spine
jacket

 愛は人間の根源的感情であり普遍的である。愛は人間的な交わりを可能にする。それは肉体的な愛から更に真理へ至ろうとする憧憬、衝動を含んでいる。愛は人間謳歌の原動力なのである。

───────────────────────



愛の彷徨

齊官英雄

啓英社



───────────────────────




  この本はタチヨミ版です。

 目 次

第一話 二輪草

第二話 裏切り

第三話 真夏の陽炎

第四話 贖罪

第五話 崇純な愛

第一話 二輪草

     (一)

「お前ん家の近くの喫茶店「カトレア」で待っている。仕事が終わったら来て欲しい」
午後六時過ぎ、更衣室で帰り支度をしていた良美の携帯にメールが入った。送信して来たのは良美のボーイフレンドである松木亮介だった。
「これから会社を出ます。七時を回ると思うけど、少し待っていて」
良美はそう返信して最寄りの地下鉄駅へ急いだ。
彼女は二十二歳のОLで大工道具専門商社「㈱萬忠」で経理と販売を担当している。色白でふっくらとした頬に小さな口元、優し気な眼、その容貌は円やかで客の受けは良く、社内でも評判は悪くなかった。
 良美は十五歳で父親と死に別れ、その後、母親と二人で今日まで生きて来た。父親の勝次は腕の良い大工職人だったが、或る日、小学校の普請工事で足を滑らせて二階の大屋根から転落し、あっと言う間に帰らぬ人となった。良美にとっては、早朝に家を出て行った父親が夕方には顔に白布が被せられていると言う呆気無い別離だった。
 父親の死後、住宅ローンは付随していた生命保険で片が付いたが、生活費は母親の良枝が働いて稼がなければならなかった。未だ四十歳過ぎだった良枝は派遣社員として大手製造業へ勤め、持っていた工業簿記一級の資格を生かして経理の仕事を担った。土、日、祝日が休みで、その上、盆、正月や黄金週間にも纏った休日が有ったので、母娘が二人で過ごす時間は十分に確保された。
 父親の亡くなった時、良美は中学三年生だったので、卒業後は進学せずに働こうかと考えたが、それは母親に断固として反対された。
「今の時代、高校だけは絶対に出ておかなきゃ駄目よ。高校は今や、義務教育と同じじゃないの。それに、中卒で就職したって良い仕事は無いわよ。十五歳で自活するのは非常に厳しい状況だからね。就職して社会へ出て行っても直ぐに辞めてしまったり、その後行方知れずになったりする子が多いの。将来的に生活を安定させて自立出来る子は非常に少ないのよ。大丈夫よ、学費はお母さんが何とかするから、ね」
良美は、将来少しでも就職し易いようにと、商業高校への進学を選んだ。そして、高校へ進学すると直ぐにアルバイトを始めた。喫茶店のウエイトレスになってお運びをし、食品スーパーやコンビニや和菓子店のレジに立って金を稼いだ。僅かでも母親の家計の足しになれば、との思いが強かった。それから三年後、高校を卒業した良美は、嘗て父親と昵懇だった今の会社「㈱萬忠」へ就職した。「萬忠」とは、ありと全ゆる大工道具を全てのお客様に誠意と真心を以て盡す、と言う意味だった。
 喫茶店「カトレア」の二階の隅の椅子に亮介は居た。足を組んで椅子に深くもたれ、雑誌か何かをパラパラと捲っている様子だった。
「遅くなっちゃった、ご免!待った?」
声を掛けた良美を見て、ああ、と大きく伸びをした亮介が雑誌をテーブルに置いて答えた。
「ああ、待ったさ、一時間も待ったぞ」
そう言ったものの、亮介の様子はそれほど怒っている風ではなかった。
亮介の向かいの席に腰を降ろし、やって来たウエイトレスにコーヒーを注文してから良美は訊ねた。
「急にメールを送って来てどうしたの?何かあったの?」
「いや、別に大したことじゃないんだが・・・。今日の棟上げで、一人で食うには勿体無いような鯛を貰ったものでな。それで、お前とおふくろさんに福分けをしようと思ってさ」
そう言ってテーブルの傍らに置いて在った折箱を取り上げた。良美が見ると、如何にも大きそうな焼塩鯛の感じがした。
「ねえ、ねえ、これ持って帰って、家で三人でご飯食べようよ、ね」
「さっき一寸覗いて見たけど、おふくろさん、未だのようだったぞ」
「そう、じゃ、電話してみるね」
受話器の向こうで母親が出たらしく、良美は少し話をして直ぐに携帯を切った。
