「文字による文字のための文字のサイト」type.centerが、文字にまつわる小説・随筆などをまとめた「文字文学」のシリーズ第3弾。収録作品は、「『の』の字の世界」佐藤春夫/「左ぎっちょの正ちゃん」小川未明/「みじかい木ペン」宮沢賢治/「筆」斎藤茂吉/「字餘りの和歌俳句」正岡子規/「人生・文章習練の書」恩地考四郎/「算盤が恋を語る話」江戸川乱歩/「鉛筆のシン」夢野久作/「僕の読書法」織田作之助/「触覚について」宮城道雄/「校正後に」芥川龍之介の11篇。解説は出宰漱太郎。
───────────────────────
───────────────────────
type.center 編
うたちゃんは、三人兄弟の末で、来年からは幼稚園へ行こうというのですが、早くから、自分ではお姉ちゃん気どりで「えいちゃん」「えいちゃん」と、自分をよんでいます。「えいちゃん」とは、ねえちゃんのかたことなのです。
うたちゃんは、「えいちゃん」だけに、二つ上のなき虫の兄がなくと、すぐ手ぬぐいを持って行って、なみだをふいてやったり、頭をさすったり、まことによく気のつく、りこうな子なのです。それだのに、どうしても字をおぼえません。なき虫の兄さんの方は、うたちゃんの年ごろには、だれも少しも教えないのに、野球かるたで、平がなはすっかり読み書きをおぼえ、それからは、すもうの名まえといっしょに、その本字までたくさんおぼえていたものです。兄弟でも、これほどちがうものか。うたちゃんも、今にはひとりでおぼえるだろう、といっていても、なかなかそのけぶりもありません。うたちゃんは、え本でもなんでも、あけてみてはすぐおもしろいお話をこしらえて、みなひとりで読んでしまうのです。これでは、まるで字の必要もないわけなのだ、と気がつきました。それにしても、自分の名まえぐらい書けないではようち園でもこまるだろう。
ちょっとためしに、名まえの三字だけでもおぼえさせて見よう、と「う」の字から教えはじめたが、やっぱりだめなのです。二、三日かゝって、やっと読み方はおぼえたが、書くことはどうしてもだめなので、あきらめて「の」の字を教えはじめました。「う」の字の下を「の」のように書くのに気がついたからです。「の」の字を、はじめはまるい字とよんで、これを読むことはすぐおぼえましたが、書くのは、逆の方向にまげたり、しっぽの方から頭へもって行ったり、どうしてもだめでしたが、三日ほどしたら、どうやらそれらしい字ができはじめました。書きはじめても、読み方をわすれてはいけない、と書くけいこをさせながらも、え本や学校の本などを出してきて、うたちゃんに「の」の字をさがし出させているうちに、兄さんの野球の雑誌からも、お父さんの新聞のうしろからも、うたちゃんは「の」の字さえ見れば、きっとひろい出すようになり、書くこともだんだん上手になりました。
うたちゃんの世界は、今や「の」の字の世界になりました。新聞には、大きいのや小さいのや「の」の字はどっさり。うたちゃんには、新聞も「の」の字ばかりです。お兄さんのまわすコマが、「の」の字を書いているし、コマのヒモも、おえんがわで「の」の字になっています。お庭のカタツムリは「の」の字をしょって歩いているし、うたちゃんの夜具のカラクサもようも、あちらむきやこちらむきの「の」の字が一ぱいです。お兄さんの頭の上に、だれか「の」の字を書いているというのを見ると、つむじのことなのです。お庭に「の」の字が生きて動いていた、というので、ついて行って見ると、ミミズがいたので、みんなでわらいました。
みんながわらったので、うたちゃんは、ひどくしょげてしまったので、わたしは
『ほんとうに「の」の字が生きて、ねんねしていたね』
と、うたちゃんを、なぐさめてやってからいいました。
『うたちゃん、字は「の」の字のほかにもまだたくさんあるのです。うたちゃんの「う」の字でも、「た」の字でも、ね。みんなおぼえますか』
うたちゃんは、大きくうなずいた。うたちゃんは、一字おぼえて自信ができ、おもしろくなったのでしょう。うたちゃんは、今に字をみなおぼえて、世界中を読むでしょう、きっと。
底本:「定本 佐藤春夫全集 第24巻」臨川書店
2000(平成12)年2月10日初版発行
底本の親本:「読売新聞 夕刊」
1953(昭和28)年10月24日発行
初出:「読売新聞 夕刊」
1953(昭和28)年10月24日発行
入力:焼野
校正:菜夏
2017年9月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
正ちゃんは、左ぎっちょで、はしを持つにも左手です。まりを投げるのにも、右手でなくて左手です。
「正ちゃんは、左ピッチャーだね。」と、みんなにいわれました。
けれど、学校のお習字は、どうしても右手でなくてはいけませんので、お習字のときは妙な手つきをして、筆を持ちました。最初、鉛筆も左手でしたが、字の形が変になってしまうので、これも右手に持つ癖をつけたのです。
お母さんは、困ってしまいました。
「はやく、右手で持つ癖をつけなければ。」と、ご飯のときに、とりわけやかましくいわれました。すると、お父さんが、
「左ききを無理に右ききに直すと、盲になるとか、頭が悪くなるとか、新聞に書いてあったよ。だから、しぜんのままにしておいたほうがいいのじゃないか。」と、おっしゃいました。
こう、話が二つにわかれると、正ちゃんは、いったいどうしたらいいのでしょうか。それで、つまり、学校で字を書くときには、鉛筆や、筆を右手に持ち、またお弁当をたべたり、お家でみんなといっしょに、お膳に向かってご飯をたべるときは、はしを左手で持ってもやかましくいわぬということになったのです。そして、もとより、原っぱで、まりを投げるときは、左ピッチャーで、威張ってよかったのでした。
なんにしても、正ちゃんは、指さきですることは、不器用でありました。鉛筆もひとりでうまく削れません。女中のきよに削ってもらいます。きよは、お勝手のほうちょうで削ってくれます。
「じょうずに、けずっておくれよ。」と、正ちゃんは、自分がけずれないくせに、こういいます。
「はい。」と、きよは、やりかけている仕事をやめて、ぬれた手で、丁寧に、けずってくれました。しかし、そんなときには「ありがとう。」というのを、正ちゃんはけっして忘れませんでした。
もう一つ、手の不器用なことの、例をあげてみましょうか。それは、鼻をかむときでした。
「正ちゃん、ひとりで、鼻をかんでごらんなさい。」と、お母さんが、おっしゃいますと、正ちゃんは、紙を持ってきてかみますが、かえって鼻水をほおになすりつけるのでした。こんなとき、もしお姉さんが見ていらっしゃると、すぐに立ってきて、きれいにかみ直してくださいました。
ある日のこと、正ちゃんは、大将となって、近所の小さなヨシ子さんや、三郎さんたちといっしょに原っぱへじゅず玉を取りにゆきました。そして、たくさんとってきて、材木の積み重ねてある、日のよく当たるところで遊んだのです。
「白いのもあるし、紫色のもあるね。」
「これは、緑色だろう。」
「そう、こんな黒いのもあったよ。」
洋服のポケットや、前垂れのポケットの中にいれて、チャラ、チャラと鳴らしていましたが、いつのまにか、ヨシ子さんの姿が見えなくなりました。
「ヨシ子さん、帰ったの。」と、正ちゃんが、ききました。
「お家へ糸を取りにいったんだろう。」と、三郎さんが答えました。
あちらから、ヨシ子さんが、かけてきました。見ると、糸と針を持ってきたのです。
「わたし、頸にかけるのだから、正ちゃん、これを糸にとおしてね。」と、いって、小さなヨシ子さんが頼みました。
ここにいる中で、正ちゃんがいちばん大きかったのです。そして、あとのものは、みんなまだ学校へいっていません。だから、正ちゃんは、大将でした。大将が、下のものに頼まれて、できないということは、いえませんでした。
「ああ、とおしてあげる。」と、いって、正ちゃんは、材木の上に腰をかけながらヨシ子さんの持ってきた、糸と針を、自分の太くて、短い指に受け取りました。
「なんだ、まだ針に糸がとおしてないのか、はやく、これをとおしておくれよ。」と、いって正ちゃんは、糸と針を、ヨシ子さんに返したのです。
いちばん小さなヨシ子さんは、もとより針のみぞに糸をとおすことができませんでした。
「じゃ、わたし家へいって、とおしてもらってくるわ。」と、ヨシ子さんは、またかけ出してゆきました。
「三ちゃん、針に糸をとおすことができる。」と、正ちゃんが、ききました。
「できない、正ちゃんは、じゅず玉をとおすことができるの。」と、三郎さんが、ききました。
「ああ、できるよ、ここんとこを通せばいいんだろう。」と、正ちゃんは、じゅず玉の頭をいじっていました。
そこへ、ヨシ子さんが、針に糸をとおしてもらって、もどってきました。
不器用な正ちゃんが、これから、いくつも、いくつも、針でじゅず玉をとおさなければならないのです。鼻をぐすぐす鳴らしながら、下を向いて、短い、太い指で、やっと三つ、四つとおしました。
「あ、いたい。」と、正ちゃんは、叫びました。
「指をさしたの。」と、ヨシ子さんがのぞきました。
「もう、あぶないから、およしよ。」と、三郎さんが、いいました。
けれど、正ちゃんは、だまって下を向いて、じゅず玉を通していました。
「正ちゃん、横ちょを通してはいや、まんなかをとおしてね。」と、ヨシ子さんが、じゅず玉のまんなかを通すように、注意しましたけれど正ちゃんは、きわめて不器用でした。
この間に、あちらの往来をチンチン、ガンガンと鳴り物をならして、ちんどん屋がとおりました。三郎さんも、ヨシ子さんも、いってみたかったのだけれど、正ちゃんが、いっしょうけんめいで、じゅず玉をとおしているのでゆくことができませんでした。
そのつぎには、カチ、カチと拍子木を鳴らして紙芝居が、原っぱへ屋台をおろしたのです。
たくさん子供たちが、わいわいと集まってきました。ヨシ子さんも、三郎さんも、我慢がしきれなくなって、とうとう、そっちへかけ出していってしまいました。
しかるに、正ちゃんだけは、そんなことも耳にはいらないように、じゅず玉をとおしていました。
じゅず玉の輪ができ上がると、正ちゃんはよろこんで躍り上がりました。
「できたよ、ヨシ子さん、できたよ!」
じゅず玉の輪を頭の上でふりまわしながら、みんなのいる方へ、自分もかけてゆきましたが、ふと、なにを思ったか、正ちゃんは、かけるのをやめて、立ち止まりました。
「僕、これを、うちへ持っていって、お母さんや、お姉さんに、見せてやろうかしらん。そして、あとで、ヨシ子さんにやればいいのだ。」
しかし、正ちゃんには、もう、自分で美しいじゅず玉の輪が造れる自信ができました。
「もっと、もっと、きれいなのを造って、お姉さんにあげるからいい。」と、また、かけ出しました。
* * * * *
そこで、私は、正ちゃんのために、いいます。
「正ちゃんは、小さいヨシ子さんに頼まれて、とうとう、美しいじゅず玉の輪を造ったのです。このつぎのときには、もっと美しくできるにちがいありません。これから、正ちゃんを不器用などといって、笑ってはいけませんよ。」
底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社
1977(昭和52)年8月10日第1刷発行
1983(昭和58)年1月19日第6刷発行
※表題は底本では、「左ぎっちょの正ちゃん」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:仙酔ゑびす
2012年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
キッコの村の学校にはたまりがありませんでしたから雨がふるとみんなは教室で遊びました。ですから教室はあの水車小屋みたいな古臭い寒天のような教室でした。みんなは胆取りと巡査にわかれてあばれています。
「遁げだ、遁げだ、押えろ押えろ。」「わぁい、指噛じるこなしだでぁ。」
がやがやがたがた。
ところがキッコは席も一番前のはじで胆取りにしてはあんまり小さく巡査にも弱かったものですからその中にはいりませんでした。机に座って下を向いて唇を噛んでにかにか笑いながらしきりに何か書いているようでした。
キッコの手は霜やけで赤くふくれていました。五月になってもまだなおらなかったのです。右手のほうのせなかにはあんまり泣いて潰れてしまった馬の目玉のような赤い円いかたがついていました。
キッコは一寸ばかりの鉛筆を一生けん命にぎってひとりでにかにかわらいながら8の字を横にたくさん書いていたのです。(めがね、めがね、めがねの横めがね、めがねパン、くさりのめがね、)ところがみんなはずいぶんひどくはねあるきました。キッコの机はたびたび誰かにぶっつかられて暗礁に乗りあげた船のようにがたっとゆれました。そのたびにキッコの8の字は変な洋傘の柄のように変ったりしました。それでもやっぱりキッコはにかにか笑って書いていました。
「キッコ、汝の木ペン見せろ。」にわかに巡査の慶助が来てキッコの鉛筆をとってしまいました。「見なくてもい、よごせ。」キッコは立ちあがりましたけれども慶助はせいの高いやつでそれに牛若丸のようにうしろの机の上にはねあがってしまいましたからキッコは手がとどきませんでした。「ほ、この木ペン、この木ペン。」慶助はいかにもおかしそうに顔をまっかにして笑って自分の眼の前でうごかしていました。「よごせ慶助わあい。」キッコは一生けん命のびあがって慶助の手をおろそうとしましたが慶助はそれをはなして一つうしろの机ににげてしまいました。そして「いがキッコこの木ペン耳さ入るじゃぃ。」と云いながらほんとうにキッコの鉛筆を耳に入れてしまったようでした。キッコは泣いて追いかけましたけれども慶助はもうひらっと廊下へ出てそれからどこかへかくれてしまいました。キッコはすっかり気持をわるくしてだまって窓へ行って顔を出して雨だれを見ていました。そのうち授業のかねがなって慶助は教室に帰って来遠くからキッコをちらっとみましたが、またどこかであばれて来たとみえて鉛筆のことなどは忘れてしまったという風に顔をまっかにしてふうふう息をついていました。
