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牛男

根木珠

九十九電本文庫



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  この本はタチヨミ版です。

   1

 〈牛〉の背中は生まれつき奇妙に曲がっていた。〈牛〉は傴僂せむしだった。その風貌から、人は彼を〈牛〉と呼んだ。
 〈牛〉はその日、買い物をするために街へ向かっていた。曲がった背中が痛むので歩き回るのは大変だった。少し歩いただけで疲れてしまう。それ以上に、人々の視線が恐ろしかった。街の明るい雰囲気や人々の視線が、ここはお前のような醜い者のいる場所ではない、と言っているように感じた。群衆の中に身を置くことは常に苦痛だった。
 やっとの思いで目的の店を見つけ、入る。店主が、
「いらっしゃい」
 と言った。〈牛〉は軽く会釈をし、いつものやつはあるか、と問うた。少々お待ちを、と店主は言い、奥に引っ込んだ。
 しばらくすると、店主は真っ赤な口紅を持って出てきた。〈牛〉はそれを受けとり、代金を支払うとすぐに店を出、足早に帰った。
 〈牛〉が屋敷に戻ると、紳士はソファにもたれて茶を飲んでいた。
「ただいま戻りました」
 と〈牛〉は言った。
「ごくろう。それをここへ」
 紳士は、口紅をしまっておくよう指示した。
「はい」
 〈牛〉は買ってきた口紅を抽斗にしまい、掃除を再開した。
 その夜、屋敷に来客があった。長い黒髪の、肌の白い、唇の赤い女だった。
 翌日、〈牛〉は荷車を引いて歩いていた。紳士に仕事を命じられていたのだ。暗い森へ入る。道が悪く、荷車が揺れた。すると、
 ごとり
 と音がした。
 荷車に積んだ、女の死体がたてた音だった。



   2

 〈牛〉は物乞いをしていた。路地裏の一画が〈牛〉の居場所だった。ぼろをまとい、背中を丸め、ものも言わず身じろぎもぜず、人通りの多い道端にひたすら座り続けていた。〈牛〉のその異様な姿を見ると、通りかかった人々はみな不快げな顔をした。子どもたちは石つぶてを投げた。女たちは顔を背けた。
 座り続けて足が痛くなったため、〈牛〉は立ち上がり、辺りを少し歩いてくることにした。曲がった背中をよりいっそう丸め、なるべく人気のないところを選んだ。雑木林にさしかかった。少し進むと小径があらわれた。背の高い草が生い茂っていた。かきわけて歩く。ふと土の匂いが〈牛〉の鼻をくすぐった。ふと脇へ目をやる。ある場所だけぽっかりと、陽の光がよく当たっていた。〈牛〉は導かれるようにして足を向けた。すると、少女がいた。その少女は花を摘んでいた。摘んだ花を繋げて輪にしているのだ。少女は〈牛〉に気がつくと、にこりと微笑みかけた。〈牛〉は狼狽えた。多くの場合、人は〈牛〉を見ると気味悪がった。この少女もまた、こわがって逃げるのだろう、と〈牛〉は思った。しかし少女は、こちらへどうぞ、と言った。〈牛〉は、おそるおそる少女のそばに近づくと、腰をおろした。それから、少女と同じように花を摘んだ。陽だまりの中でそうしていると、とても穏やかな気分になった。不器用な〈牛〉は、花を輪にするのに苦労していた。ひとつ作るのにも多くの時間を要した。そうして、ようやくできあがった花輪を、〈牛〉は、しげしげと眺めた。それはとても不格好で、まるで自分のようだ、と〈牛〉は思った。その様子を見ていた少女が、
「じょうず」
 と〈牛〉の花輪を褒めた。〈牛〉は顔をあげ、少女を見た。少女は微笑んでいた。柔らかい風が吹き、少女の髪をなびかせた。
「わたしね、この場所がすごく好きなの」
 少女は、作り終えた花輪を脇に置くと、草原に寝転がった。両手を広げ、大きく伸びをした。〈牛〉を見て、
「こうしてみたら?」
 と言う。〈牛〉は少女と同じように、花輪を脇にどけ、草原に寝転がり、伸びをした。丸まった背中では仰向けになることが難しく、〈牛〉は少し体を横に向けていた。すると少女と目が合った。草が鼻先にあたり、くすぐったくなって〈牛〉は鼻を掻いた。草花や土の匂いがした。ふと手のひらを見ると、乾いた土が指にこびりついていた。突然、少女がふふふと笑った。
「あなた、鼻についてるわ」
 先ほど掻いたときに、鼻に土がついたのだ。少女はおかしそうに笑い続けた。〈牛〉も、つられて笑った。
 遠くから、女の人の声が聞こえた。少女が突然、はっとしたように立ち上がった。服の裾についた草の葉を払うと、ママ! と言いながら声のするほうに駆けていった。かと思うと急に立ち止まり、くるっと振り返って、〈牛〉を見た。
「これあげる! 〈宝物〉なの!」
 そう言って手に持っていたそれを〈牛〉に渡し、そして去っていった。
 少女が〈牛〉に渡したものは、何の変哲もないカフスボタンであった。〈牛〉はカフスボタンというものを知らなかった。丸い形をしたその〈宝物〉をじっと見ながら、あの声の持ち主は少女の母親だったのだ、と〈牛〉は何気なく思った。〈牛〉は、少女が置いていった花輪を拾い、路地裏に戻った。
 翌日、〈牛〉が道端で毛布にくるまっていると、子どもたちの笑い声が聞こえてきた。毛布から顔を出すと、昨夜毛布の横に〈牛〉が置いた花輪は壊されており、辺りには花びらが散らばっていた。



