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だれかに紹介したいわたしのバイブル その3
「釈尊にまのあたり」毎田周一 ~スッタ・ニパータ 訳と解説~
毎田先生の研修会に行って、講師の羽田信生先生のお話を聞いた。
講演が始まって真っ先に、「これはお座敷に泥だらけの足で上がるようなものだ。」という言葉をお聞きし、私は顔から火が出るような恥ずかしい気持ちになった。そんなこと言ったら私がしていることは、全身泥だらけのままお座敷に上がるようなものだ。そして、私が書いたものを、渡した人たちから回収して、全身の泥をぬぐってからもう一度書き直して渡したいと思った。でも、考えてみたら、泥はぬぐってもぬぐってもぬぐい切れるものじゃない。しかたがない。「非常識なやつだ! 出てけ!」と怒られたら「ごめんなさい。」と出ていくしかない。でも、もしかしたら、「そんな泥だらけのからだで上がってくるなんて、よっぽどのことがあるんだね。なにしに来たの?」と聞いてくれる人がいるかもしれない。
そうなんです! 私はここにお宝があることをどうしてもお知らせしたいのです。でもきっとことばの使い方もめちゃくちゃだし、よくわからないままだし、うまく説明できないし・・・。だから、「あ~ほんとだ! これは確かにすばらしいお宝だね。」って言って、いっしょになって考えてくれる人が欲しいのです。
紹介したい本・・・釈尊にまのあたり 全四冊スッタ・ニパータ解説 著者 毎田周一
※ 「スッタ・ニパータ」・・・お釈迦様の教えが書かれた最も古い経典(全5章)
「釈尊にまのあたり」(スッタ・ニパータ第1章・第4章解説 全4巻中第3巻)
第四章 八重の章より(一~一六のうち、一~一一)
一 欲望の経
二 洞窟の八つの経
三 曲がった心の八つの経
四 清らかさの八つの経
五 最上のものの八つの経
六 老衰の経
七 ティッサ・メッテーヤの経
八 パスーラの経
九 マーガンディヤの経
一〇 死なない前の経
一一 闘争と論争の経
放っておくと人々の苦しみのもとになりかねない欲望。その欲望の検討・処理・整理・そしてその意義の究明について語られる。
766-1
欲望を充たそうと思っている人が 若しそれを果たすことができれば
事実 人の願うところを得たのであるから喜ぶに相違ない
うん、その通り。私たちにはいろんな欲望がある。そしてそれを満たそうとあれこれやってみる。それを果たすことができれば喜ぶし、できなければ悲しんだり苦しんだりがっかりしたりして、あきらめるか、また工夫したり努力する。そのくり返しが人生だといってもいいのかもしれない。
そして、欲望にもいろいろある。あれが食べたい、あれが欲しい、あそこへ行ってみたい、あの人となかよくなりたい、結婚したい、家を建てたい、子どもが欲しい、将来〇〇になりたい、〇〇を成功させたい、社会の役に立ちたい、人から認めてもらいたい・・・などなど様々だ。この欲望のかたまりみたいなものが人間だ。
だから私たちはこの欲望を捨てて人間をやめる必要はない。でもこの欲望には検討が必要だと。あの欲望、この欲望をかたっぱしから満たそうとすればその欲望に振り回されて人生は混乱すると。そこで欲望の整理が必要なんですね。自分の人生において大切な欲望はどれか? よく検討して整理することで人生の焦点が定まってくるんだな。
767-2
欲望が昂じて貪りとなった人は
その欲望を充たすことのできないとき 矢に貫かれたように苦しみ悩む
いろいろな様々な欲望であるのに、その一部の欲望に取りつかれてしまうと、それがすべてになってしまうのが貪欲の恐ろしさだって。その貪欲は満たされると陶酔的になるけど、満たされないととんでもない苦しみになる。例えば失恋して自殺するみたいな。独占欲、嫉妬心も同じだ。
これが貪欲でなければ、まわりの状況をよく見て、欲望が満たされなくても、これを乗り越えて成長の糧として次の人生へ進むような、新しい展開のきっかけにするくらいの余裕がもてるのだけど、そんなふうに考える余裕がないほどに激しい苦悩に陥る。
768-3
蛇の頭を踏まないように気をつけるのと同じく 色々の欲望を避けてゆく人は
すっきりした態度でこの世の貪りを超えてゆく
食べて食べて食べ続けてどんどん大きくなって、まったく動けなくなってしまった人をテレビで見たことがある。その人の人生は食欲に支配され、完全に自由を失い身動きできなくなっていた。人ごとではない。誰でも貪欲という恐ろしい蛇の頭を踏んでしまったらこうなってしまう危険がある。こういう貪欲の恐ろしさを避けることを「蛇の頭を踏まないように」と言われるのですね。そして欲望はあの欲望この欲望だ。たとえば物欲。たとえば名誉欲。
欲望を避けるとは、欲望に振り回されている自分の姿を横目で見ることだと毎田先生はおっしゃる。「ああ、また欲望に振り回されているな。」と・・・そして欲望を満たそうとする前にその欲望の意義を考えてみるのだと。確かに夢中になって欲望を満たそうとしていたけど、この欲望って満たされなくてもどうってことないな。ここに時間使うならもっとやりたいことがあるな。なんて思う事がある。
こうやって欲望を整理していくと、本当に止むに止まれぬ究極の生命の根底から湧き上がる、生きる証としての欲望に出会う。
769-4
田畑と敷地と黄金と あるいは牛馬や奴隷や召使いや
婦人や親戚など 様々のものを無闇に欲しがる人は
770-5
その欲望に支配されて無力となり 困難にぶつかってはそれに踏みにじられ
壊れた船に水が入って来るように 苦しみが後を追いかけて来る
恐ろしいですね~恐ろしいですね~恐ろしいですね~! 3回も言っちゃった! 一面的な欲望で頭がいっぱいになって、それを何が何でも満たそうと躍起になっていると、その無理がたたって、なにもかもうまくいかなくなる。それでもまだ気づかずにジタバタしていると、最悪の事態になる。壊れた船に入ってくる水を必死でかき出して、それでもどんどん浸水してきて最後は「ギャー! なんでこうなるの~!?」と悲鳴をあげながら沈んでいく姿を想像してしまいました。ああ、恐ろしい~! 欲望恐ろしや~・・・
771-6
だから人はいつもはっきりした気持ちで 色々な欲望を避けねばならない
船から水を汲み出すように それらの欲望を捨て去り 盲目の命の流れを渡って
彼岸へ到達せねばならぬ
毎田先生はあっさりと言われる。この貪欲がなければ苦しみもないのだと。「どうして人はこんなに苦しいのでしょう?」なんてとぼけたことを言っているんじゃないよと。自分の欲望を反省してみなさいと。
苦しみから抜け出したかったら少欲知足の道しかない。それでうそのようにすっきりとした生活ができる。蛇の頭をふまないように。船から水をかき出すように。と・・・
そして、また一撃が来ます! この世を改善・改良して、なんとかよくしようなんていうことはお釈迦様は絶対に考えない。世間をなんとかしようなんてことは愚物が愚物の尻を拭うようなものだ。その拭っている愚物の尻をまた他の愚物が拭うという堂々巡りをやっているのが世間だ。私じゃありませんよ。これは毎田先生のお言葉です。う~ん!
さてここからは、欲望の経で語られた恐ろしい欲望をどうやって捨てていくかが語られる。
772-1
(自己という)洞窟の中へ入り込み あれこれの事に捉われて
心の暗く閉ざされている人ー こんな人には世を超えることなど思いもよらない
それというのもこの世の中で欲望を捨てることがまことに容易でないからである
なぜ人は欲望を捨てられないのか? それは自分のせまい世界(洞窟)に立てこもって、自分の考えや物の見方だけが正しいと思い込んでいるから。そしてそのことに気づいていない。自分の思い通りになんてなりっこない世界の中に、せまいせまい自分の世界を作って、それがすべてだと思っている。欲望を捨てることなんて思いもよらず、その欲望をしっかりつかんで、どうしたら満たされるかと必死になっている。それが欲望だということにも気づいていない。そして、どうしてみんなわからないんだろう? と思い通りにならないことにいら立ち、嘆き、閉じこもっている。自覚者のことばが語りかけても、聞こうともしないし、このせまい洞窟の外に、欲望から解放された自由な世界があるなんて夢にも思っていない。
773-2
欲望をもととして暮らしの中の快楽にしばられている人は 自由にゆきつくことは難しい 何故ならこの人は 後のことにも前のことにも気をとられ
今のこと未来のことをあれこれと望んで自分以外のものに捉われてしまっているからである
自分の欲望を満たすことを生活の中心にしている人に、真理というものがわかるはずない。思い通りにならない無常の真理である誰かを(何かを)自分の欲望を満たすためになんとか思い通りにコントロールしようとするのだから、逆に誰かに(何かに)振り回される。そして捉われてしまう。厚い壁に取り巻かれて、にっちもさっちも動けなくなる。そして叫ぶ。
「だれだ~? 私をこんな壁の中に閉じ込めたのは~?」
「いやいや、自分でしょ? 自分で自分を閉じ込めて不自由にしているんでしょ?」
774-3
物を求め貪り執着し それに惑溺して
物惜しみが強く よからぬことで頭の一杯になっているものも
身動きならぬ苦しみにおちこめば 悲鳴をあげていうのであるー
「ここで死んで ああそれからどうなるのだろう」と
むごいです。絶望的です。そして毎田先生は、「この絶望は万人に共通だ。」とおっしゃるのです。人である以上欲望がある。欲望がある以上それが貪欲に走る。貪欲である以上身動きできない苦しみに陥る。そして絶望。そして死後の世界がわからないという無知。人間て悲しいです。いったいどうしたらいいの?
775-4
だから人はここでこそ学ばねばならない
それは世の中で「不正」とされることは どんなことでもしてはならないということである
何故なら「人生は短い」と賢い人が告げるから
ああ、ちょっとほっとする。「不正」とは真理に逆らうことなんだな。だから、ここで学ばなければならないことは、どこまでも真理に従っていくということかな。人の生きる道は真理探究以外にはないと。人生は短いんだよ。早く気づかないと、苦しみのうちに終わっちゃうよと。そして、この自覚は自己の殻に閉じこもっている人には起こってこない。自己を離れて自覚者のことばを聞かない限り。これしか欲望を捨てる方法はないんだな。
776-5
この世のことを色々にあがき求めて 却ってそれの餌食となり
そこでふるえおののいている人達を私は見る
この惨めな人達は あんな生活もしたい こんな生活もと願い求めて
将に吞み込もうとする死神の口の前で 子供の片言のようなことをいっている
ぎゃー、また恐ろしい言葉が出てきた! お釈迦様から見たら、人々の言っていることは、みんな「子供の片言」なんですね。「ウマウマチョーライ」みたいな? しかも、死神の口の前で・・・もちろん私たちにはこの死神は見えてはいないのだけど・・・
そして毎田先生は解説する。偉そうな顔をして、最もらしく、深刻らしく、そこにこそ真理があるかのように言っているものは、例外もなくみんな子供の片言だと。自分の欲望を満足させるために、そこから当たり前のような論理を展開していると。それがおかしくて幼稚なんだって。言葉だけじゃなくて頭の中がそうなっているんだって。じゃあこの悲劇から脱出するには?
