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﹁ほら、座れ。おい、座れってば。もう始業チャイムが鳴ってるだろ? 山本、お前はほんといつもうるさい奴だな」
教室に苦笑いを浮かべた教員が入ってくると、ざわめきは少しだけ収まった。背の高い女子生徒はスカートを手で折るようにして椅子に座った。
﹁ん? 斎藤、どうした? 気分でも悪いのか?」
﹁いえ」
﹁先生、斎藤さんはアレなのでちょっとお加減が悪いようです」
そういう声がすると、さっきまでとは違う種類のざわめきが起こった。子供たちが持つ好奇心と若干の悪意とが混じったようなざわめきだ。女子生徒はただ背筋を伸ばすようにした。後ろに座っていた男の子は身体をひねり、声がした方を睨みつけた。
﹁先生、佐藤くんが僕を怖い顔で睨んでます。どうにかして下さい」
腕組みをして教員は首を振っていた。それから、声の主に近づき教科書で軽く頭を叩いた。
﹁山本、変なことばかり言うな。ほら、もう五分も無駄にしてるぞ。教科書開け。――ええと、この前は坊ちゃんが汽車に乗る手前までだったな。山本、そんなに元気があるんだったらつづきを読みあげろ。﹃出立の日には朝から来て、』からだぞ。ほら、読むんだ」
男子生徒が声を張り上げるようにして教科書を読んでいるあいだ、教員は歩きまわっていた。そして、睨んでいた生徒の肩に軽く手を置き、うなずいてみせた。
﹁﹃――プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て﹁もうお別れになるかもしれません。ずいぶんごきげんよう」と小さな声で言った。目に涙がいっぱいたまっている。おれは泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった。汽車がよっぽど動きだしてから、もう大丈夫だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。なんだかたいへん小さく見えた』」
肩に手を置かれた男の子は目を細め、前に座る女子生徒の背中を見つめた。それから、ひとつ先の背中も見た。身体に入っていた力を抜くと教員を見あげ、うなずき返した。
しかし、教員がいなくなった瞬間に彼は立ちあがり、教室の後ろの方へ歩いていった。
﹁おい、ちょっとこっち来いよ」
﹁は?」
﹁いいから来いって」
﹁どこに行くってんだよ」
彼らのまわりには生徒たちが集まってきた。睨んでいた男の子は相手の腕を強く握っていた。
﹁なんだよ、強士。まだ怒ってんのか? ――ああ、かわいいかわいい美以子ちゃんのアレについて言うのはマズかったな。悪かったよ。謝るからもういいだろ?」
ひそひそとした声がそこここから聞こえてきた。強士はずっと真顔のまま相手を見すえていた。
﹁強士は斎藤のことになるとすぐムキになるな。そんなに好きなのか? ま、だからブラスバンドになんか入ったんだもんな。音楽室でもいちゃいちゃしてんだろ?」
強士はつかんでいた腕を引っ張り、無理に相手を立たせた。自分でも馬鹿なことをしてると思ってはいた。でも、やめられなかった。ひそひそ声はずっとつづいていた。観衆は目の前で起こっていることに半分程度の関心を持ち、もう半分は関わりあいになりたくないと考えているようだった。
﹁強士、」と後ろから声がした。
﹁周――」
にこやかな顔をして強士の耳許になにか言うと、周と呼ばれた少年は首を前の方へ向けた。そこには背筋を伸ばして前を見ている女子生徒がいた。強士はつかんでいた腕を離した。
﹁山本、ちっと失敗したよなぁ。ああいうのは女子から嫌われちゃう発言ナンバーワンだぜ。こりゃ、しばらく女子から無視されちゃうかもなぁ」
笑い声が聞こえてきた。強士は真顔のまま席に戻っていった。もうすることがなくなったとわかったからだ。
﹁強士が腹たてるのもあたりまえだ。あいつはこのクラスの風紀委員みたいなもんだし、みんなから頼りにされてるもんな。それに、キレたらヤバいんだぞ。ま、俺なら強士をおさえられるけど、お前じゃ無理だろうな。これでクラスのほぼ全員がお前の敵になったってわけだ。もちろん、俺もお前の敵だ」
﹁佐伯ぃ、怖いこと言わないでくれよ」
﹁だけど、ほんとうのことだからな。ほら、まわりを見てみろよ。みんながお前のこと睨んでるぜ。とくに女子がな」
ひそひそ声も笑い声もやんでいた。強士は教室全体を見渡した。実際に睨みつけている女子も幾人かいた。うまいことやるな――と強士は思った。それから、前に座る背中を見つめた。
﹁ほら、謝っちまえよ。さっきみたいじゃなく、ちゃんと謝るんだ。そしたら強士も許してくれるよ。な?」
﹁ああ」
そうとだけ強士はこたえた。
﹁その、――なんだ、ほんとうにすみませんでした。強士、許してくれるか?」
周は強士の顔を見て、わからない程度にうなずいた。
﹁許すってよ。な? 強士。そしたら、女子全員にも謝っとけ。ほら、先生が来る前に終わらしといた方がいいぞ」
強士は前にある背中を見つめていた。その肩や首辺りをだ。それはずっと強張っていたけれど、すべてが終わり、周がその前の席についた瞬間に柔らかくなった。強士はそれを見て、口許をゆるめさせた。
彼らは中学生の頃からのつきあいだった。斎藤美以子と佐伯周と佐藤強士――名字がサ行であったために彼らは近くの席に座らされることになった。ただそれだけのことだったけれど、彼らはそれからずっと友人として過ごすことになった。
名字がサ行であること以外に彼らにはあまり共通点がなかった。周はその頃から背が高く性格も快活ですぐにクラスの人気者になった。強士は背が低く口数も少なく、いつもなにかしらの本を読んでいた。美以子はおとなしい性格だったものの二人によく注意した。
﹁周くん、ちょっと浮かれすぎ」とか、
﹁強士くん、もうちょっと楽しそうにできないの?」とだ。
その美以子はほっそりとしていて、同級生の女子の中では突出して背が高かった。手脚もすらりと伸び、肌の色は透きとおるように白い。ただ、周や強士に注意するときには頬が赤く染まった。彼女は三人でいるときにだけ過剰であったり過少である周や強士をたしなめた。しかし、普段の美以子はその容姿が目立つものであるにもかかわらず、あるいはそうであったためにひっそりと目立たぬようにしていた。強士も周もそのことには気づいていた。放っておくと自分たちの知らぬ間に美以子は消えてなくなってしまうのではないか――二人ともそう思うことがあった。
もちろん、それは半分以上ほど冗談のようなものだった。彼らはまだ充分すぎるほど幼く、それこそ過剰に物事を捉えるという癖を持っていたのだ。美以子にたいして思うことは自分についても同様に感じることだった。なにかのきっかけで自らが著しく変化をし、果てには存在を消してしまうかもしれない。強士も周もそのような怖れを持つことがあった。怖れがあるぶん、彼らはそれを冗談に包みこみ直視しないようにしていたのだ。ひとりでいると怖れは彼らをとらえた。だから、誰かにそばにいて欲しかった。
彼らの生まれた町には大きな川が流れていた。試験前にはその土手を歩いて図書館に通い、夏休みにはプールに行ったりした。幾度かは他のクラスメイトやそれぞれの部活の友人なんかもまじえて集団で行ったのだけど、そういう場合でもいつのまにか三人でかたまってしまうことになった。美以子はひとりで所在なさげにしていることが多く、周と強士はそれに気づくと吸い寄せられるかのように近づいていった。他の連中と離れ三人だけになると彼らはきちんと胸の奥から呼吸できているのを感じた。どうしてそうなるのかはわからなかった。しかし、そのうちに彼らは三人でプールに行き、花火大会に行き、図書館に通うようになった。
﹁なんなんだろうな、これ」と周は言った。
三人でプールサイドに座り、足だけを水に浸しながらだった。
﹁どういうわけか、いつもこの三人になっちゃうんだよな」
﹁ほんと」と美以子。﹁なんでなのかしらね」
夏の陽射しは三人にまんべんなくあたっていた。そろそろ夏休みも終わりという頃でプールの水はすこしだけひんやりしていた。周も美以子も笑っていた。それから、強士の顔を見た。
﹁で、強士、お前の感想は?」
﹁あ? ああ」
そうとだけ強士は言った。彼も彼なりに笑顔だったけれど、あまり感情を出さないので二人はいつもこうやって訊いてくる。
﹁ね、強士くん、あなたしゃべらなさすぎ。楽しいときは楽しいって言うものよ」
﹁ん? 楽しいよ。こうしてるのは」
﹁だろ? だったらそう言えよ。美以子の言うとおりだぜ」
周は立ちあがってプールに思い切りよく飛びこんだ。水飛沫が舞い上がり、それは強士と美以子に激しくかかった。ピッとホイッスルが鳴り、監視員が周を指さしていた。
﹁周くん、あなたははしゃぎすぎ」
プールサイドに手をかけた周に美以子はそう言った。しかし、笑いながらだった。どうしてかはわからなかったけれど、三人でいるのが心地良いのは確かなことだったのだ。
ただ、二人きりになると彼らはとたんに落ち着きをなくした。それはどのような組みあわせでもそうだった。図書館で勉強しているときに美以子が席を離れたりすると、強士と周は互いの表情になにか硬いものが混じりあっていくのを見ることになった。外で遊んでいるときもそうだ。周と美以子も二人きりになると、しばらく互いの顔の一部をぼうっと見た。頬の辺りとか唇なんかをだ。そういうときにはなにかしゃべっても本心から出ていないように感じてしまった。まるで誰かが用意した台詞をそのまま口にしてるみたい――美以子はそう思ったりしたものだ。周はそのように考えないものの、やはり三人でいるときとは明らかに自分の態度が変わっていることに気づいていた。どこかから深刻さがたちあらわれてきて調子を崩すのだ。
﹁あいつ、遅いな」と周は言う。
﹁そうね。遅いわね」と美以子も言う。
言葉はそこで途切れる。顔の一部を見つめあい、沈黙の間が過ぎ去るのを願う。しかし、それは気まずさとは違っていた。空虚感とでもいうべきものだった。欠くべからざるものが欠けてしまった――という感じなのだ。だから、強士が戻ってくるといつものようになれた。互いの顔をきちんと見て、自分の言葉でしゃべりだした。周は冗談を言い、美以子は大声で笑う。そうやって彼らはティーンエイジのはじまりを過ごしていた。
彼らが描くことになる図形は、だいたいにおいて等距離をおいたものになった。三つの頂点のうち二点が密接に近づくことも離れすぎることもなかった。もちろん周も強士も美以子のことが好きだった。美以子だって彼らが好きだった。その好きというのは恋愛の対象として――というものでもあった。ただ、彼らは自身で考えているよりもさらに子供っぽいところを残していた。自我が肥大化していく一方でそれをどう扱っていいか理解していなかったのだ。だから、三人でいる方が楽だった。お互いをともに欠くべからざる存在であると再確認しあい、そうすることによって立ち位置を決めていた。そうなると図形の頂点は等距離をおいたものに自動的になった。美以子も周も強士もそれに不都合を感じていなかった。
◇
中学生の頃から周と美以子はモテた。周は中距離走の選手として活躍していたから校内はもとより他校の生徒からも注目されていたし、いつも明るく誰にたいしても分け隔てなく冗談を言ってまわっていたのでモテないはずがなかった。美以子の方はなんといってもその容姿が優れていた。かわいいというよりは美人に類する顔つきであり、スタイルもよく、いつも姿勢を正しているので凜としてみえた。そのためか同級生や後輩からは近寄りがたく思われていたかもしれない。美以子は先輩や教員からちやほやされることが多かった。
強士はもとからあまり目立つところのない容姿であって、口数も少ないのでモテはしなかった。ただ彼は様々な場面で重宝がられた。教員から用事を仰せつかることも多かったし(資料室に行って全員分のプリントを持ってきてくれみたいなことだ)、部活では後輩から頼りにされ、クラスメイトからも相談されることが多かった。手のつけられないような不良もどういうわけか強士には心の内を洩らすことがあった。
﹁俺の家ってメチャクチャでよぉ。親父は去年蒸発しちまったし、オフクロもほとんど家にいねえんだわ」とかだ。
そういうとき強士はじっくりとその話を聴いた。相手の気持ちを受けとめ、それが真剣なものであれば、より正しい言葉を用いるよう心がけた。彼の無口さというのは人の告白を促す力を持っているようだった。だからか、周と美以子に恋心を抱く者たちもまずは強士のもとへやってくる。
﹁ねえ、佐伯くんって、斎藤さんとつきあってるの?」とか、
﹁な、これ斎藤に渡しといてもらえないか?」などと強士は言われることになった。これ――というのはもちろんラブレターであり、多いときには月に何通も預かることになった。
封筒を手にした強士を見ると、美以子は﹁また?」と言い、周は﹁またかよ」と言った。
﹁どうしていつも強士がそれを持ってくるんだ?」
﹁知るかよ、そんなこと」
周はさっと封筒を見て首を軽く振り、鞄に挟みこんだ。美以子は薄く微笑みながらその様子を見ていた。
﹁読んであげないの?」
﹁読むよ。読むだけはね」
﹁それでどうするの?」
﹁ま、そのままにするのかな? 美以子はどうしてんだよ。美以子だってたくさんもらってるだろ?」
﹁私はお返事を書いてるわよ。お手紙なんだからそうするものでしょ?」
﹁そうなのか?」
周は強士の顔を見ながらそう言った。
﹁なんで俺を見るんだよ。俺はそんなのもらったことないから知らないよ」
﹁いや、返事を書いたら、また強士に頼んで渡してもらうことになるのかと思ってさ。っていうか、そもそも強士がこんなのもらってこなきゃいいんだ。なんで断ってくれないんだよ」
強士は真顔のままで溜息を洩らした。変な言いがかりにしか思えなかったのだ。
﹁強士くんが勝手に断るわけにはいかないでしょ。――まあ、そうしてもらえたらいいけど」
腕を組み、強士は力なく首を振った。持つ者と持たざる者との格差を痛いほどに実感しながらだ。しかし、強士だって誰彼かまわずに預かってくるわけではなかった。相手があまりにも不躾だったりすると拒否することもあった。
あるとき、彼は上級生に呼びとめられ校舎裏に連れ出された。相手は強面の二人組で非常に高圧的だった。
﹁お前、斎藤って女と仲がいいんだって? ほら、斎藤美以子だよ」
片方がそう言った。もう片方は若干もじもじしていたものの強士を睨みつけるようにしていた。
﹁こいつがよ、その美以子って女のこと好きなんだってよ。んで、激しく素晴らしいラブレターを書いたっていうんだよ。だから、まあ、渡しといてくれよ」
差しだされたラブレター(ピンクの封筒で、どう見たところでその強面上級生が使うものには見えなかった)を眺め、しかし、強士は手を出さなかった。黙ったまま目を細め、じっと封筒を見つめていた。しゃべる方は一度振り返り、相棒を見て肩をすくめた。
﹁聞いてんのか? おい、早く受け取れよ。で、その美以子って女に渡しとけ」
それでも強士はなにも言わず、封筒を見つめているだけにした。どうせこんな奴の書いた手紙なんてろくなもんじゃないと思いながらだ。美以子に渡してもこんな馬鹿とつきあうはずもないし、だいいち威圧的なのも命令口調なのも気にくわない。それに、――と強士は思った。俺だって、たぶん周だって、美以子のことが好きなんだ。
﹁嫌です」とだけ強士は言った。
﹁はあ? おめえ、殴られてえのか?」
しゃべる方は一歩前に出てきて強士の顔を睨みつけた。
﹁別に殴られたくはないけど、したかったらどうぞ。でも、美以子にそれは渡さない」
そう言って強士は目の前にある顔を見つめた。相手は息が吹きかかるくらい顔を近づけさせ、視線を這わせてきた。これがいわゆる﹃ガンをとばす』ってやつなんだな――と強士は考えていた。だけど、その程度の感想だった。動きまわる視線を緩慢に追いながら、殴られる準備をしていた。脚をそっと開き、その瞬間に倒れないよう踏んばった。
﹁気に入らねえな、こいつ。ほんと気に入らねえ。調子こいてんだよ。俺らが誰かわかってねえんだな」
顔を離すと、しゃべる方は喚きちらした。だけど、そのまま立ち去っていった。普段から感情をあまりあらわさない強士は﹁真顔が怖いからちょっとは笑ってよ」と美以子に言われていた。その真顔の勝利なのだろうと思った。内心、殴られるのは嫌だと考えていたのでほっとしてもいた。肩を二、三回まわして強士もそこを離れた。ただ、こういうことがあったのを強士は誰にも言わない。周や美以子にも言わなかった。自分ではこれも無口な人間だからだと思っていた。
周のもとには強士経由だけでなくラブレターが届いた。電話も頻繁にかかってきた。溜息まじりであり、断って切ろうとするともう一段深いところからしぼり出されるような吐息が聞こえてくる電話だ。周はやはり美以子が好きで、その気持ちがある限りは誰ともつきあえないと考えていた。そして、その気持ちはずっとつづくものと思っていた。しかし、美以子のことを考えると強士の顔も浮かんできた。ワンセットというわけだ。俺が好きなのと同じように強士も美以子が好きなんだろう――彼はそう思っていた。
自分のどこかに強士にたいするコンプレックスがあることにも周は気づいていた。理屈としてでなく、感覚としてそうつかんでいたのだ。強士のどこにコンプレックスを感じるのかもわからないし、深く考えようとも彼はしなかった。ただ、もし仮に美以子が強士を選ぶのであればそれでもいいと思った。ほんとうに? と周はすぐに自問した。まあ、すべてがオーケーというわけではないけど、そうなるのであればそれでもいい。だって強士はいい奴だもんな。
美以子は周も強士も同じように好きだった。その対象が異なった性格であり見た目もまったく違うから当然に感情も同じにならないはずだけど、それでも美以子は彼らのことが同じように好きだった。たまに彼女はこう考えたりもした。
﹁私はずるい人間なのかしら?」
それはつまり二人の気持ちをよく理解していたから思うことだった。あの二人は私のことが好きなんだと思い、それを強く感じると身体のうちに激しく血が巡っていくのがわかった。単純に嬉しかった。私も好きよ、と美以子は思った。ただ、どっちが? と訊かれたらこたえられなかった。どっちも好きと思い、それでやっぱりそういうのはずるいことだと考えた。もし、どちらかに告白されたらどうするのだろう? そう考えてみて美以子は弱く笑った。――私、いい気になってる。
美以子は幼稚園に通っていた頃からピアノを習っていた。彼女の家にはグランドピアノがあり、毎日欠かさずにそれを弾いた。美以子はひとりっ子で、両親は食品加工会社を経営していた。父親が社長で母親が専務といった家族経営の会社ではあるけれど、大きな工場も持っていて業績も悪くなかった。両親は仕事にかかりきりで、ほとんど家にいなかった。
ピアノのある部屋には高い窓が幾枚も立ち並んでいた。その先には広い庭があった。美以子は母親がつくっておいた夕食を温めなおし一人で食べるとピアノを弾いた。窓の外は暗く、モミジやハゼやモクセイが月の光を浴びているのが見えた。美以子は手を休め、外を眺めた。月が出ているけれど、そのぶん仄暗くみえる先になにかが潜んでいるように思えた。音の消えた部屋はおそろしく静かで、まるで凍りついてしまったかのようだった。自分のたてる息のかすかな音すら聞こえてくるほどの静けさ――美以子はそう考えながら立ちあがり、窓際へ歩いた。月に雲がかかり、庭を暗くさせ、しばらくするとふたたび月あかりが満ちた。風が出ているのだろう。同じ風は木々を弱く揺らしていた。美以子は耳を澄ました。庭の奥から聞きなれない物音がしたように思えたのだ。それはギチギチギチという音だった。なにかが押し潰されているような、あるいは重たいものを無理に引っ張っていくような音に思えた。しかし、すぐにおさまった。そのあとは風が木を揺らす音しか聞こえてこなかった。美以子は外を眺めながら適当に鍵盤をひとつ叩いた。音は高らかに静寂を裂き、目に見えぬ振動をすべてのものにあたえてから消えていった。美以子はそっと溜息をついた。
もっと幼い頃から美以子は一人でいることに馴れていた。すくなくとも自分ではそう思っていた。両親にとって仕事がいかに大切なものかというのは成長してから思い至ったことだけど、それ以前から彼女はできる限り理解しようと心がけていた。自分の寂しさも、それをもたらす事実にもなんらかの意味があるものと思うようにしていたのだ。一緒にいるときの両親は優しかったから、その同じ彼らが自分をひとりぼっちにさせるのには別の意味があるものと言い聞かせていた。その、彼女の考える﹃意味』というのは、多重に物事を捉えようとする気持ちからあらわれたものだった。美以子はひとつのものに様々な意味をつけ足していった。父親にも母親にも幾つもの意味が重なっていった。自分自身にもだ。
強士や周に出会うまで美以子は友人と呼べる存在を持てなかった。ほんの一年前のことなのに小学生だったときのことは忘れるようにもしていた。その頃にあったことはまるで紗がかかったかのようにぼんやりとしか思い出せなかった。しかし、それも事実に多重な意味を加えることで彼女自身がしたことだ。溢れるばかりに意味をあたえ、もとにあった事実を変容させようと――もしくは目に見えにくくしようとしたのだ。そういう意味では周や強士はごく単純に彼女の中に存在していた。考えなければならないことがあるのは確かだけど、それでも彼らは複雑なものなんかではなかった。あの二人は私を大切に思ってる。私を守ってくれる――そう感じることができた。彼らのことを考えるだけで寂しさは薄れ、複雑化した世界も単純なものに変わった。だから、三人の関係がずっとこのままつづいていけばいいと考えていた。どこかの時点で破綻がくるかもしれないと不安を感じることもあったけれど、周の冗談を聞き、黙りこくった強士の横顔を見ていると、その不安はきれいに拭い去られた。
