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日本人の夜明け

平川博達

箱舟と虹



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日本人の夜明け


  これからの日本はどうなるのでしょうか。
  高齢者が増え、
  認知症も減ることはないようです。
  若者にしても、どうでしょうか。
   
  もちろん悪いことばかりではありませんが、
  経済大国になってむしろ家庭崩壊、地域崩壊が始まったのです。
  
  そういう危機感のなかで、
  自分の魂はどのように守ったらいいか。
  そういう「目的意識」から、この本を、無料で公開することにしました。
  ご参考にしてみてください。

 しかし、人生に正解はない。
 ともいわれてきました。
 それゆえに、人生には目的などない、という良識人もあらわれています。
 たしかに、これからの日本について、日本人について、様々な希望もあれば、心配もあり、絶望している人も、いるはずです。

 しかし、いまさら、失望絶望しても始まりません。
 いざというときの、覚悟が大切ではないでしょうか。
 なによりも、「この世」に生まれたということ。
 日本に生まれたということ。
 日本の中の特定のところに生まれたということ。
 これからも日本人として生きるほかない、ということ。

 そういうことを思うだけで、一生の間、どれほどの恩恵を受けていたか。
 どれほど、家庭にも学校にも、「いい思い出」がなくても、自分の人生を振り返る力があるひとには、やはり、ひとりでは生きることは不可能であるということを知るはずです。

 そういうことが分かっただけで、その人はもう、ただの生き物ではなく、「人間」となった証しになります。
 自分が人間として生まれたことを、知るだけで、これから自分はどう生きるか、そういう心もわいてくるのではないでしょうか。

 もちろん、これまでの人生を振りかえってみても、「いやなこと」「苦しかった」ことがあまりにも多くて、哀しくも寂しい人生でしかなかった、と思う人もあるでしょう。
 また、これまでの人生は、「まあ普通であった」「良かった」と思う人でも自分の未来に、認知症がまっている、とおもえば、どうでしょうか。

 そういうこともあって、人生は、ほんとうに、不思議であり、どういう輝かしい栄光と健康に恵まれた人でも、天国に入れるとは限っていないわけです。
 そういうふしぎ」のなかに、「すべての人」が生きるほかないのですから、これからの人生は、しっかり自分の足場を固めることが、急務ではないでしょうか。

 そういうこれまでの自分の人生の再確認と、最も自分らしい人生の未来の開拓のために、この本を用意しました。
 一助になれば、わずかでも参考になれば幸いです。




一 箱舟と虹
   2017年 クリスマスメッセージ





 1 「こども」のためのクリスマス

 メリークリスマス。
 クリスマスって、だれの「おたんじょうびかい」かな。
 イエスさまがうまれたひだね。
 イエスさまは、どこのひとかな。
 イエスさまのともだちって、どういうひとかな。
 
 イエスさまはイスラエルという「くに」のひとでした。
 ベツレヘムというところでうまれました。
 すると、とおくから、「さんにん」の「はかせ」が、「おくりもの」をもってきたのです。

 だから、「おたんじょうびかい」には、「にほん」でも、「おくりもの」をするようになったのです。
 そうして、イエスさまの「おつかい」として、サンタさんが、「よいこ」に、「おくりもの」をもってきてくれるようになったのです。
 「おくりもの」なら、いちばんほしいものがいいね。
 それでサンタさんも、みなさんが、「いちばんほしいもの」をもってきてくれるようになりました。

 でも、イエスさまは、みなさんがうまれたときには、サンタさんよりも、もっと、もっと「すばらしいもの」をもってきてくれたのです。
 それはなんだったでしょう。

 それが、「かみさまの子」になるための「ことば」でした。
 「やさしいことば」
 「ゆうきあることば」
 「へいわをつくることば」

 こういう「ことば」を、もってきてくれたのです。
 だから、かなしくなったときとか、げんきがなくなったときには、 イエスさまにあうと、また「げんき」になれるのです。

 また、「かなしいかお」をしているひとや、
 「さみしいかお」をしているひとがいたら、
 そういうひとの「ともだち」になってあげてください。
 そうすると、まいにちが、
 イエスさまも、「いっしょ」になって、クリスマスのような、「たのしいひ」になります。


