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だれかに紹介したいわたしのバイブル
「釈尊にまのあたり」毎田周一 ~スッタ・ニパータ 訳と解説~
私はすごい本に出会ってしまった。さりげなく紹介された本だけど、すごいことが書いてあった。私もこの本を誰かに紹介したい。でも、口でうまく説明できない。見せても「難しそうな本」と言われそう。でも伝えたい。すごいことが書いてあるよって。そして誰かとこの気持ちを共有したい。そこで、この本の内容を自分なりにまとめてみることにした。
これは、外ばかりキョロキョロして、息苦しさの原因を探していた私に、ゆさぶりをかけてきた本。
「どこを見てるんだ? ちゃんと目をあけて自分の心の中をみてごらん。」と・・・
するとそこには、うそや、ごまかしや、嫉妬や、愚痴や、不満や、不安や、恐れや、思い上がりや、見栄や、と・・・様々な汚れが。
「まずそれに気づくことが大事だよ。」と・・・
そしてこの本は、厳しいことばや優しいことばで、心の中のごみをひろったり、ほこりをはらったり、雑草を抜いたり、汚れをみがいたりする方法を教えてくれた。そしてぬぐいきれない汚れは愛嬌だから、そのままでいいと、気持ちを軽くしてくれた。心の中が少しずつすっきりしてきて、今までないがしろにしていた本当の自分が喜んでいる。やっと信じられる真の人の言葉がつまった、真のバイブルに出会うことができた。辞書や参考書を片手に、何度も何度も読み返しても、まだまだわからないこともいっぱいだけど、私の解釈はとんちんかんなところもいっぱいあるかもしれないけど、誰かがこの本を読んで、私と同じ気持ちになってくれたらと思うと、わくわくしてしまう。
そんなわけで、私のバイブル「釈尊にまのあたり」を紹介します。著者、毎田周一先生の「スッタ・ニパータ」の訳詞と、毎田先生の解説を読んだ私の心のつぶやきです。
紹介したい本・・・釈尊にまのあたり 全四冊スッタ・ニパータ解説 著者 毎田周一
※ 「スッタ・ニパータ」・・・お釈迦様の教えが書かれた最も古い経典(全5章)
「釈尊にまのあたり」(スッタ・ニパータ第1章・第4章解説 全4巻中第1巻)
第一章 蛇の章より(一~一二のうち、一・二・三)
一 蛇の経
二 ダニアの経
三 犀の角の経
蛇が古くなった皮をするりと脱ぎ捨てていく。自分のこだわりを捨てて世間のしがらみから解放されて。それが蛇の経。
1-1
広がる蛇の毒を薬草で消すように
湧き上がる怒りを後にする
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
私たちのまわりには怒っている人がいっぱい。例えば・・・子どもをガミガミ怒るお母さん、お母さんを怒鳴りつけるお父さん、腕組みしてにらみをきかせている先生、手足をバタバタさせてわめいている子ども、あごを突き出してぶつくさ言っている知らないおじさん・・・などなど・・・
いやいや、人のこと言ってる場合じゃない。自分の心の中に怒りの種がないかよくすみずみまで懐中電灯で照らしてみよう。その怒りがわき上がってきたら、はやく消さないと、蛇の毒みたいに体中にまわって大変なことになる! みるみる顔が真っ赤になって、頭に血がのぼって噴火しちゃう。またやっかいなことに、この怒りを人にぶつけると、ほぼ間違いなく自分に返ってくる。そしてますます怒りはふくれあがる。恐ろしいな。怒りというのは。
それでも人は怒る。この恐ろしい怒りから抜け出すには・・・?
それは、怒っている自分の姿を見ることだって。「やっているぞ。惨めな浅ましいことをやっているぞ。」と。ガラス窓に映った自分の怒った顔を見る。思わず「ギャーッ!!」と叫ぶ。そしたらもう笑うしかない。それで「あーまたやっちゃった。バカだな。」これでおしまい。
2-2
池に生える蓮華を水に潜って切りとるように
愛欲を根こそぎにした
その修行者は この世とかの世を共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
蓮華は愛欲のこと。人にはいろんな欲望がある。「欲望をなくしなさい。」と言われたら、「人間やめなさい。」と言われるのといっしょだ。でも、その欲望に苦しめられるのも事実。 大好きな人を独り占めしたい。自分の思い通りにしたい。でも思い通りにはならない。苦しい。この欲望を抑えようとしてもどうしても忘れることができない。この苦しみから抜け出したい。どうしたらいいの?
「愛欲の根を絶つとは、何とかして愛欲をなくそうとするような、消極的なことではない。」とある。「美しいものを求め求めてついに美の真に触れることである。」と。「真理を仰ぐというこの絶対的立場が、愛欲の根を絶つのである。」と。・・・
よくわからないけど、欲望はなくさなくていいんだね。欲望がなければ何も生まれない。欲望のない人生なんてつまらなすぎる。欲望をすべて消してしまうことなんてできない。欲望を整理して、自分にとって大切な欲望とは戦うのはやめて、「欲望! あっぱれ!」と拍手を送ってあげよう。
3-3
流れる早い水の流れを涸れさせて
渇愛をすべて絶ち切った
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
のどがかわいて水を飲む。でもまたすぐかわいてまたまた水を飲む。さっき飲んだばかりなのに、もっともっと飲みたくなって、またまた水を飲む。きりがない。この、次から次へと欲しがるきりがない渇愛を、流れる早い水の流れに例えている。「どうしたらいいんだ? これを止めるには・・・・?」それは、行き着く先を知ることだって。「あーこのまま飲みつづけるとどうなるのかな? おなかがたぷたぷになって苦しくなってトイレが近くなるだけか・・・」
う~ん、ちょっと違う?「渇愛の急流は『自在』において涸れるのである。」だって。ここがちょっとわからないんです・・・
4-4
弱い葦の堤を洪水がおし流すように
思い上がりを砕いてしまった
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
「弱い葦の堤」は思い上がりのこと。「洪水」は真理の力。人のことや世の中のことをああしよう、こうしようと思い上がっていると、ことごとくその思い上がりは真理の力によって打ち砕かれる。洪水に葦の堤がおし流されるように。
思い通りになんてならないよね。この思い上がりが打ち砕かれないかぎり、本当のことは見えてこないんだね。
5-5
無花果の林に花を求めるように
どんな物にも実体がないことを知っている
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
いちじくは「無花果」と書くから、花がないということかな? 花がないいちじくに花を求めるとは、実体がないのにあると思い込むこと。
鏡のうしろをのぞきこんで不思議がる赤ちゃんがよくいるけど、鏡のうしろにはなんにもない。世の中のことも、ただ起こっているだけ。そこに「これはこういうことだ。」と何かを決めつけて見ちゃう。それは私の勝手な思い込み。ただの勘違い。それが思い上がり。それが苦しみのもとになったりする。
できることは、ただ事実起こっていることにすなおにしたがっていくことだけ。ああじゃないか、こうじゃないかと、余計な詮索をしない。本当のことなんて神様しか知らないんだから。
6-6
心中に怒りを持たず
物事の成ると成らぬとを超えてゆく
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
また怒りが出てきました。だいたい怒りは思い込み、思い上がりからくる。
「こうなるはずだ」「こうすべきだ」と思っても、世の中そう思い通りにはいかない。そこで怒りが生まれて自分も人も苦しめる。
人も世の中もいろんな関係や環境の中でいろいろに変化していくのに。人間の小さい頭で考えた思い込みなんてはるかにこえて、いろいろに展開していくのに。自分の思い通りにいくことがいいとか、思い通りいかなければだめとか関係ないのに。
そんな、物事の成ると成らぬとにこだわらず、「そうきたか~」「へえ~そんな展開もあるんだ~」となすがままにお任せしていけば怒りなんてどこかへとんでいっちゃうのかな。
7-7
どのような思想の持ち合わせもなく
内心のよく調えられた
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
こりかたまった思想がなにもなくて、なんでも起こった事実にしたがっていこうとすれば、「なんでもこい」の「なんでもあり」で、「こうしなきゃ」とか「こうでなきゃ」とかあわてたりさわいだりせず、臨機応変に、新鮮に、落ち着いて、自由に、ありのままに生きていけるのかな。
8-8
行き過ぎずまた後れず
かの妄念(そのもの)に何の捉われもない
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
「明日のことを思い煩うな~」という聖書のことばがある。あしたの心配ばかりしていると、今がお留守になっちゃう。
過去にとらわれるのも同じこと。
大事なのは今このとき。人生は今の連続。「行きすぎずまたおくれず」は、未来を心配したり当てにしたり、また過去にこだわったりせずということなんだな。今に集中すると、エネルギーがあふれてきて、目の前のことに夢中になれる。
わたしたちはみんな同じようにふつうの人。自分だけ特に人よりえらくなろうなんて思う必要はない。過去にこんなすばらしいことをしたとか、将来きっと偉くなってやるとか、そんなことにも捉われることはない。
9-9
行き過ぎずまた後れず
「一切はこれ虚妄」と世間を知って
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
10-10
行き過ぎずまた後れず
「一切はこれ虚妄」と貪欲を離れた
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
11-11
行き過ぎずまた後れず
「一切はこれ虚妄」と情欲を離れた
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
12-12
行き過ぎずまた後れず
「一切はこれ虚妄」と憎悪を離れた
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
13-13
行き過ぎずまた後れず
「一切はこれ虚妄」と愚鈍を離れた
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮をぬぐように
(9~13)
真実の自覚についてくりかえされる。いくら言っても足りないくらい。
親鸞聖人は「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなし」と言われたし、聖徳太子は「世間虚仮」と言われたように、人間は、このうそいつわりの世界に生きているから、自覚してそこを離れないと、真理に出会えないんだな。自分の愚かさを知る自覚が、一番大事な智慧なんだな。
14-14
よからぬ性癖の跡形もなく
不善の根の抜き去られた
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
よからぬ性癖とは物事に執着すること。「これはこうでなければならない。」って目を吊り上げて、絶対自分が正しいって言い張る。それはここでは「悪」なんだな。「善」は、なんにもこだわらず、あっさりして真理にしたがっていくことなんだな。
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それによって世間の生活へ引戻されることになる
あれこれと心配してすることの何もない
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
世間の生活へ引き戻されることになる、あれこれと心配してすることとは?