777-6
この世にわがものというべきものがあると思って
涸れた川の水のない処にはねかえっている魚のような人達を見るがよい
それにつけても色々なことにとりつかないでわがものという考えを離れて生活すべきである
たとえが辛辣すぎる。でもこれが私たちの姿なんだな。これは私のもの。私が築き上げたもの。と何かをつかんでそれを支配した気になっている傲慢な人間の姿が、この水のないところではねかえっている魚なんだな。なら自分一人で生きてみなさい! と水のない川に投げ込まれた魚は、はねかえってそのうち死ぬしかない。水(真理)によって魚(人)は生かされているんで、水は魚のわがものではない。
世界は誰かが支配しようとする意図とは無関係に働いている。例えば親子関係、例えば夫婦関係、例えば先生と生徒など。その真理にそむいて、自分の思い通りに支配しようとすると、その罰としてこのはねかえるような苦しみが与えられる。とにかく真理には従うしかないんだということがまたまた思い知らされる。
778-7
相反する事柄のどちらにも身をおかず
「触れる」とはどういうことかをよく知って 物にとりつかず
自分でよくないと思う事はすっきりと止めて
見たり聞いたりすることに心を惑わされぬ人 これが賢い人である
これ、難しいです。毎田先生の解説にはヘーゲルとか、弁証法的統一とか、出てきて。「反対するということは相手に依存すること」「触れるということに、この肯定と否定との統一を見なければならない。」「触れるということをよく知ってとは、このようにして触れることの弁証法、すなわち無常を認識してということである。」どういうこと?
あ、でも次読むとちょっとわかる。「自分でよくないと思うこと」とは、そこで生命の停滞を感じたり、ためらったり、戸惑ったり、はっきりしなくてよくわからないこと、つまり無常の真理に即さないこと。こう感じたらさっと止めて先へ進む。あるね。なんとかしようといろいろやってみるけど、やればやるほどこじれるなんてこと。そういうときは、もうそれをなんとかしようとするこだわりを捨てて、そのまま先へ進むしかない。
そして「見たり聞いたりすることに心を惑わされぬ」とは、対立するものがあってもその一方に身をおかない。対立したそのままの、矛盾した状態にこそ、無常の真理を見出していく。人と対立するところに自由はない。これを超えた一なる真理にこそ自由がある。そこへあっさり従っていくのが賢い人なんだな。物にとりつくのをやめれば、物から解放されて、貪欲の根が絶ち切られる。
779-8
「意識する」とはどういうことかをよく知って 盲目の命の流れを渡り
物事にとりついて心を汚さぬ 静かな人は 刺さった矢を抜き なげやりに事をせず
しかもこの世にもあの世にも何の望みもかけてはいない
もうもう、正にこれが救いですね。この毎田先生の解説を読んだら、それだけで救いを実感して、ただただ感激するばかりです。この感激をどう表したらいいんでしょう?
世界はすべての人の中にある。意識によって人は世界として生きている。世界と共に流れている。私が生きるのは世界が生きるのであり、世界が生きるのは私が生きるのだ。肝を大きくもて! くよくよするな! こせこせするな! 何も特別なことじゃない。すべての人がそうやって生きているんだ。物事にとりついて心を汚すなといったって、その物事はもうすでに今ここにある。私の中にある。とりつくもなにもない。ただそれを温かく抱きしめて、育てて、慈しむばかりだ。そうすれば、ただ命は静かに流れていくだけだ。実に静かに。この静けさの中で、私を苦しめ続けた煩悩の矢はひとりでに抜けていく。それは決していいかげんな、「どうにでもなれ!」といったなげやりなことではない。最も生命の充実すること。その今この目の前にある真理を目にしたとき、そこに不平不満はない。それを何とか改善しようなんていうことは出てこない。ただそのまま抱きしめて愛おしむものに、そんな必要は感じなくなる。来世を当てにするということもなくなる。この世を見て嘆いたり、なんとかしなきゃと思ったり、来世にしか望みはないとあきらめたりする人には見えない世界だ。
こんなすばらしい教えに会いながら、すぐ忘れて世間にとらわれて、くだらないことに悩まされてしまう私は、このガーターだけでも毎朝読んだらいい。
曲がった心というのは、偏見のこと。この経では、前の経で出てきた、自己の洞窟に立てこもる人の姿が具体的に描き出され、それに対して静かな人の境涯が打ち出される。
780-1
ある人々は曲がった心から意見をいい
又誠実な人でも矢張り意見をいうが
どのみち静かな人は 若し論争が起こっても それに近づかない
だから静かな人にとっては どこにいても心がすさむということがない
物事をありのままに見る直観は曲がっていない。でも考えるから曲がると言われる。なになになに? 考えるなということ?
洞窟に立てこもっている人は、自分のせまい世界の中の常識に当てはめて考える。それは真理とはかけはなれている。この人間の意見というものが、つまらないものだとおっしゃるのですね? そんなことより、目の前の流れるような瑞々しい真理をそのままに見なさいということなんですね?
そして、意見をもつと違った意見との対立が起こる。それが論争となる。静かな人はこのどちらかに味方することもなければ、自分の意見を第三の意見として示すこともなければ、仲裁することもない。それぞれがそれぞれの立場でものを言っているそのままを、人間の最もな姿、面白い姿としてみるだけ。論争の結果どうなろうと、それも彼らに任せておく。だからそのために心が荒んだりもしない。
781-2
自分の好きなことをするばかりだというような そんな喜びにうつつをぬかしている人が
どうして自分自身の考えを超えてゆくことなど出来るだろうか
こんな人は自分で完全だと思い込んで事を行いながら
自分の知っているだけのことをいうばかりであろう
私はいろんな本を読んでいるうちに、「そうか、自分の好きなことをして生きればいいんだ!」と思うことがよくある。毎田先生だって、「好きなことを思う存分やりなさい」とおっしゃるじゃないですか?
そして、いざ、ようし! 好きな事だけやるぞ! いやなことはいっさいしないぞ! なんて意気込んで、「これは好きな事じゃないからやらなくていいんだ!」と、いくら自分に言い聞かせても、やらずにいられないことがある。または、好きなことをして誰かに批判されたとき、「私は好きなことをしているだけ。なにが悪いの?」とむきになってしまうことがある。
ここにまだ主張がある限り、脱落とは言えないんですね? お釈迦様の「無」の自由とは別物なんですね? 自分が人生の中でいろいろ経験した結果、勝ち取ったこの「好きなことをして生きる」という考えを主張して、みんなの見本になっているようないい気になって、肩をいからせている姿を指摘されているんですね? それはまだとらわれた姿だと。本当の真理に従って生きる姿はそれを超えた向こうにあるんだと。
782-3
自分で何かよいことをするのを 聞かれもしないのにいいふらす人があれば
そんなことは低級な人のすることだと賢い人はいう
自分のことを自分であれこれいうのも同じことである
783-4
安らかで静かな境涯に入った修行者が
よいことをしながら「自分はこんなにしている」といってほこることがなければー
それを賢い人は気高い人の行き方だという
そういう人にはこの世の何処にあっても思い上がりの影すらない
これまた私のことじゃないですか? まさに今していることもそう。私は今こんなよいことをしている。こんないい教えに出会って、それを本にまとめたりして、人にも読んでもらって、これは感謝されるに違いない。思い上がる自分をたたいてもたたいても、気がつくと思い上がっている。どうにも止まらない。どうしたらいいですか? いや、どうかしようなんて思うことがまた思い上がり。このまま愚かな自分を投げ出していくしかないんですね?
784-5
自分の考えで作り上げたような教は
汚れたものに過ぎないのに そんなものを尊んで
それを行えばこんなに立派になれると自分を信じている人は
揺れ動くものにある(みせかけの)平安にしがみついているのである
まいったまいった! またこれ私だ。自分で信じ込んだ教えに自分で従って、こうすればうまくいくと人にも勧めている。これが絶対だ。これに従えばみんな幸せになれると。
ところが、その教えそのものが、それはすべて汚れだと言われる。そんなのは見せかけの平安だと。え~?! だめなんですか? 私は目を白黒させる。もうショック!
