二人は決して番にはならない。
家族関係を壊さないよう、日常的なキスや性行為も行わない。
ただし、発情期中の一週間のみ適用外とする。
それが我が家の新ルール。
『親子、ときどき恋人』。
◆◆
「うわーんたちゅきくん」
「おやおや、どうしたの」
子供の頃、大好きだったシンデレラストーリー。
「あのね、パパがあたまにつのだしておこるの」
不幸なΩを救うのは、決まってαの王子様。
小さい頃、唯一の味方だったその人は、疑いもなく未来の王子様だった。
「また樹兄に甘えてこいつは」
「まあまあ、朝陽はまだ五つなんだから」
僕にはたちゅきくんさえいればいい。
「パパなんかいらない! いなくなっちゃえ!」
まさかその声が、本当に魔法使いの耳に届いてしまうなんて思いもしなかった。
「かわいそうにねえ、追突事故だったそうじゃない」
「お子さんだけは留守番で無事だったそうよ」
「まだ幼稚園だって、お気の毒に」
朝陽が五回目の誕生日を迎えてまもなく、両親が他界した。
二人とも、眠っているようにしか見えなかった。
そのうち目を覚まして、早く歯を磨いてきなさいとか、ピーマンも残さず食べなさいとか、いつもみたいに怒ってくれるんじゃないかとさえ思った。
起きてくれたら、ちゃんとごめんなさいをしよう。怒りんぼのパパとママなんかいらないって、神様にうそをついたこと。
願いも虚しく、両親は二度と目を覚まさなかった。遺体になって、灰になって、お墓の中で永遠の眠りについた。
──ぼくのせいだ。ぼくが、いなくなっちゃえって魔法使いにお願いしたからだ。
「パパ、ママ……ごめんなしゃい……」
「朝陽、樹兄ちゃんがいるから。俺が絶対、朝陽を守ってやるから」
魔法使いは願いを叶えてくれた。
未来の王子様だったその人は、その日からたった一人の家族になった。
◆◆
「──さひ、朝陽! いい加減起きなさい」
目覚ましと樹の怒鳴り声が今朝も不協和音を奏でている。
朝陽は炬燵 の中の猫のように、背中を丸めて二度寝する。また樹の怒鳴り声。ようやくベッドを抜け出したのは登校二十分前だった。
「おはよう」と顔を出したキッチンの奥、スーツにエプロン姿の背中が「ああ」とそっけなく返事をする。隣のダイニングテーブルには、もう朝食が準備されている。
「さっさと座って食べなさい――どうしてまだ寝間着姿なんだ」
「だって」
「言い訳するな、さっさと着替えてきなさい」
森野家の一日は、会話のない静かな食卓から始まる。朝のニュースの声が、今朝もやたらと耳に障る。週末、東京でΩのデモパレードが行われるらしい。Ωなんていない小さな田舎町では、夢物語としか思えないが。
「樹くん、あのね」
「食べ終わってからしゃべりなさい。いつも言ってるだろう」
急いで食べて、ごちそうさまでしたと両手をあわせる。
「前に話してた転校生の話、憶えてる?」
「ああ」
樹は白飯を口に運びつつ、さも興味なさげに返答する。
「そいつがαかもってクラス中で話題なんだ。もしかしたら校内三人目のαが今日――」
樹が乱暴に食器を置いた。
意気揚々としゃべっていた朝陽は、たちまち次の言葉をのみ込んだ。
「そんなくだらない噂話をする暇があるなら、少しは勉強に専念したらどうだ」
「ごめん、なさい」
「毎日寝坊にテストは赤点。こんなだらしない生活、社会人になってからは通用しないんだぞ、分かってるのか」
「う……、はい」
くしゅんと項垂れるが、樹の説教は止まらない。
「そもそも一般性の俺たちにはαもΩも関係ない。ここはβの町だ、いい加減現実を見ろと何度言えば分かる」
「そもそもおまえは……」
朝陽を救済するかのように、インターホンが鳴った。
「もういい、さっさと準備しなさい」
朝陽は「はい」と肩をおとして立ち上がる。
「全く、毎日友だちを待たせて悪いと思わないのか」
「ごめんなさい……」
樹は父親の兄というだけで、身寄りのない自分をここまで育ててくれた人だ。せめて立派な大人になって恩返しがしたいが、最近は失望させているだけの気がする。
「よっす。今日も浮かない顔してんな」
玄関先ではいつものように英里が待っていた。コードレスのヘッドホンからは軽やかなメロディが漏れている。
「おはよ。ちょっとね」
行ってきますと振り返るが、当然のごとく返事はない。リュックを背負いながら、朝陽は再び肩を落とした。
◆◆
朝陽が出ていくと早々に食器を洗い、洗濯物を持ってベランダに出る。
今朝はきつく叱りすぎたようで、三階からでも肩を落とした様子が伺える。
「あんなに言うんじゃなかった」
両親のいない朝陽は、この先どんな偏見の目に晒されるか分からない。だからこそ、せめてどこに出しても恥ずかしくない、立派な大人に育ててやろう。そう心を鬼にしてヒール役を貫いてきたが、やはり良心が痛む。
本当は、目に入れても痛くないほどかわいくてたまらないのに。素直にそうできない『義父』という立場がもどかしかった。
(でも、さっきは叱りすぎた)
変に動揺してしまった。食器にまで八つ当たりして、親として情けない。朝陽に勘ぐられてなければいいが。
「俺なんかが親でごめん」
どれだけ言ったか知れない償いの言葉を、今日も呪文のように唱える。
朝陽はもう十七歳。
この先、いつまで一緒に過ごせるだろうか。
(いい思い出も作らなきゃな)
吐き出した溜め息は朝陽を追いかけるように、通学路の方へと流れて行った。
◆◆
『噂』は本当だった。
「斎藤岳です」
左右に黒服の男を従えた男子生徒が入室するや、教室中の空気が張り詰めた。
「えー、斎藤くんは、かの斎藤財閥の御子息であって……」
「斎藤財閥ってあれだろ、ホテルチェーンの」
「ひえ、あの斎藤家の息子かよ」
クラス担任、岩下の格式ばった紹介が続く中、教室内がさわさわと揺れる。
柔らかそうな前髪を右に流した季節外れの転校生は、表面だけを貼りつけたような笑顔で「よろしく」と軽く会釈する。
空気を撫でるかすれた声に、朝陽はなぜだか胸騒ぎを感じた。
岩下は続ける。
「ちなみに斎藤財閥は日本でも希少なα家系であって。家柄上、シークレットサービスの護衛が欠かせん」
α家系。つまり、その血筋の者すべてがα。
「最初は戸惑うとは思うが、皆よろしく頼むぞ」
岩下はそこまで言うと、朝陽の斜め前の席を指さした。
「伊藤、早速で悪いが席を替わってやってくれ」
「この世には六つの性が存在します。男女に加え、α、β、Ωの三種の性……」
保健体育の授業を聞き流しながら、朝陽はぼーっと斜め前の背中を見つめていた。
生まれながらに有能で、リーダーシップを兼ね備えるα。
人類の約九割を占める、一般的なβ。
αはこの世に五%。
Ωはこの世に一%。
Ωとαの間には、『番』という特別な関係が存在する。「家族や恋人関係よりも重く尊い、魂の契約」なのだとか。
ちなみに『番の契約』は、性行為中にΩのうなじに噛みつくことで成立する。
「Ωの男性には子宮があり、発情期中の性行為で妊娠します。初潮とともに発情期が始まり、その頃から性フェロモンを放ちます。αはこのフェロモンに……」
Ωのフェロモンについて研究が進んだのは最近の事。昭和初期は抑制剤もなく、汚れた人種とΩを蔑視する風潮が強かった。
「てかさ、本物のΩなんか見たことねーのに、この授業必要ある?」
どこからともなく聞こえたやじに対して、保健医は咳払いする。
「確かに現在は、東京都の『Ω特別待遇制度』により、Ωの大多数が都市部で生活しています。Ωは出生前から診断されるケースも多く、生まれてまもなく東京の施設に預けられることも少なくないんです」
保健医はそこまで言うと教科書を閉じる。
「Ωの存在は見えないだけで、私たちの身近に確かに存在するのです。いつかΩの皆さんが、日本のどこででも安心して暮らせるように、常に理解と準備を怠らない義務が、私たちにはあるのですよ」
「せんせー、なんで東京はαもいっぱい住んでるんですか」
今度は別の生徒が、挙手して質問を投げかける。教室内にさわさわと笑いが起きる。
校内で唯一の女性である保健医は、慣れたものとにっこり笑って言い放った。
「それは、αがどうしてもΩに惹きつけられてしまう性質だからです。一般性の私たちと同じですよ。お分りですか、私につっかかってくる皆さん?」
αは、どうしてもΩに惹かれてしまう。
保健医の言葉に、クラス中の視線が斎藤に注がれた。当然のごとく朝陽も斜め前の背中に目をやる。
斎藤が振り返った。黒い目は確かに朝陽の方に向いていて。
(え、え?)
後ろを振り向いてみる。奥に控えるシークレットサービスと視線が交差し、ぶしつけに鋭い目が光る。
「ひえ……っ」
「ん、どした?」
後ろの席から英里の声。なんでもないと前を向き直る。
斎藤はまだこちらを見つめている。やはり、朝陽を見ている。朝の貼りつけたような笑顔じゃなく、不敵な笑みだった。だんだん目が離せなくなってくる。愁いを帯びたその黒い目に囚われる。
見つめあっているうち、形のいい唇が動いた。
『あ』
「あ……?」
「朝陽」
斎藤岳が名前を呼んだ。
「うん。朝の太陽で朝陽」
その隣で机に指文字を模りながら朝陽も応じる。
二時限目は科学の特別授業のために実験室で行われている。自然と斎藤が寄ってきて、いま隣に座っている。
「森野朝陽。いい名前だね」
「そう、かな」
黒板に文字を書き殴っていた年配の理科教師が突然振り返り、ちょうど前列に座る朝陽を指名した。
「げ、分かんない」
「あ。俺分かります」
斎藤は朝陽の声に被せるように言うと席を立ち、完璧な数式と解説で教室中から賛嘆の声をさらった。
「あいつ朝陽に気があるんじゃね?」
昼食時間、英里はトンカツ定食にがっつきながら声を荒らげる。
二列向こうのテーブル席では、斎藤岳が優雅にパスタランチを口に運んでいる。初日から注目の的だった彼の周囲には、すでに人垣ができていた。
「さっき体育もアイツと組んでたよな」
「なんか、そうなっちゃって」
食堂の端に目をやれば、例の黒服が目を光らせ直立不動で立っている。また目があうのはごめんだと、朝陽はぱっと下を向いた。
「で、楽しそうになに話してたんだよ」
「別に。趣味とか食べ物の話とか」
「けっ、女子かよ」
今日の英里は口が悪い。
視線の先で斎藤が席を立つ。取り巻きを無視してさっさと食器を戻すと挨拶もなく食堂を後にする。
「なんかヤな感じー」
足早に後を追う黒服を見送りながら、同席の城田乃亜が小さな毒を吐いた。
午後の授業は移動もなく、平和に過ごした。英里は塾で早々に下校した。斎藤と黒服は……姿が見えない。
朝陽も帰宅を急ぐ。十七時には帰宅する暗黙のルールがあるのだ。
校門を抜けたところで誰かが朝陽を呼んだ。斎藤だ。一人で門前に寄りかかっている。
「ちょうどよかった。町案内、頼めない?」
策略的にそこで待っていた空気を残して斎藤はそう言った。なんでまた自分がと戸惑うが、周囲を見渡せど、他にクラスメイトの姿は見当たらない。
「門限があるから他を当たってよ」
「じゃあ森野の家まででいいから乗って」
そう言うと同時に黒塗りの車がすうっと前に着ける。車にうとい朝陽でも、黒い光沢の眩しさに目を奪われる。だんだん周囲に人が集まってくる。斎藤と車を見比べて、指差す者までいる。これ以上とどまっていると妙な噂を流されそうだ。
「……今日だけだから」
周囲の視線から逃れるように、誘導されるまま後部座席に乗り込んだ。
車中、どんな話をしただろう。よく覚えていない。家族の事、学校の事、休日の事。斎藤がたずねて朝陽が答える。質疑応答は到着するまでの数分間続いた。
「そこの角を曲がって……あ、やっぱここでいい」
「どうして?」
「いや……」
この道を直進すれば、まもなく自宅アパートに到着する。ちょうど道の向かいから、黒いコート姿の男性が歩いているのが見えた。樹だ。
「お父さん?」
「……義理のね」
ふーんと低い声が響いた。斎藤はそれ以上の詮索もせず、軽く顎を上げる。車はそのまま直進していく。
「随分と早い御帰宅なんだね」
「……自営業だから」
斎藤は樹を見つめたままだった。
「果実店のオーナー。昔は父さんと母さんが経営してたんだ。いまは従業員にほとんど任せてるって言ってた」
「昔?」
「二人とも、もうこの世にはいないから」
車はアパートの前で停車する。ときを同じくして樹も到着する。見慣れぬ外車を不審がっているのか、いぶかしげな視線が向けられる。
「……朝陽?」
まさにその車内でこぢんまりと座る朝陽を目撃するや、樹は切れ長の目を見開いた。
会話もなくエレベータを出ると樹を追って三〇三号室へ向かう。玄関に入り扉を閉めた所で、あれは誰だと問われた。
「転校生? そういや言ってたな。確か……」
コートとスーツをリビングの椅子に掛けていた手は、そこでピタリと止まった。
「例のαか?」
樹は特殊性別を嫌っている。特にα。今朝はその名前を出しただけで激高された。
「あの子とは距離を置きなさい」
ぶしつけに言われ、どうしてと樹を見上げる。
「おまえとは住む世界が違うだろ」
樹は自覚しているだろうか。いま、とてもひどい言葉で朝陽を傷つけている事に。
「うん……。分かった。もう関わらない」
人の性別は六種類に分かれている。自分たちはβで、斎藤はα。ただそれだけの違いが、大きな格差となる。
目があって口があって心臓が動いている。同じ人間なのに。その小さな違いに価値をつけ、自ら不平等に踊らされている。
俺は、俺なのに。
◆◆
翌朝。
なんの変哲もない朝だった。
登校途中に黒服にえり首を掴まれ、車へ引きずり込まれるまでは、いつもの朝だった。
颯爽と運転席に乗り込んだこの男は、誰だか知らない。昨日斎藤の後ろを歩いている姿を見ただけだ。
英里のヘッドホンを装着した丸顔が、がっしりとした大柄のシルエットが、どんどん小さくなっていく。
「森野、おはよう」
隣には当たりまえのように斎藤が座っている。渦中の人。住む世界の違う人。いま一番接点を持ちたくない人。
彼のこともよく知らない。昨日からクラスメイトになった事と、運転手の雇い主という以外はなにも。
「昨日はどうも」
返事もせずに窓の外に視線を投げる。なぜ、こんなことになっているのか。望んでもないのに斎藤が側にいる。
「寒そうだったから乗ってけばって思ったんだけど」
斎藤はまるで思考を先回りしたかのような、奇妙な言い回しをする。
「英里だって寒そうだった」
「誰それ」
そう言い切る横顔はいたって冷淡無表情。
「誰って……、居たじゃんか、さっき俺の隣にさ」
斎藤は涼しい顔をこちらに向けると、わざとらしく首をかしげた。
「そう? 森野以外見えなかった」
「斎藤のやつマジでなんなんだよ!」
放課後、また英里が発狂している。教室の奥のロッカーは、帰り支度の生徒でごった返している。斎藤は担任の雑務を買って出て、さっき隣の資料室に向かった。
「やー斎藤くん、今日も朝陽にべったりだったね」
と、リュックを担いだ乃亜も端の席からやってきた。
「でもなんでだろ? αってΩを好きになるもんじゃないの」
「そう、そこなんだよ俺の疑問は!」
熱弁を繰り広げる二人は、いぶかしげな目を朝陽に向ける。
「え、まさか俺がΩなわけないじゃん」
「……そこなんだよなあ」
英里がじろりとこちらを見る。
「どー見ても朝陽が世界屈指の希少人種には見えないんだよねー」
乃亜も賛同する。白鳥の群れに混ざったアヒルを観察するような遠い目で。
「ちょっとそれどういう意味さ」
ムキになるなよと英里に後ろから小突かれた。
「俺は心の広い男だから? 親友を奪われてムカつくけど、まあ許してやるよ。朝陽にとっちゃいい兆候なんだし」
「それ、どうゆうこと?」
首を捻る朝陽に対し、英里は渋い面構えで顔を寄せてきて。
「朝陽は大学行かずに働くんだろ?」
「う、うん」
「じゃあ就職活動で使えるかもよ、斎藤の名前」
「え、なんで?」
「そりゃあ、日本中誰もが知ってる有名財閥の一人息子と仲がいいってなれば、お偉いさんが放っとくわけないからな」
「そうなのかな」
よく分かんないと朝陽は笑ってごまかした。
「当ったりまえだろ。中堅親父どもは金だの出世だのしか興味ねーんだから、斎藤の名前なんかまさにいいカモ」
「俺が、どうかした?」
そのときだ。
ちょうど後方から人の波をかき分け斎藤と黒服のボディガードが戻ってきた。ちなみに朝の運転手じゃない。十歳ほど若くて目つきの鋭い方だ。
「別になにも言ってないけど?」
英里は早々にリュックを背負うとじゃあなと席を立つ。乃亜もその後に続いた。
「森野、一緒に帰ろう」
斎藤は英里など気にも留めず無視すると、やはり朝陽に話しかける。
「……なんでいつも俺なのさ」
身構える朝陽を、今度は英里が「行ってこい」と押し出した。
◆◆
朝陽が去った後の廊下を、英里と乃亜は二人して歩いていた。校内はまばらに生徒が残っていて、少し騒々しい。
「小鳥くん。朝陽って本当にΩじゃないよね」
「なわけないだろ」
そう答える英里も、本心は困惑を隠せないでいた。
(マジで斎藤のやつ、なんで朝陽ばかり追ってるんだ)
「男子のΩってさ、精通と発情期が同時なんだよな」
だから不安を払拭するため、乃亜に答えを求める。
「そういや言ってたね」
「……朝陽、精通くらいはしてるよな」
英里の脳裏に朝陽の顔がぽやんと浮かんだ。かいがいしい伯父に育てられた、正真正銘の世間知らず。本人は躾が厳しいと言っているが、下に五人の弟妹のいる英里にすれば、大事に箱に入れられているとしか見えない。そんないい子ちゃんな朝陽だからこそ、不安なわけで。
「んー、まあ。あいつも一応、育ち盛りの男なんだし、大丈夫でしょ」
「だよな。この歳でまだとか、ないよな」
朝陽だって人知れず悶々とする事くらいあるだろう。
(大丈夫、だよな)
英里は人知れず安堵の溜め息を漏らした。
◆◆
その頃、朝陽はかじりつくようにして窓の景色を眺めていた。
(これ、帰りの道じゃない)
「どうかした」
隣のシートに座る斎藤がわざとらしく視線を寄越した。
「どこに向かってんの」
返答までにわずかな無言。
「さあ」
そこには、何処だと思うと問いかけるようなニュアンスが含まれていた。
「家に帰してよ」
「嫌だって言ったら?」
そのうち車は静かに停車した。見知らぬ空き地だった。殺風景で、周囲には建物もほとんどない。
「別の奴と帰れよ」
「俺は森野と帰りたい」
「お、れじゃなくても、他にもいるじゃん」
息が詰まるほど静かな車内で、じっと斎藤を睨みつける。が、逆に熱いまなざしに射貫かれてしまい、すぐに視線を反らした。
「なん、だよ」
斎藤の目は、どこか違う。特別ななにかを嗅ぎ分けるセンサーが埋め込まれたような目をしている。そこに自分だけが別の生き物として映っているような違和感は感じていた。
「興味深いんだろ、君の進路に一役買えるαの俺が」
「……聞いてたんだ」
「αがどうやってΩを口説くか知ってる?」
問い返す余地もなく斎藤が距離を詰める。
手首を掴まれ、背もたれと背中の間に腕が入り込む。無感情な黒い目は、もうそこまで迫っている。
「最初からうなじをかんだりしない」
斎藤が耳元でささやいた。声の主と一致し難いほど甘い旋律だった。
「や……っ」
咄嗟にドアノブに手を掛けるが開かない。その間にも斎藤がにじり寄ってきて、座席シートに朝陽を抑えつけると顔を近づける。
「かわいがってれば、そのうちΩの方からシたくなる」
耳たぶを甘噛みされる。
「やめろって」
吸引する音、舐める音、唾液の音、さまざまな感触が耳元をざわつかせる。
「大事なのは誘いから逃げないこと。アイツらが望むならどこでだってシてやる」
いつの間にかネクタイが解かれ、シャツのボタンが外されている。
「斎藤……っ」
「俺は甘党だから、どろどろに溶けるまで放してやらないよ」
首元に斎藤が吸いついてくる。瞬時にして頭が真っ白になった。どうすれば逃れられるのか分からなくて、わめきながら両肩を押しのけた。刹那に黒服が後部座席へ身を乗り出してくる。
「冗談でしょ」
斎藤が背中越しに牽制する。気安く触るなとでもいいたげに、黒服は眉をひそめながら着席した。
「冗談でこんなことすんのかよ、最低」
顔が熱い。心臓が暴走している。斎藤の触れた所が熱を持って溶けそうだ。
「からかいがいのないやつ」
斎藤はクスリとも笑わず、ただ距離を取って座り直すと無表情で前を向いた。腕と脚を組んで、なにもなかったように。
「言われなくてもちゃんと帰すから」
斎藤が「行って」と言うと、また蝋人形に戻っていた黒服が動き出す。まもなく、車は緩やかに発進した。
アパートに到着する頃には午後六時を過ぎていた。
道沿いに誰か立っている。スーツ姿の背の高い男性だ。車から朝陽が出てくると、鬼のような剣幕で引き寄せる。彼は一度だけ後部座席を睨んだ。そこに座る同級生を目視すると、朝陽を連れて建物の中へ姿を消した。
◆◆
「こんな時間までほっつき歩いて、高校生がいいご身分だな」
叩きつけた拳がリビングの壁を揺らした。
「ごめんなさい」
「おまえはなんのために学校に通ってるんだ、遊ぶためか」
また壁がドンと揺れる。テーブルの上の食器が割れんばかりの音を立てる。
「昨日さんざ忠告したよな、それとも俺の言葉が理解できなかったのか?」
「わ、かってる」
「じゃあなんであいつと居たんだ!」
「それは……」
悪いのは自分だ。命令に背いたから。この家で樹の命令は絶対なのに。
「おまえはなんにも分かってない、あいつはαなんだぞ、普通の人間とは違うんだ!」
(そんなこと言わないでよ)
「ごめんなさい、もうしないから……!」
懇願するような視線を向けると、樹は一転して困惑に揺れた。
「……そんな目で見るな」
また失望させただろうか。嫌になっただろうか。樹がどんな顔をしているのか、見るのが怖くて目を伏せてしまう。
「明日からは、一切の寄り道もするな。終業から三十分以内に帰宅しろ。一分でも遅れたら、今度こそ許さない」
攻撃的だった口調は、ようやく落ち着きの色を見せていた。燃え盛る鉄鍋に蓋を被せたような、焦げ臭さを残して。
「……俺は部屋に行ってる。後はどうぞご自由に」
その日は冷たくなった夕食を、一人で暖めて食べた。
一口一口噛みしめながら、樹の手料理であることに感謝する。
「おいしい」
この中に、ほんのわずかでも愛情が込められていることを願って──
◆◆
──翌日。
いつも通りバルコニーから朝陽を見送った。樹はぼんやりとした足取りで自室へ向かった。昨日から洗濯物が溜まっている。朝の食器もシンクに残ったままだったが、手に着きそうになかった。
「幸樹、俺はどうすればいい」
ベッドの脇にある弟夫婦の写真を手に、樹は重い息を吐いた。
十数年前──
『朝陽がΩ? 本当なのか』
その日、珍しく幸樹から話があると連絡があり、休憩中に近くのカフェで会う約束をしていた。
どうせパチンコでスッたとか、ろくでもない話だろうと思っていたのに、とんでもない誤算だった。
『ああ。驚いただろ。俺のかわいい一人息子が、出生率一パーセントのΩだっていうんだから』
当時は、世の中の風潮が変わりつつある頃だった。一昨年に都政の打ち出した『Ω性特別待遇制度』により、学校や職場に点々と存在していたΩが、次々と姿を消し始めた年だった。
『俺な、朝陽が中学に上がったら、東京に送り出すことに決めたんだわ』
『そう、か……。寂しくないのか』
『そりゃ寂しいさ。でも、こんな田舎で見せ物扱いされる方がよっぽどつらいよ。Ωはαと番になって幸せに暮らすべきだ。そういう運命の子なんだから』
Ωの安全を守る都市、東京──
生きるという当たりまえの営みさえも価値になる種族。新制度は、まさにその象徴だった。
『俺にもしもの事があったら、兄貴に託していいかな。中学からはここに預けて欲しい』
差し出されたのは、桃李学園と文字の入ったパンフレット。
『ああ。そんな日はこないだろうけど、もしものときは俺が親代わりになってやるから安心しろ』
そういうと幸樹は渋い顔をした。
『いや、そのときはすぐに施設へ預けてくれ』
『……は? なんでだよ』
幸樹はなにやら言い淀んでいたが、だってと切り出した。
『兄貴はαだろ。もし朝陽が発情したら』
『ああ? いくら俺がαだからって見境いないと思うなよ。あんな小っちゃな子供になにかする訳ないだろ』
『それは……まあ、兄貴のことだから信頼はしてるけどさあ』
『任せとけって。俺も朝陽がかわいいんだ。くれぐれもおまえみたいな雷親父にならないようがんばるよ──』
「……あの頃は悪かったな。育児がこんなに大変だなんて思わなかった」
いつかの会話を思い返しながら、しばらく遺影を眺めていた。
「十年……。あっという間だったな」
桃李学園にはいつでも編入できるよう、準備はしてある。ただ、樹自身の決心がつかなかった。悩んだ末に地元の中学へ進学させ、そのまま高校に上がらせた。
朝陽がΩだと知られれば、周囲から不当な差別を受けるのではないか。ましてや父親代わりの自分がαだなんて、口が裂けても言えなかった。
できるなら、朝陽にも世間一般の暮らしをさせてやりたかった。じゃあせめて発情期までは、普通の親子を演じよう。いつしかそう考えるようになった。
ひそかに相談していた医師から、Ωは精通が遅いと聞かされていた。だが朝陽も十七歳。いつ精通を迎えてもおかしくない。長く見積っても、あと一、二年ほどではないかと覚悟はしていた。
想定外だったのは、この時期にαが現れたこと。
そのαが、朝陽に接触を繰り返していること。
「幸樹……、嫌な予感がするんだ」
発情期を控えたΩに、季節外れの転校生。それも、稀に見るα。これがすべて偶然に起こった出来事だろうか。
想像する。
最悪の未来を。
幸樹との約束を果たせず、見ず知らずのαに朝陽をさらわれる、最悪の未来を。
「駄目だ、そんなの」
そんな未来、考えたくもない。
◆◆
「えー、それでは今日はここまで。来週から全科目小テストがありますから復習するように。赤点は補習授業を行いますよ」
六時限目の終了間際、数学教師の放った一言で教室中がどよめいた。
「うわー、マジかよ。俺今週過密スケジュールなのに」
「俺もしばらくバイトとカラオケ無理そう」
放課後は英里と乃亜の愚痴大会だった。この時期の小テストは、内申がどうとかで、とにかく落とせないらしい。
「てことで、俺らしばらく居残り勉強して帰るわ。朝陽は気をつけて帰れよ」
廊下から手を振っていると、英里の顔がさっと険しくなる。
振り向くと真後ろに斎藤が立っていた。
あからさまに目を背ける朝陽に対し、小さな舌打ち。
「予想通り。また逃げるんだ」
「……逃げてるわけじゃないよ」
確かに今日一日、斎藤を避けていた。近づけば走って逃げ、呼ばれるたびに英里の後ろに隠れた。自分でも嫌なやつだと思ったが、樹の命令に従順でいるためには、他に方法が思いつかなかった。
「言いたい事があるならはっきり言えば」
「だから違うって」
「いいからこいよ」
掴まれた手を振り払おうとも思ったが、心配そうにこちらを見る英里と目があい、大丈夫と合図して背中を追った。
「なんだ、そんな理由」
斎藤は屋上のフェンス越しに下の景色を眺めている。
「君にとってはそんな理由でも、俺には大事件なの」
その隣で、朝陽は同じく足元に目線を落としていた。
「拍子抜け」
「え?」
「昨日ので嫌われたのかと思った」
「昨日……? あー」
そういえば昨日、斎藤に首や耳を舐められたのだ。
「あれは迷惑」
「おかしいよね。子供は親の持ち物じゃないのに」
森野は伯父さんが憎くないのと続ける。『昨日の件』はうやむやのうちに葬られてしまった。
「……俺を育ててくれただけで十分だよ」
「そう? 俺なら一生許さない」
なに不自由なく育ったやつには分からない。覚悟もなく親になった葛藤なんか。突然両親を失った孤独なんか。
分かる訳ないと思いつつ口を開いてしまったのは、斎藤に「小鳥になんか言われたんだろ」なんてそそのかされたせいであって。英里は関係ないと言ったが最後、
『八つ当たりってわけ。悪趣味』
『なにが違うって』
『森野って樹くんの言いなりなんだね』
違う、そうじゃないと誘導尋問に引っかかるうち、いまに至る。
「事故を理由に、伯父さんに気を遣うのは違うと思うけど」
「俺が樹くんの邪魔になりたくないの」
斎藤の目から逃げるように体を反転させる。入り口の前で、黒服が仁王立ちしている。今日はどっちだろう。おじさんの方か、若い方か、遠くて判別できない。
「じゃあ自立するしかないんじゃない。交友関係まで伯父さん任せにしてるうちは、目の上のたんこぶと一緒でしょ」
「……やなこと言うね」
「助言と言って欲しいね」
しゃくだけど、斎藤の指摘はあながち間違っていない。たんこぶなんて吹き出物と一緒だ。百害あって一利なしだ。
「……昔は優しかったんだ。いつもニコニコして、俺に甘くて、本当に王子様だったんだ」
「切ないね」
斎藤の手がくしゃりと頭を撫でた。捨て猫でもかわいがるみたいに。
「でも、これからは俺がいるよ」
「なに?」
「俺がいる」
冗談ともとれない言葉の先に、ふわりと目を細めた奇麗な顔がそこにあった。
「……帰る」
数十センチの段差を飛び降りた朝陽は、目もくれず出入り口に向かった。
黒服は相変わらず扉の前で仁王立ちしている。
「ご機嫌斜めなようで」
後ろで独り言のように斎藤が呟いた。
「人をからかって楽しい?」
振り返り睨みつけると、フェンスにもたれかかるようにしてこちらを眺めている。
「からかってないよ」
その声を無視して、扉の前の黒服を見上げる。男は無言で一歩隣に退いた。
「俺はいつでも本気」
扉をくぐり、両耳に蓋をして階段をかけ降りる。脇目もふらず、一目散に校舎を出る。結局、あの黒服がおじさんだったか若い男だったかは、よく覚えていない。
◆◆
その日の樹は、いつもと様子が違った。
「お、洗濯物畳んでるのか、偉い偉い」
帰宅したかと思えば、にこやかに笑ってそんな事を言う。
「お帰りなさい」
「うん。ただいま」
ここ最近見たことのない笑顔でスーツの上着を脱ぐとダイニングチェアに掛ける。
「どうかしたか?」
浮かない顔に気づいたようで、首をかしげられた。
「ううん、なんでもない」
「あ、ケーキを買ったんだ。一緒に食べないか」
アールグレイの香気が、隣のダイニングテーブルまで届く。朝陽の目の前にはショートケーキとティーカップが並べられ、カウンターキッチンに立つ白い大きな背中がときどき鼻歌を刻む。
まるで夢でも見ているような、和やかな時間だった。
「昨日は頭ごなしに叱ってごめんな」
紅茶ポットを手に戻ってきた樹は、ティーカップをそっと朝陽の前に置いた。
「俺こそ、ごめんなさい」
陶器製の白い器が黄金湯で満たされていく。
「おまえのこととなると、つい感情が抑えられなくなってしまう。頭では分かってるんだけどな」
その言葉が真実であると願いたい。
「これだけは信じて欲しい。決して憎いとかじゃないから。むしろ逆で……、心配で仕方ないんだ」
「うん……」
向かいのティーカップにも注ぎ終えると、おもむろに着席する。いただきますを言う前に、樹は鞄から一冊のパンフレットを取り出した。
「突然ですまないが、再来週、転校してもらうことになった」
「え……?」
「東京の学園だ。素晴らしく治安のいい所だから、安心していい」
「引っ越すの?」
樹はしばらく押し黙った後、
「いや、おまえだけが行くんだ」
手元に視線を落として静かに告げる。
ガンと頭を殴られたような衝撃はなかった。
脳裏にひしめいていたのは、やっぱりそうかという諦めにも似た感情だった。
この家から、とうとう排除される。うっとうしい蝿を追い出すみたいに。
最後のはなむけが、このケーキと台詞なんだろう。
「準備もあるだろうし、こっちの学校はもう行かなくていい。しばらくは家でゆっくりお休み」
「……」
「朝陽?」
「うん。分かった」
考える余地はない。樹の命令は絶対なのだ。
「なにもしてやれなくて、ごめんな」
樹の命令に背くことは許されない──
「どこに行っても、俺はずっと朝陽を想ってるから」
(うそつき)
朝陽は振り絞るように笑顔を作ると分かってるよと答えた。
◆◆
登校する必要がなくなった翌朝。いつものように英里が迎えにきた。
パジャマ姿の朝陽をリビングに残して、樹が玄関へ向かう。
話し声は数十秒程で途絶えた。すぐに扉が閉まり、足音が去っていく。
どう説明したのかは、あえて考えないように努めた。
「俺もそろそろ行くから」
上着を羽織りながら樹が戻ってきた。今日は夕方から得意先の商談があり、帰りが遅くなるとのこと。
「鍵を掛けてくから、いい子で待っててくれよ」
膝を折って同じ目線になると、ぎこちなくほほ笑む。くしゃりと髪を撫でる。……罪滅ぼしはまだ続いているようだ。
「分かってる。いってらっしゃい」
見送ってからしばらく携帯電話を眺めていた。英里からのメッセージはない。『突然すぎる』とか、『なんで言わなかったんだ』とか、せめて『頑張れよ』の一言くらいはあると思ったのだが。
悶々と時間を過ごすうち、いっそのこと自分から掛けてやろうと思い立つ。
英里は思いのほかすぐに通話に出た。
「もしもし、英里? 俺」
『は、朝陽? なんで電話してくんの。ばかじゃないの』
「え、なんでって……」
『もう切るよ。じゃあね』
会話すらままならないうちから英里は怒ったような口調でまくしたてると、一方的に通話を切ってしまった。
しばらく放心状態で、無限に響く電子音を耳に充てたまま立ち尽くしていた。
英里の言い放った言葉の数々が、いつまでも頭の中をぐるぐると彷徨っている。
いつも優しい英里が、なぜ今日に限って態度を急変させたのか分からない。
ピンポーン、と呼び鈴が鳴ったのは、それから小一時間ほど経った頃だ。
「……学校はどうしたんだよ」
顔だけ出して、制服姿の訪問相手を迎える。
「他に言うことは?」
「帰れよ」
冷たく言い放つとドアを閉めようとする。ガツンと斎藤が右足を挟み込み、強引に扉を引き寄せる。ドアノブはあっさり手元から離れていった。
「寒空の下、三十分も待たせといてそりゃないでしょ」
ドアにもたれかかりながら、無感情的な並行眉をひそめ、彼は笑う。
「おまえが帰らないせいだろ」
「居るの分かってたから」
玄関先へ押し入り、後ろ手にドアを閉めると、斎藤はまたふわりと目を細めて少しだけ口角を上げた。
「小鳥から聞いた」
英里の名前が出て、心臓が不協和音を奏でる。
「転校の話、もう知ってるんだ?」
返事の代わりに斎藤は目を細めて笑った。
「ふうん……。そっ、か」
英里は知っていて、わざとあんな言葉を告げたというのか。どうして? 考えるうち樹の顔が浮かんだ。樹と同じで、四年間友情と思っていたものは、自分だけの一方通行だったのだろうか。さようならを告げる必要がないほど、ばかじゃないのと足蹴にできる程、どうでもいい存在だと思われていたのだろうか。
「よかったって言ってた」
「……英里が?」
斎藤はまた無言で目を細める。
頭をガンと殴られたような衝撃が、今度は確かにあった。
よかった。
朝陽がいなくなってよかった。
毎朝迎えに行く必要がなくなってよかった。
静かになってよかった。
よかった。
ヨカッタ。
ヨカッタ──
その一言から、色々な言葉が連想された。たった四文字。レトリックもない単純な言葉に心臓を八つ裂きにされる。
「森野、泣いてる?」
「……泣いてない」
「うそだ、目が赤くなってる」
斎藤は捨て猫を観察するかのように、好奇心と優しさの混ざった視線を向ける。
本当は寂しいくせに。
心細いくせに。
誰かにすがりつきたいくせに、と。
じっと道端の隅っこで震える子猫を見つめている。
こちらにこいとでも言いたいのだろうか。
一度も触れあったことのない相手こそ、怖くてたまらないのに。
「大丈夫。俺はずっと味方だから」
斎藤はたまに、人の気持ちを抉るような優しさを見せる。強引で、遠慮がなくて、他人には埋められない心の隙間をこじ開けようとする。
「言っただろ。森野には俺がいる」
ぐらりと頭が揺れる。
季節外れの一月に、たまたま転校してきただけの癖に。いつかはΩと結ばれる運命の癖に。お金持ちで優等生で、大の大人を二人も従えるキングの癖に。
そんな斎藤岳が、どうして自分にだけ優しくするのか、分からない。
「そういう事はΩに言えよ」
からかっているのか。もてあそんでいるのか。
そもそも、斎藤岳は実在するのだろうか。追い詰められた自分の作り出した蜃気楼ではないか。
「俺は森野にしか言わない」
ほら、もう少し。
「俺なんかのどこがいいんだよ」
あともう少しだ。
「全部だよ。森野のすべてが俺を翻弄させる」
「なにそれ。αのくせに、変なやつ」
──あとちょっとで、まんまと君の手中に堕ちてしまう。
「……黒ずくめは今日は居ないんだ」
左の頰がずっと気持ちいい。
「黒ずくめ……? ああ、下で待たせてる」
斎藤がそう言うと、朝陽はほっとしたように瞼を閉じた。少し遠慮がちに顔をかしげ、手の甲に頬ずりをする。目を開けると、嬉しそうな黒い目にぶつかった。彼はようやく手けなずけた野良猫をいつくしむように、軽く首を傾け朝陽に見入っている。
「これ以上待たせたら怒られるんじゃない」
「それがあの人たちの仕事」
「……そう」
招かれるまま制服の胸元に顔を近づける。すぐに斎藤が抱きしめてきて、朝陽のうなじに軽くキスをした。
◆◆
部屋のベッドがぎしりとしなる。他には勉強机しかない簡素な部屋。友だちを招き入れたのは、どれくらいぶりだろう。
(友だち……なのかな)
覆いかぶさる頭を掻き抱きながら考える。
パジャマの前はすでに開放されている。朝陽は首をもたげ、平らな自分の体に花弁を落としていく様を眺めた。
すぐに斎藤が気づいて上体を起こすと、愛撫していたその口を同じ場所へ重ねようとする。
「ま、待って」
咄嗟に口元に両手を充てるが、
「待たない」
軽々と両手首を持たれ、頭の左右に置かれてしまった。
「お、れ、初めてなんだよ」
「それはよかった」
二の句も告げさせず、吐息が吹きかかる。初めて他人と交わるその場所を二、三度ついばむと、リップ音を上げて離れていく。
また手の甲が頬に触れる。並行眉の下の優しい目で、朝陽を絡め取りながら。やがてその手は、腹部へと下っていった──
──どれだけの時間、そうしていただろう。
思い出せないほど、朝陽はその行為に没頭していた。
同い年とは思えない慣れた愛撫に、むざむざと翻弄されもした。
逆に自分はなにも知らなくてよかったと思う。もし半端な知識でも持っていたら、斎藤の技巧を前に早々に屈服し、その体のとりこになっていただろう。
とにかく、初めてイクという言葉の意味を知った。
じかにそこを触られたときは恥ずかしさでどうにかなりそうだったが、「じゃあ俺のも見せればいい?」と斎藤が自身を露出させ、交互に愛撫し始めると、その早熟ぶりと大きさに卒倒するかと思った。
斎藤に触られたその部分は、これまでも途端に熱を持ったり、硬くなったりしたことはある。その都度無理やり寝るなどして、その衝動を鎮めてきた。
だからまさか、ここを触るだけで、腰を持っていかれそうな程の快感が突き抜けるとは。自分の体にそんな危険な爆弾が潜んでいると気づかなかった。
しばらく裸のまま、二人でベッドに寝そべっていた。熱が冷めてくると、どちらともなく起き上がり、一緒にシャワーを浴びた。斎藤が髪を洗うと言い出し、大人しく目を閉じていい間、浴びるほどキスをされて、抱きしめられて、湯だつ直前にやっと風呂を出た。
昼食は、見よう見まねでミートソースパスタを作った。途中まで斎藤が隣にいたが、腰を触ったりうなじを撫でたり邪魔ばかりするので、キッチンから追い出した。食事中はどうでもいい話をした。パスタを口にいれたまましゃべったり、笑ったり、樹がいれば発狂するような事ばかりした。
また部屋に戻り、しばらくくつろいでいた。暖房もゲーム機もない簡素な部屋では、早々に会話も尽きてしまい、気づけばまた、蒲団の上でむつみあっていた。
斎藤はよくうなじにキスをした。「特別な味がする」というから真似をすると、ぎゅうっと抱きしめられた。
「このまま離したくない」
「自粛しろよな」
そう言うとしばらくの無言。
「やっぱ森野はつれないね」
「だって、帰ってくれなきゃ俺が困る」
「そのときは森野ごと連れ去るから大丈夫」
どうせ冗談だろうけど、もしも現実になれば、樹も少しは心配するだろうか。英里も後悔するだろうか。
「あは。斎藤が言うと冗談に聞こえない」
「冗談じゃないから。俺はいつでも本気」
「はいはい」
おとぎ話のような甘い時間は、長く続かない。
──夕方。樹が仕事から戻ってきた。玄関先の物音がだんだんと近くなる。
「ただいま。どうした、夕飯を作ってるのか」
今日の樹はいつもよりハイトーンボイスだ。
「おかえりなさい」
朝陽は普段通りに答えると、「簡単だけどね」と添える。
「いや。嬉しい助かるよ、ありがとう」
樹はコートとジャケットをダイニングチェアに掛け、シャツのネクタイを緩めながら朝陽の隣に立つ。いつもならエプロンを着けた樹が立っている場所。でも今日は、数時間前まで斎藤と過ごした場所。玉ねぎを刻む手が緊張で揺れている。
「もしやカレーかな」
樹の手が朝陽の頭に伸びる。髪の毛を触る直前、反射的にそれを避けていた。
「……これからは、樹くんがいないからね」
俯き加減にそう言うと、明らかに樹の表情が曇った。
「ああ……。そうだな」
なぜそんな顔をするのだろう。突き放しているのはそっちなのに。
「もう樹くんに頼ったりしないから、安心して」
朝陽は無理やり笑顔を作ったが、樹はただ寂しそうな視線を向けるだけだった。
その日の夕食は、いつにも増して静かだった。数時間前までにぎやかだったリビングは、食器音だけの冷たい空間に変わっている。
食事中、幾度と目があった。樹から物言いたげな雰囲気は感じていたものの、朝陽は黙々とカレーを流し込み続けた。
少しだけ爽快な晩餐だった。
同時に不毛な抵抗でもあった。
どうせ再来週には捨てられるのに、愛情の欠片でも探りたくて、いまだに躍起になっている。
◆◆
四日目の朝。
今朝も樹を見送った後、入れ替わるようにして斎藤が現れた。
迷いもなく招き入れると早々に抱きあった。靴を脱ぐ時間さえもどかしく、そのまま抱き寄せると奇麗な唇に自身を重ねた。斎藤もキスに応じながらパジャマのボタンを外していく。
「うわ」
前を解放された所で小さな呻き声。
「え、なに」
聞き返すも、答えない。抱きついて離れない。しきりに頭を撫で、うなじを触るだけだ。
「ねえ、なんだよ」
斎藤の息が上がる。
「すごい、いい匂い」
犬みたいに鼻をすんすんさせている。
「え、俺が?」
「森野はなにも感じない?」
別になにもと首を振る。もどかしそうな溜め息が戻ってきた。
「分かった。とりあえず部屋で続きをしよう」
そう言うと溜め息をつき、朝陽の体を抱きしめた。肩口に頭を預けて、まるですがりつくみたいに。
「い、いた、いたたっ、ちょ、どうしたの」
斎藤はうなじにキスをしていた。ときに前歯で甘噛みしているようだった。
「……なんでもない。行こう」
その日は体の一部がすり減るほど濃厚な愛撫が続いた。斎藤は早々に着衣を脱ぎ払った。そこはすっかり熱を持ち、先走りすら見せていた。額は汗ばみ、前髪が貼りついている。喜悦をむさぼる朝陽と違い、苦しげだった。それでも大人と子供ほど差のある互いの熱を擦りあわせ、持参したローションで愛撫する。しなやかな手が、今日も二人を高みへと向かわせる。腰が浮くほどの快感は変わらない。斎藤が変に焦らすせいで、達するまでの時間は延びてはいた。それでも朝陽が先に達して、次に斎藤が手早く済ませるのが常だった。
それが今日は違った。
「う」
斎藤は苦しそうに小さく呻いてすぐに達した。白い放物線は朝陽の上半身どころか頬にまで付着した。
「ごめんね」と拭った後もソレは衰えを見せず、次に朝陽が快感を追うと同時に、斎藤も二度目の精を放った。それでもまだ苦しそうで、先程「シャワーを借りる」と部屋を出たきり戻ってこない。
『もしもし、朝陽か?』
英里から『電話していい?』とメッセージが入ったのは、部屋に残されて数分たった頃だった。
「やあ久しぶり」
ようやくさよならの一言でも告げる気になったのか。いつもより早口の声に、若干の他人行儀で応じる。
『いまどこ?』
「家ですけど」
部屋着を着込みながらそう答えると、受話口の向こうからどうなってんだよと声が飛んだ。
『入院してんじゃないのか』
「なにそれ。誰がそんな冗談を言ったのさ」
ふて腐れていた朝陽の顔が、次第に強張ってくる。
反対側の耳からは、依然としてシャワーの流れる音が聞こえている。
ザーザーと流れ落ちる濁音は、まさしくこの世の終わりを奏でる鎮魂歌のようだと思った。
『朝陽は体調不良で入院してるから、連絡取らないで欲しいって樹さんに言われててて。あの日朝から担任に報告に行ったのね。たまたま職員室に斎藤も居てさ。アイツすぐに早退しちゃって、いまも欠席してんだよ。おまえ斎藤に妙に気に入られてたじゃんか? なんか気になって、さっき伯父さんに電話してみたんだよ。したら、すげえ剣幕で問い詰められちゃって。俺もよく分かんねーから、朝陽が入院してる日から斎藤ってやつも学校にきてないって言ったら、そこで通話切れちゃって。ねえ、これどうなってんの? 朝陽も元気そうだし、家にいるみたいだし。俺もう誰を信じればいいか分かんないよ』
◆◆
定時よりもずっと早い時間に樹は帰宅した。玄関の扉がぎいと開いて、足音が室内へ向かう。どさり、荷物を放る音。足音は遠ざかり、浴室の扉が音を立てる。しばらく無音が続いた。やがてそこから、なにかを殴打する音が響きだした。シャンプーの容器、ボディソープを入れたボトル、風呂桶、おそらくそこにあるあらゆる物をぶつけている。
力任せに扉が閉まる。
足音が荒い。
フローリングが悲鳴を上げている。
それは、どんどん近づいてくる。
叩きつけるような足音は、息つくまもなくこちらへ。
あっというまに。
部屋の扉が開け放たれる。
「なんでだ」
地を這う声の主は、そのまま詰め寄るとベッドの上で小さくなる朝陽の両肩を鷲掴んだ。
「俺の目を見て答えろ!! なんであの男を家に上げた!!」
朝陽は鬼のようにつり上がった目を見返すだけだった。怖くて両手はずっと震えていた。自分だって言いたい事は山ほどある。どうして英里にうそをついたのか。自分にひどい仕打ちばかりするのはなぜなのか。言っても足りないくらい、たくさん。どんなにがんばっても拒絶されて、一方的に責められるだけで。悔しくて、やるせなくて、もう本当に、樹を嫌いになってしまいそうで、悲しくてたまらないのに。
目にいっぱいの涙を溜めた朝陽の目が樹を捉える。同じく目に涙を浮かべていた。どうしてと疑問で揺れるより先に、その視線が首元で止まった。
「おまえ……首」
そう呟くと、声もなく右のうなじをなぞられた。確かそこは、斎藤に噛みつかれた場所。まだジンジンと熱を持っている。
「なんだ、この匂いは……」
樹は斎藤と同じようなことを口走った。目は左右に錯綜し激しく動揺している。
やがて鬼のような顔が崩れていく。
この世で唯一の宝飾に吸い寄せられるかのように、うっとりと朝陽を見つめる。
「た、樹、くん……?」
樹は言葉もなく朝陽を抱きしめる。首に背中に指をくいこませ、斎藤のそれよりも荒々しく抱き寄せる。骨がきしんで息が詰まる。体重を掛けられる。抵抗する余地すらなくベッドに堕ちる。
「──クソ!!」
直後。樹が呻いて朝陽を引きはがした。後ずさるうち、ドアに背中がぶつかった。樹は両手で顔を覆い、しばらくその場に立ち尽くしていた。
どれくらいそうしていただろう。夜の冷え込みが足元を冷やし始めた頃だ。
「やったのか、斎藤と」
絞り出すような声が響いた。
「頼むから、教えてくれ。この部屋で、あいつに抱かれたか」
経験はなくとも言葉の意味は理解できた。
朝陽は首を横に振った。樹はそれを見て鼻をすすり、長い溜め息を吐きだした。
「……分かった。なんにせよ、お別れだ。おまえを……これ以上置けない。明日、ちゃんと話すから。今日はもうお休み。取り乱して、悪かった」
部屋に朝陽だけを残して扉が閉まる。静けさを取り戻した部屋は、物悲しさが残された。
樹が泣いている所を初めて見た。
お別れだと言って、声を震わせていた。
樹にとって、別れは悲しいものなのか? うっとうしかったんじゃないのか? 一日でも早く追い出したかったんじゃないのか?
