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この本はタチヨミ版です。
一
日曜の朝、電話が鳴った。
「美鈴ですか? はい。おります。少々お待ちください」
保留ボタンを押して義母を呼ぶ。
「お義母さん、赤十字病院から電話ですよ」
ひょこひょこと歩いてきた義母はいぶかしそうに
「赤十字病院? 何かしらねぇ」
と言いながら受話器を取る。
「お待たせしました。私が八代美鈴でございます。え? はい。確かに存じております。ずっと昔に別れた夫です。え? 突然そんなことを言われましても…。困ります。本当に困ります。少々お待ちください」
義母は保留ボタンも押さず、ソファーで足を伸ばしている夫を呼ぶ。
「栄一、あなたの父さんが駅の階段から落ちて運ばれたって。私にはよくわからないから替わってちょうだい」
夫は広げていた新聞をパラリと落とし、数秒ためらってからゆっくりと立ち上がって受話器を取る。そして
「息子の栄一です。あ、はい、はい…」
と、抑揚のない返事を何度か繰り返し
「どうしても行かなければいけませんか?」
と吐き捨てるように言う。普段の夫とは別人のような冷たい口調だ。
「わかりました。ではとりあえず行きます」
夫はそう言って静かに受話器を置く。
「なんだって?」
義母が詰め寄る。
「親父、脳挫傷で意識がほとんどないって。うわ言で母さんの名前を呼んだから、ケースワーカーが電話帳で母さんを探したようだ」
一気に部屋の空気が重たくなる。
「今夜が峠だから来てほしいって」
「なんで? 私は嫌よ」
「でも誰かが行かないと困るらしいよ」
「そんなの知ったことじゃないでしょう」
夫が私に向かって「着替えを用意するように」と目配せをしたので、奥の部屋に移ってクローゼットを開く。親子水入らずになった居間からは、全く遠慮がなくなったやりとりが聞こえてくる。
「私は行きませんよ。あの人はねぇ、四十年も前に私達を捨てて出て行ったのよ。私の貯金を使い果たして、借金だけを残してね。あなたにもよく話して聞かせたでしょう」
「ああ」
「三つになるかならないかの可愛いあなたを置いて、自分一人で楽になった卑怯者よ。どうして最後の最後に面倒を見なくちゃいけないの」
「どうしてって俺の方こそ聞きたいさ。でもケースワーカーに行くって言っちゃったし。俺、一人でも行ってくるよ」
私は何も聞えなかった振りをして、白いワイシャツとグレーのズボンを居間のソファーにそっと置く。
「あなた、ここに置きましたよ。とりあえず私も着替えてきますね。すぐに戻りますから待っていてください」
そう声をかけると、夫は救われたような顔をして頷く。
二
二階の自分の部屋に上がっても、親子の悲痛な怒鳴り合いは耳に入ってくる。
「だいたい私とあの人はもう離婚しているんだからそんな義務はないのよ」
「いいや、残念なことに、法律上はまだ夫婦のままなんだよ」
「どういうこと? 蒸発してから十年くらい経った頃に区役所へ行って相談をして、それから裁判所でちゃんと手続きをしてきましたよ」
「だからそれは失踪宣告と言ってね、七年以上行方が分からない人を死んだことにするための手続きでしかないの。離婚手続きとは別なんだってば」
しばし沈黙が続いた後、夫の声が続く。
「それに親父の場合はね、年金をもらおうとした時に戸籍上死んでいることに気づいて、自分で失踪宣告を取り消しているから、名実ともに今でも生きていて、今でも母さんの夫なんだよ」
「そんな馬鹿な話がありますか!」
「母さんはあの時もそう言ったよ。区役所の人が電話をくれて、離婚手続きを勧めてくれた時。『今更そんな馬鹿な話がありますか。私達はとっくの昔に離婚していますから』と言い張って何もしなかったじゃないか。だから、今でも戸籍上二人は夫婦のままなんだよ。わかった?」
また沈黙が訪れる。そしてそれから一呼吸おいて、義母の嗚咽する声と、居間のドアを勢いよく閉める音が聞こえてきた。
私は身支度のピッチを速める。藤色のワンピースを着て白いレースのカーディガンをはおり、淡いピンクの口紅をさして居間に戻る。夫は既に着替えを済ませてサッシの外を眺めている。その目線の先にあるのは夏雲の浮かぶ空か、それとも、その空に向かって薄紅色の羽を広げる合歓の花か。
「お待たせしました」
と声をかけると
「ああ」
と頷いて
「行こうか」
と言った。
私がパンプスに右足を置いたちょうどその時、パタパタと小刻みな足音を立てて義母が現れた。つばの広い帽子を被っている。義母は何も言わない。夫も何も聞かない。
