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だれかに紹介したいわたしのバイブル その2「釈尊にまのあたり」毎田周一 ~スッタ・ニパータ 訳と解説 ~
私が書いたものを読んでくれて、いっしょに考えてくれる人がいる。私は「犀の角の経」の最後に出てくる、「無心で一切を許し合う友。」を得たようでうれしい! この本に出会っていなかったら、こんな喜びは味わえなかったかもしれない。そして、私はまた続きを書く。誰かに紹介したいと言いながら、一番は私のために。すぐにエゴが頭をもたげてきて、気がつくと心の中に、思い上がりや、人に対する批判的な思いが、ふつふつと湧き出してくる。思い通りにならないことにいら立ってくる。やらなければならないことにあくせくしてくる。そんなとき、この本のことばが私に語りかける。「そうだった。そうだった。」となる。やっぱりバイブルだ! この本は!
紹介したい本・・・釈尊にまのあたり 全四冊スッタ・ニパータ解説 著者 毎田周一
※ 「スッタ・ニパータ」・・・お釈迦様の教えが書かれた最も古い経典(全5章)
「釈尊にまのあたり」(スッタ・ニパータ第一章・第四章解説 全四巻中
第一章 蛇の章より(一~一二のうち、四~一二)
四 農耕するバーラドヴァージャの経
五 チュンダの経
六 没落の経
七 賤民の経
八 慈愛の経
九 雪山に住む者の経
一〇 森に住む者の経
一一 勝利の経
一二 静かな人の経
自分で作物を育てて生活している、お百姓のバーラドヴァージャが、乞食の生活をしているお釈迦様に、なぜ自分で食物を得るために働かないのか? という疑問をもってたずねる。すると、お釈迦様は「私も田を耕している」とこたえる。さらに「???」となったバーラドヴァージャは納得できずにたずねる。さて、この対話はどうなるのでしょう?
76-1
あなたは自分が農夫であると いわれますが 私どもは誰もあなたが田を耕されるのを見たことがありません
田を耕すとはどういうことですか よくわかるようにあなたが田を耕されるということを説明してください
77-2
信ずることが種子であり 身心をささげることが雨であり 道理を知ることが 私にとってくびきと犂(すき)である
恥を知ることが犂棒であり 深い思いがしばる縄であり 目ざめていることが 私にとって犂先と突棒である
バーラドヴァージャは「働かざる者食うべからず」と思っている。お釈迦様に対しても、乞食なんてしていないで、自分で働いたらどうなんだ? と思っている。(これぞ正に「釈迦に説法」ですね?)ところがお釈迦様は「私も田を耕している」とおっしゃる。
それは・・・ お釈迦様の耕す田んぼは心の中にあるんだな。お釈迦様にとっての農耕は、「真理への目覚め」。そして人々の心に「信」の種をまくこと。ここで毎田先生はおっしゃる。本当は「信」は人々の心の中にもうすでにある。そのことに気づきさえすればいいと。そしてその「信」の種から芽が出て、成長していくには雨が必要。お釈迦様にとっての雨とは、身心をささげること。真理に身を任せること。雨は「雨よ、降れ!」と命令したって降ってくるもんじゃない。なにかボタンをポヨン! と押したら「ザア~」っと降ってくるものでもない。これは天に任せるしかない。自分の力ではどうしようもない。日照りつづきでも、祈るしかない。ということかな?
そしてお釈迦様は牛に引かせて田を耕すのに使う道具のくびきと犂を「道理を知る」ことだとおっしゃる。ただめくらめっぽうにでたらめに耕すのでなくて、ちゃんとした道具を使う。それは真理に従って無駄なく働く道具。道理を知らない人がでたらめに耕しても、信は育たないんだな。この道具は実によくできている。よい働きをするための条件が整っている。それはなにかというと・・・次のように例えられる。
犂棒=「恥を知ること」これは懺悔。思い上がりをくだいて謙虚であること。頭が下 がっているということ。
縄 =「深い思い」これは内省。自分を見て他人を見て、そのバランスをみながら張っ たりゆるんだりして働く。
犂先と突棒=「目ざめていること」これは内省に必要な鋭い感受性。新鮮で先入観がな い。見たまま感じたままで、自分の都合で決めつけることがない。
これらがお釈迦様の、人の心に「信」を育てる農業で必要なものなのですね。
78-3
身を慎み 言葉を慎み 食事についても足ることを知り そのようにして真実を行うことが草刈りであり 柔軟な心が私にとってくびきを解き放すことである
「あ~めんどくさい!」と言いながらご飯のしたくをする。今食べたばかりなのに冷蔵庫を開けて「なにかないかな~?」とつぶやく。だめだめ!・・・毎田先生曰く、真実の人の生活はシンプルで無駄がない。そうでない人は姿勢も動きも調和がとれず、ガタピシしてて、言うことも無駄口やうそばっかり。食べ物もあれもこれもとやたらむさぼると。
そして、このガーターは、農耕の原動力になる牛への愛を語っているそうです。
まず、牛の食料である「草を刈る」ことを、「真実を行うこと」と語られる。真実の人でなければ牛への愛のこもった、草刈りはできないと。
そして次に、1日働いてくれた牛からくびきを解き放すことを、「柔軟心」とおっしゃる。牛の心を思いやり、その働きに感謝して、「ああ。きょうもよく働いたね。ありがとう。お疲れ様。」とくびきを解き放してあげるんだな。
79-4
努力が私にとってくびきをかけた牡牛であり
これが究極の安らぎへと連れていってくれる
それは後戻りしないで進み そこへゆけばもはや悲しむことはない
努力が牛? 安らぎの世界へ連れてってくれる? 努力が安らぎにつながっていく?
努力の意味を考えてみよう。なんだか努力というと、自力的な感じがするけど、ここでは私をひっぱっていってくれる牛のことを努力と言われる。他力的なんですね。
毎田先生は、親鸞の教行信証の著作も、お釈迦様の45年の行も、この努力だとおっしゃる。それは牛に引かれるように、自然に導かれていく。だから後戻りはしないで進んでいくのだと。真理の力に導かれて、真理の呼び声に目覚めて、力強く進んでいくのですね。それはいやいや引っ張られて行くのではない。一心な姿。今のことばで言うと「ハマる」ということかな? だれに頼まれたのでも、だれに認められたいのでもなく、ただ純真にやらずにはいられない努力なんだな。そして、それに従っていけば、悲しみのない安らぎの世界へ行ける。それを信じているからこそ、心はそこに集中していけるんだな。
80-5
この耕作はこのように耕作され それはまことに甘美な実を結び
この耕作を耕作することによって すべての苦悩から解き放たれる
さて、こうして育てられた「信」は、どんな実を結ぶのでしょう? それは苦しみから解き放たれて自由になることだって! さすがです。「信」の種が育って「自由」の実になる。なんとみごとな例えなんでしょう?!
ここでこのお話に感激したバラモンが、お釈迦様にお食事を差し上げようとすると?
81-6
詩を唱えて(教を説いて)与えられる物を 私は食べてはならぬ
真理を見る者にとって バラモンよ これはしてはならぬことである
詩を唱えて与えられる物を 自覚者たちは斥けられる
真理の存する限り バラモンよ そこに生活の仕方がなければならぬ
82-7
そして迷いと執着とを離れ 悪行を鎮めてしまった完き人ー
何ものも侵すことの出来ないその人には
それとはすっかり違った食べ物と飲み物とで仕えねばならぬ
そうすることこそ優れたよい働きを得たいと思う者にとって
それの生れて来る田地なのである
これは考えちゃう。何度も何度も読んで考えちゃう・・・お釈迦様の努力は見返りを求めない。詩を唱えて(教を説いて)そのお礼に食事をもらおうなんて、夢にも思っておられない。お釈迦様は報酬を得るための労働をなさらない。人とかけ引きとか、取り引きとかをいっさいされない。すべての行いは絶対の自由な意志によるもので、他人にもこれを求められる。ただ差し上げたいから差し上げる。自主的に喜んで与える「喜捨」だけを望まれる。お返しの心配をしたりされたり自分の都合ばかり考えて結局失礼なことをしてしまう私は恥ずかしくなる。お釈迦様はそんな迷いやとらわれによる関係に、相手をおちいらせたくないのだな。「いりません」も「あげられません」も、あっさり言い合えてあとくされのない関係を求められるんだな。
ここで思い出したお話がある。鍛冶屋のチュンダという、貧乏だけど、熱心に学んでいる信者がいた。ある日80歳を超える、高齢で体力もなくなってきているお釈迦様がチュンダの街にやってきた。王様や偉いお坊さんが、豪華なお食事でもてなそうとする中、お釈迦様は、貧乏なチュンダの用意した質素なきのこ料理を召し上がった。そのあと食中毒のような症状になり、それが原因でまもなく亡くなられた。
亡くなる前にお釈迦様は弟子におっしゃったそうです。「きっと誰かが、チュンダが毒を食べさせたせいだ! と言い出すだろう。でもそれはまちがいだ。チュンダの供養は私にとって最後の供養であり、最も重要な供養だ。」と。そして、どんな偉いお坊さんよりも、お釈迦様の教えを純粋に信じ、素直に行うチュンダを認め、おっしゃった。「お前は大勢の中から仏の最後の供養者に選ばれたのだ。お前の心は仏になったのだ。だから私が死んでも悲しんではならない。」と。
お釈迦様が悟りを開く前に受けた供養としてスジャータのミルクがゆのお話も聞いたことがあるけど、この二人のおもてなしが、どんな豪華な食事よりも、お釈迦様にとってなによりの供養だったそうです。私もおもてなしや贈り物のやりとりを、純粋に相手を敬う気持ちでできるようになりたいな。
修行者にもいろいろいる。鍛冶屋のチュンダが、世の中にいる修行者について、お釈迦様にたずねる。お釈迦様がそれにこたえて、世の中の修行者の種類について語る。
