水城ゆうが主宰するテキストライティング塾「身体文章塾」に寄せられた作品群のなかから、とくにオリジナリティにすぐれたものを選出して掲載する機関誌がこの『HiYoMeKi』です。
これはその第6号となります。
───────────────────────
───────────────────────
水城ゆう
ずいぶん間があいてしまったが、身体文章塾の機関誌をひさしぶりにお届けする。
身体文章塾はその前身を次世代作家養成塾と称していた。その前は現代朗読ゼミの一環としてテキスト表現ゼミと称していたこともあるかもしれない。
もうかれこれ十年くらいつづいているテキスト表現の研究・発表の場である。
その間に参加者が入れ替わり、またつづけて参加しつづけている者の表現クオリティやスタイルも変化し、そして私・水城ゆう自身も大きく変化した。自分自身は成長したのか退化したのかよくわからないが、変化したことだけはたしかだ。つづけて参加している、たとえば奥田浩二などは、あきらかに著しい成長をとげていて、それは私たちのお祝いでもある(彼がお祝いしたいかどうかは別としても)。
テキスト表現にかぎらず、表現行為において私たちは自分自身という「現象」をあつかっている。これは最近の私の気づきだ。
人はだれもが、肉体という物質的存在でありながら、じつは身体という現象として存在している。現象なのでそれはたえず変化し、移りかわりつづけている。昨日の自分と今日の自分はちがう。一瞬前の自分ですら、もう過去の現象として流れさっていて、いまここにいる私はまさにいまこの瞬間の現象でしかない。
そのような謙虚さに立ったとき、現象としての身体は私になにを書かせてくれるだろう。そこからはどのようなことばが発生してくるだろう。
この六号に収録した作品群は、すこしばかり時間をさかのぼっている。次世代作家養成塾と称していた時期の作品がほとんどだ。
まずはこれらをみなさんにお届けしたあと、可能なら七号、八号と、現在にちかづいていき、リアルタイムに身体文章塾で起こっていることをお届けできるようにしていきたいとかんがえている。
お付き合いいただければ幸いだ。
また、身体文章塾はどなたも、テキストで自分自身を伝えたい、テキストを書くことで自分を知りたい、という人ならどなたも歓迎だ。門戸はつねにひらかれている。
佐藤ほくのこのスタイルの作品は、バックナンバーにも何度か収録されている。自由律俳句を連想するようなごくごく短いことばの連なりだが、逆に独特の広がりを持っていて読む者にもそれを感じさせるのは、興味深いことだ。(水城)
「星砂」
水槽に入れようと思う
家に帰ったら
こっそりと
「星砂」
ふみしめる
いくらでもある
「星砂」
色が素敵だと思った
あなたにあげたいとおもった
ひとつぶだけいつか
「星砂」
今は欲しくなくても
またね
「台風」
静かだね
ふたりきりだね
「初恋」
どこまでなにをしたらいいかわからなかったから
どこまでもなんでもしたかったです
「秋眠」
やさしくされたい日もあるね
知らない人ならなおいいね
忘れるまでまるくなっていようか
眠る黒い毛の熊のイメージで
「エア」
日差しが強くなるまえの
澄んだ空気を思い切り吸う
今日はどこまでいけるかな
「フリース」
やわらかくてかるくて
それならあなたのじゃまにならない
「あまいささやき」
喉が痛いので
電話をかけて
喉が痛いから声だすのたいへんって
あなたにいいたい
荒川あい子の小説という表現媒体を愛する姿勢には、いまもインスピレーションを受けつづけている。小説を書くことが生きることの中心に置かれていて、生活もそれを核に組みたてられているように聞いたことがある。ある人にとって小説という表現媒体がとても大切である、ということがなにをもたらすのか。小説という媒体が現代において私たちにもたらすものはなにか。なにか大切なことを見落としているのではないか、という思いを、荒川の小説を読んでいるとかきたてられる。(水城)
めぐみは真夜中になってもなかなか眠れなかったので、散歩に出ることにした。
団地の外階段を降りて少し歩いてから振り返ると、まだ明かりがついている部屋が三つあった。
自転車置き場と街路樹に挟まれた道を抜けると、満月の光に照らされた丘に出た。
丘の奥には真っ黒な海が見える。緑色の夜空との間に水平線が広がっている。
めぐみは丘の上をぶらぶらと歩いて小さな池をのぞくと、三匹の赤い金魚と一匹の黒のでめきんが泳いでいた。
「あなたたちは眠らないの? 羊や牛は、夢の中よ」
ふっと顔を上げると、少し遠くの方で、男性が小さな岩に座っている後ろ姿が見えた。チェックのコートに、黒い帽子をかぶっている。めぐみは近づいて声をかけると、男は振り返った。
男は透明人間だ。
めぐみは隣に座って、パイプ煙草を吸っている男の口からドーナツ形をした煙が、ひとつふたつ、プカプカと空へ浮かんでいくのを見つめた。
「お腹すいてない? 家に昨日作ったレモンケーキがあるの」
男はしばらく黙ってから、
「ああ、ありがとう」
と言って、立ち上がった。
金魚が泳いでいる池をまたいで、二人は黙って歩く。さっきの煙草の煙は、雲になったりしないのかしら。めぐみはふと思いながら、透明人間を振り返る。
男は途中で立ち止まって咲いていたつゆ草を摘んで、まためぐみの後を歩いた。
彼はコートの下に黒いスーツを着ていた。部屋に入ると、めぐみは彼のコートと帽子を壁のフックにかけた。そしてポットを温めて紅茶を入れ、レモンケーキを二人分切った。
フォークでさした一口サイズのケーキが彼の口の辺りから姿を消す。
開いている窓から、かえるの鳴き声が聞こえた。
男は食べ終わると、
「美味しかったよ。ごちそうさま」
と言った。
「泊まっていかない?」
「まだ結婚するか決めていない。それまでは関係を一旦止めようと思うんだ」
「何を迷っているの? 結婚するほど好きじゃなかった?」
「結婚したら子供が出来るかもしれない。僕みたいな透明人間だったら、可哀想だよ」
「今までだって、子供が出来るようなことはしてたじゃない」
「浅はかだったんだよ。避妊もしてなかったし。君が妊娠しなかったのは、幸運だった。子供が出来ないように、結婚しても避妊するなんて不自然だよ。そのうち、君だって嫌がるよ」
「私はあなたといたいし、子供が透明人間だって構わないわ」
