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——この世界そのものがファンタジーのようだ。
そう、一ノ瀬(いちのせ)カズキは思う。
目には見えないが、幽霊だって、妖精だって、神様だって、確かに存在しているのだ。
大学二年生のカズキは、今日の授業を終えて帰路についていた。
バスに乗り、相席になった男子高校生が、リュックから取り出した文庫本の表紙を、さり気なく視線を滑らせて見る。
『ファンタジーの世界で、
俺好みの、エルフな「妹」育ててます…!』
長いタイトルが印象的なライトノベル。
高校生は、カズキの視線には気づくこともなく、さっそく物語の世界に身を投じていく。
——ファンタジーの世界か……
そこには冒険があり、魔法があり、人間とは違う種族が存在していて、特殊なスキルが身につけられる世界。
しかし、目には見えないだけで、このリアルな世界にも、肉体を持たない不思議な者たちが、ひしめくように存在しているということを、カズキは知っていたし、実際に視ることもできた。
例えば妖精。
妖精は恥ずかしがり屋だから目を合わせてくれないし、すぐに隠れてしまうから、人間にとって害はない存在。
逆に幽霊はけっこうギラギラとしていて、波長の合うものをいつも探しているから、知らないふりをして、決して目を合わせないように細心の注意を払う。
そして「神様」は——
できれば、かかわりたくないというのが、カズキの本音だった。
理由は、神様が怒ると、めちゃくちゃ恐いからだ。
カズキは大昔、神に仕える「神使(しんし)」だった。
しかし神の怒りに触れて、人間として転生させられた。イチから修行しなおしてこい、という命令だったに違いない。
カズキは人間という、新たな「生」を受けた。
幼い頃から、人ならざる者の気配を感じ、目を凝らしているうちに色んなものが視えるようになってきた。そして自分が神使だったこと、神の怒りに触れることになった理由の全てを思い出したとき、普通の人間では持ち得ない能力も覚醒した。
カズキは今、この世界の理(ことわり)のような真実を理解しながら、人間として生きている。
——でも、ただひとつだけ…
カズキには、果たしたい目的があった。
それは、自分と共に転生しているはずの、もう一人の「神使」を探し出すこと。
覚醒した時に思い出した、カズキの半身ともいえる大切な存在…
同じ神に仕え、人間の寿命よりも遥かに長い歳月を共に過ごしてきた片割れ。
人間に転生した今でも、その片割れに対する想いは変わらない。
ただただ、そばにいないという事実が、カズキに苦しさを、寂しさを与えていた。
いつからだろうか——
カズキは一人になると、心の中で片割れに語りかけるのが癖になっていた。
夜、寝る前。バスの車窓から流れていく景色を見ているとき、美しい星空や、心地よい風を受けて深く呼吸をするとき、カズキはいつも心の中で呼びかける。
『今、どこにいるんだ?』
『お前も、俺と同じように世界が視えているのか?』
『なあ、どこにいるんだ?』
『会いたい……』
夏が終わりに近づいていた。
この日、カズキは同じ大学の友人、卓也(たくや)からの呼び出しで、陽が傾きはじめた夕刻の商店街を歩いていた。
どこか懐かしさを感じさせる、古びた佇まいの商店街には、提灯(ちょうちん)が連なり、店のいたるところに、夏祭りを知らせるポスターが貼ってある。
卓也の親戚が、この夏祭りを執り行う神社の経営をしているのを、カズキはさっき知ったばかりだ。そしてその夏祭りで使う神輿の準備に人手が足りなくなったとのことで、一日だけのバイトを頼まれた。
特に用事も無かったため、引き受けることにした。しかし、適当な理由をつけて断るべきだったと、カズキはいまさら後悔していた。
——神社に行くのは、怖いな……
人間として生まれてから、神を視ることは未だ無かったが、その存在だけは、はっきりと感じ取ることができていた。
——神ならば、俺がどういう存在なのか見透かしてしまうんだろうな…
だからカズキは不安になる。
人間として転生して、自分はちゃんと魂の修行ができているのだろうかと。
重い足取りのまま、たどり着いてしまった神社の鳥居の前で、カズキは深く一礼をする。
この鳥居をくぐれば、別世界だ。強い神気に包まれるだろう。
カズキは、ごくりと唾を飲む。
一歩を踏み出し、境内に続く長い石階段をのぼる。
澄みきった温かなエネルギーが濃くなっていき、腹の底がジワリと熱を持っていくのがわかる。
見上げた先、境内の手前にそびえる狛犬(こまいぬ)の双眸が鋭く光を帯びていて、カズキは背筋を震わせた。
石階段を登りきると、夕陽で染められた境内に、ひとつの後ろ姿を見つける。
若い女性だ。
夕陽を受けて、黄金に輝く長い髪…
華奢な身体の輪郭。この神聖なる領域にはとても不釣り合いな、ブルーの短い丈のワンピースに、シャツを羽織った格好。スラリと伸びた足に、カズキは思わず視線を彷徨わせる。
踏みしめた境内の砂利の音が響き、カズキに気付いた女が振りむく。
目が合った…
そして、その一瞬でカズキは理解する。
ずっと探して、求めて、何度も何度も心の中で呼びかけていた存在が、目の前にいると——
カズキの中で、何かが聲(こえ)を上げている。
腹の底が熱くて、肉体に内包されている魂が聲を上げている。
——そうだ。
俺が「男」なら、お前は「女」
俺が「太陽」なら、お前は「月」
俺が「光」なら、お前は「闇」
——俺達は、いつも対なる存在だった。
——俺達は……!
吸い寄せられるように、片割れのもとへ、歩み寄る。
ひどく、懐かしい香りがした。
「やっと、会えた……」
自然とそんな言葉が漏れた。
彼女もまた、大きく瞳を見開いて、カズキを見つめている。
よく見ると、とても可愛らしい容姿をしている。
——まあ、昔からお前は可愛かったけどな。
カズキが手を伸ばすと、ビクリと身体を揺らして拒まれる。
「どうした?」
「怪我、してるから。触らないで……」
本当に久しぶりの会話。
「マジか。見せてみろよ」
「嫌だってば……」
「痛むのか? 病院にはちゃんと行ったのか?」
「行ったらヤバイことになるから無理…ってか、あんた、相変わらず心配性だね」
「そっちこそ、相変わらずじゃん…」
カズキはそう言って笑おうとした。だが、胸の中心がどうしようもなく熱くて、表情は歪み、涙が滲んでくる。
目の前の彼女を見ると、同じく堪えたような表情で、涙を浮かべていた。
「俺は今、カズキって呼ばれてる。そっちは?」
「マリモ」
「なんだか、ずいぶん可愛らしい名前になったもんだな~」
「うるさいなあ、もう……」
マリモが流れた涙を拭おうと腕を持ち上げると、シャツの袖がめくれて、赤黒く腫れ上がった肌が見えた。
痛々しいそれに、カズキは眉を寄せる。
「マリモ、」
「なによ。急に真剣な顔しちゃって」
「そりゃ、真剣にもなるだろ。ただの怪我じゃないだろ、それ…」
「……」
マリモは俯いて、答えようとしなかった。
——話せない事情があるってことか……
マリモの表情が暗い。
こんなに弱々しい姿の彼女を今まで見たことが無かった。
——人間として生まれて、お前は今、何を抱えているんだ…?
