───────────────────────
───────────────────────
この本はタチヨミ版です。
彼女は灯台ではなく雨量観測塔だった。わたしは長いこと、彼女を灯台だと思っていた。母の写真で見ていただけだったので知らなかった。そうではないと知ったのは誰かのインスタグラムによってだった。
少し前からフォローしている灯台マニアのアカウントで、日本中の灯台を撮ってまわっており、ぽつぽつ数日おきに灯台の写真が流れてくるのが、なんだかよかった。プロフィールに「She is beautiful.」とあり、わたしは灯台が女であることを知った。ほっそりしているもの、ずんぐりしているもの、白い女、縞模様の女、タイル貼りの女……。彼女たちはみんな孤独に見えた。わたしはいつも眠る前、知らない誰かの収集した女たちを眺める。夢の中で彼女たちにハグする。夜風に吹かれたタイルの肌は、きっとひんやりしている。
写真の中で母は笑っている。今よりちょっと若く見える。母は塔を見上げ、ピースサインだけレンズへ向けておどけている。塔はしずかに立っている。彼女のすがたかたちは灯台によく似ていた。三浦半島の大楠山だ。白いからだでにょっきり立っていた。山の緑から突き出たあたまはきっと海を見渡している。大楠山は海のそばで、もしも彼女が灯台ならば、光を振り回し船たちを導いた。どのような晩も休むことなく、きっとレンズのひとみは赤い。彼女の足元は小さな畑で、春には菜の花が咲く。
山のてっぺんには売店があり、おでんやうどんが食べられる。わたしは母の腹の中にいたころ連れて行ってもらったので、母から間接的に食べたこんにゃくやはんぺんだ。辛子はつけなかった。わたしが腹にいたからではなく、母が好まないというだけ。わたしがいたことにも気づいていなかった。妊娠のごく初期だったから。母は、わたしのことを知らずにハイキングに出かけた。誰と? 父だったかもしれないし、ドドだったかもしれない。それから十ヶ月ちかく経ってわたしが腹から出てくる頃には、母と父は別れていたので、わたしに父はない。
山といっても大楠山は標高二四◯メートルほど、三浦半島ではいちばん高い山だが、巨大な手のひらが日本列島をなぞったならば見過ごしてしまうささやかな、ごくささやかな出っ張りだろう。にきびですらない。ひじをこすってみる。しわがある。皮が伸びる。母のひじは白っぽくひびわれ、指の腹にざらつく。きっと大楠山は、わたしたちのひじのしわよりも小さい。巨大な手のひらについて考えるとほっとする。きっといいにおいがする。孫悟空だってお釈迦さまの手に抱かれた。
ある日灯台マニアのインスタグラムに、大楠山の白い女がアップされていた。あっ、と思った。そして『これはレーダー雨量観測塔で、灯台ではありませんが、なかなかきれいだと思ったので』とコメントされていた。驚いた。彼女は灯台ではなかった! そのことを母に言ったら、「知らなかったの?」と笑われた。きっとこういう勘違いがわたしにはたくさんある。それはわたしが十四歳だからだ。
半島を濡らす雨を、彼女はレーダーで観測している。レンズのひとみは持っていない。レーダーとは電波を発射し対象物との距離や方位をはかる仕組みだそうだから、彼女のしごとは灯台より攻撃的かもしれない。射精のようにウインクする。
灯台マニアは以前、半島がこわいと書いていた。『先端まで行くと海しかない。半島は行き止まりだから、閉じ込められている気がする』。海はどこまでも広がっているのに? よくわからない感覚だと思った。『だから灯台があると安心する』。わたしも半島の突端に立ってみたい。陸地の途切れで、ひろがる海に閉じ込められてみたい。
灯台マニアがどんなひとか知らない。コメントの感じからすると男のひとのようだが、わたしの希望をいえば、ひとりぼっちの女のひとならいいなと思う。
母は都合が悪いのでわたしが代わりに来たのだと言ったら、ドドは目をまるくした。充血した目玉だ。ドドはケーキの箱についているみたいな保冷剤を握りしめていた。まぶたに乗せていたのかもしれない。
