「姫のために」
それは天敵同士の二人を結ぶ誓いの言葉
幼い姫を守るため、おっさん騎士と知性派ドラゴンがバディを結成。悪の野望卿と戦う!
突如反旗を翻した野望卿ジークフリート。
城は落ち、国王夫妻は無残にも命を奪われた。
ただ一人残された幼い姫を守り、一人、また一人と散ってゆく騎士たち。
「ここは俺に任せて……って何でお前が行くんだよ!」
期せずして最後に生き残った中年騎士「茨のギデオン」は、姫と共に魔物の棲む黒い森へと身を隠す。
そこで不倶戴天の天敵と出会うとは夢にも思わずに。
「何てこったい、ドラゴンだ」
「何が望みだ、騎士よ」
「きれいな牛さん」
「………姫ぇ?」
王位を簒奪せんと執拗に姫を狙う野望卿。その暴虐はとどまる所を知らず、ついには「幼女狩り」が始まる。
幼き者、弱き者は踏みにじられ、親たちの嘆きは空しく風に散る。
「姫のために」「ああ、姫のために」
おっさん騎士とドラゴンは不本意ながら手を組み立ち向かう。
全ては最後の希望、ララ・リリア姫を守るために。
姫と、騎士と、ドラゴンと。
妖精、魔女、悪い貴族。
雨の森からはじまる「大人のためのおとぎ話」、電子書籍で華麗に復活!
※本書は2017年に白好出版から発行された「おとぎの森の幼女姫」を一部改稿し、同社のweb上で公開された短編「ケンカのお稽古」とキャラクター作成秘話「キャラメる語り」(現在は公開終了)を含めた電子書籍です。
この本はタチヨミ版です。
キャラメる語り
ララ・リリア姫
スパイク・スケイル
野望卿ジークフリート
ミーガン公女
魔女イーニス・モゥ
騎士ギデオン・ソーン
■ララ・リリア姫
赤毛にそばかすの活発な少女。おとぎの国リヴァーフィートの世継ぎの姫。野望卿の反乱で両親を失い、最後の「祝福されし王族」となる。
好奇心旺盛で物おじしない。
■ギデオン・ソーン
通称「茨(いばら)のギデオン」、盛りを過ぎた中年騎士。王国騎士団の最後の生き残り。
親友から姫を託され、命がけで守ることを誓う。粗野でぶっきらぼう、斜に構えたニヒルな男だがハートは熱い。
■スパイク・スケイル
ルビーの鱗、金色の瞳、深い知識と知性をそなえたドラゴン。紳士的な物腰で礼儀正しい。とある理由で長い間人間との関わりを断っていた。雨の降る森で、小さな姫に出会うまでは。
■イーニス・モゥ
巨大な蜘蛛を従え、銀の糸を操る謎めいた魔女。
はるか南の地で生まれたらしい。野望卿に金で雇われ、ララ・リリア姫を狙う。
■ジークフリート
通称「野望卿」。王になる野心のために次々と妻をめとり、葬り出世して、ついには反乱を起こした男。
娘の魂さえ野望の犠牲にした。
祝福されし王族としてリヴァーフィートの正式な継承者となるため、ララ・リリア姫との婚礼を目論む。
■ミーガン公女
野望卿の娘。金色の髪に白磁の肌、サファイアの瞳の人形のような美貌の少女。父親によって魔神に魂を捧げられ、生まれながらにして全ての感情を失っている。
わたしは姫。国はもう無い。
お父様とお母様は死んじゃった。亡きがらは見てない。でもわかる。胸のまんなかに、ぽっかり開いた「ふさがらない穴」が教えてくれる。『もうお前一人しかいないのだ』って。
たくさんいた騎士たち。みんな、みぃんないなくなった。残りはたったの二人だけ。
一人はロブ団長。ほんとはロバートって名前だけど、ちぢめてロブ団長、ロブ団長って呼んでいる。わたしもそう。みんなもそう。
そう……だった。
赤ちゃんの時から、いつもそばにいてくれた。優しくて、強くて、大きくて、大好き。
もう一人は、えーっと……何て名前だったっけ?
「どうだ、ギデオン。敵の様子は」
「良くねぇな。かなり、近い」
そうだ、ギデオン。『いばらのギデオン』って呼ばれてる。ぶっきらぼうで大ざっぱで、目つきの悪いヒゲぼさぼさのおじさん。黒い靴、黒いズボン、黒いシャツ、黒いチュニック、黒い手袋、黒い帽子、黒いマント。着てるものは全部真っ黒。髪の毛とヒゲはまだらに黒。ついでに目も黒ければ良かったのに……。
あの目は苦手。ほとんど色がない。灰色? 鋼色? かろうじて水色って言えばちょっとは好きになれるかも。
「ああ、ダメだろ、姫! そんなにばったんばったん足踏みしちゃあ!」
二言目には『ダメ』が口ぐせ。はっきり言ってわたし、この人、苦手。むうっとほっぺたをふくらませ、静かにする。ロブ団長が頭をなでてくれなかったら、思いっきりふみつけてやったのに!
攻撃するなら、今が絶好のチャンス。だって『いばらのギデオン』はさっきっからだらーんと地面に寝そべって、耳をくっつけて目をとじてる。なにやってるんだろう? のぞきこんだら、目を開けた。
(あ、こっち見た)
やっぱり苦手だ、この灰色の目。
たぶん、この人もわたしが苦手。
「……っ」
ほらね、すぐ目をそらしちゃった。のっそり立ち上がって、体についた土をはらってる。すごく、土くさい。(当たり前だけど)
お城の庭とちがってここの土は、しめっぽい。ずしんと重くて、色んなものがまじったにおいがする。にごった水のにおい。ツーンとした草のにおい。ほわほわしたり、鼻の奥にざらざらあたったり。ばらばらのにおいがまじった不思議なにおい。知らないにおい。
ここは荒れ地のまんなか。こんなにお城からはなれたのは生まれて初めて。
「潮時だ、ロブ。俺が一緒に行けるのはここまでだ」
「理由を聞こう」
(ああ。また、行ってしまうのね。他の騎士と同じ)
あたりはずーっとまったいら。見わたすかぎりなにもない。ときどき、ひからびた木がにょっきり枝をのばしてる。後はぼさぼさの枯れた草、土と石ころ、ただそれだけ。きっと今のわたしたち、遠くからも見つかる。だってすごくめだってるもの。大人二人と大きな馬が二頭、そしてわたしが一人。どんなにちぢこまったって、草にも木にも石にも見えない。
ただひとつ。
灰色の雲がずっしりたれ下がる空と、ざらざらの荒れ地の出あう境目に、黒い森が広がっている。決して入ってはいけない場所。この世と異界のまじる場所。教えてくれた人はもういない。
最後に残るのがロブ団長でよかった。ちょっぴりほっとしてる。
「じきに、雨が来る」
「君が言うなら、確かだね」
「かなり強い。視界が鈍る。その隙に姫を連れて、行け」
「君はどうする」
「知れたこと」
にたりと笑った。三日月の形にめくれあがった口の中、ぞろりと白い歯がならぶ。
(やっぱり、この人、こわい)
「迎え撃つ」
ロブ団長はじいっとギデオンの顔を見てる。これまでもそうだった。おわかれする前におぼえておきたいのかな。お母様が、わたしを見た時と同じ目をしてる。
「いいや、ギデオン。それは私の役目だ」
「ちょっ、待て。待てよ、ロブ。ロバート。ロブ団長ぉ!」
ギデオンはかたまった。わたしも動けなくなった。なに。なんなの、これ。もしかして、ロブ団長が、いなくなるってこと? うそだよね。聞きまちがえただけだよね。ほら、ギデオンも首かしげてる。目、ぱちぱちしてる。おでこに手をあてて、うつむいて、がばっと顔を上げた。
「お前、今、何つった?」
「私が残る。君は姫を連れて先に行くんだ、ギデオン・ソーン」
うそーっっ!
