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あるとき、ふとしたことで、ポチは知ってしまう。宝のありかを。みんなは「知ってる」「わかってる」って言うけど、ポチはどうしても納得がいかない。知ってたらもっと喜ぶはずだと思うから。だからポチはほえる。「ここほれ! わんわん!」て・・・
でもたかがポチ。ポチの言うことなんかに誰も耳をかさない。ただうるさいだけ。興味もない。忙しくてそんなことにかまっているひまはないのだ。
それでも、ポチは諦めきれずにほえる。ポチにはそれがいいことなのか悪いことなのかもわからない。でもポチはほえずにはいられない。
そして、ポチの妄想はこう。誰か心優しい人が現れて、
「お~どうした? どうした? そんなにほえて・・・ここになにかあるのか?」
「お~よしよし! わかったわかった。どれどれ・・・?」
「うわあ~!! なんということだ! こんなお宝は見たことがない!」
「みんなを呼んでこよう!」
「お~い! ここにすごいお宝があるぞ~!」
「わあ~本当だ!」
「すごいすごい!」
あふれるばかりのお宝に、集まってきた人はみいんなわくわく。そしたらポチはきっと満足する。そしてそのお宝をどうするかはみんなにお任せするだけ・・・
お宝というのは、真理を探究した人たちが残してくださったもの。それは人生をかけて磨き上げられて、多くの人たちによって伝えられてきた本当にすばらしいお宝。みんなが求めて止まないはずの本物のお宝。このお宝は、それこそ、ほってもほっても出てくるくらいいろいろある。 ポチはもう黙っていられない。ポチの衝動はもう抑えられない。変な犬でしょう? でも、ちゃんとみんなにわかるように伝える能力がないので、ほえるしかない。ポチの声はただただ悲願の声。ポチはただただみんなのキラキラした笑顔が見たい。
それでは、ポチのお気に入りのお宝から紹介します。
お宝・・・スッタ・ニパータ(最古の仏典のひとつ)
ポチにお宝を教えてくれた本・・・釈尊にまのあたり 毎田周一
※ これは、毎田周一先生訳のスッタ・ニパータからの引用とポチのつぶやきです。
一 蛇の経より
二 ダニアの経
三 犀の角の経より
四 農耕するバーラドヴァージャの経より
五 欲望の経より
六 洞窟の八つの経より
七 曲がった心の八つの経より
八 老衰の経より
九 マーガンディヤの経より
十 小さい堆積の経より
十一 大きい堆積の経より
十二 杖をとりあげるものの経より
自分のこだわりを捨てて世間のしがらみから解放されていく。蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
1-1
広がる蛇の毒を薬草で消すように
湧き上がる怒りを後にする
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
1-4
弱い葦の堤を洪水がおし流すように
思い上がりを砕いてしまった
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
あっちにもこっちにも怒っている人がいっぱい。子どもをガミガミ怒るお母さん。お母さんを怒鳴りつけるお父さん。腕組みしてにらみをきかせている先生。手足をバタバタさせてわめいている子ども。あごを突き出してぶつくさ言っているおじさん。そしてみんなちっとも気づかないと、ここでほえている犬・・・
この怒りはどこからくるの? 思い上がり? 人のことや世の中のことを、自分の思い通りにしようとする。でも、この思い上がり(弱い葦の堤)は、洪水(真理の力)によって、ことごとくおし流される。思い通りになんてならない。徹底的にこの思い上がりが打ち砕かれたところに、やっと本当のことが見えてくるのかな?
真面目な牛飼ダニアとお釈迦様の生き様が比べられていく。最後はどうなるかな?
18-1
私は飯も炊き 牛乳もしぼった と牛飼ダニアはいった
マヒー河の辺りに皆と一緒に住み
小屋の屋根は葺かれ 火はともされた
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
18-2
私は怒りを絶ち 荒んだ心を離れた と世尊はいわれた
マヒー河の辺りに 一夜の宿りを求め
小屋はあばかれ 火は消された
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨をふらせるがよい
ダニアはちゃんと働いて家族を養っている、立派なお父さん。マヒー河の辺りに家族や村人といっしょに暮している。みんなとなかよくやるためにはがまんや努力もして、賢く生きている。小屋という自分の支配する場所をもって、そこには、「きっと自分の人生はうまくいく。こんなにがんばっているんだから」と希望の火がともされている。何があってもこの幸せが絶対にこわされないように、万全の備えをしてこの生活を必死で守っている。
一方お釈迦様は自分の心の中に平和を求めて生活している。心の平和を乱すものは、人との関係で起こることを知っている。なので、お釈迦様は労働をしない。家ももたない。人や物を支配したりされたりする関係から離れている。人から食べ物をもらって乞食の生活をしている。しかも人々の恵みに対しても、まったくその人の自由に任せている。自由の人は他の人の自由も絶対に認める人だから。「食べ物をください。」「あげません。」「え~!? なんで~? けちだな!」とはならない。あっさりと他を当たるか、飢えをしのいでいる。お釈迦様の生活には、小さな(自我の)小屋なんて必要ない。真理の世界は無限だから、そんな小屋には入りきらない。自分がその無限の世界に入ってゆくだけ。(何かをあてにする希望の)火も消されているので、雨が降ろうがなにしようが、守らなければならないものもない。そして最後のリフレインは、ダニアの悲鳴のような「もしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい」とは正反対の、堂々としたなんの恐れもない静かな響き。
20-3
あぶも蚊もいない と牛飼ダニアはいった
牛達はよく伸びた草原を歩きまわり
たとえ雨が降ってきてもそれに堪えられる
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
21-4
筏(いかだ)はしっかりと組まれた と世尊はいわれた
激流を渡ってすでに彼岸に達している
筏の必要はもはやない
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
ダニアは自分の築いたこのくらしをこのまま守り、更に発展させていくことに意欲を燃やしている。しかし・・・
お釈迦様は住まわれた祇園精舎をいつまでも守ろうとしたかどうか? 聖徳太子は法隆寺を永遠でなければならないなんて思っておられたかどうか? それぞれ諸行無常と言われるように、いつかときがくれば滅んでゆくのが自然だと思っていたんじゃないのかな。社会も、国家も、世界も、どうしたらいいとかこうしたらどうかとか、そんなことはお釈迦様はきっと夢にも思われなかった。ただただ真理にしたがってゆく筏にのって、怒りや欲望が渦巻く激流の世の中を渡ってしまっている。もう「真理にしたがわなければ」なんていうこだわりさえも必要なくなっている。同じマヒー河の辺りに立ちながら、地上にへばりついて立っているダニアとは全然違う方向を見ている。