落ち着いて続きを・・・私は「この教え」「この教え」と言ってきたけど、そもそもお釈迦様には教えなんていうものはない。ただただ真理に従っていかれただけ。だから、仏教なんていう言い方も本当は検討を要することなんだと。それがわかっていないまま、「お釈迦様の教えは・・・」なんて言うのは、お釈迦様を汚すことであり、お釈迦様に罪をかぶせることなんですね。私、またそういう言い方をしてしまうと思うけど、心しておきます。
教えに従う。そうすればこんなに立派になれる。なんていうのは実に軽蔑すべきことだって。真理はそこにあるではないか。人間が作った教などの余地はないと。そんなものにしがみついていては、究極の真理、永遠の生命に触れることなんてできないと・・・
785-6
自分がどんなに物事に捉われているかを知り
自分の考えでは駄目だと気づくのは実に難しい
だから人は自分の立場にこだわって 真理を捨てたりつかんだりする
物事に捉われるということの裏にある自分の貪欲に気づくことと、自分の考えでは駄目だということに気づくこと。このふたつの気づきがとても難しいことなんだな。この二つにさえ気づけば信が得られるんだな。
自分の考えや自分の立場にしがみついて、世界が、現実が、それでは割り切れない動きをしているのに、どうしてもその自分の考えや立場を手放すことも、離れることもできず、身を切られるようなつらい執着の憐れな姿。
でもこれ、人間の止むを得ない姿だと毎田先生はおっしゃいます。こんな主観的な立場で真理をつかめるはずがないと。だからつかんだかと思えば捨て、捨てたかと思えばつかむという正に迷いのみだと。
自分のつかんだ考えなんか、ほんの小さなゴミみたいなもんだとかなぐりすてて、なんにもわかっていない自分ですと、全面的に投げ出せば、そこに真理はそっくり受けとめ、真理の住人として抱きかかえてもらえるんだな。それが救いなんだな。
786-7
清められた人は この世の何処にいても
あれこれのことを自分で作り出した考えにあてはめてみるようなことはしない
だから清められた人は いつわりと思い上がりとからすっきりと離れている
この何にもとりついていない人が「何処かへ行く」ということがあるだろうか
また指摘されてしまった。どこまでも私のすることを追いかけてきて指摘される。なんということでしょう? どうしてわかるの? って感じです。まさに、どこにいても何を見ても、自分の考えに当てはめて、「あの人はまったくわかっていない」「あの人はなかなかわかっている」と人を批判してしまう私。そして、「あの人こそ、こういう教えを学べばいいのに。」とか、「あの人にこんな教えがわかるはずない。」とか勝手なことを考える。これがまさに思い上がりに過ぎないんだと指摘される。
787-8
物にとりつく人は言い争うが
何にもとりつかぬ人を どうして何を問題として論争に引き入れることが出来るだろうか
この人は物に実体があるとかないとか そんな考えにはもう捉われてはいない
そこにはこの世にある限りの一切の偏見がなくなっている
直観的にあるがままに物事を見る人は、それについてあれこれと考察しない。それで何かを突きとめることができるとも思っていない。だから論争に加わることがない。そんなことしても真理はわからないとわかっているから。論争が真理への道ではないから。考えて真理に到ることはない。ただ行為的直観だけが真理だと毎田先生も言われる。これをお釈迦様は無常とおっしゃったと。そこに偏見というものは一切ないと。
前の経に出てきた偏見についてさらに具体的に示される。またまたびっくり仰天の青天の霹靂です。
788-1
「私はここに最上の つまり煩いをすっかり離れた 清らかさを見ている
そして人は物の見方で清らかになることが出来る」と
このように考えて 「最上のこと」がそこにあると知り
そんなことを 清らかさを見ていると称する人が 智慧だと信じ込んでいる
うんうん、とうなずきながら読んでいた私は、最後の一行でずっこけました。
私がこれまで学んできて至った「見解」をやっと認めてもらえたような気になり、調子に乗りかけたところで大どんでん返~し! もう、なんだかこれが快感になってきてしまった。自分のバカさ加減におかしくて笑ってしまう。そしてあきれてしまう。
毎田先生の解説をよく読もう。「この考え方ということが問題なのである。」とある。それを智慧というなら、お釈迦様のおっしゃる智慧とはまったく別物だと。お釈迦様の智慧は、真理の直観による脱落の状況をいうのであって、そんな考え方とか物の見方とかいうような範疇に入るものではないと。それは真理の体験であって、こちらの人間の立場から、ある物の見方をするというようなこととはまったく異質のことだと。はあ~~~・・・
789-2
もしも人がその人の物の見方によって清らかとなったり
あるいはまた智慧によって苦しみを捨てるというのであれば
盲目の命を拠りどころとしているものが
何か他のことによって清められるということになる
そんなことをいう人を偏見の持主というのである
ちょっとわからないけど、要するに、人の考えとか見解というものが、もう汚れたものであるのに、その自分の考えが絶対の智慧だと思い込んで、清らかになるためにはこうすればいいんだと、その汚れた考えを無理やり人に押し付けるのが偏見だということかな? そんな汚れたもので清らかになれるわけがないということですね? そして毎田先生の解説の最後には、座禅をおしつけたり、念仏をおしつけたりするお寺のことが出てくる。そこにお釈迦さまは偏見の烙印を押されるのだと。
わあ~これっていろいろ思い当たるな。これに近いこと、日常の中で気づかずにいろいろやってしまっている気がする。
790-3
道に達した人は 他のことを
即ち知識とか学問とか徳行とか思想とかを清らかであるとはいわない
そうして善いことにも悪いことにも染まらず
この世で何かを作り出そうとせず 既に身についているものをみな払い捨ててしまう
道に達した人(真理を生きる人)は、生命それ自体、真理の作用自体、行為的直観だけを清らかであるという。そこへ外からくっついてくるような、他のことを、清らかであるとはいわない。他のこととは・・・
知識・・・私たちの救いにとって何等必要ない。知識を払い捨てれば、ただの愚である。
学問・・・学者と仏教と何の関係もない。学者の言ってること、やってることを見よ。
徳行・・・道徳・倫理・当為・戒律・律法・規範等々。どれも宗教と完全に無縁だ。
思想・・・お釈迦様が思想を捨てているのに、仏教思想なんていうのは仏教への無知だ。
次に善にも悪にも染まらずとは、善を誇らず悪を怖れずということ。何かを作り出そうとせずとは、事業をやらないこと。何かをやらかす、事を興すということが一つもない。はいはい、また厳し~いお言葉いきますよ! そんなことは、みんな余計なこと、意味のないこと、害あって益なきこと、煩雑なだけのこと、つまり煩悩の上塗りをやっているのである。すごいですね~すべて否定されて、何もできなくなる。手も足も出ませんね。じゃあ何もしないのか?・・・次いってみよう!
既に身についているものをみな払い捨ててしまうとは・・・? この払い捨ててしまうところに、自然なる生命の働きそのものが現れる。この「無」の状態にして、真理の作用がそのままに現れる。真理のみになる。当為や計らいのない、思わずやってしまう? 気づいたらやっている? ただ夢中でやること? 真理の働きにすべてお任せしていけばいいんですね?
791-4
前のものを捨てては次のものを掴み
落着きなく動きまわる人たちは 捉われを離れていない
彼らはつかまえてはまた投げすてる
丁度猿が木の枝を放しては又つかむように
792-5
自ら戒律をきびしく守る人は
自分だけの思いに捉われて思い上がったり卑下したりする
しかし賢い人は深い智慧によって真理を悟り
広やかな明るい心で 思い上がりもせずまた卑下もしない
こっちにあてはまる考え方に出会って、「よし、つかんだぞ!」と思っていると、あっちにはあてはまらない。そしてそのつかんだ考えをポイッと捨てて、また別の考えをつかむ。偏見ていうのは一面的なものだから、こんなふうに、あっちこっちと移り歩かなきゃならないんだな。
そして思い上がりと卑下が出てくる。卑下慢ということばがあるけど、卑下というのも、自分で自分をつかんで、自分で判断して、「私というものはつまらない、行き届かない者です。」なんて主張するんだから、うぬぼれと同じくらい卑しいことなんだな。無限の真理に従う広やかな心と、私という主体をもたない明るい心をもつ賢い人は、思い上がりも卑下もしないんだな。
793-6
彼はどんなことに向かっても 見たり学んだり考えたりしたことで自分を武装せず
物事をありのままに見 明るい心で生活してゆくー
だからこの人は世間の人がこういう人だと摑もうとしても 決して摑まえられない人である
この賢い人は、どんなことに対しても、真実そのままを見る。私はこういう考えで生きてるとか、私の立場はこうだとか、私はこういう主義だとか、掲げるものが一つもない。だから、世間の尺度でつかもうとしたってつかまえられない。この人はこういう人だ! なんて言いようがない。世間にいながら、世間の人がもっている、「こうしなきゃ」とか、「こうであるべき」とかいうものさしでは計り知れない、全然別の世界に生きているんだな。
794-7
彼らは何かを当てにせず 又何かを取り出してあがめることもなく
これが「終極の清らかさ」だなどともいわない
そして世間に結ばれてゆくその執着を切り捨てて
この世の何事にも望みをかけない。
私たちは何かを当てにする。何かあっても、必ず家族が、友だちが、愛する人が、助けてくれるだろうと都合よく考えている。でもそれは一方的な妄想だ。いくら家族でも親友でも愛する人でも、それぞれにそれぞれの事情があり、思いがある。自分の思い通りに動いてくれるとは限らない。賢い人はこの期待の愚かさを思い知っているから、何も当てにしない。
そして誰かが約束を破った! うらぎった! と言ってべそをかいている人に、毎田先生はこう言います。「恨むなら約束をやぶった相手じゃなくて、人間というものを知らない自分を恨みなさい!」と。
賢い人は誰かをあてにして、この人は絶対うらぎらない! なんて思わないんだな。それは自分に都合よく考えを押し込む偏見。相手にしてみればいい迷惑。この世の何事にも望みをかけない。きっとうまくいくだろう! なんて思わない。うまくいこうがいくまいが、ただただ真理に従っていく。一つだけ確かなことは、真理が自己を実現すること。
795-8
罪の及ぶ境を超えて道に達した人には
何かを知っているとか見ているとかいうことが この人を拘束することにはならない
彼は貪ることにも夢中にならないが 欲を離れることにもむきにならない
彼にはこれがこの世で最上のことだといって摑まえるものが何もない
道に達した人には、もう何かを知っているとか、見ているとかいうことがない。そんなものはなにも必要としない。真理そのものとなってしまった人に、それを認識することも直観することもできないから。ただ無常としての真理があるだけだから。
そして彼は貪ることに精を出すこともなければ、欲を離れようとむきになることもない。すべてはあるがまま、自然のまま、命のまま。
どんなだろうな。体現してみたいな。もうそこに偏見はない。
さてさて、何かを知るとか見るとかいうことさえない「無」というものが顕されて、もうこの経も頂点に達したと思いきや、なんと、更に次の経でその追及は痛烈となっていくそうです。
最上のものというのは、誰もがもっている貪欲。思い上がり。私たちがどうしても、どうしても、ど~うしても、離れられないこの思い上がりについて語られる。
796-1
世間の人は自分の重んずるものを 「最上のもの」とする考えを離れず
それ以外のものをすべて「劣っている」という
だから人は論争から離れることが出来ない
私? 自分が最上のものだなんて、思っていませんよ。ほんとに? 私は自分を最上のものだなんて思うような思い上がった人間じゃない。と主張したいだけじゃないの? 私はこんなに謙虚な人間です。どう? すばらしいでしょう? と・・・それが結局は自分を「最上のもの」と思い上がってるということなんですね?
「あの人の方が私なんかより、よっぽど思い上がっている」これつまり、「あの人は私より劣っている」って言ってるのと同じですね?「あんな思い上がった態度じゃろくなもんにならない。私が思い知らせてあげよう。」これが論争を起こすもとになるんですね?
