鉄道の高加減速車と多扉車は、各駅停車を速達化する切り札です。
ただし、本当の存在意義は、それによって間接的に優等列車をスピードアップさせることにあります。
本書ではこれを踏まえた上で、高加減速車と多扉車のあるべき姿を探ります。
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本書を発行するにあたって、内容に誤りのないようできる限りの注意を払いましたが、本書の内容を適用した結果生じたこと、また、適用できなかった結果について、著者は一切の責任を負いませんのでご了承ください。
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この本はタチヨミ版です。
高加減速車の誕生
後退する高加減速車
高加減速車から多扉車へ
高加減速車の復興
ジェットカーのさらなる活用
高加減速車の運用拡大
鉄道の「高加減速車」に明確な定義はありませんが、一般には1957(昭和32)年に登場した近畿日本鉄道(近鉄)の6800系「ラビットカー」の起動加速度4.0km/h/s(1秒で時速4.0kmに達するの意)・減速度4.5 km/h/sと同等以上の性能を持つ車両を指すとされています。これに該当するのは、1958(昭和33)年から製造が開始された阪神の5000系列「ジェットカー」と、1959(昭和34)年に登場した京阪2000系「スーパーカー」です。
京阪は2000系の6年前に製造した1800系特急車において、モーターを車軸に直接吊らない「カルダン駆動」を日本で初めて実用化しました。当時のカルダン車は大型モーターの搭載が難しく、全電動車にすることで出力を補っていましたが、これは同時に、高加速を実現する上で有利でした。そのため、それを必要とする路線において、全電動車の高加減速車が導入されることになったのです。
近鉄の6800系は、南大阪線の大阪阿部野橋―矢田間の各駅停車の運用に充てられましたが、同区間無停車の優等列車が7分30秒を要したのに対し、4駅停車ながらわずか1分増の8分30秒で走破しました。優等列車がカルダン駆動化される前の話ではありますが、通常は1駅停車につき1分は所要時間が延びるとされているので、驚異的な性能です。
阪神ジェットカーの一番手である5001形は、近鉄6800系を上回る起動加速度4.5km/h/s・減速度5.0km/h/sを実現し、これは後継車両にも踏襲されました。平均駅間距離が約1kmと短い阪神が、並行路線である国鉄や阪急に対抗するためには、優等列車がいかに各駅停車に邪魔されずに走れるかが重要だったのです。これは現在も変わりません。
このように、高加減速車の存在意義は、各駅停車自体を速達化することではなく、それによって待避駅間を逃げ切り、間接的に優等列車をスピードアップさせることにあるのです。この点を見失うと、例えば駅間距離の短い京阪の複々線区間の各駅停車に高加減速車を導入して速達化すべし、といった的外れな主張がなされることになります。
その京阪は、近鉄6800系と同じ加減速性能を持つ2000系を、各駅停車ではなく天満橋―枚方市間の区間急行に導入しました。当時の京阪の複々線は現在の半分にも満たず、蒲生信号所(京橋の京都側の城東貨物線との交点付近)―守口間の4.2kmのみでしたが、区間急行はこの区間を途中無停車で走行し、複線区間では各駅に停車しました。すでに緩急分離がなされている京橋―守口間の各駅停車に高加減速車を導入しても無意味なのは明らかであり、京阪が区間急行に2000系を充てたのは理にかなっていました。
2000系の区間急行は、天満橋―枚方市間で急行より10駅多く停車しながらも28分30秒で走破しました(『鉄道ピクトリアル』2000年12月増刊号)。急行はカルダン化されていないとはいえ、京橋・香里園の2駅停車で23分を要していました。すでにカルダン車に統一されていた特急は、京橋のみ停車で天満橋発車の18分30秒後に枚方市を通過していました(『京阪特急』沖中忠順編著 JTBキャンブックス)が、これと比べても2000系は相当な俊足だったことが分かります。
日本の高加減速車のトップバッターである6800系を導入した近鉄ですが、1963(昭和38)年製造の6900系(後に6000系に編入)の起動加速度は2.3~3.5km/h/sに落とされました。この頃になるとカルダン車も大型モーターの搭載が可能になり、加速度よりも経済性を重視して付随車が連結されるようになったのです。それだけでなく、6800系自体も他のカルダン車との併結を可能にするため、減速度が4.0km/h/sに下げられました。
