spine
jacket

───────────────────────



キリストの世界 第一巻 日本人へのメッセージ

平川博達 吉川宣行 吉野万菜

yoshikawa-shimon-nobuyuki出版



───────────────────────

 





キリストの世界
    第一巻 日本人へのメッセージ
    

 

 目 次


    はじめに -日本人はこれからどこへの行くのかー

     第一章  いじめ」はやめなさい
     第二章 「不倫」「偽証」はやめなさい
     第三章 日本人の「おべっか」は見苦しい
     第四章 日本人の「愛国心」が、日本を亡ぼします
     第五章 「神の愛」が「あなた」を癒すのです
     第六章 日本はモノづくりもいいが、神の愛を知る人間の国になってほしい
     第七章 隣人、隣国のために生きることが日本の発展となります
     第八章 日本人よ、「狭い墓から出てきなさい」
     第九章 風のような自由な国を造るのです
     第十章 弱っている人を探し出し、「助け出すもの」となりなさい
 
    おわりにー日本人の「二つ」の顔

はじめに

  
 -日本人はこれからどこへ行こうとしているのか
 
 過日のサッカーのワールドカップでの、対ポーランド戦のような、人間としての最低のエチケットさえ捨てた、引き分けに持ちこむための日本の戦い方。見え見えの、相手の国家さえ無視したような、日本的愛国心の応援の仕方には、かなり戸惑った方も多かったのではないでしょうか。

 そういう反省も込めて、世界平和のために、第一巻は、日本人の魂の自立のための、キリストからのメッセージを用意しました。
 キリストは、ご承知のように、そのころのユダヤ教指導者たちに、冤罪までかけられ、ふたりの極悪人といっしょに、十字架にかけられることになりました。

 ところが、そのころユダヤ地方を支配していた大帝国ローマ総督ピラトは、なんとかキリストのいのちだけは救おうとしました。そこで、キリストに言いました。

 「わたしにはあなたを救う権力も権威もある。
  あなたは神の子か」
   ーそうですー
 「あなたはユダヤ人の王か」
  -そうですー
 「あなたは一体、何をして、殺されそうになっているのか」
  -真理の証しをしたためにー
 「真理とは何か」

 そのあと、キリストは黙ってしまいました。そこでピラトはいったのです。
 「なぜ黙るのか。
  私には、あなたを殺すことも、救うこともできる権威があるのだ」

 キリストはしかし、ピラトの助けを求めることはしませんでした。そして言いました。
  -あなたの権威は、わたしには通用しません。
   わたしの国はこの世のものではないからー
 
 いかがでしょうか。
 これがキリストの生き方というものでした。
 いいえ死に方というべきでしょうか。
 キリストには生きる権利もありました。罪など犯してはいなかったから。
 それでも、ふたりの強盗といっしょに十字架にかけられる道を選びました。
  
 なぜでしょうか。
 キリストには、この世を生きる権利を超えた使命と誇りと、天の神からでた愛国心があったので、はずかな時間のなかでの、地上だけの武力によって手にした権力者の権威にすがる必要もなかったわけです。
 そのキリストの使命とは、すべてのひとに、もっとも小さな日本人にも、ピラトほどの権威を超えた、もっと誇らしい、風のように自由な、真の愛国心に生きる道を、用意するというものだったから。

 つまり、日本的なサッカーチームのような、勝てばいい、対戦相手へのエチケットなど棄てる、というような愛国心ではない、永遠に輝くような、殺されても消えることのない、ほんとうの栄光に輝く国を造ることが、キリストの使命であったわけです。

 それにしても、日本人はこれからどこへ行くのでしょうか。

 1 日本人の魂はどうなっているか。

 昨今の高齢者を抱えた家族はどうでしょうか。
 人間の親でありながら、わが子の顔さえ忘れ、それでも長生きをして、それぞれの子孫にとっては、大変な負担となっています。

 それどころか、家族にとっての最大の悩みは、両親の死後の魂のことではないでしょうか。
 たいていの父親は、定年で退職したあとは、まったく働くことはなかったはずです。 
 競争社会を生き抜いたほどの勤勉な父親ほど、定年後は、まったく勤労の歓びもなく、怠惰に生き延びています。
 母親にしても、ふしごなことに、勝気で、まじめであった女性ほど、夫を棄てたかのように、早めにボケているようです。

 つまり両親とも、魂の成長もなく、長生きしている、という現実。
 そういう魂が、死後、果たして天国に行けるでしょうか。
 日本人の大半は、天国への道を、神に尋ねる「ことば」さえ知らないのです。
 それどころか、天国さえも、もはや、想像することもなく、夢見ることもなく、祈ることばも忘れて、認知症になって終わる。
 そういう人生がますます多くなっています。
 
 魂の救いのためにも、日本人にしても、最低、外国の国家に対しての、最低のエチケットだけは守るべきではないでしょうか。罪意識だけはもつべきではないでしょうか。その都度、自分の罪の清算をして生きることが、この世に生まれた最低のエチケットではないでしょうか。
 ところが、日本人は、罪というものを、あまり真剣に考えてはこなかったのです。
 ブーイングがなければ、逮捕されなければ、罪意識などもたないひとがあまりにも多いということ。
 これでは、魂の救いも成長も難しくなります。

 
 2 日本では指導者ほど、偽証をし、利己的になっています。 

 昨今はもう、政治家だけでなく、一般の社会人でさえ、悪質な「ひき逃げ」を起こしたもののように、捕らえられるまで「罪」を認めない人が多くなりました。スポーツの世界でも、ブーイングがなければ、監督は、相手チームには何をしていい、とも思っているようです。

 学校の校長とか教育委員会の人にもそういう傾向が認められます。
 財務省の高級官僚でさえ、国会の席上で、「改ざんした」公文章を、平然と提出するのです。そういう人に「罪意識」をもってもらうほど難しいことはありません。

 もちろんそういう人も、あとで反省の「ことば」を口にします。
 しかし、ほんとうの罪意識というものは、周囲に気付かれるまえに「もつ」もので、逃げるだけ逃げたあとで逮捕されてから、ブーイングがあってから、
 「わるいことをした」
 などというひとは、最初から罪意識がうすいので、ほんとうの『悔い改め』のための反省はしません。

 政治家のなかにも、自分の属する党に迷惑がかからないことが善で、国会議員でありながら、自分を選んでくれた人に迷惑をかけないことが善であって、それ以外の税金を払ってきた国民には、謝罪のことばひとつありません。
 またサラリーマンの世界でも、たとえば会社ぐるみの悪をしたあとでも、その罪をだれかが引き受けることで、会社の役員の罪をごまかそうとしています。いえ最初から、消費者に対する罪などは罪ではないわけです。

 つまり大なり小なり、友人知人にさえ「めいわく」がかからねばいいわけです。勝てばいいわけでです。
 そういう傾向は、日本人が絶対的な神を知らないからだ、という指摘もあります。
 たしかにそういう指摘にも一理あります。
 天地創造の神を、世界で初めて神にしたユダヤ人の社会では、その「神は、どういう小さな罪でも見逃しませんでした。その「神」が、これは罪だ、といえば、王様の罪も罰を受けてきました。
 そういう、ひとりひとりの罪を明らかにする天地創造の神を、日本人は知らないのです。
 
 そのため、日本人の警察も検察にしても、罪を犯してもいないのに、罪人にするという冤罪を作り上げる名人?になったようです。
 そういう日本的の魂は、しかし、永遠に成長することはありません。


 3 どこの国でも、「罪の報い」は死です。

 罪の報いは、死です。
 そして、その罪の死から解放してくれるものが、「真理」というものです。
 それゆえにキリストは、
 「わたしは、真理であり、いのちである」
 といったあとに、
 「真理が、あなたがたを自由にします」
 といったわけです。

 しかし、日本人には、自分が罪の奴隷である、自分の死は、罪からきている、という自覚もないので、自分の人生の清算をするまえに、認知症になっているひともいます。
 クリスマスとは、罪からの解放を祝うための祭りなのですが、日本人には、罪意識が薄いので、つまり、どういう小さな罪でも見逃さない天地創造の神を知りませんので、自分が罪を犯しているという罪意識がないので、クリスマスで、クリスマスケーキを食べることがあっても、
 「罪から解放された」とはおもわないわけです。

 キリストのいうところの罪とは、天地創造の神も人間も愛さないことをいいます。
 自分を愛するように、隣人を、敵を、愛さないことが罪だ、と聖書でもいいます。

 それゆえに、自分を愛する道、隣人を愛する道、敵でも愛せるようになる道を教えてくれるものが、真理だ、そういう真理をまず求めない、とキリストは、あらためて言います。
 その真理によって、他人の子でも大事に育てるようになったときが、罪から解放されたときであり、それを魂の救いと言い、魂が救われることを、自由、というわけです。

 結論を言います。そういう自由を知っている人とは、次のようなひとです。

 一 そういうひとは、ひとにおもねることもなく、党派の助けを借りることもなく、良心を守る   ために、いつも、「ひとりだけの戦い」をしています。それゆえに、自立しています。

 ー そういうひとは、もっともよわいものの重荷を背負って生きています。

 ー そういうひとは、心のうちに、「光」をもっています。
   つまりいつも「光」を、「自家発電」しています。

  それゆえに、死んだあとも、そういうひとは、あの世で迷うこともなく、それどころか、迷っているひとを、
  「光の国」である天国に導くことになります。

 そういうわけで、これから、どういう人間にも、ほんとうのエチケットを守れるような、魂の自立を目指す日本人になってほしいために、これから、キリストからの「日本人へのメッセージ」をお届けします。
 
 そのあとは、日本人の真の魂の自立のために、次のような、全十巻を用意しました。

   第一巻 日本人へのメッセージ
   第二巻 乙女マリヤの祈り
   第三巻 地上の支援者、権力者の誘惑
   第四巻 ユダの裏切りが意味するもの
   第五巻 誤解された一神教
   第六章 十字架の死が語るもの
   第七巻 復活の約束
   第八巻 復活の証明
   第九巻 自立に必要な聖霊を受けなさい
   第十巻 「わが愛におれ」

 キリストの世界は、そういうわけで、必ずしも、「キリスト教」の世界ではありません。
 宗派の世界ではないからです。
 宗教宗派というものは、どうしても、宗派だけの信仰によって維持されています。そのため、ご利益信仰にもなりやすい。少なくとも自分、自分たちの救いのための信仰の世界となっていますが、これから紹介するキリストの世界とは、宗教宗派とは関係のない、日本的有名人の愛国心とも違った、ひとりひとりの魂が永遠に輝く、外国人にもエチケットを守る、真の愛国心が育つ、魂の永遠の成長と自立の誇りに生きる世界のことです。
 参考にしてみてください。


 

第一章 いじめはいけません


 1 いじめというもの


 高齢者のなかには、実母でありながら、わが子をいじめた体験を持つものも多いのでしょうか。 というのも、昨今では、若い実の母親にいじめられる幼児が多くなってきたからです。継父によって、いじめを受け、殺された子も多くなってきたからです。

 人間というものは、親にいじめられて大人になると、こんどは、ついついわが子をいじめて育てる、というからです。
 その証明でもあるかのように、昨今では、ヨメではなく、実の息子娘によくいじめられる高齢者が結構多いのです。

 日本では、今はもう死語のように使われなくなりましたが、村八分、ということばもあって、葬式と火事以外は、村全体が、個人の家庭とは付き合わないという「いじめ」が、かつては、どこの村でもあったのです。
 ところが、その風習のようなものを、なぜか日本人は、遺伝的にも受け継いでいるようなのです。
 
 ちょっと前までは、韓国朝鮮人もまた、日本の学校でいじめをうけて、自殺するひともいましたが、昨今では、日本人が同じ日本人にいじめるを受け、そして自殺する。そういう事例も多くなっています。
 しかもクラスのなかには、そのいじめを止めるひともいないのです。生徒だけでなく、教師にしても、いじめを見て見ぬふりをしていひともいたり、あるいは、なかには、「いじめは必要」である。「いじめられる方が悪い」という持論を持つ人も多いのです。

 また、学校だけでなく、ほかの職場でも「いじめ」を止める人は少ないのです。
 会社ぐるみで、いじめをして、過労死という事件もおきています。
 そこまで日本人の魂の中には、いじめが根付いています。
 しかも日本人は、第二次世界大戦のあとで、生きる権利もしっかり憲法で保障されているのに、自由、平等の権利も保障されたのですが、いじめだけはやめないのです。

 困ったことに、学校の教師のなかには、生徒のいじめを止めることもなく、それどころか、同僚の教師をいじめて、自殺においやったものもいます。
 幼稚園の教師にしても、いじめが多く、ときどき、若い女教師が腎臓炎を起こす例も多くなり、問題になったこともあります。その時の園長が独身で、独身であるがゆえに、暗く寂しい自宅に帰るよりも、いつまでも、赤々と電灯をともした職員室に、部下の女教師を引き留めていたわけです。
 そういう職場では、職員室を離れたものが、陰口をいわれることも多く、長時間、トイレにも行けなくなって、ついに腎臓を患ったものが増えたわけです。

 なんとも、あまりにも幼稚な、幼稚園的な問題ですが、そういう園長が多かったわけです。
 独身であったがゆえに、暗いひとりだけの自宅に帰るよりも、赤々と電気をつけて、職員室に居続けたわけです。

 しかも、そういう教師が例外的ではなかったのです。管理職とは、そのように日本では、部下を人間ではなく、モノ扱いにして管理するもの、という意味だったわけです。特に管理者になる教師というものは、生徒との交流をしなかったものが、まず教育委員になり、そのなかの教育長がまた、新しい教育委員を管理して、現場の教師を管理する委員を目指すように、指導していたわけです。

 ところが、そういう、教師をモノ扱いをしていながら、この前の北大阪地震で明らかになったように、教育委員会のものが、教育関係の施設の壁の管理さえ手を抜いて、その壁の倒壊で、ひとりの小学生が犠牲になったのです。
 

 2 「あなた方は、教師にならないほうがよい」

 教師になったものは、たしかに、憲法という科目を履修していなければ、教師にはなれないのですが、なぜか、教師の中のエリートと言われてきた教育委員会が、いまだに、生徒の生きる権利などには無関心で、モノとして生徒を管理していながら、壁の管理さえしっかりせず、ずさんな検査をして、人災によって生徒の命を奪ったわけです。

 もちろん人権思想をしっかり身に着けた教師もいましたが、そういう教師のなかにも、憲法をしっかり読んだこともなく、勤労の権利と勤労の義務さえ、「はき違え」をしているものも多いようです。
 かれらはたいてい、勤労を嫌うのです。
 勤労に生きがいを感じている教師にしても、部活動の時だけであって、それも、人間教育を無視した、日本的な、競争に勝つための根性だけを鍛える教育者も多いのです。
 
 部活動に熱心な教師は今も、
 「勝負に負けては、どういう人権があるのか」
 「女生徒に人権など認めれば、勝負を放棄したことになる」
 「男生徒にしても、言葉ではなく、体罰で訓練すべてきある」
 と言います。

 つまり、対外試合に負ければ、部活の意味がない。人間的にも、敗者である、ということになっています。そうして、過日のワールドカップのような、非礼極まりない勝つための試合運びとなったわけです。
 しかも、そういう教育者とか監督の後押ししてきたのが、また日本政府でもあったのです。
 マスコミにしても、たかがスポーツの世界であっても、優勝したものを、英雄に祭り上げ、そのあと、国民栄誉賞を与えてきたのです。そうして、そういう栄誉を受けた人は、そのあと、皇室主催のような、「園遊会」に参加できるわけです。

 それ故に、学校の教師にしても、当然、敗者の選手を育てるよりも、社会やマスコミが認める勝利者を目標にして、当然なのです。生きる権利にしても、勝負に勝たなければ、生きる権利があっても、それは魂のない「抜け殻」でしかないから。
 
 しかし、そういう「生き方」を聖書では、「的はずれ」といって、罪といいます。
 本当の「マト」ではなく、マトではないものを「マト」にして、競わせ、そういう「ウソ」の競争の勝利者に、栄光を与える。
 そういう罪の世界を日本では、政府も国民も作り上げ、維持してきたわけです。

 それゆえに 聖書では戒めるわけです。
 「あなた方は、教師にならないほうがよい。
  あなた方は、誰よりも厳しい裁きを受けることになるから」と。

 なぜ教師になれば裁きを多く受けるか。
 それは、教師というものは、体育系の教師に限らず、怠けることはしないけれど、いじめるときも、手を抜かないのが日本人だ、ということです。
 日本人は、手仕事は早く起用ではあるが、ほんとうの教師になれない、ということです。
 日本人は、国家のために働くほどに、その分野でのエリートになればなったで、そういう、国民を指導するほどの教師になっていても、完全に「マト」を外してきたではないか。

 昨今の官僚とか大臣を見てほしい。有能な官僚が、国民のためではなく、総理の個人の栄光のために、国会の席上で、公文書の改ざんまでして、報告しているではありませんか。
 これ程の「的外れ」の勤勉があったでしょうか。公文書を何十か所も「改ざん」して、平然と国民にウソの証言をしてきたのです。
 そういう内部事情の一切を知っていながら、総理もまた、公文書改ざんが、総理をかばうための「操作」であったことを認めていながらも、何食わぬ顔をして、総理を続けています。
 しかも、そういう総理を糾弾しない、評論家もいて、そういう全国紙もある、というのが、日本人の現実です。
 
 「まことに国民の信頼を裏切った行為だった」
 などといってはいるが、その責任を取るように勧める有識者も多くはないのです。それほどまでに、日本人は、「権力者」にすがって、「得」をしたいわけです。

 そういう言動こそが、偽善というものですが、「いじめ」を「育む」土壌というものですが、その「いじめ」を見て見ぬふりをしてきたのが、日本人だったのです。

 また、総理そのものが、このように国民に不信感を抱かせたときには、かつては、与党内部からも、突き上げがあって、政権交代の名乗りを挙げる派閥もあったものですが、ようやく腰をあげるひともでましたが、なんとも、そういう政治家にしても、いじめをやめさせるほどの政策も持ち合わせていないようです。


 3 「罪の報いは死である」

 個人的な罪にしても、その責任を取ることが、人間としての最低のエチケットですが、昨今では、政界財界だけでなく、教育界でさえ、宗教の世界でも、「くさいもの」には「ふた」をします。

 しかし、クサイものほど、ごまかしの効かないものはありません。臭みほど、空気伝染をするものはありません。
 なかでも、天地創造の神の臭覚ほどに敏感なものはありません。
 そのために、天地創造の神を信じるユダヤ人は、その神を聖なる神と呼びました。その意味するところは、どういう小さな罪でも見逃さない神、というそれは意味でした。

 そういう天の神の存在は、日本人にも認められて、日本でも、昔から、悪いモノほど得をする社会となると、
 「彼らにはそのうち、テンバツが下る」
 と庶民の間ではいわれてきました。
 しかし、政界でも財界でも、有力者の罪は常に、有力者とか権力者を支えるものによって、もみ消されてきました。

 しかも、権力を握ったものが、最も弱いものに冤罪をおしつけてきました。
 その名残りが、いまだに警察とか検察の世界に遺されています。精神の遺伝子として。
 そういう遺伝子は、キリストを殺したその当時のユダヤ教の指導者もまた、先祖から受け継いでいました、それゆえに、キリストに冤罪を着せて殺したわけです。

 そういうことです。
 そういう遺伝子を受け継いだことがそもそもの罪であったわけです。
 それ故に日本人にしても、豊臣秀吉も徳川家康にしても、殺すことで、英雄とみなされ、その栄光を讃えるために、死後、神として祭り上げるものが、日本では多いのです。
 
 そうして、聖書の証言通りに、ふたりとも、いまは神社の神として祭られています。
 人殺しが権力者となると、その家臣たちは必ず神社を建てて、神にするのです。それこそが、「的外れの罪」という罪だったのですが、日本人は、そういう的外れが好きなようです。

 それ故に、キストトは今も日本人にも、メッセージを送り続けるわけです。

 -あなたがたは教師に、権力者にならないほうがよい。
  良き師とは、天地創造の神のほかにいないから」

 そういう事でした。
 つまり、誰もが、教師になると、日本の教師にしても、代表者にしても、本当の教師である天地創造の神を追い出して、自分たちが地上の神になるから、というわけです。
 だれもがいずれ神のようになって、いじめるものとなる。
 上司になって、弱いものをいじめることになる。
 そうなれば、過労の果てに自殺していくものも、永遠になくなることはない、ということです。

 
 4 「いじめる」者は「自分の魂」をいじめています

 自立というもの。
 自主独立というもの。
 親孝行の自立というもの。

 日本人は、おもえば、どこまで自立しているでしょうか。
 日本人は果たして、良心とか良識を守るために、生きてきたでしょうか。
 天地創造の神でさえ認める、自立した親孝行をしてきたでしょうか。

 むしろ日本人は、親も子も自立しないままで一生を終えているのではないでしょうか。
 魂の自立には、最低、自分の罪に死ぬほどの「ひとりだけの戦い」を始めなさい。
 とキリストは言います。

 つまり、一緒になって、誰かをいじめるな。
 「お上」にすがって生きるな。
 「おべっか」を使って生きるな。
 権力に「媚びるな」というそれは意味だったのですが、日本のエリートである官僚はどうだったでしょうか。いざというときに、改ざんの指示がでても、それに手を貸さないというような勇気を持ち続けたでしょうか。

 財務省の公文書改ざんの事件を見てください。
 あれほどの、「権力者」に対する「追従」と「おべっか」の言動があったでしょうか。
 そういう人物が、国家公務員としての退職金として、五千万も受け取るのです。
 国民を欺き続けていながらも、これほどの退職金を、国が払う。
 どういうことでしょうか。

 そういうことです。
 まったくの「的外れ」の勤労によって、一般国民がとうてい手にできない退職金を受け取るのです。
 また、安倍政権は、初めから、拉致家族を救い出す意思さえ見せなかったのです。
 そういう政権を国民もまた、糾弾さえしなかったのです。

 いつも弱者をいじめるものが、得をするわけです。
 国民もまた、そういう弱者をいじめる政権を、見て見ぬを振りをしてきたのです。政権の中の大臣にして、最も弱いものを救う、「ひとりだけの戦い」を日本人は放棄してきたのです。
 