ピアノのコンクールに出るときには周も強士も会場に来た。さすがに両親も顔を出すけれど、美以子にとっては周と強士が来てくれることの方が嬉しくなっていた。
﹁美以子なら大丈夫だよ。いつも通りにしてればいい」
周は満面の笑顔でそう言ってきた。
﹁だって、前に美以子のピアノ聴いたとき、俺、感動して涙出てきたもん。いや、ほんとだぜ」
﹁ほんとう? 気づかなかったわ。だって、前のときって、私、演奏終わってすぐにあなたたちに会ってるわよ」
﹁トイレで泣いてきたんだよ。それから顔洗って、きちんと拭いてきたんだ」
周は適当に言葉を出すことができる。思いつくまましゃべっていてもどうにかまとめあげることができるのだ。美以子は呆れることもあるけれど、周と話していると緊張が解れるのがわかった。
﹁ほら、強士、お前もなんか言ってやれよ」
﹁あ? ああ、」
強士は一歩前に出て、美以子を見たまましばらく黙った。その隣で周はおかしみを禁じえないといった顔つきをさせていた。美以子もすこしはおかしく思ったものの周へ目を向け無駄口を言わせないようにした。そのままで強士の言葉を待った。
﹁美以子はいつも頑張ってるからな。俺も周もそれは知ってる。だから、今日は楽にやればいいよ」
﹁うん。ありがとう」
強士の言葉を聴くと美以子は解れた緊張の糸がぐっと引っ張られるのを感じた。ほどよく安心もでき、気の緩みもなくなっていく。だから、私はこの二人が好きなんだ――美以子はそう思った。
﹁ほら、強士くん、笑ってみせて。あなた、真顔が怖いんだから」
﹁ああ」
強士が笑顔をつくってみせると周はそれを覗きこんできた。
﹁いい笑顔だ。惚れなおすぜ、強士」
周には兄がいる。四つ年上で、有名な進学校に通い、その中でも常に成績上位者に名を連ねているような兄だった。スポーツも万能といってよく、中学時代には周と同じに中距離走の選手をしていた。高校に入ってからも活躍していたのだけど、ある日突然にやめた。彼らの父親は弁護士であり、息子たちにも弁護士になってもらいたいと強く願っていた。
兄は周にとって幼い頃から憧れの存在だった。なにをやっても勝つことができず悔しい思いもしたけれど誇らしくもあった。周はいつも兄の真似をした。陸上をはじめたのだって兄がしていたからだ。ただ、その兄が走るのをやめたときからなにかが変わりはじめていた。
家にいるときの周は快活さをなくした。父親はいつも非常に疲れていてほとんどしゃべることもなかった。母親はそんな父親の顔色を常に窺っていた。すべて前もってお膳立てし、それらひとつひとつを失敗しないようにこなしていた。なにかが滞ると父親が苛々しはじめるからだ。周の家には音がなかった。食事のときも箸をつかう音がかろうじて聞こえてくるだけだった。
部屋へ戻ると周は肩の力を抜いた。勉強しなければと思うけれど、どうにもやる気になれなかった。彼はしばらく美以子のことを考えた。その笑顔、声、仕草。ときおり寂しそうにひとりで佇んでいる姿も。それとワンセットである強士の真顔も思い浮かべた。まるで息継ぎだな――と周は思った。息苦しさを感じると俺はあの二人のことを考える。そうやって息を吸う。ほんとまるで息継ぎだ。
周は机に向かった。開いたノートは罫線がひかれているだけでまっさらだった。ペンを持ち、しばらく白い紙を見つめた。それから右側の壁を見た。その向こうには兄の部屋がある。周は問題集を手に取り、立ちあがった。
﹁兄さん、ちょっといいかな?」
ドアを開くとそこにも音はなかった。ペンのはしる音が弱く聞こえてくるだけだった。兄は左腕で頭を抱えるようにして机に向かっていた。
﹁ちょっと待っててくれ」
兄はそう言った。ドアの方を見ようともしなかった。周は問題集を持ったまま戸口に立っていた。ノートに文字を書き進めるペンの音は急きたてられるような気分をあたえた。非常な勢いで時が経過するのを感じた。このままでは取り残されてしまうんじゃないか、と思った。だけど、なにに? そう考えたとき、ペンの音がとまった。
﹁どうした?」
﹁この問題なんだけどさ、」
周はそう言って適当に問題集を開いた。自分でもどうしてこんなことをしているかわからなかった。しかし、そうしたくなったのだ。
﹁どう解いたらいいかわからなくて」
兄は手を伸ばし、無言で問題集を受け取った。
﹁こんなのもわからないのか?」
周は頬をゆるめて兄の声を聴いていた。ペンを回しながら兄はページを捲り﹃解答例』を見た。
﹁ああ、これじゃわかりづらいかもな。いいか、周、こう考えるより最初からこいつを代入した方がいい。わかるだろ?」
﹁うん」と周はこたえた。だけど、そんなのは自分でもわかっていることだった。周は兄の声を聴いていた。﹁あ、そうか」とか﹁なるほど」と適当に言いながらだ。美以子を呆れさせる彼の特質はこういうときにも役立つことがある。兄は問題集を突き返してきた。それを受け取ったときに周はこう言ってみた。
﹁もうひとつだけ訊いていい?」
﹁ん?」
﹁どうして走るのやめちゃったの?」
﹁どうして?」
兄は顎をあげ目を細めた。そのままで黙っていた。それから、ちらと時計を見てこう言った。
﹁そのうちお前にもわかる。お前だってそうなるんだ」
周も美以子も家でのことはあまり口にしない。ただ、強士は彼らの抱えているものに気づいていた。細かいことまでは知らないまでも二人がたまにみせる表情から思うことがあったのだ。強士自身は性格がそういうものを感じさせないのか環境が実際にそうだったのか、自分の家はごく一般的なものと考えていた。まあ、子供の頃に誰もが持つ反発や不満はあった。しかし、寂しさや焦燥感を家族からあたえられることはなかった。もしくは、ないと考えていた。
強士はできることなら二人の力になってやりたいと思っていた。とくに美以子の感じているであろう寂しさを打ち消してあげたかった。しかし、彼はまだ子供だったので、その方法となると言葉でもって励ますくらいしか考えつかなかった。しかも彼は口べただったから、どのように言えばいいかもわからなかった。
ただ、彼はこのようにも思った。どんなに素晴らしい言葉を使うことができても、それで解決できることなんてたかがしれてる。今の自分にできることは美以子が寂しく思ったとき側にいてあげることくらいなんだ。笑顔の練習もしなきゃならないな。真顔でいたら美以子が怖がるから――と、やはり子供らしいところを残している彼は素直にそう思った。
子供だったのは、しかし、強士だけではなかった。周があるとき放った言葉も子供だから言ったものなのだろう。強士はしばらくの間それを思い出すたびに自然と頬がゆるんだ。ちょっとした事件が起こり、そのときに周はえらく真剣な顔をして子供っぽいことを言ったのだ。
それがあったのは雪の降り出しそうな十二月の寒い夕方のことだった。そもそもの発端は周が少々モテすぎるということと、それにもかかわらず誰ともつきあわなかったというのにあった。それ自体がいかにも子供らしく強士には思えたけれど、実際にそうだったのだ。
同級生に真田沙織という問題児がいた。学校にあまり来ることもなく、たまに顔をみせると問題を起こすといった生徒だった。ただ、彼女はある種の者たちから崇拝に近い感情を寄せられていた。それはいわゆる不良グループというやつで、校則の厳しい彼らの学校で変形させた制服を着ている連中だった。真田沙織も実にユニークな着こなしで学校にあらわれたものだった。普通にしていればそれなりに可愛い顔立ちにも思えるけれど、たいがいは眉間に皺を寄せ教員にくってかかるので一般の生徒たちからは怖れられていた。
しかし、周は誰彼かまわず冗談を言って歩く人間だったし、強士は不良どもから相談されるくらいだったので彼女たちとも若干のつきあいがあった。それに、強士は真田沙織の言うことにも正しい部分があると考えていた。表現方法が乱暴だとは思うものの、それは自分が克服すべき口べたさと種類が違うだけで程度は変わらないと考えていたのだ。
彼女たちのグループからも何人かが周に恋をして、その仲介を強士に頼むということがあった。まるで難攻不落の砦を落とすため我こそはと思うものが名乗りを上げる――といったふうに強士は思いもしたけれど、彼女たちだって人間の中身が違うわけではない。胸を痛め、勇気をふりしぼってラブレターをしたためたわけだ。恋をしている者の思うことであれば強士にも理解できたし、なにより彼はそういう者たちの窓口みたいになってもいたから表情を見るだけで真剣かそうでないかはわかった。ただ、周がその思いを受けとめることがないのも知っていた。
幾度かの挑戦が不発に終わったあと、強士は真田沙織に声をかけられたことがある。西陽が赤みがかったオレンジをめいっぱいに押し広げたような放課後の廊下でだった。そこには誰もいなく、強士は音楽室に向かっているところだった。
﹁ねえ、佐伯周ってあんたと仲がいいんでしょ?」
彼女はそう言ってきた。
﹁ああ」
強士は真顔のままでこたえた。真田沙織は眉間に皺も寄せず、まあ笑いもしていなかったけれど、ごく普通の顔つきをしていた。ほら、やっぱりね――と強士は思ったものだ。こうしてるぶんには可愛いじゃないかと思ったのだ。
﹁あいつ、なんなの? 私の友達全員を振るつもり?」
真田沙織は制服の袖を捲っていて、腕組みしていた。シャツのボタンは三つ目まではずされ、リボンはだらしなく下がっていた。
﹁あ?」とだけ強士は言った。なんてこたえたらいいかわからなかったのだ。真田沙織は組んだ腕に指をとんとんとあてながら強士を見つめていた。これも﹃ガンをとばす』ってやつなんだろうな、と強士は思った。しかし、嫌な気分にはならなかった。こんなことを言ってくるなんてけっこういい奴じゃないかと思ったのだ。
そのことがあってから何ヶ月か後に強士は呼び出しをくらった。真田沙織はひとりで屋上にいた。前のときと同じように袖を捲り、腕を組んで、首を傾げていた。
﹁来たね」
そう言って彼女は目を細めさせた。強士は表情を変えずに彼女を見つめ、それから周囲を見渡した。学校に隣接する神社の雑木林が見えた。首を巡らすと大きな川も見えた。空は濁った灰色に覆われ、風も吹いていた。木々の先端はその風に揺れていた。鳥の一団が灰色の中を飛んでいった。
﹁これ、佐伯周に渡しといてもらいたいんだけど」
彼女が差しだしてきたのは見覚えのあるピンクの封筒だった。
﹁あ?」と強士は言った。手は出さなかった。真田沙織は強く睨んできた。しかし、強士に見つめられるとうつむいた。
﹁あんたっていつもそういう顔してるけど、なんなの?」
真田沙織はまだ封筒を差しだしたままだった。強士は手を伸ばし、それを受け取った。
﹁生まれつきの顔だよ」
強士はポケットに手紙を入れながら、そう言った。
﹁これでも最近はマシになってきた方だ」
﹁それで? あんた、怖いんだよ。私が言うんだから相当だよ」
強士は美以子や周にみせる笑顔をつくった。真田沙織は表情が変わっていく様を見て吹き出した。
﹁やめてよ、笑わせるのは。あんた、ほんとたちが悪いわ」
表情をもとに戻すと強士はこう訊いた。
﹁で、誰からのだよ」
真田沙織はまたうつむいた。風が強く吹き、木々のざわめく音が低く鳴った。強士は自分の頬が赤くなっているのを感じていた。それくらい冷たい風だったのだ。真田沙織の頬も赤かった。しかし、その理由は違っていたようだ。彼女はうつむいたままでこう言ってきた。
﹁私だよ。馬鹿みたいだけど、私もあいつのこと好きになったみたいだ」
﹁あ?」とふたたび強士は言うことになった。
強士が思い出すことになる雪の降り出しそうな十二月の寒い日、ブラスバンド部はリムスキー・コルサコフの﹃スルタン皇帝』を合奏していた。強士は楽譜から目を離し、ちらちらと誰も座っていない椅子を見ていた。美以子が無断で部活を休むなんてそれまでになかったので、その空席はなにか異様なものに思えた。三楽章のファンファーレが終わったとき、顧問の教員はタクトを下げて入口の方を見た。部員のほぼ全員が同じようにした。そこに立っていたのは周だった。
﹁なんだ?」
﹁いえ、」
周はベンチウォーマーを羽織り、大きく開けた鉄扉に手をかけていた。首を伸ばし、目をせわしなく動かしていた。強士は立ちあがり、顧問の顔を一瞬だけ見てから周のもとへ行った。
﹁どうした?」
﹁美以子が、」
そう言って、周は目を伏せた。
﹁やばいことになってるんだ」
強士は振り返った。タクトの先を譜面台に置いた顧問は黙ったまま強士と周を見つめていた。部員たちも同様だった。強士は周の腕を一度強くつかみ、それから顧問の前に立った。
﹁ちょっとだけ出ていっていいですか?」
﹁なぜだ?」
強士は口許をかたくさせ顧問の顔をじっと見つめた。その奥には大きな窓があり、暗くなった空と向かいの校舎に灯る幾つかの明かりが見えた。明かりの中では演劇部の連中がなにかやっていた。ピカピカ輝く衣装を着た者が棒を振っていたし、茶色い大きな塊がのっそりと動いていた。
﹁すぐに戻ります」
強士は頭を下げ、そう言った。そして、周をともなって音楽室を出た。
﹁で、なにがあった?」
重たい鉄扉が閉まるとファンファーレが洩れ聞こえてきた。周は急きこむようにこう言った。
﹁連れて行かれたんだ。うちの後輩が見てた。十人くらいいたらしい」
強士は周の腕をぐっと握りしめた。
﹁落ち着けよ、周。なにがあったんだ?」
周はまじまじと強士の顔を見つめた。それまでとは違う顔つきになっていた。
﹁真田たちに連れて行かれたんだよ」
そう言って周は歩きだした。
﹁どこに?」
﹁わからない」
﹁じゃあ、俺たちはどこに行こうとしてるんだ?」
﹁わからない。わからないけど、探さなきゃならないだろ」
周は階段を駆けおりた。強士もついていった。二人は外に出た。雪が降り出しそうなくらい寒く、雲は低く垂れこんでいた。周はまるであてがあるかのように歩いていった。
﹁どうしてそんなことになったんだ? なんで美以子が連れて行かれるようなことになった?」
周はこたえなかった。裏門を抜け、そこですこし立ちどまり、またすぐに歩きだした。神社のある方へ向かい、振り向くことなく進んでいった。
﹁どうしてそんなことになったんだよ」
強士は後ろから叫んだ。
﹁俺のせいだ」
周も叫ぶように言った。歩くのはやめなかった。
﹁なんで周のせいなんだ?」
神社の境内に着くと風が一際強く吹いた。雑木林はざわめいていた。
﹁真田から手紙もらったろ? 俺は返事を書いた。好きな子がいるからつきあえないってね」
周は振り向いた。
﹁そしたら、誰なんだって、誰が好きなんだって訊いてきたんだよ」
強士は周の前に立ち、その腕をつかんだ。自然と力がこもっていくのが自分でもわかった。周はじっと強士の目を見つめ、それから顔をそむけた。
﹁で、こうなったってわけか」
強士はゆっくりとそう言った。
﹁ごめん、強士。こんなことになるなんて思わなかったんだよ」
手を離すと強士は首を大きく振った。木々はざわめき、電線が風を切る音なのか口笛みたいな音も聞こえてきた。社殿は薄暗い中にひっそりと建っていた。街灯が遠くにひとつあって、その辺りだけがぼんやりと明るかった。強士は周囲にたくさんの人が潜み、自分たちを見つめているように感じた。どうしてそんなふうに思ったのかはわからない。ただ、この状況をつくられたもののように感じたのだ。誰かがつくりあげた物語の中に放り込まれ、あたえられた役割を演じるよう強制されている――とだ。きっと観衆は見つめているのだろう、と強士は思った。俺がなにを言い、どう行動するかを。
﹁だけど、とにかく美以子を探さなきゃならない。心配だ。そうだろ?」
周がそう言ってきた。強士は目を手で覆った。馬鹿げた考えを消しこむためにだ。
﹁な、早く探すんだ。ここじゃなけりゃ、川の方かもしれない」
周は足早に歩きだした。強士もついていった。
﹁もし、そこにいたとして、俺たちはなにをするんだよ。かえってややこしいことになるんじゃないのか?」
﹁それでも行くんだ」
雑木林を抜け、彼らは川の方へと向かって行った。強士にとって思い出すたびに頬をゆるませる言葉を周はこのときに言った。
﹁強士、俺たちは騎士みたいなものなんだ」
そう周は言ったのだ。
﹁は?」
﹁俺たちは騎士なんだよ。理由が欲しいってなら、そういうことだって思えばいい。俺たちは騎士で、美以子はお姫様なんだってな。だったら、お姫様を助けるのは俺たちの義務になる。そうだろ?」
強士は立ちどまり、唇を歪めさせた。周の背中は暗闇に馴染んでいった。馬鹿げてる――と強士は思った。俺たちが騎士? だから、お姫様を助けなければならない? 自分も子供であることを忘れて強士は周の子供っぽさに笑いだしたくなった。ただ、周の声は真剣そうなものだった。
﹁おい、どうしたんだ?」
振り返って周はそう叫んだ。顔つきも真剣そのものだった。
﹁いや、なんでもない」
強士は走りながら、音楽室の窓から見た光景を思い出していた。あのピカピカしたのは騎士のつもりだったのだろう。そして、茶色い塊は馬だったんだ。馬鹿らしいけど、あらゆることが騎士を指し示している。それに、これは自分たちの関係を言いあらわすには一番しっくりいく譬えなのかもしれない。俺たちは騎士で、美以子はお姫様なんだ。だから、美以子になにかあったら俺たちは助けに行く。そう考えれば、いま自分たちがしていることも納得できる。すこし引っかかるところがあるにせよ、それだって溶けこますことができる。
﹁俺たちがほんとうに騎士なら馬が必要だったな。それに、間の抜けた従者もいれば完璧だった」
強士は笑いながらそう言った。走るのは周の領分だったから強士は離されないようにするだけで精一杯だった。これじゃ、俺がその間抜けな従者みたいだな――と強士は思った。すらりと背の伸びた周は颯爽としていてまさに騎士らしくみえた。それに比べて自分の足は重たくドタドタとしていた。
﹁真面目にやれよ。どうしてお前はいつも不真面目なんだ。美以子が心配じゃないのか?」
﹁周が真面目すぎるんだよ。いつも冗談ばっかり言ってるくせに、こういうときだけ深刻ぶろうとするんだ。俺くらいの方がいいんだ。どうせたいしたことになってないさ。真田は美以子と話したかっただけだろ」
﹁十人も連れて?」
﹁そういう連中なんだ。つるまなくちゃなにもできないんだよ」
﹁でも、美以子は嫌な思いをしてるはずだ。そうだろ?」
﹁まあ、だろうけどな」
二人は土手の上へたどり着いた。川面には小波がたっていた。枯れたアシやガマは根元から倒れていた。間遠に並ぶ街灯がそれらをぼんやり照らしていた。
美以子は河原を歩いていた。風は強く、あらゆるものがざわめいていた。彼女には整理する時間が必要だった。投げかけられた幾つもの言葉に新たな意味をあたえ、自分にとって受け容れやすいものにする必要があったのだ。
﹁佐伯があんたのこと好きだって言ってるんだけど」
真田沙織はそう言ってきた。
﹁あんたはどうなんだ? あいつのこと好きなのか?」
美以子はずっと黙っていた。﹁好きだ」と言うことはできたと思う。だって、私は周くんのことが大好きだもの。だけど、――と美以子は思いもした。だけど、私の感情はそれだけじゃない。
真田沙織は腕を組んで美以子を見つめていた。睨みつけられていることに美以子は怯まなかった。ただ、その視線は自分の中にある触れて欲しくない部分に突き刺さっていくような気がした。とても重要なこと。だけど、見ないようにしていたこと。美以子は一度目をつむり、心の中で叫んだ。周くん、強士くん、助けて――と。
﹁おめえ、生意気なんだよ。ちょっとばかり可愛いからって、いい気になってんじゃねえよ」
そういう声が聞こえてきた。美以子は背筋を伸ばし、声のした方を見た。
﹁ほら、その顔。私たちのこと馬鹿にしてんだよ。気に入らないね」
また別の声がこう言った。
﹁こいつ、小学生のとき虐められてたんだってさ。私、聞いたんだ。クラス全員から無視されてたってね」
﹁そうそう、私の友達さぁ、マジでこいつにムカついてたよ。その子の母親、こいつん家の工場で働いてたんだよ。それが急にクビになって。理由も教えてもらえなかったって言ってたよ」
﹁お嬢様だからね、こいつは。私たちのこと、ほんと馬鹿にしてんだよ」
﹁だからなにも言わないのぉ? ほらぁ、なにか言ってみなよぉ」
美以子はそれでも黙っていた。姿勢を正し、顎をひき、正面にある顔を見つめていた。そして、多重な意味が剥がれ落ちた生のままの事実を思い出していた。それは直視するのが難しいものだった。声はまだつづいていた。美以子は細く息を吐き、目を閉じた。耳をふさぐことはできなかったから、せめて目に入るものだけでも消し去りたかったのだ。
﹁そんなのはどうだっていいだろ」
真田沙織は辺りを見ながらそう言った。
﹁もうやめなよ。私はね、こいつの気持ちが知りたかっただけなんだ。――でも、もういいや。なんか馬鹿らしくなってきた」
美以子を見すえ、真田沙織は小声でこう言った。
﹁でも、これだけは言わせてもらうよ。あんた、はっきりしなよ。あんたのせいでみんなが迷惑してんだからね」
え? と美以子は思った。私のせいでみんなが迷惑してる?
