二人は決して番にはならない。
家族関係を壊さないよう、日常的なキスや性行為も行わない。
ただし、発情期中の一週間のみ適用外とする。
それが我が家の新ルール。
『親子、ときどき恋人』。
◆◆
「うわーんたちゅきくん」
「おやおや、どうしたの」
子供の頃、大好きだったシンデレラストーリー。
「あのね、パパがあたまにつのだしておこるの」
不幸なΩを救うのは、決まってαの王子様。
小さい頃、唯一の味方だったその人は、疑いもなく未来の王子様だった。
「また樹兄に甘えてこいつは」
「まあまあ、朝陽はまだ五つなんだから」
僕にはたちゅきくんさえいればいい。
「パパなんかいらない! いなくなっちゃえ!」
まさかその声が、本当に魔法使いの耳に届いてしまうなんて思いもしなかった。
「かわいそうにねえ、追突事故だったそうじゃない」
「お子さんだけは留守番で無事だったそうよ」
「まだ幼稚園だって、お気の毒に」
朝陽が五回目の誕生日を迎えてまもなく、両親が他界した。
二人とも、眠っているようにしか見えなかった。
そのうち目を覚まして、早く歯を磨いてきなさいとか、ピーマンも残さず食べなさいとか、いつもみたいに怒ってくれるんじゃないかとさえ思った。
起きてくれたら、ちゃんとごめんなさいをしよう。怒りんぼのパパとママなんかいらないって、神様にうそをついたこと。
願いも虚しく、両親は二度と目を覚まさなかった。遺体になって、灰になって、お墓の中で永遠の眠りについた。
──ぼくのせいだ。ぼくが、いなくなっちゃえって魔法使いにお願いしたからだ。
「パパ、ママ……ごめんなしゃい……」
「朝陽、樹兄ちゃんがいるから。俺が絶対、朝陽を守ってやるから」
魔法使いは願いを叶えてくれた。
未来の王子様だったその人は、その日からたった一人の家族になった。
◆◆
「──さひ、朝陽! いい加減起きなさい」
目覚ましと樹の怒鳴り声が今朝も不協和音を奏でている。
朝陽は炬燵 の中の猫のように、背中を丸めて二度寝する。また樹の怒鳴り声。ようやくベッドを抜け出したのは登校二十分前だった。
「おはよう」と顔を出したキッチンの奥、スーツにエプロン姿の背中が「ああ」とそっけなく返事をする。隣のダイニングテーブルには、もう朝食が準備されている。
「さっさと座って食べなさい――どうしてまだ寝間着姿なんだ」
「だって」
「言い訳するな、さっさと着替えてきなさい」
森野家の一日は、会話のない静かな食卓から始まる。朝のニュースの声が、今朝もやたらと耳に障る。週末、東京でΩのデモパレードが行われるらしい。Ωなんていない小さな田舎町では、夢物語としか思えないが。
「樹くん、あのね」
「食べ終わってからしゃべりなさい。いつも言ってるだろう」
急いで食べて、ごちそうさまでしたと両手をあわせる。
「前に話してた転校生の話、憶えてる?」
「ああ」
樹は白飯を口に運びつつ、さも興味なさげに返答する。
「そいつがαかもってクラス中で話題なんだ。もしかしたら校内三人目のαが今日――」
樹が乱暴に食器を置いた。
意気揚々としゃべっていた朝陽は、たちまち次の言葉をのみ込んだ。
「そんなくだらない噂話をする暇があるなら、少しは勉強に専念したらどうだ」
「ごめん、なさい」
「毎日寝坊にテストは赤点。こんなだらしない生活、社会人になってからは通用しないんだぞ、分かってるのか」
「う……、はい」
くしゅんと項垂れるが、樹の説教は止まらない。
「そもそも一般性の俺たちにはαもΩも関係ない。ここはβの町だ、いい加減現実を見ろと何度言えば分かる」
「そもそもおまえは……」
朝陽を救済するかのように、インターホンが鳴った。
「もういい、さっさと準備しなさい」
朝陽は「はい」と肩をおとして立ち上がる。
「全く、毎日友だちを待たせて悪いと思わないのか」
「ごめんなさい……」
樹は父親の兄というだけで、身寄りのない自分をここまで育ててくれた人だ。せめて立派な大人になって恩返しがしたいが、最近は失望させているだけの気がする。
「よっす。今日も浮かない顔してんな」
玄関先ではいつものように英里が待っていた。コードレスのヘッドホンからは軽やかなメロディが漏れている。
「おはよ。ちょっとね」
行ってきますと振り返るが、当然のごとく返事はない。リュックを背負いながら、朝陽は再び肩を落とした。
◆◆
朝陽が出ていくと早々に食器を洗い、洗濯物を持ってベランダに出る。
今朝はきつく叱りすぎたようで、三階からでも肩を落とした様子が伺える。
「あんなに言うんじゃなかった」
両親のいない朝陽は、この先どんな偏見の目に晒されるか分からない。だからこそ、せめてどこに出しても恥ずかしくない、立派な大人に育ててやろう。そう心を鬼にしてヒール役を貫いてきたが、やはり良心が痛む。
本当は、目に入れても痛くないほどかわいくてたまらないのに。素直にそうできない『義父』という立場がもどかしかった。
(でも、さっきは叱りすぎた)
変に動揺してしまった。食器にまで八つ当たりして、親として情けない。朝陽に勘ぐられてなければいいが。
「俺なんかが親でごめん」
どれだけ言ったか知れない償いの言葉を、今日も呪文のように唱える。
朝陽はもう十七歳。
この先、いつまで一緒に過ごせるだろうか。
(いい思い出も作らなきゃな)
吐き出した溜め息は朝陽を追いかけるように、通学路の方へと流れて行った。
◆◆
『噂』は本当だった。
「斎藤岳です」
左右に黒服の男を従えた男子生徒が入室するや、教室中の空気が張り詰めた。
「えー、斎藤くんは、かの斎藤財閥の御子息であって……」
「斎藤財閥ってあれだろ、ホテルチェーンの」
「ひえ、あの斎藤家の息子かよ」
クラス担任、岩下の格式ばった紹介が続く中、教室内がさわさわと揺れる。
柔らかそうな前髪を右に流した季節外れの転校生は、表面だけを貼りつけたような笑顔で「よろしく」と軽く会釈する。
空気を撫でるかすれた声に、朝陽はなぜだか胸騒ぎを感じた。
岩下は続ける。
「ちなみに斎藤財閥は日本でも希少なα家系であって。家柄上、シークレットサービスの護衛が欠かせん」
α家系。つまり、その血筋の者すべてがα。
「最初は戸惑うとは思うが、皆よろしく頼むぞ」
岩下はそこまで言うと、朝陽の斜め前の席を指さした。
「伊藤、早速で悪いが席を替わってやってくれ」
「この世には六つの性が存在します。男女に加え、α、β、Ωの三種の性……」
保健体育の授業を聞き流しながら、朝陽はぼーっと斜め前の背中を見つめていた。
生まれながらに有能で、リーダーシップを兼ね備えるα。
人類の約九割を占める、一般的なβ。
αはこの世に五%。
Ωはこの世に一%。
Ωとαの間には、『番』という特別な関係が存在する。「家族や恋人関係よりも重く尊い、魂の契約」なのだとか。
ちなみに『番の契約』は、性行為中にΩのうなじに噛みつくことで成立する。
「Ωの男性には子宮があり、発情期中の性行為で妊娠します。初潮とともに発情期が始まり、その頃から性フェロモンを放ちます。αはこのフェロモンに……」
Ωのフェロモンについて研究が進んだのは最近の事。昭和初期は抑制剤もなく、汚れた人種とΩを蔑視する風潮が強かった。
「てかさ、本物のΩなんか見たことねーのに、この授業必要ある?」
どこからともなく聞こえたやじに対して、保健医は咳払いする。
「確かに現在は、東京都の『Ω特別待遇制度』により、Ωの大多数が都市部で生活しています。Ωは出生前から診断されるケースも多く、生まれてまもなく東京の施設に預けられることも少なくないんです」
保健医はそこまで言うと教科書を閉じる。
「Ωの存在は見えないだけで、私たちの身近に確かに存在するのです。いつかΩの皆さんが、日本のどこででも安心して暮らせるように、常に理解と準備を怠らない義務が、私たちにはあるのですよ」
「せんせー、なんで東京はαもいっぱい住んでるんですか」
今度は別の生徒が、挙手して質問を投げかける。教室内にさわさわと笑いが起きる。
校内で唯一の女性である保健医は、慣れたものとにっこり笑って言い放った。
「それは、αがどうしてもΩに惹きつけられてしまう性質だからです。一般性の私たちと同じですよ。お分りですか、私につっかかってくる皆さん?」
αは、どうしてもΩに惹かれてしまう。
保健医の言葉に、クラス中の視線が斎藤に注がれた。当然のごとく朝陽も斜め前の背中に目をやる。
斎藤が振り返った。黒い目は確かに朝陽の方に向いていて。
(え、え?)
後ろを振り向いてみる。奥に控えるシークレットサービスと視線が交差し、ぶしつけに鋭い目が光る。
「ひえ……っ」
「ん、どした?」
後ろの席から英里の声。なんでもないと前を向き直る。
斎藤はまだこちらを見つめている。やはり、朝陽を見ている。朝の貼りつけたような笑顔じゃなく、不敵な笑みだった。だんだん目が離せなくなってくる。愁いを帯びたその黒い目に囚われる。
見つめあっているうち、形のいい唇が動いた。
『あ』
「あ……?」
「朝陽」
斎藤岳が名前を呼んだ。
「うん。朝の太陽で朝陽」
その隣で机に指文字を模りながら朝陽も応じる。
二時限目は科学の特別授業のために実験室で行われている。自然と斎藤が寄ってきて、いま隣に座っている。
「森野朝陽。いい名前だね」
「そう、かな」
黒板に文字を書き殴っていた年配の理科教師が突然振り返り、ちょうど前列に座る朝陽を指名した。
「げ、分かんない」
「あ。俺分かります」
斎藤は朝陽の声に被せるように言うと席を立ち、完璧な数式と解説で教室中から賛嘆の声をさらった。
「あいつ朝陽に気があるんじゃね?」
昼食時間、英里はトンカツ定食にがっつきながら声を荒らげる。
二列向こうのテーブル席では、斎藤岳が優雅にパスタランチを口に運んでいる。初日から注目の的だった彼の周囲には、すでに人垣ができていた。
「さっき体育もアイツと組んでたよな」
「なんか、そうなっちゃって」
食堂の端に目をやれば、例の黒服が目を光らせ直立不動で立っている。また目があうのはごめんだと、朝陽はぱっと下を向いた。
「で、楽しそうになに話してたんだよ」
「別に。趣味とか食べ物の話とか」
「けっ、女子かよ」
今日の英里は口が悪い。
視線の先で斎藤が席を立つ。取り巻きを無視してさっさと食器を戻すと挨拶もなく食堂を後にする。
「なんかヤな感じー」
足早に後を追う黒服を見送りながら、同席の城田乃亜が小さな毒を吐いた。
午後の授業は移動もなく、平和に過ごした。英里は塾で早々に下校した。斎藤と黒服は……姿が見えない。
朝陽も帰宅を急ぐ。十七時には帰宅する暗黙のルールがあるのだ。
校門を抜けたところで誰かが朝陽を呼んだ。斎藤だ。一人で門前に寄りかかっている。
「ちょうどよかった。町案内、頼めない?」
策略的にそこで待っていた空気を残して斎藤はそう言った。なんでまた自分がと戸惑うが、周囲を見渡せど、他にクラスメイトの姿は見当たらない。
「門限があるから他を当たってよ」
「じゃあ森野の家まででいいから乗って」
そう言うと同時に黒塗りの車がすうっと前に着ける。車にうとい朝陽でも、黒い光沢の眩しさに目を奪われる。だんだん周囲に人が集まってくる。斎藤と車を見比べて、指差す者までいる。これ以上とどまっていると妙な噂を流されそうだ。
「……今日だけだから」
周囲の視線から逃れるように、誘導されるまま後部座席に乗り込んだ。
車中、どんな話をしただろう。よく覚えていない。家族の事、学校の事、休日の事。斎藤がたずねて朝陽が答える。質疑応答は到着するまでの数分間続いた。
「そこの角を曲がって……あ、やっぱここでいい」
「どうして?」
「いや……」
この道を直進すれば、まもなく自宅アパートに到着する。ちょうど道の向かいから、黒いコート姿の男性が歩いているのが見えた。樹だ。
「お父さん?」
「……義理のね」
ふーんと低い声が響いた。斎藤はそれ以上の詮索もせず、軽く顎を上げる。車はそのまま直進していく。
「随分と早い御帰宅なんだね」
「……自営業だから」
斎藤は樹を見つめたままだった。
「果実店のオーナー。昔は父さんと母さんが経営してたんだ。いまは従業員にほとんど任せてるって言ってた」
「昔?」
「二人とも、もうこの世にはいないから」
車はアパートの前で停車する。ときを同じくして樹も到着する。見慣れぬ外車を不審がっているのか、いぶかしげな視線が向けられる。
「……朝陽?」
まさにその車内でこぢんまりと座る朝陽を目撃するや、樹は切れ長の目を見開いた。
会話もなくエレベータを出ると樹を追って三〇三号室へ向かう。玄関に入り扉を閉めた所で、あれは誰だと問われた。
「転校生? そういや言ってたな。確か……」
コートとスーツをリビングの椅子に掛けていた手は、そこでピタリと止まった。
「例のαか?」
樹は特殊性別を嫌っている。特にα。今朝はその名前を出しただけで激高された。
「あの子とは距離を置きなさい」
ぶしつけに言われ、どうしてと樹を見上げる。
「おまえとは住む世界が違うだろ」
樹は自覚しているだろうか。いま、とてもひどい言葉で朝陽を傷つけている事に。
「うん……。分かった。もう関わらない」
人の性別は六種類に分かれている。自分たちはβで、斎藤はα。ただそれだけの違いが、大きな格差となる。
目があって口があって心臓が動いている。同じ人間なのに。その小さな違いに価値をつけ、自ら不平等に踊らされている。
俺は、俺なのに。
◆◆
翌朝。
なんの変哲もない朝だった。
登校途中に黒服にえり首を掴まれ、車へ引きずり込まれるまでは、いつもの朝だった。
颯爽と運転席に乗り込んだこの男は、誰だか知らない。昨日斎藤の後ろを歩いている姿を見ただけだ。
英里のヘッドホンを装着した丸顔が、がっしりとした大柄のシルエットが、どんどん小さくなっていく。
「森野、おはよう」
隣には当たりまえのように斎藤が座っている。渦中の人。住む世界の違う人。いま一番接点を持ちたくない人。
彼のこともよく知らない。昨日からクラスメイトになった事と、運転手の雇い主という以外はなにも。
「昨日はどうも」
返事もせずに窓の外に視線を投げる。なぜ、こんなことになっているのか。望んでもないのに斎藤が側にいる。
「寒そうだったから乗ってけばって思ったんだけど」
斎藤はまるで思考を先回りしたかのような、奇妙な言い回しをする。
「英里だって寒そうだった」
「誰それ」
そう言い切る横顔はいたって冷淡無表情。
「誰って……、居たじゃんか、さっき俺の隣にさ」
斎藤は涼しい顔をこちらに向けると、わざとらしく首をかしげた。
「そう? 森野以外見えなかった」
「斎藤のやつマジでなんなんだよ!」
放課後、また英里が発狂している。教室の奥のロッカーは、帰り支度の生徒でごった返している。斎藤は担任の雑務を買って出て、さっき隣の資料室に向かった。
「やー斎藤くん、今日も朝陽にべったりだったね」
と、リュックを担いだ乃亜も端の席からやってきた。
「でもなんでだろ? αってΩを好きになるもんじゃないの」
「そう、そこなんだよ俺の疑問は!」
熱弁を繰り広げる二人は、いぶかしげな目を朝陽に向ける。
「え、まさか俺がΩなわけないじゃん」
「……そこなんだよなあ」
英里がじろりとこちらを見る。
「どー見ても朝陽が世界屈指の希少人種には見えないんだよねー」
乃亜も賛同する。白鳥の群れに混ざったアヒルを観察するような遠い目で。
「ちょっとそれどういう意味さ」
ムキになるなよと英里に後ろから小突かれた。
「俺は心の広い男だから? 親友を奪われてムカつくけど、まあ許してやるよ。朝陽にとっちゃいい兆候なんだし」
「それ、どうゆうこと?」
首を捻る朝陽に対し、英里は渋い面構えで顔を寄せてきて。
「朝陽は大学行かずに働くんだろ?」
「う、うん」
「じゃあ就職活動で使えるかもよ、斎藤の名前」
「え、なんで?」
「そりゃあ、日本中誰もが知ってる有名財閥の一人息子と仲がいいってなれば、お偉いさんが放っとくわけないからな」
「そうなのかな」
よく分かんないと朝陽は笑ってごまかした。
「当ったりまえだろ。中堅親父どもは金だの出世だのしか興味ねーんだから、斎藤の名前なんかまさにいいカモ」
「俺が、どうかした?」