   3

 寒い日のことだった。〈牛〉は突然、見知らぬ若者五、六人に襲われた。路地裏に座っていたところを囲まれ、耳を引っ張られ、頭を殴られ、腹を蹴られた。〈牛〉は痛さのあまり声も出なかった。意識が朦朧とする中で、若者たちの笑い声が聞こえた。




   4

 〈牛〉は店の裏で残飯を漁っていた。すると猫が来て、獲物を掠めとっていった。


   5

 ある朝、〈牛〉が目覚めると、顔のすぐ横に幼い少年がしゃがんでいた。驚いて起き上がると、少年は、ぬっと手を出した。その手には何かが握られていて、〈牛〉に渡そうとしている。〈牛〉は受けとる。匂いを嗅いで、どうやら食べ物らしいとわかる。少年はにこりともしない。食べ物を〈牛〉に手渡すとすぐに立ち去った。
 次の日もまた次の日も、少年は〈牛〉のもとへやって来た。少年はいつも、同じぼろを着ていた。
 少年は〈牛〉を、〈友だち〉と呼んだ。この路地裏に来て初めて〈牛〉は、〈友だち〉ができた。少年はゆっくり話し始めた。家族のこと、家が貧しいこと、祖母が優しいこと。祖母の話してくれる物語が面白かったといって、その物語を語り聞かせてくれもした。その物語に〈牛〉は心を奪われ、時の経つのも忘れた。
 ある日、少年は本を持ってきた。
「読んであげる」
 言うと少年は、本を朗読し始めた。
 それは一枚の木の葉が、生きて、死ぬまでのお話だった。
 〈牛〉は何も言わず、ただ黙って聞いていた。
 朗読が終わると少年は、〈牛〉のほうを見た。
「どうしたの、そんな悲しそうな顔をして」
 〈牛〉は、指摘されてもまだ、自分がどうしてそんな顔をしているのかわからなかった。わからないので説明をすることができず、戸惑った。
 あ、と少年が声をあげる。
「ぼくもう帰らないと。お母さんに怒られちゃう」
 じゃあね、と手を振って、少年は帰っていった。
 少年はたびたび、〈牛〉のもとを訪れた。



   6

 暑い日が続いていた。〈牛〉は川へ行き、水を浴びた。ついでにぼろぼろになった服も洗い、木の枝に干し、しばらくぼうっとしていた。服が乾いたか確認する。生乾きだが着る。いつもの路地裏に戻った。