22-5
私の妻は忠実でみだらではない と牛飼ダニアはいった
長い月日を共に住んでまことに好ましく
よからぬ噂など一つもきいたことがない
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
23-6
私の「心」は 忠実で解放されている と世尊はいわれた
長い年月をよく養われ調えられて
道を外れようにも外れようがない
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
ダニアの妻は自慢の妻。ダニアのためによく尽くしてくれる。よい妻をもったことは、ダニアにとっては幸せの大事な条件。これに対してお釈迦様は独立している。29歳のとき家を出てからは家庭もない。
他人をあてにして、他人の条件によって、平和だったり平和じゃなかったりするのは本当の平和といえるかな? 本当の平和は自分ひとりの心の中で築かれるもの。いい奥さんのおかげでかろうじて保っているダニアの平和と、真理に従ってそこから一歩も離れない忠実な心をもつお釈迦様の平和とはまったく平和の安定感が違うんだな。
24-7
私は自分で働いて暮らしをたてている と牛飼ダニアはいった
子供達は一人残らず健康で
人からの小言など一つも聞いたことがない
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
24-8
私は誰にも使われてはいない と世尊はいわれた
求めて得たものでこの世に自由に生きて
働きへの報酬など受け取りはしない
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
自分で働いて暮らしをたてていることで、自分はとても偉いと思っているダニア。本当はたまたま働いて暮らしが立つことになっているだけ。世界が、神様が、真理が、ダニアとなって働いているだけ。世界に生かされているだけ。本当は暮らしをたてられなくなることだってないとは言えない。そして更にりっぱな子供を誇りに思うダニア。きっと「お宅はいいお仕事といい奥さんといい子供さんに恵まれて幸せですね~」と誰からもうらやましがられたことでしょう。でも実はこのことがすごい執着を生んで、ダニアも、ダニアのまわりの人たちも、がんじがらめにしている。なのに、それには全く気づいていない。
しかしお釈迦様はというと、自分の自由のために、よい妻も、よい子供も、よい仕事も、なにも必要としない。すべてのことを世界に任せてしまっている。たとえ食べる物が与えられなくて飢え死にするかもしれなくても、それを恐れていない。本当は、ダニアだって、だれだって、生きるも死ぬも、世界(真理)に任されている。このことが認められなければ本当の自由も独立もない。お釈迦様は誰にも使われない(支配されない)乞食の生活をすることで、このことをみんなにはっきり示されたんだな。
26-9
小牛も 乳を飲んでいる小牛もいる とダニアはいった
子を持つ牛も これから子を持つ牛もいて
牛達の王である牡牛もまたいる
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
27-10
小牛も 乳を飲んでいる小牛もいない と世尊はいわれた
子を持つ牛も これから子を持つ牛もいないし
牛達の王である牡牛も ここにはいない
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
今度はダニアは財産について誇る。自分はこんなにたくさんの牛たちを所有していると。でも、本当は牛たちだってなんだって、誰のものでもない。天からお預かりしているもの。それなのに、自分のものとして所有するとか、支配するとか、おこがましいとは思いませんか? そして、真理というのは無常だ。いつダニアからこの牛達を取り上げるかなんてわからない。
で・・・お釈迦様はというと、ダニアとまったく同じようにして、正反対のことをおっしゃられるんだな。26-9をダニアっぽい声で、27-10をお釈迦様っぽい声で、読んでみよう・・・ふふふ・・・・・なんだかちょっと皮肉っぽくて、おもしろい方なんだな。お釈迦様は・・・。
28-11
杭は深く揺るがぬように打ち込まれた と牛飼ダニアはいった
ムンジャ草の縄は新たにしっかりとなわれた
小牛達がそれを到底切ることの出来ないように
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
29-12
牡牛のように束縛を絶ち切った と世尊はいわれた
象がつる草を踏みにじってゆくように
私はもう二度と母胎に帰ることはない
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
さあさあ、いよいよダニアの執着はますます強くなってきちゃった。なにがなんでも手に入れた財産を手離したくないダニア。つかんで離さないその手を強めれば強めるほど、自分もますます自由を失って身動きできなくなるんじゃないのかな? そんなのは苦しくないのかな? だいたい財産全部お墓の中まで持っていくつもりなの?「子孫のために美田を買わず」ということわざもある。支配しようとすると、逆に支配されるということに気づかないダニアの努力は、正反対の方向に向かっている。
そこでお釈迦様はおっしゃる。「牡牛のように束縛を絶ち切った」と。ここにしか幸せは、自由はないのだと。執着が強ければ強いほど、切断は無慈悲でなければならないと。そして、次に出ることばは・・・「私はもう二度と人間なんかに生まれたくない!!」この、執念深い人間そのものを切り捨てる恐ろしいことばです。人間の愚かさをさんざん指摘したあげく、その愚かな人間が財産までもって、それにしがみついている、この醜さを徹底的に打ちのめされてしまう。・・・痛い・・・痛い・・・痛い・・・ここでふと我に返る・・・もしかして・・・もしかして・・・ダニアとはこのポチのこと?・・・・・のん気に他人事みたいに言ってる場合じゃなかった。お釈迦様のパンチはようしゃなく、ポチを打ちのめしました。もうお陀仏ですーーー
30-13
平地にも丘にも溢れるほど
みる間に大きな雲が雨を降らせた
神が雨を降らせるのを聞いて
牛飼は次のようにいったー
31-14
私どもが世尊にお目にかかりましたことは
測りしれぬしあわせでございます
「世の眼」に帰依いたします
「大いなる聖者」よ どうぞお教え下さい
32-15
私の妻も私も忠実にお教えに従います
「善く逝ける」あなたの許で清らかな修行をつみ
生と死の彼岸に渡り
苦しみのはてを超えてまいります
いよいよ集中豪雨がやってきた!! 大切に守ってきたダニアの小屋も牧場も牛たちもみんな流されてしまった。無常の真理に直面したダニアはもうお手上げ。
でも幸いなことに、ダニアにはお釈迦様との出会いがあった。このことは、ダニアのいう通り、測りしれない、びっくり仰天の、アメイジングな幸せだ!! この出会いがなければ、ダニアの人生はこれまでだったかもしれない。
そしてダニアは知ったのです。真理にしたがって生きる他に道はない。そして、それがどんなにすばらしい魅力的な生き方であるかを。完全に思い上がりは砕かれて、新しく生まれ変わったダニア。ダニアの新しい人生のはじまりだ!
