壊れた世界で、少年は少女の歌声を聴く――
これは、ネコミミたちのディストピアでのお話。
ネコミミクラスタ02 世界観説明
ネコミミクラスタ用語集
登場人物紹介
Fast Cat 雪の中で、白猫と
One Cat 早朝、円卓公園にて
Two Cats 猫妖精の森
Three Cats 島の物語
Four Cats 茶トラと鯖トラ
Five Cats ネコミミピアノ
Six Cats 雨音
Seven Cats 時計=心音
Eigt Cats 墓所、ケルト十字
Nine Cats 想い、友達
Ten Cats Mother
Eleven Cats 蒼空、心音、桜のはなびら
Twlve Cats 鎮魂祭
Last Cats 春の季節
Second Cat Last=first/First=last
猫たちのYestday
ネコミミ、艶やか
ネコミミクラスタ02
本作題名。
猫耳の熱狂的な信者及び、ネコミミを持つ集団の意。
二人目の白猫。箱庭02地区トウキョウの02。二度目目の人生の二。
キャットイヤーウイルス
約半世紀前に人類を絶滅させかけたRNAウイルス。感染するとメラニン色素を司る染色体に異常が及び、頭部に猫の耳を想わせるネコミミが生じ死に至る。
扁桃体が強い刺激を受けると変異する性質を持ち、これによってケットシーが生じている。
現在ではワクチンが作られ、箱庭地区内の人間がウイルスで死ぬことはほとんどない。箱庭地区の人間にネコミミが生えているのは、母体にいる間にワクチンを投与されるため。
ネコミミ
キャットイヤーウイルスにより生じる、猫の耳を想わせる器官。
感情の起伏に応じて動く。本作ではネコミミで音を聞いているような描写が入るが、それはネコミミをデフォルメした表現。実際にネコミミで音を聞くことはできない。
ケットシー(妖精猫)
キャットイヤーウイルス感染者の中で、特殊な能力を持っている者たちの総称。
強い願望を抱くことで扁桃体に刺激が加わり、体内のウイルスが変異することで感染者はケットシーとなる。
そのためワクチンによって作られた免疫抗体が効かなくなり、ウイルスを抑える薬物を摂取しなければ、生きることができない。最終的にはウイルスにより能力を強化された身体部位に癌細胞ができ、死に至るケースが多い。
ケットシーとなった者は有事の際、一般人と見分けがつくようネコミミに目印の鈴をつけている。また、鈴の中にはウイルスを抑える丸薬が入っている。
彼らが受ける差別が、箱庭の中では社会問題となっている。
マブ
文明崩壊以前、キャットイヤーウイルスの研究のために作られた研究組織。今では統治機構として各国の箱庭地区を統制し、箱庭に秩序をもたらしている存在。
名前の由来はケルト神話の女神マブから。
チェンジリング(取り替え子)
別称、マブの子供たち。
マブが人工的に生み出している子供たち。常若島で治療を受け、ウイルス研究の礎となった十三人の子供たちの遺伝子をベースに造られている。子供たちは人口子宮で育てられ、引き取り手が現れるまでマブの施設で養育される。
チェンジリングには首後ろにナンバリングの施された刺青がある。一から十三の数字でどの子供の遺伝子がベースになっているのかが表示され、ハイフンあとに続く数字でどのような遺伝操作が施されたかが分かるようになっている。
箱庭地区
キャットイヤーウイルス感染者を隔離するために作られた地区。
主に各国の首都に作られ、マブの支部が置かれた。文明が崩壊した今では、マブの統制下のもと秩序が維持されている。箱庭の周囲は長大な壁で覆われている。
常若島
箱庭02地区トウキョウの中心地となる人工島。東京湾に浮かび、大きさは直径数キロ。人口は1500人前後。箱庭02地区を統括するマブの主要施設が置かれている。
ウイルス研究の礎となった十三人の子供たちが治療を受けていたことで、聖地として扱われている。島の西にはマブの施設が集まる常若町。頂きには子供たちを称える円卓公園。島の東側には墓所が広がっている。
島の物語
島で治療を受けていた十三人の子供たちをモデルにした話。
その昔、島では十三匹の猫が仲良く暮らしていたが、病が流行り猫たちは順番に死んでいく。病は世界中に蔓延するが、島で唯一生き残っていた灰猫から薬が作られ、人々は救われるという話。
灰猫の信仰を布教するために創られた物語であり、箱庭の子供たちは幼い頃からこの物語を繰り返し聴かされる。
灰猫
十三人の子供たちのうち、唯一免疫抗体を持つことができた少年の呼び名。彼はチェンジリングである主人公ソウタのオリジナルでもある。
彼に宿るウイルスをもとにワクチンがつくられた。そのワクチンを他の被検体に投与したところ、ワクチン内のウイルスが変異し、変異していないキャットイヤーウイルスを駆逐するという共食い現象を引き起こす。この現象を利用して、箱庭内の人間はウイルスを克服したとされている。
生き残った箱庭の人々は灰猫を救世主として祭り上げ、信仰の対象とした。
白猫
十三人の子供たちのうち、島に十二番目に来たとされる少女。島の物語の中では灰猫の恋人とされている。チェンジリングであるハルのオリジナル。
鎮魂祭
ウイルス研究の礎となった十三人の子供と、ウイルスで亡くなった人々を弔うために円卓公園でおこなわれる音楽祭。桜が満開の時期に開かれる。
島の噂
円卓公園で十三人の子供たちが幽霊となって歌をうたっているという、噂。実際には、ハルの歌声を島民たちが幽霊が歌っているものだと勘違いし、広まったもの。
三百人委員会
文明崩壊以前にロンドンに拠点を置いていたという秘密結社。マブを裏で創り上げた組織との説もあるが詳細は定かではない。
箱庭地区の外では、キャットイヤーウイルスは三百人委員会の選民思想から造られたナノマシンであり、人類を次の段階に発展させるためのものだという噂が広まっている。噂では選ばれた人々が箱庭に住むことができるらしい。
喫茶店、猫妖精の森
ソウタの家。ミミコの夫であるユウタの実家。もとは、ユウタの母親が経営していた喫茶店だが、彼女が死んでからは長らく閉店していた。
今ではミミコが家事の傍ら店を切り盛りしている。お客の入はあまり良くなく、ミミコに相談をしにくる人間がたまに訪れるぐらい。
サクラ・コノハ
亡くなったハルの義母。死んだ娘の代わりに、ハルを養子として引き取り育てた。そのため、ハルと血の繋がりはない。
ハルと同じくケットシーであり、能力も同じもの。生前は歌手として活躍しており、島では名の知れた歌い手だった。
ドゥンの泉
常若島の地下に広がる地底湖。チェンジリングたちを生み出す人工子宮が安置されている場所でもある。箱庭の住人の遺体は、このドゥンの泉に水葬されることが習わしとなっている。ドゥンの泉へは、チェンジリングたちの養育施設『マブの館』の中核部にある聖堂から行くことができる。
Image Cat ロシアンブルー
12歳。
優しいが引っ込み思案で頼りない少年。
灰猫のチェンジリングであり、灰猫と同じ灰色のネコミミと蒼い瞳を持つ。
義母サツキの死に目に間に合えなかった後悔から、ケットシーとしての能力を開花させる。能力は異常に発達した脚力。
Image Cat ラパーマ・ロングヘア(ホワイト)
十二歳。
おしとやかで物静かだが、人に頼りがちな少女。
生来は好奇心の強い明るい性格をしていたが、幼い頃ケットシーとなった影響から、過保護に育てられ人見知りな性格となる。
白猫のチェンジリングであり、外見も白い猫を彷彿とさせる。白いネコミミと、くせ毛の銀髪。桜色に輝く銀の瞳を持つ。
歌手であった義母サクラ・コノハに憧れケットシーとしての能力を開花させる。
能力は、周囲の音から即興で歌をつくること。また、驚異的な聴覚能力も有している。
Image Cat ノルウェージャン・フォレストキャット(ブラック)
ソウタの義姉。お調子者な面もあるが、達観していて面倒見のいい性格をしている。ソウタの母親替わりであり、良き理解者。
黒いネコミミと深緑に輝く美しい黒髪の持ち主。瞳は深緑。
わずかな所作から、人の感情を読み解くことができるケットシー。簡単な嘘だったらすぐに見破ることができる。
ここ数年、体調が思わしくない。そのため、夫であるユウタに連れられ、ソウタとともにマブの施設が集う常若島に越してきた。
チャコ
Image Cat アメリカン・ショートヘア(レッドクラシックタビー)
茶トラのネコミミと、茶髪のツインテールがトレードマークの女の子。
天真爛漫で好奇心旺盛。猪突猛進なところが少しあり、ハイにたびたびツッコミを入れられている。チェンジリングでありマブの施設から、島の学園に通っている。ハイは双子の弟。
ハイ
Image Cat アメリカン・ショートヘア(シルバークラシックタビー)
小柄で鯖トラのネコミミを持つ少年。姉のチャコとは対照的にマイペースで冷静沈着。また、毒舌家でもある。チャコのツッコミ役でもあるが、姉として彼女のことは慕っている模様。頭が非常に良く、学園での成績も常にトップ。
チェンジリングだが、チャコの双子の弟。誕生日が同じであり、二人のオリジナルも双子であったため、姉弟と名乗っている。
冬のある日、黄昏の公園で少年は少女に出会った――
――キャットイヤーウイルス。
――感染者にはメラニン色素を司る染色体の異常、及び猫の耳に似た器官が頭部に生じ、死に至る病。
人類が絶滅寸前までこのウイルスに追いつめられてから、約半世紀が過ぎようとしている。
灰猫と呼ばれた一人の少年からワクチンと特効薬がつくられ、人類はかろうじて滅亡を免れる。
わずかに生き残った感染者たちはウイルスと共生関係を結ぶことに成功し、隔離場所であった箱庭地区で静かに暮らしていた――
悲しい歌声が聴こえる。
夕方から降り始めた雪が見たくなって、ソウタは島の頂にある円卓公園まで来ていた。
雪の白い色を見たとたん、ソウタは無性にこの島が懐かしく思えた。
この島を懐かしく思う理由を知りたくて、ソウタは島を散策していた。そうしてたどり着いた円卓公園で、歌声を耳にしたのだ。
ソウタは頭部に生えた灰色のネコミミ――キャットイヤーウイルスに感染して生じる、猫の耳に似た器官――をたて、歌声のする方向へ顔を向ける。
歌のする方向を見て、ソウタは眼を見開いていた。
公園の中央には桜が植えられている。その桜の下で喪服姿の少女が歌を奏でていた。
歳は自分と同じ十二歳頃だろうか。
肩まである癖のある銀髪が、夕光を受け桜色に輝く。伏せられた銀の眼は光に揺らめいて、想いを馳せているようだ。
亡き人を想い、彼女は歌っているのだろう。
特にソウタが眼を奪われたのは、少女の頭に生えたネコミミだった。
真っ白なネコミミ。
白いネコミミを見て、ソウタはあることを思い出していた。
その昔、キャットイヤーウイルス感染者たちの命を救った少年がいた。
少年の保有ウイルスは特殊なものであったらしい。そのウイルスからクチンと特効薬が造られ、人類は滅亡から免れたという。
灰色のネコミミを持った少年は灰猫と呼ばれ、人々に崇拝される対象となった。
灰猫には、恋人がいたそうだ。
灰猫の恋人には白いネコミミが生えており、そのネコミミに因んで人々は彼女を白猫と呼んだ。
少女はまるで、白猫のようだ。
少女の歌は鎮魂歌だった。
透きとおる声が、死による別離と残された人々の嘆きを歌いあげる。
雪と同じ色をした少女の頬に、一筋の涙が流れていた。
風が吹き、少女のスカートが翻る。木に積もっていた雪が風に煽られ、少女の周囲を舞った。
舞う雪は少女を取り巻くように、虹色に煌めく。
少女の左ネコミミについた鈴が澄んだ音をたてた。ソウタの右ネコミミについた鈴も、共鳴するように鳴る。
少女は風音に合わせ、鎮魂歌を歌っていた。
風だけではない。
海のさざめきや、風に煽られる雪の音。
それすらも、少女の歌の伴奏となっている。聴こえる音を利用して、彼女は即興で歌を奏でているのだ。
少女が持つ、特殊な力。
それは、彼女が『ケットシー』であることを示していた。ネコミミについた鈴のピアスは、ケットシーであることを示す目印だ。
ケットシーとは、キャットイヤーウイルスに感染し、特殊な能力を身につけた人々の総称だ。
ケットシーはその特異さゆえに、差別されることもある。少女の歌は、他者とは違う孤独を嘆いているようにも聴こえた。
風が響く。少女の歌が哀切を帯びる。
歌は優しくソウタのネコミミに語りかけているようだ。
亡くなった義母も、語りかけるように子守唄を歌ってくれた。血は繋がらなくても、義母であるサツキはソウタにとって優しい母親だった。
サツキは『マブ』の研究員だった。
マブはキャットイヤーウイルスを研究する組織である。
ソウタは研究の一環として、マブで人工的に生み出された子供だ。サツキはそんなソウタを引き取り、我が子のように育ててくれた。
今でも、サツキの笑顔が頭から離れてくれない。
病を患い、入院生活を送っていた彼女は死期が近づいていること教えてくれなかった。
サツキの死に立ち会うことが出来なかったことを、ソウタは今でも悔やんでいる。
サツキを思い、心臓が大きく高鳴る。
歌がやむ。
少女が眼を見開いて、ソウタへと顔を向けてきた。
少女はソウタを見つめながら、眼を悲しげに細める。彼女は優しい声でソウタに語りかけてきた。
「私と、同じなの?」
少女に話しかけられ、ソウタは我に返る。
頬に湿り気を感じ、ソウタは片頬に手をやった。手が、頬を流れる涙で濡れてしまう。
唖然と、ソウタは少女を見つめ返していた。
涙を流しながら、少女は微笑んでいる。
悲しいはずなのに、彼女は涙をこらえて笑おうとしている。
迫り来る夜闇の中にありながら、彼女の眼は桜色に煌めいていた。
少女の涙を見て、ソウタはを眼を見開いていた。
その涙に見覚えがあったから。
サツキの葬儀のとき、義姉のミミコが流していた涙だ。
自分と同じようにサツキに引き取られた彼女は、義弟である自分の面倒を今でもみてくれている。
サツキが亡くなって泣きじゃくる自分を、ミミコは優しく慰めてくれた。
葬儀のとき、ミミコは自分に笑顔を向けてくれたのだ。
――泣いてばかりじゃ義母さんに笑われちゃうよ。
そう言って、眼に涙を浮かべながら。
彼女は涙をこらえながら、ソウタを慰めてくれた。
ミミコも悲しかったはずなのに。
島を懐かしいと思った理由がわかった。
サツキの葬儀も、この円卓公園でおこなわれた。その時のことを、少女の歌声を聴いて思い出したのだ。
彼女に会うためにここに来たのだと、ソウタは思った。
自分と同じ少女に出会うために。
同じケットシーであり、悲しみを抱える彼女を慰めるために。
だからソウタは彼女に、こう返した。
「同じだよ」
少女に微笑んでみせる。少女は、驚いたように眼を瞬かせた。
少女はゆっくりとした足取りでソウタに近づいてくる。眼を揺らしながら、じっとソウタを見つめて。やがて彼女は桜色の頬に笑窪を浮かべ、微笑んでくれた。
彼女の笑顔を見て、ソウタの心臓がとくりと音を奏でる。彼女が近づくたびに、ソウタの心音は大きくなっていった。
彼女の笑顔を側で見たい。
無性に少女が愛おしく思えて、ソウタはゆっくりと彼女に歩み寄っていった。
これが、ソウタとハルの出会いだった――
――箱庭第02地区、トウキョウ。
早朝。
春風が、本島の東へと吹いていく。
風は凪いだ首都湾にさざなみをたて、本島から東に位置する常若島にたどり着く。常若島についた風は勢いを増し、湾岸に広がる常若町を駆け抜けた。
常若町は、島の中央に聳える猫丘に沿って築かれている。
なだらかな島の斜面には、混み合うように漆喰で固められた白い建物と、入り組んだ坂道が混在しているのだ。島の沖合から眺めた町の風景は、かつて地中海に築かれていた島々の街並みを彷彿とさせる。
常若島の直径は約数キロ。人口は1500人前後と比較的多い。
旧文明時代、ウイルス感染者の隔離地区として設けられたこの人工島には、キャットイヤーウイルス研究を目的とする組織、マブの主要施設が集まっている。
マブは各地にある箱庭地区を統括しており、統治機構の役割も担っている。常若島はその統治中核とも言える場所だ。
旧文明時代、常若島には十三人の子供たちが収容され、治療を受けていた。
その一人である少年の特殊なウイルスからワクチンと特効薬がつくられ、人類は滅亡を免れたのだ。生き残った人々は少年を称え、救世主として祭りあげた。
人々は少年を灰猫と呼び、彼を信仰の対象とした。そして少年の要望に応え、死んでしまった十二人の子供たちを慰霊する公園を常若島の頂きにつくったのだ。
そうしてつくられた円卓公園に、春風はたどり着く。
円形になっている公園のすみには、十二本の桜が植えられている。桜は十二人の子供たちを追悼するために植えられたものだ。
風はその桜の梢を順番にゆらして、中央に植えられた桜に向かう。
中央の桜は他の桜よりも一回り小さい。この桜は灰猫の死後、彼のために植えられた。
人々はこの桜を『灰猫の桜』と呼び、親しんでいる。
灰猫の桜の下では少女が歌を奏でていた。
少女の歌は鎮魂歌だった。歌は白猫と死別した灰猫の想いを綴った曲だ。
白いネコミミを持つ彼女は、桜色に煌く眼を伏せ、灰猫の想いを歌い上げていく。
春風は桜下で歌う少女ハルの歌声を拾い、島中に響かせていく。
ハルの側には涙を流す、少年ソウタの姿もあった。
One Cat 早朝、円卓公園にて
蕾をつけた灰猫の桜の下で、ハルは歌を奏でていた。
春風が薄紅色の桜の蕾をゆらし、ハルの銀髪を撫でていく。風は歌を拾って、ハルの側にいるソウタのネコミミに歌声を届けてくれた。
歌は鎮魂歌だった。恋人である白猫を亡くし、嘆き悲しむ灰猫の歌だ。
灰猫の悲しみを、ハルは切々と歌いあげる。歌を聴いて、ソウタは眼を潤ませていた。義母であるサツキを亡くした悲しみが、歌を通じて鮮明に蘇ってくるのだ。
脳裏に過るのは、亡くなる前に見たサツキの笑顔。亡くなる前日、サツキは見舞いに来たソウタを笑顔で見送ってくれた。
胸が苦しくなり、眼から涙が溢れてしまう。
ソウタの心臓が悲しみに耐えかね、切ない音をたてた。
不意に歌がやむ。
「ソウタくん、心臓の音……」
ハルに呼ばれ、ソウタは我に返る。
涙で潤んだ視界に、輪郭のぼやけたハルが映り込む。ソウタはネコミミをプルプルと振り、眼を擦った。
ハルを見返す。彼女は困ったように伏せたネコミミを動かしていた。心配そうに彼女はソウタを見つめている。
「ごめん……」
申し訳なくなって、ハルに謝る。
ハルの鎮魂歌を聴くと、死んだサツキのことを思い出してしまう。そのせいで、心臓が悲しい音をたてるのだ。その音が気になると、ハルはいつも歌うことをやめてしまう。
ハルは、周囲の音から即興で歌を奏でることができるケットシーだ。通常の人間には聞こえない小さな心音ですら、彼女は聞くことができる。
ハルがネコミミをゆらしながら、ソウタに歩み寄ってきた。
「大丈夫?」
そっとソウタの頬に触れ、顔を覗き込んでくる。彼女の顔を見ることが出来ず、ソウタは俯いてしまう。
「少し、休もうか?」
「うん」
眼を擦りソウタは頷く。ハルは嬉しそうに笑みを深めた。
「ほら、早く」
ハルがソウタの手を握る。その手の柔らかさに、ソウタは心臓を鳴らす。
「ソウタくん、心臓の音……」
「ごめん……」
「謝ってばっかりだね、ソウタくん」
ハルが嬉しそうに眼を煌めかせる。桜色に輝く彼女の眼を見て、ソウタはまた心臓を高鳴らせていた。瞬間、ハルが頬を染め、ソウタから視線を放してしまう。
「休もっか……」
「うん……」
顔を見合わせることなく、ソウタとハルは灰猫の桜の下へと歩んでいく。桜の前には、白いレース柄のシートが引かれていた。
シートの上にはバスケットと、乳白色をしたボーンチャイナのティーカップが二客置かれていた。ティーカップは薔薇の蕾を想わせる上品な形をしており、波状の凹凸が施されたソーサーの上に置かれている。
「わぁっ」
ネコミミを嬉しそうにたて、ハルがティーカップを見つめる。そんなハルを見て、ソウタは口元に笑みを浮かべていた。
女の子は可愛いものが好きという、義姉ミミコのアドバイスを覚えていてよかった。
レース柄のシートも、ボーンチャイナのティーカップも、ハルの喜ぶ顔が見たくてソウタが家から持ってきたものだ。
「座ろっか」
ソウタは弾んだ声をハルにかける。ハルは嬉しそうにネコミミをゆらし、ソウタに振り返った。
「ありがとうっ。ソウタくん」
ハルが笑う。
どきりと、また心臓が音をたててしまう。その音を聞きつけたのか、ハルが怪訝そうにネコミミをたらしてきた。
「なんか、飲む? 紅茶、持ってきたんだ」
「あ、ソウタくんっ」
ソウタは慌ててシートへとあがる。ソウタを追いかけ、ハルもシートの側へと駆け寄ってくる。
ハルを見ないようにしながら、ソウタはシートに置いてあるバスケットを引き寄せた。
ソウタはバスケットから桃色と青色の魔法瓶を取り出し、カップの乗ったソーサーを引き寄せた。青い魔法瓶の蓋を開け、中に入ったお湯を二客のカップに注いでいく。
お湯がカップに半分ほど注がれたところで、ソウタはカップを手にした。カップを傾かせ、中に入っているお湯をシートの外へと捨てる。
ネコミミをたて、ハルはその様子を興味深げに見つめていた。彼女に対し、ソウタは得意げに笑ってみせる。
お湯はカップをあたためるために入れたものだ。カップに注いだ飲み物を保温する効果もあるし、カップを持っても冷たくない。
ソウタは静かに、カップをソーサーに置いた。桃色の魔法瓶を手にとり、蓋を開ける。
ふんわりと、爽やかな花の香りがソウタの鼻腔に広がった。
魔法瓶に入っているのは、ダージリンだ。三月に採れたばかりのファーストフラッシュのダージリンは、繊細な味を楽しむことができる。
きっとハルは、このダージリンを気に入ってくれる。嬉しそうに紅茶を飲むハルの姿が目に浮かぶようだ。
ソウタは微笑みながら魔法瓶を傾け、カップにダージリンを注いでいく。
「いい香り……」
ハルが、うっとりと声をあげた。
ダージリンの香りが心地よいのだろう。ハルは気持ちよさげにネコミミを伏せ、眼を閉じている。
「おいでよ、ハル」
ハルに声をかける。彼女は驚いたようにネコミミを動かし、眼を開けた。彼女は恥ずかしそうに頬を桜色に染め、はにかんでみせる。
彼女は靴を脱いで、シートの上に遠慮がちに足を乗せる。スカートの裾を纏めながら、ハルはゆったりとした動作でシートに腰かけた。
「いただます」
ソウタに向き直り、ハルはぺこりと頭をさげる。彼女のネコミミも一緒にたれさがった。
「はい」
ソウタはカップをハルに差し出す。ハルは嬉しそうに眼を輝かせ、カップを受けとった。
彼女はカップを両手で包み込み、中を覗き込んだ。カップの中では注がれたダージリンが朝陽を浴びて、オレンジ色に輝いている。
「きれい……」
美しい水色を見つめながら、ハルは顔を綻ばせた。そんなハルの笑顔を見て、ソウタは心臓を高鳴らせてしまう。
「ソウタくん……」
「ごめん」
ハルが困ったようにネコミミをゆらす。ソウタは苦笑を浮かべ彼女に謝っていた。
「駄目だね。心臓の音、慣れなきゃいけないのに……」
「鎮魂祭まで、あとちょっとだもんね。でもハル、すごくがんばってるよ」
「変だよね、心臓の音が気になって歌に集中できないなんて。ソウタくんに協力してもらってるのに、ぜんぜんよくならない……」
ダージリンに視線を落とし、ハルは苦笑した。オレンジの水面に映る彼女の顔は、今にも泣きそうだ。
とくりと、ソウタの心臓が悲しげな音をたてる。
初めて会ったとき、ハルは奇妙なお願いをしてきた。鎮魂祭に出るために心臓の音を克服したいと、彼女はソウタに頼んできたのだ。
鎮魂祭とは、亡くなった人々を弔うためにおこなわれる音楽祭のことだ。
毎年、円卓公園でおこなわれる鎮魂祭では、さまざまな音楽が演奏される。その鎮魂祭で歌を披露するために、ハルは心音を克服したいと言った。
鎮魂祭で歌いたいが、他人の心音が気になって歌に集中することができない。だから、歌を聴いてほしい。他人の心音を聴きながら歌えば、集中できるようになるかもしれないからと。
ソウタは、ハルの頼みを断ることができなかった。
彼女の真剣な眼差しから、視線をを逸らすことができなかったのだ。
「凄いね、ハルは。俺なんて、ぜんぜん……」
「そんなことないよ。私は、お義母さんのために歌いたいだけだから……」
ハルが悲しげにを眼を伏せる。ネコミミについた彼女の鈴が小さく音を奏でた。
そんな彼女から、ソウタは眼を逸していた。
同じ悲しみを抱えていても、自分と違いハルはその悲しみに立ち向かおうとしている。
ソウタは、ハルの強さが羨ましい。
ソウタと同じく、彼女も母親を亡くしている。その事実を受けとめ、ハルは歌うことで前に進もうとしているのだ。
サツキの死を嘆き、立ちとまっている自分とは違って――
「足音……」
不意にハルが呟いた。我に返り、ソウタはハルに視線をやる。
彼女は静かに、カップをソーサーに置いた。眼を見開き、ハルは前方に視線をやる。彼女はネコミミを小刻みに動かし始めた。
「ハル」
声をかけるが、ハルは前方を見つめたまま動こうとしない。彼女はネコミミを膨らませ、眼を鋭く細める。ハルのネコミミについた鈴が、チリチリと不穏な音をたてた。
「来る……」
ハルの言葉を受けて、ソウタもネコミミの毛を膨らませていた。
ソウタは奥歯を噛み、眼を鋭く細める。ハルの腕を強引に引っ張り、彼女を自分の胸元へと抱き寄せた。
「わっ、ソウタくん?」
「ごめん、隠れなきゃ」
ソウタは素早く彼女を横抱きにした。
ハルをしっかりと抱きしめ、地面を蹴る。跳躍したソウタは、二手に別れた桜の幹に着地した。梢が密集する場所へと移動し、身を屈める。
ソウタは腕の中のハルを見た。ハルの眼が、縋るようにソウタに向けられている。
「大丈夫、俺がいるよ……」
彼女のネコミミに優しく語りかける。ハルは微笑み、ソウタの首に手を回してきた。
ハルを強く抱きしめ、ソウタは息を殺す。
ハルが聴いていたと思われる音が、ソウタのネコミミにも聞こえてきた。
聞こえてきたのは足音だ。それも複数。音は、こちらに近づいてくる。
ソウタは眼を眇め、梢の隙間から地面を見下ろした。桜下には足音の主であろう、二人の子供がいた。
子供の一人は、ツインテールが愛らしい、茶トラのネコミミを持つ少女。もう一人は錆トラのネコミミを持つ小柄な少年だ。二人とも萌黄色の学生服に身を包んでいる。
二人は桜下に広げられたシートを挟み、何やら話し込んでいる。ソウタは彼らの会話にネコミミを傾けた。
「ねぇ、ハイ。また、なんにもいないよ。やっぱり幽霊なんだよ!」
少女が大きく手を広げ、大声をあげる。
「姉ちゃん、煩い……」
「あうっ!」
少年がぼそりと呟き、少女の胸を手刀で叩く。少女は呻き、茶トラのネコミミを痛そうに反らした。
「また、あの子たち……。私たちのこと、噂みたいに幽霊だと思ってるのかな?」
腕の中のハルが、ぽつりと言う。
ハルの言葉を聞いて、ソウタは島で流れている噂について思いを巡らせていた。
ハルと歌の特訓を始めてから、島で妙な噂が流れ出した。
噂は、『十三人の子供たちの幽霊が、円卓公園で歌をうたっている』というものだ。
ハルの歌を、島民たちは幽霊がうたっているものと思っているらしい。その噂をたしかめようと、下の二人組はよく公園にやって来るのだ。
「ハイ、この紅茶美味しそうだよ」
少女がしゃがみ込み、ソーサーに置かれたカップを手にとった。ダージリンの香りが心地よいのか、彼女はうっとりとネコミミを伏せる。そのまま少女は、カップに口をつけた。
「飲むなって……」
少年が、少女の頭を思いっきり叩いた。ばしりと、小気味良い音があたりに響き渡り、少女はカップを落としてしまう。カップはシートの上に落ち、ダージリンがシーツを茶色く汚した。
「痛い! 酷いよ、ハイ!」
「よしよし……。痛いの、飛んでげ……」
少年は眠たそうな三白眼を少女に向け、少女の頭を撫でた。少女は心地よさげにネコミミをたらし、喉をごろごろと鳴らし始める。
――ハルの紅茶に何してくれるんだ。もう、いい加減にしろ!