川をわたる風は冷たく、美以子は首をすくめた。ひとりになってからどれくらいの時間が経っているのかもわからなかった。川の色は黒かった。美以子は空を見上げ、ふたたび川を眺めた。空の色を映してるんだ――と思った。小波はたってるけど、それだって風を映してるだけ。きっと川には色なんてないんだ。
倒れかかったアシは斜めに突き刺さっているかにみえた。それらも風に靡き、形を乱していた。大きな鳥が飛びたった。美以子は立ちどまり、鳥が去っていく方を見た。それから首を左右に動かし、耳を澄ました。アシは倒れながらも密生していた。その奥からギチギチギチという音が聞こえた気がした。なにかが潜んでいるのかもしれない。美以子は奥を覗きこもうとした。その者は私をじっと見つめているんだ。そして、間違った方へ導こうとしてる。美以子は正体を見てやろうとアシをかきわけた。そのときに自分を呼ぶ声が遠くから聞こえてきた。美以子は急いでそこから離れた。そうした理由もわかってはいなかった。ただ、そうすべきだと思ったのだ。
美以子の姿を見つけると周は足を速めた。強士はゆっくりとあとにつづいた。
﹁どうしたの? 二人とも」
美以子はさも驚いたというような顔をして二人を見つめた。頬は真っ赤で、鼻の頭まで赤かった。彼女は疲れていたけれど、張りのある声を出すことで自分自身をも騙そうとした。私は大丈夫と思い、笑顔をつくった。周くんも強士くんも心配そうな顔を――と二人を見て、強士の仏頂面には心から笑えた。
﹁大丈夫か?」
周はそう言ってきた。こっちはほんとうに心配していたのがわかる表情だ。しかし、美以子は目をそらした。笑顔も薄くして﹁なにが?」と言ってみた。
﹁だって、真田たちに連れていかれたって――」
美以子は川へ近づこうとした。砂利が歩くのを阻んだ。それでも彼女は川へ近づいていった。
﹁それで、私のこと探してくれてたの?」
二人の方を見ずに美以子はそう言った。
﹁ああ」
強士はうなずいた。うなるように風が吹き、三人は身体を硬くさせた。美以子は乱れた髪を耳にかけた。
﹁私は大丈夫よ。ちょっと話してただけだから。それだけのこと。――ね、強士くん、部活は? 今日は全体練習だったでしょ。抜けてきたの?」
﹁まあな」
﹁先生、怒るわよ」
﹁美以子だって」
﹁ま、そうね。私も怒られるわね」
周は美以子に近づいた。砂利が音をたてた。それは大きく響き、美以子は背中を押されたような気になった。
﹁なんて言われたんだ?」
﹁女の子同士の話よ。あなたたちには教えてあげられないわ」
笑顔で美以子はこたえた。二人の顔を見た瞬間に泣きたくなっていたのだけど、口を引き締めることでそれをこらえていた。泣いたりなんかしたらなにかが崩れてしまうように思えたのだ。ただ、そうしていると、さっき耳にした言葉がふっと浮かんできた――﹁あんたのせいでみんなが迷惑してんだからね」
﹁ごめん、美以子。俺のせいなんだ」
頭を下げ、周はそう言った。
﹁なんで? なにが周くんのせいだっていうの?」
美以子は目をつむり、泣きだしそうになるのをこらえた。強士は周の腕をつかんだ。
﹁もういいよ、周。これは誰かが悪いって話じゃないんだ」
﹁でも、」
﹁でもじゃない。いいか、周、俺たちは騎士なんだ。これはお前が言ったことだぜ。そうだろ? 俺たちは騎士なんだってな」
どうしてこのタイミングでそう言ったのか強士にもわからなかった。ただ、自分の口にした言葉は自然と頬をゆるませた。馬鹿げてる――と思った。ほんと冗談みたいだ。だけど、俺たちは実際に騎士なんだ。こうやってお姫様を守る騎士だ。まあ、遅れてやってくる騎士ってのも格好がつかないけど、今回はしょうがない。まだ馴れてないんだ。
﹁キシ? なによ、それ」
美以子は強士を見つめた。彼の表情はそれまでに見たことがない自然な笑顔だった。周も顔をあげ、彼を見ていた。すこし気恥ずかしく思ったものの強士はこう言っておいた。
﹁こっちは男同士の話さ」
₁
₂
₃
﹁だから、ああいう場合はさぁ、適当に謝っときゃいいのよ。向こうだって別に真剣ってわけじゃなくて、その、なに? プライドを傷つけられたくらいに思ってるわけじゃない。だから﹃すみませんでした』とか言っときゃいいの。変に反論したりすると、それこそ怒りだしちゃうんだから」
﹁そうなのかもしれないけど――」
﹁しれないけど、じゃないの。そうなの。まったく、あんたって頑固っていうか融通が利かないっていうか適当にできないっていうか、ほんと真面目すぎるわ。そういうのって疲れないの? 私みたいにってのは難しいかもしれないけど、もうちょっとはお気楽にやりなさいよ」
﹁私だって実穂みたいにできたらいいとは思うわよ。でも、やっぱり納得できないんだもの」
美以子はうつむいていた。連れだって歩いている女の子は首を弱く振っていた。だけど、笑顔でだった。
﹁もう、しょうがないわね。じゃあ、言うだけは言って、その後で適当に謝るってのはどう? 別に本心から納得してなくても﹃すみませんでした』って言うことくらいはできるでしょ。そうすりゃ、美以子もすこしはすっきりするわけだし、向こうだって謝られたら許すしかないじゃない。だって、悪いのは向こうの方なんだもん」
首をあげ、美以子は実穂を見た。
﹁やっぱり、実穂だって悪いのは向こうだって思ってるんじゃない」
﹁だからぁ、そういうことじゃないのよ。あっちは一応先輩なんだし、顔を立ててあげなさいってこと」
周は二人の方へ顔を向けていた。まわりの者が話しかけたのを手を挙げおさえると、美以子に近づいていった。
﹁美以子」
﹁あっ、周くん」
実穂はおおげさに首を後ろへ引き、それから周を見あげた。美以子はつっと周へ近づいていった。
﹁揉めてるな。なにかあったのか?」
﹁ううん。たいしたことじゃないの。でも、」
﹁ほら、また。それってあんたの悪いとこよ。いつだって﹃でも、でも』って言うの」
周は実穂の顔をさっと見てから美以子へ向きなおった。頬がすこし赤くなっていた。周の友人たちは離れたところから意味ありげな視線を送っていた。
﹁ね、美以子。こういうときってご紹介するもんじゃないの? これじゃ、私が出しゃばりで馬鹿な子みたいになっちゃうじゃない」
﹁あっ、ごめん」
美以子も周を見あげていた。高校生になった彼はさらに背を伸ばし、顔つきも精悍そのものになっていた。実穂は唇を尖らせて美以子と周を見比べていた。
﹁周くん、この子は部活が一緒で、その、なんていうか――」
﹁風間実穂です。美以子の親友なの」
じれったくなった実穂は自ら名乗った。それから、じっと周を見つめた。
﹁で、この周くんって、美以子の彼氏なわけ?」
﹁いや」と周。
﹁そんなんじゃないわ」と美以子も言った。
﹁ふうん」
実穂は周を頭の先から靴まで眺め、なにか考えてるような顔つきをさせていた。
﹁佐伯周くんよ。中学のときの同級生なの」
﹁そう。えらく格好いいじゃない。まさに好みのタイプだわ」
﹁え? ああ、ありがとう」
周はさらに顔を赤くさせた。しかし、美以子に見られてるのを感じると口を手で覆った。
﹁強士くんはいないの?」
﹁ん? ああ、あそこにいるのは部活が一緒の連中だよ。強士は帰宅部だからな、もう帰ってるんじゃないか? それか、図書室にいるかだろ」
﹁まだずっと本読んでるの? 強士くん」
﹁うん。授業中も読んでるよ。あいかわらず不真面目だ」
美以子は笑った。その顔を不思議そうに実穂は見つめていた。﹃親友』の自分にだってあまりみせたことのない笑顔だったのだ。
周と強士は同じ高校に進学した。美以子は女子校に入ったので、それまでのように毎日顔を合わせるということはなくなった。彼らが描く図形は点の打たれた位置をすこしだけ離れさせたわけだ。ただ、あくまでも等間隔であり、その形が崩れることもなかった。月に何度かは三人で会い、それまでと同じように互いを必要な存在と感じあっていた。
だいたいにおいて周が連絡してきて三人は落ちあうことになった。強士と美以子は陸上用シューズを買いにいくのにつきあわされたり、大会の応援に行ったりした。美以子がコンクールに出るときには周と強士は励ましに行き、隣の席に座って演奏を聴いた。強士は真顔でいる時間をすこしは短縮でき、それくらいが彼におとずれた変化だったものの、周も美以子もそれを褒めてくれた。
﹁うん、だいぶマトモになってきたな」と周。
﹁そんな言い方じゃかわいそうよ。自然な笑顔になってきてるわ。強士くん、あとは回数がもっと増えるといいわね」
しかし、その美以子も実穂からはこう指摘された。
﹁ほら、美以子、顔がまた硬くなってるわよ。笑顔よ、笑顔。あんたみたいな美人って固まった顔してると怖いのよ。わかる?」
これじゃ、まるで私が強士くんに言ってるのと同じじゃない――と美以子は思ったものだ。だけど、確かにそうなのかもしれない。気をつけてないと私も表情が硬くなってるんだろう。
﹁ね、あんたはお嬢様なわけだし、美人でもあるんだから、すこしは打ち解けた感じを出さなきゃ駄目よ。いつも通りにしてると、お高くとまってるって思われちゃうんだからね。ま、ほんとはけっこうずぼらだし、いろんなことがよくわかってないみたいだけど。でも、人って見た目で判断するものじゃない。誤解されたくはないでしょ?」
実穂は言葉を選ぶということがなく、ずけずけと言ってくる。しかし、美以子にはそれが心地良くもあった。女友達っていいものなんだな、と素直に思えた。すくなくとも周や強士はこんなふうに言ってくれない。
﹁まあ、美人でいるってのも考えものね。ただでさえやっかまれたりされるわけじゃない。私はそこそこでよかったわ。そんな気苦労なんて要らないもの」
﹁そんな。実穂だって美人じゃない」
﹁実穂だって? ねえ、美以子、その言い方だと私も美人だけどあなたも美人よってことになっちゃうけど、それでいいの?」
﹁あ」
﹁あ、じゃないわよ。ほんと、あんたといると疲れちゃうわ。出来の悪い妹ができた気分よ」
そうまで言われると美以子もさすがにむくれた顔をした。ちょっとひどいんじゃない、と思いもした。しかし、実穂はその顔を見て大声で笑った。
﹁そう! そういう顔! 私が見たかったのはその表情よ! いつもそうしてればいいのよ! きっと人気者になれるわよ」
実穂は美以子だけでなく誰彼かまわずにずけずけとものを言って歩いていた。ただ、美以子の言ったように彼女も美人であり――まあ、愛嬌のある顔立ちであって、その表情をころころと変えながら楽しそうにしゃべるので皆から好かれていた。彼女といることで美以子は周囲に溶けこむことができた。なんだか周くんみたい、と思うこともあった。どこかしら似たところがあるのだろう。だから、私はこの子と一緒にいられるんだ。
周は高校に入ってからも変わらずに冗談を言い歩き、クラスの人気者になっていた。彼の通っていた高校は共学で、だからそれも変わらずに周はモテることになった。強士は周と同じクラスになったものの、彼のまわりにはいつも取り巻きみたいな連中がいたので以前ほどにはラブレターの仲介を頼まれなくなった。
三人で一緒にいるときも主に周がしゃべり、強士と美以子は聞き役になった。
﹁でさ、俺は言ったんだ。そんなの聞いてないって。そしたら、その先輩、急に怒りだしてさ。まわりが止めに入ってくれたからよかったけど、じゃなかったら殴られてたかもしれないな。だけど、普通そんなことで怒るか? だって、靴紐くらいのことだぜ」
﹁そうよね」
美以子は耳に髪をかけた。彼らは土手の上を歩いていた。
﹁だろ? なんで靴紐の色まで指定されなきゃならないんだよ。一年はピンクって決まってるんだってさ。でも、それなら先に言ってくれって話だよ。ほら、俺がこの前買ったシューズ、あれにピンクの靴紐はないだろ? ま、しょうがないからピンクの買ったけどさ、えらくダサいんだ。あんなの履きたかないよ」
美以子は笑った。川は穏やかに流れていた。雲が幾つか浮かび、川面にはそれが映っていた。
﹁指定されてるのは靴紐の方だけなの?」
﹁そうなんだよ。それだっておかしいだろ?」
周は頭を振り、忌々しそうに溜息をついた。
﹁な、強士、お前もおかしいって思うだろ?」
﹁まあな」
強士はそうとだけこたえた。美以子は吹き出してしまった。
﹁それだけ? 他になにかご意見はないの?」
強士は立ちどまって頭を掻いた。顔を歪ませてもいた。笑おうとして、うまくいかなかったのだ。
﹁だけど、そういうもんだろ。くだらないことを強制することで自分たちが上だってのを示そうとしてんだよ。他に示すことがないからそうしてるんだ。俺ならそう考えるようにしてダサい靴紐を使いつづける。二年になっても三年になってもね」
﹁なるほど」
﹁そうすりゃ、そんな馬鹿なことを言う奴もいなくなるんじゃないか? 誰かがそうやってりゃ、そもそもそんな馬鹿げたことにはなってなかったんだろうしね」
﹁うん、確かに。そうかもな」
周は細かくうなずいていた。美以子は二人を交互に見ておかしくなった。言葉数の多い周くんと無口な強士くん。だけど、過剰な部分と過少なところがうまく溶けあっている。
しばらく歩くと周はまた違う話をはじめた。購買部のおばちゃんが厚化粧すぎて笑えるという話だ。﹁口紅の色がすごいんだ。な、強士。それに顔を白く塗りすぎてるんだろうな、唇だけが浮き上がって見えるんだ。まるで3Dみたいなんだよ。あまりにも笑えるから、パンを買うのにも一苦労なんだ。腹が痛くなっちゃうんだよな」などと言う。周がしゃべっているあいだ美以子は彼を見て、言葉が途切れると強士を見た。毎日顔を合わせていた頃と比べると二人ともに大人っぽくなっていた。周はますます背が高くなり、程良く筋肉のついた引き締まった身体つきが服の上からでもわかった。強士も幾分身長が伸びたようだ。顔からは子供っぽさが抜けていて、もとからそうではあったけど頬の辺りは無駄な肉などまったくなく削ぎ落とされたようになっていた。目をよく細めているので真顔でいられると怖いどころか凄味があるようにもみえた。ああ、この二人もずいぶん大人の男の人になってきたんだな――と美以子は思った。でも、その美以子も大人の女性らしくなっていた。周も強士も会うたびにそれを感じていた。強士はそれで口数がさらに少なくなり、周はしゃべりすぎてしまうのだ。
夏休みの間、彼らは頻繁に会っていた。映画を観に行ったり、プールに行ったりした。
﹁ね、将来なにになりたいとかあるの?」
美以子はプールサイドでそう訊いた。強士と美以子はタオルを肩にかけ、周は水の中から顔だけ出していた。
﹁うーん」
周は難しそうな表情になった。
﹁美以子は?」
﹁私? 私はできるなら音楽に関係する仕事がいいかな。ほんとにできるならピアニストになりたいけど。強士くんは?」
﹁俺は引退しちゃったからな」
﹁は?」と周。
﹁楽器だよ。もうずっと吹いてない」
﹁ああ、そういうことか。ジジイになったって言ってるのかと思った」
強士は素早く手を動かし、周を叩こうとした。しかし、すんでのところで周は水に潜った。美以子は二人を見て笑っていた。こういうとこはまだ子供っぽいのね――と思ったのだ。それから、強士を眩しそうに見た。
﹁強士くんはいつも本ばかり読んでるから、小説家にでもなりたいのかと思ってたわ」
﹁あれは読むもので書くものじゃない」
﹁そういうのって書いたことがある人の言葉じゃない? なんか書こうとしたことあるの?」
﹁いや、ぜんぜん。でも、書きたいとは思えない」
﹁じゃ、なにになるつもり?」
﹁わからないね。あまりそういうの考えてないんだ」
﹁じゃあ、周くんは?」
﹁俺は、」
周は唇を歪めさせた。父親と兄の顔がふっと浮かんできたからだ。
﹁俺もまだちゃんと考えてないな」
そう言ってから周は後ろ暗い気分になった。美以子は腕を組んで頬を膨らませた。
﹁私が言っただけじゃない。なんだか損した気分だわ」
周は家にいる間ずっと声を出さない。無口な人間と思われているのではないかと考え、少しおかしく感じることもあった。しかし、あくまでも少しだ。一瞬だけ顔がゆるみ、すぐ真顔になった。強士みたいな顔をしてるんだろうなと思い、弱く溜息をついた。
彼の通っている高校は父親が望んでいたのとはおよそかけ離れたものだった。進学校に入れなかった者が集まる高校であり、周はその中では優秀な成績だったものの父親が満足するはずないというのを知っていた。周はきちんと勉強していたし塾にも通っていた。自分としては努力してるつもりだった。しかし、兄のようにはなれなかった。兄にたいしても褒めることのなかった父親が自分を出来の悪い人間と考えているのもわかっていた。
父親の帰りが遅いとき、周は母親と二人で夕食をとった。兄は志望の大学に入り、ひとり暮らしをはじめていた。それによって彼の家はさらに音を少なくした。周はそのことに怒りを感じることがあった。どうして腹がたつのかは深く考えなかった。まあ、あえて言葉にすれば裏切られたと感じていたのだろう。母親はいつもより幾分くつろいだ様子でゆっくりと食べた。普段はつけていないテレビも喧しい音を洩らしていた。周は母親の方は見ずにテレビを眺めていた。
﹁周ちゃん、あなた、いつまで部活つづけるつもりなの?」
眠たそうな声で母親はそう訊いてきた。額に力が入っていくのを周は感じた。でも、それをやめさせて母親を見た。
﹁どういう意味?」
母親は口にした言葉以上の意味を持っていないような表情をしていた。人形みたいだ、と周は思った。いつも同じ顔を用意しているので、それが凝り固まったようになっているのだ。