離れていた時間が悔やまれた。
だからこそ、もう離れるわけにはいかないとも思った。
カズキは、決心したように頷いてから、口を開く。
「マリモ、おまえ、今日から俺んちに来い」
「は? あんた一人で暮らしてるの?」
「いや、実家だけど?」
「馬鹿でしょ。アタシみたいなの連れて行ったら、不気味がられるに決まってるし……」
「不気味だって、誰かに言われたのか?」
マリモの表情が強張る。
無理もない、そうカズキは思った。マリモもきっと、自分と同じだ。
目に見えるはずのない存在が視えて、人間では持ちえないチカラが、自分達にはあるのだから——
きっと、そのせいでマリモは苦労することになったのだろう。
——だけど、それが傷ついていい理由にはならない!
「つべこべ言わずに、帰って手当すんぞ!」
カズキはマリモの手を取って歩きだす。
「カズキ、アタシ達は今、人間の世界で生きてるんだよっ」
「ああ、そうだな」
「だから、あんただけには、迷惑かけたくない…!」
「——は?」
カズキの足が止まった。
マリモの言葉が俄(にわか)には信じられなかった。
——だって、俺達は!
マリモも、本当は同じ事を感じているはずだ、そうカズキは思う。
「迷惑かけたくないとか、笑わせるなよ…」
「だけど、」
抗うマリモの言葉を遮って、カズキは言い放つ。
「俺たちは、お互いのことが「神」よりも大切で、
大切すぎて…
職務怠慢で転生させられた、恋人同士だろ?
人間になったくらいで、お前のことを嫌うわけないし、
まして、迷惑とか思わねーし、
やっと…、やっと会えたんだ。
ずっと探してたんだからな…
だから、
つべこべ言わずに、俺についてこい…!」
そう言って、カズキはマリモを抱きしめる。
本当に久しぶりの抱擁だった。
カズキの腕の中で、マリモは「職務怠慢って…」と、肩を震わせて小さく笑う。
「だって、本当のことだろ? チッ、かっこ悪いな」
「そんなことないよ。あんたは、いつでもカッコイイよ…」
それからマリモは「ありがとう」と呟いて、暫くカズキの腕の中で泣いた。
カズキとマリモは、こうして長い歳月を経て、再会を果たした。
そして、この年の神在月(かみありつき)。
出雲を訪れていたカズキとマリモは、奇妙な魂を持つ一人の青年と出会うことになる。
奇妙な魂——それは、人間の身体の中に「蛇神」の魂と記憶が宿っている、歪(いびつ)すぎる存在。
青年の名前は、神林早人(かみばやし はやと)。
この青年と出会って、カズキは改めて思う。
——やはり、この世界そのものがファンタジーのようだ、と。
「じゃあ、気をつけて行ってこいよ、直紀」
「忙しいのに、迷惑かけてごめんね兄貴…」
「大丈夫だ。それに半年間だけだろ? せっかくの機会だ。田舎で思いっきり羽のばしてくるといい…」
瑞波(みずなみ)神社の境内で、兄に見送られ、斉藤直紀(さいとう なおき)は歩きだす。右手には、いつ買ったのかも忘れってしまった、古い旅行用のボストンバッグ。
通い慣れた瑞浪神社の境内から続く石階段を、直紀は降りていく。
——兄貴は羽を伸ばしてこいって言ったけど、まず、無理だろうなあ〜
直紀は、これから再会する者達の顔を思い出し、苦笑いを浮かべる。
半年間という期限付きで、直紀は仕事を休み、東京を離れて小さな田舎の街に移り住む。
普通の会社員であれば、無理だっただろう。
直紀の家は、神社の経営をしている。一馬と違って、直紀は跡取りでは無かったし、十年ほど一般の企業に勤めていた。だから、少しだけ自由がきく。
——だけど、こんな事になるなんてな…
一年前、こういった転機が訪れることを、直紀は想像もしていなかった。
自分の歩んできた人生。そこで出会うことになった者たちによって、導かれるように新たな道に踏み出していく。
——でも、結局、自分が選んだことなんだけどな…
一段一段、石階段を踏みしめる。
この石階段での出来事もまた、一つの分岐になっただろう、そう直紀は思う。
ひとつ、またひとつと、今に繋がる軌跡が脳裏に蘇ってくる。
はじまりは、そう——
直紀は大学で経営学を専攻し、卒業すると同時に、都内の百貨店で働き始めた。
幾度かの部署異動を経て、役職をもらい、そこそこ濃密な時間を仕事を通して過ごしてきた。
一度目の転機。
十数年働いた百貨店を退職したことだ。
だがこれは、もともと決まっていた事でもあった。
直紀の実家は神社を経営している。
瑞波神社を中心に、いくつかの神社の管理や祭事を、斉藤家は仕事としている。
一馬と直紀は、生まれたときから、いずれ神職につくことが定められていた。特に、長男の一馬は瑞波神社の宮司(ぐうじ)になるべく、幼い頃から教育を受けてきていた。
無論、直紀もだ。
ただ直紀は直紀で、別な「想い」があった。
——兄貴を支えていくなら、兄貴と同じじゃいけない……
いつからか、兄の背中を見ながら、そう思うようになった。
何をどうすれば良いのか最初は分からなかったが、とりあえず、兄が経験する事が出来ない世界を見る事。そしてどんな困難を前にしても、冷静に対処できるような強さを身につけること。経営者としての考えを養うこと。それをまず目標にして、直紀は社会に出た。
社会人になって、数え切れないほど、失敗をした。
だが、失敗を重ねた分だけ、養われたものも多くあった。
キャリアを積んで、人を見る目も、物怖じしない話し方も、社会へのかかわり方や繋がり方も、働いていなければ得られなかったものを、直紀は確実に自分の中へしみこませていった。
気付くと社会に出て、もうすぐ十年が経とうとしていた。
——そろそろ、だな。
ずいぶん遠回りをした気もするが、直紀は退職して、本格的に神職の道へと進む。
兄をはじめ、家族も、直紀が来るのを待ちわびていたようだ。
嬉しい反面、二つ目の転機が訪れる。
結婚を前提に付き合っていた彼女のとの別れ——
それは直紀の心に、大きな喪失感をもたらした。
実家で、父と話す母の姿を見て、直紀はふと思う。
——おふくろは、偉大だ…
仕事では厳しく真面目な父も、家に戻るとそうでもない。
そんな父のそばに、寄り添うように立っている母。
父親のくだらない冗談も、かっこ悪いところも、我儘もすべて受け入れて、それでもなお父親のそばにいる。
男の理想の女性像は「母親」というのも、あながち間違いじゃないかもしれない。
自分が甘えて、好きなことをして、彼女のことを一番に考えられなくとも、ただ帰りを待ち、癒してくれる。
どんなに無様でも、かっこ悪くても、傍にいてくれる。
——まるで、おふくろの事じゃないか…
直紀は彼女から別れを切り出されたとき、愕然とした。
自分という存在を受け入れてもらえなかったのだと、ショックを受けた。
斉藤家に嫁いだ後のことを、彼女は不安がっていた。直紀は、彼女の負担にならないようにするつもりだった。
何度か話し合いを重ねたものの、結局、彼女は離れていってしまった。
突然失ったものは、すぐに何かで補えはしない。
ただ直紀は、苦しくなる心の痛みを抱えて過ごした。
——これから俺は、また誰かを愛したり、愛されたりすることがあるのだろうか……
彼女との別れから、半年くらい経った時のことだ。
直紀は夏祭りの準備をひと段落させて、夜もとうに更けた瑞波神社の石階段を降りていた。
ふと、足を止める。
石階段に座っている女性がいたからだ。
——こんな夜中に何してるんだ。
女は缶ビールを片手に持ち、吊るされた赤提灯を見上げていた。
ぐずっと鼻をすすり、肩をわずかに震わせている。吹く風も冷たさを帯びてきた。寒さに震えているのか、
——いや、泣いている…?