いよいよダニアの経の結び。世間の立場を悪魔のことばとして、真理の立場をお釈迦様のことばとして、2つのガーターが付け加えられている。
33-16
子を持つものは子ゆえに喜ぶ と罪そのものの悪魔はいった
牛を持つものは同じく牛ゆえに喜ぶ
拠りどころこそ人の喜びである
拠りどころをもたないものに喜びはない
34-17
子を持つものは子ゆえに悲しむ と世尊はいわれた
牛をもつものは同じく牛ゆえに悲しむ
拠りどころこそ人の悲しみである
拠りどころを持たないものに悲しみはない
本当の幸せがどこにあるか、そして、不幸のもとがどこにあるか、はっきり伝えているんだな。
犀の角のように、なにものにもよりかからず生きていく独立者の姿。
36-2
人と触れ合えば愛着が生ずる
その愛着からこの苦しみが生ずる
愛着のもつ危険を見抜いて
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
37-3
友だちや仲間を哀れんだりすれば
心がしばられて(自在の)利を失う
親しみにこの怖ろしさのあることを見抜いて
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
38-4
拡がる竹(の根)がからまるように
人は妻子に愛着する
筍が何にもとりつかぬのをみて
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
39-5
野獣が林の中を捉われなく
どこへでも食を求めてゆくのと同じく
目ざめた人の自在なのを見て
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
ひとりぼっちはさみしい。友だちが欲しい。恋人が欲しい。家族が欲しい。でも気をつけないと、これは苦しみの元になっちゃう。お気に入りの友だちを独り占めしたい。せっかくゲットした恋人を絶対失いたくない。自分の子どもを自分の思い通りに育てたい。そんな欲が出てくる。絶対に自分の自由になるはずのない他人を、自分の思い通りに操作しようとすると、誰もがもっている「自由でいたい。」という気持ちとぶつかる。犀の角のようにただ一人歩いてゆく独立者は、自由な人と自由な人との間には、誰かを自分のものにするとか、思い通りに支配するとかいう関係はないことを知っている。自由な人は相手の自由も絶対に認める人だから。他人のためを思って「よいことをする」なんていうのも、心をしばる捉われだと見抜いているから、冷たいと言われようと、薄情だと言われようと、自分の利己心を満たすための「よいこと」はしない。竹の根のように最も根強くやっかいな執着になりかねない家族との関係にもとりつかない。竹の根を抜こうとなんてすると、ますますからまってきて、こんがらがって、最悪の状態になることもわかっているから、それをどうこうしようとはせず、筍のように、天に向かって瑞々しくまっすぐにのびてゆく。そして、野獣のように、求めるもの(こと)があれば自分から自由に求めていき、思い通りにならなくても、ねちねち文句を言ったり、恨んだり、「なんでこうなるんだ~?!」とじたばた嘆いたりしない。
42-8
この世のどこへ行っても物を傷めず
あるだけのもので満足し
どんな危惧にも堪えて恐れることなく
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
あるがままを尊重する。変な姿をしたものも、自分のせまい価値観で「もっとこうあるべき」なんて言って、無理に変えようとしない。あれも欲しい、これも欲しいと、次々と物を増やして、捨てられずにためこむことは、物に支配された不自由な生活だと知って、少しのあるものを有効に使って生活することを楽しんでいる。そして、命の尊厳を守るためなら、貧乏も病気も世間の目も恐れない。軽蔑されて名誉を失うことも恐れないし、死を恐れてうろちょろびくびく卑怯なまねをしたりもしない。
69-35
独りの生活と冥想との中で
どんな事にあってもいつも真理にしたがって行動し
色々の生存にともなう悲劇を知り抜いて
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
いつも心の中の本当の自分の声に耳をすませている。そして、目の前で起こっていることをそのままに見る。見たまま感じたままにしたがって行動する。そこに「こうするべきだ。」とか、「こうあるべきだ。」というせまい考えを持ち出してきて、無理やり当てはめようとあくせくすることは悲劇だと知っているから。
73-39
慈しみと安らぎと哀れみとのどけさと
心の優しさとの中にいつもありながら
しかも一切の世事に煩わされず
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
何も恐れることのない勇敢な野獣のような人が、世間の人など相手にしないでわが道を行くような人が、実は慈しみと安らぎと哀れみとのどけさと心の優しさとの中にいつもある人? 世間のことは世間に任せていて、利己心のためにしなければならないことは何ももたない。でもいざというときは、他人の困難や苦しみにすぐに手をかすことができる。善人の命も悪人の命も美しいものの命も醜いものの命も、それぞれがそのままに自由に伸びていくことを願っている。
75-41
当てがあって交際し奉仕する友はあっても
無心で一切を許し合う友は今や得難い
自分の利益だけを見ている人は汚らわしい
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
犀の角の経のしめくくりの絶叫! まったく無条件の友。利己心のない、あけっぴろげで正直で命のありのままで、ただ信一つでつながる友を求める呼び声。でもそんな友が得られないのなら、無理に誰かとつながろうとしなくたって、一人で歩いていけばいいんだな。