   7

 いつしか少年は来なくなった。
 〈牛〉は、食べ物をくれる人間がいなくなってしまった、と思った。これからは自分で探してこなければいけない。久しぶりに残飯を漁ると以前より惨めな気分になった。路地裏には〈牛〉と同じように、地べたに寝転んでいる人たちがいる。〈牛〉はその中から、すきっ歯の男を捕まえた。
「食い物をくれ」
 すきっ歯は酒を呑んでおり、酔っぱらっていた。
傴僂せむしにやるもんなんかねえよ」
 罵声を浴びせられ、顔へ唾を吐きかけられた。〈牛〉は激昂し、すきっ歯の顔を殴った。すきっ歯は驚愕した顔で〈牛〉を見た。
「いてえ。なにしやがる」
 叫び声が聞こえても構わず〈牛〉は殴り続けた。すきっ歯が言葉を発することもできない状態になって、やっと〈牛〉は落ち着いた。それからいつもの毛布に戻って、眠りについた。



   8

 〈牛〉が路地裏でぼうっとしていると、小奇麗な格好をした紳士が歩いてきた。この辺では見かけないな、と〈牛〉は思った。その紳士は、ゆっくりと路地裏の様子を観察していた。〈牛〉のいるところまで来て、しゃがみ、〈牛〉と目線をあわせた。
 うちに来なさい。
 紳士が言った。え、と〈牛〉は聞き返す。紳士はもう一度、今度ははっきりと、うちに来なさい、と言った。



   9

 見知らぬ紳士に拾われた〈牛〉は、その後、紳士の住む屋敷で働くことになった。仕事は簡単な掃除などである。佝僂くるではつらかろう、と紳士は言った。いえ、このくらいは、と〈牛〉は言う。この屋敷は広く、掃除をするだけでも体は痛むけれども、何もしないでいると落ち着かないのだった。
 
 紳士はある夜、女性を部屋に招じ入れた。
 翌朝〈牛〉が屋敷の掃除をしていると、紳士の部屋に口紅が落ちていた。
「ご主人様」
 〈牛〉は紳士のもとへ行き、
「先日のお客様が、お忘れ物をしたようなのですが」
 と言って、口紅を紳士に手渡した。
「……ああ。返しておこう」
 紳士は口紅を受けとり、自室へ戻った。紳士にはとりたてて変わった様子はなかったが、〈牛〉はふと気になって、扉の小窓を覗いた。
 そこで見たものが、〈牛〉の人生を大きく変えた。



   10

 紳士に女を殺す性癖があるのを知ってから、〈牛〉は、その後の処理を請け負うことになった。紳士が「無理をするな」と言うのももっともで、死体は重かった。それを毛布でくるみ荷車に乗せ、運んで森に埋めるという作業は、〈牛〉の曲がった背中に負担をかけた。それでも〈牛〉は死体を埋め続けた。
 森に着き、穴を掘る。女の死体に、真っ赤な口紅を塗ってやる。土を被せ、口紅を穴の傍に置く。この一連の作業を〈牛〉は、埋葬の儀式として行っていた。



   11

 男性客が屋敷に来ており、居間で紳士と談笑していた。ではそろそろ帰ります、という男性の声が聞こえてきた。〈牛〉は居間の前で待ち、男性に上着と帽子を手渡した。そのときふと、男性の手元が見えた。帽子をとった手のほうだけ、カフスボタンがなかった。左手側は通常のボタンで留めており、右側は綺麗なカフスボタンがついている。その男性は上品な身なりをしているために、よけいに通常の地味なボタンが目立った。〈牛〉はその不調和に引っかかりを覚えたが、しかし、
「ああ、すみませんが」
 と呼ばれたことで、すぐにその違和感は意識の外に押しやられた。
「大通りへはどう行ったらいいのですかね」
 男性からそう尋ねられ、〈牛〉は身振りで教えようとした。しかし男性は、
「すまんが、案内してくれんかね」
 と言った。〈牛〉は、かしこまりました、と言うと、男性を案内すべく外へ出た。歩いていると男性が話し始めた。
「いやあ、申し訳ない。土地勘がなくてね」
「いえ、お気になさらず……」
「ところで、あのご主人なんですがね」
「はい」
「近ごろ、変わった様子はないですか」
 男性は〈牛〉の目を、まっすぐに見た。
「……いえ」
 少しの間があり、〈牛〉は、とくにありません、と答えた。
「そうですか……。いえ、妙な噂を聞いたものですからね。近ごろ、女性の行方不明が多いじゃないですか」
「そのことと、ご主人様が、何か」
 〈牛〉は男性の顔を見る。
「ああ、いえ。ほんの噂ですから。お気を悪くされたなら申し訳ありません」
 男性は左手で帽子を軽く上げた。〈牛〉は男性を見、いえ、と言った。この人は左利きなのだろうか、と思った。カフスボタンがとれているのも左袖だった。そんなことを考えながら男性を見ると、男性は〈牛〉の顔をじっと見ていた。〈牛〉はその射るような目から視線を外した。
「あ……大通りは、この先です……」
「おや、話しているとあっという間ですね。どうもありがとう」
 男性は会釈をすると、大通りへ向かった。〈牛〉は男性のうしろ姿を見ていた。と、
「ああ、そうそう、言い忘れていましたが」
 男性は振り返った。
「あの赤い口紅……」
 〈牛〉は一瞬、体がこわばる。
「なぜわざわざ、現場に残すんですかねえ? 足がつくようなものを。あ、いえ、こちらの話です」
 すみませんね、では。男性はにっこりと〈牛〉に笑いかけ、去っていった。その姿が見えなくなってもしばらくの間、〈牛〉はその場に立っていた。



