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石原純と保田
紫花山房について
保田・第一期について
保田・第二期について
本書は、保田に暮らした石原純が記した関東大震災に関する文章を、貴重な資料ととらえ、これに解説を付け加え、郷土史の観点から現代に紹介するものである。この文章は、石原純の令孫が運営する神奈川県逗子にある個人科学館「理科ハウス」のホームページに『大正十二(一九二三)年九月一日十一時五八分に起った関東大震災についての記録』の題で紹介されていたものであり、本書では『保田震災記』と呼んでいる。
千葉県南房総の玄関口、東京湾に面する保田は、大正時代から昭和戦前期にかけて大衆の海水浴地として賑わい、多数の学者や実業家らが別荘や住まいを構えていた町であった。保田文庫ではその頃の地域文化を掘り起こす取り組みを行っているが、この頃の様子を語るうえでも石原の存在は見過ごすことができないほど大きい。当時一流の自然科学者、歌人、科学ジャーナリストであった石原純と女流歌人原阿佐緒が保田に移住すると、歌人や学者、新聞記者など様々な関係者が保田を訪れるようになり、保田に文化的な空気が生まれたのだった。
二〇一一年の東日本大震災、二〇一六年の熊本地震と、ここ数年で日本列島は大きな地震災害に見舞われ、各地の惨状の様子が記憶に新しい。今年は、関東大震災発生から九十五年目にあたるが、奇しくも五月ごろから大きな地震が日本の数か所で起り、七月初旬には房総半島東方沖を震源とする震度五弱の地震があった。それ以前の六月には震源周辺の海域で群発地震が起こっており、政府が大きな地震への注意を促していた矢先に起きた地震だった。全国には房総半島以外にも大地震が起こりうるといわれる地域が複数あるが、昨今防災を意識している人も多いことだろう。
東日本大震災に関しては、災後七年がたった現在でもその実態や記憶を語り継ごうという動きが見受けられる。それらの活動は、単に震災の被害の度合いを記録しようというよりは、むしろ生身の人間が震災という事実に対してどのように考え、どのように対応したのかという、いわば「生きた教訓」を未来に残したいという欲求が感じられる。関東大震災を経験した高齢者がほぼいなくなったといえる現在、「保田」での関東大震災の様子を、臨場感をもって現在に語り掛けるものは、この石原の震災記をおいて他に無いだろう。石原が残した震災記には、石原自身が当時どのように現実を捉え、それに対してどのように考えたかが記されている。郷土史としても、地震災害への備えとしても、この震災記は現在の私たちに重要なメッセージを放っているように思われてならない。
石原純の事、関東大震災の事を地域に語り継ぐべく本書を作った次第である。
石原純(一八八一 - 一九四七)は、大正から昭和初期にかけて理論物理学者・大学教授・歌人・科学ジャーナリストとして多面的に活躍した人物である。名前はいしわらあつし(じゅん)という。石原が専攻した理論物理学とは、数理的な手段を用いて物理学理論を研究する分野である。ニュートンの力学理論やアインシュタインの相対性理論がよく知られる。石原は、明治四十五年(三十一歳)からの二年間、ドイツとスイスに留学し、著名な学者らのもとで学んだ。日本にはまだ理論物理学が浸透していない時分の事だった。スイスではアインシュタインに相対性理論を学んだ。帰国した石原は後に国内に相対性理論を紹介するなど、理論物理学の啓蒙に大きな役割を果たした。大正十一年にアインシュタインが来日し全国各地で講演を行った際には通訳として同行したことでも知られる。石原の物理学の研究は高く評価され、大正八年五月二十五日付で、日本学士院の恩賜賞を受賞した。研究題目は『相対性原理、万有引力論及び量子論の研究』だった。日本学士院による賞は、日本の学術賞としては最も権威ある賞である。
仙台で東北帝国大学教授の職に就き、家庭を持っていた石原は、物理学や短歌の世界でも名の通った存在であった。しかし、同大在職中に女流歌人原阿佐緒と恋仲になると、新聞各紙は大正十年(一九二一)の八月にこれをスキャンダラスな「恋愛事件」として報道した。その後石原は東北帝国大学に辞職を請い、休職となった。石原と原は一度東京に出たものの、世を忍んで逃避行を決意した。その行先に選んだのが、南房総の海辺の町、保田であった。大正十年十月のことだった。二人は保田の松音楼旅館に投宿した。保田神社前にあった同館は、保田では老舗の旅館だった。二人は宿の主人、昼田昇夫妻の世話を受け同館の離れに自炊生活を営んだ。石原は雑誌「婦人画報」(昭和四年一月号)に『試練の姿(私とA子と或る世間の人々と)』の題で当時の心境をこのように述懐している。
「別に何の縁故もない、しかも未知の場所ではあつたものの、暖かくて静かで景色もよいからと或る人に聞いたばかりに、Mといふこゝの旅館の名まで教はつて、ともかくもと訪ねて来たのでした。その時も雨こそ降り出してはゐなかつたけれど、丁度曇り空が重たく垂れかぶさつたやうな晩でした。(中略)「これからどんな風に私たちは生きて行つたらよいのであらうか。」相愛し相信頼する二人ではありました。でも、めいめいがそれぞれの異なった過去の生活を既にもつてゐたことは、たとへそれに分れて全く新しい二人の生活へ入らうとするに當つても、やはり振り返られずにはゐなかつたのでした。殊に神経質な彼女に取つて、私が分れねばならなかつた妻子への顧慮をより多くもつてゐたことは無理もない次第ではなかつたでせうか。でも、人生に於て種々の事情はそれをしも余儀なくすることがないとは云われません。私たちはその悲しみを負うて、自分の生命に対しよりよいものへ向かふより外にないのでした。それが力少ない人間に取つてせめてもの行くべき道でなければならないのではありますまいか。」
※A子とは原阿佐緒のペンネーム由利子のことである。石原は、保田震災記やその他の雑誌などでもこの呼び方を用いている。
その後、保田小学校裏の丘に新居が完成すると、二人はそこに移り住んだ。移住後の石原は、本格的に科学ジャーナリストに転身し、歌作においても前衛的な表現を模索、提唱していった。しかし、新居に暮らして約七年が過ぎたころ、原は保田の家を去り、二人の生活は終わりを迎えたのだった。石原は翌年から岩波書店が創刊した雑誌『科学』の仕事が多忙となり、数年を東京に暮らしたが、昭和十六年に六十歳で保田の家に戻った。その後の石原は雑誌『科学』の仕事のため週に一回、東京神田の岩波書店に通いつつ、保田の家で著述に励む日々であった。当時の石原は現代物理学の解説書や子供向けの科学書を多数著したほか、国家が戦争に向かってファシズム化し、思想統制が進んでいくなかで科学政策を鋭く批判した。その他の社会問題にも広く言及した。太平洋戦争直前には軍部から厳しい執筆制限を受けている。大学教授、歌人、科学ジャーナリストと広範に活動した石原の生涯において、保田は転機の地であったと言えるだろう。
石原は終戦直後、昭和二十年の十二月中旬に東京で交通事故にあい重傷を負った。当時交流のあった保田小学校教員の鈴木伊三郎氏が上京したきり戻らなかった石原を心配し、岩波書店に連絡を取ったが、既に帰った後だと聞いた。同氏が捜索願を出すと、石原が警察で保護されていることが判明。理由は車にはねられたまま路上で倒れ意識を失っていたところ、警察が身元不明者として留置所に預かっていたのだった。石原の弟・石原謙が東京女子大学の学長であったことから身元が判明し、大変な傷を負った石原は慶応病院に入院、三か月入院した。そのころには過去の記憶も殆んどなくなっていたという。その後の石原は東京に住んでいたころから同居していた堀内耐子氏の介護をうけたが、昭和二十二年一月十九日に脳溢血のため保田の家で没した。自分の遺体は保田の家に置いて供養してほしいというのが石原の遺言であった。最期を看取ったのは、鈴木伊三郎氏と、松音楼の主人・昼田昇夫妻、同居した大川原よつ子氏らの数人だった。
鈴木伊三郎氏は、保田小学校で教員を務めた保田の大六の人で、石原と原の両人が保田に来てから、石原が保田の家でこの世を去るまで、長年にわたり短歌を習うなど、石原と親交があった。同氏は『石原純先生御他界の前後』という文章を残しており、最期の様子が伝わってくる文章なので下記に紹介する。
「先生の体を抱いて棺に入れたのは、松音楼旅館の主人(故昼田昇氏)と私だけです。私が仰向けの先生の両腕下へ腕を入れ背中を支え昼田さんが腕から足を抱かれました。(中略)漱石の句に「ある程の菊投入れよ棺の中」というのがあったかと思いますが、棺の中へは水仙の花をいっぱい埋めてあげました。先生の随筆にはよく「この静かな山すそに住むようになったのも・・・」という言葉がありますがこの山すそで水仙の花に埋もれて僅かな人に抱かれて、これも先生らしい行方かと思っています。」
保田の花「水仙」の香りに包まれ、保田の人たちに看取られ最期を迎えた石原だった。
一九二二年(大正十一)、保田の本郷に石原と原の新居が完成すると、二人はこの家を「紫花山房(しかさんぼう)」と名付けた。その由来は不明だが、当時この家のある丘の土手などには春になるとスミレの花が広範囲に咲き、紫色の可憐な花が風に踊っていたという。「靉日荘」という別名もあるが、これはこの洋館ができた翌年に発行された石原の「靉日」という歌集にちなんで呼ばれた名である。保田小学校のすぐ裏の山を背にした小高い丘に建てられたこの洋館は、土地の工面も松音楼の主人昼田氏の縁であったという。石原の家と松音楼旅館とはそう遠くなく、石原は日常的に同館に食事や絵を描きに行ったりしていたという。震災記には関東大震災発生時も同館にいた事が記されており、石原と同館の親交がうかがえる。
石原の家の敷地は千五百坪と広大だった。丘の斜面に沿って三段に並んだ平地があり、洋館が建っていたのは真ん中の平地だった。洋館跡から坂を上ると丘の頂上に出る。西に開けたその丘の上からは、保田の街並みと鋸山、東京湾越しには雄々しい富士が見渡せる。一方、坂を下った土地には当時畑があって、ザボンなどの果樹が植えてあったという。
前述の紫花山房外観写真をもとに家の間取りを説明すると、一階右側の窓から、応接間兼原のアトリエ、中央の窓が書斎、軒下にアーチのある掃き出し窓はサンルーム。サンルームの奥には食堂と風呂・水洗トイレがあった。二階中央の窓は客間。その奥には和風の寝室があった。食堂の上階は書生部屋と女中部屋があったという。トイレは水洗式でそのような家は当時保田にはどこにもなかっただろう。アトリエでは原が油絵を描き、石原もこのころから絵を描くようになったという。白壁と赤い瓦屋根の二階屋は街道からもよく見え、当時の保田ではひと際目立っていた。ちなみに保田の人たちは石原が暮らした保田小学校裏の山を「イシワラ」とか「イシハラヤマ」と呼んでいたという。関東大震災が起こったのは、この洋館ができてからまだ一年も経たないうちの事だった。
石原が保田の家に暮らしたのは、先に記したように二度ある。それぞれを「保田・第一期」、「保田・第二期」と呼び特徴を見てみよう。第一期は、原阿佐緒と移住した時から昭和三年に原がこの家を出ていくまでの六年間で、第二期は、昭和十六年から石原がこの世を去るまでの五年間である。石原が暮らした紫花山房は昭和四十年代に取り壊され現存しない。
第一期の石原は、短歌や詩作において前衛的な表現を模索、発表した。また、原の存在も相まって保田に暮らす二人が文化的な求心力を発揮した時期だった。石原と原はともに絵画や歌作をたしなむなど、仲むつまじい暮らしぶりだったというが、一方で、派手な柄の和服や、毛皮のオーバーを身にまとい、常に厚化粧をしていた原は特に地域の人目をひいた。地元の人たちのなかには「風紀を乱す」などと揶揄した人もいたという。