分からない。
英里も、斎藤岳も、樹も、自分自身も。もうなにも信じられない。
◆◆
朝陽の部屋を出て、どれくらい時間が経ったろう。
テレビに流れるニュース番組を、焦点の定まらない二つの目が追っている。脳裏によぎるのは朝陽の事ばかりだった。
まだ朝陽が子供の頃、検診先の医師からも忠告を受けていた。
『お義父さん、Ωの発情期は必ずきます。くれぐれも、発情期を甘く見ないでください。あなたはαなんです。すべてを受け入れる覚悟がおありなら別ですが……、そうでなければ危険です』
自分は大丈夫だと思っていた。まさか朝陽に手を出そうなんて、親である自分が思う訳ないと。
「幸樹……ごめん。全部おまえの言った通りだった」
すべてにおいて自信過剰だった。
なによりもまず自分を責めるめるべきだった。すぐにでも真実を告げ、謝るべきだった。
大した理由もなく、頭ごなしに叱りつけてきた。あんな躾をすれば、誰だって反抗するに決まっている。
強制的に家から追い出され、朝陽はどれほど辛い気持ちだったろう。傷ついただろう。そんなときに斎藤にすがってしまった行為を、自分に咎める資格はあるか。
(あるわけない……。最低だ)
せめて、これ以上は虚偽を重ねてはならない。
もう逃げることは許されない。
朝陽の体はもう、発情期を迎える準備段階に入っている。真実を伝え、なるべく早く東京へ送り出そう。いままでできなかった分、ありったけの愛情をこめて、いってらっしゃいと。
◆◆
瞼の裏が明るい。バルコニーから差し込む陽光に、もう朝かと目を擦る。あれからリビングで眠っていたようだ。皺の寄ったスーツの中が汗臭い。
学園への編入手続きはなんとか終わった。あとは、朝一番に店舗へ欠勤の連絡を入れなければ。東京との往復だけでも二日。荷造りもあるから、最低三日は休暇を取らざるを得ない。
早朝の冷気に白い息を吐きながら上掛けを羽織ると、朝陽の様子を伺いに部屋のドアを開けた。まだ音もなく静かで、耳をすませば穏やかな寝息が聞こえる。室内にはいや増してフェロモンの香気が漂っている。甘ったるい匂いは昨日よりも濃厚で、ともすれば足を引き込まれそうになる。
(気がおかしくなりそうだ……)
後ろ髪を引かれる思いで扉を閉めると、ドア越しに寄りかかり、息を整えた。
発情期を控えたΩを目の当たりにしたのは、これが初めてじゃない。若かりし頃はどの学校にも数人はΩがいたし、関係を持ったこともある。だがかつて、ここまで理性を惑わされるほどフェロモンの香気にあてられたことがあっただろうか。
喉から手が出る程、欲したことがあっただろうか。
誰にも触れさせたくないと、激しい独占欲に駆られたことがあっただろうか。
樹はそれらを親心ゆえと結論づける。無理やりにでも。いくら疑問符が残ろうと、自らに問う時間はなかった。
重い足を引きずってリビングを出ると自室へ向かった。クローゼットからボストンバックを取り出し、朝陽のために買い置きしておいた部屋着類を詰め込んでいく。荷造りの最中、様々な思い出の品が出てきた。これは……、初めて二人で海に行った写真だ。小さな朝陽が砂浜をバックに笑顔でピースサインをしている。暑いのにラーメンを食べたがって、おなかが河豚みたいに膨らんでいたっけ。よく写真を見返しては笑っていた。当時は、また笑える日がくるとは思わなかった。朝陽の存在が、弟を失った悲しみから立ち直らせてくれたのだ。
思い出に浸るうち、また鼻の奥がツンとする。
もう、朝陽をバルコニーから見送ることもできない。朝食を作ってやることも、こっそり寝顔を見ることもできない。
これからなんのために生きればいい。
朝陽がひょっこり顔を出しそうな、思い出の染みついたこの家で。
(駄目だ、俺がしっかりしなきゃ……)
目頭を拭い、先に店舗へ電話をしておこうかと立ち上がったときだ。
インターホンが鳴った。
早朝の、まだ午前七時を過ぎてまもない時間帯だった。
樹はおもむろに立ち上がり、玄関へ向かった。
モニターを確認する必要はなかった。最初から予測していた。
朝陽のΩ性を見抜き、秘密裏に接触を繰り返していた相手だ。開花する直前で手離すはずがない。
奴は現れる。朝陽を奪いに、必ずやってくる。
扉の向こうに、左右に屈強な男を従えた高校生が立っていた。制服姿でなければ、大学生でもまかり通るだろう、容姿はかなり大人びている。
一見して穏やかそうな黒目は、少しもひるむことなく虎視眈々と樹を見据えている。
(なんて目をしてるんだ)
心の内まで見透かしたような黒い目に、恐怖心さえ沸いた。
「森野は」
斎藤は挨拶もなく、ただ一言だけ告げた。
「寝てるよ。なんの用」
殴り掛かりたい衝動を握りつぶし、極めて平静を装いながら応じる。
一対三では勝ち目はない。人目につきやすい玄関先では、向こうも安易に牙は立てないはず。いまは勝機を待つのが得策だと判断した。
ボディガードに高級車。圧倒的な王者の風格。純潔の血を継ぐαの末裔だろうか。その血筋を護るためにΩとの結婚を強制する家系だ。斎藤が純潔だとすれば、すべての行動に合点がいくと思った。
「どこに隠しても無駄です。森野は俺がもらいます」
やはり、前置きは不要なようだ。
「ふざけるなよ。誰が」
突然だった。
斎藤の背後から伸びた四本の腕が、樹を壁面に抑えつけた。
「朝陽は渡さない!」
すさまじい圧力だった。どうあがいても身動一つできない。油断していた。まさか人目につきやすい玄関先で、無茶はしないだろうと。
激しく抵抗をみせる樹の前を、制服姿の少年がさらりと通り過ぎていく。靴を脱ぎ、部屋に上がり込む。声を荒らげるも口をふさがれた。その背中を見送るしかできない。ふと、斎藤が手前の部屋を通り過ぎる間際に立ち止まった。
「知ってますか、Ωはαに愛されなきゃ生きてけないんですよ」
荷造り中の荷物が散らばる部屋の有り様が、その目に映っていることだろう。
「あなたにαの血を継ぐ資格はない」
斎藤は整った顔をこちらに向ける。蔑むでも、侮蔑するでもない。βと偽り続けたおまえはライバルのにもならない。冷ややかな目はそう訴えていた。
「なぜ分かった」
「森野を見てるあなたの顔」
斎藤の車から朝陽を奪うように連れ出した、あの日の出来事を思い出す。
「どうして愛せないのに側に置きたがるのか分からない」
「青二才に親の愛情なんか理解されてたまるか!」
方眉がピクリと跳ねる。
「不服ですね」
スラリと手足の長い少年が、再びこちらへ接近する。
「俺なら絶対に泣かせたりしない。どんな立場でも」
フローリングがきしむ。無感情だった黒い目には、挑発的な光が宿されていた。
「あなたにその覚悟がなかっただけだ」
間近に迫ったしなやかな手が顎を捕み、生意気な顔が視界に映された。
「さて。いつまで偽善の皮を被るおつもりですか。お義父さん」
◆◆
とろけるような感触に、次第に朝陽の意識が戻ってくる。
夢じゃない。斎藤がキスをしている。
昨日、追い出したはずなのに。もう誰も信じられないって、もうくるなって言ったのに。
「なんでいるんだよ……」
絶交中でも勝手に会いにくるなんて、斎藤岳は本当に蜃気楼みたいな男だ。
「俺、うそつきって怒鳴っただろ。もうくるなって追い出しただろ」
「呼ばれた気がして」
斎藤は手の甲で濡れた頬をそっと撫でる。
「呼ぶわけないじゃん、おまえなんか……」
人差し指が朝陽の唇に触れた。
「大丈夫、俺が転校なんてさせないよ」
斎藤はいつも未来を予言するような奇妙な言い回しをする。もしかその黒い目には見えているんだろうか、朝陽の未来が。
「俺のところにおいで。俺とならうまくやれる。森野は幸せになる」
細くなった目をゆっくり閉じて、涙で濡れた目元にキスを落とす。滴の一滴まで拭うように舐めとると、頬や鼻先、唇へと……。顔中にキスの雨を降らせていく。
「森野、俺の番になって」
「さい、とう……?」
「森野はΩなんだよ。俺の番になる運命の」
やはり夢の続きでも見ているのだろうか。
斎藤は、自分がΩだと言った。
「Ω、俺が? まさか……」
「怖がらないで。森野を苦しめる悪い魔法は、俺が全部消してやる」
子供の頃、大好きだったシンデレラストーリー。
不幸なΩを救うのは、決まってαの王子様。
いつか自分も優しい王子様と結ばれるんだと、有りもしない夢ばかり見ていた。
「そんな訳あるもんか。俺はβだもん、なんの取り柄もない普通の」
「でも真実だ。君はΩだ」
自分がΩかどうかなんて、考えたことなかった。そんなものは別次元の話だと思い込んでいた。
「なんで、そんな事が分かるんだよ」
「そりゃ分かるよ、αだから」
親代わりに育ててくれた伯父が居て、帰る家があって、学校には友だちもいる。そうであれば充分だった。
思い描いていたのは平々凡々な幸福であって、異分子的な存在じゃない。
「ようやく発情期が始まったんだよ。これで正式に俺の物になるんだ」
「う、そだそんなの……」
それが真実であれば、樹は知っていたのだろうか。
いや、知っていたからこそ、冷たく突き放していたのではないか。
もしかして、過剰に厳しく接されてきた本当の理由は──
「泣かなくていい。森野は幸せになれるんだから」
手の甲がまた朝陽の頬をそっと撫でる。キスの雨を降らせていたその唇は、同じ場所に重なる。
「俺もう分かんない、分かんないよ……」
粛々と義父の責務を全うしてきた樹の姿が脳裏に浮かんだ。この十年間の歳月は義務であって、やはり愛情は欠片も持っていなかった。そんなこと受け入れたくもなかったけれど、現実に住む場所を追われようとしている。知らなかったのは自分だけで、この偽装の親子関係は最初から、Ωを覚醒するまでの間柄だと線引きされていた。
昨晩の涙は、ようやく普通の生活に戻れる歓喜に沸いたものだったわけだ。
「考えなくていい。俺だけを感じて」
心の中がぐちゃぐちゃで、なにも考えたくないのに、斎藤は全身の骨が溶けていくような愛撫と蜜で翻弄する。かぶりつくようなキスをされ、頭の中が真っ白に溶けていく。体の底から、熱いなにかがあふれている。全身が発熱している。体の中がマグマのように熱くて、細胞が踊り狂っている。そこから新たな生命を導き出すかのように。
「やだ、怖いよ斎藤……っ」
「大丈夫。ずっと俺が側にいる。安心して、俺を求めて」
本当にこのまま斎藤と人生をともにするのだろうか。
分からない。
いつかはこうなる運命ならば、受け入れるべきだろうか。
自分が誰と番になろうが、樹にとってはどうでもいい事なのだから。
「さひ……。朝陽── !!」
その人の名前を心の中で呼んだと同時だった。幻想ではなく、はっきりと、朝陽の耳にその声は確かに届いた。
玄関先から地鳴りがする。騒々しい足音がこちらに。
「朝陽……!!」
勢いよく扉が開け放たれると同時に、スーツ姿の男性が駆け込んできた。
「た、つきくん……?」
昨晩と同じスーツのジャケットは皺になり、ネクタイもゆがんでいる。頬はこけ、目の下にはクマを作り、とてもひどい顔をしていた。
男性はベッドの上の二人を見るや、さらに表情を険しくさせた。
「朝陽から離れろ!!」
樹はすさまじい剣幕で歩み寄る。その手が斎藤の襟首を掴みかけたとき。背後から黒服が駆け込んできて羽交い絞めにした。
「樹くん……!」
「頼むから、朝陽に手を出さないでくれ……!」
二人がかりでも振り切らんばかりの勢いだったが、若い方が唸り声とともに、体ごと壁に押しつけ、動きは完全に封じられる。それでも樹は声を振り絞り続けた。
「やめてくれ……、頼む、朝陽はなにも知らないんだ、純粋な子なんだ、頼むから……、汚さないでくれ」
悲哀に満ちたその表情に、振り絞るようなその声に、あたかもそれこそが樹の本心なのだと誤解してしまいそうになる。
朝陽の真上では、斎藤が目を細めている。
「惑わされるな。君を苦しめていたのは誰? 君を幸せにできるのは誰?」
手の甲が頬を撫でる。斎藤の体も、焼けるように熱い。
「樹くん」
黒い目を見つめたまま、朝陽は部屋の奥に声をかける。
「俺は、Ωなの?」
樹は息を震わせ押し黙った。それこそ肯定するなによりの証拠だった。
「だから、俺が邪魔だった?」
「違う! 邪魔なわけがない。朝陽がいなきゃ……」
震える声で樹は続けた。
「朝陽は俺のすべてだ。かけがえのない宝物だ。おまえがいなきゃ俺は……生きてけないよ」
「じゃあなんで俺を捨てるの」
「それは──」
樹が言葉を詰まらせるたび、心が傷だらけになる。
「俺、なんにもいらないのに。樹くんさえ居てくれたら、それだけで幸せなのに」
また返答がない。朝陽はベッドの上から睨みつける。
樹はいっぱいの涙を溜め込んだ目で朝陽を見つめていた。
そして擦り切れそうな声でただ一言呟いた。
「俺もだよ……」
ガラス玉が割れる。バアンっと音を上げて。
うそつき。
うそつき。
許さない。
もう誰も信じない。
「樹くんはうそつきだ」
目の前で斎藤が微笑んでいる。「よく言ったね」とでも言いたげに、朝陽の頬を撫でている。
「おまえもおんなじだ」
朝陽はその手も跳ねのけると睨みつけた。パチンと鳴った手の甲を宙ぶらりんにさせて、斎藤は首をかしげた。
「森野? なに言ってんの」
「おまえだっておんなじだ、うそつきだ、皆してだましあって、自分のことしか考えてない。誰の言葉にも真実なんか一つもなかった。皆うそつきだ、にせものだ! だったら全部いらない。俺は、誰とも一緒にならない!」
みるみる黒い目は凍りついていく、見たこともない冷たい顔で朝陽を睨みつけている。
「そんな戯言がまかり通るとでも思ってんの」
にじり寄る顔に影が落ちる。はりつけた笑顔の奥から悪魔が這い出るように。
「いまさら手放せるわけないだろ、理解しろよそれくらい」
斎藤は強引に朝陽の顎を掴むと強引にしゃくり上げる。互いの視線を交わせるより先に、噛りつくようにして唇を奪われる。
刹那。
肉を引きちぎるような鈍い音とともに、斎藤が呻きながら唇を離した。
「おまえ……っ」
「もう俺に触るな!」
朝陽は渾身の力を込めてその体を突き飛ばした。唇の端を赤く染めた顔と体が、ぐらりと大きく揺れる。黒服がこちらを見ている。樹を抑え込んだまま、血走った目で。まるでスローモーションのようだった。斎藤が倒れ込むと同時に黒服が「よくも」と叫んだ。樹を放り投げ、こちらに駆け込んでくる。「やめろ!」迫りくる黒い影の向こうで、叫び声が聞こえた。
痛みはなかった。
恐怖もなかった。
ただ優しい温もりが、朝陽を包み込んでいる。
それが樹の胸の中だと分かるまでに時間は掛からなかった。
樹は泣いていた。
いい大人が肩を震わせ、喉を詰まらせ、朝陽にすがりついて泣いていた。
なにが起こったのか、よく覚えていない。記憶にあるのは、二つの黒い影が投げ飛ばされた瞬間の映像。彼らはいま、床に転がっている。その隣では斎藤が、扉に身を預け二人を見ていた。
「ごめんな……ごめんな、俺が間違ってた。全部俺のせいだ、許してくれ……」
十年前に戻ったかのような温もりが、朝陽を抱きしめている。暖かくて、大きくて、樹の匂いでいっぱいになる大好きな場所。
「先のことばかり心配して、厳しくしてばかりだった……、手放すのが怖くて、最後まで真実を言えなかった」
「……うそつき」
「うそじゃない、俺は……、朝陽が大好きだよ」
「樹くんはうそつきだ」
この背中に腕を伸ばしたら、またどこかへ行ってしまうのだろう。勝手に謝罪の言葉だけを並べたて、いってらっしゃいと背中を押すのだろう。
「見せかけの言葉なんかいらない、愛せないならそれでいい。だからお願い、最後に樹くんの本当の声を聞かせて」
ならばせめて、真実の言葉を聞きたい。憎しみでもいい、怒りでもいい。十年という歳月だけは、うそで消されたくない。
「信じてくれるまでずっと言える。朝陽は俺のすべてだ、命だって惜しくない。本当だ、本当に心から朝陽を愛してる」
「うそだ、絶対に信じない、信じられない!」
自分が愛されているはずがない。愛してるのに手離せる訳がない。それはただの偽善だ。
「……見てられない」
その様子を黙って見守っていた斎藤が、あきれ気味に口を挟む。
「いつまで黙ってるつもりですか、俺と同じαだってこと」
抑揚のない淡々としたその声は、確かに朝陽の耳に届いた。斎藤の黒い目は樹だけを捉えている。朝陽もその顔を見上げた。押し黙って目を泳がせるその人を。
「α? 樹くんが……?」
「なんで森野を遠ざけてるのか知りたい? 発情したら、イケナイことをしたくなるから」
この俺でも苦しいのに、と斎藤は続ける。
「こんな悩殺的なフェロモンをまき散らす森野と伯父さんが、一つ屋根の下で仲よく家族ごっこなんかできる訳ないでしょ」
斎藤は首を傾け、赤く染まった口の端を噛みしめる。
「君の大好きな伯父さんは、俺なんかよりよっぽどやらしい男なんだよ。我が子も同然の君を抱きたくてたまらない変態」
「そうだ、その通りだよ」
斎藤の言葉を遮ったのは樹だった。朝陽の両手を握りしめると、赤くなった瞳をまっすぐに向ける。
「全部幸樹から聞かされてた。約束してたんだ、朝陽が中学に上がったら東京へ行かせるって」
「え……?」
「でもできなかった。離れる決心がつかなかった。そのうちあいつが現れて、後悔した。幸樹を裏切るくらいなら、手放した方がマシだとさえ思った」
目の前のこの人は、本当に森野樹なのだろうか。本当にあの厳しかった伯父なのだろうか。熱い視線を痛いほど浴びせるこの人が。
「本当は、朝陽を誰にも奪われたくなかっただけだ」
ゴツゴツとした樹の手が、朝陽の頬に触れる。壊れ物を扱うようにそっと。
「もっと早く、俺が素直になるべきだった」
「もっとはっきり言って」
朝陽は両腕に爪を喰い込ませしがみついた。
「朝陽……」
「俺、ばかだから、はっきり言ってくれなきゃ分かんない」
「俺は……」
樹はしばらく押し黙ったのち、観念したように瞼を閉じると、
「朝陽を愛してるよ、心から」
絞り出すように、これまで胸に秘めてきた想いを独白した。
「じゃあ離さないでよ、ずっと俺の側に居てよ、樹くんがいなきゃ生きてけないってくらい、俺を大切にして」
「ああ、もう絶対に放すもんか」
朝陽は大きな胸元にかき抱かれていた。背中に腕を伸ばしてしがみつく。もう何処へもいかなくていいように。
ほどなく、乾いた音が部屋に響いた。
「実に下らない寸劇をどうも」
斎藤は拍手で二人を祝福し、続いてオーバーリアクション気味に肩をすくめた。
「元在校生として感謝します。荒れ放題の無法地帯に、森野が転校させられなかった事だけはね」
そう言い残し、「帰るよ」と黒服の肩を担ぎ上げる。かつて朝陽をそこに映した黒い目は、もう交わることはなかった。
「でもそのうち後悔するよ、俺よりそいつを選んだこと」
じゃあ、また学校で。
返事も待たずして、その姿はドアの向こうへと消えて行った。
◆◆
いつまで抱きあっていただろう。一生を掛けても飽き足りないほどの長い時間、二人は身を寄せあった。朝陽の体はさらに開花していた。いまは下半身の湿りを自覚するほど、体の内側から燃えるような欲望に呑まれている。樹の匂いにさえ興奮し、腰が勝手に震えている。
『欲しい』
身に覚えのない欲求が次々と喉をついて出た。自分の変化に動揺するまもないほど、朝陽の体は飢えていた。
樹の体にも変化が起きていた。腹部に当たる硬質なそれは痛々しいほどに上を仰ぎ、全身にびっしりと玉のような汗が浮かんでいる。
「朝陽、あと一つだけ許して欲しい」
「なあに」
唇から漏れる吐息すら甘ったるい。樹もその色香にあてられたのか、苦しそうに目を閉じるとブルリと体を震わせた。
「今日だけおまえを抱くよ。ちゃんとゴムも着ける。抑制剤で我慢する方が苦しいだろうから」
腰を揺らしたい衝動が、そろそろ抑えられなくなりそうだ。
「今日だけ、なんだ」
くしゅんと眉を垂らして寂しそうに告げると、樹は「う」と言葉を詰まらせた。
「すまん……。相手が俺で嫌だろうけど、最悪、医療行為として割り切ってもらえれば」
「いやじゃない。お願い、もうきて。樹くんが欲しくてしょうがないの」
朝陽は両脚を樹の腰に絡ませ、中心部を押しつける。いま、確かに、樹の喉がゴクリと鳴った。
「いいのか、俺で」
「樹くんがいいの。早くここに、樹くんのが欲しい」
額の汗がすうっと流れ落ちる。
「おまえ……一体どこでそんな言葉を覚えたんだ」
「そんなの知らない、だって勝手に出ちゃうんだもん」
「ああ分かった、俺ももう……」
朝の木漏れ日に映し出された二つの影が、まもなく一つに溶けていった。
最初に口づけたのはどちらからだろう。覚えてない。吸い寄せられるように唇と唇が、素肌と素肌が重なった。朝陽は唾液の一滴も零さず舐めとろうと必死で舌をくべらせた。唇と唇を押しつけ、互いの服を脱がした。朝陽は年齢を感じさせない屈強な肉体に歓喜し、樹もまた無垢な体を奇麗だと賛嘆した。
樹の扱いはひどく丁寧で優しかった。
決して無理な体位を強要せず、桜色に染まるその顔に見惚れるでもなく、あらゆる場所に鳥のさえずりのような、優しいキスを落としていく。耳たぶにも、頬にも、指先にも。
優しいけれど、正直物足りない。
うなじにされる幾度目かのキスに悶えていると、ようやくその人は不安げな面持ちを朝陽に向けた。
「ごめん、乱暴だったか?」
「違う……っ気持ちよくて、震えが止まんないの」
朝陽が振り絞るように言うと、くっと荒く息を切り、
「かわいい事を」
樹は困惑した面持ちで幾筋かの汗を流した。
「もっと激しいのがいい」
「こら……煽るんじゃない、必死に抑えてるんだから」
「抑えないで。樹くんの想いを俺にぶつけて」
そう言うと下肢を絡みつかせ、みだらに育った下半身を擦りつける。
「もっと俺を欲して、樹くんがしたいまま、ぐちゃぐちゃにして」
樹は唇を噛み押し黙っていたが、無数に滴る汗の粒が、激しく揺れるその胸中を物語っていた。
「朝陽、頼むから……! 俺は、自分のためには、できない」
「やだ、これが欲しいの、俺に狂ってく樹くんが欲しいの」
無我夢中で樹のその部分に手を伸ばす。言葉とは裏腹に雄々しくいきり立ったそこは、すでに我慢を切らした蜜液で先端を濡らしている。両手で握り込むと磨きをかけるように扱き上げた。頭上から擦り切れるような吐息が降る。
「あは、すごい、斎藤でもこんなになってなかった」
「……煽ったな」
刹那に朝陽は両腕を拘束され、頭上でまとめ上げられた。
「ああ俺だってもっと狂わせたい、俺ので泣かせたい、この奇麗な体をめちゃくちゃに抱いて抱いて抱きつくしたいさ」
一転して血走った目を見開き涎を滴らせる様は、まさに獣のようだった。
「おまえに溺れてしまってもいいのか、家族に戻れなくなってもいいのか」
「いいよ、それより樹くんのいまをちょうだい。見せかけじゃない、俺だけの大切な人だって証拠をこの体に残してよ」
直後、嵐のような愛撫が始まった。樹は骨が軋むほど強く抱き寄せると体のいたるところに赤い所有印を落とした。胸の突起は腫れるほど吸われた。歓喜にむせぶまもなく両脚を割り開かされ、愛液で濡れそぼったそこを三本の指で嫌というほどこねくり回された。朝陽はたちまち快感のとりこになった。体は溶けた鉛のような感覚で、起き上がるのもままならなかった。樹は依然として獣のように荒々しい呼吸を吐き出しながら、軽々と体を反転させ、腹の下に枕を仕込んで四つん這いにさせた。
「待……って、腰が抜けて……」
樹から返事はない。感じるのは、獣のような呼吸音だけ。やがて蜜口に鋼のように熱い高ぶりが押し当てられた。猶予もなく腰が落とされる。みだらな後孔は初めてと思えないほど容易く口を開き、あっというまに樹を迎える。
「あ……、あっ、すごい、熱くて大っきい……っ」
これが樹の味。幼い頃から親代わりとなって育ててくれた樹の、なによりももろくみだらな欲望を、この体で受け止めている。
「朝陽、俺の朝陽……!」
次々と樹の愛がうがたれる。すでに腰砕けだった朝陽は狂い泣いた。幾度となく体勢は崩れ、言葉通り骨抜きになったその体を支えられるようにして樹の愛を受け止め続けた。触りもしないソコから精液が流れ出ている。まるで搾乳中の雌牛のように。
「やら、やら……っ、も、だめぇ、気持ちいいよお、こわいよお……」
依然として獣のような呼吸を繰り返し、樹は己の欲望で朝陽を狂わせ続ける。
「やら、止まって、止まってぇぇ、それ、以上……ったら……っちゃう……」
腹の奥でゴリゴリ当たっている。それが気持ちよくて気持ちよくて、これ以上されると、狂ってしまう。
「い、い、いくっ、イッちゃう……── !!」
朝陽は恍惚の香りを滲ませ、痺れるような絶頂感にのまれていった。
どれくらい求めあっただろう。我に返った頃には窓の外が薄暗くなっていた。隣では樹が寝息をたてている。上下のスウェットを着込み、裸で蒲団にぐるぐる巻きにした朝陽を抱きしめるようにして。白髪交じりの黒髪はしっとりと濡れ、シャンプーの芳香が漂っている。朝陽が指に絡めて遊んでいると。
「……おはよう。調子はどう」
薄く瞼を開け、樹が穏やかな声を響かせた。
「俺を置いてくなんてひどい」
樹は「ん?」と首を捻ったのち、
「オヤジ臭いなんて言われたくないからな」
朝陽の鼻先を軽く摘まみ上げる。指先はまだほのかに石鹸の匂いが残っている。
「そんな事言わないよ。樹くんの甘酸っぱい匂い大好きだもん」
「その高評価を守り通さなくちゃな……って、俺そんな匂いしてたのか」
「ふふ。よくベッドやスーツをこっそり嗅いでたからね」
樹があと濁音を混ぜたような声で発狂した。
「おまえ……俺の知らない所で」
シーツに顔を伏せてはいたが、耳まで真っ赤になっている。
「えへへ。だって樹くんがだーいすきなんだもん」
とどめを刺すように朝陽が言う。
「……決めた」
しばらく黙りこくっていたが、そのうちボソリと告げる。
「なあに?」
「抑制剤は使わない。発情期の一週間、俺が死ぬほどかわいがってやるから覚悟しろよ」
ちょうど休みを取ってるし、とつけ加える。
「へへ、やったあ。一週間も樹くんとエッチできるんだ」
樹は無邪気に喜ぶ朝陽の喉元を撫でさする。
「……すごいのな、発情期って。まるで別人みたいだ」
「そお? よく分かんない」
朝陽もごろごろと喉を鳴らすふりをしてその手にすり寄った。
「もしかして、ずっとこのままだとか」
「こんな俺は嫌?」
「……大歓迎です」
蒲団をはがれた朝陽の元に、目覚めの熱い口づけが降ってきた。
◆◆
「──さひ、朝陽、いい加減起きなさい」
鳥のさえずるさわやかな朝。いつものように、キッチンから樹の声がする。
一週間後の今日、朝陽は蒲団に丸まっていた。目は完全に冴えていたが、別の理由で抜け出せなかった。
そろそろ登校十五分前。いい加減起きなければ、また英里を待たせてしまう。
制服に着替えて忍び足でリビングに向かうと、
「お……お……、おは……よ」
蚊の鳴くような声で、スーツにエプロン姿の背中に声を掛けた。
「遅い! 何時だと思ってるんだ!」
途端に樹が鬼のような形相で振り返り、「ぎゃっ」と悲鳴が出る。
「まったく一週間ぶりの登校だってのに。早く座って食べなさい」
「う、うん」
目覚めると魔法は解けた後で、すっかり正気に戻っていた。とは言っても一週間分の記憶はばっちり残っていて、朝陽は自らの為した挑発的な行為の数々に朝からのたうち回っていた。
(だ、だって俺、た、たた樹くんと……)
そうだ。樹と、あの樹と部屋のいたるところであれやこれやと恋人よろしくやっていたわけで。
伯父であり、家族であり、赤ん坊の頃から自分を知っている人でもあり。そんな人となにをしたのかと考えれば、蒲団に潜りたくもなる。
なもんで、まるで変わらない樹の応対に、今朝ばかりは救われた。
これぞ年の功というやつか。
動揺のそぶりすらなく、それどころか雷を存分にとどろかせてさえいる。
行ってきますと玄関へ向かうところ、樹に呼び止められた。
「これ、買ってきたから」
まもなくして首元にステンレス製のネックリングが装着された。
……そういえばいつだったか、ピロートーク中に言っていた。Ω専用の護身グッズがネット販売されているとか。首輪のようなそれは、後ろを南京錠で固定するデザインになっている。番を持たないΩの基本装備なのだそう。
「平気か?」
背中から声が聞こえる。
「ん、苦しくない」
「じゃなくて」
樹は少しためらったのちに続ける。
「これを着けたら、Ωだって周囲に知られるんだぞ」
「うん。大丈夫」
この町で樹と生きて行く決断をしたのは、自分自身なのだ。後悔はないし、ようやくだが、Ωという運命も受け容れつつある。
この一週間で、二人はいくつかのルールを取り決めていた。
二人は決して番にはならない。
家族関係を壊さないよう、日常的なキスや性行為も行わない。
ただし、発情期中の一週間のみ適用外とする。
それが我が家の新ルール。
『親子、ときどき恋人』だ。
Ωという運命が、二人の生活にどう影響を及ぼすのか、正直まだ分からない。斎藤の一件だって解決したわけではない。学校に行くのが怖くないといえば、うそになる。
「ごめんな、手離してやれなくて」
樹は南京錠を掛け終わった手を伸ばし、ゆるく抱きしめる。
「……手離さないでよ。だって、樹くんは俺のたった一人の家族なんだから」
「家族、か」
そう自嘲気味に漏らした言葉が気になって、肩越しに振り返る。すぐそばに樹の吐息がある。目を細めて、まるで発情期中の朝陽に向けていたようなまなざしで。
──キスされる。
とっさに一歩退くと、樹の目の色が変わった。
「悪い、どうかしてた」
「ううん……」
示しあわせたようにインターホンが鳴る。朝陽は内心安堵しながら玄関へ向かった。
◆◆
一週間前と学校の景色が変わっている。そう感じたのは、校門をくぐる前からだ。
教師の目。生徒の目。クラスメイトの目。
朝陽に、いや、その首に装着されたネックリングを見て、ある者は指をさし、またある者は互いに耳打ちをする。生徒でごった返した廊下では、朝陽の半径五十センチだけ奇妙な空間が作られた。歩くたびに人垣ができて、朝陽と、なに食わぬ顔で隣を歩く英里の二人を遠巻きに見ている。
「おまえらαでもねーのにばっかみてーだぞ」
英里の声が廊下を轟かせ、野次馬たちを一掃した。
「ありがとね」
「あ? 気にすんなよ」
英里がポンと肩に手を置いた。
朝陽に応えるように笑顔を作る。その自然な行為に、こぼれ落ちそうな程の感謝を噛みしめながら。
学校という閉塞された社会では、異分子はひときわ強く浮き出てしまう。水に一滴垂らした油のように、ぷっかりと。だからある程度は覚悟していたが、ここまで拒絶されるとは思わなかった。
「クラスでもこんな感じかな」
「……どーだろ?」
「英里は、俺と友だちでいてくれる?」
「はあ?」
ギャグマンガさながらに目を見開いた英里は、そんなの当たりまえだろうが! と言いながら朝陽の首を絞める。朝陽は胸の内の不安をかき消すように、ぎゃーぎゃー騒ぎながらクラスに駆け込んだ。
瞬間。
にぎわっていた教室内が水を打ったように静まった。
教科書を机にしまっている者、立ち話している者、授業の予習中の者、皆の動きがぴたりと止まって、入り口の二人を凝視している。
ただ一人だけを除いて。
「おはようΩくん」
斎藤岳はそう言うと席を立ち、朝陽の元へ歩み寄る。
ドクンッ。
朝陽の、胸が高鳴る。
ドクンッ。
短く発した斎藤の声に、なぜだか朝陽の全てが取り込まれてしまうような気がした。
斎藤はゆっくりと近づきながら、朝陽の首元に視線を向ける。
ドクンッ。
胸が熱くなる。得体の知れないマグマが、胸の奥から沸き上がってくる。
熱くて焦がれる。
(なんだよ……、なんなんだよこれ……っ)
「……独占欲の塊だね」
斎藤から目が離せない。うっとうしそうに顔を歪めながら発する冷たい声にさえ、耳が溶けそうになる。
朝陽の変化に気付いているのか、斎藤はどんどん近づいてくる。
「な……に」
「いや。待ち遠しかったよ一週間」
これまでと違うのは、その目が笑っていない事。醜悪なものを見るような目で朝陽を……いや、ネックリングを捉えている。
いま口を開けば、樹への思ってもいない暴言を吐いてしまいそうだった。
――森野はΩなんだよ。俺の番になる運命の。
(うそだ……。こいつが、そんなわけ、ない)
――そのうち後悔するよ。俺じゃなく、そいつを選んだ事。
(違う……だって俺は、樹くんしか好きじゃない)
心と体がバラバラになっていく。
斎藤が近づくほど、どこからともなく立ちのぼる甘い匂いに、理性がとろけそうになった。
「……それはそうと」
斎藤は朝陽の様子を気に掛けるそぶりもなく歩み寄ると、貼りつけたような笑顔を耳元に近づけた。
「あいつ、うまかった?」
刹那にして沸き上がった熱が、耳元を焦がす。
怒りと歓喜、その両方で。
「あ……あっ」
「え? こいつなんつったの」
刹那。
英里の言葉を遮るように、教室中にどよめきが奔った。
朝陽の声も飲み込まれる。
強引に噛りつく斎藤の唇の中へ。
さっきまで水を打ったように静かだった教室から沸き上がる、悲鳴と歓声の渦、渦、渦。
朝陽は無我夢中で胸を叩いて引きはがすと、思い切り頬をはたいた。
「おまえ……最低!!」
斎藤は笑っていた。
「上等」
ニヤリと不敵に、赤い舌で唇の端を舐めとりながら。
ー了ー
貴方は運命というものを信じますか?
ああ、いきなり失礼。こんな質問を突然されたら驚きますよね。まぁ、でも少しだけ私の話におつき合いください。これが私の最後のわがままですから。
話を戻しますね。私は運命を信じています。しかし私が思う運命は、アルファとオメガの間に結ばれる番とは少し異なります。確かに世間一般ではあれが運命とされていますが、私はその考えに懐疑的です。もちろん番という関係が強い愛と絆で結ばれていることは重々承知です。しかし、あくまであれは肉体的に惹かれ合っているにすぎず、肉体は悲しいことに滅びるものです。つまり永遠に存在するものではありません。
私は、運命とは永遠に存在するものだと思うのです。ですから肉体などという脆く儚いものに準拠しているものを運命と呼ぶのは、私の考えとしては、些か疑問なのです。
それでは私は何をもって運命というものを信じているのか。それは魂です。
……今、貴方は思いましたね? 私が変な宗教にそそのかされてしまって、おかしくなったのだと。
ご安心ください。私は変な宗教の教えに傾倒しているわけではありません。ただ、今から私が話すことはあまりにも現実離れしているため、貴方はきっと話の途中で何度も疑問を口にしたくなるでしょう。ですが、そこはどうぞ堪えてください。最後には全ての疑問が氷解するはずです。ですからどうか最後まで口を閉じてお聞きください。
これはずっと昔に父から聞いたことなのですが、ここから離れた東の方にある国では「転生」という考えがあるそうです。いろいろと解釈はあるようですが、簡単に言うと、死後、魂が新たな肉体の中に生まれ変わる、というものです。
貴方の言いたいことは分かりますが、まぁ、とりあえず最後まで聞いてください。
私の父は、昔、生まれ変わりを体験したことがあるのです。もちろん生まれ変わったのは父ではありません。生まれ変わった当人が生まれ変わりを主張しても、第三者にとっては眉唾ものです。生まれ変わったのは、父の恋人でした。
父はこの国の西にある小さな村で生まれ育ちました。父にはオメガの恋人がいました。彼女は生まれてすぐ死んだことになっていました。年々数が減ってきているオメガは稀少であり、オメガ狩りなどという蛮行が横行する世の中です。無理もありません。
彼女は家の中にずっと隠れて暮らしていましたが、父と偶然出会い、あっと言う間にお互い惹かれ合ったそうです。父はアルファではなく、ベータでしたが、二人の間には番のような、いやそれ以上に強い絆があったと言っていました。
しかし、幸せな二人はオメガ狩りによってあっけなく引き裂かれてしまいました。オメガに飢えた貴族のアルファが送り出したオメガ狩りによって彼女がさらわれたのです。父も必死に彼女を守ろうとしたそうですが、そこには数と力に絶望的なほどの差がありました。オメガ狩りの太い腕に捕まった彼女は、最後、こう言い残したそうです。
──待っていて! 私は絶対貴方のもとへ戻ってくるわ!
