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だれかに紹介したいわたしのバイブル ④

ポチ

ポチ出版



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だれかに紹介したいわたしのバイブル その4
「釈尊にまのあたり」毎田周一 ~スッタ・ニパータ 訳と解説~

はじめに・・・


 「不幸に会わない人は不幸だ」とどこかで読んだことがある。不幸に会わない人は、本当の幸せに出会うチャンスにも会えないということなのかな? 
 すべての人の幸せを願って、伝えられてきたお釈迦様の悟りがここにある。私たちはこれを聞きさえすればいい。そこに耳を傾けさえすればいい。でも、自分の力で間に合っているうちは、そこに耳を傾けようとは思わない。
「自分の力ではどうにもならない。」と自覚したとき、「いったいどうしたらいいの?」となったとき、そこでタイミングよく、この教えに出会えたら、それはこの上ない幸せというものなんだな。
 おなかがいっぱいのときに、とんかつ屋さんの前を通っても見向きもしないけど、おなかがすいてたまらないときに、とんかつ屋さんを見つけたら飛び込んでいくようなものなんだな。
 ということは、私の場合、おなかがすいて、とんかつが食べたくてたまらなくなったときに、ちょうど「あそこにとんかつ屋さんあるよ。」って教えてもらって、入って食べたらあまりにおいしくてやみつきになっちゃった。今までもそこにとんかつ屋さんはあったのに、気づかなかった。という感じ。
 これが「機縁が熟す」ということなのかな。
 で、「あのとんかつ屋さん、すごくおいしかった~」って言ってるうちに、私と同じようにとんかつ大好きでおなかペコペコの人に出会って、今度いっしょに行こう! なんてことになる。そしたらもっともっと楽しい。
 いよいよ最後の第4巻まできました。なんだか名残惜しいな。
 
 紹介したい本・・・釈尊にまのあたり 全四冊スッタ・ニパータ解説 著者 毎田周一
 ※ 「スッタ・ニパータ」・・・お釈迦様の教えが書かれた最も古い経典(全5章)

 「釈尊にまのあたり」(スッタ・ニパータ第1章・第4章解説 全4巻中第4巻)

第四章  八重の章より(一~一六のうち、一二~一六)
一二 小さい堆積
一三 大きい堆積の経  
一四 速やかなことの経
一五 杖をとりあげるものの経  
一六 サーリプッタの経


一二 小さい堆積の経


 「小さい堆積」とは? 問いに対して答えが幾重にも積み重なっている形式のこと? それより、ちっぽけな人間が、自分の立場を積み上げて主張しているというような意味かな。

878-1
「賢い人達が めいめい自分の物の見方に立ち それをしっかり摑まえて 
みなが違う説を述べー『こういうように知るものが真理を知って居り これを斥けるものは完全な人間ではない』といって居ります


879-2
その人達は自分の立場を離れないでいい争い
『外のものは愚か者で 正しくはない』といっています
その人達はみな自分こそ正しいと思って説いていますが
一体 これらのうちで どの説が真理なのでしょうか」


880-3
「もしも他人の説を認めないものが 愚か者で 畜生で 低能ということになれば
彼等も亦すべて愚か者で 低能ということになる
何故なら彼等はみな自分の説を摑んで離そうとしない者ばかりであるから


881-4
またもし自分で正しいと認めている物の見方で清められて
清らかな智慧の人 正しい人 悟った人となるのなら
彼等のうち誰ひとりとして 低能などあろう筈がない
何故なら彼等の物の見方は 彼等自身にとって みな同じく完全無欠なものだからである。


882-5
対立するものが互いに相手を愚かだといってきめつけている そのどちらの見方に対しても
私は『こちらが真理である』などとはいわない
彼等は自分の見方を夫々真理として 他人を『愚かだ』と見ているのに過ぎない」


 毎田先生ははっきりと言われる。だれかと言い争う限り、そこに一切真理はないと。真理というのは、大海のようなもの。それを人間がつかんで、「これが真理だ」「いや、こっちこそ真理だ」なんて主張できるものではないと。真理の中にただ私たちは生かされているだけ。如来は真理の主張者ではなくて体現者なんだと。真理の大海の中に、ただ生かされているだけの人間が、その大海の水を堆積のように積み上げて、自分のものとしてつかんで、「これこそが真理だ」なんて主張するとしたら、それこそ妄想なんだな。自分の愚かさを知って、自分には誰とも言い争う資格なんてないと、自分からその土俵を降りることが、智慧で、そこにこそ真理があるんだな。

883-6
「一方の人が『まことだ 本当だ』ということを 
外の人は『無意味だ 間違っている』といい 
みなが自分の説にとりついて いい争っています
どうして道を修める人達が 一つのことを一致していわないのでしょうか」


884-7
「真理は一つであり 第二のものはないと
本当に知るならば それでも尚いい争うことはないだろう
処が彼等は夫々に違ったことを 真理として それをめいめいでほめたたえている
だから道を修める人達は 一つのことを一致していわないのである」

 真理というものは一つの大海のようなもので、私たちはただその大海に生かされているだけだと知ったら、自分の立場を持ち出して、「これが真理だ」と主張するような人と、言い争うことはない。その狭い考えに捉われて凝り固まった姿を哀れんで、自我の殻を融かして、自分で作った壁を取り除いて、広やかな世界へ躍り出ることを願うはずだと言われる。これが慈悲なんですね。

885-8
「自分を正しいと主張する人が
どうしてそれぞれの真理を説いて 真理がいくつもあることになるのでしょうか
彼等は多くの真理を 様々に聞いたのでしょうか
それとも彼等は疑わしい 根拠もない考えを 頭の中へ植えつけられているのでしょうか」

886-9
「沢山の さまざまな真理のあろう筈がない
いくつもあるのはただ世間で 永遠の真理だと思っているものがあるのに過ぎない
人々は色々の根拠のない考えを組み合わせて
『これは真理だ あれは虚偽だ』とこの二つのことを並べていっているのである」


 大海のような真理の中で、人間がつかめるものなんてほんのわずか。そのほんのわずかな、自分がつかんだものだけがすべてだと思って、それが本物で、他のものは偽物だと言いはっているのが人間なんだな。毎田先生は言われる。うそがあるなら、そのうそをあらしめているのが真理。うそつきがうそをついているところにうそつきの真実がある。真理とは争っている私たちを包み込んでしまうもの。それは人間のせまい頭で考え出せるものではなくて、ただ直観されるべきもの。真理とは「真理の一閃」だと。それをつかまえて主張するとき、それは既に固定になってしまって、無常の真理ではないと。そして、親鸞のことばを引用される。「この世界にわろきものは我れ一人、他のすべての人、一切衆生は、この親鸞一人を救わんがために現れてくださった阿弥陀の化現」なんだと。自分以外のすべての人を如来として仰がれた。自分一人が跪くのであって、自分が偉い気になって、他人を批判して、頭を下げさせる世界とはまったく別の世界。それこそが真理の世界。

887-10
見解とか学問とか徳行とか思想とか そういうものに腰をおろして 人を軽蔑し
自分の独断の上に立って 得意げに
『これを知らぬものは 愚か者で 間違っている』といっている


888-11
他人を『愚か者』と見るのだから 自分自身は『正しい』というのである
つまり自分を正しいと認めるから 他人を軽蔑して そういうことをいうのである

889-12
見当の狂ったものの見方をしながら 自分を完全なものと思い
高ぶってのぼせ上り もう心がそれ丈になり

自分をこの世の神聖な第一人者だと自認している
それというのも彼の見方は 自分にとってそんなにも立派な完全なものだからである


 初めてこの三つのガーターを読んだ時の衝撃は忘れない。思わずえんぴつで囲って、「私のこと!」と書いてしまった。初めてこの本を手にしたとき、ここまでずっと夢中になって読んでくる中、途中で何度もお釈迦様のパンチをくらいながらも、自分がどんどん高ぶっていった。そして、第4巻のここで、改めていよいよ今までにないほどの、目が覚めるような一撃をくらった。毎田先生の解説の第一声はこうです。「何という厳しい、底を尽くした、明晰な、釈尊の内省であろうか。」そして、人間というものはこういうものだと言われる。人は根本において、気づかずしてすでにそうなんだと。そうなんです。これだけ打ちのめされても、すぐに思い上がる。まさに私がそうなのです。

890-13
もし人にそういわれた丈で 劣った人となるのなら
そのようにいう彼自身が低能ということになろう
又もし自分一人でそう思えば 最高の智慧の人 賢い人となるのなら
家を離れて道を修める人達の中に 誰一人として愚か者はいないことになる


 さっきは、真理は大海のようなものと言われたけど、今度は真理は光だと解説される。それは内省の光で、自覚的なものだと。それを誰かにおっかぶせて、賢いとか愚かとかいうものではないと。ただその光に、自分の全身が映し出される、鏡のようなものなんだな。