毎田先生はおっしゃいます。人間が生きていく限り、止むを得ずもたざるを得ないのが思い上がりだと。すべての人がそうなんだと。そして、この思い上がりと偏見と支配欲の人と人との間に、争いが起こるのは当然のことだと。
797-2
知識や学問や徳行や思想の 優れた成果が 自分の中にあると思っているものは
それらのことだけを自分でつかまえて その外のすべてのものは劣っていると見る
798-3
自分の立場にとりついて外のものを劣っていると見る人自身が
それこそ束縛そのものだと賢い人はいう
だから修行者は知識や学問や思想や 徳行などを頼みとしてはならない
生命(真理)から見て他のもの(知識や学問や徳行や思想)に頼るのは束縛なんだな。自分の立場にとりついて、外のものを劣っているというのも束縛なんだな。つまり、外のものと自分を、どっちが優れているか? どっちが劣っているか? といつもいつも比べていることが束縛で、そんなところに真理への道はないんだな。
799-4
智慧についても徳行についても 世の人と自分を比べて一面的な考えをもってはならない
即ち自己を「等しい」ものだといってみたり
また「劣った」ものとか「勝れた」ものとか考えたりしてはならない
他人と自分を比べるには、一定のものさしがいる。そしてそのものさしをどこに当てるのか? このものさしというものが一面的だし、そもそも見えているところしか、はかりようがない。それは部分的なものだ。なので、毎田先生は、人の個性的生命に等・劣・勝などの評価をすることなんて不可能だと言われる。聖徳太子が十七条の憲法第十条で「共是凡夫耳」と言われたように、私たちは比べようもない共に凡夫なんですもんね? それぞれが尊い命をもった凡夫なんですもんね?
800-5
既に身についているものを捨てて何もつかまず
智慧についても一定の立場をとらない人は
意見の違いから分裂した人達の中でどちらの側にもつかず
どんな考え方もそれを鵜呑みにはしない
私たちはよく「立場」という言葉を使うのだけど・・・智慧というのは、立場というものがなくなってしまうことなんだって。無我の世界である真理そのものには、立場というものはないんだそうです。真理というのは無常。流れている。それは自在であること。何にも捉われていないこと。誰かの考えを鵜呑みにすることも、対立する一方の意見だけに賛成することもない。だから真理の世界では、そんな立場なんて固定したものが尊ばれるはずがないんだな。そんなことをすれば、その立場にしばられることになるから。
801-6
彼はここでこの世とあの世のどちらにも あのようにまたこのように生きたいとは願わない
しかも色々な事をよく見ているので それにとりつく立場を何ももってはいない
ううう・・・私は自分がどう生きたらいいのか? その生き方を問いたくて、この世界にたどりつきました。お釈迦様は立派な生き方をされた方なので、その生き方を学びたいと思って・・・でもここに、「そんな生き方なんてものはない」とあっけなく言われてしまった。じゃあどうしたらいいの・・・?
毎田先生は「真理を認識せよ」とこたえられる。そもそも「どうしたらいいの?」なんて、何か愚かな人間が考え出した、有限の固定された知識にすがろうとしている姿なんだな。限られた人間の知恵で「こう生きよう」「こう生きるべきだ」なんて決定して生きるのではなくて、永遠の生命が働くだけ。
802-7
だから彼には自分で考え出した 知識や学問や思想の影すらもない
このように道に達した人がどんな考えにもとりついていないときー
世間の人が彼をこういう人だと摑まえようとしても 決して摑まえられるものではない
考えるということが徹底的に否定される。私たちはよく考えなさいと言われ続けてきただけに、考えるなと言われると、ぽかんとなってしまう。
人が、一面的な立場で考えることなんて、真理とは何の関係もないんだな。考えれば考えるほど、真理から遠ざかっていってしまうんだな。
真理を認識するには直観しかない。そしてその直観は、自分の心の奥深くをたずねていくこと。毎田先生は仏教とはなにかと問われたら、「無」と答えるしかないと言われる。お釈迦様はただ「無」であられたのだと。そこには生き方だとか、考え方だとか、教えだとか、そういった立場は一切ないのだと。
そして、それは世間の人にはわかりようがない。なんのことかわからない。世間の目と尺度と規準からは、判定のしようもない。
803-8
彼らは何も当てにせず 何かを取り出してあがめもしない 色々の教さえも彼らは受けない
このように道に達した人達は 徳行などを人生の筋道として生きてはゆかない
このような人は既に彼岸に渡って もう帰っては来ない
ひえー! また恐ろしいことが出てきた! 物も当てにしないし、人も当てにしない。自分自身も。そしてこの世に何の期待ももたない。善くなるとか悪くなるとか、そんなことは問題にしない。半面がよくなれば半面が悪くなるに決まってるからだと。すべてが必要不可欠の要素として一大交響楽を奏でているのだと。汚いもの、醜いもの、悪いもの、残酷なもの、ドロドロしたものが、清らかなもの、ピュアなもの、美しいもの、気高いものと共に奏でる交響楽を聞きなさいということですね? そのなんとすばらしいことかと。そこには何かを当てにするなんていう、ケチくさいしみったれたことはないんだと。
そして、特別に誰かをすばらしい人だといって、取り出してあがめない。共に凡夫としての私たちはみんな兄弟。同じ人として肩をたたき合う間柄。この人はすばらしい善人だとほめたたえたって、その裏には大悪人の相がある。この人は大悪人だと嫌ったって、その裏には大善人の相がひそんでいる。この人はすばらしく賢い人だといったって、どこかですっとぼけてる。聖徳太子の十七条憲法にあるように、賢く愚かなること鐶の端無きが如しだ。
そして次にひっかかるのは「徳行などを」という言葉。世間の人たちが大事だと思っている、徳行に「など」とつけてある。そんなものを人生の筋道とはしていないと。
そして、最後に言い切る。「もう帰っては来ない」と。え? え? え~? じゃあ、私たちは見捨てられたんですか?
毎田先生はおっしゃいます。なにをまぬけなことを聞いているのかと。もうこの「帰って来ない」ということが慈悲じゃないかと。そして、この高まり深まってきたスッタ・ニパータはここで一段落。次の二経は後半の経を出すための間奏曲だよ。前半はここで力強く幕を下ろすよ。「無」の永遠の余韻を、私たちの心にひびかせて・・・と。毎田先生は大変ご満足の様子でそう言い切ってこの経を閉じられる。いや、いや、待ってくださ~い! ああ、私は置いて行かれてしまいました。しかたがない。なんだかよくわからないまま、追いかけてゆきます。トホホ・・・
これは絶対に避けられない真理としての死に向き合うことを通して、物や人への執着からの解放へ向かうお話・・・だと思う。
804-1
まことに人生は短い 百歳にならぬうちに死んでしまう
たといそれ以上に生きたとしても しかし彼は老衰のために死ぬ
805-2
人々はわがものと思うもので悲しむ
何故ならひとの所有するものはいつもそこにあるものでもなく
又成長する一方のものでもないからー
これを思えば世間の生活に留まってはいられないはずである
私たちの存在も生命も、世界のひとつのただの現象。確かなものなんてない。そして、「これは私のもの」と思うものも、いつどうなるかなんてわからない。確かなものではない。
そして、人も物事も成長するばかりではない。衰えてやせ細ってしぼんでゆく。どんなにしっかりつかんだって、そのうちどこかへいってしまう。こんな不安な世界だ。こんな不安から解放されたくないか? と言われる。
じゃあ、どこへ行ったらこの不安から解放されるの?
806-3
人が「これはわがもの」と思っているものも その人が死ねばどこかへいってしまう
このことを明らかに知って 私に従う人は
ものを自分のものにしようと夢中にならぬがよい
807-4
たとえば夢で会った人を 目が醒めれば もう人は見ないように
それと同じくどんなに好きだった人でも
その人が死んでしまえばもう見ることは出来ない
8[strong]08-5
その人の名を何々と呼んで 人が現実にその人を見 その声を聞いた人々も
死んだ人といわれるようになっては もう名ばかりが残る
[/strong]
こわ~い夢を見る。夢の中では必死だったのに、起きたら笑っちゃう。人生もそんなものかもしれない。と、ふと思う。
「これは私のもの」といくら執着したって、その私が死んでしまったら、もうその「私のもの」というのも意味がなくなる。
そして、その人の死によって、それはもともとその人のものではなかったということが実証される。ものを自分のものにしようと夢中になることは、その真実を、その行方を、そこに働く真理を見ない、無知なことなんだと言われる。例えば目の前に広大な宇宙の自然の庭をもちながら、自分だけの庭作りに夢中になる。〇〇寺の庭、〇〇院の庭・・・お釈迦様があのような庭を作って楽しまれたかどうかと。
そして、人についても、この世で人に会っているのは夢で会っているのと同じだと。あの人、この人ということは、問題ではないと。共に凡夫であり、そこに永遠の生命をみるだけとなった目覚めた人にとっては、それはただ真理の現象。あの人この人をとらえて、特別な関係を結んで、そこに執着して、この人じゃなきゃならないというようなことが、もはやなくなる。
「無」の世界って恐ろしい世界ですね。大好きな人も特別な人もいないんですか? その人がいなくなっても、苦しくも悲しくもないんですか? う~ん、わからない~!
でも確かに真理は無常だ。固定して永遠につかめる確かなものなんてない。
そして毎田先生は解説される。死こそは徹底的に私たちに「無常」を知らしめる。人は死から目をそむける。そのために世間に執着する。死の事実の直視こそは、人間に新たなる人生の開け来る転機だと。
809-6
わがものと思うものと貪り求める人は 憂い悲しみねたむ心を離れることが出来ない
だから安らぎがどこにあるかを見た静かな人達は 持ちものを捨てて行ったのである
ああ、私、これ好きです。なんだかすっきりする。お釈迦様は、もうつべこべ言っている私のことなんか相手にされずに、行ってしまわれたんですね。なにもかも捨ててスタスタと・・・。 そしてもう私にできることは、消えゆく後ろ姿をただただ拝むだけ。お釈迦様が私のことを気にかけて、心配されて、こうしたらいい、ああしたらいいと、アドバイスしてくださっていると思って甘えていた私を、もう放り出して、見捨てて行かれるその後ろ姿を思うだけ。お釈迦様に会いたかったら、あれこれ迷っていないで真理の世界へ行くしかない。この世間にいて、世間を相手にして、いろいろなことに捉われて、ぐずぐず言っているようでは、わかりっこない世界なんだな。真理の世界は・・・。
そして毎田先生はまたおもしろいことをおっしゃる。お釈迦様はこちらを向いていないのだから、私たちを相手にはしていないのだから、如来ではなくて如去だ。仏像はみんなあちら向きに安置すべきだと。
810-7
この世を遠く離れて修行する者が いよいよ世を超える心に生きて
この世間へ顔を出すようなことがなければ
そこに彼にとって円かな世界が現れたのだといってよい
これ、ダメ押しです。持ち物を捨てて行ってしまった人が、もう世間へ顔を出すようなことがなければ、本物だということですね? この世界から出ていったものの、また心配になって、うろうろ戻ってくるようでは如去ではないと。
そして、もう世間の人を相手にしなくなった、完全にいってしまわれたところに、すべてがあるんだな。
それは円かな・・・穏やかで安らかで円満な世界。この世間のしがらみから一切解放されて自在になった方が、この世を超えた円かな世界から、この世界を完全に包んでくださるんですね。それが如来の慈悲なんですね。それはキリスト教でいったら、キリストの再臨だと。これは如去が直ちにそのまま如来となるということで、何にもとらわれることがなくなった「無」の方がそこにいらっしゃることが、まさに慈悲なんだと毎田先生はおっしゃる。
811-8
静かな人は どこへいっても捉われがなく 好き嫌いをいわない
葉の上で水が染まらぬように 悲しみもねたみも彼を汚さぬ
ここの解説で好き嫌いについて語られる。特に「嫌う」ということについて。誰かを嫌うということは、その人と強烈な結びつきがすでにあると。
確かに、自分にとってなんの関わりもなく、どうでもよい人に「嫌い」という感情は起こらない。そして、嫌いだというのは、その人の中に自分の嫌な面を見ているのだと。嫌う人によって、私たちは自分を思い知らされるのだと。ほんとかな?
