───────────────────────
───────────────────────
かつて聖都で罪を犯し、辺境の地へ追放されていた花吐きヴィーヴォは、虚ろ竜の恋人ヴェーロとともに深い山奥で静かな生活を送っていた。そこに虚ろ竜が産んだ卵が降ってくる。卵の面倒をみる二人のもとにヴィーヴォの兄ポーテンコがやって来て、ヴィーヴォを聖都へと連れていこうとする。諍いの末にヴィーヴォは兄の命令に従うが、彼を待っていたのは変わり果てた聖都と、友人の花吐きマーペリアの口から告げられた衝撃的な真実だった。
兄、ポーテンコの手により敵と化したマーペリアから逃れたヴィーヴォたちは、ヴェーロの故郷である虚ろ竜たちの世界『中ツ空』へと向かう。
星空の向こう
夜闇の逢瀬
竜の牢獄
帰郷
灯花の丘
夜色の語り部
涙と旅立ち
温室と子守歌
花と子竜
竜と恋人
罪と業火
そして語り部は沈黙する
女王と歯車
囚われの花
夜色の竜
還る場所
紡ぐ呼び歌
青空の邂逅
続いていく物語
operation.1 人魚の水槽
operation.2 漣 ミサキ
operation.3 テラリウム
operation.4 仮想世界
operation.5 フォモール
operation.6 侵食
operation.7 マナナーン・マクリール
operation.8 人魚たちの夕空
爆炎から逃れるため、ポーテンコは牢獄の通路を駆けていた。周囲に視線を巡らせる。竜と人の体を持った異形の花吐きたちが、怨嗟の眼を自分に向けている。彼らの恨みの声に顔を歪ませながら、ポーテンコは大きく床を蹴った。
僧衣に忍ばせた種を素早く取り出し、周囲に撒く。それらは瞬く間に捻じれた手足を持つ木製の人形となり、ポーテンコの周囲を取り囲んだ。人形たちは背中に生えた翅をはばたかせ、ポーテンコの周囲を旋回する。
人形たちは両手を天井へと翳す。人形たちの手から光球が生じ、それは天井にあたって爆発した。
「固まれっ!」
爆風に髪を弄ばれながら、ポーテンコは叫ぶ。彼の周囲を巡っていた人形たちは、捻じれながら一つとなり、翅の生えた木鹿となった。ポーテンコはそれに飛び乗り、爆風によって開いた天井の穴へと飛び立っていく。
天井の穴を抜けた先には、星空が広がっていた。その星空を鋭く細めた眼に映しこみながら、ポーテンコは木鹿を後方へと向かせる。
「どこに行くの? ポーテンコっ」
弾んだ少年の声がポーテンコの耳朶を叩く。
視界に緑の竜が映りこむ。その竜の背に、歪んだ笑みを浮かべるマーペリアが乗っていた。
「どこにも行かないさ。お前を殺すまではなっ……」
ポーテンコは叫ぶ。種子を空中に振りまく。それは翅の生えた人形へと姿を転じた。人形たちはマーペリアの乗る竜へと襲いかかる。そんな人形たちを睨みつけ、竜は口から煙を吐いていた。
竜の口から巨大な火球が発せられる。それは熱風をともなって、人形たちを焼きはらう。
その破片から新たな蔓が生じる。それらは複雑に絡み合い、竜の手足を空中で拘束した。
「ポーテンコっ!」
マーペリアの鋭い声がポーテンコの耳朶を叩く。マーペリアはポーテンコを睨みつけながら、紡ぎ歌を奏で始めた。
テノールが星空に響き渡る。マーペリアは竜の背の上でくるくると体を回しながら、優しい歌声で星空たちに語りかける。
彼の歌に応じて、星たちが流れ星となって彼の眼に吸い込まれていく。彼の体は淡く輝き、その口からは胡蝶花を想わせる灯花が生じる。灯花たちは鋭く回転しながら、竜の手足を拘束する蔓を切断していった。
胡蝶花たちは、回転を繰り返しながらポーテンコへと襲いかかってくる。ポーテンコは直刀を抜き放ち、襲いかかる灯花を両断した。
「あぁ、聖なる花たちに対して、そんな仕打ちをしちゃうんだね。あなただって、もとは花吐きだったのに……」
マーペリアの嘲笑が聞こえてくる。ポーテンコは剣の切っ先をマーペリアへと向けていた。
「お前を止める。彼女たちとヴィーヴォを護るためにもなっ!」
ポーテンコの叫びとともに、爆音が辺りに響き渡った。ポーテンコは聖都へと眼を向ける。
聖都の外縁地区、湖に浮かぶ竜骸の着地場から爆音は響いている。燃える着地場と逃げ惑う人々をあとに残し、竜骸たちが骨の翼を広げてこちらへと飛んできた。
ポーテンコはそんな竜骸を見てほくそ笑んでいた。
聖都で運用されている竜骸は、物資や人を運ぶほかに兵器という面も持ち合わせている。その竜骸を操っているのは人形術を司る黒の一族だ。その竜骸たちを、ポーテンコは人形術で呼び寄せた。
マーペリアの乗る竜を、ポーテンコの操る竜骸が取り囲む。巨大な竜骸たちは大きく羽を広げ、マーペリアたちを威嚇する。
「私に勝てるとでも? マーペリア……」
「勝つつもりだよ。ヴィーヴォのために。オレたち、花吐きのために……。母さんのために……」
ぎゅっとマーペリアは自身を抱きしめ、眼を伏せる。切なげな眼差しをする彼に緑の竜が小さく唸った。心配そうに竜は背に乗るマーペリアに頭を向ける。
「大丈夫、父さん。父さんはオレたちのために人じゃなくなったんだもん。一緒に行こう。中ツ空へ……」
マーペリアは自身に向けられた竜の頭を抱きしめる。竜の額に唇を落とし、彼は鋭く光る眼でポーテンコを睨みつけた。
「私も、大切な人たちのためにお前に負ける気はないよ。マーペリア」
「奇遇、オレも一緒だ」
手に持つ剣を構え、ポーテンコはマーペリアを見すえる。そんなポーテンコにマーペリアは妖しい微笑みを向けてみせた。
緑の竜が咆哮をあげる。それと同時に、ポーテンコの操る竜骸が緑の竜へと襲いかかった。
はるか星空の上を金の鬣を持つ竜が飛んでいた。
竜の背の上には、赤い髪を靡かせた裸体の少女が立っている。その竜を追うように、夜色を想わせる少年を乗せた銀翼の竜が空を飛んでいた。
爆発に包まれる聖都が遠く離れていく。ヴィーヴォはその光景を見つめることしかできない。
聖都のある山岳地帯がみるみるうちに小さくなっていく。それでも不思議と寒さを感じない。ヴェーロの背に乗っていたヴィーヴォは立ちあがり、周囲を見回した。
赤く輝く灯花が、ヴィーヴォの周囲を覆っている。彼岸花の形をしたそれはあたたかな熱を周囲に放ち、ヴィーヴォを寒さから守っているのだ。
「夜色は、星空の上を知らないわよね……」
前方から可憐な少女の声がする。ヴィーヴォが視線をそちらやると、金の竜に乗った緋色が朱色の眼を細め自分に微笑んでいた。
緩やかにうねった長い赤髪を掻き揚げ、緋色は地上へと視線を落とす。
「見て、夜色。始祖さまがここからよく見えるわ」
彼女の声に従い、ヴィーヴォは地上へと顔を向けていた。そこに広がる光景にヴィーヴォは息を呑む。
翼を広げた巨大な竜の体が、暗い大洋に横たわっている。
否、それは竜の形をした大陸だった。竜の背から頭頂部にかけて雪が舞う山脈が連なり、頭部には聖都の象徴たる銀翼の女王の遺骸が鎮座する。山脈の下には針葉樹の樹海と、竜の遺骸が散らばっていた。
背から両翼にかけては、峻厳とした水晶の山脈と落葉樹に彩られた森が連なる。腹から尾にかけては丘と砂浜が連なり、海に溶け込んだ星々が桜色の珊瑚礁を華麗に浮かびあがらせていた。
「僕たちのいた大陸が、始祖さま……?」
「教会の聖典にもそう書いてあるでしょ。改めて見ると、本当に驚くけれど」
緋色の言葉に、ヴィーヴォは竜の形をした大陸を見つめることしかできない。
始祖の竜の体が、自分たちの住む大地であることは教会で教えられて知っていた。けれど、こうやって上空から自分たちの住む大陸を眺めるのは初めてだ。
神話の中の存在だと思っていた始祖の竜を目の当たりにして、驚きに胸が高鳴ってしまう。そんなヴィーヴォの気持ちを感じ取ったのか、緋色は弾んだ声をあげた。
「ほら、この星空の上にはもっと凄いものがあるっ!」
緋色が空を仰ぐ。
瞬間、彼女の乗る金糸雀が鋭い咆哮をはっした。その咆哮とともに、始祖の竜の頭頂部から何かがあがってくる。
それは巨大な火球だった。火球は物凄い速さで星空を駆けあがり、ヴィーヴォたちの上空へと去っていく。はるか上方に留まったそれは、巨大な音をたてながら破裂した。
眩しい火花が辺りに飛び散り、闇に支配されていた空が白く輝く。その輝きに、ヴィーヴォは思わず眼を瞑っていた。
火花が体の上を這いずって、肌が熱くなる。
白く光っていた瞼裏が再び暗くなり、ヴィーヴォはおそるおそる眼を開いていた。
空が蒼い。まるで、ヴェーロの眼のように。その空を、真っ白な光の球体が照らしている。
「地球の蒼だ……」
「きゅん……」
「そうだね、ヴェーロ。君の眼と同じ色だ」
ヴェーロが鳴き声をあげる。
ヴィーヴォは思わず微笑みを顔に浮かべ、彼女をなでていた。
涙を流して飛び続けていた彼女が、元気を取り戻してくれたことが嬉しい。
ヴィーヴォはヴェ―ロをなでながら、空を見あげる。地球を想わせる色彩の空を。
そっと下方へと視線を転じる。蒼い空の下には、ヴィーヴォが見慣れている暗い星空が広がっていた。
「これは……」
「これが昼。昔は、始祖さまの吐いた太陽が昼をもたらしていた。夜の闇を吹き飛ばすほどに、始祖さまの吐く太陽は明るかったの。でも、始祖さまは次第に力をなくされて、今ではこの水底はずっと夜に閉ざされたまま。灯花だけが私たちに昼があったことを教えてくれる……」
そっと緋色は金の竜の背に座る。彼女は金の鬣を優しく梳きながら、切ない眼差しを竜へと投げかけていた。
「ぎゅん……」
金糸雀はそんな彼女に応えるように鳴いてみせる。寂しげなその鳴き声を聞いて、ヴィーヴォは口を開いていた。
「君はなんなの、金糸雀……?」
「金糸雀は始祖さまの魂を宿した存在。あなたの竜と同じよ、夜色。いいえヴィーヴォ……。今の金糸雀は、彼であって彼でないの……。マーペリアみたいに、もう昔の彼じゃない」
そっと金の鬣をなでながら緋色はヴィーヴォに答える。
「きゅんっ」
緋色の言葉が気になったのか、ヴェーロが鳴き声をあげていた。
「金糸雀が始祖さまの魂を宿している? それに、ヴェーロが金糸雀と一緒って……?」
「それは、彼女たちが話してくれるわ」
ヴィーヴォの言葉に緋色は立ちあがり、自分たちに背を向けた。彼女は横向きに金糸雀の背中に座り直し、顔をあげてみせる。
白い太陽をヴィーヴォも仰ぐ。
そこに広がる光景に、ヴィーヴォは瞠目した。自身の背丈ほどはある巨大な蒼い眼が、こちらを見つめている。縦長の瞳孔を収縮させながら眼は瞬き、ヴィーヴォたちを凝視していた。
巨大な、虚ろ竜の眼だ。
眼は苔で覆われた顔についており、苔の隙間から銀の鱗が顔を覗かせている。
「きゅんっ!」
嬉しそうにヴェーロが鳴く。
虚ろ竜は眼を嬉しそうに細め、巨大な口を開けてみせた。口元を覆っていた苔やその上に生える若木が土とともに落下し、そこから鋭利な牙が姿をみせる。竜が大きく口を開けると、爆音のような咆哮が辺りに響き渡った。
その咆哮に応えるように、はるか上空から透きとおる竜たちの鳴き声が聞こえてくる。高い音で奏でられるそれは、ハープのような調べをもっていた。
「行こう、金糸雀っ」
緋色が弾んだ声をはっする。彼女の声に金糸雀は嬉しそうに唸り、翼を翻して上空へと舞っていく。
「きゅんっ!」
ヴェーロの弾んだ鳴き声が耳朶に響く。ヴィーヴォの両脇にある彼女の翼が大きくはためき、上昇を始める。
ヴェーロの体があがるたびに眼の前に迫りくる光景を、ヴィーヴォは口を大きく開けて見つめていた。
巨大な水晶の大天蓋が空を覆っている。その向こう側に、空を舞う巨大な竜たちがいた。それも尋常な大きさではない。
小島ほどの大きさの竜や、ヴィーヴォたちの乗る竜骸のそれよりもはるかに大きい竜が空を飛んでいた。
そんな彼女たちが、小魚のように緑に覆われた巨大な浮遊島のあいだを駆け巡っている。
銀、金、赤銅、緑、漆黒。
色とりどりの鱗を煌めかせ竜たちは、空を行き交う。ふと、ヴィーヴォは彼女たちの側に浮かぶ浮遊島に違和感を覚えた。
浮遊島についた崖は竜の頭を想わせる。苔に覆われたその崖を凝視すると、崖に巨大な眼が現れた。蒼い眼は瞬きを繰り返し、ヴィーヴォを見つめ返してくる。
巨大な島だと思ったそれは、緑に覆われた虚ろ竜だったのだ。虚ろの背には絶壁の聳える山脈があり、その山脈を縫ぬうように青々と茂った木々が生えている。
その山脈の上を、滑るように小さな虚ろ竜たちが飛んで行くのだ。
虚ろ竜たちは天蓋から伸びる大きな支柱の周囲を、螺旋状に飛んでいる。
その支柱を見て、ヴィーヴォは息を呑む。
それは、蔦となった無数の灯花の集合体だった。複雑に絡み合った灯花の支柱は、はるか上空に浮かぶ地球へと伸びている。
「彼女たちはまだ若いから、虚ろ世界でも下方にある水底の側を漂っているの。もっと巨大になれば、水底なんかに収まりきらなくなるから」
虚ろ竜たちを見つめることしかできないヴィーヴォに、緋色が楽しそうな声をかけてくる。ヴィーヴォは前方にいる緋色に顔を向けた。彼女はヴィーヴォへと振り返り、得意げに微笑んでみせる。
彼女の乗る金糸雀は、翼を大きく逸らして巨大な竜の頭上をあがっていく。ヴェーロも楽しそうに鳴いて彼のあとに続いた。
ヴィーヴォたちの側にいた竜の背上には、苔むした大地が広がっている。その大地を銀髪を靡かせた裸体の少女たちが駆けていた。彼女たちの背に生えた竜の翼を見て、ヴィーヴォは眼を見開く。
虚ろ竜の娘たちだ。
少女たちは空を飛ぶヴィーヴォたちを仰ぎ、手を振ってくる。
なかには、翼をはためかせこちらへとやって来る少女もいるではないか。肩まで伸びた銀の髪を翻しながら、少女がヴェーロへと近づいてくる。少女は緑がかった蒼い眼を細め、ヴィーヴォに微笑みかけてきた。するりと、細い彼女の両手がヴィーヴォに伸びてくる。
「きゅんっ!」
「ヴェーロっ?」
そんな少女をヴェーロは一喝する。驚いた様子で少女は両手を引き、寂しげな眼差しをヴィーヴォに送りながら離れていく。
金糸雀とともにヴェーロはこちらへと駆けてくる少女たちのもとへと降りたっていく。すると彼女たちは、翼をはためかせ嬉しそうにヴェーロと金糸雀の周囲を舞い始めた。
「きゅん!」
「あ、ごめん……」
ヴェーロが背中をゆらし、降りるよう催促してくるしてくる。ヴィーヴォは彼女に謝り、慌ててヴェーロの背中から跳びおりた。
纏っていた外套を翻し苔の上に着地する。柔らかな感触が足裏に広がり、ヴィーヴォはその心地よさに眼を細めていた。
「Estas vira. Estas la homa masklo.」
「Kracxi floro. Estas nia partnero.」
そんなヴィーヴォに虚ろ竜の少女たちが群がってくる。彼女たちは嬉しそうに声をあげながら、ヴィーヴォへと跳びかかっていた。
「うわっ!」
一人の少女に跳びつかれ、ヴィーヴォは声をあげてしまう。短髪の青みがった銀髪をゆらし、少女はヴィーヴォに笑顔を向けてくる。
どこかヴェーロと似た彼女の面差しに、ヴィーヴォは胸を高鳴らせてしまう。彼女の胸が体にあたって、ヴィーヴォは喉を鳴らしていた。
「Donu al mi ovon al mi.」
甘えた声を発し、少女はヴィーヴォを見つめてくる。潤んだその眼を見て、ヴィーヴォは顔が熱くなるのを感じていた。
「きゅんっ!」
そんな少女をヴェーロは鋭い鳴き声で威嚇し、鼻先を押しつけてヴィーヴォから引き離す。
「Al la porko?」
「きゅんっ!」
少女はそんなヴェ―ロを睨みつけてくる。ヴェーロは抗議するように鳴いて、少女の体を鼻先で突き跳ばす。
「ちょ、ヴェーロっ!」
「ヴィーヴォは竜のっ! さわらないでっ!」
ヴィーヴォが慌てた声をはっすると同時に、ヴェーロの体が光に包まれ少女の姿をとる。彼女はぷくっと頬を膨らませてみせた。
「ヴィーヴォのバカっ」
「え、なんでっ? ヴェーロっ?」
「お前が浮気なんかするからだ。この色男……」
妙に冷めた声がヴィーヴォの耳朶に轟く。ヴィーヴォは大きく眼を見開いて、声の方へと顔を向けていた。
銀髪の少女たちに取り囲まれた一人の少年がいる。金の髪を無造作に伸ばした彼は、じっと三白眼めいた深紅の眼でヴィーヴォを見つめていた。
「金糸雀っ!」
そんな少年に緋色が駆け寄ってくる。金糸雀は優しい微笑みを浮かべながら、背中に生えた金の翼をはためかせてみせた。彼は緋色を抱きしめる。
「よかった……。無事なのね、金糸雀」
「うん、大丈夫だ。ローガ……」
そっと金糸雀は彼女の額に唇を落とす。その光景に、ヴィーヴォは顔が熱くなるのを感じていた。
「あ、ちょ……。金糸雀、緋色……その……」
「あ、俺たちこういうことだから」
「ちょ、金糸雀……」
ローガは緋色の名前だろう。
二つ名の花吐きの中で唯一の女であった緋色は、教会でも特別な存在だった。
花吐きのほとんどは男であり、女の花吐きは稀だ。
聖女として崇められていた彼女は、ヴィーヴォたち二つ名の花吐きの中で特に格の高い存在として扱われていた。彼女と接触できた者は、彼女の身の回りの世話をしていた女性たちと、ヴィーヴォたち二つ名の花吐き。そして庭師であるポーテンコぐらいだ。
むろん、彼女と二人きりで会うことなどかなわない。彼女とのあいだに間違いがあってはいけないからだ。
そのときが来るまでは――
それまで、彼女の名前は誰にも明かされない。そう、ヴィーヴォは聞かされていたのだが。
「なにも驚くことじゃないだろう? ローガはいずれ、俺たちの花嫁になるはずだったんだ。それが早まっただけだよ……。俺が始祖の竜の記憶を継承したから」
「それは、そうだけど……」
「お前の母親だって、似たようなものだろ」
金糸雀の言葉に、ヴィーヴォは彼から眼を逸らしていた。
女の花吐きから生まれた子供は、同じ花吐きになる。そのため、女性の花吐きは聖女として崇められると同時に、聖母になることを求められる。
すなわち、複数の男性と関係を持ち多くの花吐きを生むことを義務づけられるのだ。
生まれてくる子供の血は濃ければ、濃いほど、強力な花吐きが生まれる。
自分の母親も、いずれはそうなる運命だったとポーテンコから聞いたことある。ただし、彼女の場合は正式な夫となる人物が決まっていたから、まだ幸福だと。
そして、その夫となる人を母はきっと愛していたのだ。
母のかつての婚約者であった教皇を――
「母さんはたぶん、好きで僕たちを生んだんじゃないよ……」
ぎゅっと法衣の裾を掴み、ヴィーヴォは俯く。
「そうかな……。本当は君のお母さん、食い殺されるはずだったんだよ。君のお父さんであるあの竜に……。それができなかったから、俺は始祖の竜として覚醒してローガを食べることになった」
「金糸雀……」
そっと緋色を抱きしめ、金糸雀は悲しそうに眼を伏せてみせる。緋色はそんな金糸雀の胸に体を預けていた。
「それって、どういう……」
「それは、彼女が答えてくれるよ」
ヴィーヴォの言葉を制して、金糸雀は前方へと顔を向ける。彼が向いた先へと、翼をはためかせながら虚ろ竜の少女たちが駆けていく。
「お母さんっ!」
ヴェーロもまた、弾んだ声をあげて少女たちのあとを追う。
「ヴェーロっ!」
驚いたヴィーヴォは思わず彼女の名を呼んでいた。彼女を追いかけようと顔をそちらへと向けたヴィーヴォは、驚きに眼を見開く。
そこに、美しい女性がいたからだ。
豊満な胸と均整のとれた体を銀髪で覆った彼女は、駆け寄ってきたヴェーロを優しく抱きしめる。
ヴェーロを見つめる彼女の眼に、ヴィーヴォは見覚えがあった。
蒼い、慈愛に満ちたその眼に、自分は見つめられたことがある。
「お義母さんっ?」
ヴィーヴォの上擦った声に、女性は顔を向けてくる。彼女は優しく眼を細め、ヴィーヴォに笑顔を向けてきた。
そっと抱きしめたヴェーロを放し、彼女は少女たちを引き連れヴィーヴォたちのもとへとやってくる。
「お帰りなさいませ。お父さま。そしてようこそ、娘の愛しい花婿」
そっと彼女は頭をさげ、優美にお辞儀をしてみせる。その仕草に、ヴィーヴォは思わず見入ってしまった。
自分の兄が彼女に恋をしてしまっても仕方がない。それほどまでに、彼女の所作は優美だ。
「我らの父と、私たち伴侶たる花吐きの地、水底よりよくぞおいでくださいました。ここは中ツ空、私たち虚ろ竜の故郷です」
彼女の笑みがヴィーヴォたちに向けられる。彼女の言葉に、ヴィーヴォは思わず顔をあげていた。
巨大な水晶の天蓋の向こう側に、灯花でできた支柱を螺旋状に巡る竜たちがいる。その支柱の頂に輝く、地球のなんと眩しいことか。
「ヴィーヴォ……」
名を呼ばれ、ヴィーヴォは顔をそちらへと向けていた。
ヴェーロが蒼い眼を潤ませ、自分を見つめている。
地球と同じ色彩をもつ彼女の眼を見て、ヴィーヴォは小さく頷いていた。
ポーテンコは命がけで自分たちをここへと導いてくれたのだ。ヴェーロたち虚ろ竜たちの故郷へと。
でも、自分たちはここにはいられない。
「すみません。僕たちはすぐにここを離れないといけない。兄さんが、あなたの愛する人が危険な目に合っているんです。助けに行かなくちゃ」
ヴェーロの母親へと視線を移し、ヴィーヴォは彼女に告げる。彼女は悲しそうに眼を細め、首を左右に振ってみせた。
今にも泣きそうな眼をヴィーヴォへと向け、彼女は震える声で告げる。
「お願い。あの人を信じて、あの人は必ずここにやってくるから――」
ポーテンコは、空に帰った愛しい女を思っていた。
彼女を空に返した見返りに、自分は花吐きとしての力を失った。それでも、後悔することはなかった。
「ずっと、この眼を通じてあなたを見つめていたよ。私の愛しい人……」
湖面に映る自身の眼を眺めながら、ポーテンコは微笑んでみせる。聖都の浮かぶ湖には、眩い星空が映し出されていた。湖面に映る竜の陰影を捉え、ポーテンコの表情は暗くなる。
ポーテンコはしゃがみ込み、湖を泳ぐ竜の陰影にそっとふれた。指先が湖面にふれたとたん、竜の陰影はゆらめきながら姿を崩す。ポーテンコの眼は暗い影に彩られる。
花吐きの力を失ってから、自分はこの眼を通じて彼女が何を見ているのかを眺めることができた。
いつも眼に映りこむのは、水晶の大天蓋の向こうに浮かぶ灯花の支柱と、螺旋状に並んだ巨大な虚ろ竜たちの群れ。そして、それを眺める幼い竜の翼を持った少女たちだった。
彼女と同じ銀の髪と蒼い眼を持つ少女たちは、彼女に育てられているらしかった。
それが、自分の血を引く娘たちなのかポーテンコには分からない。ただ、彼女が実の娘のように少女たちを愛していることは、彼女の眼を通じて伝わってきた。
そして彼女が下界の水底を頻繁に眺めていることも。
「私は、そちらにいってはいけないのだね……」
掌で湖面をゆらしながら、ポーテンコはゆれる竜の陰影に優しく微笑んでみせる。
ふっと、弟を横抱きにした娘の姿を思いだし、ポーテンコは眼を伏せていた。
「当たり前か、私は自分たちの娘を危険な目に合わせたのだから……」
立ちあがり、空を仰ぐ。
自身の呟きに応えてくれるものはおらず、ただ星空を泳ぐ竜の陰影だけがポーテンコの視界を過ぎていく。
「あなたは、私に娘を託してくれたのに、私は――」
「それは、違うわ……」
ふと、自身の声を遮る言葉があった。驚きにポーテンコは顔をあげる。そこにいる人物を見て、ポーテンコは大きく眼を見開いていた。
豊かな銀髪で裸体を覆った女性が、湖に浮かんでいる。白銀の翼を靡かせる彼女は、ポーテンコを見つめていた。
澄んだその眼は、まるで地球のように美しい。そんな眼を悲しげに歪め、彼女はポーテンコへと近づいてくる。
「ポーテンコっ!」
翼をはためかせて自身に抱きついてきた彼女を、ポーテンコはとっさに受け止めていた。
「どうして、君がここに……?」
震える声を発しながらも、ポーテンコは愛しい人を抱き寄せる。
「ここに来てはいけないとわかっている。でも、そうしなければ行けなくなったの……。このままでは始祖さまは、私たちの中ツ空は滅びてしまう。お願い、あの子を、私たちの娘を助けて……」
彼女の上擦った言葉に、ポーテンコは優しく眼を細めていた。そっと彼女の髪を梳きながら、ポーテンコは彼女の顔を覗き込む。
「なにがあったの。愛しい女……」
潤んだ眼をポーテンコに向けながら、彼女は大粒の涙を零こぼした。
凪いだ湖面には、星空が映るばかりだ。綺羅星が輝く夜空を、虚ろ竜の陰影が優美に泳いでいる。それでもポーテンコは、その陰影を見て悲しみに囚われることはなかった。
「大丈夫だよ、愛しい女。約束は必ず守る……」
そっと眼を伏せ、ポーテンコは決意を口にする。空を仰ぐと、彼女が白銀の翼をはためかせながら星空へと昇っていく姿が認められた。
早く、ここから去って欲しいと願ってしまう。もっとも、護衛に人形たちを数体つけたから問題はないと思うが。
「あれが、ポーテンコの恋人?」
少年の声がポーテンコにかけられる。背後へと振り向くと、片眼鏡を輝かせたマーペリアが優しい微笑みを顔に浮かべていた。
「マーペリア……」
「大丈夫、父さんには内緒にしておくから」
そっと人差し指を唇にあて、マーペリアは楽しげに眼を歪める。その翠色の眼を見て、ポーテンコは苦笑を浮かべていた。
まさか、自分たちの敵が接触を図ってくるとは思わなかった。笑みを深め、ポーテンコはマーペリアに問う。
「何の用だ、若草?」
「うん、金糸雀と緋色のことでちょっと……」
両手を後ろ手にくみ、マーペリアは首を傾げてみせる。彼の癖のついた若竹色の髪がさらりと首筋を流れていった。
星空が湖面を美しく輝かせている。
あの日、彼女と再会した出来事を思いだしながら、ポーテンコは湖へと落ちていく。
激痛が走って、左腕へと顔を向ける。肘から下にあるはずの腕が失われ、そこから大量の血が流れ出ていた。
赤い血を見て、ポーテンコは嗤う。
自分の父親は人の形をしていないのに、自分の血は赤い。そして、自分の腕を食いちぎった化物は、その人間だったのだから。
空に顔を向けると、こちらを睥睨する緑の竜と眼があった。口元を歪め、ポーテンコは嘲笑を竜へと向けてみせる。
瞬間、冷たい水が背中を濡らす。
湖に落ちたとわかった瞬間、ポーテンコの体は水中へと没していた。
水中を泳ぐ魚たちがポーテンコの体を取り巻く。白銀に輝く魚たちは、彼女の鱗を思わせた。
――。
気泡を吐きながら、ポーテンコは彼女の名を呼ぶ。
だが、その言葉に応えてくれる者はいない。
ふっと、彼女の面差しを引き継いだ娘の顔が脳裏にちらついて、ポーテンコは微笑んでいた。
弟とともに彼女は無事に故郷へと帰ることができただろうか。愛しい彼女がいるあの場所へ。
蒼い空が美しい、あの場所へ。
あの日、ポーテンコは約束した。
彼女たちと中ツ空を守ることを。そして、今度こそ彼女とともに中ツ空へと旅立つことを。
けれど、その約束を果たすことはできそうにない。
冷たい水に沈んでいく体が重くなっていく。ゆっくりとポーテンコは自身の意識が遠ざかっていくのを感じていた。
大丈夫だ。
中ツ空にいるかぎり、ヴィーヴォたちが教会に何かをされることはない。なぜなら、彼らはヴェ―ロとヴィーヴォがいなければ、中ツ空に手を出すことすらできないのだから。
二人が揃わなければ、あれを動かすことは出来ない。
思い残すことと言ったら、娘たちになにもしてあげられなかったことだろうか。
――。
娘たちに託した言葉を呟き。ポーテンコはゆっくりと眼を瞑る。暗くなっていく視界に映る水面は、まるで竜の鱗のように煌めいていた。
湖の水面をうねらせ、緑の竜が湖中へと没する。竜の背に乗るマーペリアは、大きな僧衣をゆらめかせながら冷たい水中を泳ぐ。マーペリアの視線の先には、沈んでいくポーテンコの姿があった。
左腕を失っているものの、ポーテンコの体はあらかた原型を留めている。
マーペリアは安堵に微笑む。
沈んでいくポーテンコの体を片手で抱き寄せる。胸に耳をあてると、弱々しい鼓動が耳朶を打った。
ポーテンコは生きている。
あぁ、よかったとマーペリアは笑みを深めていた。
これでポーテンコも中ツ空へと連れていくことができる。
僧衣の懐に手を入れ、マーペリアは水晶でできた瓶をとりだす。瓶の中には、毒々しい色をした赤い液体が入っていた。瓶の蓋を口で開け、マーペリアは赤い液体を口に含む。
唇を喜悦に歪め、マーペリアは自身のそれをポーテンコの唇に重ねてていた。
花吐きは、虚ろ竜の番として始祖の竜に造られた存在。
本来ヴィーヴォたち花吐きは、中ツ空の虚ろ竜たちに花婿ととして迎えられ、彼女たちに子と花吐きの能力を継承する存在だった。
虚ろ竜と花吐きのあいだに生まれた子は、男なら花吐きとなり、女なら虚ろ竜となる。
そして、虚ろ竜の背中には生命たちの住まう世界がある。その世界の命を循環させるために、彼女たちは花吐きの能力を継承するのだ。
「だから彼女たちは、あなたたち男の花吐きを食べたがる。あなたたちの能力を継承し、子をつくる種を得るために……」
そっと頬をなでられ、ヴィーヴォは呻き声をあげていた。その声に呼応するように、体に巻きついた彼岸花が体に食い込む。
「緋色……やめて……」
顔をあげ、ヴィーヴォは緋色を見つめる。彼女は色のない眼をヴィーヴォに向け、そっとヴィーヴォから距離をとる。
しゃらんと、彼女の髪を飾る灯花が華麗な音をたてた。
緋色は、姫袖が印象的な法衣を纏っていた。燃えるように赤い法衣には金糸によって幾何学模様の薔薇が描かれている。法衣の裾を翻らせ、彼女は後ろ姿をヴィーヴォに見せる。
「あなたがいけないのよ。私たちの言うことをきかないで、庭師さんを助けに行こうとするから」
そっと眼を伏せ、彼女は灯花によって石英の岩に括りつけられたヴィーヴォを振り返った。彼女の周囲には格子のように細長い石英が立ち並び、天然の石牢を形づくっている。
文字通り、ここは虚ろ竜たちの牢獄なのだ。ヴィーヴォは緋色の後ろにある石牢の隙間から空を見つめる。
水晶の天蓋が小さく崩れ、その破片が色とりどりの人魚に転じていく。ヴィーヴォはその光景をずっと眺めていた。
ヴェ―ロたち銀翼の一族は、中ツ空と水底の境界にある大天蓋を守ってきた。水晶の壁とも呼ばれるそれは、ヴィーヴォたちの頭上に広がっている水晶の天蓋のことだ。
この大天蓋により中ツ空と水底は分かたれ、両者の世界は容易に行き来ができないようになっている。
大天蓋は虚ろ世界を漂っていた卵の欠片だという。この卵の破片が天蓋のように水底の地を覆い、虚ろ竜たちの侵入を拒んでいるのだ。天蓋は少しずつ崩れており、そこから生まれる殻たちが、水底へと落ちていく。
桜色の人魚のことを思いだし、ヴィーヴォは苦笑していた。
水晶の壁があるこの場所は、ヴェーロの友人であるメルマイドの故郷でもあるのだ。
