spine
jacket

花吐き少年と、虚ろ竜  上 

ナマケモノ

けもの書房

花吐き少年と、虚ろ竜 上

 花吐き少年と、虚ろ竜 上 
目次

花吐き少年と、虚ろ竜の物語について

 虚ろ世界辞典

 物語の中の人々

 断章 地球の眠り姫について
 
 

Ovo 竜と、卵

始まりの物語

世界の容

虚ろ竜の卵

竜の巣

星の森

黒衣の使者

竜の名

命の口づけ

竜の頭

星空の恋人たち

Mermaid 竜と、人魚 

朽ちた花

殻の人魚たち

海辺の葬儀

牙と花

竜と友達

光の遺言

海底の鎮魂歌

暗い海の子守歌

Sankta urbo 竜と、聖都

庭師の回想

夕顔の丘

目覚めと竜骸

棺の樹海

虚構と信仰

心と魂

竜の兄弟

夜と胎動

茨と牢獄

 花吐き少年と、虚ろ竜の物語について

 この物語は、こことは違うどこかであった物語です。その世界は水底と呼ばれ、常闇が支配する水の底のごとく暗い世界でした。水底の上にはさらに二つの世界、異世界を背に乗せて飛ぶ虚ろ竜たちの中ツ空と、この世界の頂にある地球があります。
 これら三つの世界全てを総称し、虚ろ世界と呼びます。
 本作はそんな虚ろ世界の底にある水底で繰り広げられた花吐きヴィーヴォと、虚ろ竜の娘ヴェーロの物語を綴った書物になります。

物語の中の人々

 水底に語り継がれている、花吐き少年と、虚ろ竜の物語に出てくる人々をこちらでは紹介しています。語り伝えられている物語によって彼らの名前や、性別すら違うこともありますが、こちらは物語の中心人物である花吐きヴィーヴォの記した記録をもとに人物紹介を行わせて頂きました。従って、水底の史実とは多少ことなる記述もあるかもしれません。

 Vero《ヴェーロ》
 名の意味は真実。
 本編の主人公。一人称は竜。
 中ツ空を飛ぶ虚ろ竜の娘。銀の鱗と地球を想わせる蒼い眼を持つ。銀糸の髪と蒼い目を持つ少女の姿をとることも可能。自分の卵を温め孵してくれた育ての親であるヴィーヴォを番として愛している。現在はヴィーヴォに名を縛れており、自分の名前を認識できない状態にある。
 
 Vivo《ヴィーヴォ》
 名の意味は生命。
 本編のもう一人の主人公。一人称は僕。
 紺青の髪と星屑めいた光を放つ黒い眼の少年。可憐な外見から少女だと勘違いされることがある。かつては黒の一族の二つ名『夜色』を名乗ることを許された高位の花吐きだったが、恋人であるヴェーロが聖都を破壊した罪を問われ聖都を追放された過去を持つ。
 自分の恋人であるヴェーロを深く愛し、彼女のためだったら自らが犠牲になることも厭わない。

 Potenco《ポーテンコ》
 名前の意味は権力。
 一人称は私。
 鋭い黒い眼と、黒衣を纏った長身が特徴。
 ヴィーヴォの兄であり、花吐きであるヴィーヴォの後継人。聖都では花吐きたちを管理する庭師の官職についている。実直で寡黙な性格の持ち主。
 ヴィーヴォとの関係に距離があること悩んでいる。本人は弟であるヴィーヴォのことを案じており、彼が聖都を追放される原因となったヴェーロに対しては複雑な感情を抱いている。黒の一族の長でもあり、優秀な人形術の使い手でもある。

 Mermaid《メルマイド》
 名の意味は人魚。
 桜色の髪と薄紅色の眼を持つ。
 魂を持たない殻の人魚であり、二つ名の花吐きである珊瑚色の恋人だった。

 
 珊瑚色《さんごいろ》
 桜の一族を司る二つ名の花吐き。
 ヴィーヴォよりも年長であったが派遣されていた漁村で伝染病を患い、謎の死を遂げる。名はkoralaj《コーララフ》。名の意味は珊瑚

 
 教皇《きょうこう》
 緑の一族の長にして、教会の頂点に立つ最高権力者。

 
 若草《わかくさ》
 緑の一族を司る二つ名の花吐きにして、教皇の一人息子。
 ヴィーヴォとは古くからの友人。ヴィーヴォとは本名でお互いを呼び合う仲。

 
 金糸雀《かなりあ》
 金の一族を司る花吐き。

 
 緋色《緋色》
 赤の一族を司る花吐き。滅多に生まれない女の花吐きであり、二つ名の花吐きたちの花嫁になることが宿命づけられている少女。

虚ろ世界辞典

 これは、地球から遠く離れた虚ろ世界について書かれた書物です。作者はヴィーヴォ。虚ろ世界の底にある『水底』に生きる花吐きの名です。彼は愛しい竜に文字と自分たちの世界の在り方を教えるために、この辞典を作りました。
 ヴィーヴォの残した虚ろ世界辞典を開いて、この世界の成り立ちについて調べてみましょう。




虚ろ世界
 
 虚ろ世界は地球にいる少女が夢見ている世界であると言われている。また、少女の心の形そのものを表した世界でもある。
 この虚ろ世界は三層に別けられる。
 頂きには地球が輝き、中央には虚ろ竜たちの世界、中ツ空がある。そして世界の底には、夜闇に閉ざされた水底が広がる。
 太古の昔、地球から命を宿した卵が落ちてきて、虚ろ世界を漂よっていた。中ツ空の虚ろ竜たちはその卵を守っている使者たちだった。その卵が割れ、命が虚ろ世界に投げ出された。竜たちは投げ出された命を救い出す。救い出された命たちは、虚ろ竜の背に新たな世界を創りだした。
 竜たちに取りこぼされた命は、虚ろの底に落ち、そこに世界を創りだす。いつも夜闇に閉ざされ深海のように暗いその世界は、水底と呼ばれるようになった。


地球
 
 水底を照らす光の源であり、虚ろ世界の生命を生みだした世界の頂きにある星。この星には虚ろ世界を夢見る少女が眠っており、虚ろ世界は少女の心の形を表していると言われている。
 太古の昔に命を宿した卵が地球から転がり落ち、これが虚ろ世界の生命の起源となった。
 虚ろ世界に生きるすべての生命は地球に還る本能を備えている。そのため灯花たちはその本能に従って地球を目指そうとする。


水底
 
 夜に包まれた虚ろの底の世界。虚ろ竜たちに取りこぼされた命が創造した世界だと言われている。空には星となって彷徨う魂たちが溢れ、虚ろ竜の陰影と蒼い地球が浮かんでいる。
 教会の聖典によるとこの世界の原初、虚ろ竜たちの父である始祖の竜が命を背中に乗せたまま水底に落ちてきた。始祖の竜の背中に乗っていた命たちは、水底に根付きこの世界を創りあげた。水底の生命たちが暮らす大陸は始祖の竜の体であり、始祖の竜はこの世界を照らす太陽を口から吐いていたという。今では始祖の竜の力も弱まり、水底は夜闇が支配する深海のように暗い世界となってしまった。




中ツ空
 
 夜闇に包まれた水底と違い、太陽の光が溢れる空の世界。虚ろ世界の中央に位置するこの世界は、背中に異世界を乗せた虚ろ竜たちの世界でもある。中ツ空と水底は大天蓋と呼ばれる巨大な卵の殻によって隔てられている。


虚ろ竜
 
 虚ろ世界の中央にある中ツ空を飛ぶ竜。竜の背には異世界があり、その異世界に住む命を新たな世界へと連れていくために旅を続けている。虚ろ竜は全員雌であり、ときおり卵を産む。
 だが、新しい世界を探すことに夢中になっているため、産んだ卵を虚ろの底である水底へと落としてしまうことがある。
 虚ろ竜たちの先祖と言われている始祖の竜は雄であり、太古の昔に異世界を背に乗せたまま水底へと落ちていった。その異世界の命が水底の世界を創りあげたとも言われている。始祖の竜は未だに生きており、その体は水底の大陸となっているという。
 また、虚ろ竜にはいくつかの血統があり、同じ血統の虚ろ竜たちは似通った髪と眼の色を持っている。


銀翼の一族
 
 その昔、水底に落ちた始祖の竜を取り戻さんと中ツ空の虚ろ竜たちが水底に攻めてきたことがあった。虚ろ竜の雄は始祖の竜だけであり、虚ろ竜たちが子を成なすことができなくなってしまったためだ。
 水底の大陸となった始祖の竜は中ツ空に帰ることができない。そのため、彼を取り戻すためには水底を滅ぼす必要があった。
 始祖の竜は娘たちの蛮行を大いに嘆く。そんな彼を救うべく一匹の虚ろ竜の娘が立ちあがる。
 銀翼の女王と呼ばれる彼女は姉妹たちと戦い、水底を虚ろ竜たちの脅威から救った。
 彼女は始祖の竜と交わり、原初の花吐きたちである色の一族を生みだす。花吐きたちは虚ろ竜たちの番として生まれ、始祖の竜の力を継ぎ水底の命を循環させる力を授けられた。この色の一族が今日の水底の生物の起源であり、彼ら一族は始祖の竜と銀翼の女王の末裔として水底を治めている。
 この大戦の名残は水底の各所に残っており、戦で死んだ虚ろ竜たちの亡骸は島や山脈、湖などになり水底の地形を形づくっている。また、小さな亡骸は聖都周辺にある大樹海に散乱している。
 銀翼の一族は、彼女の遺言に従い水底と中ツ空を隔てる大天蓋を守る役目を課されている。
 この大天蓋を通って水底に行くことができる虚ろ竜は、番の花吐きを求め水底に降りる者たちのみである。


花吐き
 
 水底の世界で死んだ者の魂は死後、星となって空を彷徨う。そんな魂を結晶の花として浄化し、新たな命へと生まれ変わらせる者たちを花吐きという。花吐きはその命を糧として星となった魂を灯花と呼ばれる花の結晶に変える。 
 そのため彼らは短命であり、大人になるものはほとんどいない。花吐きのほとんどが男性であり、女性の花吐きは稀。
 灯花になった魂たちは、新たな転生先を求め旅に出る。その多くが地球を目指して飛び立つが、大半は虚ろ竜たちの背中にある世界に転生する。中には水底に留まり、咲き続ける花もある。水底の生命は減り続けているため、水底は少しずつ縮小を続けている。
 花吐きの力は眼に宿る。星となった魂は花吐きの眼に引き寄せられ、その眼の中に留まる習性を持つ。
 花吐きは魂を眼に留め、自ら作曲した紡ぎ歌をうたうことで花吐きの力を発動させることができる。花吐きの吐く灯花には、吐いた花吐きの個性と心情が色濃く表れるのだという。
 教会の聖典によると花吐きは、始祖の竜と銀翼の女王との間に生みだされた一族を起源に持つという。
 彼らは色の一族と呼ばれ、今日水底で生きている生物たちの始祖となった。色の一族は始祖の竜を崇める教会を創設し、水底を統治している。
 教会を統治するのは直系の色の一族たちである。彼らは一族の中から生まれた強力な力を持つ花吐きに二つ名を与え、始祖の竜の使いとして信仰の対象にしている。
 花吐きは始祖の竜の血を濃く引くほど力も強いとされている。直系と傍系では花の吐ける量や、その花を操る能力にも大きな差がある。


灯花
 
 水底を星になって彷徨っていた魂が、花吐きに浄化され結晶の花となった姿。灯花になることで、魂は新たな命に転生することが可能となる。その転生先として、灯花たちには生命の生まれた地球を目指す習性があるという。灯花の姿かたちには、吐いた花吐きの心情や個性が反映される。稀に、特殊な能力を持つ灯花を吐く花吐きもいる。
 灯花になった魂は意思を持ち、生前の記憶も保った状態でいる。そのため、彼らは自身の意思で転生先や咲く場所を決め、何に転生するのか自身で考え選び取ることができる。


教会
 
 水底を治める統治機構。水底の命の起源となって始祖の竜を神として崇め、その能力を引き継ぐ花吐きたちを始祖の竜の使いとして信仰の対象にしている。
 教会を治めるのは始祖の竜の直系である色の一族である。教会は色の一族たちにより共同で運営されており、教会の頂点である教皇の下に色の一族を治める長たちの議会がある。教皇はその議会の選定によって決められるのが習わしだが、長年の権力闘争により議会の選定は形骸化している。教皇が直属に治める存在に二つ名の花吐きと、その花吐きたちを管理する庭師の存在がある。


色の一族
 
 始祖の竜の直系とされ、水底の生物たちの起源になったとされる古い一族。彼らからは強力な花吐きが生まれ、その花吐きを始祖の竜の使いとして崇める教会を介して水底を統治している。
 強い花吐きを生みだすため近親相姦を繰り返し、権力闘争により耐えてしまった一族も多いい。現在では緑の一族が覇権を握っており、他の一族はほぼ力を失っている状態である。
 一族は特殊な技術を継承しており、その技術を独占することによって自分たちの教会における地位を確保してきた経緯がある。


 聖都
 
 花吐きを信仰の対象として崇め、花吐きの子供たちを保護することを目的に作られた教会の総本山。聖都に集められた花吐きの子供たちは専用の霊廟を与えられ、そこで花を吐く毎日を送る。
 教会は花吐きの始祖であるとされる、始祖の虚ろ竜を最高神として祀っている。



 
 魂を持たない生物たちの総称。太古の昔、生命を宿した卵が壊れた際、その殻の破片も虚ろ世界に飛び散った。その破片から生まれたのが、殻と呼ばれる長大な寿命を持つ幻獣たちである。彼らは魂を持たず、新たな命に転生することはない。彼らは魂に惹きつけられる性質を持っており、星となった魂を集める習性がある。魂を新たな生へと導く花吐きたちにとって天敵ともいえる存在。


竜骸
 
 中ツ空から落ちてきた虚ろ竜の遺骸を利用して造られた乗り物。黒の一族が代々伝えている人形術で動くものと、灯花を熱源とした蒸気の力で動くものの二種類がある。前者は人形術を操る術者しか使用できないが、後者は誰でも操作が可能。
 人や物資の運搬の他に、兵器として使用されることもある。


稀人
 
 地球から虚ろ世界に落ちてきた人々の総称。
 稀人は少女の眠る地球にいる人々であり、彼女が虚ろ世界を救うためにこれらの人々を送り込んでいるとされるが詳細は不明。未知なる技術を虚ろ世界にもたらすこともある。聖都で使われている蒸気機関の技術は稀人がもたらしてものであり、その技術は金の一族によって伝えられている。



 
 虚ろ世界において名は、存在そのものの在り方を定義するものである。名をつけられることによって初めて生命は自身が何者であるかを認識することができる。原初の水底において名を知られることは、存在そのものを相手に支配されることを意味していた。これは水底の世界の在り方が不安定であり、名という概念で存在を定義する必要があったためである。
 今日において水底は名によって存在を定義されたもので溢れている。そのため名で人を支配することができるのは色の一族の血を色濃く引くものか、生命そのものを司る花吐きの力を持つ者に限られている。

断章 地球の眠り姫について

 この断章は虚ろ世界を夢見ている少女の現状を記した書物である。断章の出どころは不明であり、この文章を記したものが何者で、これがいつどこで記されたのかも定かではない。
 少女が生きている地球の現状は私たちが暮らしている今の地球とは遠くかけ離れている。彼女の眠る地球がどこにあるのか、それは誰にも分らない。

 C.G.ユングの分析心理学をもとにして虚ろ世界の世界観は作られている。
 頂上の地球は現実世界(意識)を象徴し、中央の中ツ空(竜たちのいる世界)と虚ろ世界の底にある水底、(ヴィーヴォたちの世界)は集合的無意識を表している。水底は文字通り、心の底という意味。水は太古から無意識を象徴する。
 この世界は少し先の未来で生きる少女が見ている夢であり、その少女が眠り続けていることから水底は夜闇に閉ざされている(常に意識されない心的状態を暗示)。少女はとある事情から脳に損傷を負ってしまい(たぶん前頭前野あたりが駄目になってる)、その少女の「心」を再現するプロジェクトが進行中。少女の脳は機械に繋がれて、AI達(検索エンジン)が必死になって彼女の心を構成する「記憶」や「情報」を海馬やネットの海から集めている。この記憶を集めるAIが虚ろ竜たちの正体だと思われる。少女の記憶や情報の具現化が灯花。そのため、灯花には地球に還りたいという帰巣本能が備わっている。
 地球から虚ろに落ちてきて割れた卵は少女の自我崩壊を象徴しており、世界の頂きにある地球は少女が存在している現実世界そのもの。少女が帰るべき場所としての象徴としてそこにある。
 ヴィーヴォはもともと少女の無意識にいたアニムス(理想の男性像)だと思われる。
 水底で話されている言語は、エスペラント語を基もとにした未知なる言語。
 虚ろ世界を夢見ている少女が生きている地球では、過去の大戦によって壊滅的な環境破壊に見舞われており、生き残った人々は共通の言語としてエスペラント語を使用している。
 少女が生きている現実世界は、オペレーションシステムMERROWと同一の世界であると考察できる。

 Ovo 竜と、卵

 虚ろ竜の泳ぐ空から卵が降ってきた。
 そこから、この物語は始まる――

 始まりの物語

 母さんと引き離されて、どのくらいの年月がたっただろうか。
 暗い霊廟に、僕はどのくらい閉じ込められているだろうか。
 りぃんと涼やかな音がして、僕は顔をあげていた。
 僕の吐いた花が、闇を蒼く照らしている。紫色をしたそれは結晶の花弁をつけ、風信子のような形をしていた。
 花吐き。
 僕は、そう呼ばれる存在だ。
 死した人々の魂を結晶の花に変え、新たな命へと生まれ変わらせる存在。新たな命を紡ぐ存在が花吐きだと、兄さんは言っていた。
 だからこそ僕は、この霊廟に閉じ込められている。
 僕は神である始祖の竜の使いとして崇められ、外に出ることすらも許されない。
 花吐きさまと呼ばれ、名前で呼んでくれる人もいない。
 ヴィーヴォという名前が僕にはちゃんとついていたのに――
「名前、呼ばれてないなぁ……」
 呟くと、僕の周囲に咲く花がりぃんと鳴って返事をくれた。
「君たちがいるから、寂しくないよ」
 僕は花に微笑みかける。僕の吐いた花たちは、僕のことを慕ってくれている。
 だから、こうして独りぼっちの僕のために、話し相手になってくれるのだ。
 でも――
「君たちは、ここにずっといちゃいけない。僕みたいに、囚われのお姫様になっちゃだめだよ……」
 彼らは、僕のことが心配でこの霊廟に留まってくれている。でも、本当は新たな命へと生まれ変わるために、ここから離れなくてはいけない存在なのだ。
 僕がそれを躊躇わせている。
 僕が独りにならないように、花たちはここにいてくれる。
 僕は天井を仰いだ。
 星が見えるはずの空は、闇に包まれた半円形のドームで覆われている。眼を凝らしてみせると、そこに空を飛び回る竜のレリーフが描かれているのがわかる。
 レリーフの竜たちは、小さな人々を背に乗せ空を飛び回っていた。
 虚ろ竜だ。
 僕たちがいるこの世界の上空には、異世界を背に乗せた竜たちが飛ぶ世界、中ツ空がある。竜たちの背にある世界には、太陽と呼ばれる眩しい光があって、世界を照らしているそうだ。
 僕たちの住む水底の世界は、いつも闇夜に閉ざされているというのに。
「見てみたいな、太陽……」
 そっとレリーフに手を翳し、僕は呟く。
 光が見たい。闇じゃなくて、寂しい気持ちを忘れさせてくれるぐらい綺麗な光が。
 遠くに行きたい。
 虚ろ竜の背に乗って、こんな暗い寂しい世界からいなくなってしまいたい。
「連れてってよ……。僕も君たちのところへ……」
 そうレリーフの竜に囁きかけた瞬間、轟音が霊廟に響き渡った。
 僕の灯花たちが蒼く瞬き、りぃんりぃんと激しく音を奏でる。
「何っ!?」
 大きく天井がゆれ、ドームの一角を崩して、何かが霊廟へと落ちてくる。瓦礫とともに落ちてくるそれを見て、僕は大きく眼を見開いていた。
 卵だ。
 僕の頭ほどもある大きな卵が、蒼い光に照らされながら霊廟へと落ちてくる。
 僕は卵へと駆けていた。落下する瓦礫をすり抜けながら、僕は卵を抱きしめる。
 あたたかい。
 体に温かなぬくもりが広がっていく。驚いて眼を見開いた瞬間、僕は仰向けに倒れ込んでいた。
 星空が、見える。
 砂粒のような星々が、夜空を覆いつくしている。その光景を穴の開いた天井から僕は眺めていたのだ。
 その星空を泳ぐ、巨大な陰影が幾つもあった。
 巨大な竜の影が、星空を優美に泳いでいる。その竜たちが泳ぐ星の海を蒼い地球が優しく照らしているのだ。
「きれいだ……」
 夜空を眼にして僕は呟いていた。じわりと眼が滲み、僕は静かに涙を流していた。
 どうして、泣いているのかわからない。でも、涙は後から後から流れてきて、僕の頬を濡らしていく。
 とくりと心音が聞こえて、僕は我に返る。
 胸に抱いた卵が、かすかな心音を発している。そっと起きあがり、卵に耳を充てる。
 とくり。とくり。
 優しい心音が、僕の耳に心地よく流れてくる。
 まるで、母さんが歌ってくれた子守歌みたいだ。
 この子は生きている。僕を慰めようとしてくれている。
「僕に、会いに来てくれたの?」
 声を投げかけると、力強い心音が耳朶に響き渡る。
 卵が、応えてくれた。
「僕、もう独りじゃないんだ……」
 そっと卵から耳を放し、僕は微笑んでいた。胸に卵を抱いて、僕は眼を瞑る。
 唇を開けて、僕は卵のために歌を奏でていた。
 母さんが遠い昔に歌ってくれた子守歌を。
 りぃん、りぃんと花たちが僕の歌に合わせて音を奏でてくれる。僕はその音に合わせて、卵に歌で語りかける。
 優しく、穏やかな声で。
 遠い母さんの記憶を手繰り寄せながら――
 今日から、僕がこの子のお母さんになるんだ。この子を孵して、僕が守ってあげるんだ。
 この子は独りぼっちの僕のために、空から落ちてきてくれたんだから――
 




 

 彼女と出会った日のことを思いだし、僕は眼を開く。
 僕の眼の前には、卵から孵り成長した虚ろ竜の姿があった。
 銀の鱗で全身を覆った彼女は、長光草の乾草の上で丸くなっている。そんな彼女を見て、僕は胸を痛めていた。
 でも、彼女に真実を告げなければいけない。
「その卵はさ、生まれない運命を背負わされていたんだよ。だから、ヴェーロのせいじゃない」
 僕の言葉に、ヴェーロは長い首を持ちあげた。銀糸の鬣がさらりと鱗の鱗の上を滑っていく。蒼い眼をきょろりと動かし、彼女は悲しげに僕を見つめてくる。
 ヴェーロは、僕の頬を鼻先でなでてきた。
 そんなヴェーロの鼻をなで、僕は彼女に起き上がるよう促す。
 起きあがった彼女の腹の下には、大きな卵が置かれていた。
 僕たちが拾って、あたためていた卵だ。
 卵はすっかり冷えていて、命の鼓動すら聞こえない。それでも彼女は諦めきれず、きゅうんと僕に鳴いてみせる。
 彼女は、卵が生きていると信じているのだ。
 氷のように卵は冷たいのに――
 どうして卵を守れなかったのだろう。後悔の念ばかりが僕の胸に湧き上がる。ヴェーロを守ることができなかった、あのときみたいに。
 僕はいつも情けないぐらいに無力で、誰かに守られてばかりいる。
 涙をこらえて、僕は彼女の頭を抱き寄せていた。
「泣かないで、僕の愛しい女……。この子は、ちゃんと送ってあげるから。綺麗な花に変えてあげるから……」
 震える声で彼女に囁き、僕は冷たい卵を見つめる。眼を拭い、僕は彼女の腹下へと潜り込んでいた。
 卵を両手に抱え、彼女の腹下からそっとでてくる。
 卵は、石のように重たく、冷たい。
 それでも僕は、卵を強く抱き寄せていた。卵を救えなかった罪の意識が、僕にそうさせる。
「この子のために花を吐こう。そのために最高の歌を奏でなくちゃ。ねぇ、僕の恋人。僕の歌を聴いてくれる?」
 潤んだ眼に笑みを浮かべ、僕は彼女に問いかける。ヴェーロは悲しげに鳴き声を漏らし、翼を広げて僕の言葉に応えた。


 

 これは、虚ろ竜である彼女の物語だ。
 僕のために空から落ちてきてくれた彼女の視点で、この物語は綴られる。
 この物語を読んでいる人々は、物語の起点が僕から彼女へと移り変わることに疑問を抱くだろう。
 けれど、一つだけ弁明させて欲しい。
 彼女は竜だ。人である僕たちとは考え方も、感じ方すらも違う。
 だからこそ、人である僕がこの物語の始まりの語り部と務めさせていただいた。
 僕、花吐きのヴィーヴォはこの物語において彼女に寄り添う影に過ぎない。
 僕をこの物語の主人公だと言ってくれる読者もいる。
 ある意味、これは彼女と共に生きた僕の物語でもある。
 けれど、この物語の主人公は彼女だ。
 僕は彼女の導き手でもあり、彼女が求める者でもある。
 なぜなら、僕は彼女の中に生きる存在だからだ。
 僕たちは、僕らの世界はあなた方の内側に存在する。
 広く異なる世界は、外側ではなく内側にこそ無限に広がっているのだ。
 遠く、心の奥底まで。
 彼女は読者を悦ばせる物語を紡がない。
 僕らは、ただありのままの僕らを君たちに受け止めて欲しいと思っている。
 それこそが僕らとの対話であり、物語を読むことの真の姿だと僕は思う。
 僕らは読者に寄り添いはするが、読者の奴隷になることはできない。
 ここで語られるのは読者のための物語ではないからだ。
 全ての物語に、等しく主人がいる。
 物語は、その物語の中で生きる人々のものだ。
 読むものはそれを俯瞰し、感じることしかできない。
 しかし、そこから新たな始まりを見つけることは可能だ。
 僕が、彼女と出会ったように。
 彼女が、僕と出会ってそうであったように。
 物語とは、新たな世界をあなたに与えてくれるものだ。
 それを忘れた読者は、他者と対話をすることすらできない。
 物語という名の他者と。
 なぜ、あなたは物語を読むのか。
 これは、読者であるあなたへの問いかけだ。
 では始めよう。
 彼女と、僕の物語を――

 世界の容

 

 
 夜空を、銀色の竜が飛んでいる。
 大鹿ほどの彼女は、銀の鱗で全身を覆われていた。背中には銀糸の鬣を生やし、風に靡かせている。
 広げられた竜の翼は白銀の皮膚で覆われ、蒼い静脈が扇状に広がって模様をつくっていた。
 竜の眼は、地球を想わせる蒼だ。その眼をきょろりと動かし、竜はきゅんと鳴いてみせる。
 その背の上には、紺青の髪を靡かせる、夜色を想わせる少年が乗っていた。




「凄い! 凄い! 星が踊ってるよ、ヴェーロ!」
 背の上で、番であるヴィーヴォの笑い声が聞こえる。名前を呼ばれたヴェーロは――少年に名を呼ばれた竜は――空を見あげた。
 砂粒のように細かい星々が瞬いていた。宝石箱をひっくり返したようなその光景に、ヴェーロはきゅんと声をあげる。
「やっぱり凄い! 凄いよねっ!」
 ヴィーヴォが頭を叩いてくる。少しばかり気分を害して、ヴェーロは翼を激しく動かしてみせた。
「ちょっ! 落ちちゃうよっ、ヴェーロ! 僕が死んでもいいのっ? 僕は君の番なんでしょっ?」
「きゅんっ」
 鬣を引っ張られて、声をあげる。まったくもって、ヴィーヴォは我儘だと思う。
「ちょっとヴェーロ、聞いてるっ?」
 ヴィーヴォが鋭い声を放ってくる。それでもヴェーロは気にすることなく、悠然と星空を飛んでいた。
 ヴィーヴォの小言なんて聞いていたらこちらの身が持たない。それに、気に食わなかったら鬣を引っ張るなんてもってのほかだ。
 これはお仕置きが必要だな。
 ヴェーロは大きく翼をはためかせ、飛ぶ速度をあげてみせる。
「ちょ、ヴェ―ロっ?」
 彼の言葉に耳を貸すことなく、ヴェーロは翼を後方へと反し急降下を始める。
 銀糸の鬣を風に靡かせながら、今度は翼を広げて急上昇してみた。眼下に見える森が、視界の中でくるくると回っている。冷たい風が鱗を滑って気持ちがいい。
「ちょっ! やめてヴェーロっ!」
 ヴィーヴォの声が耳朶に響く。あまりにも煩いのでヴェーロはきゅんと短く鳴いて、何度もとんぼ返りを繰り返した。
「やだ! ちょ、ヴェーロっ!」
「きゅーん!」
「気持ち……悪い……」
 とんぼ返りをやめると、背に乗るヴィーヴォががくりと身を横たえてくる。ヴェーロの頭もフラフラだ。
 気休めに星空を見あげる。
 星々が夜空をゆったりと動いている。その星空の向こう側に巨大な竜の陰影があった。
 その竜の陰影たちを輝く地球が照らしている。
「あぁ、あの竜達の背にはどんな世界が広がっているんだろうねぇ、僕の恋人……」
 そっと頭をなでられ、ヴェーロは驚いて眼を見開いていた。その眼に、ヴィーヴォの逆さまの顔が映りこむ。
 サイドの片方を三つ編みにした紺青の髪に、少女めいた風貌の整った顔立ち。なによりヴェーロは、星屑めいた光が宿る彼の黒い眼が大好きだ。
 その眼を細め、ヴィーヴォが微笑んでくれる。なんだか嬉しくなって、ヴェーロは大きな眼に笑みを浮かべていた。
 ふんわりと彼から花の香りが漂ってくる。その香りが心地よくて、ヴェーロはぐるぐると喉を鳴らしていた。
 母親代わりだった彼と番になったのはいつだったろうか。後で聞いた話だが、彼は冗談でそのことを口にしたらしい。
 彼の発言を真に受けて、あんな姿になったことをヴェーロは今でも後悔している。
 あの姿になってから、ヴィーヴォはヴェーロを以前のように扱ってくれなくなった。自分を人間の雌のように扱うようになったのだ。
 恋人が何かわからないヴェーロに、それは竜にとっての番だと彼は教えてくれた。雄と雌で対になって子育てをするあの番だ。
 改めて空を仰ぐ。
 相変わらず地球は虚ろ竜たちの影を照らし、星は煌めきながら空を流れてくる。
 夜空を眺めていると、この虚ろ世界の形がよくわかる。
 ヴィーヴォによると、この虚ろ世界は三層に分れているという。
 古い神話によると、この虚ろ世界は地球に住む少女が見ている夢だといわれている。虚ろ世界は彼女の心の容そのものを表しているそうだ。
 虚ろ世界の頂には生命たちの生まれた地球が輝き、中央に虚ろ竜たちの飛び回る中ツ空がある。そして、この世界の底辺にあるのがヴィーヴォたちの生きる水底だ。
「この世界の初めに地球から生命を宿した卵が落ちてきた。卵を守るために、虚ろ竜たちは生みだされ、中ツ空を飛んでいた。
ある日卵が割れ、命が虚に散らばった。竜たちは散らばった命を背に乗せ、新たな世界を探し求める。竜に取り残された命が虚の底に落ちて、僕たちが住む水底の世界を創りあげたんだ。そして、君はあの虚ろ竜たちが生み落とした子供なんだよ」
 ヴィーヴォが優しく囁く。
 視界からヴィーヴォの逆さ頭が消える。頭に彼のあたたかな手のぬくもりが広がる。頭をなでられながら、ヴェーロは彼の声に耳を傾けていた。
「本当にあれは運命の出会いだった……。星空から降ってきた卵から君は生まれたんだ。僕は思ったよ。君は運命の人だって。卵だった君は流れ星になって、独りぼっちだった僕に会いに来てくれたんだ……。だから僕はヴェーロが好き。僕を、暗闇から助けてくれた女だもん……。あぁ、竜の姿の君にはクサい台詞が言えるのに、なんであの姿になると気持ちも伝えられなくなるかなぁ……」
 はぁっとヴィーヴォのため息が聞こえる。
「さぁ、雑談はここまでにして、仕事を始めようかヴェーロ。今日も歌をうたってあげる……」
「きゅんっ!」
 ヴィーヴォが頭をなでてくれる。嬉しくなってヴェーロは鳴き声を発していた。
 自分がこの世で一番好きなのはヴィーヴォの歌だから。
 星空を見あげ、ヴェーロは空中で制止する。
 瞬間、ヴィーヴォの歌声があたりに響き渡った。
 美しいアルトの旋律が、夜空に響き渡る。それに呼応するように、星々が長い尾を引いて、こちらへと落ちてきた。
 とんっと背を蹴られて、ヴェーロはきゅんと鳴く。背に乗っていたヴィーヴォが跳び下りたのだ。
 落ちていく彼の体を、流れてきた星々が取り巻いていく。彼が歌うたび、星々は彼の周囲を巡り、旋律に合わせて明滅を繰り返す。
 ヴィーヴォがうたうのは、鎮魂歌だった。
 喪われた命を慈しむ旋律は周囲の空気を震わせ、星々を瞬かせる。その星々が、歌を刻む彼の唇へと吸い込まれていく。
 落ちていたヴィーヴォの体は空中で止まり、ゆったりと光を帯び始めた。彼の眼は光りにゆらぎ、紺青の髪は白銀の輝きを宿す。
 ヴィーヴォが空を仰ぐ。
 蒼く輝く地球を、彼は見つめていた。
 彼が唇をあける。
 ふっとヴィーヴォが息を吹くと、そこから結晶の花弁を持った花々が生じる。
 花は藍色をしており、その形は菖蒲を想わせる。そんな結晶の花がヴィーヴォの唇から生まれては、地球を目指して舞いあがっていく。
 水底で死んだ者たちは、死後も星となってこの世界にとどまり続ける。
 そんな魂を浄化し、新たな命として送り出す者たちがいる。
 花吐き。
 そう呼ばれる人々は、星として夜空をさまよう魂を浄化し、花の結晶に変換することで新たな命へと生まれ変わらせることができる。
 その能力を発動させるために必要なのが、紡ぎ歌と呼ばれる歌だ。歌を介して花吐きは星に語りかけ、彼らを花へ変えることができるのだという。
 灯花と呼ばれるその花がどこにいくのか、ヴェーロは知らない。
 ヴィーヴォによると、みんな生命の生まれた地球に行きたがるが大半の花は中ツ空に留まるのだという。そこを飛ぶ虚ろ竜たちの世界に、灯花たちは行き着くというのだ。
「ヴェーロ、花畑に戻ろうかっ!」
 ヴィーヴォが顔をあげて自分を見つめてくる。きゅんと鳴いて、ヴェーロは彼の元へと飛んで行く。
 宙に漂うヴィーヴォの側にやって来ると、彼は優しく自分をなでてくれた。
「また、星が増えてる……」
 ヴィーヴォが呟く。
 彼を見る。彼は厳しい眼差しで、夜空に瞬く星々を見つめていた。
「嫌な予感が、当たらないといいんだけど……」
 ヴィーヴォが口を開く。その呟きになぜかヴェーロは胸騒ぎを覚えていた。

 虚ろ竜の卵

 ヴェーロが翼をはためかせると、地面に咲く花々が大きくゆれた。
 輝く藍色の花畑にヴェーロは降りたってみせる。ヴィーヴォが自分の背から僧衣の外套を翻して降り立つ。腰を低くして、彼は周囲に咲く灯花に話しかけていた。
「ただいま。みんなはいつもここにいるね。好きなところに行けばいいのに……」
 りぃん、りぃん。
 苦笑するヴィーヴォに抗議するように、花たちは音を奏でてみせる。
 灯花になった魂は、地球を目指し空へと旅立つ。だが、この水底に留まる命もあるのだ。水底に残った魂は、生まれ変わるまで花として咲き続ける。
 ここに咲いているのは、ヴィーヴォが吐いた花たちだ。好きなところに飛んでいけばいいのに、花たちはヴィーヴォの側から離れようとしない。
 冷たい風がヴェーロの鬣をなで、花たちをゆらす。ヴェーロは鳴き、巣に帰ろうとヴィーヴォに促した。
「ごめん、ヴェーロ」
「きゅん」
「今日もありがとう……。いっぱい飛んで疲れたろ? 家に帰って休もう」
 頭を下ろすと、ヴィーヴォが優しく鬣をなでてくれる。ヴェーロは眼を細め、くるくると喉を鳴らしていた。
 ヴィーヴォが顔を赤らめ、ふるふると震え始める。
「いやーん、可愛いよヴェーロっ! 今日も二人で一緒に寝ようねっ!」
 自分の頭を抱き寄せ、ヴィーヴォは頬ずりを繰り返す。くすぐったくてヴェーロはきゅんと声を放っていた。
「あ、ごめん……。君が可愛すぎて、ついね……」
 自分の鼻筋に額を押しつけ、ヴィーヴォは幸せそうに眼を閉じてみせた。
「ずっと独りぼっちだったから、君がいるだけで毎日が楽しいんだ。だからねぇ、僕は君がいればそれでいい。他にはなにもいらないよ……。罪を犯した僕には、過ぎた幸せだ」
 ヴィーヴォの声がどこか寂しげだ。胸元に手を充て、彼は弱々しく微笑んでみせる。ヴィーヴォの言葉に、ヴェーロは胸を絞めつけられていた。
 ヴィーヴォの胸には小さな焼印がある。焼印は罪人の証だとヴィーヴォは言った。
 ここに来る前、自分たちは大きな都にいた。
 聖都と呼ばれるそこは、花吐きを崇める教会の中心地だ。教会はこの水底を統治も司っている。
 けれど、罪を犯したのはヴィーヴォではない。
 悪いのは、自分と彼を引き離そうとした人間たちの方なのに。
 ヴェーロは小さく翼をはためかせてみせる。ヴィーヴォが驚いた様子で自分を見あげてきた。
「あ、ごめん。風も強くなってきたし、そろそろいこうか」
 ヴィーヴォが微笑んでみせる。ふうっとヴェーロは鼻から息を漏らし、ヴィーヴォの体に頭をすり寄せていた
「うん、帰ろう。愛しい人……」
 ヴィーヴォがそう言った瞬間、頭上の星空が激しく瞬いた。それに呼応するように、周囲の灯花が強い光を放ち始める。
 りぃんりぃん。
 花は激しくゆれながら音を発する。ヴィーヴォは驚きに眼を見開き、呟いた。
「あのときと、一緒だ……」
 そっと自分の鼻筋をなで、彼は空を仰ぐ。星々の瞬きがいっそう強くなり、一滴の流れ星が地上へと落ちていく。
「ヴェーロっ! あそこに連れて行ってっ!」
 流れ星が落ちた場所を見つめながら、ヴィーヴォが叫ぶ。ヴィーヴォが自分の脇へと駆けていき、地面を蹴って背中に跳び乗る。
「早くいってあげなきゃ、君の仲間が死んでしまうよっ!」
 彼の大声にヴェーロは眼を見開いていた。自分の仲間が死んでしまうとは、どういうことだろうか。
 ヴェーロは星空を泳ぐ竜の陰影を見つめる。
 自分が知っている同族といったらあの巨大な竜の陰影だけだ。ヴェーロはこの水底で、同じ虚ろ竜に出会ったことはない。
「早くっ!」
 ヴィーヴォが急かすように鬣を引っ張ってくる。
「きゅん!」
 痛いと抗議の声をあげながらも、ヴェーロは翼をはためかせ花畑から飛び去っていた。









 流れ星が落ちた場所は水晶の谷だった。
 星空を映し出す水晶の峰は、星々の光を受けて砂粒のような光を放っている。その峰の間をヴェーロはゆったりとした速度で飛んでいた。峰のすき間には深い谷があり、唸る川の流れが聞こえてくる。
「おかしい……。この辺りのはずなんだけど……」
 真摯なヴィーヴォの声が背中から聞こえてくる。先ほどからヴィーヴォは何度も同じ場所を飛ぶよう指示しては、そう呟いていた。場合によっては、谷間すれすれまで降下することを指示してくる。
「ヴェーロ、あそこっ!」
 ヴィーヴォが自分の鬣を引っ張る。ヴェーロは痛いと鳴きそうになったが、谷底に光るものを認め、口を閉じた。
「早くっ!」
「きゅん」
 ヴィーヴォに急かされ、ヴェーロは谷へと降下していく。ごうごうと音をたてて流れる川の岸辺に光るものを見つけ、川の浅瀬へと着地した。
 川面が波立ち、岸辺に打ち上げられたそれをゆらす。ヴィーヴォは自分から跳び下りて、光るものへと駆け寄っていった。
「よかった……。まだ生きてる……」
 両手でそれを抱き上げ、ヴィーヴォは笑顔を浮かべる。彼はそれを抱きしめて、こちらへとやって来る。
 彼に抱かれたそれは、光る卵だった。ヴェーロは眼をまん丸にして卵を見つめる。
「初めて見るもん、驚くよね。ほら、君の仲間だよ。この大きさと形状だと、君と同じ銀翼の一族のものかな……」
 驚く自分の鼻先に、ヴィーヴォは卵を近づける。大きさはヴィーヴォの顔ぐらいだろうか。
 鼻先を当ててみると、あたたかなぬくもりと小さな鼓動が伝わってくる。
 光る卵は、生きているのだ。
 それになんだろう。卵の光が妙に懐かしくて心地いい。
 ヴェーロは卵に頬ずりをしていた。卵のあたたかな体温に、気持ちよくて小さく鳴き声をあげる。
「君と同じ虚ろ竜の卵だよ。本当、新しい世界を探すのはいいことだけど、自分たちの子供を産みっぱなしにするのはどうかと思うよ……」
 卵を抱きなおし、ヴィーヴォは空を仰いだ。暗い谷間から細長い星空が見える。その星空の向こうで、竜の陰影が優美に泳いでいる。
 ――あれが君のお母さんたち。産みっぱなしにされていた君を、僕が拾ったんだ。
 幼い頃にヴィーヴォから聞かされた言葉を思いだす。ヴィーヴォ曰く、虚ろ竜たちはたまに卵を産むらしい。
 でも、新しい世界を探すことに夢中で、産んだ卵のことを忘れてしまうんだそうだ。
 そんな竜の卵が、水底には落ちてくる。
 ヴェーロも大きくなるとあの陰影の竜たちのようになるらしい。大鹿ほどの大きさしかない自分が、そんなになるなんて考えられないけど。
「さぁ、早く帰ってこの子をあっためてあげよう。こんな冷たいところにいたら、卵が死んでしまう」
 愛しげに卵を見つめながら、ヴィーヴォは言葉を紡ぐ。彼は卵を顔に近づけ、頬ずりをしてみせた。
「早く産まれるといいな。新しい家族がまた増える。僕と君の子供だね、ヴェーロ」
「きゅんっ」
 ヴィーヴォが嬉しそうに微笑んでくれる。ヴェーロは翼をはためかせて、弾んだ鳴き声を彼に返してみせた。