赤提灯に照らされた横顔が、寂しそうに、苦しそうに歪むのが見えた。
「そこで、何をしているんですか?」
直紀は声をかけた。
「ごめんなさい! もう行きますから!」
そう言って、慌てた様子で振り向いた女の顔を見て、直紀は驚く。女は直紀がよく知る人物だったからだ。
彼女の名は、未道果歩(みどう かほ)。
直紀が半年前まで働いていた、百貨店の社員だ。
偶然の再会に、彼女も驚いていた。
——未道さんが、何故こんな所に…
知り合いだった事に安堵しつつも、直紀はさっき見た、果歩の苦しそうな表情の理由が気になった。
石階段に座り込んで、缶ビールを飲みながら、果歩と他愛の無い会話をする。
プライベートの彼女に会うのは初めてだった。
赤い提灯の光の中で、浮かび上がるように佇む姿は、職場とはまるで違い、弱々しく、儚く、そして艶やかに直紀の目に映る。
職場での未道果歩は、なんというか…真面目で一生懸命で好感がもてる社員だった。ひたむきに頑張る姿を目にしては、心の中で応援していた。
不意に、直紀は思う。
——誰かを一途に想えるのは、こういう女性だろうか……
瞼の裏に、自分から離れていった彼女の姿が浮かび、息苦しさを覚えた。
どうやら、まだ自分は付き合っていた彼女との別れを引きずっているようだと、苦く思う。
胸の苦しさを押し込むように、ビールを飲み干して、直紀は口を開く。
「未道さん、最近どう…?」
「最近…ですか…」
明らかに表情が曇った果歩の様子に、やはり何かあったのだと直紀は察する。
「俺の勘違いかもしれないけれど、未道さん、さっき泣いてたように見えたから。俺で良かったら聞くよ?」
——話せば、少しは楽になることもあるしな…
何より、職場で顔を合わせていた後輩だ。「他人」というよりは「同志」に近い間柄だった。
先輩として、何か力になれることがあるかもしれない。
直紀の言葉に、果歩はポツポツと話しはじめた。
詳しい内容までは分からないが、仕事の悩みであるのが察せられた。
無理もない、そう直紀は思う。
とくに果歩が所属しているフロアには、癖のある社員が多い。
きっと、苦労する事が多いのだろう。
——でも、未道さんは、ちゃんと向き合おうとしている…
どうしたらいいか悩んで、現実に立ち向かっているのだ。社会人の姿勢としては立派である。むしろ、それさえあれば、何とかなっていくものだと直紀は思う。
「大丈夫。きっと解ってくれる人もいるよ」
——君なら、きっと大丈夫…
「もう俺は見てあげれないけど、応援してるよ…」
「俺も今の職場で頑張るからさっ」
直紀は励ましの言葉を口にする。
口にしながら、ふと自分を顧みた。
——俺は、どうだろうか…
——俺は、未道さんのように、現実に立ち向かっているだろうか…。
無くしてしまったものに、悲しんで、悔やんで、それだけなのではないか。成長どころか、今の自分は「停滞」しているのではないか。
焦燥が、直紀の心にうまれる。
——このままじゃ、駄目だ!
気づかせてくれたのは、目の前にいる自分よりも歳下の女性。
直紀は、熱くなっていく拳をぐっと握り、立ち上がった。
直紀が未道果歩に再び会う事になったのは、それから数ヶ月が経った頃。
瑞浪神社に、ひどく取り乱した様子の果歩が訪ねてきた。走ってきたのだろう、細い肩を上下させて呼吸をしている。
とにかく、ただ事じゃない、犯罪に巻き込まれて逃げてきたのだろうか。
——それか、ストーカー? 金銭関係でのトラブルか?
幸いなことに、此処は神社だ。身の安全は保証できる。
直紀は、とりあえず社務所の一室に案内し、話を聞く事にする。
しかし、そこで果歩の口から出たのは、俄かには信じ難い内容だった。
「神様がいるの、蛇の神様…」
「蛇の神…?」
明かされたのは、彼女の故郷の巳橋(みはし)神社。そこに祀られている蛇神。幼い頃、毎日のようにその神社に通っていた事。そして先日、帰郷したときに訪れた巳橋神社で出会った人物——
「早人さんは、家族と一緒に交通事故に遭って…、その時に巳橋神社の蛇神様が、早人さんを救ったんです…」
蛇神が助けたという人間——神林早人(かみばやし はやと)は、人間でありながら蛇神の魂を宿している。だが、もうじき消えてしまうということ。理由は、時代とともに蛇神への信仰が薄れていき、蛇神の力が弱くなっているため…
——嘘を言っているようには、思えないけど…
理解が追いつかないまま、直紀は果歩の話を聞く。真偽は分からない。もしかしたら、宗教的な何かに関与しているのかと、疑いも持てる。
しかし、ただひとつだけ分かる事があった。
——未道さんは、神林早人を大切に想っている…
それから果歩は、早人が消えないために、合祀(ごうし)という手段があることを語った。
それを聞いて、どうして果歩が自分を頼ってきたか、ようやく理解に至る。
神林早人存在が消える事が無いように、瑞波神社に、巳橋神社の神を合祀して欲しいという事だろう。
必死に縋ってくる果歩に対し、直紀は何とかしてやりたいと思った。
しかし、合祀は簡単な事ではない。
合祀とは、いわば神の引越しのようなものだ。
「まず神社庁に話しをしてみて。それから巳橋神社の宮司から、」
「待って直紀さん! すぐには出来ないの?」
「ごめん。簡単な話じゃないんだ…手順がいる…」
「そんな…」
助けたくても、助けられない。
希望を失ったように、果歩が泣き崩れる姿に、直紀は己の非力さを思う。
どうしようもない現実に対して、それを飛び越える行動力も、知識も、実力も…いくら社会経験を積んだとはいえ、まだまだ足りないものが多すぎた。
——ごめん、未道さん…
直紀が心の中で謝罪を繰り返していると、瑞波神社の境内から鈴の音がした。
果歩がふらりと立ち上がった。
「早人さんが、呼んでる……」
——早人? まさか、蛇神が?