そう、叫びたいのをこらえ、ソウタは二人を睨みつける。見つかるわけにはいかない。歌の練習を邪魔されるかもしれないからだ。
特異な存在であるケットシーを差別する人間もいる。早朝に練習をおこなっているのも、そういった人間からの嫌がらせを避けるためだ。
「あの子たち、いつも制服着てる」
ハルが、ぽつりと呟いた。
驚いて、ソウタはハルを見つめる。ネコミミをゆらし、彼女は興味深そうに二人を見ていた。
彼らは島の学園の制服を着ている。円卓公園を散策してから、港の側にある学園へ行くつもりなのだろう。ネコミミをひらひらとゆらしながら、ハルは二人のやりとりを観察していた。
ハルはいつも、二人の様子を楽しそうに眺めている。嬉しそうなハルを見て、ソウタはネコミミを伏せる。
早朝練習を行う理由が、もう一つある。
同じ年の子供たちに、ソウタとハルは会いたくないのだ。
同い年の子供、それも学園へ通えるような普通の子たちに会いたくない。彼らにいじめられるかもしれないから。
ハルが不安がって口にした言葉だ。
ソウタも常若島に越してくるまで、本島の学園でケットシーであることを理由にいじめられていた。
子供ほど純粋に、自分たちが怯えているものを差別するものはない。彼らはソウタの能力を恐がり、ソウタを化物と罵ることすらあった。
だからこそソウタは、ハルの気持ちが痛いほどわかる。
それなのに、ハルは学園に通っている彼らに強い関心を示す。自分を裏切るようなハルの気持ちが、ソウタにはわかない。
ハルは学園に行ったことがないという。代わりに、住み込みの家庭教師が色々と教えてくれると話していた。それで正解だ。学園になんて、自分たちは行かないほうがいい。
本島の学園で、ソウタはいじめっ子たちとトラブルを起こしては、義姉のミミコに迷惑をかけていた。そんなミミコのことも、彼らは侮辱したのだ。
化物の家族と。
それが嫌で、ソウタは学園には行かなくなった。
「もう、いっちゃうのかな……?」
ハルが寂しげに呟く。その声を聞いて、ソウタは回顧をやめた。
腕の中のハルは、相変わらず二人を見つめている。ソウタも彼らの様子が気になって地面へと視線をやった。少年が嫌がる少女の手を引っ張っている。
「ほら、遅れちゃうから行くよ……」
「やだー! 幽霊探すの!」
「てぃっ」
「ぐふっ!」
少年が少女の腹部に思いっきり手刀を叩き込む。少女は大きく呻き、がくりと地面に膝をついた。ぐったりとした少女を背中に担ぎ、彼は少女の足を引きずりながら灰猫の桜から遠ざかっていく。
ハルは名残惜しそうに去っていく二人を視線で追う。彼らがいなくなると、彼女は寂しそうにネコミミを伏せた。
だが、彼女はすぐにネコミミをぷるぷると振った。よしっと気合を入れて、ハルはソウタを見あげてくる。
「ソウタくん、私、重くない?」
「えっ?」
ハルが心配そうに眼をゆらしてくる。言葉をかけられ、改めて腕の中のハルを意識する。
ハルがこくりと首を動かした。彼女の銀髪が首筋を流れ、白いうなじが顕になる。うなじからは桜の香りがした。その香りがソウタの鼻腔をくすぐる。
「あっ……」
かぁっと顔を紅潮させ、ソウタは声を発していた。
仕方がないとはいえ、無自覚にハルを抱きしめていた自分が恥ずかしい。
ソウタの心臓が煩く鼓動を奏でる。その音を聞かれたくなくて、ソウタはハルを自分の隣に降ろしていた。
ハルが体をよろめかせ、桜の梢がゆれる。ソウタはとっさにハルの手を握っていた。そのまま彼女をひっぱり、胸元へと引き寄せる。
「危ないよ、ハル……」
またハルの香りが鼻孔をくすぐり、心臓が音をたててしまう。それなのに、ハルは無邪気に眼を輝かせ自分を見上げてきた。
「凄いね。ソウタくん」
「えっ?」
「だって、こんな高いところまで、ぽーんて、跳んじゃうんだもん。それで、いつも見つからないで助かってるし」
「そう……かな」
ソウタは彼女から顔を逸らす。ソウタのネコミミについた鈴が苛立ったよう鳴った。その音を聞いて、ハルは怯えたようにうつむいてしまう。
「ごめん……なさい」
ハルはネコミミを震わせ、うつむいたまま顔をあげようとしない。悪気がないことは分かっているが、ソウタはハルと視線を合わせることができなかった。
この能力ほど、忌まわしいものはない。
ケットシーとして、ソウタは異常なほど発達した脚力を手に入れた。
ウイルス感染者は強い願望を抱くことで、ケットシーになるという。義母であるサツキの死に立ち会えなかった後悔が、ソウタをケットシーにした。
けれど、こんな能力を手に入れて何の役に立つだろう。
ソウタにとって自分の能力は、後悔を思い起こすものでしかない。
海風が西から吹きつけてくる。ハルが顔をあげて、風の吹く方向を見つめた。
公園に植えられた桜たち。それが蕾のついた枝を大きくゆらしている。
枝の背後には、白い常若町の町並みが島の斜面に沿って広がっていた。町の背後には海が広がり、その彼方に巨大な壁が聳そびえ立っている。
霞がかった壁の向こう側には、崩れかかった高層ビルの群れと巨大な鉄塔が建っていた。
鉄塔は昔トウキョウタワーと呼ばれており、ニホン国の首都であったトウキョウのシンボルだったそうだ。
ここから見える巨大な壁は、本島に聳えるものだ。
壁は、箱庭地区全体を取り囲んでいる。箱庭はウイルス感染者を隔離し、治療するためにつくられた場所だ。壁は、そんな感染者を外へ逃がさないためにつくられた。
壁の外では、ネコミミを持たない人間たちが今なお暮らしているという。
かつては箱庭にいる感染者の子孫以外、人類は絶滅したと考えられていた。
だが、生き残っている人々が外の世界にいたのだ。
驚くべきことに外の世界の人間は、ウイルスに対する抵抗性を生まれつき持っている。ウイルスに抵抗力を持つ個体が人類の中に一定数存在し、その人々が生き残ることに成功したのだ。
ミミコの夫である、ユウタがそう教えてくれた。
マブに勤める義兄の仕事は箱庭の外を探索し、そこに生きる人々を調べることだ。彼はよく外の世界のことを話してくれる。その話の中に奇妙ものがあったことを思い出し、ソウタは口を開いていた。
「ねぇハル、『三百人委員会』って知ってる?」
「旧文明時代にあった秘密結社……だよね。あんまりよく知らないけど、箱庭01地区ロンドンに本拠地があったんだっけ?」
「外の世界の人たちの中には、こう考えている人たちもいるんだって。キャットイヤーウイルスは、その秘密結社が造ったナノマシンで、ナノマシンは人類を次の段階に進化させるためのものだって。箱庭は、ナノマシンに選ばれた人間だけが住める理想郷なんだって」
ユウタは、こんなことも教えてくれた。
外の世界にいる人たちは箱庭の住人をネコミミと呼び、人間とは思っていないと。ソウタたち箱庭の住人も、外の世界の人間たちを違う人種とみなしている。
箱庭の住人は母体にいる時点で、キャットイヤーウイルスのワクチンを摂取させられる。そうしなければウイルスへの抵抗を持てず、生まれた時点で死んでしまうからだ。
ワクチンにより弱いウイルスに感染して抵抗力を持った赤ん坊には、その証としてネコミミが生える。
だが、外の人間たちはウイルスへの抵抗力を生まれつき持っている。ワクチンを接種する必要がない彼らは、ネコミミも持っていない。
そんな人々が、自分たちと同じ人間だとソウタは思えない。
ソウタは考えてしまう。ウイルスに殺されない彼らこそ、本当の意味での選民ではないかと。
だって彼らはウイルスに殺されることも、ケットシーになって差別されることもないのだ。
「ここって、理想郷なのかな? でも私、あの壁を見てるとね、ここが牢獄みたいに思えるの。閉じ込められてるみたいで、気持ちが悪くなる……」
ハルの言葉で我に返る。ソウタは彼女に視線をやった。
ハルは海に聳える壁を見つめていた。壁を見つめたまま、彼女は言葉を続ける。
「あのね、ソウタくん。私の義母さんは、壁の向こう側から来たんだって。あのトウキョウタワーに住んでたって、義母さんが教えてくれた」
暗い気持ちを振り切るように、ハルは声を弾ませる。彼女は微笑み、壁の向こうに聳えるトウキョウタワーを指差した。
「ハルのお母さんが?」
ハルの言葉にソウタは声をあげていた。
トウキョウタワーに人が住んでいることは、ユウタから聞いて知っている。だが、ハルの母親がそこに住んでいたという事実に、ソウタは驚きを隠せなかった。
外の世界では稀に、ウイルスに抵抗を持たない人間が生まれることがあるという。大抵の場合はすぐに死んでしまうが、箱庭の支援により生き延びる子供もいる。
ハルの母親も、そんな子供の一人だったのだ。
ハルはソウタに向き直り、嬉しそうに笑ってみせる。視線をトウキョウタワーに戻し、彼女は言葉を続けた。
「塔にはね、たくさんの小さなお家が括りつけられてるんだって。塔を形作ってる鉄筋を道がわりに利用してて、手動のエレベーターとかロープで移動する場所もあるんだって。
塔のてっぺんに登ると、壁の向こう側にある箱庭地区が見えて、お義母はずっと箱庭地区に来るのが夢だったんだって。
だから、ここに私はいるんだよって……笑いながら話してくれた。行ってみたいな、お義母さんの故郷……。でも、無理だよね。私、ケットシーだもん……ここに一生閉じ込められたまま。ずっとずっと……ここで生きて、ここで死ぬの」
ちりんと鈴を鳴らし、彼女はネコミミを伏せる。ハルの眼は悲しげな影を落としていた。
その眼を見て、ソウタの心臓が高鳴る。ハルが、自分と同じことを考えていたからだ。
ケットシーが壁外に行くことは生涯ない。ケットシーのウイルスは変異しており、それを抑える薬を処方しなければ生きることさえできないからだ。
理由を知っていても、壁を見ていると奇妙な閉塞感を覚えてしまう。まるで閉じ込められているような、そんな気がしてしまうのだ。
学園に行ったことがないと、ハルは寂しげに話してくれたことがある。
彼女は、悲しげな眼で遠くにある壁を見つめていた。
学園に行くことさえ出来ない自分の境涯を、壁の閉塞感と重ねるように。
噂をたしかめにくる二人組を、ハルはいつも羨ましそうに見つめている。そんなハルの眼は、どこか寂しそうで苦しげなのだ。
悲しげなハルを見ていると、心臓が苦しく鼓動するのはなぜだろう。サツキが死んだときのように、何もできないのはもう嫌だ。
「ねぇ、ハル。あの二人に会ってみたい?」
気がつくと、ソウタはハルに問いかけていた。
ハルは眼を大きく見開いて、ソウタを見つめてくる。ソウタのネコミミに可憐な鈴の音が鳴り響いた。
円卓公園から常若町に続く坂道の途上に、ソウタの家である喫茶店『猫妖精の森』はある。
猫妖精の森は義兄ユウタの実家だ。二月の終わりに、ユウタに連れられて猫妖精の森に越してきてから、半月近くが経とうとしていた。
漆喰でできた白い建物の間に、猫妖精の森は建っている。我が家が近づくにつれ、ソウタはハルのことを思い出していた。
猫妖精の森の屋根が、白いネコミミに見えたからだ。猫妖精の森の切妻屋根の両端には、天窓を覆う小さな屋根がにょっきりと生えている。その屋根が、遠目から見ると猫耳のように見えるのだ。
朝陽を受け、天窓の屋根は桜色に染まっている。ハルのネコミミも光を受けると桜色に輝くのだ。
眩しかったハルの笑顔を思い出す。
二人組に会おうという提案を、ハルは微笑みながら快諾してくれた。
ハルの嬉しそうな姿を思いだし、ソウタは笑っていた。ソウタは走りながら坂道をのぼっていく。
猫妖精の森の前にやってきたソウタは、玄関を見上げた。黒猫の形をした看板が風にゆられキィキィと音をたてている。
今度は、義姉であるミミコのネコミミを思い出す。ミミコのネコミミは、看板の猫のように艶々とした黒色をしているのだ。
ハルの話をすると、ミミコはいつも楽しげにネコミミを傾けてくれる。驚いたときにはネコミミを反らしながら。嬉しいときにはネコミミをぴょんぴょん動かしながら、彼女はソウタの話を聴いてくれるのだ。
話をするたびに様々な表情を見せてくれる義姉のネコミミが、ソウタは大好きだ。今日はどんな話をミミコにしようか。笑い声をあげながら、ソウタは玄関へと眼を向ける。
瞬間、ソウタの顔から笑みが消えた。
玄関の左側には、ポストがわりに使われているネズミ捕りがある。そのネズミ捕りが、真っ赤なペンキで汚れていたのだ。
ポストにペンキをかける嫌がらせを、自分たちが越してきてからしている奴がいる。ケットシーである自分とミミコを、よく思わない奴の仕業だろう。
真っ赤になったネズミ捕りを見て、嫌な想像をしてしまう。
会おうとしている二人組が、もし自分とハルを受け入れなかったらどうしよう。彼らが、眼の前のネズミ捕りのようにハルに嫌がらせをしたら――
そんなことはないと、ソウタはネコミミを振り気持ちを切り替える。
赤く染まったネズミ捕りをソウタは見据え、駆け寄る。ネズミ捕りの中には、一通の手紙が投函されていた。ソウタはネズミ捕りをあけ、手紙へと手を伸ばした。
手紙にふれると指先に粘ついた感触が広がる。その感触に嫌悪感を覚えながらも、ソウタは手紙を取り出した。封筒が分厚いこともあり手紙の中身は無事なようだ。
ほっとソウタはネコミミをたらし、手紙の宛先を見た。
表の宛名はペンキで汚れて分からない。裏は汚れもなく差出人がすぐにわかった。
差出人はユウタだ。仕事で家を空けることが多い彼は、頻繁に手紙を送ってきてくれる。
汚れた手紙を見つめたまま、ソウタは思い悩んだ。どうやってミミコに手紙のことを説明しよう。
彼女は夫からの手紙を、とても楽しみにしている。こんな汚れた手紙を見たら、ミミコはさぞかし気落ちするだろう。
困ったようにソウタは玄関を見つめる。
猫の形をした玄関窓からは、ゆらゆらと揺れる黒いネコミミが見えた。店の左側にあるカウンターに、黒いネコミミを生やした女性が座っているのだ。
義姉のミミコだ。
玄関窓から視線を放し、ソウタは俯いてしまう。
また、玄関窓を見つめる。カウンターに座るミミコのネコミミが力なくたれさがっていた。
具合が悪いのだろうか。心配になって、ソウタはドアノブに手をかけていた。玄関ドアを開けると、猫の形をしたドアベルが軽やかな音をたてる。
「あ、お帰り、ソウタ」
弾んだミミコの声がネコミミに響く。
目尻のさがった深緑の眼をソウタに向け、ミミコは微笑んでいた。その笑顔を見て、ソウタはほっと胸を撫でおろす。
よかったミミコは大丈夫そうだ――
ミミコが黒ネコミミを動かしソウタに微笑む。彼女の左ネコミミについた鈴が玲瓏な音を奏でた。黒いネコミミを包む長い黒髪が、深緑に煌めいている。
その黒髪にソウタは見惚れてしまう。自分たちの先祖である二ホン人たちはミミコのように美しい黒髪をもっていたという。キャットイヤーウイルスにより色素遺伝子が変異してしまうネコミミたちは、その黒髪を引き継ぐことができない。
「どうしたの、ソウタ?」
ミミコに呼ばれソウタは我に返る。ミミコは黒髪をかきあげ後方へと流してみせた。その一挙一動の仕草からソウタは眼が離せない。
ふと、ソウタはミミコがティーカップを片手に持っていることに気がついた。カップからは、桜の香りが漂ってくる。その香りに気がついたソウタは、彼女に詰め寄っていた。
「義姉さん、俺の紅茶勝手に飲んだでしょっ」
「ありゃ、ばれた?」
「まったく」
ソウタは眼を眇め、カウンターに置かれた紅茶缶を見つめた。
缶は桃色をしており、その中央には白い猫のシルエットが描かれている。ハルに飲ませてあげようと取り寄せた、桜のフレーバーティーだ。
「うーん、美味しいと思ったんだけど香りがきつくて、駄目。朝ごはんもあんまり食べられなかったし、今日はなんかなぁ……」
カップをソーサーに置き、ミミコは困ったように笑ってみせた。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。ちょっと横になったら、楽になった」
不安げにソウタがネコミミを伏せる。慰めるようにミミコはそんなソウタの頭を撫でてくれた。
苦笑する彼女を見て、手紙が渡しづらくなってしまう。
ケットシーであるミミコの健康状態はここ数年、思わしくない。彼女が最新の治療を受けられるよう、ユウタはマブの主要施設が集まった常若島に自分たちを連れてきたのだ。
「ソウタ、何か悩んでるでしょ?」
「別に、なんにもないよ」
眼を細め、ミミコがソウタの顔を覗き込んできた。ソウタは彼女から顔を逸らす。
「嘘、薬飲んでない」
「何で、飲まなきゃいけないの……?」
「ソウタ」
ミミコが眼を鋭く細め、ソウタを見すえた。彼女と視線をあわせることができない。ソウタは顔を逸らしたまま、ネコミミを弱々しく伏せた。
ウイルスを抑制する薬を飲まなければ、自分の命が危ない。ミミコが怒るのはもっともだし、自分を思っての行為であることも分かっている。
それでも、ソウタは彼女の言葉にネコミミを傾けることができなかった。
不意に泣きそうになって眼が潤む。その眼をミミコに向けると、彼女は驚いたようにネコミミを反らした。
ソウタは何も言わず、ユウタからの手紙をミミコに差し出す。手紙を見た彼女は眼を曇らせ、ソウタに視線を戻した。
「これが、理由?」
「俺たちって、そんなに気持ち悪い……?」
ソウタの問いにミミコは眼を見開き、ソウタの肩を抱き寄せた。
「そんなの気にしないの、ソウタっ。ハルちゃんの件だって町長に話したけど、あいつ何でそんなことするんだって、怒ってくれたよ。誰も、あなたたちを傷つけないからっ!」
ハルの家に脅迫状が届いていた。
穢れたケットシーが鎮魂の場を汚すなと手紙には書かれていたという。もし出れば酷い目に合うと、脅迫状は締めくくられていたそうだ。
怯えるハルにそのことを打ち明けられ、ソウタはミミコに脅迫状のことを相談したのだ。ミミコはこの件について、顔なじみである常若町の町長と話し合ってくれたらしい。
町長にはソウタも会ったことがある。
ミミコの幼馴染だという彼は、芯のしっかりした男性だ。ケットシーだからといってソウタたちを差別する人ではない。
でも、心にわだかまる鬱屈とした気持ちは消えない。
どうして自分たちはケットシーであるだけで、これほど嫌われるのだろうか。
「でも、ハルは差別された……。どうして、脅迫状なんてハルは受け取らなきゃならないの? ハルがケットシーだから? 俺たちがウイルスで死ぬ存在だから……?」
「ソウタっ」
ミミコがソウタを抱きしめてくる。ソウタを抱き寄せ、彼女は言葉を続けた。
「ウイルスで死ぬ存在だから、何? 私たちは何もしてないし、ケットシーであることを恥じる必要もない。そんな人間の言葉を聴いたりしちゃダメ」
「でも、信仰が俺たちを否定する……」
ソウタの言葉に、ミミコは深緑の眼を潤ませる。
ケットシーは他の感染者と違い、抑制剤を飲まなければ死んでしまう。そして、特殊な能力を持っている。
それが、ケットシーへの差別に繋がっているのだ。
かつて統治機構マブはそんなケットシーたちを隔離し、差別する政策を行っていた。
旧文明時代にウイルス研究のために設立されたマブにとって、ウイルスの克服は悲願であった。彼らにとって、ウイルスで死ぬケットシーは自分たちを否定する驚異そのものに映ったのだ。彼らはケットシーたちを隔離し、統治機構内での差別を信仰により徹底した。
ケットシーは救世主たる灰猫の恩寵を受けることができない、汚れた存在である。そう、箱庭の住民たちに吹き込んだのだ。
時代の流れとともにマブの支配体制も変わり、今では教義による差別は否定されている。
だが、マブの政策に反発したケットシーたちによる反抗運動や犯罪も過去には横行した。そんな負の過去によって、ケットシーへの差別は依然として残っている。
自身が持っている能力によって社会貢献をしているケットシーを、その社会から締め出そうとする人々もいるのだ。
彼らは言う。ケットシーの能力はウイルスがもたらしたものであり、努力して勝ち得たものではない。何より彼らは、救世主たる灰猫の恩寵を否定する存在であると。
ソウタも謂れのない差別を受けてきた。それはミミコだって同じだ。だがミミコはいつだって毅然として、差別に立ち向かっている。
「ごめん、義姉さん」
ソウタはしっかりとミミコを見つめた。重い口を開き、彼女に謝る。そんなソウタに、ミミコは微笑みかけてくれた。
「いいのよ。わかってくれれば……。私はソウタが側にいてくれるから、こうしていられる。だから、ハルちゃんの側にもいてあげなさい」
ソウタの両頬を、彼女の柔らかな手が包み込んでくれる。ミミコの掌の感触が気持ちよくて、ソウタはネコミミをたらしていた。
ミミコが優しい眼差しを自分に送ってくれる。彼女の眼を見つめていると、ソウタはいつも安らかな気持ちになれるのだ。
心のわだかまりを見通して、ミミコは言葉を紡ぐ。
彼女はわずかな仕草や表情から、人の感情を読み解くケットシーだ。簡単な嘘ぐらいなら、すぐ見破ってしまう。
「やっぱ義姉さん、すごいな。みんなが魔女って呼ぶのが良くわかる……」
「私は魔女じゃくて、使い魔のつもりなんだけどね」
ソウタの言葉にミミコは苦笑してみせる。
「それより、ソウタ。まだ、悩みあるでしょ」
「別に、大丈夫だよ」
「嘘ついてる。ネコミミに書いてあるよ」
「えっと、その……」
「ほら、言う」
「義姉さん、学園って楽しかった?」
ソウタの言葉に、ミミコは驚いたように眼を見開く。彼女は優しく眼を細め、ソウタのネコミミを撫でてくれた。
「私は側にいてくれる人がいて嬉しかったけどな。肝心なのは、あなたがどうしたかじゃないの?」
「うん」
こつんと、ミミコが額を押し当ててくる。不思議だ。ミミコの言葉を聴くと、体の力が抜けて安心できる。悩んでいるのが馬鹿らしいぐらい、心が軽くなるのだ。
「側にいてくれた人って、義兄さん?」
「あれ、よく分かったじゃない?」
「義兄さんが、泣き虫だった義姉さんをよく慰めてたって言ってたから。義姉さん、学園に行きたくないって、よく義兄さんを困らせてたんだって?」
「あのクソ旦那。また、ソウタに変なこと吹き込んで。帰ってきたら、ただじゃおかないんだから……」
眼をいからせ、ミミコは吐き捨てる。ソウタは先ほどの発言を心の底から後悔した。自分の失言が原因で、帰ってきたユウタの命が危ないかもしれない。
けれど、嬉しげに眼を細めるミミコを見てソウタは薄く微笑んでいた。
ユウタのことを考えるだけで、ミミコは幸せなのだ。そんな彼女が少しだけ羨ましい。
不意に思ってしまう。
ハルが、自分にとってそんな存在になってくれればいいと。
「いいな……」
「何か、言った?」
「ううん、何でもない」
ネコミミを上下に動かし、ソウタは首を振った。ミミコが不思議そうにネコミミを揺らす。ソウタはそんな彼女から離れ、カウンターに乗った紅茶缶を手に取った。紅茶缶を両手で抱え、カウンターの中へと移動する。
不意に眠たくなって、ソウタはあくびをしていた。
「ちょっと、寝てくる……」
「ソウタ、寝るのが大好きだもんね。それなのに、ハルちゃんのために早起きなんてしちゃってさ。熱い、熱い」
ソウタはミミコに振り向き、彼女を睨みつけていた。
「うるさいなっ。ハルとは、そんなんじゃないっ」
「はいはい、分かってますよ。ごめんね」
にんまりと眼を歪め、ミミコは笑ってみせる。彼女はソウタのネコミミをなだめるようになでてきた。
「それより、ソウタ。寝る前にやることがあるんじゃないの?」
「えっ?」
「薬、ちゃんと飲みなさい」
びしっとミミコがソウタの背後にある棚を指差した。ソウタは眼を曇らせ背後の棚へと視線をやる。
天井までとどく造り付けの棚には、色とりどりの紅茶缶やカップが並んでいる。その棚のすみに小さな牛乳瓶が置いてあった。牛乳瓶の中には、林檎の形をした透明な錠剤が入っている。ソウタのために造られた、ウイルスの抑制剤だ。
「飲まなきゃ、ダメ」
「死にたくないでしょ?」
ネコミミをびしっと立ち上げ、ミミコはソウタを睨みつける。
ソウタは渋々と棚に近づき、牛乳瓶を手にとる。蓋を開けて牛乳瓶を傾けると、ビー玉ほどの大きさの錠剤が掌に落ちた。赤い錠剤は艶々とした輝きを放っている。
ごくりと唾を飲み込み、覚悟を決めたソウタは錠剤を口に放り込んだ。
錠剤が舌の上で転がり、強烈な苦味が口に広がる。ソウタは口を押さえ、苦味に耐えた。あまりの辛さに、涙が出てきてしまう。
ソウタはカウンターへと駆け寄り、卓上に置かれたティーカップを手にとった。そのまま頭を反らし、一気にフレーバーティーを飲み干す。
フレーバーティーの甘味と錠剤の苦味が口の中で混じり合う。ソウタはカップをカウンターに叩きつけるように置き、両手で口を抑えた。
吐き出したい衝動に駆られながらも、ソウタは錠剤を嚥下する。口を開くと、フレーバーティーの香りが鼻孔に充満し嘔吐感が込み上げてきた。
「もう、コレやだ……」
涙を流しながらソウタはミミコを見つめる。ミミコはネコミミをプルプルと震わせながら、お腹を抱えていた。
「義姉さんのバカ!」
「ごめん、だって、おかしくて……」
「うぅ、義姉さんのバカ……」
「あ、ごめんごめん。もう、泣かないの……」
ぼろぼろとソウタの眼から涙が零れる。ミミコは慌てた様子で、そんなソウタのネコミミをなでてきた。
「分かってくれれば、いい……」
そっとミミコの手をなで、ソウタは涙声をはっする。そんなソウタに苦笑を送り、ミミコは言葉を返していた。
「もう、笑わないから、休んできなさい」
「うん……」
眼を擦り、ソウタは赤くなった眼で義姉を見つめる。ミミコは優しく眼を細めて、ソウタの頬をなでてくれた。
「お休みなさい、ソウタ」
「お休み、義姉さん……」
ミミコに笑顔を送り、ソウタは踵を返す。
ソウタは部屋のすみにある階段箪笥へと駆ける。階段箪笥を跳び越え、ソウタは二階へと上がっていった
自室のドアを開けると、美しい女性の歌声が聴こえた。ソウタはネコミミをぴんっと立て、歌に聴き入る。
部屋のロフトにおいてあるラジオから歌声が流れてくるのだ。澄んだ歌声は、ハルそれとよく似ている。だが歌声はハルのそれよりも大人びていて、洗礼された印象を受けた。
歌声の主は、ハルの母親だ。
ハルが、教えてくれた。
ハルの母親であるサクラ・コノハは、名の知れた歌手だった。
外の世界から、ケットシーである彼女は治療のために箱庭にやってきた。そして、外の世界と箱庭の交流を促す広告塔として活躍していたそうだ。
歌は、常若島に伝わる物語を歌っていた。
優しく、切ない歌声は、聴くものを哀しい心持ちにさせる。
物悲しい気持ちを抱きながら、ソウタは正面にある壁画を見つめていた。
壁画は島に伝わる物語をモチーフに、ソウタが描いたものだ。
漆喰塗りの壁には、羽を生やし飛び去っていく白い猫と、彼女を追う灰色の猫が描かれていた。
昔、この常若島には十三匹の猫たちが仲良く暮らしていた。十二番目に島にやって来た白猫と、十三番目に島にやって来た灰猫は恋人同士だった。
だが、流行り病で猫たちは死んでいく。恋人であった白猫も亡くなってしまい、灰猫は島にたった独り残されてしまうのだ。
旧文明時代、常若島で治療を受けていた子供たちをモデルにした物語だ。
主人公の灰猫はもちろん、ワクチンとウイルス開発に貢献した少年がモデルになっている。
少年は灰猫と呼ばれ、救世主として箱庭各地で崇拝されている対象でもある。
その信仰を広めるために物語はつくられた。箱庭の大人たちは信仰心を養うため、幼い頃から子供たちにこの物語をきかせてみせる。
壁画は恋人である白猫を喪った、灰猫の心境を描いたものだ。
ソウタは壁画に近づき、灰猫にふれる。朝陽を受けて、灰猫の蒼い眼が悲しげにゆれていた。灰猫と同じ蒼い眼を、ソウタは辛そうに伏せる。
義母のサツキは、何度も島の物語を聞かせてくれた。そのたびに、話を聴くソウタは心臓を悲しげに鳴らしたものだ。
物語を聴いていると、とても辛い気持ちになる。ソウタ自身が、灰猫の辛さを感じているように思えてしまうのだ。
自分が灰猫の『チェンジリング』であるせいかもしれない。
チェンジリングとは、マブがクローン技術で生み出した子供たちのことだ。彼らは島で治療を受けていた十三人の子供たちの遺伝子情報をベースに生み出されている。不足する人口を補うために造り出された彼らは、その出生に因んで『マブの子』とも呼ばれている。
ラジオから聴こえてくる歌声が、物悲しい鎮魂歌に変わっていた。
ハルが言っていた。
葬儀のあと、母を想い歌っていたときにソウタと巡り会ったと。ソウタもその日、常若島に越してきたばかりだった。
会ったその日に、ハルはたくさん話をしてくれた。
母親の歌う姿に憧れていたこと。母親のようになりたいと思っていたら、ケットシーの能力を発現させていたこと。
母親のように鎮魂祭で歌を奏で、人々を慰められるような歌手になりたい。涙ぐんだ眼を輝かせながら、ハルは夢を語ってくれた。
話を聴いているうちに、ソウタは彼女に自分を重ねていた。
ハルが同じだと思ったから。
自分と同じ、母親を亡くした悲しみを抱えていると思ったから。けれど、歌により悲しみを乗り越えようとするハルを、遠くに感じた。
ハルの強さが羨ましい。
不意に、真っ赤になったネズミ捕りが脳裏を過ぎる。ネコミミを伏せると、鈴が悲しげに音をたてた。
「友達に、なれればいいな」