しかし、彼女は帰ってきませんでした。うわさによると、アルファの男の家で自ら命を絶ったそうです。彼女は還らぬ人となりました。
失意に打ちひしがれていた父でしたが、数年後には親が持ってきた少々強引な縁談で、ベータの女性と結婚しました。二人の間には子が二人生まれました。それが、私と二歳上の兄です。
ベータとベータの間に生まれながら、兄はオメガでした。オメガ狩りの強大さと執拗さを身を持って知っていた父は、兄の存在を世間から徹底的に隠しました。産婆には口止め料を渡し、さらに念を入れ遠くの村へ引っ越しました。兄の存在は自分の親にさえ言わず、他に知っているのは母と私だけでした。
最初は仲良く家族四人で暮らしていました。しかし、兄が言葉を話し出すにつれ、次第に幸せであったはずの家庭に不穏な影が差してきました。
「お父さん、トマト食べられるようになったんだね」
ある日、兄が言いました。何気ない会話でしたが、父は驚きました。父は昔、トマトが大の苦手で、よく恋人にからかわれていたそうです。恋人が死に、兄が生まれて少したってから食べられるようになったのですが、兄にそんな話をしたことはありませんでした。これだけなら単なる偶然と思えますが、しかしこうした発言は何度も続きました。
「この指の傷、もしかしてあの木登りをした時にできた傷?」
「あ! 川だ! 昔、一緒に水遊びをしたね!」
「昔、お父さん、夕日の絵を僕にくれたね。あの絵、どこにあるかな?」
父と恋人でしか知り得ないことを兄はいくつも知っていました。こうしたことが重なれば、たとえ荒唐無稽な考えであっても確信に変わっていくものです。
父は、兄を死んだ恋人の生まれ変わりだと思うようになりました。
父が息子に抱く愛情としては異常な執着を強めていくにつれ、母は兄に対して複雑な感情を抱き始めました。かわいい我が子であるのに、兄が父との昔話を口にすればするほど、嫉妬心が膨れ上がっていったのです。母から聞いたわけではありませんでしたが、しかしその目を見れば幼い私でも分かりました。
ある日、夕飯のスープを作る母の後ろから兄がのぞき込んできました。まだ、八歳の頃でした。
「もうおなかが空いた? ちょっと待ってね。もう少しででき……」
「お父さんは」
母の言葉を遮って、兄が言いました。
「大きく切ったにんじんは苦手なんだよ。小さく切った方がよろこぶよ」
兄の声や瞳に嫌みな色はありませんでした。純粋によかれと思って助言した、という感じでした。母に褒めてもらおうと期待する子供の純真な眼差しさえたたえていました。
しかし、母にとって、目の前にいるのはかわいい我が子ではありませんでした。未だ愛する夫の心を縛るもと恋人でした。
バチン、と頬を張る冷たい音が部屋に響きました。床に倒れた兄は、自分に何が起こったのか理解できていない顔で母を見上げていました。母は、兄をたたいた手を凝視していました。震える自分の手と、兄の赤くなった頬を交互に見て、ようやく自分がしたことを理解したのでしょう。母は弁解するように「ち、違う……、わ、私は……」と悲痛な声を漏らしながらあとずさりました。
「おかあ、さん……?」
兄が母へ手を伸ばしました。その手の意図は分かりません。もしかすると、恐慌寸前の母を救おうとする子供の無意識からくる行動だったのかもしれません。
しかし、その手は母を追いつめました。
「いやぁぁぁぁ!」
母は高い悲鳴を上げてその手をはたき、そのまま逃げるように家を出ていきました。
その後、母が帰ってくることはありませんでした。父は母を捜そうとはしませんでした。ことの経緯を私と兄から聞いても「そうか……」と呟いただけで、それ以上何も聞こうとしませんでした。それどころか、母の口から兄の存在が外部に漏れているのではと危惧し、また遠くへ引っ越したのです。しかし私は母が家を出る原因となった兄や母を家に連れ帰ろうとしなかった父を不思議と恨むことはありませんでした。むしろ、家の中から奇妙な三角関係がなくなったことに安堵すら覚えていました。
私たちは、小さな村で領主に土地を借り、麦を作って細々と暮らしました。父と私は主に外で農作業を、兄は家の中で掃除や洗濯などの家事をしたり、収穫した農作物の選り分けをしたりしていました。
幸い家が村の外れにあったこともあり、兄の存在が村人たちに気づかれることはありませんでした。私たち親子三人は慎ましく穏やかに暮らしていました。
しかし、ひと月に一度やってくるオメガ特有の発情期が来ると、仲睦まじい親子関係に不穏な影が差し込みます。
「今日から兄さんは井戸の中だ」
毎月、兄が発情期に入ると、父はそう言って家の裏手にある井戸の中に連れて行きました。もちろん乱暴に押し込めるわけではありません。兄も同意の上です。こうでもしないと発情期のオメガが発する濃厚な甘い香りを村人に嗅ぎつけられる恐れがあったからです。
井戸は空井戸で、底には毛布を敷きランタンを置いていたので、井戸の底の寒々しさは緩和されていました。兄いわく、不便はないとのことでした。
発情期が治まるまでの間、井戸の上に蓋をして、父が食事と水分を一日に何度か運んでいました。私が運んでもよかったのですが、父はそれを頑なに禁じました。
私は発情期の兄を見たことがありませんでした。発情期になると、父が夜の間に兄を井戸に連れて行っていたからです。
朝起きて、兄のいない隣のベッドをぼんやりと見つめながら、ああ、発情期が始まったのだなと察します。
私はいつもまるで何かに引き寄せられるように、空になったベッドに潜り込みました。シーツには発情期の甘い、子供にはあまりに刺激的で魅惑的な香りがほのかに残っていました。胸が上下するほど激しく呼吸を繰り返し、香りをひとつ残らず体の中に取り込もうとしました。体の外と内から兄の香りに満たされ、気づけばいつもその多幸感に下半身が絶頂を迎えていました。
私の精液の臭いと兄の残り香がシーツの中で混ざり合うのを鼻の奥で感じながら、甘い溜め息を漏らしました。
兄の残り香が体の中に蓄積されていくほどに、発情期の兄に会いたいという気持ちが強まっていきました。
一度、こっそり井戸の中にいる兄に会いに行こうとしました。しかし、すぐに父に見つかってしまいました。父は温厚な人だったので、謝れば「仕方ないな」と笑って許してくれると思っていました。
しかし、井戸に近づく私を目にした父の瞳は、普段の姿から想像もできないほど鋭く、苛烈な炎を宿していました。私は気圧され謝罪も言い訳も言葉にできませんでした。
「……来いっ」
煮えたぎる怒りが滲んだ低い声でそう言うと、父は私の腕を乱暴に掴んで家の中へ連れて帰りました。
そして家のドアを閉めると、その場に膝をつき私の目を覗き込みました。恐ろしい父の目に怯えて思わず逃げようとしましたが、両肩を強く掴まれ身じろぎすら叶いませんでした。
「……いいか。絶対に発情期の兄さんに会いに行ってはならない。絶対にだ」
父は内の怒りを抑えるようにしてゆっくり私に言い聞かせました。それは警告でした。しかし子供の身を案じてあえて厳しく言う父親の優しさからくるものではありませんでした。父の目には、私は我が子として映っていませんでした。父が私に向ける視線は、自分の恋人に近づく不届き者に対する敵意に満ちていました。命の危機すら感じられるほどのその鋭い視線に、心臓がドクドクと強く胸を打ちつけました。
私は恐ろしくなって何度も頷きました。それを認めると、父は私の肩から手を離し、立ち上がりました。
「……今日は豆のスープにしようかな」
剣呑な雰囲気を無理やり散らすように、父が話題を変えて台所へ向かいました。父の中に残ったわずかな理性が父であろうと取り繕ったのでしょう。しかし、この時から父は私の中で父ではなくなりました。
なぜなら、私は父を恐れると同時に、兄を独占する父に強い敵愾心を抱いてしまったからです。
父は、その兄に対する執着心からは想像できないほど易々と流行病で亡くなりました。私が十六、兄が十八の頃でした。
死に際に、父は私だけを呼んで言いました。
「兄さんを、頼んだぞ……」
既に体から魂が半分ほど出てしまっているようなか細い声でした。しかし恨めしそうに私を見る目から、その言葉が決して私を頼りにして言っているのではないことは明白でした。泣く泣くこの座を譲らなければならないといった未練をたっぷり含んだものでした。
私は父の手をぎゅっと両手で包み込みました。
「ええ、兄さんは私が必ず守り通します」
その言葉を聞いて父は、安堵と嫉妬が入り交じった複雑な瞳で私を見つめ、次には永遠にその目を閉じました。
父が亡くなってから私たちは二人暮らしとなりました。しかし、さほど大きな変化はありませんでした。
朝起きて、一緒に食事をし、私は外へ農作業に出ます。兄はその間、家の中で洗濯をしたり、掃除をしたり、夜の食事を準備したりしていました。そして、私が帰ってきたら兄が準備してくれた食事を一緒にとり、今日互いにあったこと──例えば窓の外から見える木に変わった鳥が留まっていたことや畑の隅にかわいらしい花が咲いていたことなど、について話しました。
毎日、同じ事の繰り返しでした。しかし退屈ではありませんでした。その穏やかな日常は幸せそのものでした。
ただひとつ変わったことは、発情期の兄を井戸に連れて行く役目が私になったことでした。
兄の発情期は必ず深夜、ベッドの中で始まりました。初めて発情期の兄を目にした時、私は思わずごくりと唾を飲み込みました。餌を前にして涎を垂れ流す犬と同じ類いの下品な唾です。
兄は決して見目麗しい人間ではありませんでした。おそらくオメガということを除けば特徴のない平凡な人でした。しかし発情期に入った兄は、血の繋がりや穏やかな日常、常識、理性……それらを容易く吹き飛ばすほど毒々しいまでに甘い魅力を全身から発していました。
顔や首もと、袖や裾から伸びる四肢、それら外に出ないせいで真っ白な肌は、体の奥底から湧き上がる熱でじんわりと赤みを帯びており、呼吸はまるで情事の喘ぎを思わせる切なげで淫靡な響きを孕んでいました。
兄の全てが扇情的でした。もし私が兄と何も関係のない通りすがりの人間であれば、その場で兄を犯していたでしょう。大袈裟な冗談ではありません。発情したオメガとはそういうものです。私が何とか性的な衝動を抑えることができたのは、微かに残った理性が、ここでもし兄を犯せば二度と兄と平穏な日常を送ることができないと警告してくれたからです。
私は兄を抱きかかえ、裏の井戸に連れて行きました。父がしてきたように、井戸の傍の太い木にロープをくくり、その端を自分の腰で縛ります。そして、兄を背中にくくりつけ、木と繋がったロープを伝いながらゆっくりと井戸の底に降りました。
その間、発情期で火照った兄の体温が背中に滲み、微熱を帯びた吐息が耳もとを薄らと濡らしました。それはもう生き地獄でした。何度理性の糸が切れそうになったか分かりません。
井戸の底には毛布が敷かれていました。そこに兄を横たわらせます。井戸の壁に打たれた釘に、腰に携えていたランタンをかければそこはちょっとした小部屋となりました。あるいは、現実から切り離された世界の果て。
「……兄さん、大丈夫ですか?」
私は井戸の底でいつも、兄の汗ばんだ額に張りついた髪を整えながら訊きました。それは兄を気遣っての言葉ではありません。目の前にいる男が自分の兄であることを己に言い聞かせるためです。
「……ああ、大丈夫だ」
兄は私の問いかけに、いつもほほ笑みでもってそう答えてくれました。辛そうな喘ぎをぐっと堪えて作られたその笑みは、弟を安心させようとするけなげさと優しさに満ちていました。そういった兄の穢れのなさを見せつけられるほどに、兄を犯したいという穢れた欲望がいびつに膨れ上がりました。
「それではまたいつものように食事や水はロープでおろしますね。また様子を見に来ますので何かあれば遠慮なく言ってください」
わずかに残っている理性を掻き集めて、努めて穏やかに冷静に言いました。
「ああ。ありがとう……」
兄のほほ笑みを視界の端で確認してから、私はロープを伝って井戸の外へ出ました。外は夜の闇に包まれていましたが、井戸の底に淀む闇に比べれば明るいものでした。冷たい夜気を含んだ爽やかな風が、卑猥な汗が滲んだ私の背中や額を撫でました。兄の漏らす熱い吐息で湿った井戸の底とはまるで別世界です。井戸の底で見たものは夢だったのではと思わせるほどです。
私は言いようのない不安に襲われ、井戸をのぞき込みました。耳を澄ませると、暗い闇の底から兄の上気した喘ぎが淡く立ちのぼってきて、微かに耳朶に触れました。私はほっとしました。
「……兄さん」
そっとささやくように井戸の中に呼びかけます。しかし、その声は兄の淫靡な吐息に掻き消されてしまいます。
「兄さん、兄さん、兄さん……──」
井戸の底に届かない程度の声で兄を呼びながら、私は自分の下半身に触れました。井戸の底に響く甘く切なげな声と私の下半身に触れる手の動きが徐々に重なっていきます。
「兄さん兄さん兄さん兄さん……!」
やがて、呪詛のように重く暗い声が兄の吐息と、まるで複雑な歯車がピタリと合わさるようにひとつになる瞬間が訪れます。その時、下半身の卑猥な熱が絶頂を迎えます。白濁の欲望が井戸の外側を汚しました。
井戸にはきっと今でも私の精液と兄の喘ぎ声が染み込んでいるはずです。
****
兄が二十歳になり、私は十八になりました。私たちが住んでいた村では、私くらいの年齢になるとほとんどの者が結婚しており、子がいる者も少なくありませんでした。
傍から見れば、父を亡くし寂しく一人で暮らしているように見えたのでしょう。見かねて縁談を持ってくる親切な人もいました。中には自分から言い寄ってくる若い女性もいました。しかし、いずれの申し出も断りました。どんなに心が広く優しい女性でも、オメガの兄を隠し続けるこの生活を理解してくれるとは思えなかったからです。
というのは建て前で、兄との二人きりのこの暮らしに邪魔者を入れたくなかったのです。
「おまえは結婚しなくていいのか?」
ある日、夜の食卓で兄が突然訊いてきました。
「急にどうしたんですか?」
なんの脈絡のない質問に私は戸惑いながら聞き返しました。
「いや、この間、村の人が縁談を持って来たから……」
確かに数日前、懇意にしている村の老夫婦が縁談を持って来ました。その時、兄は隣の部屋にかくれていたのですが、どうやら聞こえていたようです。
盗み聞きしたのが後ろめたいのでしょう、兄はボソボソと呟くようにして言いました。
「……断ってよかったのか?」
「もちろん」
私は即答しました。しかし兄は釈然としない表情で口をもぞもぞと動かしました。
「……おまえはきっと俺を気にして結婚しないんだろう? 俺のことは気にしなくていい。おまえが心に決めた人が現れたらその時は、ちゃんとこの家を出て行くから」
頼りない細い声でしたが、その目は本気でした。その言葉が兄の気遣いであることは十分承知していました。しかし、腹の底から湧き上がる怒りを抑えることができませんでした。
「……出て行く? ここを出てどこへ行こうと言うのですか?」
思いも寄らず冷たい声が出ました。しかしその時の私に声を繕う余裕などありませんでした。
兄の方からごくりと息を呑む怯えた気配がしましたが、気にせず続けました。
「兄さん、まさか貴方は自分がオメガだということを忘れているのですか? オメガの貴方が外に出ればすぐにオメガ狩りに捕まってしまいますよ。オメガ狩りの恐ろしさは父さんから何度も聞いてきたでしょう?」
兄は下を向き黙り込みました。オメガ狩りの恐ろしさを承知しての言葉だったのでしょうが、こうしてあらためて言われるとやはり少し怖くなったのでしょう。
私は手を伸ばし、テーブルの上で組んだ兄の手をそっと包み込みました。
「安心してください。私は死ぬ前に父に誓いました。兄さんを死ぬまで守り抜くと。私はそう誓った時に、普通の幸せなどとうに捨てました」
嘘です。私は父に誓う前から普通の幸せを捨てるどころか、それを願う気持ちすら持っていませんでした。最初から私は兄と一生を添い遂げることしか願っていませんでした。
それでもあえて、私は普通の幸せを捨てるなどという恩着せがましい言葉を選びました。それはなぜか? 簡単なことです。兄の中にある負い目や罪悪感を、より強く深くするためです。いつかそれが私への暗い感謝と愛へ変わることを願いながら……。
「……だから兄さん、貴方が私を幸せにしてくださいね」
私は兄の手を取り、その甲に軽くキスをしました。兄の濡れた瞳が私を見つめます。私への怯えと哀れみで震えるその視線を、私はほほ笑んで抱きとめました。
私たちはそれからも二人で単調な、しかし穏やかな幸せに満ちた生活を重ねました。私は、このまま兄と一生過ごせるものだと信じて疑いませんでした。
あの夜までは……。
****
まるで嵐を予感させる不気味な風が吹く夜でした。窓がガタゴトと震え、外の不穏さを家の中にまで響き渡らせました。私は不安でなりませんでした。兄が発情期で井戸の中にいたからです。
兄の様子を見に行こうと席を立った時、ちょうどドアからノックの音がしました。村の人間がノックする音にしては少し乱暴でぶっきらぼうなものに感じましたが、このひどい風です。あえて強くたたいたのかもしれないと思い、さほど夜の来訪者に警戒することなくドアに近づきました。
「はい、どちら様ですか?」
「わ、私だ。開けてくれ。畑のことで相談がある……」
それはいつもお世話になっている村長でした。その声は震えており、切羽詰まっているようでした。この嵐のような風が原因で畑に何かあったのだろうかとドアを開けました。
そこには村長が確かにいました。しかし、その後ろに黒い外套を羽織った男と、その後ろに人相の悪い男が数人連なっていました。黒い外套の男は村長の首筋にナイフを突きつけていました。
「やぁ、こんばんは。初めまして。私はギルバート卿に仕えるブライアンと申します。夜分遅くに押しかけて申し訳ございません。少し、お尋ねしたいことがございまして……。まぁ立ち話も何ですから、中に入れて頂いてよろしいですか?」
ブライアンは優美な笑みを浮かべ、丁寧な口調でそう言いました。しかし、村長の首筋に当てたナイフはそのままでした。彼の口から出た貴族の名前に嫌な予感がしましたが、その時の私には選択肢がひとつしかありませんでした。
「……どうぞ」
「話が早くて助かります。それでは少しおじゃまさせていただきますね」
ブライアンは手に持ったナイフとは対照的に人好きのする笑みを浮かべ、村長と一緒に中へ入ってきました。続いてブライアンの連れた男たちが、家の中に散らばって行きました。眉を顰める私にブライアンは言いました。
「彼らにはちょっとした探し物をお願いしているだけです。なに、貴方にやましいことがなければ大丈夫です」
私は怒りをぐっと堪え、ブライアンを中に案内しました。
ブライアンは、兄がいつも食事をしている席に腰を下ろしました。椅子の足もとに座らせた村長にナイフを向けたまま、彼は口を開きました。
「ここにはお一人で暮らしているのですか?」
「ええ、父が亡くなってからずっと一人です」
私は努めて冷静に答えました。
「へぇ、それは寂しいでしょうね」
ブライアンは芝居掛かった声で同情を示しました。
「慣れれば寂しくはありません」
「お父様が亡くなられたのは何年前ですか?」
「四年前です」
「おいくつの時ですか?」
「十六の頃です」
無駄に情報を与えないようなるべく簡潔に答えました。手のひらに嫌な汗が滲んでいました。
「ということは、今二十歳ですか。いやぁ、こんな男前を放っておくとはこの村の女性たちは目が悪いようですね。結婚しようとは思わないのですか?」
「私は一人が好きなので」
「……本当にそれだけですか?」
今まで上辺だけとはいえにこやかさを崩さなかった男の目が初めて鋭いものになりました。村長に向けられているナイフがまるで私の心臓に当てられているような心地になりました。
「ブライアン様」
男がやって来て、こそこそと何か耳打ちをしました。男の報告を受けたブライアンは口の端を微かに持ち上げました。
「……なるほど。分かった。ではそのまま捜索を続けてくれ」
「はい」
ブライアンは男を下がらせると、口もとに嫌な気配を携えて私に向き直りました。
「貴方は確か先ほど一人で暮らしていると言いましたね」
「ええ、そうですが」
ゆっくりとしかし着実に核心へと歩み寄ってくるような口調に、心臓に冷たいものが伝いました。
「今受けた報告によると、ベッドや食器、服、靴……あらゆるものが二人分あるようですが」
「父が使っていたものです。どうしても捨てられないのです」
嘘は自分が思った以上にさらりと出て来ました。
「さっきは一人が好きと仰っていましたよねぇ」
「父の死を悼む気持ちと一人が好きという気持ちは全く別物だと思いますが」
沈黙が落ちました。ブライアンは探るように私をじっと見ていました。私は何も悟られないよう心を無にして彼の視線をかわしました。
無言の攻防を打ち切ったのは、ブライアンの部下でした。
「いました! 裏の井戸でベスが反応しています!」
台所の裏手のドアから男が叫びました。ベスが何者かは分かりませんでしたが、「いた」「井戸」という単語だけで事態が最悪な状況へ向かっていることはよく分かりました。
今まで私に向けていた粘着質な視線を嘘のようにするりと解いて、椅子から立ち上がりました。
「分かった。井戸の中の確認は私がしよう。おまえはギルバード卿を呼んで来てくれ」
「はい」
流れるように指示をすると、ブライアンは私を一瞥することもなく裏手のドアから外へ出て行きました。私もそのあとを慌てて追おうとしましたが、動揺のあまり足がもつれ床に倒れてしまいました。
私が駆けつけた時には、既に井戸の周りを数人の男が取り囲んでいました。私がいつも兄を井戸の中に降ろす時と同じように、井戸の近くの木にロープが括られていました。そしてそのロープは井戸の中に下ろされていました。
「や、やめろ!」
私は悲鳴に近い声で叫んで井戸に近づこうとしました。しかし、体格のいい男二人に両脇から腕を捕らえられ、私の足はむなしく宙を蹴るだけでした。
「残念ですが諦めてください」
井戸の横に立っていたブライアンが哀れむような目で私の方を振り返りました。彼の足もとには黒い大型の犬が寄り添っていました。
「私の相棒ベスはオメガの匂いをすぐに嗅ぎつけることができるのです。隠し通すことはできません」
ブライアンが足もとのベスの頭を撫でながら言いました。
「……まぁ、もっとも、発情期であればベスでなくとも私たち人間でも嗅ぎつけることができますが」
井戸から大きな男に抱きかかえられた兄が姿を現しました。ベスが兄の香りに反応するように吠えました。その場にいる男たち全員が息を呑むのが分かりました。
他の男に兄が触れられることも、あられもない兄の発情期の姿が男たちの前に曝されることも私には耐えられないことでした。無駄だと分かりながらも、私は男たちの腕の中で足掻きました。もちろんびくともしません。私は体が届かないならせめて声だけでもと、あらん限りの力を振り絞って叫びました。
「放せ! 兄さんに汚い手で触れるな!」
「……騒がしいな。私の番との初対面の場に相応しくない」
私の叫びを、冷ややかな声が遮りました。みだらな発情期の兄に釘付けになっていた男たちがハッとわれに返るのが分かりました。そして、声の主へ向き直りひざまずきました。ブライアンも恭しくひざまずきました。
「ギルバート卿。これは失礼しました。彼は貴方様の番の弟君です。長年一緒に暮らしてきたのでなかなか兄離れができないのでしょう」
「……フン、鬱陶しい」
ギルバート卿と呼ばれた金髪碧眼の男が冷たい目で私を一瞥しました。
「まぁそう仰らずに。ギルバート卿の番はすぐそこにいらっしゃいますよ」
ブライアンが腕を伸ばし、井戸の前で男に抱きかかえられる兄の方を手で指し示しました。ギルバート卿の目が歓喜と驚愕で見開かれました。
「ああ……っ!」
ギルバート卿は感極まった声を上げ、兄の方へ駆けて行きました。そして男から奪い取るようにして兄を抱きかかえました。
「やっと、やっと会えた……! 私の番……!」
潤んだ声を震わせ、ぎゅっと兄を抱きしめるギルバート卿に私は言葉を失いました。頭の中が真っ白になりました。しかし、彼が兄に口づけをした瞬間、私の中で自分でも恐ろしいほどの憎悪の炎が燃え上がりました。
「やめろ! 兄さんに触るな! 離れろ!」
けれどギルバート卿は離れるどころか、兄との口づけをさらに深くし、自分の体の中に埋めるように兄を強く抱きしめました。
「やめろやめろやめ……っが!」
喚き続ける私を男たちが地面に押しつけました。
「っぐ、はなせ……!」
「静かにしておいた方が賢明ですよ」
気づけば、ブライアンが傍に立っていました。彼の隣にはベスが寄り添っていました。
「見ての通り、数も力も圧倒的な差があります。そしてアルファとベータの差も……」
憐憫を含んだ声でブライアンが私に言い聞かせました。それは絶望的なほど否定の余地がない事実でした。
兄が地面の上に横たえられ、息を荒くしたギルバート卿がその上に覆い被さりました。兄のシャツが脱がされていきます。兄は細い腕で抗おうとしましたが、その手は簡単に絡め取られてしまいました。あまりにも弱々しい抵抗なのでいっそ誘っているようにさえ見えました。
「やめろ……っ! 何が番だ! あんなの強姦じゃないか!」
「まぁ、仕方がないじゃないですか」
私の悲痛な叫びに、ブライアンはゆったりと答えました。目の前の強姦まがいな光景を目にしている人間のものとはとても思えない軽薄な声でした。
私は彼を睨みつけました。
「何が、仕方がないだ! こんなこと許されてなるものか!」
「でも仕方がないとしか言い様がありません。発情期のオメガを前にしたら男はだれでもああなります。……貴方だって十分知っているでしょう?」
ブライアンはちらりと私の方を見て、嫌みっぽく口の端を吊り上げました。私は黙り込みました。彼の言葉が残酷なまでに事実だったからです。
ブライアンは視線を私から目の前で犯される兄の方へ移しました。
「アルファであればなおのこと、オメガに惹かれる気持ちは止められません。本当に発情期のオメガとは罪深いほどに扇情的なものですね。ベータで玉なしの私だって下半身が疼くほどです」
ブライアンの言葉に私は眉を顰めました。彼は薄くほほ笑みました。
「オメガ狩りはアルファの信用を得るためにそうするのですよ。そこまでしないと信用されない。つまりオメガはそこまで魅力的なものなのです」
淡々とブライアンが答えました。
毒々しいまでに甘くなった兄の喘ぎと、卑猥な荒さを増したギルバート卿の呼吸が目の前で密に重なり混ざり合っていました。兄は服を脱がされ、あられもない姿を曝け出していました。ギルバート卿も服を脱ぎ捨てていました。もはや獣の交尾と言っても過言ではない荒々しい求愛でした。
「クゥン……」
ブライアンの足もとで、ベスが何かを求めるように鼻を鳴らしました。
「ああ、すまない、ベス。君にまだ褒美をあげていなかったね。ほら、お食べ」
ブライアンは懐から干し肉らしきものを取り出し、ベスにあげました。ベスは尻尾を激しく振りながら干し肉に食らいつきました。
べちゃべちゃと干し肉にむしゃぶりつく下品な音と、兄が犯される卑猥な音が、私の耳の奥で絡まり合いました。
「ゃ、やめ……んぁっ」
兄は上からギルバート卿に押さえつけられながらも必死に抵抗をしていました。しかし、体の繋がりが深くなるほどに、喘ぐ声は安らぎにも似た充足感をたたえていきました。井戸の中で響かせていた孤独な喘ぎ声とは明らかに違いました。
──やっと番に出会えた……。
兄の喘ぎや甘い姿態から、番との邂逅に歓喜する嘆息の音が溢れ出ていました。
私はアルファとオメガの、暴力的なまでに強引な、しかし抗いようのないその番という強固な絆に愕然としました。ベータの私が入る余地など微塵もありません。私はそこに立ち尽くすしか他にありませんでした。
泥が緩い斜面をゆっくりと伝うような重く長い時間、兄は犯され続けました。やっと解放されたのは、兄が何度目か分からない絶頂を迎え意識を失った時でした。
地面に座って退屈そうに兄たちの情事を眺めていたブライアンがスッと立ち上がりました。
「ギルバート卿、そろそろよろしいのでは? 続きはまた彼の意識が戻ってから、ゆっくりベッドでされてはいかがでしょう」
「ああ、そうだな。ふふ、あまりにも私の番がかわいかったからつい加減を忘れていたよ」
ギルバート卿は上機嫌で言って、男たちが差し出した服に袖を通しました。そして自分だけ身なりを整えると、兄は裸のまま自分の外套に包んで、抱き上げました。
「ああ、私のかわいい番。目が覚めたら、まず君の名前を教えてもらおう」
歌うように言って、ギルバート卿は兄の額に軽くキスをしました。兄を抱いて立ち去ろうとするギルバート卿に慌てて駆け寄ろうとしました。しかし、そんな私の前にブライアンが立ちふさがりました。
「……どいてください」
「もう分かったでしょう? アルファとオメガの間に、ベータの貴方が入り込む余地などありません」
今さっきまで痛感していた事実を人の口から言われ、私は悔しさと八つ当たりに近い怒りで目の前がカッと赤くなりました。
「うるさい! アルファであろうと、あんなやつに兄さんを渡してなるものか!」
「では、ベータの貴方がオメガのお兄様を幸せにできるのですか」
ブライアンの問いに私は口を噤みました。
「客観的に見て、ベータの貴方にここで一生囲われ過ごすことが幸せだとは到底思えません。アルファのギルバート卿のもとにいれば、発情期に井戸に閉じこもることもなく、お兄様が望むままに好きな場所へ行けるのです。それにさっきの二人を見たでしょう? 血眼になってオメガを探すアルファと同じくらい、オメガもアルファを求めているのですよ」
ブライアンに容赦ない現実を突きつけられ、気づけば私はその場にくずおれていました。ブライアンはしゃがみ込み私の肩にそっと手を置きました。
「まぁ、貴方はまだお若い。お兄様のことは忘れて、すてきな女性と所帯を持ちなさい。それがベータの幸せです。ベータがオメガに恋などするものではありませんよ」
ブライアンが優しく諭すように言いました。そこに嫌みなどは一切含まれていませんでした。善意に満ちた忠告でした。
顔を上げブライアンの顔を見ました。彼の瞳には哀れみの色が浮かんでいましたが、単なる憐憫ではない、優しいものでした。もしかすると彼も、アルファ、もしくはオメガの人間に、恋をしたことがあったのかもしれません。そう思わせる瞳でした。
「これはギルバート卿からのほんの気持ちです。これを使って新たな人生を歩まれることをお勧めします」
彼は懐から小さな革袋を取り出し、私の手に握らせました。ずっしりと重みがあるそれが何かは、すぐに分かりました。手切れ金のつもりなのでしょう。どこまで私の兄への愛を軽んじるのだろうと、屈辱で肩が震えました。
「これを持って街に新しい家を買うのもよし、所帯を持ったときのために貯蓄しておくのもよし……復讐の刃を研ぐのも、よし」
最後の言葉は、耳もとでぼそりとささやきかけられました。今まで私を諭すような穏やかな声が嘘のようでした。それは甘い滅びへ導く悪魔のような蠱惑的な響きを持った声でした。
驚いて顔を上げると、ブライアンは既に立ち上がっていました。顔には本心が読めない仮面のような笑みを貼りつけていました。
「それでは、さようなら。貴方のよき人生をお祈りしております」
ブライアンは一礼して踵を返しました。そのあとをベスが緩やかに尻尾を振りながら追いました。
残された私はしばらくブライアンが寄越した袋をただぼんやりと眺めていました。
****
兄が連れ去られた数日後、私はギルバート卿からもらった手切れ金を持って村を出ました。そしてしばらくは都市で働かず過ごしていました。もちろん無為に過ごしていたわけではありません。情報収集のためです。
その情報収集の結果、私はその都市で一番古く名の知れた壁紙工場に弟子入りしました。壁紙の知識など少しもない私でしたが、優しい親方のおかげで知識も技術も身につけることができました。親方の優しさと仕事に対する誠実さに、本意ではないものの彼に恩を仇で返す形となってしまう計画を腹の底で企てていた私は、良心の呵責を覚えました。
しかし、もうあと戻りはできません。私にとって兄を取り戻すことは何より重要なことだったのです。
兄を奪われて一年が過ぎた頃、私の計画にようやくチャンスが訪れました。
ギルバート家から壁紙の張り替えの依頼が来たのです。私はこの時を待っていました。庶民の私が貴族の屋敷に入る機会など滅多にありません。他の業者であれば、通用口で品物の受け渡しをすればおしまいですが、壁紙は、職人が張り替えのため部屋の奥まで入ることが許されます。
私は親方と他職人に同伴し、ギルバート家に潜り込むことに成功しました。幸いにも、家の主であるギルバート卿は不在でした。執事におおかたの要望を聞いたあとは、親方の指示に従い、それぞれの持ち場に散りました。私は親方の指示に従う振りをしながら、屋敷内を探しました。ギルバート卿に奪われた日から毎日夢に見ていた兄の姿を……。
しかし、屋敷内ですれ違うのは使用人ばかりでした。もしかすると、兄は別邸にいるのかもしれないという絶望的な可能性が脳裏を過った時のことです。屋敷の奥に、固い南京錠によって閉められた扉を見つけました。今まで見てきた部屋とは明らかに異質なものでした。私は一縷の望みにかけてその扉にノックをしようとしました。
しかし、
「何をされているのです?」
声の方を振り向くと、白髪の執事が立っていました。丸眼鏡の奥の瞳が、訝しげにこちらを見ていました。私はノックしかけた拳を隠すように降ろし、執事の方へ向き直りました。
「失礼しました。私は壁紙の張り替えに来た者です。この部屋が私の担当になっているのですが、鍵が閉まっていたので……」
私はもっともらしい言い訳を並べて、親方から渡された屋敷内の地図の一点を適当に指し示しました。執事は丸眼鏡を持ち上げ地図を覗き込みました。
「貴方、ここは全く逆方向ですよ」
「そうでしたか、それは失礼しました。広い屋敷は不慣れなもので」
「ご案内いたしましょう」
「ありがとうございます。……ところであの部屋は壁紙の張り替えはよろしいのですか?」
「ええ、構いません」
「そうですか。それにしても随分豪奢な扉ですが、まさか物置にされているのですか?」
「まぁ、そのようなものです」
執事の口調は、平静を装いつつも、隠しきれない緊張を孕んでいました。それがあの部屋に何か隠し事があることの何よりの証拠でした。
「そうですか。私などには、あんな立派な扉の部屋を物置にするには勿体ないと思ってしまうのですが、やはり貴族の方は違うのでしょうね」
私は怪しまれないように笑ってその話題を早々に切り上げ、執事に地図で指し示した場所まで案内してもらいました。
執事の姿が見えなくなってから、私は屋敷の外に出ました。内から入ることができなければ、外から入るまでです。幸いにも、あの鍵の掛かった部屋のバルコニーは館の裏手にあり人目につきにくく、しかも近くにはちょうどいい高さの木がありました。神すら私に味方をしてくれているようなその状況に、私の胸は高ぶりました。
木に登り、かばんに隠し持っていたフックつきのロープをバルコニーの柵に引っかけました。あとはそのロープを伝えば、すぐにバルコニーの上に降り立つことができました。
窓から中を覗くと、部屋は豪奢な家具が揃えられており、とても物置といった風ではありません。やはり自分の予想は正しかったのだと思いました。しかし、肝心の兄の姿が見当たりません。
私は意を決して窓をたたきました。けれど、反応はありません。諦めきれず何度もたたいていると、ちょうど死角になっているベッドの上で人の影が動きました。私はもう一度、さらに強くたたきました。するとベッドの上にいた人物が恐る恐るといった様子でこちらにやって来ました。
きれいな身なりはしていましたが、それは紛れもなく兄でした。
「兄さん……っ!」
私は感極まって叫びました。兄は目を見開いていましたが、すぐに窓辺に駆けつけてくれました。
「おまえ、どうしてここに?」
兄がバルコニーの窓を開けて困惑気味に言いました。
「壁紙職人として屋敷に潜り込んだんです。兄さんを取り返すためにね。時間がありません。とりあえずここを出ましょう」
私は兄に手を差し出しました。兄はその手を取るべきか否か逡巡していました。その躊躇いに少なからず私は傷つきました。
「……兄さんはここにいたいのですか?」
問いながら、そうではないことを確信していました。兄は確かに小綺麗になっていましたが、表情にまるで覇気というものがなかったからです。
兄は首を横に振りました。
「じゃあ私と逃げましょう。大丈夫です。お金はちゃんと準備していますし、このあとのことも考えています。ですから、さぁ、早く」
私はさらに前へ自分の手を兄に突き出しました。兄はおずおずと私の手を握りました。口から安堵の笑みが零れました。
「さぁ、一緒に逃げましょう。兄さん……」
壁紙を入れてきた木箱に兄を入れ、それを荷車に載せて何食わぬ顔で屋敷の外に出ました。
そしてしばらく行ったところで、兄を木箱から出し、荷車や木箱全てを草むらに隠しました。それからは、人目につかないよう森の中を港に向かい、ひたすら走りました。私たちには時間がありませんでした。兄の失踪に気づいたギルバート卿がいつ追ってくるか分からなかったからです。
兄の手を引いて走っていましたが、息が上がるほどに兄の体は重くなり、私たちの走りを妨げていきました。
「兄さん、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だ……。すまない、足手まといになって……」
申し訳なさそうに兄が目を伏せました。青白いまでの肌や細い四肢を見る限り、あの部屋に閉じ込められていた事が容易に想像できました。
「無理もありません。ずっとあの部屋に閉じ込められていたのでしょう。体力も落ちるはずです。少し歩きましょう」
私たちは歩みを緩め、ゆっくりと呼吸を整えました。焦ることはない、と自分に言い聞かせました。森は夕闇の影を色濃くしていましたが、先から吹く風には潮の匂いが微かに含まれていました。
「この森を抜ければ、港に着きます。そこで船に乗り込んで港を出れば、ギルバート卿の追っ手を恐れることはありません」
安心させるように優しく言うと、疲労をたたえた兄の顔に安堵の笑みが浮かびました。
「ありがとう。……でもおまえはこれでいいのか?」
不意に寄越された問いに、私は歩みを止めました。
「……どういうことですか?」
眉間に皺を寄せ兄の方を振り返りました。兄は目を伏せながら言いました。
「……もし港を出たとしても、あの男はきっと追ってくる。きっと地獄の果てまででも」
兄の声は震えていました。ギルバート卿の、いやアルファのオメガに対する執念を、痛いほど知っているのでしょう。
私は兄へ向き直り、その手を両手でぎゅっと包みました。
「なら、二人で地獄の果てまで逃げましょう。私はその覚悟で兄さんを迎えに来たのですよ」
私の答えを聞いた兄は、目を丸くしましたが、すぐにその目を細め、目尻には涙を滲ませました。
「ありがとう」
「……私より、むしろ兄さんの方こそいいのですか?」
兄は質問の意味が分からないという風に首をかしげました。私はずっと胸の内に秘めていた不安を打ち明けました。
「私は、アルファではありません。オメガの兄さんにとってアルファの傍にいる方が、たとえ部屋に閉じ込められていたとしても幸せなのではないかと……」
口にすればするほど、アルファとオメガの強固な絆に、不甲斐ないベータという自分の存在に、絶望的なまでに嫌気が差してきて、俯きました。
すると、兄が私の頬に両手を添え、上を向かせました。兄は泣きそうな顔で笑っていました。
「そんなこと言わないでくれ。俺は、ずっとあの部屋に閉じ込められている間、おまえとの暮らしを思い出して正気を保っていたんだ。畑に咲いた名前も知らない花や、窓から見える木にやってきた鳥、そんな何てことない話をまたおまえとしたいと思った。オメガやアルファなんて関係ない。……俺はおまえといたいんだ」
コツン、と額に額が重ねられました。私の頬には知らぬ間に涙が伝っていました。その涙は私のものでもあり、兄のものでもありました。
兄の、一緒にいたいという言葉も、涙の意味も、私のものと同じ姿をしながらきっと別物であることは分かっていました。兄には、私が抱くような醜い恋心はありません。それでも、アルファとオメガの運命に打ち勝てたその事実が、長年私の心をふさいでいた卑屈な嫉妬心をきれいに洗い流してくれました。
「兄さんっ、私も兄さんと一緒に……っ!」
突如、重い銃声が私の言葉を遮りました。
いえ、銃声だけではありませんでした。腹部にほとばしる烈火の如き熱と痛みに言葉はおろか、呼吸さえも失いました。
私は悲鳴を上げる兄の胸もとに崩れ落ちました。
「標的に命中! オメガを確保しろ!」
厳めしい声の命令に、木々の影から数人の男が姿を現し私たちのもとへ向かってきました。言うまでもありません。ギルバート卿の追っ手です。兄を連れて逃げなければならないと必死に立ち上がろうとしましたが、その意志に反して体は走るどころか立ち上がることすらできませんでした。
「さぁ、貴方はこちらへ」
半狂乱となって私を呼び暴れる兄を男が三人がかりで抱きかかえ、私のもとから連れ去って行きました。追いかけたいのに、声すら追い縋ることはできませんでした。
私は地に伏したまま、何とか手だけ兄の方へ伸ばしました。しかし、その手は上から振り下ろされた足に思い切り踏みにじられました。
「がぁ……っ!」
苦痛の声を漏らす私を冷たい目で見下ろす人物がいました。その人物を忘れるはずがありません。氷のような瞳を持ったギルバート卿、その人でした。ただ、その目は以前会った時とは違い、殺意にも似た怒りに満ちていました。
「忌々しい害虫め……っ。私の大事な番の弟だから生かしておいてやったものを……」
ギルバート卿は腹部のけがをめがけ何度も何度も蹴り上げました。
「ぐぁ……っ!」
苦悶の悲鳴を上げるしかできずにいる私を、ギルバート卿は冷酷な目で見下ろして蹴り続けました。やがて私が悲鳴すら上げる気力すら失い口を閉ざすと、彼の足がぴたりと止まりました。
「なんだ、もうおしまいか」
ギルバート卿はぼそりと呟くと、従者の方を振り返って言いました。
「おい、あれを持って来い」
「はっ」
従者は両手で剣を差し出しました。ギルバート卿はそれを慣れた手つきで取り上げると、サッと鞘から剣を引き抜きました。もう森はすっかり暗くなっているのに、従者の掲げるランタンの灯りのせいで剣の鋭さが嫌なほどしっかりと見えました。
「ベータの分際で、私たちの間に入ろうとは身の程知らずな……。その命でもって償え」
頬に唾をかけられましたが、痛みが充満した体にそれは何の意味もなしませんでした。
剣が振り下ろされました。私は目を閉じました。剣が空を切る音に続き、私の肉を貫く生々しい感触と激痛が体に走りました。
絶命の感覚とギルバート卿の残虐な笑みを魂に刻み込みながら、私は意識を失いました。
……おや? どうしました? ひどい汗ですよ。顔色も良くありませんね。確かに聞くに堪えない残虐な描写がありましたが、そんなに驚くことはないでしょう。
だって全部貴方が私にしたことなんだから。
ねぇ、ギルバート卿?
あ、いえ、今はお父様と呼ぶべきですね。貴方には感謝しているんですよ。私にアルファの血を分け与えてくれて、私をあの人の子供にしてくれて、ありがとう。
……そして、さようなら。
****
あの男の骸は、あらかじめ掘っておいた穴に捨てた。深く掘っていたので土をかけるのに時間が掛かった。人里離れた森の奥だ。そう簡単には見つかるまい。だから急ぐ必要はない、と私は自分に言い聞かせた。もうあの時のように追っ手はいないのだから。
私には前世の記憶がある。もともとあったわけではないが、小さい頃から既視感を覚えることがしばしばあった。それらは現実世界で夢の断片を見つけるような淡い感覚だった。たとえば、執事の顔や、壁紙、屋敷の構図、屋敷の奥の開かずの間、名前も知らない花、木に留まり囀る小鳥……、初めて見るはずなのに、どこか遠い昔、もしくは漠とした夢の中で見たものと一致して、懐かしいような悲しいような気持ちにさせるのだった。
そのぼんやりとした既視感が、ある日、鮮明な記憶へと変わった。私の生みの親と会った日だ。
私は十になるまで自分の生みの親を見たことがなかった。父や使用人たちには死んだと言い聞かされていた。しかし、彼は生きていた。嫉妬深い父が、子供にさえ触れさせたくないとずっと開かずの間に隠していたのだ。
十の誕生日から数日たったある深夜、開かずの間とされていた扉が少しだけ開いていたのだ。ホットミルクを飲みに厨房へ忍び込んだ帰りに、たまたま、いや、運命的に、扉から廊下に漏れる灯りに気づいた。
好奇心から私はそっと中を覗き込んだ。部屋の中には、微熱を帯びた甘い声と香りが満ちていた。ゴクリと喉が鳴った。ベッドの上では、華奢な肉体にむしゃぶりつく獣のような父と、父に組み敷かれる男がいた。その光景に、心臓がよじれるほどの強い既視感を覚えた。あまりの強さに吐き気と目眩がした。
私は怖くなってその場から逃げ出した。けれど、その日から頭の中からあの夜の光景が離れなかった。何度引き剥がそうとしても記憶の芯までこびりついているのだ。
あの日のことをこの目で確かめたいと思ったが、開かずの間はまた翌日には締め切られていた。もちろん父に訊く勇気もなかった。
胸の内にもやもやとした感情を募らせていた私は、気分転換でもしようと庭園を歩いた。快晴で空は青々としており、庭園の草花は陽光を浴び輝きに満ちていた。しかし私の心は晴れなかった。
重い溜め息をひとつついた時、私の足もとを何かが通り過ぎた。振り返ると、黒い犬がいた。首輪はない。野犬だろうか。しかしどこかで見たことがあるような……。また嫌な既視感が胸を過った。
犬は私の方をじっと見ていたが、やがてこちらに背を向け歩き始めた。私はなぜか犬のあとを追った。理由は分からなかったが、この犬が案内する先には何か特別なものがあると直感的に知っていた。
庭園を抜け、犬は屋敷の裏手までやってきた。そして屋敷と隣接する大きな木を前脚で軽く引っ掻いた。私は木を見上げた。木の枝は屋敷のバルコニーまで伸びている。そしてそのバルコニーの先にある部屋は……──。
「……私にここを登れということか?」
視線を地に落としたが、既にそこに犬の姿はなかった。辺りを見回したが、気配すら感じられなかった。
風が吹いてカサカサと梢が揺れた。私は袖をまくり木に登った。木登りなんてしたことがないはずなのに、私は既に登り方を体得していた。だれかの足跡をなぞるような感覚だった。
バルコニーとちょうど同じ高さの太い枝まで登って私は一息ついた。バルコニーの窓には薄いレースのカーテンが引かれていて中が見えなかった。私は落胆した。この奇妙な既視感の連なりの先に、何か特別なことが待っているような気がしていたのだ。
落胆の溜め息を追って木から下りようとした時、カーテンが揺れた。その隙間から見えた男の顔に、私はハッと息を呑んだ。
今までにない強烈な既視感。いや、既視感なんてものじゃない。これは記憶だ。
──だれの?
自分自身に問うより早く、男がこちらに気づいた。目を丸くして驚いていたが、すぐに目もとをほころばせ優しいほほ笑みをこちらに向けた。
それはもう決定的だった。男の笑みは私に向けられたのではない。私の奥に眠る魂に向けられたのだ。そう悟った瞬間、頭の中に、いや私の魂に刻まれていた記憶が凄まじい勢いで息を吹き返し、私の中に怒濤のごとく流れ込んできた。
「……にいさん」
呟いたと同時に、涙が零れた。気づけば私は木から落ちていた。
地に伏した私の耳に、悲鳴が届いた。体が痛い。なのに私の口からは笑いが止まらなかった。
こんなもの痛みの内に入らない。だって私はもっとひどい痛みを、絶命の感覚を知っているのだから……。
やがて騒ぎを聞きつけた執事がやって来てすぐに適切な処置を施してくれた。血を流しながらも笑みを浮かべる私に、執事は少し怯えていた。
前世の記憶を取り戻してから、私の父に対する感情は憎悪一色となった。もともと仲睦まじい関係ではなかったが、厳格な父を尊敬していた。しかし、そんな尊敬の念などどこかに吹き飛んでしまったかのように、父の顔を見る度に、奥歯を噛みしめなければならないほどの怒りが湧き上がってきた。あとほんの少し理性が欠けていたら、食事の最中に父へ飛びかかり手にしたナイフを喉にめがけて突き刺していたかもしれない。
しかし、私はそうはしなかった。
『復讐の刃を研ぐのも、よし』
前世の記憶でひときわ鮮明な輪郭を持つこの言葉が、私の中で煮えたぎる怒りを蠱惑的なささやきでもって宥めた。まだその時ではない、と。
そのおかげで、開かずの間の扉を隔てて、あの人の悲しげな喘ぎを聞いても耐えることができた。
「待っていてくださいね、兄さん……」
父が夜中に開かずの間を訪ねると、私は必ず扉に耳を当てあの人の喘ぎが果てるまでそこにいて、そうささやき続けた。井戸の外で兄さんと呼び続けた時と同じ声で……。
十六になった時、父に呼び出され、応接間に向かった。
「失礼します」
ドアを開けると、先客がいた。父の前のソファに座るその男に、私は目を見開いた。男は私と目が合うとにこりと笑った。そして立ち上がり、恭しく頭を下げた。
「初めまして、私、オメガ狩りをしておりますブライアンと申します。以後お見知りおきを」
体が震えた。歳は取っていたが、彼は間違いなくあのブライアンだった。彼の足もとには、黒いベスが凜とした佇まいで座っている。
私は思わず父の方を見た。父は頷いて口を開いた。
「おまえも十六だ。そろそろ番を見つけてもいい頃だろう。彼は優秀なオメガ狩りだ。……私の番も彼が見つけ出してくれた」
厳格な父の目もとが微かにほころんだ。それは珍しいことだった。
「お褒めの言葉、光栄です。しかし優秀なのは私ではなく、この相棒のベスの方ですよ」
そう言って、ブライアンはベスの頭を撫でた。
「その白々しい謙虚さも相変わらずだな」
「お褒めにあずかり光栄です」
父の嫌みに気分を害した様子もなく、ブライアンは笑って答えた。その後もしばらく談笑していたが、私の頭には入ってこなかった。私はただ茫然とブライアンを見詰めることしかできなかった。
「いやぁ、しかしご子息様の番探しまで頼りにされてうれしい限りです」
「性格はともあれ、おまえのオメガ狩りとしての腕だけは認めているからな」
父は紅茶を口に運び一息吐くと「さて」と言って立ち上がった。
「あとは二人で話してくれ。息子の番探しに父親が首を突っ込むのもやぼだろう」
そう言って、私の肩をたたくと父は部屋をあとにした。
しん、と沈黙が落ちる。
「……客の私が言うのもなんですが、どうぞ座られてください。貴方は私の依頼主なのですから」
沈黙を緊張と解釈したのか、ブライアンが明るく気さくに話しかけてきた。私は促されるまま、彼の前に腰を下ろした。
「それでは早速ですが、探してくるオメガについていくつか確認を……」
「その前にひとつよろしいですか?」
ブライアンの声を遮って私は言った。
「もちろんです。何なりと申しつけください」
嫌な顔ひとつせずブライアンは頷いた。
「……父の番のことですが、その番に家族がいたことは覚えていますか?」
自分でもなぜこんな質問をしたのか分からない。もしかすると、前世の記憶という夢にも似た不確かな存在について、確固たる証拠が欲しかったのかも知れない。
しかしブライアンはほほ笑みを浮かべたまま首を傾げた。
「すみません。昔のことですし、あまり頭がよくないもので覚えておりません。今までたくさんのオメガを探してきたものですから、この小さな頭では記憶しきれないのです」
自嘲しながらそう言うブライアンの言葉には説得力はあるが、父も言った彼の白々しい謙虚さがどうも疑わしい気持ちにさせる。
「……今までオメガ狩りをしてきた中に、既に恋人や好きな人がいたオメガもいたのではないですか?」
思わず責めるような口調になったが、ブライアンは気にした風はなく、あっけらかんと答えた。
「そうですね、いましたよ。でもいずれも相手はベータでした。問題ありません」
「相手がベータだろうと、想い合う二人を引き離すのに良心の呵責はないのですか」
一層非難の色が強くなった私の声に、ブライアンは少し目を見開いた。しかし、次には口もとに手を当て笑い出した。
「何がおかしいのですか」
「いえ、失礼しました。えっと、貴方は確かアルファですよね」
「そうですが、それが何か」
「いえ、何も。ただ、アルファの方がそんな風に言うなんて珍しいな、と思いまして。大抵のアルファは番至上主義なところがあるでしょう? 番でなければ運命にあらず、というような。現に私が会ったアルファの方は皆そうでした。でも貴方は違う。まるで、その言い方ではベータのようではありませんか。……もしかして以前はベータだった、とか?」
冗談めかした口調だったが、口の端に浮かぶ笑みには、まるで全て見透かしているような不敵さがあった。
ごくり、と唾を飲む。じっと私の様子を見ていたブライアンが、不意に笑った。
「あはは、冗談ですよ。ベータがアルファになれるなんて聞いたこともない。まぁくだらない冗談は置いておいて、本題に入りましょう」
「その本題についてですが、しばらくはオメガを探す振りをしてくれませんか?」
ブライアンの話を遮ってそう言うと、彼は興味深げに目を細めた。
「それは面白い頼み事ですね。私は構いませんよ。しかしどうしてわざわざそんなことを? 私のことは気にせず断ってくれてもいいのですよ。オメガ狩りは仕事に困っていませんから」
どう答えるか逡巡したあと、私は正直に話すことにした。この男にはその場しのぎの嘘などすぐに見破られるだろうと思ったからだ。
「……私には、運命の人が既にいます。でもその人を迎えるにはもう少し時間がいるのです」
「なるほど、だから時間稼ぎをして欲しいということですね」
私は頷いた。顎に手を当て少し考える素振りを見せたブライアンだったが、すぐに笑みを浮かべ「いいでしょう」と快諾した。
「心に決めた方がいらっしゃるのに、第三者が口を出すのも野暮なことです。お父様にオメガ狩りは不要だと直接言えないところをお見受けする限り、お二人が結ばれるには障害がいろいろあるのでしょうね。私でお役に立てるか分かりませんが、できることはやらせて頂きます」
ブライアンはゆっくりと立ち上がった。
「それではとりあえず当面はオメガを探す振りをして適当に報告をしておきますね。ただ、あまりにも期間が長いと無能なオメガ狩りの烙印を押されてしまいますので、そちらの進捗状況も時々教えてくださいね」
にっこりと笑って一礼すると、ブライアンは私に背を向けた。歩き出した主人のあとをベスがついていく。ベスの軽やかな動きを見ながら、ふと、違和感を覚えた。
「最後にひとつ伺いたいのですが」
呼び止めると、ブライアンは本心の読めない笑みを貼りつけたまま振り向いた。
「なんでしょう?」
「その犬は、いまいくつですか?」
唐突な質問に、ブライアンは虚を突かれたように目を丸くした。
「……実は、昔、貴方とベスに会ったことがあるんです。ただ、十年以上前のことですから、もしその犬がその時のベスだったら相当の老犬だろうと思いまして」
ブライアンの足もとに座る犬にちらりと視線を遣る。彼は毛並みも動きも若々しい。同じ犬ではないことは明らかだ。それでもブライアンは彼をベスと呼ぶ。なぜか胸が暗くざわついた。
「そうですか、以前お会いしたことがあったのですね。すみません、頭がよくないもので覚えておりません」
「いえ、構いません。お気になさらず。その頃とは随分姿が変わったので覚えてないのも無理はありません。それで、その犬は……」
「もちろん、貴方がお会いした時のベスとは違います。このベスは六年前に私のもとにやってきたのですから」
ベスの頭を撫でながら答えた。ベスは気持ちよさそうに目を細めた。
「貴方は相棒には全てベスと名づけるのですか」
「ええ。だってベスはベスですから」
意味深な言葉だった。まるで罠のようにその言葉が際立っていた。
「どういうことですか」
頭に引っ掛かった言葉が気持ち悪く、思わず訊いてしまう。ブライアンは私の問いを待っていたかのように笑みを深めた。
「言葉の通りです。……いい歳をした大人がこんなことを言っては笑われるかもしれませんが、ベスは死んでもまた私の所に戻ってくるのですよ」
心臓に冷たい戦慄が走った。次々と胸から溢れる冷えた鼓動が思考を凍てつかせる。
「ご存じですか? ある国では、生まれ変わりという考えがあるそうです。死んでも、魂はまた新たな体に生まれ変わる、という考えです」
「……このベスも、その前のベスの生まれ変わりだと?」
「ええ、そうです」
ブライアンは今までに見たことのない屈託のない、それゆえに不気味な笑みでもって頷いた。
「私はベスが死んだら、その日に生まれた黒い犬を探します。でもベスの死んだ日に生まれた黒い犬ならどれでもいいわけではありません」
「他に条件があるのですか?」
「条件と言いますか……、これはもう言葉にできないのですが、目を見れば分かるのです」
ブライアンは指先で自分の目尻をとんとんとたたいた。
「ベスも、私の目を見ると初めて会ったというのに私のもとへ駆けつけてくるのです。オメガの匂いを覚えさせる訓練もいりません。もう既に知っているのです。……信じられないでしょう?」
「いいえ、信じますよ」
私の返事が予想外だったのだろう、ブライアンは目を丸くしたが、すぐに相好を崩した。
「そうですか、それはうれしいです。大概、この話を聞いた者は、私を哀れむかさげすむかどちらかですので。よかったな、ベス」
ブライアンに話しかけられ、ベスは「ワン!」とうれしそうに答えた。
「少し長話をしすぎましたね、失礼しました。それではまた後日、伺います」
頭を下げ、ブライアンはベスと共に部屋をあとにした。私は再びソファに腰を下ろして目を瞑った。前世の記憶のブライアンと今目の前で話していたブライアンが、頭の中でグルグルと回る。頭の中を掻き回されて、吐き気と目眩がしてきた。前世と今が境をなくし混ざり合う感覚に、胸が押し潰されそうなほどの不安を覚えた。
果たして、私はどこにいるのだろう。目を開けた時、そこは本当にさっきまでいた応接間なのだろうか……。
ゆっくりと、恐る恐る目を開ける。視界に映るものは何一つさっきと変わりはなかった。そのことにほっと胸を撫で下ろすが、不安は胸の底にこびりついたままだった。
****
父の、いや憎きギルバート卿の亡骸を土に埋め終え、私は馬に乗って屋敷に向かった。
あの木から落ちたあと、私は生みの親のことを調べた。すると今まで私の脳裏をひらりひらりと舞っていた淡い既視感が、全てに一致した。
記憶を取り戻した私は、すぐにでもあの人を連れ去りたい衝動に駆られた。しかし、そうするには私はまだ幼く非力だった。それでは前世の二の舞だ。
私は待った。あの人を囲えるだけの財力や地位を獲得しながらその時を待った。そして、十七になった日、私たちの間に立ちふさがる唯一にして最大の邪魔者を消し去った。
夜気の清廉さを帯びた風は、血の臭いをまとった私の体をきれいに洗い流してくれる。人を殺めたというのに、罪悪感を覚えるどころかただただ爽快な気持ちだった。気づけば馬の蹄の音に合わせて歌を口ずさんでいた。
ようやく屋敷に着いた。馬を使用人に預け、屋敷内に入る。
「お帰りなさいませ。ご友人様とのお食事はいかがでしたか」
出迎えた白髪の執事が私の外套を受取ながら訊ねた。
「楽しかったよ。美人な恋人が横にいればもっと楽しかったけどね」
冗談めかして言うと、執事は優しくほほ笑んだ。そういえばこの執事は、私が壁紙職人としてこの屋敷に忍び込んだ時、親切に屋敷を案内してくれた執事だ。
「あれ? そういえば眼鏡はどうしたんだ?」
私は眼鏡を持ち上げるしぐさをして訊ねた。前世の私を道案内してくれた時、確か丸眼鏡をかけていたのに、今は眼鏡をしていない。
執事はきょとんとした顔をしていたが、やがて破顔した。
「あははは、面白い冗談ですね。私は今日の今日まで眼鏡をかけたことなどありませんよ」
その言葉に、ドクンと鼓動が嫌な感じにうねった。何かが小さく、しかし決定的に崩れる音が頭に響いた。
「そ、そんなはずはないはずだっ。おまえはずっと昔から丸眼鏡をかけていたじゃないか」
必死に食い下がる私に、執事は困惑しながら首を傾げた。
「ずっと昔からと言われましても……眼鏡はかけたことはありませんし、それに、私は昨年、別邸から本邸に移ってきたばかりですよ。それなのにどうして坊ちゃまが私の昔の事なんてご存じなのですか?」
「……え?」
執事の顔、開かずの間の扉、南京錠、壁紙……、私は今まで既視感を覚えたもの全てを見直した。見直せば見直すほど、何もかもが全てどこか何かずれているような気がして、ついには何を持って既視感を覚えたのかさえ分からなくなっていた。まるで無理やり縫い繋いでいた継ぎ接ぎが剥がれていくような感覚だ。
腹の底に這い寄る言いようのない不安に、私の中である疑問が頭をもたげた。
──私は本当に前世の記憶なんてあるのか?