『保田・小学校教育百周年記念誌』(平成元年一月発行)の一部にはこのような回想録がある。
「石原博士と原阿佐緒女子の事は有名でしたよ。原女史は小柄で、オカッパ頭のモダンガールだったから保田ではめずらしく、目に付きましたね。女の子は皆興味を持っていたんじゃなかったかしら。学校の上に家を建てられて、校舎の間を博士がおんぶして上って行く姿を、私ら勉強はそっちのけで見ていました。」
石原と原の両人が保田にいたことは、房州の文化においても影響があった。館山市史にはこのような記述がある。
「この両人(石原と原)は房州の文化の向上に、大いに貢献したといってよいだろう。いままでは、田舎の小さな半農半漁の街として、普段は滅多に名士など来なかった保田町は、歌壇で名前を知られた人、学者、著述家、画壇の知名人、出版関係者などが、ほとんど毎日のように訪れて来た。当時の房州の文化の中心地は、北条町よりもむしろ、保田町に移った感があった。」
写真Aは、数人の男性が石原と原を囲んで写っている。一番右の人物は詩人・作詞家の西條八十(さいじょうやそ)に似ているが、真偽は不明。八十は十四歳の頃父親が亡くなり、その数年後に初めて出た旅行の行き先が保田だったという。八十は保田、房州の海岸での情景が自身の作風に影響を与えたと語っており、明治四十四年八月には東京美術学校長をつとめた教育者・正木直彦らとともに鋸山に登ったという記録がある。
石原は文筆の傍ら、元名海岸の方までよく散歩をたのしんだという。原は特に毛糸の編み物が得意で、そのことが保田町の有志婦人らに知れわたると、いつしか洋館では編物講習会が行われるようになった。大正十五年の冬には、館山で原と受講者らの編み物作品の展示販売会が開かれた。また、二人のもとには房州の短歌愛好者があつまるようになり、二人は松音楼旅館で「保田短歌会」を開いたりした。
昭和三年、石原の著書『子供の実験室』が刊行された。国民へのまっとうな科学教育を重要視した石原が子ども向けに記した科学書である。同書は子どもに語り掛けるような調子が印象的である。前書きの一部を引用する。
「自然の事実といふものはそれ程に力づよいものであり、確なものです。そこにはまたわたしたちの思ひ及ばない、不思議な微妙なはたらきが行われてゐるのです。みなさんが一度心の奥底からこれに触れて、その不思議を味ひ知つたなら、どんな嬉しさをお感じになるでせうか。ちょっとした謎が解けてもずいぶんうれしいですもの、自然の謎を解くに越したよろこびは、人間にほかにはないといつてもよいくらゐです。(中略)みなさんは何をおいても、先づ事実をつかまへなければいけません。それもただ人から聞いただけでは、なんにもなりません。人から聞く言葉はたとひまちがいひのない事柄であると思つても、まだまだそれだけではほんとうかどうかと、疑へば疑ふことができるのです。いやしくも理科の学問の土台になる事実は、絶対に疑ふことのできない事実でなければいけません。「誰がなんといはうとも、動かすことのできない事実」、さういふものをしっかりつかまなくてはならないのです。それには実験がぜひとも必要になつてくるのです。みなさんが自分の手をつかつて、自分でやつてみるのがこの実験です」
この文章の最後は「房州保田にて 石原純」と結ばれている。石原は元来子どもたちに科学の楽しさを伝えたい意志を持っていたというが、私はこの文章が、保田小学校に通う子どもたちの声が響く丘の上で書かれたと思うと感慨深いものがある。石原が科学教育について述べるようになったのは、関東大震災で流言に惑う人々の姿を見て、一人一人が科学的に物事を捉えることの重要性、科学教育の重要性を痛感した事が大きな動機のひとつであった。石原は保田の子どもたちにどのようなまなざしを向けていただろうか。
原阿佐緒が保田の家を去ったのは昭和三年の九月であった。原の歌集『うす雲』はその直後十月に刊行されたものであるが、小学校裏の丘に暮らしていた風情が伝わってくる短歌がある。
病み起きに障子あくれば高松の黒きがうへに空は晴れたり
海の日ざし障子に明かき昼を寝つつ学校の子等のさやぎきき居り
高き辺にわが見おろせる海辺の町昼ながらものの音絶えて居り
この歌集の序文には、「うす雲に序す」の題で昭和三年八月十五日付で石原の文章が収められている。
「房州に住んで私たちはもう七年の歳月を殆んど完全に過ごしました。(中略)秋近いこの頃の朝に丘の上から西の方の稍々離れた海を眺めると、なんと云ふ美くしい紫碧色を呈してゐることでせう。私たちの家はその丘の陰に北方の山を背にして、立つてゐるのです。私たちはあの近年に稀な大震災にもこの家で出遭ひました。海岸よりのおほ方の家屋がつぶされたなかに、多少の壁の襞割れを残しただけで無事に過ぎました(中略)今でもその襞割に紙を張って間に合わせてありますが、不体裁と見れば見られるものの、私たちにはやはり一つの忘れられない思出なのです。」
岩波書店の雑誌『科学』編集主任の仕事が多くなった石原は、自身の弟の妻に保田の家を譲り、昭和四年に東京に転居した。ちなみに同年秋からの約百日間は、詩人・花岡謙二一家が主人不在となった石原の保田の家に暮らした。この日々は「鋸南雑記」として書籍化されている。東京に移った石原は、約九年間を目黒や下高井戸などに暮らし、科学ジャーナリストとしての活動を展開していく。
石原は昭和十六年に弟の妻から保田の家を買い戻し、同年三月に保田の家に戻った。その後昭和二十年に東京で車にはねられ、その二年後の六十六歳に保田の家で死去した。保田に戻ったころの石原は国家の科学政策などを批判していたため、憲兵に目をつけられていたともいわれる。この頃の石原は、毎週木曜日には雑誌『科学』などの仕事のため東京の岩波書店に通う生活だった。保田に戻った当初の心境を石原はこのように記している。
「東京の住宅難の甚だしい際に家を空けておくのも勿体ないと思って、この三月から房州に移住してしまった。それでも毎週上京しなくてはならないので、之はちょっと厄介ではあるが、そのくらいの我慢はやはり致し方もないであろう。田舎であるだけに、物にはさほど不自由しないし、それに美しい自然に取り囲まれて、その中に浸ることのできるのは、私にとってこの上もない慰めでもある。」(『改造 一九四一年七月』・改造社)
この時期の石原は第一期に比べ科学ジャーナリストとしての活動がより色濃くなる。国内が第二次世界大戦の時局を帯びてくる当時において、戦時科学振興政策やファシズムに抗し、批判をつづけた。この時期の石原は、子供向けの科学書等も多く著している。石原は、家庭においても一般社会においても科学的な精神や考え方を万人が身に着けるべきであるという信条のもと、保田で著述に励んだのであった。
筆者は、当時の様子を知る地域の高齢者の方々に取材をした。以下に紹介する。
大川原よつこ氏の話
石原の家に同居していた保田の大川原よつ子氏は、当時の事をこう振り返る。
「石原さんはとにかく優しい感じの人でした。郵便配達に来た人にも「ご苦労様です」と頭を下げ丁寧にあいさつをしていました。松音楼には世話になったからと、週に一度は食事に行っていました。東京で事故にあった後は、医者から安静が必要と言われたので、外に出ないように家の鍵をかけましたが、石原さんはそれでも、窓枠に登って外に出てまで散歩に行っていました。家には遠くは信州の方からも学生が来ることがありました。そのほかにも、どんな人かわからないけれど、学者も訪ねてきていました。」
矢生満つ江氏の話
矢生満つ江氏は、幼いころ保田小学校に徒歩で通学中に路上で石原の姿をよく見かけていたという。
「石原博士は毎日同じ時間に元名の方面に行ってよく海岸を散歩していたようでした。服装はいつも和装。冬は大島紬の羽織と着物。黒い足袋と下駄ばき。哲学者みたいな感じで腕を組みながら難しい顔をして歩いていました。ある日、私が道草をしながらノソノソと後ろ向きに歩いていると何かにドンとぶつかって、その拍子に「おっとっと」と声がしました。振り向くと石原博士でした。私が石原博士の声を聞いたのは後にも先にもその時だけでした。」
角田和氏の話
保田在住の角田和氏の父・角田安治郎氏は石原に「命の恩人」と呼ばれた人物だったという。ある日、石原は保田の海で泳いでいた時に溺れ、それを助けたのが漁師の角田安治郎氏だった。角田和氏によると、「親父は命の恩人ということで、よく保田小の裏の洋館に招かれるようになった。そこに来るのはたいてい東京のお偉方さんだったようで、親父は借金して紋付袴をこしらえた。こっちは漁師。そんなところに行っても毎度話が大変なので誘いを断ろうとしても、石原は「命の恩人だからぜひあの人にもあってほしい」と言って、まだ車も無かった時代に家まで乗用車で迎えに来ていた。石原の車が来ると近所の人が見に来ていた。石原はお礼として金銭を家に持ってきたが、親父がそれを断ると、石原は数か月後に自分で描いた元名海岸から鋸山の風景画を御礼の品だと言って持ってきた。」
鈴木伊三郎氏の話
昭和五十九年二月一日発行の『鋸南町報』には「鋸南の歴史」というコーナーがあり、石原と原のことが紹介されている。このコーナーには石原と親交があった故・鈴木伊三郎氏の話が特集されている。同氏は二十五年もの間石原に詩や短歌を習い、原に七年間短歌を習った人物であった。第一期と第二期をまたいだ数少ない証言である。下記に引用する。
「私は十九歳の春、代用教員として、自分の町の小学校に勤めていた。(中略)私の学校のそばに松音という旅館があり、その別館が校庭から板橋を渡って行けるようになっていて、二人はその別館に落ちつかれていた。私は自分の書いたものを見ていただきたいと思っていたが、なかなか自分ひとりで訪ねる勇気がなく、ぐずぐず日をつぶしていた。勇気をもって初めて訪問した日なにを話したか記憶にないが、阿佐緒先生のそれと思われる華美な衣装が衣こうにかかっていたことが、眼の奥にくっきり残っている。次の年の五月、現在の小学校の裏山の麓に新居を建てられ、(中略)二人の新居に関して、旅館の夫妻の行きとどいた配慮は並大抵のものではなかった。(中略)先生は寡黙でいて暖かみがあり、皆で歓談の最中でも「ちょっと散歩してくる」といって出て行かれるといった極めて自然さの行動をとられる人であった。」
鋸南町報の鈴木伊三郎氏の話の中には、松音楼旅館の女将、昼田愛氏(当時八十九歳・主人の昇氏は既に他界)の語りも含まれている。その個所は下記である。
「阿佐緒先生が靉日荘を去るまでの七年間、石原先生が亡くなられるまでの二十五年の長い間私は短歌や詩や教育や人生について教えていただいた。戦争中の規格品を作るような画一教育に対し、『どんな時代が来ようと個性を無視しているような教育はないね』と言われ、戦争中英米を毛嫌いし、そのメートル法を受け入れない日本人の狭量さを責め、大和魂一点張りの国論の真唯中に科学性の重要さを強く主張されていました。」
石原純の生涯と「短歌」は切り離せない関係にある。石原は旧制一高在籍時に正岡子規の歌論に興味を抱き、東京帝国大学理科大学理論物理学科に入学するころには短歌の方面に歩みはじめていたという。二十五歳で同学大学院に入学すると、歌人・伊藤左千夫に短歌の教えを受けた。二十七歳になると陸軍砲工学校教授の職に就くとともに、同年に創刊された短歌雑誌『アララギ』の有力な同人となり短歌を発表・編集にもあたった。石原の随筆集『夾竹桃』に収録された「伊良胡雑記」は、砲工学校勤務時に愛知県渥美半島伊良湖の砲術演習を視察した際の回想録で、数種の短歌とともに当時の情景が記されている。アララギは、正岡子規門下の歌人らが集まった根岸短歌会の機関誌『馬酔木』(あしび)を源流とした雑誌である。石原は三十一歳の時に仙台の東北帝国大学理科大学へ赴任すると、欧州留学を命ぜられ、シベリア鉄道でドイツへ向った。ドイツへ行ってからも伊藤左千夫のもとへ多くの歌を送り、それらは雑誌『アララギ』に掲載された。ドイツでの留学を終えるとスイスのチューリヒの工科大学にアインシュタイン教授を訪ねた。アインシュタインと会った時の思いを表現した石原の歌にはこのようなものがある。