そのときだ。
ちょうど後方から人の波をかき分け斎藤と黒服のボディガードが戻ってきた。ちなみに朝の運転手じゃない。十歳ほど若くて目つきの鋭い方だ。
「別になにも言ってないけど?」
英里は早々にリュックを背負うとじゃあなと席を立つ。乃亜もその後に続いた。
「森野、一緒に帰ろう」
斎藤は英里など気にも留めず無視すると、やはり朝陽に話しかける。
「……なんでいつも俺なのさ」
身構える朝陽を、今度は英里が「行ってこい」と押し出した。
◆◆
朝陽が去った後の廊下を、英里と乃亜は二人して歩いていた。校内はまばらに生徒が残っていて、少し騒々しい。
「小鳥くん。朝陽って本当にΩじゃないよね」
「なわけないだろ」
そう答える英里も、本心は困惑を隠せないでいた。
(マジで斎藤のやつ、なんで朝陽ばかり追ってるんだ)
「男子のΩってさ、精通と発情期が同時なんだよな」
だから不安を払拭するため、乃亜に答えを求める。
「そういや言ってたね」
「……朝陽、精通くらいはしてるよな」
英里の脳裏に朝陽の顔がぽやんと浮かんだ。かいがいしい伯父に育てられた、正真正銘の世間知らず。本人は躾が厳しいと言っているが、下に五人の弟妹のいる英里にすれば、大事に箱に入れられているとしか見えない。そんないい子ちゃんな朝陽だからこそ、不安なわけで。
「んー、まあ。あいつも一応、育ち盛りの男なんだし、大丈夫でしょ」
「だよな。この歳でまだとか、ないよな」
朝陽だって人知れず悶々とする事くらいあるだろう。
(大丈夫、だよな)
英里は人知れず安堵の溜め息を漏らした。
◆◆
その頃、朝陽はかじりつくようにして窓の景色を眺めていた。
(これ、帰りの道じゃない)
「どうかした」
隣のシートに座る斎藤がわざとらしく視線を寄越した。
「どこに向かってんの」
返答までにわずかな無言。
「さあ」
そこには、何処だと思うと問いかけるようなニュアンスが含まれていた。
「家に帰してよ」
「嫌だって言ったら?」
そのうち車は静かに停車した。見知らぬ空き地だった。殺風景で、周囲には建物もほとんどない。
「別の奴と帰れよ」
「俺は森野と帰りたい」
「お、れじゃなくても、他にもいるじゃん」
息が詰まるほど静かな車内で、じっと斎藤を睨みつける。が、逆に熱いまなざしに射貫かれてしまい、すぐに視線を反らした。
「なん、だよ」
斎藤の目は、どこか違う。特別ななにかを嗅ぎ分けるセンサーが埋め込まれたような目をしている。そこに自分だけが別の生き物として映っているような違和感は感じていた。
「興味深いんだろ、君の進路に一役買えるαの俺が」
「……聞いてたんだ」
「αがどうやってΩを口説くか知ってる?」
問い返す余地もなく斎藤が距離を詰める。
手首を掴まれ、背もたれと背中の間に腕が入り込む。無感情な黒い目は、もうそこまで迫っている。
「最初からうなじをかんだりしない」
斎藤が耳元でささやいた。声の主と一致し難いほど甘い旋律だった。
「や……っ」
咄嗟にドアノブに手を掛けるが開かない。その間にも斎藤がにじり寄ってきて、座席シートに朝陽を抑えつけると顔を近づける。
「かわいがってれば、そのうちΩの方からシたくなる」
耳たぶを甘噛みされる。
「やめろって」
吸引する音、舐める音、唾液の音、さまざまな感触が耳元をざわつかせる。
「大事なのは誘いから逃げないこと。アイツらが望むならどこでだってシてやる」
いつの間にかネクタイが解かれ、シャツのボタンが外されている。
「斎藤……っ」
「俺は甘党だから、どろどろに溶けるまで放してやらないよ」
首元に斎藤が吸いついてくる。瞬時にして頭が真っ白になった。どうすれば逃れられるのか分からなくて、わめきながら両肩を押しのけた。刹那に黒服が後部座席へ身を乗り出してくる。
「冗談でしょ」
斎藤が背中越しに牽制する。気安く触るなとでもいいたげに、黒服は眉をひそめながら着席した。
「冗談でこんなことすんのかよ、最低」
顔が熱い。心臓が暴走している。斎藤の触れた所が熱を持って溶けそうだ。
「からかいがいのないやつ」
斎藤はクスリとも笑わず、ただ距離を取って座り直すと無表情で前を向いた。腕と脚を組んで、なにもなかったように。
「言われなくてもちゃんと帰すから」
斎藤が「行って」と言うと、また蝋人形に戻っていた黒服が動き出す。まもなく、車は緩やかに発進した。
アパートに到着する頃には午後六時を過ぎていた。
道沿いに誰か立っている。スーツ姿の背の高い男性だ。車から朝陽が出てくると、鬼のような剣幕で引き寄せる。彼は一度だけ後部座席を睨んだ。そこに座る同級生を目視すると、朝陽を連れて建物の中へ姿を消した。
◆◆
「こんな時間までほっつき歩いて、高校生がいいご身分だな」
叩きつけた拳がリビングの壁を揺らした。
「ごめんなさい」
「おまえはなんのために学校に通ってるんだ、遊ぶためか」
また壁がドンと揺れる。テーブルの上の食器が割れんばかりの音を立てる。
「昨日さんざ忠告したよな、それとも俺の言葉が理解できなかったのか?」
「わ、かってる」
「じゃあなんであいつと居たんだ!」
「それは……」
悪いのは自分だ。命令に背いたから。この家で樹の命令は絶対なのに。
「おまえはなんにも分かってない、あいつはαなんだぞ、普通の人間とは違うんだ!」
(そんなこと言わないでよ)
「ごめんなさい、もうしないから……!」
懇願するような視線を向けると、樹は一転して困惑に揺れた。
「……そんな目で見るな」
また失望させただろうか。嫌になっただろうか。樹がどんな顔をしているのか、見るのが怖くて目を伏せてしまう。
「明日からは、一切の寄り道もするな。終業から三十分以内に帰宅しろ。一分でも遅れたら、今度こそ許さない」
攻撃的だった口調は、ようやく落ち着きの色を見せていた。燃え盛る鉄鍋に蓋を被せたような、焦げ臭さを残して。
「……俺は部屋に行ってる。後はどうぞご自由に」
その日は冷たくなった夕食を、一人で暖めて食べた。
一口一口噛みしめながら、樹の手料理であることに感謝する。
「おいしい」
この中に、ほんのわずかでも愛情が込められていることを願って──
◆◆
──翌日。
いつも通りバルコニーから朝陽を見送った。樹はぼんやりとした足取りで自室へ向かった。昨日から洗濯物が溜まっている。朝の食器もシンクに残ったままだったが、手に着きそうになかった。
「幸樹、俺はどうすればいい」
ベッドの脇にある弟夫婦の写真を手に、樹は重い息を吐いた。
十数年前──
『朝陽がΩ? 本当なのか』
その日、珍しく幸樹から話があると連絡があり、休憩中に近くのカフェで会う約束をしていた。
どうせパチンコでスッたとか、ろくでもない話だろうと思っていたのに、とんでもない誤算だった。
『ああ。驚いただろ。俺のかわいい一人息子が、出生率一パーセントのΩだっていうんだから』
当時は、世の中の風潮が変わりつつある頃だった。一昨年に都政の打ち出した『Ω性特別待遇制度』により、学校や職場に点々と存在していたΩが、次々と姿を消し始めた年だった。
『俺な、朝陽が中学に上がったら、東京に送り出すことに決めたんだわ』
『そう、か……。寂しくないのか』
『そりゃ寂しいさ。でも、こんな田舎で見せ物扱いされる方がよっぽどつらいよ。Ωはαと番になって幸せに暮らすべきだ。そういう運命の子なんだから』
Ωの安全を守る都市、東京──
生きるという当たりまえの営みさえも価値になる種族。新制度は、まさにその象徴だった。
『俺にもしもの事があったら、兄貴に託していいかな。中学からはここに預けて欲しい』
差し出されたのは、桃李学園と文字の入ったパンフレット。
『ああ。そんな日はこないだろうけど、もしものときは俺が親代わりになってやるから安心しろ』
そういうと幸樹は渋い顔をした。
『いや、そのときはすぐに施設へ預けてくれ』
『……は? なんでだよ』
幸樹はなにやら言い淀んでいたが、だってと切り出した。
『兄貴はαだろ。もし朝陽が発情したら』
『ああ? いくら俺がαだからって見境いないと思うなよ。あんな小っちゃな子供になにかする訳ないだろ』
『それは……まあ、兄貴のことだから信頼はしてるけどさあ』
『任せとけって。俺も朝陽がかわいいんだ。くれぐれもおまえみたいな雷親父にならないようがんばるよ──』
「……あの頃は悪かったな。育児がこんなに大変だなんて思わなかった」
いつかの会話を思い返しながら、しばらく遺影を眺めていた。
「十年……。あっという間だったな」
桃李学園にはいつでも編入できるよう、準備はしてある。ただ、樹自身の決心がつかなかった。悩んだ末に地元の中学へ進学させ、そのまま高校に上がらせた。
朝陽がΩだと知られれば、周囲から不当な差別を受けるのではないか。ましてや父親代わりの自分がαだなんて、口が裂けても言えなかった。
できるなら、朝陽にも世間一般の暮らしをさせてやりたかった。じゃあせめて発情期までは、普通の親子を演じよう。いつしかそう考えるようになった。
ひそかに相談していた医師から、Ωは精通が遅いと聞かされていた。だが朝陽も十七歳。いつ精通を迎えてもおかしくない。長く見積っても、あと一、二年ほどではないかと覚悟はしていた。
想定外だったのは、この時期にαが現れたこと。
そのαが、朝陽に接触を繰り返していること。
「幸樹……、嫌な予感がするんだ」
発情期を控えたΩに、季節外れの転校生。それも、稀に見るα。これがすべて偶然に起こった出来事だろうか。
想像する。
最悪の未来を。
幸樹との約束を果たせず、見ず知らずのαに朝陽をさらわれる、最悪の未来を。
「駄目だ、そんなの」
そんな未来、考えたくもない。
◆◆
「えー、それでは今日はここまで。来週から全科目小テストがありますから復習するように。赤点は補習授業を行いますよ」
六時限目の終了間際、数学教師の放った一言で教室中がどよめいた。
「うわー、マジかよ。俺今週過密スケジュールなのに」
「俺もしばらくバイトとカラオケ無理そう」
放課後は英里と乃亜の愚痴大会だった。この時期の小テストは、内申がどうとかで、とにかく落とせないらしい。
「てことで、俺らしばらく居残り勉強して帰るわ。朝陽は気をつけて帰れよ」
廊下から手を振っていると、英里の顔がさっと険しくなる。
振り向くと真後ろに斎藤が立っていた。
あからさまに目を背ける朝陽に対し、小さな舌打ち。
「予想通り。また逃げるんだ」
「……逃げてるわけじゃないよ」
確かに今日一日、斎藤を避けていた。近づけば走って逃げ、呼ばれるたびに英里の後ろに隠れた。自分でも嫌なやつだと思ったが、樹の命令に従順でいるためには、他に方法が思いつかなかった。
「言いたい事があるならはっきり言えば」
「だから違うって」
「いいからこいよ」
掴まれた手を振り払おうとも思ったが、心配そうにこちらを見る英里と目があい、大丈夫と合図して背中を追った。
「なんだ、そんな理由」
斎藤は屋上のフェンス越しに下の景色を眺めている。
「君にとってはそんな理由でも、俺には大事件なの」
その隣で、朝陽は同じく足元に目線を落としていた。
「拍子抜け」
「え?」
「昨日ので嫌われたのかと思った」
「昨日……? あー」
そういえば昨日、斎藤に首や耳を舐められたのだ。
「あれは迷惑」
「おかしいよね。子供は親の持ち物じゃないのに」
森野は伯父さんが憎くないのと続ける。『昨日の件』はうやむやのうちに葬られてしまった。
「……俺を育ててくれただけで十分だよ」
「そう? 俺なら一生許さない」
なに不自由なく育ったやつには分からない。覚悟もなく親になった葛藤なんか。突然両親を失った孤独なんか。
分かる訳ないと思いつつ口を開いてしまったのは、斎藤に「小鳥になんか言われたんだろ」なんてそそのかされたせいであって。英里は関係ないと言ったが最後、
『八つ当たりってわけ。悪趣味』
『なにが違うって』
『森野って樹くんの言いなりなんだね』
違う、そうじゃないと誘導尋問に引っかかるうち、いまに至る。
「事故を理由に、伯父さんに気を遣うのは違うと思うけど」
「俺が樹くんの邪魔になりたくないの」
斎藤の目から逃げるように体を反転させる。入り口の前で、黒服が仁王立ちしている。今日はどっちだろう。おじさんの方か、若い方か、遠くて判別できない。
「じゃあ自立するしかないんじゃない。交友関係まで伯父さん任せにしてるうちは、目の上のたんこぶと一緒でしょ」
「……やなこと言うね」
「助言と言って欲しいね」
しゃくだけど、斎藤の指摘はあながち間違っていない。たんこぶなんて吹き出物と一緒だ。百害あって一利なしだ。
「……昔は優しかったんだ。いつもニコニコして、俺に甘くて、本当に王子様だったんだ」
「切ないね」
斎藤の手がくしゃりと頭を撫でた。捨て猫でもかわいがるみたいに。
「でも、これからは俺がいるよ」
「なに?」
「俺がいる」
冗談ともとれない言葉の先に、ふわりと目を細めた奇麗な顔がそこにあった。
「……帰る」
数十センチの段差を飛び降りた朝陽は、目もくれず出入り口に向かった。
黒服は相変わらず扉の前で仁王立ちしている。
「ご機嫌斜めなようで」
後ろで独り言のように斎藤が呟いた。
「人をからかって楽しい?」
振り返り睨みつけると、フェンスにもたれかかるようにしてこちらを眺めている。
「からかってないよ」
その声を無視して、扉の前の黒服を見上げる。男は無言で一歩隣に退いた。
「俺はいつでも本気」
扉をくぐり、両耳に蓋をして階段をかけ降りる。脇目もふらず、一目散に校舎を出る。結局、あの黒服がおじさんだったか若い男だったかは、よく覚えていない。
◆◆
その日の樹は、いつもと様子が違った。
「お、洗濯物畳んでるのか、偉い偉い」
帰宅したかと思えば、にこやかに笑ってそんな事を言う。
「お帰りなさい」
「うん。ただいま」
ここ最近見たことのない笑顔でスーツの上着を脱ぐとダイニングチェアに掛ける。
「どうかしたか?」
浮かない顔に気づいたようで、首をかしげられた。
「ううん、なんでもない」
「あ、ケーキを買ったんだ。一緒に食べないか」
アールグレイの香気が、隣のダイニングテーブルまで届く。朝陽の目の前にはショートケーキとティーカップが並べられ、カウンターキッチンに立つ白い大きな背中がときどき鼻歌を刻む。
まるで夢でも見ているような、和やかな時間だった。
「昨日は頭ごなしに叱ってごめんな」
紅茶ポットを手に戻ってきた樹は、ティーカップをそっと朝陽の前に置いた。
「俺こそ、ごめんなさい」
陶器製の白い器が黄金湯で満たされていく。
「おまえのこととなると、つい感情が抑えられなくなってしまう。頭では分かってるんだけどな」
その言葉が真実であると願いたい。
「これだけは信じて欲しい。決して憎いとかじゃないから。むしろ逆で……、心配で仕方ないんだ」
「うん……」
向かいのティーカップにも注ぎ終えると、おもむろに着席する。いただきますを言う前に、樹は鞄から一冊のパンフレットを取り出した。
「突然ですまないが、再来週、転校してもらうことになった」
「え……?」
「東京の学園だ。素晴らしく治安のいい所だから、安心していい」
「引っ越すの?」
樹はしばらく押し黙った後、
「いや、おまえだけが行くんだ」
手元に視線を落として静かに告げる。
ガンと頭を殴られたような衝撃はなかった。
脳裏にひしめいていたのは、やっぱりそうかという諦めにも似た感情だった。
この家から、とうとう排除される。うっとうしい蝿を追い出すみたいに。
最後のはなむけが、このケーキと台詞なんだろう。
「準備もあるだろうし、こっちの学校はもう行かなくていい。しばらくは家でゆっくりお休み」
「……」
「朝陽?」
「うん。分かった」
考える余地はない。樹の命令は絶対なのだ。
「なにもしてやれなくて、ごめんな」
樹の命令に背くことは許されない──
「どこに行っても、俺はずっと朝陽を想ってるから」
(うそつき)
朝陽は振り絞るように笑顔を作ると分かってるよと答えた。
◆◆
登校する必要がなくなった翌朝。いつものように英里が迎えにきた。
パジャマ姿の朝陽をリビングに残して、樹が玄関へ向かう。
話し声は数十秒程で途絶えた。すぐに扉が閉まり、足音が去っていく。