外に向かう果歩の後を、直紀は慌てて追う。
御神灯が淡く照らす境内に、人影が見えた。
——神林早人。未道さんの話が真実なら、彼が蛇神の魂を持った人間…
見た目は普通の青年だった。
「果歩、迎えにきたよ…」
そう言って、早人がこちらを見る。
暗闇よりも、さらに漆黒の瞳が濡れたように輝き、視線がぶつかる。
刹那、直紀は戦慄した。
——神だ…!
理由など無い。
吹き抜けていた風がぴたりと止み、張り詰めた空気が辺りを満たしていく。
さらに早人と果歩の背後から、浮かび上がるように若い男女が現れる。
まるで「これ以上、近寄るな」と言うように、直紀を睨んだ双眸が金色の光を放った。
直紀はその場で膝を折る。
背中を冷たい汗が伝っていくのが分かった。
——俺は今、神の前にいるのか…
地面に手をついた直紀に向かって、早人が口を開いた。
「そんなに畏まらなくていいよ。オレは確かに蛇神の魂を持っているが、所詮…人間なんだ。ここの神の足元にも及ばない…」
澄んだ声音が、ほんの少し悲しげに響いた。
それからの事を、直紀はよく覚えていない。
ただ——
果歩のそばには蛇神がいたこと。そして、その人間の姿をした蛇神が、慈しむような眼差しを果歩に向けていたことに、何故か切なく胸が疼いた事。
心配して境内にやってきた兄の一馬に助けらたこと。背中に触れた一馬の手が温かくて、安堵したこと。
それが直紀の中に、いつまでも余韻として残っていた。
季節は巡り、冬が終わった春の始め——
直紀は早朝の瑞波神社の境内にいた。
蛇神の魂を持つ神林早人に会ったあの日から、直紀は神の前で手を合わせるとき、神が自分の全てを見透かしているようで落ち着かなかった。
あれから一度も、未道果歩には会っていない。
しかし、一日として、あの出来事を忘れる事は無かった。
瑞波神社の境内にいると、内側から訳のわからない衝動におそわれる。
——俺は、このままで良いのか? このまま生きていて、良いのか?
自分が生まれてきた意味、それを直紀は強く意識するようになっていた。
何か、大事なことを、自分は見落としているような気がした。
「直紀、ここにいたのか……」
一馬の声がして直紀は振り向く。
珍しく今日の一馬はスーツを着ていた。
「何かあったの? 兄貴…」
「今日は用事があって出掛けてくるよ…」
「そうなんだ。ねえ…兄貴、」
暖かな光が瑞波神社の境内に降り注いでくる。
一馬といると、いつもそうだった。
一馬が境内に立つと、虹が出る。何処からともなく、蝶の群れがやってきたり、芳しい花の香りを風が運んでくる。
奇跡のような出来事を体験する度に、直紀はいつも思っていた。神様に愛されているのは、一馬のような人かもしれない。
だから、聞いてみたくなった。
「兄貴は、自分が生まれてきた意味って知ってる…?」
直紀の問いかけに、一馬は驚いたように目を見開いた後、降り注いでくる光を仰ぎながら言った。
「直紀、お前にだけ俺がずっと秘密にしていた事を言うよ。この世には、幽霊も、妖精も、もちろん神様だって存在している。物心ついた時から、俺はそういう存在が視えていた…」
「兄貴…」
やはりそうだったのか…。驚きはあるが、妙に、納得する直紀。
「そのせいで、俺はよく体調を崩していたんだ。お前はまだ小さかったから、覚えていないだろうけど…ある日、俺はこの瑞波神社の境内で倒れたんだ。すぐに意識は取り戻したんだけど、何故か「目」が見えなくなっていた…」
「目が?」
初めて聞いた話だった。
「ああ。けど普通に、また見えるようにはなったが、それを境に「人ならざるモノ」達の存在は感じるが、視る事が無くなった。お陰様でストレスが無くなった俺は、体調が良くなっていった…。不思議に思ったよ。何故、視えなくなったんだろうって。でも、倒れたときに声がしたんだ…
『おまえは、視えすぎる。
それでは、生きるのが辛いだろう——』って…」
その声は「神」なのではないか…そう思って、直紀は身体を震わせる。
「直紀、俺はね、その時から自分は「神に生かされている」と思っているんだ。全ての人間は意味があるから、お役目があるから生まれてきた、それが事実だ——」
そう言いきった一馬の姿を見ながら、直紀は拳を強く握る。
——じゃあ、俺のするべきことは…
目蓋の裏に、あの夜の…蛇神である早人と、泣いていた果歩の姿が蘇ってくる。
「俺たちは代々続く瑞波神社の神に仕える家に産まれてきた。神様には縁があるんだよ。直紀、お前ももう出会っているんじゃないか? 自分のお役目に…」
「兄貴、俺は、」
「ほら、お前にお客様がやってきたようだ。お前にしか出来ない事をやってこい…!」
一馬はそう言ってから、境内に続く石階段のほうを見て、恭しく頭を下げる。
やがて石階段を登って、若い男女が姿を現した。
——あの二人は…!
忘れもしない。あの夜、早人と果歩と共にいた、男女だ。
「久しぶりだね、俺はカズキ」
「アタシは、マリモ…」
二人に声をかけられて直紀はあの夜、自分の身に起こった事を思い出し、また動けなくなった。そんな直紀を見て、一馬は困ったように笑いながら、カズキとマリモに言う。
「まだまだ経験不足なので、どうかお手柔らかにお願いします…」
それから一馬は、直紀の背中を励ますように軽く叩き、去っていった。
「どうして、ここに?」
どうにか絞り出した声は、震えていた。
そんな直紀の様子は気にしていないようで、二人は喋り出す。
「早人は無事だった…」
「果歩ちゃんは仕事を辞めて、早人のところへ行ったわよ」
——未道さんが仕事を辞めた…
自分が知らないうちに、考え、決断を下し、新たな道に進んでいる。
「それでさ、お兄さんも俺達と一緒に早人のとこに行かない?」
「…………はい?」
一瞬、何を言われているのか解らなかった。
「だって、あんた色々と神社のこととか詳しいんだろ?」
「アタシ達、巳橋神社をどうにかしたいと思ってるの」
「だから、手を貸してくれよ…」
なるほど…。事情がなんとなく飲み込めてきた。
確かに、管理が行き届いていない神社は数多くある。
それに対してどうしたら良いのか、直紀の知識なら役立つ可能性が高い。
つまり、巳橋神社の為に働いて欲しいということか…
——まさか、これが、俺のお役目…?