なんとかして無事に生き続けようとあくせくする。そして、自分に世の中のことや他人のことをよくする力があると思って努力する。そんな人生には苦しみや悩みがつきない。
自分以外の人はみんな自分のために現れた神様の化身で、起こることはみんなその神様が自分の成長のために起こしてくれていると思ったら、それをどうこうしようなんて失礼なことだね。とんでもない思い上がりだね。みいんな神様(真理)に任せておけばいいことで、なんにも心配する必要なんてないんだね。
16-16
生存へ縛りつけられる元になる
愛欲から生ずるものの何もない
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
なんにも縛りつけられるものなんてない。だれの所有物でもない。だれの支配も受けない。たとえばお釈迦様は自分の子どものことを「この子親なし」とおっしゃいました。親なしとは、親の所有物ではない、永遠の生命の子ということ。
人との関係で、支配したり支配されたりして、自分をすり減らすのでなくて、個性と個性が出会ってより豊かになれたらすてき。毎田先生は、「自由の生命と生命とが触れ合い、輝き合い、火花を発して、永遠の生命の大交響楽を奏でているのみ」と書かれている。なんてすてきなことば!
17-17
五つの障害を切り捨てて
安らかに疑いを離れ苦を超えた
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように
いよいよ蛇の経の結びだよ。五つの障害を切り捨てとは?
1 あれもほしい、これもほしい、もっとほしい、とむさぼらず、
2 まったくどいつもこいつもなっちゃいない! と思うようにならないことを怒らず、
3 ああ、どうしてこんなについてないんだろう? って沈まず、
4 困った! どうしよう! とすぐ騒ぎ立てたりせず、
5 人のことも自分のこともあれこれと疑ったり心配したりしない
「これはこうでなきゃ!」と人を咎めたり、自分を責めたりせず、重苦しくなく、開け放たれている。そして何があっても慌てず騒がず腰がすわっていて、こだわりなく、あっさりと、柔軟に自由に行動していく。この世(現世)もかの世(来世)も当てにせず、人との関係もどうこうしようなどと考えず、すべてはあるがままに任せ、一切の固定、執着、こだわり、とらわれを、蛇が朽ち古りた皮をするりと脱ぐように振り払って、悠々と生きていく。これが修行者。
キリストも言ったそうです。「嬰児のごときもの天国に入る」と。また、「心の貧しきものは幸いである。」と。これは、なにもこだわりがない、まっさらな心ということではないかな? 修行者は赤ちゃんのように今この瞬間瞬間に新しく生まれ変わって、初心(うぶ)に生きるのです。私も修行者になりたい。一生かけて。
ダニアっていうのはとても真面目に賢く生きている牛飼いです。この人とお釈迦様の生き方が比べられていく。さて、最後はどうなるかな?
18-1
私は飯も炊き 牛乳もしぼった と牛飼ダニアはいった
マヒー河の辺りに皆と一緒に住み
小屋の屋根は葺かれ 火はともされた
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
18-2
私は怒りを絶ち 荒んだ心を離れた と世尊はいわれた
マヒー河の辺りに 一夜の宿りを求め
小屋はあばかれ 火は消された
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨をふらせるがよい
ダニアはちゃんと働いて家族を養っている、立派なお父さん。マヒー河の辺りに家族や村人といっしょに暮している。みんなとなかよくやるためにはがまんや努力もして、賢く生きている。 小屋という自分の支配する場所をもって、そこには、「きっと自分の人生はうまくいく。こんなにがんばっているんだから」と希望の火がともされている。何があってもこの幸せが絶対にこわされないように、万全の備えをしてこの生活を必死で守っている。
一方お釈迦様は自分の心の中に平和を求めて生活している。心の平和を乱すものは、人との関係で起こる怒りであることを知っているし、怒りのもとは欲望だということも知っている。なので、お釈迦様は労働をしない。家ももたない。人や物を支配したりされたりする関係から離れている。
人から食べ物をもらって乞食の生活をしている。しかも人々の恵みに対しても、まったくその人の自由に任せている。自由の人は他の人の自由も絶対に認める人だから。「食べ物をください。」「あげません。」「え~!? なんで~? けちだな!」とはならない。あっさりと他を当たるか、飢えをしのいでいる。
お釈迦様の生活には、小さな(自我の)小屋なんて必要ない。真理の世界は無限だから、そんな小屋には入りきらない。自分がその無限の世界に入ってゆくだけ。(何かをあてにする希望の)火も消されているので、雨が降ろうがなにしようが、守らなければならないものもない。
そして最後のリフレインは、ダニアの悲鳴のような「もしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい」とは正反対の、堂々としたなんの恐れもない静かな響き。
20-3
あぶも蚊もいない と牛飼ダニアはいった
牛達はよく伸びた草原を歩きまわり
たとえ雨が降ってきてもそれに堪えられる
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
21-4
筏(いかだ)はしっかりと組まれた と世尊はいわれた
激流を渡ってすでに彼岸に達している
筏の必要はもはやない
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
ダニアは自分の築いたこのくらしをこのまま守り、更に発展させていくことに意欲を燃やしている。しかし・・・
お釈迦様は住まわれた祇園精舎をいつまでも守ろうとしたかどうか? 聖徳太子は法隆寺を永遠でなければならないなんて思っておられたかどうか? それぞれ諸行無常と言われるように、いつかときがくれば滅んでゆくのが自然だと思っていたにちがいない。
社会も、国家も、世界も、どうしたらいいとかこうしたらどうかとか、そんなことはお釈迦様は夢にも思われなかった。ただただ真理にしたがってゆく筏にのって、怒りや欲望が渦巻く激流の世の中を渡ってしまっている。もう「真理にしたがわなければいけない」なんていうこだわりさえも必要なくなっている。
同じマヒー河の辺りに立ちながら、地上にへばりついて立っているダニアとは全然違う方向を見ている。
22-5
私の妻は忠実でみだらではない と牛飼ダニアはいった
長い月日を共に住んでまことに好ましく
よからぬ噂など一つもきいたことがない
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
23-6
私の「心」は 忠実で解放されている と世尊はいわれた
長い年月をよく養われ調えられて
道を外れようにも外れようがない
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
ダニアの妻は自慢の妻。ダニアのためによく尽くしてくれる。よい妻をもったことは、ダニアにとっては幸せの大事な条件。これに対してお釈迦様は独立している。29歳のとき家を出てからは家庭もない。
他人をあてにして、他人の条件によって、平和だったり平和じゃなかったりするのは本当の平和といえるかな? もしダニアの奥さんがダニアを裏切ったらダニアはどうなってしまうんだろう? とたんに生きる希望をなくして、不幸のどん底に落ちてしまうんじゃないかな?