「わあい、慶助、木ペン返せじゃ。」キッコは叫びました。「知らなぃじゃ、うなの机さ投げてたじゃ。」慶助は云いました。キッコはかがんで机のまわりをさがしましたがありませんでした。そのうちに先生が入って来ました。
「三郎、この時間うな木ペン使ってがら、おれさ貸せな。」キッコがとなりの三郎に云いました。
「うん、」三郎が机の蓋をあけて本や練習帖を出しながら上のそらで答えました。
課業がすんでキッコがうちへ帰るときは雨はすっかり晴れていました。
あちこちの木がみなきれいに光り山は群青でまぶしい泣き笑いのように見えたのでした。けれどもキッコは大へんに心もちがふさいでいました。慶助はあんまりいばっているしひどい。それに鉛筆も授業がすんでからいくらさがしてももう見えなかったのです。どの机の足もとにもあのみじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆はころがっていませんでした。新学期からずうっと使っていた鉛筆です。おじいさんと一緒に町へ行って習字手本や読方の本と一緒に買って来た鉛筆でした。いくらみじかくなったってまだまだ使えたのです。使えないからってそれでも面白いいい鉛筆なのです。
キッコは樺の林の間を行きました。樺はみな小さな青い葉を出しすきとおった雨の雫が垂れいい匂がそこらいっぱいでした。おひさまがその葉をすかして古めかしい金いろにしたのです。
それを見ているうちに、
(木ペン樺の木に沢山あるじゃ)キッコはふっとこう思いました。けれども樺の木の小さな枝には鉛筆ぐらいの太さのはいくらでもありますけれども決して黒い心がはいってはいないのです。キッコはまた泣きたくなりました。
そのときキッコは向うから灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおじいさんが大へん考え込んでこっちへ来るのを見ました。(あのおじいさんはきっと鼠捕りだな。)キッコは考えました。おじいさんは変な黒い沓をはいていました。そしてキッコと行きちがうときいきなり顔をあげてキッコを見てわらいました。「今日学校で泣いたな。目のまわりが狸のようになっているぞ。」すると頭の上で鳥がピーとなきました。キッコは顔を赤くして立ちどまりました。
「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」
鳥がまた頭の上でピーとなきました。するとおじいさんは顔をしかめて上を向いて「おまえじゃないよ、やかましい、だまっておいで」とどなりました。
すると鳥はにわかにしいんとなってそれから飛んで行ったらしくぼろんという羽の音も聞え樺の木からは雫がきらきら光って降りました。「いってごらん。なぜ泣いたの。」
おじいさんはやさしく云いました。「木ペン失ぐした。」キッコは両手を目にあててまたしくしく泣きました。「木ペン、なくした。そうか。そいつはかあいそうだ。まあ泣くな、見ろ手がまっ赤じゃないか。」
おじいさんはごそごその着物のたもとを裏返しにしてぼろぼろの手帳を出してそれにはさんだみじかい鉛筆を出してキッコの手に持たせました。キッコはまだ涙をぼろぼろこぼしながら見ましたらその鉛筆は灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆でした。キッコはそこでやっぱりしくしく泣いていました。「ははああんまり面白くもないのかな。まあ仕方ない、わしは外に持っていないからな。」おじいさんはすっと行ってしまいました。
風が来て樺の木はチラチラ光りました。ふりかえって見ましたらおじいさんはもう林の向うにまがってしまったのか見えませんでした。キッコはその枝きれみたいな変な鉛筆を持ってだまってかくしに入れてうちの方へ歩き出しました。
次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとああ木ペンを持っていないなと思いました。それからそうだ昨日の変な木ペンがある。あれを使おう一時間ぐらいならもつだろうからと考えつきました。
そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
48×62= 「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云いました。「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまいました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないような気がして呆れてしばらくぼんやり見ていました。「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云いました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288と二けた目までのとこへ書いてしまいました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまっていましたら先生がまた「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云いました。またはじまるなと思っていましたらやっぱり、もうただ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまいました。
さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていいかわからないでただもうお湯へ入ったときのようにじっとしていましたら先生がむちを持って立って「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云いました。〔キッコは筆記帳をもってはねあがりました。〕そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまま自分の席でもじもじしていました。キッコは9の字などはどうも少しなまずのひげのようになってうまくないと思いながらおりて来たときようやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもじもじしていました。
先生はしばらくたって「よし」と云いましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコのを説明しました。
「よろしい、大へんよくできました。」キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。(もう算術だっていっこうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳とだって国語帳とだって雑作なく書ける)
キッコは思いながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまうのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見ていましたがふと算術帳と理科帳と取りちがえて書いたのに気がつきました。この木ペンにはゴムもついていたと思いながら尻の方のゴムで消そうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るように二、三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまいました。さあ、キッコのよろこんだことこんないい鉛筆をもっていたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまず家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けたぐらいの六かしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがいない。僕はまず立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまうと困るなあ、こう考えたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまいました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしているか先生がいま何を云っているかもまるっきりわからないという風でした。
その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎようと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまいもうお話を自分でどんどんこさえながらずんずんそれを絵にして書いていきました。その絵がまるでほんもののようでしたからキッコの弟のよろこびようと云ったらありませんでした。
「さあいいが、その山猫はこの栗の木がらひらっとこっちさ遁げだ。鉄砲打ぢはこうぼかげだ。山猫はとうとうつかまって退治された。耳の中にこう云う玉入っていた。」なんてやっていました。
そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんとうにこのごろ勉強のために出来るようになったと云ったのでした。二学期には級長にさえなったのでした。その代りもうキッコの威張りようと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきっとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行こうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなっているのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
算術の時間でした。「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云いました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。とうとうみんなあげました。キッコも仕方なくあげました。「キッコさん。」先生が云いました。
キッコは勢よく立ちましたがあともう云えなくなって顔を赤くしてただもう〔以下原稿なし〕
底本:「イーハトーボ農学校の春」角川文庫、角川書店
1996(平成8)年3月25日初版発行
底本の親本:「新校本 宮澤賢治全集」筑摩書房
1995(平成7)年5月
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2009年8月23日作成
2011年11月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
『書』のことになると、中華の人々は昔から偉い。シンの王右軍一人の存在だって、もはや沢山だといふ気持がするのに、ぞくぞくとその後に偉い人が出て居る。しかし私は書のことは分からずにしまつた。蘭亭序だつて、右軍がどの程度に偉いのか、つひに分からずにしまつた。そこで、私は書のことなどは論じられない。
私はある年、中国の北平に遊び、ルリシヤンといふ所を散歩した。そこには、賀蓮青だとか、戴月軒だとかいふ筆匠があつて、日本人の旅人がよく土産に筆を買つたものだ。いはゆる日本人向きの筆匠で、いくらか和臭を帯びたものだつたやうである。
しかるに私はある日そこの路地の古ぼけた店で、一本の小さい羊毫筆を手に入れた。それを商つて居る翁は、ケンリユウの世の物だと云つた。
ヨウロツパを旅した人は、スイスのチユリヒあたりの時計店に貼紙があり、日本語で、『日本の皆様には割引します』と書いたのが見あたつたものである。その時計に和臭があつたかどうか不明であるが、ルリシヤンの筆匠のは、幾分和臭があつたやうである。
私の買つた、古ぼけた、小さい羊毫は、その時和臭が無いやうな気がしたので、それを日本へ持つて帰つた。
北平に行つたのは、私の四十代の時であるから、六十ぐらゐになつて、閑にでもなつたら、『書』でももてあそんで見ようか。書道複製の安物でも買つて、ながめて居ることにしようか。その時にケンリユウ小筆が役に立つだらう。さうおもふと、何だか楽しみである。
しかるに、私に閑が来ず、光陰矢のごとくにして、私は五十になり、六十になり、戦争になつた。中国の文章にも、佳山幽水のやうな間にあつて字を書くといふことがある。戦争がはじまつて、今後どうなるか分からぬといふときに、書のことをいぢくつて居られるわけは無い。
戦が劇甚となり、空襲が恐ろしくなつて来たときに、私は地方へ逃げて行つた。そのときのあわただしい荷物の中に、くだんの小筆も入つてゐて、私はナフタリンなどを入れて居た筈であつた。
