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jacket



   photo    はむぱん

   表紙イラスト えいきち

本作はフィクションです。実際の人物、団体等とは一切関係はございません。

 目 次


鬼ごっこ


電子版限定小説
双子と夜と王様ゲーム

プレ配信版のおまけ

プレ配信のおまけ2(ボツ原稿)


あとがき


奥付

鬼ごっこ




「きみの目的は何なんだ」
「あなたも知るように、そのようなもの必要がないのです」
(……誰?)
「……意味が分かるように話せないのか。――speak in English.」
「Language etc does not matter. All you have to do is to move as I want.」
(あれ、言葉、急に)
 柚木がうんと寝返りを打つと、思い合わせたかのように、声がやんだ。
 そうか。死後の世界だから、色んな言葉が混ざってるんだ。
 生前は、まあ一応いい人間だったと思うし、きっと神様も天国に送り届けてくれたはず。
「おい。起きたのか?」
 とにかく、はやく目を覚まさなきゃ。
 天国ではようやく待ちわびた穏やかな生活が待っているだろうから。
「おい、君」
 心残りなんかひとつも……、
「た、か」
「……なにか言った?」
 心残りなんか……、ひとつだけ、ある。
 最後にあと一度だけ、孝弘に会いたかった。欲を言えば、あの腕のなかで息を引き取りたかった。
(会いたかったなあ)
 この世からいなくなって、孝弘は泣いてくれるだろうか。悲しんでくれるだろうか。それとも、こんな馬鹿な自分を怒ってくれるかな。まるで血の繋がった兄弟のように。
「たか……なに?」
 頭がぼうっとする。
 柚木の意識は再び深い闇の底へ落ちていった。




 どれくらいたったろう。気がつくとまた、天使が隣でしゃべっていた。
「ああ、そうだ……私だよ。あいにくだけど日本に舞い戻ってきたよ。君のせいでね」
 今度は流暢な日本語。子守歌のようにそれを聞き流す。
「それよりギャラリーが騒がしいが、一体何をしているカナタ」
「う、ん」
 声の方へ顔を向け、柚木は片方のまぶただけ、ぐいと押しあげる。頭が重い。手も足もぎしぎしで、ブリキの玩具になった気分。
 視界は、ピントのずれたカメラレンズ。認識できるのは、背の高い金色の頭が右に左に動いていること。
「話を逸らすんじゃない。ただでさえきみのせいで、大変な目に遭ってるんだぞ。――息が荒いけど何してる」
 そういうと男は数秒固まり、
「ははは、兄貴とヤッてるだって? 相変わらず悪趣味なうそをつく男だな」
 とつぜん威勢よく声を張り上げた。
 目をぱちくりさせる柚木に気づく様子はなく、そのうち部屋をいったり来たりと歩きはじめる。
 あちらこちらと動きまわる金色の頭を目で追った。男がどしどし闊歩すると、全身に振動を感じた。相変わらずリアルなビジョンにまさか生きてるのかと疑いたくなるが、それをすぐに否定した。
 マンションの二十四階から身を投げたのだ。まず生きていない。
「うるさい……勝手な詮索はやめてくれ」
 しだいに視界はクリアになると、男の容姿もはっきりした。背が高く、陽に溶け込んだようなブロンドは耳を隠すくらいの長さで、素肌はすき通るようなオフホワイト。間違いなく異国人。息をのむほどの美貌で間違いないが、人相が悪い。コバルトブルーの瞳にも、独特の鋭さが滲んでいる。
 よく見れば携帯電話を片手に誰かと話をしている。その姿は、生身の人間と変わらない。
(変なの)
 柚木はいっそう訝しげな目を男に向けた。
 漆黒のスーツをかっちり着こなし、ジャケットの下には同色のベスト。前髪は左右にでつけられ、何が気に入らないのか舌打ちまじりに右に左に室内を歩き回っている。当初は天の使いだと思っていた柚木だが、次第に怪訝けげんなそれで男を追うようになっていた。
「ああそう、それは失敬! まさか悪名高き天才博士殿に御兄弟がおいでたとは思いもしなかったさ!」
 とつぜん男がくるっと振り向いた。コバルトブルーの瞳が、ようやく柚木をとらえた。
「……ああ、目を覚ましたのか。いやなんでもない。また後で掛ける。私は忙しいんだ」

 目が覚めて十数分。柚木はようやく自分が生きていると自覚した。
 『落ちてきた所を受け止めた』なんてこと信じがたいが、肯定せざるを得なかった。
 命と引き換えに自由をのぞんだあの時と同じ景色が目下に広がっている。周囲の風景を見渡して、たしかに身を投げた同一のマンションで間違いない。
「君、また落ちるつもりか」
 もう助けてやれないぞ。
 足が浮くほど身を乗り出している柚木を見かねてか、男がリビングから声をかけてきた。
「戻っておいで、水をお飲み。唇の荒れがひどい」
 そうあきれた調子で一言。
「それと、こちらから尻が丸見えだ。隠したほうがいい」
「……どうも」
 男の私物と思われる白いワイシャツの裾をおさえ、リビングへ戻る。
 男は無言で右手のそれを手渡した。警戒心に目を光らせたのは最初だけで、グラスに張った水を見るや、思い出したように喉の渇きに襲われた。
 奪い取った勢いそのままグラスをかたむける。流れ込む水を一気に飲み干した。
「ぷは」
 男がその姿をじっと見ている。
 丸三日間、飲まず食わずで眠っていたのは本当かもしれない。だが、心の臓が動いていると喜ぶ気にはなれなかった。
 まだ、生きている。
 喜ぶどころか最悪だ。
 上得意の客にあんなことをして、義父の耳に入らないはずがない。
 今度こそ殺されるだろう。
 生きながらえたことを後悔するくらいの、酷くおぞましい方法で。
「何で助けたんだよ俺なんか」
 空になったグラスをそこらに放ると、部屋の隅に座りこむ。男は無言だが厳しいまなざしだった。柚木は膝をかかえ下を向いた。
「困っている人を助けるのは当たり前だ」
「俺は救われて困ってるってのに?」
「……見殺しにされた方がよほど楽だとでも言いたげだね」
「そのとおりだからさ」
 男は眉間にシワを寄せた。
「君は、かわいそうな人だ」
 その言葉が胸を突き刺す前に、「あ、そ」と跳ねかえすと膝を抱え直した。部屋はあの代議士と同じ間取りで、天井が高くて仕切りのない開放的な空間。でもやけに殺風景だ。
 二十畳は優にこえた広いリビングは、真向いのキングベッドに黒のサイドテーブルと全身鏡のみ。
 あの男みたいに、金に物を言わせた悪趣味な産物は見当たらない。
 そういえばテレビがない。ソファーもない。家財は必要最低限どころか、生活に不便すら感じる簡素さだ。
 ――何にせよ、身投げした人間を抱きとめる時点で尋常じゃない。
 そのうえ部屋に連れ込み介抱するなんて、とんだキチガイだ。
「あんたってどこの国の人?」
「生まれと育ちはアメリカだが、幼少期はほとんど日本で育った」
「ふうん。それで日本語が流暢りゅうちょうなんだね。声だけ聞くと日本人みたい」
 男は僅かに片眉を上げる。
「混血がそんなに珍しい? 坊や」
「俺二十四歳ですけど」
「――それは失礼」
 男の目が柚木の足元から顔をたどったが、すぐに逸れた。

「……あんたもしかしてロリコン? 俺が子供じゃなくてがっかりしてる?」
 返事がない。図星かな。
 恩に着せて弄ぶつもりだったとか。
 異様に整った外見からして、業界人かも。
 彼らは世間体があるので、存分に女遊びができない。そんな輩が束になって風俗業界にはなだれ込むのだ。高級風俗店なら、たいていはVIP専用のコールダイヤルを設けている。宅配を装って部屋でサービスを施すのも珍しくない。「遊び専門」の別宅なら、殺風景な理由も合点がいく。
「十代じゃなくて悪いけど、俺で良ければ相手したげるよ。一本二万でどう? これでも破格なんだよ」
「そういう冗談はよしてくれ」
 いかにも煙たそうに男は言う。
(何だよ、猫かぶりやがって)
 それとも、金目当てだろうか?
「あんたさ、もしかして俺がどっかの金持ちの子息だとか思ってる? ドラッグ漬けでラリって跳び降りたとか、まあ、実際ありそうだもんね」
「いや……、思ってない」
 嘘ばっかり。
「だとしたら残念。俺ん家すっげえ貧乏なんだ」
「……そうか、分かったからもういい」
 偽善者。本当はがっかりしてる癖に。
「義理の父親に売春させられてるくらいだからさ。家計は、実のおやじが死んだ時から火の車」
「もういい、やめろ」
「虐待で心も体もボロボロで、生きててよかったことなんて、一度もない。楽しいとか悲しいとか、そういうのも分かんなくなっちゃった」
「……やめなさい」
「あの日も仕事だったんだ。相手がとんだ変態趣味のオッサンで、俺のこと家畜みたいに」
「やめろと言ってるだろう!」
 男はついに大声で怒鳴りつけ、リビングを出ていく。拍子抜けして、しばらくその場に座り込んでいた。男はすぐに戻ってきた。相変わらず剣呑けんのんとした表情で、とつぜん小脇に抱えた荷物をどさどさと床に落とし始める。
 ノーフェイスの黒いメッセンジャーバッグに、編み上げブーツ、淡い水色のデニムシャツとスキニーパンツ……。
 荷物を見て、柚木はその場に固まった。
「なぜ私がこれを持ってるんだって顔だな。ユズキ」
 青ざめて人形のように固まる柚木と相反して、整った貌は能面のようにピクリとも動かない。
 紛れもない、それらは身投げをする直前まで着ていた、あの十八階の部屋に置き去りにしてきたはずの物。
「きみの私物で間違いないな」
 青白い顔で、言葉もなくうなずいた。
「君が落ちてきた翌日、マンションのゴミ収集場に誰かがこれを捨てていた。犯人について私なりに調査もしたが、名前を教えた方がいいかな?」
「……」
 黙って首を横にふる。教えられなくと、柚木が一番分かっている。
「まさか拾われると思わなかったんだろうね。財布や携帯もそのままだ」
 悪いとは思ったが、免許証で身元確認だけはさせてもらったよ。
「持ち主の名は有川柚木、二十四歳、A型。誕生日は一九九一年、七月七日……」
 メッセンジャーバッグの中身を開ける。黒い七分袖のインナーにボクサーパンツとスニーカーにソックス、灰色と白のウィンドウペンチェック柄のストールが、詰め込んだままの状態で丸まっていた。
「ちなみに昨晩、その人物の秘書と名乗る男が尋ねて来た。近隣の住人へ手あたり次第に伺っているらしい。何でも精神を患った自障壁持ちの『御子息』が、脱走し行方不明だと」
 柚木はますます青ざめる。
「おびえなくていい。私は何も知らないと言ったから。そうだ、『御子息』の写真をもらった」
 見るか? と尋ねられ、首を横に振った。
「私も君に挑発されて、子供だった。でもね、たとえ落ちてきた相手が犬や老婆だろうと、私は変わらず同じ行動を取っていた」
 あおい目は、やはり鋭く威圧的だったが、硝子玉のようにすんだ色をしていた。
「それと私に特殊な性的敢行はない。まあ、多少男もいけるのは確かだけど、君は私の趣味じゃない。そもそも年下は相手にしない」
「……ごめん、なさい」
 男の眼差しが、ふわりと崩れる。
「とにかく着替えて、早く帰りなさい。君が二度とここを訪れなければ、それでいい」
「……うん」
「折角だから、おかゆを食べてお帰り。隣のダイニングに用意してあるから」
 男がドアを開くと、たちまち卵の煮詰まった匂いがたちこめる。自然と唾液が溢れ、忘れかけていた食欲が戻ってくる。
 白い縦長のダイニングテーブルは、中央に赤い薔薇と勿忘草が活けられている。それを挟んでスプーンと白い陶器製の器が、それぞれ向かい合って並んでいる。柚木の警戒を想定してか、男は自身の器にも粥を入れ、まず自らの口に運んだ。つられて柚木も粥を口に運ぶ。
 かるい塩味の優しい味わいに、たちまち舌はとろけた。
「……おいしい」
 今さら罪悪感に胸を締めつけられる。
「それは良かった。好きなだけお食べ」
「……うん」
 でも仕方がなかった。あまりに長い時間、柚木の人生は悪い人間に支配されてきた。今さら簡単に他人を信用できるはずなどなかった。
 上っ面だけで調子のいい人間はたくさんいた。鷹もそうだった。でも実際は違った。これまでの人生で、見返りのない親切心から柚木に関わろうとしたのは、たった一人、孝弘だけだ。
「柚木」
 ようやく覚えた子犬の名前を呼ぶように、穏やかな声色で男が呼んだ。
「君には自由に生きる権利がある。もちろん私も含め、皆平等にだ」
「……」
「その権利をどう受け入れるかは個人の自由だが、簡単に放棄するのはいけない」
「……」
「この世は苦しみも多いが、死ねばひと握りの幸福も味わえないよ」
「分かってるよ、そんなこと」
 でもさ、その『ひと握りの幸福』は、生きてまで味わう価値なんてあるのかな。俺みたいな人間は、死を選んだ方が、よっぽど楽なんじゃないの。
 否定的な言葉は、口に出す前に粥と一緒にのみ込んだ。どうせみついた所で、部屋を出れば二度と関わりのない相手。男の言うとおり、互いに住む世界が違うのだ。
 今日のような偶然がなければ、道ですれ違いもしなかった。
 人には平等に生きる権利があると言ったが、天から授かる幸運は、やはり不平等だと思う。柚木にとっての『ひと握りの幸福』は、彼にとってつまらない日常のはずだから。