「お母さん、今、帰ったところだって・・・。歓迎するからいらっしゃい、って」
「うお、有難ぇ!また旨い晩飯に在りつけるって訳だな」
二人は微笑みながら、それじゃ行くか、と立ち上がった。
 松木亮介は宮大工である。宮大工と言うのは神社や仏閣などの伝統建築を手掛ける職人で、その歴史は飛鳥時代にまで遡り、朝鮮から来た二人の僧侶が飛鳥寺を建てたことが始まりと言われている。神社や仏閣は「木組み工法」という工法で建てられているので、その補修や修復は木組みの技術を習得している大工でないと出来ない。また、木組みに使う木材は工場で予め加工されたものではなく、宮大工が自分の手で削った木材を使うのが特徴で、これが家屋大工と宮大工の決定的な違いとなっている。
宮大工は使用する木材を全て手作業で加工し、その際に使う道具類も自分自身で作る。そのため、実際の接木までにかかる工程が長く、一般の大工なら二、三年の修業で一通りの仕事が出来るようになるところを、宮大工は一人前と呼ばれるには最低でも十年の修業が必要なのであった。
宮大工には、一般の大工が持つ技術に比べると、より専門的な技術が求められる。
例えば、「木組み」と言うのは建物の骨組みに釘や金物を殆ど使わず、木自体に切り込みなどを施して填め合わせていくことで木と木をがっしり組み上げていく技術である。木材の加工を全て「手刻み」で行うので、それには「木を読む」という作業が大変重要になる。木の生育状態やそれぞれの木の性質を読んで、どういう用途に適すのかを決めなければならない。「手刻み」された「継手」や「仕口」と呼ばれる技術によって、材と材を強固に繫ぎ合わせ、地震の多い日本の環境から建物を守っているということである。
「継手」と言うのは木材の長さが足りない場合に、長さを継ぎ足す際に使われる技術のことで、「腰掛鎌継ぎ」「台持ち継ぎ」「追掛け大栓継ぎ」など七十程の種類があるとされる。これにはパズルを組み合わせるような複雑な知識と共に、正確に材を削る技術が求められ、材を填め込んでしまうと、表面からは全くその複雑さは見えないばかりか、繫ぎ目も殆ど分らないくらい精巧なものに仕上がるのである。
「仕口」とは二つ以上の材をある角度に接合する技術で、土台と柱のつなぎ目、梁と桁のつなぎ目などそれぞれの材を組む時に使われ、「兜蟻掛け」「大入れ蟻掛け」などと呼ばれるものがある。縦、横、斜めに複雑に組み合う木材の接合部分を曲尺或は指矩一本で巧みに作り上げて行くのが「規矩術」と呼ばれる方式で、丸や六角、八角などを自由に作ることが出来る。このような宮大工の優れた技術は現在の建築工学から見ても非の打ち所のない技術だと言えるものである。
「只今っ!」
「こんばんわ、お邪魔します」
元気よく玄関を開けた良美の後から、大柄な亮介が桟を気にしながら頭を下げて入って来た。 
「いらっしゃい」
母親の良枝が笑顔で迎え、良美から受け取った折箱を開いて驚嘆の声を挙げた。
「まあ、立派な塩鯛だこと!」
そう言って、良美が用意した丸い大皿に三人分を取り分けた。
「今日の現場はお寺や神社じゃなかったのね?建前にこんな鯛を出す処は、大きな住宅の家屋じゃないと他には無いんじゃないかしら?」
「我社じゃ社寺関係の仕事の他にも、宮大工集団としての技術を駆使して、和風住宅や数寄屋建築なども手掛けている。総売上の三、四割は民間住宅関係だよ」
「そんなにも?」
「ああ。国産の杉や檜など身体に優しい自然素材を使った家造りだ。化学製品で作られた新建材は一切使わず、断熱材や壁材なども人と環境に優しい自然素材を使って、長く快適に暮らせる住居を提供する訳だよ。丈夫で身体に優しい材料を使えば家は長持ちする。大がかりなメンテナンスをしなくても五、六十年は持つ。適切にメンテを行えば百年は問題無い。我社は宮大工の技を駆使した木造建築の専門会社だ。木造住宅は木の温もりに溢れているし、室内の調湿作用やクリーンな空気も魅力的だよ」
「まるで良いとこだらけの宣伝文句ね」
良美が茶化すと亮介が真面目に答えた。
「ただ、シロアリにちょっと弱い処が有るのがマイナスかな。それに、値段がどうしても高くなる。基本仕様として自然素材を使った家で坪あたり八十万から百万円。純和風の本格住宅だと百万から三百万円ぐらいが目安だから、やっぱり高いと思うよ、俺も」
「なんだ、良いとこだけじゃないんだ」
三人は和やかに笑い合った。
 