ソウタはぽつりと呟いた。
茶トラと鯖トラの二人組の姿が、脳裏を過る。
ハルは、桜の木の下からいつも二人を楽しげに眺めている。彼らと友達になりたいと言いたげに。
でも、あの二人は自分たちを受け入れてくれるだろうか。ハルは、あの二人にいじめられたりしないだろうか。
不安を覚えながらも、ソウタは壁画の灰猫から手を離す、壁画に背を向けると、口からあくびが出てきた。
ソウタは、部屋の中央にかかっているハンモックを見あげる。
ソウタは床を蹴り、ハンモックに跳び乗った。ハンモックが大きくゆれ、紐につかまる。ゆれが収まると、ソウタはぽふんとハンモックに身を横たえた。
ソウタは体を丸め、紅茶缶を胸元に抱き寄せる。
桜の香りが、鼻腔をくすぐる。
円卓公園の桜を思い出し、ソウタは眼を細めていた。
まだ桜は、蕾のままだ。その蕾が咲くことを、ハルはとても楽しみにしている。
ソウタは眼を瞑る。
ラジオから聞こえる歌声が子守唄を歌っていた。歌は、ソウタの心音に合わせて旋律を刻んでいるようだ。
満開になった円卓公園の桜は、どれほど綺麗なのだろう。
はらはらと、薄紅の花びらが舞う公園。その中で、ハルは笑いながら歌をうたってくれるに違いない。
輝く眼で、満開の桜を見つめながら――
「ハル……」
ハルの笑顔を思い描きながら、ソウタは眠りに落ちていく。
眠りから目覚める。
ベッドで丸くなっていたハルはネコミミをあげ、周囲の音を聴く。
ハルのネコミミには、たくさんの時計の音が響いていた。
ハルは顔をあげる。
ハルの視界に寝そべっている天蓋ベッドの支柱が映った。支柱には、いくつもの懐中時計が括りつけられている。支柱を照らす光に導かれ、ハルはカーテンに閉ざされた窓を見た。
窓の下には、たくさんの時計が散らばっている。鈍い陽光を受けて、時計は表面の硝子を輝かせていた。
時計はすべて、ハルが部屋に持ち込んだものだ。
時計の音は心音に似ている。ネジを巻いてやれば動き続け、その音でハルを安心させてくれるのだ。
部屋の隅に置かれたラジオから、子守唄が流れてきていた。
歌っているのは、義母であるサクラ・コノハだ。
この家に養子としてやって来たハルに、サクラは子守唄をよくうたってくれた。
そのときに亡くなった娘の話を、サクラは楽しそうに話すのだ。
話を聞く、ハルの気持ちなど考えもしないで。
ハルは彼女の子守唄を聴くたびに、自分が身代わりであることを思い知らされる。
心臓が不穏な音をたて、ハルは体を抱きしめた。優しい子守唄は、ハルのネコミミに残酷に響き渡る。
ウイルスに侵され、喉を患い、歌を失った義母。
サクラが、最後に残した音が忘れられない。
だんだんと弱っていく心臓の音。その音を聞いて以来、ハルは他人の心音に異常なほど敏感になった。
恐いのだ。
側にいる人の心臓がとまってしまうかもしれないと不安で、歌えなくなる。
不意にソウタのことを思いだす。彼の困ったような笑顔が脳裏を閃き、ハルは眼を見開いた。
ソウタはハルが歌えなくなると、困ったように苦笑する。そしてハルに、ごめんねと謝るのだ。
彼の笑顔を見ていると、安心できるのはどうしてだろう。
ソウタは忙しなく心音を鳴らしては、自分を困惑させる。その音にハルは不思議と安らぎを感じているのだ。
時計の音が、とまる。
驚いて、ハルはネコミミをたてていた。
顔をあげ、部屋を見回す。
部屋の時計が、いくつかとまってしまっている。ハルはネコミミをたらし、力なくベッドに顔を伏せた。
とまっていく、義母の心音を思い出してしまう。
時計が、また一つ、とまる。
びくりと、ハルはネコミミを震わせた。
嫌なことを考えてしまう。
もし、ソウタの心臓が時計のように止まってしまったら――
「お願い、とまらないで……」
不安が呟きになる。
体が震えてしまう。ハルはぎゅっと体を丸めて、その震えをとめようとした。
子供たちのうるさい声が、桜下から聞こえてくる。その声は、灰猫の桜に登っているソウタのネコミミにもとどいていた。
「ねぇ、幽霊がまたいないよ、ハイ」
「みんなで、いっせいに来たから……ビックリして逃げちゃったんじゃないの……?」
「えぇー、ボク、幽霊の歌もっと聴きたかったのにっ!」
「本当にいたんだね、幽霊。チャコちゃんの言うとおりだ」
伏せたネコミミをピクピクと動かし、ソウタは会話を聞くまいと努める。
「ソウタくん」
だが、ハルの呼び声がそれを拒んだ。ソウタは抵抗を覚えながらも、腕の中のハルを見つめる。ハルは困ったように眼をゆらし、ソウタを見あげていた。ハルの鈴が、ソウタを責めるようにちりちりと鳴っている。
耐え切れなくなって、ソウタはハルから顔を背ける。
「ソウタくんてばっ」
ハルが声を荒げるが、ソウタはネコミミを伏せてそれを無視した。
ソウタは梢のすきまから、地面を見つめる。
灰猫の桜を、たくさんの子供たちが取り囲んでいた。子供たちが声を発するたびに、彼らのネコミミがピコピコとリズムカルに動く。
会いたかった茶トラと鯖トラも、その中にいる。
自分たちを見つけられなくて、悔しいのだろうか。茶トラ少女はネコミミをぷるぷると震わせ、眼に涙を浮かべていた。そんな彼女をなぐさめるように、鯖トラ少年は少女のネコミミを優しくなでている。
少年が鯖トラ柄のネコミミをたちあげ、桜を見あげてきた。
少年の眠たそうな三白眼が、こちらに向けられる。びくりとソウタはネコミミを震わせ、地面から視線をそらした。
ソウタは恐るおそる少年を見つめる。少年は何事もなかったかのように、少女のネコミミをなで続けているだけだ。
よかった見つかっていない。ソウタは安堵にネコミミをたらしていた。
「ねぇ、ソウタくん。私たち、あの子たちに会いに来たんだよね?」
ハルに話しかけられ、ソウタはネコミミの毛を逆立てた。ハルを見つめると、彼女は困った様子で自分を見上げていた。
「あ、うん。そうだよね……うん」
ソウタは何度もハルに頷いてみせる。ハルは怪訝そうに眉毛を寄せ、地面へと視線をやった。
「隠れちゃ、意味ないよね……。私のせいだけど」
「だって、増えてるんだもん……」
「ごめん……」
会話が途切れてしまう。ソウタとハルは顔を見合わせ、二人そろって桜下を見つめた。桜下では、子供たちが会話を交わしている。
「ハイ、幽霊に会いたいよ。ハイ……」
「はいはい……。会わせてあげるから、泣かないの、姉ちゃん……」
「ほんと、どこいっちゃたんだろうね」
「シートがあるってことは、この辺りにいると思うんだけれど……」
子供たちは、ソウタとハルが座っていたシートを取り囲んでいる。シートに並べられたティーセットは空っぽになっていた。
ハルのために取り寄せた桜のフレーバーティーは、茶トラの少女に飲まれてしまった。ミミコが焼いてくれたスコーンも、子供たちのお腹の中だ。
茶トラと鯖トラをおびき寄せるため、学園の下校時刻を見計らい歌をうたった結果がこれだ。
歌声を聞きつけた子供たちが円卓公園につめかけ、慌てたソウタたちは桜の上に隠れることしかできなかった。
いっぱい来ると叫びながら、ネコミミを激しく動かしていたハルの姿を思いだす。パニック状態になっている彼女を捕まえ、ソウタはやっとの思いで桜に跳びあがることができたのだ。
「降りても、大丈夫?」
「ごめんなさい……。無理」
ハルは怯えた眼差しを子供たちに送ってみせる。
茶トラと鯖トラには会いたいが、他の子供たちが怖いのだろう。抱きしめているハルの体は、かすかに震えていた。
ソウタはハルのネコミミをなで、彼女に囁く。
「今日は会うのやめよう、ハル」
「え、でも……」
「大丈夫、あの二人は俺たちのことが気になってるんだし、また会いに来てくれるよ」
「うん……」
ソウタの言葉を聴いて、ハルは微笑む。安心したソウタは、ハルに微笑みを返した。
「何だ、ボクたちに会っていかないのか……」
「ごめん、今回は……」
ぼそりと声をかけられる。ソウタはとっさに声のした背後へと、顔を向けていた。
眠たそうな三白眼が、じっとソウタに向けられている。桜の下にいた鯖トラ少年が二手に別れた幹に足をかけ、こちらを見つめていた。
「よっ」
少年は片手をあげて挨拶をしてくれる。ソウタは、無言で彼を見つめた。自分たちに気づかれないよう桜を登り、鯖トラはここまで来たらしい。
「姉ちゃーん……幽霊いた……」
「ほんとー! どこどこ」
彼は桜下にいる茶トラ少女に向かって、言葉を発する。少女は嬉しそうに跳びあがり、大声をあげた。
二人のやりとりを見て、ソウタはようやく理解する。
どうやら自分たちは見つかったらしい。
「うわー!」
ソウタはネコミミを反らし叫んでいた。びくりと、腕の中のハルがネコミミの毛を逆立てる。
「ちょ、ソウタくんっ?」
「どうしよ、ハル! 見つかっちゃった! み、見つか……」
「キミ、おっきいね……」
「えっ」
少年に声をかけられ、ソウタは我に返る。彼は眼を輝かせソウタを見つめていた。
同い年の子供たちより、ソウタは背が高いほうだ。それに比べると、少年はずいぶんと背が低い。体全体のパーツが小さいのだろう。小顔で、他の子供に比べネコミミも大きく見える。
「いいな。おっきい……いいな」
少年はソウタに熱い視線を送りながら、近づいてくる。興奮しているのか、彼はネコミミを激しく上下に動かし始めた。
「え、あのっ……」
「おっきい……おっきいっ! おっきい!」
「ちょ、来ないで! 来ないでよ!」
「ソ、ソウタくんっ、怖いよ!」
接近してくる少年に危険なものを感じ、ソウタは大声をあげていた。怯えたハルが首筋に両腕を回し、ソウタに抱きついてくる。
「ちょ、ハル! 落ち着いて」
「やだっ、怖い!」
ハルに抱きつかれ、ソウタは体のバランスを崩してしまう。ハルに叫ぶが、彼女は激しく首を振るばかりだ。
「おっきいっ!」
「うわぁ!」
近づいてくる少年に、ソウタは悲鳴をあげていた。体をゆらゆらと動かしながら、彼はソウタの前に立ちふさがる。
ソウタは背後を見つめた。ソウタたちの乗る枝は先が細く、これ以上後ろにさがることができない。
絶体絶命の状態だ。
「おっきい……。友達に……なる!」
「うわっ!」
少年は枝を蹴って、ソウタに向かって跳んできた。ソウタはとっさに体を捻り、少年のタックルを躱そうとする。
だが、少年はネコミミの角度を巧みに変え、ソウタの肩をネコミミで叩いてきた。ソウタの体が大きく傾ぐ。彼はソウタにトドメを刺すべく、ソウタの肩をもう一度、ネコミミで叩いた。
「うわっ」
ソウタはバランスを崩し、足を滑らせた。
梢をつかもうと片腕をのばすが、その手は鯖トラのネコミミに弾かれる。ソウタの体は宙に投げ出され、仰向けのまま地面へと落ちていく。
「いやーっ!」
「ハルっ」
ソウタは胸元にハルを抱き寄せ、体を丸めていた。そのまま空中でとんぼ返りを決め、シートの上に降り立つ。衝撃でシートに乗ったティーセットが浮かびあがり、大きな音をたてて元の位置に戻っていった。
ぐわぁんぐわぁんと鈴の喧しい音が、ソウタのネコミミに反響する。それに合わせて、割れんばかりの拍手がネコミミに響き渡った。
「ブラボー!」
「凄い!」
「もう一回見たい!」
拍手とともに、子供たちの歓声がソウタに送られる。ソウタはびくりと顔をあげた。子供たちの輝く眼が、ソウタに向けられている。
「幽霊凄いよ!」
その中央にいる茶トラ少女は、跳びあがりながらネコミミを上下に動かしている。
「ねぇ、ねぇ、もう一回! もう一回、くるんって、回って!」
「いや……それはちょっと」
腕を回しながら、少女はとんぼ返りをせがんでくる。少女を見つめながら、ソウタは引きつった笑みを浮かべることしかできない。
「ソウタくん……」
小さなハルの声が聞こえて、ソウタは腕の中のハルを見つめる。彼女は怯えた様子でネコミミを震わせていた。
たくさんの子供たちに囲まれて、ハルは恐いのだろう。ソウタはそんなハルを安心させようと優しく微笑んでみせた。
「大丈夫だよ、ハル」
彼女を優しく抱き寄せる。
「ラブラブだー!」
茶トラ少女が弾んだ声をあげた。ぴんとネコミミをたて、ソウタは彼女を見つめる。
「いいなー! いいなー! ラブラブー」
「ちょ、そんなんじゃないって……」
「ラブラブ……ソウタくんと」
「ハル?」
ソウタはとっさにハルを見つめた。ハルが潤んだ眼をソウタに向けてくる。その眼を見て、ソウタはキュンと心臓を鳴らしていた。
ハルがぷいっと、ソウタから顔を逸らす。ネコミミをだらんとたらし、ハルは顔を覆ってしまった。
「ハルっ?」
ひょこっと、ハルはネコミミのあいだから眼を覗かせ、困ったようにソウタを見つめてくる。
ハルの様子がおかしい。不安になってソウタはネコミミをたらしていた。
「幽霊の元気がないよ、ハイ!」
茶トラ少女の大きな声がネコミミに響き、ソウタは驚いて顔をあげた。少女は不安げに眼を曇らせ、木に登る鯖トラ少年を見あげていた。
「そのおっきいのと、白ネコミミ……。本当に幽霊……? 生きてるようにしか、見えない……」
「えー、絶対に幽霊だよ」
「じゃあ、触って確かめてみたら……」
「わかったー!」
少年の言葉に、少女は弾んだ声で答える。少女は大きく口元を歪め、ソウタを見つめてきた。嗤いに歪められた少女の眼が、ソウタに向けられる。
腕に震えを感じ、ソウタはハルを見下ろしていた。ハルがブルブルとネコミミを震わせているではないか。
ソウタはごくりと唾を飲み込み、後退りしていた。ニンマリと笑みを深め、少女はソウタたちに近づいていく。
少女の背後にいる子供たちも、ニヤリと口角を釣りあげる。少女の背後で彼らはネコミミを怪しく蠢かせながら、笑い声をあげた。
「「「にゃはははははは!」」」
不気味な笑声がネコミミに響き渡る。ソウタはネコミミをびんとたて、彼らを見つめることしかできない。
「幽霊覚悟ー!」
「「「覚悟ーー!」」」
少女が大声をあげ、ソウタへ特攻する。それに続き、子供たちもいっせいにソウタへと襲いかかってきた。
「ソウタくーんっ!」
「うわー!」
ハルの叫び声が、ネコミミに虚しく響く。ソウタはネコミミを反らし、悲鳴をあげることしかできなかった。
子供たちにより、ソウタとハルはなすがままになっていた。
二人は、子供たちにネコミミを弄ばれている最中だ。
襲ってきた子供たちは、いっせいにネコミミへと手をのばしてきた。ハルを抱えていることもあり、ソウタは抵抗することもできずじっとしている。
子供たちはネコミミから手を放してくれない。
指先でネコミミを揉みほぐしては、ぐるぐると喉を鳴らしている子供。うっとりと眼を細め、ネコミミをなで続ける子供もいた。
「凄い! 白猫のネコミミ、ラパーマロングヘヤみたいに、クルンってネコミミの毛が丸まってる!」
「灰猫のは、ロシアンブルーみたいだよ。手触りが絹みたい」
「触り心地、最高!」
「真っ白で、白猫みたい」
「白猫だよ、白猫と灰猫の幽霊だ!」
「痛い…痛いよ」
ぐいぐいと子供たちは、ソウタのネコミミを引っ張る。ソウタは呻くが、子供たちはおかまいなしにネコミミを弄び続ける。
「私にも、触らせてー!」
不機嫌な大声が、ソウタのネコミミに響いた。ソウタは声のした方向へと視線を向ける。
子供たちの背後で動く茶トラのネコミミがあった。ぽんぽん跳びはねながら、茶トラ少女はソウタのもとへ行こうとする。
「どいてー」
茶トラ少女が子供たちをかき分け、ソウタのもとへと迫ってくる。彼女の背中にはぴったりと、鯖トラ少年がくっついていた。
押しやられた子供たちは、彼女を睨みつける。
子供たちは反撃にでるため、いっせいに少女に手をのばした。少女の背後にいる少年が、ぐるりと子供たちに顔を向ける。感情の篭らない三白眼を向けられ、子供たちは手をとめた。
少年は頭をさげる。ネコミミを使い、少年は子供たちの手を弾き返していった。子供たちが痛そうにネコミミをゆらし、のばしていた手を引っ込めていく。
「わーい、ネコミミー!」
一方少女は、自分の背後で起こっている攻防戦に気づいていないようだ。呑気に声をあげ、ハルのネコミミに両手をのばしていた。
「きゃ」
ハルが、小さく悲鳴をあげる。
少女はその悲鳴にも気がつかないのだろう。乱暴にハルのネコミミを握ってきた。瞬間、少女の眼が煌めく。弾んだ声を発し、少女は背後にいる少年に顔をむけた。
「スゴイ! 幽霊なのに、さわれるよ、ハイ!」
「さわれる時点で、幽霊じゃないと思う……」
「えー、そんなことないよぉ。気持ちぃ、このネコミミ。ハイのネコミミみたい……」
「この、ネコミミフェチ……」
「だって、気持いんだもん……」
茶トラ少女は、夢中になってハルの白ネコミミを揉みほぐす。ぐるぐると喉を鳴らしながら、彼女はうっとりと眼を瞑っていた。
「えいっ」
「痛いっ」
少女にネコミミを引っ張られ、ハルが悲鳴をあげる。
「あっ」
思わず少女は声をあげ、ハルのネコミミから手を引いていた。ハルは引っ張られたネコミミを震わせながら、うつむいてしまう。
「やめてよっ!」
痛がるハルを見て、ソウタは声を荒げていた。ソウタは体を斜めに向け、少女からハルを引き離す。
「あぅ……」
離れていくハルを見つめながら、少女は力なくうつむいた。
少女の姿を見て、子供たちもネコミミをたらす。子供たちは気まずそうにソウタたちから離れていった。
ソウタは腕の中のハルを抱き寄せた。ハルは子猫のように震えている。ハルの顔を覗くと、彼女はネコミミを震わせながら、眼に涙をためていた。
「ごめん、夢中になっちゃって……」
少女が小さく声を発する。
茶トラ少女へ顔を向ける。彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。ぽんっと、鯖トラ少年が、慰めるように少女の肩を叩いた。
「ハイ」
「元気が、一番……」
少女は背後の少年を見つめ、眼を輝かせた。
気持ちを切り替えようとしているのか、少女はネコミミをフルフルと振る。少女は笑顔を浮かべソウタとハルを見つめてきた。
「ごめん。でも、スゴイや! 歌ってたのが、灰猫と白猫の幽霊だったなんてっ!」
「だから、俺たち幽霊じゃないしっ!」
少女の言葉に、ソウタは思わずさけんでしまう。少女は驚いたように眼を見開いた。彼女はぴょんとネコミミをたてて、首を傾げる。
「じゃあ、誰?」
「誰って、君たちこそ、誰……?」
「私、チャコ。こっちは、弟のハイ。チェンジリングだけど、一応、双子! 私がお姉ちゃん!」
「こんな姉だけど、ボクが一応、弟だから……」
チャコと名乗った少女は鯖トラ少年をびしっと指さす。ハイと呼ばれた少年は、ぼそりと言葉を放った。
「私、ミミ!」
「ボク、ユウ!」
「メグ!」
「ミィ!」
他の子どもたちも、いっせいに自己紹介を始める。
「ちょっと待って、そんなにいっぺんに言われても!」
「あなたたちは?」
「えっ」
「あなたと、その子の名前は?」
チャコはきらきらと眼を輝かせ、ソウタに質問してくる。ソウタは、ネコミミを力なくたらしていた。先ほどから、彼女のペースに巻き込まれてばかりだ。
「ソウタくん。降ろして」
驚いて、ソウタはハルを見つめた。ハルは優しげに眼を細め、ソウタを見あげている。
「ハル……」
「大丈夫」
ソウタを安心させるように、ハルは微笑みを深めてみせる。不安を感じらながらも、ソウタは彼女を地面に降ろした。
ふんわりとスカートを翻しながら、ハルは子供たちの前に歩み出た。子供たちはぴんとネコミミをたて、いっせいにハルを見つめてくる。
ハルは子供たちに笑顔を浮かべてみせる。
「はじめまして、ハル・コノハです。こっちは、ソウタくん。ソウタ・ハイバラくん」
ハルはスカートの裾を両手の指で掴み、優美にお辞儀をした。ぺこんとハルのネコミミも、一緒にお辞儀をする。
「ハル・コノハ!?」
チャコが弾んだ声をあげた。ハルが驚いて顔をあげる。
「コノハって、もしかしてハルってサクラ・コノハの血縁者……」
ハイが、尋ねてくる。
「うん、お義母さんだけど……」
「すごい、すごいよ! ハルちゃん!」
「ちょ、チャ、チャコさん!」
「チャコでいいよ。すごいよ、ハルちゃん! あの、サクラさんの娘だなんて!」
チャコが大声をあげる。チャコはハルに詰め寄り、両手をにぎってきた。チャコの背中には、背後霊のようにハイがくっついている。
ハルの手をにぎったまま、チャコはぴょんぴょん跳びはねる。興奮しているのか、彼女のネコミミは激しく上下に動いていた。
「てい……」
「あ、やめてよー、ハイ!」
チャコの後方にいたハイが、ハルからチャコを引き離す。チャコはハイに顔を向け、叫んでいた。
「だめ……」
ハイは彼女の体を引きずりながら後方へとさがっていく。
「あぁ、ハルちゃんがー!」
チャコは悲しげに叫びながら、ハルに手をのばす。その手がハルに届くことはない。チャコは、ションボリとネコミミをたらした。
「ごめん……。姉ちゃん、サクラさんのファンなんだ……」
ハイが謝ってくる。ハイのネコミミは、悲しげにたれさがっていた。
ハイの表情はあまり変わらない。だが、ネコミミの様子から、ハイが悲しんでいることがわかる。
ハイは案外、いい奴なのかもしれない。
そう思い、ソウタはハイに微笑んでいた。ハイのネコミミは苦しめられたが、彼とは良い友達になれそうだ。
ハイがぽっと頬を赤らめ、こちらを見つめてきた。
どきりと、ソウタの心臓が高鳴る。
ソウタが彼から視線を逸らすと、ハイは悲しげにネコミミをたらし、チャコのネコミミを叩き始めた。
「痛い、痛いよ! ハイ」
「反省しろ……反省。おっきいのに、謝れ……」
「嫌だっ。悪いことなんてしてないもんっ!」
「お仕置き、追加……」
「はふぅ!!」
ハイがネコミミを叩くペースをあげる。チャコは奇妙な声をあげ、ネコミミをびーんとたてた。ハイはそんなチャコの顔を覗き込む。チャコはごくりと唾を飲み込み、大人しくなった。
「お義母さんの……ファン?」
ハルが、唖然とした様子で呟いた。
ハイはネコミミを上下させ、そうだと答える。その返事に、ハルは悲しげにネコミミを伏せた。
「ねぇ、ハルちゃん。歌って! いつも聞こえてる歌、ハルちゃんが歌ってるんでしょ? サクラさんの娘だもん。凄く、上手なんだろうな……」
ハルの歌声を思い出しているのだろう。チャコは両手を組み、うっとりと眼を細めていた。
「ね、歌って。歌ってよ」
嬉しそうなチャコの眼が、ハルに向けられる。ハルは逃れるようにチャコから顔を背けた。
「ハル」
心配になりソウタはハルに声をかける。彼女は不安げに眼をゆらし、こちらへと振り向いてきた。
「ソウタくん……」
ハルは縋るようにソウタを見つめてきた。ハルを隠すように子供たちの前に立ちはだかり、ソウタは彼らを見つめた。子供たちも、不思議そうにソウタを見つめ返してくる。
「ごめん、ハルは歌えないんだ……」
ざわりと、子供たちが騒がしくなる。その様子に、ソウタは苦笑を滲ませていた。
「そう、なの……」
悲しげに眼をゆらし、チャコはソウタを見すえる。チャコの泣きそうな眼を見て、ソウタの心臓がさみしげに音を奏でた。
ハルがソウタの背後からネコミミを出す。申し訳なさそうにネコミミをゆらし、そうだよと、彼女はチャコに答えた。ハルのネコミミを見て、チャコはがっくりと頭をうつむかせた。
数えただけでも子供たちは、十人以上いる。ハルにはたくさんの心音が聞こえているはずだ。
歌えるはずがない。
ハルは他人の心音が恐いのだから――
「ハル」
心配になって、ソウタは背後のハルを見つめる。
ハルはネコミミをさげ、悲しげに眼を伏せていた。ぎゅっとスカートの裾をつかんで、彼女は泣くのをこらえている。友達になりたいと思っていた二人に、歌を聴かせられないのが悔しいのだ。
とくんと、ソウタの心臓が悲しげに鳴った。その音を聞いて、ソウタはひらめく。
「ハルっ」
ハルが驚いたようにネコミミを反らし、ソウタを見つめてきた。
「心音をメロディにして、歌ったらどうかな? 心臓の音が気になるんだったら、それを伴奏にしちゃえばいいよ」
「心臓の音を……」
ハルは唖然と、ソウタの顔を見つめる。
ソウタは笑みを深め、うなずいてみせた。ハルは眼を桜色に煌めかせ、笑顔を浮かべる。
「すごい、ソウタくん。いいこと思いついちゃったっ」
「うわっ」
弾んだ声をあげて、ハルが肩に両手を置いてくる。ソウタはびっくりして、背後にいる彼女を見つめる。
「いいことって?」
「ネコミミピアノ!」
ソウタの問いに、ハルは嬉しそうな声で答えた。
「じゃあ、みんな。私がネコミミとこの枝で合図したら、ネコミミをあげて、ラって歌ってね」
ひゅっと、手にした木の枝をあげ、ハルは周囲の子供たちに視線を送る。
ハルを中心に、子供たちは円形に並んでいた。ソウタは少し離れた灰猫の桜下に座り、その様子を見守っている。
ソウタは楽譜役。だから、ここでじっとしているようハルに言われたのだ。そんなハルの言葉を思い出して、ソウタはしゅんとネコミミをたらしていた。
ハルによると、子供たちは音階順に並んでいるのだという。子供たちを並ばせる前、ハルはネコミミでみんなの声を聴き、音を割り振っていった。
ちなみに子供たちの中で一番背の低いハイは、高いドの音。三番目に低いチャコは、ラの音担当だ。
「いくよー、ミャア!」
合図とともに、枝が振りおろされる。
枝が指し示したのは、ハルの正面にいるチャコだ。ハルは左右にネコミミを動かし、ハイと他の子供にも合図を送った。
ぴんっとネコミミをあげ、子供たちは声をだす。
高さの違う声が重なり、一つの音になる。
ハルはネコミミと枝を動かし、次々と子供たちに合図を送っていった。
重なり合う子供たちの声。
それはピアノの伴奏のように音を奏で、周囲に響きわたる。
低い声。高い声。
声がするたびに、あがるネコミミ。そこに、高いハルの歌声があわさる。
凛としたハルの声と、子供たちの重奏。
二つの音は重なり合い、島中に響き渡る。
子供たちの声がピアノの伴奏なら、ハルの声はピアノのメディだ。
子供たちの声よりも高くて、リズムも違う。
声がするたびに、あがるネコミミ。
それ見て、ソウタはハルの言葉を思い出していた。
――ネコミミピアノ。
本当に、そのとおりだ。
ふと、ソウタは気になる。ハルは何の音をもとに子供たちに指揮をおくり、歌をうたっているのだろう。
心臓が、小難しい音をたてる。刹那、その音とハルの歌声が重なった。
ソウタは驚きハルを見つめていた。
子供たちの中心にいるハルと視線が合う。彼女は唇を開き、いたずらっぽく笑ってみせた。
心臓の音だ。
ソウタの心音を頼りに、ハルはメロディを奏でているのだ。
ハルがひときわ高い声を発する。弾んだ声を聞いて、ハルが喜んでいるとわかる。
自分だけ、仲間外れなんてつまらない。
ソウタは立ちあがり、ネコミミピアノへと駆けていた。並んだ子供たちを跳びこえると、みんな驚いたようにソウタを見あげてきた。
子供たち笑顔を送り、ソウタはハルの前に着地した。びっくりした様子でハルはネコミミの毛を逆立て、歌うのをやめた。
指揮を失った子供たちは、声を発することができない。
ネコミミピアノがやむ。
ネコミミを反らし、ハルはソウタを睨みつけた。
ハルに睨みつけられ、ソウタはしゅんっと、ネコミミをたらす。
心臓が頼りない音を奏でる。その音に合わせて、ハルが歌う。
歌われるのは、臆病者の少年のこと。
少年はビクビクしていて謝ってばかり。本当に頼りないとハルは歌う。
ハルの歌にあわせて、子どもたちも声を発する。まるで少年をバカにするように。
むっとなったソウタの心臓が、激しい鼓動を奏でた。
歌の内容が変わる。
ごめんねと、大切な人に謝る少女の歌をハルは歌う。
ハルはネコミミを伏せ、ソウタに頭をさげる。子供たちも、つられてハルの動作を真似る。
ソウタの心音が、申し訳なさそうに小さくなる。
頭をあげ、ハルが歌を変える。
歌は喜びの歌。
仲の良い少年少女が、友だちと遊ぶ様子をハルは歌ってみせる。
歌声を弾ませながら、ハルは枝を放り投げた。
ソウタは放られた枝を見あげる。ソウタの視界に、蒼い空が映りこんだ。
りんと、鈴の音がする。
正面に顔を向けると、ハルが微笑んでいた。
ハルはソウタの手をにぎってくる。ソウタの手をとったハルは、回りだした。
子供たちもおたがいの手を繋いで、くるくると回転する。
ソウタの視界が回る。
ソウタは、心臓をバクバクさせていた。
けれど、嬉しそうなハルの笑顔を見て、ソウタも笑っていた。
ソウタとハルは笑い声をあげなら、くるくると回る。
ちりちり。りんりん。
ソウタとハルのネコミミについた鈴が、交互に鳴る。
その音に合わせて、ハルは旋律を刻む。子供たちは輪唱を奏でていく。
春風が子供たちの歌声を乗せ、常若島を吹き抜けていった。
「喉、痛い……」
「大丈夫」
ハルはネコミミを伏せ、ぐったりとシートに座り込んでいた。そんな彼女を労わるように、ソウタは声をかける。
子供たちと、歌いすぎたせいだ。
みんなネコミミピアノが気に入ったのだろう。子供たちは、何度もピアノになって歌ってくれた。
「うん、平気」
「そうみたいだね」
ハルが顔をあげ、微笑んでみせる。そんな彼女にソウタも微笑んでいた。
「お茶、飲む?」
「うんっ」
ソウタの言葉に、ハルは弾んだ声をあげた。ソウタは笑みを深め、側に置いた魔法瓶から紅茶をカップへと注いでいく。