「熱があるの?」
「もう下がった。ねえ、ほんとに一人で来たの?」
ドドは母の学生時代の同級生でちょくちょくうちに遊びに来るから、ドドはわたしの友だちでもある(とわたしは思っている)。昨晩、ドドは母に助けをもとめた。失恋のショックで寝込んでいるから励ましにきてくれと、「よんじゅうよんさいとは思えない情けなさで」電話を寄越したという。よんじゅうよんさいになっても恋で泣くのか。わたしはそのことに、不毛とくらやみと憧れを感じた。
母は今日、祖父の見舞いに行かねばならなかった。祖父は先月から入院している。階段で転んで骨折してしまったためで、元気なことは元気なのだが、なかなか歩けるようにならず退院がのびていた。しばらくリハビリが必要で、おまけに祖母はクルマの免許を持っておらずひとりでは出かけられない。母は仕事に見舞いに忙しくしている。そういうわけで、ドドのところへはあんたが行ってやってよと母はぼやいた。
ドドは言った。
「一人で電車に乗って?」
「電車くらい一人で乗れるよ」
いや母は冗談のつもりだった。わたしが本当にドドのところへ行くなんて思わなかったはずだ。わたしはこっそりドドのうちへ向かった。ちょうど体育祭の振り替え休日で学校は休みだった。母はそのことを忘れていたようだ。駅のトイレで学校のジャージから私服に着替えた。
「すごいじゃん。私は中学生のころ、自転車にしか乗れなかったよ」
百々奈津美という名前なのでドド。母がそう呼んでいるのにならっている。さんもちゃんもつけないでいるが、ドドはとくに気にならないらしい。変わった苗字だ。ドドに似合っていると思う。結婚はしていないのでドドは生まれたときからずっとドドだ。自分には子どもがいないから、ひとのうちの子はかわいいと、ドドはわたしに漫画をくれたり髪を結んでくれたりする。
「ほんとに? バスにも? ぶらんこにも? 親が運転する車は?」
「おこちゃまを褒めるのって難しいな」
ドドは嘆息し、ともかくわたしを部屋へ上げてくれた。ふるいマンションで、玄関の扉は錆びてところどころ剥がれていた。外の壁にも赤く錆びが垂れていた。海辺の町だからだろうか。きっと潮風がマンションに殴りかかっている。とはいえ磯のにおいはしない。部屋はわりと散らかっていた。毛虫かと思ったらホコリの塊だった。座椅子を平らにしておじいさんが寝ていた。たぶんドドのお父さんだ。
ドドの住む町へは電車で二時間近くかかった。ちょっとした旅行だ。逗子。三浦半島の付け根近くの町で、地図によれば大楠山に近い。もしかしたら雨量観測塔に会えるだろうか。逗子駅は湘南新宿ラインの終点で、ただただ座っていれば着いた。収束し、交差し、枝分かれする路線図の先端のひとつだ。逗子は先端の町で、たしかに行き止まりかもしれない。
「これ、お見舞い」
ドドにローヤルゼリー入りドリンクを渡した。母がときどき飲んでいるもので、冷蔵庫からくすねてきたのだが、とっくにぬるくなっていた。
「どうもありがとう」
ドドはまじめにうなずいた。
ダイニングテーブルには醤油やマヨネーズが出しっぱなしで、中途半端にラップが貼りついた皿から茄子の漬物がこちらを見上げていた。青色に染まっていた。このにおいは苦手だなあと思う。薬の袋ががさがさ積まれている。これらもぜんぶ常温だろうと思った。ドドは冷蔵庫を開け、ドリンクをしまうとすぐ閉めた。
「なんにもないから、どっか行くかあ」
べつになんにもなくても構わなかったのだが、ドドはわたしに気を使っているらしかった。
「おなかすいてる?」
「あんまり」
鼻で息をしないようにしゃべった。
ドドは長い髪を首の後ろでくるりとくくっていた。雑なお団子で、ちょっと重たそうに見えた。ほつれた髪がひとすじ、汗で首にはりついている。五月なのにずいぶん暑い日だ。ドドはさっと髪を払い、笑った。
「エッチ」
「なんで?」
「ひとのうなじをじろじろ見やがって」
自意識過剰だ。母と同い年のドドに興味はない。
