。
風で可なり荒れている。
「かいず」釣り可なり居れど多からず。
床に入りて雨の音をきく。
可なり降った様子。
「伊沢蘭軒」を読み始める
※伊沢蘭軒・・伊沢蘭軒(いざわらんけん 安永六年 ‐ 文政十二年)は江戸時代末期の医師、儒学者。森鴎外は蘭軒の伝記を記している。
十月二十九日
回虫の論文仕事始め。
夕刻両君十二尾を釣る。
松林君と食料買ひに町に行く。
松山老夫人一寸来訪。
高橋先生大豆をもちて来らる。
※回虫論文の仕事・・十一月三日まで、数人の教室生らとともに連日回虫論文の仕事に取り掛かっている。小泉は、寄生虫学者、進化学の紹介者、著述家などの多面的な活動をしたが、回虫の毒性や生理についての研究は、慶大教授に就任してから亡くなるまで休むことなく約三十年間続けられ、主宰する同大医学部寄生虫学教室の学生らとともに、生涯取り組んだテーマだった。昭和十九年には小泉一門が長らく取り組んできた研究の成果をまとめた『蛔虫の研究』(大日本出版)を著し、高く評価された。
※高橋先生・・吉浜小学校教諭・高橋忠治先生。昭和十四年三月二十九日と昭和十五年一月九日の日記にも記載あり。
十月三十日
宮坂、美間、松林君来る。
松林、高橋君帰る。
とろゝ飯をやる。
高橋君本日収穫なし。
回虫論文の仕事
十月三十一日
中山、周君来る。
宮坂、美間、松林君帰る。
宮坂君土産の自然薯のとろゝ飯。
両君と松山氏を訪う。
回虫論文の仕事
十一月一日
品川、川上理一君来る。
周君帰る。
回虫論文の仕事
十一月二日
南摩、中島、佐藤、桜井君来り。遅れて猪俣君来る。
中山、品川君帰る。川上君朝帰る。
回虫論文の仕事
十一月三日
夜の間に雨が降っていた。
東の丘の上の空に灰色の雲が小さい魂をなして撒いたよう。
海上は一面の深霧。汽船が霧笛を鳴らしている。そ
のさまざまな音が面白い。
波はまるでなく、魚は釣れぬ。
十一時初子来る。
回虫論文の仕事終り。
十一月四日
昨日までで樹の形づけ。嵐のあとがそのままにしてあった
のを始末する。膝が少々いたくなった。
百姓は忙しいといっている。
もう二、三日で稲の取入れが終る。
平年作までは、今年は行かぬといふ。
実を落す器械の音がきこえて、新藁が吊された景
色は秋らしくてよい。
午后松山氏訪問。
夜化学の勉強。
十一月五日
朝の汽車で帰京
一月二日
元日は今年は年賀には出ぬことにして在宅。朝氷川
神社に詣でる。
例年の通り、今日保田に来る。三十日の朝に吉村信二氏
狭心症を起し、今日来保可能疑はしかったが、幸に
して落ちつく。
松林君、鬼頭君、森川氏同道。支那関係のカード整
理をする予定なり。
教室に集まり、九時五四分の列車にて来る。
学割券使用少しくやかましくなる。
晴天、〇時四五分着。
松林君と二人で松山氏訪問。町に行って食料品を
買ふ。夜食―
※吉村信二氏・・湖沼学者、吉村信吉氏(小泉二女、煕子の夫)の父親のこと。古河鉱業の重役を務めた人物だった。
一月三日
晴天
朝―あさり味噌汁、うまし
午前、権現山に登る。町で食良品買込み
昼食―とろゝ飯。山の自然生なり。
午后、妙本寺詣り。
夜食、沖すき。裏から赤飯と寿司を貰ふ。
夜なべにカードの仕事、十一時寝る。
一月四日
晴。
朝―あさり味噌汁
早朝鬼頭君帰京
午前勝山にぶらぶら行き正午帰る。
午后松山氏訪問
汁粉をする
夜食焼き魚
夜カードの仕事。
十一時臥床
一月五日
午前曇り。朝寝。
午前中カードの仕事
午后佐久間村方面へ大廻りの散歩。境の峯を今日始
めて越える。晴れて静かでまことによろしい
夜十時までカード仕事。一段落。
夜食雑煮。
※佐久間方面へ大廻りの散歩・・滴水居のある鱚ケ浦から佐久間村へ向かう最短ルートは、大六村の妙顕寺奥の低山を越える道で、およそ三十分で着く。これに対し、現在の水仙ロードの続く保田の江月地区の奥から低山を越えると約二時間。大廻りの散歩とは後者のルートであったと思われる。
一月六日
晴天。朝ね。
午后二時すぎの汽車で帰京。
長左ヱ門のモルモットを買ってやる。
赤飯と寿司をもらふ。
※長左ヱ門・・滴水居東隣の家。
三月二十六日
初子と同道、正午すぎ着、
自動車がなくてこまる。
「眉毛眼上集」校正、車内で始め、夜までに再校五
台分、初校二台分終る。
習字点つけ。
今日は晴れ、あまり暖かならず。
※「眉毛眼上集」・・小泉の著した随筆集。昭和十六年五月三日、改造社より発行。同書の序文は「昭和十六年三月三十日 連日の校正を終って保田滴水居にて記す」と結ばれている。