カップから湯気がたちのぼる。漂ってくる桜の香りに、ハルが気持ちよさげにネコミミを伏せた。ハルが灰猫の桜を仰ぎ見る。梢についた花の蕾を見つめながら、彼女は眼を輝かせていた。
「ハル」
呼ぶと、ハルははっとした様子でソウタに視線を戻した。ソウタは軽く笑い、ハルにカップをさしだす。ハルは両手で包み込むように、カップを受けとった。
薄紅色の水色を眺めながら、彼女は柔らかく微笑む。
「楽しかったな、ネコミミピアノ……。みんなで歌うのが、こんなに楽しいなんて思わなかった」
「俺、楽譜役は嫌だな……。仲間はずれにされた気がして、ちょっと寂しくなるっていうか」
「でも、ソウタくんの心音が一番、演奏しやすいの」
「え、そうなの……」
「そうなのっ」
ソウタの言葉が気に入らなかったのか、ハルは不機嫌そうにネコミミを逆立てる。ハルのネコミミを見て、ソウタはしゅんとネコミミをたらした。そんなソウタを見て、ハルは苦笑する。
「どうしてかな? ソウタくんじゃないと、駄目なの。でも、たくさん心臓の音が聞こえたのにちゃんと歌えた。みんなの音、優しかったな……」
ハルは眼を閉じ、気持ちよさそうにネコミミをゆらす。ソウタはみんなの笑顔を思い出し、言葉を返していた。
「みんな、優しかったよね」
「チャコちゃんが言ってくれたんだ。ケットシーであることを気にしていたら、クローンの私たちはどうなっちゃうのって。別に違っても、誰にも迷惑かけてないよねって。なんだか、嬉しかったな。そんなこと言われたの、初めてだもん」
「うん、俺もハイに突っ込まれた。うらやましいぐらい大きいのに、小さいことしか見てないって」
「何か悩んでたの、バカバカしい……。私たちもっと自由にならなくちゃ」
「でも、みんな受け入れてくれるとは限らないよ……」
眼を輝かせるハルを見て、今まで受けてきた数々の差別が、ソウタの脳裏を横切っていく。
真っ赤になったポストに、ミミコを罵ったクラスメイトの言葉。鎮魂祭に出るなと脅され、怯えていたハルの姿が脳裏に浮かんでは消えていくのだ。
チャコやハイのように、自分たちを受けいれてくれる人はいる。だが、ケットシーが差別される存在であることに変わりはない。
ハルが眼を曇らせる。彼女は困ったように、手に持ったカップへと視線を落とした。
「ねえ、ソウタくん。この紅茶、桜の香りがするっ! すごくいい香り!」
ハルが大きな声をあげる。驚くソウタに彼女は笑顔を向けてくる。桜が咲いたかのような彼女の微笑みに、ソウタは心臓を高鳴らせていた。
沈んでいるソウタを見て、ハルは話題を変えてくれたのだ。
「この紅茶、みんなで飲んだらもっと美味しかっただろうね。チャコちゃんなんて、すごく大はしゃぎしそう……」
ハルの言葉をきいたとたん、ソウタは眼を見開いていた。
とくりと、心臓が鳴る。
みんなに囲まれて、ハルは楽しそうに歌を奏でていた。それを遠くで見つめていた自分には、気づきもしないで。
これから、ハルはみんなと一緒に歌をうたうようになるだろう。
ハルが、それを望むだろうから。
ハルはみんなと一緒にいたほうが楽しいのだろうか。
ずっと彼女の側にいて、彼女を励ましていたのは自分なのに――
「どうしたの?」
声をかけられ、ソウタは我に返る。
ハルを見ると、彼女は心配そうに眼をゆらしていた。ソウタの頬に手をあて、ハルは顔を覗き込んでくる。
罪悪感に、心臓が不穏な音をたてる。
なぜ、ハルに友達ができたことを自分は喜べないのだろう。話を逸らしたい一心で、ソウタは口を開いていた。
「いや、俺もチェンジリングだから、みんなと気があったのかなって考えちゃって……」
「うそ、ソウタくんもチェンジリング?」
「もしかして、ハルも?」
ハルが眼を煌めかせる。ソウタは唖然として、そんな彼女を見つめていた。
「私ね、ネコミミじゃなくて変形した頭蓋骨で普通の人が聴けない音を聴いてるんだって。お義母さんもそうだったの。血の繋がりがないのに不思議だって、治療院のお医者様が言ってた」
ハルが嬉しそうに眼を輝かせ、持っていたカップをソーサに置いた。彼女は両手を首の後ろへと持っていく。
「見て。番号、あるでしょ?」
ハルが髪を掻きあげ、首後ろを指さす。12―02と、首後ろには刺青が施されていた。
刺青は、チェンジリング全員に施されているものだ。
十三人の子供達のうち誰の遺伝子をもとに造られたのか、ハイフン前の一から十三までの番号でわかるようになっている。ハイフン後の数字は、どのような遺伝子操作が施されたのかを判別するためのものだ。
「白猫と、同じ番号……」
ソウタは、じっとハルの刺青を見つめていた。
義母のサツキが教えてくれたことがある。刺青の前方にある番号は、子供たちが島にやって来た順番を表していると。
灰猫の恋人である白猫は、十二番目に島にやってきた子供だ。ハルの刺青の番号も白猫が常若島に来た順番と同じ。
初めてハルと出会ったとき、ソウタは彼女を白猫のようだと思った。
思い込みではなかったのだ。ハルは、白猫から造られたクローンだったのだから。
心臓が、とくりと鳴る。
ソウタはハルの刺青に手をのばした。
震える指先が、十二の数字にふれる。くすぐったそうに、ハルがネコミミをゆらした。
眼を歪め、ソウタは刺青を見つめる。
島に十二番目にやって来て、最後に逝ってしまった白猫。彼女たちを追悼するために円卓公園は作られ、十二本の桜が植えられた。
灰猫の桜は最後に植えられたもので、他の桜より一回り小さい。
仲間が亡くなったあとも、灰猫は独りで生きなければならなかった。彼はどんな気持ちで、この公園の桜を見あげていたのだろうか。
ソウタの心臓が高鳴る。
ソウタは、灰猫がどんな少年であったのか知らない。それなのに、彼のことを考えると辛い気持ちになる。自分が灰猫の気持ちを知っているようで、気味が悪くなるのだ。
「ソウタくんの番号は?」
ハルが嬉しそうに顔を向けてくる。
「ごめん、あんまり見せたくないんだ……」
ソウタは首後ろの刺青に手を充てていた。悲しげに眼をゆらし、ハルを見つめる。ハルは困ったように眼を曇らせ、ソウタから視線を逸らした。
会話が途切れてしまう。気まずくなって、ソウタはネコミミをたらしていた。
ソウタの首後ろには、13の刺青が施されている。
灰猫はこの島に十三番目にやって来た子供だ。十三という数字は、ソウタが彼のクローンであることを示している。
―――お前が初恋の人と似てるから、引きとったんだ。
サツキが、そう語ってくれたことがある。その人が灰猫に似て、孤独だったということも。
サツキは灰猫の話をするとき、初恋の人のことを懐かしげに話した。
その話を思いだすたび、ソウタはサツキを疑ってしまう。サツキは、その人の身代わりとして自分を引きとったのではないのかと。
「私ね、お義姉さんがいたんだって」
不意に、ハルが口を開いた。
「でも、生まれてすぐに死んじゃった。その代わりが、私……」
ハルが顔を向けてくれる。ハルの眼を見て、ソウタはネコミミの毛を膨らませていた。
初めて会ったころと同じ、悲しげな眼をハルがしていたから。その眼をソウタに向けながら、彼女は続ける。
「私、お義母さんに認められたくて歌いたいのかもしれない。変だよね。お義母さんはもう、どこにもいないのに……。お義姉さんじゃなく、私を見て欲しいだなんて……」
心臓が高鳴る。
ソウタを慰めるように、ハルは眼に笑みを浮かべてみせる。彼女の笑顔が悲しげに見えて、ソウタは眼を見開いていた。
唇が震えてしまう。それでも声を振り絞り、ソウタは言葉を発していた。
「ハルは、代わりなんかじゃない……」
「ソウタ、くん?」
「ハルのお義母さんにとっては、そうかもしれないけど、俺にとってハルは――」
自分にとって、ハルはなんだろう。それが分からなくて、ソウタは黙ってしまう。
自分と同じケットシーであるハル。大切な母親を亡くしているハル。
ハルと自分は、同じ存在だと思っていた。
同じ境遇で、同じ悲しみを共有している存在。だから、彼女が気になるのだと思っていた。
けれど、何かが違う。ハルの笑顔を見ていて、心臓が熱くなるのはなぜだろう。
「ソウタ、くん?」
ハルは困ったようにネコミミを伏せ、自分を見てくる。
彼女の眼に、魅入ってしまう。
ハルに見つめられると、ソウタはいつも落ち着かなくなるのだ。
ソウタは、ハルを見つめることしかできない。視線を逸らすことなく、ハルはソウタを見つめ返してくれる。
ソウタの心臓は熱を持ち、いっそう激しい音をたてていた。
ハルがネコミミの鈴を鳴らす。彼女はネコミミをひゅっとたて、空を仰いだ。
輝く眼を空に向け、ハルは立ちあがる。彼女の思わぬ行動に、ソウタは声をあげていた。
「ハル?」
「雨の音がする……」
静かに彼女は答える。ハルは眼を輝かせソウタを見つめた。
ソウタは上空へと視線を移す。
夕陽に染まり始めた空。こちらへと流れてくる細い雲が、縁を薄紅色に染めている。
空を見あげるソウタの鼻腔に、水の香りが広がった。
雲が、頭上を覆う。湿り気が、肌を包む。
瞬間、雨音が地上に落ちてきた。
「命の音……」
うっとりと呟き、ハルは雨の中へと駆けていく。
「ハルっ」
ソウタはとっさにハルを追いかけていた。
前方のハルが、ネコミミを動かす。ネコミミに弾かれた雨が、銀の雫となって宙に舞う。
ハルが、ソウタに振り向く。
彼女はすっと唇に笑みを浮かべ、ソウタを見つめる。
とくりと、ソウタの心臓が高鳴った。
ハルが眼を細める。
前方を向いて、彼女は空を仰いだ。唇を開き、ハルは歌を紡ぐ。
雨音と、足音と、肌を弾く水音と。
桜の周囲を走りながら、ハルは雨を祝福する歌を奏でる。
ハルの足は早く、追いかけるソウタの心音は激しくなっていった。
ハルがソウタを振り返り、微笑んでみせる。
歌はソウタの心音に合わせ、だんだんとテンポを早めていく。
気がつくと、ソウタは笑っていた。
ソウタはネコミミをたて、ハルの歌に聴き入る。笑い声が、自然と口から漏れてくる。
ハルの背中が遠くなる。走るスピードを上げたのだ。
「あっ」
ソウタは声をあげていた。
小さくなっていくハルの背中に、見覚えがあった。
こうやって、ハルを追いかけたことがあるような気がする。
ずっと昔、どこかで――
ソウタは彼女の背中に手をのばしていた。ハルの銀髪に手がとどきそうになるが、手は宙をつかむ。
ハルは自分と同じ、想いを共有する少女だ。
けれど、彼女が遠くに行ってしまう気がして、恐くなることがある。
目を離せば、ハルはどこかに行ってしまう。
そう思ったとたん、ソウタはハルに追いつていた。勢いに任せ、ソウタは彼女を抱きしめる。
「きゃっ」
ハルが悲鳴をあげる。そのまま二人は横向きに倒れこんだ。
ソウタはハルをしっかりと抱きとめ、転倒の衝撃から守った。
体が仰向けに地面に倒れ、背中に激痛が走る。
視界が夕空を捉える。ソウタは視界のすみに、雨雲があることに気がついた。
雨雲は、本島のある西方へと過ぎ去っていく。
「雨、やんじゃったね……」
腕の中のハルが、呟いた。
抱きしめている彼女の体は柔らかい。彼女の肌はしっとりと濡れて、あたたかかった。
肌を通じて、彼女の心音が伝わってくる。ハルの、生きている音が。
とくとくと心地よくネコミミに響く音に、ソウタは聴き入っていた。
ハルの銀髪から桜の香りが漂ってきて、ソウタは心臓を高鳴らせる。彼女の香りに、酔ってしまいそうだ。
「びしょびしょだね、私たち」
ハルが弾んだ声で言った。その言葉にぞわりと心臓が騒めく。
「ごめんっ!」
急いで体を起こし、ソウタは彼女を抱き起こした。
自分は、ハルになんてことをしてしまったのだろう。急に抱きつくだなんてどうかしている。
くすりとハルが微笑む。
濡れて透けた服越しに、ハルの白い肌が見えた。
雪のように柔らかく、光を帯びた肌が、濡れた布の向こう側にある。
心臓が高鳴り、とっさにソウタはハルから視線を逸らしていた。
ハルの銀髪が視界を掠め、髪先についた雫に眼に入る。雫はハルの首筋を流れ、すっきりとした鎖骨へと溜まっていく。
「寒い」
ハルが自身を抱きしめ、体を震わせる。さぁと彼女の肌が桜色に染まった。
ざわりと、心臓が音をたてる。
体中の血が熱くたぎって、ソウタはハルを見ることができなかった。熱くなった血は、ソウタの頬を紅潮させる。
寒がっているハルを、このままにはしておけない。ソウタはやっとの思いで、上擦った言葉を発していた。
「よかったら、家来る? 着替え、あるから……」
硝子のポットにお湯を淹れると、紅茶の葉が踊りだす。ソウタは困惑した面持ちで、茶葉が舞うポットを眺めていた。
水の流れる音がネコミミに届き、ソウタはネコミミを忙しなく動かす。
ハルがシャワーを浴びている音だ。
カウンターキッチンに立つソウタは、背後を見つめた。視線の先には、バスルームへと続くドアがある。
シャワーの流れる音は、ドアの向こうから聞こえてきていた。
バルスームで、今まさに、ハルがシャワーを浴びているところなのだ。
心臓が騒がしい。ハルを抱きしめた感触を、思い出してしまう。
柔らかく、桜の香りを漂わせていたハルの体。瑞々しい彼女の肌は、ほんのりと桜色に染まり、花開いたように可憐だった。
どうしてハルを、家に誘ってしまったのだろう。今更ながらに後悔して、ソウタはドアから視線を離すことができなかった。
ドアが開く。
ソウタは、ぶわりとネコミミの毛を逆立てていた。ドアが静かに閉じられ、ハルの足音がネコミミに響く。
ふんわりと石鹸の香りが鼻腔に広がり、ソウタはやって来たハルを見つめた。
ハルは、白いワンピースを纏っていた。
控えめなレースが愛らしい、姫袖のワンピースだ。
薄紅色のリボンが胸元を飾り、白いハルの体によく映えている。
ハルが歩くたびに、レースで飾られたスカートが優雅に翻る。裾から覗く華奢な足に眼がいってしまう。
ハルが微笑む。頬を桜色に染めて、彼女はスカートの裾をつかみ、頭をさげてきた。ぺこりと、ハルのネコミミも一緒になってたれさがる。
ソウタの心臓が、高鳴る。
ミミコのお古であるワンピース。ハルに似合うと思っていたが、想像以上だ。
「どうしたの、ソウタくん?」
ハルがネコミミを困ったようにさげてくる。呼びかけられ、ソウタは我に返った。
「いや、なんでもない……」
ハルに見惚れていた。その事実を悟られまいと、ソウタは彼女から視線を放す。
片耳だけネコミミをあげて、ちらりとハルを盗み見る。
ワンピースが気に入ったのだろう。彼女はぴょこぴょことネコミミを動かしながら、ワンピースの裾を弄んでいた。
彼女は顔をあげ、カウンターを見つめてくる。
ハルは、卓上に置かれたポットに顔を向けた。ポットを見て、ハルは眼を輝かせる。
ハルがカウンターへと駆け寄ってきた。ポットを覗き込み、彼女はそこから漂う香りにうっとりと眼を細める。
「これ、さっき飲んだフレーバーティー?」
「そうだよ」
ハルに微笑えみソウタは答えてみせる。
ソウタは、視線をポットに戻す。ポットの中では、茶葉がゆっくりと浮き沈みを始めていた。ハルが眼を丸くして、動く茶葉を見つめる。
「何だろう、葉っぱが動いてる?」
「ジャンピングって言うんだ。熱いお湯を入れると紅茶の葉が開いて、ポットの中で動くんだよ」
「へぇ」
ハルは感心したようにネコミミを動かす。ふんわりと、ハルの髪から香りが漂ってきた。紅茶と同じ、桜の香りだ。
心臓がまた、大きな音をたててしまう。
案の定、ハルがネコミミをソウタの方へと向けてくる。びくりと、ソウタは緊張にネコミミを震わせた。
「時計の音?」
ひょいっと、ハルのネコミミが前方へと向けられる。助かったと、ソウタは安堵にネコミミをたらしていた。
店内には、ゆったりとした時計の音が鳴り響いている。
ソウタは店のすみにある柱時計に視線をやった。時計は振り子をゆらしながら、単調な音を店に響かせている。
ソウタが毎朝、ゼンマイを廻している時計だ。
この時計はユウタが子供の頃にはすでにあったという。どのくらい前につくられたのか、わからないくらい古いものらしい。
「心臓の音……」
ハルはうっとりと呟き、柱時計を見つめる。時計の音に誘われるように、ハルはカウンターをでていく。
「ハルっ」
声をかけると、ハルは立ちとまった。彼女はくるりとソウタに振り返る。
ハルの唇に、微笑が刻まれる。ソウタは思わず、心臓を高鳴らせていた。
彼女はワンピースの裾を両手でつかむ。頭をさげ、恭しくハルはソウタにお辞儀をした。
明り取りの窓から夕陽が差し込み、ハルを照らす。
夕陽に照らされ、ハルの纏うワンピースは淡いオレンジ色に輝いていた。
ハルの唇が、歌を紡ぐ。
夕陽に照らされ歌うハル。その姿は、さながら舞台にいる歌姫のようだ。窓から差し込む夕陽は、スポットライトのようにハルの姿を淡く照らす。
時計の音に合わせて、柔らかな歌声が店内に響く。
ハルは目を瞑る。気持ちよさげに振り子の音に合わせ、ハルは首を小さく振った。
ハルのネコミミも、上がったり下がったりを繰り返す。彼女の動作に合わせ、歌声も高低を繰り返した。
春の陽光を題材に、彼女は歌う。
柔らかな日差しの心地よさ。微睡みの気持ちよさを、ハルは穏やかな声で歌う。
一定のリズムで刻まれる歌声。
聴いていると、気持ちよくて眠たくなってくる。
ソウタは椅子に座り、カウンターに頬を押しつけていた。
頬に広がる木の感触が気持ちよく、ネコミミを伏せてしまう。くるくると、ソウタの喉が鳴る。
閉じかけた視界に、ポットをとらえる。お湯はすっかり薄紅色の水色になり、茶葉がポットの中で舞っている。
刹那、歌声が高くなった。
ソウタはネコミミを反らし、がばりと体を起こしていた。
ポットの茶葉が激しく動く。それに合わせ、歌声は高低を繰り返す。
歌うハルに、目をやる。
ハルが得意げに微笑んでいた。
細められたハルの眼は、カウンターのポットに向けられていた。ソウタは急いでポットへと視線を戻した。浮沈を繰り返す茶葉を一瞥し、ハルのネコミミへ視線を向ける。
ハルのネコミミは、ジャンピングの浮沈に合わせてゆれていた。
茶葉が開いていくかすかな音を、ハルは聴いているのだ。
時計の振り子と、茶葉が開く音に合わせ、ハルは歌を奏でている。
ハルの声が高くなる。ポットの茶葉がいっせいに舞う。
ソウタは、ポットを覗き込む。
茶葉はまるで桜吹雪のように、ポットの中を舞っていた。
ポット越しにハルを見つめると、桜吹雪の中で、ハルが歌っているようにみえる。
鎮魂祭でも、ハルは桜吹雪の中で歌を奏でるのだろうか。そう思い、ソウタは笑みを浮かべていた。
歌に合わせ、ソウタの心臓が弾んだ音を発てる。その音を受けて、歌のテンポが早くなる。ソウタの心音がいっそう高くなる。
刹那、時計の音がとまった。
ポットのジャンピングも収まり、歌がやんでしまう。
ソウタはハルへと視線をやった。彼女は眼を大きく開け、ネコミミを反らしている。
「ハル?」
ソウタが声をかけても、ハルは答えない。
時計の音を確かめるように、ハルは何度もネコミミを違う角度に動かしている。
時計が完全にとまっていることに気がついたのだろう。彼女は弱々しくネコミミを伏せた。
ソウタはカウンターを跳び越え、ハルのもとへと駆けよった。
「ごめん、ハル。俺、時計のゼンマイ巻忘れちゃって……」
今日、朝寝坊をして時計のゼンマイを巻き忘れてしまったのだ。何だか申し訳なくなって、ソウタは彼女に謝っていた。
ハルは、なにも答えない。
「ハル?」
不安になったソウタは、彼女の顔を覗き込もうとした。
瞬間、ハルがソウタの胸に跳び込んできた。衝撃に、ソウタは小さく声をもらす。
ハルがぎゅっと、両腕を背中に回してくる。彼女のぬくもりが、体いっぱいに広がった。
「ハル……」
桜の香りが、ハルの髪から漂ってくる。その香りに、ソウタの心臓は高鳴っていた。
「ごめん……しばらくこうさせて……」
ハルが胸元に顔を埋めてくる。彼女に抱きよせられ、ソウタはネコミミを大きく反らしていた。
ハルの心音が聞こえる。彼女の音はか細く、とても弱々しかった。
心音と呼応するように、ハルのネコミミは震えていた。彼女の鈴も怯えたように鳴っている。
ハルは、何かを恐がっているようだ。ソウタは彼女の背中に手を回していた。
鈴の音がおさまる。ハルが驚いたように顔をあげ、ソウタを見あげてきた。
「大丈夫、大丈夫だよ……」
ハルに微笑んでみせる。彼女の眼が煌く。笑顔を浮かべ、彼女はソウタの胸元にネコミミをおしつけた。
ソウタの心臓は優しく音を奏でている。ハルは気持ちよさげに眼を細め、言葉を紡いだ。
「聴こえる、ソウタくんの心臓の音……」
「うん」
「どうしてかな? ソウタくんの音を聴くと、そわそわするのに安心するの」
ハルの言葉に、心音が高鳴る。
ハルがさっと頬を薄紅色に染め、ソウタの胸元からネコミミを放した。だが、彼女はソウタから離れようとしなかった。
ハルは潤んだ眼でじっと、ソウタの顔を覗き込んでいる。
肌を通じてやってくるハルの心音も、早くなっている。
お互いの心音を確かめ合いながら、ソウタとハルは顔を見合わせる。
「ただいまー!」
大声とともに、勢いよく玄関のドアが開け放たれる。ドアベルの音が店内に響き渡り、ソウタとハルは素早く体を放していた。
「義姉さん……」
「あれ、お邪魔だった?」
ソウタは玄関に立つミミコを睨みつけていた。ニンマリと彼女の顔に、邪悪な微笑みが広がる。
買い物に行っていたのだろう。ミミコは大きな紙袋を抱えている。それを抱え直し彼女は店内へと足を踏み入れた。
ソウタはミミコを睨み続ける。ミミコは挑発するようにネコミミをゆらし、楽しげにソウタを見つめる。ソウタを気にすることなく、ミミコはのんきに鼻歌を歌いながらカウンターへと歩んでいった。
「ミミコさん?」
「まぁ、いつも話してる通りでしょ……」
ハルがミミコを目で追っている。ソウタは小声でハルに話しかけた。
ハルにはいつもミミコの愚痴を聴いてもらっている。話している通りで、びっくりしているに違いない。
「ミミコさんっ」
「ハルっ」
ハルは嬉しそうにネコミミをゆらし、ミミコのもとへと駆けていく。ソウタは思わず、ハルに声をかけていた。
ハルは立ちとまり、ソウタに振り向く。ソウタは、とっさにネコミミを手招きするように動かしていた。ハルはムッと頬を膨らませ、不機嫌そうにソウタから顔を背けた。ソウタを無視して、ハルはミミコのもとへと走り寄っていく。
「あの、ミミコさんですか?」
ミミコがカウンターに紙袋を置く。そんなミミコに、ハルがおずおずと声をかけた。
ミミコは不思議そうにネコミミをゆらして、背後にいるハルへと振り向く。ハルは、びくりとネコミミを伏せた。
不安げにネコミミをゆらし、ハルはじっとミミコを見つめる。そんなハルを見て、ミミコの顔に笑顔が咲き誇った。
「あなた、ハルちゃんでしょ?」
嬉しそうなミミコの言葉を聞いて、ハルは大きく眼を見開いた。ハルは笑顔を浮かべ、言葉を続けた。
「はい、ハルです。ハル・コノハ。いつも、ソウタくんにお世話になってます」
「私も、ハルちゃんに会えるの楽しみにしてたのよ。まさか、家に来るなんて……」
「ソウタ君が、私の話を……」
「うん。ハルちゃんの話、すっごい楽しそうに話すのよ、あの子」
「私も、よくミミコさんの話をソウタ君から聴かせてもらってます。すごく、面白い義姉さんだって」
「へー、面白い、義姉ちゃんかぁー」
ミミコがソウタに振り向く。その顔に浮かぶ微笑みを見つめ、びくりとソウタはネコミミを反らしていた。
この流れていくと、ミミコへの愚痴をハルが笑顔で報告しかねない。
ミミコが意味深に笑みを深める。ソウタは気まずくなって彼女から視線を逸していた。
「まぁ、もういい時間だしオヤツにしよっか。美味しいお菓子買ってきたんだぁ。常若島銘菓、猫耳ケーキ。私の何がどう面白いのか聴かせてね、ハルちゃん」
「はい」
ハルの嬉しげな声が、ネコミミに突き刺さる。たえ切れず、ソウタはネコミミを伏せていた。そんなソウタにミミコは満面の笑みを向けてくる。
瞬間、ミミコが眼を見開いた。ネコミミを反らし、ミミコは胸に手をあてる。
ミミコは、くずおれるようにカウンターに手をついた。彼女は荒い呼吸を繰り返しながら、床に座り込んでしまう。
「義姉さん!」
ソウタはミミコに叫んでいた。
発作が起こったのだ。キャットイヤーウイルスによって体を蝕まれているミミコは、突発的な発作に襲われることがある。
ミミコが顔をあげ、弱々しい微笑みを浮かべてみせた。そんな姉の笑顔を見つめながら、ソウタはネコミミの毛を逆立てていた。
具合が悪いのに、ミミコはそれすらも隠そうとしている。それがたまらなく苛立たしい。
ソウタはミミコに駆け寄り、背中に手を回した。ミミコを支えようとするが、彼女の体は床に倒れ込んでしまう。
「義姉さんっ」
ソウタはミミコの体を抱き寄せ、顔を覗き込んだ。息が荒い。肌は青白くなり、頬には汗が浮かんでいる。
ミミコの額に手を充てる。あまりの熱さに、ソウタは手を放してしまった。
「ハル、施設に――!」
ソウタはハルに顔を向け、叫ぶ。ミミコを救うため、施設に連絡をとって欲しいと伝えようとしたのだ。
だが、ハルを目にしたソウタは言葉を失った。
眼を見開き、ハルが倒れたミミコを凝視していたからだ。彼女は顔を引きつらせ、怯えた眼差しをミミコに送っていた。
「ハル?」
「いや……」
彼女は上擦った声をあげ、首を左右に振った。
ハルはゆっくりと後退りする。まるで、何かに怯えるように。
「ハルっ」
「嫌っ!」
ハルが叫ぶ。唖然と、ソウタは眼を見開いた。
「嫌だ! 聴きたくないっ! こんな音、聴きたくないっ!」
彼女は、両手でネコミミを塞いでしまう。音を聞くことを、拒むかのように。
「ハル……」
ソウタの呼びかけに、ハルは苦しげに顔を歪めた。
眼に涙を浮かべ、ハルはじっとソウタを見つめる。ぎゅっと眼を瞑り、ハルはソウタを振り切るように駆け出した。
「ハルっ!」
ソウタの制止を聞くことなく、彼女は玄関のドアを開け駆け去っていく。
「ハル……」
ドアベルの音が、ソウタのネコミミに虚しく響く。
ミミコが苦しげに声をあげる。ソウタは急いで、ミミコの顔を覗き込んだ。
ミミコが、眼を薄く開ける。
彼女は弱々しく笑みを浮かべてみせた。まるで、ソウタを励まそうとするかのように。
震えるミミコの手が、ソウタの頬にあてられる。
「義姉さん……」
声が上擦ってしまう。ソウタは頬に寄せられた手を、しっかりとにぎりしめていた。
ミミコの体から、弱々しい心音がかすかに聴こえてく。
その音は儚く小さい。
ミミコの手を握りしめ、ソウタは嗚咽にたえることしかできなかった。
温かなぬくもりに、ソウタは包まれていた。ソウタの目の前に大きな柱時計がある。その柱時計の振り子が視界の先にあることで、これが夢だと気づくことができた。
目線が、今の自分よりもずいぶんと低い。それに柱時計の硝子戸に自分と、いないはずの人物が映りこんでいた。
パジャマ姿の女性が、背後からソウタを優しく抱きしめてくれている。女性の頭部に生えたブチ柄のネコミミが、気持ちよさげにたれさがっていた。
女性の背後には、真っ白な部屋が広がっている。まるで、マブの治療院にある病室のようだ。
違う、ここは病室だ。
「相変わらず、ソウタはあったかいなぁ……」
優しい声が、ネコミミに響く。背後を振り返ると、女性が笑っていた。その微笑みを見て、目頭が熱くなってしまう。
「義母さん……」
思わずソウタは、サツキに語りかけていた。
「どうした。泣きそうな顔して? なんか、嫌なことでもあったのか?」
サツキは、優しくソウタのネコミミをなでてくれる。その感触が心地よくて、ソウタはうっとりとネコミミを伏せていた。
夢だと分かっていても、サツキが目の前にいることが嬉しい。たまらなくなって、ソウタはサツキの手を振りほどいていた。
驚くサツキに振り向き、彼女に力いっぱい抱きついてみせる。
「義母さんも、凄くあったかい……」
あたたかなぬくもりが、体いっぱいに広がる。懐かしいその感触に、ソウタは静かに眼を閉じていた。
「ソウタ……」
サツキの手が優しく背中に回されるのが分かる。そっとネコミミをなでられ、ソウタは眼を開けていた。
「元気が一番。寂しくしてる人には、こうやってギュッてしてやるといんだぞ……。ソウタは、何がそんなに寂しんだ?」
「その……。あのね、義母さん、俺……」
怯える眼を自分に向け、走り去っていたハルの姿を思い出す。倒れながらも、自分に弱々しく微笑みかけてきたミミコの姿が脳裏を過る。
自分に起こった出来事がいっぺんに頭の中を駆け巡って、ソウタは言葉を発することが出来なかった。
「言えないか……。まぁ、悩んでる人間はだいたいそうだよな」
サツキが困ったようにネコミミを折り曲げてみせる。ソウタは、しゅんとネコミミをたらしていた。
サツキが思いっきりソウタを抱き寄せる。
「義母さんっ」
驚いて、ソウタは声をあげていた。そんなソウタにサツキは優しく語りかけた。
「それでいいんだよ、ソウタ。たくさん悩んで、いっぱい考えて、義母さんもそうやって生きてきた。でもね、ソウタ。義母さんはこう思うようになったんだ……」
あぁ、あの言葉だ。サツキは、あの言葉を言おうとしている。
死の直前に、ソウタに残してくれた言葉を。
この夢は、サツキと最後に会ったときの夢なのだ。
「私ね、毎日を後悔しないで生きることにしたんだ」