「ユズキ……か」
 数日振りに一人になった部屋で、ミカエル・シャルドネはどさりとベッドに寝転がった。
 不思議な少年だった。いや……、青年か。
 あんな、野生のアライグマより凶暴なのは初めてだ。
 その割には、なぜだか腕を取って抱きしめたい衝動に駆られていた。
(何だろう、この感情は)
 物思いにふけっていたコバルトブルーの瞳が、天井付近でわずかに陰る。鋭い視線の先に、奇妙な浮遊物がいた。
 『ソレ』はシルバーメタリックの円球体で、全体はつぎはぎだらけ。前方部にはめこまれた赤い石は、ずっと彼に向いたままだ。
 これが人口眼球だと気づく者はいないだろう。
 彼のように、人体実験を主とする医療従事者でなければ。

 出会いは唐突だった。
 柚木が落ちて来た翌日だった。『ソレ』は、突然ミカエルの前に現れた。
 当初は柚木の自殺未遂と何か関連があるかと疑ったが、どうやら違う。

『I want this reverse』

―reverseが欲しい―

 奇妙な音声でそう言ったのだから。
 おそらくだが、人口眼球型のアンドロイドか何か。無重力の原理までは分からないが、アメリカを発つ際、監視用に教授が忍ばせたのだろう。
 こんな手の込んだ悪戯をするのはあの人しかいない。

 reverseあれれ薬なんかじゃない。あれは、悪魔の薬だ。
 それを裏づける恐ろしい実験結果を経て、決して人に使用してはならないと取り決めたはずだった。
 その名前すら、葬ったつもりでいた。
 まさか、共同研究者の片割れバディが勝手にデータを持ち出し、まったく違う薬効をうたい、れ薬として世に公表していたなど、思いもしなかった。
 恐ろしいまでに精密に造られた虚偽だらけの論文は、専門家の目をもすり抜け、とある学術機関を介して世界中の研究者の知る所となった。
 知らぬは亭主ばかりなりで、ある日を境に各国から奇妙な商談話が持ち上がるようになり、ミカエル他関係者はみな、混乱を極めた。
『実にすばらしい研究です』
『ぜひとも我が社で製剤化を』
『開発者のドクター・オノはどちらに?』
 全てが明るみになった時は手遅れで、当の本人はすでに依願退職し、日本へ帰国していた。
 ミカエルはすぐさま後を追った。かつての母国へ、こんな形で帰郷するとは思いもしなかった。
(あれからもう三日たつのか)
 一刻も早く彼からreverseを奪い取らなければ。
(わざわざおかしな電話まで。馬鹿にしてるのか、カナタ)
 あれを人に使ったら終身刑じゃ済まない。分かっているのか。
(やはり、あんな薬、この世に生み出すべきじゃなかったんだ)
「はあ……」
 だが、全ての望みが絶たれた訳ではない。万が一に備えて、リバースに関するデータの全ては、USBに保存してある。最終的にこれがあれば、危険性を証明できる、はずだ。
 いつ、何時USBを必要とするか分からない。だから、つねに肌身離さず持ち歩いている。
 あの薬をだれにも使わせてなるものか。
 だれも不幸にしてなるものか。
 もう二度と、絶対に。
「……ふう」
 ミカエルは球体からわざと目を逸らすようにベッドに身を投じた。
 こうする間にも何かが起こりそうで、気が気でない。
 ストレスで意識が飛びそうで、無意識に思考が何かに縋りつこうとしている。せめて気を紛らわす娯楽は必要だ。
「ユズキ――」
 自然と、あのアライグマの名前が口をついて出た。
 柚木は、そろそろ家路に着くころか。
 牙を剥いていた小動物が、美味しそうに食事していた場面を思い返す。
 たった一杯の食事で、あの感激ぶり。どうかあの子には幸せになって欲しい。
 おせっかいだろうけど、実はこっそりかゆのなかに精神安定剤を混ぜておいた。多少強めに。せめて、今夜だけでも心が静まればいいが――。
 柚木の笑顔を想像する。やはり幾らか気分が楽になる。ミカエルは深々と溜息を吐き出すと、いつもの癖で右胸のシャツのポケットをまさぐった。
 しかし穏やかなまなざしは、すぐに影を潜めることとなる。
「――――ない」
 確かにここに入れておいたはずのUSBが、ない。



――およそ数時間前、犬嫁製薬株式会社、本社内部にて。
 慌ただしく業務をこなすオフィスの一角で、一台のデスクトップパソコンに異変が起きていた。席は無人だった。だが、真っ黒だった液晶モニターが突然起動した。社員しか知らないであろうログインパスワードが入力され、画面が開く。
 モニターはすぐにメール画面に変わった。タイトル欄は『緊急開封』。送信先は全社員。

『本部より緊急通達。全社員に告ぐ。以下の者を見つけた場合は、ただちに上司に報告せよ。なお、発見者には報酬を与える――』

 ピクリとも動かぬマウスとキーボード。不気味にも文字がタイプされ、一枚の男の顔写真が添付される。

『対象者は木瀬孝弘、二十五歳。所属は本社第一営業部 営業戦略二課。現在、五階会議室を徘徊はいかいしている模様』

『なお、本メール到着後十五分以内に確保した者には現金一千万円を付与する。発見者は直ちに本メール送信者宛てに連絡せよ――』



「なんだこれは」
 静かな廊下に紺の声が不穏に響く。今しがた、奇妙なチェーンメールがばらまかれていると報告を受けた所だ。
(木瀬孝弘を捕まえた者に一千万円)
 顔写真まで添付されている。どこにでもいそうな、平凡極まりない――外見だけは、整えれば上の中程度ではあったが――男だ。出世頭でも能力に秀でた社員でもない、いわゆる平の社員。正直、その金額に彼の価値はつり合わない。実に意味不明なメールだったろう。会議室に収集されていた者をのぞいては――。
「これが、全社員宛てに送られてきたそうです」
 答える部下も不可解な表情で、「私はてっきり、部長ならご存じかと……」と首をひねる。
「おいおい。俺が金で人を釣るような、姑息こそくな人間だとでもいいたいのか」
「い、いや、決してそんなつもりでは」
 たちまち男の顔から血の気がうせた。
「……うそだよ。機密情報がたった数分で外部に漏らされるなんて、まさか信じられないよね。俺もそうだ。会議室にいた誰かが行き過ぎた正義感に駆られているとしか思えない。君にとって、それが私だったというだけで」
 男は目を白黒させて、そんなわけでは、とさらに言いよどんだ。
「や、やはり、内部に密告者がいるのでしょうか」
「それは分からない。にしても全社員か、困ったな。皆には新手のウィルスだと言っておこうか。今すぐ各部署のリーダーに連絡を取ってくれ。ぬかりなく、起動していないパソコンも含め全台のデータの削除報告を義務づけるように」
「御意に」
「まったく……。流れにきゅうさすなんとやら、ね」
 言い得て妙なせりふに、部下はまた首をかしげる。
「残念ながらインシデントが発生した以上、皆を野放しにはできないな。戦友を疑いたくはないが……、プロジェクトのメンバーは全員、最上階の別室へ誘導してくれ」
「ぜ、全員ですか……?」
 紺は何か問題でも、と片方の眉をつり上げてみせる。
「それでは、あの、木瀬孝弘は……」
「大丈夫。何が何でも、私が必ず捕まえてみせるさ」
「――御意」
 そう深々と頭を下げる男は、知る由もない。紺が背中に持つタブレット端末に、逃げ惑う孝弘の後ろ姿が映し出されていることなど。
「かわいそうに、捕まったも同然なのにね」
 部下はえ? と首を捻った。「何でもないよ」そういい残した紺は、すでに廊下を歩きだしていた。
「ああ、それと念のため、ことが終わるまでは全社員を外出禁止にして欲しい」
「それは……私の権限では」
「いや、責任は私が持つ。君はただ、俺の指示に従ってくれさえすればいい」
「し、しかし社長の許可なく勝手には」
うん? と首をかしげるにこやかな顔に、にわかに暗雲が立ち込める。
「言ったよね、私が全責任を持つって」
「……御意」
 男は泳ぐ視線を紺の足元へ向けた。
「それより気持ちを切り替えて、体制を強化せねばね。プロジェクトメンバーも、あらためて抜粋しよう。明日からいよいよだ。すぐにでも製剤リバースの威力を試したい。要望ばかりですまないが、今日中に都内の保健所は全ておさえておいてくれないか」
「ほ、保健所、ですか」
「そうだよ。何か?」
 男は青ざめた顔でしばらく押し黙ったが、「御意」冷や汗をにじませつつ、変わらぬ忠誠を紺に誓った。
 と、廊下の奥から人影。見ると、将軍様が怪訝けげんな面持ちで周囲を見渡し歩いてくる。
「おーい紺くん。いったいみんなはどこにいっちゃったんだろうねえ」
 紺はボソリと、身が凍るほどのおぞましい悪態をつくと、「お疲れさまです本部長。実は……」細い目尻をたれ下げ、足早に駆けていった。