われの手をひたすらにとりてもの言へる偉いなるひとをまのあたり見る
名に慕へる相対論の創始者にわれいま見ゆるこころうれしみ
部屋のなか空気ふるひて流れたりぬ我があふぐひとの息にいるべく
石原と原の両人は、大正十一年の十二月にアララギを脱会し、石原は大正十二年に休職中であった教授職を辞した。以降の石原は著述業を生業とし、科学界、短歌界を横断して筆を振るった。石原自身の短歌においてもこのころから作風に変化が現れた。石原は、学生以来親しんできた五七五七七の「定型」の作風を捨て、自由律の現代短歌を作り始めたのだった。現代人のこころを表現するには、自由形式で現代語を用いるべきとの考えからだった。石原はその形を当初『現代語歌』とよび作歌に励んだ。
明治中期から大正期にかけて、歌人の中には西洋の詩を導入すべく新しい短歌の形を模索するものがいた。この運動は総じて『新短歌運動』と呼ばれる。言文に隔たりのない西洋の言葉に影響を受けた、いわば「コトバの近代化」として模索された短歌と言えるだろう。石原も時同じくして独自の表現や短歌の在り方を模索した歌人であった。石原は数度にわたり短歌雑誌を創刊、主宰、その誌面で自身の短歌論を発表した。今日では石川啄木や前田夕暮、土岐善麿などと同様に、新短歌の提唱者と言われる。石原と原が保田に住み始めた翌年の一九二二年(大正十一)に刊行された歌集『靉日(あいじつ)』には、語の区切りに空白を挟んで記述する「分かち書き(わかちがき)」などが用いられた。西洋語の影響を受けた分かち書きは、当時において新しい表現の方法であった。その後の石原は、大正十二年十二月、雑誌週刊朝日に『短歌の新形式について』を、翌年一月には同誌に『新短歌について』を発表した。さらに同年には短歌雑誌『日光』の同人となり、創刊号で『短歌の新形式を論ず』を発表した。『日光』は、当時の有力歌人らがジャンルや結社の枠を超え、自由に親しく結集、交流した同人誌で、口語歌の試作や随筆なども発表され、大正から昭和への転形期を迎えた歌壇をリードした雑誌だった。創刊同人には、石原の他に北原白秋、前田夕暮、古泉千樫、折口信夫らがいた。大正十三年五月の『日光』に石原の作品「未来派模様」がある。関東大震災の爪あと残る保田の家で過す様子が歌われている。
未来派模様
地震で劈割れた壁に
私は細い紙きれを張った。
ふしぎな未来派模様。
私は心の楽曲として
けふもそれを眺めてゐる。
・
電鈴をとりつけようとする銅線が
白い壁に
塗りのこされてさがつてゐる、
未完成な部屋の一つの味ひ。
・
彼女のしなやかな手くびに
やや目立つ痣のあと。
「セルビヤ半島」と
彼女がにこやかにいふ。
・
みどり、緑、みどり、
緑の部屋、
夜の部屋。
私はしづかに眠る。
・
電灯のかさもあをい。
窓のカーテンもあをく垂れてゐる。
閉ぢきつたこの部屋で、彼女が私にひそかにささやく。
・
風呂あがりに
あかばんだ皮膚。
私はきものを持つたまま
私の寝室に来た。
五十燭の電灯があかるい。
・
黒假塗で塗った板の扉が
まつしろな壁に挟まれてゐる。
くろい扉が
しろい扉よりも
ひそかながら光つてゐる。
大正十五年三月には、石原と原を師範格として『波止場』という同人雑誌が創刊された。このころには、房州の短歌愛好者たちが保田の二人のもとに訪れるようになっていたようである。館山市史には、当時の様子についてこのような記述がある。
「房州の若い歌人たちは、両人を慕ってやって来た。その人たちのために「保田短歌会」を起して、毎月一回松音楼旅館で短歌会を開いた。房州出身の歌人で石原純とともに、歌誌「日光」の同人であった古泉千樫も、帰省したついでに、この会に臨んだこともあれば、田圃歌人と謳われた印旛沼の吉植庄亮も、この会に出席したことがある。若い歌人たちは、石原、原両人を中心として、月刊短歌雑誌「波止場」を発行し、歌道の精進に務めたが、その「波止場」も、第二号が出ただけで尻切れトンボになったのは、かえすがえすも惜しまれる。」
昭和に入ると石原は戦争により発行ができなくなるまで、数度にわたり自ら短歌雑誌を創刊した。このころの雑誌には『渦状星雲』(昭和二年創刊)、『三角州』(昭和三年~昭和五年)、『短歌創造』(昭和六年創刊)、『新短歌』(昭和十二年創刊)などがある。
『短歌創造』では、「短歌は一つの詩でなければならない。詩の精神を失った處の短歌はもはや何等の芸術的をも有しないであらう。」などと述べている。なかでも『渦状星雲』と『三角州』にはともに「紫花山房漫語」という名の巻頭言があり、歌論や芸術論を多数記している。自らの住まいを冠にしたネーミングから見ても、石原は保田の家を文芸上の言論・表現活動の発信地として捉えていたのではないだろうか。
『三角州』が創刊された昭和三年の九月には原が保田を去り、石原は翌年に東京に転居した。石原は東京でも短歌界での活動をつづけた。昭和十二年に創刊した『新短歌』は石原の創刊主宰した最後の雑誌だった。石原は昭和十六年にふたたび保田の家に戻るが、雑誌新短歌は、昭和十八年に戦争が激しくなり続行できなくなり、廃刊となった。
大学教授職を辞職以降、石原は著述業を生業とした。科学界におけるアカデミズムからジャーナリズムへの転身であった。著述業を通して物理学や科学の普及、啓蒙に励んだ石原は、社会が健全に発展するには科学研究や純粋な科学知識の普及こそがなによりも必要であるという信念を持ち活動した。特に国家が戦争に向かってファシズム化していく中で、科学が軍用的に扱われ始めると、徹底して批判を繰り返したのだった。
雑誌社「改造社」が主催したアインシュタインの連続講演事業では、石原はアインシュタインと行動を共にし、国内で行われた各講演の通訳を務めた。アインシュタインは、大正十一年十一月十日に、日本へ向かう船上で一九二一年度ノーベル物理学賞の受賞決定の知らせを受けた。その七日後、神戸港に着いたアインシュタインの前には歓迎の人波があふれかえっていた。雑誌社や新聞社のはたらきにより、当時の日本は空前のアインシュタインブームであったという。出迎えたのは、改造社の社主山本実彦夫妻、東京帝国大学教授の長岡半太郎、東北帝国大学教授の愛知敬一、九州帝国大学教授の桑木彧雄、そして石原純だった。当時のドイツ大使館は群集や新聞記者で賑わう当時の様子を「凱旋行進のようだ」と本国に報告した。講演は東京、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡で計八回行われ、一万四千名ほどの聴衆を集めた。東京帝国大学での学術講義では、全国から集った百二十名の学者や学生が聴き入った。石原は講演内容を解説する『アインスタイン教授講演録』を著したほか、『相対性原理』や『アインスタインと相対性理論』などの著作で相対論を紹介し、これらの著書は一般に広く読まれた。石原は一般の人々に難解な科学的な理論をわかりやすく伝えようとつとめ、難解な式などを用いずに紹介するなど、相対論とアインシュタインの優れた解説者として知られた。
アインシュタイン来日の翌年には関東大震災が起こった。流言飛語に戸惑う人々を見て、石原は一般国民に科学的教養を身につけてもらいたいと痛感した。まさしく、本書で取り上げる「震災記」で石原が記していることである。これらの経験から石原は「科学的な教養の啓蒙」という通奏低音的テーマを持つに至ったようである。やがて石原は、雑誌や新聞、著書で科学教育の必要性や科学教養の普及を繰り返し唱えた。科学が政治的に軍事目的に扱われるようになると、それは科学の本来の姿では無いと一貫して批判した。
昭和六年(一九三一)に岩波書店から雑誌『科学』が創刊されると、石原は編集主任を創刊からつとめた。同誌は当時の日本において自然科学の普及を目的としたもので、当時一流の科学者らが編集に参加、協力した雑誌だった。石原は創刊の発起人でもあり、寺田寅彦とともに中心的に編集を取り仕切った。この雑誌の創刊当時の編集者のなかには、保田の鱚ヶ浦に別荘を構えていた生物学者の小泉丹(こいずみまこと)などがいた。元来科学の啓蒙活動に励んできた石原は、国内が戦争に向かっていく流れのなかで、しだいに社会問題についても言及するようになった。石原は同誌の誌面でも政府や軍部の科学思想や政策を鋭く批判した。ファシズム化する社会状況に抗い、「ファシズムの危険を避ける唯一の道は科学的精神を徹底することである」などと主張。言論弾圧が厳しくなった日中戦争の頃にも国防国家を求める声について「国家にとって国防の重要なのは云うまでもない。だが、併しこの頃の口にのぼる国防国家というのは果たしてどんな国家を指すのであるか。そして何が故に我が日本がこの国防国家でなくてはならないのか。(中略)どれだけの国防が国力に相応するものであるかと云うことについては、最も慎重に科学的に検討されなくてはならない。」と言及した。昭和十五年(一九四〇)頃から科学振興が「基本国策」とされると、石原はこれに対し「真の科学的精神が理解されていない」などと国家の科学政策に対しても批判的な言論を辞さなかった。石原は社会全体にとって、真の科学的精神の養成が必要と考えた。昭和十四年(一九三九)の『科学教育の原理的認識』にはその考えがよく表れている。以下に引用する。
「科学的精神が必要とされるのは、科学の場合のみに限らない、その他の社会ないしは人生における一切の事柄に対してそれの批判的かつ客観的な性質によって、おそらくいつもすべての人々に必要であり、それゆえにこそこの精神を養成する科学教育が普通教育、つまり初等、中等教育において重視されねばならない。こんにちわが国で科学教育の効果がほとんどあがっていないのは、それがあまりに多く実用的知識の注入にとらわれているからだ。(中略)科学教育では科学的に知られたことばかり教えるのでなく、同時にこんにち科学的に知られていないことがらがいかに周囲に満ちているかを十分に説明しておくことが必要である。さらに、こどもたちが自発的に疑問を起こすように、しかも適切な疑問を起こすように導かねばならない。子どもたちの質問に対してはなるべく子どもたち自身で解答を見つけださせるように指導しなければならない。個々の問題について、科学的に思考するように導くことが大切である。このような教育を行うには、まず、教師自身が十分に科学的精神に通じなければならない」
昭和二十年(一九四五)八月に日本が敗戦を迎えたその四か月後、石原は雑誌科学の仕事のため訪れていた東京で交通事故にあい、二年間の療養の後に六十六歳でこの世を去った。このため戦後の石原の著述活動は、極めて少ないが、敗戦直後の雑誌『科学』の巻頭言には、戦後の石原のメッセージが感じ取れる。
「相次いで発表された戦争期間中の日本軍の能力と経済力の消耗を知って、いかにわれわれが今日まで目かくしをされていたかをさとって憤り、さらに連合軍司令官によって手厳しく命令される諸取締法令の撤廃によって今さらながらいかにわれわれが”自由”から遠く隔離監禁されていたかを知って驚いたのである。(中略) いま日本の政治社会は大きな暴風雨の中におり、恐るべき危機に直面している。(中略) 今後の日本の政治こそはわれわれが全力をつくして巧みに運営していかねばならない。その責任は当然科学者にもかかっている。科学振興が遂行され、教育が真に改善されるためには、その前提としていかなる社会が実現し、いかなる政治が行われなければならぬかを科学的に検討し、これをおし進めることに精魂をこめて働くべきである。」
