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ゴールドの文字がきらめいている。
スマホの小さな画面に表示された、SSS――トリプルS。Sランクステージ、フルコンボ、フルパーフェクトに与えられる評価だ。
「すっごーい! ゲーム、得意なんだね」
おれの手元をのぞいていた今野先輩は、手をたたいて飛び上がった。
「はい、音ゲーだけですけど」
別にこれくらいのプレイヤーはごろごろいるけど、褒められて悪い気はしなかった。
スマホゲーって、ゲーセンとちがって周囲から見られてるって感じがないから張り合いもないけど、こういうときに報われるよな。
「そっか、これが音ゲーなんだね。初心者には、作るの難しいかも」
「そうなんすか?」
「うん」
先輩は椅子に座り直して、パソコンを操作しはじめた。
ここはコンピューター教室。しかも放課後、ふたりっきり。別にやましくなんかない。立派なプログラミング部の活動だ。井砂っていう三年の男子がさっきまでいたけど、帰ったから、ふたりになった。
ゲームを作ってみたくて入部したおれだけど、プログラミングに関しては素人だ。だから別に、すぐ作れるなんて思ってない。まずはプログラミング言語を勉強しなくちゃならないし。あれって特殊っぽいし。おれ、国語も英語もだめだからな。今が一年の春で、夏……いや、冬までは勉強しなくちゃかもな。
ちなみになんでゲームが作りたいかっていうと、去年受験生だったおれのメンタルを支えてくれたのが、動画サイトで配信されているアマチュアゲームのプレイ動画だったからだ。
クソゲーを笑いに変える配信者のトーク。生配信中に乱入してくる制作者のネタバレコメント。楽しそうだなあ、自分でも作って配信されてみたいなあと夢見るようになったのだ。
初心を振り返っていると、ふと先輩が顔をあげた。
「はい、インストール完了。これがあれば、プログラミング言語を知らなくてもマウス操作でゲームが作れるよ」
バスガイドみたいに指をそろえて、ディスプレイを示している。
「えっ? それってどういうことっすか?」
「え、そのままの意味だけど?」
ディスプレイには灰色のウィンドウが広がっていて、上部にカラフルなアイコンが並んでいる。テキスト表示、選択肢表示、背景画像表示、オブジェクト表示、画面切り替え、シナリオジャンプ、などなどなど。
「あ、あー、なんか、作れそう?」
ためしに「テキスト表示」のアイコンをクリックすると、入力画面が出てくる。
「いいでしょ。企業が配布してる、ゲーム作りのソフトの無料版だよ」
「これがあればプログラミングしなくてもゲームが作れる?」
「だから、そう言ってるでしょ」
あはは、と先輩は肩を揺らした。おれもつられて笑う。早く夢が叶うんじゃないか、これ。
「で、内容なんだけど。音ゲーとか、アクションとか、そういう画面が流れていくのはソースを書かなきゃいけないんだ。まずはマウス操作だけでなにか完成させてみたほうがいいよ。どういう仕組みになってるのか知るのも勉強だしね」
「ソース?」
「プログラミング言語で書かれた文章のこと」
へーっ。ていうか先輩、「音ゲーよくわからない」っていうから遊んで見せたんだけど、一回で色々把握しててすごい。
「RPGはどうですか」
「うーん」
提案に、先輩はグーを顎にあてて首をかしげた。
「育成ゲーム」
「うーん」
更にななめに。
「恋愛シミュレーション」
「うーーーん」
まずい、このままだと先輩の頭がねじ切れてしまう。えーっとえーっと。必死に、昨夜見た動画を引っ張り出した。
「脱出ゲーム!」
「あ、いいかも!」
ぱっと頭の位置がもとに戻る。よかった。
「ストーリーはいらないし、操作も基本的に画面クリックだけだしね。謎解き考えられる?」
「がんばって作ります」
自信はないけど。
「あと、このフォルダなんだけどね、去年の三年生が写真画像とか音声ファイルを残していってくれてるの。自由に使っていいからね」
エクスプローラの上でぐるぐるカーソルを回している。
「へえ。ゲーム作ったんですか?」
「最初は作ろうとしてたらしいんだけど、素材集めのほうに夢中になっちゃったんだよね。学校のチャイムとかホイッスルの音もあるよ」
「ありがたいっす」
なにも考えてなかったけど、画像とか音も必要になるんだな、ゲームって。
「じゃ、まずは画像を一枚選んで表示させてみよっか」
先輩にマウスをすすめられ、言われたとおりに「背景画像表示」のボタンを押す。画像フォルダの中身が表示された。
さすがに学校の写真ばかりだ。校舎も、教室も、グラウンドも、プールも、色々な角度から撮られている。もちろんこのコンピューター教室もあった。そしてフォルダの最後にたどりついたときだ。
「ご不要になった部員、回収いたします?」
写真の文字が目についた。
クリックして拡大すると、張り紙に書かれてある文字だった。小さなサムネイルでも読めるくらいアップで写されているから、校内のどこかってことしかわからない。左下には「廃部員回収部」の文字。そういう部活ってことだろうか。
「先輩、これなんですか? 卒業生がゲーム用に作ったもの?」
先輩は、首をふった。
「それはもともとあったんだ。撮影に付き添ったから覚えてるよ。謎だよね、今もあるのかな」
「どこにあったんですか?」
「うーん。それ撮ったの、去年のちょうど今頃なんだよね。わたしも入学したてで校舎のこと把握してなかったからなあ。……ごめんね」
「あ、いえ」
そういえば、フォルダには「写真春」という名前がつけられている。ひとつ階層を上がって他の写真フォルダにざっと目を走らせるものの、張り紙の写真は春のフォルダにしかないようだった。
「気になるの?」
「脱出ゲームのアイデアになりそうかなって」
「いいね、面白そう」
先輩は両手を広げて口元にあてる。白い歯がちらりとのぞいた。
うーん。さっきから気になってたけど、先輩、おれに気があるのかな? ずーっとニコニコしてるし、かわいいポーズを連発しているような。
いやまさか。まさかな。絶対勘違いだし。でも、これから毎日この笑顔が見られるんだと思うと、心がふわーっと舞い上がりそうになる。
ところが続く先輩の言葉に、おれのうわついた心は地に落ちた。
「じゃ、そろそろ塾の時間だから行くね。時岡くんのゲーム、楽しみにしてるから」
「えっ? あの、続きは明日ですか?」
先輩を見上げる。蛍光灯が目に入って、まぶしい。
「あ、マニュアルに操作方法書いてあるから、それを見たらいいよ。大丈夫、ひとりでも作れるよ!」
鞄をひょいと抱えた先輩は、軽やかに教室を出ていった。
一週間部活に顔を出しているうちに、わかったことがある。五人いる先輩たちはみんな部活熱心じゃないってことだ。いつもスマホで遊んでる。
そのわりに、どんなゲーム作るんだとか、どこまで進んでるんだとか、毎日のように訊いてくる。だからといって、謎解きのアイデアが出ないと相談しても一緒に考えてくれるわけではないし、静かにもしてくれない。おれはだんだん、そんな先輩たちの態度を気に入らなくなっていった。
おれのゲームは、最初の写真を表示したところで止まっている。あの張り紙の写真だ。「ご不要になった部員、回収いたします」ってやつ。あれを毎日眺めるうちに気になってきて、ネット検索してみたら、掲示板が引っかかった。これがけっこう盛り上がっていたんだ。
〈修理もしてくれるらしい〉
実際に話を聞いてきた、というやつの書きこみが、頭のすみに引っかかった。回収だけじゃないってことだ。日付がけっこうまえだったけど、まだやってるんだろうか。
にしても修理かあ。修理ねえ。
先輩たちを修理してもらったら、どうなるだろう?
そもそも修理ってなんだ。先輩たちはゲームを作らないだけで、プログラミングはできる人たちだ。今野先輩は自分でスケジューラーを作ったりしている。でも自宅のほうが、環境が整っているとかいって、部活では遊んでいるだけなのだ。
部員の修理ってことは、もっと部活熱心になるのかな……。
暇だし、とりあえずそのナントカ回収部の人と話をしてみたいな。
「あれ、帰るの?」
立ち上がると、今野先輩が声をかけてきた。
「散歩です」
「いってらっしゃい」
顔の横で手をひらひらと振る先輩に、つい振り返してしまうおれであった。
さて、どこから探そうか。写真は穴があくほど眺めたけど、場所が全然わからない。でも、コンピューター教室とか図書室とかが入ってるメディア棟ではなさそうだ。窓が大きいから、あんなに暗くなりようがないし。
渡り廊下に出ると、吹奏楽やら運動部の掛け声が聞こえてきた。特別校舎に近づくと電子音。軽音部かな。一音一音たしかめるようなギター。よく学校で演奏できるなあ。おれなら無理。練習を他人に見られるのが嫌なのだ。
そのまま校舎に入るつもりだったけど、道場の裏門が見えて足をとめた。あけ放たれた扉のところに、黒ジャージの波田先生が立っていた。
波田先生は剣道部の副顧問で主に道場にいるけれど、プログラミング部の顧問でもある。名前だけの鍵当番だって自己紹介するくらいだから、全然、関わる気配はない。でも悪い感じはしないんだ。男だけど男にも人気って、わかる。若いし、でかいし、兄貴って感じ。
先生が顔をあげて、目が合った。
そういえば、先生は知ってるのかな。
「あの、先生。回収部っていう部活ありますか?」
「え、なんて?」
先生が長い首を伸ばしてくる。
「えーと、廃……廃部員回収部か。ご不要になった部員を回収してくれるらしいんですけど」
「聞いたことないなあ。え、部活変えるの?」
「いえ、この学校のどこかにその部活の張り紙があるって先輩から聞いて。見たことないですか」
「うーん、先生は知らないな。こっちの部員にも聞いてみようか」
「いえ。別に、大丈夫です」
「なんか思い出したらそっち行くよ」
先生に頭をぺこっとさげる。だよな、そんなにうまくいくわけないよな。残念な気持ちで特別校舎に入る。すぐのところに張り紙があった。一瞬どきっとしたけど、美術部の部員募集のポスターだった。
「なんだ、ここ、美術室か」
だよな、うまくいくわけない……。
先生も知らない、部活動か。ミステリーだ。この学校の七不思議とかだったりして。
「……七不思議だ!」
頭の中で、大きな豆電球が光った。そうだよ。これこのまま、ゲームにすればいいんだ。七不思議はよくあるネタだけど、遊ばれやすくもある。
「で、大オチにあの張り紙を使えば――」
いいアイデアにうなずいていると、どこからともなく『夕焼け小焼け』が聞こえてきた。
あれ、まだそんな時間じゃないはずだけど。
誰かが演奏してるのかな。
おれは音がしてくるほうを見た。廊下のずっと奥のほう。電気が消えているのか、薄暗い。あんなところで練習するなんて、物好きもいるもんだな。
「できた!」
言った瞬間、しまったと思った。
あれから、おれは先輩たちに「集中したいのでなるべく話しかけないでほしい」という断りを入れ、イヤフォンで音楽を聴きながら、せっせと制作に励んでいた。そして夏休みを目前に控えた今日、エンディング部分が動作することを確認したのだ。
つまり、完成!
その喜びに、うっかり声をあげてしまった。
「できたって?」
三年の井砂先輩が、にゅっと顔を出す。
「サーバーにあげて。遊びたい」
やっぱり、こういう展開になるよな。今日は他に誰もいないから、明日にしようと思ってたんだ。特に井砂先輩って、いないことも多くてあんまり絡んだことないし、話すときは目をじっと見てくるから、ちょっと怖いんだ。でも早速遊んでほしい気持ちも抑えられない。
「その、サーバーにあげるってなんすか? メールじゃないんすよね」
「メールは共用だろ。ローカルサーバーだよ。いや、いいや。そっち行く」
言葉と同時に先輩が来て、おれは思わず席を譲ってしまった。
そのとき、ガラッと扉が開いた。助かった、今野先輩だ!
「友達としゃべってたら遅くなっちゃった。なになに、珍しい組み合わせだね」
「時岡のゲームが完成したんだって」
「本当? すごいじゃない! わたしも見ていいかな?」
「もちろんどうぞどうぞ」
むしろ見てください。
先輩二人が並んで画面をのぞきこむ、それを後ろから見ているおれ。
「お、ちゃんとタイトル画面作ったんだね」
「『七不思議からの脱出』かあ」
うおー、恥ずかしい。
おれは、先輩たちが遊んでる様子をむずがゆい気持ちになりながら見守った。実況動画にコメント入れる作者ってツワモノかもしれない。
脱出ゲームはひとつの部屋に閉じこめられている状態からはじまって、脱出を目指す。脱出方法はゲームによってまちまちだけど、「扉にかかった鍵を開く」が基本かな。その鍵を探すために、部屋のあちこちをクリックで探索して、アイテムやヒントを集めていく。その繰り返し。
先輩たちは、早々に最初のステージであるトイレからの脱出に成功した。次は音楽室、そして放送室……。順調すぎる。
簡単だったかな、と思ったときだ。おかしなことに気がついた。体育館倉庫のステージのアイテムは、跳び箱の段の重ね順に隠されているのに、井砂先輩はそこをスルーして脱出してしまったのだ。
「やっぱバグだな。変数の使いまわしか」
井砂先輩の独り言が聞こえる。嫌な感じだ、どうしよう。どこかがミスってたんだ。
「ね、時岡くん。これデバッグまだだった?」
今野先輩が振り返った。
「デバッグ?」
答えられないでいると、井砂先輩が説明する。
「バグは、プログラムのおかしいところ。今、見てたよな、アイテムなしで倉庫から出られた。これはゲーム的におかしいだろ。こういう不具合を直すのがデバッグ」
なるほど、やってない。さっきエンディングの確認をしたところだし。
「あとさ~、動作がだんだん重くなってきてるぜ。時々アイテムが見られなかったりするし、特に暗証番号の判定が遅いよ。まさか総当たりしてる?」
「えっと、あの」
「井砂先輩、時岡くんが混乱してるから……」
意味が、わかるようでわからない。とにかくミスがあるんだ。そんなの、人に遊ばれたくない。パーフェクトなものしか。
「ちょい、ソース見せて」
ディスプレイの上を、カーソルがすべっていく。おれのプロジェクトデータを立ち上げる。ぐちゃぐちゃのコマンドが表示される。
「嫌だ!」
力を振り絞って、ディスプレイにしがみついた。
悔しさがメラメラとした闘志に変わるまで、一分とかからなかった。
「絶対完璧にしてみせますから!」
今野先輩と井砂先輩にそう宣言し、気がついた不具合を改めて口頭で教えてもらった。おれはそれらを踏まえ、夏休みをかけて作り上げることを誓った。
ガキっぽかったのは認める。でも、ソースを見られるのだけは嫌だ。数学の途中計算だって先生にしか見せたくないし、机の引き出しの中は誰にも見せたくない。試行錯誤を繰り返す練習中のプレイはおれひとりだけのものなんだ。人前ではSSSだけ取っていたい。
「あれ、時岡。もう来てたのか」
コンピューター教室の扉がひらいて、波田先生が顔を出した。夏休み二日目。まだ朝の八時半だ。やっぱり早すぎたかな。
「すみません、家のパソコン使えなくて」
「いや、いいんだ。ちょっと驚いただけでさ。でもちゃんと休憩もするんだぞ。なんでもほどほどが一番だ」
先生は、さわやかに去っていった。
よかった、叱られなくて。少しでも長い時間、制作をしていたかった。家のパソコンが使えたら一番いいんだけど、オンボロでインターネットにもつながらないのだ。あと今野先輩がゲーム作りのために環境を整えてくれた学校のパソコンが一番いい。
夏休みのあいだ、他の部員は来たり来なかったり、色々だった。井砂先輩はフェードアウトするみたいに来なくなったけど。受験生だもんな。
おれはゲームを最初から作り直している。まっさらなプロジェクトにコマンドを連ねていく作業は手応えがあった。以前のやりかたがどんなに非効率だったかも見えてくる。作業は順調に進み、七月中に出来上がりそうだった。
このとき、おれの中でまたメラメラと別の闘志が燃えはじめた。野心っていうのかな。同じものを完成させても面白くないって思ったのだ。
このあいだ先輩たちが遊んでいるのを見ているとき、バグの件は別として、あまりにもスムーズに進んでいくのが引っかかった。
でもアイテムを見つかりにくいところに隠したって、ただの時間稼ぎにしかならない。なにか新しい要素を入れるっていうのもありかもなあ。淡々と遊ばれるなんて、悔しい。今野先輩をびっくりさせたい。
具体的な案が思いつかないまま制作は進み、七月の終わり。二年生の会話が耳に飛びこんできた。
「なあなあ、この告知見た? 今度のフリフリコンテストさ、希望者全員、実況動画の配信するって。配信者、十人集めたらしいぜ」
「あ、知ってる。好きな配信者が参加してるから、チェックしてるんだ」
「楽しみだよな~」
おれはすぐにブラウザを立ち上げて検索をかけた。最近、家でもゲームのことを考えていたから、動画もネットもまったくチェックしていなかった。
「あった、これか」
フリフリコンテスト、略してフリコンのウェブサイト。
聞いたことはあった。個人が開催している、無料のアマチュアゲーム対象のコンテストだ。企業がやってるものほど規模は大きくないけど、毎回、色々な試みをしているらしい。
これに出よう。
おれはコンテストが集めた配信者一覧を眺めてうなずいた。全員、知ってる配信者だったのだ。
実況してもらったら先輩たちは絶対にびっくりするし、実況してもらいたいという夢も叶う。一石二鳥じゃないか。
それでも新しい要素への思いは消えず、おれはその夜決意した。
音ゲーの要素を入れようと。
音ゲーを作るには、ある程度プログラミング言語を書かないといけない。でもなんとなくどういう仕組みで動いているのかわかってきたし、今なら作れそうな気がする。もし無理なら、そこだけ除外できるようにすればいいのだ。挑戦せずに諦めてどうする。
決意すると早かった。夏休みの残りをすべてゲーム制作に費やして、家では色々な技術ブログを読みあさってノートにコードを書き付けて勉強した。そして音ゲー要素を組みこむことに成功したのである。
「ネットで借りてきた音楽の著作権は確認したし、自分でも何回も遊んだ……バグはない……たぶん……」
ノートに書いた確認項目をチェックしていく。
フリコンの締め切り日であり、夏休みの最終日。他の部員は遊びに行ってるのか、コンピューター教室にはおれだけだ。
フリコンの応募フォームに入力した要項を何度も確認する。
名前はトキオカで。
メールはこのパソコンのを拝借。
動画配信、希望。
「あ、最後にエンディングだけチェックしとこう」
頭をずっとフル回転させているせいで、熱を出したときみたいに体がふわーんとしている。集中力の切れ時だ。でももうちょっと持ってくれ。必死の思いで操作をする。