「見たか、例のメール」
「さっき幹部の命令で削除されたやつだろ。こっちでもその話でもちきりだよ」
 いつもと変わらぬ始業前のとあるオフィス内。今日はやたら、息を潜めて会話をしている。
 こちらでも男性の社員が二人、頭を寄せ合い渦中のメールについて議論中。
「中国かどっかのサイバー攻撃が原因だって言ってたけど、本当だと思うか?」
「さあなあ」
「怪文書つっても、本物だったらどうするよ?」
「本物って、一千万が?」
「そうそう」
「んなわけねえだろ……」
 二人の笑い声は、次の瞬間、唐突にかき消される。
「まただ……」
 振り向けば、黒縁眼鏡の男が、バインダーを握りしめ蒼白そうはくな顔で突っ立っていた。
「また、何かが起こるんだ……。そうなんだ」
「は? 何言ってんだよ木村」
「き、君たちだって、知ってるだろ、うちの会社の五年前の事件を」
 黒縁眼鏡の男がそう言った直後、二人の顔がさっと青ざめる。
「お、おいやめろよ。あの話は禁句だろ」
「そうだよやめろよ、俺たちまでクビが飛んじまうよ」
「そこ! 業務の上で何か問題でも?」
 あからさまに三人の両肩が跳び跳ねた。見ればポスト紺の一人――社員の間で部長連中の取り巻きたちはそう呼ばれている――が目くじらを立てて廊下側の窓から顔を出している。
「な、何でもありません」
「そろそろ始業時刻ですよ。皆、速やかに業務を開始するように」
 彼らは蜘蛛くもの子をちらしたように、それぞれの持ち場へと散らばっていった。





 もぬけの殻になった会議室で、哉太は一人、椅子の背にもたれかかり携帯端末の画面をのぞき込んでいる。
 男子トイレの前、一階のエントランスに会議室、エレベータ前……、孝弘を求めて探し回る駒の姿が、あちらこちらに映り込んでいる。紛れもない、社内に所狭しと設置された、監視カメラの映像だ。
 平和ボケした日本だと、簡単にハッキングできそうだと直観していたが、案の定だ。オンラインネットワーク型は、こうして簡単にのぞけてしまう所が怖い。
 廊下を走り回る黒い頭の群れを冷めた目で追う。
 画面の一つに孝弘の背中が映った。
「……」
 哉太の目は、その一点だけに集中する。頼りない兄の背中を親指でなぞり、言葉もなく、ただ魅入る。
 物音でもしたのか、ビクリと身を震わせて立ち止まる。画質が粗くて白黒に近い状態だが、その顔が恐怖に満ちているだろうことは見て取れた。完膚なき美男子が台なしだ。
「……悪趣味」
 自分自身に悪態をつきつつ、机に顔をつける。
「早くぐっちゃぐちゃにしたいんだって」
 いっそ自分が鬼になって追いかけ回してやりたい。
 ……それじゃ、意味ないか。

 体の芯が熱い。
 久々に気分が暴走している。
 あと少しで孝弘を奪えると思うと、なおさら我慢は限界に達していた。
「はやく」
 キスの味を思い返して唇に触れる。本当はもっと貪りたかった。息継ぐ隙も与えず、唾液まで飲み干してしまいたかった。
「はやく……っ」
 画面を走る後ろ姿にさえ欲情している。
 脳裏に焼きついた七年前の美麗な裸体が、スーツ越しに透けてさえ見える。
 もう、制御がきかない。
 早く欲しい。
 あの人が。
「はやく孝弘を」
 俺によこせ……!





「はあっ、はっはあ……っ!」
 奇妙なくらい静かな廊下を、一人の青年が駆けていく。息は上がり、苦しそうに胸が上下する。革靴の底が床を跳ね、擦り切れたような孤独な音が、皮肉にも静寂をかき消した。状況はいまだに理解できていない。それでも孝弘はがむしゃらに走った。走るしかなかった。過去に犯した罪から逃れるため、ひたすら走り続けた。非常階段をいくつか下りて、慌てて跳び出す。あたりは打って変わってシンと静まり返っていた。
(五階……、立ち入り禁止区域だ)
 ここは研究チーム専用のフロアだと聞いた。うわさでは、認可の下りなかった製剤の毒性を、再研究しているのだとか。
 かつては許可証さえあれば、自由に立ち入れたらしいが、五年前に重大な情報漏えい事件が発生して以来、全面立ち入り禁止、エレベータでさえも五階には止まらない。が、まさか、非常階段という抜け道があったとは。
(どうしよう……)
 引き返した方がいいのかもしれない。だけど、捕まるのが怖い。
 囚われた後、どうなってしまうのか、想像するのが怖い。再びあの鉄扉を開ける勇気は、どうしてもなかった。
(きっと、説明すれば分かってくれる、はずだ)
 前に進むしか道はない。
 閑散として静まり返ったそこは、ほかのフロアにはない不気味さが漂っていた。
 渡り廊下から、恐る恐る中の様子をのぞいてみる。会議用のホワイトボードが一台に、対面して横長の作業デスクが数列。パソコンとチェアが均等に配置され、ロック画面で放置されたデスクトップ画面が、室内にぼうっと青い光を照らしている。
 気づかなかった。
「どちらさまですか?」
 髪を七三分けにした黒縁眼鏡の男性が背後に立っていることに。



「新人の研修医の方でしたか。こんな所まで大変ですね」
「帰り道に教授とはぐれてしまって」
 とっさのうそを、男はすんなりと受け入れた。
「仕方ないですよ。真っ暗で何も見えなかったでしょう」
「え……? はい」
「先週も同じ理由で誰かさまよっていましたね」
「そう、ですか」
「帰りの道案内をしましょう」
 廊下を奥へ進んでいく。男はふいに壁の前で立ち止まった。
「思い出しましたか」
「え?」
「ここだけ顔認証システムなんです」
 そう言ってしばらく天井を見上げた。奥から奇妙な機械音が聴こえて、壁と壁が二つに割れた。


 ちょっと変な質問をしますが、と男が言った。
「今日は何月何日でしょう」
「え? 四月の――」
 前が……ほとんど見えない。足元の非常灯のほかに照明らしきものがなく、青白く浮かんだ二つの足をなんとか追って歩くだけ。平衡感覚まで狂いそうだ。
 この真っ暗な通路は、五年ほど前に増設されたそうだ。
 重大な漏えい事故が起きたのも、ちょうど五年前。何か関係でもあるのだろうか。
「そうですか。もう四月か。早いな、ふふ……」
 孝弘は、その意味ありげな独り言さえ耳に止める余裕がなかった。進んでも進んでも闇の中で、だんだんと自分が前に進んでいるのか、引き返しているのか、分からなってくる。

「大変ですね、毎日ここを通って出勤だなんて」
「機密保持のためですから仕方ないです。下請けはつらいですね。最近は研究所に寝泊まりしてばかりです」
「……帰られてないんですか?」
「業務事態は十八時には終わるんですが……」
 男はしばらく押し黙った後、「もしも部外者に立ち入られたらと思うと、不安で夜も眠れないんですよ」と続けた。
「あの、僕は中に入っても良かったんでしょうか」
「……ああ。あなたは一応、関係者ですし。通路を渡るだけなら何とか」
 男はそう言うとフウー、とため息を吐いた。
 非常灯の薄明りは、まだ点々と奥まで続いている。
「木瀬さんは、入社何年目ですか」
「そろそろ三年目です」
 男――もとい、葉加瀬はかせは私も三年目ですと笑った。
「元は、東京理科大学の研究チームに所属していました。憧の教授が担当だったんです。通達が来たときは跳び上がって喜びましたよ」
 また短いため息。
「私は実験用の動物たちの管理を任されていました。保健所や動物病院から、毎日のように飼育を放棄された動物たちが送り込まれるんです。それを……」
 葉加瀬はしばらく言いよどみ。
「彼らは、実験台になるまでは生かされます。私は彼らの最低限の世話を任されていました。と言っても、健康体さえ維持できれば良かっただけで、彼らの日常的なストレスは、計り知れないものがあったでしょうね。
私は次第に、彼らに愛着を抱くようになりました。夜遅くまで残業したり教授が先に帰った日を見計らって、ゲージから出してやっていました。私は、一匹の子犬にとても愛着を持っていました。かわいい犬でした」
 シュタインっていうんです。葉加瀬がぽつりと言った。
「いつも舌をだして笑っていたから、アインシュタインから名前を取ってシュタイン。本当にかわいいやつでした。保健所で殺処分目前の所を拾われた子です。今となると、どちらが彼にとって幸せだったか分かりませんがね……。いっそ連れ帰って、私が育ててやろうかとも、本気で考えていました」
「それは、できなかったんですか?」
「シュタインはエイズ(HIV)に感染していたんです。……感染源は母親でした。彼女は殺処分されましたが、シュタインだけは……」
「そう、ですか」
「木瀬さんは、誰かを裏切ってしまったことはありますか」
「――え?」
「真っすぐ向けられた信頼のまなざしを、目の前で裏切ってしまった時、彼らにどれほど深い絶望が待っているか、想像できますか」
 暗闇の向こうで、葉加瀬がこちらをじっと見ているような気がした。
「私には、無理でした。シュタインの絶望を、受け止めきれませんでした。世の中を救いたいと研究の道を志したはずなのに。私たち研究者の仕事は、常に正義と真逆なんです」
 深いため息が闇に混ざる。
「少し話しすぎたようです。先を急ぎましょうか」
「……僕もあなたと同じかもしれません」
「え?」
「僕も、過去に大切な人を傷つけてしまいました。きっと今でも恨まれてる。その罪を、どう償えばいいのか分かりません」
 カラスのれ羽色をした通路の先で、葉加瀬もこちらを見つめている気がした。
「でも、あなたは立派だ。僕には、後悔する資格すらないんです」
 葉加瀬はただ黙って話を聞いていた。
「……いきましょうか」
 葉加瀬の声が遠くなる。
「はい」小さく返事をして、孝弘も後に続いた。
 背中を追いながら、新人研修時代の講師の言葉が頭に浮かんだ。
『新人で挫折するやつは、大抵考えすぎなんだよ。俺もそうだった。自分の中の正義感がいかにもろく幼稚だったか、嫌というほど現場でたたきつけられてきた。いいか、目の前の全てを受け入れろ。製剤だって結局は毒だろう。俺らは毎日汗水流して、患者に毒を届けてんだ。でもその毒がなけりゃ、救えない命だってあるんだから』




