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もしも今ここに聖徳太子がいたら

ポチ

ポチ出版



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もしも今ここに聖徳太子がいたら・・・①


~毎田周一全集より 十七条憲法第十条の解を読んで~


はじめに・・・


 聖徳太子という名前は知っていたけど、こんなすてきな教えを残してくださった方とは知らなかった。毎田周一先生の解説で、十七条の憲法を読み込んでいくうちに、自分の目がどんどん輝き始めて夢中になっていくのがわかって、自分でもうれしくなってしまった。そして「もしも今ここに聖徳太子がいたら・・・」という妄想が始まった。きっとこんなふうに私に語ってくれるんじゃないかな?・・・と。それでは、妄想スタート! 

      
<聖徳太子 十七条憲法 第十条>
 第一句 絶忿棄瞋 不怒人違
 第二句 人皆有心 心各有執
 第三句 彼是則我非 我是則彼非
 第四句 我必非聖 彼必非愚 共是凡夫
 第五句 是非之理 詎能可定
 第六句 相共賢愚 如鐶無端
 第七句 是以彼人雖瞋 還恐我失
 第八句 我独雖得 従衆同挙
 

第一句 絶忿棄瞋 不怒人違


こころのいかりを絶ち おもえりのいかりを棄てて、人の違うを怒らざれ。

 怒っているのは苦しくないですか? この苦しみから解放されたくないですか? 怒りから解放されたら、心はもっともっと自由にのびのびすると思いませんか? 
これは、怒りをおさえてがまんしなさいということとは違いますよ。その不快な怒りをそのまま放置せずに、ちゃんと向き合ってみようということです。
 そもそも怒りの原因はなんですか? 世の中が、人が、自分の思うようにならない。どいつもこいつもなっちゃいない。こっちの気もちを、全然わかっちゃいない。自分勝手なことばかり言っているんじゃないよ。そんなところですか? 人は自分と違う。違う世界をもっている。その自分の世界に他人をあてはめようとしたら、ずれが出てくる。それって当たり前のことですね。 人はそれぞれだ。自分とは違う。だから本当は違うからといって怒ってもしかたない。なんとか自分の世界にあてはめようなんていう努力はほとんどムダだ。人のことはその人に任せておくしかない。だから、人はそれぞれ違うということをちゃんと認めましょう。
 学校のクラスにだって、のびたくんや、しずかちゃんや、ジャイアンや、スネ夫や、できすぎくん・・・いろんな子がいるからにぎやかでしょう? ジャイアンやのびたくんを、できすぎくんにしようったって無理でしょう? それに、たとえばクラスのみんなができすぎくんだったら、先生はらくちんかもしれないけど、それじゃあ気持ち悪いと思いませんか? それぞれが個性的で、思う存分にふるまってこそおもしろいでしょう? みんながコソコソキョロキョロまわりのようすばかり気にして自分を出さなかったら、世界は生き生きしないと思いませんか? 
 あ、でもね。さっきも言ったけど、これは怒っちゃいけません! ってことではないですからね。正直で一生懸命な人ほど、よく怒るんですよ。むしろ、なにを言われても怒らないのは要注意。投げ出しているか? 不正直か・・・? なにかこんたんがあるか?「私はこんなに心が広いんだ~」とか「怒らないから、嫌いにならないでね~」とかいうアピールかもね。誰かのことではありませんよ。思い当たるでしょう? 図星でしょう? ふふふ・・・


第二句 人皆有心 心各有執


人皆心あり、心おのおの執ることあり。

 人にはみんなそれぞれ心がある。その心は人によって感じ方や表現のしかたが違う。
 たとえばりんごを皮をむかずにまるごとかじる。甘いという人もいれば、すっぱいという人もいる。このかじるときの音が好きという人もいれば、この感触が苦手という人もいる。皮が歯にはさまって食べにくいとか、歯が痛いから無理! という人もいる。そして、りんごはちゃんと皮をむいて、一口サイズに切って、色が変わらないように塩水につけて食べるべきと思っている人もいれば、丸かじりが最高! と思っている人もいる。それぞれのこだわりがある。
 人は自分の思っていることが正しいと思って、他の人もみんなそうすればいいのに、とどこかで思っている。これは妄想なんですけどね。そう思っている人と人はどうしても対立してしまう。違う考えの人同士がどっちも「自分が正しい!」と譲らなかったらけんかになる。そして、けんかに勝とうとしてますます自分のこだわりを主張する。
 そのこだわりを捨てちゃって、全部任せちゃえば楽なんだけどね。お好きにどうぞ。とか、お任せします。とか。



第三句 彼是則我非 我是則彼非


かれ是んずればすなわちわれは非んず、われ是みすればすなわちかれは非んず

 りんごを一口サイズに切って、塩水につけて食べるお上品派にとっては、丸ごとかじるワイルド派は野蛮人。逆にワイルド派にとっては、お上品派の食べ方では「食った気がしねえ!」となるでしょう。自分が絶対正しいと思う人は、人にもそれを押し付けて、従わせようとしてしまう。
 でも人はなかなか自分の思い通りにはならない。またはなっているとしたら、たまたま気が合ってなっているか、ごきげんをとるためとか、怒らせると大変だからとか、そんな理由でしぶしぶ従っているふりをしているだけ。
 こんなふうに人間の社会はいつも人と人とが対立して、不平不満や怒りを心の中にかかえて、なんだかぷりぷりして、神経すり減らして生きている人がいっぱいいるんです。まわりを見ても、不機嫌な人、文句ばかり言っている人、怒ってばかりいる人がいるでしょう? 
 そして忘れちゃいけないのが、自分もそのうちのひとりということ。


第四句 我必非聖 彼必非愚 共是凡夫耳


われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫ならくのみ。

 私が絶対正しい! あの人は間違ってる! っていう妄想におちいるのが人間というものなんだけど、本当はそんなことは言えない。自分が絶対正しいとはかぎらないし、相手が間違っているともかぎらない。みんなが自分だけが正しい! 相手がまちがっている! と言いはっていると、いつまでたってもその言い争いは終わりません。堂々巡りです。いたちごっこです。
 でも、本当は自分が正しいと思い上がっている私によって、否定されている相手にだって、彼なりの真実はあるんです。そんな彼をバカにすることは、「私はなんにもわかっていないおバカさんです。」と告白しているみたいなものです。私に真実があるように、彼にも真実がある。そして、そんなことがわからずに言い争いをしている私も彼も、どっちもおバカさんでもある。それぞれにともに真実の表現をしている同じ人間。お互い欲望や迷いを捨てきれずに生きている凡夫としての人間なんですよ。どっちがえらくてどっちがばかでもない。そんなことは比べようもない。共に凡夫なんです。このことがわかることがとっても大切なことなんです。
 聖と呼ばれる人は、自分が凡夫であるということを自覚した人。自分の考えなんて世界から見たらほんのちっぽけなことで、ほとんどわかっていない。だから偉そうなことなんて言えるわけがない。自分以外の人は自分の知らないことを知っている。だからもっともっと耳を傾けてみんなの声を聞くべき。つまり、自分は本当はなんにもわかっていないということを知った人なんです。だから、凡夫というのはつまらない人ではないんです。
 このことを知ることで、みんなと一つになれる。人と対立する必要がなくなるんです。つまり、今のなんにもわかっていない自分のままをさらけ出して、自由に、天真爛漫に、ありのままに、精一杯、のびのび生きることができるようになるんです。この教えは本当にすばらしいと思いませんか?! 