どう説明したのかは、あえて考えないように努めた。
「俺もそろそろ行くから」
上着を羽織りながら樹が戻ってきた。今日は夕方から得意先の商談があり、帰りが遅くなるとのこと。
「鍵を掛けてくから、いい子で待っててくれよ」
膝を折って同じ目線になると、ぎこちなくほほ笑む。くしゃりと髪を撫でる。……罪滅ぼしはまだ続いているようだ。
「分かってる。いってらっしゃい」
見送ってからしばらく携帯電話を眺めていた。英里からのメッセージはない。『突然すぎる』とか、『なんで言わなかったんだ』とか、せめて『頑張れよ』の一言くらいはあると思ったのだが。
悶々と時間を過ごすうち、いっそのこと自分から掛けてやろうと思い立つ。
英里は思いのほかすぐに通話に出た。
「もしもし、英里? 俺」
『は、朝陽? なんで電話してくんの。ばかじゃないの』
「え、なんでって……」
『もう切るよ。じゃあね』
会話すらままならないうちから英里は怒ったような口調でまくしたてると、一方的に通話を切ってしまった。
しばらく放心状態で、無限に響く電子音を耳に充てたまま立ち尽くしていた。
英里の言い放った言葉の数々が、いつまでも頭の中をぐるぐると彷徨っている。
いつも優しい英里が、なぜ今日に限って態度を急変させたのか分からない。
ピンポーン、と呼び鈴が鳴ったのは、それから小一時間ほど経った頃だ。
「……学校はどうしたんだよ」
顔だけ出して、制服姿の訪問相手を迎える。
「他に言うことは?」
「帰れよ」
冷たく言い放つとドアを閉めようとする。ガツンと斎藤が右足を挟み込み、強引に扉を引き寄せる。ドアノブはあっさり手元から離れていった。
「寒空の下、三十分も待たせといてそりゃないでしょ」
ドアにもたれかかりながら、無感情的な並行眉をひそめ、彼は笑う。
「おまえが帰らないせいだろ」
「居るの分かってたから」
玄関先へ押し入り、後ろ手にドアを閉めると、斎藤はまたふわりと目を細めて少しだけ口角を上げた。
「小鳥から聞いた」
英里の名前が出て、心臓が不協和音を奏でる。
「転校の話、もう知ってるんだ?」
返事の代わりに斎藤は目を細めて笑った。
「ふうん……。そっ、か」
英里は知っていて、わざとあんな言葉を告げたというのか。どうして? 考えるうち樹の顔が浮かんだ。樹と同じで、四年間友情と思っていたものは、自分だけの一方通行だったのだろうか。さようならを告げる必要がないほど、ばかじゃないのと足蹴にできる程、どうでもいい存在だと思われていたのだろうか。
「よかったって言ってた」
「……英里が?」
斎藤はまた無言で目を細める。
頭をガンと殴られたような衝撃が、今度は確かにあった。
よかった。
朝陽がいなくなってよかった。
毎朝迎えに行く必要がなくなってよかった。
静かになってよかった。
よかった。
ヨカッタ。
ヨカッタ──
その一言から、色々な言葉が連想された。たった四文字。レトリックもない単純な言葉に心臓を八つ裂きにされる。
「森野、泣いてる?」
「……泣いてない」
「うそだ、目が赤くなってる」
斎藤は捨て猫を観察するかのように、好奇心と優しさの混ざった視線を向ける。
本当は寂しいくせに。
心細いくせに。
誰かにすがりつきたいくせに、と。
じっと道端の隅っこで震える子猫を見つめている。
こちらにこいとでも言いたいのだろうか。
一度も触れあったことのない相手こそ、怖くてたまらないのに。
「大丈夫。俺はずっと味方だから」
斎藤はたまに、人の気持ちを抉るような優しさを見せる。強引で、遠慮がなくて、他人には埋められない心の隙間をこじ開けようとする。
「言っただろ。森野には俺がいる」
ぐらりと頭が揺れる。
季節外れの一月に、たまたま転校してきただけの癖に。いつかはΩと結ばれる運命の癖に。お金持ちで優等生で、大の大人を二人も従えるキングの癖に。
そんな斎藤岳が、どうして自分にだけ優しくするのか、分からない。
「そういう事はΩに言えよ」
からかっているのか。もてあそんでいるのか。
そもそも、斎藤岳は実在するのだろうか。追い詰められた自分の作り出した蜃気楼ではないか。
「俺は森野にしか言わない」
ほら、もう少し。
「俺なんかのどこがいいんだよ」
あともう少しだ。
「全部だよ。森野のすべてが俺を翻弄させる」
「なにそれ。αのくせに、変なやつ」
──あとちょっとで、まんまと君の手中に堕ちてしまう。
「……黒ずくめは今日は居ないんだ」
左の頰がずっと気持ちいい。
「黒ずくめ……? ああ、下で待たせてる」
斎藤がそう言うと、朝陽はほっとしたように瞼を閉じた。少し遠慮がちに顔をかしげ、手の甲に頬ずりをする。目を開けると、嬉しそうな黒い目にぶつかった。彼はようやく手けなずけた野良猫をいつくしむように、軽く首を傾け朝陽に見入っている。
「これ以上待たせたら怒られるんじゃない」
「それがあの人たちの仕事」
「……そう」
招かれるまま制服の胸元に顔を近づける。すぐに斎藤が抱きしめてきて、朝陽のうなじに軽くキスをした。
◆◆
部屋のベッドがぎしりとしなる。他には勉強机しかない簡素な部屋。友だちを招き入れたのは、どれくらいぶりだろう。
(友だち……なのかな)
覆いかぶさる頭を掻き抱きながら考える。
パジャマの前はすでに開放されている。朝陽は首をもたげ、平らな自分の体に花弁を落としていく様を眺めた。
すぐに斎藤が気づいて上体を起こすと、愛撫していたその口を同じ場所へ重ねようとする。
「ま、待って」
咄嗟に口元に両手を充てるが、
「待たない」
軽々と両手首を持たれ、頭の左右に置かれてしまった。
「お、れ、初めてなんだよ」
「それはよかった」
二の句も告げさせず、吐息が吹きかかる。初めて他人と交わるその場所を二、三度ついばむと、リップ音を上げて離れていく。
また手の甲が頬に触れる。並行眉の下の優しい目で、朝陽を絡め取りながら。やがてその手は、腹部へと下っていった──
──どれだけの時間、そうしていただろう。
思い出せないほど、朝陽はその行為に没頭していた。
同い年とは思えない慣れた愛撫に、むざむざと翻弄されもした。
逆に自分はなにも知らなくてよかったと思う。もし半端な知識でも持っていたら、斎藤の技巧を前に早々に屈服し、その体のとりこになっていただろう。
とにかく、初めてイクという言葉の意味を知った。
じかにそこを触られたときは恥ずかしさでどうにかなりそうだったが、「じゃあ俺のも見せればいい?」と斎藤が自身を露出させ、交互に愛撫し始めると、その早熟ぶりと大きさに卒倒するかと思った。
斎藤に触られたその部分は、これまでも途端に熱を持ったり、硬くなったりしたことはある。その都度無理やり寝るなどして、その衝動を鎮めてきた。
だからまさか、ここを触るだけで、腰を持っていかれそうな程の快感が突き抜けるとは。自分の体にそんな危険な爆弾が潜んでいると気づかなかった。
しばらく裸のまま、二人でベッドに寝そべっていた。熱が冷めてくると、どちらともなく起き上がり、一緒にシャワーを浴びた。斎藤が髪を洗うと言い出し、大人しく目を閉じていい間、浴びるほどキスをされて、抱きしめられて、湯だつ直前にやっと風呂を出た。
昼食は、見よう見まねでミートソースパスタを作った。途中まで斎藤が隣にいたが、腰を触ったりうなじを撫でたり邪魔ばかりするので、キッチンから追い出した。食事中はどうでもいい話をした。パスタを口にいれたまましゃべったり、笑ったり、樹がいれば発狂するような事ばかりした。
また部屋に戻り、しばらくくつろいでいた。暖房もゲーム機もない簡素な部屋では、早々に会話も尽きてしまい、気づけばまた、蒲団の上でむつみあっていた。
斎藤はよくうなじにキスをした。「特別な味がする」というから真似をすると、ぎゅうっと抱きしめられた。
「このまま離したくない」
「自粛しろよな」
そう言うとしばらくの無言。
「やっぱ森野はつれないね」
「だって、帰ってくれなきゃ俺が困る」
「そのときは森野ごと連れ去るから大丈夫」
どうせ冗談だろうけど、もしも現実になれば、樹も少しは心配するだろうか。英里も後悔するだろうか。
「あは。斎藤が言うと冗談に聞こえない」
「冗談じゃないから。俺はいつでも本気」
「はいはい」
おとぎ話のような甘い時間は、長く続かない。
──夕方。樹が仕事から戻ってきた。玄関先の物音がだんだんと近くなる。
「ただいま。どうした、夕飯を作ってるのか」
今日の樹はいつもよりハイトーンボイスだ。
「おかえりなさい」
朝陽は普段通りに答えると、「簡単だけどね」と添える。
「いや。嬉しい助かるよ、ありがとう」
樹はコートとジャケットをダイニングチェアに掛け、シャツのネクタイを緩めながら朝陽の隣に立つ。いつもならエプロンを着けた樹が立っている場所。でも今日は、数時間前まで斎藤と過ごした場所。玉ねぎを刻む手が緊張で揺れている。
「もしやカレーかな」
樹の手が朝陽の頭に伸びる。髪の毛を触る直前、反射的にそれを避けていた。
「……これからは、樹くんがいないからね」
俯き加減にそう言うと、明らかに樹の表情が曇った。
「ああ……。そうだな」
なぜそんな顔をするのだろう。突き放しているのはそっちなのに。
「もう樹くんに頼ったりしないから、安心して」
朝陽は無理やり笑顔を作ったが、樹はただ寂しそうな視線を向けるだけだった。
その日の夕食は、いつにも増して静かだった。数時間前までにぎやかだったリビングは、食器音だけの冷たい空間に変わっている。
食事中、幾度と目があった。樹から物言いたげな雰囲気は感じていたものの、朝陽は黙々とカレーを流し込み続けた。
少しだけ爽快な晩餐だった。
同時に不毛な抵抗でもあった。
どうせ再来週には捨てられるのに、愛情の欠片でも探りたくて、いまだに躍起になっている。
◆◆
四日目の朝。
今朝も樹を見送った後、入れ替わるようにして斎藤が現れた。
迷いもなく招き入れると早々に抱きあった。靴を脱ぐ時間さえもどかしく、そのまま抱き寄せると奇麗な唇に自身を重ねた。斎藤もキスに応じながらパジャマのボタンを外していく。
「うわ」
前を解放された所で小さな呻き声。
「え、なに」
聞き返すも、答えない。抱きついて離れない。しきりに頭を撫で、うなじを触るだけだ。
「ねえ、なんだよ」
斎藤の息が上がる。
「すごい、いい匂い」
犬みたいに鼻をすんすんさせている。
「え、俺が?」
「森野はなにも感じない?」
別になにもと首を振る。もどかしそうな溜め息が戻ってきた。
「分かった。とりあえず部屋で続きをしよう」
そう言うと溜め息をつき、朝陽の体を抱きしめた。肩口に頭を預けて、まるですがりつくみたいに。
「い、いた、いたたっ、ちょ、どうしたの」
斎藤はうなじにキスをしていた。ときに前歯で甘噛みしているようだった。
「……なんでもない。行こう」
その日は体の一部がすり減るほど濃厚な愛撫が続いた。斎藤は早々に着衣を脱ぎ払った。そこはすっかり熱を持ち、先走りすら見せていた。額は汗ばみ、前髪が貼りついている。喜悦をむさぼる朝陽と違い、苦しげだった。それでも大人と子供ほど差のある互いの熱を擦りあわせ、持参したローションで愛撫する。しなやかな手が、今日も二人を高みへと向かわせる。腰が浮くほどの快感は変わらない。斎藤が変に焦らすせいで、達するまでの時間は延びてはいた。それでも朝陽が先に達して、次に斎藤が手早く済ませるのが常だった。
それが今日は違った。
「う」
斎藤は苦しそうに小さく呻いてすぐに達した。白い放物線は朝陽の上半身どころか頬にまで付着した。
「ごめんね」と拭った後もソレは衰えを見せず、次に朝陽が快感を追うと同時に、斎藤も二度目の精を放った。それでもまだ苦しそうで、先程「シャワーを借りる」と部屋を出たきり戻ってこない。
『もしもし、朝陽か?』
英里から『電話していい?』とメッセージが入ったのは、部屋に残されて数分たった頃だった。
「やあ久しぶり」
ようやくさよならの一言でも告げる気になったのか。いつもより早口の声に、若干の他人行儀で応じる。
『いまどこ?』
「家ですけど」
部屋着を着込みながらそう答えると、受話口の向こうからどうなってんだよと声が飛んだ。
『入院してんじゃないのか』
「なにそれ。誰がそんな冗談を言ったのさ」
ふて腐れていた朝陽の顔が、次第に強張ってくる。
反対側の耳からは、依然としてシャワーの流れる音が聞こえている。
ザーザーと流れ落ちる濁音は、まさしくこの世の終わりを奏でる鎮魂歌のようだと思った。
『朝陽は体調不良で入院してるから、連絡取らないで欲しいって樹さんに言われててて。あの日朝から担任に報告に行ったのね。たまたま職員室に斎藤も居てさ。アイツすぐに早退しちゃって、いまも欠席してんだよ。おまえ斎藤に妙に気に入られてたじゃんか? なんか気になって、さっき伯父さんに電話してみたんだよ。したら、すげえ剣幕で問い詰められちゃって。俺もよく分かんねーから、朝陽が入院してる日から斎藤ってやつも学校にきてないって言ったら、そこで通話切れちゃって。ねえ、これどうなってんの? 朝陽も元気そうだし、家にいるみたいだし。俺もう誰を信じればいいか分かんないよ』
◆◆
定時よりもずっと早い時間に樹は帰宅した。玄関の扉がぎいと開いて、足音が室内へ向かう。どさり、荷物を放る音。足音は遠ざかり、浴室の扉が音を立てる。しばらく無音が続いた。やがてそこから、なにかを殴打する音が響きだした。シャンプーの容器、ボディソープを入れたボトル、風呂桶、おそらくそこにあるあらゆる物をぶつけている。
力任せに扉が閉まる。
足音が荒い。
フローリングが悲鳴を上げている。
それは、どんどん近づいてくる。
叩きつけるような足音は、息つくまもなくこちらへ。
あっというまに。
部屋の扉が開け放たれる。
「なんでだ」
地を這う声の主は、そのまま詰め寄るとベッドの上で小さくなる朝陽の両肩を鷲掴んだ。
「俺の目を見て答えろ!! なんであの男を家に上げた!!」
朝陽は鬼のようにつり上がった目を見返すだけだった。怖くて両手はずっと震えていた。自分だって言いたい事は山ほどある。どうして英里にうそをついたのか。自分にひどい仕打ちばかりするのはなぜなのか。言っても足りないくらい、たくさん。どんなにがんばっても拒絶されて、一方的に責められるだけで。悔しくて、やるせなくて、もう本当に、樹を嫌いになってしまいそうで、悲しくてたまらないのに。
目にいっぱいの涙を溜めた朝陽の目が樹を捉える。同じく目に涙を浮かべていた。どうしてと疑問で揺れるより先に、その視線が首元で止まった。
「おまえ……首」
そう呟くと、声もなく右のうなじをなぞられた。確かそこは、斎藤に噛みつかれた場所。まだジンジンと熱を持っている。
「なんだ、この匂いは……」
樹は斎藤と同じようなことを口走った。目は左右に錯綜し激しく動揺している。
やがて鬼のような顔が崩れていく。
この世で唯一の宝飾に吸い寄せられるかのように、うっとりと朝陽を見つめる。
「た、樹、くん……?」
樹は言葉もなく朝陽を抱きしめる。首に背中に指をくいこませ、斎藤のそれよりも荒々しく抱き寄せる。骨がきしんで息が詰まる。体重を掛けられる。抵抗する余地すらなくベッドに堕ちる。
「──クソ!!」
直後。樹が呻いて朝陽を引きはがした。後ずさるうち、ドアに背中がぶつかった。樹は両手で顔を覆い、しばらくその場に立ち尽くしていた。
どれくらいそうしていただろう。夜の冷え込みが足元を冷やし始めた頃だ。
「やったのか、斎藤と」
絞り出すような声が響いた。
「頼むから、教えてくれ。この部屋で、あいつに抱かれたか」
経験はなくとも言葉の意味は理解できた。
朝陽は首を横に振った。樹はそれを見て鼻をすすり、長い溜め息を吐きだした。
「……分かった。なんにせよ、お別れだ。おまえを……これ以上置けない。明日、ちゃんと話すから。今日はもうお休み。取り乱して、悪かった」
部屋に朝陽だけを残して扉が閉まる。静けさを取り戻した部屋は、物悲しさが残された。
樹が泣いている所を初めて見た。
お別れだと言って、声を震わせていた。
樹にとって、別れは悲しいものなのか? うっとうしかったんじゃないのか? 一日でも早く追い出したかったんじゃないのか?