めぐみは男が食べ終わったお皿をじっと見つめた。
そしてさっとお皿を取ると、二人分のお皿を流し台に持って行って蛇口をひねった。
涙がぼろぼろと両目から出てくる。彼女は手で拭いながら、お皿を洗った。
男は立ち上がると、コートを着た。ポケットに手を入れると、中から先ほど摘んだつゆ草をそっと出して、テーブルに置いた。
「僕の絶望に、君を巻き込みたくないんだ。もっと違う人生を送れたはずだと、隣にいる男がいつもそう思っているなんて、不幸だよ」
そして帽子をかぶると、静かに出て行った。
閉じたドアの音を聞くと、彼女は男が座った椅子に座り、テーブルに顔を伏せた。
そして涙がおさまると、男が置いたつゆ草を見つめた。
めぐみは子供の頃からつゆ草が好きだった。勿論男は知っている。
めぐみは手を伸ばし、花びらをひとさし指で撫でた。
三日後の夜、男はまた部屋を訪ねてきた。
めぐみは震える両手を背中に隠しながら、彼を散歩に誘った。
二人で丘を歩くと、羊が一匹、木かぶの隣ですやすやと寝ている。めぐみは羊の隣で腰を降ろした。
黙って彼の話を受入れるつもりだった。でも座った途端、また涙が出てきた。
めぐみは寝ている羊の背中にゆっくりと寝そべった。手の平で羊の背中を撫でる。
男は羊の体の反対側に座った。
呼吸を落ち着かせて、羊の毛を指先でつまみながらめぐみは聞いた。
「あなたはこれからどうするの? ここから出て行くの?」
「海を渡って、地球の反対側の世界に行こうと思う。僕の特性を生かした職業があるんだ。今日正式にオファーを受ける返事をしたよ」
「危険な仕事なんでしょうね。ここにいれば安全なのに」
「仮に僕が向こうで成功して君を呼んだら、君は来るかい?」
めぐみは起き上がった。
透明人間の顔を見て、じっと唇をかんだ。
「呼ばないでしょう?」
「そうだね。危険な仕事だから、誰とも結婚できないよ。君はこの場所を愛してるから、ここから出ないだろう。お互い求めているものが違うんだよ」
その時、羊が目を覚まして顔を上げた。
大きなあくびをして、ゆっくりと起き上がると、めぐみの顔に優しくキスをした。
そして立ち上がり、めぐみの服の裾を口先でくわえて、引っ張った。
めぐみが立ち上がると、羊は振り返りながら、まっすぐと海へ向かった。
二人は何となく着いて行った。
海へ出ると、透明な藍色の夜空に無数の星がきらきらと光っていた。
岸辺には、木のボートがオールと一緒に浮かんでいる。
羊は船をじっと見て、めぐみの顔を見た。
「君に乗ってほしいみたいだね」
男はボートに片足を乗せて、めぐみを振り返った。
めぐみは男の手を握ると、船に乗って、船先に座った。
男は両手で船を押して海へ出すと、すぐに彼は飛び乗ってオールをつかむと、腰を下ろしてゆっくりと漕ぎ始めた。
真っ黒な海に、星の光が映っている。腕を伸ばして、ひとさし指で反射した光に触れると、指先に小さな波が立った。
遠くで、イルカが飛び跳ねている。跳ねた影が、海に映っているのが分かった。
いつの間にか、めぐみ達の周りの海が段々と小さくなって、池ぐらいの大きさになって、彼らが乗る船を囲んだ。
そしてその池ごと、船は宙に浮かんで、星空の中を進み始めた。
星の粒が一列になって飛んできて、船の周りをぐるぐる回る。
めぐみは男を振り返った。彼が控えめに微笑んでいるのが分かった。めぐみも同じ表情をする。
一年前も同じことがあった。
船先に座って男を振り返ると、彼は笑っていた。
彼に体を横たえて、二人で夜空を見上げたのだ。
二人で地球の反対側の世界へ旅行して、帰ったばかりの頃だった。
めぐみは男から顔をそらした。
体を乗り出し、手を伸ばして星に触れると、星は暖かい息をふうっと吹いた。
この詩は声に出して読みたい。リズムを身体で感じながら読みたい。そうすると身体のなかに豊かなイメージが生まれ、身体がふくよかに感じられ、自分の存在の複雑さを思いだすことができる。(水城)
たっぷりと霧を含んだ夜が来て
獣は雪の上に足跡をつける
赤い木の実の記憶を
闇に散らばらせて
麦藁に青や黄色のビニール紐を
拾ってきた
編み上げた
ぬくい寝床で眠る夢
赤い舌だす友だちは迷子
牙を隠してそろそろと
恐れは闇に押し入れて
恐れと飛び出す森は海
羽毛の震えは白い波
行方知れずの茶色い小鳥小さい魚
夏なのに冬なのに歌声も響かない
群れは木々の間を彷徨うて
海辺をたどる
生き物は飛び立つ夢を見る
灰色の境界を歩く走る
ひとりで出かける
三木義一の文体はその硬質さが魅力だ。あえて柔らかさを試みる必要はない。どんどん硬くなればいい。もっともっと硬くとんがっていくのを見てみたい。(水城)
全員が着席したかと思うとチャイムが鳴り、試験は始まった。問題用紙を表へ向けると、縦横無尽に曲線が走っている。あるものは渦を巻き、あるものは鋭い角度で蛇行を繰り返す。線は一様にか細いが、その軌跡に迷いはなさそうだ。
佐々木は紙の隅から隅まで目をこすりつけてみた。しかしそこには数式はおろか、文字の一つさえ存在しなかった。ただ混沌とした線の重なりがあるだけだ。彼は疑い深い。何かの間違いで自分だけ問題用紙が配られなかったか、そもそも全く違う紙が配布されてしまったのではないか。しかし周りを盗み見ても皆同じような紙一枚を前に頭を垂れ、何ごとかを思考しているようだ。どうやら問いは問いそのものが明示されていないことである。彼は観念して目を閉じた。
すーっと目の前に星が落ちていく。それを境に地面から水の膜が上がってきて干からびたスクリーンを潤した。また幾つもの星があらわては消え、膜の上をたゆたい始める。
気がつくと教室から生徒がわらわらと外へ向かって歩き出していた。佐々木も慌ててその後に続く。残された紙の上には大きな水たまりができ、じわじわとそこにあった美しい世界を浸していくところだ。
「着眼点」ということばがあるけれど、山口世津子はまさにそれが独特で、かわいらしく光を放っている。たぶん、着眼点から感じられるオリジナリティは、彼女自身のオリジナルな存在そのものなのだろうと思う。
さすがに音が切れ切れになることが増えてきた気がするが、俺の九〇年代メイドインジャパン根性はそうそう死なない。
日光が暗闇を一掃し、俺は目が覚めた。
風圧でキラキラ舞っているのは俺にも積もっていた埃だ。
押入れに横たわり、どれくらい時間が経ったかも分からない。
唐突に身体の両端を掴まれた。