「冗談も休み休み言えっての。なあ、ここはどー見たって俺が死に花咲かすとこだろっ? 空気読めよ、ロバート!」
団長はだまってる。笑ってる。まぶしすぎて、むねがつぶれそう。
「お前が姫を連れてけよ!」
はっきりと、首を横にふった。
(もう逃げられない)
大きな手を、ギデオンの肩に乗せた。
(これが現実)
「君が、一番、生きる力が強い。姫に伝えてくれ、そのしぶとさを。私の最後の願いだ」
「っ、ずるいぞお前!」
「すまない」
そこから先は、夢を見てるようだった。二度と思い出したくない、悲しい夢。
ロブ団長のあったかい腕がわたしをだきしめる。
「姫。ギデオンは最も私の信頼する騎士です。きっと、あなたを守り抜く」
「いかないで……いかないでロブ団長」
「お別れです、私の姫。どうか、健やかにお育ちください」
やだ。いやだ。やだやだやだ、おわかれなんかしたくない。それでもわたしは、姫だから。王女だから。うなずいて、送り出す。(そうするしかない)
「ご武運をいのります、騎士ロバート」
「光栄です」
そうして団長はわたしの手をとって、指先にキスをして。
「さらばだ、ギデオン。運が良ければまた会おう」
「死ぬなよ、ロバート」
ギデオンと肩をたたきあい、馬にまたがり、かけ出した。(どうしよう。泣きそう)
「……こっちだ、姫」
「ひゃっ」
黒い手袋をはめた、ごつごつした手で持ち上げられる。だく、なんて優しいやり方じゃない! 麦袋みたいにどすんと、大きな鞍に乗せられる。丈夫でなめらか、でもかざりが一つも無い。
「しっかりつかまってろ。大丈夫、こいつは性質のいい馬なんだ。俺なんかよりずーっとな」
ほんとうに、その馬はおとなしかった。いきなり乗せられたわたしを受けとめ、身じろぎもし
なかった。
岩のように大きな体。丸太みたいに太い足。くすんだ黄色の体はちょっとだけ、バターカップの花ににている。毛なみはねん入りにブラッシングされて、ひづめの手入れも馬具の手入れも完ぺき。もしもこの人が、馬にかける手間の十分の一でも、自分に回してたら! ちょっとはマシになったでしょうに。
どさり、と後ろに大きな体が乗ってきた。黒いマントが翼のように広がり、わたしをつつむ。くやしいけど、あったかい。
「行くぞ、姫」
「いつでもどうぞ、いばらのギデオン」
へっと鼻を鳴らす音。かすかな振動。
そして、黄色い馬が走り出す。ロブ団長とは逆の方角に。
冷たい風が当たる。でも、ちりちりしない。かわいてない。
近づく、近づく、さざ波の音。それとも小さな生き物が、たくさん群れて走る音? ぽつりと顔に雨粒ひとつ。すぐにざあざあと音を立てる、水のカーテンに飲みこまれる。
「雨……」
ほんとうに、来た。
「ああ。雨だ」
※
目の前には、黒い森。
馬は進む。規則正しい蹄の音が、幼き胸に無慈悲な真実を刻む。
リヴァーフィートの国は一夜にして滅びた。振り返れども城に踊るは敵の旗。野望に憑かれた王の従弟、ジークフリート卿の旗印。群れる鴉は空を舞い、あり余る肉をついばみ浮かれて騒ぐ。
追いつめられた姫と騎士は、もう、進むしか無いのだ。この世と異界の入り交じる、魔と獣の棲む森へ。
この日『茨のギデオン』は、王女ララ・リリアの最後の騎士となった。
吐く息が白い。
着慣れたはずの鎖帷子が重い。背負い慣れた盾が重い。どちらも長年身につけて、もはや我が身の一部と化していた。重さなんざ、これまで気にしたためしはなかったんだが。
(疲れている)
認めたくはないが、歳のせいか、雨のせいか、あるいは……。
(ロブを見送ったから、か)
降り注ぐ水滴が、マントの表面を玉になって転がる。いくつもいくつも。いくつもいくつも。油抜きしていない羊毛は、ほとんど水を通さない。だが姫のお召し物はそうはいかない。確かに上質ではある。生地も仕立ても最高、だが森や荒野を歩くことなんざ、はなっから想定しちゃあいないんだ。
雨はまだ止まない。白い霧がねっとりと周囲を閉ざし、馬の耳すら見えやしない。俺たち——俺と小生意気なちび姫様を乗せた馬が森に駆け込むのと同時に、霧が出たのだ。
妙な霧だった。まるで森が自ら息吹いたように、おいしげる木々の奥から吹き出した。追っ手は戸惑い、右往左往。挙げ句、脅えて尻尾を巻いて逃げ帰った。おお、『野望卿』ジークフリートのドケチ根性に祝福あれ! 森への恐れを克服するには、礼金があまりに少なすぎたんだ。
そうとも、奴らは傭われ兵。金に見合った分しか働かない。戦場で殺すのは平気でも、得体の知れないモノは怖いと見える。
「ギデオン」
マントの合わせ目から、姫がもそりと顔を出す。ゆるく波打つつややかな赤毛は母君の。陽に透ける若葉の緑を宿す瞳は父君からの贈り物。ふっくらした頬と鼻にはそばかすが散っている。笑えば愛嬌があるんだろうが、あいにく俺はこの子の笑った顔を見たことがない。少なくとも、今のところは。
子供の体はやたらとあったかくて、くすぐったい。こんなに華奢でちっぽけな生き物、直に触れたはいつぶりか。
「森……入ったの?」
「ああ。入ったよ」
ひそかに安堵した。正直、どきりとしたのだ。『ロブ団長はどうしたの?』って言い出すんじゃないかって。ある意味、最悪の質問だ。答えを言っても聞いても、胸が曇る。
「よくわかったな」
「そういう音がする」
なるほど。森に入ると雨音は遠ざかる。みっしりおいしげった枝と葉が、雨を受け止め散らすのだ。それでも決してゼロにはならない。したたり落ちる冷たい水は少しずつ、だが確実に熱を削る。小さな子供は凍えるのも早い。
霧はまだ晴れない。馬はさっきから不安げに鼻を鳴らしてる。意を決して、マントを脱ぐ。
「これ、被ってろ」
「うっぷ、なに?」
「動くな。しっかりつかまってろ」
馬上に姫を残し、自分は降りる。
「よーしよし、バターカップ、落ち着け。なぁに、ちょいと霧が濃いだけだ。ゆっくり行こう
ぜ」
「……やっぱりバターカップなんだ」