 良美と亮介が初めて逢ったのは三年前に遡る。
得意先「匠京堂㈱」の社長であり棟梁である岡本賢次に連れられて、一人の固太りした身体の大きな若者が「㈱萬忠」にやって来た。丸顔の男振りの良い職人風の青年だった。
岡本棟梁と「㈱萬忠」の社長が店の応接室で話している間、青年は店の中で、壁に沿って並んでいる三段棚に陳列された道具類を熱心に見て廻った。
「宮田さん、ちょっと案内してあげてくれないか」
社長にそう命じられて青年を先導したのが良美だった。
「忙しい処を済みません。俺、松木亮介と言います。宜しく」
相手が自分から名乗ったので、良美も名乗らざるを得なかった。
「宮田良美と申します。此方こそどうぞ宜しくお願いします」
相手は大事な得意先のお客である。良美は丁重に頭を下げた。
青年はぶっきら棒だったが、飾り気が無く誠実そうな印象だった。一つ一つ道具類をじっくり見ながら彼は良美に質問をした。
勤めて二年足らずで未だ未だ知識の十分でなかった良美のしどろもどろの答にも大きく頷きながら道具類を見て廻った。
「手に取って見せて貰っても良いですか?」
「はい、特には、構いませんが・・・」
下手な説明を聞くよりも自分の眼と手で確認する方が確かだ、と判断したように良美には思えた。良美は少し気分を害した。
応接室では棟梁と社長が笑顔で話し合っていた。
「感じの良い青年ですね、新人さんですか?」
「はい。尤も、新人と言ってももう二年になりますが・・・」
棟梁の話によると、松木亮介は新潟県の農家の次男坊で、高校を卒業して直ぐに佐渡に在る専門学校の伝統建築学科へ入学し、伝統文化と環境福祉を学んで宮大工の道を一途に目指して来た、と言うことだった。
「四年制の学校でしたから、リアルな現場と多くの実習で大工技術の基礎をそれなりに身に着けたのか、既に二級建築士の資格を持っていましてね。磨けば本物になるかも知れません」
「ほお、それは楽しみですね。棟梁がそんな言い方でお弟子さんを褒められるのは珍しいことですからね」
宮大工の世界では、会社組織であっても社長と社員ではなく、師匠と弟子の関係だった。棟梁、兄弟子、弟弟子などと言う呼び方が一般的なのであった。
「宮大工は修行に多くの時間がかかり、その下積み期間はかなり過酷なものとなりますから、そのような環境に耐えられるだけの忍耐力があるかどうか・・・それに、木材に対して加工を行うには手先の器用さも必要なのですが、あいつは身体の大きい割には、思いの外、手先が器用でしてね。兄弟子の技術を素直に受け止め、吸収し、自ら進んで取り込むことにも長けている気がします。何よりも素直で一本筋が通った性格なのが良いんじゃないかと思っていますよ」
店内の品物を粗方見終わった亮介が良美に言った。
「いやあ、流石に大工道具の専門店さんですね。ほぼ完璧に品物が揃っています。俺たちが日頃眼にしたり使ったりしている道具だけでなく、これから世に出される新しいものや改良品までもが並んでいます。素晴らしいです」
「大変お褒めに預かりまして、有難うございます」
それから、もう一つ・・・という態で亮介が良美に頼みごとをした。
「聞くところによると、この奥に研磨などをする作業場も在るそうですが、其処も是非拝見させて頂けませんか?」
「少々、お待ち下さい」