昭和二十年の夏に、やぶれて終戦となつた。昭和二十一年の一月すゑ、私は大石田といふところに移動したが、筆などを使ふ機会にはならなかつた。そのうち私は肋膜炎にかかつて苦しんだが、幸に癒つて、九月一ぱいは寝たり起きたりしてゐた。
二十一年は暮れて、二十二年になつた。けれども時勢は刻々に変化して、汽車の旅も難儀で出歩くこともむつかしくなつた。
併しながら私もさう何時迄もべんべんと此処に居るといふこと出来ず、昭和二十二年の十一月、大石田を立つて、帰京の途にのぼつた。その時以来、東京で満二年を経過したが、今年の九月、これ迄省みないでゐた荷を片附けて居ると、彼のケンリユウ小筆が、虫に食はれ、羊毛のところがすっかり無くなつて、まる坊主になつて出て来た。ナフタリンの気が無くなつた状態につけ込んで、虫の奴が攻勢に出たものと見える。空襲にも助かつたこの小筆が、一夜のうち(多分さうだらう)に一昆虫のために、坊主にされてしまつた。
底本:「日本の名随筆27 墨」作品社
1985(昭和60)年1月25日第1刷発行
1997(平成9)年5月20日第17刷発行
底本の親本:「齋藤茂吉全集 第七巻」岩波書店
1975(昭和50)年6月初版発行
「齋藤茂吉遺墨集成」講談社
1976(昭和51)年初版発行
※促音の大書き、小書きの混在は底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年5月30日作成
2011年4月15日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
短歌三十一文字と定まりたるを三十二文字乃至三十六文字となし俳諧十七字と定まりたるを十八字乃至二十二三字にも作る事あり。これを字餘りと云ふ。而して字餘りを用うるは例外の場合にて常に用うべきにあらずとは歌人俳諧師等が一般に稱へ來れる掟なり。されど此掟程謂れなき者はあらじ。
三十一文字と定め十七文字と定めし事もと是れ人間が勝手につくりし掟なればそれに外れたりとて常に用うべきにあらずとは笑ふべき謬見なり。字餘りと云ふ文字を用うればこそ此謬見も起るなれ、試みに字餘りと云ふ文字の代りに三十二字の和歌三十三字の和歌十八字の俳句十九字の俳句と云ふが如き文字を用ゐなば字餘りは是れ字餘りにあらずして一種新調の韻文なる事を知るに足らん。新調の韻文を作るに何の例外と云ふ事あらんや。
或人曰く字餘りの和歌俳句は句調あしく口にたまる心地す故に好んで用うべからずと。稍〻ことわりあるに似たれど再び考ふればこれも亦謂れなき事なり。句調惡しとか口にたまるとか言ふは三十一字又は十七字を標準としての上にて言ふものにして例へば十七字卅一字のつもりにて吟ぜし者が十九字卅三字等ならんか自ら句調惡しく口にたまらざるを得ず。是れ其句切りの長短、發音の伸縮など總て三十一字十七字に適して三十一字十七字以外に適せざればなり。初めより十八九字又は三十二三字の覺悟にて之を吟ずるか若しくは虚心平氣にて敢て三十一字十七字と豫定せずして之を吟じなば句調のあしき處もあらざるべし。先づ入る者は主と爲るとか十七字三十一字と古き世より定まれるが故に耳も口も此調に許り馴れたるものとおぼし。
さりながら習慣の外に句調の善惡と言ふ事なきに非ず。例へば「五」「七」と云ふは調子善きものなれば漢詩には「五言」「七言」多く日本には「五七調」又は「七五調」多きなるべし。されどもこれを以て唯一の好調となすは固より僻見のみ。
世人多くは曰く好んで字餘りの句を爲すは徒に新を弄し奇を衒する者なりと。何の言ぞや。彼等は針小の眼孔を以て此貴重なる韻文を自己の狹隘なる感情の範圍内に置かんと欲する者に非るを得んや。今少し眼を開いて見よ。支那古詩の結尾には一句十餘字の長句あるを見るべし。是れ其結末を振はしむる爲めには最も必要なるなり。これと同じく和歌俳句の上にも語勢を強くする爲に字餘りを用うる事已むを得ざる者にしてある人の言ふが如く新を弄し奇を衒するに非るなり。
況んや三十一字の和歌十七字の俳句は古來より言ひ古して大方は陳腐に屬し熟套に落ちし今日少くとも三十二三字又は十八九字の新調を作るの必要を見る。余は向後先づ此一點より漸次陳套を脱せんとするの志あり。彼の卑俗なる都々一すら初めは七、七、七、五のみの句調なりしを後には五、七、七、七、五の句調を爲し又は七、七、八、五の句調を爲すに至れり。都々一此進歩を爲す。歌人俳諧師たる者何ぞ猛省せざるや。
和歌の字餘りには古來遵奉し來れる法則あり。即はち「ア」「イ」「ウ」「オ」の四母音ある句に限り字餘りを許したるなり。是れ三十一字を標準としたる考へよりすれば至當の事なれども前に述べし如く字餘りを姑息なる例外物となさずして一種の新調と爲す上は母音子音の區別はあながちに之れを言ふを要せざるなり。
〔日本 明治27・8・20〕
底本:「子規全集 第七卷 歌論 選歌」講談社
1975(昭和50)年7月18日第1刷発行
初出:「日本」
1894(明治27)年8月20日
入力:川向直樹
校正:山口美佐
2004年11月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
百間の随筆を褒めるといふことは現今の常識だ。今更ほめるまでもないことであるが、その褒める仲間に馳せ参ずることをむろん躊躇するものではない。一体僕は悪い癖があつて、人がほめたり、又本であれば売れるといふものを、ただそれだけの理由で蔑視して了ふのである。悪い癖だがどうもなほらない。そこで百間、出版界に随筆時代を到来させた百間なるものをむろん読まうとは思はなかつたのだつた。たとひ旧友室生犀星が口を極めて褒めやうとも、よまうとは思はなかつた。がある雑誌で、偶然よんで、成程と思はないわけにゆかなかつた。やはり世評といふものは、ろくでもないものにも感ずるが、いいものにも敏感なものだといふことを感じさせられたのである。
百間氏の文章は、よけいなものをすつかりとつて了つた精髄的なものである。従来随筆といへば美文の標本みたいなものであることが慣はしであつたが、百間出でて之を更改して了つたといつていい。淡々として説き去るその文は併し凡庸の言ではない。つきすすめた心境にあつてのみ言はるべき際涯のものであることその文の虚飾を去つたるが如きである。まへに僕の「書窓」に百間お伽噺集「王様の背中」紹介辞に、虚無的肯定といふ変な字を用ひたが、之をいま改めやうとは思はない。謂ふ意味は、すべてを非定しつつ又新らしくそれを肯定するといふやうな捨身で積極的な心意である。百間随筆をよむと、どうしても僕はそうしたものを感ずる。人生の悲痛に徹した後の心であると思ふ。ほんとうの大人の文章であると思ふし、同時に「大人」に毒されない人間の素地の心だと思ふ。率直にしかも所謂淡々でなしに、淡々と語るこの文章の味は容易に出来るものではない。そしてこの様風は新らしい文章の指向を示し、又大勢を導いた。詩家によつて錬磨されつつある新らしい字句の使用法と共に、この簡明直截な文章法は将来発展してゆくに違ひない。此の百間随筆がいま私の尊敬する所の出版者によつて纏められるといふことは何よりの喜びだ。これは凡そ文章に心ある人、いやそればかりでなく人生習練の心をもつ人の誰もが読むべきものだと思ふのである。
底本:「囘想 内田百間」津輕書房
1975(昭和50)年8月31日初版発行
※昭和11年11月から12年4月まで版画荘から発行された「全輯百間随筆」の内容見本に掲載された推薦文です。
入力:磯貝まこと
校正:岡村和彦
2016年6月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
○○造船株式会社会計係のTは今日はどうしたものか、いつになく早くから事務所へやって来ました。そして、会計部の事務室へ入ると、外とうと帽子をかたえの壁にかけながら、如何にも落ちつかぬ様子で、キョロキョロと室の中を見まわすのでした。
出勤時間の九時に大分間がありますので、そこにはまだたれも来ていません。沢山並んだ安物のデスクに白くほこりのつもったのが、まぶしい朝の日光に照し出されているばかりです。
Tはたれもいないのを確めると、自分の席へはつかないで、隣の、彼の助手を勤めている若い女事務員のS子のデスクの前に、そっと腰をかけました。そして何かこう盗みでもする時の様な恰好で、そこの本立ての中に沢山の帳簿と一緒に立ててあった一挺の算盤を取出すと、デスクの端において、如何にもなれた手つきでその玉をパチパチはじきました。
「十二億四千五百三十二万二千二百二十二円七十二銭なりか。フフ」
彼はそこにおかれた非常に大きな金額を読み上げて、妙な笑い方をしました。そして、その算盤をそのままS子のデスクのなるべく目につき易い場所へおいて、自分の席に帰ると、なにげなくその日の仕事に取かかるのでした。
間もなく、一人の事務員がドアを開けて入って来ました。
「ヤア、馬鹿に早いですね」
彼は驚いた様にTにあいさつしました。
「お早う」
Tは内気者らしく、のどへつまった様な声で答えました。普通の事務員同志であったら、ここで何か景気のいい冗談の一つも取交すのでしょうが、Tの真面目な性質を知っている相手は気づまりの様にそのまま黙って自分の席に着くと、バタンバタン音をさせて帳簿などを取出すのでした。
やがて次から次へと、事務員達が入って来ました。そして、その中にはもち論Tの助手のS子もまじっていたのです。彼女は隣席のTの方へ丁寧にあいさつしておいて、自分のデスクに着きました。
Tは一生懸命に仕事をしている様な顔をして、そっと彼女の動作に注意していました。
「彼女は机の上の算盤に気がつくだろうか」
彼はヒヤヒヤしながら、横目でそれを見ていたのです。ところが、Tの失望したことには、彼女はそこに算盤が出ていることを少しも怪しまないで、さっさとそれを脇へのけると、背皮に金文字で、「原価計算簿」と記した大きな帳簿を取出して、机の上に拡げるのでした。それを見たTはがっかりして了いました。彼の計画はまんまと失敗に帰したのです。
「だが、一度位失敗したって失望することはない。S子が気づくまで何度だって繰返せばいいのだ」
Tは心の中でそう思って、やっと気をとり直しました。そして、いつもの様に真面目くさって、与えられた仕事にいそしむのでした。
外の事務員達は、てんでに冗談をいいあったり、不平をこぼしあったり、一日ざわざわ騒いでいるのに、T丈けはその仲間に加わらないで、退出時間が来るまでは、むっつりとして、こつこつ仕事をしていました。
「十二億四千五百三十二万二千二百二十二円七十二銭」
Tはその翌日も、S子の算盤に同じ金額を弾いて、机の上の目につく場所へおきました。そして昨日と同じ様に、S子が出勤して席につく時の様子を熱心に見まもっていました。すると、彼女はやっぱり何の気もつかないで、その算盤を脇へのけてしまうのです。
その次の日もまた次の日も、五日の間同じことが繰返されました。そして、六日目の朝のことです。
その日はどうかしてS子がいつもより早く出勤して来ました。それは丁度例の金額を、S子の算盤において、やっと自分の席へ戻ったばかりの所だったものですからTは少からずうろたえました。若しや、今算盤をおいている所を見られはしなかったか。彼はビクビクしながらS子の顔を見ました。しかし、仕合せにも、彼女は何も知らぬ様にいつもの丁寧なあいさつをして自席に着きました。
事務室にはTとS子ただ二人切りでした。
「今度の××丸はもうやがてボイラーを取つける時分ですが、製造原価の方も大分かさみましたろうね」
Tはてれ隠しの様にこんなことを問いかけました。臆病者の彼はこうした絶好の機会にも、とても仕事以外のことは口がきけないのです。
「ええ、工賃をまぜるともう八十万円を越しましたわ」
S子はちらっとTの顔を見て真面目な口調で答えました。
「そうですか。今度のは大分大仕事ですね。でもうまいもんですよ。そいつを倍にも売りつけるんですからね」
ああ、おれは飛んでもない下品なことをいってしまった。Tはそれに気づくと思わず顔を赤くしました。この普通の人々には何でもない様なことがTには非常に気になるのです。そして、その赤面した所を相手に見られたという意識が、彼のほおを一層ほてらします。彼は変な空せきをしながら、あらぬ方を向いてそれをごまかそうとしました。しかし、S子は、この立派な口ひげをはやした上役のTが、まさかそんなことで狼狽していようとは気づきませんから、何気なく彼の言葉に合づちを打つのでした。
そうして二言三言話しあっている内に、ふとS子は机の上の例の算盤に目をつけました。Tは思わずハッとして、彼女の目つきに注意しましたが、彼女は、ただ一寸の間、その馬鹿馬鹿しく大きな金額を不審相に見たばかりで、すぐ目を上げて会話を続けるのです。Tはまたしても失望を繰返さねばなりませんでした。
それからまた数日の間、同じことが執拗に続けられました。Tは毎朝S子の席に着く時をおそろしい様な楽しい様な気持で待ちました。でも二日三日とたつ内には、S子も帰る時には本立へかたづけて行く算盤が、朝来て見ると必ず机の真中にキチンとおいてあるのを、どうやら不審がっている様子でした。そこにいつも同じ数字が示されているのにも気がついた様です。ある時などは、声を出してその十二億四千うんぬんの金額を読んでいた位です。
そして、ある日とうとうTの計画が成功しました。それは最初から二週間もたった時分でしたが、その朝はS子がいつもより長い間例の算盤を見つめていました。小首を傾けて何か考え込んでいるのです。Tはもう胸をドキドキさせながら、彼女の表情を、どんな些細な変化も見逃すまいと、異常な熱心さでじっと見まもっていました。息づまる様な数分間でした。が、しばらくすると、突然、何かハッとした様子で、S子が彼の方をふり向きました。そして、二人の目がパッタリ出逢って終ったのです。