「何が、おかしいの?」
緋色の声が聞こえる。顔をあげると、眼を怒りに輝かせる緋色と眼があった。
「別に……」
「あなたは自分の恋人である祖母の上で、派手に暴れまくって金糸雀に傷すらつけた。私の愛しい金糸雀に……。私を食べてくれるはずの金糸雀に……」
ぎゅっと自身を抱きしめて、緋色は悲しげに眼を伏せる。
「ごめん……。でも、兄さんが……」
「あの人の命と、水底すべての命と、あなたはどちらが大切なの?」
震える緋色の言葉に、ヴィーヴォは黙る。
ここに来て教えられた残酷な世界の摂理を、ヴィーヴォは受け入れられないでいた。
雄の虚ろ竜となった金糸雀は始祖の竜の記憶を引く存在であり、その金糸雀が女の花吐きである緋色を食べることで再び水底の秩序は回復するというのだ
水底の大陸となっている始祖の竜は、生命を循環させる力を持っている。
その力の化身が、花吐きたちだ。
その力は周期的に弱まり、花吐きが生まれなくなる期間があるという。
始祖の竜の力が弱まった水底は常闇に閉ざされ、人々を襲う疫病も蔓延する。
その度に、直系の花吐きたちの中から、始祖の竜の記憶を継承する者が現れる。始祖の竜として覚醒した花吐きは先祖がえりを起こし、竜となって女の花吐きを喰らう。
女の花吐きは、この世に再び花吐きを生みだすための生贄なのだ。
「あなたのお母さんが、始祖の竜として覚醒したあなたの父親に食べられることですべてが終わるはずだった。でも、あなたのお父さんはそれを拒絶し、あろうことかあなたのお母さんと子を成した……。本来、この世界のために命を捧げるべき女が、人としての幸せを享受し、世界を救うことを拒んだのよ。それがどんなに罪深いことか、金糸雀を愛する私には分る……。あの人のことを思うとね、子宮が震えるの。食べられたくてたまらなくなくて、あの人といるだけで私は幸せなになれるのに……」
恍惚した眼差しで天井を見上げ、緋色はうっとりと言葉を紡ぐ。
「金糸雀は、無事……?」
ヴィーヴォの言葉に彼女の表情が冷たいものになる。色のない眼をヴィーヴォに向け、緋色はヴィーヴォを見つめる。
ヴェーロの母親の制止を振り切り、水底へと戻ろうとしたヴィーヴォたちを金糸雀がとめようとした。そのとき、ヴェーロと交戦状態になった金糸雀は、彼女に深手を負わされてしまったのだ。
ヴェーロもまた、緋色の灯花と虚ろ竜の姉妹たちに捕縛され、ヴィーヴォも捕まってしまった。
「えぇ、あなたの大切な竜も無事よ。もうすぐここに、花婿たるあなたを喰らいにくるでしょうねっ!」
声を弾ませながら、緋色は唇を歪めて嗤ってみせる。
「私は金糸雀に食べられて、あなたは恋人の竜に食べられる。それで、すべて終わり。庭師さんも水底と中ツ空のために、そして愛しい女のために命を捧げてくれるはずだわ」
「それで、悲しむ人がいるとしても……?」
ふっと眼を伏せて、ヴィーヴォは兄の恋人に想いを馳せる。
――お願い。あの人を信じて、あの人は必ずここにやってくるから。
そう言ってヴィーヴォたちを引き留めたヴェーロの母は、今にも泣きそうな顔をしていた。本当は誰よりもポーテンコの側にいたいはずなのに。
「自分の恋人の心配はしないのね。冷たい人……」
醒めた緋色の言葉が耳朶に突き刺さる。苦笑しながら、ヴィーヴォは彼女に言葉を返していた。
「うん……そうだね。だって、ヴェーロだったら、もうじきここに来るから」
「夜色?」
意味深な言葉を発するヴィーヴォに、緋色は怪訝な眼差しを送る。瞬間、少女たちの悲鳴が辺りに響き渡った。
外を見張っていた虚ろ竜の娘たちが、何かに怯えているのだ。それと同時に、石英の牢獄に大きな爆音が響き渡った。
――Vero、捕まったふりをして僕を助けに来て……。
そうヴィーヴォに言われたとき、ヴェーロは自分の耳を疑った。自分たちをとめようとした金糸雀に深手を負わせ、トドメを刺そうとした瞬間にヴィーヴォはその言葉を放ったのだ。
ヴィーヴォに名を呼ばれ、ヴェーロは彼に従わざる終えなかった。名を縛られているお陰で、体に力が入らず緋色の灯花に体を拘束されてしまったのだ。
でも、捕まったふりはもうしなくていい。
ヴェーロは竜の姿のまま牢獄に入れられていた。そこを壊して、あとはヴィーヴォの香りを辿ればいい。彼の香りは、まるで自分を誘うように日増しに強くなっているから。
爆音が自分の側で響いて、ヴェーロは後方へと顔を向ける。
自分と同じ銀翼の一族が竜の姿をとり、ヴェーロを追っている。彼女たちは翼をはためかせ、苔むした大地を滑空する。
そんな銀色の竜の群れに、ヴェーロは口から吐いた火球を放つ。
火球を見たとたん彼女たちは怯えた様子で止まり、背中を見せて逃げ回り始めた。ヴェーロは呆れた様子で口から煙を吐いてみせる。
翼を後方へと逸らし、ヴェーロは飛ぶ速度をあげていく。前方に石英の牢獄がある。その牢獄めがけ、ヴェーロは火球を放っていた。
虚ろ竜の少女たちが悲鳴をあげながら、牢の周りから散っていく。牢に衝突した火球は爆音をたてながら、周囲に煙を巻き散らした。
「きゅんっ!」
嘶いて、ヴェーロは煙の中へと突っ込んでいく。
「Veroっ!」
名を呼ばれるとともに、ヴェーロは背中に衝撃を感じていた。ヴィーヴォが背中に乗ってきたのだ。
「早くっ! ここから離れてっ!」
「きゅんっ!」
ヴィーヴォの言葉に返事をし、ヴェーロは翼をはためかせる。上昇してみせると、灯花の蔓がヴェ―ロを追ってきた。
彼岸花の灯花はうねりながら上空にいるヴェーロの体を捕えようとする。ヴェーロは後方へと振り向き、口から放った火球を灯花へとお見舞いした。灯花は、蔦を吹き飛ばされ四散する。
「ごめんね、みんな……緋色……」
「きゅん……」
ヴィーヴォの悲しげな声が聞こえる。
「大丈夫だよ、ヴェーロ。早く、兄さんのところに行ってあげよう」
そんな彼を慰めたくて、ヴェーロは小さく鳴いていた。そっとヴェーロの頭をヴィーヴォがなでてくる。
「きゅん……」
ヴィーヴォの言葉が嬉しくて、ヴェーロは眼を細めていた。
お母さんには悪いことをしたと思っている。でも、お父さんを放っておくなんてヴェーロにはできないのだ。
抱きしめてくれたポーテンコのぬくもりを思いだす。飛び立つ自分を見つめて、悲しげに微笑んでいた彼の姿を。
温かな、お父さん。優しかったお父さん。そんなお父さんを、見殺しにはできない。
りぃん。
不意に、ヴェーロの耳朶に聞きなれた音がする。その音がヴィーヴォが吐いた灯花の旋律だと分かった途端、ヴェーロは眼を見開いていた。
こちらに、おいで――
おいで――
灯花が、ヴェーロに囁きかけてくる。
「きゅん……」
困惑したヴェーロはヴィーヴォに鳴き声を発していた。
「ヴェーロ、灯花たちのところに連れて行って……」
ヴィーヴォが答える。ヴェーロは大きく翼をはためかせ、声のする上空へと飛んでいった。
ヴェ―ロたちが乗っている虚ろ竜は、ヴェーロの祖母にあたる人だという。苔むした彼女の体は深い森林でおおわれ、背中には峻厳とした水晶の峰が並び立つ。
そこは、ヴィーヴォと暮らしていた巣の周辺にどこか似ていた。妙な懐かしさを覚えながら、ヴェーロは水晶の峰の側にある森の小高い崖を目指していた。
りぃん、りぃんと音を鳴らす菖蒲の形をした灯花が崖の中腹に生えている。その灯花たちの花畑へと、ヴェーロは降りたっていた。
「僕たちの、巣?」
背の上で、ヴィーヴォが唖然とした声をあげる。彼の言葉に、ヴェーロは花畑の後方にある崖へと眼を向けた。
そこにある暗闇杉で作られた扉を見て、ヴェーロは大きく眼を見開いていた。
扉には大きな閂がつき、人間用の小さな入り口も設けられている。
ヴェ―ロたちの巣につけられていた扉とそっくりだ。
「誰が、こんなものを……」
するりとヴィーヴォが背から降りたち、小さく言葉を呟く。彼を歓迎するように、灯花たちは可憐な音をたてる。
その音を合図に、人間用の扉を開け放ちこちらへと駆けてくる者がいた。
それは、一人の少女だった。四、五歳ぐらいの外見の彼女は、長い銀髪を靡かせながら大きな蒼い眼をこちらへと向けてくる。
背には、白銀の竜の翼。その翼をはためかせ、少女はヴィーヴォたちのもとへと飛んできた。
「お兄ちゃんっ!」
「うわっ!」
少女はヴィーヴォの胸に跳び込み、彼を押し倒す。驚くヴィーヴォを他所に、彼女は舌でヴィーヴォの頬を舐め始めた。
「きゅんっ!」
ヴェーロは鼻先を使って、彼女をヴィーヴォから引き離す。少女は、ヴィーヴォの隣に仰向けに倒れ込んだ。
「Kial al diri? Fratino ......」
悲しげに大きな眼を歪め、少女は泣きそうな声を発する。少女の眼を見て、ヴェーロはあることに気がついた。
どこか、彼女の面差しが幼い頃の自分に似ている。
「ヴェーロ、この子……」
「きゅん」
ヴィーヴォの言葉に、ヴェーロは鳴いて少女の姿へと転じていた。
「卵の赤ちゃん? 竜の妹……?」
こくりと首を傾げるヴェーロの視界に、嬉しそうに笑顔を浮かべる少女の姿が映りこむ。少女は跳び起きると、ヴェーロに跳びついてきた。
「お姉ちゃんっ!」
「あっ……」
驚くヴェーロを見あげ、少女はまん丸な眼を輝かせてみせる。あまりの愛らしさに、ヴェーロは思わず彼女を抱きしめていた。
「可愛い……」
「よかった。仲良くしてしてくれて……」
そんなヴェ―ロの言葉に、応える声がある。驚いて声のした前方へと顔を向けると、人間用の扉から女性が姿を現した。豊かな胸を銀髪で覆った彼女は、蒼い眼を自分に向けてくる。
ヴェーロの母親だ。
柔和な笑みを浮かべながら、彼女は自分たちのもとへと飛んでくる。
「お義母さん……。あの、この子」
起き上がったヴィーヴォが居住まいを正し、彼女へと声をかける。母は優しくヴィーヴォに微笑み、口を開いた。
「はい、この子はあなたに助けていただいた、私とポーテンコの娘です。ここであなたたちに会えるのを、ずっと楽しみにしていました」
「でも、ここに来たときこの子は卵で……」
「私とこの子を、何度かポーテンコがあなたと娘の巣に連れて行ってくれたんです。この子が卵の中で過ごしていた場所に行きたいって、あの人に駄々をこねて……」
そっとヴェーロのもとへと母がやってくる。彼女はヴェ―ロの抱きしめる妹の頭をなで、ヴィーヴォに苦笑を送ってみせた。
「それで、この子があの場所を真似てここを作ったんです。お兄ちゃんとお姉ちゃんとパパと一緒に、ここで暮らしたいって……」
「兄さん、いつのまにそんな……」
「あなたたちがあの場所を去ったあと、何度かポーテンコには会いに行きました。この子のこともありますし……」
「Panjo ……」
顔を曇らせ、母は妹を見つめる。悲しげにゆれる彼女の眼を見て、ヴェーロは口を開いていた。
「お父さんは、ちゃんと竜たちが連れてくる。だから、お母さんたちはここで待ってて」
真摯な眼差しを母に向け、ヴェーロは誓いの言葉を告げる。ヴェーロの言葉に、ヴィーヴォも力強く頷いていた。
「兄さんは、必ず僕たちが救い出します。だから、ここから離れることを許してください」
「お母さん……」
ヴィーヴォの言葉に促され、ヴェーロは母に声をかける。母は困惑した様子で眼を曇らせ、言葉を返した。
「あなたたちの気持ちはよく分かったわ。だから、あなたたちに託したいものがもう一つあるの。見てくれるかしら?」
暗闇杉の扉を潜ると、そこには円柱の形をした吹き抜けの洞窟と、空っぽの壁龕が幾つも開いた石英の壁があった。
ヴェ―ロたちの巣と異なる所といったら、正面の壁龕に始祖の竜の彫像ではなく、石英の牢が設けられていることだ。
その石牢の中に、緑の鱗を持つ虚ろ竜がいた。もとは翠色に輝いていたであろう彼女の眼は白緑に濁り、焦点が定まっていない。
その眼の色にヴェーロは妙な既視感を覚えていた。
彼女の眼の色は、若草のそれとそっくりだ。
眼が見えないのだろうか。それでも彼女は扉が開いた音に気がつき、顔をあげてみせた。
「マーペリア?」
ヴィーヴォが驚いた様子で小さな声を発する。横にいる彼を見つめる。彼はじっと牢の中の竜を見つめていた。そんな竜の牢獄へと、ヴェ―ロの妹が駆け寄っていく。
「Onklino, Genk?」
妹は元気よく竜に声をかける。竜は濁った眼を嬉しそうに細め、鼻先を妹へと近づけた。
「ここは、本来彼女が幽閉されている場所でした。この子は彼女が独りじゃ可哀想だって、勝手にここに巣を作り出して……」
「彼女は、一体……?」
ヴィーヴォの言葉に母は顔を曇らせる。伏せた眼を牢獄の竜へと送り、彼女は言った。
「彼女は罪人です。原初の昔、私たち虚ろ竜は父である始祖の竜と交わることで仔を成していました。ですが、始祖の竜は水底へと落ち、水底の生命は我らが父を大地として繁栄した。水底へ落ちた始祖の竜を取り戻すべく、私たちの祖先は水底へ攻め入った。水底の生命を愛する始祖の竜は娘たちの蛮行に涙しました。そして、始祖の竜の嘆きに応えた虚ろ竜がいた――」
そっと母はヴェーロへと眼を向ける。悲しげに潤んだ眼をヴェーロへと向けながら、彼女は虚ろ世界の神話を語り続ける。
「それが、私たち銀翼の一族の長たる銀翼の女王です。あなたたち花吐きの住まう聖都がその亡骸であることはご存知ですよね。あなたたちの先祖が、彼女と始祖の竜のあいだに出来たことも」
「ええ、散々聖典で教わりました」
母の言葉にヴィーヴォが苦笑を浮かべる。そんなヴィーヴォに笑みを送り、母は言葉を続けた。
「彼女は私たち銀翼の一族に使命を課しました。水底と中ツ空を分かつ天蓋を守り、虚ろ竜たちの水底への侵入を防ぐという使命を。彼女は花吐きに恋した虚ろ竜のみを、子孫を残すため水底に降ろすことを許したのです。それに反したものは処罰される掟をつくって。
その掟の名のもとに私たち年若い銀翼の一族たちは天蓋の側にとどまり、水底を守り続けています。けれど、水底へと降りようとする愚かな者もいる……。彼女は、その禁を犯しここに閉じ込められているのです」
母が語りを終える。
その言葉に反応するように、牢獄の竜が寂しげに嘶いた。同時に、ヴェーロの頭に声が響き渡る。
――私は、たしかに罪人です。でも、あの子にマーペリアに罪はない……。
「なに……これ……?」
「ヴェーロにも、聞こえるの?」
ヴィーヴォが驚いた様子で声をかけてくる。とっさに、ヴェーロは彼へと顔を向けていた。
「マーペリアって、若草のこと?」
自分たちを聖都の地下牢で襲った緑の竜のことを、ヴェーロは思いだしていた。驚くヴェーロに若草は告げたのだ。
――君の一族に、母親を殺されたと。
そして、牢獄に閉じ込められた虚ろ竜の眼は、若草のそれを想わせる。この人は、もしかしたら若草の母親ではないだろうか。
「そうだよ、ヴェーロ……。マーペリアは若草の名前だ。たぶん、この人は……」
「当たり、マーペリアのお母さんだよ。ヴィーヴォ……」
頭上から、声が降ってくる。驚いてヴェーロは声のした牢獄の上方を見あげた。
牢獄の上方には大きな壁龕が設けられ、長光草で作られ巻物や書物が積み上げられている。その書物に隠れるようにして、金髪の少年が横になり本を読んでいた。
「金糸雀っ!」
「よぅ……。何でここにいるの? 緋色がお前を虐めてるはずなんだけど? あぁ、ぶっ飛ばしてきたわけか。お前は、泣き虫のくせして強かったからな」
書物から顔を離し、彼は眠たそうな三白眼をヴェ―ロたちに向けてくる。あくびをして、彼はヴィーヴォに告げた。
「あのさ、庭師さん助けるついでに、マーペもここに連れてきてくれない? あいつ、お前の上をいく竜フェチな上にマザコンだからさ。母ちゃんを救うべく、中ツ空を襲おうとしてるのよ……。めんどくさいから、マーペリアとめてきて……」
ひょっと本に顔を戻し、彼は言葉を告げる。
「ちょ、めんどくさいって何だよっ? それに君はなんでいつもそんなにマイペースなんだっ? よくわからないけど、君は始祖の竜な訳だよね。僕たちの神様だよねっ? その神さまが、その態度ってっ――」
「お前にしか止められないから、俺はめんどくさいって言ってる――」
凛とした彼の声が、ヴィーヴォの怒鳴り声を遮る。眼を鋭く細め、彼はヴィーヴォを見すえてきた。
「お前にしかできない。銀翼の女王に愛された、お前にしか……。マーペリアはお前にしか心を開いたことがないんだ。俺たちじゃだめ。あいつは、ずっと一緒にいた俺たちの言葉に、耳すら貸してくれなかった」
体を起こし、彼は言葉を続ける。持っていた本を閉じ、彼はその本をぎゅっと抱きしめた。俯いた彼の眼は、暗く淀んでいる。
「やめてくれって何度も言った。ローガだけは見逃してくれって……。俺は、ローガを食べたくないって……。でも、あいつは俺を竜にして、俺にローガを喰わせようとしたんだ……。笑いながら、竜になって苦しむ俺を愉しげに見つめて……。あいつは、泣いてたんだ……」
抱きしめた本に顔を埋め、金糸雀は黙り込む。彼がすすり泣く声が聞こえる。ヴィーヴォはじっと、彼を見つめたまま動かなくなった。
「お願いだ。ヴィーヴォ……。マーペリアを助けて……」
ヴィーヴォに涙に濡れた彼の眼が向けられる。ヴィーヴォは辛そうに金糸雀から眼を逸らし、言葉を続けた。
「どうして、僕なんだ? みんな、どうして僕を選ぶの?」
ヴィーヴォの顔が、こちらに向けられる。ヴェーロは迷わず彼の手を握りしめていた。驚いた様子で、ヴィーヴォは大きく眼を見開く。
「竜は、ヴィーヴォが好き。竜を孵してくれて、この世界のことを教えてくれたヴィーヴォが好き。ヴィーヴォの歌が好き。それじゃ、駄目?」
驚いたように眼を見開き、ヴィーヴォが笑顔を浮かべてくれる。そっとヴェーロの手を握り返し、彼は言葉を続けた。
「うん、そうだ。それでいいんだ……」
「ヴィーヴォ」
涙ぐむ彼の顔をヴェーロは覗き込む。ヴィーヴォは眼を拭って、ヴェーロに言葉を返した。
「ヴェーロ、僕の友人を一緒に助けて欲しい。これは君にしか頼めないことなんだ。僕を信頼してくれる、君にしか……」
「うん、一緒に若草を助けよう」
そして、みんなで中ツ空に再び帰ろう。
そんな思いを胸に、ヴェーロはヴィーヴォに笑顔を向ける。ヴィーヴォは嬉しそうに眼を潤ませ、ヴェーロを優しく抱きしめてくれた。
りぃん、りぃんと灯花たちが別れを惜しむように音を奏でる。ヴィーヴォは寂しそうに微笑んで、灯花の一輪に唇を落とした。竜の姿をとったヴェーロは首を曲げてそんなヴィーヴォを見つめてみせる。
「ごめんね。また、みんなのところに戻ってくるから……」
灯花たちをなで、ヴィーヴォは笑みを深めてみせる。
「お兄ちゃん……」
そんなヴィーヴォに、声をかける者がいた。自分たちの正面にいるヴェーロの妹が、悲しげな蒼い眼でこちらを見つめている。眼を妹に向け、ヴィーヴォは微笑んでみせる。そっと妹の頭をなでながら、ヴィーヴォは彼女に言葉をかけた。
「大丈夫、ちゃんと君のお父さんとここに戻ってくるから。そうしたら、みんなでお肉でもたべよっか。角猪のお肉食べたことある? 君のお姉さんの大好物なんだよ」
「うん」
ヴィーヴォの言葉に、妹は笑顔を浮かべてみせた。
「それに、おばちゃんが寂しくないように、おばちゃんの息子も一緒に連れてきてあげる……」
「お願いね、お兄ちゃん……」
蒼い眼を潤ませ、妹はヴィーヴォを見あげる。
「お願いします。夜色さま……」
そんなヴィーヴォにヴェーロの母が声をかける。ヴィーヴォは苦笑を顔に浮かべ、母を見つめた。
「あなたにとっての夜色は、僕じゃないですよ。僕はヴィーヴォ。あなたが愛した夜色の弟です。だから、あなたのもとにあなたの夜色を連れ帰ります。僕自身のためにも――」
「きゅんっ!」
ヴィーヴォの言葉に、ヴェーロは鳴いてみせる。そっとヴェーロの脇腹をなで、ヴィーヴォは自分を見あげてきた。
「行こう愛しい女。僕たちの大切なものを取り戻すために、水底へ帰ろう……」
「きゅんっ!」
白銀の翼をはためかせ、ヴェーロは彼の言葉に応える。ヴィーヴォは地面を蹴って、ヴィーヴォの背中へと跳び乗った。
「行こう、ヴェーロ。水底へ、僕たちの故郷へ」
ヴィーヴォの声を合図に、ヴェーロは蒼い空へと飛び立つ。ヴェーロの蒼い眼に、藍色の花畑が映りこむ。その花畑には、自分たちに手を振ってくれる愛しい家族が立っていた。
「きゅんっ!」
母と妹に鳴き声を発し、ヴェーロは祖母である虚ろ竜の大地から離れていく。
苔むした彼女の頭を通りすぎると、大きな蒼い眼が自分たちに微笑みかけてくれた。その眼に、笑顔を浮かべながら手を振るヴィーヴォの姿が映りこむ。
頭上を仰ぐと、空を泳ぐ巨大な虚ろ竜たちがいた。巨大な山脈や森を背に乗せ泳ぐ彼女たちの背は、文字通り一つの世界だ。そんな竜たちのあいだを、小島の大きさの竜たちが飛び回っている。
あと何万年か生きるとヴェーロもあのくらい大きくなれるらしい。
でも、そのためには――
「ヴェ―ロ、今は大切な人たちを助けることだけ考えよう……」
ヴィーヴォの優しい声が耳朶を叩く。そっと背中の鬣をなでられて、ヴェーロは心地よさに喉を鳴らしていた。
そう、ヴィーヴォの言うとおりだ。
いまは、お父さんを助けることだけに集中しよう。そして、若草を中ツ空にいるお母さんに会わせてあげよう。
「きゅん!」
力強く鳴いて、ヴェーロは急降下していく。眼下には、蒼い空が途切れ夜闇が続く水底の空がある。
その星空めがけ、ヴェーロは落ちていく。暗い空に煌めく星々はヴェーロを避け、水のように流動を繰くり返す。
お母さんが妹を迎えに来たことを思いだして、ヴェーロは微笑んでいた。
巨大なお母さんの頭を避けるように、星たちはこんな動きをしていた。あのときは星空の向こう側に行けるなんて思いもしなかった。
愛しいヴィーヴォと一緒に、虚ろ竜たちの故郷にいけるなんて、考えもしなかった。
「ヴェーロ、絶対に兄さんを助けて、中ツ空に帰ろうね……」
ヴィーヴォの優しい言葉が耳朶を打つ。
「きゅん」
その声にヴェーロは弾んだ鳴き声を返していた。
「そしたらねヴェーロ、君にお願いが……」
ヴィーヴォの言葉が不意に途切れる。不審に思って、ヴェーロは背中へと顔を向けていた。するりと、背中から落ちるヴィーヴォの姿が視界のすみに映る。ヴェーロは大きく眼を見開き、落ちていく彼の体を追っていた。
「ヴィーヴォっ!」
竜の体を輝かせヴェーロは少女の姿をとる。ぐんぐんと落ちていく彼の体を抱きとめ、ヴェーロは地上へと視界を向けた。
藍色の灯花が大地を埋めつくしている。なだからな丘陵を埋め尽くす灯花は、聞きなれた音を発していた。
しゃらん。しゃらん……。
それは、ヴィーヴォの母親が吐いた灯花の音だ。どうしてこんなところに彼女が吐いた花が咲き乱れているのだろうか。
ヴィーヴォを抱きしめたまま、ヴェーロは花畑の中へと落ちていく。落ちてきた二人の体を、灯花たちは優しく受けとめた。
「ヴィーヴォっ!」
腕の中にいる彼に、ヴェーロは叫んでいた。覗き込んだヴィーヴォは固く眼を閉じ、ヴェーロの言葉に応えることはない。
彼の体が急速に冷たくなっていることに気がつき、ヴェーロは眼を見開いていた。胸に手を充てると、弱々しい鼓動が掌を通じて伝わってくる。
ヴィーヴォが死にかけている。
ヴェーロは顔を歪め、ヴィーヴォの唇を奪っていた。何度も彼の唇に口づけをして、自分の命を分け与える。
それでも、ヴィーヴォは眼を覚まさない。
「どうして……。どうして……。ヴィーヴォ! ヴィーヴォ!」
ヴェーロの眼から、大粒の涙が零れ彼の頬を濡らしていく。その涙が彼の長い睫毛にかかった瞬間、閉じられていた眼がかすかに動いた。
「泣かないで、愛しい女……」
弱々しい声が彼の唇から紡がれる。ヴィーヴォはうっすらと眼を開け、ヴェーロの頬に手を充てた。彼はその手を動かし、人差し指でヴェーロの涙を掬う。
「ごめんね、ヴェーロ……。思ったより早く、僕の命はつきそうだ……。君といられる時間も、もうあまり残されていないみたい……」
「ヴィーヴォ……」
星の瞬く黒い眼を細め、ヴィーヴォは弱々しく微笑んでみせる。彼の放った言葉に、ヴェーロは言葉を失っていた。
ヴィーヴォの命が尽きる。それは、彼がこの世から完全に消えることを意味している。
花吐きの魂は、花を吐くごとに削られ最後には消滅する。他の命と違い、ヴィーヴォは死んで生まれ変わることすらできないのだ。
「だから、僕はこれから君にとても酷いことをする。君は、きっと僕を許してくれない。それでも僕は、僕が生きた証を君に残したいんだ……」
「ヴィーヴォ……?」
そっと彼が自分の背中に手をのばしてくる。ヴィーヴォはヴェ―ロを強く抱き寄せ、耳元で囁いた。
「君は、卵が欲しいって僕に言ったよね……。僕も、君に卵をあげたい……。僕の命が尽きる前に……。君が独りにならないように……。僕は、君を……」
震える彼の唇が、ヴェーロのそれに宛てられる。眼前に彼の潤んだ眼がある。ヴェーロは大きく眼を見開き、彼を見返すことしかできない。
「ヴィーヴォ……」
「嫌?」
唇を離した彼が、縋るようにヴェーロを見つめてくる。寂しそうなその眼差しから、ヴェーロは眼を逸らすことができなかった。
「ヴェーロ……愛してる……」
甘い言葉を耳元で囁かれる。
むせるような花の香りが彼からして、ヴェーロの鼻孔に広がる。その香りに、酔ってしまいそうだ。
うっとりと眼を細め、ヴェーロは彼を見つめる。
ヴィーヴォは優しく微笑んで、ヴェーロの唇を再び塞いだ。
自分が落ちた場所が生まれ育った地だと気がついたとき、ヴィーヴォは苦笑を顔に滲ませていた。
脱ぎ捨てた衣服 を纏って起き上がると、懐かしい光景が周囲に広がっている。
母が吐いた竜胆の灯花たちが、自分たちを優しく照らしてくれている。少女のかすかな声を聞いて、ヴィーヴォは自身の横にいる愛しい人を見つめた。
乱れた銀髪を花畑に翻し、ヴェーロは裸体を丸めたまま眠っている。ヴィーヴォはそんな彼女に手を差し伸べていた。だが、昨晩のことが頭をよぎりその手を引いてしまう。
「ごめん……ヴェーロ……。兄さんを助けに行かなくちゃいけないのに、僕は何をやっているのかな……?」
安らかな寝息をたてる彼女を見つめ、ヴィーヴォは眼を歪ませる。
生々しく体に残るヴェーロの体温を思いだして、ヴィーヴォは自身を抱きしめていた。
嫌がるヴェーロを組み伏せて、泣き叫ぶ彼女に甘い言葉を囁いて――
「気持ち悪い……」
片手で顔を覆い、ヴィーヴォは吐き気をなんとか耐える。そっと立ちあがり、ヴィーヴォはヴェ―ロを残してある場所へと向かっていた。
自分たちが落ちた花畑のすみに小さな洞窟がある。ヴィーヴォはその洞窟へと足を踏み入れていた。
ヴィーヴォが洞窟に入った途端、周囲に生えた光苔が淡い光を発する。その光の先にあるものにヴィーヴォの眼は向けられていた。
「あなたも、母さんを抱いたとき、こんな感じだったの?」
ヴィーヴォの声に、視線の先の存在は言葉を返さない。
ヴィーヴォの視線の先には、巨大な水晶の塊があった。その水晶の中に一匹の竜が閉じ込められている。
夜の空を想わせる紺青の鱗と翼を持った竜。それは自分の父親だと、ヴィーヴォは母であるサンコタから聞かされている。
水晶に閉じ込められた竜は、焦点の合わない眼でヴィーヴォを見つめるばかりだ。
「やっぱり応えてくれないんだね。父さん……」
苦笑して、ヴィーヴォは竜のもとへと歩み寄る。ヴィーヴォが歩くたび、足元にある光苔が淡い光を吐き出した。
竜の閉じ込められた水晶に手を充てる。冷たい感触が掌に広がって、ヴィーヴォは眼を瞑っていた。
父のぬくもりをヴィーヴォは知らない。
その頃もう彼は、竜となって水晶の中に閉じ込められていたから。
「ヴィーヴォ……」
名を呼ばれてヴィーヴォは我に返る。
後方へと振りむくと、ヴェーロが洞窟の壁に身を預けこちらに眼を向けていた。ふらつく足どりで、ヴェーロはこちらへと向かってくる。
「ヴェーロっ!」
ヴィーヴォは彼女へと駆け寄っていた。躓きそうな彼女の体を腕で支え、そっと抱き寄せる。
「ダメだよ。しばらくは動かない方がいい……」
汗の浮かぶ彼女の額をなでると、彼女は嬉しそうに自分を見あげてきた。そっと彼女は竜の水晶へと視線を移す。
「ヴィーヴォのお父さん……?」
「うん。そうだって母さんからは聞いてる。まさか、自分が生まれ育った場所に落ちるなんて、何の因果だろうね……」
父親を見つめ、ヴィーヴォは薄く微笑んでいた。
「ねぇヴェーロ、話を聞いてくれる。僕の、僕自身の話を……」
そっとヴェーロの両手を握りしめ、ヴィーヴォは彼女に問う。ヴェーロは不思議そうに首を傾げ、ヴィーヴォに笑ってみせた。
「聞かせて、お話……」
笑みを深め、ヴィーヴォは水晶に閉じ込められたの竜を見つめる。
彼女に自分の話をするのは初めてだ。
それが彼女にしたことへの懺悔なのか、彼女に自身の生きた証を刻みたい衝動なのか、ヴィーヴォには分からない。
ただ、ヴィーヴォは小さく唇を開く。
自分の過去を語るために――
ヴェーロ、君にこうして自分の話をすることになるとは思わなかった。
これは、僕から君への懺悔かもしれないし、君に僕という存在を刻みつけたい衝動かもしれない。
それでも、僕は君に伝えたい。
僕が生きた証を――
君と出会って救われたという事実を――
これから語るのは、君の物語ではなく僕の物語だ。
僕、花吐きのヴィーヴォの生きた軌道をここで話すことを許していただきたい。
ヴィーヴォが大好きだった角猪の肉が食べられなくなったのは、八歳の頃だった。
突然、水以外のものを口が受けつけなくなり、頭の中に見知らぬ人々の声や知らない場所の映像が流れ込むようになった。
それが死者たちの呼び声だと気がついたのは、数週間後だ。その頃にはもうヴィーヴォは死者と話をすることに抵抗もなくなっていたし、星となった彼らを眼に宿すようになっていた。
あれだけどうでもいいと思っていた地球の光が愛しくなり、ヴィーヴォは地球浴を楽しむようになっていた。脅威でしかなかった森の動物たちとも心を通わせるようになっていた。
そんな息子の変化に、花吐きだった母はすぐに気がつく。
地球の光を愛おしみ、獣たちと灯花の花畑を歩く息子の姿は花吐きそのものだったのだから。
そして母は、ヴィーヴォをこの洞窟に閉じ込められた父に引き合わせたのだ。
「これが、お父さん?」
「そうよ、ヴィーヴォ……」
水晶に閉じ込められた竜を眺めながら、幼いヴィーヴォは大きく眼を見開いていた。
夜色の鱗を持つ大きなその竜は、虚ろな眼で自分を見つめていた。じっとその眼を見つめ返しても、竜は瞬き一つしない。
竜の閉じ込められている水晶に触れてみても、冷たい感触が掌に広がるだけだ。
そもそも、この竜はちゃんと生きているのだろうか?