「ちょっとここでお待ちください」
 廊下の突き当りでしばらく待つ。そのうち目の前の壁が二つに割れる。そこは薄暗い殺風景な部屋につながっていた。ほかのオフィスと同じくブルーモザイク柄のカーペットに、長机とパイプ椅子が何列も並んでいる。
 葉加瀬が部屋の照明をつける。まぶしさから頭がキンと鳴いた。
「ダミー用の部屋です。手が込んでるでしょう、パソコンは全台稼働させています。そこの扉を開けて――」
 と振り向いた葉加瀬は途端に表情を強張らせた。
 孝弘もすぐさま異変を察知する。真後ろから手が伸び、口元をふさがれたのだ。
「ん、ンンーーッ!! ンンンッ!!
 無我夢中で振り払おうとするが、背後からさらに二本の腕が伸び、羽交い絞めにされた。
「おい! 早く足押さえろ!! 早くしろ!!
 そのまま押し倒され、床に転げる。すぐさま上から男が圧し掛かり、ばたばたと暴れる足元もおさえられた。
「や、やったぞ、捕獲、捕獲だ!!
 鬼だ。
 気づかなかった。あの薄暗い廊下を、背後から二人の男が追っていたことに。
「ああ、やったぞ、金……、これで大金が手に入るぞ」
 男たちは終始意味の不明な言葉を口走り、下品に笑った。
 その顔にとてつもなくおぞましい何かを感じた。
 孝弘はとっさに男の指に歯を立てた。ぐわあっと声がして、男が体を突き飛ばす。そのまま転がるようにして逃げ出した。
「おまえ、この野郎!!
 刹那。襟元を掴まれ、体が反転した。
 乾いた音が肌を跳ねる。ひゅっと空気を切るような音だ。言葉が途切れ、視界が大きく揺れる。なにが起こったか分からないうちに、右の頬が焼けたように熱くなった。振り上げられた手が横目に入り、ようやく頬を打たれたと気がついた。
「ふざけたまねしやがって!」
 その手が、ふたたび天井を向いて大きく振り上がる。
 殴られる……!!
 ぎゅっと目をつむる。
 刹那――、
「ぎゃあああ!!
 耳をつんざくような悲鳴を上げて、男たちが次々とその場に倒れ込んだ。二人とも意識がない。目を見開き口を開け、意識をどこかへやっている。
 すぐ真後ろに葉加瀬が立っていた。眼鏡のレンズが怪しく光らせ、倒れ込んだ男たちを見下ろしている。その手にはスタンガン。
「……すまない」
 孝弘を見やり、葉加瀬はぼそりとつぶやいた。
「あなたに怨みはない」
 スタンガンから、バチバチと奇妙な音が漏れている。
「ただ、私は腐れ切った世の中を変えたいんです。もう二度と、シュタインのような犠牲を出さないために。そのためには……どうしても金が必要なんです」
「――え?」
 葉加瀬の言葉は終始理解できなかった。ぼんやりとして感情の伺えない黒い目は、ひたすら孝弘だけを見据えている。葉加瀬は目で何かを訴えかけていた。スタンガンを突き出し、歩み寄りながら。
「何の、こと、ですか」
 金が必要……?
 どういう意味だ?
 葉加瀬と男たちを見比べる。
 うつぶせに倒れ込んだスーツの襟元から、黄色の首ヒモがちらりとのぞいている。社員証をぶら下げるためのもので、全社員が身につけるよう義務づけられている。
 首ヒモは、それぞれの立場によって色分けされている。
 緑は派遣と契約社員。
 黄色は正社員。
 赤色は管理職。
 たしか、会議室に居たのは、赤い首ヒモをぶら下げた管理職ばかりだった。
 つまり、黄色い首ヒモをぶら下げる彼らは、先ほど会議室には居なかった人物。一部始終を知らないはずの人たちだ。
 じゃあ、なぜ彼らは孝弘を追っていた?
 葉加瀬もそうだ。
 なぜスタンガンをこちらに?
 そもそも金が必要だとは、どういう意味だ。
 社内で一体なにが起きているんだ。
「葉加瀬さん、どういうことですか」
 メガネの奥の葉加瀬の目が、ごく僅か揺れる。
「理由は分からないが、あなたに懸賞金が掛けられている。報酬は一千万円」
 想定外の言葉に、孝弘は耳を疑った。
「最初は、どこかの暇な社員の悪趣味ないたずらかと思いました。すぐに悪質な迷惑メールだと、取引先から連絡が入りましたし。でも、普段はお目に掛かりもしないお偉いさんが、わざわざ電話を寄越すなんて、逆に疑念がわきました。もしかして、メールの内容に事実が含まれているんじゃないかと――」
「……なにを仰っているんですか」
「私たちは情報分析のプロです。直観力なら誰にも負けない」
 黒縁の眼鏡がギラリと光る。
「あのメールが本当なら、あなたは今、社内のどこかを逃げ回っているんだろうと推測しました」
 思考が回る。視界が回る。
「もし私が同じ立場だったら、誰も立ち入れない場所へ逃げ込むでしょう。例えば、立ち入り禁止区域フロア。エレベーターでは不可能でも、非常階段からなら侵入できる」
 当たり前の日常が、現実が、溶解液に浸された書類のように消えてなくなってしまいそうで、怖い。ただひたすら怖い。
「最初、ここであなたを見つけたときは鳥肌が立ちました」
 葉加瀬はニコリと笑う。眼鏡の奥がギラリと光る。
「これはもともと、護身用に忍ばせていたものです。役に立って良かった」
 スタンガンが再び火花を散らした。不敵な笑みに全身の毛が逆立つ。
「この会社には、道を踏み違えた悪魔がうじゃうじゃいる。早く根絶やしにしなければ。いつか 必ず、死神より恐ろしい生き物が生み出されてしまう」
「葉加瀬さん、仰っている意味が分かりません」
「分からなくてもいい。ただ、私には金が必要なんです」
 スタンガンを構えた葉加瀬は、もう目の前に迫っていた。
「いつかあなたにも分かる時が来ます。この会社がいかにおぞましい研究を繰り返しているのか」
 葉加瀬がさらに一歩前に出る。
「木瀬さん、私と一緒に世界を救いましょう」
「嫌です……!」
 震える足で懸命に床を蹴り、なおも室内をいずる。パソコンから伸びた無数のコードが手足に絡みついた。
「仕方ない……。痛いですが、我慢してくださいね」
 右手のスタンガンが黄色い火花を放った。





「報酬一千万円……なんだこれ?」
 携帯端末を片手にぶつぶつとつぶやく二十六木を放って、六階の通路をひたすら前に進む。雑然としたオフィスは、取り分けいつもと変わった様子はない。ひっきりなしに電話が鳴り、書類を片手に人々が歩き回っている。たまに廊下側の二人に目を向ける者もいたが、すぐに伏せられた。
(ケッ、相変わらずお高く留まりやがって)
「清川課長、これってやっぱガセネタですかね?」
「知らん。向こういけ」
「もう課長、ちょっとは構ってくださいよ~」
 行き先はない。この阿呆な遊興が終わるまで、ただ歩き続けるだけだ。
「木瀬孝弘に懸賞金が掛けられたんです。たった今ですよ」
「知るか」と一刀両断した清川は、通りすがりに喫煙室へ入り込んだ。
 珍しく誰もいない。オフィスワークは昼休憩に加えて十五分休憩が一日六回と決められている。チームごとに時間をずらしているから、利用者が居ないのはまれだ。それより、廊下や手洗い場まで、全てがもぬけの殻と化している異常な現象に、まず首を捻るべきか。
「メールだか賞金だか知らんが、変だと思わねえのか、誰も出歩いてねえんだぞ」
「さあ? それって珍しいんですかねえ。お、チェーンメールですよこれ。なんか怪しいなあ」
 二十六木はスマートフォンに目を落としたまま隣の椅子に座る。この男、出会ってまだ数十分ほどしかたっていないが、だんだんと図々しくなっている。
(つうか、プライベート携帯は勤務中使用禁止だろうがボケ!)
 まあ、仕事用のPHSをオフィスに忘れた自分だって人のことを言えた立場じゃないが。
「吸わねえなら外に出とけよ」
「別にいいじゃないですか」
「落ち着かねえんだよ俺ぁ」
「ああ、課長は性格の難儀な一匹おおかみですもんね? 紺部長が言ってました」
 こいつら全員死んでしまえ。
 清川の恨みつらみをこめた煙が天井に向かって消えていく。
「……ん?」
「今度はどうしました」
「いや、今さっき、何か、天井に見慣れねえモンが……」
「それより早く戻りましょうよ、時間がなくなっちゃいますよ」
 椅子に掛けて数分と待たず、二十六木が急かすように立ち上がる。
「早くしないと一千万円が逃げちゃいますって」
「うるせーなあ。どうせ俺には関係ねーんだよ」
 そういや、このフロアを訪れたのもどれぐらいぶりだろう。六階は丸々流通部。一課から三課は医療用品部門。四課と五課は一般部門。昔は清川も懸命に汗を流して頑張っていた。夏場は社外倉庫でピッキング作業の手伝いに没頭したりもした。……今は思い出したくもない過去に違いないが。
「関係大ありですよ。紺部長も言ってたじゃないですか、課長だけが頼りだって」
「俺なんか居なくても誰かがやるさ」
「うわ」
 終始なげやりな姿勢がしゃくにさわったのか、二十六木はムッとした口調でみついてきた。
「誰がやるとか、関係ないでしょ? それより先にまず課長から行動を起こすべきじゃないですか」
「黙れ、それ以上言ったらぶん殴るぞ」
 どうぞ、と言う二十六木の声は弾んでいた。
「僕たちの汗と涙が、患者さんの役に立つかもしれない。素晴らしい仕事じゃないですか」
 今すぐ二十六木の脇腹に一撃入れたい衝動を、清川はなんとか思いとどまった。
「あいにく俺は医者じゃないんでね」
「いいえ。僕たちは医療従事者の端くれですよ」
「けっ。なあにが医療従事者だよ。どうせおまえの興味は一千万円だけだろうが」
「お言葉ですけど、僕は欲望に忠実なだけですよ。どんな聖人もセックスはするでしょう? ベジタリアンだって魚は食べる」
「食べない人もいるだろ」
「でも何かは食べます」
 二十六木はますます不貞腐れる。
「野菜やナッツだって大地から生まれた生命です。命をいただくのは皆一緒なんだから。ベジタリアンなんかしょせん偽善じゃないですか」
 まくし立てるように言うと、一息吸って、立て続けに言う。
「人間だれしも、欲望と背中合わせなもんです。課長だってアホみたいにたばこばっかり吸ってるじゃないですか。ニコチンは百害あって一利なしですよ。ヘビースモーカーが将来どうなるか分かってますか? 最悪の場合、肺の機能が低下して、自分で呼吸ができなくなるんです。人工呼吸器をつけなきゃ、放っとけば死んじゃうんです。わざわざ率先して寿命を縮めるなんて、はっきり言って馬鹿ですよ。課長の馬鹿さ加減と比べたら僕の金銭欲なんかかわいいもんだ。それなのに、たった一千万円ぽっちにいついただけで僕の正義観を偽物扱いされるなんて、心外だ!」
「……」
「課長、何か言ったらどうですか」
 死ね。自己中死ね。ゆとり世代死ね。死ね、死ね、死ね、死ね!! 清川の口から白い煙が吹き荒れる。
「じゃあ貴様だけで勝手にやっとれ。俺を巻き込むな」
「駄目です。紺部長との約束ですから。僕は課長を……」
「ごちゃごちゃうるせーなてめーは! だいたい格下の分際で偉そうなんだよ! 上司は俺だ! 俺の指示に従え!」
 突如、喫煙室の窓にガツンと何かがぶつかった。これには二人ともぎょっと口をつぐんだ。
「な、なんだ今のは」
 窓にヒビが入っている。直径数センチほどの円球体がめり込んだような、奇妙な傷跡だった。
「課長、廊下に紙切れが散らばってます。まるで足跡みたいだ……。もしかしたら、何かが起こる前兆かもしれません。追いましょう!」
「お前、言いたいことはそれだけか。他にもっと」
「もう、うるさいなあ!」
 清川は疑問を吐き出す間もなく、腕を引かれ喫煙室を引きずり出されていた。
「お、おい! こら、待てっちゅうに!」
 くわえたばこに跳び散る灰じんをまき散らし。お構いなしにぐいぐい手を引くいけ好かない部下にくたばれと念じながら、清川も自ずと足早に廊下を駆けていた。



 孝弘は訳が分からないうちに、清川とその部下に両肩を支えられ、廊下を走っていた。その背後から、血だらけの葉加瀬と男が追いかけてくる。
「あ、あの、ありがとうございます」
「こちらこそありがとうございます」若い男はずる賢そうな笑みでそう返した。

