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旅客用の鉄道車両にとって最大の商品は「座席」ですが、「展望サービス」はそれに次ぐものではないでしょうか。
「展望」は、乗り物に乗ることの根源的な楽しみに通じるからです。
本書では、名鉄と小田急を中心に日本の前面展望車の変遷を追い、その将来を占います。



本書に掲載されている会社名、商品名などは一般に各社の登録商標または商標です。

本書を発行するにあたって、内容に誤りのないようできる限りの注意を払いましたが、本書の内容を適用した結果生じたこと、また、適用できなかった結果について、著者は一切の責任を負いませんのでご了承ください。

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前面展望車の復興計画

増田 一生

鉄道復興研究所



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  この本はタチヨミ版です。

 目 次


前面展望車の源流(1)
前面展望車の源流(2)
特殊性と汎用性の狭間で
発展する前面展望車
後退する前面展望車


衰退する前面展望車
明暗を分けた前面展望車
前面展望車の醍醐味
前面展望車の断絶
運転室越しの前面展望
前面展望車の復権
前面展望車の未来

前面展望車の源流(1)

 拙著「転換クロスシートの復興計画」で述べたように、昼行運転の旅客用鉄道車両にとって最大の商品は「座席」ですが、「展望サービス」はそれに次ぐものではないでしょうか。「展望」は、乗り物に乗ることの根源的な楽しみに通じるからです。

 もちろん、「乗り物」はあくまでも交通の「手段」であり、本来は乗ること自体が目的になるものではありません。とはいえ、「乗って楽しい」なら、それに越したことはないはずです。その意味で、移りゆく景色を楽しめることは、鉄道車両の魅力に直結するものです。

 鉄道車両は先頭部に運転室を備えるため、通常は迫り来る景色を客席から直接堪能することはできません。運転室越しに眺められれば良いですが、設計によっては先頭車両でも前面展望が遮られます。その場合、展望サービスは側窓に限られることになります。

 この問題を克服すべく、運転室を2階に上げて先頭部を展望室にしたことで知られているのが、1953年にイタリア国鉄が導入したETR300形電車「セッテベロ」です。日本では、1961(昭和36)年に登場した名古屋鉄道(名鉄)の7000系が初めてこの構造を採用しました。側窓を連続窓にして横方向の展望に配慮している点も相まって、「パノラマカー」の愛称で長く親しまれることになりました。

名鉄7000系パノラマカー


 名鉄7000系の導入にあたっては、万が一の衝突時の安全対策が特に重視され、前面窓には「10m先からピストルを発射しても貫通しない」丈夫なペアーガラスが採用されました(『鉄道ファン』1961年7月創刊号)。さらに、「70km/hで重量10トンのトラックと衝突しても、衝撃を吸収できる」オイルダンパーが前頭部に2基設置されました(『鉄道ダイヤ情報』1995年12月号)。

 ちなみに、JR北海道は2010(平成22)年1月29日の踏切事故で特急車両の前頭部が大破したことを受けて、名鉄7000系に準じた構造を持つ「クリスタルエクスプレス」の展望室を閉鎖しました。資料がないので断定はできませんが、「クリスタルエクスプレス」の前頭部にはオイルダンパーが設置されていないという情報があります。それが事実なら閉鎖もやむを得ないでしょう。JR北海道はその後、死者こそ出していないものの安全管理を問われる事故や不祥事を多発させているので、展望室も例外ではない可能性はあります。

 話を名鉄7000系に戻すと、運行開始から約半年を経た1961(昭和36)年11月29日、木曽川堤駅付近の踏切にダンプカーが侵入し、85km/hで走行中の7000系特急と衝突する事故が発生しました。しかし、怪我人はダンプカーを引きずった際に破損した側面ガラスで軽傷を負った乗客8名だけであり、前面ガラスはひびが入っただけで展望室の乗客は無傷でした。安全対策の有効性が図らずも立証されたことになります。以降、件のオイルダンパーは「ダンプキラー」の異名でも呼ばれるようになりました。