分からない。
英里も、斎藤岳も、樹も、自分自身も。もうなにも信じられない。
◆◆
朝陽の部屋を出て、どれくらい時間が経ったろう。
テレビに流れるニュース番組を、焦点の定まらない二つの目が追っている。脳裏によぎるのは朝陽の事ばかりだった。
まだ朝陽が子供の頃、検診先の医師からも忠告を受けていた。
『お義父さん、Ωの発情期は必ずきます。くれぐれも、発情期を甘く見ないでください。あなたはαなんです。すべてを受け入れる覚悟がおありなら別ですが……、そうでなければ危険です』
自分は大丈夫だと思っていた。まさか朝陽に手を出そうなんて、親である自分が思う訳ないと。
「幸樹……ごめん。全部おまえの言った通りだった」
すべてにおいて自信過剰だった。
なによりもまず自分を責めるめるべきだった。すぐにでも真実を告げ、謝るべきだった。
大した理由もなく、頭ごなしに叱りつけてきた。あんな躾をすれば、誰だって反抗するに決まっている。
強制的に家から追い出され、朝陽はどれほど辛い気持ちだったろう。傷ついただろう。そんなときに斎藤にすがってしまった行為を、自分に咎める資格はあるか。
(あるわけない……。最低だ)
せめて、これ以上は虚偽を重ねてはならない。
もう逃げることは許されない。
朝陽の体はもう、発情期を迎える準備段階に入っている。真実を伝え、なるべく早く東京へ送り出そう。いままでできなかった分、ありったけの愛情をこめて、いってらっしゃいと。
◆◆
瞼の裏が明るい。バルコニーから差し込む陽光に、もう朝かと目を擦る。あれからリビングで眠っていたようだ。皺の寄ったスーツの中が汗臭い。
学園への編入手続きはなんとか終わった。あとは、朝一番に店舗へ欠勤の連絡を入れなければ。東京との往復だけでも二日。荷造りもあるから、最低三日は休暇を取らざるを得ない。
早朝の冷気に白い息を吐きながら上掛けを羽織ると、朝陽の様子を伺いに部屋のドアを開けた。まだ音もなく静かで、耳をすませば穏やかな寝息が聞こえる。室内にはいや増してフェロモンの香気が漂っている。甘ったるい匂いは昨日よりも濃厚で、ともすれば足を引き込まれそうになる。
(気がおかしくなりそうだ……)
後ろ髪を引かれる思いで扉を閉めると、ドア越しに寄りかかり、息を整えた。
発情期を控えたΩを目の当たりにしたのは、これが初めてじゃない。若かりし頃はどの学校にも数人はΩがいたし、関係を持ったこともある。だがかつて、ここまで理性を惑わされるほどフェロモンの香気にあてられたことがあっただろうか。
喉から手が出る程、欲したことがあっただろうか。
誰にも触れさせたくないと、激しい独占欲に駆られたことがあっただろうか。
樹はそれらを親心ゆえと結論づける。無理やりにでも。いくら疑問符が残ろうと、自らに問う時間はなかった。
重い足を引きずってリビングを出ると自室へ向かった。クローゼットからボストンバックを取り出し、朝陽のために買い置きしておいた部屋着類を詰め込んでいく。荷造りの最中、様々な思い出の品が出てきた。これは……、初めて二人で海に行った写真だ。小さな朝陽が砂浜をバックに笑顔でピースサインをしている。暑いのにラーメンを食べたがって、おなかが河豚みたいに膨らんでいたっけ。よく写真を見返しては笑っていた。当時は、また笑える日がくるとは思わなかった。朝陽の存在が、弟を失った悲しみから立ち直らせてくれたのだ。
思い出に浸るうち、また鼻の奥がツンとする。
もう、朝陽をバルコニーから見送ることもできない。朝食を作ってやることも、こっそり寝顔を見ることもできない。
これからなんのために生きればいい。
朝陽がひょっこり顔を出しそうな、思い出の染みついたこの家で。
(駄目だ、俺がしっかりしなきゃ……)
目頭を拭い、先に店舗へ電話をしておこうかと立ち上がったときだ。
インターホンが鳴った。
早朝の、まだ午前七時を過ぎてまもない時間帯だった。
樹はおもむろに立ち上がり、玄関へ向かった。
モニターを確認する必要はなかった。最初から予測していた。
朝陽のΩ性を見抜き、秘密裏に接触を繰り返していた相手だ。開花する直前で手離すはずがない。
奴は現れる。朝陽を奪いに、必ずやってくる。
扉の向こうに、左右に屈強な男を従えた高校生が立っていた。制服姿でなければ、大学生でもまかり通るだろう、容姿はかなり大人びている。
一見して穏やかそうな黒目は、少しもひるむことなく虎視眈々と樹を見据えている。
(なんて目をしてるんだ)
心の内まで見透かしたような黒い目に、恐怖心さえ沸いた。
「森野は」
斎藤は挨拶もなく、ただ一言だけ告げた。
「寝てるよ。なんの用」
殴り掛かりたい衝動を握りつぶし、極めて平静を装いながら応じる。
一対三では勝ち目はない。人目につきやすい玄関先では、向こうも安易に牙は立てないはず。いまは勝機を待つのが得策だと判断した。
ボディガードに高級車。圧倒的な王者の風格。純潔の血を継ぐαの末裔だろうか。その血筋を護るためにΩとの結婚を強制する家系だ。斎藤が純潔だとすれば、すべての行動に合点がいくと思った。
「どこに隠しても無駄です。森野は俺がもらいます」
やはり、前置きは不要なようだ。
「ふざけるなよ。誰が」
突然だった。
斎藤の背後から伸びた四本の腕が、樹を壁面に抑えつけた。
「朝陽は渡さない!」
すさまじい圧力だった。どうあがいても身動一つできない。油断していた。まさか人目につきやすい玄関先で、無茶はしないだろうと。
激しく抵抗をみせる樹の前を、制服姿の少年がさらりと通り過ぎていく。靴を脱ぎ、部屋に上がり込む。声を荒らげるも口をふさがれた。その背中を見送るしかできない。ふと、斎藤が手前の部屋を通り過ぎる間際に立ち止まった。
「知ってますか、Ωはαに愛されなきゃ生きてけないんですよ」
荷造り中の荷物が散らばる部屋の有り様が、その目に映っていることだろう。
「あなたにαの血を継ぐ資格はない」
斎藤は整った顔をこちらに向ける。蔑むでも、侮蔑するでもない。βと偽り続けたおまえはライバルのにもならない。冷ややかな目はそう訴えていた。
「なぜ分かった」
「森野を見てるあなたの顔」
斎藤の車から朝陽を奪うように連れ出した、あの日の出来事を思い出す。
「どうして愛せないのに側に置きたがるのか分からない」
「青二才に親の愛情なんか理解されてたまるか!」
方眉がピクリと跳ねる。
「不服ですね」
スラリと手足の長い少年が、再びこちらへ接近する。
「俺なら絶対に泣かせたりしない。どんな立場でも」
フローリングがきしむ。無感情だった黒い目には、挑発的な光が宿されていた。
「あなたにその覚悟がなかっただけだ」
間近に迫ったしなやかな手が顎を捕み、生意気な顔が視界に映された。
「さて。いつまで偽善の皮を被るおつもりですか。お義父さん」
◆◆
とろけるような感触に、次第に朝陽の意識が戻ってくる。
夢じゃない。斎藤がキスをしている。
昨日、追い出したはずなのに。もう誰も信じられないって、もうくるなって言ったのに。
「なんでいるんだよ……」
絶交中でも勝手に会いにくるなんて、斎藤岳は本当に蜃気楼みたいな男だ。
「俺、うそつきって怒鳴っただろ。もうくるなって追い出しただろ」
「呼ばれた気がして」
斎藤は手の甲で濡れた頬をそっと撫でる。
「呼ぶわけないじゃん、おまえなんか……」
人差し指が朝陽の唇に触れた。
「大丈夫、俺が転校なんてさせないよ」
斎藤はいつも未来を予言するような奇妙な言い回しをする。もしかその黒い目には見えているんだろうか、朝陽の未来が。
「俺のところにおいで。俺とならうまくやれる。森野は幸せになる」
細くなった目をゆっくり閉じて、涙で濡れた目元にキスを落とす。滴の一滴まで拭うように舐めとると、頬や鼻先、唇へと……。顔中にキスの雨を降らせていく。
「森野、俺の番になって」
「さい、とう……?」
「森野はΩなんだよ。俺の番になる運命の」
やはり夢の続きでも見ているのだろうか。
斎藤は、自分がΩだと言った。
「Ω、俺が? まさか……」
「怖がらないで。森野を苦しめる悪い魔法は、俺が全部消してやる」
子供の頃、大好きだったシンデレラストーリー。
不幸なΩを救うのは、決まってαの王子様。
いつか自分も優しい王子様と結ばれるんだと、有りもしない夢ばかり見ていた。
「そんな訳あるもんか。俺はβだもん、なんの取り柄もない普通の」
「でも真実だ。君はΩだ」
自分がΩかどうかなんて、考えたことなかった。そんなものは別次元の話だと思い込んでいた。
「なんで、そんな事が分かるんだよ」
「そりゃ分かるよ、αだから」
親代わりに育ててくれた伯父が居て、帰る家があって、学校には友だちもいる。そうであれば充分だった。
思い描いていたのは平々凡々な幸福であって、異分子的な存在じゃない。
「ようやく発情期が始まったんだよ。これで正式に俺の物になるんだ」
「う、そだそんなの……」
それが真実であれば、樹は知っていたのだろうか。
いや、知っていたからこそ、冷たく突き放していたのではないか。
もしかして、過剰に厳しく接されてきた本当の理由は──
「泣かなくていい。森野は幸せになれるんだから」
手の甲がまた朝陽の頬をそっと撫でる。キスの雨を降らせていたその唇は、同じ場所に重なる。
「俺もう分かんない、分かんないよ……」
粛々と義父の責務を全うしてきた樹の姿が脳裏に浮かんだ。この十年間の歳月は義務であって、やはり愛情は欠片も持っていなかった。そんなこと受け入れたくもなかったけれど、現実に住む場所を追われようとしている。知らなかったのは自分だけで、この偽装の親子関係は最初から、Ωを覚醒するまでの間柄だと線引きされていた。
昨晩の涙は、ようやく普通の生活に戻れる歓喜に沸いたものだったわけだ。
「考えなくていい。俺だけを感じて」
心の中がぐちゃぐちゃで、なにも考えたくないのに、斎藤は全身の骨が溶けていくような愛撫と蜜で翻弄する。かぶりつくようなキスをされ、頭の中が真っ白に溶けていく。体の底から、熱いなにかがあふれている。全身が発熱している。体の中がマグマのように熱くて、細胞が踊り狂っている。そこから新たな生命を導き出すかのように。
「やだ、怖いよ斎藤……っ」
「大丈夫。ずっと俺が側にいる。安心して、俺を求めて」
本当にこのまま斎藤と人生をともにするのだろうか。
分からない。
いつかはこうなる運命ならば、受け入れるべきだろうか。
自分が誰と番になろうが、樹にとってはどうでもいい事なのだから。
「さひ……。朝陽── !!」
その人の名前を心の中で呼んだと同時だった。幻想ではなく、はっきりと、朝陽の耳にその声は確かに届いた。
玄関先から地鳴りがする。騒々しい足音がこちらに。
「朝陽……!!」
勢いよく扉が開け放たれると同時に、スーツ姿の男性が駆け込んできた。
「た、つきくん……?」
昨晩と同じスーツのジャケットは皺になり、ネクタイもゆがんでいる。頬はこけ、目の下にはクマを作り、とてもひどい顔をしていた。
男性はベッドの上の二人を見るや、さらに表情を険しくさせた。
「朝陽から離れろ!!」
樹はすさまじい剣幕で歩み寄る。その手が斎藤の襟首を掴みかけたとき。背後から黒服が駆け込んできて羽交い絞めにした。
「樹くん……!」
「頼むから、朝陽に手を出さないでくれ……!」
二人がかりでも振り切らんばかりの勢いだったが、若い方が唸り声とともに、体ごと壁に押しつけ、動きは完全に封じられる。それでも樹は声を振り絞り続けた。
「やめてくれ……、頼む、朝陽はなにも知らないんだ、純粋な子なんだ、頼むから……、汚さないでくれ」
悲哀に満ちたその表情に、振り絞るようなその声に、あたかもそれこそが樹の本心なのだと誤解してしまいそうになる。
朝陽の真上では、斎藤が目を細めている。
「惑わされるな。君を苦しめていたのは誰? 君を幸せにできるのは誰?」
手の甲が頬を撫でる。斎藤の体も、焼けるように熱い。
「樹くん」
黒い目を見つめたまま、朝陽は部屋の奥に声をかける。
「俺は、Ωなの?」
樹は息を震わせ押し黙った。それこそ肯定するなによりの証拠だった。
「だから、俺が邪魔だった?」
「違う! 邪魔なわけがない。朝陽がいなきゃ……」
震える声で樹は続けた。
「朝陽は俺のすべてだ。かけがえのない宝物だ。おまえがいなきゃ俺は……生きてけないよ」
「じゃあなんで俺を捨てるの」
「それは──」
樹が言葉を詰まらせるたび、心が傷だらけになる。
「俺、なんにもいらないのに。樹くんさえ居てくれたら、それだけで幸せなのに」
また返答がない。朝陽はベッドの上から睨みつける。
樹はいっぱいの涙を溜め込んだ目で朝陽を見つめていた。
そして擦り切れそうな声でただ一言呟いた。
「俺もだよ……」
ガラス玉が割れる。バアンっと音を上げて。
うそつき。
うそつき。
許さない。
もう誰も信じない。
「樹くんはうそつきだ」
目の前で斎藤が微笑んでいる。「よく言ったね」とでも言いたげに、朝陽の頬を撫でている。
「おまえもおんなじだ」
朝陽はその手も跳ねのけると睨みつけた。パチンと鳴った手の甲を宙ぶらりんにさせて、斎藤は首をかしげた。
「森野? なに言ってんの」
「おまえだっておんなじだ、うそつきだ、皆してだましあって、自分のことしか考えてない。誰の言葉にも真実なんか一つもなかった。皆うそつきだ、にせものだ! だったら全部いらない。俺は、誰とも一緒にならない!」
みるみる黒い目は凍りついていく、見たこともない冷たい顔で朝陽を睨みつけている。
「そんな戯言がまかり通るとでも思ってんの」
にじり寄る顔に影が落ちる。はりつけた笑顔の奥から悪魔が這い出るように。
「いまさら手放せるわけないだろ、理解しろよそれくらい」
斎藤は強引に朝陽の顎を掴むと強引にしゃくり上げる。互いの視線を交わせるより先に、噛りつくようにして唇を奪われる。
刹那。
肉を引きちぎるような鈍い音とともに、斎藤が呻きながら唇を離した。
「おまえ……っ」
「もう俺に触るな!」
朝陽は渾身の力を込めてその体を突き飛ばした。唇の端を赤く染めた顔と体が、ぐらりと大きく揺れる。黒服がこちらを見ている。樹を抑え込んだまま、血走った目で。まるでスローモーションのようだった。斎藤が倒れ込むと同時に黒服が「よくも」と叫んだ。樹を放り投げ、こちらに駆け込んでくる。「やめろ!」迫りくる黒い影の向こうで、叫び声が聞こえた。
痛みはなかった。
恐怖もなかった。
ただ優しい温もりが、朝陽を包み込んでいる。
それが樹の胸の中だと分かるまでに時間は掛からなかった。
樹は泣いていた。
いい大人が肩を震わせ、喉を詰まらせ、朝陽にすがりついて泣いていた。
なにが起こったのか、よく覚えていない。記憶にあるのは、二つの黒い影が投げ飛ばされた瞬間の映像。彼らはいま、床に転がっている。その隣では斎藤が、扉に身を預け二人を見ていた。
「ごめんな……ごめんな、俺が間違ってた。全部俺のせいだ、許してくれ……」
十年前に戻ったかのような温もりが、朝陽を抱きしめている。暖かくて、大きくて、樹の匂いでいっぱいになる大好きな場所。
「先のことばかり心配して、厳しくしてばかりだった……、手放すのが怖くて、最後まで真実を言えなかった」
「……うそつき」
「うそじゃない、俺は……、朝陽が大好きだよ」
「樹くんはうそつきだ」
この背中に腕を伸ばしたら、またどこかへ行ってしまうのだろう。勝手に謝罪の言葉だけを並べたて、いってらっしゃいと背中を押すのだろう。
「見せかけの言葉なんかいらない、愛せないならそれでいい。だからお願い、最後に樹くんの本当の声を聞かせて」
ならばせめて、真実の言葉を聞きたい。憎しみでもいい、怒りでもいい。十年という歳月だけは、うそで消されたくない。
「信じてくれるまでずっと言える。朝陽は俺のすべてだ、命だって惜しくない。本当だ、本当に心から朝陽を愛してる」
「うそだ、絶対に信じない、信じられない!」
自分が愛されているはずがない。愛してるのに手離せる訳がない。それはただの偽善だ。
「……見てられない」
その様子を黙って見守っていた斎藤が、あきれ気味に口を挟む。
「いつまで黙ってるつもりですか、俺と同じαだってこと」
抑揚のない淡々としたその声は、確かに朝陽の耳に届いた。斎藤の黒い目は樹だけを捉えている。朝陽もその顔を見上げた。押し黙って目を泳がせるその人を。
「α? 樹くんが……?」
「なんで森野を遠ざけてるのか知りたい? 発情したら、イケナイことをしたくなるから」
この俺でも苦しいのに、と斎藤は続ける。
「こんな悩殺的なフェロモンをまき散らす森野と伯父さんが、一つ屋根の下で仲よく家族ごっこなんかできる訳ないでしょ」
斎藤は首を傾け、赤く染まった口の端を噛みしめる。
「君の大好きな伯父さんは、俺なんかよりよっぽどやらしい男なんだよ。我が子も同然の君を抱きたくてたまらない変態」
「そうだ、その通りだよ」
斎藤の言葉を遮ったのは樹だった。朝陽の両手を握りしめると、赤くなった瞳をまっすぐに向ける。
「全部幸樹から聞かされてた。約束してたんだ、朝陽が中学に上がったら東京へ行かせるって」
「え……?」
「でもできなかった。離れる決心がつかなかった。そのうちあいつが現れて、後悔した。幸樹を裏切るくらいなら、手放した方がマシだとさえ思った」
目の前のこの人は、本当に森野樹なのだろうか。本当にあの厳しかった伯父なのだろうか。熱い視線を痛いほど浴びせるこの人が。
「本当は、朝陽を誰にも奪われたくなかっただけだ」
ゴツゴツとした樹の手が、朝陽の頬に触れる。壊れ物を扱うようにそっと。
「もっと早く、俺が素直になるべきだった」
「もっとはっきり言って」
朝陽は両腕に爪を喰い込ませしがみついた。
「朝陽……」
「俺、ばかだから、はっきり言ってくれなきゃ分かんない」
「俺は……」
樹はしばらく押し黙ったのち、観念したように瞼を閉じると、
「朝陽を愛してるよ、心から」
絞り出すように、これまで胸に秘めてきた想いを独白した。
「じゃあ離さないでよ、ずっと俺の側に居てよ、樹くんがいなきゃ生きてけないってくらい、俺を大切にして」
「ああ、もう絶対に放すもんか」
朝陽は大きな胸元にかき抱かれていた。背中に腕を伸ばしてしがみつく。もう何処へもいかなくていいように。
ほどなく、乾いた音が部屋に響いた。
「実に下らない寸劇をどうも」