 竜の巣

「やったー! 卵だ! 新しい家族だっ!」
 声を弾ませながら、ヴィーヴォは灯花の花畑を駆けていく。彼は花畑を取り囲む石英の断崖へと向かっていた。
 断崖には洞窟がぽっかりと空いている。洞窟の入り口には暗闇杉で作られた褐色の大きな扉がついていた。閂のついた両開きの扉には、菖蒲の灯花が蔓のように長く伸びて、扉に巻きついている。
 この洞窟はヴェ―ロたちが暮らしている巣だ。
 その大きな扉の左側に、小さな人間用の扉がつけられている。ヴィーヴォが扉をノックしてみせると、扉に巻きついていた灯花が淡く輝き、扉から離れていった。
 灯花がなくなったことをたしかめ、ヴィーヴォは人間用の扉から洞窟へと入っていく。
「ヴェーロっ! 早くおいでっ!」
 ヴィーヴォの言葉に、ヴェーロは閂を口に銜え引き抜いてみせた。瞬間、勢いよく扉が開き、ヴィーヴォが中から跳び出してくる。
「お帰り、ヴェーロ!」
 ひしっとヴェーロに跳びつき、顔をあげたヴィーヴォは満面の笑みを浮かべてみせた。
「きゅん……」
 一緒に帰ってきたじゃないか。そう伝えたくてヴェーロは鳴いてみせる。ぷくっとヴィーヴォは頬を膨らませ、ヴェーロを睨みつけてきた。
「いいの……。僕がやりたいからいいの。君と一緒にいる幸せを実感したいだけなんだから、我慢してよ」
「きゅん」
 分かっているよと返事をする。するとヴィーヴォは嬉しそうに頬を赤らめ、自分の頭を抱き寄せてきた。
「ほら、早く! 早く! 今日のご飯は昨日の夜に仕留めた角猪の生肉だよっ!」
 自分の頭から手を放し、ヴィーヴォは洞窟の中へと駆けていく。ヴェーロもヴィーヴォのあとに続き、自分たちの巣である洞窟の中へと足を踏み入れていた。
 洞窟の中は、縦長の空洞になっている。空を仰ぐと、丸い夜空がヴェーロの視界を迎えてくれた。洞窟の中央はすり鉢状に窪んでおり、真ん中に長光草の乾草を敷きつめたヴェーロの寝床がある。寝床には濡れないようにアーチ状に組まれた暗闇松の廂がついている。洞窟の壁にはいくつかの壁龕が穿たれ、寝床の正面に穿たれた壁龕には翼を広げた竜の彫像が置かれていた。
 この水底の世界の創造主とされる始祖の竜の像だ。教会の聖典によると遠い昔、この水底に始祖の竜が落ちてきて、その竜の背に乗っていた生命が水底の世界を創りあげたという。
 始祖の竜はヴィーヴォたちが暮らしている大陸へと姿を変え、今でも水底の生命たちを見守っているのだそうだ。
 花吐きたちはそんな始祖の竜の使いだとされている。彼らは始祖の竜がもたらした生命の循環を司るとされ、教会によって信仰の対象となっている。
 始祖を神と崇める教会は、聖都に拠点を置く水底の統治機構ともいえる存在だ。教会の頂点には始祖の竜の直系とされる色の一族が君臨している。水底の命の起源とも伝わる色の一族からは、花吐きが生まれてくる。特に強い力を持つ花吐きは、一族を導くものとして色に因んだ二つ名を与えられ、教会に捧げられるのだ
 ヴィーヴォも、かつては黒の一族を司る夜色の二つ名を与えられた花吐きだった。
 あの事件が起きるまでは――
「只今帰りました。始祖さま」
 竜の彫像に駈け寄り、ヴィーヴォは彫像に声をかける。そっと彼は汚れた僧衣の外套を翻して、片膝をついた。
 両指を組み、彼は眼を瞑って始祖に黙祷を捧げる。ヴェーロも彼に倣って、眼を瞑り首をさげてみせた。
 といっても始祖の竜の何が偉大なのか、自分にはわからない。
「ヴェーロのお父さんは、やっぱり始祖さまなのかな?」
 顔をあげ、ヴィーヴォが自分を見あげてくる。
「きゅん……」
「そっか、僕が卵から育てたんだもん。わからないよね」
 ヴィーヴォの言葉に、ヴェーロは眼を顰めてみせた。ヴェーロの故郷は中ツ空だが、ヴェーロはこの水底で生まれ育った。ヴィーヴォが教えてくれる世界の知識と、水底のことしかわからない。
 だから、集落の人間たちがヴェーロを女神さまだと崇める理由もよくわかならい。
 聖都から追放された自分たちは、この洞窟がある山麓の集落でお世話になっていた。
 集落の人々ときたら自分とヴィーヴォを生神さまと祀りあげて、毎日お祈りを捧ささげる始末だったのだ。
 遠くの街や集落からやってきた参拝客で小さな集落は溢れかえった。自分とヴィーヴォは小さな教会に押し込められて、人々を夜遅で祝福しなければならなかったのだ。
 ヴェーロはストレスで鱗の生えが悪くなるし、ヴィーヴォは疲労で倒れる始末。
 こんな生活もう嫌だと、ヴェーロはこの洞窟を一匹で掘ったのだ。
 人間たちにヴィーヴォをこれ以上虐められたり、彼と一緒にいる時間をとられるは嫌だった。ここにヴィーヴォを連れてきたとき、ヴィーヴォはかなり反発した。
 けれど、今ではここでの暮らしにすっかり馴染んでいる。
「さてと、卵は元気かなーっ?」
 ヴィーヴォは立ちあがり後方にある寝床へと駆けていく。
 寝床の中を見ると、真新しい長光草の乾草の上に卵が横たえられていた。ヴィーヴォは寝床の中へと跳び込み、ぎゅっと両手で卵を抱きしめる。抱きしめられた卵は、嬉しそうに明滅を繰り返した。
「うーん、君と同じ銀翼の一族の卵かと思ったけど、ちょっと違うかな? 調べものーっ!」
 寝床から跳び出して、ヴィーヴォは壁に穿たれた壁龕へと向かって行く。壁龕のいくつかは、長光草での紙で作られた書簡や本が所狭しと並べられていた。それらに視線を走らせながら、ヴィーヴォは口を開く。
「ヴェーロっ! 首貸してっ!」
「きゅん」
 ヴェーロは軽く翼をはためかせ、ヴィーヴォの側へと降りたった。座り込んで首をそっと地面に降ろす。ヴィーヴォはその首に乗り、声をかける。
「右から三番目の書棚。虚ろ竜たちの本が読みたい」
 ヴィーヴォの言葉に従い、ヴェーロは体を起こし、鍵爪を石英の壁に突き立てる。首を目的の壁龕へと伸ばすと、ヴィーヴォは自分の首を伝って、その壁龕の中へと入っていった。
「ひゃほーい!」
 いくつかの巻物と本を両手に抱え、彼は自分の背中を滑り落ちていく。尻尾を滑り降り、彼は寝床に敷かれた乾草へと着地した。
「えーと、虚ろ竜の種族別の特徴を書いた本は……あった、卵の項目。あ、やっぱりヴェーロの仲間だっ! 銀色に光ってるし、卵の形がちょっと細長い。ヴェーロみたいな美人な子が生まれてくるといいなぁっ!」
 弾んだ彼の声が耳朶に轟く。壁から前足を放し、ヴェーロは寝床の中を覗き込んでみた。書物が散乱する寝床の中で、ヴィーヴォが卵を抱きしめて眼を瞑っている。そっと彼を鼻でつつくと、ヴィーヴォはくすぐったそうに笑ってみせた。
「しばらく、花は吐けそうにないや……。この子を温めなきゃいけないもん……」
 うっすらと眼を開けて、ヴィーヴォは笑ってみせる。
「こうやって、僕は君の卵もずっと抱っこしてたんだよ。虚ろ竜の卵はずっとあっためてないといけないってことを教えてくれたのも、兄さんだった……」
 すっとヴィーヴォの眼が影を帯びる。
「最近兄さん、来てくれないな……」
 寂しげな彼の言葉を聞いて、ヴェーロは胸を痛めていた。ポーテンコは彼の兄だ。彼は花吐きを管理する庭師という地位を与えられている。
 文字通り花吐きを保護する立場にある彼は、ヴィーヴォの様子を見にここへも足を運んでいる。
 洞窟にある書物も、ポーテンコがヴィーヴォに乞われて持ってきたものがほとんどだ。中には貴重な書物もあり、それらはヴィーヴォが写本を作り手元に置いている。
 ヴェーロはあまり彼が好きじゃない。
 彼はどこか近寄りがたく、冷たい目でいつも自分のことを睨みつけてくる。
 教会の命令により、自分とヴィーヴォを引き離そうとしたのも――
「ヴェーロ、どうかした?」
 ヴィーヴォの声に我に返る。
 彼が心配そうに自分を見つめている。そんな彼にヴェーロはきゅんと鳴き声をあげていた。ヴィーヴォは安心した様子で笑顔を浮かべる。
「二人っきりの生活もこれで終わりかと思うとちょっと寂しいね……。でも、この子がいれば僕がいなくなってもヴェーロは寂しくないか……。集落に僕が降りて行っても、二人でお留守番できるし、君は独りにならない……」
 卵を抱き寄せ、ヴィーヴォは笑ってみせる。
「きゅん……」
 どこか悲しげなヴィーヴォの笑顔が心配になって、ヴェーロは鳴いていた。
 ヴィーヴォはあまり人が好きじゃない。当たり前だ。人間たちはヴィーヴォを自分からとろうとする。
 だが、彼は人との関りを断つことは出来ない。
 この世界に生きる生命を生まれ変わらせることができるのは、花吐きだけなのだから。
「花吐きさまっ! 花吐きさまっ!」
 洞窟の外から声がする。それと同時に暗闇杉の扉から大きな音が何度もする。
 集落の人間が洞窟の扉を叩き、ヴィーヴォを呼んでいるのだ。
 寝そべっていたヴィーヴォが悲しげな表情を浮かべ、体を起こした。
「また、人が星になった……。それも若い星だ……」
 ぎゅっと卵を抱きしめ、ヴィーヴォは辛そうに眼を閉じる。彼は俯き、小さく言葉を呟いていた。
「すぐに行くから、君の愛しい人から離れちゃいけないよ……。だんだん記憶がなくなっていく? 大丈夫、花になれば思いだせる。安心して……」
 口元に笑みを浮かべ、ヴィーヴォはここにはいない誰かに話しかけているようだった。遠くにいる死者の魂とヴィーヴォは会話をしているのだ。
 ヴィーヴォから聞いたことがる。
 死んだばかりの魂は、星になる前に側にいる花吐きに語りかけてくると。その言葉を受け、花吐きは死者のもとへと赴くのだ。
「ヴェーロ……。僕が戻ってくるまで、卵をあたためてくれる……?」
 そっとヴィーヴォが眼をあける。彼は顔をあげ、自分に微笑んでみせた。不安になってヴェーロはきゅんと鳴く。
「大丈夫。すぐに戻って来るから。人が死んだんだ。弔ってあげなきゃ……」
 ヴィーヴォは、ヴェーロの額に自分のそれを押しつけてきた。
「自分が何者かもわからず、この世界を彷徨い続けることほど恐いことはないから……。それにね、僕は花を吐くことでしか、君たちに償えない……」
 ヴィーヴォは寂しげに呟く。彼は眼を伏せ、遠い昔に思いを馳せているようだった。
 人間といるときのヴィーヴォは辛そうだ。
 彼は人間たちに優しい。無理やり笑みをつくっては、身近な人を亡くした彼らに優しく語りかける。
 人間は、彼を虐めてばかりいるのに――
 ――自分と、ここにいればいいのに……。
 そう伝えたくて、彼に鳴いてみせる。ヴィーヴォは顔をあげ、困ったように自分に微笑みかけた。
 彼はヴェーロの鼻筋に口づけをして、抱いた卵を干草の上に横たえる。
「僕になにかあったら、花たちが教えてくれるから……」
 耳元でヴィーヴォが囁く。きゅんと鳴き、ヴェーロは卵の上に移動して、そっと座り込んだ。
「ちゃんと、あたためてあげてね。僕と君の大切な子供なんだから」
 自分の頭をなで、ヴィーヴォは笑ってみせる。煌めく彼の眼が何だか頼りなくて、ヴェーロはまた鳴いていた。
 洞窟を出ていくヴィーヴォを見送りながら、ヴェーロは思う。
 人間たちがヴィーヴォになにかしたら、ただじゃおかない。
 ヴィーヴォをヴェーロから引き離そうとしたあのときのように――

 星の森

 人といると、本当に落ち着かない。
 そう思いながらも、ヴィーヴォは男たちに連れられ集落に続く道を歩いていた。ヴィーヴォが歩くたび、周囲の木々が淡い光を吐き出していく。
 花吐きであるヴィーヴォの存在に引き寄せられ、この森には流れ星となって落ちて来た星が留まっているのだ。
 灯花にしてあげるといっても、彼らは言うことを聞いてくれない。花吐きは、自身の命を糧として魂を灯花へと変換させる。そのため、花吐きのほとんどは大人になる前に死んでしまうのだ。
 それを知っているから星たちは花になることを望まない。森に留まって、自分たちが浄化される順番を静かに待っているのだ。
 そんな星たちに、ヴィーヴォは心の中でおいでと話しかける。その呼びかけに応じるようにヴィーヴォの眼に宿る星屑の光が明滅する。
 花吐きの力は眼に宿る。花吐きたちは眼に星となった魂を留め、紡ぎ歌をうたうことで彼らを灯花に変えることができるのだ。
 ヴィーヴォの呼びかけに応じて、輝きを放ちながら星がヴィーヴォの眼の中へと吸い込まれていく。
「本当に、人間なのか……?」
 後方で小さな声が聞こえて、ヴィーヴォは苦笑を滲ませていた。
 彼らにとって自分は人間ではない。だから、自分はここに来ても神さまのように崇められるし、聖都では暗い霊廟に閉じ込められ祈りを捧げることを求められた。
 ヴェーロの卵が落ちてくるまで、自分はずっと独りだった。
「あの……こちらです……」
 先頭にいた初老の男がヴィーヴォに話しかける。集落を治める長老だ。彼は、ヴィーヴォの所属する黒の一族の傍系でもある。
 我に返って、ヴィーヴォは彼を見つめていた。
 森の中に続いていた道が途切れ、前方に小さな家が建っていた。鬱蒼とした大木に覆われた家は白い石英を組み合わせて作られている。光苔に覆われた半円状の家は黄緑色の光を纏っていた。その光に混じって、蒼い光が家を取り囲んでいる。
「星があそこにいるんですね……」」
「放してしまうと、どこかにいってしまいますから……」
 男が答える。振り向いてみると、彼は悲しげに眼を伏せていた。
「花吐きさま……。灯花になった命は、どこへ行くのでしょうか?」
 眼を細め、男は自身の手首を強く握ってみせる。その声がかすかに震えていることに気がつき、ヴィーヴォは男に優しく声をかけていた。
「それは命が決めることです。だから、僕らはただ見守ればいい。命はきっと自分を想う人の側にいたいと思うから……」
 男が顔をあげる。彼は驚いた様子で眼を見開き、ヴィーヴォを見つめてきた。そんな男にヴィーヴォは微笑んでみせる。
「ありがとうござます……花吐きさま」
 皺の寄った眼を細め、男は微笑んでみせる。その眼が少しばかり潤んでいることに気がつき、ヴィーヴォは胸を高鳴らせていた。
 人の優しさにふれるたび、ヴィーヴォは不思議な感覚を味わう。まるで、ヴェーロの体を抱きしめているような心地よさを感じてしまうのだ。
 自分自身に、その優しさを向けてくれる人はいなかったのに――
「彼女の、お陰かな……」
 きゅんと愛らしい恋人の鳴き声が耳朶に蘇る。ヴィーヴォは男に言葉を発していた。
「素敵な歌をうたわせていただきます。亡くなったあなたの大切な人のために――」
 笑顔を浮かべるヴィーヴォに、男は微笑みを返してくれる。
 だが、ヴィーヴォは気がつかなかった。
 その男の笑みが、ひどく悲しげなものだということに。
 自分たちを森の暗がりから、監視している存在がいるということに。
 ヴィーヴォを見つめるそれらは、不気味な羽音をたてながら森の中に潜んでいた。
 ヴィーヴォと男は木製の扉を開け、家の中へと入っていく。
 それを見計らったように、それらは森から抜け出ていた。

 黒衣の使者

 亡くなったのは、長老の孫娘だった。彼女の死体は寝台に横になっている。
 黒い髪を真っ白な布の上に広げ、彼女は眼を閉じている。まるで眠っているような彼女を目の当たりにして、ヴィーヴォは息を呑んでいた。
 まだ、彼女が生きているのではないかと錯覚してしまう。けれど、彼女の肌は蠟のように白く、赤みがかっていた愛らしい頬からは生気が感じらえない。
 それに――
 ヴィーヴォは天井を静かに仰ぐ。
 くるくると蒼白い光を放つ球体が、部屋の中を彷徨っている。まるで液体のように不安定にゆれる球体は、ときおり少女の形をとって涙を流した。
 星になった少女の魂だ。
 自身が死んだことを悟り、混乱しているらしい。息を吸い込み、ヴィーヴォは眼に留まる花吐きの力を意識した。
「大丈夫だよ、ĝojoゴージョ
 凛とした声に己の力を込める。すると不安定だった魂は少女の形をとり、ヴィーヴォの前へと降りたった。
 名で彼女を縛ったのだ。
 古来より、名前には万物を支配する力があるとされている。古の昔、水底の支配者である教会は名の力によって人々を従わせ水底を治めていたという。
 その力は今なお教会の一部の者たちにより使われているのだ。
 特に命を司る花吐きは自身の力を意識するだけで、死者の魂を従わせることができる。
 直系の花吐きであるヴィーヴォは、名を縛ることにより生きた人を従わせることも出来るという。
 そう、兄であるポーテンコは教えてくれた。魂を名で縛ることも彼が教えてくれたことだ。
 ――花吐きさま……。
 目の前の少女に呼ばれ、ヴィーヴォは我に返る。まるで蜃気楼のようにゆらめく彼女は、心配そうにヴィーヴォを見つめていた。
「おいで、ゴージョ」
 ヴィーヴォは彼女を呼ぶ。両手を広げてみせると、彼女は嬉しそうにヴィーヴォの胸へと跳び込んできた。
 彼女の体は明滅し、ヴィーヴォの眼へと吸い込まれていく。
 体が怠くなる。瞬間、ヴィーヴォの中に溢れんばかりの情報が入り込んできた。
 ゴージョの喜び、悲しみ、怒り。懐かしい思い出。懐かしい音。
 彼女の忘れがたい記憶が、ヴィーヴォの中を駆け巡っていくのだ。それらの記憶をもとに、ヴィーヴォはゴージョのための紡ぎ歌を奏でる。
 亡き両親への愛慕と、自分を育ててくれた祖父への感謝の気持ち。そして、そんな祖父より先に亡くなってしまったことへの無念。
 ゴージョの想いは歌となってヴィーヴォによって紡がれ、彼女の魂を浄化していく。
 ヴィーヴォの体が白く輝く。眼を煌めかせながら、彼はふっと息を吐いた。
 その息と共に、一輪の灯花が吐き出される。
 蒼い薔薇を想わせるそれは、鉱石の花弁を煌めかせながらゴージョの亡骸の上へと舞い下りる。
「君は、おじいさんの側にいたいんだね」
 ヴィーヴォは細い指で青薔薇の花弁にふれる。ヴィーヴォの言葉に花はりぃんと涼やかな音を奏でた。
「行こう。おじいさんのところへ……」
 灯花になったゴージョをヴィーヴォは優しく両手に持つ。
 瞬間、花の花弁が慌ただしく瞬きだした。りぃん、りぃんと花はヴィーヴォに何かを訴えるかのように音をはっする。ヴィーヴォは驚いて声をあげていた。
「なにっ? 何があったの?」
 ヴィーヴォの声に応えるように、眼の中の星たち輝きを放ち始めた。視界が星たちの輝きに塗りつぶされ、ヴィーヴォは思わず目を瞑ってしまう。
「やめて、なんにも見えないよ……。一体、なにが……」
「相変わらず美しいな、お前の吐く花は……」
 男の声が辺りに響き渡る。背後の扉が開く音がして、ヴィーヴォは身を固くしていた。
 男の言葉に、ヴィーヴォは薄い肩をゆらす。
 彼が自分を大切にしてくれていることは分かっている。でも、ヴィーヴォはこの声の主が好きになれないのだ。
「久しぶりだな。ヴィーヴォ」
「ポーテンコ兄さん……」
 振り返ろうとした瞬間、ヴィーヴォは後方から抱き寄せられていた。顔をあげると、兄の顔が視界に入り込んでくる。紺青の髪を布で束ねた兄は、自分と同じ黒い眼に微笑みを浮かべていた。その眼からヴィーヴォは視線を逸らしてしまう。
「やはり、私のことは嫌いか?」
「何のよう? 最近、ぜんぜん来なかったくせして……」
 寂しげな兄の声に罪悪感を抱きつつも、ヴィーヴォは冷たい言葉をはっしていた。
「嬉しい知らせだよ。お前たちの罪が赦される。お前は剝奪された夜色の二つ名を再び名乗ることができるんだ、ヴィーヴォ」
 兄がサイドの三つ編みを優しくなでてくる。その手をヴィーヴォは払いのけていた。
「ヴィーヴォ……」
「僕たちが赦されるはずがないっ!」
 ヴィーヴォは彼へと体を向ける。ポーテンコは困惑した様子でヴィーヴォを見つめるばかりだ。
 そんな兄にヴィーヴォは叫んでいた。
「黒の一族の長である兄さんが、そのことは一番よく知っているはずだっ! 僕は、彼女を使って聖都の人たちをたくさん殺したんだよっ!」
 脳裏に、あのときの出来事が蘇る。
 炎に包まれた聖都と、その聖都を襲うヴェーロの姿が――
「緋色が死んだ……。金糸雀も危ない……」
 静かなポーテンコの言葉にヴィーヴォは眼を見開く。緋色と金糸雀は自分と同じ二つ名を持つ直系の花吐きだ。
「嘘だ。金糸雀はともかく、緋色は僕より年下のはずだよっ!」
「お前が聖都にいれば、緋色は死ななかったかもしれない……」
 ヴィーヴォの言葉にポーテンコは眼を伏せてみせる。悲しげな兄の表情を見て、ヴィーヴォはあることを悟っていた。
「やっぱり、生まれなくなっているんだね。僕たち花吐きが……」
 日増しに輝きを増す星空を思いだし、ヴィーヴォは唇を噛みしめていた。集落の人たちのあいだでも、この話題はときおり話されている。
 聖都から離れた辺境の地は灯花になれない星が溢れかえり、夜空が燭台のように明るいという。
 花吐きが生まれなくなれば、この水底に新たな生命が生まれなくなってしまう。花吐きの不在は、命の循環そのものが途切れることを意味しているのだ。
 それだけではない。
 水底を統治してきた教会は、花吐きによってその権力を維持してきた。花吐きがいなくなるとうことは、水底の秩序そのものの崩壊も意味するのだ。
「頼む。戻って来てくれ。私たちには、お前が必要なんだ。お前の花吐きとしての力が……」
 兄の言葉を聞いて、ヴィーヴォは彼を睨みつけていた。
 この人はいつもそうだ。自分のことを考えているといいながら、結局のところ本当の気持ちは分かってくれない。
「いいよ、戻る……。でも一つだけ聞かせて……。僕の竜はどうなるの?」
 ヴィーヴォの言葉にポーテンコは顔を歪ませる。彼は気まずそうに口を開いた。
「残念だが、彼女を連れていくことは出来ないよ。処分するしかないだろうな……。虚ろ竜は信仰の対象だが、彼女の犯した罪を考えればそれが妥当だ。でも、一緒に連れていける方法もある」
 すっと息を吸って兄は、ヴィーヴォに言葉を続ける。
「竜の名を教えろ、ヴィーヴォ。彼女の管理を教会に一任するんだ」





 りぃんと涼やかな音がなってヴェーロは頭をあげていた。
「きゅん」
 鳴き声をあげると、その音は自分の声に応えるようにまた奏でられる。
 りぃん。りぃん。
 ――僕になにかあったら花たちが教えてくれるから……。
 不意にヴィーヴォの言葉を思い出し、ヴェーロは起き上がっていた。
 灯花には、不思議な力がある。
 ヴィーヴォが吐いた花たちは、彼のことを慕っている。ヴィーヴォに何かあると、花たちは音を鳴らしてそれを伝えてくれるのだ。
 ヴィーヴォが集落で大変な目に合っているかもしれない。そう思うといたたまれなくなって、ヴェーロは洞窟の入り口を見つめていた。
 遠い、昔のことを思い出す。
 小さかった自分を抱きしめて、たくさんの人間たちから逃げていたヴィーヴォのことを。
 ――大丈夫、僕が守ってあげるから。
 震える声でそう言って、ヴィーヴォは泣きそうな顔に笑みを浮かべてくれた。
 人間たちが恐かったのに、ヴィーヴォは自分を慰めようとして笑顔を浮かべてくれたのだ。
 でも結局、自分たちは捕まって――
 ざわりと、鬣が逆立つ。静かな怒りが体中に広がっていくことを感じながら、ヴェーロは立ちあがっていた。
 もし人間たちが、あのときのように自分たちを引き離そうとしたら――
 不意に、あたたかな感触が足に広がり、ヴェーロは我に返る。
 卵が、寄り添うように後ろ足にふれていた。まるで行かないでと自分に訴えているみたいだ。
 そうだ、卵をあたためないといけない。そうしなければ、この子は死んでしまうのだ。
「きゅん……」
 困ったと鳴き声をあげ、ヴェーロは鼻先で卵をつつく。あたたかな卵から、かすかに心音がしている。
 この子はちゃんと生きているのだ。
 卵に頬ずりをしていたヴィーヴォの姿を思い出して、ヴェーロは困惑する。
 早くヴィーヴォのところに行かなければいかない。
 でも、そしたら卵が――
「きゅんっ!」
 いいことを思いついてヴェーロは鳴いていた。
 ぐわんと大きく口を開け、口の中に卵を入れる。口の中に卵を入れておけば卵が冷えてしまうことはないし、ヴィーヴォのところに行くことができる。
 口に卵を入れたまま、ヴェーロは洞窟の入口へと走った。
 洞窟の外に広がる花畑では、灯花がけたたましく音を奏でている。
 自分の脳裏を、ヴィーヴォの笑顔が過る。
 ヴィーヴォのことを想い、ヴェーロは大きく翼を翻していた。 

 竜の名

 体を壁に叩きつけられる。ヴィーヴォは呻き声をあげながら、床に倒れ込んだ。
 それでも手に持つナイフを握りしめ、ヴィーヴォは前方に佇む男を睨みつける。視界に映るポーテンコは、荒い息を吐きながらも長剣の切っ先をヴィーヴォに向けてくる。
「これで何度目かな……。お前に殺されかけたのは……」
 髪をかきあげながら、ポーテンコはしゃがみ込みヴィーヴォの顔を覗き込んできた。ヴィーヴォは苦笑する兄を見すえ、言葉を続けていた。
「兄さんが……僕の竜を盗ろうとするからだ……」
「盗るんじゃない……。必要だから、名を明かせと言っているだけだろう?」
「でも、そうやって彼女を名で縛るつもりなんでしょ……。僕に、そうしていたみたいに……」
 兄の言葉にヴィーヴォは嗤っていた。
 母から引き離され、聖都に連れてこられた自分を兄は名で縛り操っていた。
 教会に歯向かう者たちを処罰するために嫌がる自分を名前で操り、人々を殺めさせたことすらある。
 それが花吐きとして生まれた自分の運命だと分かっていても、幼いヴィーヴォは受け入れることができなかった。
 空から降ってきたヴェーロの卵は、自分どれだけ救ってくれただろうか。
 そんな自分の心の支えであった彼女ですら、兄は教会の命令というだけで奪おうとした。
 そのせいで、ヴェーロは――
「彼女が聖都を襲ったときも、お前はそうやって竜の名を明かすことを拒んだな。拷問にも口を割らず、舌を噛んで自害すらしようとした……」
 ため息をつき、ポーテンコはぼやく。ヴィーヴォは起き上がり、胸に手を充てていた。
 ポーテンコの言葉に、胸の焼印が痛む。胸元を握りしめ、ヴィーヴォは静かに眼を伏せた。
 ヴィーヴォの脳裏に、ヴェーロの姿が過る。
 ヴェーロの名を他人に教えることはできない。それは、彼女が自由を奪われることと同義だからだ。
 聖都はきっと彼女を利用しようとする。それだけは、何としても避けなければならい。
 たとえ自分が、死んだとしても――
「なぜそこまで彼女にこだわる、ヴィーヴォ? 彼女は聖都で殺戮の限りをつくした危険な存在だぞ? お前も彼女の暴走に巻き込まれて、死にそうだったじゃないか」
 ポーテンコが問う。彼は困惑した様子でヴィーヴォを眺めるばかりだ。
 彼の言葉にヴィーヴォは苦笑する。
「何を笑う?」
「あなたは本当に僕の気持ちが分からない人だね、兄さん」
 ポーテンコは不愉快そうに眉を歪めてきた。それがおかしくてヴィーヴォは思わず笑い声を発してしまう。
 笑いながら、ヴィーヴォは涙を流していた。
 あのときの光景は、今でも目に焼きついている。
 炎に包まれた聖都と、その聖都を破壊する巨大な竜の姿をとったヴェーロのことを――
 ポーテンコが自分から彼女を引き離そうとしたとき、ヴィーヴォは必死になって抵抗した。
 ヴィーヴォが彼女の名前を叫んだ瞬間に、それは起こったのだ。
 ヴェーロはヴィーヴォの眼の前で巨大化し、聖都を襲った。
 自分を守るために、彼女は聖都で破壊の限りをつくした。
「僕が竜にこだわる理由……。そんなの一つに決まってる……」
 唇を噛みしめ、ヴィーヴォはポーテンコを睨みつける。
 ヴェーロは自分のために聖都を破壊し、人を殺めた。そんな彼女を、見捨てられるはずがない。
「僕が彼女を愛してるからだっ!」
 ヴィーヴォは凛とした声で自分の意思を告げる。瞬間、周囲が激しくゆれ轟音とともに建物の屋根が崩れてきた。
「何だっ?」
 ポーテンコの叫び声が聞こえる。
 暗かった部屋に光が差し込む。そこから見える眩い星々に、ヴィーヴォは眼を奪われていた。
 あのとき見た星空と一緒だ。
 聖都にいた自分は、灯花の咲く霊廟に閉じ込められていた。そこにヴェーロの卵が落ちて来たのだ。
 美しい星空にヴィーヴォは心奪われ、落ちて来た卵のあたたかさにヴィーヴォは驚いた。
 生まれて初めて、ヴィーヴォは世界の美しさに触れた気がした。あたたかな卵に、愛しさを覚えた。
 そして、卵だった彼女はずっと自分の側にいてくれる。
 空に向かいヴィーヴォは微笑んでいた。
「ヴェーロ、迎えに来てくれたんだね……」
 嬉しくて、小さな声で彼女の名前を呼んでしまう。
 煌めく星空を背景に、彼女が飛んでいる。ヴィーヴォの言葉にヴェーロはそっと眼を細めてみせた。





 りぃん、りぃんと灯花の音がヴェーロの耳朶に聞こえる。その音は、集落の外れにある家にヴィーヴォがいることを教えてくれた。
 家の入り口が小さいので、とりあえず屋根を壊して中に入ってみる。するとそこには傷を負って座り込むヴィーヴォと、そんなヴィーヴォを睨みつけるポーテンコがいるではないか。
 ポーテンコとヴィーヴォが自分を見あげてくる。
 ヴィーヴォが自分に微笑みかけてくれて安堵する。傷だらけだけど、彼は無事みたいだ。
 ヴェーロは家の床に着地する。ポーテンコが自分を睨みつけ、剣を構えてくる。
 ヴィーヴォを傷つけたのは、彼に違いない。ヴェーロは容赦することなく、彼を尻尾で薙ぎ払っていた。
「ぐわっ!」
「兄さんっ!」
 ポーテンコは悲鳴をあげ、壁に叩きつけられる。ヴィーヴォは立ちあがり、そんなポーテンコに駆け寄ろうとした。
 そんな彼の前にヴェーロは立ち塞がる。実の兄とはいえポーテンコはヴィーヴォを傷つけた。そんな人間の側に、ヴィーヴォを近づけるわけにはいかない。
「竜っ!」
 驚くヴィーヴォをヴェーロは翼を広げて睨みつけてみせた。唖然と自分を見つめるヴィーヴォに、優しく鼻を摺り寄せてみせる。
「竜……」
 ヴィーヴォが縋るようにヴェーロのことを『竜』と呼んでくる。
 彼は人前でけっしてヴェーロの名を呼ぼうとしたない。ヴェーロの名を知られ、悪用されることを恐れているからだ。
 眼の前にいるポーテンコのような人間に――
「ごめん……。僕のこと、心配してくれただけなんだよね。それなのに、怒鳴ったりして本当にごめん……」
 眼を伏せ、ヴィーヴォは自分の頭を抱きしめてくれる。ヴィーヴォの手があたたかくて、ヴェーロはうっとりと眼を細めていた。
「竜、なんで喋らないの? それに……そう、卵っ! 卵はっ? 僕なんてどうでもいいっ! あっためないと、あの子がっ!」
 ヴィーヴォが大声を張りあげる。ヴェーロは口の中に入れた卵を吐き出していた。
 びしゃりと自分の涎がヴィーヴォにかかる。ヴィーヴォは顔を顰めながらも、吐き出された卵を両手で受けとめた。
「あの、ある意味名案だとは思うんだけど、これはさすがに……」
「きゅんっ!」
 ヴィーヴォが文句を言ってくるが、そんなものを聞いている暇はない。ヴェーロは鋭く鳴き、ヴィーヴォに背中を向けてみせた。翼を動かし、背に乗ることをヴィーヴォに急かしてみせる。
「そうだねっ! 逃げなきゃ、君が大変なことになるっ!」
 ヴィーヴォが背に跳び乗る。彼が乗った重みを確認し、ヴェーロは大きく翼をはためかせていた。
「まて、ヴィーヴォっ!」
 そんなヴェーロたちに怒声を張り上げる者がいる。ヴェーロがそちらへと顔を向けると、ポーテンコが自分たちを睨みつけていた。
「その竜は、お前に破滅しかもたらさないぞっ?」
 彼の言葉に、ヴェーロは大きく眼を見開いていた。
 自分がヴィーヴォを破滅させるとは、どういうことだろう。
「だったら、彼女と一緒に破滅してやるっ! 僕は、彼女と離れる気はないっ!」
 一瞬の逡巡は、ヴィーヴォの鋭い言葉によって遮られる。
「ヴェーロ、行こう……。ずっと一緒だよ……」
 彼が優しく囁いてくれる。その言葉を受け、ヴェーロは力強く翼をはためかせた。
 そうだ、彼とはずっと一緒だ。
 自分がヴィーヴォを破滅させることなど絶対にない。ヴェーロは、ヴィーヴォの泣き顔がこの世で一番嫌いなのだから。
 空に向かって咆哮を発し、床を蹴って飛び立ってみせる。
 りぃんと音が鳴って、ヴェーロはそちらへと顔を向けていた。自分が壊した家の中に寝台が置かれ、少女が横たわっている。その少女の体の上に一輪の灯花が置かれてることに気がつき、ヴェーロは眼を見開いていた。
 青薔薇の灯花は、美しい光を放ちながらヴェーロたちのもとへと舞ってくる。輪舞を踊る灯花を、ヴィーヴォは優しく手に取った。
「君がいるべき場所はここじゃない……。おじいさんのところに帰ってあげて……」
 灯花に優しく語りかけ、ヴィーヴォは花の花弁に唇を落とす。ヴィーヴォが手を放すと、花は美しい音を奏でながら地上へと降りて行った。
 蒼く輝くその花を、家から出てきた老人がじっと見あげている。老人はヴェーロたちを見あげ、優しい微笑みを顔に浮かべた。
「あの人の家族を、僕が花にしたんだ。だから、あの人たちは敵じゃない。良い人間だよヴェーロ」
「きゅんっ!」
 ヴィーヴォが耳元で囁く。ヴェーロはそんなヴィーヴォに元気よく鳴いていた。
 あの笑顔を見れば、彼らがヴィーヴォの敵でないことは分かる。人間は嫌いだが、ヴィーヴォを慕う人たちは別だ。
 彼らはヴィーヴォにとても優しいから――
 ヴェーロは前を向く。
 上昇する風を翼で掴み、ぐんぐんと高度をあげていく。ヴェーロの眼に煌めく星空と、その向こう側で泳ぐ虚ろ竜たちの陰影が映りこむ。
 ヴィーヴォの楽しそうな笑い声が背中から聞こえる。その声に呼応するように、星が銀の尾を伴いながら地上へと落ちていく。
 綺麗だと、ヴェーロは思った。世界は綺麗だと。
 ヴェーロはこの世界が好きだ。ヴィーヴォが命を巡らせるこの世界が。
 ヴィーヴォが命を紡ぐこの水底が。
 瞬間、けたたましい花の音が地上から聞こえてきてヴェーロは我に返った。
「ヴェーロっ! 追手が来るっ!」
 ヴィーヴォが叫ぶ。
 後方へと振り向くと、黒翅を生やした奇妙なモノが、ヴェーロたちを追いかけてくるではないか。
 それは捻じれた手足を持つ木製の人形だった。
 人形たちは両手を前に翳し、光球を放ってくる。光球は光の尾を伴い、ヴェーロたちに迫ってきた。
 ヴェーロは大きく息を吸い込み、煙とともに火球を吐き出す。
 火球は分裂し、自分たちに襲いかかる光球とぶつかり合う。激しい爆音が響き渡り、両者は霧散する。煙が舞いあがる後方から、新たな光球がやってくる。
 ヴェーロは後方へと体を捻ひねり、火球を発した。竜の放った火球と光球がぶつかった瞬間、怒号があたりに響き渡った。
「ヴィーヴォっ! 待てっ!」
 ヴェーロの前方には、黒翅を持つ木鹿が浮いている。その背に乗るポーテンコは、鋭い眼差しを自分たちに送っていた。
「お前っ! 自分が何をしているのか分かっているのか?」
「あなたから逃げているだけだけど?」
 彼の大声にヴィーヴォは冷静な言葉を送る。ポーテンコは唇を噛みしめ、ヴェーロたちを睨みつけてきた。
「うん、馬鹿らしい。何もあなたに怯えることなんてなかったよ……。竜を殺されるなら、その前に殺しちゃえばいいんだよね……」
 ヴィーヴォが笑い声をあげる。それは哄笑へと変わり、暗い夜空に響き渡っていく。そんなヴィーヴォの笑い声が恐くなって、ヴェーロは小さく体を震わせていた。
「ヴェーロ、卵をお願い……」
 ヴィーヴォが耳元で囁く。彼が鬣を引っ張っている。どうやら鬣に卵を括りつけているらしいことがわかり、ヴェーロは体を動かさないよう心がけた。
「何を言っているっ……?」
「兄さんっ! 僕たちのために、ここで死んで!」
「なっ?」
 弾んだヴィーヴォの声に、ポーテンコが顔を歪める。瞬間、背中に軽い衝撃が走った。
 ヴィーヴォが背中を蹴り、そこから跳び下りたのだ。
 美しいヴィーヴォの歌声が周囲に響き渡る。夜空で瞬いていた星々が彼の周囲に集い、彼の眼へと吸い込まれていった。ヴィーヴォの体が光にゆらぎ、彼の体は宙で留まる。
 彼が息を吐くと、そこから灯花が生まれる。灯花たちは長い蔓となって、ポーテンコへと襲いかかっていった。
「なっ?」
 木鹿を操作し、ポーテンコは蔓を躱す。
「兄さん、僕が聖都の霊廟に閉じ込められていた理由忘れちゃった? 花たちが、泣き叫ぶ僕を守るために暴走して聖都を壊しまくったからだよねっ?」
 驚愕するポーテンコに、ヴィーヴォはにこやかな笑みを浮かべてみせる。彼は僧衣の懐に手を入れ、銀色に光るものを取り出した。
 ヴィーヴォの手にあるそれは、ヴェーロの鱗だ。彼は鱗に息を吹きかける。
 鱗は宙へと舞って、ポーテンコへと近づいていく。それらは組み合わさり、小さな竜の形をとってポーテンコへと飛びかかっていく。
 ヴィーヴォの人形術だ。
 黒の一族に代々伝わるその術は、物質に自身の生命力を注ぎ込むことにより思いのままに動かすことができる術だという。聖都では、巨大な虚ろ竜の遺骸ですらこの術を応用して乗り物として利用されていた。
 ポーテンコの人形もこの術によって動いている。
 ポーテンコが手を翳す。彼の周囲に漂っていた人形たちが、小さな竜へと向かって行く。
 竜たちの口から火球が放たれる。それに対抗するため、人形たちは光球を放った。火球と光球はぶつかり合い、いくつもの爆発が夜空で巻き起こる。
 ポーテンコを襲った蔓がヴィーヴォのもとへと舞い戻り、巨大な樹の幹となって彼に足場を提供した。
「自分の身を守るためにあなたに教わった人形術……。まさか、あなたを殺すために役立つとは思わなかったよっ!」 
 ヴィーヴォの足場となった幹がポーテンコに伸びていく。ヴィーヴォは幹の上を駆けあがり、腰に吊るしていたナイフを抜き放った。彼は短く跳躍してポーテンコの乗る木鹿へとナイフを振りかざす。ポーテンコは抜き放った直刀でそれを受け止めた。
「お前、本気で俺を……」
「うん、殺すよ。彼女のためだもん。彼女のためだったら、僕はあなただって殺せる……」
 ナイフを逆手に持ち、ヴィーヴォは幹の上へと着地する。真摯な表情を浮かべるヴィーヴォを見つめ、ポーテンコは黙り込む。
 ヴィーヴォの表情に、ヴェーロは寒気を覚えてしまう。
 こんなヴィーヴォを自分は知らない。
 彼はいつも人間に虐められて、それでも笑顔を絶やさない優しい人のはずだ。
「僕のために竜はたくさん人を殺した……。だから今度は、僕がそうする番だっ!」
「ヴィーヴォ!」
 体を捻らせ、ヴィーヴォはポーテンコへと跳ぶ。ポーテンコはヴィーヴォの繰り出す斬撃を剣でいなしていく。ヴィーヴォは後方へと飛び、懐から取り出した竜の鱗をポーテンコめがけて吹く。鱗はポーテンコに迫り、彼の肌を切り裂く。
「くっ!」
「凄いでしょっ。彼女の鱗の切れ味は天下一品なんだ。あなたなんてすぐ、切り刻んでくれるよ……」
 ヴェーロの鱗を指で摘み、ヴィーヴォはそれに愛しげに唇を寄せていた。妖しげに煌めく彼の眼差しから、ヴェーロは眼が逸らせない。
「きゅんっ!」
 こんなのヴィーヴォじゃない。そう思った瞬間、ヴェーロは鳴き声を放っていた。ヴィーヴォが驚いた様子で眼を見開き、自分を見あげてくる。
「竜……」
「あぁ……。そちらが、がら空きだったな……」
 ポーテンコが呟く。
 その瞬間、ヴェーロの背中に衝撃が走った。
 不意打ちを食らった。そう理解したときにはすでに遅く、背中には激痛が走っていた。
 喉から悲鳴が迸る。
 ヴェーロの翼は力なくさがり、体は地面に向かって落ちていく。遠ざかる視界に木製の人形たちが映りこんだ。
 どうやら人形たちに、光球をぶつけられたらしい。
「竜っ!」
 ヴィーヴォが呼んでいる。
 彼の元へ行こうとしても翼が動かない。ヴェーロは背中の痛みすらも感じることができなくなっていた。
「死ぬなっ! Veroヴェーロ!」
 ヴィーヴォが叫ぶ。
 ――ヴィーヴォが自分の名前を呼んでいる。
 そう理解した瞬間、ヴェーロの体は眩い光を放っていた。






 ヴェーロを中心に眩い光が周囲に放たれる。それは爆風を伴い、ヴィーヴォたちを追ってきたポーテンコにも襲いかかった。爆風に巻き込まれ、ポーテンコの人形は吹き飛ばされていく。
 ヴィーヴォも吹き飛ばされ、空中へと投げ出された。
 光りが静まる。
 そこに一人の少女が浮いていた。
 白い裸体に銀翼を纏った彼女は、銀糸の髪を夜空に翻しながらゆったりと眼を開ける。
 彼女の眼は、地球を想わせる蒼をしていた。
 少女の眼が落ちていくヴィーヴォを捉えた。そのヴィーヴォを追うように、卵が谷へと落下していく。彼女は驚いた様子で眼を見開き、ヴィーヴォを追う。
 空に何もいなくなる。
 静かになった夜空には、地球が美しく光り輝いているばかりだった。



 命の口づけ



 ――名は君を縛る。だから僕は人前で君の名前を呼ばない。君も誰にも名前を教えちゃいけないよ、ヴェーロ……。

 


 あれは自分が生まれて間もない頃だ。
 まだ、ヴィーヴォの頭よりもヴェーロが小さかった頃の話。ヴィーヴォは突然、ヴェーロを名前で呼んでくれなくなった。
 名を呼ぶことは、その存在を支配することと同義なのだとヴィーヴォは言う。だから、ヴィーヴォは自分の名を人前で呼ばないし、自分はヴィーヴォの言つけを守って誰にも名前を教えない。
 いや、教えられない。
 自分の名前を思い出そうとしても、思い出すことができないのだ。
 ヴィーヴォが自分の名を忘れさせた。
 どうしてそんなことをしたのとヴィーヴォに問うと、彼は悲しそうに眼を歪めて答えた。
 ――ごめんね。僕は君を失いたくないんだ……。僕が名前を呼ぶと、君は何でも望みを叶えてくれる。恋人が欲しいって言ったら、君は人間の姿にすらなってくれた。僕を好きって言ってくれた。聖都を壊して、僕を守ってくれさえしてくれた。
 だからね、僕は誰にも君の名前を教えない。君にも名前を忘れてもらう。
 そうすれば、君は僕だけのものだから。ずっとずっと、永遠に――
 そしてヴィーヴォは人の姿をした自分の耳元で、こう囁いた。
 ――僕は、君をずっと自分自身に縛りつけておきたい、酷い男なんだよ。
 笑みを浮かべた彼の顔は酷く歪で、悲しげだったことを思いだせる。
 それからヴィーヴォは、自分の唇に静かにに口づけをしたのだ。





「それでも竜は、ヴィーヴォを失いたくない……」
 昔のことを思い出しながら、少女の姿をしたヴェーロは水晶の谷を彷徨っていた。谷を流れる川を泳いでヴィーヴォを探しているが、彼の姿はどこにもない。川の水はヴェーロの白い肌を滑り、裸体を冷やしていく。
 それでもヴェーロは気にすることなく川を泳ぐ。
 花の香りが下流からする。花吐きに特有の匂いだ。この先にヴィーヴォがいるはずだが、彼の姿を認めることはできない。
 ヴェーロは周囲に視線を巡らせた。
 浅瀬に打ち上げられた白いものを、視界のすみに捉える。それが卵であることに気がつき、ヴェーロは浅瀬へと向かっていた。浅瀬に続く岸辺に流れ着いている人間がいる。
 見慣れた紺青の髪をしているその人間は、ヴィーヴォに違いない。
「ヴィーヴォ……」
 ヴェーロは卵を抱きかかえ、ヴィーヴォのもとへと駆け寄っていた。卵をそっと脇に置き、ヴィーヴォの側にしゃがみ込む。
「ヴィーヴォ……」
 話しかけてもヴィーヴォは応えようとせず、眼を閉じたまま動かない。
 ヴィーヴォの体にふれる。氷のように冷たい彼の体温に驚き、ヴェーロは思わず手を放してしまった。彼の胸に耳を充てる。弱々しい彼の心音を聞いて、ヴェーロは動揺した。
 ヴィーヴォの命がつきかけている。
 冷たい水に長時間漬かっていたせいもあるが、本当の原因は別にある。
 花を、吐きすぎたせいだ。
 花吐きは自らの命を糧に魂を花に変え、新たな命へと転生させる。そのため彼らの寿命はとても短い。
 ヴェーロはそのことを誰よりも知っている。ヴィーヴォは何度も死にかけたし、その度にヴェーロは彼を喪う恐怖に襲われた。
「死んじゃ、だめ……」
 そっとヴィーヴォを抱き寄せ、ヴェーロは彼の顔に頭を近づける。眼を半分閉じて、ヴェーロは彼の唇に自分のそれを重ね合わせていた。
 人の姿をした自分に、いつもヴィーヴォがするように。
 ヴィーヴォの口内に息を送り込む。その息の中に、ヴェーロは自身の生命力を託していた。
 ヴィーヴォが死にかけるたびに、ヴェーロは自分の命を彼に分け与えてきた。虚ろ竜である自分の寿命は、地球と同じぐらいあるとヴィーヴォは言っていた。
 だから、その命を少しあげることぐらい何てことない。
 唇を離す。
 ヴィーヴォが水を吐き出し、激しく咳き込む。うっすらと眼を開け、彼は自分を見つめてきた。
「ヴェーロ……?」
「ヴィーヴォ……」
 ちゃんと自分のことが分かるみたいだ。ヴェーロは優しく微笑んでヴィーヴォの手を握ってみせる。弱々しくヴィーヴォは自分の手を握り返してくれた。
「また……僕は君を……」
 ヴィーヴォが悲しげに眼を歪ませる。ヴェーロは静かに首を振って、ヴィーヴォの唇に自分のそれを重ねようとする。
「駄目だっ! Vero!」
 ヴィーヴォの声に体の動きがとまる。
 ヴェーロはヴィーヴォを見つめることしかできない。もっと命を与えないと、ヴィーヴォは近いうちに倒れてしまうかもしれないのに。
「ごめん……。でも、君の命を吸ってまで僕は生きたくない。君を傷つけたくないんだよ……」
 ヴィーヴォが起き上がり、ヴェーロを優しく抱きしめてくれる。涙に震えるヴィーヴォの声にヴェーロは悲しくなっていた。
「ヴィーヴォ……死んじゃいやだ……」
 じわりとヴェーロの眼に涙が滲にじむ。ヴェーロはヴィーヴォの背中に手を回し、彼を優しく抱き寄せていた。
「死なないよ……。絶対に君を独りになんてしないから。約束しただろう? ずっと一緒だって……」
「ヴィーヴォの嘘つき……」
「ヴェーロ……」
 命を分け与えなければ死んでいたのに、この人は何を言っているんだろうか。ヴィーヴォを抱きしめる腕に力を込め、ヴェーロは彼の胸元に顔を埋めてみせる。
「ヴェーロ……卵は?」
 ヴィーヴォが小さく問う。
 その声にヴェーロは顔をあげていた。ヴィーヴォを放し、彼の傍らに置いた卵を両手に持つ。冷え切った卵の感触にヴェーロは眼を見開いていた。
「ヴィーヴォっ!」
「貸して、ヴェーロっ!」
 動揺するヴェーロの手から、ヴィーヴォは卵を取り上げる。額を卵にしばし押しつけたあと、彼は悲しそうに眼を歪めた。卵を胸に抱き寄せ、ヴィーヴォは俯く。
「ヴィーヴォ……卵……」
「ごめん……ヴェーロ……卵は……」
「それが、お前が彼女を手放さない理由か」
 冷たい声が会話を遮る。
 ヴィーヴォは素早く顔をあげ、眼を見開く。彼は無言でヴェーロに卵を手渡し、ヴェーロを庇かばうように立ちあがる。鋭く眼を細め、ヴィーヴォは眼の前にいる声の主を睨みつけた。
 ポーテンコが、自分たちの前に立っていた。彼の周囲では、ヴェーロたちを襲った人形たちが翅をはためかせている。
「虚ろ竜が人の形をとることはあるが、よく化けたものだな。お前が惑わされるわけだ…」
 彼の眼がヴェーロに向けられる。ポーテンコの視線からヴェーロを守るように、ヴィーヴォはヴェーロを自分の背後へと匿った。
「形なんて関係ないよ。竜は僕にとって大切な存在なんだ。あんたには分からないだろうけどね」 
 静かにヴィーヴォは言葉を紡ぐ。だが、彼の声はかすかに震えてた。
 ――この人は、ヴィーヴォの敵だ。
 ざわりと、ヴェーロは自身の血が騒ぐのを感じていた。ヴェーロはポーテンコを睨みつける。
 彼が何かしたら、ためらうことなく殺してしまおう。
 ヴィーヴォを自分から奪おうとしたあのときのように――
 ふと、ポーテンコの視線がヴェ―ロに向けられる。彼は辛そうに眼を歪め、自身を見つめてきた。自分に彼は悲しげな笑みを投げかけてきたのだ。
 その笑みに、ヴェーロは大きく眼を見開く。
 困ったように眼を伏せ、ポーテンコはヴィーヴォへと視線を戻した。
「彼女を教会に引き渡すつもりはないんだな?」
「彼女を失うぐらいなら、死んだ方がマシだ……」
 ヴィーヴォの言葉にポーテンコは落胆した様子で俯いてみせる。彼は纏っている外套の懐へと手をのばし、そこから何かを取り出した。彼はヴィーヴォに向かってそれを投げてくる。
「あっ……」
 ヴィーヴォは投げられたものを、取り落としそうになりながらも受けとめる。
 ヴェーロは彼の肩越しにそれを見みる。それは、鉱石でできた竜胆の首飾りだった。
 首飾りの花は、ヴィーヴォが吐く灯花とそっくりだ。
 竜胆は黒の一族を象徴する花でもある。首飾りを見つめながら困惑するヴィーヴォに、ポーテンコは告げた。
「だったら山奥になど引籠っていないで、自分から旅をして仕事をすることだな。聖都と違い、辺境の地は花になれない星が山ほど溢れかえっている。その魂を花に変えていけ。黒の一族の花吐きであるその証をつけてな。仕事の場所は私がお前に伝える」
「兄さん……?」
「旅には足が必要だろう? だったらその竜も必要になるはずだ。それに――」
 彼は眼に笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「彼女がいる限り、お前は死なないのだろう? だったら、お前は聖都に戻る必要はない。辺境の地を回り、聖都と黒の一族の名声を高めることに力を入れろ」
 いい終わり、彼はヴェーロに視線を向ける。
「頼たのむから、私たちのようにはならないでくれ……」
 縋るような彼の眼差しに、ヴェーロは言葉を失う。そんな彼を責めるように、ヴィーヴォは眼を鋭く細めてみせる。ポーテンコは困ったような笑みを浮かべ、ヴェーロたちに背を向けた。
 ポーテンコが指を鳴らす。
 周囲を飛んでいた人形たちが複雑に絡み合い、翅の生えた木鹿へと姿を変えた。木鹿に跨り彼はまた指を鳴らす。鹿は前足で水を蹴り、翅をはばたかせて星空へと飛んでいく。
「本当、あの人って素直じゃないよなぁ……」
 空を仰ぎながら、ヴィーヴォが呟く。その声がどこか寂しそうにヴェーロには聞こえた。