※習字点つけ・・吉浜小学校の児童たちの書いた習字の採点。
三月二十七日
朝雨が降っている。
九時すぎ学校卒業式始まる頃からカラリと晴れて
よい天気となる。
式の次第例年通り、式後小会も例年の通り、
午後写真をとる。
大雨来り夕方から大風。夜半に至るまで吹く。
校正、初校四台分。
三月二十八日
晴れ。
初子と勝山入口の金物屋に買ひものに行く。
校正初校四台分。
夕方、書留便にして改造社に発送。
勇公等三人、植樹もち四本。夜までかかる。
三月二十九日
午前校正
午后になって、昨夜泥棒の入りたるを発見。
被害、屋根カバン、初子の黒革カバン、外套、
羽織、初子のガマ口等。
交番に行き、巡査来る。
書留便校正改造社送り。
夜八時すぎまでで校正終り。四一〇頁。
三月三十日
曇って寒い。
午后二時の汽車で帰る。
卒業式、校正泥棒被害、これ以外にはない。特別
な保田滞在であった。思い出になるだろう。
十月二十七日
今年の夏は時局情勢上、保田の家使用を停止し
た。家族其他がだいぶ不服だったが、断然実行した。
初子が十月になって一度来て掃除屋なんどをした。
東条内閣成立。時局は決定的な方向に進むこと
と期待されることになり、少時の休息も不合理でな
くなったと考へ、釣りの保田をやることにした。二十五日
で防空演習が終り、一日置いて今日から始めた。
十時の汽車で、松林、宮坂、村瀬三君と来る。
快晴。竹岡あたりから、列車のブラインドをしめろとい
ふ。
米は勇次郎方から新穀を届けてくれる。
「けいづ」は今日はまだ来ない由。それでも村瀬君
が一尾あげる。
月が美しい、八日頃の太さである。
植木が茂っているのが愉快である。
校長先生が話に来る。
※東条内閣成立・・・対英米の戦争を開戦した内閣。東条英機首相が陸・内相を兼任した。十一月五日御前会議で開戦を決定、十二月八日の真珠湾攻撃をもって開戦した。
※列車のブラインドをしめろ・・国内に戦争色が濃くなっていく中、明治期から帝都東京の要塞地帯であった房総半島では、一般人の乗る列車でもブラインドを下ろすよう指示があったり、観光絵葉書の販売や発行には検閲が必要になるなど、憲兵による軍機保護が日常的になっていた。
この時期の房総半島、特に東京湾沿岸はそれまでの「避暑保養地」という特徴と「要塞地帯」としての特徴が重なり始めていた。やがて、戦争により、海水浴をはじめとした、大衆避暑保養の文化は下火になっていった。当時、東京郊外に位置する別荘地は疎開の地としても機能していった。
十月二十八日
朝風呂例の如し。
一同で出かけ、長岡氏に挨拶し、大六神社のお祭
りに行く。まだ露店は出ていない。人々はそろそろ
詣りに来る。
海岸に出て亀島で果物を喰ったりして帰る。留守
の間に長岡氏から甘酒と菜清、勇次郎方から赤飯、
が来ていた。勘七のおっかあが寿司と赤飯もって
来る。午后には勇次郎方からまた寿司が来る。
美食々々。
諸君は午后日没まで釣りに行って、鱚を一〇尾あげ
て来た。
草焼きをしていると、武部君が来る。牛肉の土産
をもって。いよいよ美食。
夜食は赤飯。長岡氏の甘酒、何れもまことにうま
い。
校長先生、交代の女先生を紹介に来る。●●のな
い。きちんとしている良さそうな先生だ。
大きい大砲を打つ音が時々する。
夜はお祭りに行って、おでんを喰って、巴焼きを
買はうと話していたが、お祭は夕方でお仕舞
になった。時局柄簡単にするのだといふ。結構な
ことだ。
十月二十九日
快晴。暖。
午前四君鱚十九、こち一尾をあげて来る。
午后、碁石山に登って一廻りして帰る。
夕刻に周君来る。
行き違ひに村瀬君と宮坂君帰る。
訳文訂正、佛●の部
十月三十日
中山、佐藤、松林君来る。
周君、松林君帰る。
十月三十一日
中山等鋸山の方に釣りに行く。
訳文訂正。泰の部始め。
十一月一日
朝七時起床。松林君腹痛ひどいといふ。忠君保
田へ注射薬を手に入れに行く。やがて東京に運ぶ
ことにし、保田へ人力をたのみに行く。車夫沖に行
ったといって不在。リアカーを用いることにする。
注射で痛みとまり。十一時五十分の汽車で立つ。
中山君リアカーを曳く。
途中で初子の来たのに会ふ。
夕刻電報来り、心配なしとある。
訳文訂正、泰の部
ユッカの植更え。
十一月二日
おかっちゃん東京より来る。
※おかっちゃん・・小泉家のお手伝い。昭和十年八月二十五日日記にも記載あり。
十一月三日
快晴。明治節。
校長さんから式に案内されたが不参。
初子、おかっちゃんと午前中亀島の方に行って、
草をとって来る。
訳文訂正、シャム終り、ビュルマ始め。