 良心と良識によって、最もいじめを受けているものを助けるための努力もしないのです。
 こういう指摘は、何度もされてきたのですが、日本人そのものが、魂の自立さえ放棄していたようです。
 そうして「お上」にすがることが、国民の義であると言い張ります。
 そういう自立を放棄した愛国心というものは、そのように、「お上」の非でさえも、見ぬ見ぬふりをすることでもあったわけです。
 
 しかしここではっきりいうほかありません。
 いじめを見て見ぬふりをして、あるいは、だれかをいじめることで、栄光をつかもうとする有名人も文化人も、武力によって平和を造ろうとする政治家には、魂の成長は、まずありえないということです。

 つまり、人間としての魂の目覚めはないということです。 
 それゆえに、偽証して政権を維持しようしてきた政府高官も官僚も、魂の成長などは、到底あり得ないわけで、彼らの魂はいまだに、闇の世界に生きていますので、心から反省をして出直すということもしないはずです。

 闇の世界にいる間は、自分にも余裕がありませんので、とうぜん弱者を助ける余裕も力もないわけです。
 それゆえに、そういう闇の世界で管理職になるということは、「いじめ」をさらに加速させることになるわけです。
 むしろ管理職になったばかりに、ますます、自分で自分を追いつめてきたはずです。

 しかし、どういう闇の世界にあっても、魂が成長している人なら、いつも、誰かに手を貸すことをします。かぜなら、そういうひとはいつも、光を発するからです。
 自分だけの平安ではなく、もっと大きな平安のなかで生きるという、勤勉の歓びを知っているからです。
 魂の栄光を独り占めすることもなく、栄光を分かち合うために、隣人隣国のための、勤労の働きを始めます。そういうひとは、隣人、隣国を大事に知ることは、同時に、それは自分と自分の国を愛することでもあることを知っているからです。
 
 






 
 

 




 

 

 


 


 

 
 

 
 




 

第二章 「不倫」はやめなさい

 
 1 貞節の国だった日本

 今は昔、という「ことば」があります。
 ほんとうにおもえば、貞節という「ことば」も古くなりました。

 しかし思えば、かつての貞操にも無理がありました。
 なぜなら昔の日本では、夫の浮気がゆるされて、夫は愛人を囲っても、それもまた男の勲章の様に世間では思われたこともあったからです。
 そこへ行くと、妻の貞操は絶対的でした。わずかな行いでも疑われれば、許される前に、離縁されることがほとんどでした。

 離縁されたものは、昨今のような慰謝料をもらうこともなく、即刻追い出されていました。
 しかも実家には、すでに兄弟の妻、つまり家のヨメもいるので、自分の居場所はありませんでした。
 それ故に、女性というものは、貞操を守ることは、ごく当たり前のことでした。
 ところがどうでしょうか。
 昨今の女性は、婚前交渉などはごく当たり前ではありませんか。なかには、実の母親までが実の娘に、
 「何度か同棲してみて、結婚相手を決めなさい」
 というアドバイスをするものもいます。

 なぜでしょうか。もちろん、そういう母親にしても、自分の結婚に後悔してきたからです。結婚というもの、男女の相性といういうものは、肉体的にも心理的にも、同じ屋根の下で交渉を持ったことがなければ、見抜けないからです。

 たしかにそうです。
 かつての日本では、恋愛結婚よりも、お見合い結婚が普通でした。 
 しかしそれでも、お見合い結婚のほうが、平安でした。恋愛結婚で最後まで寄り添うということは、かなりの誘惑と試練が待っていました。恋愛というものはほんとうに、恋したり愛したりするものでした。

 お互いを恋しているときにはいいのですが、そういうことは、初めから無理というものでした。
 だから、愛というものを知ることになるものですが、しかし愛というものには、痛みが伴うのです。その痛みに耐えられないことで、快楽を愛だと錯覚したひとは、そこで、離婚ということになるわけです。

 結婚してまで、なぜ苦しまねばならないか。
 幸せになるための結婚をしたはずではなかったか。
 ということになるのですが、どちらかがそう思うときには、すでに相手の方も、そのように思っているわけです。
 以心伝心というものは、そういうことのようでした。
 人類の始祖ともいわれてきたアダムとエバ(イブのこと)の結婚も、そういう事があって、夫婦が他人になった、ということにもなったというのが、聖書の証言です。

 妻のエバが、天地創造の神の「愛」が満たされなくなって、ヘビの「ことば」が聞こえるようになったわけです。ヘビはエバにいった。
 「あなたが、わたしに従えば、あなたがたは神のようになりますよ」

 それこそがヘビの歓ぶ不倫のことばでした。
 そうして、エバは、ヘビが勧めてくれた「知恵の木の実」を食べたのです。
 そこからエバは不倫に目覚めたわけです。
 そうして、そのエバがこんどは、ヘビのような存在となって、夫のアダムを誘惑したのです。
 するとアダムもまた、その知恵の木の実を食べたことで、その罪によって、聖書の証言通りに、
 「大地は呪われた」ことで、地上の生活があっという間に、生きづらくなったわけです。
 
 つまり生きる苦しみというものは、今に始まったわけではなかったのです。
 人間は、「生きる歓び」を知らないうちに労働者となって、隣人関係も難しくなり、殺してみたくなったので殺す、というような事件も起きるようになった、ということです。

 つまり日本人もまた、「知恵の木の実」を食べることで、立身出世を目指すようになったわけです。日本が経済大国になり、不倫も文化だというようになり、そのはてに、認知症になっていく人が多くなったのも、日本人も、「永遠に生きる歓び」ではなく、「知恵の木の実」を食べたことで、ひとりひとりが、ヘビのように、地を這うものとして生きるようになった。
 そのヘビとの接触で「大地が呪われるようになった」、ということです。


 2 経済優先の国となった日本人の心

 「知恵の木の実」とは、別名では「善悪を知る木」というものでした。善と悪を知って、良識ある日本人になるためのものではなく、それどころか、建前と本音をうまい具合に使い分ける人間になるもの。天地創造の神を無視して、地域だけの神を信じるようになって、競争に勝つための、生きるための技を身に着けることになり、魂の成長となる人生をやめたことを意味していました。

 一言でいえば、こざかしい人間になった、ということです。
 ウソ、言い訳の多いに人間になったというそれは意味でした。
 昨今の日本人の官僚とか政治家のように、言い訳をして、偽証することはうまい人間になったのも、アダムとエバの罪を受け継いだからだと、聖書では言います。

 おもえばたしかに、エデンの園には、「知恵の木」と、もうひとつ、魂の成長につながる「いのちの木」というものがあったのです。
 その時、ヘビが現れ、ヘビは、「いのちの木」を勧めないで、知恵の木の実を食べるように勧めたということです。
 「いのちの木」は、全人教育とか魂の成長を約束するものでしたが、知恵の木の実は、表面的な知識によって、小手先によってエリートを造ることが目的でした。

 日本人をみてください。
 日本人はどうなったでしょうか。
 日本の親も教師も、社会も、目に見える、見栄えのいい生き方を選んで、目にはみえない魂の輝などは、役にも立たないということで、心の栄養も魂の成長を切り捨てて、経済的な政治的な人間になったことは、誰の眼にも明らかでした。

 そうして技術大国になり、そうして、高齢者社会となって、その勤勉な男女がいまや息子娘に棄てられているわけです。なかには孫に殺されるものもでてきたのです。競争社会では、競争に負けたものは、いじめられても、文句も言えなかったから。弱者を助けていれば、競争に負けてしまうから。
 そうして最後は、たとえ親でも、時には、わが子でも見捨ててしまうことになったわけです。

 家庭内暴力にしても、もちろん殺した方が罪人に決まっていますが、その犯人がわが子であったり孫であったりしています。
 認知症になれば、とうぜん、自分の罪さえわかりません。
 自分が、わが子にいじめられている、という意識さえありません。自分の教育が間違っていたという反省もないのです。

 これが、心を棄ててしまった日本人の、モノとなった人間の現実です。
 経済とか技術しか眼中になかったので、日本人は、心にも魂にも栄養を与えることをしてこなかったからです。
 心そのものがモノとなってしまったわけです。

 つまり、そういう親殺しにしても、親の育児放棄にしても、不倫から始まっている。エバとアダムの不倫という罪が、こうして、子孫に遺伝していった結果である、と聖書では言います。
 罪というものは、遺伝するだけではなく、感染もするので、アダムとエバから受け継いだ罪、つまり「原罪」を解消しておかなければ、清く正しく生きることなどは、誰にもできなくなった、というわけです。


 3 不倫も文化となった日本人

 日本では、不倫も文化となっています。
 文化人ほど、そういうことを口にしています。
 仏門に入っていながらも、心の悩みを訴えてきた既婚者に、
 「恋をしなさい」
 などと、勧める尼さんもいます。

 恋というものは、おとなの世界では、不倫になることが多いのです。
 そういう友承知の上で、恋を勧める、ということ。

 たしかに、恋というものは。生きる歓びを与えてくれることもあります。
 しかし、恋というものは、愛ではないのです。
 愛というものは、我が身を犠牲にしても、相手の魂の成長を願うものですが、恋というものは、相手の良さをすべて取り込んで、あとは、捨てるものです。

 ところが、仏教がいうところの愛とは、魂の愛ではなく、性的な愛なのです。
 性愛というものです。渇愛というものです。
 渇愛、というものは、相手は見えないのです。

 それゆえに、仏教では、そういう性愛から離れて、慈悲の心を勧める僧侶もたしかにいますが、なぜか日本的な仏教の高僧ともなると、自分だけが悟って、ボランテイアもしないのです。
 それどころか、働くこともせず、信者でもない一般の人が、汗水流して収穫したものを、食べるだけです。

 いつ死んでいい、といいながらも、永遠に、食べ物を造ることもなく、食べ続けるのです。
 しかも、そういう高僧だけでなく、高名な仏教的な哲学者にしても、いつ死んでもいいといいながらも、臓器ひとつ困っている人にあげないのです。
 生きているときだけでなく、死んだ後もあげたくない、と言います。

 おもえばどうでしょうか。
 近くに、すぐにも輸血を必要とするひとがいたらどうでしょうか。臓器移植が必要となればどうでしょうか。
 おそらく、我が身の命に別状がなければ、肝臓を与えるひとなら、信仰のない人にもいますが、日本的な高僧とか哲学者になると、臓器ひとつの「いのち」あげないで、いのちを取り込むだけです。食べるだけです。
 食べるということは、ほかの命を奪うだけ、という意味なのです。
 
 ところが、キリストになると、臓器だけでなく、すべての自分のいのちを、与えています。
 最も元気盛りのときに、三十三才のときに、いのちを与えています。
 キリストにとっては、いのちにしても、モノにしても、「受けるよりは与えるほうがよかった」わけです。

 自分が長生きするよりも、ほかの人に長生きしてほしかったわけです。
 そういう愛を、聖書では、神の愛と言います。
 天地創造の神が歓ぶ愛だということで、キリストもまた、我が身を使って実践したわけです。

 それゆえに、不倫も文化であるというような日本の宗教界とか文化人の恋とか愛とかいうものは、また、日本的愛国心にしても、不倫の愛でしかない、というのが、キリストの証言です。
 つまり不倫も文化である、とうような社会では、魂の成長となりるようなものではない、ということです、ただの心の快楽のための文化ではあっても、最も弱い弱者を生き返らせるようなそれは文化ではない、ということです


 4 偽証という不倫も横行している

 不倫というものは、心から始まります。
 誰かを裏切ることが、不倫というもので、一国の総理にしても、国民によって選ばれたものが、国民を欺くために、ウソをつく、偽証をする、あるいは、官僚がウソをつき、偽証しているときに注意もしない、警告もしないなら、そういう総理が、国民に対して不倫をしています。

 財務省の官僚にしても、公文書を改ざんしながら、国民の税金によって生活をしているなら、それもまた不倫だということです。
 さらに、官僚が、国民をだまして、総理の罪を隠す目的で偽証したり、総理の都合のわるい公文書を改ざんしたのであれば、そして、その行為が不倫であることを総理が認めないから、総理を辞職しないなら、官僚の罪にすでに感染しているはずだ、ということにもなるわけです。
 それもまた、不倫というものです。

 つまり、総理も財務長官も、国民に申し訳ないとも思わず、政権にしがみつくために、不倫をし、不倫を見て見ぬふりをしてきたのであれば、どうしたらいいでしょうか。
 政権与党の国会議員にしても、そういう改ざんという不倫を見て見ぬふりをしてきました。

 したがって彼らもまた、文化人らしく、不倫を文化だとしているわけです。
 彼らは、文化国家のために偽証し、ウソをつき、お友達内閣を造っている、といいたいわけです。公平に国民の権利の守るために、かれらは国会議員になったわけでもないのです。
 しかも、そういう国会議員が、日本人の将来を心配して、「道徳」の必要性を説いてすでに道徳教育の時間も増やしてきましたが、現場の教師もまた困ってしまいました。見本となる国会議員でさえ、道徳の見本にもならないからです。

 そういう日本的な道徳境教育をしないときにはどうなるか。
 「君が代」という国歌を歌わない教師が罰せられたように、罰せられることになるので、昨今の教師のなかには、すでに、生徒児童の心ではなく、「お尻」を追っかけるような教師も増えてきたのです。

 だからこそ、アダムとエバを創造し、日本民族を創造した天地創造の神は、
 「いじめてはいけない」
 「不倫を犯してはいけない」
 「偽証してはいけない」
 と言ってきたのですが、日本人は久しく、創造主の神でさえ知らない人間が、国会議員になり総理もなっているわけです。

 
 

 



 
 
 
 
 
 







 

第三章 「おべっか」は見苦しい


 1 日本的な「お上」というもの

 おもえば人間の心ほど、分かりやすくて、同時にわからないものがあるでしょうか。
 奇怪というべきでしょうか。

 「おべっか」というもの。 
 「追従笑い」というもの。
 「見下す」心というもの。
 「高慢」な心というもの。
 これらがなぜか、「ひとつ」になることもあるのです。

 はっきりいえば、同じ人間が、善人にあったり悪人であったり、する、ということです。 
 そのように人間の心というものは、器用というか、信用できないところがあるということです。
 しかし聖書では、はっきりいいます。
 なぜそういう人間になったのか。
 それは、人類の始祖というアダムとエバ(イブ)が、「善悪を知る木の実」を食べたからだ。その善悪という心が、そのまま子孫に遺伝していったからだ、ということです。

 要するに、心の食べ物が間違っていたのだ、ということです。
 人間には、肉体のための食べ物と、心の食べ物が必要である、ということ。
 どちらも、なんでもいい、ということではない、ということです。
 なかでも、この世を超えたあの世でも生きるための永遠のいのちにしても、永遠のいのちに必要な栄養のある食べ物が必要だ、ということです。

 すぐに腐るものを食べているだけであれば、すぐに死ぬことになり、永遠に腐ることもない食べ物を食べていれば、永遠に死ぬことはない、ということです。
 謙虚傲慢なひと。
 「おべっか」を使うものは、心の食事が間違っているわけだ、ということです。
 なかでも、「お上」というか、官僚というか、そういうひとほど、政権に執着して「おべっか」を使うようです。

 かれらは、国会の席上でも、総理に「おべっか」を使って、「総理」の悪でさえ「善」と言い切るのです。公文書の改ざんまでして、権力者に「ごま」をするのです。政治的権力者が、正義でるはずだ、などと本気で信じているようです。
 それともこの世は、「力こそが正義だ」と信じて疑わないのでしょうか。悪を善だと切っぱると言い切ることが、彼らの正義というものでしょうか。

 しかしはっきりいいます。
 どこの権力者にしても、どういう権力者にしても、その権力というものは、必ず衰退しています。
 ということは、権力をもっているものに永遠の正義がある、などと想うほど愚かなことはないのですが、それでも日本では、いまだに、「お上」にすがるものが多いわけです。そこまで日本人は、「自立する」ことを恐れているわけです。
 それゆえに、いじめをやめることもできない。不倫も文化だ、「おべっか」も義である、としてしまうわけです。


 2 本当の権威というもの

 しかし、ほんとうの権威者というものは、魂が自立しています。
 魂が輝いています。魂の成長の中で生きています。
 日本人のような、人の顔色を見て、生きることはない、ということです。

 ほんとうの権威者とは、永遠不変の正義、真理を知っていて、それを実行できるものだ、ということです。味方だけてなく、敵でさえ愛する力ことが、正義であり、そういう正義を知って、実行しているものが、ほんとうの権威者である、ということです。

 それゆえに、反対派を、弱者を、権力で、武力によって、抑圧するような権力者は、ほんとうの権威者ではない、ということです。武力によって政権を奪ったものは、武力によって、そういう権力は奪われるがゆえに、武力によって平和を造ろとしている政権なども、日本人は信用しないほうがいいのです。

 確かに、どこの分野にも権威者がいます。
 しかし、そういう権威者にしても、死んだあとはもう、権威者ではないのです。生きているうちから、権威者でなくなり、政権を追われることもあるのです。たとえ学問上の権威があったでも、新しい学説にとって代われることもあるのです。

 カトリックほどの権力者でも、世界の平和ひとつ作れなかったのです。
 政治的な権力者にしても、いかにも盤石に見えても、もろいものです。
 それでも、人間というものは、その時その時の権力者には、「おべっか」を使い、弱者には、捨てたかったのです・
 官僚というものにしても、公文書を改ざんまでして、時の権力者に「おべっか」を使うのです。 自分たちの社会的な地位を守るために、職場を奪われないためにも、権力者の後押しが必要不可欠であるからです。

 そういう人は、自分の魂の成長までストップさせて、この世の地位を維持しようとしているわけです。
 しかもそういう日本人は、官僚だけではないのです。そういう官僚でさえ「お上」として、祭り上げるものが、日本人には多いということです。
 とにかく有力者の後押しがなければ、社会的な地位も手に入らないので、そういうひとにとっては、権力者だけが善であり義であり、正義である、信じて疑わず、「おべっか」を使うことにしているわけです。

 かれらは、悪を善とし、善を悪として、良心の呵責もなく生きられるわけです。
 しかし、ここで、はっきり言うほかありません。
 そういう、悪を善と言い、善を悪と言い張る時の「罪」だけは、この世でもあの世でも、永遠に許されることはない、と聖書ではいいます。
 「永遠に許されることはない」
 とは、そういう罪の報いが死であるから、死後万一復活することがあっても、苦しむために復活するだけである、ということです。

 しかも、そういう善を悪とし、悪を善と言い切って世渡りをしてきたものは多く、そういう日本人が多いことで、良識あるものが言うわけです。
 -日本人は変わらないねエー
 -主権は国民にありますよ、といわれても、
  日本人は自立を求めず、「お上」にすがっていますーと。

 そういう自立したくないひと、罪を犯しても、自分が罪を犯した自覚のない人が、日本人は多い、ということです。
 それゆえに、弱者をいじめでも、罪の自覚もなく、それどころが、弱者をいじめることで、「お上」にご機嫌をとってきたのが、日本人だったのです。

 そういうことです。
 たとえ時の権力者が許すといっても、罪の報いは死である、ということです。
 そして、そのときの「死」とは、そのうち、朽ち果てる、というそれは意味でした。
 大自然で、生きとし生けるものは、いずれすべてが朽ち果てるように、罪を犯せば、その「いのち」は、死ぬほかない、というそれは意味でした。

 「おべっか」を使って出世をしたものの魂は、いずれ朽ち果てるということ。
 「あの世」でも居場所を失う、というそれは警告でもあったわけです。
 

 3 「この世」の栄光は、いずれは消滅します

 しかし、おかしなもので、家庭内暴力を受けている女性は、なぜか離婚しない人が多いのです。
 そういう妻の心理こそが、「おべっか」で社会的地位を築いたものの心理にそっくりなのです。
 かれらは、いじめをうければうけるほど、生き甲斐を感じているのです。いじめくれているうちは、まだ自分も必要とされている、などと想うようです。

 またいじめるほうの上司にしても、自分の上司に「おべっか」を使って、いじめられる快楽を覚え、同時に、自分の部下をいじめる快楽も味わっているのです。
 そういう二重の快楽の中で生きている人間に、いじめはいけない、などと言って誰がいじめをやめるでしょうか。

 学校の校長でも、幼稚園の女教師にしても、そういう、二重の快楽の中で生きている人が案外に多いということです。
 そういう人間関係の中で生きることが、日本人は好きだということです。

 哀しいことに、日本人は、誰かをいじめ、だれかにいじめられて生きる。
 そういう快楽のなかで生きてきたのです。自分の判断をもつこと、魂の自立をすることを、恐れてきたわけです。

 しかし、ほんとうは、そういう習性をもっているのは、日本人だけではなかったのです。
 アダムとエバという人間の始祖が、天地創造の神に禁じられていた「知恵の木の実」とは、「知じつは、「善悪を知る木の実」だったのです。
 つまり、その木の実を食べれば、人間は、「善悪」という人間になるから、その木の実だけは食べるなと、アダムとエバが、天地創造の神に禁じられていたのです。

 それでも、人類もまた、食べたのです。そうして、善人でもなく、悪人でもなく、「善悪という人間」として生まれることになったわけです。
 それゆえに、「おべっか」をつかい、いじめることも覚え、権力者からいじめられることも快楽となっていったのです。

 だから、日本人にとっては、いじめのない社会など想像もつかないわけです。いじめをやめることは、それは日本人であることを放棄することになるのです。

 現に、昨今の高齢者をみてください。
 ひとりの判断で生きるほかなくなると、たいていは、認知症を選ぶ人が多いのです。
 「おべっか」を使おうにも、頼るひとがないとき、昨今の日本人は、すべてを忘れ、自分でさえ放棄してしまう人が多いのです。

 認知症という病気になったのであれば、治療もできるというものですが、そうではなく、認知症という人間を造ってしまうひともいるのです。
 そういうことにならないために、キリストは、魂の自立に必要な聖霊を送ってきたのですが、そういう自立とか独立を促す話だけでも、日本人はなぜか嫌うのです。ひとりだけの自立が怖いのです。
 誰かにすがって生きたいわけです。
 
 日本人は、ほんとうに自立がイヤなのです。自立して、ひとりだけの誇りを持つよりは、いじめて、おべっかを使い、いじめられれもいいから、日本的な「和」の中におりたい。
 そういう人生を選ぶ人が多いのです。