そう言って応接室へ入って行った良美は、然し、直ぐに戻って来て亮介を店の奥の作業場へ案内した。
店舗の奥半分が作業スペースになっていて、職人四人程が研ぎや目立てや修理、メンテナンスなどを行っていた。それは一本一本手作業で行われていた。大工道具だけでなく、鋏、包丁、彫刻刀、小刀、木工具、打刃物など種々雑多な道具類が散在していた。
亮介が職人の一人を捉まえて質問すると、手を休めることなく、簡潔に答が返って来た。
「手仕事なので、一日に出来る数は限られています。お預かりからお渡しまで刃物の研ぎは十日程度、鋸の目立てやその他の修理は二週間から二カ月程度の期間を頂いております。品物の状態や当社の混雑状況などによって、目安の期間より長期になる場合も御座います」
作業場の片隅には、メーカーの発売日が未だの新製品も未開梱のまま積上げられていた。
見学を終えた松木亮介が丁寧に良美に礼を言った。
「いやぁ、有難う!大変勉強になったよ、またこの次も宜しくね」
えっ、またこの次?と良美は思ったが、口には出さず笑顔で対応した。
 亮介は月に二度ほどのペースで良美の店にやって来た。
初めの頃は棟梁に指示されたり兄弟子に言い遣ったりして道具類の物色に来ていたが、やがて自分一人の用事の為に時々やって来るようになった。来ると必ず良美を名指しで、彼女に新しい商品や改良した品物が無いかを確認した。
「俺たち宮大工は使う道具も自分で造るんだよ。だから常に使い勝手の良い道具を捜しているし、何かヒントになるようなものが無いかと考えている。目新しいものが入ったら是非教えて欲しい、頼みますよ」
そして、帰りがけにはいつも何か一言、良美を励ます言葉をかけた。
「良い材料と良い腕が良い建物を造るんだが、使い勝手の悪い道具だとなかなか思うように良いものが造れない。プロの俺たちに道具を勧めたり売ったりする君の仕事は真実に大変だと思うが、君も道具専門店のプロの店員だ。レベルの高い技量を持つ俺たち宮大工を納得させることが出来るように、道具に精通することは君のやり甲斐にもなると思うよ、しっかり頑張れよ、な」
又、こんなことを言ったこともあった。
「此処に在る全ての道具に精通することは極めて難しい。だから道具の種類ごとにマスターして行くんだよ。例えば、鉋だけでも、大鉋、二寸、寸八、小鉋、面取鉋、台直し鉋、反り台、南京鉋、溝鉋、脇鉋、際鉋、豆鉋、丸鉋、五徳鉋など様々なものが有る訳だから、先ずは鉋だけを用途、性能、材質、値段などについてマスターすることだな。それから次の道具、例えば、鑿などに移って行く、と言う具合にね。鑿だって、追入鑿、中叩き鑿、叩き鑿、向待鑿、薄突き鑿、本突き鑿、鏝鑿、丸鑿、彫刻鑿、バイオリン鑿、モリ鑿、底浚え鑿、カマ鑿、イスカ鑿、バチ鑿、脇差鑿などと数え切れないくらいの種類が在るのだから」
「そんな風にやって居たら時間が幾ら有っても足りないわね」
「昔から言うだろう、一芸に秀でる者は多芸に通ず、って。一つ一つマスターして行けば自ずと先は見えて来るよ。急がば回れ、だな」
余り気乗りしない顔で聞く良美を見やりながら彼は更に続けた。