第五句 是非之理 詎能可定

 
是く非しきの理、たれかよく定むべき。

 そもそも「これが正しい」なんて誰が決めることができるのですか? 正しいと思うことは人によってもちがうし、時代によってもちがうし、国や地域によってもちがう。つかみようのないことです。
 たとえば「あの人の言っていることはおかしい。」と思っても、なぜ彼はそんなおかしなことを言うのか知っていますか? 彼の今に至る育った環境や、抱えている悩みや、背負っている苦労や、望んでやまない希望や、だれのどんなことばに傷つき、なにをたよりに生きているのか、もっと言えば、どんな遺伝子をもっていてどんな脳の構造をしているか、そのすべてを知りつくしているのですか? そんなことはありえない。なにもほとんど知らないのです。考えれば考えるほど、知れば知るほど、自分の無知さは海のように広がるばかりなんです。
 人生何十年生きて、どんなに勉強してきたって、私たちの知っていることなんて、世界から見たら、ほんの自分の身のまわりのわずかなせまい範囲のことでしかないんです。そのわずかにつかんだことをかかげて、偉そうに「これが正しい!」なんて言えることはないんです。そんなことはこっけいなことです。お手上げです、なにもわかりませんと、両手をあげたまま、生かされるままに、そこはかとなく、ひょうひょうと生きていくしかないんです。
 つまり、はっきり言えることは、私たちはなんにもわかっていない・・・さっき言った、「みんなともに凡夫だ」ということだけです。


第六句 相共賢愚 如鐶無端


あひともに賢く愚かなること、鐶の端なきがごとし。

 あの人より私の方が賢いと思う。でもよく考えたら、あの人(私以外のすべての人)は、たとえば私の知らない苦労を知っている。私の知らない喜びも知っている。だから本当はほとんどわかっていないまま、「私の方が賢い。」と思い込んでいるだけ。そう考えたら、「賢い」と思っている人は実は「愚か」ということになる。
 また、バカな人がバカなことをやっている。みんなに「あいつはバカだな。」とバカにされる。本人も自分はバカだと思っている。でも、これってむしろ真実に近いと思いませんか? なんにもわかっていないのに、自分は賢いと思いこんで人をバカにする人よりも、自分がバカだと自覚しているだけ賢いと思いませんか? 
 そう考えると、賢いことは愚かで、愚かなことは賢いとも言える。賢いと愚かはとけ合ってしまう。わっこのはしっこがないのと同じ。賢いこともわっこをつるんとすべるように愚かになってしまうし、愚かなことも、つるんと賢くなってしまう。どっちがどっちかわからないでしょう? 
 要するに、この世には賢いも愚かも両方あっていいし、それがあたりまえ。賢くなきゃいけないということもないし、愚かであってはいけないこともない。自分をアピールするために計算して、賢いふりも愚かなふりもする必要もない。ただあたえられるがままに、賢くあり愚かであるだけ。
 私たちは無知の大海に沈んでしまうような、ちっぽけな知恵をにぎりしめて、他人と自分とどちらが賢いかといっしょうけんめい背のびして、比べているだけ。自分がいかに無知の大海に浮いているだけかわかれば、誰が賢くて誰が愚かだなんていうことは、どうでもよくなることです。


第七句 是以彼人雖瞋 還恐我失


ここをもってかれの人いかるといえども、還りてわがあやまちを恐れよ。

 誰かが私に向かって怒っている。「どうして?」「私のなにが気に入らないの?」「それは誤解です。」「そっちこそ・・・」と、いろいろ理不尽な思いはわいてくる。
 でもよく考えてみよう。相手が怒っているのは事実。自分の気づかないうちに、しでかした何かが相手を怒らせている。思い切って言ってしまえば、ほとんど迷いと思い込みだけで生きているのが人間。やっていることはすべてあやまちだと言ってもいいくらい。私たちのあやまちは無限だ。あやまちだらけだ。だから、少しでもよいことをしようなんてケチケチコソコソしてもムダだ。思いきって思ったとおりにやるしかない。そして人を怒らせたとしても、それは当然すぎること。言いわけ無用。ただ頭を下げて受け入れるしかない。全面的に受け入れるしかその怒りをおさめることはできない。
 これはやせがまんとはちがいます。相手に怒るなということでもありません。自分の中に奥深くかえりみて、考えること。そうやって、自分の心の中を深く見つめることは、自分の心を豊かに知ること。相手の怒りは、そのきっかけになると思えば、怒られてラッキーなのです。
 親鸞聖人が、長年に渡り自分に恨みをつのらせ、暗殺しようとまでした山伏弁円に和顔で(穏やかに優しく)接した。弁円はいつのまにかすっかり心を入れ替え、最後は親鸞聖人の弟子になってしまった。というお話もあります。聖人のように、怒りさえも相手の絶対自由に任せる態度は、どんな大きな怒りも包み込んでしまい、そのまわりには、本当の平和の世界が展開していくのですね。怒りを怒りで返して、お互いの怒りがどんどんふくれ上がっていくのとは大ちがいですね。


第八句 我独雖得 従衆同挙


われ独り得たりといえども、もろもろに従いて同じくおこなえ。

 「私はわかったぞ!」「みんながわかっていないことを私ひとりわかっちゃったぞ!」なんて思うことがあるでしょう? そして、自分だけがわかったつもりになって、ちっともわかっていない相手を前に怒ろうと(説教しようと)していることがあるでしょう? また図星をさされたでしょう? 
 そこになにも知らず無邪気に立っている相手に対して、今まさに怒りを巻き起こそうとしているのは誰ですか? その私に、方向転換させるのが、この「いえども」です。
 相手がたとえどんな幼い子どもであったとしても、たとえばたったの今日一日のことにしても、彼が朝どんな感じで起きて、何があって、だれとどんなことばを交わして、どんな気持ちで、なにを思って、どんな状態で、今目の前に立っているのか、知りようもないでしょう。ましてや生まれてから今日の日を迎えるまでのこととなったら・・・? この世の無限の物事や人の関係をすべて考えつくして、知り尽くして、自分が絶対正しいと言えますか?
 「われひとり得たり」なんてことはありえない! というのがお釈迦様の悟りです。そう思ったなら、偉そうなことなんてなにも言えないでしょう。相手に自分の考えを押し付けることなんてできないでしょう。
 相手をただ相手として、その個性の、命のままに尊重していく。それが「衆に従いて同じく挙え。」です。

 ・・・さて、では実践してごらん。・・・悩むでしょう? 戸惑うでしょう? どうしていいかわからなくもなるでしょう? 
 でも、これは「こうしちゃいけない。」でも、「こうしなきゃいけない。」でもないんですよ。怒っちゃいけないと思って、ただわき上がる怒りをおさえこんで、心の中を不満だらけにするのはさっきも言ったけど不自然、不正直でよい状態とは言えないでしょう? だからってがまんしちゃいけないでもないんですよ。
 いいんです。怒りたかったら思う存分怒って、がまんしたかったら思う存分がまんして、悩みたかったら思う存分悩んで、考えたかったら思う存分考えて、泣きたかったら思う存分泣いて、どうしようもなくて困って立ち往生したって、頭をかき乱して「わからない~!!」と叫んだって、笑ってごまかしたって・・・とにかく自分で納得すればなにをやったっていいんです・・というか、納得するも何も、自然に、必然的に、これしか自分にはできない! とか、こうするしかしようがない! ということをしているでしょう。これが私です。怒らせてしまったらごめんなさい。と、自分を投げ出すしかないでしょう。
 大事なのはさっきも言った凡夫の自覚。それにはいつも自分の心を省みることです。背伸びをしている自分に気づくことです。そうして自分を解放してあげてください。自由に生きてください。そんなことしたら、みんなが自由に生きたら、世の中めちゃくちゃだ! って思うかもしれないけど、そんなことはありませんよ。みんなが解放されて、みんなが輝き始めたら、自然に調和がとれて、楽しい豊かな世界が展開していくはずです。
 解放されて、なににもとらわれず、しばられず、自由に生きている人は、決して自分の欲のために、他人をしばりつけるなんて、自分も他人も苦しめるようなことはしません。他人にも心からの解放を願い、みんなが生き生きと本来の輝く姿で生きることを、心から喜べるようになるはずですから。


終わりに・・・


 聖徳太子が生きて私にこんなふうに語ってくれている。たとえ妄想でも私はこのことばに救われる。この、「私に語ってくれている」ということが私にはとても大切。そうでなければ結局誰かを批判することになってしまう気がする。
 私が出会ったお釈迦様、聖徳太子、親鸞聖人、更に出会いたい、キリスト、道元、ソクラテス、ゲーテ、ガンジー、宮沢賢治・・・そして、そのほかにもたくさんの真理を求めた人たちの教えを、私はもっともっと聞きたい。そして、私にこの出会いを与えてくださったのは、毎田周一先生。毎田先生のご著書の数々。
 それらを読んで私はびっくり仰天だった。名前だけは有名で知っていた歴史上の方たちの教えを初めて知って、それが私にあまりにもピーンときたから。読者に決して媚びない毎田先生の真実の言葉は、私にストレートに響いてきた。そして、この方たちの名が残っているのは、本物だからなんだな、とつくづく思った。自分の名を残そうとか、自分の手がらで人々を、世の中を、変えてやろうなんていう思いは、きっとこれっぽっちもなく・・・というか、ひたすら真理の探究をしていくうちに、そんなことはどうでもよくなっていくのだろうなと。
 それを無我というのかな? 我というものにとらわれなくなったとき、本当の自由の世界が広がっていくんだろうな。私もいつかそんな世界にたどりつきたい。                                           二〇一七.七.三一







もしも今ここに聖徳太子がいたら・・・②


~毎田周一全集より十七条憲法各説(第一条~第四条)を読んで~

はじめに・・・


 毎田先生の解説を通して、聖徳太子が語ってくれた第十条は、私の心を解放してくれた。そして、もっともっとこの十七条の憲法の教えを知りたくなった私に、またまた聖徳太子は語ってくれた。はい、では「もしも今ここに聖徳太子がいたら・・・」妄想その2、スタート!