83-1
尊い 智慧に充ちた方にお尋ねします と鍛冶工チュンダはいった
自覚者 真理の王 貪欲を離れた人
人の中の最上の人 最も優れた馭者である方にお尋ねします
世の中にどれだけの修行者がいますか それをどうぞおっしゃって下さい
べたぼめですね~! このチュンダの、お釈迦様をほめたたえることばの数々・・・チュンダはこれほどにお釈迦様を尊敬していたんですね~。そしてお釈迦様に導かれて真理の道を行きたいチュンダが、世の中の修行者についてたずねる。これってすごくいい質問だな。修行者にもいろいろな種類があるだろうし、それぞれ真理に近づくまでの段階もあるでしょう。修行者の仲間に入れてほしい私にとっても、興味深い質問です。
84-2
四種の修行者がいて第五の者はいない チュンダよ と世尊はいわれた
あなたははっきりと問うたのでそれについて では明らかに説いてあげようー
それは「道の勝利者」と「道を説き示す者」と
「道に生きる者」と それから「道を汚す者」とである
85-3
自覚者たちは誰を道の勝利者といわれるのですか と鍛冶工チュンダはいった
道を深く思う人が どうして比べもののない人なのですか
道に生きるとはどういうことですか 私に説いてください
また道を汚すものを私に明らかにしてください
ちょっと整理してみよう。
第一「道の勝利者」(例・・・お釈迦様)
→もうすでに真理の世界に入ってしまった人
第二「道を説き示す者」=「道を深く思う人」(例・・・智慧第一の舎利弗)
→人々に真理について説くことができる人
第三「道に生きる者」(例・・・多聞第一の阿難)
→学んでいるけど進んで人に説き示すことはできない人
第四「道を汚す者」(例・・・新興宗教の指導者や仏教学者、寺院の僧侶など)
え? え? え~??? よくわからないけど、学者さんやお寺のお坊さんも「道を汚す者」なの? 毎田先生そんなこと言っちゃっていいんですか? そしてこの二三四の修行者は、それぞれ親鸞の教行信証における「真の仏弟子」「仮の仏弟子」「偽の仏弟子」に当たるんじゃないかって解説される。
86-4
疑いを離れ 苦しみを去り 涅槃を楽しみ 貪りを超えて
神々をも含む世間を導く人 そのような人を自覚者たちは「道の勝利者」といわれる
まず第一の「道の勝利者」について。もう真理の働きそのものとなった「道の勝利者」には、何をしてもすべてが真理として働く。すべての人や物の奥にいつも真実を見出されているこの人に苦しみはない。「苦しみを去り」とは苦しみを苦しみにまかせてしまっている。超えている。欲も欲にまかせてしまってそれを超えている。苦しみや欲をどうこうしようなんて思わない。少欲知足の生活をし、物への執着もない。財産ももたない。欲望や苦しみに引きずりまわされない。「神々をも含む世間を導く人」とあるけど、そもそも人々をなんとか導いてやろうなんて思っていない。何にもとらわれずしばられず、ただただ真理に従って自由に生きるその姿が人々を自然と導いていく。
87-5
この世界で最高のものを最高のものと知り
正に此処で真理を述べ それを詳しく説き明かし
疑いを絶ち切り 情欲から解放された智慧の人を
修行者の中の第二の「道を説き示す者」と(自覚者たちは)呼ばれる
第二の修行者は、この世には真理という絶対のものがあることを知り、それを自分のことばで語る人。この世で最高の人は真理の自覚者だということを知って、その真理を人々に向かって言葉で表現してくれる人。自分が認められ、偉くなるためじゃなくて、ただ慈悲として働く人。ここで毎田先生はおっしゃる。世の人は「わかってはいても、なかなかできない。」というけど、これは真理のことばではないと。真理のことばは逆で、「知るは難く行うは易し」だと。知りさえすれば行いは自然に出てくる。その「知る」(わかる)ということが難しいのだと。何をどうすればいいかと一生懸命考えているうちは、まだまだってことですね? 本当にわかっている人は、何をしようなんて思わなくても、やることすべて自然に真理として働くんですね。
88-6
充分に説き明かされた真理の言葉を 道として生き 自らを修め 深く物を思い
過ちを離れた言葉に従って行動するものを
修行者の中の第三の「道に生きる者」と(自覚者たちは)呼ばれる
次に第三の修行者について。「真理の言葉を道として生きる」とある。それにはまず「聞く」こと。真理のことばに耳を傾ける謙虚さが大事だと。ここに、その生きる方向が決定する重大な転回の瞬間があるのだそうです。これぞ、ずっと逆走してきた自分に気づくひらめき!! これは歴史的に自覚のことばに接することで、それ以外に自覚への道はないそうです。「聞く」とは自分の頭で考えまわすことをやめて、与えられる教えをただ一心に受け取ること。それは主観的なものでなく直観的なものだと毎田先生はおっしゃる。「過ちを離れ~」というのは過ちを犯さないことではなくて、いつもまちがってばかりの自分を省みることを忘れないこと。やっぱり見ているのは外ではなくて自分なんだな。これって、聖徳太子の十七条の憲法の第十条にある、「是を以て彼の人は瞋ると雖も、還りて我が失を恐れよ、我れ独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙え」だね。
この三つのガーターは深く関係し合いながら修行者のたどる道を示してくれている。でも、私たちにとって大事なのはこの次のガーターのようですよ!
89-7
正しい行いをしているように見せかけて
内心は図太く 在家の生活を汚して あつかましく
偽善者で 自分の身は修まらぬのに 口達者で
しかも殊勝らしく振舞う者 彼が「道を汚す者」である
これです! この第四の修行者。自分はとても偉いと見せかけて、実は欲だらけ。その欲を満たすためなら、平気でしらじらしいうそもつくし、人をだます。鈍感で、人を傷つけていても全然気づかない。まわりには争いや混乱が起きて泥沼だ。救いようがない。偽善者とは、最も巧妙なうそつき。うまいことばかり言って、自分をいい人だと思い込ませる。「あ~いるいる、こういう人・・・」私はテレビで話題になる、いろんな政治家とか、有名人を思い浮かべて、ニヤニヤする。いつも偉そうな人の化けの皮をはがしてもらったようで、なんだかすっきりした気分になる。そんな私にまたとどめが刺される。
90-8
よく学び智慧明らかな在家の聖弟子が 彼らのありのままの姿を「この通り」と知って
その本当のところが解っても だからといって 彼の信は失われはしない
どうして彼は汚れたものと汚れないものと
清いものと清くないものとを 同じとみなければならぬだろうか
まず彼らのありのままの姿とは、正にさっきの「道を汚す者」の姿。そして毎田先生はその「彼ら」つまり「道を汚す者」とは私たち自身のことだとおっしゃる。ガ~ン!!! またやられました! 他人事ではありませんでした。人間はすべてこの「道を汚す者」で自分もその一人なんだと。この私も!「私はまあ、第一の修行者にはなれないにしても、第二か第三にならなれるかな? 第四ってことはないなあ~」なんて思って読んでいた。そんな私はまだまだ自覚が足りないんだな。自分は「道を汚す者」だと自覚できてはじめて第一歩が踏み出せるんだな。そして毎田先生はおっしゃる。真理にそむくことによってこそ、人は真理に最も近づくことができる。清くないものであればこそ、清いものの胸に身を投ぜざるを得ない。自分が汚れしものと知ってこそ、汚れざるものを仰ぐ。それこそが信だと。
没落っていうのはすさんだ生活。そのはじまりについて語られる。これこそさっきの汚れた人の具体的な姿・・・
91-1
私たちはゴータマに没落する人のことをお尋ねします
どこに没落する人の没落の始まりがあるのでしょうか
それをお尋ねするために世尊のところへまいりました
92-2
栄えるものが誰か 没落するものが誰かを知ることはたやすい
真理を愛好するものは栄え 真理を嫌うものは没落する
没落のはじまりがどこにあるか? の問いに、お釈迦様のこたえはいきなり本質的。どこまでも真理を求めていく人こそ充実した人生を送れる。真理に目をそむけて生きる人は没落すると。
93-3
第一の没落者がおっしゃる通りなのはよくわかりました
では世尊よ 第二の没落の始まりはどこにあるのでしょうか それをお示しください
94-4
不純な人が好きで 心の清い人を嫌い
よくないやり方を楽しむのが 没落の始まりである
心のにごった人が好き。うそやおべんちゃらを言ってもつっこまず、適当に口を合わせてくれる。そういう人とお互いにお世辞を言い合って利己心を満たし合う。正直でどこまでも真実を突き止めようと心のとぎすまされたような人は苦手。そういう心の清い人を「あんなやつは困る。」と言って避けて、うそやおべんちゃらのうまい不純な人を、「あいつは話せる。あいつは使える。」と言って手を組む。これが第二の没落のはじまり。
95-5
第二の没落者がおっしゃる通りなのはよく解りました
では世尊よ 第三の没落の始まりはどこにあるのでしょうか それをお示しください
96-6
いつもねむそうにしていて 人の集まりを好み 生気がなく
怠け者で 怒りっぽいのが特徴であるような人 その人に没落は始まっている
第三の没落者とは・・・? 寝てるのか起きているのか、だらだらとした乱れた生活をして、いいかげんな慣れ合いの仲間とつるんで、気がぬけていてだらけていて何をするにも投げやりで、怠けもの。そして、このような人の特徴として、ほぼまちがいなく怒りっぽい。鋭いな。ようするに利己心だけはもっている。みじめだな。こういう無知な人が欲を満たそうとすると、必ず人とぶつかる。そして怒りが爆発する。爆発しない場合はただだまってすねる。うん、そうだ。その通りだ。あるあるだ。誰もがあるよね?