斎藤は拍手で二人を祝福し、続いてオーバーリアクション気味に肩をすくめた。
「元在校生として感謝します。荒れ放題の無法地帯に、森野が転校させられなかった事だけはね」
そう言い残し、「帰るよ」と黒服の肩を担ぎ上げる。かつて朝陽をそこに映した黒い目は、もう交わることはなかった。
「でもそのうち後悔するよ、俺よりそいつを選んだこと」
じゃあ、また学校で。
返事も待たずして、その姿はドアの向こうへと消えて行った。
◆◆
いつまで抱きあっていただろう。一生を掛けても飽き足りないほどの長い時間、二人は身を寄せあった。朝陽の体はさらに開花していた。いまは下半身の湿りを自覚するほど、体の内側から燃えるような欲望に呑まれている。樹の匂いにさえ興奮し、腰が勝手に震えている。
『欲しい』
身に覚えのない欲求が次々と喉をついて出た。自分の変化に動揺するまもないほど、朝陽の体は飢えていた。
樹の体にも変化が起きていた。腹部に当たる硬質なそれは痛々しいほどに上を仰ぎ、全身にびっしりと玉のような汗が浮かんでいる。
「朝陽、あと一つだけ許して欲しい」
「なあに」
唇から漏れる吐息すら甘ったるい。樹もその色香にあてられたのか、苦しそうに目を閉じるとブルリと体を震わせた。
「今日だけおまえを抱くよ。ちゃんとゴムも着ける。抑制剤で我慢する方が苦しいだろうから」
腰を揺らしたい衝動が、そろそろ抑えられなくなりそうだ。
「今日だけ、なんだ」
くしゅんと眉を垂らして寂しそうに告げると、樹は「う」と言葉を詰まらせた。
「すまん……。相手が俺で嫌だろうけど、最悪、医療行為として割り切ってもらえれば」
「いやじゃない。お願い、もうきて。樹くんが欲しくてしょうがないの」
朝陽は両脚を樹の腰に絡ませ、中心部を押しつける。いま、確かに、樹の喉がゴクリと鳴った。
「いいのか、俺で」
「樹くんがいいの。早くここに、樹くんのが欲しい」
額の汗がすうっと流れ落ちる。
「おまえ……一体どこでそんな言葉を覚えたんだ」
「そんなの知らない、だって勝手に出ちゃうんだもん」
「ああ分かった、俺ももう……」
朝の木漏れ日に映し出された二つの影が、まもなく一つに溶けていった。
最初に口づけたのはどちらからだろう。覚えてない。吸い寄せられるように唇と唇が、素肌と素肌が重なった。朝陽は唾液の一滴も零さず舐めとろうと必死で舌をくべらせた。唇と唇を押しつけ、互いの服を脱がした。朝陽は年齢を感じさせない屈強な肉体に歓喜し、樹もまた無垢な体を奇麗だと賛嘆した。
樹の扱いはひどく丁寧で優しかった。
決して無理な体位を強要せず、桜色に染まるその顔に見惚れるでもなく、あらゆる場所に鳥のさえずりのような、優しいキスを落としていく。耳たぶにも、頬にも、指先にも。
優しいけれど、正直物足りない。
うなじにされる幾度目かのキスに悶えていると、ようやくその人は不安げな面持ちを朝陽に向けた。
「ごめん、乱暴だったか?」
「違う……っ気持ちよくて、震えが止まんないの」
朝陽が振り絞るように言うと、くっと荒く息を切り、
「かわいい事を」
樹は困惑した面持ちで幾筋かの汗を流した。
「もっと激しいのがいい」
「こら……煽るんじゃない、必死に抑えてるんだから」
「抑えないで。樹くんの想いを俺にぶつけて」
そう言うと下肢を絡みつかせ、みだらに育った下半身を擦りつける。
「もっと俺を欲して、樹くんがしたいまま、ぐちゃぐちゃにして」
樹は唇を噛み押し黙っていたが、無数に滴る汗の粒が、激しく揺れるその胸中を物語っていた。
「朝陽、頼むから……! 俺は、自分のためには、できない」
「やだ、これが欲しいの、俺に狂ってく樹くんが欲しいの」
無我夢中で樹のその部分に手を伸ばす。言葉とは裏腹に雄々しくいきり立ったそこは、すでに我慢を切らした蜜液で先端を濡らしている。両手で握り込むと磨きをかけるように扱き上げた。頭上から擦り切れるような吐息が降る。
「あは、すごい、斎藤でもこんなになってなかった」
「……煽ったな」
刹那に朝陽は両腕を拘束され、頭上でまとめ上げられた。
「ああ俺だってもっと狂わせたい、俺ので泣かせたい、この奇麗な体をめちゃくちゃに抱いて抱いて抱きつくしたいさ」
一転して血走った目を見開き涎を滴らせる様は、まさに獣のようだった。
「おまえに溺れてしまってもいいのか、家族に戻れなくなってもいいのか」
「いいよ、それより樹くんのいまをちょうだい。見せかけじゃない、俺だけの大切な人だって証拠をこの体に残してよ」
直後、嵐のような愛撫が始まった。樹は骨が軋むほど強く抱き寄せると体のいたるところに赤い所有印を落とした。胸の突起は腫れるほど吸われた。歓喜にむせぶまもなく両脚を割り開かされ、愛液で濡れそぼったそこを三本の指で嫌というほどこねくり回された。朝陽はたちまち快感のとりこになった。体は溶けた鉛のような感覚で、起き上がるのもままならなかった。樹は依然として獣のように荒々しい呼吸を吐き出しながら、軽々と体を反転させ、腹の下に枕を仕込んで四つん這いにさせた。
「待……って、腰が抜けて……」
樹から返事はない。感じるのは、獣のような呼吸音だけ。やがて蜜口に鋼のように熱い高ぶりが押し当てられた。猶予もなく腰が落とされる。みだらな後孔は初めてと思えないほど容易く口を開き、あっというまに樹を迎える。
「あ……、あっ、すごい、熱くて大っきい……っ」
これが樹の味。幼い頃から親代わりとなって育ててくれた樹の、なによりももろくみだらな欲望を、この体で受け止めている。
「朝陽、俺の朝陽……!」
次々と樹の愛がうがたれる。すでに腰砕けだった朝陽は狂い泣いた。幾度となく体勢は崩れ、言葉通り骨抜きになったその体を支えられるようにして樹の愛を受け止め続けた。触りもしないソコから精液が流れ出ている。まるで搾乳中の雌牛のように。
「やら、やら……っ、も、だめぇ、気持ちいいよお、こわいよお……」
依然として獣のような呼吸を繰り返し、樹は己の欲望で朝陽を狂わせ続ける。
「やら、止まって、止まってぇぇ、それ、以上……ったら……っちゃう……」
腹の奥でゴリゴリ当たっている。それが気持ちよくて気持ちよくて、これ以上されると、狂ってしまう。
「い、い、いくっ、イッちゃう……── !!」
朝陽は恍惚の香りを滲ませ、痺れるような絶頂感にのまれていった。
どれくらい求めあっただろう。我に返った頃には窓の外が薄暗くなっていた。隣では樹が寝息をたてている。上下のスウェットを着込み、裸で蒲団にぐるぐる巻きにした朝陽を抱きしめるようにして。白髪交じりの黒髪はしっとりと濡れ、シャンプーの芳香が漂っている。朝陽が指に絡めて遊んでいると。
「……おはよう。調子はどう」
薄く瞼を開け、樹が穏やかな声を響かせた。
「俺を置いてくなんてひどい」
樹は「ん?」と首を捻ったのち、
「オヤジ臭いなんて言われたくないからな」
朝陽の鼻先を軽く摘まみ上げる。指先はまだほのかに石鹸の匂いが残っている。
「そんな事言わないよ。樹くんの甘酸っぱい匂い大好きだもん」
「その高評価を守り通さなくちゃな……って、俺そんな匂いしてたのか」
「ふふ。よくベッドやスーツをこっそり嗅いでたからね」
樹があと濁音を混ぜたような声で発狂した。
「おまえ……俺の知らない所で」
シーツに顔を伏せてはいたが、耳まで真っ赤になっている。
「えへへ。だって樹くんがだーいすきなんだもん」
とどめを刺すように朝陽が言う。
「……決めた」
しばらく黙りこくっていたが、そのうちボソリと告げる。
「なあに?」
「抑制剤は使わない。発情期の一週間、俺が死ぬほどかわいがってやるから覚悟しろよ」
ちょうど休みを取ってるし、とつけ加える。
「へへ、やったあ。一週間も樹くんとエッチできるんだ」
樹は無邪気に喜ぶ朝陽の喉元を撫でさする。
「……すごいのな、発情期って。まるで別人みたいだ」
「そお? よく分かんない」
朝陽もごろごろと喉を鳴らすふりをしてその手にすり寄った。
「もしかして、ずっとこのままだとか」
「こんな俺は嫌?」
「……大歓迎です」
蒲団をはがれた朝陽の元に、目覚めの熱い口づけが降ってきた。
◆◆
「──さひ、朝陽、いい加減起きなさい」
鳥のさえずるさわやかな朝。いつものように、キッチンから樹の声がする。
一週間後の今日、朝陽は蒲団に丸まっていた。目は完全に冴えていたが、別の理由で抜け出せなかった。
そろそろ登校十五分前。いい加減起きなければ、また英里を待たせてしまう。
制服に着替えて忍び足でリビングに向かうと、
「お……お……、おは……よ」
蚊の鳴くような声で、スーツにエプロン姿の背中に声を掛けた。
「遅い! 何時だと思ってるんだ!」
途端に樹が鬼のような形相で振り返り、「ぎゃっ」と悲鳴が出る。
「まったく一週間ぶりの登校だってのに。早く座って食べなさい」
「う、うん」
目覚めると魔法は解けた後で、すっかり正気に戻っていた。とは言っても一週間分の記憶はばっちり残っていて、朝陽は自らの為した挑発的な行為の数々に朝からのたうち回っていた。
(だ、だって俺、た、たた樹くんと……)
そうだ。樹と、あの樹と部屋のいたるところであれやこれやと恋人よろしくやっていたわけで。
伯父であり、家族であり、赤ん坊の頃から自分を知っている人でもあり。そんな人となにをしたのかと考えれば、蒲団に潜りたくもなる。
なもんで、まるで変わらない樹の応対に、今朝ばかりは救われた。
これぞ年の功というやつか。
動揺のそぶりすらなく、それどころか雷を存分にとどろかせてさえいる。
行ってきますと玄関へ向かうところ、樹に呼び止められた。
「これ、買ってきたから」
まもなくして首元にステンレス製のネックリングが装着された。
……そういえばいつだったか、ピロートーク中に言っていた。Ω専用の護身グッズがネット販売されているとか。首輪のようなそれは、後ろを南京錠で固定するデザインになっている。番を持たないΩの基本装備なのだそう。
「平気か?」
背中から声が聞こえる。
「ん、苦しくない」
「じゃなくて」
樹は少しためらったのちに続ける。
「これを着けたら、Ωだって周囲に知られるんだぞ」
「うん。大丈夫」
この町で樹と生きて行く決断をしたのは、自分自身なのだ。後悔はないし、ようやくだが、Ωという運命も受け容れつつある。
この一週間で、二人はいくつかのルールを取り決めていた。
二人は決して番にはならない。
家族関係を壊さないよう、日常的なキスや性行為も行わない。
ただし、発情期中の一週間のみ適用外とする。
それが我が家の新ルール。
『親子、ときどき恋人』だ。
Ωという運命が、二人の生活にどう影響を及ぼすのか、正直まだ分からない。斎藤の一件だって解決したわけではない。学校に行くのが怖くないといえば、うそになる。
「ごめんな、手離してやれなくて」
樹は南京錠を掛け終わった手を伸ばし、ゆるく抱きしめる。
「……手離さないでよ。だって、樹くんは俺のたった一人の家族なんだから」
「家族、か」
そう自嘲気味に漏らした言葉が気になって、肩越しに振り返る。すぐそばに樹の吐息がある。目を細めて、まるで発情期中の朝陽に向けていたようなまなざしで。
──キスされる。
とっさに一歩退くと、樹の目の色が変わった。
「悪い、どうかしてた」
「ううん……」
示しあわせたようにインターホンが鳴る。朝陽は内心安堵しながら玄関へ向かった。
◆◆
一週間前と学校の景色が変わっている。そう感じたのは、校門をくぐる前からだ。
教師の目。生徒の目。クラスメイトの目。
朝陽に、いや、その首に装着されたネックリングを見て、ある者は指をさし、またある者は互いに耳打ちをする。生徒でごった返した廊下では、朝陽の半径五十センチだけ奇妙な空間が作られた。歩くたびに人垣ができて、朝陽と、なに食わぬ顔で隣を歩く英里の二人を遠巻きに見ている。
「おまえらαでもねーのにばっかみてーだぞ」
英里の声が廊下を轟かせ、野次馬たちを一掃した。
「ありがとね」
「あ? 気にすんなよ」
英里がポンと肩に手を置いた。
朝陽に応えるように笑顔を作る。その自然な行為に、こぼれ落ちそうな程の感謝を噛みしめながら。
学校という閉塞された社会では、異分子はひときわ強く浮き出てしまう。水に一滴垂らした油のように、ぷっかりと。だからある程度は覚悟していたが、ここまで拒絶されるとは思わなかった。
「クラスでもこんな感じかな」
「……どーだろ?」
「英里は、俺と友だちでいてくれる?」
「はあ?」
ギャグマンガさながらに目を見開いた英里は、そんなの当たりまえだろうが! と言いながら朝陽の首を絞める。朝陽は胸の内の不安をかき消すように、ぎゃーぎゃー騒ぎながらクラスに駆け込んだ。
瞬間。
にぎわっていた教室内が水を打ったように静まった。
教科書を机にしまっている者、立ち話している者、授業の予習中の者、皆の動きがぴたりと止まって、入り口の二人を凝視している。
ただ一人だけを除いて。
「おはようΩくん」
斎藤岳はそう言うと席を立ち、朝陽の元へ歩み寄る。
ドクンッ。
朝陽の、胸が高鳴る。
ドクンッ。
短く発した斎藤の声に、なぜだか朝陽の全てが取り込まれてしまうような気がした。
斎藤はゆっくりと近づきながら、朝陽の首元に視線を向ける。
ドクンッ。
胸が熱くなる。得体の知れないマグマが、胸の奥から沸き上がってくる。
熱くて焦がれる。
(なんだよ……、なんなんだよこれ……っ)
「……独占欲の塊だね」
斎藤から目が離せない。うっとうしそうに顔を歪めながら発する冷たい声にさえ、耳が溶けそうになる。
朝陽の変化に気付いているのか、斎藤はどんどん近づいてくる。
「な……に」
「いや。待ち遠しかったよ一週間」
これまでと違うのは、その目が笑っていない事。醜悪なものを見るような目で朝陽を……いや、ネックリングを捉えている。
いま口を開けば、樹への思ってもいない暴言を吐いてしまいそうだった。
――運命の番。
(うそだ……。こいつが、そんなわけ、ない)
――どんなに嫌っていても、決して離れられない、魂の恋人。
(違う……だって俺は、樹くんしか好きじゃない)
心と体がバラバラになっていく。
斎藤が近づくほど、どこからともなく立ちのぼる甘い匂いに、理性がとろけそうになった。
「……それはそうと」
斎藤は朝陽の様子を気に掛けるそぶりもなく歩み寄ると、貼りつけたような笑顔を耳元に近づけた。
「あいつ、うまかった?」
刹那にして沸き上がった熱が、耳元を焦がす。
怒りと歓喜、その両方で。
「あ……あっ」
「え? こいつなんつったの」
刹那。
英里の言葉を遮るように、教室中にどよめきが奔った。
朝陽の声も飲み込まれる。
強引に噛りつく斎藤の唇の中へ。
さっきまで水を打ったように静かだった教室から沸き上がる、悲鳴と歓声の渦、渦、渦。
朝陽は無我夢中で胸を叩いて引きはがすと、思い切り頬をはたいた。
「おまえ……最低!!」
斎藤は笑っていた。
「上等」
ニヤリと不敵に、赤い舌で唇の端を舐めとりながら。
了
〇月〇日
幸樹と日葵(ひまり)ちゃん夫婦と食事する。一歳の息子も同席。よく泣く元気な子。俺も抱っこするが泣かれる。
〇月〇日
有給を使って弟家族の七五三の付き添いで写真館へ。泣き虫だったあさひくんが怪獣並みの暴君と化している。撮影、待機、着替え、どれも大人しくしていられない。夕食前に別れたが、気疲れして参った。明日は仕事か…
〇月〇日
有給開けて出勤。やはり疲れは取れず、イライラとストレス過多を、煙草でどうにかやりすごす。夜は久々に晩酌。テレビを見ながらカップ酒を煽り、やはり家族はいいものだなと、部屋で一人思う。やはり、弟が羨ましい。夜になり、幸樹から着信。脱衣所から掛けているとの事。時間なく、明日に折り返す。
〇月〇日
夕方、幸樹と通話する。あさひの話。血統調査の結果、Ωであることが判明した。動揺。高揚と絶望。あらゆる感情の入り混じった幸樹の声。森野家から、Ωが誕生した。他人事と思っていた事態が現実に降りかかり、俺もどうすれば良いのか分からない。国への申請はいつからだったか。性教育の方針は?男の子として育てるべきか、幼い頃から嫁入り教育をさせるべきか。少なくとも、あさひが他の子たちより巣立つ日が速いことは確か。Ωは中学の頃一度だけクラスメイトにいた。彼の場合は発情期が速く、四半期ほどで学校に来なくなった。その後、噂で彼はユートピア民になったと聞いた。あさひもいずれ…。幸樹の気持ちが痛いほどわかり、俺も辛い。俺はαだけに、余計に複雑だ。Ωなんて、αなんて、無ければ良いのに。
〇月〇日
幸樹より再度電話。この事はあさひにはしばらく黙っておくとのこと。両親、親戚へも然り。でも中学に上がれば強制血統調査が待っている。いつまでも隠し通せるものではない。
〇月〇日
半年ぶりに弟家族と会う。あさひはまた大きくなっている。最初はしかめっ面。だんだん俺を思い出してきた様子。ようやく懐いてきたと思ったら、また帰る時間。賑やかなのか、煩いのか、愉快なのか、やはり子供中心の一日で疲れたが、別れ際は少々複雑。帰宅すると、一人の部屋が寂しく感じる…。今日も酒を煽って寝る。
〇月〇日
来週よりあさひを引き取ることで施設側と合意。あさひ、面会時の表情は硬い。別れ際に、「たつきくん、行かないで」と号泣される。名前なんて呼ばれたことなかった。あさひの涙を見て、幸樹たちがこの世にいないことを実感する。何もしてやれなかった。ごめん、無力な兄貴でごめん。泣けない俺の代わりにあさひが泣いてくれている、そんな気がした。辛い。この子はもっと辛い。苦しい。この子はもっと苦しい。寂しい。この子はもっと寂しい。俺なんかが、なんて思っていられない。早く、あさひを引き取ってやりたい。気ばかり焦る。
〇月〇日
あさひを迎えるため、準備が続く。寝床は? 服や靴のサイズは? 直前になって分からない事が山積みで身動きできず。頭痛が日増しに酷くなる。
〇月〇日
とうとうあさひを我が家へ迎える。今日は(いつも?)ずっと大人しい。部屋の隅で座り込んでいる。遠慮している? 試しに話しかけてみるが返事なし。終日二人でテレビを観て終わる。夕方、買い出しへ。あさひも一緒に行くというので同行させる。店について後悔…。目を離すとすぐにどこかへ行く。店の物に勝手に触ってあっちこっちに放置。買い物どころじゃなく、ひやひや。結局必要物以外買えず。子供ってこんなものか?