「何も君独りで全てに精通しなくて良いんだよ。何人かの店員さんで分担し合えば良いんだ。鉋は君、鑿は誰々さん、玄翁は誰々、鋸は誰々、釘抜や釘締めは誰々、小刀や彫刻刀は誰々と言う具合にそれぞれが専門家になれば、店全体としては専門集団を作ることが出来る。君たちはプロの職人を相手にする道具店のプロだからな」
「私たちは何も職人になる訳じゃないわ」
「そうじゃないよ。会社も社員も、店も店員も、仕事は常に最高のレベルを目指すものだと言っているんだよ」
言われていることは至極尤もなことだった。この人は一本筋金の入ったしっかりした人かも知れないわ、と良美は思った。
 それから二人は急速に親しくなった。仕事を通してだけでなく、お茶を喫んだり食事をしたりコンサートに出かけたりして親密の度合いを深めて行った。
或る時、良美は亮介に聞いた。
「ねえ、どうして宮大工になんか成ったの?」
「なんか、と言うことは無いだろう・・・」
「ご免、言い方が悪かったわ」
「まあ良いさ。俺は小さい頃から物を創るのが好きで、五歳頃には、大工さんになりたいって、親に言っていたそうだ。高校の建築学科に進み、卒業する時に、大学へ進学するか大工になるか迷ったんだが、早く手に職をつけて独り立ちしたいと考えた俺は大工になる道を選んだ訳だ。その時、普通の大工ではなく、やるなら、大工のトップと言われる宮大工を目指そうと思ったんだよ。佐渡の専門学校で四年、今の店で約二年、宮大工の修業を積んで今に至っている次第だ」
「遠い新潟からこの京都に出て来たのには、何か理由が在るの?」
「京都には歴史と伝統に満ちた神社仏閣や文化財がいっぱい在るからな。腕を磨くにはもってこいの場所だよ。それに、多分、食い逸れも無いだろうしな」
そう言って亮介は屈託無く笑った。
「あなたの会社の“匠京堂㈱”って名前には何か意味が有るのかな?」
「匠は最高の技術、京は京都の京、堂は建物、つまり、京都に在る建築の最高技術専門集団と言う意味だよ」
「そうか、よく考えたものね。で、その専門集団で修業を積んで、将来は棟梁になって独立したいと考えているわけ?」
「うん。未だ大分先の話だが、行く行くは自分の工務店を持ちたいと思っている。一級建築士の資格を取って、岡本棟梁のお墨付きを貰って、それまでに少しは金を貯めて、まあ三十歳過ぎ位にはなるかも知れないが、な」
「ふ~ん、そうなんだ」
「その頃にはお前は俺の奥さんになっているだろうからさ」
不意に予期しなかったことを口にされて、良美は戸惑って口籠った。
「何を馬鹿なことを言っているのよ、急に・・・」
然し、思い掛けない乱暴とも思える亮介のプロポーズに良美の心は狼狽えながらも熱く火照った。
「宮大工の知恵や技術や技法は、棟梁などの師匠から弟子へ口伝えで継承され、長い修行の末に一人前として認められる。個人差があるので一概には言えないが、まあ後、五、六年は修業を積まないと一人前と認められて仕事を任せて貰うことは出来ない。一般の家屋大工と比べて、三倍ほどの修業期間が必要だと思っているよ」
亮介はこれからの自分の行く末を良美に熱く語った。
「それに、重要文化財などの修理を行う際に、責任者を任せて貰える文化財建造物木工技術者の認定資格も取らなきゃならんし、先は未だ未だ長いぞ」
亮介の語り口はまるで良美が彼と結婚するのが当然のことの様な物言いだったが、良美もそれ程の抵抗感も無く彼の話に頷きながら聴き入っていた。
 