愚問だと、一蹴してやりたいのに、その疑念は頭にこびりついて離れなかった。
考えてみれば前世の記憶だなんて証拠はどこにもない。根拠は全て自分の既視感だ。でも確かに既視感はちゃんと事実と一致した。
──本当に一致していたのか?
一致していた。一致していたはずなのに、突然ズレが生じ始めたのだ。もしくは、強引に一致させたのか。
……これではまるで、前世の記憶ではなく、私の妄想ではないか! あり得ない。あり得るはずがない。こんな破滅的な妄想をして私に何の得があると言うんだ……!
私は暗い自室で頭を抱え、自問自答を繰り返した。
──何の得? あるじゃないか。自分の親の番関係を引き裂く正当な理由を自分に与えることができたじゃないか。
ダンッ、と自分の太腿を強くたたき、悪魔のような答えを振り払う。
あり得ないあり得ないあり得ない! 生みの親であるオメガを奪うためだけに、こんな妄想を生み出したというのか?
──つまりオメガはそこまで魅力的なものなのです。
私の声でない、だれかが答えた。それは私の前世の記憶、あるいは私の妄想の中で言ったブライアンの言葉だった。
そうだ、オメガはそこまでに魅力的で……人を惑わす存在なのだ。
私はふらりと立ち上がり、部屋を出た。
「坊ちゃま、どちらへ?」
廊下ですれ違った執事が声をかけてきた。しかし、私に立ち止まって返事をする余裕などなく、ぶっきらぼうに「少し庭を散歩してくる」と答えるのが精一杯だった。
玄関の扉を勢いよく開けると、男にぶつかった。後ろに倒れそうになった私の腕を男が掴んだ。
「おっと、失礼しました。大丈夫ですか」
男の声に、ハッとした。
「ブライアン!」
「お久しぶりです。オメガ探しの進捗状況を伝えに来たのですがお父様は……」
私はブライアンの胸倉を掴んで、言葉を遮った。足もとでベスが、主人に害をなす私に向かって低い声で唸っている。ブライアンは表情を変えることなく、胡散臭い笑みを貼りつけたままだった。
「どうかされました? 随分と顔色が悪いですよ。……ようやく復讐を遂げましたか」
耳もとでささやかれた言葉に、混乱はさらに深まり、思わずブライアンの胸を突き飛ばした。
「おっと……」
ブライアンは倒れることなく居住まいを正した。
「随分とご乱心のようですね」
「お、おまえは……、おまえは何なんだ!」
震えながらブライアンを指差し、叫んだ。指先の向こうでブライアンが口の端を吊り上げる。
「あはは、私はただのオメガ狩りです」
「嘘をつけ! おまえは今、私に復讐を遂げたかと言った! それは私のことを知っているんだろう!」
「ははは、ただの当てずっぽうです。以前、時間稼ぎをして欲しいと頼んだ時の目が、まるで親の仇でも討とうとするような鋭い目だったので」
ブライアンの言葉に乾いた笑いが零れた。親の仇を討つどころか、親を殺してきたのだ。この男は知っていてわざとその言葉を選んだのだろうかと思うほど癪に障る。
「……おまえは、生まれ変わりを信じるか?」
気づけば私は縋るような気持ちで訊いていた。
「ええ、もちろんです」
ブライアンは迷うことなく頷き、ベスの顎を撫でた。
「根拠は? 何をよりどころに信じている?」
教えて欲しい。何を心の支えにすれば、生まれ変わりだなんてそんな不確かな妄想じみたものを信じられるのか。
しかしブライアンは愚問とでも言うように笑って答えた。
「根拠? ありませんよ、そんな無粋なもの。私が信じたいと思うだけ。ただそれだけです」
こっちは真剣だというのに、馬鹿げた答えを寄越され、私は目の前がカッと赤くなった。
「ふざけるな! それじゃあただの妄想じゃないか」
「そうですね、妄想かもしれません。でも果たしてこの世に確かな根拠なんてあるんでしょうか。それこそ妄想のような気がします」
ブライアンが言葉を紡ぐ度に、思考が縺れて何が何だか分からなくなる。
「私はベスが生まれ変わってまた私のもとに戻ってきてくれた、そう信じています。信じなかったらベスはここにいません。ここにいるのはただの黒い犬です」
「つまりは単なる思い込みか……」
私は落胆してその場に膝をついた。ベスの話が本当なら、自分の前世の話も信じられるとどこかこの男に期待していた。
「でも思い込みだけでは説明できないこともあります。たとえば、ベスが初対面であるはずの私にすぐ懐いたり、訓練もなしにオメガの匂いを覚えていたり、私の足もとに寄り添う癖があったり……。偶然と言えばそうかもしれませんが、しかし私が生まれ変わりを信じていなければその偶然にすら気づかなかったでしょう。この世の全て、自分があると信じることで初めて存在する、私はそう思うのです」
詭弁だ。そう思うのに、なぜか完全に一蹴できない。この詭弁に縋りたいとさえ思っている。
「……信じれば、妄想も現実になるということか」
「ええ、少なくとも貴方の世界では。そして、貴方の世界は貴方にとって全てです。だれもがそうです。己の世界が己の全て。ならば問題ないはずです」
答えにも慰めにもならない言葉を寄越して、ブライアンは私に背を向けた。
「少し話し込んでしまいましたね。また日をあらためて伺います。夜分遅くに失礼しました」
一礼して立ち去るブライアンを見ながら、なぜかもうこの男は私の前には現れないと直感した。
ブライアンのあとを、ベスが小走りで追いかける。ベスが追いつくと、一人と一匹の黒い影が静かに重なりひとつになった。
彼らの姿が見えなくなっても、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
──この世の全て、自分があると信じることで初めて存在する、私はそう思うのです。
ブライアンの言葉が何度も頭の中で繰り返される。残響が幾重にも重なり、言葉の輪郭が朧気になる。それが不穏な気配を胸に招くが、一方でひどく甘く暗いささやきとなって私の衝動を突き動かす。私の足が自然と動き出す。向かう場所は決まっていた。
あの人の部屋に繋がるバルコニーをじっと見上げる。バルコニーの横では、不穏な気配を含んだ風に揺らされ梢が震えながら寄り添い合っていた。空からは満月の灯りが皓々と静かに闇を溶かしている。
もう自分の記憶や正気を信じられなくなった今、あの人の笑みだけが私の心の拠り所だった。あの時、バルコニーで私に向けたあのほほ笑みは確かに私の魂に向けてのものだった。そうだと信じたい。
私は木に足をかけた。もう三度目になる。いや二度目なのかもしれない。分からない。でも初めてではないのは確かで木に登るのは容易なことだった。
木の枝を伝い、バルコニーへ降り立つ。窓の向こうは闇と静寂に満ちている。
私は縋る想いで窓をコンコン、とたたいた。窓の向こうは沈黙したままだ。不安に駆られ、今度は少し強くたたいた。しかし、返ってくるのはまた沈黙。
私はその場にうずくまった。夜の海に突き落とされるような、絶望的な心細さが胸を覆う。
やはりあの人との記憶は私の妄想だったのだろうか……。そうなると、ギルバート卿への復讐に何の正当性もなくなり、私は単に番を奪うために実の父を殺したことになる。自分の狂気に震えた。しかし、それ以上に恐ろしかったのは、私とあの人に何の運命的なものもないということだ。私が妄想の中で唾棄してきたオメガとアルファという性質的な関係にすぎない番というありふれた繋がりに縋るしかないのだ。
震えを抑えるようにぎゅっと膝を抱く。膝頭に熱い涙が少し滲んだ。
カチャ。
頭上で音がした。弾けるようにして私は顔を上げた。窓一枚隔てたそこに、あの人が立っていた。私の顔を見て驚いていたが、すぐに優しい笑みを浮かべ窓を開けた。もう私たちの間を隔てるものはなかった。
歓喜と緊張、そして圧倒的な不安に、鼓動が速まる。彼がゆっくりと手を伸ばし、両手で私の顔を包んだ。そして、コツン、と額と額を重ね合わせた。私はこの温もりを知っていた。
「……やっと迎えに来てくれた。ずっと待っていたよ」
安堵の溜め息に似た声で彼が呟いた。その声に、ずっと張り詰めていた緊張や不安が溶けていく。知らず知らずのうちに涙が溢れた。
「……どうして、私を待っていてくれたのですか?」
決まりきったことだった。それでも私は訊かずにはいられなかった。彼はそんな私に呆れるでもなく、優しくほほ笑んで言った。
「そんなの決まっているじゃないか。だっておまえは俺の──」
―了―
例えるならば、夜にだけ咲く美しい花。
強い香りを放ち、人々を魅了する。
それはまさしく君なのだ
「熱いよお……」
もうダメだと思った。とても熱くて怖くて、顔を伏せるようにうずくまった。
このまま死んじゃうんだって思った。
「大丈夫か!!!」
そのとき、大人の人の声がした。
でも、顔は上げられなかった。
身体に何かかけられて、抱き上げられる。
「もう、大丈夫だよ」
すごく優しい声だった。
それと、強い香りを感じる……その香りにとても安心して助かったって思った。
◆◆◆
「ちくしょー、ダルい……」
捺那はシーツの中で呟く。
また……夢を見てしまった。
それは幼い頃に体験した夢だ。見た後は思考回路が停止するのか、何もしたくなくなってしまう。
捺那は幼い頃、火事にあっていた。
その火事で両親が亡くなった。捺那は助け出されたものの、今でも頻繁に夢に出てしまう。
部屋に射し込む光で朝だと分かっているが起きられない。
と、誰かの足音が近づいてくる。
「なーづーな! 起きろ!!」
そう怒鳴り込んできたのは、いつものうるさい幼馴染。
「鈴白うるさい」
「起こせって言ったのは自分だろ? 起こしに来てるのに何だよ、うるさいって!!」
布団の中からぼそぼそと返事をするが、鈴白は捺那の身体を揺すり続ける。
「体調不良だから……やすむ……」
捺那の体調不良攻撃に、鈴白がめっぽう弱いことは知っている。布団の中から答えると案の定。
「えっ? まじ?」
鈴白は慌てたようにバタバタと部屋を出て行った。
おそらく体温計を取りに行ったのだろう。
鈴白は幼馴染であり、保護者のような存在でもある。
毎朝のように起こしにくるし、心配性だし。
年は同じなのだが何かにつけては世話を焼いてくれる。まあ、嬉しいし、嫌でもない。
そして、再び大きな足音が戻ってきた。
もう一つの足音を引き連れて。
「捺那、具合悪いんだって?」
そう聞こえた声は鈴白ではない。
「芹さん」
捺那はあっさりとシーツから顔を出した。
そこには捺那を覗き込む芹の顔があった。
「芹さん! 帰るの後一週間先じゃ?」
捺那は嬉しそうな表情を見せる。
「予定より早く終わらせた……お前らが心配だったしな……早く帰ってきて良かったみたいだな」
芹の大きな手のひらが、捺那の額を触る。
あったかくて、少し照れてしまう。
「……鈴白、お前、そろそろ捺那の仮病くらい見抜け」
残念。
「はっ?」
芹の言葉に鈴白は驚いた顔で捺那と芹を交互に見る。
「お前、本当に捺那に甘いよな」
「仮病……なの?」
ニヤリと笑う芹に疑問形で問いかける鈴白。
「け、仮病じゃないもん!! 本当に具合悪いんだからな」
捺那は反論するが「お前、嘘つく時にどもる癖、気付いてるか?」芹にそう言われて額をパチンと指で弾かれた。
「もう! 痛いよ芹さん」
指先で弾かれるのは結構痛いもので額をさすりながら文句を言う。
「体調不良なら……夜に飯行けねーなあ、折角、美味しい店に二人を連れて行こうと思ったんだけどな」
口の端から笑みをこぼしながら、芹は捺那を見る。
「えっ? 御飯?」
パァ……と明るく可愛い顔になる捺那に、芹の悪戯な笑みは止まない。
「体調不良なんだろ?」
「夜には元気になるからいく!!」
あくまでも体調不良なのだと主張しつつ行きたいと宣言。
「えっ? 本当に仮病だったの?」
鈴白はいまだに捺那を心配そうに見つめたままだった。
「仮病じゃねーし……」
フイっと鈴白から顔を背ける。
仮病だけど仮病じゃない。心がほんの少し病気になってしまっているだけだ。
あの夢を見たから。
「仮病なら良かったって思うんだけど……捺那が病気になると心配だし」
「鈴白……ほんとお前は」
ハアーとため息をつく芹は、捺那に甘すぎると言いたげな顔だ。
でも、内心は甘くていいと思っていた。鈴白にとって捺那は……すごく大事な人だから。
二人は幼馴染で、幼い頃から一緒に暮らしている。
捺那の両親が火事で亡くなった際、両親の友人だった芹が引き取った。
鈴白は当時、四歳くらいだったが、捺那を初めて見た時から彼に惹き付けられ……過保護だと当人から言われる程にかまっている。
捺那に同情しているわけではなく、これは愛情……。鈴白はそう思っているらしいが、はっきりと言葉にした事はないようだ。
「そのうち捺那にお母さんって呼ばれるぞ」
芹は鈴白の頭をグリグリと遊ぶように撫でた。
「止めろよ」
「何だよ? 昔は好きだったろ? 頭撫でられるの? 抱っこしてえとか甘えてたくせに」
嫌がるそぶりに、芹はまた口の端を上げて笑う。
「いつの話してんだよ? くそ親父!!」
鈴白はプイっと横を向いた。
芹は鈴白の父親だが見かけが若いので父親に見られた事はない。
彼は大きな会社をいくつも経営していて、忙しくてあまり家にいなかった。
だから余計に寂しくて……たまに芹が家にいると、いつも甘えていた。
でも、それは子供の頃の話だ。
「鈴白と芹さんの喧嘩見るの好きだな……圧倒的に鈴白が敗北するから」
クスクスと笑う捺那。
「うるせえ……捺那、学校どうする? 行く? 行かない?」
「……」
捺那は芹の様子をうかがうように、チラリと視線を送った。
「芹さんが行けって言うなら行く……」
「なんだよそれは?」
答えになっていないし、自分の意思はどこに行った? なんて鈴白はぶつくさ言っている。
「行けば夕飯に連れて行ってやるよ」
芹のその言葉に、捺那は起き上がった。
さっきまでダルいと言っていたくせに、単純な。三人で出掛けられるのが嬉しいなんて、子供みたいだ。
(まあ……、子供なんだけど)
「朝ごはん何?」
「んー? 捺那の好きなもの」
ニコッと微笑む鈴白。
「やったー……って、たまには自分が好きなの作ればいいのに」
捺那はベッドから降りると鈴白の横に並んだ。
「捺那が好きな食べ物は俺も好きだから、丁度いいんだ」
鈴白が先に歩き出す。
と、芹のスマートフォンの着信が鳴る。
芹は二人に先に行けと手で合図すると、電話に出た。
◆◆◆
「まさか芹さん仕事入れちゃうんじゃない?」
一足先にリビングに降りた捺那は、芹の電話が気になってしょうがない。
「まあ……そうなったら仕方ないかもね」
「うー、やだなあ!! 断ってくんないかな?」
そう言って椅子に座ろうとする捺那に「顔、洗ってきなよ」と母親みたいな事を言う。
「へーい。芹さんが言うみたいに、今日から鈴白の事、お母さんって呼ぼうかな?」
捺那は笑いながらも素直に洗面所へと向かった。
顔を洗っている最中、タオルが無い事に気付いた。でも、忘れてきても心配はない。だって、「捺那、タオル」とこんな風に、すぐに鈴白が持って来てくれるから。
「ありがとうお母さん」
鈴白は本当にお母さんみたいだ。
「俺、鈴白が居ないとダメ人間になりそうだよね」
タオルを受け取ると笑う。
「いいよ、ダメ人間になっても……俺がずっと側にいるから」
「……鈴白、そんな顔して言うなよ……ドキッとするじゃん」
捺那は鈴白から視線をそらした。余りにも綺麗な笑顔に、見惚れそうになってしまった。
鈴白は綺麗な顔立ちをしている。それは父親の芹も同じ。
例えるならば、鈴白はしなやかで奇麗な黒豹で、芹は百獣の王ライオン。
ライオンは群れの王様だ。
「捺那の方が綺麗だよ」
鏡越しに鈴白に微笑まれた。
鈴白が言う通り、捺那も綺麗な顔立ちをしている。
女性のように線が細くて、色白で背が高い。ボーイッシュな女子だと言われれば、そう信じてしまうかもしれない。
顔に似合わず自分を俺と言う所と乱暴な言葉使いさえなければの話だが。
「鈴白、お前ってさ……天然のタラシだよな」
そうは言っても無自覚な捺那は、お世辞が過ぎると顔を拭いたタオルをぐいっと鈴白の顔に押し付け、逃げるようにリビングへ戻った。
あれ以上、あの場所にいると……鈴白にとりこまれそうになると思いながら。
◆◆◆
捺那が椅子に座ると電話を終えた芹が戻ってきた。
「鈴白は?」
「直ぐに戻ると思う」
そう言うやいなや、鈴白が戻ってきた。
「二人とも朝ご飯食べたら出掛けよう」
「は?」
芹の言葉に鈴白と捺那の声が共鳴する。
「検査だとさ」
どうやら先程の着信の理由はそれだったようだ。
「えー! 嫌だよ」
そう言ったのは鈴白。
「お前らまだ発情期もきてないだろ?」
芹の言葉に鈴白は「いいじゃん、個人差あるし」と露骨に嫌そうな顔をする。
「別に痛い検査じゃない……お前、注射嫌いだもんな」
芹は鈴白の頭をグリグリと撫でる。嫌がる事を知っているのにわざとなのだ。
「止めろよクソ親父」
鈴白は拗ねた顔で芹の手を弾いた。
「特に捺那は……ちゃんとしておかないと」
鈴白をからかいながら、芹は次に捺那に視線を向ける。
「捺那を狙ってる輩がいっぱいいるだろ? 迂闊に不特定多数の野郎が居る場所で発情期を迎えてみろ、あっという間に犯されてしまうぞ?」
「そんな事はさせないから!!」
勢い良く声を発した鈴白は、
「俺が守る」
そう真剣な顔で芹を見る。
「……お前はどこの騎士だよ」
真剣な鈴白をニヤリと笑った顔で見つめる芹。
「捺那が発情期を迎えたらお前だって冷静でいられないんだぜ? 分かってるのか?」
鈴白は悔しそうに次の言葉を飲み込んだ。
芹の言いたい事は分かる。
それは捺那がΩだからだ。
ちなみに、鈴白と芹はαだ。
αは言わずと知れたエリート。特に芹は群れの王様で、圧倒的な権力に地位と容姿を兼ね備えている。
息子の鈴白も負けず劣らず容姿は端麗。けれど、性格は芹とは正反対。
だからぶつからないんだろうな、と捺那は思っている。きっと性格も似ていたら、一緒には生活が出来ないだろう。
Ωの捺那は女性のような……いや、それ以上に美しいといつも二人に言われていた。
反面、性格は威勢が良い。口も悪くて、顔に似合わないと言われる事もしばしば。
そして一つ屋根の下、Ωとαが問題なく生活できている理由は、まだ二人とも発情期を迎えていないせいだった。
発情期は普通、十代後半から始まると言われているが、二人は十八歳を過ぎてもまだ発情期がきていない。
もし、唐突にその日がやってきた場合、適正な対処ができていなければ、平穏な家庭に最悪の未来が待っているかもしれない。
「そろそろくるかもしれない……捺那のためでも嫌か?」
芹は鈴白を見つめる。
捺那のため。そう言われると「分かった……」と返事をするしかなかった。
◆◆◆
「いい子で検査受けたら、夕飯に連れてやってやるからな」
診察室の前で芹は二人の頭を同時に撫でながら言った。
「何だよそれは……子供かよ、それに夕飯は検査に行く前からの約束だろ?」
撫でられるのが嫌な鈴白はまた芹の手を弾く。
「子供だろ? 注射が嫌いなクセに……なんだよ? 鈴白もパパとご飯に行くの実は楽しみだったわけ?」
まったく動じていないのか、芹は両手でワシャワシャと鈴白の髪を触っている。
「止めろって!!」
本気怒りで芹を睨むが彼は余裕な様子。
クソ!!!
どうしたって父親の芹には敵わない。だから「先に行く」とその場から逃げるのが一番良い方法だった。小さくなる鈴白の背中を目で追いながら、捺那はそう分析する。
「芹さんって鈴白からかうの好きだよねえ」
幼い頃から、二人はずっとこんな感じだった。両親を一度に失った捺那はうらやましくて仕方がない。
芹は捺那の寂しい気持ちを直ぐに感じ取ったのか彼の頭を撫でると自分の腕の中へとスッポリと抱き込んだ。
「捺那も大事だよ」
そう優しい声でささやく。
「俺も芹さん大事だよ……鈴白も」
たまに考える。二人が居なかったら自分はどうなっていただろうかと。
もしかしたら、生きていなかったかもしれない。
「捺那……今朝の仮病の本当の理由は何だ?」
「えっ?」
捺那は驚いて顔を上げた。直ぐ近くに芹の顔がある。
十八になる息子が居るとは思えないくらい、若くて美しい顔だ。
「怖い夢でも見たか? お前、小さい頃、怖い夢を見た朝はお腹が痛いとか色々と訴えてたろ?」
それは捺那が引き取られて直ぐの頃。火事の夢を見ては泣いていた。その度に芹が抱き締めてくれ、眠るまで一緒に居てくれた。
「……そうだったら、今夜は一緒に寝てくれるの?」
「……お前」
捺那の言葉は無邪気なようで、無意識な小悪魔が誘っているようだ。
「本当、ガキんちょだな」
ぎゅっと身体を抱き寄せた。
「芹さん……もし、発情期がきたら、俺どうなっちゃうの?」
「外には出さないな……あっという間に食われちまう」
「芹さんは? どうするの? 芹さんって発情期の時はどうしてるの?」
「お前、それ聞くか?」
子供の無邪気な質問にしては大人な内容で芹は笑いそうになる。
「聞きたい……どうしてるの? 芹さん、今パートナーが居ないでしょ? 鈴白のお母さんが亡くなってもパートナー作ってない……やっぱり鈴白のお母さんが運命の相手だったの?」
運命の相手……。
捺那が言うパートナーとは、契をかわした相手の事。
発情期の時に首の後ろを噛む事により成立する。
そして、運命の相手とは……心で、いや魂でつながっている相手。
出会えば分かると言われているが、子供の捺那にはまだイマイチ分からない。
運命の相手に出会える確率はかなり低い。
捺那はその運命の相手が芹ならいいなと思う。
「捺那は……気になる相手居るのか?」
抱き締めたままに聞く芹。
うん……居るよと言いたい。でも、そしたらきっと誰? と聞かれる。
告白するチャンスだけれど……言えない秘めた想い。
「分かんない」
「そっか……」
「運命の相手って俺にも居るのかな?」
「居るよ……きっと出会うよ」
「そうかな?」
「うん……出会えるよ」
ささやかれる甘い声。捺那は顔を上げて芹を見つめる。
「芹さん」
運命の相手は芹が良いと言いたい。
「ん?」
「……家に居ない時ってもしかしなくても発情期の時?」
「直球でくるな?」
芹はふふっと笑う。
「子供にはまだ早い内容になるな」
「……他のΩを抱いてるの?」
「捺那……」
俺にすればいいのに。俺じゃダメ?
まだ、発情期きてないからダメ?
発情期がきたら抱いてくれるかな?
そしたら早く……発情期がきたらいいのに。
「捺那、次は捺那だよ」
鈴白の声が聞こえてハッと我に返る捺那。
「ほら、行っておいで!」
芹は捺那から離れた。
離れたくはないが……発情期の時期が分かるかもしれない。
鈴白と交代で診察室に入る。
「親父……捺那と何してたの?」
鈴白が戻ってきた時、二人が抱き合っているのが視界に入った。
その瞬間……心がざわついた。
「ん? ……捺那がまた怖い夢見たんだと」
「えっ?」
理由を聞いて少し冷静になった。
「ダルいって言ってたのは精神的だな」
「そっか……」
捺那が小さい頃から火事の夢を繰り返し見ては泣いていたのを知っている。代われるものならば代わってあげたいと思った。
「安心した?」
「へ?」
「抱き合っていたから不安になったんだろ?」
ジッと自分を見つめる芹の瞳が鈴白の心を見透かしているようで狼狽える。
「ちがっ、」
そうじゃないと言いたいが芹の口からは不安になったとしか出ていない。恋愛絡みの事をまだ言われていないから言葉に困る。
「大丈夫だよ、パパは鈴白のパパだぞ!」
芹はニヤリと笑うとぎゅっと鈴白を抱き締めた。
「馬鹿!!! ちがーう! 離せえええ」
まさかの捺那に父親をとられると思われているなんでファザコンみたいで嫌だ。
ぎゅっと抱き締められた腕が強くてなかなか逃げられない。
「なんて言われた?」
「は、離せば言う」
その言葉で芹から解放された。
「いつもと変わらない」
「まだって事か?」
「そうみたい……」
「そっか」
「それはそうと、注射ないって言ったじゃん! されたからな!!」
キッと芹を睨む鈴白。それを見て芹は吹き出した。
「あはは、悪い悪い」
笑いながら芹は鈴白の頭を撫でる。いつものように手を弾かれると思っていたが、いつもの行為がなく俯いた。
「どした? そんなに注射が嫌だったか?」
鈴白は検査にくる度に注射を嫌がっていた。幼い頃は泣いては芹にしがみついていた。
「……俺って本当にαなのかな?」
「突然どうした? お前はαだよ?」
「……でも父さんみたいな感じじゃないし……まだわかんないけど、発情期がきたらどうなるの? 捺那も……どうなっちゃうの?」
鈴白はまだ、性経験がない。
発情期がまだないせいか性欲というものがないのだ。
「鈴白はちゃんとαだよ? 成績優秀だし、将来有望だって言われてるだろ?」
「……それは俺に気を使ってくれてるからだよ。成績優秀は捺那も変わらない……どちらかというと捺那の方がαっぽい。学校でも、逆に捺那に守られたりするんだ」
鈴白はため息つくと、ズルズルとその場に座り込んだ。
「鈴白……お前のダメな所はその自信のなさだ」
芹も一緒にしゃがむと、顔を伏せてうずくまる鈴白の頭を撫でる。
黙って頭を撫でさせているあたり、かなり参っているのだろう。
「鈴白、今夜は飯食ったら久しぶりに三人で寝るか?」
「は?」
その発言にようやく顔を上げた。
「良く三人で寝てただろ? 最近は全然だけど」
「それは俺達が子供だったから」
「注射を嫌がる奴はまだ子供だよ」
芹は笑う。
「うるさい!」
少し元気になったのか鈴白は芹の手を弾く。
「鈴白は元気な方がいいな」
手を弾かれたのに、芹は嬉しそうだ。
その後、捺那が戻ってきたので三人で車に戻った。
「このまま、食べに行こうか」
運転席の芹は後部座席に乗る二人に問い掛ける。
「うん」
元気に返事をしたのは捺那だ。
「捺那がいいなら行く」
鈴白も追って同意する。
「じゃあ、決まりだな」
「芹さんが運転するの久しぶりに見た」
芹には運転手が居て、三人で外出する時は運転手が車を走らせてくれていた。
もちろん、捺那と鈴白がどこかへ行く時も。
「親子水入らずもたまにいいだろ?」
「いつもの警護人もいないしね」
「俺は他人に守ってもらわなくても大丈夫なんだけどね」
「芹さんらしい発言だね」
捺那は笑い出す。
「父さん……その警護人なんだけど……学校についてくるの、止めさせてくれない? なんか大袈裟過ぎて嫌だ」
鈴白と捺那は同じ大学なのだが、芹が付けた身辺警護人が一緒についてくるのだ。
「警護人をつけてる奴らなら、他にもいっぱいいるだろ?」
「いるけど……なんか嫌だ」
鈴白はふてくされた顔でそっぽを向いた。
「でも居ると助かるじゃん! めんどくさい奴らに絡まれた時は追い払ってくれるし」
「それが嫌なんだよ!!」
鈴白は強く言葉を発した。その意味するものは……捺那を守るのは自分でありたいと思っているからだ。
美しいΩである捺那には、常に沢山の輩が群がってくる。
無理やり触られる事もしばしば……。そんな時、いつも先に蹴散らしていくのが芹に雇われた身辺警護人達だ。
「仕事しているだけなのに嫌がられて彼らも可哀想だなあ……」
芹はチラチラ見ながらに言う。
「分かってるよ……」
彼らはただ雇われの身で、芹の指示通りに仕事をしているだけなのだ。
「それに俺も結構自分で蹴散らせるしな……なんなら鈴白を守れるぜ? 鈴白だって、結構モテるじゃん? 露骨に嫌そうにするけどさ」
「俺は……捺那から守られたいんじゃない! 守りたいんだよ!」
鈴白は真剣な眼差しで捺那に訴えた。
「……だから、本当に鈴白って天然タラシ……そんな感じだから色んな奴らに言い寄られるんだろ? 自覚してる?」
「何を?」
キョトンとした顔で聞き返す鈴白を見て、こりゃダメだ……気付いていない。と捺那はため息をついた。
◆◆◆
「相変わらず、高い店」
捺那はレストランのメニューを見ながらぼやく。
「美味いもの食った方がいいだろ?」
「父さんはグルメだから……俺はその辺のファミレスでもいい」
鈴白はメニューをチラリと見たが興味なさそうだ。
「俺は鈴白のご飯が一番好きだな……鈴白はシェフとか向いてそう」
ニコッと微笑んで自分を見る捺那に照れてしまう鈴白。
「まあ、俺も鈴白の飯が一番美味いと思うな」
芹も捺那の意見に同意した。
「何? 二人して機嫌取っても何も出ないよ」
鈴白は照れたようにメニューに視線を向けた。
◆◆◆
確かに料理は美味かった。
鈴白は食べながら調味料や調理の仕方が気になった。後で自分なりに作りたいと思ったから。
「ねえ、父さん……店のオーナーと知り合いなんでしょ?」
「そうだけど?」
「じゃあ、シェフに料理の事聞ける?」
「えっ? 鈴白、こういうのも作れるの?」
捺那の目がキラキラと光る。
「作ってみたいなって」
「わあ! マジか! ねえ、芹さん、俺からもお願いします。こういうの家で食べられたら最高じゃん!」
捺那はオネダリ顔で芹を見る。
「分かったよ」
芹は立ち上がるとスタッフの元へと行った。
「えへへ、やったあ! これでまた美味しいものが食べれる」
捺那は嬉しそうに鈴白に笑いかける。
「捺那が美味しいって言ってくれるから作るの楽しいよ」
鈴白もニコッと微笑む。
「……ねえ、鈴白はさ……芹さんの仕事を継ぐの?」
「へ? 突然何?」
「鈴白はさ……本当はこういう仕事したいんじゃないかって」
「こういう仕事?」
「レストランのシェフとか」
心の奥を見透かすようにじっーと見つめる捺那。
「そりゃあ、作るの好きだけど……それは捺那や父さんのためだけだし」
ニコッと微笑んでそう返したが嘘がバレていないかドキドキと心拍数が上がっていた。
将来は芹の仕事の跡継ぎで……小さい頃からそう自然に思ってきた事だから今更、自分が何になりたいかなんて言葉にできない。
「ふーん……でも、作ってる時の鈴白は楽しそうだよ? 俺が美味しいって言えばすんごーく可愛く笑って喜ぶ。そんな顔する子がこういう仕事に興味ないとか思えない……気付いていない? 外食事の時、いつも作り方や調味料とか聞いてるじゃん? レシピ教えてもらった時なんか、すごーくいい顔してんだよ?」
捺那の指摘に「俺……そんな顔してんの?」と困惑顔で聞いた。
「うん、してるよ」
ニコッと微笑まれ……恥ずかしくて俯いた。
確かに料理作る時が一番楽しい。捺那や芹が美味しいって言ってくれたらテンション上がるし……次は何を作ろうかな? って思う。
「鈴白、捺那、おいで」
芹から呼ばれた。
シェフに会えるようだ。
鈴白は慌てて立ち上がる。
「ほら、今もすごくいい顔してるよ?」
ニコッと笑いながら指摘され、鈴白は表情を崩さないようにと凛々しい顔をして芹の元へと急いだ。
鈴白は厨房を見学しながら、作り方も教わっていた。
見聞きしている間、本当に良い顔をしている。やはり鈴白は、こっちの道にきたいんじゃないのか。隣で付き添いながら、捺那はそう考えていた。
鈴白はいい奴だ。他のαとは違う雰囲気で、居心地がいい。好きか嫌いかと問われれば、間違いなく好きだ。恋愛感情ではなく人間として……、幼馴染としての好きではあるけれど。
αは自分がαだからと威張り散らす奴や、あからさまに差別したり、Ωを自分の所有物だと勘違いしている輩が多い。
でも、鈴白は違う。
優しくておとなしくて……たまに無理して口が悪い事を言ったりするけれど、後で自己嫌悪に陥っていたりして、捺那は鈴白のそういう所も含めて好きだった。
父親の芹も同様に、自己顕示欲の塊みたいな他のα達とは違う。強くて、優しくて、平等。だから、本当にキングなのだ。当然、どんな奴らも芹には逆らってこない。
鈴白は、芹の人として優しい部分を丸々と受け継いだのかな? と捺那は思っている。
「捺那、つまんないか?」
一人離れた所でポツンといる捺那をみてか、芹が呼んだ。
「んーん。鈴白、いい顔してんなあって思って」
「ああ、楽しそうだな」
芹も鈴白を見て微笑む。
「芹さんは鈴白に仕事を継いで欲しいと思ってる? 鈴白はそのつもりみたいだけど?」
「突然どうした? そういう話を振るのも珍しいな?」
「鈴白……本当はこういう仕事したいんじゃないかって……」
これは自分が言っても良い事なのだろうか? と思ったが言葉にしてしまった。きっと、鈴白は一生言わないだろう。
「捺那は鈴白をよく見ているね」
「そりゃ、毎日一緒に居るし……アイツの作る飯美味いもん」
「そうだな、美味いよ」
「鈴白は芹さんに遠慮してる……」
「知ってるよ……鈴白が俺に引け目を感じでいる所もね」
「芹さん……やっぱ気付いていたんだ」
「そりゃ分かるよ親子だもん」
「じゃあ……もし、鈴白がこっちの道に進みたいって言ったら応援してあげてよ」
「……それはどうだろ?」
「芹さん!」
理解しているのに迷うような、いや、まるで反対するかのような言葉に捺那は強く彼の名前を呼ぶ。
「鈴白は言わないよ……ずっと胸に秘めてしまう」
「芹さん」
それは捺那も思っていた事。きっと、言わない。
「鈴白が進みたい道に進めばいいと思う、俺の仕事をやりたいと言えばそれは鈴白のやりたい道だろうし……俺はそれを受け入れるよ」
芹の言葉は冷たいようで暖かい。鈴白に無理やりやりたい事を言わせるんじゃなくて、素直な気持ちを言えばその道を歩ませる……そう言っているのだ。
「芹さんは良い父親だね」
「突然どーした?」
芹が笑う。
「俺の親父も……生きていたら進路に悩む俺にそう言ってくれんのかな?」
そう言った捺那は寂しそうで芹は頭をクシャクシャと撫でた。
「捺那はどうしたい?」
「……俺は分かんない。やりたい事も何がしたいのかも分かんないし……Ωって、容姿が良いだけの役たたずとか言われてるだろ? 仕事をちゃんとしてるΩっていないじゃん」
「ちゃんと仕事しているΩもいるよ? 誰にそんな事を吹き込まれた? 発情期がきたら有給休暇取れるとこもちゃんとある、ブラック企業ばかりじゃない! 現にウチの会社がそうだ」
「芹さん……」
「やりたい事を作らないようにしてきただけだろ? 鈴白とはまた違う意味で。Ωだからとか引け目感じる事はない……そりゃ昔は扱いがひどかったかもしれないけれど、社会は変わるんだ、捺那は良い時代に生まれたんだからやりたい事をしっかり考えるといい、俺が力になるよ」
芹は捺那の頭を抱き込んで自分の肩へ持っていく。
フワリと香る芹の甘い香り。
あれ? この香り……知ってる?
そう思った瞬間、心臓が強く脈打った。
動悸が激しくなり立っていられなくなる。
「捺那?」
立っていられない捺那はズルズルとその場に座り込む。
「鈴白! 来い! 捺那が」
芹の叫び声で鈴白は振り向き、倒れ込む捺那に気付いた。
「捺那!!」
鈴白の声が聞こえて、そこで捺那の意識は途絶えた。
◆◆◆
捺那が次に目を覚ました時、そこはいつもの寝室だった。
身体を起して周りを見るが芹や鈴白は居ない。
どうしたんだっけ? と捺那は自分に起こった事を思い出そうとする。
えーと、厨房に居て……それから?
あ、芹さんの甘い香りで何か思い出しそうだったんだ。なんだっけ?
「捺那、良かった」
鈴白の声がして顔を上げると不安げな鈴白が手に土鍋を持って立っている。
「その土鍋なに?」
鈴白の持つ土鍋を指さす。
「お腹空いてないかな?って」
「えっ? 今何時?」
「夜」
つっけんどんな答えに、思わず捺那は笑ってしまった。
笑う捺那を見て鈴白はホッとしている様子だった。
「芹さんは?」
「さっき、医者が来て……ほら、いつも俺らを診てくれる相澤先生。先生を送って行った」
「相澤先生きたのか……」
「貧血だって……俺ちゃんと栄養管理してたのになあ……ごめん」
「へ? なんで鈴白が謝るの?」
捺那はクスクス笑いながら、ありがとうと小さな声で言った。
◆◆◆
「芹、お前……いつまでこんな事を続ける気だ?」
相澤は芹に視線を向ける。
「さあ……」
ぶっきらぼうに答える芹。
相澤を病院まで送る車内、少し緊張した空気が流れている。
緊張しているのは相澤のみなのだが。
「捺那君……どう頑張ってみても発情期はくるよ……現に、芹の臭いに反応したみたいだから」
「なんだよ、打ってる薬……弱いんだな」
「馬鹿! 強いよ! これ以上は無理だよ、ずっと投与続けたらどんな後遺症が残るかも分からないのに……鈴白君だって同じだよ」
相澤は真剣な顔で芹に迫る。
検査だと連れて行かれては打たれる薬は発情期を遅らせる物だった。
十代後半でくると言われる発情期。芹はそれを二人に内緒で遅らせていたのだ。
「彼らだって、いつかは気付く……どうして他の人より発情期が遅いのかって」
「まあ……いつかは限界がくる事くらい承知の上だよ」
「芹はどうしたいんだよ?」
「二人に幸せになってもらいたいかな?」
「だったら尚更……」
「なあ……相澤、俺って狂ってるって思うか?」
芹は真剣にというか、寂しそうな顔で相澤に聞く。
「……芹らしいとは思うよ?」
「お前、それ答えになってねーだろ?」
芹は寂しい顔からいつもの彼の顔に戻った。
ふと、『俺も芹みたいにαが良かったな……芹はカッコ良くていいなあ 』
もう、随分前に言われた言葉が頭を過ぎった。
狂っていると自分でも思う……でも、狂う程に好きになった相手は一人だけだった。
『芹、月下美人って知ってる? 』
その好きな相手に聞かれた事がある。
『ないよ? 』
『 夜にしか咲かない花なんだけど、なんか芹みたいなんだよ』
そう言って笑う顔を思い出す。
その時みた花は自分というより、その好きな相手に似ていると思った。
美しくて儚げで……。
『芹はカッコ良いよ 』
いつも笑って側に居てくれたのに。
「芹?」
急に黙った芹を心配してか、相澤が顔を覗き込んでいる。
「ん?」
「大丈夫か?」
「大丈夫? 誰に向かって聞いてんだよ?」
いつもの芹の顔でニヤリと笑う。
「さて、早くお前送って帰るとするか」
芹はスピードを上げて車を走らせた。
◆◆◆
家に戻り寝室へ行くと「芹さんおかえり」と捺那が元気に芹を迎えた。
「なんだ? 鈴白寝てるのか?」
芹の視線の先にはベッドの端で顔を伏せて寝ている鈴白の姿がある。
「うん、さっきまで俺の世話で大変そうだった」
「何だその他人事みたいな言い方は」
芹は笑いながら鈴白に近付くと彼の身体を起して、自分の方へ引き寄せる。
「どうするの?」
「寝かせるよ」
芹は軽々と鈴白を抱き上げた。
「ねえ、昔みたいに三人で寝ようよ」
捺那はそう提案する。
「えっ? 捺那のベッド狭いだろ? 野郎三人は無理だ」
「リビングにマット敷けばいいじゃん! 俺やるからさ」
捺那はベッドから降りると寝る場所を作るべくマットを取りに行く。
芹は鈴白を抱いたままリビングへ。
彼をいったん、ソファーへ寝かせると捺那を手伝う。
二人でシーツを広げ、寝る場所を作る。
「三人で寝るの久しぶり」
ニコニコしながら捺那は言う。
「鈴白が嫌がるからな」
「俺は芹さんと寝たい」
「お前な、そんな誤解されるような台詞言うの止めろ」
「えー、いいじゃん! 実際寝たいし」
「はいはい、寝たいならさっさと終わらせよう」
芹はザックリと捺那の言葉を切る。
寝る場所が出来ると鈴白を寝かせた。
「芹さん真ん中ね」
「俺が真ん中かよ」
「えー? 鈴白が真ん中なの?」
不満そうに言う捺那。
「分かった、じゃあ俺が真ん中」
捺那が拗ねてしまうのも嫌なので芹は真ん中に寝る事にした。
◆◆◆
「えへへ、嬉しい」
川の字になりリビングに寝る捺那は子供のようにはしゃいでいる。
「子供みたいだな捺那は」
「だって嬉しいんだもん! 芹さん仕事忙しいしさこうやって一緒に居れるのは」
捺那は芹にくっついてくる。
「鈴白は嫌がるのになあ」
「鈴白も嬉しいと思うよ? 素直に言えないだけで」
「それならいいけど」
「ねえ、芹さん……」
「ん?」
「昔みたいにギュッてして」
捺那は甘えるような口調で告げる。
「仕方ないなあ」
芹は横向きに体勢を変えると捺那を抱き寄せる。
「……芹さん香水つけてる?」
「ん? つけてないよ」
「すごく甘い匂いする」
「そうか? シャンプーの匂いじゃないか」
「ううん、違う」
捺那は芹の胸に顔を埋める。
「この匂い……どこかで嗅いだ気がする」
「家の匂いだろ」
「いや、芹さんからするもん」
捺那は顔を上げて芹を見つめる。
「芹さん……チュウして……」
「はい?」
「急に芹さんとキスしたくなった」
「捺那……」
「ダメ?」
「ダメ」
芹は優しく笑う。
「どうして?」
「捺那にはできないよ」
「なんで? 俺が発情期もきてない子供だから?」
「違うよ……鈴白が捺那を好きだから」
「……何それ?」
「気付いているんだろ? 鈴白の気持ち」
「……」
捺那は答えない。
鈴白の気持ち……気付いている。嬉しいと思う。思うけれど……芹が気になって。いつも、芹の事ばかり考えてしまう。
「捺那、俺を好きになるな」
「なんで?」
「そんな資格、俺にはないから」
「何? その資格とか……人を好きなるのにそんな物必要?」
「いるよ……俺は狂ってる……そんな奴を好きになるな」
「……なにそれ? 意味わかんないよ」
捺那は泣きそうで、そんな捺那の額に芹はキスをした。
「これで勘弁な」
そう言って捺那をギュッと抱き締めた。
子供扱いして!! と捺那は悔しかった。
芹みたいな大人だったら、好きになってくれたかな?