﹁意味ってほどのことはないけど、お兄ちゃんだってやめたじゃない」
﹁だから?」
そうとだけ周は言った。大声をあげたい気分になっていたけれど彼はそんなことをしない。家にいるときの周は母親同様に人形のようなものなのだ。
﹁私は周ちゃんが頑張ってるのわかってるわよ。でも、お兄ちゃんみたいにいい大学に入りたいなら、もっと頑張らなくちゃいけないでしょ?」
周は顔をそむけた。とくに見たくもないけれどテレビを眺めた。
﹁父さんにそう言えって言われたの?」
そう口にしてから、周は後悔した。テレビの中では誰かが面白いことでもしたのだろう、ひときわ喧しくなり、そしてすぐ静かになった。
美以子の両親はあいかわらず忙しかった。高校に入った頃にはともすると朝食も一人で食べることがあった。会社になにかよからぬことが起こって、その後始末に追われていたのだ。
﹁ごめんね、美以子」と母親は言った。
﹁これが落ち着いたら旅行にでも行こうな」と父親。
なにがあったのか美以子は知らなかった。訊くこともなければ、両親が仕事の話をしてこないのもわかっていた。美以子の方には相談したいことがあったはずなのだけど、忙しそうな両親の顔を見ていると後でいいと思ってしまった。言いたいことは積み重なっていき、古いものから傷み、腐り、崩れて、なにを相談したかったのかもわからなくなった。
夜になると美以子はピアノを弾いた。楽譜は整然としていて、まるで数式を見ているようだった。ひとつとして無駄なものはなく、必要とされるものだけが並んでいる。それらが組み合わさって美しい曲をかたちづくる。ピアノを弾いていると美以子は様々なことを忘れることができた。数式のような楽譜は、しかし、実際に奏でてみるとタッチの仕方だけでも表情を変えた。ひとつの音であってもまったく同じものでなかった。意味をあたえることで音はかたちを変える。前の音と連動し、次の音は規定される。それらが互いに絡みあって曲になる。ただ、そこに曖昧さはなかった。しっかりと揺るがないものであることに違いなかった。ピアノから指を引き去ると美以子は不安になった。静けさが不安を呼び起こすのだと彼女は思っていた。しかし、それだけでないことに気づきはじめていた。
朝早く起きたときに窓から射す弱く青の混じったような灰色の光を見るだけで、この頃の美以子は不安になった。その不安がどこからやってくるのか美以子は知らない。どういった不安なのかも理解していなかった。ただ不安になるのだ。あらゆるものに意味をつけ足していき、そのためにすべてが曖昧になっていく――そういう感じだった。。ピアノを弾いているときみたいにしっかりしたものを感じられなかった。聞こえもせず、見ることもできないのでわからないのだ。自分があたえた意味がいかなるものかも、それが他のものとどう連動し、全体をかたちづくっていくのかも彼女は知ることができない。それでも美以子は新たな意味をあたえつづけた。そうしていないと自分の方が曖昧な存在になっていく気がして、それも耐えられないことだったのだ。
シャワーを浴びているとき、美以子は自分の姿が鏡にぼんやりと映りこんでいるのを見た。皮膚に湯があたり、はじかれて流れていく様をだ。鏡からすこし離れ、美以子は全身が映るようにしてみた。腕も脚もすらりと伸び、均整がとれている。自分の身体ながら美しいと思った。白い肌のすぐ内側には沈潜した赤が薄く見えた。それが全体を覆っている。美以子は胸を両脇から押さえつけた。ふくよかな肉の存在感は大人の女になりつつあるのを示していた。そのままで彼女は周と強士のことを考えた。服の上からでもわかる周の引き締まった身体つき。強士の研ぎ澄まされたような顔。美以子は自分の肉体が彼らを求めているように思えた。シャワーからは湯がほとばしり、その音は土砂降りの雨のように浴室に満ちていた。それを聞いていると、激しく落ち着かない気分になった。まるで肉体そのものになってしまったかのように思えた。心も理性も無くした肉体だけの存在にだ。
きっと私はあの二人を求めているんだ――美以子はそう感じた。考えることなんてなにもない。身体が求めるままに行動できれば簡単なことなんだ。そう、これ以上確かなものなどないだろう。だって、肉体が求めているのだから。
美以子は手をおろし、普段は触れることのない場所に指を這わせた。そこは熱くなっていた。シャワーの音を耳にしながら美以子は自分の姿を見つめていた。白い肌に隠された内側はすべてが赤くなっているようだった。全身を駆け巡るように血が流れているのだ。心のどこかには押しとどめようとする働きが鈍く残っていた。それでも美以子は指を動かしつづけた。そして、そこに指を入れたとき、確かなものを得たように感じた。彼女は身体を前へ折り、浴室の壁に手をついた。湯気で曇った鏡には自分の目が映った。それを見たときに美以子は痙攣した。肉体は内側から突き上げるような快感に震えた。ただ、美以子は悲しくなった。気づかぬうちに涙が溢れ、そうと感じた瞬間に唇を強く噛んで泣いた。どうして出てきた涙なのかはわからなかった。
◇
強士は久しぶりに美以子へラブレターを渡した。送り主は松浦雄一という中学時代の先輩で、強士たちが一年生だったときの部長だった。彼は卒業間際にも美以子に告白したことがあった。それは強士も知らないことであり、美以子はその場で断っていた。そのときの美以子はまだ恋がどういうものなのか知らなかった。周や強士のことは好きだったけれど、その感情が恋と同じなのかすら理解できていなかった。それに、告白されたときにはなんとなくの怖さも感じた。今いる場所から大きく引き離されてしまうといった怖れだ。他の者からの誘いには感じなかったものだから、その程度には彼の告白は影響力を持っていたといえるのかもしれない。
ラブレターを預かったとき、強士は嫌な気分になった。それまで何度となく同じようなことを繰り返していたものの、彼には美以子が断るだろうという確信があった。しかし、このときに限ってはそのように思えなかった。できることならこんなもの破り捨てたい――強士はそう考えたものだった。
﹁またなの?」
美以子はそう言って封筒を受け取ろうとしなかった。試験が近かったので、その日は朝から図書館へ行くことになっていた。三人でという話だったけど、周と強士が待ちあわせ場所に着いたときには四人目が美以子の隣に立っていた。
﹁またってなに?」
実穂は振り返って二人を見た。彼らは土手の上を歩いていた。周と実穂が先に行き、美以子と強士はあとについていった。強士はいつ渡そうか悩んでいた。三人だけであれば顔を合わせたときにと考えていたけれど、思わぬ人物がいたので先送りにしていたのだ。歩きながら彼は思い悩み、でも、すぐに馬鹿らしくなった。それに、こんなものをずっと持っていたくもなかった。
﹁え?」
実穂は笑いながら振り向いたものの、見てはならぬものを見てしまったというような顔をして手を口に押しあてた。それから、ニヤつきだした。
﹁あらあら」と実穂は言った。周は怪訝そうな表情をさせていた。
﹁あらあらって、なによ」
美以子は急いで封筒を受け取り、なにも見ずにバッグに差しこんだ。
﹁だって、それってラブレターでしょ? 強士くんって意外に大胆。私たちがこうしてここにいるってのに。ああ、我慢できなくなっちゃったの? せっかちなのね、強士くん。ほら、美以子、ここで読んであげなさいよ。で、私も好きよって言ってあげなさい」
﹁そんなんじゃないよ」
強士は笑いもせずにそう言った。目は周の方へ向けていた。周は二人の雰囲気を見てどういうことかわかったようだった。顔をすこし歪ませるようにして先へ行った。
実穂と強士はそれまでに何度か顔を合わせていた。はじめて強士と会ったとき、実穂は周のときと違って﹁美以子の彼氏?」とも﹁格好いいじゃない」とも言わなかった。強士も軽く頭を下げたくらいで紹介以上の自己アピールをしなかった。はじめのうち実穂は﹁この人は私を嫌ってるのかしら?」と思いもしたけれど、ただ単に無愛想な人間なのだと気づいた。しかし、不思議と嫌な感じはしない。この三人を見ていると、どうして仲がいいのかもなんとなくわかる気がした。でこぼこしてるものの、それがうまい具合に重なりあい融合している。
実穂は周が大のお気に入りで、簡単にいえば好きだった。ただ、周が好きなのは美以子だと明らかにわかっていたし、強士が同じ感情を持っているのもすぐにわかった。だから、美以子が考えているのよりも強く、実穂は美以子のことを﹁ずるい」と思った。自分を愛してくれる二人を従えてお姫様気取りになってるんじゃない? とも思った。しかし、半年以上つきあっているうちに、この子はそういう他人の思惑とかに鈍感なだけなんじゃないかと思えてきた。憎らしく思える反面、美以子のそういう部分に危うさのようなものを感じた。放っておいたらこの子はどんなふうになってしまうんだろう――と思いもした。
とはいえ、こうして三人が仲良さそうにしていて、彼ら以外には理解できないものを共有しているのを見せられると腹がたった。周くんは格好いいから別にしてと思い、だから、怒りの矛先は美以子と強士に向かった。ある意味、お似合いの二人――実穂は強士と美以子のことをそう見ていた。真顔の二人組。だから、仲良くしてりゃいいのよ。そう考えて、実穂は周のあとを追った。
﹁なんだか懐かしい感じがする。こういうのって中学のときにもあったじゃない。強士くんが手紙を頼まれるのって」
美以子は姿勢良く歩いていた。
﹁実穂には言わないでよ、私がいま言ったこと。なに言われるかわからないから」
﹁誰からのか見たら、もっと懐かしく思うよ」
﹁え? どういう意味?」
﹁見ればわかるよ」
強士と美以子はゆっくり歩いた。周の背中は小さくみえた。しかし、ほどなく調子を取り戻したようだった。身振り手振りもまじえて話しはじめた。実穂の笑い声が聞こえてきた。
﹁あの二人、仲がいいわね」
美以子は髪を耳にかけながらそう言った。
﹁性格が似てるのよ。二人とも物怖じしないし、誰とでも仲良くなれちゃうの」
﹁確かにな」
土手沿いには桜が植えられていた。葉は色を変え、時折つっと落ちてきた。空は高くなっていて、煙みたいな雲が長く、青い地を見えにくくするためのようにたなびいていた。
﹁実穂によく言われるの。表情が硬いって。笑顔でいなさいってね。私が強士くんに言ってたのと同じなの」
強士は薄く笑い、美以子の横顔を見た。美以子はずっと前を向いていた。
﹁実穂は周くんのことが好きなのよ。私、わかるの」
目を細めて強士は先を見つめた。実穂は腹を抱え、顎を反らして笑っていた。
﹁でも、周は美以子のことが好きなんだぜ」
美以子は立ちどまり、正面から強士を見た。
﹁どうしてそんなことを言うの?」
﹁どうして?」
強士はすこし怯んだ。美以子の目つきはそれまでに見たことのないものだった。睨んでいるのではない。しかし、どこかに角のあるような目をしていた。近くにありながら、遙か遠い場所を思わせるものだった。
﹁だって、事実だろ」
強士はそう言った。自分の声とは思えないくらいそれは歪んでいた。
﹁事実?」
﹁ああ、事実だ」
美以子はうつむいた。頭の中はすうっと透明になっていった。﹃事実』という言葉は自分の中にある曖昧さを揺さぶるものに思えた。強士の顔を覗き見ながら美以子は立ちつくしていた。そうしていると身体の奥底から血が溢れてくるように感じられた。あなたはどうなの? と言いたくなった。強士くん、あなたはどう思ってるの? しかし、そんなことが訊けないのはわかっていたし、言われたらどうなるのか想像もつかなかった。美以子の中には無軌道に動く線が描かれた。それは認識している物事の上へ意味のない図形を書き足していった。
うつむいたままの美以子を強士は見つめていた。幾つもの言葉が彼の中には生まれた。そのいずれかを口にしたいと激しく思った。ただ、それはこれまでにも経験してきたことだった。彼はたくさんの言葉を抱えたままずっと過ごしてきたのだ。どんなことだって言える――強士はそう思った。美以子の望み通りのことではないかもしれない。でも、伝えるべき言葉を俺は持っている。
風が土手を吹き抜けていった。かろうじて枝についていた葉はばらばらと落ちた。美以子の髪は流された。風は彼らが歩いてきた道を逆戻りするかのように吹き、突然にやんだ。強士は口をひらきかけた。その瞬間に美以子がふっと顔をあげた。強士はすべての言葉をのみこんだ。美以子の瞳には色がなかった。光が集まり、それが瞳にあるべき黒を見えにくくしたのかもしれない。しかし、いずれにしても見たことのない目つきであるのは確かだった。さっきのとも違う。美以子にはなにも見えていないのかもしれない――強士はそう思った。目の前にいる俺のことも見えていないんだ。
﹁ねえ! なにしてんの! 愛の告白?」
実穂がそう叫んだ。二人は驚いたように道の先を見た。実穂は脚を大きくひらき、腰に手をあてていた。
﹁早く来ないとおいてっちゃうわよ!」
周はトートバッグの紐を握りしめていた。どんな表情を浮かべているかは遠いからわからない。強士はそっと美以子の横顔を覗いた。瞳には色が戻っていた。美以子は足を前へ出した。そうして、二人はなにも言わずに歩きはじめた。
◇
高い窓が立ち並ぶ部屋には張りのある音が鐘のように鳴り響き、そのすぐ後に辺りの静けさを崩さない程度の同じ旋律が繰り返された。大きなコンクールで美以子は﹃木枯らし』を弾き、予選、准予選ともに好成績で通過していた。彼女は学校から帰るとすぐに練習をはじめた。
低い音がひとつだけあらわれると、それからは激しく音が溢れた。右手が叩く六連符はゆるやかな下降線をたどり、また戻りもし、果てなくつづくかのようだった。美以子は鍵盤に覆い被さるようにしていた。姿勢を正さなくてはと考えていたものの、曲に没頭しているとそれは難しかった。右指はもつれ、左指とかみ合わなかった。なにかが弾けたかのように曲は途中で切れ、高い音をひとつ震わせた。額には汗が浮き上がっていた。深く息を吐き、美以子は楽譜を見つめた。自分が奏でていた音は耳の奥にまだ残っていた。それは土手を吹き抜けていった風を思い起こさせた。葉を落とす風だ。
松浦先輩からのラブレターは机の上に置かれたままだった。美以子は何度もそれを読んだ。周や強士にたいする感情がほんとうのところどういうものなのか考えることもあった。ずっとそうしていると顔から表情がなくなっていくのがわかった。かつてはそうじゃなかった。周や強士は別の意味をあたえることなくそのままの存在として自分の中にいた。でも、今は違う。私にはしっかりしたものが必要なんだ――美以子はそう思った。
ピアノから離れ、美以子は窓から外を見た。ガラスには強張った顔が映っていた。実穂が言うように、これじゃお高くとまってるって思われちゃうかも。私はそんなふうにしていないのに。美以子は口角を上げ、目許をゆるませてみた。しかし、自然な笑顔にはならなかった。まるでお人形みたい。みんなに愛されるため、誰にも迷惑をかけないためにずっと笑顔でいるお人形。庭にも弱く風が吹いていた。木々は揺れ、その影もガラスに映っていた。美以子は鼻がつくくらいガラスに顔を近づけさせた。自分の顔は多重に見えた。つくった笑顔の奥に幾つもの表情があるように思えた。寂しさ、不安、怖れ、そういったものが笑顔を押し流し、硬く無表情な自分にしてるみたいだ。
美以子はもう一度﹃木枯らし』を弾いた。姿勢を正し、自らの内にある音と同一になるよう心がけた。あの道を通り抜けていった風、青い空に薄くかかった雲、赤く変色した葉、強士くんの目、実穂の声、周くんの背中、そしてラブレター。最後の音が部屋に響くと、美以子は顎を大きく反らした。きっと今の自分はちゃんと笑えてるはず――そう思った。
﹁ね、あんた大丈夫?」
実穂がそう言ってきた。
﹁え? 大丈夫よ」
美以子は笑顔をつくってみせた。しかし、すぐに表情は乏しくなった。実穂はわざとらしく顔を覗き見た。ここのところ美以子はなんだかぼうっとしてる。まあ、もとから幾分ぼうっとしたとこのある子だったけど、さらにそうなった――実穂はそう思っていた。いつからかと考えると思いあたることがあった。あの手紙を渡された後からだ。
﹁あんた、なにか隠してるでしょう」
顔を覗きこみながら実穂はそう言った。
﹁私にはわかるわ。あんたはなにか隠してるし、悩んでる。原因だってわかるわ。顔を見てればね」
﹁なに言ってるのよ」
美以子は笑いだしてしまった。今度は心から笑えた。まるで占い師みたいだと思ったのだ。ただ、実穂は真剣そうな表情でこう言ってきた。
﹁それは恋煩いの顔よ」
﹁恋煩い?」
二人は電車に乗っていた。混んではいないけど席は全部埋まっていて、彼女たちはドアの近くに立っていた。美以子はガラスにぼんやりと浮かぶ顔を見た。そして、恋煩いしてる顔――と思った。だけど、誰に?
﹁ほら、ちょっと前にラブレターもらってたじゃない。強士くんが持ってきたの。私、周くんに聴いちゃったんだけど、中学の頃からよくそういうのあったんだって?」
声はきちんと聞こえていた。しかし、美以子は自分の顔を見ているだけだった。
﹁ねえ、聴いてる?」
﹁え? 聴いてるわ」
﹁その手紙くれた人のこと気になってるんじゃない? 違う?」
美以子は首を曲げ、実穂を見つめた。でも、自分の表情が気になっていた。私はどんな顔をしているのだろう?