「あぁ?」
「なんでもない」
手綱を取り、先に立つ。森は何が待ち受けているかわからない。道を歩いているつもりでいきなり、沼や崖が口を開ける。うっかり人馬もろとも転がり落ちたら洒落にならない。慎重に歩みを進め、馬を引く。人の目は、馬より地面に近い。
姫は言われた通り俺のマントを被り、鞍の上でじっとしている。はた目からは荷物に見えるだろう。それでいい。手探りで薮をかき分け、下生えのまばらな場所を選んで進む。通ったのが人か獣かそれ以外かは定かじゃないが、草と土とを踏みならす程度に行き来はあるらしい。
「お」
運がいい。かき分けた枝の一本が、黒紫の小さな果実をつけていた。目をこらすと、そこにも、ここにも、鈴なりだ。手のひらいっぱいつみ取って、馬上の姫にさしのべる。
「そら。これは食える」
自分も三粒ばかり口に放りこみ、『味わい深い』森の恵みを噛みしめる。
「……疲れが取れる」
「クロイチゴ! 森にもあるの?」
「森『に』あるんだ」
「お城の庭にあったよ?」
「森から来たのさ」
「……意味わかんないし」
おやおや。ヘの字に口を結んじまった。わかんないのはこっちだ、姫さん。一体全体、何が原因でご機嫌を損ねたやら。
「城の庭に生えてる木も、元々は森にあったってことさ」
「どうやってお城に来たの?」
「小鳥が食って、城の庭に飛んでって、種を落とした」
「どうやって?」
のどが変な音を立てる。口元がくすぐったい。どうやら、俺は笑ったらしい。こんな状況で、こんな場所で。
「そいつぁ、言えないなぁ……」
「バカにしてる」
ふくれっ面の姫様は、それでもクロイチゴをつまんで口にいれた。
たちまちぎゅうっと目を閉じて、口をすぼめて肩をすくめる。
「すっぱぁい!」
「森だからな」
「でも、おいしい」
「そうか」
「バターカップの分は?」
「問題ない。自主的に食ってる」
主に葉っぱを。
手のひらいっぱいのクロイチゴ。最後の一粒を口に入れてから、姫がじぃっと俺を見る。
「……何か?」
「口、紫色になってる」
「あぁ。生のクロイチゴを食えばそうなる」
手の甲で無造作に口を拭う。黒い手袋はこういう時、便利だ。汚れが目立たない。
「っ!」
お、気付いたか。自分の指を見ている。さて、どうする?
おや。手のひらに雨を受けて……口をこすっている。賢い子だ。何度も何度もくり返し。それからちょっと考えて、俺のマントをかきあわせた。
(拭いてるな、姫)
いずまいを直すふりをして。
自分の服は汚したくなかったか。まぁ、何となくわかる。女の子だしな。馬や馬具で拭かなかったのは感心感心。
「では、参りましょう」
「いつでもどうぞ」
再び馬を先導して歩き出す。その時ちくりとトゲ一つ。鎧を素通り胸を刺す。
(ああ、そうか)
実体の無い、小さなトゲが。
(ハンカチ一枚、持ち出す暇も無かったんだ)
「くっしゅん!」
ちっちゃなくしゃみに、ひやりと肝がすくむ。
急いで雨のしのげる場所を探そう。陽の落ちる前に。このこまっしゃくれた姫さんが、しゃべる元気のあるうちに。
幸い、雨宿りの場所はすぐに見つかった。
霧の中にぬうっと立ちはだかるでっかい木。近づくにつれてますます大きくなる。それ一本だけじゃない。草も、木も、日陰にはえるキノコさえ、全てが一回りも、二回りもでかい。
ひょっとして、縮んだのはこっちなんじゃないか? まんざらありえない事じゃない。ここは『黒い森』だ。人の世の常識なんざ、軽く飛び越えた理が幅を利かせている。
(ああ、この感覚。子供の視点だ。子供の縮尺なんだ)
妙に胸がざわつく。落ち着かない。だが、俺がおびえれば姫が怖がる。
内心の不安を押し殺し、大木の根元に近づいた。
思った通り、雨の量が、ぐっと減る。 でっかい木だ。幹をくりぬけば、そのまま丸太小屋になるんじゃなかろうか。地面をのたうつ苔むした根っこ。その一本一本がまるで大蛇のようだ。
(千年樹ってやつか)
実際の樹齢は定かじゃないが、話に聞いた事がある。長い長い時を生きのびた樹をそう呼ぶのだと。
その周辺は生命の力に満ちあふれ、木も草花も生き物も、何もかもが生き生きと活気づくと。
確かにここは、あったかい。同時に厳かな空気を感じる。まるで大聖堂か、墓地にでもいるような。姿は見えないが、さぞ多くの生き物がこの千年樹の恩恵にあずかっているんだろう。果たして俺たちは、受け入れられるだろうか? 手を伸ばし、幹に触れる。
その瞬間。
(っ!)
感じる。強烈に。
危険だ。ここはやばい。危ない。いる、いる、いる。何かとてつもなく剣呑な存在が、すぐ近くに潜んでる。野望卿の追っ手? いや、違う。あいつらなんか比べ物にならない。一吹きで消し飛ぶレベルの大物だ。
全身の毛穴が縮み上がる。皮膚が引きつる。
やばい。ヤバイ。やばい。 いる。確実にいる。唯一無二にして不倶戴天の天敵がーーーーーーっ!
ばさばさと、何かが広がる。天幕を張る時の音に似ている。だがそれより何十倍、何百倍もの大きさと質量がある。何よりこいつは生きている。
千年樹の根元にたたずんで、雨と光を遮る。
この音、聞き違えようもない。ドラゴンが、翼を広げた音だ……。
とっさに背中の盾を外し、構えた。姫と馬の前に立ちはだかった。
「ほう」
一筋の蒸気とともに吐き出された低ぅい声。教会の鐘みたいに、ずしんと腹に響いた。
目の前に、ドラゴンがいる。
ついてない。 夕暮れ時の森の中。雨が降り、霧が立ちこめ、おまけにドラゴンと来たもんだ。全くもってつ
いてない。
ルビー色に輝く尖った鱗に、みっちりがっちり守られた体。大きさは俺の馬の二倍、いや三倍か? 手足の爪はたやすく鉄を切り裂き、長い尻尾の一振りで大岩さえも砕くだろう。
(けっこうな大物だ。二百歳は超えてんな)
千年樹の枝葉から、したたり落ちる雨の粒。赤い尖った鱗に触れるやいなや音を立て、白い蒸気に変わってゆく。そういう生き物なのだ。
(どうする?)