 葉加瀬にスタンガンで脅されていた刹那のこと、男の一人が意識を取り戻して、葉加瀬の背中に跳びかかった。
 二人は折り重なるようにして床に転がり、互いを罵倒し顔を打ち合い始めた。
(に、逃げなきゃ)
 今しかないと、壁つたいに出入り口を目指す。震える手で、極力静かに、ドアノブを捻る。
 ギイ……。わずかに軋む金属音に肝を冷やしながら、一歩足を踏み出した。
「うっわ。本当に大物を引き当てちゃいましたよ課長」
「……どうなってんだこりゃ」
 ドアの前に立ちふさがる二人はフナのように口だけを動かす孝弘を両脇を抱え、廊下を駆けだした。
 右肩を担ぐのは、短髪が爽やかな若者。くっきりとしたひし形の目は、なぜだからんらんと光っている。
「黙っとれ」
 一方、左腕を担ぐは中年の男性。最初彼をみた時はぎょっとした。
「き、清川課長……」
 傲慢(ごうまん)で思いやりがなく、部下いびりを趣味としている。この男の悪評を聞かない日はない。社内で隋一ずいいつの慕われない上司とは彼のことだ。
 清川は「おい! とにかく走れ!」後方の二人を見やり、急かして言った。
 腰が抜けてうまく歩けない。
 しばらくして、背中に葉加瀬の叫び声。振り返ると揉み合う二人が廊下に転がっている。また清川に急かされ、もつれた足でなんとか前を目指した。
 ようやく逃れた。
 でもまだ、胸のざわつきは収まらない。
 鬼ごっこはまだ続いている。だとしたら、次の鬼は――
(まさか……)
 孝弘は青ざめた顔で両サイドの二人を見比べた。
 たしか、清川は会議室に同席していて、ことの一部始終を知っている。若い男の方もよく見れば、あの場にいた顔だ。哉太にさんざみついていた、名前を二十六木と言ったか。
「はははっ。これで一千万円だなんて、人生ちょろいっすね課長」
 二十六木の弾んだ声に、残念ながらそのまさかを確信するしかない。
「取り分は半々ですね。まずは後ろの二人をまいちゃってから――」
 バタンっと音がして、快活に舌を巻く二十六木の声が途絶えた。非常階段に孝弘を連れ込むなり、清川が二十六木を突き飛ばし、どだんっ!! と鉄の扉を閉めきったせいだ。
「ええ? ちょっと課長、何を考えてるんですか!!
 鉄の壁の向こうから「ずるい」「これが上司のやることですか」「卑怯ひきょう者!」「課長こそ金の亡者じゃないですか!」二十六木の怒声が飛び交っている。
「くそ、鍵が壊れてやがる……!」
 なぜか清川も叫んでいる。
 しばらくして、外から葉加瀬たちの罵声も聞こえてきた。口々に清川をののしり、体当たりしているのか、うなりうつ轟音ごうおんが階段の踊り場を響かせる。
 清川は階段の昇降口に踏ん張るように足をひっかけ、こじ開けられそうになる扉を凄まじい形相でおさえている。悪魔のようにつり上がった目が、そこにいた孝弘をにらみつけた。
「何してる! さっさと逃げろ!」
 あごであさっての方向を示しながら怒鳴られる。その言葉に、一瞬、耳を疑った。
「課長、逃がしてどうするんですか!」
 向こう側からは二十六木の怒鳴り声。扉はいっそうガンガンと震え、清川の体が波打っている。
「うるせえ! 俺は、こういうやり方はいけ好かねえんだよ! 木瀬が何をしたっちゅうんだ。寄ってたかってガキの虐めか、恥を知れ恥を!」
「あなたって人は、どこまで馬鹿なんですか。あれだけ皆の前で笑いものにされてコケにされて、まだそんな見栄を張るつもりですか!?」
「人の不幸の上にあぐらかいて、なにが金だ、出世だ」
 ふん、とやさぐれた横顔が笑顔を作る。
「だから……だからあなたは皆から無能扱いされるんだ、笑い者にされるんだ、課長には心底失望しましたよ!」
「ああそう、上等だ」
 清川の血走った目が、再び孝弘を捉えた。ようやく、一歩二歩と後ずさる。
「課長……すいません、本当に――」
「いいからいけったら!」
 なんとか踏ん張ってはいるが、清川の足腰は、そろそろ限界に近づいていた。その背中に一礼し、きびすを返す。
「おい!」
 階段を下りる手前、背中越しに清川が呼んだ。
「俺もよくは分からんが、社内で奇妙な現象が次々と起きている。気をつけろ!」
 その背中にまた頭を下げ、階段を駆け下りた。
 いまだ下肢に力が入らず、何度もつまずきながら下を目指した。手が震えている。「あっ」と、足がもつれた。ダンダンダンダンッ、前のめりに踊り場まで滑り落ちる。手すりに置いた左手が、ヤニとホコリで黒く汚れている。気持ち悪い。シャツの下が汗臭い。早く帰宅したい。熱いシャワーで全身を流したい。何もかも忘れて、暖かい布団に包まれぐっすり眠りたい。
 柚木に会いたい。
 早く柚木に会いたい。
(大丈夫……)
 きっと数時間後には、何事もなかったかのように、柚木の部屋で夕飯を作っているはず。帰宅後はいつもみたくドヴォルザークをBGMに、夕刊と経済新聞に目を通し、面白味のないニュース番組を頭に流し込む。スポーツ、経済、芸能。変わり映えのない世界に欠伸をくれると、洗いたての寝間着をまとい、ベッドに入る。壊れたレコードのように繰り返し訪れる恐ろしくつまらない日常は、明日からもきっと続くはずだ。

 大丈夫。
 何も変わらない。

 大丈夫。
 何も起こらない。

 哉太一人に、変えられない。
 孝弘の日常を。
 平穏な日々を。
 資本主義に癒着した、この一大企業の未来を。
 哉太一人に、奪えるはずがない。

 こんな時に、脳裏にはなぜだか、哉太との過去の思い出が浮かんでいた。
 七年前、孝弘だけを特別なまなざしで見つめ、慈しみ、恥ずかし気もなく、ただ「好きだ」と、「抱きたい」と、ありのままの思いを伝えてくれた弟。

 両親の目を盗んでキスをされる日もあった。
 大切な家族にさえ言えない秘密は、甘くて危険で、その反面、言葉ではつかない充足感と愛情で満ちあふれていた。
 哉太は、哉太だけは、誰とも違う特別な目で孝弘を見てくれた。
 コンプレックスのはずだった存在が、孝弘の傷ついた自尊心を癒やしてくれた。

 うれしかった。
 哉太が側にいるだけで、日常に光がともされた。
 いつからか、哉太とのまぐわいを心待ちにしてさえいた。
(……僕は、僕は……)
 いつからか、哉太を、必要としていた。
(本当は……)
 いつからか、あのあったかい懐が、心地よくなっていた。
(哉太を……)
 言葉にさえまとまらない。でも心の奥底で、自覚していた。

 少しずつ、哉太に、心を開くようになっていた。
 少しずつ、哉太との時間を心待ちにするようになっていた。
 裏切ってようやく気がついた。

 多分、
 いや、
 きっと、
 あの頃の自分は、

 哉太を、愛していたのだと。

 あの日がなければ。
 哉太を裏切りさえしなければ。
 愛の結晶は、きっと今でも、この胸元で光り輝いていた。

「う……っ」
 差し迫る孤独に押し潰されながら、孝弘はひたすら階段を駆け下りた。たびたび視界がぼやけた。その度がむしゃらに頭を振って、現実を見ろと自身を諭す。

 懸賞金。
 一千万円。
 そんなもの、出任せだ。
 れ薬。
 そんなもの、存在するはずない。
 きっと哉太の……哉太の作り上げたでまかせだ。
 大丈夫、大丈夫だ……。

 五階、四階、三階、二階……、滑るように下る。一階の踊り場にたどり着く。脇目もふらず、一目散にドアノブを捻り外へ跳び出した。

 ドンッ!!

 ぶつかったそれが人だと気づくまで、時間はかからなかった。高質のスーツに藍色と白のストライプのネクタイ。凍りついて固まる孝弘とは対照的に、その男は突進した体を悠然と受け止めた。まるですべて想定済と言わんばかりに、無感情な細い目をピクリとも動かさず、小さな黒目が眼前の部下を静観する。
「紺……」
しゃべるな」
 流れるように伸びた手に口元が覆われる。
「ん、ぐっ」
「危険だから動かないでくれよ」
 手に、何か持っている。男が筆記具でも扱うように指を曲げると、銀色の針の先から薬液が漏れ出した。




「てめえらコラ、いい加減離せこんちくしょう!」
 上階から清川の声がこだまする。彼らに見張り役を頼んだおかげで取り分が三割減ってしまうが、致仕方がない。天邪鬼な上司ほど面倒なものはないと勉強になっただけ良しとしよう。