﹁わからないわ」と美以子はこたえた。実際にわからなくなっていた。感情がどこへ向き、なにを求めているかわからない。
﹁で、どんな人なの? 美人の美以子ちゃんをそこまで思い詰めさせるお人ってのは」
﹁そんなんじゃないわよ」
美以子はそう言ったけど、誰からのものか教えた。
﹁ふうん」とだけ実穂は言った。
電車は駅に着き、彼女たちは他の乗客に押されるようにして降りた。離ればなれになり、互いを見つけられなかった。実穂は周囲を見渡した。美以子はぼうっとした表情で行き交う人々をただ眺めてるみたいだった。もう、しょうがないわね――と実穂は思った。ほんと手のかかる子だわ。
﹁さっきの話だけど、」
美以子の腕をつかみ、実穂は歩きだした。
﹁私がよく聴いてあげるからちょっとだけつきあいなさいよ」
﹁だけど、私――」
﹁ピアノの練習があるっていうんでしょ? でも、ちょっとだけだから」
ファストフード店に入り、二人は窓際の席に座った。実穂はいろいろと訊いてきては﹁うんうん」とか﹁そうなの」と言った。美以子はゆっくりしゃべった。実穂も整理するのに少しばかり時間をかけた。そして、松浦先輩というのはこの子にとって特別な存在になる可能性を持っている――という結論を得た。あの二人のことを話すときとは明らかに違うトーンが含まれてるように思えたのだ。
﹁つまり、あんたもその先輩が好きっていうか、まあ、いい人だなとは思ってたわけでしょ? すくなくとも悪い印象じゃなかったってことよね?」
﹁うん。まあ、そうだけど」
﹁で、中学んときに告白されたってわけね。あんたはお断りしたんだけど、ええと、二年以上経ってからまたラブレター寄越してきたんでしょ? それって相当のもんじゃない。あんたのことが忘れられないってことだもの」
そこでも美以子はガラスに映る顔を見ていた。透きとおり滲んだ顔。その向こう側にはロータリーをまわる車のライトが見えた。
﹁難しく考えすぎなのよ、あんたは」
実穂はそう言ってきた。
﹁もっと楽に考えられないの? 別に結婚してくれって言われてるんじゃないんだし」
﹁そうだけど」
﹁つきあっちゃえばいいじゃない。そこまで好きって言ってくれる人、そんなにいないわよ」
﹁でも、」
﹁ほら、また﹃でも』って言う。あんたは悩んでるんでしょ? それは、その先輩が気になってるってことよね? まったく気にならない人なら悩んだりしないはずだもの」
車のライトが窓を照らし、浮かんでいた顔は見えなくなった。美以子はその瞬間に身体から力が抜けていくのを感じた。しかし、ライトは消え、ふたたび強張った顔をぼんやりと浮かびあがらせた。
﹁私、わかってるわよ」
実穂はガラスに映る美以子の目を見ていた。その声はそれまでと違っていた。
﹁え?」
﹁あんたは周くんも強士くんも好きなんでしょ? あの二人だってそう。あんたのこと好きなのよ。で、あんたはそういうのに甘えてるの」
美以子もガラスに映る実穂を見た。そらすことはできなかった。
﹁二人からちやほやされていい気になってるのよ、あんたは。でもね、そういうのってあの二人にもよくないわ。ね、こんなこと言ってあげられるのは私だけよ」
実穂は軽く腕を叩き、自分の方へ顔を向けさせた。笑顔ではあったけど、その表情は多重にみえた。幾つもの意味が重なった顔つきだ。
﹁あの二人が好きなら、どっちかに決めちゃいなさいよ」
そう言ったときの表情はまた違う意味を感じさせた。ほんとうに言いたいことを隠しているのはわかった。だけど、どうすることもできない。こういうのって前にもあった――美以子はそう思った。いや、ほとんどいつもそうだ。誰の言葉にもその裏には違う意味が含まれている。
﹁でも、そうできないんでしょ?」
実穂は腕をつかんできた。
﹁私にはそれもわかってるわ。あんたは二人のうちどっちかを選ぶなんてできないの。でもね、そういうのってひどい話よ。あんたがそういう態度してると、みんなが迷惑するわ」
え? と美以子は思った。みんなが迷惑する? 美以子はどういう表情をしたらいいかわからなくなった。実穂は一度その目を強く見てから大声で笑いだした。
﹁冗談よ。ほんと美以子は難しく考えすぎ。ま、よく考えればいいんじゃない? その先輩のことも、周くんや強士くんのことも。いつだって私は相談に乗るわよ」
実穂はつかんでいた腕をおおげさに振った。いつも彼女は無遠慮なことを言った後でこうしてくる。ただ、腕をつかむ力はいつもより強く感じられた。美以子は目をそらした。ガラスには滲んで透きとおった顔がふたつ並んでいた。
乗り換えた電車は空いていた。ひとつの車両に五、六人しかいなく、すべての乗客がぽつんぽつんと間隔をおいて座っていた。美以子はシートに座ると姿勢を正した。外は暗くなっていて、向かいの車窓にはやはり滲んだ自分が映っていた。実穂の声はまだ耳の奥にとどまっていた。美以子は目をつむり、そっと溜息をついた。
﹁あんたはそういうのに甘えてる」
――たぶん、そうなんだろう。私はあの二人に甘えてる。
﹁二人からちやほやされて、いい気になってる」
――それもあたってる。ずっと私はそうだったんだ。
﹁あんたがそういう態度してると、みんなが迷惑するわ」
美以子は胸に手をあて、呼吸を整えた。息が詰まるような、あるいは必要以上に吸いこみ過ぎてしまったような感じだった。苦しい、助けて――美以子は周と強士の顔を思い浮かべた。だけど、いつまでもこうしていてはいけないんだ。私はもっとしっかりしなければならない。人からあたえられるのを期待してはいけないんだ。
駅に着きドアが開くと、冷たい風が美以子を包んだ。長い髪はすこしだけふわりと流された。電車は彼女の横を走り去っていった。階段に足をかけた美以子はなにげなく振り返った。人気のないホームは静かで、ずっと奥まで平面がつづいているのが見えるだけだった。美以子は目を細めた。首を動かし、周囲を見渡した。どこかからギチギチギチという音が聞こえてきたように思えたのだ。手摺りを握りしめ、美以子は首を動かしつづけた。あの音はなんだろう? たまに聞こえてくる音。なにかを潰すような、そうでなかったら重たいものを無理に引っ張ってるような音に思える。貨物列車がすごい勢いで走り去っていき、巻きあがった風が顔にあたった。その後はまた静かになった。とくに変わったことなどない風景があるだけだった。しかし、美以子はなにかを怖れた。胸に手をあて、駆けるように階段をのぼっていった。
◇
美以子が子供の頃に通っていたピアノ教室は年末に小さなホールを貸し切って発表会をしていた。彼女はもうその教室をやめていたけれど、コンクールで入賞したこともあって先生からOGとして二曲ほど弾いて欲しいと頼まれた。ひとつはコンクールで演奏した﹃木枯らし』に決まっていた。もうひとつを美以子は﹃亡き王女のためのパヴァーヌ』にした。
強士と周はそれを聴きにいき、いつものように三人で演奏前に顔を合わせた。美以子は紫がかったブルーのドレスを着ていて、はにかんだ笑顔をみせていた。薄く化粧もしているせいか、息をのむほどに彼女は美しかった。三人はバックステージに通じる階段の途中で話していた。言葉が途切れたとき、たどたどしく弾かれる﹃トルコ行進曲』が洩れ聞こえてきた。
﹁かわいい演奏って言えばいいのかな?」
周はホールの方へ顎を向けてそう言った。
﹁私も小さい頃はこうだったもの。でも、きちんと弾けてる。偉いわ」
﹁じゃあ、この子も美以子くらい頑張ればコンクールで入賞できるな」
﹁やめてよ。私は三位だったのよ。もっと頑張ってればよかったって思ってるんだから」
強士へ顔を向け、周は軽くうなずいてみせた。お前もなにか言えよ――ということだろう。
﹁でも、すごくよかったよ。美以子っぽい演奏だった。俺はそう思ったね」
﹁ほら、強士先生もこう言ってる。ま、俺はあまりピアノのこと知らないけど、コンクールのときも泣ける演奏だった。いや、マジで泣けたもん。美以子、今日も俺をたっぷり泣かせてくれよ」
美以子は笑った。ハンカチを出して目許をおさえた。
﹁もう、それもやめて。だけど、いつかはほんとうに周くんを泣かせてあげる。それくらいの演奏をしてみたいもの」
胸に手をあて、美以子は背筋を伸ばした。首を引き、息を整えもした。こういうふうに演奏するのって初めてだけど二人と話せてよかった――そう思っていた。やっぱり私には周くんと強士くんが必要なんだ。
﹁じゃ、そろそろ準備しなくちゃならないから」
美以子はスカートの長い裾をすこしたくし上げた。そのとき、遠くから声がした。
﹁ああ、いたいた。ごめーん、遅れちゃった」
三人は階段の下を見た。実穂は膝に手を置き、荒く息を吐いていた。
﹁まだだよね? もう終わっちゃったなんてことないよね?」
強士は立てた指を口にあてた。実穂は﹁あっ」という顔をして小声になった。
﹁そうだ、ごめん。ちょっと焦っちゃってて。強士くん、許して。そんなに怖い顔して怒らないでよぉ」
﹁とくに怖い顔はしてないよな。いつもの顔だ」
周はそう言って笑った。
﹁周くん、そんな大声で笑ったりしちゃ駄目よ。今日は演奏会なんだからね」
実穂も笑いながら周の肩を軽く叩くようにした。それから、美以子を見た。
﹁すっごく素敵なドレスじゃない。まさにお姫様だわ」
﹁そう?」
美以子は小さくこたえた。
﹁どうした?」と周が言った。﹁顔色が悪いぞ」
﹁え?」
窓からは太い樫の木が見えた。ずっと雨が降ってなかったせいか葉はくすんでいた。低いところを巡る太陽がその樫を照らし、余りを彼らに届かせていた。陽光はやわらかで、しかし、眩しかった。
﹁緊張してきたのよ、たぶん」
目を細めさせ、美以子はそう言った。胸に手をあてると息を深く吐いた。実穂は一歩だけ美以子に近づき、その顔を覗きこもうとした。しかし、美以子はうつむいてしまった。そうしてはいけないと思ってもどうにもできなかった。混じりあうべきでないものが自分たちの間に滴り、滲みながら広がっていく――そういうイメージを彼女は持った。
﹁大丈夫? ほんとに具合悪そうよ」
﹁大丈夫よ」
美以子は顔をあげ、すぐにこたえた。そう、私は大丈夫。なにも問題なんてない――と思いながらだ。その声はごく普通に出したつもりだった。しかし、実穂も周も強士もなぜか驚いたような顔をしていた。美以子には彼らがしている表情の意味がわからなかった。
﹁大丈夫よ」
もう一度そう言って、美以子は姿勢を正した。
﹁もう準備しなくちゃならないから」
階段をゆっくりのぼりながら美以子は短く息を吐いた。どのようにすれば普通に呼吸ができるのかもわからなくなっていた。視界は狭く、うまく歩くこともできなかった。それでも美以子は姿勢を崩すことなくドアまでたどり着いた。
﹁美以子、」強士が声をかけた。﹁楽にやれよ。美以子なら大丈夫だから」
﹁ありがとう」
美以子は首をすこしだけ曲げて、そうこたえた。しかし、その声は自分にしか聞こえないようなものだった。
﹁どうしちゃったの、あの子」
ドアが閉じられると実穂は腕を組み、唇を尖らせた。
﹁ずいぶんピリピリしてるじゃない。私が来る前からああだったの?」
強士と周は互いの顔を見てるだけでなにもこたえなかった。実穂はしばらく彼らを見つめ、それから弱々しく首を振った。美以子がはじめに﹁大丈夫よ」と言った声は激しく大きなもので、まるで実穂に心配されたのが気に入らないといった感じだった。すくなくとも実穂にはそう思えた。
﹁ね、ああいうのってちょっとひどくない? せっかく心配してあげたってのに」
実穂は周の顔を見つめながらそう言ってみた。だけど、周は口をすこし歪めさせただけだった。たぶん、この二人だって私と同じように思ったはず――実穂はそう考えていた。だって、驚いてたもの。それなのにそんなことは目に入らなかったようにしてる。
なんかこういうのも腹がたつ。これも三人だけの世界ってやつでしょ? 誰にも立ち入ってもらいたくないってこと? 強士くんが無愛想なのはいつも通りだけど、周くんだって似たような顔をしてる。実穂は二人を順に見た。きっと、あのお姫様の前では見たくないものは存在してないのと同じになるんだ。この二人もそうだし、あの子だってそう。まったく異常な関係だわ。
﹁ま、いいわ。緊張してるって言ってたものね。しょうがないから許してあげる」
周と強士はまた互いを見て、それからすぐに視線をはずした。これも無視するわけ? そう思い、実穂はうんざりした。強士は階段を降りはじめた。
﹁ちょっとぉ、」
実穂はその背中に向かって言った。
﹁なんなの? みんなして私を無視する気?」
﹁そうじゃないよ」
周も階段を降りだしていた。
﹁行こう。そろそろはじまるはずだ」
実穂は唇を尖らせたまま目を上へ向け、それからうなずいた。手をそっと伸ばし、周を見つめた。これくらいしてもらわないとバランスがとれない――そう考えていた。周は差しだされた手を見て、ふっと笑った。ゆっくり手を伸ばし、実穂を引き寄せた。
﹁ふふふ」
軽く笑いながら実穂はしっかりと周の手を握った。やわらかく繊細そうな手。男の人のじゃないみたい。幾分ごつごつしてるけど、それでもしなやかですべすべしてる。鳥が飛びたつくらいのほんの一瞬だけ頭には美以子の顔が浮かんだ。それは棘がささる程度の痛みを感じさせた。しかし、握った手の感覚はそんなのを麻痺させるのに充分なものだった。それに、――と実穂は思った。さっきの態度はいったいなんなの? 人が心配してあげたっていうのにほんとムカつく。もう、あの子なんかなんとか先輩とつきあっちゃえばいいのよ。そう考えながら、実穂はさらに強く周の手を握りしめた。
強士は席につき、細めた目を前へ向けていた。舞台の上には白いシャツにサスペンダーをした小太りの少年があらわれ、﹃月の光』を弾きはじめた。やけに姿勢良く座ってるその姿は自分がデブであることに気づけていないかのようだった。強士は高い天井を見あげた。そこには幾つものライトがぶら下がっていた。躓きつつ進むようなピアノの音を聴きながら、強士は﹁よくやるよ」と思った。この頃から彼の心は急速に冷めはじめていた。なにかに熱中している人間を見ると空々しい気分になった。なんとなく自らをあらゆることの部外者だと考えるようにもなっていた。すべては外側にあり、自分はそれをただ見てる傍観者だというようにだ。太った少年は最後から三つ目の音を間違え、しかし、なんとか弾き終えた。周と実穂が隣の席に座ったのはそのときだった。
つぎに出てきたのは深紅のドレスを着た小柄な女の子で、彼女はバッハの﹃インベンション 第二番』を丁寧に弾いた。強士は首を曲げ、周の横顔を見た。美以子のことを話したく思ったけれど、どう言ったらいいかわからなかった。周はずっと前を向いたままだった。見られていることに気づいてはいたのだろう。ただ、強士を見ることはなかった。実穂はきょろきょろと辺りを見まわしていて、強士の視線にぶつかると口をあけて笑ってみせた。自分の身に起きた幸せな事件に満足していた実穂はさっきまでの怒りを忘れていた。もちろん強士にそんなことはわからない。口を動かし笑顔のようなものをつくると彼もふたたび前を見た。
深紅のドレスの女の子は深々と頭を下げ舞台をはけた。かわって丈の長いスカートに白いブラウス姿の中年女性があらわれ、手にした紙を読みはじめた。当ピアノ教室の出身者である斎藤美以子さんがコンクールで入賞したこと。今日はこれから特別にその演奏をお聴きいただけること。中年女性が言葉を切り、前を向くと拍手が巻き起こった。強士も周も実穂も手を叩いた。
﹁曲目は、」
拍手がおさまるのを待って中年女性はつづけた。
﹁コンクールで入賞した﹃木枯らし』、つぎに﹃亡き王女のためのパヴァーヌ』です」
美以子はぎこちなく頭を下げるとピアノの前に座った。息を深く吐き、つややかな鍵盤を見つめた。彼女の中にはたくさんの意味が折り重なるように存在していた。それらを繋ぐ線は拡散し、立体的に絡み、関連を曖昧にした。ホールは静かだった。美以子は不安になった。窓を通して射す青みがかった灰色の陽光、それを見るときに感じるのと同じ不安が覆っていった。顔から表情が滑り落ち、真顔になっていくのがわかった。美以子は譜面を見た。それ以外は目にしないようにした。
ただ、最初の音が出たとき――鍵盤を叩いたときに美以子は不安から脱け出せたような気がした。音をひとつでも出したら後はつづけるしかないのだ。前の音に連動して次の音がくる。自分があたえた意味は予期してなくても次の意味を規定する。ひとつだけ聴けば曖昧なものに思えるのだろう。しかし、全体は違う。しっかりしたもののはずだ。それを信じていれば大丈夫。問題なんてない。目は譜面を這い、指は音を連ねていった。これは終わるまでつづくんだ――美以子はそう思った。しかし、終わる? と思った。なにが終わるっていうの?