「げほっ。重てえ」
知らないオッサンだが、このやる気のない感じに覚えがある。俺の<持ち主>だ。
<持ち主>は、よっ、と年寄り臭い独り言を発し、俺を畳の上に慎重に置いた。
尻ポケットからポーンと小さなスティックが飛び出す。せんべいサイズのそいつにはイヤホンが巻かれていた。
あいつが今の<持ち主>のパートナーらしい。
冷凍睡眠から目覚めた心持ちだ。
黒くてイカす身体が、今や埃まみれ灰色ボディでしっかり歳も喰った気分だ。
<持ち主>が埃を拭き取るが、表面の凹凸まではしっかり取りきれないようだ。まあ多少は若返った。
俺のプラグが電源に刺さったので、久々に表示板に再生時間「00:00」を表示してやった。
扱いはえげつなかったが、今日から重低音鳴らしてやる。
いつものニルヴァーナか? UKロックか? FMもいけるぜ。
<日本の童謡~1~>
エキゾチックなセレクト過ぎるぜ。
<新しい持ち主>は、前の<持ち主>が話しかけてもほとんど反応しないような寝たきり老人というやつだ。
毎日何時間も、か細いヴォイスや合唱を鳴らし続けることになるとは思わなかった。たまの洋楽は賛美歌だ。
最初は本当に嫌々だったが、今では家で唯一CDを再生出来る事が誇りなんだ。
障子越しに拡散した陽光に眠気を誘われたのか、<新しい持ち主>は寝息を立て始めた。
子供を寝かしつけるのはこんな感じだろうかと俺は思った。
身体文章塾では毎回、テーマを設定してそれにそって作品を提出してもらうことがあるが、この野々宮卯妙の作品は「長編小説を想定したストーリーから一場面を切りだして短編として提出する」という課題のなかで書かれたものだ。大きな世界設定のなかから一場面だけをスパッと切り出す。この作業をしてもらうと、書き手の力量がたちどころにわかる。野々宮のナイフの切れ味をご覧あれ。長編のストーリー設定は、タイトルの後に書かれている細字の部分となっている。(水城)
地方都市にある泉高校に通う、クラシックピアノを学ぶ高校一年生男子。父親は音大教授で裕福な家庭。
同じ高校に通う、ジャズピアノを弾く一年女子。父親はジャズピアニストで貧乏。
二人は互いに反発しあっているが、やがて愛し合う仲に。
父親同士はかつて同じ音大ピアノ科で主席を争う良きライバルだったが、女子の父が卒業試験直前に海外へ。男子の父は複雑な思いを抱えながらもピアニストとして大成し教授となった。
1
「高倉がどこにいるか知らないか」
レッスン棟のロビーに本間教授の声が反響した。その声が自分に向けられていることに気づいて、芳裕は開きかけた封筒を楽譜に挟み込むと、椅子から立ち上がった。
「どうかしたんですか」
「高倉が来ないんだ」
「……来ない?」
ロビーの中央で行き会った二人を、その場の全学生たちが息を呑んで注視していた。無理もない、ピアノ科の首席を牟田芳裕と争う高倉直也が、卒業試験の会場にやって来ない、という話なのだから。
「牟田も知らないのか。うっかりしてまだ練習室にいるのかとも思ったんだが」
教授は肩を落として、長い息を吐いた。そして腕時計を見て、さらに長い息を吐いた。
芝生の中庭に面したガラス窓から射した陽が、二人の足元でわだかまり、うずくまった。
「いや、邪魔をしたね。牟田くんは明日だったね。頑張りなさい」
最後の言葉にいつになく力が込められたように感じ、芳裕は思わず漏れた苦笑の始末に困った。
教授退場と同時にまとわりついてきた視線を払うようにして、芳裕は予約しておいた練習室に足早に滑り込んだ。そしてピアノの前に座ると、楽譜を開いた。リスト、超絶技巧練習曲集第四番。
音符で黒く埋められた紙面の真ん中に置かれた白い四角、さきほど破りかけた封筒の面には、高倉、と無造作な二文字。
封筒から、二つ折りになった紙を取り出す。
開いて、見て、――芳裕は両手を鍵盤に叩き付けた。
『ブラッキーンから、バークリーに来いと連絡が来たから行ってくる。
俺なきあとの日本音楽界はおまえに任せたゼ』
「バカか!」
バークリーなんぞ行ったってなんにもならない、と言っていたのは高倉ではないか。ジャズに理解のない教授たちに楯突きながらも、高倉以外のなにものでもない音で教授たちを魅了し、卒業試験を受ける前から卒業演奏会の出演も当然と思われていた。
今日も、わざわざ聞きにこなくとも演奏会で聞けるではないかと高倉に言われたから、芳裕はレッスン棟にいたのだ。
天才高倉の最大のライバル。それが芳裕が自ら認める位置づけだった。
大学に入学してまもなくの合コンで、女子を差し置いて気が合って、以来なにかとつるみ、競い合ってきた仲だ。
その高倉がいなくなってしまった。
これはどういうことなのか。
なぜ、よりにもよって今なのか。
指を載せた鍵盤が、重さを消して沈んでいった。
底に着いて、コーンと響いて、いつまでも減衰しない。
なぜだろう、と探ってみると、自分の身体の中の水を振るわせて、次々とそれが伝染していくのだった。
翌日、芳裕の「マゼッパ」は教授陣から全Aを獲得した。
2
ソールを一歩一歩真上から踏みしめながら、幹也は二号館への石畳の道を進んだ。
道には雨に濡れた桜の白い花びらがしきつめられており、幹也の革のソールに、私の上で踊りましょうと誘っていた。
それを断りつづけて腕と脛に緊張が続いていたのに気づいて、幹也は立ち止まった。小さく息を吐く。湿った風がふいと幹也の口元に触れて去っていった。
今日から音高生だ。父の勤める大学の附属校は窮屈な気持ちもあるが、自宅から通えて進学が楽そうな学校がいいという理由でここにしたのだから、しかたがない。
ピアニストの息子に生まれてピアノをやるのは陳腐だと思っていた。が、ピアノを弾くのは好きだ。父から、音高の練習室のひとつにファツィオリが入ったはずだと聞いて、入学式のあと、その部屋を探しにいこうと思い立ったのだ。
いきなり音の塊が降ってきて、幹也は思わず耳をそばだてた。
軽やかでありながら力強いピアノ。何の曲だろう、聞いたことがあるのに曲名が出てこないという経験はほとんどしたことがない。知りたい、という気持ちが無性に湧いてきて、幹也は駆け出そうとして危うくソールを桜の小道とのダンスに送り込みそうになった。
一歩一歩進みながら、幹也は頭の中の音楽の引き出しを片っ端から開けていた。進行はショパンのようなのに……と思ったところで、ぎょっとなった。作品一〇の十一番……?