 竜の頭

 りぃん、りぃんと灯花が鳴る。
 花たちの音をメロディに、ヴィーヴォは歌を奏でていた。彼は卵しっかりと抱きしめている。
 竜の姿をとったヴェーロは、花畑に座り彼の物悲しい歌に耳を傾けていた。
 あれから竜の姿に戻った自分は、ヴィーヴォを乗せてこの花畑まで帰ってきた。冷たくなった卵を必死になってあたためるヴェーロに、ヴィーヴォは優しく話しかけてくれたのだ。
 ――卵を弔おうと。
 卵を弔うためにヴィーヴォは歌をうたっている。彼の周囲には星々が集まり、瞬きを繰り返していた。星々はヴィーヴォの眼に吸い込まれ、彼の眼の中で煌めく。
 不意にヴィーヴォの歌声が途切れる。彼は地面に膝をつき、俯いた。
「きゅんっ」
 ヴェーロは頭をさげてヴィーヴォの顔を覗き込む。小さな嗚咽が聞こえて、ヴェーロはヴィーヴォの額を鼻先でなでていた。
「ごめんね……。助けられなくて……」
 冷たくなった卵にヴィーヴォの涙が落ちていく。その涙を見ていたくなくて、ヴェーロはヴィーヴォの頬をそっと舐めていた。
「ヴェーロ?」
 ヴィーヴォが顔をあげる。涙で濡れた彼の眼は、まっすぐ自分に向けられていた。
「僕は、いつか君も殺しちゃうのかな、ヴェーロ?」
 そっとヴェーロの額に自分のそれを押しつけ、ヴィーヴォは囁き続ける。
「君が聖都を破壊したとき、兄さんが君の命を救ってくれた……。僕が君を名前で縛っている限り、君は危険じゃないって聖都の教皇を説得してくれたんだ。その代りに、僕は君と聖都を追放された……。でも僕は、君に守られてばっかりだ……。君を守らなきゃいけないのは、僕なのに……。この子だって、僕が……」
 彼のあたたかな涙が、自分に降りそそぐ。
 ヴェーロはそっと眼を瞑っていた。
 ヴェーロの体が光に包まれ、少女の姿をとる。眼を開いて、少女の姿になったヴェーロはヴィーヴォに片手を差し伸べた。
「貸して……卵……」
「ヴェーロ……?」
「貸して……ヴィーヴォ」
 ヴィーヴォに微笑みかける。ヴィーヴォは片手で涙を拭い、ヴェーロにそっと卵を差し出した。
 ヴェーロの両手に、冷たい感触が広がる。それでもヴェーロはその掌に、かすかな鼓動を感じていた。
 この子は生きている。生きようとしているのだ。
 そっと卵を顔に近づけ、ヴェーロは唇を落とす。生命力を息に託し、ふっとその息を卵に吹きかけてやった。
 それでも卵は冷たいまま。もう一度、卵に口づけをして命を分け与える。
「ヴェーロっ! それは――」
「卵……生きてる……」
 ヴィーヴォの言葉を静かに遮る。
 冷たかった卵がほんのりとあたたかくなっているのを感じ取り、ヴェーロは微笑んでいた。それと同時に、卵が優しい銀の光を放ち始める。
「嘘……。だって、あのとき……」
 驚いた様子でヴィーヴォが立ちあがり、ヴェーロから卵を取り上げる。卵を抱きしめた彼はあんぐりと口を開け、眼からまた涙を零しはじめた。
「嘘……。本当に、あったかい。あったかいよ、ヴェーロ……」
 泣きながら彼は笑い始める。ころんと地面に横になり、ヴィーヴォはぎゅっと卵を胸に抱き寄せた。
「僕がさわったときには、ぜんぜん冷たかったのに……。なんでヴェーロには生きてるのが分かるかなぁ……。ずるいよ、そんなの」
 笑顔をヴェーロに向け、彼は話しかけてくる。彼の胸で輝く卵を見て、ヴェーロはヴィーヴォに跳びついていた。
「ちょ、ヴェーロっ?」
「竜も卵抱っこしたい……」
 ぷうっと頬を膨らませ、ヴェーロはヴィーヴォを睨んでみせる。ヴィーヴォは弾んだ笑い声をあげてみせた。
「やだっ!」
「きゅーんっ!」
 声を張り上げ、ヴェーロはヴィーヴォを抱きしめる。こうすれば、ヴィーヴォもろとも卵を抱きしめることができるのだ。
「ちょ、ヴェーロ……」
 ヴィーヴォの声が震えている。彼に顔を向けると、ヴィーヴォは頬をほんのりと赤らめて顔を逸らしていた。
 ――あぁ、可愛い私の子……。ここにいた……。
 そのときだ。ヴェーロの頭の中で、声が響いたのは。
 同時に、周囲の灯花がいっせいに音を奏で始めた。
「来る……」
 誰かがやって来る。そんな気がして、ヴェーロは呟いていた。
 ヴィーヴォを放し、上空を仰ぐ。蒼く輝く星々が大きくうねり、空から顔を覗のぞかせる巨大なものがあった。
 竜の頭だ。
 ヴェーロと同じ、銀の鱗に覆われた竜の頭が、蒼い眼をこちらに向けてた。
 その頭の先には、巨大な翼と体の陰影が透けてみえる。
「なに……あれ……?」
 ヴィーヴォの唖然とした声が聞こえる。彼に顔を向けると、ヴィーヴォは大きく眼を見開き、竜の首を眺めていた。
 竜が叫ぶ。
 その叫びは轟きとなって、地面を震わせていく。
「ちょ、卵がっ!」
 ヴィーヴォが叫ぶ。
 竜の咆哮とともに卵が浮きあがり、明滅を繰り返しているではないか。卵は物凄い速さで竜の頭を目指して飛んでいく。
「お母さん……?」
 あの竜の頭は、卵のお母さんに違いない。卵を追いかけようと、ヴェーロは背中に生えた翼をはためかせていた。
 そんなヴェ―ロの手をヴィーヴォが引っ張る。驚いて彼に顔を向けると、彼は顔を俯かせヴェ―ロの手を力強く握りしめてきた。
「ヴェーロ……」
「ヴィーヴォ……?」
 ヴィーヴォの眼が縋るようにヴェーロに向けられている。まるでどこにも行かないでくれと訴えるように。
 ヴェーロはそんな彼に優しく微笑んでいた。
 眼を見開く彼の細い体に手をかけ、横抱きにする。
「えっ? ヴェーロ? ちょ、なんでそんなに力持ちなのっ?」
 ショックを受けた様子でヴィーヴォが声をあげる。そんな彼を無視して、ヴェーロは空へとはばたいた。
 花畑の上を、卵が駆けていく。それを追い、ヴェーロは飛ぶ。ヴェーロの翼は明滅する花々を掻き分け、暗闇に銀の筋を描いていく。灯花が宙へと浮きあがり、ヴェーロたちの後を追う。
 花畑を通り過ぎ、ヴェーロは森の上を駆ける。ヴェーロの翼が樹冠をゆらすと、木々に留まっていた星が煌めきを伴って、ヴェーロたちを追いかけてきた。
「凄いっ! みんなついてくるよっ! ヴェーロっ!」
 腕の中でヴィーヴォが歓声をあげる。彼へ眼を向けると、ヴィーヴォは夢中になって自分たちを追いかけてくる灯花を見つめていた。
 そんな彼を見て、ヴェーロは微笑む。
 ヴェーロは翼をはためかせ、上昇する。目前に迫る水晶の峰を滑るように上がっていくと、そこに歪んだ自分の姿が映りこむ。微笑みを浮かべると、水晶に映りこむ歪んだヴィーヴォの鏡像が微笑み返してくれた。
 峰の頂には、巨大な竜の頭と、輝く地球が浮かんでいた。
 卵は、竜の頭の前で浮いている。その卵にひびが入り、硝子が砕けるような音があたりに響き渡った。
 卵から、光球が生じる。それは小さな翼を形づくり、次第に子竜へと形を変えていく。
「ぎゅんっ!」
 蒼い眼をしばたたかせ、銀色の子竜は鳴き声をあげてみせた。
「生まれたっ! 僕とヴェーロの子供が生まれたっ!」
 ヴィーヴォが満面の笑みを浮かべ、歓声をあげる。
「竜の……子供じゃない……」
「えっ……」
「赤ちゃんのお母さん、眼の前にいる……」
 ヴェーロは竜の頭に微笑んでみせる。大きな眼を細め、竜の頭は優しい眼差しをヴェーロに送る。
 どうしてだろう。その眼差しに、懐かしさを覚えてしまうのは。
 ――お前もおいで……。ずっと、ずっと探していたよ。私のかわいい娘……。
 頭の中に、またあの声が響き渡る。それが竜の頭の声だと分かり、ヴェーロは眼を見開いていた。
「お母さん……?」
 ヴェーロの言葉に、竜の頭は穏やかな微笑みを浮かべてみせる。
「ヴェーロ?」
 ヴィーヴォが不安げにヴェーロに話しかけてきた。
 ヴィーヴォは震える眼をヴェーロに向け、ヴェーロの首に腕を回してくる。
「中ツ空に、帰りたいの?」
 ヴィーヴォが耳元で囁く。
 消え入りそうな彼の声を聞いて、ヴェーロの心臓は跳ね上がる。ヴェーロは、そっと母親である竜の頭を見つめた。
 残念そうに眼を細め、竜の頭は左右に動く。
 ヴィーヴォを中ツ空に連れていくことは出来ない。そう母はヴェーロに伝えているのだ。
「じゃあ、竜はここに残る……。ヴィーヴォといる……」
 ヴェーロは自分の意思を告げる。驚いた様子で竜の頭は眼を見開き、優しく微笑んだ。
 ――娘をお願いします。
「えっ! なにこの声?」
 竜の首が小さく口を開くと、ヴェーロの頭に声が響く。それと同時に、ヴィーヴォが驚いた声をあげた。
「ヴィーヴォ……竜のお母さん」
「えっ?」
 ヴェーロは母親である竜の頭を指さす。ヴィーヴォは素っ頓狂な声をあげ、竜の頭を見つめた。
「その……いつも、ヴェーロにお世話になっています。えっと、ヴェーロのお母さん……なんですか?」
 ――この子を拾ってくれて、ありがとう。
 優しい声が、ヴェーロの頭の中に響く。ヴィーヴォが穏やかな笑みを浮かべ、ヴェーロに視線を向けた。
「ヴェーロは、僕を暗闇から救ってくれました。それからずっと、僕と一緒にいてくれる大切な女です」
 そっとヴィーヴォは竜の頭へと顔を向ける。
「僕に彼女を授けてくれてありがとうございます。あなたがいたから、ヴェーロは僕の側にいてくれる」
 彼の言葉に、竜の頭は微笑んでみせる。彼女は低い鳴き声をあげ、ゆっくりと星空から首を引き抜いていく。
「ぎゅん!」
 愛らしい声をあげながら、母を追いかけ子竜が飛翔する。
 子竜の後を追い、灯花が螺旋を描きながら昇っていく。その螺旋の中を、蒼く煌めく星が走る。
 それは、蒼い柱となって空へと伸びていく。
 ヴェーロとヴィーヴォは頭をあげ、水底を去っていく虚ろ竜の頭を眺めていた。
 掻き分けられていた星々が元の位置に戻り、竜の頭が消える。蒼い柱も光を失い、姿を消していった。
「みんな、行っちゃたね……」
 星空を仰ぎながら、ヴィーヴォが口を開く。
「灯花たちも、森をさまよっていた星たちも、僕たちの卵もみんな……。ヴェーロは、行かなくてよかったの?」
 口元に小さく笑みを浮かべ、彼はヴェーロに問いかける。
「ヴィーヴォは、竜がいない方がいい……?」
 しゅんとした声でヴィーヴォに問い返す。ヴィーヴォは静かに首を振り、ヴェーロに返した。
「僕は、君がいるからここにいられる……。君があのとき降って来てくれたから、僕は君と一緒にここにいるんだ。放したりなんかしないよ、絶対に。ずっと君は、僕といるんだから。僕は、君と一緒にいなくちゃいけないんだから……」
「じゃあ、竜もヴィーヴォといる」
 ヴェーロは微笑んでみせる。ヴィーヴォは驚いた様子で眼を見開き、微笑んでくれた。
「ヴィーヴォ……うたって……」
「うん」
 ヴィーヴォは頷いて、歌を紡ぐ。
 美しいアルトの旋律は星々をゆらし、ヴィーヴォの側へと誘っていく。流れ星となってヴィーヴォの周囲に集まった星たちは彼の眼に吸い込まれ、眼の中で輝く。
 ふうっとヴィーヴォが息を吐く。
 吐き出された灯花は、ヴィーヴォたちの周囲を輝きながら巡る。 
 ヴィーヴォは輪舞を繰り返す花の一輪を手に取って、ヴェーロの髪に飾った。ヴェーロは銀の髪に差された花に手を添える。
「綺麗だよ、ヴェーロ」
 ヴィーヴォが優しい微笑みを送ってくれる。
 ヴィーヴォに歌のお返しをしなくちゃいかない。ヴェーロは微笑んで、彼の顔を覗き込む。
「ヴェーロ……」
 ヴィーヴォが名前を呼んでくれる。彼は潤んだ眼を伏せ、ヴェーロから眼を逸らす。
 ヴェーロはそんな彼を胸元に抱き寄せ、震える唇に口づけをした。
 眼を閉じて、ヴィーヴォはヴェーロの唇を受け入れる。ヴィーヴォの唇はほんのりとあたたかくて、ヴェーロは心地よさに眼を細めていた。
 少女はしっかりと愛しい少年を抱きしめ、星空に浮かんでいる。
 蒼く輝く地球が、そんな二人を優しく照らしていた。



 星空の恋人たち

 灯花に囲まれながら空を舞う少女と少年を、木製の鹿に乗ったポーテンコは静かに眺めていた。その眼差しは、蒼い地球に照らされ寂しげにみえる。
「また、私たちは繰り返すのか?」
 微笑み合う二人を見つめながら。ポーテンコは眼を伏せる。彼は星空を仰ぎ、小さく呟いた。
「また、私を連れて行ってはくれませんでしたね。私は、ずっとあなたのことを想っていたのに……」
 その声に応える者はない。彼を慰めるように、空の星々は優しく瞬く。かつて彼らを灯花に変え導いていた自分が、今は彼らに慰められる立場になっている。
 その月日の残酷さが妙におかしくて、ポーテンコは苦笑を漏らしていた。
 彼女に会ったことで自分の人生は変わってしまった。
 愛しい女は空へと去り、自分は独りこの地に取り残された。
 虚ろ竜の舞う空を眺めても、彼女は応えてくれない。それでも、ポーテンコは愛しい人へと語りかける。
「教えてください……。あの子たちは――」
 ポーテンコの言葉は、軽やかな灯花の音によって遮られる。周囲を見回すと、風に流された花々が自分の前を通り過ぎていくところだった。
 ふと、視線を感じてそちらへと眼を向ける。
 竜の少女に抱かれたヴィーヴォが不安げな眼で自分を見つめていた。彼を抱く少女は、翼を大きくはためかせ、鋭い眼を自分へと向けていた。
 その蒼い眼に、思わず見入ってしまう。その眼の色は、彼女と同じものだから。
 少女に微笑みかけ、ポーテンコは木鹿の腹を蹴る。木鹿は低く嘶いて、黒い翅を動かす。
 木鹿が上昇するとともに、少女と少年の姿は小さくなっていく。少女の射るような眼差しを思い出しながら、ポーテンコは眼を伏せてた。
 空から降ってきた弟の恋人は、あの人の子に違いないのだ。
 そして、彼女の父親は――
 静かに、ポーテンコは眼を閉じる。
 星空を飛ぶ虚ろ竜の羽ばたきが、かすかに聞こえてくるような気がした。

 Mermaid 竜と、人魚

魂を持たない人魚は、花を吐く青年と恋に落ちました――

 朽ちた花


 

 

 腐った肉の香りがした。
 磯の香りと、生臭い海風の香りに混じって、腐りかけた人の香りがしたのだ。メルマイドは薄紅色の眼を顰め、香りの元を見つめる。
 それは砂浜に打ち捨てられた生ごみだった。腐ってヘドロみたく溶けた皮膚には蛆がたかり、凸凹とした皮膚の内と外を行ったり来たりしている。
 海に流れ着いた流木のごとくそれの体は痩せ細り、蛆の湧いた肌は今にも体からずり落ちそうだった。もうずり落ちて、純白の骨が見え隠れしている場所もある。
 けれども、それの胸はかすかに動いていた。腐りかけた唇から、それはかすかに息を漏らしていた。
 大きく落ち窪んだ銀の眼がメルマイドに向けられる。
 そしてそれは、優しくメルマイドに微笑んだのだ。

 殻の人魚たち

 腐った肉の香りがした。
 きゅんとヴェーロは鳴いて、鼻を啜ってみせる。湿った海風が鼻にはいってきて、ヴェーロは思わずくしゃみをしていた。
「あぁ、なんて美しい鬣……。本当に君は最高だよ、ヴェーロ……」
 背筋が寒くなる台詞が、耳朶に届く。きゅんとヴェーロは鳴いて、眉間に皺を寄せていた。
 自分をげんなりさせる存在が、背中には乗っている。
 番のヴィーヴォは黒い眼をうっとりと細め、銀糸の鬣を櫛で梳いてくれる。彼は箆も使ってヴェーロのいらなくなった鱗を剥いでいく。ヴィーヴォが箆を動かすたび体に心地の良い刺激が走り、ヴェーロはきゅんと眼を細めていた。
「あぁ、なんて可愛い鳴き声なんだ……。本当に君はこの世で一番愛くるしい女性だよ……」
 ヴィーヴォが弾んだ声をはっする。彼の発言にヴェーロは眼を顰めていた。心地よい鱗取りもヴィーヴォの台詞のせいで気持ちよく感じない。
 ヴィーヴォは自分のことを四六時中褒めちぎってくる。ヴィーヴォのそんな台詞を聞かされるたび、背筋が寒くなるのはなぜだろうか。
 気を取り直して、ヴェーロは前方を見つめる。
 自分たちのいる岬からは、蒼い光を発する海原がどこまでも広がっていた。その海原に、うねる星空が映りこんでいる。
「はーい、次は鍵爪のお手入れだよぉー」
 ひょいっとヴィーヴォが背中から跳びおりて、前方へとやってくる。彼は手に持った鑢でヴェーロの鍵爪を研ぎ始めた。
「これから狩りにいくからねぇ。僕もナイフのお手入れしないと……」
 ヴィーヴォは腰に吊るしたナイフをそっとなでてみせる。それと同時に、美しい歌声が海原から鳴り響いてきた。
 人魚の歌声だ。

 おいで、おいで……。

 そう、人魚たちの歌声は囁きかけてくる。ヴィーヴォは眼を鋭く細め、海を見すえた。
 彼の眼の中で漂っていた光が、外へと飛びだす。それは、ヴィーヴォの眼に留まっていた星だ。星たちは明滅を繰り返しながら、海へと飛んでいく。
 そんな星たちに、ヴィーヴォは歌をうたってみせる。
 彼の美しいアルトの声色が、人魚の蠱惑的な歌と重なる。
 それは輪唱となって、海原に響き渡る。
 星が、ヴィーヴォのもとへと戻ってくる。星は彼の眼に吸い込まれ、その中で輝きだした。
 ヴィーヴォの眼が光にゆらぐ。ふっと彼が唇から息を吐くと、それは花となって空に散らばっていった。
 菖蒲に似たそれは、藍色をした結晶の花弁を持っている。花はヴィーヴォの周囲を輪舞する。
「人魚に捕まっちゃうからね。ここから早く離れて欲しいな……」
 周囲を舞う花をなで、ヴィーヴォは微笑む。ヴィーヴォの言葉に応え、花たちは星空へと昇っていった。
 ヴェーロは空を仰ぐ。
 蒼い星空の向こう側では竜たちの陰影が行ったり来たりを繰り返していた。
 空の向こうには中ツ空と呼ばれる世界がある。そこはヴェーロの故郷でもあり、空を飛んでいる虚ろ竜たちの棲む世界でもある。
 そんな竜の影を瑠璃色の地球が照らしている。その地球を目指し、ヴィーヴォの吐いた花が飛んでいく。
 この虚ろ世界は、三層に分れる。
 上方にある、生命の故郷たる地球と、虚ろ竜たちが飛び回る中ツ空。そしてヴィーヴォたちが住まう、虚ろの底にある水底だ。
 水底は、虚ろ竜たちが取りこぼした命が生きる場所だ。この世界で死んだ生命の魂は、死後も星となって夜空をさまよう。
 そんな魂を浄化し、灯花と呼ばれる花の結晶に変える者たちがいる。灯花に変えられた命は、新たな生命として生まれ変わることができるのだ。
 人々は、そんな存在を花吐きと呼んでいる。
「さぁ、愛しい僕の恋人。人魚狩りの時間だよ」
「きゅんっ!」
「まったく、ポーテンコ兄さんも人使いが荒いんだから……。死にかけの弟に人魚殺しなんてやらせないよねぇ」
 ため息をついて、ヴィーヴォは身に着けた首飾りに手を充てる。首飾りには竜胆の形をした飾りがあしらわれていた

 ――頼むから、私たちのようにはならないでくれ……

 ヴィーヴォの兄であるポーテンコの言葉を思い出し、ヴェーロは胸を痛めていた。
 少し前まで、聖都を追放された自分たちは洞窟の巣で気ままな生活をしていた。
 でも、その生活はもう終わりだとヴィーヴォは言った。自分は花吐きだから、人のために役に立たなくてはいけないと。花吐きがいなくなっている今、さまよっている魂を浄化できるのは自分だけだと。
 それが罪を犯した自分の贖罪なのだとヴィーヴォは言う。
「ヴェーロ、どうかした?」
 ヴィーヴォが優しく声をかけてくる。彼を困らせたくなくて、ヴェーロはわざと明るい声で鳴いてみせる。ヴィーヴォは優しく微笑んで、自分の首を抱きしめてきた。
「兄さんのことは気にしなくていい。僕は、君と一緒にいたからいるの。君がいなかったら、今でも僕は暗い霊廟に独りでいただろうね……」
 彼が寂しそうに眼を伏せる。そんな彼を見ていると、ポーテンコが自分に向けてきた眼差しを思いだしてしまう。
 とても辛そうな、彼の眼差しを。
 卵だった自分がヴィーヴォのもとに落ちてこなかったら、ヴィーヴォは罪人として裁かれることはなかったのではないのか。
 彼が自分を罪人だと責めることもなかったのではないか。
 そんなことを、ヴェーロはポーテンコの眼差しを思い出すたび考えてしまうのだ。
「ねぇ、ヴェーロ。僕のことじゃなくて、兄さんのこと考えてるでしょ?」
 ヴィーヴォに話しかけられ、我に返る。彼が不機嫌そうに自分を見ている。
「君の番は僕だよね? なんで他の男のことなんて考えるのさ。僕は、君がいればそれでいいのに……」
 ヴィーヴォはふんっと自分から顔を逸らす。何だかおかしくなって、ヴェーロは彼に優しく鳴いていた。ヴィーヴォはちらりと自分を片目で見てくる。
「ヴェーロ、竜の姿をした君にだから言うけれど、僕はいつも君のことばっかり考えてるよ……。でもさ、君が人の姿になると何も言えなくなって、君が竜の姿になるとクサい台詞が止まらなくなるんだ……。姿形なんて関係ない……。君がどんな姿をしていたとしても、毎日君のために愛のポエムを囁いてあげたいのに……」
「きゅん……」
 それは気持ち悪いからしなくていい。ヴェーロは自分の気持ちを鳴き声に託す。ヴィーヴォは眼を見開き、自分の胸元に顔を埋めた。
「ごめんなさい……。お願いだから、嫌わないで……。僕、君がいないと生きていけないんだ……」
「きゅん……」
 別にそんなことで嫌いになったりしないのに。困った自分が鳴くと、ヴィーヴォは潤んだ眼で自分を見あげてきた。
「だって、僕の側にいてくれるのは君だけだもん。僕を花吐きじゃなくて、ヴィーヴォとして扱ってくれるのも君だけ……。それに、君は家族じゃなくて僕を選んでくれた。それが嬉しくて、その……」
 かぁっと頬を赤らめ、ヴィーヴォは自分から顔を逸らす。彼は自分の頭を抱き寄せ、額に唇を落とした。
「この前のお返し……」
「きゅん……?」
 彼はいたずらっぽく笑って、頭を放してくれる。そんなの毎日やってるじゃないかと、鳴き声でツッコミを入れてみせた。
「いいの! 男をお姫様抱っこしたうえに、唇を奪うヴェーロの方がおかしい!」
 顔を真っ赤にしてヴィーヴォは叫ぶ。
「本当は、ちゃんと僕だって君にキスをしたいさ……。でも、恥ずかしくなっちゃって……」
 眼を逸らし、ヴィーヴォはぼやく。
 そんなヴィーヴォを嘲笑うように、人魚たちの囁き合う声が聞こえてきた。
「たっく、海の乙女たちは僕らの愛する時間すら奪っていくねぇ、ヴェーロ」
 口元に歪んだ笑みを浮かべ、ヴィーヴォは海原を睨みつける。
「さぁ、ヴェーロ。今日も素敵な人魚たちと歌をうたおうか。彼女たちの悲鳴が、僕の歌のメロディになるんだけど」
 光の瞬く眼を自分に向け、ヴィーヴォは妖しく微笑んでみせた。彼は腰に差したナイフをなぞり、ヴェーロの鼻筋にキスをする。彼は勢いよく地面を蹴ってヴェーロの背に跨った。






 はらはらと銀の鱗が、海底に落ちてくる。
 海上を仰ぐ。藍色に輝く結晶の花が海の向こう側を飛んでいるのがみてとれた。
 蒼く輝く瓶を持ったメルマイドは、尾鰭を翻し海面へと上昇していく。地球に照らされ、彼女の鱗は蒼を帯びた虹色に輝く。海藻のようにゆれる桜色の髪が水面に映りこみ、メルマイドは薄紅色の眼に笑みを浮かべていた。
 落ちてくる銀の鱗の一片を掴んでみる。
 掴んだ鱗の角度を変えると、それは貝のような乳白色の光沢を放った。
 綺麗だ。そして、思いだす。
 蛆と汚物に塗れながらも、綺麗な眼でメルマイドに微笑んでくれた彼の姿を。
 メルマイドは胸に抱えた瓶を顔の前に持ってくる。
 その瓶の中に、一揃いの眼球があった。
 それは地球の光を受けて、銀色の燐光を放っている。
 彼の眼は本当に素敵だ。
 その眼に微笑みかけてもらえることが嬉しかった。
 彼は、メルマイドが看病をすると快方に向かっていった。それでも彼の体は元の形を取り戻すことはなく、醜い彼を同胞であるはずの人間は追涯した。
 それでも、彼の眼の美しさは変わらなかった。彼は星屑のように煌めく眼を細め、いつもメルマイドに微笑んでくれたのだ。
 彼の吐く灯花は、メルマイドの鱗にそっくりで――
 不意に、アルトの歌声が海中を満たす。不快なその歌声に回想を邪魔され、メルマイドは眼を顰めていた。
 また、あいつがやって来た。
 私たち人魚から星を奪う少年が。
 海上へと眼をやると、銀色の竜が空を飛んでいる。波にゆられ歪む竜の背には、夜色の少年が乗っていた。
 銀の竜に乗った花吐きが、メルマイドたち人魚を狩りに来たのだ。
 歌声に応えるように、白砂で覆われた海底が光り輝く。海底には桜色の珊瑚が咲いている。その珊瑚を蒼く照らすものがあった。珊瑚の枝に瓶が置かれ、その中で星たちが瞬きを繰り返しているのだ。
 少年の歌声に共鳴し、星の入った瓶が震える。瓶に罅が入り、それらが割れていく。星たちは煌めきながら、海月のように海中を漂う。
 おいでと、少年の歌声が語りかける。
 僕の花におなりと、彼は星たちを誘う。
 メルマイドは胸元に眼の入った瓶を抱き寄せ、海上を睨みつける。
 海面がゆれ、竜の翼が海に漣をつくりだす。
 美しい歌を奏でる略奪者たちは、メルマイドのいる海底を襲おうとしていた。



 


 仲間であった花吐きが、殻に殺された――
 そう、ヴィーヴォが語ってくれたのは数か月前だ。
 星々を映す海は、黄金色の輝きを宿している。その美しい煌めきを見つめながら、ヴェーロはヴィーヴォの言葉を思い出していた。
 殻は、地球から落ちてきた卵が割れたときに生まれた存在だ。命を宿した卵が割れ、その殻が水底に落ちていった。
 その卵の殻から、意思を持つ生き物が生まれたという。
 魂を持たない彼らは長大な寿命と、魂に惹かれる性質を持つ。
 彼らには星になった魂を蒐集する習性がある。その習性から、星を灯花にする花吐きをたびたび襲うことがあるというのだ。
「珊瑚色は本当にお人よしだったからなぁ……。一生懸命、病気になった漁村の人たちをお世話して、自分も病気に感染した挙句、殻に殺されちゃったんだから。僕より年上だったんだよ、あの人……」
 自分の背でヴィーヴォがぼやく。
 聖都には教会を統べる色の一族がいる。始祖の竜の直系たる彼らからは、強力な力を持つ花吐きが生まれる。
 色に関する二つ名を与えられる一族の花吐きたちは、教会に捧げられ始祖の竜の使いとして信仰の対象となる。
 ヴィーヴォは黒の一族を代表する二つ名の花吐きだ。
 ヴィーヴォの二つ名は夜色。そのほかにも、金糸雀、緋色、若草、そして今回殺された珊瑚色の二つ名があるという。
「珊瑚色は二つ名の中でも力が弱い方でね……。だから、吐ける花も少なかった……。長生きできたのに何で花吐く以外の原因で死んじゃうかな? 僕が来る前に、殺されるかなぁ……」
 寂しげなヴィーヴォの言葉に、ヴェーロの胸はぎゅっと詰まる。
 ヴィーヴォは人間が苦手だ。でも、その人間に彼は優しい。
 特に、彼は同胞である二つ名の花吐きのことを大切に思っているらしいのだ。
「まぁ、敵はとるけどね……。行くよ、ヴェーロ!」
「きゅんっ!」
 ヴィーヴォが声をかけてくる。ヴェーロは勢いよく鳴いて、海を目指し急降下していく。
Veroヴェーロ!」
 自分の鼻先が冷たい海面を突き破った瞬間、ヴィーヴォが名を呼んだ。
 ヴェーロの体は眩い輝きに包まれる。翼は飛魚の鰭を想わせるものへと変形し、後ろ脚は一纏まりになって尻尾と繋がる。翼と鰭のついた前足を後方へと流し、形を変えたヴェーロは海を悠然と泳ぐ。
 そんな自分の背鰭を掴み、ヴィーヴォもまた海中へと沈んでいく。
 そんな自分たちに近づく影があった。
 人魚だ。
 尾鰭を動かし、人魚たちが自分たちを追って海の中へと沈んでいく。
 ヴィーヴォは首に巻いていた首飾りを外し、人魚めがけて投げつけた。ヴェーロの鱗でできた首飾りは水中でばらばらになり、人魚たちに襲いかかる。
 人魚たちは悲鳴をはっし、海底へと沈んでいく。
 水かきのついた人魚の腕がヴィーヴォに伸びる。ヴィーヴォは腰に佩いたナイフを抜き放ち、人魚の腕を切りつけた。
 気泡と共に人魚が咆哮をあげる。その人魚の胸元を、ヴィーヴォは袈裟懸けに切り、体を蹴って自分から引き離す。
 人魚は、煌めく欠片となって崩れ去っていく。
 海底が近くなる。
 珊瑚礁の中で輝く星たちを認め、ヴェーロは動きをとめる。
 ヴェーロは大きく口を開け、巨大な気泡を背中にいるヴィーヴォに放った。気泡はヴィーヴォを包みこみ、珊瑚礁へと降下していく。
 ヴィーヴォが唇を開く。
 美しいアルトの旋律が、気泡に閉じ込められた彼を中心に放たれた。
 瓶の割れる音が海中に響く。瓶の中に閉じ込められていた星たちが、海中を漂い始めた。
 揺蕩う星たちが、瞬きを繰り返しながら気泡の周囲を巡る。それは光の筋となってヴィーヴォの眼に吸い込まれ、星屑の光となって瞬く。
 ヴィーヴォの眼が煌めく。彼の紺青の髪が淡い輝きを放ちだした。
 ふっとヴィーヴォが息を吐く。
 彼の唇から、竜胆を想わせる結晶の花が生じる。藍色のそれは気泡の中を漂い、光の筋を描きながら海面へと上昇していく。
 ヴィーヴォを包む気泡が割れる。ヴェーロは急いでヴィーヴォへの側へと泳いでいった。彼は自分の背鰭を掴み、背中を軽く叩く。
 ヴィーヴォの合図を受けて、ヴェーロは海面へと上昇する。怒り狂う人魚たちの声が耳朶に轟く。人魚たちが自分たちを追いかけてくる。
 そんな人魚たちにヴィーヴォが微笑みかけた。
 海底から銀色に光る粒子が舞いあがり、人魚たちに襲いかかる。
 ヴィーヴォが沈めておいたヴェーロの鱗だ。銀の鱗は閃きながら人魚を切り刻んでく。
 悲鳴が海底に木霊する。人魚たちが透明な粒子となって崩れていく。
 ふと、かすかな歌声が聞こえ、ヴェーロは眼を見開いていた。
 歌声が気になって、海底へと眼を向ける。珊瑚の森の中で、悲しげに歌う独りの人魚がいた。
 桜色の髪を翻し、彼女は薄紅色の眼を自分に向けてくる。そんな彼女の周囲を、人魚たちの粒子が舞っている。
 歌は、ヴェーロに宛てられたものだった。

 どうしてあなたは、人といるの。
 あなたは、こちら側の存在なのに―― 

 人魚の歌声に、ヴェーロは眼を見開いていた。
 歌声は告げる。
 私の大切な人は、人間に殺されたと。

 海辺の葬儀

「ただいま。珊瑚色……」
 そっとヴィーヴォは光苔の生えた墓石に話しかける。ヴィーヴォの声に反応するように、墓石の周囲に生えた薄紅色の灯花がしゃらんと音を奏でた。
 桜に似たその花々は、ヴィーヴォを歓迎するように明滅を繰り返す。その灯花たちを見て、ヴィーヴォは海底の光景を思い出していた。
 墓石の周囲に生える灯花は、人魚たちが巣食う珊瑚礁のようだ。
 それから、海底で見かけた桜色の人魚。
「あなたは、海底にいったことがあったの?」
 ヴィーヴォは桜色の人魚に思いを馳せる。悲しげに歌を奏でていた彼女にヴィーヴォは困惑していた。
 人魚は、彼が人に殺されたとヴェーロに訴えかけていた。
 ――ねぇ、夜色。殻は美しいと思わない? 彼女たちは心優しいから魂に惹かれるんだと思う。
 珊瑚色の言葉を思い出す。
 霊廟に閉じ籠っていたヴィーヴォのところに、彼はよくやって来て外の世界の話を聞かせてくれた。
 疫病で苦しむこの漁村のことも、彼はヴィーヴォに話してくれたものだ。
 そこに棲む、海の魔性たちの話も。
 彼もヴィーヴォのように魂を人魚たちに盗られそうになったらしい。そして、初めは彼女たちをヴィーヴォのように狩っていたのだが――
「なんか、彼女たちと仲良く歌をうたっていたとか……。彼女たちのために、海底に灯花の花畑を作って、兄さんにお叱りを受けていたらしいですね、あなた……」
 苦笑しながらヴィーヴォは珊瑚色の墓をなでていた。
「なんか、あなたらしいや……」
 自分には到底できない芸当を簡単にやってのけてしまう珊瑚色が羨ましい。
 珊瑚色は、奔放で自由な性格の人だった。
 彼の話術にかかれば、どんな人も心を開く。ヴィーヴォもそれは同じだった。
 そんな彼に惹かれる人は多かったと思う。例えばそれが人でない殻だとしても、彼は人と区別することなく接したのではないだろうか。
 たぶん、ヴェーロに歌を贈った人魚も彼を慕っていたに違いない。
「でも、なんであの人魚はあんなこと……」
 ヴィーヴォは黒い眼を眇めていた。
 珊瑚色はこの漁村で流行っている伝染病に罹ってしまい、死を待つばかりの状態だった。
 聖都から派遣されていた珊瑚色の仕事は、伝染病で死んだ人々の魂を灯花に変えることと、人魚たちから星となった魂を守ること。
 そんな彼を、村人たちは手厚く看病していたという。それは兄ポーテンコが記した記録からも明らかだ。
 そんな彼は死の間際に忽然といなくなり、亡き人となって海岸で発見された。
 死んだ彼の周囲では、人魚たちが歌を奏でていたという。
 それは明るい、とても陽気な歌声だったそうだ。
 人魚たちにも個性があり、人格がある。
 おそらく彼をよく思っていなかった人魚の一団が、彼を殺したのだろうとポーテンコは言っていた。
 その死を祝い、歌をうたっていたのだろうと――
「夜色さま……」
 震える声が自分を呼ぶ。
 二つ名で呼ばれることに、まだ慣れることができない。苦笑しながら、ヴィーヴォは声のした背後へと振り返っていた。
 黒髪を二つに束ねた少女が、不安げな眼差しをヴィーヴォに送っている。彼女は黒衣を纏った小さな少年の手を握りしめていた。
 漁村の子供たちだ。
 珊瑚色がよく面倒を見ていたのか、彼女たちはよく珊瑚色の話をしてくれる。
 珊瑚色はこう言っていたそうだ。
 海には、桜色のお姫さまがいると――
「お父さんが……動かない……」
 眼に涙を溜めながら、少女は小さく告げる。少女に手を握られた少年は、姉である彼女の手を力強く握りしめていた。
「そう……。お父さんは、頑張って生きたんだね……」
 ヴィーヴォは子供たちに優しく微笑みかけてみせる。そんなヴィーヴォを見あげ、子供たちは泣きだした。
 彼女たちに母親はいない。伝染病で亡くなったのだ。
 そんな母親の面倒をみていた父親も、病に倒れ明日をも知れない状態だった。
 そっとヴィーヴォは子供たちに近づき、優しく彼女たちを抱きしめる。ヴィーヴォの体に顔を埋め、子供たちは泣き続けた。
 子供たちに、ヴィーヴォは優しく語りかける。
「大丈夫、死は恐いものじゃないから……。永遠の別れなんかじゃないから……。お父さんのために素敵な歌をうたおう。お父さんが、君たちの側にずっといられるように……」








 彼の歌声が聞こえる。
 漣の音を伴奏にしたその歌声に、ヴェーロは耳を傾けていた。
 銀糸の髪が人の姿をとったヴェーロの頬をなで、下方へと流れていく。蒼い眼を歪んだ窓に向けると、眼下に広い砂浜が見えた。
 地球の光を浴びて輝く砂浜にいくつもの松明が輝いていた。紺青の海は砂浜に小さな波を送り続ける。
 その波際に素足をつけ、星空に向かって歌声を放つ少年の姿があった。
 彼の横には、小さな木製の帆船がある。その船の中に、たくさんの人間が詰め込まれていた。
 みんな胸の前で指を組み、ぴくりともうごかない。人々の体は、淡く光り輝いている。
 魂が、彼らの肉体から離れようとしているのだ。
 ヴィーヴォが――墨色の僧衣を纏った少年が――美しいアルトの旋律を周囲に響き渡らせる。
 その声に呼応するように船に収められた体は淡い輝きを放ち、そこから光る星たちが生じる。 星たちは光の筋を描きながら、歌を奏でるヴィーヴォのもとへと集った。
 星々は螺旋を描きながらヴィーヴォへと近づいていき、彼の眼へと吸い込まれた。彼の体が白く輝く。彼が唇を開くと、灯花が暗い夜空に放たれた。
 竜胆の形をとったそれは、松明の元へと集っていた村人たちのもとへと落ちていく。
「ヴィーヴォがいない……」
 ヴィーヴォを見つめながら、ヴェーロは呟いていた。
 机に頬を押しつけ、ヴェーロは持っていた鱗筆を手放す。自身の鱗で作られた白銀の筆は頼りない音をたてて、机の上に転がった。
 照明代わりに使っている風信子の灯花がりんと音を放つ。
 鱗筆の転がった机の上にヴェーロは眼をやる。そこには、ヴィーヴォが繊維をより合わせて作った、美しい長光草の紙が置かれている。

 Vivo,Vivo,Vivo,Vivo……。

 紙には拙い筆跡で、彼の名前がいくつも綴られていた。そこにヴェーロは彼の名前を書き足していく。

 Vivo……。

 書いたばかりの文字をなぞると、インクが白い指につく。
 彼が自分の手を握って文字の書き方を教えてくれた。
 手の甲に、彼の手のぬくもりを感じる。寂しかった心に灯がついたような気がして、ヴェーロは顔を綻ばせていた。
 ――これが僕の名前、ちゃんと覚えてね。
 彼の声が耳朶に蘇り、うっとりと眼を細める。その声で、ヴィーヴォはたくさんの物語をきかせてくれる。
 この世界を夢見ている地球の少女の話。
 地球から生命の宿った卵が虚ろ世界に落ちてきた話や、虚ろ世界とともに生まれたという始祖の竜の話。
 殻から生まれた人魚たちの、悲しい恋物語。
 でも、ヴィーヴォはこのところ物語を聞かせてくれない。
 この村に来てから、ヴィーヴォは人間たちにつきっきりだ。伝染病を罹った村人たちの面倒を見て、彼らが死ねば花を吐く。
 そして、星となった村人たちを守るために人魚も狩る。
 ヴェーロがつくった巣にいたころは、ずっと一緒にいられたのに。
「人間の姿……。窮屈で嫌……」
 細い自分の指を眺めながら、ヴェーロはぼやく。五指を動かし筆を手にしてみる。手の中にある鱗筆に違和感を覚え、ヴェーロはそれを手放してしまう。
 この漁村にやって来てから、ヴィーヴォはヴェーロに人の姿でいることを強いるようになっていた。
 別に人の姿になるのは構わないのだが――
「きつい……」
 纏っている服を両手で掴み、ヴェーロはぼやく。
 長光草で編まれたそれは、簡素な作りをしているが、胸元と裾にあしらわれた竜胆の飾りが見る者の眼を引く。
 ヴェーロのために、ヴィーヴォがつくってくれた服の一つだ。服というものをヴェーロは好きになれない。
 纏うと体が圧迫されて、縛りつけられているような感覚を抱いてしまうのだ。
 ヴェーロは聖都の人間たちに縄で縛りつけられたことがあった。傷だらけのヴィーヴォがやってきて、ヴェーロをすぐに縄から放してくれたけれど。
 そのときのことを思い出すから、服はあまり着たくない。
「きゅーん!」
 叫んでがばりと起き上がる。服に手をかけ、それを思いっきり脱ぎ捨ててみせた。
 そのときだ。部屋の扉が開けられたのは。
「ごめんヴェーロ、遅くな……」
「ヴィーヴォっ!」
 彼の声がして、ヴェーロは扉へと顔を向けていた。驚いた様子でこちらを見つめるヴィーヴォと眼があって、ヴェーロは首を傾げる。
 さらりとヴェーロのうなじを銀髪が流れていく。ヴィーヴォはいっそう大きく眼を見開いて、ヴェーロから顔を逸した。
「服……着て……」
 頬を赤く染めながら、ヴィーヴォが小さく言う。
「服、嫌い……」
「着なさいっ! Vero!」
 ヴィーヴォが怒鳴り声をあげる。
 ヴェーロは腕に不自然な力が入るのを感じていた。ひとりでに腕は床に落ちた服を拾いあげ、己の意思とは関係なく服を纏う。
「もう……名前呼ばせないでよ……」
 片手を顔に添え、ヴィーヴォがこちらを見つめてくる。ほんのりと潤んだ彼の眼がヴェーロを睨みつけている。
 その眼に惹きつけられるように、ヴェーロは彼に抱きついていた。
「ヴィーヴォっ!」
「ちょ、ヴェーロ!」
 ヴィーヴォが仰向けに倒れ込む。痛いという彼の言葉を耳にして、ヴェーロはがばりと顔をあげていた。
「ごめん……なさい……」
「いいよ……。僕こそ、遅くなってごめん……」
 そっとヴィーヴォが頭をなでてくれる。彼の手はそのまま顔の輪郭をなぞり、ヴェーロの頬を優しくさすった。そんな彼の手をヴェーロは両手で抱きしめる。
 あたたかな彼の手のぬくもりに、ヴェーロは笑みを零していた。
「あの……夜色さま……。虚ろ竜さまは……」
 人間の声が聞こえて、ヴェーロは顔をあげていた。人間の子供たちが、扉から不安げに顔を覗のぞかせている。髪を二つ結びにした少女と、幼い少年だ。
 子供たちを見てヴェーロは顔を顰めていた。少女が怯えた様子で肩を震わせる。
「ごめん。こんな格好で」
 苦笑しながら、ヴィーヴォが体を起こす。そっとヴィーヴォはヴェーロを胸元に抱き寄せ、子供たちに話しかける。
「彼女が僕の竜だよ」
 ヴェーロが子供たちに顔を向けると、彼女たちはあんぐりと口を開けヴェーロを見つめているではないか。なんだか気分が悪くなって、ヴェーロはヴィーヴォの胸に顔を押しつけていた。
「竜……?」
「人間……嫌……」
「この子たちは、親を亡くしたばかりなんだ。だから、その……僕が人間に虐められるから君は人間のことを嫌うけれど、この子たちは違う。僕の大切な友達なんだ。この子たちは僕にいつも優しくしてくれる……。だから、ね」
 ヴィーヴォの言葉に、ヴェーロは子供たちの方へと顔を向けていた。子供たちは困惑した様子でヴェーロを眺めるばかりだ。
「ヴィーヴォ、虐めない?」
 こくりと首を傾げ、ヴェーロは子供たちに問いかける。ヴェーロの言葉に少女は大きく眼を見開き、首を横に振った。
「そんなことしませんっ! 夜色さまは私たちのために良くしてくださいます。それに、葬儀で逃げてしまった父さんの星を、追いかけようって言ってくれて……」
 少女は俯いてしまう。彼女の頬に煌めくものを認め、ヴェーロは眼を見開いていた。お姉ちゃんと、少女の隣にいた少年が彼女に抱きつく。弟を、少女は優しく抱きしめ返した。
 この子たちの悲しみを、ヴィーヴォが慰めようとしている。そっとヴェーロはヴィーヴォから離れ、窓際へと向かっていた。
 ヴェーロの背中が光り輝き、それは一対の竜の翼となる。
「竜?」
 不思議そうにヴィーヴォが自分を呼ぶ。ヴェーロは彼に振り向いて、微笑んでみせた。
「乗せて……あげる……」
 ヴェーロは勢いよく窓を開ける。磯の香りが鼻を突き、強い強風がヴェーロの銀髪をゆらしていく。
 これなら、よく飛べそうだ。
 口元に笑みを浮かべ、ヴェーロは窓枠に足をかけていた。そのままヴェーロは外へ飛ぶ。
「お姉ちゃんっ!」
 少女の悲鳴が聞こえる。
 宙に身を乗り出したヴェーロの体は光に包まれ、竜の姿をとっていた。
「きゅんっ!」
 翼をはためかせて窓の側へと戻ってみせる。すると、窓際に立つ子供たちがあんぐりと口を開けて自分を見ているではないか。
「え……これって……」
「きゅんっ!」
 弾んだ声をあげ、ヴェーロは子供たちに背中を向けてみせた。




 銀の翼を翻し、ヴェーロは星空を駆ける。
 その背には、夜色を想わせる少年と二人の子供たちが乗っていた。
 ヴェーロの眼の前には、光の軌道を描きながら飛び回る星がある。その星を追い速度をあげる。
「うわー、凄いよっ! 竜!」
「落ちるーっ!」
「姉ちゃん、騒ぎすぎ!」
 背中の上ではしゃぐ子供たちの声が、耳に心地よく響き渡る。
「きゅーん!」
 ヴェーロは機嫌をよくして、下方に広がる大海原を見つめた。そのまま翼を窄め、急降下する。背中で子供たちの悲鳴が聞こえたので、慌てて上昇した。
「竜……気持ち悪い……」
 ヴィーヴォの弱々しい声が聞こえてくる。やり過ぎたと、ヴェーロは顔を顰めた。それでも流れ星に追いつくため、飛ぶ速度をぐんぐんとあげていく。
 海風が鱗をなでるたび、皮膚が痛む。奥歯を噛んで、ヴェーロはその痛みを紛らわせた。眼を鋭く細め、蛇行を続ける流れ星を睨みつける。
「お父さん……どうして……」
 少女の悲しい声が聞こえてきて、ヴェーロは大きく翼をはためかせていた。白銀の翼は夜空に光の軌道を描き、風を掴む。
 あの流れ星は、子供たちの父親だという。
 それなのに、魂になった星ときたら葬儀のときに逃げ出したというではないか。
「きゅーんっ!」
 何だかお腹のあたりがムカムカとしてヴェーロは叫んでいた。自分と星の距離はどんどん縮んでいく。
「竜っ! 止まってっ!」
 ヴィーヴォが叫ぶ。
 背中に強い衝撃が走って、ヴェーロは空中で留まる。自分の背を駆けあがり、ヴィーヴォが宙へと躍り出た。
 ヴィーヴォの紡ぎ歌があたりに響き渡る。彼の体は空中で制止し、眼は淡い輝きを放ち始めた。
 強いアルトの響きが、夜空に広がる。流れ星はヴィーヴォに引き寄せられ、彼の眼へと吸い込まれる。
 ふっとヴィーヴォが息を吐く。
 彼の唇からサルビアに似た結晶の花が生み出される。灯花はヴィーヴォの周囲で輪舞を踊り、ヴェーロの背へと静かに降りたった。
「やっと、捕まえられた……」
 ヴィーヴォのぼやきがきこえる。宙に漂う彼は、苦笑を浮かべながら自分の背中を眺めていた。背の上では、子供たちの歓声が聞こえてくる。
「お疲れ、竜……」
 ヴィーヴォが宙を泳ぎ、自分に近づいてくる。彼は優しく自分の頭を抱きしめてくれた。
 ヴェーロは彼に額を擦りつけ、甘えた声をはっしてみせる。その声に応え、ヴィーヴォは頭の鬣を労うように梳いてくれた。
「ありがとうござます! 夜色さまっ!」
「ありがとう……」
 背の上から子供たちの声が聞こえる。
「お礼だったら、彼女に言って……」
 自分の頭をなでながら、ヴィーヴォは子供たちに言葉をかける。
「ありがとうございます。虚ろ竜さま」
「竜のお姉ちゃん。さんきゅっ!」
 二つの小さな逆さ頭が、ヴェーロの眼に映りこむ。笑顔を浮かべる子供たちを見て、ヴェーロは優しく眼を細めていた。