97-7第四の没落者は?(問いの文は同様なので以下省きます) 98-8
老い衰えた母や父を
養うことができるのに 養おうとしない人 そこに没落の始まりがある
毎田先生曰く・・・父母を忘れることは死への第一歩だと。自分の命の源である、父母の命を尊ぶことこそ自分の命を尊ぶことだと。
99-9第五の没落者は? 100-10
バラモンや修行者やその他乞食する人を
うまいことをいってだますのは 没落の始まりである
前のガーターが肉体的生命の源とすると、このガーターは精神的生命の源。教えを説く人をうまいことをいってだますことは、最もその人を軽蔑すること。そして、なにより人を軽蔑することは、自分を軽蔑すること。と言われる。
101-11第六の没落者は? 102-12
大きな富と黄金と食糧とをもつ人が
自分一人美味しいものを食べているなら そこに没落の始まりがある
おいしい物も幸せも、だれかと分かち合うことで何倍にもなるんだね。ひとりじめする姿は、寒々として心貧しいことなんだね。こんな、命と命がふれあう本当の喜びを知らない無知な人が第六の没落者。
103-13第七の没落者は? 104-14
血統と財産と家柄とを誇りながら
しかも自分の親戚を軽蔑する人があれば そこに没落の始まりがある
毎田先生のことばを借りるなら、「自らを誇ることは他を軽蔑することなくしては成り立たない。」「豊かさと立派さとを誇れば誇るほど、みすぼらしくなってゆく」「世俗の誇りには、精神の光がない」だそうです。
105-15第八の没落者は? 106-16
女と酒と賭博とにわれを忘れて
得るに従って浪費する人があれば そこに没落の始まりがある
107-17第九の没落者は? 108-18
自分の妻たちに満足せず 遊女たちのところへゆき
ひとの妻たちを訪れるのは 没落の始まりである
109-19第十の没落者は? 110-20
壮年を過ぎたひとがティンバルの実のような乳房をしているものを引入れて
彼女への嫉妬のために夜もよく眠れないとすれば そこに没落の始まりがある
111-21第十一の没落者は? 112-22
酒飲みで浪費する女 またはそのような男に
物事の支配を任せてしまえば そこに没落の始まりがある
113-23第十二の没落者は? 114-24
刹帝利の階級の家柄に生まれたものが 財力のないのに 欲望だけは大きく
この世で王の位につくことを欲するならば そこに没落の始まりがある
一気にきてしまったけど・・・げげげ?・・・って感じです。本当にこんなことが書かれているんですか? こんな古い経典に・・・今と変わらないじゃないですか?・・・そして私、ティンバルの実がどんな実か調べちゃった。言いませんけど。
あ~ハラハラしたけど、ここでやっとこの没落の経はまとめに入ります。
115-25
世間には以上のような没落があることを思い
賢い人 気品ある人は 物事の奥を見抜いて 幸せな境涯へ入ってゆく
まずびっくりするのは、お釈迦様がこんなにも世間の奥の奥までお見通しであったこと。世間と離れた清い世界に生きていたのでなく、世間の生活の中に親しく接しておられたのですね。そうでなければこの没落の経はありえない。その世間の泥沼に足を踏み入れていながらも、蓮が泥沼に汚されないように、それを超越しておいでになったと毎田先生も語っている。世間の汚れを知り尽くしてこそ、それを超えて幸せな境涯へ入ってゆけるのですね。
賤民(せんみん)というのは、もともと最も身分が低く差別されていた人たちのこと。でも、ここでは「おまえたちは賤民をばかにするが、自分たちこそが賤民ではないか?!」と、その具体的な姿を示される。
116-1
いつもいらいらしていて人のあらばかり探し 意地悪で無慈悲で
偏見に捉われた偽善者 彼を「賤民」と知るべきである
きびしい~! これ、とにかく外にばかりに目が向いている人。と毎田先生は言われる。内省の人であればじっと静かに自分の姿を見つめていると。不完全な人間がひしめく世間に目を向ければ、いくらでもあらが見つかる。いつも目を外に向かって光らせていれば、あれもこれも気に食わないことだらけだ。そして、それを指摘されれば、相手は頭を下げるしかない。ここで快感を味わう人を意地悪という。とある。ここだね。まちがいを指摘することが意地悪なんじゃなくて、ここに快感を感じることが意地悪なんだな。
昔好きだったドラマによく「そこに愛はあるのか?」というせりふが出てきたけど、愛がない、無慈悲はどこからくるのか? それも自分を省みない思い上がりからくる。自分が正しいと思っている。これを「偏見に捉われた偽善者」と言われる。自分の中にもまちがいがあると認めている謙虚な人は意地悪をしない。
でも毎田先生はおっしゃる。人間というのは思い込みだらけ。そんな人間が賢いふりをすればそれは偽善者。そんな不完全な人間だらけの世の中で、みんなとうまくやっているようにふるまっているとすれば、そこには必ず偽善があると。つまり人間がこの世に生きる限り偽善者なんだと。賤民の経、いきなりきびしいです~
117-2
一度生まれる(胎生の)ものでも 二度生まれる(卵生の)ものでも この地上の生物を傷つけ
そのような生きものを少しもいとしく思わない人 彼を「賤民」と知るべきである
生き物を傷つけても少しもかわいそうだと思わない人、命へのいとおしさを少しも感じない人、それが賤民だといわれる。「じゃあ、動物の肉を食べるのはどうなの?」ということになる。「菜食主義ならいいよね?」「いやいや、植物にだって命はある。」ということになる。
毎田先生はおっしゃる。こうなるとただの理屈だと。他の生物の命をいただかなくては生きていけないのは私たちの宿命。ここで問題にされているのはそういうことではない。他の生物を傷つけてしまったときに、その命へのいとおしさがあるかないかだと。更に毎田先生は付け加える。さっきの没落の経も、この賤民の経も、没落してはならないとか、賤民であってはならないとか、そういうことではない。ただ、ここに没落の始まりがある。こういう人は賤民である。という事実が語られているだけだと。その事実に自分を照らし合わせて、「ああ、私にも没落があるな。」とか、「賤民じゃないとは言えないな。」とか、そういう自覚をすることが大切なんだな。これはしてはいけないとか、こうしなきゃいけないとか、そういうことではないんですね。
118-3
村や小さい町を暴力で抑えて
顔役という悪名の高い人 彼を「賤民」と知るべきである
人々を暴力で自分のいいなりにさせるのは賤民だと言われる。そして、毎田先生は暴力といっても、実力以外に、知能暴力、言論・思想の暴力をあげられる。政治や戦争や労働組合の例もあげて解説される。私はやっぱり聖徳太子のように「和」や「信」や「礼」を大切にする人が上に立たなければ、どんな世界も結局はおさまらないと思うな。
119-4
村や林の中でひとの物を与えられないのに自分の物にして(いわゆる)
盗みを好むもの 彼を「賤民」と知るべきである
命というものはもともと何かをつくり出そうとする創造的な生命。そのために働こうとするもの。それを、自分では働かずに人のつくり出したものを盗む人は、自分のいのちをおろそかにすることだと言われる。これは賤民だと。
120-5
実際に負債があるのに 請求されると
「あなたには何も借りていない」といって逃げる人 彼を「賤民」と知るべきである
借りを返さない人。たとえば約束の期限が来ても返さない人は、すでに許されていない人の物を持っているということで、これも盗みだと言われる。そして、毎田先生は付け加えて、「人に物を借りる人はうそつき」だと言われる。え~?! 借りちゃう私。で、返すの忘れてることもある・・・まずいですね。真実の人は、自分の生命の創造力は、必ず何かを生み出すとかたく信じているので、借金や物を借りるということをしないんだって!
121-6
わずかばかりのものを欲しがって 道をゆく人に
暴力を加えてそのわずかのものをうばいとるもの 彼を「賤民」と知るべきである
また暴力と盗みが出てきました。ここで商人の例があげられる。自分がもうけるために、「これを買わないとこんな困ったことになるよ。」と脅して追い込んで買わせることを暴力に例えられている。いっしょに人生の道をゆく人にこういうことを吹きかける。こういう無慈悲な行いは暴力だと。
122-7
自分のため ひとのため 財のため
証人として問われたときにうそをつくもの 彼を「賤民」と知るべきである
うそについて語られる。生命のありのままの真実でなく、頭で考えたものがうそ。これは真理にそむくことで、自分のいのちをないがしろにすることだって。そして、人生の場を裁判所と考えたとき、世間の人々の前で真実をあかすことができるかと言われる。それ以外にどこに人生があるかと。これを放棄して人生の裏道をこそこそ歩いていく人になるのか、それとも公明正大の道をゆくのか。うそをつくにつれて人生は細々としたものになる。正直に堂々と生きれば力強い人生になる。う~ん、うそだらけの私は、正直どうしたらいいかわからないです・・・
123-8
親戚や友だちの妻に 無理強いにまたは相愛して
会っているもの 彼を「賤民」と知るべきである
不倫は賤民のすること。では世の不倫を非難する人たちは清らかな人ですか? 私はここで92-2の教えをもう一度思い出す。真理を求める愛と真理にそむく愛について考える。まず心の中で起きていることはすでに真理。例えば人の不倫を非難するその自分の心の中に不純な思いはないかどうか? ここで問われるのは純粋さ。ひたむきな、はからいのない純粋な生命は真理そのもの。あなたの愛にはこの純粋さがありますか? と問われるのですね。例え長年連れ添った夫婦でも、はからいや、利己心だらけの自分勝手な愛でつながっているだけなら、それはただの執着。同じようにいのちを大切にしない賤民にすぎないってことですね?