 だが、禍福は糾える縄の如し、人生一寸先は闇だった・・・。

 母親の良枝が突然、病に倒れた。未だ厳しい暑さの残る九月半ば、亡夫勝次の七回忌法要を終えた直後だった。
勝次が死んで丸六年、女手一つで娘の良美と二人、必死に孤軍奮闘、徒手空拳で踏ん張って生きて来たその緊張の糸がぷっつりと切れて、疲れが一度に噴き出たようだった。
そして、事態は切迫していた。
検査入院した病床で母親がさらりと告げた。
「十二指腸癌だって」
「えっ?お母さん、今、何て言ったの?」
「だから、十二指腸癌なのよ、余命半年だって」
「そんな・・・。手術で病巣を摘出することは出来ないの?」
「彼方此方にいっぱい転移していて駄目なんだって」
母親は何事も無かったかのように、さり気なく、然も、極めて気丈に振る舞っていた。良美の眼から見る間に涙がボロボロと零れ落ちた。
「お母さん・・・・・」
母親の良枝が良美の肩を引き寄せて、強く抱きしめた。
 良枝は抗癌剤と放射線の治療を続けたが、十カ月後、脳にまで癌細胞が転移した彼女はもう起き上がることも出来なくなって、本格的な夏がやって来た七月半ばに、良美に手を握られ、亮介に付き添われて、天界へ旅立って行った。未だ五十歳を過ぎたばかりの短い生涯だった。
亮介が、嘆き悲しむ良美に代わって、埋葬の手配から葬儀の段取り、初七日の法要に至るまで万端を世話して取り仕切ってくれた。彼が居なければどうなっていたことか・・・。
火葬場で焼却されて小さな骨だけになった母親を見た瞬間、良美はその場にどぉっと泣き崩れた。 
「これがお母さん?・・・・・」
 家に帰った良美の胸を寂寥と孤独が襲った。居ても立っても居られない淋しい喪失感だった。これまで一度も感じたことの無い天界の果てに来たような淋しい気持に身体を包まれて、良美は声を立てて泣いた。だが、二階に三部屋、階下に四部屋も在る広い自宅には、良美の一人泣きに応えてくれる者は誰も居なかった。
 悲嘆に打ちひしがれながらも、母親の四十九日法要を滞りなく済ませた良美はほっと一息ついた。だが、天涯孤独の寂寥感と母親を亡くした喪失感はより一層良美の胸を締め付けた。
咽び泣きながら、良美はボストンバッグ一つを抱えて家を出た。
季節はもう晩夏だったが、街は既に薄暗く、空は禍々しいほどに赤い色をした雲を残しながら夜になろうとしていた。
前触れもなく突然にマンションへやって来た良美を見て、亮介が心配顔を向けた。
「どうしたんだ?急に」
開けられたドアから崩れ落ちるように入って来た良美を亮介が両手で抱き留めて、リビングのソファーに座らせた。
「淋しくて堪らないの、ねえ、抱いて」
亮介は柔らかく良美の背中に手を回し、壊れ物にでも触るようにそっと抱き寄せた。
「私をあなたの奥さんにして下さい」
「えっ?何を言うんだ、藪から棒に・・・」
「きっと良い奥さんになるから」
うん、うん、解かった、解かった、と言うように二、三度頷くと、彼は良美の手を取って言った。
「一生懸命働いて、俺はお前を幸せにするぜ」
「うん」
「早く一人前の宮大工になって、きっと独り立ちするからな」
「うん」
広くて厚い胸板に顔を埋め乍ら、良美は、私が嫁になるのはこの人しか居ない、と思った。これまで胸の中に凝り固まっていた淋しさが少しずつ溶けて行くように思われた。替わりに胸を満たして来た安らぎ感に動かされて、良美は自分からひしと亮介にしがみ付いた。亮介も何も言わずに太い腕で力強く良美を抱きしめた。
暫くして身体を離した亮介が言った。
「お前はこれから一年間、お母さんの喪に服する期間だ。喪が明けるまでは俺たち互いに綺麗な肉体で居ようぜ、な」
喪服期間中は結婚などの慶事は控えなければならない。それなら、より一層、身辺や生活を綺麗にして、世間から白い眼で見られたり後ろ指を差されたりすることの無いように振る舞わなければならない。
「何しろお前はこれから、女の一人暮らしになるのだからな」
「世間体に縛られて一年間も過ごすなんて出来ないわ」
「そうじゃないよ。喪に服するのは、忌が明けて天国へ行かれたお母さんの魂が安らかに天界で落ち着けるように見守ってあげる為だ。淋しくなったら何時でもこうして会いに来れば良いじゃないか、な」
「うん」
頷いた良美が顔を上げると、茶碗や小鉢や小皿が並んだ食卓が見えた。亮介がこれから夕食を食べる段取りのようだった。
「一緒に食べよう、私が何か造るから暫く其処で待っていて、ね」
良美はやっと微笑を見せて立ち上がった。心が随分と軽くなっていた。