急に不安になって、ヴィーヴォは母であるサンコタを振り返っていた。緩やかな紺青の髪を後方で縛った彼女は、弱々しい笑顔をヴィーヴォに送るばかりだ。
「あなたが花吐きとして目覚めたら、ここに連れてくるつもりだった。まさか、そうなるとは思わなかったけれど……」
ゆったりとした紗の衣服を翻しながら、母はヴィーヴォのもとへと歩み寄る。母が歩くたび、光苔が淡い光を周囲に吐き出していった。
そっとサンコタはしゃがみ込み、ヴィーヴォと視線を合わせる。漆黒の眼を細め、彼女はヴィーヴォの頬を優しくなでた。
「星に愛された、私の子。あなたは今日から、人でなくて花吐きになるの。聖都を統べる夜色に……」
「お母さん、僕は花吐きさまじゃないよ……。神さまじゃない……」
聖都の話は、母から何度も聞かされている。
美しい竜骸で造られたその都には、魂を灯花へと浄化する神聖な少年たちがいることも。その少年たちが、この世界の命を循環させていることも。
母は自分がその花吐きだというのだ。
そして、母がそうであることもヴィーヴォは知っている。
母が吐いた花が、自分たちの住むこの丘陵地帯には咲いている。竜胆の形をした花々はヴィーヴォが語りかけるたびに美しい音色で応えてくれる。
花吐きでありながら、母はヴィーヴォを育てるために花を吐くことをやめてしまった。それでも灯花と語り合う母の姿を見て、ヴィーヴォは育った。
でも、自分はつい最近まで死者の声だって聞こえなかったのだ。そんな自分が、始祖の竜の使者として崇められている花吐きだとは思えない。
「歌をうたって御覧なさい。私がいつも聞かせている子守歌を……」
「お母さん?」
「ヴィーヴォ……」
真摯な眼でサンコタはヴィーヴォを見つめてくる。その眼差しに、ヴィーヴォは自然と唇を開いていた。
ヴィーヴォの唇が歌を奏でる。
少年の美しい歌声は洞窟に響き渡り、外に広がる花畑に広がっていく。灯花が歌に合わせ美しい音色を奏でる。歌声につられ、夜空を舞っていた星々が煌めきながら洞窟へと入り込んでくる。
星々は瞬きながら、ヴィーヴォの眼に吸い込まれていった。
瞬間、ヴィーヴォの体を大きな倦怠感が襲う。様々な記憶の断片が脳裏を過り、ヴィーヴォは大きく眼を見開いた。
人々の喜怒哀楽。楽しかった思い出。悲しかった出来事。
そして、愛しい人々との別れと哀切――
それらに触れるたび、ヴィーヴォの眼からは大粒の涙が零れていく。ヴィーヴォの子守歌は、旋律を変え死者を慰める鎮魂歌へと変わっていく。
ヴィーヴォの体が淡い光に包まれる。眼が光り輝き、ヴィーヴォは唇から息を吐いていた。
息とともに、美しい結晶の花弁を持つ花々が、自分の唇から生まれ出る。紫苑の形をとったそれは、ひらひらとヴィーヴォの周囲を巡りながら蒼い光を放つ。
「これは……」
ヴィーヴォは眼を大きく見開き、灯花たちを見つめていた。
りぃん、りぃん。
母の灯花とは違う旋律を、ヴィーヴォのそれは発してみせる。まるで、ヴィーヴォに挨拶をしているようだ。
「母さんっ!」
「これが僕の弟ですか? 母さん」
驚くヴィーヴォの声を遮る者がる。驚いて、ヴィーヴォは洞窟の入口へと視線を向けていた。
法衣に身を包んだ青年が、じっとヴィーヴォを見つめている。肩口で切りそろえられた紺青の髪ゆらし、彼は鋭い漆黒の眼をヴィーヴォに向けていた。
「いや、妹……? 花吐きでることは分かりましたが、まさか母さんから女の花吐きが生まれるなんて……」
困惑した様子で整った顔を顰め、彼はヴィーヴォのもとへとやってくる。彼は手にしたランタンでヴィーヴォを照らしてみせた。
眩しい星が閉じ込められたランタンは、暗がりにいたヴィーヴォを蒼く照らす。星の輝きが眩しくて、ヴィーヴォは思わず両腕で顔を覆っていた。
「いえ、この子は男の子よ、ポーテンコ……」
そんなヴィーヴォを抱き寄せ、母は青年に声をかけてみせる。青年は驚いた様子で眼を見開き、ヴィーヴォへと近づいてきた。
「これが……。母さんにはそっくりだけど……」
彼はヴィーヴォの顔を覗き込む。
難しげに眉根をよせる彼の表情が恐くて、ヴィーヴォはサンコタの胸に顔を埋めていた。
「ポーテンコ……」
「あ、すみません」
しゅんと首を垂らし、青年は眼を伏せる。そっとヴィーヴォが顔をあげると、彼は困ったような眼差しをヴィーヴォに送っていた。
「でも、弟がいるって言われても……」
「この子はね、あなたが聖都に奪われたとき、この人が授けてくれた子なの。私のためにね……。それにあの人には、教皇さまにはもう手紙で伝えてあるはずよ」
そっと母は竜の閉じ込められた水晶をなで、青年に微笑みかける。彼はため息をつきながら、ヴィーヴォに向かって口を開いた。
「こんにちはヴィーヴォ。僕はポーテンコ、君の兄さんだ。たぶん……」
「兄さん……?」
こくりと首を傾げ、ヴィーヴォは彼を見つめる。
母から兄がいることは聞いていたが、その人は花吐きだと母は言っていた。でも、ポーテンコからは花吐きからするという花の香りがしない。彼はサンコタのように星も眼に宿していない。
「お兄さんはね、花吐きとしての役目を終えたの。だから、あなたが花吐きの夜色となって黒の一族を支えていくのよ、ヴィーヴォ……」
母の言葉に、青年の顔が曇る。彼は悲しそうに眼を伏せ、小さく俯いてしまった。
「兄さん……?」
心配になって呼んでみても、青年は答えてはくれない。そっとヴィーヴォを放し、母は彼へと歩み寄っていた。
「ポーテンコ。あなたは愛する人を守った。それでいいのよ。それで……」
そっと青年を抱き寄せ、サンコタは彼の背中を優しく叩く。彼は辛そうに眼を潤ませ、母の胸元に顔を埋めた。
「あの女は僕を食べてはくれなかった……。僕は、あの女の一部になりたかったのに……。だから、力をあげて空に帰したんだ……」
「父さんもそうだった……。だから、この人は水晶の中に閉じこもったまま出てきてくれないの……」
「母さん……」
「ヴィーヴォをお願い。あなたは、黒の一族の長なのだから」
そっと顔をあげ、ポーテンコはサンコタを見上げる。サンコタはそんなポーテンコの髪をなで、優しく微笑んでみせた。
「母さん?」
二人が何を話しているのか分からず、ヴィーヴォは母に声をかけていた。サンコタは困ったように微笑んでヴィーヴォを見つめる。ポーテンコを放し、彼女はヴィーヴォへと歩み寄ってきた。
そっとヴィーヴォを抱きしめ、サンコタは耳元で囁く。
「ヴィーヴォ、お別れよ。今日からあなたはお兄さんと一緒に、聖都で暮らすの。黒の一族の花吐き、二つ名の夜色として」
彼女の言葉に、ヴィーヴォは大きく眼を見開いていた。彼女を見あげる。サンコタは悲しげに眼を潤ませヴィーヴォを見つめるばかりだ。
「だから、母さんとはここでお別れ。母さんはお父さんを独りにはできないから……」
そっと後方にある水晶を見つめ、サンコタは眼を伏せる。その眼が、涙で煌めいていることにヴィーヴォは気がついていた。
不思議と涙は出なかった。
兄だという人に手を引かれ、花畑にやってきたとき、ヴィーヴォは感嘆と声をあげてしまった。
巨大な竜骸が星空の瞬く夜闇に浮いている。
巨大な竜の骨が植物の蔦や枝に覆われ空を飛ぶ姿は、この世のものとは思えなかった。
あれに乗れると思うと、それだけで心が踊る。
笑う声が聞こえて兄を仰ぐ。彼が優しい微笑みを浮かべているのを見た瞬間、ヴィーヴォは彼に満面の笑顔を送っていた。
恐いと思っていた兄は優しい人かもしれない。ポーテンコはヴィ-ヴォの頭をなで、ヴィーヴォと視線を合わせる。
「ごめんな、ヴィーヴォ。でも、これが教会の掟なんだ……」
兄の笑みが悲しみを帯びた瞬間、突風を伴い竜骸は花畑に着地する。だが、ヴィーヴォはなぜ兄がそんな顔をするのか分からなかった。
自分の頬をほろほろと涙が伝う訳わけも。
兄に手を引かれ、ヴィーヴォは竜骸に乗り込む。
操縦室から見る灯花の丘は蒼く光り輝き、ヴィーヴォの出立を祝ってくれる。その輝く丘に立つ母を見つけた瞬間、ヴィーヴォは大きな声をあげ泣き崩れていた。
「ヴィーヴォ……」
ポーテンコがそんな自分を抱きしめてくれる。彼の胸に顔を埋め、ヴィーヴォは大声をあげて泣いた。
そんなヴィーヴォのために、ポーテンコは子守歌を口ずさんでくれた。
母がいつも歌っていた子守歌を――
ヴィーヴォが泣き疲れて寝てしまうまで、その子守歌がやむことはなかった。
それは、正義なのだと兄は言った。
罪人を裁くことは二つ名の花吐きの役割であり、自分たちはその執行者だと。
その話を聞かされた後のことをヴィーヴォは詳しく覚えていない。ただ、人を葬ったその罪悪感で押しつぶされそうだった。
「金糸雀、新しい夜色がお披露目になるよ……」
「あぁ、庭師さんのお気に入りでしょ……」
銀髪を三つ編みにした珊瑚色は、金髪の少年、金糸雀に話しかけていた。石英の崖に腰かけ本を読む金糸雀はめんどくさそうに返事をする。彼の周囲にはうずたかく積まれた本が大量に置かれていた。
珊瑚色は眼を桜色に煌めかせ、苦笑を浮かべてみせる。彼の素っ気ない態度が、なんともおかしいと思ったからだ。
「そ、実の兄弟なのに誰の目にも触れさせず、愛人みたいに囲ってるんだって。扱いが、緋色のそれより厳重だし、なんだか興味湧かない……」
妖しい微笑みを眼に浮かべ、珊瑚色は金糸雀の顔を覗き込む。そっと金糸雀の頬を両手で包み込み、珊瑚色は彼の耳元で囁いてみせた。
「もしかして、庭師さんは彼を愛人に育てるつもりなのかな?」
「オレ……男に興味はないから……」
「あれ、なんで僕が誘ってるって分かったの?」
「お前、また男と寝たろ……」
金糸雀の言葉に、珊瑚色は大きく眼を見開いていた。先ほどまでの出来事を思い出して嘲笑が唇に滲んでしまう。
「仕方ないでしょ……。泣きつかれて、足元に土下座までしたんだよ、あの人。どうぞ珊瑚色さま、私にご慈悲をって。僕まだ、子供なのにさ」
「お前は、大人の体になるのが早かったから……。オレは今のところ平気だけど……」
そっと慰めるように金糸雀が頬をなでてくれる。その感触が心地よくて、珊瑚色は眼を細めていた。
「大丈夫か……? 今月に入ってから、けっこう酷いんだけど……」
「いざとなったら、教皇さまに泣きつくから大丈夫。あと、庭師さん」
金糸雀の視線が自分の鎖骨に注がれている。そこに出来た小さな痣を見つめ、珊瑚色は笑ってみせた。
半年前に、精通がきた。
それからだ。周囲の大人の様子がおかしくなったのは。
唯一の楽しみだった少女の花吐きである緋色にも会えなくなり、珊瑚色は一日中、霊廟で過ごすことを強いられるようになった。
理由は、自分が人を狂わせるようになったからだ。
子を成せるようになった花吐きは、その香りで周囲の者を知らずのうちに誘惑するようになる。特に始祖の竜の直系たる色の一族は、その香りにあてられやすい。
「色の一族のあいだで近親相姦が多いいことは知っていたけど、自分の身に振りかかるとは思わなかったよ」
眼を桜色に煌めかせ、珊瑚色は嗤ってみせる。初めての相手は他でもない、自分の家族だったから。
桜色の一族の長である兄が、自分に傅き慈悲を乞うたのだ。
それが花吐きの恩寵を周囲に示す行為であることも、珊瑚色は知っていた。
聖都の花吐きたちの周囲に、女性は少ない。
花吐きはその存在だけで人を狂わせると言われているからだ。万が一間違いが起こらないように、色の一族の限られた女性が彼らの身の回りの世話をする。
傍系にあたる下位の花吐きは街に出ることもできるが、二つ名の花吐きは厳重に管理され人と会うことも制限されることがほとんどだ。
そして、女性が少ない教会では、花吐きや少年たちを愛する文化がいつの頃からか持て囃されるようになっていた。
「でも、思っちゃう。やっぱり慈悲を与える方より与えられる方がいいって……」
そっと金糸雀の顔を引き寄せ、珊瑚色は耳元で囁いてみせる。彼から発せられる花の香りが心地よくて、珊瑚色は眼を潤ませていた。
彼の深紅の眼のなんと美しいことか。
心を許した同じ花吐きに、自分の気持ちを知って欲しい。自分と同じ立場になって欲しい。
そんな思いが芽生えたのはいつごろだろうか。
「俺でいいの……? 緋色が俺たちにはいるのに」
「緋色は君ばかり見てる。だから、君を誘ってる……」
銀の眼を妖しい光で満たし、珊瑚色は金糸雀に笑ってみせた。金糸雀はため息をついて、珊瑚色の片手を握る。そっと彼の手を自分の顔から引き離し、金糸雀はその手の甲に口づけをした。
「金糸雀……」
「真似事で良ければ……。どうせ俺も、本ばっかり読める毎日なんてもうすぐ終わるだろうから……」
眼を珊瑚色に向け、金糸雀は笑ってみせる。そのときだ。轟音が辺りに響いたのは。
「あぁ、雰囲気台無しだよ……」
眼を歪め、珊瑚色は音のした崖下を眺める。
鈍色の翼を持った機械の竜が鬱蒼とした樹海を飛んでいる。その眼がときおり星のように蒼く瞬くのを、珊瑚色は見逃さなかった。
「魂に対する冒涜だね……。あまつさえ灯花の意思を無視して、兵器として使用するなんて」
「同意……」
金糸雀が持っていた本を閉じ、珊瑚色の声に同意する。
「さて金糸雀。君は君の一族に寝返ることも出来る? 君の心はどこにある?」
「アレを父親だと思ったことはないよ……。俺は本と、珊瑚色たちがいればいい……」
崖下を飛ぶ機械の竜を金糸雀は忌々《いまいま》しげに見つめる。機械仕掛けの竜は金の一族が生み出した機械竜だ。
ときおり竜たちは、細長い首から蒸気を吹き出しては蒼い炎を口から吐き出す。灯花を燃料に動くこれらの竜は、蒸気の力で動いているという。
金糸雀の所属する金の一族は機械工学に長けた一族だ。
その技術は教会の中でも最高機密とされ、金糸雀と親しい珊瑚色もその実態はほとんど知らない。
知っていることといえば、その技術が地球から降りてきた稀人と呼ばれる人々によってもらたされたこと。聖都の中心たる銀翼の女王の竜骸が、その技術によって人が過ごしやすい環境を維持していることぐらいだ。
金糸雀は機械竜を見つめたまま、動こうとしない。
彼の一族の長が反乱を起こして、数日が経とうとしていた。緑の一族である教皇に、金の長である彼の父親は反旗を翻した。
色の一族ではお約束の、権力闘争だ。
といっても、もともと金糸雀の父親は権力欲の塊のような人で人望が薄い。それが功を奏して、反乱に加担しているのは一族でも一部の者たちだけだ。
「本当、親父がバカでよかった……」
持っている本を積んだ本の上に置き、金糸雀は苦笑してみせる。彼が積んだ本を叩くと、大きな咆哮とともに珊瑚色たちのいる崖の上へと昇ってくるモノがあった。
それは、小柄な機械竜だった。剥き出しの骨を金属で覆われた機械竜は、蒼く輝く眼で珊瑚色たちを凝視する。金糸雀は地面を蹴り、その機械竜へと跳び乗っていた。
「金糸雀っ!」
「ちょっと親父殺してくるから、そこで待ってて……。それから、これからのこと考えよう……。珊瑚色は、俺が守るよ……」
眼を細め、金糸雀は微笑んでみせる。手にした本を開き、彼は機械竜の背に腰をおろした。
「本読みながら、戦えるの?」
「うん、こいつがやってくれる……。それに――」
ふっと視線をこちらに移し、金糸雀は優しい声をかけてきた。
「珊瑚色が守ってくれるから、平気……」
深紅の眼を細め、金糸雀が微笑みを向けてくれる。珊瑚色は、彼の眼から視線を逸らすことができない。
「じゃあ、またあとで……」
彼の声に珊瑚色は我に返る。友人を乗せた機械竜は珊瑚色のいる崖を離れ、戦場たる樹海へと向かって行く。
蠱惑的な彼の笑顔が脳裏から離れてくれない。彼が子供をつくれる体になったら、自分より大変なことになるんじゃないだろうか。
「君の方が、心配だよ……」
彼を乗せた機械竜を見送りながら、珊瑚色はため息をついてみせた。
美しい旋律が星空に広がっていく。
明るく明滅する樹海の上空を見つめながら、珊瑚色は紡ぎ歌を奏でていた。
桜の一族は歌を生業とする一族だ。
それゆえ、桜の一族の花吐きである珊瑚色の歌は、特別な意味を持つ。
珊瑚色の眼に星々が吸い込まれていく。珊瑚色の体は銀色に煌めき、眼が薄紅色の光を発する。
ふっと息を吐くと、桜の形をした灯花が夜闇へと放たれた。珊瑚色はなおも歌い続け、周囲を巡る灯花たちに囁きかける。
僕に、力を貸してほしいと。
そんな彼の歌声に応え、灯花たちは形を変えていた。
灯花たちは翅を想わせる葉を茂らせ、蔓のように細くなった幹を珊瑚色の体に巻きついていく。幹は巨大な葉を珊瑚色の背中に生じさせた。あまった幹は珊瑚色の体から離れていく。それらは珊瑚色の前で、槍の形をとった。
透明な桜の花弁が穂先となっているその槍を、珊瑚色は手に取る。彼がアルトの歌声を奏でると、珊瑚色の背に生えた透明な葉は翼のようにはためいて彼を宙へと浮かせた。
薄紅色の光を放ちながら、葉の翼は珊瑚色を星空へと誘う。珊瑚色の向かう先で、機械竜たちは星空を優美に走っていた。
星空の向こうで蠢く虚ろ竜の陰影と相まって、機械竜たちはダンスを踊っているようだ。蒸気とともに吐かれる彼らの炎は蒼く、闇色の空を彩る。
その炎を避ける一匹の機械竜がいる。その機械竜に乗る金糸雀を認めて、珊瑚色は苦笑していた。戦場の只中だというのに、彼は機械竜の背に寝そべり食い入るように本を読んでいるのだ。
金糸雀めがけて敵の機械竜が火球を吐く。
珊瑚色は紡ぎ歌を奏でていた。
歌に応え、珊瑚色の纏った灯花たちの花弁が桜吹雪となって舞う。桜吹雪は突風を伴いながら金糸雀を取り巻き、火球を消してみせた。
「ありがと……。これで集中して本が読める……」
金糸雀が顔をあげ、眠たげな言葉を珊瑚色にかけてくる。そんな金糸雀に苦笑を送り、珊瑚色は葉の翼を靡かせ、敵のもとへと向かって行った。
放たれる火球を躱しながら、花弁の穂先を持つ槍で機械竜の頭部を突き刺す。
蒼い火花と蒸気を放ちながら、槍で突かれた敵は動かなくなる。そんな敵の亡骸を地上に打ち捨て、珊瑚色は次の獲物へと向かって行く。
珊瑚色は槍を薙いで敵の装甲に傷をつけ、配管で満たされた内部に灯花の花弁を送り込んだ。花弁たちは機械竜の配管を切り刻む。爆発を起こし、機械竜は静かに森へと落ちていく。
「けっきょく、僕がやっているじゃないか……」
「ドンマイ……。だって、この本に出てくるエンジンの解説が面白くて……」
本を読みながら返事をする金糸雀を珊瑚色は睨みつけてみせた。
「君ね……」
「だって、珊瑚色が側にいるから……」
本から眼を放し、彼は珊瑚色に微笑みを向けてくる。どこか妖艶さを感じる彼の細められた眼を見て、珊瑚色は思わず顔を逸らしていた。
「あれ、珊瑚色?」
「いや、なんでもない……」
彼の笑顔に見惚れていたとはさすがにいえない。曖昧な笑みを浮かべ、珊瑚色は金糸雀に視線を戻す。
そのときだ。轟音が珊瑚色の耳を貫いたのは。
「なにっ?」
驚く珊瑚色の視界の先には、信じられないものがあった。
巨大な機械竜の群れだ。
竜たち銀の装甲が地球に蒼く照らされている。暗い空に巨躯を浮かばせ、機械竜たちの群れは樹海に黒い影を落としていた。
鉄の竜の群れは、珊瑚色たちのもとへと不気味な駆動音をたてながら迫ってくる。
「たっく、兄貴のバカ……。親父に機械竜の格納庫乗っ取られやがったよ……」
嫌そうに顔を歪め、金糸雀は立ちあがる。彼は本を閉じ、鋭い眼差しを機械竜の群れへと送っていた。
「あれには敵わない……。撤収するよ……」
「そんなに――」
危ないのかと声を発しようとした瞬間、珊瑚色の視界を眩いばかりの光が覆った。爆音が耳に轟いて、自分の体が風に煽られていることに気がつく。うっすらと眼を開け、珊瑚色は眼の前に広がる光景に絶句した。
金糸雀の乗っていた機械竜が、炎を吹きながら暗い森へと落ちていく。その後を追うように、金糸雀の体が落ちていくではないか。
敵の攻撃を、金糸雀の機械竜はまともに受けたのだ。自分を、庇おうとして。
「金糸雀っ!」
珊瑚色は金糸雀に叫んでいた。だが、彼から応答はない。奥歯を噛みしめ、金糸雀は落下していく彼の体を追う。
落ち行く機械竜の残骸を避けながら、金糸雀の体を抱きしめる。
「金糸雀っ!」
声をかけるが、金糸雀は眼を瞑ったまま動くことすらない。ぎゅっと彼の頭を抱き寄せ、珊瑚色は崖を目指し飛んでいた。
そのときだ。視界の端が眩い光に包まれたのは――
そちらへと眼を向け、珊瑚色は戦慄に動きをとめていた。
巨大な機械竜たちが横一列に並び、蒼い火球をこちらに向かって放っている。火球は森を焼き払い、赤い炎を巻きこみながら珊瑚色に迫ろうとしていた。
駄目だと、思った。
ふと、腕の中で金糸雀が動く。彼に顔を向けると、彼はうっすらと眼を開け珊瑚色に何かを囁いていた。
――ごめん……。
唇の動きから、彼が何を言いたいのかわかる。
「こんなところで、言う台詞じゃなないだろ……」
震える声が喉からでてしまう。そんな珊瑚色に、金糸雀は眼を細め微笑んでみせた。
眼を歪ませ、珊瑚色は彼を力強く抱きしめる。
瞬間、轟音が辺りに響いた。
驚く珊瑚色の眼に、信じられない光景が映りこむ。
こちらに向かっていた火球から珊瑚色たちを庇うように、無数の竜骸が空に浮かんでいた。その竜骸から放たれた火球は機械竜の火球とぶつかり、あたりにいくつもの火柱があがる。
火柱があがる向こう側では、巨大な機械竜たちが咆哮をあげながら落ちていく。
「何が、起きてるの……?」
珊瑚色の視界は、上空にあるものを捉える。
それは、黒い竜骸だった。その竜骸に、漆黒の法衣を纏った子供が乗っている。紺青の長い髪を風に靡かせ、虚ろな眼差しで子供はじっと珊瑚色を見つめていた。
子供は星屑のように輝く眼を瞬かせながら、美しい紡ぎ歌を周囲に響かせる。
それは、呪いの歌だった。
罪を犯した者たちを罰する虚ろ竜たちの歌。その歌に呼応し、地面へと落ちていく機械竜から紫苑の光を伴った魂が立ち昇っていく。
機械竜に乗っていた人々の魂だ。反乱を犯した金糸雀の一族の。
「親父が……死んだ……」
ぽつりと腕の中の金糸雀が呟き、珊瑚色は彼に顔を向けていた。金糸雀は悲しそうに眼を歪め、歌を紡ぐ子供を見つめている。
「あれが……新しい夜色なんだな……」
「うん……とっても、綺麗だ……」
呪いの歌を奏でる彼の眼に、紫苑の魂は吸い込まれていく。子供の体は紫の光を帯び、その唇から夕顔の形をした灯花を吐き出した。
夕顔の灯花に変えられた魂は、転生することも出来ず未来永劫水底の地に咲き続ける。
焦土に、罪を宿した灯花の雨が降る。
その雨を茫洋とした眼で子供は眺め続けていた。珊瑚色はそんな子供から眼を逸らすことができなかった。
子供の眼から流れる涙に、気がついてしまったから。
その子を無性にもろくて美しい存在だと、感じてしまったから。
銀翼の女王の竜骸を取り囲むように、花吐きたちの霊廟はある。色の一族が所有する霊廟は水晶で造られた温室を中心に細長い形をしており、銀翼の女王を取り囲んでいる。その一角である黒の一族の霊廟から、叫び声と轟音が聞こえた。
人を殺めた記憶はない。
ヴィーヴォに残っているのは、大きな喪失感と絶望だった。気がついたとき自分は兄に抱かれ、聖都の外縁街を移動していたのだ。
兄は反逆者と戦った花吐きたちと、粛々と銀翼の女王へ続く道を歩いていた。歯車に抱かれた巨大な竜の遺骸は、無数の灯花に照らされて闇夜に浮かびあがっている。
そして、人々は狂ったようにヴィーヴォに歓声を送っていた。
――夜色さまが反逆者を始末なさったと……。
何が起こったのかヴィーヴォにはすぐ分かった。
兄が自分に人を殺させたのだ――
「いやああああぁあああああああ!」
光りの差さない霊廟の一室で、ヴィーヴォは泣き叫ぶ。その悲痛な叫びに合わせ、うねる灯花たちが石英で造られた部屋の壁を傷つけていく。
自分が、人を殺した。
その事実を知ったヴィーヴォは、花吐きとしての力を暴走させたのだ。泣き叫ぶヴィーヴォに呼応し、ヴィーヴォの吐いた灯花は蔓の鞭となって外縁街の人々に襲いかかった。
兄と花吐きたちに捕らえられ、ヴィーヴォはこの窓のない部屋に閉じ込められた。
植物と同じように地球の光から力を得ている花吐きは、光を浴びないとその力を弱らせる性質を持つ。それでもヴィーヴォを取り囲む灯花たちは暴走を辞めず、ヴィーヴォの叫び声に合わせて暴れ続けているのだ。
聖都に来て一年が経つ。
花吐きを管理する庭師師の職をに就く兄は、自分を厳しく教育した。特に黒の一族に伝わる人形術の修得は苛烈を極めた。
それでも、ヴィーヴォは耐えた。疲れ切ったヴィーヴォにポーテンコは優しく子守歌をうたってくれたから。
母であるサンコタの子守歌を――
黒の一族のことなどどうでもいい。ヴィーヴォは兄に自分を託した母のために、夜色の名に恥じない存在になるべく奮闘していた。そして、厳しくも優しい兄に応えたかった。
その答えが、これなのだ。
人を殺した感触も、記憶すらもヴィーヴォにはない。
それでも、胸に重くのしかかる罪の意識はヴィーヴォを放してはくれなかった。
「お願い、とまって!」
そのときだ。高い少年の声が辺りに響いたのは。
驚きにヴィーヴォは眼を見開いていた。この部屋に入れるのは、兄を除いて一部の者たちだけだ。
例えば、会ったことすらない自分と同じ二つ名の花吐きたち。
赤く腫れた眼を擦って、ヴィーヴォは辺りを見回す。すっかり大人しくなった灯花たちが、そんなヴィーヴォを慰めるように蔓状になった茎をくるくると動かしながら輝く。
瞬間、ヴィーヴォを閉じ込めるように灯花たちは檻のような形をとり始めた。
「え……なに?」
「だから、彼を傷つけたりはしないよ……」
その檻を覗き込んでくる人物がいる。
桜色の光を放つ銀の眼が印象的な少年だった。さらりと横向きに纏まとめた髪を滑らせながら、その少年は灯花の檻に捕らえたれたヴィーヴォを見つめてくる。
「やっぱりそうだ……。僕の、運命の人……」
うっとりと眼を細め、少年はヴィーヴォに手をのばしてくる。彼の手が伸びるのと同時に灯花たちの檻は静かに崩れていった。
りぃんりぃんと花たちは元の形を取り戻し美しい音色を奏でだす。そんな灯花たちに笑顔を送りながら、少年はヴィーヴォの頬に手を添えてきた。
片膝をつき彼はヴィーヴォに微笑みかける。
「こんにちは。僕の名前はkoralaj。君に命を救われたものだ。だから、君にこの名前を捧げたいと思う……。僕の愛しい夜色に……」
優しい少年の声が、ヴィーヴォの耳朶を打つ。ヴィーヴォは唖然と少年を見つめていた。
「あの……あなたは……」
「あぁ、君の正式なお披露目はまだ先だったし、こうやって会うのは初めてだよね。こんにちは、夜色。人は僕のことを珊瑚色って呼ぶよ」
「僕と同じ、二つ名……?」
「そう、そして君に命を救われたものでもある」
驚くヴィーヴォの顔を覗き込み、珊瑚色は嬉しそうに眼を細める。彼はヴィーヴォの頬を両手で包み込み、そっとヴィーヴォの額に唇を寄せた。
「これから僕は、この命を君に捧げよう。君が君の名を教えてくれるその日まで、僕は君のしもべだ。愛してる、夜色……」
彼の唇が愛の言葉を囁く。その告白に、ヴィーヴォは背筋が凍るのを感じていた。
聖都で男同士の恋愛が嗜みとなっていたことは兄から聞いている。兄が、その毒牙から自分を守るために自分を公の場に連れて行かないことも。
日々の修練が忙しく、ヴィーヴォは黒の一族の屋敷から出ることがなかった。兄や屋敷の使用人、そして母の幼馴染だったという教皇とその息子にしかヴィーヴォは面識がない。
だからこそ、ヴィーヴォは男に告白されるという衝撃的な経験をすることもなかった。
今日、このときまでは――
それでもヴィーヴォは震える声を発する。
「あの、僕はヴィーヴォっていいます。あなたと同じ夜色の二つ名を継ぐ者です……」
「名前を、教えてくれるのっ?」
ずいっと珊瑚色が身を乗り出し、ヴィーヴォに接近してくる。
息がかかるほど彼の顔がすぐそばにある。珊瑚色の肩を抱いて、ヴィーヴォは彼を引き離す。
「あと、僕は一応、男です……」
「へっ?」
ヴィーヴォの言葉に、珊瑚色の動きが止まった。彼はにこやかな笑顔を浮かべながら、ヴィーヴォを見つめるばかりだ。
「だって君、どこからどう見ても女の子――」
「男ですっ!」
ヴィーヴォは彼の言葉を遮る。珊瑚色は大きく眼を見開き、口を開いた。
「えぇえええええええええええ!」
「なんなんですか、一体っ?」
声を上げる彼をヴィーヴォは怒鳴りつけていた。兄に会ったときも、教皇と謁見したときも自分は女の子だと間違えられた。
それに、あの子も――
「あなたといい、マーペといいなんなんだよ……。まったく……」
「マーペ?」
ぴたりと珊瑚色の悲鳴がやむ。彼は不思議そうにヴィーヴォの顔を覗き込んできた。
「マーペって、教皇のお子さん? 若草のこと?」
「はい、若草をご存じで?」
「まぁ、同じ二つ名の花吐きだけどね。でも、あの子は――」
顔を曇らせ、珊瑚色は黙り込む。
マーペはマーペリアの愛称だ。
緑の一族の花吐である彼は、長年眠ったままの状態でいた。
初めて会ったとき、マーペリアは寝台の上で死んだように眠っていたのだ。
自分を彼に引き合わせたのは、教皇その人。誰にも心を開かず、眠ったままの彼の友人になって欲しいと彼はヴィーヴォに頼んできた。
真摯な教皇の眼差しを見て、ヴィーヴォは頷くことしかできなかった。
そんなマーペリアがつい最近眼を覚ましたのだ。ヴィーヴォの子守歌に導かれたと、彼は笑いながら話してくれたことがある。
でも、彼は――
「あぁ、君が若草を起こした花吐きだったんだ。その話も有名だよ。霊廟の奥深くで眠るお姫さまを、一人の花吐きが起こしたって……」
「誰がそんな……」
得意げに笑う珊瑚色の顔を見て、ヴィーヴォは顔を顰めていた。
この虚ろ世界は、地球で眠る一人の少女の夢だという神話がある。神ともいえるその少女にとって、この世界は夢でしかないのだ。
そんな少女の神話に因んで、聖都ではマーペリアを眠り姫と揶揄して呼ぶ者も多いい。
彼が二つ名の花吐きであり、教皇の一人息子でありながら未だに公の場所に姿を現さない。
その事実が彼への陰口を生みだしているらしい。
マーペリア本人は、とてもそんな状態ではないというのに――
「あなたも、マーペを笑うの?」
ヴィーヴォの声は固いものへと変わっていた。珊瑚色が驚いた様子でヴィーヴォを見つめてくる。
「ごめん、そんなつもりじゃなくて……。その……」
困った様子で珊瑚色はヴィーヴォから視線を逸らし、髪を掻きだした。
「僕も若草には会ってみたいんだけど……」
「え……?」
「それに、君は少し庭師さんから離れた方がいいんじゃないかな……?」
心配そうに珊瑚色はヴィーヴォを見つめてくる。そんな彼の眼差しからヴィーヴォは眼を放していた。
「君は、人殺しをさせたお兄さんと顔を合わせたい……? 僕は嫌だったよ。それでも、僕の兄さんは僕の望みを聞いてはくれなかった……。僕を求めたときだって……」
ヴィーヴォの手を珊瑚色は優しく握りしめてくれる。ヴィーヴォを慰めるように微笑んで、彼は言葉を続けた。
「君は若草に、自分の友達に会いに行くべきだ。僕に送った反応が、それを示しているよ」
若草の霊廟に父である教皇は入り浸っていることが多い。そのため、彼を実の息子を愛人にしている小児性愛者だと陰口を叩く者もいる。
実際は、精神的に不安定な若草から眼が離せなくてそうなっているだけなのに。
そう思いながら、ヴィーヴォは通いなれた緑の一族の霊廟を歩いていた。後ろを振り向くと、珊瑚色がヴィーヴォの手を握りしめ笑顔を浮かべている。はぁっとため息をついて、ヴィーヴォは前方へと顔を向けた。
紫陽花の形をした灯花が、水晶でできた温室の中で咲き誇っている。その灯花の中心に、若竹色の癖毛をした少年が眠っていた。
片眼鏡を温室の床に放りだし、彼は体を丸めて安らかな寝息をたてていた。
「これが、若草……?」
背後にいる珊瑚色が彼へと近づこうとする。ヴィーヴォは繋いだ彼の手をとっさに引いていた。
「ヴィーヴォ……?」
「近づくと、彼の灯花に切り刻まれます。若草は僕より用心深いから……」
つい数日前のことを思いだし、ヴィーヴォは言葉をはっしていた。
夜空を照らしていた夜光蝶の群れが数日前、聖都でみられた。あまりにも美しかったので蝶を捕まえてこの霊廟に足を踏み入れたら、若草の灯花は容赦なく蝶を閉じ込めていたランタンごと切り刻んだのだ。
我を忘れたヴィーヴォと同じく、若草の灯花は主人を守るために敵とみなしたものを攻撃する。珊瑚色だって、こうして手を繋いで親しく話をしていなければ、同じ目にあっているだろう。
「ちょっと、じゃあどうやって――」
「歌えば、わかる」
逡巡する珊瑚色にヴィーヴォは微笑んでみせる。そっと眠る若草へと顔を向け、ヴィーヴォは唇を開いた。
故郷にいる母を思い、子守歌を紡ぐ。
それは聖都に連れてこられたヴィーヴォにとって、心の支えともいえる歌だった。母が悲しいときに歌ってくれた、慰なぐさめの歌。
その歌を眠ったままだった若草に聞かせていたら、彼は目覚めた。
マーペリアは、ヴィーヴォの歌に導かれて眼を覚ましたと言っていた。
君が、オレを助けてくれたんだとも――
「ヴィーヴォ?」
声が聞こえる。
歌をやめると、マーペリアがうっすらと眼を開けこちらを見つめてきた。
「泣き虫ヴィーヴォが自分から喜んでここに来るなんて、珍しいこともあるもんだね」
そっと起き上がり、彼は床に置いてある片眼鏡をつける。髪をかきあげ、彼はヴィーヴォに笑ってみせた。
「えっと、君の後ろにいる何かピンク色っぽいものなに?」
訝しげに彼が眼を歪め、ヴィーヴォの後方にいる珊瑚色を見つめてくる。
「あぁ、この人は」
「僕は珊瑚色! 君と同じ二つ名だよ、若草っ!」
びっと片手をあげ、珊瑚色は弾んだ声を送る。マーペリアは困った様子で珊瑚色を見つめ、顔を逸らした。
「なんか、ウザいねこの人……」
「ちょ、若草っ!」
「もーつれないな……。同じ二つ名の花吐きだっていうのに……」
ふうっと落胆した様子で肩を落とし、珊瑚色は若草に近づいていく。彼は若草の前で膝をつくと、おもむろに若草の顎を掬ってみせた。
「ヴィーヴォのように少女めいた可憐さはないけれど、狡猾そうなその眼差しが魅力的だね。金糸雀もいいと思ったけど、君と寝てみるのも悪くないかも」
「ヴィーヴォ、この人キモイから灯花で切り刻んでもいい?」
「耐えて、若草……」
珊瑚色を冷めた眼で見つめながら、マーペリアは言葉をはっする。ヴィーヴォは頭痛を覚えながらも、マーペリアを制した。
「君はヴィーヴォと名前で呼び合う仲なんだろ? だったら、僕もそこに加えて欲しい――」
「いや、それはヴィーヴォが聖都の風習を知らなくて、オレに間違って名前を教えちゃっただけですから。オレもヴィーヴォと同じで聖都で生まれ育ってないんで、ソッチ系には興味ないんです。彼とはあくまで友人関係です。切り刻んでいいですか?」
「耐えて、マーペ……。本当にごめんね!」
冷たい言葉をはっするマーペリアに、ヴィーヴォは謝っていた。今更ながら、こんな人をマーペリアに引き合わせてしまったことに後悔の念を覚えてしまう。
「こらこら珊瑚色……君は私の息子まで毒牙にかけるつもりなのかい?」
男性の声が温室に響き渡る。
ヴィーヴォは思わず声のした後方へと顔を向けていた。若草の髪を伸ばした壮年の男性がこちらに苦笑を向けている。
教皇。マーペリアの父親だ。
「父さんっ!」
「いたっ!」
マーペリアは珊瑚色を突き飛ばして、教皇のもとへと駆けていく。教皇は苦笑しながらも自分の胸に跳び込んできた息子を抱きしめていた。
「こらマーペ……。いい加減にこういうのはやめてくれないか?」
「だって、父さんとこうして触れ合えるのだって下手をすれば奇跡じゃないか……。もし、ヴィーヴォがオレを導いてくれなかったら……」
悲しそうに眼を細め、マーペリアはヴィーヴォへと顔を向けてみせる。ヴィーヴォはそんな彼の眼差しを見て、あることを思いだしていた。
マーペリアが、目覚めたときのことを。
教皇に連れられてこの霊廟にやってきたとき、マーペリアは深い眠りに落ちていた。本来なら兄とそれほど歳が変わらないという彼は成長を止め、子供の姿のままで眠り続けていたのだ。
どうしてそうなったのか、教皇は話してくれなかった。でも、彼が大切なものを失ったからだと震える声で話してくれたことは覚えている。
そしてマーペリアが、虚ろ竜を母に持つということも。
自分の父親は、先祖返りによって虚ろ竜に変異した花吐きだったが、マーペリアの母は中ツ空から降りてきた虚ろ竜だという。
だからこそ、彼の側にいて欲しいと教皇は言った。
同じ虚ろ竜の親を持つ者同士、お互いに分かり合って欲しいと。マーペリアはこの先も眼を覚まさないかもしれないが、君を慰めてくれる存在になるはずだと。
だから、ヴィーヴォは彼に子守歌をうたった。
マーペリアの母親は、中ツ空に帰ったそうだ。その寂しさから彼は心を閉ざし、目を覚まさないのかもしれないと教皇は語ってくれた。
そんなマーペリアの境涯に、ヴィーヴォは自分と重なるものを感じていた。
母と離れ、夜色の名を継いだ自分と同じ孤独を。そんな孤独を抱えるマーペリアを、ヴィーヴォは慰めたいと思ってしまったのだ。
そして、幾度目かの子守歌を聞かせた後、マーペリアは目覚める。
「ヴィーヴォ、どうしたんだい?」
教皇に声をかけられヴィーヴォは我に返る。心配そうにこちらを見つめるマーペリアと眼があって、ヴィーヴォは笑みを取り繕っていた。
「いえ、なんでも――」
「ヴィーヴォから血の香りがするんだ。夕顔の香りが……」
ヴィーヴォの言葉をマーペリアが遮る。彼は辛そうに眼を伏せ、言葉を続けた。
「父さん、ヴィーヴォに人殺しをさせたんだね。オレとポーテンコと同じ思いをさせたんだね……」
「マーペ……」
マーペリアの言葉に、教皇は口を紡ぐ。彼は息子を強く抱きしめ、弱々しく謝罪の言葉を口にした。
「すまない……。黒の一族の復興には、ヴィーヴォの力は必要なんだ。お前とポーテンコにあんな思いをさせてしまったことを償うためにも。ヴィーヴォは受け入れられないと思うが、仕方がないんだ……」
「父さんが赦しただけじゃ、ダメなんだ……」
父の胸に顔を埋め、マーペリアは上擦ずった声をあげる。
彼の言葉の意味をヴィーヴォは何となくだが察していた。