夜九時まで仕事。
大工が来て呉れて、藤棚の仕事、雨戸の敷居の
修理等一日かかる。裸で藤の手入れをする。
十一月四日
晴。無風
大工仕事の材木、ごみ形づけ、ごみ焼き。
終日、訳文訂正。ビュルマの部。
夜松山老夫婦来訪。八時半帰る。
九時半まで訳文訂正の仕事。
夕刻和田校長一寸来訪。
潜水艦、大駆逐艦、後に戦艦出て来て、廻わる。
「東遊記、西遊記」を来てから続けて読んでいる。な
かなか分量多く、やっと終る。
十一月五日
晴。
朝、訳文訂正の仕事の残り終り。
午后の汽車で帰京。
昭和十六年十二月八日の未明、日本はアメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島にある真珠湾のアメリカ海軍基地を攻撃した。「真珠湾攻撃」である。同日、日本はイギリスとアメリカに宣戦布告をし、日本は太平洋戦争に突入していった。
国内は「ぜいたくは敵だ」「聖戦だ 己れ殺して 国生かせ」などのスローガンが叫ばれ、国民生活は次第に圧迫されていった。物資不足は深刻化し、砂糖、塩、米などは国の決めた量しか買えない「配給」となった。このような時局のなかでは当然国内旅行も抑制された。軍事輸送が増加した昭和十五年には、鉄道省が一般旅客を抑制するために「不要不急の旅行は遠慮して国策輸送にご協力下さい」とのポスターを各駅に張り出した。その後、太平洋戦争がはじまると戦争遂行にそぐわない遊びとしての旅行は抑制されていった。房州方面は、防空決戦の第一線に当たるという事から、昭和十七年には水泳や船遊びなどがきつく制限された。東京湾要塞司令部などから館山憲兵分隊への通牒によって、富浦町の一部で水泳やボート遊びが一切禁じられたり、金谷以南内房の多くの海岸で一定距離以上沖合での水泳や遊びが禁止された。また、鋸山、富山、那古観音などの金谷村から館山にいたる間の名所や高台では、外来者の登山が厳禁され、地元の者でも町内会や隣組長を通じて警察署から交付された許可の木札を常に携帯することが必要とされた。このような木札の着用は、海水浴でも同様であった。太平洋戦争がはじまると、大正期から保養地として賑わった保田の町も静かになったという。主の来訪がない別荘は戦時中、軍に徴用されていたものもある。例えば鱚ケ浦の茨木別荘や大六海岸の結城別荘は、将校の住まい、特攻隊の基地および兵舎として使われていたという。
小泉丹が記した保田日記の原本は、残りの半分が白紙のまま、開戦の約一か月前の昭和十六年十一月五日で終わっている。日記がこのタイミングで終わっているのはどういうことなのだろうか。保田日記の記述と戦時中の仕事の様子から考えてみたい。
保田日記にはこのような記述がある。
「今年の夏は時局情勢上、保田の家使用を停止した。家族其の他がだいぶ不服だったが、断然実行した。東条内閣成立。時局は決定的な方向に進むことと期待されることになり、少時の休息も不合理でなくなったと考え、釣りの保田をやることにした。二十五日で防空演習が終わり、一日置いて今日から始めた。木更津あたりからブラインドを閉めろという。」保田日記 昭和十六年十月二十七日より
情勢から判断して小泉も夏の時点で別荘の利用を控えたことがわかる。戦時中に小泉がどのように別荘を使っていたかは不明であるが、おそらく、開戦後も同じような理由から、別荘の利用をやめていたと思われる。一方で、私が注目したいのは「時局は決定的な方向に進むことと期待されることになり、少時の休息も不合理でなくなったと考え」の部分だ。開戦を予期しつつ、開戦以降に訪れる未来を想像しているように感じられる。
昭和十七年、小泉は還暦を迎えた。小泉にとって、戦時中はまさに個人的な節目と重なっていたのである。小泉は、これより先、昭和十四年ころから、還暦を自祝する事業「還暦自祝版行」というものを計画していた。これは、還暦に際して自らの著作を版行するもので、小泉自身が「内容と容量、双方においてできるだけ賑わしく純粋なものを、絶対に自力の労作で作ろう」と決意して取り組んだものだった。それに加え、この仕事以外の何事もこの機会の行事に加わらないと決めていた。つまり小泉は、元来還暦を記念するこの仕事に専念しようと考えていたのである。
還暦記念版行では全部で五つの著作が刊行された。まずは昭和十六年の随筆集『眉毛眼上集』(改造社)、次いで昭和十七年の『科学的教養』(大日本出版)、『生物體の機構』(中央公論社)、昭和十八年の『日本科学史私攷 初輯』(岩波書店)、昭和十九年の『蛔虫の研究』(大日本出版)である。なかでも『蛔虫の研究』は、慶応義塾大学医学部の寄生虫学教室を挙げて長年取り組んできた寄生虫「回虫」の研究についての仕上げで五百編ほどの大論文だった。