 牙と花



 ヴィーヴォの子守歌が、優しくヴェーロの耳に入り込んでくる。灯のようにあたたかなその声に、ヴェーロはうっとりと眼を細めていた。
 ヴィーヴォが流れる銀髪を優しく耳にかけてくれる。なんだかくすぐったくて、ヴェーロはヴィーヴォの膝に乗せた頭を動かしていた。
 体を反転させて、ヴィーヴォの体に抱きつく。
「こら、ヴェーロ……」
 顔をあげると、苦笑するヴィーヴォと眼が合う。思わずヴェーロは微笑んでいた。
「うたって、ヴィーヴォ……」
「子守歌より、物語を聴かせて欲しいんじゃなかったの?」
「きゅーん」
 笑うヴィーヴォに口を尖らせてみせる。ヴィーヴォは困ったように眼を細めて、言葉を続けた。
「あと……服は着てくれると嬉しい……」
 顔を赤くしながら、ヴィーヴォは裸のヴェーロから視線を逸らす。彼の言葉が何だか気に食わなくて、ヴェーロは体を起こしていた。 
「服、きつい……」
「ごめん、採寸しなおしてちゃんと作り直すから、お願い着て……。ついでに下着もちゃんと着て欲しい……」
 両手で顔を覆いヴィーヴォは呻く。彼が指のあいだから、ちらりとヴェーロの胸を見つめているのは気のせいだろうか。
「なんで、服……着ないといけないの……?」
 ぽつりとヴェーロは不満を口にする。そっとヴィーヴォは顔から手を取り去って、ヴェーロを見つめた。
「なんで、竜は竜の姿でいちゃいけないの?」
「ごめん……。でも虚ろ竜はとっても珍しいから、みんな警戒しちゃうんだ。だから、ヴェーロにはなるべく人の姿でいてもらいたい。その方が、友達もできるだろうし……」
「人間、嫌い……」
 曖昧な笑みを浮かべるヴィーヴォに、ヴェーロは言葉を突き返す。ヴィーヴォは困ったように俯いた。
「あの子たちのことも、嫌い?」
 ヴィーヴォの言葉に、ヴェーロは軽く眼を見開く。
「嫌いじゃ……ない……」
「じゃあ、僕のことは……? 僕も人間だよ……」
 顔をあげヴィーヴォがこちらを見つめてくる。悲しげな彼の黒い眼の中で、頼りなさげに星屑の光が彷徨っている。
「ヴィーヴォは違う!」
「ちょ、ヴェーロっ」
 ヴェーロはとっさにヴィーヴォに抱きついていた。そのはずみでヴィーヴォの体は仰向けに倒れ込んでしまう。
 ふわりと、彼から咽るような花の香りが漂ってきて、ヴェーロは顔をあげていた。花吐きは花のような香りを発する。その香りに、ヴェーロはときおり酔ってしまいそうになる。
 この漁村に来てから、ヴィーヴォの香りが強くなったのは気のせいだろうか。
「よかった、嫌われてなくて……。君が僕のすべてだもん……」
 ヴィーヴォが髪をなでてくれる。そっと彼は自分を抱き寄よせ、耳元で囁く。
「君がいなきゃ、僕はずっと独りだった。だから、嫌わないでヴェーロ……」
 縋るような彼の眼差しから、眼が離せなくなる。長い睫毛に隠された彼の眼は黒曜石のように煌めいていた。
 綺麗だと、ヴェーロは思った。
 この人に子は、きっと美しいに違いない。この人の吐く、灯花のように。
 吸い込まれるようにヴェーロはヴィーヴォの眼を覗き込む。彼の眼球をそっと舌先で舐めてみた。
「ひっ!」
 ヴィーヴォが怯えたように声をはっする。
「ヴェーロ……?」
「竜は卵が欲しい……。そしたら、ヴィーヴォは独りじゃない……」
「ちょ、何言って……」
 震える彼の唇に指を添える。唇から指を放し、ヴェーロは彼の唇に口づけをしていた。
 体が熱い。体内の子宮がかすかに震えていることを感じ取り、ヴェーロは微笑を浮かべていた。その微笑みを映すヴィーヴォの眼が怯えに彩られる。
 卵を抱いていたヴィーヴォの姿を思いだす。彼は幸せそうに眼を瞑り、虚ろ竜の卵を愛しげに抱きしめていた。
 ヴィーヴォは言っていた。卵が孵ったら新しい家族が増えると。ヴェーロはもう独りじゃないと。
 この人の子供を産もう。そしたら、たとえヴェーロがいなくなっても、この人は独りじゃなくなる。
 ヴィーヴォの唇を舌でなぞる。彼の体がびくりと痙攣して、ヴェーロは笑みを深めていた。何度も何度も彼の唇を啄んで、彼の服に手をかける。
「駄目だめだよ……ヴェ……」
 自分の手を制そうとしたヴィーヴォの唇に、ヴェーロは舌を差し入れていた。逃げ惑う彼の舌を自身のそれで絡めとり、弄ぶ。舌を引き抜くと、唾液が糸を引いて弧を描いた。
「ヴェ……ロ……」
 ヴィーヴォのか細い声がする。彼は潤んだ眼をこちらに向けていた。その眼を見て、ヴェーロの中で何かが弾ける。
 ヴィーヴォの首筋にそっと舌を這わせる。
「やっ、やめっ……」
 ヴィーヴォの口に指を差し入れて、彼の言葉を遮った。指を激しく出し入れしてみると、ヴィーヴォが苦しそうに体を震わせる。
 服をはだけさせ彼の鎖骨を指でなぞる。彼の胸元に黒い焼印があるのを認め、ヴェーロは動きをとめていた。
 夕顔の焼印は罪を犯した者に与えられるものだ。自分と彼を引き離そうとした連中が、彼を痛めつけた証。
 彼を奪おうとした人間たちの姿が脳裏に蘇る。
 彼に名前を呼ばれた瞬間、ヴェーロは何も考えられなくなって――
「見ないで……」
 ヴィーヴォの震える声が耳朶に響く。涙を流しながら、彼は自分を見つめていた。
 まるで、あのときのようだ。
 自分と引き離されそうになり、必死になって逃げ惑う彼の姿を思い出す。恐怖と悲しみに怯える彼の眼を見て、ヴェーロは思った。
 彼を誰にも渡したくない。
 でも、どうすれば――
「竜は、ヴィーヴォを食べたい……」
「ヴェーロ……」
 導き出された答えが、小さな言葉になる。眼を見開く彼の頬を優しくなで、ヴェーロはヴィーヴォの首筋へと舌を這わせていた。
 甘い体臭が鼻を突く。
 とても美味しそうな香りだ。食べたら、その香りはヴェーロの口の中で弾けて、彼の存在を強く感じさせてくれるに違いない。
 彼を、感じたい。
 大きく尖った犬歯を剥き出しにして、ヴェーロはヴィーヴォの首筋に食らいついていた。
「うわぁああ!」
 ヴィーヴォの悲鳴が耳朶に轟く。
 どろりと舌に広がる血の感触に、ヴェーロは我に返る。強烈な花の香りが鼻孔を貫いて、ヴェーロはヴィーヴォの首筋から口を離していた。
「ヴェーロ……」
 彼が怯えた眼差しを自分に向けてくる。
 自分は、ヴィーヴォを食べようとしていた。彼を、愛しさのあまり殺そうとした。
「あ……あぁ……」
 恐ろしさに体が震えてしまう。
 自分がしようとしていたことが信じられなくて、ヴェーロは両手で頭を抱えていた。
「いやあぁあああああ!」
 叫び声をあげながら、ヴェーロは頭を激しく振る。
「ヴェーロっ!」
 ヴィーヴォが叫び、自分を抱きしめてくれる。そっと彼に囁いた。
「大丈夫、僕は大丈夫だから……」
「あ……」
「大丈夫だから……。恐がらないで……」 
 優しく頭をなでられる。彼の手の感触にヴェーロは我に返っていた。気持ちが落ち着いていくのを感じ、そっと眼を閉じる。
「ごめんね……。もう、大丈夫だから。僕は、ここにいるから……」
 背中をあやすように叩かれ、ヴェーロはヴィーヴォの胸元に体を預けていた。
「もう平気……?」
 そっと顔をあげると、ヴィーヴォの優しい微笑みが眼の前にある。
「ヴィ……」
 口を開こうとした瞬間、犬歯についた血が舌に流れ落ちた。
 血の味が口内に広がる。彼をまた、喰らいたくなる。
「あ……いや……いやっ!」
「うぁっ」
 ヴェーロはヴィーヴォの体を突き放していた。ヴィーヴォは呻き声をあげながら、床に倒れ込んでしまう。
「ヴェーロ」
 倒れた彼が、震える眼差しをヴェーロに送る。ショックを受けているのか、彼は自分を見つめたまま動かない。
「なんで……? 君が僕を拒絶するなんて……。そんなこと、ありえない……」
 起き上がり、ヴィーヴォがへたり込むヴェーロに手を伸ばしてくる。ふわりと彼の香りが鼻孔をくすぐって、ヴェーロは思わず彼の手を払いのけていた。
「ヴェーロ……」
「来ないで……」
「ヴェ……」
「来ないでっ!」
 拒絶の言葉は、叫びに変わる。ヴィーヴォに背を向け、ヴェーロは駆けだしていた。
「ヴェーロ!」
 ヴィーヴォの悲鳴が耳朶に轟く。それでもヴェーロは構うことなく窓を開け放ち、そこから飛び立っていた。
 生暖かい海風が、ヴェーロの体を弄ぶ。その感触に、ヴィーヴォの血の味を思いだしてしまう。
 彼と一緒にいたくない。
 彼を、食べてしまいそうで恐いから。
 彼を、殺したくないから――


 竜と友達

 どこをどう飛んだのか覚えていない。気がついたらヴェーロは海原の真ん中に浮いていた。細木のように頼りない体を、小さな波がゆらしていく。空を仰ぐと、地球が優しく海を照らしていた。
 飛び過ぎて、疲れて落ちたのだと思う。ここに来るまでの記憶が曖昧で、夢を見ているような気持ちだ。
 あたたかな海は、ヴィーヴォの手を思い出させる。自分をあたたかく包んでくれる彼のぬくもりを。
 自分は、そのぬくもりを喰らおうとした。
 彼を誰にも渡したくないために――
「あ……あ……」
 両手を顔で覆い、涙を耐える。それでも涙はとまってくれず、ヴェーロの頬に絶えず筋をつくった。
 泣いた方が楽になるのだろうか。
 涙は自分に芽生えたおかしな感情を洗い流してくれるだろうか。そう思い、ヴェーロは声をあげて泣いた。
 ヴェーロの泣き声は、海原の果てまで響き渡わたる。
 自分の泣き声に混じって、かすかな歌声がヴェーロの耳に響いた。
 ヴィーヴォの子守歌のように、あたたかく、それでいて優しい少女の声。
 泣かないでと、歌声は言っていた。
 泣かないでと、歌声はヴェーロに語りかけていた。
 驚いてヴェーロは眼を見開く。おそるおそる顔から両手をとると、見知らぬ少女が自分の顔を覗き込んでいる。
 珊瑚のような薄紅色の眼を瞬かせ、彼女はじぃっとヴェーロを見つめていた。
 海底で、自分に歌をうたっていた人魚じゃないか。
「きゅーん!」
 驚きのあまり、ヴェーロは鳴き声を発していた。そんなヴェーロを見つめながら、人魚はころころと笑う。
Kio estas via nomo?あなたの名前は?
「何……?」
Kio estas via nomo……あなたの名前は……
 彼女が何を言っているのかわからない。
 そういえば、ヴィーヴォが教えてくれたことがあった。殻たちは、地球で使われていた古い言葉を喋るのだと。
 ヴェーロとヴィーヴォの名前もみんな地球の古語をもとにつけられている。ヴィーヴォは古い言葉を少し喋ることが出来るみたいだけれど、ヴェーロに意味がわからない。
 困ったように眼を眇め、人魚は唇を開く。そこから、ソプラノの美しい響きがはっせられた。

 水面に漂う竜の少女
 名もなき彼女は、どこの誰?
 名もなきあなたの、名はどこに?

「きゅん……」
 歌の内容が手に取るようにわかり、ヴェーロは驚きに眼を見開く。人魚は薄紅色の眼を細め、微笑んでみせた。

 私たちの異なる言葉
 歌は言葉を飛び越える
 私の歌はあなたの言の葉となり
 あなたの耳に届いている

 歌の内容から察するに、人魚たちの歌は聞いた対象が慣れ親しんでいる言語として聞こえるらしい。
 まるで魔法みたいだ。
 ぱっとヴェーロは顔を輝かせる。人魚はそんなヴェーロを見て、笑みを深めた。

 あなたは誰
 あなたは誰
 教えて
 あなたを教えて

 ヴェーロの髪を優しくなでながら、人魚は歌で語りかける。自分の名前を言おうとして、ヴェーロは愕然とした。
 名前が、分からない。
 それもそのはずだ。ヴィーヴォが自分から名前を取りあげたのだから。
 その事実がなんだか悲しくて、ヴェーロは人魚から視線を逸らしていた。
「竜は、竜……。名前は、分からない……」

 夜の少年
 あなたを支配する人
 彼があなたを苦しめるの?

 人魚がヴェーロの頭を抱き寄せてくる。優しくヴェーロの髪に唇を寄せ、彼女は歌を紡ぐ。


 銀の竜
 地球の眼をしたあなたは
 悲しみで満ち溢れている
 夜色が
 あなたの心を闇で覆う

「違う……。ヴィーヴォは竜のヴィーヴォ……。ヴィーヴォがいないと、竜は悲しい……。でも、ヴィーヴォを傷つけたから、竜はここにいる……」
 ヴェーロの言葉に、人魚は大きく眼を見開く。彼女はヴェーロの顔を覗き込んできた。
 悲しそうに眼を細め、彼女は優しくヴェーロの頬にふれる。
 どうしてと、彼女はヴェーロに訴えかけているようだ。
「ヴィーヴォは竜の番だけど……竜のお母さんなの……。卵の竜を温めて孵してくれた……。それから……恐い人間たちから竜を守ってくれた……。それからずっと一緒……。竜の側にいるのは、ヴィーヴォだけ……。ヴィーヴォは人間で……ヴィーヴォの周りには人間がたくさんいて……その人間たちは、竜を嫌うから……。竜とヴィーヴォを引き離そうとするから……。だから竜は……ヴィーヴォがいないと……独りになる……」
 言い終えて、ヴィーロは口を閉ざす。
 ふと、背中に乗せた子供たちのことを思いだして、ヴェーロは悲しくなっていた。
 ヴィーヴォは言っていた。彼女たちはヴィーヴォの友達だと。
 ヴィーヴォは自分が独りだという。でも、彼の周りには彼を慕う人間たちがいつもいるのだ。
 ヴィーヴォがいないと、ヴェーロの側には誰もいない。
 家族も、友達と呼べる人も。
 ヴィーヴォと一緒にいることを選んだのは自分自身だ。
 でも、彼がいなくなったら自分は――


 彼はあなたを独りにする
 それでもあなたは彼を愛する
 何て矛盾
 何て悲劇

 まるで自分の気持ちを見透かしたように、人魚が歌を紡ぐ。ヴェーロは大きく眼を見開いて、口を開いていた。
「違うっ! ヴィーヴォは竜から何も奪わない! 竜が……人間を……嫌いなだけ……。ヴィーヴォのせいじゃない……」
Kompatinda.可哀そう。Vi estas tro afableco.あなたは優しすぎる。
 人魚は眼を伏せ、悲しげに何かを呟く。何を言っているのか分からないが、彼女が自分に同情していることは分かる。
「そんなの……いらない……。ヴィーヴォを悪く言わないで……」
Por li vi estas sole……彼のために、あなたは独り……
 そう呟いて、彼女は空を仰ぐ。
 桜色の唇を動かし、彼女は星空に向かって歌を吐き出す。

 独りぼっちの竜
 あなたは、どうして独りなの?
 側には、私がいるのに

 歌はまるで水がしみ込むように、ヴェーロの耳に入り込んでくる。そっと彼女は顔を下ろし、ヴェーロに微笑んでみせた。
Ni estu amikoj友達になろう……tomodati……ともだち……トモハチ……ともばち……」
 拙い言葉を繰り返し、彼女は胸を叩いてみせる。ヴェーロは仰向けの体を起こし、彼女と視線を合わせた。
 首をこくりと傾げて、人魚は嬉しそうに薄紅色の眼を煌めかせる。
「友達? 竜と……友達になってくれるの?」
Jes, ĝuste!うん、そうよ!
「あっ……」
 ヴェーロの両手を握りしめ、人魚は弾んだ声をあげる。彼女はヴェーロの手を取って、くるくると回り始める。
「あ……あっ! ……あぁ!」
 ヴェーロの視線がくるくる回る。あたたかな海の波が肌を滑る感触が気持ちよくて、ヴェーロは眼を細めていた。
 嬉しそうに弾んだ声をあげながら、人魚が歌を奏でる。

 竜と人魚は共にある
 人魚は竜と輪舞を踊る
 人魚は竜を笑わせたい

 歌い終えて、彼女は嬉しそうな眼をヴェーロに向けてきた。
「きゅん!」
 彼女がヴェーロの体を抱きしめてくる。冷たい彼女の肌が体に触れて、ヴェーロは思わず声をあげていた。
Ni iru!行こう!
 人魚が嬉しそうに声をあげる。瞬間、ヴェーロは海中へと引きずり込まれていた。
 銀の帯が、ヴェーロの眼前で翻る。それは尾鰭をゆらして泳ぐ、人魚たちの群れだった。その群れの中に小さな青魚たちが紛れ込んで、青味がかった銀色の光を周囲に放っているのだ。
 ヴェーロを抱きしめたまま、人魚は海底へと潜っていく。淡く輝く蛍烏賊がヴェーロたちを取り巻く。その蛍烏賊の光に導かれるように、ヴェーロたちは白砂の海底に降りたった。
 人魚はヴェーロの手を掴み、体を引き寄せてくれる。砂地に足をつけると、かすかに砂が舞いあがる。ヴェーロが翼をはためかせると、舞いあがった砂は海流に巻き込まれ散っていった。
 人魚はヴェーロの手を取り、前方へと進み始める。
 どこに連れていかれるのだろう。不安になり、ヴェーロは動きをとめる。そんなヴェーロを人魚が振り返った。
 縋るような薄紅色の眼が、ヴェーロに向けられる。彼女についていかなければならない気がして、ヴェーロは人魚の手を握り返していた。



 


 桜を想わせる珊瑚礁を通り越すと、水晶の崖が眼の前に現れた。珊瑚を映し出す崖は、ほんのりと薄紅色の光を放っている。
 ヴェーロは珊瑚の枝に腰を下ろし、崖を眺めた。人魚が崖に近づき水かきのついた両手をあてる。
 彼女は眼を瞑り、崖に額を押しつけた。彼女が崖に唇を寄せると、その表面が淡い光を放つ。光は水晶の崖に無数の文字を描き出した。
 大きく眼を見開き、ヴェーロは翼をはためかせる。人魚の側に降りたち、ヴェーロは崖に現れた文字の羅列を見つめた。
 その文字を見て、ヴェーロは愕然とする。
 文字の輝きが、ヴィーヴォの吐く灯花とよく似ていたからだ。隣にいる人魚が、崖を指で軽く叩く。崖の内部に無数に輝くものがあること認め、ヴェーロは眼を見開いた。
 花だ。
 灯花の花畑が、崖の内側に広がっている。紫苑を想わせる花たちは、美しい音色を放っていた。
 その音色に合わせて、人魚が歌を奏でる。
 海中であるはずなのに、人魚の歌声は朗々と辺りに響き渡る。その歌声はヴェーロの耳に入り込んでいく。
 それは、悲恋の歌だった。
 大切な恋人を奪われた人魚の歌は、悲しく海に響き渡っていく。
 その歌声を彩るように、灯花たちが音を奏でる。

 どうか、どうか聞いて欲しい
 彼の言葉を、彼の死を
 どうか、どうか聞いて欲しい
 私の言葉を、私の嘆きを

 桜色の髪を海中に散らばらせ、人魚は両手をゆったりと広げる。そんな人魚に呼応するように、周囲の珊瑚礁が淡い輝きを放ち始めた。
 それは瓶に入った星たちの輝きだった。珊瑚の枝に瓶が置かれ、その中に閉じ込められた星が煌めいているのだ。
 一つの瓶が浮かびがり、高いソプラノを奏でる人魚の元へと近づいてくる。人魚は、瓶をそっと両手で抱きしめた。
 彼女は眼を瞑り、歌をやめる。
 彼女ゆったりと眼を開け、辛そうな眼差しをヴェーロに向けてきた。胸に抱いた瓶を彼女は両手で持ち直し、ヴェーロに見せてくる。
 その瓶に入っているものを見て、ヴェーロは眼を見開いた。
 それは、一揃いの眼球だった。
 銀色の眼球が、地球の輝きを受け桜色に輝いている。瓶を持つ人魚は、そんな眼球を泣きそうな眼で見つめていた。



 初めてだった。
 ヴィーヴォ以外の存在を乗せたいと思ったのは。
 背中に響く人魚の笑い声が心地よくて、竜の姿になったヴェーロは眼を細めていた。
 翼をはためかせ、上昇気流を捉える。夜空に瞬く星が視界に迫った瞬間、美しい歌声が耳朶に響いた。
 人魚がおいでと星々に語りかけている。
 その声に引きつけられ、煌めく星々が螺旋を描きながらヴェーロの周囲を旋回する。人魚は、そんな星々に優しく歌を聴かせていた。
 人魚の名前は、メルマイドといった。
 死んでしまった恋人につけてもらった名前だそうだ。
 恋人の名前はkoralajコーララフという。人間は彼のことを珊瑚色と呼んでいたそうだ。
 彼は花吐きだった。
 疫病で死んだ人々の魂を弔っていた彼は、この地で病に罹り感染を恐れた人間たちによって殺されたという。
 ヴィーヴォの話と全く逆だ。
 彼は人魚が珊瑚色を殺したと言っていたし、殻である人魚は人の敵だとも言っていた。
 珊瑚色はそんな人魚たちに近づいたから、殺されたとも――
 どちらが本当のことなのかヴェーロには分からない。でも、メルマイドが嘘をついているとヴェーロは思うことが出来なかった。
 歌を通じて彼女と心を通い合わせた。
 自分を慰めてくれたメルマイド。友達になってくれたメルマイド。
 メルマイドは珊瑚色を喪った悲しみを自分に訴えてきた。
 そして、ヴェーロに頼んだのだ。
 これ以上、人魚を殺さないで欲しいと。珊瑚色が死んだ本当の理由を、あの夜色の花吐きに教えて欲しいと。
 彼に、あの崖に記された文字を読んでもらいたいと。
 この水底で文字を書ける存在と言ったら、水底を治める教会の人間ぐらいだ。
 ヴェーロもメルマイドも自分の名前を書くのがやっと。メルマイドは自分よりも単語を書くことが出来るけれど、あの文章を読むことはできないという。
 ただ、頻繁に出てくる単語が人の名前であることは理解していたという。
 Vivoヴィーヴォ
 それが、崖に刻まれた文字の中に多く含まれている人名だ。
 メルマイドは砂浜を散歩していた自分とヴィーヴォの会話から、文字に刻まれた人物が自分たちを襲う花吐きであることに気がついたらしい。
 夜色としか呼ばれない彼が、本名で呼ばれていたことにメルマイドは驚いたという。
 名は、その名を持つ存在を縛ると言われている。
 今は廃れてしまったが、遠い昔の水底では名を呼ぶことによって相手を支配することができる呪術が使われていた。
 聖都では今でもその呪術が用いられ、花吐きたちは名を縛られることで聖都への忠誠を誓わされているとメルマイドは珊瑚色から教えられたという。
 彼らの本名を知っている人間は一握りしかおらず、通常は二つ名や官職でお互いを呼ぶそうだ。
 名のない存在に名前をつけたものは、その存在そのものを支配することができることも珊瑚色はメルマイドに告げたという。
 だから、名を持たないメルマイドは珊瑚色に名を授けて欲しいと願った。
 自分が彼を愛している証として、メルマイドは名を欲したのだ。
Sabla plaĝo estis vido!砂浜が見えてきた!
 メルマイドの弾んだ声がする。ヴェーロの視界に白い砂浜が視界に映りこむ。
 その砂浜に咲く灯花を見て、ヴェーロは眼を見開いていた。
 砂浜一面に珊瑚が咲いている。いや、珊瑚だと思ったものは、薄紅色をした灯花だった。その花たちが涼やかな音をたてながら、自分たちを歓迎してくれる。
koralaj! Koralaj!コーララフ! コーララフ!
 メルマイドは、嬉しそうに恋人の名前を呼ぶ。どうやらあの花たちは、珊瑚色が吐いたものらしい。
 彼に会いたいと、メルマイドは言っていた。彼の墓地が、漁村の外れにある砂浜にあると。
 だから自分は、彼女をそこまで乗せていくことにしたのだ。
 海面に漣をたてながら、ヴェーロは浅瀬へと降り立つ。
 ゆっくりとヴェーロは四肢を折り、浅瀬に座り込んだ。メルマイドが背から滑り落ちて、海に落ちる。
 しゃらん、しゃらん。
 軽やかな音が聞こえる。灯花たちが、自分たちに呼びかけているのだ。そんな灯花たちを見つめながら、ヴェーロは人の姿をとっていた。
 少女の姿となったヴェーロは、浅瀬に尾鰭を横たえるメルマイドへと近づく。
「――っ?」
「連れて行ってあげる……」
 驚くメルマイドを抱上げ、ヴェーロは彼女に微笑んでみせた。
Dankon……ありがとう……
 彼女は水かきのついた手をヴェーロの首に回してきた。ヴェーロは彼女を抱き寄せ、砂浜へと顔を向ける。
 ふと、こちらに走り寄ってくる少年の姿に気がつきヴェーロは眼を見開いていた。
 ヴィーヴォだ。彼が慌てた様子でこちらに駈け寄てくる。
「竜っ!」
 ヴィーヴォが自分を呼ぶ。
 ヴェーロが飛び出してすぐに後を追ってきたのか、彼の僧衣は着崩れたままだった。首筋に手をあてる彼を見て、ヴェーロは固まる。
「竜っ!」
 躊躇することなく、ヴィーヴォは海へと足を踏み入れ、ヴェーロの元へとやってくる。
 逃げなきゃ。そう、ヴェーロは思った。
 そうしなければ、彼を傷つけてしまう。ヴェーロは後方へと振り向き、翼を広げた。
「逃げるな、Vero!」
 ヴィーヴォが自分を呼び止める。
 名を呼ばれた瞬間、ヴェーロは体中の筋肉が硬直するのを感じていた。
 力が入らず、腕に抱いたメルマイドを海に落としてしまう。海中に腰をつけたままへたり込むヴェーロの腕をヴィーヴォが掴んだ。
「人魚と一緒にいるなんて……。何を考えてるんだ、君はっ?」
 ヴィーヴォの怒声が耳朶を叩く。体をヴィーヴォに抱き寄せられた瞬間、メルマイドの悲鳴があがった。
 驚いて、ヴェーロは後方へと顔を向ける。浅瀬に座り込むメルマイドを、小さな光の粒たちが襲っていた。ヴェーロの鱗を操り、ヴィーヴォが彼女を攻撃しているのだ。
「やめてっ!」
「うわっ!」
 ヴェーロは、ヴィーヴォを突き飛ばしていた。彼が海に倒れ込むのも気にせず、両手で自身を庇うメルマイドの元へと駆け寄る。
 ヴェーロの白い柔肌を、鋭い鱗が切り裂いていく。体に痛みが走るが、そんなものを気にしている余裕はない。
 傷だらけのメルマイドを抱き寄せ、ヴェーロは空へと飛び立っていた。
「ヴェーロっ!」
 ヴィーヴォの怒声が聞こえる。
 体を起こした彼は、上空へと逃れた自分を睨みつけてくる。彼の周囲に銀色の鱗が集い、小さな竜の形をとる。
 ヴィーヴォの人形術だ。あの小さな竜たちは、強力な火球すら放つことが出来る。それを使って彼は、メルマイドを襲おうとしている。
「やめてっ! メルマイドは竜の敵じゃないっ! 竜の友達っ!」
「人魚が友達っ? 何を言っているんだ君はっ? そいつらは僕たち人間の――」
「竜は人間じゃないっ!」
 ヴェーロは叫び、ヴィーヴォの言葉を遮った。ヴィーヴォが瞠目する。ヴィーヴォの周囲を旋回していた鱗の竜たちが、音もなく崩れ落ちた。
「ヴェーロ……」
 ヴィーヴォが自分を見つめてくる。動揺する彼の眼から、ヴェーロは眼が離せない。
「嘘だ……。君が、僕に逆らうなんて! 僕を拒絶するなんてっ! そんな――」
「竜は、ヴィーヴォの人形なんかじゃない!」
 凛とした声が、喉から溢れ出る。
 自分の発言に驚きを覚え、ヴェーロはとっさに自分の口に手をあてていた。
「ヴェーロ……」
 ヴィーヴォが力なく浅瀬にへたり込む。そんな彼をいたぶるように、波が彼の体を濡らしていく。
「うわぁ!」
 突然、ヴィーヴォが悲鳴をあげた。
 暗い海面から伸びた無数の手が、彼を掴み海中に引きずり込もうとしていた。
 それは、笑い声をあげる人魚たちの手だった。
Senutila!駄目っ!
「あっ!」
 腕の中のメルマイドが尾鰭を跳ね上げ、海へと跳び込んでいく。海面に波紋を広げ、メルマイドはヴィーヴォのもとへと泳いでいった。
 溺れるヴィーヴォに彼女は手を差し伸べる。その手を同胞の人魚が掴み、海中へと一気に彼女を引きずり込んでいった。
「ヴィーヴォ! メルマイドっ!」
 ヴェーロは叫び、海面へと急降下していた。
「ヴェ……ロ……」
 人魚に頭を抑え込まれたヴィーヴォが、ヴェーロに手を伸ばす。その手を掴もうとした瞬間、彼は海中へと沈んでいった。
 ヴェーロの手が虚しく宙を掴む。眼の前には暗い海面が広がるばかりだ。
「ヴィーヴォっ!」
 叫んでも、彼は答えない。
 その叫び声は、不気味なほど静かな夜の海に響き渡った。

 光の遺言

 頬にあたたかな感触があり、ヴィーヴォはゆるゆると眼を開けていた。ぼんやりとした視界に一人の少女が映りこみ、ヴィーヴォは口を開く。
「ヴェーロ?」
 名を呼ぶと、少女はゆっくりと首を振る。
 瞬きをする。はっきりとした視界に映りこむのは、ヴェーロではなく桜色の髪を持った人魚だった。
 薄紅色の彼女の眼から涙が零れては、自分の顔にあたっているのだ。
「君が、助けてくれたの?」
 そっとヴィーヴォは彼女の頬へと手を伸ばす。その手を握りしめ、人魚は頷いて見せた。
「そっか、本当にヴェーロの友達なんだね……」
 微笑んでみせると、彼女は濡れた眼に笑みを浮かべてみせる。ヴィーヴォは起き上がり、言葉を続けた。
「それなのに襲ったりして本当に悪かった。その……ごめん……」
 よく見ると、彼女の体は傷だらけだ。その傷がなんとも痛ましくて、ヴィーヴォは彼女から顔を逸らしていた。
 ふと、地面に生える灯花を認める。
 それは赤紫色の紫苑だった。その紫苑の花が、透明な水晶の地面に生えているのだ。顔をあげ、周囲を見渡す。
 自分がいる場所は、どうやら水晶の中にできた大きな虚らしかった。水晶の虚の一面は輝く文字が刻まれ、虚の頂きには穴が空いている。
 桜色の人魚は、海に引きずり込まれたヴィーヴォを救い、どうやらあの穴からこの虚に逃げ込んだみたいだ。
 文字の記された壁の向こう側では、蠱惑的な笑みを浮かべる人魚たちが周囲を漂っている。


 おいで――
 おいで――


 透きとおる歌声が虚に響き渡ってくる。その歌を聞きながら、ヴィーヴォは苦笑していた。
「えっと、僕たち……完全に取り囲まれちゃってるねぇ……」 
 苦笑を、側にいる人魚に向けてみせる。人魚は悲しそうに眼をゆがめて、口を開いた。
Mi bedaŭrasごめんなさい
「むしろ悪いのは僕の方だよ。レディをこんなに傷つけたなんて知ったら、母さんに叱られる……」
 そっと彼女の頬についた傷口を指でなぞる。人魚は驚いたように眼を見開いて、ヴィーヴォを見つめ返してきた。
「あぁ、君たちの言葉は少しだったらわかるよ。これでも僕、聖都の花吐きだしね。あの、僕みたいなやつに教えたくないだろうけど、君の……名前は?」
Mermaidメルマイド,Li donis al mi nomon彼が名前をくれた
「人魚って……恋人にそのまんなの名前つけるかなぁ」
Mi ŝatas ĉi tiun nomon……私はこの名前が好き……
 胸に手をあて、メルマイドと名乗った人魚は不機嫌そうに顔を曇らせた。ヴィーヴォは微笑んで、彼女に言葉を返す。
「いや、あの人らしいや。奔放だったあの人に、君みたいな本命がいたことの方が驚きだけれどね」
 ヴィーヴォの言葉を受け、メルマイドは悲しそうに眼を伏せる。彼女は水晶の壁を指さし、小さな声で言った。
Mi volas ke vi legu tiun leteron.この文字を読んで欲しい。 Ĉu la vorto, kiun li lasis por vi彼があなたに残した言葉です。
「珊瑚色が僕に……?」
 光り輝く文字を眺め、ヴィーヴォは立ちあがる。ゆっくりと壁に歩み寄より、手を添える。すると文字が淡く明滅し、その姿を変えた。
 しゃらんと灯花たちが淡い光を吐き出して、鳴る。
 文字を描いていた光は形を変え、少年を乗せて飛ぶ竜の姿を壁に描き出す。その竜の横に、新たな文字が書き加えられた。

 ――久しぶりだね、ヴィーヴォ……。君が来るのをずっと待っていた。僕はもう長くはない。だから、ここに記されるのは僕の遺言だ。君には真実を知ってもらいたい。僕と同じ君には、僕の気持ちがきっとわかるはずだから――

 文章を読んで、ヴィーヴォは眼を見開く。これは、自分に宛てて書かれた珊瑚色の遺言だ。
 どうして彼は自分に遺言を残したのだろうか。
 困惑するヴィーヴォを他所に、文字はどんどんと書き加えられていく。どうやら彼は、ここに咲く灯花たちに遺言を託したらしい。
 変化していく文章を追うヴィーヴォの表情は、驚きから悲しみのそれへと変わっていく。眼から涙を流し、ヴィーヴォは地面に力なく膝をついていた。
「なんだよ、これ……。なんであなたは、いつもそうなんだよ……」
 変わることをやめた光の文字列をなぞり、ヴィーヴォは涙を流し続ける。背後から抱きしめられ、ヴィーヴォは後方へと振り向いていた。
Mi bedaŭras……ごめんなさい……
 自分を抱きしめるメルマイドが、謝罪の言葉を述べる。
「君のせいじゃない」
 そんな彼女に、ヴィーヴォは震えた声をはっしていた。メルマイドは顔をあげ、ヴィーヴォを驚いた様子で見つめてくる。
「彼と一緒にいてくれて、ありがとう……」
 そっと自身を抱きしめるメルマイドの手を優しくなで、ヴィーヴォは言葉を続ける。そんなヴィーヴに微笑みかけ、メルマイドは花畑の中央へと這っていく。
 花畑の中心にあるものを認め、ヴィーヴォは眼を見開いていた。
 それは、瓶だった。その瓶の中に一揃いの眼球が海水に浸かって浮かんでいる。桜色に煌めくその眼球を見て、ヴィーヴォは眼を歪ませていた。
「珊瑚色……君は……」
 メルマイドは瓶をそっと抱き寄せ、愛しげに頬を寄せる。幸せそうに眼を瞑った彼女は、穏やかな声で告げた。
Realiĝis via deziro estas apenaŭ……やっとあなたの望みが叶う……
 そっと彼女は眼を開け、縋るようにヴィーヴォを見つめてくる。
「メルマイド……」
 ヴィーヴォは立ち上がり、メルマイドへと体を向ける。そんなヴィーヴォにメルマイドは瓶を差し出してきた。
「そこに、珊瑚色がいるんだね?」
 ヴィーヴォの問いかけにメルマイドは静かに頷く。唇を引き結び、ヴィーヴォはメルマイドへと近づいていった。
 そのときだ。
 引き裂くような悲鳴が、あたりに響き渡ったのは。
「なんだっ?」
 ヴィーヴォは壁の向こう側へと視線を転じていた。水晶の虚を取り囲んでいた人魚たちが、苦悶の表情を浮かべながら透明な粒子となって消えていく。
 そんな人魚たちの背後に、美しい胸鰭を持った銀色の竜がいた。





 ヴィーヴォが殺される。
 そう思った瞬間、ヴェーロはその姿を竜へと転じていた。その竜の姿から、ヴェーロはさらに姿を変えていく。
 彼女の銀糸の鬣は透明な背鰭となり、羽は銀がかった胸鰭へと転じる。脚と一体となった尾鰭を大きく振りながら、ヴェーロは海中へと突入した。
 暗い海の中を迷うことなく突き進んでいく。そんなヴェーロの側に、人魚たちが群がってきた。
 笑う人魚たちが、鋭い鍵爪で攻撃してくる。ヴェーロは大きく口を開け、そんな人魚たちを鋭い牙で屠っていた。
 噛みつかれた人魚が、気泡を吐きだしながら咆哮をあげる。彼女の体は硝子のように砕け、海中へと散らばっていく。
 たけり狂う人魚たちの叫び声が、ヴェーロの耳朶を叩く。怒った人魚たちは、高い声をいっせいにはっした。
 その声は海中を震わせ、鋭い凶器となってヴェーロの体を傷つけていく。人魚たちを睨みつけ、ヴェーロは口から煙を漏らしていた。口を大きく開けると、巨大な火球が放たれ、人魚たちへと襲いかかる。
 爆音が海中をゆらす。爆発によって巻き上げられた砂が、ヴェーロの視界を奪う。それでもヴェーロは前進を続けた。
 海中に漂う、花の香りを追う。それは、花吐きであるヴィーヴォの匂いだ。
 その匂いの先に珊瑚礁が広がっている。珊瑚礁の向こうには、光る文字の記された透明な水晶の壁があった。
 その壁の向こう側にヴィーヴォがいる。そのヴィーヴォの側に人魚がいるではないか。
 このままでは、彼が殺されてしまう。
 大きな咆哮をあげ、ヴェーロは壁の側にいる人魚たちに火球をぶつけていた。彼女たちは悲鳴をあげながら、透明な粒子となって消える。
 壁の向こう側にいるヴィーヴォが驚いた様子で、自分を見つめてくる。
 ヴェーロは鋭い咆哮をあげ壁に襲いかかっていた。
 ヴィーヴォの側にまだ人魚がいる。その人魚が彼を殺す前に、処分しなければならない。
 ヴェーロは海中を突き進み、水晶の崖に頭を打ちつけていた。崖にひびが入り、その内側に広がっていた空間に水が浸入する。崖を完全に崩すべく、崖にもう一頭突きをする。
 轟音と共に崖が崩れる。
 崖の内側に入り込む海水と共に、叫ぶヴェーロは水かきのついた前足を虚へと入り込ませていた。紫苑の灯花を踏みつけ、唖然と座り込むヴィーヴォの脇を通り過ぎ、人魚へと襲いかかる。
 瓶を庇うように抱きしめた人魚は、怯える眼で自分を見つめながら何かを叫んでいた。
 その叫び声が自分に呼びかけているような気がして、一瞬だけ動きをとめる。
 桜色の人魚は、震える眼差しで自分を見つめながら、ヴェーロに両手を差し伸べてきた。
 だが、ヴェーロは大きく叫び、彼女に牙を向いていた。
 ヴェーロが人魚を屠らんと口を開けた瞬間、眼の前にヴィーヴォが躍り出る。
「止まれっ! Veroっ!」
 ヴィーヴォが自分の名前を叫ぶ。
 ヴェーロは動きを止め、前足を地面に投げ出していた。その衝撃で、虚は大きくゆれる。虚の壁に開いた穴から、灯花が海水に運ばれて流れ出ていく。
 横たわる自分の頭を優しく抱きしめ、ヴィーヴォは自分に話しかける。
「ヴェーロ、僕は無事だ……。だからもう、大丈夫……。大丈夫だよ……」
 自分の頭をなで、ヴィーヴォは囁きかける。その言葉にヴェーロは大きく眼を見開き、呻き声をあげていた。
 ヴェーロの体を光が包み込む。ヴェーロは少女へと姿を変えていた。
 ヴェーロは、力なく地面に膝をつける。そんなヴェ―ロをヴィーヴォは優しく抱きしめてくれた。
「竜は……何をしようとしていたの……?」
 先ほどまでの出来事が頭の中を巡る。
 ヴェーロは、ヴィーヴォの背後にいるメルマイドへと視線を向けた。彼女は怯えた眼をヴェ―ロに送るばかりだ。
 当たり前だ。自分は、彼女を殺そうとしていたのだから。
「あ……いや……。いやぁああああ!」
 ヴェーロの叫び声が、虚に響き渡る。
「ヴィーロ、落ち着いてっ!」
 ヴィーヴォに抱き寄せられ、ヴェーロは悲鳴をあげることをやめていた。涙に濡れた眼を彼に向ける。
 ヴィーヴォは優しく微笑んで、ヴェーロに告げた。
「メルマイドから話は聞いた。彼女の望みを叶えてあげたいんだ。協力してくれる?」
「ヴィーヴォ……」
 彼が優しく髪を梳いてくれる。ヴェーロは気持ちが落ち着いていくのを感じていた。そっとヴィーヴォの背後にいる友人へと顔を向ける。
 メルマイドは真摯な眼で自分を見つめ、口を開く。
Bonvolu……お願い……
 眼球の入った瓶を大切そうに持ち直し、メルマイドはヴェーロに頭をさげてきた。

 海底の鎮魂歌

 ヴェーロが穴を開けてしまったせいで、ヴィーヴォたちがいた虚はすっかり海中に没してしまった。そこから、竜に転じたヴェーロが抜け出てくる。ヴェーロの背鰭にはヴィーヴォが掴まっていた。
 ヴィーヴォが背鰭から手を放し、自分の前へとやってくる。彼は珊瑚の群れを指さした。珊瑚の枝には瓶が置かれ、その瓶の中で星が瞬きを繰り返している。
 ヴィーヴォが珊瑚の森へと降り立つ。ヴェーロは口を大きく開け、巨大な気泡を吐きだした。
 その気泡が、ヴィーヴォを包み込む。
 気泡の中で、ヴィーヴォはゆったりと唇を開いた。
 悲しい鎮魂歌が海底に流れる。その歌の高低に合わせ、瓶に入った星たちは明滅を繰り返した。美しいアルトの旋律に引き寄せられるように、ヴェーロはメルマイドを伴い気泡に包まれたヴィーヴォの周囲を旋回する。
 メルマイドのソプラノが、ヴィーヴォのアルトと重なる。
 音程の違う二つの歌声は重なり合い、一つの旋律となって海底に響き渡っていく。その旋律に呼応するように、メルマイドの持つ瓶が眩い輝きを放った。
 瓶の中に入れられた眼から、白く輝く星々が放たれる。メルマイドの持つ瓶は割れ、放たれた星はヴィーヴォの眼へと吸い込まれていった。
 珊瑚の枝に置かれた瓶も次々と割れていく。その中に入っていた星たちも、螺旋を描きながらヴィーヴォの元へと集まってくる。
 星を吸い込む彼の体は白く輝き、周囲を照らしていく。
 歌がやむ。
 ヴィーヴォの唇から灯花が吐き出された。
 それは竜胆の形をした薄紫の灯花だった。くるくると輪舞を踊りながら、灯花たちは気泡から放れ、海底へと沈んでいく。灯花たちは、白い砂地に薄紫色の花畑を作り出した。
 気泡が割れる。
 花を吐き終えたヴィーヴォの体は、ゆっくりと灯花たちがつくりあげた花畑へと落ちていく。ヴェーロは人の姿を取り、花畑に横たわる彼のもとへと向かった。
 薄紫色の花に囲まれるヴィーヴォは眼を閉じていた。そんな彼のもとに降りたち、彼を抱き寄せる。
 ヴェーロは彼に口づけをしていた。唇を通して、彼に生命力を送ってみせる。
 唇を離すと、長い睫に覆われた瞼がゆったりと開けられる。茫洋とした眼でヴェ―ロを見つめ、ヴィーヴォは優しく微笑みを浮かべてみせる。
 彼が上方へと顔を向ける。ヴェーロが彼の視線を追いかけると、彼は一輪の灯花を見つめていた。その灯花が海面へとあがっていく。
 ヴィーヴォが縋るような眼差しをヴェ―ロに向けてくる。ヴェーロは静かに頷き、彼に微笑んでみせた。

 

 彼を優しく横抱きにする。翼を動かし、ヴェーロは灯花を追って上昇していく。
 暗い海面を突き破ると、そこには瑠璃色の地球が浮かんでいた。そんな地球の周囲をくるくると巡る灯花がある。
 竜胆の形をしたそれは、他の灯花と違い鮮やかな桜色をしていた。その灯花を追って、ヴェーロは空へと飛び立つ。
「こらー、どこに行くんですか? 珊瑚色っ!」
 逃げる灯花を、胸に抱いたヴィーヴォが掴む。ヴィーヴォに捕まった灯花は、抗議するようにりぃんと美しい音を奏でた。
「駄目っ! 死んでも彼女の側にいることが、あなたの望みだって遺言で僕に伝えましたよね?約束は、守ってもらいますよっ!」
 花を怒鳴りつけ、ヴィーヴォは乱暴にそれを海へと放り投げた。花はくるくると回りながら、海面へと落ちていく。そんな花を優しく受け止める手があった。
 海中から顔をだしたメルマイドが、桜色の灯花を手に捧げ持っている。
「ヴェーロ、彼女のところに連れて行ってくれる?」
「うんっ」
 ヴェーロは優しく微笑んで、ヴィーヴォに頷いた。
 翼をはためかせメルマイドのもとへと向かう。ヴィーヴォは身を乗り出し、メルマイドが持つ灯花に唇を落としてみせた。灯花は薄紅色に輝きながら美しい髪飾りへとその姿を変える。髪飾りは宙を舞い、メルマイドの桜色の髪に静かに留まった。
 メルマイドは眼を輝かせ、髪飾りに触れる。彼女の顔に笑みが咲き誇った。
 そんなメルマイドを見て、ヴェーロも自然と笑顔になる。
 自分の魂を、同じ人でないものを愛するヴィーヴォに弔って欲しい。灯花となって、メルマイドの側にずっといたい。
 それが、死んだ珊瑚色の遺言だとヴィーヴォは話してくれた。
 魂を持たない人魚たちは、人間には想像もつかないほど途方もない年月を生きるという。生前、珊瑚色はそんなメルマイドと一緒にいるにはどうしたらいいか、考えていたそうだ。
 そして彼は思いつく。
 仲間である花吐きに、自身の魂を灯花にしてもらうことを。
 花吐きたちの力は眼に宿るという。その眼に灯花に還元する星を閉じ込め、花吐きたちは灯花を吐き出すのだ。
 命を削って灯花を吐く花吐きの魂は、死後消滅してしまう。だが、それ以外の理由で死ぬ花吐きの魂は死後も残り、自身の眼に閉じ込められてしまうという。
 生前、珊瑚色はメルマイドに自身の眼を手元に置いておくよう言い残した。
 自身を灯花にしてくれるヴィーヴォが来るのを、彼は待っていたのだ。
「これでずっと、一緒にいられるね」
 腕の中のヴィーヴォがメルマイドに微笑む。
 髪飾りとなった恋人を優しくなで、メルマイドは笑みを深めてみせた。