891-14
『これ以外の教を説く人は 清らかでもなく完全でもない』と
異説を称える人達は一般にそういうのである
何故なら彼等は自分の説の正しさに夢中になり のぼせ上っているからである


892-15
『ここにこそ清らかさがある』と説いて 他の教の中には 清らかさがないというー
このように異説を称える人達は すべて執着して
自分自身の道をしっかりつかまえて論じている

 このように、自分の説に執着する人の姿を、毎田先生は「狂人の姿」と言われる。それに気づいていない哀れな姿だと。

893-16
自分の道をしっかり摑まえて論ずるものが 外の誰を『愚か者』だということが出来よう
外の説を愚かだ 汚れた教だというのなら 
外ならぬ彼自身が 不和を惹き起す当人ではないか


894-17
彼は独断の上に立って その説を作り上げ 世間に出て 論争に憂身をやつすー
一切の断定を捨ててしまえば 人は世間で誰とも争わないで済むのに


 自分こそが正しいと思う人が、他の誰かを愚か者だということで、不和が生まれる。そして、その争いのもとになるものは、人間のせまい頭で考え出した断定。この断定さえ捨ててしまえば、世の中は平和だ。断定は人間の考え出したもので真理ではないよ。真理というのはただ直観するもの。その前に跪くしかないもの。小さい堆積とは、人間がせまい頭で考えることで、積み上げたもの。これは争いのもとで、真理ではない。というんですね。


一三 大きい堆積の経



今度は堆積が大きいんだな。

895-1
「めいめいの物の見方で 『ここにこそ真理がある』といって争う人は
誰もみなひとからの非難を免れないにしても
又一方賞讃をもかちとるではありませんか」

896-2
「しかしそれではどうしても はっきり結末がつかないではないか
いい争うことには例外なく その非難と賞讃という二つの結果がつきまとうからだと
私はいうのである
このことをよく考えてあなた方は
いい争うことのなくなった処にある静けさを求めて人と決して論争などするべきではない


897-3
賢い人は 世間の普通の考え方などを 自分の中へとり入れようとは思っていない
見たり聞いたりすることに盲従せず 執着を離れている人が
一体何にとりつこうとして世間へ出かけてゆくだろうか

 意見の合わない人からは非難されても、意見の合う人には認めてもらえる。なら意見の合う人と仲間になって党をつくれば、論争も恐れることはないのではないか? という考えに対して、お釈迦様は、それでは不和が生じると言われる。聖徳太子の言われるような、「和」は実現できないんだな。賢い人は、世間の賞讃を得るために、世間の普通の常識、みんなが納得してくれそうな、「こうするべき」みたいな考えをむやみに取り入れたりしない。世間で見たり聞いたりすることを鵜呑みにしないで、そのもとには煩悩があることを見抜いて、見聞きしている。自分の味方を増やそうとして、世間にとりついたりしない。本当の「和」の実現を願っている人は、世間を相手に論争なんてしないんだな。

898-4
戒律を最高のものと考えている人は
それを堅く守りながら 自分を抑制するところに 唯一つ清らかさがあるといっている
そして『これで身を修めれば 必ず清らかになる』と
生きるという(ことを肯定する一面的な)立場に捉われているとも知らず
それで正しいのだと思っている

899-5
彼は若し戒律を破ったりすれば 罪のある行いをしたといってふるえおののき
再び戒律の生活へ帰って清らかになろうと躍起になる
あたかも隊商から離れたものが隊商の処へ
家を離れて生活するものが 家へ帰りたがるようにー

900-6
戒律を立派に守ろうなどと 一切考えず 
罪があろうとなかろうと そのどちらの行いも共に捨てて
『清らかである 清らかでない』などと願い求めることなく
静けさということにさえ捉われず 自由に生きてゆくべきである


 またまた出ました! 青天の霹靂! これ、本当なんですか? 本当にお釈迦様の一番古い経典と言われるスッタ・ニパータに、こんなことが書かれているんですか? だとしたら、いろんな仏教教団がやってきたことってなんなの? いろんな戒律をまじめに守って修行しているお坊さんたちは、これを知っているの? 罪を犯してはならないとか、清らかでなければならないとか、それも捉われだから捨てなさいと言われる。静けさを求めることにさえも捉われるなと。どこまでも私たちを解放しようとしてくださるんですね? 

901-7
見るも厭わしい苦行の中へ身を投じたり
或いはまた見解や学問や思想の上に腰をおろしたりして
声高に清らかさをほめたたえるものは
あれこれの生き方を願って 生きることを(一面的に肯定する立場から)離れていない


 例えば苦行に身を投じる人が、または一定の見解や学問や思想による人が、「これこそが清らかだ」と思い込んでいるところにある汚れを指摘される。それだって世間の一つの立場に過ぎないぞと。真理の世界は、そんな相対的な世間というものを超えたところにある、苦行も見解も学問も思想も、一つも必要としない、「無」の世界。「自在」の世界なんだな。

902-8
熱望し 希求するものには その計らいゆえに おののきがある
この世で 死も生もないものー 彼は何におののき 何を求めよう


 この世を当てにして、何かを実現しようと熱望して、そのために綿密な計画を立てて実行にうつす。それを実現する力が自分にはあると思っている。
 でも、この世界は私の支配できる世界ではない。真理の世界だ。真理は無慈悲で無常だ。私の熱望も希求もお構いなしだ。熱望すればするほど、私は真理を恐れることになる。こんなにがんばったんだから、絶対実現するはずだと。実現しなかったらどうしようと。これが苦悩なんだな。
 何かを実現するのは私ではない。真理だ。だから真理に任せるしかない。真理がすべて見せてくれる。生きるも死ぬも、すべて真理が働くだけだ。ただ真理が働くだけになったら、そこに「私の」生死ということもなくなる。何も求めようもなくなる。ただ真理に与えられるがままに、奪われるがままにだ。私がこんなちっぽけな心で求める以上にそこに展開していく生命の世界に、自分を解放し、その真理の世界を心ゆくまで味わって生きなさいと言われるのですね。 

903-9
「ある人のこれこそ『最高だ』とする教を 反対するものが『詰まらない』といい
こうしてみなで自分のこそ正しいというのであれば
一体これらの中で どれが真理を説いているのでしょうか

904-10
自分の教は完全であるといい 外の教は反対に詰まらぬといって
このように自分に執着していい争い 夫々にありきたりの俗説を真理としています」

905-11
「もしもひとに詰まらぬといわれただけで もう劣ったものになるのであれば
どこにも優れた教など一つもないことになる
何故なら夫々の人は 自分のものはしっかり摑まえて論じながら
外の教は詰まらぬと 互いにいい合っているからである

906-12
彼等は自分でゆきついた境地に感激しながら 自分の信奉する教を無上のものとしている
そこで一切の教はみな真実だということになる
何故ならそれらの教は それを信奉する人達にとっては夫々清らかなものだからである

 いろいろな立場の人が、それぞれに、自分の行き着いた考えこそが一番で、他の考えは劣っていると主張する。ここに矛盾が生じる。真理の一部を切り取って、それぞれ人間のせまい考えに押し込んで、これこそが最上だと言い争っているだけ。
 その考えという枠をはずしてしまえば、そこには無限の真理の世界が広がる。みんなでそれを仰ぐしかなくなる。そこにみんなで融け合ってしまえば、きっと争いなんてどこかへいっちゃうんだな。
 そんな、考えを捨てて、直観のみとなった自在の姿が次に語られる。

907-13
自在の人には 他に導かれるということがなく
彼は色々の教を考察しても それにとりつきはしない
そのようにして彼には人といい争う余地がない
何故なら彼は他の教を これは特に優れたものだといって とり上げたりしないからである


 これもまたまた青天の霹靂です。もう、スッタ・ニパータは青天の霹靂だらけです。だって、私たちが「お釈迦様の教えに従って」とか、「お釈迦様に導かれて」とか言っているのに、お釈迦様は「私の教えに従いなさい」とは決して言わない。ましてや、仏教なんていう宗教をでっちあげて、他の宗教と比べて、これこそが最上の教えだなんてとりついていくことを、お釈迦様は嫌われる。いろんな教えを考察しても、参考にするだけ。いろいろな教えを学ぶのはいいけど、それに捉われてはいけないよ。自分の目で、ただ一つ真理だけをみていきなさい。とおっしゃるのですね。

908-14
『私は知る 私は見る これが本当である』
というような考え方で ある人々はそこに清らかさがあると信じているが
もし何かを見たとしても それがその人自身にとって一体何になるのだろう
彼等は本来居るべき処をゆき過ぎて 即ち他のものによって 
清らかさをいっているのに過ぎない


909-15
見る人は名と形を見るのであるが
それを見るときには 一応それらをそれとして知るのであろう
そして見ようと思うならどんなことでも それらをそれとして見るがよいだろう
しかし聡明な人は それらを見ることによって清らかになるなどとはいわない