近鉄が高加減速車を見限った理由は、後で述べる京阪ほど明確ではありませんが、一般的には高度成長期に急増した輸送人員に対応する上で高価な全電動車が嫌われたことが挙げられます。また、現在も高加減速車を走らせている阪神は緩急接続を頻繁に行っているため、各駅停車は4両編成で事足りていますが、近鉄の南大阪線・大阪線・奈良線は、通過追い越しによる緩急分離が基本となっているため、各駅停車は6両で運転されています。
奈良線はともかく、営業距離が長い南大阪線や大阪線では緩急分離を図るのは妥当な判断です。この場合、各駅停車の短編成化は困難であり、全電動車は確かに不経済です。
こうした背景もあって近鉄6800系は40両の製造に留まりましたが、京阪の高加減速車である2000系は100両を数え、当時の社内で最大勢力となりました。そのうち5両と、のちに2200系から編入された3両は付随車であり、これらを組み込んだ編成のみ性能が低下しましたが、大勢には影響せず、区間急行を中心に活躍を続けました。
2000系が区間急行の限定運用を解かれたのは、1971(昭和46)年8月15日のダイヤ改正です。この改正は、それまでの20分サイクルを15分サイクルに変更する大規模なものでした。昼間時の区間急行は毎時3本から4本に増発された反面、枚方市まで逃げ切ることができなくなり、大和田で特急を待避することになりました。同時に、所要時間に余裕が持たされ、特段の加減速性能を必要としなくなったのです。
また、その前年に、日本初の多扉車(片側5か所)である5000系7両編成1本が登場しており、朝ラッシュ時の区間急行の運用はやがてこちらが主役となっていきました。通常の3扉車は朝ラッシュ時の京橋の停車時間に60秒を要していましたが、5000系はこれを40秒に短縮し、多扉車の威力を見せつけました。この5000系が2000系並みの高加減速性能を有していたら、所要時間をさらに短縮できたはずですが、実際には起動加速度2.5km/h/s・減速度4.0 km/h/sという平凡な値に落ち着きました。
これは、当時の京阪で冷房車が貴重だったことが影響していると思われます。5000系は1970(昭和45)年の登場時点で初めから冷房を装備していましたが、当時は特急車の1900系さえも非冷房で、5000系以外の冷房車は2400系の7両編成6本だけだったのです。
このため、登場直後の5000系は、朝ラッシュ時の区間急行運用を終えるとラッシュ用ドア2枚を閉め切り、3扉で急行運用に就いていました。当時の基幹列車である急行のサービスアップは、京阪にとって重要でした。高速性能が必要な急行運用に就かせるためには、5000系は加速性能を犠牲にせざるを得なかったのです。
直流モーターには、起動加速度を上げると高速域での加速が鈍る傾向が強くあります。2000系も急行や臨時特急の運用に就いたことがありますが、90km/h超の運転に難があり、定時性の確保に手を焼いたという話が残されています(『鉄道ピクトリアル』2009年8月増刊号)。この教訓が5000系の設計に反映されたのでしょう。
京阪において高加減速車が多扉車に取って替わられたもう一つの理由は、複々線です。5000系が誕生した1970(昭和45)年には天満橋―蒲生信号所間が、その翌年には守口市―新門真(現・門真市)間が複々線化されました。そして、5000系の最終増備車である第6・7編成が登場した1980(昭和55)年には、天満橋から萱島の先の寝屋川信号所まで12.6 kmの複々線が全通したのです。
これによって、区間急行の大部分は守口市―萱島間無停車(以遠は各駅に停車)の準急に格上げされ、5000系の運用も準急主体へと移っていきました。京阪は萱島から大阪寄りと中書島から京都寄りでは阪神並みに駅間距離が短いですが、萱島―中書島間は平均約2.2kmと長く、高加減速車の運用に適していません。多扉車である5000系を主役に据えたのは、これを見越してのことでもあったのです。
タチヨミ版はここまでとなります。
2017年10月3日 発行 初版
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1978年 大阪府生まれ
2000年 立命館大学産業社会学部卒業
2002年 同大学院経営学研究科修了
現在 総合旅行業務取扱管理者