一馬は自分は「神に生かされている」と言った。それでは、神に出会い、ご縁を結ばれた自分に与えられた役目は、
——神様を助ける事なのか? それが、俺のお役目…
「いや、でも、俺も瑞波神社の事があるので、すぐに返事はできません…」
巳橋神社は果歩の故郷にあって、それもかなりの地方だ。距離があり過ぎる。そんな簡単に決める事は出来ない。
「住むとこなら、心配ないよ。早人んち広いからさ〜」
「アタシ達も一緒に住むし、楽しいと思うんだけどな〜」
「…………」
——絶対、騒がしくなる…
直紀は頭を抱えた。
返事は保留にしたが、次の日も、また次の日も、カズキとマリモは直紀のものへとやって来た。
もう逃れる事は出来ない、そう直紀は思った。
一馬に全てを打ち明け相談すると、すぐに「行ってこい」と言われ、渋っていた両親も「半年間だけなら」と了承してくれた。
それからすぐに準備を始める。
神林早人からも連絡がきた。
直紀が来てくれると助かると、そうお礼を言われた。
だが、その後に、
「果歩はもう、俺の恋人だから馴れ馴れしくしないでね」
そう、釘を刺されてしまった。
——半年前には、こんな事になるなんて思いもしなかった…
旅行用のボストンバッグを片手に、直紀は瑞波神社の石階段を降りきる。
直紀にとって、きっとこれが今までの人生の中で最大の転機になったのは言うまでも無い。
「行ってきます…」
振り向き、大きな鳥居の前で挨拶をする。
そして直紀は力強く一歩を踏み出した。
夏の盛り、七月三十日——
毎年この日だけ、喫茶店「NOTTE」は「貸し切り」の看板を立て、一般客の利用を断わっている。
この喫茶店のマスターである、津田幸隆(つだ ゆきたか)は、午前中から一人で厨房に立っていた。
静まった店の中には、幸隆の呼吸と、サイフォンの中で沸騰した液体のコポコポという音だけが響いている。
幸隆以外の従業員は休みだった。幸隆はひとりで予約客を迎える準備をしていた。
陽が傾きはじめ、もうすぐ帰宅ラッシュが始まる時間帯。
幸隆はカウンター席で微睡んでいた。
外は今日も三十度越えの真夏日だったが、店内は空調が効いており、ひんやりとしていて心地が良い。
浅い微睡みは、思考と混ざり合い、懐かしい景色を幸隆の瞼の裏に投影させた。
いつも思い出すのは、幸隆が大学生だった頃。
——懐かしいな…
記憶は鮮明なのに、あえて懐かしいという言葉を選んだのは、月日があまりにも経っているからだった。
幸隆は五十五歳。
生きて、生きて、そうして歳を重ねてきた。
その間に、結婚もして、子供にも恵まれた。悩みは尽きないが、おおむね幸せと呼べる人生だ。
だが、心にひとつだけ曇りがあった。
それは幸隆が大学生の時に出会い、憧れ、恋をした女性のことだった。
微睡みの中で、幸隆は憧れの女性に問う。
——ケイコ先輩、貴女は今、幸せですか?
びくりと身体が震えた。
バランスを崩した身体が椅子から落ちそうになり、幸隆は慌てて右足で踏ん張り、カウンターに手をつく。
どうやら微睡んでいるうちに、本当に眠ってしまっていたようだ。
幸隆は息をついて、顔を上げる。
店内が暗くなり始めていた。
幸隆は立ち上がり、まず外の看板の照明のスイッチを入れる。
看板には「本日貸し切り」の他に「ハッピーバースデー。ケイコ先輩」と書いてあった。
今日の「NOTTE」の主役は幸隆が憧れていた女性——上條恵子(かみじょう けいこ)。
幸隆は、たった一人で、彼女が来るのを待っていた。
幸隆は自分よりひとつ歳上の上条恵子のことを「ケイコ先輩」と呼んでいた。
出会ったのは大学生のとき。同じサークルの先輩だった。
その時、既に恵子には一回りも離れた恋人がいた。
幸隆は恵子と出会ってすぐに、その事実を知ったため、育っていく恋心をどうするべきか悩んだ。
だが幸隆は、未だ将来もわからぬ学生の身分で、恵子を幸せにできるのは自分ではないと、早々に「諦める」という決断をくだした。
愛しいと想う人の幸せをただ願い、恵子の良き理解者という立場を手に入れ、それに満足していた。
恋人の愚痴も惚気話しも、恵子は自分の心の底を晒すように、幸隆には全てを打ち明けてくる。
それだけで、幸隆は満足だったし、恋人よりも深く彼女を受け入れることが出来るのは自分だけかもしれない…そう思うだけで、熱くなる心に蓋を閉めることができた。
恵子が卒業したあとは、会うこともほとんど無くなり、疎遠になってしまった。
しかし、五年前の今日——
再会は突然だった。幸隆の経営する喫茶店「NOTTE」に、恵子が現れた。
閉店した店のドアをノックして、現れた人物を目にしたあの瞬間の出来事を、幸隆は一生忘れることは無いだろう。
暗闇の中で浮かび上がった華奢なシルエット。あの頃、何度見つめても飽きず、美しいと思った曲線を描くまぶたの輪郭。
記憶の中にこびりつくように残っていた、愛しい形との再会だった。
「ケイコ、先輩!」
幸隆が上擦った声を上げると、恵子は微笑みを深めた。
「どうして、此処が…?」
「貴方が店を持ったって、ずいぶん前に聞いたの。遅くなったけど、おめでとう…」
幸隆は恵子を店へ招き入れた。
「閉店なのに悪いわね…」と、恵子は言いながら、カウンター席に腰をおろした。
陽が落ちたといっても、季節は夏で、夜でも気温が高い。
恵子の首筋が薄っすらと汗で濡れているのが見えた。
幸隆はコーヒーを淹れたカップを恵子の前に置く。漂うコーヒーの香りを味わうように、恵子は目を閉じた。
カップを持つ、恵子の白くて細い指に、結婚指輪は無かった。
——まさか独身? ずっと付き合っていた男とは上手く行かなかったか? まあ、ずいぶん前の話しだしな…別れていてもおかしくは無いか。
幸隆も恵子の隣に腰をおろす。
近くに感じる恵子の体温が、なんだか懐かしく思えた。
恵子は口を開いた。
「今日ね、私の誕生日なの。今までの自分の事を考えながらフラフラしてたら、いつの間にか此処に来てた…」
間接照明の薄い光の中で微笑む恵子が、どこか苦しそうで、寂しそうに見えた。
幸隆は思わず聞いてしまう。
「ケイコ先輩、結婚は?」
「……」
恵子は静かに頭を振った。
「幸せになるって簡単な事じゃないのね。結婚して子供を産んで、でも愛する人とも、子供とも…別れてしまった。何よりそういう選択をしてしまった自分が今でも信じられない…せめて、どんなに辛くても、子供だけは手放すんじゃ無かった…」
呻くような低い声で恵子は言った。
幸隆にとって、それは衝撃だった。
愛する男も、産んだ子供もそばにはいない…
——そうか。今、孤独なんだ、ケイコ先輩は……
誕生日にたった一人、何年も会っていなかった幸隆のところへ来た。
まるで誰かに、救いを求めるように。
「子供は今、どこに…?」
「分からない。私、最低な女なのよ、幸隆くん…」
「そんなこと…」
それ以上、恵子は何も語らなかった。
ただ泣きそうな表情をしながら、ぬるくなったコーヒーを少しずつ飲み、たまに「美味しい」と呟いた。
幸隆は、恵子の隣で佇んだまま考えていた。あの頃のように、自分が恵子のために出来ることを考えていた。
しばらくして、恵子は「帰るわね」と言って立ち上がる。
——ケイコ先輩に、俺ができることは…!