 
 これ、難しいです。よくわからない。見たまま感じたままが真理だと言っても、対象をそちらにおいて、こちら側から「私が」見たり感じたりして、どうだこうだと言っているうちは、自分が真理の世界とひとつになって、清らかになったとは言えないということ? 
 すべてのものを対象におくのをやめて、その真理の世界に飛び込んで、すべてのものと一体となって、まさに真理として、直観したままに働くようになることを清らかになるというのかな。 
910-16
自分の立場を離れないで論ずる人は
自分で考え出したその考えを 立派なものと思っているので
その人に本当のことを悟らせるのは難しい
自分のとりついている処にだけ清らかさがあるというように
清らかさを論ずる人は そこにだけ本当のことがあると見ているからである


911-17
真に自在の城に達した人を その人はこういう人だと誰もいうことは出来ない
彼は自分の考え方などに捉われず 知識をもって廻りもしない
一般世俗のものの抱く意見もよく承知しているが
ひとはそれにとりついていても 彼はそんなものに目もくれない


912-18
静かな人は この世の中で色々のつながりに縛られることなく
人がいい争っても そのどちらへつくということもない
彼は不安にとりつかれた人々の間にありながら 
しかも安らかに 喜びも悲しみも届かぬ処にいて
人々が捉われるどんなことでも その一つすらとり上げようとはしない


 910はまさにこれを聞いている私たちに向けての言葉だと毎田先生は言われる。それほどお釈迦様の真意を体得するのは難しいのだと。だからこうしたことが重ね重ね語られると。
 そして、911では、無の自在の人であるお釈迦様のような人を、こういう人だなんて限定的に説明することはできないと言われる。そんなことしようとしても、みんな見当の狂ったことだと。だから親鸞聖人は「南無不可思議光如来」とおっしゃった。
 そして、一般世俗の意見もよくご存知でありながら、そんなただの束縛の見解でしかないものには目もくれない。世間的な立場に立って、いろいろな問題を、その一つさえも取り上げて、どうしよう、こうしよう、なんてことはお釈迦様もキリストもお考えにならなかった。
 しかも、その不安や苦悩の中で争う人々の中にいて、安らかに喜びも悲しみも届かないところで、ただ永遠の静けさそのものとなっていらっしゃるんだな。
 私たちはそのお姿をよく見て、そのお言葉によく耳をすまさなければですね。
 最後の二つのガーターでは、その静かなる人の姿が更に具体的に描かれる。

913-19
過去の煩いを捨てて新たにそれを作り出さず
欲望をかきたてず しつっこく論ずることもなく
聡明な人は 色々の物の見方に捉われない
そして世間からは汚されず われとわが身を責めることもない


 煩悩は煩悩に任せておけば、煩悩そのものが自分でなんとかするものなんだな。だからそんなことに戸惑ってないで真理に従って前進すればいい。欲望に捉われて世間の生活に入っていくと、逆に世間に捉われて自由を失う。そして自分の考えに捉われて、誰かとしつこく論ずることほど人間の愚かな姿はない。だから聡明な人は世間を相手にしないんだな。だいたい聡明な人はあっさりと、わかりやすく、簡単な一言で真実を語る。一見して物事の真相を見抜く。ああでもないこうでもないと、考えまわして理屈をこねない。わかっていない人に限って、難しいことをごたごたとしつこく論ずるんだそうです。
 そして、世間のことに口出ししない。世間のことは世間に任せる。無責任と言われようと、薄情と言われようと、「ああ、こんな問題が起きているのに、何もできない自分は情けないなあ。」なんて自分を責めたりもしない。
 でも毎田先生は言われる。不安にとりつかれてうろうろしている俗世間の人たちの間に、超絶界の自在の方がいらっしゃるということが、この上ない大慈悲だと。

914-20
静かな人は この世のどんなことでも
自分の見解や学問や思想を拠りどころとして それを見ない
彼の肩の荷はすっかりおろされて 自由に解放されている
そして時に流されることなく 快楽に耽らず 何も願い求めるものがない
            -とこのように世尊はいわれたー


 913と914はほとんど同じ内容。人間が限られた自分の知性を買いかぶって、無限の真理をわかったような気になっている、その無明を取り除かない限り、苦悩からは解放されない。静かな人は、自分の学説などをもとにして、「世間の苦悩の問題は、このようにして解決されなければならない。」なんて偉そうに言ったりしない。
 「肩の荷はすっかりおろされて」とは、前ガーターで解説された「無責任」のこと。「自由に解放されている」とは、遊戯三昧ということ。「時に流されることなく」とは、前ガーターの「世間からは汚されず」。「快楽に耽らず」は、前ガーターの「欲望をかきたてず」。「何も願い求めるものがない」とは、この世もあの世も当てにしないということ。それはただ永遠の今に生きること。今この瞬間に、自分の全生命を投げ出して、そこにある真理に身を任せて満たされること。そこに、静かな人の遊戯三昧の自在があると言われ、この経を結ばれました。


一四 速やかなことの経



独立と静けさに到るための、速やかな道について語られる。賢い人になるための近道だな。


915-1
「私は『太陽の親族』であられる偉大な聖者に 
独立への道と 静けさの境地とをお尋ねします
修行者は どのように物を見れば 
世間に少しも捉われず 情欲を離れることが出来るでしょうか」


 ここまで読んでくると、この「どのように物を見れば」という聞き方がひっかかるけど、毎田先生はそれは世間の人が尋ねるんだからやむを得ないとおっしゃる。それよりも、「独立と静けさに到る」こととして、「世間に捉われず、情欲を離れる」ということを尋ねているところが的確だと言われる。そして、お釈迦様は、真正面から最も大切なところを答えられる。これ、正に速やかな道ですね。

916-2
「『自分を聖者のように』考える一切の妄想の   と世尊はいわれた
その根本を絶ち切って 内にあるどんな情欲をも取除こうと
いつもはっきりと目醒めて学んでゆくがよい


 物を見るんじゃなくて、自分を見るんだよ。そこにある、自分を聖者のように考える一切の妄想の根本を絶ち切れと。そして、この妄想を絶ち切るには、自分がまさに「自分の考えで、真理をつかむことができる」と思い上がっている、つまり自分を聖者だと思っている、その自分の愚かさに気づく以外に道はない。そして、その愚かさが様々な情欲のもと。妄想故の情欲だ。そのことを、はっきりと自覚すること。それこそが学ぶことであり、思い上がりを捨てて頭が下がること。これが即救いとなる。もっとも速やかなことなんだな。

917-3
内界のことや外界のことについての 如何なる道理も それを知っているのはよいが
しかしそれを過信してはならない
何故ならそれが苦痛を鎮めるなどと 目醒めた人はいわないからである

918-4
それによって 自分を勝れているとも 劣っているとも また等しいとも 思わぬがよい
そして色々なことを人から問われても 自分がひとかどの者と思って相手に対せぬがよい


 お釈迦様の教えが、後世いろんな形で体系化されてまとめられてきた。まさにこのスッタ・ニパータもそのひとつ。
 でも、ここで指摘されるのは、そういうものを知っているのはいいけど、過信してはならないということ。今まさに私がしているように、そういう後世に残された教えを学んで、それに自分を当てはめて、他の人と比べて、「私の方がわかっている」とか、「あの人はこういうところはいいけど、こういうところはわかってないな」とか、判定を下すようなことを始めると、それはもう真理の道からはそれていくぞと警告なさる。
 親鸞聖人の言われる「この世にわろきものは我れ一人」ですね。比較なんかしているところに、懺悔もなければ救いもないと。
 そして、人から何か問われたとき、「私はこんなに知っているんだよ」なんて得意になって、自分の学んだことを見せびらかすように、偉そうにするんじゃないよということなんだな。「親鸞は弟子一人も持たず候」と同じ。まさにお釈迦様も「私が偉くてあなたはわかっていない人」とか、「私が教える人であなたは教わる人」とかいう対し方をされないんだな。同じ凡夫として、友として、その人の問の意味を理解しようとして、いっしょに真理に向き合おうとされたんだな。

919-5
修行者は 心の内が静かであればよい 外の世界に平和を求めてはならない
心の内の静けさを保つものにはー 
摑んでいるものがない どうして捨てねばならぬものがあろうか