大正十二年九月一日の正午ごろ、関東地方は南関東を中心に突如度重なる激震に見舞われた。十一時五十八分から約五分間の間に三度、マグニチュード七クラスの地震がたて続けに発生。震源は、丹沢~相模湾、東京湾とされ、震源域は房総半島南部に及んだとされる。さらに翌日には房総半島の太平洋側で同クラスの地震が二度起こった。かの「関東地震」である。神奈川や房総半島南部では現在定められている最大震度である「震度七」に匹敵する揺れがあったという。この大地震によって、南関東および隣接地で引き起こされた地震災害のことを「関東大震災」という。多くの人が昼食のため火を使っている時刻に発生したこと、低気圧の影響で強風が吹いていたこと、当時の建物が耐震・耐火性に乏しかったことなどが相まったため、未曽有の大災害となった。およそ十万五千人が死亡あるいは行方不明になったと推定され、死者数のうち、九割が火災による焼死だった。犠牲者のほとんどは神奈川県と東京府が占め、被害の中心は震源断層のある神奈川県内であった。
現在の東京・両国国技館の近くにある「横網町公園」は旧東京府本所区にあたり、この大災害の悲惨さを象徴する場所である。死者十万人のうち三万八千人がこの場所で焼死した。多くの被災者は家財道具を持ち同園敷地内にかつてあった、広大な工場跡「被服廠跡」(ひふくしょうあと)に集った。被服廠跡とは軍服を製造した工場の跡地である。そこに非難した人たちに襲い掛かったのが火災旋風である。被災者らが持ち寄った家財道具には次々に火が付き、広大な避難場所は瞬く間に炎の海と化した。逃げ場を失った人たちはその場におびただしい数の焼死体となったのである。この事件は、関東大震災の惨状の代名詞ともいえる。
東京以外の被災地では土砂崩れや津波により、交通や通信機能も破壊され、多くの地域で生活の機能が失われた。相模湾沿岸から伊豆諸島にかけては、津波が襲来、熱海では地震の五分後から二度の津波を受けている。波高はおよそ八メートル、局地的には十二メートルに及び、一六二戸の家屋が流失、死者行方不明者九十二名の被害となった。伊東では九メートルの津波があり、集落ごと流失したところもあった。鎌倉市由比ガ浜では海浜別荘や海水浴客に津波が押し寄せ三百人ほどが行方不明となった。房総半島では、津波の被害は少く、館山の相浜で九メートル、六十三戸が流失したが、それ以外の地域では大きな被害はなかった。
千葉県では、震源に近い南房総・安房郡の被害は激甚であった。千葉県全体の被害のうち安房郡が占める割合は、死者数・住宅の全潰数ともに約八割に達した。特に館山湾に沿った北条、館山、那古、船形と、その周辺の町村で被害が最も大きかった。 安房郡全体で、死者・行方不明者一二二三名、負傷者二四二〇名、建物被害については、全潰一〇六五二戸、半潰三一六三戸、全焼四四九戸、流失四十八戸であった。
【保田の被害について】
鋸南町史によると死傷者は保田町で一九七名(うち死者六十一)、勝山で七十六名(うち死者三十五)、佐久間村で五名(うち死者四)とある。住宅の被害では保田町では全潰が二六四、半潰が六十四。勝山町では全潰が百九十二、半潰が二八八、焼失が一軒。佐久間村では全潰が五、半潰が二軒だった。このほか、保田と勝山では学校や駐在所などが全潰し、両地区の保田神社と勝山神社がそれぞれ全潰。人的被害は保田が多いのに対し、家屋の被害は勝山が多い。
保田で被害が最も激しかったのは、本郷浜・本郷市街地・大帷子であった。鉄道の線路を境として海側の下町、保田川下流周辺の方が中心的な被害地となった。被害地の住民は津波を恐れ、すべてに山手に避難したという。鋸山の部分的な崩壊により、明鐘県道は埋没。人馬の往来が途絶えた。これ以外にも多くの箇所で道路が陥没し、鉄道は屈曲し、橋梁が地に落ちた。電灯や電話線も切断され、混乱を極めた。
地震の海岸隆起により、漁業は不振となり効用を失い、さらに京浜地方の大被害と輸送機関の途絶のため漁業の取引は中止せざるを得なかった。家屋の被害は漁業者の家屋が多かったため、震災後の漁業従事者は辛酸を嘗めた。石原は保田の震災記のなかでも海岸の隆起や浜集落の被害に触れている。震災から三年も経つと、鉄道も復旧し、内房州一帯は海水浴、避暑地として復興を取り戻しはじめた。この時期の保田は、内房州のなかでも中心的な賑わいをみせた土地だった。当時は間貸しをして避暑客を自宅に滞在させることが多く、被災した漁業者のなかには、このような海水浴・避暑客向けの商売などで生計を立てていたものも多かったはずである。
関東大震災は、近代以降の関東地方において未曽有の物的被害をもたらした「天災」であったのと同時に、流言・飛語による多数の死者をもたらした「人災」でもあった。関東大震災朝鮮人虐殺事件は、震災後の混乱のさなかに、被災地の各地で、官憲や民間の自警団などが多数の朝鮮人や、朝鮮人と誤認した人々を殺傷した事件である。犠牲者は数千人に登ったともいわれる。震災により民心と社会秩序が著しく混乱に陥っていた事を受け、内務省が戒厳令を宣告すると、各地の治安維持のため、軍・警察の主導で関東地方に四千もの自警団が組織された。しかし、この自警団が集団暴行事件起こすいわば母体になってしまった。当時内務省が各地の警察署に下達した内容の中には「混乱に乗じた朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」という事項が含まれていた。これが行政機関や新聞、民衆を通して広まったことで、朝鮮人や、それに間違われた人たちが殺傷される被害が相次いだ。新聞には、「主義者と鮮人一味 上水道に毒を散布」「囚人三百名脱獄し 鮮人と共に大暴状」「発電所を襲ふ 鮮人団」などの見出しが躍った。構造的に広まった情報によって多くの人災を招いたのであった。震災後の混乱の中、不法な弾圧は社会主義者にも向けられた。「甘粕事件」は、関東大震災発生から十五日後の九月十六日に起こったもので、社会主義思想家の大杉栄と作家で内縁の妻・伊藤野枝、大杉の甥・橘宗一(六歳)の三名が不意に憲兵に連行されて、憲兵隊司令部で憲兵によって首を絞められて殺害され、遺体が井戸に遺棄された事件である。陸軍憲兵大尉・甘粕正彦の名が事件の名の由来である。東京の亀戸では、社会主義者の川合義虎、平沢計七、加藤高寿、北島吉蔵、近藤広蔵、佐藤欣治、鈴木直一、山岸実司、吉村光治、中筋宇八ら十名が、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署に捕らえられた後に陸軍によって亀戸署内あるいは荒川放水路で刺殺された「亀戸事件」が起きた。当時の日本国内は大正デモクラシーによって労働運動、民権運動、女性運動など、支配権力に対する社会主義者らの抵抗・権利拡大運動が活性化しており、社会体制が揺らいでいた状態であった。
保田震災記は、石原が保田で関東大震災を被災した時の様子や、震災についての社会的な考察や社会批評を記したものである。原稿用紙に手書きされたまま残るこの文章は、石原の令孫森裕美子氏が館長を務める神奈川県逗子市の私設科学館「理科ハウス」に保存されている。当時の石原は週刊雑誌や短歌雑誌に文章を発表していたが、この震災記が世に出ていたかどうかは不明である。文中の「晩秋」という記述から、震災後二か月以上を経た大正十二年の十一月の末ごろまでに記されたものと思われる。
前半では突如襲った激震と家屋の倒壊や人々の混乱の様子が描かれる。その描写は当時の「保田」の様子をまるで映画のように伝える。苦労してようやく保田に戻ってきた高齢女性が潰れてしまった自宅を前に立つ場面に出くわすと、石原は事実を受け入れようとする彼女の心情の機微に思いを寄せる。次に、数々の情報を得て日を追うごとに震災の実態が明らかになっていく経緯が描かれる。他地域の状況を知った石原は、この地震の規模を認識する。ここでは、いち被災者として、数々の噂めいたものに振り回されずに冷静な目で判断、推測、検証する石原の態度がある。最後には、震災に乗じて起こった朝鮮人殺害事件や甘粕事件などにも触れ、震災に対する社会的な考察を述べる。
誤った情報が大きな人災を招いた関東大震災を経験した石原は、科学的な方法で現象を理解し、情報を精査する力が広く一般社会にとって浸透することが必要であると痛感した。以降の石原は科学ジャーナリストとして、科学の普及や啓蒙に努めるようになる。その点、保田震災記はジャーナリストとしての石原の態度の移り変わりにおいても一読の価値があるだろう。石原は震災記の中で災後に起こった社会的な事件を振り返り、「私たちは もっと思想的に深い教養を経なければなりません。」と一般大衆に対して成長の必要性を説く。また、震災後の復興においては「積極性」が必要だと主張する。人間全体の生活は、種々の品物をそれぞれの役目に対して欲することで進歩できるのであって、節約という消極的な態度ではなく、むしろ積極的な態度が復興や文化の向上において必要だと述べる。東日本大震災の後には「自粛」という言葉ともに、被災地から遠く離れたところにでも買い控えなどの消極的ムードがあった。この現象は石原の述べたことと重なるのではないだろうか。
大正十二(一九二三)年 九月一日十一時五八分に起った関東大震災についての記録
日がさして来ました。私はまだ雨のあがりがけに雨外套
をはおって町の郵便局まで行きその帰りをいつも往来し
ているM旅館へ立寄り、帳場の隣り間で天侯のはなしなど
をしていました。いつもそこに座っている隠居のお婆さん
は浦賀へ行ったとかで留守でしたので、若い主人とおか
みさんとが居ただけでした。暫く話をしてもう帰ろうと
思っている途端に、俄に地震が来ました。稍々躊躇してい
た私たちはそれでも止みそうもないので表の縁側のと
ころまで立ってゆきました。主人も一緒でしたが、後から
おかみさんも、立ちあがって
「瓦が落ちると危ない」
と声をかけるのを聞いているうちに、ひどい揺れが来たの
で、これは危険だと思ってその儘夢中に表へ飛び出しま
した。そのとき私にはどうしても不安でそこに止って
は居られなかったのでした。表には一間半ばかりも先に石
塀が囲んでいて、その右手に門があったのでした。私たち
は一目散にその門から往来へ出ようとしましたが、門の
内側の敷石のあたりで転がされてしまいました。すぐ起き
上ろうともがいても、どうしても立てません。そのうちに
瓦が落ちる、石塀が壊れる、続いて今迄いた二階建の家が
ずしりと石塀の上に崩れ倒れてしまいました。私はそのと
き
「これは大変な地震が来た。とんだことになってしまった」
と思ったのでした。ともかく起き上っては見たものの、ま
だ激しい揺れが来て立っていられません。よろよろと往来
の向う側の石垣に手をよりかけて身体を支えながら揺られ
ていました。どこがどうなったやら判らず、只騒音に満ち
た四方のなかに不安な思いをしていたに過ぎません。私の
すぐ前には宿の女中の一人がやはり同じ様に石垣に倚りか
かって私を見て泣声を出しています。そうするうちに揺れ
が稍々静まったと思って辺りを見ると、その辺の家は皆倒
れてしまって惨憺たる有様が見られます。私と一緒にとび
出した宿の主人は眼の上を怪我して血をだらだらと垂らし
ています。多分石の門柱の折れて来たのに当たったのでし
ょう。傷に手をあてながら家の下にはいっている人達を心
配しています。唖の雇女が軒下に出られずにいるのが見え
ましたので、その屋根をあげようとするが、なかなか上が
りません。私も家の方がどうなったか心配になりましたが、
それを見棄てるわけにはゆかないので、側にあった棒切れ
を軒下に突っ込んで、梃子のようにして皆と力を合わせて
上げましたら、その雇女は隙間から這い出すことが出来ま
した。まだおかみさんなどが出られなかったと云うので、
気遣われましたが、その頃はだんだん人が集まって屋根を
除け始めましたので、私だけはともかく家の様子を見な
くてはならぬと思って、跣足でその儘駈け出しました。気