(にしても、困ったなあ)
 二十六木はらせん階段からにゅっと首を出し、下の様子をのぞき見る。
 ちょっと足止めを食らっている間に、一千万円が行方をくらましてしまった。木瀬孝弘らしき人物の面影どころか、足音も聴こえない。さっきまで腰が抜けていたくせに、とんだ俊足だった。彼らに担架を切った手前、どうしたものか。
「木瀬は……木瀬は本当にそこにいるんだろうな……っ」
「あー、だいじょぶだいじょぶ、ちょっと待ってなって」
 声を張り上げ、銭ゲバがと悪態をつく。メールを読んでいい小遣い稼ぎだと思ったのが運の尽き、どうも面倒事に発展しそうな予感。
 たった数百万円ぽっちで目の色を変えるやつらのこと、取り逃がしたとなれば、「弁償しろ」だとか要求されかねない。
(チッ、面倒くせえなあ……)
 元々は、軽いバイト感覚で始めたにすぎない仕事だった。実家はそこそこ裕福だし、趣味で立ち上げたプラットフォームの広告収入だけで結構なもうけも出ている。紺の話に乗ったのは、単純にドクター・オノの生の姿が見たかっただけ。あわよくば若き天才博士にサインのひとつでも書いてもらえたら、それで良かった。
 生まれながらに成功体質。
 三歳から英才教育を受けて育ち、親の権力と財力で、確定的に有名な学校に合格した。エスカレーター式で昇りつめ、人生も楽勝で駆け上がってきた。
 苦労の経験は一度もない。蝶よ華よと育てられた、生粋のお坊ちゃん。
 その二十六木優が、でき損ないの上司連中のせいでこのザマだ。たかだか三百万円のはした金。もはや災難としか言いようがない。
(もうやってらんないよ)
 いざ入社してみれば、回されるのは雑用業務ばかり。薬剤リストを、まるで回覧板を渡すかのように医師に手渡して回る日々。ハコがでかすぎて組織としての連携もうまくいってなくて、部署が違えば他人様扱い。
 どいつもこいつも、上に言われた業務だけこなしていればそれで良くて、共産主義じゃないかと疑いたくなる不平等な均一報酬制。そもそも、派遣で入社するべきではなかったのだ。
「一千万円くらいなら、父さんのポケットマネーでなんとかしちゃおっかなあ、なんかもう面倒くさいし」
 もうやーめた。
 スマートフォン片手にだらだらと階段を下りながら、庶民の感覚にはついていけないと一人ごちる。
「……ん?」
 その時。とつぜんスマートフォンの画面がざざあっと乱れて、奇妙な映像に切り替わった。二十六木は驚くでもなく、「またか」と呟く。
 海外から違法ダウンロードしたチューナーアプリが、また不具合を起こしている。
 開発者は有名なハッカーの一人で、最近はその才能を生かしたユニークなビジネスで成功を収めている。そのビジネスとは、世界中の監視カメラの映像を自由に閲覧できてしまうというサービス。毎月百ドルつぎ込む二十六木が言えた立場じゃないが、なんとも悪趣味な商売だ。
 アプリ事態にウィルスが仕込まれているのか、時たまこのような現象が起こる。まあ、他人のプライバシーを金で買う代償と考えれば、多少の不具合にも目をつむるしかない。
 それにしても、今日の映像は際立って奇妙だった。
 らせん階段のど真ん中、吹き抜けの部分を天井からぶらさがって撮影したような映像で、画面がずっと不安定に揺れている。その揺れ方が実に奇妙だった。ぷかぷかと宙を浮遊しているような……、明らかに建物の振動とは違う動きをしている。
(なんだってこんな場所を撮ってんだか)
 二十六木は首を捻り画面をのぞき込む。大きなバネのように、上から下へ渦を巻く階段が幾重にも見える。これでは人間の姿が追えない。一体なんのために、こんな場所にこんなものを。まったく意図が不明。
「……は?」
 次に感じた違和感は、もっと奇妙だった。映像の中の建物の構造が、二十六木がまさに今、降りているその場所とあまりに酷似している。円すい型のらせん階段で薄暗く、台形を不均等に押し伸ばしたような、近未来的な階段のデザインまでうり二つだ。
 思わず顔を突き出して上を見上げる。が、小さく見える天井には、監視カメラらしきものはない。相変わらず清川の怒鳴り声がわんわんとコンクリートを響かせているだけで、ぷかぷかと浮かんだ奇妙な物体の影などもってのほかだった。
 不思議なこともあると再び画面に目を戻した。
「あれ?」
 二十六木は再び首を捻る。カメラの視点が動いている……? 映像は不安定に揺れながら、階段を下へ下へと移動し始めている。一瞬ドローンを使ったいたずらかとも考えたが、トップレベルの腕前でも、ここまで精密な操作は不可能だ。
 次に画面に飛び込んだ映像を見て、二十六木の顔からざあっと血の気が引いた。
 まもなく見えてきたのは階段の踊り場とおぼしき映像。紺のスーツを着た中年男性が、男二人に組み敷かれている。
「な、なんで」
 喉を震わせ、もう一度階上を見上げた。まもなく頭上から、清川のやけっぱちな怒鳴り声が、筒形に吹き抜けた一帯に響いた。
 二十六木はもう一度、画面の映像に目を凝らした。細くてつり上がった眉に小さな黒目。いかにも堅物そうな男が騒ぎ立てている。映像は無音だったが、男がパクパクと口を開けると「馬鹿野郎」と怒鳴り声が落ちて来た。やはり、清川だ。顔も服装も、どう見ても本人で間違いない。つまり、彼らを至近距離から撮影した映像が、二十六木の携帯に流れ込んでいる。だが奇妙にも、誰もカメラの方向に目を向けようとしない。何事もなかったかのように、いや、そこに彼らのほかは第三者などいないかのように、三人は床を転げまわって取っ組み合いを続けている。
(な、なんだこれ。どうなってんだよ)
 映像はぷかぷかと揺れながら、ゆっくりと彼らの真上を通過した。怒った清川の顔が画面から消える。カメラの映像は、尚もらせん階段を下に進んでいた。

「う、そだろ……」

 ――近づいてくる。一段一段と。

 その数階下で、スマホを片手にあぜんと立ち尽くす二十六木の元へ。

「うそだよ、こんなの……」

 とうとう遠目に二十六木の背中が映り込んだ。仁王立ちに背中を丸め、何かにおびえているのか、両肩が震えている。

(何だよ……なんだよ……なんだよ……、この会社、まじで何なんだよ……)

 両脚が、金縛りにあったように地面に張りついて動かない。
 両手から尋常じゃない汗が吹き出している。
 それは携帯端末の画面までじっとりと汗がにじむほどだった。
 まるで氷を張った水風呂に突き落されたような感覚。
 全身の毛という毛が逆立ち、寒気が止まらない。
 皮膚も肉体も内蔵も、なにもかもが摂氏零度の恐怖に戦慄わなないている。

 とうとう画面に二十六木のつむじが映り込んだ。
 頭のなかで、何かがプツリとはじけ飛ぶ。

「あ、あ、ああ……あああ……!!
 二十六木は勢いよく顔を天井を仰ぎ見ると、ひし形の目をいっぱいに見開いた。





 真っ暗な闇のなかを、孝弘はずっと漂っている。
 ときおり、写真の切れ端のように、映像と記憶が散らばって、脳裏をぐるぐると舞っている。
 葉加瀬の顔、清川の顔、さまざまな人物が、線香花火のようにぼんやりと浮かび上がった。
 奇妙な夢だった。
 記憶の波に、また一人の男の顔が浮かび上がった。
 ずっと昔から見覚えのある、懐かしい顔だった。
 彼は寒気立つほど奇麗な顔立ちをしていた。
 月が欠けるようにゆっくりと、彼の顔や形は変化した。
 クリスタルブラウンのすき通った目が、少しずつ少しずつ、黒く染まっていく。
 水気を帯びて潤んだ瞳は、だんだんと闇にのまれ、荒んでいく。
 唇は真一文字に閉ざされ、時折怒りをみ殺すかのように震えていた。

 彼を見るうち、だんだん悲しくなる。怖くなる。
 何かを伝えなければと思う。

 自分は彼に憎まれているようだった。
 同時に怖いくらい愛されているとも感じた。
 彼が何かをつぶやいて背を向けた。
 後ろ姿があっという間に小さくなる。
 急に寂しくてたまらなくなって、「待って」と手を伸ばした。
 その瞬間。
 闇の塊が、とぐろを巻いて襲ってきた――。


「う、ん――」
 頬を撫でる乾いた空気に、孝弘はぼんやりと意識を取り戻した。
「やーっと手に入れた」
――俺の孝弘――
 誰かが耳元でささやいた。
 干上がった川底をなぶる風よりも乾いた声だった。
 無意識に冷や汗がにじんだ。起き上がろうとするが、どこもかしこもギシギシときしんで自由がきかない。
 重い瞼を、強引にこじ開ける。真っ白な天井を遮るようにして、若い男が真上から覆いかぶさっていた。
 瞳は漆黒の闇色で、両端がつり上がった、の強そうな口元。目が合うと、彼の顔は一瞬苦しそうに歪んだ。
「もうちょっと寝てろよ」
 口元が覆われた。
「後で、さんざんかわいがってあげるから。俺の孝弘」
「んん」
 息苦しさが、ついさっき身に起きた出来事を思い起こさせる。

 ついさっき……、
 何が起こったのだろうか……。
 あの時僕は、どこにいた……。
 そこにいたのは、誰だ……。

 思い……出せない……何も……。

 孝弘の意識は再び深い闇の底へと落ちていった。

電子版限定小説

双子と夜と王様ゲーム

禁断レポート4 おまけ小説

 明日は週末。学生の仮面を取れる今日は、特別な一日でもある。毎週金曜は、哉太の部屋にお呼ばれする日。どちらが決めるでもなく、いつしかそれが習慣となっていた。


 その日の夜。
 ドアを三回ノックして部屋に入るなり、哉太がすがりつくように抱きしめてきた。
「いらっしゃい」
「哉太、扉を……っ」
 言い終わらぬうちに、むさぼるような口づけが始まる。
「ふあ」
 蜜液でとろけた甘い舌が唇の先をノックして、やんわりと押し入ってくる。すぐさま孝弘のそれと絡まった。
「哉太……っ」
「黙って」
 そのままどろどろにねぶり回される。
「ふ……っ」
 強引すぎて、唇に歯があたる。チクリと刺すような甘い刺激は、余裕のなさそのものだ。ベッドに誘われ、腰が立たなくなるほど愛されそうだ。想像するだけで腹の奥がうずいた。
「孝弘、孝弘」
「ん、う……っ」
 思わず哉太の頭をかき抱き、孝弘は甘い吐息を漏らした。それより、今日のキスは気持ちが良すぎる。もう感じすぎて立っていられない。キスをするのも久々だからか、それとも……。
「がっつきすぎ、です」
「だって待てない。どんだけ待ったと思ってんの」
「まだ、一週間……」
 最後まで言いきらず、言葉は途中で切れた。哉太が前のめりに倒れ込んで来て、背中からベッドに押し倒されたせいだ。
「あー、良い匂い。あーすげえ好き」
 うそも偽りもない素直な言葉に心臓が跳ねる。家の中ではピクリとも表情を崩さないあの哉太が、子供のように頬ずりをしながら首のあたりをなめている。男だってキュンとくる。こんな姿、自分しか見られない特権なんだから。
「あ、待って、ください」
「やだよ。これ以上待たねえよ」
 余すところなく口づけを落としながら、服の下を弄り始める。さらりと乾いた指先はことのほか熱を持っていて、愛撫あいぶともつかない手つきに、いとも簡単に翻弄ほんろうされる。
(うう、流されちゃ駄目だ)
 気持ちよくて頭のなかがぼうっとかすむ中、孝弘は懸命に頭を振る。
 今夜はいつものように流されまいと決めていた。どうしても今日、やってみたいことがあるのだ。ついこの間、テレビで観たドラマの受け売りだけれど……。
「……ん、なにこれ?」
 哉太も何やら異変に気づいた様子。とろんと半開きだった目をわずかにしかめて、孝弘の腰の辺りを弄っている。実は部屋に来る前、あるものを忍ばせておいた。
 孝弘は自ずとジーンズの後ろに手を伸ばし、そのブツとやらを見せる。割りばしだ。すでに二つに割れていて、持ち手が逆になっている。
「王様ゲームです」
 そう言うと数秒の沈黙。
「なんだって?」
 それから大層訝しげに聞き返された。それよりはやくヤりたいんだけど、とでも言いたげな顔で。
「だから、王様ゲームです。昨日テレビでやっていて、僕もやってみたくなりました」
 哉太の目が点になっているのは、この際置いといて。
「王様ゲームがしたいです」
 上目遣いのおねだりにめっぽう弱いのを知っていて、畳みかけるように懇願する。案の定、哉太はうぐ、と押し黙ったのち、しぶしぶ体をどかしてくれた。

「哉太、今日は、王様ゲームで、その……え、エッチをしましょう」





 王様ゲームのルールは簡単だ。割りばしの先っぽに、片方だけ赤いインクを塗ってある。これを引いた人が王様で、そうじゃなければ家来になる。そして王様は命令は絶対である。たとえどんな理不尽な要望でも、家来となるものはその命令に逆らってはならない。
 大事なので繰り返すが、このゲームで王様の命令は絶対なのだ。