去っていく恵子に、幸隆は言う。
「今日は来てくれて有難う、ケイコ先輩。会えて嬉しかったよ。そしてお誕生日おめでとう。来年はちゃんとケーキも用意してお祝いするから、また来てくださいね!」
「幸隆くん……」
——この時間だけは、彼女の一番の理解者でいよう。あの頃と同じように…
幸隆の言葉に、恵子はとうとう、鬱積したものを吐き出すように涙を零し、声を上げて泣いた。
泣いている恵子のそばで、幸隆は恵子が幸せであるように、心の中で、何度も何度も祈っていた。
それから毎年、七月三十日。恵子の誕生日、幸隆は恵子が訪れるのを待っていた。
しかし、この五年間、一度として恵子が来る事は無かった。
——ケイコ先輩、今年はは来るだろうか。
——今年も来ないだろうか…。
来ないほうが良いのかもしれない。
恵子を大切に思う誰かと、時を過ごせていたらそれでいい、そう幸治は願う。
静まりかえった店内。
時はただただ過ぎていく。
とうに営業時間も終了している。
——今年も、来ないか……
幸隆がそう息をついて、片付けるために立ち上がった時、不意に裏口の扉が開く音がする。
誰だろう…恵子ではないはずだ。恵子は裏口を知らないはずだから。
幸隆がバッグヤードに続く扉を開けると、そこにいたのは、この喫茶店でバイトをしている紀村真治(きむら しんじ)だった。
「マスター、すみません。ちょっと忘れ物して…」
苦笑いを浮かべた真治の表情に、幸隆も思わず笑ってしまう。
真治は、役者として活動する傍ら、この店でバイトをして生計を立てている苦労人だ。
一時、役者としての活動を全くしていない期間があって心配したものだが、現在はどうやら忙しくしているらしい。
夢を持ち、頑張っている真治のことを、幸隆は気に入っていた。
「マスター、お客様は? 帰ったんですか?」
「いや、今年も来なかったかんだ」
「そうですか…」
——そうだ。ちょうど良いかもしれない…
「紀村くん、コーヒーでも飲んでいかないかい? ケーキもあるし…」
幸隆の誘いに、真治が気まずそうに視線を彷徨わせる。
「無理にとは、言わないけど?」
「いや、お言葉は嬉しいのですが、外に彼女を待たせていて…」
「おや…」
彼女と一緒だったのか…
幸隆から見た真治は、何事にも一生懸命で、夢を追いかける若者だ。しかもみ見た目もかっこいい。そんな真治の恋人だ、きっと魅力的な女性だろう。
真治の彼女を見てみたい、幸隆の好奇心が湧き立つ。
「良かったら、彼女も一緒にどうだい?」
幸隆の一言に真治は苦笑いを浮かべながら言う。
「実は俺の彼女、マスターの淹れたシナモンカプチーノが好きなんです。だから、多分、喜ぶとは思うんですけど…」
「いいよ。シナモンカプチーノ、ご馳走するよ。連れておいで…」
ということは、真治の彼女はこの店に来たことがあるのか…しかも、シナモンカプチーノ。裏メニューのひとつだ。
真治の足音に続き、コツコツとヒールを鳴らした足音が聞こえてくる。
「お待たせしましたマスター」
そして幸隆の前に、姿を現した女性——
「こちら、沢渡ミスズさんです」
「沢渡です。お招き頂き、有難うございます…」
幸隆は、息をのんだ。
——確かに、店で会った気がする。いや、そうでは無くて…
凛とした佇まい。微笑んだ唇の輪郭。下がった目尻に続く目蓋の曲線…、幸隆が愛しいと思う形。
——ケイコ、先輩……
沢渡ミスズと名乗った彼女の笑顔が、恵子の面影が重なり、幸隆の鼓動が高鳴る。
もしかしたら…いや、恵子と関係があるなんて、そんな偶然が転がっているわけはない、そう心の中で、幸隆は自分に言い聞かせた。
「やっぱり、マスターの淹れたシナモンカプチーノは幸せを感じるわ…」
嬉しそうに笑うミスズに「良かったね…」と、真治が優しい眼差しを向けている。
幸隆は穏やかに笑うミスズを見ながら、今、どこにいるかも分からない恵子の事を考える。
こんな風に、笑っていてくれたらそれでいい。
——ケイコ先輩。貴女は今、幸せですか? 笑顔でいますか?
——どうかどうか、孤独ではありませんように…
幸隆は、何度も何度も、心の中で祈っていた。
「最近、紀村のやつスゲェな…」
手狭なアパートの一室——、二人掛けのソファに座り、缶ビールを飲んでいた海原(うみはら)ミナトが呟いた。
何が? と、橘(たちばな)さゆりは問い返すことはしなかった。
何故なら、さゆりにとって紀村真治(きむら しんじ)は元恋人で、目の前にいる海原ミナトこそが、今のさゆりの恋人だからだ。
昔の恋人に興味を示すことは、いけない事のように思えた。
元恋人である紀村真治と過ごした時間は、決して忘れまいと、心の奥に閉まってある。
将来への不安という事情で真治に別れを告げ、ミナトと付き合う事を選んださゆりは、自分の事を「浅ましくてずるい女」だと思っていた。
真治を傷つけてしまった罪悪感に苛まれながら、心の中で「こんな浅ましくてずるい女」は、真治には相応しくなかったのだろう、そう思うようになっていった。
ならば、どんな人が真治には相応しいのか…
——真治君の心を、汚さない人…。かな?