124-9
老衰してしまった母や父を
自分にそれができるのに養ってゆかないもの 彼を「賤民」と知るべきである
私たちのいのちのもとである父と母が、すっかり老いぼれてみじめなその姿を取り繕う力もつきて、真理丸出しになったのを目の前にしたとき、この両親に仕えることができるか? その態度で彼が「真理の人」か、「賤民」かがわかるのだな。老年のお釈迦様は、自分の育ての親であるおばさんのプラジャパティーが死んだとき、お弟子さんに止められても聞かないで、他の人たちとその棺をかつがれたそうです。
125-10
母や父や兄弟や姉妹や義理の母を
打ったり ひどいことをいって悩ましたりするもの 彼を「賤民」と知るべきである
お釈迦様のお母さんはお釈迦様が生まれて一週間で亡くなった。その後、さっきも出てきたおばさんのプラジャパティーに育てられた。だからあえて「義理の母」ということばが出てくるのかな? 私はお釈迦様がどんなふうに育てられたかくわしく調べたわけではないけれど、誰でもそうだと思うけど、育っていく過程にはいろいろある。でもどんな人にもその命を育ててもらった家庭(場所)がある。それを大切にしないのは、やっぱり自分のいのちをおろそかにするってことなんですね。
126-11
その人に利益となることを問われたのに不利益なことを教え
隠していて本当のことをいわないもの 彼を「賤民」と知るべきである
またうそが出てきた。私たちはいつでも人に聞かれたことに、お茶をにごすようないいかげんなごまかしの返事をする。本当のことを言ったら、なんて言われるか? とか、どう思われるか? とか、そんなことにとらわれて・・・でも、真理の道を行く人には、うそは禁物。毎田先生のお師匠さんである、暁烏敏先生は、よその家で食事をなさるとき、丹精こめて料理されたその家の奥様に、「お口に合いましたか?」と聞かれると、口に合わなければ「ウモナイ」(うまくない)と答えたそうです。「うっかりお世辞にうまいなどと心にもないことを言えば、毎回それを出されてひどい目に合うからな。」と笑って話されたそうです。「うそを言わないと人生を簡単明瞭に渡れる。」とも・・・。私にはそんな勇気はないけど、さらっと本当のことを言ってすいすい生きていけるようになりたいな。
127-12
自分でよからぬことをしておいて「私のしたことと知られないように」と望みひそかに事を行うもの 彼を「賤民」と知るべきである
こそこそする人は賤民だって。ここでは「よからぬこと」と言っているけど、世の中には、いいことをしたのを隠すのが立派だと思っている人もいる。ん? え? だめですか? 私も「こんなこと言ったら自慢になっちゃうよな。」なんて思って自分ではさりげないふりをして、でもどこかで気づいてもらうように工作したりすることがある。キャー! 正に賤民!・・・毎田先生の解説によると、人間のするいいことなんて、取るに足らないようなことなのに、それを事々しくかくすところに卑しさがあるんだって。何も自慢しろとは言わないけど、よしあしの判定は人にまかせて、自分のしたことは、そのままに事実そのものを公表すればいいって。そうか、人間のするいいことなんて、どうせもともとは自己満足なんだもんね。いいことも悪いことも公表して正々堂々と人から批判を受けていけばいい。それが真理の使徒にふさわしいって。そんなふうにできたらかっこいいな。そして、真理の世界には秘密はない。だいたい隠そうとこそこそすること自体、「ここに秘密があるよ!」って宣言しているようなもの。そんな、隠せないことを隠せると思ってこそこそするその無知が、その人を卑しくする。だから賤民だと言うんだな。
128-13
ひとの家へいってごちそうになりながら
その人が自分のところへ来たときには 返礼のもてなしをしようともしない人
彼を「賤民」と知るべきである
あらあら、さっきはお返しはしないってお話があったけど、今度はお返ししない人は賤民だって? 教えを聞いていると、こういうことよくあるよね~。これだめっていうからじゃあやめようって思うと、それもだめってね。矛盾だらけなんだよな。・・・でも、これってつまりは、こだわるなということなのかな? これがだめならあっち、あっちがだめならこっちって教えに振り回されると、結局どうすればいいの? ってことになる。そもそもいいも悪いも状況によって変わるし、もともと人間のすることは自己満足なんだから、とらわれずに好きなようにやればいいんですね? 解説にもあります。物にこだわらない人は、人の家でごちそうになれば、次にその人が自分の家へ来たときには、ごく自然にその人に返礼のもてなしをする気になるものだと。それは自然な喜びの表現なんですね。固定的な考えの人は、そこでしみったれた、ケチな感じを人に与えるようなことになるって。もてなすにしても、「ごちそう作るのめんどくさいな。」とか、「予定外の出費だ。」とかぶつくさ言いながらのもてなしはもってのほかだね。
129-14
バラモンや修行者やその他の乞食する人を
うそをついてだます人 彼を「賤民」と知るべきである
信の人をだますのは、真理を汚すこと。信じる人、人を疑わない人は、最もだましやすい人だと言われる。それをだますのだから、子どもをだますのといっしょ。この純なるものをだますのは、正に自分の命を汚すこと。純なる人の曇りのない鏡にその卑しい姿はあまりにもはっきりとうつし出されてしまう。
130-15
食事の時間にやってきたバラモンや修道者を
変なことをいって怒らせ そして何も与えない人 彼を「賤民」と知るべきである
お食事を差し上げるか差し上げないかは、まったくその人の自由。布施する意志がなければ「何も差し上げませんから」と言えばいいんだって。布施しないことが賤民なんじゃなくて、気を持たせて引き留めて相手にして、変なことを言って怒らせて結局なにもあげないという、潔くない態度が賤民なんだって。修道者だって人間なんだから怒る。むしろ、率直で純朴な修道者はだましやすいばかりでなく、怒らせやすい。そんなひどいことをするのは、赤ちゃんの腕をねじ曲げるようなもんだって。
131-16
つまらないものをやたらに欲しがって
無知に目がくらみ この世にありもしない(架空の)ことをいいふらす人
彼を「賤民」としるべきである
私たちが欲しがるものは、よくよく考えてみれば、みいんなつまらないもの、いらないもの。本当に必要なものだけでシンプルに生きる。たとえばお金に目がくらんで本当に大事なことがわからなくなって、余計なつまらない、真実とはなんの関係もない世界に幸せを求める。たぶん、真理探究の道に入れば、それがとても充実していて楽しくて、どんなに裕福な生活より魅力的だということに気づくんだろうな。
132-17
自分のことはほめ ひとのことはけなし
そのうぬぼれのために下品になっている人、彼を「賤民」と知るべきである
毎田先生の解説を整理してみます。
謙虚な人→客観的→真理の人→上品
うぬぼれ→主観的→真理からはずれる→下品
うぬぼれの人は、真理からはずれたその妄想を人におしつけ、人を支配しようとする。そこに客観的真理の世界において異様なことが怒る。これは妄想のできものがもりあがって、おできができたようなものなんだって。これは美しいものではなく、下品なもの。謙虚に真理をもとめていく人の一心な気品ある姿と比べられる。うわ~出ました! また毎田先生のグサッとくることば。これって私たちみんなに向かって放たれることばですよね? 行きますよ! 覚悟しましょうね!
「真理をつかみもしないものが、つかんだような顔をしているのであるから、その威張った、高慢ちきな顔が、真理と不真理との矛盾のゆえに、低級に見えるのである。」
133-18
怒りっぽくてけち臭く 悪意があって利己的で ずるくて
恥知らずの厚かましい人 彼を「賤民」と知るべきである
他人の苦労にも不幸にも犠牲にも知らんぷり。そういうものとは向き合おうとしない。なのに、自分はこんなにも人のために努力をしていると見せかけのアピールをする。とにかく自分の欲望を満たすためにとことん知恵をはたらかせる。相手に弱みを見せないように細心の注意をはらう。絶対にボロを出さないように自分を守る。はい、これまた誰かのことではありませんよ。自分自身はいったいどうなの? ずるくないの? 毎田先生もおっしゃいます。これをそのままに認めて、私たちの懺悔が成り立つと・・・。これを認めることがスタートなんですね。
134-19
自覚者とその出家や在家の弟子を
誹謗(ひぼう)するもの 彼を「賤民」と知るべきである
真理としてはたらく人や、真理への道を行こうとする人たちのことを、けなし、否定し、悪口を言うということは、真理というものが全然わからないということ。無理解無知ということ。光輝く命を目の前にしてもそれを認めようとしない。気づかない。頭が固定されていて、自分が絶対正しいと思い込んでいて、転回できない人を賤民と言うんだね。
135-20
自分は実際に値打ちのある人でもない癖に 如何にも値打のあるように自分を認めている