920-6
海の内側には 波が起らず そこが不動であるようにー
修行者は欲情を離れて 外から動かされることなく
どこにいても思い上らぬようにするがよい」

 心の中の平和ということは、自分一人のこと。外の世界を平和にしようとすると、必ず自分がこうすれば平和になるという方向に、他人を動かさなくてはならない。懺悔が救いだ。懺悔できるのは自分一人だ。他人を懺悔させることはできない。その人が懺悔するかしないか、救いに到るか到らないか、それはその人に任せるしかない。私に他人の心の平和を実現することはできない。それができるのは真理だけだ。自分一人の心を平和にすることに専念すること。これは、世間の常識では自分勝手と思われるかもしれないけど、その他に世界を平和に向かわせる道はないんだな。そうすれば自然に真理は他人の平和の実現へと向かっていくということなんだな。
 なんてわかった気になった・・・と思ったら、おっとっと・・・これもとんでもない思い上がりだった。更に続く毎田先生の解説にはこう書かれている。外の世界はもうすでに平和な世界であり、この世で救われずにまだうろちょろしているのは、自分一人なんだと。他のすべての人は、もう救われていながら、その最後まで救われずにいるこの私一人のために、悪役や敵役となり、また味方役となり、様々な現象を見せてくれる、如来の化身なんだと。それに向かって私が救ってやろうなんて考えるとしたら、この上ない思い上がりだな。
 そしてそして、その救われた人の心の姿とは・・・?「摑んでいるものがない、どうして捨てねばならぬものがあろうか」これです! これこそ平和なんだな。「無」なんだな。これだというものがなにもない。これが私のものだ、見解だ、主張だ、立場だ、といってつかむものがなにもない。そのなにもなくなったところに、すべてが光となって現れる。そこは海の内側のような静かな世界。海の上でどんな波が起ころうと、それに揺るがされることのない平和な世界。そして、最後にまたダメ押しです。「どこにいても思い上がらぬようにするがよい」とは、謙虚になったかと思えば次の瞬間にはもう思い上がっている、このどうしようもない自分に気づいて、頭を叩いていなさいということですね。まるでもぐらたたきだ。一人もぐらたたきだ。まさに、他人のことを構っている暇なんてないんだな。

921-7
「明らかな眼を以てあなたが自ら証しせられた煩いを除く法を いまお聞きしました
尊き方よ 更に正しい行いについてお示し下さい
人の必ずせねばならぬことと 深く思わねばならぬこととは何でしょうか」


 「心の平和に到る法についてはこれまでのお話でよくわかりました。では、その心の平安を得た人はどんな行いをするのでしょう? そこからまたどんな信を得るのでしょう?」と言ってる。心の平和を得た人は、日々の行いによって、更に信を深めていく。
 毎田先生はここで、よくよくダメ押しをされる。「必ずせねばならぬこと、深く思わねばならぬこと」というのは、必然的に「せずにはおれないこと、思わずにはおれないこと」のことだと。
 私たちは、すぐに勘違いする。「こんなことばかりしていちゃだめだ」「もっとこうしなきゃいけないんだ」と。それを見抜いて指摘されるんですね。これは救いを得た人の当然の姿として読むべきで、「こうしなきゃ救われないんだ」なんて読み方をするんじゃないぞと。

922-8
「目に見えるものを貪り求めず つまらぬざれ言に耳を貸さず
美味なものを無闇に欲しがらず 世間の何事も愛好せぬがよい

 目に見えるものとは、物や人。それを見たがるということは、手に入れたがることだと言われる。それは世間につながれていくことだと。三衣一鉢のお釈迦様の生活は、まさに、その執着のもとになる物を持たない生活ですね。
 そして毎田先生のまた厳しいお言葉が続きます。つまらぬざれ言・・・これ、私たちの生活の多くを占める雑談のこと。この雑談する人のことを、自らの命を安っぽくし、軽んじ、自ら卑下している、生命の尊厳を忘れたへらへらした生がそこにあると言われる。自分の生命を軽んじ、他人の生命をも軽蔑していると。
 そして更に・・・恐れずに言ってしまいますよ。「美味なものを無闇に欲しがる」ことを、そんなことにしか興味をもたない、精神生活の極めて希薄な、荒涼たるその人の人生を曝露しているようなもんだと。
 きゃー! 怒らないで~! ここで言う「物の所有」「雑談」「美味」こういうものに執着しているところに救いはないって。これらを超えたところに、生命の尊厳と創造に生きる、自由な生活が得られるんだな。それはたとえ世間の人からは貧しい生活に見えても、とても充実した楽しい生活。逆に精神生活が充実していれば、物や雑談や美味には、それほど興味がなくなるんだな。

23-9
刺すような苦痛に会っても 修行者は決して泣き悲しまず
どうしても生きたいなどと命を貪らず 恐ろしいものに出会っても震えぬがよい


 刺すような苦痛というのは、精神的肉体的苦痛のこと。どんなけがや病気をしても、どんな悲惨で絶望的なことが起こっても、修行者は決して泣き悲しまないんだって。
 それは、ただ泣きたいのをがまんするとかいうことではなくて、起こってしまったことをそのまま受け入れて、その真理を素直にまっすぐに見つめるんだな。それは世間の人から見たら、薄情で冷たいと感じるかもしれないけど。
 そして、生きるも死ぬも真理に任せる。命をおびやかす恐ろしいものもみんな世間のこと。世を超えている人はそんなものに震えはしない。って・・・
 そんな人いるの? 例えばナイフを突きつけられても怯えないような人? ドラマや映画でしか見たことないな。

924-10
食べものや飲みものや 保存の出来る食物や衣服を受けても 
それを貯えるようなことをせず 又それが手に入らなくてもくよくよせぬがよい

925-11
修行者はどこ迄も深くものを考えて さまよい歩かず
悔いることを止め 時を無駄に過ごさず
騒音を離れたところに 坐る場所 臥せる場所を求めて そこに住むがよい

 すべては与えられるまま、与えられぬままにということなんだな。今手元にあるものは、たまたまあるだけ。いつどうなるかわからない。わたしの支配するものではない。与えられるものも、他人の手に渡ったものも、すべては真理にお任せ。
 今いる場所、生活する場所も同じ。どこへいっても同じなんだから、うろうろさまよい歩かず、世の騒音を離れて、今ここに与えられた場所で、今この時を最高度に生きればいいんだな。

926-12
眠りを貪ることなく 注意深く 生々と働き 不精と 偽善と 冗談と 娯楽と
性の関係と 上辺を飾ることとを止めるがよい

927-13
妖術と 夢占いと 人相を見ることと それから又星占いなどせず
鳥や獣の声を占ったり 子を授かる法や 医術を施すことをすき好んでせぬがよい


 眠れないことってよくある。寝なきゃ寝なきゃと思えば思うほど眠れなくて、ああ、もうこんな時間、明日に差し障る~って焦っちゃう。でも、毎田先生の解説によると、必要な睡眠は肉体がとる。どうしても眠たければ肉体そのものが眠ってしまうから、それは肉体に任せておけばいいんだって。
 そして、手を抜かず、工夫をこらして、心をつくして、生き生きと働くこと。正直で、雑談や笑いで自分をごまかしたり、我を忘れてうさばらしをしたりせず、赤裸々な生命と真実心のぶつかり合い、触れ合いだけを願うこと。

928-14
修行者は非難されても悩まず ほめられても思い上らず 利己心と一緒に 貪りと
怒りと蔭口をきくこととを払い去るがよい

929-15
修行者は売買に従わず 決して人を罵らず 又村里にいても不機嫌な様子をせず
(それかといって)利益を得ようとして人と余計な話をせぬがよい


930-16
修行者は傲慢な態度をとらず 又腹に一物あるようないい方をせず
押しの強さを身につけることなく 人と争うようないい方でものをいわぬがよい

931-17
嘘をつかぬようにし 狡猾(こうかつ)なことをしないように気をつけ
また生活についても叡智についても 徳行についても 他人を軽蔑せぬがよい


932-18
いらいらさせられるような多くの言葉を 
外の修行者や 色々と悪口をいう俗人から聞いても
荒々しい言葉で答えぬがよい 何故なら静かな人は仕返しなどしないからである

 現実の中で、人々のどんな姿、どんな生き方を見ても、決して軽蔑したりしない。そこに深い真理を見通そうと努めるだけ。そして、どんなときにも暴言を吐いたりしない。信心の人はどんなことも静かに眺めることができるんだな。
 これまで11のガーターで、信の人の姿が語られてきた。ここで毎田先生は注意される。信の人は必ずこういう人なんだけど、こういう人が必ず信の人とは限らないよと。うん、紛らわしいけどわかる気がする。
 例えば、心穏やかな人は、大声を上げて人を怒鳴りつけたりしないけど、大声を上げて人を怒鳴りつけない人が、必ずしも心穏やかな人ではないよ。みたいなことかな。

933-19
修行者は以上のことをよく理解して 微妙なことによく気付き いつも目醒めて学びながら
一切の煩いのなくなる処に『静けさ』のあることを知り
目醒めた人の教を聞いて 時を空しく過ごさぬがよい

934-20
その人は自らに打克って 他に打克たれることなく
ひとから聞いてではなく自ら証しして真理を見た人である
だからこそこの尊き師の教をあがめ 怠ることなく
それに従って学んでゆくがよい」  -と世尊はいわれたー