凛としたサツキの声がする。ソウタは、彼女の顔をみあげていた。サツキは優しく微笑み、言葉を続ける。
「だから、ソウタも――」
夢から目覚めて初めて聞こえたのは、うるさい海鳴りだった。額に乗せていた腕を退けると、横たわっているハンモックがかすかにゆれる。
そのゆれを気にすることなく、ソウタは体を起こしていた。
うぁん、うぁんと部屋の中で海鳴りがする。その海鳴りに邪魔されて、サツキの言葉を聴くことができなかった。
でも、彼女が何を言いたかったのかソウタには分かっている。
「無理だよ、義母さん……」
自嘲が、顔に浮かんでしまう。
そっとソウタは、海鳴りの聞こえる窓へと顔を向けていた。どんよりと曇った空を映し込み、海が漣を生み出している。
灰色に濁った海原の向こうには、巨大な壁がそびえ立っていた。
Eight Cats 墓所、ケルト十字
ハルが、公園にやってこなくなった。
彼女の家も訪ねた。
だが、家庭教師だという女性にそっとしておいて欲しいと諭され、会うことさえできない。
倒れたミミコはマブの施設に収容されている。
面会はできる。小康状態は保っているが、いつ容態が崩れてもおかしくないそうだ。
側にいながら、彼女の具合を見抜けなかった自分が情けなかった。
「俺って頼りないね、義母さん」
ソウタは目の前にあるケルト十字の墓標に話しかける。
墓標はサツキの墓だ。
黄昏の光が墓標を照らし、長い影がネコミミを伏せるソウタを覆っていた。
――私って、本当に頼りないな。
そう、口癖のように呟いていたサツキを思い出す。
サツキは、自分に死期が近いことを明かしてくれなかった。ミミコは具合が悪くなっても、いつもそれを教えてくれない。
サツキもミミコも、ソウタに決して頼ろうとはしない。
二人に言わせてみれば、ソウタは守るべき息子であり義弟でしかないのだ。
苦笑が顔に滲んでしまう。
守ってもらえることは嬉しい。でも自分は、そんな彼女たちを守ることさえ許されない。
ごうっと海鳴りがソウタのネコミミに轟いた。
音のする方向へと顔を向ける。
荒れた斜面にはケルト十字の墓標が無数に突き刺さっていた。斜面の中央には、円形に並べられた十二基の大きな墓標がある。
十二基の墓標は、十三人の子供たちの墓だ。
斜面の先には、暗い海原が広がる。海原の終わりには巨大な壁が立ちふさがっていた。
海鳴りは、壁から聴こえてくる。風が壁にぶつかり、音を発しているのだ。
壁は逆光を受けて、黒々とした威容を見せつけていた。
ここは島の東側に広がる墓所だ。
墓所は旧文明が滅びる前からあり、ウイルスによって亡くなった人々が葬られている。
だが、墓所に眠る遺体はない。
遺体は常若島の地下にあるというドゥンの泉に水葬されることが習わしとなっている。ドゥンの泉に入ることが許されるのは、マブの一部の人間だけだ。
サツキの遺体も例外ではない。いくら墓標に問いかけたところで、そこに彼女は眠っていないのだ。
死んでしまえば、みんないなくなる。
強い海風が吹き、墓標を揺らす。墓標は、嘆くように低い音を発する。
まるで、自分のようだとソウタは思った。
サツキを忘れられず、ソウタは嘆いてばかりいる。
風に嬲られるネコミミを抑え、ソウタは顔をあげる。
轟音に混じって、泣声が聴こえた。ソウタは、島の中央である背後へと顔を向ける。
眼前に広がる急な斜面の頂きには、円卓公園がある。
円卓公園から、悲しい歌声が流れてきていた。
小さな、ハルの歌声が。ネコミミを反らし、ソウタは頂きにある公園を見あげる。
あそこにハルがいる。彼女のことを思い、ソウタの心臓が切ない音をたてた。
その音に呼応するように、歌声が切なさを帯びる。
ソウタは、斜面を駆け上り公園へと向かっていた。
黄昏に染まる公園には誰もいない。
灰猫の桜は長い影を作り、公園の中央に立ちつくしているだけだ。
公園にやって来たソウタは灰猫の桜に駆け寄った。
公園にたどり着くまで、歌声は聴こえていた。ハルは遠くに行っていないはずだ。
桜を見上げる。
桜の梢がかすかにゆれた。それに気がつき、ソウタは眼を眇める。
梢の隙間から白いものがみえた。眼を凝らしてみると、それが白いネコミミであることがわかる。
ソウタは地面を蹴り、桜に跳び乗っていた。二股に別れた幹に着地すると、衝撃で枝が軽くゆれる。
「ソウタくん……」
震える声が聞こえる。
顔をあげると、眼を震わせたハルがこちらを見つめていた。
「ハル……」
彼女を安心させるため、ソウタは微笑んでみせる。ハルはびくりと肩を震わせ、首を左右に振った。ハルの思わぬ行動に、ソウタは眼を見開く。
「ハル……?」
ハルに近づく。
「いや……」
小さく声をあげて、ハルは後退りする。ソウタは彼女に手を伸ばしていた。
「ハル」
「やだっ! 来ないで!」
ハルに手を弾かれる。弾かれた手に鈍い痛みが走った。
唖然とソウタはハルを見つめる。
ハルは苦しげに眼を歪めた。彼女はまた、後ろへと下がる。その瞬間、足を滑らせたハルの体が大きく傾いだ。
「きゃあっ」
「ハルっ!」
ソウタはとっさに幹を蹴り、幹から落ちていくハルを追う。
落ちていくハルの体に手を伸ばし、抱き寄せる。背中を地面に向け、ソウタは彼女を強く抱き寄せた。ソウタの体は背中から地面にぶつかる。鋭い痛みが背骨を駆け巡り、ソウタは喘いだ。
「ソウタくん!」
ハルの叫び声が聞こえる。彼女が顔を覗き込んできた。眼に涙を溜めてハルはソウタを見つめている。
「良かった、ハル……」
「どうして、私なんか……」
彼女の涙がソウタの頬を濡らしていく。そっと、ソウタはハルの頬に手の甲を添えていた。
「大丈夫……。俺、体だけは丈夫だし……」
声を発するだけで体に鈍痛が走る。それでもソウタは力を振り絞り、上半身を起こした。そっと腕の中のハルを抱き寄せる。
「ソウタ、くん」
ハルが上擦った声をあげる。ソウタは優しく眼を細め、彼女の背中を撫でていた。
ハルの柔らかな感触が気持ち良い。そのぬくもりがあるだけで、痛みも忘れられる。
「ごめん……放して」
だが、発せられたハルの言葉にソウタは眼を見開いた。
「えっ、ハル……」
「ごめん、ソウタくん……」
腕の力が抜ける。ハルは起き上がり、ソウタの体から離れていく。ハルはソウタを一瞥することなく、歩き出していた。
「まってっ!」
軋む体を無理やり動かし、ソウタは立ちあがる。
「どうして。どうしてだよ、ハル!」
痛みに声が震えてしまう。それでも構わず、ソウタはハルに叫んでいた。
「私は逃げたんだよ…… ミミコさんだって助けずに……あの場から……」
ゆっくりとハルが振り向く。
「逃げちゃって、ごめんさい……」
涙で濡れる眼を細め、彼女は微笑んでいた。苦しそうに眼をゆらしながら、彼女はソウタを見つめ続ける。
「どうして……」
「ミミコさんが倒れたとき、聞いちゃったの……。心臓が弱っていく音……」
顔を俯かせ、彼女は震える声で続ける。
「だんだん、心臓の音が小さくなって、最後には聴こえなくなるの……。お義母さんがそうだった……」
震える声は次第に、涙声へと変わっていく。それは、初めて聴くハルの弱音だった。
「ソウタくんといても不安なの……。いつか、あなたの音がお義母さんみたいに聴こえなくなっちゃうんじゃないかって……。だから……もう、嫌なの……。こんなの嫌……」
ハルが自分の思いを吐き出していく。今まで自分たちがやってきたことを否定するように。
やめてくれとソウタは心の中で叫んでいた。それでも喉が渇いて、声がでてこない。
「ソウタ君は恐くないの……? 私たちケットシーになったせいで、いつ死んじゃうかわからないんだよ……。私、ケットシーになんてなりたくなかった。こんな能力、いらない。歌なんて嫌、もう歌いたくない……」
彼女の夢であった歌を、彼女自身が嫌いになろうとしている。
ハルの発言を聴くたびに、ネコミミが震えてしまう。これ以上、ハルの言葉を聴きたくない。
その一心でソウタはハルに近づいていた。
乾いた音がハルの片頬に響いた。ソウタがハルの頬を叩いたのだ。
大きく眼を見開いて、ハルはソウタを見つめた。叩かれた頬に手を充て、彼女はじっとソウタを見つる。
「ソウタくん……」
ハルに呼ばれ、ソウタは我に返った。彼女が眼に涙を浮かべて、自分を見つめている。
ソウタは思わず後退っていた。動揺にネコミミが震えてしまう。
ハルはずっと耐えていたのだ。母親を亡くした悲しみに。
ケットシーになり、いつ死ぬかわからない恐怖とも彼女は戦い続けていた。
それなのに――
「ハルは俺とは違うって、思ってた……」
込み上げてくるものを抑えながら、ソウタは微笑んでいた。
――私と同じなの?
ハルが、初めてくれた言葉を思い出す。
ソウタは同じだと答えた。けれど、自分とは違うものをハルは持っていた。
ハルの歌声に、ソウタは前に進もうとする強い意思を感じとっていたのだ。
歌うハルは涙に耐え、微笑んでいた。彼女の強さが羨ましくて、憧れていた。
「ごめん、気づかなくて……」
けれど、そう思っていたのは自分だけ。
心音がトラウマになるほど、ハルは大好きだった母親が亡くなったことに傷ついていた。
ケットシーであることに苦悩し、歌うことに苦しみも感じていた。
それなのに自分は、ハルの弱さに目を向けることさえしなかった。
「ソウタ、くん?」
ハルが不安げに眼を向けてくる。その眼を見つめることができない。
ソウタはハルに背を向け、駆け出していた。
誰もいない店内に、ドアベルの音が響く。
ソウタは静かに店内へと足を踏み入れた。
カウンターを横切る。卓上に空になった硝子のポットを見つけ、歩みをとめた。
ハルのために桜のフレーバーティーを入れたポットだ。
結局、そのお茶を飲むことはなかったけれど。
ポット越しに見たハルの姿を思い出す。
ジャンピングする茶葉がまるで桜吹雪のようにポットの中で舞っていた。
ポットの中から見るハルは、桜吹雪の中で歌っているようだった。
階段をあがり、部屋のドアを開ける。
正面にある壁画が視界に映り込んだ。黄昏の光を受けて、壁画が浮き上がって見える。
壁画に近づき、ソウタは空を飛ぶ白猫に触れた。その後を、灰猫が追いかけている。
あぁ、これのせいかと気がつく。
雨の中、ハルを追っていたときに覚えた既視感。壁画の灰猫と自分を、無意識のうちに重ねていたのだ。
今はハルの存在を遠くに感じる。灰猫のもとから去ってしまった、白猫のように。
風が、部屋の右側にある窓をゆらす。
ネコミミについた鈴を鳴らし、ソウタは窓へと視線をやった。
「牢獄みたいだ」
呟きが漏れる。
窓の外には灰色に淀む海原と、海を隔てる壁があった。
ステンドグラスの窓が等間隔に並ぶ廊下に、ハルは佇んでいた。
廊下の左側には、猫の形をした引き戸がステンドグラスと対になるように並んでいる。
ステンドグラスは十三人の子供たちをモチーフに描かれたものだ。
ハルはその一枚である、黒猫のステンドグラスをじっと見つめていた。
日差しを受けて、黒猫の深緑の眼が悲しげに輝いている。ハルは眼を歪め、持っていた紙袋を胸に抱きよせた。
ステンドグラスの猫は、どことなくミミコと似ている。
ここは港の側にあるマブの治療院だ。倒れたミミコはここに入院している。ハルは、ソウタから借りた彼女のワンピースを返しに来たのだ。
――ごめん、気づけなくて。
そう言って、走り去っていったソウタが忘れられない。
あれから、彼とは会っていない。
何度もソウタに会いに行こうとしたが、彼に拒絶されるという不安がその気持ちを押しとどめた。ミミコの見舞いにも、こっそりとやって来たのだ。
息を吸い込み、ハルは背後にあるドアへと向き直る。
ドアに近づき、ハルは拳をにぎりしめた。ドアと叩こうとして、ためらう。
ミミコにだって、合わせる顔がない。
それなのに、ここまで来てしまった自分は何なのだろう。
ミミコだって、自分になんて会いたくないはずだ。自分は彼女を助けもせず逃げたのだから。
「いらしゃーい、ハルちゃんっ。いつまでたっても来ないから、開けちゃったっ!」
突然、弾んだ声とともにドアがあけられた。驚いて、びくりとハルはネコミミをたてる。
顔をあげるとミミコが嬉しそうに眼を細め、ハルを見つめていた。
ハルは体を強ばらせる。そんなハルを気遣うように、ミミコは微笑んでみせる。
「大丈夫だから、おいで」
ハルの腕を、ミミコはそっとにぎってくる。腕を通して、ミミコの心音が伝わってくる。
倒れたときに聞いた心音が嘘のように、彼女の鼓動は力強い。その鼓動に驚いて、ハルは思わず口を開いていた。
「ミミコさん、心臓……」
「心臓?」
「あ、その、大丈夫なんですか?」
「あぁ、体だったらもう大丈夫よ。このあいだはびっくりさせちゃって、ごめんね」
ミミコがハルの片頬に触れ、顔を覗き込んできた。
ミミコの眼がハルに向けられている。美しい深緑の眼に、ハルは魅入られていた。
ソウタが以前、言っていた。ミミコの眼を見ていると心が安らぐと。
その言葉通りだ。深緑の眼は深い森を想わせ、ハルの気持ちをなだめてくれる
「ほら、ソウタが持ってきてくれた美味しいお菓子もあるから、おいで。常若島銘菓、猫耳ケーキだよ」
ミミコが笑みを深めハルに声をかけてくれる。彼女は手招きするように、黒ネコミミを動かした。
「うぅーん、猫耳ケーキってやっぱり美味しい」
ベッドに座るミミコは、うっとりと声を漏らす。黒ネコミミをかたどった猫耳ケーキを食べながら、彼女は気持ちよさげに眼を細めていた。
ハルは唖然と、そんな彼女を見つめていた。
ベッド脇の椅子にハルは腰かけている。その手にも、ケーキが乗った小皿が握られていた。小皿に乗っているのは白ネコミミをかたどったチーズケーキだ。
幸せそうにケーキを頬張るミミコを、ハルは見つめることしかできない。
逃げたときに聴いた心音が嘘のように、彼女の心臓は力強く音を奏でている。
「あの、ミミコさん。本当に、大丈夫なんですか?」
「え、なにが?」
「だって、倒れたときあんなに……」
「あー、ちょっとあれ、理由があってね」
苦笑しながら、彼女は左ネコミミを折る。ちりんと、ミミコの鈴が恥ずかしげに鳴った。ミミコは空になった皿をサイドボードに置く。表情を改め、彼女はハルに向き直った。
「いろいろあって、死ねなくなっちゃったの。だからもう、大丈夫よ……」
彼女の眼が優しげに細められる。眼が放つ深緑の輝きから、ハルは眼が離せなくなっていた。その眼に促されるように、ハルは椅子の脇に置いてある紙袋へと手をのばしていた。
ハルは紙袋の中からメッセージカードを取りだし、ミミコに差し出した。
「ミミコさん、これ……」
「ちゃんと言葉で伝えるのが、一番なんだけどな……」
ミミコの言葉に、ハルはネコミミをたらす。
カードには、ソウタに宛てたメッセージが書かれている。
ソウタに思いを伝える勇気がない。だから思いをメッセージカードに託し、ミミコに渡してもらおうと思ったのだ。それでは、何の解決にもならないのに。
「ミミコちゃん、いいもの見せてあげる」
そっとミミコに頬をなでられ、ハルは顔をあげた。
ミミコが長い髪をかきあげる。煌く黒髪のすきまから、白いうなじが見えた。
うなじの辺りに見慣れた刺青を見つけ、ハルは眼を見開いた。3-099と書かれた刺青が、ミミコの首後ろには彫られていたのだ。
「チェンジリング……」
「そう、私も養女なの。養い親が死んだあげく、ケットシーになって親戚中たらい回しにされてた私を引きとってくれたのが、従姉妹のサツキ姉。ソウタの、お義母さん」
髪をたらし、ミミコはハルに向き直る。昔を懐かしむようにネコミミをゆらし、彼女は続けた。
「だけど私、なかなかサツキ姉に懐かなくてね。今思うと、また捨てられるんじゃないかって、疑心暗鬼になってたのかも。お義母さんって呼べたの、引きとられてから半年もたった後だった。そんな頑固な義娘がいるのに、息子まで引きとっちゃってさ……」
「どうして、サツキさんはソウタくんを……」
「私に、似てたからだって。あの人面白いのよ。私のこと、初恋の相手だなんていうの。人にここまで焦がれたのはお前が初めてだなんて、冗談でいつも言ってたっけ。ソウタ、施設でいつも独りぼっちだったみたい。そんな姿が、私に重なったんじゃないかな」
ソウタのことを思っているのだろう。ミミコの顔には笑みが浮かんでいた。
ハルは、その笑顔をじっと見つめる。
チェンジリングの刺青を、ソウタは見せたくないと言っていた。
ハルはソウタも誰かの身代わりとして引きとられ、チェンジリングの刺青がトラウマになっているのだと思い込んでいた。
それは思い違いだった。
ソウタの家族はこんなにも温かく、彼のことを想ってくれている。
羨ましいと、思ってしまう。そして、その事実をソウタに伝えたいと思った。
こんなにも、ソウタは家族に愛されているのだから。
「ハルちゃん、その服、鎮魂祭で着てくれないかな? それ、ソウタが着替えによこした私のお古でしょ」
紙袋を見つめながら、ミミコが言う。
驚いたハルは、ミミコを見つめた。彼女は眼を細め、ハルに微笑んでくれる。
ミミコの眼は、かすかに潤んでいた。
「あの子、言ってたの。この服、ハルちゃんに似合いそうだなって。ハルちゃんに会ってから、いつもハルちゃんの話ばっかりするのよ。大好きなのよ、ハルちゃんのこと。初めて出来た、友達だから……」
ミミコの声が震えている。そっと彼女の腕が、ハルの体を包み込んだ。
「お願い。側にいてあげて。あの子は絶対、鎮魂祭に来るから……。初めてなの。義母さんが死んでから、あの子があんなに笑ってるの。全部、ハルちゃんのお陰なの。だから……」
「ミミコさん」
口を開くと、凛とした声が出てきた。ミミコは驚いて、ハルの顔を見つめてくる。
「私、鎮魂祭で歌います。だから……ソウタくんの側に、いてもいいですか?」
決意を口にする。ミミコは眼を見開き、ハルを見つめてくる。
「ありがとう……」
眼を細め、ミミコは微笑んだ。
ハルはミミコの胸元に抱き寄せられる。眼から涙を流し、ミミコはうつむいた。
ハルのネコミミに泣き声が響く。ハルは、ミミコの胸元にネコミミを寄せていた。
ミミコの心臓はソウタを思いやるように優しい鼓動を刻んでいる。
その音に混じって、小さな音が聞こえた。
明らかにミミコのものではない、心臓の音。彼女の鼓動に合わせ、小さな音は旋律を刻んでいる。
ハルは思わず、ミミコの顔を見あげていた。
「ハルちゃん?」
「あ、何でもないです」
声をかけられ、ハルは慌てて返事をする。ミミコが笑顔を浮かべてみせた。
その笑顔に、ハルは眼を奪われる。
「本当、死ねなくて困っちゃう。旦那になんていったらいいかなぁ」
ネコミミをゆらす彼女は、幸せそうに声を弾ませる。
「本当、そうですね」
この人には敵わない。そう思いハルは苦笑を顔に浮かべていた。
ハルのネコミミには心地よく、小さな心音が響いている。
それは儚くも、力強い旋律だった。
屋敷に戻ると、門の前で立ちつくしている少女がいた。
茶トラのネコミミをピンっとたて、チャコがあんぐりと口を開けている。
どきりとハルは、心臓を高鳴らせていた。
ネコミミピアノで遊んでから、彼女とは一度も会っていない。ハルが円卓公園に行かなくなったせいだ。
チャコと顔を合わせたくない。ハルは踵を返し、裏門へと向かおうとした。そっとチャコを見つめる。彼女は悲しげにネコミミをたらしていた。
「ハルちゃん、大丈夫かな?」
ぽつりと、屋敷を見つめながらチャコは呟いた。その言葉にハルは体の向きを変え、門へと近づいていた。
「チャコちゃんっ」
思い切ってチャコを呼ぶ。大声がでてしまい、思わずハルは口を両手で塞いだ。
はっと声を出し、チャコが振り返ってくれる。チャコは大きく眼を見開き、ハルを見つめてきた。
「ハル、ちゃん……」
「久し、ぶり……」
「生ハルちゃんだー!」
ぽんっと、チャコはハルに向かって跳んでくる。
ハルはびくりとネコミミを逆立てた。そんなハルにかまうことなく、チャコはハルに抱きついてくる。
「ハルちゃんだ、ハルちゃんだ、ハルちゃんだーー!」
「ちょ、くすぐったいよ、チャコちゃん」
嬉しそうにチャコは柔らかな頬をハルの顔に擦りつけてくる。何だかくすぐったくなって、ハルは苦笑を浮かべていた。
「もう、心配たんだよ。ぜんぜん会えないんだもん。ソウちゃんも、最近は円卓公園に来てないし……」
「ごめん」
「いいよ、ハルちゃん元気だからもう大丈夫!」
にっとチャコは笑ってみせる。その笑顔を見て、ハルは眼を曇らせた。
自分のことを、チャコは心配していてくれたのだ。自分はチャコの気持ちにさえ気づかず、嘆いてばかりいたのに。
チャコが門の向こうに建つ屋敷に視線をやった。
「ねぇ、このお屋敷がハルちゃん家?」
明るい声を発し、彼女は眼を輝かせる。
ハルの気持ちを察して、話題を切り替えてくれたのだ。自然とハルの顔に笑みが浮かんでいた。
「そうだよ、おっきいでしょ」
「すごい、お城みたい!」
「そう、かな……」
チャコの言葉にハルはネコミミを伏せる。チャコは困ったように眼をゆらし、うつむいてしまった。せっかくチャコが話題を逸らしてくれたのに、会話が途切れてしまう。
ハルは屋敷を見あげた。
真鍮の門の向こうには、桜並木が続いている。桜並木の終わりには、大きな屋敷が建っているのだ。
四方を高い鉄柵で囲まれた屋敷は、中庭を取り囲むように四角い形をしている。壁は白い漆喰で固められ、陽光を受けて鈍く輝いていた。
チャコの言葉通り、お城みたいだ。
けれども、ハルには屋敷が牢獄のように思えてしまうときがある。
高い鉄柵が屋敷を囲んでいるせいかもしれない。鉄柵を見ていると、箱庭の壁を思い出して閉塞感を覚えてしまうのだ。
「そうそう、ハルちゃん、これ!」
チャコが大きな声をあげた。彼女は持っていた手さげ袋に手を突っ込む。
「あれ、どこいったけな。あ、あった! ハイ、ハルちゃん、プレゼント!」
チャコは手さげ袋から何かを取りだし、それをハルに差し出してきた。
差し出されたのは、メッセージカードだった。
カードの表には可愛らしい丸文字で、『ハルちゃんんへ』と宛名が書かれている。
「これ……」
「私、みんなの代表で来たの。最近、ぜんぜん歌声聞こえないし、公園にいってもハルちゃんとソウちゃんもいないからみんな心配してる。その、大丈夫……」
「みんなが……」
チャコは、心配そうに尋ねてくる。ハルはその質問に答えることができなかった。
ネコミミピアノになって遊んでくれた子供たち。彼らが自分たちの心配をしてくれている。そのことが嬉しくて、信じられなかった。
「友達、なのかな?」
「え?」
震える声で、チャコに尋ねてしまう。
チャコが不思議そうにネコミミを折り曲げ、ハルを見つめてきた。
「私たち、友達?」
「そんなの、あたりまえじゃないっ!」
チャコが大声をあげる。彼女はネコミミをムッと逆立て、ハルを睨みつけてきた。
ハルは目頭が熱くなるのを感じていた。
「友達なんだ……」
チャコの言葉が嬉しくて、涙があふれてきてしまう。
「ちょ、ハルちゃんっ?」
「ごめん、嬉しくて……」
ハルは急いで涙をぬぐった。チャコを安心させようと、彼女に微笑んでみせる。
ずっと、ハルは独りだった。
義父も家庭教師も、周りのみんなが言うのだ。ケットシーは差別される。だから人と関わりを持つなと。
けれど、ハルはソウタと出会った。彼に会って、独りじゃなくなった。
彼以外の人とも、会いたいと思えるようになった。ソウタのおかげで、チャコやハイと友達になることもできた。
だが、義母の死を乗り越えられず、ハルはソウタから逃げ出した。
チャコは、そんな自分を友達だと言ってくれる。チャコだけではない。歌をうたってくれた子供たちが、自分とソウタのことを心配してくれている。
「ハルちゃん、カード開けてみて」
チャコが優しく声をかけてくれる。促されるまま、ハルはカードをめくった。
『ガンバって!』『ハルっち、ファイト!』『ソウタを漢にしてやれ……』
みんなが書いてくれたたくさんの文字がカードを埋め尽くしている。文字は鎮魂祭に出るハルを応援するために、書かれたものだ。
「みんな……」
また、泣きそうになる。ハルはカードを抱き寄せ、目を瞑った。
ネコミミにはみんなの優しい心音と、ネコミミピアノの音がはっきりと聴こえる。
「ハルちゃん」
チャコの声がする。
眼を開けると、チャコが太陽のような笑顔を浮かべていた。ぴんっとネコミミをたてて、チャコは弾んだ声で言う。
「鎮魂祭、みんなで歌おう。ネコミミピアノ、島の人全員に聴いてもらうの!」
「チャコちゃん」
「それから、学園来なよ。みんなが、ハルちゃんとソウちゃんのこと待ってるよ。勉強はムズカシくてわかんないけど、たぶん楽しい。まあ、ハイに教えてもらえるから、ぜんぜん大丈夫だけどね!」
「うん」
ハルは力強く頷く。
もう独りじゃない。それが嬉しくて、笑っていた。
「ソウタ、発見……」
「えっ?」
サツキの墓前に佇んでいたソウタに、何者かが声をかける。
驚いて、ソウタは背後へと振り返った。
墓標が突き刺さった荒地を背にしてハイが立っていた。彼のはるか後方には、海原に聳え立つ巨大な壁がある。
突然の来訪者にソウタは言葉を失う。ハイは無感動な三白眼をじっとこちら向け、言葉を続けた。
「元気そう……相変わらず、おっきい」
「どうしたの、ハイ?」
「姉ちゃんとネコミミピアノのみんなが、ソウタとハルを心配している。姉ちゃんに言われて、ボクは君を探していた。君を励ませって言われた……」
「みんなが……」
ハイは淡々と告げる。ソウタは、返事をすることが出来なかった。
円卓公園で、ネコミミピアノを奏でてくれた子供たち。彼らを思い、心臓が苦しげに鳴ってしまう。
「ごめん、でも……」
ソウタはネコミミをたらし、力なく顔を伏せた。
もう、円卓公園に行くことはできない。自分はハルから逃げ出してきたのだ。彼女の弱さに気がつくことさえできず、彼女を追いつめてしまっていた。
ハイや子供たちにだって、合わせる顔だってない。
「ソウタ」
ハイに呼ばれ、ソウタは顔をあげる。彼は勢いよくソウタに抱きついてきた。
「ハイっ?」
ハイに抱きつかれ、ソウタは姿勢を崩す。体勢を立て直し、ソウタはふらつくハイの体を両手で支えた。ひょいっとハイはネコミミをあげ、ソウタの顔を見あげてきた。
「どうしたの、急に?」
「慰めてる……」
「慰めるって、違う気がするんだけど……」
「ボクはソウタを慰めている……。ボクはソウタを励ましている……。姉ちゃんはボクがシュンとしてると、いつもこうしてくれる……。励ますのって、こうするんじゃないの……?」
「ちょっと、違うかな」
「ハルは言っていた……。ママは、こうやって子供を慰めるって……」
じっと、ハイの眼がソウタを見つめてくる。その眼からソウタは目が離せなくなっていた。
「ねぇ、ソウタ……。ママって、どんな感じ? ボクはマブで育ったから、ママがわからない。ママを知らない……。姉ちゃんは、想像できるみたいだけど、それは想像上のものであって、本物じゃない……」
「そうだね……。義母さんは、こうしてくれると思う……」
ハイに言葉を返す。自然とソウタは笑顔を浮かべていた。
自分を抱きしめてくれたサツキのぬくもりを思い出し、声が震えてしまう。
「ママがいなくなると、悲しいの……?」
「うん。悲しい、かな……」
「でも、そこにソウタのママはいないよ……」
ハイはソウタの背後へと顔を向けた。ハイの言葉に、ソウタは背後にあるサツキの墓標を振り返る。
「どうして、ソウタはソレに話しかけるの?」
ハイの言葉に、ネコミミが震えてしまう。それでもハイは、淡々と言葉を続ける。
「それは、ただのお墓だよ……。そこに、ソウタのママはいないでしょ……」
「話しかけちゃ、駄目なの? 義母さんを思ってお墓に話しかけるのって、そんなに、変?」
声が上擦ってしまう。ネコミミを逆立てても、ハイはきょとんと自分を見あげるだけだ。
「わからない……。ボクにママはいないもの……」
その言葉を聞いて、ソウタはハイを突き放していた。突き放されたハイは眼を見開き、ふらつきながら後ずさる。
「義母さんを思って、何が悪いんだよ! みんな、みんな、してることじゃないか!」
ソウタは叫んでいた。
サツキの存在を否定された気がして、気分が悪い。
サツキはもう、どこにもいない。
けれど、想うことをやめてしまったら、サツキは心の中からもいなくなってしまう。そんな残酷なことはできない。
「ソウタは、死んだ人に甘えるの……?」
ハイの言葉に、ソウタは息を飲む。
「ボクにはソウタが死んだママに甘えて、そこに逃げているようにしかみえない……。ハルもママがいなくなって悲しそうだったけれど、ハルはママのために鎮魂祭で歌いたいって言っていた……。逃げているようには、見えなかった……」
ハイの眼が自分をみすえる。その眼に、睨みつけられているようだった。
風が唸る。ハイの背後にそびえる壁が、こちらに迫ってくるようで不気味だ。
「ソウタはおっきい……。ママを知っていて、ボクよりいろんなモノが見えている……。だから、小さいボクと違って、遠くのものしか見えていない。近くを忘れている……」
ハイの言葉がネコミミに突き刺さる。彼の背後にある壁に、押しつぶされるような気がしてしまう。
この威圧感はなんだろう。小さなハイから、強い怒気を感じてしまう。