全部を通して遊ぶ時間はないから、エンディングまでジャンプさせて……。よし、ちゃんと『夕焼け小焼け』が流れてくる。卒業生が残した音源の中にあったのだ。もう帰る時間って感じでぴったりだろ。
「よし、応募!」
ゲームを添付して、投稿ボタンを押した。
ぐるぐると画面にローディング画面が表示され、三秒後、ぱっと切り替わる。
〈応募を受け付けました〉
「やった……。やったー!」
たまらず椅子から立ち上がる。
長かった……。まさか四ヶ月かかるとは。いや、入部のときは、一年間は勉強するつもりだったから、早いのか。それもこれも、卒業生や先輩たちのおかげだ。
あとは動画配信を待つだけだな。
みんな、どんな顔するかなあ。
飽きもせず受付完了画面を眺めていると、どこからともなく『夕焼け小焼け』が流れてきた。
はいはい、帰宅時間ね。帰りますよっと。
パソコンを終了させ、鞄をひっつかむと、飛ぶような気持ちで教室をあとにした。
それから眠れない夜が続いた。
動画がいつ配信されるのか、気が気じゃなかったのだ。
募集ページは一新され、受け付けたゲームが一覧で並んでいる。その中に、おれのゲームもあった。全部で四十を越える応募があり、その中で三十八番目だった。最後のほうだが、配信者は十人いるのだから、そんなに待たずに順番がくると思うと落ち着かない。
それとは別に、一般のプレイヤーがゲームにコメントを残すこともできる。他のゲームにぽつぽつと感想がついているのを見ると、おれのゲームにだってと期待してしまう。そんなわけで、スマホでいつもそのページを開き、日に何度も確認した。
今日は配信されるだろう……今日はコメントがつくだろう……そう思っているうちに、休み明けのテストがすべて返ってきた。
「夏休みの部活、がんばりすぎちゃったな。まだ一年だから挽回できると思うけどさ。課題は遅れてもなるべく出すんだぞ」
波田先生は、おれのクラスの日本史教師でもある。
にぎわう教室で見下ろす自分の点数は十五点。その点数に、先生は「少し注意すればよかった」と責任を感じているみたいだった。ちなみに他のテストも軒並みこんな感じである。おれは今更ながら、放課後の図書室で夏休みの課題に取り組んだ。
部活に顔を出すのは配信されてからがいい。ちょっと顔を出したけど、先輩たちが気づいているのかいないのかソワソワするし、自分から言い出す勇気もなくて、疲れてしまった。ゲーセンで気分転換しようにも、腕がなまっていて全然コンボが決まらないし、スマホゲーでさえ指がからまる。勉強をしているほうが落ち着いたのだ。
そして一週間。
希望が、ぱちん、と電源が落ちたみたいに消えた。
「配信はすべて終了しました?」
夜寝る前にチェックしたら、コンテストのページにそんな文字が並んでいた。
もしかして今日の配信を見逃したのか? 急いで動画コンテンツをひとつずつ見る。でも、おれのゲームはどこにもなかった。
ページの最下部には、企画主からのコメントが添えられていた。
〈たくさんのご応募ありがとうございました。無事、希望者全員のプレイ動画を配信できました! 盛況だったので、来年もやろうか考え中です。プレイヤーのみなさま、見て、遊んで、楽しんでください!! 結果発表は来月の予定です〉
「うそだ」
更新しても文面は変わらない。
一般プレイヤーが遊んだ形跡もない。他のゲームにはコメントや、応援のハートがカウントアップされているのに、おれのはどちらもゼロのままだ。
冷静になれ。にじみ出る額の汗をぬぐう。これは幻かもしれない。
おれは深呼吸をすると、ブラウザの履歴を一度すべて消去し、ページを再表示させた。
コメント一件。
「あっ……」
反射的にタッチする。
〈トキオカさんへ。メールもお送りしたのですが、届いているでしょうか〉
表示されたコメントは、主催者からのものだった。
がん、がん、と、脳がまるごと心臓になったように脈を打つ。
続きなんか見たくない。見たくないけど、見ないわけにはいかなかった。
〈起動するとすぐにエンディングが流れてしまいます。ソースをチェックしたら、そこへジャンプするコマンドが最初にありました。確認してみてください〉
視界がブラックアウトした。
高熱が出て学校を何日か休んだ。ゲームのことなんか考えたくないのに、そればかり夢に見た。片っ端から悪夢だった。
土日でなんとか回復し、月曜から登校できた。
でも、もう部活に出る気がない。痛恨のミスどころの騒ぎじゃないのだ。最低ランクDDDの成績を全世界に配信してしまったようなものじゃないか、真面目にやったのに。せめて匿名にすればよかった。
日本史で、波田先生に課題を提出しに行くか迷っていたら、授業の最後に声をかけられた。でも先生の用事は、課題ではなかったみたいだ。レポート用紙を受け取ったあとで、背をかがめて目線を合わせてきたからぎょっとした。
「今日、部活に来いよ」
一言だけだけど、めっちゃマジなトーンだった。
青春っぽいなって思ってから、自分は今、ひねくれてるんだと気がついた。
先生は心配してくれているのだ。先輩たちだってそうかもしれない。少なくとも、ゲームは楽しみにしてくれていた。それを全部無視して、部活に背を向けようとしてたんだな。
くちびるを噛む。
バグだらけなのは、おれのほうだ。
放課後、校舎をぶらぶら歩いた。部活に出るためじゃない、回収部を探すためだ。
廊下は相変わらずにぎやかだった。演劇部の発声、運動部の掛け声、軽音部の電子音。そこに、もうひとつのメロディが重なる。
また誰かが演奏しているのか? まったく嫌なタイミングだ、『夕焼け小焼け』なんてさ。
でも、まさか。
音のほうを見て、足を止めた。知らないうちにメディア棟へ来ていたようだ。視線の先はコンピューター教室。扉が半分開いている。
まさか。でも。引っ張られるように足が前へ出る。
「よっしゃ、終わったー!」
「わたしも!」
扉をひらくと、今野先輩と井砂先輩がハイタッチをしていた。
「え? え?」
五人の先輩が、全員そろっている。しかも波田先生までパソコンに向かっていた。
「あ、時岡くん! 今、みんなでタイムアタックしてるの。ちょっと待ってね」
今野先輩がおれに気がついた。
「こっち来い、時岡。教えてくれよ。トイレから進めないんだよ」
「ヒントありますよ、オプションに」
「女子トイレから脱出できない先生、笑える」
「でもヒント使った回数も成績画面に表示されるからな、おれは使わなかったぜ」
先輩たちが、波田先生のパソコンに集まっていく。みんなが離れたパソコンのディスプレイには、ABB、BAA、SAAという文字が表示されていた。まちがいない、おれのゲームの成績画面だ。
「先生以外、みんなクリアしたな」
井砂先輩も立ち上がって、その輪に加わった。みんなで先生にあれこれと遊び方を教えているようだ。
わけがわからない。でもきっと、おれのゲームを遊べるようにして、こうやって励まそうとしてくれてるんだろう。
なんだよ、めっちゃいい先輩たちじゃん。おれ、この人たちを修理しようって思ってたんだ。
あそこに加わりたいな。
ぎゅっと拳を握りしめる。でも、動けない。
つま先を見つめて、念じた。
ほら、早く。早く行けよ。廃部員回収部を探しに行け!
今のおれじゃ、加わる資格なんてないんだから!
この教室から、出て行け!
頭で自分の声がわんわんと響く。弾幕のように他の考えを隠していく。
引き裂いたのは、景気の良い破裂音だった。
はっと顔をあげる。カラフルなリボンが降ってくる。
からまりそうな細い線が、きれいな虹の弧を描く。
「ゲーム完成、おめでとう!」
「あの、おれ……」
祝ってもらうようなこと、していない。そう続けたかったけれど、クラッカーを手に持った先輩たちは、勝手にわいわいとしゃべりだした。
「コンテストに出てたのを見つけてさ」
「でもあの主催、あんなのコメントに書くことないよな。見せしめじゃね?」
「親切だと思うけど」
今野先輩が一歩前に出て、スマホ画面を見せてきた。
「主催さんからのメールを先生が見つけて、教えてくれたんだ。ほら、読んでみて」
画面にはメールのスクリーンショットがあった。促されるまま文面に目を走らせる。コメントにあったものと似たような指摘があり、消えてしまいそうなくらい恥ずかしい。
〈勝手ながらソースをいじって遊ばせてもらいました。すごくよくできてて面白いです。絶対再応募してほしいです。それで問題がなければ参加として受け付けます〉
「おれ、修理されなくていいんですか」
終わりまで読んだら、ぽろりと声がこぼれた。
「なに言ってるの。みんなでバグ出ししたから、直してもう一度出そう。時岡くんは胸を張らなきゃ。一生懸命だって、伝わったよ」
今野先輩が、両手の拳をぶんぶん振った。
そっか、おれ、一生懸命だったんだ。そうだよな。
先輩たちがおれを見てる。すごく恥ずかしいけど、これ以上恥ずかしいことってないような気がする。だったらもう少し、今のおれでがんばってみよう。自分が作ったゲームと、バグと、向き合ってみよう。
「はい!」
目が赤くなってなければいいな。そう思って顔をあげる。
先輩たちのほうへ足を踏み出す。これは、パーフェクトになるための一歩だ。
あ、と思ったときには遅かった。
くすんだオレンジ色のバスケットボールは指先を滑り、白い線の上を越えていく。鋭い笛の音が鳴った。ノーマークで、ゴール前。絶対に決めるべきところだった。
相手チームの声援が一層大きくなり、その間を縫って低いブザーの音が響き渡る。スコアボードの隣に、麻央が立っていた。顧問に耳打ちされている。
「一橋!」
ついさっきスローインを敵にとられてしまったばかりだし、交代は当然だ。わかっていても、名前を呼ばれるとみじめさがこみあげてくる。麻央はすれ違いざまに困った顔であたしを見て、駆けて行った。
試合の残り時間は十分。あたしが出てから五分も経っていなかった。顧問はフィールドから目を離さずに、あたしの肩を軽く叩いた。ベンチに行くと、同期はそれぞれもごもごと口の中でお疲れさまを言って席を空けた。「水希、ドンマイ」なんて言葉は誰もかけてくれない。
ぬるくなったスポーツドリンクを飲みながら試合を眺める。外野から見ると、先輩の態度の変わり方があからさまにわかる。声がさっきよりも大きい。表情も明るい。パスがよく回る。べこっと手の中のペットボトルが凹む。
麻央は試合終了の笛が鳴るまでそこにいた。
借りている三階の教室に向かう波から外れてたどり着いた先は、暗い廊下だった。三月の柔らかい陽射しが溢れる窓はどこにもなく、ふり返ると自分がやってきた方がよく見えないほどだ。上の階には人がいるはずなのにとても静かで、まるで隔絶された空間のようだった。
トイレを探しているだけなのに、なんでこんなところに。この建物の中だけじゃなく、紅槻高校はうちの中学校と違って校舎がいくつもあってわかりづらい。共学というだけで何もなくても緊張するし、そもそも顧問が知り合いだからといって、わざわざ高校の体育館を借りて練習試合をするなんて。
視界に、白い物体が急に飛び込んでくる。壁に叩きつけようと握った手をほどいて、目元で溜まっている涙をぬぐい取る。張り紙だった。暗闇の中でぼうっと浮かんで見えて、まるで幽霊のようだ。何か文字が書いてある。
「ご不要になった部員、回収いたします……廃部員、回収部?」
不要になった部員。その文字に釘付けになってしまう。
一週間前から、何かがずれていっているようだった。わからない技があるとあたしに聞いてきていた子たちが、いまは麻央に聞いている。ときどき先輩の練習に交じっていたこともあって、先輩たちはあたしによく声をかけてくれていたけれど、今はほとんどない。麻央は、一緒に帰るときにあまり喋らなくなった。今日の練習試合でよくわかった。薄く漂う、拒絶の雰囲気。
引いたはずの涙がまたじんわりと溢れてくる。
「麻央……」
みんなの真ん中で、照れたように笑っていた麻央を思い出す。そこはあたしの場所だったのに。
「麻央が回収されればいいのに……」
口から出てきた声は思ったよりも大きくて、後ろを振り返る。どこからともなく、オルゴールの音が聞こえてくる。耳慣れたメロディーは『夕焼け小焼け』だった。あたしは走ってそこから離れた。
春休みが終わって、二年生になっても麻央は回収されなかった。練習試合があったあの日、家に帰ってからネットで廃部員回収部について調べた。唯一ヒットした掲示板は二年前の書き込みを最後に止まっていた。クラスメイトがいなくなったとか、廃部員回収部に修理されて急に人が変わったとか、そういうことが書き込んであった。
毎晩、廃部員回収部の前で首を絞められる夢にうなされた。でも、今日からは大丈夫だろう。
麻央とはほとんど話していない。一緒に帰ることもなくなった。部活は相変わらずだ。肌を撫でるような拒絶があたしの首をじわじわと絞めつけている。やめたいと思わないわけではない。でも、やめると言う勇気はあたしにはない。それから、やめた後にお母さんやクラスメイトに詮索されるのも嫌だ。
「皆さんにお知らせがあります」
今日から一年生の部活見学がはじまる。しっかりしないと。
「野中さんが、一週間後にご家族の都合で転校することになりました」
ええーっとクラスの方々で驚きの声が上がる。人懐っこい麻央は誰からも好かれているのだ。
教卓の上に立った麻央と目が合う。あたしは彼女の目を見られなくて、俯いた。心臓の音がうるさくて、麻央の話していることが全然聞こえない。頭の中で『夕焼け小焼け』が鳴り始めた。
***
ホームルームが終わると、何人かがわたしのところに来てくれた。寂しいと口々に言ってくれて、思わずほろっと涙が出そうになる。
水希ちゃんはどこだろう。彼女たちの間からショートカットの頭を探す。もう教室にはいないみたい。
おばあちゃんが倒れて、そこから転校が決まって、すぐにでも水希ちゃんに言おうと思っていた。でも、練習試合での水希ちゃんの鋭い視線を思い出すと声もかけられなかった。さっきだって目が合ったのに、すぐに逸らされてしまったし。
部室にも水希ちゃんはいなかった。先輩たちはスマホをいじりながら談笑していた。ねっとりと絡み付くような、嫌な感じの笑い声。お疲れさまです、と挨拶をして、隅の方で着替える。
「一橋さん、この間の練習試合から静かになったよね」
「ざまあみろってかんじ」
「さすがに気が付いたんじゃない?」
「さっきもめちゃくちゃはやく出てったよね」
水筒だけひっつかんで、倒れてきそうな荷物を無視してロッカーを閉める。
「因果応報ってやつじゃない。ねえ、野中さん」
ドアまであと少しというところで捕まってしまった。振り返ると、先輩たちはにやけた顔でこちらを見ている。
「前に一橋さんが野中さんに私らの愚痴言ってるところ、聞いちゃったんだよね」
わたしは何も言えずに、水筒を胸元に引き寄せた。
「野中さんもかわいそうだよね。最近一橋さんから避けられてて」
「……失礼します」
ちょうど練習試合の一週間前、帰りの電車で水希ちゃんは先輩の愚痴を言っていた。その日はトレーニングがメインの日で、先輩たちは顧問の目を盗んでランニングの周回数をごまかしていた。わたしたち後輩にはきっちり走らせたくせに。
いつもなら便乗して先輩の愚痴をこぼしていたけれど、その日わたしはやんわりと彼女の言葉を受け流した。途中から、先輩が同じ車両に乗っていることに気付いたから。どうにか話題を逸らそうとしたけれど、水希ちゃんの愚痴は止まらなくて、自分だけ逃げた。
次の日から、先輩たちは水希ちゃんがいないときに彼女の悪口を言うようになった。それまで、水希ちゃんのことを可愛がっていたのに。同期の子たちは、先輩が怖くて水希ちゃんと距離を置くようになった。わたしは練習試合を境に、水希ちゃんに近づけなくなった。
脳裏にこびりついている。交代で、わたしとすれ違ったときの刃物のような目つき。本当のことを言いたくても、あの目を思い出すと足がすくんでしまう。心の中で、ごめんねを繰り返してばかりいる。
***
押しても引いても開かなさそうな威圧的なドア。真ん中には『ご不要になった部員、回収いたします』という文字の書かれた張り紙。死んだ魚の目のようなレンズがついた、インターホン。
ドアの前に立っているあたしは、ふと後ろを振り返る。一面、どろっとした闇。その向こうから『夕焼け小焼け』のメロディーが聞こえてくる。インターホンに指を伸ばすと、急に背後に人の気配が漂う。白くて氷のように冷たい指が首にはりつく――。
ベッドの上は、オレンジ色の海だった。窓からなみなみと注がれる夕日。柔らかい風が吹き込んできて、留めていないカーテンがゆらゆらと揺れて、さざ波が立つ。
またあの夢を見てしまった。五年前――中学一年生の頃から見るようになって、最近はあんまり見なくなっていたのに。原因はわかりきっている。コンビニにゴミ袋を買いに行ったとき、麻央を見かけたからだ。
肩まで伸びた、赤みがかった茶髪。両肩が出たふんわりした白いトップスに、ひざ丈まである紺色のスカート。まるで別人のようだったけれど、ぱんぱんに膨れたトートバッグを大事そうに抱える姿は、ボールを運ぶ麻央そのものだった。
起き上がると、ものが散乱している様が目に飛び込んでくる。教科書、プリント、雑誌、大小さまざまな缶や箱、バスケットボール。ベッドにもう一度倒れこみたいのをぐっと堪えて、掃除を再開する。いらないものは右側のビニール袋に、とっておくものは左側へ。
子犬のキャラクターが描かれている、小さなお菓子の缶を手にとる。あまり重くなくて試しに振ってみると、しゃこしゃこと音がした。開いてみると、小さな四角い紙切れがこぼれて、桜のようにひらひら舞い落ちる。
プリクラだった。中学生のとき、遊びに行くたびに撮っていたっけ。あたしはあの小さな箱に入るとそわそわしてしまって、目線がずれてしまったりポーズがうまくとれなかったりした。麻央はそういうのがすごくうまかった。片目をつぶっているあたしの隣で、まんまるの笑みを浮かべる麻央。一生ともだち、なんて落書き。
五年だ。あたしの心は五年もあの時にとらわれ続けている。もういい加減、解放されたい。
いてもたってもいられなくて、あたしはスマホをひっつかんで、メッセージアプリのクラスのグループを開いた。三年二組という名前のグループはついこの間作ったばかりだ。あと数週間で、あたしたちは大学生になる。
浅野舞子の、男性アイドルグループの集合写真が設定されているアイコンを押す。浅野は中学のとき同じバスケ部で、当時はいじられキャラだった。高校に入ってからは印象ががらりと変わった。年々スカートは短くなり、化粧もするようになり、いわゆるイケてる女子になっていた。腐れ縁で、三年間クラスが一緒だったけれど、ほとんど話さなかった。