 暗い海の子守歌

 珊瑚色は遺言でヴィーヴォに語りかけていた。
 自分が死ぬのは、誰のせいでもない。だから、どうか誰も裁かないで欲しいと。
 その言葉を脳裏で反芻させながら、ヴィーヴォはゆっくりと眼を開く。
 ヴィーヴォは白い石英を積んで建てられた聖堂に立っていた。壁の壁龕には珊瑚色が吐いた灯花たちが飾られ、冷たい壁を照らしている。
 ヴィーヴォが体を動かすと、法衣につく装飾が玲瓏とした音を奏でた。
「本当にいいのか?」
 男の声がヴィーヴォにかけられる。後方へと振り向くと、参列席に座った男性が自身を静かに見つめていた。
 紺青の髪から覗く彼の眼は、愁いに彩られているようだ。
 本当におかしな人だとヴィーヴォは苦笑してしまう。
「だって、珊瑚色を殺した連中を始末するために僕はこの漁村に寄越されたんでしょう? 僕はあなたの命令を全うするだけですよ、ポーテンコ兄さん」
 そっと首飾りの竜胆に触れ、ヴィーヴォは兄に嘲笑を浮かべてみせる。ポーテンコは悲しげに眼を伏せ、静かに立ちあがった。
「我らの夜色さま……。あなたの行いに、始祖の竜の加護があらんことを……」
 竜の首飾りを握りしめ、ポーテンコは膝を折る。信仰の対象たる花吐きに敬意を表す所作だ。
「また、あなたに傅かれる日が来るなんて思わなかった……」
 そっとポーテンコの頭に手を乗せ、ヴィーヴォは震える声をはっする。
「あなたの罪は教皇さまの勅命により濯がれました。あなたはすでに罪人ではなく、我らを導く黒の一族の夜色さまなのです」
 ポーテンコの言葉を受け、ヴィーヴォは自身の後方へと顔を向けていた。先ほどまで自分が仰いでいた竜の彫像が、視界に映りこむ。
 聖典に記された、この水底の創造主たる始祖の竜が――
 教会の聖典には世界の始まりがこう記されている。
 遥か昔、生命を宿した卵が割れた。虚ろ竜たちの父たる始祖の竜は卵から生まれた命を娘たちと共に拾い集める。だが、その命の重さに耐えきれず彼は虚ろの底へと落ちてしまう。
 虚ろ世界の底に落ちた命たちは、始祖の竜の背に新たな世界を創りあげた。
 それが水底の始まり。水底は始祖の竜の背中に存在する世界であり、始祖の竜は大陸となって今なお生き続けているという。
 色の一族はその始祖の竜の末裔だとされている。そして、その一族の血を引く者の中に、稀に先祖返りを起こすものがいるのだ。
 それが花吐きだ。
 聖都はこの花吐きを、始祖の竜の使いとして崇めている。花吐きは元いた世界に魂を還す聖なる存在なのだそうだ。
 自分をそんな大層なものだと、ヴィーヴォは思ったことすらないが。
「庭師ポーテンコ。花吐きの使者たるあなたに、始祖の竜の加護があらんことを――」
 形式に則り、ヴィーヴォは兄に祝福の言葉を述べる。
「お前は、それでいいのか? ヴィーヴォ……」
「あなたが、それを望んだくせに……」
 ヴィーヴォは静かに言葉を放っていた。顔を歪める兄に背を向け、ヴィーヴォは聖堂の身廊を歩む。
 胸に刻まれた夕顔の焼印が痛む。
 自分は、これから罪を犯しにいくのだ。ヴェーロを暴走させ、聖都の人々を殺したあのときのように。
 だが、人々はその罪を裁きだという。
 教会に仇名すものたちに下される、当然の報いであると。
 そう、これは罪でない。教会という権力が許可した正義なのだ。
 そう自身に言い聞かせ、ヴィーヴォは観音開きの扉の前で立ち止まる。
 黒い衣を纏った少年たちが恭しくヴィーヴォに傅く。彼らは立ちあがると、重いその扉をゆったりと開け放った。
 地球が白い砂浜を蒼く染めている。
 砂浜には檻がいくつも置かれていた。その檻の中には、この漁村に住んでいた人々が閉じ込められている。
 彼らは怯えきった眼をヴィーヴォに向けるばかりだ。
 これから彼らが受ける仕打ちを考えれば無理はない。
 ヴィーヴォは砂浜へと歩を進める。
 透きとおる幾つもの歌声が、ヴィーヴォの歩みを祝福する。ヴィーヴォの前方で黒の外套を頭から纏った子供たちが、円を描きながら歌を奏でている。
 子供たちの手には、鋭利な輝きを放つ水晶の鎌が握られていた。歌声をはっし、彼らはヴィーヴォを歓迎する。
 その歌に応えるように、ヴィーヴォは美しいアルトの旋律を奏で始めた。
 それは、呪いの紡ぎ歌だった。
 罪人の死を喜び、その魂の苦しみを願う旋律は海へと轟いていく。海の漣と共に、その歌を歓迎するソプラノの響きがあった。
 人魚たちの歌声だ。人魚たちが、罪人である村人が裁かれることを喜んでいるのだ。
 少年たちの輪の中心へとヴィーヴォは歩みを進める。お互いの鎌をかち合わせながら、少年たちはゆったりとした動作で舞を始めた。
 ヴィーヴォの歌声が低くなる。
 低い音程で綴られる歌声は、罪人に苦しめられた人々の怨嗟を表現し、彼らの苦しみを歌声に乗せて夜空へと放っていく。
 その歌声に応じるように、鉄格子の向こう側にいる人々が呻き声をあげ始めた。
 彼らは苦悶の表情を浮かべながら、檻の中で悶え苦しむ。やめてくれと悲鳴があがるが、ヴィーヴォは構うことなく歌を紡ぐ。
 やがて、泡を吐き始め人々の口から青白く光る球体が躍り出た。
 魂だ。
 魂が体から抜け出た瞬間、人々は糸の切れた操り人形のように檻の中に倒れていく。星となった魂たちは軌道を描きながら、呪いの歌を紡ぐヴィーヴォの眼へと吸い込まれる。
 取りこぼされた魂は、ヴィーヴォの周囲を巡る少年たちに吸い込まれていく。
 花吐きは、死者の魂を新たな生へと導く存在である。だが、その力を逆の方向へと使うこともできるのだ。
 紡ぎ歌の内容を変えるだけで、花吐きは生者から魂を抜き取ることすら出来る。死神と化した彼らは、歌声だけで人を死に追いやることができるのだ。
 その力を、教会は反逆者の粛清のために使う。
 特に花吐きの殺害は重い罪だ。それを知りながら、伝染病に感染した珊瑚色を村人たちは追いだした。
 そんな彼をメルマイドが救い、あの遺言が記されていた水晶の虚で匿っていたのだ。
 快方に向かっていた彼をメルマイドが漁村に返した途端、一部の村人が彼を殺した。
 メルマイドは遺言通りに彼の眼を死体から盗み、それを何も知らない村人たちに目撃されて――
 あぁ、滑稽だと歌いながらヴィーヴォは微笑んでいた。
 誤解が誤解を生んで、珊瑚色を救った人魚たちは濡れ衣を着せられていたのだ。そんな彼女たちを、自分は珊瑚色の敵だと思って殺してきたのだ。
 自分を騙していた村人たちも許せないが、ヴィーヴォが何よりも許せないのは自分自身と、珊瑚色だった。
 遺言で珊瑚色はヴィーヴォにこう語りかけていた。
 自分はもうすぐ死ぬだろう。けれど、自分を追害した人々を許して欲しいと。彼らは長年病に苦しめられ、その恐怖から自分を砂浜に置き去りにしたのだと。
 人々に災いを向けることがないよう人魚たちを説得して欲しいと。
 自分と同じ、人でないものを愛した君にしか僕の気持ちは分からないと、珊瑚色はそうヴィーヴォに語りかけていた。
 あぁ、本当に滑稽だとヴィーヴォは泣いていた。
 優しい珊瑚色を、村人たちはなんの感慨もなく殺したのだ。そして、そんな彼の死を心の底から悲しんでいたのは、人でない人魚たちだった。
 自分はそんなことすら知らずに、彼女たちを屠っていた。
 檻の中の人々を見つめる。折り重なるようにして倒れる彼らは、もはや死者以外の何ものでもなかった。
 ヴィーヴォの体が淡く輝く。ヴィーヴォの眼が光に瞬き、口から灯花が吐き出された。
 それは、暗い色をした紫色の夕顔だった。ヴィーヴォの周囲を巡っていた子供たちも、暗い色彩を帯びた夕顔の灯花を吐き出している。
 結晶の花弁をつけたそれは、仄暗い光を放ちながら白い砂浜に降り積もっていくのだ。
 夕顔の花言葉は罪。
 文字通り罪を象徴する灯花として吐き出された魂たちは、転生することなく水底に未来永劫留まり続ける。
「夜色さまっ!」
 ヴィーヴォを幼い声が呼ぶ。ヴィーヴォは、声のした後方へと体を向けていた。
 外套を纏った花吐きの少年たちが、不安げに自分を見つめている。彼らは二人の子供を取り押さえていた。
 長い髪を二つ縛りにした少女と、眠たそうな顔をした少年を見てヴィーヴォは驚く。
 ヴェーロの背中に乗って、一緒に流れ星を追った子供たちだ。
 その子供たちが仲間に取り押さえられ、自分を睨みつけているではないか。
「村人たちが匿っていたようです……。その、珊瑚色さまのお墓の中から出てきて……」
 二人を取り押さえる少年が、気まずそうにヴィーヴォに告げる。その話を聞いて、ヴィーヴォは笑い声をあげていた。
 身寄りのない二人を救おうとした大人たちが、一番安全な場所に子供たちを匿ったのだろう。 珊瑚色の墓は簡易的なもので、埋葬された遺体は浅く掘られた地面に葬られただけだった。
 後で正式に教会の使いが来て、彼の遺体を聖都へと持ち帰ることになっていたのだ。
 恐らく大人たちは珊瑚色の遺体が入っていた甕の中に、子供たちを匿ったのだ。中に入っていた珊瑚色の遺体を打ち捨て、子供たちにほとぼりが冷めてから砂を掘って地上に出てくるよう言い含めながら。
 どこまで彼らは、珊瑚色を侮辱すれば気がすむのだろうか。
「子供とはいえ彼らも罪人だ。灯花にしよう」
 嫣然とした笑みを浮かべ、ヴィーヴォは花吐きたちに語りかける。その言葉を聞いた子供たちは驚愕に眼を見開いていた。
「人殺しっ! 村のみんなだけじゃなくて、私たちまで殺すのっ? あなたなんて、人間じゃないっ!」
「嫌だっ! 死にたくないっ!」
 涙を流しながら、子供たちは叫ぶ。だが、ヴィーヴォは子供たちの声を聞いても、何の感慨も浮かばなかった。ただ一つ、気になっていることを質問する。
「君たちは、どうして珊瑚色が死んだのか知ってたの?」
 冷たい声音が唇から漏れる。自身の声に驚きを覚えるヴィーヴォに、子供たちは大きく見開いた眼を向けた。
「知ってたわっ! 言ったわっ! だから助けてっ! 珊瑚色さまには悪いことをしたと思ってる! でも、私たちだって――」
「教えてくれて、ありがとう」
 嗤いながら、ヴィーヴォは少女の声を遮っていた。彼女の耳元に唇を寄せ、優しく歌を奏でる。
 瞬間、少女の体は頽れ、その唇からは蒼白い魂が吐き出されていた。星となった魂はヴィーヴォの眼へと吸い込まれていく。
「姉ちゃんっ!」
 少年が悲鳴をあげる。そんな彼にヴィーヴォは歪んだ微笑みを向けていた。
「ひぃっ!」
「大丈夫、君も綺麗な夕顔にしてあげるからね」
 眼を歪め、ヴィーヴォは怯える少年を視界に映しこむ。捕らえられた彼に近づき、その耳元でヴィーヴォは呪いの歌を静かに歌い始めた。






 海の漣を伴奏に、砂浜に座り込むヴェーロは子守歌をうたっていた。ときおり音程を外してしまい残念な気持ちになる。それでもヴェーロは歌うことをやめない。
 自分の膝に頭を預けるヴィーヴォが、それを許さないからだ。彼はヴィーロの体に腕を巻きつけ、臀部に顔を押しつけたまま動こうとしない。
 それでも彼の流すあたたかな涙は、ヴェーロの肌を伝い白い砂地へと吸い込まれていく。
 自分のもとに戻ってきたヴィーヴォはいつもと様子が違っていた。彼の黒い眼は光りを失い、絶望に塗りつぶされているようだった。
 疲れ切った声で、彼はヴェーロに言ったのだ。
 子守歌をうたって欲しいと。
 彼の頼みを聞いて、ヴェーロは困った。自分はヴィーヴォのように美しい歌をうたうことができない。
 歌は苦手だ。
 それでもかまわないと、彼は涙を流しながらヴェーロに縋りついてきたのだ。それから、ヴェーロはずっと子守歌をヴィーヴォのために歌い続けている。
 彼の髪を優しくなで、ヴェーロは高い声をはっする。その声に続くように、メルマイドの美しいソプラノが暗い海原に響き渡った。
 それは、喜びの歌だった。
 恋人と再会した少女の心情を綴った歌は、暗い海原に朗々と響き渡る。
 でも、ヴェーロにはその歌声がとても辛そうに聞こえた。
 まるで、悲しみをこらえて彼女は歌をうたっているみたいだ。
「メルマイド……どうしたのかな?」
 子守歌をやめ、ヴェーロは呟く。そんなヴェ―ロを力強くヴィーヴォが抱き寄せた。
「歌ってよ……僕のために……」
 涙に咽ぶ、彼の声が耳朶に響く。
「ヴィーヴォ……」
「歌えってばっ!」
 顔をあげ、ヴィーヴォが怒鳴り声をあげる。その声にヴェーロは体を震わせていた。
「ヴィーヴォ……恐い……」
 ヴィーヴォは顔を歪ませ、起き上がってヴェ―ロを抱き寄せた。
「ごめん……ただの八つ当たりだよね……こんなの……。君は何も悪くないし、何も知らないだけなのに……。僕は、そんな君を望んでいるのに……」
「ヴィーヴォは悪くない……」
 悪いのは人間たちだ。
 自分たちを無理やり引き離そうとした人間が、命可愛さにメルマイドの恋人を殺した人間たちが悪い。
 そんな思いを、ヴェーロはヴィーヴォに伝えていた。
 ヴィーヴォが大きく眼を見開いて、自分を見つめてくる。大粒の涙を眼から流し、彼は笑ってみせた。
「そっか、僕は君が人の形をしているから愛しているんだ……。人じゃない君が、人の形をしているから、僕は君を愛しているんだ……。人間なんか、嫌いだから……」
「ヴィーヴォは悪くないよ……。悪くない……」
「僕も……人間なのにね……」
 そっと眼を瞑り、ヴェーロは彼の背中を優しく叩いていた。ヴィーヴォのすすり泣く声が耳に響き渡る。
 その泣き声をかき消したくて、ヴェーロの唇は子守歌を奏でていた。






 泣きながら、ヴィーヴォは水晶の壁に記されていた珊瑚色の遺言に思いを馳せる。
 遺言を読んで、ヴィーヴォは心の底から珊瑚色を憎んだ。
 どうして彼は、そこまで優しくなれるのだろう。人にも、そうでないものにも。
 自分は、人を愛することが出来ないのに――
 だからこそ、彼女に縋ることでしか孤独を癒せないのに――
 そのために、彼女を人のように扱って利用しているのに――
 珊瑚色は、ありのままのメルマイドを愛していた。自分を殺した人を憎むことさえしなかった。
 そんな彼が、心の底から憎くて、羨ましくて、優しい人だと思った。
 だから、ヴィーヴォは村人を皆殺しにしたのだ。
 自分と違い、人を愛することができた彼が憎かったから――
 ヴェーロの歌声を聞きながら、ヴィーヴォは繰り返し珊瑚色の遺言を頭の中で反芻していた。






 夜色いや、ヴィーヴォ。君には本当にすまないと思っている。
 でも、君しか僕の気持ちを分かってくれないと思ったから、僕はこの遺言を君に託すんだ。
 人でないものを愛する君にしか、僕の気持ちは分からない。
 凄いね。
 敵だと思っていた人魚たちと、こんなに仲良くなれるなんて思わなかった。
 彼女と、恋ができるなんて想像もしなかった。
 僕はもうすぐ死ぬ。
 でも、全然恐くないんだ。
 彼女が、側にいるからかな。
 まさか、ずっと気になっていた桜色のお姫様とこうやってお近づきになれるとは思えなかったよ。
 他の人魚はすぐに僕と仲良くなってくれたけど、彼女は警戒心が強くて近づいてくれなかったから。
 だから僕は君に望む。
 どうか、僕を君の手で灯花にして欲しい。そして、灯花になった僕を彼女に託して欲しい。
 それは、人とそうでないものを繋ぐ絆になるだろうから。
 僕たちは異なる存在だ。
 でも、分かり合うことが出来る。彼女がそれを教えてくれた。
 だから、きっと君も僕と同じなんだと思う。
 人間同士でも争いが絶えないこの世界で、僕たちは分かり合うことが出来た。
 きっとそれは、奇跡なんだ。
 それを人は、恋と呼ぶんだ。



Sankta urbo 竜と、聖都

 空を見あげれば地球に照らされその姿を露にし、水底の暗い樹海に遺骸を散乱させる。彼女たち虚ろ竜はこの水底の世界を滅ぼさんとし、この水底の世界を創り出した――

 庭師の回想

 雪のように美しい銀糸の髪を見て、ポーテンコは心臓が止まりそうなほどの衝撃を受けた。
 その髪を無造作にたらした少女が牢獄に囚われている。彼女の白い裸体は、石壁から生える鎖によって拘束されていた。
 彼女の背には竜を想わせる白い翼が生えていた。青い静脈が映えるその翼には杭が撃ち込まれ、無骨な石壁に貼りつけられている。
 幼い頃に母さんが作ってくれた蝶の標本のようだとポーテンコは思った。
 長い睫毛に覆われた蒼い眼は愁いに満ち、さながら夜空に浮かぶ地球を想わせる。その眼は、遥か遠くに向けられているようだった。
 彼女は故郷を見つめているのかもしれない。
 この暗い水底ではなく、光り輝く中ツ世界のことを。
 この虚ろ世界は三層に分れている。
 頂点にあるのが、生命たちの起源たる地球。その中央に、虚ろ竜たちの棲む中ツ世界があり、虚ろの底にはポーテンコたちの住む水底が広がる。
 水底は虚ろ竜たちの父である始祖の竜が落ちた場所だとも言われている。始祖の竜の娘たちである虚ろ竜は、父親と共に虚ろの底に落ちた命を救おうとしているらしい。
「きっと彼女は、私たちを救いたくてこの地に舞い降りたのだろうね、ポーテンコ……」
 耳元で囁かれ、ポーテンコは慌てて顔をあげる。
 柔らかな若草色の髪が視界に入りこみ、ポーテンコは思わず息を呑んだ。その髪のあいだから、嗤いに歪ゆめられた翠色の眼が自分を見つめてくる。
「教皇さま……」
「それとも、私の愛しいポーテンコを攫いに来たのかな?」
 毒々しいほどに赤い法衣を纏まとった男は、ポーテンコの頬を優しくなぞる。まだあどけなさの残るポーテンコの顔を眼に映しこみながら、教皇は笑みを深めた。
 彼は代々若草の二つ名の花吐きを輩出する緑の一族の長でもある。
 彼の名をポーテンコは知らない。
 名は存在そのものを規定し、その存在そのものを縛ることができる概念だ。
 遠い昔、名が持つその力を呪術に応用することで、教会は人々を支配してきたという。
 今は廃れてしまった呪術も、この教会の中心地である聖都ではいまだに強い力を誇っている。
 それは、夜色の二つ名を持つポーテンコも例外ではない。
 そのため、聖都では人を名ではなく字や役職で呼ぶことが慣例となっている。例外と言ったら、聖都の頂点に立つこの男ぐらいだ。
 彼はためらうことなく人を名で呼ぶ。まるで自分が、名を呼ぶ人々の主であることを誇示するかのように。
「ねぇポーテンコ……。彼女の名前を知りたくはないかい?」
 そっとポーテンコを抱き寄よせ、教皇は囁く。彼の法衣を飾る金の装飾がポーテンコの頬に触ふれる。その冷たい感触に、ポーテンコは眼を見開いていた。
「何をおっしゃっているんですか?」
「実験だよ……。なぜ彼女が、この夜闇の世界にやってきたのか知るための……。ここにやってきたとき、彼女は何と言っていたと思う? 彼女は――」
 告げられた言葉が信じられなくて、ポーテンコは思わず教皇を仰ぎ見ていた。涼しい顔をした支配者は、嘲りの笑みを顔に浮かべポーテンコに告げる。
「嘘だと思うなら、彼女に訊いてみるといい。一度しか言わないよ。彼女の名前は――」
 虚ろ竜の名を教皇が口にする。
 しゃらんと鎖がゆれる音がして、ポーテンコは牢へと顔を向ける。鎖に繋がれた彼女がポーテンコを見つめていた。
 心臓が高鳴る。
 桜を想わせる唇を少女は開いていた。繰り返し、彼女は何かをポーテンコに向かって呟いているのだ。
 判然としないその言葉が古い地球の言葉だと分かった瞬間、ポーテンコは戦慄を覚えていた。
 
――Vi ŝatas manĝi vinあなたを食べたい

 そう彼女はポーテンコに囁きかけていたのだから。


 そっと眼を開けて、ポーテンコは回想をやめる。
 大人になった彼の眼の前には、空になった石牢があった。かつて少女を捕らえていた鎖は虚しく宙にゆれ、彼女の翼を繋ぎとめていた杭は冷たい床に転がっている。
「どうしてあなたは、私のもとに来てくれたんですか?」
 もうここにはいない恋人に、ポーテンコは問いかける。
 ずっと空の上からあなたを見ていたと少女は答えた。あなたの香りが、私を引き寄せたとも。
「どうしてあなたは、私を食べなかったのですか?」
 泣きながら少女は答えた。
 あなたを愛してしまったから、あなたを食べられないと。
 そして彼女は、空へと帰ってしまった。
 愛する自分をこの暗い世界に残して――
 答えをくれる愛しい人はいない。それでも、ポーテンコは言葉を続ける。
「母がね、死んだんです。私とヴィーヴォを縛っていた楔は、もうどこにもない……。私の心は決まりました。後はヴィーヴォと……」 
 冷たい鉄格子を握りしめ、ポーテンコは黙る。紺青の髪に隠された黒い眼を細め、彼は苦笑していた。
「あぁ、私は自分の娘の名前も知らないのか……」
 ヴィーヴォのもとに卵が落ちて来たときから、悪い想像はしていた。でも、彼女が人になった姿を見た瞬間、すべては確信に変わったのだ。
 在りし日の恋人と瓜二つの少女を、他人と思えるだろうか。
「でも、私は嫌われ者だからな……」
 弟の冷たい眼差しを思い出し、ポーテンコは眼を伏せる。乾いた自分の笑い声が、妙に虚しく感じられた。
 それでも、彼らを迎えに行かなくてはいけない。
 それは自身の主である教皇と、自分が抱く目的のためにも必要なことなのだ。
 踵を返し、ポーテンコは石牢を後にする。
 彼の靴音が暗い廊下に反響する。その音は、虚しく空となった牢に響き渡っていった。


 夕顔の丘

 
 

 ヴィーヴォが眼を覚まさない。
 りぃんと竜胆の形をした灯花を彼の耳元でゆらしてみる。けれど、長い睫毛に覆われた彼の瞼が開くことはない。ヴェーロは、手に抱えていた灯花をヴィーヴォの眠る寝台に散らしてみせる。
 りぃん、りぃん、りぃん。
 催促するように灯花たちは音を奏でるが、ヴィーヴォは身じろぎ一つしない。
「ちゃんと命……あげたのに……」
 数日前の出来事を思い出して、ヴェーロは顔を曇らせる。
 自分の友達である人魚のために彼は大量の灯花を吐いた。そのあと倒れた彼に幾度も生命力を分け与えているが、彼が起きる気配はない。
 気のせいだろうか。
 最近、ヴィーヴォの眠る時間が長くなっている気がする。灯花を吐いたあとは特にそうだ。
「ヴィーヴォ……起きて……」
 彼がこのまま眼を覚まさなかったら。そんな不安が胸を過って、ヴェーロは眼を歪めていた。
潤んだ眼から涙が零こぼれ、ヴィーヴォの頬にかかる。それでも彼は起きてくれない。
 彼の頬に落ちた雫を舐めとり、ヴェーロは彼の体に覆いかぶさる。彼の両頬をそっと包み込み、ヴェーロは彼の唇に口づけを落とした。
 これで何度目だろう。
 目覚めない彼に、唇を重ねるのは――




 暗い色をした夕顔が咲き乱れる丘にヴィーヴォは佇んでいた。
 りぃん、りぃんと悲しげな音を奏でながら、ヴィーヴォが吐いた灯花たちは風にゆれている。
 その音が滑稽で、ヴィーヴォは苦笑を滲ませていた。
 夕顔は罪の証。
 夕顔の灯花として吐き出された魂は、永遠に水底で咲き続ける運命にある。
 数日前、大勢の魂を灯花に変え殺したばかりだ。その夕顔がこうして自分の周囲に咲いている。
 胸に刻まれた焼き印が痛む。自分も本来はこの夕顔の灯花になるはずだった。
 それを兄であるポーテンコが救った。虚ろ竜であるヴェーロを諫めることができるのは、ヴィーヴォだけだと教皇を説き伏せて。
「どうして兄さんは、僕を殺してくれなかったんだ……」
 胸元を握りしめ、ヴィーヴォは呟く。
 過去にヴィーヴォはポーテンコに名を縛れていたことがある。
 彼は名を縛ることによってヴィーヴォに罪人たちを殺させていた。ヴェーロを養うことを許可しておきながら、教皇の命に従いヴェーロを自分から引き離そうともした。
 そのせいで、ヴェーロは――
「あの人は、ヴェーロを殺そうとすらした……」
「でも、君を僕のもとに導いてくれたのは、ポーテンコさんだよ、夜色。僕があの人にお願いして、君があの漁村にくるよう手配してくれたんだ」
 ヴィーヴォの呟きに応えるものがある。驚いて顔をあげると、薄紅がかった銀髪を束ねた青年がヴィーヴォを見つめていた。
 銀の眼を桜色に煌めかせながら、彼は笑みを浮かべる。
「珊瑚色……」
 もうこの世にいないはずの人物を目の当たりにして、ヴィーヴォは大きく眼を見開いていた。珊瑚色は苦笑しながらも、言葉を続ける。
「そんなに驚かなくてもいいだろう? 僕は死んだけれど、灯花になってメルマイドの側にいるんだ。存在自体が消えたわけじゃない。僕を灯花にした君は、僕の主でもある。こうやって夢を通じて話をするぐらいのことはできるよ」
「死んでも色々と規格外の人ですね。あなたは……。殻である人魚と恋をしたり、そうかと思ったら僕の夢にズケズケと入ってきたり……」
「君の霊廟に押し入って、愛を囁いてあげたこともあったね。君が泣き叫ぶもんで、僕には君が必要だって言ってあげたくなっちゃって!」
「それは言わなくていいっ!」
 ヴィーヴォは思わず叫んでいた。罪人の魂を夕顔の灯花に変えたあと、幼い自分は後悔の念に憑りつかれ泣き叫んだものだ。
 そんな自分を、いつも珊瑚色が慰めてくれた。彼はヴィーヴォの側に寄り添い大丈夫だとヴィーヴォを抱きしめてくれた。
「本当、あなたには何度助けられたかな? それに、あの子守歌……」
 珊瑚色の優しい歌が耳朶に蘇る。何だか嬉しくなってヴィーヴォは微笑んでいた。
 泣き疲れ意識が朦朧とする自分に、珊瑚色は優しく子守歌をうたってくれた。懐かしい、母親が歌ってくれた子守歌を。
 あの歌声に、自分はどれだけ救われただろう。
「夜色、いやヴィーヴォそれは……」
 珊瑚色の声がヴィーヴォの耳に聞こえる。珊瑚色を見ると、彼は寂しそうにに眼を伏せ、片腕をもう片方の手で握りしめていた。
「僕、何か変なこと言った?」
「ううん、君は凄く甘えんぼさんだなって思って」
 首を振り、珊瑚色は曖昧に笑ってみせる。何だか誤魔化された気がして、ヴィーヴォは唇を尖らせていた。そんなヴィーヴォを珊瑚色が優しく抱き寄せる。
「ちょ、珊瑚色……」
「二人だけのときは名前で呼べって言っただろ? ほら、ヴィーヴォ……」
 ヴィーヴォの顔を覗き込み、珊瑚色は不敵な笑みを浮かべてみせた。耳を赤く染め、ヴィーヴォはそんな彼から顔を逸らす。
 その昔、人に名を教えることは愛の告白だとされていた。名は人を縛り、その名を知る人はその人を支配することができるからだ。
 そして、名を呼ぶことを忌避する聖都では、今でもその習慣が残っている。
「コーララフ……」
 消え入りそうな声で、ヴィーヴォは珊瑚色の名を呼ぶ。珊瑚色は笑みを深め、ヴィーヴォに言葉を返した。
「やっぱり、君が女の子だったら恋に落ちてたかもなぁ……。初めて会ったときは女の子だと思って、つい名前を教えちゃったんだよねぇ……。そしたら君も名前を教えてくれて……。まぁ、君が男でも僕はかまわなかったんだけど……」
「煩いな! 聖都に来たばっかりの頃は、名前を教えることが愛の告白だなんて知らなかったんだよっ!」
「あー、お互い若かったってことで。今は僕らにも恋人がいることだしねぇ」
 珊瑚色はヴィーヴォの髪を乱暴になでてくる。ヴィーヴォは顔を不機嫌に歪め、彼を睨みつけていた。
「僕のこと、憎くないの……?」
 珊瑚色から眼を逸らし、ヴィーヴォは小さく尋ねる。彼の遺言を破り、自分は漁村の人間たちを夕顔に変えた。そんな自分を彼が許してくれるとは思えない。
 珊瑚色は眼を曇らせながらも、微笑みを浮かべてみせる。
「僕は君に託した。それだけのことだよ、ヴィーヴォ……」
 そっと珊瑚色の手が、自分の頬を優しくなでてくれる。驚いてヴィーヴォは顔をあげていた。
「そろそろ起きてあげなよ。心配してるよ、彼女……」
「あっ……」
 珊瑚色の優しい言葉に、ヴィーヴォは俯く。
 きゅんと愛らしいヴェーロの鳴き声が耳元でして、ヴィーヴォは口元に微笑みを浮かべていた。
「うん、そうだね」
「またね、ヴィーヴォ。僕も愛しい人のところに帰らなきゃ」
「さようなら、コーララフ……」
 彼は手を振りながら、踵を返した。暗い灯花の花畑を、彼は独り歩いていく。
「さようなら……」
 もう、二度と彼に会えない気がしてしまう。ヴィーヴォは小さく彼に別れを告げていた。

 目覚めと竜骸

 子守歌が聞こえる。
 それが、小さい頃に母親が歌ってくれたものであることに気がつき、ヴィーヴォは懐かしい気持ちになった。
 自分を慰めるために珊瑚色が歌ってくれた子守歌。それを奏でているのは、愛しい彼女に違いない。
「おはよう……」
 優しい微笑みを口元に浮かべ、ヴィーヴォは歌をうたってくれる人物に声をかけていた。
 そっと眼を開け、愛しい彼女を抱きしめるために起き上がる。歌をうたってくれるその人物を、ヴィーヴォは優しく抱き寄せていた。
「あ、起きたっ?」
「あれ……」
 自分を包み込んでくれるはずの柔らかな胸の感触がない。違和感を覚えたヴィーヴォは、抱きしめた人物を引き離した。
「よ、久しぶり、夜色」
 癖のある青竹色の短髪が眼に入る。歳はヴィーヴォと同じぐらいだろうか。片眼鏡に隠れた翠色の眼を細め、自分に声をかけてきた少年は微笑んだ。
「若草?」
「うん、若草だよ。大きくなっててビックリした?」
「えっと、子守歌……」
「あぁ、君がうなされてたからオレが歌ってました。何か問題ある?」
「……いやぁああああああ!」
「ちょ、夜色っ?」
 さきほどまでの出来事が頭を駆け巡る。あまりの恥ずかしさにパニックになったヴィーヴォは、叫びながら顔を両手で覆っていた。
 寝ぼけていたとはいえ、同性の若草色をヴェーロと間違えるなんてどうかしている。そっと指の間から彼を見つめると、彼は意地の悪い笑みを顔に浮かべていた。
「あの……ごめん……その……」
「いや、オレ君のこと好きだから全然気にしてないよぉ」
 僧衣を纏まとった彼は、ぶかぶかな袖を振りながら平然と返してくる。寝台の縁に両膝を乗せ、彼はヴィーヴォに顔を近づけてきた。
「ちょ、近いんだけど……」
「ワザと近づけてる。君の顔がもっと見たい。手、離して……」
 ヴィーヴォの両手を掴み、若草色はじっとヴィーヴォの顔を眺めてくる。
「なに?」
「いや、成長した夜色はさぞかしポーテンコさんみたいな色男になってると思ったんだけど……。睫毛長いね……。さすがは母親似というか、完全にヒロイン? 父さんが見たら問答無用で押し倒しそう……」
「冗談でも、やめてくれない?」
 若草の言葉に、気分が悪くなる。
 彼の父親は緑の一族の長であり、聖都の頂点に立つ教皇でもある。
 そして教皇は自分のことを――
「君、逃げた方がいいよ。凄く君のお母さんに似てきちゃってる。ガチで貞操が危ない。オレも全速力で君の貞操は守るけどね……」
 ぱっとヴィーヴォの両手を放し、若草は苦笑してみせた。
「その話はやめて……」
「でも、君たち夜色の兄弟は特別だからねぇ。お母さんもそうだけど、お父さんなんて――」
「アレを父親だって思ったことはない……」
 眼を不機嫌に歪め、ヴィーヴォは若草色から顔を逸らす。
 物心ついたときからヴィーヴォは母親と二人きりで過ごしてきた。その母親が自分の父だと紹介したソレを、いまだにヴィーヴォは父として受け入れることができないのだ。
「竜に魅入られた花吐きがそれを言うかねぇ……」
 片眼鏡の奥で、若草の眼が楽しげに煌めく。その眼を見て、ヴィーヴォはますます嫌な気分になった。
 たしかに、ヴェーロを愛している自分は、他の人間とは違うのかもしれない。アレが父親だとすれば、納得できる話だ。
「僕は、人ですらないのかもな……」
「死を司る花吐きが人であることを語るなんて滑稽だよ。ポーテンコさんから夜色の名を継いだ君なら、なおさらね」
「その兄さんは、母さんから夜色の名を継いだ。たしかに、僕ら黒の一族は呪われているのかも……」
「呪われてるっていうよりかは、竜に愛されてるように見えるけどねぇ」
 寝台の上に落ちているものを若草は拾い上げる。
 それは竜胆の形をした灯花だった。若草が灯花を振る。りぃんと涼やかな音が、周囲に響き渡った。
「それ……」
「君の竜ちゃんが、君が寂しいだろうって置いていったんだ。君が寝ているあいだ、ずっと歌を口ずさみながらこの灯花を鳴らしてたよ」
 驚くヴィーヴォに若草色は灯花を差し出す。その花をヴィーヴォは受け取っていた。灯花は嬉しそうにりぃんと音を奏で、明滅してみせる。
「あの、竜は……?」
 彼女はどこにいるのだろう。急に心配になってヴィーヴォは若草色に訊ねていた。若草の眼が曇る。
「竜ちゃんは……その、何て言ったらいいのか……」
「ちょ、竜に何があったのっ?」
「ポーテンコさんが……その……」
「兄さんが竜に何をっ?」
 悲しげに眼を潤ませ、若草はヴィーヴォから顔を逸らしてしまう。そのときだ。部屋の扉が慌ただしく開けられたのは。
 驚いたヴィーヴォが扉へと眼を向けると、肩で息をしたポーテンコがじっとこちらを見つめていた。
「兄さん?」
「助けてくれっヴィーヴォっ! 彼女が、彼女が!」
 ヴィーヴォに駆け寄り、ポーテンコはヴィーヴォの肩を思いっきり掴んでくる。今にも泣きそうな彼の眼を見て、ヴィーヴォは声をかけていた。
「あの、兄さん……何があったの?」
「彼女がご飯を食べてくれないんだっ!」





 ヴィーヴォたちは竜骸に乗り聖都を目指している最中だった。竜骸とはその名のごとく、空から落ちてきた虚ろ竜の遺骸を利用して造られた乗り物だ。
 水底には虚ろ竜たちの遺骸が降ってくることがある。巨大な遺骸はそのまま水底で大陸や島になり、小さな遺骸は山脈や谷を形成する。
 そして、さらに小さい遺骸を聖都は人形術によって乗り物として利用しているのだ。
 ヴィーヴォたちの乗る竜骸は、全身を太い蔓に覆われている。窓や明り取りにあたる部分には水底の地殻を形成する水晶が用いられ、照明には灯花が使われている。
 ヴィーヴォは自身が乗る竜骸の通路を歩いていた。
 蔦に覆われた廊下は、白緑色をした灯花に照らされている。紫陽花の形をした灯花の上には、かすかに表面が歪んだ水晶の明かり窓が並んでいた。
 ヴィーヴォの前方を、ポーテンコが物凄い勢いで駆けていく。
「彼女が! 彼女が!」
「何か、僕の兄さん人格が変わってるんだけど……」
「気のせいじゃ、ないかな……」
 隣を歩く若草にヴィーヴォはぎこちなく声をかける。若草色はヴィーヴォの顔を見つめ、曖昧に笑ってみせた。
 ポーテンコは通路の突き当りにある扉を開け放つ。
 竜骸の背中にあたるそこは、磨き上げられた黒水晶の甲板になっていた。
 その甲板の中央に、柔らかそうな草で作られた大きな巣がある。ポーテンコはその巣へと一直線に駆けていった。
「竜、あんな大きな巣……いつの間に」
「彼女、気を失っていた君をあそこに連れて行こうとして、本当に大変だったんだから。威嚇してくるし、襲ってくるし……。もう、なんなんだよ君の彼女……」
「ごめん……」
 不機嫌な若草にヴィーヴォは苦笑を返していた。おそらくヴェーロは、自分を嫌いな人間たちから守ろうとして、若草色たちを襲ったのだろう。
 あの巣も山奥で暮らしていたときのように二人きりでいたい気持ちの表れ。何だかヴェーロが無性に恋しくなって、ヴィーヴォは巣へと駆けていた。
 その巣の前で、ポーテンコが膝をつき何かを喚いている。巣の中を見ると、竜の姿をしたヴェーロがぐったりと体を丸めていた。
「竜っ! どうしたの?」
「ヴィーヴォ、この子は一体何を食べるんだっ?」
「うわっ!」
 驚くヴィーヴォにポーテンコが縋りついてくる。彼は泣き顔をヴィーヴォに向けながら、大声で叫び続けた。
「光苔も食ないし、糖蜜草や長光草も受けつけない……。文献に載っている虚ろ竜の好物は一通りやったんだっ! それなのに何も食べてくれないっ! このままじゃ彼女はっ!」
「あぁ、兄さん調べ方雑……。虚ろ竜にもいろいろ種類がいるの知ってるでしょ……? 僕の竜は銀翼の一族に所属してて好戦的な性質をしてるらしいんだ。彼女たちの背中にある世界も、それはそれは理想郷とは遠くかけ離れた弱肉強食の世界だそうだよ。まぁ、古文献片っ端から読んでればそのくらい分かるはずだけど……」
「そう……なのか……?」
 唖然と自分を見あげてくるポーテンコに、ヴィーヴォは呆れた眼差しを送ってやる。
「そのくらい兄さんだったら、とっくの昔に調べてると思ったんだけど……」
「いや、彼女は女の子だし、その……」
「竜の好物は生肉ですっ!」
 気まずそうに顔を逸らす兄に、ヴィーヴォは弾んだ声をかけてやる。ポーテンコは弾かれたようにヴィーヴォに顔を向け、眼を吊り上げる。
「こんなにか弱くて可憐な彼女が、肉食なわけがないだろうっ!」
 びしっと弱っているヴェーロを指さし、ポーテンコは叫ぶ。きゅんと迷惑そうに巣の中のヴェーロが鳴く。ぐるぐるとお腹を鳴らす彼女を見つめ、ヴィーヴォは乾いた笑みを浮かべてみせた。
「竜……この人は君を殺そうとしたんだ。お腹がすいたら、がぶっと一思いにやっちゃっていいんだよ……」
「きゅんっ!」
「ちょっと待て! 私を食べて腹を壊したらどうするんだっ? それこそ彼女が可哀そうじゃないかっ!」
 ポーテンコは立ち上がり、ヴィーヴォの体を乱暴に掴んでくる。ずいっと顔を近づけ、彼はヴィーヴォを睨みつけてみせた。
「兄さん……。あなた、この前まで僕の竜を邪魔者扱いして、殺そうとしたよね? どういう風の吹き回し」
「いや、その……」
「それとも、彼女の力を聖都のために利用するつもり?」
 戸惑うポーテンコにヴィーヴォは鋭い眼差しを送る。ポーテンコは気まずそうにヴィーヴォから顔を逸らした。
「始祖の竜に誓って、絶対にそんなことはしない。それに、彼女は……」
 言いかけてポーテンコは口を閉ざす。彼は困った様子でヴィーヴォに顔を向け、ヴィーヴォを抱きしめてきた。
「ちょっ! 兄さんっ?」
「お前も……守ってみせる……。その、無理やり聖都に連れて行こうとして、本当に悪かった……。許してくれなくていい……。でも、お前も彼女も私がちゃんと守ってみせる。それだけは、信じて欲しい……」
 消え入りそうな彼の声を聞いて、ヴィーヴォは眼を見開いていた。
 こんな兄を自分は知らない。彼は本音を言ってくれることなんて少しもなかったのだから。
「兄さん、気持ち悪い……」
「ヴィーヴォ……」
 何だか気まずくなって、ヴィーヴォは兄から顔を逸らしていた。頬がほんのりと熱いのは気のせいだろうか。
「そのヴィーヴォ……話がある」
「なに?」
「聖都についたら、聞いてくれるか?」
「へんな兄さん……別に、いつでもいいよ」
 真摯な眼差しを向けるポーテンコに、ヴィーヴォは苦笑してみせる。ポーテンコは安心したように微笑んで、言葉を続けた。
「さて、彼女の食事なんだが……」
「兄さん、僕のナイフあるよね?」
「あぁ、ちゃんとあるが」
「持ってきてくれない。これから、狩りにいくから」
 不思議そうな表情を浮かべる兄に、ヴィーヴォは得意げに笑ってみせる。
「さーて竜っ! ご飯を食べに行くよっ!
 ヴェーロへと振り返り、ヴィーヴォは彼女に弾んだ声で告げた。
「きゅん!」
 眼を煌めかせヴェーロが巣から体を起こす。翼をはためかせ、彼女は巣から勢いよく飛び立った。