この神々をも含む世間での盗人こそ 実に最低の「賤民」である
私があなたのために説いた以上の者たちが賤民と名付けられるのである
最後に最低の賤民は・・・要するに「思い上がりの人」だと簡単に言われる。そしてこれは最大の盗人だと。なぜ? それは、神様から盗んだものを自分の身につけるから。
136-21
生まれによって賤民なのではなく 生まれによって高貴な人であるのでもない
行いによって賤民となるのであり 行いによって高貴な人となるのである
貧しい家に生まれたから卑しい人になるんじゃない。立派な家に生まれたから偉いんでもない。どちらもただ人間として生まれただけ。内省のない思い上がりの人が賤民であり、内省のある自覚者が高貴な人と言われる。ここではっきり示される。内省とは自分の思い上がりの姿を知ることだと。内省のない思い上がりの人は、自分のそのみにくい姿に気づかないまま、人より認められようと、一生懸命背伸びをして、いつもだれかと対立して、ぎしぎしきしみ合って生きている。内省によって、自分の思い上がりの姿を自覚している人は、人とは対立せず、ただ無限の真理を仰いで生きていく。
そして、最後にこれを証明する実例を示される。それは、最も身分の低い賤民の家に生まれたけど、自覚者の道を行って幸せになったマータンガの例と、逆に最も身分の高いバラモンでも苦悩の道に陥る人もいるぞという例。
137-22
私がこのようにいうのを 次に私が示す実例によってわかって欲しいー
賤民の子で犬を煮て喰うといわれたマータンガのことは広く知られている
138-23
そのマータンガは何人も得難い最高のほまれを得た
そして大勢の刹亭利やバラモンの人たちが 彼に仕えようとしてやって来た
139-24
彼は神々の道へ上り 汚辱を超えて 気品ある生活を続け
情欲から解放されて 最高の境涯に到達した
そのように最高の境涯に到りつくために 彼の生まれは何の妨げともならなかった
140-25
聖典を読誦する家に生まれ いつも聖なる言葉に親しんでいるバラモンであっても
よからぬ行いをしばしばしているものがいる
141-26
そのようなものはこの世にあっては非難され 未来に於いては苦悩の世界へゆくこととなる
彼の生まれは 彼は苦悩の世界へゆき 非難されることを何等妨げない
142-27
生まれによって賤民なのではなく 生まれによって高貴なのでもない
行いによって賤民ともなり 行いによって高貴な人ともなるのである
待ってました! 没落の経、賤民の経と、ドロドロした人間の汚さ、醜さをつきつけられてきたけど、ここでやっとこの慈愛の経に出会える。目を輝かせて教えを聞こう。
143-1
如何にに生くべきかを究めた人が その安らぎの中で どのように生きるか
力強く 筋道がたって さゆるぎもせず 言葉やさしく 物柔らかで 人を軽蔑しない
ただただ真理にしたがって生きる人ですね。その力強さは誰にも侵すことができない。その力強さはどこからくるの? それは、没落の経や、賤民の経に示された事実すべてを自分の中に発見して、それを全部受け入れることで超えてしまっているからなんですね? もう頭がすっかり下がり切って地べたについて、真理と一体になっている。真理に身を任せている。解放された自由の人は、他の人のことはその人の自由にまかせているから、人と対立することもないし、人に何かを押し付けることもない。人々をやさしくみつめて、真実のことばが語られるのをただ待つ。ありのままを受け止め、色めがねで人を見ることがない。他人の中にあるものはすべて自分の内にもあることを知っているので、人を軽蔑することはありえない。
144-2
充ち足りた思いで 与えられるままに暮し 何をせねばということがなくすべてが簡素で
静かに物事をありのままに見て 心明るく
出すぎたことをせず 家々を訪れても貪ることがない
あるもの、与えられるもので充ち足りている。人々が欲しがる物はほとんどつまらない物と知っている。自分の中からわき起こってくる真の欲求にだけしたがって、本当にしたいことだけをする。物事をありのままに、・・・苦しむまま、悲しむまま、喜ぶまま、楽しむままに見て、それをどうこうしようとしない。心が明るくて快活で、めそめそした、ゆううつな、暗い顔を少しもしない。これ、無理して笑っているのとはちがいますよね? 人のすることに干渉しないで、すべてまかせている。控えめで自然。あっさりしていて執着がない。
145-3
賢い人がつまらないことと無視するような そんな些細なことには無論とりつかず
ただひとえに願うところは すべての生きものが
喜びと安らぎと楽しさの中にあることである
世間のことには立ち入らない。人間が世間で行うようなことはすべて取るに足らない些細なことだって! そんなこと言ったらみんな怒っちゃうよ~。毎日大変だ大変だって言いながら、汗かいて、必死になって、悩んだり落ち込んだりして、一生懸命生きているんだから。それを否定されたらいったい何が残るの?・・・それはただひとつ、すべての生きものが喜びと安らぎと楽しさの中にあることを願う。・・・う~ん、私はまたまたうなります。慈愛の方はひたすらみんなの幸せを願うだけなんですね。
146-4
どんな生きものでも 例外なく 弱いもの 強いもの
長いもの 大きいもの 中位のもの 短いもの 微細な又粗大なもの
147-5
目に見えるもの 見えないもの 遠くに住むもの 近くに住むもの
既に生まれたもの 将に生れんとするもの 一切の生きものの幸せを願うばかりである
いろんなものがいっぱい出てきたな~。なんだかこの世がにぎやかで楽しいところに思えてきた。どんな命もすべての命をむだにしない。物も最大限に活用する。この世のすべてのものが充分に本来の働きをすること、その真理の作用を見ようとされるのですね。それが幸せを願うことなんですね。すべての物がそれぞれに生き生きと働く世界。いいな。楽しいな。そうなったらいいな。
148-6
一体 人は他人が自分をだましたからといって その人をだまさねばならぬということがあろうか
そして何処にいても 人を軽んじないがよい 又怒りを胸に抱いて 人を憎み
相手を苦しめようなどと思うべきではない
私たちは自分をだました人にはこちらもとげとげしい態度になる。でも慈愛の人は違う。自分をだます人にも、だまさざるを得なかったその人を優しく包み込んで、その心を解きほぐして、やがては自分から本当のことをはき出させてしまう。そんなふうに閉ざされた心のとびらを開いて、心をほぐすことばを愛語って言うんだな。そして、どんな人も軽く見ない。それぞれに働く場所があることを知っている。悪人は悪人で、善人は善人で働く場所がある。乱暴者にも臆病者にも不器用者にも器用者にも働く場所がある。そこではそれぞれが他の人にはできないそれぞれの働きをする。そして、またまた怒りが出てくる。怒りは慈悲とは正反対のもの。
149-7
母親が自分の子どもを 一人子を 命がけでまもるように
一切の生きものを 限りなく広い心で 抱きとるがよい
150-8
この世のすべてのものを 上にも下にも横にも 障りなく
友情と 敵のない どこまでも広い 慈愛の心で抱きとるがよい
良妻賢母なんて言ってないで、愚かな母になりなさいと言われる。愚かであることは自然なことだと。そこにこそ真理があると。それこそ慈悲だと。自分の心を深く深く省みることで、自我の底がぬけて、そこには限りなく無我の世界が広がる。こうやって自我をぶっつぶしてしまえば、もう敵はなくなる。みんなが友になる。ホントに? すごいな!
151-9
立っていても 歩いていても すわっていても 又ふしていても 意識のさめている限り
この思いだけで 心が満たされているならば
それをこそこの世で気高い境涯に生きるという
いつでも何をしていても、ずっとずっとこの慈悲の心で胸がいっぱいであれば、それは最高なことだと言われる。そして、これはただの理想じゃない。だってお釈迦様が自らそれをやって見せてくださったのだから。そして、それはお釈迦様が特別な方だからできたのではない。誰にでもできるように、一生かけて、いろんな言葉で、その慈悲に到る道を智慧として説かれている。国や時代が違ったって、きっとこれは絶対の教えだ!
152-10
片寄った考えをすべて捨て去り しっかりした腰の坐りで 物事の奥を深く究め
色々の欲望にからみつかれることがなければ
人はもう決して 母胎に帰るようなことはない
片寄った考え、つまり偏見をすべて捨てるということは、人間が考えをもったらそれは全部偏見なので、要するに考えを捨てなさいということだって。また恐ろしいことを・・いっさい考えるなということ? 考えをよりどころにするから迷うんだって。この考えを捨てて、ひたすら真理をたずねていく。そしてその無常の真理にしたがっていけば欲望にからみつかれることもなくなる。あるのはただ永遠の今。今こうしてここに生きているという事実。このほかになにもなくなったとき、慈悲が現れると。これがお釈迦様が説かれた慈悲に到る智慧だそうです。う~ん、わかったような、わからないような・・・?