女の花吐きは複数の夫を持つことを義務づけられる。それは、彼女たちの生む子が花吐きとして生まれてくるからだ。
ヴィーヴォの母も例外ではなかった。彼女には生まれたときから複数の婚約者がおり、その中で正式な婚約者として認められていたのが教皇なのだ。
母が夜色を名乗っていた当時、二つ名の花吐きはとても少なかった。
だからこそ、緑の長の後継者である教皇が母の将来の夫として担ぎ出されたのだ。
けれど、母は花吐きであった実の兄と関係を持ち聖都から去っていく。
すべてを捨てて、母は実の兄を愛することを選んだ。
その咎を受け、黒の一族が処罰されたこともヴィーヴォは知っている。自身の一族を処罰したのが、花吐きであった兄とマーペリアであることも。
教皇は一族の長であったマーペリアの祖母を失脚させ、自ら長となることで傍系と自分たち兄弟しか残されていなかった黒の一族を救ってくれた。
兄であるポーテンコは、黒の長としてそんな教皇に忠義を示している。ヴィーヴォもまた、教皇の人柄に惹かれ彼を慕っている。
聖都にやってきたヴィーヴォを彼は実の息子のように気遣ってくれた。自分を裏切った婚約者の息子であるにも関わらず、彼は兄と自分をとても良く扱ってくれるのだ。
「僕は、大丈夫です……」
ぽつりと、思いが声になる。教皇とマーペリアは驚いた様子でヴィーヴォを見つめてきた。
「ヴィーヴォ……」
珊瑚色が心配そうにヴィーヴォの顔を見つめてくる。ヴィーヴォは曖昧に笑って、教皇のもとへと駆けていた。
マーペリアのいる彼の胸の中に、ヴィーヴォは跳び込んでいく。驚いた様子で、教皇はよろめいた体を立て直し、ヴィーヴォを抱きしめていた。
「ヴィーヴォ……」
「僕にできることがあるなら、なんだってやります……。あなたとマーペリアのために……。でも、分かってるけど……兄さんのことを嫌いになりそうなんです……だから――」
俯くヴィーヴォの頭にあたたかな感触が広がる。驚いて顔をあげると、教皇が自分の頭を優しくなでてくれていた。
「いいよ、しばらくマーペと一緒にいるといい……。それで、君の気が晴れるのなら」
穏やかな言葉とともに、教皇はヴィーヴォに微笑みかけてくれる。その微笑みがどこか寂しそうで、ヴィーヴォは彼の顔から眼を逸らすことができなかった。
「ヴィーヴォ……」
唖然とした声がする。
そこに立つ人物を見てヴィーヴォは眼を見開いていた。
ポーテンコが信じられない様子で自分を見つめている。その視線に耐えられず、ヴィーヴォは兄から眼を逸らしていた。兄から逃れるようにヴィーヴォは教皇の胸に顔を埋める。
「ヴィーヴォ……」
そんな自分を教皇が優しく抱き寄せてくれる。
「そういうことだ。だから言っただろう? まだ、ヴィーヴォには早すぎたって……。それを君は……」
教皇が顔をあげ、兄に冷たい言葉を送る。その言葉の意味を、ヴィーヴォはうっすらと察っすることができた。
兄は教皇の反対を押し切って、自分に人を殺させたのだ。黒の一族の名声のために兄は、自分を名で縛り人を殺させた。
「兄さん……」
その言葉を信じたくなくてヴィーヴォは兄へと顔を向けていた。
「ヴィーヴォ……」
縋るようにポーテンコが自分を見つめてくる。だが、ヴィーヴォはその眼を見つめることができなかった。
兄から顔を逸らし、ヴィーヴォは言葉を続ける。
「ごめん、兄さん。あなたとは、一緒にいられない……」
人を裁くことが、黒の一族のためなのだとポーテンコは繰り返し言う。それが、自分たち黒の一族を救済してくれた教皇への恩返しでもあり、黒の一族の名を再び世に知らしめすために必要なことであることも、ヴィーヴォは理解している。
それでも、人を殺すたびに心が淀んでいくことにヴィーヴォは慣れることができなかった。
「また、ここに閉じ込められちゃったな……」
苦笑が霊廟に響き渡る。ヴィーヴォは、虚ろ竜たちが彫られたアーチ状の天井をみあげる。
りぃんと涼やか音がして、ヴィーヴォはそちらへと顔を向けていた。
さきほどまでヴィーヴォの慟哭に合わせ暴走していた灯花たちが、慰めるように音をはっしている。風信子の形をした灯花たちは、優しい光をヴィーヴォに投げかけていた。
「名前、呼ばれてないなぁ……」
ふと、自分の名前を呼んでくれる者がいないことに気がつき、ヴィーヴォは口を開いていた。
自分の霊廟で寝起きをするようになって一年近くが経つ。黒の一族の屋敷に戻らなくなったヴィーヴォを、ポーテンコは夜色さまとしか呼ばなくなった。
兄はまるで自分が高貴な存在であるかのように、敬語を使い冷たい眼差しを向けてくる。
りぃんと灯花が鳴ってヴィーヴォは我に返る。ヴィーヴォは微笑み、花たちに話しかけていた。
「君たちがいるから、寂しくないよ」
ヴィーヴォが吐いた花たちは、ずっと側にいてくれる。霊廟に閉じ込められてばかりいる自分を心配し、側を離れようとしないのだ。
「君たちはここにずっといちゃいけない。僕みたいに囚とらわれのお姫様になっちゃだめだよ」
眼を細め、ヴィーヴォは悲しげな眼差しを灯花に送っていた。
彼らは新たな命を始めるために自分の側から離れなければいけない存在だ。
こんなところにいていいはずながい。
暗く、陰謀が渦巻く聖都になど――
ヴィーヴォは天井を仰ぐ。天井には、星空を飛ぶ虚ろ竜のレリーフが描かれている。小さな人々を乗せた彼女たちを見つめ、ヴィーヴォは呟いていた。
「見てみたいな、太陽……」
そっとレリーフに手を翳し、中心に描かれた球体を見つめる。
この闇に閉ざされた水底と違い、虚ろ竜たちの住まう中ツ空は太陽という輝きによって光に満ちているという。
光が見たいとヴィーヴォは思う。この聖都から自分を連れ出してくれる存在が、現れて欲しいと思ってしまう。
「連れてってよ……。僕も君たちのところへ……」
天井に描かれた虚ろ竜にヴィーヴォは囁きかける。瞬間、轟音が霊廟に響き渡った。
「なにっ?」
りぃんりぃん。
灯花たちが激しく音をはっする。
天井が大きくゆれ、その天井を崩して何かが霊廟へと落ちてきた。落ちてきたものを見て、ヴィーヴォは眼を見開く。
それは、卵だった。ヴィーヴォの頭ほどの大きさをした卵が、霊廟へと落ちてくる。ヴィーヴォは導かれるようにその卵へと駆け寄っていた。
瓦礫が自分に向かって落ちてくる。天井の細かな破片が床で跳ね、ヴィーヴォの頬を傷つける。
それでもヴィーヴォは構わず卵へと向かっていた。卵を抱きしめるために。
床に落ちようとする卵をヴィーヴォは両手を差し伸べ受けとめる。
両掌があたたかぬくもりに包まれる。そのあたたかさに驚いた瞬間、ヴィーヴォは仰向けに倒れ込んでいた。
星空が見える。
人々の魂たる星が、暗い空で光り輝いている。その光を見守るように、虚ろ竜の陰影が夜空を泳いでいた。
「きれいだ……」
涙とともに、言葉が漏れる。
ただ、眼の前に現れた光景を美しいと感じてしまった。
夜空を照らす星々を、その星を見守るように泳ぐ虚ろ竜の陰影を無性に愛おしいと感じてしまった。
とくりと心音が聞こえる。抱えた卵からその音ははっせられている。
そっと起き上がり、ヴィーヴォは卵に耳を充てていた。
とくり。とくり。
優しい心音は、まるでヴィーヴォを慰めるかのように奏でられる。その音が心地よくて、ヴィーヴォはゆったりと眼を瞑っていた。
「僕に、会いに来てくれたの?」
卵に声をかける。すると力強い心音が小さく響き渡った。
「僕、もう独りじゃないんだ……」
卵を抱きしめ、ヴィーヴォは微笑む。
眼を瞑り、ヴィーヴォは遠い記憶を手繰り寄せていた。
ヴィーヴォの唇から子守歌が奏でられる。
遠い昔、母であるサンコタが歌ってくれた子守歌が。その子守歌に応えるように、卵は心地よい心音を放ち続ける。
愛しい思いが、心の中に募っていく。ヴィーヴォは、うっすらと眼を開け卵に微笑んでいた。
僕が、この子の母親になろう。
独りぼっちの僕のために、この子は空から降りてきてくれたのだから。
その騒ぎが起きたのは、卵が落ちてきてすぐのことだった。茨と化した灯花たちが、卵を抱いて歌うヴィーヴォを閉じ込めてしまったのだ。
茨の鳥籠の中で歌う弟を、駆けつけたポーテンコは眺めるとこしかできなかった。
「ヴィーヴォ……」
話しかけても、応答はない。鳥籠の中でヴィーヴォは卵に微笑みを送り、子守歌をうたい続けるだけだ。
「駄目だね。マーペリアの語りかけにも、私の言葉にも耳を貸さない。虚ろ竜の卵に魅入られてしまったようだ」
冷静な声が聞こえ、ポーテンコは隣へと視線をやる。
厳しい表情を浮かべる教皇が、弟の囚われた鳥籠を見つめていた。彼はポーテンコに顔を向け、苦笑を浮かべてみせる。
「なんの因果だろうね、ポーテンコ。君から花吐きの力を奪った虚ろ竜が、今度は君から弟を奪うかもしれない……」
「奪われたのではありません。私は、愛しい人を空に帰しただけです……」
教皇の言葉にポーテンコはそう返していた。愛しい人の泣き顔が脳裏を過ってポーテンコは眼を曇らせる。教皇はそんなポーテンコを見つめながら苦笑を浮かべてみせた。
「君らしい答え方だね」
「私は彼女を愛して、彼女の気持ちに応えた。その結果がどうあれ、後悔はしていませんよ……。いや、していないはずでした……」
俯き、ポーテンコは愛しい人へと思いを馳せる。
――Vi ŝatas manĝi vin
そう言って自分を求めた彼女は、自分を守るために空へと帰ってしまった。
それと同じことが弟であるヴィーヴォにも起きようとしている。
ポーテンコは顔をあげる。卵を愛しげに抱きしめ、ヴィーヴォは微笑むばかりだ。
弟が抱く卵にポーテンコは妙な既視感を覚えていた。
まるで、彼女に会っているときに感じていたあたたかな感覚を、あの卵からは感じてしまうのだ。
「それにしても困ったな……。虚ろ竜は我らの信仰の対象、けれど放っておけばいずれヴィーヴォは……」
教皇が曇った眼を自分に向けてくる。どうやら彼も自分と同じことを考えているらしい。
「この件、私に一任させて頂きますか?」
思案する教皇にポーテンコは声をかけていた。教皇は眼を鋭く細め言葉を返してくる。
「どうかな? 君はヴィーヴォに信頼されてないし……。もし、再び夜色を失うようなことがあれば……」
「ヴィーヴォは死なせません。何がっても……」
教皇の言葉をポーテンコは遮っていた。
茨の檻の中で歌い続ける弟をポーテンコは見つめる。何の因果だろうかと、ポーテンコは苦笑を滲ませていた。
空からやってきた彼女と出会い、ポーテンコの運命は大きく変わった。そして、弟もまた虚ろ竜によって運命を変えられてしまうかもしれない。
ふっと、あたたかな手のぬくもりが蘇る。自分の手を握り返してきた弟の小さな手を思い出し、ポーテンコは微笑みを眼に浮かべていた。
小さなヴィーヴォが縋るように自分を見あげてきたことを思い出す。
初めてヴィーヴォに会ったとき、あまりの可憐さに少女かと思った。母から聞かせれていた、弟だという少年の美しさにポーテンコは息を呑んだ。
それでも、繋いだ手の温かさは自分とまったく同じだった。無邪気に笑う姿も、人形術の修練が厳しくて大泣きする姿も、それはどこにでもいる普通の子供だった。
そう、ヴィーヴォは子供なのだ。
幼くて、か弱くて、守らなくてはいけない存在。
かつて、ポーテンコは愛しい女を空に帰すことでしか守ることができなかった。
でも、今は違う。
たとえ拒絶されていたとしても、ポーテンコがヴィーヴォを見捨てることはない。
ヴィーヴォがそれを嫌がったとしても――
歌がやむ。
ポーテンコは、弟へと眼を向けていた。ヴィーヴォが虚ろな眼を卵に注ぎ、薄く微笑んでいるではないか。
「おいで……。こっちに、おいで……」
優しくヴィーヴォが卵に語りかけている。そんなヴィーヴォに応えるように、卵は明滅を始めた。
明滅とともに卵には罅が入り、硝子の割れる音が辺りに響く。卵から生じた光球が、光の翼を纏い小さな竜へと形を変えていく。
光りが散ると、そこには銀の鱗を持つ美しい子竜がいた。銀糸の鬣を風に靡かせ、子竜はゆったりと眼を開ける。
眼の色は地球を想わせる蒼。その蒼い眼で竜は虚ろな眼差しをしたヴィーヴォを見おろす。
「きゅんっ!」
竜が鳴き声をはっする。瞬間、ヴィーヴォの眼に光が宿った。驚いた様子で弟は空中に浮かぶ竜を見あげ、笑顔を浮かべる。
「こんにちは、僕の竜っ! やっと生まれてくれたんだねっ」
「きゅんっ!」
竜は翼をはためかせてヴィーヴォの胸の中へと飛び込んでいく。ヴィーヴォはそんな竜を優しく抱きしめていた。
ヴィーヴォを取り巻いていた灯花たちが、引いていく。茨の形状をしていた灯花たちは、元の風信子の形に戻り、玲瓏とした音を周囲に奏でていた。
「みんなも、僕たちを守ってくれてありがとう」
そんな灯花たちに、ヴィーヴォは笑顔を向けてみせる。
「きゅん?」
「これは灯花。君の友達だよ……。あ、食べちゃダメだってっ」
ヴィーヴォの抱きしめている竜が、不思議そうに灯花に顔を近づけその花弁を口に食む。ヴィーヴォは苦笑しながら子竜の頭を軽く叩いていた。
「これは……」
「本当、私の息子もそうだけど、君たち花吐きはどうなっているんだろうねぇ」
目の前の光景に、ポーテンコは唖然とすることしかできない。そんなポーテンコに応えるように教皇が口を開いてみせる。彼を見つめると、教皇は苦笑いを顔に浮かべていた。
「兄さん……」
弟の声が耳朶に轟く。
ポーテンコがそちらへ顔を向けると、ヴィーヴォが不安そうに自分を見つめていた。
「きゅーん……」
子竜がそんなヴィーヴォを守るように低く唸ってみせる。自分を睨みつける蒼い眼を見て、ポーテンコは大きく眼を見開いた。
地球のように蒼い眼が、あまりにもあの人のそれと似ていたから――
もしかしたら、彼女は――
そんなはずはないと思いながらも、ポーテンコは竜を見つめたまま弟へと向かっていた。そっとしゃがみ込み、ポーテンコは竜に手を差し伸べる。竜は鼻先をポーテンコの掌に押しつけ匂いを嗅ぐ。
警戒した様子で掌を見つめる竜にポーテンコは薄く微笑んでいた。そんなポーテンコを見あげ、竜は大きく眼を見開く。
ふんふんとポーテンコの掌を嗅ぎ、竜はその掌に自分の頭をすりつけてきた。
「あの……」
弱々しい声がかけられる。
ヴィーヴォが不安な様子で自分を見つめていた。眼に笑みを浮かべ、ポーテンコは口を開く。
「可愛いな、お前の竜は」
優しい兄の言葉に、ヴィーヴォの顔には微笑みが浮かんでいた。
「うん、可愛い」
笑みを深めヴィーヴォは胸の中の子竜を抱き寄せる。そんな弟の頭を、ポーテンコは優しくなでていた。
「だから、灯花は食べちゃダメだってっ!」
「きゅーんっ!」
霊廟に陽気な竜の鳴き声が響き渡る。蒼く照らされた温室には、ヴィーヴォの吐いた様々な色合いの灯花が咲き誇っていた。
そんな花たちを引き千切り、食べようとする子竜がいる。ヴィーヴォはその子竜に跳びつき、彼女を捕えていた。
「もう、なんで君は何でも口に入れたがるのっ? それは食べ物じゃないって何度言えば分かるんだよっ?」
「きゅんっ」
胸に抱いた彼女をヴィーヴォは怒鳴りつける。竜は拗ねた様子で眼を瞑りヴィーヴォから顔を逸らしてみせた。
「もう、何で君は言うことを聞いてくれないんだよっ? 僕は君のお母さんなんだよ。ちゃんとご飯だってあげてるのに」
「きゅん」
「え、あの角猪のお肉じゃ嫌だっ? 美味しいじゃないか角猪っ? 栄養価も高いし聖都周辺ではあの猪自体が生息してないんだよっ。いるのは水晶鹿ぐらいだしっ!」
「きゅーん」
怒っても竜は拗ねた様子で鳴き声を返すばかりだ。ヴィーヴォは肩を落とし、彼女を抱いたまま座り込んでしまった。
生き物を育てることがこんなに大変だとは思わなかった。母と一緒に住んでいたとき、巣から落ちた小鳥を育てたことがある。
でも、小鳥はこんなにワガママじゃなかった気がする。
「兄さんの言う通りだな……」
苦笑が顔に滲んでしまう。それでもヴィーヴォは、兄の笑顔を脳裏に思い浮かべていた。
竜が生まれてからよそよそしかった兄は、前のように自分を名前で呼んでくれるようになった。虚ろ竜の文献探しにも協力してくれるし、彼は竜が何を欲しているのかを察するのが得意だった。
ヴィーヴォが竜の愚痴を口にするたびに、兄はそれが子育てだと豪語する。そして、お前はきちんと責任をとるべきだとヴィーヴォを諭すのだ。
あなただって子育てなんかしたことないじゃないか。兄を見るたびに、ヴィーヴォはそんな風に思ってしまう。だが、竜と触れ合っているときの兄は、とても幸せそうな顔をしているのだ。
まるで、ヴィーヴォの竜が我が子だと言わんばかりに。
「兄さんは虚ろ竜と何かあったのかな?」
花吐きだった兄は虚ろ竜に襲われそうになったことがる。竜は聖都の上空に現れ、兄のいた黒の一族の霊廟を攻撃したらしい。
襲われそうになった兄は得意の人形術で竜を撃退し、竜は聖都の地下牢に幽閉されたと聞く。
その後、彼女は中ツ空に帰っていったと記録は伝えているが――
「兄さんも教皇さまも、そのときの話は詳しくしてくれないんだよな……」
この話をするたびに兄は辛そうな眼差しを自分に送ってくるのだ。そしていつもヴィーヴォに同じことを言う。
まだそれは、話せないと。
寂しそうに微笑む兄に、ヴィーヴォはそれ以上質問をすることができなかった。
教皇にそれとなく兄の過去を聞いたこともある。だが、教皇は悲しげに眼を伏せてこう答えるばかりだ。
――私が、ポーテンコを不幸にしたと。
「君は、僕を不幸になんてしてないのに……」
「きゅんっ?」
腕の中の子竜に話しかけ、ヴィーヴォは眼を伏せる。そもそもどうして虚ろ竜は兄を襲ったのだろうか。
自分の腕の中にいる彼女は、悪戯好きで無邪気なだけの存在だ。そんな存在が人に害をなすだなんて考えられない。
「それは、あなたが人を知らないからよ……」
少女の笑い声が聞こえる。驚いて、ヴィーヴォは顔をあげていた。
竜胆の灯花に照らされてて、一人の少女がヴィーヴォに微笑みを向けている。
彼女の外見は炎のようだ。
うねる赤髪は彼女の体を優しく取り巻き、笑みを浮かべる朱色の眼には金の煌めきが宿っている。
「緋色……?」
それが、自分の将来の花嫁だとヴィーヴォは一瞬で分かった。母と同じ女性の花吐きであり、自分たち二つ名を継承する花吐きたちの花嫁。断絶したと思われていた赤の一族の唯一の末裔。
「ふーん、本当に女の子みたい……」
手を後ろ手に組んで、赤色の少女は可憐な足どりでヴィーヴォのもとへと赴く。腰を曲げ、彼女はヴィーヴォと腕の中の竜を交互に眺めた。
「きゅんっ!」
竜が彼女に唸る。少女は苦笑しながらも、ヴィーヴォたちから顔を離した。
「本当に女の子だったらよかったのに……。そしたら、その竜のお母さんでも違和感ないし、あなたともきっと素敵なお友達になれたわ」
「あの、なんの用ですか?」
緋色は自分よりも年下だ。けれど、どこか高貴な彼女の印象がヴィーヴォに敬語を使わせる。人を下から見ているような彼女の言葉に、ヴィーヴォは何とも言えない威圧感を感じていた。
「お礼を言いに来たの。一年前にあなたが私の父を殺してくれたお礼を――」
「君の父親?」
朱色の眼を嬉しそうに煌めかせ、緋色は自身の髪を耳にかける。彼女の髪から香る花の芳香にヴィーヴォは胸を高鳴らせていた。
喩えるなら、彼女は薔薇だ。
炎を想わせる、鮮烈な色彩の薇。それ故に何とも言えない傲慢さを彼女からは感じてしまう。
「だから、私はあなたが嫌い……。あなたは私の夫になるけれど、あなたと床を共にすることはないでしょうね……」
「なっ?」
冷めた眼でヴィーヴォを見つめ、緋色は平然と言ってのける。彼女の発言にヴィーヴォは大きな声をあげていた。
何を言い出すのだろうかこの少女は。まったくもって話についていけない。
「緋色……あまり夜色を困らせるな……」
そんな彼女を諫める声がある。彼女の後方から金髪の少年が近づいてきて、持っていた本で彼女の頭を軽く叩いた。
金糸雀だ。珊瑚色に無理やり霊廟に連れてこられた彼と、ヴィーヴォは少なからず親交があった。
「痛いっ! 何するの、お兄ちゃんっ?」
ぷくっと頬を膨らませ、緋色は少年を睨みつける。金糸雀は眠たげな眼で少女を一瞥し、開いた本へと顔を向けた。
「また、私より本なのね……」
「方向音痴のお前をここまで連れてきた、俺の苦労も分かって……」
「だって、私は霊廟からも滅多めったに出られないのよ……。道なんて分かる訳ない……」
纏っていた法衣を両手で握りしめ、緋色は黙り込む。金糸雀は本を読みながら、そんな少女の頭を軽くなでていた。
「まぁ夜色、そういうことだから許してやって……」
「いや、意味がわからないんだけど」
そっと胸に抱いた竜を放し、ヴィーヴォは立ちあがる。床に降ろされた竜は翼をはためかせ、ヴィーヴォの顔の側まで飛んできた。
「その、君のお父さんを殺したって……」
ヴィーヴォの言葉に緋色は大きく眼を見開く。彼女は鋭い眼差しをヴィーヴォに送り、唇を笑みの形に歪めた。
「あぁ、それはね……」
妖しい光を眼に宿しながら、緋色は本を読む金糸雀へと振り返る。不思議そうに本から顔をあげた金糸雀の両頬を柔らかな彼女の両手が包み込む。
「お兄ちゃん……」
甘えた声をはっして、緋色は金糸雀の唇に自分のそれを重ね合わせていた。
どさりと金糸雀が持っていた本が床に落ちる。大きく眼を見開く彼から唇を離し、緋色は彼を抱きしめる。
緋色の顔がヴィーヴォに向けられる。唖然とするヴィーヴォに向かって彼女は唇を歪め、嘲りの笑みを浮かべてみせた。
「こういうことだから、あなたは知らなくていいの……」
弾んだ彼女の声がヴィーヴォの耳朶に響く。
「緋色っ!」
金糸雀の怒鳴り声が温室に響き渡る。金糸雀は緋色を睨みつけ、彼女を自分の体から引き離した。
「お前、それがどういうことか分かってっ――」
「どうせすぐ死んでしまうんだもの! だったら、私はあなたを愛するわ、金糸雀っ。あなただけをっ!」
金糸雀の怒声を緋色の言葉が遮る。金糸雀は瞠目し、気まずそうに緋色から視線を逸そらした。
「俺は、そんなの望んでない……」
「あなたが望んでなくても、私はそれを望んでる」
眼を潤ませ緋色は俯いてみせる。金糸雀は困惑した様子で顔を曇らせ、彼女を抱きしめた。
「ごめん、夜色……。帰るわ……」
「あの、君たちは一体……」
「それは、答えられない……。答えちゃいけないって言われてるから……」
俯く緋色の肩を抱き、金糸雀は寂しそうにヴィーヴォに微笑んでみせる。
「でも、あなたは私の気持ちを分かってくれるでしょう……?」
そっと顔をあげ、緋色は小さく口を開く。その言葉にヴィーヴォは大きく眼を見開いていた。彼女の視線は自分の周囲を巡る子竜に向けられていた。
彼女は、生まれたばかりの竜に語りかけているのだ。
「きゅん?」
頭を傾け子竜は不思議そうに緋色を見つめる。そんな子竜に緋色は弱々しく笑いかけていた。
「行くよ、緋色」
「うん……」
金糸雀に肩を叩かれ、頷いた緋色は踵を返す。去り際に彼女はヴィーヴォへと振り向いてきた。
「意地悪してごめんなさい……。でも、お父さんを殺されて悲しいのは、私だけじゃないの……。それに、あなたたちなら私のこと、分かってくれるでしょ……」
「緋色……」
朱の眼を金色に煌めかせ、彼女は悲しげな眼差しを送ってくる。その視線はヴィーヴォと子竜へと向けられていた。
「きゅん……」
彼女を案じるように子竜が小さく鳴いてみせる。ヴィーヴォの頭の周囲を何度か旋回して、竜は縋るようにヴィーヴォの胸へと飛び込んできた。ヴィーヴォはそんな竜を両腕で抱き寄せる。
「きゅーん……」
悲しげに鳴いて竜はじっと緋色を見つめていた。緋色は竜に微笑みかけ、顔を背ける。
「何なんだ? 彼女は……」
ぽつりと、ヴィーヴォは呟いていた。
朱色の眼が脳裏に焼きついて離れない。
去っていく金糸雀と緋色を灯花たちの音が見送る。ヴィーヴォは温室を後にする二人を、見つめることしかできなかった。
あの日、卵が落ちてきた部屋にヴィーヴォは籠っていた。穴の開いた天井から地球の光が差し込み、風信子の灯花たちが暗闇の中に浮かびあがっている。
弾む灯花の音を耳にしながら横になるヴィーヴォは灯花へと顔を向ける。銀の尻尾を翻しながら、子竜が灯花たちの間を舞っていた。
「恋、なのかな……?」
金糸雀を見て泣きそうになっていた緋色のことを思いだす。
愛しげに金糸雀の唇を奪った緋色。
薔薇のような可憐な見目と同じく、彼女の中には情熱的な感情が渦巻いている。
それは、金糸雀に対する彼女の率直な気持ちなのだ。
Love。
ヴィーヴォは指を使い、空中に文字を描く。愛を意味するその言葉を、何度も何度も繰り返し書き綴る。
そんなヴィーヴォを翼をはためかせる竜は不思議そうに眺めてきた。竜に笑顔を送り、ヴィーヴォは灯花を指ではじく。
りぃんと可憐な音をたてて、灯花たちから燐光が散った。燐光は暗い宙に散らばって、光りで文字を描く。
Love。
竜は眼を輝かせ、その光文字のもとへと飛んで行く。翼を動かして、彼女は文字を散らせてみせた。
「竜……」
「きゅんっ!」
そんな竜を見てヴィーヴォは苦笑を浮かべていた。竜はヴィーヴォへと振り返り、無邪気な鳴き声をはっしてみせる。
「そういえば、君の名前……」
竜に名前をつけていない。
そのことを思いだし、ヴィーヴォは口を噤んていた。竜から視線を逸らし、ヴィーヴォは体を横に向ける。血の匂いが鼻孔をくすぐってヴィーヴォは顔を歪めていた。
彼女に名前をつける気になれない。
まだ竜は幼い。だが、成長すれば間違いなく彼女は兵器として利用される。
もし名前をつければ兄は彼女すらも名で縛り、人を殺す道具として使うだろう。
それだけは、なんとしても避けたかった。
竜を見つめるときの兄の眼差しを思いだし、ヴィーヴォは眼を伏せる。竜に優しい眼差しを向ける兄は、どこか寂しげなのだ。
「もしかして兄さんも……虚ろ竜を愛していたのかな……」
古文献は語っていた。虚ろ竜たちは女の姿となって水底の人間を誘惑するのだと。
虚ろ竜は雌しかいない。だから彼女たちは男を求めて水底にやってくるそうだ。
――子孫を残すために。
もしかしたら兄を襲った虚ろ竜は、兄に恋をしていたのではないか。
兄は幼い竜にかつての恋人を重ねているのだろうか。
「マーペリアのお母さんも、そうやって空から降りてきたのかな?」
ころんと仰向むけになって、ヴィーヴォは天井を仰ぐ。虚ろ竜の彫られた天井を背に、子竜が暗闇の中を飛んでいる。その横には卵が開けた穴があり、星空を虚ろ竜の陰影が泳いでいた。
「君は、僕に恋をしたからここにいるの?」
ふとヴィーヴォは疑問を口にしていた。
「きゅん?」
空中にいる竜は首を傾げヴィーヴォを不思議そうに見つめてくる。
「いや、そんなはずないか……。君はまだ卵だったしね。ちょっと思っちゃっただけだよ。君が僕に恋をしていたらどうなんだろうって。僕は恋をするとどうなるんだろうって」
そっとヴィーヴォは竜に片手を差し伸べていた。竜は嬉しそうに鳴いて、ヴィーヴォの手へと近づいていく。ヴィーヴォの手に竜は顔をすりつけてくる。何だかくすぐったくて、ヴィーヴォは口元に微笑みを浮かべていた。
「番っていったら分かるかな? お互いに眼を合わせた瞬間、一瞬で心を奪われてずっと一緒にいたいって思う……。僕の周りの人はそんな相手をみんな心の中に持っている。母さんも……」
「きゅん……」
ヴィーヴォの言葉に竜は首を傾げるばかりだ。
母のことを思いだし、ヴィーヴォは眼を曇らせていた。
母は父であるソレと離れられないといった。息子であるポーテンコやヴィーヴォより、あの水晶の中に閉じ込められた竜を母は愛しているのだ。
母が羨やましくなってしまう。
「僕もそんな人が欲しい……。どうせすぐに死んじゃうんだもん……。死ぬ前に、そんな人に会ってみたいんだ。君が、その人だったら良かったのに。僕だけの真実の人。そうだ、君の名前はVeroにしよう。ヴェーロ、真実。それが君の名前だよ。僕の愛しい女。君が僕の番になってくれると嬉しいんだけどな……」
幼い竜に自分は何を語っているのだろう。なんだかおかしくなって、ヴィーヴォは苦笑を浮かべていた。
竜からの返事はない。
竜は、虚ろな眼差しをヴィーヴォに向けたまま、空中で動きを止めている。
「ヴェーロ……どうしたのっ?」
ヴェーロの異変に気がつき、ヴィーヴォは跳び起きていた。
瞬間、眩い光がヴェーロの体から放たれる。あまりの眩しさに、ヴィーヴォは両腕で顔を覆い眼を瞑った。
光はヴィーヴォの瞼裏を白く塗りつぶしていく。眩い光がだんだんとやみ、ヴィーヴォはうっすらと眼を開けていた。
ゆっくりと両腕を顔から離し、ヴィーヴォは正面にいるはずのヴェーロを見つめる。だが、そこにヴェーロはいなかった。
代わりに、銀糸の髪を靡かせる少女が浮いていた。背に生えた竜の翼を動かし、少女は宙に浮いている。透けるような白い肌は、地球の光を浴びて蒼く煌めいていた。
ゆったりと少女の眼が開けられる。その眼を見て、ヴィーヴォは息を呑んだ。
地球と同じ蒼い色彩をした眼は、自分の竜のそれと同じだ。
「ヴェーロなの……?」
導かれるようにヴィーヴォは少女へと手をのばしていた。少女は眼を細めヴィーヴォに微笑んでみせた。
その微笑みからヴィーヴォは眼が離せない。少女の五指が、ヴィーヴォの頬へと伸びていく。少女は指でヴィーヴォの頬をなぞり、笑みを深めてみせた。
「ヴィーヴォっ!」
「うわっ!」
弾んだ声をあげ、少女はヴィーヴォに跳びつく。彼女はヴィーヴォを素早く横抱きにすると、蒼い静脈が光る翼を広げ、宙へと飛び立った。
「ヴェーロっ!」
「行こうっ! ヴェーロは、地球が見たいっ!」
ヴィーヴォを抱え直し、ヴェーロは天井の穴から星空へと飛び出していた。ヴィーヴォの視界の片隅で、先ほどまでいた霊廟がぐんぐんと小さくなっていく。
霊廟に取り囲まれた銀翼の女王の竜骸が灯花の光に彩られ、湖を眩しく照らしていた。
空を仰ぐと、星空を虚ろ竜の陰影が魚のように泳いでいる。その頂きには蒼く輝く地球がある。ヴェーロはその地球を目指し、ぐんぐんと高度をあげていく。
「ヴェーロっ」
そんなヴェ―ロにヴィーヴォは声をかけていた。ヴェーロは不思議そうにヴィーヴォの顔を覗き込んでくる。
彼女の蒼い眼に吸い込まれそうだ。
「僕を、どこに連れていくの?」
「ヴィーヴォが笑ってくれる場所に行くっ!」
ずいっと顔を近づけ、ヴェーロは無邪気に微笑んでみせる。その微笑みに誘われるように、ヴィーヴォは彼女の唇を指でなでていた。
まるで花弁のように可憐なその唇に、自分のそれを重ねてみる。柔らかな唇の感触が体中に駆け巡り、ヴィーヴォはうっとりと眼を細めていた。
唇を離すと、ヴェーロは大きく眼を見開いてヴィーヴォを見つめてきた。
「ヴィーヴォ……?」
「君がいるところが僕が幸せになれる場所だよ、ヴェーロ。だから、君がここにいればいいんだ。僕の側にいれば――」
そっと彼女の両頬を包み込み、ヴィーヴォは彼女に微笑んでみせる。ヴェーロは嬉しそうに眼を輝かせ、微笑んでみせた。
「ヴィーヴォ歌って……。ヴィーヴォの歌が聞きたい」
「うん……」
愛しい少女の頬をなでヴィーヴォは歌を紡ぐ。
ヴィーヴォの歌に引き寄せられ星が尾を引きながら、ヴィーヴォたちの周囲を旋回する。星々はヴィーヴォの眼に吸い込まれ、灯花となってヴィーヴォの口から吐き出された。
竜胆の灯花が、ヴィーヴォたちを取り囲み輪舞を踊る。ヴィーヴォはその一輪を手に取って、ヴェーロの髪に差していた。
「父さん、ヴィーヴォが恋をしたよ……」
温室にいたマーペリアがぽつりと小さな声をはっする。
灯花をなでていた教皇は、空を仰ぐ息子へと顔を向けていた。片眼鏡に隠された眼を悲しげに歪め、マーペリアは温室を照らす地球を見つめている。
その地球を背にして、一人の少女が少年を抱え空を飛んでいた。
白銀の翼を生やした少女に抱かれ、ヴィーヴォが嬉しそうに微笑んでいる。お互いを愛しげに見つめ合う二人を、教皇は唖然と見つめることしかできない。
そんな教皇にマーペリアは今にも泣きそうな顔を向けてきた。
「だから……引き離した方がいいって言ったのに……。ヴィーヴォがあの子に選ばれちゃった……。あの子は普通の虚ろ竜じゃないのに……。あの子は……」
「マーペリアっ」
マーペリアの頬を涙が伝う。若草色の髪を振り乱し、教皇は息子へと駆け寄っていた。泣いているマーペリアを抱きしめ、教皇は彼の背中を優しく叩いてやる。
「大丈夫だ。ヴィーヴォを殺したりなんかしないよ……。ヴィーヴォが死を知るそのときまで、それは訪れないから……」
「でも、ヴィーヴォはあの子をきっと手放さない……。そしたらあの子はヴィーヴォを食べる……。母さんが、父さんを食べようとしたみたいに……。母さんが父さんを殺したくなって苦しんだように。あの子はヴィーヴォのために苦しむんだ……」
教皇の胸の中でマーペリアは上擦った声をはっする。そんな息子を優しく抱きしめ、教皇は口を開いた。
「そうだね。でもそれは宿命なんだよ、マーペ……。人でないものを愛してしまった私たちの罪なんだ」
そっと地球を仰ぎ、教皇は幸せそうに笑い合う少女と少年を見つめる。
その姿はかつての自分と妻そのものだった。
自分に恋をして傷を負いながらも水底へとやってきて妻は、人でしかない自分を愛してくれた。それがいけないことだと分かっていても、教皇は彼女の思いに応えた。
自分の心の中にサンコタがいることを知りながら、彼女は自分を愛してくれたのだ。そんな教皇の一途な思いに、惹かれたのだと彼女は言った。
そして彼女は、腕の中にいる愛しい存在を授けてくれた。
そして、彼女は中ツ空に帰り殺されたのだ。
仲間であるはずの虚ろ竜たちに――
「大丈夫だよ、マーペリア。もうすぐすべてが終わる。私たちは母さんの待つ中ツ空へと旅立つんだ。ヴィーヴォたちも、もちろん一緒だよ」
「ヴィーヴォたちは分かってくれるかな?」
「あぁ、もちろん。私もポーテンコもヴィーヴォもみんな一緒だからね。みんな虚ろ竜を愛して、彼女たちに焦がれている。だから、きっと私たちの想いを分かってくれるはずだ」
不安そうに自分を見つめる息子に教皇は微笑んでみせる。
そうきっとみんな理解してくれるはずだ。自分たちのやろうとしていることを。
なぜなら、彼らは空の向こうにいる存在に会いたいと心の底から思っているのだから。
「父さん」
マーペリアが安堵の表情を浮かべ胸に顔を埋めてくる。愛しい息子を教皇は優しく抱き寄せていた。
どうしてこうなったのか、ヴィーヴォは分からなかった。腕の中でぐったりとしているヴェーロを抱え、ヴィーヴォは聖都の外縁街を走る。
襤褸を纏っているために誰も自分が夜色だとはわからない。だが、腕に抱えた竜を道行く人々は奇異の眼差しで見つめていた。
僧兵たちが、そんなヴィーヴォを追う。坂道の中央通りを避け、ヴィーヴォは路地裏へと足を踏み入れていた。
走り続けたせいで喉が焼けるように痛い。大きな疲労を感じ、ヴィーヴォは壁に背中を預けていた。
「ヴェーロ……」
腕の中のヴェーロに話しかけても、彼女はヴィーヴォの声に応えようとしない。
さきほどまでの出来事を思い出して、震える腕でヴィーヴォはヴェ―ロを抱きしめていた。
すべてはポーテンコの言葉から始まったのだ。ヴィーヴォの霊廟にやってきた彼は、淡々とした口調でヴェーロを引き渡すように言ってきた。
それが、教皇の勅命だということも。
兄が何を言っているのか分からなかった。だが、兄は霊廟の中を飛んでいたヴェ―ロを無理やり捕え、嫌がる彼女を人形術で攻撃したのだ。
それから先のことは、あまり覚えていない。
床に倒れたヴェーロを抱え、ヴィーヴォは必死になって霊廟から逃げ出した。どこをどう走ったのかすら覚えておらず、気がついたらここにいたのだ。
「なんで、こんなことに……」
涙が溢れ出てしまう。
ぐったりとしたヴェ―ロを抱き寄せ、ヴィーヴォは嗚咽を必死になって耐えた。
「きゅん……」
弱々しい鳴き声が聞こえてヴィーヴォは竜を見つめる。眼をうっすらと開け、ヴェーロは自分を見つめていた。
「きゅん……」
優しく眼を細め、大丈夫だと自分の竜は鳴き声をかけてくれる。こみ上げてくるものを必死になって耐え、ヴィーヴォはヴェ―ロを抱き寄せていた。
「大丈夫、君は絶対に守るから……大丈夫だから……」
「きゅん……」
首を伸ばし、ヴェーロは自分の顔を覗き込んでくる。頬を流れる涙をそっと彼女は舌で拭ってくれた。
「こんなところにいたのか……」
瞬間、冷たい声がヴィーヴォの耳朶に突き刺さる。ぞわりとヴィーヴォは背筋が寒くなるのを感じていた。暗い、路地の奥へと顔を向ける。夜闇のような眼を鋭く細めたポーテンコが、自分を睨みつけていた。
「兄さん……」
「早く、彼女をこちらへ渡わたしなさい」
後ずさりするヴィーヴォに、ポーテンコはゆっくりとにじり寄ってくる。
「嫌だ……」
「ヴィーヴォっ!」
ゆっくりと首を振り、ヴィーヴォは震える声を兄に送っていた。そんなヴィーヴォをポーテンコが一喝する。
恐い。
その思いから、ヴィーヴォは兄に背を向け、駆けだしていた。
「ヴィーヴォっ!」
ポーテンコの声が後方でする。だが、彼から逃れることはできなかった。
捻れた手足を持つ木製の人形が、ヴィーヴォの行く手を塞いでいたのだ。翅から不気味な音をはっしながら、ポーテンコの木製人形はヴィーヴォににじり寄ってくる。
「嫌だ……。来ないで……」
涙を流しながら、ヴィーヴォは震えた懇願を人形にすることしかできない。
「ヴィーヴォ……」
怒気に満ちた兄の声が後方でする。兄に肩を掴まれた瞬間、ヴィーヴォは叫んでいた。
「嫌だっ! 誰か助けてっ! 助けて、Vero!」
ヴィーヴォの叫び声が周囲に轟く。
瞬間、ヴェーロから眩い光が発せられ、それは爆音を伴って周囲に襲いかかった。
目覚めたときヴィーヴォが聞いたのは、遠くで聞こえる爆音と、人々の悲鳴だった。
うっすらと眼を開けると、立ち昇る炎と煙が視界に映りこむ。
驚いてヴィーヴォは上半身を起こしていた。
炎に包まれた聖都が眼前にある。自分がいたはずの外縁街が赤々と燃えていた。
どうして自分は、こんなところにいるのだろうか。疑問に思い、ヴィーヴォは周囲を眺めていた。