 棺の樹海

 ご飯だ。ご飯が食べられる。
 嬉しくなってヴェーロは空を飛び回っていた。眼下には、巨大な竜の骨が散らばっている。水晶の骨の間からは、暗い巨樹が顔を覗かせ大地を覆っていた。地球の光を浴びて輝く竜の背骨の中へと、ヴェーロは速度をあげて突き進む。
 歪曲した背骨の内側を滑るように飛ぶ。そこに留まっていた蝙蝠たちが、いっせいに飛び立つ。
 鳴き喚く蝙蝠たちと背骨を脱出すると、前方に褐色の蔦で覆われた竜骸が浮いていた。
 飛翔する竜骸に近づくと、それが自分よりもはるかに大きいことがわかる。ヴェーロは眼をまんまるくして、竜骸の翼の横へと体を近づけていた。
「竜っ! 行くよ!」
 ヴィーヴォの弾んだ声が竜骸の背中から聞こえてくる。瞬間、背中に大きな衝撃を感じてヴェーロは弾んだ鳴き声を発していた。
 ヴィーヴォの手が優しく鬣をなぞる。久しぶりに味わう彼の手の感触に、空腹を忘れてしまいそうだ。
 彼が起きてくれた。それが嬉しくてヴェーロは眼を細めていた。
 大きく翼を翻し、ヴェーロは眼下に広がる樹海へと降下していく。それと同時に、ヴィーヴォが背中を蹴って宙へと躍り出た。
 彼が片手を前方へと振り下ろす。彼は長い鞭で巨樹の枝を捕らえた。そのままヴィーヴォは前方へと体を躍らせる。彼が鞭を前方へと振ると、鞭の先は枝から放れヴィーヴォの前方に立ちふさがる巨樹の枝へと絡みつく。
 鞭で枝を捕らえては振り子の要領で前方へと進むヴィーヴォを、ヴェーロは森の上空を滑走しながら追う。
「ヴェーロっ!」
 ヴィーヴォが自身の名を呼ぶ。ヴェーロは森へと跳び込み、彼のもとへと降下していた。ヴィーヴォの前方を駆ける生き物がいる。
 透明な角を持つそれは、若い雄雄だ。大好物の鹿を眼の前にして、ヴェーロは大きな咆哮をあげていた。
 ヴィーヴォの鞭が鹿の角に絡まる。ヴィーヴォが鞭を引くと、体を引っ張られた鹿は体制を崩し地面に倒れ込んだ。ヴェーロは鹿の前方へと降り立ち、暴れる鹿の喉元に鋭い牙を突き立てていた。
 あたたかな血潮の感触に、舌が震える。上顎を打ちおろして首の肉を噛みちぎると、柔らかい肉の感触が口腔に広がっていく。
 何日ぶりの食事だろうか。うっとりと眼を細めながら、ヴェーロは鹿の首の肉を引き千切っていた。
「ヴェーロっ」
 そんな自分をヴィーヴォの鋭い声が窘める。ヴェーロは大きく眼を見開いて、鹿の首から口を離していた。
 ヴィーヴォは片足をつき、鹿の首へと顔を近づける。光を宿さない鹿の眼に彼が口づけると、そこから青白い星球が放たれた。それは光る尾を伴ってヴィーヴォの眼へと吸い込まれる。
 ヴィーヴォが空を仰ぐ。彼は星空に輝く地球を見つめながら、歌を奏でた。
 物悲しいその歌は、静かな森に優しく響き渡っていく。彼の眼が白く瞬く。光彼が息を吐くと、唇から青色の花が吐きだされた。
 勿忘草の形をした灯花は、ヴィーヴォの周囲を巡りながら瞬く。ヴィーヴォは立ちあがり、地球を仰いだ。
 両手を広げ、彼はなおも鎮魂の歌を口ずさむ。すると、暗い森の中で淡い光が幾つも瞬いた。その光は小さな光球となってヴィーヴォの体に吸い寄せられていく。
 上空に竜骸が留まる。竜骸から、ヴィーヴォの歌声より少しばかり低いテノールの歌声が流れてきた。
 ひらひらと竜骸から白妙菊の灯花が降ってくる。それは優しく光りながら、ヴィーヴォの周囲で輪舞を踊る。
 ヴィーヴォは嬉しそうに眼を細めた。そっと灯花の一つを手に取り、彼は優しく唇を寄せる。花たちは淡く輝き、ヴィーヴォの側を離れて上空へと飛んでいった。
 ヴィーヴォの歌声がやむ。それと同時にこちらに向かってくる足音に気がつき、ヴェーロは眼を見開いていた。
 それは、白い女鹿だった。しなやかな四肢で森の中を駆けながら、彼女はヴィーヴォのもとへとやってくる。ヴィーヴォは頭を垂らした鹿を優しくなで、悲しげに眼を細めた。
「ごめんね……」
 ヴィーヴォが謝罪の言葉を口にする。頭をあげた鹿は黒真珠のような眼でヴィーヴォをじっと見つめ、その後方で倒れる雄鹿のもとへと歩んでいった。
 首を降ろし、彼女は雄鹿の体を鼻でつつく。だが、番であろう雄鹿が動くことはない。
 弱々しく鳴いて、女鹿は悲しげにゆらめく眼をヴェーロに送る。その眼を見てヴェーロは大きく眼を見開いていた。その鹿のもとへと勿忘草の形をした灯花が舞い下りてくる。
 牡鹿の灯花だ。
 灯花は悲しげに明滅しながら、女鹿の周囲を舞う。そこにヴィーヴォが歩み寄り、鹿の周囲を巡る灯花を捕まえた。
 彼は灯花に唇を寄せる。灯花は蒼く煌めいてヴィーヴォの手から放たれた。円を描きながら、灯花は女鹿の頭へと飛んで行き、小さな花飾りとなって彼女の耳を飾る。
 そっとヴィーヴォはその耳飾りにふれ、微笑んでみせた。ヴィーヴォの唇が鹿の額に寄せられる。
「君とその最愛の人に、始祖の竜の加護があらんことを」
 ヴィーヴォは祝福の言葉を述べて、鹿の額をなでた。女鹿は嬉しそうに眼を細め、ヴィーヴォから離れていく。
 森の奥へと女鹿は去っていく。りぃんと涼やかな灯花の音色が、女鹿の駆けていく足音と共に森の中へとかき消えていった。
「ねぇヴェーロ、僕たち人間はとっても身勝手だと思わない?」
 ヴィーヴォの弱々しい声が聞こえる。
 彼が微笑みを自分に向けてくる。彼の眼は、寂しそうに自分に向けられていた。
「自分の仲間が殺されれば復讐しないと気がすまないくせに、自分のために他の命はあっさりと殺すんだ……。君を生かしたいのなら僕を君に食べさせればいいだけの話なのにね……」
「きゅん……」
 ヴィーヴォを慰めたくて彼に近づく。長い首を彼の体に巻きつけ鼻先で彼の額を優しくさすってやる。ヴィーヴォはくすぐったそうに眼を細め、顔をなでてくれた。
「でも僕は、何かを犠牲にしても君と一緒にいたいんだよ。僕は珊瑚色みたいには……。ううん、何でもない。ご飯にしよっか、ヴェーロっ」
 首を振り、ヴィーヴォは弾んだ声をあげる。
 そういえばお腹が空いている。そのことを思いだしたとたん、ヴェーロの腹の虫が辺りに響き渡った。
「もう、僕のことなんてほっといて、独りで狩りにいけばよかったじゃないか」
「きゅん……」
 苦笑するヴィーヴォに首を振って応えてみせる。ヴィーヴォは少しばかり眼を見開いて、優しく微笑んでみせた。
「自分が食べる生き物を、灯花にして欲しかったんだね。優しい女だ……」
 ヴェーロの頭を抱きしめ、彼は静かに囁いてみせる。
「どうしてそんな君が、僕なんか愛してくれてるんだろう? 僕を嫌わないでいてくれるんだろう? ねぇヴェーロ、僕はそれが不思議でたまらないんだ」
 縋るように向けられる彼の眼差しからヴェーロは眼が離せない。どうして側にいるのかと訊きながら、彼はいつもその眼差しを自分に送ってくる。
 ――そんな彼から離れられるはずがない。
 ヴェーロの体が光に包まれ少女の姿をとる。銀糸の髪を夜空に靡かせ、ヴェーロは蒼い眼でヴィーヴォを見すえた。
「ヴェーロ……」
 ヴィーヴォが怯えた様子で眼を曇らせる。
 そんな彼の眼を見てヴェーロは血が滾るのを感じていた。空になったお腹が妙に気になって、その中に彼を入れたいと思ってしまう。
 彼を自分の血肉にして、二度とどこにも行かないようにしてしまいたい。
 するりとヴェーロの細い腕がヴィーヴォの肩へと伸びる。肩を掴んで体重をかけると、彼の体はあっけなく長光草の上へと倒れ込んだ。
 淡く輝く草の上で彼は眼を細めてみせる。妖しげな彼の眼差しが、纏わりつくようにヴェーロの裸体を眺めていた。
「僕を、食べたいの?」
 彼の上に跨る。すると彼は体を起こし、ヴェーロの耳元で囁いてみせる。ヴェーロは体を震わせ、彼を見つめる。
「いいよ、食べても……」 
 ヴィーヴォの声が耳朶に轟く。彼はヴェーロを抱き寄せ、ヴェーロの唇を啄んでみせた。雄鹿の血で濡れたヴェーロの唇に触れ、ヴィーヴォのそれは赤く染まる。
 彼はその血を舌で舐めとってみせた。彼は苦しげに顔を歪め、激しく咳き込む。
「ヴィーヴォっ!」
「やっぱり、僕に生き物を食べることは無理みたいだ……。こんなのでも生きてるっていえるのかな?」
 彼の唇が自嘲に彩られる。
 唾液と、血に彩られたその唇が妙に愛しくて、ヴェーロは彼の唇を塞いでいた。
 あたたかい唇の感触にそっとヴェーロは眼を細める。唇を離すと、彼は大きく眼を見開いてヴェーロを見つめてきた。
 ふっと彼は寂しげに微笑んでみせる。
「僕は花吐きだから生き物の肉が食べられない。だから、野菜も果実も、飲み物ですら僕の喉を通ることはない。本当、たまに自分がどうやって生きてるのか不思議になっちゃうぐらいだよ」
 彼の微笑みが嘲笑に変わる。
 彼は言っていた。花吐きはこの世界の理を紡ぐ者である。だからこそ命の循環から外され、食物連鎖の列に並ぶことすらできないということを。
 それは、花吐きが命そのものを司る存在だからだそうだ。命を紡ぐ彼らは人であって人でない存在だとヴィーヴォは苦笑しながら言葉を締めくくった。
 そっとヴェーロを抱きしめて、彼はヴェーロの耳を啄んできた。
「ヴィーヴォ……」
「食べていいよ。君に食べられるのなら本望だ……。そうすれば、ずっと一緒にいられるもの。僕は君の一部になって、君と一緒にずっと生きるんだ……」
「嫌だ……」
 彼の囁きにヴェーロは答える。眼の前にある彼の顔を睨みつけると、彼は悲しげに眼を歪めた。
「ごめんなさい……君に、また嫌な思いをさせた……」
 ヴェーロを抱き寄せ、ヴィーヴォは懇願するように言葉を繰り返す。
「お願い……嫌わないで……。君に嫌われるのが、僕は一番恐いんだ……。君を失うことの方が死ぬよりずっと恐いんだ……」
 彼が自分にいつも繰り返し聞かせる呪いの言葉。その言葉を聞くたびに、ヴェーロは彼の言うことに逆らえなくなる。
 彼を失いたくないのは、自分も同じだから――
 だから、彼を食べたくない。
「ずっと一緒にいたいから、ヴィーヴォは食べない……。食べたくない……」
「ヴェーロ」
 縋るように彼が自分を見つめてくる。
 捨てないでと言った彼の言葉が脳裏に響き渡る。彼から漂う花の香りに、心臓が跳ねあがる。
 彼を食べたくなってしまう。
 そんな欲求を押さえたくて、ヴェーロはヴィーヴォから眼を放していた。
「いいんだよ……食べても……」
 ヴィーヴォの言葉が耳朶に突き刺さる。驚いて彼へと眼を向けると、ヴィーヴォは悲しげに微笑んでいた。
「ヴェーロに食べられるなら、僕はそれでいい……」
 彼は頬を優しくなでてくれる。ヴェーロが彼の手を包み込むように持つと、彼は微笑みを深めてヴェーロに口づけをしてくれた。
「僕の肉がいっぺん残らず君のものになったていい……。そうすれば、僕はずっと君を生かしていけるんだから……」
 唇を離し、彼は耳元で囁きかける。甘い彼の息が耳たぶにかかって、ヴェーロは体を震わせていた。

 聖都

 星空の下を、竜骸は飛んで行く。竜の姿になって巣の中に蹲っていたヴェーロは、空の星が減っていることに気がついた。
「きゅん……」
「あぁ、聖都が近いんだよ。聖都には花吐きがたくさんいるから、夜空を彷徨う星も少なくなるんだ……。にしても、涼しいな……」
 自分の体に背中を預けたヴィーヴォが、うっすらと眼を開けて答えてくれる。彼が寒そうに体を震わせた。ヴェーロは尻尾を彼の体に寄り添わせる。
「あ……ヴェーロの尻尾……」
 うっとりとヴィーヴォが声を漏らし、自分の尻尾を抱きしめてくる。尻尾に頭を乗せ、彼は気持ちよさげに眼を閉じてみせた。
「そこはかとなく鱗が冷たいんだけど……触ってるとあったかくなってくるから不思議……。あぁ、やっぱり君の尻尾って最高……」
「きゅん」
 すりすりとヴィーヴォが尻尾に頬を摺り寄せてくる。それが何だかくすぐったくて、ヴェーロは眼を細めていた。
「もうすぐ森林限界だって超えるのに、外套も着ないで何やってんだよ、夜色……」
 暗がりの中に好きな方向に生えた青竹色の髪が現れる。片眼鏡をかけた少年が巣の中を覗き込み、ヴィーヴォに笑いかけていた。
「何だよ、若草……」
 ヴィーヴォが不機嫌そうに若草に顔を向ける。若草はにっと口の端を歪め、ヴィーヴォに何かを投げつけた。
「うぁ……」
「これから君は父さんに謁見しなきゃいけないんだ。風邪ひかれたら息子のオレが困るの。外套ぐらい着とけよ」
「あ、ありがと……」
「つーても、持って行ってくれって言ったのは、庭師さんだけど」
「兄さんが……」
 ヴィーヴォは困惑した様子で自分を見あげてくる。投げ渡された外套を抱き寄せ、彼は口を開いた。
「君もいつのまにか兄さんと仲良くなってるし、僕が眠ってるあいだに何があったんだよ……」
「そうだねぇ。竜ちゃんてば、あんなに嫌がって庭師さんにメロメロになっちゃってさ……」
「本当何なの、あの人……。狩りから帰ってきたらいきなり僕の竜に抱きついてくるし、もう殺していい? 存在自体がムカつくんだけど?」
 外套を自身の体に巻きつけながら、ヴィーヴォは棘のある言葉をはっする。
「きゅん……」
 ポーテンコを悪く言わないで欲しい。ヴェーロはヴィーヴォの体を鼻先でつついていた。そんな自分の顔をヴィーヴォは力強く抱きしめてくる。
「君も君だよ、竜……。僕というものがありながら、他の男。よりにもよって兄さんと仲良くするってどういう了見?」
「きゅーん……」
 眼を歪め困ったと鳴いてみせる。ポーテンコはヴィーヴォを救ってくれた恩人だ。ヴィーヴォのように彼のことを番とは思っていないのに。
 漁村の人間を罰したあと、ヴィーヴォは深い眠りについてしまった。そんな彼と自分を人間たちは竜骸に乗せてどこかに連れ去ろうとしたのだ。
 人間たちはヴィーヴォを自分から引き離して、部屋に閉じ込めてしまった。怒ったヴェーロは竜骸で暴れ、閉じ込められていたヴィーヴォを救い出したのだ。
 救い出したと、思い込んでいた。
 竜骸の一部を壊して囚われていたヴィーヴォを救ったとき、彼の異変に気がついたのだ。
 銜えた彼の体は、まるで炎のように熱かった。驚き動きをとめた自分に、ポーテンコが話しかけてきたのだ。
 ヴィーヴォは首筋に負った傷が原因で高い熱をだしている。そこから悪い菌が入り込んでヴィーヴォを苦しめていると。彼に害を加えたりはしない。だから彼の治療をさせて欲しいと、ポーテンコはヴェ―ロに頭をさげてきた。
 その傷が、自分が彼に負わせたものであることすぐに気がついた。
 自分自身のせいで彼が苦しんでいる。その事実を知らされて、ヴェーロは愕然とした。
 人の姿になってヴィーヴォに何度も謝った。でも、ヴィーヴォは目覚めず、応えてはくれない。
 混乱して泣きじゃくる自分を、ポーテンコは優しく慰めてくれた。
 ヴィーヴォが苦しんでいるのは君のせいじゃない。だから、彼が治るよう始祖の竜に祈って欲しいとポーテンコは言ったのだ。
 初めてだ。ヴィーヴォ以外の人間に抱きしめられたのは。
 でも、嫌じゃなかった。
 ポーテンコに抱きしめられて懐かしさを覚えてしまったのは、どうしてだろうか。
「竜……」
 ヴィーヴォが不機嫌そうに声をかけてくる。我に返って彼を見おろす。ヴィーヴォは鋭く眼を細め、責めるような眼差しを自分に送っていた。
「君は人間たちにとって危険な存在なんだよ。だから兄さんは君を――」
「あぁ、そうやって自分の恋人を人から遠ざけてるわけね、夜色は」
 巣の縁に両肘を乗せ、若草が呆れた様子でヴィーヴォにぼやく。ヴィーヴォは彼を睨みつけ、不満げに口を尖らせた。
「本当のことだろうっ? 聖都の大人たちは――」
「庭師さんは竜ちゃんを攻撃したそうだけど、それって君が一方的に逃げたせいじゃないの? 庭師さんが殺しかけたっていう割には、竜ちゃん凄く元気に見えるんだけど? 竜ちゃんぐらいの大きさの生物なら、あの人の人形術にかかれば瞬殺だよ」
 ヴィーヴォの言葉を、若草の声が遮る。ヴィーヴォは大きく眼を見開いて、ヴェーロを見あげてきた。
「竜は嫌だよね? こんなに人間たちに囲まれて……」
「人になった竜ちゃんはオレのことも若草って親しみ込めて呼んでくれる。オレに君のお守りを頼んだのも、竜ちゃん自身だしね。ついでに言うと、君を治療したのは庭師さん。君、珊瑚色と同じ感染病になりかかってて、本当に大変だったんだから……」
「きゅん……」
 そうだよっとヴェーロは若草の言葉に応えてみせる。
 人間は嫌いだが、ポーテンコや若草たちはヴィーヴォのことを大切に思ってくれている。その証拠に、彼らはヴィーヴォを治療してくれたし、彼の側にいる自分を引き離すようなこともしなかった。
 人間のことはずっとヴィーヴォを虐める悪い奴らばかりだと思っていた。でも、話してみるとそんな人たちばかりではないことが分かったから驚きだ。
「竜……」
 縋るようにヴィーヴォが自分を見あげてくる。彼の弱々しい声を聞いて、胸が痛むのを感じていた。
 ヴィーヴォのことを大切に思ってくれる人たちと仲良くしているだけなのに、どうしてヴィーヴォはそんな眼を自分に向けてくるのだろうか。
「君ってさ、本当に竜ちゃんのこと好きなの?」
 若草がヴィーヴォに話しかけてくる。片眼鏡の奥にある彼の眼が、鋭い光を放っていた。
「何言って……」
「いやオレにはさ、寂しくて寂しくて仕方がない泣き虫の夜色が竜ちゃんに縋っているようにしかみえなくて……。竜ちゃんを縛りつけるのも、恋愛のそれっていうより、夜色の幼い独占欲から来てるようにしか見えない。ほら、大切な友達を独り占めしたいってちっちゃい頃思ったことない? あれと同じ……」
「何で君はいつも、そんなことばっかり言うんだよ……」
「君が自己犠牲が大好きな顔して、実のところ自分のことしか考えてないからだよ。あぁ、オレの側にいつもいる誰かさんと一緒。自分のこと大好き人間。だからあの人は君に執着するのかもねぇ。似た者同士だから」
 ぶかぶかの袖そでをゆらしながら、若草は嘲りを顔に浮かべてみせる。そんな彼をヴィーヴォは静かに睨みつけた。
「誰があんな人と似てるって?」
「似てるも似てるし、ちょーそっくり! だから君を見ていると、とーてもムカつく!」
「あんまり僕を怒らせないでよ。色々と訳が分からないことが続いて、イラついてるんだから……」
「あれ、やる? 久しぶりに愛し合っちゃうっ? 泣き虫ヴィーヴォっ!」
「煩いんだよっ! 捻ひねくれマーペリア!」
 ヴィーヴォが立ちあがり、腰に差したナイフへと手をかける。若草は口の端を厭らしく持ち上げ、歌を紡いでみせた。
 テノールの落ち着いた旋律が甲板に満ちる。ヴィーヴォはヴェーロの尻尾を飛び越え、巣の縁に手をかけた。甲板に降りたった彼は、ナイフを抜き放ち若草へと肉薄する。
 ヴィーヴォは袈裟懸けにナイフを振るう。ダボついた裾でナイフの刃を跳ね上げ、若草はヴィーヴォの脇へと跳んでいく。
 ヴィーヴォに嘲りの眼差しを送りながら、若草は紡ぎ歌を奏で続ける。彼の眼に夜空に瞬いていた星が吸い込まれ、若草の体が淡く光る。
 そんな若草にヴィーヴォは肉薄していた。ヴィーヴォの周囲で銀の粒子が閃く。ヴェーロの鱗を彼が宙に放ったのだ。銀色に輝くヴェーロの鱗は、小さな竜の形をとって若草に襲いかかっていく。
 ふっと若草が息を吐く。そこから生じた紫陽花の灯花が、いっせいに花びらめいた額を散らしてみせる。それは鋭い刃となって、鱗でできた竜たちへと襲いかかった。
 竜を構成していた鱗が飛散し、舞い散る鱗がヴィーヴォの頬を切り裂く。ヴィーヴォは顔を歪めながらも、紡ぎ歌を奏でていた。
 そんなヴィーヴォの紡ぎ歌を追うように、若草が低い歌声を奏でる。二人の少年の声は輪唱となって甲板に響き渡っていく。二人の眼に星が吸い込まれてき、同時に彼らは花を吐いた。
 ヴィーヴォの吐いた黒薔薇と若草の吐いた緑色の薔薇が、蔦をうねらせながら甲板を走る。
「きゅんっ!」
 このままじゃいけない。
 二人の戦いを見ていたヴェーロは巣から飛び出していた。
「竜っ!」
「竜ちゃんっ!」
 彼らの声が重なる。甲板を低空飛行しヴェーロは薔薇の間へと割って入っていた。ヴェーロの体は光に包まれ、少女の姿を取る。
「駄目っ! やめてっ!」
 ヴェーロは二人の少年に向かって叫ぶ。
 茨と化した薔薇たちは、とまることなくヴェーロめがけ肉薄していく。ヴェーロは空へ逃れようと翼を翻す。そんなヴェーロの足を茨が捕らえた。
「ヴェー!」
 ヴィーヴォの叫ぶ声が聞こえる。瞬間、その声は空を切る鞭の音によって遮られた。
 ヴェーロが辺りを見回すと、褐色の枝が自分を守るように周囲に張り巡らされているではないか。その枝は、襲いかかる茨たちを薙ぎ払っていく。
 遠方で爆音がする。
 翅を生やした人形たちが、火球を放って茨を焼き払っていた。
 ポーテンコの操る人形たちだ。その人形の一体がヴェーロのもとへと飛んでくる。
「あっ」
 人形はヴェーロを優しく抱き上げ、上空へと飛びあがった。
 自分を抱いた人形へと茨が襲いかかる。だが、それを他の人形たちが火球で焼き払っていく。
 ヴェーロを横抱きにした人形は上昇を続ける。人形が目指す先に、翅を生やした木鹿が浮いていた。それにポーテンコが横乗りしている。
 人形はヴェーロをポーテンコへと差し出した。きょとんとポーテンコを見つめるヴェーロに、彼は優しく微笑みかける。そっとヴェーロを抱き寄せ、ポーテンコはヴェ―ロの顔を覗き込んできた。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫……」
「よかった……」
 ヴェーロの頭を抱き寄せ、ポーテンコはため息をつく。彼の気持ちを察したのか、木鹿が捻じれた顔をこちらへと向けてきた。
「兄さんっ! 竜はっ?」
「黙れ、ヴィーヴォっ!」
 ヴィーヴォの声をポーテンコの怒声が一蹴する。びくりと肩をゆらし、怯えた眼差しをヴィーヴォはヴェーロたちに送ってきた。
「お前は、彼女を殺す気なのか?」
「違うっ! 僕は――」
「私は大切なものを傷つけるために、お前に人形術を教えたわけじゃないっ!」
「あ……そんな、つもりじゃ……」
「もういい。もうすぐ聖都に着く。さっさと部屋に戻って支度をしていろ……。私は先に聖都に行かせてもらう。若草、ヴィーヴォと一緒にこの竜骸の操縦を頼めるか?」
「えぇー、悪いのヴィーヴォなのに……めんど――」
「花吐き同士の争いはご法度だと君の父上も言っておられるぞ。今、ここで起きたことも彼の耳に入れておかなくては――」
「やりますっ! ほんとごめんなさい庭師さんっ! 俺と夜色が悪かったですっ!」
 ぶかぶかの袖を振り上げ、若草は笑顔をヴェーロたちに向けてくる。彼は立ちつくすヴィーヴォに駆け寄り、慰めるようにその肩を叩いていた。
「君も私と一緒に来てくれるね?」
 ポーテンコがヴェ―ロの顔を覗き込みながら訪ねてくる。ヴェーロは顔を曇らせていた。
「ヴィーヴォは?」
「大丈夫、ちゃんとあとから来るから。しばらく、私と一緒に聖都でヴィーヴォを待とう。それとも私と一緒は嫌かな?」
「ちょっと兄さんっ?」
 ヴィーヴォの大声が聞こえる。驚いて甲板へと眼を向けると、ヴィーヴォがこちらへと眼を向け、ポーテンコを睨みつけていた。
「お前は彼女に何をしようとした、ヴィーヴォ……?」
 静かにポーテンコはヴィーヴォに言葉を返す。その声にヴィーヴォは怯えた様子で眼を震わせた。
「彼女を危険な目に合わせた罰だ。聖都につくまで若草と一緒に頭を冷やしていろっ。教皇への謁見が終わり次第、彼女は返してやるっ」
 吐き捨てて、ポーテンコは木鹿の脇腹を蹴っていた。鹿は低く嘶いて、竜骸から背を向ける。
「ポーテンコ……ヴィーヴォは……」
「わかっているよ。だが、ヴィーヴォは君を傷つけようとした。私が、そうしたようにね……」
 そっと眼を伏せ、ポーテンコはヴェーロを抱き寄せる。
「本当に、あのときはすまなかった……」
 今にも泣きそうな彼の眼がヴェーロに向けられる。そんな彼が放っておけなくて、ヴェーロは彼の頬を優しくなでていた。
「竜……?」
「なんだろう……。ポーテンコは嫌じゃない……」
 彼がヴィーヴォの兄であるせいだろうか。こうして側にいると、不思議と安心している自分がいるのだ。そっとポーテンコの胸に体を預け、ヴェーロは眼を瞑ってみせた。
 ヴィーヴォのように彼から花の香りはしない。でも、不思議と懐かしい香りがポーテンコからはする。
「よかった。君は私の側にいてくれるのだな……」
 頭をなでられてヴェーロはポーテンコの顔を見あげていた。優しく眼を細める彼を見て、思わず顔が綻んでしまう。
 微笑み合う二人を乗せ、木鹿は竜骸を離れていく。
「ほら、あれが聖都だ」
 ポーテンコが水晶の山脈を指さす。ひときわ峻厳と聳え立つ山の頂に、ヴェーロは信じられないものを見た。
 それは巨大な竜の遺骸だった。
 山の頂には巨大な湖がある。竜骸はその中央に浮いているのだ。
 竜骸は水晶でできた骨の羽を広げている。その骨の中に星々が吸い込まれていくのだ。骨の隙間は無数の巨木と蔦で覆われ、結晶の花弁をもった灯花がその上に咲き誇る。
 水晶の骨の中を行き来する者がいる。それが僧服を纏う少年たちであることに気がつき、ヴェーロは眼を見開いていた。僧服を纏った少年だけではない。
 鮮やかな衣装に身を包んだ若々しい女性や、老紳士。小さな子供たちも水晶の骨の中を行き交い、骨の内部に吊るされた灯花の照明がその人々を照らし出している。
 中でも面白いは、ヴェーロが森で仕留めたのと同じ種類の鹿たちが荷を引き、人を乗せていることだった。どうも骨の中には街が広がり、そこに引かれた水晶の石畳の上を人々は通っているらしい。
 竜の遺骸の足元には、坂が広がっている。坂の両脇にある断崖には洞窟が穿たれ、その洞窟の入り口は色とりどりの鉱石で飾られた壁によって仕切られていた。
 洞窟からは絶えず煙が昇っている。その煙を巻くように、巨大な鉄製の水車や歯車が断崖に埋め込まれてゆっくりと蠢いていた。巨大な歯車たちは、竜の遺骸の背後にもその姿を確認することができる。
 坂には石英でできた半円形の家屋が立ち並び、その家屋の前に市場が立ち並んでいた。市場を行き交う人々は、鹿に革袋を括りつけ、たくさんの果実や野菜、鉱物をその中に載せて運んでいる。
 坂の終わりには大きな広場があり、大小たくさんの竜骸がその広場を行き交っていた。
「アレは……なに?」
「あれが聖都だよ。あの巨大な竜の遺骸は君たちの、銀翼の一族の女王のものなんだ。そして、あそこは君の故郷でもある」
「竜の故郷……?」
 巨大な竜の遺骸を見つめながら、ヴェーロは眼を見開いていた。
 自分に聖都で過ごした記憶はほとどんどない。覚えているのは、ヴィーヴォが閉じ込められていた暗い霊廟と、ヴィーヴォから引き離されて過ごした冷たい牢獄だけだ。
 何より、聖都にいた頃の自分はヴィーヴォの頭よりも小さかった。聖都を追放されるときも、布を被せられた檻に入れられてヴィーヴォと共に集落に追放されたのだ。
「お帰り、愛しい人。君は故郷に帰ってきたんだよ」
 そっとポーテンコがヴェーロの髪を梳いてくれる。彼はヴェ―ロの顔を覗き込み、優しく微笑んでみせた。




「竜……竜……」
「いいらさ、もう支度しなよ。竜ちゃんには聖都に着けば会えるんだから……」
 ヴィーヴォは方位の描かれた床に力なく手をついていた。そんな自分に若草が優しく声をかけてくれる。彼はしゃがみ込み、いたわるようにヴィーヴォの肩を抱いてみせた。
「支度ならもうした……竜……」
 漆黒の法衣に身を包んだヴィーヴォは、涙に濡れた眼を若草に送ってみせる。若草は顔を引き攣らせ言葉を続けた。
「本当、君ってさ、竜フェチの変態に成長しちゃったよね……。まぁ、人型の竜ちゃんを見れば気持ちも分らんでもないが、さすがに竜の姿をした竜ちゃんに愛を注ぐのは……」
「好きなものは好きなんだから、しょうがないんだっ!」
 泣きじゃくりながらヴィーヴォは床に顔を押しつける。
 ヴィーヴォの脳裏にポーテンコに抱かれたヴェーロの姿が浮かぶ。微笑み合う二人は、本当にお互いを信頼し合っているようだった。
 自分以外の男にヴェーロが心を許している。それもよりによって嫌いな兄にだ。そして、そんな彼女を自分の過失から傷つけようとした事実が、何より受け入れがたかった。
「僕が……君に変な喧嘩さえふっかけなければ、竜は兄さんとなんか……」
「さすがにあのお堅いポーテンコさんに、ロリ竜フェティシズムなんて特殊な性癖はないと思うよ……」
「なにその性癖……?」
 若草の奇妙な言葉に、ヴィーヴォは顔をあげる。若草は苦笑しながらも言葉を続けた。
「え、君の性癖をみんなに伝えるためにオレが考えた造語。竜ちゃんから聞いたんだけど、彼女って生まれてまだ四年しか経ってないらしいね。つまり、見た目は大きくても中身は四歳の幼女と一緒って……。恋愛対象にはならないかな……」
「僕は変態じゃなーい!」
 喋りながら視線を逸らしてくる若草を睨みつけ、ヴィーヴォはがばりと立ちあがる。
「いいよ、聖都にいけば竜に会えるんだし、人の気持ちが分からない兄さんに女性を手なずける甲斐性なんて……」
「ポーテンコさん。教会の尼僧やら色の一族のご婦人方から、愛人になりませんかって恋文めっさもらってるよ。本人は頑なに信仰の妨げになるってお断りしてるけどね……」
「いやー! 竜ー!
「落ち着けって、夜色っ!」
 若草の言葉に、ヴィーヴォは頭を抱えて悲鳴をあげる。そんなヴィーヴォの肩を抱き、若草はヴィーヴォを怒鳴りつけた。
「だって……竜が、僕以外の人間とあんなに仲良くなるなんて……」
 ヴィーヴォは潤んだ眼を若草に向ける。若草はため息をついて、ヴィーヴォに言葉を返した。
「君は竜ちゃんの愛すら信じられない男なの? 泣き虫ヴィーヴォはこれだから……」
「煩いっ! 捻ひねくれマーペリアっ!」
 涙を流しながら、ヴィーヴォは若草を怒鳴りつける。若草は肩をすくめて、ヴィーヴォの頭をぶかぶかの袖でなでてやる。
「悪かったよ。君が竜ちゃんのことを愛してないなんて言っちゃって。うん、ぜんぜん家の親父と似てない……。というか、親父はこんな風に愛しい人が側にいないって泣きじゃくんない……」
「マーペリア……?」
「その、たぶん君たちが羨ましかったんだ。オレは、父さんとあんな風になれないから……」
 若草の眼が悲しげに伏せられる。彼はヴィーヴォから顔を逸らし、言葉を続けた。
「それに、僕の初恋の人に恋人ができてちょっと嫉妬したのかも……。それなのにヴィーヴォってばイケメンになるどころかますます美少女に……」
「君を僕の人形術でぶっ飛ばしてもいいかなぁ? それとも、ここで僕の灯花たちにがんじがらめにされたい?」
 頬を赤らめ言葉を続ける若草に、ヴィーヴォはにこやかに言葉を返す。だが、ヴィーヴォの顔に笑顔は浮かんでいない。
「仕方ないだろぉ……。君のこと超絶好みの女の子だって思って名前教えたら、オチがね……。もう、オチがねっ! なんでそんなに君ってば可愛いのっ!? 睫毛まつげ長いのっ?」
「知らないよそんなのっ! 珊瑚色といい君といい、なんで僕のことを勝手に女の子だって思い込むんだよっ?」
「泣き虫だからかな……。泣いてる君は弱々しくて可憐に見えるから、ついね……」
 ヴィーヴォに顔を向け、若草は舌を出していたずらっぽく応えてみせる。そっとヴィーヴォの手を取って、彼はその手の甲に唇を落としてみせた。
「ひぃ! 何するんだよっ?」
 若草の手を振り、ヴィーヴォは庇うように手を握りしめる。若草は苦笑して、そんなヴィーヴォの腰を抱き寄せてみせた。
「ちょ……若草?」
「ごめん……。いつも慰めてた君が竜ちゃんのせいで凄く元気だったから、オレつまんなかったみたい……。父さんとの謁見も、この調子なら大丈夫そうだね……」
 微笑む若草の顔を見て、ヴィーヴォは顔を曇らせていた。
 胸に穿たれた夕顔の焼印が痛む。
 罪人になった自分からヴェーロの名前を聞き出すために、ヴィーヴォはあらゆる拷問を受けた。肉体的な苦痛に根をあげないヴィーヴォに対し、教皇は精神的に追いつめる苦痛すら喜んでヴィーヴォに与えたのだ。
 彼にされた仕打ちを思い出して、ヴィーヴォは奥歯を噛みしめていた。
 自分が母親に似ていることは知っている。だから、女のように扱われるのは嫌だ。
 否が応でも、あの出来事を思い出してしまうから。
「ヴィーヴォ、震えてる……」
「え……?」
 若草の言葉に我に返る。
 彼が震える自分の手を優しく握りしめてくれる。そっと頭を抱き寄せて、彼はヴィーヴォの耳元で囁いた。
「父さんが君に何をしたのかぐらいオレだって分かってるよ……。あんな人でも、オレにとってはたった一人の家族だから。だから、今度はちゃんと君を守るから……。君に指一本ふれさせやしない」
「若草……」
 真摯な眼差しを送る若草に対して、ヴィーヴォは苦笑していた。
「君から、そんな真面目な台詞がでるとは思わなかったよ……」
「どうせオレちゃんは不真面目ですよぉんだ……」
 片眼鏡に隠れた眼を眇め、彼はヴィーヴォを睨みつけた。そっと彼は前方を向き、ヴィーヴォに言葉をかけてくる。
「一緒に帰ろう、ヴィーヴォ……。オレたちの戦場へ」
「うん……」
 自身の手を握る若草の手を握り返し、ヴィーヴォは頷く。
 竜骸の頭蓋にあたる操縦室からは、周囲の光景が一望できる。ヴィーヴォの眼前には、無数の光によって煌きらめく聖都があった。
 まるで地上の星が降りてきたかのような光景に、ヴィーヴォは見惚れてしまう。巨大な竜の遺骸から鳴り響いてくる無数の紡ぎ歌が、ヴィーヴォの耳に優しく響き渡っていた。
 聖都の中にある霊廟で、花吐きたちが鎮魂の歌を奏でているのだ。
 聖都に向かう自分を悼むかのような旋律に、ヴィーヴォは苦笑してしまう。
 花吐きたちの奏でる歌は、聖都を形づくる竜骸と、樹海に眠る竜たちに捧げられたものだ。
 遥か昔に、この水底の在り方そのものを変えてしまう争いがあったという。
 その昔、虚ろ竜たちが水底へと攻めてきたことがあった。
 虚ろ竜たちは始祖の竜を除きすべて雌だという。そんな彼女たちが、自分たちの父にして唯一の雄である始祖の竜を取り戻すべく、水底を滅ぼそうとした。
 水底は、始祖の竜の上に築かれた世界だ。その世界を壊さなければ、始祖の竜を救うことはできない。
 始祖の竜は娘たちの仕打ちを大いに嘆き悲しんだ。そんな彼の嘆きに応えた虚ろ竜がいた。
 銀翼の女王と古い記録に記された彼女は、水底に降りたち姉妹である虚ろ竜たちと戦った。そして彼女は、水底の生命と結ばれ十二の命を水底へと産み落とす。
 それがこの世界の生物の起源とされる、色の一族の始まりだ。
 銀翼の女王の血を引く彼らは水底を治め、母たる女王の亡骸を聖都としてこの地に君臨する。そして彼らは、先祖返りにより花吐きとして生まれる子供たちを、教会を組織することにより守ってきた。
 血統を守るために近親婚に走り、絶えた一族も少なくない。一族同士の権力闘争のため、途絶えてしまった血統もある。
「母さんのせいで、僕たち黒の一族は僕と兄さんしかいない……。顔も知らないおじいさまは権力闘争の末に、白の一族を滅ぼして、緑の一族を追いつめた」
「そしてオレたち緑の一族は、君たち黒の一族をことごとく皆殺しにした……。血で血を洗う闘争……。実家がそんなんだと、本当に嫌になるよね……。オレは本当に花吐きとして生まれてきて良かったと思ってる。ヴィーヴォと殺し合わずにすむもの。子供のうちに死ねるって便利でいいね」
 ヴィーヴォの言葉に若草は苦笑してみせる。すっと悲しげに眼を伏せて、彼はヴィーヴォに問う。
「俺たち緑の一族を恨んでないの、君は? 君は父さんにだってめちゃくちゃにされたのに……」
「君のせいじゃないだろ。それは……」
「会える? 君をそんな眼に合わせた男に……」
「会いに行くんだろう、今から。僕だってもう泣き虫ヴィーヴォじゃない。自分の身ぐらい、自分で守れるさ……」
「ははっ、外見はてんでヒロインなくせして、口だけはいっちょ前にイケメンだよね、君……」
「君も、口の悪さだけは達者になったよね、捻くれマーペリア」
 お互いに顔を向き合わせ、二人は笑い合う。そのあいだにも、ヴィーヴォたちの乗った竜骸は暗い湖畔へと着地し、ゆるやかな坂を上って竜骸の止まる着地場へと乗りあげる。
 周囲を飛び交う無数の竜骸を見つめながら、ヴィーヴォは口を開いた。
「行こうマーペリア、僕たち花吐きの戦場へ……」
「そうだね、ヴィーヴォ……」
 真摯な眼を若草に送り、ヴィーヴォは口を開く。ヴィーヴォに微笑みを返し、若草は優しく手を握り返してくれた。

 虚構と信仰

 市場の立ち並ぶ坂道を歩くと、道行く人々がいっせいに頭を下げてくる。驚いてヴィーヴォは若草の手を握りしめていた。
「大丈夫、みんな君が帰って来て喜んでるんだ。銀翼の女王の怒りがこれで静まるってね」
「本当だったんだね、君から聞いた話……」
 ヴィーヴォは眼を眇め、周囲を見渡す。
 竜骸から降りてきたヴィーヴォたち花吐きたちは、列を成して銀翼の女王の遺骸へと向かっている。銀翼の女王の下に広がる坂は聖都の平民が暮らす外縁街だ。
 銀翼の女王の中に暮らしているのは主に裕福な民と、教会に所属する僧侶や尼僧たち。色の一族とその傍系、そして花吐きたちだ。
 霊廟を与えられるヴィーヴォたち二つ名の花吐きは、銀翼の竜の使いとして厚い信仰の対象となっている。
 それを示すように、人々の熱い眼差しがヴィーヴォと若草に向けられている。特にヴィーヴォと視線が合うだけで、頭を深く垂たれて始祖の竜に感謝を捧げる者までいるのだ。
「君は銀翼の女王に愛された特別な花吐きだからねぇ。平民さんたちは竜ちゃんのことを聖都を襲った凶暴な竜どころか、銀翼の女王の再来だと崇め奉ってる始末だし。ま、父さんと庭師さんの情報操作のお陰ってやつ」
 若草がヴィーヴォの耳元で囁く。彼の言葉にヴィーヴォは小声で抗言していた。
「なに僕たちのこと、宗教的なプロパガンダに使ってくれちゃってるの?」
「仕方ないでしょう……。そうでもしなきゃ教会の威信は地に落ちて、水底は無政府状態に陥る危険性もあったんだよぉ。そのお陰で君たちもここに帰ってこられたんだし……」
「別に、僕たちがいなくったって……」
「民がそれを望んだんだ。それを叶えるのが、僕ら教会の役目だろう?」
 口元を歪め若草が嗤う。その笑みが何だか不気味に思えて、ヴィーヴォは顔を逸らしていた。
「色の一族の花吐きとして生まれた以上、オレたちはその存在意義を忘れてはいけない。花吐きとして覚醒した瞬間から、オレたちは人とは違う何かになったんだよ。ヴィーヴォは、それが分からないみたいだけどね」
「分からなくていいよ。僕は、人でいたいんだ……」
「生物すら食べられないオレたちが、それを言う?」
 若草がヴィーヴォの手を引く。彼は前方を向くよう視線でヴィーヴォに促した。黒い外套に身を包んだ女性が、大きな瓶を抱えてこちらにやってくる。
 その瓶に入った煌めく星を見て、ヴィーヴォは息を呑んだ。
「それに、君の父親は人ですらないよ……」
 若草の笑い声が耳元で響く。彼の言葉に、ヴィーヴォは唇を噛んでいた。本当に若草は人の心を抉る言葉を吐くのが好きだ。
 女性はヴィーヴォたちに近づいてくる。それを遮るように、僧兵が女性の前に立ちはだかった。
「お願いです夜色さま……。どうか、私の亡くなった家族に慈悲を……」
 黒いヴェールで顔を覆った女性は、僧兵たちの制止も聞かずヴィーヴォに声をかけてくる。
「どういうこと? これ……?」
 彼女の必死な様子を見て、ヴィーヴォは若草に声をかけていた。
 花吐きが集まる聖都で星を灯花に変えて欲しいと懇願する人間など、ヴィーヴォが聖都にいた頃には存在しなかった。
「君が呼び戻された一番の理由だよ……。傍系の花吐きたちは直系である二つ名のオレたちと違って花自体、そんなに吐けないしね……。緋色と珊瑚色も亡くなっちゃったし、それをみんな銀翼の女王の怒りだと思ってるんだ。銀翼の女王に愛された君を罪人にしたから、花吐きが生まれなくなったってみんな言ってるよ。それに、金糸雀が……」
「金糸雀がどうかしたの?」
 若草が悲しげに眼を伏せる。その様子を見て、ヴィーヴォは彼に問いかけていた。
 金糸雀はヴィーヴォたちと同じ二つ名を持つ金色の一族の花吐きだ。二つ名の花吐きの中でも珊瑚色に次ぐ年長者だった彼は、マイペースで珊瑚色とは対照的な存在だった。
 何をしても自己中、でもそれとなく年下のヴィーヴォや若草の悩みを聞いてくれる不思議な人でもあった。
 金糸雀が危ないと兄のポーテンコも言っていたが、彼に何があったというのだろうか。
「ごめん、まだ言えない……。あれは、見た方が早いと思う……」
 気まずそうにヴィーヴォから視線を逸らし、若草は答える。彼の返答にヴィーヴォは眼を見開いていた。
「なんだよ……それ……。僕がいない間に、みんなに何があったの? それに花吐きが生まれなくなったのは、僕が追放されるより前の話じゃないか……」
 若草の話の通りだとしたらヴェーロがまるで銀翼の女王そのものとして、聖都の人々に見られていることになる。自分がいないあいだ聖都で起こった変化に、頭がついていけない。
「まったく生まれなくなったのは、つい最近だけどね……。まぁ、信仰なんてそんなものじゃない」
 はぁっと息を吐き、若草はヴィーヴォの言葉に応えてみせる。ヴィーヴォは若草を睨みつけ、握っていた彼の手を振り払った。
「ヴィーヴォっ……」
「応えればいいんだろ……」
 声をかける若草に冷たく返し、ヴィーヴォは女性のもとへと向かって行く。女性は自分を制する僧兵の脇から顔を覗かせ、ヴィーヴォに懇願の言葉をかける。
「夜色さま、どうかどうかお許しを……。私の家族をお救い下さい」
 今にも泣きそうな彼女の声を聞いて、ヴィーヴォは立ちどまっていた。
「あなたたちに罪はありません……。悪いのは僕です……」
 胸に刻まれた夕顔の焼印が痛む。服の胸元を掴み、ヴィーヴォは女性に告げていた。
 ヴィーヴォの言葉に、僧兵が驚いた様子でこちらを見てくる。
「その方をこちらへ連れてきてください……」
 僧兵に微笑み、ヴィーヴォは女性に向かって手を差し伸べていた。
「夜色さまっ!」
 女性が顔に笑みを浮かべ、ヴィーヴォに駆け寄ってくる。
「お願いしますっ! 今年の流行り病で死んだ夫と私の両親です……。それから――」
「大丈夫、みんな送ってみせますから。ご家族を少しのあいだ預かってもいいですか?」
 そっと女性に両手を差し伸べ、ヴィーヴォは彼女に笑顔を向けてみせる。
 ヴェールの下に隠された彼女の顔はやつれ、眼下には隈すら浮かんでいる。もとは美しかったであろう頬のこけたその顔を見て、ヴィーヴォは胸を痛めていた。
「夜色さま……」
 眼を涙で滲ませ、彼女は水晶で作られた瓶をヴィーヴォに差し出す。
 そっとヴィーヴォは瓶を受け取り、胸に抱いた。その様子を見て女性が両手を組み、輝く眼をヴィーヴォに送る。彼女の眼差しに違和感を覚えながらも、ヴィーヴォは瓶の蓋を開けていた。
 煌めく蒼い星がヴィーヴォの周囲を巡る。その星々はヴィーヴォの眼に吸い込まれ、体を淡く発光させた。
 体が熱い。
 星が眼に入り込むといつも怠さを感じる。頭に見知らぬ映像が浮かんでは消え、知らない人々の声が耳朶を叩く。
 星になった魂たちの記憶がヴィーヴォの中を駆け巡るのだ。
 星になった人々は自我すら失い、自分の記憶のみを繰り返し夢見る存在となる。星を眼に取り込むことで、花吐きはその一部を垣間見ることになるのだ。
 泣き叫ぶ女性がヴィーヴォの視界に映り込む。
 彼女は叫んでいた。銀翼の女王の呪いが、あなたを私から奪うのだと。
 それは違うと、男性の弱々しい声がする。そして彼は女性に告げるのだ。
 花吐き様たちが自分を花に変えてくれるまで、星になった自分が君の側を離れないようにして欲しいと。自分は花にはなれないかもしれないが、そうすれば君と一緒にいられるからと。
「ヴィーヴォっ……」
 若草に名前を呼ばれ、ヴィーヴォは我に返る。ヴェールを被る女性が心配そうに自分を見つめていた。その彼女と記憶の中の女性が重なる。
 記憶の中の女性が彼女だと分かり、ヴィーヴォは思わず彼女から体を引いていた。
「あの……夜色さま?」
 女性が怪訝そうな表情を浮かべる。ヴィーヴォは笑みを取り繕い、唇を開いた。
 美しいアルトの旋律が、ヴィーヴォの唇から紡がれる。
 それは、女性の悲劇を歌った鎮魂歌だった。
 銀翼の女王の怒りを恐れ、愛する人の死を悲しむ女性。
 けれど歌は告げる。銀翼の女王は人を愛おしむ存在だと。
 あなたの愛する人をけっして奪ってはいないと。
 竜は怒りを知らず、竜は人々を慈しむ。
 この歌は竜の慈しみから生まれたものだと、美しい旋律は人々に伝える。
 竜は人のために涙する。
 私の愛する竜は、人を愛することしか知らないから。
 人々が静かに歌声に耳を傾ける中、ヴィーヴォは鎮魂歌をうたい終える。ふっとヴィーヴォが唇から息を吐くと、そこから風信子の灯花が生じる。
 紫色の灯花たちは空中をくるくると巡って、お互いに茎を絡まり合わせる。花輪の形をとったそれは、そっとヴィーヴォの頭へと降り立った。
「あれ……」
 花輪になった灯花たちにヴィーヴォは手を伸ばす。
「夜色さまっ!」
「ちょ、あの……」
「あぁ、ありがとうございますっ! ありがとうございます!」
 そんなヴィーヴォに女性が抱きついてきた。彼女はヴィーヴォの顔を見上げ、涙を流して感謝の言葉を伝える。ヴィーヴォから離れ、彼女は床に頭を押しつけてみせた。
「ありがとうございます……。夜色さま、ありがとうございます……」
「あの、僕は――」
「夜色さま……」
「おぉ、夜色さまが私たちに慈悲を与えて下さった!」
「夜色さま!」
 ヴィーヴォを見守っていた人々が、いっせいに歓声をあげヴィーヴォを取り囲む。彼らは建物に入っていっては、手に容器を持ってヴィーヴォのもとへと駆け戻ってきた。
 彼らが持つ入れ物には煌めく星が入っている。
「ご慈悲を! ご慈悲を!」
「我らを、我らをお許しくださいっ!」
「どうか、私たちの家族に安らぎを!」
 叫ぶ人々がヴィーヴォへと殺到する。その人々を僧兵や、他の花吐きが制する。
 それでも人々はヴィーヴォの元へと向かおうとする。
 夜色さま、どうか我々をお助けくださいと。銀翼の女王の怒りを鎮め、我らをお許しくださいと。
「何なんだよ……これ……?」
 自分に向けられる人々の叫びに、ヴィーヴォは立ちつくすことしかできない。
「あーあ、面倒なことになった……」
 ヴィーヴォの隣に若草がやってくる。彼はヴィーヴォの肩を叩き、言葉を続けた。
「応えるってことは、この人たちの望むものになるってことだよ……。君が嫌がる信仰の対象に。で、どうするの? それを君は行為で示した。応えなければ人々は君に失望して怒りを向けるだろうね……。まぁ、強行突破してもいいけど……」
 若草を見つめると、彼は冷めた眼差しを自分に向けていた。嫌がるものに応えてしまったヴィーヴォを責めているようだ。
「君はさ、嫌だ嫌だ言いながら、その嫌に自分から跳び込んでいく物好きだよね。ヴィーヴォ……。それで自分を追い込んで、どうなるの?」
 若草の言葉にヴィーヴォは答えることができない。それでも、ヴィーヴォは自分に救いを求める人々から視線を逸らすことができなかった。
 自分の足元に眼を向ける。
 地面に身を投げ出した女性は、夜色さまとヴィーヴォを称える言葉を吐き続けている。ヴィーヴォは地面に片膝をつけると、女性の肩に優しく手を置いた。
「立ってください。僕は当たり前のことをしただけですから……」
 ヴィーヴォの静かな言葉に、女性は驚いた様子で顔をあげる。女性はヴェールの下にある眼を潤ませ、ヴィーヴォの手を取った。
「あぁ、夜色さま! 夜色さま!」
 ヴィーヴォの手を両手で持ち、彼女はヴィーヴォの手の甲に額を押しつける。
「あぁ、なんてなんて慈悲深いお方……。あなたさまが銀翼の女王に愛されている理由がよく分かります……。本当に、なんとお礼を申し上げていいのか……」
 女性の言葉に、違うとヴィーヴォは答えようとした。だが、言葉をはっすることができない。自分に尊敬の眼差しを向けてくる何百という人々の視線が、ヴィーヴォにそれを躊躇わせる。
 彼らはきっと、自分が口にしようとしている言葉を望んでいない。
「どうぞ、星をお持ちの方は僕の側へ。あなた方の大切なご家族を送らせて頂きます。銀翼の女王は、けっしてあなた方を呪ってはいない」
 顔をあげ、ヴィーヴォは人々に告げる。ヴィーヴォが慈愛に満ちた笑みを向けると、彼らは眼を煌めかせ賞賛の言葉を送る。

 夜色さま。
 夜色さま。
 あなたは偉大なる花吐きだと。

 ヴィーヴォはその言葉を、笑みを深めて受け止めた。



 


 
 

 銀翼の女王の遺骸には、教会の総本山である教皇庁が設置されている。
 その教皇庁を目指し僧服を着た一団が、背骨に造られた水晶の大通りを歩いていく。彼らの先頭には、ゆったりとした深緑の法衣に身を包んだ少年と、彼に手を引かれる漆黒の法衣に身を包んだ少年がいた。