前面展望車の源流(2)

 日本の前面展望車のもう一つの源流を生み出したのが、「ロマンスカー」を商標登録したことで知られる小田急電鉄です。小田急は名鉄より早く、1954(昭和29)年の段階で特急車両に前面展望室を設ける構想を持っていました(『鉄道ファン』1992年4月号)。

 これは、1957(昭和32)年製造の3000形SE車(Super Express)では見送られました。ただし、3000形SE車は連結部分の直下に台車を配置する連接機構を採用し、徹底した軽量化と低重心化を図った非凡な車両です。同年の9月26日には国鉄に貸し出されて速度試験が行われ、翌27日に当時の狭軌鉄道で世界最速となる145km/hを記録しました。

 小田急で初めて前面展望室を設けたのは、名鉄7000系に遅れること2年、1963(昭和38)年に竣工した3100形NSE車(New Super Express)です。3100形は、3000形SE車の8連接に対して11連接で製造され、設計最高速度も170km/hに引き上げられました。座席は、有料特急車両として3000形SE車と同じく回転クロスシートが採用され、転換クロスシート車の名鉄7000系よりも一枚上でした。

小田急3100形NSE車

 もっとも、当時の名鉄の特急は全て料金不要だったので、決してレベルが低かったわけではありません。それどころか、すでに7000系の2年前、1959(昭和34)年に登場した5500系が戦後の料金不要列車としては日本で初めて冷房装置を搭載する快挙を達成していました。もちろん7000系にもこれが継承され、軽量化追求のため冷房搭載を見送った小田急3000形SE車より夏場の居住性は優れていました。

 3000形SE車は1962(昭和37)年から冷房化されましたが、当初は屋根が重量に耐えられなかったため床置き式となり、定員が1両あたり4名減少しました。この教訓から、3100形には登場時から床下に冷房が設置されました。これは低重心化を損なわないための措置でしたが、効き方に難があったため、のちに屋根上にも冷房が増設されました。ともあれ、前面展望室と冷房を備えた3100形によって、小田急ロマンスカーは名鉄パノラマカーと同等以上の地位を確立したと言えるでしょう。

 ちなみに、小田急3000形SE車は高速鉄道には珍しい中央運転台式であり、その両脇から前面展望を楽しむことができました。運転室を2階に上げることは見送られたものの、前面展望に関して一定の配慮がなされていたことが分かります。

 ただし、この構造は1937(昭和12)年に登場した名鉄3400系と同じです。その塗装とスタイルから「いもむし」の愛称で親しまれた3400系は、日本初の全転換クロスシート車として製造されました。

名鉄3400系「いもむし」
名鉄3400系の運転室

 当時の電動車は台車の直上にモーターの点検蓋を設けることが不可欠であり、そのスペース確保のため、クロスシート車も車端部はロングシートとなるのが常でした。写真でもそうなっていますが、これは改造後の姿であり、登場時は運転席の直後の座席も転換クロスシートでした。3400系は点検蓋を縦一列に配置することで、それを可能にしたのです。

 最前列まで転換クロスシートが配置されていた当時の3400系は、運転席の両脇から素晴らしい前面展望を堪能できたと想像されます。小田急3000形SE車より20年も前にそれを実現していたとは驚くほかなく、パノラマカーの原型を見る思いがします。こと前面展望に関しては、やはり名鉄に一日の長があるようです。

特殊性と汎用性の狭間で

 小田急の3100形にどの程度刺激を受けたのかは分かりませんが、名鉄も1963(昭和38)年に7000系の改良型である7500系を登場させました。ただ、外観は7000系とほとんど同じであり、「パノラマカー」であることに変わりはありません。

 違うのは、7000系の床面高さが展望室1,040mm、一般室1,150mmであるのに対し、7500系はどちらも990mmで高低差がなくなったこと、そのために運転室がやや上に飛び出していることなどです。ちなみに、7000系は展望室と一般室を緩やかなスロープでつないで高低差を処理していました。