「それじゃ、いちにーの、はい!」
 互いに割りばしを持ち上げる。お、と短くつぶやいた哉太の手には、赤色のインクのついた割りばしが。
「俺が王様だね」
「はい」
 内心王様を狙っていた手前、少し残念な気持ちではあるが、致仕方がない。
「どんなお願いでもいいんだよな」
 良からぬ妄想を脳内に侍らせているだろう、実ににやけた顔でこう続ける。
「じゃあ服、全部脱いでよ。そんでベッドの上でさ、超やらしいポーズしてみせて」
「……え?」
 全く予想だにしていなかったみだらな命令に、顔から火が噴き出そうになる。
「か、哉太。命令が、その、ちょっと……過激がすぎます」
「いいでしょ、たまには」
 狼狽ろうばいする孝弘をよそに、哉太は一足先にフローリングにあぐらをかくと、観客気分でこちらを見上げる。その目はすでに熱っぽく潤んでいた。
「はいどうぞ」
 自らが発案者である手前、今更止めるとも言い出せず。意を決して服を脱ぐほか、方法はないわけで。
「そう。全部。靴下も下着も、ぜーんぶ脱いじゃって」
「は、い……」
 哉太の視線を感じながら、ベッドの上で、言われた通り生まれたままの姿になる。最後の一枚を脱ぎ捨てた時は、ストリップ譲にでもなった気分だった。角度の変わりつつある核心が、トランクスから跳び出た際は、喉唾を嚥下えんげする音がたしかに聞こえた。たったこれだけで興奮をおさえられない様子の弟に驚きを隠せない一方で、孝弘もまた、じくじくと沸き立つような興奮を感じていた。
「こっち向いて座って。そう、そこで脚をめいっぱいに開いて。もっと、もっとだよ。そう……いい子」
 哉太の声色がだんだんと小さくかすれていく。クリスタルブラウンの二つの目が、体の最もみだらな場所にくぎづけになっている。視線を痛いほど感じながら、言われた通り、ベッドの上で両脚を開脚させる。
「だめ、もっと開いて」
「ああ、いや」
 にわかに開いただけでは許されず、強引に足を持たれ、折り曲げられる。結局膝が胸につくほど大胆にそこを露出させられた。
 両手を体の後ろについて、なんとか体勢を保ってはいるが、そろそろ限界に近い。体も、精神も。
「哉太……も、もう、許してください」
 そう言って哉太の方を見て後悔した。目が据わっている。完璧に欲情している時の顔だ。はーっはーっと耳を澄ませば獰猛どうもうな野獣のような荒い息づかいまで聞こえる気がした。
 哉太の興奮にあてられ、孝弘の核心もますます反応を硬くする。触れられてもいないのに、そこはすでに天を仰ぎ見ている。鈴口はぱっくりと開き、玉粒の愛液がにじみだしてさえいる。
「孝弘、俺もう」
 目線の先には、興奮で先をらした屹立きつりつが。
「だ、だめ、これ以上は、次に王様になってからです」
 哉太は「分かった」とすんなり提案を受け入れた。そこらに放っていた割りばしを持ち直すとインクの部分を手で隠して目の前へ。せーので引き抜く。運命の赤いインクは……、今度は孝弘の手中だ。
「くそっ」
 履き捨てるように言ったあと、哉太の分の割りばしが部屋の隅に吹っ飛んだ。それはまるで、子供の頃にむさぼるように読んだ児童小説「キャプテン・ジャック」の主人公ジャックが、最終巻でばくだいな財産を海に流した時より悲壮に満ちた顔をしている。
「それじゃあ、哉太も服を脱いでください。全部です」
「……まさか俺にも同じことさせるつもり?」
 自分はさておき、哉太の表情がさっと曇る。
「い、いいえ。僕は……、いじわるをします」
「いじわるって」
 言葉途中でしばらく固まり。ついで脱兎だっとのごとく服を脱ぎ捨てていく。何かを心待ちにしているのか、その目は再びらんらんとした輝きを取り戻しつつあった。目にも止まらぬ速さでシャツを取っ払うと、ハーフパンツに靴下と、惜しげもなく裸体をさらす。ボクサーパンツから、孝弘とは比べ物にならない、雄々しく反り返った屹立きつりつが跳び出た時は、逆に逃げ腰になってしまった程だ。
(あんなものが、これから僕の中に……って何を考えてるんだっ)
 なんという。すでに妄想の中で抱かれかけていた。
「それで、俺に何をしてくれるの」
 そうとは知らず、はあはあと熱い吐息を放つ暴君は目を輝かせて仁王立ちしている。
「べ、べべ、ベッドに寝てください……。それで僕が、上から」
「上から?」
「またがって……」
 哉太の脇やおなかをくすぐってやる。暗に笑いもだえる姿が見たくて発案したのだが、実際にその体勢になってみて、ようやく何かが違うと気がついた。
 男と男が興奮状態で、裸と裸。しかも仰向きに寝転がった上にだなんて、必然とお互いの大事な部分を擦り合わせてしまう訳で。
 つまり、ガチガチに硬直したナニが、孝弘の男の部分にべったりと身を寄せている訳で。その存在感というか、体温というか、興奮そのものを擦りつけ合う感覚が、たまらなくみだらだ。
「ひゃ」
「はは……大胆」
 何を思ったか、哉太はおもむろにそこへ腕を伸ばすと。
「はあ、孝弘、すっげえれてる、ここ」
 二つの肉の棒を両の手でまとめ、上に下にと扱き始める。先っぽの弱い部分をでられ、思わずくうんっと声が漏れる。
「や、ちがっ、駄目っ」
 一週間ぶりのみだらな行為。
 一週間ぶりの甘美な刺激。
 たったこれだけで下半身はとろけてしまい、自然と腰が前後に動き出していた。
「やっ、駄目、駄目……僕が……」
「無理、良すぎて止まんない」
 そう言う哉太の息も荒い。みるみる反り返っていく二つの勃起を緩急つけて追い立てていく。しだいに玉袋までも張り詰めていく。そこに膨張感が増すたびに、得も言われぬ快感が募った。ゾクゾクして、頭がぼうっとなって、何も考えられない。優勢なのは自分の方なのに、精神的には哉太に組み敷かれている気分だった。
「はあ、もう我慢できん」
 切羽詰まった声とともに、抱き寄せられる。そのままグルリと体が半回転、ベッドを背中に押し倒されている。二の句を告げる余裕もなく足首を持たれ、両肩に担ぎ上げられる。哉太の美貌が前傾しながら近づいてくる。紛れもない正常位。折り曲げられた両腿が、胸元につきそうだ。
「王様、いたずらしてもいい?」
 哉太の指先が、花弁のシワを伸ばすようにでる。
「だめ……ふああっ」
 あふれ出ている愛液を絡め取り、そこに塗りたくる。ゾクゾクして腰が震える。緩急つけてつぼみの周囲の筋肉をほぐされ、密にれた指先が一本、ゆっくりと中に沈められた。哉太の指は、全てを分かりきっているかのように、すぐさま前立腺の膨らみに触れる。瞬間――、腰からとろけるような強烈な快感に襲われて孝弘は絶叫した。「大丈夫」核心に何かが垂れてくる。いつの間にか、哉太のもう片方の手にはローション。それが細い糸を引いて屹立きつりつめがけて落ちてくる。どろどろとろうのように滴るそれは、玉袋を伝ってつぼみまでれそぼる。抜き差しするたび指もれ、奥へ突き立てるたび、ぬぷりじゅぶりと小さな気泡がにじみだしてさえいる。
 頭がしびれるようなその感覚に、理性が溺れかけている。いや、既にもう溺れている。気持ちいいこと以外はもう、何も考えられない。
「や、ああ、そこ、そこ、やめて……ください、哉太……っ」
「王様、気持ちいい?」
「は、はあっふう、はあ」
 言葉も出せず、いつしか自ら腰を振り乱して愛撫をむさぼっていた。
「すげえ、とろとろ」
 かすれた目で声の方をたどる。何かに追い立てられているような切羽詰まった顔をして、哉太がじっとこちらを見下している。赤ん坊のように開脚したひどく挑発する体勢も忘れ、ひたすら咽び泣いた。
「二本目な」
 ずるりと抜けた圧迫感が、すぐさま倍になって戻ってくる。
「く、う……っ」
 孔に痛みを感じたのは一瞬で、抜き差しするうち、緊張は簡単にほぐれてしまった。それよりも、前立腺の刺激が倍になって、気持ちがいい。
 たまらず声を漏らす度、口の端からよだれが垂れてしまい、手の甲で拭った。
「哉太、哉太……っ、苦しい……」
「苦しい?」
 もう指先じゃ物足りない。それよりもっと大きなモノを、ここにくわえたくて仕方ない。直腸のなかが、ひどく熱くてたまらない。淫乱の火がくすぶって、愛撫だけじゃ満足できない。もっと大きなモノで擦られたい。一ミリの隙間もなく哉太の熱で圧迫され、縦横無尽に突かれたい。
「お願いですから、早く、早く来て。哉太の物を早くここに……」
 哉太の暴君が、ぶるりとひときわ大きく震えた。
「俺も、もう限界……!」
 指が引き抜かれたと同時だった。その数倍もの容量を持った哉太の暴君が、そこに押し入ってくる。
「ひっひいっ――!!
 メリメリと体を突き刺す音が聞こえた気がした。感じすぎて脱力したのを良いことに、内壁の奥の奥まで、一気に哉太が押し入ってくる。両脚をつんのめらせ、歯を食いしばってその全てを受け入れた。
 痛烈な痛みは一瞬だけで、あとはローションの滑りがヌルヌルと穴の緊張をほぐしてしまった。難なくピストンが開始される頃には、泣きたいくらいの快感だけが、孝弘の意識を蹂躙していた。
「たまんね……っ」
 さらに震える声で、ズンっと一突き。正常位で穿うがたれ、脳裏が白くかすんだ。
「哉太……!!
 実の弟とみだらな関係を結んで数カ月。どれだけ体を許したかしれない。同じ日、同じ時間に生を受けた二人は、一つ屋根の下でこうして禁忌を持て余すようになった。
 初めて関係を持った夜は、罪悪感で一睡もできなかった。部屋に呼ばれる度キスをして、抱きしめられて、無感情人間だと思っていた哉太が、本当はもろくはかない普通の男だと知るにつれ、沸き上がったのは優越感。哉太に特別扱いをされる度、胸が躍った。それは、週に一度の密会では物足りなさを感じる程、孝弘にとってなくてはならない居場所になっていた。
「ああ、ああ……っ、やら、やらっこれ、以上……っいっちゃ……っ」
 繰り返し訪れる甘い刺激に、頭も体もついていかない。
 ピストンに合わせて屹立きつりつが跳ね上がる。肉棒の先でもみくちゃにされた快感が爆発して、暴発して、体内でどんと弾ける。弾けても弾けても、気持ちいいのが終わらない。むしろ逆で、二発、三発と次々に激しく火花を散らして打ちあがっている。大玉の花火ばかり穿うがたれて、そろそろ意識が跳ぶんじゃないかとさえ思った。
「つぎ、俺の番」
 ベッドの脇に転がった、インクのついた割りばしを握り込み、哉太はかすれた声で続ける。
「孝弘……っ、今どんな気持ちか教えて」
 耳元で、上ずった声色でそうささやかれた。
 刹那。我慢の限界を迎えた雄から白濁液がびゅるると飛散する。尿道を擦りつけられ、呼吸をたびたび忘れかける。ピストンはいまだ止まず、腹を汚す白い斑点を目で追うのがやっと。
「や、あぁぁぁぁ!」
「俺は、超幸せ。こんなかわいい孝弘が見れて……、俺にこんな感じてくれて、すっげえ幸せ」
「哉太……僕、も……っ」
「たか、マジで好きだよ、大好き」
「あ……」
 次の言葉までもたなかった。哉太がひときわグンっと大きくなって、腰使いも荒くなる。普段はシワひとつ作らない無表情顔も、次第に切羽詰まった様相に崩れていく。額にびっしり玉の汗を浮き立たせ、一心に愛をむさぼる哉太がかわいくてたまらない。今、どうしてもキスしたくなった。首根っこにすがりついて哉太の呼吸を奪う。驚いた顔とともに、
「あ、イク――!!
 一段と強く穿うがたれた。直後に抜き出した哉太の雄から、白濁がほとばしって腹を汚した。

プレ配信版のおまけ

プレ配信版のみのおまけで、鬼ごっこ編のハコガキを公開してみました。
全然この流れに沿ってないので、強制反省文的な内容

プレ配信のおまけ2(ボツ原稿)