浅野は浅野で過去の自分を知っている人間と仲良くしたくなかっただろうし、あたしはバスケ部とは縁を切っていた。別にいじめられたわけじゃない。ただ、あの練習試合の日に感じた微妙な空気をずっと引きずっていた。
麻央の連絡先を教えてほしいとメッセージを送るのに、三十分はかかった。送り終わった瞬間に、どんな返事がくるのか怖くなってまだ夕飯ができてもないのにリビングに行った。そのくせ、部屋に戻って暗闇の中でライトが緑色に光っているのを見ると、電気もつけずにスマホに飛びついた。
『これ、麻央の連絡先』
『ただ、私も中学卒業してから連絡とってないから、繋がるかわかんないよ』
『ありがとう』
『意外。みんなと集まったりしてるかと思った』
既読、の文字が浮かんですぐに返事がくる。
『あんまり会いたくないよ』
『中学の自分、あんまり好きじゃないから』
『だいぶ変わったもんね』
『まあね、高校デビューってやつ』
『中学のときの水希のこと、私は嫌いじゃなかったよ』
思わず、ベッドの上にスマホを置く。目の奥と顔が熱い。
『ときどき一生懸命すぎてちょっと引いてたけど、でもすごいなって思ってた』
あたしはあの時のあたしが嫌いだ。自分が悪いのに麻央のせいにして、その間違いを謝ることもしなかった。
浅野は何の気もなく言ったんだろう。それでも、嬉しい。
『ふっきれるといいね』
散々文字を打っては消し、結局『ありがとう』とだけ返事をする。既読のマークがついて、浅野からの返事はこなかった。
掃除は全然進んでいない。散らばったままだったプリクラを缶の中に戻して、眠りにつく前に麻央にメッセージを送った。
***
待ち合わせ場所の駅前の広場には、約束の十分前についた。デートの前みたいに、どきどきしている。
目印の時計が立っている花壇の隅に、ハルジオンが咲いていた。雑草だし、貧乏草なんて可愛くない別名がついてるけど、わたしは結構好き。白い花びらと黄色の花芯の色合いが、まさに春って感じで可愛い。
『久しぶり』
『水希です。連絡先は浅野から聞きました』
『こっちに戻ってきてるの?』
『もしそうだったら会いませんか』
二日前に水希ちゃんからきたメッセージを読み返す。高校一年生のときに一度、こっちから連絡しようとしたらブロックされていて、それ以降連絡をとるのは諦めていた。
目の前に影ができて、顔を上げると水希ちゃんがいた。変わらないショートカットの黒髪。ざっくりした網目の白いニットと、デニムのスキニー。最後に会ったときより少し背が高くなっている気がする。
「久しぶり」
仏頂面なのに口元だけが頑張って笑おうとしている変な顔。わたしも、うまく笑えている自信がない。
「久しぶりだね」
「あそこのカフェでいい?」
「いいよ、行こう」
前を歩く水希ちゃんの後ろ姿に、昔のような覇気はなかった。中学生のときはコロナみたいにエネルギーが放出されているようだったのに。
春休みのカフェは人で埋め尽くされていた。隅の方の空席をなんとか見つけて座る。隣のカップルはあまり人目につかないのをいいことに、手を握り合っている。ふたりとも今にも溶けだしちゃいそうなくらい頬を緩めている。
てっぺんにのった生クリームをざくざくと、下のフロートと混ぜる。水希ちゃんはこっちを見ずに、アイスコーヒーをからからと混ぜていた。
「大学こっちなの?」
意外にも切り出したのは、水希ちゃんだった。窺うように、目線を合わせてくる。
「そうなの。大学はこっちがよかったから、一人暮らしはじめるの。近くにおばさんが住んでるから、もしかしたらそっちに入り浸っちゃうかもだけど」
「お父さんとお母さんは向こうなんだ」
「うん。おばあちゃんの介護してるから」
「それで転校してったのか。知らなかった」
転校前、わたしは何も彼女に言えてなかったことを改めて思い出す。もう四年も前のことなんだ。
「急に会おうなんてびっくりしたよね、ごめん」
「びっくりしたけど大丈夫」
水希ちゃんはテーブルの上から手を下げ、大きめに息を吸った。
「あたし、ずっと謝りたかったんだ。練習試合の日、麻央がいなくなればいいって思って、そうしたら本当に麻央が転校していっちゃって。ごめんね。最後さよならも言えなかった」
真っ直ぐな目は、昔と変わらない。
「わたしもね、謝らなきゃいけないことがあるの。先輩たちの態度が急に変わったでしょ。あれ、電車で先輩の愚痴を言ってるところを見られちゃったのが原因なの」
「そうだったんだ」
「わたし、先輩がいるのに気付いて自分だけ逃げたの。ずっと言えなくてごめんなさい」
「いいよ。結局あたしのせいなわけだし」
水希ちゃんが時計を見た。この後予定があるから、三十分くらいで帰るねと言っていた。
「ごめんね、もう時間だ」
「ううん、ありがとね」
また会おう、とは言わなかった。
「じゃあね」
「うん、じゃあね」
お店から出ていく水希ちゃんを見つめる。猫背だ。だから、覇気がなく見えたんだ。
ちょっと期待をしていた。お互いに謝って、昔の思い出をいくつも並べて、また会おうねってなることを。もっと早くに会っていれば、今も仲良くできてたのかな。
口に含んだフロートはだいぶ水っぽくなっていた。
***
予定があるなんていうのは嘘だった。
家に帰ると、お母さんは出かけていた。ほとんど片づいた部屋は、余計にしんと静まっているように感じる。
ベッドに倒れこんで、目をつむる。
麻央は変わっていなかった。相変わらず人懐っこそうな笑顔の、可愛らしい女の子。
再会は思っていた以上に呆気なかった。三十分だけというリミットを覆したくなるような、もっと劇的な何かが起きるのかもと心のどこかで思っていた。謝ったことも、謝られたこともすうっと心の中を通過していって、どこかへ消えてしまった。何度も夢にみるほど、麻央に執着していると思っていたのに。
ベッドから降りて、隅に放置したままのバスケットボールと小さな缶をそれぞれのゴミ袋に入れる。もし、もっとはやく麻央と会っていれば何か変わっていたのだろうか。
ゴミ捨て場に行く途中、つつじの花壇の隅にハルジオンが咲いているのが目に入った。もう春はすぐそこだ。
夏休みも後半のその日の午前中。私たちのいつもの練習場所、被服室に現れた優は、その登場からしてどこかおかしかった。
「おはよう! ――あ、岬ちゃん、そのヘアクリップいいね。青い色がよく似合っててかわいい!」
挨拶が無駄に明るく元気よくおまけに爽やかだったのは、まぁ目をつむろう。この上なく上機嫌なだけだと思えないこともない。が、それにさらりと続いた「かわいい」は見過ごせなかった。優が女子を真正面から褒めることに比べたら、真夏に大雪警報が出たと言われた方がまだ信じられる。だって、あの優なのに! 女子と話すだけで顔を赤くしてしまう、同じバンドの私と話すときですらいまだに挙動不審になりがちな、あの優なのに!
呆然とした私に邪気のない笑顔を向け、優は背負ったエレキギターを手近な机に置く。色の明るい猫っ毛には、いくら目を凝らしてもお決まりの寝癖が一つもなかった。そして女子がうらやむような色白の肌とまつげの長い丸い目の顔には、その優しさがにじみ出たようないつものやわらかい雰囲気はなく、目力の強いキリッとした表情が浮かんでいる。あと……そう、いつもは寝癖があっても制服を着崩したりなんてしないのに。半袖の学生シャツの一番上のボタンを開けて下に着た緑のTシャツを覗かせ、ズボンには白と青のベルトと革紐のアクセサリー。これじゃ、ちょっとしたおしゃれさんじゃないか!
観察する私を気にした様子もなく、優は持っていたアンプとシールドを手早く準備する。アンプっていうのはエレキギターの音を出すスピーカーみたいなもので、シールドと呼ばれるコードでつなぐのだけど、このシールドが絡まって解くのに何分もかかる不器用さんがいつもの優だ。なのに、今日はマジックショーで「3、2、1、ハイ! ヒモが解けました!」と言いたくなるくらい、するりとシールドを伸ばしてみせた。
何かがおかしい。絶対おかしい。
私が拭いようのない違和感に固まっていると、被服室のドアが開いて今度はエレキベースを背負った伊月が現れた。伊月は伸びた前髪をピンク色のゴムで一つにしばり、学生シャツの襟ボタンを二つも開けて裾をだらしなくズボンから出して、挨拶代わりに大きな欠伸を一つする。黒縁メガネの目は眠そうでまぶたが半分下がっている。
「夜更かしでもしたの?」
違和感の塊になった優から一旦思考を切り離すように、私は伊月に声をかけた。
「波田センセーのこと考えてたら眠れなくなっちゃってさー」
身長一七五センチ越えの男子高生である伊月は、途端に乙女の顔になる。波田先生はプログラミング部の顧問と剣道部の副顧問をかけ持ちしている日本史担当の男性教師だ。二十八歳独身で血液型はA型、身長一八〇センチ越えの超イケメン(伊月評)である。
はいはいはい、とここで私が呆れた顔をするのがいつものパターンなんだけど、今日はそんな私を優が先回りした。
「波田先生カッコいいもんね」
伊月がいくら「波田先生カッコいいだろ?」と同意を求めても、色恋沙汰に奥手な優はいつもなら反応に困るだけで伊月に軽々しく同調したりしない。伊月の乙女顔が即座に真顔に変わって私を向いた。
「優、どうかしたの?」
優に違和感を抱いたのが自分だけでないという事実にホッとしたものの、もちろん何も解決していない。が、とにもかくにも練習を始めることにした。
私たち三人は軽音部のスリーピースバンド《トライアングル》のメンバーで、いつもここ被服室を拠点に練習している。今の目標は十月に行なわれる我が紅槻高校の文化祭、槻の木祭のステージだ。
「ウォーミングアップに一曲通してみる?」
伊月の言葉に頷き、「Startingやろうか」と私は答えた。正式な曲のタイトルは『Starting over and over and over』。伊月が作曲した曲に私が歌詞をつけた。何度だってやり直す、そんな想いを込めた歌だ。
槻の木祭のステージで演奏するのは三曲。本当は三十分は演奏したかったけど、軽音部には十以上のバンドがあり、一バンドあたりの持ち時間は多くない。おまけに春の合同ライブでやらかした私たちなので、十五分を確保するのがやっとだったのだ。
私はマイクスタンドの前に立ち、優と伊月はそれぞれの楽器を構える。もともと小柄で伊月よりも十センチ近く背の低い優は、ギターを構えるとつい背を丸め気味になって余計に小さく見えるのが常だった。が、今日は胸をはってまっすぐに立ち堂々と前を向いていて、私よりも背が高い男子なのだと再認識させられる。
三人で目配せし合い、伊月が踵を潰した上履きでリズムを取ってカウントを始める。
「――スリー、ツー、ワン、」
声には出さない「ゼロ!」のタイミングでギターとベースの前奏が始まる。伊月の安定した低音のリズムに、優の慎重で丁寧な和音が乗っかる――
はずだったのに。
ピックをつまんで弦をはじく優の手が、見たこともない速さで動いた。
即興で奏でられた複雑なギターの旋律に被服室の空気は一変し、一瞬どこかのライブハウスに迷い込んだのかと錯覚する。優は複雑なフレーズを弾きこなすに飽き足らず、頭や身体を動かして全身でリズムを刻み、まるでプロのパフォーマンスを観ているようだ。
私はあんぐりと開けた口を塞ぐことができず、同じく狐につままれたような顔の伊月も弦をはじいていた手を止める。一人でソロプレイを続けるわけにもいかず、やがて優も困惑顔でギターをやめた。電子音の余韻はすぐに消え、ミシンやトルソーが壁際に並んだ被服室に沈黙が落ちる。
「二人ともどうしたの? 演奏しないの?」
優の皮をかぶった目の前の誰かに、私は訊かずにはいられなかった。
「……あなた誰?」
数秒の沈黙ののち、優はぷっと吹き出した。
「やだな岬ちゃん、何言ってるの?」
その声は確かに知っている優のものだが、こんな風にハキハキしゃべるのは訊いたことがない。控えめで、つっかえがちで、でも丁寧に一語一語言葉を紡ぐのが優だ。
私は咄嗟に優の姿をした誰かから距離を取って伊月のもとに駆け寄った。伊月はそんな私を背中にかばうようにして一歩前に出ると、その誰かに対峙する。
「君、もしかして優の双子の兄弟か何か?」
伊月の声は冷静で、恐怖心は少し和らいだ。確かにそれなら説明がつく。歳の離れた姉しかいないと以前聞いていたけど。
「伊月まで何言ってるの? 岬ちゃんと同じクラスの二年三組、軽音部所属の三埜優だよ。もしかして、二人して僕のことからかってる?」
笑いながら一歩前に出た優に思わずビクついてから、私は伊月の背中から顔を出す。
「わ、私が知ってる優は笑顔で私に『かわいい』とか言わないし。不器用であわあわしてて、しょうがないなーって感じで……」
それでも腐ったりせずまじめで一生懸命で、自分のことをないがしろにするくらい優しくて、もっと自信を持てばいいのにと思わずにはいられない、それが優だ。
なのに目の前の優は、なんというか〝デキる男〟だった。自信に満ちた身のこなしには無駄がなく、器用でギターも上手。言葉はハッキリして臆することがなく余裕すらある。
「岬ちゃんってば、僕のことそんな風に思ってたんだ。ひどいなー」
優を名乗る彼は軽い口調で苦笑する。今度は伊月が口を開いた。
「少なくとも、俺の知ってる優はこんなにギター、うまくない。三日前は弾けなくて半泣きになってた」
伊月の言葉に私もコクコク頷く。性格が変わっただけなら、何かの本を読んで影響されたとか説明されればまだ納得できる。でもギターは別だ。楽器は一朝一夕でうまくなるものじゃない。ましてや私は一年前、軽音部に入った頃から不器用な優がギターと格闘するように必死に練習してきたのを知っている。
身がまえた私と伊月に、優は大きく息を吐き出した。
「二人が言うように、僕、ダメダメだったからさ。修理してもらったんだ」
「修理?」
「うん。廃部員回収部って知らない?」
伊月と視線を交わし、揃って首をふる。
「特別校舎の一階の奥にはり紙があるんだ。『ご不要になった部員、回収いたします』ってね。訊いたら、部員の回収だけじゃなくて修理や交換もしてくれるっていうから、『僕を修理してください』って頼んでみた」
私たちが練習拠点としている被服室をはじめ、音楽室や理科室といった特別教室が集められているのがこの特別校舎だ。一階には使われていない教室や倉庫、あとは美術室があるくらいで、美術の授業を選択していない私はほとんど行ったことがなかった。ここ被服室は二階だし、軽音部の部室は三階だ。
「で? 修理してもらったら、優はギターが上手になって人も変わったって?」
半信半疑といった伊月の言葉を、そうだね、と優は笑顔で肯定する。
「……わけわかんねー」
伊月は前髪のゴムを外して髪をかき回し、一方の私はまったく言葉が出てこない。
「どうしたら信じてもらえるかな?」
優は口元に手を当てて少し思案したのち、名案を思いついたのか私に手招きする。
「岬ちゃん、ちょっと耳貸して?」
得体の知れない優に近づくのはためらわれたが、結局おそるおそる近づいた。優は口に手を当てて中腰になるとそっと私に囁く。
「ウサギ柄のパンツ」
ぎょっとして思わず飛び退く。今年の春休みのこと、私は軽音部の部室でブレザーの制服からジャージに着替えていたところを優に見られた。予定よりだいぶ早く部室に到着し、誰も来ないだろうと油断した私も悪かったのだけど。思わぬものを目にしてまっ赤になって慌てふためき、「ウサギ柄のパンツなんて見てないから!」と墓穴を掘った優を私は叩きのめし、誰にも話さないと誓わせた。
「優ってばサイテー! 絶対に誰にも話さない約束だったのに!」
「僕は誰にも話してないよ! わからないかな。僕が優なんだよ!」
伊月に「何言われたの?」と心配そうに訊かれたのをなんでもないとごまかし、私は優に向き直る。
「……本当に、本当に優なの?」
「そうだよ。僕は修理してもらったんだ」
♪♪♪
その日の昼休み、廊下の壁にもたれかかり、行き交う生徒をぼんやり眺めていた私の眼前に何かが差し出された。
「これ、波田先生が好きなんだよね」
イチゴ模様のビニールに包まれた三角形のキャンディを長い指でぶらぶらさせつつ、伊月が私を見下ろしている。今日は長い前髪をしばらず下ろしていた。
「じゃ、波田先生にあげなよ」
「さっきあげてきたところ」
受け取ったそれを放り込んだ途端、口の中は甘酸っぱくなった。
伊月は私の隣で壁にもたれかかり、「元気なさそうだけど元気?」と訊いてくる。
「質問おかしくない?」
「文化祭まであと少しなのに、岬が元気ないのは気になるっしょ」
「それはどうも」
「ま、どうせ優のことだろうけど」
素直に頷くのはなんだかシャクで、答える代わりにキャンディを奥歯で噛んだ。
二学期になって二週間が経っていた。修理された優が元に戻ることはなく、当初はその変化に驚いていたクラスメイトや教師たちも、最終的には少し遅い高校デビューだとおおむね好意的に受け止めたようだった。修理後の優は気遣いができトークも面白く、おまけに文武両道、ギターの腕はピカいち。もともと童顔でかわいいと言われがちだったその顔は、立ち居ふる舞いが洗練され自信と余裕に満ちた表情が多くなった結果、一部の女子から「カッコいい」という評まで得た。かくして今では休み時間になると女子に机を囲まれ黄色い声まで起こる始末で、見ていられなくなった私は廊下に退避してきたわけだ。
「不良になってグレたとか、そういう悪い方の変化じゃないんだしさ。これが今の優だって認めるしかないんじゃない?」
「認めるって……だってこんなのおかしいよ。私たちの知ってる優じゃないのに」
「俺、段々今の優にも慣れてきたよ。今の優だって優なんだしさ。思いつめてもしょうがないし、身体にもよくないよ」
伊月ならわかってくれると信じていただけにショックで言葉を失う。変なのは優なのに、これじゃ私が変みたいじゃないか。
何も言いたくなくて、口の中に残っていたキャンディをガリガリと噛み砕きながら心の内で決意する。伊月がやらないなら私がやるしかない。
そうして放課後になり、ホームルームが終わってすぐに私は教室を飛び出した。普通校舎二階の渡り廊下を抜け、階段を早足で下りて人気のない特別校舎の一階に降り立つ。すっかり息が上がってしまい、バクバクと音を立てる心臓が落ち着くまでその場で待った。
やがて呼吸が整い、私は前を向き胸をはって敵地を目指す。窓がないのか廊下の奥は闇に沈み果てが見えない。恐がりでビビリな優が本当にこんなところを通って廃部員回収部とやらに行けたんだろうか――
ふいに何かが聞こえてきて足を止める。校内放送の音楽、にしては聞き慣れない音だった。丸くてかわいらしい……オルゴールの音? 『夕焼け小焼け』?