ドアを開けて三人で外に出る。初夏の日差しが目に痛い。今、私達の心を水浸しにしている戸惑いや怒りや悲しみを、どうか乾かして下さいと天に祈る。
三
国道十七号は休日のわりに混んでいる。息苦しい沈黙を避けるようにつけたラジオから、昔懐かしい昭和の歌が流れている。しかし、サビにさしかかったところで夫が周波数を変える。
次に流れてきたのは固めの報道番組で、憲法に「家族は、互いに助け合わなければならない」という文言を入れることの是非を論じている。法律を勉強したことのない私は、その是非について語ることはできない。ただ、そういう文言を自然に書いてしまえる人や、それをごく普通に受け止めることのできる人達は、きっとこれまで家族に恵まれてきたのだろうと思う。夫はまた周波数を変える。
この夫に一度だけ、義父のことをどう思っているのか尋ねたことがある。すると「そもそも記憶がない」というそっけない答えが返ってきた。
けれど私は知っている。夫が私と手を繋いで歩いている時、とびきり嬉しい気持ちになると、手を繋いでいる方の手を大きく前後に揺らすだけでなく、手を繋いでいないもう片方の手も同様に大きく揺らして軽くスキップすることを。それはまるで、小さな子供が右手を父親と繋ぎ、左手を母親と繋ぎ、飛び跳ねながら両手を大きく揺らす仕草のようだ。
ひょっとすると遙か昔、夫はそんな風に両親と手を繋いで歩いたことがあるのかもしれない。そして、その時の嬉しかった記憶が、意識の中にではなく、手を繋いだ時の仕草の中に息を潜めて隠れているのかもしれない。そして今でもとびきり嬉しい気持ちになると、それがひょっこりと顔を出すのかもしれない。
サイドミラーでチラリと後部座席の義母の様子を伺う。目を閉じたままぴくりとも動かない。考え事をしているのか。それとも寝ているのか。
ふと、この小柄な義母が歩んできた八十六年の人生に思いを馳せてみる。世界恐慌の年に生まれ、戦争中に女学生時代を過ごし、初恋の人を特攻隊に奪われ、戦後は地元の信用金庫で二十年間真面目に勤務し、四十歳になる頃に兄夫婦から追い出されるように見合結婚をし、マルコウの初産で夫を出産し、義父が失踪してから後は女手一つで夫を育てあげた。
険しかったに違いないその道のりの最後に、息子夫婦と穏やかな日々を送っているところであった。そこへ突如大波のように襲いかかった一本の電話が、今、彼女を猛烈な勢いで昨日に引きずり戻そうとしている。
赤信号で止まる。横には大型トラックが並ぶ。大きな車体の運転席を見上げ、長距離トラックの運転手だったという義父にも思いを馳せてみる。古いアルバムの中の義父は背が高くてハンサムだ。それなのに、いつもどこか自信がなさそうな、気の弱そうな微笑を浮かべている。夫を抱く時も、どことなく怖々と包み込んでいるようだ。
しかし義母に言わせれば、ギャンブル依存症の大悪党だったとのこと。掛金を取りに、いや、盗みに戻ってくる以外は、ほとんど家に寄り付かなかったという。
四
やっと赤十字病院に着いた。受付で名前を言い、事情を話す。暫く待たされた後、病室に案内される。その途中の廊下で、義母がパタリと足を止め
「やっぱり私は下で待ってるよ」
と言い出す。
「でもお義母さん、大きな病院だから迷子になってもいけないし、それにせっかくここまで来たんだから」
と言っても、頑として受け付けない。義母の性格をよく知っている夫が
「じゃあ支払いカウンターの近くのソファーで待っててよ。動き回らないで」
と言うと、義母はほっとしたように表情を緩めてくるりと踵を返す。その小さな背中をしばらく見送ってから、義父の待つ病室へと急ぐ。
「こちらです」
案内してくれた看護師が、八代慎と書かれた名札を指さす。夫が
「個室ですか?」
と尋ねると、看護師は
「はい。この部屋しか空いていなかったものですから。でもご安心下さい。差額ベッド代はかかりません」
と答える。夫は頷き、軽く息を吸ってから入り口のカーテンを開ける。
目に入ってくる六畳くらいの部屋には窓が付いているが、遮光されているため薄暗い。ポツンと置かれたベッドの上には、包帯で頭をグルグル巻かれ、人口呼吸器の管を口に固定された義父が、蝋人形のように静かに横たわっている。
夫が一歩踏み出す。私も後に続く。
「八代さん、息子さんとお嫁さんがお見えになりましたよ」
看護師が声をかける。反応はない。
「何か声をかけてあげてください」
看護師に促されて夫が口を開く。
「栄一です」
又もや反応はない。しかし、夫は再び声をかけようとはせず、少し腰をかがめて義父の顔を覗き込み、ぼそっと呟く。
「こんな顔だったかな」
やはり少しは記憶があるのだろうか。
「はじめまして。朝子です」
