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この本はタチヨミ版です。
也助は尾張織田家の直参弓組の分頭である。
弓組には組長以下八人の頭、その頭の下に八人の分頭がいて、分頭は自分を含めて一六人の弓兵を指揮する。
そして、弓組は弓一番隊から何番隊と組織される。特に信長の直参弓組、直轄の弓兵隊は、後に鉄砲組に改組され、そのうえで手本鉄砲隊という鉄砲の技芸を極めたものたちがいて、名だたる信長の部将の鉄砲隊を指導することになる。
その点で、信長を語るとき、その直参弓組は信長の天下布武の号令の基盤となる武力の源であった。
だが、その直参弓組の分頭である也助の背の指物は、髑髏と矢の印であり、その隊の名を『邪弓隊』と呼ばれる。
「右の肩当てがちょっと緩い」
妻のカシが頷き、紐を締め直す。
也助の家は、織田軍が常備軍化される前の分頭程度の野良仕事をしながら朝と晩に武芸の稽古を磨く者の家としては、やや貧しい暮らしぶりである。
先ほどから夜明け前のもっとも濃い闇から、降雨前と思われる湿った風が壁の隙間を縫って、戦の支度をする三人を締め上げている。
「なあ、市兵衛」
也助は、もう一度鎧、とはいっても竹を編み、紙を糊で固めた上から樹の液で水を防ぐようにしただけの粗末な武装姿で、身体を伸ばしながら傍らの槍を用意している同じような貧しい武者、市兵衛に声をかけた。
「親方様の命は受けた。命がけで、この勝負に出る親方様が、『おまえたちは十分やってくれた』と言葉をくれた」
「そうだな」
「俺は弓を射ることが好きだ。弓を放ち、それが的にネライ通りにのび、的を貫く瞬間が好きだ。それだけが好きで、戦も賭け弓も本当は嫌いだ。
親方様の命を受けて、何人も射殺してきた。
俺は誰が誰かわからん。織田家の内紛だのはさっぱりだ。
だが、親方様に頼まれれば、その通りに射殺してきた。
殺生は嫌だが、親方様を信じてきた」
「あの祭りの夜からな」
市兵衛は槍の具合を確かめると、それをおいて、カシが戦のためにと用意してくれた貴重な鶏の卵と飯に一礼した。
「懐かしいな。あのころ、親方様は吉法師とお呼ばれであった」
「俺たちも若かった。あのころ親方様は家督を継ぐとも思われず、うつけと笑われっ放しだった。
この里に来たのも、この里の池で水浴びをする女どもの裸目当てだった」
「也助、オマエは見なかったな」
「どうにもああいうのは苦手でな。興味がない訳じゃない。でも、あのとき、カシがいてくれたから、そこまで乾いてはいなかった。だから、ばれぬよう見張る役をした」
「あのとき、水浴びをしていた女に惚れて、火照った体が酒を求めた。
親方様は酒が飲めぬ。だから、茶をくれとこの家に来た」
「そこで親方様は興奮していた。そのときだったと思う」
そこに、子供のような顔つきの弓兵が一人、灯明の薄明かりに現れ、「頭、支度できました」と告げて円座の上に座った。
竹と紙の鎧だが、しかし武具には、それも実戦に使う武具には、独特の勇ましさがある。
それに弓を持つ彼は、凛とした頬に、大きな瞳を、支度しながら話す也助に向けて、上がった息を整えている。
「邪弓隊。もともと、気づかれぬように近づき、不意を付いて射殺する我らの弓にはふさわしい名だ。親方様は言った。我らの一矢で、時をこじあけてくれと」
「邪弓隊はあの夜に始まり、そして幾度の暗殺を経て、そして今朝を迎えたな。
辛抱したな」
「おまえもだ」
そこに伝令が入った。分組に伝令が来るなど前代未聞だが、この分組、邪弓隊にはそれだけの配慮がなされていた。
「本隊は熱田神宮に向かいます。貴隊は先発してくれとの仰せです」
「わかった」
也助は答えた口を閉ざして引き結び、弓を取り、弦に指をかけ、引きを確かめた。
「邪弓隊、行くぞ!」
八人の弓兵、四人の従槍兵が『おう!』と声を上げた。
朝といってもまだ闇深いが、この五月の朝は、春にしては、やや風が冷たい。
しかし、引き締まったその風には、真冬にはない草木の匂いがある。
「的は桶狭間の今川義元!