この雪山に住む者の経では、対話形式で、まずお釈迦様がどのような人であるかが問われる。そしてその後、雪山に住む者とお釈迦様の対話による教えが書かれている。
153-1
「今日は十五日の『浄め』の日である とサーター山に住む者がいった
聖(きよ)らかな夜が近づいてくる
さあいっしょに至高の名をもたれる師ゴータマにお目にかかろう」
154-2
「その人の心は と雪山に住む者が問うた すべての生きものと一つに融けて
快いことにも不快なことにも自由に働いているか」
155-3
「その人の心は とサーター山に住む者が答えた すべての生きものと一つに融けて
快いことにも不快なことにも自由に働いている」
お釈迦様はすべての生きものの「こう生きたい」と願う方向と一つになられる。そして、このすべての生きものの、どの生きものと交わるときも、心地よい時にその心地よさにおぼれて自分を失ってしまったり、また不快を感じられるときでさえも、その感情にとらわれて自由を失ってしまったりすることはないと言われる。どんなときも変わらず慈悲の態度で接しておられるのですね。
156-4
「その人は与えられぬものを取られないか と雪山に住む者が問うた
生きものを傷つけないように心を配って居られるか
微妙なものの動きを見逃さず いつも深くものを考えて居られるか」
157-5
「その人は与えられぬものを取られない とサーター山に住む者が答えた
そして生きものにはいつも気を付けて居られる
又微妙なものの動きを見逃さず 目覚めた人として いつも深くものを考えて居られる」
お釈迦様は欲しいものは欲しいと言われる。そして与えられるかどうかは相手の自由に任せられる。なので、相手の意志を無視して無理やり取ろうとすることはない。そして、相手の独立と自由を尊重しておられる。いつも気を付けて相手の微妙な動きも見逃さないで、その奥にある真理をじっと見つめておられる。
158-6
「うそはつかれないか と雪山に住む者が問うた おかしなことをいわれないか
人を中傷されないか 無駄口は利かれないか」
159-7
「その人はうそをつかれない とサーター山に住む者が答えた
そしておかしなことをいわれず
ひとを中傷されず 智慧の人として ただ道理をのみ語られる」
お釈迦様はうそや、見当違いのおかしなことや、人の悪口や、むだなことは一切言われない。ただただ苦悩から解放されて自由になる道についてだけを語られる。
160-8
欲望を起こされることはないか と雪山に住む者が問うた その心は汚れていないか
無知を離れて 物事の真(まこと)を見抜いて居られるか」
161-9
「欲望を起こされることはない とサーター山に住む者が答えた
そしてその心は汚されず
一切の迷妄を離れて 目覚めた人として 物事の真を見抜いて居られる」
欲望を起こされることのないお釈迦様はもう人間ではありませんね。欲望を知らないのではなくて、すべて知り尽くして超えてしまっているんですね。
162-10
「明らかな智慧に透徹して居られるか と雪山に住む者が問うた
全く清らかに生活して居られるか
煩いを絶ち切って 又外のものに生まれかわられることはないか」
163-11
「明らかな智慧に透徹して居られる とサーター山に住む者が答えた
そして全く清らかな生活をされ
すべての煩いを絶ち切り 又何かに生まれかわられるということはない」
この経は慈愛の経の最後のガーターと対応しているそうです。「又何かに生まれかわるということはない」は「母胎に帰るようなことはない」ということ。このことば、ダニアの経にも出てきた。あのときは、もう二度と人間なんかに生まれてこない! という、欲だらけの人間を切り捨てる恐ろしいことばと受け取ったけど、今度は、永遠の今を生ききったら、もうこれでこの世での一切は終わる。またこの世に迷い出てきてうろちょろしない。ということなんですね? 毎田先生が亡くなられたとき、奥様が「先生ばんざい!」とおっしゃった。人の死がこんなに輝いていることがあるだろうかと・・・毎田先生はご自分の生を生ききって、完結した。ピリオドをしっかり打たれた。その死に様をどこかで読んで感動したことがある。
163Aー12A
「気高い方の心が 行いにも言葉にもよく表れて
明らかな智慧をもたれ 申分のない生活をされていることを
あなたはありのままにほめたたえた
163Bー12B
気高い方の心が 行いにも言葉にもよく表れて
明らかな智慧をもたれ 申分のない生活をされていることを
あなたはありのままに喜びを以て語った」
慈愛に満ちたお釈迦様のお姿を語ったサーター山に住む者に対して、雪山に住む者が語ったことば。最後の一言が違うだけの二つのガーター。しかも、「ほめたたえた」と「喜びを以て語った」とほとんど同じ意味なのに、こうしてこの二つのガーターが並べられているのは、どちらも捨てがたい味わい深いことばだからだと毎田先生は解説される。そして、次の4つのガーターは、サーター山に住む者のことば。雪山に住む者を説得して、いっしょにお釈迦様のもとへいくことになった喜びをもって語られる。
164-13
「気高い心が 行いにも言葉にもよく表れて
明らかな智慧をもたれ 申分のない生活をされているという
そのゴータマに さあ私達たちはお目にかかろう
165-14
かもしかのような足をされ 身はひきしまって 知性に輝き 食物を貪らぬおだやかな人
このような気高い人が 林の中で冥想して居られる
さあ私たちはゴータマにお目にかかろう
166-15
獅子のように独立の道をゆき 象のように欲望を顧みないで進まれる
その人に近づいて どうしたら死のわなから解き放たれるかをお尋ねしよう
167-16
一切の物事を究め尽くして 説き明かし 述べ伝えてくださる人
憎しみと怖れとをこえた自覚の人 そのゴータマに私たちはお尋ねしよう」
私たち人間はみんな死ぬのがこわい。すべての苦しみのもとに、この死への恐怖がある。これから解放されれば、すべての苦しみから解放される。それは結局は真理の認識だと毎田先生はおっしゃる。それをこれからお釈迦様のところへ行ってお尋ねしようというのですね。なんだかまたわくわくします。物事を究め尽くされたお釈迦様のお言葉に早く出会いたい。・・・ここでまた毎田先生はおもしろいことをおっしゃる。「物事を究めるとは、世界にてんとう虫が何匹いるかを数えるようなことではない」と・・・そんな知識をいくら積んでも究め尽くすということにはならないと。そうではなくて、人間の苦悩のもとを究め尽くして、そこからどうしたら解放されるかを説き示すことだと。
168-17
「世間は何によって成り立っているのでしょうか と雪山に住む者が問うた
愛著することは何によって起こるのですか
世間の人は何につかまり そして何によって悩まされるのですか」
169-18
「六つのものの感受で世間は成り立っている 雪山に住む者よと 世尊は答えられた
六つのものを感受することによって愛著が起こり
世間の人は外ならぬ六つのものにつかまり 六つのものによって悩まされている」
六つのものって? それは、見えるもの、聞こえるもの、におうもの、口ににするもの、触るもの、・・・五感+第六感? 六つ目は感じるものってことかな? この六つのものを感受すると、そこに愛着が生まれて、それはやがて執着になって、その執着が苦悩のもとになる。と、こんな感じかな? たとえば甘い物が好き。おまんじゅうもおだんごもシュークリームもケーキもみんなみんな好き。さっきおまんじゅう食べたばかりなのに今度はおだんご・・・あしたは何食べようかな? と、そのことで頭がいっぱい。今日食べようと楽しみにしていたシュークリームが冷蔵庫から消えた! 怒る。「誰だ? 私のシュークリームを食べたのは!」この怒りはおさまらない。こんな毎日・・・例がよくないかな? でも、この六つのものによって欲望を満たすことが人生になってしまって、それだけに悩まされて、この外に精神の世界が、自由の世界が、あるとは夢にも思わないってことだね。その精神の世界、自由の世界っていうのは、欲望が整理されて、少欲知足のシンプルな無駄のない生き方によって、この六入の世界を超えたところに表われるんだな。
170-19
「それによって世間の人が悩まされている執着とは何をつかむのでしょうか
それからどうして解放され どうしたら苦しみから自由になれるのでしょうか
お教えください」
171-20
「世間には五つの感覚を唆(そそのか)すものがあり 心の中にその第六のものがあることはよく知られている
そこでこれらに向かう欲望を離れるところにこそ 苦しみからの解放があるのである
172-21
あなたがたのために この世間からどうして脱け出るかを真理に従って説き明かした
あなた方に私ははっきりという そのようにして正に苦しみから解放されると」
私たちを悩ますものはただ欲望だと言われる。これを離れて少欲知足のシンプルな生活をすることは、真理・無常に従うことだと。それは浅瀬をさらさらと水が流れていくようなものだと。そこに苦しみからの解放があると。これはこうだ! と決めつけて、真理の川の水に立ちはだかって、さらさら流れようとする水をせき止めているようでは苦しみから脱することはできないんだな。冷蔵庫からシュークリームが消えてもどうってことない。まあ、いいか・・・って感じだね。あっさり受け入れて次にいこう。
173-22
「誰が一体この世で盲目の命の流れを渡るのでしょうか 誰がこの世で大海の潮の流れにも似たそれを渡り切るのでしょうか
誰がつながるところもない 支えてくれるものもない 底も知らぬ深い流れに沈まないのでしょうか」
174-23
「いつもしっかりと身を保ち 智慧の目が開けて心の静かに定まっている人 そして
内を省みながら 深い思いのうちにある人 彼こそは渡り難いその流れを渡る
175-24
浴情のためにあれこれと思うことを離れ 一切の束縛を絶ち切って
世間の楽しみに何のかかわりもなくなった人 彼こそはそこも知らぬ深みに沈まないひとである」
大海の潮の流れにも似た、盲目の流れっていうのは、欲望を満たすことだけを目的にした人生なんだな。そもそも考えてから欲望を起こす人はいない。これから欲望を起こしましょう! せーのっ! なんてね。欲望はふしぎな因縁によっておこる。自分でも思いがけなく。例えば町を歩いていて焼き肉屋さんの前を通ったらいいにおいがしてきて、焼き肉が食べたくてたまらなくなる・・・みたいな。あ、また食べ物の話になっちゃった。
