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正しいと思う時こそ

近藤いずみ

Bambooshoots



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  この本はタチヨミ版です。

 銀行で部長の秘書をしていた頃のことである。ある日、部長からかなり私的な用事を頼まれた。その内容は正確に覚えていないのだが、煙草を買ってきてとか、預金通帳の記帳をしてきてとか、そのようなことであったと思う。
 もちろん、そういうことはよくあることで、普段であれば笑顔で対応していたのだが、その日はその直前に走り書きの原稿を渡され、
「一時間以内にワープロで清書して。出版社の記者が取りに来るから」
と言われたばかりであった。(部長は金融や財政の専門誌から記事を依頼されることが多かった。)
 ここで離席したら原稿の清書が間に合わなくなるかもしれない。その場合、一番困るのは部長のはずである。私は、タイプする手を休めずにこう答えた。
「今は手が離せません。お急ぎでしたらご自身でお願いします」
 すると、それを聞いた部長は、少し嫌味な感じでこう言った。
「随分偉くなったもんだな」
 余裕のある時なら聞き流せたのだろうが、その時の私は時間内に清書を終えることで必死であったため、その言葉に即座に反応してしまった。
「偉くなったのではありません。優先順位を考えてお答えしました」
 私は冷静に言ったつもりであったが、そのことがかえって部長の怒りに火を付けてしまったようだ。
「秘書の仕事の優先順位を決めるのは俺だ。口答えをするような秘書はいらないぞ」
 それを聞いた私はカチンときてタイプの手を止め、大きく息を吸ってから言い返した。
「部長は常々、優先順位を考えながら仕事をしろとおっしゃっているではありませんか。それとも、この清書が間に合わなくてもよいのでしょうか」 
部長は、バンと机を叩き、小さな声でクソっと言って、部屋を出て行ってしまった。
 部長の姿が見えなくなるや否や、横で一部始終を見ていた副部長が私の所に飛んできて言った。
「謝りなさい。いいですか。部長が戻られたら、きちんと誤るのですよ」
 しかし、当時の私はまだ二十代前半であり、折れることを知らなかったため、この副部長にも口答えをしてしまった。
「私、間違えたことを言いましたか。副部長も聞いていらっしゃいましたよね」
 するとそれに対し、副部長はいつも通りの丁寧な言葉遣いで私を諭した。
「あなたは間違えていなかったかもしれない。けれど、自分が正しいと思う時こそ、相手に『悪かった』と思う隙を与えてあげなければいけません。そうしないと、議論には勝てても、相手との関係が終わってしまいます」
 副部長は、一言一言、小さな子供に言い聞かせるように言い、優しい目で「いいですね」と念を押した。
 私は言われた言葉を反芻してみた。そして、その全てに納得したわけではなかったけれど、とりあえず、部長が戻ったら謝ってみようと思った。副部長の心遣いを無駄にしてはいけないと思ったし、それに、副部長の言葉通りにしたらどのような展開になるのか興味もあった。

 三十分程して、ハイライトの箱を手にした部長が戻ってきた。そして、岩石のような険しい表情で私に尋ねた。
「清書はできたのか」
私は
「あと少しです」
と答え、謝るなら今だと思って立ち上がり、
「先程は生意気なことを言って申し訳ありませんでした」
と一気に言って頭を下げた。
 一、二、三、と数えてから顔を上げると、部長の表情がほっとしたように緩むのが見えた。部長はそれを悟られないように新聞を開きながら
「そうだろ。でもお前が普段、俺の言うことをよく聞いていることがわかったよ。清書、できたらすぐに持ってこい。記者に渡す前に最終チェックをするから」
と言った。無理な指示を出したことについて言及はなかったが、いつも通りの空気が戻っており、私は謝ってよかったと思った。
 副部長に目を向けると、ニコッと笑ってウィンクを飛ばしてくれた。
 
 あれから早四半世紀が過ぎたが、今でもあの時の副部長の言葉を思い出すことがある。
「自分が正しいと思う時こそ、相手に『悪かった』と思う隙を与えてあげる」
職場でも家庭でも、自分の居場所を居やすいものにしてくれる魔法の言葉である。 了

エッセイのように生意気盛りだった頃、社内報に載せていただく機会がありました。表紙の写真とこの写真はそこからの転写です。



  タチヨミ版はここまでとなります。


正しいと思う時こそ

2018年1月2日 発行 初版

著  者:近藤いずみ
発  行:Bambooshoots

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近藤いずみ

心と体にいいものを書いていきたいです。

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