本当の平和は自分ひとりの心の中で築かれるもの。いい奥さんのおかげでかろうじて保っている平和と、真理に従ってそこから一歩も離れない忠実な心をもつお釈迦様の平和とはまったく平和の安定感が違うんだな。
24-7
私は自分で働いて暮らしをたてている と牛飼ダニアはいった
子供達は一人残らず健康で
人からの小言など一つも聞いたことがない
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
24-8
私は誰にも使われてはいない と世尊はいわれた
求めて得たものでこの世に自由に生きて
働きへの報酬など受け取りはしない
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
自分で働いて暮らしをたてていることで、自分はとても偉いと思っているダニア。本当はたまたま働いて暮らしが立つことになっているだけ。世界が、神様が、真理が、ダニアとなって働いているだけ。世界に生かされているだけ。本当は暮らしをたてられなくなることだってないとは言えない。
そして更にりっぱな子供を誇りに思うダニア。きっと「お宅はいいお仕事といい奥さんといい子供さんに恵まれて幸せですね~」と誰からもうらやましがられたことでしょう。でも実はこのことがすごい執着を生んで、ダニアも、ダニアのまわりの人たちも、がんじがらめにしている。なのに、それには全く気づいていない。
しかしお釈迦様はというと、自分の自由のために、よい妻も、よい子供も、よい仕事も、なにも必要としない。すべてのことを世界に任せてしまっている。たとえ食べる物が与えられなくて飢え死にするかもしれなくても、それを恐れていない。
本当は、ダニアだって、私たちだって、生きるも死ぬも、世界(真理)に任されている。このことが認められなければ本当の自由も独立もない。お釈迦様は誰にも使われない(支配されない)乞食の生活をすることで、このことをみんなにはっきり示されたんだな。
26-9
小牛も 乳を飲んでいる小牛もいる とダニアはいった
子を持つ牛も これから子を持つ牛もいて
牛達の王である牡牛もまたいる
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
27-10
小牛も 乳を飲んでいる小牛もいない と世尊はいわれた
子を持つ牛も これから子を持つ牛もいないし
牛達の王である牡牛も ここにはいない
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
今度はダニアは財産について誇る。自分はこんなにたくさんの牛たちを所有していると。
でも、本当は牛たちだってなんだって、誰のものでもない。神様からお預かりしているもの。それなのに、自分のものとして所有するとか、支配するとか、おこがましいとは思いませんか? そして、真理(神様)というのは無常だ。いつダニアからこの牛達を取り上げるかなんてわからない。
で・・・お釈迦様はというと、ダニアとまったく同じようにして、正反対のことをおっしゃられるんだな。26-9をダニアっぽい声で、27-10をお釈迦様っぽい声で、読んでみよう・・・ふふふ・・・・・なんだかちょっと皮肉っぽくて、おもしろい方なんだな。お釈迦様は・・・。
28-11
杭は深く揺るがぬように打ち込まれた と牛飼ダニアはいった
ムンジャ草の縄は新たにしっかりとなわれた
小牛達がそれを到底切ることの出来ないように
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
29-12
牡牛のように束縛を絶ち切った と世尊はいわれた
象がつる草を踏みにじってゆくように
私はもう二度と母胎に帰ることはない
さあもしも降らそうと思うなら 神よ雨を降らせるがよい
さあさあ、いよいよダニアの執着はますます強くなってきちゃった。なにがなんでも手に入れた財産を手離したくないダニア。つかんで離さないその手を強めれば強めるほど、自分もますます自由を失って身動きできなくなるんじゃないのかな? そんなのは苦しくないのかな? だいたい財産全部お墓の中まで持っていくつもりなの?「子孫のために美田を買わず」ということわざもある。毎田先生もおっしゃっている。支配しようとすると、逆に支配されると。ダニアの努力は正反対の方向に向かっていると。
そこでお釈迦様はおっしゃる。「牡牛のように束縛を絶ち切った」と。ここにしか幸せは、自由はないのだと。執着が強ければ強いほど、切断は無慈悲でなければならないと。そして、次に出ることばは・・・「私はもう二度と人間なんかに生まれたくない!!」この、執念深い人間そのものを切り捨てる恐ろしいことばです。人間の愚かさをさんざん指摘したあげく、その愚かな人間が財産までもって、それにしがみついている、この醜さを徹底的に打ちのめされてしまう。
・・・痛い・・・痛い・・・痛い・・・ここでふと我に返る・・・もしかして・・・もしかして・・・ダニアとはこの私のことですか?・・・・・のん気に他人事みたいに言ってる場合じゃなかった。
お釈迦様のパンチはようしゃなく、私を打ちのめしました。もうお陀仏ですーーー
30-13
平地にも丘にも溢れるほど
みる間に大きな雲が雨を降らせた
神が雨を降らせるのを聞いて
牛飼は次のようにいったー
31-14
私どもが世尊にお目にかかりましたことは
測りしれぬしあわせでございます
「世の眼」に帰依いたします
「大いなる聖者」よ どうぞお教え下さい
32-15
私の妻も私も忠実にお教えに従います
「善く逝ける」あなたの許で清らかな修行をつみ
生と死の彼岸に渡り
苦しみのはてを超えてまいります
いよいよ集中豪雨がやってきた!! 大切に守ってきたダニアの小屋も牧場も牛たちもみんな流されてしまった。無常の真理に直面したダニアはもうお手上げ。
でも幸いなことに、ダニアにはお釈迦様との出会いがあった。このことは、ダニアのいう通り、測りしれない、びっくり仰天の、アメイジングな幸せだ!! この出会いがなければ、ダニアの人生はこれまでだったかもしれない。
そしてダニアは知ったのです。真理にしたがって生きる他に道はない。そして、それがどんなにすばらしい魅力的な生き方であるかを。完全に思い上がりは砕かれて、新しく生まれ変わったダニア。ダニアの新しい人生のはじまりだ!
いよいよダニアの経の結び。毎田先生はおっしゃる。この経は最後に、世間の立場を悪魔のことばとして、真理の立場をお釈迦様のことばとして、2つのガーターが付け加えられていると。なんという行き届いた、徹底的な教えがここに伝えられていることかと。もう真理の完璧な表現がここにあると。では最後の2つのガーターを味わってみよう。
33-16
子を持つものは子ゆえに喜ぶ と罪そのものの悪魔はいった
牛を持つものは同じく牛ゆえに喜ぶ
拠りどころこそ人の喜びである
拠りどころをもたないものに喜びはない
34-17
子を持つものは子ゆえに悲しむ と世尊はいわれた
牛をもつものは同じく牛ゆえに悲しむ
拠りどころこそ人の悲しみである
拠りどころを持たないものに悲しみはない
本当の幸せがどこにあるか、そして、不幸のもとがどこにあるか、はっきり伝えている。それなのに、私たちはいつの時代もこの不幸を繰り返す。家族をめぐって、財産をめぐって・・・それほどこの教えは世間に生きる私たちには理解しにくい教えなんだな。
そして、このダニアの経の最後に毎田先生は大切なことを付け加えられる。道元の「正法眼蔵」の中の「仏縛法縛いまだ解脱せず~」ということばを用いて。ここで悟った気になると、今度はこの教えに執着してしまうのが人間。「執着をはなれなさい」という教えに・・・
21-4に出てきた筏(いかだ)がこの、「執着をすてて、真理にしたがいなさい」という教えと考えると、この教えにのって真理の世界へ渡ってしまった人には、もうこの筏さえも必要ない。この筏を大事に大事にもっているうちは、まだ真理の国に渡り切ったとはいえない。でもそれが生きている人間なんだな。渡り切ってしまったら、そこは天国で、涅槃で、自由の国で、自分を苦しめる自分というものがない「無」の世界。なににもとらわれず、ただ無常の真理そのものとなって自由に生きるだけ。無限に解放されて無常に展開されていく世界をただただ楽しんでいくだけ。遊戯三昧だ~
さっきはお釈迦様に打ちのめされてしまったけど、本当はお釈迦様(お釈迦様? 神様? とにかく真理の国にいるお方)は、毎日毎日、怒ってみたり、泣いてみたり、悩んでみたり、怠けてみたり、一生懸命自分のエゴと戦っている私たちのことを、「しょうがないなあ~」「可愛いな~」なんて微笑みながら、見守ってくださっているんじゃないかな? 世のお母さんたちが、よちよち歩いては転び、泣いては立ち上がり、また歩き出す赤ちゃんを優しく見守るように・・・。
そう信じて修行に励みます。いつか真理の国へ渡れることを夢みて・・そして・・・まだまだこの経はつづく・・・私の修行もつづく・・・
犀の角のように、独立者がただひとり、自由に歩いていく。それが犀の角の経。
35-1
一切の生きものに杖を振るわず
その一つをさえ悩ますことなく
子供や仲間を欲しがらないで
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
ひとりぼっちはさみしい。ひとりぼっちで孤立したくない。仲間が欲しい。子供をよりどころとする。家族をよりどころとする。仲間をつくってたむろする。だんだん自分たちだけよければいい・・・という感じになってくる。
たとえば、にくらしい人がいて、とっちめてやりたい。でも一人じゃできない。仲間をつくってみんなでいじめちゃう。
こんなのはケチくさいと思いませんか? 誰とでも仲良くできるけど、一人でも堂々と正しいと思ったことが言える。そんな人がかっこいいと思いませんか?