 2 「中高生」のためのクリスマス
 
 さて、中高生になると、どうですか。
 イエス様の時代では、十二才になると、成人式をあげていました。
 十二歳で「おとな」になったのです。
 日本人は、十八歳になると、成人になりますが、「おとな」になるには、日本国憲法を読み、そして、人間の権利について、知ること。とくに、勤労の権利と勤労の義務とは、どういうものかを知ることが必要です。

 憲法のなかには、自由権、平等権。そして社会権のことが記されています。だれでも個人の生きる権利を奪ってはならない。弱いものを差別することはいけない。
 どうしても生活に困ったときには、「生活保護をうけて、再出発することもできる」

 そういう権利を保証しているのが、憲法です。
 なかでも、そういう権利の中心は、やはり、ひとりひとりが、勤労の権利と勤労の義務を知ることで、生きる歓びを知ることです。魂の成長には、勤労の歓びが、何よりも必要だからです。
 
 イエスさまは、ユダヤ人でしたので、「神の律法」という法律を知ることが、成人になるための務めでした。
 その「律法」には、何百という「おきて」がありましたが、そのなかで、最も大事な「掟」とはなにか、と、十二歳になったイエスさまは考えました。
 そこで、ユダヤ人であるための条件とは、
 「天地創造の神を知り、その神を愛すること」
 「自分を知り、自分を愛すること」
 「自分を愛するように、隣人を愛すること」
 という三つであることを、知ったわけです。

 つまり、不思議なことに、日本人にとってもユダヤ人にとっても、人のために働くこと、隣人を歓ばせることが、権利であり、同時に、義務である、ということです。
 だから、生きる権利を奪ったり、差別したりしていけない、ということです。
 これがイエスさまの、クリスマスのメッセージです。


 3 「大人」のためのクリスマス

 お元気でしょうか。今年も、クリスマスを迎えることができました。私も、後期高齢者になりました。
 おもえば、よくぞここまで生きたものだと思います。
 私の母親は、六九歳で他界しましたので、まさか自分が七五歳まで生きるとは思ってはいませんでした。
 しかし、親より長生きしているのは、私だけではなく、いまや、八十歳の人でも、母親の時代の六十歳のような気がします。

 ただ、長生きがいいのか悪いのか、ふと思うような事件が多くなってきました。いまや、神社の宮司の家庭でも、殺傷事件が起きるような時代になりました。
 しかし、不思議なもので、クリスマスが近づくにつれて、どの家庭でも、サンタクロースがやってきます。

 サンタさんは、みんなが眠ったころにやってきます。
 なぜでしょうか。
 イエスさまもまた、だれにも気づかれることもなく、母マリヤのなかにいました。母となる乙女マリヤには、それは突然のできごとでした。
 ヨセフという男性と婚約はしていましたが、それは、ただの結婚の約束ではなく、結婚に備えて、身も心も清める「とき」でした。
 結婚までは、異性に近づいてもいけなかったのです。
 心もまた、モーゼの十戒にあるように、
 「みだらなことは想うな、するな」
 という掟を守らねばなりませんでした。

 なぜそこまで、と思うはずですが、聖書の世界では、罪というものは、「遺伝もする」し、「感染もする」からでした。
 戒律を犯した罪が、自分だけの人生で消えるのではなく、子孫にまた遺伝してしまう。
 ごく普通の生活においても、罪を犯したもののそばにいけば、流感のように、感染する、といわれていたのでした。

 つまり、婚約中に、罪を犯せば、そのあと家庭をもっても、家族全員が「罪人」にになってしまうわけです。
 それ故に、乙女マリヤが懐妊したときには、マリヤだけでなく、婚約者のヨセフにしても、びっくり仰天でした。
 そこでヨセフは、ひそかに婚約解消を決意しました。
 ところが、そこに、ひとりの天使が現れて、ヨセフに告げたのです。

  -マリヤのおなかの子は、聖霊によるものです。
   神の子であるから、あなたは安心してマリヤを迎えなさいー

 なんということでしょうか。
 しかしその「ことば」は、 マリヤもヨセフも、結婚に向けて、心もからだも清めていたことの証明となりました。
 そしてそのイエスさまが、こんどは、すべてのひとを「神の子」にすることになったわけです。

 神の子になるには、神の「言葉」を理解して、神の「言葉」を話せるようになる必要があります。
 その神の「ことば」とはどういうものか。
 それが、「めぐみ」と「まこと」の「ことば」でした。
 「めぐみ」とは、天地創造の神の愛のことばでした。
 「まこと」とは、キリストの真理のことばでした。