こんな有名な曲がなぜわからなかったのかといえば、速度が滅茶苦茶だったからだ。
速すぎて音の塊のようになるときもあれば、スローモーションになることもあった。が、速すぎる塊の中身はすべて粒立つ音がぎっしりと詰まっているし、スローモーションは音と音の間がこれまたみっちりと濃いという代物だったのだ。
(あり得ねえ……なんだこれ……)
曲がわかれば、次に知りたいのは、誰が弾いているのかということに決まっている。
幹也はようやく二号館のエントランスにたどりつくと、音の源へダッシュしようとして、今度はつるつるに磨き上げられた床にソールを奪われかけた。
落ち着け。ごくごく消極的な理由で決めた学校に、なんだかすごい奴がいる。漫画のようなシチュエーションではないか。
こんな奴と同学年だったら、在学中にトップになることはないだろう。先輩であってほしい気持ちと、同学年であれば最初から一番になろうと思わないですんで気楽じゃないか、という考えとの間で振られながら、幹也はそろそろと廊下を進んでいった。
探すまでもなく、いちばん奥の練習室のドアが空いていて、そこから怒涛の音が雪崩れ出ていた。
ふつうに弾いても二分半ほどの短い曲だ。幹也がたどりつく直前に、曲は圧倒的なクライマックスを迎えて最後のA♭が地の底から天空までをつんざいた。
「ヒャアッハァ!」
続いて響いた高い歓声に、幹也は目をむいた。いやまさか。そばで聞いていた子の声にちがいない。駆け足気味に練習室にたどりついてドアに手をかけようとして、幹也は向かってきたドア板に強烈なキスを見舞われた。
ガツーンと音が響いて、幹也の鼻の奥に鋭い感覚が走った。
「きゃっ、やだ! っと、ご、ごめん、だいじょうぶ?」
顔面を覆った幹也の指のすき間から、こちらを覗き込もうとしている女生徒の顔が見えた。
肩の長さのウェーブがかったダークブラウンの髪が、白く透き通るような肌を際立たせていた。ブラウンの瞳が見開かれ、こぼれそうになるのを血管を透かせた頬が支えている。厚い唇は生き生きとしたピンク色で、その奥に白い歯と濃いピンクの舌が見え隠れしていた。
漫画なら、ドジな女子高生がドアにぶつかって、中から出てこようとした男子と恋に落ちるはずだ。それがたまたま逆になっても、ロマンチックは成立するだろうか。逆パターンはたいていギャグになるのではなかろうか。
「ごめん、もう行くから。だいじょうぶよね?」
「いて、いや、だいじょうぶって……え、ちょっと待って、いまの、君?」
幹也の声は走り去る少女の背中に届くことなく、はじけて消えた。
鼻血を手のひらで押さえながら、幹也は練習室の中を覗き込んだ。
誰もいなかった。
知念満二は今号に収録した書き手のなかではもっとも遅く身体文章塾に参加した人だ。参加して一年あまり、しかしすでに膨大な作品群を書きあげている。そのどれもがおそろしいほどに独自性を持っている。文体、ストーリー、エネルギー、どれを取っても類を見ない。今号ではこの作品のみを採用しているが、今後彼のさまざまな作品を送りだせると思う。まずは荒削りな作品ではあるが、その勢いの一端を楽しんでもらいたい。(水城)
私の精神を崩壊させ、発狂寸前まで追い込んだ自動販売機は私のアパートから駅までの途中、五分ほどのところにある。
急に冷え込んだあの日、めったに自販機では買わない私だがあまりの寒さに温かいコーヒーで両手とほっぺを暖めようと出勤途中に缶コーヒーを買った。百五十円がなくて二百円を入れてボタンを押し、ゴロンと転がってきたコーヒーを取り出し釣り銭口に指を入れた瞬間、なんとも嫌な触感が指先に伝わった。
にゅるっとしたものがあたり、そして爪のあいだに何かが刺さった感じがした。恐怖が指先から波のように伝わり私は後ろへ弾け飛んだ。恐る恐る指先を見ると白い物が指の腹にべっちゃりと付いていて、爪には薄いピンクがかった丸いものが刺さっていた。その物体が、腐ってほぼ溶けかけたエビで爪に刺さっていたものはエビの殻だと気づくやいなや全身に鳥肌が立ち私は絶叫した。
手のひらと肩が激しく震え、振り落とそうと何度も何度も腕を振ったが落ちないので自販機の横のブロック塀に指先を強くこすりつけて落としたが爪も割れて落ちた。
薄いピンクのマニキュアを塗っていた爪とエビの殻が一体になっていたことがますます私の恐怖を増幅させた。突然絶叫した私を通勤途中の人たちが気持ち悪いものを見る目で通り過ぎていった。
左手に缶コーヒーを持ちながらその左手の指でプルトップを開けようとするので中々開かない。やっとの思いで開けてコーヒーを右手の人差し指にかけて腐ったエビの白いところを流し落としてティッシュで拭き、空き缶入れに投げた。
それから駅までの途中、自販機の前を通るたびに体がピクッと反応し電車を降り会社までの道のりでも多くの自販機がありその都度体が小刻みに震えることで自販機の多さにあらためて気づいた。
会社に着くと私の顔を見た同僚が
「どうしたの? 顔が真っ青よ。大丈夫?」
と聞いてきたが
「あんまり」
としか言えなかった。
それからの私はトラウマになり特にあの自販機の前はどうしても通れなくなった為にアパートを出て駅の反対側へ歩き、角を幾つも左に曲がってから駅に向かうので、十二分で着いていたのが二十五分かかってしまうようになった。
二週間ほど過ぎたある日曜日、私は意を決してあの自販機と対峙することにした。このままの状態をいつまでも続けると本当におかしくなってしまう。自分でなんとかしするしかないと決心し、スカートではなくパンツとスニーカーで外に出た。しかし体はやはり駅と反対の方へ歩いてしまう。角で立ち止まり駅へ行く左ではなく右へ曲がった。何度か右へ曲がると小さな公園に着いた。
公園に入り、子供たちが遊んでいるビオトープを見ながら円を描くような遊歩道を進むとベンチがあったので座った。背後に子供たちの声を聞きながら、正面にある花壇に咲いている花を見ているとその向こう、五十メートルほど先のT字路にあの自販機が見えた。そう、そこは公園の幾つかある入り口の一つで私が座ったベンチの先にあの自販機が立っていた。私は一直線上にある自販機をまばたきもせず見つめた。体が小刻みに震えてくる。何度も立ち上がろうとしたが立てない。大きく深呼吸をして足の爪に力を入れた時、後ろから子供の声が聞こえてきた。