 昨今はしかし、そういう日本的な「和」も嫌って、誰でもよかったので、殺した、というような罪人も増えています。
 かれらもまた、自立が怖いのです。
 怖いから、誰でもいいから殺すのです。

 哀しいことに、そういう日本人が、増えることはあっても、一向に減ることがないのです。
 つまり日本人は、勝ち組にしても、ほんとうに魂の成長もなく、自立した歓びになく、弱者もまた、自立した歓びもなく、誇りも失ってしまったのです。 

 一見、健全にも見える有名人や、知識人も多くなったようには見えますが、そういう、かれらの栄光も、ほんとうの、魂の成長から来た栄光など知らない人も多い、ということです。
 見せかけだけの栄光。
 蛍の光ほどの自家発電さえできない、借り物の栄光でしかない、ということです。
 そういう栄光は、とうぜん、高齢者になっては、まったく役にも立たず、ましてや、「あの世」では、光るどころが、闇を造る人間となってしまいます。

 人生の知恵。
 魂から湧き上がった知恵と愛。
 そういうものがないがゆえに、闇を造るほかないわけです。
 たとえ、ノーベル賞をもらうほどの栄光をもってあの世に行っても、そういう、人の評価によって手にした栄光というものは、あの世では、線香花火ほどの栄光にもなりません。この世に迎合し、人からの評価によって手にした栄光というものは、紙くずが燃える程度の光でしないので、当然、あの世では、闇の中でさまようものとなります。


 4 真の向上心というもの

 そういうことです。 
 栄光にも、永遠に輝き続ける栄光と、線香花火のような栄光もある、ということです。
 昨今の財務省の官僚のような、公文章の改ざんまでして「守ろうととしている」栄光というものは、それゆえに、だれの眼にも、「おべっか」の栄光というものです。

 また、そういう官僚の裏工作によって、政権を維持しようとして、そういう部下の行動を厳しくいましめて、上司である責任を痛感することもなく、口先の反省で事を済ませようとする政治家というものは、やはり、魂の向上もあり得ないわけです。
 そういう内閣が勧める道徳教育というものは、とうぜん「的外れ」ですから、与党内の政治家にしても、別の行動を起こすべきなのですが、それをしないわけです。

 彼らもまた、魂の自立を恐れているわけです。
 誰かの出方に従おう、などと想っているようです。

 「おべっか」というものは、そのように閉鎖的であるということです。
 閉鎖的でいるということは、魂の世界では、まったく進歩はあり得ないということです。
 閉鎖的の世界では、権力争いをするほかない、ということです。
 ひとりのだけの良心による戦いを、全く捨てた世界だということです

 そういうことです。
 それ故に日本的な愛国心にしても、それは国をよくする愛国心ではないのです。国家によって我が身を守ってもらうための、愛国心であるから、彼らは、外人を嫌うのです。

 外人を排斥するということは、同じ国の日本人のなかのあるものでさえ、日本人である生きる権利さえ認めない、ということになるわけです。
 そういう愛国心の問題点に気づかないということ。
 それが怖いわけです。

 真の愛国心、真の魂の向上心というものは、この世的な、狭い国だけに執着しないものです。
 むしろ、隣人、隣国をも守る心こそは、ほんとうの愛国心なのです。
 それゆえに、国家が保護主義に走り出すと、そういう国は,そのうち酸欠状態になります。
 狭い権力争いのなかにいると、自分の心まで狭くしているわけですから、心そのものが、外部の空気でさえ自分の中に入れないようにするわけですから、そのうち酸欠状態になってしまうわけです。

 そういう事になってしまえば、もちろん、元も子もなくなってしまいます。
 心が一か所に執着すれば、どうなるでしょうか。 
 それは血流でさえ止めてしまうのです。それゆえに、だれだって病気になってしまう。
 そういうことです。
 それ故に間違った愛国心、つまり、日本しか愛せない心になってしまったときには、そこで日本もまた亡ぶことになります。
 
 「おべっか」というものは、そういうわけで、自分を大事にしたつもりが、自分の世界さえ、そのうち亡ぼしてしまう、ガン細胞のようなものです。
 ガン細胞というものは、健康の細胞を食いつくしたときが、自分が消滅するときであるように、日本的な愛国心というもの、おべっかの心というものも、そのように危険である、ということを、日本人は、もっと真剣に、まじめに、受け取り、反省してほしいわけです。

 

 



 

第四章 あなたの「愛国心」が日本を亡ぼします。

 
 日本人の愛国心を知っていますか。
 日本人はだれかをいじめることで、生き延びてきました。
 なんでもひとつにならなければ「いじめる」のです。
 悪に同調しなくても、いじめるのです。

 それが日本の愛国心だということです。
 つまり日本人は、「しつけ」という名目でいじめてきたのです。そういう歩みの繰り返しをやってきました。
 その果てに、どういう世の中ができたかといいますと、道徳的で、愛国心のあるものほど、排他的になり、同時に優越感をもって、友人の少ないものをさらにひとりぼっちにして、いじめてきたのです。

 日本的な「和」をもって、弱者を、「のけもの」にしてきたのです。
 そうして、過日、19人の知的障害者を殺した犯人にしても、道徳的な家庭で育ったものでした。これこそが、正しく日本的な、愛国心からでた殺人事件でもあったわけです。
 日本的な平和をめざしながら、弱者を殺す。
 そういう愛国心が、いまだに日本人の中に巣くっています。

 つまり、そういう愛国心というものは、やはり、天地創造の神の愛を知らないから、そういう愛によって殺人事件まで起こすことになったわけです。
 キリストのいうところの、
 -真理はすべての人を自由にしますー
 というときの真理は、すべての人を大事にする真理でしたが、いじめる者にとっての真理とは、自分たちの優越感を満足させるだけの真理であったわけです。

 それゆえに、かれらにとっての愛国心もまた、弱者を救う真理ではなく、誰かを犠牲にするための「真理」となったのです。日本では、真理にも、こういう死人を造る真理もある、ということです。
 それゆえに党派心からでた愛国心は困るわけです。
 かれらはいつも、日本のため、神明に誓って、平和のために、という名目で殺人を犯すのです。

 しかし、天地創造の神や、すべてを生かす真理というものは、優越感とか、人間の「わがまま」で守るものではありません。
 太陽をいつ人間が守ってあげたのですか。
 神も真理も、守られるためのものではなく、ひとりひとりが体現するものなのです。
 天地創造の神は、人間が放っておいても、創造を続けます。
 真理がすべてのひとを自由にするのであって、有力者の力で真理を独占して、犠牲者を造るような真理は、生きた真理ではなく、死んだ真理というものです。

 真理とは、分け隔てなく、すべての人を自由にします。
 本当の真理は、すべての人を分け隔てなく大事にします。
 愛します。それ故に、真理によってすべてのひとが自由になるのです。
 それゆえに政党とか宗派が作った、党派心から来た愛国心というものは、日本を生かすのではなく、日本を滅ぼすことになります、その具体的な困った信仰というもの。間違った愛国心、信仰というものを、参考までに、いくつか記しておきます。


 イ 「頂上に着く道はいろいろあります。それゆえに日本教の寛容の愛国心がいい」
   という間違い。

 こういう主張は、いかにも良識的な信仰の意見です。
 物分りのいい人は、頂上に行く道はいくつもあるから、ということで、日本人はいつのまにか、多神教の神々の世界のなかで、こういう「日本教」を造ってきました。
 
 しかし、様々な神を認めるわりには、日本の愛国心は、寛容ではありません。党派心しか愛せないのです。
 心そのものが閉鎖的になってきました。

 そこでキリスト自身は、
 「わたしは、山頂への道ではない。
  わたしそのものが、道そのもの、真理そのもの」
 と言いました。

 そこではっきりいいます。
 天国とは、創造の世界のことです。
 敵でも愛する世界です。
 自分たちだけの平和のために生きる道ではなく、自分の悟りのために、山頂を目指しても、意味はありません。
 山頂を目指すとき、自分の重荷を背負いきれない人がいたら、その重荷を背負って山頂を目指したものが、ほんとうの天国に入るのです。

 ましてや、自分の罪さえ反省もしないで、誰かを蹴飛ばしながら山頂にいくもの、自分だけの悟りを求めて山頂を目指したものは、いつも誰かを押しのけ、誰かを見捨てて山頂を目指しています。
 キリストは、そういう人を戒めるために、
 「自分の十字架を背負ってわたしについてくるものは、幸いである」
 と言いました。

 十字架を背負うとは、自分が罪人であるという自覚があるということです。
 つまり「罪に死ぬ」ために山頂を目指しているものだけが、救われる、というそれは意味だったのです。
 同時に、罪意識のあるものは、同じく罪に苦しんでいるものの気持ちもわかる。
 そうして、共に十字架を背負うことになる。
 というわけで、罪に死んだ時点で、そこが天国に変わる、というそれは意味でしたのです。

 困っているひとの重荷を背負うと、そこが天国に変わる、ということ。
 それゆえに、自分だけの瞑想のなかにいて、他人の重荷を背負うことを嫌うものは、まだ自分の罪に死んではいないのです。
 そういう人は、当然、山頂には誰よりも早く到着しますが、そういう山頂には、救はない、ということです。
 
 それどころか、自分の罪にも気づいていないひとは、自分の重荷をひとにも押し付けてきたわけですから、つまり、弱者にはいつも、重荷を背負わせて山登りをしてきたわけですから、それは当然、天国への道にもならないわけです。

 日本の総理はどうでしょうか。
 安倍総理にしても、拉致家族をずっと、見捨ててきました。自分がようやく勝ち取った政権を維持するために。
 その政権が「あやしくなった」ことで、いかにも拉致問題の関心があるようなふりをしてきたのです。これが「お友達内閣」というものの本質です。
 これが彼の愛国心だったのです。

 また、日本的な、瞑想して悟りを開いている宗教家なども、一度も人の重荷を背負ったことはないはずです。
 はっきりいいます。
 どれほど深く心の奥を探っても、真理などでてきません。
 自分の罪に死んだときだけ、真理に出会うのです。

 瞑想とか日本的な道徳を守ったくらいでは、それゆえに天国に入ることはありません。
 それどこころか、日本では高学歴なひとほど、つまり勉強すればするほど利己的になっています。
 なぜなら、そういう勉強家は、真理を求めているのではなく、出世するための、競争に勝つための、あるいは政権を奪うための真理しか求めてこなかったから。
 そういう勝ち組というものは、ほかの人に、天国とか出世を譲るような勉強などしていないから、そういう人が政権を持てば、当然、天国でさえ、争いの場となってしまいます。


 ロ 「日本的な文化を守るために、外人を入れないようにしよう」という間違い

 たしかに日本的な文化も。いまでは世界でも認められるようになりました。
 そうして、確かに日本は、経済大国にもなりました。
 技術的科学的水準を高くなりました。

 しかしそのあとどうなってでしょうか。技術大国になり経済大国になって、心も豊になったでしょうか。
 道徳心も豊かになって、生きる歓びを手にしてきたでしょうか。
 高齢者はどうなったでしょうか。どこに魂の輝きがみられるでしょうか。

 若者にしても、結婚を避けるもの。
 「ひきこもり」も多くなっています。
 そうして高齢者の年金にすがるようになっています。
 
 たしかに日本人なら、日本的な文化によって癒されることはあります。経済的貧国となってなってしまえば、世情の不安になることもあります。恒産あっててこそ、恒心もついてくる、ということも一理あります。
 また、音楽、絵画、彫刻によって、心は落ち着くことはあります。

 しかし、心が癒されるだけで、魂に成長がなければ、どうでしょうか。
 ほんとうの救いとはいえません。
 魂が成長するには、罪のままでは成長はあり得ないのです。偽証を続けている官僚に、政府与党に、どういう魂の成長があるでしょうか。

 魂の成長には、自分の罪に気付いて、その罪に死ぬことが、必要不可欠なのです。自分の罪を被害者から許してもらってこそ、魂は成長しますが、官僚や政府与党にしても、国民の前で偽証を続けているだけです。

 罪に死ぬということは、それまで蓄えた文化的なもの。
 物質的な富。
 そういう利己的な心から集めてきた文化的なものをすべてを捨てることが、罪の死ぬということになります。
 それゆえに、金持ちが救われることは、らくだが針の穴を潜り抜けるよりも難しい、とイエスさまも言われたわけです。

 日本的な、文化的知識,教養にしてしても、そういうものでいっぱいの心には、世界を受け入れる心などなくなるのです。神も天国もキリストも入り込むスキもなくなっています。
 そういう日本人に、どういう未来が拓かれるでしょうか。
 ウツになり、認知症になって死ぬほかなくなります。
 そういう死に方をして、死後、どういう平安があるでしょうか。

 つまり、日本では、文化的であるがゆえに、救われにくいところも多い、ということです。
 もちろん、権力と金しか関心のない政治家にも天国はあるでしょうが、そういう天国、つまり強者だけの天国では、あの世になっても足の引っ張り合いとなるだけです。


 ハ 「原罪などない。日本人は善人だ。日本には日本の神がある」
   という間違い
    
 聖書では、罪の報いは死、ということになっています。
 そして人間は、みな最後は死んでいます。
 どこの人間でも死んでいる、ということは、人間そのものが、罪を犯しているから、と聖書ではいいます。
 日本人でも死んできたのだから、原罪という罪を先祖から受け継いできたはずだ、というわけです。

 いかがでしょうか。
 そういう人類共通の罪を。聖書では「原罪」というわけです。
 財産があろうとなかろうと、文化的素養があろうとなかろうか、すべての人は、みな死ぬ。
 日本人にしても、死の前では、ひとつの、チリのような人間でしかないわけです。

 アダムが罪を犯したとき、神はいいました。
 「あなたはチリによって作られたので、チリに帰る」

 そういうことです。
 罪人というものは、死ぬほかない存在だというわけです。
 また死ぬことになっているものはみな罪人だ、ということです。
 しかし、どうせ死ぬのだから、ということで、すべての努力を放棄することは間違っています。

 イエスさまは死ぬことで、復活しました。そして、ようやく弟子から認められて、キリストと呼ばれるようになりました。
 そうして、イエスさまはキリストになったわけです。
 それ故に、どうせ死ぬほかないのであれば、復活のために死んだからどうですか。
 原罪を認めたらどうですか、とキリストは言ってきたのですが、日本では進歩的文化人とか敬虔な宗教家ほど、原罪を認めない傾向があります。

 それでいながら、日本人ほど、みじめな死に方をするものはないのです。
 なぜなら、自分の罪を認めて、この世の人生の清算をしないから、そうなってしまうわけです。
 だから、死ぬ前に、自分の罪に死んでおきなさい。
 そうすれば、罪の清算が終わった者には、復活の希望もでてくるから、そうなると、死もまた、復活するための死となるので、臨終において、みじめな死を迎えることはなくなる、と、キリストは言います。
 なぜなら、罪に死ぬことで、真理を知ることになり、
 「その真理が、その人を自由にするから」
 ということです。


 ニ 「全知全能の神は、不変であるが、日本も日本人も不変である」
   という間違い

 このように思っているのは、日本人だけではなく、一神教の神を信じてきたユダヤ教徒も、キリスト教徒もまた、そのように信じてきました。

 しかし、「天地創造」の世界にも、奇蹟があって、天地もまた奇蹟によって、新しくなる、ということです。

 「新しい天」というときの天というもの。
 新しいということ。
 新しいものはそれまで存在していなかったものです。
 それゆえに新しい天もまた新しい神によって創造されなければなりません。
 神でさえ新しくならねば天もまた新しくならねばならない、ということです。

 それゆえに神であったキリストにしても、人間イエスとしてこの地上に誕生した。
 これが聖書の革新的なメッセージでした。
 神が人間となることなど、それまでのユダヤ教徒には想像もつかないことでした。
 それゆえにかれらは、ユダヤ教に指導者たちは、率先してキリストを殺しました。
 神でないものが「わたしは神のひとり子である」といったから。

 しかしイエスさまは殺されてもひるまなかった。
 新しい神とは、そういう存在であったから。
 神であり人である存在出会ったから、これほどの自由はなかったわけです。

 そういうことです。
 キリストのいうところの、
 「真理があなた方を自由にする」
 という言葉の意味は、神でありながらひとである。
 そういう存在になったものだけが、真理というもので、そういう真理が、当人だけでなく、ほかの人をも自由にする、というそれは意味だったわけです。

 つまり、同じ日本人にしても、キリストのように、天地創造の神の子でありながら、同時に日本人であるような、そういう「新しい人間」になったものだけが、風のように自由な人間になる、そういうひとだけが、世界の平和を造る。
 
 そういう人々によって、新しい天国もできるようになる。
 そうなってほしいから、天地創造の神もキリストも、聖霊という、これまた新しい霊を用意したから、その聖霊を日本人に送るから、その新しい聖なる霊によって,日本人も新しい国を造ってほしい。
 というのが、キリストのメッセージです。

 もちろん 新しいひとを造るということは新し心をつくることでもありました。
 新しい神はひとりひとりの心に聖霊を注ぐことにした、ということです。
 聖霊を注ぐとは、新しい神が新しい人とひとつになることを意味していました
 ということは、新しい天と新しい地も、もはやふたつの存在ではなく、ひとつの存在になるということを意味していました。
 それ以外に、日本の将来に、どういう再生の道があるでしょうか。
 じっくり吟味してみてほしい、ということです。


 ホ 「働かざるもの食うべからず」という間違い

 これまでの天と地も、神に創造されたものでした。しかし新しい天と新しい地は、さらに新しい創造のはじめでした。
 そのために必要なことは、勤労というものでした。
 それゆえに、新しい天を目指すものは、キリストがそうであったように、すべての弱者を救うために、自分の安息日でも隣人のために働き、今も働いている、ということです。

 つまりキリストによれば、勤労の働きのないところには、平和も天国もない、というそれは意味でした。
 そして、日本人にしても、
 「働かざる者、食うべからず」
 というきました。
 そうして、日本人は、食事のとき、かならず家長がそういう訓示を口にしていました。

 そうしてある家庭で、夫が妻の言動に腹を立てて、言ったのです。
 「おまえは、誰に食わしてもらってきたのだ」

 そこで、その夫婦は離婚と相成りました。

 つまりキリストの望む新しい人間とは、勤労の歓びによって、天国を支えるものであったわけですが、同じことを日本人がいうと、こうして地獄を造ることになったわけです。
 
 これまでの日本人は、汗水ながして、ようやくわずかなものを手に入れるという、過酷な労働で生き延びてきました。
 それゆえに日本人みな、生きるために苦しみました。
 それでも、ほとんどの日本人は、その苦しみに耐えてきた。
 そしてとうとう一切の労働から解放されることを願うようになり、天国とは、そういう一切の苦労から解放されるところと考えるようになりました。

 苦しみもなく病もなくストレスもないところ。
 なにひとつ働くこともなく、すべてを神が用意してくれるところ。
 そういうところが人類の天国だと信じてきました。

 しかし、キリストだけは、新しい天国でさえ、真理によって造るものとなったわけです。
 その真理とは、勤労の働きのことでした。

 そしてそういう天国を造る方途として、キリストはあらゆる奇蹟を起こしました。
 生まれながらの盲人の目を開けた奇蹟。
 遠隔地にいる病人の病を癒す奇蹟。
 難病を癒す奇蹟。
 湖上を歩く奇蹟。

 しかしそれらはすべて、ひとりひとりが、自分の新しい信仰と真理によって新しい天国を造るためのものだったのです。
 つまり、キリストが真に望んだことは、奇蹟を起こしていのちを癒すことではなく、日本的な苦しい勤勉ではない、新しい勤勉の歓びを人間に与えることでした。ひとりひとりが、イエスがキリストであったように、ひとりの人間が神の子の自覚をもって、勤労の歓びによって生きる人間に生まれ変わることでした。

 経済大国、技術大国だけでは、日本人の心が満たされることはない。
 魂の成長を優先する、新しい人間となって、新しい天国さえ造る人間になることが大切である。
 
 つまり、いのちそのものが新しい世界では、古いいのちの病気を癒すことは、ごく初歩的な奇蹟だったのです。
 神が人間となったように、聖書に書かれた奇蹟はみな、神の子となる新しい人間の出現の予表であった。
 ほんとうの奇蹟とは、魂が自由に成長する、そういう人が誕生することでした。

 つまり「人の子」として生まれたものが、天地創造の「神の子」になること。
 勤労の歓びを知り、隣人のために、味方だけでなく、敵のためにも生きがいとなる人間。
 風のように自由に生きる人間。
 そういう新しい人間となることが、キリストが望む、新しい人間の本質でした。

 自由とは、一切の労働から解放されることではなく、愛という労働のなかに存在すること。
 勤労の歓びによって新しいものを産みだすときだけが、ほんとうの自由である、ということです。
 つまり魂が成長しているときだけが、魂が自由に輝いている、ということです。
 魂が自由に成長を続けているときが、そこが、永遠のときであり、永遠のいのちの世界であるということ。

 そういうことです。
 殺すものが生かすものと変わる奇蹟。
 そういう奇蹟を起こすものが、未来を創造する愛であり、そういう愛を神の愛と言って、キリストの信仰とは、そういう神の愛に生きることでした。
 「働かざるもの食うべからず」という真の意味するところは、勤労という働きが、妻を追い込むための勤労ではなく、共に生きるための、平和を造るための勤労であったわけです。
 
 ただ、モノとしての食事ではなく、神の真理を食べる勤労であったわけです。
 この世のいのちだけでなく、「永遠のいのち」に生きるための食事のことを、キリストは、勤労の歓び、とか、天地創造の神の愛、とも言ったわけです。
 
 以上です。
 日本的な愛国心はしかし、モノであって、霊的な真実はない、ということです。
 日本さえよければいい、という排他的な愛から出た心であるがゆえに、困るわけです。
 過日のサッカーのワールドカップの監督のような、日本的な愛国心から出た戦術は、それゆえに、困るわけです。
 いずれ、日本も日本人をも、酸欠状態にして、亡ぼしてしまうような愛国心によって勝ちとった栄光は、ほんとうの栄光にはならない、ということです。
 

                                    