第一条 和の力  第二条 信の力  第三条 教の力  第四条 礼の力


第一条 和の力


和ぎを以て貴しと為し、さかふること無きを宗とせよ。
 
 和の力はすごいんですよ。本当に本当にすごいんですよ。あ~そのことをどうしたら伝えられるんだろう?信じてやってみたら、絶対わかると思うんだけどなあ。
 和というのはえり好みをしない。〇と✖に分けたりしない。いい人も悪い人も全部この世の一部で必要だと認められる人でなければ、この和の力というのはわからないんです。逆らう人とも争わない。
 例えば平和が大事だからって「戦争絶対反対!!」とワアワアやるような感じとは違うのです。自分を傷つけて、悪口を言ってくるような人とも争わない。自分を主張するのをやめて、どこまでも聞こうとする。お互いに対立して、否定し合っていては味わうことのできない世界なんです。


人皆党有りて、亦達(さと)れる物少し。

 これは〇、これは✖、と、えり好みする人はすぐに党をつくります。同じ考え、同じ主義の人が集まって仲間をつくるのです。そして考えの合わない人たちと対立して、比べて競争してきしみ合っている。そしてそんなことにも気づかずもがき苦しむ。世の中こういう人が多いのです。 この苦しみを超えたところに和の世界はあるのですが、達れる人は少ないのです。達れる人というのは、善にも悪にも通じている。これは善、これは悪、と分けない。善も悪となり、悪も善となると知っている。どちらもこの世の大切な一部と認めているし、受け入れている。だれとも対立しないのだから、党のつくりようもない。そんなけちくさい考えはない。世界と和らいでいる。例えば道元禅師、例えば親鸞聖人・・・でも残念ながらそんな人は少ないのです。


是を以て或は君父に順わず、また隣里に違う。
 
 達れる者は少ない・・・目上の人の言うことに従わなかったり、まわりの人たちと意見が合わないと逆らったりする。
 「達れる者」とはとにかく従う人。ソクラテスは死刑から逃れようと思えば逃れられたのに、悪法に従った。ガンジーは自分を暗殺した相手を許して死んでいった。こんなことはなかなか普通の人にはまねできない偉大なことです。でも、従わなければ善と悪の道は通じ合えないのです。
 きまりに逆らう。親や目上の人に逆らう。となり近所の風習に逆らう。こんなふうにいちいち逆らって争っていては、苦しみだらけです。わがままで自由なようでいて、かえって不自由です。
 宮沢賢治の「雨二モマケズ」には「クニモサレズ」ということばがある。逆らってばかりじゃ苦にされるでしょう?従うとは逆らわない、争わないこと。そこにしか和の世界はないのです。 法や自然に従うことは、天真爛漫に生きることなのです。


然れども上和らぎ下睦びて、事を論うに諧いぬるときは、則ち事理自ら通う、何事か成らざらむ。

 上下の関係も、横の関係も、とにかく人と人との関係は対立を超えて通じ合えるのです。それにはどうしたらいいのでしょう?
 まず上の者が心穏やかであること。そして、下の者は心素直であること。そうすれば、どんなことで話し合ったって、必ず通じ合えます。すべての人が対等に。
 賢い人も、愚かな人も、強い人も、弱い人も、貧しい人も、豊かな人も、偉い人も、下々の人も、年寄りも、子どもも、その違いはあっても、人としてのその人らしさをもって、その奥にある、うそいつわりのないまごころを信じ合って対する。それが和です。
 自分だけに真実があるのではない。憎らしい人にも、下らない人にも、いやな人にも、ダメな人にも真実がある。それを全部合わせたらどうなると思いますか?自分ひとりで見ているちっぽけな真実よりも、ずっとずっと広く大きな、思いもよらない真理の世界が浮かび上がってくるんですよ。
 否定し合っていてはこんな展開は味わえません。真理から遠ざかるばかり。みんなで力を合わせることによって、物事の真実はより立体的に、より豊かになる。どんな人もそれぞれの個性とまごころを認め合い、それぞれの見方を、それぞれの思いを、打ち明け合って、ひとりでは見つけられるはずもない真理の世界に目覚めていく。この真理によって、みんながひとつになる。善人も悪人も、みんなのまごころが融け合ってひとつになる。これが和なんです。
 和というのはそれはそれはすごい力なんです。真実に、自然に、どこまでも従っていく。この和の力があれば、どんなことでも必ず成し遂げることができるのです。ここにだれもが真に生きる喜びを味わうことができるのです。すばらしいと思いませんか?そんな和の世界は!


第二条 信の力


篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり。
 
 三宝とはなんでしょう?仏様(お釈迦様)と、その教えと、その教えに従う人。絶対の真理と、それを表現したものと、それを伝える人。
 この世の人たちはいろんな人や物との相対の関係の中に生きている。でも、実はその人も物も、絶対の真理の中にある。絶対の真理というのは、そこにいつもあるのだけど、相対の関係に目がくらんでいる私たちは、そのことに気づいていない。独特の表現によって、数少ない選ばれた人たちによってしか、私たちはそれに気づかせてもらうことができない。
 「篤く三宝を敬え」とは、「この世には絶対の真理というものがあることを知りなさい」ということです。それによって私たちは存在している。私たちは自力で生きているつもりになって、毎日何かを誰かを相手にあくせくしているけど、実はこの絶対の真理によって生かされている。その大いなる力が働かない限り、私たちは指一本だって動かすことはできない。そういうものがあるということを知りなさいということです。


則ち四生の終の帰、万国の極めの宗なり。
 
 すべての生きとし生けるものは、この絶対の真理によって、命を与えられているのです。すずめもカラスも、みみずももぐらも、エスキモーもホッテントットも、みんなみんないっしょにこの絶対の真理、絶対者、神様仏様によって生かされているのです。
 それは国によっていくつもあるのではないのです。いくつもあったら絶対者ではなくて相対者です。こっちが真理だ!いやこっちだ!と争うのは絶対の真理ではありません。真理とは一枚につながっている、大きな大きな海のようなもの。あっちとこっちで争うようなものではないのです。仏様と言っても、神様と言っても、とにかくその絶対の真理というものはひとつなのです。こっちの国の神様とあっちの国の神様が違うと争っていては、それは絶対者ではないのです。それでは「和」は実現できません。


何れの世何れの人か、是の法を貴ばざる。
 
 自分の心の奥底をたずねていってごらん。そこには必ず一心の願いがあるはずです。人と争うのはいやだ!みんなと心を通わせたい!みんなとひとつになりたい!世界中すべての人が平和であって欲しい。みんなが生き生きとした世界で自分も思い切り生き生きと生きたい!そんな光輝く世界に生きたい!
 いつの時代に生きようと、どんな境遇に会おうと、人はだれもが、一人残らず、心の奥底で、そう願っているのではないですか?この願いに反対の人がいると思いますか?たとえどろぼうでも、たとえ人殺しでも・・・


人尤だ悪しきもの鮮し。能く教うるときは従う。
 
 極端な悪人なんてまれにしかいません。ほとんどいません。すべての人の奥に、このまことを発見しなければなりません。それは人を信じるということです。この信に支えられて、悪は善に変わっていくんです。
 「能く教うる」というのは、その人が、その人の心の奥にある真実を、まことを、深く自覚できるようにすることです。ひたむきに、まごころをこめて、根気よく教え、決して見捨てないことです。
 なぜそんなことができるのか?それは必ずすべての人の心の奥に誠があると信じて疑わないからです。そしてその自覚は教えられることによって初めて生じるのです。そうすれば必ず素直な心が現れてきます。


其れ三宝に帰りまつらずば、何を以てかまがれるを直うせむ。
 
 「教える」ということ、つまり「教育」ということになると、これは正に人と人との関係ですね。この「教える人」というのがとても大事になるんです。これを実現するには、教育者が三宝を敬う人でなければなりません。
 このように「信」そのものである人によって、教育ははじめてなされるのです。「信」は人となって、人を教化せずにはおかないのです。「まがれる人」というのは、エゴのかたまりでカチコチになってつっぱっている人のことです。このカチコチの心を打ち砕いてとかして柔らかくすることで「和」が実現するんです。それができるのは、信の力です。信の力によって、自分の信に目覚めた人が、他の人を同じように導くことができるんです。信の力は無限なんです。粘り強く何度でもあきらめず、人を絶対の真理に目覚めさせずにはおかないのです。そしてその信の力に目覚めた人というのは、無限の力に駆り立てられて、どんなに臆病で無気力で気の弱い人でも、見違えるように生き生きとし出すんです。そこに無限の「和」の世界が展開していくんです。考えただけでわくわくするでしょう?