ドドは、わたしが女の人を好きなことを知っている。ずいぶん前にこっそり打ち明けた。ドドはそんなに驚かなかった。母に伝えたかは知らない。ただ、こうやってときどきからかう。わたしはそれがちょっとうれしい。
「外行こう。近くにドーナツ屋があるから」
おなかはすいていないと言ったのに、よくわからない。
逗子は海辺の町だ。駅からのびるバス通りをだらだら歩きゆるやかな坂を下りていくと海岸で、ドドの家からもすぐだった。視界がぽかんと開けた。わたしにとってはめずらしい眺めだ。思わず波打ち際を駆けた。靴が濡れないギリギリを走って遊んでいると、あーとかわーとか勝手に声が出た。人体はそのようにできている。ドドも、おーとかあーとか鳴き声みたいに唸った。まだ目は赤い。
「お金ー」「たくさんー」「貸してたんだけどなあ」「バイトー」「また休んじゃったなー」
ドドは波にあわせてぼそぼそ言った。失恋の話だろう。わたしが子どもで何もわからないと思って、気を抜いている。きっとドドは動物相手にひとりごとを言うタイプだ。
逗子海岸は湾になっておりおだやかな波が寄せては返した。半島の複雑な海岸線が気まぐれにえがいた弧だ。海岸沿いの国道をトラックがごおごお行き過ぎ、波よりうるさい。
わたしたちは砂をざくざく踏んで歩いた。泣き腫らした顔だし、よくわからないことをぶつぶつ言ってはいたが、歩き出すとドドは元気そうに見えた。
やがてドドは振り返り、急にまともな大人みたいに言った。
「遠くから来てくれたのに、悪いね。家、弟が寝てるもんだから」
母なら気にしないのだろう。わたしは、母とドドが恋人同士ならいいのになと思う。
「いたのはお父さんじゃないの」
「父親はべつにいいんだよ。弟は自分の部屋で寝てる」
さっき電車の中で思い至ったことだけど、もしかしたら母とドドは喧嘩しているのかもしれない。わたしは母の冗談を冗談と知りつつ勝手にドドのところへ来たつもりだけど、やはり、母がわたしを行かせたようにも思う。使者として仕向けた。だとしたら、わたしはドドのようすや言葉を正確に母に持ち帰らねばならない。
浜には犬と外国人が多かった。米軍の住宅があるからねとドドが言った。サーフボードを抱えたおじさんたちはみんな髪の色が抜けていてターザンみたいに見えた。ドドが波でまるくなったガラス片を拾い、わたしにくれた。青色でくすんでいた。さっきの茄子を砂にまぶしたような青だ。
「あっちにヌーディストビーチがあるんだぜ」
ドドは海岸の西端を指さした。
「浜が途切れて、山が迫ってるでしょ。潮が引くと通れる道があって、向こう側にある小さい浜では、みんな裸なんだって」
「警察に捕まんないの?」
「そりゃあ、見つかったら捕まるだろうけどさ」
みんな服を脱いで寝転がり、体を焼いているらしい。崖で隠れているため国道からは見えない場所だそうだ。もっともそこには男の人しか来ないので、ドドは行ったことはないと言った。日焼けした男たちが背中と尻をさらしているのを想像した。みんなふんどし姿だとドドが言う。本当だろうか。
ふと振り返れば浜から見上げるひくい山々は、寝そべる女の尻や胸に見えた。三浦半島は凹凸している。おおきな女はすでに幾人も横たわっている。小さなわたしたちは? そうして町から雨量観測塔の彼女は見えなかった。胸か尻のあいだにかくれているのだと思った。ドドも女の人を好きだったらいい。失恋したのなら、今度は母にしたらいいのにと思う。
しばらくうろうろしてから浜辺をUターンし、ドーナツ屋へ向かった。わざわざ遠回りして海を見せてくれたのだと思った。そうしてやっと着いたドーナツ屋は定休日だった。
「まいったな」
ドドはあたまを掻いた。明るいところで見るとシャツがくしゃくしゃだった。ずず、と鼻をすすった。背中だけ見ると泣いているみたいだ。
「ドド、大楠山の雨量観測塔って近い?」
「なにそれ?」
「灯台に似ていて、レーダーで雨を観測していて、山のてっぺんには売店もあるんだけど」
「マニアックだなあ、知らないよ」
ドドはもともと逗子のひとではない。弟の〝てんちりょうよう〟のため、家族で引っ越したのだと言っていた。詳しいことは知らない。大楠山には登ったことはないという。かつて母と雨量観測塔を見に行ったのはドドではなかったようだ。ひとつ可能性が消えた。