第五章 「神の愛」があなたを癒します

    
 1 「神の愛」を目指す奇蹟というもの

 奇蹟というものは、人間の世界では不可能ともおもえることが起きて助けられたとき、われわれはそう呼んできました。
 それゆえに、医学ではとうてい治る見込みもなくなると、ほとんどのひとは神仏に手を合わせたくなるわけです。

 人間の手に負えなくなると、だれでも奇蹟を待つはずです。
 しかしなぜか、奇蹟を夢見ることもなく、最後まで生き方を変えずに、自滅していていく、そういう愛国心も日本にはあるようです。いまだに日本人は、先進国の中では珍しく、キリストに関する限り、「世界の秘境の国」ということになっています。

 そういう日本人に対しても、キリストはいいます。

 - 武力による平和づくりではなく、
   隣人隣国を責めるのではなく、
   隣人、隣国を愛する神の愛に生きる新しい信仰をもちなさいーと

 しかも、そのキリストは、ご自分が奇蹟を起こして難病を治したあとでも、
 -わたしが奇蹟的にあなたを癒したのではない。
  あなた自身の 神の愛を生きる信仰が、あなたの病を治したのですー
 といってきました。

 つまりキリストは 奇蹟を起すのは、神でもなければ天使でもない。
 わたしイエスでもない。
 あなたの信仰が、神の愛を信じたものであったので、あなたを癒したのです、というのです。
 もし、自分の人生がうまくいかず、人からの評価でしか生きることができないひとがいれば、新しい信仰を持ちなさい。
 自家発電をするような、唯一絶対な生き方を知りなさい。
 というそれは意味でした。

 つまり、キリストにしても、ほんとうは、ご自分のふるさとでは、ほとんど奇蹟を起すことができなかったのです。
 神の愛を知らない、信仰のうすいところ。
 間違った、ご利益信仰。
 そういうひとの前。
 そういう状況のなかでは、病気ひとつ治せなかったのです。

 そういうことです。
 キリストは、日本人のためにも、奇蹟を起こして救いたいのですが、新しい信仰がなければ、天地創造の神の愛を知らない世界では、キリストでさえ奇蹟を起こすことはできない、魂の手助けもできないから、自分自身を癒す信仰を知りなさい、といっています。

 つまり、日本の社会では、新しい人間になりたくても、それを拒否する信仰がある、ということです。新しい自分にならうとはおもわないで、自分たちだけのご利益信仰によって、昔のままでいい、と言って、自分の魂も日本も、新しくなる信仰を知らないのだ、ということです。
 そういう世界では、いじめのあるところでは、永遠にいじめをやめることはない。
 不倫も文化であると言い張る世界では、永遠に不倫を続け、新しい平和を造ることはない、ということです。

 そういう古い皮袋の中に、新しいぶどう酒を入れても、新しい皮袋に古いぶどう酒を入れても、意味がない。
 日本人はいまもそういうことをしている。
 それゆえに、やはり神も仏も奇蹟など起さないし、そういう、奇蹟を起こさない信仰の世界にいるがゆえに、当然、たとえ長寿国になっても、その長寿もまた、ウツになるか、認知症になってしまう。
 そういう終末を迎えることになってしまえば、あの世も、どうなるでしょうか。
 
 おもえば、昨今の通り魔による殺人事件。
 登下校の途中で小学生が殺される事件。
 罪のない「赤ん坊」が、実の母親に殺される事件。
 そういう事件を、未然に防いだ神も仏もいなかったはずです。

 ヒトラーが、ユダヤ民族の撲滅を図り、何百万のひとをガス室で殺したときも、それを未然に防いだ神も仏もいませんでした。
 ただよわいものがいつも、殺されるだけです。
 新しい神の愛を知らない信仰の世界では、神はいつも沈黙を守っているだけだったのです。

 なぜでしょうか。
 日本人はいまも、神は全知全能というのですが、神には不可能はない、ともいうのですが、全知全能の神でさえ、神の愛を信じる信仰のないところでは、世界の平和ひとつ造れないのです。
 できないのであれば、それもいたし方もないのですが、なんでもできる、全知全能の神に不可能はない、といいながら、その天地創造の神でさえ、愛のない信仰の世界では、殺人事件ひとつ防げない、刃傷事件ひとつ防げない。
 そういうことです。

 何度も言うほかありません。
 これはかなり重大な問題です。日本人の信仰に原因があるのだ、とキリストは言うわけです。

 再度言います。
 天地創造の神は、日本も造り、日本人も創造したという神は、愛であると聖書ではいっています。
 つまり、天地創造の神は、どういう小さないのちにもやさしく、どういう小さな痛みも癒す神、ということになっているのに、そういう悲惨の事件でも、なすすべもなく見つめているだけになるほかないのは、神もキリストも、日本では誰ひとり救えないのは、日本人に、神の愛を信じる、新しい信仰、奇蹟を起こす信仰がないからだ、ということです。

 日本人は、神々もいて、仏もいるのに、それでも、いじめ一つ「なくす」ことができないのはなぜか。
 いじめをなくす勇気さえないのはなぜか。
 天地創造の神を知らないからだ。愛である神を信じないからだ。
 とキリストは言います。

 
2 「キリストはめぐみとまことのひとであった」

 そういうわけで、キリストによれば、病気なども神が救うのではない。
 「神の愛に生きるあなたの信仰があなたを救うのです」
 ということです。

 またキリスト自身は、
 「真理」(まこと)があなたがたを自由にします、とも言いましたが、さらにキリストの弟子の証言によれば、
 「天地創造の神は、愛(めぐみ)であった」
 ということでした。

 ごく一般的にいえば、「まこと」という真理というものは、中立であるから、えこひいきはしないはずです。
 しかしケンカの仲裁には入るはずです。
 なぜか。「まこと」という真理の世界はいつも、「めぐみ」である天地創造の神と「ひとつ」であるから、ということです。

 それゆえにキリストはいったわけです。
 「真理があなたがたを自由にする」

 自由にしてくれる。自由になる、しがらみの世界から自由になる。
 もし、そういう「真理」があれば、どうでしょうか。
 おもえばこれほどの希望があるでしょうか。
 人間関係からも、難病からも、運命からも、宿命からも、さらに死からも自由になる。
 それが真理の仕事だ、というのです。

 神や仏が、すべての不自由から解放してくれるのではない。
 「真理があなたがたを自由にする」
 といっているのです。

 つまり日本人を救うのは、真理の「ことば」であり、日本的な神でも仏でもない、ということです。
 弱いものが殺されそうになっても、日本の神も仏も助けてはくれない、ということです。
 それゆえに、キリストは言うわけです。
 -日本人よ、
  真理にめざめなさいーと。

 「めぐみ」という愛と「一つ」になった「真理」に目覚めなさい。
 そうすれば、「いじめ」の仲裁にも入れるようになる。
 これこそが未来を切り開くカギだということです。

 それゆえに、自分の運命を呪っても意味がない。
 神とか仏にすがりついても、意味はない。
 もちろん国に、会社に、すがりついても、だれも助けてはくれない。天皇陛下の国になっても、新しい自分に生まれ変わることはない。
 自分を解放してくれるのは、神の愛を現す「真理」である。

 そういう真理とはどういうものか。
 それこそが、自分の心を縛っているもの。
 体を縛っている病。
 そういうものから解放するものが、あなたの信仰である。
 病気から解放されるのは、あなたの信仰による。
 魂が救われるのも、神の愛を信じる信仰によるのであって、神でもなければ仏でもない、ということです。

 生まれつきの盲人の目が開くのも、心的な病からも解放されるのも、人間関係のストレスから解放されるのも、魂の世界までも自由にしてくれるのも、神でもなければ仏でもない。
 真理そのものがあなたを自由にする。
 天地創造の神の愛を実践する信仰。
 それをキリストは、「真理」と呼んだわけです。

 そこで整理しておきます。
 すべての個人的な未来は、信仰によって、真理によって開かれるが、対人関係の殺人事件には、神も仏もかかわりをもたない、ということです。
 もちろん、どういう真理でも信仰でもいいわけではありません。
 宗教宗派の真理とか、日本人の信仰では、誰も自由にしてはくれない。
 だから、まず新しい人間になって、新しい信仰に目覚めなさい。
 新しい真理に目覚めなさい、ということだったわけです。


 3 「サウロ。サウロ。どうしてあなたはわたしを迫害するのか」

 高校の世界史などの教科書では、キリストは、シャカ、孔子、ソクラテスのような偉大な聖人のひとり、ということになっていますが、キリスト教徒だけは、キリストのみが神であったと信じています。

 貧困からも解放してくれるもの。
 難病を治すもの。
 そういうひとはほかにもいますが、キリストそのものが、
 死から解放してくれる。
 復活させてくれる。
 というそれは意味でした。

 つまり、キリストの言うところの、自由とは、死からも自由になって、死んでも死ななくなり、
復活という希望を人類に与えてくれたのは、キリストだけだった、というそれは意味だったわけです。

 本当の自由とは、病からいやされるだけではだめだ。
 貧困から解放されることだけではだめだ。人間が新しい人間になる。
 それ以外に救いはない。
 自由はない。
 というそれは意味だったわけです。

 死から解放された、永遠に生きる「いのち」を受けたときだけが、ほんとうに自由というものだ、ということです。
 そうなってくると、殺されてもまた復活するわけですから、たしかにそういう人間になれば、どういう敵でも恐れることはなくなります。
 貧困の後、たとえ餓死しても、また復活するのですから、貧困も怖くはなくなります。
 いじめをうけても、もはや、気にもならなくなるわけです。

 パウロというひとは、はじめはキリストと「その弟子」を迫害していました。。
 そのパウロが、そのキリストを伝えるものとなったのも、奇蹟というものでした。
 なぜパウロはそういう回心をしたのか。
 それこそが、パウロは復活のイエスに出会ったからでした。本当の真理というものを知ったからでした。真理という信仰に出会ったからでした。
 そういう、真理という信仰こそが、実は、復活のキリストであったわけです。

 その日もパウロは、キリスト教徒を迫害するために、ダマスカというところに出かけたのですが、その途上で、天から、
 「サウロ、サウロ、あなたは何をしようとしているのか」
 と声をかけられたといいます。

 サウロとはパウロの本名でした。
 そういう奇蹟にであって、パウロも回心するほかなかったわけです。
 それまでのサウロにも、信仰がありました。
 天地創造の神を信じた敬虔なユダヤ教徒としての、それは、先祖伝来の信仰でした。
 しかし、パウロはそれまで、神からも天使からも、天から声をかけられたことはなかったのです。
 パウロにとっては、それは、それまでの常識には「ありえなかった」出来事だったんでした。
 だから信じるほかなかったのです。

 ところでパウロはなぜイエスさまをキリストと信じたのでしょうか。
 何を信じていたのか。
 何を望んで。
 それまで迫害していたキリストになぜ、従うことにしたのでしょうか。
 パウロにとってキリストは、当初はあくまでもひとりの人間であり、それもペテン師のような人物でした。
 ユダヤ教徒の神を冒涜する人間でしかありませんでした。
 それゆえにパウロは、キリストの死後も、キリスト教徒を、いのちをかけて迫害していました。

 しかもパウロは、家柄もよかったのです。
 ベミヤミンというユダヤの十二部族のひとつの子孫だったのです。
 これほどのエリートはなかったうえに、そのうえパウロには、いまでいう最高府の学歴もあり、しかもローマ市民権までもっていたのです。
 そのころのユダヤ地方は、大帝国ローマに支配されていたのに、それでもローマ市民権のあったということは、パウロは、ローマの法律からも守られていたわけです。
 裁判を公正に受ける「権利」さえもっていたのです。

 しかしイエスさまには、人間的に誇りうる家柄はなく、大学教育も受けていませんでした。
 生まれたのも馬小屋でした。
 十二歳のとき成人式を迎えましたが、そのあとは大工の仕事をしておりました。
 どこの面を比較してみても、人間イエスのなかには、パウロの靴のヒモを解く値打ちもないものでした。
 そういうイエスに天から声をかけられたからといって、どうしてパウロは、イエスをキリストだと信じることになったのでしょうか。


 4 「人生になくてならないものは、愛と信仰と希望である」

 サウロがパウロとなったあと、パウロはだれよりも勤勉に伝道しました。
 地中海の東半分を、徒歩であるいは船にのって、伝道しました。
 驚くべきそれは、おそるべき伝道航路というものでした。

 そして、その結論としてパウロは、記すのです。
 -人間になくてもならないものは多くはない。
  三つある。
  その三つとは、
  愛と信仰と希望である。

 といいはじめたのです。
 それまでのパウロにとっての神は、聖なる神であり、聖なる神とは、どういうささいな罪でも見つけて、裁く、怖い神だったのです。
 ところがイエスをキリストと信じるようになって、その怖くて厳しい聖なる神が、愛なる神に「変わっていた」のです。
 同じ神が聖なる神から愛なる神に変わった。

 そういう体験をしたことで、パウロは、人間になくてならぬものは信仰として希望であるが、一番大切なことは、神の愛であると知ったわけです。そうして、
 ー愛がなければ、どういう信仰もむなしい。
 ー愛がなければ、どういう希望もむなしい。
 という結論に達したわけです。

 つまり、キリストが言ってきた、信仰も真理も、それは、自分を愛するように隣人を愛することである、というそれは意味だったわけです。
 パウロそのものは、そういう新しい人間になったわけです。
 おもえばこれほどの奇蹟はありませんでした。

 それまでも神は、聖なる神でしたので、信者といえども、いつ裁かれるかわからない怖い神だったのです。
 それゆえにパウロもまた、天地創造の神の前でいつも、ビクビクしていたのでしたが、キリストを信じる信仰によって、天地創造の聖なる神は、ほんとうは裁く神ではなく、許す神。
 つまり「めぐみ」の神に変わったわけです。
 キリストの信仰によって。

 その信仰によって、弟子たちが、神の愛を知ることになったわけです。
 さらに、
 「イエスは 復活した」
 などといって伝道を始めたのです。
 そういう弟子たちを迫害するために、神からの使命感と情熱で、ダマスカに向かっていたときに、復活していたキリストに呼び止められたわけです。
 そうして、サウロからパウロに生まれ変わったのでした
 それこそが、復活という希望を受けた最初であったわけです。

 その復活の希望をもったことで、愛とはキリストの父の愛であり、信仰はキリストの信仰であり、希望とは、復活を実現する聖霊の働きを表すものだ、とパウロは確信したわけです。

 繰り返します。
 加害者の罪は、被害者は許してくれてはじめて消えます。
 被害者が許してくれるときとは、加害者が処刑されることではありません。
 加害者が死刑にされても、どの遺族の心も、晴れることはありません。
 ただ被害者が復活すれば、遺族だって許してくれます。
 そうして加害者の罪は消えるのです。

 そういうことです。
 ですから、そういう復活が、ほんとうにありえることかどうか。各自でまた、自分のからだを使って実験してみてください。
 復活もまた、体験してみるほかありません。
 宗教宗派の中で安住することなく、日本教という世界で、いじめ一つ直せない日本人であり続けるのではなく、パウロのように、復活する歓びを知ることで、、死んだはずのキリストに出会うことで、霊的に死んでいた人間が、復活する体験を持つほかに、どういうほんとうの希望があるでしょうか。
 そのためにはやはり、復活のキリストそのものに会えたい、と思えばいいわけです。そこから、新しい人生が始まる。
 天地創造の神の愛知りたいという心が、新しい信仰の始まりとなる、ということです。
 
 その信仰によって、自分自身を癒すものとなる、ということです。その信仰が、真理となり、キリストは、
 「真理があなた方を自由にします」
 と言い、そのときの「真理」とは、神の愛という「真理」であったわけです。
 そういう神の愛が、日本人を癒すことになる、ということです。
 
 

第六章 日本はモノづくりもいいが、神の愛を知る人間の国になってほしい


 1 「アブラハムの信仰によって、すべての民族が祝福されます」

 おもえばどうでしょうか。
 これまでの日本人の信仰とはどういうものだったでしょうか。
 こっそり、自分のご利益だけを求める信仰ではなかったでしょうか。
 プロ野球の選手のような、敵を打ち負かすための信仰ではなかったでしょうか。

 ところが、天地創造の神は、アブラハムという、イスラエルの先祖になったひとに約束したのです。
 -あなたが、わたしを信じるなら
  あなたの子孫だけでなく、ほかの民族のひとも、祝福を受けることになりますー
 と。

 つまり、日本人もまた、ほんとうは、アブラハムの信仰によって、天地創造の神によって祝福を受けるはずだったわけです。
 それゆえに、その天地創造の神を父と呼び、アブラハムの信仰を受け継いだキリストもまた、すべての民族の平安と平和のために、つまり日本人のためにもこの世に生まれた、ということだったわけです。

 ところが、そのキリストを、いまだに日本国民が受け入れてはいないようです。
 しかし思えば、初めは、弟子であったユダもペテロも、っキリストを裏切りました、そしてユダはそのあと自滅を望んで死にました。
 ところがなぜか、ペテロはそのあとも生き延びました。そして今ではイエスさまの第一弟子ということで、カトリックという巨大組織の宗教の礎という「栄光」のなかにいます。

 しかしペテロにしても、初めは、それほど自慢できるものではありませんでした。
 ペテロは生前のイエスさまが、わたしは復活する、となんども言われていたのに、それさえ信じることができませんでした。
 そこでイエスさまは、ご自分のほうからペテロに現れるほかありませんでした。その三度目の復活のときでした。
 ペテロはイエスさまの死後、伝道どころか、ふるさとの「ガリラヤ」に戻って再び漁をしていました。そのガリラヤ湖のほとりは、かつてイエスさまに見出されたところでした。そのときのイエスさまの言葉はこうでした。

 -わたしについてきなさい。
  あなたを、人間を捕る漁師にしてあげよう」(マタイ四-一九)

 ペテロは、人間をとる猟師とはどういうものか、そういうことさえ理解していませんでした。
 イエスさまが逮捕さえたあとも、理解できないまま、イエスのことなど知らない、と言いだし、十字架につけられたキリストに、惜別のあいさつさえしなかったのです。
 そうして とうとうキリストは、ふたりの強盗といっしょに殺されてしまいました。
 それゆえにペテロは、再び、魚を捕る漁師に戻るしかなかったのでした。

 ところが、イエスさまの約束は、そのあとも生きていました。真実な「ことば」とはそういうものでした。
 真実な「ことば」とは、一度口にしたものは、それが現実になる、実現する、というものでした。ペテロは復活さえ信じませんでしたが、それでもこうして三度までイエスさまのほうから現れたのは、イエスさまの「言葉」がすべて真実であったからでした。

 三度目に現れたのは夜明けのことでした。
 徹夜の漁でしたが、ペテロには収穫はなにもありませんでした。
 ところが、疲れて戻ってきた岸辺で、イエスさまがペテロたちを待っていたのでした。
 しかしペテロは、復活を信じていなかったので、その人がイエスさまであるとは思ってもいませんでした。するとイエスさまのほうが声をかけました。

 「子たちよ。何か食べるものはありますか」
 かれらは言いました。
 「ありません」
 するとイエスさまは言いました。
 「舟の右のほうに網をおろしなさい」

 ペテロたちは言われる通りにすると、網を引き上げることができないほどの魚がかかっていました。そのときでした。
 イエスさまが愛してやまなかった「弟子」であるヨハネが言いました。
 「あの方は主だ」(二十一―一~六)

 ヨハネのうほうは、イエスさまの「ふところ」にいつもいました。「ふところ」とはイエスさまに一番近いところでした。心のなかにいた、という意味でもありました。
 しかしペテロはイエスさまをいつも「外」から見ていた人物でした。
 こうして「ふたりの間」には天と地ほどの開きがあったので、復活の主に気づくときにも「差」がでてきたのでした。すべての人は神のなかにいますが、それでも、「信じた心」と「そうでない心」ではこのように「差」がでてしまうわけです。


 2 「さあ朝の食事をしなさい」

 人間にとって「食べること」ほど大切なことはありません。なかでも、天地創造の神の前で、わが師と同じものを食べること。
 これほどの光栄はありませんでした。

 イエスさまにしても、そのとき、「ひとりだけの食事」を嫌いました。生前もそうでしたが、復活した「からだ」のときもそうでした。
 ペテロたちが陸に上がったときには、すでにイエスさまは、炭火を起こしていました。パンも用意してありました。魚もすぐに焼け、イエスさまは言われました。
 「さあ、朝の食事をしなさい」
 もちろんイエスさまも食べました。

 いかがでしょうか。
 食事の準備までしてもらって、しかも自分の師に、
 「さあ食べなさいい」
 などと勧められれば、どうでしょうか。

 これ以上の生きる歓びがあるでしょうか。
 そういう無条件の愛を神の愛といい、神の「めぐみ」と言います。イエスさまは「めぐみ」と「まこと」に満ちた方(ヨハネ一―一四)だったと証言したのが、ヨハネというひとでした。


 おもえばどうでしょうか。
 この大自然は「めぐみ」そのものであり、その「めぐみ」によってすべての生き物は生かされています。人間が石炭石油を作ったのではありません。
 もちろん海も山も、そのなかで生きる動物も植物もすべて、つまり大自然もまた神の創造されたものでした。
 大自然はまた、大きな「真理」に支えられて「秩序」のなかにあります。なぜでしょうか。
 大自然は、「めぐみ」と「まこと」に満ちたイエスさまに造られたがゆえに、大自然が「めぐみ」と「まこと」に満ちているのだと聖書はいいます。

 自然があまりにも完璧にできているので、神などいなくてもいい、自然さえあればいい、と、無神論者はそのように言いますが、そういう人は、理性的ではあっても、また個人生活は自由かもしれませんが、神の「めぐみ」に感謝さえしていないはずです。ましてや、大自然から受けた「めぐみ」にも感謝することあはありません。
 感謝というものは、尊敬する人格のあるものに対する感情であり、心情であるからです。
 それゆえに、動物の世界がそうであるように、大自然の背後に、人格的な神を信じないものは、感謝することはないわけです。感謝どころか、大自然のものであるがゆえに、早いもの勝ちである、ということで、「ひとり占め」してきたはずです。

 かれらは、モノというものはすべて偶然の産物だとおもっていますので、モノの背後に神を見ないわけです。
 自然だけに感謝しないなら、まだいいのですが、人間でさえ物質的にしかみませんので、心でさえ、モノの法則でもって理解しようとします。それゆえに、永遠に理解することもないわけです。
 主義主張はしても、キライなものの心など平然と切り捨てます。