「――岬ちゃん!」
背後から急に腕を掴まれて悲鳴を上げ、思わずその場にしゃがみ込んでから顔を上げた。私の腕を掴んでいるのは優だった。
「……脅かさないでよ」
私はゆっくりと立ち上がった。優はまだ私の腕を掴んだままだ。
「何してるの?」
「それはこっちの台詞だよ。岬ちゃんが教室から飛び出てくからどうしたのかと思って……軽音部の部室は三階だよ」
「わかってるよ、そんなこと」
沈黙が落ちて二人とも数秒間動かなかったが、やがて優が折れたように嘆息した。
「廃部員回収部に行くつもり?」
身をよじって優の手から逃れようとしたが、優は私の腕を離してくれない。
「私がどこに行こうが勝手でしょ」
「行ってどうするの?」
聞きわけのない子どもに接するような声音で訊かれ、瞬間的にカッとした。
「優を元に戻してって頼むに決まってるじゃないっ!」
思わず叫ぶように言った直後、優の顔から表情が抜け落ちた。冷たい目で私を見、やがて自嘲気味に笑う。
「岬ちゃんは、ダメな僕の方がよかったってこと? 岬ちゃんや伊月に迷惑かけてばかりでライブもめちゃくちゃにしちゃう、ダメでドジでどうしようもない僕の方がよかった?」
今年の春の軽音部の合同ライブのことだろう。簡単に言うと、シールドに足を引っかけてすっ転んだ優が部のアンプを壊し、ライブイベントはその後ぐちゃぐちゃになった。
「あ、それともそんな僕を笑うのが好きだった?」
「なんでそんなこと言うの? 私、ダメだなんて思ったことないよ。優はいつも一生懸命だし、努力家で――」
『Starting over and over and over』の歌詞が脳裏でリフレインする。
〈失敗してもいい 前を向く君の姿が僕には眩しい〉
「そんなの、結局失敗するんじゃなんの価値もないよ」
怒りか悲しみか色んな感情が渦巻いて顔が熱くなり、今度こそ私は優の手をふり解く。
「優のことバカにしないで!」
廃部員回収部があるのとは反対、普通校舎の方に私は廊下を駆け戻り、そのまま階段を上って二階に到着したところで息切れしてへたり込んだ。たったこれだけの距離なのに肩が上下するほど呼吸が乱れて立ち上がれず、壁にもたれて座り込んだものの優が追いかけてくることはなかった。思い出したように『夕焼け小焼け』が耳に届き、脳内で流れていた『Starting over and over and over』のメロディはフェイドアウトしていった。
しばらくして昂ぶっていた感情と呼吸がようやく落ち着き、いつもの被服室に向かうとミシン台に腰かけた伊月がエレキベースの弦をはじいていた。伊月は私の顔を見るなり何も言わずにイチゴ味のキャンディを投げて寄越し、私はそれを口に入れて噛み砕く。
少し遅れてエレキギターを持った優が現れ、私たちは言葉少なに練習を開始した。何があっても、私たちは練習からは逃げないのだ。
♪♪♪
槻の木祭の当日は朝からよく晴れていた。オープニングセレモニーが終わり、クラスのわたあめ店の手伝いをしてから私は軽音部の部室に向かった。軽音部の体育館ステージは午後からだが、希望があれば午前中のうちに交代で部室で練習してもよいことになっている。部室に到着すると先輩たちのバンドがちょうど練習を終えたところだった。
おつかれさまでーすと先輩たちを見送り、部室に入ろうとしたら背後から肩を叩かれた。
「同じクラスなんだから声かけてよ」
私と同じ、レインボーカラーのクラスTシャツ姿の優が立っている。
「ごめん、気づかなかった」
もちろん嘘だ。女子たちに囲まれ、上手なわたあめの作り方を伝授するのに忙しそうだったのでわざと置いていった。人見知りだった優が懐かしくて恋しくてたまらない。
無言で練習の準備をしていたら間もなく伊月も現れ、早々に演奏予定の三曲を通す。
「ばっちりじゃないかな」
演奏を終えて優が満足げにエレキギターを下ろし、伊月もそれに同意する。もともと伊月は中学時代からエレキベースをやっていて軽音部でも頭一つ抜けていた。優の演奏の腕が上達したことで、伊月のエレキベースも以前より活きたものになっているのは事実だ。つまり、《トライアングル》としてはかつてないデキの演奏ということだ。
「ステージ、楽しみだね」
笑顔で優に話しかけられ、だけど私は素直に頷けず片づけを始めた。次のバンドに部室を譲らないといけない時間が近づき、優と伊月も各々の楽器をケースにしまう。
「じゃ、あとは本番で」
そう軽く手をふって一人先に部室を出ようとしたら、「待って」と優に引き留められた。
「岬ちゃん、文化祭、誰かと回る約束してる?」
「……してないけど」
「じゃあ、今年も僕と回らない?」
去年の槻の木祭は一日目の午後だけ優と一緒に回った。特に約束していたわけじゃなかったけど、のんびりしていたせいかクラスの男子たちに置いていかれ、一人で所在なさげにしていたので私から声をかけたのだ。
――一人なら一緒に見に行かない?
なんでもない風を装いつつも、心の中ではものすごく緊張してたし声も震えかけてた。いくら普段から仲がよくても、付き合ってもない男子に自分から声をかけるには勇気がいる。不自然じゃないか、引かれたらどうしよう、なんて心臓が止まりそうだったけど、優は「行く!」と笑顔で応えてくれた。
けどたった今、去年の私みたいに誘ってくれた優の口調は軽かった。あまりに軽くて余裕すら見て取れ、ものすごくイラッとする。
「遠慮しとく。優と一緒に回りたがってる女の子ならたくさんいるよ」
「僕は岬ちゃんと回りたいんだ」
もしこの台詞を以前の優に言われたのなら、私はきっと顔を赤くしながら「喜んで」と応えた。こういうことを言えるキャラじゃなかった以前の優の言葉なら、それはとても重たいもののはずだから。
だけど、今の修理済みの優のことが私には全然わからない。前より明るくて雄弁になったけど、それだけだ。廃部員回収部に行こうとして止められたあの日を境に、私は練習以外では優のことを避けてもいた。こうやって誘われる意味がわからない。
「私といても楽しくないよ」
「そんなわけないよ」
「じゃあ今、私と話してて優は楽しい?」
考える間もなく、優はやわらかい笑顔を私に向ける。
「もちろん」
修理前の優は人の顔色を窺いがちで、でもそれは裏を返せば人の感情に敏感だったということだ。
今の優は何もわかってない。
「私は楽しくない」
私がそう言った直後、笑顔を落としたような無表情になって優は無言で部室を出ていってしまう。傷つけた、と気づいたときには遅かった。足音は遠ざかりもう聞こえない。伊月が優を追いかけるように部室を出たものの、すぐに私のところに戻ってくる。
「さっきのはやりすぎだよ、岬」
「……ごめん」
「謝るなら優に謝るべきだ」
次に部室を使う部員たちが来てしまい、私と伊月は部室を出て特別校舎の廊下の隅で立ち止まった。文化祭の喧噪が遠い。伊月はイラ立った様子で口を開く。
「そんなに優が嫌い?」
答えない私へのイラ立ちを押さえ込むように、伊月は腕を組んで私を見下ろす。
「優は変わったんだよ」
「そうだね。ダメな自分を修理して、私の知らない誰かに変わっちゃった」
「確かに変わったけど、でも優は優だよ」
伊月の言うことが正論なんだろう。頭ではわかってる。でも、だけど。
「私は伊月みたいに簡単に受け入れられない」
腕を組んだまま伊月は目を閉じたが、やがてゆっくりと開いた。
「優には言うなって言われてたんだけど。――先に謝っとく。悪い」
「何それ」
「八月に入ってからかな。俺、優に『岬ちゃんがおかしい』って詰め寄られて、あのこと話した」
伊月の言う「あのこと」がなんなのか、すぐにわかって血の気が引いた。
「優が……優が知ってるの? 本当に?」
伊月は少し屈んで私の目をまっすぐに見つめる。
「優は今日のライブのために自分を変えたんだよ。今日のライブは絶対に失敗できないって、岬のために自分ができることはこれしかないって。だから――」
「私……優と話してくる」
伊月に宣言するやいなや私は走りだしていた。「走っちゃダメだ!」と伊月の声が追いかけてきたけど、私はかまわず両足を動かした。
人の多い廊下を駆けながら考えた。私は悔しかったのだ、と。
優は確かに不器用だし失敗も多かったけど、めげずに努力できる人だ。活動が緩い軽音部で、優ほど練習する部員はほかにいない。失敗しても何度でもやり直すという『Starting over and over and over』の歌詞は、そんな優を想って書いたものだった。
だからこそ、優が自分はダメだと決めつけ諦めて修理してしまったことが、私は悔しくて悲しくて許せなかった。
……でも、そうじゃなかったのだとしたら。
二年三組の教室に優はいなかった。スマホの存在を思い出して取り出してみるも充電切れで使えず、仕方ないのであてがないまま歩きだすも、普通校舎を一周しても優には会えなくて疲労ばかりが蓄積していく。どこかですれ違ってしまったか、体育館にいるのか、それとも特別校舎に――
廃部員回収部。
廃部員回収部なる謎の部活が槻の木祭の出しものを用意しているとは思えなかったが、優が向かった可能性はなくはない。
普通校舎から特別校舎に戻って階段を下り、だが一階に到着したところで眩暈に襲われて座り込む。リノリウムの床が冷たい。息切れが収まらず身体が上下する。
〈負けたくなくて 少しでも近づきたくて 僕は君を追いかける〉
優に負けたくなくて、私もたくさん練習した。ボイストレーニングや、肺活量をつけるためのランニングや筋トレも。でも、がんばればがんばるほど私の持久力はなくなっていき、身体は軽くなるどころかどんどん重たくなっていった。
〈諦めたくない〉
午後のライブのために体力を温存した方がいいのはわかってる。たった三曲、十五分のステージでも今の私にはギリギリだ。伊月に言われなくてもわかってる。
〈諦めたくないんだ――〉
拳を床に叩きつけて目を閉じた。『Starting over and over and over』のメロディを聞き覚えのある物寂しい音楽が上書いていく。『夕焼け小焼け』のオルゴール……。
「岬ちゃん!」
身体を軽く揺すられて目を開けると、目の前には探していた優がいた。床に膝をついて私の顔を覗き込んでいる。
「身体しんどいの? 保健室行く?」
息苦しさはまだ残っていたもののだいぶマシになっており、首をふって見返した。
「どうして……」
「伊月から、岬ちゃんが走って僕のこと探しに行ったって連絡があったから……。ダメだよ、無理したら――」
「優は知ってたんだね」
一瞬不意を突かれたような顔をしたものの、けど優はしっかりと頷いた。
色んな検査をし、私の心臓に欠陥があるとわかったのは今年の春のことだ。血を送りだすための弁の動きが悪く、激しい運動をすると息切れや眩暈が起こるのだという。中学時代までは体育の授業くらいしか運動しなかったとはいえ、自覚症状はなかったというのに。
「岬ちゃんが僕にだけ教えてくれなくて、正直ちょっとショックだった」
「誰にも言わないつもりだったんだよ」
伊月に知られたのはまったくの偶然だった。通っている病院で伊月の母親が看護師として働いており、届けものに来た伊月と鉢合わせたのだ。
「大したことじゃないんだよ。しばらく学校を休んで入院するし手術もするけど、術後がよければすぐに学校に戻れるし」
「でも、もうライブはできないよね」
学校に戻っても留年するかもしれないし、軽音部の活動を再開するのは現実的ではなく、この文化祭がきっと最後のライブになる。
優は祈りを捧げるように床に膝をついたまま、私の右手を両手で包み込む。
「僕は岬ちゃんの最後のライブを最高のものにしたいんだ。岬ちゃんが手術をがんばれるように応援したい。そのためにできることだったらなんだってする」
優の手は冷たくて気持ちよく、包まれた私の右手はたちまち熱を失っていく。包んだ私の手を自分の額に当てて俯く優の猫っ毛に、私はそっと左手で触れた。
「そのために、廃部員回収部に行ったの?」
顔を上げた優は私の目を見つめて頷いた。
「僕なんかの失敗で、岬ちゃんの最後のライブを台なしにしたくなかった」
僕なんか、などと言わないでほしいのに。
「廃部員回収部で修理したらもう元には戻せないって説明された。別の自分になるけどそれでもいいのかって。それでもよかったんだ」
それでもよかった、わけなんてないのに。
「僕は岬ちゃんのためならなんだってするよ」
優の顔がふいに歪んだ。
あっと思ったときには両目から熱いものがあふれてこぼれ、頬を伝って落ちていく。
……優はバカだ。
たった十五分のライブのために、自分じゃないものになるとわかっていて修理されてしまうなんて。
さっき優がしたように、右手を包む優の手に私は額を乗せた。
……バカは私だ。
こうなる前にちゃんと言葉で伝えればよかった。そのままの優を認めてるって。大事なんだって。
好きなんだって。
バカとなじることも、ごめんなさいと謝ることももうできない。元に戻せないならそんなことに意味はない。だから私はひと言だけ口にした。
「ありがとう」
優は握っていた手を離すと親指で私の目元に触れた。指の腹でそっと涙を拭い、やがて両手で私の頬を包み込む。
――以前の優だったら、私が泣いてたらティッシュを探して右往左往するだろうな。
その姿を想像して小さく笑い、私は頬に触れた優の手に自分の手を重ねて目を閉じた。
〈諦めなかったら いつか伝えられるかな〉
オルゴールの音は消えている。
もういない彼のための歌を、最高のライブが待っている。
今日の部活のあと、忘れ物を取りに教室に行ったときに、私の描いたポスターの前で数人の知らない男の子たちが何か言っているのを見た。
私は、何か胸がざわざわした。
「この絵さぁ、やばくね?」
「美術部って漫研なのかよ?」
「これ自分でうまいって思ったんだよなぁ、描いた奴」
「マジ、目が死んでね?」
私は思わず息を止めた。手が冷たくなっていくのがわかる。
後ろを歩いていた、同じ美術部で小学生の頃からの友達のちかが、私の腕をそっと掴む。何も話さずに私たちは彼らのすぐ後ろを通り過ぎて、一年二組の教室に入った。
「何あの人たち……すごい失礼じゃない?! 喜緑、気にしないほうがいいよ」
「うん……」
私は自分のロッカーから体操着を取り出して、リュックに無理やり突っ込む。下唇をぎゅっと噛んだ。私とちかが教室を出たとき、もうさっきの男の子たちはいなくなっていた。
あんなに言われるほど、ひどい絵なのかなぁ……。
描くんじゃなかった。
私は帰り道、その気持ちしか頭になかった。
ちかが「久しぶりに、『……』のマンガを買って読んだら面白かった。喜緑が薦めてくれたやつだよね」という話をしていた。しかし、家に帰って来ても、ちかが何のマンガを買ったのか、タイトルさえ思い出せなかった。
文化祭まであと一か月。紅槻高校に入って初めての文化祭だ。紅槻高校では、文化祭を「槻の木祭」と呼んで、毎年十月に開催している。
私は幼い頃からお姫様の絵を毎日のように描いていた。絵を描くのが本当に好きなのだ。
中学のときも美術部だった。紅槻高校の美術部では今年の槻の木祭に向けて、個人で最低一つ、絵でも何でも作品を作ることと、部員全員で描く共同制作の絵を出すことになっている。そんな美術部の活動を発表する機会としての槻の木祭。
美術部長である喜多見陽子先輩が、展示を宣伝するポスターを描いてくれと私に頼んできたから、私はスピカちゃんのポスターを描いたのだった。