第三条 教の力


詔(みことのり)を承けては必ず謹しめ。
 
 詔というのは「教え」です。「教えには絶対に従いなさい。」と言われたらどんな感じがしますか?おしつけ?強制?命令?お説教?・・・でも、私が言いたいのはそういうことではないのです。私の理想とする国家というのはそういう権力によって統制されるような国家ではありません。国家を統制するために詔があるのではない。詔によって国家が成立するのです。
 それは権力的なものではなく、精神的なものです。詔=教えによって、人々に和をもたらすもの。その教えにみんなが耳を傾けることによって、みんながひとつになれる。それは絶対の教えなのです。いやだという人を無理やり力ずくで従わせようとするようなことではありません。人を否定して、押さえつけるような教えではないのです。むしろ、本当の自分に目覚めさせてその力を解放する教えです。ひねくれるのはやめて素直になりなさい。真の自分に目覚めて、その力を存分に発揮しなさい。という教えです。
 それには上にたって教えを説く人が絶対の真理の自覚者でなければなりません。権力者ではないのです。人々が、本当に自分を大切にしてくれる人の教えに、素直な心でじっと耳を傾けることで、はじめて和が生まれるのです。


君をば則ち天とす、臣をば則ち地とす。
 
 君というのは、詔(教え)を発する人。臣というのは、その教えを聞く人たちのこと。この上下関係がなくては、国家は成立しません。君は権力者で、臣はその権力にいやでもなんでも従わなければならない人たち・・ということとは違うんです。
 君(天)は、臣(地)をあたたかく包み込むもので、無限の光で照らすものです。臣(地)は君(天)をあおいで、その光に照らされて、自分の力を充分に発揮し、精一杯の働きをするのです。そうすることで、国家は機能して、和の力は無限に働くのです。太陽に照らされて生き物がすくすく育つみたいに。


天覆い地載す、四つの時順り行き、万の気通うことを得。
 
 天は上でみんなを照らし、地は下で支える。そして、四季がきちんとめぐり、自然のすべてがうまくいく。天の光が地に行きわたることで、みんなはのびのびと呼吸をすることができる。この上下の関係が自然だからです。天のあたたかい光のもとで、人々はこころよく交わって、力を合わせ、個性を発揮し、助け合い、支え合い、ひとつになる。これがとても自然なことなのです。詔を承けては謹むことが最も自然なことなのです。それによって、人々は本来のあるべきところで、あるべき姿で、安心してのびのびと力を発揮できるのです。
 名もなき人々が黙々と働く。安心して働きそこに満たされる。すべてが認められ、すべてが光に包まれている。だからなんの不満もないのです。その名もなき人々の働きこそが国家を支え、発展させるのです。


地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊るることを致さんのみ。
 
 これが逆転して、名もなき地の人々が名を求めるようになると、世の中は破滅に向かうのです。地の人々の働きこそが国家を支えているのに、それに不満を持ち始め、名を求めるようになる。「自分が他人より認められたい」「自分が有名になりたい」と、名誉欲をもつようになる。この名誉欲こそ国家を破滅させ、平和をうばい、自滅に向かわせる、おそるべき毒なのです。
 このおそろしい毒を取り払ってくれるのが、絶対の真理の教えです。自覚者のことばです。詔を聞くことです。この教えをよくよく聞けば、自分の名を残そうと思うことなんて、くだらないこと、どうでもいいこと、無意味なことになるでしょう。絶対の真理をただ仰ぐだけ。その大いなるものを前にして、自分の名なんてちっぽけなものはどうでもよくなるのです。
 ちなみに、歴史上に名を残した偉大な人たちを見てごらん。自分の名を残したいとあくせくしていたと思いますか?有名になりたいとか、認められたいとか、そんなことには全くとらわれず、ただただ自分の信念を貫いて、コツコツと自分の使命にしたがって生きた人たちではありませんか?


是を以て君言うときは臣承り、上行えば下靡く。
 
 世の中の破滅を、自滅の道を、心から望む人がいますか?だれもが心の底で幸せを願うでしょう。平和を願うでしょう。だったらこの教えを聞くことです。名誉なんて求めずに、自分のあるべき場所で、自分のやるべきことを精一杯やることです。名もなき道を、謙虚に、黙々と、一心に・・・。
 上の者が絶対の真理に従い、この自覚者の道を謙虚に行けば、下の者もその道をたどろうとするようになるはずです。これが和への道です。それは自然なことなのです。国家の統一ということはこのように自然なことなのです。


枯れ詔を承けては必ず慎め、謹まずば自らに敗れなん。
 
 この教えに従い、謙虚の道を歩むということは、自然なことなのです。それには上にたつ人が大事なんです。さっきも言ったように、上にたつ人が、自覚者の道を謙虚に行けば、下の人たちは自然についてきます。
 この教えに従っている限り世の中は永遠に平和です。逆にこの教えを忘れるとき、世の中は混乱し、破滅に向かいます。それは例えば自分のまわりの小さな世界を見ても明らかなことです。例えば会社、例えば学校、例えば家庭など。このことを思い知るべきです。


第四条 礼の力


群卿百寮、礼を以て本と為よ。其れ民を治むるの本は、要らず礼に在り。
 
 礼というのは秩序です。ここで大切なのは、尊敬の心をもとにした秩序であることです。第一条、第二条、第三条の必然的結果としてこの礼=秩序は成立するのです。和の世界を実現するために、人々が信じ合って、絶対の真理の教えを聞くならば、そこにはあたりまえに、この秩序が成り立ってきます。外から強制される秩序ではないのです。みんなの心の中に自然に生まれてくる秩序なのです。みんなの心の中に、お互いを尊敬し合う気持ちがあれば、そこから自然に生まれてくるのです。ただ力でもって、無理やりにきまりに従わせようとするのではありません。  「法律に従え!」「法律を守れ!」と言うのでなく、「礼あれ!」と言うのです。悲願です。権力によってはいけません。人々を治めるのは必ず礼の力です。相手への尊敬の気持ちがなければ真の教育も政治もあり得ません。


上礼なきときは下斉おらず、下礼無きときは以て必ず罪有り。
 
 上の人たちに礼がないと、下の人たちは落ち着かず、秩序が乱れます。そして、下の人たちに秩序がなくなると、必ず何か悪いことをするようになります。悪いことをすると、罰を受けなければなりません。人は礼がないことによって、自分で自分を不幸にすることになるのです。
 社会に秩序がないということは、そこに礼がないということ。こうして社会が混乱すると、人々は自由でなくなります。社会と調和しないかぎり、人々は自由に生きることができないのです。 


是を以て群臣礼有るときは、位の次乱れず、百姓礼有るときは、国家自ら治まる。
 
 礼さえあれば、上下の関係も乱れることはありません。礼さえあれば、国家も自ら治まるのです。自らというのは、最も力の充実したことです。これこそ礼の力なのです。これほど力強いことがあるでしょうか?礼さえあれば他になんの心配もいらないのです。礼の力にすべて任せておけば、どんなことも必ずうまくいくのです。礼さえあれば自然にすべてがうまくいくのです。
 逆にうまくいかないときは、必ず礼の力が欠けているのです。人と人との間に支配や権力が働いているのです。人と人との間に誠実さが、尊敬の気持ちが、欠けているのです。


終わりに・・・



 聖徳太子の描かれた「和」の世界は、権力や支配では決して実現できない世界。人を「信じる」こと。「教え」に耳を傾けること。そして、人を敬う気持ちからくる「礼」を大切にすること。毎田先生はおっしゃる。太子のお考えになった国家とは人々の自覚的世界。自覚者による政治。この実現には人々の中から自覚者をみつけて、その自覚者を推さなければと。それには人々が自覚しなければと。政治に限らず・・・と思う。自覚者を見つけたい。自覚者を目指したい。                            二〇一七.八.二〇


            
 

 

もしも今ここに聖徳太子がいたら・・・③


  ~毎田周一全集より十七条憲法各説(第五条~第九条)を読んで~

はじめに・・・


 聖徳太子の十七条の憲法は政治のお話かもしれないけど、そして私は全く政治にはうといのだけど、なぜか聖徳太子が私のために語ってくれるような気がしてしまう。そしてこの妄想はもしかすると見当違いかもしれないけど、現にそれが私の生活に影響し始めている。
 これまで第十条から読み始めて、第一条から第四条まで読み進めてきた私は、この教えの通りにしたら、平和な世界を実現させるのも夢じゃないなって思えてきている。そして、それを実行してみると、「あっホントだ!聖徳太子が言った通り!」なんてことになっている。
 しかし・・・とは言っても、問題はやっぱり起こる。争いも起こる。一体どうしたらいいの?そんな私にまたまた聖徳太子は語ってくれる。それでは妄想その3スタート!