 日本人をみてください。
 いまだに「弱者」をいじめています。
 つまり、そういう人は決して「損をしない人、損をしたくない人」であるはずです。それゆえに、一方的に「与える心」すなわち「めぐみ」の心を棄てていますので、つまり「分かち合う」ことは決してしません。

 ところが、イエスさまは、自分のほうから食事の用意までして、しかも同じものを食べました。
 神が人間に、下男のように仕えたわけです。
 何故イエスさまはそういうことをしたのでしょうか。
 おそらく信仰のないひとには、こういう世界はまったく理解できないはずです。
 というよりも、そういうことはありえない、といって、荒唐無稽な話にしてしまうはずです。
 親の親切にしても、とうぜんなものだとおもい、わずかな不満があっても、平然と親でさえなじる。
 それゆえに、アカの他人のおとななどとは、すぐに敵対します。そうして、殺して見たくなったので、殺して見た、というような犯罪を犯しても、平然としている日本人も例外ではなくなってきたのです。


 3「幼子のようでなければ天国には入れない」

 子どもはどこの子でも、死ぬことを極端に怖がり、嫌いますが、それゆえに小さな虫でさえかわいがりますが、大人になると、こんどは、わが子でも虫けらのように殺すひともでてきます。
 親を捨てることなどは、いまではごく普通の現象になっています。

 いじめにしても、日本人は一向にやめる気配はありません。
 そうして相手が自殺するまでいじめるわけです。
 一方ではまた、死刑にしてもらいたくて誰でもよかったので殺した、という人もいます。
 もうこの世はうんざりだ、というわけです。そういう人は、自分自身を自分でいじめるわけです。

 また日本人のなかには、輪廻転生を信じている人もいて、なんども「この世」に生まれ変わりたいなどと思っている人も多いようです。
 もちろんそういう人もまた、人は死ぬものであるから、ということを前提にしています。 
 おもえばたしかに、人間はほんとうに死の前ではこのように平等ですが、死ぬまでは平等ではありません。遅く生まれて早く死ぬ人もいれば、障害者として生まれる人もいます。金持ちの家に生まれる人もいれば、家庭内暴力の家で生まれ育つものもいます。

 あるいは才能豊かに生まれる人もいれば、そうでない人もいます。
 平等であるのは、だれもが罪人として生まれ、それゆえに死ぬということ。
 そして死後「裁かれる」ということ。
 それだけであると聖書は言います。

 さらにおもえばどうでしょうか。
 誰もが死ぬということは、どういう不平等も、それはたいしたことではない、ということです。
 どうせいつかは死ぬほかない人間が、どれほど社会的地位を身につけても、最後は「チリ」となって死ぬほかないわけですから。
 そういう人生にどういう意味があるでしょうか、価値があるでしょうか。
 どうせまた、あの世で裁かれて、第二の死さえ待っているような人生に、貧富の差など知れたものではないでしょうか。
 才能があっても死ぬほかないのだから、その程度の才能など、それほど羨むこともないのではないでしょうか。

 しかも聖書によれば、だれもが「罪人」であるということ、それぞれの罪によって死後「裁かれる」ということ。
 才能があるものもないものも、「罪人」であることに変わりはなく、金持ちであろうが貧乏人であろうが、すべて「罪人」である、ということ。
 そして死ぬということ。
 これだけは公平で、等しく、すべての人間にかかわるものだといいます。

 しかし、それでも、人にはそれぞれに個性があります。
 個性のないひとはいません。
 それゆえに個性が違えば、使命も、その人の受ける栄光もまた、それぞれ違うということです。
 つまりそれぞれの栄光もまた、比較などできない、ということです。
 それぞれの使命というものは、とうぜん、全体のなかの仕事を任されたものだ、ということです。

 たとえば、それは劇のなかのどういう役にも、不要な役はひとつもないようなものだということ。
 劇のなかでは、主役のための端役、ということになり、どうしても主役のほうが輝いて見えますが、天地創造の神の世界では、そうではない、ということ。
 それどころかキリストは、
 「もっとも小さいものを手助けすることは、わたしを手助けしたことになる」
 といわれました。

 つまり神の栄光というものは、弱いもの小さいもの、社会から押しつぶされそうになっているものとともに輝く、というそれは意味でした。モノではない、ということです。
 ですから神の栄光からすれば、どういう難病の人の運命も、それは神の栄光が現れるためのものとなります。

 ところが、日本人の信仰というものは、ほんとうに困ったものです。
 また、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、どこでどう間違ったのか、自分たちは神に選ばれたものだ、というエリート意識だけが、これまでは強かったのです。
 ほんとうのエリートというのは、弱者である、弱いがゆえに神が選んだということでもあったのに、日本人になると、昨今の政府の指導者や、官僚などは、なぜか政権を独占して、強がって弱い国民に偽証しているわけです。

 そこでキリストはいまだに、日本人に忠告ほかないわけです。
 天地創造の神。すべてを創造した神の栄光は、もっともよわいものに、あるいは、自分たちの敵でさえ愛するときだけに現れる、ということ。
 弱者や敵をうちまかしたり、軽蔑して交わりを拒否したりするようなエリート集団には、神の栄光などとうてい現れることはない、ということ。
 神に選ばれたものの使命とは、隣人のため、ときには、敵のためにも死ぬための使命もあうrということ。

 それゆえに、国民のために死ぬために選ばれていながら、自分たちだけが得をしている。そういう政権もあるということ。
 
 そういう「的を外した」人生こそが、天地創造の神に対する罪であり、国民に対する罪である。
 そういう国民を愚弄する政権、官僚の罪とは、特に聖書では、「許されざる罪」ということになっています。

 いまごろになって、アメリカのトランプ大統領にすがって、安倍政権は、ようやく「拉致問題」を取り掛かろうとしています。
 しかし、それもまた、自分の人気回復のために利用している、というのが、国民の一般的な見方です。
 いったい、いつになったら、安倍政権は、ウソと偽証の言動をやめるのか。

 最もよわいもの。弱者を救うために神に選ばれ、その任務を神からも人からも任されてながら、最も弱い弱者を切り捨て、ひとり死んでいくものを助けようともせず、ましてや、自分の命を削って助け出すこともせず、アメリカの武力の後押しを利用して、政権の人気回復を図ろうとしているーーー。

 そういうことです。
 そこではっきりいいます。
 弱者を見捨てるものには、神の栄光など現れません。
 武力による平和しか造れない政権は、日本を亡ぼすことになる。
 それ故に、そういう人がいつまでも政権を維持してしまえば、日本人の将来は、浮かばれるるどころか、沈没するほかありません。 

 日本は、現政権にしても、「経済的なモノ」を造ることが、人間教育の本質となっています。
 心を棄てた技術と競争によって、経済大国をさらに維持しようとしています。
 魂の成長となる人間教育などしたこともなかったのです。
 経済優先をしながら、経済的貧者を造るだけでなく、裕福なものの心までも、永遠に満たされることのない、最後は認知症になるほかない高齢者社会を造ってきたのです。
 
  
 4 「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」

 愛といえば、日本では「男女のなか」の愛をイメージします。また親子の愛そして友情を意味しているようです。

 しかし恋人同士の愛ほどもろいものはなく、恋愛結婚をしても、結婚してしまえばすぐにも涸れるような愛であり、親子の愛にしても、親子二人の間だけなら深い愛となりますが、そこにわが子の配偶者が入ってくると、母の愛などはあっというまに純粋ではなくなってしまいます。
 わが子を愛するなら、その配偶者も愛してこそ、わが子も歓ぶというものですが、それすらできない母親の何と多いことでしょうか。

 また友情にしても、ふたりだけの間ではいつまでも友情は続きますが、他のものが入ったりするとすぐにも立ち消えます。
 ふたりだけの友情にしても、最後まで続くことはまずありません。
 なぜなら、どういう親友にしても、いずれは死んでいきます。死人を愛し続けることなどないのです。

 つまりその友情にしても、男女の愛のように、あくまでも、ふたりだけの世界のものですから、そういう愛はどれも、だれかを排除した愛であるがゆえに、いずれ酸欠状態になってしまいます。
 当事者はあえてそれに気づかないようにしているはずです。
 人間の心というものは、一時的にはふたりだけの世界を求めますが、心はもともと広がることがその本質ですから、ふたりだけの愛は心を窒息させてしまいます。
 排他的な心というものは、まず周りの人を傷つけ、最後には当事者の関係さえ破壊します。

 そこでキリストは、「神の愛」というものを紹介してきたわけです。
 キリストにとっての愛とは、一言でいえば、それは「めぐみとまこと」に満ちた心を言います。
 「めぐみ」だけではなく、「真実」でもある心。
 そういう心を、人間の愛と区別して、キリストの弟子たちは、「神の愛」と言ったわけです。

 そのあたりのことを聖書では、次のように記されています。
 
 -すべての人は、神のものです。すべての人は天地創造の「神」に創られています。
  その「神」を信じたアブラハムの信仰によって、すべての民族が祝福を受けるという天地創造  の神の約束は、まだ有効です。
  神の約束は、まだ生きていますー

 というわけです。
 つまり、そのアブラハムの信仰を受け継いだ人が、キリストであったわけです。
 キリストの信仰は神の愛から出た信仰でした。
 神の愛は、敵でも愛する愛でした。

 キリストが、復活のあと、弟子たちといっしょに食事をしたのも、そういう神の愛に生きる人間になってもらうためだったわけです。

 同じものを食べたということは、心の糧はおなじものでなければいけない。
 その心の糧とは、敵であっても愛すること。
 それが神の愛というものでしたので、そのあとキリストは、しつこくペテロに、
 「あなたは、この人たち以上にわたしを愛するか」
 と念を押したわけです。

 つまり、キリストが、ペテロに、「あなたを人間をとる漁師にする」と約束したときの、人間とは、天地創造の神の愛でもって、最も弱い人間の重荷を背負うような、そういう人間になってもらう、という意味だったわけです。

 つまりキリストにとっての正しさとは、たくさん愛したほうが正しいのだ。
 それ故に、武力によって平和を造る人間は、間違っている。自分たちの天国を造るものが正しいのではない。
 天国でさえ人に譲るほうが、正しいのだ。
 と言いたかったわけです。
 それ故に、自衛のための戦争には、正しい戦争などない。
 とキリストは言いたかったわけです。
 そのことをしっかり教えるために、キリストが、自衛のために戦うこともなく、死ぬ事を選んだわけです。
 殺すよりは殺されるほうが、正しい人間である。
 そういう人間を造ってほしい。
 という意味の、人間教育を、ペテロにしたわけです。

 つまり、武力によって敵を支配する、奴隷にする、そういう人間を造るのではなく、神の愛によって、自分の生きる権利までも敵に譲って、ほかのひとを生かすために死ぬ。
 そういう選択が神の愛というものだ。
 ということを教えるために、キリストは、パテロに、
 「あなたはほかの弟子以上に、わたしイエスを愛するか。
  そういう人間になる覚悟はできたか」
 と何度も念を押したわけです。

 そういうわけで、日本人よ。
 モノに執着して、心に栄養を与えることを忘れること。
 金とか富に仕えるものは、心を殺すことになる。
 心と魂を殺して、モノだけが生き残って、どうなるのか。すでに人間のいない空き家ばかりが多くなっているではないか。
 家よりも人間を大切にする人間教育こそ優先すべきではなかったか。

 そのためには、天地創造の神を信じた、アブラハムの信仰に立ち返ってほしい。
 自国だけでなく、すべての民族も祝福されるような、そういう信仰と神の愛を知る人間づくりにはげんでほしい、とキリストは言います。
 

 

第七章 隣人、隣国のために生きることが、日本の発展となります

 
 1 いざという時の人間教育というもの

 おもえばどうでしょうか。
 政治的に迫害を受けたとき。
 人間関係で追い込まれたとき。
 不治の病に冒されたとき。
 完全に視力を失ったとき。
 交通事故による重い後遺症に悩まされるとき。
 貧困のドン底に落とされたとき。

 そういうときに、一番先に浮かぶのは、何でしょうか。
 またわれわれは、身勝手な、タチのわるい親に苦しめられることもあります。
 おろかなわが子に苦しめられることもあります。
 けっして願うこともないときに、そうした「苦難」に遭遇すれば、それが災難であるがゆえに、奇蹟を求めるのではないでしょうか。

 そういうときの奇蹟は、まずどこから始まるのでしょうか。
 それは「ことば」からだ。
 と聖書ではいいます。

 もちろん、どういう「ことば」でもいいわけではありません。
 「ことば」にも「奇蹟」を「生み出すことば」と「未来を閉ざすことば」がある。
 それゆえに、どういう「ことば」でもいいわけはなく、人の魂を成長させてくれる「ことば」を聖書では、真理というわけです。

 ところがキリストからのメッセージによれば、驚くべきことに、キリストは、
 「わたしは真理であり、いのちである」
 といったのです。

 そこでこれからキリストの「ことば」のなかから、ごく一部を紹介してみます。
 ほんとうにその「ことば」が人を生かすのか、それとも、民族と民族。信仰と信仰を仲たがいさせるものか、各自で吟味検討してみてください。
 

 イ 「あなたがたは敵をも愛しなさい」

 愛するということば。
 年配の日本人には、こういう「ことば」はちょっと気持ちのわるいものです。
 日本人の愛というものは、男女の、密室的な愛を意味してきましたから。
 しかしキリストの愛とは、敵でさえ愛する愛を意味していました。

 もちろん敵を愛するということは、人殺しがすきな人間に同調して人を殺すことではありません。
 キリストがいうところの愛というものは、そういうものではなかった。
 キリストの愛とは、自分の父である神の愛を意味していました。
 その天地創造の神の本質をそのままからだで表現することが、キリストの愛というものでした。

 それゆえにまずは、敵に向かって
 「あなたを愛しています」
 というわけです。そして同時に、敵のために、神の天国でさえ敵に譲ることを意味していました。

 それゆえにそういう愛は、男女のなかの愛ではなかったわけです。
 友情のなかの愛でもなく、親子のあいだの愛でもなかった。
 それらはどれも、愛するものと愛されるものが、密室的というか、密約というか、それ以外のものを排除する愛なのですが、キリストの愛は、隣人すべてを開放する愛。
 隣人のなかにはとうぜん、敵でもいますが、その敵をも隣人愛を実行することを意味していました。

 ときどき日本では、親はわが子に、
 「あなたのために言っているのよ」
 などといいますが、そういうときの親は、他人よりもわが子の益を優先しているだけでなく、わが子のためであるより、自分のメンツのためのことばであるようです。

 友情にしても、特定の人を優先するのであって、友でないものは犠牲にしてしまうことも多いのです。
 そういうものであるがゆえに、キリストは、天地創造の神はすべてのものの神であるから、そういう分け隔てしない神は、敵でも愛しているから、
 「あなたがたもそうしなさい」
 と弟子たちに教えたわけです。

 そういう、敵でも愛せるような信仰を持ってほしい。そういう信仰が、奇蹟も起こることになり、とうぜん、世界も平和となる。なぜなら、そういう自分の権利よりも、他人の権利を優先するから、ということだったわけです。


 ロ 「わたしイエスをキリストだと信じるものは救われます」

 おもえばだれにだって、信念もあり、信じるものがある。
 しかしイエスさまの信仰は、そういう信念とか信心ではありませんでした。
 イエスさまの信仰とは、自分こそが「救いだ」ということを信じる信仰だったのです。

 おもえばなんという傲慢不遜な、と日本人なら誰だっていうはずです。
 しかし、日本人にとって最も身近な、おシャカさまもまた、ご自分のことを、
 「天上天下唯我独尊」
 といったのです。

 お二人とも、なぜそこまで言えたかと言えば、イエス様の信仰とは、天地創造の神と自分はいつも「ひとつである」という信仰であったからです。
 おシャカさまにしても、ご自分こそが「仏そのものである」と信じていたようです。

 自分と天地創造の神、「あってある神」と自分は、「ひとつ」である、ということを信じる信仰があったので、イエスさまは、同時に、天地創造の神こそが愛そのものであったがゆえに、イエスさまもまた、敵を愛していたので、イエスさまは敵をも生かすために、ご自分が犠牲となって十字架について死ぬことを選んだ、というわけです。

 それゆえにその信仰とは、その神の愛を実践することでした。
 天地創造の神を、実生活の上で現すことが、キリストの信仰でした。

 おもえばそういう信仰をもてば、だれが救われないでしょうか。
 第一、敵でさえ愛するのですから。
 われこそは、天地創造の神と「ひとつ」であるという自尊心さえあったのですから。

 そこまで自分を信じるものは、人生を投げることはまずありません。
 天地創造の神と「ひとつ」であるということは、死んでも死ぬこともないわけですから、いつでも、敵のために死ぬこともできるわけです。また復活するのですから。

 そういうときの信仰さえあれば、それは、神が自分のなかにいて、自分が神のなかにいることをいつも実感しているわけですから、その天地創造の神が、愛そのものであれば、これほどの愛があるでしょうか、そういうひとにとっては、誰かを生かすことが、生きる歓びを周りのモノに与えて生きることが、そのひとの人生となるわけです。


 ハ 「あなたの信仰があなたを癒したのです」

 信仰が人間を癒す。
 神が癒すのではなく、信仰が癒す。
 とイエスさまは言われたことの意味とは、
 「わたしが天地創造の神と一つであある」
 「天地創造の神がすべての人を癒してきた」
 それゆえに、「その神と「ひとつ」であるものは、同時に、自分の信仰によって、自分を癒しているのだ。
 とことになるわけです。

 そういうことです。
 それゆえに、天地創造の神を、遠くから信じても意味がないわけです。
 イエスをキリストだと信じても、キリストとひとつにならなければ、奇蹟が起きないわけです。

 あくまでも、神とひとつになり、キリストと一つになったときだけ、その人の信仰は、神の信仰であり、キリストの信仰であるがゆえに、キリストはすべての人を愛しているがゆえに、キリストを信じるものは、キリストのように奇蹟を起こすわけです。自分の病も、味方だけでなく、敵の病をも癒すことになるわけです。

 ただし、たとえこちらが「神と一つ」になり、「キリスト」とひとつになっても、敵がこちらを信じなければ、つまりこちらが天地創造の神と一つであることを信じないひとなら、そういう人は、自分の病も癒されることはなく、奇蹟もおきません。
 自分自身が、天地創造の神と一つとなり、キリストとひとつになった、という信仰があるときは、当人が当人を裏切ることもありませんので、当人の病などはとうぜん癒されるわけです。

 これが、キリストの勧めた信仰でした。イエスはキリストだ、と信じる信仰でした。

 聖書のなかの神、キリストの神、永遠の神は、いまという時のなかにも同時にいる神なのです。
 それゆえに、その神とひとつであるキリストもまた、二千年経ったいまも、すべての人とともに現在でももいるということです。
 つまりガンであれ、うつ病であれ、それをいやすのは、ひとりひとりの信仰である、ということ。
 そのときの信仰とは、ひとりひとりの強い信念ではなく、キリストの信仰であるということです。
 キリストがひとりひとりのなかにいれば、ひとりひとりの信仰そのものが、同時に、キリストの信仰となるわけです。
 キリストを信じるものは、つまり、自分もキリストになっている、と思ったほうがいいわけです。
 そういうひとの信仰は、同時にキリストの信仰でもありますから、その信仰が、そのひとを癒すことになるわけです。

 キリストが天地創造の「神」とひとつであることを信じることは、そういうわけで、信じるものが「神」とひとつになることをも意味していました。
 神とキリストがひとつであれば、キリストを信じるものもまた神とひとつになる。
 そこで奇蹟はとうぜん起きる、ということです。

 
 ニ 「真理にも、生きた真理もあり、死んだ真理もある。
    しかし生きた真理だけがあなたがたを自由にします」

 おもえばどうでしょうか。
 真理とはどういうものでしょうか。
 聖書のなかの真理とは、それは天地創造の神の「ことば」を意味していました。
 
 学問というものは日本でも、真理を探求することでした。
 真理を知ることで、すべての、ものとものの関係も人間関係も、人間そのものの本質も、あきらかになるからでした。

 しかし聖書の真理は、学者たちが望む真理ではありませんでした。
 それどころかユダヤ教徒のなかの律法学者たちは、真理であるキリストを殺しました。
 なぜ?
 その理由は、キリストが
 「わたしが真理であり。いのちである」
 いったからでした。
 学者たちの真理とは聖書のなかにあるものでした。
 道徳的な戒めでした。

 ところがキリストは、「本当の真理」とは、「生きているもの」だ。
 息をしている。
 動いている。
 そういう「生きた真理」だけが、生きた真理であり、それ故に「生きた真理」は死んだものも復活させるが、息もしない、動くこともしない真理は、それ故に「死んだ真理」であるがゆえに、「未来」を切り開くこともない。死人を復活させることもない。
 ということです。

 それどころか、たとえ神を信じていても、死人をよみがえらせる真理を知らないものは、それゆえに、死んだ真理を信じている。そうれゆえに、生きているものでも殺すことになる。生きた神でも殺すことになる。
 ということになったわけです。
 そうして、事実、そのころのユダ教的指導者は、死んだ真理しか知らないのに、指導者になっているから、偽善者である、とキリストは言ったわけです。

 しかしキリストにとっての真理とは、人間に自由を与える真理でした。
 死者でさえ生き返らせる真理でした。
 ところがどうでしょうか。
 日本的な、いじめを造る道徳心はどうでしょうか、自殺者を造っているではありませんか。
 ということは、日本人は、死んだ真理しかしらないわけです。
 生きた真理を知っていれば、どういう小さな命でも生かすはずでした。

 それゆえに、聖書にすがるだけで、隣人を愛さないひとにしても、ほんとうの真理であるキリストに出会うことがない。
 それゆえに天の神に出会うこともない。
 しかし、わたしイエスをキリストだと信じるものには天国が拓ける。
 なぜなら、その信仰が、真理となって、その真理があなた方を自由にする。
 とキリストは言われたわけです。