   12

 〈牛〉が居間の前を通りかかると、一階の居間から話し声が聞こえてきた。紳士が、この間の男性と話をしているのだ。
 男性が暇を告げる。〈牛〉は見送るべく玄関へ向かう。
「ああ、悪いのですが」
 男性は〈牛〉を見て、言った。
「まだ道を覚えていませんでね。ここへ来るときも人に尋ねながら来たものですから」
 そこまでお見送りいたしましょう、と〈牛〉が言う。男性はにこりとした。そして帽子を被りながら、いつもすまんね、と言った。帽子をとるのはやはり左手だった。そしてその袖にはカフスボタンがないままだった。紳士は笑顔であったが、僅かに、猜疑と警戒がその顔に浮かんでいた。
 屋敷を出てから、二人はしばらく黙って歩いていたが、男性がふいに口を開いた。
「僕はね、彼とは長い付き合いなんですよ」
 彼とは紳士のことだろう、と〈牛〉は思った。
 そして男性は語り始めた。



   13

「僕はね、彼とは長い付き合いなんですよ」
「そうなんですか……」
 〈牛〉は男性を見ずに返事をした。
「そう。彼は昔から穏やかな性格でね。優しすぎるきらいがある」
 わかります。〈牛〉は心の中で同意する。
「見ているとね、はらはらするんだ」
 男性は、遠くを見ながらそう話す。
 〈牛〉は黙って聞いている。
「彼には思い詰めるところもあって。思慮深いといえば聞こえはいいんだがね」
「そうでしたか」
「まあ、そんな彼だから、君が慕うのもわかるよ」
「はあ」
「……話は変わるんだけれど、口紅の件ね」
「……」
「あれはさ、誰かがあえて置いていったのは間違いないんだ。だが、なぜ置いていったのか……。僕はね、罪を被る気だと思うんだ」
 〈牛〉は静かに聞いている。
「つまり、死体を埋めて口紅を置いていった人間が、女性たちを殺害した人間とは別にいて、なおかつその罪を被ろうとしている。そこまで甲斐甲斐しく働く理由は何か」
 男性は〈牛〉を見つめる。〈牛〉は前方を見ている。
「ただ慕っているというだけで、果たして、ここまでのことができるだろうか。いや、できるかもしれないが……、僕が思うに、この口紅を置いていった人間はおそらく」
 そこまで一息に喋ると男性は一呼吸の間を開け、再び口を開く。
「自らの破滅を、望んでいるんじゃないかな」



   14

 屋敷に戻ると、紳士が〈牛〉を呼んだ。
「どうだ最近、体のほうは」
 紳士はソファにもたれ、茶を飲んでいた。
「はい、だいぶいいです……おかげさまで……」
「うん」
 窓の外を、紳士は見ていた。
「牛、おまえの〈仕事〉のことだが」
 死体の処理のことだ。
「はい」
「時間帯と、道順を変えたらどうかね」
 紳士は〈牛〉のほうを向き、物腰柔らかく提案をする。やはり、と〈牛〉は思った。やはり紳士も、あの男性から何か言われたのだ。
 はい、と返事をすると軽く会釈をし、居間を出る。
 扉を閉めると〈牛〉は、ふっ、と息を吐いた。