私は、よく描けたって思ったんだ。
全身は描かないで胸から上だけ、手の描写で少し手こずったけど、何とか描けたし。背景の模様と色なんかは、思った通りのものになったと思う。
スピカちゃんが、手を振って、「美術部の展示を見に来てね」と言っている絵。「スピカちゃん」は、私の大好きなアニメの主人公。可愛くてスタイルが良くて、ミニスカートがよく似合う女の子だけど、悪い奴からお姫様を守るナイトでもある。そんなカッコいいスピカちゃんが、私はとても好きだ。
文化祭での美術部の展示を宣伝するポスターだけど、陽子先輩はスピカちゃんを描いていいって言ってくれたのもあって、私は思い切って描いてみたんだ。
そして今日、私のクラスの一年二組の教室の廊下に、私の描いたポスターが張り出された。
恥ずかしいと思いつつも、でも私は何だか誇らしかったんだ。ちかの描いたポスターも、私のクラスの二つ隣の四組の廊下の前に張り出された。ちかはやっぱりうさぎを描いていた。小学生の頃から、ちかはうさぎが大好きで、うさぎの絵が描いてあるグッズを今も集めている。
私も、アニメキャラのスピカちゃんじゃなくて、花とか動物とか描いたほうが良かったんだろうか。ちかは、せっかくアニメ系の絵を上手に描けるのに、何で女の子の絵を描かないんだろう。ちかが描いたら、きっとあんなこと言われなかったんだろうな。
私は、顔を何とか描けても、体を描くのはあんまり上手ではない。女の子の足を綺麗に描いてあげることができない。真っ直ぐな足になってしまい、とてもカッコ悪い身体になってしまう。ちかは、洋服のシワや、スカートのふわっとした感じや、女の子の身体の滑らかな線を描くことがとても上手だ。……しかし、そういったこと以上に、ちかの描く女の子はとても可愛らしくて自然で、人の目を引く絵なのだ。
◆◆◆
私の描いたスピカちゃんのポスターは今日も廊下に張ってある。
登校してきて教室に入る前に、私はポスターをジッと見た。
もう、ポスターが完成したときの誇らしい気持ちはとっくに消えてなくなっていた。
昨日の「マジ、目が死んでね?」という声が聞こえてくるような気がした。全身を描かない絵なら、何とかいけると思っていただけに、あんなことを言われるとは思わなかった。
しかし、描かれているのは確かに「スピカちゃん」ではあるんだけど……。
何だか……私の描いたこのスピカちゃんは「生きている」という感じがしないんだ。
私が描くと、どうしてもそうなるんだ。
◆◆◆
個人制作はどうしようかなぁ。槻の木祭まであと三週間か……。
部活には来たものの、白い画用紙の前で私は鉛筆を持ったまま動けなくなっていた。
絵を描きたいとは思っているけど、あんなことがあった後だと、また何か言われたらという気持ちにもなってしまう。
「喜緑ちゃん、全然描いてないけどどうしたの?」
陽子先輩に声をかけられて、ハッとする。
「あ……陽子先輩……何か、何を描いたらいいのかわかんなくなってきたっていうか……」
陽子先輩はにこっと笑った。
「喜緑ちゃん、スピカちゃんでも何でも、好きなもの描けばいいよ。そう言えば、ポスター描いてくれてありがとうね。やっぱり、喜緑ちゃんは色の表現が上手だなーって思ったよ! ちかちゃんの描いたポスターも見た?」
「あ、はい。ちかはやっぱりうさぎを描いてましたね」
「ちかちゃんって、うさぎが好きなんだねぇ。何か、あのちかちゃんの絵、すごい可愛らしくてさ、ああ、本当にうさぎが好きなんだなぁって思ったんだよね」
「ああ……そうですね」
私のポスターについて悪口を言っていた男の子たちのことを陽子先輩に話そうかとも思ったが、私は言わなかった。ちかの絵って、やっぱり良いんだな……もうプロの人みたいなイラストが描ける陽子先輩にこんなふうに言わせることができるんだもの。
胸がチクリとする。
ちかは何やってるんだろう。さっさと部活に来ればいいのに。
トイレでまた、顔にオレンジ色とかピンク色とか塗りたくっているんだろうか?
……この頃、ちかは何だか前と違う、と思う。
スカートが以前より少なくとも十五センチは短いし、ほっぺたがやたらオレンジ色だから、どうしたのかって尋ねると「これはチークだよ! 喜緑も化粧覚えたら?」と言われたり。そして唇も、ものすごいピンク色だし。さっき「アニメショップ行こう」って誘ったら、「おこづかいで洋服を買うから、ごめんね」と断られた。こんなこと今までなかったのに……。
ちかは、きっと「オシャレ」に目覚めちゃったんだなぁ。
……私も、マンガばっかり買ってないで、化粧品とか買ったほうがいいのかな? 私は内心、「オシャレ」に気を遣う子たちをバカにしてもいた。「頭空っぽのくせに」って。ちかと本屋さんに行っても、この頃ちかは、「頭空っぽ」の女の子たちが読みそうなファッション雑誌ばっかり見てる。そんなものどこが面白いんだろう?
◆◆◆
絵を描こうという気持ちがしぼんできている。
槻の木祭が二週間後に近付いてきているのに、私は個人制作で何の絵を描くか、まだ考えている。部活には毎日来ているが、自分の作品には取り組む気にならなくて、共同制作の色付けをひたすらやっている。ちかは何を描くかを決めたみたいだ。でも、私がそばに行くと絵を隠してしまう。展示する作品のことを聞いてみても、何も話してくれない。陽子先輩には相談しているみたいだけど……。
部活が終わって、筆とパレットを洗おうとすると、部室のすぐ隣にある洗い場に「故障」の紙が張ってあった。故障なら仕方ないから二階まで行かなきゃだめか……面倒くさいな……と思っていたら、向こうから人が歩いてきた。波田先生だ。私は波田先生に直接教わったことはないけど、『波田先生っていうイケメンの先生がいるんだよ! 去年、私のクラスの担任だったんだけど、イケメンな上に背も高いし、男の子にも人気がある先生なんだよ!』と、入部したとき陽子先輩が少し興奮気味に言っていたので、顔を知っていた。
私が手に持っている、筆やパレットを見て、波田先生はこう言った。
「その洗い場の水道、先週調子悪くなってさ、使えないんだ。この奥にも洗い場あるからさ、そこで洗っておいでよ」
「あ、わかりました。ありがとうございます」
波田先生はにこっと笑い「遅くまでお疲れさま」と言って、爽やかに通り過ぎていった。
美術部の部室は、特別校舎の一階の入り口から入ってすぐのところにある。そう言えば、部室の奥のほうは行ったことがなかったなぁ。
いくつかの教室を通り過ぎると、清掃用の洗い場があった。
私は、絵の具で汚れたパレットや筆を洗い始めた。
何か、いろいろうまくいかないな……。
私はため息をついて、顔を上げた。
ふと左のほうに目をやる。ここからさらに三、四メートルほど奥の突き当たりにドアがあり、その横の壁に何か張り紙がしてあるのが見えた。
なんだろう? あの張り紙……。
何て書いてあるのかとても気になって、ドアの前まで歩く。
張り紙には、こう書いてあった。
『ご不要になった部員、回収いたします。 廃部員回収部』
え? はいぶいんかいしゅうぶ? なんだろう……これ?
廃部員、回収、ってことは、やはり廃品回収みたいなものってことなんだろう……。
要らない部員を持って行ってくれるってことかな?
私は、ジッとその張り紙を見つめた。
このドアの向こうにこの部があるのかな?
私はドアを何気なく開けてみた。
階段だ……。
下のほうに、『非常口』という文字が光っている。
薄暗いし、空気が冷たい。
私は何だか背筋が冷たくなって、ドアを閉めた。
『非常口』って書いてあるけど、あの階段の下のほうにあるドアの向こうに、『廃部員回収部』があるんだろうか?
『廃部員回収部』って、何なんだろう……陽子先輩とかこの部のこと知ってるのかな……。
◆◆◆
私は毎日、絵の練習をしていた。何となく部活の皆にも、ちかにも顔を合わせたくなくなって、部活には行かずに家でとにかく描いた。
文化祭の個人制作でも、やっぱり女の子の絵を描きたい。
初めて、実在の人物の絵も描いてみた。
最近テレビでよく見かけるようになってきた、アイドルのコマリちゃん。
何回描いても、何も変わってないようにしか思えない。
私は、可愛い女の子を描きたい。
どうしてなんだろう?
頭の中には、可愛いスピカちゃんやコマリちゃんがいるのに、この頭の中の女の子を、私の手を通じて表現しようとすると、途端に何か違うものになってしまう。
◆◆◆
休日の朝、私は絵を何枚も描いていた。
「喜緑ー。何か絵が落ちてるよ!」
洗濯物を干しに来たお母さんに言われて、それで初めて、私はコマリちゃんの絵が飛ばされていたことに気が付く。部屋のドアは開けっぱなしだった。
顔がカーッと熱くなった。
私の絵……。
「これ、コマリちゃん……ね?」
お母さんが鼻で笑ったように見えた。
その瞬間、私は叫んでいた。
「どうせ下手だもん!!」
お母さんの手から、絵を奪い取った。
「何よ、何をそんなにいじけてんのよ」
お母さんはため息をつき、ベランダに行った。
私は、何だか泣けてきた。どうやっても、うまくいかない。
どうして、私が絵を描くとバカにされるの?
ああ、何かもうバカバカしい。
私には、絵を描くのは本当に向いてないのかも知れない。
携帯電話を手に取って、ちかに電話した。
「もしもし? 喜緑?」
「ちかぁ……」
久しぶりにちかの声を聞いたら、途端に泣けてきた。
「喜緑? どうしたの?」
「お母さんに、絵をバカにされた……何かもう、絵なんか描きたくない、私はどう頑張っても上手に描けない。女の子の絵が描きたい、綺麗な絵を描きたいのに、どうしてもできない……」
私は泣きながら、そんなことをちかに話した。
ちかは、黙って聞いてくれていた。と思っていた。
でも、そうじゃなかった。
電話を切って、数分後。ちかからメールが来た。
『あんたなんか、逃げてばっかり! もっとしっかりしろ!』
◆◆◆
時計の針はもう午前三時を指していた。
明日学校なのに。授業中眠くなるだろうなぁ。
布団に入って四時間はたつのに、寝返りばかり打っていた。
ちかからのメール。
そんなことないよ……逃げてばっかりなんかじゃない。そんなこと言うなんてひどいよ!
そう返事しようかと思った。
けれど、ちかがあんなことを言ったことが信じられない。
眠れない……。
私のポスターの前にいた男の子たちの言ったこと。
お母さんの言ったこと。
ちかが言ったこと。
そして、自分の思うように絵を描けない私。
そのどれもが、頭の中をぐるぐる回っていた。嫌なことなんか忘れたいのに、ちっとも頭の中から出て行ってくれない。
何もかもが苛立たしくて腹が立って、頭が熱い。
自分に、絵を描くことが向いてないのは、よくわかっている。
色を付けることなんかは、陽子先輩だって褒めてくれてるし、色の勉強を本格的にやるのだっていいんじゃないだろうか。
絵を描くことを諦めて、別のことをやればいいだけ。
それなのに。
どうしてちかはわかってくれないの?
ちかは、アニメが好きな私のことバカにしてるんだろうなぁ。
何、あの短いスカート、オレンジ色のほっぺた……カッコ悪い。
小学生のときのちかは、あんなんじゃなかったのに。
◆◆◆
次の日、私は学校に着いてすぐ、特別校舎へ行ってみた。
一階の奥、あの張り紙の前まで歩く。
『ご不要になった部員、回収いたします。 廃部員回収部』
嫌だな、何考えてるんだろう私……。
教室に戻ろう。
しかし、私の手は、ドアを開けていた。
え?
ドアを開けてしまった。
戻れない。
ゆっくり、階段を降りた。インターホンがある。
もう戻ろう。やめようよ。
そう思っているのに。
私は、インターホンのボタンを押した。
『廃部員回収部です』
インターホンから、女の子の声が聞こえてきた。
私は大きく息を吸って、吐いて、こう言った。
「一年三組の、鶴川ちかを回収して」
やだ。何言っているの? 私。
……。
少しの間があり、インターホンの向こうの女の子はこう言った。
『回収したら、その部員はもう二度と戻りませんよ。本当によろしいのですか?』
二度と戻らないって。ちかが二度と戻らない。
「さっさと回収して!」
違う。
私はこんなことを言いたいんじゃない。
……。
また少しの間があり、女の子はこう言った。
『承りました』
ブツッ。インターホンの通話が切れる音がした。
……。
手にびっしょり汗をかいている。
少しの間、私はもう何も答えなくなったインターホンを見つめていた。
私は大きく息を吐いた。
そして振り返って、階段を一段一段ゆっくり上った。
今日の一時間目の授業は数学だったかな……。
私はドアを開けて、特別校舎から出た。
俯いて早足で歩く。
こんなことをしてしまうのは、私が悪いんじゃない。
私のことをわかってくれない、ちかが悪いんだ。
◆◆◆
放課後、久しぶりに、部活に行った。
陽子先輩が、一人で共同制作の絵に色を塗っていた。他の部員はまだ誰も来ていないようだ。
共同制作は、もうだいぶ出来上がっていた。
「あ! 久しぶりじゃん! 喜緑ちゃん! やっと部活に来る気になったか! 心配してたんだよ」
陽子先輩が私に気が付いた。
「すみません……何かいろいろうまくいかなくて……。部活にどうしても出る気にならなくて……本当にすみません……」
「ま、そういうこともあるよね」
陽子先輩は伸びをした。
「ほら、皆頑張ってるよ! 皆の作ってるもの見てごらんよ!」
陽子先輩が指差した向こうの机に、部員の様々な作品が並んでいた。
私は近くに行って、作品を見た。
様々な服のデザインを集めた大きな絵があった。服のデザインは、十以上あるだろう。
どれも個性的で、でもどこか可愛らしくて、着てみたくなるような服だった。
しかし、その絵に色が付いていなかった。この絵は、まだ完成していないのだろうか?
下のほうに鉛筆で何か書いてある。
『喜緑に色を付けてもらう』
これ……?
ちかが描いたもの……?
「ちかちゃんね、洋服を作る人になりたいなーって最近言ってるんだよ」
いつの間にか陽子先輩が後ろにいた。
「え……」
そんなこと、私全然知らなかった。
ちかが、洋服を作る人になりたいだなんて……。
「ちかちゃんはさ、絵が全体的にすごく可愛らしいしさ、生き生きとしていて上手なんだけど、色の組み合わせとかがとにかく苦手なんだよね。『色を付けた途端、台無しになる』って美術の授業でもしょっちゅう落ち込んでるって言ってたし。喜緑ちゃんは、色を選ぶのとかそういうの上手じゃない? だから、その絵を完成させるのに、喜緑ちゃんの力が必要だーって言ってた」
陽子先輩はそれだけ言うと、共同制作の絵のほうに戻り、また色を塗り始めた。
私は何も言えなかった。
ちかの絵をただただ見つめていた。
「喜緑ちゃんが来たから、ちかちゃんもやっと進められる。きっと喜ぶね!」
陽子先輩が無邪気にそう言った。
手が、がくがく震えてきた。
私はギュッと、ちかの絵を強く持った。
何分くらいそうしていたんだろう。
気が付いたとき、私は、ちかの絵を持って、部室を飛び出していた。
どこから流れてくるんだろう。
『夕焼け小焼け』のオルゴールの音が聞こえる。
このアイドルの衣装みたいな服には、淡い水色と白のストライプにして……。
このチャイナドレス風のワンピースは、ちょっと灰がかったディープな赤がいいかな……。
ねぇ、ちか、どうかなぁ? 気に入ってくれるかなぁ?