 以上の11ガーターをよくよく理解して、信の人は必ずこうであることを知りなさい。また、もしこの行の一つでも、自分にないことを発見したら、私には信がないんだと省みなさいということですね。厳しいです。どこかで、スッタ・ニパータは出家修行者に向けた教えだから、一般人には厳しいことが書かれていると読んだことがあるけど、確かにだな。
 そして、毎田先生は言われる。「時を空しく過ごさぬがよい。」これは教を聞いて信を得なさいということで、これこそが速やかな救済なんだと。学ぶこと以外に、どこにも救いも信もないと。自分の思い上がりに打ち克つために、他人と相対的に対立して、煩わされ、束縛され、捉われないようにするために、そして、他人から聞いた真理でなくて、自分で証して真理に出会えるように、お釈迦様の内省の光に照らされて、もっともっと学んでいきたい。


一五 杖をとりあげるものの教


杖を取り上げるっていうのは、杖を振り上げることなのかな? これは世間の悲惨の経。

935-1
「争う人々を見るがよい 杖をとりあげるから 恐怖が生じたのであるー
私は世間の悲惨を見て 強く心を動かされたが そのとき感じたままを 
これから話してみよう


 杖をとりあげるというのは、まず暴力のこと。戦争の悲惨を例に解説される。原水爆、ミサイルの開発、こうしたことを含めて、こんな愚かなことを行っていながら、それを悔い改めることもせず、いくら人間の栄光を讃えたところで無意味だと。
 そして、それは闘争と論争を象徴している。相手を自分に屈服させようとする支配欲の象徴だと。支配には反抗が予想される。逆に反撃によって支配され、自由を奪われる危険がある。つまり、支配欲には恐怖がつきものということ。杖をとる瞬間に自分もやられるかもしれないという恐怖が生じる。そしてこの恐怖が様々な悲惨を作り出す。杖をとりあげないものにはこの恐怖はない。
 自分の主観的で一方的な立場を真実として、人に押し付けようとする。この支配欲が恐怖の原因なのに、それを分析せずに、相手が杖をとりあげるから、自分を守るためにこちらも杖をとるのだと、単純に考えて、自分は悪くないと思っている。内省のない人は、恐ろしいから武器をとると思っている。これを毎田先生はいい子になって甘えている立場だと言われる。武器をとるから恐ろしくなるというのが、内省の言葉だと。杖をとるから恐怖が生じ、様々な悲惨なことが生じる。そして、ここからお釈迦様が見て心をいためてこられた、その現実が語られていく。

936-2
水の少い処ではねかえっている魚のような人を見
また互いに反目している人達を見て 私は恐ろしくなった


 これは辛辣です。前にも出てきたね。水のないところではねかえっている魚って。これ、本来いるべきところにいないから苦しいんだな。
 本来いるべきところは、魚にとっては水、人にとっては真実。そして、水は魚を生かす。真実は人を生かす。人が真実をわがものとして、支配し所有し固定することはできない。それなのに、自分の力でそれを支配し、動かせると、妄想して、真理から離れたところで夢中になっている。
 本来の呼吸をしていないから、息も絶え絶えだし、支配できるはずもない真理の世界を支配しようとするから、逆転して魚がひっくり返ってはねかえっているようだ。苦しい。苦しいよ~! 早く気づいて! しかも、そんなはねかえった魚が別のはねかえった魚とにらみあって争っている。なんて恐ろしい姿でしょう?! 

937-3
この世のどこを見ても 確かなことがなく どの方向もみな揺れ動いていた
私は自分の住み処を求めたが すでに何かが住み込んでいない処を見なかった

 一行目はまさに「諸行無常」ですね。人は、すべてが移り行く世界で、確かな拠りどころを求めてそれを固定(わがものと)しようとする。そして安心しようとする。そこに無常との矛盾・対立が起こる。これが苦悩だと解説される。
 固定そのものが苦悩なので、苦の住み込んでいない住処なんてどこにもない。例えば家庭というものも、すでに苦の住み込んでいる固定。だから、お釈迦様は家(固定=わがもの=苦)を捨てて、ひたすら真理無常を生きられたんだな。

938-4
そこには必ず行き詰まりがあり 人がそれにぶつかってどうにもならぬのを見て
私は不愉快になった
そうして一見しては解らない矢が 彼等の心中に刺さっているのを見た


 行き詰まりとは、自力の人が最後にぶつかる壁なんだな。想定外のことが起こって、支配しきれなくなって、それでもなんとかしようともがく。真理の壁(真理を認識しない人にとって真理は壁)にぶつかって、動けなくなる。
 真理をそのままに受け入れるしかないってことに気づかずに、嘆き苦しむ姿を見て、お釈迦様は不愉快になったと言われる。不愉快になるということは、しらんぷりできなくなっちゃったんだな。あまりの嘆かわしい姿に、なんとかその無知を払って救われることを願われたんだな。
 そして、一見しては解らない矢が心中にささっていると言われる。この矢が抜ければ真理が見えて、その無常を生きることができる。どこにもぶつからず、苦しまずにすむ。だけど、その矢がささっていることに気づいていないからやっかいなんだな。この矢を抜くには、自覚者の自覚の言葉を聞く以外にはないと解説される。

939-5
この矢の刺さった者は あらゆる方向に駆け廻るのであるが その矢を抜いてさえしまえば駆け廻ったり はては身動きならぬことにならなくてもよいのである

 ばちゃばちゃ騒ぎまわったり、「あれしなきゃ、これしなきゃ」と忙しがったりすることはこの世に何もないのである。だって。「忙しい」とか、「疲れる」とか、「暇がない」とかいうことの恥ずかしさを知りなさいだって。これ、またみんな怒っちゃうよ~。毎日「忙しい。」「暇がない」「疲れる」の連発だもん。その横でのん気な顔してぼーっとしてる人がいれば、白い目で見られちゃうもん。
 で、その忙しさのはては絶望だって。確かに、こんなに忙しく騒いで動きまわっているのに、思い通りになんてならない。
 ここで毎田先生は簡単に言われる。この絶望する人と、遊戯三昧の人のちがいは、ただ無常の真理を認識するかしないかだと。ただそれだけのことだと。学ぶべきは真理、知るべきは真理無常。人生のことはそこにすべて決まると。

940-6
世間では色々の学術を習うのであるが
そんなものによって世間へあれこれと縛りつけられるのではなく
抑々欲望というものが何であるかをよく知って 
自分というものがすっかりなくなることをこそ学ぶがよい

 毎田先生の解説がとても過激なんだけど、一部引用するなら、「世間を超脱する道など誰も教えてはくれない。大学教授というようなものは、学生をただ世間へいかにして縛りつけるかにのみ従事しているものである。」とある。なんとも反論できない私です。
 で、お釈迦様のすすめられる学びとは、自覚の道。まずは人間存在の本質である欲望が何であるかを知ること。その欲望としての人間をよく見ること。浅ましい自分の欲望の姿をよく知って、その自我をつぶして無我の真理の大海に解放されて、自在の人生を生きなさいとすすめられる。
 私はまた妄想する。学校で教えている学問というものを、全部止めて、子どもたちが自覚の道にいそしんだら、そんな教育になったら、世の中はどんな感じになるんだろう? 

941-7
静かな人は おだやかに 誠を尽くし 心豊かに ひとを謗らぬ人であり
怒りを離れ 貪りの禍いと利己心とをこえた人でなければならない


942-8
一切の煩いを除こうと思うなら 眠りと不精と 迂闊に時を過ごすこととに打克って
ふしだらな様子と思い上がった態度とを捨てるがよい

943-9
嘘をつかず 形あるものに執着せず
思い上がる心を隅々まで究めて 決して暴力を用いぬようにするがよい


 静かな人とはまさにこのような人なんだな。私はお釈迦様のお姿を思い浮かべてうっとりとする。いらいらしてくると、「ああ、だめだめ!」と一生懸命自分を落ち着けようとしたり、ぼけ~っとしてると、「あ、いけない! 勉強勉強!」とあわてて本を開いたり、すぐに思い上がる自分をいましめて、「よしよし、謙虚だ謙虚だ。」と、これまた思い上がる私の自力の姿とは、残念ながらかけはなれすぎている。こう言うそばから、「うん、偉い偉い。よく謙遜した。」と自己満足。もうここから抜け出せない・・・

944-10
古いものを楽しむことなく 新しいものを受け入れることなく
滅びゆくものを悲しむことなく 光あるものに愛著すべきでもない


 古いものにこそ価値があるかのように限定して、それだけを楽しむことをしないということかな。よく年寄りが「昔はよかった」というような・・・。
 そして、かといって、新しいものに珍しがってすぐにとびついたりもしない。数年前の流行りものを「もう、そんなの古い古い。今はこれだよ!」なんて時代の最先端を行くことに夢中になったりもしないんだな。
 永遠の今はすべてが瑞々しくて新鮮。古いものがいいとか、新しいものがいいとか、そういう固定はないんだな。そして滅びゆくものはそのままに。それにとりついて無理やり引き戻そうとするから悲しいのだと毎田先生は言われる。お釈迦様は自分の国が悪王によって滅ぼされるのも、冷然と見ていたそうです。
 最後に、光あるものに愛著しないと言われる。若々しく瑞々しく、これからの発展に期待できるものを取り上げて愛するのも、未来への執着だと言われる。
 とにかく、古かろうが、新しかろうが、滅びゆこうが、これから発展しようが、そんなことは眼中にない。ただ、今目の前にあるこの生を生きるだけなんだな。