づいて見ると、眼鏡をどこかへとばしてしまっているの
でした。それでも怪我一つしなかったことが寧ろ不思議に
思われるくらいです。家まで数町の間は多少の潰れ家もあ
りましたが、残っている家が多いので、これなら多分よか
ろうと推察しながらもやはり大きな不安が止みませんで
した。
町をはずれて小学校の近くへ来ると、私の家に
いたK君に出遇ひました。
「大丈夫ですからご安心なさい」
と云う言葉を聞いて、やはり宜かったかと落ち着きを得ま
した。そして学校の前から小高い丘の上の赤瓦の屋根の無
事な姿を見ると、有難いことであったと云う感じが起りま
した。
学校のふとい石の門柱の一方は無惨に根元から折れ倒れて
居り、校舎の一部は今にも倒れそうにひどく傾いているの
でした。私はその傍の田圃路を通って坂をのぼって来ると、
庭先に心配気に興奮して立っていたY子は「まあよかっ
た」と言う面持ちで迎えながら
「壁も何もすっかり落ちちゃったの、私、とても駄目だ
と思って、この新しい家で自分一人で死ぬのかと覚悟した
んでしたつけ」
と、それから早口にひどく揺れた有様やら何やら述べまし
たが、町の方の家が大分つぶれたと云う私の言葉を聞いて、
意外な様に、そして驚怖の心を更に深くしたのでした。そ
の間にも地面がひどく揺れて来ます。町の方からは半鐘が
鳴りわたってくるので、火事ではないかとまた心配が増
しました。私の処でも丁度昼どきで石油焜炉を燃やしてい
たそうですが、女中がそれを消して出たのだそうで、本当
にいいことをしてくれたと思いました。
M旅館のおかみさんが屋根の下へつぶされてどうなっ
たかわからぬと云うと、Y子はそれを気遣ってともかく
行って見ようと云うので、私も一緒に町へゆきかけました
ら、向うから大勢の人達が続々とこちらへ歩いて来るので
す
「津波が来るっていう話です。」
と、みんな恐怖を湛えて急いで逃げて来たのでした。M旅
館の子どもたちもそのなかに交っていてY子を見つけ
て
「津波が来るから、これからお山へ逃げてゆくの」
と云いますので、Y子はその子どもたちを伴れて家へ戻り
ました。私は一人してもう一度M旅館までゆきましたが、
おかみさんも多少の怪我だけで安全に救い出されたことを
聞いて、安心して帰りました。
家へ戻ると、そこの山にはもう一杯に人々が充ちてい
ました。蓆の上に座ったり、木の根に腰かけたりして、ま
だ揺れ止まない地面を恐れているのです。頭や手足を負傷
して血を流している人達がかなりありました。Y子は家
にあり合わせの薬や繃帯を取り出して手当していました。
頑是ない子どもたちはお腹が空いたと言って泣き出すの
もあります。女中に言いつけてすぐに米を焚かせてむ
すびを作らせました。井戸水を汲むとすっかり白く濁っ
ていました。山の上からは隣り町の方向に火事の煙が見
えるのでした。この時分にはすべてが緊張し切ってこ
の未曾有な経験を語り合いながら、お互いの無事を祝する
ばかりでした。
午後の四時になると東の方から黒い雲が出て、今まで晴
れわたっていた空を埋めてしまいました。驟雨が来るかも
知れないと云うので大勢の避難の人達は丁度庭の真中に大
工の遣い残したトタン小屋のあったのに集ってしまいまし
た。私たちは家の後ろにやはりトタン葺の物置小屋の半
成なのがありましたので、そこへ這入りました。けれど暫
くしても雨は来ずに、只その黒い雲が満天に拡がったまま
で、夕方迄動こうともしません。私はそのとき何だかこ
れは妙な雲だと思いました。やがてだんだんに四方の水
平線に近いところだけの雲が切れてもう沈みそうな夕日
がその僅かの晴れ間から射して来ますと、雲の下方の縁が
真っ赤に染まって眼にきらきらするのに、頭の上に蟠まっ
ている雲はいよいよ黒く低く私たちを圧しています。そ
れは何と言うもの凄さでしたろう。死のような気味わるさ、
本当に異常な地変の後を葬うようなこの夕空のもとに私
たちは生きた心もないようにさえ感じました。
津浪の心配がまだ去らないので、私は浜辺まで様子を見
にゆこうと思って町を通ると、両側の家が倒れて足の踏み
場がありません。屋根瓦のくずれた上を超えたりして暫く
行かれるだけです。海岸までに立っている家は一、二棟に
過ぎないので、すぐそれを超えて海面が見亘されるのです。
何と云う変り様かと思うとおのづから身慄ひさせられま
す。浜通りには道路の上にたくさんの亀裂が出来ていまし
た。その辺りで余震を感ずると、足の下の地面がまるでふ
わふわと水にでも浮いている様にたよりない気がします。
鋸で家の梁を挽いて圧しつぶされた人を出そうとしている
のや、圧死者を戸板へ載せて運んでゆくのや、そう云う惨
ましい光景が夕暗のもの凄さを増しています。それでも黒
い雲の下から僅かに怪しげに夕光がさしているのは何と云
う気味わるさでしたろう。私は大急ぎでまた家へ帰って
来ました。
夜に這入ってから例の黒い雲は幾分消えてゆきましたが、
遠く南方の山を超えて空が真赤に染まっていました。舘山
湾に沿った町の火事が映っているにちがいないのです。い
ろいろな噂さが人々の口から伝えられました。北條辺の震
災のよほどひどいこと、金谷では石切人夫が石と共に崩
れ落ちて行衛のわからなくなったこと、地面が裂けて潮が
吹き出していると云うこと、すべて怖ろしい話ばかりでし
た。夜の十時頃になってうす白い月が出ました。そして
満潮になるにつれて海の波の音がいつもよりは著しく高く
聞こえて来ます。潮のぐあいを気遣って又下へ降りてゆき
ますと、行き遇う人の話では、潮がいつもよりずっと干て
いて、満潮になってもまだよほど海面が低いと云うこと
でした。津浪の心配はまず無さそうですが、併し潮が余り
に干過ぎていることは何かの変兆を示しているにちがいあ
りません。或は地震で地面の隆起があったのかも知れない
と思いましたが、これももう少し様子を見なければ判ら
ないことでした。
ここの山へ集った大衆は夜になって稍々落ち着いたので
だんだん四散しました。そして土地に知り合いのない東京
からの避暑客などが三十余人残りました。それにこの土
地での心易い人たちを加えて五十余人はいたでしょう。ど
うせトタン屋根の下だけでは場処も狭いし、それに絶えず
余震が来るので、私たち数人は藤椅子を外へ持ち出して、
終夜話しあかしました。夜が更けるにつれて本当に異常な
災変であったことが人々の頭にしみじみと考えられました。
東京あたりはどうであったか、まるでわかりませんが、
きっと多少の被害のあったにちがいないことを想像してい
ました。いつもは人通りもない下の県道を今夜はしきりな
しに提灯のゆき通うのが見えます。けれど折々来る余震の
外には夜はひそかに静まって、自然はすでに今日の出来事
を忘れたかのようにしんとしていました。秋の虫の声も
地震などと云うものには全く無関係なように、私たちの周
囲に充ちていました。大きな大きな自然の眼からはそれ
は何でもない微細な出来事に過ぎないのかも知れません。
翌る九月二日の暁が白みかかる頃、私たちは家の傍らの
小高い丘から海面を眺めていました。潮はいつもよりも
よほど干て居て、平常は水面下にあって白い浪だけが時々
見える平島というのがくろく姿をあらわしているのでし
た。東の方から薄雲の間に太陽の上りかけるのを見ていま
すと、それが真紅の円板のようにまるで光輝を放たない
色紙のように見えます。ずっと高く上るのを待っていても、
やはり同じ様に光りません。私は斯う云う太陽をよくロン
ドンの冬の煤煙を含んだ濃霧のなかに見かけたことがあり
ましたが、丁度この朝の空にはたくさんの塵埃があった
にちがいありません。
「何と云う妙な太陽だろう」とみんな不思議がって空を
眺めました。昨夕の黒い雲も何か之と関係があったのかも
知れません。その黒い雲の下に丁度東京の方角に当たって、
渦を巻いた光った雲が見えたと云う人もあります。そう云
う只ならぬ空が私たちに災後と云う感じをしみこませまし
た。いつまでも何となしに曇った空からは白い灰がちらち
らと降って来るのが見られました。私はひょっと伊豆の大
嶋の噴火ではないかと思いました。それにしては多少の前
震を感ずるが、また何か異常な音響でも聞こえそうなもの
だと思われますが、昨夜あたりの余震のたび毎に西南の海
の方から大砲でもうつようなドンと云う音が始終聞こえ
たと云う人もありますので、或はどこかの海底噴火かも知
れないとも想像されました。震源がどこであるかと云う様
なことは、もっと諸処の被害状況でもわからない限り、殆
んど見当もつかないのでした。一切の交通途絶のために私
たちは只孤立の状態におかれていたのです。
そのうちに専ら横浜がひどいと云う噂さが伝わりました。
本牧附近が噴火しているとも云い、横浜は全部海中に没し
たとも云い、叉或る人は横須賀辺りに噴火があったとも云
いました。何でも漁師がその方角に火のあがるのを見て来
たと云うのです。けれど火山脈のないところにそう滅多
に噴火が起こる筈はありませんから、之等の噂さも信ずる
わけにはゆきませんでした。どうも怪しいのは大島附近で
すが、二日の午後になって薄く大島の見えたところに依る
と、たいした異状はない様でした。漁師が大島の三原山が
低くなったとか、形が変ったとか云うてるそうですが、
それもはっきりしたものではありませんでした。
比較的遠方から情報を齎した最初の人は恐らく昨夜半
上総の青堀から戻って来た人でした。この人は一日の午前
十一時にこの町を発して帰京の途についたとのことでした
が、汽車が青堀へ着くと地震に出遭って列車の窓からとび
出したそうです。もう先へはゆかなくなったので、ここに
残しておいた女連れのことが気づかわれ、すぐに歩いて帰
り暫く夜の十二時少し前に、その女連れが私のところに避
難しているのを聞いて戻り着いたのでした。途中もかなり
被害が多く海岸に沿うた崖が崩れて道路を埋没してしまっ
たため、路もない山をこえたり迂回したりして、非常な困
難をなめて来たと云うことです。海の対岸に二箇所ばかり
大きな火災を認めて、土地の人にその方角を聞いたら、横
浜と横須賀とだと云ったそうです。曩の噂さの噴火も多分
この火災を見誤ったものでしょう。最後に鋸山へ着いたと
きは疲れてもいるし、時刻は遅くなっているし、それに海
岸の県道は巨岩の崩壊でとても通れぬと云われ、これで汽
車の隧道が通り抜けられなかったらどうしょうかと心配し
たそうですが、一心に隧道を入ると、入口附近や内部に諸
処崩れた処があったり、真中で二度ばかり強い余震に遇っ
て提灯を消してしまったときは、全く観念して突っ立って
いたと話されました。二十五分かかって漸く隧道を出るま
では生きた心もなかったと云うのは、聞いても怖しい程で、
本当に決死の場合でなければ出来なかったのにちがいあり
ません。
それに次いで二日の夜になって電燈会社の出張所長をし
ている人がたずねて来られ、白浜で地震に遇って、千倉を
まわり、北條那古等を経て今暫く歩いて帰ったと云うこと
でしたが、それらの地方の惨状をもの語られました。これ
で房州一帯がひどい被害地であることが確実になりました。
東京も火災を起したと云うことは先ず船の上で見たと云う
話で判りましたが、三日の朝になって、ここから一日の朝
の汽車で立って市川で地震に遇い亀井戸まで歩いて行った
が、火事でその先へはどうしても入られなくて戻って来た
と云う人によって、本所辺の極端な惨状が伝えられました。
またもう一人は横浜で或る船の上で働いていた人で、地震
後陸上へ行ったがとても居られなくて、富津への船便を
たよって帰って来たと云うので、尚ほ一層ひどい横浜の事
情がもの語られました。火災のための焼死者の惨酷な有様
にはみんな顔をそむけずには聞いていられないのでした。
それにしてもこの町が全壊に近かったとは云え、火の起
こらなかったことは、どれ程幸運なことでしたろう。倒壊