「でっけぇナメクジだなぁ」
振り向くと小学校高学年くらいの男の子がもう一度言った。
「でっけぇナメクジ捕まえたなぁ」
その子より少し小さな二年生くらいの男の子は右手にナメクジを握っているのだろう、小さな握りこぶしのまま急に走り出した。そしてあの自販機の前で立ち止まり、かがみ込んで何かをしている。するとすぐに走り去っていったがその時の右手は開いていた。
あの子だ。あの子がエビを入れたんだ。走って捕まえなければと思うのだが動かなかった。息が荒くなっていくのが分かったので「落ち着け。落ち着け」と何度もつぶやき、ゆっくり立ち上がり自販機へ向かっていった。
あの自販機の釣り銭口にはナメクジが入っている。絶対に入っている。あの子が入れたはずだ。でも私はそれをどうしようとしているのだろう。このトラウマを克服する為といってもあの小さな箱の中のナメクジをどうしたらいいのだろう。指を入れるなんて絶対に出来ない。出来るわけない。でも、どうすれば。考えているうちに目の前まで来てしまった。全身が総毛立ち震えているのを自覚して「大丈夫。この間とは違う。ナメクジが入っていることを私は知っているのだから」と、言い聞かせた。
足元に小枝が落ちているのを見つけそれで釣り銭口をそぉ~っと押した。白いぷにゅっとしたものが目に入った瞬間、全身に悪寒が走った。ほんとに大きい。震える右手を左手で支えながらそのぷっくりと太った異様に巨大なナメクジの体の奥に木の枝を置き、手前に引きずった。ずるんっとナメクジは下に落ちたがなんの音もしなかった。かがみ込んで今度はナメクジの体の手前に枝を置き、自販機の奥底に強く弾いた。
空っぽになった釣り銭口に枝を刺してみるとナメクジのぬめりが気味の悪い銀色に光っている。
「私はこれを克服するのよ。何もいないじゃない。怖くないわ」
と、言い聞かせ、ゆっくりと指先を差し入れた。ぬるっとした触感が秒速で全身に伝わる。それでも私は耐えた。そしてその小さい部屋の床と壁をぬめったままの指先でまんべんなくぬめりを拡げたあと、パンツのポケットからティッシュをとりその小さな部屋のぬめりをていねいに拭き取って空き缶かごに捨てた。
「ハァ~」
とため息をつき自販機に体をもたせて顔をくっつけると金属の冷たさが私の心を落ち着かせてくれた。
「よくやったわね、ワタシ」
と、自分を誉めたが
「まだよ。買うのよ。ここで」
と、もう一人の私が決着をつけろと囁いた。二百円を入れてボタンを押し、飲み物ではなく釣り銭口に先に指を入れる。なんともない。大丈夫。私は自力でトラウマを克服した。コーヒーのふたを開け、自販機に背をもたれさせてさっきまで座っていたベンチを見ながらゆっくりと飲んだ。
次の日曜日、私は公園にいた。先週と同じ時間にあのベンチに座った。あの子がいることを目の横で確認しながら。スマホを開いていても後ろの子供たちの声に神経が集中していて画面の情報は何も頭に入って来ない。スマホを閉じぼんやり空を見上げていると
「カエル捕まえた~。ミドリガエルだ~」
と聞こえた。振り返ると何人かの子供が捕まえたようだがあの子も右手を握っている。私はすぐに小走りで自販機へ向かった。二メートルほど離れたところで立っているとやっぱりあの子が右手を握ったまま走ってきた。すぐ横にいる私を気にもせずカエルを釣り銭口に入れようとした瞬間に、その子の右手を私は握って、
「ねえ、君にお姉さんがと~っても美味しいキャンディーをあげるわ。お口をあ~んして」
と優しく言うと満面の笑顔で「あ~ん」と口を開けた瞬間にその子の右手の中に入っているカエルをポンッと口の中に放り入れ左手で頭、右手でアゴを押さえてシェーカーを振るように頭を振った。
「ングング」
と声にならない声を出しながら助けて、と私を見つめる目で手を離すと、
「うげ~」
と口からカエルを吐き出した。
「エビを入れて、ナメクジも入れてカエルも。次やったらゴックンさせるわよ。なんでこんなことするの?」
ペッペッペと口からつばを吐きながら
「だってさ~、コーヒーを買ってさ~、お釣りをもらってさ~。ついでにメダカとかカエルとかおまけでもらったら嬉しいじゃん」
足元から力が抜けていくというのはこういうことなんだと初めて体感した。
この子はいたずらでやっていたのではなかったのだ。この子にしてみればお祭りの縁日で金魚すくいをやるような感覚で、みんな喜ぶはずだという意識でやっていたのだ。
「あのねぇ。死んでるの。君がここにいれたメダカもカエルもみんな死んじゃうの。お水がないでしょう。そんなことも分からないの?ご飯もないでしょう、ここには。こんな小さい部屋に勝手に閉じ込めないで、今までどおりあそこのビオトープで遊ばせなさいよ。死んだメダカもらっても誰も嬉しくないわよ」
おへそや小さな乳首まで見えるほどTシャツをたくし上げて唇を拭きながら
「そっか~、死んでたのか~。すぐに誰かが貰うと思っていたんだけどな~。そういやこの自販機で買っている人見たことないや~。他の自販機にしようっと」
あっ、違う違う、ちょっと待て~、と言う声も聞こえなかっただろうと思うほどその子はあっという間に走っていった。
私のトラウマは治ったけど、自販機で何かを買うときは釣り銭のないようにしなきゃ。
もっとも古株の仲間である奥田浩二の作品。奥田は参加当初からテクニックも感受性も順調にのばしつづけていて、オリジナリティにも磨きがかかっている。さまざまな語り口やジャンルを自在に駆使できるのが彼の強みであり、ともすれば小器用に陥りがちな強みであるがしっかりと武器にできているのではないかと思う。すでに既成の作家の多くをしのぐ表現力を身につけていると思うが、どこまでのびていくのか楽しみな書き手である。(水城)