〇月〇日
休日出勤を終え、帰宅。あさひがいない。後に大家さんより電話、泣きながら近所を徘徊していたとの事で、俺が叱られる…。あさひに問うが、しゃべらない。「寂しかったのか?」と聞くと、遠慮がちに頷く。しばらく休日出勤も諦めざるを得ない。
あさひが悪いわけではない。分かってる。分かってるけど、独身時代は考えてもいなかった不自由さについてけない。日々、気ばかり焦る。
〇月〇日
夕飯時、テレビで大家族特集が流れる。なんとなく、見るのが辛くてチャンネルを変えようとするが、あさひはこれを観たいとのこと。初めて俺に見せた意思表示。家族で川の字に寝ている所を、特に食い入るように観ている。俺は、子供の頃の記憶を思い出して泣けてくる。あさひが隣に座ったので、頭を撫でた。突然泣き出す。どうすればいいのか分からず、ただひたすら頭を撫で続ける。このまま抱きしめてやるべきだろうと分かっていても、勇気が出ない。俺の脳裏には、つねに幸樹の面影がつきまとっている。やはり俺じゃ、親代わりにはなれないのかもしれない。止まらない泣き声に自尊心が削り取られていく。
〇月〇日
昨晩、あさひが一緒に寝たいと寝室に来た。ベッドの下に布団をふたつ敷いて川の字になる。しばらくして同じ布団で寝たいと言われ、こちらへ呼ぶ。あさひはじっとして動かない。ただ、「ありがとう」と一言。目頭が熱くなる。俺こそ、こんな奴を、頼ってくれてありがとう。昨夜、自分勝手に保護者失格の烙印を押したことを恥じる。情けなさと嬉しさで、今日は一日足元が浮ついたままだった。同僚にまで「今日はやけに優しい」と奇妙な顔をされた。ありがとう。そして、ごめんな、あさひ。
〇月〇日
あさひ、小学校卒業式へ。この日のために下した子供用スーツを着用させ、送り出す。俺も急いで支度し、会場へ向かう。半日有給しか取れなかったため、最後まで見届けられず。後日、式典記念DVDが発売されるとのこと。発売日、〇月〇日 60分1500円。後日、必ず購入すること。
〇月〇日
あさひ、今日から中学生。悪い友達に出会わないか、いじめられたりしないか、非行に走らないか不安。小学5年より同級の英里くんと、中学でも同級とのこと。彼が一緒ならば心配ない。一安心。
仕事も順調。子離れし少し余裕ができたところで、次は上司の残務処理がかさばってくる。たったこれしきの情報処理がなぜ出来ないか、正直理解できない。
〇月〇日
あさひ、誕生日(5月2日)。今日で15歳、おめでとう。幸樹に似て、友達想いの、優しい子に育ってくれた。仕事帰り、予約しておいた誕生日ケーキを受け取り家路に着く。夕食はあさひの好物、カレーライス。ケーキが大きすぎて、最後は二人で無理矢理平らげる。夜、何年かぶりに二人でアルバムを見返した。当初は涙してばかりだった幸樹との思い出も、あさひのおかげで笑顔で埋まった。幸樹、生前のお前が言ったとおり、あさひは本当に、天使みたいに優しい、大事な宝物だよ。お前がしてやれなかった分、これからもうんと大切にするからな。安心して天国で見守ってろよ。
(オメガバース設定)
α…有能で生まれ持ったリーダーシップ性を兼ね備えている。αの出生率は人口の約5パーセント未満。
β…一般人種。容姿や性格は多種多様で、人口の約9割がβで構築されている。
Ω…人口の約1パーセントしか満たない希少人種。男女たがわず発情期があり、男性Ωには生殖器とは別に膣もある。また、αを産める唯一の人種であり、過去には出産道具として扱われていた時代もある。常時、αを引き付ける特殊なフェロモンを出している。(抑制剤で、フェロモン量を抑えることは可能。正し、効果は個人差がある)
【オメガバース設定の性別】
オメガバース設定では、三つの性が存在する。
男性、女性、男・女Ω性
男性のΩには膣と男性器の両方が備わっている。発情期中に膣内に射精されると妊娠する。Ω男性の男性器に生殖機能はほぼなく、一般男性と比べると小ぶり。
【魂の番】
αとΩは、共に「魂の番(つがい)」と呼ばれる、人生を共にするパートナーが存在する。
【番について】
魂の番でなくても、番契約を結ぶことができる。
一般的な男女が異性に魅かれるように、αも無意識のうちにΩに魅かれる遺伝子が組み込まれている。
αとΩの間には「番(つがい)契約」が存在する。
【番契約とは】
恋人や夫婦関係よりも強固な絆であり、生涯の伴侶である証。番契約は、性行為中に、αがΩの項(うなじ)に噛みつくことで成立する。一度番になった者とは離れられない。
過去には、発情期中のΩが無理矢理αに襲われ、臨まぬまま番となるケースも少なくなかった。(現在は男性Ωへの理解や抑制剤の普及により、被害は減少傾向にある)
【番契約を結んで変わる事】
Ωはフェロモンを発しなくなる。
番以外の相手と体を重ねると、ショック症状が起こり、最悪の場合、命を落とすケースもある。
【番契約を解消するには】
相手のαが死ぬまでは解消されない。
【登場人物】
主人公 森野あさひ(もりの あさひ)…属性Ω(本人はβだと思い込まされている)幼い頃、両親を事故で亡くした天涯孤独な少年。現在は叔父とともにアパート暮らし。たつきの存在に依存気味になっている。
攻め1 森野樹(もりの たつき)…属性α(訳あってβと偽っている)あさひの叔父であり、亡くなった父親の兄。あさひの将来を思うあまり、必要以上に厳しく接している。
攻め2 斎藤岳(さいとう がく)…属性α 転校生。主にホテル事業を手掛けるトレントコンツェルンの御曹司。あさひと同級。αの勘であさひをΩだと見抜き、なにかと関わってくる。優等生。
脇役 奥園誠二(おくぞの せいじ)…岳のボディガード兼、付き人。
脇役 黄竜(おう りゅう)…岳のボディガード兼、付き人。
脇役 小鳥英里(おず えいり)…あさひの親友。一人っ子で世話焼き。学校ではあさひの親代わりのような存在になっている。
脇役 聖川兄弟 兄:亜呑(あのん)と乃亜(のあ)の双子兄弟で、英里とは幼馴染。弟の乃亜はあさひと同じクラスで、英里とあさひとよく行動を共にしている。
1日常(日常~事件2000字)
シーン あれから十二年。二人は親子のような関係となっていた。あさひと樹の日常。今朝も寝坊し、朝から怒られるあさひ。厳しい躾と門限。静かな朝食。話題は、季節外れの転校生。
あさひ「前に樹くんに話したでしょ、転校生のこと。今日なんだって。英里がαかもしれないって……」
樹「それより早く準備を済ませなさい。毎日友達を待たせて悪いと思わないのか」
あさひ「はーい……」
樹「なんだその返事」
あさひ「はい!」
樹「俺達は親子じゃない。俺だっていつまであさひの面倒を見れるか分からない。いつ独り立ちしても良いように、せめて自己管理は怠るなと何度言えばわかるんだ、君は」
あさひ「はい……」
樹「もういい、早くいきなさい」
あさひ「……はい」
迎えに来た英里を数分待たせてしまう。親代わりである樹の期待に応えられず、今朝も落ち込みながら登校する。
シーン2 (樹目線シーンの挿入)あさひの登校風景を、エントランスから覗き見する樹。本心は、あさひが可愛くてたまらない。あさひは事故で亡くなった弟夫婦の忘れ形見。本当は、目に入れても痛くない存在だが、片親だからこそ、どこへ出しても恥ずかしくないように、あえて厳しく接している。
2事件
シーン1 学校にて。親友、英里たちと合流、転校生の話題で盛り上がる。噂どおりなら、校内三人目となるα。そこに転校生(斎藤岳)の登場。奥園と黄も同席(二人は岳のボディガードで、常に彼らのうち一人が教室内に同席する)教師の紹介からもαと判明、ざわつく教室内。岳、あさひの斜め前の席へ。
シーン2 一時限目は保健体育の授業。男性、女性、Ω性の3つの性別について教師が説明している。
オメガバース設定の説明はここで盛り込む。(レッドカードとホワイトカードの説明は必ず記載)
1:最近は医学の進歩により、出生前からΩだと診断される。Ω性は、男性でも妊娠できる。Ωは、αを産める唯一の性である。
2:Ω性のほとんどが、16歳までに発情期を迎える。成長するにつれ、αを引き付ける特殊なフェロモンを発するように。本人も無意識のうちに、αを誘惑してしまう。(現在は抑制剤である程度の防御は可能)
3:過去には、Ω性蔑視の時代もあったが、現在は希少な存在。(ここで一部生徒よりヤジ。「本物のΩなんて見たことないのに、この授業必要なくない?」)
4:(教師、ヤジに対して咳払い)確かに現在、国内にいるΩの殆どが、都市部で生活している。(2000年に東京都がΩ性の待遇改善制度を打ち出して以来、Ωの移住者が急激に加速化。現在はΩの約9割が東京に居住すると言われている。Ωを追うように、αの移住者も増加。東京都は愛と頭脳の巨大都市として発展。現在では、都内某所に幼少期からΩの受け入れ可能な施設も多数設立されている)でも、Ωの存在は見えないだけで、私たちの周囲に確かに存在する。いつかΩの皆さんが日本のどこででも安心して暮らせるように、私達にはその準備を怠らない義務があるのです)
5:ここで生徒が挙手。モブ生徒「なんで東京はαの居住率も多いんですか?」先生「それは、αが無意識のうちにΩに惹きつけられてしまう性質だからじゃないでしょうか」ここであさひを含め、周囲の目が岳へ向く。なぜか岳はあさひの方を振り向いて微笑する。あさひ「???」
シーン3 朝の視線が気になり、なんとなく岳を追ってしまうあさひ。数学、現国、体育、全科目ついていけないあさひと正反対で、全てにおいて頭一つ分が抜き出ている岳。岳は何かにつけてあさひの方ばかりに目をやる。あさひ、ますます疑問。昼食、英里たちと学食へ。(英里と乃亜は食券を購入。あさひは弁当と水筒を持参)岳はすでに数人のクラスメイトとともに席についている。(岳たちの席の端に、ボディガード)通りすがり、岳と目が合うあさひ。(やっぱり俺、見られてる? なんで?)英里に相談すると、自意識過剰とからかわれて終了。
3決意(2000字)
シーン1 放課後、岳とボディガードと校門の前で鉢合わせ。
岳「ちょうどよかった。街案内、頼めない?」
なぜか岳の私用車で一緒に下校することになったあさひ。(英里は塾、聖川兄弟はバスケの部活、周囲にクラスメイトもいない)
あさひ、「今日俺のこと見てた?」と率直に問うこともできず、悶々としたまま岳と談笑して終了。
家まで送ると言われ、アパートの前で停車。あさひが車を下りたところで帰宅してきた樹とばったり遭遇。岳と樹、初対面。樹の態度は終始攻撃的。帰宅後も、あまり彼とは話すなと釘をさされる。理由を聞くが、理由もなく怒鳴られ、何も言い返せない。あさひのなかで謎が残る。
シーン2 翌日、英里と登校中に岳が私用車からあさひを呼ぶ。
岳「寒くない?乗ってけば?」
ボディガードは、なぜかあさひだけを連行。結局樹の言いつけを破ることになってしまう。それから何かに付けてあさひと行動を共にしようとする岳。
シーン3 放課後。親友、英里の不満
英里「あの斎藤岳って奴、あさひにべったりだよね」
乃亜「それ俺も思った。ていうか何で? αってΩに惹かれるんでしょ」
二人の目線があさひに向かう。
あさひ「え、まさか! 俺がΩなわけないじゃん」
二人、あさひを見つめ、
英里、乃亜「だよなあ」「どう見たってこいつがΩなわけないよ」
あさひ「ちょっとそれどういう意味」
英里「でもま、斎藤ってすげーいいとこのお坊ちゃんなんでしょ、仲良くしとくに越した事はないんじゃない」
あさひ「ん? どゆこと」
英里「この先の進学とか就職で使えるかもよ、アイツの名前」
岳「俺がどうかした?」
岳とボディガード登場。
一同、気まずさで無言。
岳「森野、一緒に帰ろ」
あさひ「なんでいつも俺なの?」
あさひは躊躇するが、英里と乃亜に背中を押される。そのままボディガードに強制的に連行される。
あさひが去ったあと、英里と乃亜、廊下を見つめ暫く会話。
乃亜「ねえ、あさひってほんとにΩじゃないんだよね」
英里「なわけないだろ」
乃亜「あいつ先月17になったよな」
英里「よな」
乃亜「Ωなら16までに発情期が来るんだよな」
英里「だ、よな」
英里、乃亜、声を合わせて「じゃあ大丈夫か」
シーン4 車内にて。会話もなく無言が続く。岳の携帯に着信。(父親から)あさひ、窓の外を見ている。ふと影がさしこみ振り返ると岳が迫っていた。
あさひ「わっ、なに」
岳「森野ってΩだよね」
あさひ「え? 何言ってんの。違うし」
しかし岳はそうだと言い張る。
シーン5 (上のシーンより)急カーブで体が傾くあさひを、岳が自然と抱き寄せる。カーブを過ぎても離れる気配がない。岳の命令で車は自宅と別方向へ。
あさひ「ねえ、返してよ。怒られちゃう」
岳「嫌だって言ったら」
あさひ「もう君とは一緒に帰らない」
岳「ふーん。俺よりアイツらといる方が楽しいって? 森野も結構残酷なこと言うんだね」
あさひ「そういうことじゃなくて」
岳「俺はただ、お前と仲良くしたいだけなんだけどな」
人目につきにくい空き地で停車する。
しばらくあさひを見つめる岳。
あさひ「な、なに」
岳「興味深いんだろ、αの俺が」
あさひ「……聞いてたんだ」
岳「教えてやろうか、αがどうやってΩを口説き落としてるか」
岳は後ろからあさひをだきしめ、頭を撫でたり頬を撫でたりする。運転席と助手席のボディガードたちは無言で前を向いたまま。
あさひ「え、斎藤、ちょっと」
岳「何だよ。からかい甲斐のない奴」
今度はあさひを突き放すように距離を置く。
岳「言われなくてもちゃんと返すから」
岳の合図で車はようやく帰宅路を走り出す。車内はずっと無言のまま。
4苦境(2500字)
シーン1 午後十八時半。門限を一時間半過ぎて帰宅。樹がアパートの前で待っている(英里があさひの忘れ物を届けに家へ。その際、岳と下校したことを聞かされている)引きずられるように帰宅する。
シーン2(岳目線)車内から、樹に手を引かれアパートへ戻って行くあさひの様子を見送る。
奥園(運転手)「珍しいですね、坊ちゃんが一般人に興味を示すなんて」
岳、バックミラーごしにあさひを見つめながら
岳「俺の特別だから」
奥園「……坊ちゃん、彼はΩではないと思います」
岳は奥園の言葉を聞き流す。
奥園「あの年齢で首のガードも無いですし、学校長も、もう何年もΩを受け入れていないと。それに、今まで坊ちゃんが関係を持ってきたΩたちとは、違い過ぎる」
奥園、Ωは皆、岳に尻尾をふるように近づいてきたと証言。
岳「だから余計に気になるのかな。どうやって発情を抑えてると思う?」
奥園「いや、ですから」
岳「気になる奴だよ、森野って」
黄「坊ちゃんが、一般人に興味を持たれるのは大変良いことです。でも、俺も、これ以上彼に深入りしない方がいいと思います」
岳「なんで?」
黄「見たでしょう、さっきの親御さんの形相。門限を過ぎて、余程心配されたんでしょうね」
岳「そうかね」
黄「きっと箱に入れて大切に育てて来たんでしょう」
岳「そうは見えなかったけど」
黄「私にはわかりますよ。可愛い娘がいますから」
岳、興味の無さそうな返答。奥園と黄、顔を合わせて溜め息。
シーン3 いっぽうのあさひ宅。頭ごなしに怒鳴りつける樹。車中の出来事を話すよう強制され、全て素直に打ち明けてしまう。岳からΩだと言われたと聞いて、これまでになく動揺する樹。
樹「もう二度とあいつと会うな。口もきくな。もし次約束を破ったら、家族の縁を切ってやるからな」
あさひ「なんで、そんな酷いこと言うの。わざとじゃないのに、なんで? 俺が、樹くんしかいないの知ってて……そんな言い方ひどすぎるよ」
理由も不明のまま、ただ一方的に告げられる制約。あさひにとって、唯一の家族である樹の存在がどれほど大きいか。それを分かったうえで「縁を切る」と言われたことが、余計に傷をつける。
樹「……もういい。早く夕飯を食べなさい。俺は、部屋で仕事してる」
あさひ「いらない」
樹「あさひ!」
あさひ「俺なんかいない方がいいんでしょ、じゃあ俺のことはもう放っといてよ」
樹「待ちなさい」
樹、あさひの腕を掴み寄せる。
あさひ「もう、いちいち煩い! 樹くん最近うざいんだよ、俺に構わないでよ!」
ショックを受けた様子の樹。
あさひも言い過ぎたと後悔するが、何も言わず部屋に閉じこもる。
シーン4 翌朝。無言でキッチンに立つ樹がいた。樹、あさひに気付き
樹「おはよう」
背中を向けたまま挨拶。
あさひ「……おはよう」
二人、無言の食卓。
あさひ「言ってきます」
樹「待ちなさい。ほら」
樹、玄関口で弁当と水筒を手渡す。
樹「薬も、忘れずにちゃんと飲みなさい」
まもなく英里が到着。インターホンが鳴る。
あさひ「……分かってるよ」
目を合わせることもなく家を出る。
(樹目線)
今日もベランダからあさひを見送る樹。その姿が見えなくなるまで目で追ったあと、部屋に戻る。
(短い回想シーン挿入)
樹『あさひがΩ……? 本当なのか』
(弟)幸樹『ああ……。俺な、あさひが中学を出たら、東京に贈りだすことに決めてんだわ』
樹『寂しくないのか』
幸樹『そりゃ寂しいさ。でも、あさひの幸せを考えるならそうするべきだ。こんな田舎で、見世物扱いされる方がよっぽどかわいそうだろ。Ωはαと番になって、幸せになるべきだ。そういう運命の子なんだから』