 その「めぐみのことば」とは、

 ーあなたの神、天地創造の神は、
  いつもあなたのところにいますよ、
  だからいつも勇気を持ちなさいー

 という「ことば」でした。

 そして「まこと」のことばとは、
 ーあなたは、自分の罪を認める人間になりなさい。
  自分の罪を認めることが、自分を知る初めです。
  あなたは隣人を自分を愛するように愛しなさい。

  隣国も愛しなさい。
  隣人を愛し、隣国を愛することが、自分と自分の国と、さらに、天地創造の、あなたの神を愛  したことになりますよー

 という「ことば」でした。

 クリスマスとは、そういう「ことば」を思い出して、自分の罪を知り、神の子として生きる、歓びの日なのです。

 さて私事ですが、インターネットを開けるひとは、平川博達で、検索してみてください。

 「ひとりぼっちの魂へ」全五巻 
 「知っておきたいキリストの世界」全七巻
 「天国の扉」全十巻  「天国の証明」全十巻
 「揺り動かす天地」全十巻 
 「魂が自由に成長する生き方」
 「続、魂が自由に成長する生き方」
 「箱舟と虹」第一巻~第三巻
  以上が、電子書籍になっています。有料ですが、「無料」の「タチヨミ」もできます。
 「箱舟と虹」はこのあと:二十巻まで続く予定です。

 また、10年ほど前の紙の本としては、「父と子の聖書物語」、「母と子の聖書物語」「おやと子のための聖書物語」などが、アマゾンなどで発売されています。

 では、良いお年を! 
 どうか、日々が、新しい発見と、勤労の歓びでありますように。   
                                    (平川博達)

                              

 二 2017年の総括 
   「日本人が求めてきた」ものを、吟味してほしい

  
 1、「安倍総理」は何を求めたか

 衆議院選挙では、思わぬ逆転劇もありました。あれほどの小池劇場も、安倍総理の前では、失速してしまいました。小池さんの登場で、安倍政権の「胡散臭い所」から解放されるのではないかと、夢を持ったものも多かったようでしたが、その夢もまた、かすれてしまいました。

 しかし自民党が政権を守ったとしても、元総理の小泉総理の次男の、次男の進次郎さんの話によると、安倍政権のしたことが、評価されたとはいえない、ということでした。たしかにそうで、安部総理の言動は、同じ自民党のなかでも、それこそ「しかたなく」賛同しているようなところもあります。

 日本人は一体、何を求めたのでしょうか。
 安倍さんは一体、何を求めているのでしょうか。」
 安部さんは、国会においても、これが一国の総理か、というほどに、その言動には問題がありました。野党の質問にさえ満足に答えない人間が、国内の平和どころか、世界の平和がどうして作れるでしょうか。
 平和を造る「言葉」さえ、知らないようです。
 そういうひとが、憲法の改正を訴えるから、また問題が大きくなりそうです。

 国民が政治家に求めることは、公平な政治を行うことと、経済的に強い創造性と、平和を造る「言葉」と「お互いの人権」を大事にする言動というものではないでしょう。

 武力による平和などは、一時的にはだれにでもできます。家族の中の横暴な父親にしても、「暴れて」見せれば、どこの家庭でも、一時的に平和になるようなものです。北朝鮮の代表は求めているものは、国民の求めているものとはかなり違っているように、安倍さんの心も、人間性も、かなり問題があるようです。

 政権維持のためにお金をばらまくような政治家に、利権を味方だけにばらまく政治家に、どういう勤労の精神が感じられるでしょうか。
 生活保護そのものが決してわるいことではありませんが、何事も無償ではいけない。タダでもらえが、勤労の歓びもないからです。
 それゆえに、勤労の歓びを奪うような生活保護は、これもまた、勝組の横暴を許すことと同様に間違っています。

 どうしても会社勤めはムリなときには、家でも働けるような、内職をあっせんをする。つまり、金よりも、勤労の保証をする、仕事を与えるべきではないでしょうか。

 はっきりいいます。
 金があふれるほどある富豪のものでも、勤労の歓びを知らないものは、その魂の成長がありません。
 同時に、弱者の自立さえないで、飼い殺しするほどの罪がありません。すべての人は、魂の自立による、魂の成長のために、生きているからです。 