本文とメモ書きが混在する、整合性のまったくないものですが、こんなものを掲載するとTwitterで口走った自分への戒めとして公開いたします涙
原稿は第一稿です。

孝弘は凍り付くように固まった。
そこに哉太が待ち構えている。
背後には紺部長と取り巻きが数人。
彼らは獲物にありつかんと構える猛獣のような目で、孝弘をねめつけている。
(どうして哉太がここに……)
疑念はいくつも降って沸いたが、勝ち誇ったようにほくそ笑むその顔を見ると、恐怖以外の感情が掻き消されていく。
(逃げないと……)
しかし追い打ちをかけて、上階からも足音が迫っていた。先ほどの男たちだろう。とうとう清川のガードが破られたのだ。
目の前には哉太。後ろは鬼の群れ。
どちらに進んでも、待っているのは同じ結末。
「これはこれは、紺部長。お疲れ様です」
最初に階段を駆け下りて来たのは、清川を罵倒していた若い社員だ。
「やあ、二十六木くん。ご苦労様」
二十六木と呼ばれた男は不躾に笑った。紺は気にも留めず、哉太の前に歩み寄る。
「それではドクター、木瀬孝弘は私が確保してまいりますので――」
「待ってください。これは俺の成果です」
間髪入れず二十六木が遮ると、紺はたちまち嫌悪感を露わにさせた。
「その前に、俺にも問わせて下さいよ。ゲームが始まってから、突然社内中のパソコンにこんな電子メールが送りつけられていました。木瀬孝弘を獲得した者に、報酬一千万円。これは事実なんでしょうか、ドクター?」
(報酬……一千万円)
事態が、知らないうちに想像もつかない大変な方向に傾いている。目の色を変えて追ってきた彼らの真意が明らかになり、ゾッと背筋が凍りつく。
(一体だれが、そんなメールを。まさか、哉太が……)
「なんの事ですか」
しかし哉太は無表情に首を傾げ、紺に視線を投げかける。
「これは……、我々も想定外の事で、一体どうなっているのか。現在社内で調査中です」
「調査中、ですか。メールの出所を調べたら、差出人は紺部長になっていましたよ?」
「……なんだと」
●二十六木は会社のパソコンをハッキングして、内部調査をしていた。ここで、紺部長の動きが怪しいことに気付いたと説明。
紺が細い両目を見開いた。
「さすが部長だ。遠隔操作もお手の物ってわけですね。これで俺達を煽ろうって魂胆でしたか」
紺の表情がみるみる強張っていく。元々温厚な人ではなかったが、今日のように感情を晒した姿を見たことがない。逆に怒りっぽい清川を「君は上司失格だ」と叱りつけていた位だから。
「二十六木くん。それは一体なんの冗談だ」
「冗談、ですか。部長はそのおつもりだったんでしょうね。でもね、一度でも甘い夢を見せられた以上、黙って引き下がる訳にはいかないんです。俺たち営業の貪欲さを、舐めないで頂けますか」
「すまないが、俺は本当に知らないんだ」
「交換条件を提示しましょう」二十六木はそう言うと、孝弘を羽交い絞めにした。
「リバースに関する一切の指揮権を俺に下さい。そうしたら、木瀬さんを差し上げますよ」
二十六木の指が脇腹と首に食い込み、くぐもった吐息を吐き出す。哉太はその様子を険しい顔で見つめていた。
「二十六木くん……、誰のおかげで今の君があると思っている」
「部長には感謝していますよ。屑同然な俺のことをここまで買ってくれて。でも、俺はもっと上を目指したい。こんな所で、やる気のない上司のお守りをしてる場合じゃないんです」
「それは俺の事か」と清川の声が聞こえた気がした。
「俺はこの手で世界を変えたい! ドクター、あなたにはその力がある。だから俺は、あなたを追ってここまできたんだ、利用できるものは何だって利用しますよ」
無表情な漆黒の瞳は、依然として孝弘を見据えたまま。
「いいよ。じゃあ話をしようか、二十六木くん」
操り人形のように形のいい唇だけが動いて、哉太が歩み寄る。
慌てた紺が、両手を広げて静止する。二十六木が興奮気味に息を飲んだ。紺を押しのけ前へ。二十六木の胸ぐらを掴み寄せると、ポケットから何かを取り出し口の中へ。
わずか数秒の出来事が、スローモーションのように目の前で流れていく。
次の瞬間、二十六木がくぐもった悲鳴を漏らした。噛みつかん勢いで哉太が唇を塞いでいる。首に手をやり、ギリギリと息を詰める様は、さながら暴力と似ていた。
「や、め……っ」
苦しそうに開いた口に親指をあてがい、強引に舌を差し入れる。ゴクリと喉が鳴った。
「劇薬です」
「……え?」●二十六木に何かを飲ませたことを認知させる文章。
「まだ研究段階の試薬品なので、どんな作用が出るのか不明ですが……」●とある機密部隊に依頼されて作っていた、細菌兵器。
「……え?」
呆然とする二十六木を冷たく見やり、哉太は言い放つ。
「失敬。俺は奇麗ごとばかり口にする奴が大嫌いでね。見るとつい、イジワルしたくなっちゃうんですよ」
首に巻き付く指が、カタカタと震えている。それより、放心状態の二十六木を見下す、哉太のどす黒い笑顔。彼はもう、ヒール(悪役)にしか見えない。この男に捕まったら一体どんな酷いことをされるのか。二十六木が未来の自分の姿を映しているようで、怖い。
「これは米軍に依頼された化学兵器の試作品です。安心してください、殺傷能力は半分以下まで抑えてますから」
声さえ出なくなった二十六木の目の前で、再びポケットから小さな固形物を取り出す。赤と白の小さなカプセルだ。
「一九八〇年、南米の小さな村が、ある伝染病で壊滅の危機に追いやられました。何の前触れもなく、村人がばたばたと倒れていくんです。目と口から血を流して、顔は酷い虫刺されのように腫れあがり、そこからどくどくと膿が出る。三日三晩苦しんだ末、彼らは白い泡を吹きだして死んでいった。遺族はその亡骸を素手で触り、土に埋葬していきました。次の日も、その次の日も、感染者はさらに増えた。やがて誰かが『祟りだ』と言い始め、感染者を『悪魔』と呼び虐殺するようになった。一人の青年が村を脱走し、助けを求めるまで――たった五ヶ月の間で村人の八割が焼き殺された。のちの研究で、不吉な病の正体が、野生の鳥を媒介した細菌の仕業だと明らかになりました。傷口や粘膜から体内に入り込み、酸素と一緒に血液に溶け込むんです。そして心臓に辿り着くと、全身に菌が拡散されていく。感染から二時間後には痙攣や嘔吐が始まって、早くて一日で死に至る。そういや昔、似たような映画が流行りましたね」
紺の後ろに立つ取り巻きの一人が、口元を抑えてえずきだす。
「安心したまえ。その悪魔の菌は、この中にほんの微量しか混ぜていないよ」
凍り付くほど美しい哉太の笑顔と対照的に、二十六木は悲鳴を上げてその場に泣き崩れる。紺は二の腕で口元を抑えると部下を前に突き出し後ずさった。
「いやだ……死にたくない……死にたくない……ッ!!」
「大丈夫だって、この量じゃすぐには死ねない。むしろ、少しずつ君の体を蝕んで、一生をかけて死の恐怖を植え付けてくれるだろうね」
二十六木の悲鳴が非常階段一帯に響き渡る。螺旋階段を駆け上がる壮絶な雄叫びは、まさしく地獄の断末魔を髣髴とさせた。
「あなたのせいだ」
床を掻きむしっていた手が、孝弘の足元を掴んだ。
「あなたがドクターをたぶらかしたりするからだ。だから俺がこんな目に……」
違うと言いたいのに、声が出ない。足がすくんで、二十六木の剣幕があまりに恐ろしく、自分だけは助かりたいと、彼のようになりたくないと、無意識で残酷な想いが孝弘を苛んでいた。
「そうだよ。全部あんたのせいだよ」
哉太はただ笑っている。「あんたが俺を裏切ったせいだ」と言い放ち、立ちすくむその姿を見据えたままスーツのポケットに両手を入れる。
「あんたの事なんてさっさと忘れられたら、どれだけ楽か。どんなに憎くても追い続ける俺の気持ちなんか、分かんねえだろ」
その顔は、酷く憔悴しきっていた。誰の目も見ず、虚空を捉えたまま口の端でふっと笑う。七年間。その計り知れない膨大な時間を、哉太はたった一人で、過去に囚われ生きて来た。苦しかった。もう、忘れてしまいたいと何度も願った。だけど、どうしても忘れられなかった。捨てきれなかった。好きで、好きで、好きで、好きで。どうしようもなく好きすぎて。ぶつけようのない想いを憎しみに変えるしか、生き抜く方法が見つからなかった。▽

「君に飲ませた化学兵器に唯一対抗できる抗体が、このカプセルの中に入っている」
涙にぬれた二十六木の目が、ギロリと上に這い上がる。その目は哉太の右手だけに注がれていた。
「そしてこっちは、リバースに関する一切の機密情報を入れたUSB」
次に、分かりやすく紺が反応した。
「孝弘。今この場で、一生俺の為に生きると誓え。そうしたら両手のブツは、まるごとくれてやる」

あとがき

禁断レポート3を発刊してから、実に一年近くかかってしまいました…。


まさか次章を発刊するまでに、こんなにも時間を要するとは、私自身も思いもしませんでしたが、とにかく、無事に出せて良かった…!

鬼ごっこ編は、まるまる書き下ろし編となります。
下書きの段階では何一つ書かれていないお話しで、お話の途中と途中の間に、強引に盛り込んだような形で作成しました。

今までは下書きという土台があったので、修正箇所は大なり小なりあったにしても、結構サクサクっとかけていたんですけど…。

今回はもうすべてが一から製作しなければならなくて、もともと遅筆な私には、まさしく試練の章でした。

個人的には、平均年齢50代くらいのオッサン連中を書き散らかすより、とにかく早く哉×孝を書きたい気持ちに駆られていたんですけど…。

やはり、二人の濡れ場は次回禁断5へ持ち越しとなってしまいました…。

ちなみに、次回で禁断レポートの第一部は完結いたします。

最終章となる「愛の螺旋図」は、最初から最後までエロエロエロ…ええ、もうこれまで全然BLらしくなかった反動もあって、エロずくしでいこうと思っています。


本当は孝×柚とかのシーンもあるんだよー泣
ただ、物語がそこまで進んでくれなくて、ずっと保存してるんだよー泣


何はともあれ、禁断レポート4までお付き合い下さっている皆さま、本当にありがとうございます!おかげさまで、累計有料配信数も3000部に到達する勢いです。

私は少しでも早く、柚木を幸せにしてあげられるように、遅筆ながらも、地道に書いて行こうと思います。

それでは、禁断4までお付き合いくださった皆様、大変にありがとうございます。

本当に本当にありがとうございます!

寒くなってまいりましたね、どうぞ、お体にお気を付けくださいね。

二〇一七年 一〇月五日  新矢イチ 拝

奥付

書名     禁断レポート4
著者名    新矢イチ
電子版製作  2017年10月10日初版発行
発行所    壱屋books
URL     壱屋booksオフィシャルウェブサイト



本作はフィクションです。実際の人物、団体等とは一切関係はございません。

禁断レポート4(ソフト版)プレ配信用

2017年10月10日 発行 初版

著  者:新矢イチ
発  行:壱屋books

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新矢イチ

2016年某月、レーベルサイトを作りました。新作のプレ配信情報も随時紹介予定なので、たまに覗いてみてください。

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