毎田先生は、このガーターを、聖徳太子十七条憲法の第一条と並べて解説してくれる。
一切の生きものに杖を振るわず・・・和らぎをもって貴しとなす→一切の生きものとともに生きていこうとする願い
その一つをさえ悩ますことなく・・・さかふることなきを宗となす→どんな人に対してもさからったり否定したりしない
子供や仲間を欲しがらないで犀の角のように~・・・人みな党ありて、また達れる者少なし~→利己的排他的な仲間を欲しがらず、独立者(達れる者)として生きよう
そして、日本人のあげた「ただ一人」の雄たけびとして、親鸞聖人のことばを紹介してくれる。
「この世界にわろきものはわれ一人、地獄へゆくもわれ一人、浄土へ参るもわれ一人、一切みな一人々々と覚えにける。」
この「ただ一人」自由に堂々と、ゆったり歩いていく人の雄々しい姿を、この犀の角の経で味わっていこう。
36-2
人と触れ合えば愛着が生ずる
その愛着からこの苦しみが生ずる
愛着のもつ危険を見抜いて
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
ただ一人歩いてゆく独立者は、いつもひとりぼっちなの? いやいや、むしろ人に振り回されないからこそ、誰とでもこだわりなく自由にかかわれる。でも、特定の誰かにだけ愛情が注がれる「愛着」になると、もう独立も自由もなくなる。
例えば、子どもをもつ親が、自分の子をよその家の子よりも立派に育てたい、自分の思い通りに育てたい、と、夢中になりすぎて子どもの自由をうばってしまう。友だちを独り占めしようとするのも同じだよね。
絶対に自分の自由になるはずのないほかの人を、自分の自由にしようとすると、これは、誰もがもっている「自由になりたい」という気持ちと、ぶつかっちゃう。こりゃ大変! これは危険! だから、独立者は、自由な人と自由な人との間には、所有するとか、支配するとかいう関係はないはずだと見抜いている。
37-3
友だちや仲間を哀れんだりすれば
心がしばられて(自在の)利を失う
親しみにこの怖ろしさのあることを見抜いて
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
これはすごいことが書いてあるよ~。だって、悲しんでいる人に、かわいそうに思って同情することはいいことって思っちゃう。なのに、そんなことすると、その人の不幸や苦悩はなくなるどころかますます大きくなるって? どういうこと?・・・
たしかに、みんなでよって集まって、誰かの愚痴を聞いてあげているうちに、愚痴大会になって「あ~すっきりした!」なんて思っても、次の日になればまた愚痴が復活して、結局なんにも解決していない~っていうことはよくある。
人に何かしてあげたり、してもらったりすることで、変な束縛が生まれることもある。「これしてあげたから裏切らないでね」とか、「これしてもらってるから裏切れない」みたいな・・・
毎田先生は歎異抄の第四節をあげて解説してくれる。この、「よいことをする」という意識がとらわれであり、怖ろしいのだと。薄情なようだけど、本当の独立者は人をかわいそうだと思って同情して、なにかよいことをしてあげるなんてことは一切しないと。
「よいことをする」の裏には必ず利己心があるのが人間。「人のため」といいながら、実は自分がいいことをすると気持ちがいいとか、ほめられたいとか、怒られたくないとか、「やさしくていい人だ」と思われたいとか、なにもしないでいて、「冷たくて気のきかない人だ」と思われたくないとか、結局は自分の利己心を満足させるためにやっているにすぎないのが人間。
全部思い当たっちゃう。それって私のこと・・・
でも安心しよう。人間はみんな一人残らずそうなんだって。そして、そこから離れた本当の独立者の慈悲は、人を苦しみから解放してくれる。それは触れればわかる。まるでスーッと涼しい風が吹いてくるように、苦しみや悩みを吹き払ってくれて、パアーっと光がさしてくるように、心を明るく照らしてくれる。
38-4
拡がる竹(の根)がからまるように
人は妻子に愛著する
筍が何にもとりつかぬのをみて
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
これも衝撃的! 心をえぐられたかと思うと、その後ですっきりとした爽快感がやってくる詩。
子どものころ、よく地震がきたら竹やぶに逃げろと教わった。竹の根は土の中でとても強く絡み合っているから地面がくずれることがなくて安心なんだと。
この世で一番深い家族のきずなも、この世で一番根強い執着になりかねない。それを、この竹の根にたとえられている。これをなんとかしないかぎり、本当の自由はないと。
ところで、このしつこく絡み合う竹の根を抜こうとすると、ますますその根はからまってきて、こんがらがって、最悪の状態になる。そんな無駄な努力はやめよう。じゃあどうしたらいいの?
毎田先生の解説によると・・・そのままにして相手にしないということです。筍をみなさい! 筍は竹の根をどうしようなんて思っていない。そこから命をもらって、栄養をもらって、「ありがとう! じゃあぼくは天に向かってまっすぐのびてゆくよ!」と振り返らずとらわれず、瑞々しくのびてゆく。そんな筍には、下でぶつくさ言っている竹の根たちの声などもう届かない。
39-5
野獣が林の中を捉われなく
どこへでも食を求めてゆくのと同じく
目ざめた人の自在なのを見て
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
したいことをする自由を野獣にたとえている。お釈迦様の托鉢(乞食)もそう。おなかがすいたら欲しいと思うところへ行って「ください。」と言う。与えられるものはいただき、何も与えられないときはただ飢えにたえる。自分から自由に求めていき、与えるか与えないかも相手の自由に任されている。
そこにはうそ偽りはない。正直で率直でまわりくどい理屈やかけひきがない。素朴で自然で礼儀知らずだけどお上品ぶったところもない。だから野獣なんです。
40-6
止まるも立つも行くも旅するも
仲間と一緒にいれば話しかけられる
人の気づかぬ自由を求めて
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
生活していると、人が・・・実際に出会った人だけでなく、新聞や雑誌を通して、またはテレビやネットを通して、ありとあらゆるところからいろんな人が話しかけてくる。
で、人の気づかぬ自由とは・・・?
世間のしきたりのあてはまらない、世の中の人が思いもよらない、常識をはるかに超えた、ようするに39-5に出てきた野獣のような自由。それは世間の立場では、わがまま、でたらめと非難され、認められそうにない自由。・・・え? いいの? それで・・・
親鸞聖人が、「とても地獄は一定すみかぞかし」(少しもよいことができない親鸞には、地獄のほかに行くところはない)と言い放ったときに味わう自由。「悪をも怖るべからず、弥陀の本願を妨ぐるほどの悪なきが故に」といった悪の自由。
よいことをしなきゃとか、悪いことをしないようにしなきゃとか、そんなことを心配する必要はない。どんな悪いことだって、真理の力が働かなければできっこない。ただただ真理にしたがっていけばよい。ということなのかな?
これは世の中の人にはわかりっこないと。だからいちいち話しかけてくる世の中の人たちを相手にしていては味わうことはできないと。まさにただ自分一人のことなんだと。だから人の気づかぬ自由・・・・・う~ん・・・もう少しわかるように、だれか説明してください!