 安倍総理は、選挙前のある週刊誌のアンケートでは、「最も当選してほしくないひと」に、選ばれていました。
 しかもその理由は「人柄がわるい」ということでした。

 それでも、「ふた」を開けてみれば、安倍政権の続投という結果になりました。
 おかしな日本人?ということになりました。
 しかし、ほんとうは、おかしくもなんともなかったのです。
 大半の日本人は、人柄などほんとうは、問題ではなかったのです。
 特に政治家の資質というものは、ただの善良さよりも、むしろ「悪どい」ほうが、現実の社会を切り開ける、と信じたわけです。

 つまり、国民は、魂のの成長のための仕事など、求めてはいないのです。
 国民主権とはいっても、日本人というものは、ふしぎなことに、「主権」なども求めてはいないのです。

 ご利益さえあればいいわけです。
 安倍さんを嫌った人の大半は、今現在の生活に困らないひとでした。いま失業しているひとには、失業のない生活を保障してくれるものが「いい政治家」ではないでしょうか。つまり、日本国民は、ほんとうは、自立することを恐れ、強いものに「すがりつく」という傾向というか性向がいまだに「強い」ということです。

 つまり国民がそうだから、安倍さんだけではなく、日本の政治家の大半は、あくまでも日本的な政治家だということです。日本人には、国民主権というものなど、ほとんどいらないわけです。だれかすがれるものがあればいいわけです。

 2 警察検察は、何を求めてきたか 

 もちろん日本的なものがすべてが悪いのではなく、日本的な政治家の愛国心に問題があるようです。
 日本だけがいつも正しいわけでもないのに、いざというときには、閉鎖的になります。隣国を嫌うものほど、日本を守っていると、錯覚しているのではないでしょうかしかし、何度もいうようですが、そういう隣国を嫌う政治家がまた、自立したくない国民にも、「いい」わけです。
 「よそのものはどうでもいい」
 「我々だけを助けてほしい」
 ということなのです。

 たしかに日本人にとっても生きる道が、外国人にふさがれれば、問題でしょう。
 人権を守るほどの「大仕事」はありません。
 しかしなぜか、日本では、国民の人権を守ると称して、冤罪をつくる、こともあるのです。
 警察検察などは、日本国憲法によって保障された、弱者の基本的人権さえ、無視して、冤罪を造っては、死刑囚をつくることもあります。

 しかもそれは、自分たちのミスであっても、冤罪を造った当人が罰せられることはなく、検察警察の上司が、代わりに形式的に謝罪するだけです。
 たとえ冤罪によってでも、ひとりの「いのち」を奪ったのであれば、その「いのち」を返すべきですが、そういうこともせず、ただ賠償金という、「いのち」ではないモノを、しかも国民の税金を使って返すだけです。

 そういうことです。警察検察にしても、いざというときには、「上司」に謝っってもらいのです。
 「悪さ」した「子」のように、いつまでも「母親」に謝ってもらっては、また「悪さ」をしているわけです。

 自立するつもりはないのです。法律家ほど、自由には責任が伴うことは知っているはずですが、いざというときには、「上司が責任を取る」ので、いつまでも自立できないわけです。

 弁護士にしても、どうでしょうか。
 国民の権利を守るということで、明らかに罪を犯しているものの弁護をするときに、犯人の罪意識を薄める手伝いをする人が多い、ということです。
 人を殺したような殺人者の罪でさえ、殺人者の罪意識をしっかり植え付けるのではなく、罪意識を薄めるために弁護する人も多いのです。それゆえに、自立できないわけです。罪意識を薄めるわけですから、いつまでも自立しないのです。

 日本国民にも、国民主権という意識が薄いものは多い、ということです。自分の魂の自由と独立よりも、誰かにすがって、ご利益を得ようというような、そういう生き方をするものが多いのです。

 憲法のいうところの「国民主権」でさえ、ピンと来ていない人が多いはずです。
 自立することを恐れて、いまだに「お上」に従うことで、生き延びようとしているのではないでしょうか。
 
 その一番いい例が、「いじめ」問題です。
 いじめを、自分の手で解決しようとしないのです。見て見ぬを知る人が、いまだに多いということです。
 いまだに「村八分」にされることを恐れています。いじめられている人の味方をすれば、今度は自分がいじめにあう。
 それを恐れています。