     (二)

 母親の一周忌が開けるのを待って居たかのように、亮介が良美に言った。
「今度の盆休みに俺の故郷へ行かないか?両親や兄貴にお前を引き合わせたいんだ」
えっ、と訝し気に顔を上げた良美に亮介が続けた。
「兄貴から電話があって、な。好きなんだったら一緒に連れて来い、って言うんだよ。どんな娘か、俺も兄貴として逢ってみたい、ってさ。俺たち二人の話に昨夜も更けたそうだ。な、一緒に行ってくれよ」
「でも、私がいきなり行って大丈夫かしら」
「いきなりじゃないよ。お前のことは粗方兄貴には話してあるよ」
「そうなの。じゃ、一緒に行っても良い?」
「俺が纏って休めるのは盆か正月しか無いが、五日間ぐらいなら、事情を話せば、親方も許してくれるだろう。お前の方は大丈夫だよな」
「うん、私の方は一週間も盆休みがあるから・・・」
 二人はお盆の十五日に京都駅を出発した。
新幹線「のぞみ号」と「マックスとき号」を乗り継いで五時間余り、午後三時少し前に新潟駅に降り立った。途中、乗り継ぎの東京駅構内で軽い昼食を摂った。
「一番早く出来るのは何ですか?」
食事の摂れる時間は四十分程しか無かった。
驚いたことに一番早いのは「刺身定食」とのことだった。
「えっ、刺身定食が一番早いんですか?」
愕きながらも二人は二人前の注文をして早々に食べ終わった。
 新潟駅に着くと、正面改札の前で兄嫁が出迎えてくれた。
兄嫁の姿を見て良美は少し吃驚した。彼女は長い髪を三つ編みにして首の後ろへ垂らし、紺の繫ぎのジーンズを履いて、おまけに長靴まで履いていた。歳の頃は良美よりも三つ、四つ上のぽっちゃり美人だった。
「やあ、義姉さん・・・」
「ああ、亮介さん、お帰り。家の人は今ちょっと田圃に出とるんで、うちが代わりに迎えに来たんよ」
「わざわざ済みません。あっ、此方、良美さん」
「此方は兄貴の奥さんで真澄さん」
亮介はそう言って二人を引き合わせた。
「初めまして、宮田良美と申します。どうぞ宜しくお願い致します」
「此方こそ、どうぞ宜しく。遠い所をわざわざお越し頂いてさぞお疲れでしょう。さあ、荷物をお持ちしましょう」
「いえ、軽いものですから、これはわたくしが・・・」
三人の乗った車は六人乗りの大きなRV車だったが、真澄の運転は女性らしく優しく穏やかだった。新潟バイパスから国道七号線を進み、県道三号線の阿賀野川の橋を渡ると亮介の家は直ぐだった。
大きな石柱の門を入ると広い前庭が拓けていた。玄関前で車を降りた良美は農家の大きな家の作りに驚きを隠せなかった。敷地が広く建物も相当に大きかった。母屋の隣にもう一棟、離れのような建物が立っていた。どちらも二階建ての頑丈そうな造作だった。
家の中へ入って通された表の間の座敷に、亮介の両親が座って待って居た。
正座をして両手を揃え丁寧に挨拶をした良美に、父親は、やあぁ、やあぁ、と言う仕草で頭を下げ、母親は、どうぞお楽に、と言う態で座布団を勧めた。
亮介が最初に良美を導いたのは先祖を祀ってある仏間だったが、広い部屋の正面には大きな仏壇が設えられていた。額に掲げられた祖父母の写真の下で、良美は亮介に倣いながら、蝋燭を灯し線香を焚いて両掌を合わせた。亮介の鳴らす鐘の音がチーン、チーンと部屋に響いた。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・・・・・」
チーン・・・・・
「・・・・・南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・」
良美は何も考えずに心を空にして無心に祈った。
それから母親に案内されたのは家の一番奥にある客間だった。
「此処は来客専用のお部屋ですから、どうぞ、気兼ね無く寛いで下さいね」
母親はそう言って、また後でね、と部屋を出て行った。入れ替わりに亮介が入って来て良美の気疲れを労った。