945-11
私は欲望のことを『大きな流れ』といい 吸い込むものとも 飢餓ともいい
又土台とも 計らいとも 越え難い煩いの泥濘(ぬかるみ)ともいう


 無常の真理があらしめる、大きな流れである欲望は、個人的な立場で処理することなんてできない。親鸞聖人が「愛欲の広海に沈没し・・・」と言われたように、その大きな流れとしての欲望は、人の中にあるんじゃなくて、その流れの中に人があるんだと言われる。
 そして、また親鸞聖人が「名利の大山に迷惑し・・・」と言われた。迷い込んで我を忘れることが、欲望に「吸い込まれる」こと。
 「飢餓」というのは、欲望は何かでごまかしたり、まぎらしたりできるものではない、命にかかわるものだということ。
 「土台」とは、欲望は人間存在の基底としてぬくことができないものということ。
 「計らい」とは、欲望には引っかからないように注意してもしきれないわながあること。
 「越え難い煩いの泥濘」とは、まさに欲望はどうすることもできない泥沼。お釈迦様も、親鸞聖人も、この巨大な欲望の流れにご自分を投げ出され、懺悔されたのですね。

946-12
静かな人は真実を一歩も離れず 道に達した人はじめじめしない高い処に立っている
彼等はこの世の一切を抛(ほう?)っているが こういう人を平安な人というのである


 真理に従って生きる人は、もう煩悩のじめじめした泥沼から抜き出て、高い所に立っている。そして、もう世間をどうこうして、欲望を満たそうとはしない。世間を相手にしない。それも前のガーターの懺悔があってこそなんだな。この道に達した人のさわやかで平安な姿が次の二つのガーターで更に詳しく語られる。

947-13
こういう人が悟った人であり 最高の智慧に到った人である
彼は物事の道理を知って捉われず 世間にあっては正しい道をゆき 
そしてこの世の誰をも羨まない


 物事の道理を知って捉われずとは、さっき917のガーターで、「知っているのはよいが、過信してはならない」と注意されたこと。それを知っていなければ助からないというほどのことではないけど、悟った人というのは、そういう世間の道理も心得ていると言われる。
 そして、「世間にあっては正しい道をゆき」というのは、それが善だからということではなくて、それが世間に捉われずにすむ一番いい方法だからだと言われる。
 例えば切符を買わずに電車に乗ったり、信号無視をしたり、泥棒をしたりすれば、世間との間にいざこざが起こってめんどうなことになる。
 正しい道をいくことが救われる道だからじゃない。あえて逆らって世間に捉われるのがいやだから、世間の常識には従うというだけで、それで世間に認めてもらおうとか、そんなことは考えてもいない。また、世間で何か成功している人を見ても、うらやましがることもない。そこにはなんの関心ももたない。

948-14
この世の色々の欲望と 渡るに難い執著とをこえた人は
流れを絶ち切って 何にも束縛されず 悲しみも 心配もない


 悲しみも心配もないんだな。逆に悲しみや心配のある人は、平安な人でも、静かな人でも、悟った人でもないと言われる。自分のことも、家族のことも、友だちやまわりの人たち、国家、世界のことも、なにも悲しんだり心配したりしない。
 世間では、例えば人のことを、「あれじゃあ困ったものだ。なんとかしてあげなきゃ。」とか、悲しんだり心配したりするのは立派なことだと思われるけど、ここではそれはくだらないこと、恥ずかしいことだと指摘される。どうしてかというと、この世のすべては、真理がなさることで、それに任せておけばいいことだから。
 真理と一体となって、永遠の今を生きている人は、世間を超えている。世間からは、冷たい人と思われるかもしれないけど、智慧の人の無碍自在の姿こそは、世間的な同情とか、嘆きとか、心配とか、そんな自分の都合でしているちっぽけなエゴとは比べものにならないような、大きな慈悲の光なんだな。

949-15
あなたが若し過去のことは涸らし尽くし 未来にはあなたにとって何もないようにし
そして現在のことを摑まないなら あなたは静かな生活をすることになるだろう


 過去にどんな功績をあげようが、それをいつまでもつかんで当てにしない。逆に過去にどんな失敗をしようが、それをいつまでも悔やんで引きずったりもしない。未来を当てにして、絶対にこうなりたいとか、こんなことをしたいとか、望みをかけない。逆に未来にこんなことが起こったらどうしようなどと、恐れもしない。そして、永遠の今をつかむという頑張りさえもない。あるのは時を超えた永遠だけ。真理の認識者は、過去にも現在にも未来にも関わらない。そこに静かな生活がある。
 う~ん、いくら学んでも、この「永遠」とか「無」っていうのが実はよくわからなくなっちゃうんだな。私・・・

950-16
名と形あるものを すべてわがものとするのを止め
何かがないといって 悲しむことのない人ー
こういう人は世間にあって 老いることなき人である


 毎田先生の解説から、私が黄色い蛍光ペンで線を引いてあるところを引用します。「古きもののなにもこびりついていない人、過去の殻がどんどん剥ぎ去られて、新鮮な今に、永遠の今に、何の先入見もなくして生きる人、これを老いることなき創造の人という。何も持ち物のない人である。」これが「無」ってことなんだな。
 日々新しく生まれ変わっていく。何度でもやり直せる。お釈迦様のように80歳になっても、親鸞聖人のように90歳になっても・・・

951-17
『これはわがものである』とか『これはひとのものである』とかいうことのなくなった人には わがものという考えが少しもないので 『私にない』といって悲しむことがない


 ここの解説でまた、仏教とキリスト教が出てきます。
 お釈迦様にとっても、キリストにとっても、ただただあったのは大宇宙の真理だけ。どちらも宇宙の真理の使徒であるだけ。
 それなのに、私たちは仏教だ、キリスト教だと固定して、比べたりする。歴史上でも、宗教をめぐってさまざまな争いが起こった。こんなことがいかに愚かなことかと。同じく真理の使徒であるお釈迦様とキリストが争うわけがない。こんな後世の人々の姿を見たら、お二人はどう思われるんだろう。
 真理はいろんな形としてこの世界に現れくる。それは誰のものでもない。誰のものでもないんだから、「私にない」なんて悲しみようもない。ただただこの世界の真理を仰ぎ、眺め、楽しむだけ。

952-18
その人は思い上がりも貪りも持たず 情欲を離れて 万物に対して平等であるー
とこのように 不動の人のことを 私はほめたたえていうのである

 思い上がり→自分に対する偏愛、貪り→一方的・一面的な誇張された欲望、情欲→ものに対する感情的・欲望的な執着・・・と解説される。
 そして、万物というのは、平凡なもの、卑俗なもの、低級なもの、汚らわしいもの、不潔なもの、害悪を与えるもの、危険なもの、暴力的なもの、醜悪なもの・・・そして、蛇も、みみずも、もぐらも、さそりも、蛙も、豚も、政治家も、帝王も、経済人も、のみも、しらみも、・・・この世のすべて。
 そのどんなものにも、真理を見出して、これを尊ぶ人が不動の人なんですね。
 そして私は、洗濯物についてくるカメムシを、前はたたきつぶしていたけど、今日はティッシュにそっとくるんで外に逃がしてみました。

953-19
情欲を離れて 智慧の目の開けたひとには 何かをしようとすることが全くない
彼は何かを得ようとつとめたりなどせず 到る処に平安を見出している


 不動の人は無為自然の人。自分の力で何かを成し遂げようとはしない。どこへ行って何をみても、もうすでに真理によって成し遂げられている目の前の世界に、平安を見出される。

954-20
静かな人は 自分を等しいものの仲間であるとも 劣ったもの あるいは勝れたものの仲間であるともいわない
そうして安らかに 利己心を離れて 取ることもなければ また捨てることもない」
                 -と世尊はいわれたー


 静かな人は、自分を取り上げることがないから、他人と比べようもないんだな。思い上がりも利己心もないから、何かを自分のものにしようとすることもないし、摑んでいるものがないから、捨てるものもない。それが安らかなことなんですね。
 杖をとりあげるものの経は、徹底的にあらゆる捉われを払い去って、「無」へ解放される経なんだな。

一六 サーリプッタの経


サーリプッタというのは、お釈迦様のお弟子さんとして、よくいろんなお話に出てくる、智慧第一の舎利弗さんのことらしい。お釈迦様が校長先生とすると、サーリプッタは校長先生の都合が悪いとき、代わりにお話しをする教頭先生みたいなものかな。