Tは、その瞬間彼女が何もかも悟ったに相違ないと感じました。というのは、彼女はTの意味あり気な凝視に気づくと、いきなり真赤になってあちらを向いて終ったからです。最も、とり様によっては、彼女はただ、男から見つめられていたのに気づいて、その恥かしさで赤面したのかも知れないのですが、のぼせ上ったその時のTには、そこまで考える余裕はありません。彼は自分も赤くなりながら、しかし非常な満足を以て、紅の様に染まった彼女の美しい耳たぶを、気もそぞろに眺めたことです。
ここで一寸、Tのこの不思議な行為について説明しておかねばなりません。
読む人は既に推察されたことと思いますが、Tは世にも内気な男でした。そして、それが女に対しては一層ひどいのです。彼は学校を出てまだ間もないのではありますけれど、それにしても三十近い今日まで、なんと、一度も恋をしたことがない、いやろくろく若い女と口を利いたことすらないのです。無論機会がなかった訳ではありません。一寸想像も出来ない程臆病な彼の性質が禍したのです。それは一つは彼が自分の容貌に自信を持ち得ないからでもありました。うっかり恋を打あけて、もしはねつけられたら、それがこわいのでした。臆病でいながら人一倍自尊心の強い彼は、そうして恋を拒絶せられた場合の、気まずさはずかしさが、何よりも恐ろしく感じられたのです。「あんないけすかない人っちゃないわ」そういったゾッとする様な言葉が、容貌に自信のない彼の耳許で絶えず聞えていました。
ところが、さしもの彼も今度ばかりは辛抱し切れなかったと見えます。S子はそれ程彼の心を捕えたのです。しかし、彼にはそれを正面から堂々と訴える丈けの勇気は勿論ありませんでした。何とかして、拒絶された場合にも、少しも恥しくない様な方法はないものかしら。卑怯にも彼はそんなことを考える様になりました。そして、こうした男に特有の異常な執拗さを以て、種々な方法を考えては打消し、考えては打消しするのでした。
彼は会社で当のS子と席を並べて事務をとりながらも、そして彼女とはさりげなく仕事の上の会話を取交しながらも、絶えずそのことばかり考えていました。帳簿をつける時も、算盤を弾く時も、少しも忘れる暇はないのです。するとある日のことでした。彼は算盤を弾きながらふと妙なことを考えつきました。
「少し分りにくいかも知れぬが、これなら申分がないな」
彼はニヤリと会心の笑みを浮べたことです。彼の会社では、数千人の職工達に毎月二回に分けて賃銀を支払うことになっていて、会計部は、その都度工場から廻されるタイムカードによって、各職工の賃銀を計算し、一人一人の賃銀袋にそれを入れて、各部の職長に手渡すまでの仕事をやるのでした。その為には、数名の賃銀計算係というものがいるのですけれど、非常に忙しい仕事だものですから、多くの場合には、会計部の手すきのものが総出で、読み合せから何から手伝うことになっていました。
その際に、記帳の都合上、いつも何千というカードを、職工の姓名の頭字で(いろは)順に仕訳をする必要があるのです。始めの内は机をとりのけて広くした場所へそれをただ「いろは」順に並べて行くことにしていましたが、それでは手間取るというので、一度アカサタナハマヤラワと分類して、そのおのおのを更にアイウエオなりカキクケコなりに仕訳る方法をとることにしました。それを始終やっているものですから、会計部のものはアイウエオ五十音の位置を、もう空んじているのです。たとえば「野崎」といえば五行目(ナ行)の第五番という風にすぐ頭に浮ぶのです。
Tはこれを逆に応用して、算盤に表わした数字によって簡単な暗号通信をやろうとしたのです。つまり、ノの字を現わす為には五十五と算盤をおけばよいのです。それがのべつに続いていては一寸分りにくいかも知れませんけれど、よく見ている内には、日頃おなじみの数ですから、いつか気づく時があるに相違ありません。
では彼はS子にどういう言葉を通信したか、試みにそれを解いて見ましょうか。
十二億は一行目(ア行)の第二字という意味ですからイです。四千五百は四行目(タ行)の第五字ですからトです。同様にして三十二万はシ、二千二百はキ、二十二円もキ、七十二銭はミです。即ち「いとしききみ」となります。
「愛しき君」若しこれを口にしたり、文章に書くのでしたら、Tには恥しくてとても出来なかったでしょうが、こういう風に算盤におくのなれば平気です。他のものに悟られた場合には、ナニ偶然算盤の玉がそんな風に並んでいたんだといい抜けることが出来ます。第一手紙などと違って証拠の残る憂いがないのです。実に万全の策といわねばなりません。幸にしてS子がこれを解読して受入れて呉れればよし、万一そうでなかったとしても、彼女には、言葉や手紙で訴えたのと違って、あらわに拒絶することも出来なければ、それを人に吹聴する訳にも行かないのです。さてこの方法はどうやら成功したらしく思われます。
「あのS子のそぶりでは、先ず十中八九は失望を見ないで済むだろう」これならいよいよ大丈夫だと思ったTは、今度は少し金額をかえて、
「六十二万五千五百八十一円七十一銭」
とおきました。それをまた数日の間続けたのです。これも前と同じ方法であてはめて見ればすぐわかるのですが、「ヒノヤマ」となります。樋の山というのは、会社から余り遠くない小山の上にある、その町の小さな遊園地でした。Tはこうしてあい引の場所まで通信し始めたのです。
そのある日のことでした。もう十分暗黙の了解が成立っていると確信していたにも拘わらず、Tはまだ仕事以外の言葉を話しかける勇気がなく、相変らず帳簿のことなぞを話題にしてS子と話していました。すると、一寸会話の途切れたあとで、S子はTの顔をジロジロ見ながら、その可愛い口許に一寸笑を浮べてこんなことをいうのです。
「ここへ算盤をお出しになるの、あなたでしょ。もう先からね。あたしどういう訳だろうと思っていましたわ」
Tはギックリしましたが、ここでそれを否定しては折角の苦心が水のあわだと思ったものですから、満身の勇気をふるい起してこう答えました。
「ええ、僕ですよ」
だがなさけないことに、その声はおびただしくふるえていました。
「あら、やっぱりそうでしたの。ホホ……」
そうして彼女はすぐ外の話題に話しをそらしてしまったことですが、Tにはその時のS子の言葉がいつまでも忘れられないのでした。彼女はどういう訳であんなことをいったのでしょう。肯定の様にもとれます。そうかと思えばまた、まるで無邪気に何事も気づいていない様でもあります。
「女の心持なんて、おれにはとても分らない」
彼は今更の様にたん息するのでした。
「だが、ともあれ最後までやって見よう。たとえすっかり感づいていても、彼女もやっぱり恥かしいのだ」
彼にはそれが満更うぬぼれの為ばかりだとも考えられぬのでした。そこで、その翌日、今度は思い切って、
「二十四億六千三百二十一万六千四百九十二円五十二銭」
とおきました。「ケフカヘリニ」即ち「今日帰りに」という意味です。これで一か八かかたがつこうというものです。今日社の帰りに彼女が樋の山遊園地へ来ればよし、若し来なければ今度の計画は全然失敗なのです。
「今日帰りに」その意味を悟った時、うぶな少女は一方ならず胸騒ぎを覚えたに相違ありません。だが、あのとりすました平気らしい様子はどうしたことでしょう。ああ、吉か兇か、何というもどかしさだ。Tはその日に限って退社時間が待遠しくて仕方がありませんでした。仕事なんか殆ど手につかないのです。
でもやがて、待ちに待った退社時間の四時が来ました。事務室のそこここにバタンバタンと帳簿などをかたづける音がして、気の早い連中はもう外套を着ています。Tはじっとはやる心を押えて、S子の様子を注意していました。若し彼女が彼の指図に従って指定の場所に来るつもりなら、如何に平気を装っていても、帰りのあいさつをする時には、どこか態度にそれが現れぬはずはないと考えたのです。
しかし、ああ、やっぱり駄目なのかな。彼女がTにいつもと同じ丁寧なあいさつを残して、そこの壁にかけてあったえり巻を取り、ドアを開て事務室を出て行って終うまで、彼女の表情や態度からは常に変った何ものをも見出すことが出来ないのでした。
思惑ったTは、ぼんやりと彼女のあとを見送ったまま、席を立とうともしませんでした。
「ざまを見ろ。お前の様な男は、年が年中、こつこつと仕事さえしていればいいのだ。恋なんか柄にないのだ」
彼は我と我身をのろわないではいられませんでした。そして、光を失った悲しげな目で、じっと一つ所を見つめたまま、いつまでもいつまでも甲斐ない物思いにふけるのでした。
ところがしばらくそうしている内に、彼はふとあるものを発見しました。今まで少しも気づかないでいた、S子のきれいにかたづけられた机の上に、これはどうしたというのでしょう。彼が毎朝やる通りに、あの算盤がチャンとおいてあるではありませんか。
思いがけぬ喜びが、ハッと彼の胸を躍らせました。彼はいきなりその側へ寄って、そこに示された数字を読んで見ました。
「八十三万二千二百七十一円三十三銭」
スーッと熱いものが、彼の頭の中に拡がりました。そして、にわかに早まった動悸が、耳許で早鐘の様に鳴り響きました。その算盤には彼のと同じ暗号で「ゆきます」とおかれてあったのです。S子が彼に残して行った返事でなくてなんでしょう。
彼は矢庭に外套と帽子をとると、机の上をかたづけることさえ忘れて終って、いきなり事務室を飛び出しました。そして、そこにじっとたたずんで彼の来るのをまちわびているS子の姿を想像しながら、息せき切って樋の山遊園地へと駈けつけました。
そこは遊園地といっても、小山の頂に一寸した広場があって、一二軒の茶店が出ている切りの、見はらしがよいという外には取柄のない場所なのですが、見れば、もうその茶店も店を閉じて終ってガランとした広場には、暮れるに間のない赤茶けた日光が、樹立の影を長々と地上に印しているばかりで、人っ子一人いないではありませんか。
「じゃ、きっと彼女は着物でも着換る為に、一度家に帰ったのだろう。なる程、考えて見れば、あの古い海老茶の袴をはいた事務員姿では、まさか来られまいからな」
算盤の返事に安心し切った彼は、そこにほうり出してあった茶店の床几に腰かけて、煙草をふかしながら、この生れて初めての待つ身のつらさを、どうして、つらいどころか、甚だ甘い気持で味わうのでした。
しかし、S子はなかなかやって来ないのです。あたりは段々薄暗くなって来ます。悲しげなからす共の鳴き声や、間近の停車場から聞えて来る汽笛の音などが、広場の真ん中に一人ぼつねんと腰をかけているTの心にさびしく響いて来ます。
やがて夜が来ました。広場のところどころに立てられた電燈が寒く光り始めます。こうなると、さすがのTも不安を感じないではいられませんでした。
「ひょっとしたら、家の首尾が悪くて出られないのかも知れない」
今では、それが唯一の望みでした。
「それともまた、おれの思い違いではないかしら。あれは暗号でもなんでもなかったのかも知れない」
彼はいらいらしながら、その辺をあちらこちらと歩き廻るのでした。心の中がまるで空っぽになってしまって、ただ頭だけがカッカとほてるのです。S子の色々の姿態が、表情が、言葉が、それからそれへと目先に浮んで来ます。
「きっと、彼女も家でくよくよおれのことを心配しているのだ」
そう思う時には、彼の心臓は熱病の様に烈しく鳴るのです。しかし、またある時は身も世もあらぬ焦燥が襲って来ます。そして、この寒空に来ぬ人を待っていつまでも、こんな所にうろついている我身が、腹立たしい程愚に思われるのです。
二時間以上も空しく待ったでしょうか。もう辛抱し切れなくなった彼は、やがてとぼとぼと力ない足どりで山を下り始めました。
そして山の半ば程降りた時です、彼はハッとした様にそこへ立ちすくみました。ふと飛んでもない考えが彼の頭に浮んだのです。
「だが、果してそんなことがあり得るだろうか」
彼はその馬鹿馬鹿しい考えを一笑に付して終おうとしました。しかし、一度浮んだ疑いは容易に消し去るべくもありません。彼はもう、それを確めて見ないではじっとしていられないのでした。
彼は大急ぎで会社へ引返しました。そして、小使に会計部の事務室のドアを開かせると、やにわにS子の机の前へ行って、そこの本立てに立ててあった原価計算簿を取出し、××丸の製造原価を記入した部分を開きました。
「八十三万二千二百七十一円三十三銭」
これはまあ何という奇蹟でしょう。その帳尻の締高は偶然にも「ゆきます」というあの暗号に一致していたではありませんか。今日S子はその締高を計算したまま算盤をかたづけるのを忘れて帰ったというに過ぎないのです。そして、それは決して恋の通信などではなくて、ただ魂のない数字の羅列だったのです。
余りのことにあっけにとられた彼は、一種異様な顔つきで、ボンヤリとそののろわしい数字を眺めていました。総ての思考力を失った彼の頭の中には、彼の十数日にわたる惨憺たる焦慮などには少しも気づかないで、あの快活な笑い声を立てながら、暖かい家庭で無邪気に談笑しているS子の姿がまざまざと浮んで来るのでした。
底本:「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」光文社文庫、光文社
2004(平成16)年7月20日初版1刷発行
2012(平成24)年8月15日7刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第十巻」平凡社
1931(昭和6)年9月
初出:「写真報知」報知新聞社
1925(大正14)年3月15日
※初出時の表題は「恋二題(その二)」です。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:門田裕志
校正:A.K.