第五条 貧しき人々   第六条 諂いの恐ろしさ 
第七条 念仏者を求む  第八条 大悲倦きことなし 第九条 形成的実践


第五条 貧しき人々


餮を絶ち 欲を棄て、明らかに訴訟を弁えよ
 
 どんな平和な世の中でも、人と人との間には争いが起きます。そこで、争いを解決して、和の実現に向かうために、裁判が必要なのだけど、この裁判する人が自分の欲にしばられて、自分の都合でどちらかの肩をもつようだと、みんなは納得しません。返って平和は乱されてしまうのです。裁判する人が利欲を超えていることが大事なのですよ。


其れ百姓の訟は、一日に千事あり。一日すら尚おしかるを、況んや歳をかさねてをや。
 
 この世には争いごとが絶えません。そして、どうしたらこの争いごとが解決できるかとみんな頭を悩ませています。日々の生活において不満や不平があちこちにあふれているのです。これはなるべく早く、解決していかなければ・・・そうしなければ平和はすぐにくずれてしまいます。


頃、訟を治むる者、利を得ては常と為し、賄を見てはことわりを聴す。
 
 ところが・・・残念なことにこの裁判に当たる人が自分の都合で、不公平なことをしてしまう、そんなことがよく起こってしまっている。
 例えば賄賂をもらってお金持ちの言うことをきく。偉い人のやる不正には目をつぶる。または弱みを握られている人には何を言われても逆らわないなど。
 こんなふうに、裁判に限らず人との関係で何かをするとき、どうしても自分の利害が関わってきてしまうのが人間。これでは社会の秩序は乱れて、人々の不平不満の解決どころか、それとは逆方向にいってしまいます。これは人の欲望の怖ろしさです。人の欲望が世の中を混乱させて平和をこわすのです。


便ち財有るものの訟は、石もて水に投ぐるが如く、乏しき者の訴は、水もて石に投ぐるに似たり。
 
 つまり、金持ち(強い立場の人)の言うことは、石を水に投げるみたいに、簡単に通ってしまう。そして、貧乏人(弱い立場の人)の言うことは、水を石に投げるみたいに、簡単にはね返されてしまう。金持ちと貧乏に限らずあるでしょう?
 例えば自分の出世のカギをにぎっている上司にはなんでもぺこぺこ従う。小さい子どもの言うことは見下してちゃんと聞かないなど。そんなことが日々の生活の中でもあるでしょう?思い当たるでしょう?


是を以て貧しき民は、則ち由る所を知らず、臣の道亦ここに闕けぬ。
 
 これでは貧しい人(弱い立場の人)たちは誰をたよりにすればいいのですか?だれも信じることができなくなってしまうのではないですか。弱い立場の人がいだいた不平不満の行き場がなくなってしまったら、どうなると思いますか?その不平不満はやがて爆発します。暴力的に。
 暴力は第四条に出てきた「礼」の反対。これによって、世の中は平和どころか、まったく反対の方向へ向かいます。つまり、公正な裁判をするべき人の、自分の都合を優先させた欲望が、結果的に平和をこわすことになるのです。
 国を治める立場にいる人は、貧富の問題、不平等の問題、そこからくる不平不満の問題の解決にまず努めることです。礼ある人は、まず一番弱い立場の人の身になって考えるのです。強い立場の人の言いなりになって、弱い立場の人の言うことをないがしろにする。自分の都合を優先させるなんてもってのほかですよ。


第六条 諂いの怖ろしさ


悪しきを懲らし善きを勧むるは、古の良き典なり
 
 善っていうのは、世の中の平和につながる行いで、第四条で言った「礼」のことですよ。そして悪っていうのは、世の中の平和の破滅に向かう行いで、第五条で言った利欲・貪欲のことですよ。


是を以て人の善きを匿すことなく、悪しきを見ては必ず匡せ。
 
 善はどんどん伸ばして、悪を見つけたら、それはやめさせなくてはね!


其れ諂(へつら)いあざむく者は、則ち国家を覆えす利き器たり、人民を絶つ鋒劒たり。

 そして、ここで悪について更にはっきりさせましょう。人間の世界で一番の汚れ、それは諂いです。諂いは第五条に出てきた貪欲が姿を変えたものなんです。自分の都合に合わせて人を操作する。自分の欲のために、人のごきげんをとるのです。
 まちがえちゃいけませんよ。人を敬う気持ちがもとになっている「礼」とはまったく反対のものですから。「礼」は信じること、正直なこと、誠実なことから生まれて、世の中を平和へと導いていきます。でも、人をおだてたり何かを施すことで、自分が認められたいとか、何かもらえるとか、または被害に会わないためにとか、そういう自分の都合を優先させるのは諂いなんです。
 諂いにはうそがあります。諂いは自分の欲のために人をだますことで、平和を乱すことにつながる悪なんです。


亦かたましく媚ぶる者は、上に対いては則ち好みて下の過を説き、下に逢いては則ち上の失を誹謗る。

 上の人のところへ行って、誰かがこんないけないことをしてる。と告げ口をする。人の悪口を言って、自分が偉いことをアピールして気に入られようとする。かと思えば、下の人のところに行って、上の人の悪口を言って、自分は味方のふりをする。自分ばかりいい顔をしようとする。
 他人事ではないですよ。気がつかないうちに、こういうことをしているのが人間なんです。でも、これを放っておくとどうなると思いますか?上と下は分裂して、バラバラ。和とは正反対の方向へ向かってしまいます。こんな怖ろしい悪があるでしょうか?
 私は思います。この世から諂いというものがなくなったら、どんなに清々しく気持ちのいい世界になるかと。だからはっきり言いましょう。一番の善は直心、一番の悪は諂いだと。


其れ如此の人は、皆君に忠無く、民に仁無し。是れ大きなる乱れの本なり。

 諂う人というのは、もともと自分のことしか考えてないのです。人を敬う気持ちなんてないんです。こんな人が上に立っていては、世界に和をもたらすことはできません。このことをはっきりと覚えておいてくださいね。
 貧富の問題は貧の問題です。善悪の問題は悪の問題です。弱い立場の人に寄り添うこと、そして諂いが一番の悪で、平和を乱すもとであること、これを肝に銘じることです。そうすれば、人々との信をもとにしたつながりができてくるはずです。それは必ず平和へとつながっていくことでしょう。


第七条 念仏者を求む


人各任有り、掌ること宜しく濫れざるべし。

 じゃあ、今度は善についてお話しますよ。ただ「礼」が大事と言ってもピンとこないかもしれませんからね。
 まず、人にはそれぞれ役割があります。自分はこれをするためにこの世に生まれてきたんだ!と、心から実感できることが必ずだれにでもあるのです。それは個性とも言われるし、因縁によっても定まってくるものです。何かに出会うことで、引き出されるのです。これをどこまでもどこまでも伸ばしていけばいいのです。その自分の中心に集中していくことができれば、自分が乱れることはないのです。そこに全力を発揮する人が自覚者で、これが善ということなんです。


其れ賢哲官に任すときは、頌むる音則ち起り、かたましき者官を有つときは、禍乱則ち繁し。

 この自覚者が政治を行えば、国は自然と治まっていくのです。そうでない、さっき言った諂う人が政治を行えば、国は乱れていくのです。さてさて、では自覚者とはいったいどんな人でしょう?どうやって自覚者は生まれるんでしょう?