お百姓のバーラドヴァージャと「自分もお百姓だ」というお釈迦様との対話。
76-1
あなたは自分が農夫であると いわれますが 私どもは誰もあなたが田を耕されるのを見たことがありません
田を耕すとはどういうことですか よくわかるようにあなたが田を耕されるということを説明してください
77-2
信ずることが種子であり 身心をささげることが雨であり 道理を知ることが 私にとってくびきと犂である
恥を知ることが犂棒であり 深い思いがしばる縄であり 目ざめていることが 私にとって犂先と突棒である
お釈迦様の耕す田んぼは心の中にある。その心の田んぼに「信」の種をまく。成長していくには雨が必要。お釈迦様にとっての雨とは、身心をささげること。真理に身を任せること。
そしてお釈迦様は牛に引かせて田を耕すのに使う道具のくびきと犂を「道理を知る」ことだとおっしゃる。ただめくらめっぽうにでたらめに耕すのでなくて、ちゃんとした道具を使う。それは真理に従って無駄なく働く道具で実によくできている。よい働きをするための条件が整っている。それはなにかというと・・・
犂棒=「恥を知ること」これは懺悔。思い上がりをくだいて謙虚であること。頭が下がっているということ。
縄 =「深い思い」これは内省。自分を見て他人を見て、そのバランスをみながら張ったりゆるんだりして働く。
犂先と突棒=「目ざめていること」これは内省に必要な鋭い感受性。新鮮で先入観がない。見たまま感じたままで、自分の都合で決めつけることがない。これらがお釈迦様の、「信」を育てる農業で必要なもの。
79-4
努力が私にとってくびきをかけた牡牛であり
これが究極の安らぎへと連れていってくれる
それは後戻りしないで進み そこへゆけばもはや悲しむことはない
努力が牛? 安らぎの世界へ連れてってくれる? 努力が安らぎにつながっていく? それは自力的な努力ではなくて他力的なものなんだな。牛に引かれるように、自然に導かれていく。だから後戻りはしないで進んでいく。真理の力に導かれて、真理の呼び声に目覚めて、力強く進んでいく。いやいや引っ張られて行くのではない。一心な姿。だれに認められたいのでもなく、ただ純真にやらずにはいられないもの。そして、それに従っていけば、悲しみのない安らぎの世界へ行ける。それを信じているからこそ、心はそこに集中していけるんだな。
80-5
この耕作はこのように耕作され それはまことに甘美な実を結び
この耕作を耕作することによって すべての苦悩から解き放たれる
さて、こうして育てられた「信」は、どんな実を結ぶのでしょう? それは苦しみから解き放たれて自由になること!「信」の種が育って「自由」の実になる。なんとみごとな例えなんでしょう?!
ここでこのお話に感激した修行者が、お釈迦様にお食事を差し上げようとすると?
81-6
詩を唱えて(教を説いて)与えられる物を 私は食べてはならぬ
真理を見る者にとって バラモンよ これはしてはならぬことである
詩を唱えて与えられる物を 自覚者たちは斥けられる
真理の存する限り バラモンよ そこに生活の仕方がなければならぬ
82-7
そして迷いと執着とを離れ 悪行を鎮めてしまった完き人ー
何ものも侵すことの出来ないその人には
それとはすっかり違った食べ物と飲み物とで仕えねばならぬ
そうすることこそ優れたよい働きを得たいと思う者にとって
それの生れて来る田地なのである
お釈迦様は詩を唱えて(教を説いて)そのお礼に食事をもらおうなんて、夢にも思っておられない。お釈迦様は報酬を得るための労働をなさらない。人とかけ引きとか、取り引きとかをいっさいされない。すべての行いは絶対の自由な意志によるもので、他人にもこれを求められる。ただ差し上げたいから差し上げる。自主的に喜んで与える「喜捨」だけを望まれる。お釈迦様は迷いやとらわれによる関係に、相手をおちいらせたくないから「いりません」も「あげられません」も、あっさり言い合えてあとくされのない関係を求められるんだな。
放っておくと人間の苦しみのもとになってしまう欲望について。
769-4
田畑と敷地と黄金と あるいは牛馬や奴隷や召使いや
婦人や親戚など 様々のものを無闇に欲しがる人は
770-5
その欲望に支配されて無力となり
困難にぶつかってはそれに踏みにじられ
壊れた船に水が入って来るように 苦しみが後を追いかけて来る
771-6
だから人はいつもはっきりした気持ちで
色々な欲望を避けねばならない
船から水を汲み出すように それらの欲望を捨て去り
盲目の命の流れを渡って 彼岸へ到達せねばならぬ
恐ろしいですね~恐ろしいですね~恐ろしいですね~! 3回も言っちゃった! 一面的な欲望で頭がいっぱいになって、それをなにがなんでも満たそうと躍起になっていると、その無理がたたってなにもかもうまくいかなくなる。それでもまだ気づかずにジタバタしていると、最悪の事態になる。壊れた船にどんどん水が入ってきて、最後は「ぎゃー! どうしてこうなるの?!」と叫びながら沈んでいく。あ~こわいこわい・・・そうならないためにも、いつも気をつけて、欲望の水が船に入り込んできたら、少しずつかき出していかないと。
恐ろしい欲望から逃れるには? そのせまい洞窟に閉じこもってないで外へ出ておいで。
776-5
この世のことを色々にあがき求めて 却ってそれの餌食となり
そこでふるえおののいている人達を私は見る
この惨めな人達は
あんな生活もしたい こんな生活もしたいと願い求めて
将に呑み込もうとする死神の口の前で
子供の片言のようなことをいっている
またまたこわいよ~! お釈迦様から見たら、人間の言っていることは、みんな「子供の片言」。「ウマウマチョーライ」みたいな・・・しかも死神の口の前で・・・。偉そうな顔をして、大まじめに、自分の言っていることが絶対正しい! なんて言っているのは、みんな子供の片言だって! もう頭の中がそうなっているからどうしようもないんだって。どうしたらこの悲劇から抜け出せるのかな?