無表情の義父に向かって挨拶をする。またもや反応はない。顔を近づけてみる。写真で見たハンサムな青年の面影はない。四十年の歳月に刻み込まれた深い皺が、涙の跡のように何本も走っている。
そこへ担当医が入ってくる。まだ白衣が初々しい。インターンを終えたばかりかもしれない。ペコリとお辞儀をして話し始める。
「診察したところ、糖尿病で左足の親指を切除した跡がありました。今回の事故は、足が不自由だったためにバランスを崩して起きたのかもしれません」
義父が糖尿を患っていることを夫も知らなかった様子だ。それにしても、そんなになるまで放っておいたとは。義父の周りには、体を気遣ってくれる女性はいなかったのか。
担当医は淡々と話を続ける。
「怪我の方は極めて深刻な状況で、左の側頭部から後頭部にかけて損傷が激しく、既に壊死している部分もあります。また、内出血のために頭蓋内圧が急激に上昇しています。このまま静観していたら、残りのお時間はあと一日でしょう。かといって、これ以上の外科的措置を施すことは、年齢と体力の観点から難しいです。糖尿病のために高血小板薬を投与されている可能性が高く、オペをすると血が止まらなくなる恐れもあります。状況を総合的に判断して申し上げますと、特にご希望がなければ、このまま静かに見守られるのがよろしいかと思われますが、いかがでしょうか」
夫は間髪入れずに答える。
「静かに見守りたいと思います」
「わかりました。ではこちらにサインをお願いします」
五
夫のサインをもらった担当医は軽く会釈をして風のように去っていく。看護師も少し遅れて退室しかけたが、「あ、そういえば」と言って戻り、夫に使い込んだ感じの茶色いパスケースを渡す。それを手にした夫は中を見て
「これは一体…」
と言ったきり、絶句している。
「栄一さんですよね。全然変わっていらっしゃらないからすぐにわかりました」
夫はもう一度パスケースに目を落とし、一呼吸置いてから尋ねる。
「これは、どこに?」
「お父様の上着の内ポケットに入っていました」
何だろうと思って私も覗き込む。すると、パスケースの中、手編みのキャップを被った幼い日の夫が天使のように微笑んでいる。そして、パスケースのプラスチックの部分には黒いマジックで「栄一、二歳十か月」と書いてある。
家を出てから四十年、義父はこの写真を片時も離さずに持ち歩いていたというのか。
「こんなもの…。こんなもの、今更見せられたって信じないぞ。偽善だ。偽善に決まっている!」
夫は声を荒げてそのパスケースを足下のゴミ箱に叩きつける。そして
「母さんの様子を見てくるから」
と言って出て行ってしまった。
残された私は、少し困惑した様子の看護師にお辞儀をする。看護師は軽く頷いて出ていく。
そして、この薄暗い病室には、義父と私の二人きりになってしまった。聞こえてくるのは規則正しい人口呼吸器の音だけ。
暫くは茫然と立ち尽くしていたが、ふと我に返り、ゴミ箱から夫が捨てたパスケースを拾い上げる。使い込んで傷だらけのパスケースの中で、無邪気に微笑み続ける幼い日の夫。
これは捨てられない。
六
そういえば、ずっと不思議に思っていたことがある。義父について義母からは「ちっとも家に寄り付かない人」と聞いていたが、アルバムを見る限り、三人は義父が運転するランドクルーザーに乗ってあちこちにドライブしていたようなのだ。
特に、義父が家を出る直前の三か月は、異常なくらい頻繁に出かけている。秩父の翌週は伊香保、その翌週は高尾山、またその翌週は筑波山という感じで毎週小旅行を楽しみ、義父は幼い夫を沢山笑わせてくれている。
もしかすると、義父は自分自身をコントロールできない状況に苦しみ、家族から離れる覚悟を人知れず固めていたのではないか。だから、最後の三か月で一生分の思い出を作り、それからそっと出て行ったのではないか。
四十年前、心療内科の知名度が今と同じくらいに高く、依存症の治療を受けやすい環境であったなら、義父は医療の力でギャンブル依存症を克服することができたのかもしれない。勿論、義母や夫にはそんな見方はできないだろう。しかし、立ち位置の異なる私からはそんな風にも見え、この現状が残念に思えてならない。
くたびれた茶色いパスケース。これはやはり捨ててはいけないものだ。私はそれを両手でしっかりとくるみ、胸に近づけ、ぎゅっと目を閉じる。
絶対に捨ててはいけない。今は私が内緒で預かっておこう。いつか、義母や夫が義父を許したくなる日が来るかもしれないから。
(了)
タチヨミ版はここまでとなります。
2018年1月4日 発行 初版
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