「君にはがっかりだよ、ソウタ……。おっきいから好みだったし、友達になれると思ったのに……。とんだマザコンだった……。本当にガッカリだ……」
「俺に、どうしろって言うの?」
「自分で考えなよ、そのくらい」
ハイは冷たく返すだけだ。ひょいっと彼はソウタに背中を向ける。
打ちのめされたようにソウタは地面に膝をついた。ソウタは去っていくハイの背中を、見つめることしかできない。
ハイのネコミミがぴくんと動いた。ハイは立ちとまり、ソウタへと顔を向ける。
「漢になれ、ソウタ……」
ハイの言葉がネコミミに響く。冷たい三白眼を向けてくるハイを、ソウタは見つめることしかできなかった。
四月になっていた。ミミコは相変わらず入院生活を余儀なくされている。
見舞いにやって来たソウタは、彼女の病室に戸惑いを覚えていた。入口で立ち止まったまま、ソウタは病室を眺めることしかできない。
何度も来ているのに、この部屋に慣れることができない。真っ白な病室は、サツキが入院していた部屋に似ていて、彼女の死を嫌でも思い出してしまう。
「何やってるの。早く来なさい」
ミミコが優しく声をかける。ベッドで横になっている彼女は、ソウタに微笑みかけてきた。
ソウタは室内へと足を踏み入れる。ソウタが持っている物を見て、ミミコが笑みを深めた。
ソウタは両手に、薄紅色の花をつけた桜の枝を持っている。
ミミコによく見えるよう、枝を掲げてみせる。笑顔を浮かべると、ミミコが手招きするようにネコミミを動かしてくれた。ソウタはベッド脇にある椅子に腰かける。
「綺麗なお土産ね。どこから持ってきたの?」
ミミコが桜の枝を見つめてくる。ソウタが枝を動かすと、花びらが緩やかに床へと落ちていった。
「ごめん、言いたくないんだ……」
ソウタは微笑みを浮かべることしかできない。枝は、昨日灰猫の桜からとってきたものだ。
ハルに会おうと思い、ソウタは鎮魂祭のリハーサルを見にいった。
けれど、ハルと会う勇気が持てなかった。
ソウタは灰猫の桜に上り、彼女の歌声を聴くことしかできなかったのだ。
リハーサルでハルが歌っていたのは鎮魂歌だった。
灰猫を残し逝ってしまうことを嘆く白猫の歌を、ハルは見事にうたいあげた。悲しくも聴く者を惹きつける歌声は、今でもソウタのネコミミに木霊している。
「ソウタ……」
ミミコが悲しげにネコミミの鈴を鳴らす。彼女は微笑み、ソウタのネコミミをなでてくれた。
「綺麗なおみあげ、ありがとう」
ミミコはソウタのネコミミに囁き、枝を受けとる。
彼女は桜の枝を優しく抱きしめた。ミミコの抱かれた桜の枝から、ほろほろと花びらが落ちていく。
「ソウタ、窓の外、見てごらん」
ミミコが窓の外へと顔を向けた。彼女の言葉を受けて、ソウタも窓外を見つめる。
病室の窓から蒼く澄んだ海原が見える。その上空を桜の花びらが飛んでいた。
風がミミコの髪を弄ぶ。風は彼女に抱かれた枝から花びらを攫い、窓外へと連れて行った。
窓外からは美しい音楽も聴こえてくる。フルートで奏でられている物悲しい曲だ。
ミミコはサイドテーブルに枝を置く。ネコミミを伏せ、彼女は気持ちよさそうに音楽に聴き入った。
フルートで奏でられる音楽は、鎮魂の曲だ。
鎮魂祭がおこなわれている円卓公園から、音楽は風に乗って流れてきている。
音楽を聴きたくなくて、ソウタはネコミミを伏せていた。
「ハルちゃん、歌ってるのかな?」
窓から視線を離し、ミミコが微笑を向けてくれる。ミミコの笑顔を見ることができず、ソウタは俯いてしまった。
漢になれと言ったハイの言葉を思い出す。抑揚のないハイの声は、不気味なほど印象的だった。
ハイに責められて当然だ。鎮魂祭の当日になっても、自分はこうやってミミコのところに逃げ込んでいる。リハーサルで歌うハルに声をかけることさえできなかった。
「ソウタ、ちょっとおいで」
「えっ?」
「いいから」
ミミコに呼ばれ、ソウタは顔をあげる。
ミミコのネコミミが手招きをするように、ぴょこぴょこと動いた。ネコミミに促され、ソウタはベッドの縁に手をついた。
「ていっ」
「うわ、義姉さん?」
ソウタは叫んでいた。ミミコが手を伸ばし、自分の体を抱き寄せてきたのだ。胸の膨らみが頬にぶつかる。かっと自身の頬が熱を持つのをソウタは感じていた。
ソウタはミミコの腕から逃れようと抵抗する。必死になってネコミミを上下に動かすが、ミミコは放してくれない。
「赤ちゃん出来た」
「は?」
ミミコが弾んだ声を発する。思わずソウタは彼女の顔を見つめていた。ミミコが照れくさそうに片方のネコミミを伏せ、微笑んでくる。
「赤ちゃんて……え、義姉さん?」
「ごめん。びっくりさせたくて黙ってたら、言うタイミング逃しちゃった。すぐに人口子宮に切り替えちゃうけど、しばらくは死ねなくなっちゃった。おめでとうソウタ、あなたは叔父さんになりました。」
ソウタは、ミミコを見つめることしかできない。ミミコは苦笑して腕を緩めてくれる。
罰の悪そうな彼女の笑顔を見て、ソウタはやっと落ち着くことができた。
「通りで、病人にしては元気だと思った……」
「ごめんね。ソウタが優しいから、つい甘えちゃった」
悪びれた様子でネコミミを揺らしながら、ミミコは謝ってくる。
自分をびっくりさせようと、ミミコは大切なことを黙っていた。それが悔しい。お返しにソウタはミミコを抱きしめ返していた。
「ソウタっ」
ソウタはミミコに微笑み、彼女の胸にネコミミを押し当てた。眼を瞑ってミミコの心音を聴く。
ミミコの生きている音がネコミミに響き渡る。ミミコの鼓動は優しくも、力強い響きに溢れている。
「ここに、いるんだね」
「うん」
「ソウタ、死ぬのって、恐い?」
「……義姉さん」
ミミコの言葉にソウタは眼を開ける。ミミコの胸からネコミミを放し、ソウタは彼女を見つめた。
深緑の眼を煌めかせ、ミミコはソウタを見つめていた。その輝きにソウタは魅入ってしまう。
「私ね、毎日を後悔しないで生きることにしたんだ」
ミミコの言葉に、眼を見開く。
「義母さんの、言葉……」
ミミコが発した言葉。それはサツキが亡くなる直前に、自分に贈ってくれた言葉だ。
ミミコが微笑み、自分を見つめてくれる。サツキが、そうしてくれたように。
「それから、ごめんなさいって。ソウタに心配かけたくなかったって……」
ミミコの声が上擦っている。潤んだ眼を片手で拭い、彼女は笑みを浮かべてみせた。
震える腕で、ミミコはソウタを抱きしめる。悲しげなミミコの鼓動が体を通して伝わってきた。
ケットシーである彼女の能力は、他人の気持ちを見抜いてしまうこと。
自分と違い、全てを知っていた義姉はどれほど多くのものを背負っていたのだろう。それでも彼女は笑顔で自分に接してくれた。
敵わないと、苦笑する。自分なんて小さく思えてしまうほどに、彼女たちは大きくてあたたかい。
「義姉さん」
「ごめん、急にこんな……」
ミミコに声をかける。ミミコは驚いたようにネコミミを反らし、ソウタを放してくれた。
「ソウタ、あなたに渡さなきゃならないものがある」
ミミコはソウタに向き直る。彼女はソウタを見つめ、真摯な声で告げた。
ミミコの言葉を受け、ソウタはベッドから身を引く。椅子に座り直し、ソウタはミミコをじっと見つめた。
ミミコはベッド脇に置かれたサイドテーブルへと手をのばす。
サイドテーブルには、桜があしらわれた薄紅色のメッセージカードードが置かれている。
メッセージカードを両手で包み込むようにミミコは持つ。胸にカードを抱いた彼女は、ソウタに体を向け笑顔を浮かべた。
「ハルちゃんから、招待状」
ミミコから差し出されたカードをソウタは見つめる。
メッセージカードの表には、丁寧な文字で『ソウタくんへ』と宛名が書かれていた。
「ねぇ、ソウタ。あなたは、どう生きたい?」
どう生きたいかなんて、そんなこと分からない。義姉の言葉にソウタは困惑する。
そんなソウタを励ますように、ミミコはすっと眼に笑みを浮かべてみせた。ソウタは眼を揺らし、カードへと手を伸ばしていた。
ミミコのからカードを受け取り、ソウタはカードに書かれた文字を視線で追っていった。最後の一文まで読み終え、ソウタは顔を俯かせる。
「ハルの、バカ……」
震えた声が口から出てしまう。
ソウタは耐え切れなくなって、カードを胸元に抱き寄せていた。
カードにはハルからの謝罪の言葉と、鎮魂祭に出るという彼女の決意が書かれていた。
ハルのもとに今すぐにでも行きたかった。けれど、逃げ出してしまった自分にその資格があるだろうか。
ソウタは窓外を見る。
円卓公園からやってきた桜の花びらが、音楽とともに空を流れている。あの音楽が聴こえる場所で、ハルが自分を待ってくれているのだ。
胸が熱くなり、ソウタの心臓は切ない鼓動を奏でていた。
「大変、大変!」
とつぜん、病室のドアが乱暴に開けられた。
甲高い声がネコミミに轟く。声に驚いてソウタはベッドの対面にあるドアを見た。
見慣れた茶トラのネコミミが、にょっきりと入口から現れる。
「うわーん! ハルちゃんがーー!」
チャコがツインテールを揺らし、慌ただしく病室に入って来た。彼女はネコミミをぴょこぴょこ動かしながら病室を駆け回る。ミミコは、きょとんとそんなチャコを見つめていた。
「ソウタのお友達?」
「チャコ、どうしたんだよ?」
ミミコがソウタに問いかけてくる。ソウタは我に返り、彼女に声をかけた。
「あ、ソウちゃん! 本当にココにいた!」
ぴたりと彼女は立ち止まり、ソウタを見つめた。涙を浮かべた眼を歪め、彼女はソウタを睨みつけてくる。ずんずんと、彼女はソウタへと近づいてきた。
「何で鎮魂祭来てくれないのっ? ハルちゃん、ずっとソウちゃんのこと待ってたんだよ! なのに、なのに……」
肩を震わせながらチャコは泣き出してしまう。涙を擦り、彼女は俯いてしまった。
「チャコ……」
「ソウタが、姉ちゃん泣かした……」
病室の入口から間延びした声が聞こえてくる。入口へ視線をやると、ハイが眠たそうな眼をこちらへ向けていた。
感情の読み取れない眼は、それでもソウタを睨みつけているようだ。彼がネコミミの毛を逆立て、怒りを顕にしているせいかもしれない。
「ハイ……」
「ね、いたでしょ姉ちゃん……。泣き虫ソウタは、絶対にお姉さんのところに逃げてると思った……。ボクの推理はよく当たる」
ハイはチャコに言葉をかける。チャコは顔を上げ、濡れた眼をハイに向けた。
チャコのもとへと、ハイは足早に駆け寄ってくる。チャコを慰めるように、ハイは彼女の肩をとんとんと叩き始めた。
「ハイ……」
「何だよ……泣き虫ソウタに興味はない」
話しかけてきたソウタに、ハイは冷たく返す。
ハイはソウタを見ることなく、チャコの背中にひしっと体を押し付ける。困ったようにチャコがソウタに視線を向けてきた。
「何で、ここに?」
ソウタはハイに話しかけていた。ハイは、責めるように色のない眼をソウタに向けてくる。
「ソウタが来ないせいで、ハルが絶望して鎮魂祭の会場からいなくなった……。そのせいで姉ちゃんは泣いた……。どうしてくれるの……」
「ハルが……」
ハイの言葉に、ソウタはネコミミの毛をふくらませていた。抱き寄せていたカードを強く握り締め、チャコに向き直る。
「ハルの家にも行ったの?」
「ハルちゃん家にも行ったよ……。でも、家庭教師の人が通してくれないの。どうしよう。ピアノのレクイエムの次にハルちゃんの番なのに……もう、時間がない。間に合わないよぉ……」
「バカソウタ……」
涙を流しながら、チャコはソウタを睨みつける。ハイは慰めるようにチャコの両肩に手を置き、ソウタに吐き捨てた。
「ごめん」
二人を見つめ、ソウタは頭を下げる。チャコとハイが気まずそうにネコミミを伏せた。
そっとソウタは二人に近づく。
チャコとハイは横並びになり、ソウタを不思議そうに見つめてきた。ソウタはぎゅっと、そんな二人を抱き寄せる。
「ちょ、ソウちゃんっ?」
「おぅ……?」
「それから、来てくれてありがとう」
ソウタはチャコとハイのネコミミに感謝の気持ちを囁いていた。
「ソウ、ちゃん」
「ソウタのエッチ……」
ぽっと頬を赤らめ、ハイが呟く。ハイは潤ませた眼をソウタに向けてきた。
「エッチって、何だよ!」
ハイの呟きに思わずソウタは叫んでしまう。
「私も、ちょとドキドキしてる……」
「ちょ、チャコっ?」
ソウタは大声をあげ、チャコを見つめる。チャコは恥ずかしそうにソウタから顔を逸らした。
「これは……そういう意味じゃなくて……」
「あははっ」
「義姉さんっ?」
ミミコの笑い声が聴こえる。ソウタはベッドへと顔を向けていた。ミミコが笑いながら、おかしそうにネコミミを上下させている。
「いや、おかしくて……。ソウタにこんな面白い友達がいたなんてね。ほんと、ここに越してきてよかった……」
微笑みながら、ミミコは眼を拭っている。彼女の眼はうっすらと涙で濡れていた。
「義姉さん」
ソウタはミミコに向き直る。
――ソウタ。私ね、毎日を後悔しないで生きてみようと思うんだ。
サツキの言葉が、耳朶に蘇る。ミミコから託された、彼女からのメッセージ。
そっと、自分の両足を見つめる。サツキの死に目に間に合わなかった後悔が、ソウタをケットシーにした。
けれど、後悔するのはもう終わりだ。今度こそ、前に進もう。
サツキはきっと、それを望んでいるから。
「いってらっしゃい」
ミミコの声が聞こえる。
顔をあげると、彼女は微笑みを浮かべていた。深緑の眼が優しくソウタを見つめている。
「いってきます」
ソウタは微笑んで、ミミコに言葉を返す。ミミコは笑みを深め、手を振ってくれた。
踵を返し、病室の窓へと駆け寄る。
窓の外には、桜の花びらが舞う空がどこまでも広がっていた。
鎮魂祭にハルを連れて行く。彼女の夢を叶えるために。
ソウタは窓枠に足かけ、息を吸い込んだ。脳裏に過るのは、歌いながら微笑むハルの笑顔。
その笑顔を、もう一度見たい。
身を乗り出し、ソウタは窓から跳ぶ。軽い浮遊感が体を包み、ソウタは眼を見開いた。
眼前には花びらの舞う空が広がっている。鋭い眼差しで花びらを見すえ、ソウタは建物の屋根を蹴った。ソウタの視界に、海原と広い蒼穹が映り込む。その先にある壁を睨みつけ、ソウタは大きく跳びあがる。
ハルのもとへと、ソウタは大空を駆けていく。
ソウタが跳び去っていった窓を、ミミコは寂しげに見つめていた。
「本当、いい漢になっちゃって」
春風が舞い込んできてミミコの髪を慰めるようになでてくれる。
ぽんと肩を叩かれ、ミミコはそちらへと視線をやった。ベッド脇に立つハイが、ミミコの肩に手を乗せている。彼の隣にいるチャコも眼を曇らせ、ミミコを見つめていた。
「ソウタのお姉さん、寂しい……?」
ハイが、訪ねてくる。声に色が感じらないのに、ハイが自分を心配していることがわかった。ハイがネコミミを、悲しげにたらしていたからだ。
「ハイくん、だっけ。そうね、寂しいかな? あの子、いつも私の側から離れなかったから。義母さんが死んでからは、私が母親みたいなものだったし」
「慰める……」
「あら」
「ちょ、ハイ!」
ハイはベッドへと身を乗り出し、ミミコに抱きついた。弟の思わぬ行動にチャコは叫ぶ。
「姉ちゃん、ボクがシュンとしてると……こうしてくれる」
「だからって、女の人には抱きついちゃダメ! すみません。ミミコさん」
「姉ちゃんも一応女の子だよ……」
「うっ、それは……」
「いいわ、ありがとう」
大丈夫だと、ミミコはチャコに微笑んでみせる。チャコは頬を膨らませ、ネコミミをたらした。ミミコは苦笑して、ハイのネコミミをなでる。ハイがぽっと頬を赤らめ、恥ずかしそうにミミコの胸元に顔を埋めた。
「温かい……」
「ハイのバカ、エッチ」
「あはは、ごめんね」
ミミコが彼女に謝ると、チャコはすまなそうにネコミミを動かしてみせた。そんなチャコを見て、苦笑が顔に滲んでしまう。
ハイが小柄なためだろうか。幼いソウタが自分を抱きしめてくれたことを、ミミコは思い出していた。
サツキは落ち込んでいる自分を、よく抱きしめて慰めてくれた。幼いソウタも、サツキの真似をしてよくミミコに抱きついてきた。抱きつかれたミミコが驚くと、ソウタは顔をあげて笑顔を向けてくるのだ。
その笑顔は、もうミミコだけのものではない。
目頭が熱くなり、ミミコはハイを抱きしめ返していた。彼女のネコミミについた鈴が、悲しげに音を奏でる。
「お姉さん、悲しい?」
「駄目だね。早く、義弟離れしなきゃいけないのに……」
ハイが顔を見上げてくる。ミミコは潤んだ眼に無理やり笑みを浮かべてみせた。
思い出すのは、自分を慕ってくれたソウタの姿ばかりだ。
ソウタの成長が嬉しいのに、彼が離れていくことが寂しい。サツキもこんな思いで成長してく自分たちを、見守っていたのかもしれない。
「私も、ママになるんだっけ」
「お姉さん、ママになるの?」
「うん、お腹触ってみる?」
ミミコの言葉にハイは頷き、ミミコから離れる。ハイはベッドから降り、ミミコの腹部にそっと手を充てた。
「私も、触っていいですか?」
ハイの様子を見て興味を抱いたのだろう。チャコがネコミミを伏せて、遠慮がちに尋ねてくる。
「いいわよ」
ミミコの返答にチャコは眼を輝かせる。そっと彼女は腹部に手を充ててきた。
「赤ちゃん、本当にお腹の中で育つんだ……」
手を充てた腹部をチャコは興味深げに見つめている。ハイも顔をあげ、言葉を発した。
「あったかい……。ママって、あったかいんだ……」
ピクピクと動いているネコミミから、ハイが興奮しているのがわかる。
「うん、温かいよ。お母さんは」
くすりと微笑み、ミミコはハイのネコミミを撫でていた。
白い屋根の上を、ソウタは駆けていた。
屋根がとぎれ、眼前に小さな通りが迫る。ソウタは屋根を蹴り、大きく跳んだ。
通り向こうにある建物へと着地し、また屋根の上を駆けぬける。
どのくらい、同じことを繰り返しただろうか。
ソウタはハルの家を目指し、町中を駆けていた。港近くにあるマブの施設から東南に進んだ先に、コノハ家の屋敷は建っている。
硝子張りになったアーケード街の天井を駆けると、人々がいっせいに自分を見あげてきた。
だが、気にしている暇はない。
一刻も早く、ソウタはハルのもとへと行かなければならないのだ。
ハルのことだけを考え、ソウタは町中を駆けていく。
走るたび、ハルがくれたメッセージカードの言葉がソウタの脳裏をよぎっていった。
――私、お義母さんに愛されているのか、不安だった。けど、ソウタくんと出会えて、そんな気持ちと、向き合うことが出来たよ――
違うと、ソウタは心の中で叫ぶ。
ハルは歌を通して、前向きに義母の死と向き合おうとしていた。
アーケードの天井を後にし、ソウタは民家の屋根へと跳び乗る。ソウタはまた、カードの文字を思い出していた。
――ネコミミピアノ、すごく楽しかった。チャコちゃんたちとも、友達になれて嬉しかったよ――
違うと、ソウタはハルの言葉を否定する。
ハルは心音を自分から克服しようとしていた。チャコとハイにだって会おうとしていた。
ハルがそう思い、行動したから願いが叶ったのだ。
メッセージカードの文字は、こんな文章で終わっていた。
――私、ソウタくんのおかげで歌うことができる――
鎮魂祭のリハーサルで、ハルは必死になって歌をうたっていた。
ハルは自分を省みて、鎮魂祭で歌う決意をしていた。カードに想いを託し、ソウタにそのことを伝えてくれた。
それなのに、どうして――
「どうして、逃げちゃうんだよ! ハル!」
思いを、叫ぶ。
民家の屋根を駆け、ソウタは跳躍する。
ソウタの眼前に高い鉄柵に囲まれた屋敷があらわれた。中央に中庭を持った四角い屋敷を、ソウタは微笑んだ眼で見つめる。
この調子で行けば、ハルを鎮魂祭へと連れて行くことができる。
サツキが亡くなったとき、自分は嘆くことしかできなかった。
けど、泣くのはもう終わりだ。もう、泣き虫ではいられない。
今度こそ、駆けつけてみせる。
大切な人のもとへ。
「行っけー!」
大声をあげ、ソウタは屋敷の鉄柵を跳び超える。
『ガンバって!』
そう書かれたチャコの文字をなで、ハルは顔をあげた。
手の中にあるカードには、チャコとみんなの応援メッセージが書かれている。カードは、ハルを心配して訪ねてきたチャコが持ってきてくれたものだ。
「無理だよ、みんな……」
カードを胸元に抱き寄せ、ハルは涙をこらえる。
このカードを心の支えに鎮魂祭に臨もうとした。だが、自分は逃げだしてしまった。
ハルは自室にいる。逃げてきたのだ、鎮魂祭の会場から。
ベッドの中央に座るハルは自身を抱き、ネコミミを伏せる。部屋を満たす時計の音が煩わしかった。
ぎゅっと、服の袖をにぎりしめる。
纏っているのは、ミミコのお古であるワンピースだ。
鎮魂祭で着て欲しい。ミミコはそう言って、この服を託してくれた。
ソウタの悲しい笑顔が脳裏を過ぎる。ソウタから逃げたことを後悔して、ミミコにも励ましてもらった。
だからこそ、鎮魂祭で歌う決意をしたのに。
「私、なにやってるんだろう?」
自嘲が浮かんでしまう。ネコミミを動かすと、悲しげに鈴が鳴った。
会場である円卓公園でハルを待っていたのは、好奇と侮蔑の眼差しだった。ハルのネコミミについた鈴を見て、観客はぎこちない表情を浮かべたのだ。
ハルのネコミミは容赦なく嘲りの言葉を拾い、ハルに聞かせた。
――ケットシーが、鎮魂祭を汚しに来た。
――このまま歌えなかったら、サイコーなのにな。
自分を侮蔑し、嘲る観客の声が恐かった。
それでも、耐えた。ソウタが来てくれると、信じていたから。
ソウタは、鎮魂祭が始まっても姿を見せなかった。
眼を閉じる。
聞こえてくるのは、むなしい時計の音だけ。
時計の音は心音によく似ている。その音は、ハルを慰めてくれるものだ。
けれど、時計の音がとまるたびに、ハルは義母のとまっていく心臓の音を思いだす。
恐くて、泣きそうになってしまう。
時計が、ひとつ、とまる。
「やだ……」
義母のとまっていく心音を、否応なしに思い出してしまう。
また、ひとつ、とまる。
「とまらないで……」
泣きそうになる。
不意に小さな音が聞え、ハルは眼を見開いた。
聞きなれた心臓の鼓動が、ネコミミに響く。
ハルはネコミミを傾け、音を聴く。その心音は、窓の外から聞こえた。
「ソウタ……くん」
ベッドから立ちあがり、窓へと歩んでいく。応えるように心音は大きくなり、こちらへと近づいてきた。
嬉しくて、涙があふれそうになる。
ソウタは色んな音を心臓から奏でては、ハルを困惑させる。それでも不思議と、彼の心音に安心している自分がいるのだ。
窓を覆っているカーテンを、ハルは勢いよく開けた。
暗い部屋を、陽光が優しく照らす。外では桜の花びらが空を優雅に舞っていた。
空は、ソウタの眼のように美しく澄んでいる。
「ソウタくん……」
ハルは窓を開けた。花びらが、いっせいに部屋に舞い込んでくる。
花びらがつくりだす紗の向こうから、心音が近づいてくる。
中庭に植わる木々がゆれている。よく見ると、ソウタが木を伝って近づいてきていた。
ペタンとハルは床に座り込んだ。
「来て、くれた……」
ソウタが来てくれた。
嬉しくて、こらえていた涙があふれてきてしまう。ハルを慰めるように、宙を舞う花びらが、ハルの頬をなでた。
空を舞っていた花びらが乱れる。舞う花びらを背に、ソウタが窓枠へと着地した。肩で息をしながら、ソウタはハルへと顔を向ける。
「ハル! 何があったんだよっ?」
床に座り込むハルを見て、ソウタは叫んでいた。窓をから下り、彼はハルのもとへと駆け寄ってくる。ハルは立ちあがり、ソウタに抱きついていた。
「ハル?」
彼の胸元にハルはネコミミを押しつける。
聞きたかった彼の音が、煩いぐらいネコミミに木霊していた。
嬉しくて、頬を流れる涙がとまってくれない。そっと顔をあげ、彼を見あげる。
「ソウタくんの、バカ……」
眼を桜色に煌めかせ、ハルはソウタに笑ってみせた。ソウタは困惑したようにネコミミを伏せてみせる。
「ごめん……ハル」
「いい、来てくれたもん……」
ソウタはハルを抱き返す。彼は声を震わせながら謝罪の言葉を口にした。
首を振り、ハルはぎゅっと彼を抱き寄せる。
ソウタの心音が、ハルを慰めるように穏やかになる。その音が心地よくて、ハルは眼を瞑っていた。
「行こう、ハル。お義母さんに歌を聴かせに」
「うん……」
彼の言葉に頷く。
眼を開けると、ソウタは恥ずかしそうに微笑んでいた。
「ごめん、ハル。その……放して、くれる?」
ソウタが顔を逸らしてくる。彼のネコミミが気まずそうにそわそわと動いていた。
ソウタのネコミミを見て、ハルは頬が熱くなるのを感じていた。
「ごめんなさい……」
ソウタを急いで放す。いつもはソウタに抱きしめられても大丈夫なのに、どうしたのだろう。彼を抱きしめていたことが恥ずかしく思えて、ハルはネコミミを伏せてしまう。
ソウタを、そっと見てみる。
ネコミミを伏せている彼は、潤んだ眼を向けてきた。その眼が妙に艶っぽく見えてしまう。
「ごめん、ハル……嫌な思いさせちゃうかも」
ソウタが話しかけてくるが、彼を見つめることができない。ソウタは大きくため息をついて、立ちつくすハルを横抱きにした。
「えっ、ちょ、ソウタくん?」
「ごめん、こうでもしないと間に合わないっ」
ソウタは踵を返すと、足早に窓へと向かっていった。ソウタは窓枠に足をかけ、宙へと身を乗り出す。
「いやっ」
大きく体を投げ出されたような気がして、ハルは叫んでしまう。ぎゅっと眼を瞑ると、ソウタが優しく体を抱き寄せてくれた。
恐る恐る、眼を開ける。窓に吹き込んでくる桜の花びらが視界にせまり、ハルは大きく眼を剥いていた。
中庭に植えられた木が、ハルに迫ってくる。瞬間、大きな浮遊感がハルを襲った。
驚きにハルは眼を見開く。いつの間にか、眼前にあった木がなくなっていた。
背後へとハルは顔を向ける。ぶつかりそうになった木が、後方へと去っていこうとしていた。木にぶつかる寸前、ソウタが木の枝を踏みつけ大きく跳んだのだ。
また庭木が、二人の眼前に立ちふさがる。ソウタは木の枝を踏みつけ、大きく飛翔した。
風が、ハルの髪を弄ぶ。
地面を見つめると、輝く芝生の上を自分たちの影が駆けていた。
風がハルの体を包み込み、浮遊感を与えてくれる。まるで、鳥になったようだ。
「凄い、凄いよ、ソウタくん!」
ハルは大声をあげていた。
ソウタはネコミミをびーんとたちあげ、剥いた眼をハルに向けてくる。
「どうしたの、ハルっ?」
「鳥だよ! 私たち鳥みたいに空を飛んでる!」
ソウタは眼を曇らせ、ハルを見つめてきた。
「ソウタくん……」
何か嫌なことを言ってしまったのだろうか。不安になってハルは眼をゆらす。
「そんな風に、思ってもらえるんだ……」
静かにソウタは微笑んでくれる。ソウタの瞳が潤んでいることに気がつき、ハルは眼を見開いた。
以前、ソウタの能力を褒めたとき、彼は不機嫌になり黙ってしまった。
ソウタにとってケットシーの能力は、義母の死に目に会えなかった後悔の現れだった。彼は今、その後悔と向き合おうとしている。
ハルを迎えに来たのも、その気持ちの現れに違いない。
ハルは笑顔を浮かべ、ソウタに声をかけていた。
「うん。凄いんだよ、ソウタ君は」
「ありがとう、ハル……」
ソウタは潤んだ眼に微笑みを浮かべる。嬉しそうに彼は、感謝の気持ちをハルに伝えた。
屋敷を囲む鉄柵を越えると、常世町が視界に広がった。
まるで鳥のようにソウタは民家の屋根の走り、空を跳んでいく。
ソウタに抱かれるハルの視界には、町の建物が目の前に現れては消えていった。
ソウタの心音が心地よく、ハルは彼の胸に頭を預けていた。彼の力強い音は、ハルを安心させてくれる。
ソウタは民家の屋根を駆け抜け、跳躍する。蒼い空が、ハルの視界に広がった。
ソウタの心音が高く鳴り響く。ハルのネコミミにソウタの心音が響き渡る。
その音を聞いて、ハルは心臓が熱くなるのを感じていた。
ソウタの眼も、空と同じ色をしている。ソウタの眼が見たくなって、ハルは彼の顔を見上げていた。
ハルは大きく心臓を高鳴らせる。
ソウタは眼に真摯な輝きを宿し、前を見つめていた。
彼の視線の先には、目的地である円卓公園がある。自分のために、彼は前を向いて走ってくれているのだ。
彼の眼から視線を逸らすことができない。ソウタの心臓が力強く躍動し、その振動がネコミミに伝わってくる。
こんなにも頼もしいソウタの鼓動を、ハルは聴いたことがない。
ソウタは自分の歌を聴くとすぐ、泣いてしまう少年だ。
優しいのに頼りない。だから側にいて安心できた。
ソウタの心音が大きく、ハルのネコミミに響く。
ハルは心臓を高鳴らせる。
このままでは、ソウタに高まった心音を聴かれてしまう。恥ずかしくなって、ハルはソウタの眼から視線を逸らしていた。
ソウタを、こっそり見つめる。
幸い、前を向いている彼はこちらの様子に気がついていないようだった。
ほっとネコミミをたらして、ハルは前方へと視線を向ける。
円卓公園の桜から散った花びらが、蒼い空を流れていた。
その光景に、見覚えがあった。
ネコミミに響く心音と、蒼い空を舞う桜の花びら。
そして、ソウタの腕のぬくもり。
ハルの記憶が遡る。
今のように誰かの腕の中で、空を舞う花びらを見つめていた気がする。
ずっと昔、どこかで。
――お母さんね、ハルの音が世界で一番好き。
義母の声が蘇る。
笑顔を浮かべながら、義母のサクラは幼い自分を優しく抱きしめてくれた。そのぬくもりを感じながら、ハルはよく空を舞う花びらを見つめていたのだ。