777-6
この世にわがものというべきものがあると思って
涸れた川の水のない処にはねかえっている魚のような人達を見るがよい
それにつけても色々なことにとりつかないで
わがものという考えを離れて生活すべきである
「これは私のもの」「私の築き上げたもの」なんて一生懸命主張している人は、水のない川ではねかえっている魚のようなもの。魚は水によって生かされているんで、水は魚のわがものではない。人は真理によって生かされているんで、真理は人のわがものではない。その真理を自分の思い通りに支配しようとすると、罰としてこのはねかえるような苦しみが与えられる。真理にはしたがうしかないんだな。
779-8
「意識する」とはどういうことかをよく知って盲目の命の流れを渡り
物事にとりついて心を汚さぬ 静かな人は
刺さった矢を抜き なげやりに事をせず
しかもこの世にもあの世にも何の望みもかけてはいない
世界はすべての人の中にある。意識によって、人は世界といっしょに生きている。すべての人がそうやって生きている。くよくよすることなんてない。こせこせすることなんてない。物事にとりつくなといったって、その物事はもうすでに自分の中にある。それをただ温かく抱きしめれば、命は静かに流れていく。この静けさの中で自分を苦しめ続けた煩悩の矢はひとりでに抜けていく。それは、決して「どうにでもなれ!」なんていうなげやりなことではなくて、最も命が満たされること。そこになんの不平不満もなくなる。目の前の真理をただそのまま抱きしめて愛おしむ人に、この世をなんとか改善しなきゃとか、来世にしか望みはないとか、そんな嘆きはないんだね。
人間の曲がった心(偏見)が徹底的にあばかれる。
781-2
自分の好きなことをするばかりだというような
そんな喜びにうつつをぬかしている人が
どうして自分自身の考えを超えてゆくことなど出来るだろうか
こんな人は自分で完全だと思い込んで事を行いながら
自分の知っているだけのことをいうばかりであろう
自分の人生の中で、いろいろな経験を積んでさまざまなことを学んできた結果、勝ち取ったこの「人は好きなことをして生きるべきだ!」という考えを主張する姿。みんなの見本になっているような気になって、肩をいからせているような姿。それは本当に自由を得た姿とは言えないよっていうんだな。そんな主張よりも、ただただ今の自分のありのままを投げ出して、真理の光に包まれてごらんと。
785-6
自分がどんなに物事に捉われているかを知り
自分の考えでは駄目だと気づくのは実に難しい
だから人は自分の立場にこだわって 真理を捨てたりつかんだりする
人は経験豊富、知識も豊富ないい年になってくると、なんでもわかった気になってくる。いろんな立場や考えにしがみついて、世界が、現実が、それでは割り切れない動きをしているのに、どうしてもそれを手放すことができない。自分がどれだけ物事に捉われているかということにも、自分の考えでは駄目だということにも気づくのは難しい。でも本当は、そんな主観的な立場で真理をつかめるはずがない。だからつかんだと思えば捨て、捨てたかと思えばつかむ。迷ってばかり。自分のつかんだ考えなんか、全部かなぐり捨てて、なんにもわかっていない自分ですと、全面的に投げ出せば、きっと、真理はそっくりそのまま抱きかかえてくれる。
死という絶対に避けられない真理に向き合うことで、物や人への執着からの解放へ向かう。
805-2
人々はわがものと思うもので悲しむ
何故ならひとの所有するものはいつもそこにあるものでもなく
又成長する一方のものでもないからー
これを思えば世間の生活に留まってはいられないはずである
人もその命も世界のただ一つの現象。確かなものなんてない。「これは私のもの」と思うものも、いつどうなるかなんてわからない。そして、人も物事も成長するばかりではない。衰えてやせ細ってしぼんでゆく。どんなにしっかりつかんだって、そのうちどこかへいってしまう。真理は無常だ。どんどん流れていく。つかみようもない。
809-6
わがものと思うものと貪り求める人は
憂い悲しみねたむ心を離れることが出来ない
だから安らぎがどこにあるかを見た静かな人達は
持ちものを捨てて行ったのである
ああ、これ好きだな。なんだかすっきりする。いろんなことに捉われて、つべこべぐずぐず言っている人をいつまでも相手にせずに、お釈迦様は行ってしまったんだな。なにもかも捨ててスタスタと・・・
人生は短いんだから、うろちょろしてたら終わってしまう。さあさあ、生命そのものの力強い世界へGО! GО! GО!
マーガンディヤは人間の頭で考えるから、どうしてもお釈迦様の言うことが理解できない。そして変なことを言い出す。
837-3
「『私はこのように説く』ということが抑々私にはないのである
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
この世にある色々の事にとりついてゆく自分であることを知って
私は色々の見解に接しても それを一つも取り上げないことにした
こうして始めて私は自分の中に 平安を見出したのである」
マーガンディヤは、お釈迦様には何か一定の立場や考え方があると思っているんだけど、お釈迦様は、「私にはなんの説もない」と言われる。なにもないんだから説きようがない。手段もなければ方法もない。何かを取り上げたり、考え出したりして、こうすればよいよ。なんて言えることは一切ない。ただただ真理を見て、それに従っていっただけ。何か目的に向かって、それを達成するために手段を考えて実行していくとなると、目的や手段をつかむことになってしまう。それにこだわると真理は見えなくなってしまう。そういうものにとりついていくのが苦悩の原因だと知って、つかんでいるものをみんな手放した。一切を捨てられた。その「無」の中に清らかさを、平安を、見出したんだな。「無」とはなにも無いことではなくて、自然に、そのままあるがままに任すことなんだな。
838-4
「よく考えて確かめられた そのような見解に
とマーガンディヤはいった
そのような見解に捉われないで 静かな人よ
あなたは『自分の内に平安』を見出したといわれますが
そういう意味のことを賢い人達も
こういうことだと説き明かしていられるのでしょうか」
「説き明かしていられるのでしょうか」う~ん、お釈迦様は「説くということはない」って言ってるんだけどな~。マーガンディヤはどうしても、何か方法があって、それを誰かが説く。ということに捉われちゃう。で、お釈迦様はなんて答えるかというと?