気がつくと強士はかたく手を握りしめていた。﹃木枯らし』が終わり、拍手が湧き起こっているときも彼はずっとそのままでいた。そして、﹃亡き王女のためのパヴァーヌ』がはじまると目をつむった。左手が叩く低音は楔のように、あるいは右手が奏でるメロディに寄り添うように聴こえてきた。ホールの静けさは単調にも思えるこの曲にストーリーを認め、その先を知りたいといった興味によるものにも思えた。音の連なりとして聴いているのではなく、演奏者の内なるものを見たいという欲求があるように感じられた。
いや、――と強士は思った。それは俺自身のことだ。美以子の内側にあるすべてを知りたいと思ってるのは俺なんだ。ゆっくり目をあけると舞台の上には真剣な横顔があった。強士は呼吸が浅くなっていることに気づいた。手のひらに爪がくい込むくらい力が入っているのもわかった。そして、この瞬間のすべてを言葉にしてみたいという感情が自分の中にあるのを知った。ピアノの音、ホールの雰囲気、舞台を照らす明かりの具合、自分が感じていること、それらすべてを言葉にしてみたい。最後の音が余韻を残して薄く消え去っていくと、拍手がホールを満たした。強士は大きく目を見ひらき、明るく輝く舞台の上を見た。
鍵盤から指を離した美以子は長く細い息を吐いた。自分の中にあったものがあらかた放り出され、空っぽになったように感じていた。しかし、それは幸せなことだった。重なりあう意味や曖昧さもなくなったと思えたからだ。鳴りやまぬ拍手は高揚感をあたえてくれた。美以子は立ちあがり、頭を下げた。きっと私は笑えてるはず――そう思っていた。ただ、顔をあげ、周や強士、それに実穂の姿を見ると表情が抜け落ちた。どうしてかはわからないけれど、美以子はそのときにこう思った。
――私、松浦先輩とつきあってもいいかも。
₁
₂
₃
﹁ふうっ」
大きく息を吐きだすと美以子は背もたれに身体を押しあて、でたらめに鍵盤を叩いた。音はぐしゃっと崩れたように響き、じきに薄く消えていった。美以子は額に浮き出た汗を拭い、壁にかかる丸い時計を見あげた。もう七時になろうとしている。
﹁もう一回だけ」
姿勢を正し息を整えて、美以子は鍵盤を叩きはじめた。右の運指は滑らかで、ときおり左手が錐を突きたてるように低音を鳴らした。ピアノを弾いていると、それまでに経験したことが逆回りにあらわれてくるかのようだった。汗が噴き出てきて、滴となったそれは腕へと落ちかかった。ひとつ音を出すごとに抱えているものが綺麗になっていくのを感じていた。洗われていく――そう思った。連なった音は浄化してくれる。巧く弾きたいという気持ちは一瞬たりとも出てこなかった。経験を遡り、浄化されていくことが快感だった。ああ、この部分はまるで月の光がなにもない広野を照らしているみたい。美以子はそう感じた。月の白く冷たい様を思い浮かべていた。黒い空にくっきりと際をあらわしている月。私はいまその光を浴びている。
弾き終えたときには息があがっていることに気づいた。全力で逃げてきたかのように肩で息をしていたし、汗は頬をつたって流れていった。しかし、美以子は口をゆるませた。彼女は理解していたのだ。逃げたのではなく、克服したということを。
外は暗くなっていて、遠くにある街灯が円錐形の明かりを落としていた。彼女は家の窓から見ていた景色を思い出した。暗がりになにかが潜んでいるような気がして、子供の頃はひどく怖れたものだった。だけど、今の自分はそんな在りもしないものを怖れたりしない。ガラスに映る自分の姿にも不安を感じることはなかった。私はしっかりしたものを手に入れたんだ――そう思いながら美以子は適当に鍵盤をひとつ叩いた。音は高らかに静寂を裂いた。美以子は笑った。﹁大丈夫よ」とガラスにぼんやりと浮かぶ自分に言ってもみた。そう、私は大丈夫。なにも問題なんてない。すべては明らかで、しっかりしている。
あの発表会の直後に美以子は松浦先輩へ返事を書いた。二人は駅前の喫茶店で会い、長く話した。美以子は彼の口許だけを見ていた。それから、テーブルの上にあるもの――コーヒーカップや砂糖の入れられた容器を見て、窓の外を眺めた。冬の陽射しはすべてのものをやわらかくみせていた。白い桟に嵌められたガラスの先には濃い紫のビオラが風に花弁をあおられているのが見えた。根元の土は乾き、薄茶色をした歪な塊になっていた。
﹁だから、俺とつきあってくれないか?」
松浦先輩はそう言ってきた。
美以子は﹁はい」とこたえ、彼の目を見た。しっかりしたもの――と思い、その瞳がブレることないのを確認した。
周と実穂がつきあいはじめたのは、それから半年ほど後のことだった。ほどなくして彼は部活をやめた。いかなる心境の変化があったのか自分では考えないようにしていた。考えるまでもないことだったし、深刻さに陥りたくなかったのだ。だから彼はそれまで通りの快活で人見知りしない人間であろうとした。きっと、だいたいの者は周の変化に気づかなかっただろう。
﹁部活、やめちゃったんでしょ?」
高校二年の夏、三人で土手を歩いているときに美以子はそう言った。
﹁ああ、まあね」
美以子も強士も﹁どうして?」とは訊いてこない。桜の葉は鮮やかな緑色をしていた。強い陽射しがその葉を透かして地面へと届けられていた。
﹁勉強しなくちゃならないからな」
周はそう言った。彼は長い沈黙に耐えられない。音のない家から離れると、どうしても饒舌になってしまう。ただ、このときは言った後ですこし嫌な気分になった。言い訳をしてるように思えたのだ。
﹁将来なにになるか決めたの?」
﹁うーん」
周はうなった。しかし、笑顔をつくってこう言った。
﹁弁護士以外かな。ま、はじめっからそんなの無理だけど、とにかくそれ以外のものになるさ」
強士と美以子は彼の横顔を見ていた。周はずっと前を向き、気づかれぬ程度に弱く首を振った。
﹁強士くんは?」
﹁俺? 俺は、――まあ、そうだな、」
そうとまで言って、強士は恥ずかしそうにうつむいた。
﹁どうしたの? なにか将来のこと考えたの?」
﹁考えはしたけど、言わないことにする」
﹁なんだよ、それ。なんで言わないんだ?」
﹁そうよ、教えてくれてもいいじゃない」
強士は口をひらきかけ、しかし、すぐに閉じた。彼が考えていたのは発表会で美以子が弾いたピアノのこと――そのときに受け取ったものをすべて言葉にしてみたいということだった。強士は自然と頬がゆるむのを感じていた。馬鹿げてる――と思っていたのだ。こんなのは将来の夢なんかじゃない。書いたからってどうにかなるわけでもないのだ。ただ、自分がやりたいことといえば、それくらいしか思いつかなかった。
周と美以子は黙ったままで彼の顔を見つめていた。いつもの真顔が急にゆるみだし、ふたたび真顔になるというのを眺め、顔を見あわせた。それから、声をあげて笑った。
﹁なんだよ。どうした?」
強士はそう言った。しかし、彼も笑っていた。
﹁いや、」
周はおおげさに手を振った。
﹁あんまり真剣そうなのと、そう思ってたら急にニヤけだしたからさ。正直、笑える顔だった」
﹁ひどいわ、周くん」
美以子は周の背中を軽く叩いた。だけど、美以子も腹に手をあてて笑いつづけていた。
﹁強士、もう一回、もう一回だけでいいから、さっきの顔してくれよ」
﹁こうか?」
立ちどまった強士が表情をつくりこむと二人はさらに笑いだした。
﹁やめてよ、もう」
美以子は膝から崩れるようにして笑っていた。周は目尻に指をあてた。涙が出るくらいおかしかったのだ。
﹁やめてくれってよ」
強士はいつもの真顔に戻した。それでも二人は笑いつづけていた。
﹁そろそろ行くぞ。いつまでも俺の顔で笑ってるなよ」
三人は歩きだした。しばらくは無言で進んだ。
﹁いや、すごかったな」
周がぽつりと言った。
﹁こんなに笑ったのって久しぶりだわ」
強士は先に行っていたけれど、振り向いてこう言った。
﹁それならよかった。ま、なにかつらいことがあったら、この顔を思い出してくれ。ちょっとした悩みなら吹き飛ぶだろうからな」
美以子はふっと笑った。強士がしていた謎の微笑を思い出していたのだ。あのとき強士くんはなにを考えてたんだろう? 今はなにをしてるんだろう? ちゃんと自然に笑えてるかしら? 美以子は丸い時計を見た。そろそろ帰らなければならない。楽譜をバッグにしまい、彼女はもう一度外を眺めた。仄暗い中にうっすらと向かいの校舎が見えた。背の低い植えこみがあるのもわかった。月は出てるかな? 美以子は目を上向きにさせた。高い空に月が見えた。さっき想像していたのと似た白く冷たい月だ。綺麗な色――と美以子は思った。強士くんも周くんもこの月を見てるかな? 中学生のとき、花火大会の帰りに見たのとまるで一緒に思える。あのとき私は家の鍵をどこかに落としちゃって、二人が探してくれたんだっけ。いつでもあの二人は私を助けてくれた。﹁大丈夫だよ」と周くんは何度も言ってたな。﹁大丈夫だ、美以子。俺たちが絶対に探してやるから」って。強士くんは黙々と雑草をかきわけてた。まったく性格の違う二人。だけど、いつだって私には優しくしてくれた。
﹁もう帰らなきゃ」
気がつくと美以子は窓に手をあてていた。気分はよかった。自分の弾いた音が身体の中にまだ残ってるような感じがしていた。あのお月さまを見ながら帰ろう。きっと二人も見てると信じて。目線をさげると、円錐形の明かりの奥になにかが見えたように思えた。それはゆっくりと動く小さな黒い塊のようだった。美以子は窓から手を離し、ピアノ室全体に目をはしらせた。どこかからギチギチギチという音が聞こえた気がしたのだ。しかし、変わったところはなにもなかった。ただ静寂があるだけだった。
﹁気のせいね」
美以子は短く息を吐くことで緊張をほぐした。鍵盤をひとつ叩くと、音は余韻を残して消えていった。うすく笑って美以子はそこから出ようとした。ドアを開けたときになにげなく振り返って窓を見た。
あれ? と美以子は思った。
ぼんやりと映る顔は自分がしているはずのものと違っていた。しばらく彼女は滲んだ顔を見つめていた。
◇
美以子は音大に入り、ピアノを弾きつづけていた。周は高校の推薦枠で一流と呼ばれる大学に入り、強士は一度教えただけでは憶えてもらえないような大学に潜りこんだ。あいかわらず無口な強士は誰にも言ってなかったけれど、焦燥感を持つようになっていた。それは自らの内に籠もる言葉をあらわしたいというものであり、それがうまくできないというものだった。強士はあの発表会で受け取ったものを言葉に置き換えたいという思いを消し去ることができなかった。何冊ものノートに思いついたことを書き留め、それをまとめようと試みていた。あのとき聴いた音も、目にしたものも、感じたこともすべてそのまま文章にしようとだ。それは小説を書くというのではなかった。ましてや小説家になりたいなんて考えなかった。ただ純粋に自分が抱えたものをあらわしたかった。そして、できればそれを美以子に読んでもらいたかった。
これはラブレターみたいなものかもな――強士はそう思っていた。幾つものラブレターが自分の手から美以子や周に渡された。だけど、俺は一通たりとも書いたことがなかった。それを書きたいと思っているんだ。でも、美以子への思いだけではない。もっと様々なことが含まれてるはずだ。きっと、あのときの美以子の態度がそう思わせたんだろうと気づいてもいた。俺は知りたいんだ。どうしてああなったのか、そして、俺たちがなにをしてきたかを。
強士は高校生の頃からずっとそれを書きたく思っていた。しかし、手をつけると考えているのとまったく違うものになった。ストーリーは勝手に動きだし、意図していない文章があらわれた。彼はノートにたくさんの文字を書き連ね、どこかで間違ったと感じると、その上から線をぐちゃぐちゃに引いた
彼らはそれぞれ大学の近くでひとり暮らしをはじめていた。かたちづくられる図形は物理的な距離にあわせて広がったものになり、周囲にくっきりした点が打たれたこともあって、より複雑になっていた。ただ、美以子や強士がそうであったように周にもその影響は残っていた。
周と実穂は比較的近くにある大学に進み、だから毎日のように顔を合わせていた。以前にも増して周はモテていたので実穂はやきもきさせられたけれど、二人きりでいるときの彼は優しかったし、美以子の存在が遠くなったぶん不安定な要素は少なくなっていた。ただ、美以子がコンクールに出たり、大学で発表会があると周はそれを聴きに行く。もちろん強士も行くし、たまには実穂も行くことがあったけれど、そういうときの周を見るのはやはり嫌だった。どれだけこの人のことを知ったつもりになっても、私に見せていない部分がずっと残ってる。それを美以子にだけは見せている――そう感じることがあった。
﹁美以子、毎度のことだけど、今日も俺を泣かせてくれよ」
周は濃いブルーのジャケットにニットのネクタイをゆるめに結んでいた。美以子は彼を見あげ、微笑んだ。
﹁周くん、眼鏡するようになったんだ」
﹁あ? ああ。コンタクトもあるんだけどさ、今日はちょっとね」
﹁勉強しまくってんのよ。学生のうちに会計士の資格取るんだって言って」
実穂が横合いからそう言ってきた。
﹁実穂、来てくれてありがとう。久しぶりじゃない。どれくらいぶり?」
﹁うーん、半年くらいだっけ? あんたもほんと忙しそうだもんね。まったく、二人とも大学生活をもっと楽しもうって思わないの? こっちは勉強ばっかりで、あんたはピアノ漬けの日々でしょ?」
周は辺りを見渡していた。強士の姿が見あたらなかったのだ。
﹁めずらしいな、強士が遅れるなんて。来るんだろ?」
﹁来るとは言ってたけどね。強士くんもきっと忙しいんじゃない?」
美以子も首をゆっくりと動かしていた。それから時計を見た。もうそろそろ行かなくてはならないのだ。
﹁あいつ、場所がわからないんじゃないか? 昔から方向音痴だったもんな」
﹁そうかも。ふふ、いつだってどっか行っちゃってるのよね。方向音痴のくせに思いっきりがいいから、適当に動いちゃうのよ」
﹁ちょっとその辺見てくるよ。電話もしてみる。美以子はそろそろ行かなきゃならないんだろ?」
﹁うん、ありがとう」
周がいなくなると、実穂はじっくりと美以子の全身を見つめた。あいかわらずお綺麗なこと――と思いながらだ。
﹁元気そうじゃない。安心したわ」
﹁うん。実穂もね。高校の頃とまったく変わってないみたい」
﹁あたりまえでしょ。まだ一年も経ってないのよ。そんなに老けこんだりしないわ」
﹁嫌だ。そんな意味じゃない。だけど、化粧のせいかしら、すごく大人っぽくみえる」
実穂はなぜか落ち着かない気分になっていた。美以子は笑顔をみせていた。しかし、どこかが微妙におかしいのだ。もう一度その全体を見つめ、実穂は考えた。あのときに似てるんだ。高校一年の冬、この子が突然大声を出したときと。だけど、ピアノを弾く前で緊張してるだけなのかもしれない。周くんもそんなこと言ってたもの。
﹁どうしたの?」
美以子はそう言ってきた。
﹁え? ううん、なんでもないわ。どう? 彼とはうまくやってるの? 今日は会えると思ってたんだけど」
﹁来るはずなんだけどね」
美以子は時計を見た。それから首を伸ばし、入口の方を見た。実穂はちょっと寒気がした。美以子の顔は急に血が巡りだしたかのように明るくなった。振り向くと、周と強士がいた。
﹁やっぱり変なとこに行ってたみたいだ。ほら、強士、なにか言ってやれよ。美以子はもう行かなきゃならないんだ」
﹁悪い。逆の方に行ってたみたいだ。周に教えられてやっとたどり着けた」
﹁ううん」
美以子は目を大きくひらき、二人の顔を順に見た。
﹁強士くん、来てくれてありがとう。これできちんと弾ける気がしてきたわ」
実穂はすこし離れたところに行き、彼らが楽しそうにしゃべっているのを眺めていた。半ば以上無視されていることには腹もたたなかった。だって、周くんはもう私のものなんだからそんなのはどうだっていいの――と思うようにしていた。しかし、美以子のことは気になった。大丈夫なのかな、あの子。前と比べてもぼうっとしたとこがあるし、どこがというのはわからないけど少しだけ変な感じもする。ただ、こうしているときにはそう思えない。きっと、あの二人も気づいていないはず。それか、見ないようにしてるかだ。
そっと溜息をつき、実穂は首を振った。やっぱり異常な関係だわ、こういうの――と思った。
美以子はよく﹁大丈夫か?」と訊かれることがあった。その言葉はいつも不意打ちのように彼女の耳に入ってくる。松浦先輩もデートのたびにそう言ってきた。
﹁え?」
美以子は首を傾げた。
﹁なにが?」
彼は美以子の顔を見つめ、それから手を握ってきた。
﹁いや、大丈夫ならいいんだ」
二人はつきあいはじめてから三年経っていた。高校二年の夏に美以子は初めてのキスをし、大学に入ってほどなく彼を最初の男性として受け入れた。ただ、美以子はそれにうまく馴染めなかった。自分の肉体が彼を迎えいれることを拒絶してるようにすら思えた。それは不思議な感覚だった。気持ちとしては許してるはずなのに、身体がいうことをきかないのだ。
﹁俺が下手だからかな?」
彼がそう言ってくることもあった。しかし、そんなことはわかりようもない。
﹁大丈夫か?」
中に彼が入っているときもそう言われた。
﹁うん、大丈夫だから」
美以子は彼の背中に腕を絡め、身体の強張りをとろうとした。ピアノを弾くときのように無心になりたかった。しかし、それは難しかった。ぼんやりとなにかが浮かんでくる――そう感じることもあった。ガラスに映る姿のようにそれはあらわれる。だけど、見てはならない。きっと、それは私を間違った方へ導こうとするに違いない。私にはしっかりしたものが必要なんだ。
行為が終わるたびに美以子は情けないような気分になった。どうしてそんなふうに感じるのかはわからないし、考えようとしなかった。ただ、彼の顔を見ることはできなかった。
◇
強士は大学二年のときに、ひとつ年上の恋人ができた。彼女はヘビースモーカーで、ビールが大好きで、いつもなにかしらの本を読んでいた。古本屋のカートに詰めこまれているような大抵の人間に忘れられた小説を持っていて、それを何度となく読むのだ。一番のお気に入りはジェーン・オースティンの﹃高慢と偏見』下巻で、くさくさするときはそれを読むというのが彼女のストレス解消法になっていた。
二人は大学の近くにある︽switch》という飲み屋で知りあった。強士はよく一人でそこに行き、カウンターの端で本を読むか、ノートに向かっていた。彼女も一人でやってきては本を読みながら煙草をふかし、コロナビールを飲んでいた。幾度も彼らは顔を合わせていた。彼女は少年のように細身で胸もなく、短い髪はくせっ毛で、眼鏡をかけていた。たまに目があうということはあったものの強士は彼女に興味を持っていなかった。
その店はだいたいいつも静かだったけれど、大学のサークル連中が来ると急に騒がしくなった。彼女は集団が来るたびに席を替えることになった。店員と親しいらしく﹁私、あっちに行くから」と言っては本と煙草を持って移動した。強士の隣に座るということもあった。
﹁まったくうるさいったらないわ」
何度目かのときに彼女はそう言ってきた。強士は文庫本を片手にビールを飲んでいた。顔を向け、しかし、口は開かなかった。
﹁どうしていつも誰かと一緒じゃなきゃならないのかしら、この人たちは。それに、どうしていつも大声でしゃべるんでしょうね。自己主張が強いのならつるまなきゃいいし、みんなと仲良くやっていきたいならあんな大声出すこともないでしょ? 違う? 私はここで本を読んでるのが好きなの。席を移るのはかまわないけど、楽しみの邪魔をしないで欲しいわ」
彼女は煙草に火をつけ、けむりを手で払った。強士はずっと真顔のままでいた。
﹁あなたもいつも本読んでるでしょ? ね、そうは思わない?」
強士は本を閉じた。背中を壁にあて店内を見まわすと、六、七人の集団が二つばかりあって大声をたてていた。ただ、強士は騒がしさが気にならなかった。
﹁きっと自分のことを理解してもらいたいんでしょうね。だから、あんな大声でしゃべってるのよ。でも、その大半以上は失敗することになるわ。でなかったら、成功したと思って自分を慰めるのね」
フロアを眺めていた目を彼女に向けると、強士は口許をゆるめさせた。面白いことを言うな――と思っていた。
﹁ね、あなた、しゃべれない人? それとも、知らない人間とは口をききたくないの?」
灰を落としながら彼女はそう言った。
﹁いや、」
強士は鼻の先を擦りながら笑った。
﹁そういうわけじゃないよ」
﹁そう」
彼女は盛大にけむりを吐きだした。それは二人のまわりを漂い、空調の風に飛ばされていった。スツールの上で身体を動かし、彼女は正面から強士を見た。
﹁でも、名乗らないってのもなんだから言っとくわ。私、芦田佐和子っていうの。あなたは?」
﹁佐藤強士」
強士も身体をすこしだけ向けた。また真顔に戻りつつあった。