サクラは自分の心音を聴きながら、笑顔と、優しい言葉をくれた。泣きそうになる自分を慰めるために、何度も子守唄を歌ってくれた。
ハルは、目頭が熱くなるのを感じていた。
「ねぇ、ソウタくん。私、大切なこと忘れてた……」
ソウタが、不思議そうに顔を向けてくる。
「世界で一番、お義母さんの音が好きだった」
サクラの生きている音が、歌声が大好きだった。
それなのに、自分はとまっていく彼女の心音を聴きたくなくて、ネコミミを塞いでいた。
サクラにとって、自分は死んだ義姉の代わりでしかないとさえ思っていた。
サクラの愛が信じられなくて。
彼女が亡くなってしまったことさえ、受け入れられなくて。
そんな弱い自分を、ソウタが支えてくれた。
「同じだね、俺たち」
ソウタが言葉を返してくれる。
笑顔を浮かべながら、泣きそうな声で彼は言った。
「俺も、義母さんが世界で一番好きだった」
ピアノの旋律がソウタのネコミミに聞こえた。
奏でられているのはレクイエムだ。この次にハルが歌うことになっている。
「良かった。間に合いそうだよ、ハル」
「うん」
ソウタは腕の中のハルに微笑んでみせた。ハルも安堵したように微笑みを返してくれる。
教会の屋根を駆け、尖塔へと跳ぶ。着地した尖塔から落ちると、桜の花びらがソウタの視界いっぱいに広がった。
その中に、跳び込んでいく。
花びらのカーテンを抜けると、花をつけた灰猫の桜が目の前に現れた。
桜の前には舞台がつくられ、黒衣の人々が観客席に座っている。
観客はネコミミを真剣に傾け、ピアノで演奏されるレクイエムを聴いていた。
ピアノを演奏するのは霧髪を纏めた老婦人だ。老婦人は耳飾りのついた銀のネコミミをすらっとたて、静かにピアノを奏でていた。
ピアノの悲しい旋律に、ソウタは聴き入っていた。
曲を聴いていると、サツキを失ったときの悲しみが鮮明に思い出されてくる。
そっとハルを見つめる。ハルも同じ気持ちなのだろう。眼を潤ませ、老婦人を静かに見つめていた。
拍手が周囲に響く。
ピアノを奏でていた老婦人が演奏を終え、立ちあがる。老婦人は観客席に頭をさげ、静々と袖膜へと去っていく。
老婦人の眼が煌めいていることに、ソウタは気がついた。彼女の眼が涙で濡れている。とくん、とソウタの心臓が悲しげに鳴った。
鎮魂祭で曲を披露する人々は、大切な人を亡くしている。
自分やハルと同じ境遇の人々が他にもいることに、ソウタは深い感銘を受けていた。
不意に、観客席のすみにいた小柄な客が立ちあがる。ハイだ。彼はピンっと鯖トラのネコミミをたて、ソウタを見あげてきた。ハイの隣に座っていたチャコも空を仰いで、嬉しそうに手を振ってくれる。
「チャコちゃん、ハイくんっ」
腕の中のハルが、弾んだ声をあげた。ハルは嬉しそうにチャコとハイに手を振る。
他の観客たちも自分たちに気がつき、空を仰ぐ。
上空から降ってくる自分たちに、人々は驚いているのだろう。観客のネコミミが、いっせいにぴーんと立ちあがった。
ソウタはハルを抱え直す。そのまま、客室の中央に設けられた通路へとソウタは着地した。観客のネコミミが、いっせいにソウタとハルに向けられる。周囲の視線を気にしながらも、ソウタはハルを地面に降ろした。
「ソウタくん……」
「大丈夫」
ソウタは優しくハルに微笑んでみせた。ハルは安心したように眼を細めてくれる。ネコミミをたちあげ、ハルは舞台へと体を向けた。
「おい! もしかしてお前ら、歌う気かっ?」
怒号が、観客席から飛んでくる。驚いて、ソウタは声のした方へと顔をむけた。
「勝手に乱入したケットシーが、歌えるわけないだろっ!」
ネコミミを逆立て、一人の男性が観客席から立ちあがる。男性はハルのネコミミについた鈴を睨みつけていた。
ハルが怯えたようにネコミミを伏せる。彼女の鈴が小刻みにゆれた。ソウタは男性を睨みつけ、ハルの手をとる。
「あっ」
ハルが驚いて声をあげるが、ソウタはかまわずハルを背後に匿った。
「あなたた達は、ケットシーよね。厳粛なる鎮魂の場を、その歌声で汚すつもりなの?」
凛とした声が、舞台からする。驚いてソウタは舞台を見つめた。ピアノを奏でていた老婦人が、厳しい眼差しをこちらに送ってくる。
チリンと、動揺にソウタのネコミミが鳴る。
自分と同じ思いを抱えている彼女が、自分たちを非難したことが信じられなかったのだ。
ケットシーは灰猫の恩寵を受けられない、汚れた存在。
そんな古い信仰によって、彼女はソウタたちを差別している。差別しているという感覚さえ、抱いていない。
「そうだ。さっさと、帰れ」
「死者を汚す気か!」
「目障りよ!」
観客たちの中からも、罵声をあげる者が出てきた。ぎゅっと背後から服をにぎられる。
驚いて、ソウタは後方のハルへと視線をやった。
ハルが震える眼をソウタに向け、服をにぎりしめていた。潤んだ眼は今にも泣きそうだ。伏せられた彼女のネコミミは、怯えるように震えている。
「おい、聞こえてんのか?」
「ちょっと、何とか言ったらどうなのっ? 迷惑なのよ! ケットシーのクセして!」
それでも観客は怒声を飛ばしてくる。ハルは顔を伏せ、小さな嗚咽を漏らし始めた。
泣いているハルを見て、ソウタの心臓が大きく脈動する。
怒りで体が震えてしまう。
「俺たちが、何をしたんだっ!」
ソウタは叫んでいた。
ソウタの怒号に驚き、騒いでいた人々は黙り込んだ。
辺りが静かになる。否応なしに、観客の視線がソウタに集まった。
「ハルは、歌いたいだけなんだ……。大切な人のために俺たちは、歌うことさえ許されないの?」
ソウタは泣きそうな眼を観客たちに向ける。悔しくて、涙がこぼれてしまいそうだ。
ケットシーであるだけで、ハルは歌うことさえ厭われる。
罵声を吐き出していた人々が、気まずそうにネコミミを伏せた。涙をこらえきれず、ソウタはうつむく。
そんなソウタの肩を、背後から叩く人物がいた。
驚いて、ソウタは背後へと視線をやる。ハルがソウタの肩に手を置いていた。
彼女は潤んだ眼を細め、微笑みを浮かべていた。
「もう、良いよ。大丈夫……」
泣いている自分を励ますように、ハルは優しく言う。
ソウタの背後からハルは前方へと歩み始める。
とっさにソウタはハルの手を握りしめていた。だがハルは、その手を振り払ってしまう。
「あっ」
唖然とするソウタを振り返り、ハルは優しく微笑んでみせた。
桜色に煌く彼女の眼は、静かにソウタに向けられている。ソウタは、力強いその輝きに言葉を失った。
ソウタの前方へと進み出たハルは、すっとネコミミをたてる。
凛としたハルの眼が、押し黙る観客に向けられる。観客たちを見すえ、ハルは頭をさげた。息を呑む観客の気配が、ソウタに伝わってくる。
観客たちはハルの行動に動揺しながらも、彼女を静かに見つめていた。
「お願いです。歌わせてください」
ハルの鈴が、怜悧な音をたてる。
思いもよらぬ行動に、観客たちはどよめく。顔をあげたハルの眼は、凛とした輝きを宿していた。
「歌えば、いいと思う……」
不意に、間延びした声が観客席のすみからした。
驚いて、ソウタは言葉を発したハイを見る。ハイは立ちあがり、じぃと三白眼でこちらを見つめていた。
「そうだよ。誰の許可もいらないよ! 鎮魂祭だよ。みんなの大切な人のために歌っていいんだよ!」
チャコも立ちあがり、弾んだ声を発する。彼女はハルを応援するように、笑顔を送ってくれた。
「そうだー!」
「差別反対!」
「ハルっちは、何も悪くない」
「信仰なんてクソくらえ!」
チャコに続き、観客席の子供たちが次々に声を発する。子供たちは抗議するように席から立ちあがった。ネコミミピアノになってくれた、みんなだ。
「みんな」
嬉しそうに眼をゆらめかせ、ハルはみんなを見つめた。
「ハル」
促すように、ソウタはハルに声をかける。
ソウタにハルの眼が向けられる。
ソウタを見て、彼女は銀の眼に笑みを浮かべた。眼の中で、桜色の光が美しくたゆたう。
とくりと、心臓が大きく高鳴る。
こんなにもハルは、美しい笑顔をつくる少女だっただろうか。
くすりと、艶めく唇に笑みを浮かべハルは舞台へと上っていく。心音が煩い。階段をあがるたびにゆれる銀の髪から、眼が離せない。
舞台にあがったハルは優雅にワンピースの裾を両手でつかみ、お辞儀をした。
ふさりと、彼女の頭に花輪が落ちる。ハルはネコミミをぴんとたて、桜を見あげた。
驚いたソウタも桜の木を見あげる。桜の木の上に、数人の子供たちが登っていた。
「ガンバレー!」
「ハルちゃんの歌、早く聴きたいよ!」
ネコミミを動かし、子供たちはハルに声援を送る。
ハルは花輪を頭に載せ直し、子供たちに手を振る。ネコミミをぴょこんと動かし、彼女は客席へと体をむけた。
ハルの眼が、ソウタにむけられる。動揺にソウタはネコミミを大きく反らした。
ソウタの心臓が弾んだ音をたてる。それを合図に、ハルが唇を開いた。
春風が吹く。
舞い散る桜とともに、ハルの歌は奏でられた。
ソウタの心臓が大きく高鳴る。その鼓動とともに、ハルは歌を紡ぐ。
客席の子供たちが次々に立ちあがる。子供たちはハルの歌を追うように声を発した。
子供たちとハルの歌は輪唱になって、周囲に響き渡る。
それを追いかけるように、ピアノの旋律が歌声に重なった。
ソウタは驚いて舞台を見る。
レクイエムを奏でていた老婦人が、愉しげにピアノを弾いていた。
ハルがネコミミの鈴を鳴らし、老婦人に微笑む。その鈴の音に合わせ、婦人はピアノを奏でる。
自分たちを差別していた老婦人が、ハルと音楽を奏でている。
まるで、先ほどのことが嘘のようだ。そんなことなどなかったかのように、2人は美しい旋律を周囲に広げていく。
歌声とピアノに続き、フルートの旋律が演奏に加わった。
バイオリン。チェロ。オオボエ。トロンボーン。ハーモニカ。
フルートの演奏を合図に、たくさんの楽器がハルの歌に合わせ奏でられる。
たくさんの旋律が、ハルの歌を彩る。ハルは音に合わせて歌をうたう。
歌われるのは、喜びに満ちあふれた祝福の歌。
逝ってしまった者たちへの感謝と、生まれてくる者たちへの賛美。
ソウタはミミコの中に宿る、新たな命に想いを馳せていた。
ミミコが倒れたときは、彼女が死んでしまうことさえ考えていた。けれど、その体には新たしい命が宿っていたのだ。
ソウタは、新しい家族が増えることが嬉しくてたまらない。
帰ってきたユウタは、どんな顔をしてミミコに会うのだろうか。
義兄が驚く姿を想像して、ソウタは心音を弾ませていた。
ソウタの心音が早鐘を打つ。ハルの歌声がリズムカルに韻を踏む。
春風がはなびらを巻きあげ、歌は島中に響き渡る。
桜吹雪は紗となって、ハルを包み込む。
花びらの渦の中で、ハルは両手を広げ、生きている喜びを歌いあげた。
いつ、死んでしまうかわからない命。
けれども、自分たちは今、この時を生きる――
生きて、大切な人と共にある。
だから、独りじゃない。みんなに、大切な人がいる。
みんな、みんな、生きてここにいる。
風がやみ、歌声が途切れる。
舞台に降りていく花びらと共に、ハルはワンピースの裾を膨らませ座り込んだ。
「歌えた……」
へなへなとネコミミを伏せ、ハルは呟く。
「ハルっ」
ソウタは舞台に跳びあがり、一目散にハルのもとへと駆ける。
うつむくハルの顔を覗き込もうと、腰を屈める。瞬間、ソウタはハルに抱きつかれていた。
「ハル……」
「聴かせて、ソウタくんの音……」
ハルは胸元にネコミミを押しつけてくる。ネコミミを通じて、ハルの心音が静かに伝わってきた。
温かくて、心地のよい響き。ハルが、生きている音だ。
「私、ちゃんと歌えたよ」
「うん」
「義母さん、聴いてくれたかな?」
ハルが顔をあげた。彼女は、不安そうな眼を向けてくる。
ハルに言葉をかけようとした瞬間、拍手が鳴り響いた。
ソウタは観客席へと視線を走らせる。観客が立ちあがり、二人に祝福の拍手を送っていた。
観客席を見つめるソウタは眼を見開いていた。
その中に、いないはずの人物がいたからだ。
その人は飾り毛のついた、ブチのネコミミを生やした女性だった。ソウタが唖然としていると、白衣を纏った彼女は蒼い眼を細め微笑んでくれる。
亡くなったはずの義母サツキ・ハイバラが、ソウタの目の前にいた。
じっと自分を見つめるソウタを、サツキは不機嫌そうに睨みつけてきた。両手を、白衣のポケットに突っ込む癖は相変わらずだ。
ソウタは、サツキを見て苦笑する。サツキは驚いたように眼を見開いて、ポケットから手を引い抜いた。
サツキは、意地悪な笑みを浮かべてくる。
お前こそ泣き虫のままじゃないよな、とサツキは言いたげだ。
サツキの隣には、白いネコミミを生やした銀髪の女性がいた。清楚なドレスがよく似合っている。女性は銀色の眼を優しげに細め、ソウタを見つめていた。
血は繋がっていないはずなのに、女性の笑顔はハルのものとそっくりだ。
――ありがとう。
形の良い唇を動かし、女性は感謝の気持ちを伝えてくれる。
「ソウタくん」
ハルに呼ばれ、我に返る。ソウタは改めて観客席を見つめる。だが、いくら探しても拍手を送る観客の中に、2人の姿はなかった。
一瞬の再開と別れに、心臓がざわつく。
心音を落ち着かせようと努めながら、ソウタはハルへと振り向いた。
ハルは微笑んでいた。彼女の眼は、静かな輝きに満ちている。
「会えたんだね」
ソウタの言葉に、ハルは小さく頷く。ハルは、うっすらと濡れていた眼をぬぐった。
ソウタは優しくハルの頬に手をそえる。ハルは驚いたようにネコミミを動かし、笑顔を浮かべてくれた。
「ハルちゃーん」
「ハルっちー」
「ハルー」
子供たちの声がハルを呼ぶ。ソウタは観客席へと視線をやった。
子供たちがいっせいに舞台に駆けつけ、壇上へとあがってくる。
先頭にいたチャコはハイの手を引き、こちらへと駆けつけてきた。2人はソウタとハルの脇に座り込む。
「大丈夫、ハルちゃん」
「平気……」
チャコとハイは、不安げにハルの顔を覗き込んでくる。
「もう、大丈夫だよ」
にっこりとハルは、2人に微笑みかけた。
チャコの眼が嬉しそうに輝く。ハイも、ほっとしたようにネコミミをたらした。
「みんなも、ありがとう」
周囲の子供たち見つめながら、ハルは言葉を続けた。ハルの言葉に子供たちは嬉しそうに笑顔を浮かべる。
ハルは立ちあがり、ソウタを見つめる。
「行こう、ソウタくん」
眼を桜色に煌めかせ、ハルは微笑んだ。その眼に迷いの色はない。
ソウタは立ちあがり、ハルの手をとった。しっかりとハルはその手を握り返し、観客席へと体を向ける。
手を握り、ソウタとハルは観客席へと近づいていく。その後に子供たちが続く。
ソウタとハルを中心に子供たちは壇上の前へと並んだ。みんなして微笑みを交わし合い、いっせいに頭をさげる。
客席の拍手が、いっそう激しいものになる。
ハルのネコミミについた鈴が、嬉しそうに音を奏でた。
ちりんとネコミミの鈴が鳴る。顔を曇らせ、ソウタはネコミミをたらした。
鏡に映っている制服姿の自分が、とてつもなく不格好だと思えてしまう。
萌黄色のブレザーは袖が長く手が隠れてしまう。ユウタのお古だが、自分には少しばかり大きいみたいだ。成長期だからすぐにぴったりになると、ミミコは笑っていたが。
写真に映っている、学生時代のユウタとは大違いだ。
泣きそうな顔をしているミミコの隣で、凛々しい義兄はすっと制服を着こなしていた。
「ハルに、笑われないかな?」
制服のネクタイを締め直し、ソウタはぼやく。
今日は学園への初登校の日だ。
一緒に登校するハルに変に思われないだろうか。それが気がかりで仕方がない。
「ソウタ、ハルちゃん来てるわよっ」
「うん」
階下からミミコに呼ばれ、ソウタは返事をした。
ハルを待たせてはいけない。ソウタは踵を返し、ドアへと駆け寄ろうとする。
ふと、正面にある壁画が目にとまりソウタは歩みをとめた。
壁画を眺める。壁画は全く違うものに描き直されていた。
満開の桜の下で、灰猫と白猫が仲良く寄り添い合っている。その周りを、十一匹の猫たちが取り囲んでいた。
――みんな、一緒にしてあげようよ。
壁画を見た、ハルの言葉を思いだす。
ハルは壁画を描き直そうと言ってくれた。チャコとハイも誘って、みんなで壁画を描き直したのだ。
そっと壁画に近づき、灰猫にふれる。
ハルが描いた灰猫はブサイクだけれど、親しみを抱くことができた。灰猫が幸せそうに笑っているせいかもしれない。
物語の中で、灰猫と白猫は死に別れてしまう。
最後まで生き残った灰猫は、白猫に再会できたはずだ。
サツキが、よく言っていた言葉を思いだす。サツキはソウタに言い聞かせるように、何度もその言葉を、繰り返し聴かせてくれた。
ふと、首後ろにある刺青が気になり、手を充ててみる。
灰猫を意味する、十三の刺青。
同じ番号を持つ子供に会ったことがないのは、気のせいだろうか。
島の墓所にある子供達の墓は十二基。その中に、灰猫の墓はない。
――ソウタくんて、灰猫なのかもね。
ふと、ハルが冗談で言った言葉を思いだす。
ソウタは灰猫のクローンだ。
体を構成する遺伝子は灰猫と同じ。
だから、彼の特徴である灰色のネコミミと蒼い眼を持っていても、不思議ではない。
だが、ソウタは灰猫のようだと言われるのが、昔から嫌だった。
まるで、自分が灰猫本人であるかのような気がしてしまうのだ。
灰猫のことを考えると、心臓が切ない音をたてる。
白猫を喪った灰猫を思い、とても悲しい気持ちになるのだ。
雨の中、ハルを追いかけたときの既視感も、壁画のせいというよりかは――
「まさか」
苦笑して、ソウタは呟いた。なぜこんなにも彼のことが、気になるのだろう。
―――灰猫は幸せだったのかな?
閃くように、サツキの言葉が脳裏を過ぎった。
幼いソウタに、サツキは何度も問いかけてきたのだ。
自分を灰猫の存在と重ねるように。自分に引きとられて幸せなのだろうかと、言いたげで。
「そんなの、言わなくてもわかるだろ?」
ソウタは猫の一匹に触れ、微笑んで見せた。猫たちの中で、一番大きいぶち猫だ。
ぶち猫は、初めてこの島にやって来た猫だといわれている。
サツキが、ぶち猫のチェンジリングだったせいだろうか。壁画に描かれたぶち猫が、彼女に見えてしまう。
朝陽が差し込んで、ぶち猫の眼が微笑んでみるようにみえた。
ソウタは眼を見開き、ぶち猫を凝視する。ぶち猫の眼は、穏やかな光に満たされていた。
その眼は、優しくソウタを見守っているようだ。
「いってきます……」
ぶち猫をなで、話しかける。
その瞬間、温かな感触が背中に広がった。驚きに、ソウタはネコミミの毛を膨らませる。
背中の温もりに、覚えがあった。
サツキが自分を抱きしめたくれた感触と、とてもよく似ている。
涙があふれて、目の前のぶち猫が歪んでみえる。
眼をぬぐい、ソウタは顔をあげた。
ソウタはぶち猫に笑顔を贈る。優しくぶち猫の頭をなで、ソウタは踵を返した。
今は灰猫と言われるのが、昔ほど嫌ではない。
自分が灰猫なら、きっと白猫はいつも側にいてくれる彼女だろうから。
ネコミミについた鈴を小さく鳴らして、ソウタはドアへと向かっていく。
ドアベルを鳴らして外に出ると、ハルが坂道で待っていた。
ハルの銀髪が陽光を受けて、薄紅色に煌めいている。
纏っている萌黄色の制服が、彼女の白い肌を引き立たせていた。きっちりと整えられたリボンネクタイをゆらし、ハルは恥ずかしげにソウタを見つめてきた。
ハルの眼が、桜色にゆらめいている。
その眼を見た瞬間、ソウタは大きく胸を高鳴らせていた。
ハルに心音を聴かれてしまう。それでも、鼓動は早くなっていく。
ハルが鈴を小さく鳴らし、ネコミミを困ったようにさげた。
「うるさいよ、ソウタくんの心臓……」
ハルの頬が桜色に染まる。恥ずかしそうにソウタを見つめ、彼女は呟いた。
桜色の眼に見つめられ、ソウタの心臓はまた大きな音をたててしまう。
ハルを見つめていると、心臓が高鳴るのはなぜだろう。
ピンと立てたネコミミを、ソウタはハルへと向けてみる。
ハルの心音が気になったから。
ハルの心音を確かめたくなって、ソウタは彼女に歩み寄る。
ハルは困ったようにネコミミをゆらす。それでも彼女は笑窪を浮かべて、笑ってくれた。
桜の花びらを視界に捉え、ソウタは立ちどまる。
ひらひらと何枚もの花びらが、風に運ばれて公園から流れて来ていた。
花びらに誘われるまま、ソウタは坂道の頂きにある円卓公園を見あげる。
満開の桜が、公園を薄紅色に染めあげている。花びらに包まれ、歌っていたハルの姿がソウタの脳裏に蘇る。
白いワンピースを身に纏い、祝福の歌を奏でていたハル。
歌のように、世界は命で溢れている。
ミミコの中に宿る、新たな命のように。
もう、すっかり春の季節だ――
「もう、すっかり春の季節だね、義母さん」
ミミコは、サツキの墓標に語りかける。
ケルト十字の墓標は、その言葉に応えるようにかすかにゆれた。
風が吹き、ミミコの髪を撫でる。ミミコは誘われるように空を仰いでいた。
蒼空を桜の花びらが流れていく。
花びらは、海原に聳える壁を目指し飛んでいった。
壁を見つめ、ミミコは眼を細めてみせる。
――すぐ帰る。
妊娠を手紙で報告したところ、そんな返事がユウタから送られてきた。
壁の向こうで、夫はさぞかし狼狽えているだろう。
「どうする、義母さん。あなた、おばあちゃんになっちゃうよ」
ミミコは弾んだ声で、墓標に語りかける。
応えるように小さな風が吹いて、墓標をゆらした。ここにサツキは眠っていないのに、彼女が答えてくれたような気がしてしまう。
「ソウタはもう、大丈夫よ」
微笑を浮かべ、ミミコは続ける。
小さな波音に混じって、少女の歌声が聞こえた。
歌声に続き、子供たちの高い輪唱がミミコのネコミミに響く。
ハルが円卓公園で歌っている。側にはソウタがいて、たくさんの友人が2人を取り囲んでいることだろう。
空をまた見あげると、蒼い色彩がどこまでも続いていた。
蒼色は、ソウタの眼の色だ。
ソウタは、嬉しそうに眼を輝かせることが多くなった。ハルが側にいてくれるお陰だ。
トクンと、小さな心音が腹部から聞こえてくる。
「聴こえるの?」
ネコミミを伏せて、ミミコは優しく腹部に手を充てた。応えるように心音が返ってくる。
「もうすぐ、パパも帰ってくるからね」
我が子に優しく語りかける。ミミコは、海向こうの壁へと愛しげに眼を向けた。
柔らかな日差しを受けて、壁は純白に輝いていた。
あの壁の向こうから、愛しい人が帰ってくる。
何度も壁を乗り越えて、人は強く生きることができるようになるのだろう。
ソウタが、そうであるように。
透きとおるハルの歌が、周囲に響き渡る。
我が子の鼓動を聴きながら、ミミコはハルの歌にネコミミを傾けていた。
蒼い空に、桜の花びらが舞う。
ソウタは灰猫の桜の枝に腰掛け、海の向こうへと去っていく花びらを見つめていた。
「トウキョウタワーまで、飛んでいくのかな?」
隣に座るハルが言葉を発する。ハルに顔を向けると、りんと鈴を鳴らし、彼女はソウタに微笑んだ。
「桜の花びらは、義母さんの故郷に飛んでいける……。ちょっと羨ましいな」
眼を寂しげに伏せ、彼女は海原の果てに聳える壁を見つめた。壁の向こう側には、空を背景にトウキョウタワーが建っている。
あそこからハルの義母サクラ・コノハはやって来たのだ。ハルは叶わないとわかっていながらも、壁の向こうにある義母の故郷に焦がれている。そんなハルを慰めたくて、ソウタは言葉をかけていた。
「行こうよ、ハル。お義母さんの故郷に」
ネコミミの鈴を驚いたように鳴らし、ハルはソウタを見つめた。ハルに微笑み、ソウタは告げる。
「俺が、連れてってあげる。いつになるかわからないけど、絶対に。約束するよ、絶対にハルを壁の向こう側に連れて行く」
「ソウタ……くん」
「ハルが教えてくれたから……諦めちゃ、いけないんだって」
観客に頭をさげたハルの姿を、ソウタは思い出していた。凛とした眼差しを観客に向け、彼女は自分の強い意志をはっきりと示したのだ。
――ソウタ。私ね、後悔しないで毎日を生きようと思うんだ。
サツキが残してくれた言葉を、思いだす。
もう後悔はしない。生きる強さを教えてくれたハルのために、自分は精一杯できることをしよう。
彼女がくれたかけがえのない物を、少しでも返すために。
そっとソウタはハルに小指を差し出す。ハルは嬉しそうにネコミミをゆらしながら、ソウタの小指に自分のそれを絡めてきた。
「ソウタくんも、約束してくれる?」
「なに?」
「あなたの音で、これからも歌をうたいたいの。駄目、かな」
ハルが首を傾げ、問いかけてくる。
ちりんと彼女の鈴が、可憐な音をたてた。その音を聞いて、ソウタの心臓が大きく高鳴る。
びくりとネコミミを逆立て、ハルが頬を桜色に染める。彼女は恥ずかしそうに眼を潤ませ、ソウタを見つめてきた。
「いいよ……ハル。歌って、俺の音で」
「ソウタくん……」
ソウタはハルに答えてみせる。ハルは嬉しそうに微笑んだ。
春風が吹く。
灰猫の桜から花びらが散り、風に乗って舞いあがった。
舞いあがる花びらを嬉しそうに見つめながら、ハルは歌を紡ぎ出す。
うたわれるのは、希望の歌。
理想の地を夢見て旅立つ、少年少女の物語をハルは歌ってみせる。
ソウタの心臓が静かに鼓動を奏でる。その音に合せ、ハルは優しい旋律を生み出していく。
ハルの歌を乗せ、春風が西方へと流れていく。
ソウタは風に促されるまま、前方へと顔を向けていた。視界に、トウキョウタワーが映り込む。
あそこに、ハルを連れて行こう。
彼女を抱いて、あの壁を超えて、どこまでも、どこまでも跳んでいくのだ。
希望がみえる、遠い未来まで――
ハートビートという言葉がある。英語で、心臓の脈拍を意味する。
例えばあなたは、好きな人とすれ違って心臓がバクバクと音をたてたことはないだろうか。規則正しい脈動を繰り返していた心臓が、突然暴れだしてあなたの心を掻き乱す。
逆に、好きな人の心音が気になったことはないだろうか。自分と同じ思いを、相手が抱いているのか気になって、悩んだことは誰にでもあると思う。
今日は、そんな悩みに苦しむ、一匹の猫の話をしようと思う。
これはビートルズが好きな、灰色の子猫のお話だ。
遠い、遠い、昔。
未知のウイルスによって人類は滅亡寸前まで追い込まれた。
ウイルスの名は、キャットイヤーウイルスという。
頭部に猫の耳に類似した器官ができ、死に至る病だ。長い研究の末、ニンゲンたちはワクチンを作ることに成功し、滅亡から免れた。
ワクチンを摂取することは、弱いウイルスに感染することでもある。ワクチンを摂取した人間には、頭部に猫の耳に似たものが生えるようになった。
ニンゲンたちはその器官を、ネコミミと呼ぶようになる。
そして、ウイルスに感染した者の中に特殊な能力を持ったケットシーと呼ばれる人々が誕生するようになった。
例えば、ケットシーの中には楽器を一切使わず、周囲の音で歌を奏でてしまう女の子だっている。彼女は、驚異的な聴力を持ち、持ち前のセンスで雨音も、足音も、海の漣さえ自分の歌の伴奏にしてしまう。
気になる男の子の心音だって。
だから、ソウタはその女の子――ハルという名前だ――が歌を奏でているたびに、自分の鼓動が気になって仕方がない。頭に生えた真っ白なネコミミをひょこひょこ動かしては、彼女はソウタの心音に聴き入る。
ハルが自分の心音をもとに歌をうたっているとき、彼女は自分のことを想っているのだ。
ソウタはとても嬉しい気持ちになって、ネコミミをぴーんと立てる。
逆に、ハルが他人の心音で歌をうたっていると、ソウタはしゅんとなってネコミミを伏せてしまう。
どうしてハルのことが気になってしまうのか、ソウタに理由は分からない。
悩んで、同じ合唱部に所属するチャコに相談に乗ってもらった。彼女は、呆れたように茶トラのネコミミをたらして、こういったのだ。
「いいかげん、漢になりなよ。ソウちゃん……」
ソウタはどうしていいのか分からず、灰色のネコミミをしゅんっとたらすことしか出来なかった。
「あぁー! 遅れるー!」
ソウタは常若町に立ち並ぶ、建物の屋根を疾走していた。ソウタが屋根を飛び越えるたびに、彼の灰色のネコミミ――キャットイヤーウイルスに感染することによって頭部に生じる猫の耳に類似した器官――についた鈴が慌てたように音を奏でる。大通りに差しかかり、建物の屋根が途切れる。ソウタは大きく跳躍し、向かいにある建物へと華麗に着地した。
ソウタは驚異的な脚力を持つケットシーだ。屋根と屋根の間を猫のように跳ぶことなんて簡単にできる。その気になれば、鳥のように数十メートル先まで跳躍することもできるのだ。
そんなソウタのネコミミに、愛らしい少女の歌声が聴こえてきた。
「ハルっ!」
ソウタは声をあげる。透き通った歌声は、ハルのものだ。ハルは、遠く離れた自分に歌をうたって気持ちを伝えることがある。
少女の声は、灰色の猫を待つ、真っ白な猫の思いを歌い上げる。
白猫は灰猫を待っている。それなのに、灰猫は現れない。
待ちくたびれて、帰ってしまうよ。
白猫は、気まぐれなのだから。
白猫は白いネコミミを持つハルのことを、灰猫はソウタのことを表しているのだろう
ソウタの心音が罪悪感に高鳴る。
大声をあげ、ソウタはハルに謝っていた。
「ごめん! 義姉さんがぜんぜんレコード貸してくれなくて! 貸す代わりに家の手伝いしてたら遅くなった!」
――ロックバンド、やってみようよ!