839-5
「見解とか 学問とか 知識とか
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
そして徳行とか そういうもので人が清らかになるとは私はいわない
しかし又無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても
人が清らかになるとは 私はいわない
そういうことをすべて捨てて 捉われず
拠り処など何も持たず この世のことに少しも望みをかけぬがよい」
あ~お釈迦様はマーガンディヤの質問は無視しちゃった。「だ~か~ら~、私は説かないって言ってるのに、まだ説くのか? と聞いてくる。しつこいやつだ!」とはならない。そして更にマーガンディヤを解放しようと、ぐんぐん先を行かれる。「見解なんてものに捉われない」からといって、「はいはい、じゃあ無見解がいいんですね?」なんてことじゃあない。「学問」なんかじゃ清らかになれないからといって、「私は学問なんかに興味はない。」なんて主張するのも違う。「徳行では助からない」と聞いて「じゃあ悪いことしてもいいんだ。よし、やってやろう!」なんていうのも不自然なこと。「私はどんなことにも捉われないぞ!」なんていうのも「捉われない」ということに捉われている姿。見解もあり無見解もあり、学問もあり無学もあり、知識もあり無知もあり、徳行もあり不徳もあるということが、同じ一人の人間に同時にある。これが「中道」。これが人間の自然な姿。そのありのままの自然な姿に解放しようとされるんだな。
840-6
「もしもそのように見解とか学問とか知識とか
とマーガンディヤはいった
そして徳行とか そういうもので人は清らかにならぬといわれ
又無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても 清らかにならぬといわれるなら
それは人を惑わす教だと私は思います
ある人々はものの見方で清らかになれると信じているではありませんか」
841-7
「自分の考えにだけとりついて ものを聞いているから
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
執着を離れられず あなたは世迷言をいっている
あなたは今ここではっきりと ものを見ているではないか
そうして私のいうことを人を惑わす教などといっている
あ~マーガンディヤ、怒っちゃったのかな? あれは違うっていうからこれかと思えばそれも違うっていう。それじゃあいったいどうすればいいんだか、さっぱりわからない。そして、そんな教えは人を惑わして混乱させるだけじゃないかと言い出した。さすがのお釈迦様もちょっとムッとされたのかな? そして言われる。「今この真理を目の前にしながらそれを見ていない。それを直感することなく、まだ自分の考えにとりついている。」と・・・。「説かれるのではないよ。自分の考えにあてはめるのではないよ。目の前の事実をそのままに見なさい。そのままに感じなさいと。」
842-8
等しいとか 勝れているとか あるいはまた劣っているとか
そういう比較の立場にたって ものを考えている人は
必ずひとと争うだろう
しかしこのような物を比較する三つの関係のどちらへも揺れ動かぬ人
そういう人には『等しい』とか『勝れている』とかいうことはないのである
843-9
道に達した人は
何をさして『これは真理である』と主張するだろうか
又誰に向かって『これは虚妄である』と争うだろうか
等しいとか等しくないとかいうことのなくなった人が
一体誰と論争を始めるだろうか
みみずともぐらはどっちが優れている? ナメクジとカメムシは? おこりんぼとなきむしは? ノラネコとノラ犬は? お医者さんと大工さんは? お盆とお正月は? そんなことは比べようもない。それぞれにそれはそれであるだけ。賢い人とおバカさん、いい人と悪い人、美しい人と醜い人、そのどっちがいいかと言い争うのも同じ。それぞれが自分で勝手につくった、一面的なものさしで比べているだけ。自分のものさしと誰かさんのものさしは違うんだから、それを主張し合えば当然意見が食い違って言い争いになる。
そして、道に達した人にとって、何かをとくに取り上げて「これが真理だ」なんて主張することはなにもない。「これは虚妄だ」ということもない。うそつきがうそをつくもの真実だし、でたらめな人がでたらめをするのも、おばかさんがばかなことをするのも、狂った人が狂ったことをするのもみんな真実。そして真理というのは無常。流れていく。変化していく。そこにずっと留まってはいない。だから「これはこうだ。」とつかんで主張することはできないんだな。
ちっぽけな人間が自分の立場を積み上げて主張していることかな?