﹁サトウツヨシ。ふうん、なんだか顔にずいぶん似合った名前ね。あなた、ちょっと強そうに思えるもの。ま、より正直にいうと、怖そうな顔してるわ」
﹁よく言われるよ。人殺しの人相だってね」
佐和子はずれ落ちた眼鏡をなおして強士の顔をじっと見た。しかし、すぐにコロナビールの瓶を握り、カウンターの内側を覗きこんだ。真顔の強士に見つめられると落ち着かなくなった。この人は普段見せないでいることを無遠慮に引っぱり出し、並べたててしまうんじゃないか――と思った。どうしてそんなふうに思ったのかはわからない。だけど、そういう目つきをこの人はしてる。
彼女の方はずいぶん前から強士のことが気になっていた。仏頂面をしてずっと本を読んでいるか、ノートになにか書きつけている男。よく見れば悪い顔ではない。痩せた頬は削ぎ落とされたようになっているけれど目は大きく、それを細めてさえいなければまあまあいい顔立ちに思える。ただ、明らかに他者を拒絶しているような雰囲気を持っているし、実際いつもひとりぼっちだ。たまに目があうと、その一瞬のうちに私の中からなにかを引っぱり出そうとする。馬鹿げた妄想にも思えるけど、しかし、確かにそういうことが起こってるのだ。今だってそう――と彼女は思った。こうして話してみても印象はかわらない。だから、強士がカウンターの方を向くと深いところから息が出てきた。
﹁あなた、いつもなに書いてるの? ほら、ノートになにか書いてるでしょ?」
頬杖をついて強士は目を落とした。彼は何十冊ものノートに言葉を書き連ねていた。自分のことや、美以子のこと、それに周のこと。しかし、どれだけ書いても自分たちの物語にはならなかった。誰か知らない者たちの話にすり替わっていった。
﹁小説でも書いてるのかと思ってたわ」
﹁違うよ。そんなんじゃない」
﹁じゃあ、ラブレター?」
佐和子は笑いながらそう言った。強士は黙っていたけれど、表情はやわらいだ。その二つともあたってる――と思っていた。
﹁ノートに書かれたラブレターってのも悪いもんじゃないわ。ま、たいていの子は嫌がるでしょうけど、私はもらったらうれしいわよ」
﹁ほんとかよ」
﹁もちろん内容にもよるけど」
新しい煙草に火をつけ、佐和子はけむりを手で払った。
﹁でも、まさかほんとにラブレターなの?」
強士はすこしだけ真顔になった。しかし、すぐに口許をゆるめた。この子になら言ってもいいか――と思ったのだ。なぜそう思ったのかはわからなかった。酔っ払っているからかもしれないし、彼女の雰囲気がそうさせたのかもしれない。あるいは、誰にも読まれることのない文章を書きつづけていたことに変化が訪れたのかもしれなかった。ストーリーは他者と共有できるものでなくてはならない。自分だけ理解出来るものなんて意味がない。強士はそう思いはじめていた。そう思い至らなかったから、きちんと書くことができなかったんだとも思った。
﹁ラブレターじゃないよ」
強士は前を見たまま話しだした。
﹁似たようなものかもしれないけど、今はまったく別のものになってる。筋のある話にね。でも、うまく書けないんだ。ほんとうに書きたいものってのはなかなか書くことができない」
﹁ふうん。じゃ、まずは別のものを書いてみたら? ほんとうに書きたいのがうまくできないってのは、訓練ができてないからなんじゃない? 幾つか別のを書き終えることができたら、ほんとうに書きたいものに手をつけられるかもしれないでしょ? それに、もしかしたら書き終えた中に書きたかったものが含まれてたってこともあるかもしれないわ」
彼女の声を聴いているうちに強士は不思議な気分になっていた。考えたいことを導きだされているように思えたのだ。人の声であるのにそれは自分のもののように思えた。
﹁そう思うか?」
﹁そう思うわ。私は読むだけでなにか書こうなんて思わないけど、どんなことだってそうなんじゃない? ほら、言うじゃない。習うより慣れろ、考えるな感じろってね」
佐和子はそう言って、ひとりで面白そうに笑った。それから手を挙げ店員を呼ぶとコロナビールを追加した。
﹁ところで、それってどんな話なの? その、あなたが書こうとしてるの。筋のあるものって言ったでしょ? どんな話なわけ?」
﹁まだ途中なんだよ」
﹁それでもいいから教えてよ」
大きく息を吸うと、強士は時間をかけてそれを吐いた。いろいろと考えてみたけれど、どう言ったらいいかわからなかった。佐和子は強士の口許を見ていた。そして、驚いたように顔全体を見た。強士はごく自然な笑顔になっていた。
﹁騎士の話だ」
強士はそう言っていた。どうしてそんなことを言ったのかもわかっていなかった。
﹁キシ?」
﹁ナイトだよ。ほら、馬に乗って槍を担いでるやつさ。お姫様を守る義務を持った二人の騎士。彼らはお姫様の幼馴染みでもあるんだ。お姫様は――」
そこまで言って強士は目をつむった。馬鹿げてる――と思っていた。しかし、自分が書こうとしてるのはそういう筋のはずだった。強士は首を弱く振った。口は自動的に動いた。
﹁お姫様は非常に困った立場にいるんだ。彼女は美しく、気高くて、凜としてる。でも、そのぶんまわりから浮き上がってしまうんだ。子供の頃からそうだったけど、成長するにしたがってその度合いは増していく。自分でもどうしたらいいかわからないんだな。そんな彼女を二人の騎士は守ってきた。それも、子供の頃からそうだったし、成長してからもそうだった。ただ、三人は離ればなれになってしまうんだ」
強士は目を開けた。佐和子はカウンターに両肘をつき、組みあわせた手に顎をのせていた。そのままで首を強士の方へ向けた。眼鏡はずれ下がっていて、その目がはっきりと見えた。
﹁それで?」と彼女は言った。﹁それでどうなるの?」
﹁幾多の苦難があるんだよ。騎士たちにもそれぞれ抱えてることがある。なかなかお姫様のもとへ馳せ参じるわけにはいかないんだ」
﹁騎士たちはお姫様のことが好きなんでしょう?」
﹁そうなんだろう」
強士はぬるくなったビールに口をつけた。
﹁いや、そうでなくちゃ困る。二人ともお姫様のことを愛してるんだ。だけど、互いにそのことを知ってもいるんだな。彼らは自分よりも相手の方がお姫様には似つかわしいと考えてるんだよ」
﹁どうして?」
背後から一際大きな声が聞こえてきた。なにを言っているのかはわからなかったけれど、その後に笑いあう声がつづいた。佐和子はさっとそちらへ目を向け、唇を歪めさせた。
﹁どうしてだろう?」
﹁わからないの? じゃあ、お姫様の方はどうなのよ。二人のうちどっちかが好きだったりしないの?」
﹁それもわからない」
﹁なんなのよ、その話」
佐和子は髪をかき上げ、煙草に火をつけた。
﹁わからないことだらけじゃない」
﹁言ったろ? まだ途中なんだ」
﹁ふうん」
唇をすぼめて佐和子はゆっくりけむりを吐いた。それは揺らめきながら整然と並んだ瓶のまわりを漂い、じきに薄くなった。強士はその様をぼんやり見ていた。言葉は渦巻いていた。
﹁こういうのはどう?」
佐和子は灰を落としながら言ってきた。
﹁騎士のひとりが死んじゃうの。それで、お姫様は気づくのね。死んでしまった騎士のことを愛してたんだって。ほら、失われてしまったものが良くみえるってことあるじゃない。そういうことが彼女には起こるのよ。それまで曖昧にしてきたことが、そこで明らかになるの。ま、お姫様にとってはそう思えちゃうのね。だって、だいたいのところ、お姫様ってそんなもんでしょ」
﹁それで?」
﹁残ってる方の騎士にしたら、牽制する相手がいなくなったわけじゃない。彼はお姫様への愛情を抑えられなくなるわね。それまで抑えていたぶん激しく気持ちが溢れちゃうのよ」
空いた瓶を店員がさげた。佐和子は人差し指を立て、もう一本追加した。そのあいだ彼女は小さくうなっていた。ストーリーが勝手に動きだし、それを追うので手一杯だったのだろう。新しい瓶がくると彼女はナプキンで指先を拭い、ライムを潰しながら中へと押し込んだ。その香りは強士の鼻先まできた。
﹁そうね。――そう、だけど、お姫様はその押しつけがましい愛を嫌うのよ。心は死んでしまった騎士のもとにあるんだから、それも当然でしょ? ま、これも彼女にとっては当然のことなわけよ。で、絶望した騎士は戦争のとき敵陣に乗りこんでいって討ち死にしちゃうの。――ああ、それもお姫様のためだったってのはどう? 敵方は土地とかじゃなく、お金でもなく、美しいお姫様を手に入れようと戦争を仕掛けてきたの。だけど騎士の活躍で勝つことはできたのね。彼は自らを犠牲にしてお姫様を守り抜いたのよ」
ビールを飲み、佐和子は笑った。
﹁ここまではどう? 悪くないと思わない?」
﹁まあ、そうかもな」
強士は壁に背をあてた。表情はゆるみ、自然と笑えていた。
﹁で、どうなるんだ?」
﹁そうね。ことここに至って、お姫様も戦死した騎士の愛に気づくの。よくよく考えてみたら、自分もその騎士のことが好きだったんだって思うのよ。いろんなことがあり過ぎてわからなくなってただけなんだってね。彼女は思い出すわ。幼馴染みの二人の騎士、彼らはいつも私を守っていてくれたって。だけど、もうその二人はいない。戦争に勝っても彼女は喜ばないわ。だって、大切な人を二人とも失ってしまったんですもの。で、悲しみのあまり、彼女は高い塔から身を投げて自殺するの」
﹁全員死ぬのかよ」
強士もビールを頼んだ。それを飲みながら今のストーリーを考えてみた。馬鹿げてるとは思うものの、どうでもよくなっていた。佐和子は満足そうな表情を浮かべていた。
﹁これは悲劇なの。私、なにか考えるとどうしても悲劇的になっちゃうのよ。でも、どう? この話は」
﹁悪くはないよ」
唇についた泡を手でおさえながら強士はこたえた。
﹁だけど、結末はそうじゃない」
﹁じゃあ、どうなるの」
﹁わからないよ。わからないから書けないんだ」
佐和子は正面から強士を見た。こういう顔もできるのね、と思いながらだ。ただ、強士の表情はしだいに真顔へと戻っていった。頬は平板になり、目だけが大きくみえた。佐和子はその目をしばらく見つめ、やっぱり怖い――と思った。それに、寂しそうな目つきにも思えた。彼女はしいて笑顔をつくり、こう言った。
﹁あなたなら書けるわよ。私、あなたのことなにも知らないけど、でも、そう思う。あなたは他の人には見ることのできないものも目にすることができる。――私、酔っ払ったみたいね、こんなこと言うなんて。でも、なんとなくそう思えるのよ。時間はかかるかもしれないわ。だけど、書き終えることはできる。ほんとうに書きたいものも書けるようになるわ」
強士は彼女の言葉を黙って聴いていた。その声は耳に優しく響き、焦燥感をすこしは和らげてくれた。ただ、当然のことにそれでなにかが解決するなんてことはなかった。外を走る車のライトがさっとカウンターを横切り、消えた。強士は振り返り、フロアを見た。その瞬間に美以子の弾くピアノの音が聞こえた気がしたのだ。馬鹿げてる――そう強士は思い、首を激しく振った。
﹁どうしたの?」
﹁いや、なんでもない」
佐和子は覗きこむようにしていた。強士は彼女の目をじっと見た。
﹁ありがとう。とにかく書いてみるよ」
周は大学三年のときに会計士の資格を取った。音のない家を離れたことで本来の自分を取り戻せたと感じてもいた。それでも彼は兄の言葉を思い出すことがあった。﹁お前もそうなるんだ」と言われたことをだ。そのたびに、違う――と思った。俺はあなたのようにはならない。
会計士の資格を取っても、あの父親が自分を出来の悪い人間と考えつづけるであろうことを周は知っていた。しかし、成長した彼はそのことにこれ以上傷つかなかった。まったくなにも感じないということもないけれど、父親が自分を諦めているのと同様に自分も父親から受けとるべきものを諦めていたのだ。二十年以上にわたり傷つけられていたので、自分の心にはもう新たな傷がいれられる余地もない。周はそう思い、だけどそんなこともどうでもよくなっていた。大人になりつつあった彼はすでに親の軛からはずされていた。自信もあった。強士や美以子としゃべっているときに口から出てくる適当な言葉と同じように、どうにか最後にはまとめることができる。たぶん人生もまとめあげることができるはずだ――そう思っていた。
強士にとってそうだったように、周にもあの発表会での演奏は特別なものだった。普段ピアノの曲を聴くことのない彼にはメロディの大半は失われたものになっていたけれど、勉強をしているときなんかにふとあのときの音が耳の奥で鳴るような気がした。とぎれとぎれに高音が鳴り、低い音は記憶を呼びさまさせるように響いた。集中力が途切れると、そのメロディは聞こえてくる。彼はやはり美以子と強士のことを考えた。あの息継ぎだ。俺にはまだあの息継ぎが必要なんだ。
﹁美以子、またコンクールに出るんでしょ?」
買い物途中に立ち寄った喫茶店で実穂がそう言ってきた。窓際の席に二人は並んで座り、外を眺めていた。冬の空はどんよりと曇っていて、雪でも降り出しそうにみえた。周は雲の重なりあう様を見つめ、なにか思い出しそうになった。しかし、記憶はうまく像を結ばなかった。
﹁ああ、そうみたいだな」
実穂は彼の横顔を見つめた。はじめて会ったときから五年以上経ったけど、ずっと見ていても飽きたりしない――そう思っていた。
﹁行くんでしょ?」
﹁うん。一昨日、強士から電話があったんだ。待ちあわせて行くことになってる」
﹁ふうん」
周は首だけ動かして実穂を見た。
﹁実穂はどうするんだ?」
﹁私?」
実穂はコーヒーカップで口許を隠すようにした。それから、窓の方を見た。
﹁考えてるとこ。行ってもいいんだけど、ちょっともやもやしてんのよ」
﹁もやもや? なんだよそれ」
周も窓の外を見た。そこは大きな通りに面していて、たくさんの人が行き交っていた。それぞれの者が競い合うように歩いていた。
﹁ね、周くん、私たちって恋人同士よね」
﹁どうしたんだよ、急に」
﹁こたえて。私たちは恋人なんでしょ?」
後頭部辺りを掻きながら周は頬をすこし赤くさせた。実穂は思い出していた。はじめて会ったときもこんなふうだった。周くんは恥ずかしそうに私を見てた。
﹁そうだよ。俺たちは恋人だ。――これでいいか?」
﹁うん。それでいい」
重機を載せたトレーラーが走っていった。窓はすこし軋むような音をたてた。コーヒーカップもカタカタと揺れた。
﹁で、どうしたんだよ。そんなこと訊いてくるなんて」
﹁うーん」
実穂は腕を組み、頬を膨らませた。瞳を上へ向け、左右へ動かしてもいた。
﹁ね、まずは一つ表明しときたいことがあるの」
﹁表明? どんなことだ?」
﹁私、今度は一緒に行かない。こんなこと言うと怒るかもしれないけど、私、ああいうの疲れちゃうのよ」
﹁ふむ」と周は言った。実穂はその顔を覗きこんだ。
﹁怒った?」
﹁いや。怒りはしないけど、なにに疲れるっていうんだ?」
実穂はじっと周を見つめた。それから笑顔をつくりこんだ。
﹁三人だけの世界があるじゃない。昔っからそうだったけど、私、ああいうのについていけないの。ううん、っていうか、私だけ除け者みたいなんだもん」
﹁そんなことは――」
﹁あるわよ。むちゃくちゃある。ほんと昔っからそうだった。三人にしかわからない言葉でしゃべってるみたいな感じがしてたもん。まあ、しかたない部分はあると思うわよ。中学のときから仲良しだったんだもんね。それはわかってるの。だけど、ちょっと疲れちゃったのよ」
﹁なるほど」
実穂はまた腕を組んだ。下唇を出して、周を見つめた。周は笑ってしまった。
﹁笑わないでよ。私、そのことではけっこう悩んでたのよ」
﹁悪かった。謝るよ。だけど、そんなふうに考えてるって思わなかったんだよ」
周は実穂の頭に手をのせた。実穂は目だけ上へ向け、にんまりと笑った。
﹁それで、もやもやしてたってことか?」
﹁まあね。だけど、そっちはもういいの」
﹁まだあるのか?」
実穂は周の手をとった。それを自分の方へ引き寄せながら、はじめて周の手に触れたときのことを考えていた。弱く陽が射していた階段。突然、大声を出した美以子。あれからだっていろんなことがあった。でも、周くんの手はあのときと同じに繊細そうですべすべしている。
﹁美以子から電話があったとき聴いちゃったの。別に口止めされてるわけじゃないから言ってもいいんだけど、聴きたい?」
﹁ん?」
周はそうとだけ言って黙った。視線をどこにおくべきか迷っていた。実穂の目はなにかを読みとろうとしているかのように動きまわっていた。
﹁聴きたそうな顔してる。――ね、私は周くんのこと好きよ。大好き。はじめて会ったときから好きだったの」
まわりを気にして周は首を巡らせた。実穂はさらに強く手を握ってきた。
﹁それに、私たちは恋人なんだものね。さっき周くんも言ったでしょ? 私たちは恋人だって」
﹁ああ」
﹁だから、教えてあげる。美以子ね、彼と別れたみたいなの。ちょっと前によ」
実穂の目はとまった。周の瞳を射抜くようにした。
﹁それで、私はもやもやしてたの。わかる? 私の言ってること」
﹁ああ」
周はゆっくりとうなずいた。
﹁だけど、もういい。ちょっとすっきりした」
実穂は手から力を抜いた。周はちらと外を見た。足早に動きまわる人々の姿を追った。それは時が目まぐるしく進んでいるのを感じさせた。急きたてられてるような気分になった。いや、いつだってそうだった。俺は取り残されないためにずっと走ってきた。だけど、そうしていたせいで自分がいまどこにいるのかもわからなくなっていたのかもしれない。美以子や強士は? あの二人はどこに行った? 俺は二人を残してきたんだ。自分だけ違う場所にたどり着き、あの二人を取り残してきた。息継ぎするときだけ俺は思い出していた。だけど、そんなのは思い出すというもんじゃない。
﹁周くん」
﹁ん?」
実穂はまたかたく手を握ってきた。顔を近づけさせ、じっと目を見てきた。
﹁私は周くんのこと信じてるから。それに、これまで二人でいた時間も信じてる。だから、美以子のとこに行ってもいい。でも、ちゃんと戻ってきてよ」
﹁ああ」
周は手に力をこめた。
﹁わかってる。大丈夫だ」
駅前で待ちあわせた二人は街路樹のイチョウが葉を落としている道をゆっくり歩いた。晴れてはいたけれど吹きわたる風は冷たく、それがあたるたびに周は顔をしかめさせた。まるで中学の頃と一緒だ――強士はそう思った。図書館で美以子が席を離れたときなんかもこうだった。互いに表情を硬くさせ、腹を探りあっていた。
﹁どうかしたのか?」
﹁は?」
周はすこしだけ首を動かした。
﹁えらく深刻そうな顔してるよ。昔からたまにしてた顔つきだ」
﹁そうか?」
強士はどう言おうか考えていた。周はその顔をちらと見た。あの真顔だ――と思った。なにを考えてるかわからない真顔。
﹁家でなにかあったのか?」
﹁なんでそんなこと訊くんだ?」
﹁これも昔からそうだったろ。周は家でなにかあると深刻そうな顔になるんだ。美以子にもそういうとこがあったな。美以子はぼうっとしてる時間が長くなる」
周は笑った。しかし、すぐに首を弱く振った。
﹁強士はいろんなことを知ってるよな。口に出さなくたってわかっちゃうんだ。だけど、そういうことじゃない。もう家なんて関係無いからな」
二人は大きなホールに着いた。周は時計を見た。はじまるまでまだ時間はある。
﹁なあ、強士」
﹁あ?」
周はあのことを言うべきか迷った。言ったら強士がどのような表情をするか知りたくも思っていた。しかし、ふっと笑った。この真顔からなにかを読みとるなんて無理だろうな――と思ったのだ。
﹁なんだよ」
﹁いや、なんでもない。美以子に連絡してみるよ」
三人は高い窓が並ぶ前で会った。冬の太陽はすべてのものに長い影をあたえていた。三人の影も長く伸びていた。美以子は白いドレスを着ていて、ほんとうにお姫様のようだった。
﹁うれしい。二人とも来てくれて」
美以子は頬を薄く染めた。周も強士もしばらく黙っていた。声がうまく出せそうになかったのだ。
﹁今日も泣きにきたんだ。いつもみたいのお願いするよ」
周はすこしかすれた声を出した。それを誤魔化すように笑ってみせた。
﹁わかった。頑張ってみる。今日こそ周くんを本気で泣かせるわ」
﹁で、強士からのお言葉は?」
﹁またこれをやるのかよ」
そう言いながら強士は一歩前に出た。美以子はその顔を見つめていた。強士はさっと辺りを見渡した。自分と周、それに美以子。自然と頬がゆるむのを感じた。二人の騎士とお姫様の物語。まるでそのワンシーンのようだ。
﹁どうした?」
周がそう言ってきた。美以子は不思議そうに強士の笑顔を見ていた。強士はゆっくりと口をひらいた。
﹁美以子、大丈夫だ。俺も周も美以子がどれだけ頑張ってきたか知ってる。しばらく会ってなかったけど、それでも俺たちにはわかるんだ。だから、いつも通りにやればいいよ」
美以子は息を大きく吸って一度目をつむり、それからゆるゆると吐いた。肩の力が抜け、全身に血が巡っていくのを感じていた。
﹁ありがとう。二人にそう言われると頑張れる気がするわ」
周は強士の腕をつかんできた。