2016年6月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
子供が鉛筆を削っているとあまり無茶に削るので何べんでもシンが折れました。
「このナイフがわるいのだ」
と子供は言ってナイフを磨いでコシコシ削りましたが、やっぱりポチポチと黒いシンが折れます。
「この鉛筆がわるいのだ」
と子供はカンシャクを起して鉛筆を折ってしまいました。
「もっといい鉛筆でなくちゃ駄目だ」
鉛筆は折られながら言いました。
「あなたの心をもっといいのにとりかえなくちゃ、いくらいい鉛筆を買ってもだめです」
底本:「夢野久作全集7」三一書房
1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行
1992(平成4)年2月29日第1版第12刷発行
初出:「九州日報」
1924(大正13)年2月7日
※底本の解題によれば、初出時の署名は「香倶土三鳥」です。
入力:川山隆
校正:土屋隆
2007年7月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
僕は視力が健全である。これはありがたいものに思っている。むしろ己惚れている。
己惚れの種類も思えば数限りないものである。人は己惚れが無くてはさびしくて生きておれまい。よしんばそれが耳かきですくう程のささやかな己惚れにせよ、人はそのかけらにすがって群衆の波に漂うているのではなかろうか。果して小人だけが己惚れを持つものだろうか。己惚れは心卑しい愚者だけの持つものだろうか。そうとも思えない。例えば作家が著作集を出す時、後記というものを書くけれど、それは如何ほど謙遜してみたところで、ともかく上梓して世に出す以上、多少の己惚れが無くてはかなうまいと思うが、どうであろうか。恥しいものですと断ってみても、無理矢理本屋に原稿を持っていかれたと体裁の良い弁明をしてみても、出す以上は駄目である。よくよく恥しいという謙遜の美徳があれば、その人の芸術的良心にかけても、たれも本にすまい。人に読ませる積りで書いたのではないという原稿でも、結局は世に出ている。自分の死んだあと、全集を出すなと遺言した作家は何人いるだろうか。
謙遜は美徳であると知っていても、結局は己惚れの快感のもつ誘惑に負けてしまうのが、小人の浅ましさだろうか。謙遜の美徳すら己惚れから発するものだと、口の悪いラ・ロシュフコオあたりは言いそうである。僕とてご多分に洩れず、相応の己惚れである。けれどまた、己惚れをすっかり失ってしまって、うろうろすることも時にはある。鼻の先にぶら下げていた眼鏡を、群衆の波にもまれているうちに失ってしまって間誤まごする人のようになってしまうのだ。そんな時、僕は自分の視力に頼るほかはないのだが、幸い僕は眼が良い。はや僕は己惚れを取り戻すのである。
僕はこんな風に思うのである。森鴎外でも志賀直哉でも芥川龍之介でも横光利一でも川端康成でも小林秀雄でも頭脳優秀な作家は、皆眼鏡を掛けていない。それに比べると、眼鏡を掛けた作家は云々。僕は眼鏡を掛けていない。だから云々と己惚れるのである。
そしてまた思うのである。森鴎外や芥川龍之介は驚嘆すべき読書家だ、書物を読むと眼が悪くなる、電車の中や薄暗いところで読むと眼にいけない、活字のちいさな書物を読むと近眼になるなどと言われて、近頃岩波文庫の活字が大きくなったりするけれど、この人達は電車の中でも読み、活字の大小を言わず(もっとも鴎外は母親の老眼のために自分の著書の活字を大きくしたが)、無類の多読を一生の仕事のようにして来たにもかかわらず、近眼になったという話をきかない。はじめから眼の良いものはさすがに違ったものだ。多読して頭が痛くなるようなそんな眼ではないのだ。つまり生理的に眼の良いものは、頭も良いのだ。神経衰弱の八割までは眼の屈折異常と関係があるという説を成す医者もあるくらいだから——、とこんな風に僕は我田引水し、これも眼の良い杉山平一などとグルになって、他の眼鏡の使用を必要とする友人を掴えて、さも大発見のようにこの説を唱えて、相手をくさらしているのである。
他愛のないことである。眼の良い者がすべて皆頭脳優秀とは限らぬし、眼鏡を掛けぬ作家が才能に恵まれているわけでもないし、また、眼鏡を使用する必要のない者がつねに人並すぐれた読書家であるというあんばいには参らぬ。僕はたしかに眼が良い。疾走する電車の中にいる知人を、歩道をぶらついている最中に眼ざとく見つけるなど朝飯前である。雑閙の中で知人の姿を見つけるのも巧い。ノッポの一徳でもあろうが、とにかく視力はすぐれているらしい。だからと言って、僕はべつに自分が頭脳優秀だとも才能豊富だとも思っていない。はかない眼鏡説でわずかに慰めているくらいだから、本当はそういう点になるとからきし自信がないのである。己惚れるなど飛んでもないことだ。ことに読書という点でははなはだ自信が無い。鴎外や芥川龍之介などどのようにしてあれ程多読出来たのか、どのようにして読書の時間をつくったのか、そしてどのようにして読んだものを巧く身につけたのか、その秘法があれば教えて貰いたいと思うくらいである。所詮「わが読書法」という題はくすぐったいのである。
鴎外は子供の前で寝そべった姿を見せたことがないというくらい厳格な人だったらしいから、書見をされる時も恐らく端坐しておられたことであろうと思われるが、僕は行儀のわるいことに、夜はもちろん昼でも寝そべらないと本が読めない。従って赤鉛筆で棒を引いたり、ノートに抜き書きしたりするようなことは出来ない。そういうことの必要を思わぬこともないが、しかし窮屈な姿勢で読んだり、抜き書きしたりしておれば、読書のたのしみも半減するだろうと思われるのだ。たのしみと言ったが、僕は勉強のために読書することはすくない。たのしみのために読書するのである。だから、たとえば鴎外なら鴎外を読んだあとで、あわてて誰かの鴎外研究を繙いてみたりするようなことは避けている。鴎外の作品という実物にふれているたのしみを味えば、もうそれで充分だと思う。結論がたやすく抜き書きできたりするような書物はだから僕には余り幸福を与えてくれない。音楽に酔うているようなたのしみを、その書物のステイルが与えてくれるようなものを、喜んで読みたいと思うのである。アランや正宗白鳥のエッセイがいつ読んでも飽きないのは、そのステイルのためがあると思っている。このひと達へ作品からは結論がひきだせない。だから、繰りかえし読む必要があるし、そしてまたそれがたのしいのである。抜き書きをしない代り絶えず繰りかえし読む、これが僕の唯一の読書法である。そして繰りかえし読むことがたのしいような書物を座右に置きたいと思う。
高等学校時代ある教授がかつて「人生五十年の貧しい経験よりもアンナカレーニナの百頁を読む方がどれだけわれわれの人生を豊富にするかも知れない」と言った言葉を、僕はなぜか印象深く覚えているが、しかし二十二歳の時アンナカレーニナを読んでみたけれども、僕はそこからたのしみを得ただけで、人生かくの如しという感慨も、僕の人生が豊富になったという喜びも抱かなかった。恐らくこれは僕が若すぎたせいもあろうと思う。それ故、若い頃に読んだ古典はあとで必ず読みかえすべきであると思う。若い頃に読んだから、もう一度読みかえすのは御免だというのであれば、はじめから読んで置かない方がましであろう。日本の古典なども、僕らが学生時代にしきりに古典復興を唱えている先生たちから習って置かなければ、今もっと読みなおしてよい気持が起るのではなかろうか。名曲など下手な演奏者の手にかかると、ひとからその名曲が与える真のよろこびを取り去ってしまうものである。
しかし、繰りかえし読むと言っても、その書物の入手しがたいこともある。そういう時は僕は縁のないものと諦めてしまい、千里を近しとしてその書物を探し廻ろうとは思わない。入手できない書物にあるいは潜んでいるかも知れない未知の重大な思想も、触れなければ触れないで済まして置こうと思う。未知の恋人同様、会わなければ会わないで、また心安らかであろう。新刊書が入手しにくくなったという苦情もきくが、しかし、入手し損って一生の損失になるようなそんな新刊書がどれくらいあろうか。噂だけきいて会うことの出来なかった恋人でも、いざ会うてみると、それほどのこともないのである。苦情は当らない。僕は繰りかえし読む百冊の本を持っていることで、満足しているのである。
底本:「定本織田作之助全集 第八巻」文泉堂出版
1976(昭和51)年4月25日発行
1995(平成7)年3月20日第3版発行
初出:「現代文学」
1943(昭和18)年9月
入力:桃沢まり
校正:小林繁雄
2007年4月25日作成
2007年8月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
私は盲人であるので、ものの形を目で見るかわりに、手の感覚で探って見るわけである。そして、手の先も始終ものを触って見る練習が積めば、だんだん指先の感じが鋭敏になっていくものである。
盲人の用いる点字というものは、人も知っている通りに、紙を針の先で突いて、その出た方の点のならべ方で読むのである。即ち、六つの点のならび方と、点と点との間隔で、いろいろの字になるのである。
その点字を、普通の練習しない人が撫でてみても、何が何だかわからないが、いつもやっていると、指先で撫でただけで読むことが出来るようになる。
指先をつかうことがだんだん慣れてくると、テーブルに手を触れただけでも、どこに疵があるか、また、汚点があるかもわかるようになる。そして織物のようなものでも色はわからないが、縞の荒さなどは、どんなぐあいかということはわかる。私は変わったものを、目で見るかわりに、撫でてみるのが楽しみなのである。
私はよく、春先になると、庭に下りていろいろの花とか、植木の葉とか、木の枝の曲りぐあいや根の張りぐあい、また下草の芽生えの柔かいのなどを、撫でてみることがある。それは私には、目明きの人が目で見るのと同じように、のどかで楽しい気持がするのである。そして、時々庭を歩いてそれらを探っては、日増しに、いろいろの草木が伸びて行くのを知るわけである。庭石など手ざわりでどういう石かということもわかる。
また時々、木の根の面白いのに夢中になって、這うようにして探っていて、上のことに気がつかず、うっかり立ち上った拍子に大きな木の枝に頭をぶっつけて、びっくりすることもある。私は自分の家に限らず、野原や山に行っても、よくその辺に生えている草とか木が好きで、いじってみては楽しむのである。
私は草木の外に、彫刻とか飾り道具とか、茶器のような器ものも、さわってみるのが好きである。それでよく子供の人形の顔などをいじり過ぎて、黒く汚したために、子供に叱られることがある。
彫刻で思い出したが、ある時、私の友人に胸像を作ってもらったことがあった。それが出来上がった時に、私は彫刻の顔を撫でて自分の顔と比べてみたが、どうも自分に似ていないような気がした。非常に凸凹しているので、自分の顔はこんなにおかしい顔かなあと思った。それで、ある時、別の彫刻家に会った時に、その話をしたら、その彫刻家が、彫刻はやはり目で見ていいように光線の応用というものがあるために、目で見たのと手で撫でたのとはどうしても感じが違う。しかし、その方の感覚だけで面白い彫刻も出来るといった。