そしてヴィーヴォは気がつく。自分が巨大な竜の背に乗っていることに。その竜が咆哮をあげ、聖都に向けて巨大な火球を放っていることに。
「なんだよ……これ……」
ヴィーヴォの呟きを無視して、竜は湖面を滑走し、巨大な火球を連続して吐き続ける。その火球から、聖都を守る少年たちの姿があった。
機械の竜が火球を受け止め、ヴィーヴォの眼の前で次々と大破していく。見慣れた紫陽花の灯花が巨大な蔓網となって火球を受け止める。
「ヴィーヴォ! どうしてこんなことをするんだっ? 君は僕たちの命よりも、その竜の方が大切なのっ?」
聞きなれた叫び声が、上空から聞こえる。小さな竜骸に乗ったマーペリアが、悲痛な眼差しをヴィーヴォに向けていた。
「マーペリア……?」
何が起こっているのか、わからない。気がついたら自分は、この竜の背中に乗っていたのだ。
「君は、その子のためだったらお兄さんまで平気で殺すのっ?」
マーペリアの叫び声を聞いて、ヴィーヴォは大きく眼を見開いていた。
自分が、ポーテンコを殺した。彼は何を言っているのだろうか。
「君がその子を名で縛ったんでしょ? そのせいで、ポーテンコはっ!」
マーペリアの言葉からヴィーヴォはすべてを悟っていた。
この巨大な竜はヴェーロだ。自分は名前を呼び彼女に助けを求めた。
無意識のうちに自分は彼女の名前を縛り、救ってほしいという命令を彼女に下していたのだ。
では、自分たちを捕えようとしていたポーテンコは――
「あ……嫌だ。兄さん、嫌だっ!」
がくりとヴィーヴォは竜の背の上で膝をついていた。
自分は兄を手にかけた。その罪の重さに、ヴィーヴォは胸が張り裂けそうになっていた。
「ヴィーヴォっ!」
両手を顔で覆うヴィーヴォのもとに、竜骸に乗ったマーペリアが接近してくる。彼はヴィーヴォのいる竜の背に近づき、ヴィーヴォに腕を差し伸べてきた。
「早くっ! 君の竜はおかしいっ!」
「マーペっ!」
「ヴィーヴォっ!」
マーペリアに促され、ヴィーヴォは彼の手を握りしめる。マーペリアはヴィーヴォを竜骸の背へと引き上げた。物凄い勢いで、竜骸は竜の背から離れていく。竜骸は燃える聖都を目指し突き進んでいた。
ヴィーヴォは離れていくヴェーロの姿を唖然と見つめることしかできない。
銀の鱗は珊瑚色が放つ灯花の槍も、金糸雀が操る機械竜たちの炎さえ受けつけない。巨大な翼で突風を巻き起こし、ヴェーロは空を舞う花吐きたちの体を弄ぶ。
何人たりとも彼女の攻撃を受けつけず、彼女は火球を吐いて聖都を業火の中へと放り込んでいく。
その姿は、聖都を形づくる銀翼の女王そのものだった。怒り狂った女王が、罪を犯した聖都を罰している。
業火に包まれる聖都に巨大な灯花の蕾が生じた。赤い薔薇を想わせるそれは花開き、散りゆく花弁で業火を切り刻む。薔薇の花弁は突風に乗り、巨大な彼女に肉薄していく。
ヴェーロが悲鳴をあげる。
首筋から赤い血を迸とばせながら、彼女は湖へと落ちていく。それでもヴェーロは蒼い眼で聖都を睨みつけ、口から巨大な火球を吐き出した。
強力な突風が辺りに吹き荒れ、ヴィーヴォたちの乗る竜骸を大きくゆらす。
「うわっ!」
マーペリアが悲鳴をあげる。飛ばされそうになった彼の腕を握りしめ、ヴィーヴォは竜骸の背中に必死になってしがみついていた。迫りゆく火球の衝撃波に竜骸は形を崩し、火球の熱波に装甲が溶かされていく。
「ヴィーヴォっ!」
マーペリアの叫びとともに、ヴィーヴォは彼を抱き竜骸から飛び降りていた。
落ち行く視界の先に、火球に飲み込まれる竜骸が映りこむ。ヴェーロへと眼を向けると、彼女は湖から顔を出し、新たな火球を放とうとしていた。
「もうやめてっ! Vero!」
ヴィーヴォの悲鳴が、周囲に響き渡る。暗い湖面がヴィーヴォの眼前に現れ、マーペリアともどもヴィーヴォは湖の中へと落ちていった。
聖都と比べ、ここは夜空に瞬く星が多い。それが花吐きがいなくなっているせいだとヴィーヴォが言っていたのを思いだし、竜の姿になったヴェーロは大きく翼を翻す。
ヴェーロの耳には、愛しい人の語りかけが優しく響き渡っていた。
「それから先のことは、君も知っての通り。僕は君の名前を白状させられるために拷問にかけられて、教皇に辱めも受けた……。でも、君の名前を僕は誰にも教えられなかった……。教えたくなかったんだ……。君だけは、どうしても僕のモノでいて欲しくて……。あとは、死んだと思っていた兄さんが僕を助けてくれて全部終わり。兄さんは教皇とかけあって、君と僕が生きられるよう取り計らってくれたんだ……。僕は、そんな兄さんを殺しかけたのに……」
「きゅん……」
背に乗るヴィーヴォが、震えた言葉で語りを終える。蒼い地球を仰ぎながら、ヴェーロは彼のために小さく鳴き声をはっしていた。
「けっきょく僕は、いつも誰かに助けられてばかりで、君を悲しい目に合わせてばかりいた。でも、それでも君は、僕と一緒にいてくれる。僕をずっと選んでくれる 」
そっとヴェーロの頭を、あたたかなぬくもりが包み込む。ぽたり、ぽたりと音を伴なって落ちてくるそれが何なのかヴェーロには分かっていた。
ヴィーヴォが泣いている。彼は何も悪くないのに、また自分を責めて苦しんでいるのだ。
ヴェーロはそんなヴィーヴォが、大好きで大嫌いだ。
すっと眼を細め、ヴェーロは人になりたいと願う。彼を慰めるために。
ヴェーロの体が光に包まれ形を失う。光は粒子となって集い、少女の姿を形づくる。
「うわっ!」
悲鳴が聞こえる。少女の姿となったヴェーロはゆったりと眼を開き、落ちていくヴィーヴォを追いかけた。僧衣を翻しながら、彼はじっと自分を見つめている。
星の宿る彼の眼からは涙が零れ、それは雫となって夜空を舞っていた。彼に近づくたび、ヴェーロの体にヴィーヴォの涙があたり、砕けていく。
泣いている彼に両手をのばし、ヴェーロは彼を抱き寄せていた。
「ヴェーロっ?」
「ヴィーヴォは何も悪くないっ!」
彼の頭を抱き寄せて、ヴェーロは叫ぶ。
そう、彼は何も悪くない。
悪いのは、本当に悪いのは――
「いつもヴィーヴォは竜のせいで不幸になる……。お父さんも、ヴィーヴォも……。大好きな人たちも竜は、殺そうとした……」
ヴェーロの眼から涙が伝う。涙は雫となってヴィーヴォの顔に降りそそがれる。
ヴィーヴォは優しく微笑んで、そんなヴェ―ロの頬をなでてみせた。軽く眼を見開くヴェーロの頬に指の背を走らせ、彼は指で眼に溜まった涙を拭ってくれる。
「君は、いつも僕のことを想ってくれている……。それだけで、僕は十分だ。君がいてくれるだけで……」
「ヴィーヴォ……」
愛しい人をヴェーロはそっと抱き寄せる。そんなヴェ―ロに応えるように、ヴィーヴォも自分を強く抱きしめ返してくれた。
「だから、僕は君に名前を返そう。もう、誰も君を縛れない。Vero、君の主は君自身だ……」
優しいヴィーヴォの囁きが耳に響き渡る。
瞬間、ヴェーロの脳裏で鎖の弾けるような音が響いた。
「ヴィーヴォ……。私は……」
唖然と、ヴェーロはヴィーヴォを見つめる。ヴィーヴォは優しく微笑みながら、ヴェーロに問う。
「愛しい女、君の名前は?」
「私は、ヴェーロ……。名前が、分かる。名前が、分かるわっ! ヴィーヴォっ! これは?」
驚く自分に、ヴィーヴォは穏やかな微笑みを向けるばかりだ。彼の眼がどこか悲しげなのは、気のせいだろうか。
「ヴィーヴォ……あなた……」
震える声が喉から出てきてしまう。ヴィーヴォは眼を歪め、自分の頭を抱き寄せた。
「もう君は誰にも縛られない……。君の主は君自身で、君は自由だ。その羽でどこまでも飛んでいけるよ……。僕の側にいなくてもいいんだ……」
「ヴィーヴォ……」
震える彼の体をヴェーロは力いっぱい抱き寄せていた。
ヴィーヴォが自分を名で縛ることをやめたのだ。それは、彼が自分を自由にするということ。
自分を、手放すということに他ならない。
「いや、どこにも飛んで行かない。私の居場所は――」
「ヴェーロ避けろっ!」
涙に咽ぶヴェーロの言葉は、ヴィーヴォの叫びに遮られる。
背中に熱さを感じた瞬間、ヴェーロは自分が攻撃されたことを悟っていた。
悲鳴をあげる自分をヴィーヴォが抱きとめる。彼は何かを叫びながら僧衣の懐に手を入れ、ヴェ―ロの鱗を宙にばら撒いていく。
光り輝く鱗がヴェ―ロたちの前に壁を作る。その壁に紅蓮に輝く火球がぶつかった。
鱗は盾となって、ヴェ―ロたちを襲う火球を防いでくれた。だが、火球によって鱗は燃えつきていく。
「ヴェーロ、僕に捕まってっ!」
ヴィーヴォの鋭い声と、彼の紡ぎ歌が耳朶に轟く。
星を吸い込んだヴィーヴォの眼は光り輝き、空中で制止した。彼の口から菖蒲の形をした灯花が吐き出される。
ヴェーロを抱きしめたまま、彼の体はゆったりと地上へと降りていく。眼前に広がる巨樹の森と、竜の遺骸の数々がヴェーロの視界に映りこんだ。
聖都の側に広がる、大樹海だ。
樹海の開けた草原に、水晶鹿の群れがいた。ヴェ―ロたちを見あげ、鹿たちは森の中へと逃げていく。
何もいなくなったその草原に、ヴィーヴォの体は投げ出されるように落ちていった。
「ヴィーヴォっ……」
背中の痛みが取れてくれない。それでもヴェーロは自身の下にいるヴィーヴォに声をかける。だが、彼を見た瞬間、ヴェーロは眼を見開き口元を両手で覆っていた。
ヴィーヴォの首筋に鋭利な傷が穿たれていたからだ。傷は深く、うっすらと骨らしきものが血の滲み出る断面から窺える。
荒い息を吐きながら、ヴィーヴォは顔を向けてくる。笑みを浮かべ、彼はヴェ―ロの頬に優しく手を添えてきた。
「ヴィーヴォ……」
ヴェーロは添えられた手を握りしめる。敵の攻撃から自分を庇い、ヴィーヴォは深い傷を負ったのだ。
自分のせいで、彼がまた傷ついた。
ヴェーロの眼から涙が零れ落ち、ヴィーヴォの頬を濡らす。悲しげにヴィーヴォは眼を歪め、ゆったりと首を横に振った。
彼は弱々しく微笑んで、眼をゆっくりと瞑る。
「ヴィーヴォ……?」
声をかけても、彼は応えてくれない。
「ヴィーヴォっ!」
「そんなに、彼を助けたい? 女王さま……」
ヴェーロの叫びを遮る者がいる。驚いて、ヴェーロは声のした前方へと顔を向けていた。
長光草を踏みしめ現れたその人物を、ヴェーロは睨みつけていた。
「若草……」
「おぉ、恐い」
片眼鏡に隠れた眼を歪め、若草はヴェ―ロに嘲笑を向けてくる。深緑の法衣を翻し、彼は颯爽とヴェ―ロたちのもとへと歩み寄っていく。
「来ないでっ!」
ヴィーヴォを抱き寄せ、ヴェーロは拒絶の言葉を彼に放っていた。
「その口調だと、ヴィーヴォが君を名で縛ることをようやくやめたようだね。予定通りだ。これで、すべてが上手くいく。大丈夫、君のお父さんも元気だよ。ヴィーヴォも今のオレだったら助けあげられる……」
彼の眼が妖しく光る。
マーペリアはゆったりと腰を曲げ、ヴェーロの顔を覗き込んできた。
「ねぇ、君はヴィーヴォを助けたいんでしょ? ヴィーヴォの命そのものを救いたいんでしょ? だったら、僕はとっておきの方法を知っている。ヴィーヴォを救う唯一の方法を。そのお陰で、君のお父さんは命を救われたんだ」
マーペリアが優しく囁いてくる。その言葉にヴェーロは自分の耳を疑っていた。
父であるポーテンコは虚ろ竜である母を愛していた。だが、彼は母に食べられることなく生き長らえている。
その秘密をマーペリアは知っているというのだ。その秘密によって、ヴィーヴォを救うことができるかもしれないと仄めかして。
「だから君の名前を教えて……」
マーペリアの甘い囁きが耳朶に轟く。顔をあげると、嗤う彼の顔が視界に広がった。
ヴィーヴォを、殺さなくて良い方法を彼は知っている――
「マー……ぺ……」
ヴェーロが唇を開きかけた瞬間、ヴィーヴォの声がかすかに聞こえた。
驚いて彼を見つめる。ヴィーヴォが薄らと眼を見開き、マーペリアを睨みつけていた。
彼の首筋からは、鮮血が流れ続けている。それでも彼はマーペリアを睨みつけることをやめない。
「私の……」
口を開きかけた自分の腕を、ヴィーヴォが握りしめてくる。その弱々しい力に、ヴェーロは顔を歪めていた。
彼は確実に死に向かっている。それでも自分を守ろうとしてくれているのだ。
「大丈夫よ、ヴィーヴォ……」
「竜……」
縋るように自分を見つめるヴィーヴォに笑顔を向け、ヴェーロは彼から顔を逸らす。
妖しい微笑みを浮かべる若草を見すえ、ヴェーロは口を開いていた。
「私の名前は、Vero……」
教皇庁にある謁見の間は、熱狂に包まれていた。
巨木のような支柱が対となって回廊の脇に並ぶ。虚ろ竜のレリーフが絡みつくその支柱を、天井から吊るされた巨大な西洋灯篭が照らしていた。灯篭の中に入った白い紫陽花の灯花は、興奮する人々を優しく照らしている。
そんな回廊の奥にある祭壇にマーペリアは立っていた。
祭壇に立つマーペリアは歓喜に湧き立つ人々を見すえ、演説を進める。
「教皇が大病で臥せっている今、代理として緑の一族の二つ名たる私が彼の言葉を代弁することを許してほしい。水底の住民たちよ、夜闇に怯える虚ろ世界の底の人々よ。先ほど伝えた通り、花吐きたちの数は年々減り続け、辺境の地では疫病が蔓延する状態が続いている。もはや水底に未来はない。だからこそこの闇の地から去ろう。新天地を求めて。彼女の存在は、それを可能にするっ!」
翠色の眼を喜色に輝かせ、マーペリアは隣にいる少女を腕で示す。
白銀の翼を鎖で飾られた彼女は、虚ろな蒼い眼をマーペリアに向けた。しゃらんと彼女の銀髪を飾る髪飾りが玲瓏な音を奏でる。純白のドレスに身を包んだ美しい少女にマーペリアは微笑みかけ、聴衆へと視線を戻した。
「私たちを中ツ空と導く銀翼の女王はここにいるっ! 彼女は永い眠りから目覚め、水底の民たちを救うべく立ちあがった! 黒の一族の夜色を花婿として迎え、彼女は彼とともに私たちを新天地へ導くことを約束してくれたのだ! 虚ろ竜たちの住まう、光あふれる中ツ空へとっ! もう闇に怯えることはないっ! 明るい未来は眼前に迫っているっ!」
マーペリアの力ある言葉に、人々は歓声をあげる。だが、彼の隣にいる少女は虚ろな眼を熱狂する人々に向けるばかりだった。
マーペリアは父との長年の夢を実現させようとしている。
一つは母の故郷である中ツ空に行くこと。そしてもう一つは母を殺した銀翼の一族を倒すこと。
その二つがもうすぐ叶う。
虚ろな眼差しを向ける少女に微笑みかけ、マーペリアは歌を奏でる。
それは遠い昔に、母が自分に歌ってくれた子守歌でもあり、ヴィーヴォが目覚めない自分に紡いでくれた思い出の歌でもある。
人々は緑の二つ名たるマーペリアの歌に耳を傾け、静かに涙を流している。
マーペリアは喜びに包まれていた。
長年、暗闇の中で過ごしていた人々を明るい世界に連れていける喜びに。
中ツ空を支配する銀翼の一族を倒し、水底と中ツ空を隔てる大天蓋を破壊する。そうすれば、中ツ空の虚ろ竜たちはいつでも水底に降りることが出来るのだ。
父と母のように、二つの世界に引き裂かれる者たちはもはや存在すらしない。
水底の生命は虚ろ竜たち滅ぼされるかもしれない。だからマーぺリアは選ばれた人々のみを中ツ空に連れていくことにした。
銀翼の女王を使って――
それが動くと父から聞かされたとき、マーペリアは驚きを隠せなかった。そして、銀翼の女王が今もなお『生きている』ことを彼は教えてくれたのだ。
銀翼の女王の竜骸には巨大な歯車の機械が取りつけられている。その歯車が女王を生かしていると知ったとき、マーペリアは興奮した。
彼女の記憶は、蒸気で動くその機械に記録されているというのだ。
そして色の一族たちは、その力を持って代々銀翼の女王を復活させようとしていた。銀翼の女王を復活させたものこそ、この水底を治めるにふさわしい存在だということも彼らの祖先は伝えていたのだ。
その女王の魂をヴェーロが引き継いでいることもマーペリアは父から教えてもらった。
それは銀翼の一族の娘が夜色であったポーテンコを求めてやってきたことから始まった。
父は封印されていた銀翼の女王の魂を、降りてきた虚ろ竜の娘へと託したのだ。
彼女は生まれ変わり、再び銀翼の一族として生を受ける。花吐きヴィーヴォの恋人として、彼女はこの世に生を授かったのだ。
回想を終えて、マーペリアは眼を開く。
マーペリアの眼の前には、薄い水晶の水槽に閉じ込められた無数の歯車が映りこんでいた。水に満たされた水槽からときおり蒸気が噴き出て、周囲を白く染あげる。
かつて銀翼の女王の魂はここに封印され、それは歴代の教皇のみが知ることのできる秘密でもあった。
その銀翼の女王を復活させる機械がマーペリアの眼前には並んでいる。通路の脇に並ぶ歯車の水槽を見つめながら、マーペリアは通路の最奥に置かれた円柱の水槽へと微笑みを送っていた。
「素敵だよ……。オレの女王さま……」
歪んだ微笑みをマーペリアは水槽の中の人物に送ってみせる。
銀糸の髪を水中に揺らめかせ、ヴェーロは水槽の中を漂っていた。虚ろな眼をマーペリアに向ける彼女の体には、無数の管と歯車が取りつけられている。
「さぁ行こうヴェーロっ! 君の一族を皆殺しにねっ!」
マーペリアの哄笑が室内に響き渡る。その言葉を受けて、水槽の中に浸たされていた無数の灯花が光を放ち始めた。
ヴェーロの唇から銀色の気泡が吐き出される。彼女の虚ろだった眼は苦痛に彩られ、声にならない悲鳴をあげようと大きく唇を開く。
身悶える彼女を見つめながら、マーペリアは笑い声を発していた。
嗤いながらマーペリアは涙を流す。なぜ自分が泣いているのか、マーペリアには分からなかった。
長年の夢が叶った喜びの涙なのか。苦しむ眼前の少女とこれから死を迎える友人を悼むために流されている涙なのか。
それとも――
「オレはどこに行こうとしているの? 母さん……」
疑問は呟きとなってマーペリアの口から零れる。
その言葉に応えてくれる者はいなかった。
暗い海原から人魚たちが次々と顔を出し、星空を仰ぐ。岩礁に座っていたメルマイドは薄紅色の眼を大きく見開いていた。
ニンゲンたちの操る竜骸をメルマイドは何度か見たことがある。恋人であるコーララフはそれに乗って自分に会いに来てくれたから。
だが、これほどまでに巨大で禍々しい竜骸をメルマイドは見たことがなかった。
小島ほどもあるその竜骸は、蔓と化した無数の灯花で全身を覆われ、水晶の骨の内側に建物が立ち並ぶ通路を幾つも持っている。竜骸に巻きついた灯花たちは、その存在を誇示するかのように不気味に明滅を繰り返していた。
あれは銀翼の女王の竜骸ではないか。恋人が巨大な竜骸そのものが聖都であると語ってくれたことがあるから。
りぃんとメルマイドの髪飾りが音をたてる。鮮やかな桜色の髪飾りには、コーララフの魂が宿っているのだ。彼の友人である花吐きが、メルマイドの親友とともにコーララフの魂をこの髪飾りに変えてくれた。
「ヴィーヴォ……。ヴェーロ……」
友人たちに何かあったのだろうか。そっと恋人の髪飾りをなで、メルマイドは顔を曇らせる。
星空へと昇っていく巨大な竜骸を、メルマイドは見送ることしかできなかった。
「どう、ヴィーヴォ? 普通の人間に戻った感想は――」
「ぐぁ……」
首筋の傷に爪を立てられ、ヴィーヴォは呻く。巻かれた包帯に血が滲み、ヴィーヴォは鈍い痛みを感じていた。
「きゃはは! ちゃんと手当てしても痛いものは痛いんだね」
自分を見つめる、マーペリアの顔が嘲りに彩られる。
暗い室内で妖しく光る彼の眼をヴィーヴォは睨みつけていた。本当は殴ってやりたいところだが、自分の手足を拘束する蔓状の灯花たちがそれを許してくれない。
「おぉ、恐い……。でも、花吐きとしての恩寵を失った君に、もう灯花たちは応えてくれないよ。その証拠に、君からは花の香りがしない。君の眼には星すらも宿っていない。まだ能力を失ったばかりだから、少しはいい香りがするけどね……」
べろりとマーペリアが首筋を舐めてくる。体を震わせる自分を見て、マーペリアは厭らしい笑みを浮かべてみせた。
「あぁ、君を虐めていると本当にゾクゾクする。父さんが君に手を出した理由がよくわかるよ」
「捻くれマーペ……。まさか君まで父親と似て変態だとは思わなっ、あっ、やぁ!」
嘲笑を浮かべるヴィーヴォの傷口を、マーペリアは容赦なく抉る。
血に濡れた指先を口に銜え、彼は舌で血を舐めとってみせた。ねっとりとした唾液が彼の指先を嫌らしく輝かせる。
「生意気な口を聞くと、オレも君を女のように扱わないといけなくなるかもしれない。傷口じゃなくて、君の秘密をオレが暴くことになる……」
耳元で囁き、マーペリアは唾液に濡れた舌でヴィーヴォの耳たぶを舐めあげる。びくりと体を震わせ、ヴィーヴォは潤んだ眼をマーペリアに向けていた。
「最愛の女に裏切られて、花吐きとしての能力も奪われたのに、君はまだ抵抗するんだね……。オレは君のことを本当の親友だと思っているのに」
「何が親友だ。僕たちを、兄さんを散々な目に合わせたくせしてっ!」
マーペリアにヴィーヴォは叫んでみせる。マーペリアは困った様子で肩を落とし、ヴィーヴォから顔を離した。
「それに、ヴェーロは僕を助けるために花吐きの能力を奪っただけだ。君にかどわかされて……」
「彼女がそれを望んだんじゃないか? だから、ヴェーロちゃんはオレが教えた通りに君から花吐きの能力を奪った。そうすれば、君を屠りたいという欲求が治まると言ったのはオレだけどね」
「彼女の名前を気安く呼ぶなっ!」
ヴィーヴォの怒鳴り声に、マーペリアは不機嫌そうに眼を細める。
「やめてよヴィーヴォ……。オレをこれ以上怒らせないで。君とは死に別れるまで友達でありたいんだ」
そう語る彼の眼には色が宿っていない。ヴィーヴォはその眼差しに背筋が凍るのを感じていた。
彼の内に宿る狂気が、その眼差しに込められている気がしたから――
それでも負けじとヴィーヴォは彼を睨みつける。マーペリアは困った様子で嘆息し、言葉を続けた。
「庭師さんもヴェーロちゃんも無事だって何度も言ってるだろう? それに、銀翼の女王は君がいて初めて真の復活を遂げる。君の魂がヴェ―ロに喰われることで、すべては完遂されるんだ」
自身を抱きしめうっとりとマーペリアは言葉を紡ぐ。その言葉の意味をヴィーヴォは理解していた。
虚ろ竜は花婿に選んだ人物の魂を喰らうことで、成竜となり自身の世界を持つことが可能になるという。兄から聞かされたその話を、ヴィーヴォは信じられない気持ちで聞いていた。
ポーテンコは言った。
自分が亡くなる直前に、ヴェーロの母親は自分の魂を喰らうために再び現れるのだと。
そう約束を交わし、彼女を中ツ空に帰したのだと――
「ヴェーロが成竜となったときこそ、銀翼の女王は覚醒する。そうすればみんなが幸せになれるんだよ、ヴィーヴォ……」
マーペリアはヴィーヴォに微笑みかける。彼はヴィーヴォの両頬を手で包み込み、ヴィーヴォの唇に自分のそれを重ねてみせた。
「君がヴェーロの花婿として食べられる瞬間を、見守ってあげるからね。血の一滴まで君が彼女に喰われつくされるその瞬間まで……」
ねっとりとした甘い囁きが耳元でする。嬲るように耳を舐められ、ヴィーヴォは甘い声をはっしていた。
「君は、オレたちの王さまになるんだ、ヴィーヴォ……」
ふっと耳に息を吹きかけられ、ヴィーヴォはびくりと肩を震わせる。マーペリアは満足そうな笑みを浮かべ、ヴィーヴォから離れていく。
「また来るよ、君たちの家族が待つ大天蓋が近づいてきたらね」
マーペリアは不敵な笑みをヴィーヴォに向けてきた。ヴィーヴォが彼を睨みつけると、マーペリアは寂しげに眼を曇らせる。
顔を逸らし、彼はヴィーヴォの囚われた部屋からでていく。その様子をヴィーヴォはじっと見つめていた。
さて、芝居はここまでだ。
マーペリアが去っていったのを確認し、ヴィーヴォは鋭く眼を細めていた。それと同時に漆黒に塗りつぶされたヴィーヴォの眼に、星の瞬きが宿る。
ヴィーヴォは得意げに笑ってみせ、自分を拘束する灯花たちに話しかけた。
「お芝居に付き合ってくれてありがとう。君たちが、協力してくれるとは思わなったよ」
ヴィーヴォの優しい声を合図に、自身の体を拘束していた灯花たちはヴィーヴォの体から離れていく。蔓のように伸びた茎は元の長さになり、紫陽花の灯花たちはもとの可憐な姿を取り戻していた。
灯花たちは、寂しげな音を奏でてみせる。ヴィーヴォは腰を曲げ、そんな灯花たちを優しくなでていた。
「マーペリアを止めて欲しいんだね……」
ヴィーヴォの言葉に、花たちは静かに明滅を繰り返す。
灯花は自分たちを吐いてくれた花吐きを慕う習性を持っている。その習性を利用し、花吐きは灯花たちを武器として使用することすらある。基本的に灯花が主である花吐きに逆らうことはない。
その花吐きが間違いを犯していると判断しない限りは――
そっとヴィーヴォは拘束されていた手首を見つめる。花たちの拘束は緩く、そこには縛られた跡がうっすらと残っているだけだ。
「本当、助かった……」
手首をなで、ヴィーヴォは微笑んでみせる。普通の人間の振りをするのは意外と簡単だった。星たちと灯花が協力してくれたからだ。
それから――
「抑制剤って、本当に役に立つ……。でも、そろそろ時間切れかな……」
ヴィーヴォからむせるような花の香りが漂い始める。竜胆の香りに似たそれは、嗅ぐ者を酔わせ誘惑する。
精通が来てからヴィーヴォはこの香りに悩まされてきた。香りを嗅いだものが、自分に嫌らしい眼を向けることも苦労したものだ。
襲われそうになったこともあったし、ヴェーロが香りに充てられて自分を押し倒したこともあった。そんな自分が聖都に戻ってきたとき兄が渡してくれたのが、茶華樹を乾燥させることでできる抑制薬だ。
ポーテンコ曰く、二次性徴を迎えた花吐きは無意識のうちに誰かを誘っているのだという。
ただし、聖都で抑制薬を口にすることは、あまりいいことだとされていないらしい。
その理由が何となくわかって、ヴィーヴォは乾いた笑みを顔に浮かべていた。
「本当、聖都追放されててよかったよ……。じゃなきゃ、ヴェーロもどうなっていたことか……」
愛しい女の笑顔を思いだして、ヴィーヴォは眼を伏せる。
花吐きの能力をヴェーロが奪おうとしたそのとき、ヴィーヴォは彼女に告げたのだ。
能力の半分だけを彼女に分け与えると。自分が助けに行くまで、どうか待っていてほしいと。
母親を中ツ空に帰しながら、花吐きの力を失っていないマーペリアがヒントを与えてくれた。
花吐きの力の一部を譲渡することができれば、彼女たちは愛しいものを食べたいという欲求から逃れることができるのではないか。
目論見は当り、ヴィーヴォは花吐きとしての力を失っていない。
「力を貸してくれる?」
ヴィーヴォの言葉にマーペリアの灯花たちは涼やかな音色を発する。紫陽花の形をした灯花たちは幹を蔓のように伸ばし、ヴィーヴォの両掌へと集まっていく。
蔓たちは絡まり合い、その姿を小さな短剣へと変えていた。ヴィーヴォは自分の手に収まったそれを優しく握る。
短剣の柄は紫陽花の額が重なり合うような形状をしていた。薄紫色に光る刀身には星の輝きを宿したヴィーヴォの眼が映り込んでいる。
その眼を鋭く細め、ヴィーヴォは短剣の柄を握りしめる。
教皇庁の一室から逃げ出してきたヴィーヴォを出迎えたのは、不気味なほど静かな街並みだった。
銀翼の女王の中には、美しい街が築かれている。透明な背骨に造られた大通りには、骨をくり抜いて作られた壁龕の店が立ち並ぶ。
吊るされた灯花で輝く店には、色とりどりの果実や、鹿肉、鮮やかな花が並び街を彩っている。
それらを背景に、美しい星空が透明な街の外には広がっていた。
そこに通りを往来していた人々の姿はない。代わりにあるのは、黒く輝く夕顔の灯花だ。透明な通路を塞ぐように、それらの花々は咲き誇っている。
ひゅん、ひゅんと夕顔の花は悲しげにヴィーヴォに向かって音をはっする。その音から、これらの花がマーペリアの吐いたものだとヴィーヴォには分かった。
「マーペ……どうして……?」
じわりと眼が涙で潤んでしまう。ヴィーヴォはしゃがみ込み、そっと夕顔の花をなでていた。夕顔の花に変えられた灯花は転生することなく、永遠に水底で咲き続ける運命を背負わされる。
金糸雀から聞かされたことがある。
金の一族が代々製法を伝えている機械竜は、灯花を熱源として動いていると。そして、銀翼の女王の遺骸に取り付けられた歯車の機械も同じ原理で動いているのだ。
恐らく、夕顔の花は銀翼の女王の中で生活をしていた人々の魂だ。この巨大な竜骸を動かすためには大量の灯花が必要になる。マーペリアはその灯花を手に入れるために、聖都の人々を夕顔に変えたのだ。
「君は、そんな奴じゃなかったはずだろ……」
何が彼を狂わせたのだろう。
ほろりとヴィーヴォの頬を涙が伝う。その涙は黒い夕顔の花弁を小さくゆらし、床へと落ちる。
「マーペリア……」
ぎゅっと自身を抱きしめ、ヴィーヴォはこみ上げてくる涙を必死になって耐えていた。
そのときだ。外で大きな爆音がしたのは――
驚いて、ヴィーヴォは水晶で隔てられた星空へと顔を向ける。
夜色の竜が機械竜たちに追われている。その竜を見て、ヴィーヴォは息を呑む。
「父さん?」
漆黒の眼で機械竜を睨みつけるその姿は、水晶に閉じ込められている父そのものだ。黒い炎を吐きながら、竜は自身に襲いかかる機械竜たちを倒していく。
火花を散らしながら機械竜が落ちていく。爆発する機械竜を背後に控えながら、竜はヴィーヴォのいる中央通りへと向かってくる。
「ちょ、こっち、来る?」
物凄い勢いで向かってくる竜に驚き、ヴィーヴォは立ちあがっていた。
瞬間、轟音が辺りに響き渡った。
竜は竜骸の背骨を打ちこわし、中央通りへと侵入してくる。その衝撃に、ヴィーヴォは地面へと押し倒されていた。吹き飛ばされたヴィーヴォの体を、灯花たちが優しく受けとめてくれる。
竜の唸り声が耳朶に轟く。
顔をあげると竜が大きな顔を自分に近づけ、匂いを嗅いでいた。荒い鼻息が顔にかかり、ヴィーヴォは思わず顔を顰めてしまう。
「なんだよ……。こいつ……」
ヴィーヴォの言葉に、灯花たちが悲しげな音色をたてる。竜は、悲しげに漆黒の眼を細めてみせた。
その眼差しが、あの人と重なってしまう。
囚われているはずの兄と――
「兄さん?」
教皇が竜になったことを思い出し、ヴィーヴォは口を開いていた。竜は悲しげに鼻を鳴らし、顔をヴィーヴォに擦りつけてくる。
「本当に、兄さんなの?」
ヴィーヴォの言葉に竜は悲しげに眼を細めるばかりだ。
「なんで……? なんで、兄さんまで竜に……? 何なんだよ、これ……?」
声が震えてしまう。
そんなヴィーヴォを慰めるように、ポーテンコは弱々しい鳴き声をはっしてみせる。
「マーペリアっ! どうして?」
友だった少年の名をヴィーヴォは叫んでいた。それでも、その声に応える者はいない。ただ、竜になったポーテンコが小さく翼をはためかせただけだ。
「グゥっ!」
低い唸り声をポーテンコがあげる。ヴィーヴォはそんな兄を見あげていた。
真摯な眼差しをヴィーヴォに送りながら、兄は背中の翼をはためかせてみせる。彼は眼を鋭く細め、空を仰いだ。兄の視界の先には、竜骸の頭がある。
あそこに、兄は何かあることをヴィーヴォに知らせようとしているのだ。
竜骸に頭部には、操縦室が設けられている。
恐らく、あそこにマーペリアはいるのだ。
そして、ヴェーロも――
「連れて行ってくれるの? ヴェーロのもとに……」
立ち上がりヴィーヴォは兄に問いかける。兄は低く唸り、背中をヴィーヴォに向けてきた。
「まさか、兄さんの背中に乗る日が来るなんてね」
「グゥ!」
苦笑するヴィーヴォに顔を向け、ポーテンコは不機嫌そうに唸ってみせる。
背中に乗れと急かす姿が何だがヴェーロと似ていて、ヴィーヴォはこみ上げてくるものを必死になって押さえていた。
ヴィーヴォは眼を拭い、地面を力いっぱい蹴っていた。ポーテンコの背中に跳び乗りヴィーヴォは言葉を放つ。
「行こう、兄さん。僕たちの愛しい女のもとへ――」
ヴィーヴォの言葉に、ポーテンコは鋭い咆哮を放つ。
聖都中にばら撒まいていたヴェーロの鱗が、こんなところで役立つとは思わなかった。
機械竜からの追撃を躱す兄の背に乗りながら、ヴィーヴォは思う。
ヴィーヴォが手を掲げるたびに、銀翼の女王に残されたヴェーロの鱗が反応し上空へと舞いあがってくる。
鱗は空中を旋回しながら、ポーテンコを追う機械竜の装甲を傷つけていく。肘や首の装甲が甘くなっている可動部を狙い、ヴィーヴォは鱗を機械竜たちに放つ。
鱗に切り裂かれた部分から火花を散らし、機械竜たちは墜落していく。次々と落ちていく機械竜を見つめながらも、ヴィーヴォは険しい表情をやめることはなかった。
前方を睨みつける。
ヴィーヴォたちの行く手には、巨大な緑の竜が立ちはだかっていた。翠色の眼を嫌らしく歪め、竜は嗤ってみせる。
竜になった教皇だ。
「グゥ!」
兄が唸る。ヴィーヴォはポーテンコの背を静かになで、声をはっした。
「兄さん、打ち合わせ通りにいける?」
ヴィーヴォの言葉に応えるように、ポーテンコは小さく翼を動かす。ヴィーヴォは口元に笑みを浮かべ、兄の背から跳び降りていた。
教皇の咆哮が耳朶に轟く。ヴィーヴォは、腰に差した灯花の短剣を抜き放っていた。
「頼む、力を貸してっ!」
ヴィーヴォは短剣を頭上に掲げる。短剣は眩い光を放ち、刃を蔓へと変えた。その蔓が、教皇の首に巻きつく。
ヴィーヴォはその蔓にぶら下り、遠心力を利用して前方へと飛ぶ。首に急激な重りがかかり、教皇は頭をたらしながら呻き声をあげた。
その教皇の首筋に、ポーテンコがかぶりつく。ヴィーヴォは短剣の蔓を教皇の首から放し、紡ぎ歌を奏でていた。
空中に投げ出されたヴィーヴォの眼に、星たちが吸い込まれていく。
体を輝かせながら、ヴィーヴォは前方へと手を翳かざしていた。空を舞っていたヴェーロの鱗が並び、薄い壁をヴィーヴォの前へと作り出す。
その壁を蹴りあげ、ヴィーヴォは上空へと飛んだ。
歌が止むと同時に、唇から灯花が生まれる。灯花は物凄い勢いで成長し、竜骸の頭部へと伸びていく。複雑に絡み合いながら巨大な蔓となって伸びていく灯花に、ヴィーヴォは跳びついた。
ヴィーヴォを乗せ、灯花は竜骸の頭部を目指して成長していく。
鋭い咆哮が聞こえて、ヴィーヴォは下を見つめていた。緑の竜に噛みつかれ、ポーテンコが悲痛な声をあげている。
兄は竜を睨みつけ、傷を負わせたその首筋に再度噛みついてみせた。緑の竜は悲鳴をあげながらも、翼を激しく動かし兄を引き離す。
吹き飛ばされる兄に、緑の竜は火球を発する。兄は翼を大きく翻し、その火を消してみせた。
ポーテンコの漆黒の眼がヴィーヴォを捉える。ヴィーヴォは真摯な眼差しを兄に送り、近づいてくる竜骸の頭部を睨にらみつけた。
ヴィーヴォは頭部に向けて片手を翳してみせる。ヴィーヴォの前方に鱗が集まり、それは小さな竜の形をとった。竜たちは火球を吐き、竜骸の頭部を攻撃する。煙とともに爆音があたりに轟いて、竜骸の頭に穴を作り出した。
体を丸め、ヴィーヴォは穴の中へと飛び込んでいった。
眼前に飛び込んできたのは、歯車の入った水槽の群れだった。
白く濁る水槽の中で、夕顔の灯花が暗い光を放っている。水槽の水からは絶えず気泡があがり、水中で漂う灯花を弄んでいた。
そんな水槽が、大理石の敷きつめられた通路に所狭しと並んでいるのだ。水槽からは無数の管が伸び、それは通路の奥へと続いていた。
「なんだよ、これ……」
どこか禍々しさを感じる光景に、ヴィーヴォは顔を顰める。
稀人たちが金の一族に機械の技術を伝えていたことは知っていた。機械竜を初めて見たときも、術なしで動かせる竜骸にヴィーヴォは感動したものだ。
けれどここにある装置からは、不気味さしか感じられない。
手に持つ短剣を腰にさげ、ヴィーヴォは前方を見つめる。水槽の吐き出す蒸気によって白く曇る通路の奥に何かがある。
眼を凝らしそれを見つめるヴィーヴォは、驚きに声をあげていた。
「ヴェーロ……?」
地面に膝をつき、ヴィーヴォは最奥にいる愛しい女性を見つめる。
それは巨大な花だった。
巨大な灯花がヴェーロの白い裸体を包み込んでいる。白い百合の形をしたそれの周囲には、色とりどりの灯花が咲き誇っていた。
優しい音を奏でながら、灯花たちは蒼い眼から涙を流すヴェーロを慰める。ヴェーロの花にはいくつもの透明な管がとりつけられ、それらは歯車のついた水槽に繋がっていた。
「ヴィー……ボ……」
弱々しい声が耳朶を打つ。
ヴェーロがゆっくりと首を動かし、虚ろな眼をこちらにむけていた。
「ヴィー……ボ……」
涙に潤んだ蒼い眼が自分に向けられた瞬間、ヴィーヴォは弾かれたように立ちあがっていた。
「ヴェーロっ!」
「綺麗でしょ? 君の花嫁だよ、ヴィーヴォ……」
自分の声を遮る者がある。ヴィーヴォは眼を見開き、その人物を凝視していた。
深緑の法衣を翻し、花に飲み込まれたヴェーロの後ろからマーペリアが姿を現す。片眼鏡に隠れた翠色の眼を妖しく煌めかせ、彼はヴィーヴォに嗤ってみせた。
涙に濡れるヴェーロの頬に指を這わせ、彼はヴェ―ロの顔を両手で包みこむ。
「やめろっ!」
とっさにヴィーヴォは怒鳴り声を張り上げていた。そんなヴィーヴォを愉しげに眺めながら、マーペリアはヴェ―ロの頬にかかる銀糸の髪を彼女の耳にかけてやる。
彼女の耳に唇を寄せ、彼は囁いた。
「さぁ、Vero。君の愛しい花婿が、君を迎えに来てくれたよ。君は彼を、どうしたいの――」
マーペリアの囁きにヴェーロの眼が歪められる。彼女は大粒の涙を眼から流し、悲鳴をあげた。
「いやぁああああっ!」
彼女の体は白く明滅し、光の粒子となって霧散する。粒子は空中で再び集まり、巨大な竜の形をとった。
銀の鱗を持つ竜は、縦長の瞳孔を持った眼でヴィーヴォを睨みつける。
銀翼を翻し、竜は咆哮をはっする。竜の咆哮は空気を揺るがし、乱立する水槽の硝子を震わせた。
「ヴェーロっ……?」
恋人の異変に、ヴィーヴォは唖然とすることしかできない。ヴェーロは鋭く眼を細めヴィーヴォに唸ってみせる。
翼をはためかせ、ヴェーロは飛び立つ。
ヴィーヴォの眼前に着地した彼女は口から牙を覗かせ、ヴィーヴォに唸った。
びちゃりと、牙の覗くヴェーロの口から涎がしたたり落ち、ヴィーヴォの頭にかかった。ヴィーヴォはそっと顔をあげ、彼女を見上げる。
あのときと同じだ。ポーテンコに連れて行かれそうになっていた自分を、ヴェーロが迎えに来てくれたときと。
――きゅんっ!