   15

 〈牛〉は、男性との会話を思い出していた。
 自らの破滅を望んでいる――、そうかもしれない。仮に、紳士のために死ねと言われれば喜んでそうするだろう、と思った。紳士に尽くすよりほかに、生きていく理由など、この世にしがみつく意味など、まったくないのだから。
 〈牛〉は、カフスボタンのとれた服を焼却炉に突っ込みながら、とりとめもなく考えていた。
 あの男性は結局、あの娘の父親だったのだろうか。
 確かめる術は、もうない。



   16

 朝、目が覚めると体が痛く、起き上がるのがつらかった。昨夜の疲れが出ている。それでも少し、気分転換をしたい、と〈牛〉は思った。朝食を済ませると〈牛〉は、外套を着、長靴を履いて、散歩に出かけた。よく晴れた、風の冷たい朝だった。思い切り空気を吸い込むと、魂が浄化されるような気がした。空を見上げる。鳥が飛んでいた。

 歩いていると雑木林が見えた。小径に入っていく。その風景にはどことなく見覚えがあった。物乞いをしていたころに訪れたことのある場所だ。ここで少女に会い、花輪を作った。ずいぶん昔のことのように感じられた。
 小径を進んでいくと草原があらわれた。そこには、若い娘がいた。おさげを結い、美しい服を着ていた。娘が振り返り、〈牛〉を見た。そしてすぐにもとのほうへ向き直った。どこか遠くを眺めていた。〈牛〉はその娘が、いつかここで出会った少女だということに気がついた。あのとき、何の変哲もないカフスボタンを〈宝物〉だと言って〈牛〉にくれたのだ。〈牛〉はそれを、今でも大切に持っていた。娘は地面に座った。土がむき出しになっている。かつての草花はもうない。娘は地面に手をやると、花を摘むような仕草をした。それからしばらく、ぼうっとしていた。〈牛〉は娘に、〈宝物〉の礼を言おうとして、あの……と話しかけた。娘は、あさってのほうを見ている。動きといえば、何もない土くれの上で花を摘むような動作をしているだけだ。〈牛〉がもう一度、あ……、と声をかけても、やはり娘の反応はなかった。そして娘はおもむろに立ち上がると、幽霊のように歩いて、そのままどこかへ行ってしまった。



   17

 〈牛〉は口紅を買いに、いつもの店に行った。店主に顔を覚えられており、なにも言わなくても口紅が出てきた。買い物を済ませ屋敷に戻った。客が来ているようだった。〈牛〉は紳士と客に茶を淹れ、居間へ運んだ。そのときふと、客の女が視界に入った。〈牛〉は、あっと息を呑んだ。散策したときに見かけた娘だ。娘はこれから殺されようとしている。その運命を知るはずもない娘はしかし、すべてを受け容れたかのような表情をしていた。心からの笑みを浮かべ、ソファに座り、紳士と語らっている。
 すぐに、というわけではない。
 女を屋敷に招待してすぐ殺すわけではない。しばらくは屋敷で過ごさせる。その間は客としてもてなすのだった。紳士は一見すると穏やかな紳士なので、まず警戒されることはなかった。実際、紳士は慈悲深い人間だった。



   18

「かわいそうね」
 記憶。
 慈善活動をしているらしい中年の女が、〈牛〉に話しかけてきた。そして見たこともない食べ物と、数枚の紙幣を、〈牛〉に渡した。
「これは神からのお恵みです」
 〈牛〉は何も言わず、女の顔を見上げた。そのまま〈牛〉が黙っていると、女は不機嫌になった。
「……ああ、教養がないのね」
 女はそう言うと、隣の女に、教育を受けられない彼らがかわいそうだ、彼らの人権が侵害されている、という旨の話をしていた。隣にいた女も神妙な顔でそれを聞いていた。
 記憶はそこで途切れている。



   19

 ご主人様はあの女たちとは違う、と〈牛〉は思った。
 失踪しても捜索する身内のいない者。親のいない娘。天涯孤独の少女。旦那を亡くし生きる気力を失った女。そういう者ばかりを屋敷に招待している。女たちもまた、紳士のそういう行いを知っていて受け容れているかのようだった。
 〈牛〉はその日の仕事を終え、自室に戻ると、ベッドに横になった。体を横たえると背中も少し楽になった。そして〈牛〉は、浅い眠りに落ちた。