小泉は戦時中において精力的にこれだけの労作を世に出したのだが、さらに他にも着手せざるを得ない仕事があった。それが、戦地での伝染病調査だった。慶應義塾大学医学部六十周年記念誌にはこのような記述がある。
「~当時は日支事変から太平洋戦争へと発展する途上の日本であったから、わが国の医学界ではそれまで関心の少なかった東南アジア或いは中国大陸の種々の風土病の調査研究を陸海軍、或いは社会から強く要請されて教室関係者の海外出張も頻繁であった。小泉は元々原虫類の研究を行った者であり、台湾在住中に現地のマラリアの流行学について精細な研究を遂げ、欧州やアフリカへの出張で世界的なマラリア学にも通じていたのであるから、南方地域の熱帯病の調査研究には我国における最適任者の一人であろうし、小泉自身もその負けず嫌いの性格から自分の専門領域において、日本の勝利の為に大いに力を尽したものと思われる。小泉、松崎、松林ら教室のスタッフは、当時の満州・支那・東南アジア或いは南太平洋へと足をのばして、マラリアとアメーバ赤痢を主とした熱帯病の調査研究を行った。そのためであろうか、当時一時期教室の名称は正式に寄生虫学・熱地病学教室となっている。(中略)昭和十八年八月に小泉は海軍の要請によって、松林および旧教室員中山一郎を伴ってニューブリテン島ラバウルに赴いた。ラバウルは太平洋戦争の最も激しかった地区の一つである。小泉らの到着後、いくばくもなくその地区の戦局は重大の度を強めた為に、予定を切上げて同年十二月に松林、中山の両名は帰国したが小泉は老躯に病を得て、それより一足早く病院船氷川丸で横須賀港に着いた。」
小泉にとって戦時中とは、以前から抱いていた個人的な膨大な計画の実行期間でありながら、なおかつ、戦争に伴い要請された仕事が追加された多忙を極める時期だったのだ。小泉は昭和十六年十一月五日の日記を書きながらこのような未来を予測していたのではないだろうか。集中を極める仕事をすべてをこなすためにも、小泉は「休息」より一層働くことに専念しようと考えたのではないだろうか。
私は、保田日記があのタイミングで終わっていることについて考えたときに、旅行や別荘の利用を控えるという時局上の消極的な理由よりも、むしろ、波乱混乱が想定される自身の人生を予想しつつも、理想を現実化しようと決意した小泉丹の冷静な頭脳と積極性が伝わってくるような気がする。
最後に、『科学的教養』に収録された「還暦自祝の弁」の一部を抜粋する。
「私は来る新嘗祭日を以て還暦の日を迎へる。嬉しい気持である。嬉しいことの一つは年来の健康である。(中略)高校時代から貸費生の貧学生で、卒業と同時に父を失つて、一家を背負はされたやうな境涯にあつた私が、好きな仕事を一日も離れずに、然かも相当の我儘をさせて貰つて続けて来るのを得たといふことは、實にこの上もない幸福である。(中略)私は嬉しく思ふとか、記念するとかいつたが、この時を生涯の一区切りとは毫も考えていない。(中略)十年後、五年後、いやそれどころか来年、来月のこともわからぬのが人間の未来である。働くことだ。働らかう。此が私の還暦自祝の心境である。以上。」
家族の別荘としても使われた滴水居には、小泉丹の妻・初子や、二人娘の熙子と潤子もよく訪れていた。この別荘ができたのは、熙子氏が二十歳、潤子氏が十七歳の頃だった。娘たちは、それまで東京YWCAに出入りしていたこともあって、同団体が運営する長野の野尻湖畔のキャンプや保田の元名海岸の休養所で、自然の中での避暑を楽しんでいたのだった。娘たちが別荘に来た時には、別荘からすぐ近くの笹生家(屋号・権平)の主人に船を出してもらって沖に出て釣りをしたり、岸から遠泳をしたりと、毎夏健康的な日々を過ごし、楽しんでいたという。
熙子氏は昭和十二年に湖沼学者の吉村信吉氏と結婚し、長男の信敏氏、長女の朝子氏、次男の光敏氏をもうけた。信敏氏は東京大学工学部船舶工学科卒業した工学博士で、砕氷船しらせの設計にかかわった。光敏氏は、元千葉県立中央博物館の研究科長をつとめた地学の研究者で、昭和四十八年から五十七年までの九年間、館山市の旧千葉県立安房博物館や、木更津の旧千葉県立上総博物館に学芸員として勤務した。光敏氏はこの間滴水居に暮らしており、当時鋸南町の町報に地域の地学的な記事を寄稿したこともあった。滴水居の前の海岸線の地形変化の歴史についての文章もそのうちの一つである。朝子氏は、幼少時代から母に連れられ滴水居を訪れており、現在も夫の横井洋太氏(元北里大学教授)とともに滴水居に訪れている。