同じ合唱部に所属するチャコの言葉を思い出す。学園の合唱部に所属するソウタたちは、再来月の音楽発表会に向けてどんな曲を披露しようか悩んでいた。そんなときに、チャコがトラ柄のネコミミをピーンと立て、ロックバンドなるものをやってみようと言いだしたのだ。
ロックバンドなんてソウタは知らない。調べてみると、キャットイヤーウイルスによって文明が崩壊する、はるか以前に流行った音楽らしい。
発祥の地はアメリカという国で、語源はそこに奴隷として連れてこられた黒人たちの英語から来ているとか。
意味は、ダンスとかセックスとか、交合とか――
恥ずかしくなって、ソウタは読んでいた百科事典をその場で閉じてしまった。
学園の図書館でロックのことを調べるたびに、ソウタはその瞬間を思い出して心臓を高鳴らせてしまう。そうすると、側にいるハルが恥ずかしそうに頬を桜色に染めるのだ。
そんなハルを見て、ソウタはますますロックのことが嫌いになった。
それでも話はとんとん拍子に進み、ロックに使う楽器までチャコはどこからともなく調達してきたのだ。
それにしても、肝心のロックをソウタは聴いたことがない。悩んでいるとき、義姉のミミコがレコードを貸してくれた。
ビートルズという、すっごく昔に世界中で流行ったロックバンドの曲だった。
とてつもなく卑猥な曲だと思いきや、ロックはソウタの想像を大きくかけ離れたものだった。
洗礼された歌詞。優しいギターの音色。何より魅力的なのが、囁きかけてくるようなジョン・レノンの歌声だった。ハルの透き通るような歌声がソウタは好きだが、ジョンのそれはまるで思いを囁きかけてくるような、そんな魅力を持っている。
義姉のミミコにそのことを話すと、ジョンの奥さんは私たちのご先祖様であるニホン人なのよっと、誇らしげに黒ネコミミをぴんっとたてた。
今日、学園は休みだ。だが、ソウタたち合唱部は発表会の練習のため部室に集まる予定だった。ソウタはそのことをうっかり忘れて、ビートルズのYestdayに聴き入っていたのだ。物悲しい曲に涙を零しそうになったとき、ソウタはハルの歌声に呼ばれ、慌てて部屋の窓から跳び出した。
片肩に背負ったリュックにはビートルズのレコードが入っている。ソウタが慌ただしく屋根を走るたびに、リュックに入ったレコードがかちゃかちゃと音をたてる。
その音に合わせ、ハルは歌を奏でた。
嘘、嘘、嘘。
灰猫は嘘をつきたがる。
昨日の嘘をすっかり忘れて、灰猫は笑ってばかり。
白猫は、昨日のことを思う。
恋愛ゲームに疲れた女性のように、白猫は遠い昨日を見つめている。
ドキリとソウタは心音を高鳴らせていた。
ハルに嘘を見破られている。彼女の驚異的な聴覚にソウタは心臓をバクバク鳴らしていた。その心音に合わせ、ハルが歌を奏でる。
昨日のことが嘘のよう。
あなたと一緒にいることなんて、簡単なことだと思っていた。
けれど、あなたはやってこない。
だから、今、あなたが来ないような気がしてならない。
あなたの心音が遠く感じる。あなたがいなくて、心が遠くに行ってしまいそう。
ハルの歌は物悲しく、その歌詞はYestdayを彷彿とさせる。あぁ、ハルは自分と一緒にYestdayを聴いていたんだ。そう思い、ソウタは罪悪感に心音を高鳴らせていた。
この曲を聴いていると、ハルがとても遠くに行ってしまうような気がしてしまう。そのせいで、涙が溢れてきそうになる。
ハルも同じ気持ちで、この曲を聴いていたのだろうか。
自分はそのことに気がつかなかった。そんな自分がついた嘘を、ハルはどんな風に受け止めたのだろう。
曲に歌われた恋人と、ハルは同じ気持ちを抱いていたのではないだろうか。
ハルとの距離が、昨日よりもずっと遠くに感じられる。
ソウタは昨日、ハルとした約束を思い出していた。
――一緒に、ビートルズを聴こう。
そうソウタがハルに告げると、彼女は白銀の眼を嬉しそうに桜色に煌めかせた。それなのに、自分は遅刻をしたうえに、ハルに嘘までついてしまった。
「ごめん、ハル! ビートルズ、一緒に聴こう!」
ハルの歌声が、とまる。
気に障ることを言ってしまっただろうか。ソウタは心臓を悲しげに鳴らしていた。
その音に応え、歌が聴こえてくる。
昨日までは、自分に悩みがあるなんて考えもしなかった。
それなのに今は、ずっと悩みが自分の中にある。
私は、昨日を信じている。
Yestdayをハルが歌っている。
囁きかけてくるような、優しくも悲しい歌声。その歌は、ソウタは寂しげな心音をメロディにしていた。
「ハル」
ソウタの心音が、驚きに高鳴る。
突然、私は中途半端な人間になったよ。
私の中には、影がある。
その影が、昨日やってきたんだ。
歌声が高くなる。ハルは高鳴るソウタの心音に合わせて、歌を続けていく。
どうして、あなたが遠くにいるのか分からない。
あなたは、なにも言ってくれない。
私が悪いのかしら。今は、あなたが側にいてくれた昨日が恋しい。
歌詞は、ハルによってアレンジされているようだった。ハルの歌は心音をメロディにして、ソウタにその想いを伝えていく。
ソウタはYestdayの曲調を思い出していた。ネコミミにジョンの優しい歌声と、囁くようなギターの音色が蘇ってくる。
ソウタの心音は自然と、Yestdayの曲調に合わせて奏でられていた。
昨日、あなたは側にいた。
だけど今は、遠くにいる。
私は、それでも昨日を信じているんだ。
ソウタの心音を側で聴きたい。一緒にレコードを聴こうと約束した昨日のように。
ハルは、そんな気持ちを歌に託しているように思える。ソウタは走るスピードをあげ、途切れた屋根から勢いよく跳躍した。
横に眼を向けると、鮮やかな夕焼けが海を照らしていた。
今日が、終わろうとしている。
ふっと、茜色の夕空が寂しく思えて、ソウタは眼を伏せる。
ハルの歌を聴いている今でさえ、昨日となり、過去の出来事になってしまうのだ。
そのとき、自分はこの瞬間を覚えているのだろうか。
ハルを遠く感じている今という日々を、過去という名の影にしまい、忘れたりしないだろうか。
向かいにあった屋根に着地し、ソウタは一心不乱に駆けていた。
学園は近くなっているはずなのに、ハルを側に感じられない。ハルが今この瞬間も、遠い存在になろうとしている。
「ハルっ!」
ソウタは叫んでいた。
彼女を側で感じたい。彼女の歌声を、ずっと聴いていたかった。
どうして、あなたが遠くにいるのか分からない。
あなたは、なにも言ってくれない。
私が悪いのかしら。今は、あなたが側にいてくれた昨日が恋しい。
歌詞が繰り返される。
それでも、ハルの歌声は寂しさに震えているように思えた。ソウタを遠くに感じ、悲しんでいるように感じられた。
自分と同じ気持ちを、ハルが抱いている。そう思い、ソウタは心臓を高鳴らせる。
ソウタはハルの存在を近くに感じていた。昨日よりも、彼女との距離が縮まった気がする。
ふっと、ソウタは微笑んでいた。
どうして、ハルのことが気になるのかわからない。彼女が誰の心音を聴いているのか、いつも気になってしまうことも。
でも、ソウタはハルの歌が好きだ。彼女の歌声を聴いていると、沈んでいた心が慰められる。 彼女の歌を通じて、多くの人が笑顔になる。
ハルの側にいると、ソウタは楽しくていつも笑っているのだ。
ハルの、側にいたい。
今が過去の出来事になっても、彼女の歌声を思い出せる様に、ハルを側で感じていたい。
ソウタは、ハルとともにをYestdayを口ずさんでいた。ソウタの声はだんだんと大きくなり、ハルと輪唱を奏でる。
心音をメロディに、二人の歌声は、夕空に溶けていく。
――今行くからね。ハル。
その想いを歌声に託し、ソウタは屋根を駆け抜ける。ソウタの心音が、軽やかに歌のメロディを奏でる。
夕焼けの中をソウタは跳んでいく。
今日が昨日になっていくこの瞬間を、確かなものにするために。
ハルを側で感じるために、ソウタは駆ける。
心音を軽やかに鳴らし、ハルとともにYestdayを歌いながら。
ハルとの約束を、果たすために――
遥か昔、人類は猫耳が生えるキャットイヤーウイルスにより滅亡しかけた。長い研究のすえ、ワクチンを作り出した人類はキャットイヤーウイルスとの共生に成功する。
それからというもの、ワクチンを摂取する人類の頭部にはネコミミ――キャットイヤーウイルスに感染してできる猫の耳に似た器官が――が生えるようになる。
今や艶やかなネコミミは可愛い女の子のシンボルだ。可愛い女の子はみんな艶々とした美しいネコミミを持っている。
それなのに、チャコの頭に生える茶トラ柄のネコミミは今日もパサパサしていた。
「どうして……」
ネコミミ用ブラシでネコミミを丹念に梳かしながら、チャコは呻く。鏡に映る茶トラのネコミミは少しも艶々しておらず、枝毛が目立つ。
毎日丹念にネコミミ用のシャンプーで洗っているし、リンスも欠かさない。今使っているネコミミ用ブラシだって、貯金を叩いて買った最高級のものだ。
「頑張ってるのに……」
くりくりとしたチャコの眼に涙が滲む。ガシガシとブラシでネコミミを梳かしても、枝毛がみょんと立ち上がってくる。
「姉ちゃん、顔洗えない……。邪魔……」
そんなチャコに、冷たく声をかける者があった。
チャコはツインテールをゆらし、後方へと振り向く。双子の弟であるハイが、眠たそうな三白眼をチャコに向けていた。
自分より小柄な弟の頭部には、鯖トラ柄のネコミミが生えている。朝日を受けて、ハイのネコミミは白い光沢を放っていた。
「どうして……」
自分とは違い、艶々とした弟のネコミミをチャコは凝視する。血を分けた姉弟。使っているネコミミ用シャンプーもリンスも同じものなのに、どうしてこうも違いが出るのだろうか。
チャコは大股でハイに近づき、艶々な鯖トラ柄ネコミミを両手で掴んでいた。わしゃわしゃとチャコはハイのネコミミを揉みほぐす。
「おぅ?」
「相変わらず、気持いい……」
ハイのネコミミは毛布のように柔らかかった。最高のネコミミは手触りも一級品だ。
美しいネコミミであればあるほど、人々はそのネコミミに惹かれ、ネコミミに触れようとするものだ。
ハイのネコミミは、まさしく魔性のネコミミといってよかった。
しかも、ハイは男の子だ。
「私、弟にすら負けてる……」
ハイのネコミミから手を放し、チャコはがくりと床に座り込んだ。親友のハルも、毛先がくるんと丸まった愛らしい白ネコミミを持っている。触り心地だってタンポポの綿毛みたいに柔らかい。
それに比べて、自分は――
みょみょんと、ぱさついたネコミミの毛が跳ねる。
「あぁーー!」
チャコは悲鳴をあげ、洗面台の鏡を覗き込んだ。しっかりとブラッシングしたはずのネコミミの毛がいくつか跳ねていた。
「どうして、私ばっかりー!」
がしがしとネコミミを掻きながら、チャコは泣いていた。そんなチャコの肩をポンッとハイが叩く。
「ハイ……」
「元気が……一番。なぐさめる……」
ハイがひしっとチャコに抱きついてくる。弟の健気な励ましに、チャコは再び泣きそうになっていた。
「うぅー、お姉ちゃんはハイみたいな弟を持って幸せだよぉ……」
がしっとチャコはハイを抱きしめ、柔らかな頬に頬擦りをした。
「ウザイ……」
「はぅ!」
そんなチャコの頬を、ハイは容赦なくネコミミで叩く。チャコはうめき声をあげながら、床に手をついていた。
「うぅ、ひどいよ。ひどいよ、ハイ……」
「そんなに艶々なネコミミが欲しければ……ボクより、艶々なヤツに訊けばいい……。きっと彼は、美しいネコミミの秘密を知っている……」
涙を流すチャコに、ハイは静かに告げる。
「美しいネコミミの、秘密?」
「そう、彼とその義姉は……島で一番美しいネコミミを持っている……。きっと、何か秘密がある……。彼を探るんだ……姉ちゃん……」
さぁっと両手を広げ、ハイは天井を見上げる。彼の三白眼は、美しい煌きを宿していた。眩しい朝陽が、ハイのネコミミを神々しく照らしている。
「ネコミミの秘密……」
ごくりと唾を飲み込み、チャコは艶々と輝く弟のネコミミを見上げていた。
「だからって、何で俺を罠で捕まえる必要があるんだよっ?」
少年が叫ぶ。
灰色のネコミミを持つ彼は網の中に捕らわれ、桜の木に吊るされていた。
「ふふ、観念するのよ。ソウちゃん……」
木に登るチャコは、網の中に手をいれソウタの灰色のネコミミを弄んでみせる。チャコがソウタのネコミミに触れるたび、ソウタのネコミミについた鈴がちりちりと音を奏でた。
チャコの友達であるソウタは、この常若島で最高のネコミミを持つ少年だ。つねに彼のネコミミは青灰色に艶めき、その手触りは絹のように心地いい。
ソウタの義姉であるミミコも、黒い光沢を放つ見事なネコミミを持っている。彼ら義姉弟は、美しいネコミミの秘密を知っているに違いないのだ。
その秘密を、暴く!
「ハイっ!」
「うー……」
チャコは木の下にいるハイに声をかける。ハイはぴょんとネコミミを立ち上げ、手に持ったカバンを掲げてみせた。カバンは、ソウタのものだ。
「ちょ、何するんだよっ」
「探索……ネコミミの秘密……調べる……」
叫ぶソウタを無視して、ハイはソウタのカバンを開け中身を取り出していく。
「色鉛筆……筆箱……パレット……ビートルズの、レコード……」
「いちいちカバンの中身言わなくていいから! と言うかさ、何で俺の鞄調べて、ネコミミの秘密が分かるんだよっ?」
「スケッチ……ブック……」
「ちょ、それは!」
ハイがカバンからスケッチブックを取り出す。ソウタは慌てた様子で手をスケッチブックに手を伸ばしていた。だが、その手がスケッチブックに届くことはない。
「怪しい……。ハイ、調べるのよ!」
「イエッ……サ」
そのスケッチブックに、美しいネコミミの秘密が書かれているに違いない。
そう確信し、チャコはハイに叫んでいた。ハイはネコミミを折り曲げ、チャコに応える。
「うぅーー!」
スケッチブックを開けたとたん、ハイは叫び声をあげ両手で顔を覆ってしまった。
「どうしたの、ハイ!」
「うぅ……うぅ」
ぴょこぴょこっとネコミミを動かし、ハイは地面に落としたスケッチブックを指し示す。
「ソウタの……エッチ」
「これは……」
「いやー!」
ソウタは悲鳴をあげ、ネコミミでがばりと顔を覆ってしまう。地面に落ちたスケッチブックを、チャコは呆れた眼差しで見つめていた。
開かれたスケッチブックには、捲れたスカートを両手で押さえつける白ネコミミの少女が描かれていた。少女は、チャコの親友であるハルだ。
ハルの捲れたスカートからは、フリルが愛らしいパンツが覗いている。
繊細なタッチで描かれたパンツには、デフォルメされたラパーマロングヘアの可愛らしいイラストがプリントされていた。その横に、純白最高! と鉛筆で殴り書きがしてある。
「すっごい、パンツ描き込まれてる……。その、絵うまいね……。ソウちゃん……」
「出来心だったんだ! 木の上に登ってスケッチしてたらたまたまハルが通りかかって、風が吹いてスカートが捲れて! 気がついてたらすっごい勢いで描いてて! 無意識の行動だったんだ! 悪気はないんだ!! だからお願い! ハルには黙ってて!」
両手で顔を覆いながら、ソウタは叫び続ける。にやりとチャコは笑いソウタに囁きかけた。
「ネコミミが艶やかな秘密教えてくれるなら、黙っててあげるよ」
「教える! 教えるから! たぶん、義兄さんが贈ってくるアレのせいだと思うし!」
「アレって何っ!」
「あげるから、黙ってて! お願い!」
両手を合わせ、ソウタはチャコにネコミミを下げてみせる。チャコは笑みを深め、ソウタに言った。
「良いよ。ネコミミが艶やかな秘密、貰ってあげようじゃない!」
これで艶やかなネコミミが手に入る。
チャコは嬉しさのあまりネコミミを震わせていた。
「まさか、ネコミミが艶やかな秘密がオリーブオイルだったなんて。驚きだよね、ハイ」
「古代から……植物性油は……髪の美容と健康に……使われていた。日本でも……椿油を髪の手入れに利用していた……と思う」
オリーブオイルが入った小瓶を弄びながら、チャコはほくそ笑む。その脇で、ハイはゆらゆらとネコミミをゆらしていた。
ソウタと、その義姉ミミコのネコミミが艶やかな理由はこのオリーブオイルにあったのだ。
ミミコの夫であるユウタは、常若島の外で働いている。
そのユウタが勤務先からときおり贈ってくるオリーブオイルを、ミミコとソウタはネコミミの手入れに使っていたのだ。
ネコミミの毛は基本的に普通の髪と同じ性質を持っている。多少の違いはあるが、髪と同じように丁寧にケアしてやれば艶々になる。そう、ソウタはミミコから聞かされたアドバイスもチャコに教えてくれた。
「ふふ、これで私のネコミミも艶々……。モテモテになっちゃうかも」
オリーブオイルが入った瓶に頬ずりしながら、チャコは微笑んでいた。瞬間、ゆれていたハイのネコミミがとまる。
こくりと首を傾げ、ハイは言った。
「姉ちゃんが、モテモテ……?」
「そうだよぉ、ハイ。お姉ちゃん、彼氏ができてハイの相手できなくなっちゃうかも。そうなったらハイ、独りぼっちになっちゃうかもねぇ」
「彼氏……?」
「そ、彼氏……」
「ボク……独りになる?」
「だって、彼氏と一緒なのに弟と遊んでなんかいられないよ。あぁ、ネコミミ艶々になったら、カッコイイ彼氏出来るかなぁ。私も恋ができるんだぁ」
カッコイイ男の子と素敵な恋が出来るかもしれない。そんな想像に胸を膨らませ、チャコは瓶を思いっきり抱き寄せていた。
その脇で、ハイはしゅんとネコミミをたらした。そんな寂しげなハイの様子に、チャコは気づくことができなかった。
「どうして! 何で! 何で艶々にならないの、ソウちゃんっ?」
「そ、そんなこと言われても……」
教室にいたソウタに、チャコは迫っていた。
涙を浮かべるチャコのネコミミはすっかり艶を失い、ぱさぱさになっていた。
ソウタから貰ったオリーブオイルを使い続けた結果、チャコのネコミミは前にも増して酷いものになってしまったのだ。
「どうしてなの、ソウちゃん?」
「うわっ」
がしっとチャコはソウタのネコミミを両手で掴み揉みしだく。ソウタのネコミミは前にも増して艶を増しており、その手触りは絹のように繊細だった。
「あぁ、気持いよ! ソウちゃんのネコミミ気持ちいよぉ! どうして! どうして、私はパサパサのままなのっ?」
「やめてっ! やめてよ、チャコ! 痛い、引っ張らないで!」
ソウタのネコミミを堪能しながら、チャコは涙を流していた。
同じオリーブオイルでネコミミをケアしているのに、どうしてこんなに差が出てしまったのだろう。それどころか、チャコのネコミミは酷い状態になっている。
自分はただ、艶々なネコミミが欲しかっただけなのに。
「ソウタ……悪くない……」
背後から不意に声をかけられ、チャコは手をとめる。振り返ると、ハイが眠たげな三白眼をじっとこちらに向けていた。ハイのネコミミも艶を失い、ぱさぱさとしたになってしまっている。
チャコと同じオリーブオイルを使ってから、美しかったハイのネコミミもすっかり酷いものになってしまった。
みすぼらしくなったネコミミをしゅんとたらし、ハイは言葉を続ける。
「ボクが悪い……。ボクのせい……。ソウタ、いじめないで……」
うるっとハイは三白眼に涙を滲ませた。驚いて、チャコはビンとネコミミを立ち上げる。
めったに泣かないハイが、涙を流している。
「ハイ、どうしたのっ?」
チャコはソウタのネコミミから手を放し、弟のもとへと駆け寄っていた。
「うぅ!」
そんなチャコに、ハイはひしっとしがみついてくる。
「うぅ……姉ちゃん、ボクの……ボクの。独りヤダぁ……」
チャコの胸元に顔を埋め、ハイはネコミミを震わせながら泣き出してしまった。
「ちょ、ハイってば、泣いてちゃわかんないよ……」
「ごめんなさい……。ボク……ソウタにもらったオリーブオイルの中身、変えたの……」
「どうして、そんなこと」
思わず、チャコはハイの顔を覗き込んでいた。しゅんとネコミミをたらし、ハイは涙に
濡れた眼をチャコに向けてくる。
「ネコミミ艶々になったら、姉ちゃん……モテモテ……。姉ちゃんに彼氏ができたら、ボク、ボク……。うぅー! イヤイヤ! 姉ちゃん、ボクの! ボクの!」
「ちょ、ハイっ!」
チャコを抱き寄せ、ハイはぐりぐりとチャコの胸元に顔を押し付ける。
「うぅー!」
「もう、ごめんね……。ハイ」
チャコは苦笑して、ハイのネコミミを撫でていた。ハイのネコミミは使い古されたタオルのようにゴワゴワだ。綺麗だった自分のネコミミを犠牲にしてまで、ハイはチャコのことを思ってくれていたのだ。
「彼氏なんか作んないよ。今は、ハイが私の一番」
「うぅ……ほんと? ボク、独りぼっちにならない……」
「ならない。今は、ハイが私の彼氏だよっ」
ニッコリとチャコはハイに微笑んでいた。
「姉ちゃんの、彼氏……。なんか、微妙……」
ハイがぼそっと言葉を発する。涙の引いた三白眼をチャコに向け、ハイは言葉を続けた。
「姉ちゃん……好みじゃない……」
「ちょ、何なのよソレ! 私が彼女じゃ不満なのっ?」
弟のあんまりな発言にチャコは叫んでいた。そうだと、ハイはネコミミをぴょこりと倒して返事をする。
「はぁーっ? ハイのくせに生意気!」
「姉ちゃんのくせに生意気……。姉ちゃんみたいなアホの子……誰も彼女に欲しがらない……」
「キシャー!」
ネコミミを逆立て、チャコはハイに威嚇してみせる。ハイは臆することなく、無感動な三白眼をじっとチャコに向けていた。
「俺は、チャコのこと可愛いと思うけど?」
そんな二人に、ソウタがぽつりと声をかける。チャコとハイはぐるりとソウタに顔を向けていた。びくりとネコミミを立ち上げながらも、ソウタは言葉を続ける。
「ネコミミが艶々じゃなくてもさ、チャコは十分可愛いよ。チャコの笑顔とか、俺好きだな」
ふっとソウタが微笑む。思わずチャコは、その笑顔に見惚れていた。
「そっかな?」
チャコは急に恥ずかしくなって、ソウタから視線を逸らしていた。ひょこっとネコミミを傾けて、ソウタを見つめる。
「うん、可愛い」
ソウタは灰ネコミミを折り曲げて、そうだよっとチャコに返事をする。チャコは、彼の微笑みから眼が離せなくなっていた。
ソウタはチャコの親友であるハルのパンツを、必死になって描くような男の子だ。それでも、ときどき彼はドキッとするようなことを言っては、チャコをびっくりさせる。
ソウタの何気ない優しさに、チャコは心惹かれることがあるのだ。
「ソウちゃんて、ちょっとカッコいいかも……」
「えっ?」
ぽつりとチャコは呟いていた。ソウタが困惑したように蒼い眼をゆらす。彼はすっと頬を染めて、チャコから視線を逸らした。
なんだか、お互いに気まずい。
そのとき、ポスっとチャコの背中に誰かが抱きついた。驚いてチャコは後方へと振り向く。
ぽよんと動く鯖トラのネコミミが、チャコの視界に映り込む。ハイが、後ろからチャコに抱きついてきたのだ。
「ハイっ?」
「うぅ……」
不満げに唸りながら、ハイは顔をあげる。うるっとハイの三白眼に涙が滲んでいた。
「姉ちゃん、ボクの……。微妙だけど……彼女にする……。姉ちゃん、ボクの彼女にする……」
ぐりぐりとハイは背中に頭を押しつけてくる。チャコは苦笑しながら、ハイのネコミミを撫でていた。
「私も、ハイが一番好きだよ」
「うぅー!」
ハイがぽっと頬をりんご色に染める。
しばらく彼氏は作れそうにないな。そう、苦笑しながら、チャコは愛らしい弟のネコミミにそっとキスをしていた。
2017年11月9日 発行 初版
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