   20

 ある日、紳士が病気をした。
 たいしたことではない、と紳士は言った。しかしその症状は重く、日に日に悪化している。
「ご主人様……具合いが悪いのでしたら私が……」
 紳士が自分で茶を淹れていた。〈牛〉は休みだった。
「問題ない。いいから休んでいなさい」
 そう言うと紳士は、働き者の〈牛〉を無理やり休ませるのだった。

 翌日、〈牛〉が屋敷の掃除をしていると、
「牛」
 呼ぶ声がして〈牛〉は振り向いた。
「頼みたいことがある。あとで来なさい」
 一段落すると、〈牛〉は紳士のいる居間に入る。
「失礼いたします」
「うむ」
 紳士はソファにゆったり腰掛けていた。
 〈牛〉は床に転がっているものを見た。
「これは……」
 〈牛〉が紳士に問う。
「それを、あとで処分しておいてほしい」
 〈牛〉はそれを見たことがあった。何度となく見た、はずだった。だが、すぐにはそれとわからなかった。
 床に転がっていたのは、いつも口紅を買っている店の、店主だった。
 〈牛〉は店主の顔を、よく見たことはなかったため、すぐにはわからなかった。不思議そうな〈牛〉を見て、紳士が、これはあの店の者だと説明した。店主が死体になって初めてじっくりと顔を見ることができた。苦悶の表情はなかった。眠っているかのようで、今にも寝息が聞こえてきそうだった。紳士が男を殺すのは珍しいことだった。〈牛〉は何年も従事してきたが、殺すのはいつも女だった。これは、と〈牛〉は思った。口紅はもう不要だということだろうか。容態がいつ急変してもいいように、準備をしているのかもしれない。
「牛」
「はい」
 紳士は、〈牛〉の目をじっと見た。
「今まで、いろいろと、すまなかった。ありがとう」
 〈牛〉は、紳士がもう長くないことを悟った。



   21

 早朝、〈牛〉は目が覚めるとすぐに店主の死体を荷車に積み、森へと向かった。
 ご主人様がもうすぐ死ぬ。このことについて自分は、何を思えばいいのだろう、どう感じているのだろう、そんなことを〈牛〉は考えていた。自分は今、落ち込んでいるのだろうか。戸惑っているのだろうか。これからどう生きていこうか。ご主人様がいなければ自分は何をして生きていけばいいのか。何年もの間、屋敷で働くことで、ご主人様に仕えることで自分は、この世にやっと留まっていられたというのに。誰かに必要とされることで、自分自身を赦せていたのに。
 どん、
 という音がして〈牛〉は我に返った。何の音だろうと思い、荷車の下を見、まわりを確認するが、とくに変わったところはなかった。車のもとへ戻る。すると視界の端で、何かが動いた。人間の息づかいのような物音を、〈牛〉は聞いた。
「牛さん」
 突然、女の子の声がした。〈牛〉は驚き、ゆっくり横を見る。あっ、と小さく悲鳴をあげた。
 少女がいる。
 いつか一緒に花を摘み草原に寝転んだあの少女だ。
 自分は何を見ているのだろう。〈牛〉は混乱した。これはいったい何だ。
「牛さん……、ねぇ、牛さん。あの人にそう呼ばれているんでしょう」
 〈牛〉はこくりと頷く。驚きのあまり声が出なかった。
「あのね、牛さん……。わたしね、お父さんと、お母さんのことが、大嫌いだったの」
 そうなんだ、と〈牛〉は頷く。
「だって、お母さんったら、わたしがお花を摘んで帰ったとき、そんな汚いものを拾い集めてどうするんだ、捨ててきなさいって、わたしを叱ったのよ」
 〈牛〉は黙っている。
「お父さんは、お酒ばかり飲んでいて、遊んでくれなかったの。それどころか、お母さんのことを、よく、ぶったわ。毎日のように。それに」
 少女は遠くを見ていた。
「それに、ふたりはこう言ったのよ。頭を指でコツコツ叩きながら『おまえは少し、ここが足りないんだ』って。だからお勉強ができないんだって。そんな子は、いらないって」
 少しの間。
「わたしはいらない子なのよ、あの家では。でも、あのおじさまのお屋敷では、違ったわ」
 ご主人様のことだ、と〈牛〉は思った。
「おじさまの出してくれる温かいお茶はわたしをとても幸せな気分にしたわ。お菓子も美味しかった。おじさまはわたしに微笑みかけてくれたし、わたしの摘んできたお花を見て美しいねって言った。そして、わたしのことを、素直ないい子だって、褒めてくれたの」
 そうだね、と〈牛〉は呟く。
 だから、
「だから、わたしは」
 君は、
「おじさまに殺されたいと思ったのよ」
 どん
 という音がした。
 荷車にある、もうひとつの小さな死体がたてた音だった。