勝算はある。一人なら。戦うにしろ、逃げるにしろ、俺一人ならどうにか生きのびられるだろう。これより危険な状況を何度も乗り越えた。だが、今は違う。守るべき人がいる。守らねばならぬ命がある。
「何が望みだ、騎士よ」
皮肉なもんだ。とっさにかかげた守りの盾で自ら暴露しちまった——己が何者かを。
「……平穏なる撤退」
「信用できんな」
金色の眼の真ん中で、針のような瞳が広がった。警戒している。赤い光がさざ波のように駆け巡り、体表から吹き上がる蒸気が、増した。
「だよ、な」
騎士とドラゴンは天敵同士だ。出くわしちまったら最後、どちらかが死ぬまで戦うのが運命。
誰が言い出したか知らないが、そうと決まってるんだから仕方ない。
(ここまでか)
舌打ちして剣の柄に手をかける。
(すまん、ロバート。お前との約束、果たせそうにない……)
だがせめて姫は。姫だけは守らねば!
「ギデオン」
もぞりと、馬の背で彼女が動く。
「ギデオン。寒い」
「ダメだ、姫、出てくんな!」
「姫?」
ああ、ああ、ドラゴンが、首を伸ばして背後を見てる。冗談じゃねぇ! 盾を構えて一歩下がるが、何てこったい! 入れちがいににゅるりとちっぽけでしなやかな生き物が、足の間をくぐり抜ける。
「あなたはいつも、ダメばっかり」
「ひーめぇえええっ!」
「よいしょっと」
幼い姫は立ち上がり、しげしげとドラゴンを見た。首をかしげて、ぽつりとつぶやく。
「きれいな牛」
牛。
……………牛。
張りつめた殺気が、さーっと引いた。
「あー、牛ですか」
多分、自分が見たことのある生き物の中で一番、近い物を当てはめたんだろうなあ。でっかくて、角があって、顔が長い。
なんて、ちょこっと考える間に姫さんときたら! 知らないってのは偉大だ。ちょこまかと歩
み寄り、小さな手で鱗に覆われた腹に触れていらっしゃる!
「赤くて、すべすべ」
すべすべ? 目をむいて、ぎょっとして、二度見した。
(おいおい待てこら、ちょっと待て!)
さっきまであんなに尖って逆立っていた鱗がいつの間にか、丸くなめらかになっている。
「あなた、とてもきれいね、大きな牛さん」
「光栄だ、小さなレディ。だが私は牛ではないのだよ」
どうやら、向こうも完全に戦闘意欲が失せたようだ。 姫はぺったりと竜の体につっぷして、頬ずりまでしている。
「あったかぁい……」
「私の中には原初の火が流れているからね」
そういやドラゴンって、乙女には甘いんだったな。俺としたことが。全くそっちに意識が向かなかったよ。
「あー、その」
金色の瞳にねめつけられる。
「騎士っつっても俺は国の無い騎士だ。今は姫をお守りするために生きている」
「ふむ。では我々の目的は一致……いや、すり合わせが可能というところかな」
いちいちもったいつけやがる。知性派か、こいつ!
「まぁ、そーゆーことだ」
だが、けんかっ早いドラゴンよりよほどいい。盾を下ろし、剣から手を離す。
「我が名はギデオン・ソーン。貴殿に休戦を申し入れる」
「受け入れよう、騎士ギデオン」
赤いドラゴンは瞳を細めて姫を見つめている。そして、羽根の角度を変えた。雨をさえぎった。姫が濡れないように。凍えぬように。
「姫のために」
「姫のために」
竜の羽根が雨をさえぎり、ふかふかと密集した苔は意外にも温かい。姫はすぐに寝息を立て始めた。黒いマントにくるまって、赤いドラゴンの体にこてん、とよりかかって。よほど疲れていたんだろう ……何て、のんびり見守るには俺も大概に限界が近かった。姫が眠るのを見届けた直後、ふっと意識が途切れた。
※
白い、乾いた光。朝の光。まぶたを透かし眼を照らす。うっすら開き、傍らをまさぐる。ぺしゃんこになった分厚い布地が指をかすめる。
「姫っ!」
起き上がった。立ち上がった。一瞬で意識が覚醒した。
「姫、どこだ!」
叫んでいた。
「姫ぇっ!」
答えるのは森のざわめき。慌てふためき羽ばたく鳥の群れ。
「控えろ、騎士。お前の声はうるさい」
「姫がいない!」
「何」
ドラゴンが起き上がる。図体はでかいが動きは素早い。こいつと斬りあわなくて良かった。いや、今はそれどころじゃない!
「何故気付かなかった。姫をお守りするのがお前の役目だろう!」
「……寝てた」
泥みたいに寝ていた。年は取りたくないもんだ。
「そういうお前は。何してた」
「……寝てた」
「人のこと言えねぇじゃねーか。あんだけぴったりひっついてたくせに」
「あのレディはあまりに小さく、軽い。故に気付かなかったのだ……彼女が動いたことに」
「あー……そーなんだ……」
騎士とドラゴン。朝っぱらから顔を見合わせ立ち尽くす。害無しと判断したのか、一度離れた鳥たちが戻ってきた。
「姫を見つけるぞ」
「異存ない」
マントを羽織り、ずり落ちた帽子を被り直す。盾は背中に、剣は腰に。ほとんど着の身着のままだ、身支度は早い。
「ただしお前さんはついて来るな」
「何故だ」
「でかすぎる」
「むぅ」
さすが知性派。ぎろりとにらむが攻撃の兆しは無し。だが心も許していない。その証拠に鱗がそら、そこはかとなく尖っている。昨日、出くわした時よりはマシだが、それでもすべすべとは言いがたい。
「その図体でガサガサごそごそ動き回ったんじゃあ、姫の痕跡が、消えちまう。わかるだろ?」
「ふむ。一理ある」
ドラゴンが動く。腕が疼く。本能が叫ぶ。『剣を抜け、盾を構えろ!』必死でこらえた。落ち着け、殺気は無い。見すえろ。
そら、襲っては来ない。前足の爪で首筋をひっかいて……。
「って何この場で毛づくろいしてんだよ! いや、鱗づくろい!」
ドラゴンは動じない。優雅さすら感じさせる動きで爪を操り、鱗を一枚、剥がした。器用なもんだ。
「これを持って行きたまえ」
眼前に突きつけられたドラゴンの前足。いや、手と言うべきなのか。
「痛くないのか、それ」
「無い。人間で言うなら、髪の毛を抜くようなものだ」
なるほどね。
大振りの短剣みたいな爪から鱗を剥がす。ドラゴンの体にくっついてる時は小さく見えたが、こうして手のひらに乗せると、意外にでかい。銀貨を一周り大きくしたぐらいか? 根元から先端に向かうにつれて赤い色は次第に薄くなり、縁は半ば透けている。まだほんのりと温かい。さっきまでは尖っていたが、今は丸い。体から離れたからか。ってことは、これが本来の形なん
だろうか。
「で、これ何に使うんだ」
「素手で握れ。そして目を閉じるのだ」
「はいはい、素手ね」
手袋を外し、直に手のひらに乗せる。
俺は、こんな所で何をやってるんだろう? ドラゴンの。よりによって天敵の言う事に素直に従っている。
理由はただ一つ。
姫のために。姫を見つけるために。
目を閉じる。
馬鹿げているにも程がある。
次の瞬間、ばっくり噛みつぶされない保証はどこにもない。そうとも、こいつはドラゴンだ。だがこれだけは確かだ。姫を守ろうとしてる。姫の為に行動してる。少なくともそれだけは、俺と同じなのだ。
「うぉっ?」
まぶたの裏で光が弾ける。砕けて飛び散る紅玉の火花が、視界を埋め尽くし全身に広がる。体中の血が泡立ち、鳥肌が立つ。髪の毛まで逆立ちそうだ。とにかく、何か、とてつもなく大きな波が、俺の中を突き抜けた。
「なん……だ……これ……」
「ふむ、どうやら、君には素質があったようだ。目を開けたまえ、騎士よ。ゆっくりとな」
言われるまま、まぶたを上げた。
「ふぅ………はぁ……ふぅ……はぁ……」
知らない間に、ぐっしょりと汗をかいていた。だが、妙に心地よい。ってぇか、さっきまで体の芯に居座っていた気怠さが。有り体に言えばこの数日、ずっと抜けなかった疲れが、きれいさっぱり消えている。
「お、体が軽いぞ」
「さもありなん。私と君は今、共鳴したのだ」
「はぃ?」
共鳴? 何だそりゃ?