「洋間じゃないから足が大変だろう。窮屈だろうが暫くの辛抱だ、我慢してくれよ、な」
「うう~ん、大丈夫よ。あなたの部屋は二階なの?」
「ああ、俺はずうっと二階の洋間で暮らして来た。この母屋は親父とお袋が使っていて兄貴たち家族は離れで暮らしている。独立した一家の暮らしも兄貴たちには有るだろうから、その方が良いんだよ」
その兄が帰って来たらしく玄関の方が賑やかになった。
「紹介するよ、行こうか」
亮介は良美を促して勝手口へ急いだ。
「兄貴、只今」
「おう、帰って来たか、迎えに行けなくて悪かったな」
良美は此処でも丁寧に頭を下げて、宜しくお願いします、と挨拶した。
「こいつの兄の耕一です、宜しく」
黒く日に焼けた精悍な顔つきだったが、素朴で気さくそうな印象だった。
夕食までには少し間があったので、散歩にでも行こうかと亮介が思っていると、兄嫁の真澄が現れて良美に言った。
「何もすることが無くて退屈でしょう。もし、お疲れで無かったら、少し手伝って貰っても良いかしら」
「あっ、はい。私に出来ることであれば何なりと・・・」
真澄が良美を連れて行ったのは台所だったが、広い厨房で流し台も大きかった。
「せっかく来て頂いたんだから、この新潟の郷土料理を食べて頂こうと思って。作るのを一緒に手伝って下さる?」
最初に用意された材料は鶏肉、竹輪、油揚げ、人参、里芋、銀杏、干し椎茸、蒟蒻だった。
「郷土料理には欠かせない“のっぺ”と言う逸品を先ず作りましょう」
真澄はそう言ってボールに多めの水を入れ、干し椎茸を戻し始めた。
「材料を全部、食べ易い適当な大きさに切って下さる?」
良美が確認しながら食材を切り終えると、次は銀杏の皮むきだった。
「我が家の簡単な皮むき方法はこうするの」
皮が付いている銀杏をお皿に乗せてサラダ油を少し注ぎ、銀杏全体にサラダ油が廻ったところで、ラップをして電子レンジで二分ほど加熱した。すると、不思議なことに簡単に皮がむけた。良美は「へえ~」と驚嘆した。
二人は、全ての材料と干し椎茸の戻し汁、それに出汁の素を加えて十五分ほど煮込み、その後、醤油、砂糖、塩を入れて味を調えた。
「これで、食べる直前に緩めの片栗粉でとろみをつけると完成よ」
「緩めの片栗粉と言いますと?」
「片栗粉一に対して水が二くらいのとろみ加減かな。これはお義母さんからの直伝に私なりのアレンジを加えたのよ」
それから、良美は真澄を手伝って幾つもの郷土料理の作り方を教わった。
「お義母さんの得意な“竹の子汁”に挑戦してみましょうか」
真澄が取り出したのは瓶詰の竹の子だった。
「田舎ではこうして瓶で竹の子を保存するの。この方が保存性が高いのよ」
良美が驚いたことに、真澄が瓶の蓋をガスの火で少し温め、流しの下のコンクリートに二度三度ぶつけると、瓶の蓋は簡単に開いた。
竹の子の下の部分に少し堅いところがあったので、その部分を切り落とし、残りの柔らかい部分だけを適度の大きさに切った。それから、竹の子、人参、蒟蒻、じゃが芋、玉ねぎ、豆腐などを食べ易い大きさに切ってだし汁で煮込み、ニ十分ほどして鯖缶を汁ごと入れた後、味噌を加えた。
「食べる前に卵を溶き入れれば完成よ。鯖缶や卵を使うと味がとても円やかになるの」
真澄が序でに作ったのは“竹の子御飯”だった。



  タチヨミ版はここまでとなります。


愛の彷徨

2018年2月7日 発行 初版

著  者:齊官英雄
発  行:啓英社

bb_B_00153388
bcck: http://bccks.jp/bcck/00153388/info
user: http://bccks.jp/user/136836
format:#002y

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

齊官英雄

小説家
経営コンサルタント

jacket