自分を叱咤した彼女の鳴き声が、耳元で蘇る。
口に含んだ卵をヴェーロが吐き出したせいで、自分の体は彼女の涎まみれになった。自分が抗議すると、彼女は早く逃げるぞとヴィーヴォを怒ったのだ。
「あのときと同じだね」
ヴィーヴォは愛しい女に語りかける。ヴェーロは大きく眼を見開き、ヴィーヴォを見おろした。
彼女を微笑んだ眼で見つめながら、ヴィーヴォは言葉を続ける。
「君が口に入れた卵を僕に渡して、そのせいで僕は君の涎まみれになった。今でも、僕は君のせいで涎まみれ……。一緒でしょ?」
ヴェーロの眼が歪められる。小さく口を開け、ヴェーロは唸った。
「でも、君を迎えに来たのは、僕。あのときと逆だね。一緒に帰ろう。君が掘ってくれたあの巣へ。僕たちが二人で過ごした場所へ」
ヴィーヴォは彼女に両手を差し伸べていた。ヴェーロは大きく眼を見開き、差し伸べられた手に鼻先を近づける。その鼻をヴィーヴォはそっとなでていた。
「ねぇ、ヴェーロ……。言っただろ。君の主は君自身だ。君は、どうしたいの?」
彼女の頭をそっと両手で包み込み、ヴィーヴォは問いかける。
「きゅん……」
その問いかけに応えるように、愛らしい竜の鳴き声が耳朶に轟いた。
気持ちよさげに眼を細め、ヴェーロは嬉しそうにヴィーヴォの両手に頭をすりつけてみせる。ヴェーロの眼に優しい光が宿り、その眼差しはヴィーヴォへと向けられていた。
「ヴェーロ、お帰り……」
ヴェーロがくるくると喉を鳴らして、自分に甘えてくる。彼女の頭を抱き寄せ、ヴィーヴォは小さく囁く。
「愛してるよ、ヴェーロ……。命なんていらない。君がいてくれれば、僕はそれだけで――」
「Vero、ヴィーヴォを食べてっ!」
ヴィーヴォの言葉は、マーペリアの弾んだ声に遮られる。大きな咆哮が耳朶に突き刺さり、ヴィーヴォは眼を見開いていた。
ヴェーロが自分を突き放し、苦しそうに頭を振っている。彼女は牙を剥き出しにして、ヴィーヴォを睨みつけてきた。
それでも、ヴィーヴォは笑顔を崩さない。
「おいで、ヴェーロ……」
両手を広げ、愛しい人の名を呼ぶ。
微笑むヴィーヴォの眼の前で、ヴェーロは咆哮をあげた。
ヴェーロが気づいたとき、鼻孔にむせるような花の香りと血の匂いが漂ってきた。次に、体中に生暖かな液体がついていることに気がつく。
それが血だと分かったのは、自分が見つめた両掌が鮮血で彩られていたからだ。
眼の前には、血で穢れた床がある。その血の中に倒れ込むヴィーヴォがいた。
彼は引き裂かれた腹部から黒い血と鮮やかな桜色の内臓を剥き出しにしていた。噛みちぎられた彼の頭部は胴体から外れ、血の中に漂っている。その頭についた漆黒の眼がヴェ―ロに向けられていた。
星屑のような光に彩られていた眼は、茫洋とヴェーロを見つめるばかりだ。
「ヴィーヴォ……?」
何が起きているのか、ヴェーロには分からなかった。ただ愛しい人は声をかけても返事をくれない。
血の海の中にヴェーロは座り込む。
両手を床について彼の顔を覗き込む。虚ろな眼から星屑めいた輝きが少しずつ失われていく。
「ヴィーヴォ……」
呼びかけても、彼は応えない。
そっと彼の頭を両手で包み込む。温かな彼の頭部は、だんかだんと冷たく、固くなっていく。
ヴィーヴォが死んだ。
「いやぁあああああああ!」
それが分かったとき、ヴェーロは悲鳴をあげていた。
「ヴィーヴォ! ヴィーヴォ!」
抱きしめた首に話しかけても、彼は応えてくれない。ヴェーロを嘲笑うかのように彼のぬくもりは失われていく。
「あはははははぁははははははは! これで、オレの望みが叶うっ! 母さんを殺した奴らを皆殺しに出来る!」
狂ったマーペリアの笑い声が聞こえる。ヴェーロは涙に濡れた眼を彼に向けていた。
壊れたように笑う彼は、涙を流しながら自分たちを見つめていた。嗤っているのに、彼は悲しんでいる。
そんなマーペリアにヴェーロは困惑の眼差しを送ることしかできない。
ふと、自分の手に小さな吐息がかかる。
細い息遣いが耳朶に聞こえ、驚いてヴェーロはヴィーヴォの首を見つめる。ヴィーヴォの眼の中で星が瞬いている。焦点の定まっていない彼の眼が、じっと自分を見つめていた。
「ヴィーヴォ……?」
眼を見開いて、ヴェーロは彼の頭を抱き寄せる。かすかに聞こえる鼓動にヴェーロは眼を潤ませ、笑みを浮かべていた。
ヴィーヴォは生きている。
それなのに、マーペリアは泣いたまま壊れたように笑うことをやめない。
ヴィーヴォはここにいるのに。
そう彼はまだ、ここにいる。それが分かり、ヴェーロは涙を止めていた。
「さぁ、オレの女王様! 花婿を食べた感想はどうっ? これから一緒に君の一族を殺しまくろうっ!」
マーペリアが高らかに言葉を放つ。ヴェーロはそんな彼に眼を向けていた。
「来ないでっ!」
ヴェーロは凛とした声を放っていた。マーペリアの顔から笑みが消える、彼は不機嫌そうに眼を歪めヴェーロを見すえた。
「Vero、そんなことを言って――」
「私の主は私。もう、名前に縛られたりなんてしない」
――Vero、君の主は君自身だ……。
愛しい人の言葉を思い出し、ヴェーロはマーペリアの言葉を遮る。マーペリアは驚いた様子で眼を見開き、震える声をはっした。
「まって、名前で縛れないって、どういう……」
ぴくりと腕の中でヴィーヴォの首が身じろぎする。驚いてそちらを見つめると、ヴィーヴォの眼が縋るように自分を見つめていた。
ヴェーロは彼の頭を優しく抱きしめ、言葉をかける。
「ずっと一緒だよ。ヴィーヴォ……。ずっと、私たちは一緒……」
彼に微笑みかけ、ヴェーロは歌を口ずさんでいた。
それは、紡ぎ歌だった。
ヴェーロの美しい旋律は、はるか上空に浮かぶ星々を震わせる。星は流れ星となり、蒼い尾を引きながらヴェーロのもとへと舞い下りる。
ヴェーロは星に語りかける。
あなたはどんな命を生きてきたのか。
何を見てきたのか。
誰を愛し、愛されたのか。
星々はヴェ―ロの言葉に応え彼女の眼に吸い込まれていく。ヴェーロの蒼い眼に、星屑のような光が宿った。
ヴェーロの体が淡く輝く。
ヴェーロは優しく微笑み、腕に抱いたヴィーヴォの頭を顔に近づける。
輝く眼を細め、ヴェーロは彼に口づけをしていた。
ぴちゃんと石英の牢獄に雫の滴る音がする。金糸雀は大きく眼を見開き、その音を聞いた。
「ヴィーヴォが死んだ……」
直感で分かったことを口にする。すると眼前で息を呑む声が聞こえた。自分の前に立つ緋色が、驚いた様子で朱色の眼を見開いている。
「銀翼の女王が目覚めようとしているんだ……」
「ヴィーヴォの恋人が……。それならよかった……」
裸体を緩やかな赤毛で包んだ彼女は、安心した様子で眼を細めていた。その眼を見て、金糸雀は自分たちの関係を今更ながら自覚してしまう。
自分と緋色は、父を同じくする異母兄妹だ。それに気がついたのは、父に妾がいると知ったときだった。
父は赤毛の美しい女性を愛人として囲っていた。今思えばその人は、緋色の母に違いないのだ。
どういう経緯か知らないが、父は没落した赤の一族の生き残りを探し出し、その女性との間に緋色を設けた。野心家だった父は、女性の花吐きを娘に持ったことで調子に乗ってしまったのだろう。
無謀にも彼は反乱を起こし、緑の一族である教皇に粛清される。緋色を父に利用されたくなかった金糸雀も、教皇の味方として戦った。
けれどその事実に、緋色は気づいていたようだ。
何かにつけて自分をお兄ちゃんと呼ぶ彼女は、自分だけに心を開き夫となる他の花吐きたちには見向きもしなかった。
ローガは会ったその日から、自分だけを見つめていた。
「お兄ちゃん……」
彼女に呼ばれて、我に返る。初めて会った日と同じ無邪気な微笑みを、ローガは顔に浮かべていた。
「愛してる」
そっと金糸雀の頬に手を差し伸べ、ローガは微笑んでみせる。そのまま彼女は金糸雀の両頬を包み込み。唇に自分のそれを重ねてきた。
涙がこみ上げてくる。
だが金糸雀は泣くことなく、ローガを抱きしめていた。
彼女を喰らうことが、自分が生まれた理由なのだ。
頭の中にある始祖の記憶は、自分に女の花吐きを喰らえと囁いてくる。
喰らえ。
そうすれば水底は秩序を回復し、暗い世界に再び光が訪れると。
「お兄ちゃん」
優しい声が再度自分を呼ぶ。金糸雀は眼を歪め、ローガの体をゆっくりと放した。
瞬間、金糸雀の体は光に包まれる。
体に激痛が走り、軋んだ音をたてながら自身の骨格が変形していく。激痛が治まる。眼を開けると、目線がかなり高くなっていることに気がつく。
見おろした先には笑みを浮かべる愛しい少女がいる。その少女の眼に映った自分を見て、金糸雀は眼を歪めていた。
朱色の眼に映る自分は、金の鱗を持つ竜だったから。
もう自分は人ですらない。そのことを今さながらに実感してしまう。
ほろりと、竜の眼から涙が零れ落ちる。そんな竜を慰めるようにローガは悲しげに微笑んで、唇を開いた。
彼女から、懐かしい歌声が紡がれる。
それは遠い昔に、父の愛人だという女性が歌っていたうただった。
幼い自分が母に繰り返し聞かされた子守歌だった。
そっとローガが両手を広げ、涙に濡れた眼で自分を見あげてくる。金糸雀は大きな咆哮をはっしながら、翼をはためかせていた。
「お姉ちゃんが、呼んでる……」
牢の前にいる娘がぽつりと声を漏らす。大きく眼を見開き、彼女は後方にいる自分へと顔を向けてきた。それと同時に、洞窟の外で咲いている灯花が激しく音を奏で始めた。
そのときがやってきたのだと、ヴェーロの母は悟る。
裸体を覆う銀糸の髪を翻し、母は牢獄へと近づいていた。不安げに自分を見つめる娘に笑みを送り、母は牢獄を覆う石英の格子にふれる。
娘が成竜となったのだ。そして彼女は自分の魂に眠る力すらも取り戻した。
自分たちの一族を統べる存在として――
そんな彼女が歌で自分たちに呼びかけている。
ここに来てほしいと――
「行きましょう。あなたの罪は赦されました……」
牢獄に囚われた竜に母は語りかける。
寝そべっていた緑の竜は驚いた様子で顔をあげ、濁った白緑の眼を自分へと向けてきた。
「息子さんに、会いに行きませんか?」
竜にヴェーロの母は優しく微笑んでみせる。瞬間、石英の格子は煌めく粒子となって崩れ去っていった。
牢獄に閉じ込められていた竜の体は淡く輝き、一人の女性へと転じていた。
深緑の美しい髪を持つ彼女は、不安げに母に顔を向けてくる。
「あの子に会えるのですか?」
「会いに行きましょう。愛しい人たちに」
自身の番を思い、母は微笑を顔に浮かべていた。
あの人にポーテンコに会いに行ける。娘が、私たちを引き合わせてくれる。
そう思うだけで、母は幸せを感じることができた。
「またここに来ちゃった……」
暗い夕顔が咲き乱れる丘を見おろしながら、ヴィーヴォは自嘲を顔に浮かべていた。
自分が死にかけるたびに訪れる死の丘。その丘の上にヴィーヴォは佇んでいる。
苦しげに咆哮をあげていた愛しい女のことを思い出し、ヴィーヴォは眼を伏せる。恐らく自分はその愛しい存在によって屠られ、ここにやってきた。
それにしても――
「僕も珊瑚色みたいに花を吐いて死んだ訳じゃないから、こうやって死後の世界の入り口に立っていられるのかな?」
桜色に輝く眼を持っていた同胞のことを思い出し、ヴィーヴォは呟いていた。殺された彼の魂は消滅することなく、今なお愛しい人魚と共にある。
「まーた来ちゃったの? 夜色っ」
弾んだ声が聞こえて、ヴィーヴォは後方へと振り返っていた。その声が、思い出していた人物の者であったから。
「珊瑚色……」
桜色に輝く銀髪を三つ編みにした珊瑚色がヴィーヴォに微笑みかけている。彼は軽く跳んで、ヴィーヴォの眼の前へと移動してきた。
「ちょ、近いよっ」
「近いよじゃない。君だって、こんなところにいる場合じゃないだろう? 愛しい人魚を独り残して、こんなところに来なきゃいけない僕のことも考えてよ」
彼は肩を竦め、ヴィーヴォに抗言する。彼の言葉にヴィーヴォは顔を歪めていた。
「別に、君に来てって頼んでるわけじゃないし、君が勝手に来てるだけだろう?」
「だったら君もこんなところに来るなよっ! 愛しい彼女が泣いてるよ……」
「泣いてるって……。でも、僕は……」
もう、自分はあちら側に戻ることはできない。
こみ上げてくるものを耐え、ヴィーヴォは俯く。できることなら今すぐ彼女のもとに帰って、彼女を抱きしめたい。
でも、自分はその彼女に――
「いや、勝手に自分のこと殺すとか、ヴィーヴォは相変わらず面白いやつだね」
そんなヴィーヴォに珊瑚色の弾んだ声がかけられる。彼の言葉にヴィーヴォは顔をあげていた。
「え、それって……」
「戻るんだ。そして見届けろ。それが、君の役割であり責務だよ、ヴィーヴォ……。彼女を抱きしめてあげるんだ」
珊瑚色がヴィーヴォの体を押す。押された瞬間、ヴィーヴォの体は後方に現れた崖へと落ちていった。
「ちょ、コーララフっ!」
視界から急速に遠ざかる彼に、ヴィーヴォは叫ぶ。
「もう、戻ってくるんじゃないよ。花吐きヴィーヴォ……」
そんなヴィーヴォに手を振り、コーララフは微笑んでみせた。その微笑みが寂しげなものに感じられてしまう。
もう、彼には会えない。
だって、自分はもうここには来られないから――
「さようなら、コーララフ……」
涙を流しながら、ヴィーヴォはコーララフに別れを告げていた。
さぁ、帰えろう。
愛しい彼女のもとへと――
「何なんだ、これは……」
マーペリアの唖然とした声が耳朶に響き渡る。ヴェーロはそれでも構うことなく、藍色の竜胆を吐き続ける。ヴェーロの周囲には、輪舞を繰り返す灯花たちの一団があった。
花を吐くたびに、ヴェーロの体は少女のそれから女性のそれへと変わっていく。
小さな胸の膨らみは豊かさを持ち合わせ、あどけない容貌は凛とした魅力を備えた整ったそれへと変わっていく。
長くなる手足とともに背丈も高くなり、少女の体は完全なる女性のそれへと変化していた。
蒼い光を伴いながら最後の花がヴェ―ロの口から吐き出される。
それとともに、吐き出されるものがあった。
それは竜の翼を持った少年だった。夜色を想わせる紺の髪を靡かせ、彼はゆっくりと漆黒の眼を開ける。
眼には星屑めいた光が宿り、少女のように可憐な容貌を彩どっていた。
「ヴィーヴォ……」
自らが吐き出した愛しい人の名前をヴェーロは囁く。涙に、彼を映す視界が歪む。
「ヴェーロ……?」
瞬間、彼の眼に光が宿り自分を不思議そうに見つめてきた。
「ヴィーヴォっ!」
ヴェーロの頬を涙が流れる。
ヴェーロは眼前に浮かぶ愛しい人へと駆けていた。彼を抱きしめ、ヴェーロは彼の名を何度も呼ぶ。
「ヴィーヴォ……。ヴィーヴォ……。よかった……本当によかった……」
「あれ……僕、死んだんじゃ……。え? 君、ヴェーロっ?」
唖然とした彼の声が耳朶を叩く。ヴェーロは顔をあげ、涙に濡れた眼に笑顔を浮かべていた。
「そう、私があなたを食べたの。だから、あなたの魂は私の中にある。あなたは、ずっと私と一緒にいるのよ、ヴィーヴォ……」
「なるほど。魂ごと虚ろ竜に食べられると、こういうことになるんだ……。つまり、僕は肉体的には死を迎えたけど、魂は君に取り込まれて意識は君とともにあり続けるってことかな……?」
「難しいことなんてどうでもいい……。ヴィーヴォが側にいれば、私は何もいらないの。何も……」
「そうだね……。僕は君と共にある。それで十分だ」
ヴィーヴォの肩に顔を埋め、ヴェーロは静かに泣いていた。ヴィーヴォはそんな自分の頭を優しくなで、体を抱き寄せてくれる。
彼の心音が、耳朶に轟く。
彼が生きている。その事実が嬉しくて、ヴェーロの頬を涙が伝っていく。
ヴィーヴォの魂は自分の中にある。
ヴェーロが生きている限り、ヴィーヴォはヴェ―ロの中で生き続ける。
そしてヴィーヴォは将来、ヴェーロの背に出来るであろう新たな世界の管理人となる
彼はヴェ―ロの中で生き続けながら、ヴェーロの世界を管理する神となるのだ。
それが、虚ろ竜と番になった花吐きが辿り着く結末。食べられた花吐きは、花嫁たる虚ろ竜の中で生き続け、彼女の世界を守り続ける。
「あはははははぁはははは! 傑作だよ! まさか、カニバリズムを拒んでいた彼女たちの葛藤が、これほどまでに呆気ないものだったなんて……」
マーペリアの笑い声が耳朶に轟く。驚いて、ヴェーロは顔をあげていた。
「マーペ……」
自分を抱きしめるヴィーヴォも唖然とかつての友を見つめている。
自分たちを見つめながら、彼は笑っていた。涙を零しながら、彼は言葉を続ける。
「残念だけど、オレの負けみたいだ……。父さんが海に落ちていく……。オレも行かなくちゃ……」
弱々しく彼が言葉を紡ぐ。
瞬間、彼の背後にあった壁が爆音とともに吹き飛んだ。吹き飛ばされた壁の周囲を、緑色の鉱石めいた竜が飛んでいる。
マーペリアが人形術で操っている竜の人形だ。その人形が彼の背後にある壁を吹き飛ばしたのだ。
「さよなら……ヴィーヴォ……」
ヴィーヴォに顔を向け、マーペリアは微笑んでみせる。たんっと床を蹴って、マーペリアは壁の穴から夜空へと踊り出していた。
「マーペっ!」
紺青の翼を翻し、ヴィーヴォがマーペリアを追う。そんなヴィーヴォを追おうとしたヴェ―ロの耳朶に、美しい歌声が聞こえた。
「これは……」
驚いて、ヴェーロは壁に開いた穴を見つめていた。
夜に支配されていた空が白やみ、光輝いている。そこに浮かぶ小さな光球にヴェーロは見覚えがあった。
竜の頭蓋から飛び降りると、緑の竜が海に落ちていく光景が見えた。
竜となった教皇だ。体から煙をあげながら、彼は蠢く闇色の海へと落ちていく。その竜を追いかけるようにマーペリアの体は落下していく。
「マーペっ!」
親友の名を叫び、ヴィーヴォは彼を追っていた。紺青の翼を翻して、落ち行くマーペリアへと肉薄していく。
そんなヴィーヴォを見つめ、マーペリアが弱々しく微笑んだ。
「マーペっ!」
マーペリアにヴィーヴォは腕を伸ばす。
だがそんなヴィーヴォの前に、黒い塊がせり上がってきた。
塊は視界からマーペリアを遮り、ヴィーヴォの行く手を邪魔する。それが翼を翻す兄だと分かり、ヴィーヴォは叫んでいた。
「兄さん……。ごめん、どいてっ!」
紺青の体から血を流しながら、ポーテンコはヴィーヴォを睨みつける。
「兄さんっ! マーペがっ!」
ヴィーヴォの声に応えるように、ポーテンコは唸る。彼は漆黒の眼を静かに細め、上空を仰いだ。
「なに……?」
兄の反応が気になり、ヴィーヴォも空を仰ぐ。
そこに広がる光景に、ヴィーヴォは眼を大きく見開いていた。
夜が、明けていく。
空がかすかに白い光を帯び、桜色に染まっていく。空を光で染め上げるのは、眩く光る白い球体だった。
その眩い球体をヴィーヴォは見あげることしかできない。
「金糸雀……緋色……」
二人の同胞の姿が、ヴィーヴォの脳裏を過る。
緋色は言っていた。
水底の秩序を回復させるために定期的に始祖の記憶を継承する花吐きが現れ、女の花吐きを喰らうのだと。女の花吐きを取り込むことで始祖の竜は力を取り戻し、この世界を循環させる新たな花吐きを生みだすことができるようになる。
白い光は、金糸雀と緋色がその役目を果たしたことを意味している。
あれは、太陽だ。
この水底の大陸たる始祖の竜が吐いた太陽。その太陽が、輝きを取り戻した。
太陽の光を帯びて、こちらへと飛んでくる銀翼の竜たちが眼に入る。白銀の帯を空に描きながら、彼女たちは女の姿をとり始める。
朝陽の訪れとともに、彼女たちの唇は歌を奏でだした。
それは、懐かしい子守歌だった。
遠い昔、母であるサンコタがヴィーヴォに聞かせてくれた歌。ヴィーヴォが愛するヴェーロのために紡いだ歌。
桜色の空がその色合いを蒼のへと変えていく。銀の翼を生やした女性たちの歌声が蒼空に響き渡る。
どこまでも、どこまでも――
そんな中、こちらへと向かってくる女性がいた。銀髪で豊かな胸を隠した彼女は自身の前方にいるポーテンコへと向かって行く。
女性の側には、竜の翼を持った小さな少女の姿もある。その子が大きな眼をヴィーヴォに向け、微笑んでみせた。
卵から生まれたヴェーロの妹だ。
「あなた……」
ふわりと、ヴェーロの母がポーテンコの前にやってくる。彼女は辛そうに眼を潤め、鱗で覆われたポーテンコの額に唇を落とした。
ポーテンコの体が眩い輝きに包まれる。光に包まれた彼の体は縮んでいき、人の姿を取り戻していく。
元の姿に戻ったポーテンコは大きく眼を見開き、自分の手を信じられない様子で見つめていた。
「これは……」
「あなたっ! よかった」
「お父さんっ!」
驚くポーテンコを、ヴェーロの母は力強く抱きしめる。妹もまた、眼を潤ませ父であるポーテンコに抱きついた。
「兄さん……。お義母さん……」
そんな彼らの様子をヴィーヴォは唖然と見つめることしかできない。そんな自分の横を、緑の翼を持つ女性が通り過ぎていく。深緑の髪をゆらす彼女はすれ違いざま、光りを宿さない眼を細めヴィーヴォに微笑みかけていた。
暗い海へと落ちていく父親を見つめながら、マーペリアは薄く微笑んでいた。
緑の鱗に覆われた竜と化した父。彼は自ら竜になることで、中ツ空で生きようとした。
中ツ空は虚ろ竜たちの世界であり、人である自分たちが踏み入れてはならない場所でもある。そんな中ツ空に人間が行く方法が、一つだけあった。
それは自らが彼女たちと同じ竜になること。
母である虚ろ竜の血を引いたマーペリアは自ら竜に転身することができる。そんな自分と共に中ツ空で生きようと父は人であることを捨てたのだ。
だからマーペリアはポーテンコも竜にした。かつての友であった彼も、愛しい竜が待っている中ツ空に連れていきたかったから。
でも、その夢は砕け散った。
母を想い、人を捨ててまで空を目指した父が暗い海へと沈もうとしている。銀翼の女王は自我を取り戻し、障害となる彼女たちの一族を倒すことすら出来なかった。
「ごめん……母さん……」
じわりと視界が涙で滲む。
そのときだ。
マーペリアの耳朶に、懐かしい子守歌が響き渡ったのは。
驚いて、マーペリアは上空を見あげる。
銀の翼を翻した美しい女性たちが、蒼い空を背に子守歌をうたっている。
それは、眠っていた自分に友人のヴィーヴォが歌ってくれたうたでもあり、遠い昔に母が自分に聞かせてくれた歌でもあった。
その歌声が、自分に近づいてくる。
懐かしい母の笑顔と共に――
「かあ……さん……?」
自身と同じ緑の髪を翻し、こちらに微笑みかける女性をマーペリアは見つめることしかできない。女性は笑みを深め、自分の体を強く抱きしめてくれた。
そのあたたかな温もりを、マーペリアは覚えている。
小さかった自分を、いつも抱きしめてくれた優しい腕のあたたかさを。
「ただいま、マーペリア……」
そっと頭を優しく抱き寄せ、女性は自分の耳元に囁きかける。
その声を聞き、マーペリアは声をあげて泣いていた。
その微笑みが誰かと似ていることに気がつき、ヴィーヴォは女性を視線で追う。
彼女は海に落ちていくマーペリアを追っていた。暗い海に飲み込まれようとしていた彼を抱きしめ、彼女は歌をうたいだす。
母が歌ってくれた子守歌を――
銀の翼を持つ女性たちが空で奏でる、美しい歌を。
その歌声を目指し、緑の竜がマーペリアと女性のもとへと飛んでくる。二人は緑の竜に笑顔を向け、その背に乗った。竜は大きく咆哮を放ち、太陽めがけて昇っていく。
「マーペリア、どこに行くの?」
緑の竜に手を差し伸べ、ヴィーヴォは友の名前を呼ぶ。竜はその声に応えることなく。マーペリアを空の向こうへと連れ去っていく。
「彼は家族のもとへ帰りました。みんなで故郷にいくのでしょう」
女性の声が聞こえて、ヴィーヴォはそちらを見つめていた。ヴェーロの母が、ヴィーヴォに微笑みかけている。彼女の腕には兄のポーテンコがしっかりと抱きしめられていた。
「そして、あなたはヴェーロとともに旅に出ます。水底の終わりである天蓋の向こう、中ツ空へと。あなたの伴侶である銀翼の女王とともに。彼女はあなたと一つになり、自身の体に世界を宿せる成竜となりました。だから、あなたたちの居場所はここじゃない……」
言い終えて、彼女は澄んだ空を仰いだ。
空を優美に飛ぶ銀色の竜がいる。彼女は蒼い静脈が映える白銀の翼を翻し、地球を想わせる眼に笑みを浮かべていた。
自分の愛しい竜が、自分を迎えにやってくる。彼女を見つめながら、ヴィーヴォは笑みを零していた。
「お帰り、ヴェーロ。それから、ただいま」
ぽつりと思いが声になる。その声に応えるように、愛らしい竜の鳴き声が聞こえた。
背に生えた翼を翻し、ヴィーヴォは愛しい女のもとへと向かって行く。
「そうして、花吐きヴィーヴォは暗い水底から自分が育てた虚ろ竜と共に旅だった。虚ろ竜たちの故郷、中ツ空へとね。長い年月をかけて銀翼の女王は成長し、この世界が出来たわけだ。だから、花吐きヴィーヴォはこの世界を統べる神さまなんだよ」
ぱたんと本を閉じ、一人の少年が言葉をはっする。石に腰かけた彼の周囲には、さきほどまで話を聞いていた子供たちがいた。
柔らかな苔の大地に寝そべったり、座ったりしている子供たちは不思議そうに少年を見つめるばかりだ。少年は三つ編みにした紺青の髪をゆらし苦笑してみせた。
彼の眼に宿った星屑の光が、困ったように瞬く。
少年の眼に映るのは感嘆と眼を光らせる子供たちの視線と、その子供たちの後方を優美に飛ぶ巨大な竜たちの姿だ。小島ほどもある巨大な竜たちの背には森林や山脈が広がり、そこを行き交う鳥たちの姿も見える。
そのうちの一匹が苔むした顔をこちらに向け、翠色の眼に笑みを浮かべてみる。その巨大な眼の周りを、小さな緑の竜が楽しげに飛んでいた。
翠色の眼の竜の隣には、苔とシダ植物に覆われた銀翼の翼を広げ、蒼い眼を優しげに細めた竜の姿もある。
「といっても、ここがその中ツ空なんだけどねぇ……。あれからもう、何千年経ったんだろう。ねぇ、お前たちはこの世界がこれからどうなっていくと思う?」
こくりと首を傾げ、ヴィーヴォは子供たちに語りかける。子供たちは蒼い眼をいっせいにヴィーヴォに向け、笑ってみせた。
「ちょ、なにがおかしいんだよ。僕は一応、君たちのお父さんなんだよっ! お母さんのせいで姿が子供なだけでっ!」
本を胸に抱き、立ちあがったヴィーヴォは我が子たちを睨みつける。
話を聞かせていた子供たちは、この数千年の間に愛しいヴェーロとの間に生まれた娘たちだ。もう何十人もいる子供たちの親なのに、ヴィーヴォは成長することなく少年の姿のままでいる。
それを気にしているヴィーヴォを、子供たちはときおりからかうことがあるのだ。
銀髪を風に靡かせる子供たちは、背に生えた竜の翼をはためかせ、ヴィーヴォのもとへと飛び込んできた。子供たちに押し倒され、ヴィーヴォは声をあげる。
「ちょ、なんなのっ?」
「お話ー!」
「お父さん、お話もっとっ!」
「お姫さまのお話も聞きたいっ!」
子供たちはヴィーヴォに抱きつきながら、物語の続きを懇願する。
「あぁ、もう今日で何回目だよ、これ! 分かったからお父さんを放してっ!」
ヴィーヴォの言葉に、子供たちはしぶしぶヴィーヴォの体から離れていった。彼女たちは苔のベッドに寝そべり、物欲しげにヴィーヴォを見つめてくる。
はぁっとヴィーヴォはため息をついて、地面に座る。手に持っていた本を開き、ヴィーヴォは子供たちに笑顔を送った。
「じゃあ今度は、地球で眠っているこの虚ろ世界の創造主。眠り姫についてのお話をしようか。この中ツ空のある虚ろ世界は、地球にいる少女が見ている夢に過ぎないという。彼女はこの世界に生きる人々を心の底から愛し、目覚めた後もこの世界の出来事を物語として書き残した。自分の世界に生きる人魚たちの物語と共に。だから、この世界はここにあり続けるんだ。これからもこの先も。彼女が物語を書き続け、人々が彼女の物語を読み継いでいく限り――」
そっと、ヴィーヴォは苔むした地面を優しくなでる。その下に広がる愛しい女の体を想いながら。
空に浮かぶ蒼い地球を仰ぎ、ヴィーヴォは遠い昔のことを思い出していた。
今も昔も、彼女は変わらず自分を背に乗せ飛んでいる。
これから先もずっと――
二人は空を飛びながら、旅を続けていくのだ。
読者の皆様、長いあいだ僕と彼女の物語にお付き合い頂き、誠にありがとうございます。
大変申し訳ないが、これは読者のための物語ではありません。
彼女と、彼女の陰である僕の物語でもあり、あなたにとっては他人事ともいえる何処かの誰かのお話だ。
あなたはこの物語を通じて、僕らの生きた道筋をなぞっただけかもしれない。
でも、どうか懸命に生きた彼女のことは覚えておいて欲しい。
僕を救い、導いてくれた一匹の虚ろ竜のことを――
きっとあなたの側にも、あなたの竜がいるはずだ。
そしてその人は、あなたの心の中に生き続ける。
今までもこれからも、あなたが彼を彼女たちを忘れない限り――
では、これにて花吐きヴィーヴォの語らいを終えるとしよう。
花吐き少年と、虚ろ竜 終
水槽で色とりどりの人魚が泳いでいる。それは花が咲き誇っているかのように美しい光景だった。
青色、赤色、黄色に、橙。
彼女たちの尾びれを覆う鱗は、まるで花びらのように鮮やかだ。人魚の尾びれは水中に燐光を残していく。燐光が花火のようにぱっと散る。
その光景が、映写機みたいに繰り返し僕の目の前を彩っていくのだ。
そして、水槽に浮かぶ僕はその光景を『視る』。自分の眼ではなく、僕の体に埋め込まれた特殊デバイスを使って。
デバイスを通じて僕の脳内に存在する擬似視覚野が働き、僕に映像を認識させているのだ。
僕は水槽の中に浮いている。
生まれてから、僕はこの人工子宮から出たことがない。
僕の体は動かない。生まれてすぐ、僕の運動野は酷い外傷を負ってしまった。そんな僕を生かすために、父さんは僕をここへ入れたんだ。
――みさき。どの子がいい。どの子が、みさきのお気に入りだ?