親鸞聖人もおっしゃいました。「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して~」と。そんな海みたいな欲望を支配してコントロールすることなんてできない。そんなことができると思うのは自力の妄想だって。「釈尊は欲望を離れる、相手にしない、超越するといわれるのであって、欲望をつかまえて、それをどうかしようとされるのではない。真理の認識から自ずからにして来る欲望の捨離をこそ、少欲知足というのである。」だそうです。
そしてそれを支えてくれる人はいない。誰もどうにもしてくれない。欲望の始末は自分でするしかないと。おなかすいたから誰か食べといて~とか、トイレ行きたいから誰かかわりに行って~とかいうわけにはいかない。
そしてその欲望の海に沈まないと言っても、もうすでに沈んでいるのが私たち。それによってどんなに束縛されているか、そのことを深く省みて、よく自覚して、懺悔することで、はじめてこの大海を脱することができると。
176-25
深い智慧の目で微妙な事を知り すべてを捨てて欲望に生きることを離れ
どんな事に向かっても捉われのない
この気高い道を行かれる大いなる人を今ここに見ました
177-26
至高の名を得て微妙な事を知り 人に智慧の目を開かせ欲望に捉われず
一切を知って物事に透徹し この清らかな道を行かれる大いなる人を今ここに見ました
178-27
私たちは今こそはっきりと目ざめて この輝かしい夜明けに起き出でました
命の流れを渡ってしまわれ 一切の煩いから解き放たれ 真理を究められた方におめにかかったからです
179-28
ここにいる千人のものは霊の力に恵まれて 楽しい生活をしている夜叉たちでありますが
こぞってまことに無上の師であられるあなたに帰依いたします
180-29
ここにいる私たちは 真理を究められた方と まことに真理そのものとして鮮やかに示されましたその真理とを限りなく尊びながら
村から村へ そして山から山へと 自由な生活を続けてまいります」
なんか、もううれしくてしょうがないんだろうな。なにも持たない。所有するものも支配するものもなにもない。なににもとらわれない。すべてから解放されて、すべての欲望を全部のみこんでしまって、世界とひとつになってしまったお釈迦様には、もうすべてが与えられているんだな。その大いなる人にお目にかかることによって、この人々もまた目ざめて、苦しみから解き放たれて、輝いている。これからお釈迦様の教えを胸に、自由で楽しい生活が始まるのですね。
お釈迦様、こんどは森へ行かれたんですね。
181-1
「何がこの世の最上の富なのでしょうか 何をなしとげて 平安にゆきつくのでしょうか
まことに何が味の中の味なのでしょうか
どのように生きたら それを最も気高い人生というのでしょうか」
182-2
「信ずることが この世の最上の富であり
真理に敵うことをなしとげて 平安にゆきつくのである
まことに真実こそ味の中の味であり
智慧を以て生きること それを最も気高い人生という」
富というのは私たちを幸せにするもの。決して悩ますものでなく。それは私たちが出会う人、私たちに起こること、すべてが天からのギフト、神様からの贈り物と信じることなのかな。たとえ苦しいことも、悲しいことも、私たちに何かを与えてくれるもの、何かに気づかせてくれるもの、成長させてくれるもの、と信じること。
そしてその真理に身をゆだねていけば誰とも対立することはない。平和だ。やっぱり聖徳太子の十七条の憲法の第十条にある通りだ。そしてその平和を乱す一番のもとはこの私だと気づくこと。それがなければ国際連合を百億作ったって平和は来ないと毎田先生もおっしゃる。
そして、私たちに生きる喜びを与えてくれるものは、この無常の真理以外にはない。今目の前にある、こうしてここに生きているという真実が味の中の味、つまり生きる喜びなんですね。そして、最も気高い人生とは、この世の一切のことに捉われない、自在の人生だと。そこに至るには内省の智慧によって、思い上がりを打ち砕いて、最も謙虚になることなんですね。
183-3
「どうしたら盲目の命の大河を渡り またその大海を渡ることができるのでしょうか
どうしたら苦しみをこえて 清らかになるのでしょうか」
184-4
「信ずることによって大河を よく思うことによって大海を 渡ることができる
努力して苦しみをこえ 智慧を得て清らかになることができる」
うん、すごい教えです。とにかくすごい! でもやっぱり毎田先生の解説がなかったらこのすごさがわからないです。私なりにこの教えを整理してみよう。
まず、とにかく外に向いている目を自分の心に向けること。そこにある思い上がりや欲望に気づくこと。これって何度も何度もくり返し出てくるけど、すぐ忘れちゃう。すぐ目が外に向いちゃう。気がつくと自分が正しくなって世の中を批判し始めているんだな。でも真理はいつもそこにあってそんな私に働きかけてくる。気づくまで止めない。それはことばを変えると、神様は決して私たちを見捨てない。何度でも何度でも気づくまで働きかけてくれる。あっちからこっちからありとあらゆる方法で。これでもか、これでもかと、ときには意地悪に、本当に真理をわからせるために。それは、私たちに真理の探求という努力を起こさせる。この努力によって私たちは自分の愚かさに気づき、懺悔することを通してはじめて苦を超え、清らかな世界へ入ることができるのですね。宮沢賢治もおっしゃった。「求道すでに道である」と・・・
185-5
「どうして智慧が得られますか どうして富が得られますか
どうして名声に至れるのでしょうか どうして友と結ばれるのでしょうか
どうしたらこの世を後にして あの世へいっても悲しまないでしょうか」
186-6
「悟った人が涅槃へゆきつく道として示された法を信じながら
心をこめて その教を聞くことに努めたら 智慧が得られる
187-7
自分に適した仕事を忍耐強く力をこめてしてゆけば 富が得られる
誠を尽くせば名声に到り 物に執着しないで快く施すなら 友と結ばれる
188-8
俗世間で生活しながらも信ずることの厚い人々が これら四つの道を
即ち誠をつくすこと 教を聴くこと 忍耐強いこと 物惜しみしないことを
身につけるなら その人はあの世へ行っても悲しまないだろう
189-9
そこで若しもこの世に 誠をつくすこと 自らを修めること 物惜しみしないこと
忍耐強いこと これらにまさる道があると思うなら
さあ そのことについて 広く修道者やバラモンたちに問うてみるがよい」
190-10
「このようにお聞きしました以上 どうして広く修道者やバラモンたちに問うことがありましょう
この私は今日 次の世の幸せを知ることができたのですから
191-11
まことに目覚めた方は ひとえに私を幸せにしてくださろうとして
この森の住処へおいでになったのでありました
この私は今日 誰に快くものを贈ったら 大きな幸せが得られるかを知ることができました
192-12
この私は 真理を究めた方と 真理そのものとして鮮やかに示されましたその真理とを
限りなく尊びながら
村から村へ 町から町へと 自由な生活を続けてまいります」
11 勝利の経
この経には、人間のからだのことが書かれている。そして、最後のガーターに一番言いたいことが出てくる。どうして勝利の経なのかな?
193-1
歩き又は立ち 坐りまたは臥し
曲げたり伸ばしたりーーーこれが身(からだ)の運動である
194-2
骨と腱とが結びつき 皮と肉とがそれを包み
身は表皮に蔽われて ありのままには見られない
195-3
そこには腸があり胃があり肝臓の塊があり膀胱がある
心臓があり肺臓があり腎臓や脾臓もある
196-4
鼻汁と痰と汗とがあり 脂肪があり 血と関節液と胆汁や膏もある
197-5
又その九つの孔からは 汚いものがいつも流れ出ている 眼から眼やにが 耳からは耳垢が
198-6
鼻から鼻汁が流れ 口からは時に 胆汁を又は痰を吐き 身からは汗と垢とを出す
199-7
又その頭の中には脳髄が一杯である
このような身なのに 愚かな人は無知のためにそれを素晴らしいものだと想像している
200-8
もしもそれが死んで横たわれば 脹(ふく)れて青黒くなり
墓場へすてられて 親戚もこれを顧みなくなる
201-9
それを犬や山犬や狼や蛆虫が食い 鳥や禿鷹がついばみ 又その他の生物が食う
202-10
賢く道を修める人は この世で目覚めた人の言葉を聞き
まともにそれの真実相を知っている 何故なら彼はそれをあるがままに見るからである
203-11
「これ(即ち生きた者)のようにあれ(死んだ身)もそうであり あれのようにこれもそうである」と
自分についても他人についても 身を欲求することから離れねばならない
204-12
そのようにして欲求と激情とを超えて 賢く道を修める人は この世にあって
変ることのない 安らかな涅槃の 永遠の境地に到達している
205-13
この人間の身が汚れていて いやな臭いを出すのをあれこれ気をつけてかばってはみても
色々の老廃物で一杯なので それがここかしこから滲(し)み出てくる
206-14
こんな身を持ちながら 自分を立派だと思い
そして他人を軽蔑するものがあるならばーーー
これ以上に間違った ものの見方がどこにあるだろうか
またドロドロです。恐ろしいです。でもこれが人間の正体なんだな。認めたくないけど私もあなたもです。どんなにきれいに着飾ったピカピカのモデルさんでもです。さて、じゃあ何が勝利なのか? この人間の汚さの自覚があるかないかが勝利と敗北の分かれ目だと解説される。自覚した人の勝ち! それを認めず、いや、私のからだはきれいだ。毎日お風呂に入って洗っているし、シャンプーもしてる。鼻の穴にゴミのひとつもないし、耳の穴に耳垢のひとつもない。汗もかかないし、どこも臭くない。出てくるものも、臭くも汚くもない、すばらしいからだだと言いはって、(そこまで言う人はいないかもしれないけど)そこに執着することは、世間への執着につながって、他の人と対立する世間の泥沼にはまることになる。これが負け!
二巻の、そして蛇の章の最後の経です。やっとここまでたどり着いた。静かな人っていうのは心にざわざわしたものがないんだな。すっきりとしていて何にも捉われず、まったく自由で平和な人。そして二巻の終わりにふさわしいびっくりすることが書いてある。
207-1
人と親しくなることは怖ろしいことであり まして家の生活からは 汚れが生ずる
親しくなることと家の生活とを 共に離れるところにこそ
「静かな人」として一等大切なことがある
なんということでしょう?!「静かな人」の第一条件が、人と親しくなることと、家の生活、このふたつから離れることだと言われる。このふたつって私たちが日々の生活の中で一番大事にしていることではないですか? それを離れなさいって・・・どういうこと?