   22

 紳士の死後、〈牛〉は紳士の知人の家を訪ねた。紳士が生前、〈牛〉が再び物乞いをしなくてすむよう、働き口を考えていたのだ。知人の男性は親切だった。大きな屋敷に住み、多くの召使いを抱えていた。召使いたちはその男性のことを、〈旦那様〉と呼んで慕っていた。食事や掃除、洗濯など、すべての作業は分担して行われていた。食事係や掃除係などがいる中で、〈牛〉は〈旦那様〉との連絡係のような仕事を任された。食事を運ぶ。客からのことづてを伝える。郵便物を受けとり、渡す。そのような細々としたことが〈牛〉の仕事であり、日常だった。
 ある日、〈旦那様〉の様子が普段と違うことに〈牛〉は気づいた。
「おまえ……何を企んでいる……」
 何故そんなことを言われるのか、見当もつかなかった。普段は穏やかでにこやかな〈旦那様〉が、今は眉間に皺を寄せ、いかにも神経質そうな顔でこちらを見ている。〈牛〉は困惑しながらも、どうなさったのです、具合が悪いのですか、と尋ねるが、〈旦那様〉は、わしは気など触れておらん、と言う。
 翌日、〈旦那様〉の食器をさげると、
「食事はどうした」
 と〈旦那様〉が言う。え、と〈牛〉は驚く。
「さきほど、召し上がっ……」
 言い終わるか終わらないかというところで、〈旦那様〉は〈牛〉に飛びかかった。胸ぐらを掴まれた〈牛〉は、やっとのことで、
「お、おやめください」
 と絞り出すように声を出した。
 騒ぎを聞きつけた召使いたちが集まり、〈旦那様〉を捕まえた。
 〈旦那様〉はそれ以来、常に疑心暗鬼の心持ちで暮らすようになった。〈牛〉を疑い、そして攻撃するようになった。まるで人格が変わったようだった。かつては穏やかで心優しく、慈愛に満ちた人だった。それが今では、ひどく気難しくなってしまった。抱えの医師に診てもらうと、これは心の病だと言った。それを聞いた〈牛〉は、この日からより一層、甲斐甲斐しく仕えるようになった。これは本来の〈旦那様〉ではない、ご病気なのだ。自分がしっかり、身の回りのことをお手伝いしなければ――。



   23

 〈牛〉はその日、休暇をとった。
 散策をしようと思い、朝食を済ませ、上着をはおり、外出の支度をする。屋敷の扉を開けると、春の陽射しが〈牛〉を包み込んだ。歩くと暑くなって、上着を脱いだ。散歩道をしばらく行くと川があった。〈牛〉はその川を、上流へ向かって歩いていくことにした。川原に花が咲いている。風が吹く。鳥が鳴く。木の葉が風に揺れる。鳥の囀りと木々のざわめきが重なりあい、天然の音楽になって〈牛〉の耳を楽しませた。上流へと進むにつれ道が険しくなってきた。大きな岩が転がっていた。傴僂せむしである〈牛〉には、とても歩きにくかった。

 苔むした岩で足を滑らせ、〈牛〉は落ちて死んだ。









  付記


※本書『牛男[増補改訂版]』は『超短編アンソロジー なんなの』所収「牛男」に大幅な変更、加筆修正を行ったものです。

※参考 中島敦『牛人』
    酒見賢一『陋巷に在り』
    ジャック・ロンドン『どん底の人びと』

校正 柑電社
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  タチヨミ版はここまでとなります。


牛男

2018年1月16日 発行 改訂第二版

著  者:根木珠
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根木珠

1983年1月26日生まれ、埼玉県出身。 中学校を卒業後、日本料理店へ入社、住み込みで働く。 退職後、フリーターになる。 体調を崩す。 現在、無職。 興味関心:言語学、民俗学、文化人類学、その他 ブログ:根木珠たまねぎ日記 https://pcu28770.wordpress.com

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