一番的も二番的も義元だ!
ほかは雑魚だ、かまうな!」
「はい!」
「そして、いつもどおり、俺たちが死んだところで、無縁仏にしかならん!」
「はい!」
「死ぬな! 生きて一矢放つまで死ぬな!」
「はい!」
ちなみに一般の弓兵は徒歩である。騎馬の弓兵もよほどのことがなければ行進射はしない。
そして、邪弓隊の本領は、地物を観察し、そのもっとも最適な地点に弓兵の本弓・二番弓と、その二人を守る従槍兵を配置し、敵となる武将を射抜くところにある。
邪弓隊はそこで四つの小組にわかれている。分頭の也助が指揮する一組が先頭に、目的地に進む。
夜明けはまだだが、すこしずつ空気が変わってきた。
大軍勢には、気配がある。
特に、さとられぬように射点を確保し、そっと構えて機を伺う邪弓隊には、その気配は魂をゆさぶる大波として感じられる。
大軍勢だ。
事前に知らされていたのだが、尾張攻めの今川の軍勢は、いくつもの砦を攻略する俊英松平元康、後の徳川家康の三河勢を先鋒に、実に二万とも四万とも見積もられている。
信長には軍師はいなかったとされているが、しかし信長の周りにはその策を立てるための集団がいた。邪弓隊という暗殺に使える狙撃集団とともに、歴史に埋もれた、経済に明るい商家の若衆の集団である。
信長は吉法師時代、賭場で博打を楽しむうちに、彼らと出会った。
彼らを表す言葉もなければ、彼らの役割を理解する史家も当時いなかったため、すべては歴史の闇に消えたが、彼らは基礎的な経済学を使うことができた。
楽市楽座といいながら、良い機能をする座には保護すらした多くの後の経済施策も、彼らが密かに信長に話したことである。
だが、信長はそれを秘蔵とし、それを明かしたことはなかった。
腹心の部下にもである。
そして、その経済の力を生かすことこそが戦乱の世で暴利をむさぼる強欲どもを討ち果たし、働く者に報いる手段だと信長はわかっていたし、のちに出会うルイス・フロイスにしてみれば、なぜ信長が異端児とされるかわからないほど率直で開明的で、合理的であった。
とくに彼ら、若衆はとある資金源とつながっていた。彼らは、それまであまり使われていなかった力を使うことを見つけた。
それは、金の貸し借りである。
ただの借金なら返してしまえばそれで終わりである。金利がついたとしても、返して終わりならそれまでである。
だが、その借金の証文をさらに貸し借りしたら? さらに、その借金の証文を荷物の代わりに持ち歩き、旅先で再び荷物に替えたら? さらに、その証文の貸し借りすらも証文にしたら?