でもよくよくよ~く考えてみると、嫌いと思う人に見る、嫌だと思う姿が、自分の中のどこかに(または過去の自分のどこかに)潜んでいるのかもしれない。それをどこかで感じているから、嫌だと思ってしまうのかもしれない。
そして、葉っぱの上の水は、葉っぱの緑を映しはするけど、決して緑の水にはならないように、静かな人は、悲しみもねたみもそのままにあらしめて、そういうものがあるのは最もだと認めながらも、それに汚されることはない。世界の中の、小さな人間の、ほんのひとときの、ほんの一つの現象と見ておられるのですね。
812-9
蓮の葉の上で水滴が 蓮の華の上で水が 染まらぬように
それと同じく静かな人は 知識にも学問にも思想にも染まらない
813-10
清らかになった人は 知識や学問や思想を これがなければなどとは考えない
彼は他のことによって清らかになろうとは思わない
何故なら彼は貪ることにも 貪らぬことにも 共に執着していないから
私たちは小さいときから学校に通って、いろんなことを勉強する。これは大人になるために、幸せに生きていくために、必要なものだと言い聞かせられながら・・・でも、ここではそういったものは、私たちを世間にしばりつけることはあっても、世間から解放して救ってくれるとは言えないと言われるのですね。
救いというのはただ真理の認識なんだと。それは真理から直ちにくる直観であるのみと。その直観に、何か(善悪真偽の思考・判断・評価など)を交えると、みんな他のこと(真理以外のこと)に染まってしまうと。それは永遠の生命に生きることとは遠ざかってしまう。
例えば「あの人が好き」というのは直観であり真理。「でもあの人は背が低いし、学歴もない。頑固なところがあって、怒りっぽい。結婚したら苦労しそう。」というのは思考・判断・評価。これを交えると「好き」という感情は濁ってしまうということかな?
また、清らかな人は、貪りはよくないからといって、貪りからはなれなきゃいけないということにも執着しない。とにかく、真理それ自体、生命それ自体からくる直観以外のことを、生きる動機にはしないんですね。
さあ、老衰の経が終わります。人生は短い。うろちょろしてるとあっという間に終わってしまう。さあさあ、生命そのものの力強い世界へGO! GO! GO!
ここでは性の関係について語られる。
814-1
「性の関係に耽溺(たんでき)するものが と長老ティッサ・メッテーヤが尋ねた
そのために没落してゆく様をお教え下さい 師よ
その教えを聞いて 私達はそれを遠ざかることを学びたいと思います」
毎田先生は、「真に生命の汚れざる純一自然の道がどこにあるかを尋ねることである」と解説される。性の関係といっても、この世界の一つの現象にすぎない。怖れるなと。
815-2
「性の関係に耽溺するものは メッテーヤよ と世尊は答えられた
そのために教をすら忘れて 人生の筋道を誤り 気高い道から外れてしまう」
教を忘れてとは、自覚者の言葉を聞いて自覚の道をいくこと以外に真理認識の道はないのに、それを忘れてしまうこと。その真理探究の道から外れてしまうこと。
816-3
今まで唯一人の道にいそしんでいたものも 性の関係に溺れるようになれば
道を外れた車に似て 世間の人は彼を低級な ただの人間に過ぎないという
真に真理を求める道をいくのであれば、そこへ性の関係が入ってこようと、それを焼き溶かすものがあるはずだと。それを恐れて求道心が鈍るようじゃ、本物じゃないと。真理の探究を忘れた人間なんて、低級と言われてもしかたないぞと言われるのですね。
817-4
彼がこれまでもっていた名誉も名声も すっかり消えてなくなってしまう
そのことを思うにつけて 性の関係から離れることを学ばねばならない
毎田先生は、彼の求道に、真にいのちあらしめられるならば、可であるとおっしゃる。そして、性の関係を恐れて逃げるのであれば、追いかけられると。どこまでも求道の道を堂々と歩むために邪魔になるか、それを貫くことになるかということなのかな?
818-5
どうしたらよいかと思い煩い 彼は貧乏人のように考え込む
こういう人はひとが何かいったのを聞いてもどぎまぎする
819-6
そして人から非難されれば それに刺激されて相手に報いるための剣を用意する
それというのもどうしても止められない貪りのためであり
遂にはひたすら嘘の中へ身を隠してしまうようになる
820-7
唯一人の道をしっかりと進み 賢い人だと世間からも認められていた人が
一旦性の関係に陥ると 愚鈍な人と同じになり ただもう引き摺り廻されるばかりである。
お釈迦様は本当によくご存じですべてお見通しなんですね。びっくりです。思い煩い、考え込み、どぎまぎするとは、秘密をもつ人の臆病な姿。止められない貪欲のために、怒りっぽくなって、何もかもうそで固めようとする。そしてひたすら引き摺り廻される。ボロボロだ。惨めすぎる。悲しい姿だ。賢い人だと世間から認められていたのは、まぼろしとなる。毎田先生はおっしゃる。これは性の関係の罪ではない。その人を貫く真実なものが、真理を求めていく情熱が薄かったのだと。
821-8
こんな浅ましいことが この世間の前にも後にもあることを知って 静かな人は
しっかりと唯一人の道を行き 性の関係に盲従しないようにするがよい
性の関係に盲従しないというのは、それを第一とするのはやめなさい。ということだと解説される。あくまでも真理が第一だと。
822-9
唯一人ということをどうしても学ばなければならない これが最も気高いことである
しかしこれだけでこの上もないところへ行きついたと思ってはならない
彼は涅槃に近づいたといえるだけである
真理への道はただ一人、独立者の道である。でも、「無」の境涯に到達すると、その永遠の生命の無量光の中で、性の関係も光輝くものとなる。みたいなことが解説されている。
823-10
どんな欲望にも駆り立てられず そこから解き放されて生きてゆく静かな人は
既に盲目の命の流れを渡ってしまっているので
欲望のため身動きならぬ人達が ただそれを羨ましいと思うばかりである
毎田先生は、静かな人のことをこんなふうに言っています。微かなうねりをあげて、静かに回転を続ける水力発電所の大きい発電機のようだと。そこには最高度の活力の充実と、無碍自在の作動があると。これは欲望のためにガツガツして、あっちへぶつかり、こっちへぶつかりして、身動きならない世間の人たちから見ると、ただただうらやましい姿なんだな。どうしてだかはさっぱりわからないけど、なぜあの人はガツガツしてないんだろう? そしてあんなに悠々とどっしりと、穏やかでいられるのだろう? という感じなんだな。なにが違うかわからないけど、なんか違うということだけは、世間の人にもわかるところがおもしろい。これが如来と世間の人との唯一の接点で、ここに慈悲があり、ここに救いがあるんですね? それに気づいて見逃さず、「この違いはなんなんだろう?」「どうしたらあんなふうになれるんだろう?」ってことになれたら、真理の探求の道に入るチャンスですね?
ここでは、これまでに何度も出てきた、論争について詳しく語られる。もう私は「うん、うん」とうなずきまくってしまう経なんです。
824-1
人々は「これだけが清らかだ」と主張して 外の教は清らかでないというー
そして自分の立場だけを認めることによって
実は色々の 自分だけの真理というものにとりついている
仏法には「これだけ」も「あれだけ」もない。だから対立というものがない。「それはダメ! これでなきゃ!」ということがない。人間が何かを主張し合って言い争っているのは、自然なことだ。真理は一なるものなのに、あっちこっちで「これが真理だ!」「いや、こっちこそが真理だ!」と言い争えば言い争うほど、真理とは離れていくのに、それに気づかずいつまでも言い争っている。それが世間だ。だからそういうものは相手にされない。別にそれがいけないとも言わない。かわいいものだとそのまま抱き包んでくれる。
825-2
この人達はひとといい争うことが好きで 集まりの中へ入ってゆき
互いに反対して相手を愚かなものと見なし
自分はほめられたいと思って 如何にも道理の解ったような顔をしてものをいい
他人と対立しながらただいい争っている
826-3
人の集まりの中でいい争うことになったものは
ほめられることを望んで 敗けないようにと心を砕くが
その甲斐もなく 相手に押し切られると 口惜しさに堪えられず
自分も人の弱点を探しているのに 相手が自分の間違いを衝いたことを怒る
827-4
いい争うのを裁く人達が あなたのいうことには欠陥がある
だからあなたの方の敗けだというと その論争に敗けたひとは 泣き悲しんで
「あの人が自分を敗かしたのだ」と口惜しがる
争いには、面と向かって言い争う場合もあれば、心の中で争うこともあると解説される。心の中の場合・・・「あんなばかなやつ、こんなことに気の付いていないまぬけ野郎、低級なやつだ、幼稚な野郎だ!」毎田節、更につづきます・・・ところが自分はやはり人から、「あなたは立派な、非の打ちどころのないご意見をおもちですな」とほめられたいのである。「どうだ、相当なものだろう」と鼻をうごめかしたいのである。得意になりたいのである。だからいかにも物事の道理の解ったもののような顔をするのである。相対的立場に立っている人は、必ず人を支配したいのであり、屈服させたいのである。・・・ですって!