まだ枝ばかりの桜並木を抜けて、水車のある蕎麦屋の横に出ると、深大寺の緑も春に向けてやはり準備中らしく、風が吹くたびに寒々しく枝をふるわせていた。
栄ちゃんは僕より頭二つ分くらい背が高いし、歩くのも早い。
栄ちゃんはいつも僕に合わせて歩いてくれるけど、最近はサッカーボールを適当に蹴りながら歩くと、丁度良いことに気づいたようだった。
家が近所なので、集団で下校しても、最後に野川で佐々木と別れると、僕達は二人きりになった。
僕は栄ちゃんと話しながら帰るこの時間が、たまらなく好きだった。
茅葺きの門を通り過ぎた頃だった。
突然、横を歩く栄ちゃんの足が緩くなった。
「どうしたの?」
「どうもしないんだけどさ」
そう言いながら、栄ちゃんはフラリと土産物屋に向かうと、そこに並んだ置物を物色し始めた。
僕も付き合うように、あれこれと手に取って裏を見たりする。
万華鏡や金魚の絵が描かれたブリキ缶など、少し古くさい物ばかりだったけど、手を触れたら絶対両親に叱られる物を、堂々と弄くり回すのは楽しかった。しかし、この状況ならいつも抱腹絶倒になるはずの会話がどこか噛み合ない。
盗むように顔を上げると、栄ちゃんは目線の高さに持ち上げた狸の置物を見る振りをして、ずっと先を見ていた。
僕は栄ちゃんの視線の先に目をやった。
大学生だろうか。視線の先にいるのは黒いエプロンをして、饅頭の店頭販売をしている女性店員だった。頭に巻いた白い三角巾から長い髪が溢れている。僅かに髪を明るく染めているらしく、豊かな髪の毛がトングでリズムよく饅頭を並べるたびに、軽く踊るように見えた。
「あ……」
栄ちゃんの視線に気づいた女性店員の声が聞こえたような気がした。
突然、栄ちゃんが女性店員に向かって走り出した。
「栄ちゃん! ボール、ボール!」
僕は慌てて追いかけたが、サッカークラブではサイドバックが定位置の栄ちゃんに追いつけるはずはなく、後ろ姿はどんどん小さくなる。ランドセルの横に吊るした体操着の袋が不規則に揺れて、あっという間に息があがった。
栄ちゃんは顔を伏せたまま、全速力で女性店員の前を走り過ぎていってしまった。
「栄助君!」
僕の背中に女性店員の声が聞こえた。
「どうしたの?」
「どうもしない」
そんなわけあるかい、と言いたかったが不機嫌そうな栄ちゃんに気圧されて、僕は黙ったまま後に付いて歩いた。
「知り合い?」
「前まで家庭教師だった」
「そうか、私立だもんね」
栄ちゃんは、来月から私立の中学に通うことが決まっていた。
「慎一さ」
「うお」
いきなり止まるから背中に突っ込みそうになった。
「何か悪いことしたら、いや、結果的に悪いことをしたことになったら、どうする?」
ややこしい質問だと思った。
「まぁこっちに悪気は無いんだし、そうだなぁ、しらばっくれる」
機嫌を直してほしくて、僕は冗談混じりにそう答えた。
「お前はそういう奴だよ」
「何でぶつんだよ、じゃあどうするんだよ」
「知るか馬鹿、お前に聞いた俺が馬鹿だったよ」
「そうだよ馬鹿」
「うるせぇ馬鹿」
そう言ってゲラゲラと笑う。
良かった、機嫌が直ってる。
僕は挑発しながらドリブルを始めた。栄ちゃんはあっという間にボールを奪うともう一度、馬鹿と笑った。
数日が過ぎた。
だるま市の終わった月曜日は、その盛況ぶりと真逆に閑散としていた。
所々に祭りの熱が残っていたが、境内にはどこからとも無く水の音が小さく響いている。
見覚えのある髪が、ジャッジャッと歩くたびに軽く踊っていた。
「よく分かったね」
深町葵と名乗った女性は、僕を振り返ると余裕のある微笑みを浮かべた。
「奇麗な髪だったから」
僕は目を合わせられなくて、ぶっきらぼうに答えた。
女の人に声を掛けるなんて、十二年生きてきて初めてで、境内で偶然見かけたからだとしても、恥ずかしすぎてお腹がムズムズした。
「ありがと、今日は栄助君と一緒じゃないのね」
「用があるって。本当に寄り道してるか、多分ほかの道から帰ってるんだと思うけど。……栄ちゃんの家庭教師だったって?」
「そうよ、彼が私立に合格したのも、きっと私の腕が良かったのね」
そう言うと葵さんは、左腕に力こぶを作ってパンパンと叩いた。
僕は愛想笑いをすると、思い切って聞いてみた。
「あの、最近栄ちゃんがこの道を避けてるみたいで。お姉さんを見かけたあの日からだから、お姉さんを避けてるんだと思って……何か知ってる?」
「うーん、そうだね」
と葵さんは頬に手を当てて考える素振りをした。
「知ってるんでしょ」
「まあね。どうしよう、慎一君、内緒にできる?」
そこまで言われたらできると言うしかない。僕は慎重に頷いた。
「ラブレターをもらったの」
「ラブ?」
「恋文。って、よけい分かんないよね。好きって言われたの、手紙で」
「好き……」
葵さんの言葉が頭でぐるぐる回って、自分のことじゃないのに耳まで熱くなった。
そして言葉が落ち着くと、僕は栄ちゃんが急に違う世界に行ってしまったような気がした。そして今度は口を尖らせたくなるような、怒りとも思えるような不思議な感情が、形をなさずあぶくのように沸き立つようだった。
「……聞いてる?で、そんなわけで返事をする前に家庭教師を辞めることになったの。答えてあげなきゃと思ってはいたんだけど、実家がそんな状態なわけじゃない?ついついうやむやになっちゃって。ようやく一段落したから友達のピンチヒッターなんだけど、ここでバイトしてたの。この前店でばったり会って、しまったって思っていたところだったの。そうしたら丁度」
そういうと葵さんは僕を見て笑った。
手渡された手紙は便せんを入れるような白い長封筒だった。漫画で見るものよりも現実的な重さがあって、妙に納得出来るものだった。蝋で封をされていて流石大人だと思った。
「栄ちゃんのこと……」
「うん?」
「栄ちゃんのこと好きなんですか?」
「良い子ね、飲み込みが早いから教えがいがあったわね」
「そうじゃなくて、好きなのかって」
葵さんは困ったような顔をして考え込んだ。