883-6
「一方の人が『まことだ 本当だ』ということを
外の人は『無意味だ 間違っている』といい
みなが自分の説にとりついて いい争っています
どうして道を修める人達が 一つのことを一致していわないのでしょうか」
884-7
「真理は一つであり 第二のものはないと
本当に知るならば それでも尚いい争うことはないだろう
処が彼等は夫々に違ったことを 真理として
それをめいめいでほめたたえている
だから道を修める人達は 一つのことを一致していわないのである」
真理というのは大海のようなもの。人間はただこの真理の大海の中で生かされているだけ。その人間が大海の水を積み上げて、自分のものとしてつかんで、「これが真理だ」「いや、こっちこそ真理だ」なんて言い争うとしたら、それは見当違いな妄想なんだな。そんな人間の愚かさを悟った人は、もう真理の主張者ではなくて体現者。自分の知っている真理は、自分のまわりのほんの一つかみの真理だけで、大海のすべてを知りようもない。だから自分には誰とも言い争う資格なんてないと、自らその土俵を降りたところに、真理は広がっている。土俵の上にいる限り、真理は見えないんだな。
887-10
見解とか学問とか徳行とか思想とか
そういうものに腰をおろして 人を軽蔑し
自分の独断の上に立って 得意げに
『これを知らぬものは 愚か者で 間違っている』といっている
888-11
他人を『愚か者』と見るのだから
自分自身は『正しい』というのである
つまり自分を正しいと認めるから
他人を軽蔑して そういうことをいうのである
889-12
見当の狂ったものの見方をしながら 自分を完全なものと思い
高ぶってのぼせ上り もう心がそれ丈になり
自分をこの世の神聖な第一人者だと自認している
それというのも彼の見方は
自分にとってそんなにも立派な完全なものだからである
人間てこういうものです。気づかないうちにすぐこうなってしまうんです。たたいてもたたいてもいつのまにか思い上がっている。これ、一人もぐらたたきですね。本当は人のことにかまっているひまはないのです。そのすきに思い上がりのもぐらがどんどん顔を出すのです。だからポチは犬になることにしました。
今度は堆積が大きいんだな。
900-6
戒律を立派に守ろうなどと 一切考えず
罪があろうとなかろうと そのどちらの行いも共に捨てて
『清らかである 清らかでない』などと願い求めることなく
静けさということにさえ捉われず 自由に生きてゆくべきである
びっくりだな。青天の霹靂だな。こんなことがお釈迦様の一番古い経典に書かれているなんて。戒律を守ろうとか、罪を犯しちゃいけないとか、清らかでなきゃいけないとか、みんな捉われだから捨てなさいと言われるんですね? そして、「そういう捉われをすべて捨てなきゃいけない」なんていうことにさえも捉われるなと。
901-7
見るも厭わしい苦行の中へ身を投じたり
或いはまた見解や学問や思想の上に腰をおろしたりして
声高に清らかさをほめたたえるものは
あれこれの生き方を願って
生きることを(一面的に肯定する立場から)離れていない
例えば苦行に身を投じる人が、また一定の見解や学問や思想による人が、「これこそが清らかだ」と思い込んでいるところに汚れがあると指摘される。それだって世間の一つの立場に過ぎないと。真理の世界は、そんな相対的な世間というものを超えたところにあって、苦行も見解も学問も思想も、一つも必要とはしないと。
902-8
熱望し 希求するものには その計らいゆえに おののきがある
この世で 死も生もないもの 彼は何におののき 何を求めよう
この世を当てにして、何かを実現しようと熱望して、そのために綿密な計画を立てて実行する。それを実現する力が自分にあると思って。でも、この世界は自分が支配できる世界じゃない。真理の世界。真理は無慈悲で無常。人の熱望も希求もおかまいなし。熱望すればするほど真理をおそれることになっちゃう。こんなにがんばったんだから、絶対実現するはず。実現しなかったらどうしよう? と。これが苦悩なんだな。何かを実現するのは自分ではなくて真理。だからお任せするしかない。そこに展開していく世界に身を任せ、与えられるがままに、奪われるがままに、その展開を味わっていくしかないんだな。
907-13
自在の人には 他に導かれるということがなく
彼は色々の教を考察しても それにとりつきはしない
そのようにして彼には人といい争う余地がない
何故なら彼は他の教を これは特に優れたものだといって
とり上げたりしないからである
もう、スッタ・ニパータは青天の霹靂だらけ。お釈迦様の教えをもとに、仏教という宗教が後世の人たちによってつくり上げられて、更にいろんな宗派ができた。でも、お釈迦様はそれを他の宗教や宗派と比べて、これこそが最上の教えだなんて言って、そこにとりついていくことを嫌われるんだな。キリストだってきっとそうでしょう? いろいろな教えを学んで、それを考察するのはいいけど、それに捉われずに、ただ真理一つだけを見ていきなさい。とおっしゃるんだな。
人は誰かをおどしたり、やっつけたりして支配するために杖をとりあげる。これは世間の悲惨のお話。
935-1
争う人々を見るがよい
杖をとりあげるから 恐怖が生じたのである
私は世間の悲惨を見て 強く心を動かされたが
そのとき感じたままを これから話してみよう
杖をとりあげるとは、争いをふきかけること。杖をとりあげた瞬間に、自分も相手にやられるかもしれないという恐怖が生じる。けんかも、言い争いも、戦争も、みんなこうやって起きる。自分の主観的で一方的な立場を真実として、相手におしつけようとする、支配欲から争いは起こる。この支配欲が恐怖のもとということになる。それなのにそれを分析せずに、人は、相手が杖をとりあげるから、自分を守るためにこちらも杖をとるのだと、単純に考えて、自分は悪くないと思っちゃう。でも本当にそうかな? お釈迦様が見てきた世間の悲惨について、感じたままにお話ししてくれる。そのお話に耳を傾けよう。
936-2
水の少ない処ではねかえっている魚のような人を見
また互いに反目している人達を見て 私は恐ろしくなった
ああ、これは恐ろしいな。水のない処ではねかえっている魚がお互いにらみ合っているって。これ、本来いるべきところにいないから苦しいんだな。本来いるべきところは、魚にとっては水。人間にとっては真理。そして、水は魚を生かす。真理は人を生かす。それなのに、人が真実を自分のものとして支配し、所有し、固定しようとする。本来の呼吸をしていないから息も絶え絶えだし、支配できるはずもない真理を支配しようとするから、ひっくりかえってはねかえる。苦しいだろうな~。しかも、そんなはねかえった魚が別のはねかえった魚とにらみ合って争っている。こわすぎるよ~! 誰か助けて~!