潤子氏は昭和十六年に西洋美術史家の澤柳大五郎氏と結婚し、一人娘の三沙氏をもうけた。三沙氏の夫は、小泉家長男として一時期、養子となった渡部汪氏である。汪氏の父は小泉丹の担当をした岩波書店編集者で出版人の渡部良吉氏である。朝子氏と同様に、三沙氏も幼い頃から母に連れられて滴水居を訪れていた。二人はいとこ同士仲良く保田の別荘でひと夏を過ごしていたのだった。当時、保田での生活は、朝起きたら土間とベランダをきれいに拭き掃除し、その後は勉強、ベランダで食事を作って食べ、午後からは海で海水浴という、規則正しい毎日を送っていたという。現在も渡部、横井両夫妻は年に数度、ともに滴水居を訪れている。
この別荘で過ごすには、暗黙のルールが存在していたという。それは「文明のものは持ち込んではいけない」というもので、小泉丹が生前に家族に言っていたものだという。別荘には電気は来ていたが、時計は置かず水道はなかった。食事も風呂も洗濯も、敷地内の井戸水を使った。海から上がったあとは、井戸水をかぶって海水を流した。風呂は五右衛門風呂を沸かし、庭の裏にはいつも手水器(ちょうずき)が下げられていたのだった。保田に上水道が整備されたのは昭和三十年代中ごろの事だった。保田で過ごす夏の日々は普段の東京での生活とは真逆の環境であったが、三沙氏と朝子氏は「困ることは何にもなかったわよ」と楽しそうに当時を振り返る。現在も、小泉丹の意志を受け継ぎ、テレビや電子レンジなどはあえて置いていないのだという。「おじいちゃまの意志」を受け継ぐことは、両夫妻にとってある意味で喜びなのだという。
昭和二十年代から三十年代の間には、一時滴水居に住み込んで管理をしていた家族がいた。タケウチという名で、小泉丹と関係があった引揚者の一家だったようである。一家は敷地の隣にあった小学生に駄菓子を売っていたという。滴水居には一家が使っていたガラス制の飴玉を入れたケースが今も残っているが、吉浜小の児童たちが滴水居にお菓子を買いに来ていたことがあったかも知れない。小泉家の人たちが別荘に来た時には、一家はふすまの向こうの六畳間に生活していたという。
小泉丹が昭和戦前期に鱚ヶ浦に滴水居を構えてから約八十数年の歳月が流れた。大正時代から鱚ヶ浦周辺には教育者や実業家などが別荘や住まいを構えたが、土地建物が処分されてしまったり、建物が現存していても他人の所有になっていたりする事がある中、滴水居は現在に至るまで直系の近親者たちによって有効活用されてきた数少ない別荘といえる。滴水居は、小泉丹没後に初子夫人に引き継ぎがれ、夫人没後には吉村熙子と澤柳潤子に継がれ、そして現在では吉村光敏氏と渡部三沙氏に引き継がれ、吉村家、渡部家、横井家の人々によって別荘として使われているのである。
西暦 年号 年齢
1882 明治15 0 11月23日出生。父は司法官の小泉忠武、母はエイ。
1883 16 1
1884 17 2
1885 18 3
1886 19 4 弟・鉄(まがね)出生。
〇帝国大学令施行
1887 20 5
1888 21 6 〇保田町誕生。夏目漱石が保田に避暑に訪れた
1889 22 7 妹・阿津出生。
〇大日本帝国憲法発布。国号が大日本帝国となる。
1890 23 8
1891 24 9 11月7日・妻、初子(旧姓橋爪)出生。
〇足尾銅山鉱毒事件、内村鑑三不敬事件
1892 25 10 仙台の小学校に転校。仙台北三番町に暮らす。
〇北里柴三郎が大日本私立衛生会付属伝染病研究所を設立
1893 26 11
1894 27 12 〇日清戦争戦線布告。国内に挙国一致の雰囲気が高まる
1895 28 13 〇台湾が日本領になる
1896 29 14 〇アテネで第一回オリンピック開催
1897 30 15
1898 31 16
1899 32 17 中学3年(仙台)。散歩をしながら植物採集を楽しむ
〇伝染病研究所が国立の施設となる(内務省管轄)
1900 33 18 一家で会津に引っ越す。会津中学校に転入。
1901 34 19 会津中学校卒業(第7回生)。旧制第二高等学校入学。
〇アメリカでロックフェラー医学研究所が設立される。
1902 35 20 二高内の誠之寮で生活。夏休みに日光街道を一人で旅行。
1903 36 21 夏休み・昨年に続き日光街道を一人で旅行。
仙台北三番町に戻り下宿(以前家族で暮らした家の向家)。