人と親しめばお互い相手のある程度のところで妥協して、認め合い、許し合う。自分も人も中途半端なところで許してそれ以上追及しないことをエチケットとする。共にぬるま湯につかって遠慮がましく、慎み深く、立ち入らない。そこには人間の真と真との火花を散らすようなふれあいはなくなる。これは真の自由を求める人にとっては足を引っぱることになる。う~ん、確かに、本音で心の内を語り合えない人と、当たりさわりのないことばかり話しているのなんてつまらないよね。
そして更に進んだところに「家の生活」つまり肉親との関係がある。他人であればまだ遠慮や慎みがあるが、肉親ともなると欲望もあけっぴろげでわがまま放題になる恐れがある。お互いに相手の中途半端を許し合うどころか、いっしょになって泥沼に沈んでいくことになる。夫婦げんかひとつとって見てもわかるように、他人だと遠慮することも、無責任に慣れ合い、ときに言いたい放題言い合って、自由を求めるどころか正反対の方向へどんどん行ってしまう。まさに泥沼だ。
ここで我が国における「静かな人」の典型的な方として、毎田先生は聖徳太子と親鸞聖人をあげられる。これは納得です。ただ、例えば親鸞聖人はたしか世間の非難を浴びながらも、恋愛をし、結婚もして子どもも設けられた。世の人々とも親しく接しておられた。でも毎田先生ははっきりとおっしゃる。「これらの在家・在俗の生活というものに、家の生活からの鋭利無比の断絶のあったことを見逃してはならない。それを見抜くことは、一段の尖鋭さを必要とする。」と。自分の都合のいいように解釈しようとする私たちに釘をさされたのですね。ごめんなさい。こうして書いていながらも、まだ腑に落ちないところがいっぱいの私です。
208-2
既に生じたものを切り捨てて それが再び生ずる元を作らず
又現に生じつつあるものを それに任せず その元を取り払う人
こういう人を 特に独立の道を行く「静かな人」といい
このような大いなる人が 安らかな境涯を自ら生きていったのである
「切り捨てる」とか、「離れる」とかいうことは、無視するということではないんですね。しっかりと見つめることなんですね。例えば今生じつつある欲望はどこからくるのか? 例えば自負から生じる、高慢心から生じる、身の程知らずから、わがままから、自分を甘やかすところから、いい気になっているところから、自分のことや世の中のことがよくわかっていないところから、よく知らない無知から生じる、など。そしてそこから本当のことが知りたい! となる。そして真理の探究の道に入る。「何もわかっていないぞ。うろうろしてるぞ。迷っているぞ。これじゃだめだぞ。」と自分の姿を見ることから、真理の探究に入っていく。ここに欲望の元が取り払われる。だそうです。そしてこの真理の探究に入ると、自分を見つめることに集中する。他人のことは他人の自由に任せる。他人をひっかきまわさない。だからいざこざも起こらない。他人にも侵されない。だから静かな人なんだな。
209-3
物事が何によって成り立つかを注意深く考えて それの起こってくる元を打ち砕き
愛欲をそれ自身に任せないで その元を取り払う人
こういう人が「静かな人」として 命の尽きる果てを見
迷いを遠く離れて 物と対立せず 自分の道をゆくのである
私のどんな働きかけによって、事件は起こるのか? 事がもつれてくるのか? それを注意深く考える。私の出方によっては、そのような事件は起こらないはず。例えば戦争はどうして起こるのか? それは目には目を歯には歯をというような、相対対立の立場、態度によって起こると言われる。こちらのこだわり、貪欲、私利私欲、利己心が事を引き起こすのだと。こだわりなく、停滞なく、事物の転化・無常に、そのまま乗っかってお任せしていけば一つも波風は立たないと。
210-4
人が何にとりつくかをよく知っていて その一つにさえ牽(ひ)かれることなく
貪る心をすっきりと捨てた人 こういう人こそ「静かな人」として
どんなことが起こっても興奮しない人である
何故ならかれは既に彼岸へ達しているからである
人がとりつくものは、自分の欲を満たしてくれるもの。たとえばいつもほめてくれる人とか、なんでも言うことを聞いてくれる人にとりつく。自分のみじめさをあばかれてしまうような人は避ける。でも「静かな人」は、そんなものにとりついていい気になってはいられない。余りに自分のみじめさを知っているから。自分の真実を見ても動揺しないし、自分を甘やかすこともない。そして、利己心と利己心が角をつつき合っているのが世間と知っているから、そこに戦争が起ころうが、革命が起ころうが、殺人が起ころうが、強盗が起ころうが、驚かない。愚かな人間が愚かなことをしているのは当然のことだから。恐ろしいですね。ニュースを見ては「え~? なんでそんなことが起こるの~?」なんていちいち悲鳴をあげて驚いている私はまだまだかわいいもんですね。
211-5
あらゆることに打克ち すべてを知って 物事の道理に通じ 何ものにも汚されず
一切を捨て愛欲を絶ち自由になった人ーーー
こういう人をまた 賢い人が「静かな人」であるという
212-6
物を見抜く力があって 正しく物を始末する働きが具わり
傍(わき)見をしないで 静けさを楽しみ 思いも深く
束縛を離れ 気品があって 煩いをこえた人ーーー
こういう人をまた 賢い人が「静かな人」であるという
213-7
しっかりした足どりで 唯一人の道を行く静かな人は
獅子がどんな物音にも驚かないように 風が網の目にかからないように
又蓮の葉が水に濡れないように 謗られても褒められても 心動かされず
自ずから人を導くことになっても 人に導かれるということがないーーー
こういう人を亦 賢い人が「静かな人」であるという
214-8
ひとがひどいことをいっていいがかりをつけてきても
浴場で身を擦って洗うあの柱のように
激しい感情につき動かされず 自分の感じを汚されないでいる人ーーー
こういう人を亦 賢い人が「静かな人」であるという
215-9
ひ(機織りの道具?)のように真っすぐに立って
よくないことはしないようにし 不正な事と正しい事とを はっきり見分ける人ーーー
こういう人を亦 賢い人が「静かな人」であるという
216-10
自分の身と心をひきしめてよくないことに手出しせず
若い時にも壮年になっても静かな人としてしっかりした足取りで進み
自分もいらいらせずまた人をも怒らせない人ーーー
こういう人を亦 賢い人が「静かな人」であるという
217-11
ひとの施しを受けて生活をする人が
上等の食物を受けても 中位のもの あるいは残り物を受けても
これをほめもせずけなすこともなければーーー
こういう人を亦 賢い人が「静かな人」であるという
218-12
清らかな人の道を行き 性の関係を離れて 若い人達のどこへも牽き付けられることなく
自惚と放埓とをすっかりなくして心の自由な人ーーー
こういう人を亦 賢い人が「静かな人」であるという
219-13
この世のことを深く考え 真理を究めてそれを体得し
盲目の命の流れと海とを渡ったといってよい人
こういう人を亦 賢い人が「静かな人」であるという
220-14
世俗を遠く離れた生活をしているものと
妻を養いながら それでも利己心を離れて徳を積んでいる俗人と この二つのものはくらべものにならない
何故なら俗人は他の生きものの命をあやめることを何とも思わないのに反して
「静かな人」はいつも心をひきしめて生きものの命を守ってゆこうとしているからである
221-15
空を飛ぶ青頸の孔雀が どうしても白鳥の速さに及ばないように
俗人は 森林でただ一人冥想して道を修める「静かな人」の
真似をすることさえ出来ないのである
最後いっきに来ちゃった。もう私の頭はパンクしそう。入りきらないのです。だから、心に残ったこと、引っかかったことだけ書く。
まず、そしられてもほめられても心動かされない静かな人に私は心動かされる。だって私は人の反応ばかりみてそれに一喜一憂するから。そんな私に毎田先生は、煩悩具足の凡夫が人をそしったってそれは当たり前のことだし、ほめたって、自分の煩悩の基準でしか評価してないから大したことないって教えてくれた。そして、人の言うことに左右される私に、静かな人は永遠の生命から直ちにくる指示によってこそ動くのであって、相対的な人間などの指示に従ったり支配されたり誘導されたりしないと。
それから、ひどいことを言っていいがかりをつけてくる人にも汚されない静かな人のことを「相手の短い波長をもってする鋭い激しい震動も、おおらかな波長の長い下弦の伴奏を得て、そこでも生命の音階を奏でるように構成されてゆく」と。相手と一緒に動かないで、その言い分を静かに聞き、そう言わざるを得ない相手の事情・心境を思いやって、もっともだとうなずくんだって。これはすごいな。すごいことだな。そして例えが美しい。
それから人の施しについては、真心を受けるので、質と量は関係ないと。毎田先生の先師、暁烏先生は、料理屋から取り寄せた豪華な料理には箸をつけず、どんなあり合わせのものでも心のこもった手料理を喜ばれたと。そして、「人の家で食事を出されたときに、その家人に少しでもまあ仕方がない、食わせないわけにもゆかないから食わせてやるという気配があったら、絶対に箸をつけてはならない」と教えられたそうです。
「煩いを離れ」については、煩わしい生活をしていないことだと解説される。そして、私たちをこの世にあって最も煩わしくするのは、当為(そうあるべき・そうするべき)だと。この当為を脱却している静かな人とは自然の人だと。これは本当にそうだな。自分の生活を見ても、気づくと「こうするべき」「こうしなきゃ」とそんな思いに振りまわされて、目くじら立てている。そんな毎日・・・
そしてこの経の最後をしめくくることばは「真似をすることさえできないのである」なのである。私も夢中になって読んだ吉川英治の親鸞の小説も例に出てきて、「完全にその一端をさえ描くことはできなかった」と。芸術の世界と宗教の世界とは千万里もかけ離れていると。そうだったんですか? 私はあの小説を「親鸞まのあたり」と思って読んでいました・・・
お釈迦様は現に目の前においでになる。でも、私たちにはそれが何者か全く理解できない。なんのことかわからない。かけ離れすぎていてまねなんてできないんですね。そして、このお釈迦様のお姿を鮮やかに美しく詠いあげてスッタ・ニパータ第一、蛇の章は終わるのである。と結ばれました。あ~私、ちょっと休みます。そして、またもう一度、いや何度も読み返します。
90-8で、「自分が清くないものが清いものを求める」ということばを聞いて思った。私はきっと世にもまれなくらいの偽善者なんだなと。だからこんなにも真理の教えを求めるんだな。こんなにまでして・・・私にとってのバイブルをいつも持ち歩いて、暇さえあれば読んで、それでも足りなくて、自分のことばにまとめ直して、本にまでして・・・。そうせずにはいられないくらいの偽善者なんだな。でも毎田先生のことばはきびしかったり難しかったりもするけど、ハートに包まれている。そして、私を救おうと、何度でも何度でも、くり返しくり返し、ありとあらゆる方法で、いくら私がわからなくてもあきらめずに語りかけてくれる。そして私は本以外にも、ドラマや映画のせりふや、人々の語ることばのはしはしにも、ハートに包まれたことばをときどきみつける。本当はこの世界はそんな真実のことばにあふれているんじゃないかとふと思う。それはあまりにさりげなく静かで、世にあふれているにぎやかに飾り立てられた偽りのことばにまぎれて、気づきにくいだけなんじゃないかと・・・
私はここに書き上がっていくこれらの本(印刷物?)を誰に贈ろうか悩む。誰に贈ったら喜んでもらえるのかと・・・でもそんなことは考えてもわからないので、とにかく贈りたい人に贈ろうと思う。そのうちに、これを読んで目をキラキラさせてくれる人の手に渡っていったらうれしい。
二〇一七.九.一四
2017年12月17日 発行 初版
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