 聖書にしがみついてもいけない。
 書かれた文字はすでに死んでいる。
 いのちなどない。
 しかしキリストという真理は生きている。
 神もまた生きているものの神である。
 それゆえに、愛のない信仰。
 愛を抜きにした真理のことば。
 それらはみな死んだ世界の「死んだ真理」である。人を生かすのではなく、生きている人を殺すものであるから

 愛しているときだけ、真理は生きている。
 愛していないときの真理は、その真理はすでに死んでいる。
 そういう真理は、死人を生かすことはなく、死人を造るものだ。そのうち、生きているものでも殺すことになる。
 
 しかし、隣人、隣国を、自分を、自国を愛するように愛しているに日本人は、ほんとうの「生きた真理」である。
 敵でさえ愛する真理だけが、生きた真理である。
 日本人よ。日本の発展を願うなら、隣人、隣国を排斥するのではなく、隣人、隣国のために働くことで、世界の平和を造ってほしい。
 少し回り道になるが、そういう愛だけが、日本の発展につながる。

 そういうことです。
 こうした「ことば」が真理であるかどうかも、それ故に、ひとりひとりが体験してみて下さい。 自分を愛するように、隣人、隣国の人を愛してみてください。
 その時、愛したほうも、愛された方も、自由になり、生きるものとなっていれば、そのひとは生きた真理の人、ということになります。




 

第八章 日本人よ、「狭い墓から出てきなさい」

 
 1 「あなたがたも生きるのです」

 死んだものが「生き返った」。
 ということをときどき耳にします。
 しかしそういうときは、ほんとうには「死んではいなかった」のではないか。完全に死んだものが生き返ることなどあるだろうか、とだれもが不審におもうところです。

 ところがラザロという人が復活したのは、四日間も墓の中に置かれていたあとのことでした。
 聖書によれば、その証拠として、イエスさまにラザロの病気を知らせてありましたが、イエスさまはすぐには行動にでませんでした。そして、ラザロが死んで四日もたったあとに、ラザロをたずねた、ということでした。
 つまりイエスさまは、ラザロが死ぬことを待っていた、というわけです。聖書によれば、
 「ラザロの死は、死ぬことが目的ではない。
  神の栄光のため。さらに神の子が栄光を受けるためのものである」(十一-四)
 ということでした。

 つまり、もし仮死状態のラザロを「よみがえらせた」のであれば、それは神の栄光のためにはならないし、イエスさまがたとえラザロを「復活」させても、手柄にはなりませんでした。
 だからわざわざラザロの病気を耳にしても、かけつけなかった、ということでした。
 しかしそういうイエスさまの「心」など、ラザロの姉妹には分かりませんでした。そのあたりのことを聖書では次のように記しています。

(まず姉のマルタがいいます)
 「主よ。もしあなたがここにいて下さっていたなら、ラザロは死ななかったことでしょう。なぜなら、あなたがどんな願いごとをしても、神がかなえてくださるからです。」
 イエスは言った。
 ーラザロはよみがえりますー
 マルタが言った。
 「主よ。終わりの日に復活することなら知っております。」
 するとイエスは言った。
 ーわたしは、よみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。また、生きているとき信じる者は、いつまでも死なない。あなたはそれを信じますかー
 マルタは言った。
 「主よ。信じます。
  あなたが、この世に来るべきキリスト、神の子であることを信じております」
                               (ヨハネ十一-二〇~二七)
 奇蹟はそのあと墓の前で起きました。
 「ラザロよ、墓から出てきなさい。」
 というイエスさまの一声でラザロはよみがえったそうです。
 もちろん、そういうことを信じない他宗教の人は多いはずです。なぜならキリスト教徒の中にも、そういう人がかなり多くなっているからです。

 またなんといっても、イエスさまがいなくなってから、まだ誰ひとり「復活」したものはいないからです。
 しかし、復活がないならば、私たち人間はどうなるでしょうか。
 復活を「出直し」のチャンスと受け止めてキリスト教徒になったものも多いのです。
だれだって失敗はある。人を傷つける。ときには「殺す」かもしれない。
 そういう状況のなかにあって、復活がなければ、どうなるでしょうか。被害者はそれでおしまいです。加害者にしても、良心的な人にとっては、自分のしでかした罪が、永遠に残ってしまいます。

 しかし被害者が復活すれば、どうでしょうか。被害者が罪を許してくれるかもしれないのです。
 つまり復活がなければ、わけもなく傷つけられたもの、わけもなく「殺されたもの」が永遠に、そのままである、ということであり、加害者にしても、許されることはなく、それゆえに永遠に「救い」はない、ということになります。
 聖書のなかのラザロは、若くして病死しました。そういう死もまた、当人にも遺族にしても、救いがたい現実ではないでしょうか。それゆえに、そういう運命のなかで死ぬ人間にとっても、復活だけが残された唯一の希望となります。
 希望のない状態を絶望というように、わずかな希望でもあれば、人間は生きることができます。
 そこで、どういうときに「復活」は起こるのか、ラザロの復活はどういう状況のなかで起きたか、それを次に紹介します。

 
 2 「ラザロよ、墓から出てきなさい」

 聖書にしたがって結論をいえば、復活はすべての人に約束されています。
 救われるために復活するものと、裁かれるために復活するものもいる、ということです。

 なぜ復活にも二種類あるかといえば、すべての人は、被害者であり同時に加害者でもあるからです。それゆえに、救われるためにも、裁きのためにも復活する必要があるわけです。
 つまり聖書のなかの「復活」は、永遠に「生きるための復活」と「裁かれるための復活」がある、ということです。
 
 おもえば日本はどうなるでしょうか。
 殺人の被害者の遺族は、加害者が「裁かれること」を願っています。
 また罪のない被害者は、生き返ってほしいと、だれでも願うのではないでしょうか。
 では、ラザロはそのうちのどちらだったでしょうか。
 当時の状況はこうでした。ラザロが死んだことで、ふたりの姉妹の姉のほうのマルタはイエスさまにこういいました。
 「もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」
 またある人たちは、
 「イエスは、生まれつき盲人を治した。そのイエスでさえ、ラザロを死なせないようにすることはできなかったのか」
 といって嘆き悲しんだそうです。(十一-三七)

 その声はとうぜんイエスさまの耳に届きます。
 そのときイエスさまは、「激しく感動した」と聖書にはあります。そしてその「感動」のなかで、イエスさまは、すでに石で封をしてあった墓の前で、その石を取り除かせて、まず天に目を向け、
 「天の父よ。わたしの願いを聞き届けてくださいって、感謝します。あなたがいつもわたしの願いを聞き届けてくださることをよく知っています。
 しかしこう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを信じさせるためです」
 といったあとで、大声で、
 「ラザロ、出てきなさい」
 と叫んだのでした。

 そこには、いくつかの重大なメッセージが含まれていました。
 それは、だれでもラザロの「復活」を望んでいたということ。
 イエスさまなら、「復活させる」ことはできるのではないか、という希望と信仰があったということ。
 またイエスさまもまた、天の神は愛である、ということを知っていたということ。
 つまり、救われるための復活の条件とは、愛と信仰と希望がひとつになるところ。ということです。

 もう少しそれを分析しますと、その場において、天の神とイエス、そのイエスとイエスを知っているものとの間に、ひとつの「経線」が貫かれていた、ということです。その「経線」こそが、真理の糸であり、神さまの「愛」の世界であり、そういう世界のなかでは、「永遠のいのち」の復活が起こる、ということです。


 3 日本人はいつ復活するか

 では、そうした「経線」(命を生かすことば)はどういうときに出現するのでしょうか。
 日本人はいつ、魂の成長に目覚めるのでしょうか。
 いじめをやめるのでしょうか。
 不倫をやめるのでしょうか。
 「おべっか」をやめるのでしょうか。
 偽証をやめるのでしょうか。

 そこで、マルタとマリアの信仰について「吟味」してみます。
 まず、ふたりに共通した点は、次のようなところでした。
 「主よ。もしあなたがここにいてくださったら、わたしの兄弟はしななかったでしょう」
 ふたりは、イエスさまならどういう病気を治すことができる、と信じていました。
 またマルタはつぎのようなことをいいました。
 「しかし、あなたがどんなことをお願いしても、神はかなえてくださることを、わたしは今も存じています。」(十一―二二)

 このことばこそが、イエスさまの待っていたことばでした。
 イエスさまなら、死人でさえ「復活させる」こともできるという「信仰」でした。
 しかし、そのときのマルタの考えていた「復活」は人類の「終わりの日」の復活であって、目のまえの「復活」ではありませんでした。

 ところがイエスさまは、そのあと驚くべきことを口にしました。
 「わたしは、よみがえりであり、命である。わたしを信じるものは、たとえ死んでも生きる。
  また、生きていてわたしを信じるものは、いつまでも死なない。
  あなたはこのことを信じるか」(二五)

 と言われたのでした。
 つまり、死んだラザロがもし、イエスさまを信じていたなら、死んでいてもいますぐ生きる。イエスそのものが「よみがえり」であり「命」そのものであると信じるなら、死んでも復活する、というものでした。

 それは常識的人間には認められない世界の話でした。人間の常識は、イエスさまがだれかを「復活」させたにしても、イエスさまそのものが「復活」そのものとはとうてい認められないはずです。

 われわれには「いのち」はあっても、「いのち」そのものではありえない。いつかは「死ぬ」いのちでしかない。それゆえに、「いのち」をもった存在ではあっても、「いのち」そのものではない。
 という風に考えるからです。
 ところが、イエスさまは、このようにマルタに伝えたのでした。しかもそのことを聞いたマルタは、その時点できっぱりと、
 「主よ、わたしはあなたを信じます。
  あなたが、この世にきたるべきキリスト、神の子であることを信じております」(二七)

 そういうことです。
 イエスそのものがキリストだ、「復活だ、よみがえりだ」と信じることが出来るものは、イエスとひとつになって、キリストになる、というそれは意味でした。
 それゆえに、シャカがご自分のことを、
 「天上天下唯我独尊」
 という心境になるわけです。そのときことが、イエスがキリスであるときであり、イエスがキリストであることを信じた人もまた、その信仰によって、キリストのようになり、
 「わたは天地創造の神とひとつになる」
 ということになったわけです。

 そのことを信じたことで、マルタもまた、ラザロの「よみがえり」を見ることになったわけです。
 
 キリストにとっても、ここまで「信じられる」ことほどうれしいことはありませんでした。
 つまりこの時点で、イエスもキリストになり、つまりそれは、天地創造の神と「ひとつ」になった瞬間であり、そのときもマルタもまた「ひとつ」になったわけです。
 次に、妹のマリアの「愛」もまたイエスさまを感動させました。
 マリアはただひたすら「泣く」ばかりでしたが、そのことがよかったのでした。そのマリアの「愛」がイエスさまの「こころ」に火をつけたのでした。

 「イエスは、彼女が泣き、彼女と一緒にいたユダヤ人の涙に激しく感動した」(三三)ということでした。
 つまりマリアのラザロへの愛とイエスさまのラザロへの愛がその時点で「ひとつ」になったわけです。

 こうして愛と信仰が、復活という希望を生み出したわけです。
 「よみがえり」の真実とは、こういうものでした。
 それは、イエスさまが、神さまに「おねがい」して、死人を「よみがえらせる」力をもらったのではなく、イエスさまそのものが、「よみがえり」の力であったので、そういうキリストとひとつになると、その当人もまた、自分の信仰によって自分を癒すことになったわけです。

 つまりイエスさまは、ご自分の栄光だけを見せ付けるために、ラザロを復活させたのではない、ということです。
 すべてのひとに、復活という希望を与えたい。
 自分の魂に目覚めるようになるために、そのために自分はここにいる。
 わたしの存在によって、天の神と「ひとつ」になってほしい。
 そういう奇蹟の中でいる新しい人間を造ることが、イエス様の人生の目的であったわけです。

 つまり、イエスさまは、人間の姿をとっていたので、イエスさまにも「信仰」が必要で、その「信仰」とは、自分は神の子である、天地創造の神の子であるがゆえに、イエスはキリストであり、父の神に従うという「信仰」でした。

 天地創造の神に従うという信仰でした。
 ほんとうは神そのものであるが、人間であったがゆえに「神の子」として父なる神に従う、ということだったわけです。

 実は、ここのところは大切ですので、繰り返します。
 イエスさまは、「真理」であって、真理を知った存在ではありませんでした。
 真理の子であるのではなく、真理そのものでした。
 「よみがえり」そのものであって、一時的に「よみがえり」の力をもった存在ではなく、「よみがえり」そのものでした。

 人間的な言い方をすれば、スポーツにしても「ルール」があります。自然界には「法則」があり、その「ルール」に従うことが、スポーツに参加する条件であり、自然界で生きるためにも、その「法則」に従うことで、ようやく人間が生きていますが、イエスさまは、その「ルール」であり、「法則」そのものである、というわけです。
 
 それゆえに、イエスさまが言われるように、
 「わたしと父(神)はひとつである」
 となったわけです。
 「ひとつ」であるとは、ほんとうに「ひとつ」なのです。
 魂とからだが別々の存在ではないように、ひとつなのです。

 
 4 「日本人よ、日本的愛国心を捨てなさい」
 
 イエスさまのこの世での使命は、なんとしても天地創造の神は愛である、ということを証言し、証明し、体現することでした。魂の真実に目覚めさせること。
 それこそがイエスがキリストになった目的でした。
 
 おもえばどうでしょうか。
 その人が真実であるかどうかの基準とは、どういうものでしょうか。あの人はいつもウソをつくという場合の「うそ」とは、どういうものでしょうか。
 それは、その人の「ことば」がその人の「言動」と一致しないときではないでしょうか。
 言ったとおりに実行したとき、あるいはそれが現実なものとなるとき、その「ことば」にうそはなかった真実だった、というようになるはずです。

 こうしてイエスさまも、ご自身で死ぬことを選びました。
 「死んで」みなければ「復活」もありえないからです。
 死んでみて、ご自分の「ちから」で「復活」」すれば、それこそイエスさまが「よみがえり」そのものであり、「いのち」そのものである、という証明として残るからでした。
 
 そしてその当時には、イエスさまが国民のために「死ぬ」存在であることを預言した人がいました。
 しかし大半のものは、その人の予言でさえ、霊的に受けとることをしないで、つまりイエスさまを殺せば、自分たち助かるのだ。
 ということにして、こんどは確信的にイエスさまを十字架につける決心をしていたのでした。
 祭司のなかの「長」や敬虔なものだと社会的におもわせていたパリサイ派の人たちもまた、神の名誉のためにもイエスを殺さねばならないと思ったわけです。

 かれらは、あくまでも、そのように、神でさえ利用して、自分たちの「既得権」と「面子」を守るために、議会まで召集したのでした。
 「あのものがこのまま多くのしるしをおこなえばどうなるか。みなが信じてしまうではないか。
  そうなるとどうなるか。
  ローマ人がやってきて、われわれの土地も人民も奪ってしまうだろう」(十一―四八)

 そういうことだったのです。
 かれらは、自分のたちの平安と社会的地位を失うことを、まず怖れました。
 ところがこうした空気のなかで、前述のひとりの大祭司が立ち上がったのでした。大祭司だけは、
 「あなたがたは、何もわかっていない。
  あなたがたは、ひとりの人が人民に代わって死んで、
  全国民が滅びないようになることがわたしたちの得だということも考えていない」(四九)
 
 そのときの大祭司の発言は、ふたつを意味がありました。
 ひとつは、聖書の予言を紹介したということ。
 もうひとつは、ぐずぐずしないで、われわれのためにイエスを「殺せ」、という檄を飛ばしたということ。
 大祭司ですから、神の心と人民の心の両方を代弁する必要があったわけです。

 つまり、キリストには、「死ぬとき」もまた定められていたわけでした。
 「伝道の書」にも次のようなことが書かれていました。

 「すべてのわざには時がある。
  生きるに時があり、死ぬるのに時がある。
  植えるのに時があり、植えたものを抜くにも時があり、
  殺すに時があり、癒すに時があり、
  ―――
  愛するに時があり、憎むに時があり、
  戦うに時があり、和らぐに時がある。」(三章二―八)
  
 つまり「自殺」がゆるされないのは、「死ぬ」時もまた定められていて、それに従うべきであって、自分の一存によって「自分」を殺してもいけなかったからでした。
 もちろん他殺にしても、それが「罪」であるのは、それぞれの「いのち」には、それぞれの使命があり、その使命を果たす「時」があるので、その「時」のなかでの使命があったので、それぞれの「時」と「使命」に干渉する権利などほかの人間にはないからです。

 イエスさまの場合は、「過ぎ越しの祭」に「死ぬこと」がさだめられていました。
 そして祭司たちも、そのことを知っていたようで、「過ぎ越しの祭」が近づいてくると、かれらはついに、ひとつの「御触れ」を出しました。

 「イエスというものの居所を知っているものは、申し出よ」(五五)

 こうしてかれらは、イエスさまを殺すことで、わが身の安泰をはかりました。イエスを殺せば「神の怒り」がおさまる、とも信じたのでした。
 しかし、イエスさまご自身は、そうではありませんでした。
 天地創造の神は、怒る神でもなければ罰する神でもない。
 わたしイエスもまた、殺すよりも殺されるほうを選ぶ。
 隣人を殺すよりも、隣人に殺されるほうを選びたい。

 ということで最後は、十字架についています。
 十字架の攻防とは、こういうものでした。
 殺したいほうは、自分の立場とメンツとねたみによってイエスさまを十字架につけたわけですが、イエスさまのほうは、そういうねたみによって殺したいひとをも救うために、死ぬ事を選んだわけです。

 殺す方は、わが身の安泰のために。
 殺される方は、殺されることですべてのいのちを救おう。
 としたのでした。
 その「思い」のちがいは、まことに、天と地ほどの開きがありました。
 宗教指導者のほうは、自分のことしか眼中になく、神の子イエスのほうは、人間の平安だけを考えていた。
 十字架の「構図」とは、そういうものでした。
 
 ときどき、托鉢層にお目にかかることがありますが、かれらもまた、本気で死ぬ気であればいいのですが、死ぬ「まねごと」をしているのであれば、つまりただの修業のために、一時的に辱めを味わって僧になろう、天国に「いこう」などと思っているようであれば、そういうひとは、救いのためではなく、裁かれるために復活します。

 本気で死ぬ気もないくせに、いかにもいいところを見せようとして断食をしてみせるものもいますが、はっきりいいます。
 復活というものは、イエスさまがそうであったように、自分の人生をもういちど楽しむために生き返ることではなかったのです。

 イエスさまがキリストと呼ばれるのは、食べられることで、食べるひとのなかで生きることを選んだからでした。
 それが人間イエスのほんとう復活の目的でした。
 ラザロの復活にしても、それもまた、ラザロが、ほかのひとの心の糧となるために復活したわけです。
 地の塩となるための復活だったのです。
 自分のいのちを大切にするのではなく、ほかのいのちの栄養となる存在となっていたのです。
 これが復活の奥義というものでした。

 ところが、日本の政権は、何を求めて延命を図っているのでしょうか。
 なぜ武力を使って平和を造ろうとしているのでしょうか。
 悲しいことは、日本人の復活は、あくまでも、自分だけの復活のためであり、ほかの人の復活のためではありません。
 そういうひとは、それゆえに、永遠の命に復活することはなく、裁かれるための復活します。

 日本人よ。
 どうか聞く耳のあるものは、キリストのことばに、耳を傾けてください。墓の中だけで復活するのではなく、墓から出て、ほんとうの魂の成長の伴う自由の国を造ってほしいものです。
 一時的な武力による日本だけの平和ではなく、復活による魂の成長によって、永遠の「世界平和」を造ってほしいのです。
 

 

 


 
 
 

 
 
 
 

第九章 風のような自由な国を造るのです

 
 1 「良い羊飼いになりなさい。
    良い羊飼いは、羊のために命を捨てます」

 日本はいま、ペット王国になろうとしています。
 なかには、
 「自分の子よりもかわいい」
 などという飼い主さんもいるようです。

 イエスさまはよく、「羊」の話をなさいました。
 そして、食料であり「財産」である羊を一時的に預かる人が、そのころは羊飼いでした。
 食料であり「財産」である羊を「預かる」ということは、これは大変な仕事でした。
 まず羊を盗みにくるものがいます。
 さらに羊は臆病ですから、狼などがくれば「パニック」状態になり、散り散りになることもあります。
 なんといっても冬場はさむい。ひとりで羊の群れを任された場合は、これほど過酷な労働はありません。しかも賃金などしれたものでした。
 それゆえに、そこにはとうぜん、良い羊飼いもいれば悪いもののいます。
 イエスさまはそこで言われました。

 「わたしは、よい羊飼いである。
  よい羊飼いは、羊のための命を捨てる。
  羊飼いではなく、羊が自分のものではない、雇われた人は、狼がくれば、自分のほうが真っ先  に逃げる。
 「またよい羊飼いは、自分の羊を知っている。
  羊のほうもまた、その羊飼いを知っている。
  わたしもそうである。
  それは、天の父がわたしを知り、わたしが父を知っているのと同じである」                          (             ヨハネ十-一一~一五)
 どうでしょうか。
 どこの羊飼いが、羊のためにいのちなど捨てるでしょうか。
 羊のいのちが、人間のいのちを犠牲にしてまで、救わねばならないいのちでしょうか。
 いまでは、学校の先生だって、生徒のために自分のいのちを捨てる先生も、少なくなっています。
 学校に問題がおきたときの校長の応対がすべてを物語っています。いじめがあっても、
 「いじめはなかった」
 と言い張ります。
 いじめられてきた生徒の心への配慮など微塵もない言葉を吐きます。

 昔の先生の仕事は「聖職」でした。
 聖職というものは、「えいこひいき」をしないこと、自分のことよりも生徒を案ずる心をいつも優先させることが、最低の条件でした。
 つまり自己弁護しないこと。
 それゆえに、決められた「時間」だけ、賃金のために働くというような人ではありませんでした。
 昨今では管理職さえ、まず自己防衛のために、
 「いじめはなかった」
 などと言います。

 そのせいか、生徒の心ではなく、「おしり」を追っかけるような教師も増えました。
 そこまでしない先生にしても、自分のためだけに働く先生が多くなったようです。

 なかには、育児がいやだから、センセイになった、というようなひともいます。
 もちろん、すばらしい先生も、身近に何人もいます。
 しかし甲子園で優勝でもすると、野球監督などは、
 「生徒に感謝したい」
 などと、勝利に酔いしれてこう言います。
 生徒が監督の栄光のために「がんばってくれた」というわけです。