1904 37 22 二高を卒業。東京帝大理科大学動物学科に入学。上京。
初日は芝の伯父の家に宿泊、その後は新宿の矢来町に下宿。
〇日露戦争宣戦布告。国産の蒸気自動車完成。
保田町に海水浴休憩所できる。
野口英世がロックフェラー医学研究所に移籍。
1905 38 23 週に一日は小石川植物園の教室に通う。
休日は帝大臨海実験所に出入りする。
〇夏目漱石『吾輩は猫である』出版
1906 39 24 東京のカナダの宣教師邸内の寮に一年下宿
〇南満州鉄道(満鉄)が設立される。
この頃から松山吟松庵が保田に避暑に訪れるようになる
1907 40 25 東京帝大を卒業。
伝染病研究所(内務省所管・北里柴三郎主宰)に入所
寄生虫学者・宮島幹之助の助手につく。
本郷台青年会の寄宿舎に下宿。
1908 41 26 父・小泉忠武が胃がんにより死去
1909 42 27
1910 43 28 橋爪初子と結婚。マニラで極東熱帯医学会に出席
〇房総電気株式会社が創設され、保田に本社が置かれた。
1911 44 29 長女・絢子出生
1912 大正1 30 『人体寄生動物学』(南山堂書店)。
二女・煕子(ひろこ)出生
1913 2 31 兵庫にペストが流行し、現地で媒介となるノミなどを研究
〇高千穂学校創設者・川田鉄弥が鱚ケ浦に土地を取得。
1914 3 32 1月・宮島幹之助とともにマレー半島に研究旅行。
帰国後、7月・台湾総督府研究所に衛生部技師として赴任。
台湾で熱帯病を研究。
『最近寄生原虫学』(南山堂書店)
〇第一次世界大戦勃発。北里研究所設立(北里大学の前身)
保田町と勝山町に電灯が灯る。
保田の大六海岸に結城虎五郎が土地を取得。(結城別荘)
1915 4 33 三女・潤子出生
〇第一次世界大戦の影響で輸出が増え好景気となる
1916 5 34
1917 6 35 木材に住むシロアリについての論文で理学博士となる。
〇慶応義塾大学に医学科が開設。初代学部長は北里柴三郎。
保田駅が開業
1918 7 36 〇ドイツ、連合国との間に休戦協定。第一次世界大戦終結。
1919 8 37 『生物学徒ゲーテ』が雑誌『思想』(岩波書店)に連載開始。
台湾での赴任を終え、年末から2年にわたり欧州遊学。
小泉はこの遊学が「進化学の勉強の始まり」としている。
1920 9 38 遊学、ヨーロッパで生活 1月上海 2~9月ロンドン
10月ドイツ、11月~パリ、
12月~プロバンスやイタリアへ旅行
『遺伝』(南山堂書店)
〇国際連盟発足。日本、常任理事国となる。
慶大が総合大学となり、医学部病理細菌学寄生虫部が開設。
初代教授は宮島幹之助。(同部は後に寄生虫学教室となる)
1921 10 39 夏までパリのカルチェラタンで生活。進化学の本を蒐集。
本購入の為に主食はじゃがいもを蒸したものだった。
この頃買った本を翻訳し、後に国内に進化学を紹介した。
『台湾ニ於ケル蚊族ノ予防医学的研究』を発表。
遊学帰国中にニューヨークでロックフェラー研究所を訪れ
野口英世と会う。
〇宮島幹之助が国際連盟保健機関の日本代表となる。
1922 11 40 〇保田駅北側に新たに発電所ができる。
石原純と原阿佐緒が保田に洋館「靉日荘」を建て移住。
英文学者の紀太藤一が保田に総檜造りの家を建て移住。
東京YWCAが保田の元名に休養所を設ける。
1923 12 41 シンガポールで熱帯医学会に参加。
同地で関東大震災の電報を受取る。
1924 13 42 1月に帰国、慶応大学医学部教授に就任。
宮島幹之助から同大寄生虫部の教授を引き継ぐ。
「寄生虫学教室」を新規に開設し主宰する。
ドゥラージュ著『進化学説』を訳す(叢文閣)
1925 14 43 東京で極東熱帯医学会に出席
1926 昭和1 44 10月、病理学・寄生虫学者の稗田憲太郎と石垣島へ
マラリア調査に赴く。
1927 2 45 『チャールズダーウィン自叙伝宗教観及びその追憶』
(岩波文庫)
1928 3 46 8月10日、鎌倉にて長女絢子亡くなる。
〇英文学者・長岡拡、法学者・小野清一郎が保田の鱚ケ浦
に土地を取得
1929 4 47 『種の起源』を翻訳(岩波文庫)
『寄生虫国日本』(岩波書店)
日本寄生虫学会が創立され、創立委員会の幹事となる。
〇慶大に予防医学校舎が竣工(ロックフェラー財団寄付)
東京府立第五中学が鱚ケ浦の妙本寺に臨海寮を建設
石原純が保田から東京に移住する。
1930 5 48 北アフリカのアルジェで国際マラリア学会に列席.