それからまた、私たちには別に盲人用の時計があるが、私はわざと普通の懐中時計を用いている。それは指先の感覚で長針と短針の距離を計れば、一分も違わないようにわかる。これも長年の練習の結果によるもので、非常に便利なことは、暗がりでも時間が知れるのである。
私が若い時、知らぬ人の前で時計を探っていると、珍しそうにしてどうして時間がわかるかといって、私の手許を覗き込むので、私はそれに答えるのが面倒なので、見られないように懐の中で、時を探ることを練習した。すると、また、友人等が、懐の中に手を入れて何をごそごそやっているのかと、尋ねられたことがあった。
私は何によらず珍しいものは何でも手で触ってみることにしている。衣類のようなものも、いいものを触った感じはやはりよい。動物も可愛いということを感じるのは、その形を撫でてみて毛の手ざわりなどで、その感じが起こるのである。私は犬も好きであるが、特に猫が好きである。あの柔かい毛並を撫でたり、顔を探ったりするのであるが、あまり撫で廻すので、猫の方でも気味が悪くなるのか、逃げて行ってしまう。
私が友人に動物を手で撫でる話をしたら、友人は、動物を撫でてみるのも結構だが、虎やライオンだったら困るな、といわれたことがあった。
私は大抵の動物には親しみを感じるが、ただ虫類だけは、どうも気味が悪い。同じ虫のうちでも、蝉とかかぶと虫のような、からだのかたいものは気味が悪くないが、蛇とか毛虫とか蛙のような、柔かいものはいちばん苦手である。ことに怖いのは蜘蛛で、夜中に便所に行った時、蜘蛛の巣が顔に触ったら、私はどうしても、それから先に一足も歩けないのである。前にも述べたように、庭へ出て木を探るのも、春のうちはまだ平気で出来るが、夏になると、虫が怖いので、それが出来ない。もし探る場合は、よく用心してあまり深入りはしないようにしている。
そういうふうであるから、ちょっと紙切れのようなものが頸筋にはいっても、虫がはいったと感じたら、じっとしていられない。私が子供の時、蜘蛛が嫌いなのを友達が知っていて紙差を作って、「そら蜘蛛だ」といって、私のからだにそれを触れさして脅かすと、私があわてて逃げるのを面白がっていたくらいである。
同じものを手に触れた場合でも、日によっては、気持のぐあいで、気持の悪い時と、それほどでもない時とがある。
ある夏、台湾へ旅行した時、穿山甲の剥製にしたのが形も面白く、珍しいので、もらってきたことがあった。そして、もらった当時は、夜中でも作曲をして、途切れた時は、ちょっと撫でたりしては楽しんでいた。ところがある夜中、いつもの通りに 穿山甲を撫でていたら、どういうものか急に気味が悪くなって、それからは、その気持が強くなり、どうしても触ることが出来なくなった。しかし、そうかと思うと、またしばらくして、何でもなくなったが、やはり、前ほど平気な気持ではなく、何となく薄気味悪いのである。
話は別になるが、私は夢を見るのに、悪夢というのは大抵の場合、蜘蛛が背中を這ったとか、毛虫がはいって来たとか、あるいは重いものが胸の上に載ったとかいうのである。また、非常に何か怖いと思う虫が手の平にのっていて、それを、いくら払い除けようとしても、どうしてもとれない夢を見る。そんな夢は私の怖い夢である。
私は手やからだに触れるものだけでも、楽しいものや怖いものがあるものだと思うと、非常に面白く感じられる。そして、感覚というものについて、いろいろ考えてみると、なかなか興味のあるものである。
底本:「日本近代随筆選 1出会いの時〔全3冊〕」岩波文庫、岩波書店
2016(平成28)年4月15日第1刷発行
底本の親本:「定本宮城道雄全集 上巻」宮城道雄全集刊行委員会
1972(昭和47)年
初出:「水の変態」宝文館
1956(昭和31)年
入力:法川利夫
校正:岡村和彦
2017年4月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
カーテンの向こうには窓があったが、夜一色に塗りつぶされて、なにも見えはしないのである。折角奮発してみた窓つき個室も、こうしてみると意味がなかった。硝子一枚隔ててしまうと、闇は鏡と変わらなくなる。鏡は闇より厄介だから、結局カーテンで隠してしまった。
出航がおおよそ19時、観光港着がだいたい7時ということだから、あらかじめわかっていたのである。そもそもが寝ている間の航海であり、外の景色を見たいのならば、甲板へ出ればそれですむ。実際、明石の橋と、緑に光る淡路島の観覧車とは外で眺めた。
窓はなくてもよかったが、その場合、カーテンがなければ嫌だ。ただの壁でもカーテンさえ下げてもらえば、その背後には窓があるかも知れなくて、窓がないならなぜカーテンをかけておくのかということになる。だから窓つきの個室をとることにした。
大阪から別府まで、瀬戸内の道を選んだ理由としては、歴史的な興味もそれとして、船が変に好きなのである。泳げないのに船好きというのはちょっと奇妙な気もするが、大きな船が沈んだ場合、泳げる泳げないはほぼ生存率と関係がない。特に冬場は水温の関係でまずすぐに死ぬ。公園のボートなどには乗らない。船好きというより、揺れ好き、であるかも知れない。飛行機なども奇妙に好きだ。新幹線はあまり好かない。本を読むと酔うからだ。バスというのもあまりよくない。車は自分では運転しない。大きな乗り物ならば、となりそうだ。地球であるとか。
瀬戸内海ということだから、日本史上最大の街道といえる。畿内の朝廷から見ると、長い参道のような機能を果たした。中韓からこの道を進んだ奥詰まりに難波の宮を設けてみたこともある。大阪湾を懐として、両手を広げて歓迎してみせる感じか。瀬戸内海は、国外の声を伝える耳道のようなものであるかも知れない。もっともその鼓膜の奥に位置する朝廷は、白村江での敗戦をうけ、琵琶湖のほとり、大津まで宮を移して、山の後ろへ身を隠した。やや敏感すぎる小動物のような行動である。
もっともそれは、あくまで畿内からの視点にすぎず、なにかつくりごとめいている。どうも自分が知る日本史とは違うようだと思うのだが、ではどんなものが日本であるかと問われると困る。
フェリーにはWi–Fiもきているが、通常の4G回線もかなり通じる。世界中から暗闇が人工の光に駆逐されつつあると話に聞くが、電波の届かない領域も急速に減少しているだろうと思う。とはいえ電波とは電磁波であり、可視光もまた電磁波だから、単に人工的な電磁波網が地球を覆いつつある、ということでよいかも知れない。
今このときに船が沈んでも、家族に電話が通じるなと思う。
「うん、今、船が沈みかけているのだ」
とでも言うべきだろうか。
「眠いからあとにして」
と言われるかも知れない。それでもまだ上出来だろう。留守番電話ということも大いにありうる。
「電源が切られているか、電波の届かない地域にいます。メッセージをお願いします」とかいうやつだ。電源どころか命脈を絶たれ、どうやったって電波の届かない国へ向かおうとする者への言葉としては、なかなかに味わい深い文章だ。「メッセージ」というのも気が利いている。
フェリーが四国の舳先をすぎて、携帯電話の画面から、電波の強さを示すアンテナ表示が見えなくなると、なんだかほっとしたような気持ちになった。
別府へは、ぞなもし、を狩りにきたのである。
一般に、「ぞなもし」といえば道後のもので別府にはいない。もっとも愛媛産の知人に言わせると、「ぞなもし」というものはないのだという。「ぞな、もし」と切れているのだそうだ。ただし、「ぞ、なもし」とする流儀もあって実はそちらが優勢だともいう。どこで切っても平気にしている生き物のような気配があり、およそ羊羹とか、すあまとか、ういろうとか、ああしたものの気配がする。
「しかし四杯は過ぎるぞな、もし」
「そりゃ、イナゴぞな、もし」
「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」
といった形で生息している。道後温泉は、この「ぞなもし」を名産とする。佃煮にしたり、クッキーに煎餅、饅頭に団子にアイスクリーム、シャツにキーホルダーにハンカチ、タオルにと、なににでも利用が可能だ。ただし生では体を壊す。地元の人は体の方が慣れている。
明治の頃に、中学校の数学教師が発見し、以来、道後温泉を象徴する生き物となった。月給四〇円で雇われてきて、一月ほどで東京へ戻ってしまった教師だという。発見の仔細は『坊ちゃん』という小説でよく知られる。名が知られてはいるものの、実際に読んだ者の少ない小説として有名だ。少し違って、読んだ者は多いのだが、内容をうまく記憶できない小説として名高い。しかも本人は、ちゃんと読んだと信じ込むのだ。
その証拠に、「あらすじ」を言ってみせよというと大抵の者が、「坊ちゃんなる人物が英語の先生として松山に赴任して、赤シャツやら山嵐やら、ぬらりひょんやらいった同僚たちと、マドンナなる婦人をめぐって鞘当てを繰り広げる話」などと答える。
読み直してみるとわかるが、『坊ちゃん』にそんなことは全然書かれていないのだ。坊ちゃんはあくまで数学の教師であって英語の教師ではない。気の抜けた読み方を非難しているわけではなくて、全然書かれていない内容が、当然顔で流布しているということを言いたい。さらに驚くべき事実としては、道後を褒めた小説でさえない。
「田舎者はけちだ」
「生れ付いての田舎者よりも人が悪い」
「こんな田舎に居るのは堕落しに来ているようなものだ」
と散々である。もっともかろうじて、温泉のことは褒めてある。
「ほかの所はなにを見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ」
この小説が道後の宣伝に使われる所以だが、全体を通じて褒められているのは温泉とマドンナの容姿だけだといってよい。もっともそのマドンナのことも、電車で見かけ、「いよいよマドンナに違いない」と勝手に得心しているだけで、本物のマドンナなのかもはっきりしない。読んだからといって道後に行きたくなるという小説でもないはずなのだが、何故か片手に出かけてしまったりするし、現地で購入してみたりする。
この「ぞなもし」は道後のもので、別府にはない。有馬にもおらず熱海にも、草津にもない。別府の言葉は実はかなりのところ関西系だし、有馬も熱海も草津でも、伊予弁を使ったりはしないのだから「ぞなもし」としても居所がない。いないものは狩れないだろうと訊ねると、
「いないからこそ狩るのである。いるところで狩れば絶滅してしまうであろう」と、やや頓智のような返事が戻った。
山から雲霧が生い上るのは珍しい景色でもないが、ここでは同時に湯気も立ち上るのでややこしい。海が灰色の空にそのまま溶けていくところから首を回して、雲海に浮かぶ峰々と見えたところが、一つの山であったりする。大づかみにして並べたような姿の山がのしかかるように海へと迫り、陸海空がひと連なりにでんぐり返って、天地が転ぶ勢いである。どこまでがなんの別府なのだか、ちょっと壺中のようにできている。
「で、どこへ、『ぞなもし』を探しにいくのか」と、やや途方に暮れつつ訊ねたのは、小雨そぼふる夜明け前の観光港でのことだった。
「それは当然、別府といえば温泉なのさ」
ということであり、「温泉に必ずいるはずなのだ」という。「いるから温泉なのであり、温泉だからいるのである」とやや不明なことを言っている。
なるほど、とここで閃き、「『ぞなもし』とは要するに、極限環境微生物なのだ」と断言してみる。さすがに言いすぎかと考え直し、「なのだな」と問いにしておく。