 スポーツの世界における師弟関係とは、こういうものでしょうか。
 「ことば」にはほんとうに注意したいものです。
 「ことば」といえば、北朝鮮の報道にみる言動には、昨今の日本人はかなりうんざりしているはずです。
 どうしてでしょうか。
 共産主義は神を認めませんから、「ことば」に責任がともなっていないから不思議がることもない。
 と教えてくれるひともいます。
 真実な神の存在を認めるものは、世界共通の真実というものを分かち合うことを歓びとするものですが、かれらには、どうも真実を分かち合う姿勢というものが見当たらない。

 しかし、ほんとうは、北朝鮮側にも言い分があります。
 かつての日本人はわざわざ朝鮮国までいって侵略的な言動をしていたからです。
 もうずいぶん昔のことではないか、というのは、加害者の言い分であって、被害者にとっては、いちど受けた屈辱恥辱というものは、なかなか忘れられるものではありません。
 侵略国の日本は、まず朝鮮人に、「日本語」を押し付けました。
 また、日本の神社を押し付けました。

 つまり人間としてもっとも大切な、言論の自由も、信仰の自由も、奪ったのです。
 しかも強制労働まで強いてきたのです。
 昨今では、従軍慰安婦問題でも、当事者抜きで、政治的トップの間で解決しています。
 政治的な解決などされても、どうでしょうか。

 政治的な解決などされても、直接従軍慰安婦にされたものの心が癒えるでしょうか。
 双方の政治的トップのひとには、戦争体験さえないのです。
 そういう罪意識のない政治家に、相手への思いやりがなくなれば、どうなるでしょうか。
 強制的な権力を見せ付けられ、強制労働をさせられれば、どうなるでしょうか。
 勤労の歓びだって知らずに終わるはずです。
 働くこともまた自由でなければ、勤労とはいえないのです。

 それゆえに、ヨハネという弟子は、「ことば」というものに注目しました。
 そして、イエスをキリストと慕うようになったのも、イエスさまのことばと行いが一致していたからでした。
 自分が一度発したすべての「ことば」に責任を取ったからでした。
 イエスさまは、
 「よい羊飼いというものは、羊のことをよく知っていて、その羊もまたその人を死っている」
 といっていましたが、その羊であった弟子たちは、イエスさまが生きているうちは、だれひとりとして、イエスさまの本心を知ってはいませんでしたが、そのイエスさまが本当に自分たちのために「いのち」を捨てたことを知ってから、イエスさまこそ真実な方である、キリストである、と悟ったわけです。

 おもえばどうでしょうか。
 羊のようによわい人間のために、神のような存在の方が、「いのち」を捨てたというのです。

 なぜ、どうして、そういうことがありえるのか。
 こうしてヨハネはようやく、
 「天地創造の神は、聖であるだけでなく、
  その神は愛である」
 と悟ったわけです。

 
 2 「わたしは風のように自由です。それゆえに、自分の命を捨てる力があります」
    
 しかしどういう愛でもいい、というわけではありません。
 悪い羊飼いというものがいて、そういうものでも最初は愛を見せます。
 昨今では、愛さえあれば、どういう相手と結婚してもいい、と言いますので、愛する、ということを覚えるわけです。

 しかしはっきりいいます。
 「愛」にもいろいろあって、信じてもいい「愛」と、決して信じてはならない「愛」もあります。その見極めのないまま、
 「わたしはあなたを愛しています」
 などといわれて、つい陶酔しきって、あとでひどい目にあったものは多いものです。
 イエスさまが紹介した信じるべき「神の愛」とは次のようなものでした。

 「天の父は、わたしが自分の命を捨てるから、
  わたしを愛してくださっています。
  命を捨てるのは、それを再び得るためなのです。
  だれかが、わたしからわたしの命を取り去るのではありません。わたしが、自分からそれを捨  てるのです。
  わたしには、命を捨てる力があり、同時に、それを受ける力もあります」(十-一七~一八)

 ここで特に注目してほしいところは、イエスさまが、羊のように弱々しく殺されたのではない、ということです。
 「命を捨てる力もあり、それを受ける力もあった」ということもなく、。
 だれかがわたしから「いのち」を取り去ったのではない、というのです。
 みずから羊のために死んだ、といいます。
 いのちを捨てる力もあり、いのちを得る力もある。
 つまり死んでも死なないいのちがある。
 ということでした。

 いかがでしょうか。
 日本の政治家に、政権担当者に、そういう愛があるのでしょうか。お友達内閣というものは、あくまでもお友達優先である、ということではなかったでしょうか。
 
 日本人の指導者の愛とは、そういうものなのです。
 金があるから愛する。
 才能があるから愛する。
 自分に必要なひとだから愛する。

 しかし、天皇のために死ねる人でも、羊のように弱いもののために死ぬことなどしないはずです。
 昔も今も、まちがった上昇志向の強い人間というものは、社会的に弱いものを軽蔑して、見捨てる傾向があります。
 イエスさまはしかし、一つ一つの「羊」の個性まで認めて愛していました。
 いのちを捨てる力もあり、いのちを得る力もあったが、どういういのちでも、生かす力があったわけです。
 カネのためでもなく、美形のためでもなく、弱いよわい、きたない羊のためにも死んだというわけです。

 おもえばどうでしょうか。
 太陽は、美形な人だけに光を与えたりはしません。男だけ、あるいは女だけに光を与えたりもしません。
 また、これだけ与えたのだから「感謝せよ」とも言いません。
 ただひたすら光を与え続けるから「太陽」であるわけで、イエスさまの愛もそうでした。

 それにしても、
 「わたしが自分の命を捨てるから、神はわたしを愛する」
 とはどういうことでしょうか。
 いのちを捨てなければ、神は神のひとり子であるイエスさまさえ愛さなかったのでしょうか。

 しかし間違ってはいけません。
 イエスさまがいいたかったことは、
 「愛とは、いのちを捨てることだ」
 ということでした。
 それも、自分の目にかなったひとだけを愛する愛ではない、というのです。
 イエスさまはユダヤ人でしたが、ユダヤ人だけが救われればいいとは言いませんでした。すべてのひとのために死ぬために人間となったと聖書にはあります。
 
 そういうイエスさまでしたので、奇蹟を起こして難病を治しても、それを自分の「栄光」とはしませんでした。
 「あなたの信仰があなたを治したのです」
 と言い続けました。
 ときどき、天国に行くために人の世話をする人もいますが、それは絶対的な愛ではない、ということになります。
 自分が天国にたとえいけなくても「愛すること」。
 自分のかわりにほかのひとを天国に送り届けることが、キリストの愛でした。

 いいえ、もっと正確にいうほかありません。
 イエスそのもの、存在そのものが「天国」であったのです。
 それゆえに、イエスはキリストである、という評判が立ったわけです。
 果たしてそういう天国を知った指導者が日本にどのくらいいるでしょうか。

 第二次世界大戦では、日本は「神国だ」などといって、一億総玉砕までやりかけたのが日本人でした。
 当時の指導的政治家だけではなく、一般庶民にいたるまで、本気で、「お国」のため、あるいは「天皇陛下のため」に戦ったのです。
 それゆえに、その当時の指導者だけを責める資格は、一般日本人にもなかったのです。
 そういう「指導者」を信じたほうにも責任はあったのです。

 また哀しいことに、昨今の「イスラム国」の、わが身を犠牲にしたテロ行為は、かつての神国日本が編み出した」特攻隊」のまねをしている、とい話もあります。
 かれらもまた、日本人がそうであったように、自分たちの神に自分をささげて「一億玉砕」を目指しているからです。

 そういう罪づくりをしていながら、日本人は、いまだに、反省はしないのです。
 最後は、被爆国の体験をしていながら、いまだに、指導者だけでなく、一般国民にして、核兵器撲滅運動にはなかなか賛同しないのです。

 日本経済のために、などと平然というのです。
 日本人は一体、敗戦後、何を考えてきたのでしょうか。いまだに魂の自立と成長にめざめていないのです。


 3 「あなたがたが、わたしを信じないのは、
    あなたがたが、わたしの羊ではないからだ」

 あるときキリストは、ユダヤ人に向かってこう言ったことがありました。
 なぜそこまでキリストが言うようになったのか、と言えば、おもえば、日本人にしても、いまだに、「善」と「悪」の基準があいまいであるからです。

 イエスさまの時代のユダヤ人もそうでした。
 安息日というものは、人間を癒し、回復させるための神の「やさしさ」から用意された休日でしたが、その安息日にイエスさまが、自分を休めることもしないで病人を癒していると、それはいけない、とユダヤ人たちは抗議しました。
 つまり当時のユダヤ人には、わが身を犠牲にして、弱者罪人を天国に導くということが、「悪」であり、「善」ではなかったのでした。

 だからキリストが、」ほんとうの「羊飼い」というものは、羊のための「いのち」を「捨てるものだ、と言い始めたので、
 「かれは悪魔に取り憑かれている。気が狂っている。」(十-二十)
 ということになって、かれを死刑にしよう、ということで、十字架につけたわけです
 
 つまり、今でも、どこの国でも「国益」を優先させることが、その国の善であり、それまでの自分たちの「生活」だけを守ることが「善」であり、それから「外れる」ことが悪となっているはずです。
 「いじめ」というものが、日本社会からけっしてなくならないのも、日本的な視野に問題があるからといえます。
 日本人は、日本的な地域の神とか、地域だけの結束の中で生きてきましたので、身内だけの世界のなかで生きることが善であり、外国人と親しくなることは、外国かぶれしている、それゆえに悪だ、となるわけです。
 そういう国民性がありますので、だれもが参加するものに参加しなかったりすれば、それも悪になります。いじめの対象になってきたわけです。

 おもえばどうでしょうか。
 ほとんどの政治家が、利益団体の後押しでもって政治家として存在しているのではないでしょうか。
 つまり日本の政治家もまた、はじめから、ある人には悪であり、ある人には善であるわけです。
 政治家というものは、国民全体のためよりも、自分の地盤をいつも優先するために選ばれているから。

 ときどき、
 「ひとはなぜいじめるのか」
 という質問を受けることがあります。
 そういう質問をする人は、まじめにモノを考えているようですが、たいていの人はまじめに答えることを放棄しています。
 なぜでしょうか。
 ほんとうの「善」とか「悪」というものは、相対的な世界にいて、相対的な「理性」でもっては知ることのできない範疇の世界でもあるからです。
 自然の理性でさえ、自然界の法則(常識)に従います。 
 自然界の常識では、強いものが弱いものを食べて生きることは常識であり、資本主義の社会では、目の前の競争力だけが評価されます。

 日本では、いまも、どういう高僧でも、生き仏といわれている人でも、生きているうちは、弱い「アリ」を踏んづけて生き延びています。
 だれひとりとがめるものはなく、当人にしても、いつも殺生をして生きていながら、「高僧」をやめるものはありません。
 かれらにとっても、この世を生き延びることが「善」であり、それゆえに、弱い存在を押しつぶすことも、「善」となります。
 
 結論をいいます。
 相対的な世界では、「善」も「悪」も、その人にとって「かけがえのもの」が「善」であり、自分という「存在」にとって「益」とならないものは「悪」となり、そうした「悪」でしかない人を殺すことは、その人にとっては「善」となります。 
 当時のユダヤの世界もそうでした
 絶対者である神を信じてはいましたが、民そのものは「相対的なエリート意識」のなかに住んでいました。
 そのため、自分たちの「益」とはならない「病人」とか「罪人」を助けることは、「悪」でした。
 それゆえに、病人とか罪人の味方をするイエスさまを殺すことも、かれらにとっては「善」だったのでした。
 イエスさまはそのあと、自分を信じないユダヤ人に次のように言われました。

 「あなたがたが、わたしを信じないのは、わたしの羊ではないからだ。
  しかし、わたしの羊はわたしの声に聞き従う。
  また、わたしもかれらを知っている。わたしはかれらに、永遠の命を与える。
  わたしの父がわたしにくださったものは、すべてにまさる。
  そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。
  わたしと父はひとつである」(十ー二六~三〇)
 
 ここでいうイエスさまの、
 「わたしを信じないものは、わたしの羊ではないからだ」
 とことばの意味は、ほんとうの善というものは、だれをも犠牲にすることなく、すべてのひとのいのちを生かすものが、善であり、自分が犠牲になることもなく、政治的な善を優先するものが悪人だ、ということだったのです。


 4 日本人よ。真実に生きる自由を知りなさい。

 イエスさまは神である、とキリスト教徒が主張してきたのは、
 「わたしと天の父はひとつである」
 ということばを信じたからでした。

 しかし当時もいまも、ユダヤ人はそれを信じてはいません。イエスさまがいった天の父とは、ユダヤ教徒にとっては、絶対者でした。
 その神を「わたしの父」などと口にすることなど、ユダヤ人からすれば、とんでもない「悪」であり「大罪」でした。
 そこでかれらはイエスさまをつけ狙います。
 また石を拾い上げてそれをなげつけようともしました。
 そこでイエスさまは、さらに自分の「正しさ」を主張して言われました。
 
 「もしわたしが、父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくでもいい。
  しかしもし行っているなら、たとえわたしを信じなくても、わたしのわざを信じたらどうか。  そうすれば、父がわたしにおり、わたしが父におることを知って悟るであろうから」(三七)

 ことここに至ってみると、イエスさまの話ほど「単純」なものはありませんでした。
 「わたしを信じなくてもいいから、わざをみてほしい」
 というのですから。

 生まれつきの盲人の目を開け、何十年も苦しんだ病気を癒し、湖の上を歩き、風を従える。
 そういうわざは、とうてい天の神がいっしょでなければできないはずだ。
 ということでしたが、しかしほんとうのイエスさまの「わざ」のすごさは、その「ことば」にあったのでした。
 いわゆる「奇蹟」というものは、ほかの宗教でも見られます。またイエスさまを「信じたキリスト教徒でも奇蹟を起こせます。

 ところが、イエスさまの「ことば」だけは、どこまでもイエスさまの「ことば」として永遠にいまも輝き続けています。
 「わたしが父におることを知って悟るであろう」
 という「ことば」に注目してください。
 「知って悟る」ということ。
 これこそが「真理」の本質ではないでしょうか。
 人間と動物の「違い」は、真理を知って悟るか悟らないか、ではないでしょうか。
 
 病気を治しても、癒された人間はいずれに死んでいきます。
 風を従えるほどの奇蹟を起こしたモーゼでも、そのあと約束の地にも入れないで死んでいます。
 しかしモーゼが神からあずかった真理の「ことば」は、いまだに残っています。
 「真理」そのものは「永遠」の存在であり、その「真理」そのものが、わたしである、とイエスさまはいいます。

 なぜ、そうなるのでしょうか。
 それは、神の真理とは、天地創造の神と隣人を愛すること、であったからです。
 「いのちを捨てる力であり、同時にいのちを得る力」であるからです。
 そのときの愛とは、ひとのために死ぬこと、であったからでした。
 その真理の定義に、いまだに気づかないので、ユダヤ人たちは、絶対的な神を信じていながら、そのイエスさまの「ことば」に躓いたわけです。

 天地創造の神というものは、人を見張っていて、都合のわるものを排除するような方ではなく、敵のなかにさえ入っていって、自分のすべてを与えようとする方である、ということを、イエスさまは言いたかったのですが、それがどうしても理解してもらえなかった。
 そして自分たちが理解できないことをするものは、日本人にしても、そういう人間は悪人でした。
 こうして、神の名誉のためと確信して、そのころのユダヤ教の指導者たちは、イエスさまを十字架につけたわけです。

 ところが、そういうユダヤ人のために、イエスさまは十字架の上で、次のように祈りました。
 「天の父よ。
  かれらを許してください。
  かれらは何をしているのかわかっていないのです」(ルカ二三―三四)

 まことにまことに、そういうことです。
 絶対者である神は、人とともに、人のなかで生きようとしているのに、その神に選ばれたユダヤ教徒が、神の名誉のためと称して、神から送られてきた、人とともに生きようとしたイエスさまを殺したわけです。
 イエスさまを「殺した」ということは、イエスさまのように生きるものを悪人、罪人、つまり敵とみなす、ということです。

 事実、イエスさまの死後は、イエスさまをキリストとして信じたものへの迫害はもっとひどいものとなりました。
 しかし、イエスさまも、そういうことぐらいで驚くことはありませんでした。
 怒ったりもしませんでした。
 恨みにおもって、復讐にでたこともありませんでした。
 それどころかイエスさまは、そういう迫害を続けるものの心のなかに、「お助けマン」を用意しました。

 つまり聖霊という魂の「お助けマン」によって生きるものを、キリストは用意したわけです。
 誰だって、魂の自立を教えてくれる聖霊がそばにいてくれれば、イエスさまがキリストになるように、神の子になる。
 するとキリストのように、
 「いのちを捨てる力と、いのちを得る力」もつようになるからでした。

 そういうわけで、善良であろうとして足をすくわれたもの。
 あるいは、自分ほど弱いものはない。
 人助けもできない。
 というようにおもっておられる方は、聖霊をもらってみてください。

 その聖霊の助けを受けて、「いのちを捨てる力と得る力」を受ければいいわけです。
 救いとは、人を助ける力をもつことでした。
 助けられたとき、そして助け出したとき、ほんとうの自由を味わうということです。
 自分だけ救われても、そういう自由は不完全な自由でした。
 助ける力のないものは、どれほど頻繁に助けられても、ほんとうの自由にはなれない。

 しかし、聖霊という魂の「お助けマン」である聖霊をうけると、だれの助けもいらなくなります。
 それまで宿命の「下」で生きていた人間が、死ぬこともなく、裁かれることもない人間となって、こんどは人を助ける側の人間になる。
 殺すよりも「生かす人間」になる。

 そういう人間に生まれ変わることを、イエスは救いといい、神と一つである、という意味で、キリストよ、と言い始めたわけです。

 どうか日本人よ。
 そういうキリストになって、風のような、しがらみのない自由な国を造ってください。魂の成長のないところには自由はありません。日本しか愛せないような魂に自由はありません。本当の自由とは、困った人がいれば、いつでも、どこにでもその場に出向いて、いのちの風となって生き返らせることです。
 いのちでも、命を奪うよりは、「いのち」を与える側のいのちだけが、永遠のいのちとして輝くことになる、ということです。

 そういう永遠に輝くいのちのことを、ほんとうの魂の自由というわけです。
 そういう自由となった魂のことを、そういう魂は永遠に創造的であるがゆえに、永遠の「いのち」という意味で、キリスト、と呼ぶようになったわけです。

第十章 弱っている人を探し出し、「助け出すもの」となりなさい


 1 「ひとりだけの戦い」を覚えなさい

 キリスト教では自殺も「罪」ということになっています。
 なぜかといえば、自殺というものは、自分だけが死ぬことで終わらないから。
 自分の魂の成長を放棄するから。
 
 しかし、昨今は、神も人もあてにはならない、信じられない、というような、まったくの「ひとりぼっち」になる世相でもあります。
 それゆえに、そういう孤独な人生なら、自殺もムリもない、ということで、同情はしても、自殺者を糾弾するようなことはしません。

 しかし他殺の場合はどうでしょうか。
 殺人者にしても、まったく孤独で、だれともつながっていなかったものであれば、そういうときの殺人も罪にはならないのでしょうか。
 イエスさまを十字架にかけたユダヤ人たちには、自分たちの神を否定すること、神を冒涜するものを殺すことは、むしろ神が歓ぶ義なる行為となっていました。
 かれらが、イエスさまを殺した理由とは、
 「わたしたちには律法があります。その律法によれば、
  彼は自分を神の子としたのだから、死罪に当たる者です」(十九-七)
 ということでした。

 かれらは、イエスという人間は、人間にとっても、天地創造の神にとっても、有害であって、汚れた不要な人間であると判断したわけです。
 そういう判断は、今風にいえば、ホームレスのひとを軽視してあるいは殺しても、だれひとり悲しむものはなく、当人もまた自分の人生を捨てている。
 そういう人を殺して何が悪い。
 というような考えに似ています。

 しかも、なかには、
 「ホームレスの人を見れば妙に腹がたってきたので、殺した」
 というような動機も日本人にはあります。
 そういう心理は、イエスさまを殺したときのユダヤ教徒の心理とじつによく似ていました。
 あるときイエスさまも、ふとつぶやきました。

 ーキツネにも穴がある。
  しかしわたしには、枕するところもないー

 イエスさまはそのあと殺されました。
 イエスさまには、この世での居場所がなかったわけです。そうして最後は、人を助ける仕事をしていた宗教指導者によって、この世での居場所を完全に奪われました。
 おもえば、ホームレスのひとにしても、一般のひとからはじき出され、居場所を奪われ続けて、最後の居場所までも、奪われて殺されるわけです。
 
 しかし聖書からすれば、とうぜん、彼らをホームレスにしたものにも罪があり、殺したものも罪人となっています。
 ホームレスをバカにすること、かれらを殺すということは、聖書では、神を殺したことになります。イエスさまを殺したということは、とうぜんそれは神を殺したことを意味するがゆえに、大罪というものでした。

 ところが、ユダヤ人の律法によれば、だれでも「自分を神の子にすること」は罪でした。モーセの十戒の最初には、
 「わたしのほかに神としてはならない。
  あなたがたをエジプトから連れ出したわたしエホバこそ主であり神である」
 とありました。

 それでも、イエスさまは、まるで彼らを挑発するかのように、なんどもなんども「わたしと天地創造の神エホバとは、ひとつである」と言い放っていました。
 ユダヤ人の目から見れば、イエスは、目に見える人間でかありませんでした。あくまでも「人間」であって、しかもイエスという人は、最後の最後までみすぼらしい姿でしかなかったのでした。

 また、ユダヤ人がいまも尊敬してやまない、待望のダビデ王のような、後光のさした王とも、似ても似つかぬものでした。
 天の神は、永遠の天のみくらに座している聖なるかがやきのある方、と信じていました。
 しかも、イエスさまを逮捕してみると、弟子でさえイエスさまを見捨てたのです。
 そういう、すべての人に見捨てられたものを殺すことは、喜びでこそあれ、誰一人悲しむもののないわけですから、そういう殺しはとうぜん義であり、神も歓ぶ、ということになったわけです。