世に生まれながら知ること少なけれども、よく念いて聖と作る。

 それは、今知っていることに頼らないことです。今知っていること、わかっていることによって行動していては、停滞してしまいます。堕落してしまいます。古い考えにしばられることなく、どんどんまだ知らないことを知ろうとすることです。
 私たちはいい年になってくると、人生のことも、世の中のことも、みんなわかってしまったような気になる。でも、実際は知らないことだらけなんです。知らないことがどんなに多いか、知れば知るほどわかってくるはずです。その果てない真理の世界をどこまでも新鮮に求めていくことです。
 このように謙虚に自分の無知を自覚して、いつも真実を求めようとする人こそ聖と言われる人です。なんでもわかっているような顔をして、偉そうにしている人ではないんです。「聖(ひじり)=自分の非を知る=非知り」なんですよ。ここには念仏の味わいがあります。自分が偉くなって仏様になるんじゃない。自分の思い上がりを打ち砕いたとき、そこに仏様が現れるんです。こうやって自覚者は生まれるんです。


事、大き少けきと無く、人を得て必ず治まり、時、急緩と無く、賢に遇いて自ら寛かなり。

 このような人が事を行えば、どんな問題も自然と解決していきます。どんなに急を要することも、悠々と解決される。そして、どんなに気長に根気よく行われなければならないことも、まのびして気が抜けることもなく、ちゃくちゃくと充実して豊かに行われていくのです。
 こんな聖を得ることができれば、私たちは悠々と豊かに楽しんで生きていけるようになるんです。ガミガミ言わなくても自然にゆったりと・・・だから私はいつの時代もこういう人が上に立って人々を治めることを願って止まないのです。


此に因りて国家永く久しくしてくに危きことなし。

 世の中の平和が続いていくことは、こういう人が上に立つことではじめて可能になるのです。諂う人ではだめなんです。それは歴史を見てもわかることではないですか?実証されていることではないですか?


故れ古の聖の王は官の為に以て人を求め、人の為に官を求めたまわず。

 名誉欲などの欲の深い人が、自分の利己心を満足させるために人の上に立つならば、和をもたらすどころかそれは破壊されてしまいます。だから私は「無私」なる人を切に求めるのです。思い上がりを打ち砕いて、最も謙虚な人、欲を超えた人、どこまでも新鮮に真理を求めて止まない人を求めるのです。
 そしてどこにその真理を求めていくのか?それは自己の奥に求めていくのです。さっき言った自分の使命を、行うべき任務を、どこまでも求めてそれに集中する人です。そういう人が上に立たなければ、真の平和は望めません。
 自分の評価ばかり気にしてキョロキョロして、どうしたら尊敬されるかとか、どうしたら力を認めてもらえるかとか、そんな作戦ばかり考えている人ではないのです。権力者の政治は一見うまくいっているようでも、どこかに落とし穴があるのです。これは政治に限らずです。


第八条 大悲倦きことなし


群卿百寮、早く朝りおそく退でよ。

 「朝早くから夜遅くまで働きなさい!」これだけでは私の言いたいことは伝わらないかもしれませんね。でもね、謙虚な人は必ず努力の人です。高慢な人は怠慢です。それは必然的です。思い上がりを砕いてしまった人、自分には力がないと知った人、権力ではどうにもならないと悟った人の救いは努力にしかないからです。
 真の政治は努力によってしか行うことはできません。その努力は「はい、今日は時間です。ここまで~」なんて簡単にきれるものではありません。また、なかなか思い通りに事が運ばないことにいらついて、力で押さえつけようとするようなことでもないんです。物事と一心に向き合って、決して諦めず、決して焦らず、コツコツと続けることです。


公の事いとまなし、終日にも尽くし難し。

 問題は日々次々と起こってきます。寝ている間にも苦しんでいる人たちがいるんです。悩める人たちが絶え間もなく救いを求めているんです。それを思ったら、その問題ひとつひとつと真摯に向き合っていたら、いくら時間があっても足りないくらいです。
 でも、それが政治につかさどる人の使命ではないですか?その任務を果たそうとするなら、ただただ人々を救いたいという思いに駆り立てられて一心に努力するしかないのではないですか?そうすれば、自分の私欲なんてかまっているひまはないのではないですか?政治家とはそのために選ばれた人ではないですか?
 私は宮沢賢治の雨ニモマケズにあるような、自分を感情に入れないで、よく見聞きして、東の子どもの看病、西の疲れた母の援助、南の死にそうな人のなぐさめ、北のけんかや訴訟の仲裁・・・と人々のためならどんな苦労も惜しまずかけまわる姿を思います。もう疲れたとか、もう無理とか、もうお手上げとか決して言わない。それが自分の使命だし、それを一心にやることがこの世に生まれて生きる意味だと思っている。そういう人にとって、そのために時間を費やすことはちっとも苦にならないのです。


是を以て遅く朝るときは、急なるに逮ばず、早く退るときは必ず事尽くさず。

 大変な仕事ですけど、これをなまけていては仕事に追われることになります。問題が山積みになって振り回されてぐちや不満が出てきては、人を救うことなんてできないでしょう?「またか、もう勘弁してくれよ!」っていう感じになってしまうでしょう?だから少しでも時間をつくって事を先へすすめていくくらいの勢いがなければ勤まらないのです。
 そして、そんな大変なこともできるのは、ただただ人々の幸せを願う気持ち、国家の発展を願う気持ちがあるからです。その強い願いにかきたてられて力はわいてくるのです。怠けものには勤まらないのですよ。


第九条 形成的実践


信は是れ義の本なり。事毎に信有れ。

 第八条で言った努力が何によって支えられるか?それは信によってです。信っていうのは、自分を空っぽにして、人の奥に入っていくことです。人の奥に自分を見つけることです。その人の心を自分の心とすることです。その人の心と自分の心をひとつにすることです。その人と一体となることです。その人の身になることです。自分がその人になることです。そうしたら、その人といっしょに従うべき真理に出会うはずです。その直観が問題の解決へと導いてくれるのです。ひとつひとつの事において、いつもその真実を直観して事を行うのです。人に対していてはできないことです。「おまえはこういうところがなっちゃいない。だからだめなんだ。」ではないんです。その人の心の奥をのぞいて、問題の起こりを、苦悩の原因を、その人と一体となってよく見るのです。他人事ではないんです。自分が偉くて自分が正しくて、相手を見下してああだこうだと言っても、問題は解決しないのです。


其れ善さ悪しさ、成り敗ず、要らず信に在り。

 信から生まれる行為は善、信のない行為は悪です。うまくいくかいかないかは、必ずこの信があるかないかにかかっています。ただそれだけに。つまり、人を信じることなしに、誠意をもたずに、事を成就させようなんていうのは虫のよすぎる話なのです。そんなのは見当違いです。もし仮にうまくいったとしても、後から必ずボロが出ます。
 また、私欲や思い上がりは信の邪魔をするものです。こういうものがからんでくると、必ず失敗します。信というのは、さっきもいったように、相手の心とひとつになったところに働くものです。相手と一体となったところに従うべき真理が現れるのです。それに従っていけば自然に事は運んでいきます。うまくいかないときは、ただただ自分の不信が原因です。他に恨むべきものはなんにもないのです。


群臣共に信あるときは何事か成らざらむ。群臣信無ければ、万の事 悉に敗る。

 信さえあればどんなことでも成し遂げることができるのです。逆に信がなければうまくはいきません。うまくいかないときは、そこに信がないのです。
 信の反対は疑いです。疑いの目をもって人を見ているかぎり、相手とひとつに融け合うことなんてできっこありません。そこに事がうまくいくはずがないのです。
 反対にその人を信じるということは、すべてうち任せることです。それはときに生きるも死ぬも任せるくらいの覚悟が必要です。私欲にとらわれていてはできないことなんです。私欲を捨てた清らかな人を前にしたとき、相手もまた私欲を捨てざるをえなくなるのです。
 すべての人の心の奥にある誠をみることです。本当は争いたくなんかない。みんなとわかり合いたい。平和な世界を実現したい。この願いはすべての人の心の奥に必ずあるはずです。この願いはすべての人と融け合うはずです。こちらからそこに向かって融けていけば、相手もまたこちらに融けてくるはずです。
 この一心と和があれば、かなわないことなんてないんです。こうして国家は建設されていくのです。政治のことはこの建設の仕事です。信をもとに生まれる積極的な意志が、この実践に向かっていくのです。


終わりに・・・


 私はこの教えを自分の仕事に置き換えてみる。聖徳太子だったらどうなさるかな?今現に目の前で起こっている問題に。そして、どこかに聖徳太子の生まれ変わりはいないのかな?とも思う。
 聖徳太子が亡くなられたとき、そこら中に人々の悲しみに満ちた泣き声が響いたというお話を聞いた。太子がどんなに人々に慕われていたか、それはこの十七条の憲法が証明している。人々の幸せを、世の中の平和を切に切に願う深い深い慈悲心がこの憲法にはあふれている。
                         二〇一七.九.二四





 

もしも今ここに聖徳太子がいたら・・・④


~毎田周一全集より十七条憲法各説(第十一条~第十七条)を読んで~

はじめに・・・


 一見、命令形で、偉そうで、権力的で、そんなことできっこないよ!と反論したくなりそうな、聖徳太子の十七条の憲法なんだけど、深く深く読み込んでいくうちに、聖徳太子の切々とした想いが私の胸を打つ。その想いとは、争うのをやめて、人々がお互いを尊重し合う「和」の世界の実現への願い。
 その、人々の幸せを、国の平和を、実現するために、政治につかさどる人はどうしたらよいかということを、十七条に渡って示しているのがこの憲法。そして、私は政治家ではないけれど、自分の仕事に、この教えが欠かせないものとなっている。
 放っておくと私利私欲に走る自分の心を、いつもいつもこの憲法に立ち返ることで、自然とリミッターがかかる。それは我慢とは違う。聖徳太子のお言葉にふれているだけで、いつのまにか、自然にそうなっている。私利私欲にリミッターがかかると、とても気持ちが楽になれる。冷静になれる。前向きになれる。そのことが本当に不思議で、うれしくてたまらない。聖徳太子さん、ありがとう!!
 それでは最後の妄想です。十一条から十七条は、とても具体的に語ってくれます。妄想その4スタート!