「極限〜」と名前がつくとどうも怪獣のようなものが思い浮かぶが、要は、人間には暮らせないような場所に生きる生物を言う。では水中に暮らす魚も極限環境微生物かとなりそうなので訂正すると、通常見慣れた生き物が暮らすことのできない場所に住む微生物を指す。熱すぎるとか寒すぎるとか、高すぎるとか低すぎるとか息苦しいとかまあそういった場所であり、エクストリームスポーツの開催もちょっと、というような場所に居着く。
実は結構最近である。見つかったのは。1960年代の話である。極限環境微生物。それはまあ、極限環境へなど人間だって出かけて行くのは一苦労となりそうだから、見つからないのが自然である。ゆえに発見はひどく遅れた、となりそうなのだが、そうでもない。まさかそんなところにいるはずがないという思い込みが盲点で、なにげなくそこいらへんに住んでいた。盲点に住み着く生き物ということかも知れない。向こうとしては隠れていたつもりさえなく、むしろ堂々と生活していた。
とりあえずは、温泉にいた。
温泉といっても、いい湯だなとか、あははんとか、viva nonno とかではなくて、ぼこぼこと坊主頭が湧いてくるようなあれである。人が入るには、我慢試しにも熱すぎるから極限環境であるに違いない。
フォーラーネグレリアとかああいった、人の脳みそを食ったりする気性の激しい奴ではない。80度以上の湯が最高という奴らを超高熱菌と称する。別府の人が熱い湯を好み、銭湯などではなかなか埋めさせてくれないというのが本当だとしても、超高熱菌にとってはまだまだ、凍え死ぬほどの冷たさである。あまり熱すぎると当然死ぬが、百度に耐えるようなのはゴロゴロしている。
さて、ここに疑問がぼこりと丸く浮き上がり、この湯治を続ける菌たちは一体全体どうやって、温泉地までやってきたのか。脱衣所から離れた冬場の露天風呂へ向かう人間のように、さぶさぶさぶさぶ言いながら、湯まで走ってやってきたのか。そりゃ、場所がわかっていればそれでもよいが、適当に走るとたちまち全滅しそうである。かといってあんまりにも熱すぎるところを通ることもできないわけで、いい塩梅のところを渡り渡ってなんとか温泉までやってきた、ということになる。そのあたりで日常的に、新種の細菌がぽこぽこと生まれたりしない限りはそうなる。
実際この温泉に住む細菌たちは、だんだんと少しずつ熱い湯に慣れていったわけではないらしい。昔々のその以前から、熱い湯だけを好んできた。人の生まれるその以前から、原始地球で湯につかっていたのだろうとされている。海底の熱水噴出孔とかああした場所が故郷だ。木星の衛星、エウロパだとか、土星の衛星、エンケラドスあたりにだって熱水噴出孔はあるらしい。初期生命の発祥地であるともされる。
「といったことを踏まえて、『ぞなもし』を狩るのだな」と訊ねると、
「違う」とほんの一言である。「なんのことだ」と不審気な顔までしている。
いやだから、とこちらとしては解説を施さざるをえなくなり、だからお前はきっと、極限環境微生物学者なのであり、「極限環境」が「微生物」にかかるのか、「学者」にかかっているかは知らないが、多分、新種の超高熱菌を探しにこの別府までやってきて、そうだ、だから「ぞなもし」というのもおそらくは、先に道後で見つかった、新たな超高熱菌についた名なのであろう、学者はそうした冗句を好むからな、と言ってみるのだが、首を傾げるだけである。
「違うのか」と重ねて問うてみたところ、
「違う」と答えた。「『ぞなもし』が見つかったのは明治時代で、中学校に赴任してきた数学教師がみつけたわけだ。もしも『ぞなもし』が超高熱菌であったなら、超高熱菌の発見史が五十年以上遡ることになってしまう」と道理を続ける。
「それはよくない」と言うのでなにがだと訊くと、「歴史を勝手に変えるのはよくない」とひどく常識的なことを言った。
それはまあ、そうかと思うが、話が全く進んでいない。
「結局、『ぞなもし』」とはなんなのだと問う。ついでに、「どうして道後ではなく別府へやってきたのだ」とも訊き直しておく。
「ひとつには」と言うにはこうだ。「道後へ行かなかった理由は、大阪港から直通のフェリーがなかったからだ。松山観光港へのフェリーが出るのは広島か呉か小倉だ。しかもさらにそこからも長い。瀬戸内海をずずっと通ってみたいという趣旨も満たさない。ふたつには、いるとわかっているところへ出かけたからなんだというのか」
「で、その『ぞなもし』は温泉と関係があるのであるか」と問いつめると、
「無論ある」と強く答えて、「と思われる」と弱気に結んだ。こちらの咎める視線に応え、「まあとりあえず、バスに乗ろうではないか」と言う。
別府の街はバスが便利だ。タクシーの数も不思議に多い。世には観光地をうたいながらも、自家用車持ちでなければ移動さえもままならない土地が珍しくない。JRの別府駅からバスに乗り、海地獄前で下り、観光をする。海地獄という命名はなかなかうまく、それはなにかという気にさせる。そういう気持ちは大切だから、海地獄とはなんなのかはあえて秘す。ちなみにこのまわりには、鬼石坊主地獄、山地獄、かまど地獄、白池地獄と、地獄が並ぶ。
「地獄はよいが、湯自体に名をつければよいのに」と変に名前にこだわる様子である。「有馬あたりでは」と一人で言っている。「鉄の赤みを帯びた湯を金泉、無色の方を銀泉と呼んで、記憶に入り込むようにしている。これだけの」と言葉を切って、「——なんだ、地獄のそうだな、あれがあって、それなりの呼び名がないのはもったいない」と言葉があちこち濁るのは、地獄とはなにかをあえて秘したせいらしいのだが、
「まあしかし、極限環境微生物でもない限り、ここにつかるのは無理であるな」とほとんど答えを言っているのは気にしないらしい。「行くぞ」と言って、またバス停まで戻る。別府の駅に戻るのかと思っていたら、もう少し奥まで行くのだという。折角ここまでやってきて、温泉に入らないというのも馬鹿らしかろうということでもっともである。
「さてだ」と、明礬の湯につかりつつ言う。
「『ぞなもし』は確かに温泉と関係がある。極限環境微生物と関係があるのではという着眼点はなかなかだった」と、急にこちらを採点しだし、
「だが、『ぞなもし』と『極限環境微生物』は、お湯でつながるわけではない」と一拍を置き、勿体ぶって、「両者は『起源』でつながるのだ」と言う。「いいかな」とすっかり演説口調になっている。
「いいかな、なにか力がやってきたのだ。言葉に命を吹き込んだり、物質に命を吹き込むなにかが。『ぞなもし』などはただの『ぞ』と『な』と『も』と『し』の四文字にすぎぬ。それが、何故か観光資源のように使われるまでに至った。名詞でさえなく、どこで切れるのかもよくわからん。呪術的な存在だ。道理はあまり関係がない。『坊ちゃん』が全然、道後の宣伝ではなかったことを思い出してみるといい。そうして、『坊ちゃん』のあらすじを、みんな間違って覚えていることに注目するのだ。つまりこの世には、全く書かれていない内容をあらすじとして提示する文章というものが存在するのだ。果たして、そんな文章を書く方法は存在するのかというのがここでの設問となる」
いつのまにか試験になっているらしい。黙っていると、こう言った。
「まず、そんな文章を書く方法があるとは思われない。どういうあらすじとして読まれるかを事前に指定することはできないからだ。というか、『坊ちゃん』の例を虚心に考えるなら、あらすじなるものはどうやら、書かれている文章とは関係がないらしいということになる」
それは極端ではないかと思うが、聞き入れる様子は見えない。
「であるからには、こうなることもありうるわけだ。この『ぞなもし狩り』のあらすじは、一読した者が本を片手に、思わず別府にでかけてしまいたくなるような内容なのだ。全然そんなことが書かれていなくとも関係はない。『あらすじとして、どんな解釈をすることも許す』と書いてある本のあらすじはどうなるかね。まあ、多くの解釈は、箸にも棒にもかからないものになるに違いない。しかしあるときなにかの拍子に、あっちとこっちとそっちが複雑怪奇に入り交じりあい、そこに奇蹟を起こすのだ。たとえば『ぞなもし』がそれである」
と両手を振り回し、盛んに湯を跳ね飛ばしている。
「でもそれでは」と問うてみた。
「『ぞなもし狩り』が別府を代表する小説になっては奇妙だろう」
「何故だ」と虚をつかれた顔だ。
「何故ということはない。『ぞなもし』は道後のもので、別府にはいない生き物だ。もっと別のタイトルの方がよいのではないか」
「ははん」と鼻で笑われた。「だから田舎者は駄目なのだ」と穏当ではないことを言ってのけ、「まだわからんのかね、この『ぞなもし狩り』の真のあらすじがその力を発動したら、『ぞなもし』は道後のマスコットではなく、別府のマスコットということになり、別府に存在しない『ぞなもし』が、かくも別府を代表し、年間数百万の観光客を引き寄せる事実の方が謎とされ、さらにあらすじを改良していく拡大再生産に入るのだ」
そう演説を終え、こちらの顔をじっと見ている。
素っ裸である。
底本:「大分合同新聞(朝刊)」大分合同新聞社
2016(平成28)年4月30日
初出:「大分合同新聞(朝刊)」大分合同新聞社
2016(平成28)年4月30日
入力:円城塔
校正:大久保ゆう
2016年12月23日作成
青空文庫収録ファイル:
このファイルは、著作権者自らの意思により、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)に収録されています。
この作品は、クリエイティブ・コモンズ「表示−非営利−改変禁止 2.1 日本」でライセンスされています。利用条件は、http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/2.1/jp/を参照してください。
出宰漱太郎
このシリーズの第一作目『文字文学』を上梓したのが二〇一四年。文字にまつわる小説や随筆をまとめる、というネタは尽きることなく今回シリーズ第三弾を出版するに至った。当初は「文字」に関することであればと虱を潰すが如く青空文庫の検索ボックスを連打していたものであったが、号を重ねるにつれて「文字」に関するどこに寄って選んでいくか、の範囲が広く、そして深くなっていることを実感する。
前作『文字文学Ⅱ』の解説にも書いたとおり、編集の工程としては、まず候補となる作品をその都度選び出し、全体の構成や流れを作っていく。その際にとにかくいちばん重要なことは、「文字に関する小説や随筆」であることはもちろん、紙の本にした際に一二八頁に収まること、なのだ。この物理的な制限はかなり効果的で、電子データが故に得てして多くなりがちな収録数をグッと絞って丁度良い塩梅の量に抑えることが可能となる。さらに裏話をするならば、データ本を紙の本にする行為はBCCKSのサイトのシステム上で行うのであるが、その際に生じる微妙な仕様の違いで一発で紙の本の一二八頁ちょうどに収まることはかなり稀で、その増減の作業でかなりの調整を強いられる。この作業が正直言ってかなり辛くもあり、その反面楽しくもある。楽しい面は、むろん選んだ作品を絞り込むこと、そしてそれらをどう並べるか、と思案することであり、辛い面は、この解説文を書くこと、しかも頁数に合わせて分量を増減しなければならないという調整を担わなければならないことである。中身がさほどない駄文のくせに文章だけやたらと長くなっているのは、そういう理由からであることを承知いただきたい。