「大丈夫、ヴィーヴォ……」
「うん……」
 若草の言葉に、ヴィーヴォは弱々しく返事をする。大丈夫だと答えてはみたものの、若草に手を引いてもらわなければまともに歩くことすら出来ない状態だ。
「まったく、いくらなんでも差し出された星を全部灯花に変えるなんてどうかしてるよ……。父さんに会う前に死ぬつもり?」
「仕方ないだろ。そこに僕を求める人たちがいたんだから……。それに、ここで死ねたら本当に幸せかも」
「竜ちゃんに会わなくていいの?」
 苦笑を浮かべるヴィーヴォに、若草は不機嫌そうな顔を向けてくる。ヴィーヴォは顔を曇らせ、口を開いた。
「会いたいよ、今すぐに。でも、あの人には会いたくない……」
 ふっとヴィーヴォは笑顔を浮かべ、若草に答えてみせた。
 嘲笑うあの男の声が今でも耳朶に残っている。体を這いずったあの男の指の感触。母の名を呼ばれて、あの男に掴まれた腕が痛む。
「でも、会わなきゃ僕は前に進めないんだ……」
 胸の焼印が痛む。
 自分が犯した罪の証を服越しに掴み、ヴィーヴォは真摯な眼を若草に向けてみせた。そんなヴィーヴォに若草は告げる。
「大丈夫、ちゃんと守るから……」
 繋いだ手を握り返し、若草は微笑んでみせた。そんな若草にヴィーヴォも笑顔を向ける。
「嫌なことばっかり言うけど、若草ってたまに優しい言葉も吐くよね」
「そりゃ、君は僕の初恋の人だから……」
「冗談でも、それキツイから……」
「本当だよ、君の歌声にオレは救われたんだ……」
 ヴィーヴォから顔を逸らし、若草は小さな声で言う。ヴィーヴォは軽く眼を見開いて、若草の顔を見つめた。
 口元に笑みを浮かべ、若草は幸せそうに眼を閉じている。
「あのときの歌声は、今でも忘れられない。オレは君の子守歌に慰められたんだから……」
 翠色の眼を開け、彼は優しくヴィーヴォに微笑みを向ける。
「だから君には竜ちゃんと幸せになって欲しいし、クソ親父には指一本ふれさせない……。オレが君の盾になる」
 ヴィーヴォの指に己の指を絡み合わせ、若草はしっかりとヴィーヴォの手を掴んでみせる。若草は眼を鋭く細め前方を見つめた。
 彼の視線の先には、大理石で造られた美しい聖堂があった。
 大広間の正面に建てられたそれは、アーチ型の門と回廊を持ち、半円形の窓には色とりどりの石英が使われたステンドグラスが嵌め込まれている。
 窓の周辺や回廊を飾る支柱には、優美に飛び回る虚ろ竜たちと灯花が彫刻され、それらを灯花が照らしている。白緑の紫陽花の形をした灯花は、青銅でつくられた竜の吊るし灯篭に入れられ、水晶で仕切られた窓から淡い光を投げかけていた。
 教皇庁。この水底の頂点にしてすべてを取り仕切る聖所がヴィーヴォたちの眼の前に現れる。これから会う男の顔を思い浮かべ、ヴィーヴォは教皇庁を睨みつけた。
 若草の指に自分のそれを絡み合わせ、彼の言葉に応えてみせる。
「うん、君がいるから大丈夫だ」
「当たり前でしょ?」
 若草が笑顔を返してくれる。そんな彼にヴィーヴォは微笑みを返してみせた。
 若草の笑みを見て、市場で会った人々の顔を思い出す。自分に家族である魂を救われ、笑顔を浮かべていた人々。
 彼らは、自分を人としては見ていない。
 花吐きである夜色。それが聖都でのヴィーヴォの姿であり、役割なのだ。
 そして、人々はヴェ―ロにもその役割を求めている。
 彼女を銀翼の女王と崇め、彼女に愛される自分を、慈悲をもたらす存在だと信じてやまない。
「僕は普通の人間なのにな……」
 ふっと竜の姿をしたヴェーロが脳裏を掠める。
 本当の自分を見てくれるのは人ではない彼女だけだ。ヴィーヴォと愛しげに名前を呼んでくれるのも。
 彼女の前で、自分はありのままの自分に戻れる。
 だったら、彼女のために人々が望む自分を演じよう。
 夜色という名の、聖都の象徴を。
「行こう、ヴィーヴォ」
「うん……」
 若草の言葉に、ヴィーヴォは答えてみせる。
 二人はしっかりと手を繋ぎ合い、教皇庁の門へと向かって行く。

 心と魂

 竜の象嵌が施された姿見の前で、ヴェーロはくるりと回ってみせる。すると鏡に映った自分が白いドレスを翻して体を回転させた。翻った裾からは、刺繍を施されたたストッキングを纏う細い脚と、銀の刺繍が施された靴が見えた。
「落ち着かない……」
 結い上げられた髪をなでながら、ヴェーロは頬をぷくっと膨らませてみせる。背中に生えた翼をはためかせると、髪飾りが玲瓏とした音を奏でた。
「落ち着かない……。でも、着心地はいい……」
 ドレスの裾を持ち上げ、ヴェーロは自分の身を包むそれをしげしげと見つめる。
 ポーテンコにこの屋敷に連れて来られるなり、ヴェーロは大変な目に遭っていた。たくさんの雌の人間がヴェ―ロに傅いて、大理石の大きなお風呂にヴェーロを放り込んだのだ。
 体を無理やり洗われたあとは、この服を着せられて屋敷の離れにあるこの部屋に押し込められた。
 ふいっとヴェーロは部屋を見回す。
 白を基調とした家具が揃う部屋は、レースや愛らしい竜のぬいぐるみで飾られている。
 部屋の中央に置かれた丸テーブルにはレースの施された布が敷かれ、その上に芳ばしい香りを放つ飲み物が置かれている。
 竜の象嵌が施されたカップに入っているのは、茶華樹ちゃかきから作られたお茶だ。
 他の植物と同じく地球の光を浴びて光合成を繰り返すこの植物は、長光草のように淡く輝くのが特徴だ。葉を乾燥させお茶にすると、花のような芳しい香りを放つ。
 その香りと、お湯にしみ出した葉の成分が体にいいとヴィーヴォはよく自分にこれを飲ませていた。
 ヴェーロは、このお茶からする花の香りが好きだ。ヴィーヴォの香りとよく似ているから。
 でも、どうしてヴェーロの好物がこの部屋に置かれているのだろう。ポーテンコに話をしたことなんて一度もないのに。
「きゅーん……」
 首を傾げてヴェーロは眉を顰める。たしかにヴェーロの番であるヴィーヴォは人間だ。そのヴィーヴォに合わせるために自分も人の姿をするが、人間扱いされても困る。
 けれどポーテンコの着せてくれた服は、ヴィーヴォの作ったそれより着心地がいい。それに自分が好きな色が白であることを、どうして彼は知っているのだろうか。
「竜……入るよ」
 部屋の外についた呼び鈴が鳴らされる。ヴェーロはくるりと部屋の右側にある扉へと顔を向ける。
 石英のステンドグラスで飾られた扉が開き、ポーテンコが姿を見せる。おどおどとした様子で部屋を見渡しながら、彼はヴェ―ロへと視線を向けてきた。
 瞬間、彼は眼を見開き呟いたのだ。
「彼女に……そっくりだ」
 彼女とは誰だろう?
 ポーテンコの言葉に、ヴェーロは首を傾げてみせる。しゃらんと髪の飾りが鳴って、ヴェーロは顔を顰めていた。
「髪飾りうるさい……。人間の服、嫌……。竜は人じゃない……」
「あれ……気に入らなかったかな? 君のお母さんは喜んでくれたんだけど」
「お母さん……」
 苦笑するポーテンコの言葉に、ヴェーロは疑問を抱く。
 巨大な母の顔をヴェーロは思いだしていた。その母が、この服を着ていたとでもいうのだろうか。
「どうして、お母さんが?」
「君のお母さんも昔、聖都にいたんだよ。お母さんはこの部屋でしばらくのあいだ暮らしていた。私と一緒にね」
「ポーテンコと一緒に?」
 彼の言葉に、ヴェーロは大きく眼を見開いていた。ポーテンコは笑顔を浮かべながら、ヴェーロのもとへとやって来る。
 そっとヴェーロの頭に手をのばし、彼はヴェ―ロの頭をなではじめた。
「ポーテンコ……」
 ポーテンコから懐かしい香りがする。花吐きでないのにヴィーヴォのそれを想わせる花の香り。茶華樹と同じその香りに、ヴェーロはうっとりと眼を細めていた。
 頭をなでられるたび、心地よい感触が体全体を包み込む。
 自分はこの人を知っている。でも、懐かしいと感じるこの人が何者なのか思いだすことが出来ない。
「あなたは、誰……?」
 しゃらんと髪飾りを鳴らし、ヴェーロはポーテンコに問いかける。ポーテンコは困った様子で眼を細め、笑ってみせた。
「私は、どうも君の父親のようだ」
「お父さん……?」
「それなのに、君たちが生まれたことすら私は知ることが出来なかった」
 悲しげに眼を細め、彼はヴェーロの頬を優しく指でなぞった。
「君が人になった姿を見た。そして、彼女が現れたことで確信したんだ。君は、彼女が私に授けた娘だったんだ。私が独りにならないように……。君の妹の卵もたぶん、私に宛てて彼女が落としてくれたものなんだよ。でも私は、それに気がつかなかった。だからこそ、彼女は君たちを迎えに来たんだ……。私がアテにならないから……」
 震えるポーテンコの声がヴェ―ロの耳朶を叩く。ヴェーロは父親だと名乗る男性を見つめることしかできない。
「違うよ……。お母さんは竜が寂しいと思ったから、来ただけ……。でも、ヴィーヴォがいたから竜は寂しくもないし、生きることも出来た……。だから、ポーテンコは何も悪くない……」
「竜……」
 思ったことをポーテンコに伝える。ポーテンコは大きく眼を見開き、じっとヴェーロを凝視した。潤んだ彼の眼に向かい、ヴェーロは微笑んでみせる。
 細い腕を彼に伸ばし、ヴェーロはポーテンコを抱きしめていた。
「君は……」
「そっか、お父さんだったんだ……。だから、ポーテンコは嫌じゃないし、懐かしい匂いがするんだ……」
 ポーテンコの胸に顔を埋め、ヴェーロは囁く。彼の体が震えていることに気がついて、ヴェーロは顔をあげていた。
「恐いの? 竜が恐い? ヴィーヴォも恐いとよく震えている……。でも、竜には恐いって教えてくれない……」
「いや、違うよ……」
 潤んだ眼を細め、ポーテンコが笑ってみせる。彼はヴェーロの背中に腕を回し、ヴェーロを抱きしめ返してきた。
「君が、そう言ってくれるのが嬉しいんだ。嬉しくて、どうすればいいのか分からない……」
「お父さん……」
 そっと顔をあげ、ヴェーロは彼を見つめる。眼に微笑みを浮かべ、ヴェーロは言葉を続けた。
「ただいま……」
「お帰り、私の可愛い娘……」
 娘の言葉に、父は優しい声で答えてみせた。





「我らが夜色よ……。黒の一族を司る始祖の竜の使いよ。我らが母なる銀翼の女王の名のもとに、君の罪を赦そう」
 男の言葉と共に人々の歓声が大聖堂に響き渡る。そっとヴィーヴォが眼を開けると、大樹を想わせる支柱が回廊の両側に並んでいた。灯花の巻きついた支柱に、回廊の奥にある祭壇が照らされている。
 その祭壇に立つ男を、ヴィーヴォは鋭い眼差しで見つめていた。
 若草と同じ深緑の法衣に身を包んだ男は、後方で結んだ髪をゆらしヴィーヴォに手を差し伸べた。
「銀翼の女王の恩寵を受けし愛し子よ。我が麗しの夜色よ。君に私の慈悲を授けよう」
 うっとりと翠色の眼を細め、男はヴィーヴォに来ることを促してくる。ヴィーヴォは漆黒の法衣を翻し、男のもとへと静かに歩んでいく。
「教会を統べる始祖の竜の代弁者にして、我らを護り給たまう教皇よ。私はあなたの名のもとに、再び夜色になることを誓います」
 ヴィーヴォは祭壇の前に傅く。教皇は満足げに笑い、祭壇から降りてヴィーヴォのもとへと近づいていく。彼は深々とさげられたヴィーヴォの頭に手を置き、口を開いた。
「我の名のもとに、汝が再び夜色となることをここに赦す。ここに夜色の二つ名を名乗ることを認めよう。銀翼の恩寵を受けし愛し子よ」
 教皇の高らかな宣言に、再び聖堂が歓喜の渦に包まれる。ふと髪を弄ばれていることに気がつき、ヴィーヴォは顔をあげていた。
「教皇さま……?」
「あぁ、ヴィーヴォ、お前の髪はいつさわっても心地がいい……。あのときのことを思い出すよ……」
 うっとりと眼を細め、舐めまわすように教皇はヴィーヴォを見つめる。そんな彼を見て、ヴィーヴォは怖気が走るのを感じていた。
 耐えなければならないのに、体が震えてしまう。
「おやめください……。今は……」
 髪を指に巻きつけられ、ヴィーヴォは震える声で彼を制する。彼はヴィーヴォの耳元に唇を寄せ、ふっと息を吹きかけてみせた。
 眼を潤ませ、ヴィーヴォは肩を震わせる。
「大きくなってもちゃんと体は私のことを覚えているようだね……。あぁ、また君をこの聖都という名の鳥籠で飼えると思うと、私はとても嬉しいんだ……。あぁヴィーヴォ……」
 這うように彼の手がヴィーヴォの頬を滑る。
 彼に触れられた感触を思い出して、ヴィーヴォは反射的に彼の手を跳ねのけていた。
「あっ……」
「ヴィーヴォ……」
 我に返ったとたん、冷たい声が自分を呼ぶ。慌てて教皇を見あげると、冷たい彼の眼がヴィーヴォに向けられていた。
「ごめっ……」
「私の美しい夜の花は、いつからそんなに反抗的になったのかなっ」
 宙に翳したままの手を、乱暴に掴まれる。教皇は声を荒げ、ヴィーヴォの体を自身のもとへと引き寄せた。
 聖堂に集う人々がざわめく。だがそんな観衆を気にすることなく、教皇はヴィーヴォの腰を抱いていた。
「マーペリアから聞いたよ。人手不足で私たちが花にできなかった星たちを導いてくれたそうじゃないか……。それに免じて見逃してあげるつもりだったが、どうも君には躾が必要みたいだね……」
 そっとヴィーヴォの耳たぶをはみ、彼は囁いてくる。ヴィーヴォは体を震わせ、潤んだ眼を彼に向けた。教皇がそんなヴィーヴォをみて満足そうに微笑む。
 ヴィーヴォは不敵な微笑みを浮かべ、教皇に言葉を返した。
「何がお望みですか? どうぞ、あなたの御心のままに……」 
 ヴィーヴォの言葉に、教皇は眉を顰める。彼は口元に笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「マーペリアから聞いてはいたが、魅力的な少年に成長したものだな。これから躾ていくのが楽しみだよ……」
 顎を掴まれ、教皇の方へと顔を向けられる。
 彼の爪が顔の皮膚に突き刺さりヴィーヴォは顔を歪めた。教皇は満足げに笑って、ヴィーヴォの体を担ぎ上げようとした。
「教皇、お戯れはそのぐらいにいたしませんか?」
 涼やかな声が、そんな教皇の挙動をとめる。顎から教皇の手が引き、ヴィーヴォは慌てて後方へと顔を向けていた。
 眼を妖しげに細め、若草色がこちらを見つめている。彼は颯爽とヴィーヴォたちに近づき、後方からヴィーヴォを抱き寄せてみせた。
「若草……」
「追放生活と聖都までの長い旅路が彼を疲れさせているのでしょう。少し休めば、またあなたの知っている夜色に戻ります。それに、教皇ともあろう方が公の場所で自身の性癖を吐露しますかねぇ……」
「マーペリア……」
「夜色はオレのおもちゃ……じゃなくて大切な友人でもあります。そんな友人が苦しめられている姿をオレは見たくない。その相手が、あなたであってもね……」
 するりとヴィーヴォの頬に指を這わせながら、若草は教皇に笑ってみせる。
「大丈夫……。他の僧侶たちの眼もあるし、このまま父さんは君から手を引くよ……。だから、震えないで……」
 耳元で若草が囁く。
 ぎゅっと優しく手を握られて、ヴィーヴォは自分が震えていたことに気がついた。
「そうか、それは残念だ。私はただ、愛しい夜色に緋色と金糸雀の話をしたかっただけなんだがね、マーペリア……」
 肩を落とし教皇は苦笑してみせる。わざとらしくため息をついて、彼は言葉を続けた。
「それに久しぶりに再会したんだ。彼と、彼のお母さんについての話もしたい。彼のお母さんがどうなったのかも……」
 ヴィーヴォに視線を向けながら、教皇は嗤ってみせる。彼の言葉を聞いたヴィーヴォは、思わず声をはっしていた。
「母が、どうかしたんですか?」
 幼い頃に引き離されてから、ヴィーヴォは自分の母親に会っていない。その母親に何があったというのだろうか。
「やはり……。知らされていないのか……」
 鋭く眼を細め、教皇は若草を見すえる。
 若草は怯えた様子で顔を俯かせ、ヴィーヴォを抱きしめる力を緩めた。
「どういうこと、若草……?」
「ごめん、ヴィーヴォ……。言えない……」
 ヴィーヴォの言葉に、若草は顔を逸そらす。ヴィーヴォは自身を抱く若草の腕を振りほどき、教皇の側へと走っていた。
「ヴィーヴォっ!」
「教えてください。母に何があったのか……。お願い――」
 突然、視界がゆれてヴィーヴォは言葉を発することが出来なくなっていた。
 力が入らない。体が前のめりに倒れ込み、聖堂の床が眼前に迫る。
「ヴィーヴォっ!」
 そんなヴィーヴォを教皇の腕が抱きとめた。彼はヴィーヴォの体を横抱きにし、耳元で囁いてくる。
「大丈夫かい? 君が倒れるなんて……」
 心配そうに教皇が顔を覗き込んでくる。歪む視界に彼を捉えながら、朦朧とした意識を振り払いヴィーヴォは口を開いた。
「大丈夫です。だから、教えて……。母さんのこと……。それに緋色と金糸雀に何が……」
「話すよ。だから、今は黙りなさい……」
 そっとヴィーヴォの頬を労わるようになで、彼は周囲の人々を見回した。
「謁見は以上とする。私はこれにて失礼させてもらうっ」
 ヴィーヴォを抱え直し、教皇は祭壇奥の内陣へと引き返す。
「父さんっ!」
 そんな教皇を若草が呼び止めた。
 ヴィーヴォは教皇の体越しに若草を見つめる。若草はじっと自分たちを見つめていた。教皇は、そんな若草に顔を向ける。
「どうして、教えてやらなんだ……?」
 冷たい教皇の声が若草にかけられる。若草は大きく眼を見開き、俯いた。
「お前も、ヴィーヴォの悲しみは分かるはずだろう。マーペリア……」
 悲しげな眼差しを若草に送り、教皇は顔を正面へと戻した。
「行こうヴィーヴォ……。君は知らなくてはいけない。たとえそれが、残酷な現実でもね」
 眼を悲しげに歪め教皇は笑ってみせる。ヴィーヴォはそんな彼から眼を離すことが出来なかった。





 

 竜胆の形をした灯花がどこまでも広がっている。
 蒼く煌めく灯花を眺めながら、ヴェーロは感嘆と眼を見開いていた。そんなヴェーロに挨拶をしたいのか灯花たちはしゃらん、しゃらんと音をたてる。
「ヴィーヴォの灯花じゃない?」
 彼が吐く灯花と音が違う。そっとしゃがみ込んで、ヴェーロは灯花の一つを指でなでた。花弁の輝きも、ヴィーヴォのそれと違い輝きが淡い。
「ヴィーヴォの母さんが吐いた花だよ。君のおばあさんになるのかな?」
 声をかけられ、ヴェーロは後方へと体を向ける。ワイシャツを纏ったポーテンコが、竜胆の灯花を手に持ち微笑んでいた。
「寒くないの? お父さん……」
 聖都に来る直前、ヴィーヴォが寒がっていたことを思いだす。ヴェーロはこくりと首を傾げていた。
 標高が高い場所にあるのに、聖都は不思議と寒くない。だからポーテンコは外套も羽織っていないのだろうが、ヴェーロの体感温度と人のそれは違い過ぎる。
 聖都を追放されてまもない頃の話だ。
 ヴィーヴォが空高く跳んで欲しいとヴェーロに懇願したことがあった。
 望み通り彼を空に載せて飛ぶと、ヴィーヴォは驚くほど喜んでくれた。それが悪かった。ヴェーロは調子に乗ってヴィーヴォが寒さに耐たえることが出来ない高度まで上昇してしまったのだ。
 その後、ヴィーヴォがどうなったのか言うまでもない。
 冷たい外気に晒された彼は高熱を出して寝込んでしまい、ヴェーロが数日間彼の体を温めて回復させた。
 それからヴェーロは周囲の温度に気を使うようにしている。今感じている温度は人間にもはちょうどいい温度かもしれないが、心配になって大丈夫かと相手に聞いてしまうのだ。
「あぁ、女王の遺骸の中は蒸気の力によって常に温められているからね。人が過ごしやすい温度をずっと保っていられるんだよ」
「ジョウキノチカラ……?」
「その昔、地球からやってきた稀人と呼ばれる人々がもたらした技術らしい。その稀人が持っていた青い装丁の本に、蒸気の力で動く乗り物が紹介されていたそうだ。私たちが知っている地球の古語にも属さない、音を意味する言葉と、物事の意味を表す複雑な象形文字が入り混じった独特の言語で書かれた難解な書物でね、その書物を何とか解読して、技術の一部を応用することができた。竜骸と坂の外縁街に設置された歯車を見ただろう? あれはこの聖都を管理するために造られた、蒸気で動く脳みたいなものなんだ。あの機械が外の気温を常に察知して、竜骸の中の温度を調整してくれている」
「あの歯車たちは、竜みたいに生きてるの?」
 大きく眼を見開いて、ヴェーロはポーテンコを凝視する。ポーテンコは困ったように笑ってみせて、答えた。
「生きてはいないかな……。あれには魂がないからね。それゆえに意思を持たず、自分が与えられた仕事を最適な方法で熟すことしかできないんだ。竜のように、服を嫌がったり、ヴィーヴォを好きになったり、そういった当たり前のことはできない……」
「じゃあ、灯花にもならないんだ……」
 魂を持たない存在。
 ふっとヴェーロの脳裏に友人であるメルマイドの姿が脳裏を過る。ポーテンコは魂が存在しないものには意思が宿らないという。じゃあ、メルマイドはいったい何なのだろう。
 彼女にはちゃんと意思がある。珊瑚色が大好きで、ヴェーロを慰めるぐらい優しい心の持ち主で。喜びも、悲しみも、笑うことだって彼女は出来る。
 そのメルマイドにも、心が宿っていないのだろうか。
「人魚にも……心はないの?」
 ぽつりとヴェーロは呟くように囁く。ポーテンコは困ったように笑って、ヴェーロの頭をなでた。
「彼女たちに魂はないが、心はちゃんとあるよ。私たちと同じ生命の卵から生まれ落ちたものだからね。彼女たちには心を造る脳という器官がきちんとある。だから、君の友達は魂がない以外は私たち人間と一緒だ」
「心を造る器官?」
「私たちは情報を司る脳が処理した世界を生きている。稀人のもたらした古文献によると、この頭にある脳からは様々な電気が発せられており、その電気が情報のやりとりを司っているらしい。脳には指なら指の動きを司る領域があり、耳には耳の部位を司る領域があるという。それら脳の異なる場所で処理された情報が、統合され一つのものとして認識される。それが今ここにいるという実感であり、意識であり、自我という自分自身の存在だ。
 水底ができた創世神話によると、私たちの存在は地球で眠り続けている少女が見ている夢そのものだそうだ。彼女が見ている夢がこの水底を始めとする虚ろ世界だという。虚ろ世界は、彼女の心そのものだという説もある」
「竜たちは夢の中で生きているの?」
 夢をみたときの出来事を思い出し、ヴェーロは首を傾げていた。
 夢を見ているときは、その見ている夢そのものが現実だと思っている。
 夢から覚めると、あれだけ現実だと思い込んでいた物が曖昧になって思いだすことすらできなくなる。
 たまに、ヴェーロは思うのだ。
 夢と現実、どちらが本当の世界なのだろうかと。もしかしたら自分は、違う世界へと夢を通じて迷い込んでいるのではないかと。
 例えるなら夢は幻だ。
 見ているときはそれを現実だと認識しているのに、起きてみるとただの夢だと認識する。
 そして、あれだけはっきりと現実だと思っていた世界の輪郭すら数分で思いだせなくなる。
「夢は、記憶の再統合とも言えるのかもしれない。人は眠っているとき、夢を通じて情報を処理しているそうだ。だから、夢を見て考えていたことに解を見つけることすらある。それから夢は、意識しない自立性を持つ心の闇からの声という説もある」
「心の闇からの声……」
「無意識。意識されていない心の暗い部分と言ったほうがいいかな。ちょうど、虚ろ世界の底にある、この水底のように……」
 ポーテンコが顔をあげる。
 ヴェーロも彼に倣って顔をあげた。水晶の骨がヴェ―ロたちの立つ屋敷の庭を覆っている。その向こう側に、星空に浮かぶ地球があった。星空に、いつもある虚ろ竜たちの陰影は見当たらない。
「この水底が少女の心そのものだとしたら、ここは心の底に広がる意識されることのない無意識の世界なのかもしれないね……。けっして誰にも知られず、意識されることもなく、暗闇に閉ざされたままそこにあり続ける……。ここに、私たちはいるというのに……」
 ポーテンコへと顔を向けると、彼は悲しげに眼を伏せていた。
「意識は、情報の最適化そのものに他ならない。脳の異なる情報を繋ぎ合わせ、一つの情報へと集約させた事象。それが、今ここにいる私たちそのものだ。意識にそれ以上の価値はなく、私たちはそれ以上の価値すらない……」
「じゃあ、魂は何?」
 ふと思った疑問をヴェーロは口にしていた。
 心が肉の器から生まれるものだとしたら、その心を司るとされていた魂は一体何なのだろう。
「魂は、伝えるものだと言われている。心が電気信号とホルモンの分泌によって創り出される夢だとしたら、魂はその夢を乗せて次の心を創り出す基盤そのもの……かな。ただ、殻には魂がないから、彼女たちの存在そのものがある意味では刹那の夢なのかもしれないね……」
「メルマイドが夢……」
 ポーテンコの言葉に、ヴェーロは両手を眺めていた。横抱きにしたメルマイドの冷たい体を思い出す。
 彼女の体は冷たくて、でも笑うとほんのりと頬が林檎のように赤くなって――
 そんなメルマイドが、夢のようにいるかどうかも分からない存在だというのだろうか。
 それなら、自分自身もそうじゃないだろうか。
 番である、ヴィーヴォも――
「でも、私たちは外からの認識によっても常に『私』であることを再確認する。私たちの意識が私たちという存在を創りあげるように、他者が私たちの存在を知覚し、私たちが何者なのかを規定する。その他者とのやりとりすらも、ある意味では心の一つの形なんだよ」
 頭をなでられ、ヴェーロは顔をあげていた。ポーテンコが優しく自分に微笑みかけている。
「だから、他者という存在が観測を続けてくれる限り、その存在が私という名の意識の中に刻まれている限り、私たちは存在し続ける……。たとえそれが、他人の記憶の中だとしても、私の大切な人たちは私の中にずっといるんだ……」
 そっとポーテンコの手が頭から離れていく。彼は眼を悲しげに歪め、ヴェーロを抱き寄せた。
「お父さん……」
「私の母は、ずっとここで花を吐いていた。私のせいで死んでしまった人々の魂を弔うために……。ヴィーヴォと君を迎えに行ったときは、もう……」
 しゃらんと灯花が悲しげに音を奏でる。すすり泣くポーテンコの声を聞きながら、ヴェーロは灯花の花畑を見つめていた。
 花畑の中央に小さな石碑がある。
 それがポーテンコの母親の墓だと気がつき、ヴェーロは大きく眼を見開いていた。

 竜の兄弟

「覚悟はしていました。いつかはこうなるって……」
「ずいぶん、冷静なんだね」
「こうやって寝台に横になってるのに、あなたに襲われていない方が奇跡ですよ」
 嗤いながらヴィーヴォは教皇に言葉を返す。自分が寝そべっている天蓋の横に置かれた椅子に彼は座していた。
「いくら私でも、そこまで鬼畜じゃない」
 眼を歪め、教皇は嘲りを顔に浮かべる。彼はそっとヴィーヴォに手をのばしてきた。何かされるのではないだろうか。不安になってヴィーヴォは眼を瞑る。
 けれど、ヴィーヴォが感じたのは頬をなでられる感触だけだ。
「彼女の面影は、もう君を通じてしか感じられないんだな……」
 そっと眼を開くと、悲しげに教皇が眼を細めている。ヴィーヴォの顔を眺めながら、彼は愛おしむようにヴィーヴォの顔の輪郭をなでていた。
 母が亡くなった。
 そう教皇から聞かされたとき、ヴィーヴォは冷静なぐらい自分の心が凪いでいることに気がついたのだ。
 ポーテンコや若草の態度がおかしいことから、最悪な結果を覚悟しておいたお陰だろうか。
 苦笑しながら、ヴィーヴォは言葉を続けていた。
「そんなに、似てますか? 僕、男なんですけど……」
 彼の手にふれ、ヴィーヴォは顔を顰めてみせる。教皇は困ったように笑って、もう片方の手でヴィーヴォの唇をなでてみせた。
 艶めいたヴィーヴォの唇を、彼は丹念になでていく。
「ここから生まれてくる花も、ゾクゾクするぐらい似ているよ。ポーテンコが父親似なら、君はお母さんの血をよく引いている……」
 ヴィーヴォは唇をなぞる彼の手を掴み、不機嫌に眉を寄せてみせた。
「若草にも、睫毛が長いって笑われました……」
「あの子らしいな……」
「若草は、マーペリアは僕の異父兄弟じゃないですよね……?」
 不安に思っていたことが言葉になる。教皇は驚いた様子でヴィーヴォを見つめ、首を振ってみせた。
「私の可愛い息子が、あの裏切り者の女の子供であるわけがないだろう? あの女のせいで、君たち黒の一族は私たち緑の一族に粛清された」
 ヴィーヴォの言葉に、教皇は忌々しく吐き捨てる。彼は椅子から立ちあがり、寝台に寝そべるヴィーヴォへと体をのばしてきた。
「え……あの……」
 ヴィーヴォの体に覆いかぶさり、彼は顔を覗き込んでくる。じっとヴィーヴォを見つめながら、彼は静かに口を開いた。
「見せてくれないか? あの女の罪の証を……」
「どうして……」
「君はまだ自分が人だと思っているそうだね。あれだけ違うと信者たちも言っていたのに……」
「どうして僕の竜が、銀翼の女王になっているんですか?」
 外縁街であった人々を思いだし、ヴィーヴォは鋭く眼を細めていた。そんなヴィーヴォに教皇は嘲りの眼を送ってくる。
「マーペリアから聞いていないかい? 宗教的なある種のプロパガンダだよ……。教会の威信は花吐きの不足によって損なわれようとしている。そこに、君と銀翼の女王の生まれ変わりである竜が現れた。人々は竜の暴走を銀翼の女王の怒りととらえ、その原因となった君を寵愛を受けた特別な花吐きだと崇拝する……。君と君の竜のお陰で、私たち教会は信仰を護ることができたんだ。感謝しているよ」
「結局竜の名前なんて分からなくても、あなたたちは僕と竜を聖都のために利用したってことですか……」
 教皇の言葉にヴィーヴォは自嘲していた。
 結局のところ、自分たちは教会のいいように扱われている。ヴェーロを利用されまいと名を明かさなかった自分が道化のようだ。
「そう、だからこそ竜に愛された君は人を辞めなければならない。いや、そもそも君はそう思い込んでいるだけで人ですらない。あの女と、あれから生まれてきた子供だからねぇ」
 教皇の笑声が煩わしい。ヴィーヴォは彼から視線を放していた。
「どいてください……。母の罪の証が見たいんでしょう?」
 冷たい言葉が口から零れでる。教皇は愉しげに眼を歪めた。彼はヴィーヴォの体から離れていく。ヴィーヴォは上半身を起こし、彼に背を向ける。そんなヴィーヴォが纏うローブに教皇は手をかけた。
「な、ちょ……」
 服を引っ張られ、ヴィーヴォは驚きに声をあげる。彼はローブを引き裂いた。
「やぅ……」
 布の裂ける音が響き、ひやりとした冷たい感触が背中に走る。教皇の舌が背中を舐めているのだ。彼の指が背中を這い、ヴィーヴォは体を震わせていた。
「何を……」
「いつ見ても痛ましくて、美しい傷跡だね。君の翼の痕は……」
 ヴィーヴォの白い肌には、傷跡がある。まるで羽をむしり取ったかのようなその傷跡は、兄のポーテンコにもあるものだ。
 その傷跡を愛おしむように、教皇はヴィーヴォの背中に舌を這わせる。
「やめて……僕に手は出さないって……あぅ……」
「あぁ、ださないよ。ただ、この美しい傷跡を愛でていたいだけだ……」
 傷跡に爪をたてられ、ヴィーヴォは喘ぐ。教皇はその声に満足げに口の端を歪め、傷跡をなでる。
「君たちが父親から受け継いだ竜の翼を、なぜ君の母親は引き裂いてしまったのだろうかね……?」
 教皇の言葉に、ヴィーヴォは父だと言われたソレの姿を思いだしていた。
 物心つく頃には自分の背中に翼はなく、ただ傷跡だけがそこにあった。でも、アレを母に見せられ、ヴィーヴォは傷跡から翼が生えていたことを確信したのだ。
 水晶の中に閉じ込められた夜色の竜は、虚ろな眼で自分を見つめていた。
 明らかに人でないソレを父親だと言われて、ヴィーヴォは立ちつくすことしかできなかった。
 そして母は言ったのだ。
 どこにも行ってほしくないから、ヴィーヴォの羽を引き千切ったのだと。
「花吐きでありながら夜色の名を捨て、双子の兄を愛し、その兄の子を産んだ呪われた女。聖都を捨て、黒の一族を見捨て、君たち兄弟を罰として取り上げられた哀れな女……。それが君の母親だよ、ヴィーヴォ……」
 ヴィーヴォの耳たぶを舐めあげ、教皇は囁く。耳たぶに妙な痒みが走り、ヴィーヴォは眼を潤ませていた。
「違う……」
 その眼を教皇に向け、ヴィーヴォは彼を睨みつける。喜悦に輝いていた彼の眼は、一瞬にして不機嫌な色を帯びた。ヴィーヴォはとぎれとぎれに言葉を放つ。
「母さんは哀れな女なんかじゃない……あの人は……やぅ!」
 首筋を噛まれ、ヴィーヴォは寝台へ押し倒される。ヴィーヴォの両手を拘束し、教皇はヴィーヴォの耳元で囁いた。
「君の母親がどうして死んだのか教えてあげようか? 君の母親は、サンコタは、君が竜を使って殺した聖都の人々をすべて灯花に変えた。君が楽しく追放生活を満喫しているあいだ、彼女はずっと死者のために祈りを捧げていた。文字通り命を削ってね。亡くなったのは、つい最近だ……」
「母さん……」
 彼の言葉に、ヴィーヴォは眼を見開いていた。
 母は聖都を追放され、父と共にいたはずだ。あの、水晶に閉じ込められた夜色の竜のもとに。
 口の端を歪め、教皇はヴィーヴォの首筋を舐めてみせる。
「あ……」
「そう……。私はもう君を通じてしか、かつての彼女を感じられない。私の許嫁で、素晴らしき恋人だったサンコタを……。気が変わった。やはり私には、サンコタが必要みたいだ……」
 淡々とした彼の言葉に、ヴィーヴォは大きく眼を見開いていた。悪夢のような光景が脳裏に浮かびあがる。
 この男に組み敷かれて、母の名を繰り返し呼ばれたあの日々が――
「サンコタ……」
 耳元で愛しげに名を呼ばれる。息を吹きかけられて、ヴィーヴォは体を震わせていた。
「やめ……僕は母さんじゃ……」
「じゃあ、どうして君はそんなに彼女に似てるんだい……? あぁ、サンコタ……。君の花の香りは、ほんとうに蠱惑的だよ……」
 頭を引き寄せられて、教皇はヴィーヴォの髪に顔を埋めてくる。鼻先で髪を弄ばれ、ヴィーヴォは奥歯を噛みしめていた。
 ヴィーヴォは自身を蹂躙する男を睨みつける。そんなヴィーヴォの髪を教皇は乱暴に掴んだ。
「いたっ」
「あぁ、その眼だヴィーヴォ……。何度痛めつけてもお前はその眼をやめない。私を裏切ったあの女と同じ眼……」
「だから、僕は母さんじゃないって言ってるだろっ!」
 教皇にヴィーヴォは怒鳴っていた。彼の頬に赤い筋が走る。教皇は傷ついた左頬へと眼を向け、ヴィーヴォの体を寝台に突き飛ばしていた。
「ヴィーヴォ……」
 荒い息を吐きながら、ヴィーヴォは体を起こし片手を前方へと翳す。ヴィーヴォの周囲を銀色に輝く粒子が舞い、それは小さな竜の形をとった。
「僕に近づくな……」
「人形術。竜の鱗とは君らしいね……。いつの間にそんなものを?」
「ここにくるまでに、いくつか僕の竜の鱗をばらまいておいたんですよ……。下手に動くと、竜の鱗があなたの体を切り刻みますよ……」
 教皇を睨みつけながら、ヴィーヴォは静かに告げる。教皇は口の端を歪め、愉しそうに眼を歪めてみせた。
「あの泣き虫ヴィーヴォが、ここまで成長しているとわね」
「辺境の地で愛しい竜のために狩りもしなくちゃならなかったもので……。あと、強姦対策ですかね。みんな竜が食い殺してくれましたけど……」
「恐い恋人だな……」
「竜の恋人なんて強くなきゃやってられませんよ……。弱いと、守られてばっかりになっちゃうんで」
 鱗の竜たちが、立ち塞がるように教皇とヴィーヴォの前へと移動する。体が震えてしまう。それでもヴィーヴォは口元を歪め笑ってみせた。
「いいのかい、そんなことをしても……?その愛しい恋人に罪なき人々を殺させた君に、罪人である君に、私を拒むことができるとでも……」
「ヴィーヴォの罪は、教皇であるあなた自身が赦したはずですが……」
 凛とした男の声が場を制する。
 驚いたヴィーヴォは部屋の扉へと顔を向けていた。扉の縁に体を預け腕組みをしたポーテンコが、こちらを睨みつけている。
「どうしたんだいポーテンコ? ヴィーヴォはしばらく私が預かると使いを――」
「若草からヴィーヴォを引き取りに来て欲しいと、伝言が届きましてね……」
 ポーテンコは眼を細め、教皇を見すえる。彼の周囲を小さな竜が飛び回っている。緑色の鉱物めいた輝きをもつそれは、若草が人形術で生み出した竜だ。
 その竜が、口に乱暴に丸められた長光草の紙を銜えていた。
「あなた宛にしたためられた手紙も、なぜかこの竜は銜えてきた。手紙を届けるついでに、あなたの息子は伝えて欲しいことがあると私に伝言を残しましたよ」
 緑色の竜をなでながら、ポーテンコは部屋の中へと足を踏み入れる。彼は寝台の縁に膝を乗せ、教皇の胸倉を掴んだ。
「クソ親父、オレが相手になるからヴィーヴォを返せ。じゃないと、親子の縁を切る。だそうです……」
 教皇の耳元でポーテンコは若草の伝言を口にする。教皇は困った様子で眼を細め、苦笑を顔に浮かべていた。
「マーペ……。冗談でもさすがにそれはきつい……」
 肩を震わせながら教皇は笑い声をあげてみせる。ポーテンコは彼を放し、冷たい口調で言葉を続ける。
「で、私の大切な家族は返していただけますよね?」
「あぁ、いいとも。私もたった一人の息子を失いたくはないからね……」
 前髪を掻かき揚げながら、教皇は笑みをポーテンコに送ってみせた。彼の意外な反応にポーテンコは軽く眼を見開く。
「あの……兄さん?」
 唖然とする兄に、ヴィーヴォは声をかける。ポーテンコは驚いた様子でヴィーヴォに顔を向け、静かな声で言った。
「ヴィーヴォ……。人形術を解いてくれないか?」
 ポーテンコの言葉に、ヴィーヴォは人形術を解く。しゃらんと玲瓏な音をたてて、鱗の竜たちは崩れ落ちる。布に散らばった鱗を集めていると、ポーテンコの腕がヴィーヴォの背中へと添えられた。
「兄さん……?」
「謁見中に倒れたそうだな……」
「わっ」
 ポーテンコはヴィーヴォの体を横抱きにしてみせる。
「ちょ、なんで僕ばっかりお姫さま抱っこっ? 僕も男なんだ! いい加減、僕の気持ちぐらい察してよっ!」
 寝台を降りようとするポーテンコの腕の中で、ヴィーヴォは暴れてみせる。そんなヴィーヴォに眇めた眼を向け、ポーテンコはため息をついた。
「倒れた挙句、こんなに細い体をしたお前が何を言っている。病人らしく、大人しくしてろ……」
「いてっ!」
 ヴィーヴォを膝の上に降ろし、ポーテンコはヴィーヴォの額を指弾してみせる。怯んだヴィーヴォを彼は素早く抱えなおし、寝台から下り立った。
「そうだヴィーヴォ、言い忘れたことがあった……」
 教皇の声がする。
 愉しげな彼の方へと視線を向けると、彼は笑顔をこちらに向けていた。
「始まりの場所でまた会おう……。緋色と金糸雀も待っているよ……」
 彼の言葉に、ヴィーヴォは悪寒を覚えていた。そんなヴィーヴォを教皇は喜悦に輝く眼で見つめてくる。
「私たちはこれで失礼させて頂きますので。ヴィーヴォはしばらく休養扱いにさせて頂きます」
「おやおや、職権乱用かい?」
「教皇の地位を利用して、二つ名の花吐きに手をだそうとした人間に言われたくありませんよ」
 教皇にポーテンコは冷たく声をかける。彼はヴィーヴォを胸元へと抱き寄せ、耳元で囁いた。
「気にするな。震えが大きくなるだけだぞ……」
 ポーテンコの囁きに、ヴィーヴォは大きく眼を見開く。ヴィーヴォは思わず兄の首に自分の両腕を絡ませていた。
「恐かった……。恐かったよ……」
「あぁ、もう大丈夫だ……」
 ポーテンコが背中を優しく叩いてくれる。冷たいと思っていた兄の優しい言葉に、ヴィーヴォは涙ぐんでいた。そんなヴィーヴォにポーテンコは困ったように微笑んでみせる。
 どうしてだろう。あれだけ嫌だった兄といて、安らぎを覚えるのは。
「久しぶりにヴィーヴォに会ったんだ。せいぜい嫌われるといいよ。私のようにね……」
 教皇の嘲笑が背後で響く。ヴィーヴォを抱えたまま、ポーテンコは教皇に微笑んでみせた。
「嫌われているのは百も承知ですが、家族を守るのは当然のことですから」 
「兄さん……」
「いくぞ、ヴィーヴォ……」
 彼はヴィーヴォを抱え直し、部屋を後にする。
「くれぶれも、ポーテンコには注意するんだよ。ヴィーヴォ……」
 小さな囁きが耳朶を叩く。ヴィーヴォは思わず教皇へと振り返っていた。
 教皇は笑いながらヴィーヴォを見つめている。そんな彼からヴィーヴォは眼を離すことができなかった。




「で、なんでこうなるの?」
 広い浴槽にヴィーヴォの呆れた声が響き渡る。ジト目で湯煙を眺めながら、ヴィーヴォはお湯に顎をつけていた。
「仕方ないだろう。あの男にさわられたままの状態でいたいのか?」
 厳しい兄の声が浴室に響く。ヴィーヴォは盛大に顔を顰めていた。兄は、腰に布を巻きつけ浴槽の前で仁王立ちしている。彼の小脇に抱えられた小さな竜の人形がなんとも不釣り合いだ。
 彼のしっとりと濡れた紺青の髪から雫が滴り、鎖骨を滑って引き締まった腹部へと流れていく。しなやかな筋肉のついた兄の体に、ヴィーヴォは思わず釘付けになっていた。
 ためしに自分の両腕を見つめてみる。
 細い腕はなんとも心細く、その下にある腹部に兄のように引き締まった筋肉は見当たらない。細い腰と相まって、下手をすると少女のそれを連想させる。
 両手でがばりと顔を覆い隠し、ヴィーヴォは叫んでいた。
「なんで僕は男なのに筋肉つかないのー! つーかなんで兄さんと風呂入らなきゃいけないのっ?」
「どうしたんだっ! ヴィーヴォ?」
 ヴィーヴォの取り乱した様子を見て、ポーテンコは慌てて浴槽へと足を踏み入れる。ヴィーヴォは顔から手を取り、そんな兄を潤んだ眼で睨みつけた。
「助けてくれたことには感謝してるけど、兄さんは嫌いだ……」
「その……お前に嫌われていることは分かっているが、その……」
 ヴィーヴォの前で腰を下ろし、ポーテンコは湯につかる。端正な顔を顰め、彼はヴィーヴォに言った。
「その……なにをそんなに怒っているんだ……?」
 ポーテンコの言葉にヴィーヴォはぷうっと頬を膨らませていた。彼に抱かれたヴェーロの姿を思い出し、ヴィーヴォは兄から顔を逸らす。
「おい……ヴィーヴォ……」
「兄さんが、竜をとった……」
 眼に涙を浮かべ、ヴィーヴォは不機嫌にぼやく。
「私が、彼女をとった?」
「だって、竜は僕にしかなついてなかったのに、兄さんが側に来たとたん……。それに、抱きしめ合って、あんなに見つめ合ってっ! うわーん! 竜はもう僕のことなんてどうでもいいんだぁ!」
「ちょ、ちょっとまてヴィーヴォっ! なんだその妄想はっ? なんでお前の脳内では、私が彼女を奪ったことになっているんだっ?」
 泣き叫ぶヴィーヴォの肩を抱き、ポーテンコはヴィーヴォの体をゆらす。
「嫌だー! さわらないでよー! 兄さんなんかあっち行けー!」
「とにかく落ち着けっ! お前はどれだけ子供なんだっ!」
 ポーテンコを引き離そうと、ヴィーヴォは彼の体を両手で押す。ポーテンコはそんなヴィーヴォを一喝した。
「うぅ……」
「その、まだ子供である彼女に手をだすわけないだろう……」
「でも、竜は可愛いし、無邪気で笑顔が魅力的で、竜の姿になってもつぶらな瞳からは眼が離せなくて、あの鱗の白銀の輝きや、銀糸の鬣に思わず誰でも見惚れちゃうほど美しい女性なんだっ! 兄さんがその魅力にやられないはずがないっ!」
「私は竜フェチだがロリコンではないっ!」
「でも竜は好きなんだー!」
「いいから黙れっ!」
 ぐっとヴィーヴォの肩を強く掴み、ポーテンコはヴィーヴォを怒鳴りつける。びくりと体を震わせ、ヴィーヴォは俯いた。
「その……怒鳴って悪かった……」
「僕も、泣いたりしてごめんなさい……」
 ヴィーヴォは顔をあげ、ポーテンコに謝ってみせる。ポーテンコは驚いた様子で眼を見開き、ほんのりと頬を赤らめながらヴィーヴォから顔を逸らした。
「兄さん……?」
「その……お前に話したいことがあるといったよな……」
「うん……」
「その、彼女は私の娘らしいんだ……」
「えっ……」
「だから、彼女は、お前の竜は私の娘なんだ」
「……」
 気まずそうに口を開いたポーテンコを見つめ、ヴィーヴォは黙り込む。
「えっと……」
「だから、お前の竜は私の――」
「ええっーー!」
 ポーテンコの言葉に、ヴィーヴォは叫び声をあげていた。ヴィーヴォは立ち上がり、ポーテンコの両肩を掴む。
「ちょ、変な冗談はやめてよ兄さんっ! 僕の可愛い竜のどこがあなたと似てるの? というか、種族自体が違うでしょっ? 人と竜で子供なんてっ!」
「私たちは、半分竜みたいなものだぞ……」
「あ……」
 兄の冷静な言葉に、ヴィーヴォは背中の傷跡を思いだしていた。たしかに、自分が実の父親だと知らされているものは竜の姿をしている。だが、あれも以前は人間だったと母親は言っていたはずだ。
「それに私たち色の一族の先祖は、銀翼の女王と始祖の竜によって生みだされた。お前たち花吐きが、先祖返りと言われる所以だ……」
「だから、ヴェーロは……」
 ふと、ここ数日の彼女の行動を思いだしヴィーヴォは俯く。
 ――竜は卵が欲しい……。
 ヴェーロの蠱惑的な声を思いだして、ヴィーヴォは眼を見開いていた。体を押し倒されて、弄れて、自分を食べたいとヴェーロは囁いてきた。
「あの……もしかして、竜が人間の姿になるのって、恋人が欲しかった僕の望みを叶えるためじゃなくて……」
「その、ヴィーヴォ……。お前、精通がきたのはつい最近じゃないか……?」
「えっ、なんで分かるの?」
「お前の望みをある意味では叶えているが、彼女たちは、花吐きに発情する本能をそなえているらしい。現に、私のときも――」
「いやー、竜を汚さないでー!」
 ポーテンコの言葉を聞きたくなくて、ヴィーヴォは叫びながら両手で耳を塞いでいた。あの無垢で愛らしいヴェーロが、自分に欲情しているなんて考えたくもない。
「少し安心した。お前は、彼女そういった関係にはなりたくない訳だな……」
「いや、そんなことない……と思う……」
「ヴィーヴォ……」
 ポーテンコの言葉に本音を思わず言ってしまう。震える眼でポーテンコがこちらを見つめてくる。兄の視線に気がつき、ヴィーヴォはとっさに顔を逸らしていた。
「僕だって、男だし……。その……彼女が望むなら……責任だってちゃんと取れる……」
 頬がかすかに熱くなるのを感じながら、ヴィーヴォはポーテンコを見つめていた。
「それが彼女の望みなら、叶えるのが僕の役目だ。だから――」
 ――竜はヴィーヴォを食べたい……。 
 ヴェーロの言葉を思い出して、ヴィーヴォは俯く。立ち上がり、ヴィーヴォは自身の手首をもう片方の手で握りしめていた。
「食べられたってかまわない……」
 ゆれる浴槽の水面を眺めながら、ヴィーヴォは小さな声で思いを伝える。銀の水面を見て、泣きじゃくっていたヴェ―ロの姿を思いだしてしまう。
 ――竜は、ヴィーヴォを食べたくない……。
 そう言って彼女は自分が近づくことを拒絶した。自分を傷つけたくないから。
「ヴィーヴォ……お前……」
「兄さん……。彼女たちの究極の愛の形は、カニバリズムなの?」
 ヴィーヴォはポーテンコを見つめる。兄は驚きに眼を見開き、自分を見つめていた。
「お前、どうしてそれを……?」
「彼女が、僕を食べたがった……」
 口元に笑みを浮かべ、ヴィーヴォは首筋をなでてみせる。すっかり癒えた首筋には、ほんの数日前までヴェーロがつけた歯形があった。
 自分を愛するあまり、彼女は自分を食べようとしたのだ。そう思うと、ここにあった傷跡がとても愛しく思えてしまう。
「きっと、僕は死ぬ瞬間まで花を吐き続ける。だから、僕の魂はこの世に残らない……。でも、もし彼女が僕の体を食べてくれたら……」
 ぎゅっと自身の細い体を抱きしめ、ヴィーヴォは眼を瞑っていた。
 竜になった彼女に捕食される自身を思い描く。首筋に痛みが走り、肉を引き千切られる感触にヴィーヴォは苦痛を感じていた。
 だが、その苦痛がなんとも甘美で、自身を喰らうヴェーロはなんと神々しいのだろう。
 恍惚な想像が、廻るましく脳裏をかけて、体を熱くさせる。
 なんて素敵なことだろう。
 自分は彼女の一部となって永遠に共にいることができるのだ。
「ヴィーヴォ……」
「僕、変かな兄さん……? 狂ってる?」
 震えるポーテンコにヴィーヴォは眼を閉じながら笑ってみせる。
 あぁ、自分は狂人だと思う。
 ヴィーヴォにとって、ヴェーロの存在は絶対なのだ。
 自身の死よりも、彼女を失う方が恐ろしい。
 だったらいっそのこと、彼女と一緒になってしまえばいい。
 文字通り、心も体も一緒に。
「それで、彼女は喜ぶのか?」
 ポーテンコの言葉に、ヴィーヴォはうっすらと眼を開ける。悲しげに眼をゆらしポーテンコはヴィーヴォを見つめている。
「彼女がそれを望んでいるなら……」
 そっと眼を細め、ヴィーヴォは兄の問いに答えてみせた。そんなヴィーヴォをポーテンコの両腕が抱きしめる。
「兄さんっ?」
「私が、それを許すと思うか?」
 兄の言葉に、ヴィーヴォは眼を見開いていた。うっすらと視界が潤むことを感じながら、ヴィーヴォは口を開く。
「僕、兄さんのこと嫌ってばかりだ。そんな僕でも、死んで欲しくないんだね……」
「当たり前だ……。お前は、私のたった一人の家族だぞ……」
 ポーテンコの言葉に、ヴィーヴォは眼を伏せる。頬を流れる涙のあたたかさを感じながら、ヴィーヴォは眼を瞑っていた。
 脳裏に浮かぶのは、ヴェーロの笑顔ばかりだ。
「ごめんなさい……。それでも僕は、彼女に食べられたい……」
 兄に笑顔を向けてみせる。ポーテンコは眼をヴィーヴォに向け、きつくヴィーヴォの体を抱きしめてみせた。
「兄さん?」
「私たちにも羽があれば、彼女たちとともに生きることができなのかもしれないな。父さんと、母さんのように……」
 ポーテンコが、そっと自分の背中をなでる。ヴィーヴォは眼を伏せ、兄の背中に手を回していた。
 指を動かすと、かすかに凸凹とした傷跡にふれることができる。顔をあげ、ヴィーヴォは兄に微笑んでみせた。
「それはどうかな? だって、僕らは花吐きだよ」
「そう言うと思っていた。私もお前と同じだったから……」
「兄さんも食べられたかったの?」
 顔をあげ、ヴィーヴォは兄を見つめる。ポーテンコは微笑んで、ヴィーヴォの髪をなでてみせた。
「あぁ、でも彼女は私を食べることなく、空へ帰ってしまった。私の花吐きの能力を奪ってね」
「能力を奪う……?」
 ポーテンコの言葉にヴィーヴォは大きく眼を見開く。兄が母の跡を継ぎ夜色の二つ名を継いでいたことは聞かされているが、兄がなぜ花吐きでなくなったのかその理由を聞かされたことはない。 
 それが、虚ろ竜のせいだと兄は言っているのだ。
「彼女たちは花吐きの力を必要としているんだ。自身の背中に生まれるであろう新たな世界の命を循環させるために、彼女たちは愛した花吐きを喰らい、その能力を継承する必要があるんだよ……」