 第十一条 実際的政治家(賞罰に関して)   
 第十二条 無の媒介(租税に関して) 
 第十三条 無私の公共性(事務に関して)  
 第十四条 賢聖を待つ(嫉妬に関して) 
 第十五条 死の覚悟(怨恨に関して)   
 第十六条 自然の法則(自然に関して)
 第十七条 宜しく論うべし(論議に関して)


第十一条 実際的政治家(賞罰に関して)


功過を明察にして 賞罰 必ず当てよ。

 これは第九条を受けています。覚えていますか?事がうまくいくかいかないかは、そこに信があるかないかだと言ったこと。相手を疑いの目で見ている限り、事はうまくいかない。相手の奥に必ずある信に向かって融けていけば、相手もまた融けてくると言ったこと。
 ここではそのことを明らかにするために、賞罰の問題について考えましょう。それは、物事の結果から、そこに信があったのか、なかったのか、深く振り返ることにつながります。


日者、賞は功に在いてせず、罰は罪に在いてせず。事を執る群卿、宜しく賞罰を明らかにすべし。

 信の邪魔をするものはやっぱり自我です。自分が偉くなって他人を支配しようとする人には、人を信じるということがなかなかできません。でも、その思い上がりが打ち砕かれたとき、「信」しかもう頼るものがなくなるんです。
 そして、賞罰を与えるというより、この信があるかないかを明らかにしたら、信は必然的に賞を呼び、不信は必然的に罰を呼ぶということが「なるほど」とわかるようになります。「信」のある行いはうまくいって、みんなにも認められる。「信」のない行いはことごとくうまくいかず、ますますこじれていく。誰だって信じてくれる人には素直になれるし、信じてくれない人には反抗的になるでしょう?このことを思い知れば、それは信のある行いへの積極的な意欲につながります。それは公明正大で、誰もが納得できることになります。
 でも、もし、例えば私利私欲のために、誰かに諂って事をなした人がほめられたり、信をもって正しいことをしようとする人が、誰かの都合で罰せられたりすることがあれば、それは人々の信頼を失って、平和は乱されます。どうやって信を得るか。それはくり返しくり返し第十条にかえってみることです。


第十二条 無の媒介(租税に関して)


国司国道、百姓におさめとること勿れ。

 これは税の問題です。国家の事業には全国民の協力が必要です。みんなのためにみんなが協力するのです。
 政治家が自分のために、国家の名において、国民から収税するようなことは絶対にあってはなりません。みんなで出し合ったお金を、自分のために使うなんて勝手なことをする人がいたら、みんなの信用を失うでしょう?そんなことがわかったら、他の人たちだって、気持ちよく協力しようなんて思えなくなるでしょう?
 反対に人々が自由で豊かな生活を楽しめるようになることを願って、収税していることがわかれば、みんな快く協力してくれるでしょう?税の問題ひとつとっても、政治家が私利私欲に走ったら、平和な世界は実現できないことはわかりますね?


国に二りの君非く、民に両りの主無し。

 統一ということは、中心がひとつということです。中心があっちにもこっちにもあったら、みんなの迷いのもとです。みんなが向かっていく中心になるものはひとつ。租税というものも、中間的なものに献げられるものではありません。中心が定れば、人々は安定するのです。


率士の兆民、王を以て主と為す。任せる官司は、皆是れ王の臣なり。何ぞ敢えて公と与に、百姓におさめとらん。

 政治家は税を集めて国家のために、みんなのために、役立てるための媒介者です。その人が、人々を支配している気になって、人々が国民みんなのために収めた税を、自分のことに横領するなんて、だめに決まっているでしょう?政治家は私欲を捨てて、無の媒介者にならなければいけません。それでこそ、人々も納得して、喜んで協力してくれるようになるのです。政治家と人民の関係が、支配する人と支配される人になってしまったらだめなんですよ。人民と政治家との和が大切なんです。


第十三条 無私の公共性(事務に関して)


諸の任せる官者、同じく職掌を知れ。

 第十二条では、人民と政治家との和が大切って言いましたね?今度ここで大切にして欲しいのは、政治家同士の和なんです。みんなと調和して、それぞれがお互いの仕事を知って、補い合うのです。自分の仕事だけやっていればいい。他人の事務は他人の責任。私の知ったこっちゃない。ではなくてね。他の事務を知っていてこそ、自分の事務も調和的に果たすことができるのです。仕事は連携が大事ってことですよ。


或は病いし或は使いして、事をおこたる有らん。然れども知ることを得るの日には、和うこといむさきより知れるが如くせよ。

 同僚の誰かが病気で休んでしまったとき、または出張で留守のとき、そこに穴をあけてしまってはいけません。穴をあけることで、多くの人々に迷惑がかかるようでは困るでしょう?公共の仕事はそれだけ重大です。私事、私情を言い訳にできない厳しいものがあるのです。だから、政治家同士の和が大事なんです。
 突然誰かが休んだ。誰もその人の仕事のことがわからない。これでは困ってしまうでしょう?そうならないためには、お互いにお互いの仕事を知っていることが大切です。普段から連携していることが大切です。病気や出張は誰にでもあるでしょう?同僚に迷惑をかけざるを得ない心苦しさは誰もがわかることでしょう?お互い様ですよね?だから誰かが穴をあけても、みんなで補い合っていく。そんな、仕事への忠実さが、人々の信頼につながり、世の中の平和につながるのです。


其れ与り聞くこと非しというを以て、公務をな妨げそ。

 公務は重大なんです。政治には無私の公共性が必要なんです。それがよ~
くわかっている人でなければ、残念ながら政治家になる資格はないのです。


第十四条 賢聖を待つ(嫉妬に関して)


群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ。

 前三条で言ってきた、私利私欲をなくして、公共性をもって事に当たる、「無私の公共性」を害するもの、それが嫉妬というものです。この嫉妬というものを、人々からなくさなくては、本当の自覚者による政治が成り立たないのです。そして、この嫉妬を絶滅に向かわせるのにも、やっぱり第十条が大切なんです。


我れ既に人を嫉めば、人も亦我れを嫉む。嫉み妬むことの患え、其の極まりを知らず。

 人間というのは、できるだけ自分の醜いところは隠して、いいところを人に見せようとするものです。自分を見たってそうでしょう?だから、他人というのは、よく見えるものなのです。醜いところは見せないように隠しているんだから。
 その見せかけのよいところを見て、それと自分を比べる。そして同じになろうとか、追い越そうとかして、一生懸命背伸びをする。でも、そこには限界がある。そこで、これは勝ち目がないな、かなわないな、と思うと、今度は相手を引き下げようとする。この心理が嫉妬っていうものです。
 そういうことが人と人との間でお互いに起ってくると、これはエスカレートして、きりがなくなるのです。


所以に智己れに勝れば則ち悦ばず、才己れに優れば則ち嫉妬む。

 あの人は智慧も才能も私より勝れている。と思って、それをなんとか引き下げてやろうと嫉妬心が働く。これ、強烈なエゴですね。嫉妬心のもとは強烈な我執なんです。さっきから言っている、私利私欲を捨てた、「無私」ということとは正反対です。これじゃあ政治の世界は根底から覆されてしまいます。ああ、恐ろしい!
 本当は人を尊ぶことが、人から尊ばれる一番の近道。これ人生の鉄則なんですが、愚かな人間は、人に尊ばれたいという気持ちから、嫉妬に走ってしまう。この嫉妬がどんどんエスカレートしていくと、もう盲目的になって、本当のことがまったく見えなくなってしまいます。そして、落ちるところまで落ちて、初めて気づくのです。一体私はなにをやっているんだ?と・・・。これこそがターニングポイントですけどね。