937-3
この世のどこを見ても 確かなことはなく
どの方向もみな揺れ動いていた
私は自分の住み処を求めたが
すでに何かが住み込んでいない処を見なかった
まさに諸行無常ですね。人は、すべてが移り行く世界で、確かな拠りどころを求めて、それを自分のものとして固定してつかもうとする。そして安心しようとする。そこに無常との対立が起こって苦しみが生まれる。固定そのものが苦しみ。苦の住み込んでいない住処なんてどこにもない。だからお釈迦様は家を捨てて、ひたすら真理無常を生きられたんだな。
938-4
そこには必ず行き詰まりがあり
人がそれにぶつかってどうにもならぬのを見て
私は不愉快になった
そうして一見しては解らない矢が
彼等の心中に刺さっているのを見た
行き詰まりとは、自力の人が最後にぶつかる壁なんだな。想定外のことが起きて、支配しきれなくなって、それでもなんとかしようともがく。真理の壁(真理を認識しない人にとって真理は壁)にぶつかって、動けなくなる。真理をそのままに受け入れるしかないってことに気づかずに、嘆き苦しむ姿を見て、お釈迦様は不愉快になったんだな。そして一見しては解らない矢が心中にささっているんだって。
939-5
この矢のささった者は あらゆる方向に駆け回るのであるが
その矢を抜いてさえしまえば 駆け回ったり
はては身動きならぬことにならなくてもよいのである
ばちゃばちゃ騒ぎまわったり、「あれしなきゃ、これしなきゃ」と忙しく駆け回る。自分の欲望のために駆け回っているのに、本人はそれには気づかない。その欲さえ捨ててしまえば、本当はそんなことする必要はないのに。この欲望の矢が抜けさえすれば真理が見えて、どこにもぶつからず、苦しまずにすむ。だけど、その矢がささっていることに本人が気づいていないからやっかいなんだな。この矢を抜くには、真理の言葉を聞くしかない。
940-6
世間では色々の学術を習うのであるが
そんなものによって世間へあれこれと縛りつけられるのではなく
抑々欲望というものが何であるかをよく知って
自分というものがすっかりなくなることをこそ学ぶがよい
これ、教育ってなんなの? 学ぶべきはなんなの? って考えちゃう。
トットちゃんの学校の校長先生が教育理念を聞かれてこう言っていた。
「子どもにとって大切なことは、束縛されない自由な心を持った人間になること。そのためにわれわれは本当のことだけを子どもに伝えること。教育を他の目的のために利用しないこと。」ポチはいいなって思って思わずメモしました。「他の目的」ってなんだろう? 戦時中の「お国のため」とか? 大人たちの利己心を満足させるためとか?
947-13
こういう人が悟った人であり 最高の智慧に到った人である
彼は物事の道理を知って捉われず 世間にあっては正しい道をゆき
そしてこの世の誰をも羨まない
悟った人は、物事の道理になんて捉われないとは言っても、一応それを心得ている。世間の常識とあえて戦ったりしない。それが特別よいことだからというよりは、それが世間に捉われずにすむ一番いい方法だから? 世間から非難されるようなことをしたら、世間との間にいざこざが起こってめんどうなことになっちゃうから? そして、世間で成功している人を羨ましがって、自分もなんとか世間から認められようとか、そういうことにはなんの関心もないんだな。
949-15
あなたが若し過去のことは涸らし尽くし
未来にはあなたにとって何もないようにし
そして現在のことを摑まないなら
あなたは静かな生活をすることになるだろう
過去にどんなすばらしいことをしても、それをいつまでもつかんですがりつかない。逆に、過去にどんな失敗をしようが、それをいつまでも悔やんで引きずらない。未来を当てにして、絶対こうなりたいとか、こんなことをしたいとか、望みをかけてそれに執着しない。逆に、未来にこんなことが起こったらどうしようとか、夢がかなわなかったらどうしようとか、不安がらない。過ぎてしまった過去に捉われず、どうなるかわからない未来も当てにせず、そして今にすがりつこうとするがんばりさえもない。ただただ真理に身を任せてその展開を楽しんでいく。そうすれば心の平安が得られるんだな。
952-18
その人は思い上がりも貪りも持たず
情欲を離れて 万物に対して平等である
とこのように 不動の人のことを
私はほめたたえていうのである
自分を特別扱いして背伸びするのをやめて、一方的で一面的な欲望に支配されず、なにかに執着する心からも離れている。そして、万物というのは・・・善人も、悪人も、おこりんぼも、泣き虫も、いじめっこも、おとぼけくんも、だんまりも、おすましさんも、おっちょこちょいも・・・日本人も、中国人も、黒人も、白人も、年寄りも、子どもも、どろぼうも、おまわりさんも、ぶたも、かえるも、もぐらも、たぬきも・・・この世のすべて。すべてに平等。誰もがきっと心の奥にもっている、「本来の自然なありのままの姿でいたい。」「それを認め合える人と争わずに平和に生きたい。」という気持ちに融け合おうとするんだな。そして、それぞれがそれぞれに、命を輝かせることを望まれるんだな。
ポチは毎田周一先生の「釈尊にまのあたり」という本を読んで、お釈迦様をまのあたりにしました。そしてびっくりしました。お釈迦様というと、仏教とかお坊さん。仏教とかお坊さんというとお寺とか仏壇とかお墓。お寺とか仏壇とかお墓というと、お葬式とかご先祖様。でもここではそういうイメージとは全く別世界の、ただただ真理を探究した一人のお方に出会ったからです。この本を誰かに紹介したくて、小さな本を作って何人かの知り合いに配りました。そしたら、それを読んでくれた一人のお友だちが、語ってくれました。「私はダニアの経を読んで、自分と重ね合わせてしまって涙が出た。」と。そのお友だちは会うたびにバッグの中からテープで補修されて、マーカーが引かれたその本を出しては開いていました。「この本に出会わなかったら、一生気づかないままだった。」と。ポチはその姿に感動しました。自分と同じように受け取ってくれた人がいてうれしかったのです。本当に本当にうれしかったのです。そしてもっともっとほえたくなっちゃったのでした。
二〇一七.十二.四
表紙デザイン ゆうほ
2017年12月15日 発行 初版
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