真治は見た目だけじゃなく、心も美しい、純粋な男だった。
家族から愛情を得られなかったという生い立ちの影響もあるだろう。真治は浮ついた所が一切無く、さゆりの事を大切にしてくれた。
しかし…「役者」として生きていく事を諦めない真治と、安定した未来を望んでいるさゆりは、愛情はあっても、手を携え人生を歩んでいく事は出来なかった。
真治と別れてから一年以上の時が過ぎていた。
最後に真治と会ったとき、真治の心が傷付いているのがわかった。
誰よりも、変わらない愛を欲している真治を理解しながらも、さゆり自らが、彼の心を傷つけてしまったことに愕然とした。
それからさゆりは、罪深い自分を受け入れながら、それでも「幸せになりたい」という願いのまま生きている。
一週間後、ミナトが呟いていた事の理由が分かった。
手当たり次第に見ていたネットの記事に、春から始まる連続ドラマに関するものがあった。そして、出演俳優のなかに「紀村真治」の名前を見つけた。
——まさか、本当に…?
さゆりの鼓動が早くなる。
久しぶりに真治ブログを見る。この一年間、定期的にブログが更新されていた。
劇団に所属し、いくつかの舞台に上がっていた。
そして、オーディションに見事に合格し、ドラマへの出演が決まったこと。そのため今の劇団での舞台は今年で最後になるかもしれないことが綴られていた。
——おめでとう、真治君…
心の中でさゆりは祝福する。
さゆりは真治の演技が好きだった。
自然体なのに、台詞の後の空気を震わせるような、余韻をもたらす演技が好きだった。
演じることに対しての情熱も持ち合わせている。
認められて当然だと、今ならはっきりと分かる。
燻っていた時期が嘘のように思えた。
——久しぶりに、真治君に会いたいな。
直接会う事は出来なくとも、舞台の上の真治にならば会いにいける…
ミナトには内緒で、さゆりは真治が出る舞台のチケットを買った。
少しだけ、罪悪感を覚える。けれど、もともと自分は浅ましくてずるい女なのだ…、そう思うと開き直れた。
劇団 「のらいぬ」
第三回公演 「鍵をなくした妖精」
原作 星樹(セイジュ)
脚本 安西ことり
演出 周防マルタ
音楽 MIWA
【出演】
レイン 紀村 真治
クルス 望月 永
ダークエルフ 大賀 陽平
妖精界の女王 兼子 凛
ラグナ 松田 道太
【ストーリー】
レインは冒険者になり、謎の失踪をとげた両親を探し旅を続けていた。
旅の途中、レインはハーフエルフのクルスと出会い、助けを求められる。
妖精界で嫌われものだったクルスは、罠にかかり人間界にやって来る時に持っていた「鍵」を無くしてしまった。
探しものが得意なレインはクルスと一緒に「鍵」を求める冒険に出る。
「鍵」が意味するものは——
そして、レインとクルスの前に現れたダークエルフは、レインの両親とも繋がりがある人物だった。
孤独の中で、大切な人を、未来を見つけるファンタジー!
クルス
『このまま僕は「鍵」と一緒に消えるよ…』
レイン
『どうしてだ…! お前の本当の願いは消える事じゃないはずだ!』
クルス
『本当の願いなんて…もうどうでも良いんだ。
確かな愛情から生まれたって、今はもう誰も僕を求めない…
最後に君に会えて良かったよ、レイン』
レイン
『クルス、俺は……
お前が、過去の傷ついた俺を救ってくれたことを、一生忘れない。
だから、お前が消えてしまったら俺は哀しい!
明日、もしかしたら、大切な何かに出会えるかもしれない。
明日、大切な気持ちに出会えるかもしれない…、そうやって俺は生きてきた。
そして、クルス——お前に会ったんだ!
生きろ、クルス!
お前はもう、ひとりぼっちなんかじゃない!
俺にとって、お前は大切な存在なんだ——!』
さゆりは、舞台の上の真治に圧倒された。
真治の演技は進化していた。いや、進化の途中なのかもしれない。
まるで何枚も古い皮を、自らの手で無理矢理に剥ぎ取り、新たに形成させどこに向かっていくのかも分からないほど、真治の演技は安定や調和より、破壊と言う言葉が相応しいほど、迫力に満ちていた。
——こんな真治君、私は知らない……
さゆりは胸が熱くて堪らなかった。
観客も、波に飲み込まれるように、真治の演技に陶酔していた。
レインの呼吸、レインの伸ばした指の先までもが、真治の魂から溢れるエネルギーを帯びていて、目が離せなかった。
役者として生きている真治は輝いて見えた。
大盛況で幕は閉じる。
さゆりは、誰よりも早く席から立ち上がった。
ロビーに出ると、同じタイミングで別な扉から一人の女性が出てきた。
さゆりよりも歳上の、三十代半ばくらいだろうか…綺麗な女性だった。
不意にさゆりは、既視感を覚える。
『でも…真治くんは、明日も明後日も、この先もずっと……心の中で泣くんだと思うわ…』
——あの人だ!
最後に真治に会ったあの日。
さゆりとミナトに向かって、涙を流しながら彼女が言った言葉を忘れはしない。
真治と付き合っていた頃、彼の交友関係は把握しているつもりだったが、その女性の事をさゆりは知らなかった。
——あの人は、いったい…
見つめてしまってから、しまったと後悔する。
さゆりの視線に女性が気づいてしまった。
さゆりの姿を見て、少しだけ目を見開いたあと、こちらに向かって歩いてくる。
「あの、」
そして声を掛けられて、さゆりは内心慌てた。
こんな時、何を話せば良いのだろう。
しかし、次の瞬間、女性はさゆりに向かって頭を下げて言った。
「あの時は、失礼なことを言ってしまって、ごめんなさい…」
「いえ! 頭を上げてください!」
さゆりは驚いて、咄嗟にそう答える。
まさか、謝罪されるとは思ってもみなかった——
「あの、真治君を観にきたんですか?」
さゆりが聞くと、女性は「そうです」と頷いた。その瞳が、まだ舞台の余韻に熱く揺れた気がして、さゆりは口を開いていた。
「私は、久しぶりに真治君の舞台を観ました。あの頃とは別人のようにしか見えなくて…正直、すごくて…。まだドキドキしていて…」
——何を言ってるんだろう、私は。
もしかしたら、この興奮を誰かに伝えたかったのかもしれない。
「やっぱり私は、真治君の事が大好きなんだな…って、改めて思いました。今の私が言える立場じゃないって事は分かってるんですけど」
「いえ…」
「だから、何で私は真治君の事を待てなかったのかなって、今さら思ってしまいました」
さゆりは自分の口から次々と溢れてくる言葉に、困惑する。
——これが、私の本心なの?