828-5
こんないい争いが道を修める人達の間に起ると
彼等の中に勝つとか敗けるとかいうことがあることになる
こんなことをみてもひとは論争を離れねばならない
何故ならそこにはほめられたということの外に何の利益もないからである
829-6
あるいは又人の集まりの中で 自分の考えを述べて それがほめられると
その人はかねて望んでいた利益を得たのだから
如何にも得意そうに自惚れることになる
830-7
自惚こそは人の苦しみを生み出す土壌である
それなのに彼は愈々(いよいよ)いい気になって思い上がったことをいう
これを見てもひとはいい争うことを止めねばならぬ
何故なら賢い人はそんな処に清らかさがあるとはいわないからである
修道者の間に勝つとか敗けるとか、優劣があることになるとは、悲しいことではないか。と毎田先生はおっしゃる。そして「私は先輩だ」と思った瞬間に、彼は最後尾に落ちると。
831-8
たとえば王侯から食禄を得ている勇ましい人が
敵の中に強い相手を求めながら 叫び声をあげて突き進むように
勇ましい人は 敵の居る処へとび込んでゆくがよい
そこにはしかし戦わねばならぬことは何もないのである
832-9
ある学説をとり上げて議論を吹きかけて
「これこそ本当なのだ」という人があれば
そういう人にあなたはいってやるがよいー
いい争おうとしても あなたの相手はここにはいませんと
「勇ましい人」とは何という皮肉の語であろうかと。勝敗を問題にする、本当のことの解っていない人だと。「争わねばならぬことは何もないのである」とは、何という真理の言葉であるかと。また、「あなたの相手はここにはいません」とは、まことに小気味よく、辛辣に、真実の人があらわされていると。でも論争の好きな人は、言いたい放題で、黙って聞いていると、ますますいい気になって主張しまくる。そこで、ついつい勇ましく応戦してしまう。それが言い合いのはじまり。これ、一旦始まると、なかなか止まらないんだな~。
833-10
これとは反対に もう敵というものをもたない処に生きて
色々な考えに一つの考えを対立させない人達がある
パスーラよ あなたはこういう人達から何が得られると思うのか
その人達にはもうこれが最上のことだといって摑んでいるものは何もないのである
834-11
ところであなたは色々の学説を心の中で思いめぐらせながら
そこに真理を尋ね求めているようだが
そういうことでは いくら清められた人に出会って学んでいるといっても
それ以上に先へ進むことはとてもあなたには出来ないだろう
例えばお釈迦様のところへ行って、例えば聖徳太子のところへ行って、「この人生において、最上のこととはどういうことですか」と尋ねても、そういうものは何も「ない」と答えられたに違いないと言われる。私たちは「これだ!」とつかめるものが欲しくて探し回る。お釈迦様から何かを得たいと思って教えを乞う。でもそんなものは何もないんだと言われる。そして、聖徳太子の十七条の憲法第十条と833のガーターがそっくりだと毎田先生は驚かれる。まさに、聖徳太子はお釈迦様そのものに学ばれたんですね。この第十条の偉大さを2ページに渡って解説されます。私もまた第十条を読み返します。何度読んでも心に沁みる。もうもう、この世界観を手当たり次第ばらまきたい! 街中に! 日本中に! 世界中に! みんなでこの世界観を共有できたら、世の中はどんなに生き生きするだろうと妄想する。
そして、この最後のガーター。この指摘。パスーラは私たちのことですね? 真理を求めながらも、心の中でいろいろな学説を考えて思いめぐらしているばかり。あれはよい。これはまずい。と、うろうろしているだけ。この執着をどうしても離れられない。まのあたりお釈迦様はそこにいらっしゃるのに。ただそのお姿を見ればよいだけなのに。それでは先へ進むことはできないよ。と静かに指摘される。決してそれじゃあダメだ! とはおっしゃらずに。
マーガンディヤもまたこれ私たちです。どうしても、どうしても、人間の頭で考えるから、お釈迦様のおっしゃることが理解できない。納得できない。そして変なことを言い出す。
835-1
「私は嘗て『渇望』と『不満』と『貪欲』と(いう女)を見たが
それと一つになろうなどとは決して思わなかった
この尿と糞とに充ちた汚いもの それが一体何であろうか
私は足でそれに触れようとさえ思わない」
836-2
「もしもあなたが多くの帝王達に宝玉のように求められた
その女を手に入れようと思われないのなら
それでは一体あなたは どんな学説と徳行と生活の仕方と
またどんな状態に生れ更わることとを 説こうとされるのですか」
一つ目のガーターはお釈迦様が愛欲を超えられたことの告白なんだな。そんなお釈迦様に接したマーガンディヤは、一体どうやってそれを超えたのかと聞く。世の人々の没落や苦しみの原因となりながら、どうしても超えることのできないこの欲望を、どんな方法で超えたのか? その方法をお釈迦様は知っていて、自分たちに説いてくれるに違いないと期待して。
837-3
「『私はこのように説く』ということが抑々(そもそも)私にはないのである
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
この世にある色々の事にとりついてゆく自分であることを知って
私は色々の見解に接しても それを一つも取り上げないことにした
こうして始めて私は自分の中に 平安を見出したのである」
ところがなんと、お釈迦様には方法はなかったんだな。何か目的を立てて、それを達成するための手段を考えるというようなことはないんだな。何もないんだから、説きようがない。
前にも書いたけど、お釈迦様の教えとか、説法とか、仏教とか、私たちは、そんなふうにある一定の立場や考え方があると思っているけど、お釈迦様にしてみれば、そんなことはなんにもない。何かを取り上げたり、考え出したりして、こうすればよいよ。なんていうことは一切ない。ただただ真理を直観されて、それに従ってゆかれただけ。
毎田先生は、このガーターの第一行こそは、青天の霹靂だとおっしゃる。今、世の中に見る仏教的社会現象(お寺やお坊さん、仏教学やそれを教える教授など)に目を曇らせてはならないと。
お釈迦様はおいでになった。でも実は仏教というものはない。目的に向かって、それを達成するための手段を考えて実行していくとなれば、目的や手段をつかむことになる。それにこだわると真理は見えなくなる。そういうものにとりついていくのが人間の苦悩の原因だと知って、一切を捨てられた。つかんでいるものをみんな手放してしまった。すべて捨てる。ただ捨てればいい。それが脱落で、そこに清らかさが現れる。それが自在だ。何の手段も手続きもいらない。今つかんでいる自分の立場や考えを、捨てさえすれば、そこに平安が現れると。
838-4
「よく考えて確かめられた そのような見解に とマーガンディヤはいった
そのような見解に捉われないで 静かな人よ
あなたは『自分の内に平安』を見出したといわれますが
そういう意味のことを賢い人達も こういうことだと説き明かしていられるのでしょうか」
うん、私、ちょっと笑っちゃいました。でもわかる。「わたしに説くということはない。」とお釈迦様はさっきから言われているのに、まだマーガンディヤは、賢い人達も「説き明かしていられるのでしょうか」と聞いている。確かに愚問なんだけど、でもわかる。どうしても何か方法があって、それを説くということに捉われちゃうんだな。そもそもお釈迦様のおっしゃる意味が、私たちには理解できないもんね。その「無」というものを体験したことがないんだから。おもしろくなってきた。で、お釈迦様はなんて答えるかというと?
839-5
「見解とか 学問とか 知識とか マーガンディヤよ と世尊はいわれた
そして徳行とか そういうもので人が清らかになるとは私はいわない
しかし又無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても 人が清らかになるとは 私はいわない
そういうことをすべて捨てて 捉われず
拠り処など何も持たず この世のことに少しも望みをかけぬがよい」
あ~、お釈迦様はこんな愚問は無視しちゃった。「だ~か~ら~、私は説かないと言っているのに、まだ説くのか? とお前は聞いてくる。しつこいやつだ!」とはならない。そして、更に更にマーガンディヤを解放しようと、ぐんぐん進んでいかれる。
そんな「見解なんてものに捉われない」と聞くと、愚かな私たちは、じゃあ「無見解がいいんですね?」と、今度は見解をもたないようにと努力を始める。「学問」を否定されたと思うと、「じゃあ、無学がいいんですね?」と、「私は学問なんてものには興味はない。お釈迦様もそうおっしゃってます。」と主張を始める。「徳行では助からない」と聞くと、「じゃあ、悪いことしてもいいんだ。よし、してやろう。」となったりする。これはこれでどれも不自然だ。「捉われないようにする」というのも、「捉われないようにすることに捉われてる」ということだから同じことなんだな。
だいたい、この世の中で、例えば悪いことばかりして、でたらめに生きるなんて、みんなから非難されるし、法にふれれば警察から逃げ回るかつかまるかだし、ご苦労なことだ。やっていいと言われたって好んでできることじゃない。そして、何にも望みをかけず、当てにせず、目的なんてものにもこだわらずということですね?
ああ、関係ないかもしれないけど、私は小学校一年生のときに、図工の版画でねこを描いた。でも先生が、「このぶたはとてもよくできているから、展覧会に出しましょう。」と言ってくれた。じゃあぶたでいいやと、わらをそえた。ねこを描くという目的からはそれたけど、これはこれでよかった。あまりいい例ではないけど、つまり、目的とはそれても、それはそれで新しい展開があるし、こだわらずになすがままにいけばよいということかな。はいはい、でも「ぶたじゃありません!」と言って、最後までねこにこだわったって、それがいけないということでもないんですね?