41-7
仲間と一緒にいれば遊び楽しみ
子どもらにも大きな愛著を感ずる
いとしい者と別れるつらさはあるにしても
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
1行目は芸術のこと。「まじめに人間生命のことを考えると、芸術などいうものに止まっていることのできないものがあるはずだ」と。
2行目では、子どもを生きた芸術として楽しむことを指摘される。子どもたちに生命の独立自由を心から願うとき、単にかわいがってその生命を楽しむというところに止まることはできないはずだと。子どもを私たちの私物化していては、私たちの生命も、子どもたちの生命も、真に輝くことはできないと。
そして、3行目「いとしい者と別れるつらさ」これを超えなければ独立はない。家族といっしょに暮らしちゃいけないってこと?・・・たぶんこれは自分の幸せのために家族を利用して、そこに執着するのはやめなさいってことだね。
そして毎田先生は断言します。この独立は実は誰もが心の中にもっている願いだと。これは悲願だと。ダニアが内部の生命に点火されたように、だれでも点火されたら燃え上がる可燃物を心の中にもっていると。あ~ならばその可燃物に点火してまわりたい。
42-8
この世のどこへ行っても物を傷めず
あるだけのもので満足し
どんな危難にも堪えて恐れることなく
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
どこへいっても、物をあるがままにして手を加えない。変な姿をしていても、それは宇宙の大いなる調和と秩序の中で、そうあるべき姿をしてあるだけ。人間のケチな理屈で、「こうあるべきだ。」なんて直そうとするからその調和が乱されて妙なことになるって。
あるだけのもので満足する。ある物を大切にする。必要のない物を山のようにため込んで、捨てられずにただとっておくことを、物を大事にするとは言わないんだね。少しのものを有効にいろいろに自在に働かせて使うのが、豊かな心。
お釈迦さまの三衣一鉢というのもそうだけれど、良寛さまも、どんぶり鉢を、足を洗うたらいと、顔を洗う洗面器と、ごはんを食べるどんぶりに使われたんだって。「え~きったな~い!」って思っちゃう。でもきっと心は澄み切った水のようにきれいで豊かだったんだな。たくさんの物に囲まれていながら、まだもの足りなくて、あれもほしい、これもほしいって、物に支配されている私たちの心の方が、汚れた貧しい心なんだな。・・・いや、だからってどんぶりで足は洗わないぞ。私は・・・
そして次に出てくることは、どんな危難にも堪えて恐れないこと。これはつまり死をも恐れないことだって。死を恐れないって、命を大切にしないの? 毎田先生の解説によると、自分の命を安っぽく考えている人に限ってうろちょろびくびく死を恐れて卑怯なまねをするそうです。独立者は、死をかけても生命の尊厳を守るんだと。そして死を恐れないということは、貧乏も病気も世間の目も恐れないこと。軽蔑されて名誉を失うことも恐れないこと。結局危難をおそれない人に危難はない。そこには威力があり、勇気がある。うん、なんだかかっこいい。
43-9
出家の人の中にも広やかに人を容れない者があるが
在家の生活をする俗人には尚それが多い
ひとの家の子に特に執着することを止めて
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
人とかかわらず、偏屈で陰険で、世間を白い目で見て、ひとりでこもっているような心のせまい人をここでは独立者とは言わないんだ。心のシャッターがいつも全開で、誰でもいつでもウエルカム。どんな人の心にも寄り添い、向き合ってくれる心の広い人が独立者。
そして、特定の人を「この人は~大学を出て、有名な~会社に勤める優秀な人だ!」とか特別にほめたたえたり、「この人は昔こんな悪いことをしたやつだ!」とか特別に軽蔑したりしない。聖徳太子の言われる「共に是れ凡夫」のように、みんな同じ、どんな人の命も敬う謙虚な人だよ。
44-10
葉の落ちたコビラーラの木のように
世俗の生活のしるしを取り去り
世間のきずなを絶ち切った勇者として
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
犀の角1~9のしめくくりです。つまり、独立者というのは、「こうしなければならない。」という世間のしがらみから解放されて、無常の真理にしたがって、自然に生活する勇者。
世間では、猛烈にがんばって、自分の思いを一方的に押し通す人を勇者というかもしれないけど、ここでいう勇者は、世界のすべてを受け入れて、世界そのものの真理の力を自分の力としている人。本人にはまったく力が入っていない無力の人。世間のきずなを絶ち切るには、すべてを受け入れることで、それを超越する以外に道はないんだね。戦ってもだめってことだな。
45-11
もしも信の人 敬虔な人 智慧の人なる
明敏な友を得たならば
どんな危難をものりこえて 彼とともに
喜びに充ちて思いも深く歩いてゆこう
46-12
もしも信の人 敬虔な人 智慧の人なる
明敏な友に会うことができなければ
王者が征服した国を捨て去ると等しく
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
信の人とは真実の人。どんな人の奥にもその人の真実をみて、それにしたがっていく。その人の真実に向き合い、その人の真実とともに生きること、これが人を信じるということ。
私たちは「人を信じる」ということばを「その人が絶対自分の期待にこたえてくれる。絶対にうらぎらない。」という意味に使ってはいないかな? でも全然ちがうな。ここでいう「人を信じる」は、その人の本当の気持ち、本当の姿に向き合うことなんだね。
敬虔の人とは真理の前にひざまずく人。真理には絶対にしたがう人。自分の考えた枠の中に世界を当てはめようとしない人。
智慧の人とはいつも人に対してキョロキョロせずに、自分の内側にじっと目を向けている人。自覚の人。
こんな人は明るくさわやかで、反応がよくて、あっさりさばさばしてて、気持ちがよくて人にまったく不快感をあたえないどころか、光がさしたように、パアーっと明るいオーラで包み込んでくれるような人。
45-11はもう、こんな人同士が出会えたら最高! っていう喜びにあふれている。うれしくなっちゃう。こんな人同士がいっしょになったら、お互いなんの自由の邪魔にもならないどころか、まわりの人たちをみ~んな幸せにしちゃうんじゃないかな。
そして46-12では、そんな友に会うことができなければ、それはまだ世間にしばられている証拠だと。世間にはろくでもないものしかないんだから、もう王者が征服した国を捨て去るように、思い切ってごっそりと、世間とのきずなを絶ち切りなさいって言ってるのかな? なんだかちょっとこわい・・・
47-13
道に達した友こそはほめられてよく
優れた 同心の友には親しみ近づくがよい
そういう人に会えなければ 自分の生活を浄めながら
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
そういう人に会えなければ・・・というのは、自分に不信があることだと毎田先生は言われる。人のせいではなくて、自分を浄めなさいと。
本当は世の中の人すべてが独立者になれるはずで、すべての人の中に真実をみつけることができれば、すべての人の中の真実が輝くことができれば、そこはもう自由の国だと。自由の国では、みんながいっしょにいても、それぞれが犀の角のように独立していて、誰もが他人の自由を妨げることもないから、みんながキラキラしながら、いっせいに輝いている。すてきだな。天国だな。
48-14
金工が立派に仕上げた二つの
美しく輝くものも 一つの腕にあるとき
触れ合って騒音を発するのを見て
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
49-15
そのように人と二人でいると
自分の方が饒舌になり口やかましくなる
未来にそういう危険の生ずるのを見抜いて
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
ふたつの腕輪がふれあうと、ガチャガチャと音を立てる。毎田先生は、これをきらびやかで贅沢な世の中の文化生活のことだと解説される。こんなものは人間の生命の真実とは関係のない騒音だとおっしゃる。世の人たちが、「これが大切だ~!」と金切り声をあげているようなことはみんな騒音だって。真理の道は、こんな騒音とは離れて、一人静かに歩いていくところにあるんだって。
そして49-15では、仲間との雑談をこの騒音として指摘される。お友だちと雑談しちゃだめってこと? おしゃべり禁止ってこと? それはないよね?・・・でも、確かによけいなこといい気になって、一方的にべらべらしゃべりすぎたかな? って反省することはある。相手ばかり見て、相手に向かって主張して、自分を忘れてしまう。自分の姿が見えなくなってしまう。「自分の方が」とあるように、しゃべり始めると止まらなくなる自分のことが問題にされている。ここで忘れられてしまうことは「聞く」ということ。この「聞く」という謙虚さを忘れるとき、私たちは真理の道からどんどん遠ざかっていってしまうんだって。
50-16
欲望はまことに色とりどりに甘く楽しく
様々の形をとって心をかき乱す
欲望の向かうところにこの危険のあるのを見て
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
51-17
「これは私にとって禍いであり腫物であり難儀であり
病であり矢であり怖れである」と
欲望の向かうところにこの怖れを見て
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
欲望というものは次々と止まることがない。ひとつ満たされるとまた次。それもかなうとまた次・・・それが苦悩のはじまり。少欲知足(あるだけのもので満足する)以外に独立者の道はないんだ。
そして次に欲望について6つのことが言われる。
1 欲望は不幸をまねく禍(たとえば名誉欲を満たそうとすると、ほかの名誉欲をもった人に足を引っ張られる。)
2 欲望は腫物(欲望を達成するためには腫物にさわるようにおっかなびっくりだれかのご機嫌をとったり、あちこち気を配ったりしなければならない。)
3 欲望は難儀(たとえば事業を成功させようとするとき、いろいろな困難が起こってなかなか思い通りにはいかず、悩まされてばかりになる。)
4 欲望は病(満たされても満たされてもまた次に欲望が起こると、いつも満たされない気持ちから抜け出せず、いつまでたっても充実感がない。これは完全に病気だ!)
5 欲望は矢(あの人はいいな。この人がうらやましい。など、外から矢が刺さっているように苦しい。)
6 欲望は怖れ(欲望が満たされているこの状態はずっとつづいていってくれるのか? または将来満たそうとして今がんばっている、この欲望はいつかちゃんと満たされるのか? という怖れ)
こんな、欲望の向かっていく恐れや不安から解放されて、自分の命の尊厳を貫いて生きていく独立者の心構えが次のガーターに記されている。きびしいよ~!
52-18
寒さと暑さと飢えと渇きと
風と太陽の熱とあぶと蛇と
これらすべてのものに堪えて
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
無理だ! 無理だ!・・・私にはとてもじゃないけど無理だ! 寒いのも、暑いのも、おな
かがすくのも、のどがかわくのも、ビュービューふく風も、カンカン照りの太陽も、ブンブン飛び回るあぶも、突然ヌ~っと顔を出す蛇も、私には堪えられない・・・
毎田先生は、「永遠の生命に入り、永遠の生命の表現として働くこと、そこに必然的に少欲知足の生活が現出する」とおっしゃる。どういうこと?「必然的に」というからには、少なくとも、必死に堪えて、いやでいやでたまらないのに無理してがまんしてがんばって・・・というのとは違う気がする。例えばこれを書いているとき、夢中になって、暑いのも寒いのもおなかがすいたのも、のどがかわいたのも忘れていることがあるけど、そういうことですか?