 夜と胎動

 外の灯りが暗くなっている。灯花が、『夜』の訪れを告げているのだ。
 暗闇に閉ざされたこの水底にも時間の概念はある。その時間の変化を灯花は感じとり、明るさを変えていくのだ。
「あぁ、もうそんなに時間が経つのか……」
 窓の外に広がる暗い街並みに、マーペリアは呟いてみせる。寝台から起き上がると、体に鈍痛が走った。自身の裸体につけられた無数の噛み跡を見て苦笑してしまう。
「マーペ……」
 そんなマーペリアに甘えた声がかけられる。自分の脇で横になっていた父が体に腕を巻きつけてきた。
「もう、息子にこんなことして、母さんはなんて言うか……」
「お前が、私を捨てようとするからだよ……」
 困ったように声を発し、マーペリアは父の長い髪を梳いてやる。顔をあげ、父は鋭い眼差しを若草に向けてきた。
「私より、お前はヴィーヴォを選ぶのかい?」
 一糸まとわぬ裸体を起こし、教皇は息子の頬に指を走らせる。マーペリアはその指に自身の指を絡ませてみせた。
「だって、ヴィーヴォはオレたちの王様になるんだ。母さんに会いに行くためにも、彼は大切にしなきゃ。悪戯するなんてもってのほかだよ。それに、母さん以外の人のことをもう考えないでっていったよね……」
 ぎゅっと指を絡ませた父の手を握りしめ、マーペリアは彼を睨にらみつける。
「オレの力と引き換えに、母さんは空に帰った……。でも、この目を通じてオレと母さんはずっと繋がっていたんだ……。繋がっているはずだった……」
 自身の片眼鏡をそっとさわり、マーペリアは眼を瞑る。
 かつて、マーペリアは母を中ツ空に返すために、片目に宿った花吐きの力を母に渡した。それが、母が中ツ空に帰る唯一の方法だったからだ。
 どうして母が花吐きでない父を選んだのか自分には分からない。
 それでも母は自分を身籠り、人の女として父の妻になった。
 そして母が空に帰った後も、マーペリアは片目を通じて母の景色を見つめることができた。
 虚ろ竜が飛ぶ、星空の向こうの光景を――
 その話を父に伝えることがマーペリアの楽しみであり、父との絆を深める行為だった。
 それが途切れたのは、いつ頃だろうか。
 最後に見たのは暗転する視界と、銀の翼を持つ虚ろ竜たちだった。
 その光景を見てからマーペリアの片目は視力を失い、中ツ空の光景を映すことはなかった。
 それが示すことはただ一つ。
 母は、虚ろ竜たちに殺されたのだ。
 水底にいる色の一族と同じく、虚ろ竜たちにも様々な種族がいる。その中の一つ、銀翼の一族は中ツ空と水底の境を守護する存在でもある。
 それは彼女たちの先祖である銀翼の女王が、水底を護るために一族に課した責務だという。彼女たちは水底と中ツ空を隔てる大天蓋を守護しているのだ。
 母は彼女たちに追われ、この水底に落ちてきたそうだ。その母を父が助け、二人のあいだにマーペリアが生まれた。
 花吐きとして生まれたマーペリアは、いつも空を見上げては涙を流す母の姿を見て育った。
 母はマーペリアによく言ったものだ。
 ――空に帰りたい。でも、あなたとお父さんを置いてこの世界を離れられないと。
「私があのとき捕まらなかったら……。お前は母さんとずっといられなたのかな?」
 マーペリアの癖毛をなでながら、教皇は苦笑する。マーペリアはそっと父の手を放し、彼を抱きしめていた。
「オレたちは緑の一族の長であったおばあさまを殺して、一族を乗っ取った。それから、庭師さんと空から落ちてきた銀翼の竜を使って、竜ちゃんを生みだした」
「すべては、母さんのためだ」
 マーペリアの顔を引き寄せ、教皇はその頬に唇を落とす。彼はマーペリアの体を強く抱きしめていた。
 まるで、マーペリアの存在をたしかめるように。父の体から伝わるぬくもりが気持ちよくて、マーペリアは眼を瞑る。
 母と恋に落ちた父は聖都から逃れ、母と僻地で暮らしていた。そこにはヴィーヴォの母とポーテンコもいた。だが教会は色の一族である父親たちの裏切りを許さなかった。
 ヴィーヴォの母は聖都を追放され、ポーテンコは二つ名の花吐きとして聖都に連れていかれる。
 マーペリアは、花吐きの能力の一部を母に与え、彼女を空に帰した。そして、父とともに聖都に連れ戻されたマーペリアは、緑の長であった祖母を父と共に殺した。
 それからはとんとん拍子だ。
 祖母の代わりに長となった父は教皇の座を手に入れ、あることを画策した。
 母に再び会うために――
 でも、その母はもういない。
「大丈夫、きっと母さんは喜んでくれるよ。母さんの一族はオレたちを歓迎してくれるはずだ。だから、中ツ空に行こう、父さん。母さんの故郷へ――」
「当たり前だよ。そのためにポーテンコを使って、私は彼女を生みだしたのだから。銀翼の女王の魂を受け継ぐ、ヴィーヴォの竜を」
「彼女はまだオレみたいに目覚めてないようだけど。ヴィーヴォも……」
「だから、金糸雀に彼を引き合わせるんじゃないか」
 父が翠色の眼を歪め嗤う。その笑顔がなんだか滑稽に見えて、マーペリアは苦笑していた。父の手を振りほどき、マーペリアは天蓋の寝台から降り立つ。
「マーペ……?」
 名前を呼ばれて、マーペリアは父親に笑顔を送っていた。瞬間、自身の体が光り輝いていることに気がつく。全身が激痛に包まれ、骨格が軋んだ音をたてて変わっていく。
「りゅん……」
 マーペリアだったものは緑の鱗を持つ一匹の竜へと転じていた。
 小鹿ほどの大きさの竜は、天蓋の側にある丸机へと飛んで行く。その机の上には、血で満たされた水晶の瓶が置かれていた。
 マーペリアが、ヴィーヴォの竜に頼み込んで分けてもらった血だ。この血さえあれば、人である父を中ツ空に連れていくことができる。
 瓶を口に銜え、マーペリアは父のもとへと飛んで行く。寝台に降りたった息子を、教皇は優しくなでていた。
「本当にいいのかい? マーペリア」
 大きな翠色の眼を瞬かせ、マーペリアは父の膝の上に銜えた瓶を置く。
「お前は、本当に優しい子だね」
「りゅん……」
 父が首を抱き寄せてくる。父の声がどこか寂しそうだ。マーペリアはそんな父を慰めたくて、優しい鳴き声を発してみせた。
 マーペリアの頭を優しくなでながら、父が子守歌を口ずさむ。
 その子守歌に、マーペロアはうっとりと眼を細めていた。
 遠い昔に、母が自分に聞かせてくれた子守歌だ。母の死を目の当たりにし、長い眠りについていたマーペリアを起こしたのもこの子守歌だった。
 どうしてヴィーヴォの子守歌が自分を覚醒させたのか、マーペリアには分からない。でも、それからマーペリアの中で彼は特別な存在になった。
 自分と同じ、異形のものから生まれた少年。自分の父が虚ろ竜である母を愛したように、虚ろ竜に恋をした少年。
 自分を花吐きではなく、友達として見てくれる親友。
 そんな彼が自分たちの王様になるのだ。これ以上嬉しいことはない。
 そしてそれは、ヴィーヴォ自身の幸福でもある。
「りゅん……」
 ともに幸せになろう、ヴィーヴォ。
 その思いを胸に、マーペリアは鳴き声をはっする。













 黒い法衣に袖を通す。着心地が良すぎて、ヴィーヴォは落ち着かない心持になった。
 サイドの髪を三つ編みにして、鏡に映る自分に微笑んでみせる。すると、暗い眼に宿った光たちが応えるように明滅を繰り返した。
 ヴィーヴォの眼に宿った星たちが、何かを伝えようとしている。でも、いくら星たちに心の中で呼びかけても、彼らは応えてくれないのだ。
「言えないほど、君たちを追いつめる何かがここにはあるの?」
 彼らへの問いを口にする。すると、眼の中の星たちは煌めき、ヴィーヴォの言葉に応えてみせた。
「そっか……。君たちじゃなくて、僕を追いつめる何かが聖都にはあるんだね」
「お前は、それに触れる勇気があるのか?」 
 そんなヴィーヴォの言葉に、ポーテンコが答えてみせる。後方へと振り返ると、着替えを済ませたポーテンコが浮かない顔をこちらに向けていた。
「なに兄さん、その辛気臭い顔……」
 俯く兄に、ヴィーヴォは苦笑を送ってみせる。
「私は、お前にあれを見せたくはない。でも、そうしなければいけないんだ……」
 ポーテンコは暗い声をはっする。ヴィーヴォは顔を顰め、そんな兄に歩み寄っていた。
「兄さん。僕は知りたいんだ。僕がいないあいだに聖都で何があったのか。金糸雀や緋色がどうなったのか。夜色の僕には、知る権利がある。ううん。知らなきゃいけないんだ」
 浮かない兄の顔を見すえ、ヴィーヴォは真摯な声で告げていた。ポーテンコは大きく眼を見開いて、ヴィーヴォを見つめてくる。
「それに……兄さんはいつも僕の気持ちをわかってくれない。どうして、いつも独りで抱え込むの? ヴェーロのことだって、もっと早く教えてくれれば……」
「すまない……」
 ヴィーヴォの言葉に、兄は気まずそうに顔を逸らしてくる。気弱な兄を見て、ヴィーヴォは嘆息を吐いていた。
 いつも自分の兄はこうだ。気持ちを伝えることが下手で誤解ばかり生みだす。
「でも、兄さんのそういうとこ。嫌いじゃないよ……。ムカつくけど……」
 苦笑して兄の顔を覗き込んでやる。案の定、ポーテンコは驚いた様子で自分を見つめ、後ずさりした。
「ヴィーヴォ……近い」
「ワザと近づいてる。兄さんが嫌がると思って」
「昔のお前は、もっと可愛げがあったぞ……」
「何年前の話だよ」
 兄に意地の悪い笑みを浮かべてみせる。ポーテンコは困惑した様子で眉根を寄せていた。
 その仕草が、どことなく人の姿をしたヴェーロと重なって見える。
「似てないって思ってたけど、言われてみるとそうでもないな……」
「ヴィーヴォ……?」
「兄さんにいいことを教えてあげる……。一度しか言わないよ」
 くすりと微笑んで、ヴィーヴォは兄の耳元で言葉を囁く。瞬間、ポーテンコは大きく眼を見開き、ヴィーヴォを凝視してきた。
「お前、その名前は……」
「うん、あなたの娘の名前ですよ、兄さん」
「正気か……」
「あなたが、ヴェーロの父親だから話したんだ」
 彼にヴェーロの名前を告げるべきか本当に迷った。でも、今のポーテンコならヴェーロを悪用する心配はない。
 彼は、彼女の父親なのだから。
 それに――
「兄さん。きっと僕はもう長くない。だから、そのときは僕の代わりに、彼女のことを頼みます」
 ふっと眼を伏せて、ヴィーヴォは兄に言葉を告げる。
「ヴィーヴォ……」
「お願い兄さん。ヴェーロを幸せにしてあげて」
 唖然とする兄に、ヴィーヴォは顔を向けてみせる。笑顔を浮かべると、兄はとても辛そうに眼を歪めてくれた。
「それと、いつも子守唄をうたってくれてありがとう……」
 笑みを深め、ヴィーヴォはポーテンコに感謝の言葉を告げる。ヴィーヴォの言葉に、兄は大きく眼を見開き自分を見つめてきた。
 夢の中で会った珊瑚色の言葉から分かった。
 母の子守歌を聞かせてくれたのは、珊瑚色ではなく兄のポーテンコだと。冷たいと思っていたたった一人の肉親は、自分を愛してくれていた。
 自分を慰めるために、いつも歌をうたってくれた。
 だから、ヴィーヴォは愛しい人の名を彼に託したのだ。
「ヴィーヴォ……」 
 ぎゅっとポーテンコが自分を抱きしめてくれる。兄の体が震えていることに気がつき、ヴィーヴォは静かに眼を瞑っていた。
 美しいアルトの旋律をヴィーヴォは口ずさむ。
 それは、母が遠い昔に歌ってくれた子守歌だ。そして、兄が自分を慰めるために密かに歌ってくれた歌でもある。
 ポーテンコの嗚咽が聞こえる。
 兄を抱き寄せ、ヴィーヴォは彼を慰めるために歌を紡ぐ。
「ヴィーヴォ……」
 ポーテンコが小さく声をかけてくる。顔をあげると、彼はヴィーヴォの手に何かを握らせた。
「兄さん、これ……」
「茶華樹から作られる抑制剤だ。二次性徴を迎えた花吐きの香りは、周囲の人々を誘惑する。もちろん、虚ろ竜も例外じゃない。この薬は、その香りを抑制してくれるものだ。これを飲めば、彼女がお前のせいで苦しむことも少なくなる……」
 涙に濡れた眼に笑みを浮かべ、ポーテンコはヴィーヴォに告げる。
「兄さん……」
「だから、これからもお前が彼女を支えるんだ」
 そっと兄に頭をなでられる。昔もこうやって慰められていたことを思いだし、ヴィーヴォは顔に微笑みを浮かべていた。








 竜胆の灯花たちは、その輝きを暗くしていた。
 それでもヴェーロは花畑に座り、灯花たちに子守歌を聞かせる。ヴェーロの蒼い眼からは絶えず涙が零れ、風に煽られて花畑に散っていった。
 ヴェーロの歌声に合わせて、花たちは明滅を繰り返し音を奏でる。
 その優しい音に、ヴェーロは心地よさを感じていた。そっと墓石をなぞり、ヴェーロは眼を瞑る。
 ここに咲く花たちは、かつて自分が殺した人間たちの魂だという。それなのに、彼らの輝きはとても優しく、その音はヴェーロの心に深く迫っていく。
 自分とヴィーヴォを引き離そうとした人間たち。ことあるごとにヴィーヴォを傷つけ、自分から奪おうとする彼らをヴェーロは憎んでいた。
 彼らを殺したことに、後悔を覚えたことはない。罪の意識も、懺悔をしたいと思たことすら。
 それなのに、流れてくるこの涙はなんだろう。胸が苦しくなって、歌わずにはいられないこの衝動は。
 それは、君が人の心を持っているからだと父であるポーテンコは言った。
 君は、私の娘だからだと。
「嫌だ……。竜は竜だったのに……」
 ぽつりと呟き、ヴェーロは眼を開ける。ぎゅっと自身を抱きしめ、ヴェーロは言葉を続けていた。
「竜が、別の何かになってる……」
 ヴィーヴォを食べたいと思ったのはいつ頃からだろうか。追放生活を送ってしばらくたってから、ヴィーヴォは人の姿をした自分とは寝てくれなくなった。服を着てくれとうるさく言うようになったのも、それからだ。
 だからヴェーロはなるべく竜の姿で過ごしていた。するとヴィーヴォは不思議とヴェーロと前のように寝てくれたし、よそよそしい態度をとることもなかったから。
 それが数か月前から変わってしまった。
 メルマイドのいるあの漁村にやって来てから、ヴィーヴォは自分と一緒に寝てくれなくなったのだ。漁村に住む関係でヴェーロが人の姿をとるようになったせいかもしれない。
 でも、竜の姿になって外で寝ようと誘っても、彼は首を縦には振ってくれなかった。
 それからだ。自分が少しおかしくなったのは。
 ヴィーヴォの香りに敏感になり、彼の体にいつまでも触れていたくなった。
 彼を食べたいと思ってしまう。そうすれば、彼はずっと自分と一緒にいてくれるから。
 もう、誰にも彼を盗とられることはないから――
 ふわりと、かぐわしい花の香りがヴェ―ロの鼻孔を包むこむ。嗅ぎなれた香りに、ヴェーロは大きく眼を見開いていた。
「ヴィーヴォっ!」
 ヴェーロは立ち上がり、ドレスの裾を翻して駆けだす。眼前には、夜色の法衣を纏った愛しい人がいた。笑顔を浮かべるヴィーヴォの胸の中へ、ヴェーロは跳び込んでいく。
「ヴィーヴォ……」
「会いたかったよ、愛しい女……」
 少し離れていただけなのに、彼と長いあいだ離れていた気がする。ヴェーロはヴィーヴォを抱き寄せていた。ヴィーヴォはそんな自分に応えるように、髪を優しくなでてくれる。
「君を見てびっくりしちゃった。だって、ちゃんと服を着てるんだもん。それに――」
 ヴィーヴォの手がヴェーロの頭を離れる。ヴェーロは思わず彼を見つめていた。
「綺麗な歌声だった……」
 星屑めいた光を瞬かせ、ヴィーヴォは微笑みを浮かべる。彼のその眼に、ヴェーロは眼を奪われていた。
 彼の芳香が周囲に漂う。その香りに、ヴェーロの心臓は跳ね上がっていた。
 また、彼を食べたいと思ってしまう。離れていたからなおさらだ。
 唇を開け、ヴェーロは犬歯を剥き出しにしていた。
「いやっ!」
 瞬間、ヴェーロは彼を突き飛ばしていた。肩で息をしながら、ヴェーロは花畑に倒れ込むヴィーヴォを見つめる。
「ヴィーヴォっ!」
 我に返り、ヴェーロは倒れた彼へと駆け寄っていた。彼の顔を覗き込む。ヴィーヴォは苦笑して、そっと自分の髪をなでてくれた。
「ヴィーヴォ……」
「もう……痛いよ、ヴェーロ……」
 ヴィーヴォの言葉に、眼が潤む。そんな自分の頬を優しくなで、ヴィーヴォはヴェ―ロに囁いてみせた。
「いつでも食べていいんだよ。だって、君は僕が好きだから食べたくなるんでしょう? 自分でもおかしいって思うけど、君に食べられたいって思われることが僕にとっては幸福なんだ……」
「ヴィーヴォ……。おかしい……」
「やっぱり、おかしい……?」
 困ったような笑顔を浮かべ、ヴィーヴォはヴェ―ロの顔を指でなぞる。柔らかな頬をつつき、丸い輪郭をなで、ヴィーヴォはヴェ―ロの桜色の唇を指でなぞってみせた。
「不思議だな。こんなに小さな唇の中に、食べられた僕のお肉は入っていくのか。というか、食べきれるのかな? 竜になっても、ヴェーロは大鹿ぐらいの大きさしかないし……」
「ヴィーヴォは、竜に食べられたいの?」
「そう思っちゃダメ……?」
 ヴェーロは頷き眼を伏せる。ヴィーヴォはしゃがみ込んで、そんなヴェ―ロの顔を覗き込んできた。
「僕が死んじゃうこと、悲しんでくれるんだ」
「ヴィーヴォはヘン……。ヴィーヴォが死んだら、竜は悲しい。お父さんも、若草も……」
 穏やかな笑顔を浮かべるヴィーヴォから、ヴェーロは思わず顔を逸らしていた。
 どうして彼がそんな顔をできるのか、ヴェーロにはわからない。ヴィーヴォが死ぬことなんて、考えたくもないのに。
「ヴェーロ……」
 ヴィーヴォが甘えた声をはっしてくる。そっと顎を掬われて、ヴェーロは大きく眼を見開いていた。
 唇を彼によって塞がれる。驚くヴェーロを抱きしめて、ヴィーヴォは仰向けに倒れてみせる。
 倒れたヴェーロの体は優しく灯花たちによって受け止められる。しゃらんと灯花たちの音が耳朶に響いた。
「しばらく、こうさせて……」
 胸元に顔を埋め、ヴィーヴォが震える声をはっする。ヴェーロは彼の頭を優しくなでていた。
 ヴィーヴォが泣いている。
 そんな彼を慰めるように、しゃらんしゃらんとと灯花たちが音を奏でる。
「ねぇ、ヴェーロ……、歌って……。母さんの子守歌……」
 そっと顔をあげ、ヴィーヴォが震えた声をはっする。星空のように瞬く眼が、涙で濡れている。ヴェーロはそっと指で彼の涙を拭い、起きあがっていた。
 ヴィーヴォの頭を膝にのせて、ヴェーロは歌を紡ぐ。
 それは、遠い昔にヴィーヴォがうたってくれた子守歌だ。
 彼は言っていた。この歌は、大切な人から教えてもらったものだと。
 この花畑に眠る、ヴィーヴォのお母さんから。
 歌うたび、ヴェーロの眼からも涙が溢れ出ていた。
 しゃらん。しゃらん
 灯花が、そんなヴェ―ロの歌に合わせて音を奏でる。自分が殺してしまった人々が、まるで自分の悲しみを慰めてくれているようだ。
「ねぇヴェーロ……。灯花になる魂はね、すべての罪を赦した存在なんだ……。僕たち花吐きに浄化された魂は、すべての憎しみや苦しみから解放されて、ただ自身を花に変えた花吐きを愛し、周囲のものに慈悲を振りまく存在になる」
 ヴィーヴォの小さな声が聞こえる。
 そっと彼の顔を見おろす。ヴィーヴォはうっすらと眼を開けて、ヴェーロの頬に手をのばしていた。
「何ものでもない彼らは、誰よりも優しくて、誰よりも残酷なんだ……。だから僕たちを許して、慰めてくれるんだよ……」
 眼に笑みを浮かべ、彼は愛おしむようにヴェーロの頬をなでてくれる。
「だから、僕を食べてくれない君も優しくて、残酷な存在だ……」
「ヴィーヴォ……」
 彼の言葉に、ヴェーロは眼を歪ませていた。
 残酷なのはどちらだろう。ヴィーヴォを殺すことなんて自分にはできはしないのに。
「でも、僕はそんな君が、憎くて好きで好きでたまらないんだ。だから、一緒に知ってほしい。この聖都で何が起こっているのか。僕に何ができるのか」
 そっと起き上がり、ヴィーヴォはヴェ―ロに言葉を告げる。真摯な眼を向けてくる彼から、ヴェーロは眼が離せなかった。
「やっぱり、私の娘も連れていくのか?」
 ポーテンコの声が聞こえて、ヴェーロは顔をあげていた。
 花畑にいる自分たちをポーテンコが見つめている。ヴィーヴォは立ち上がり、兄へと言葉を返す。
「彼女には知ってほしいんだ。僕たちに、この世界に何が起こってるのか? だから、一緒に来てくれるよね、ヴェーロ?」
 自分を見つめ、彼はそっと手を差し伸べてくる。
 ヴィーヴォの言葉に、ヴェーロは彼の手を見つめていた。
 この世界で何が起きているのか、ヴェーロは知らない。それを共に知って欲しいとヴィーヴォは言った。
 こくりとヴェーロは頷き、彼の手を取る。
 自分もこの世界のことを知りたい。
 自分の母と父であるポーテンコに何があったのか。ヴィーヴォが何を知ろうとしているのか。
 ヴィーヴォをしっかりと見つめ、ヴェーロは立ちあがる。

 茨と牢獄

 聖都の地下には、大迷宮が広がっている。
 はるか昔、銀翼の女王はこの迷宮に水底の生命たちを隠して戦いをおこなっていたという。
 女王の遺骸の下に広がる迷宮は教会によって厳重に管理されている。
 罪人を閉じ込める牢獄として。
 そして、ヴェーロもまたここに閉じ込められていたことがあった。
 灰の石英で覆われた通路の両側は湿り気を帯び、照明代わりとなっている光苔が頼りない明りを周囲に投げかけている。
 かつて牢獄の中からその光景を見ていたことを思い出しながら、ヴェーロはヴィーヴォに手を引かれて通路を歩いていた。
「僕ならともかく、なんで金糸雀がこんなところに閉じ込められているの。兄さん……?」
 木製のランタンを持ったポーテンコにヴィーヴォは問う。自分たちの前方を歩くポーテンコは、辛そうな眼をこちらへと向けてきた。
「見た方が早い……」
 ポーテンコの持つランタンが前方へと向けられる。照らし出された周囲の光景に、ヴェーロは息を呑んだ。
「ヴェーロっ!」
 ヴィーヴォが自分へと振り返り、体を抱きしめてくる。たぶん、眼の前の光景を自分に見せたくないのだ。
 腐った肉の香りがする。
 そこに照らし出されたのは、通路の両脇に設えられた牢獄だった。その牢獄の中に閉じ込められている人々がいる。
 いや、それは人の形をした、人とは異なるものだった。
 彼女たちは一様に背から翼を生やし、呻き声をあげながら恨めしそうな眼差しをこちらに向けている。まるで蝶の標本のように翼を鋭利な杭で壁に固定され、鎖で裸体を縛られた彼女たちは怨嗟の声をあげていた。
 虚ろ竜の少女たちだけではない。
 竜の形をした異形の物体が、牢には放り込まれている。
 それらは上半身だけが竜の形をしていたり、竜の体から人の足が無数に生えている、人と竜をまじ合わせたかのような歪な形をしていた。
 それらが苦しげに呻き声をあげながら、床の上をのたうち回っているのだ。
「なんだよ……これ……」
 呆然としたヴィーヴォの声が耳朶に轟く。
「こっちだ。ヴィーヴォ……」
 ポーテンコは彼を振り返ることなく、虚ろ竜と異形の存在で溢れた牢獄の通路を静かに歩んでいく。
 ヴィーヴォは力強くヴェーロの手を握りしめ、兄のあとをついていく。
 冷たい靴音だけがヴェ―ロの耳朶に轟く。静寂を破るように、ポーテンコが口を開いた。
「ここにいるのは、すべて実験に使われた花吐きと、虚ろ竜たちだよ……。教会は長年、私たちの祖先である竜に人を近づけるべく研究を重ねていた」
「僕がここで拷問を受けていたときは、こんなのいなかった……」
「お前がここに投獄されていたときは、まだ牢獄の最奥にしか被検体はいなかった。おかしくなったのは、つい最近だよ……」
 通路が途切れる。通路の最奥には巨大な牢獄が設置され、ポーテンコはその前で立ちどまった。
 ポーテンコははゆっくりとこちらに振り返り、辛そうな眼でヴェ―ロたちを見つめる。
「違う……。私たちが生まれたことが、すべての元凶だったんだ、ヴィーヴォ……。教会は私たちの父さんと母さんを使って、始祖の竜を復活させようとしていた……」
 ポーテンコの言葉を受けヴィーヴォは眼を凝らして牢の中を見つめる。
「父さん……?」
 そんな彼が唖然と声をあげた。牢獄に閉じ込められているそれを見て、ヴェーロも大きく眼を見開いていた。
 それは、巨大な雄の虚ろ竜だった。
 黄金の鱗で全身を覆われた竜が水晶の中に閉じ込められている。赤い血管の浮き出た金の翼をはためかせ、彼は大きく眼を見開いていた。
 眼は血を想わせる深紅。その深紅の眼で、竜はヴェ―ロたちを睨みつけていた。
「違う。これは、金糸雀だったモノだ。私たちの父さんを使って始祖の竜の蘇生に失敗した教会は、金糸雀を使って再び同じことをした。金糸雀を始祖の竜にしようとしたんだ」
 ポーテンコの声が震えている。ヴィーヴォに手を強く握りしめられ、ヴェーロは彼を見つめていた。
 。彼は水晶に閉じ込められた竜を見つめたまま、じっと動こうとしたい。
「何で……。どうやってこんな……緋色が……緋色っ!」
「ヴィーヴォっ!」
 突然、ヴィーヴォがヴェ―ロの手を振り払い、牢獄へと駆け寄っていた。水晶に閉じ込められた竜の背後に、蠢くものがある。
 それは赤い花を咲かせた茨の灯花だった。その茨に守られるように水晶に閉じ込められた裸体の少女がいる。
 まるで炎のように赤い髪を靡かせた少女は、虚ろな朱色の眼を金色の竜に送っていた。
「緋色! 緋色っ!」
 ヴィーヴォは牢獄の鉄格子を両手で掴み、少女に必死になって呼びかけている。
「やめろ、ヴィーヴォ……」
 そんなヴィーヴォにポーテンコは震える声をかけていた。
「言っただろう。もう、緋色は……」
「嘘だ……。こんなの……。みんな、どうしちゃったんだよ……」
 ポーテンコの言葉を受けて、ヴィーヴォは石畳の床に膝をつく。かすかな彼の嗚咽を耳にして、ヴェーロは彼に駆け寄っていた。
「ヴィーヴォ……」
 そっとヴィーヴォの両肩を抱く。ヴィーヴォは潤んだ眼をヴェーロに向け、ヴェーロの体を抱きしめてきた。
「なんだよ、これ……。僕がちょっといないあいだに……。なんでこんなことになってるの? 訳わかんない……。なんで、みんな……」
 ヴェーロの腹部に顔を埋め、ヴィーヴォは上擦った声をはっしてみせる。悲痛な彼の声をヴェーロは黙って聞くことしかできない。
「何って、みんなで帰るために決まってるじゃないか。ヴィーヴォ……」 
 弾んだ声が牢獄に響き渡る。
 ヴェーロはとっさに後方へと顔を向けていた。
 薄暗い廊下に、若草が佇んでいる。片眼鏡を妖しく煌めかせながら、彼は舐めるような視線をヴェ―ロたちに送っていた。
「そして、そのためには君と彼女の力が必要なんだ。協力してくれるよね? 君はオレと同じなんだから……」
「マーペリア……?」
 唖然としたヴィーヴォの声が聞こえる。ヴィーヴォはヴェ―ロの体を放し、覚束ない足取りで立ちあがってみせた。彼は友人である若草のもとへと向かおうとする。
「行くな。ヴィーヴォ……」
 そんなヴィーヴォの歩みを、ポーテンコの片腕が制した。ポーテンコは厳しい眼差しをヴェ―ロたちに向け、前方にいる若草を睨みつける。
「あれはもう、お前の知ってるマーペリアじゃない」
「兄さん?」
「はは、何だよそれ……」
 ポーテンコの言葉を受け、若草は可笑しそうに顔を歪めてみせる。彼の哄笑は牢獄に響き、ヴェーロを戦慄させた。
 これが、あの優しかった若草なのだろうか。
 彼は、意識を取り戻さないヴィーヴォを心配して、つきっきりで看病してくれた。不安なヴェーロを大丈夫だと慰め、ヴィーヴォの小さな頃の話をたくさんしてくれた。
 そんな彼が、壊れたようにヴェ―ロたちを嗤っている。
「どうして、若草……?」
 疑問が呟きになる。すると若草はぴたりと笑うことをやめ、無感動な眼をヴェ―ロに投げかけてきた。
「どうしてって、オレの母さんが君の一族に殺されたからだよ。女王さま……」
 口を大きく歪め、マーペリアはヴェ―ロに嘲笑を向けてみせる。瞬間、巨大な轟音が牢獄に響き渡り、周囲が大きくゆれた。
「何だっ?」
「ヴェーロっ!」
 巨大なゆれに、ヴェーロはバランスを崩して床に倒れ込んでしまう。そんなヴェ―ロのもとへとヴィーヴォが駆けつける。彼がヴェーロを抱きしめた瞬間、床が大きく捲りあがり、劈くような嘶きが牢獄に響き渡った。
 壊れた床下から、緑の鱗を煌めかせた雄竜が顔を覗かせる。翠色の眼を鋭く細め、竜は翼を翻しながらヴェ―ロたちの前に姿を現した。
「もう、遅いよ。父さんてばっ!」
 弾んだ声をあげながら、若草は緑の竜へと駆けていく。竜は若草を愛しげに見つめながら、首を下ろす。そんな竜の頭を若草は優しく抱きしめ、その鼻筋に唇を落としてみせた。
「まさか、教皇?」
「そのまさかだよ。ポーテンコ。父さんは竜になったの。オレと一緒に、中ツ空にいくために」
 震えるポーテンコの言葉に、若草は嬉しそうに言葉を返す。若草は頬を嬉しそうに赤らめ、幸せそうに微笑んでみせた。
 その純真な微笑みに、ヴェーロは戦慄を覚える。震えるヴェーロをヴィーヴォが強く抱き寄せてくれた。
「狂ってる……。それに、どうやって人である教皇さまを竜になんて――」
「先祖返り。オレたち色の一族は始祖の竜の直系だ。傍系では無理だったけど、血の濃い直系であればたとえ花吐きでなくても先祖である竜の血を呼び起こすことができる。ここにいる出来損ないたちで試した実験で、それは証明済み。だから、悪いけど金糸雀には竜になってもらったよ。彼は泣き叫んで、最後まで抵抗していたけどね」
 ヴィーヴォの言葉を、若草の弾んだ声が遮る。彼は喜悦に歪めた眼をヴィーヴォに向け、言葉を続けた。
「でも、最後の最後で彼は自分の体を水晶の中に閉じ込めて、オレたちが手出しできないようにしちゃった。一緒に実験体にされてた緋色もろともね……。だからさぁこの研究、まだ完成してないんだぁ。本当に残念。花吐きが生まれるためにも、始祖の竜の復活は欠かせないイベントなのに……。残念だよねぇ、ポーテンコ」
 こくりと首を傾げ、若草はポーテンコに語りかける。ポーテンコは辛そうに眼を歪め、若草から顔を逸らした
「まさか、兄さんもその実験に――」
「ううん、この人はつい最近まで何も知らなかったよ。だって、この実験は緑の一族が密かに請け負ってきた家業みたいなものだからね。金糸雀も緋色も病気だって嘘ついて、庭師さんの管理から父さんが外してくれたもん。この人はずっと二人が聖都の治療院にいるとばかり思い込んでたよ。緋色も本当に死んだ思い込んでたし。でも、それじゃつまんないからオレがポーテンコをここに連れてきてあげたんだ。そしたらなぜか、金糸雀も緋色も水晶漬けになっちゃった……」
 すっと若草の顔から笑みが消える。彼はポーテンコに色のない顔を向けてみせた。
「ねぇ、ポーテンコ……。二人を名前で縛って、わざとこんな姿にしたのはあなたでしょ? ヴィーヴォたちまでここに連れてきて、一体何を考えているの?」
 彼は片眼鏡の奥に隠された眼を鋭く輝かせ、ポーテンコに問う。
「分かっているだろう。マーペリア!」
 ポーテンコが叫ぶ。
 瞬間、轟音が周囲に轟く。ヴェーロは慌てて背後へと顔を向けた。ヴェ―ロたちの背後にあった牢獄の鉄格子が吹き飛ばされ、茨が雪崩れのようにこちらへと向かってくる。
「お目覚め下さいっ! 我らが主! 金糸雀っ! いや、fondintoフォンデント!」
 ポーテンコの言葉と共に、金の竜を取り囲んでいた水晶に罅が入る。音をたてながら水晶の罅は大きくなっていき、水晶は砕け散る。

 ぐわぁあああああああああ!

 金の竜が叫ぶ。
 その叫びに応じて、赤毛の少女を閉じ込めていた水晶も音をたてて砕けた。少女の裸体は床に投げ出され、金の竜は翼を翻して少女のもとへと飛んで行く。
 少女は顔をあげる。眼を瞬またたかせ、少女は金の竜に微笑んでみせた。
「お兄ちゃん、無事だったのね」
 横たわる少女に竜は優しい眼差しを送り、鼻先を近づけてみせる。少女は竜の頭を抱き、起きあがってみせた。
「緋色……」
 唖然としたヴィーヴォの声が聞こえる。立ちあがった少女は、ヴェ―ロたちへと顔を向けてくる。
「行きましょう、二人ともっ!」
 赤髪を靡かせながら、緋色と呼ばれた少女はヴェーロたちに声をかけてきた。同時に、灯花の茨たちが牢獄の天井へと襲いかかり、天井に大きな穴を開けた。
 金の竜が咆哮をあげる。緋色は颯爽と竜の背中に跨り、天井の穴へと鋭い眼差しを向けた。
「行けっ! 二人ともっ! 緋色たちについていくんだっ!」
 ポーテンコが叫ぶ。
「行かせないよっ!」
 そんなポーテンコに若草が怒声を浴びせた。若草の言葉を受けて、緑の竜がヴェーロたちに襲いかかる。
 翼を後方へと滑らせこちらへと向かってくる竜の前に、ポーテンコは立ち塞がる。彼が手に持つランタンを投げると、それは太い蔓となって竜の前方を塞いだ。飛んでくる竜の体へと、蔓は巻きついていく。
 蔓が竜の首を絞しめる。竜は苦しそうに呻きながらも、巨大な口から煙を発し、蔓めがけて小さな火球を連続で放った。
 爆音が通路に響く。ポーテンコの体が爆風により後方へと吹き飛ばされる。それを見て、ヴェーロは大きく眼を見開いていた。
「お父さんっ!」
「竜っ!」
 ヴィーヴォの体を振りほどき、ヴェーロはポーテンコへと向かって行く。ヴェーロの体を蒼い光が包み込む。銀の竜となったヴェーロは、後方へと飛ばされるポーテンコの襟首を銜えていた。
「竜……」
 ポーテンコの優しい声が耳朶に響く。きょろりとヴェーロは蒼い眼で彼を見つめた。
 ポーテンコは、唖然と自分を見つめている。そんな彼を見つめながらヴェーロは眼に微笑みを浮かべ、父であるその人を自分の脇に優しく降ろした。
 ぎっとヴェーロは緑の竜を睨みつけ、突進していく。牙を剥き出しにして叫び声をあげると、緑の竜も咆哮を放った。
 竜たちはお互いの首筋に噛みつき、頭を打ちつけ、鍵爪を突き立てながら争い合う。やがて、緑の竜はヴェ―ロの胸に頭突きを食らわせ、ヴェーロの体を吹き飛ばした。
 ヴェーロの体は牢獄の壁に叩きつけられる。
「竜っ!」
 そんなヴェーロにヴィーヴォが駆け寄ろうとする。そのヴィーヴォの前に、翼を翻した緑の竜が立ち塞がった。
「どこに行くの? ヴィーヴォ……」
「あっ……」
 竜と共に若草がヴィーヴォのもとへと近づいていく。ヴィーヴォは大きく眼を見開き、彼らを凝視するばかりだ。
 ヴィーヴォが危ない。ヴェーロは必死になって体を起こそうとする。だが、首をあげただけで激痛が走り、ヴェーロは呻き声をあげていた。
 歪む視界の中で、若草がヴィーヴォに手をのばそうとしている。ヴィーヴォはその手を払いのけ、腰にさげたナイフを抜いていた。若草と距離をとり、ヴィーヴォは彼を睨みつける。
「僕に近づくな……」
「やめてくれよ。君とは、争いたくないんだ……」
 ナイフを構えるヴィーヴォの体めがけ、緑の竜が前足を振るう。ヴィーヴォはすんでのところで竜の鍵爪を避け、後方へと跳んでいた。
 そんなヴィーヴォの体を、植物の蔓が拘束していた。ポーテンコのランタンから放たれた蔓がヴィーヴォを捕らえたのだ。
「兄さんっ?」
「行けっ! ヴィーヴォっ!」
 ポーテンコがヴィーヴォに叫ぶ。それと同時に、ヴィーヴォを拘束した蔓はヴェーロめがけて近づいてくるではないか。
 ポーテンコがこちらへと駆け寄ってくる。瓦礫に埋まったヴェーロの顔に近づき、彼は耳元で囁いた。
「Vero、飛びなさい……。ヴィーヴォを連れて、金糸雀を追うんだっ……」
 名を呼ばれ、ヴェーロは眼を大きく見開いていた。その眼にポーテンコの優しい微笑みが映り込む。
 お父さんと呼ぼうとした瞬間、背中に違和感を覚えヴェーロは後ろへと振り向いていた。
 蔓によって拘束されたヴィーヴォが、自分の背中に乗せられている。
「兄さんっ! 何を考えて――」
「行けっ……。Veroっ!」
 ヴィーヴォの言葉は、ポーテンコの鋭い言葉によって遮られる。名を呼ばれ、ヴェーロは自身の意思とは関係なく瓦礫から起き上がっていた。体中に激痛が走る。それでも、体は翼をはためかせ、咆哮をあげる。
 ポーテンコの命令通り、ヴェーロは金糸雀を追って天井に空いた穴へと飛びたっていた。
「兄さんっ!」
 ヴィーヴォの悲鳴が耳朶に轟く。それでも自分の体は茨の作り上げた縦穴をぐんぐんと昇っていく。
 なんとか首を動かして下方へと視線をやる。すると、微笑みながら自分たちを見あげるポーテンコの姿が視界に映りこんだ。
 瞬間、耳を劈くような爆音が辺りに響く。
 ポーテンコの姿は煙幕に遮られ、見えなくなってしまう。大きく口を開け、ヴェーロは鳴いていた。父を助けに行きたいと思っているのに、体はいうことをきいてくれない。
 やがてヴェーロの体は縦穴を抜け、星の舞う夜空へと躍り出る。その星空を飛ぶ竜がいた。
 金の鱗を煌めかせながら、赤髪の少女を乗せた竜は夜空を飛んでいる。その竜を、ヴェーロは一心不乱に追っていた。
 自由に動く眼を下界へと走らせる。
 輝く聖都の周囲で、いくつもの爆発が起こっていた。赤い爆炎は轟音を伴いながら、険しい山頂に鎮座する巨大な竜の遺骸を照らす。
 ポーテンコの笑顔が脳裏を過って、ヴェーロの視界は潤んでいた。
「ヴェーロ……」
 慰めるように背中のヴィーヴォが声をかけてくれる。そっと彼に背中をなでられ、ヴェーロは大粒の涙を零こぼしていた。




   花吐き少年と、虚ろ竜 上 終

灯花の花言葉

 花吐きたちが吐く、灯花。
 灯花たちは物語の流れや登場人物の心情によって様々な花の姿をとります。
 そんな灯花たちの花言葉に触れてみましょう。

 灯花の花言葉

 
夜色の灯花一覧

風信子

 紫の風信子
 悲しみ。悲哀。初恋のひたむきさ。

 青の風信子
 変わらぬ愛。

菖蒲

 よい便り。メッセージ。希望。

薔薇

 青薔薇
 夢が叶う。希望。不可能。神の祝福
 
 黒薔薇
 憎しみ。恨み。あなたは私のモノ。

竜胆

 正義。切実。悲しんでいるあなたを愛する。

サルビア

 よい家庭。家族愛。

勿忘草

 真実の愛。私を忘れないで。

夕顔

 夜。儚い恋。罪。



珊瑚色の灯花一覧



 精神の美。優美な女性。淡泊。

紫苑

 追憶。君を忘れない。遠くにいる人を想う。



若草の灯花一覧

紫陽花

 冷淡。無情。高慢。辛抱強い愛情。寛容。家族の団欒。

白妙菊

 あなたを支えます。穏やか。

薔薇
 緑の薔薇
 穏やか。希望を持ち得る。

胡蝶花

 反抗。友人が多い。



緋色の灯花一覧

薔薇
 赤い薔薇
 愛。美。情熱的な愛。

 彼岸花
 再会。情熱。悲しい思い出。独立。諦め。



金糸雀の灯花一覧

山吹
 気品。崇高。金運。
 


 花吐き少年と、虚ろ竜 下

 ポーテンコの導きにより、ヴィーヴォとヴェーロは虚ろ竜たちの世界である『中ツ空』へと旅立つ。二人を導いた金糸雀と緋色は、この世界の真実を二人に告げるのだが――
 一方、ポーテンコは竜となった教皇とマーペリアを相手に戦いを始める。
 花を吐く少年と、虚ろ竜の娘の旅路はどのような終末を迎えるのだろうか?
 竜と人の異類婚姻譚。ここに完結。

花吐き少年と、虚ろ竜  上 

2018年4月10日 発行 初版

著  者:ナマケモノ
発  行:けもの書房

bb_B_00154259
bcck: http://bccks.jp/bcck/00154259/info
user: http://bccks.jp/user/142196
format:#002y

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

jacket