後燃え出した家も数ヶ所はあったそうですが、大事になら
ぬうちに皆消し止めることが出来たのだそうです。
斯う云う諸所の事情が少しずつわかって来ますと、東京
地方から来ている人達も、こちらでひどい災難に遭逢した
と思っていたのも、却って東京にいるより幸運であったの
かも知れないと云う安心を得ましたが、同時に一刻も早く
帰って親族知己の安否を知りたいと云う気になり、帰京の
方法を計画することになりましたが、それは容易には出来
ないように思われました。そのうちに横須賀の火は海軍の
重油タンクの爆発であったと云うことや、東京その他の火
が多く朝鮮人の所業によると云うこと、そのために鮮人は
続々捕縳して殺され、なかには鮮人と見誤られて殺された
ものさえ数多いと云うことなどが伝えられ、人心洶洶とし
て、どうなることかと危ぶまれる程でした。やがて東京の
簡単な情報が停車場に掲示され、叉四日の夜には三日付の
二面の東京日々新聞を持って来た人があって始めて稍々詳
しい報道に接することが出来ました。
余処の事情に対する噂さと共に、町の人々は遇うたび毎
にこの町の惨話を繰り返します。どこそこでは四人の圧死
者が出たと云うこと、何々屋では若いおかみさんが金庫の
下になって死んだと云うこと、病人の夫に死なれて、夫の
弟の家に避難して来ると、夫を殺してなぜ自分だけ助かっ
たと責められると云うような可哀想な話、それらはいつま
でも尽きないことでしょう。観音寺と云うお寺の後ろの広
場に天幕を張って、たくさんの重傷者が収容されているの
を見ると憐れさが湧きます。この小さな町で死んだものが
五十余人にのぼるそうです。それでも出遭う人のうちに多
く屋根の下に這入ってしまいながら、怪我もせずに助かっ
たと云う人達がかなりに在るのを聞くと、寧ろ不思議にお
もわれる程です。生きようとする本能は私たちのすべてに
異常な力ではたらいています。私たちはそれにたよるこ
とによってあらゆる困難に打ち勝つことが出来るのです。
併しそれと共に私たちはお互いに助け合わなければなり
ません。今度のような非常な災害をうけた場合には自然に
心からの親切を尽くすと云うことが行われたのを私たちは
屡々見ました。けれどそれがいつまで続くことが出来る
のでしょう。また平生にそう云うことが何故少ないのでし
ょう。それは勿論めいめいに自立の出来るようになりさえ
すれば、直接に助け合う必要が少なくなるからでもありま
す。併しそこには尚深く考慮されなければならない事情
があります。自分のより安楽な生を欲するがために他を圧
迫しなければならないと云うことです。謂わゆる平和の闘
争、それは考え様によっては更に悲惨な事柄でなければな
りません。只私は斯様な事情も適当なる社会的組織によっ
て避け得られる充分の可能性をもって居ることを信じたい
と思います。そしてその組織が実現せられるまではせめ
ても私たちはお互いの心のなかに出来るだけの愛を準備
することによってこの闘争から幾分でも遠ざからなけれ
ばなりますまい。現時の階級闘争の闘士等はもっと人間心
理の根本に立ち入つてその適宜な解決を求めなければな
りません。
三日目頃からポツポツと町の壊れ家の片付けが始まり、
道路の通行に差支のない程度になりました。人々の寝起す
る天幕張りが暫くは諸処に見られました。食糧品などの不
足が懸念されましたが、白米は幸に町役場の臨機の処置で
不自由なく供給されましたし、叉農家からは牛乳の処分に
困って之を町に寄附しましたので、私たちもその配分を
受けることが出来たのは有り難いわけでした。避難の人数
が多いので三食とも最初は全く握り飯だけですませていま
した。そのうちに知り合いの人たちが諸処を探して幾分の
副食物を得られるようになりました。始めて味噌汁をつく
って啜ったのは五日目の夕方でした。有り合わせのすべて
がそのときには珍味佳肴であったのです。
地震は二日目の正午にかなり強いのがありましたが、そ
れでもだんだん遠退くと共に弱まりましたので、五日に
驟雨が降り出したのを機会に暫く家のなかに入りました。
壁土がざらざらと床におちていたり、箪笥や書棚が倒れ
ていたり、まだ取りつけてなかった重い暖房鉄管が横倒し
になっていたり、当時の激しい揺れ方を思うと、ぞっとす
る程でした。併し幸に建てつけは一ヶ処を除いてちっとも
狂いもしなかったのでした。家に入ってからも折々の震
動に恐怖を感じてあわて出すことも屡々ありましたが、も
う危険はありませんでした。昼は飛行機が視察のために空
低く飛んでゆくのが数度見られましたし、叉駆逐艦が港へ
入ったこともありました。鉄道線路を歩んで東京から帰っ
て来る人が随分ありましたが、女子供づれの可哀想なの
もかなり見かけられたと云うことです。汽車は間もなく
途中まで通ずるようになりましたが、この町へ来るのは
よほどの日数が要る模様でした。
ともかく人心が極度の不安に陥っていたことは事実でし
たから、東京の様子などが漸次詳しく伝えられるに従って、
今更にその惨憺たる有様におびえ、朝鮮人に対する警戒な
ども口々に言いはやされ、なかには猟銃などを用意するも
のさえありました。あの突差の際に朝鮮人が、たとえど
んな陰謀があったにしても、それを実行するだけの余裕が
あったかどうか疑わしいわけで、殊に彼等がこんな地方に
までも荒らしに来るなどとはとても信ぜられなかったの
でしたが、それでも当時の民衆の神経過敏さはそんな理
由を超越していたのでもありましょう。現にここに避難し
ていられた或る文士の人が三人づれで帰京する際にも、途
中で梢々髪を長くしていたと云うわけで朝鮮人と疑われ、
役場の証明書を見せても信用されず、恐ろしい危険な目に
出遭ったと云うことでした。たくさんの虐殺が行われたと
いうなかには、半ば弥次気分で、こんな機会でもなければ
と残忍本能を満足させたものもないとは云われませんが、
叉多くの人たちは本当にいいことをしたつもりで、国賊を
除いたと信じていたことでしょう。彼等は併し少なくとも
この災禍に際して全く聡明を缺いていたのでした。その心
情は寧ろ憐れむべきものであると思われますが、只そう云
う人たちの数多くあったことに就いては慨嘆せずにはいら
れません。
もう一つの民衆の愚かな危惧は、大震以後の地震豫言に
対してあらわれました。この町でも誰が云うとなく、何日
の何時にはまた激震が来ると云うことが噂さされました。
しかもそれがいつも私の言葉として広められたことに
は喫驚させられました。私の処の避難者が町へ行ってはよ
くそんな噂さを持って来ました。また或るときには町を
歩いている私と行きちがった人たちから、
「今夜あなたが大地震があると仰しやったそうですが、
ほんとうですかい」
などと聞かれました。私はそんなことを云った覚えはない
し、またそれは今の地震学では時日などを予言することは
出来ない。それ位なら一日の地震だって最初からわかりそ
うなものではないかと答えるより外にありませんでした。
真摯な罹災者たちをこんな悪戯で脅かそうとするのは、
何と云う卑劣な心でしょう。私は只そうした噂さの余りに
度々なのに驚き入りました。
M旅館の人たちと出遇うと、いつも地震当時の危なかっ
た話が出ました。表二階のつぶれたのは随分早かったので
した。そしてその前の往来には石塀や門柱の崩れたのが一
杯に散らばっていたばかりでなく、向う側のお宮の大きな
石の鳥居が折れ倒れて往来に横たわっているのでした。私
はどこの隙間に転倒し叉立っていたかを思うと、怪我のな
いのが全く不思議に思われます。その他の人たちも能くも
安全であったと顧りみられます。私のそのとき傍らにおい
てあった雨外套も麦藁帽子も何の損傷もなく取り出されま
した。転んだときとばした眼鏡でさえ、後で潰れ家の軒
下あたりから見出されたそうですが、中央から二つに折れ
て一方のレンズが外れてしまっていただけで、レンズも壊
れず、縁の折れた処を知り合いの歯医者に頼んで接いでも
らって、その儘用ひられたのでした。すべてが幸運と云え
ばそうでもありましょう。もと私の住んでいた家はめ
ちゃくちゃに潰れたのに、丁度新しい家が出来たばかりで、
しかも無事であったことは、災後どんなに仕合わせであっ
たかわかりません。それがなかったなら多くの避難者を容
れることが出来なかったのは勿論、私たちも露営生活をつ
づけなくてはならなかったでしょうし、そうなれば健康
を維持することも難しかったかも知れません。M旅館の主
人と主婦の怪我もじきに癒りました。そこの隠居のお婆さ
んも地震の前日浦賀から東京へ行って遭難したそうですが、
しかも最もひどい本所に居りながら、上野へ避難したため
に生命は安全だったと云うことでした。
「まあ何と云うことでしたろうか。地獄のようなひどい
目に遭って来ましたよ」
と云って、お婆さんは十一日に帰って来て、その際の恐ろ
しかつた話をされましたが、それでもやはり幸運であっ
たのでしょう。一週間ばかりの露営やら、それから此処ま
での不自由な旅にも割合に疲れもなく元気でした。ただ自
分の家の新築の裏二階ぐらいはせめて助かっているだろう
にと思って帰って来たのが、それもだめであったと話され
るときにはさすがに老年の気を落としたように見受けられ
たのは尤もなことでありました。
「それも私の愚痴かも知れますまい。五十年まえに私ど
もが商売を始めましたときには、それこそ何にもなかった
のでございますから。この頃こそ贅沢になってそんなこと
を申しますが、なに以前のことを思えば何でもございませ
ん」
とお婆さんは静かに云いきりはしましたものの、心のなか
には人知れない涙をもたれたことでしょう。
私の家への避難者は法学士や銀行家やそお云った知識
階級の人たちが多かったのでした。旅館や下宿にいたのが
潰されてここに逃げて来られたのです。若い夫婦に子供づ
れと云うのがたくさんでした。埼玉の富有な農家の老人と、
やはりおなじ埼玉のお婆さんとが中に交っていました。手
が足りなかったのでそれらを一組にして自炊してもらう
ことにしましたが、これらの生活も遭難の記念として長く
その人達の記憶に残ることでしょう。お婆さんは毎朝丘の
上で日の出を拝し、南無妙法連華経と声高く連呼している
のが常でした。
十五六日頃には之等の人たちは皆それぞれ東京や郷里へ
向って帰ってゆきました。その外の寄寓していた人たちも
だんだんに居なくなって、その後は今までの混雑に引きか
えて急に寂寞に戻ってしまいました。隣とてはまるで無
い丘の上の只一棟の家が静かな自然のなかにぽっつりと残
されました。畑仕事に頼んであった爺やさえ暇とって帰っ
た後は私とY子と幼い女中とだけになったのです。暴風雨
が二度ばかりひどく来たときなどはさすがに心細い気
がしました。後ろの山の松の樹が今にも折れようとするば
かりに音を立てて鳴ります。風に圧されて二階がぐらっと
揺れ出すときは、またどうなることかとさえ思われるので
した。地震で幾らかずつて居たのかも知れませんが、その
暴風雨の夜半に二階の屋根の端の瓦がずっと並んで、ぐわ
らぐわらと落ちたときは、恐ろしいようでした。
「この家の下の方がつぶれてしまつたんですよ」
と、その只ならぬ音を聞いて、Y子は私に抱きすがりまし
た
「大丈夫だ。」
と私は強いてそれを安心させようとするより外ありませ
んでした。私たちは地震以来の恐怖の心もちをまだ持ち
つづけていたのです。その翌る日は晩秋の暖かい日がこの
丘に充ちていました。私たちは自分の最善をつくして私た
ちの生命を自然に委ねるより外はありません。
それから土に親しもうとして私たちは暇々に自分の手で
畑をつくろうとしました。菜を蒔いたり、苺の苗を植えま
した。朝起きるとすぐに
「菜っ葉を間引いてまいりましょう」
とY子は私と一緒に籠をもって畑へ出たりします。そして