ねぇ、ちか……。
――学校という建物に足を踏み入れたのはもう三十年ぶりになるだろうか。
重臣は、迷宮のような校舎をさまよいながら暢気にそんなことを考えていた。そんなに経つんだから、迷うのは仕方ないんだと自分を肯定しながらひとけのない校内を歩く。
ふと廊下の突き当たりに、男子生徒が見えた。重臣が向かうと、彼もスーツ姿の重臣に気づいたようで、軽く会釈される。
「きみ、すまないが三年一組の教室はどこか教えてもらえるかな」
ワックスもなにもつけていない髪と、少しよれたワイシャツが夏の高校生といった風貌の生徒は、ああ、と納得したように口を開いた。
「三者面談ですか。特別校舎のこんな端っこに知らない大人が来たから、驚いた」
「校舎が複雑なものだから、変なところに出てしまったみたいで。きみがいて助かった」
「いえ。おれも三の一なので、案内しますよ」
「そうか、それは助かる。けどきみもなにかここに用が……」
重臣は男子生徒が見ていた廊下の隅のドアに張り紙があるのに気がついた。
「廃部員……回収部?」
「珍しい部活でしょ。でもおれは急ぎの用じゃないから、大丈夫です」
男子生徒は振り返って、重臣を見た。こちらが一瞬動揺するような、まっすぐな双眸だった。
――うちの娘とぜんぜんちがう。
反射的にそう思ってしまった自分に、重臣は辟易する。
「これから面談てことは、あなたはサッコ……鹿島の」
「あ、ああ。父親だ。同じクラスと言ったね、どうも、娘が世話になっています」
「そうでしたか……うん、本当に」
男子生徒は小さく呟いた。
「どう? 鹿島さん」
咲希子の担任、波田先生が咲希子に優しく問いかける。咲希子の前には、まだ白紙の進路希望調査表が置かれていた。
「……まだ、どうしたらいいかわからなくて……」
もう三年の九月だというのに、いつまで経ってもぐずぐずと煮え切らない咲希子に、波田先生も少々困った様子だった。周りの子たちは、とっくに志望大学を決めて夏休みにも勉強に明け暮れている時期だろう。なんていったって、三年一組は国公立大学志望者が集められるクラスで、クラスの平均偏差値は六十五を超えるのだ。重臣は咲希子を支えるためになにが言えるだろうと考えた。
「咲希子、おまえ、せっかくこんないいクラスに入ってるんだから、最難関大とは言わなくても、それなりにはいい大学目指せよ。おまえはできる子なんだから。あの、波田先生」
「はい」
「この子は、本当はできる子なんです。いまはこんなぐずぐずしてますけど、やるときはやるし、それにすごく努力できる子なんですよ。だからどうかね」
重臣は咲希子の本当のすごさを波田先生に伝えるほかないと考えた。
波田先生は咲希子と重臣を交互に見やって、まばたきを繰り返す。
「見捨てないでやってください」
重臣の算段としては、ここで咲希子があの男子生徒のようにまっすぐな目をして、「頑張ります」と言う……言うはずだった。
咲希子はうつむいている。重臣があっと思うころには、咲希子は両手で顔を覆って、わっと泣き出した。まるで、ぎりぎりの水量を保っていたダムが一気に決壊したかのようだった。
――え?
波田先生がティッシュペーパーの箱を取りに席を立つ。重臣はうろたえて言葉につまってしまった。
「ど……え? どうしたんだよ、おい」
波田先生が差し出したティッシュを濡らしながら、面談中、咲希子はついに泣き止まなかった。
学校に残るという咲希子を置いて、重臣は帰路についた。
――うれし涙……ではなさそうだった。
――まったく、恥ずかしいことにわたしが動揺してしまった。
――今日は、家に帰ってこないかもしれないな。
咲希子はよく、友達の家に行くと言って二、三日家を空けることがあるのだ。咲希子とは、当初かなりもめて、重臣がいくら家にいさせようとしてもだめだった。注意するほど咲希子は家を出たがった。連絡をしっかりよこすことで認めている形になってはいるが、正直なところ心配で仕方ない。ふと、あのころの咲希子とはまだ会話ができていた、と思った。
♪ ソソソラ ソソソミ ドドレミレ~
一括で設定している、「夕焼け小焼け」の着信音だ。携帯電話を開くと、珍しいメールが入っていた。
『パリに引っ越しました 晴美』
晴美とは、妻の名だ。結婚後は専業主婦をしていたのだが、五年前に突然海外に行くと言って飛び立ってしまった。彼女いわく「いまここでチャンスを逃せないし、人生に後悔したくない」とのことで、重臣の説得はまったく効かなかった。いまはフリージャーナリストとしてふらふらしているようだ。重臣は、咲希子が妻と似たふらふらした人生を歩まないか心配していた。
夜遅くに家の鍵を開ける音がした。重臣の予想に反して、咲希子は家に戻ってきたらしい。もしくは、着替えを取りに来てまた出ていくか。
リビングのドアが開いて、人影が落ちた。
「ただいま」
声変わりした、低い声。重臣が振り向くと、そこには身長百七十センチを超える男子高校生が立っていた。
「どうかした? 父さん」
「……父さん?」
「うん。今晩はカレーにするね」
重臣はぽかりと口を開けた。二人の間に、数秒の沈黙が流れる。
そこで重臣は、突然目の前に現れた彼が、昼に学校を案内してもらった男子生徒であることに気づいた。
「……きみ、昼の子だな。なにを言っているんだ。いったいどうなっているんだ?」
「まあ、いいから座ってよ」
彼は、さも自分の家のリビングであるかのように重臣をソファにうながし、テーブルの上にちょうど切らしていたはずの玉ねぎをどさりと置いた。対面の椅子に腰を落ち着けた彼は、どこからどう見ても咲希子ではない、別人だ。
「大事な話をするけど、今日、鹿島咲希子は回収された」
重臣は一瞬、自分だけがこの出来事から取り残されているのかと錯覚した。しかし、彼のまっすぐな瞳と、落ち着いた声が重臣を冷静にさせる。
「回収?」
「聞き覚えない? 父さんが迷ってきたときちょっと話したと思うけど」
重臣は、彼が立っていたドアの前に、物騒な張り紙があったのを思い出した。
「廃員……回収部だったか」
「廃部員回収部。あそこは、いらなくなった部員を回収する部活なんだ。サッコは部活に……何部だか知らないけど、入っていたから、回収される権利があったってわけ」
「その、さっきから言っている回収って、どういう意味なんだ」
「回収された部員は、もう戻ってこない」
「は?」
重臣には、プライドというものがあり、父親の威厳というものもある。けど、口から出るとんちんかんな声を抑えることができなかった。
「さすがに、理解してもらうのは難しいと思うけど、とにかく、明らかなのは、サッコが自分の意志で廃部員回収部に回収されに行ったこと。おれはその代わり、代部員なの」
「自分から回収されに……」
「うん。おれが代部員で来たのもサッコの希望だよ」
昼は敬語だったはずの彼はいつの間にか砕けた口調でしゃべり、上着を脱いでくつろぎ始めた。
「きみは、咲希子のなんなんだ」
「別に勘繰らなくて大丈夫だよ。サッコはただのクラスメイト……もっと言うと、取引相手」
「取引相手?」
「そう。とにかく、おれたちはお互い利害が一致する取引をしたんだ。夕飯作るから待ってて」
そういうと、彼はキッチンに玉ねぎを持っていった。
「ふ……ふざけるな。でっちあげもいいところだ。おれがそんなの信じられるわけないだろう」
「父さん、おれ包丁持ってるんだから殴りかかったりしないでね」
彼が手早く作ったカレーは、咲希子の料理とそっくりな味がした。食べながら、自分の実体を確かめるように重臣はときどき自分の顔や首を触ってみる。頭の片方はやけに冷静で、頭のもう片方はサウナに入ったみたいにぼんやりして、熱を帯びているような感じがした。
彼は――井砂秀一と名乗った。それから、親に家を出ていかれて一人暮らしをしているから、両親は心配しない、という繊細な話を、明日の天気の話をするような軽い口調でさらりと口にした。
次の日の仕事中に、重臣は、やはりこれは悪質ないたずらだろうという結論をくだした。
照りつけるような日差しも肌が忘れ、太陽がすぐに姿を潜めるようになってきた晩夏の夜。重臣は家への道を帰る中、自分の考えうる最善の結末を用意した。やはりその考えが正しく、咲希子はまた友達のところに家出をしたのだろう。昨日の午後に有給休暇をとったせいでかなり帰りが遅くなってしまったが、今日も井砂秀一が家に来たら追い返そうと思っていた。
家の庭にあるモクレンの木が見える。家の窓が見えたところで、重臣は中に電気がついていることに気がついた。思わず、心臓が跳ねる。
――咲希子。
――咲希子であってくれ。
嫌な予感を抱えながら、早足で玄関の石畳を踏む。
「おかえり」
玄関で出迎えたのは……彼、井砂秀一だった。
重臣は、高まった心がまた冷えていくのがわかった。そんな重臣の表情でも読み取ったのか、秀一は残念でした、とからかうような口調で目をそらした。
「秀一くん、きみに話があるんだが」
「なに?」
「咲希子は友達の家に家出してるんだ。昨日はいくらメールしても返事がなかったけど、いまから電話して呼び戻す。きみがどういうつもりか知らないが、この家から出ていってくれないか」
咲希子が家出をし始めたころ、重臣が咲希子のスマートフォンと、思い当たる友達の家にかたっぱしから連絡を入れたところ、咲希子は本当に嫌がった。それ以来、電話はなるべく避けるようにしていたのだが、今回ばかりは致し方ない。重臣は咲希子のスマートフォンを呼び出す。
♪ ソソソラ ソソソミ ドドレミレ~
聞き覚えのある着信音。それが、すぐ近くで鳴る。
秀一が、緩慢な動作で自分のポケットからスマートフォンを取り出す。玄関に置かれた、咲希子が世話をしているポトスの葉が一枚、ぽとりと落ちた。
「はい」
「なんで……なんできみの携帯電話が鳴るんだ」
「はあ……代部員て出てけとか、こんなことも言われんのか。きっつ」
眉間にしわを寄せた表情は、苦しそうだった。
「おっさん、教えてやろうか。おっさんのつむじは二個あって、最近の悩みは老眼で新聞の文字が見えにくくなったこと。それから両足の裏に大きなほくろがひとつずつあって、風呂で身体を洗うときは必ず右足からお湯をかける」
「お、おっさんて……」
秀一は、失礼にも、咲希子にしか知りえないことをつらつらと挙げてみせた。うっかり、目の前の男が咲希子と重なって見える。
「中身はサッコだよ。だから安心して。それにいまはおれ、この家の息子だし、こんな状況で他に行き場がないんだ。父さん」
秀一はゆっくりと話して、口角を上げただけの笑顔を作った。
中身はサッコ。この言葉を聞いたとき、重臣は言いようのない恐怖を感じた。
――咲希子は回収された?
――もう戻ってこない?
「とりあえず、玄関で話すのもなんだし、リビングに来てよ。おれも相談があるんだ」
リビングのテーブルには、あの白紙の進路希望調査表が置いてあった。
「知ってると思うけど、進路、悩んでるんだよね。父さんはどう思ってるの」
昨日のように、また数秒の沈黙が流れた。
「……きみ、一組だと言ったね。勉強できるんだろう」
「……まあ、それなりには」
「勉強ができるなら、国立か、早稲田か慶應を目指しなさい。頭のいい環境に身を置けば、相応の友人もできるだろうし」
「待ってよ」
秀一は目を見開いていた。
「サッコにもそんな言い方してるわけ?」
「当たり前だろう。日本は学歴社会だ」
「ちがう。日本が学歴社会だなんて、そんなの聞いてない。おれは、進路に悩んでると言ったんだ。有名大学に行きたいなんて言ってないし、ましてやこの大学を目指せなんて言われるのはおかしい」
「自分でこの家の息子だと言ったんじゃないか。咲希子は真剣に受け止めたぞ」
秀一は、怒りと驚きに満ちた表情をしていた。
「おっさん……ちがうよ」
「なにがちがうんだ」
「サッコは、あんたの期待をひとりでずっと背負ってたんだ。あいつ家出よくするんだろう。それでも学校を一度も休んだことはなかったし、授業だってさぼってなかった。あんたの期待に応えよう、応えようって必死だったんじゃん……」
秀一は「第一希望」欄の枠の中に、「デザ美」と記入した。
「これは……」
「あんたの言っているのは、親のでっかい理想にすぎない。現実は理想とはちがう。あんたはサッコのこと、一ミリもわかってない。子どもは、あんたの操り人形じゃないんだよ。サッコは進路に悩んでなんかなかったよ。あんたにどう話そう、どう話そうってそればっかり悩んでた」
進路希望調査表を、秀一は重臣につきつける。デザ美……東京にある、専門学校の略称だった。
「デザイン……? マンガでも描くのか? だってあいつそんなこと、ひとことも」
「おれたちはあんたらがなにを考えて親をやってるのか、子どもだからわからない。けど、それでも真剣に向き合おうと頑張ってる。あんたがサッコの気持ちをわかろうとしないで、上から圧力をかけて、サッコはこれ以上どうしろっていうんだ。おっさん」
秀一のまっすぐな瞳に射抜かれる。
「すれちがってからじゃ、遅いんだよ」
紙を持つその手に力が入って、震える。
「圧力って、そんな……」
言葉を失う重臣を見て、秀一が、ふっと息を吐きだした。
「取引の話をするよ。サッコには、ないしょにしてほしいけど。夏休み前くらいに、廃部員回収部の張り紙の前でサッコに会って、サッコがデザ美に行きたがってるの聞いちゃって……でもよく話を聞いたら、おっさんに進路の話ができなくて自暴自棄になってるだけだった。おれは回収部の代部員になりたかったから、『じゃあおれが回収部の代部員になって代わりにお父さんに話そうか?』って提案したの」
「きみは、その部の部員だったのか」
「いや。ぜんぜん違う部活だけど。この部を作った人がおれの……友人で、彼はいま行方がわからない。おれは彼を探していて、回収部の内部の事情を知りたかったんだ」
「それで咲希子を回収させて自分が代部員に……」
「おれがサッコを回収させたみたいに言わないでくれる? 何度も言うけど、サッコは自分から回収を望んだんだ。そうさせたのは、おっさんだからね」
あの張り紙を一人で見る咲希子が目に浮かぶ。重臣はのどから出る言葉が止まらなくなる。
「おれだって……大変だったんだ……妻は帰ってこないし……咲希子には成功した人生を送ってほしくて……親として……子どもを立派に社会に送り出すのは、義務だから」
「うん」
「おれよりいい大学に行って、立派な社会人になってほしくて……」
「うん」
「あいつがこんなこと考えてたなんて……知らなかったんだ……あいつの考えてること……ぜんぜんわからないんだ……咲希子に会いたいんだ……返してくれ……咲希子を返してくれ……」
尻すぼみになった重臣の声を、秀一はしっかりと拾い上げた。
「……おっさん、それぜんぶ、サッコに伝えるんだ。はっきり言って、おれはあんたの言うこと間違ってると思うけど、とにかくあんたらは二人で話し合いをすればきっと、きっと、分かり合えるから。それから、おっさんに本当のことを話すから、聞いてほしい」
そのあと、秀一は「咲希子が実は回収されてない」ことを打ち明けた。
「咲希子は回収部の部室の中にいる。けど、あそこはプライバシーも守られてるし、ちょっと特殊でちゃんと生活できるようになってるんだ。だからサッコは無事だ。心配しなくていい。それから、おれの中身はちゃんと井砂秀一で、サッコはサッコ。おれが代部員ってのも嘘だから入れ替わったりしてないよ。それも心配しなくていい。嘘をついていて、ごめんなさい」
重臣は膝の力が抜けて、危うく倒れそうになった。
休日の朝、秀一は荷物をぜんぶショルダーバッグにつめて、玄関のドアを開けた。
「じゃあ、今日中にサッコに戻るよう、言っておくから」
「……頼む。秀一くん。一回、一回でいいから、殴らせてくれ」
「本当に代部員て嫌だな。歯食いしばるから、早く終わらせて。あと、おっさんみたいな大人すごくむかつくから、終わったらおれにも殴らせて」
重臣がこぶしを握ると、目をつむって口元に力を入れる秀一。その姿を見て、重臣はあふれていた感情が自分の中に溶けて、なじんでいく感覚を覚えた。上げていた手を、おろさず秀一の肩に持っていく。
「うちに来てくれて……ありがとう」
重臣の言葉に驚いて目を見開いた秀一は、そのあとくしゃりと顔をゆがめた。
「本当に面倒くせえ……面倒、それに……それに……あんたらが羨ましい」
重臣は秀一の顔を見なかった。秀一は、秀一にしては初めて、声を詰まらせながら言葉を絞り出していた。肩が少し震えて、秀一は重臣に顔を見せないように後ろを向いて、そのまま、小さな声でさようなら、と言った。
「おっさん」
「なんだ」
「サッコは、いまでも余計なものをたくさん背負い込んで苦しんでる。でも、おっさんがただ話を聞いて相槌を打ってやるだけで、あいつは解放されるんだ。あいつの話を聴くだけ聞いたら、おっさんも自分の気持ちを正直に話すんだ。それから、二人でお互い謝って、またやり直すんだ……」
秀一の背中が、小さく鼻をすすった。
「おれは自分の親にも、回収部の部長にも、なにも言わなかった……なにも言えなかったんだ。けど、あんたらはまだこの場所にいるんだから……後悔しないでほしい」
秀一は重臣と咲希子の家を見上げた。
「秀一くん、ここが第二の家だと思ってくれていい。咲希子とはよく話し合って、解決するよう努力する。だから、また遊びに来てくれ」
秀一は息を吐きだし、からりと笑った。
「来るわけねーじゃん」
秀一はもう重臣を振り返らず、荷物を抱えて姿を消した。
あたたかな日差しの中に肌を包む冷たい空気が重臣と重臣の家を包んでいる。重臣は着ていたジャージのファスナーを首元まで上げた。
咲希子のことを思うと不安は消えない一方で、秀一の「心配しないでいい」という言葉に気持ちが支えられた。
重臣は深呼吸を繰り返す。
庭のモクレンの木にどこからともなく三羽のツグミがやってきて、小さい一匹がクィッと鳴く。
それからすぐに、「ただいま」と言う咲希子の遠慮がちな声が聞こえた。
「あのう、先輩。この前、話があるって書き置きをしていった人、来たみたいで……」
孝橋ぐり夢がおどおどといった。ぐり夢は、部長がスカウトしてしまった一年生の男子部員。
「通して頂戴」
わたくしは応接ソファーにこの部屋の主らしく腰かけて待った。
「あー、どうもすみません。はじめまして。よろしくお願いいたします」