「意地悪」
捺那は芹にギュッとしがみついた。
それからしばらくして捺那は眠ってしまった。
芹はそっと捺那から離れ、仰向けに寝かせる。
「ん……」
ちょうど鈴白が寝返りを打ち、芹の方へ身体を向けた。
鈴白の寝顔を見つめる芹。
大きくなったな……と思う。小さい頃の彼は泣き虫で仕事に行く芹にしがみついては行かないでと泣いていた。
鈴白の髪を撫でる。
昔は撫でられるのが好きで「パパぁ、ヨシヨシしてぇ」と頭を手のひらの下へと持ってきていた。
すごく可愛くて愛おしい。
「ごめんな鈴白……」
芹は髪を撫でながら謝る。撫でた手のひらは頬に……そして、そのまま芹は鈴白の唇にキスをした。
◆◆◆
なんじゃこりゃ……!!! と鈴白は心の中で叫んでいた。
目を開けると芹のどアップ。
はあ? 何で? と思った。
しっかりと抱き締められていて、どうしてこういう状況なのかと考えても分からない。それは当然の事で、鈴白は寝ていたのだから何も知らないのだ。
しかもリビングに寝ている。
芹の腕の中からなんとか抜け出し起き上がる。
芹の後ろに捺那が眠っていて、どうせなら捺那の横が良かったなあ……なんて思ってしまった。
しかし、どうしてリビングに寝ていたのだろう? わざわざ、マットまで敷いて。
鈴白は立ち上がるとそっと、その場から離れた。
時計は朝の五時。
朝食作るのには早すぎるよな……とコーヒーを煎れる。
「俺の分も」
真後ろから芹の声。
振り向くといつの間にか芹が居た。
「起きてた?」
「お前がゴソゴソ動くから起きた」
芹はテーブル席に座る。
「何で俺にくっついて寝てたんだよ?」
「たまにはいいだろ? 親子のコミュニケーション」
「アホか! いくつだと思ってんだよ」
呆れ顔で芹の分のコーヒーを煎れる。
「いくつになっても子供は可愛いんだよ」
「あっそ」
そのまま不貞腐れた顔でコーヒーカップを渡した。
「昨日、習ったやつ作れよ」
「はあ? 今から?」
「夜」
「帰ってくんの?」
「帰ってきちゃ嫌か?」
「そうじゃないけど……仕事は?」
「今はそんなに忙しくないんだよ」
「ふーん……じゃあ、作る」
「楽しみだな」
そう言って芹は少し間を開けて「鈴白、何か俺に言いたい事とかないのか?」と聞いた。
「何それ?」
急な質問にキョトンとする鈴白。
「何かないのか?」
じっーと芹が見つめてくる。まるで心の奥を探るように。
それが怖くて「何もない」と視線をそらした。
「そうか」
芹はそう言った後、もう何も聞いて来なかった。
◆◆◆
「あれ? 芹さんは?」
捺那が起きてきた。
「仕事」
「だよねえ」
捺那はガッカリした顔で椅子に座る。
「コーヒーと紅茶どっちがいい?」
「ホットミルク」
「選択肢にないもの言って」
鈴白は笑いながら冷蔵庫を開け、牛乳のパックを取り出す。
「でも、夜は帰ってくるってさ」
「本当に? やった!」
捺那は両手を上げて喜ぶ。
「ちぇっ、捺那は本当、親父好きだよなあ」
「鈴白も好きだろ? 芹さん」
「まあ……そりゃあね」
父親だし……。
尊敬もするし、カッコイイとも思う。
でも……好きな相手がこんな風に感情を出して好きって言うのは面白くはない。
「鈴白、お腹空いた」
「はいはい」
捺那の子供みたいなオネダリに一瞬にして芹に感じていたヤキモチが消えた。
単純だと自分でも思う。
◆◆◆
「弁当も作ってみました!」
朝食を終え、出掛ける支度をする捺那の目の前に弁当箱を差し出す。
「鈴白、良いお嫁さんになれそう」
「お前なあ」
「ありがとう」
お嫁さんという言葉に文句を言おうとしたがまた、可愛い笑顔で何も言えなくなる。
惚れた弱みってこういう事? なんて思った。
◆◆◆
大学へ行くと「鈴白、捺那昨日どーしたんだよ?」と友人達にそれぞれ聞かれた。
病院に検査に行ったなんて言うのも嫌だから「家族で出掛ける用事があったから」とごまかした。
「やっぱ、お前らいると華やかだな」
友人の一人がそう言った。
「何それ? 華やかな奴ら沢山いるだろ? パーティピーポーみたいな?」
鈴白は笑いながら言う。
「それとは違う華やかだよ! お前ら目立つもんなあ」
「何その目立つって?」
「捺那は女子より綺麗だし、鈴白、お前もさ」
捺那は分かる……しかし、自分はどうなんだ? と鈴白には自分の魅力が分からない。
「何だよ? 鈴白狙ってる奴らまだいんの?」
鈴白の横で黙って聞いていた捺那が嫌そうに言う。
「そりゃ居るだろ? 鈴白フリーだし」
大学生となればカップリングは沢山存在していて、既に番と呼ばれるカップルも在籍している。
「鈴白はダメだからな」
捺那は威嚇する。
「お前らをカップルだと思ってる奴らもいるけど、捺那も鈴白もフリーだろ? 早いとこ相手見つけなきゃこの面倒くさいのは続くぞ?」
友人に言われ確かに面倒くさいと鈴白は思う。
好きでもない相手に擦り寄られても迷惑なだけ。
「そうだな」
鈴白は爽やかに笑うと捺那を促し、歩き出す。
後から相変わらず、身辺警護人が付いてくる。
本当に面倒くさい……何もかも……面倒くさいとたまに思う。
男女が集まる場所に来るとこういう話題しかない。
発情期がどうとか、番とか……。本当に人は性欲しかないのかな? と嫌になる。
誰と誰がくっついたとか……そんなの興味はない。
学校に相手を探しに来ているようで嫌なのだ。
勉強する所だろ? 集団行動とか一般常識を学ぶ所だろ? と言ってやりたい。
「鈴白、そっち講義室じゃないよ?」
「ん? 屋上行こうかな? って天気いいじゃん」
「へー、珍しいね鈴白がサボるの」
捺那は何だか嬉しそうな顔をしている。
「空の下で弁当食べると美味しいと思って」
サボる理由を口にする。
捺那はこういう事が好きなので止めもしないし、「行こう」と張り切るのだ。
◆◆◆
屋上へと出る。
芹が雇った警護人は干渉はしてこない。危険が及んだ時にだけ出て来てくれる。だから、サボった事はバレない。
付いて来られるのは好きではないが彼らも仕事だと分かっているし、何より仕事熱心なので嫌いでもない。
守られながらお昼食べるのは慣れてきた。
「天気いいねえ」
捺那は空を見上げている。
「そうだね」
鈴白は持ってきた弁当を広げた。
「すげえ、豪華」
捺那は目をキラキラさせて弁当箱を見つめる。
「父さんにも同じ物渡した」
「芹さん喜んだでしょ? 鈴白の料理好きだから」
「喜んでた」
「でしょう? 何から食べようかなあ」
ワクワクしながら弁当のおかずを選ぶ捺那を見ながら「父さんに何か言った?」と聞く。
「先ずは唐揚げだな……何が?」
鳥の唐揚げを箸で掴むと聞き返す。
「今朝……何か言いたい事はないかって聞かれたからさ」
「何か言いたい事? 鈴白あるの?」
捺那はしれっと嘘をつく。芹が何か言いたい事はないかと聞いたのは確実に捺那が言った事に影響されている。
「……ないけど」
鈴白はプチトマトを手にすると口に運ぶ。
「唐揚げうまっ!!!」
鳥の唐揚げを食べた捺那は感動で声が大きくなる。
「ありがとう」
捺那はいつも大袈裟というかかなり、嬉しくなる反応をしてくれるから作りがいがある。
そして、本当に美味しそうに食べてくれるのだ。
「鈴白の作る唐揚げが一番好きだなあ……どこで食べるより本当に美味しい」
「大袈裟だな」
笑いながらに言うけれど、かなり嬉しい。
捺那は結構な大食い。少食そうに見える癖にラーメンの後に定食を軽く平らげる。
あっという間に弁当は空になった。
「相変わらずのいい食いっぷり」
「そりゃあ、美味いからな」
満足げにお腹をポンポンと二回叩く捺那。
「で、サボった理由は何?」
「えっ? 何が?」
「鈴白ってクソ真面目じゃんか! 皆サボる事も鈴白はサボらない、教授達の中で鈴白ってすごく優秀な生徒なんだぜ? 知ってた?」
「なんじゃそりゃ……知らないし……俺は真面目じゃないよ……ただ、知らない事を知っていくって楽しいから」
「本当に自覚ないんだなあ鈴白って……そういう発言が真面目なんだって」
捺那は笑いながら鈴白の背中をバンバン叩く。
「捺那は知らない事知るの楽しくない?」
「楽しいよ? 楽しいけれど怖い」
「えっ?」
怖い……そんな事思った事もない鈴白は少し驚く。知る事を怖いなんて思った事は一度もない。
「知らなくていい事もありそうだし……俺はどうしても先が分からないんだ」
「何それ? なんで?」
「……俺ね、小学校低学年の頃に大人が話しているのを聞いたんだ……Ωはあまり役に立っていないって……高学年になると性教育されるじゃん? 男女の身体の違いもそうだけど、αとかΩとかβとかさ……その時、ああ、俺って人と違うんだって思った」
「……何だよそれ……誰が言ったんだよ? 大人って先生達?」
鈴白は顔面蒼白で声が震えていた。
鈴白も学校で習った。小学生の時はクラスは違ったからどんな風に説明していたのか分からない。鈴白のクラスの先生は多少違いがあるだけで、皆同じだと教えていた。差別なんてしていなかった。
捺那のクラスの先生が常識ある先生だったのか? と今更だけれど、捺那が言う大人は先生しかいない。
教育者なのに。将来、自分の言葉に左右されるとか考えれば分かる事だ。
「Ωはただ、発情期の時だけのほんの一時だけじゃん何も出来なくなるのは……あとは何も変わらない!」
「何で……鈴白がそんな傷ついた顔をしてんの?」
捺那は鈴白をギュッと抱き締めた。
「だって」
「鈴白と芹さんはやっぱり親子だよね」
「はあ? 何でここで父さんが出てくるんだよ」
「芹さんに言われたんだ……俺が将来何になりたいか分からないし、考えてられないって言ったら。別にΩを理由にして諦めているつもりはないよ? ただ……どんなに頑張ってもαみたいな地位につけるわけじゃないし……あ、嫌味じゃないからね? どうしても子供の頃に聞いた、どんなに頑張っても報われないのがΩだって言葉が離れない」
「本当、誰だよ! そんな事言った奴!! 殴ってやるから」
「馬鹿……そんなの殴る価値ないじゃん、鈴白が傷つくよ」
興奮する鈴白をギュッと抱き込む。
捺那はこんな時でも優しい。
「今の俺だったら、そいつを自分で殴ってやってるよ……あの頃は子供だったからさ」
捺那は鈴白の頭をポンポンと軽く叩いた。
「捺那……」
鈴白は捺那を見つめる。
すごく綺麗で……そして、誰かに似ているとも思った。
顔が? 生き方が? 雰囲気?
ああ、言葉だと誰かに似ているという誰かを思い出した。
芹だ。
芹が自分で殴るってよく使っていた気がする。
他人を巻き込みたくない彼は誰かが傷つくならば自分が全てやるタイプだ。
潔くてカッコイイ。
「捺那は綺麗だけど、男前だよね」
捺那に微笑む鈴白。
「なんじゃそりゃ?」
捺那も思わず笑う。
「……なんか、甘い匂いする」
鈴白は捺那の首筋に鼻を近付けた。
「甘い匂い? どーなつ?」
「何でどーなつ?」
クスクス笑う鈴白。でも、本当に甘い匂いがする。
「捺那の匂い?」
首筋からほのかに香る甘い匂い。それはすごく良い香りで心臓がドキドキしてくるのだ。
「鈴白?」
首筋から離れない鈴白に声をかける。
ペロっとした感触がして「なに?」と捺那は驚く。
ペロとした感触は首筋を這い、口元へ。
「すず……」
彼の名前を呼ぶ前に唇を塞がれた。
突然の事に捺那は戸惑った。唇に触れる鈴白の熱い唇……そして、ぬるりと舌が中に入ってきた。
その舌は捺那の舌を掴まえると絡んできた。
「んんっ……」
熱い……すごく熱い感覚。
嫌だと突き飛ばしてもいいはずなのに……捺那も気持ち良くなってきて、鈴白をギュッと更に強く抱き締めながら自分も舌を絡めた。
絡み合う音が互いの耳に届く。
しばらくして唇が離れたがどちらともなくまた、キスを求めた。
そして、いつの間にか鈴白が下で捺那が上に乗り、抱き合ってキスを何度も繰り返した。
◆◆◆
お昼の予鈴が鳴って、二人は我に返る。
上に居る捺那は真っ赤な顔をして鈴白から離れた。
鈴白も起き上がる。
そして、しばし流れる沈黙の時間。
「……ちょ、何か話してよ」
黙っているのがもどかしいのか捺那が言葉を発した。
「……ごめん、なんか匂いにおかしくなって」
鈴白は俯いたままに答える。
「何で謝るんだよ?」
「だって、初めてだろ? キス……」
「す、鈴白だってそうだろーが!」
「そうだけど……初めてのキスを奪っちゃった感じになって……その」
その後はモゴモゴと言葉に出来ない鈴白。
「……何? 後悔してんの?」
「し、してない」
鈴白は顔を上げて捺那を見た。
「やっとこっち見た」
捺那は鈴白に微笑む。
その顔に鈴白は顔を赤らめる。
「何、その顔……可愛いんだけど」
顔が赤い鈴白が可愛くて、ついそう言った。
「か、可愛いとか言うな」
鈴白はまた視線をそらすようにそっぽを向く。
「鈴白、こっち見てよ」
捺那は鈴白の肩に手を置く。
こっち見て言われても恥ずかしくて見れない。
「……キス、気持ち良かった」
思わず吹き出しそうになった捺那の言葉。
「鈴白、本当に初めて? すごく気持ち良かったけど?」
「は、初めてだよ!」
鈴白は捺那の顔の方を向くと必死に言った。
「あはは、鈴白をこっち向かせるの楽勝な気がしてきた」
ニコッと微笑まれて鈴白は「何だよそれは……恥ずかしいだろ」と顔は背けなかったが目を伏せた。
「鈴白、まつ毛長いよね」
目を伏せた鈴白のまつ毛は長くてクルリと上へ向いている。
「捺那の方が長いだろ!」
目線を上げると「ね? 楽勝」と捺那はイタズラっ子みたいに笑う。
やっぱ……敵わないな。と鈴白も釣られて笑った。
「とりあえず、戻ろう?」
捺那は立ち上がる。
「うん」
鈴白も立ち上がった。
屋上から戻るためにドアを開けるとそこに芹が雇った身辺警護人の二人が居てキスしていたのを見られたんじゃないかな? って顔が熱くなる鈴白。
捺那をチラリと見るが何時もと変わらない。流石……捺那と思った。
彼らの間をすり抜けて中へ戻る。
鈴白は講義に出ようにも途中だしな……なんて考えながら「図書室行っていい?」本を探しながら時間をつぶそうかな? と思った。
「いいよ」
捺那と別行動しても良いのだが、今離れると次にまた照れてしまうかもしれないと彼を誘う。
◆◆◆
「鈴白、本好きだよね」
「うん」
図書室には講義に出なかった子や次の講義待の子達が結構居た。
「ちょっと、本探してくる」
鈴白は捺那にそう言って本が沢山並ぶ棚へと向かう。
その間、捺那は椅子に座り、ポケットからスマホを取り出す。
芹さん……仕事中かなあ?
俺……キスしちゃったよ芹さん。昨日、芹さんにキスねだったのに。
鈴白が照れるから捺那は照れる事を忘れていた……そして、今頃、キスしたという事実を真っ向から受け止めてしまったものだから顔が熱くなってきた。
◆◆◆
本を探している鈴白の肩を誰か叩いた。
振り向くと知らない男性。
誰だろう? と首を傾げる。
「これ、君のだろ?」
男性は鈴白に学生証を差し出す。
「えっ? あっ、俺の」
いつ落としたのだろう? と受け取ると「ありがとうございます」と頭を下げる。
「芹さん元気?」
「えっ?」
知らない男性から芹の名前が出て、芹の知り合いかと思う。確かに年齢が芹に近いかな?
「……父の知り合いですか?」
恐る恐る聞いてみた。
「何? 警戒してる?」
男性はニコッと静かに微笑んだ。
「……あの」
警戒はするだろう? 知らない相手だから。と言いたいけれどそれは言えない。
「ふふ、困らせちゃってるね。ごめんね」
男性は鈴白の横を通り過ぎる途中で「君、αだよね?」と聞いた。
「えっ?」
「αっぽさがないなあって……そのΩ特有の綺麗さとか……出ちゃってるし」
「何が言いたいんですか?」
鈴白はなぜか心臓がバクバクと速まるのを感じていた。
「君の秘密……知ってるからさ」
「は?」
俺の秘密?
秘密って何?
「鈴白、本見つかった?」
捺那の声が聞こえ、「じゃあーね」と男性は鈴白から離れた。
秘密の意味を知りたいと思った。でも、それは知ってはいけないと本能が教えているのか足が動かない。
「鈴白?」
捺那が側にきて肩を叩いた。
「捺那……」
「何?」
「……気持ち悪い……」
鈴白はその場に座り込んだ。
捺那が直ぐに身辺警護人の二人を呼び、三人がかりで鈴白を連れ帰った。
◆◆◆
君ってαだよね?
どうして、あの人はあんな事を聞いたのだろう?
俺の秘密って何?
Ω特有って何?
……でも、自分でも自分がαなのかな? と感じた事があった。
Ωの捺那の方がαっぽくて……でも、捺那もΩ特有の美しさがある。
顔立ちが女性に近いαも居るし……そもそも、芹が顔立ち良いのだからと思う。
「鈴白、大丈夫?」
目を開けた鈴白の視界に飛び込んだのは捺那の心配そうな顔。
「捺那……」
「目が覚めたって先生と芹さん呼んでくるね」
捺那はバタバタと走って行った。
自分の部屋に居るな……と身体を少し起こして周りを見た。
図書室で気分悪くなったんだと思い出す。
ああ、そうだ……あの知らない人に声をかけられて、その後に気持ち悪くなったんだ。
「鈴白、大丈夫か?」
芹の声が聞こえて、彼の手のひらが額に当てられた。
「……仕事は?」
「何言ってんだ、もう終わったよ」
「えっ? 今、何時?」
「夜九時」
「えっ! 夕飯」
鈴白は起き上がろうとしたが芹に押さえられた。
「お前、熱あるんだから」
「鈴白君」
芹の後ろから相澤の声。
「先生……」
「診察していいかい?」
「はい……」
まさか、また注射? と鈴白は少し身構える。でも、脈や触診だけで注射はなくてホッとした。
「……もしかして、匂いとかに反応した?」
相澤の言葉に一気に捺那とのキスを思い出して顔が熱くなる。
「あはは、正直だね……」
相澤はそう言って笑うと「発情期……もう直ぐ来るのかもな」と芹を見る。
発情期……。
その言葉で、自分のあの行動の意味が分かった。
発情期で捺那にキスしてしまったのか?
えっ? 発情期って……誰にでもああなるの?
嘘だろ? と鈴白はショックを受ける。
もし、あの時、捺那じゃなくて他の誰かだったら、その時も無我夢中でキスをしたのだろうか?
「やだ……」
ボソッと小さく声にした。
嫌だ……あんな風に見境なくなるのが発情期なら、こない方がいい。
「鈴白? どうした?」
鈴白の様子がおかしい事に気付いた芹は鈴白の顔を覗き込む。
「は、発情期って……やだ」
「鈴白……」
「なんか、怖い」
それは鈴白の本音。迎えた事もない発情期が怖い。自分が自分でなくなりそうで怖い。
「鈴白君大丈夫だよ、落ち着いて」
相澤が芹と鈴白の間に入った。
「匂いに反応するのは無差別かもしれないって思っているんだろ?」
まさにズバリな質問。
「確かに惑わされるかもしれないけれど、ちゃんと耐えられるよ、君が反応したのは相手を好きだからだよ」
「えっ?」
「捺那君の匂いに反応しちゃったんだろ? 彼も発情期そろそろみたいだから、それに君も反応しちゃったんだよ」
捺那も発情期?
えっ? えっ? ……じゃあ、捺那があんなに乱れたのは……うひゃー!!! と一気に顔が赤くなる。
「なるほど……相手は捺那か」
芹がニヤリと笑う。
父親に知られてしまうのはかなり恥ずかしいものだった。
ちくしょー!!!
鈴白はシーツをかぶって隠れたかった。
「身体がビックリしただけだから熱も直ぐに下がるよ……でも、念のために明日は安静にしててね」
相澤に言われて鈴白は頷くしかない。
「芹、後で話がある」
相澤は芹にそう言うと相澤は部屋を出て行った。
「何だよ、何ニヤニヤしてんだよ」
ニヤニヤしながら自分を見ている芹がすごく嫌だった。絶対にからかいそうだし、父親に知られるのはやはり恥ずかしい。
「そうか、鈴白ももう大人か」
やはり頭をグリグリ撫でられた。
「もう! 止めろってば!!」
鈴白は手を弾くと「寝る!」とシーツを頭からかぶった。
「何怒ってんだよ」
「怒ってない!」
「じゃあ、照れてる?」
「あー、もううるさい! あっち行けよ」
「はいはい」
これ以上からかうと本気で怒りそうなので芹は部屋を出ようとする。
「父さん……」
「何?」
「俺ってαだよね?」
「どうした急に?」
「αだよね?」
もう一度聞く鈴白。
「そうだよ? ちゃんと検査の結果を見ただろ?」
「……ならいい」
鈴白はそれ以上何も言ってこないのでが「おやすみ」と言葉をかけて、芹は彼の部屋を出る。
◆◆◆
捺那も相澤に話を聞いていた。
やはり……あの時のキスはそうなのかと思った。
クソ!! 思い出しちゃうだろう?
図書室でも思い出して悶え死にそうだった。
いつもおとなしい鈴白があの時はすごく男らしくて激しくて……ドキッとした。
「明日、捺那君、病院へおいで」
「鈴白も?」
「鈴白君は熱下がらなかったらね……でも、君は発情期を迎えたら大変だから」
ああ……そうか。とαとΩの違いをまた思い知らされる。
「分かりました」
「捺那、相澤を送ってくるから鈴白を頼む」
芹が戻ってきた。
「うん、分かった」
芹と入れ代わりに捺那は鈴白の部屋に入る。
◆◆◆
「鈴白、お腹空いてない?」
ベッドに近付き、声をかける。
「父さんは?」
「先生送って行ったよ」
その言葉で鈴白はシーツから顔を出す。
「昨日と逆だね」
捺那はベッドの端に座った。
「うん、そうだね」
「お粥作ろうか? 鈴白みたいに美味く作れないと思うけど」
捺那は立ち上がる。
「行かないで」
捺那の手をギュッと掴む鈴白。
「どうしたの?」
捺那がそう聞いた時に掴まれた手を勢い良く引っ張られて鈴白の上に覆いかぶさる形になった。
「うわっ」
いきなりだったので驚いて声を上げる捺那。
「寝るまで側に居て」
鈴白は自分の上に居る捺那をギュッと抱き締める。
「なんか……あった?」
「……」
鈴白は答えない。
「いいよ、一緒に居てあげる」
捺那は鈴白の上から横へ移動をし、シーツの中へ入ってきた。
「本当に具合が悪いんだね……鈴白が甘える時って具合悪い時だから……ほら、良く芹さんに抱きついてた」
話し掛ける捺那だが、鈴白は黙って彼の胸に顔を寄せる。
可愛い仕草に捺那はその頭を抱き締める。
そして、ヨシヨシと頭を撫でた。
「捺那……発情期って怖くない?」
「えっ?」
「キス……したの発情期だったから。俺見境ない感じがして相澤先生に発情期がくるからって言われた時に怖かったんだ……自分じゃないみたいで」
「鈴白……」
「もし、あの場所に捺那以外が居てもああなるのかな? って」
鈴白が心配になるのは仕方がない事。まだ、体験をしていないから。
未知の事を知ったりすると不安というか何か得体のしれないモノがやってくる恐怖で身体が強ばってしまう。
「……俺の匂いに反応したんだと思う。俺も怖い……もし、鈴白や芹さんが居ないとこで発情期を迎えちゃったら……好きでもないαを誘っちゃうのかな? って……鈴白がαだから俺の匂いに誘発されちゃったんだ」
「相澤先生は好きな相手だから匂いに反応したんだって言ってくれた」
鈴白は顔を上げて捺那を見つめる。
それは遠回しだが告白だ。
ずっと、幼馴染として……いや、家族に近い存在で生活してきたけれど、好きな気持ちは変わらない。
発情期が来なかったら言わずにいたかな? なんても思う。
じゃあ、これも……発情期のせい?
好きだから一緒に居たい、何かしてあげたい。ご飯を一緒に食べたい。遊びたい……そんな性欲がない好きから、キスしたい……触りたい……その先もの、性欲が混じった好きに変わる。
自然の流れなのだろうけれど、今まで感じた事がない欲に気付くのは怖くもある。
自分が自分でなくなるような不安と恐怖。
「……わ、わかんないけど、俺……気持ち良かったんだ鈴白とキスして……嫌じゃなかった。すごく……俺……」
捺那も鈴白を見つめ返して、そのまま自然にキスを交わした。
軽いキスから離れると「今のキスも嫌じゃない……これって俺が淫乱だからかな?」捺那は真剣な顔で鈴白に聞く。
「捺那は淫乱じゃないよ」
「本当? 淫らに他の誰か誘ったりしないよね?」
捺那も不安を言葉にする。
「何時も側に居るから……」
「鈴白が側に居てくれるなら怖くないかな?」
ふふっと笑う捺那。
「ねえ、俺がαだから捺那の匂いに反応したんだよね」
「えっ? またそこ蒸し返す?」
「今日……知らない人に君は本当にα? って聞かれたから」
「えっ? 何それ?」
捺那は驚いたように声を上げる。
「綺麗な人だった……父さんを知ってるみたいだった……誰なんだろう?」
君の秘密……って、俺の秘密って何?
それが気になるし、不安だ。
「鈴白はαだろ! 病院で検査してるんだし」
「うん……そうなんだけど」
「そいつ、何でそんな事言ったの?」
「俺にΩ特有の特徴があるからって」
「何それ?」
「俺がΩ特有の綺麗さがあるからって……俺って綺麗とか言われても……」
「確かに鈴白は綺麗だけど、それは芹さんに似てるからじゃん!」
芹に似ている。本当かな? 性格も気品も迫力も何もかも似ていないのに?
顔つきだって似ている所がない。
「父さんと俺って顔は似ていないよ?」
「鈴白は母親似なんでしょ? 前に芹さんが言ってたよ、そっくりだって」
「俺……知らないんだ母さんの顔」
「あっ……」
確かにと捺那も言いそうになる。
家に鈴白の母親の写真が一枚もないのだ。
「前にどうして写真がないのか聞いたら自分が思い出して辛くなるからって言われて」
「そっか、鈴白も恋しがるからかな?」
「……恋しがるって俺を産んで直ぐに事故で亡くなったって言ってたから思い出も何もないよ? 捺那は覚えてる? その……」
鈴白が戸惑いながらに聞く捺那の両親の事。
火事で亡くなった捺那の両親。
「うん、ところどころはね……全部は覚えてないよ? 遊園地連れて行ってもらった事とか……お母さんの作るケーキが美味しかったとか、お父さんが玩具をいつも買ってくれたとかそんな事ばっかなら覚えてる」
「顔は覚えてるだろ?」
「……うん、でも、薄らとだよ。小さかったから……写真、燃えちゃったからないけど」
捺那の声が急に元気がなくなって「ごめん」と鈴白は慌てて捺那をギュッと抱き締めた。
「悲しい事思い出させた」
「……ううん」
捺那は鈴白の胸に顔を埋める。
「……鈴白、やっぱいい匂いする……発情期?」
捺那はクンクンと匂いを嗅ぐ。
芹もこんな匂いをさせていた。
あれ? じゃあ、あの時……芹さん発情期だった?
「芹さん……発情期の時って帰ってこないよね……。俺、気付いたんだ。半年に一度だよね? 発情期って。芹さん、半年に一度、全く帰って来なかった日があったのはそういう事かって思った」
「えっ? えっ?」
突然の父親の発情期とか……恥ずかしいし、あまり聞きたくはない話題。
「何時もは一緒に居るのに……仕事って言ってたけど、本当は発情期のためだったんだね……多分、子供の俺達に影響与えないようにさ」
鈴白は芹の発情期とか考えた事はなかった。
父親だし、性の事なんて気にしていなかった。
「大変なんだな……発情期とかやっぱり」
捺那は改めて感じた。
αである芹の匂いに自分も反応してしまったから……もし、それにもっと早く気付いていたら発情期はもっと早くきたのだろうか?
「捺那は……父さんが好き?」
「えっ?」
「見ていて……分かるよ、捺那が父さんが好きだって……俺、気付かないようにしていたけどさ、父さんには敵わないし」
「鈴白……」
「でも、でも、俺も捺那が好きだ」
鈴白は捺那を抱き締める。
その時にまたフワリと甘い香りを放った。
「……鈴白……すごく甘い……」
捺那は鈴白に手を伸ばして頬に手をあてる。
そして、鈴白にキスをする。
軽くキスされ、鈴白は離れそうになる唇に自分から強く押し付けると捺那を組み敷いた。
軽いキスから屋上の時のような激しいキスに変わる。
捺那は鈴白の首筋に両手を回し、自らも舌を鈴白の口内へ入れると絡ませた。
絡み合う舌は生き物みたいだった。
◆◆◆
「だから言ったろ? 遅らせても結局は来るんだから」
車内で相澤は運転する芹に言う。
「……発情期、遅らせたのは俺のためだ」
「は?」
「……発情期がきてしまったら俺が抑えられなくなるだろ? 何のために半年に一度あの子達から離れていたと……理性がきかなくなって……抱いてしまいそうになる」
「芹……」
「……俺はきっと狂ってる。また、同じ過ちを繰り返すんだ」
もう、自分でもどうしようもない。
きっと、このままじゃ、鈴白を無理やり抱いてしまいそうだ。
また……同じ過ちを繰り返す。
俺はただ……もう一度、あの笑顔が見たかっただけなんだ。
もう一度、望んだ道を歩んで欲しかったんだ。
『 芹はカッコイイね』
そう言ってまた笑って欲しかっただけなんだ。
でも……それは全て俺のエゴだ。
◆◆◆
「ほら、コーヒー」
相澤は芹にコーヒーを渡す。
芹は相澤のマンションに来ていた。
「お前が取り乱すの見るの好きだぜ?」
ふふっと笑う相澤。
「ドSかよ」
コーヒーを飲みながらに言う。
「芹もドSだけど、精神的ドMだよな」
「なんだよ、それは」
「自分で自分を追い込むドM」
「クソったれ」
芹は笑う。
……ふと、香りがした。
「この匂い……」
芹はその匂いに反応する。
「匂い?」
相澤はキョトンとする。何を言っているのだろうという顔で。
「花の匂い……」
「あっ!」
花の匂いという言葉で相澤はベランダを開けた。
開けた瞬間、匂いが部屋に入り込んできた。
「芹、鼻いいなあ……ちょうど、花が咲いてる」
「……いや、お前の鼻がおかしいんだよ、こんなに強い花の香りなのに」
芹は呆れ顔で相澤を見る。
「コーヒー挽いてただろーが!」
と匂いに気付かなかったのはコーヒーのせいだと主張する。
「久しぶりに見たな……なんでお前がこの花育ててるんだよ?」
「月下美人? 知り合いに苗をもらったんだよ」
相澤のベランダに咲くのは月下美人。
夜にしか咲かない花。
「この花ってお前みたいだよな」
「は?」
「花言葉は秘めた情熱っていうんだよ、一晩で花を散らす潔さと、気品に溢れている姿と匂いの強さ……。うん、芹っぽい」
相澤はそう言って笑う。
『 芹みたいだよね』
前にも言われた。
「はかない恋……」
「ああ、その花言葉もだな」
はかない恋。秘めた情熱。
俺よりもアイツに似合う言葉。
手に届かない存在。
「芹?」
「鈴鳴が好きだった花だよ」
芹はそう言ってベランダの窓を閉めた。閉めても香りは残っている。
この香りは良く似ている。
鈴鳴が放つ匂いに。
「芹……」
「帰るよ」
芹はカップを相澤に押し付けると上着を持つ。
「なあ、芹……これから先どうするんだよ?」
「さあね……」
相澤に背を向けたまま、手を振るとマンションを出た。
◆◆◆
家に着き、鈴白の様子を見に彼の部屋に顔を出す。
そこには鈴白と捺那が仲良くベッドに眠っていた。
服は着ている。
乱れた様子もない……ただ、一緒に寝ているだけのようで笑ってしまった。
発情期が近いのに子供みたいで……。
芹はベッドに近付き、鈴白の頭を撫でた。
「久しぶりに月下美人を見たよ……やっぱり、良く似ている」
そう呟きながら撫でる。
ただ、幸せになって欲しい。それだけ。
それだけのためなら何でも差し出す。
鈴白と……捺那のためなら。
芹は手を伸ばし、捺那の髪も撫でる。
「ごめんな……」
そのごめんに色々な意味が込められている事を、二人はまだ知らない。
◆◆◆
美味しそうな匂いで捺那は目を覚ました。
起き上がって鈴白を見ると可愛い寝顔で和んでしまう。
額に手を当てる。
熱は微熱かなあ? と自分の体温で熱いのか鈴白が熱いのか分からない。
とりあえずは体温計? と捺那はベッドから降りてリビングへ。
そして、そこで良い匂いの正体が分かった。
「よう、おはよう」
芹が朝ご飯を作っていた。
「芹さん」
捺那は芹の側へ駆け寄る。
「鈴白は?」
「微熱かな? 体温計持っていこうって思って」
「俺が後で様子見に行くから捺那はテーブルに皿並べて」
「うん!」
素直に食器棚から皿を出す捺那。
「芹さんがご飯作るの久しぶりで嬉しいな」
ニコニコしながらテーブルに皿を置く。
彼らが幼い頃は芹が料理を作ってくれていた。
仕事で忙しい時は雇われたお手伝いさんに作ってもらっていたけれど、芹の作る料理は美味しかった。
「鈴白が料理美味いのは芹さんの血だよね」
「いや、元々才能があるんだよ」
「確かに鈴白は料理の才能すごいよねえ……本当、料理の道に進めばいいのに」
捺那は寂しそうに言う。
「鈴白が自分からやりたいって言えば反対はしないよ」
「うん……芹さんはそうだよね。優しいお父さん」
「捺那にも優しいお父さんだぞ?」
芹は作った料理を持って捺那の側にきた。
「芹さん……俺ね、芹さんが好き」
真っ直ぐに芹を見つめる捺那。
「捺那……それはダメだって言っただろう?」
「うん……言ったね」
「俺は期待には応えられないよ」
「分かってる……でも、気持ちは伝えたかったんだ」
「捺那……」
「でも、気付いた……俺の好きはきっと違う。親を亡くして辛くて悲しい時に芹さんが優しくしてくれたから勘違いしたんだ」
捺那は芹の肩に顔を寄せた。
「誰かに愛されたいって」
「愛しているよ」
芹は捺那の髪にキスをする。
その愛しているよは恋愛感情の愛しているとは違うとちゃんと分かる。
「ありがとう芹さん」
捺那は顔を上げて可愛く微笑んだ。
「さて、鈴白を起こしてくるから」
捺那の頭をポンポンと軽く叩くと鈴白の部屋へと行く。
◆◆◆
鈴白は爆睡中。
彼の額に手を当てるとまだ少し熱い。
こりゃ、病院かな? と鈴白の肩を掴み「起きろ」と身体を揺する。
「ん……」
鈴白は寝返りを打つが起きない。
「鈴白、起きろ!」
もう少し強く身体を揺すると「んーまだ、寝る……」と言って芹に抱き着いてきた。
寝惚けているみたいで可愛い。
でも、次の瞬間……甘くて強い香りを感じた。
あの花と似ている香り。
鈴鳴と同じ香り。
「すずな……」
思わず名前を口にした。
この香りは……ダメだ。理性が保てない。
「クソ!!」
芹はその欲望を抑え込み、「こら、起きろ!」と耳元で叫んだ。
「ん……」
大きな声に目を開けた鈴白。
しばらく沈黙して「うわっ!!」と離れた。
「お前、失礼だろ? 自分から抱き着いてきて」
「そ、そんなわけない!」
鈴白は恥ずかしいのか顔が真っ赤だ。
そんな可愛い態度を取られるとどうしても芹の中のドSが疼いて「パパ抱っこって言ってたぞ?」と言ってもいない事でからかう。
「う、嘘だ!!」
「鈴白は甘えん坊だもんなあ」
ニヤニヤされて鈴白はますます顔が赤くなる。
「芹さん、そろそろ止めてあげないと鈴白拗ねるよ?」
真後ろから捺那の声。
「体温計忘れて行ったでしょ?」
捺那は芹に体温計を渡す。
「そうだな、直ぐに拗ねるからな」
「拗ねないよ!」
ムキになる鈴白。
「熱測れ」
鈴白に体温計を渡す。
嫌だと言っても無理やり測られされそうだし、素直に熱を測る。
「芹さんが朝ご飯作ってくれたよ?」
捺那は嬉しそうに報告。
「食べられそうなら食べようよ」
可愛く微笑まれて「うん」と鈴白は返事をする。
◆◆◆
芹が作った料理を久しぶりに食べた鈴白。
「やっぱ、父さんも美味いよねえ……敵わないかも」
食べた後にそう言った鈴白。
「何言ってんだよ、お前がかなり上だよ、腕も味もね」
芹は食器を重ねる。
「芹さん俺が洗うよ」
捺那も芹を手伝う。
「じゃあ、俺も」
椅子から立とうとする鈴白に「お前はダメ!!」と芹と捺那の声が揃う。
二人に言われてしまうと……もう、素直に従う他なくて、椅子に座り直す。
キッチンに芹と捺那が仲良く並び片付けをしているのをぼんやりと見つめる鈴白。
芹と捺那はどこか似ている。
雰囲気とか仕草とか……。芹が若く見えるから兄弟と言っても通じるかもしれないなと鈴白は思う。
それに比べて……本当に自分は芹に似ている所が一つもない。
共通点はαというだけ。
でも……「君はαだよね?」という言葉が気になる。
Ωの特徴。
捺那を見つめる……捺那はΩで。
でも、性格や行動力とか……芹寄り。
「父さん」
「何だよ?」
「お母さんの写真って全部処分したんだよね?」
「は? 何だよ突然」
芹は鈴白の方を振り向く。
「俺ってお母さん似なんだよね?」
「そうだよ?」
「そっか……」
鈴白はそれだけ確認すると黙ってしまった。
芹に昨日会った人の事を聞こうかと思ったけれど、なぜか怖くなった。
芹と離れてしまうんじゃないかって得体のしれない恐怖が一気に鈴白全体を包み込んでしまったから。
◆◆◆
熱が下がらず、結局鈴白は病院に来ていた。
捺那ももちろん一緒。
鈴白は苦手な点滴を受けるはめになり診察室のベッドで横になっていた。
捺那は相澤に呼ばれて何か話をしている。
多分、今後の事だろう。
一気に色々な事が起こってしまって鈴白も疲れていたので苦手な点滴を受けながら眠りにおちた。
◆◆◆
「捺那君、これからの事だけど」
相澤に説明を受ける捺那。その横に芹が居る。
鈴白が眠ってしまったので捺那に付き添っていた。
「発情期って……皆、こんなに不安になるんだね……皆すごいなあ」
捺那は思っている事を言葉にする。
「そうだね」
「相澤先生はαでしょ? 芹さんと同じ。αも辛いの?」
「直球でくるね」
子供の好奇心みたいな感じで聞いてくる捺那に苦笑いする相澤。
「俺……気付いたんだ。芹さんが居ない時って発情期だったって」
捺那は芹を見つめて微笑む。
「またそれ?」
「興味あるし、年頃だもんね」
悪戯っ子みたいに笑う捺那。
「捺那君、発情期きてもちゃんと番が居れば無差別にフェロモンは垂れ流さないで済むよ……後は薬だね」
「番……」
「そう、好きな子が居るんだろ? だいたい、好きな相手ができて発情期を迎えちゃう子が多いから」
「うん、芹さん」
捺那は即答したものだから芹は驚き、相澤は笑い出した。
「捺那!」
「あ、初恋って意味ね」
慌てる芹にニコッと笑う捺那。
「初恋かあ……いいねえ、甘酸っぱくて」
相澤はウンウンと頷いている。
「きっと、初恋だよ芹さんは……で、俺って結局、芹さんの子供だから鈴白が気になるのか鈴白の父親だったから芹さんが気になるのか分からないんだよねえ」
捺那は無邪気に笑う。
「本当にお前はぶっちゃけるよな」
芹は笑い出す。
「昨日、キスしたら……すごく気持ち良くってね、あ、やってないよ? まだね」
それもぶっちゃける捺那に大人達は笑うしかない。
「でもさ、俺ってΩなのに鈴白を抱きたいとか思っちゃうんだよ、淫乱かな?」
真顔で芹に聞く。
「だーかーら、お前はぶっちゃけ過ぎるだろーが!!」
「仕方ないじゃん? 俺はこういう性格だしさ……それに鈴白からキスしてきても結局は俺が組み敷くんだよねえ……抱いてくださいって言うより、抱かせろ派! 芹さんとか相澤先生は発情期の時こんな気持ちなんでしょ? どこで発散してるの?」
「捺那!!」
芹は彼の口を塞ぎたい衝動にかられる。
「あはは、捺那君って芹のミニチュアみたいだよねえ。若い頃っていうか君と同じ年頃の時の芹って君みたいな感じでサバサバしてたよ、似てる」
相澤はそう言って大笑いする。
「それに大丈夫だよ、俺にも相手いるし、そこで発散するねえ」
と相澤もぶっちゃける。
「相澤先生結婚してないよね? 恋人?」
「そう、恋人」
「結婚しないの?」
「お互い、変な言い方だけど、相性がいいんだよ……まあ、割り切った関係」
「エッチだけの関係?」
「いや……ちゃんとそれ以上の感情もあるよ」
ふふっと笑う相澤。
「芹さんは?」
「えっ? 俺も聞くのか?」
「だって……気になる」
「俺は……適当にやってるよ」
「再婚しないよね? 鈴白のお母さんの事がまだ好きなの?」
「……そうだね」
そう言って微笑んだ芹はどこか寂しそうで、聞かなければ良かったなって思ってしまった。
◆◆◆
あの時、動揺したのを必死に押し込めた。
鈴白に母親の写真を聞かれた時。
小さい頃は良く母親が居ない事で泣かれた事がある。
どーして、ママが居ないの? と聞かれる度に辛かった。
子供にいくら説明したとしても寂しさを埋める事なんて出来ない。だから、二倍愛してやりたいと思った。
捺那に告白された時も……どうして良いか分からなかった。
二人を側に置いたのが間違いなのか……それとも鈴白を手にした事が過ちなのだろうか?
過去を責めてもどうにもならない。
生まれてしまった命を消す事なんてできはしない……。
芹には鈴白にも捺那にも言えない秘密がある。
鈴白の秘密を知っているのは自分と相澤だけ……。
いや、あと一人居る。
ふと、今朝の鈴白の様子がおかしい事に気付く。
前から、芹に引け目を感じて自信なさげな鈴白だったけれど、何か違う。
母親の事も幼い頃にひどくぐずった時以来、言わなかったのに?
発情期が近付いて情緒不安定のせい?
なんだろう? すごく胸騒ぎがする。
捺那の診察が終わり、「鈴白起きてるかもだから」と鈴白の側に行かせると相澤に「七瀬は今、どうしてる?」と聞いた。
「七瀬? どうして? まだ、入院中だろ?」
「まだ、本当に入院中なのか?」
「退院するなら俺が芹に連絡行くようになってるだろ?」
「……そうだよな」
「何だよ突然?」
「……いや、ここんとこ鈴白がおかしいから」
「発情期……近いからだろ?」
「それだけならいいけど……」
それでも、胸騒ぎはおさまらない。
◆◆◆
捺那が鈴白の元に行くと彼はまだ眠っていた。
「ふふ、可愛い」
寝顔が可愛くて頬をツンツンとつつく。
ベッドの側に置いてある丸椅子に座り、鈴白の寝顔を見つめる。
なんだか不思議だ。
つい、最近までは兄弟みたいな感情だったのに……あの時のキスで自分の中にある本当の気持ちに気付いてしまった。
芹を好きだと思い込んでいただけなのかもしれない。
寂しい心を包み込んでくれた芹に父親を重ねて、それが恋愛感情だと思っていた。
「あの甘い匂い……知ってる」
捺那は鈴白の手を取り、自分の手のひらと重ねてそのまま指を絡ませて恋人つなぎをする。
芹から香ってきた匂い。発情期特有のフェロモンで……その香りを昔嗅いだ事があった。
火事現場に飛び込んできてくれた人。
その人と同じ匂い。
間違う事がない。フェロモンは人それぞれ違う。同じ匂いの人が居るわけがない。
だから、自分を助けてくれたのは芹だ。
直ぐに上着をかけられたから顔は見れなかったけれど。
「大丈夫か?」と発せられた声は芹のものだ。
「そっか、あれは芹さんか……」
改めて芹はすごいと思う。熱くて死んじゃいそうでオレンジの炎は綺麗だったけれど、全てを飲み込んだ怖いものだ。
芹はその中に飛び込んで助てくれた。
「すごいなあ芹さん」
そりゃ好きになるでしょ? と思う。
でも、鈴白も気になる。
いつも、側に居てくれて、寂しい時は一緒に寝て、心を癒やしてくれた。
一番近い存在は鈴白だ。
「俺……きっと鈴白が好き」
「それ、本当?」
その声にギョッとして鈴白を見ると目を開けていた。
「起きてた?」
「うん、手を握られて起きた」
「あ、ごめん起こして」
「ううん、衝撃の告白が聞けたから」
鈴白は嬉しそうに笑う。
捺那は顔が赤くなり「ちくしょう」と照れ隠しで暴言を吐く。
「俺も好き」
鈴白に告白された捺那は……そのまま鈴白にキスをする。
◆◆◆
芹は電話で七瀬の事を問い合わせた。
まだ、入院中と答えが返ってきたので少し安心した。
「芹」
相澤の声がして振り向く。
「七瀬の事聞いてるのか? お前、本当どうした?」
芹はポケットにスマホを突っ込み「何でもないよ」と笑ってごまかした。
「鈴白君起きたよ」
「ありがとう、連れて帰る」
芹は二人の元へと戻った。
◆◆◆
「帰りにスーパー寄って」
病院からの帰り道、後部座席の鈴白は運転する芹にお願いをする。
「スーパー?」
「うん、食材買いたい」
「まさか、お前帰ってから作る気か?」
「作るよ?」
「今日はダメだ! おとなしくしてろ」
「でも、明日作るにしても食材ないよ?」
「後で買い物頼むからいい、とにかく真っ直ぐ帰るからな」
芹は真っ直ぐに車を走らせる。信号を左に行けばスーパーなのだが、どこにも寄らずに帰りたかった。
まだ、胸騒ぎがおさまらない。ただ、それだけの理由。
心配し過ぎかもしれない。でも、用心に越した事はない。
「芹さんって過保護」
芹の胸騒ぎを知らない捺那は笑う。
「当たり前だ! 過保護で何が悪い! 鈴白も捺那も俺の大事な息子だ!」
これは本音。
過保護でいい。心配し過ぎでもいい。
大事なのだから。
「ふふ、じゃあ、俺も芹さんじゃなくてお父さんって呼ぼうかな?」
「突然何?」
芹と鈴白の言葉がかぶった。
「だって、俺が鈴白とくっつけば芹さんは本当のお父さんになるでしょ? 義父だけども」
「な、捺那」
鈴白は一気に顔を赤らめる。
「いーじゃん! ひとつ屋根の下に住んでるから隠し事なしね! それに鈴白が俺を好きだって芹さん知ってるし」
そーですよね! バレてますよねえ!! と鈴白は耳まで赤くする。
「はいはい、好きに呼べ」
芹は笑い出す。
「捺那あ……」
恥ずかしい鈴白は困った顔で捺那を見ている。
そんな顔も可愛くていいなって思う。
自分でも不思議だった。
芹を好きだったのに、今は鈴白に恋愛感情を抱いている。
発情期が近いから、お互いの匂いと気持ちの相性が良くて、一気に感情に溢れてしまっていて、戸惑うはずなのに楽しいのだ。
自分が言う事に一喜一憂する鈴白が可愛くて愛おしい。
淫乱でもいいかな?