955-1
「私の今までに 見たことも   と尊者サーリプッタはいった
また誰からも聞いたこともないことでありますー
かくも美しい言葉で話される師が遂に トゥシタ天からこの地上へ
多くのものに教えようとおいでになりました


 まさに教頭先生が校長先生をお迎えする喜びの言葉ですね。うそやごまかしのない真実そのものを、こんなに的確に、わかりやすく、具体的に、感受性豊かに、どんなおバカさんにもスーッと入るように、しかも実に美しい言葉で話される校長先生は、見たことも聞いたこともないと。そんな校長先生のお言葉を聞けることに期待大ですね。

956-2
神々と世の人々とがじっと見ているその前で 『眼ある方』は
一切の暗黒を除き去り ただ一人深い喜びを享受せられました


 お釈迦様は6年間の苦行のあと、やせ細って骨と皮だけになったけど、スジャータという娘さんにミルクがゆをいただき、体力を回復した。そのあと菩提樹の下にすわって冥想し、悟りを開いたとどこかで読んだ。
 そのとき、お釈迦様はしばらく自分一人でその悟りを楽しまれた。そのあと人々にそれを伝えようかどうしようか迷った。そんなことしてもどうせ人々にはわからない。無駄なことだと思ったんだな。
 これは、お釈迦様のほんの一部だけど、とにかく経験の豊かさがはんぱない、すごい校長先生なのです。

957-3
自由な明るいお心のそのままに 多くのものに教えようとしておいで下さった
『目覚めた方』のもとへ私がまいりましたのは
ここにいる多くの未だ束縛を離れ切れないでいるもののために
お尋ねしようと思ってであります


 教頭先生は、多くの悩める人たちを連れて、このすばらしい校長先生のもとに、救いを求めてやってきたんだな。

958-4
世を厭うて修行する者が 人里離れた坐る場所や 木の根もとや墓場や 山々の洞窟や

959-5
高いまたは低い臥せる場所に 親しみ住んでいる時
そこにはどんなに多くの怖ろしいことがあるでしょう
しかし修行する者は その物音のしない処に坐り又臥しながら 
それに怖れおののいてはならぬと思います


 これはどうも普通じゃない。普通に学ぶ人たちではない。世間を離れている。世間にいては本当のことが学べないと、世間を出て来ちゃった人たちだ。世間を離れるということは、世間から見放されることを覚悟の上。だから、設備の整ったところで学ぶのとは違う厳しさがある。青空教室だ。何が起こるかわからない。でもこの道を選んだ以上は、恐れちゃダメってことだね。

960-6
不死の世界へゆこうとするものにとって この世にどれ程の危難があるでしょうか
修行者は 人里離れたところに坐り臥しながら それに打克たねばならぬのでありますが


961-7
もののいい方はどのように心すべきでありましょうか
又ここでどれ丈のことをなすべきでありましょうか
固い決心をしている修行者の守らねばならぬことは どういうことでしょうか


962-8
心を集中して目醒めている賢い人は どういう智慧を体得して
あたかも鍛冶屋が銀の垢を吹き去るように 自分の汚れを除くのでありましょうか」


 いっきにたくさんの質問が来たな~。でも最後の質問、どうやって自分の汚れを除くのか? これが窮極の問いなんだな。

963-9
「世を厭うて 人里離れた坐る場所や臥せる場所にいて最高の智慧を求めるものが
                       サーリプッタよ と世尊はいわれた
どのようなことを楽しみ また 如何に真理のままに生活してゆくかを
私の知り得たままに あなたに話してあげよう


 きましたよ! きましたよ! いよいよ念願の校長先生のおことばが! もう、まさにまさに・・・という感じですね。「私の知り得たままに あなたに話してあげよう」もうこの言い方ににじみ出ている。静かにやさしくあたたかく胸に響くお釈迦様の声に、もう、みんなの目がキラキラして、うんうん、って身をのり出していくようすが目に浮かんじゃう。

964-10
いつも目醒めて 心をひきしめている聡明な修行者は
五つの恐れを しかも恐れてはならないー
即ち 虻と 蚊と 爬虫類と 人間への接触と 四足獣とである

 世間を離れてきた修行者にとって、一番恐るべきは人間。だからこそ、ここではあえて、虻、蚊、爬虫類に加えて、人間への接触を恐れてはならないと言われるんだな。ただ世間の人を避けて逃げているだけでは、かえって世間に捉われることになる。本当に世間を離れたことにはならない。だから、他の生物と同じように、人間にも慈悲の心で接しなさいと。

965-11
異教を奉ずるものをも恐れてはならない
たとえ彼等に幾多の恐るべきもののあるのを見てもー
そして又善いことを求めて止まぬものは その他の危難にも打克ってゆかねばならない


 お釈迦様はご自分の体験をもって語られる。そして、豊かな経験から、これから起こり得る危難をも想像される。すごい説得力だ。
 毎田先生の解説にある、異教を奉ずる者の例も具体的で盛だくさん。例えば・・・狂言者、迷信者、軍国主義者、やくざ、暴力主義者、また、後世、仏教寺院や経典を焼き払い、僧徒を追放し迫害したマホメット教徒、法然、親鸞の流刑やキリストの処刑など、政治的に国家第一主義をとって宗教を弾圧するもの、キリスト教の名において起こった十字軍などなど・・・ああ、私は本当に歴史に疎いので、よくわかりませんが・・・とにかく、お釈迦様はどんな異教を奉じる人たちとも恐れず接して来られたんだな。真理の道へまっしぐらの人は、どんな危難も恐れず、いつも慈悲の心で接していかれるんだな。でも、私はとりあえず、暴力団ややくざや、怖い人からは逃げちゃうよ。

966-12
病気に罹り飢えに襲われても 
又寒さやひどい暑さにあっても それを堪え忍ばねばならない
ー 殊に家を離れて修行するものにそういうことが多いのであるが
自らを励まし 勇気をもって しっかりと自分の道を行かねばならない


 出家修行者にとって、病気と飢えと寒さと暑さ、この四つが問題だったんだな。この四つに堪えられない人は、結局「や~めた!」って言って世間に引き戻されちゃう。逆に、修行に出ようと思っても、「病気になったらどうしよう」「食べる物に恵まれなかったらどうしよう」なんて考えだしたら決心がつかない。それで「やっぱりやめとこう」となる。その程度なら、真理への道を行くのは諦めなさいってことなんだな。そんな決心できる人めったにいそうもない。やっぱりお釈迦様はすごい。強い意志でこれらを超えられたんですね。

967-13
盗むことなく 嘘をつかず 
弱いものにも強いものにも ひとしく慈愛をもって接するがよい
心の乱れに気付いたら 『暗黒の部分』が働くのだと それを取払うがよい


 盗むことなくとは、ただ与えられるものによって生きること。
 うそをつかずとは、自分をごまかしたり、人をだましたりせず、例えば欲しい物や、頼みたいことがあるなら、率直に言うこと、そして、相手がこたえてくれようとくれまいと、それは相手の自由意志に任せること。
 心の乱れに気づくとは、弱気になったり、わがままになったり、投げやりになったり、卑怯なことを考え出したり、感情的になったり、そんな自分に気づくこと。そして、それは「暗黒の部分」つまり煩悩が原因。この煩悩を起こしている自分の、もう一つ奥にある、無常の真理としての本当の声に耳をすませて、「ああ、本当の私はこれだ。」「本当の願いはこっちだ。」と気づくこと。そうすればこの暗黒の部分は取り払われる。

968-14
怒りと思い上がりとの力に屈せず それらの根を掘りつくして 立たねばならない
そして又好き嫌いをいうことを すっきりとあなたは克服せねばならぬ


 自分が思い上がっていることに気づかないのが無知。思い上がっているからこそ、思うようにならないことに怒る。思い上がりに気づけば怒る必要はなくなる。そこに自在を得て立つことができる。
 こうして自在を得て立ち上がった人にとって、すべての人は真理として仰ぐ存在となる。例えどんな悪も、醜いものも、怒りの対象どころか、いとしく抱きしめるものとなる。そこには、好き嫌いをいう余地なんてなくなるんだな。

969-15
智慧を尊び 善行を楽しみ 以上に述べた危難に打克ち
人里離れた臥せる場所の不快に堪えて 次にいう四つの悲しみをこえねばならないー

970-16
『私は何を食べようか』『私はどこで食べようか』
『私は昨夜よく眠れなかった』『私は今日どこで寝ようか』というー
この四つの悲しみをさそい出す考えを 家を捨てて道を修める人は払い去らねばならぬ