 困ったことに、そういうことです。
 そういう国民主権のない社会では、民主的な選挙による投票によっても、本当の政治家の出る幕もないわけです。


 3 国民は何を求めてきたか

 そういうわけで、政治家だけに問題があるわけではありません。
 また、日本人だけに問題であるわけでもありません。
 人間というものは、大半なひとには、魂の自立といっても、魂がどこにあるのか、心がどこにあるのか。そういうことは、問題にもなっていないのです。

 そういうことさえ、問題にもならないのですから、あまり理想的なことは言えないのです。
 だれでも、ひとり生きることが大変であるから、ご利益を求める生きるほかなかった。
 長い方にまかれて生きるほかなかった。
 強いもの、生活力のあるものに「すがるほか」なかったわけです。

 そうして、友人をつくり、その友人とか隣近所の人の目を気にして生きるほかなかったわけです。それゆえに、我が身の安泰にまったく役に立たない知的障害などは、殺してしまえ、というひともでてくるわけです。
 つまり、そこまで言う人、実際に利的障害者を19人を連続殺害したものにしても、そうでもしないことには、自分が自分ではなく、そういう崖っぷちのうえで生きてきたはずです。

 そして、そういう自分の思いを支持してくれるひともいなくなれば、友人もいない、隣近所のひともあてにはならない。
 学校にも職場にも、自分の存在を喜んでくれるひとが、ひとりもいない気がすると、昨今のような自殺サイトを見るほかなくなるわけです。

 また高齢者の認知症を見てください。
 どういう「生きる歓び」が感じられるでしょうか。
 どういう「創造性」が感じられるでしょうか。
 彼らの世話をしている人でも、最後は勤労そのものを放棄したくなり、最後は、そういう人を殺すこともあります。
 殺すくらいなら、そういう職場離れればいい、と一般には言われてきましたが、離れることもできない心理的事情というものあるわけです。
 それで実際に殺したあとも、殺すほかなかった、というほかないわけです。

 それほどに、生きるということ。
 身を引くということ。
 死ぬ、ということは、理性では説明のつかないところで、起こる、ということです。

 つまり、いわゆるエリートかとか、勝ち組にしても、彼らが利己的である人が多いのも、そういう生き方しかできないように、心理的にも閉鎖的になるほかない、ところまで、追い込まれているわけです。
 勝たないことには、心が落ち付かない、そういう病状もある、ということです。
 一国の総理になっても、ウソをつくほかない事情というものがあり、そういう事情を抱えていたので、総理になれた、そういうこともあるわけです。
 ですから、総理になったあとになって、総理に、平和を造る「言葉」もないことを指摘し、糾弾しても、何一つ、だれ一人、救われることはない、のです。


 4 人類は「何を求めてきた」か

 人類の始祖ともいわれてきた「アダムとエバ」の罪についてはご存知でしょうか。
 ふたりはエデンの園で、何不自由のない生活を送っていました。アダムとエバを創造した神も、たった一つの「戒め」を与えただけでした。
 その「一つ」の「戒め」とは。
 
 -何を食べてもいいが、園の中央にある「知恵の木」の実だけは食べてはならない。
  なぜなら、あれを食べると死ぬことになるから。-

 ところが、そのあと、ヘビという悪魔の化身がやってきて、妻のエバ(日本ではイブ)にいいます。
 「あなた方は、どうして、知恵の木の実をたべないのですか」
 エバが言いました。
 「あれを食べると死ぬことになると、神さまにいわれています」
 ヘビは言いました。
 「そんなことはありませんよ。
  あれを食べると、死ぬどころか、カミになれるのですよ」

 こうして、エバが先に食べ、そのあとアダムも食べたわけです。
 ところが、それを食べたことで、人間はみな、死ぬもの、となってしまったわけです。
 しかも、神になるどころか、神に逆らうカミになった。
 そうして日本のような、本当の神ではなく、カミガミの国に住むものもでてきた、ということです。

 また、アダムとエバの罪によって、大地が呪われ、アダムは、食料にも苦しむことになって、汗水流して働くことになり、エバのほうは、産みの苦しみを味わうことになった。
 と聖書では証言しています。