ドドはGoogleマップで雨量観測塔の場所を調べてくれた。これ? と写真を検索してみせた。
「わりとちゃんとハイキングしないとダメな山だよ、これ。今日は無理だな」
「わかった。灯台に似ている塔だから、見に行ってみたかっただけ」
「それなら灯台そのものに行かない?」
ドドは言い、車で安房埼灯台というところへ向かうことになった。三浦半島の先端だ。
ドードー鳥は絶滅した。ドードー鳥は飛べなかったし、二本足で歩くけど、のろかった。マダガスカルのモーリシャス島に生息していた。島は大航海時代に発見され、ドードー鳥は入植者たちにつぎつぎ狩られた。また、ヒトが持ち込んだイヌやブタやネズミに卵を食べられてしまった。ドードー鳥は卵をひとつしか産まない。ヨーロッパ各地に持ち帰られたドードー鳥はすべて死に絶えた。
誰かがこっそり、脈脈と育てていないかなあと思う。秘密のヌーディストビーチみたいに、誰の目も届かないところで。
レーダー雨量観測塔は雨をにらんでいる。彼女が見つめ、記録するのは雨だけだから、はだかの男たちも絶滅したはずの鳥も、きっと見逃してくれる。白い女は、もっとおおきい緑の女の胸の谷間で、あるいは尻たぶをめくった内側で、濡れそぼって立ち尽くす。それはペニスではないから素敵だ。
いつかドドが死んでしまう日のことを想像する。正確には、死んでしまったあとの日々だ。たとえばいつもテレビで見ていた俳優、歌手……、かれらの訃報はいつもとつぜんやってきた。ごめいふくをおいのりしますと、いろいろなひとがインターネットで唱えた。死んでしまったと言われても、テレビやスマートフォンやパソコンの画面でしか会ったことがないから、ほんとうにいなくなったのかわからない。死んでしまっても映像や音楽の記録は変化しない。ただ日々を過ごすうち、あのひとってもうこの世のどこにもいないんだなあと、ふとした瞬間、あたまに閃く。解散したバンドについてもそうやって思い出すことがある。ここはかれらのいなくなった世界だ。そうやって、いつかドドが死んでしまったあと、わたしはドドのことを思い出すだろう。あのとき一緒に逗子海岸を歩いたなあ。ドーナツ屋はやっていなかったなあ。たぶんぜったい泣かない。そして、死んでしまってからのほうが、ゆっくり思い出し、仲良くなれるだろう。死んだ人にはバイトも学校も関係なくて、ひまだろうから。ドードー鳥は、もうどこにもいないから、世界中のひとびとに知られている。わたしの想像を、雨量観測塔は知っていて、見逃す。彼女はわたしを見下ろし、ゆるす。
トンネルをいくつか抜けた。やはり山がでこぼこしており尻や胸だ。ドドの軽自動車はけっこう揺れた。道がすいているから思い切り飛ばしている。
「安房埼灯台のあたりはいい景色だよ。波が荒いけど釣りしてる人が多いかな」
うちですることもないし、ドライブはいいかもねとドドは言った。恋人同士なら、キスしたり抱き合ったりセックスしたりで時間なんてあっというまに過ぎるんだろうなあと思った。そういうことをしない恋人たちもいるのだろうけど、いずれにしてもわたしにはよくわからない。寝込むほどの失恋というのもわからない。ドドはカーステレオに合わせて鼻歌をうたった。知らない歌だ。きっとふるい歌だ。死んだ人の歌かもしれない。
「あんたはなんで灯台に興味があるの?」
「なんとなく」
タチヨミ版はここまでとなります。
2018年7月3日 発行 初版
bb_B_00155139
bcck: http://bccks.jp/bcck/00155139/info
user: http://bccks.jp/user/139055
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
仮想出版社、隙間社。
伊藤なむあひ、弍杏という二人の作家を抱え電子書籍を中心に文学フリマ等のイベントでも活躍中。
これまでに存在しなかった小説を送り出していきます。