ここで毎田先生はまた、聖徳太子の十七条の憲法第十条から、第六句「相共に賢く愚かなること、鐶の端なきがごとし」を引用される。見解もあり無見解もあり、学問もあり無学もあり、知識もあり無知もあり、徳行もあり不徳・非行もあるということが、同じ一人の人間に同時にあることなんだと。これが人間の自然な姿なんだと。お釈迦様はこのありのままの自然の姿に解放しようとされるのですね。
840-6
「もしもそのように見解とか学問とか知識とか とマーガンディヤはいった
そして徳行とか そういうもので人は清らかにはならぬといわれ
又無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても 清らかにならぬといわれるなら
それは人を惑わす教だと私は思います
ある人々はものの見方で清らかになれると信じているではありませんか」
841-7
「自分の考えにだけとりついて ものを聞いているから
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
執着を離れられず あなたは世迷言をいっている
あなたは今ここではっきりと ものを見ているではないか
そうして私のいうことを人を惑わす教などといっている
あ~マーガンディヤ、怒っちゃったのかな? きっとわからなくなっちゃったんだな。じゃあ、いったいどうしたらいいの? って。わかるな~。聞いても聞いてもわからない。わからない自分がちょっと情けなくて、イライラして相手に当たっちゃう。で、「人を惑わす教だ」なんて言っちゃった。さすがのお釈迦様もちょっとムッとしたのかな? そして言われる。「今現に、私のこの自在の姿を目の前にしていながら、それを見ていない。それを直感することなく、まだ考えにとりついている。」と。
そしていよいよ次のガーターで、この世迷言を言っているマーガンディヤに、その凝り固まった考えを打ち砕こうと、大慈悲の鉄槌を下される。「説かれるのではない。直視せよ! 直観せよ!」と・・・
842-8
等しいとか 勝れているとか あるいはまた劣っているとか そういう比較の立場にたって
ものを考えている人は 必ずひとと争うだろう
しかしこのような物を比較する三つの関係のどちらへも揺れ動かぬ人ー
そういう人には『等しい』とか『勝れている』とかいうことはないのである
843-9
道に達した人は 何をさして『これは真理である』と主張するだろうか
又誰に向かって『これは虚妄である』と争うだろうか
等しいとか等しくないとかいうことのなくなった人が一体誰と論争を始めるだろうか
みみずともぐらはどっちが優れている? 浅海魚と深海魚は? 蛇と虎は? 昼と夜は? 春と秋は? そんなことは比べようもない。それぞれに、それはそれであるだけ。賢い人とおばかさん、いい人と悪い人、美しい人と醜い人、そのどっちがいいかと言い合うのも同じこと。それは、それぞれが自分で勝手につくった、ほんの一面的なものさしで比べているだけ。自分のものさしと相手のものさしが違うんだから、それを主張し合えば、当然意見が食い違って言い争いになる。それでは物事の真の現実は見えない。それは直観でしか、ただそれとして、個性的生命として、とらえることしかできない。
そして、道に達した人にとっては、すべてが真理であるこの世界で、何かをさして「これは真理だ」なんて主張はない。「これは虚妄だ」ということもない。うそつきがうそをつくのも真実だし、でたらめな人がでたらめをするのも真実、おばかさんがばかなことをするのも、狂った人が狂ったことをするのも、全部真実。直観の世界は全部真なのだ。そしてその真理は無常。流れていく。変化していく。そこに留まってはいない。
844-10
家の生活を捨ててひとところに定住せず 思いのままに道を行き
村里の生活に親しみ近づかぬ 静かな人は
色々の欲望を離れて 世間には目もくれず
ひとと違った説など述べ立てて 議論する筈がない
845-11
何の捉われもなく この世を堂々と生きてゆく修道者は
これが自分の説だなどと論ずべきではない
水に生える棘(とげ)のある蓮が 水にも泥にも汚されぬように
静かな人は安らぎへの道を明かして 熱情に駆られず 欲望にも世間にも汚されない
家も捨てて、世間からも、色々な欲望からも離れて、そんな生活、何が楽しいんだろうか? と私はときどき思う。苦しみの原因は欲望だ。欲望は世間での生活から起こる。だから、世間を離れることで欲望からも離れ、苦しみから自分を解放することができる。確かにそうだけど。
でも、奥さんも子どももいて、家族にも恵まれ、食べる物にも着る物にも住むところにも、何の不自由もなく暮らしていたはずのお釈迦様が、家を出られてから、結局そこへは戻られなかった。たぶん戻ろうとも戻りたいとも思われなかった。
そしてそんなお釈迦様の人生がつまらないものだったのなら、こんなふうに残るはずがない。2500年も前に生きておられたお釈迦様の姿が、しかも、「私の教えでこの世を救ってやろう!」とか、「私のこのすばらしい悟りを世界中に早くどんどん伝えなさい。」とか、そんなふうに全然ギラギラしていなかったはずのそのお釈迦様のお姿が、今のように情報網も全く発達していない時代に、これだけの多くの経典として残され伝えられている。インドの国から中国へ、そして日本へとはるばる国を越え、時代を越え、言葉を越えて・・・。
そこに、このお釈迦様の悟りがどれだけ完結された人類史上初の大発見だったか、そして、そのすばらしさに打たれた人たちの、その大発見を何とか伝え残そうとする数々の並々ならぬ努力があったことか、それを思うとこの出会いに本当に感激してしまう。そしてその悟りの世界は、きっと今の私の想像を遥かに上回る、安らぎの世界なんだろうな。
846-12
至上の智慧に到った人は 意見をもつとか物が解るとかいうことで
思い上がりはしない 何故ならそのような意見や見解がもうその人にはないからである
彼は如何に行い 如何に学ぶかというようなところに生活の中心をおかない
固定した立場などに立ってはいない
お釈迦様はひたすらご自分と向き合って修行をされたんですね。だから人のためにどうこうという発想はなかったのかな。すぐに世の中や他人に目が向いてしまうのは、私の思い上がりなんだな。私はこの学びを始めてから、誰かにこれを伝えたくてしょうがない。それがこのタイトルでもあるのだけど。でも、その誰か(世間)を相手にしようとすることが思い上がりなんだな。人のことをかまっているひまがあったら、自分のその思い上がりを何とかしなさいということかな。この焦りに近いような衝動はおさえて真理にお任せしてみます。
847-13
思想を持たないものは自由を束縛されない 智慧によって自在を得たものには迷いはない
思想や見解を摑んでいる人達は ひとにぶつかりながら 世の中を右往左往する」
今の学生には思想がない。思想をもてるように教育すべきだ。なんていうのは、自由と正反対の方向に向かっているということに、世間の人は気づいていないと言われる。それとは反対に、仏法の智慧を得た人には、真理しかないので、迷いがない。思想や見解をもっていると、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりして、結局迷いのもとにもなるんだな。そして、真理が見えない。思想や見解の枠をはずして、真理に従っていけば、迷いはなくなるんだな。なら、学生にも思想と言わず、仏法の智慧を学ばせてあげたらいいのにな。あ、これ、また私の思い上がりですね。私、今度は思い上がらないようにしなきゃということに捉われ始めました。(苦笑)あ~、マーガンディヤの経も、かなり読み応えあったな~
死なない前とは、永遠の今、今ここでの救いを明かされます。
848-1
「どのように物を見 又どのように行いを保つ人が平安であるといわれるのでしょうか
ゴータマよ 私のお尋ねしている その最高の人について どうぞ教えてください」
849-2
「死なない前に 愛欲を絶って と世尊はいわれた
その人が過ぎ去ったことに捉われず
今のことを思い煩わず 未来に向かって用意などしない
過ぎ去ったことはくよくよ考えてもどうにもならない。ただ今に生かすことだけ。今、目の前の事実だけに目を向けて、その裏を考えなければ、思い煩うこともない。そして未来はなにが起こるかわからない。そのすべての可能性を考えて用意周到に準備するなんてことはできっこない。その可能性のひとつが目の前に起って来るのに対して、そのときの直観で、できることをするだけ。それが永遠の今を生きるということなんですね。
850-3
この静かな人は怒らず怖れず自惚れず また悔いることなく
聡明に語って 思いをたかぶらせず そして言葉を慎む
静かな人とは・・・他人を、自分と同じように考えて動くはずだなんて思わず、その人の自由に任せて、自分も他人にとらわれないから怒ることはない。この世のことに何も当てにすることがないから、怖れもない。他人と自分を比べることがないから、自惚れもない。何かよいことができる自分だなんて考えてないから、しくじっても後悔しない。ありのままを語り、余計な自分の考えなど加えない。自分の主観的な感情に甘えず、事実を冷静に客観的に観察する。そして、的確な、真実な、簡素な言葉だけで表現する。
851-4
未来のことを期待せず 過ぎ去ったことを思い出して悲しまず
感覚に触れるものを一定の距離をおいて見
又自分の考えで人生の行き方を決めようともしない
これをなんとかしよう! とか、自分の人生をこう生きよう! とかいうことに執着せず、ありのまま、なすがまま、自然な姿なんだな。
852-5
物事に捉われず 正直で 貪る心がなく 人のために尽くし
控え目で いやな感じを与えず 人を中傷することがない
捉われがないからあっさりしていて、人にどう思われるかなんて、余計な忖度や計らいがなくて率直。貪らないから、さらさらと自分の持ち物を捨ててゆく。人の苦しみにはすぐに同じるけど、決して出しゃばらず、その人の力に任せておけばいいことにまで、余計な力を貸さない。あっさりとしたさらさらと流れるようなさわやかさは、人にいやな感じを与えない。そして、かげでこそこそ人の悪口を言わず、言うべきことは面と向かってまっすぐに言う。
853-6
快楽に耽(ふけ)らず 思い上がっていい気にもならず おだやかで 機智に富み
自分の信ずることを人におしつけず
又自分はどうしても無欲にならねばならぬとも思っていない
感覚的欲望の充足だけに溺れず、生命の創造の歓喜を求め、独りよがりのお目出たい人でもない。何が起きても心おだやかに、柔軟に、本質を見抜いて鋭い智慧を働かせて対処する。それぞれの人の個性を認め、人を自分の思い通りに支配しようとしない。どんな人のどんな行いも、いろいろな因縁や環境の複雑な組み合わせから起こる、無理のないことと認めている。そして自分のことも自分の思い通りの型にはめようとしないで、自然にまかせる。
854-7
何かを得ようとして学ぶのではなく 従って何も得られなくてもあわてず
愛欲に捉われて 人との関係をきしませず 又美味を貪りもしない
いろんなものを身につけるために学ぶというより、むしろ、学べば学ぶほど自分の無知や捉われに気づき、どんどん身につけたものを脱ぎ捨てていく。どんどん愚かな自分が丸出しになって、肩の荷物がとり払われて、身軽になっていく。そして、愛欲に捉われることは、人との関係をいびつにすることを知っているから、それを離れる。
855-8
歓びも悲しみも届かぬ静かな処に いつもすっきりした気持ちで居り
この世の中で 自分を人と等しいとも思わなければ
また勝れているとも劣っているとも思わず 総じて何の思い上がりもない
人との相対関係に陥らないから、それがうまくいったと喜んだり、うまくいかないと悲しんだりしない。人と比べることもないから、思い上がることもない。