生まれたばかりの感情を捺那はアッサリと受け入れた。
それがΩの性質かもしれない。でも、それとは別に心が……いや、魂が鈴白が良いと言っているのだ。
恋に落ちるのはほんの一瞬。
理由も何もいらないし、考えたくはない。ただ、魂が呼び合う……それだけだ。
きっと、こうなると知っていて芹は自分を拒んだのだと思った。
◆◆◆
体調は戻った鈴白。
あの時教えてもらった料理も作る事が出来た。
「やっぱ、鈴白の方が美味い」
捺那が幸せそうに言ってくれて、作って良かったなと鈴白も嬉しい。
片付けをしようとしていると芹が「俺がやるよ」と側にきた。
「えっ? いいのに」
「片付けが一番大変だろ? 捺那とイチャついてろよ」
ポンと頭を軽く叩かれた。
「もう!」
からかってくる芹は嫌いじゃない。そこに優しさがあるから。
鈴白がやりたいと口に出来ない事を言葉にして、しやすくしてくれているとある時気付いた。
芹なりの背中押し。
「鈴白……お前がやりたいようにしていいんだからな」
「へ?」
イチャついてろと言われた後なので鈴白は顔を赤らめる。
「今、何考えた?」
真っ赤な顔になった鈴白を見て笑う芹。
「えっ、ちが!!」
違うわけがない。ちょっとエッチな事を思ってしまったから。
「将来の事だよ……お前が本当はどうしたいのかちゃんと聞きたいし、それをやって欲しいと思う」
「父さん……」
鈴白の胸の奥にある気持ち。言えない気持ち……そこがざわつく。
「鈴白、お前は幸せになるために生まれてきたんだ、それを忘れるなよ……俺はお前に悲しい顔とかさせたくはない。笑ってる顔がみたい……それだけだよ」
芹は鈴白に近付くと頭を撫でた。
「お前はいつも言いたい事を言えなくて飲み込む癖があるからな……。小さい頃はちゃんと言えただろ? パパ、仕事行かないで側に居てとか……。いつから空気読むようになったんだ?」
芹の言葉にいつからだろ? と考えた。でも、いつの間にか芹の顔色をうかがうようになってしまっていた。
困らせているのかな? って。
俺は自慢の息子かな? って。いつの間にか考えるようになってしまっていた。
「鈴白は鈴白の魅力がある……それを忘れてはダメだ。それと、自分の中の才能もね」
芹は鈴白を引き寄せてると抱き締めた。
「ちゃんと自分がどうしたいか言っていいんだ……。俺を困らせるとかそんな事考えられたら俺が困る……。行きたい道を歩ませてやれない事が一番辛いんだから」
芹の言葉は乾いた時に飲む水みたいに心に染みて行く。そして、空っぽだと思っていた心を満たしていく。
「俺……父さんには敵わないっていつも思ってた。父さんみたいになりたいのになれないから……諦めて、自分はダメな人間だって思ってて、こんなんじゃ、父さんの自慢の息子にはなれないんだって」
「本当に無駄な心配しやがって……このバカ息子!」
鈴白は思っていた事を言葉にする事がこんなに簡単だったんだと知った。
どうして言わなかったのだろう?
芹は聞かない相手じゃない。
いつも、どうしたい? って聞いてくれる相手だったのに。
「俺ね……料理を勉強したい」
「うん……知ってるよ」
芹の言葉に泣きそうになった。
ああ、ちゃんと自分を見ていてくれていた。
「いつか、自分の店持ちたい……」
「うん、頑張れ」
芹は力強く鈴白を抱き締めた。
◆◆◆
「鈴白、スッキリした顔してるね」
片付けを終えて、部屋にきた鈴白に捺那は微笑む。
「父さんにちゃんと言えた……将来、料理の勉強してお店持ちたいって」
「ふふ、良かったね……じゃあ、俺が鈴白の一番の客になってやるから、あ、芹さんもか」
「うん」
鈴白は捺那を後ろから抱き締める。
「何で……こんなに簡単な事を言えなかったんだろ?」
「鈴白はもっと自分に自信持ちなよ」
捺那は振り向きざまに軽くキスをする。
「父さんにも似たような事を言われたよ、俺ってどんだけ自分に自信ないんだよ」
笑いながらに言う鈴白は本当にスッキリした顔をしていて、良かったって捺那は思う。
「いい顔してるね」
捺那は後ろ向きから体勢を変えて鈴白と向かい合う。
「俺ね……鈴白を抱きたいとか思っちゃう」
「は?」
突然の言葉に鈴白は目を見開いて驚く。
「あはは、でかい目」
捺那は鈴白の背中に両手を回すと彼の身体を左側へと向かせ、そのまま一緒にベッドに倒れ込む。
なぜに身体を左側に向かせたのかと言うとそちら側にベッドがあるから。
倒れ込んで直ぐに捺那が鈴白の上に乗った。
「ふふ、ビックリした顔、可愛い」
いきなりな行動に驚いたのか、鈴白は捺那を見上げている。
「俺ってΩなのにさ……鈴白のそんな可愛い顔を見たら押し倒したくなるんだ」
捺那の顔が近付いてきて……そして、期待通りキスをされた。
「俺……発情期が怖かったけど、今は待ちどおしいんだ……だって、鈴白とひとつになれるから」
大胆な言葉に鈴白は顔を真っ赤にする。
「本当、純情なαだよね鈴白って……そこがいいんだけどね」
自分の上で可愛く、そして色気タップリに微笑む捺那。
受け入れる側に押し倒される自分って何だろ? なんて考えるけれど、捺那ならいいかな? なんて思ったりもする。
「俺も……怖くないかな? 捺那が居るから」
鈴白も捺那に微笑む。
好きな相手ができると怖いと思っていた事も平気になる。なんて人間は単純な生き物なのだろう?
◆◆◆
まだ休んでいろと芹に言われたが次の日、図書室に本を返したいという理由で大学に来ていた鈴白と捺那。
本を返してくると言ったまま、鈴白が戻ってこない。
本を返すだけなら五分くらいで済みそうなのに……。
鈴白を探すが見当たらない。
外に出るわけでもないのに……捺那は、身辺警護人の一人が鈴白についているはずだろうと、もう一人に声をかける。
「ちょっと待って下さい」
彼が連絡を取ろうとしたがつながらないようで、捺那は胸騒ぎを感じた。
この胸騒ぎは前に感じた事がある。いつだったかな?
捺那は走り出した。
「捺那さん離れないで下さい」
後ろから声が聞こえたけれど、捺那は振り向きもせずに走り出す。
どこを探せばいいか分からないけれど、でも、黙って何もしないわけにもいかない。
鈴白……どこ?
もし、鈴白が運命の相手なら……どこに居るのか分からないのかな?
小さい頃、迷子になった鈴白を探し出すのは簡単だった。
どこに行くのかどこに行きそうか分かったから。でも、今は違う……彼の意思ではない。
鈴白!! どこ?
心で必死に彼の名前を呼ぶ。
走りながらこの胸騒ぎをいつ感じたのか思い出した。
火事の前だ。
朝から胸騒ぎがして、愚図って母親から離れなかった。
困った母親と父親が自分を宥めていた時に玄関のチャイムが鳴った。
父親がチャイムを鳴らした相手を確認した後に母親に「捺那を連れて裏から逃げろ」と言った……。
そうだ……あの時、誰か来て……母さんが俺を抱き上げて、裏口から急いで外に出ようとしたんだ。
でも……外側から塞がれていて出れなくて……二階からと階段を上がった。
その後「いい、捺那、お母さんがいいって言うまで隠れていて、ほら、隠れんぼ好きでしょ?」と言われて……隠れたんだ。
でも、その内……煙が充満してきて苦しくて。
隠れていた所から出たらオレンジの炎が目の前に現れた。
子供心に死んじゃうんだって思った。
その時に芹の声が聞こえ、上着をかけてくれて、外に出られた。
上着をかけてくれたのは熱さから守るためだって思ったけど……。
あの時、父親が逃げろと確かに言った。母親が青ざめて、抱き上げた手が震えていた。
隠れんぼよ……と言ったあの時の顔は悲しそうで泣きそうで「いい子ね捺那……いい子……ごめんね」と声が震えていた。
あれはどういう意味だったのだろう?
両親は……あの時、どうしていたのだろう? もし、生きていたら逃げられたはず。
現に芹と脱出出来たのだから。
じゃあ……あの時、既に?
上着をかけた意味はもしかして……両親の遺体を見せないため?
一気にそんな考えが頭を過ぎり、気がおかしくなりそうだった。
芹はどうしてあの時、そこに居たのだろう?
どうして、自分を引き取ってくれたのだろう?
あの時、訪ねてきた人は誰だったのだろう?
捺那の視界に銀色の光が一瞬飛び込んできた。
何? と光の方を見ると一台の車が停まっている。
そこは駐車禁止のはず? 誰だろ? と窓を開けて身を乗り出す。
運転席に男が居た。
横顔だけだが……あれ? どこでだっけ? 見た事があるような? と感じた。
その時にまた胸がザワザワと騒いだ。
大学に似合わない車。
教授達の車は高級車で、生徒は数人しか車でこない。停まっている車はワゴン車で掃除業者の車っぽい。
でも、捺那は大学に出入りしている掃除業者の会社名を覚えていた。半年に一度、家にハウスクリーニングをしに来てくれる会社と同じだから。
でも、会社名が違う。
急に会社を変えたのだろうか?
いや……違う。そもそも、乗っている男は業者のようには見えない。
それに……どこかで。
「あ!!」
捺那は声を上げて、その瞬間には窓を乗越えていた。
一階だったから飛べたのかもしれないけれど、いや、二階でも飛んだかもしれない。
小さい頃、何時か会った事がある男だ。
どうして、覚えているのか自分でも分からない。幼い頃の記憶は薄れていくものなのに。どうして、ほんの数回会っただけの人間を覚えているのか自分でも分からないけれど、でも知っていると身体が言っているのだ。
捺那は勢い良く、ワゴン車まで走り、側に行き中を覗いた。
「鈴白!」
後部座席にぐったりした鈴白の姿があった。
やはり胸騒ぎは正しかったのだ。しかし次の瞬間――、首筋に痛みを感じて、捺那の意識が途絶えた。
◆◆◆
芹のスマートフォンが鳴り響いている。
取り出したそこには、相澤の名前が表示されている。
名前を見ただけで胸がザワついた。
「……もしもし?」
「芹、大変だ! 七瀬が居なくなっていた」
心臓の音がうるさい。
「お前が気にするから直接行ったんだよ、そしたら鈴鳴と一緒に消えてた」
「は?」
もう、完全に頭が真っ白になりそうだった。心臓は痛いくらいの悲鳴を上げていた。
「下に降りて来い!」
その言葉に、無意識に身体が動いた。頭はうまく機能していない。鈴白にもしもの事があったら……。ただその一心で、気付けば足の裏は床を蹴り、部屋を飛び出していた。
どうやって鈴鳴を見つけた?
入院しているって……ああ、でも、直接その姿は見ていない。
相澤のように、胸騒ぎがするなら行動すれば良かった。
「芹!!」
芹の姿を見つけた相澤が名前を呼ぶ。
彼は車で芹の会社に来ていた。
「乗れよ」
そう言われた時にはもう、助手席のドアは開けられていた。
助手席に座り込むと、また着信が鳴る。
シートベルトを手にしながら、芹はスマートフォンを耳と肩で挟んで応答する。
「芹様すみません……鈴白さんと捺那さんが……」
その声は鈴白と捺那を守っている身辺警護人からだった。
「隙をつかれて……」
声が苦しそうで電話の向こうから『おい、救急車早く』と慌てる声が聞こえている。
「どうした?」
「刺されて……すみません、鈴白さん守れなくて……」
「おい、大丈夫か?」
芹は大きな声で叫んだ。その後、電話が切れた。
「どうした?」
鬼気迫る様子の芹を横目に、相澤が声をかける。
「七瀬だ……やられた。鈴白と捺那を」
「えっ……」
相澤は芹の言葉でアクセルを力いっぱい踏んだ。
「違反切られたらお前、罰金払えよな」
「いくらでも払う」
電話をかけてきた身辺警護人も気になるけれど、救急車を誰か呼んでくれていた。死なないでくれと願うだけだ。
どうして、鈴白と捺那に警護人をつけていたのか……それはこうなるかもしれないから。
七瀬が入院している間は大丈夫だと思っていた。でも、やはりこうなってしまった。
「病院関係者を買収していたみたいだ……借金のあった看護師で……」
ああ、それで居ると嘘を……
確かめれば良かったんだ。
今更それを責めてもどうしようもない。
ただ、鈴白と捺那に何もしないで欲しいとひたすら願うしかない。
こういう時、人は無力だと思い知らされる。
あの時は捺那を守れたはずだった。
鈴白も……守っていられたはずだったのに。
「お前、自分を狂ってるって言ってたよな? 一番狂ってるのは七瀬だよ……自分の子供を殺そうとしたんだから」
「……まさか捺那に手放すとは思わなかったよ……でも、もっと早く行っていれば人は死ななかったかもしれない」
芹はあの時の事を今も鮮明に思い出せる。
あの日、朝から胸騒ぎがして……次の日が捺那の誕生日で本当は誕生日に鈴白と訪ねる予定だった。でも、胸騒ぎが止まらず車を走らせた。
鈴白を相澤に頼んで、芹が何もない事を祈りながら家に向かうと、真っ黒な煙が見えた。
嘘だろ? と思った。
家の前に車を止めると七瀬が住人に取り押さえられて笑っていた。
「中にまだ人いるよね?」
誰かがそう言った。
そう聞いた瞬間、身体は動いていた。
玄関で刺されて死んでいる捺那の父親。いや、本当は義父だ。
「兄さん……」
そして、その先には彼の妻も刺されて亡くなっていた。
上から子供の泣き声が聞こえ「捺那」と助けに行った。
泣きじゃくる捺那を抱きあげ、でも、死体を見せる事はしたくなかったので上着をかけて脱出した。
七瀬はおかしくなっていた。
それは全部自分のせいだ……。
なぜ、この家にきたのだろうと思ったが本人の口から聞く事は出来なかった。
七瀬は精神疾患のため、刑務所ではなくて精神病院へ入れられた。
「……なんで、捺那まで」
芹はもし、何かされるとしたら自分だけか、もしくは鈴白だと思っていた。
捺那は七瀬の子供だ。
七瀬はΩで、捺那を産んだけれど、育てられる状態じゃなかったから当時子供が居なかった芹の兄が引き取ってくれた。
芹には鈴白がいたから。
「可愛さ余って憎さ百倍ってやつかな? 捺那君、日に日にお前に似てきてる、口の悪さも行動力も……雰囲気もお前そっくりじゃん」
「そうだな、自分でもそう思うよ」
芹はそう言ってため息をついた。
いつか言おうと思っていた。捺那の本当の父親は自分だと。
兄夫婦の元で幸せに暮してくれるならそれでいいと思っていた。
自分は狂っていると思っていたから、捺那を育てるなんて出来なかったし、父親とは名乗れなかった。
でも、好意を寄せられていると気付いて……諦めさせなければと思った。
きっと、捺那は鈴白にひかれる……自分の血を引いているなら。
「ごめん、捺那……」
最低の父親だ。
◆◆◆
鈴白は目を覚ました。初めは自分の状況が理解出来ないでいたが、気を失う少し前の事を思い出した。
本を返しに行ったら声をかけられた。
あの男だった。
前に会った時より雰囲気が怖くて、逃げようと思ったけれど、腕を掴まれた。
図書室には珍しく人が居なくて……。ああ、そうか、掃除中の札がかけられてたんだ。
珍しいなって思った……いつも、大学が閉まってから掃除に来る業者なのにって。
でも、本を返すくらいならいいかな? と中へ入った。
「何するんですか!」
腕を掴まれたから、声をあげた。
そしたら、いつも守ってくれていた彼が来てくれて……でも、男はいやらしく笑うと躊躇う事なく刺した……。
彼はどうなったのだろう?
うずくまった彼を何とかしようとしたけれど、首の後に強い衝撃を受けて視界が真っ暗になった。
きっと、意識を失ったんだと今は分かる。
捺那は?
鈴白は身体を起こした。でも、上手く起きる事ができない。
後ろで両手を縛られていたから。
捺那……。
彼が心配になる。捺那の側にはもう一人の警護人が居たけれど、無事だろうか?
食堂で待っててって言って良かったのかも。もしかしたら捺那も巻き込まれていたかもしれないし、刺されたのが捺那だったかもしれない。
いや、誰が刺されても嫌だけど、捺那が無事で居る事を知りたい。
ガチャとドアが開く音が聞こえてそちらの方を向いた。
笑顔でこちらを見ているあの男だ。
「……誰……ですか?」
本当にこの男は誰なのだろう? なぜ、自分をこんな目に?
答えてくれるだろうか?
「大きくなったね……鈴鳴そのものだ」
男はニコッと微笑む。
「すずな……?」
誰だろうと思った。
「僕は七瀬、よろしくね」
またニコッと微笑む。
「七瀬?」
七瀬は鈴白の側に来て、顔に触れようとした。その瞬間……ゾクッと寒気のようなモノが身体を駆け巡る。
「怯えないでよ」
鈴白の頬に手を当てて、また微笑む。
綺麗な顔立ちをしているけれど、すごく怖く感じる。
彼の微笑みが怖いのは……目が笑っていないから。
「君はいいね、若くて……ずっと芹と一緒に居たんだろ? 愛情をいつも独り占めして狡いよね……。君と僕は何が違うんだろって思ってたよ……同じΩなのに」
何を言っているのだろうと思った。
「Ωって……誰の話? 父の知り合い……ですか?」
「父か……君は芹の子供じゃないよ?」
「えっ?」
鈴白は何を言われているか理解できないで居た。芹の子供じゃない?
ナニヲイッテイルノダロウ?
思考が止まりそうだった。
「何も聞いてないよね……君の秘密」
ふふっと嬉しそうに笑う。
「君……本当はΩなんだよ?」
「えっ?」
そんなわけがない。検査ではαって。
「芹が遺伝子操作したんだよ。アイツ、金持ってるだろ? 君を作る時にαにしたんだ。でも、元々Ωだから発情期来るまで分からないんだよね……検査ではαだろ? でも、発情期きたら分からない……知りたい? 君の秘密をもっと」
クスクス笑う七瀬がたまらなく怖い。
芹の子供じゃないとか、Ωとか……遺伝子操作とか……もう、頭がついていかない。
「君は鈴鳴のクローンだよ」
七瀬はそう言って笑うと鈴白の服のボタンを外し始めた。
クローン? ナニソレ?
◆◆◆
「ここ、どこだよ?」
捺那は目を覚まして周りをキョロキョロと見回す。
どこかの部屋みたいだけど、良く分からない。
「クソ! 首痛えし!」
捺那は頭を振る。
後ろで両手を縛られていると気付いたが、昔……芹と縄抜けごっこをして遊んだのを覚えていた。キツく結ばれていないようで、これならいける! と思った。
縄抜けはあっさり成功した。
きっと、自分は重要ではないんだと思った。狙いは鈴白。
だから、自分は放置されているのだと。
部屋に鍵はない。
せめて、見張りとか? とドアを慎重に開けて外を確認した。
でも、誰もいない。
なんだよ? 俺ってそんなに価値がないの? とガッカリしてしまう。
もしかしなくても、一人での犯行なのかな?
捺那は周りをキョロキョロしながら先を進む。
どこかの建物の中みたいだった。何かの施設みたいな?
歩いていると、部屋がもう一つあった。
部屋には鍵はない。
本当、他は放置なんだなあ……考えなしの行動みたいで、突発的かな?
考えた行動ならもっと慎重だろうし、鍵はかけるし、捺那も放置されていないはず。
アイツ……。
自分を気絶させた相手を少しイラッと感じた。
昔会った事がある。
綺麗だけど、怖かった。笑っていたけれど、目が笑っていなくて不気味だった。
よく覚えていないけど、部屋の中へ入るとベッドがあってそこに人が眠っていた。
「えっ? 鈴白?」
捺那は眠っている人物が鈴白に見えて慌てて側に行った。
でも、「違う……」と直ぐに分かった。
鈴白より年上に見えるし……えっ? 兄弟?
そんなはずはない。鈴白は一人っ子。
眠っている鈴白に似た男性は沢山の機械につながれている。
「すずな……」
ベッドに名前が書かれている事に気付いた捺那はその名前を読んだ。
すずなって……。
熱がある鈴白を起こしに行った芹に体温計を届けた時に「すずな」と芹が言った。
鈴白と呼んだのを聞き間違えたのだと思っていたけれど……違う。
鈴白とこんなに似ているし、いや……年齢を重ねた鈴白みたいだ。
「えっ? もしかして鈴白のお母さん?」
顔を覗き込む。
でも……本人そのものに見える。
この人は誰なのだろう?
◆◆◆
「どっちか知りたいでしょ?」
七瀬はボタンを外し終えるとシャツをずらす。
「これ、何か分かる?」
鈴白の目の前に注射器を出した。
中に液体が入っている。
「これね、ヒートを起こす薬。誘発しちゃう薬ね……最近流行ってんだよ、ほら、ヒートすると具合が良くなるでしょ?」
鈴白は何を言っているのか分からないって顔をしている。
「ヒートわかんない? 発情期の事だよ。まだ、来てないもんね分かんないよね」
七瀬は鈴白の腕を掴む。
「や、やめ!!」
逃げようとしたけれど、動けない。
注射針が腕に刺さる。そして、液体を打たれた。
「楽しみだね」
ニコッと微笑む七瀬。
「……なんで、こんな事……」
七瀬に視線を向けた。
「君が嫌いだからだよ……せっかく目の前から居なくなって芹がやっと僕を見てくれるって思ったのに……こうやってまた……僕を苦しめるんだ」
嫌い……誰を嫌い?
「俺はアナタを知らない」
「僕は知ってるよ……言っただろ? 鈴鳴のクローンだって」
「クローン……」
本当この人は頭大丈夫なのだろうか? いかれてる感じがする。
「芹と僕は恋人同士だったんだよ? 鈴鳴が現れるまで……」
恋人?
父さんとこの人が?
「すごく好きだった……そりゃ初めは会社を大きくするためだったけど、僕の家も芹の会社と合併したから潰れずに済んだ。助けてもらったから、今度は芹のために頑張ったんだ……僕はΩだから子供を産める。芹の子供を……跡継ぎを作れるって。でもね、運命の番っていうの? 鈴鳴がそうなんだって……」
七瀬は笑った後に「そろそろ楽しもうか?」と言った。
「楽しみながら話してあげるよ……薬の効果そろそろ出てくるからさ……僕はΩだから君を楽しませる事はできない。だから、代わりを呼んだ」
七瀬はドアの方をみた。
つられて鈴白もドアを見るとそこに男性が二人いつの間にか立って居た。
「彼ら……上手いよ?」
何が? と思った。
「鈴鳴もね、僕の目の前で男達とやってたよ……アイツ、淫乱だからさ」
ふふっと笑う七瀬はさっきよりも怖くなっていた。
◆◆◆
芹は気ばかり焦っている。
大事なモノを二つも持っていかれてしまったのだから。
七瀬が悪いわけではない。きっと、全ての原因は自分。
追い込んでしまったのは自分。
だから、自分を狙ってくれたら良かったのに……きっと、それよりもダメージを与える方を七瀬は選んだのだ。
七瀬は素直で優しい子だった。
一生懸命で……でも、芹は鈴鳴に出会ってしまった。
「七瀬……俺を殺せば良かったのに」
何か話していないと気がおかしくなりそうで……でも、放った言葉も重いものでしかない。
「お前を殺さないのは七瀬はまだお前が好きなんだよ」
その言葉にビクッとなった。
「鈴鳴とお前ってロミオとジュリエットみたいだな」
「ここでシェークスピアかよ」
「あれって出会って二日目で結婚して、五日目で死んでしまっただろ? ほんの一瞬で恋に落ちて……恋に溺れて死んでいく……たった数日が彼らには何十年も経った感じなんだな……お前と鈴鳴がまさにそれだろ?」
ああ、そうだ……ほんの一瞬で恋に落ちて、鈴鳴が居なくなるまでたった一年にも満たなかった。
「幸せに笑って欲しかったそれだけだったのに」
鈴鳴は笑うと可愛くて、綺麗で……。
「月下美人を俺に教えてくれたのは鈴鳴だ。俺みたいだって、でも、俺には鈴鳴にしか見えなかったよ」
「ああ、それで花言葉知っていたのか」
一緒に見た夜を覚えている。
『 芹はカッコイイよ……俺も芹みたいなαが良かったなあ』
と寂しく言っていた。
鈴鳴は両親を亡くして苦労していた。夢もあったけれど、今よりまだΩへの差別がひどくて。良心的な人もちゃんといたけれど、心ない人の言葉は鈴鳴を傷つけていた。
その時に芹には七瀬が居て、結婚までは至らないでいたけれど、将来は……って話になっていた。
だから、最低なのは自分。
運命の番。せめてそれが七瀬だったら……。
でも、運命の番は鈴鳴だった。じゃあ、先に鈴鳴と出会っていたら、運命は変わっていた?
タラレバを考えない日はなかった。過ぎ去ってしまった事を悔やんでも仕方がない。
鈴鳴は生きていくために色々な事をやっていた。芹には言えない事も。
そして、金になるからという理由で実験台になる事もあった。
芹の知り合いにタブーの研究をしている男が居た。
遺伝子操作でΩをαに変えるというタブーの研究。
その実験に鈴鳴が参加しているのを知ったのは彼が事故に遭って植物状態になってしまった後だった。
「間違いだったのか? でも、どうしても生きたいように生きられる鈴鳴を見たかったんだ……。これは俺のエゴだ。鈴鳴はきっと望んでいなかった」
芹は神に祈るように両手を握り俯く。
その手は震えていた。
「芹も七瀬も鈴鳴も……俺からすりゃ不器用だ。でも今は生まれてしまった命を守るのが先だ」
相澤の言葉に頷く芹。
どうか……無事でいてくれ。そう祈る芹のスマホが鳴った。
◆◆◆
捺那は目の前の鈴白に似た男性から離れられないで居た。
鈴白を探さなきゃって思うのに気になるのだ。
ふと、気配を感じ振り向こうとした時に口を塞がれた。
やばい! と抵抗しようとすると小声で「私です、捺那さん」と知っている声が。
身辺警護人の江口の声だ。
ホッとする捺那。
捺那が落ち着いたのを確認すると、「一人で行かないで下さいって言ったでしょう?」と注意した。
「ご、ごめん……でも鈴白が」
「はい……芹様にはこの場所を教えておきました」
「芹さん来るの?」
芹という名前にもホッとする捺那。
「鈴白さんの居る場所も探しましょう」
「……江口さん、この人知ってる?」
捺那は眠る男性を指さす。
「……いいえ、私の仕事は捺那さんと鈴白さんを守る事だけなので」
「こ、この人も連れていけない?」
「は? 無理ですよ? 見てください、この方は自分で呼吸も動く事もできない人ですよ? 機械とベッドごと運ぶのは無理です」
「……そうだけど」
でも、鈴白にそっくりな彼をこのままにしておきたくはないと思った。
「鈴白のお母さんかもしれないから……だって、鈴白、お母さんの顔知らないって寂しそうでさ」
捺那は江口の両腕を掴み必死にお願いをする。
「芹様がどうにかしてくれると思いますから! まずは鈴白さんです」
でも、逆に説得されてしまって頷くしかなかった。
◆◆◆
何だろう? 身体が熱い……
きっと、いま自分は危機に瀕しているんだと思う。でも、上手く思考回路が回らない。
「へえ、本当に可愛い」
男が二人鈴白の側にきた。
「いいのか? 本当にコイツやっても?」
男達がそれぞれ七瀬に質問をしている。
「いいよ、色々と仕込んでやってよ、初めてなんだってさ」
ふふっと笑う七瀬。
「可愛いなあ、初めてか……じゃあ、タップリと色々教えてやるよ」
男の一人が鈴白の顔を触る。
ゾクッした……言葉では言い表せない気持ち悪さ。
「色々仕込んでもらいなよ、覚えて損はないと思うよ? これからその身体で稼いでもらうからね」
七瀬は持ってきたビデオカメラを回す。
「このビデオも売れそうだよね……いい声で鳴きなよ」
カメラは鈴白のアップを捉える。
「そろそろ、薬効いてきたでしょ? ヒートくるんじゃない?」
「ヒート? へえ、薬使ってくれてんだあ、そりゃ乱れてくれるな」
男が鈴白のジーンズのベルトを外した。
「や!!」
逃げようとするが身体が熱くて……息が上がってきた。
「興奮してきた?」
もう一人の男は鈴白の身体を起こし、後ろから抱く感じで押さえると七瀬によって外されてはだけていたシャツを開き鈴白の胸を露にさせた。
女性ではないから膨らみはないが「可愛いねえ、ここもまだ弄られた事ないんだろ?」と男はピンク色の突起物を指で摘む。
「……いや」
摘まれた瞬間にビリビリと背中に刺激がきた。
「感じやすいのか……いいじゃん」
男はもう一つの突起物も摘む。
「んん……」
ビクビクと身体が動く。
なにこれ?
鈴白は身体の反応に心と思考回路がついて来なかった。
「さて、メインディッシュ」
ベルトを外した男はジーンズのボタンとファスナーを下ろすとジーンズと下着を一気に脱がせた。
「じわじわするのもいいけど、俺は早く味わいたいタイプなんでね」と鈴白の上半身を弄る男を見て笑っている。
「いやだ! いや!」
脱がされたと分かった鈴白は何とか逃げたいと身体を動かすが上手く動かないし、男に押さえられている。
「なあ、アソコが濡れてないか確認してよ」
七瀬はニヤニヤしながら言う。
「ああ、ヒートきてるなら濡れるからな」
男達は鈴白がΩだと思っているようで、そこに指を持っていく。
何かを感じた。何か嫌なモノが自分の中へ入ってこようとしている。
「いやだ! さわるな」
開かされた脚を閉じようとするが上手くいかない。
「まだ濡れてないな……まあ、やってるうちに濡れてくるだろ、おい、胸ばっか弄ってないでコイツの両腕持てよ、舐めて濡らすから」
男がそういうものだから、胸をずっとまさぐっていた男が鈴白の脚を開かせるとM字に開脚させた。
「いい眺め」
そう言ったのは七瀬。
「君にピッタリだよ……男好きだもんね……いっぱい抱いてもらいなよ」
鈴白は首を振る。
誰か……。
捺那……。
男は鈴白の小さい穴へ舌を這わせた。
「ん……いや……」
穴の中へと何か入ってくる。
「気持ち良さそうだな」
鈴白を押さえる男が笑いながら言う。
気持ち悪いよ!! と言いたい。
でも、息があがる。
知らない男を相手しているのに……身体が熱くて……思考回路が止まりそうだった。
そして、また、何か違うモノがきた。そいつは奥へと入り込み、鈴白をゾクゾクさせた。
「締めつけいいねえ、こりゃ楽しめそうだな」
男は指を抜くと自分が穿いているジーンズを下着ごと脱いだ。
鈴白は薬のせいか、ヒートしかけているからか意識があまりなかった。
これから何をされるか考えられずに荒い息を吐いていた。
「完全にトリップしてねー? この子、素質あるんじゃね?」
鈴白を押さえている男が下品に笑う。もう一人がやった後は自分の順番なので楽しみなのだろう。
「ふふ、やっぱ、本性だしたね。君はΩなんだよ」
七瀬も嬉しそうに笑った。
◆◆◆
芹達は江口のナビである施設についた。
「鈴鳴をここに運んだのか……」
鈴鳴は七瀬の手により、嘘の診断書と病院を移すという偽の書類で連れ去られていた。
芹は黙って建物を睨んでいる。
ここは知っている。鈴白が生まれた施設だ。いまは移転して別に研究所があるが、タブーを犯しているとタレコミがあり、いったん、撤退したのだ。
その時既に鈴白は生まれていたので、こっそりと芹が連れ出し、実子として育てていた。
「やっぱりタレ込んだのは七瀬か」
芹は呟くと中へと入っていく。
◆◆◆
「捺那さん、お願いがあります」
「何?」
「合図をしたらブレーカーを落として下さい」
「えっ? 真っ暗になるよ?」
「大丈夫です」
江口は捺那に小型の懐中電灯を渡す。
「えっ、江口さんは?」
「私は大丈夫です。ある程度の位置と何処に誰がいるか気配で分かりますから」
「えっ? なに? 忍者?」
捺那のその言葉に江口は和んだ。
「頼みましたよ」
肩を叩く。
「うん」
捺那は教えられたブレーカーがある場所まで行った。
江口はある部屋を覗き、捺那をわざと遠ざけた。鈴白が三人の男に弄ばれている。
もし、それを見たら捺那は冷静さを失い、飛び出して行くだろう。それは危険を伴う。
暗闇での戦いを江口は得意としていた。なので、電気を落とさせる作戦だ。
芹には電気を落とすタイミングを連絡しておいた。
◆◆◆
もう、何も考えられない。
鈴白は荒く息を吐いて身体の力を抜いた。
これがヒート?
良く分からないけど、力が入らないのは確か。
「さてと、タップリ可愛がってやるよ」
男は自分のモノを鈴白のほぐされたソコへとあてがうと力を入れ、中へ……。
さっきよりも広がる感覚がするけれど、良く分からない。
「……いや……」
やっと言葉に出来た。
七瀬は相変わらず嬉しそうに見ている。
前もこんな風に嫌いなアイツを他の男達に弄ばせた。
だって、芹に近付くから。
運命の番のはずがない。認めない。
居なくなったって思ったのに……。こうやってまた自分の目の前に現れた。
本当は芹と家族になるのは自分だった。子供だって産んだ。
精神がおかしいからって取り上げられた。
返して欲しいって何度もお願いに行ったのに返してくれなかった。
だから、殺した。
「ふふっ」
その嫌いな奴を、僕は二度も痛めつけられるんだ。七瀬がそう言った瞬間、フッと部屋の灯りが消えて真っ暗になった。
「えっ?」
七瀬は暗闇を見渡した。
停電?
そう思った時に唸り声が聞こえた。
どうしたと二人に声をかけるが、反応がない。
まさか……芹?
こんなに早く?
「芹か?」
どこともなく声をかけるが返事はない。
手探りで部屋を動いているうち電気が点いた。
男達は床に倒れ、鈴白の姿がない。
「クソ!! やっぱり芹だ」
七瀬は部屋を出てある場所へ向かった。
◆◆◆
「鈴白!!」
江口に抱きかかえられてグッタリする鈴白を見て心配そうに駆け寄る捺那。
しかも、江口の上着をかけてあるが全裸に近い状態で更に心配になる。
「何か……されたの?」
不安そうな捺那。
「大丈夫ですよ、ここから離れましょう」
いつ追ってくるか分からない。一刻も早く逃げなければ。
「うん」
三人はその場を離れた。
「芹様が……もう直ぐ」と江口が言いかけた時に真っ直ぐ先に芹と相澤の姿が見えた。
「芹さん!」
捺那は芹の姿を見て心からホッとした。
「大丈夫か!!」
芹は捺那達の側に急いで近付くと二人の無事を喜んだ。
でも、グッタリした鈴白が気になるし、何より、先程、捺那が気にしたように全裸に近い状態なのが一番心配だ。
「病院に」
相澤も鈴白が心配でここから早く立ち去ろうと言葉をかけた。
「あ、待ってー! 鈴白のお母さんみたいな人がいるから、その人も」
捺那の言葉で芹が「鈴鳴……」と名前を呼んだ。
その様子でやはり、あの人が……と捺那は確信する。
「こっち!」
捺那は走り出す。
芹ももちろんついていく。
先程見つけた部屋へと案内すると、「鈴鳴……」芹が今まで見た事もないような表情で眠るその人を見つめた。
ああ、この人だ。芹さんの好きな人はとそれだけで捺那には理解できた。
そして、気付く……たまに鈴白にも今みたいな顔を向けていた事を。
子供を心配する父親……というより愛しい人を思う表情。
「この人……鈴白のお母さん? ずっと眠ってるの?」
答えてくれるかは分からないけれど、捺那は恐る恐る聞いてみる。
「お母さんじゃないよ……鈴鳴は事故でもう意識が戻らないって言われてる。でも、それでも身体は温かいし、信じられなくて……」
そう、今も目を開けて自分を見て名前を呼んでくれるんじゃないかって……都合が良い考えをしてしまう。
「相澤先生……この人も一緒に」
入り口に居る相澤と鈴白を抱いている江口の方を振り向く捺那。
「もう直ぐ、警察が来るから……搬送させてもらおう。うちの病院へ移すから。いいだろ芹?」
相澤に言われ頷く芹。
「相澤さん、離れて……鈴白さんお願いします」
江口が相澤に鈴白を渡し、体勢を変えて威嚇するように前に立つ。
「何だよ、ボディガードって二人居たんだ……一人は刺したけど」
七瀬がゆっくりとこちらへ歩いて来るのが見えた。
「七瀬……お前が刺した相手は病院だよ、ちゃんと助かった」
「相澤……? 話すの久しぶり。老けたな」
「うるせえよ! お前もだろー!」
言い返す相澤にクスッと笑うと「でも、コイツは違うよね、居なくなってもこうやって若い姿で現れる……ビックリしたよ、芹に会いに行ったら家からコイツが出てきた……ああ、あの時の実験の子かって」鈴白を睨んだ。
「実験の子?」
捺那はキョトンとした顔をしている。
声を発した事で捺那がそこに居ると気付いた七瀬はニコッと微笑んで「捺那、覚えてるか? 前に会っただろ? 会いに行ったのに追い返されてさ……ずっと会いたかったんだ」と言った。
芹は捺那の前に立ち「俺に恨みがあるんだろ? だったら俺に直接恨み事を言えばいい、捺那も鈴白も関係ない」と庇う。
「だって、それじゃあ面白くないだろ?」
七瀬は当たり前じゃないか! と言わんばかりに口の端を吊り上げて笑う。
「芹さん……この人」
芹の後に居る捺那は七瀬を見ながらに聞く。
「僕は君を産んだんだよ? ひどいよね、僕が居るのに他の人に預けるなんてさ」
「捺那、聞かなくていい」
芹は捺那の耳を塞ごうとする。何時かは知ってしまうだろう。
でも、こんな形で聞かせたくはなかった。
「本当の事をちゃんと教えなきゃダメだよ芹。君は芹と僕の子供だよ?」
「えっ?」
耳を塞がれても捺那の耳に届く真実。
「芹さんが……俺の?」
捺那は芹を見つめる。
「……じゃあ、俺を育ててくれたのは?」
震える声で芹に聞く。
「兄だ……」
兄と言っても芹の父親の愛人の子供。彼は愛人の子供だからと卑屈にはならず、誠実で優しい人だった。偶然にそれを知ってしまった芹は父親に内緒で会っていた。
彼は芹を可愛がってくれた。弟が欲しかったんだって。
そんな優しい兄だったから捺那を託せた。
彼は捺那を本当に可愛がってくれて……最後まで守ってくれた。
芹と七瀬の事情を知っていたので、七瀬がいつ来るか……きっと不安だったに違いない。
捺那の瞳が涙で溢れてきた。
「……ごめん捺那」
「…………」
捺那は黙ったまま芹を見ている。
芹が自分を好きになるなって言った意味が分かった……。引き取って育ててくれた理由が分かった。
「七瀬……お前」
相澤が何か言いたげに七瀬を睨む。
「芹が悪いんだよ、鈴鳴がこうなったのも、僕がこうなったのも! 関係ない捺那がこうやって傷つくのも……芹が全部悪い……いや、違う。鈴鳴だ……」
七瀬は相澤に近付こうとする。鈴白を抱いているから。
それを瞬時に止めたのが江口。
七瀬を押さえ込む。
江口に押さえ込まれた七瀬は痛みで顔を歪め芹に向かって「鈴鳴は事故じゃない! 自殺したんだよ、複数の男にやられてさ……芹に合わす顔がないって」と言った。
芹の身体が硬直したのを捺那は感じた。
そして、拳をギュッと握って何かを耐えているような……。
七瀬の衝撃な言葉……。確かにこうなる前に鈴鳴の様子がおかしかった。
顔と身体に痣があって、どうしたのかと聞いたがアルバイトでアチコチぶつけたと笑った。
あの時……。
「七瀬!!」
芹は七瀬を睨んだ。
「何だよ? 自分のせいだろ? 鈴鳴だって芹に会わなかったらそんな目に遭わなかったし、今頃どこかで暮らしてたよ、捺那だって辛い目にあわずにすんだし、あの夫婦だって死なずにすんだ! 全部お前のせいだ! ざまーみろー!!!」
七瀬はそう叫んで声を上げて笑った。
バシンっ!!!
その直後に激しい音が響いた。
「捺那……君?」
側に居た相澤が捺那の名前を呼ぶ。
激しい音の正体は捺那が七瀬の頬を叩いた音だった。
「うるせえよ! クソが! 何が芹さんのせいだ、お前が全部やったんだろーが! 俺の両親もお前が!」
捺那は七瀬を激しく詰った。
「俺は……両親が好きだった、大好きだった! それを奪ったのはお前だ! 返せよ、返せ!」
「捺那!」
芹が後ろから抱き締めてくる。
「ちくしょー、お前なんか嫌いだ」
そう叫んだ。
沢山愛してくれた。
楽しい思い出ばかりしかないのがその証拠だ。
火事の時も最後まで守ってくれた。
そして、芹は炎の中に飛び込んで救ってくれた。
芹からも愛情をもらった。寂しくて眠れない自分を夜どうし抱っこしてくれたり、鈴白と一緒に遊園地に行ったり……参観日だって、運動会だって。出来る限り来てくれた。
だから好きになったんだもん。
「あんた……馬鹿だよ。芹さんがそんなに好きなら他のやり方あったんじゃないのかよ? 振り向いて欲しかったらこんなやり方じゃなくて……もっと」
捺那は涙をポロポロと零す。
「……うるさいよ。じゃあ! どーすれば良かったんだ! 運命の番が現れたから、はい、そーですかって引き下がれって? 恋愛経験もないガキに言われたくないよ」
七瀬も言い返す。
「ガキはあんたもだろ?」
恋愛未経験でも、大人じゃなくても、七瀬のやり方が間違っているのは分かる。
「俺は芹さんが好きだ、あんたにどう言われても嫌いになんてならない。俺と芹さんとの絆はそんなもんじゃない。俺と芹さんの時間も愛情も、あんたの安っぽい復讐の塊みたいな言葉に潰されるわけがない! 舐めてんじゃねーぞ!」
捺那は泣きながら叫んだ。
七瀬は捺那を見つめて「本当、芹に似てるよな、その気の強さ」と睨んだ。
そして、七瀬が一瞬、笑ったのを芹は見逃さなかった。
次の瞬間、ドン!! と爆発音が響いた。
その音につい、江口の手が緩んだ。
その瞬間を待っていたかのように、七瀬は江口を突き飛ばしてポケットの中に忍ばせていたナイフを持ち出すと、捺那めがけて突進した。
芹の前で実の息子を殺す機会を待っていたかのように。
芹は捺那の身体を反転さて、七瀬をナイフごと受け止めた。
「芹さん!」
「芹!」
「芹様!」
三人の声が同時に響いた。
誰もが、何が起こったのか一瞬分からなかった。
突進した七瀬さえ。
ただ、芹だけが自分の置かれた状況が分かっていた。
「……ふっ……」
痛みに顔が歪む。
ポタリと赤いモノが床に落ちた。
「ああああー」
七瀬が叫んだ。
「芹さん!」
捺那は芹の名前をもう一度叫ぶ。
芹は七瀬をギュッと抱き締めて「最初っから刃物は俺に向けたら良かったんだ……悪いのは全部俺だ……お前は悪くない」と言った。
「あああ、せり……いい」
腕の中で声が震える。
「ごめん」
「謝るなあ!! 謝るなあ! 僕は許さない! 許さないから」
「うん、いいよ……許さなくて……」
芹は七瀬の方へ倒れ込む。
「芹さん!」
捺那は芹を後ろから支える。
「嘘だあ」
ポタポタと床に沢山の血。それをみた捺那は動揺したように叫ぶ。
「芹様!」
江口は七瀬を芹から引き離し、腹を殴って気絶させた。
「すみません、私が手を離したから」
「いいんだ、遅かれ早かれ……こうなる」
芹は自分の手で刺された部分を押さえる。
「芹、動くな」
相澤は鈴白を江口に渡すと芹の刺された部分を止血し始める。
「せんせえ、芹さん、芹さんを」
捺那は泣きながら叫ぶ。
「捺那……俺は大丈夫だから、ここ、たぶん、全てを爆発させる気だと思う……次の爆発までに早く」
芹は捺那を見て余裕だと笑って見せる。
「俺が支えるから」
捺那は芹の腕を上げて自分の肩に回した。
「捺那……ありがとう。ごめんな」
芹は微笑むと捺那の腹を殴り気を失わせた。
「芹!」
相澤は驚き芹の名前を呼ぶ。
「捺那を頼む」
捺那を相澤へと渡す。
「芹、お前」
「早くいけよ……俺はもういい」
芹はよろよろと立ち上がると鈴鳴の側に行く。
「芹、お前ここに残る気なんだろうけど、捺那君にまた親を失くさせるつもりかよ! やっと、父親だって名乗れたんだ」
相澤は捺那を抱き上げて芹を説得する。
「江口……七瀬も抱えられるか?」
芹は江口を見る。
「できますけど……」
「じゃあ、命令だ! 七瀬と鈴白を連れてここを出ろ早く!」
芹が叫ぶと次の爆発音が聞こえてきた。
メリメリと割れる音。
「芹、お前もこい!」
「鈴鳴は……? お前が俺を支えると鈴鳴はどうする?」
その質問に相澤は「鈴鳴はもう目が覚めない……知っているだろ? 機械で生かせられてるって」と言った。
「知ってるよ……でも、温かいんだ」
芹は鈴鳴の顔に触れる。
「ごめん……鈴鳴」
芹は大粒の涙を零す。
ごめん……知らなくて。
あの時気付いてやれなくてごめん。
俺が出逢わなかったら七瀬が言う通り、どこかで暮らしていたかもしれない。
そして、また、タラレバを考える自分に笑う。
「俺も一緒にいくから……」
芹は呼吸をつなぐ機械のスイッチを切ると鈴鳴の手をギュッと握った。
『 芹はカッコイイなあ』
そう言った後、鈴鳴は事故に遭った。それが自殺なんて思わなかった。
好きだったんだ……初めて見た瞬間から。
あの感情は止める事なんて出来なかった。それで、周りが傷つくとか考えなかった。
本当、馬鹿だと思う。
鈴鳴の手からまだ伝わる体温。それがもう直ぐ止まる。
これでいい……と思う。
これも自分のエゴかな?