南欧各地を視察。
(3月内モンゴル→4月モスクワ→ロンドン・チェルシー)
国際連盟保健部マラリア委員会の委員となる。
『岩波講座 生物学』の監修を開始。
『進化学経緯』(鉄塔書院)
音楽文芸評論家の兼常清佐、岩波書店社長岩波茂雄らと
湯河原の天野屋で画家・歌人平福百穂帰朝歓迎会に参加。
1931 6 49 1月6日岩波書店と神田の会芳楼で石原純らと雑誌『科学』
創刊に関する会合に参加、創刊から編集者として参加。
3月の終わりにフランス・パリに行く
1932 7 50 唯物論研究会が『唯物論研究」を創刊。同会の幹事となる。
1933 8 51 保田の鱚ヶ浦に土地を購入、別荘「滴水居」を構える。
『進化学序講』(岩波書店)。
中央公論に『進化学的戦争論』が掲載される。
唯物論研究会を脱退(寺田寅彦らと)。アルバニアに行く
1934 9 52 南京にて『極東医学会』に参加。
〇森永製菓が保田川河口の広場にキャンプストアを開業。
先年来営業していた明治製菓の店とともに盛況。
保田町集客増加に拍車がかかる。
保田町元名のYWCA休養所に房州石の暖炉を構えた
コテージが完成。
茨木悟が保田の鱚ケ浦に土地を取得。保田町観光協会結成。
1935 10 53 保田日記書き始める。
農林省経済厚生部の農村調査(新潟魚沼地方)を開始。
魚沼の無医村状態だった村に医療的な援助などする。
(広報かわにしに詳しい)。
『人体寄生虫通説』(岩波全書)
南京から北京(北平)へ旅行
1936 11 54 日本寄生虫学会代表(第8代)になる。
『生物学巡礼』(岩波書店)
『農村民及ビ其生活ノ調查及ビ考察』発表
〇2.26事件起こる。
保田町8月10日朝の滞在者数は6946人。
1937 12 55 インドネシアのバンドンで東洋農村衛生会議(国連主催)
に政府代表として参加。滞在期間約30日。
盧溝橋事件の電報をバンドン行きの航海中に受け取る。
帰国後中国大陸にマラリアの研究調査に赴く。
日華(支那)事変から太平洋戦争に発展するにつれ、
熱帯病研究の必要が生じた。小泉、松崎、松林らは
相ついで中国大陸出張。主にマラリア研究に従事した。
松林は当時寄生虫学教室の講師。
日中戦争により保田町観光協会中断。海水浴客減少。
1938 13 56 『視界』(岩波書店)
『人間の哲学的考察』(理想社出版部)和辻哲郎らと監修。
1939 14 57 『野口英世』(岩波文庫)
『人間の宗教的・歴史的考察』(理想社)監修
翌年まで数度、南京、華中から華北へマラリア調査に赴く。
論文『回虫の研究』が日本細菌学の「浅川賞」を受賞。
「国民学術協会」発会、会員に選ばれる。
1940 15 58 正月に房州の清澄山に行く。
7月~8月、11月に南京へ行く。
J.ハックスリ著:『人種の問題』を訳す(岩波新書)
T.H.ハックスリ著:『科学談義』を訳す(岩波文庫)
〇大政翼賛会保田支部成立
1941 16 59 『眉毛眼上集』(改造社) 保田日記ここまで。
〇太平洋戦争開戦
石原純が保田小学校裏の自宅に戻り、再び保田に暮らす。
1942 17 60 『科学的教養』(大日本出版)
〇1月パプアニューギニアのラバウル市を日本軍が占領。
9万人規模の大軍を配備し、南方方面への一大拠点とした。
松山吟松庵保田町吉浜の自宅で死去。
1943 18 61 8月海軍の要請で教室の助教授松林久吉、助手中山一郎
らとパプアニューギニアの戦地ラバウルへマラリア調査。
時局悪化のため年内に帰国。
『日本科学史私攷 初輯 』(岩波書店)
〇漫画家、水木しげるが応召され、激戦地ラバウル戦線へ
送られ、戦地でマラリアに倒れる。
戦争に伴い保田、勝山沿岸にも陣地の構築がはじまる。
1944 19 62 『蛔虫の研究 蛔虫毒の形態学的生理学的化学的研究』
1945 20 63 5月、戦火で自宅焼ける。
〇8月広島、長崎に原爆が投下される。終戦。
保田の鱚ケ浦に実業家、大木九兵衛が土地を取得
1946 21 64 マラリア学を主題とした 論文で医学博士号を取得
〇東京裁判
1947 22 65 1月女婿の湖沼学者吉村信吉が諏訪湖で調査中に殉職。
〇慶大医学部校舎空襲被害により寄生虫学教室が武蔵野町