53-19
背のよく発達した斑紋のある
大きな象が ひとり群を離れて
自ら楽しみながら森を歩きまわるのと同じく
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
さて、これがお釈迦様やキリストの生涯のお姿。これが本物の独立者、真実人の姿、だそうです。独立人を目指すなどといい気になって、途中でしり込みしている私とはあまりにかけはなれすぎている。・・・でも、「楽しみながら~」というところに救われる。とても厳しい生き方に見えるけど、なんだかはじめに「ただ一人」に感じた孤独で寂しいイメージがいつのまにかなくなって、とてもすがすがしい姿が目に浮かぶ。
そして毎田先生は、ゲーテについて、「この詩を、いや犀の角の経を、ゲーテに見せたらどんなにか驚き喜ぶだろう! ゲーテはこれを理解できる西欧のまれな一人だ!」とおっしゃる。そんなにも貴重な詩なのですね。この「犀の角の経」は・・・
53-20
人と一緒にいることの好きな者は
しばらくの間も解放されていることができない
「太陽の親族」(仏陀)の言葉に耳傾けながら
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
人と雑談に明け暮れている限りは、世間の泥沼に引き留められていて、目をあげて彼方を望み、自分の心と向き合うひまがない。独立者の道に入るには、太陽のように明るく、世間の泥沼などに絶対に足をとられることのない、真理の人の真理のことばに耳を傾けるしかないよと。また、たとえ一人でいても、真理の人に会うこともなく、ただぼんやり世間のかたすみに孤立しているようなのは独立者とは言わないよ・・・と。
55-21
誤った論議を戦わすことを避け
道に達し 道を極めて
「私に智慧が生じた もはや他人には導かれない」と
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
親子げんか、兄弟げんか、夫婦げんか・・・いつまでたっても止まらないことってあるよね? お互い絶対に自分が正しいと思って譲らないから。しつこいよね~
ここで思い出すのは「群盲象を撫でる」というインドのお話。何人かの目の見えない人たちが、象について語り合う。耳をさわった人は「象はうちわのようだ」と言い、鼻をさわった人は「象はホースみたい」と言い、足をさわった人は「象は木みたいだ」と言い、しっぽをさわった人は「象はロープだ」と言い、おなかをさわった人は「象は壁だ」と言う。みんながそれぞれ正しいのは自分だけだと思い込んでいるから、こんな言い争いはいつになっても止まらない。堂々巡り。
一面的に見てつかんだことをそれだけが正しいと思い込んで、他の人が言うことは間違っているって思い込むのが人間なんだって。そもそも主張しなければならないようなことは真理とは言わない。真理というものは体現するものなんだと。このことについては、第四章の八重の章にとても細かく書かれている。
56-22
欲を離れ 偽りなく 渇くように求めることをやめ
人を謗(そし)らず 根源の無知を除き去り
すべて世間の外物に頼らぬようになって
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
欲を満たすためには他人を思うように動かさなければならない。でも他人は思うように動かない。「やだね。」と言われる。怒る。怒れば思うようになるという妄想がはじまる。それが無知なんだって。誰にもなんにも頼らず当てにしない人が独立者。自分の欲を満たすために誰かを支配しようとはしないんだな。
57-23
よからぬことに熱中し曲がったことに没頭する
悪い仲間との交わりを離れて
自分は怠けた生活をせぬようにし
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
よからぬこととは、自分や他人の生命を傷つけること。生命の尊厳を傷つけること。 曲がったこととは、生命そのままの素直で単純で正直な道でなく、複雑で入り組んで曲りくねっているやり方。こういうことを好んでやるのが人間。これが悪い仲間。
「あ~いるいる・・・暴走族とか、集団リンチとか・・・?」ほらほらまた他人事になってきちゃう。この悪い仲間に自分も入っているってことをすぐに忘れちゃうんだな。
「え? 私、そんな悪いことしません!」って思うでしょう? そうすると毎田先生にピシャッと言われちゃう。気づいていないだけだと。怠けているからだと。「え? 私、毎朝早起きして、せんたくしてごはんの用意して、仕事もして・・・怠けてなんかいません!」って思うでしょ? でも、怠けた生活をしないようにするということは、いつも自分の心に鋭い内省の目を光らせていることだって。自分の心の中が、エゴで・・・愚痴や不満や不安や恐れや思い上がりで・・・いっぱいになっていないか・・・? ってことかな? それが精進だって。そうすれば、世間の悪い仲間の中心的存在が自分だってことがわかるはずだって。
歎異抄の「悪人正機」も、自分を悪人だと自覚しない人にはわからないと。自分を悪いことをしない善人だと思い込んでいる人が一番やっかいだと。そこで、次にこの内省について語られる。
58-24
豊かな智慧の持主で打てばひびく
気品ある友と交わるべきである
真の救いがどこにあるかをよく知って疑惑を離れ
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
57-23と対応して見てみよう。
豊かな智慧とは大らかで寛大で、いろいろな人の立場をそのまま理解できる智慧。よからぬことに熱中するような一方的で一面的で偏屈な感じとは正反対。
打てば響くとは、ぱっと直感的に感じてすぐに対応できる感じ。ああでもないこうでもないと、くねくね曲りくねって考えをこねくり回しているだけで、結局なにも解決できないのとは正反対。
そして気品ある友とは、悪い仲間に対応して、あか抜けていてさっぱりしていて真理の道を行く人。
疑惑というのは自分の心に雲がかかっている状態。さっきの悪い仲間はこの疑惑の人たち。真の救いがどこにあるかというと、この愚かな私たちがその愚かさを知って、そのままに投げ出されていくところにある。そのことに気づけるのも、気品ある友と交わる(真の人と出会う)ことによってなんだ。
59-25
世間の遊びと楽しみと幸せとに
耽(ふけ)らず そんなことは夢にも思わないで
上辺を飾らず まことを語り
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
「あ~うまくいかない。」「あ~やんなった。」「あ~つまんない。」と毎日嘆いてばかりいると・・・? あるとき毎田先生に言われた。嘆きのもとは、すべて「利己心の達成不能」だと。嘆きがあるということは、そこには必ず「利己心」があると。だから「世の嘆きには同情すべきでない。」と・・・厳しいお言葉です。おっしゃる通りです。確かに、自分の思い通りにいかないから嘆くんだな。誰かのためと思って一生懸命努力する。でもうまくいかない。結局誰が困るか? 私だ。「あなた」のためにやっている当の「あなた」は全然困っていない。で、ますます腹が立つ。そうだよね。よくよく考えてみれば、結局はみんな自分の利己心を満足させるためだよね。
こういう厳しいご指摘が正に「上辺を飾らず まことを語り」だね。58-24の、「真の救いがどこにあるか」の答えはこのように語られる。真実の指摘以外に救いへの道はないと・・しかもそのことばは単刀直入。あけっぴろげでフランク。上辺を飾って、うまいことテクニックを使って、手続きを踏んで・・・というような回りくどいことはしない。正直に真実をぶっつけてくる。
でもこんなのは違うよね? 例えば、「デブ!」「なにい?!」「本当のこと言っただけだ! デブだからデブって言ったんだ!」みたいな・・・毎田先生も補足しておられる。まことを語りとは、内省の奥にある真実が語られるのであって、内省のない人がただ思ったことを口にするのは、薄っぺらな気まぐれの白状だと。
60-26
子も妻も父も母も
財産も穀物も親族も
色々の欲望も すべてを捨てて
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
これは正にお釈迦様の出家。なんだか恐ろしいことが書かれているな。毎田先生も言われる。仏法を学ぶとはこういうことだと言えば、人はびっくりして腰を抜かすだろうと。嫌なら断念しなさいと。私はここでまたしり込みしちゃう。でも私なりに解釈してみよう。
まず、「欲望を捨てて」とは、欲望をすべてなくすということではなくて、欲望を超えるということかな。欲望にしばられないということ。
そして、「子も妻も父も母も財産も穀物も親族も」とは、特に欲望の充足に関係の深いものが具体的にあげられている。これらのものをすべて自分の思い通りに支配しようとする、またはこれらのものにとらわれながら生きていく生活は自由とは言えないよと。なぜなら思うようになんてならないから。だからいつも嘆いていなければならなくなる。たとえ思うようになったとしても、それを守り続けるために神経すり減らさなければならないし、いつそれが壊れるかとびくびくしていなくてはならない。だからとらわれるのはやめなさい。すべては成るがままに任せなさい。それに左右されるのはやめなさい。ということかな?
ふと思い出した。昔読んだ「窓際のトットちゃん」の最後の方の場面。トモエ学園の校長先生が、何年も何年も研究してやっと作り上げた思いのいっぱいつまった学校が、空襲で焼けたときのこと。校長先生は上着のポケットに両手をつっこんだまま、火を見つめながら言った。「今度はどんな学校作ろうか?」と・・・
執着がない。嘆きがない。かと言って決して思いがないわけじゃない。学校作るなんて、すごい思いがなければできないもんね。こんな人がいるんですね。世の中には・・・
61-27
「これは束縛であり ここには幸せも
楽しさも少なく それにもましてここには苦しみがあり
これは魚を釣る針である」と明敏に見抜く人となって
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
魚を釣る針・・・これは欲望。これは利己心。みんな喉にこの針を引っかけているって。苦しい・・・痛い・・・抜いて~! どうしたら抜けるの?
「真理の自覚されるときその針がぬける」とある。自分の中の利己心、思い上がりの醜さに気づいたときということかな?