「もう間引くなんて言葉を覚えましたのね」
と二人で笑うのでした。
地震の後、火事を免れたお蔭で、この町には当分は生活
の必要品だけはありましたが、長く汽車が不通であつたり
したために、一ヶ月ばかりの後に、砂糖や油やその他の食
糧品が不足して来ました。併しそれも間もなく補充され
るようになりました。余震もこの頃は殆んど感じなくなつ
て来ました。汽車の汽笛の音を久しぶりに聞いたのも、も
う半月ばかり前のことになりました。そして潰れ家の跡へ
も幾らかずつは新しい建築工事が始まりました。こうして
未曾有の震災の創痍もだんだんに減らされてゆくことでし
ょう。それでも私たちの心の深くに刻まれたこの遭難の事
実は依然としてあらわに残って居り、そしていろいろな
事柄に現れて来ます。希わくはこの体験が永久に失われ
ないで、私たちにいつも生きてはたらいて欲しいでは
ありますまいか。丘の上から見亘すと、まだ刈り残された
黄いろい晩稲の平面を超えて、鋸山の背には無残に剥ぎ取
られた赭裸の崖が数ヶ所見えています。浜辺へ出ると海水
が減ったように砂浜が著しく広くなり、もと見なかった黒
い岩の一列が海中に怪しげに立っています。この辺の土地
は五尺ばかりも隆起したのでしょう。本当にこんな地変は
滅多には来ないことでしょうが、併し私たちはいつも之
に処する途を考えておかなくてはなりますまい。
今度の災変に際していろいろの事が起こり、そして叉論
ぜられています。先ず第一に復興への手段として節約と云
うことが叫ばれました。傍に惨苦を経て困窮に泣いている
人たちがあるのに、自らあり余る贅沢を尽すということの
わるいのは云うまでもありません。けれども私たちは節約
それ自身が無条件にいいと思ってはならないのでしょう。
窮者の生活に必要な品物を、一方にそれ程の必要もなしに
費消すると云うことは、直接に窮者をして益々苦しめる点
に於て、してはならないことです。生活必需品の配分はど
んな場合にもすべての人に均等になされねばならないこ
とであり。そしてその缺乏はまたすべての人が均等に堪え
なければならないことなのです。之に関聨してそう云う
品物に対する暴利を所得しょうと企てる者は、かような災
変に際して特に最も憎むべき心の持主であると思います。
社会としては恐らく斯種の品物の商売を個人に委ねること
が適当の制度ではないのでしょう。寧ろすべて公供的に之
を供給する様にしなければなりますまい。若し夫れ生活必
需品以外のものに関しては、その本質に於いては自らの余
力によって之をその欲する儘に使用することに差支えのな
い筈のものです。ただ私達の精神生活により必要なものを
先にし、そうでないものを後にすると云う意味で或る程度
の節約があり得るだけです。人間全体の生活は却って種々
の品物をそれぞれの役目に対して欲求する事に於いて進歩
することが出来るのであって、私たちの文化の目的は正当
にここに存在するのです。これなしには復興も文化もない、
原始生活に帰るでもありましょう。災後の復興を志すた
めには私たちはこの点に於いて寧ろすべてに対して節約
なる消極的の行為よりはもっと積極的でありたいと思う
のです。私たちは只併し現時の社会制度に於いてにわか
に之に急ぐことを差し控えねばならない理由を見出すので
す。それは災厄を蒙った人たちに徒に羨望を起し、不平を
抱かしめるからであります。なぜなら災厄の結果は餘儀な
しに極めて著しい不公平をそこに現ずるからです。節約は
この不時に生じた不公平に対して同情し遠慮しなければな
らないと云う意味で必要になるのです。それですから之は
本質的なものではなく、却って社会の現制度の欠陥による
のであって、私たちにこの際それを痛感せしめずにはいな
いのでしょう。私は思います。自らの招いたものでない物
質的災厄は社会的に常に正当に償わなければならないもの
であると。社会は即ち公共的にすべての天災に対する充分
なる保険を営まなければならないのです。之が罹災者に対
する社会の正当な同情であり救助であります。個人の恩恵
的同情、即ちいわゆる慈善は決して物質的のものによって
目的を遂げられてはなりません。それは只お互いの暖かい
心によって慰め合われなくてはなりません。何ものにも代
え難い尊い人間愛の価値が斯様にして始めて物質を超越し
てあらわれ得るのです。私たちは物質的贈与によって代表
せられた恩恵を決して高く見積つてはなりません。之を施
すものと受けるものと、等しく社会の一員であって、それ
がために高下の差別がつけられてはならないからです。若
し上述のような損害填補の正当な方法があるならば、一時
の救恤給与による怠惰と云うようなことも起きずにすむで
しょう。なぜなら給与が引き続いて必要な人達は自らの勤
労能力をもたない少数のものに限るわけであり、そして
それらの人達には怠惰とか勤勉とかはあり得ないからです。
勿論合理的な社会は勤労能力を有する人々にはその勤労
を用いる相当の場処を与えそして之に対して最小限度に
於いても彼等の生活に必要なだけの報酬を与えなくてはな
りません。只災禍のためにいろいろな機関が破棄されたた
めに一時の失職を免れ得ない人達はあるかも知れません。
之等に対しては社会は恐らく適宜の臨機の処置を見出し得
るでもありましょう。
災後に諸処に起った朝鮮人殺戮問題、並びに大杉氏等
殺害問題は、民衆一般の思想的教養の欠除を暴露するもの
でした。若し彼等が朝鮮人をよく理解することが出来たな
らば、そして叉自分たちの社会的制度に信頼することが出
来たならば、恐らくはあの混乱の際といえども、今少しく
落ちついた処置がなされたでしょう。又個人を殺害するこ
とによって思想そのものを滅ぼし得ないことに気づいたな
らば、後者の如き問題も生じなかったでもありましょう。
現時の民衆の多くがまだまだそれらを解することに遠いの
を私たちは感じなければなりません。
この外のいろいろな社会的事件に対しては私はもはや
言葉を費しますまい。私たちはもっと思想的に深い教養
を経なければなりません。それと同時に私たちは亦宗
教的にも科学的にも進まなければならないことを私は感じ
ます。浅草観世音の御利益を祈るなどと云うに至りては
偶像崇拝の極に陥っているものです。たとえ殿堂が壊れ若
しくは焼けたとしてもその物質的損害は宗教的の意味に何
の関するところもない筈です。それと同様にこの災変が幾
万の人命を滅ぼし巨億の財貨を失わしめたとしても、之を
天譴とか天誡とか解することは、
恐らくは神の真意を曲げ私するものではありますまいか。
第一次大戦による重工業の飛躍的な発展による好景気から、米騒動を引き起こすほどの不況、関東大震災と、大正時代は光と影が混在する時代であった。当時の保田は、明治時代中期から人々に親しまれた六人乗りの馬車「ピーポー馬車」が外房の天津町との間を通っていたほか、京浜へと結ぶ唯一の交通機関「蒸気船」が発展していたため、物資・人々の往来が盛んであった。大正六年に、房総西線が開通すると、それまでの汽船に相まって、東京方面からの大衆が保田の海を楽しみに来るようになった。保田駅前の通りには商店街が作られ、栄えた時代であった。関東大震災はその矢先に起こったのであった。
※① M旅館・・・保田の保田神社前に存在した「松音楼旅館」のこと。石原は大正十年に原阿佐緒と同館に投宿した。翌年には同館の主人、昼田昇(ひるたのぼる)の縁で保田に新居を構えた。以来、原が保田の家を去った後も石原は昼田昇・愛夫妻とは生涯親しく交流した。
昼田昇氏は、保田の家で石原の最期を看取ったうちの数少ない一人だった。鋸南町史には、昭和八年四月の定期選挙で当選した保田町議会議員の名簿に同氏の名前が確認できる。
明治四十二年に千葉毎日新聞が発行した『房総人名辞書』には同館主人を紹介する川崎利平(かわさきりへい)の項があり、「安房郡保田町嘉永五年十二月生まれ、本郷の人、保田町第一流の旅館松音楼の主人にして料理に長ず、祖先以来累代の営業にして数年前宏壮なる屋舎を新築す、囲碁将棋を好む、長男は鍋太郎、雑貨商を営む、」とある。昼田氏と川崎氏の関係は不明。
松音楼については、新旧二種類の写真が残っている。「写真1」は、明治期に建てられた、房総人名辞書に記されているものと思われる。石原が震災記に記した「つぶれた二階家」とはこの建物の事であろう。次いで「写真2」は現在保田に暮らす高齢者も覚えている建物である。関東大震災後に建て直されたものと思われる。一九八〇年代に同館の土地・建物は不動産屋に売却され、現存しない。
※② 往来の向う側の石垣・・・松音楼旅館から県道を挟んだ向かいにあるのは保田神社である。石原は強い揺れの中、保田神社の石垣に身を寄せたものと思われる。「写真3」に写る左手の石塀が松音楼旅館。右手が保田神社境内の石垣。右手には震災記中に倒壊した事が記された鳥居が写っている。
※③ 家まで数町の間・・・保田神社前の松音楼跡地から、石原の家跡地までは、徒歩で約十分ほどでつく。この間約八五〇メートルの距離がある。長狭街道を通り、保田小学校脇の細い道を左折するルートだ。一町は約百十メートルなので、約七.七町の距離である。
※④ 小学校・・・旧保田町本郷区中原にあった保田尋常高等小学校の校舎(写真4)のこと。石原純の住まい「紫花山房」はこの小学校裏の丘の上にあった。同校は旧保田小学校の前身校である。保田小学校は二〇一四年に閉校され、現在は旧校舎を道の駅として再利用した「道の駅保田小学校」となっている。
『保田・小学校教育百年記念誌』(平成元年 鋸南町立保田小学校発行)には関東大震災当時の同校の様子がこのように記されている。
「大正十二年九月一日 本日は第二学期の始めに当り、校庭で始業式を行い、子どもを下校させた後、職員が事務室に集まり、簡単な茶話会を開いていた矢先、午前十一時五四分、強烈な上下動がものすごい勢いで起こり、壁は崩れ、瓦は落ち、歩行まったくできず、玄関前に転倒する者、庭にはらばう者あり。見れば校舎は一大音響と共に棟より離れ、一部傾斜し、前方民家は砂塵をあげて半壊する。」とある。震災後、小学校は一か月半休校となり、学校の一部は臨時救護院となって兵隊がいたという。
同誌には保田の人たちが当時の思い出を語る鼎談のコーナーがあり、その中にはこのような記述がある。
「私は、始業式が終わって明鐘へ潜りに行きました。一潜りしたけど、ひどい濁りで止めました。折角来たんだから海岸で遊ぼうと、泳いだり、甲ら干ししたり、堤防へ上ったりしていると、波が上がったり下がったりしだして、変だなと浜辺の家の方を見たら、おばあさんと娘が泣きながら転がるように来て、地震で家がつぶれちゃったといったんです。「これは大変だ、家に帰らなければ。」と思ったが、家が皆潰れているので通れない。ようやく屋根の上を通って、家に行ったけど誰もいなかった。困っていると、おばさんに会ったので一緒に崇徳院の前を通って中原の学校へ行きその上の石原博士の庭で一晩明かしたんです。」
※⑤ Y子・・原阿佐緒のペンネーム「由利子」の事
※⑥ 半鐘が鳴り渡ってくる・・・保田にはいくつか火の見櫓があった。「写真5」は現在の国道127号の菱川師宣生家跡地のあたりから保田交差点の方を写したと思われる一枚。左手に鉄骨造の火の見櫓が写る。保田青年会発行の「保田町の一部」というタイトルの古い絵葉書である。
※⑦ 舘山湾に沿った町の火事・・・館山市史の震災状況調査表(大正十二年九月十九日調べ)によると、現在の館山市内において、全潰戸数は五九三四、焼失が四十七戸、死亡数は七二七名、負傷者は一八八四とある。焼失したうちの三四〇戸は同市北部の船形地区だった。火災は一晩中続いたという。保田から館山までの約二十キロメートル間には岩井や富浦の町があるが、両町の町史には関東大震災の際に夜間に至るまでの大きな火災については記述はなかった。