一二八頁に収めるが故に、やむなく掲載できなかった作品がいくつか出てくるのは毎回のことである。この解説文を削ってしても入らないのだから仕方ない。もちろん、過去の『文字文学』『同Ⅱ』の候補となったものの掲載に至らなかった作品は、今回の候補としてもリストには挙がっている。しかし今回あらたに候補として選んだ作品たちが、やはり最終的には掲載に至る。「文字」に関する範囲が広く深くなりながらも、毎号ごとに編集方針は偏っていくのを実感する。
さて、今回は「文字」を書く、読む、といったところについて書かれた作品が多く集まったように思う。鉛筆やペン、筆で書かれる文字について。そしてその文字で書かれる文章、あるいは俳句、その限られた数の文字について。などなど……。収録作について簡単に書く。
冒頭には童話を三篇。佐藤春夫『「の」の字の世界』、小川未明『左ぎっちょの正ちゃん』そして宮沢賢治の『みじかい木ペン』である。『「の」の字の世界』では主人公のうたちゃんが字を知り世界を知り、さらにその世界の広さを知ることになる様が「の」の字をきっかけに書かれているところが実に面白い。台湾でも店の看板で漢字に混じって「の」が使われているのを多々見かける。接続詞の記号としての「の」。スタジオジブリの映画タイトルでも「の」の多さは実感できるし実際繁体字に翻訳されても「の」だけはそのままだ。世界は「の」の字で広がっていく。ところで冒頭でのうたちゃんの書いた「う」の字は、その下の部分が「の」になってしまうのだが、そのような書き方の字は変体かなの「可」ではないか、などと穿った見方をした自分は、もはやうたちゃんのような気持ちには戻れないのだな、と再確認をした次第。賢治の『みじかい木ペン』でもキッコの描く線、8の字を横にたくさん描かれた軌跡は、実に「の」の字そのものである。そしてまたこの、未完ながらも実に魅かれる宮沢賢治の物語世界は、私の頭の中でその8の字を繰り返しながら反芻されていくのであった。
斎藤茂吉の随筆『筆』は、羊毫筆との思い出を切ないながらもユーモラスに綴る。つづく『字餘りの和歌俳句』で正岡子規は定型に囚われすぎないよう熱弁する。数字の表記が多く混乱するが、一字たりとも無駄にせずに、その細かさを積み重ねることで説得力を増す、まさに俳句の変革者の子規ならではの文といえよう。
恩地考四郎の『人生・文章習練の書』は、内田百間についての批評文。版画家でありむろん装丁家が説く、その装丁される文章についての論評は大変に興味深く、同じ青空文庫に収録されている装丁論『書籍の風俗』より俄然面白い。
さらに続くは江戸川乱歩と夢野久作、探偵小説家として著名なふたりの異色作とも言うべき作品である。乱歩の『算盤が恋を語る話』では、淡い恋のやりとりを綴る物語でありながら、それでもやはり推理ものを連想させるような暗号ツールとして算盤が扱われるところが興味深い。文字を用いずとも伝わる言葉、の話である。夢野久作の『鉛筆のシン』は、作者名を見ずに本文を読んで、本誌巻頭の童話として括ろうと思っていた作品だ。
太宰、安吾、石川淳らと共に無頼派と呼ばれた織田作之助は、自分は眼が良い、とはじまり『僕の読書法』を説く。一方、盲目の作曲家、宮城道雄は『触覚について』で、目の変わりに研ぎ澄まされた触覚について書くのだ。先の乱歩の書く物語とはまた違った、文字を用いずとも伝わる言葉、ということになるが、ここではそれは指先にまで至る。冒頭の小川未明の童話『左ぎっちょの正ちゃん』をふと思い出す。そこで正ちゃんは、「左ぎっちょ」がためにお習字でも妙な手つきで筆を持ち、後に字を書くのだけは右手になったものの、指さきですることは不器用だったという。終いには美しいじゅず玉の輪を造ることとなろ不器用ではなくなるが、ここでは正ちゃんの指さきは、じゅず玉の輪を造る際にいっしょうけんめいになり、すなわち指さきと、じゅず玉とは、触覚を通じて読み書き、あるいは会話を行っていたのではないか。指先の動き、触覚による言葉のやりとりは文字があろうとも無かろうとも行なわれているのだ。
芥川龍之介の『校正後に』は、そのタイトルが如く蛇足とも言い訳ともとれる文章が羅列されているが、人となりが伺えて実に面白い。収録するにあたっては、この解説の後、つまりこの本のいちばん最後に掲載することとした。
以上、十一篇の作品に加えて、BCCKS版では円城塔の『ぞなもし狩り』を収録している。
この作品は、青空文庫の蔵書に加わり、クリエイティブ・コモンズのライセンス範囲内において掲載が可能となった。Kindle版ほか電子書籍ストア配本版にも掲載したいところだが、最低金額での販売手続きをとらねばならず、すなわち利益が生じてしまうため掲載を見送った。また、やはりBCCKSでの紙の本にも掲載したいところだが、こちらも印税などは不要と設定しつつも読者に印刷・製本の実費が当然だがかかり、その内訳に利益も含まれる可能性もあるためこちらも諦めた。結果、無料で読めるBCCKS版のみの特典となった。とにかく、2017年の12月現在、「新潮」誌において、まさに「文字」に関する連載小説の最先端を切り拓いている氏の作品を『文字文学』として収録できることを嬉しく思う。
(平成二十九年師走、字書き)
○僕はこれからも今月のと同じような材料を使って創作するつもりである。あれを単なる歴史小説の仲間入をさせられてはたまらない。もちろん今のがたいしたものだとは思わないが。そのうちにもう少しどうにかできるだろう。(新思潮創刊号)
○酒虫は材料を聊斎志異からとった。原の話とほとんど変わったところはない。(新思潮第四号)
○酒虫は「しゅちゅう」で「さかむし」ではない。気になるから、書き加える。(新思潮第六号)
○僕は新小説の九月号に「芋粥」という小説を書いた。
○まだあき地があるそうだから、もう少し書く。松岡の手紙によると、新思潮は新潟県にまじめな読者をかなり持っているそうだ。そうしてその人たちの中には、創作に志している青年も多いそうだ。ひとり新思潮のためのみならず、日本のためにも、そういう人たちの多くなることを祈りたい。もし同人のうぬぼれが、単にうぬぼれにとどまらない以上は。
○僕の書くものを、小さくまとまりすぎていると言うて非難する人がある。しかし僕は、小さくとも完成品を作りたいと思っている。芸術の境に未成品はない。大いなる完成品に至る途は、小なる完成品あるのみである。流行の大なる未成品のごときは、僕にとって、なんらの意味もない。(以上新思潮第七号)
○「煙草」の材料は、昔、高木さんの比較神話学を読んだ時に見た話を少し変えて使った。どこの伝説だか、その本にも書いてなかったように思う。
○新小説へ書いた「煙管」の材料も、加州藩の古老に聞いた話を、やはり少し変えて使った。前に出した「虱」とこれと、来月出す「明君」とは皆、同じ人の集めてくれた材料である。
○同人は皆、非常に自信家のように思う人があるが、それは大ちがいだ。ほかの作家の書いたものに、帽子をとることも、ずいぶんある。なんでもしっかりつかまえて、書いてある人を見ると、書いていることはしばらく問題外に置いて、つかまえ方、書き方のうまいのには、敬意を表せずにはいられないことが多い。(そういう人は、自然派の作家の中にもいる)傾向ばかり見て感心するより、こういう感心のしかたのほうが、より合理的だと思っているから。
○ほめられれば作家が必ずよろこぶと思うのは少し虫がいい。
○批評家が作家に折紙をつけるばかりではない。作家も批評家へ折紙をつける。しかも作家のつける折紙のほうが、論理的な部分は、客観的にも、正否がきめられうるから。(以上新思潮第九号)
○夏目先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は過去において、十二分に仕事をされた人である。が、先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は、このごろある転機の上に立っていられたようだから。すべての偉大な人のように、五十歳を期として、さらに大踏歩を進められようとしていたから。
○僕一身から言うと、ほかの人にどんな悪口を言われても先生にほめられれば、それで満足だった。同時に先生を唯一の標準にすることの危険を、時々は怖れもした。
○それから僕はいろんな事情に妨げられて、この正月にはちっとも働けなかった。働いた範囲においても時間が足りないので、無理をしたのが多い。これは今考えても不快である。自分の良心の上からばかりでなく、ほかの雑誌の編輯者に、さぞ迷惑をかけたろうと思うと、実際いい気はしない。
○これからは、作ができてから、遣うものなら遣ってもらうようにしたいと思う。とうからもそう思っていたが、このごろは特にその感が深い。
○そうして、ゆっくり腰をすえて、自分の力の許す範囲で、少しは大きなものにぶつかりたい。計画がないでもないが、どうも失敗しそうで、逡巡したくなる。アミエルの言ったように、腕だめしに剣を揮ってみるばかりで、一度もそれを実際に使わないようなことになっては、たいへんだと思う。
○絶えず必然に、底力強く進歩していかれた夏目先生を思うと、自分のいくじないのが恥かしい。心から恥かしい。
○文壇は来るべきなにものかに向かって動きつつある。亡ぶべき者が亡びるとともに、生まるべき者は必ず生まれそうに思われる。今年は必ず何かある。何かあらずにはいられない、僕らは皆小手しらべはすんだという気がしている。(以上新思潮第二年第一号)
(大正五年三月—大正六年一月)
底本:「羅生門・鼻・芋粥」角川文庫、角川書店
1950(昭和25)年10月20日初版発行
1985(昭和60)年11月10日改版38版発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月12日公開
2004年3月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
文字にまつわる小説・随筆など青空文庫に置かれているものを「文字文学」と名付けまとめた一冊。収録作品は「文字に対する敏感」久保田万太郎/「文字と速力と文学」坂口安吾/「カタカナニツイテ」伊丹万作/「ローマ字論者への質疑」萩原朔太郎/「北派の書論」内藤湖南/「拓本の話」會津八一/「料理芝居」北大路魯山人/「書について」高村光太郎/「私の書に就ての追憶」岡本かの子/「文字禍」中島敦 の10篇。解説は出宰漱太郎。
「文字による文字のための文字のサイト」type.centerが、文字にまつわる小説・随筆などをまとめた「文字文学」のシリーズ第2弾。収録作品は、「楽書」薄田泣菫/「余と万年筆」夏目漱石/「辞書」折口信夫/「黄山谷について」高村光太郎/「神神の微笑」芥川龍之介/「梔子」ナベタン・ヘッセ/「新作いろは歌留多」坂口安吾 の7篇。解説は出宰漱太郎。
電子書籍は各ストアにて、紙の本はBCCKSにてお求めください。
2018年1月1日 発行 初版
bb_B_00152841
bcck: http://bccks.jp/bcck/00152841/info
user: http://bccks.jp/user/130701
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
● type.center は「文字による文字のための文字のサイト」です。今、そしてこれから「文字をつかう人」と「文字をつくる人」に向けて、ニュースやインタビュー記事、独自の連載など、盛り沢山・文字だくさんでお送りします。よろしくお願いします。 ● http://type.center