856-9
この人が何の拠りどころももたないのは 物事の本性をよく知って
それによりかからぬからである
そこには生きようとする強い願いも 又生きることをやめようとする強い願いも
そのどちらもない
物事はどんどん流れて変化していく。その無常を知っているから、それによりかからず、共に流れていく。強い願いというのは執着のことなんだな。本来、生きようするのが人の命。それに逆らって生きることをやめようとするのは、生きようと執着するのと同じ、生への執着。静かな人は、生を生に任せ、死を死に任せ、生死ともに相手にしない。生死を超えてしまっている人は、無常の真理となって、どんどん前進していく。
857-10
色々の欲望を悉く顧みないでゆく人 こういう人を平安な人と私はいう
彼を縛るものは何もなく 彼は既に執着をこえてしまっている
人間の欲望なんて、みんなちっぽけなもので、大したことないと。歎異抄の第一節で「悪をも怖るべからず、弥陀の本願を妨ぐるほどの悪なきが故に」と言われるように、人間がしようと思う悪も、大したことはないと言われる。
858-11
その人の処には子供も家畜も居らず 田畑や敷地もない
そして彼が手に入れたものとか 未だ手に入れなかったものとか
そういうものが彼の内には何もない
彼の欲望の根は絶たれている。「これは私(だけ)のもの」と支配するものは何もない。そんなものは何一つ必要としない。そんなケチくさい世界に生きてはいない。世界をわが家とし、人々を家族として生きる彼は、もっともっと広やかな、無限に豊かな世界にいる。
859-12
世俗の人や修道者やバラモン達が この人のことをどんなにとやかくいおうと
いわれる事柄自身が
既に彼の無視していることだから そんな論議のために動かされはしない
世間の人たちをすでに相手にしていない彼にとって、その世間の人たちに何を言われようと、それに惑わされることはない。それに対立して争っていく立場がもう彼にはない。
860-13
静かな人は貪らず 利己心がなく 自分を勝れているとも
また等しいとも 劣っているともいわないで 時の流れに流されず 却って時を超えている
欲望を顧みず、自分中心に考えず、他人と自分を比べることもない静かな人は、何かをしなきゃとあくせくしない。時に縛られて何かをしなければということがない。過去にも未来にも捉われず、永遠の今をそのままに、自然に、直観的に生きる。
861-14
彼はこの世に自分の持ち物が何もないが ないからといって別に悲しみはしない
又色々な事をとりあげて それにあくせくすることもないー
こういう人をこそ平安な人という」
持ち物が何もないとは、なんと清々とすることでしょう。それを淋しいと思うとすれば、何かをよりどころとして、それに捉われて生きている人。(例えば人から認められたり、ほめられたりすることで、初めて生きた心地がするような・・・)そんな人が、そのよりどころをなくしたとき、淋しいと思うんだな。そして、静かな人は、世間のことを何か問題として取り上げて、それをなんとか解決しようとあくせくするようなこともない。あ、また毎田先生の毒舌を引用するなら、「俗世間のことは俗物共に任せておけばよい。俗物はその限られた見地から、思いっきり俗臭を発揮すればよい。」だって。そしてそれは静かな人には無関係なことだと。
またまた闘争、論争について。それがどこからくるのかを深くたずねていく。
862-1
「何処から闘争と論争と 憂いと悲しみと 利己心と 傲慢と 人に対する誹謗とが
起るのでしょうか それがどこから起こるかを どうぞお教え下さい」
863-2
「闘争と論争と 憂いと悲しみと 利己心と傲慢と 人に対する誹謗とは 愛ゆえに起こる
闘争と論争とは 利己心に結びつき 論争が起これば 人を誹謗するようになる」
人と争うことは不愉快な事だ。負けるとくやしさや苦しみにおちいるし、勝とうとすれば相手の弱点をかぎまわってこすく立ち回ることになる。相手の犠牲によって得る自己満足はまさに利己心だ。それがどこから起こるか? との問いに「愛」だと答えられる。愛っていうのは、執着や、あくどい欲望のことなんだな。それがあっさりしていれば、それほどでもないけど、強い欲望はそれを満たそうと前後の見境もなくなって、そのために人を不幸にしても、問題に感じなくなってしまう。そしてそこには何の喜びも、和やかさもない。苦悩の世界だ。
864-3
「愛はこの世で何を元として起こるのでしょうか
又世間に拡がってゆく貪りは 何から起こりますか
そして人が来世に向かって希望を抱き それが果たされるのは 何に基づくのでしょうか」
865-4
「この世に愛があり 世間に拡がる貪りがあるのも 欲求ゆえのことである
人が来世に向かって希望を抱き それが果たされるのも 同じく欲求ゆえのことである」
生は何かに不足が起こると、それを満たそうとする方向に向かう。それが欲求。それが愛(執着・欲望)のもとなんだな。そして、強い欲求がどうしても満たすことができないと、
来世という別の世界を想定して、そこで満たされるはずだと妄想して自分をごまかす。
866-5
「それではその欲求は この世で何を元として起こるのでしょうか
又色々に考えて断定を下すことは 何に由るのでしょうか 怒りと嘘と疑いと そして
修道者があれこれと指摘する事柄は 何に基づくのでしょうか」
867-6
「この世で『快と不快』といわれることを元として 欲求が生ずる
色や形の世界で なくなるとか生ずるとかいうことのあるのを見て
世間の人は考えをめぐらし断定を下すのである
878-7
怒りと嘘と疑いと これらも亦(快と不快との)二つに過ぎない
そして思い惑う人は 修道者があれこれと指摘していることを知って
智慧の道を進むようにするがよい」
欲求は不快をさけて快の方向に向かう。そして、①こうすれば満たされる。②どうしても満たされない。③相手をごまかして満たそうとする。④どうしたらいいかわからない。のどれかになり、そこに怒りや嘘や疑いが起こる。そしてそれもまた快不快につながる。
869-8
「快と不快とは又何を元にして起こるのでしょうか
何がないとき これらもないのでしょうか
また『なくなるとか 生ずるとか』いうことの意味は
何に基づくのでしょうか それを話してください」
870-9
「触れることによって 快と不快とが起こり 触れることのないとき それらのこともない
『なくなるとか 生ずるとか』いうことの意味も
それと同じく触れることによると私はいう」
触れるのは、眼耳鼻舌身の五官と、意の内管を通して。そこに快不快が起こる。
871-10
「触れるということがこの世でどうして起こるのでしょうか
又執着することがどうして起こるのでしょうか 何がなくなると
触れることも触れることでなくなるのでしょうか」
872-11
「名と形とに由って 触れることが生ずる 求めることを元として執着があり
求めることがなければ我執もない 形がなければ 触れることも触れることではなくなる」
物や人やいろいろな現象に働きかけることで触が生じ、それを強く求めると執着になる。
873-12
「どのように知った者にとって形がなくなるのでしょうか
楽と苦も亦どうしたらなくなるのでしょうか
そのなくなるということを ありのままにお教え下さい
『そのことを知りたい』と 私は熱望して居ります」
874-13
「自然に思うように思うのでもなく 間違って思うのでもなく
それかといって思わないのでもなく 思いをなくそうとするのでもないー
と丁度このように知るものにとって 形はなくなる
何故なら 思いによって ありとあらゆる妄想が起こるからである」
普通に自然に思うのでも、普通に思うんじゃだめ、というのでもない。ぼーっと何も思わないのがいいというのでも、何も思わないようにするのがいいというのでもない。要するに直観ということですね。その直観の中に、この四つのすべてがあると。だから、どれでもいいけど、とにかくその思いに思いを任せるということなんだな。そして人間の思いというのはすべて妄想。その妄想によって、無常を固定して、楽だ苦だといっているだけ。楽も苦も妄想の産物だ。このことを知ることで、そこに形はなくなる。そこに楽も苦もなくなる。
875-14
「お尋ねしたことを 本当に明らかにお教え下さったので
更に付け加えてお尋ねしますが どうかそれも教えて下さいー
ある賢い人達は この世ではここ迄が 人としての最高の清らかさであるといいますが
それともそれ以外のことを説く人もあるのでしょうか」
876-15
「ある賢い人達は この世ではここ迄が 人としての最高の清らかさであるというが
それらのうちのある人達は その外に
一切が無に帰すると巧みに説いて そんなことを究極のこととして論ずる
877-16
静かな人はこんな人達が『拠りどころをもつ人』であると知り
その拠りどころが一体何であるかを明らかにし それを離れて自由の人となる
しかも智慧の人が決してあれこれの生き方をしないことを知っているから
人といい争ったりしないのである」
「ここまでが最高の清らかさだ!」と線を引くのも、「無こそが究極の真理だ!」と主張するのも、本当に解放された姿ではないと言われるのですね。無限の不可思議の自在に解放された、なにもつかんでいない人が、本物の静かな人なんだな。そして、最後に、我が国における、そのような静かな人の力強い一例として、お二人の名をあげられる。それは、親鸞聖人と聖徳太子です。すべての捉われから離れたこのような人が、人と争ったりするだろうか。と結ばれました。
私は不思議に思う。お釈迦様のことは歴史で習った。だけど、こんなすごい大発見をした人だとは全く知らなかった。たぶん、知らない人が多いんじゃないかな?
他の大発見・・・例えばニュートンの引力や、例えばライト兄弟の飛行機や、そういうものは一般的に知られているのに、お釈迦様の悟りのすばらしさは表面的には知られていても、その中身は一般的に知られていない。なぜなんだろうか? わかりにくいから? 誤解されやすいから? これがもっともっと広まれば、戦争なんて起きないし、政治や教育だってもっともっと充実するんじゃないのかな?
でも毎田先生はおっしゃる。お釈迦様はそんなことは全く考えないと。世の中をよくしようなんて全く考えないんだと。ただただ内省し、そこからくる直観に従って真理を生きなさい。そして智慧を得なさい。慈悲の光となりなさい。ということをご自分の姿で示されたんですね。
お釈迦様に出会えたのは、私にとって、宝くじに当たったくらいの奇跡だ。「お釈迦様はわきの下から生まれた」とか、「生まれてすぐに7歩だけ歩いて、右手で天を、左手で地を指し、『天上天下唯我独尊』と唱えた」とか、そんな不思議な話しか聞いていなかった頃は、お釈迦様なんて、私とは全然関係のない、独特の世界の、わけのわからない伝説の人だと思っていた。でも、このスッタ・ニパータを通して私が出会ったお釈迦様は、真理そのものを示してくださる。生まれたときの不思議な話は、そのすばらしさを伝えたいあまり、誰かがつくった伝説なんですね。きっと。
そして、仏教というものも、お釈迦様の教えだと思いきや、実は人間の都合でどんどん形が変わっていったんですね。きのうたまたま見ていたテレビで、お釈迦様の教えはずっと口伝で伝えられ、何百年もしてから、やっと文字で記されたと言っていた。それがまた長い長い年月を経て、いろいろな国のことばに変換されてきたんだな。その歴史はいくら考えても私の頭では想像もできない。
とにかく、私はできるだけ本物のお釈迦様を知りたい。そのためにも、まずはこの「スッタ・ニパータ」という一番古いお釈迦様の経典をもっともっと学びたい。
二〇一七.一〇.二二
2017年12月17日 発行 初版
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