そう、それは為替と投資、金融の誕生であった。
もともとは戦国時代以前、巨大な荘園を経営する寺社仏閣が修行の旅に出る僧侶たちのために考えた方法であった。そのために寺社仏閣は日本のあちこちに同じ宗派の寺社を建立し、地域の平安の祈りをささげながら、旅の僧に宿泊などの世話をしていた。そしてそれが情報網となり、収益組織となり、そして金貸しを始めた。金がなくて出来ない治水工事や開墾事業に融資し、その成果を回収しさらにそれを融資にまわして発展を始めた。そのための金庫として寺社は侵入者に対する防御として門を備え塀を巡らし、小さな城砦のようになった。
そしてそのために各国の市街に各宗派の寺社が並ぶこととなった。さながら現代の金融機関の支店のように。そしてその寺社の借金を、多くの大名が借りてお仕舞いにするか踏み倒そうとするしかなかった。
だが、信長とその頭脳集団たる若衆は、その借金を債権とし、戦国の世を制覇する事業への投資を内々に呼びかけた。
そして、その呼びかけに、とある大口の金主が乗ったのだ。
信長は正直であった。邪弓隊を作る夢を語ったきっかけの祭りの夜の覗きも、元はといえば肉欲であったし、その若き肉欲を語ることは今に至るまで若者の夜の過ごし方である。そのときの信長の言葉も、また率直であった。
ああ、あんな女どもを抱きたいなあ。
あからさまな言葉だったが、それに市兵衛も、ああいう若い女、それも幼型成熟のむっちりした身体は、何とも言えない味がありますね、と答えたのであった。
それを聴き、也助は、俺もそう思っていたよなあと答えた。
殿方は大変ですね、とカシは答えながら茶と酒を用意したが、信長は彼女に手を出さなかった。逆に、ご苦労、とねぎらったのだった。
そのとき、親方様になるというウワサのあった彼、信長を、也助は尊敬した。
あんなむっちりした女が城にいてな。着物を着ててもわかるから、たまらん。
そいつがときどきすねをみせやがる。その奥の太股を思うと、辛抱がきつくて。
ふんじばって襲ってしまおうかと思ったよ。
信長の声は高く、あたりにキンキンと響く。しかも強い尾張弁だ。
隠しようのないその言葉には、武芸が好きでありながら、知性でそれを御する人間の豊かさが感じられた。
そして信長は、どうだ、ちょうど小銭がある、街道の湯屋で遊ぶか? と誘った。
まあ、とカシは言ったが、也助は『男には男のどうしようもない欲があるんだ』と答え、市兵衛に眼で答えた。
「吉法師どの、やつは妻がおります。お供には私が」
「そうか」
信長は也助を見つめた。
「おぬしもなかなか見所の多い男だ。あの田畑に立ててある杭、あれは弓を放つときの距離感を保つためのものであろう。裏庭の弓稽古の的や弓づくりの小屋の具合もまたいい。俺は武芸が好きだ。しかし、荒くれた馬鹿は嫌いだ。その点、弓は爽快で良い。どんな荒くれ者も、一矢のもとに仕止められる」
「恐れながら、そうでもありません」
也助もちょっと濃厚な若者の匂いに、酔ってつい言ってしまった。
「弓を当てるのは力でも狙いでもありません。的にいかに近づくかです。忍びより、間近から放つのです。しかも、放った後は追っ手から速やかに逃げるために従槍の兵に守ってもらわねばなりません。弓とは、時に卑怯なものでもあります」
「そうか」
信長は眼を輝かせて聞き入る。
「邪な弓か。そうだな。邪弓か」
也助は頭を下げた。
「弓道などといって、俺も教わったが、本来の弓はそうかもしれん」
「いえ、申し訳ありません、私の勝手な感覚で」
「そうでもないぞ。ちょっと考えがある。
だが、その前に女を抱きたい。あのたわわにはち切れそうな肉色の身体に槍を突かねば狂ってしまいそうだ。市兵衛ともうしたな、いくぞ」
「はっ!」
二人は夜に消えた。
それを見送ったカシは、深く息をして、その後笑った。
「あのお方、欲情してらしたから、私をむさぼるかと思ったのに、意外に慎んでらしたわ。ちゃんとあなたと私に礼をなさっていた。ほんと、ドキドキしちゃった」
カシはそう言って顔を赤らめる。
「そうだね」
也助は、カシを抱き寄せた。