父さんの声が頭の中で響く。デバイスが父さんの声に反応し、水槽の正面を映し出す。
水槽の硝子に僕の体が映る。焦点の合わない眼をこちらに向けてくる僕は、骸骨みたいな体をしていた。その体には無数のコードが取りつけられている。
半透明に透ける僕の体の向こう側に父さんがいる。よれよれの白衣を着た父さんは無精を生やした顔に、人懐っこい微笑みを浮かべていた。
父さんはいつも笑っている。僕は、そんな父さんの笑顔を見るとホッとするんだ。
僕はちゃんと人間なんだと安心する。父さんは、ちゃんと僕を息子として愛してくれていると確認できる。
僕のことをモルモットだと言う人もいる。実験に取り憑つかれた父さんは、実の息子を自分の欲望のために犠牲にしたのだと。
――みさき、どうした? みさき?
頭の中で、父さんが呼びかけてくる。父さんの顔が、不安げに僕を見つめていた。
――なに? 父さん?
僕は頭の中で父さんに返す言葉を思い浮かべてみる。その言葉が、鏡文字で水槽のガラスに書き込まれる。水槽のガラスは透明ディスプレイになっており、僕の話したい言葉を表示できるようになっているのだ。
口の聞けない僕は、こうやって父さんと『会話』をする。
この言葉は水槽の外にいる父さんに向かって書かれたものだ。水槽を覗いている父さんからは、ちゃんとした文字として表示されている。
――みさきにパートナーをあげようと思って、この『メロウ』たちを放したんだが、気に入らなかった?
――メロウ? 何それ?
――アイルランド諸島に伝わる人魚の名前だよ。この子たちはミサキのパートナーになる子たち。『オペレーションシステムMERROW』だ。みさきはどのメロウが良い?
デバイスで僕は水槽の中を泳ぐメロウたちを視る。僕の動かない体を、半透明の彼女たちは通り抜けていく。
この子たちはホログラムだ。彼女たちは父さんの作った人工知能、電子の世界で生きるAIの人魚たちだという。
その中から父さんは、僕だけのメロウを探せというのだ。
国の法律で、十二歳以上の未成年には健全な育成と学習をサポートする有能なAIが与えられることになっている。
2045年にAIが人類の知能を超越してからというもの、人類の日常は一変した。今や国連の最高決議から国際司法裁判所の採決、戦争の停戦に至るまでAIの存在は欠かせないものとなっている。
特に人口減少が著しいこの国において、労働の機械化は避けては通れない問題だった。いまや人が並んでいたラインは全てアームロボットが取り仕切り、その無数のアームロボットが可動する全国各地の工場を、本社にあるAIが全て一括管理している。
人が意見を出して、最終決定をAIが決める。そんな関係が当たり前のものとなっているらしい。といっても、脳に接続されたインターネットから得た情報だからどこまで正確なのかはわからないけど。
今も昔も、電子の海には偽りと真実が無数に浮かんでいる。そのネットの中から子供たちに有益な情報をもたらす存在が、義務教育型オペレーションシステムと呼ばれるAIだ。
文部科学省が開発したこのオペレーションAIは、この国の国籍を持つ全ての子供たちに譲渡されることになっている。
そして父さんは独自開発した義務教育型オペレーションシステムを誕生日プレゼントとして僕に贈るつもりなのだ。
といっても……。
――選べないよ。こんなに……。
自分の周囲を巡る人魚たちを、僕は『視る』。さぁ、私を選んでよ。そう言いたげにメロウたちは宝石のように煌めく眼を向けてくるのだ。
戸惑いの言葉を僕は父さんに送ってみせる。ガラスに書かれた文字を見て、父さんの顔が悲しげに曇る。
――みさきが喜ぶと思って、いろんな子を作りすぎちゃったかなぁ? どうしよう……。パパ、どうしたらいいかなぁ?
――どうしたらいいって……。
涙ぐむ父さんを見て、僕は呆れ果てる。
義務教育型オペレーションシステムは一人の子供につき一つというのが原則だ。複数持つ子供もいるらしいが、それはとても少ない例らしい。
尾びれを輝かせ、急かすようにメロウたちは僕の周囲をぐるぐる巡る。
その中に一匹だけ、毛色の違う奴がいた。
真っ白なメロウだった。
白というと少し語弊がある。彼女の眼は瑠璃色をしていたし、体も他のメロウと同じく輝いていた。
蒼色と表現したらいいだろうか。
そのメロウが体を動かすたびに、体全体が月光のような輝きを放つのだ。特に彼女の髪は印象的だった。
ウェーブのかかった白銀の髪は、月光に照らされた水面のように静かに煌く。その光景が美しくて、僕は思わず彼女に見入っていた。
――その子が気になるのか?
父さんの声が、頭の中で響く。僕は正面にいる父さんを視た。父さんは、楽しそうに微笑んでいるじゃないか。
――月みたい……。
――その子を作った日は、月が綺麗だったんだよ。
父さんの嬉しげな声が、頭の中で答えてくれる。
――ほら、呼びかけてごらん? その子は、みさきに応えてくれるよ。
父さんの言葉に応じて、僕は彼女に呼びかけてみた。
――こんにちは……。
ぎょっとメロウは眼を見開いて僕を見てきた。でも、彼女は不機嫌そうに頬を膨らませて、僕から顔を逸らしてしまったのだ。
――僕、嫌われてない?
――あれ……。おかしいな。このメロウたちには、みさきに対して好意を抱くようプログラムしているはずなんだけど……。
父さんが苦笑してみせる。僕はすっかり気を落として、白いメロウを視た。
メロウの頬が、ほんのりと桜色に染まっている。ジト目になった彼女は、恥ずかしそうに僕の方を見てるじゃないか。
――父さん、この子……。
――こりゃ、ツンデレってやつだな……。
父さんが苦笑してみせる。何だかおかしくなって、僕はメロウにこう呼びかけていた。
――ねぇ、君。僕の一番になってよ。
驚いた様子でメロウが僕を見つめてくる。そのまま彼女は動きを止め、じぃっと僕を凝視してきた。
――僕の大切な人になって……。
――みゅう……。
僕に向き直り、メロウは恥ずかしそうに鳴いてみせる。その顔は林檎のように赤かった。
これが、僕とメロウの出会い。
僕がまだ、『漣 みさき』だった頃の話――
――ミサキ、ミサキ……。
澄んだ声が聴きこえる。透すき通る、女の声が。
心地よい微睡みに浸っていた俺は、その声に導かれ眼を開けていた。ぼんやりとした視界に、半透明の人魚が映り込む。
白銀の髪が、ゆれている。その様は月光に輝く海のようだ。瑠璃色の双眼を鋭く細め、人魚は俺に話しかけてきた。
――ミサキ、スクールに遅れちゃいます……。このままじゃ、単位を落としてしまいますよ……。
喋っているのに、人魚の唇は動いていない。代わりに、彼女の声が優しく頭の中に響き渡っていた。
「え……スクール……単位?」
――そうです! ケルト神話の講義が始まってしまいますっ!
寝ぼけた声を俺は人魚に返す。人魚は悲しそうな表情を浮かべ、俺の顔を覗き込んできた。
「つーか、あの講義はメロウの趣味で聴いてるだけだろ? 別に俺、選考はプログラミングだし、神話の講義なんて落としても平気っていうか……」
俺は頭に手をあて、ベッドから起き上がっていた。昔の夢をみたせいか、頭痛がする。
――うぅー! 私の原点であるケルト神話に興味を持たないとは何事ですか? それでもミサキは、メロウのマスターなのですか?
ぐわりと尾びれを翻がえし、メロウは抗議するように俺の眼の前で一回転してみせる。
「お前は俺を補佐するために作られたオペレーションAIだろ? わがままで俺を振り回していいのかよ?」
――うぅっ!
ぷうっと頬を膨らませ、人魚は俺を睨みつけてくる。こいつの名前はメロウ。一応、父さんが俺のために開発した義務教育型オペレーションAIのはずだ。
義務教育型オペレーションAIは、未成年の健やかな成長を促すために造られたものだ。でも、こいつを見ているととてもそんな高尚な目的のために造られたAIにはみえない。
――あっ、ミサキ! 何、笑ってるんですか? 何がおかしいんですか?
「別に。それよりさっさと支度しろよ。スクール行くんだろ?」
――ふふん、その辺は大丈夫です。ミサキが寝ているあいだに、遠隔授業の受講許可をとっておきました。というわけで、私を通じて授業に出席すればいいだけです
メロウは水かきのついた手を腰にあて、偉そうに俺を見上げてくる。俺は頭上にいる彼女を見上げ、ため息をついていた。
「悪いけど、これから用があるんでキャンセルしといてくれる?」
――ミサキぃ!
メロウが悲痛な声をあげ、俺の顔を覗き込んできた。
――私の楽しみを、あなたは奪うつもりなんですか? 苦楽を共にしたパートナーである私の原点を学びたくないというのですか?
「別にお前の原点なんてどうでもいいし……」
――ミサキー!
「それに『みさき』の夢をみたんだ。あの人が、俺を呼んでる。」
――ミサキ……。
俺の発言に、メロウが大人しくなる。彼女は浮かびあがり、俺から離れていく。彼女の眼が不安げに俺に向けられているような気がした。
「俺、変なこと言った?」
メロウに話しかけ、俺はベッドから立ち上がる。
俺の目の前に広がるのはコンクリートの壁が印象的な八角形の部屋だ。部屋の奥にはカウンターのついたダイニングキッチンがあり、そのカウンターの上にコーヒーメーカーが置かれていた。
父さんが俺のために購入してくれたアパートの一室だ。といっても、住んでいるのは俺とメロウの二人だけ。父さんはもう、何年も帰ってきていない。
俺は、カウンターに置かれたコーヒーメーカーを見つめていた。あのコーヒーメーカーで、父さんはよくコーヒーを淹いれてくれたっけ。
父さんは甘いエスプレッソが大好きだった。
「メロウ……。コーヒー、淹れてくれない……?」
俺はメロウを見上げ、縋るように声をかけてみる。父さんがよく淹れてくれた甘いエスプレッソが、無性に飲みたくなったのだ。
――ミサキは、私がいないとダメダメですね……。
メロウが笑う。半透明の彼女の手が、俺の頭をなでてきた。ホログラムである彼女になでられても、何も感じることはできない。けれど、妙に頭がくすぐったい気がして、俺は笑顔を浮かべていた。
――コーヒーメーカー起動っ!
びしっとメロウがコーヒーメーカーを指差す。コーヒーメーカーはひとりでに動き出し、設置されたカップの中にエスプレッソを注入していく。
エスプレッソが出来上がったのを見計らい、俺はカウンターへと近づいていた。そっとコーヒーメーカーからカップを抜き取り、口元へと持っていく。
「父さんの味だ」
ほんのりとした苦味が心地よい。俺は舌に広がるエスプレッソの味を堪能しながら、笑みを浮かべていた。その笑みを側に浮いているメロウに向ける。
――当たり前です。私が淹れたんですからっ!
腰に両手をあて、メロウは得意げな笑顔を浮かべてみせる。
「父さんがいなくなってから、メロウには世話になりっぱなしだな。コーヒーメーカー限定だけど」
空になったカップを自動食器洗い機に伏せ、俺は苦笑してみせた。ぷくっと頬を膨らませて、メロウが恨めしげに俺を見てくる。
――私はミサキ専用のOSですよ! 国民の約九十%が個人AIを所持し、そのサポートなしでは生きていけない世界だと言われているといのに、何を言うのでしょうか、このマスターはっ!
「必要最低限なことくらい、自分でしたいってことだよ。頼ってばっかじゃ、何か悪いだろ」
お返しとばかりに、俺は彼女の頭をなでていた。ホログラムであるメロウの頭をなでても、何も感じることはできない。それでもメロウは頬を赤くしてくれた。
――うぅー! 出かけますよ。あの人のところに行くんでしょっ!
頭を両手で抱え、顔を赤くしたメロウが尾びれを翻して俺から離れていく。
「メロウ。あれ準備してくれない?」
――えぇ? どうしてミサキは、安全性が考慮されていないあんなものになんで乗りたがるんですかっ!
前方を泳いでいたメロウが、不機嫌そうに俺に顔を向けてくる。俺は苦笑しながらも、彼女に答えていた。
「狩りのときに便利なんだよ。あいつらが来るってさ」
――ミサキ……いつの間に……。
「あの人が教えてくれた」
こんっと自分の頭を指で叩き、俺はメロウに笑ってみせる。彼女の眼がすっと曇ったのを俺は見逃さなかった。
「それに、あいつらを放ってくる奴らは、どうせ父さんの敵だろうしね……」
――ミサキ……。
悲しげに眼を伏せるメロウを見て、俺はいなくなった父さんに思いを馳せていた。
俺の父さんである漣博士の息子は、生まれてすぐ脳の運動野に大きな障害を負った。人工子宮からは一生出られないと言われていた息子に、父さんは動くことができる体を与えたのだ。
それからずっと、俺は父さんとメロウと三人でこの部屋で毎日を過ごしていた。
父さんがいなくなる、三年前のあの日まで。
――行きましょう。ミサキ。あの人があなたを呼んでいます。
「あぁ……」
メロウが俺に笑いかけてくる。その顔が何だか寂しげに見えて、俺は彼女を励ますために微笑みを返していた。
蒼空をガラスの球体が覆っている。
そのガラスを仰ぎながら、俺はレンガで舗装された道を、低空飛行で進んでいた。俺はエアボード――金属製の薄いボード――に乗っている。そのボードが俺の脳波を巧に読んで、思い通りの動作をしてくれるのだ。
俺は自分の住む『テラリウム』を見つめる。樫の木々が俺の移動する通路を取り囲み、静かな森を形作っていた。
陽光に透ける樫の葉の間から、居住区きであるドーム――八角形がいくつも連なった、蜂の巣のような円形状の建物や、塔――メロウたちAIを動かすために必要な電波塔――が至るところに建てられている。
ラテン語で『大地に関する場所』を意味するこのテラリウムは、透明なガラスの球体で形作られた循環型コロニーだ。
近い未来、人類第二の故郷として開発が予定されている循環型コロニーの、いわばプロトタイプと言ったほうがしっくりとくるだろう。
まだ分からないが、将来俺たちはこの母なる地球を後にするかもしれないのだ。
――鯨が来ます……。
俺の隣に浮いていたメロウが、顔をあげる。次の瞬間、辺りが暗闇に包まれ、驚いたた俺は空を仰いでいた。
巨大な鯨が、俺の真上を飛んでいる。よく見ると、その鯨は無数の小さな金属の集まりだということが分かる。金属は二本のアームを持った不格好なロボットだったり、まるでパズルのピースのように凸凹の形をした物体だったりする。
「また、デカくなってる……」
地上に影を落とす鯨を見つめながら、俺は感嘆と声を発していた。鯨は、簡単に言ってしまうと巨大なデーターバンクだ。このテラリウムで収集されたあらゆる個人情報やビックデーターがあの鯨に集められている。
そしてあの鯨は、情報の海と化したネットの意識の一つでもある。
「今日もカミサマは機嫌がいいみたいだな」
――カミサマじゃありません。インターネットの大いなる意思マナナーン・マクリールです、ミサキ。
「マナナーン・マクリール。ケルト神話の海の神で、乙女たちが住む常若の国の支配者……。今はネットの海と人類の支配者として君臨しているわけだ」
俺は、鯨の名前を口にしていた。俺たちの上空を悠然と飛ぶこいつは、人類の最重要事項を決定する権限を持っている。
ネット上に広がる情報を統制するネットの意思と呼ばれる偉大なるAIたちがいる。原型と呼ばれる彼らは、人類にとって神にも等しい存在だ。
今や、国際裁判所の最終的な決定から、紛争における多国籍軍の介入にまでこいつらの許可が必要だ。
人工知能が人類の能力を超越してからというもの、人類は自分本位の決定を求める同族ではなく、常にベストな選択をする人工知能に決定権を託すようになった。
大まかな議論や法案などは人間が決め、最終的な決定だけをこいつらにやらせているので人間の尊厳は守られているという。でも、けっきょくのところ重大な選択を決めるのは人間ではなく、原型たちなのだ。
――ミサキ……顔が恐いですよ……。
弱々しいメロウの声が、俺にかけられる。我に返り、俺は空から視線を逸らしていた。メロウは、そんな俺を不安げに見つめている。
「あれが出来なかったら、父さんは……」
――お父さまは、漣博士はとても立派な方でした。インターネットの意志となる原型の開発にも尽力なされた。
父さんは苦しむことはなかったんじゃないのか。そう続けたかった俺の発言は、メロウの言葉に遮ぎられる。
俺はメロウを見る。彼女は、困ったように俺に笑いかけてみせた。
俺の父さん、漣博士はロボット工学の最前線を支える優秀な科学者だった。だが、父さんは人の尊厳を何よりも重んじる人でもあった。
いつだったか、甘いエスプレッソを飲んでいた父さんが、俺に語ってくれたことがある。
――AIたちに人間の責任を押し付けてはいけない。私たちの問題は、私たち自身が解決するべきだ。
その言葉がとても寂しげに聞こえて、俺は父さんに答えていたのだ。
――僕がAIたちの代わりになることは出来ないの?
「よぅ、漣っ! 今日もサボり? スクール遅れちゃうよっ!」
俺の回想は、底抜けに明るい声によって遮られる。驚いて後ろへと顔を向けると、ツインテールをゆらす少女がそこにはいた。
同じプログラミング学科に所属する玉響 コナミだ。コナミの年齢は十四歳。十七歳の俺より三つも年下だ。いわゆる天才児ってやつで、飛び級で俺たちのクラスに編入してきた。
「いや、またフォモールが出てな。退治せんと行けなくなったっ」
乗っていたエアボードから跳び降り、俺はコナミに答えてみせる。
フォモールとは、AIを搭載されたウイルスの総称だ。俺たちプログラミング学科は、このフォモール退治によって単位を稼ぐこともできる。
「マジ? 単位がそのへんにウヨウヨいるのっ? スクールどころじゃないじゃん?」
コナミは小柄な体でびょんびょんと跳んでみせる。彼女の無邪気な様子に、俺は思わず微笑んでいた。
「ちょ、なに笑ってるのよ?」
「いや、お前らしいなって思って」
俺はエアボードの端を踏んづけ、垂直に立ち上がったボードを手にとる。大きな眼を不機嫌に歪めるコナミを見て、俺は思わず吹き出してしまった。
「ちょ、漣ってほんとデリカシーないよっ! 私が漣の分まで全部倒しちゃうからっ!」
彼女は大声で俺を怒鳴りつけ、宙へと手を翳した。
「オペレーションシステム・ピンイン起動っ! 仮想空間への移転をサポートせよ!」
高いコナミの声が周囲に響く。それと同時に、コナミの周囲の空間が歪み一体の人魚が姿を現した。
ピンインはコナミが所有するAIだ。メロウと同じ父さんが造った彼女のAIは、燃えるような緋色の髪が美しい人魚だ。彼女の肌はかすかに朱色に輝き、鱗は黄金色に煌めいている。切れ長の赤い眼をそっと開き、彼女は言葉を口にした。
「了解です。仮想空間への移転をサポート後、フォモール撃退のため戦闘モードへと移行します」
「うーん、ピンインちゃん……」
「何でしょうか? コナミ」
「もうちょっとさ、笑ったりとかしてくれない?」
「かしこまりました」
コナミの言葉にピンインは切れ長の眼を細め、たおやかな笑みを浮かべてみせる。その笑顔を見て、コナミは顔を曇らせた。彼女はそっと俺の方へと顔を向け、俺の背後にいるメロウを羨ましそうに見つめていた。
あぁ、またかと俺は思う。こいつはしょっちゅう、羨ましそうにメロウを眺めているからだ。
「コナミ、顔色が優れませんよ?」
「ううん、なんでもない。早く行こう」
「はいっ」
苦笑しながら、コナミはピンインに話しかける。そんなコナミを、ピンインは不思議そうに見つめるばかりだ。
「じゃあ、先行って漣の分まで倒してるからっ!」
コナミは、元気よく俺に手を振ってきた。
「少しは残しといてくれよ」
「ヤダー!」
俺の言葉に、駆け去っていく彼女は笑顔を向けてくる。俺は、彼女の姿が樫の木々に消えるまで手を振っていた。
――ミサキはロリコンなんですねっ!
俺が手を下げたとたん、黙っていたメロウが口をきいていた。
「なんだよ、ロリコンてっ?」
びっくりして、俺は背後のメロウへと顔を向けてしまう。メロウはぷくっと頬を膨らませ、不機嫌そうに俺から視線を逸らしていた。
――そりゃ、コナミは明るくていい子です。ピンイン姉さんの巨乳には嫉妬します。でも、でも、コナミは十四歳です。ミサキとは三歳も年が違います。ぶー! ミサキはスケベぇなのです! ロリコンなのです!
「お前な、同級生と会話してただけだろ。そりゃ、コナミはどっかのAIと違って素直で可愛いと思うけどなぁ」
にっと意地の悪い笑みを浮かべ、俺はメロウに話しかけていた。きっとメロウは俺を睨みつけ、半透明の拳を何度も体に叩きつけてくる。その拳は、むなしく俺の体を通り抜けていく。
「全然、痛くも痒くもねぇ」
――キー! ミサキを仮想空間に移動させるのです!
ばっと両手を広げ、メロウは叫ぶ。彼女を中心に周囲の空間が歪ゆがみ、白黒の粒子が俺の視界を覆っていく。
――ミサキ……仮想空間に……ミサキの意識を……移動……。
大きなノイズに混じって、メロウの掠れた声が聞こえてくる。
頭が痛い。仮想空間へ向かうときはいつもそうだ。
この瞬間が、俺は嫌いだ。
自分が十二歳まで『漣 みさき』として過ごしていた、あの密閉された空間を思い出す。絶えず頭の中にネットの情報が流れ込んできて、不快なノイズがいつも聴覚を這いずり回っていた。
――ミサキ、今日も元気かい?
優しい父さんの言葉を思い出す。
ノイズの音をかき消してくれる父さんの声は、何よりの救いだった。俺に微笑みかけてくれる父さんの存在が、俺の全てだった。
不愉快なノイズがだんだんとやみ、代わりにさざ波の音が聴こえてくる。眼を開けると、そこは深い『海』の底だった。
『海』といっても、現実のそれとはずいぶん違う。
まず、水圧を感じない。そしてその海を行き来するのが、色とりどりの人魚たちという点だ。
『海』の中には大きな貝を模した建物が並び、その中から色とりどりの人魚の尾びれが顔を覗かせる。貝の家は真っ白な砂浜の上に建っており、その砂浜に硝子の球体がぽつりぽつりと落ちていた。
海中には、俺の顔ほどもある大きな球体が漂よっている。大きさが不揃いな球体は様々な色に煌めき、海中を漂っていた。海豹の姿もあって、人魚たちと雑談を交わしている姿が見受けられる。
人魚たちは貝の家から出てきては、球体を覗き込んでいる。気に入ったものがあると、球体を家へと持って帰っているようだ。
なかには海豹や他の人魚と球体を交換している者もいる。交換された球体は光の粒子となって人魚たちを取り囲み、彼女たちの中に消えていくのだ。
球体はネットの海にあふれる情報だ。その情報をAIである人魚たちが集め、情報を共有・交換しながら必要なデーターを集めているのだ。
ホログラムでは見られない彼女たちの働きぶりには、見入ってしまうものがある。俺は隣にいるメロウを横目で見つめていた。
こいつも俺が情報を検索しているとき、こんな風に情報を集めているのだろうか。ちょっと想像がつかない。
――はぁ、みんな異常なぐらい働き者ですね。メロウみたいにその辺に転がってる適当な情報、マスターに与えときゃ楽なのに……。
ため息をつくこいのありえない発言に、俺は先ほどの考えを否定した。どおりでこいつを使って検索した情報が役立たずなわけだ。旧時代に活躍した検索エンジンより使えないAIってなんなんだ。
――なんでみんなは、メロウと違がって働くことが嫌にならないんでしょうか?
ふんわりと銀糸の髪をゆらめかせ、メロウが首を動かしてみせる。瑠璃色の眼は、不思議そうに情報を交換する人魚たちへと向けられていた。
メロウと違って彼女たちには『心』がない。正確に言うと、メロウに搭載されている感情を司る擬似扁桃体及び、意識の座と謳われる前頭前野に相当する機能を彼女たちは備えていないのだ。
二十一世紀初頭に登場したディープランニング方式により、停滞していたのAI研究は一気に発展の一途を辿っていった。膨大な情報から必要な要素を取り出し、経験によってそれを精錬していく技術は、社会に大きな変革をもたらした。
だが、このディープランニングによって生み出されたAIたちには人とは似にても似つかぬ点がある。それは、『定められたことしかできない』という部分である。
刺激に対して反応しか返さないと言えばわかるだろうか。彼らには『意識』や『自我』といったものが存在しない。膨大な蓄積データーの中から最適な反応を予測し、それを実行しているに過ぎないのだ。
そこに客観的視点や葛藤は生じない。彼女たちは、自分たちがやっていることに何の疑問も、葛藤も抱かないのである。
メロウのように『心』を搭載されたAIも存在する。先ほどのメロウのように利用者の言うことをきかないなど、様々な問題があるためかそれほど普及していない。
メロウは父さんが特別に制作した人魚型AIだ。ただ、どうして父さんがメロウに心を与えたのか、俺にはわからない。
心なんてAIに与えても、面倒なだけだろうに。
――可愛いガールフレンドぐらいいてもいいだろう、ミサキ。
メロウの心について考えるとき、俺はそう言って寂しそうに笑っていた父さんのことを思い出す。
どうしてかは、分からないけれど。
――ぎゅむー!
メロウが大声をあげる。頭の後ろに柔らかな感触が広がり、俺は体を固くしていた。
「メロウっ?」
――ほーら、オッパイですよ、ミサキ! ペチャパイのお子様にはない、大人の魅力です!
「こら! 変なもん押し付けんな!」
顔が熱くなるのを感じながら、俺はメロウを怒鳴りつけていた。現実世界のAIたちはホログラムで現れるため触れることができない。だが、この仮想世界において彼らの肉体は『生きている』ことを前提として忠実に再現される。
つまり、メロウは自分の胸を俺に押し付けているのだ。
――にゃは! ミサキに触れられるのです! ミサキ、あったかいのです!
「こら! メロウ!」
俺の言うことを聞かず、メロウはガバリと俺に抱きついてきた。仕事に励んでいた人魚たちが不思議そうに俺たちを見つめてくる。急に恥ずかしくなって、俺はメロウに叫んでいた。
「逆セクハラはやめろっ! 何度言ったら分かるんだよ!」
――うーん、いつものミサキです! やっぱミサキは突っ込みが鋭くなきゃ、ミサキじゃないです!
するりと、尾びれをたなびかせたメロウが俺の前と移動した。彼女は人懐っこい笑みを浮かべ、俺の顔を覗き込んでくる。
――ほらほら、ミサキは重度依存症のファザコンだって顔に書いてありますよ。笑わないと、ファザコンだってばれちゃいますよ。
わしゃわしゃと俺の頭を乱暴になでながら、メロウは笑みを深めてみせる。
「あっ……」
自分の気持ちをメロウに見抜かれている。その事実が恥ずかしくて、俺は言葉を失っていた。俺は、彼女から顔を逸らす。
――ミサキィ……。無視しないで下さいよ……。
メロウは寂しげに呟いて、俺の顔を覗き込んできた。きゅーんと鳴きながら、メロウは俺の首に腕を巻きつけてくる。彼女は俺の肩に顔を埋め、動かなくなった。
「おい……メロウ……」
――ぶぅ……。
不機嫌そうな声を発し、メロウは俺を睨らみつけてくる。
「悪かったよ……」
俺はため息をついて、メロウの頭を優しくなでていた。降参の合図だ。
――にゃははーん! ミサキの負けです!
がばっと顔をあげ、メロウは得意げに笑ってみせる。俺は乾いた笑みを浮かべながら、メロウに言っていた。
「負けは認とめるけど、俺のエロゲー、消すのはもう勘弁な……。別のOSに嫁たちをインストールしてるのに、ハッキングしてデーター消すのはやめてくれ……」
――それとこれとは別です。昔は私にエロゲーをインストールしてたくせして……。思い出すだけで気持ち悪いです……。
「俺もガキだったんだよ……」
ぱっとメロウの頭から手を放して、俺は彼女から顔を逸らしていた。
――あー、ミサキー、もっとなでてくださいよぉ。
眼を潤ませながら、メロウが俺に懇願してくる。
そのときだ。轟音がしたのは――
みゅうみゅうと人魚たちの悲鳴が聞こえる。俺は驚いて、彼女たちが働く貝の集落へと視線を走らせていた。
海に浮く球体が、ドス黒く変色している。それらが次々と音をたてて割れ始めたのだ。
――フォモール……。
メロウが怯えた声を発する。俺は口角をあげ、笑みを浮かべていた。
「あぁ、レディたちがおいでなすった……」
割れた球体からは黒い靄のようなものがあふれだしている。それらは次第に形をとり、漆黒の人魚へと変わっていった。
フォモールとは、古代アイルランド島を支配していた邪悪な種族のことだ。彼らは海の向こうからやってきたアイルランド人の末裔フィルボルクやダーナ神族にとって脅威そのものだった。
現代、その名は情報が氾濫する『海』を脅かすコンピューターウイルスの総称として使われている。
浅黒い肌を輝かせる人魚たちが、俺とメロウの前に立ち塞さがっていた。彼女たちは黒曜石のような眼を煌めかせ、漆黒の尾びれを不気味に動かしてみせる。
すぅっと眼を細め、彼女たちは嗤らっていた。
――ミサキ……。
メロウが怯えるように俺の背後へと移動する。俺は不安がるメロウの手をとり、彼女に告げた。
「メロウ、歌って……」
笑顔をメロウに向けてみせる。彼女は不安げに眼をゆらめかせながらも、微笑んでくれた。
尾びれを逸らし、メロウは大きく回転してみせる。回るたびにゆらめく銀糸の髪が、月光のように美しい。
蒼く輝く唇くちびるを開け、メロウは歌を紡ぐ。
場の空気が変わる。
透き通ったメロウの歌が、『海』の空間をゆらしていく。歌の高低に呼応して、転がっていた透明な球体が宙へと浮き、輝きを放ち始める。
赤色。青色。緑に、橙。
それは、俺が幼いころに『視た』人魚たちの群れを思い起こさせた。球体はメロウへと吸い寄せられていき、彼女の周囲を旋回する。
メロウがすんだ声をはっした。彼女の体が蒼い燐光に包まれ、それは粒子となって俺の体を取り巻いていく。
ウイルス対策ソフトのダウンロードが始まったのだ。文字通り、ウイルスを駆逐するために作られたそれは、フォモールたちに対抗するための武器として顕現する。
俺の愛用しているソフトは、サムライ2000。その名の通り、ニッポンの武器をテーマに作られたソフトだ。特に日本刀の美しさには目を見張るものがある。本当は、見た目でウイルスソフトを選択しちゃ駄目なんだけどな。
俺は前方に片手を差し伸べる。俺を取り巻く光の粒子が掌に集中し、刀を形作っていく。柄が赤く、反り返った刃の斑紋が蒼く光るそれは、女刀だ。
歌うメロウがちらっと俺を見つめてくる。その眼が、得意げに笑みを作っているのが腹立たしい。
俺は舌打ちをして、メロウを睨みつけていた。
あいつ、何かというと俺に女物の武器を持たせたがる。どうもメロウはニッポンの武器じゃなくて、ケルト民族の武器を俺に持たせたいらしい。断固として嫌がる俺に、こいつは女物の武器を持たせるという嫌がらせをしてくるのだ。
だが、文句をいっている暇はない。フォモールたちが、いっせいに俺たちに襲かかってきたのだ。金切り声をあげなから、彼女たちは俺たちに肉薄してくる。
「めんどいけど、ちゃちゃっとやるか……」
俺はひょいと刀を肩に担ぎ、ため息をもらした。フォモールたちは俺の気も知らず、鋭い牙をむき出しにしてくる。
大人しくしてればけっこう美人なんだけどな、こいつら。
そう思いつつ、俺は軽く地面を蹴って駆けていた。メロウが俺の正面にエアボードを顕現させる。俺は片足をエアボードに乗せ、もう片方の足で地面を思いっきり蹴った。
エアボードが走る。その先には、俺たちに向ってくる黒い人魚たちの集団があった。刀を片手で持ち、俺は刀を振るう。刀の刃は俺に手を伸ばしてきたフォモールを切り裂いた。彼女は黒い靄となって海の中へと消えていく。
二体、三体。おれはエアボードの速度を上げながら、進行方向にいるフォモールたちを刀で屠っていく。俺の動きに合わせて、メロウの歌が速くなる。
上空から、一体のフォモールが俺に肉薄してくる。跳躍して、俺はすれ違いざまにその人魚を一刀する。
彼女へと振り向く。煙へと変貌していくそれに俺は微笑みかけてみせた。彼女は驚に眼を見開きながら、消えていく。
あぁ、いいなこの光景。なんど見ても、興奮する。
なんど見ても、滾ってくる。
なんど見ても、彼女たちをもっと殺したくなる!