幸樹『こんな事は言いたくないんだけど、俺達にもしものことがあったら、あさひを東京の施設に預けて欲しい」
樹『何言ってんだ、そんな日来ないだろうけど、もしもの場合は俺が親代わりになってやる』
幸樹『兄貴は駄目だよ。αだろ、駄目だ。だってαはΩが発情したらさ』
樹『あのなあ、いくら俺がαだからって見境ないわけじゃないぞ。あんなちっちゃいあさひに何かする訳ないだろ』
幸樹『それは……兄貴のことだから信頼はしてるけどさ』
樹『任せとけって。俺もあさひがかわいいんだ。くれぐれもお前みたいなカミナリ親父になって嫌われないよう務めるよ』
(回想終わり)
(再び樹目線)
樹、自室に戻ると幸樹の写真に話しかける。
樹「あの頃は悪かったな。育児がこんなに大変だなんて思わなかったんだ」
樹「ちゃんとお前との約束は果たすから。あさひを手放すから。もう少しだけ側に居させてくれ」
樹、仕事用の鞄の中からクリアファイルを取り出す。中には編入許可証と薬袋。
実は、あさひが中学に上がる前から、東京のとある名門中高一貫校に編入申請を出していた。(幸樹の希望する学校だった)毎年落選を続けていたが、今年、ようやく受け入れ可能との通知が届く。編入まで、あと二カ月。
樹(Ωの発情期は、遅くても16歳。あさひはもう17歳。一日三回、この抑制剤を抗アレルギー剤だと偽り、あさひに飲ませてもう2年)
あさひはいつ発情期を迎えてもおかしくない状態だったが、発情抑制剤によりその日を送らせている状態。
樹「もう少しなんだ、あともう少し」
もしあさひが発情期を迎えてしまったら。そしてあの同級生と番になってしまったら、あさひは東京へ編入するどころか、この地で周囲の人々の好奇の目に耐えて生き続けなければならない。
樹「頼むから、あいつと拘わらないでくれ」
シーン5 教室にて。机につっぷせるあさひと周囲に英里と乃亜。
乃亜「どうしたん? 今日は一段とご機嫌斜めじゃない」
英里「今朝からずっとこんな感じ」
今朝も岳を乗せた車があさひの前で停車したが、あさひは走って振り切っていた。
乃亜「まあそのうち機嫌なおるでしょ」
シーン6 一週間後。乃亜の予測に反して、完全に岳を避けるようになっていたあさひ。岳も今は距離を取っているようで、英里たちと行動を共にするあさひを見守っている。
シーン7 6時限目、数学。まもなくチャイムが鳴る。
教師「えー、それでは、今日はここまで。来週から全科目小テストがありますから、復習するように。数学で赤点は補習授業を行いますからね」
ざわめく教室。
英里「うわーマジかよ、俺今週過密スケジュールなのに」
机につっぷす英里。
乃亜「俺もしばらくバイトとカラオケパスだわ。あーもーサイアクー。今日スーパーフライデーでちょうお得なのに」
あさひ「みんな大変そうだね」
あさひ、欠伸をしながらのんびりと帰りの支度中。英里、乃亜、ジロリとあさひを睨み。
英里「あさひは良いよな、毎日楽しそうで」
乃亜「本当、あさひはいいよ」
あさひ「どういう意味だよ」
と、岳と目が合う。あさひ、また目を逸らす。
シーン8 下校、忘れ物をして学校に戻ったあさひは岳とボディガードと鉢合わせ、そのまま無視して通り過ぎようとしたところを呼び止められる。
岳「予想通り。また逃げるんだ」
あさひ「逃げてるわけじゃないよ」
岳「逃げてんじゃん。他に何があるの」
だまり込むあさひ。
岳「ま、いいよ。……ちょっと時間ある?」
あさひ「ごめん。君とはもう」
岳「いい加減にすれば。言いたい事があるならはっきり言えよ」
あさひ「だから……」
岳「いいから来いよ」
あさひ、断り切れず屋上についていく。
5助け(1000字)
シーン1
屋上にて。岳とあさひ、フェンス越しに景色を見ながら会話。奥園は入り口近くの少し離れた所に待機。(3決意)から岳を避けていた理由を話したあさひ。
岳「おかしいね。子供は親の持ち物じゃないんだけど」
あさひ「本当の親子じゃないからね」
シーン2 あさひ、自らの身の上を語る。(両親を事故で亡くしたこと、父親の兄だった樹があさひを引き取り、親代わりとなって育ててくれたこと。
シーン3 岳「森野が事故のことで、その叔父さんに気を遣うのは違うと思うけど」
あさひ「俺はたつきくんの邪魔になりたくないの」
岳「じゃあ森野が自立するしかないんじゃない。誰と遊ぶとか付き合うとか、そんな事まで叔父さん任せにしてるうちは、目の上のたんこぶと一緒でしょ」
あさひ「……やなこと言うね」
岳「助言って言って欲しいね」
あさひ「なんでだろ。昔は優しかったのに。いつもニコニコして甘やかしてくれて、俺本気で樹君にお嫁さんできませんようにってお祈りするくらい大好きだったのに」
その場にゴロンと寝転がった岳。
岳「……なーんだ。心配して損した」
あさひ「損したってなにが」
岳「嫌われたと思ってた」
あさひ「なんだ、斎藤も意外と小心者なんだね」
岳「殴るよ」
あさひ、しばし微笑ましく岳を見ている。
岳「あそうだ、小鳥のラインアド聞いていい」
あさひ「いいけど……なんで?」
岳「明日のテスト範囲、俺は分かんないだろうから学級委員に聞けってさ」
あさひ「あー」
そういえば岳が転校してきてまだ一週間も経っていなかったことを思い出す。
岳「また何か誤解をされたようで」
あさひ「ち、違うよ」
心持ち焦った様子で携帯を弄る。
岳「面倒だから森野のアドレスから送ってもらっていい? 嫌じゃなきゃだけど」
あさひ「あー、うん、わかった……ちょっと待ってて」
アドレスを確認すると岳は徐に立ち上がる。
岳「どうも」
あさひ「もう帰るんだ?」
岳、あさひと反対方向を向いたまま、
岳「新参者は信用が無いみたいだから」
あさひ「だから違うってば」
岳「分かったよ。じゃあね、また明日」
6成長・工夫(2500字)
シーン1 翌日から岳はあさひに関わろうとしてくる。(英里たちにも積極的に声をかけ、グループの輪に入るようになる)。昼食の時間。岳は飲み物忘れたと言って、あさひの持参した水筒のお茶を要求するも、水筒ごとこぼしてしまう(本当は故意にやっている)代わりにジュースを差し出されるが、最初は難色を示す。
あさひ「ジュースはいい。薬飲めなくなるから」
岳「薬? なんの」
あさひ「アレルギー剤だって」
岳「それ、飲むのやめてみたら?」
あさひ「無理だって」
岳「そうやって過剰に防衛してるとさ、抵抗力を鈍らせるだけだよ」
英里「確かに、その薬毎日飲んでるよな」
乃亜「はいはーい。俺も賛成~。薬の飲みすぎって返って胃腸を悪くするって言うし」
あさひ「でも、飲まなきゃ怒られちゃうよ」
岳「んじゃ貸して。俺がその薬もらっとく」
あさひの手から薬を取り上げる。
あさひ「なんでだよお」
岳「まずは一週間、試してみな。調子が悪くなったらまた飲めばいいだけなんだし」
あさひ「そりゃそうだけど……」
岳「樹くんの邪魔になりたくないんだろ? 薬代が浮けば、余計な出費も無くなると思うんだけど」
結局丸め込まれ、薬の服用を諦めジュースを受け取ってしまう。
隣席の英里だけは、岳を勘ぐるような目で見ていた。
シーン2(岳目線)体育の授業後、クラスメイトとは別の手洗い場へ移動する岳。みんなの注意が自分から逸れている事を確認し、ジャージのポケットからティッシュにくるんだ錠剤ををボディガードに手渡す。
シーン3 あさひ、洗濯物を取り込んでいる。そこへ樹も帰宅。
樹「どうしたんだ、珍しいな」
あさひ「あ、その、これくらいは自分でやろうと思って」(薬を飲めなかった罪滅ぼしとして洗っている)
樹は珍しくあさひを褒める。
樹「そうだ、帰りにケーキ買って来たんだ。夕飯前だけど、たまには一緒に食べないか」
あさひ、苺のショートケーキを前にパッと顔が明るくなる。
あさひ「あ、ありがとう」
樹、嬉しそうに笑う。
シーン4(上のシーンより)キッチンにて。食卓に対面するようにケーキ皿が並んでいる。樹は後ろのカウンターキッチンで紅茶を淹れている。
樹「この前は頭ごなしに叱ってごめんな」
あさひ「俺も、ごめんなさい」
樹は依然背中を向けたまま。
樹「お前のことになると、つい感情が抑えられなくなってしまう。頭では分かってるんだけどな」
あさひ「うん」
樹「これだけは信じて欲しい。決して、お前のことが憎いとかじゃないから。むしろ逆で……、心配で仕方ないんだ」
あさひ「うん……」
紅茶を淹れて樹も席につくが、あさひは俯いて、一向にケーキを食べようとしない。
樹「ほら、仲直りだ。食べよう」
樹は自らフォークでケーキをとると、あさひの口に運ぶ。あさひ、心のなかでごめんなさいと呟きながら、ケーキを頬張る。
シーン4 翌日の昼休み、岳は変わらずあさひのグループと食事。今日も錠剤を渡すよう、岳に促される。あさひ、頑なに渡そうとしない。
岳「浮かない顔だね」
あさひ「俺、やっぱ薬飲む。約束だから」
岳、無言であさひの水筒を取り上げる。
あさひ「ちょっと返せよ」
岳「やだね」
あさひ「返せって」
あさひを無視して携帯をいじる岳。しばらくして、あさひの携帯にメッセージが入る。
岳『俺』
岳からメッセージ。
岳『それ、体に有害って聞いてもまだ飲む?』
あさひ「え?」
岳『それさ、普通に薬局で買えない薬だよ』
メッセージを読んで、岳の方を見るあさひ。
英里「どうした?」
その問いに、何でもないと答えつつ、返答を打つ。
あさひ『どういうこと』
岳『知り合いの医者に調べてもらったんだけど合法ドラッグだよ、それ』
あさひ『なにそれ』
岳『頭がイカレル薬』
岳『飲み過ぎで精神やられたって事例もある』
あさひ「うそだ……そんなの」
岳を見ながらつぶやく。
岳『じゃあ聞くけどお前が日中ぼーっとしてんの、あれなに?』
あさひ(それは、俺が馬鹿だから……)
岳『しんどい怠いって毎日言ってるよな』
あさひ(俺が馬鹿だから、毎日しんどくて、気怠くて……)
岳『それ、本当に自分だけのせいだと思う?』
あさひ、もはや何もいえず黙り込むしかない。
岳が携帯の画面から視線を上げる。
あさひもその目を見つめ返している。左手の携帯がメッセージを受信する。
岳『森野、俺を信じて』
岳が再び手を伸ばす。あさひ、とうとう岳に薬を手渡す。
英里、その様子を不審げに見ている。
シーン5 あさひ、帰宅すると、同じように弁当の容器を洗う。そこに樹が帰宅。
樹「ただいま。どうした、今日も偉い子だな」
率先して家事をするあさひを樹が褒めようと頭に手を伸ばす。びくっと身を震わせるあさひ。
樹「どうした?」
あさひ、しばらく黙り込む。
頭の中で、帰り道岳に言われた言葉がよぎっている。
岳『少量でも毒を飲み続ければいつかは致死量を超える。伯父さんはそれを狙ってるんじゃない?』
あさひ「……ううん、何でもない。ただこれからは、自分のことは自分でやろうと思って」
樹「ああ、そうか」
あさひ、樹の手から逃げるように一歩退く。
樹「おい、どうした」
様子のおかしいあさひの肩を持ち問い詰める。あさひの目がみるみる潤む。
あさひ「何でもないよ……」
あさひ、涙をぬぐいながら、寂しそうに笑う。
あさひ「それと、今日からしばらく晩御飯はいらない」
樹「え……?」
あさひ「英里たちとテスト勉強してくるね。遅くなるけど、心配しなくていいから」
シーン6 あさひが家を出ると、岳の私用車が目の前に。あさひ、無言で乗り込む。(1500字)
シーン7 初めて訪れる岳の部屋。あさひのアパートと正反対の方向。中心街の一角に最近できた高級マンションの最上階(父親がマンションのオーナー)。
岳「上の空って感じ」
あさひ「……え?」
岳、無言で指さす。
岳は片時も目を逸らさず、あさひの顔をじっと眺めている。
岳「何考えてんのかなって。知ってますけどね」
あさひ「何も考えてないよ。いいから勉強やろうよ」
岳「どうせ頭に入らないくせに?」
岳、あさひの腕を取ると寝かせるように床に押し倒す。
岳「ねえ。本当は森野が樹くんのお嫁さんになりたかったんじゃないの」
あさひ「そんな訳ないだろ」
岳「図星だね。目が泳いだ」
あさひ「それ以上言ったらまた嫌いになるよ」
岳「またなんだ」
あさひをあやすように岳の手が頬にふれる。
岳「樹君と何がしたかった?」
あさひ「斎藤、やめてよ、もう本当に――」
樹に裏切られたショックと、それでも憎まれ口の一つもいえないほど、その存在に依存している自分の弱さを直に抉られた気がして、あさひは涙を必死にこらえる。
両手を交差させて顔を隠しているが、岳はそれを解いてしまう。
あさひ「やだって――」
あさひの声が岳の唇のなかに消える。
岳「俺なら、森野に何でもしてやれる」
樹の代わりはどこにもいないことは分かっている。分かってはいても、岳の甘さ、優しさに、縋りつかずにはいられなかった。
二人、このまま絡み合う。性行為というより、キスによって相手を慰めるような描写。
(文字数に余裕があるようであれば、その後、ことあるごとに岳からアプローチを受ける様子も書く)
7転換(1500字)
シーン1 一週間後。昼食の時間。英里と乃亜、食券販売機の前に並んでいる。
英里「なあ、あさひ遅くね?」
乃亜「ん? そういや最近のんびりしてるね」
英里「あいつ、昼食だけは誰よりも早く移動してたのに。一体どうしたんだか……」
そのころ、空き教室が並ぶ四階のトイレで岳とあさひは淫らな行為に耽っていた。
(二人の絡み描写。キス中心。岳の愛撫にのめり込みながらも、心の全てを明け渡したわけではないあさひ。今日は特に岳からのアプローチが積極的)
あさひ「ん……っなんか今日……」
岳「ん。なに」
珍しく岳がうわずった声。こみ上げるものを感じ、それを隠すかのように、顔を背ける。
岳「……やめた」
意外とナイーブな岳は拒否されたと分かるとすぐに身を引くタイプ。岳自身は傷ついているのだが、傍目には機嫌を損ねたようにしか映らない。
岳「戻ろうぜ」
あさひを置いてさきに出ていく岳。
シーン2 昼食時、錠剤を岳に渡すのが日課になっていた。
岳「森野、今日いい匂いするよな」(アプローチが強い理由)
あさひ「え、そう? わかんない。俺なんかにおいする?」
英里、にやりと笑い「なんだよあさひ、すかしっ……」
あさひ「ちーがーう!!」
英里はあさひをからかいつつ、たまに岳を勘ぐっているような目で見ている。
シーン3 昼休憩の終了間際、あさひ、未提出の課題を思い出して、先に移動教室へ。それを見届け、
英里「なあ、お前、何考えてんの」
と岳を問いただす。
岳「何って何が?」
英里「とぼけんな、いつもこそこそあさひの事見てるだろ。それに、急に薬取り上げたり。マジであさひになにかあったらどうすんだよ」
岳「君こそ、森野森野って、ただの友達にしては構いすぎじゃないの」
英里「ただの友達じゃない、親友」
岳、無表情で窓際へ移動。英里も続き、隣に立つ。
岳「まあ、その気持ち、分からないでもないけど」
英里「あ?」
岳「森野って可愛いよね」
二人、暫く黙り込む。
英里「お前、αなんだろ」
岳「それが何か」
英里「αはΩに興味持つもんだと思ってた」
岳「そうだよ」
岳は窓の景色を見つめたまま。英里だけが岳を怪訝な目で見ている。
英里「じゃあなんであさひにばっかり……、あ、おい待てよ」
英里を無視して岳も教室を出て行ってしまう。
英里「おい斎藤! 人の話を聞け――!」
8試練(1500字)
(樹目線)
シーン1 その日の夕方。すでに樹は帰宅、今夜こそあさひと夕食をと準備中。追ってあさひが帰宅する。
樹、そわそわしながらリビングで待つ。
樹「お、おかえりあさひ」
あさひ「ただいま。珍しいね、帰ってたんだ」
樹「ああ、そうなんだ、それで今日はお前の好物を……」
樹の背後を通りがかったとき、急に呼び止められる。さっきまで笑顔だった樹は、なぜか険しい表情に変わっている。
樹「おい、なんだその匂い。香水でも付けたのか」
きょとんと首をかしげるあさひに対し、樹はしだいに表情を曇らせる。
樹「こっちに来なさい」
樹、あさひの首元に顔を寄せる。
樹「あさひ、お前……」
そう呟くと、何かに誘導されるかのように、抱きしめる樹。
あさひ「な、なに……?」
その声に反応した樹、今度は自ら突き放す。
樹「な、んだこれは……」
あさひ「え?」
樹「何で、急に……こんな」
酷く取り乱しはじめた樹と、意味が分からないといった様子のあさひ。樹、自らの額に手を当て困惑している様子だったが、すぐにはっと顔を上げた。
樹「お前、薬は」
薬と聞いて、あさひの表情が硬直するのを見逃さなかった。両肩を掴むと押し倒す勢いで壁に背中を押し付ける。
あさひ「いたっ……」
樹「薬、飲まなかったのか」
あさひはますます反抗的に睨みつける。
樹「いつからだ」
あさひ「……一週間前」
樹「なぜだ? 毎日飲む約束だったよな。何で急に飲まなくなった」
俯くだけで何も答えないあさひ。
樹「正直に答えろ!!」
何も言わず黙り込むあさひ。
9破滅(500字)
樹「ああそうか、分かった。そんなに転校したいならさせてやる。家族も誰もいない土地で、せいぜい一人で生きて行くんだな……」
直後、あさひが樹の頬を平手打ちする。
あさひ「うそつき」
親代わりとなって育てて来た樹に対して初めて反抗的な態度をとるあさひ。
あさひ「俺には嘘を吐くなわがまま言うなって厳しい事ばっか言う癖に。樹くんが一番の嘘つきだ! 大っ嫌い!!」
樹、目の前が真っ白になる。