「その鱗、決して体から離すな。ああ、もう肌には直に着けなくとも大丈夫だがね」
「待て、待て、ちょっと待て。今、何があったのか、理解できるように説明してくれ」
「だから、言ったではないか。『共鳴』したと」
「頼むよドラゴン。俺は騎士だ。騎士なんだ! 武器をぶん回したり馬を乗り回すのが仕事だ。魔術だの呪術だのはとんとわからねぇ!」
ドラゴンは、黙って片方の目だけ細めて俺を見て、ふっと熱い息を一筋鼻から吹いた。なまあったかい蒸気が頬をかすめる。
「……これは失敬」
もしかして俺は、同情されてるのか。このばかでっかい図体の、金色の目の真っ赤なトカゲ野郎に! 冗談じゃねぇ! まちがいなく、これは、最上級の屈辱だーっ!
だが、耐えろ。これも姫のため。姫を見つけるためだ。
「その鱗を通じて、私と君の感覚をつなげたのだ。こうすれば、どんなに離れていても君の見る物を私も見、君の聞く物を私が聞くことができる。話もできる」
「……なるほどね」
「これなら、森を引っかき回す心配も無かろう」
たとえ角と羽根の生えたトカゲの目玉でも耳でも、数があるに越したことは無い。
「待てよ。つまり、これを身に着けてる間、俺の見聞きすることは、四六時中ずーっとお前さんに筒抜けってことか?」
「君が望む限りは」
「それ聞いて安心したよ」
「案ずるな。私とてそれほど暇ではない」
「一言余計なんだよてめーはっ!」
姫はまったく警戒していなかった。誰かに追いかけられる経験なんて、無かったんだろう。
故に後を追うのは拍子抜けするほど簡単だった。地面には足跡が。薮には枝の折れた跡、葉っぱのちぎれた跡が。そして、ちいさな手が白い花をつんでいた。シロツメクサだ。昨日通った時は気付かなかった。あんなに足下を見ていたはずなのに。
「けっこう歩いてるなあ。城育ちの割に」
『中々行動的な姫君だ。頼もしい』
例の鱗は左胸のポケットに収めた。本来ならありがたい護符や、貴婦人からいただいたハンケチ、あるいは恋人の髪の一房なんかをしまう場所だ。心臓に近いその場所は、幸か不幸か、もう長いこと空っぽだった。
「俺の馬はどうしてる?」
『心配無い。のんびり草を食んでいるよ』
バターカップは千年樹の根元に置いてきた。少なくともそこが一番、安全だからだ。ドラゴンほどじゃないが、あいつの体もでかいし足も太い。
「む」
急に、姫の足取りが途絶えた。まるで空中に溶け込んだように、ぷっつりと足跡が消えたのだ。
『どうした』
「足跡が消えた」
顔を上げて周囲を見回す。こうなったのには、必ず理由があるはずだ。
「ここで一度、立ち止まった。それから長いこと留まってたはずなんだ。その先が……あ」
そこは、クロイチゴの茂みだった。枝が何本か折れている。折れ口はまだ新しい。
『小鳥が食って、城の庭に飛んでって、種を落とした』
『どうやって?』
『そいつぁ、言えないなぁ……』
『バカにして』
あんな会話でも、昨日あの子が経験したことの中では唯一、楽しい記憶だったのだろうか。
『その枝をもっとよく見ろ』
「これか? クロイチゴを食ったんだろ。昨日、食える実だって教えた」
『かしこい子だ。だが、今、大事なのはそこじゃない』
顔をくっつけて、まじまじと見る。ああ、確かに、癪に障るがドラゴンの言う通りだ。
折れた枝に数本の髪の毛が絡みついている。くるりと巻いた長い金髪。
「こいつぁ、断じて姫のじゃあない」
『ああ。それ以前に人間のものでもない』
「どういうことだ?」
『私の見ているものを君にも見せよう』
視界がゆれる。一瞬、波立ち、透明な膜が広がり、そして世界が変わった。
「何だこれ」
金髪に。いや、折れた枝に。ちぎれた葉っぱに。そこら中に、妖しげな煙みたいな何かがまとわりついてる。視点を定めようとすると色が変わる。何色にも見えて、何色にも見えない。虹と呼ぶにはあまりに禍々しく、胡散臭い。例えて言うなら水に浮いた油。俺の知ってる中ではそれが一番近い。それも、濁った水たまりに浮かぶゴミ溜めの油だ。
『魔族の痕跡だ。魔族の男が、姫を連れ去ったのだ。彼らは空を飛べるからな』
「じょーだんじゃねぇっ!」
追っ手でないのは御の字、だが、魔族だとぉ?
『案ずるな、知った顔だ。行き先は見当がつく』
「ありがてぇ」
拳を握り、ぎりぎりと歯を食いしばる。そうでもしなけりゃ、収まらない。煮えくり返ったこの憤りは!
「それじゃあ、すぐに乗り込んで、首根っこひんまげて姫を連れ戻せるってことだな?」
「その通り」
ばさっと、翼の広がる音を聞いた。日の光が遮られ、巨大な影が舞い降りる。いつ、飛び立ったのか。いつ、来ていたのか。気付かぬ程に、俺は怒り狂っていたらしい。
「乗りたまえ。君の馬は優秀だが、翼は無い」
ドラゴンは足を折り畳んで地面にうずくまる。
「いいのか?」
「時間が惜しい」
「……」
こいつはなかなか笑える冗談だ。ドラゴンが騎士を乗せるだなんて。こいつ自身も明らかに不本意なのだ。胸に収めた鱗から、何とも言いがたいもやあっとした重苦しさが伝わってくる。
「姫のためだ、騎士よ」
「ああ、姫のためだ」
口に出すのは己に言い聞かせるためだ。俺も。そして、こいつも。
一方その頃、姫は。
「……」
全力でしかめっ面をしていた。眉の間に深い皺を刻み、目はじとーっと半開き。歯を食いしばり、口をへの字に結び、ちっちゃな拳を固く固く握りしめていた。髪の毛も服もくっしゃくしゃ。乱れてもつれて見る影もない。おまけにクロイチゴの葉っぱや汁があちらこちらにひっついている。
「失礼しちゃう」
夢中になってクロイチゴを食べていたら、いきなり頭から袋を被せられた。暴れても叫んでもお構いなし。問答無用で運ばれて、つい今しがたどさりと床に投げ出されたところ。
もう、袋の中はたくさん! と、自力でさっさと這い出した。髪に刺さった小枝をつまんでひっぱる。しっかり絡みついて、取れない。
「ほんと、失礼しちゃう 両足を踏ん張り立ち上がり、目の前の人物をにらむ。
「おお、おお、愛しき姫よ。どうかご機嫌を直しておくれ。一目見た瞬間、我輩は君の愛らしさに一発で射抜かれてしまった。つい、この手がちょちょっと動いてしまったのだよ」
金色の巻き毛に真っ黒な瞳。鼻筋の通った顔立ちは、ハンサムと言ってもいいだろう。ヒゲもきれいに剃っている。どっかの黒づくめの騎士とは大違い。鼻にかかったやわらかな声で、やたら甘ったるい話し方をする男だった。袋詰めにされている間、ずっとこの調子であやしてきた。
怖いとは思わなかった。たとえそいつの肌が青くて、耳が尖っていて、コウモリそっくりの翼とねじれた角が生えていたとしても。ただただ、腹が立ってしかたがなかったのだ。
「あなた、いつもこんな物持ち歩いてるの?」
床に落ちた袋を蹴飛ばす。
「もちろんだよ、可愛いお姫様」
金髪角男は優雅にうなずく。
「いつ何時 、運命の人に出会ってもいいようにね!」
「見つけたら、どうするの。やっぱり袋をかぶせて、さらうの?」
金髪角は答えない。ただ目尻を下げて、口元を歪(ゆが) めて笑うだけ。
姫は思った。お祭りの時にかぶるお面そっくり、と。
(笑ってるのに、なんだか怖い)
「ここには、君に必要な物は全てそろっている。ごらん、素敵な部屋だろう?」
その言葉に嘘は無かった。部屋にある物は何もかも、花びらみたいなピンク色。濃さは様々、でもピンク。ことごとくピンク。カーテン、ベッドの天蓋、かけ布団に枕。全部全部、上等のすべすべした絹をたっぷり使い、縁(ふち) 取りにはみっちり編まれたレースがあしらわれている。絨毯も濃いピンク色。目の覚めるような金色で、ありとあらゆる季節に咲く花が織り込まれている。
テーブル、椅子、足乗せ台、クローゼット、そして鏡台。これまたピンクに塗られた木の脚は優美な曲線に整えられ、金色のつる草模様に縁取られている。埋め込まれた真珠貝のかけらが描き出す、花と草と蝶。平面に封じられた幻の花園。
そして小さな丸いテーブルには、砂糖漬けの果物を盛ったガラスの器が置かれていた。皮を剥かれ、切られて漬けられて。名前はもとより、元の形すらわからない果物。そろいの花瓶にいけられているのは、見たことのない花。だらりと開いた肉厚の花びらはどことなく、生き物の体を思わせる。花と果実と砂糖と香料。交じり合い、ねっとりと甘いにおいが漂っている。部屋を満たしている。息を吸うだけで、体の中まで甘い空気が侵食する。
(このにおい、苦手)
姫は本能的に手で覆った。そばかすの散った鼻と、生え変わったばかりの前歯の目立つ口元を。クロイチゴの汁で紫に染まり、酸っぱいにおいがする。でも、ずっといい。
(ここは、鳥かご。きれいで大きな鳥かご)
この部屋には、窓が一つしかない。その一つも、がっちりと太い鉄格子で閉ざされていたのだ。
「君は実にチャーミングだ。美しい! だが、惜しむらくは少々、幼すぎる」
「意味わかんない」
「だが! 我輩の審美眼は絶対だ! それに君は人間、我輩は魔族。時の流れなどささいなもの」
「ぜんぜん、意味わかんない」
「簡単なことだよ、お姫様。我輩が君をお育てしよう。美しいご婦人に成長するまで」
魔族。まぞく。マゾク。聞きなれない単語が姫の頭の中にこだまする。幾重にも、幾重にも。意味は知らない。だけど、これだけはわかる。
(この人は、わたしとは、ちがうものを見てる。同じ場所に立っていても、決して、同じものは見ない)
「さあ、今日からこの部屋で暮らしなさい。欲しいものは何でも与えてあげるよ」
(ここは鳥かご。閉じこめられるのは、わたし)
「イヤ」
「さあ、その薄汚い服をさっさと脱いで、このドレスに着替えなさい」
金髪角男は得意満面、パチリと指を鳴らす。クローゼットの扉が開き、ばさばさとピンクの布が踊り出る。風船みたいにふくらんだ丸い袖 、ぽんっと開いたスカート。寸法は姫にぴったり、だが裾は明らかに長すぎる。優雅に床に引きずって、小さな歩みを妨げる。
姫はダンっと足をふみ鳴らし、踊るドレスに背を向ける。
「ここ、キライ。わたし、帰る」
「どこへ?」
音もなく角男が回り込む。金髪が翻り、コウモリの翼が広がった。姫の行く手をさえぎった。
「君のお城はもう無いじゃないか、ララ・リリア」
「なんでわたしの名前、知ってるの?」
「知っているとも、ララ・リリア。一夜で滅びたリヴァーフィートの王女サマ」
姫の全身が凍りつく。顔がこわばり、腕が、胸が、足が、ずしんと重くなる。まるで見えない氷の枷に飲み込まれたように。そして、じわじわ沈んでゆく。
「どこに帰るというのだね? 可哀想なララ・リリア。お父様もお母様も死んでしまったではないか」
優しい笑みを貼り付けた、青い顔が近づく。鼻にかかったやわらかな声。甘い息が吹きつけられる。頬をなでる。凍てつくのどを震わせて、姫はかすれた声を絞り出す。
「なんで、笑いながら言うの」
「我輩は優しいからだよ」
(ちがう、ちがう、ちがう!)
上品に手がさしのべられる。手のひらは下向き、姫の顔を覆わんばかりに、高みから。指先は獲物を狙う蜘蛛さながらに曲げられ、その爪は尖っていた。
「さぁ、我輩の手をとりなさい。この魔王の妻になりたまえ。それが君のためだ」
「い、や! わたし、帰る!」
コウモリの翼が、閉じられる。怒り、悲しみ、悔しさに、震える体を閉じ込める。
「いやがっても無意味だ、ララ・リリア。誰も君を助けには来ない」
「………っ!」
(だれも助けてくれない。だれもいない。お父様も、お母様も……ロブ団長も)
小さな胸が、真っ黒な冷たい塊に埋め尽くされる。
それは、姫が生まれて初めて知った、絶望。
どごぉおんっ!