「メロウっ!」
にっと俺は口角を釣り上げ、メロウに叫んで見せる。俺の叫びに、メロウは怯えたように眼を歪ませた。
それでもメロウは、俺の指示通り歌声を変える。それは、ウイルスソフトから新たな武器をダウンロードする合図だった。
地面へと落ちていく俺の眼前に、小さな球体が現れる。それは、ビー玉の群れだった。俺はその群れめがけ、刀を袈裟けに振ってみせる。ビー玉の群れは空中で飛散し、勢いよくフォモールたちのいる地上へと降っていった。
爆音が響く。地面にぶつかったビー玉が、火の粉を散らしながら花火を咲かせていく。その花火に巻き込まれて、フォモールたちが悲鳴をあげて死んでいく。
悲しげな旋律をかなでるメロウの歌が、鎮魂歌のようで幻想的だ。そんな幻想的な光景の中に、乱入してきた少女がいた。
赤いチャイナ服に身を包んだコナミだ。ツインテールを翻しながら、コナミは手に持っている鉄扇で次々とフォモールたちを殴打していく。彼女が体を回転させるたびに、チャイナ服のスリットからすらりとした足が煽情的な姿をみせてくる。そんなコナミの上空では、ピンインが緋色の髪を翻して踊っていた。
「コナミーっ! 花火に巻き込まれんなよぉ!」
――巻き込まれる覚悟決めないと、漣に単位免除をかっさらわれますから!
彼女の声が頭の中に響く。俺は、コナミの言葉ににっと口元を歪めていた。
ここはネットの海。ここにいる俺たちは、自分の情報を仮想世界で再現しているに過ぎない。思っていることを、情報として直接相手に送ることも可能なのだ。
エアボードを傾け、俺は地面へと急降下していく。目的地は狩りをおこなうコナミのもとだ。
といっても、体を回転させ攻撃を繰り出すコナミに死角はない。がら空きになっているピンインの周囲を覗いては。
その光景を見て俺は舌打ちをしていた。コナミは前にも、ピンインをフォモールに攻撃されそうになったことがあるのだ。
複数のフォモールが歌い続けるピンインへと肉薄していく。俺はその一体に追いつき、背後から仕留めてみせる。
残りのフォモールは三体。追いかけようとエアボードの速度を上げた直後、彼女たちは悲鳴をあげて黒い煙と化していた。
歌うピンインから、無数の火球が放たれたのだ。残りの火球をかわしつつ、俺はとんぼ返りをしながらピンインの頭上を通り過ぎていく。
彼女は俺を見上げ、なんとも妖艶な笑みを浮かべてみせた。
――えっへん! この前みたいはヘマはしないよぉ。自分の人魚を守る防御システムぐらい構築済みですっ!
――漣様の戦闘をもとに、何度も仮想シュミレートを繰り返した甲斐がありましたね! コナミ!
――ちょ、ピンインちゃん! それは言わない約束でしょ!
――なぜですか? 私は、事実を述べただけですが?
――あーん! そうじゃないんだって! 空気読んでよぉ!
脳内で交わされる二人の会話を聞いて、俺は思わず笑い声をあげていた。コナミが、上空にいる俺を睨みつけてくる。
――そりゃ、ミサキの過剰なまでの絶対防御には及ばないけどさ……。
彼女の捨て台詞を脳内で認識しながら、俺は歌い続けるメロウへと視線をやっていた。ピンインと同じく、メロウのもとにもフォモールたちは押し寄せている。
だが、そのフォモールたちは地面から伸びる無数の鎖によって攻撃を受けていた。
鎖は絡まり合い、牢獄のように中央にいるメロウを取り囲んでいる。その中でメロウは眼を伏せて、悲しい歌声を鳴り響かせていた。
まるで、牢獄に囚われた姫君のようだ。
そんな彼女の歌を邪魔しようと、フォモールたちはメロウへと肉薄していく。だが、メロウを取り囲む鎖がフォモールたちの体を貫き、彼女たちを黒い煙へと変えていくのだ。
俺がプログラミングした対フォモール用自動防御システムの完成度は高いらしい。
ウイルスソフトを稼働させているあいだ、AIたちはその作業に集中しなければならず、自分の身を守ることができない。そのため、彼女たちを守る防御システムを構築する必要があるのだ。
といっても、俺も父さんの真似をしてこの防御プログラムを構築しただけなんだけどな。
俺を守ってくれていた防御プログラムは本当に凄かった。父さんを陥れようとする奴らからサイバー攻撃を受けていたけれど、一度も被害にあったことがなかったからな。
そのお陰で、ここにいられる訳わけだけど。
迫る地面を見つめ、俺は黙考をやめる。エアボードから放した片足を地面につける。周囲を見渡すと、墨のような靄があたりにたちこめていた。
あれほどいたフォモールたちは見当たらない。靄の向こうでは、鉄扇を拡げ得意げに微笑むコナミの姿があった。
「残念でしたねぇ、漣……。狩りは私の勝ちです。さっきピンインに漣と私の倒したフォモールをカウントさせたところ、私のほうが討伐数を上回ってたのよ。学年首位は漣じゃなくて、私になるかもねぇっ!」
鉄扇で顔を仰ぎながら、コナミはいやらしく口元を歪めてみてる。
「そっか、よかったなっ!」
にっこりと、俺はそんなコナミに笑顔を返していた。
「うにゃう?」
奇妙な声を発しながら、コナミは俺を睨みつけてくる。
本当に、何かというとこいつは俺を目の敵にしてくる。特にフォモール討伐となるとコナミは人一倍俺と張り合おうとする。
俺たちプログラミング学科ウイルス対策課の生徒には、課外学習の一環としてコンピューターウイルスであるフォモール退治が課せられているのだ。
倒したフォモールの数や種類によって、俺たちは単位を稼いだり、テラリウムで流通している電子マネーをスクールから貰うことができる。フォモール退治の成果は成績にも反映される。ちなみに俺の場合、このフォモール退治のお陰で学年首位になっているだけなので、コナミに粘着されてもピンと来ない。俺よりコナミのほうが成績も評価も上なんだけどな。
「むぅ……。これだから漣は嫌なのよ」
頬をぷくっと膨らませ、コナミは不機嫌そうに声をだす。彼女の頬が赤いのは気のせいだろうか。
「コナミ、風邪引いた?」
「はっ?」
俺の問いかけにコナミは素っ頓狂な声をあげる。頬をますます赤くして、彼女は俺を睨みつけてきた。
「なんだよ……」
――コナミは漣さまに構ってもらいたいんですよっ!
コナミの上空に浮かんでいたピンインが、笑顔で俺の疑問に答えてくれた。
――だってっ……。
「黙らっしゃい!」
びしっとコナミが鉄扇をピンインに差し向ける。彼女は困ったような顔をして、すっと姿を消してしまった。
「おい、コナミっ」
「よけいなことばっかり言うから一時的にログアウトさせただけ……。まったく……。これだからピンインちゃんは……」
しゅんっと頭をたらし、コナミは呟く。彼女はそっと顔をあげ、俺の顔を見つめてきた。
「あの……漣……」
「なんだ……」
「漣はさ、その……」
――ミサキー、真っ黒お姉さんたち全部倒しましたよー!
コナミの拙ない声を、メロウの大声が遮る。俺はびっくりして、メロウのいる方角へと顔を向けていた。
――ミサキっ!
メロウを取り囲んでいた鎖が弾け飛び、彼女が俺のもとへと突っ込んでくる。そのままメロウは、俺へと抱きついてきた。
「ちょ、メロウっ!」
――うぅ、恐かったです……。
俺にかまうことなく、メロウはぐりぐりと胸元に頭を押し付けてくる。メロウは顔をあげ、潤うるんだ眼を俺に向けてきた。
「よくがんばったな……」
――戦ってるミサキは、恐いです……。
そっと眼をふせ、メロウは俺に告げる。震えるメロウの声を聞いて、俺は彼女の頭にのばしていた手をとめていた。メロウは、ぎゅっと俺を抱きしめてくる。
――だから、あの人は嫌い……。
「メロウ……」
窘なめるように、俺はメロウに話しかけていた。メロウはしゅんと眼を伏ふせ、俺を放す。
「やっぱり仲がいいね、二人は……」
コナミが話に入ってくる。彼女は苦笑を浮かべていた。
「私のピンインちゃんも、もうちょっと優しかったらよかったのに……」
ツインテールをゆらし、彼女は背中を向けてみせる。その背中がかすかに震えている。
「コナミ……」
「ごめん……。私も慰めてくれる人が欲しいって、ちょっと思っただけ……」
そっとコナミが俺に顔を向けてくる。俺を見つめる彼女の眼は、かすかに潤んでいた。
その眼を見て、俺は出会ったばかりの頃のコナミを思いだしていた。
だだっ広い講義室のかたすみで、彼女は独りで座っていた。ものすごく寂しげな彼女に、付き添っていたピンインは授業をきちんと聴けと微笑みながら言い続けていたのだ。
コナミに大丈夫かと声をかけることはせずに。
――ミサキ……。
そっとメロウが俺の頭をなでてくる。上空に浮かぶ彼女を見上げると、メロウは心配そうにコナミを見つめていた。
――コナミが、寂しそうです……。
その言葉をきいて、俺はコナミに初めてかけた言葉を口にしていた。
「なに、寂しそうにしてるの? こっちが辛気臭くなるんだけど……」
弾んだ言葉を、俺はうつむくコナミにかけてやる。驚いたように眼を見開いて、コナミは俺を見つめてきた。
嬉しそうに潤んだ眼を細めて、彼女は笑ってくれる。
「うっさいな。ちょっと、ぼうっとしてただけだよ……」
悪態をつく彼女の言葉は、心なしか嬉しそうだ。メロウが、俺の隣で嬉しそうに笑ってみせる。
――そうです。コナミはそうでなくちゃ面白くありませんっ!
「ちょ、メロウちゃんっ?」
にぃっと口角を釣り上げ、メロウはコナミへと近づいていく。無防備な彼女を背後からぎゅっと抱きしめ、メロウはコナミの顔を覗き込んで見せた。
――笑わないと、コナミはブスなのです! ブスブス! そしてぺチャパイなのです! ほらほら、お姉さんのおっぱいは凄いでしょうっ?
「メロウちゃん、セクハラやめてっ! あ、でも気持ちいいかも……」
ぐいぐいとメロウはコナミの背中に自分の胸を押し付けてみせる。コナミは叫びながらも、楽しげに笑い声をあげていた。
初めて会った頃も、こんな感じだった。
飛び級で進学したコナミはクラスメイトとは年が離れている。それでいて、俺たちより優秀だ。孤立しないほうがおかしい。
そんなコナミを、メロウはずっと心配そうに見つめていた。そしてある日突然、メロウは仮想空間に独りきりでいたコナミに抱きついてみせたのだ。
あのときのコナミのびっくりした顔を今でも思い出すことができる。背中に抱きついたメロウにビックリした顔を向けて、コナミは俺を怒鳴りつけてきた。
でも、声をかけたら彼女は楽しげに笑ってくれた。
「もう、メロウちゃんてば……」
――ふふー、メロウの勝ちなのです!
降参とコナミがメロウに笑いかける。勝ち誇った笑みを浮かべ、メロウはコナミの背中から離れていった。
その瞬間、何かが素早い動作でコナミの背中を引き裂いていた。
「えっ……」
――コナミっ!
メロウの悲鳴があがる。不思議そうに背後のメロウを見つめるコナミの背中に、巨大な鎌の刃が突き刺さっていた。
「いやぁああああああ!」
コナミの悲鳴が『海』に木霊する。コナミに突き刺さった鎌の刃は、彼女の背中に傷を穿がち、大量の血を吐きださせていた。
「コナミっ!」
俺は叫び、コナミに駆けよる。
迂闊だった。
倒したと思っていたフォモールの中に生き残りがいたのだ。それが、ピンインをログアウトさせて一時的に無防備になったコナミに襲いかかった。
「あ…いたぃ……さざ……な……いやぁあああ!」
俺の眼の前で、コナミは絶叫する。悲鳴をあげる彼女の体は青白い血管に蝕ばまれていく。コナミの背中に突き刺さる大鎌は黒い煙となって、コナミの体を包み込む。
その煙はコナミの赤いチャイナドレスを、漆黒のコルセットがついたワンピースへと変えていった。
黒い煙が消える。その中央にいたコナミが生気のない眼を俺に向けてくる。コナミの手には、先ほどまで背中に突き刺さっていた大鎌が握られていた。
――コナミッ?
「バカっ!」
メロウが叫ぶ。俺は思わずメロウを怒鳴りつけていた。メロウの声に反応し、コナミは鎌を振りかざしてメロウに襲いかかる。
地面を蹴り、俺はエアボードでメロウのもとへと駆けつける。そのあいだにも、鎌の刃はメロウへと向かい振りおろされていく。
鎌の刃に、鎖が巻きつく。メロウに施こした防御システムが作動したのだ。
鎖は、もがくコナミの体を拘束していく。
手を、足を、全身を拘束され、コナミは身動き一つできなくなった。
「ぎぃいいぃいいい!」
歯を剥むき出しにして、コナミが叫ぶ。そこに先ほどまで笑っていた彼女の面影はない。
――コナミ……。
「乗っ取られたんだ……」
メロウは唖然と、コナミを見つめることしかできない。俺はそんなメロウを抱きしめ、奥歯を噛みしめる。
コナミは、フォモールに体を乗っ取られたのだ。この仮想世界において、俺たち人間はメロウたちと同じデーターに過ぎない。ウイルスがデーターでしかない人間の体を乗っ取ることなど、造作もないのだ。
そして乗っ取られた人間は仮想世界をログアウトすることができず、現実世界に戻ることが出来なくなる。
ウイルスソフトを起動させているあいだ、俺たちは体をフォモールたちに乗っ取られる心配はない。
だが、もしソフトが起動していなかったら話は別だ。さきほどのコナミのようにAIを強制的にログアウトさせれば、ソフトを起動できる存在そのものがいなくなる。
そんな丸腰まるごしのコナミを、生き残っていたフォモールが乗っ取った。
「がぁあああああぁ!」
コナミの叫び声が、悲痛なものへと変わっていた。彼女を拘束する鎖が、体を強く締めつけているのだ。
――ミサキっ!
メロウが叫ぶ。
「防御プログラム凍結っ!」
メロウの言葉に従い、俺は防御プログラムを凍結する。苦しんでいたコナミは顔を俯かせ動かなくなった。
――コナミ……。
「メロウ、行けるか?」
メロウに、俺は静かに声をかけていた。メロウは、俺を見つめゆっくりと頷いてみせる。
「コナミを救うぞっ!」
――はいっ。
俺は凛とした声を発する。その声にメロウは真摯な返事をしてくれた。
仮想世界における俺たちは、既定のプログラムにより形づくられた存在にすぎない。そのプログラムを変更することにより、自在に姿かたちを変えることができるのだ。
これを応用することにより、俺たちは姿だけでなく自身の大きさも好きに変えることもできる。
仮想世界のなかで俺たちは等身大の人間にも、ウイルスのように極小の存在にもなれるのだ。
真っ白な空間に俺とメロウは浮いていた。
地面すらないこの空間には、紫の静電気を放つ透明な球体が無数に浮いている。その静電気は細長く放電され、他の球体の静電気と交わっていた。
ここは、コナミの脳内をイメージ化した空間だ。俺はメロウを使って、コナミの情報を解析し、イメージ化された彼女の脳内に入ることに成功した。
ここは現実の情報をもとに造られた、仮想空間上のコナミの脳内だ。
透明な球体の中には、どす黒く染まったものもある。それはシナプス信号をイメージ化した紫の静電気を放つ代わりに、漆黒の煙を吐き出している。
――ちびちゃんたち、お願いしますっ!
――みゅう!
メロウの掛け声とともに、小さな人魚たちが黒く染まった球体を取り囲む。球体を取り囲みながら彼女たちは円陣を組み、くるくると回りだした。
メロウの使い魔。チビメロウたちだ。
ダンスを踊るチビメロウたちが可憐な歌を奏でる。ウイルスプログラムを発動させているのだ。
仮想世界の人間を乗っ取ったフォモールたちは、ガン細胞のようにその人間を構成する情報を犯していく。乗っ取られた人間を救うには、フォモールたちに犯されたデーターを探し出し、浄化していく必要があるのだ。
そして、一番厄介なのは――
「こんにちは、お嬢さん」
探していたものを見つけ、俺は苦笑を顔に浮かべていた。コナミを構成する情報の中には、これらの情報を統合する『意識』も含まれている。
その視覚化されたコナミの意識が俺の目の前にいた。悪夢のように、蠱惑的な笑みを浮かべながら。
その妖艶な笑みを引き立てるように、彼女は煽情的な黒のボディースーツに身を包み、細い脚をゆったりと組んでみせる。
微笑みの刻まれた唇を赤い舌で舐めとり、コナミの意識は妖しげな眼差しを俺に向けていた。その手には、禍々しいまでに鋭利な光を宿した鎌が握ぎられている。
「メロウ、いけるか?」
――大丈夫です。ミサキ……。
俺は、背後にいるメロウに語りかける。そっと俺の頭上へと浮かび上がり、メロウは玲瓏とした歌を奏でる。
その歌に反応し、チビメロウたちがメロウの周囲にいくつもの円陣を作り始めた。
対するコナミは小悪魔めいた笑みを浮かべてみせる。彼女は、持っていた鎌を下方に振る。そこから、無数の小さなフォモールが生じ、俺たちへと襲いかかってきた。
――ミサキっ!
メロウが叫ぶ。その叫び声を合図に、俺は乗っているエアボードを疾走させていた。俺の片手にサムライ2000からダウンロードされた長刀が顕現する。俺はエアボードから飛び降り、コナミのもとへと跳とんでいく。
――みゅう!
襲いかかるフォモールの前に、円陣を組んだチビメロウたちが躍り出る。円陣の内側に魔法陣が出現し、飛びかかってくるフォモールたちを弾き飛ばしていく。
黒い球体に乗っていたコナミの背中に、漆黒の羽が生じる。彼女はその羽をはためかせ、迫りくる俺のもとへと一気に飛んできた。
そんなコナミに、俺は長刀で攻撃をしかける。コナミは難なくその刃を鎌で受け流してきた。
――ミサキっ! コナミがっ!
「分かってるっ!」
叫ぶメロウに、言葉を返す。
目の前にいるのは、コナミの意識そのものだ。それを傷つければ、現実世界のコナミに深刻なダメージを与えてしまうことになる。
だから、コナミの意識を傷つけることはできない。
俺は手に持っていた長刀を手放していた。大鎌を振い隙ができたコナミの懐に飛び込む。彼女の両手首を掴み、動きを拘束する。
――ミサキっ?
メロウの大声に俺はびくりと肩を震わせていた。これからすることをメロウに見られるのが、とてつもなく辛いからだ。
傷つけることができない以上、それ以外の方法で俺はコナミの意識を救うしかない。
例えば、本人がびっくりするようなことをしてコナミの意識を呼び覚ますとか。
問題は、そのやり方だ。
「うわぁあああ!」
目の前のコナミは、俺から逃れようと体をばたつかせてくる。そんな彼女を俺は抱き寄せていた。
覚悟を決めて、俺はコナミの顎を掬う。
「あぅ!」
「ごめんコナミ……。先に……謝っとくな……」
「うぅっ」
コナミは俺に唸るばかりだ。コナミの寂しそうな笑顔が脳裏を過って、俺の迷いは消えていた。
こんなのコナミじゃない。
このままじゃいけない。正気をとりもどした彼女がショックを受けたとしても、俺は元気で寂しがりやなコナミを取り戻したいんだ。
俺はコナミの顔を覗き込み、その唇に指を這わせていた。
「うぅ……」
戸惑ったように、コナミが眼を震わせる。彼女の顔に自身の顔を近づけ、俺はコナミの唇を奪うばっていた。
――それで、その顔が出来たってわけか!
少年の笑い声が脳内に木霊する。俺は、その声を聞きたくなくて顔を俯かせていた。左頬がジンと痛んで、俺は頬に手をあてていた。
あのあと、正気を取り戻したコナミの意識に俺は思いっきり殴られた。その痛みが、今も引かない。
忘れられず、データーから消去することができないと言ったほうが正しいのかもしれない。今の俺は、メロウと同じホログラムの姿で現実世界にいるのだから。
そっと俺は顔をあげ、声の主を見つめた。俺の目の前には巨大な球体がある。液体が満たされたその球体の中に、少年が浮いていた。
細い体を無数のコードで拘束された彼は、蒼い眼を細め俺に微笑みを向けてくる。球体に映る俺の歪んだ顔も、彼と同じ蒼い眼をしていた。
成長する俺と違い、いつ見てもこの人は少年の姿のままだ。
――にしてもさ、その姿で来ることはなかったんじゃないの、兄弟? 君が人間じゃないって、奴らにばれちゃうよ……。
――分かってるよ、兄さん。でも……
――コナミちゃんが、お前の手を放してくれないんだろ?
彼が笑いかけてくる。脳内に意地の悪い彼の言葉が響いて、俺は彼から顔を逸らしていた。
心なしか、顔が熱い。
現実世界の俺は、テラリウム内にある医療施設でコナミに付き添そっている最中だ。
俺は自分の『意識』を情報としてこの場所に飛ばしている。正確に言えば、このホログラムの姿が、俺の本当の姿と言った方が正しい。
――それよりミサキ、調子の方はどうだい?
兄さんが俺に話しかけてくる。俺は、球体の中にいる彼をじっと見つめていた。
彼は漣みさきその人だ。
天才科学者であった漣博士の一人息子であり、博士の最高傑作でもある。彼はこのテラリウムを管理し、人類の行く末を決める審判者だ。
ネットの意識の一つ、原型マナナーン・マクリールこそ彼そのものなのだから。
かつて、人類がAIに選択権をゆだねることに苦悩を感じていた博士は、息子の一言から悪夢のような着想を得えた。
――僕がAIたちの代わりになることは出来ないの?
みさきが放ったその一言がすべての始まりだった。その言葉をヒントに、彼は実の息子を機械に繋ぎ、膨大なネットの海を管理する生体コンピューターに仕立て上げたのだ。
ネットの海を統括する原型の正体は、みさきのように重篤な障害を持つ子供たちだ。彼らは漣博士によってネットの海に繋がれ、人類を裁定する役割を与えられた。
そして、人類のほとんどがその事実を知らない。
人類は自分たちより優れたAIによって、平和な世界が保たれていると信じているのだ。
実際、彼らを支配しているのは、同じ人間だというのに。
――また浮かない顔してるね、兄弟。そんなに、僕のことが嫌い?
兄さんの言葉に、俺は我に返っていた。兄さんの蒼い眼が、責めるように俺に向けられている。
――何で兄さんは、俺なんて造ったの?
――前も言ったでしょ。面白そうだからだよ。実際、ミサキを観察するのはとても面白いし、興味深い。
俺の言葉に、兄さんは笑ってみせる。その笑顔は、どこか寂しげだった。
俺は兄さんによって造られたAIだ。
父さん、漣博士は自身の息子に自由に動くことができる体を与えた。だが、彼の息子はその体に自分で制作した別の人格を植えつけた。
それが俺、『オペレーションシステムMISAKI』だ。
俺は兄さんの情報をもとに造られ、兄さんと記憶を共有する存在でもある。
もっとも、俺のスペックはそんなに高くない。兄さんが所有している莫大な情報すべてを共有することはできない。逆に、全能である兄さんは俺のすべてを知っている。
なにせ、彼はこの世界のカミサマなのだから。
――ミサキは、僕に夢をくれる。だから、僕にとってミサキは大切な人なんだよ。そんなこと言わないでよ。
――でも……。
メロウの笑顔が脳裏を過る。
メロウは漣博士が兄さんのために作ったオペレーションAIだ。
そのメロウのプログラムを兄さんは書き換えた。自分ではなく、俺に好意を持つAIにするために。
俺がインストールされている体も、もとは漣博士が兄さんのために作ったものだ。それを俺は『借りている』に過ぎない。
――ミサキ、そんな顔しないでよ……。
表情を曇くもらせる俺に、兄さんが話しかけてくる。
――膨大なネットの海に繋がれ、マナナーン・マクリールになった瞬間から、僕は僕でなくなった。だから、僕は人であった僕を、自分から切り離したんだ……。それが君だよ、ミサキ……。ミサキは、僕に夢をくれる。僕が人間のままで、普通の体で生まれていたらどんな人生を送っていたのか、ミサキは教えてくれる。
そんなミサキの毎日を見守ることが、僕のささやかな楽しみなんだ。だから、自分がいらない存在だなんて思わないで……。
寂しげに、兄さんが笑う。
――兄さん。
そっと俺は、兄さんの閉じ込められた球体へと近づいていた。ホログラムの透けた手で、球体の表面に触れる。俺の手は球体を突き抜け、兄さんの頬に触れた。
――ミサキがいてくれたお陰で、僕は僕のままでいられる。だから、僕にはミサキが必要なんだ。
そっと兄さんの手が、透明な俺の手を包み込んだ。
――ミサキ、自分自身を否定しないで。君がいなくなって悲しむのは、君だけじゃない。
――兄さん……。
――君を想ってくれる素敵なレディが、二人もいるじゃないか?
――メロウとコナミのこと?
――そう。羨やましいなぁ。メロウはともかく、コナミちゃんは可愛いと思う。僕もやっぱり、体欲しいや……。女の子とキスしたい……。
柔やわらかなコナミの唇を思い出し、俺は思わず兄さんから顔を逸そらしていた。
――あれは、仕方なく……。
――へぇ、その割には嬉しそうじゃん……。
――あんなガキ、興味ないしっ!
――僕のコナミちゃんを冒涜するな!
――いや、兄さんのでもないからっ!
叫びながら俺は兄さんへと振り向く。球体の中で、兄さんは楽しそうに笑っていた。
――兄さん……。
――ごめん、ミサキの反応が楽しくてつい……。それに父さんだって、ミサキのこと好きだってよ……。
ふっと、兄さんが目を伏せる。
――父さんが、どうかしたの?
――居場所をやっと見つけた。でも、やっぱり僕には会いたくないって……。
そう告げる兄さんの言葉は、震えていた。悲しげな兄さんを見て、俺は胸がチクリと痛む。
いつからだろう。漣博士が、自身の息子をヒトでなくしたことに後悔を覚えるようになったのは。それは、彼が俺と生活するようになってからだと思う。彼は、五体満足な息子との生活を夢見て息子に肉体を与えた。
その肉体に、彼の息子は別の人格を植えつけたのだ。その行為は、彼にとって裏切りと思えたのかもしれない。
漣博士は、父さんは俺に優しかった。
でも、父さんはいつも寂しそうで、俺じゃない誰かを思っていた。
父さんはずっと、兄さんのことを考えていたんだ。
そして、父さんは俺たちの前から姿を消した。
父さんは、命を狙われていたのだ。AIに支配されることを望まない反対派と呼ばれる人々がいる。反対派の中には、過激な行動に出る犯罪者たちも多くいるのだ。
そんな奴らから身を守るために、父さんは行方知れずとなった。
でも、本当は――
地面を蹴り、俺は球体の中に潜り込んで見せる。
――ミサキっ!
驚く兄さんを、俺は透明な体で抱きしめてみせた。ホログラムの体で兄さんに触れることはできない。でも、俺は悲しげな兄さんの顔を、見ていたくなかったんだ。
――父さん、兄さんのことはなんて言ってたの?
――わからないってさ……。
答える兄さんの声は、かすかに震えている。
――嘘だよ、そんなの……。俺が保証する。だって、俺はずっと父さんと一緒にいたんだから……。
兄さんに微笑んでみせる。悲しげな眼をゆっくりと細め、兄さんは俺に微笑みかけてくれた。
――ありがとう。ミサキ……。
兄さんが感謝の言葉をくれる。俺は嬉しくなって兄さんの頬を優しくなでていた。
――ねぇ、ミサキ。お願いがあるんだ。
――なに?
――頑張がんばったご褒美を、彼女にあげてほしい。
――彼女?
――メロウの事だよっ!
――うわっ
弾はずんだ兄さんの声が頭の中で鳴り響く。それと同時に、ホログラムの俺の体は宙に浮いていた。
――ちょ、兄さんっ?
――せっかくその姿でいるんだから、デートぐらいしてあげて。君がコナミちゃんにちょっかい出したせいで、メロウはすっごくへこんでるよぉ!
――だからって、どこに俺をぶっ飛ばす気だよっ!
――お勧すすめデートスポット!
ぐっと親指を突き立て、兄さんは俺に叫んでみせる。俺の体はぐんぐんと上昇していき、球体の置かれた巨大な空間から離れていった。
機械によって構成された壁をすり抜け、俺は黄昏色に染まる空へとやって来ていた。
俺の目の前には、マナナーン・マクリールの体である鯨がいる。無数の無機物で構成された鯨は、堂々とした様子で空を泳いでいた。
あの鯨の中に兄さんを閉じ込めた球体は安置され、俺は先ほどまでそこにいたのだ。
「綺麗だ……」
鯨の後ろに広がる光景に、俺は目を奪われていた。
俺の住むテラリウムが、夕陽を浴びて橙色に輝いている。その橙は角度によってさまざまな色合いを見せてくれるのだ。
その中に、俺たちの住む町がある。樫の森に覆われた緑の居住区は、淡い黄色の色彩を帯びていた。暖色に染まった町の通路を、人々笑いながら歩いている。
町の終わりには、テラリウムの透明な壁が立ちふさがる。
その壁の向こうに、海があった。
赤く染まった海は、夕陽を飲み込もうとしているかのようだ。その海に、茫洋と立ち尽くす無数のビルがある。
崩れ去ったビル群は、かつての大戦の名残りだという。
――いつ見ても、この景色は綺麗で恐いですね……。
頭の中で声が響く。気配を感じた俺は、後ろへと振り向いていた。
――メロウ……。
メロウが瑠璃色の眼で、悲しげに俺を見つめている。彼女は俺に近づき、そっと俺を抱きしめてきた。
――メロウっ。
――しばらく、こうさせて……。ミサキを、感じていたい……。
弱々しい彼女の言葉に、俺は言葉を失う。かすかに震えるメロウの体を、俺は優しく抱きしめ返していた。
そっと、俺は廃墟のビル群へと顔を向ける。
その昔、人類はこの地球上のどこにでもいたという。そして、増えすぎた彼らはお互いに争いあった。
地球では人間によって三度、大戦が繰り広げられたという。三度目の戦いで、人類は自分たちが築き上げてきた文明社会すら壊してしまった。
現在地上で人類が生活できる土地はほとんどないそうだ。大戦中大量の核兵器が使用され、人は住む土地すらも失ってしまった。
生き残った人々は、人工の居住地であるテラリウムを作りそこに住むことになったのだ。
俺は、夕陽に輝く海を見つめる。
ビルの間に細長いさざ波が生じている。よく見ると、それはイルカの群れだった。ビル群から出てきたイルカたちは、海上へと跳びあがり、その姿を披露してくれる。
イルカたちの上空では、渡り鳥たちが群れをつくって空の彼方へと飛んでいくところだった。
地球は核によって汚染されている。けれど、人類が地上からいなくなったお陰で、破壊されていた自然環境はもとの姿を取りもどした。
俺たちの住むテラリウムの下には、文明が栄えていた過去よりも豊かな自然が繁栄した世界がある。
そこに、俺たちが足を踏み入れることはない。
大戦を経験した人類は、母なる地球を傷つけたことを深く後悔した。そして、自分たちを未来永劫テラリウムの中に閉じ込めることにしたのだ。
かつてのような過ちを犯さないよう、彼らはより正確な判断を可能にするAIにさまざまな決定権を与えることにしたのだ。
罪を犯した人類はその罪を贖なうため、自分たちが作り上げた創造物をカミサマに仕立て上げた。
そのカミサマが同じ人間だと知ったら、彼らはどうするのだろうか。
――地上のどこかに、漣博士はいるんでしょうか?
メロウが呟く。
彼女へと顔を向ける。メロウは寂しげに眼を細め、イルカの群れを見つめていた。
――案外、そうかもしれないな。
メロウの言葉に、俺は笑ってみせる。
父さんだったら本当にやりかねない。だって、あの人は誰よりもテラリウムの外に広がる光景を楽しそうに眺めていたから。
メロウは俺に顔を向け、そっと顔を俺の肩に埋めてきた。
――メロウ?
――ミサキは、いなくなったりしませんよね?
震える彼女の声が脳裏に響く。俺は彼女の頭をなで、優しい声で答えていた。
――あたり前だろ。ここは俺の大切な居場所なんだ。兄さんもお前も、ここにいるんだから……。どこにも、いったりしないよ……。
声が震えてしまう。俺は、耐えきれなくなってメロウを抱きよせていた。
――俺は、ここにいてもいいんだよな……?
――ミサキ……。
メロウの声が震えている。思わず俺は顔をあげていた。
――デコピンっ!
――ぐわっ!
俺の額を、メロウは思いっきり指弾しだんで攻撃してくる。
――何するんだよっ?
額をさする俺を無視して、メロウは俺の手を掴んできた。
――おい! メロウっ!
――いいからっ! 泣き虫ミサキは黙るのですっ!
俺の手を思いっきり引っ張り、メロウは夕空を泳ぎ始めた。
――メロウっ!
――ひゃほーい!
俺を引っ張りながら、メロウは光るテラリウムの周囲を旋回する。ばたつく俺の手をしっかりと掴み、メロウは楽しげに歌をうたいだした。
その姿を、テラリウムの中にいる人々が不思議そうに見上げてくる。
そのテラリウムから飛んでくる者たちがいた。尾びれを輝かせながら、メロウと同じ人魚のAIたちがこちらにやってくるのだ。
――なんで、こいつら……。
――私たちが楽しそうだから、みんな遊んで来いってこの子たちを放したんですよっ! ほらミサキ、行きますよっ!
輝く人魚たちは、テラリウムを巡る俺たちを追いかけてくる。その数はだんだんと増えていき、人魚の群れがテラリウムの周囲に輪を作っていく。
透明なテラリウムの外壁に映るその光景は、まるで天の川のようだ。
――綺麗だ……。
俺は人魚たちが織りなす美しい光景に、感嘆と言葉を漏らすことしかできない。そんな俺を、メロウが正面から抱きしめてきた。
――メロウ……。
――ミサキは、ここにていいんですよ。私が保証します。
泣きそうな俺に、メロウは優しく声をかけてくる。俺は、そんなメロウから顔を逸らしていた。
メロウは、俺に優しい。でも、その優しさは兄さんが書き換えたプログラムにもとづく感情なのだ。
メロウの本当の気持じゃない。
――ミサキっ!
メロウが俺を怒鳴りつけてくる。びくりと体を震わせ、俺は彼女に振り向いていた。
その瞬間、柔らかな感触が唇に広がった。
メロウの顔が、すぐ側にある。ふっと得意げな微笑みを眼に浮かべ、彼女は俺から顔を離してみせた。
――お前……。
――キス、しちゃいました……。
メロウは照れ臭そうに笑ってみせる。彼女は真摯な眼を俺に向けてきた。
――私は、ミサキが好きです。この感情が偽りのものだとしても、本物じゃないとしても、私はミサキが好きなんです。私の一番は、私が決めます。それじゃあ駄目ですか?
――メロウ……。
――それにきっと、この感情が偽物だとしても、私は何度だってミサキを好きになって見せますよ! だってミサキは、世界で一番、アホで、意地悪で、ニブチンなんですから。
――酷い、言いようだな……。
――なのに、世界で一番私に優しくて、私の中では誰よりもカッコいいんです。だから私の一番は、ずっとずっとミサキですっ!
ぐいっと顔を近づけ、メロウは満面の笑顔を浮かべてみせる。優しい輝きを放つ彼女の眼から、俺は眼が離せなかった。
――例えあなたが偽物だとしても、私の中であなたは、あなたでしかないんですよ。ミサキは、私の大切なミサキ以外の何者でもないんです……。
そっと、メロウの両手が俺の両頬を包み込んでくれる。その感触が心地よくて、俺は微笑みを顔に浮かべていた。
――ありがとう……。
涙をこらえ、俺は彼女に言葉を告げる。ぎゅっと力いっぱい、俺はメロウを抱きしめていた。
俺たちは、人間に作られた偽りの存在かもしれない。
でも、痛みを感じる。苦しみも感じる。
楽しさも、嬉しさも、切なさも。
愛しさも。
そんな愛しい存在が、俺の存在を確かなものにしてくれるんだ。
俺の腕の中にいるメロウが――。
太陽が沈み、辺りが暗くなる。
それでもテラリウムを囲む人魚の輪は、明るく周囲を照らし続ける。
その輝く人魚の輪の中で、俺とメロウはいつまでも抱きしめ合っていた。
オペレーションシステムMERROW 終
2018年4月12日 発行 初版
bb_B_00154290
bcck: http://bccks.jp/bcck/00154290/info
user: http://bccks.jp/user/142196
format:#002y
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp