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黒曜石の記憶

岸田啓

エイティエル出版



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  この本はタチヨミ版です。

 
 
 
 
 
 
 
黒曜石の記憶 ――紀元前三千年のミクロコスモス
 
岸田 啓

目次
 
プロローグ
第一章  岬
第二章  猪
第三章  夜
間奏1
第四章  森
第五章  舟
第六章  闇
間奏2
第七章  夏
第八章  嵐
第九章  影
第十章  夢
第十一章  命
 
 

   プロローグ
 
     1
 
 だからさあ、と男の声がした。「なんで縄文時代なんだよ」
「歴史もののゲームといったら、戦国時代だろ。食うか食われるかの下領地分捕り合戦。国とり物語。裏切りに謀反に下克上。天下統一に至るまでの波乱万丈。はらはらどきどきの大スペクタルってやつ、そうじゃないの?」
 たしかに歴史ゲームといっても、ヒットしたゲームがいくつもある戦国時代や幕末動乱物と異なり、縄文時代のような自給自足の小さな社会で、果たしてロールプレイングという仕組みが成立するのか、武井信二郎自身も気がかりではあった。
 事前の打ち合わせでは、この「縄文」という設定で物語が成立するとすれば、歴史のほぼ全体にわたってゲームが可能になるし、その数やバリエーションは無数にある――つまり無限に作り続けることが可能になる――というわけだった。
 出版社の何十巻とある歴史ものやシリーズものにしても、第一巻から順に出すのではなく、まず売れ筋のものを出して固定客をつかみ、景気をつけてから、他の地味な、つまりあまり売れ行きが期待できないものを抱き合わせて出していくという形をとることがあるが、最初にこけたら目も当てられないではないかという声は、営業サイドからも出ていた。
「そもそも、こんな裸に近い格好で、丸木舟に乗って、原始的な方法で獲物をとって、洞窟とか、かやぶきの掘っ立て小屋とか、そう竪穴住居ってやつ、昔、教科書に載ってたっけ。そんな生活をリアルな3D画像で追体験したところで、そんなもん、どこが面白いの……」
 巻藤佳代は、オブシディアンのコンセプトは、究極のアウトドア・サバイバルですといった。
 いまテレビでは無人島でのサバイバルをとり上げた番組が安定したコンテンツになっているが、ああいう「ごっこ遊び」は若い世代にも人気があり、中高年にもそれなりの需要があることは各種調査で実証済みだと説明する。
 無駄をはぶいてベーシックに暮らすという時代の流れにもあっているとした上で、しかも団塊の世代は何度かのアウトドアブームも経験しているし、テレビで、すぐそばにスタッフが待機しているというのが見え見えの無人島体験ごっこにうさんくささを感じて、本物に飢えている人々も少なからずいる、という。
「じゃあ百歩ゆずって縄文時代もありだとしてもだよ、なんでこんな片田舎なの。縄文といえば東北でしょ。なんで三内丸山遺跡にしないの?」
「もちろん、いずれ三内丸山も舞台になりますが、第一段階としては、あそこは大きすぎるんです」
「大きすぎる?」
 サバイバルの舞台としては文明化されすぎているという。
「一からというか、ゼロから生活を作り上げていくというコンセプトでは、こういう小さな名もないところで、少人数からスタートするのがピッタリなのです。ある意味、バーチャルの世界で日本版ロビンソン・クルーソーを作りたいわけなんですが、三内丸山だと、それだけの規模になるまでに何世代もかかるでしょうから」
 縄文時代イコール幼稚な未開人という発想も少し違うんじゃないでしょうか、と巻藤佳代は続けた。
「この物語の舞台になっている場所は、たしかに不便な片田舎には違いありませんが、だからといって、そこに生きている人々の頭の中まで幼稚だというわけではありませんよ。紀元前三千年という時代は、ちょうど古代エジプトで最初の王朝が成立したときなんです。ファラオですよ。モーセの十戒ですよ。彼らと同時代人なんです。現代人も等身大の存在として、十二分に感情移入できると思います」
 考古学者としては、モーセの出エジプトはもう少し後だといいたいところだが、武井信二郎は口には出さず、机の上に置いた石鏃(せきぞく)をじっと眺める。
 オンラインのロールプレイングゲームの基本的な使い方についても、やりとりがあった。
 一人でもできるし、友達同士でもできるし、まったく見ず知らずの人ともできるというところで、当然な疑問がわいてくる。
「時間はどうすんの。参加者全員で開始時間を決めておいて、さあどうぞってやるわけ?」
「もちろん、それでもいいんですが、自分の都合のいいときに、夜中でも早朝でも昼日中でもいつでもやれます」
「だけど、ほかの人はどうなるの」
「ほかの人がいてもいなくても、どちらでも大丈夫なようになってます。仲間がいれば、その人の選択を前提に話が展開します」
 たとえば途中で抜けた人がいても、その人の行動の選択肢についてコンピューターが自動的に選択してくれるので、当人がいてもいなくても進めることができるのだという。
 巻藤佳代の表現によれば「ゲームに組みこんであるアルゴリズムで自動的に処理されます」ということだった。
 要は、非常に目の多いサイコロをコンピューターが転がして勝手に決めてくれるのだと、武井は理解した。
 実は、このゲームには、ミサゴというタカ科の猛禽類も出てくる、と彼女はいった。
「ミサゴを英語でなんというかご存知ですか?」
 反応はない。
「オスプレイというんですよ」
「え、あの米軍のヘリ?」
 ここで少し大きな反応がある。
「そうです。そういう時事ネタもちゃんと織りこんであるんです。そういう分かる人にはわかる仕掛けをところどころに入れてあるというのも、大人向けという意味に含まれているんです。『ロビンソン・クルーソー』や『ガリバー旅行記』、わが国の『吾輩は猫である』なども、一見すると子供向けの物語に思えますが、本当にその面白さがわかるのは実は大人なんですよね」
 
     2
 
 そんなことより、実際にやってみませんか、と巻藤佳代は軽い調子で呼びかけた。
 手元に配布してあるタブレットは、すでにオンラインの利用者登録も済ませてあった。
 動画を見るだけで、こんなのでゲームしたことない、という声も聞こえたが、巻藤佳代は意に介せず、「そんなにむずかしいものではありません。お子さんでもご高齢の方でも、すぐに使えるようになっています。ほら、このように──」
 巻藤佳代はタブレットを顔の横まで持ち上げ、指先での操作を実演しながら、画面をトップページに切り替え、全員がそのページになったところで、黒曜石の石鏃(せきぞく)がアイコンになっているゲームがオブシディアンであると告げる。それに指先で触れると、すぐにゲームが立ち上がった。
 
 この手のゲームでは定番のツァラツストラに似せた電子音による荘重な音楽とともに、宇宙に浮かぶ小さな青い星がくるくる回転しながら画面中央に見えてくる。
 と、それが拡大し、水の惑星の大陸のリアルな姿が浮かび上がった。
 ひとかたまりになっていた陸地に亀裂が走り、それぞれ分裂しつつ星の表面全体に広がっていく。その間も星はコマのようにまわり続け、やがて陸地の形が見慣れた地球の姿を描き出す。
 東アジアがはっきり見えてくる。日本列島が弓なりの弧を描きながら、そのままどんどん拡大され、森や海岸線などの地形もはっきりと見えてくる。
 それに合わせて、テロップが流れる。
 
 何にせよ何かのものが、ただ片時の、その生だけを生きていたと君は思うか
                        ウォルト・ホイットマン
 
 画面はさらに拡大を続け、海底火山が爆発し、噴煙や飛び交う火山岩の雨が画面をおおう。それをくぐり抜けた向こうに、黒く光る物体が見えた。
 それはさらに拡大され、おそろしく鋭いエッジを持った、黒い透明感をたたえた石鏃(せきぞく)となったところで画面が静止し、子供の頃に遊んだあぶりだしのように、オブシディアンというタイトルが浮かび上がった。
 登場人物がリアルな顔のサムネイルと共に、ずらりと並んでいる。
 ホロケウ  弓の名手
 サポ    その妻
 カムマ   その娘
 ロッセ   その息子
 リン    海人
 レラ    その妻
 ロコム   その息子
 ラム    道具作りの名人
 シウク   その息子
 クチャ   シウクの妻
 カシュマ  呪術師
 エルム   その息子
 アピ    エルムのいいなづけ
 弓の名手ホロケウとサポ夫婦、娘のカムマと息子のロッセ、海人のリンとレラ夫婦に息子のロコム、道具作りに経験豊富な爺さまのラムと息子のシウク、身重の妻クチャ、呪術の婆さまカシュマと息子のエルム、いいなづけのアピ──成人の男五人と女五人に子供三人である。
 
 名前はアイヌの言葉によっている、と巻藤佳代が説明を加える。
 それぞれの人物の性格や境遇に応じた名前がつけられている。たとえば、ホロケウは狼、サポは姉、レラは風といった具合だ。そのイメージにあったイラストも添えられている。
 なぜアイヌ語かというと、北海道と沖縄の人々には遺伝子的に類縁があり、縄文人にいちばん近いからだという。
「そういうことはともかくとして、さっそく始めてみましょう」
 巻藤佳代は気になる人物を一人ずつ選ぶよう促した。
 誰でも好きな人物を自由に選べるし、それぞれのタブレットで進行していくので選んだ人物が重複してもかまわないが、一つのステージを終えるまでは別の者に変更することはできない。
 道具や環境も選べますといいながら、あくまでサンプルですからとねと念を押して、彼女は全員に共通するツールとして丸木舟を選ぶよう指示した。
 すると、オブシディアンのタイトルが音もなく霧に包まれて見えなくなり、遠くから潮騒の音が聞こえてきた。
 

   第一章  岬
 
     1
 
 霧はますます濃くなった。
 耳をすます。
 何も聞こえない──いつの間にか、丸木舟に乗っていて、手にはごつごつした櫂(かい)が握られている。
 眼前の闇を凝視していると、次第に目が暗闇になれてくる。隣には女──レラが寝ていた。子供もいる。口を開け、片足を母親の腹にのせている。ロコムだ。
 ということは、自分はリン……ということか。
 
 画面の右下に家族構成が表示されている。
 
 声を出してみる。
 左のほうの白い霧の壁の向こうから返事がきた。しかし、右側にいるはずの連中からは何も返ってこない。
 風はすっかり落ちていた。舟はゆっくり北へ流れている。川ではない。海だ。
 画面右上に磁針方位が示されている。
 潮に乗っているらしい。
 外洋の大きなうねりは周期の短い波に変わってきた。陸は近いようだ。
 霧さえ晴れれば目の前にいきなり海岸が出現してもおかしくない。それほど沖に流されたはずはなかった。
 女房と息子は、細長い舟底にもぐりこむように体を縮めて眠っていた。昼夜漕ぎっぱなしだったのだから無理もない。岸伝いに進むつもりだったのに、最短距離を狙って欲をだしたばかりに沖に流されてしまい――そういう回想が、白い霧をスクリーンにして流れていく。
 
 何かきしむ音がした。
 白い壁にかすかな影がうつる。
 名前を呼んでみる。
 返事の代わりに影が近づいてきた。櫂(かい)を操り水を切る音とともに、一隻の丸木舟が出現した。自分の舟よりひとまわり大きい。が、櫂(かい)を持っているのは一人だ。
 髭面の大男だ。こっちと視線があうと、かすかにうなずき、寄り添うように舟を並べた。
 男は無言で眼前の霧を凝視している。
 男の舟にもその妻と二人の子供が、荷物と一緒に並んで座っていた。先頭の女は目をさましているようだったが、疲れきって顔を上げようともしない。下の男の子が起き上がって父親と彼の顔を交互に眺めている。
「シウク」と、別の仲間の名前を呼んでみる。
 白い壁の向こうから返事がきた。位置の確認のためときおり仲間同士で呼びかわしていたが、さきほどよりだいぶ近いようだ。
 シウクと一緒にいるはずのエルマが「おうい、おうい」と叫んでいるのも聞こえてくる。
 うるさい、わめくな、というシウクの短く鋭い叱責が聞こえた。
 視界がきかないときは音がすべてだ。
 舟にとって危険なのは、沖に出ているときではなく、むしろ陸に近づいたときだ。目で危険を確かめられないときは、耳が潮の流れや磯のありかを知らせてくれる。
 こういうときは、じたばたしても仕方がない。むだに案じるより、まず自分の身の安全を確保するのが先だ。連中もそう考えているはずだ。
 夜明け前に音もなく闇と入れ替わった霧は、ますます濃くなっていく。
 自分の舟の舳(へさき)すらぼんやりして、輪郭もはっきりしない。
 隣の舟ではホロケウがやはり舟の向きを調整する以外は手を止め、櫂(かい)を舷側に置いたまま、影絵のように浮かんでいた。
 声で目を覚ましたらしいリンの息子が頭を持ち上げ、きょろきょろ見まわしている。
 彼は微笑し、なんでもない、まだ寝ていろとしぐさで示した。それがわかったのかロコムはまた母親にしがみついた。
 
 どれくらい時間がたっただろう。
 かすかに律動的な水の音が聞こえた。
 海面が細かいピッチで波立っている。
 舟がゆれた。と、加速する。
 潮に乗ったようだ。外洋を流れる海流ではなく潮の干満で生じる局地的な流れだ。干満の差が大きなところほど、そして幅が狭いところほど流れは激しくなる。おそらく狭い海峡のようなところへ向かっているのだろう。
 隣のホロケウもすでに気づいていた。すると、霧の中から「リン、ホロケウ」と呼ぶ声がした。シウクだ。「おい、聞こえるか、あの──」
 ホロケウが、おうと返事をする。
 磯波だ。陸が近い。
 霧はともかく、風もなく穏やかな天候だし、波の音といっても、岩場に砕けるような激しい音ではなかったが、あわてて陸に近づきすぎると危険だ。
「あれだ」という声が、ホロケウとシウクから同時に発せられた。霧の晴れ間から、左前方に一瞬だが島影らしきものが見えた。たしかに陸だ。
「行くぞ」と叫ぶと同時に、シウクは櫂(かい)を漕ぎはじめた。その水音が聞こえてくる。おうよという張り切ったエルムの若い声も聞こえてくる。ホロケウとリンもその後を追う。
 島影はすぐに霧にかき消されてしまったが、彼らの網膜にはしっかり映っていた。夜明け前に太陽が昇るはずの方角に陸を見ながら北へ進んでいたはずだった。
 潮流に逆らわず流れを利用しながら、少しずつ島が見えた方へ寄せていく。静かに漕いでいるつもりだったが、その興奮が伝わるのか、寝ていた者たちもいつのまにか目をさましている。
 少しずつ霧が晴れてきた。白い壁が色の濃い部分と薄い部分に分かれていく。それまで白だけの世界にいたのに、濃い部分がさらに濃くなるにつれて、色彩が戻ってきた。
 緑だ。波打ち際まで覆いかぶさるように、圧倒的な緑が間近に迫っている。
 下は岩場だ。
 こんなところに上陸はできない。近づきすぎないよう方向を修正する。やがて岩と砂浜が入り混じった小さな浜が見えてきた。あそこだ。あそこへ着けよう。
 全力で漕ぐ。
 丸木舟の一団は競争するように小さな浜を目指した。
 子供たちが仲間の舟と自分の舟のスピードを競いあって騒ぐ。
 シウクとエルムの舟は二隻を並べて横木で連結し、双胴船になっていた。漕ぎ手になる男も三人いるので先行している。ホロケウとリンの舟がそれに続いた。
 岸に近づくと、先頭を走っていた双胴の丸木舟から、長身で痩せた若い男が海に飛びこんだ。しかし、タイミングが早すぎたらしい。頭の先まで沈みこむ。あわてて両手で水をかいて浮上すると、舷側にしがみついた。彼らの舟はつまずいたように船足がとまった。
 舌うちするシウクを尻目に、後続の二隻が相次いで上陸した。
 リンとホロケウは浅いところまでくると、ほとんど同時に飛び降りた。深さは膝までしかないが、喫水の浅い舟はまだ浮いている。舷側に手を添えて舟を砂浜に乗り上げさせる。子供たちを抱えて乾いた砂の上に降ろす。女たちも降りた。
 岩礁と砂浜が入り混じった小さな海岸だ。
 彼らは海に拳を突き出したような岬の浜に上陸した。
 波打ち際よりかなり上の方に、流木やら海草やらが打ち上げられていた。それが細い帯のように海岸線と平行に続いている。潮が満ちてくるとそこまで海面が上昇するということだ。
 彼らは前日から丸一昼夜、波にゆられて疲れきっていたが、その場に座りこみたくなるのを我慢して舟を砂浜で満潮時より高いところまで引きあげた。水を吸った舟はずしりと重かった。
 遅れてシウクとエルムの舟が砂浜に着いた。
 こちらは子供がいなくて、荷物を満載した双胴舟に大人五人だ。男が三人、女が二人。
 その二人の女のうちの一人がいつまでも舟に残っている。足を濡らしたくないらしい。他の者は荷物を降ろしているが、彼女だけは舟にいて立ち上がり、乱暴に扱うな、傾けるなとあれこれ指図している。白髪の老婆カシュマだ。
「わかってるって。俺ももう子供じゃないんだから、あんまりぎゃあぎゃあいってくれるな」
 溺れかけて頭までびしょ濡れの若い男が、まだしずくを髪から垂らしながらいった。
「婆さまからみたら、お前なんかまだ乳飲み子と一緒なんだろう」と、ホロケウが荷物を受けとりながら笑った。
「バカいうな。俺だってもう一人前だ。なあ、アピ」と、かたわらにいるいいなづけの若い女の肩を抱いた。髪が長く、大きな目をした美しい娘だ。
 シウクが二人を見る。女はその視線に気づくと、肩にまわした男の腕を振り払った。
 恥ずかしがるなって、とエルムはまた腕をまわそうとするが、娘はシウクをちらと見ると、相手をしている暇はないという風にいいなづけに背を向け、両腕で大きな土器を抱えて運んでいった。エルムは差し出した手をそのままにして、ぼうぜんと立っている。
 老婆は「バカが、女一人まともに扱えんで」と吐き捨てるようにつぶやいた。
 
     2
 
 一昼夜、小さな舟でゆられた後で上陸すると、地面がぐらぐらゆれているような気がした。
 火を起こし食事の準備をしていたとき、クチャが嘔吐した。レラとサポが介抱したが、彼女は真っ青な顔をして横になったままだ。もう動けないという。身重で旅を続けたのが悪かったのだろう。
 今日はこれ以上先へは進まず、ここにとどまると決めると、もう半年もすれば父親になるはずのシウクは舌うちした。そっぽを向いて海を眺めている。
 最小限の荷物だけ舟から降ろして食事をすませた。女たちは疲れきって、そのまま岩にもたれて座ったまま目を閉じた。
 上陸したのは三方を山に囲まれた狭い低地だった。日はまだ高く、リンとホロケウはあたりを調べてみることにする。
 リンの息子のロコムが駆けてきた。「一緒に行っていいでしょ」
 リンが息子に、いや、お前はといいかけると、ホロケウが「いいだろう。男手が多いほど心強い」と彼の頭をなでた。それを聞いて、エルムが俺も行くと立ち上がった。ガキと張り合ってどうする、とシウクが情けなさそうにいった。
「あんたは行かないのか」と、背の高い若者はむっとしてシウクに問い返した。
「むろん行くさ。初めからそのつもりだ」
 リンは「いや、お前はクチャについていろ」と命令口調でいった。「俺とロコムで北、ホロケウとエルムで南を見てこよう」
「バカ野郎。俺も行くぞ」
「お前はここにいた方がいい」と、ホロケウがいった。「女たちだけでは心配だ。誰か残っていた方がいい」
 彼はリンやシウクより年上だった。シウクは同世代のリンとはことあるごとに張り合ったが、年長で温厚なホロケウには正面きって逆らえなかった。しぶしぶ承知する。
 彼らは二手に分かれた。
 ロコムは父親の先を走りながら、ふと立ち止まり、爺さまはときいた。
 シウクの父親である老人ラムは、岸辺に引き揚げた舟の上にかがみこんでいた。舟は彼らの生命線だ。傷んだところがないか調べているのだろう。
「爺さまは舟のことで忙しい」
 リンはそういうと、先を促して歩き出した。
 乾いた砂の上は歩きにくい。
 一歩ごとに足が沈み、地面を蹴る力がそがれる。
 波打ち際に寄って歩いていく。黒く濡れた砂は固く締まって、足が埋まることはない。かすかに足跡が残るぐらいだ。ロコムは飛び跳ねながら、自分の足跡を振り返っては笑っていた。
 小さな流れこみがあった。水を掌ですくってなめてみる。塩辛い。
 岸辺を少し上流に向かって歩き、また水をなめてみる。真水だ。
 リンは手足を洗った。息子もその真似をする。
 入り組んだ小さな湾を先へ進むと、山から続く尾根が海岸まで延びて、そのまま海中に没していた。行きどまりだ。先にも同じような海岸が見えるが、潮が大きく引かない限り、そう簡単には往来できそうもない。このあたりでいいだろう──リンは引き返すことにした。といっても、来た道をまた戻るのではなく、川岸にそって遡った。
 緩やかな傾斜だが、途中で切り立った崖になり、行きどまりだ。
 岩壁から水が流れ落ち、滝に小さな虹がかかっている。
 滝つぼの水を両手ですくって飲んだ。
「ああ、うまい」と、思わず声が出た。
 ロコムも真似をして両手ですくって水を飲む。一人前の大人のように「ああ、うまい」とにっこり笑う。
 今度は藪をかき分けて上陸地点とおぼしき方角に向かって最短距離を進んだ。木立の間から海面とその先の海岸が見えた。彼らが上陸した岬の北側には深い湾があるようだ。煙を探したが、どこにも人が住んでいる気配はなかった。一時間ほどで元の海岸に出た。
 岬は思ったより小さい。
 ホロケウとエルムは彼らより先に戻っていた。南側もすぐに行きどまりになっていたらしい。その代わり、少し山に入ったところに、洞窟とまではいかないが雨風をしのげそうな、くぼみが崖の下にあるのをエルムが見つけた。岩陰になっていて、木の枝を斜めに差しかければ、雨露はしのげそうだという。
「とりあえず危険はないというわけだな」と、いつも槍を手放さないシウクがいった。体はホロケウほど大きくはないが、肩から二の腕にかけて筋肉が盛りあがっている。偏平足の巨大な足をしていたので、子供の頃は足跡だけですぐに誰かわかるとからかわれたものだが、大人になってからは喧嘩でシウクの敵になる者はいなかった。
「ああ」と、リンが答えた。
「じゃあ、そうしましょ。とにかくクチャを休ませなきゃ」と、レラがいった。
 クチャは横になったまま、まだ青白い顔をしていた。サポがかいがいしく面倒を見ている。
 彼らはエルムが見つけた岩陰に移動した。リンとロコムは深い鉢を抱えて小川まで水をくみに行った。ホロケウとエルムは近くの木の枝を切り落とし、崖に差しかけて屋根をふいた。床に草を敷きつめて寝床を作り、クチャを休ませる。
 女たちが煮炊きに必要なものを選び、男たちが運んだ。
 土器に木椀、食料を入れた籠に発火具──長居をするつもりはないので一夜の泊まりに必要なものだけだ。小太りのサポに似てふっくらした娘のカムマも浅鍋を重ねて運ぶ手伝いをする。
「あら、強い子ね」と、レラが声をかける。
 カムマはにっこりほほえもうとするが、笑うと力が入らず落としそうになるので、息をこらえ真っ赤な顔をして坂を上って行った。
 食事の用意ができると、ロコムは母親のレラに命じられて浜にいる長老格のラムを呼びにいき、舟作りの名人のまわりをぐるぐる駆けまわりながら坂を上ってきた。
 上陸してから何もせず、岩の上に座ったまま、太陽の方を向いて目をつむって瞑想していた婆さまは、すでに岩陰の一番奥に座っていた。爺さまが来たのを認めると、乱れた長い白髪をかきあげ、無事に上陸できたことを天に感謝した。
 海の神、風の神、山の神に感謝し、先祖への感謝、捨ててきたムラの神への感謝と、婆さまの祈りは果てしなく続いていく。
 他の者は習慣的に目を閉じている。
 いつものことだ。どんなに疲れていても嵐のときでも変わることなく、食事の前には必ず祈りが捧げられた。
 幼いロッセがぐずった。サポが抱きかかえて、そっと外へ出た。
 婆さまのカシュマが祈りを捧げている間、シウクはしらけた顔をして目を開けていた。
 祈るだけで食い物が空から降ってくるというのであれば、いくらでもそうするが、そんなことは決してない。食い物は自分で汗をかいて、野を駆け、槍を投げ、矢を射てはじめて獲られるものだ──ふと顔を上げたアピと彼の視線が重なった。じっと見つめあう。そんな二人を不安そうにエルムが薄目を開けて眺めていた。
 婆さまは祈りを終えると、自分の前に置かれた木椀を押しいただいた。それを合図に食事がはじまった。
 話はほとんどはずまなかった。サポの娘のカムマは食べながら眠っていたし、ふだんはうるさいほどにぎやかなロコムも重いまぶたと闘っていた。
 炎が小さくなった。
 ホロケウは拾ってきた枯れ木を折って火にくべた。
「月が昇ったら起こしてくれ」とリンにいって、ホロケウは横になった。すぐにいびきが聞こえた。
 ムラを出てから、早朝に出発しては明るいうちに砂浜を探して上陸し、食事をしてその夜の寝床を作るという生活の繰り返しだった。年寄りと子供を連れているため、まだ明るいうちに安全な上陸地を探すので、まったく行程が伸びなかった。
 病人が続出したムラを出ることは、冬の間に話し合って決めたことだった。
 爺さまの話では、ずっと北に煙を吐く山があり、さらにその向こうには槍の尖頭器や鏃(やじり)に適した黒く硬い石が大量に採れる魔法のような山があるのだという。
 そこには貴重な黒い石がいくらでも転がっているし、煙を吐く山の手前にある海は湖のように穏やかで、一日に二度、見渡す限りの干潟が広がり、貝でもなんでもほしいだけいくらでも採れる──ラムはそう熱く語った。



  タチヨミ版はここまでとなります。


黒曜石の記憶

2018年1月5日 発行 初版

著  者:岸田啓
発  行:エイティエル出版
ISBN: 978-4-908086-01-4

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