——私は、本当は真治君の事がまだ…
軽蔑されても仕方がない。
しかし、さゆりの言葉に、女性は微笑みながら少しだけ目を伏せた後、言った。
「真治くんにとって貴女は…これまでも、これからもきっと、変わらず大切な存在なんだと思います」
「え…?」
それから女性はまた頭を下げて、去って行ってしまう。
残されたさゆりは、その後ろ姿が視界から消えるまで見守った。
木調の小さなテーブルの上に、カップが二つ置いてある。
沢渡ミスズは、タブレットを見ながら来週の企画会議の資料のチェックをしていた。
テーブルを挟んで向かい側では、紀村真治が台本を読み込んでいる。
外は冬のにおいに包まれていて、今日も気温が低い。
けれどエアコンで温められた室内は、穏やかな空気と、真治が淹れたシナモンカプチーノの香りに充ちていた。
ミスズはカップを手に取り、シナモンカプチーノを飲む。そして僅かに眉を寄せた。
——やっぱり、味がしない…。
溜息を飲み込んで、再びタブレットに目を落とす。
不思議とミスズは真治の淹れたシナモンカプチーノだけ、味が感じられなくなっていた。他の食べ物や、真治のバイト先の喫茶店のマスターが淹れるシナモンカプチーノは、ちゃんと味がする。
原因があるとすれば、
——さゆりちゃんと、話してからよね…
一ヶ月前、ミスズは、真治の元恋人である橘さゆりに、偶然出会った。
さゆりは真治の舞台を観にきていた。
ミスズはさゆりと言葉を交わしたが、そこで、ある真実に辿り着いてしまった。
『やっぱり私は、真治君の事が大好きなんだな…って、改めて思いました』
——さゆりちゃんは、本当は、まだ真治くんの事が好きなのね……
だからこそ、真治に会いたくて舞台を観にきたのだろう。
よく考えてみれば、真治もさゆりも、お互いが嫌いで別れたわけではない。
単に擦れ違ってしまっただけ…
ミスズから見ればまだ若い二人だ。
人間だし、間違った選択をしてしまう事もあるだろう。
さゆりには今、別な恋人がいる。だが真治に対する想いが消えたわけではない。
——真治くんだって、さゆりちゃんの事を本気で好きだったんだし…
さゆりから別れを告げられなければ、例えミスズと出会ったとしても、真治はさゆりと共にいただろう。
ミスズはさゆりに会い、彼女の想いに触れた日から、真治の瞳が見れなくなっていた。
本当はとっくの前に、心の奥で、ミスズがするべき事は決まっていた。
けれど、それを認めたくなくて、ここまで来てしまった。
——きっと、味がしなくなったのは、いつまでも動かない私への罰なのね…
もう、このままではいられない、そう思う。
テーブルの向かい側に座っていた真治が身じろぎし、ミスズは顔を上げた。
「ミスズさん、冷めちゃったよね。淹れなおしてくるよ」
カップに手を伸ばした真治に、ミスズは首を振る。
「冷めても美味しいから、大丈夫よ」
「そう?」
ミスズが微笑んで頷くと、真治は嬉しそうに笑った。
冷めたシナモンカプチーノを喉奥へ流し込む。例え味がしなくとも、そばにいてくれる真治の優しさは伝わってくるようだった。
ミスズは真治に救われた。
孤独で、寂しくて、どうしようもない心を、真治は見つけて救ってくれた。
他人には明かさなかった境遇を知った上で、ミスズのそばにいると言ってくれた。
真治という存在が、自分に与えられたことが奇跡だと、運命に感謝した。
心の中に張り付いていた孤独が溶けていった。
ミスズにとって真治は、唯一、心を預けた大切な人。
——だから、真治くんには幸せになってもらいたい。
——真治くんに出会えて、本当に幸せだわ…
——そうよ…だから、この気持ちだけで、私は歩いていこう…
「真治くん、私ね、さゆりちゃんに会ったの…」
「え? さゆりに…いつ?」
真治の驚いた表情。
ミスズの胸が切なくなる。
しかし、もう覚悟は決めたのだ。
「真治くんの舞台を一人で観にきてたの…」
「さゆりが、一人で…」
真治がそっと目を伏せる。複雑な色をたたえてはいるが、あくまで、その瞳は優しい。
冷たくなってきた指先を、ミスズはぐっと握りこむ。
「真治くん、話があるの」
「ミスズさん…?」
二人の視線が交わる。
最後くらいは、ちゃんと真治の瞳を見て話がしたい、そうミスズは思った。
「さゆりちゃんは…まだ、真治くんの事が好きよ」
ミスズは言った。とうとう言ってしまった——
真治の瞳が大きく見開かれる。
「当然よね…、真治くんの事が嫌いで別れたわけじゃないんだもの。ただ、少し不安になっただけ…」
ミスズは震える唇で微笑むと、真治に言う。
「だから、さゆりちゃんを迎えに行ってあげて…」
「ミスズさん…」
「今の真治くんなら大丈夫よ。真治くんにとって、さゆりちゃんは大切な人だと思うから…」
そこまで言って、ミスズは立ち上がった。
バッグとコートを手に取る。
「さようなら真治くん。ありがとう…」
呆然とする真治を置いて、ミスズは玄関へ向かう。
——ああ、またひとりぼっちだわ…
真治と出会えた幸せを胸に生きて行こうと、ついさっき思ったはずなのに、全身が寂しさに震えて、痛がっている。
心が「孤独」という重力に押し潰されてしまいそうだった。
堪えていた涙が溢れる。
——私は…私だって真治くんの事が、どうしようもなく好き…
——でも初めから捨てられた存在は、結局、誰からも必要とされないのよ…
「ミスズさん! 待って!」
背後から真治の声がした。
駆け寄ってきてミスズの腕を掴む。
力を失っていたミスズの身体は、簡単に引き寄せられて、真治の腕の中に包まれる。
冷たくなっていた全身に、温かさが広がっていく。
「真治くん…?」
驚くミスズを抱きしめ、真治は言った。
「ミスズさん、俺は、さゆりの所には行かないよ…!」
決して離すまいと、真治の腕の力が強くなる。
「ミスズさん、俺たちは何も持ってない…だから、こんな自分が誰かの事を幸せにはできないんだって、心のどこかで思ってた…」
ミスズの肩口で話す真治の声が震えている。
「俺は今、必死なんだ!
ミスズさんを守るために…
ミスズさんと幸せになるために…!」
——真治くん…
ミスズは真治の手に触れる。
自分と同じで指先まで冷たくなっている。
「私も、真治くんと一緒に、幸せに…なりたい…」
「うん。俺もだよ…」
抱きしめ合ったまま、静かにミスズと真治は泣いた。
それは孤独な魂が寄り添い、溶け合っていく瞬間のようにも見えた。
温かいアパートの一室。
真治は二人分の、シナモンカプチーノを淹れる。
ミスズはカップに手を伸ばし、一口飲む。
——味が、するわ…
苦くて、でも心が落ち着く、シナモンの香りが広がっていく。
そして、目の前には、優しい眼差しでミスズを見つめる真治がいた。
終
2017年11月18日 発行 初版
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葵月さといです。 誰かの心にそっと寄り添えるような文章を書きたくて、ずっと小説を書いていました。 良かったら、読んでみてください。 アメブロやってます⬇︎ http://ameblo.jp/satoi-moon-story