 それどころか、ふたりは、そのあと、「善人」でもなく、「悪人」でもない、「善悪」という人間になったということでした。
 さらに、善人でもなく、悪人でもなくなったことで、「言い訳」をするようになった。
 
 こうして、日本人もまた、うそをつくようになり、罪を犯しても、罪意識をもつこともなくなり、いじるによる殺人者も、過労死を出した会社もまた、罪意識をもつこともなくなった。
 ということです。

 そういうわけで、安倍総理の、「ウソ」と「言い訳」、つまり、国民にとっての罪も、安倍総理は、罪とは思わない。
 そういう事が起こるのも、アダムとエバの罪からきている。アダムとエバの罪が、遺伝子によって、日本人にも受け継がれてきた、ということです。
 なかでも、アダムの罪、つまり、神の「ことば」よりも、ヘビの「言葉」を選んだという「罪」によって、大地が呪われた、ということです。

 このこともまた、各自で確認してみてください。もしこれが真実であれば、安倍総理の罪によって、日本もまた「呪われること」になります。

 その安倍総理の罪とは、アダムが、神の言葉を捨てて、ヘビの「言葉」を選んだ罪のことです。
 つまり、神の「ことば」は、「神のことばで平和をつくりなさい」というものでしが、ヘビのことばは、「ヘビのことば、つまり武力による平和をつくりなさい」というものだったのです。

 もうお判りでしょう。
 安倍総理は、いま、武力による平和づくりを始めています。
 なぜか。
 安倍総理は、「平和を造る「「言葉」を知らないのです。だから、国会の席上でも、「うそ」と「暴力的な言葉」「ヤジ」まで飛ばしで、法案でさえ強引に制定してきたわけです。対話による平和一つ作れないので、対外的にも、「対話」という「ことば」による平和づくりを捨てて、アメリカの武力による「平和づくり」を選んだのです。

 願わくば、アダムの罪によって、大地が呪われたような、そういうことが、安倍総理の罪によって、日本が自滅しないことを、祈るばかりです。
 そういう、新しい、日本人の「夜明け」のための、第三の道を、「箱舟と虹」第一巻の「政治家の罪と罰」で記していますので、インターネットで、平川博達で検索してみてください。






 

 



 三 中間管理職の罪と罰

 
 1 過労死というもの

 哀しいことに、過労死もまた、間違って日本的な「閉鎖性」が造りだしたものです。
 縦社会では、上司の権力が絶対だからです。
 上司が、その上の上司に「頭があがらない」ときには、その上司に顔色を穿って生きることになります。

 つまり日本人は、労働者にも、事務職にも、管理力にも、勤労の歓び、というものはないわけです。
 まじめに義務を果たしているつもりなのです。
 勤労とは、ともに、魂の成長のため働くものなのです。それゆえに、上司に気兼ねしているうちは、それはもう、本当の勤労ではありません。

 双方とも、誰かに勝つための、受験勉強とか労働しかしてこなかったはずです。
 優秀だと思われたい。
 負け組になりたくない。
 あくまでも義務として働いてきたはずです。

 つまり、過労死を造っている上司も、その下で働いて過労死した人も、ともに、勤労の歓びを一度も味わっていなかったはずです。家族のために働いたにしても、国家のために働いたにしても、過労死したのでは、当人にも家族のためにも、これほどの不幸はありません。
 しかし日本人は、まじめで働きものほど、そういうことにも気づかないのです。優越感さえもっているところがあります。


 2 「優越感」というもの

 日本人は、いかにも「和」という者を大事にしているようにみえます。村社会などは、誠に平和的です。一斉の共同作業もします。
 しかし陰ではいつも、人物評価をします。
 あれは口ばっかりだ.容量がない。バカだ。親がいないならしつけがなっていない。
ということで、「いじめ」が始まります。そうして、「いじめられるもの」と「いじめるもの」がいつも発生します。

それゆえに、地方の学校でも、「いじめ」があります。勤労の歓びを知ることはなく、これだけできた、という勝利者でありたいための勤労なのです。それ故に、障害者が生まれた家には、村にも居場所がないのです。
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日本人の夜明け

2017年11月6日 発行 初版

著  者:平川博達
発  行:箱舟と虹

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現在にところ、7000ページ程の原稿があります。発行した本もありますが、書籍化はまだしていません。  盲学校、知的障害者などの学校の教師の後伝道者になり、今は執筆をつづけています。

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