 7500系が7000系と大きく異なるのは性能面です。7500系は制動時に発生する電力を架線に戻す回生ブレーキを備え、さらには定速度制御も可能でした。設計最高速度は小田急3100形と同じ170km/hとも、180km/hとも言われています。

 しかし、両形式とも実際にその速度で走ることはなく、営業最高速度は110km/hに留まりました。小田急3100形が先代とともに高速運転を指向したのは、新宿―小田原間の82.5kmを60分で運転するという目標があったためですが、沿線の宅地化が予想以上の速さで進み、過密運転が常態化したため、特急の60分運転は夢と消えました。

 名鉄7500系も、特急運用が支線に及ぶようになると、列車密度の低い区間では使用できないという回生ブレーキの弱点が表面化するようになりました。また、7000系と違って特殊な性能を持つため、他形式との併結ができないのも運用面で不利でした。

 そのため、7500系の登場後も並行して7000系の増備が進められました。前者の製造が1970(昭和45)年で打ち切られたのに対し、後者は1975(昭和50)年まで増備が続きました。なお、7500系の定速度制御機能は1979(昭和54)年から順次撤去されました。

 このように、名鉄7500系と小田急3100形は、その背景は異なるものの、持てる性能を十分に発揮できなかった点が共通しています。ただし、決して試行錯誤のまま終わったわけではなく、名鉄7500系は合計72両、小田急3100形も1967(昭和42)年までに11連接が7本製造されました。その人気を支えたのが前面展望室であることは疑いありません。

 小田急3100形は連接車なので1両あたりの長さが短く、11両編成が一般車両の7両分に相当します。それでも、7編成というのは有料特急としては大所帯であり、新宿―小田原・箱根湯本系統の大半を3100形が担うことになりました。

 もっとも、大所帯という点では名鉄7000系には及びません。7000系は9次に渡って増備された結果、最終的には116両を数えるまでになりました。7500系を合わせれば総計188両にも達する一大勢力となり、1500V電化区間の車両の約1/3を占めました。特急はもちろん急行や普通の運用にも頻繁に就くようになり、ここに名鉄の前面展望サービスは一つの頂点を極めるに至ったのです。

 一方で、この頃になると中京圏でもラッシュ時の混雑が深刻化し、2扉車の7000系・7500系では対応が難しくなりました。これを受けて、7000系の増備終了翌年の1976(昭和51)年から導入されたのが、3扉車の6000系です。

名鉄の6000系と7000系


 6000系は通勤車ながらも名鉄の伝統に則ってクロスシートを捨てず、中央扉を境に車端部へ向けて2人掛け座席を固定した「集団離反型」を採用しました。ただ、立席面積を増やすために座席幅を抑えたことから、「1.5人掛け」と揶揄されることもありました。後期車両では座席が大型化されて改善されましたが、初期型シートは全てロングシートに置き換えられました。

 6000系は156両が製造され、後継車両の6500系と6800系を合わせると330両にも達し、パノラマカーを上回る勢力を築きました。しかし、2扉車の製造が途絶えたわけではなく、1986(昭和61)年には高速・急行用の転換クロスシート車である5700系と、同じ車体で5000系・5200系の機器を流用した5300系が導入されています。

発展する前面展望車

 名鉄7000系の増備が終了して以来、しばらく前面展望車に変動はありませんでしたが、1980(昭和55)年、小田急に7000形LSE車(Luxury Super Express)が登場しました。車体は3100形と同じ11連接ですが、高速性能を抑え(それでも設計最高速度は145 km/h)、加速性能を向上させた実用的な車両です。



  タチヨミ版はここまでとなります。


前面展望車の復興計画

2017年8月7日 発行 初版

著  者:増田 一生
発  行:鉄道復興研究所

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増田 一生 (ますだ かずお)

1978年 大阪府生まれ
2000年 立命館大学産業社会学部卒業
2002年 同大学院経営学研究科修了
現在   総合旅行業務取扱管理者

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