部室に入ってきたのはうちの高校の生徒でも先生でも保護者でもない。外部からの大人の客人。でも、そうね……ぐり夢から聞いて予想していたよりも、ゆるい感じの女性。ワンピースの花柄の赤に目が行った。学校に着てくるには少し派手な気がしたから。
「作家さんと伺いましたが……」
「あ、一応作家をしております。梨屋アリエと申します。えーと、部長さんですか?」
「いいえ、副部長の一番ケ瀬亜海です。部長はリサイクルされましたので」
「リサイクル?」
この部に新しい部員なんて必要ないのに、本当に使えない部長だった。その分、新入りの孝橋ぐり夢は使い勝手がいい。おばあさまがドイツ系のかただとかで、体格も恵まれている。整っているけれど少し幼めに見える顔だちなのも、ブレザーの制服にしっくりあっている。
「ぐり夢くん、お紅茶をいただけないかしら? あなたの分もね」
「かしらって……、いまどきの高校生でも『かしら』っていうんですねぇ~」
わたくしは少しの苛立たしさを感じながら、客用ソファーの端に座ったおばさん作家を見た。でも、そのおばさん作家はもう違うことに注意を向けている。
「この部室、昭和の時代のお金持ちの家の応接間みたいですねー。あの机ってもしかしてマホガニーですかね? あ、いまの高校生はマホガニーなんて知らないか。絨毯のふかふか、いい感じに古びていてなんだか懐かしい。お掃除大変じゃないですか? こういう感じのソファー、昔校長室にあった気がします。あそこの振り子時計、鳩がポッポーって出てくるやつですよね。うわー、地下なのに明かり採りの高窓から空が見えるんだ、独房みたいですね。学校の中にこんな部屋があるなんてすごーい。ほかの部活の人から、この部室だけ贅沢だって文句が出ないんですか?」
内心では、なんだこの落ち着きのない大人は、という気持ちだった。
「わたくしたちの活動は、あまり知られておりませんので」
「副部長さんて、黒髪の小柄なお蝶婦人みたいですね。あ、お蝶婦人ってわかります? 昔のアニメのキャラなんですけど」
「なんとなく、わかりますけれど……」
孝橋ぐり夢が紅茶のポットと三人分のティーセットをテーブルに配置する。砂時計も置く。わたくしがしつけたとおりの優雅な動き。見た目以外にも才能がある子がこの部に来たのは良かった。少なくともティーカップを洗う人間は必要だから。
「ちょっと失礼。ああ、いい葉っぱを使ってますねぇ」
おばさん作家は、勝手にポットの蓋を開けて中を覗き、感心している。それからカップの底のブランド名を確認して、「おー」とかいいだした。
なんでこんな人を招んだの? という目でぐり夢を見たら、全身ですみませんと謝っている。
できることなら、砂時計の砂が落ちきる前にお引き取りいただきたい。
「それで、ご用件は」
「実は有志で『YA小説を書いてみよう部2018』という活動をしておりまして、今度、短編小説のアンソロジー集を作るんですけど、テーマをこちらの部にしようと考えているんです。それで、二つ、三つ確認したくて、お話を伺いにきました。あくまでもフィクションなので、そのまんまのことは書きません。こちらの学校や部員さんにはご迷惑はかけないようにしますので、そういう面ではなにも心配ありません。ちょっと確認しておきたいのは……あっ」
おばさん作家はさっと手を伸ばして砂が落ちきらない砂時計をひっくり返すと、ポットから自分のカップに紅茶を注いだ。そして目でなにかを探している。孝橋ぐり夢がテーブルに砂糖壺とミルク容れを置くと、「どうも」といって品のない量のミルクをカップに入れた。なにがはじまるのかと、つい、見てしまった。「薄めの紅茶が好きなんです。コーヒーのときはなんともないのに、紅茶を飲むとなぜかトイレが近くなるんで」ということだった。そんなことまで聞きたくないのに。
「わたくしたちのこと、どちらでお知りになったのでしょうか」
「張り紙、ありますよね。『ご不要になった部員、回収いたします。廃部員回収部』って。なんだろうと思っていたんですよ。この高校の学校司書さんが有名な人で、去年、図書館見学をさせてもらったんです。そのとき、ついでに校舎を見学しようとうろうろしてたとき」
紅茶に口をつけた。
「そうだ。クッキー持ってたんだ。お土産です。食べよ、食べよー。おーっと、高げな絨毯にこぼさないようにしないと」
制服姿のわたくしのほうが断然、大人。たぶん、この人は一生こういう人なんだ。そう思い、苛つくのをやめることにした。このおばさん作家の好きなようにさせておいたほうが、早くお引き取りいただけるかもしれない。
ぐり夢に目で合図し、わたくしのカップに紅茶を注いでもらう。
「なんの話してましたっけ。そだ、廃部員回収部の活動の確認なんですが、要らない部員を引き取るということでいいんですよね?」
「いつも引き取るというわけではありません。お話を伺うだけのことのほうが多いです」
「相談事業ということですか。今のような感じで、面と向かってこの部室でお話されるのですか」
「中に入られる場合もあれば、インターホン越しに話をされる場合もあります。その方の状況に応じています」
「特別校舎一階の、張り紙のある廊下の突き当りの、非常口のドアを出て、外の非常階段を地下に下りないと、この部室の入り口がわからないですよね。部室のドアに表示がないし、インターホンを押すのも、勇気が必要ですよね」
「必要に駆られた方なら、入り口を見つけられるものです。いたずらに使われたくはありませんし、本気度がわかりますから、ちょうどいい選別ではないですか」
「なるほど。では、廃部員は、だれがどのように『要らない』と判断するのですか」
「当事者の方の申告に基づいています。ご本人が自分は不要と判断されて相談にいらっしゃることも、同期の方が回収の依頼をされることもあります。ですが、すべての方を回収・処分しているわけではありません。こちらでは、お預かりした部員の修理や代部員の『貸し出し』もしておりますので、色々な方がいらっしゃいます」
「そうですか。先ほどリサイクルという話がありましたが。あ、クッキー、美味しいですよ。食べて食べて。ほら、そこのイケメンのぐり夢くんも」
イケメンといわれて、照れるそぶりをしている。名演技。ぐり夢はまだボロを出していない。
「資源としてリサイクル可能な廃部員を回収する場合には、価値に応じてご依頼主の望むものと交換しています」
「古新聞古雑誌をトイレットペーパーと交換するみたいに?」
「形式としては同じということですね。いままでそのようなものと交換したことはありませんけれど……」
「やっぱし返してーっていわれたときは?」
「廃部員の処分のお手続き後のご返却は一切できません」
「ぐり夢くん、意外としゃべらないんですねぇ」
返却できないことになんらかのリアクションがあると思ったのに、このおばさん作家、話を変えてきた。わたくしの話を聞いていて? と確認したくなった。でも、余裕の声で返す。この部室の主はわたくしだもの。
「彼は人見知りをするのです」
「この前はのびのびと絶叫していましたけどねえ」
わたくしは驚いて、ぐり夢を見た。怒った目にならないように意識しながら。
「あ、あの、試合で……」
ぐり夢はおどおどと答える。見られていたってことね。
「ふつうにしてたらいいのに。ね、副部長さんもそう思うでしょう? しゃべっていいよ。この部室の中なら動いても邪魔にもならないし」
やるんじゃない、と目で止めたけど、素直な性格のぐり夢は、「ね?」といったおばさん作家の笑顔のほうを優先した。
ぐり夢は、長い手足をすいっと広げ、空間を斬るように動きだした。
「ぼくが! しゃべると、うざーい! と、亜海先輩がいい、ます!」
言葉ごとに振りつけがあるお芝居みたいに、大声で動きだす。黙っていれば美しい容姿の孝橋ぐり夢には、残念すぎる癖がある。
「サンシャイン池崎みたいですね。面白い」
「知りません」
「テレビに出てる人です。お笑いの」
「テレビはもう何年も観ていません。興味がなくて」
「ネットの動画でも観れますよ」
「興味がありません」
「へー、いまどきの高校生でも、そういう人がいるんだぁ。観たらいいのに」
ぐり夢がいった。
「梨屋さん! ぼくは、見世物では、ありません! この部はー、ぼくのー、最高のー、居場所、です!! 亜海ぃ、先輩を、あんまり、怒らせないでー、ください!」
上品にいえば、まるで一人「劇団四季」状態の熱演。
「ああ、ごめん。でもさ、この前、カッコよかったよ。『あるときは文化部、あるときは運動部、さしあたっては帰宅部、ぼくに所属できない部などはぬわーい、スーパーマルチ助っ人部員、孝~橋~ぐーりー夢~!!!』って、試合のときに叫んでいたでしょ」
「どういうこと?」
ぐり夢は、ミュージカル俳優のようにうなだれた。
「昂り、ま、し、て……」
おばさん作家は、しょんぼりしてしまったぐり夢の口にクッキーをむりやりねじこむことに成功すると、紅茶をひとすすりした。それから姿勢を正して、向かい合う席のわたくしにゆっくり訥々と話しはじめた。
「泣いている子を見たの。体育館の裏で。
その子、ずっと大好きだった先輩がいたんだって。その先輩は万年補欠だったんだけど、三年のレギュラーがひとり怪我をして、代わりに試合に出られることが決まったの。だけど、試合の日、好きな先輩が入るはずのポジションに、知らない子が助っ人として入っていたんだって。
先輩の活躍する瞬間を待ちわびていたのに、その日、先輩は部活に現れなかった。
その先輩は、上級生はやらないボール磨きを下級生に混じって率先してやる人だったんだって。
三年生のだれよりもバスケと自分のチームが大好きだったんだ。ずっと努力していた先輩が出られないなんて、悔しくて、そんなのおかしいだろと腹が立って仕方がなくて。
その子、体育館の裏で小さくなって、泣いてたんだ。同じ学校のチームだから応援したいけど、そんなチームを応援する気持ちになれなくて。
しかもね、その助っ人の一年生が、ものすごくうまい子で。好きな先輩の何倍も見事な動きをしているのがわかるから、それがまた悔しいんだって。
『どうして努力している人が報われないんですかね』
『つらい思いをする部員がいても、試合に勝つことって、そんなに重要なことなんですかね』
そんなことをほかの補欠の先輩部員にわんわん泣きながら話していて。
たまたまだけど、それを塀越しに目撃して、おばちゃん、もらい泣きしちゃってね。おー青春だなあ~と思ってさ。その一年のすごい助っ人がどんなものか見に行ったわけ。そしたら『スーパーマルチ助っ人部員~』って歌舞伎みたいに口上述べていたから」
「ああ……」
思わずため息をついてしまった。黙っていられたらぐり夢は使い勝手のよい部員なのに。
「それで、むちゃくちゃ記憶に残ったのね。廊下の張り紙も見ていたし。あの音も聴こえたんだよね。そのときは気のせいかなと思ったけど、あとで『夕焼け小焼け』のオルゴールの噂話を学校司書の人から聞いたんだ。あの音を聴いた生徒は部活からいなくなるんだって?」
わたくしは余裕たっぷりに微笑みながらおばさん作家にいった。
「ありがちな『学校の怪談』ですよね」
「わたしの子ども時代でいえば『学校の七不思議』ってやつだよね。『夕焼け小焼け』のメロディって、なんとなく寂しくなって、それっぽいじゃない。公園とか防災無線でも夕方になると流れる地域があるし。生徒を早く下校させたい先生が嘘をいったのかもしれないし」
わたくしたちは、同時にティーカップを持ち上げて、同じタイミングで紅茶を飲んだ。
「で、ぐり夢くんって、去年も一年生だったよね? なんでまだ一年生の名札なの? 留年? あ、訊かないほうがよかった?」
面倒くさい人を部室に入れてしまった。
ぐり夢は不思議そうな顔でわたくしを見た。なにをいわれているのかわからないのだろう。ぐり夢には「去年」なんてない。部長は入部手続きをするとき話してなかったのだろうか。廃部員回収部の部員である限り、孝橋ぐり夢はこの先何年も高校一年生のままなのだ。わたくしと違って、死んではいないけれど。
「音楽をかけましょうよ、ぐり夢くん」
スピーカーの表が布張りの、年代物の家具調ステレオセット。ぐり夢は慎重にレコード針をおとす。眠くなりそうなバッハの『ゴールトベルク変奏曲』が流れだす。
「あの、おばさ……梨屋先生。お話は承知いたしました。学校や生徒に影響が出ないよう配慮していただけるのでしたら、先生の部活のアンソロジー小説のテーマに使っていただくのは問題ないということで」
「うん、ありがとね。グレン・グールド、懐かし~。久しぶりに聴いた。いまどき渋い趣味だねぇ」
にこにこしてる。まだ帰らないのか。まさか、レコードの曲が終わるまで?
濃い紅茶を飲ませたら、利尿作用が働いてお引き取りになってくれるのかしら。わたくしがポットを手にすると、おばさん作家はいった。
「いえ、紅茶はもう……そろそろ撤収しますから。わたし、よく話が飛ぶんですよね、すみません。でも、まだ質問が少し残っているので、いいですか。ぐり夢くんは、どうしてこの回収部に入部しようと思ったんですか? 運動神経が抜群なんだから、いろんな部活の先輩から声をかけられていたでしょう? あ、話したくないことなら話さなくてもいいんですけど」
ぐり夢は横目でちらっとわたしを意識した。やれやれ、そんなに怖れられるほど意地悪をしてきたつもりはないのだけれど。
「本を持って話すといいわ」
マホガニーもどきの机に置いた、小道具の洋書を一つ手渡してあげる。ぐり夢は「朗読の演技」をしているつもりになれれば、歌舞伎やミュージカルを熱演せずに話ができるから。
ぐり夢は背もたれのない椅子に座って本を開くと、教科書を読むように話した。
「ぼくは、物心ついたときから、いつも演技をしてきました。自信がなくて、臆病だったんです。よい子だったり、鈍感な子だったり、自分の感覚とは違うものをその場に合わせて表現してきました。二十四時間、不眠不休の演技をしていたら、あるとき自分がどういう人間だったのかわからなくなってしまいました。どうしたら自分らしくできるのだろうか。偽りの自分らしさの演技から抜けだすために、さらに違う演技を繰り返すしかなかったのです。そんなことをすれば、ますます自分がわからなくなるというのに。
そんなとき、ぼくは廃部員回収部の部長に出逢ったのです。
部長はいいました。『演技をして生きて、なにが悪い』と。そういわれて気づいたのです。人はだれしも役割や関係性を前提として生きていくものだと。部長はいいました。『きみにはしなやかで美しい肉体と無限の才能がある。だからきみを、なんにでもなれるスーパーマルチ助っ人部員として我が部にスカウトする』って。それは、ぼくが考えもしなかった新しい役柄でした。スーパーでマルチな存在は、ぼくの理想と重なり、本当のぼくの姿に限りなく近い。ぼくは部長から、見た目も頭脳も体力も完璧な高校生であるぼくにしかできない役目を与えられたのです」
黙っていればいいのに、本当に残念なのだわ。自分のことを完璧な高校生だと思っている。そんなことを人に話したらどうなるか本人もわかっているから、教室では存在を知られていないゴミ箱の役を演じているようだけど。
「以上のような理由で、ぼくは、廃部員回収部の部長についていこう、この部にぼくの青春をささげようと思ったのです」
「その部長って、リサイクルされた部長ですよね。同じ部にいなくなって、寂しくはないんですか」
ぐり夢は本から顔を上げ、そしてまた本に戻して「わかってない人」に教えるように、諭すようにそっと答えた。
「寂しいもなにも、ここはそういう部活ですから」
おばさん作家は今度はわたくしに訊いた。
「部長はなにかと交換されたの?」
「お答えできません」
あまり使えない部長でも、この年代物の家具調ステレオセットくらいの価値はあったのよね。
おばさん作家は突破口をさぐるようにわたくしの顔の真ん中をじっと見ている。なにを考えているのだろう。この部のことを、どこまで知ってるんだろう。
「副部長さんは、部長は今、幸せだと思いますか?」
「おそらくは」
わたくしの返事に、おばさん作家の反応は薄かった。批判してくるかと思ったのに。
「ふうん。じゃあ、まー、いいか。いいよね。学生だからって、部活に執着することはないもんね。ほかにやりたいことが見つかれば、好きなことに時間を使ったほうがいいもん。正直いって、学校から部活動なんてなくなればいいのにって思っているくらいだし。ほんと、無駄な労力」
そのいいかたに、わたくしは反感を持ってしまった。
「部活は大事です」
「どうして大事と思われるんですか?」
「ある時期の、ある種の人間にとって、部活はこの世の中心にあるということです。学校から部活をなくすということは、世界の中心を消失させてしまうことでもあります」
「学校の中じゃなくて、やりたい人だけが集まって、地域の活動でやればいいじゃない? 学校だと強制参加になりやすいし人間関係も硬直するしみんなと同じことしかできないし」
「学校は、この世の屋根です。生徒にとって地域とは、広大な白紙の荒野でしかありません。梨屋さん、あなたは部活を愛してなかったのですか」
おばさん作家はわたくしの言葉にほんのりと苦笑いを見せた。
「愛、ときたか。その表現でいえば、むしろ憎しみの対象でしかないのかも」
「そんな人が、なぜ『YA小説を書いてみよう部2018』などしているのですか!」
目の前の大人が、とても無責任な人に思えた。その人は感情的になったわたくしを、面白そうに見ている。
「もう学生ではないからね。大人なら、自分の意思で自由に集まれるから。わたしは学校の部活に潜んでいる窮屈で無意味な親密関係や同調圧力が嫌いだっただけ。でもね、副部長さん。わたしは今でも『夕焼け小焼け』のオルゴールの音色が聴こえてしまう人なんですよ。なにかに所属していることに自信がなくて、いつも不安を持ち続けている……そういう大人も学校の屋根の外にはいくらでもいるんです。それを知らせることだって、若い人たちには大事なことだと思う」
それは、あなたが大人だから。
弱い大人のことなんて、わたくしたちは興味がない。『夕焼け小焼け』のオルゴールが聴こえたからって、なんの自慢にもなりはしない。
おばさん作家はまたわたくしの顔の真ん中を見てる。ううん、わたくしの顔のある位置をすり抜けた奥の壁を見ている。もしかして、この人、気づいているの?