「大うつけ 意外なほどに つつましき、ということか。よその国では部下の妻を戯れに痛めつける主もいるという。あんなお方がこの国を治めてくれれば、優しい世が生まれるかもな」
「そうね」
そして、真夜中の月に照らされる道を戻ってくる声が、聞こえた。
「邪弓隊だ。いいぞ」
信長の声だった。
「なんですか、それは」
也助がそう聞くと、信長は話し出した。
今までの弓道とは全く別の考え方で、敵の急所をねらい撃つ、真の狙撃弓兵隊。
それが、邪弓隊だった。
隊列も組まず、少人数で、まさに狩りをするように散開し、二名の弓兵は一人が一撃し、はずしたらもう一人が再射撃する。
そして、その二名の弓兵が射終わるまえに、別の二名の弓兵が矢を放って援護し、なおかつ射終わった弓兵を従槍兵が守りながら別の射点に移動する。
それを四組で連携して次々と射続け、敵を混乱のうちに仕止める。
名乗りも上げず、密かに近づき、密かに逃げ、密かにまた射る。
その発案に、三人は、身分が違っても興奮した。
そして、也助と市兵衛は、幼なじみの仲以上に連携を考え、身体に仕込んだ。
もともと也助の家は狩人の家だった。
だが、也助は峠を越えようとして無理をしたカシに出会い、命を救ったところ、里に暮らしたく思った。
也助自身、父に連れられて山に入って狩りを覚えたものの、里の人々の暖かさと、冬は凍てつき、夏は虫にたかられる山の生活のめまぐるしさに、心がついていけなかった。
確かに狩りは覚えた。
もっとできる技もあるだろう。
だが、それを毎日は出来ない。
そして、この廃屋となっていた農家に棲み付き、野良仕事と開墾を始めた。
それにいつのまにか市兵衛も加わっていた。
市兵衛は、一番槍ならぬ貧乏槍と言われ馬鹿にされていた。
この戦乱で父母の記憶も忘れていたが、槍の技芸だけは忘れていなかった。
市兵衛は居候としてカシと也助の家にいて、也助の繊細な弓兵としての手では出来ない力仕事に奮迅し、その三人の家は、食っていける程度には作物も取れた。
近隣の家とも力を合わせ、豊かと言うほどではないものの、飢えはしなかった。
だが、土侍の抗争で畑を荒らされることがあった。
それまでこのあたりでは土侍の悪行を止める者はおらず、本来助けてくれるべき領主は織田家だの斯波家だの家督争いだのとあけくれ、不在が多かった。
そこで、也助は弓を使った。
市兵衛が、槍でそれを援護した。
野山を駆けめぐる大猪を一撃で貫く山狩人の放つ矢である。
荒くれ刃物を振り回して人を脅すだけの土侍には、苛烈だった。
矢は、一撃で土侍の首を貫き、勢いがその首をはねた。
土侍どもはおびえきって退散した。
しかし、それを聞いた領主や賭場を開帳する者が、二人を何とか使おうとして、金品をちらつかせた。
それを二人は断った。
カシの身体を気遣った也助は子供もほしがらなかったし、市兵衛も野良仕事の作物を売りに行って手にした銭で街道の湯宿屋で湯女と戯れるだけで楽しかった。
タチヨミ版はここまでとなります。
2017年12月14日 発行 初版
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YONEDENこと米田淳一(よねた・じゅんいち)です。 SF小説「プリンセス・プラスティック」シリーズで商業デビューしましたが、自ら力量不足を感じ商業ベースを離れ、シリーズ(全十四巻)を完結させパブーで発表中。他にも長編短編いろいろとパブーで発表しています。セルパブでもがんばっていこうと思いつつ、現在事務屋さんも某所でやっております。でも未だに日本推理作家協会にはいます。 ちなみに「プリンセス・プラスティック」がどんなSFかというと、女性型女性サイズの戦艦シファとミスフィが要人警護の旅をしたり、高機動戦艦として飛び回る話です。艦船擬人化の「艦これ」が流行ってるなか、昔書いたこの話を持ち出す人がときどきいますが、もともと違うものだし、私も「艦これ」は、やらないけど好きです。 でも私はこのシファとミスフィを無事に笑顔で帰港させるまで「艦これ」はやらないと決めてます。(影響されてるなあ……) あと鉄道ファンでもあるので、「鉄研でいず」という女の子だらけの鉄道研究部のシリーズも書いています。よろしくです。