「鈴鳴……ごめん」
消えそうな声で謝ると、握った手が握り返されたような気がした。
そんなわけがないのに。
「せ……り……」
名前を呼ばれた。
芹は聞き間違いかと鈴鳴を見つめる。
すると、ずっと閉じていた瞳が開き、自分を見ている。
「鈴鳴!!」
声を張り上げた。
握り返されたと思ったのは気のせいではなかったのだ。
「芹……ないてる……泣き虫なんだね」
鈴鳴は芹を見つめている。
「鈴鳴……」
涙が止まらない。
「芹……」
「なに?」
「いきて……」
「えっ?」
「生きて……」
鈴鳴はそう言って微笑む。
生きて……。
そう言って鈴鳴はまた目を閉じた。
「すずな?」
手をギュッと握る。
もう一度声が聞きたい……でも、芹の意識も遠くなる。
もう一回名前を呼んで……。
『 芹はカッコイイなあ』
『 この花、芹みたいだよね』
また、笑って欲しい。ただ、それだけだった。
誰かが手を握ってきた。
誰だろうと握ってきた方を見ると鈴鳴だった。
「芹と出会った事後悔しないよ?」
ニコッと笑う鈴鳴。
「鈴鳴……」
「すごく好きだよ」
鈴鳴は笑っている。すごく楽しそうに。
「芹は誇らしく咲いて欲しい。夜しか咲かない花じゃなくて、綺麗でも昼間に咲いて太陽の下で誇らしく咲いて欲しいよ、それが最後のお願い」
鈴鳴はそういうと芹の手を離した。
また、掴もうと手を伸ばすと温かい手が握り返してくれた。
鈴鳴?
そう思って目を開けると涙でくしゃくしゃな顔の捺那と鈴白の顔が飛び込んできた。
「クソ親父いいい!!」
捺那は叫ぶと芹にしがみついて泣き出す。
「父さん良かった」
鈴白も涙を指で拭いながら嬉しそうに笑う。
「相澤先生呼んでくる」
鈴白はそう言って出て行った。
ぐすぐす泣く捺那の頭を撫でる芹。
「死んだら殴ってた」
顔を上げずに文句を言う。
「そっか」
頭をポンポンと叩く。
捺那の頭を撫でながら生きているのだと実感した。
バタバタと足音がして、相澤と鈴白が戻ってきた。
◆◆◆
芹が意識を失ってからの話を相澤から聞いた。
あの後、江口の同僚と警察が到着して助け出されてしまった。
そして、あの事件から二週間過ぎていたとも聞いた。
「目覚まさなかったら殴ってまで起こすって捺那言ってたよ」
鈴白が笑いながら暴露する。
「さっき、死んだら殴るって言ったよな? どっちにしろ、殴られるんだ?」
芹は捺那を見て笑う。
「当たり前だろーが! 俺と鈴白を置いて死ぬなんて許さないからな」
睨む捺那。
「本当、誰に似たんだか……」
思わずそう言ってしまった。
「俺は親父似なんだろ?」
と真っ直ぐに芹をみた。
「ふふ、捺那、そっくりだもんね」
鈴白も笑いながら言う。
その言葉で、捺那だけでなく、鈴白も全てを知っているのだと芹は悟った。
(相澤から説明を受けたのか、それとも捺那から聞いたのか……)
芹は知らない。鈴白に全ての真実を話したのは七瀬だという事を。
「鈴白……あの、」
改めて自分からも説明した方が良いのだろうか? 。
「俺ね……父さんは父さんだと思ってる、それ以上でもそれ以下でもない」
何もかも分かっているように、鈴白はニコッと微笑む。
「俺だって……思ってるよ、お父さんだってさ」
捺那も真っ直ぐに芹を見つめる。
込み上げるものを抑えきれず、芹は唇を噛むとしばらく押し黙った。
この子達はすごいな。
全てを受け入れて許してくれる。
「……ほんと、お前らって」
芹は笑おうとしたが涙が零れた。
◆◆◆
「七瀬と鈴鳴がどうなったか知りたいだろ?」
翌日、相澤が病室に来て開口一番にそう言った。
◆◆◆
七瀬は精神病院へ戻された。
ただ、ひとつ違うのは全てを忘れてしまった事だ。
芹を殺してしまったと思い込んだ七瀬は、その恐怖から逃れるために全てを忘れ、子供に戻ってしまった。
そのため、罪には問われない。今は芹の事も全てを忘れ、無邪気に笑って生活していると。
捺那も会いに行ったそうだ。
文句を言ってやろうと思ったけれど、捺那を見て「お兄ちゃん、遊ぼう」と笑顔でボールを渡してきたので、何も言えなくなったとか。
鈴白も捺那と一緒に七瀬に会いに行っては遊んでいると相澤は話した。
「ほんと、あいつらは」
敵わないなと思う。
「鈴鳴は……お前に悪いと思ったが埋葬したよ」
「……うん」
あの時、目を確かに開けた。
呼吸器を止めてしまわなかったら鈴鳴は……? と考えた。
「芹、勘違いするなよ? 機械を切ったのは自分だと思ってるだろ? お前が切ったのは違う機械だよ、意識が朦朧としていたから勘違いしたんだろ」
まるで心を読むかのような相澤の言葉。
「病院に搬送されて、二日後に心臓が止まったんだ」
「……そっか」
「動けるようになったら連れて行ってやるよ」
相澤の言葉に黙って頷いた。
生きて……と鈴鳴は確かに言った。
夢の中の鈴鳴は笑って自分を好きだと言ってくれた。
あれは自分の願望かもしれない。願わくば、最後に会いきてくれたのだと思いたい。
君は、昼間に咲き誇る花で居て欲しいと。
「芹……」
涙を流す芹の隣で、相澤はただ無言で寄り添っていた。
◆◆◆
芹の退院が決まった日、鈴白が「保護者のサインいるって」と申込用紙やら資料やらを病室に持ってきた。
それは料理の勉強をするために通う学校の資料だった。
「いいでしょ? 父さん」
「いいよ」
芹はその紙にサインをする。
「楽しみだな」
「なに? 気が早いよ!」
どうやら芹が何を言おうとしているのか分かったようだ。
「鈴白……俺を恨んでいるか?」
「何で恨むの? 俺は俺だよ? 鈴鳴さんとは違う。ちゃんと幸せだよ?」
そう微笑む鈴白に救われる気がした。
「あ、俺ね……ちゃんとαだったよ」
「ちゃんと?」
芹に聞き返された鈴白は、顔を真っ赤にして「な、捺那待ってるから!」と資料を掻き集めて飛び出して行った。
「やったのか……親の留守の間に」
芹はクスクス笑う。
◆◆◆
退院して、改めて鈴鳴の墓参りに三人で行った。
死を認めなくなかった。
機械で生かされている鈴鳴を側に置いておきたかったのは自分が弱いから。
鈴鳴に言われた……生きろと。
咲き誇る花もその内散る。散ってもまた次の花を咲かせるために種を残す。
「俺は幸せだから、鈴鳴さんの分も……とか重い事は言わないよ? 俺は俺の人生を歩くからさ……鈴鳴さんはきっと、幸せだったと思う、父さんに出会えて」
鈴白から言われた。
「だからさ、父さんもちゃんと幸せになってよ」
鈴白は微笑む。花のように凛と。
まるで鈴鳴に言われたみたいだった。
『芹は昼間に咲き誇る花でいてよ』
「そうだな……」
どちらへの答えなのか芹にも分からないけれど、君の為に咲く花になろう。
凛と咲く花に。
了
剣と魔法の世界、レヴァリアース。
この物語は、そんな世界に住む、二人の男のお話。
1
人生とは何が起きるか分からない。
俺は、二九歳にして改めて実感した。
豪華な白亜の城で、俺――アレク・アーリーは婚儀を挙げている真っ最中だ。
ちらり、と隣で俺と手を繋ぐ男を見つめる。
俺の夫となる、セオドリック・ミアラルド。一九〇センチを超える長身に、鍛えられた肉体を持った美丈夫だ。しかも、ミアラルド国の若き王様である。世の中の女性やオメガ性にとっては、これ以上はない結婚相手だろう。
俺にとっては、当初望まない結婚相手だったのだが。
「誓いの口づけを」
神官の言葉に、俺たちは互いに向かい合う。
逞しい腕が俺の腰を引き寄せ、そっと唇同士が触れ合ったのを、瞼の裏で感じながら、 俺は絶望していた。
そして、式の後の初夜で 、力づくで押し倒され、服を脱がされた俺は、身体中を嘗め回された後、後ろに指を挿入され、恐怖で身体を引きつらせていた。
勃起もできないほどに硬直した俺に、セオドリック様はいろいろと手管を使ってならそうとしたのだが、俺の身体は全く持って受け入れることができていなかった。
「力を抜け」
セオドリック様が、眉間に皺を寄せて、低い声で言った。
別にセオドリック様は怒っているわけではない。理由を知っている俺は、セオドリック様の下半身に視線をやる。ズボンをきつく押し上げるソレが見えて、泣きそうになった。
低い声も眉間の皺も、沸いてくる性欲を鎮めようとする、セオドリック様の涙ぐましい努力に他ならなかった。
「ご、ごめんなさい」
俺は思わず謝っていた。
断るなんて許される立場ではない。しかも初夜である。むしろ、俺から奉仕くらいするべき案件であることは明白だった。
けれど、俺は経験がかなり少ない。素人玄人あわせて、片手で足りるくらい。対するセオドリック様は絶対百人以上は経験があるはずだ。
そんな俺に対して、セオドリック様の瞳は、欲情の色で濡れていた。俺の服を全部剥いだ後、セオドリック様も服を脱ぎ捨てる。キングサイズのベッドの上、裸の男が向き合い、抱き合う。
セオドリック様は、しばらく俺の後ろを弄っていたが、俺が反応しない事に気づき、仕方なさそうに、狙いを俺のペニスへと変えた。他者の手でこねられ、こすり上げられ、あっという間に勃起したペニスを、あろうことかセオドリック様が整った口に含んだのを見て、俺は慌てて口を押えた。そんな俺を見てにいっと笑ったセオドリック様が、あえて音を激しくたててしゃぶり上げるのを見下ろして、ますます身悶える。
「あ、いや、だっ、そこはもうやめ……っ」
懇願も意に介さないセオドリック様に追い上げられ、俺はあっけなく口の中に射精した。
残滓までも綺麗に吸い取られ、荒い息のまま呆然と天井を見挙げていた。
「ずいぶんと出たな。たまっていたのか?」
意地悪なセオドリック様の言葉に俺は半泣きになりながら、自身の身体を隠すように抱きかかえる。
「うう……っ」
半泣きの俺を見下ろしながら、セオドリック様が笑っている。
「最後まで、と思ったが、やはり発情していなければ、まだ無理か」
「ぐっ……っ」
初夜での妻の役割は、本来ならば果たして当然なのだが、セオドリック様はそれ以上は決して俺に強要はしなかった。
セオドリック様は欲望に忠実であり、多少嫌がっていてもその手管で陥落すると言われるほどなのに、だ。
なぜなのか。
その理由を俺は知っている。
「かわいいな、おまえは。早くまた繋がりたいが、身体が心配だからな、ゆっくりと慣らして行こう」
惜しまず、セオドリック様は俺に優しく囁く。ベッドの上で寝ころんだ上、横から抱き寄せられると、お尻の当たりにセオドリック様の欲望が当たってるのが分って、俺は震えた。
今日が初夜ではあったが、性的な触れ合いは今日が初めてではない。俺がこの国に入ったその日に、散々この方に触られ、舐められ、イカされていた。というか、既に最後まで致している。俺の突発的な発情のせいで、セオドリック様は獣と化し、俺は朝まで眠ることもできず、ひたすら喘いでいたのだ。
さらに初めての行為の後、挿入には至らずとも、こうしてほぼ毎日のように、淫らな行為が繰り返されていた。
遠い目で天井を見上げながら、俺は、このミアラルド王国にやってきた経緯を思い出していた。
2
本来、俺がこの男の結婚相手になる事などあり得なかったのだ。
俺はこの世界ではかなり特殊な存在だ。
この世界では、男女が、アルファ、ベータ、オメガの計六種類の性に分かれて生まれてくる。正しくは大体十二歳くらいでこのバース性が判明し、一生変わらない、と言うのが基本だが、世の中には突然変異が存在していた。それがバース性のランクダウンである。
オメガやベータが、アルファにランクアップする事は皆無だったが、逆にアルファやベータがオメガに変質する事は……、稀ではあったが、存在していた。
俺は後者にあたる。本来はアルファだったが、オメガへと変わったケースである。
セオドリック様は生粋のアルファだ。当然ながら妻となる相手は正室であれ、側室であれ、子供を産める女性か、オメガになる。愛人としてベータの男女やアルファの男を迎え入れている者は一定数いるが、かなり珍しい話であり、大抵は気軽な一時の火遊びが多い。
かつてアルファだった俺も、国の命で異世界の神子の護衛騎士を勤めあげていた時に、同僚の男や上司から遊びに誘われた事があった。アルファは基本的に支配欲が強いため、アルファ同士でくっつくパターンはかなりのレアだった。なお、俺が応えたことはない。
俺とセオドリックは、実はまぁまぁ、付き合いが長い。俺が十六歳の頃に出会ったので、かれこれ十年以上は交流がある。基本的に口を開けば喧嘩だったので、仲は良くはなかった。けど、感情の読めない冷徹な面から機嫌の良し悪しが分かる程度には、セオドリック の事は知っている。多分、あっちもそうだろう。
当時は甘い関係じゃなかった。
出会った最初は、性別を問わず、あらゆる人間に手を出していた節操なしのセオドリックだったが、俺に手を出してきたことは一度もない。
俺の人生設計では、いつかオメガか女性を伴侶に迎え予定だった。アルファの相手はオメガが推奨されてはいたが、オメガの人口はバース性の中で一番少なかったので、オメガと結婚できるアルファは限られたエリートだけだった。その癖にオメガの地位は低いのがいささか納得できない。
自国、フィオーレ王国で、俺は名誉ある神子の騎士に選ばれていた。ほぼ性格と容姿のおかげだった。アルファにしては平凡な容姿で、『神子が接しやすく引け目に感じない』性格だったから選ばれたに過ぎない。当然、そんな俺に寄り添ってくれるようなオメガは居なかった。
一生独り身かもしれない、と思った事はあった。
重婚は当たり前のこの世界、優秀な存在は幾多の妻や夫を持つ。優秀じゃない俺が余るのは当然だったからだ。
でもまさか自分がオメガに突然変異した上、アルファである知人と結婚する立場にされるなんて思ってもみなかった。
そもそも、俺の容貌は一切変わっていない。
背は百八十五センチあるし、体格もそこそこ良い。セオドリックと比べれば背も低いし、身体の厚みも大分薄いものの、一般的にアルファが好む小柄で華奢な中性的タイプではない。決して。
顔立ちが華やかならば、まだ救いはあったかもしれない。匂いでアルファを判別できるオメガを覗いて、大抵の人からベータだと思われている。昔は、背が高いから、まぁ、アルファか、くらいはあったが、今はどうみてもオメガには見えない。
だから、俺がオメガに変わったところで誰も番など申し込んでくるわけない、と思っていたし、俺の家族の大半もそう思っていた。
母親からは一生独り身かもね、と言われた。共にオメガである双子の弟たちからは、性生活のいらない隠居したご年配を薦められる始末。ちなみに双子の弟たちは、俺とは欠片も似ていない、かわいい女の子のような容姿をしている。
寂しい話ではあるが、それも運命だと、俺は受け入れることにした。それに三十歳も間近になって処女を失うのは抵抗がある。
幸いな事に家は裕福だったため、俺一人くらいの行き遅れの面倒は見る、と父親が豪快に笑ってくれたのが救いだった。ただ、この話題になると、父親は必ず俺から視線を逸らし、口元を引きつらせるようになったのが気になった。
俺を可愛がってくれている長兄夫婦も、なぜか決まって顔を引きつらせていた。ひょっとして家の経済状況が芳しくないのだろうか、と心配になったが、聞けば経済状況はむしろ良いらしいので謎だった。
大体、まもなく三十歳を迎える男を妻に迎える奴なんて、居たら天然記念物である。まあ、俺の親の商会は結構大きいので、援助目的ならばあり得るのだが、うちには嫁いでいないオメガの弟が二人いる、弟たちの貰い手が見つかった後にしかそういう出番もないだろう。
弟たちも結婚適齢期はかなり過ぎているが、俺よりは若い二十五歳だし、中身が糞だとしても外見だけは目を見張る美青年である。上の弟であるニコルは、すらりとした金髪碧眼の甘い顔立ちの美青年だし、下の弟であるレナは、ブルネットの愛らしい人形のような、一見すると十代にも見える美少年フェイスだ。二人とも体躯は華奢だ。それでも貰い手がいまだにないのは、理想が天より高いからなのは明白である。お金を持っていて、美形で背が高くて、セックスがうまい、甘やかしてくれる、それがあいつらの最低条件だ。
そんな無茶な条件でも、伴侶の中の一人、でも良ければ、複数の声掛けはあったのだが、二人とも自身が一番でなければ気が済まないのだ。多分、そんな一途な人は性格の良い奥さんを貰っていると、俺は思ったのを忘れない。
まぁ、こんな問題児双子が形成されたのは、間違いなく家庭環境が原因だったので、あまり強く言えないのだけれど。
――とにかく、両親が双子を甘やかしすぎたのが悪かった。兄貴は俺には優しいが他の兄弟にはめちゃくちゃ冷たい。幼い頃から距離を置いていたのだが、現在はさらに氷のように冷たい対応をしている。兄弟たちが兄貴の番を馬鹿にした上、兄貴から離れるように追い詰めたからだ。兄貴の番は幼い顔立ちの少年で、性格はめちゃくちゃ良いし料理もうまいので俺は尊敬している。兄貴も結構俺様な性格だったので、くっつくまでめちゃくちゃこじれていたが、今はただの熱い夫婦である――
一応、伯爵である友人のアルファだけが、唯一俺に「貰ってやろうか」と言ってくれたが、彼には既に複数の妻が居るので断った。贅沢かもしれないが、俺も唯一無二が良い。この点だけは双子に同意する。
3
そんな感じでオメガに変容してから三カ月が経った頃、父親と双子たちと共に、王城に召喚された。
騎士だった頃は、毎日立ち入っていた場所だったが、かつてよりどこか物寂しい雰囲気だった。
理由は分かっている。
俺の仕えていた神子が死んだから。神子は王の番だった。もうすぐ二年が経とうとしている。
神子が死んでからしばらくの間は、城の中だけでなく国中が悲しみに包まれており、陛下の息子であるドラゴネット王太子殿下が、無理やりに立て直さなければ、国が傾いていてもおかしくはなかった。だからこれでも明るくなった方だ。
「はー。辛気臭いよね、お城の中って」
気だるげに己の髪をいじりながら、ニコルが言う。
「ニコル、口を慎めよ」
自分の眉間に皺が寄るのを感じた。
ニコルは神子が健在だった頃の事を言いたいのだろう。確かに当時の城はいつも活気に満ちていた。いろいろと厄介なトラブルはあったが、すべてあの神子が治めてくれて、城に勤める兵士も使用人も楽しそうに仕事をしていた。むしろ、はしゃぎすぎて宰相閣下に叱られるくらいだった。
そんな人が亡くなったのだ。悲しみが癒えないのは当然だ。
「ふん。そりゃ、兄さんは神子の騎士だったもんね? でもさ、あれからもう二年だよ。陛下もさ、新しい愛人を作ればいいのに」
「なら、僕、立候補しようかな?」
レナが楽しそうにニコルの話に乗っかるのを見て、俺は二人を殺したくなった。
(こういう糞な考えだから、外見が良くても貰い手がないんだよ、こいつらは!)
「てめぇら……!」
「ニコル、レナ、いい加減にしなさい」
今にも掴みかかりそうだった俺を制したのは父親だった。
「今の言葉を陛下が聞いていたらおまえたちの首はない。そればかりか私たち一族が取り潰しになる可能性とてあるのだ」
双子に甘い父親だったが、商会を大きくした功労者でもある。最低限の礼儀や常識は、持っていて当然だ。
ふくれっ面で双子が互いの顔を見わせる様子を、俺は苦々しい思いで見ていた。
4
玉座の間。
王が座るべきその場所には、本来の持ち主である男は居なかった。代わりに座っているのは、陛下の第二王子である、ドラゴネット様だ。御年十六歳ながら、俺とさほど変わらない長身の、現国王陛下に似た美少年である。美少年と言っても、儚さとは無縁の威圧感の持ち主だし、何よりこの年で既に愛人が一〇〇人以上いるとんでもない人物だ。
性に奔放すぎるのが問題視されてはいるが、政治能力を始め、剣も魔法も得意な有能な方であり、第一王子であるテナルディエ様よりも王太子にふさわしいとさえ言われている。
実質、重要な案件はすべてドラゴネット様が決定権を持っているし、現在表に出てこない現国王陛下に代わって、城での謁見や外交はドラゴネット様が取り切っている。
「御身の前に」
膝をつき頭を垂れた俺たちを見下ろしながら、億劫そうにドラゴネット殿下が口を開いた。
「頭をあげよ。急な呼び出しで悪かったな」
「とんでもございません」
「殿下お久しぶりです」
俺がにっこりと笑うと、殿下がにいっと、野性的に笑う。
「アレク。おまえがオメガになったと聞いて俺は驚いたぞ。見たところ変わらぬな。平凡な容姿よ」
「私とて驚いています。よもやもうじき三十になる目前でなるとは思いませんでした。おかげで貰い手がいません」
肩をすくめておどけて見せると、ドラゴネット殿下がくつくつと、声を殺して笑いだした。
(殿下、それはさすがに酷い!)
俺は内心でぶーたれる。でかい男が頬を膨らませるなんて視界の暴力なので絶対にしないがな。
しばらく笑い声をかみ殺していたドラゴネット殿下だったが、笑い尽くして満足したのか、俺の父親の名前を呼んだ。
「アレクには話が全く伝わっていなかったのだな。ああ、そちらの双子にも伝えてはいないのか。まぁ、既に逃げ道は絶たれているから、無駄な抵抗でしかないが」
ドラゴネット殿下の言葉に、俺たち息子三人は戸惑いながら、父親を見つめた。
父の眉間には深い皺が寄っている。
「父上?」
俺の言葉に父親が肩を落とした。その眼は諦めているかのように、揺らいでいる。
「おまえが言いにくいなら俺が言ってやろう。おまえたち三人は、これからあるところに嫁ぐことになった」
その言葉に、俺はぽかんと口を開けた。
「嫁ぐ? 今、嫁ぐって言いました?」
「ああ」
耳が遠くなったのか、とドラゴネット殿下が嫌味を言うが、そりゃ聞き返したくもなる話だ。
「四カ国の友好国同士の話し合いの結果、互いの国の者同士を婚姻させることに決まってな。おまえたちに白羽の矢が立った、と言うわけだ」
ありていに言えば、それはすなわち人質のようなものだ。万が一友好が破棄されれば、どんな目に遭うかは分からない。
現在、この世界は魔人と呼ばれる異形の存在によって脅威にさらされている。神子の最後の力によって奴らの力は弱まってはいるものの、おそらくながら、一五年以内には、その加護も消えるだろう、と言われている。
それもあって、一応今は、国同士の争いはほとんどないが、皆無ではない。
双子が隣で息をのんだ。
俺は騎士だったので、争いごとや命の奪い合いなどには慣れている。実際、騎士だった頃は国同士のいざこざで、命を失いかけた事が少なからずある。拷問を受けた事もあるし、命を軽んじるわけではないが、国のために死ぬことは決して恐れてはいない。
アルファではなくなった今でもそれは変わらない。
おどおどと、レナが父親の袖を引っ張った。
ニコルの顔色も悪い。
双子は戦いとは無縁だ。武器なんて一切扱えないし、魔法もほとんど使えない。甘やかされた双子には、命の危機なんて感じる機会はなかっただろう。
動揺する双子を、ドラゴネット殿下が冷たい視線で射貫くように見ている。
「おまえたちは三国に嫁ぐ。それは既に決まっていることだし、変えられぬ。変える気もない。何、安心しろ。あちらからおまえたちを指名したのだ。悪い様にはしないだろう。まぁ、約一名ある意味では過酷だろうが、な」
最後に俺をちらりと見たドラゴネット殿下は 、なぜかいやらしそうに笑う。
父親は、大きくため息を吐きながらも、深く頭を垂れる。
「御意」
現在の指揮権を持つドラゴネット 殿下の決定した事に、反論などできるはずはなかった。
そんなやり取りがあって十日後、俺たち三兄弟はそれぞれの国へと旅立った。弟たちは喚きたてたり、物を壊したりなど抵抗していた。俺も実はそれなりに抵抗したんだが、無駄なあがきだった。
抵抗した理由は三者三様だった。
あの後、どの国の誰に嫁がされるのかを知った俺たちは、そりゃ落ち込んだ。アルファとベータの王族は、三カ国で合わせて十六人いるのだが、今回嫁がされる相手が、ピンポイントで俺たち三人にとって非常にキツイものだった。
ニコルの嫁ぎ先の王族であるハイデル王弟殿下は、顔立ちはまぁまぁ整った男ではあるのだが、特殊な性癖があるらしく、正室の事は大切にするものの、側室に対してはほとんど奴隷のように扱うといううわさだった。自分を一番にしてほしいニコルにとってはそりゃ嫌だろう。しかも、第二十六夫人らしい。王でもないのに、多すぎるだろ。
レナの嫁ぎ先であるユリウス皇子は、お世辞にも美男子とは言い難く、太った男だ。王族としての地位も低く、頼りない印象がするが、音楽に精通していて、意外と博識らしい。人格的には問題はさほどなさそうだが、美形じゃないのが許せないらしい。
そして俺に至っては、見知った名前であるセオドリック王の名前を書面で見て、悲鳴を上げた。俺の相手を見て、ニコルとレナは代われ! と俺を責めたが、代われるものなら変わってやりたい。いや、ハイデル王弟殿下は嫌だから、ユリウス皇子と変わりたい。
しかしながら、速攻で却下された。指名されているから、と。引きつった顔をした父親と、なぜか悟りきったような顔をしている兄夫婦が、諦めろと俺に諭すので、俺は仕方なく諦めた。弟、特にレナは俺を仇でも見るような目で見ていた。
何しろセオドリック王は、外見だけなら正直お目にかかれないくらいの美形である。誰彼構わず手を出すという点から、全然一途さはないのだが、三十四歳になっても正室はおろか側室も持っていないちょっと不思議な所があった。うわさでは、セオドリック王には誰か愛する人がいて、その人のためにたった一つの后の座を空けていると言われている。それに合わせて、相手とは結ばれる事が難しい、ともうわさされていた。
気は多いのに、純愛みたいな話に、俺はなんだかなぁ、と思うのだが……。
「はぁ、なんでよりによってセオドリック様が相手なんだよ。せめて、ほかの奴でも良くない? いや、まぁ俺みたいなでかいの貰ってくれるのは居ないか。でも、形だけでいいから、側室貰えって押し切られたのか? あの人が?」
道中の馬車の中でぶつぶつ呟いた俺を、国から付いてきたくれた使用人のマリーが苦笑いで見つめていた。セオドリック様が寄こしてくれた馬車は、最新型の魔術馬車で、非常に快適だった。精悍な騎士たちがずらりと並ぶ様は圧巻だったし、専用のシェフまでつけてくれる程に至れりつくせりだった。
美味しい苺のケーキを頬張っていると、シェフが嬉しそうに笑った。
ミアラルドからのお迎えの一行は、俺にげろ甘な態度を取る。途中の宿に寄るため馬車を降りる時も、俺はお姫様か、と言わんばかりにエスコートされた。戸惑っていると、何を勘違いしたのか、騎士たちに「我々は皆、番持ちのアルファですから、ご安心ください」とにっこりと笑いかけられる。そんな彼らに、俺は引きつった笑みを浮かべるだけだ。
(いや、そんな心配してないです!)
大切に扱ってくれるのは決して嫌ではないのだが、俺だぞ、身長百八十越えの男だぞ?
けれど、どんなに否定しても、彼らの対応はお姫様対応のままだった。結局、王城の自分に宛がわれた部屋に入るまで、俺は心が休まらなかった。
用意された部屋はとても立派だった。
内装は俺好みのシックな感じ だし、日当たりが良くてとても明るくて素敵だった。
「こんな良い部屋、いいのかな」
「素敵なお部屋ですわ。アレク様のお好みの内装ですわね。置いてある家具もフィオーレの一級品ばかり。さすがはセオドリック様です」
「お気遣いには本当に感謝、と言いたいけれど、セオドリック様が、と思うと俺は複雑なんだけど。いくら俺を側室にするからってさ、今まで俺にあんな意地悪だったのに」
セオドリック様の俺への対応は、基本的に意地悪だった。初めて会った時からなぜか突っかかられたし、そこから十年ほど終始その調子だったのだから、側室に指名されたのは驚愕に値するくらいだ。
「ですが、険悪よりは仲良しが良いでしょう? 以前はともかく今後は互いに支え合いませんと」
「分かってるよ。まぁ、俺じゃセオドリック様の床の相手なんてできるわけないし、悪友みたいな感じに支えていくつもり」
多少意地悪ではあるが、悪い奴ではない、と俺は思っている。何しろ、俺は今までの戦闘でセオドリック様にかなりお世話になっているからだ。
セオドリック様は、俺が仕えていた神子を気に入っていた。神子はオメガだったが、彼の元々の世界ではバース性が存在しなかったらしく、この世界にやってきてからオメガに変容したらしい。
男が受け入れる側になるという概念にも、最初は混乱していたのを思い出す。
そんな警戒心の薄いオメガは、案の定と言うか、結構な確率で襲われていた。容姿は正直美形ではない。体躯も、中肉中背のどちらかと言えば細身な事以外、特に目立つ特徴もない神子だった。だが、フェロモンの濃度はとてつもなく濃かった。かくいう俺も発情期に遭遇した結果、神子を犯しそうになった。理性なんて吹き飛んでしまうのが、オメガの発情期だ。
セオドリック様はそんな俺の失態の場に現れ、神子に抑制剤を与えた上、俺を引き離してくれたのだ。
どんな理性的な人物も発情には勝てないと言われているのに、セオドリック様は涼しい顔をしていた。
セオドリック様は、介抱しながらも、神子に切々とオメガの説明をし、そこで初めて神子は危険性を理解してくれた。
俺が落ち着くまで、がっしりと厚い胸板に抱えられていたのを思い出して少し顔を赤らめた。
(あんなにそこかしこに手を出してたのに、神子には手を出さなかったんだよな)
最初は、セオドリック様の本命がゆえに手を出されないのか、と思って、二人が同席する際に聞いてみたのだが、神子は苦笑いを浮かべ、セオドリック様からは怒りで燃える視線を向けられた。
「セオドリックには本命が別にいるんだよ」
そう、後で神子から教えてもらったので嘘ではないらしい。
二人は友人だった。いや、恋人であった王を除いて、俺を入れて三人で、そこそこ親しくやっていたと思う。
(あの頃、俺の言葉にセオドリック様、すぐに怒ってたよなぁ。神子が居たからうまくやってたんだろうし、俺、大丈夫か?)
少し心配にはなるが、セオドリック様が俺に酷い事をするのは考えにくい。どんなに言い争いになっても、歩み寄ってくれるのはいつもセオドリック様だったからだ。
(そういえば、いろいろとくれたよな。お菓子とか花とか)
「うん、俺はセオドリック様を支えるんだ。もし、お后が妊娠して子供が生まれたら、俺、自分の持てるすべてを教えるよ」
そう言うと、マリーが力強く頷く。
うだうだと考えて、後ろ向きな事ばかり思っていたが、嫌な事ばかりではない。セオドリック様の側室と言うのは複雑ではあるが、両国にとっても、俺の家にとっても良い事はある。ミアラルド側としても、ひとまずは側室を置くことによって、いろいろと利はあるはずだ。
だから、俺は全くもって重くなんて考えていなかった。
それはマリーも同じだった。
知人である俺相手であれば、セオドリック様も気が抜けるだろう、と。
俺もマリーも、思い違いをしていることに、その時はまだ気づいていなかった。
俺たちの勘違いは、その日の夜に判明した。
5
俺は、今の状況を受け入れられず、硬直していた。
政務が忙しかったセオドリック様とお会いできたのは夕食の時だった。広い部屋で二人きりで食事をする。王族や貴族などの食事は、互いの距離が普通は離れているのが常なのだが、セオドリック様はなぜか俺の隣にぴったりと座っていた。
開口一番、満面の笑みだったセオドリック様に力強く抱きしめられ、抱えられて、席につかされたことを思い出して顔を引きつらせる。
(いや、だってあれはお姫様だっこだったよな)
「アレク、美味しいか?」
甘い、とろけるような笑みで、俺の口元にスープを運ぶ様子は、何があったの? と思わず激しく突っ込みたくなるような事態だった。
「おい、しいです」
戸惑いながらも下手な事は言えないので、小さな声でそう呟いた。実際料理は美味しいのだ。
「そうか。おまえの好みに合わせて作らせたのだが、俺の国ではあまり一般的な味付けではないのだ。だが、喜んでもらえてうれしい」
するり、と頬を指先でなぞられて、俺の身体は反射的に震えた。
セオドリック様は、終始食事を俺の口へと運びながら、上機嫌で話を続ける。世間話から始まり、最近の俺の話、俺がどれだけかわいいか、と何やらとんでもない方向に話は進み、食べ終わった俺の唇に触れるように口づけされて、俺はさすがに何かおかしいと気づきはじめていた。
「今夜行くから待っていろ」
熱っぽい視線で俺を抱きしめたセオドリック様が、耳元でささやいた後、耳たぶを甘噛みされた。瞬間、俺はこれから始まる結婚生活の中に、セオドリック様の伽が含まれるのだ、と嫌でも理解した。
后である以上は、そういう行為も含まれているのは当然であり、求められたら応じるしかない。
マリーに慌てて助けを求めたが、一使用人の彼女に何かできるわけもなく、俺は一人自室に残される事になった。
そして、夕食が終わった後、宣言通りにセオドリック様が部屋に訪ねてきた。
「ん……っ、ふ」
扉が閉まった瞬間の性急な口づけに、俺はセオドリック様の厚い胸板を押すが、びくともしない。腰に回された腕で逆に抱き寄せられて、口づけはどんどん深くなっていく。唇をこじ開けるように舌が入ってきて、俺の舌はすぐに絡めとられてしまう。
さすがに歴戦の勇者だけの事はあり、セオドリック様は巧みだった。
「アレクっ」
名前を呼ばれた時に、身体に甘い痺れが走ったのは気の迷いだと思いたかったが、裸に剥かれてベッドに押し倒される頃には、俺の理性は消し飛んでいた。
セオドリック様が、最後まではしないから、と俺を優しく抱きしめていたのだが、もうそれは不可能だろうな、と混濁する意識の中で思った。
何が引き金になったのかは分からないが、俺はものの見事に発情期を迎えてしまったのだ。これは俺の失態だった。実はまだ一度も発情期を迎えたことがなく、今回が初めてだった。抑制剤は所持していたが、いつになっても兆候がなかったため、飲むのをサボっていた。
俺に誘発されたセオドリック様の理性も同時に消え去り、そこから先はもう激しい動きに俺はただ翻弄され、喘いでいた。俺が言うはずもないような言葉が口から勝手に漏れる。
正常位で初めは抱かれ、その後、後ろから責められたあげく、最終的には騎乗位でセオドリック様の上で腰を振っていたのを思い出しながら、俺は痛む腰を抑えてベッドで悶えていた。
「あ、ありえない、いや、なんであのタイミングで来たんだ! っていうか、こんなの性急すぎるだろ!」
「夫婦なのだから問題はあるまい? 何をそんなに焦っている。昨夜は愛らしかったぞ」
隣に寝ていたセオドリック様が、おかしそうに笑いながら、汗に濡れた俺の髪をかきあげた。
至近距離の美貌に圧倒され、少し距離を置こうとするが、セオドリック様は力業で俺を抱き寄せ逃げられないようにした挙句、満足そうにすりすりと顔をこすりつけてくる。
「いや、まだ婚姻の儀式あげていないですし! そ、それよりも俺、妊娠していないですよね? お、俺みたいな側室が最初に孕むなんて申し訳がなさすぎてっ」
第一子出産の祝い事が俺だなんて未来の后に申し訳がたたないし、何よりそれが理由で虐げられたらと思うと、ぞっとした。
だが、セオドリック様は俺の言葉を聞いて、きょとんとした表情で俺を見つめていた。その後、眉間に皺を寄せたセオドリック様に頭をこつんと小突かれる。
「何を言っているのだ、おまえは。俺はおまえを正妃に迎えたのだ。初夜前に関係を持ってしまったのはまぁ好ましくはないが、すぐに婚姻するのだから問題はあるまい」
「へ?」
セオドリック様の言葉に、俺は間の抜けた声をあげていた。
「え、いや、あの。俺ってお飾りなんじゃ?」
俺に手を出したのは気の迷いであり、たまには珍味が食べたくて、とりあえず手を出したのだろう、と俺は思っていた。
食事の最中にかわいいとかは言われていたが、からかわれているのだと。
だが、セオドリック様は大きくため息をつくと、俺の知らない事を切々と説明し始めた。
俺がオメガだと判明した段階で、俺を后に貰うつもりだった、と。そして、どれくらい俺が好きかというのを、熱く真剣な目で語る。
そもそも出会った十六歳の段階で、本当は俺に手を出したかったらしい。ただ、俺がアルファだと知って踏みとどまったのだ、と。
驚きすぎて俺は少し固まっていた。
「おまえがせめてベータならば、と思った。後ろ盾のないベータなら、アルファの誘いに乗ってくれる事もあるからな。だが、おまえはアルファだった。だから、俺は今まで手を出さなかったのだ。おまえは選ぶ側で、女もオメガも望めば手に入れらたのだからな。愛する相手の幸せを、尊厳を奪う事は俺にもできなかったらしい」
苦笑するセオドリック様に、俺は視線をそらしながら、顔を赤くした。
「そ、れでは、まるで告白です」
「まるでではなく、告白だ。俺はおまえを正妃にする。いいか、正妃だ。言っておくが気の迷いでもないし、あいにくと側室を迎える気もない。これから抱くのはおまえだけだし、当然おまえも俺以外とはこれ以降、一切の性的接触は許さないぞ?」
「なんで、そんな。あなたなら、ほかにも優秀な女性やオメガがいたでしょう? あんなにもてていたではありませんか?」
人を傷つける嘘は言わないセオドリック様が、こんな悪趣味な冗談を俺に言うのは考えにくいので、俺の事を気にかけていたのは事実だと思う。けれど、セオドリック様の付き合ったオメガは優秀な方が多かった。まぁ、中にはなんで手を出したのか不思議なのもいたけれど、まぁ、きっと容姿が好みだったのだろうと今まで思っていた。
俺みたいな素朴な奴を好きだなんて、信じられないのもある。
「性欲は溜まるからな。吐き出す先が今までは必要だっただけだ。他意はない」
「いえ、最低です、それ。……でも、すごい美人ばかりでしたし、好みのタイプではあったんでしょう? 俺はあなたの好みではない筈ですよね?」
「寄ってくるタイプが似ていただけだろうな。それに俺は相手の顔は覚えていないし、覚える気は皆無だった。ああ、でも、容姿が整った奴はもてるし捨てても次があるだろうから、俺が手を出してもいいかと思った事はあるかもな」
フォローできないくらいの最低っぷりに、俺は少しだけ引いた。そういえば、誰かが言っていた。セオドリック様は一度関係を持ったらもう次はない、と。そういえば、行為が非常に事務的だと聞いた事もある。
(いや、でも、セオドリック様、昨夜は結構甘かった、よな?)