「一番ケ瀬亜海さん。あなたにだって、ここの副部長になるまでは、何度も聴こえていたんじゃないのかな? つらかったでしょうに、なぜそんなに部活にこだわるんです?」
それは、あなたに話すことではありません……。
目が合った。大丈夫、わたくしの体は消えてない。わたくしはうっすらと微笑んで、だんまりを決めこんだ。
おばさん作家はわたくしの気が変わるのを待っていた。でも、何十秒も待てなかった。大人って、大抵がそう。
「ずっと高校生でいるつもりなの?」
「そんな理由ではありません」
「あの、亜海先輩は来年度、卒業ですよね?」
ぐり夢が怪訝な顔で訊く。この子はいったいいつ気づくのかしら。
振り子時計の鳩が鳴いた。
「永遠に卒業しない人なんていないわ。ぐり夢くん、梨屋先生はお帰りのようよ」
わたくしはソファーから立ち上がる。
おばさん作家も一つため息をついて腰を上げた。
「ま、しょうがないよねー。わかるときが来るまで人ってわかんないし。いつまでもわかんない人もいるし」
それはあなただって同じことよ、と胸の内で客人の背中に返す。
わたくしは、死んだ後で気づきました。わたくしは部活動に殺されたんだっていうことに。
だけど、部活動が嫌いなわけではなかった。やめたいなんて思わなかった。そこにしか、わたくしが生きていると感じられる場所がなかったから。いいえ、そこしか知らなかったから。そして、ほかの場所など望まなかった。そのときの気持ちは、きっと大人にはわからない。
だからこそわたくしは、そういう子たちのためにも、これからもこの廃部員回収部を守っていくのです。卒業していった方々とは、まったく違う使命感で。
「いろいろお話ありがとね。本ができたら送るから」
ぐり夢にドアを開けさせ、部室の外の非常階段に客人を送りだしながら、わたくしは大人っぽいよそゆきの口調でにこやかに伝えた。
「廃部員、いつでもお待ちしておりますね」
個性あふれる世界観! 型にはまらないシステム! 挑戦的なギミック! マニアックなストーリー! そんなゲームと出会えるのが、アマチュアゲームの世界です。
私は「無料でゲームが遊べる」という理由で手を出し(当時、基本プレイ無料というのがまだなかったと思います)、すぐに作るほうへ興味を持ちました。すでに初心者向けのゲーム用スクリプトエンジンが多数あり、ハウツーサイトもあり、制作へのハードルは低いものでした。
実際の制作を通して感じたのは、ゲーム作りの作業ジャンルは多岐にわたる、ということです。その一つ一つに挫折ポイントが存在します。『回収前に脱出せよ!』の主人公である時岡は、グラフィックと音源は既存のものを使用して、ストーリーのいらない脱出ゲームを作りますが、そのアイデアを当時の自分に教えてあげたいです……。
十数年経って、回線速度が速くなり、遊べるプラットフォームも変わりました。それでも、ゲームの作り方自体に変化は少ないようです。途中での公開はめんどうだからと自分でバグ取りをして、公開後にプレイヤーからの指摘を受けることはごくふつうのことです。バグは難しいことに挑戦した証拠であるように思います。もちろん、ないほうがいいのですが。
ちなみに二年生になった時岡は、話を考えることができる下級生と出会い、一緒にシナリオのあるゲーム作りに挑戦しますが、下級生はシナリオが書けずに逃げてしまいます。時岡に見つかって廃部員回収部に行けと責められた下級生は、後日、完璧に面白いシナリオを書き上げてきました。読んだ時岡は、それが下級生の葛藤の物語であることに気がつきます。後悔していると、そのシナリオを書いたのはスーパーマルチ助っ人部員のぐり夢くんであったと明かされます。下級生は修理されていなかったのです! こうして二人は和解したのでした。
という話を思いつきました。廃部員回収部という設定がおもしろくて、いくつでも考えられそうです。そんなすてきな設定を作ってくださった梨屋さん、いつもフィードバックをくださる参加者のみなさん、楽しい時間をありがとうございました。小説を書くのも孤独な作業で、途中経過を他人に見せる機会なんてほとんどありません。このような場に参加できたことを、幸福に思います!
はじめまして、葵ゆうまです。
YA小説を書いてみよう部、去年に引き続き今年も参加させていただきました。
去年は恋のお話を書きましたが、今年は女の子の友情のお話を書きました。
中高時代の友だち関係は、当人同士の問題だけでなく、周囲との関係でよりこじれていってしまうことがあるなあと思い書きました。誰かの心に共鳴したらいいなと思います。
題名に入っているハルジオンは貧乏草というちょっと残念な別名がありますが、花言葉は「追想の愛」だそうです。
最後に、書いてみよう部のメンバーの方と梨屋さん、楽しい時間をありがとうございました。
はじめまして、神戸遥真といいます。
今回のアンソロジーは「部活」に絡んだものでしたが、部活というとどんな印象があるでしょうか?
昨今、ニュースで「ブラック部活」なる単語を見かけることもありますが、私自身は部活という場が学生生活の中心となるくらい打ち込み、仲間もたくさんできて今でも親しくしているしと、わりとポジティブな印象を持っています。顧問や環境に恵まれたというのもあるのでしょうが、みんなで一つの目標持ってがむしゃらにがんばる経験はあの時期じゃないとできなかっただろうとも思います。
ちなみに所属していたのは中学時代は吹奏楽部、高校時代はマンドリン部という弦楽器ばかりの音楽の部です。どちらも演奏会前などは朝から晩まで練習していたガチな部でした。という事情もあり、私が部活ものを書くと何かとガチな雰囲気になりがちで、今回もそういう傾向のあるキャラになりました。もし学生時代をやり直せて別の部活に入るなら、少し活動の緩い部も経験してみたいなという気持ちがあります。
さて、YA小説を書いてみよう部には今回で二回目の参加でした。集まってわいわいやりながら舞台設定やプロットをみんなで考え、一冊の本を作る作業はとても楽しく刺激ももらえるいい場になりました。大人になってから自由意志で参加する部活というのもまたいいものです。部長の梨屋さま、部員のみなさま、本当にありがとうございました!
★宣伝★
気がつけば部活っぽい話ばかりの拙著の紹介です。
●『スピンガール! 海浜千葉高校競技ポールダンス部』(メディアワークス文庫):高校生がポールダンスの部活で大会入賞を目指す熱血スポ根ものです。
●『この声とどけ! 恋がはじまる放送室☆』(集英社みらい文庫):自分に自信のない中一の女の子が放送部に入ってがんばるお話です。
●『休日に奏でるプレクトラム』(メディアワークス文庫):社会人が主人公ですが、学生時代の苦い思い出がある音楽に、社会人サークルに入って向き合い直すお話です。
「物語を書くこと」は、ずっと心に気にかかっていたことの一つです。
私は幼い頃から本が大好きでした。
YA小説も、小学六年生ぐらいに初めて読み、お気に入りのジャンルになりました。大人になった今も、いろいろなYA小説を読んでいます。
今からもう約二十年前の中学生の頃、自分にも物語が書けるはずだ、と思い、書き始めました。
しかし、いくら書いても、心の表面をツルツル滑っていくだけの、中身のない言葉しか書けず、書いていてとにかく苦しかったことを覚えています。
「こんなものが書きたいんじゃないのに。でも何がおかしいのか、どうしたらいいのかわからない……」
私は書くことを止めました。
このときの感じた苦い感情が、長い間立ちはだかります。「『物語を書くこと』は出来るわけない」と。
一昨年から、いくつかの大きな別れがあり、どこにも自分の居場所がなくなって、「一人ぼっちになってしまった……」と感じました。
私は、糸がぷっつり切れたように、いろんなことができなくなりました。
家でじっとしている日が何日も過ぎていき、季節が何度も変わりました。
こんなに何もしない時間は、一体何年ぶりだったろうか。
何にもしていない焦りは確かにありました。
しかし、ある日「しがらみからも解放されたんだ」と、気が付いたのです。
そして、これまでに諦めてしまったことにも、「できる限り、もう一度取り組んでみよう」という気持ちが湧いてきました。
このとき、何だか今度こそ、物語も書けそうな気がしました。
YA小説をネットで検索していたときに偶然、「YA小説を書いてみよう部2018」を見つけます。
初めての場所に行くことに、とても緊張するので参加をしばらく迷いましたが、「時間があるうちに行こう」と、申し込みました。
しかしながら、やはりと言うべきか、部に参加するなかでも、いろいろなことを思い出し、「もう出来ない」と、投げ出しそうになりました。
今回、何とか物語を書き上げられたのは、「身体が動いたから」としか言い表せないところもあります。
不思議で、でも、面白い経験でした。
私は人と打ち解けるのに時間がかかるのもあり、部に参加していてもなかなかスムーズに意見を言えなくて、歯がゆい思いを沢山しました。
しかし、同じように物語を書いている人たちから感想や意見を頂いたり、自分の感じたことを伝えたりすることは、面白くて、励みになりました。
部の皆さま、アリエさん、一緒にできて嬉しかったです。
本当にありがとうございました。
去年に続いて、YA小説を書いてみよう部に参加させていただいた上野と申します。人様に読んでいただける形でお話を書いたのは、この活動が生まれて初めてです。ツイッターで梨屋さんの募集ツイートを見て応募をしましたが、この三か月の活動期間は、とても充実した、どきどきする刺激的な日々でした。
さて、今回は、「泣ける話」というテーマに沿った作品を考えました。文章を生み出すのは本当に骨が折れる作業です。一度お話を最後まで書いた後に二行だけ加筆をしたら、そこから登場人物たちが暴れ出し、前後の辻褄が合わなくなるなんてこともありました。我の強い主人公たちに翻弄され、もう嫌だ! この人たちと向き合いたくない! と思いながらも、彼らにできる限り寄り添って、大切に文を絞り出したつもりです。悩みに悩みながらなんとか物語を終わらせることができた現在、気分的には、げっそり痩せた気分でいます。痩せた気分になると、美味しいご飯をいっぱい食べちゃうので、結局、太っちゃうんですけどね。人間とは、不思議な生き物です。
ところで、私は、物語を書く私自身と、主人公を始めとした登場人物たちとは、対等な存在でいたいと思っています。それはつまり、個々人がまったく別の思想を持っているということです。正直、言い訳ばっかりで自分を正当化しようとする重臣と向き合うのが大変だったし、井砂くんに「そうだそうだ」なんて加勢しようものなら「傍観者になるな」なんて一蹴されそうで、いまでも彼らとは友達になれそうにありません。なので、作者都合で勝手に話の筋を曲げるようなことをしたら、彼らの気持ちや考えを裏切ることになるのだと思っています。ただ、どうも彼らの感情が動く一瞬の時間を切り取るのが難しくて、苦戦を強いられました。彼らがぶつけてくる気持ちをより正確に表現する技術を身につける、また、より読者に伝わるように場面を切り取る技術を磨く、これが、私がこれからも取り組み続ける課題です。
書いてみよう部に参加を決めた当初は、「三か月たらずで作品を書くなんて私にできるのだろうか」と不安に思っていましたが、書いてみると、意外となんとかなるものですね。製本していただいたものをぱらぱらめくったときの、ときめきと言ったら。忘れえぬ喜びでした。一人で勝手に挫折しては、ものを書き上げることに大きな壁を感じていた、やけに完璧主義だったころの自分に、「もっと肩の力を抜いていろんなもの書きなよ」と言いたい。書いてみよう部のみなさんは、推敲ばっかりしてなかなか前に進めなかった自分の手を、ぐいぐい引っ張って完成まで一緒に走ってくれた、そんな存在です。YA小説を書いてみよう部という場所で、書く機会をくださった梨屋さん、そしてどんな内容であれ真剣に読み、感想や意見をくださった部員のみなさん、本当にありがとうございました。
こんにちは、世話人の梨屋アリエです。昨年の「YA小説を書いてみよう部」第一期でアンソロジー『加賀谷って最近学校に来てなくない?』を自費出版し、第二期もやってみたいと思い、今年も「YA小説を書いてみよう部2018」の活動をツイッターなどで呼びかけてみました。そして、第一期のメンバーさんのほか新メンバーさんにも加わっていただき、全六回の活動を今年も無事に終えました。第二期は当初からアンソロジー集を発表するという目標で動き出しましたので、雑談の時間があまりとれず、もっとあれこれ話したいことがあったなあという部員さんがいらしたかもしれません。もっと時間があればと、毎回感じますが、逆にそれがよい緊張感になるとも思うのです。短期間に、意識合わせをしてわっと書いて、互いに読みあって確認して、書き直しをして、また読みなおして、という経験は、個人の創作活動ではできないことです。ほかの方の生原稿が直されていく過程で、きゅっと整って完成度があがっていく書き方のかた、足りない部分が追加されて細部が充実して場面が鮮やかになっていく書き方のかた、登場人物に寄り添ううちに本当の心情を作者が発見し初稿の筋から展開がガラッと変わる書き方のかた、その人なりの書き方があるとわかってくると思うのです。自分の作品ではわかりにくい変化が、他の方の作品でみると、ブラッシュアップされるのがよくわかります。書きっぱなしで満足してしまうと、うまくなりません。書きたいことを思うままに書く以上に、読者に伝わるように推敲する力こそが本当の書く力なのではないかと思います。それができることが、作家や表現者になっていく適正ではないかと思うのです。
商業出版のアンソロジー集の場合、参加作家が内容のすり合わせをすることはありません。プロアマ問わず自由参加の「部」の文集であるこの本では、一体感を持たせて一冊にするために設定を共有しました。わたしが部員の皆さんに提示したのは、「ご不要になった部員回収いたします。廃部員回収部」という張り紙、「夕焼け小焼け」のオルゴール音、廃部員回収部にできること、の大まかな設定です。部員さんには自由にストーリーを考えていただきました。今回も個性あふれる作品集になったと思います。
第二期の活動期間は一月から三月までの全六回で、各回九十分。世話人のわたしを含めて七名で始まりました(文集参加は六名)。二十代の学生から三十代前半の社会人で、創作未経験の方もいればすでに出版デビューされた方もいらっしゃる。こうして本の形にまとまると、「YA小説を書いてみよう部」をやってみてよかったなあと思います。ネットの告知を見て面白がって参加してくださった部員さんには感謝の気持ちでいっぱいです。第一期もこの第二期も、部を始めるにあたってわたしから個人的にお誘いした方はなく、本当にこの指とまれに集まってきてくださった方ばかりなのです。インターネットのご縁って、すごいです。そして部員さんに恵まれていたなあと思います。
小説を書きたい人や、きっかけがあれば小説が書けるかもしれない人は、世の中にたくさんいるのだと思います。でも、実際に書きだして、完成させて、人に読んでもらえる形で発表するところまでやり遂げる人はあまりいません。「YA小説を書いてみよう部」という形で、そのきっかけやお手伝いができたのであれば、世話人として嬉しいことです。このアンソロジー集を出すことで、部に直接は参加しなかったどこかの誰かのよい刺激になればいいなと思います。「こういうふうでもいいのなら、わたしもYA書けるかも……」と身近に感じていただけましたら、とても嬉しいです。
第一期、第二期のアンソロジー集出版にあたって、校正と電子書籍化の作業を神戸遥真さんに、編集とデザインと紙の本作成の作業を平谷さん(谷口さん)にご協力いただきました。お忙しい中、本当にありがとうございました。
さて、YAを読む読書会「YA*cafe」は八年目に入りました。本を知る、読者を知ることも、創作の上達には必要です。「YA*cafe」の読書会の方にも、ぜひ足をお運びください。
「YA*cafe」http://www13.plala.or.jp/aririn/yacafe/
葵ゆうま 1994年東京都生まれ。立教大学卒 会社員
上野ヨウ 1995年群馬県生まれ東京都在住 会社員
きなこ 1984年東京都生まれ横浜市在住
神戸遥真 1983年千葉県生まれ東京都在住 小説家
梨屋アリエ 1971年栃木県生まれ横浜市在住 児童文学作家
平谷 1985年大阪府生まれ滋賀県出身東京都在住
YA小説を書いてみよう部アンソロジー
『ハイブイン ご不要になった部員、回収いたします。』
平成30年5月30日発行
著者 葵ゆうま 上野ヨウ きなこ 神戸遥真 梨屋アリエ 平谷
発行者 梨屋アリエ
装丁デザイン 平谷
電子書籍作成 神戸遥真
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2018年6月1日 発行 初版
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