「そうは言っても相手は小学生だからね。それに栄助君だって、本気で大人のそういう付き合いをしたかったわけじゃないと思うしね。こういうのって自分の気持ちを伝えるのが大事なわけでしょ。その気持ちに見返りを求めてるようじゃまだまだ甘い甘い」
葵さんはそう言って笑った。
僕はその笑い声の中で、葵さんが一瞬寂しそうな顔をしたのを僕は見逃さなかった。
「じゃあね、手紙を渡すの頼んだわね」
「あの……」
「うん?」
「栄ちゃん、悪いことをしたって」
「悪いこと?」
「多分手紙を書いたこと」
「手紙もらって急に辞めたからね。大丈夫、それ誤解だから」
葵さんは、クシャッとした謝るような笑顔を見せて言った。
「さっき何をお願いしていたんですか?」
「栄助君の合格祈願」
「嘘」
「ヒント、深大寺は何のご利益があるでしょうか?」
話しながらいつの間にか境内を抜けて、池のある広場に出ていた。
葵さんはそれじゃねと手をひらひらと振って歩いていった。
僕はその後ろ姿を見送ること無く、目の前を泳ぐ大きな鯉に向かって小石を投げつけた。小石は鯉の額でポコッと鈍く跳ね返った。
水面のあぶくを目で追いながら、それが完全に消えるまで僕は池をじっと見つめていた。
結婚を報告するために久しぶりに実家に帰ってきた。
夏の盛りで連日うんざりするような暑さだったが、深大寺は豊かな緑に囲まれて、幾分か過ごしやすいように思えた。
私立の中学に進学した栄ちゃんとは疎遠になっていき、僕が大学生になって実家を出てからは、完全に連絡が途絶えてしまっていた。
あの日走り抜けた茶店を前に、僕たちは並んで腰掛けて団子に食らいついている。
「まぁ小学生にコクられても困るわな」
十年ぶりに再会した栄ちゃんは、台湾のパイプライン施設で働いているらしく真っ黒に日焼けしていた。
「好きな人がいるから付き合えないというのも、まぁ本当かどうか怪しいものだね、やっぱり揶揄われたんじゃないの」
「揶揄われてた方が良かったかもな」
と栄ちゃんは茶店を眺めながら丸い笑顔を作った。その姿があまりにわざとらしかったから僕は笑いを堪えながら、何それと先を促した。
「これを見せようと思ってさ」
「何これ」
それは海で遊ぶ家族のスナップ写真だった。背景の雰囲気と栄ちゃんの仕事が繋がって、もしかしたら台湾の海なのかもしれないと思った。写真の中で、大柄な男性がサングラスをして偉そうに笑っている。そしてその隣に、小さな子供を抱き上げた、髪の奇麗な女性がこちらを見て微笑んでいる。
「え、うそ、これ葵さん? 横の人誰?」
「兄貴」
「マジか、うわ、てことはマジか。そりゃ国外逃亡するわ」
「だろ、分かる? そしたら毎年のように旅行の拠点に家を使われるオチ、ちなみに撮影者、俺」
「笑ってごめん、でも悲惨すぎて凄い笑える」
そう言って二人でゲラゲラと笑った。
目の前を下校する小学生の一団がじゃれ合いながら通り過ぎていくのを見ながら、お互いおっさんの笑い方になったなとシミジミと思った。
「僕さ」
「うん?」
「あの頃、多分栄ちゃんのこと好きだったよ」
「気持ちワリィな、そのケ無いぞ俺」
「僕も無いよ、出来婚なんだし」
「分かってるよ。でも悪いな、仕事で式は無理だわ」
「仕方ないよ。ねぇ栄ちゃん質問。実は葵さんのことまだ好きだったり?」
「そういうわけで絶賛逃亡中」
栄ちゃんは少し考えたようだったが、冗談めかして本当のことを言ったようだった。
「お参りしたらどう?、深大寺は縁結びの効果凄いらしいよ」
「そうかもしれないけど、そういうわけにはいかないさ」
音を立てて涼気を含んだ風が吹き抜けた。
「もう大人なんで」
その風に誘われて深大寺の木々がザワザワと音を立てた。
ドヤ顔で胸を張る栄ちゃんを、僕の代わりに笑ったようであった。
私は待っている。湖というより池といったほうがいいような、川の支流がせき止められてよどんでいる沼地のほとりで、折りたたみ椅子に座っている。私が待っているのは、動きだ。いまは止まっていて動かない浮きが、動いて水面の下に沈む瞬間を待っている。
動かない、といったが、実際にはわずかに動いている。いまはほとんど風がない。それでも水面はまったく鏡のように平らというわけではなく、支流から流れこんでくる水の動きでかすかな波紋が生まれている。浮きはその波紋と、ほとんどないとはいえときおりゆっくりと水面をなでて渡ってくる風によって、わずかに揺れている。その浮きが、ちょんちょんと上下に揺れ、水面に丸い波紋を描き、そのつぎの瞬間にはすっと水面下へと引きこまれて消える瞬間を、こうやって私はもう一時間も待っている。
古びたぜんまいを巻きあげるような鳴き声をあげながら、目の前の水面をオオヨシキリが横切って飛ぶ。
爆撃にやられた市街地にはまったく動きはない。私は瓦礫の下に身を潜め、待っている。冬だ。気温は氷点下だ。レニングラードの冬に戸外でじっと動かずにいることは、自殺行為に近い。死なないまでも手足や耳、頬を凍傷にやられる。そんななか、私は夜明け前のまだ暗い時刻にここにやってきて、ここに身を潜めている。分厚い毛皮の帽子と耳あて、外套にすっぽり身をくるんでいる。銃身は濡れた手で触ればそのまま皮膚が接着してはがれてしまうほど冷えこんでいるはずだが、トリガーには温めた指をかけている。指を温めなおすために、ときおり下腹部に手をいれ、睾丸をもむよう触る。レニングラードが包囲されてもう十五か月、情報では今朝八時すぎに、ドイツ軍の少将があそこに見える駐屯地に到着することになっている。彼が車から降り、私のライフルのスコープにとらえる瞬間を、私は待っている。
どこかから煙のかすかなにおいがただよってくる。私は無性に火が恋しくなる。
雨季のマングローブ林はさまざまな音とにおいに満ちている。乾季にはほぼ干上がっているこの林も、いまは人の背丈くらいの深さまで浸水している。
私は待っている。水底に打ちこんだ杭のてっぺんに尻を乗せ、両脚を杭にからめて水面をのぞきこみながら、待っている。この下にきっといずれ通りかかるピラルクーの輝かしくきらめく巨体を、手製の銛をいつでも放てるように構えながら、待っている。