に移転。物理学者・石原純が保田の自宅、靉日荘で死去。
1948 23 66 『進化学の源流』『進化学の展開』(玄理社)
5月、野口英世20回忌記念講演会で登壇。
〇松林久吉が慶大医学部寄生虫学教室の教授になる。
(松林は36年に第七代の医学部長となる)
1949 24 67 『寄生虫の話』(主婦の友社)
「東京寄生虫予防協会」創立に尽力し理事長に就任。
1950 25 68 論文『回虫の研究』が「慶應義塾賞」を受賞。
1951 26 69 4月東京の日本医学会第13回総会特別講演で
「回虫の研究」について講演する。
1952 27 70 『人体寄生虫』(岩波全書)
10月21日死去。
甲府での「寄生虫学会東日本大会」に出席後、
夜12時に腹痛で目が覚める。10月16日、入院。
18日に開腹手術。21日、就寝中に呼吸困難。
午前3時ごろ死去。
12月10日、慶応大北里講堂で追悼会が開かれた。
1953 28 〇工学博士・竹内寿太郎が保田の鱚ケ浦に土地を取得
1954 29 『動物哲学』(岩波文庫)。弟、鉄(まがね)死去。
松林久吉が小泉一門の研究成果をまとめた
『回虫毒の研究』を発表。
日本寄生虫学会が「小泉賞」を制定。
1955 30 妻・小泉初子が遺稿『馬留胆抄』を出版
参考資料:進化学者としての小泉丹、週刊医学通信(昭和21年、330号)、保田日記、馬留胆抄、視界、眉毛眼上集、生物学巡礼、戸籍抄本
2016年の夏、滴水居に伺った私は、たくさんの付箋が貼られた本書を受け取った。付箋は小泉丹の令孫にあたる、渡部、横井両夫妻が校正のためにつけてくださったものだった。同年の春、渡部夫妻が滴水居に来ていた時に、私は校正のために簡易製本した本書をお渡ししていた。それを、両夫妻でまわし読んで、手を入れてくださったのだった。私は自宅に戻って、早速、修正や推敲にかかった。ひとつひとつ直しながら思ったことがあった。それは、「私が郷土の新たな魅力に気付くことができたのは、小泉丹が保田を気に入り別荘を構えたことに始まり、その後も両夫婦をはじめ、保田に愛着を持った方たちが、滴水居を使い継いできていたからこそなのだ」ということだ。付箋はその証に見えた。
原風景とは「人の心の奥にある原初の風景。原体験から生じるさまざまなイメージのうち、風景の形をとっているもの」との意味だという。私にとっての原風景は何だろうと考えてみると、幼いころに滴水居のベランダに上がって体感した夕陽もその一つだった。敷地に生える木々の葉が、海から射す夕陽の逆光を遮って、無数の黒い形が浮かんでいる。気づくと夕陽は庇の下にも入り込んで来ていて、木の柱や異国風な房州石の石積も濃いオレンジ色に染まっている。まるで夕焼けの一部に溶け込んでしまったような感覚で、心地のよい時間が流れる空間だった。何歳ごろの記憶かはっきりしないが、幼いころの私はここに身を置くのがとても好きだった。
ある土地に別荘を構えるというのは、宿に泊まるような観光旅行から数歩進んで、その町や周囲の風土を気に入っているがゆえの事だろう。建物の内と外との間にある「ベランダ」は、別荘においては特にその土地を感じながら過ごすことのできる、象徴的な場所ではないだろうか。おそらく小泉も気に入った鱚ヶ浦の雰囲気を味わうためにこのベランダを構えたのだろう。今思うと、私は幼少期に置き土産のようなその空間を存分に堪能していたのかも知れない。私にとって滴水居のベランダは古今にわたって流れる保田・鱚ヶ浦特有の質感を味わうことのできる装置のようなものだったような気がする。
本書には私の知りえた保田の歴史や文化を未来に伝えていく役目を持たせたい。私自身はそれと並行して、日々保田の風土や質感を味わいながら生活していきたいと思うのである。
本書を作るにあたって、取材にご協力いただいた皆様に改めて感謝いたします。特に渡部汪・三沙ご夫妻と横井洋太・朝子ご夫妻には多大なるご協力をいただきました。御礼を申し上げます。
保田文庫では、避寒・避暑の保養地、別荘地として親しまれた
保田地域の歴史を調べ、掘り起こす取り組みを行っています。
2017年8月16日 発行 初版
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