またまた厳しいことばが出てきました。「針が外れるとは、喉を引き裂いて、ふりもがいて、苦しみの果てに、苦悩のどん底において、血を吐く思いで懺悔するとき」と・・・そして、それには自覚者との出会いが必要だと。この出会いを因縁と言っておられる。「この因縁なきものが、一生涯喉に針を引っかけて苦しみもがいて世を終わる。」と・・・
こわいです。毎田先生こわいです。・・・そしてその針の抜けた姿が次に出てくる・・・。
62-28
魚が水中で網を破るように
火がすでに焼いたところへ戻って来ないように
色々の結び目をことごとく切りすてて
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
過去にも未来にもとらわれず、後悔も希望もない。現在に腰をすえている人。ただ真理を体現するだけ。人にも、国家にも、世界にも、思想にも、学問にも、立場にも、教団にも、なんにも結びついていない。自分には何かよいことができるという思い上がりからも解放されている。仲間も集団も団体もない。ただ独立者と独立者としての交わりがあるだけ。
63-29
目をじっと下へ向けて うろうろせず
物に対する感じを乱されず 心は清らかに
快楽を求めず 熱情を燃やすことなく
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
自覚者は、じっと目を自分に向けている。自分の心をみれば人の心はわかる。だからあたりをきょろきょろみまわしたりしない。そして直感によって真理にしたがって生きていくので、うろうろ迷うこともない。物をありのままに感じて、清い心で自己にとらわれず、感じたままに正直に行動していく。
ゲーテも言った。「感じがすべてだ」と。頭でああでもないこうでもないと考えていると、物事の真相からずれていってしまう。
「快楽を求めず」とは、自分から何かをもとめなければとやきもきするのでなく、与えられるままということ。自由人と自由人の交わりがあるだけ。この自由が唯一の快楽。
「情熱を燃やすことなく」とは、何かをしなきゃと興奮しない。しなきゃいけないことなんて一つもないんだって。本当? 私にはしなきゃいけないことだらけ。いつも、あれしなきゃ、これしなきゃって・・・これ、まだまだ修行が足りないってことなんだな。必要なことは永遠の生命の直観(直接に本質を見抜く)で、それに任せていけば、それを動機に真理の行動が自然に生まれるんだって。
64-30
葉の落ちたパーリチャッタの木のように
世間の生活のしるしを取り去り
出家の衣を身につけて世間を離れ
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
独立者は世間の常識から見たら、まったくはずれた人。世間を超えた世界に行っちゃっている。といっても、世間の人たちと離れて世界をつくっているわけじゃなくて、まぎれて生活している。世間の人からはいろいろ言われる。「あの人は常識がない。」とか、「あいつはバカだ。」とか・・・
宮沢賢治さんは「雨にも負けず」の中で「みんなにでくのぼうとよばれ~」と言っている。誰も理解できない。世間の人たちは、「こうあるべき」っていう常識に当てはめてしか判断しないから。これを理解できる人は、同じ独立者だけなんだって。
でも、私はこの独立者と独立者がいっしょに生きる、自由の世界に入ってみたいな。バカと言われたっていいや。非常識と言われたって、でくのぼうと言われたって・・・
65-31
味わいを貪らず何物にも心動かされず
他人を養うことなく 静かに家々を托鉢して
その家の人々に心ひかれず
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
食について、托鉢(乞食)の生活のことが書かれている。
おいしい物はおいしいし、まずい物はまずい。でも、それに左右されない。たとえば、「私は目玉焼きは絶対醤油派! お醤油切らしてるなら、もう食べない!」こんなえり好みをするのは自由人ではないよということかな。「醤油ないなら今日は塩にしてみよう・・うん、塩もなかなかおいしい。」ってなればオッケイ?
そして、「他人を養うことなく」・・・他人のことはその人に任せておきなさいと。人にはみんな神様がついていて、その人を生かそうと、育てようと、殺そうと、亡ぼそうと、自由になさる。自分にそれをなんとかしてあげる力があると思うことが妄想だって。
そして三行目。「その家の人々に心ひかれず」これは、自分も他人を養うことはありえないし、他人も自分を養う力があると認めないということ。托鉢で食べ物を恵んでもらっても、その家の人の単なる意向で食べ物を恵んでくれたのではなくて、もっと大きな力によって食べ物を与えられたということなのかな。
う~ん、このガーターも難解です。だって私たち、養ったり養ってもらったりしてるもんね。
66-32
心の五つの障りを捨てて
汚れをことごとく払い去り
何者にも頼らず むさぼりと無知とを絶ち切って
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
五つの障りとは・・・? 色(見える物)声(聞こえる物)香(におう物)味(口にする物)触(さわる物)こういう外からくる刺激のことだって。これに支配されると自由を失う。味について65-31で取り上げていたけど、とにかく外からくる刺激について、自分にとって心地いいものばかり求めて、いやなものはさけていると、本当のことがわからなくなるって。
例えば学校で子どもたちが歌を歌う。力の限り声を張り上げて生き生きと。でも先生が顔をしかめて注意する。「そんなきたない声はだめ! もっと美しい声で歌いなさい!」と。先生に注意された子どもたちは、せっかく楽しく歌っていたのに、だめなんだ~と、とたんに生気を失って弱々しく神経質な声になる・・・でも、本当は最初のきたない声の中に子どもたちの真実はある。先生の顔色をうかがって、「これならいいかな?」「これなら怒られずにすむかな?」なんて、おっかなびっくり出している声よりも。そして、注意されたからしかたなく・・・でなく、もしも美しい声に目覚めてあこがれて、練り上げていこうとしたら、その過程にも真実はある。たとえなかなかうまくはいかなくても・・・。
毎田先生は、「現実を直視するものは、この騒音を超えていく。快適な音でないといって、いつも顔をしかめているだけでは、ノイローゼに陥り、剛強な人間がでてこない」とおっしゃる。「一面的な快感の追及を加重するのは貪りだ。」と。「貪りは命のバランスをくずす。健康な創造活動は生命の全体的調和のうちに展開する。」と。
展開・・・新しい展開・・・予想外の展開・・・このことばになんだかわくわくする。
67-33
以前に経験した快楽と苦痛と
喜びと悲しみとを忘れ去り
ありのままの平安と清らかさに到達して
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
過去のことにとらわれることないよ。思い出さないと忘れちゃうなんて心配しなくていいよ。過去のことはすべて今の自分になっている。すべての過去は今の私として働いている。だから今の自分を精一杯生きればそれでいい。過去を特に思い出さなくても。
そして、未来に望みをかけるのも、今の自分に満足していないこと。それじゃあ今の自分がかわいそう。「あ~このままずっとこうしていたい。」とか、時が過ぎていくのが名残惜しいと思うとき。そんなときは今に生きているとき。
でもなぜかな? 好きなことをしているはずなのに、今やっていることに「早く終わらないかな~?」という気持ちになってしまっていることもある。そんなときは何かに縛られているときなのかな? それじゃあ楽しめないね。
毎田先生は、本当に今したいことをしなさいとおっしゃる。本当にそれでいいの? ずっと本を読んでいたくて、ごはんの用意も忘れちゃったりしても?・・・次に今に生きるということが詳しくでてくる。
68-34
第一の真理に到ろうとして怠ることなく
ひろやかな心でぬかりなく行い
力を尽くし 確かにそして強く
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
真理を「本当の私」と考えてみる。真理は生きている。止まっていない。どんどん生まれ変わる。「私はもう真理をつかんだ。」と思ったら、それは真理がわかっていないということになる。今出会った真理と、次の瞬間出会う真理と、真理はどんどん変化していくから。さっき泣いたカラスがもう笑う。つまり、その瞬間瞬間に、心の奥から聞こえる真理の声に耳を傾けていればいいのかな。
でも、この真理の声は、エゴの殻を打ち砕かないと聞こえない。「これはこうでなきゃ」と固定してしまったら、もう真理からはなれてしまう。主観的になるということは、一面的ということになる。
真理というのは、もっと万能。硬い硬いエゴの殻を打ち砕いて、エゴが「無」になったとき、はじめて真理全開になる。そして真理ほど強く確かなものはない。真理にしたがって今を生きる。真理ってだれよりも頼りになるんだな。
69-35
独りの生活と冥想との中で
どんな事にあってもいつも真理にしたがって行動し
色々の生存にともなう悲劇を知り抜いて
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
真理に近づくためには、自分の本当の声にじっとじっと耳をすませてみる。これが冥想かな。「私は本当はどうしたいの?」深く深く自分の心の中にもぐっていくうちに、「人からよく思われたい」とか、「人の期待に応えられない罪悪感や不安から逃れたい」とかいうようなエゴの殻は打ち砕かれていって、そこから解放された本当の自分が現れる。世の中では、自分のことばかり考えるのは身勝手と言われるけど、自分の奥にこそ真理の世界があって、そこに行くことでこそ、本当のみんなの心にも出会うことができる。