 あ~、いいですね~。毎田先生の解説がこれまたいいのです。毒舌極まってああ、どうしよう? と思ってしまうときもあったけど、最後にきて胸にじ~んときた。あったかいな。
 まず「善行を楽しみ」という言葉。なんという豊かでゆったりとした生活であることかと言われる。私から見れば、出家の修行者なんて、家を出て様々な恐ろしいものに脅かされながらの厳しい生活。それなのに、そこで善行を楽しまれるとは! これこそが救われた人の生活なんだな。
 毎田先生は例を語られる。例えば、源左という人が、自分の畑の麦に肥料をやろうと思って出かけたら、途中で他の人の畑の麦が肥料に飢えているのを見つけた。そしてそこに肥料をやってしまったというお話。ここには「ひとつ善いことをしてやろう」なんて意識はない。思わすやってしまったんだな。こういうのを善行を楽しむというんだな。
 そして、二つ目のガーターでは、この具体性に感激する。毎田先生も、「釈尊の御心がひしひしと親しく身に迫ってくるのを覚える」と書かれている。「私は何を食べようか」「私はどこで食べようか」「私は昨夜よく眠れなかった」「私は今日どこで寝ようか」これですよ! まさに経験からくるこの語り。
 サーリプッタの経は、まるでやさしいおじいちゃんが孫を諭すようだと。私たちが現実の生活に疲れて、困惑して、どうしたらいいかわからなくなったとき、この経にふれることで、どんなに慰められ勇気づけられることか。真理とは具体的なもの。慈悲も具体的なもの。具体的でなければ真理とも慈悲とも言えないんだと。

971-17
ほどよい時に食物と衣服とを得たら それで充分に満足し その量に足ることを知って
それに向う心を引緊め 慎み深く村を行き
辱かしめられても荒々しく言葉を返してはならない


 私はこれを読んだら泣いちゃう。涙が出ちゃう。なんでかな? 糞掃衣を身にまとって、鉄鉢を衣に巻いて、乞食をしながら、慎み深く村を行かれるお姿。そこになんにも知らない世間の人たちが罵声を浴びせる。
「やい! 乞食!」「なんでそんなみすぼらしいかっこうなんだ?!」「お前はなんで自分で働かずに、乞食なんてしてるんだ?!」「お前になんかやるもんはないぞ!」「きたならしいな! あっちへ行け!」
 いや、そこまで言われたかどうかはわからないけど。でも、どんな罵声を浴びせられても、決して荒々しく言葉を返したりせず、じっと信じる道を行かれたんですね。どうして、そこまでされて・・・と思うと私は涙が出てきてしまう。立派な校長先生ともあろう方にも、こんな経験があるなんて・・・

972-18
眼を下にじっと向けて うろうろと歩き廻らず 
深い思いの中にあって 何事にもよく気付き
心の静けさを保って 喜びも悲しみも届かぬ処へゆきつかねばならない

そして疑いの起る余地をなくして 後悔の念を絶ち切らねばならない

 もう世間に捉われることのなくなった人は、どこかにおもしろいものはないかと、きょろきょろうろうろ歩き廻らない。自分の心の中に汚れや迷いがないか、そこにこそ眼を向けているんだな。
 心が静かだから、いろいろな繊細で微妙な動きも響きも敏感に感じとることができる。世間のいろいろなことに振り回されて、喜んだり悲しんだりすることもない。そこを超えている。
 いつも新しい今に目醒めて刻々と生まれ変わっていく真理の人に、何かを疑ったり、後悔したりして、それに捉われてぐずぐずしている暇はないんだな。

973-19
人から非難されたら 
その言葉を深く考えて(よくこそいってくれたと)喜びを感ぜねばならぬ
共に道に勤(いそ)しむ者に対しては 心を明るく開いて接し
その時はふさわしいよい言葉を用い 
無駄話に過ぎないことは思うことすらないようにするがよい


 うふふ、久しぶりに出ました。毎田先生の辛辣なお言葉。「人間というこのケチな存在は、他人の欠陥・短所ならば、徹底的によく解るようにできているのである。」だって。だから、他人の非難・批評・悪口・批判はよく聞けと。まさに他人の目は如来の目だと。そうだよなー。
 でも私、人に非難されそうになると逃げちゃう。それとか話題変えちゃう。あと、言われる前に自分で「私ってこういうとこだめだよね~うん、わかってるわかってる。」てな感じのアピールをしちゃう。人に何か言われて傷つくのがこわいんだな。全然だめじゃん! きっとだから、自分の過ちには気づかないことが多いんだろうな。でも、ほとんどの人は直接悪口を言ってくれることなんかない。たまに正直に言ってくれる人がいると、私にそんなひどいことを言う人はこの人だけだ。なんて思っちゃう。この人が特別に意地悪なだけだと。本当はみんなを代表してみんなが言いにくいことを、その人は言ってくれてるかもしれないのに。
 だから、その非難の言葉を深く考えて、「よくぞ言ってくれました!」と喜びなさいと。これは真理にぶつかる喜びなんだと言われるんだな。
 そして、いつも率直に真実の言葉で話しなさいと言われる。考えるとうそになるよと。感じたままだよと。でもこれ、いつかも書いたけど、「ハゲハゲ! ハゲてるからハゲって言ったんだ! なんか文句あるか?」みたいなことじゃないんだな。「その時にふさわしいよい言葉」と言われる。真実の人の真実の言葉は、きっと聞く人をぐいぐい引き込んで納得させちゃうんだろうな。無駄話に過ぎないようなうすっぺらい会話は人生の無駄づかい。相手も自分も蔑(ないがし)ろにする。そんなことは思うのもやめなさいと言われる。人のご機嫌とろうとしたり、間をもたせようとくだらない話をしちゃったりしてばかりの私は、心得ようと思います。

974-20
又更に世の中には五つの汚れがある
深くものを考える人は それを除くことを学ばねばならないー
即ち形と声とそして又味と
香りと触れることであって それらのものに向う貪りを捨てねばならない


975-21
思いも深く よく心の自由を得た修行者は これらの五つのものに対する強い欲求を離れ
時を外さず 物事を正しく考え抜き 心を集中して暗黒を払い去ってゆくに違いない」
                 -と世尊はいわれたー


 まず、形、声、味、香り、触れるもの、これら五つのものに人は快感を求める。これらは何かを(人を)対象にして得るものだから、すべて思い通りになんてならない。思い通りに得ることができたとしても、更にもっともっととなるから、きりがないし、いつ失うかと恐れる。だからこの欲望によって苦しみが生じることになる。真理を知らない人は、これらがすべてだと思って、そこに喜びを求めて世間に執着していく。
 でも、真理を知った人は、これら五つのものを超えたところに、それ以上の喜びがあることを知る。そしていつも、今目の前の真理に、時を外さず即座に従っていく。どんなことも、真理の法則に従って、それがいかになるべくしてなっているかということを、正しく考え抜いていく。そこに心を集中していくことで、五つのものに対する貪りを超えることができる。
 あ~校長先生、いや、お釈迦様、最後力強く結ばれました。みんな勇気をもらったな。励まされたな。「ほんとかな?」なんて半信半疑で聞いている人なんていないんだろうな。だってまさに目の前に、ここに語られたすべてを経験され、身をもって証明されるお釈迦様がいらっしゃるんだから。


終わりに・・・


 毎田先生のご著書に出会ってから、私にとって読書というものが、単に情報を集めたり、知識を得たり、娯楽として楽しんだり、文化に触れて高尚な気持ちになったり・・・というレベルのものではなくなった。それはかけがえのない人に出会うということ。毎日その人に会うのが楽しみだから、私は同じ本を何度も何度も開く。同じことばを何度も何度も聞く。いつでもどこでも。そしてそれが生きる力になる。
 しかし「法に依って人に依らざれ」という教えがある。法っていうのは、水が去ると書いて無常の「真理」のことだと教わった。従うべきは人ではなくて真理。
 そして、神様、仏様、阿弥陀様、如来、いろんな言い方があるけど、みんな真理なんだな。真理は無常。大海のようなもの。一つにつながっている。みんなでひとつの真理に従っていけば、誰とも争わなくてすむんだな。
 私は、今回のこの毎田先生の「釈尊にまのあたり」全4巻を学んでみて、お釈迦様のものすごいパワーを感じた。それだけに、世の中を支配したい人にとっては、大きな敵にもなりうるし、逆に都合よく取り入れることで、大きな支配力を得ることもできてしまう。
 でも、お釈迦様の願いにかえるなら、このパワーは、ただ一人自分の心の平和を得るために働くもの。それが世界の平和につながっていくもの。
 きっと、この世界に、数多くの生きたお釈迦様がいるんだと思う。そういう人は謙虚で控えめで、何も主張しない。偉そうな顔をして、人を批判したりもしない。だから見つけるのは難しいんだと思う。でもいっしょにいると、きっと大きな光に包まれたように、和やかになれるに違いない。私はもっともっとそんな人に出会いたい。もっともっと真実のことばを聞きたい。
 そして、最後に祈ります。この真理のパワーが、どうかどうか、人々の平和に向かって働いていきますように。
                             二〇一七.一一・六
                     





だれかに紹介したいわたしのバイブル ④

2017年12月17日 発行 初版

著  者:ポチ
発  行:ポチ出版

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