轟音一発、壁がど派手にぶち抜かれる。
熱で焼かれ、蒸気で蒸され、金と白亜の豪華な破片が吹き荒れて。雨あられと降り注ぐ。姫を捕らえたコウモリの羽に。
「あっぢぃいいいい!」
灼熱の破片にその身を焼かれ、魔王は絶叫、そして悶絶。それでも姫のそばから離れない。
「何が魔王だ。勝手にお主が名乗っているだけではないか」「『自称』魔王かよ。笑えるな」
ルビーの輝きをまとう尖った鱗。青空切り裂く雄々しき翼。口と鼻からうっすら上る白煙は、先刻吐いた火球の名残。バルコニーに爪を立て、四つ足踏ん張りドラゴンは、自称魔王をねめつける。
「もとより魔族に王などおらん。個人の主義主張が極めて強い種族だからな」
その背に立つのは、黒い帽子に黒い髪、服も黒なら手袋もマントもこれまた黒。全身くまなく黒ずくめの男。唯一白く浮かぶのは、目尻の下がった三白眼。かかげる盾には星七つ。夜空を翔ける狩人を、かたどる年経た冬の星。
「しつこい男は嫌われるぜ、自称魔王さんよ」
閉ざされた鳥かごは開け放たれた。びゅうと音を立て、外の風が流れ込む。甘い毒気を吹き飛ばす。その部屋はとてつもなく高い塔の最上階にあったのだ。
「ギデオン! いばらのギデオン!」
「よう、姫さん。怪我ないか?」
「わたしは平気……やだ!」
コウモリの翼は焼け焦げて、金髪巻き毛は縮れてぼろぼろ。折れた角から青い血をしたたらせ、それでも自称魔王は倒れない。腕を伸ばしてむんずとばかりに、姫の手首をひっつかむ。
「はなして! はなして!」
姫は全力で大暴れ。ちっちゃな手をばたつかせ、細い足をふみ鳴らす。
「逃がさない。ここにいるんだララ・リリア。滅びし国の元王女。それが君のためなんだよ?」
やにわにぴたりと動きを止める。得たりとばかりに魔王が笑う。
「……離しなさい」
陽に透ける若葉の緑を宿した瞳。退かず、おびえず、たじろがず、青い男をぴたりと見すえる。
「わたしがいる限り、リヴァーフィートは滅びない」
竜と、王女と、自称魔王。その場の全てが、止まった。
機を逃さず騎士が動く。
「おぉりゃあっ!」
ドラゴンの背を踏み切り、高々と宙に飛ぶ。着地点は自称魔王の焦げた背中。勢い、体重、自らの帯びた剣と、盾と、鎖帷(か子の重さ。全て己の足に乗せ、敵の背目がけて叩き込む!
容赦なき飛び蹴り。
「ぐふぉう」
食らって魔王は手を離し、もんどり打って床に転がる。苦悶の悲鳴は断末魔のカエルかセミか。
「翼がぁあっ! 翼がっ、折れたぁあっ」
翼が片方力なく、付け根からだらりと垂れ下がる。倒れた敵を見下ろして、騎士は毅然と言い放つ。
「ウチの姫に手ぇ出すな!」
「おのれ。おのれ人間風情が図に乗りおってぇえ!」
よろりと立った自称魔王。くわっと開いた口は耳まで裂けて、尖った牙がむき出しに。洗練された美男子の面影は、今は霞と消え去った。
「おおっと、大した色男だ」
騎士はおびえず盾を構えて立ちはだかる。小さな赤毛の姫の御前に。
「むしろそっちが本性か?」
「だまれぇ……えっ?」
叫ぶ途中で横ざまに、問答無用の炎の一撃。食らって吹っ飛ぶ自称魔王。
「ちっくしょぉおお。なんなんだよ、これ……」
「私だ」
狙いすました竜の息吹。とびっきり細い、しかし、とびっきり熱い炎が青い男を撃ち抜いて、ついでに壁を吹っ飛ばしていた。「おー、おー、だいぶ風通しが良くなったなあ」
ふわりふわりと舞い散る羽根は布団の中身。ガラスの花瓶、螺鈿のテーブル、砂糖漬けの果実、虜囚の為に作られた、優雅で可憐なピンクのドレス。まとめて木っ端みじんと砕け散る。
「……やった」
姫がぽそりとつぶやく。拳を握り、たんっと足を踏みならす。
「あーっ、あーっ、ああっ、どーしてくれんだよ! 翼に穴が空いちゃったじゃないかよぉ!」
泣きわめく魔王に更に追い打ち。蒸気多めの息がぶわっと吹き付ける。炎はほとんど無いが、それでも充分に、熱い。崩れ落ちる自称魔王を見下ろして、ドラゴンは厳かに言い渡す。
「私の小さなレディに近寄るな」
今度こそ、青肌の金髪角男は完全に、沈黙した。
そして姫は両手を広げて駆け寄った。
「おじさまぁ!」
「いや、さすがにそれは……おっさんだけどさ」
照れる騎士をあっさり素通り。ドラゴンに飛びつき、抱きついた。
「あー、そっちかぁ……」
笑ってる。
姫が、笑ってる。
おでこにずーっと居座っていた深い皺が消えている。目を輝かせて、やたらとおっきな前歯を見せて、口を開けて笑っている。血色の良くなった肌に、そばかすがくっきり映える。
「ま、いっか」
えくぼの浮かぶ頬を見て、騎士はつぶやく、胸の内で。
少なくともこの金髪巻き毛の角野郎、美人の素質を見抜く目は確かだな、と。
※
空を飛んだ。うまれてはじめて。ルビー色の大きな背中につかまって。
お日さまが近い。雲が近い。足下にこんもり広がる『黒い森』は、まるで緑のじゅうたん。
最初はお城の広間にかざられた、タペストリーを思い出した。あれを作った人も、空を飛んだことがあったのかな。次に思い出したのはお城の塔のてっぺんに、はじめて登った朝のこと。こんな風にどこまでも、遠くまで見えた。
だけどタペストリーは本物じゃない。お城の塔からは動けない。 今のわたしは、動いてる。見えているのは、全部本物。木も、地面も、水も、風も。全部、全部本物。風が当たる。顔に、髪に、腕に、胸に。体中全部が流れる空気の中にある。見えないのにさわれる不思議。声を出すのも忘れていた。
ギデオンとおじさまは、さっきからずっとしゃべってる。風がびゅんびゅん耳元でうなってる。だけどおじさまの声は、深くひびく。わたしの体を優しくふるわせる。聞いていると、安心する。
ギデオンはわたしをしっかり抱えてる。馬に乗る時よりずっと強く。
「大丈夫かね、あの金髪野郎」
体がぴったりくっついてるから、かすれた声もよく聞こえる。
「魔族は丈夫なのが取り柄だ。百年もすれば、元通りだよ」
「そりゃ良かった」
「面白い男だ。何故、魔族の身を案じる?」
「……あいつは敵じゃない。度し難いクズ野郎だが、姫に手出しさえしなけりゃ、それでいい」
「ふむ。一理ある」
「何であいつ、あんなでっかい塔を建てたかね。全方向から丸見えじゃないか」
「彼は一族の中でもとりわけ、自己顕示欲が強い」
「あぁ。目立ちたがりってことか」
「身も蓋もないが、その通りだ……さて、そろそろ降りるとしよう。しっかりつかまっていたまえ、姫君」
「わかった」