理性が飛んでいたセオドリック様だったが、俺の求める声に応えてくれていたのだから。
「俺の愛はおまえ限定だ。永遠にな。すぐに受け入れてくれとは言わん。ただ、悪いがオメガになったおまえを手放すことはない。俺が手放した先で、他のアルファに奪われるなんて耐えられん。特に男なんかに奪われた日には戦争を起こすぞ? たとえおまえの国相手でもな。いいか、俺が何年耐えたと思っている」
目を見れば本気であることが良く分かる。
けれど、発情が終わった後の俺にとって、セオドリック様との性行為は難易度が高すぎて、気軽に分かりました、とは言えないのだ。断れる身分ではない事は分かっているのだが、セオドリック様としては、そういう事務的なものではなく、俺からも愛情を抱き返してほしい、という事だろうから。
「お、れは、オメガとしてはほとんど生きていません。昨夜は発情していたからできたけれど、平常時で受け入れるのは、正直厳しいです」
「今はそれでいい。おまえに無理に挿入したいわけではないんだ。時間がかかってもいい。いつまでも俺は待つ。既にもうずいぶん待っているからな、あと十年、二十年でも俺は耐える。勿論、俺はその間禁欲だ。この俺に自慰行為で我慢させるなんて、おまえだけだぞ」
「いや、それでは御子が……っ」
種側であるアルファは、比較的高齢になっても問題はないだろうが、王族、と言うか王なのに、六十歳間近で子供が一人もいないなんてありえない話だ。
「おまえの子以外はいらぬ。そもそも俺は子供は好かん。おまえの子ならばほしいと思うし、かわいがりたいと思うのだ。いいか、おまえの血が重要だ。俺の血が入っているだけなどかわいくもなんともない。万が一、今まで遊んでいたツケで子供が外でできていても、俺は絶対に認知しない。まぁ、絶対にありえないが」
「セオドリック様……っ、その発言は」
俺は批難の声を上げる。
「ふ。失言だったな。だが、良いか、俺は一目でおまえを好きになった。おまえは自分を好みではないだろう? と言ったが、俺の好みはおまえだ。諦めろ」
強い口調で言うが、セオドリック様の表情は柔らかい。
そっと頬を撫でられると、自身の頬が赤くなるのが分かる。
「これからゆっくりと俺を知ってくれ」
こつんと額にセオドリック様の額がくっつく。
「……かしこまりました」
小さな声でそう答えると、セオドリック様が優しく微笑んだ。
6
その日から式までの数日間、セオドリック様は毎日、俺 の所にやってきた。執務の間をぬって、できる限り俺と同じ時間を過ごそうとしてくれているのだ。
セオドリック様はとても真摯だった。いや、別に以前が不誠実だった訳ではない。今まで、伽の相手 に関しては、不誠実だったかもしれないが、友人たちに対しての態度は、決して悪くはなかったし、俺に対しては意地悪を言った事は多々あったが、俺が本当に困ったり怒ったりすると、慌てて機嫌を取ってきた事をふと思い出した。
マリーに、自身が正室らしい事、セオドリック様が俺を好きな事を言ったところ、とても喜んでくれた。ただ、マリーも気づいていなかったらしい。
「マリーは昔からおまえ以上に鈍感だからな。気づいていなくてもおかしくないな」
セオドリック様には、そう言われた。なお、セオドリック様が俺を好きな事は、今は国中の民が知っているらしい。
セオドリック様のスキンシップは激しかった。結婚前に初体験を済ましてしまったため、性的な触れ合いに躊躇いが全くないのだ。
風呂には一緒に入らされて、風呂の中で手や口でイカされ、ベッドの上では裸のまま抱き合う。当然普通に寝るだけでは済まない。当初こそセオドリック様からの一方的な奉仕だったが、王であるセオドリック様に奉仕されて、俺が何も返さないのは好ましくないし、俺の良心が痛んだ。三日目くらいからは、セオドリック様のを口で俺も奉仕している。
抵抗は少しだけあったが、未経験ではないため、翌日には慣れた。褒められて頭を撫でられると、悪い気はしないし、たぶん俺は結構頑張った。
最後まで抱きたい、と再び言われたが、結果はうまくいかなかった。原因は俺だ。俺がまだセオドリック様をそこまで受け入れられなかった。
セオドリック様は笑って、待つ、と言ってくれた。本当はこういうのも止めなければいけないのだがな、と俺のモノを触りながらだったが。
そして、結婚の儀式はやってきて、式はつつがなく終了したのだ。
互いに口でしあった行為が終わり、俺はセオドリック様と一緒に風呂へと入っていた。
「疲れただろう」
「……そうですね。式が、ではないですけれど」
緊張はしたが、体力が削られたのは間違いなく先ほどまでの行為が原因なのは明白である。俺が、不機嫌そうに軽くすねると、セオドリック様は俺を抱き寄せて、顔中に口づけてきた。
(セオドリック様、好きだな、これ)
セオドリック様は、俺に口づけるのがかなり好きらしく、結構どこでもしてくるのが照れ臭い。ただ、それが嫌ではないのが、俺も恥ずかしかった。
「陛下はアレク様の事が本当に大切なのでしょう。我慢がきかないのですよ」
執事長を務める壮年の男性、ヨハンさんが俺の元を訪れ、優しく笑った。
ヨハンさんは、とても話の分かる男で、俺はとても彼を慕っていた。城の人間は、基本的にセオドリック様側に立って物事を考える。別に俺に対してつらく当たるとかではないんだけど。
大臣クラスの上層部になると、正直好ましくない視線もあるにはあったが、セオドリック様が俺側で防波堤になってくれているのもあり、おおむねは好意的だ。
ただ、協力的ではない、と断言できる。彼らからすれば、俺がすんなりと受け入れてしまえばいいのだと、そう思っているのだろう。事実、この結婚によって俺の地位は上がるのだから。何よりセオドリック様が献身的なため、そんな風に思われて幸せ者、くらいは思っていてもおかしくはない。
(けど、俺は複雑なんだ。いきなり性が変わって、そこから何もかもが変わったんだから)
ヨハンさんは他の人とは違って、俺側に立ってくれる稀有な人だった。
セオドリック様があまりに暴走して俺をカラカラにしそうになった時も、しっかりと釘をさしてくれるし、俺の戸惑いを感じれば、話を聞いてくれる。最初はマリーが居るので、相談はマリーに、と思っていたのだが、女性に対して伽の話をする勇気はなく、現在ではすべてヨハンさんに愚痴っていた。
「我慢させてる、とは思うんだ。でも……な」
「アレク様、急がなくてもいいのですよ。それに、まだこの国に来てから一カ月も経っていないのですから、ゆっくりとお二人で話し合いをすれば良いのです」
ヨハンさんが居る事で、俺はいろいろと救われている。
年齢こそ親子くらい俺たちは離れているが、ヨハンさんは兄の様だった。セオドリック様もヨハンさんの話はしっかりと聞いているらしく、苦言を呈された日は、俺への接触も心持ち抑えてくれる。
そうやって、日々を過ごしていれば、この国の話も見えてくる。セオドリック様には御子がいないのは周知だったが、何百人と行為をしていて、一人もできなかったのは、セオドリック様が徹底していたからだというのが分かった。
セオドリック様の性行為の相手は、基本が男性のベータなのだ。若い頃は男性オメガとも行為に及んでいたらしいが、ここ最近はベータのみだったらしい。
セオドリック様は、子を作る気が本当になかったのだ。
だから、結婚もしなければ子供も作る行為もしないセオドリック様に、城の上層部は頭を痛めていたらしい。
そこに来て、俺が后となったため、終にその気になったと彼らはとても喜んだ。俺が既にセオドリック様にお手付きになったのはばれているからだ。
しかし、そうなってくると上層部と言うのは、非常に空気が読めない存在である。
騎士とか使用人は、セオドリック様が后とするのは俺だけなのだろう、と思っている。俺に対する距離が近い彼らは、俺たちの普段の様子を知っているからだ。
だが、大臣たちは違うのだ。俺がお手付きになったという事は、他のオメガとも性行為をする気になったのだ、とそう解釈したらしい。
俺の容姿が素朴なのも、その考えに至った理由なのだろう、と推測する。巷では、セオドリック様の思い人は、オメガの凄い美人である、と言ううわさだった。
だが、やってきたのは俺である。不器量ではないが、華やかな美貌は持っていない。
大臣たちからすれば、珍しいものを食べたくなった、と言う認識なのだろう。
婚姻後、謁見などの場合、玉座の間の王妃の席に座って執務を行う俺だったが、その日の俺は半ば顔を引きつらせて、来客者たちを見ていた。
やたら綺麗に着飾った男のオメガが五人、頬を赤らめてセオドリック様に熱い視線を送っていた。外見はさすがオメガと言うほど美しい者たちだった。
同席していた大臣たちが、オメガたちの紹介を始めると、彼らの狙いは明確に分かった。
彼らはセオドリック様の側室候補として連れてこられたのである。いや、候補と言うよりは、もう側室であるくらいの強気な話だった。オメガたちは己に自信があるのだろう、俺に対して視線を送った後、すました顔をしていた。
(ああ、俺みたいなの、ただの飾りだっていうそういう表情だな)
「陛下、城に招待したオメガの青年たちです。皆様家柄も貴族ですし、容姿も美しいでしょう? お気に召して頂けたことと思います。早速、城の中に部屋を作らせました。本日からでも閨にお呼びくださいませ 」
大臣の言葉に俺はさすがに顔を顰めた。むしろ、ちょっと怒っていると言ってもいい。大臣たちは、まるでセオドリック様が望んだため、彼らを呼んだみたいな話ぶりだが、隣に座っているセオドリック様のオーラが、激しく違うと言っている。
だが、今この場には他の貴族たちも居る。このために、たいして用事もないのに、彼らを同席させたのは明白である。セオドリック様がこの場で彼らを激しく拒絶できないように、だ。
事実、セオドリック様は怒り心頭でも、口には出さない。短く検討しよう、とだけ答えるのを横目で捉え、俺は苦い気持ちになった。
自室に下がった俺の機嫌は最悪だった。
珍しく物に当った俺に、マリーもヨハンさんも戸惑いの視線を送ってきた。けれど、俺がさらりと 先ほどの説明をすると、二人とも眦を釣り上げて怒った。
そのすぐ後にセオドリック様がやってきたのだが、セオドリック様に向ける冷たい目に、俺は内心慌てた。
後で聞いたが、マリーたちの言い分では、もっと大臣たちに周知させるべきだった、という事で、その対応を怠ったセオドリック様に怒っていたらしい。
「大臣たちが、あそこまで頭がおかしいと俺は思っていなかった。あれだけ国中で俺の純愛だとうわさされているのに、理解に苦しむわ!」
普段よりも感情的に、セオドリック様が吐き捨てた。
(俺じゃ、釣り合わないってこと、だ)
その言葉を口には出せなかったが、同時に俺の胸は苦しく軋んだ。俺は自身の容姿を客観的に見れていると思う。家柄も、いくら裕福であっても平民だから、きっと大臣たちも内心では不満だったのだろう。
「あのオメガたちには数日以内に王宮から退去してもらう。おまえは気にしなくていい」
そう言うセオドリック様は、その日いつも以上に優しく俺に触れた。
快感の中で 、俺は脳裏から嫌な考えを振り払いながら、目を閉じる。
セオドリック様はああ言ったが、それから十日経過しても、彼らは城の中に居た。
城へと入ったオメガたちは、強かだった。相当遊んでいるのか、冷たい態度のセオドリック様に怯まず、執拗に絡みつく。性だけでなく、貴族としての部分も強かだ。王とはいえ、有力貴族の子息である彼らを、セオドリック様が本当の意味で力業で跳ねつけることは難しいのを理解していた。
「うわさですけど、最初のお手付き以降、手がついていないのでしょう? 年齢も年齢ですし、いろいろと難しいと思います。側室は必要ですよ」
「本当、貴方、地味ですよね。陛下もどこが良いのやら」
「珍しいだけでしょ?」
「せっかく媚びて正妃になっても、どうせ飽きられて、およびなんてかからなくなるんだから、今のうちにご実家に帰られたらどうです?」
四人には、セオドリック様が居ない場所で、いろいろと言われた。瞳には侮蔑の色がはっきりと浮かんでいるし、唾でも吐き捨てられかねない温度感に、俺の神経は削られた。
アルファだった頃は、セオドリック様の近くに居ても、こんな風な眼差しは受けたことがない。ベータっぽい俺がセオドリック様と親しげに話していると、不思議そうに首をかしげられた事はあったが、俺が神子の騎士でありアルファだと知ると、なるほど、と言った様子で俺への視線は優しくなるのが通常だったからだ。
「オメガ同士の戦いって怖いな」
「オメガは、性質上、中身は女性に近いですからね。例外もいますが、嫉妬深い方が多いかと」
自室で苦く笑う俺に、マリーが頷き言った言葉に、俺は内心でなるほどな、と思った。
けれど、その四人の言葉は、それほど俺は気にしていなかった。だって、彼らはそう言うが、セオドリック様が毎日俺に対して囁く言葉や行為から、俺の事を愛してくれていると分かるからだ。容姿に自信はないし、若くもないのは重々分かっているが、外見だけで選ぶ王ではないのだから。
(それに、セオドリック様は俺をかわいいと言ってくれるし)
寝室でも、どこでもセオドリック様は愛情を惜しみなく与えてくれる。さすがにオメガたちの執拗な言葉には俺も少し落ち込んだが、それを察したセオドリック様の言葉が俺の心を癒やしてくれるのだ。
そうやって、オメガたちの前でも、俺に対する甘い態度は終始続き、反面どんなに彼らが甘えようとしても、つれなく避けるセオドリック様に、さすがにオメガたちも諦めたらしく、一人ずつオメガたちは自治領へと帰っていった。
ただ、一人だけを除いて。
残った一人の名前はミハエル・カーミング。侯爵家の三男だ。年齢は二十七歳。金色の髪が美しい中性的なオメガだ。
他の四人も美形であり、容姿の美しさについては左程大きな差異はないが、性格については一人だけ違った。
他の四人も性格は良いとは言い難いが、なんというか育ちの良さもあってか、詰めが甘いし、諦めも早い。何よりセオドリック様への態度も、セオドリック様が恋しいとかではなく、玉の輿(こし)を狙っているんだろうな、とか権力に対する憧れが大きかった。それに俺へ国へ帰れとは言っていたが、地位などを約束されれば自分に対してのみの愛情は求めないような冷めたところがあった。
だが、ミハエルは違う。
セオドリック様への視線は明らかに恋する男の眼だった。俺へと向けられる目は侮蔑とかではなく、怒りと嫉妬であり、その眼には明確な憎悪があった。他の四人は、俺に敵意は抱いていたが、憎しみの感情は抱いていなかった。俺が取るに足らない存在だと思っていたから、憎悪されなかったのだ。
ミハエルは性格も狡猾だ。俺に対する態度もセオドリック様に対する態度も同じであり、一見すると俺を尊重しているように見える。言動も柔らかい。
だから、セオドリック様もミハエルに対してはやや態度は軟化している。
けれど、優し気なその言葉の中には、俺を痛めつけるような言葉が散りばめられている事を俺は知っていた。
「僕、昔あの方の恋人だったんです。とはいえ、あの方は他にもたくさんいらっしゃいましたけれど。でも、とても良くしていただきました。だから、その時のお気持ちを返すためにも、僕もセオドリック様を支えてあげたい、と思っています。僕は貴族として学んだことも多いし、あの方の役に立てますからお買い得だと思いますよ。それにあの方、とても絶倫でしょう? お身体がつらいのではありませんか? ああ、すみません。そういえば、まだ一度しかされていないのでしたっけ? であれば、なおさらあの方を満足させる存在が必要でしょう」
庭園内のお茶の席で、ミハエルから言われた言葉に、正直俺は落ち込んだ。何も言い返せないのは、ミハエルがセオドリック様の気持ちを表立って否定しないからだ。ミハエルの言葉の端々から、今は俺が寵愛を受けているが、今後は自分に愛情を移すようにさせる、と言う強い意志が感じられる。
だから、夜に訪ねてきたセオドリック様に、俺は感情のまま激高してしまったのだ。ただの八つ当たりだ。
「ミハエルの所に行けばいいじゃないですか!」
俺を抱きしめようとした腕を振り払い、口づけも拒む。地道にかけられたストレスが、俺を苦しめ壊していく。
セオドリック様は俺に必死に声をかけてくれたけれど、俺にはもう余裕がなかった。女々しいとは思う。セオドリック様に愛の言葉も返していないし、最後まで受け入れることもできていないのにだ。
長い間、そうやって攻防が続き、セオドリック様が肩を落として部屋を退室したのを、俺は飛び込んだベッドの布団の隙間から見送った。
7
事態が動いたのはその三日後だった。
ミハエルが城を出て自治領へ帰るのだという。
一方的に拒絶したあの日から、セオドリック様は俺の部屋に来なかった。さすがのセオドリック様も怒っていて、俺に愛想をつかしたのかと思ったのだが、使用人が真実を教えてくれた。
セオドリック様は、何とミハエルに対して、公衆の面前で興味がない事をはっきりと伝えたというのだ。何がどうなってそういう事に至ったのかは分からないが、ミハエルに対してセオドリック様は怒りの感情を剥き出しにしたらしい。見ていた者の証言によると、胸倉をつかみそうな勢いだったとのことだ。
表面上俺に対して優しげだったミハエルに対しては、比較的穏やかな感情で話しかけていたように見えたのだが、俺の知らない間に何かあったのだろう。
しかも詳しく話を聞くと、ミハエルは、自治領に戻った後は屋敷に軟禁され、今後は外出することはできなくなるらしい。
ただ、ミハエルをはっきりと追い払ってくれた事に、俺はその時は単純に喜んでいたが、冷静に考えれば軟禁状態になるなどあり得ない話だった。
セオドリック様とミハエルの間に起こった事件を、俺は知らなかったのだ。
「セオドリック様は、今日も来れないの?」
セオドリック様の姿を見かけなくなって、二日経った。俺の部屋に来ないだけなら分かるのだが、セオドリック様を城の中ですら見かけない事に、さすがに違和感があった。ヨハンさんに聞こうと思ったが、彼もここ数日間見かけないのだ。
そんな折、セオドリック様の専属警護の騎士を見つけて、俺は慌てて声をかけた。彼は、古株のアルファであり、セオドリック様の信頼の厚い優秀な騎士だ。
俺の言葉に、騎士は気まずそうに視線を逸らし、俺から逃げようとする。あからさまに怪しいその行動に、俺はセオドリック様に何かあったのだろう、と推測する。
嘘のつけない性格なのかあたふたする騎士に、執拗に言葉を重ねていると、その場所にたまたま、セオドリック様の弟君であるギース様が通りかかり、俺の行動を止めた。
俺は不敬にも、ギース様を睨んでしまう。
「あの騎士にはさすがに荷が重いというか、可哀そうだからね。私が話してあげよう」
ギース様はセオドリック様より、四つ下だ。彼はベータだったが、容姿は端正であり、正直元アルファの俺よりもアルファらしい人だった。嫌いではないが、飄々としたこの人は少し苦手ではある。
だが、立場上、騎士では言えない事も、王弟殿下であれば言えることもあるだろう、と俺はギース様に向き直った。
そして、始まったギース様の説明に、俺は頭が真っ白になった。それだけとんでもない話だったからだ。
気づけば俺は全速力で城を走り、セオドリック様の寝室へと向かっていた。 部屋の前の護衛の騎士が俺を止めようとしたところを、後ろから付いてきたギース様が通してやってくれ、と声を大きくした事で、俺はセオドリック様の寝室の扉を開けて中へと入る。
「セオドリック様」
どくどく、と鼓動が早くなっているが、今はそんな事はどうでも良かった。苦しんでいるであろう、セオドリック様を何とかしてあげたい、と言う気持ちが何よりも強かったのだ。
セオドリック様は、大きな身体でベッドに沈んでいた。
室内は明らかに暴れたであろう状態で、物は壊れているし、部屋が焦げている。
「ぐ……う」
セオドリック様が唸るような声を上げた。室内には強烈な甘い香りが立ち込めている。発情期にフェロモンを発するのはオメガだったが、アルファにもあるのだ。オメガのフェロモンに反応してしまったアルファが放つ香りが。
「セオドリック様」
名前を呼んで近づこうとする俺に、セオドリック様が声を張り上げた。
「来るな!」
明確な拒絶。いつも俺に甘いセオドリック様が、なりふり構っていられないと言う事に、俺は唇をかみしめた。
(ミハエルが……っ)
ギースによって説明された話は、俺にとって許せることではなかった。俺と喧嘩した翌日の早朝、セオドリック様はミハエルに対して俺の事を伝えたらしい。俺だけを愛していて、今後は俺だけを后にすることを。恋人や愛人、側室は作らないし、ミハエルに対して恋愛感情は今も昔もない事も、セオドリック様は伝えてくれた。
ミハエルは、最初は一言二言、セオドリック様に言っていったらしいが、最終的には納得し受け入れた。そう、表向きは。
退去するのに、一晩欲しい、と殊勝な態度のミハエルを、セオドリック様は受け入れ、翌日の午後に退去を命じたのだが、ミハエルは退去するつもりなかったのだ。あろうことか、その日の夜にセオドリック様の寝室に侵入し夜這いをかけたのである。
しかも、そんな誘いに、セオドリック様が乗るはずがない事をミハエルは十分理解しており、最低卑劣な手を使う事を選んだ。所持するには特殊な申請と許可証の居る、「強制的な発情を引き起こす薬」を自身で服用し、寝室に潜り込んだのだ。
オメガの発情期フェロモンに、フリーのアルファが耐えるのは難しい。密室で発情されてしまえば、わずかな理性はあっても、本能のままにオメガを犯そうと行動を起こす。多少の葛藤は起こるので、その間に第三者が入れば、もしかするかもれないが。
しかし、薬による強制発情は、もはやそういうレベルではない。薬で誘発されたフェロモンは、アルファを完全に狂わせると言う。葛藤なんて微塵もないのだ。目の前のオメガを襲い、孕ませる事しか考えられなくなる。
俺はベッドに乗り上げ、セオドリック様に手を伸ばした。
「だめ、だ」
つらそうなセオドリック様の声は、興奮状態で掠れていた。
「今、触られたらおまえを傷つけるっ」
「……良いんです」
無理矢理でも抱けばいいのに。こんなに苦しんでも、それでも俺の身体が大事だと言う。
本当にどこまでも、馬鹿な人だ。けれど、それがとても嬉しいのだ。
着ていたものをすべて脱いで、俺はセオドリック様を押し倒す。熱情で溶けそうな瞳が俺を射貫き、俺に噛みつくように口づけをしたセオドリック様が、自身の下ばきを慌ただしくくつろがせて、俺を貫いた。
がつがつと、腰を振られて奥まで突かれて、俺は唸り声をあげた。ろくにならされていないと、やはりきついらしい。
けれど、止めてとは俺は言わない。
だってこれはこの人が耐えた証だからだ。抵抗できない薬を使わてもなお、ミハエルを抱くことをしなかったこの人を拒もうだなんて思わない。
そう、セオドリック様はミハエルと性行為はしていない。乗り上げようとするミハエルを振り払い、音に気づき駆け付けた護衛騎士と、たまたま居合わせたギース様 たちによって身体を拘束されたのだから。
(拒みたくない)
何度も何度も奥に精子を注がれる。
痛みはやがて快楽に変わり、気づけば俺は前を触られる事なく、精を放っていた。
正気を取り戻したセオドリック様と、ベッドで共に横たわりながら、俺はセオドリック様の話を聞いていた。
「俺は、昔、オメガの発情期に巻き込まれてな。その時は、ミハエルみたいな卑劣なやり方ではなく、本当に事故だった。ただ、その相手はギースの、弟の恋人だった。かろうじて他のベータが間に入ってくれた事で、最後まではしていないが、万が一彼らがいなければ、犯した上におそらく番にしていただろう。互いに好きでもないのにだ。ギースに対しても顔向けなどできない事件に発展しかけた。それ以降、その時から俺はオメガへはもう手を出さない事に決めた。だが、気持ちでどんなに拒絶しても無意味な事を学んだからな。俺も薬を服用するようになった。オメガフェロモンを感じないように、身体を抑制する劇薬を、な」
話を聞き終えたあと、俺はくたくたの体に鞭を打って口を開ける。
「大丈夫、なのですか?」
「今はもう飲んでいない。長い間の服用で効果が切れるのに時間がかかったらしく、今回の件では良い方向に働いた。それが救いだな。……おまえを裏切っていたら俺はきっと、もう」
セオドリック様の言葉を口づけで止める。そこから先は言ってほしくない。たとえ、俺を思うが故であっても、死ぬなんて言わないでほしかった。
「寝ましょう」
明日からはまた二人だ。邪魔なミハエルは居ない。
傷ついたセオドリック様の心を、俺が癒やしてあげられたらいいのに、そう思いながらセオドリック様の頭を撫でると、やがて寝息が聞こえてくる。
セオドリック様の規則正しい寝息を聞きながら、俺も目を閉じた。
8
いつも通りの日常が戻ってきた日の事。
「ヨハンさんが辞めた?」
俺が呆然と呟くと、マリーが渋い顔で頷く。
「なんでだ! あの人は優秀な執事だろう。辞められたら困るはずだ」
ヨハンの能力は高く、実質この王宮の使用人たちを仕切っているのは彼である。慕われていたし、引退する年齢でもない。良い人が多い王宮内だが、それはあくまで使用人や騎士などの下級貴族の話であり、大臣などの上級貴族は癖のある人物が多い。伯爵家でありながら、執事の道を選んだヨハンさんは、そんな彼らに意見できる稀有な人物だった筈だ。だから、辞めさせるなんてありえないのだ。
俺だって辞めてほしくない。
廊下を全力で走り、俺はセオドリック様の執務室の扉を開けた。大きな音に中に居た面子がぎょっとした顔をするが、俺は気にせずセオドリック様に詰め寄った。
「お話は聞きました! セオドリック様、ヨハンさんを辞めさせるなんて正気ですかっ。あの方がいなければ、この城は正常を保つことなど不可能です。あの方がいるから、上級貴族も下級貴族も、平民もうまく回っているのですよ」
セオドリック様がその重要性を理解していない訳がないのだ。いかに少々、セオドリック様が覇王気質とはいえ、その治世は優れていた。優秀な家臣が居るとは言え、彼が付き従う能力があればこそである。
セオドリック様は、その言葉に深いため息をつきながら、部屋に居た臣下を下がらせる。深く頭を垂れて退室していく彼らを視界の端にとらえながら、俺はセオドリック様と向き合う。
「アレク。今回の件は、こうするしかなかったのだ」
「なぜですか? あの方に問題なんて……」
「ミハエルを俺の部屋に招き入れたのはヨハンだからだ」
その言葉に、俺は呆然とセオドリック様を見つめた。
ありえない、と思った。
ヨハンさんは、俺にとても優しかった。この城の人間は俺に対して好意的な人が多いけれど、それはセオドリック様の后であるから、と言う理由からであり、俺個人に対する評価ではない。けれど、ヨハンさんは違った。
俺個人の性格を好ましいと、俺を子供の様に思ってくれていると、そう信じていたのに。
そんな彼が、俺を后の座から引きずり降ろそうとするなんて、そんなことは思いたくなかった。
「ヨハンがおまえをかわいがっていた事は事実だ」
「だけどっ、ミハエルを中に入れたのも、あいつに薬を渡したのも、ヨハンさんって事だろ? 発情を起こしたオメガに、番になっていないアルファが逆らえるわけないってわかっていて!」
番のいないアルファにとって、オメガの出すフェロモンは強烈だ。あてられたアルファは、理性をかき消し、本能のまま相手を犯す。だから、普段は抑制剤を必ず飲み、そんな事件が起こらないようにする。
今回ミハエルが使った特殊薬は、発情期のフェロモンを強制的に出すというものだった。一般には出回っていない薬であり、不当な使用は禁止されている。唯一許されているのは公娼だけであるし、彼らも使用する際には、アルファに同意書を書いてもらう必要があるのだ。
「おそらく、ヨハンは薬の事は知らなかったのだろう。問い詰めた際に動揺していたからな。だが、王の寝室に勝手に引き入れるなど、異常行為なのは明白だ。それはあいつも分かっている。だから、潔く、奴はそれも自分が手配したと俺に言った。おまえを騙していた、と。奴は処刑を望んだが、利用されたヨハンには同情の余地があるして、国からの追放となった」
「そ、んな。なんで……?」
セオドリック様が席を立ち、俺の傍へと身を寄せる。そっと頬を撫でられ、すぐ様抱き寄せられる。
「ミハエルは、ヨハンの昔の恋人の子供なのだ」
優しく抱きしめられ、背中を撫でる手に身を任せながら、俺はセオドリック様の話を聞いていた。
「ヨハンは、若い頃にアルファの男と付き合っていた。だが、アルファの男にはオメガの男の番が居て、な」
「不倫していた、という事か?」
「結果的には」
「信じられない、です。ヨハンさんが」
短い付き合いだが、彼の気質は知っている。どんなに好きでも、夫婦の絆があるところに入って行こうとするなんて考えられない真面目な性格なのだ。だからこそ、騙されたと聞いて俺は先ほど動揺したのだから。
「ヨハンは知らなかったのだ。アルファに番が居ることをな。何せ、アルファはこのミアラルドに単身赴任中で、独身だと周囲には言っていた。アルファは番持ちかどうか見極めるのは困難だからな。気づけるのは、発情期のオメガが誘惑でもして、引っかからなかった時くらいだろう。ヨハンもアルファだからな、余計に気づけなかった」
「ヨハンさんはアルファだったのですか? 番はいませんよね? でも、俺の近くに居たけれど」
セオドリック様は、番の居ないアルファは俺に決して近づけない。ヨハンさんには恋人も奥さんもいないと聞いていたし、俺は正直ずっとベータだと思っていた。有能ではあったが、際立って才があると言う訳ではない。
「ヨハンは、おまえを后に迎えるまでの俺と同じ薬を服用しているから、反応しないと知っていた。アルファの男と別れた後、服用を始めて、三十年以上経っていると言っていた。今後も服用は辞める気がないと言っていたので、おまえの近くに居ることを許した。何より優秀だったし、性格もおまえに合うと思ったからだ。ヨハンはな、アルファの男に騙されていた事を知ってからも、相手を愛していた。けれど、不倫関係を続ける事なんてできなかった。だから、相手に別れを切り出した。だが、相手は受け入れなかった。当然だ。なにせ、相手のアルファにとって、愛していたのはヨハンだけであり、番のオメガなど愛していなかったのだからな。そもそも、アルファの男には親の決めたオメガの別の許嫁がいたのに、今の番が特殊薬を使ってアルファを罠に嵌めて交わり、寝取ったらしいからな。それで許嫁は自殺したというのだから、愛せと言うのが無理があるのだ」
凄まじい話だった。
俺の疲れた顔に気づいたセオドリック様が俺をお姫様抱っこで抱える。ここに来た当初は抵抗があったが、セオドリック様に対して好意を抱いている今の俺はなすがままだ。
ミハエルに取られると思った時は、胸が張り裂けそうだった。温かい体温にほっとする。
「修羅場の結果、何とか別れはしたものの、相手のアルファは、ミハエルの兄とミハエルを作った後、俺と同じ薬を服用するようになり、番とはいえ一切の交わりはなくなった。オメガは怒り狂った。当然、夫婦仲は最悪だ。ヨハンと別れさせられた後は、いっそう態度が露骨だったらしい。そんな二人を見て育ったミハエルは、母親そっくりになったわけだ。ヨハンはずっと気に病んでいたのだろう。あいつも半ば、脅迫されていたのだろうな。だから、王の寝室にミハエルを入れる結果になった。ヨハンは、俺がミハエルに靡くなどとは露ほども思っていなかっただろう。」
ふかふかのソファに腰かけて、俺の頬に細かく口づけを落とすセオドリックの表情は珍しく苦々しかった。
「事情を知っている俺たちからすれば、放っておけと言いたいのだが、愛する男の子供を無下にできない、と言うのもあったのだろう。だから、ミハエルが俺にきちんと別れ話をしたい、と言う言葉に渋々ながら協力してしまった訳だ。あいつと付き合った覚えはないが」
その言葉に対して、俺の視線は揺れた。俺の様子に、セオドリック様の表情が焦る。
泣くと思ったのだろうか?
「アレク。今も昔も愛しているのはおまえだけだし。誓って、おまえを后に貰う事を決めた日から誰とも関係は持っていない。これからもおまえだけだ。側室を貰うつもりもないのだぞ?」
俺の顔中に口づけながら、必死になるセオドリック様。
冷徹な所がかっこいいと言われているらしいが、デレてからのセオドリック様に、氷的要素は微塵もない。まぁ、これは実は俺だけにであって、他の人には冷たいままだ。勿論、側近の人たちや国民に対しては最低限の優しさは見せるけれど、セオドリック様が過去に関係を持った女性やオメガが絡もうとすると、相手に同情したくなるほどに冷酷なのだ。
中でも顕著なのが、関係を持った人の中にも、まともな人はいて。そういう人は、今後は身体の関係はなくても、近くに居たいと言う健全な人なのだが、セオドリック様はこういうタイプに一番冷たく接する。
不思議に思って聞いてみたのだが、セオドリック様曰く、そういうタイプが一番厄介であり、恋人や伴侶になれずとも何らかの特別になれると思っている。その上、心の奥底では恋情を捨てきれず、正義感や道徳を振りかざして他の相手を排除していくらしい。
俺からすれば純愛なのでは、と思うのだが、セオドリック様に「では、俺がその者たちを重宝するのを、アレクは気にしないのか? 俺なら嫌だし、嫉妬で相手を殺す」と言われてしまえば、黙るしかなかった。
確かにもやもやするだろうし、想像すると確かに嫌な気持ちになった。
「仕方ないから、信じてあげます」
そう言うと、セオドリック様は嬉しそうに笑ってくれる。
企んでいない笑顔は貴重だと皆は言うけど、俺に対しては笑顔だ。えっちな事をするときも嬉しそうだし。
胸元に手を差し込まれて、唇に深く口づけをされる。おままごとみたいな口づけではなく、舌を吸われ、口腔内をなめられる。
「ん……っ」
こりこり、と乳首を弄られ、きゅーっと意識が引っ張られる。
ベルトを外され、下着の中に入ってきた手が、俺のペニスを握り、扱き始めて、身体をびくりと震わせた。
「あ、セオドリック様……っ」
オメガになってから性的行為をするようになって、俺の感覚はいろいろと変化していた。
感覚なんて変わらない筈だと思うのだが、明確に変わったと感じるのはセオドリック様とこういう行為をするようになってからだ。いくらオメガになったとはいえ、アルファの男だった俺は、当然感覚も抱く側寄りの筈だった。
なのに、乳首を弄られ、ペニスを扱かれると、信じられない所が疼くのだ。
後ろを弄るのに、指では足りなくて、どうしようもなくなった俺は、最近仲良くなった俺の護衛騎士さんの奥さんである男性オメガさんから、玩具を頂いた。
当然子供が使う玩具ではない。
魔法で自動で動く玩具は、大人の玩具と言う。
異世界の住民の発案で生まれたらしいのだが、こういう話を聞くたび、異世界に非常に興味が沸くのが止められない。
すごい発想だなと感心するからだ。
「アレク、今回の事件はヨハンにとって良い機会なのだ。人の物を奪う事は、倫理的には確かに悪しきことなのかもしれない。だが、愛した男が心を押し殺して、あらゆる事に耐えているのを見て、それを救い上げてやりたいと思うのが、悪い事だろうか?」
首筋にセオドリック様が口づけを落としながら、囁くように言った。
その言葉に俺は思い出していた。
命にかえても守らなければいけなかった、いや守ってやりたかった神子を失った日を。
決して美しい男ではなかった。どこにでもいるような素朴な男だ。ただ、その心根が優しくて強くて、俺は大好きだった。強い恋情ではなかったが、いつぞやの時に、彼の恋人であった自国の王が彼を泣かせた時は、神子を攫ってやろう、と思うくらいには夢中だった。
「俺と神子の事を言ってます?」
「あの神子とフィオーレの王の関係を、あんな夫婦と一緒にしては失礼だろう。あの二人は真に思い合っていたのだからな。だが、おまえも気持ちは分かるはずだ」
「そうですね。好きな人が、その身内から大切にされていないなんて知った日には、俺は暴れますよ。俺の場合は、俺の希望的観測とかエゴが多かったけれど、ヨハンさんは違う。むしろ、なぜ奪わなかったのか、正直疑問です」
ソファに押し倒され、服を剥がされていく。執務室で、と、この行為を最初に始めた頃は思っていたが、今ではもはや当然のことのように受け入れていた。誰も中に入ってこないし、邪魔などされないのだ。勿論何か危険があっても助けも来ないのだが、セオドリック様がそもそも相当な手練れであるし、俺もよほどのことがない限りは自分で対処できるので、警護は良くも悪くも薄い。城の中が安全なのもあるだろうが。
「ヨハンは別れ際に言っていた。ずっと逃げていたと。吹っ切れていた様子だったから、悪いようにはなるまいよ」
「うん」
セオドリック様の首に腕を回しながら、俺は目を閉じる。深い口づけを受け入れながら、俺はもうセオドリック様以外を相手にする機会はないのだろうな、と思った。
(他の相手なんて、もうありえないけれど)
セオドリック様にとっても、そうであってほしい。
それからも、俺とセオドリック様は一緒だった。最後まではしなかったが、一緒のベッドでいつも寝起きを共にしているし、挿入以外は大抵やっている。婚姻から二年。セオドリック様は、言葉通り俺以外の后を、いや愛人さえ持っていない。三十過ぎのおじさんの俺なんて、なんの魅力もないと言うのに、彼はどんな時も俺に愛を囁いた。どんな美しいオメガの誘いにも乗らず、俺だけを愛してくれている。
いつも俺を尊重してくれたセオドリック様。そもそも、セオドリック様の権力なら、出会ったあの日、俺を抱くことなんて容易かったはずだ。無理矢理にでも命令すれば叶った。やろうと思えば自国に監禁だってできる立場なのだから。
けれど、彼はそれをしなかった。アルファだった俺には、女性かオメガの伴侶がいずれできるのだ、と自身の熱情は押し殺して。
セオドリック様曰く、押し殺しきれなかった、と苦笑いしていたけれど、俺は十分だと思っている。
セオドリック様だけじゃない、城の皆も俺を見守ってくれている。セオドリック様の年齢ならば、後継ぎとなる御子が一刻も欲しい筈なのに、誰も俺を責めないし、急かすこともしない。
最初、苦い顔をしていた上級貴族たちでさえ、近頃は見守りモードなのだ。
既にセオドリック様に恋愛感情を抱いている自覚は十分にあった。大体、結構最初の方で俺はもうセオドリック様が好きだったのだろう。でなければ他のオメガに嫉妬なんてするわけがない。
「なんか、緊張する」
だから、俺は今日、セオドリック様の寝室の前に立っている。
最初の行為が発情期で半ば流されるようだった事を、セオドリック様は気にしているらしい。
二回目に至っては、ある意味互いに望まない性行為だった。
ここのところ、夜の時間には俺を怖がらせないよう、絶対に俺の寝室には来ない。
確かに怖いというのはある。といっても、受け身の経験の少ない俺だったので、後ろに突っ込まれる事に対しての戸惑いが大きい。発情した時は何も抵抗がなかったが、やはり通常時ではまだ俺にも抵抗が残っているのだろう。
今も皆無とは言えないが、それでも大分素直に受け入れていると思う。それなのに、セオドリック様は最後まで来ないのだから。
セオドリック様には俺がかよわい存在に見えているのだろうか? 百八十越えの男に、ありえない話だ。
そういうのもあって、キスとか、口でとか、指だけとか、玩具とか、そういうのは使ってはいるけど、その後は最後までできていない。
じゃあ俺から行こうと思い立った夜。冷静に考えてこれは夜這いというやつだろう。夜のお誘いの伝言を頼むのはさすがに恥ずかしいので、自分でやってきたはいいが……。
セオドリック様の護衛騎士が俺を見て察したように笑った後、扉から少しだけ離れたのを見て、俺はさらに恥ずかしくなった。
そっと扉を開けると、セオドリック様が訝しげにこちらを見ていたが、俺だと気づいた途端に、ぱっと表情が和らぐ。
「珍しいな、おまえから来るなんて。ほら、来い」
読んでいた本を閉じながら、セオドリック様が俺を呼ぶ。
「ごめんなさい、お休みのところを」
「気にするな。まだ眠る気はなかった。それにおまえが会いに来てくれたのだから嬉しいと思いこそすれ、厭わしいとは思わないよ」
ベッドに腰かけた俺を、セオドリック様が抱き寄せる。
俺の髪に顔を埋めながら、そっと俺の太ももに手を乗せた。
ドキドキと胸の鼓動が高鳴るのが分かる。同時に、俺に密着しているセオドリック様の鼓動の音も速いのが分かった。
太ももに乗ったセオドリック様の手に、自身の手を重ねると、俺を抱き寄せていた腕がきつく身体を締め付けた。
「あの、俺、は」
抱かれる覚悟ができたのだと、早く伝えたくて、俺は慌てて口を開く。今までろくに恋愛もできていなかった俺は、ベッドの誘い方なんて詳しくないし、自分が受け入れる側なんて当然初めて。
振り返ってセオドリック様を見上げると、視線が合った。
セオドリック様は俺の伝えたい事は分かってくれているらしく、そんな俺のみっともない姿も、微笑ましく見つめてくれていた。
このまま恥ずかしそうにだまっていれば、きっとセオドリック様がうまく誘導してくれて、結果としては同じものにはなるだろう。けれど、二年の間、俺が覚悟を決めるのを待ってくれた。他の誰にも興味を移すことなく、セオドリック様は俺だけの人だったのだ。
だから、どうしても俺からきちんと伝えたかったのだ。
意を決して体勢を向き合う形に変えて、俺は真正面からセオドリック様を見つめた。首の後ろに手を回して、自分から口づけると、セオドリック様が少しだけ驚いた顔をした。
口づけはいつも、セオドリック様からだったからだ。
正直、誘いとしては稚拙すぎて、こんな迫り方をされても、百戦錬磨の男を落とせるとは思えないけれど、セオドリック様は違ったらしい。
「セオドリック様、今まで俺を待ってくださってありがとうございます。あなたの事は、正直最初は苦手だった。アルファだった俺にとって、あなたは理想だったから。どんなに努力したって、あなたにはかなわない、と。けれど、あなたはいつも俺に力を貸してくれていた。自分の気持ちを押し殺して、俺が幸せになれるよう取り計らってくれた。それを知った時、俺はすごくドキドキしました。あなたに愛を囁かれて、初めてオメガになって嬉しいと思えた。アルファだった時だって、そんな風に愛を囁いてくれた人なんていなかったんだ。一途に思われて、嬉しくないわけない」
「おまえは優れた騎士だった。腕だけではなく、心の強い男だった。周りは見る目がなかったのだ。俺が女かオメガだったら、とっくに逆に襲っていただろう」
その言葉に俺は目を瞬いた。
「あなたがオメガか女性なんて、ちょっと俺は怖いな」
「それくらいおまえを愛しているのだ。だから、おまえがオメガになったと聞いて、俺は歓喜した。おまえを口説く許可が神から出たのだと」
だから、ドラゴネットに無理を言ったのだとセオドリック様が囁いた。
「ドラゴネット殿下は知っていたのですか?」
「最初から見抜かれていた。だてにあいつも百人単位で相手がいるわけではないし、俺も性質的に似ているからな。複数相手がいるのに、誰にも愛情を持てなかったところもな。まぁ、俺はおまえという唯一の存在に出会えた。その部分は違えたがな」
確かに二人は似ている。容姿もどことなく似ているし、冷徹な雰囲気は酷似しているだろう。ただ、セオドリック様の方が優しい、と思う。
惚れてるなと、そう恥ずかしくも内心で惚気ながらも、俺が続きの言葉を言おうと口を開くと、セオドリック様がそれを止めるように俺の口を唇で塞いだ。
「ん、セオドリック様っ」
非難するように俺は軽くセオドリック様を睨むが、セオドリック様は困った様子で目じりを下げて笑った。
「アレク。おまえが勇気を出してここに来てくれた事に感謝する。だが、おまえから言ってくれるのは嬉しいが、俺から今一度言わせてほしい」
真剣な目で、セオドリック様が俺を見つめている。
いつもの理性的な瞳ではなく、熱に浮かされた濡れた視線で。そんな風に見つめられて、嫌だなんて言えるわけがない。いつでも自信があって強引な男が、俺に許しを請うように何度も俺の顔に口づけてくるのを受けながら、俺は仕方ないな、と笑った。
「おまえを愛している。俺の子を産んでほしい」
もう、迷いなんてなかった。
「はい。あなたの子を産ませてください。愛しています、セオドリック」
俺の満面の笑みの告白に、セオドリックも、誰も見たこともないような大輪の花のような笑顔を浮かべてくれる。
そっとベッドに押し倒されて、服を優しく剥がれされていくのを感じながら、俺は幸福感に包まれていた。
感じたことのない快楽に翻弄されながら、セオドリックの精を受け止め続けて、絶頂するのと同時に、がぶりと、うなじを噛まれた。
終わった後、疲れ果てて動けなくなった俺は、セオドリックの腕の中ですやすやと眠りについた。
「あの日の言葉を俺は真にしたぞ。アレク」
遠ざかる意識の中、セオドリックが何か呟いたが、俺にはその言葉に心当たりはなかった。
9
しかしながら、後に、この日の交りは実はまだ序の口であり、セオドリックが今まで大分手加減をしてくれていた事を知る。
この初めての発情期の、三カ月後に迎えた発情期の日、俺はアルファとオメガがどういう存在なのかを初めて実感する事になる。
激しいなんてレベルではなく、発情期が終わるまでの約十日間の間、俺はベッドから一切出ることは叶わなかった。
しかも、俺の理性も大分怪しかったが、セオドリックに至ってはもはや常軌を逸しており、発情期が終わっても行為を続けようとするセオドリックを見かねた王弟殿下が寝室に乱入、騎士たちと総出で引き離すという事件があった。
恥ずかしさで死にそうだった俺だったが、更に一年後。
生まれた息子を連れて里帰りした際、ドラゴネット殿下に「過酷だっただろう?」と言われて、あの日呼び出された時に殿下が呟いていた過酷な一名が俺である事、兄夫婦と父親の生暖かい視線が、三人も知っていたという事実に、俺は憤死しそうになっていた。
過酷なんて言い方をされたので、立場的に虐げられるのだと思っていたのに。
発情期の交尾は、オメガのヒートが切欠でアルファの発情があるのだが、互いの発情期が終わるのはアルファ側が満足して終わる。普通の人は三日くらいなのだが、俺たちが長かったのはセオドリックが絶倫すぎるからだ。
発情期と関係なしでも、一晩に十人くらい抱きつぶしていたと聞いた時、兄貴が聞きたくないよな、旦那の過去の関係なんて、と慌てていたのを俺は聞き流していた。
(え、これから先、俺だけって約束してるけど、何? 俺それすべて受け止めるの? え、無理じゃない?)
他の奴としてほしくないのは本心なのだが、あの発情期の激しさを思い出して俺は身体をぶるりと震わせた。
嫉妬よりも、恐怖の方が大きかった。
ちなみに、これもこの時に判明した事だが、兄夫婦も父親もセオドリックが俺の事を好きなのを大分前から知っていたらしいのだ。俺は全く気づいていなかったのだが、周囲にはバレバレだったらしい。
実は俺がオメガになった次の日には既にセオドリックから求婚の申し出があったというのだ。
「え、翌日? 俺オメガだって周囲に言ったの、三カ月後くらいだったよな?」
「うん。だから、それストーカーだろって俺は思ったよ」
兄嫁が引きつった顔でそう言っていた。ストーカーという言葉は異世界の単語らしいが、なんとなく意味合いは理解できる。
相当執拗だったが、父親によって拒否し続けていたところ、国交にぶっこんで来たらしく、あの日に繋がる。
今日知った話を思い出し、俺は遠い目をしながら、息子をあやす。
「引いたか?」
城に用意された客室で、セオドリックが少し不安そうな顔で俺を見ていた。
俺に事情が知れ渡ったのを、誰かから聞いたのだろう。
「ああ、ちょっと引いた」
俺の言葉に、目に見えて顔が引きつるセオドリック。
引いたと言っても別に後悔しているわけではない。ただ、思っているよりも結構執拗に追われていたらしい事には、ちょっと驚いたのだ。
「でも、俺同時に嬉しかった。そんなに好きだって求めてくれた事はさ」
するり、と腕を絡めて甘えながら、俺はセオドリックの胸に顔を寄せる。
「これから俺が知らないあなたが出てきても、もう離れる気はないんだ。あなたとずっと生きていくって決めたから。あなたがいつか俺をなんとも思わなくなったとしても、もう離れない」
さっき、嫉妬より恐怖が大きいと思ったけれど、そんなことはなかった。きっとそんな日が来たら俺はもう正気ではいられない、と思う。
子供を身ごもって、セオドリックへの思いは強くなっていた。
思いが深まることがあっても、薄れることはないのだと、そう感じる。そして、それがセオドリックも同じであってほしい、とそう思う。
「俺がおまえを手放すことなどあり得ない。ずっとおまえだけだ。たとえ、手放すことで幸せになると分かっていてもだ」
「うん、一緒にいよう、ずっと」
◆エピローグ◆
「おい」
夢の中で、幼い少年が不遜な態度で幼少の俺を見下ろしていた。
「おまえ、かわいいな、名前は?」
その言葉に俺は戸惑いながらも、アレク、と舌ったらずに答える。威圧的な態度の少年は美しかったが、人形のように無表情だった。
かわいいなんて言われたことがない俺にとっては、不思議な少年だった。
「おまえ、気に入った。俺の后にしてやる!」
「きしゃき?」
幼い俺には、少年の言葉は理解できない。首をかしげると、少年が顔を赤くした。すぐにきりりと凛々しい表情に戻ると、うやうやしく、片膝をついて俺の手を取った。
姫君にするように口づけられた俺は、動けずにおろおろするばかりだ。
「俺は、この国の人間じゃないから今は傍にいられないが、大人になったら必ず迎えに行く。それまで、ひと時の恋は許すが、誰のものにもならないでほしい。夫は俺だけだ。俺も誰かと関係を持つだろうが、迎えた後はおまえだけにする」」
どこの暴君だよ、という話だが、幼い俺に分かるはずはない。けれど、少年があまりにも真剣過ぎて、幼い俺は泣きそうな顔で頷いた。
ちゅ、と俺の頬に口づけた少年が名残惜しそうに離れていく。
「俺の名前は、セオドリックだ。よろしく、アレク」
それは遠い昔の夢。
ひと時の邂逅は、幼いアレクは覚えていない。
おそらく、この夢が覚めれば、きっとまた忘れてしまうだろう。
けれど、アレクの傍らにある男は、永遠に忘れることはない。たとえ、アレクが忘れていても、男にとってはもはやそれでいいのだ。
きっと永遠に伝えることもないだろう。
アレクが傍に居てくれるのであれば、もはやそれでいいのだ。
世界に蔓延る魔人は、その後、異世界からの五人の神子によって滅ぼされた。
世界は平和となり、脅威は去ったが、魔人が居なくなった結果、やはり人同士の争いは激化した。
けれど、不幸になったわけではなかった。
愛を知らぬ冷たいフィオーレ王国の王子は終に愛する者を得て王となり、正気を失ったかつての王は、再びその手に愛する者を取り返した。
失われた神子は蘇り、新たな五人の神子と共にこの世界を見守っている。
かつて守っていた神子を再び目にしたミアラルドの王妃の喜びはひとしおだった。
ミアラルドは、その後千年以上栄えた後、民主国家へと移行。王制度は廃止されたが、彼らの大切にする城の跡には、王と王妃の名前の刻まれた銅像が、神の加護の元、今も美しい姿で残っている。
彼らは死ぬ前にある功績を残していた。
しかしながら、語るには長くなりすぎる故、その話はまた別の機会にでも。
ー了ー
ピカレスクヒーロー
作:新矢イチ
主催者。個人レーベルを運営しています。
ツイッター
レーベルサイト
絵:高月美鳳
深みのある絵柄と信頼感抜群のイラストレーターさん。
pixiv
輪廻の残り香
作:きさきさき
アルファポリス大賞受賞歴有りの実力派作家さん。新刊「勇者様の荷物持ち」が下記サイトで入手できます!
ツイッター
根暗クラクラ目が回る(個人サイト)
絵:ボブ
美しい色彩感覚と、多方面からのアドバイスで人気のイラストレーターさん。
ツイッター
イラストのご依頼はツイッターよりご相談ください。
君の為に花は咲く
作:なかじまこはな
人気ウェブ小説家。愛を基軸とした甘く優しいお話を書かれます。代表作:恋はにゃんと鳴く
ツイッター
フジョッシー
絵:ボブ
美しい色彩感覚と、多方面からのアドバイスで人気のイラストレーターさん。いつも本当にありがとうございます。
一つの愛が実るまでの話
作:ましゅまろさん
pixivを活動拠点とする人気作家さん。糖分多めながら、ドラマチックなストーリー展開に惹きこまれます。
ツイッター
pixiv
絵:広瀬コウ
数多くの商業表紙を手掛ける人気イラストレーターさん。折り紙付きの実力と同等に人柄も最高です。
ツイッター
pixiv
表紙デザイン
pinoko Kaoru
数多くの商業出版物のデザインを手掛ける人気デザイナーさん。有り難いことに、個人作家向けのサービスも提供して下さっています。
ツイッター
ココナラ
ちょうど一年前の今頃、私のツイッターでの何気ない発言から、本当にアンソロジーを発行することになり。あれよあれよという間に作家、イラストレーターさんがご協力くださることになり。
現在、紆余曲折はありましたが、こうして無事に発行することができました。
作家さんたちの夢を後押しできるようなイベントにしたいと立ち上げた訳ですが、振り返って思うことは、この企画があったからこそ、私自身も成長させて頂けたということです。
このイベントがあったからこそ、この一年、個人作家として奮闘することができました。
もしもこのような企画に携わる機会がなければ、私はなるようになるだろうなどと考え、のらりくらりと活動して終わっていただろうと思います。
我が事のように、親身になってアドバイスをくれた方。一生懸命に、原稿の修正に応じてくださった作家様。持病と闘いながら、最後まであきらめずに書き上げてくれた作家様。
そして、到底無理だと思えた過密スケジュールを、体調不良を押してでも引き受けて下さったイラストレーターの方々。
本業が超多忙にも関わらず、信じられない速さで最高のクオリティの表紙デザインを仕上げて下さったデザイナー様。
そして、各作品がもっと良くなるようにと、確認・アドバイス・添削を引き受けて下さった皆様。
皆さまの、一生懸命に一つの物事に打ち込む姿から、私は本当にたくさんのことを学ばせて頂きました。
どうか、どうか、本件に携わってくださった皆様の今後ますますの繁栄とご多幸を、心から望まずにはいられません。
素晴らしい仲間とともに、一つの作品を作り上げることができたこと、私は心より誇りに思います。
本当に本当にありがとうございました。
新矢イチ 拝
書名 オメガバースアンソロジー
製作日 2019年10月15日初版発行
著者名 新矢イチ・きさきさき・なかじまこはな・ましゅまろさん
発行所 18(イチヤ)
2018年10月15日 発行 初版
bb_B_00154368
bcck: http://bccks.jp/bcck/00154368/info
user: http://bccks.jp/user/136806
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
自己中で我儘で一筋縄でいかない、だメンズたちの不器用で不憫な恋愛模様を書くのが好きです。 ボーイズラブ作品のみと、ジャンルは限られますが、どうぞご自由お立ち寄りくださいませ。