樹「ああそうか。嫌いで結構。今日はこのまま部屋に閉じこもってろ」
樹、あさひの部屋を後にする。
10契機(1000字)
*のちに岳との対面シーンで、あさひの誤解の部分について書くので、ここではなるべく触れないように、樹の葛藤を全面に出して書くようにする。
(樹目線)上のシーンより数時間後(午後22時くらい)
樹、頭を抱えて一人でリビングテーブルに着席している。
樹「こうするしかなかったんだ……」
あさひがΩである以上、発情期は避けられない。だからせめて、発情期を遅らせて、少しでもあさひの側にいたかった。
(回想)
医師『(Ωである以上)発情期は必ず来ます。抑制剤は、あくまで発情期を遅らせ、身体的負担を軽減するためのものだとご理解ください』
医師『一度発情期が始まってしまえば、薬の効果はもう望めないでしょう』
医師『お義父さん、くれぐれも、発情期を甘く見ないでください。あなたはαなんです。あなたにΩの家族を受け入れる覚悟がおありなら別ですが……、これ以上Ωと過ごすのは危険です』
(回想終わり)
*ここで念押し。樹がαであること。このままでは、親子の関係ではいられなくなること。
樹、あさひに面と向かって「大嫌い」と言われたことで、医師の言わんとしていた事を察する。
樹「幸樹ごめん。俺にはもう、あの子の親は務まりそうにない」
樹、あさひとの別れを覚悟する。そのままあさひの部屋へ。鍵は開いていて、静かに中へ入る。あさひはベッドの中。樹、そっとベッドの端に腰を下ろす。あさひの発するフェロモンのかぐわしい匂い。また翻弄されかけている自分への恨めしさが拭えない。
樹「なあ幸樹。我が子の成長を、この目で見届けられないほど悔しいものはないな」
あさひのまっしろなうなじから目が離せない。
少しでも気を緩めると、間違いを犯してしまいそうなほど、あさひの香気に惑わされている。
樹「この俺が、こんなになるなんて……」
義父として決して抱いてはならない感情を自覚し、ふたたび決意する。やはりこれ以上、あさひの側にいられないと。
樹「大きくなったな」
樹「たった一人でこの世に残されて……。君は良く頑張った。俺の言うことを素直に聞いて、本当に、どこに出しても恥ずかしくない、立派な大人に成長してくれた」
樹「君は……すばらしい人間だ」
樹「今まで、ずっと騙しててごめん。優しくしてやれなくてごめん。本当は、君が大好きだった」
そっと頭をなでる樹。そのまましばらく抱きしめる。
沸き上がる衝動を抑え込み、樹はあさひに顔を背けたまま、部屋を出ていく。
11対決(4000字)
シーン1 翌早朝。樹、腫れた目を擦り、再びあさひの部屋へ。あさひはまだベッドの中。フェロモンの香りはさらに濃く室内に充満している。すぐに扉を閉める樹。
樹(気がおかしくなりそうだ…)
シーン2 樹、会社に休暇の申し出の電話している。荷造りの最中。もう時間がない。脳裏では、あさひの幼い頃から今までの記憶が繰り返し流れている。初めて笑ってくれた日のこと。父の日に送ってくれた、「たつきくん」と名前の入った絵。トイレに一人で行くのが怖くて、一緒に付き添っていたこと。リビングの柱に刻んだ身長の痕。樹はいたたまれず、ボストンバックに詰め込んでいるあさひの洋服を抱きしめる。
樹(だめだ、俺がしっかりしなきゃ)
思い直し、編入先の学校長へ繰り上げ編入の申請の為に電話を入れようとする。そこへ、インターホンが鳴る。樹は一旦電話を置き、玄関へ。
シーン2 (二重がけフェイズ 2事件)
上のシーンより。樹、モニター確認もせずドアを開ける。そこにいたのは岳。無表情に樹を見る。
岳「森野は」
樹、その一言で昨晩まで、あさひの身に起こった異常の全てを察する。
樹「寝てるよ。何の用」
樹(やはり、こいつが)
こみあげる怒りを押し殺し、極めて冷静に振る舞う樹。
岳「そりゃよかった。でも『お義父さん』のその表情(カオ)、何かありました?」
その横柄な態度に、とうとう樹の怒りが爆発する。
樹「お前だろ、あさひに変な事を吹き込んだ奴は……!!」
シーン3 (二重がけフェイズ 3決意)
(上のシーンより)岳の両サイドからボディガードの奥園と黄が出て来る。樹はあっというまにとらわれる。
岳「森野は俺が貰います」
樹「ふざけるな、お前のせいであさひは……!!」
岳、そのまま家の中へ。途中、荷造り中の荷物を見つける。
岳「やっぱりね」
岳「知ってますか、Ωはαに愛されなきゃ生きてけないんですよ。あなたは父親である前に、αの資格すらない」
樹「なぜ(αだと)分かった」
岳「あさひくんを見てるあなたの顔」
岳、ここで(6 成長・工夫のシーン5)より、あさひを騙して抑制剤を飲ませ続けていた樹を咎める岳。。
岳「それがαのやること? 最低」
樹「その言葉、そっくりお前にくれてやる!」
岳「不服ですね。俺は森野の為に真実を伝えただけですよ」
岳、ボディガード二人に捕らえられている樹に歩み寄ると、挑発的に顎をしゃくる。
岳「さて。いつまで偽善の皮を被るおつもりですか」
シーン4 (二重がけフェイズ 3苦境)
岳、あさひの部屋へ。寝ている所を起こされ、なぜここに岳がいるのかと困惑している様子。
岳「おはよう。お迎えに」
あさひは半分寝ぼけている様子だったが、やがてくしゃりと表情を崩す。
あさひ「……なんでいるの」
あさひ、自ら岳に抱きつく。
岳「呼ばれた気がして」
あさひ「呼んだよ。だって斎藤、いつも来るじゃん。俺が助けてって言ったらさあ……」
岳「来てよかった」
あさひ、岳に抱きついたまま泣き出す。
あさひ「俺、転校させられる。一人で、知らない場所に捨てられちゃう」
岳「森野」
あさひ「やだよ。樹くんと離れたくないよ。傍にいたいのに、何で嫌うの」
その言葉に岳の独占欲が暴走する。奪い取るようにあさひにキスをすると、痛いほど抱きしめる。
あさひ「斎藤……っ」
岳「俺のところにおいで。俺となら上手くやれる。君は幸せになる」
あさひの顔にキスの雨を降らせる岳。
岳「森野、俺と番になって」
あさひ「さいとう……っ」
岳「森野はΩなんだよ。俺の番になる運命の」
唐突に自分がΩだと知らされるあさひ。
あさひ「Ω……、俺が?」
岳「怖がらないで。森野を苦しめる悪い魔法は、俺が全部消したよ」
岳「お前、ようやく発情期が始まったんだよ。これで正式に、俺の物になる」
岳から濃厚なキス。全身の骨が溶けていく感覚。樹に拒絶され、あらがう意思のないあさひ。そこへ樹が乗り込んでくる。ベッドの二人を見て、物凄い剣幕で歩み寄る。
樹「今すぐあさひから離れろ」
ボディガード二人がすぐに追って中へ。樹は再び取り押さえられる。
シーン5 (二重がけフェイズ 4助け)
(上のシーンより)
あさひ、はっと入り口を見る。
あさひ「樹くん……」
岳は聞く耳も持たず、行為を続ける。
樹「やめろ、あさひに手を出すな!!」
樹に見せつけるような強引なキスが数回。
あさひ、樹を見た途端動揺が隠せなくなる。
あさひ「あっ、待って、斎藤、待って……!」
あさひ、岳のキスを拒む。同時に岳に揺れ動きつつあった気持ちにも変化。
岳、いらついた様子。
岳「そんなに樹くんが好き? いつになったら俺を見てくれるの」
岳、あさひを押し倒すように馬乗りになる。あさひを見つめながらうなじを撫でる。
樹「やめてくれ……! 頼む、うなじだけは噛まないでくれ、頼むから!」
シーン6 (二重がけフェイズ 5成長・工夫)
あさひ「樹くん」
あさひ、岳を見つめたまま樹に話しかける。
あさひ「俺は、Ωなの?」
樹の無言は、肯定を意味していた。
あさひ「だから、俺のことが邪魔だった?」
樹「なんで。邪魔なわけない。お前がいなきゃ……」
溢れる想いを留めることができない。声を荒げ、ありったけの気持ちをぶつける樹。
樹「あさひは俺の全てだ! あさひがいなけりゃ俺は……、生きてけない……ごめん、もっと早く気付くべきだったんだ」
岳「もう遅いんだよ、叔父さん」
岳、強引にあさひの顔を自分に戻す。
岳「君は俺の物だ」
再び強引に口づける。が、あさひ、岳の唇に歯を立てて拒否する。
奥園「……血」
奥園「貴様、Ωの分際で、坊ちゃんに怪我を負わせたな!」
奥園、あさひに殴りかかろうとする。
樹「あさひに手を出すんじゃない!」
奥園の背後から、樹の怒鳴り声。情景がスローモーションのように流れる。
樹「この子がΩだから何だ。あさひはあさひだ!! 俺の大事な家族だ!!」
樹が奥園と黄を投げ飛ばし、岳の襟首を掴みあげている。
シーン7 (二重がけフェイズ 6転換)
(上のシーンより)気が付くと樹に抱きしめられていた。
あさひ「樹くん」
先週からの件で樹から嫌われていたと思っていたあさひは、自分を守ってくれた樹にすがりつく。
シーン8 (二重がけフェイズ 7試練)
(上のシーンより)
あさひ「樹くん、ごめんなさい」
ふたりは固く互いを抱きしめ合ったまま。
樹「違う。悪いのは全部俺だ。ごめんな、あさひ」
時折見せる、逆上せたような樹の顔。その理由が分からず、あさひはじっと顔を覗き込む。
岳は奥園と黄に支えられ、あさひたちの側でその様子を見ている。
あさひ「一つ、聞いてもいい?」
樹「ああ」
あさひ「俺は樹くんにとって、邪魔だった? 俺が家族になって嫌だった?」
樹「そんな訳ない」
額と額を擦りつけ、ありったけの気持ちをぶつける樹。
樹「あさひが大好きだよ。愛してるよ」
あさひ「そっか。良かった」
あさひ、へへっと笑い涙を拭うと
あさひ「これで安心して、樹くんの側から離れられるよ」
嘘でも偽りでもいい。一度でいいからその言葉が聞きたかった。たとえ本心では愛されてなくても。
樹「え……?」
あさひ「転校する。だって俺はΩだから。これ以上、迷惑かけられない」
シーン9 (二重がけフェイズ 8破滅)
(上のシーンより)
あさひ「俺、一人でも頑張るよ。それが俺の運命なんだから」
樹「いや、そんなことはさせない。俺の一方的な判断で傷つけて悪かった。例えΩだろうとあさひはあさひだ」
あさひ「大丈夫、俺、全部分かってるから」
樹「分かってるって……何がだ」
あさひは何も言わず、悲しそうに微笑むだけ。
あさひ「樹くん、さようならだね。17年間、俺のことを育ててくれて本当にありがとう」
シーン10 (二重がけフェイズ 9契機)
岳「見てられない」
今まで黙って見ていた岳が動き出す。
岳「いつまで黙ってるつもりですか、貴方も俺と同じαだってこと」
(上のシーンより)
樹、上の事実を認めたうえで、あさひがΩだと弟夫婦から聞かされていたこと、自分はαであること、αは無意識のうちにΩを愛してしまう遺伝子を持つ生き物だということも話す。
樹「あさひ、今まで本当のこと言えなくてごめん」
樹「本当は分かってた。もうずっと前から、あさひが俺にとってどういう存在かってこと」
樹「だから俺は、手放すことであさひを護るつもりでいた。でも、ようやく間違いに気が付いた。何があっても側で守り抜く覚悟こそが、Ω(あさひ)には必要だったってことに」
シーン11 (二重がけフェイズ 10対決)
(上のシーンより)樹、あさひを強く抱きしめる。
樹「あさひは誰にもに渡さない」
あさひ「俺……、ここにいてもいいの?」
樹「当たり前だろう。勿論、東京にもどこにも行かせない。ずっと俺が側で守ってやる」
樹「言ったよな、Ωは愛されないと生きてけないって。なら俺があさひを愛してやる。どろどろになるまで俺が愛してやる」
あさひ、樹、見つめ合う。
シーン12 (二重がけフェイズ 11排除)
(上のシーンより)
あさひ、樹の首元に腕をからめて抱き寄せる。フェロモンにあてられ、理性を保つのがやっとの樹。
樹「分かったら……ここから出て行け。これ以上、あさひの一部でもお前に見せるのは不快だ」
岳、最後に見下すような目で樹を見る。しばらくしてふと笑みを見せる。
岳「じゃあそっちの覚悟もあるってこと」
返事の代わりに岳の目を睨みつける樹。
岳「それじゃ、森野の転校は無しってことね。了解」
奥園と黄を呼び、部屋の外へ。
岳「森野、またな」
そう言い残し岳は出ていく。
(岳目線)
奥園「坊ちゃん、どうして終盤あんな茶番を演じられたんですか」
岳「口説かなきゃ堕ちない奴なんか興味ない。今はね」
奥園「はあ……」
岳「それにどうせ森野は俺のものだし」
奥園「それはどういう意味ですか?」
そこまで言うと、岳はその場で倒れ込む。残された二人は慌てふためく。
奥園「だだ大丈夫ですか坊ちゃん!」
黄「駄目だ、意識を失ってる、誠二さんそっちの肩持ってください!」
奥園「まったく……。発情期中のΩにあれだけ接触して、やせ我慢なんてするからですよ」
12 排除(4500字)
シーン1
ようやく互いの気持ちを確認し合えた二人。しばらく抱き合っている。樹は終始考え込む表情をしているが、思い立ってあさひに告白する。
樹「あさひ、あと一つだけ許して欲しい事がある」
あさひ「ん、なに……っ」
樹「発情期中は、お前を抱くよ。ちゃんとゴムも付ける。このまま、我慢してる方がよっぽど苦しいはずだから」
あさひ「発情期だけ、なんだ」
樹「……すまん。相手が俺で嫌だろうけど。最悪、医療行為として割り切ってもらえれば」
あさひ「いやじゃない。お願い、もう来て。本当は俺、我慢できないくらい樹くんが欲しい……!」
樹「……いいのか俺で」
あさひ「早くここに、樹くんのが欲しい」
樹「お前……一体どこでそんな言葉覚えたんだ」
初夜にしては激しい二人の蜜事が始まる。(絡みのシーンは計二回。最初は我を忘れるくらい熱く燃え上がる二人。次は少し冷静になり、本当に義父と関係を持ったのだと自覚しながらの行為(キスやコミュニケーション多め)
13 満足(1500字)
シーン1
上から一週間後。いつもの時間に目覚めるあさひ。妙に頭がすっきりしている。隣に樹の姿はない。リビングに向かうと、キッチンでいつものように朝食の準備をする樹がいる。
樹「おはよう。珍しいね、自分から起きて来るなんて」
あさひ「お…お…、おは……」
樹と過ごした一週間までの記憶をはっきりおぼえているあさひは、一人羞恥心と格闘している。樹は一時微笑ましい目を向けたのち、普段と変わらず厳しい義父に戻る。
樹「せっかくだから朝食の準備でも手伝ってもらおうかな」
あさひ「えー……」
樹「えーじゃないだろお前。あそうだ、洗濯物干して来なさい」
あさひ「ふええ」
樹「我儘言わない」
樹の厳しさが、二人をいつもの日常に戻す。
シーン2
出がけに樹に呼び止められ、鍵付きのネックリングを装着される(Ω専用に市販されているもので、αにうなじを噛まれないための護身グッズ)
樹「平気か?」
あさひ「ん、苦しくないよ」
樹「じゃなくて、これを付けたらΩだって周囲に知られるんだぞ」
あさひ、一瞬きょとんとした顔で、次にふっと笑う。
あさひ「だいじょーぶだよ」
仮にも親子関係である二人は、番契約を結ばず、互いに寄り添うことに決めた。二人が交わるのは、あさひが発情期を迎える月の一週間のみ。
おそらく街で唯一のΩであることで、今後あさひの学校生活にどう影響が出るのか分からない。その不安と、あさひを手放せない申し訳なさ、愛しさから複雑な表情を覗かせる樹。
樹「ごめんな、手放してやれなくて」
あさひ「……手放しちゃやだよ。だって、俺の、たった一人の家族なんだから」
玄関口で抱き合い、流れでキスをしかけて、直前で踏み留まる二人。
あさひ「それじゃ、行ってきます」
樹「あ、ああ。いってらっしゃい」
シーン3
登校すると、クラスの雰囲気が一週間前と変わっている。皆一様にあさひのネックリングを見て、遠巻きに噂話をしている。変わらないのは、親友の英里と乃亜のみ。あさひ、気にせず席に着く。すぐに岳が登校してくる。岳はまっさきにあさひの席へ歩み寄る。岳、席に座るあさひを見下ろしている。装着されたネックリングを見ると
岳「……独占欲の塊だね」
憎たらしそうにつぶやく。
あさひ「え?」
岳「いや、おはよう」
あさひ「おはよう」
岳「待ち遠しかったよ一週間」
岳はあさひの耳元に顔を寄せると
岳「あいつ上手かった?」
とささやきかける。あさひが顔を真っ赤にさせる。岳の表情がますます険しくなる。そのまま両頬を固定され、岳に無理やりキスをされる。ただでさえ目を引く奴の行動に、クラス中が騒然となる。あさひ、岳の頬をはたく。
あさひ「おまえ……最低!」
岳「上等」
岳の不敵な笑みで終了。
終わり
*ココマデお読みくださった方、誠にありがとうございました。ページやシーンの盛り上がりの都合上、プロット通りでない箇所もございます。
ピカレスクヒーロー
作:新矢イチ
主催者。個人レーベルを運営しています。
ツイッター
レーベルサイト
絵:高月美鳳
深みのある絵柄と信頼感抜群のイラストレーターさん。
pixiv
表紙デザイン
pinoko Kaoru
数多くの商業出版物のデザインを手掛ける人気デザイナーさん。有り難いことに、個人作家向けのサービスも提供して下さっています。
ツイッター
ココナラ
書名 ピカレスクヒーロー
発行日 2018年10月15日初版発行
著者名 新矢イチ
発行所 18(イチヤ)
2018年10月15日 発行 初版
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