肉は市場で高く売れるし、塩漬けにしてもよい。それもまた自家用にはもったいないほど高く売れる。うろこは靴べらや爪やすりとして土産物屋に高く売れる。とくに大型のものは珍重される。
去年のシーズンには最大で五メートル級を仕留めた。今年も大物をねらっている。だから、尻が杭に食いこんで痛くなっても、両足が攣りそうになっても、全身がこわばっても、一瞬たりとも水面から目をはなさず、銛の構えも解かずに、待っている。
雨季の森はさまざまな鳥の声で満ちている。熟した果物の濃厚なにおいがただよってくる。たまに熟れきった果実が水面に落下する音も聞こえる。遠くの密林のほうからホエザルのせわしない鳴き声が聞こえてくる。
ここからは見えないけれど、海のほうからは湿った空気が吹きつけてくる。私は尻を高くかかげて待っている。大西洋からの湿った風は、このナミブデザートを吹きぬけていくが、私は尻を大きく空中に突きだして身体全体でその風をさえぎる。わずかに冷たい私の身体は、湿り気のある風があたるとわずかに結露する。私はそれをただひたすら、待っている。
私の身体の表面には突起やでこぼこがあり、結露した水滴は身体の表面をつたわって私の首のうしろに集まってくる。すこしずつ、わずかずつ、結露した水滴が伝わって集まってくる。私はそうやって一晩中待っている。朝方になると、集まった水滴は私の頭のうしろに大きなかたまりとなる。その水分のおかげで、まったく水場のないナミブデザートでも私のようなビートルも生きぬくことができる。生きぬくために、私は待つ。いまも夜の時間がすぎ、灼熱の日がのぼる前の至福の一瞬を待っている。
軍楽隊の音楽が聞こえる。道端の群衆の歓声が聞こえる。まさにいまテレビ中継されているその音声が、どこかのスピーカーから拡大されて流れてくる。ダラスの街を見下ろしながら、私はもう二時間半も待っている。私の姿はだれからも見えないはずだ。私は建物の上に姿を隠し、狙撃用のライフルを構えている。照準を合わせたスコープのなかにはパレードのために通行規制された道路や、旗を持った沿道の観衆が見えている。
今日は金曜日。正午をすぎて二十数分がたとうとしている。やがて視界のなかにパレードの車列を先導する白バイが三台、見えてくる。道はばいっぱいを使って邪魔者を警戒するように白バイが通っていくその後ろから、黒のオープンカーとセダンがくっつくようにして走ってくる。そのまわりを何台もの白バイが取りかこんでいる。
オープンカーの後部シートにジョン・Fの顔を確認する。すぐ横にはジャクリーンもいる。私のライフルのスコープにはほぼ正面にジョン・Fの頭部が見えていて、照準の中央に彼をとらえる。
窯では薪が赤々と燃えている。時々火がはぜる音がする。薪は先ほどみんなで、慣れない腰つきで割ったばかりだ。その薪をフィルが煉瓦を組んで作ったピザ窯で燃やし、窯のなかを充分な温度にする。だから、薪はストーブに入れるよりも細く、最終的には鉈を使って割った。
窯小屋の外は徐々に夕闇が落ちて星々の輝きが見えはじめている。私はピザ生地が発酵するのを待っている。生地が発酵したら、丸くのばして、具を乗せ、それを窯にいれて焼く。私はそれを待ちどおしく待っている。
私は待っている。ハレー彗星がやってくるのを。この前にハレー彗星がやってきたのは一九八六年で、そのときも私は七十五年待ったのだった。いまもまた七十五年待っている。満天の星だ。オリオンが東の空からのぼってくるのが見える。ミルキーウェイも見えるような気がするが、ひょっとして雲なのかもしれない。南の空に出ていて、ミルキーウェイは見えないだろう。つぎにハレー彗星がやってくるのは二〇六一年だ。私はそれを待っている。
私は待っている。半減期を。半減期の半減期を。半減期の半減期の半減期を。しかし、それは永久になくなりはしない。人にも半減期はあるのか。私は待っている。
もうすぐ息がたえる。私は待っている。自分の呼吸が止まるのを。自分の鼓動が停止するのを。だれかがご臨終ですと告げるのを。私はそれを聞くだろう。その声を私は待っている。
まだ声が聞こえる。街の音が聞こえる。部屋の音が聞こえる。私は待っている。
外からは人々の話し声が聞こえる。学生街で、若い男女の笑いあったり、ふざけあったりする声が聞こえる。車が通りすぎる。すこし離れた甲州街道からは救急車のサイレンが聞こえてくる。
室内には人が何人かいる。話し声はしない。みんな耳をすませて聞いている。ピアノの音を。朗読の声を。それらがしだいに静まり、間遠になり、沈黙の比重が増していくのを私は待っている。
まだ聞こえる。ピアノの音が。もうほとんどまばらにしか聞こえないが、まだぽつりぽつりと聞こえてくる。朗読者の声も、とぎれがちだが、まだ聞こえる。
まだ聞こえる。
それらが完全に聞こえなくなるのを、私は待っている。
それらが完全に
(おわり)
2018年2月28日 発行 初版
bb_B_00153425
bcck: http://bccks.jp/bcck/00153425/info
user: http://bccks.jp/user/113519
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
東京世田谷在住。ピアニスト、小説家。 音読療法協会オーガナイザー。韓氏意拳学会員。NVCジャパン。 朗読と音楽による即興パフォーマンス活動を1985年から開始。また、1986年には職業作家としてデビューし、数多くの商業小説(SF、ミステリー、冒険小説など)を出している。しかし、現在は商業出版の世界に距離を置き、朗読と音楽を中心にした音声表現の活動を軸としている。 2006年、NPO法人現代朗読協会設立。ライブや公演、朗読者の育成活動を継続中。数多くの学校公演では脚本・演出・音楽を担当。 2011年の震災後、音読療法協会を設立。音読療法士の育成をおこなうとともに、音読ケアワークを個人や企業、老人ホーム、東北の被災地支援など幅広く展開している。 詩、小説、論文、教科書などの執筆も精力的におこなっている。