※⑧ 金谷では石切人夫が・・金谷(かなや)は鋸山の北側にある港町で、鋸山を挟んで保田とは隣町である。金谷と保田は古来鋸山で採掘した石材業が盛んであった。この石材は総称して「房州石」と呼ばれ、細かくは金谷石、保田石などと地域の名がつけられていた。現在では石切り場跡が鋸山の観光名所の一つとして人気を集めている。高さ一〇〇メートルほども切り立つ垂直の岩肌は圧巻。現在房州石の採掘は行われていない。
※⑨ 避暑客・・・保田は明治時代から東京などの都市部の人々に避暑地として知られていた。明治十一年に館山の北条と東京を結ぶ貨客船が就航すると、人々は船で来保するようになった。大正時代になると、東京から房総半島に鉄道が南延し、房州最北の町である保田には、大正六年に保田駅が開業した。これによって、船でも電車でも大衆の来保が可能になり、保田は房州においていち早く賑わいを見せていった。
保田町では、大正十一年から毎年八月初旬(十日ごろ)に朝の町内滞在者を調査した。関東大震災は九月一日に起こったが、その一か月前の数値は一六四五人。同調査の数値は震災後の大正十五年には三九二六人、昭和十一年には六九四六人と、海浜避暑地・保養地として発展を遂げた。ちなみに原阿佐緒が保田の家を去った昭和三年の保田町の人口は、五一六三人で、同年の避暑客数は四二八五人。保田町の人口のおよそ八割に相当する客が保田に避暑に来ていたことになる。
保田に訪れた人たちの目に石原と原の洋館はひと際目立っていただろう。
この賑わいは昭和十二年の日中戦争を境に減少、太平洋戦争開戦頃には旅行そのものが制限され沈静化した。
※⑩ 下の県道・・・現在の千葉県道34号鴨川保田線のこと。房総半島南部を横断する主要道路の一つ。江戸時代より東京湾と太平洋を結ぶ街道として使われた。鴨川市の山間部、長狭地区を往来するため、一般に「長狭街道」(ながさかいどう)とも呼ばれる。
石原や原阿佐緒とかかわりの深かった歌人・古泉千樫は長狭の出身。古泉は、東京に赴く時には長狭からこの路を通り、保田の港から船を使っている。
保田は房州において、立地的に東京に最も近い町であった。そのため山間部や太平洋側、外房の住民の中には、長狭街道を通り保田の港や鉄道の駅を目指した者も多かったことだろう。
※⑪ 海岸の県道・・・鋸山の西端は東京湾に突き出す「明鐘岬」である。海岸の県道とは、現在の国道127号の明鐘岬の部分の旧道にあたる。文中ではこの県道が巨岩崩落によって通れないとある。房総半島を東西に分ける険しい鋸山を越えるには、この県道を通る必要があった。険しい岬の端をぬうように通された道で、ここが通れないとなると、実質的に陸路での房州入りは不可能な状態と言っても過言ではない。明鐘岬沿いの道にはトンネルが続いた。「写真6~8」はそのうちの三か所を写したもの。
※⑫ 汽車の隧道(ずいどう)・・・鋸山を南北に貫通する鉄道用のトンネルの事。全長は約千二百メートル。文中で余震にあったり、提灯が消えてしまうなどして通過に二十五分ほどかかったとある。「青堀から戻った人」は県道が通れなくなってしまったことを受け、鉄道の鋸山トンネルを歩いて通るという奥の手を使ったのである。トンネルの向こうは保田の町であるが、暗黒の閉鎖空間を歩み続けるのは相当に心細かったに違いない。
※⑬ 電燈灯会社の出張所長・・・大正十一年、帝国電灯株式会社は保田駅の北側にガスを動力源とした発電所を設置した。発電が始まると街には大きな音が響いていたという。この発電所の稼働期間は不明だが、経営上の合理化から程無くして姿を消したという。文中の出張所長とは、この施設の関係者であると思われる。「写真9」は元名にあった東京YWCAの休養所の場所を説明した地図で、発電所の位置も表記されている。
それ以前にも、保田には明治時代から発電所が存在した。明治四十四年六月に房総電機株式会社が創設され、本社は保田に置かれた。同四十五年には勝山町、岩井村、金谷村に送電を開始した。当時の発電所は保田の大帷子(おおかたびら)にあった。同社は大正九年に豊国電気となり保田には事務所がおかれた。さらに大正十年には帝国電燈株式会社となった。
保田駅の南側、加茂神社と線路の間の敷地には、電気会社の社長の家と言われたコンクリート造りの洋館があったという。保田に育った高齢者の中にはその家を「お化け屋敷」といって覗きに行った人もいたと聞く。この洋館は昭和四十年ころまで建っていたという。大正期から昭和四十年代まで存在していたという点で、石原の家と同期に保田に存在していた建築物であった。
※⑭ 本所辺の極端な惨状・・・東京の本所区周辺で起こった被災状況のこと。現在の両国駅近くにある横網町公園には当時、陸軍被服廠跡地があった。ここでの避難民の焼死事件は関東大震災の悲惨さを物語る代名詞ともいえる出来事である。本書の「解説2 関東大震災について」を参照。
※⑮ ひどい横浜の事情・・・関東大震災における横浜の被害は東京に比べると、あまり知られていない。住宅の全壊棟数を見ると、東京が一万二千棟であるのに対し、横浜市は一万六千棟だった。当時の横浜市は約四十二万人が居住しており、東京の約五分の一ほど人数である。
横浜の海岸通りに立ち並んでいた洋風のホテルや建物なども軒並み倒壊し、煉瓦の倉庫が一瞬のうちに崩れ落ちたという。関内駅あたりの横浜中心部は地震発生直後から火災が発生した。火災は約三〇〇カ所も発生し、市内全域はあっという間に炎に包まれた。横浜の火災は一昼夜で市街地を焼き尽くした。神奈川県庁、横浜市役所も全焼、警察署などの行政機関もほとんどが崩壊、全焼し、行政機能は一時的に麻痺していた。鉄道や通信網も寸断されていたため、震災後の横浜は社会と隔絶された状況にあったという。
※⑯ 観音寺・・・保田の本郷の長狭街道沿いにある寺院。場所は旧松音楼旅館と旧保田町役場の間にあたる。創建は不詳。縁起には文明三年の建立とある。明治時代には荒廃していた本堂は、大正十年に改築された。翌年の関東大震災直前、六月十七日には、境内裏の一帯が町の公園として開放された。この公園はその後、保田保育所となり、現在は介護施設となっている。関東大震災直後、保田町は観音寺の公園に仮設病院を設置。大きなテントを張り、町内の全医師を雇い治療にあたらせた。しかし、薬品などの物資不足や医師自身の被災の故、対応は困難を要した。当時の保田町役場は観音寺の東隣であった。
関東大震災後には、京浜地方からの避難者に対して、観音寺の本堂を解放し一時宿泊させていたという。現在境内には昭和三年に本郷青年団が建立した「大正震災記念碑」(写真10)がある。石碑の裏面には下記が彫られている。
被害
全潰家屋二六四戸
半潰六五戸
死亡者六一名
負傷者一三六名
昭和三年九月一日建之
保田町青年団本郷下支団
※⑰ 砂浜が著しく広くなり / 五尺ばかりも隆起・・・関東大震災では、房総半島南部の全域で隆起が見られた。特に南端の布良付近で最大で約一.八メートルであった。鋸南町史には「鋸南町の海岸は総じて一.五メートルの隆起を見た」とある。三浦半島から大磯にかけても二メートルほどの隆起があったという。この隆起によって海底は海面上に現れ、新たな海岸部分「離水海岸」が生じた。関東大震災から数年後、保田は海水浴・海浜避暑の地として大いに賑わいを見せたたが、隆起によって広がった砂浜には大勢の海水浴客の姿があった。広がった砂浜は多くの避暑客を集めたのだった。「写真11」は、昭和二十年代はじめ、戦後間もなく賑わいが戻ったころに江田写真館の江田晃陽氏が保田海岸の様子を写したもの。海岸に乗付ける車、アグリ網、沢山の海水浴客が写る。まさに芋を洗うような賑わいぶりである。
保田小学校に通っていたころ、先生から「この学校の裏に昔有名な博士が住んでいた」と聞かされたことがあった。幼い私には「博士」という言葉の響きが妙に印象的で、二階の廊下の窓から裏山を眺めていた時期があった。この博士というのが石原純の事である。それから二十数年が経って、興味本位で大正時代から昭和戦前期における保田の海浜避暑地としてのエピソードを調査・収集するようになった。石原について知ったのはこの時がほぼ初めてだった。石原の生涯は学者・歌人・科学ジャーナリストと多面的であったが、反骨心を持ったジャーナリストであったことや、前衛的で豊かな文芸表現をしていたことに私は興味が惹かれた。なおかつそれらの活動は保田移住後に極まっていったのだった。私はこのような人物があの学校の裏に暮らしていたのかと分かると、驚喜を禁じえなかった。石原はいくつかの文章で保田の自然環境を好んでいると記している。保田の風土は石原の精神に活力と安らぎを与えていたに違いない。母校保田小学校の校歌の最後は、「山は養う我が心 海は育む我が望み」という歌詞で終わるが、この一節は学校裏に暮らした石原の存在を想い起こさせると同時に、保田の風土に誇りを覚える。保田小学校は二〇一四年に児童減少による統合のため閉校となったが、石原純が保田に暮らしていたことは、いま、どの程度地域で語り継がれているのだろうか。
二〇一八年六月、私は、石原純の令孫にあたる森裕美子氏が館長をつとめる、神奈川県の逗子にある「理科ハウス」を訪ねた。石原純について調べ始めてから、一度同館に訪れてみたいと思っていたのだった。同館は子どもにも、大人にも、科学のたのしさや石原純のことを知ってもらえるようにと創られた私設の科学館で、工夫を凝らした手作りの小さな実験コーナーが館内に点在していた。森館長は、祖父・石原純の子ども向けの科学書『ぼくらの実験室』を読んで感銘を受け、「科学の楽しさや祖父の存在を知ってもらおう」と同館を開設したのだという。同館は二〇一八年四月に、日本科学技術ジャーナリスト会議から科学ジャーナリスト賞特別賞を受賞した。「身近な科学館」を目指した設立趣旨と地域コミュニティから親しまれている活動ぶりがその受賞理由であったという。私が、「石原純の記した関東大震災の文章を保田の郷土史の一つとして書籍の形で紹介させてほしい」と申し入れると、森館長は快諾をしてくださった。本書を作るうえで、森館長には貴重な資料の提供など、ご協力をいただいた。ここに感謝を申し上げる次第である。地元保田では、保田の元名在住の地域の歴史に詳しい山崎源治氏、保田駅前商店街の江田写真館の江田晃一氏には古い写真資料などを多数提供いただいた。千葉市稲毛区にある千葉市民ギャラリー・いなげの学芸員をつとめる行木弥生氏には、前作に引き続き地図の制作のご協力をいただいた。同ギャラリーは、大正時代に海浜保養地として賑わった稲毛の面影を残す洋館がその施設になっており、当時の地域の様子を伝えることを活動の一つとしている。その他取材にご協力いただいた皆様にも重ねて御礼を申し上げる次第である。
鋸南町史編さん委員会 (1988) 『鋸南町史 通史編(改訂版)』.
館山市史編さん委員会 (1973) 『館山市史・別冊』.
鋸南町役場 (1894) 『鋸南町報 第一八七号 1984年2月号』.
鈴木伊三郎『鋸南町(保田)の石原純と原阿佐緒』.
西尾成子 (2011)『科学ジャーナリズムの先駆者 評伝 石原純』岩波書店.
鋸南町立保田小学校発行 (1989)『保田・小学校教育百年記念誌』精文社.
内閣府 (2007) 『広報誌 ぼうさい 39』.
千葉県 (2009) 『防災誌 関東大震災』.
矢島祐利 (1981)『角川 短歌 石原純と短歌』.
矢島祐利 (1982)『アシビ時代の石原純』.
矢島祐利 (1982)『日光以後の石原純』.
矢島祐利 (1987)『石原純新短歌抄』.
保田文庫では、避寒・避暑の保養地、別荘地として親しまれた
保田地域の歴史を調べ、掘り起こす取り組みを行っています。
2018年6月12日 発行 初版
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