是を以て五百歳の後、乃し賢に遇わしむとも、千載にしても以て一りの聖を待つこと難し。

 賢人は五百年に一人しか現れない。聖人は千年に一人しか現れない。なぜだと思いますか?これは嫉妬の為す業です。みんなで足を引っ張り合うからです。嫉妬とはこれだけ恐ろしいものです。本当はこの賢聖のことばに耳を傾けることで、嫉妬から人は救われていくのに、逆に嫉妬は賢聖を排除してしまうんです。
 だからさっき言ったように、早く嫉妬の盲目性に気づいて、ああ、わからない!もう私の力ではどうにもならない!となって、賢聖のことばに耳を傾けることです。そうすれば智慧の光に出会うことができます。その光を受けたら、必ず身も心もだんだんほぐされて柔らかくなっていくのです。そこにやっと平和の兆しが見え始めます。


其れ賢聖を得ずば、何を以てか国を治めん。

 真の政治は賢人、聖人でなければ実現できません。そのためにも、なんとかして、人々からこの嫉妬心というものを取り除きたいのです。ほらほら、また他人事だと思って聞いているでしょう?あなたのことですよ。
 例えば誰かが立派な事をした。心から喜べますか?どこかで、「私だって・・・」とか、「あの人はこういうところが恵まれてるからできたんだ」とか、妬ましいことを考えていませんか?反対に何かしようと思い立ったとき、「でも、こんなことしたら思い上がった人だと思われるんじゃないかな?」とか、「妬まれたらやっかいだからやめとこう」とか考えていませんか?それだけ嫉妬心というのは、私たち人間にはつきものなんです。
 そしてこのしつこい嫉妬心を自分の心から追い出すには、強烈な教えが必要です。この教えにふれることで、この嫉妬心から解放されるのです。どうかどうか、この教えを聞いて、嫉妬心から解放された真の政治家が現れてくれることを、私は切に切に願うのです。それによって、真の平和な国家の実現に向かうことができるからです。


第十五条 死の覚悟(怨恨に関して)


私を背きて公に向くは、是れ臣の道なり。

 「和」の政治を実現するためには、どうやってこのしつこい「私」というものを捨てることができるか?それが問題なんですよ~!


凡そ人、私有るときは必ず恨有り、憾有れば必ず同おらず、同おらざれば則ち私を以て公を妨ぐ。

 人間の世界では、「利己心」というものが完全に満たされることはありません。もしも、自分のことを自慢ばかりしている人がいたらどうですか?「ああ、また自慢話か・・・」とうんざりしませんか?初めのうちは「それはすごいですね~」なんておべんちゃらを言って聞いていたとしても、そのうち、なんとなく話を変えたり、その人が近づいてくると、「ああ、あの人の自慢話は聞きたくない。」と、くるっと逃げるようになるでしょう?
 利己心の強い人間は、他人の利己心にも敏感。他人の利己心を嗅ぎつけると、「その手にのるか!」「他人の利己心なんて満たしてやるものか!」と意地悪が働いちゃう。だから、その人の利己心は充分に満たされるということはないんです。
 こうなると、自慢して褒めて欲しかった人は、おもしろくない。その満たされないところに、不平不満や怒りが起こる。もっと言えば、自分の利己心を満たすのに、障害となる人がいると、そこに恨みが起こる。例えば仕事が速いことを自慢にしていた人の前に、もっと速い人が現れたらおもしろくないでしょう?そんな人同士仲良くすることは難しいでしょう?バチバチ火花が散っちゃうでしょう?この恨みの感情は人間関係をギスギスさせる。これでは仲間と調和的に仕事をすることはできないでしょう?でも、これが私たち人間の実態なんです。他人事じゃないんですよ。


憾起れば則ち制に違い法を害る。

 でもね、エゴとエゴとがぶつかり合い、物事を客観的に見ることができなくなって、主観的な独断で仕事が進められるところに、「和」の世界を実現することはできません。それでは公共の事業を成すことはできません。


故れ初めの章に云えらく、上下和い諧おれと、其れ亦是の情なるかな。

 初めに第一条でお話した、私の理想とする「和」の世界は、政治において、背私向公として実現されるのです。叩かれても叩かれても、すぐに思い上がって頭をもたげてくる、この利己心との戦いです。それを打ち砕いて「公」の中へ入っていく。「私」を捨てるのは、覚悟のいることなんです。


第十六条 自然の法則(自然に関して)


民を使うに時を以てするは、古の良き典なり。

 人民というのはもともと公けのものです。国家の公共的事業への協力も、この公けの原則に従わなければいけません。その中でも、「時」ということに関してお話しましょう。物事を成就させるには、この時を選ぶことも大切なことなんです。これも人々を尊ぶ気持ちからくる当然のことなんですよ。


故れ冬の月には間有り、以て民を使う可し。春従り秋に至るまでは、農桑の節なり、民を使う可からず。

 自然は一つの公けのもの。この自然の法則に従うことは、一つの公けの法則に従うこと。例えば農家にとって、春から秋は忙しい。こんなときに協力を強いるよりも、仕事のない冬に協力をお願いする方が無理のない自然なことです。それは農家の人の身になってみればわかることでしょう?


其れ農せざれば何をか食わん、桑せざれば何をか服む。

 私たちの生活には衣食住は欠かせません。例えば私たちが毎日食べるお米はお百姓さんが作ってくれている。そのおかげで私たちは毎日おいしいお米を食べることができる。お米作りには欠かせない作業と時期がある。その大切な時期に、仕事に専念できるように心を配ることです。それを無視して、何か他のことに、協力を強いたりしたら、お百姓さんの反発をかうことになります。
 こうしてこちらの都合を優先するのでなくて、自然の法則に従うこと、一面的に事を進めるのでなくて、全体を見て、時を見計らうこと。「ようし、やるぞ!」という気持ちになるのを見計らって事を行うことができれば、「時」というものが大きなエネルギーになるでしょう。


第十七条 宜しく論うべし(論議に関して)


夫れ事は独り断む可からず、必ず衆と与に宜しく論うべし。

 ここでは、「論議」ということに関して「無私の公共性」を明らかにしましょう。「無私の公共性」を実現するには、よくよく話し合うことです。独断的、独裁的政治家が勝手に事を決めていってしまうのではなくてね。


少けき事は是れ軽し、必ずしも衆とす可からず。

 話し合いが大事と言っても、何から何まで話し合っていては、いくら時間があっても足りません。どうでもいいようなささいなことは、いちいちみんなの意見を聞く必要もないのです。例えば毎食の献立を、家族全員の意見をいちいち聞いて決めるなんて大変でしょう?例えばお母さん(炊事担当者)が、みんなの好みや栄養のバランスを考えて決めればよいことでしょう?


唯大きなる事を論うに逮びては、若し失あらむかと疑う。故れ衆と与に相弁うるときは、辞則ち理を得ん。

 大きな事、重大なことは、よくよく論議することです。論議というのは、聞くということ。それは決して優秀な人の意見ばかりを聞くことではありません。どんな人の声にも耳を傾けることです。そして、各方面から、多くの人々の意見を、よくよく検討して話し合うのです。そこに表われてくる真理にみんなで従っていくのです。解決できないことも、みんなの声を聞きながら一歩一歩前進していくのです。
 例えば家族のために家を建てる。どこにどんな家を建てるか、お父さんが一人で勝手に決めるより、お父さんもお母さんも子どもたちも、みんなで話し合って、みんなの希望になるべく沿うように考えた方が、いい家になると思いませんか?例えすべてのことが全員の希望通りにならなくても、そこにはいつのまにか「和」ができるでしょう?


終わりに・・・


 聖徳太子が摂政として政治を行った30年間、それまで皇位継承などをめぐって絶えなかった争いごとはほとんど起こらず、日本は大きく発展したといわれる。この十七条の憲法を読んだだけでも、私はすごくそのことに納得してしまう。私は歴史や仏法の専門家ではないので、わかってないことがいっぱいあるかもしれないけど、でも、これだけは言える。いろんな社会で上に立つ人が、聖徳太子の十七条の憲法を実践したら、きっと聖徳太子が願われたような「和」の世界が実現する。人々が生き生きする。「和」っていうのはハーモニーなんだな。ハーモニーっていうのは、ひとつひとつの音が響き合ってできる。組み合わせによって、いろんなすてきな響きができる。
                            二〇一七.一〇.二九
   







 



 
 
 

         
 



もしも今ここに聖徳太子がいたら

2017年12月17日 発行 初版

著  者:ポチ
発  行:ポチ出版

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