 いかがでしょうか。
 そういう論理でもって、これまでの日本の警察も検察も、自分たちの「目」にかなわぬものを、法というものを利用して逮捕してそして有罪としてきました。つまり冤罪までつくって、罪のない人を死刑囚にしてきたわけです。
 つまりユダヤ人のなかの律法学者が、法を悪用してイエスさまを殺すことに真剣であったように、日本の警察とか検察のような、法に携わっているものもまた、自分のほうは、罪を罰する権威さえあるのだ、それゆえに自分たちの判断はいつも正しい、と思っているがゆえに、冤罪を造っては人を殺す、というようなゲーム感覚で死刑囚を造ってきたわけです。
 そこには、快楽でさえあったので、やめられないわけです。

 しかしイエスさまにとっては、神の掟である律法とか真理というものは、ひとを裁くときの剣として使ってはならない、法律も真理も、裁くためにあるのではなく、救いのためのものでした。
 さらに、イエスさまの父である神は、弱いもの、罪びとを抹殺する神ではなく、逆に救う神である。
 そういうことを知らせるために、イエスとしてこの世に生まれてきた、この世のひとになっていた、と聖書ではいいます。

 ところがなぜか、いつの時代でも、どこの国でも、人間より法律が大切なものはいます。法律を守るために、人を殺すのです。
 人間のために法律があるとは考えないで、法律に逆らうものは殺してきました。
 そういうひとをイエスさまは、
 -偽善者ー
 と呼び、その偽善者の最たるものが、そういう律法主義者だったわけです。

 ユダヤの宗教指導者たちや、日本のなかの冤罪をつくるものは、ほとんどが律法主義者で、そういうひとにとっての真理は、人間を生かすために「律法」があるのではなく、彼らにとっての「律法」とは、自分たちのいのちのための律法であり、それゆえに見知らぬ、赤の他人のいのちなどは、律法によって殺すことが善であり、義でもあったわけです。


 2 「神から賜った権威のないものは、わたしに対しては何の権威もない」

 そういうことです。
 罪と罰の問題ほど難しいものはありません。そのため、ドスイエフスキーというロシアの作家の小説「罪と罰」が、いまだに読み継がれているわけです。

 罪には当然「罰」がつきものです。
 これを否定するものはおそらくどこにもいないでしょう。
 イエスさまでも、罪の報いは死、と認めていました。
 しかし罰を与えることができるのはだれでしょうか。

 ごく常識的に考えれば、被害者にはその罰を与える権利がある、ということです。
 社会全体が被害者となれば、社会がその罪を糾弾することになります。
 それゆえに、神に対する罪もまた、神が被害者であれば神にも、加害者の罪を糾弾する権利がある、ということになります。
 そういう判断によって、そのころのユダヤ教徒もイエスというひとの罪を糾弾しました。社会も神も、被害を受けた、と判断したわけです。

 ところがイエスさまによれば、その神は、ほんとうは罰など与えない、というのです。
 天地創造の神は愛であって、裁く神ではない、といいます。
 また天地創造の神からでた真理も、裁くものではなく、人間を自由にするものだ、といいます。
 そしてその真理そのものが「わたしイエス」である。
 それゆえに、「わたしイエス」も裁くことはない。
 「わたし」は、それどころか「罪人」を招くためにこの世に来た。
 とまでイエスさまは口にされました。

 裁かないということは、加害者に報復などしない、という意味でした。
 おもえばどうでしょうか。
 ホームレスの人は、たいてい報復にでません。
 なぜでしょうか。
 はじめからキリストのように居場所がなかった、からかもしれません。イエスさまにしてもそうでした。

 いよいよイエスさまを十字架につける直前のことでした。
 すでに述べてきましたが、繰り返します。
 イエスさまは、ローマ総督の前に引き出されました。
 聖書では次のようになっています。

  そこで総督のピラトはイエスさまに「声」をかけた。
  「あなたはどこから来たのか。」
  しかしイエスは、返事をしなかった。そこでピラトは言った。
  「どうして返事をしないのか。
   私には、あなたを許す権利があり、十字架につける権威もあるのだ」
  するとイエスは言った。
  「あなたに、神から賜った権威がなければ、わたしに対して、何の権威もない。
   だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」(十九―九~二〇)」
 
 イエスさまは、ここで、自分を裏切ったユダの罪を糾弾しているのではありません。
 イエスさまをローマ兵に引き渡して、ローマ人によって殺させようとした宗教的指導者の罪を糾弾しているわけです。
 もちろんそういう指導者にイエスさまを引き渡したのはユダでしたので、ユダにも罪がありましたが、ユダは、ローマ人に直接引き渡したのではありませんでした。
 ローマ人には神の民を裁く律法などなかったのです。
 裁く「権威」もないもののところに、イエスさまを引っ張ってきたのは、ユダヤ教の宗教的指導者だったのです。
 
 ところがユダヤ人も負けてはいませんでした。ピラトを脅しました。
 「ユダヤの王はカエサルであるのに、この男は、自分が王であるといったのです。
  だから、もしこの男をあなたが許すなら、
  あなたはカエサルに逆らうことになります」(十九-一二)
 
 カエサルとは、そのころユダヤ地方を支配していたローマの皇帝でした。
 こうしてユダヤ人たちは、イエスさまの「言葉尻」をとらえて、「殺す」ようにローマ総督ピラトに迫ったのでした。
 つまり何がなんでも殺したかったわけです。殺さなければ腹の虫が収まらなかったわけです。
 こういう心理こそ、罰を与える側のいつもの心理ではないでしょうか。日本の検察とか警察は、こういう心理が、正義感からくるものだと錯覚しているようです。

 神を冒涜したなら、冒涜された神のほうに「罰」を与える資格があるのはとうぜんですが、たいていは、法に携わっているものが、罰の量をきめます。
 そして、神のために、あるいは社会のためと称して「罪人」を殺します。
 神の代わりに、社会のために殺す、というわけです。
 そうして、罪もないのに、罪とすることもあるわけです。
 冤罪というものです。

 その作られた罪、つまり冤罪によってほんとうに殺されてしまったものもいます。
 しかし、そういう冤罪で無実なひとを死においやったもので、心から反省したものは、日本でもほとんどありません。
 形だけの謝罪はします。
 謝罪はしても、冤罪をこしらえて、無実のひとの死刑を要求しておきながら、ユダのように自殺したひとなどほとんどいません。
 慰謝料も、当人が支払うのではなく、国家が払うだけです。

 そういうことです。
 謝罪にしても、冤罪をつくったものが自分の「いのち」と引き換えに、助けるというようなことはしません。それどころか、ひとつくらいの失敗はあってとうぜん、と開き直っているようです。
 どうせたいして生活などしていなかったのだ。
 などというひともいます。

 しかしイエスさまは、そういう体質に断固として反対しました。

 ―天地創造の神もわたしも、罰を与えることはしないー
 とも言われました。
 それどころか、イエスさま自身は、加害者に謝罪も慰謝料も要求することなく、十字架の上で、
 「かれらは何をしているのか、分かっていないのです。
  ですからかれらをお赦しください」
 と神に、加害者の罪を許してくれるように、とりなしの祈りまでしたのです。

 殺されたほうが、殺したほうの「いのち」を助けようとしたわけです。
 冤罪で殺されようとしていたのに、冤罪をつくって平気な顔で殺しにかかったもののいのちを、イエスさまは助けようとしたわけです。
 同じ人間でありながら、ここまで人間性に違いがあったわけです。

 
 3 日本人よ、「血筋」とか「言い伝え」にこだわってはいけない

 仏教でもキリスト教でも、仏像や十字架を人間よりも大切にしたりすることがあります。
 いえほとんどの人が、自分のもっと大切なモノを壊されたり盗まれたりすると、モノより崇高である「いのちある隣人」につっかかったり、ののしったりします。

 かつて自分の花畑が荒らされたということで、隣人の犬を殺しそのあと「隣人」とも敵対しついに隣人をも殺した事件がありました。
 人間にとっていちばん大切なものは「いのち」ですが、それでも、花のいのちのほうが隣人のいのちよりも大切であったわけです。
 嫌いな人間、見知らぬ「いのち」が死ぬことなどうでもいいが、自分の「飼っている」ものなら金魚の死さえ悲しむのが人間ではないでしょうか。

 イエスさまを十字架に架ける作業に従事していた兵士たちもそうでした。
 彼らの関心は、イエスさまの「からだ」ではなく、上着であり下着でした。かれらは上着を分け合い、下着もくじ引きまでして、自分のものとしました。(十九-二三)
真っ裸にしてイエスさまに恥をかかせることにも心など痛みませんでした。
 かれらにとっては、イエスさまの「いのち」などどうでもいいことでした。
 
 しかしイエスさまはそうではありませんでした。
 真っ裸にされて十字架の上に上げられたあとも、隣人のいのちのことに心を使いました。
 弟子と母のことも心配しました。
 まず母に声をかけました。
 「婦人よ。ごらんなさい。このヨハネがあなたの子です。
 そのあと弟子に向かって、
 「ヨハネよ。この婦人があなたの母です」(十九-二六-二七)
 といったそうです。

 それは不思議な対照的な光景でした。
 一方では衣服の奪い合いをしているかと思えば、もう一方では、新しい霊的な「母子」の関係を造る作業がなされていたのでした。
 イエスさまはいつもこうして、死ぬまで、血筋にこだわることなく、心の友を造ることを優先しました。
 そのため、韓国では、血のつながりのない子を、わが子として引き取る、という俳優も多くなっています。
 日本人には想像のつかない生き方ではないでしょうか。
 
 血のつながったものがなくなると、だれだって悲しみます。
 そしてなぜ人は死ぬのだろうか、殺されなければならないのだろうか、と悲痛な思いで悩みますが、日ごろからまったく眼中にないものが死んでも、悲しむことも、それによってそのあとの生活を乱されることも、日本人にはまずありません。
 殺してみたかったので殺した、という事件も、そういう加害者にしても、他人のいのちなども、虫けらでしかなかったわけです。

 いやもしかすると、かれらもまた、虫けらのように扱われて生きていたのかもしれません。
 そうしていつのまにか、自分自身を虫けらのように嫌って、さらに他人のいのちだって大したものではない、と考るようになったはずです。
 しかし韓国の俳優さんのような、血筋ではなく、他人ではあっても、その他人の隣人となって、その他人を引き取る、というひともいるということです。

 つまり、人間というものは、心のなかに入れるもので、イエスさまのようにもなれるし、あるいは殺人鬼にもなれる、というわけです。
 それゆえに子育ての基本は、できるだけ幼児のころから、人間の暖かい心で育てることだということになります。
 つまり、自殺とか他殺は、人の心など信用でないときに起きるということです。
 もはや人の心で慰められることはないことを知ったあとで起きる、ということです。

 そういうときも、そういうひとの心という器が、隣人を受け入れる心ではなく、隣人でさえ敵にするような心でいっぱいであったはずです。
 人間とのいのちの会話がなかったはずです。
 「光」を見失うということ。
 心の光とは、暖かい、隣人との交わりの心なのですが、昨今の老人になると、わが子でさえ遠い存在となっています。
 同居している息子が親をいじめ、とおくに住んでいる子などは、親をまった無視しています。

 それにしてもなぜ日本の親は、高齢者になると、心の居場所を失うのでしょうか。
 もちろん原因はひとつです。
 たいていが、自分の子の世話しかしていないからだ、ということです。
 わが子しか育てなかったので、その子に裏切らてしまうと、認知症にでもなって、いやな世界を忘れたい、とおもってしまうのではないでしょうか。
 しかし、わが子にしても、親が、自分だけでなく他人も大事にしていたのであれば、今度は、そういう時も、他人に面倒を見てもらえといいのです。

 いずれにしても、親というものは、こうして、ウツになるほかなく、すべてを忘れるために、認知症を選ぶのでしょうか。

 ところがイエスさまは、十字架のうえの激痛のなかでさえ、弟子のことをおもい、母マリヤのことを案じていました。
 それこそ、神の愛が広がるための第一歩であったのでした。
 しかしなぜかん日本人ははいまだに、そういう神の愛を嫌っています。自分は愛されたいが、敵は愛さない。そういう日本人が大半ではないでしょうか。それどころか、愛国心んぉある人ほど、日本人は、他人でさえ隣人として受けれる愛がないのです。
 それ故に、いずれ不要になる臓器一つ、他人にはやりたくないわけです。
 高名な、仏教的哲学者にしても、そういう、臓器移植には大反対をしています。

 そういう人は、キリストがいうところの、
 「自分を棄てるものはそれを手にれるようになる。
  自分しか愛さないものは、自分の命までも失ってします」
 というような単純な真理でさえ、誤解しています。
 
 そういう哲学者、仏教者は、つまり、自分の救いで、精一杯のようです。
 そういう、たよりない信仰では、自分でさえ救えないはずだ、とキリストは言います。
 それゆえに、そういう宗派の信仰というものは、いつも警戒心とひとつとなっています。
 ヤドカリのように、宗派のなかで、民族のなかで、宗派という、民族という器を背負いながら生きていますので、だれとも自由に交わることもできないし、それどころか、あれは敵だ、あれはほかの信仰だ、などといつも警戒しながら生きているので、危険がくればすぐに宗派というもの、民族というもののなかに、血筋になかに駆け込むわけです。

 そういうひとは、特定のひとにしか心を許しませんので、ほかのものは平気で殺せるようになって、宗教戦争を始めるわけです。
 アメリカの大統領にしても、いまでは、保護色が強烈です。
 そういう信仰では、そのうちアメリカという国も、酸欠状態になるはずです。

 仏教徒にしても、どうでしょうか。仏像を大事にして、自分の救い、自分の悟りしか眼中になく、他の人の心にどれだけ心をよせてきたでしょうか。
 自分の心を広げることに精一杯で、ほかの宗派の心を理解する余裕すらないひとも多いのではないでしょうか。

 生きた人間よりも、「いのち」のない仏像にすがる。
 ましてや異教徒など眼中にない。
 そういう信者が多いのではないでしょうか。
 そういう信仰、ごく身近な隣人の心さえ忘れるために、そういう信仰をもっているように見えます。
 そういうひとは、自分の「救い」だけが大切なだけなのです。ほかのいのちの「真実」などどうでもいい。
 自分のいのちを捨ててでも人を救いたい。
 というような信仰ではない。
 そのように思えるのですが、間違っていれば幸い、というものですがーー。


 4 本当の権威者とは、「いじめを止める」人のこと

 そういうわけで、なぜ人は人を殺すか。
 なぜ信仰をもったあとも殺人をやめないのか。
 その答えもはっきりしています。

 つまり、心のなかに最初から「人のいのち」も人の「心」もないのです。
 他人のいのちなどは、はじめから、人間の尊いいのちではないわけです。
 神を信じて平気で宗教戦争ができるのも、その「神」がまた、人のいのちよりも、自分のメンツを大切にする「かれらだけの神」であるからです。

 イエスさまは、そういう事実を知っていましたので、そういう利己的な、あるいは宗派的な神ではなく、宗教宗派を超えた神を信じなさい。
 というために、この世にきたわけです。
 それゆえに、宗教宗派というものは、よほど注意する必要があります。

 イエスさまは言われました。
 「義人のいのりは聞かれる」と。

 では義人ではない人とはどういうひとでしょうか。イエスさまによれば、
 「天地創造の神と富(地上のカミガミとか権力)に、同時に仕えるひと」ということです。
 このことばの意味するところは、心というものは、何かを入れれば何かが「はいれなくなる」ということです。
 神と富。神と個人的な名誉とは、まったく異質であるがゆえに、同時にふたつを入れることはできない、というわけです。

 それゆえに、富とか権力しか眼中にないものがする「善」というものは、おのずから「偽善である」ということです。
 そういう人が、政権を取ったとしても、そういうひとは義人ではない、ということです。
 そういう人が、道徳心、愛国心を口にするときには、権威というものを見せつけるときには、警戒しなさい。かれらが政権を取ると、精神界も物質界も支配しようとします。そうして、武力によって平和を造るわけです。
 
 よく見てください、かれらは、あら探しをします。警戒心しかないわけです。
 それゆえに、政党というものは、いつも離合離散を繰り返すわけです。
 宗教を持った人にしても、ほかの宗教宗派の人を殺せるのも、本当の心の交わりをもったことがまだないからです。
 
 神と富に同時に仕えているひとは、富とか既得権に執着しているから、ほかの人に心を開かないのです。
 隣人でさえ敵にしてしまうのです。お友達内閣を造って、政界も財界も、宗教界も「ひとり占め」してきます。
 
 そこではっきり言います。
 敵を造っても敵を愛せるものが、義人です。 
 独り占めしてきた既得権と、独り占めしてきた富を捨てるものだけが、義人です。
 そういう義人の祈りは聞かれる、とキリストは言います。

 そういう義人とは、勲章をもらった人もなく、勲章を与える人もなく、名もないような弱者の重荷を背負う力のあるひと。
 「いじめ」を見て見ぬふりをせず、弱者を助け出せる人のことです。
 そういう弱者の重荷を背負っている魂だけが、義人であり、それゆえに、ほんとうの義人が、天国さえ弱者に譲るのです。
 そういうひとは、いつも、助けを求めている人を助け出すための、力と光を、造り出しているからです。重荷を背負っている人は、そういう行いによって、魂のなかに自家発電を起こしているからです。

 最後に言います。
 魂の世界で自家発電を起こしているものが、この世でも、正しいひとです。
 理屈ではありません。正しさは、武力で決める者でもなく、論争で決めるものでもありません。

 魂の世界で聖霊の助けを借りて、自家発電を起こせるひとだけが、死んでも死なない光をもっているわけですから、そういうひとが、キリストのいうところの、ほんとうの正義の人で、そういう人をキリストは、ほんとうの権威者、と呼んできました。良き師、と呼んでいました。
 ウソかまことか、その自家発電を起こす聖霊を、先ず求めてみてください。
 天地創造の神に、キリストに、聖霊をください、と心から言ってみればいいわけです。きっと遠からず、魂が自立を始め、さらに困っている人を助けるものとなるはずです。
 


おわりに

 -日本人の二つの顔ー

 日本人は、第二次世界大戦のとき、アメリカと戦って、木っ端みじんにやられ、最後は、世界で初めて原子爆弾を受けました。
 しかも、往生際もわるく、いつまでたっても戦争をやめる決心さえしなかったために、広島のあと長崎も被爆しました。
 それでも、日本人は、その戦争の責任者を糾弾することもなく、恨むこともなく、戦後を必死に生きて、ついに経済大国にもなりました。

 政治的にも、言論の自由もあれば、職業の自由もあり、昨今では十八歳になれば、国会議員を選ぶ選挙権ももつようになりました。
 ところが、一方では、いまだにいじめをやめません。戦争責任者などの強いものに責任を問うこともない日本人でありながら、弱者をいじめることはやめないのです。
 「お上」には、どこまでもアタマが上がらず、その反動のためか、弱者にはどこまでも冷酷なのです。

 いまだに、障害者が生まれれば、家の倉庫に入れて、世間の目の見えないところに、隔離するのです。
 施設に預けるときでも、こっそり人目をさけて預ける。
 そうして、十九人の知的障害者が、一夜のうちに、元職員に殺されたのです。犯人はいまだに自分の罪を反省することなく、
 「自分は間違っていなかった。人類のため、お国のために殺した」
 などといっているそうです。

 また、いじめることはなくても、殺すこともなくても、いじめの仲裁に入る文化人も、日本ではかなり少ないのです。見て見ぬふりをしてきました。
 いじめが嫌いだということで、宗教的な悟りに逃げるひともいます。
 あるいは、花鳥風月とか、文学的な世界ににげて、日本人であろうとしてきました。

 「お上」の罪を糾弾しないで、悟りまで開いても、「いじめ」を見て見ぬふりをして、「いじめ」を止めないのが、日本的文化人なのです。キリストを十字架につけたユダヤ教の指導者たちにしても、天地創造の神を間違って信じていた有識者であり、有名人でした。
 
 一般庶民がどれほど「いいこと」をいっても、「弱者を助けた」キリストなども許せなかったのです。それどころか、かれらは、十九人知的障害者を殺した犯人のように、国家とか人類のため、という名目で、キリストを十字架にまでつけ、その上、罪人とか異邦人と言って軽蔑していたローマ兵に殺させたのです。
 
 なんということでしょうか。
 こういう「的外れ」な道徳を、聖書では「罪」と言います。
 そういう「的外れ」な道徳的指導者をキリストは生前、偽善者と呼んでいました。

 そうして、日本人のサッカーチームは、今回のサッカーのワールドカップで、とんでもない愛国心を全世界に見せつけてくれました。
 勝負に勝つために、世界中の人が注目していたポーランド戦で、自分たちのチームだけで、あの広い試合会場で、相手の選手を無視して、日本人だけで、ボールをけり合うというゲームをしていたのです。
 引き分けに持ちこめば、決勝トーナメントに出場がきまるという情報が入った途端に、五分間の間、まともな試合を放棄して、ボール遊びを始めたのです。
 
 そういうことです。
 日本的スポーツマンシップとは、そういうものだったのです。
 日本人の愛国心。
 日本人の道徳心とは、そういうものだったのです。
 おそらく、彼ら選手にも監督にも、日本に帰っても、魂の居場所はないはずです。

 そうならないために、第二巻では、イエスという人が、ご自分のことを「人の子」といって、人間としての最低のエチケットを紹介していますので、参考にしてみてください。
 日本人だけでなく、すべてのひとの「人生の目的」、ほんとうの愛国心というものを、代弁していますので、参考にしてみてください。

                                    (第一巻 完)




 

キリストの世界 第一巻 日本人へのメッセージ

2018年6月4日 発行 初版

著  者:平川博達 吉川宣行 吉野万菜
発  行:yoshikawa-shimon-nobuyuki出版

bb_B_00154884
bcck: http://bccks.jp/bcck/00154884/info
user: http://bccks.jp/user/139999
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

yoshikawa-shimon-nobuyuki

現在にところ、7000ページ程の原稿があります。発行した本もありますが、書籍化はまだしていません。  盲学校、知的障害者などの学校の教師の後伝道者になり、今は執筆をつづけています。

jacket