こんなに大きいのに、ドラゴンのおじさまはふうわりと、風に舞う花びらみたいに降りてゆく。森のこずえが近づき、通り過ぎ、地面が大きくなる。
翼がふくらみ、風をつかまえる。
とんっとゆれて、動きが止まった。
姫と騎士とドラゴンと、そろって千年樹の根元に戻る。
「ただいま、バターカップ!」
黄色い馬は鼻を鳴らし、小さな姫を出迎える。しかしながら待っていたのは、馬だけではなかった。きらきらと輝く紫の光が、枝の合間を踊っている。
「お?」
まるで意志があるかのようにふうっと近づいて、膨れ上がり、中から人影が現れる。
夜明けの空にも似た薄紫の、ドレスをまとった女性が一人。たなびく裾は濃い藍色。小鳥の翼のように広がる短い髪は、先端に向かって徐々に明るく透明になり、最後は空に溶け込んでいた。
「無事でよかった、ララ・リリア」
ささやく声は銀の鈴。ほほ笑む瞳は矢車菊の花の青。
一目みるなり、姫はぱあっと顔を輝かせる。
「フェアリー・ゴッドマザー!」
「これは、夜明けの仙女殿」
ドラゴンは前足を折りまげ、頭をさげて、うやうやしく一礼した。
「お久しい」
「おひさしぶりです、スパイク・スケイル。気高き紅玉の竜よ」
「知りあいか」
「古き知己だ」
(俺だけ初対面ってことか)
「ごきげんよう、騎士ギデオン」
「お初にお目にかかる、夜明けの仙女殿」
帽子をとって胸に当て、騎士は深々と頭を下げる。人であろうとなかろうと、貴婦人には敬意を払う。それが騎士たる者の道なのだ。
妖精の名付け親、すなわちララ・リリア姫の守護者である。祝福されし王族はみな、己自身のフェアリー・ゴッドマザーを持つのだ。
「会いたかったわ、ララ・リリア」
「うれしい。うれしい!」
名付け子と名付け親はひしと抱きあい、互いの無事と再会を喜んだ。一方で騎士はといえば万面渋面、しかめっ面。乾いた口をゆがめ、しゃがれた声で吐き捨てる。
「やっとお出ましか。来るんだったらもっと早く出てこいっつの……うぉっ」
最後の一音が終わるより早く、フェアリー・ゴッドマザーが目の前にいた。
「いつの間に」
「フェアリー・ゴッドマザーとはそういうものなのです」
ドラゴンがしたり顔でうなずく。
「そういうものだね」
「ああ、そうですか」
何が『そう』なのか。誰もが全てを理解している訳ではない。ただ、かくあれかしと決まっている。そんな小さな『そう』がいくつも重なって、世界の理を組み上げている。それをみな、頭のどこかで知っている。悟っている。口には出さねど、なればこそ。然るべき時に動き、然るべき時に息を潜める。そうして世界は動いている。
「で。これからどうすりゃいい。妖精の国にでも姫をつれてくか?」
「それができたら、どんなにいいか」
夜明けの仙女は目を伏せてまばたき一つ。身を包む光が弱くまたたく。
「ひとたびあちら側に渡れば最後、人の世とは決定的な『ずれ』が生じます。正せぬひずみが生まれます。もう二度と、こちら側では生きられない。帰ったように見えても結局は、あちら側に戻ってしまう」
白いほっそりとした指が、手が、いとおしげに姫の赤い髪をなでる。
「わたくしが願うのは、ララ・リリアの人の子としての幸せです。あなたもそうではありませんか?」
「……まぁな」
「ではお尋ねしよう、夜明けの仙女よ。我らはいかにして姫を守るべきか」
「ちょっ、おい、それは俺の台詞だろ!」
「道を示してくれ」
「だからーっ!」
夜明けの仙女はふわりと右手をかかげ、緑の梢を指し示す。
「森に隠れるのです」
「森に?」
宙を舞い、千年樹の幹に手を当てる。
「木よ。木よ。いにしえの世にこの地に根付き、数多の年経た大いなる木よ。力を貸しておくれ。小さき者を守り、育む力を」
鈴振る声がこいねがう。そして千年樹は祈りに答えた。
「うぉっ」
「わぁ」
めきめきと音を立てて枝が、葉が、そして幹までもが形を変える。伸びて、ふくらみ、寄り合わさって、一つの形を編み上げる。土が盛り上がり、埋もれていた根っこまでもが動き出す。
再び静けさが訪れた時。千年樹は一軒の家に姿を変えていた。
「こいつぁなんとも……驚いた」
「見事なお手並みです、仙女殿」
「ありがとう……」
「って、どこだっ、仙女様っ!」
声はすれども姿が見えない。慌てて騎士は周囲を見回す。
「ここです」
力を使い果たしたか。仙女の姿は手のひらに乗るほどに縮んでいた。
「何とまぁ、可愛いお姿になっちゃって」
「妖精族の姿は、身に宿した力によって変わるのです」
ふわふわと小さな仙女は騎士の目の前に浮かぶ。
「ここで姫を育てなさい。あなたと、スパイクと、力を合わせて」
「スパイクねぇ」
へっと、騎士がせせら笑う。
「お前さん、そーゆー名前だったのか」
「軽々しく呼ぶな。親しき者にのみ許す呼び名だ」
「へいへい」
「騎士ギデオン」
「はい」
「スパイク・スケイル」
「はい」
「わたくしの結界が、あなた方と姫を守ります。けれど永遠ではない」
「いつまで隠れてりゃいいんだ、仙女さま」
「時が来れば、わかります」
小さな仙女は姫の額に口づける。
「ララ・リリア。愛しき名付け子」
「まって、フェアリー・ゴッドマザー、行かないで!」
みるみるその姿は希薄になり、透けていく。鈴振る声は次第にかすかに、細くなり……。
「いつでも祈っています。あなたの無事を。しあわせ……を……」
風の奏でる葉ずれの音に、紛れ溶け込みかき消えた。
立ち尽くす姫を見守りながら、騎士とドラゴンは顔をつきあわせる。
「休戦延長だな」
「不本意だが、いたしかたない」
かかげた前足、握る拳。ひっそりこつりとぶつけ合う。
「姫のために」
「姫のために」
タチヨミ版はここまでとなります。
2018年6月1日 発行 初版
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茨城出身宮崎在住、犬と猫に振り回される毎日。文具大好き。普段は電子書籍や電源有りゲームのシナリオ、TRPGのシナリオを書いています。からあげと時代劇と特撮と海外ドラマとアメコミ、そしてサメ映画があれば人生はきっと楽しい。
今回は慣れ親しんだゲームの根っこに深く潜って、おとぎ話の世界観にそったお話を作りました。お姫様と、ドラゴンと、騎士がいます。でもちょっとだけ組み合わせが変わってます。
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