そしてそれは感じること。感じたままにということ。頭で考えると「これはこうすべき」という道ができてしまう。そこに現実をあてはめようとする。でもあてはまるとは限らない。そこで苦しみ悩み迷う。これが悲劇だよと。このことをよく知りなさいと。
70-36
貪愛を滅ぼすことを切に願い
聞くべきはよく聞いて思いは深く
道理を明らかにし 確実に心を一点に集中して
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
「貪愛」ということばを調べると、親鸞聖人の「教行信証」にも出てくることばで、「自分の都合に合うものを際限なく貪り求めること」とある。これは、誰にもある「本当に自分らしく生きたい」という思いを、覆い隠し見失わせるものだと。この貪愛を放っておくと、生命の状態が一方に傾いて、危機に陥る(例えば失恋して自殺するなど)。穴の開いた船に浸水してくる水を汲み出さないと船が沈んでしまうように、人生の船も沈んでしまうんだな。
そして、こうならないためには、真理の人のことばを「聞く」以外に方法はないと。道理というのは、自分らしく生きるための道筋で、そこに確実に心を集中しなさいってことなんだね。
71-37
獅子はどんな物音にも驚かず
風は網にかからず
蓮(の葉)は水に濡れぬが それと等しく
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
この世のいっさいのことは、成るべきしてなっている。その事実を知りつくしている人は、何が起ころうとびくともしない。人間なんて愚かなものに決まっているんだから、その愚かな人間が何をしでかそうがびっくりすることなんかない。「こういうことしていいかな?」とか、「こういうことをしたらみんなにどう思われるかな?」とか悩まない。少しでも「よいことができる」と思っていると悩みは絶えないけど、この「よいことをしなきゃ」ということから解放されたとき、本当にしたいことを思うままにできるようになる。
結局自分は外から何かに縛られていると思い込んでいるけど、実は自分を縛っているものは自分なんだな。自分で自分に網を張って、その手を離さない。それで「誰か私を自由にして~!」ともがいている。ばかみたいだね。
そして三行目の「蓮の葉が水にぬれない」ってことは、少しも外からの刺激に邪魔されないということ。つまり全部自分の中に入れちゃう。ということは、他人のことを批判しない。世の中の人が犯す過ちは、全部自分も犯しかねない過ち・・・え~? 人殺しも?・・・
そういえば、歎異抄のお話に、親鸞聖人のこんなことばがあったな。「私の教えを信じるなら、人を千人殺してきなさい。」と。弟子が「そんなことはできません。」と言うと、「それはいい人だからできないのではない。そういう巡りあわせにないだけだ。そういう巡りあわせに会えば、殺人もしてしまうのが人間だ。」と・・・。
同じ立場に立てば同じ過ちも犯すのが人間だとわかっていたら、人を批判なんてできっこないね。あなたは私で私はあなた。他人事ではないってことになるんだね。
72-38
獅子が強い歯の力を持つゆえに
百獣の王として堂々とゆくように
世を遠く離れたところに怖れなく住んで
犀の角のようにただ一人歩こう
独立者は他人がなんと言おうとどこふく風。見るのは絶対の真理のみ。世の中の人たちに会っているけど、まったく相手にしていない。世間の真っただ中を恐れずに堂々と生きていく。他人の言うことにびくびくして、言われたくないことには触れないようにして、自分を守っている私とは全然ちがうな。これもみんなエゴのせい。なにかしなければならないことも、できる能力もなんにもない・・・と、「無」になれたら、なんにも恐れることなんかなくなるんだね。百獣の王のように。そして・・・
73-39
慈しみと安らぎと哀れみとのどけさと
心の優しさとの中にいつもありながら
しかも一切の世事に煩わされず
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
う~ん。私はうなるよ。だってなんにも恐れることのない勇敢な百獣の王と言われた真理の人が、世間の人など相手にせずに我が道をいくという人が、今度は慈悲の人と言われる。利己心のためにしなければならないことを何ももたないからこそ、他人の困難や苦しみにすぐに手をかすことができると。(これは先ほどの利己心を満足させる「よいことをする」という意識にたった同情とは違う)命をそのままに伸ばそうとする慈しみは安らぎの中にあり、追いつめられた命を救い出そうとする哀れみはのどけさの中にあると。
そして善人の命も、悪人の命も、美しいものの命も、醜いものの命も、ぜ~んぶ同じように敬う。生命=真理。生命は「こうしよう」とか「こうしなきゃ」と思って働くものではなくて、真理にしたがって善としても悪としても働く。本当としても、うそとしても働く。
そして「真理の人」=「心の優しい人」と言われる。どんな人もどんなことも受け入れると。そして、世間の立場に立って、世間の問題をなんとかしようとしている限りは慈悲は成立しないと。世間へ立ち入って世間のことに煩わされていることなんかは慈悲ではないと。世間を世間に、生命を生命の絶対自由に任せることこそ本当の慈悲だと。
う~ん。私はうなる。自分のしていること、しようとしていること、すべて「それは違う!」って否定されているような?
74-40
貪りと怒りと無知とを離れ
縛りつけるものを絶ち切り
いのちを失うことを怖れることなく
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
犀の角の経のまとめだね。3行目が怖い。いのちを失うことを怖れない人にしてはじめて自分の好きなことを思う存分できると。自由の人(真理の人・独立者)の働きが、みんなに真理を見せてくれる。その存在そのものが慈悲なんだと。これが慈悲の姿だと。
こうして犀の角の経を通してお釈迦様の姿が描かれてきた。もうこの経だけでも充分と言えるし、この中の一つのガーターをとっても具体的な姿が語られている。毎田先生も言われる。こんな真実な、美しく、簡素な詩的表現でお釈迦様の姿を伝えてくれたインドの人たちに、後世の私たちはただ感謝するのみと。
75-41
当てがあって交際し奉仕する友はあっても
無心で一切を許し合う友は今や得難い
自分の利益だけを見ている人は汚らわしい
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
最後の絶叫です! 私はこの心の叫びを何度も味わう。まったく無条件の友、利己心のない、あけっぴろげで正直で生命のありのままで、ただ信一つでつながる友を求める喚び声・・・そして、毎田先生の解説もとても味わい深い。
ここまで味わってきたこの経にまだまだ浸っていたい! そして、また何度でも読み返したい! これからも、ずっとずっと・・・
私はこの「釈尊にまのあたり」の第1巻を読み終わったとき、なんだかすべてを悟ったような気分になり、もう充分! と思ってしまった。でも、しばらくしてその先も読んでみたくなって、2,3,4巻と読み進めていくうちに、どんどんますます夢中になっていった。それはまるでパズルのはしとはしがだんだんつながっていくような感じ。そしてつながればつながるほど、その全体像は予想を超えてどんどん広がっていく。たぶん一生かかってもこの真理のパズルはその中のほんの一部しか完成しないと思う。それでも少しずつ見えてくる楽しさに夢中になってしまう。
そして、そんな中、また奇跡が起こった。実家の本棚をながめていたら、そこになんと「毎田周一全集」を見つけてしまった。とても分厚い本がずらーっと並んでいて、誰も開いた形跡がない。もちろん子どもの頃から目にしていた私も、開くのは初めて。ところが開いてみてびっくり!
そこには毎田先生の生い立ち、家族や知り合いにあてた手紙、恋人への熱烈なラブレター、その日にあったことやふと思ったことが書かれた日常の記録、聖徳太子の十七条憲法の解説、歎異抄の解説、道元の正法眼蔵の解説、ゲーテのファウストの解説、聖書のお話、毎田先生の声が聞こえてくるような講演記録、・・・などなど、毎田先生が日々真理を求めて学ばれてきた、人生の足跡があった。
中にはもちろん、難しくてわからないページもたくさんあるけど、思わず「う~ん・・・」とうなってしまったり、「すごすぎる~」とため息が出たり、感動しすぎて涙がこぼれたり、正に毎田先生まのあたり。毎田先生の亡くなったあとで、あちこちから原稿を集めて、それらを編集して、この全集として出された方たちの、気の遠くなるような作業や思いの深さを思うと、ここでこの本を手にできた縁に感謝せずにはいられなかった。
私は不思議でたまらない。2500年も前の遠い国で生まれた教えが、こんなに今の私にぴったりとハマっていることが・・・お釈迦様が身をもって私たちに本当に大切なことはなにかを教えてくださっている。多くの人たちが人生をかけてそれを伝えてくださっている。きっとそんなメッセージはこの世の中のあちこちに、いろんな形であふれているに違いないと思う。
昭和41年。毎田先生は、鹿児島本線車内において、久留米駅近くで「釈尊にまのあたり」の第4巻を書き終わった。毎田先生の遺作となったこの本(第4巻)のあとがきにはこう書かれている。「この書をこの世に公にすることだけで、もう私の人生は充分である」と。そして最後の最後にこう締めくくられている。「この書をこの世に送る。スッタ・ニパータを世界の全人類に送り届ける、そこに全人類の救いあることを確信して。これを読んで救われざるものはないと確信して。行けよ、この書、全人類の手へ。」
二〇一七.七.一
2017年12月17日 発行 初版
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