﹁前よりかは台詞が長くなったな。強士、お前もしばらく見ないうちにだいぶん成長したみたいだ」
強士は高い天井を見あげた。
﹁ありがとよ。周にそう言われるとこれからも頑張っていこうって思えるよ」
周と強士は並んで座った。ホールは広く、舞台だけが明るく輝いていた。周は組んだ手を腹の上において姿勢良く座っていた。強士は脚を前へ投げだし、頬をゆるめていた。さっき考えたことが頭の奥底で動きつづけていた。白いドレスを着た美以子、それに騎士である俺と周。馬鹿げてる――と強士は思った。周の横顔はそんな昔のことは忘れたと言っているようだった。だけど、周、これはお前が言ったことなんだぜ。
ひとつの演奏が終わり、拍手が起こり、また次の演奏がはじまった。ピアノの音は周に大切なものを思い起こさせようとしていた。彼はそれがなにか知っていた。手を伸ばしさえすればつかめるかもしれなかった。前はそうじゃなかった。だけど、今ならつかめるかもしれない。ただ、そう思った瞬間に深刻さが覆ってくるのを感じた。それ以上は考えたくなかった。考えるべきことでもなかった。
強士はプログラムに目を落とした。拍手が巻き起こり、じきにまばらになった。美以子の出番だ。彼は周囲を見て、それから細めた目で舞台を見つめた。そのときに文章が浮かんだ。
﹃ラッパが鳴り響く。
お姫様のご来臨なのだ。
今日は閲兵式。
各地から騎士たちが集まってきている』
美以子は下手からあらわれた。背筋を正して歩く姿は凜としていた。深々と頭を下げたけれど、おもねるようなところはまったく感じさせなかった。スカートを折るようにして椅子に座り、鍵盤に指をのせた。高い音がはじめに叩かれると、低音はたどたどしい感じに寄り添った。強士は背もたれに身体を沈めさせた。首をあげると天井には幾つものライトがあった。しだいに低音は太くなり、重たく響いた。高音は危うい和音を鳴らし、確かに思える低音と対蹠的な動きをみせた。雨だれだ――と強士は思った。さーっと降る雨。軒から落ちる滴。最後の音が糸を引くかのように消え去っていくと拍手が起こった。
手を叩きながら周は強士を覗きこんだ。深いところから息が出てきた。ピアノの音がまだ耳に残っているように思えていた。周は唇を噛んだ。拍手が鳴りやまぬうちにこう言った。
﹁聴いたか?」
﹁なにを?」
強士は首だけ曲げて周を見つめた。
﹁美以子、別れたらしいぞ」
身体を起こし、強士はしばらく固まったかのようになった。
﹁よくわからないけど、すこし前のことらしい。実穂がそう言ってた」
次の演奏がはじまった。﹃夜想曲 第一番』だ。強士は長く息を吐いた。
﹁知らなかった。そうだったのか」
﹁詳しいことは実穂も聴いてないみたいなんだ。だけど、別れたのは確かなんだろう」
二人は舞台の方を見てしばらく押し黙った。ピアノの音は滑らかに聞こえていた。
﹁強士、お前はどうなんだ?」
前を見たままで周はそう言った。強士は首を曲げた。
﹁どうって、どういうことだよ」
﹁彼女はいるのか?」
強士は周の横顔を見つめた。そのままで、
﹁いるよ」とだけこたえた。
﹁それでいいのか?」
﹁どういう意味だ?」
﹁いや、」
周は強士の顔をきちんと見た。それから、
﹁なんでもない」と言った。






₁
₂
₃
﹁誰?」
佐和子は原稿用紙に目を落としながら言った。
﹁昔からの友達だよ。前に話したことあるだろ? 中学の頃から仲のいい周って奴がいるって」
﹁ふうん」
煙草を灰皿に立てかけ、佐和子は後頭部を掻いた。目は細めたままで字を追っていた。
﹁で、なんて?」
﹁結婚するんだってさ。相手も昔から知ってる子だ」
佐和子は顔をあげた。
﹁あら、おめでとう」
﹁いや、別に俺じゃないし」
﹁だけど、仲のいいお友達なんでしょ。おめでたいことに変わりないじゃない」
強士は佐和子の向かいに座った。テーブルの上には原稿用紙が散乱していた。強士はそれを手にとって端を揃えた。佐和子は煙草をくゆらしつつ目をさらに細めさせた。
彼らは大学時代から一緒に暮らすようになっていた。佐和子は彼女によく似合った職業――図書館司書になり、古い本に囲まれる生活をつづけていた。強士は大学近辺にあった工場の経理事務員として働き、仕事帰りに喫茶店でノートや原稿用紙に向かう生活をしていた。彼は当初の思いから離れ、純粋に想像力を働かせたものを書くようになっていた。自分たちとは違う人物の出てくる物語だ。ほんとうに書きたいものもいつかは書けるようになる。彼はそう思うようにした。そのためには書く訓練をしなければならない、とだ。
諦めに似た気持ちもあった。自分たちのことを文章にするなんてできっこないと彼は思っていた。それはどのような物語で、結末はどうなるんだ? そう考えると手をつけられなかった。いまだ継続していることを言葉に置き換えるなんてできるわけがない。それらは不確かで、曖昧で、これからも変化していくもののはずだ。
﹁ねえ、」
佐和子は原稿用紙をテーブルに落とした。
﹁悪くないとは思うのよ。まとまってるし、心理描写も確かなものに思える。こういうとき人ってこう動くだろうなってのがきちんと書かれてはいる」
﹁うん」
﹁だけど、だけどよ、なにかが変に思えるの。これって外形的には違うように書いてるけど、恋愛小説でもあるわけじゃない? その割には誰もがほんとうに相手のことを思ってないように感じちゃうの。人を好きになるのって、もっとこう、身勝手なものじゃない。荒々しいとこってのがあるべきだと思うのよ。それがまったく無いの。すべての登場人物が幸せになれるわけないのに、そうさせようとしてこんがらがっちゃってるの」
﹁なるほど」
﹁なるほど、じゃないわよ。ね、実際にそうでしょ? 誰かの幸せが他の人にとっては不幸ってことあるじゃない。恋愛なんてのはそういうのがあって当然よ。これじゃ誰をも幸せにしようとして、結局はみんなが不幸になるって話になっちゃうわよ。それこそ悲劇だわ。ま、そういう話だってなら別にそれでもいいけど、だったら違う書き方をすべきだって思うわ」
強士は複雑な顔つきになった。自分たちが実際にしてきたことを指摘されたように思えたのだ。佐和子はじっと見つめてきて、それから唇を歪めさせた。書いたものに批評をくわえるといつも彼女はそういう表情をさせる。
﹁書き直すべきかな?」
﹁それはあなたが決めることよ。これで納得がいくってなら、このままでもいいんじゃない。最初に言ったけど、まとまってはいるって思うもの。だけど、きっとあなたは納得してないんでしょ?」
強士はキッチンに行き、濃いコーヒーを淹れはじめた。佐和子は椅子の上で伸びをしてから強士の背後にまわった。腰に腕を絡めさせ、頬を耳にあててきた。
﹁まだ書くの?」
﹁いや、小説はよしとくよ」
コーヒーが落ちるのを見ながら強士はこたえた。
﹁ただ、結婚式に友人代表のスピーチを頼むって言われたんだ。その下書きだけはやっておこうかなって思って」
﹁そう」
絡めた腕を離すと佐和子は小さく言った。
﹁悪いけど私はもう寝るわ。あなたもほどほどにしときなさいよ。明日も仕事なんだからね」
佐和子がベッドルームに入ると強士はノートを開き、罫線がひかれているだけのまっさらなページを見つめた。スピーチね――と思いながら、三人がはじめて話した日のことを考えていた。中学一年の春、俺たちは入学式のすぐ後で教室に行き、あてがわれた席についた。もともとは俺が一番前の席だったんだ。だけど周があまりにもはしゃいでいたので交換になった。ああ見えて周は繊細だからな。緊張してたのを話すことで誤魔化してたんだろう。でも、そのせいで初日から監理ポストに置かれることになったわけだ。それでも振り向いちゃ美以子にしつこく質問してたな。で、俺も巻きこんできた。美以子は前を向いたり後ろを見たりで大変そうだった。
ステレオから洩れるピアノが途切れると、部屋の中は秒針が刻む音しかしなくなった。自分のたてる息が聞こえてくるほどの静けさだ。強士は暗い窓の外を見た。月が出ていた。白く冷たい色をした満月。彼はなにをどう書こうとも思わずにペンをはしらせた。
﹃僕たちは中学生の頃からのつきあいです。名字がサ行であったために近くの席に座らされることになって、ただそれだけだったのですが、それからずっと友人として過ごしてきました。
名字がサ行であること以外に僕たちにはあまり共通点がなく、周くんはその頃から背が高く性格も明るくてすぐにクラスの人気者になりました』
強士はふたたび窓の外を見た。何行か書き足し、濃いコーヒーを飲んだ。頭には違う文章が浮かびあがっていた。子供だった頃のことを考えたので思いついたものだ。新しいページを開き、強士はゆっくりとそれを言葉にしていった。間違ったと感じると、その上から線をぐちゃぐちゃに引いて、次のページを開いた。
﹁ふうっ」
大きく息を吐きだすと強士は背もたれに身体を押しあてた。書いたものを読み返し、首を振った。それはなにについて書かれたものかわからなかった。ただ思いついたことを記したに過ぎない――そう思っていた。しかし、それだけではないようにも感じていた。
ノートにはこのように書かれていた。
﹃事実はいつだって目の前にあった。しかし、僕たちはそれに気づかぬ振りをしつづけていた。傷つきたくないと過剰に怖れていたからだ。それで僕たちはなにを得た? これ以上ないほどの怖れだったのではないか? 引き受けるべきものを知りながらそれに手をつけなかったことでもたらされたのは、手に余るほどの恐怖だったんだ』
◇
周は会計監査法人に職を得た。彼は感情をコントロールすることができたし、人当たりもよかったからすぐに職場に馴れた。あいかわらずモテつづけてもいたけれど、実穂以外の女には目もくれなかった。そして、これもかわらずに彼らはよくしゃべった。ごく些細なことでも二人の目を通すと、それは非常にいきいきとした言葉になった。彼らはそれを代えがたいことと思っていた。誰か他の人間とではこのようになれないとだ。
ある意味、実穂は周のことを自らの作品のように思っていた。私が彼を導いてきた――そう思っていたのだ。周は家族とも普通に話すようになっていた。押し黙ったり、感情を殺すのではなしに、いたって通常の関わりを持つようになった。それだって実穂が努力したからだ。父親や兄夫婦にも物怖じせず話しかけ、周も巻きこんで会話が成立するよう心配りをした。母親は実穂のことを気に入っていて、頻繁に家へ招いた。
﹁実穂ちゃんが来てくれると家が明るくなっていいわ」
母親はよくそのように言った。
﹁周ちゃんも明るい感じになってきたし、ちゃんとしゃべってくれるようになったんだもの。これは実穂ちゃんのおかげよね」
はじめのうち実穂はなんのことかよくわからなかった。ただ、周の様子を見ていると理解できることはあった。家族と一緒にいるときの彼はまったくの別人みたいになったからだ。
﹁いいえ、お母さん、周くんって外じゃすごいんですよ。話しはじめたら止まらなくなっちゃうんですもん。私なんかよりおしゃべりで、ずっと一緒にいても飽きないんです」
﹁あら、ほんとうなの?」
﹁ほんとうっていうか、私がいま言ったんじゃ伝えきれないくらい。それに無茶苦茶モテるし。だから、私、いつも心配してるんです」
母親は大笑いをした。周はその表情を見ていると長いこと胸につかえていたものが溶け去るのを感じた。それを実穂がもたらしてくれたことは確かだった。
﹁じゃあ、早いとこ結婚しちゃいなさい。私は実穂ちゃんならすぐにでもお嫁さんになってもらいたいわ。ね、あなた、そうでしょ?」
﹁あ?」
父親も目尻を下げ、実穂を見つめていた。
﹁ああ、そうだな。周みたいな奴にはもったいないくらいの嫁さんだ。まあ、まだ年は若いがなんとかやっていけるだろ。俺も賛成だ」
ただ、すぐ結婚する気に周はなれなかった。その理由を彼は考えないようにしていた。深刻さがたちあらわれ戸惑ってしまうのを知っているからだった。
﹁ねえ、」
二十四歳になった年の冬に二人は夜の道を歩いていた。長い下り坂で、街灯がまばらに明かりを落としていた。
﹁私たち、つきあいはじめて何年経ったと思う?」
﹁ん? 七年だよな」
﹁そうよ。高二の頃からだから七年。ずいぶん長いこと一緒にいたものね」
﹁ああ」
実穂は手を伸ばし、周は握ってきた。空には満月が出ていた。薄く靄のような雲がかかっていたものの、その光は地上でも感じられた。
﹁私、周くんと結婚したい。ずっとそうなるって思ってたし、そうなれるよう努力してきたつもりよ。ね、それについてはどう思う?」
周は黙っていた。考えなければならないのはわかっていたけれど、うまくいかないのだ。なにがそうさせるのかも彼は考えたくなかった。
﹁ねえ、なんか言ってよ。私の方からプロポーズしてんのよ。黙られてると悲しくなっちゃうわ」
﹁うん」
そうとだけ周はこたえた。実穂は強く手を握り、その感触を確かめた。
﹁周くんがいろいろ考えちゃうのはわからないでもないわ。私の言ってることわかる?」
周は顔を向けてきた。その表情には見たくないものが含まれている。実穂はそう思い、さらに強く手を握りしめた。
﹁だけど、考えこんだってどうにかなるもんじゃないわ。そうでしょ?」
﹁ああ」
実穂は笑った。そうすべきだと思ったのだ。深刻になってはいけない。私までそうなったら、ずるずると深刻さに陥ってしまうもの。
﹁さっきから﹃うん』とか﹃ああ』しか言わないじゃない。周くんらしくない。ね、考えることなんてある? こんなにかわいい実穂ちゃんが結婚してくださいって言ってるのよ。断るなんてありえないでしょ?」
周は立ちどまった。ヘッドライトが二人を照らした。坂を登る車が走り去ってから、周は首を上にあげた。月あかり。同じような月を見たことがあったな――そう彼は思った。でも、いつ見たのかは思い出そうとしなかった。
﹁ごめん。なんだか煮えきらない感じにしてて」
そう周は言い、実穂の手を握りしめた。
﹁で?」
﹁で、」
実穂は見あげていた。周の顔は真顔に近かった。それでも実穂は信じた。私はこの人を良い方向へ導いてきた。それは美以子にはできなかったことのはず。私はこの人じゃなきゃ駄目。それは周くんだって同じに違いない。
﹁実穂、俺と結婚してくれ」
そう言ったとき、周は身体から無駄な力が抜けていくのを感じた。考えることなんてないんだ――と思った。これは決まっていたこと。もう何年も前からこうなるようになっていたんだ。
﹁はい」
実穂はうつむいて泣いた。頭の中にはぐるぐると様々な思いが巡っていた。しかし、彼女はそれを見ないようにした。見る必要もなかった。
電話は美以子のもとへもかかってきた。実穂からで、彼女はこのように伝えた。
﹁なんと! 私たち結婚することになったの! 私と周くんよ。ね、美以子、おめでとうって言って。これ最初に教えたの美以子なんだからね。あんたにはじめに言われたかったの。おめでとうって」
﹁ほんとう?」
美以子は窓際に立ち外を見ていた。雨が降っていて、それはベランダにポツポツと落ちていた。
﹁おめでとう。そうなるって思ってたけど」
振り返ると、そこには鏡があった。美以子は目を細め、自分の全身を見た。白いワンピースに濃い青のカーディガン、脚は細く骨張っていた。
﹁ありがとう。でね、特別にお願いしたいことがあるの。美以子にしかできないことよ。これは嫌だって言わないで欲しいの」
美以子は薄く笑った。あいかわらずだと思ったのだ。彼女はピアノの前へ行き、鍵盤を見つめた。
﹁ちなみに言っとくと、強士くんは友人代表のスピーチしてくれるのよ。あの強士くんがよ。笑っちゃうでしょ?」
﹁そうなの? でも、強士くんって文章書くの上手だったからいいんじゃない。――で、私にお願いってなに?」
﹁ああ!」
電話口から笑い声が聞こえてきた。美以子は額に指をあてた。自分の表情がどうなっているか気になっていた。だけど、見たくはなかった。
﹁ごめんごめん。それを言おうと思ってたんだっけ。ね、これだけは絶対なの。美以子にしかできないことだし、美以子にやってもらいたいの。周くんもそう言ってるんだから」
﹁わかったわよ。で、なにすればいいの?」
﹁ピアノ。入場のときにピアノ弾いて欲しいの。﹃結婚行進曲』を」
﹁ああ」
美以子は鍵盤を弱く叩いた。音はくぐもったように鳴った。
﹁ね、やってくれる? やってくれるでしょ? ほんとお願い。美以子の結婚式には私もやれって言われたことなんでもするから。全身タイツで踊ってもいいわ」
これには美以子も声をたてて笑った。実穂も笑っていた。雨はすこし強くなったみたいだ。窓にもあたり、歪な楕円が幾つもできはじめていた。
﹁もちろんいいわよ。私の演奏でいいなら喜んでするわ」
﹁美以子のがいいのよ。それに自慢できるでしょ? 私にはピアニストの親友がいるんだってね」
﹁やめてよ。私はピアニストだって自慢できるようなんじゃないもの」
﹁またまたご謙遜を。じゃあ、日程とか決まったら電話するね。それに、それとは別にたまには会おうよ。あんた、ずっとピアノばっかり弾いてて外にも出てないんじゃないの?」
﹁出てるわよ。変なこと言わないで」
実穂は大きな声で笑い、﹁じゃあ、またね」と言って電話を切った。機械の音が耳に入った瞬間に美以子は鍵盤を強く叩いた。その音は部屋中に鳴り響き、すっと消え去った。
ピアニストになった美以子は、しかし、小さなイベントで伴奏したり、知り合いの子供にレッスンして生活していた。二十三歳のときに父親は脳溢血で亡くなり、母親は事業をすべて人手に渡していた。実家に戻るよう言われもしたけれど、美以子はそれまで通りの暮らしをつづけていた。
仕事がないときの彼女は部屋に籠もっていた。朝起きると子供の頃に使っていた教則用の楽譜で指を馴らし、それからずっとピアノに向かった。美以子はよく﹃亡き王女のためのパヴァーヌ』を弾いた。そして、高校一年の冬を思い出した。あのときに私は間違ったんだ。なんであんなふうに思ってしまったのだろう? 私はあの二人が好きだったのに。あの二人も私のことが好きだったはずなのに。
美以子の指は半ば自動的に動いた。曲は身体の中にしっかりと浸透していた。高い音がひとつ、その後に内側へ向かうような低い音がつづく。そう、ここは少しだけゆっくり弾くべき。もっと、もったりと。
ピアノを弾いていると美以子は様々なことを思い出した。プール、図書館、花火、おしゃべりな周くんと無口な強士くん。実穂や松浦先輩の顔も浮かんできた。私はしっかりしたものをなくしてしまった。いや、そんなものなんて持ってなかったんだ。その偽物をつかまされていただけ。あれはほんとうに間違ったことだった。どうしてこんなことになってしまったのだろう? 土手の上を通る道、赤く色づいた桜の葉、吹き抜けていった風、ラブレター。あれが私を誤らせたんだ。それに、ガラスに浮かぶぼやけた顔も。
美以子は弾き終えても満足できなかった。なにかが足りないのだ。空虚さが感じられ、それは部屋の中にあるものを色褪せてみせた。いまさっきまでピアノを弾いていたのは遠い昔の自分で、ここに座っているのは違うと思えた。じゃあ、ここにいるのは誰?
夜になり、窓の外が暗くなると彼女は買い物に出た。どうしてそうしてるのかはわからなかった。ただ、誰のものであれ視線を感じるとそれだけで疲れた。すべての人が私を見てる。私のことを話してる――そう感じることがあった。美以子は胸に手をあて呼吸を整えようとした。吸うべきなのか吐くべきなのかもわからなく、しばらく立ちすくむこともあった。
実穂から電話のあった幾日か後、街灯が照らす細い道で美以子はなにかを怖れた。誰かが背後から近づいてくるようだった。立ちどまり、振り向いても人はいなく、美以子は首を弱く振った。しかし、バッグを抱くようにして持ち、道の端を歩くようにした。糸のような月が行く先の空にあった。雲は目まぐるしくかたちを変え、鈍い月の光がそれをまだらな青にみせていた。美以子はふたたび立ちどまった。ギチギチギチという音が聞こえたように思えたのだ。彼女はゆっくり振り返った。その者は確かにいた。電柱の影に潜み、自分をじっと見つめていた。
美以子は首を伸ばして電柱の向こう側を覗こうとした。マンションから若い夫婦が出てきて、怪訝そうに見ながら立ち去っていった。その視線を気にして美以子は歩きだした。背後にいる者が動きだしたのもわかった。私はあなたを知ってる――美以子はそう思いながら足早に進んだ。子供の頃からあなたは私のすぐ近くにいた。そして、じっと見つめていた。あなたが私を間違った方へ導こうとしてるのも知ってる。だけど、なぜ? どうしてそんなことをするの? あなたは誰? なんで私につきまとうの?
部屋に着いたときには全身に汗をかいているのがわかった。美以子は鍵をかけてからドアに耳をあてた。くぐもってはいるけれど、ギチギチギチという音は聞こえていた。その者はまだ近くにいるのだ。美以子は暗い部屋の中を走り、ベッドルームへ行くとタオルケットに包まって身体を震わせた。
――助けて欲しい。周くん、強士くん、助けて。私を助けて。
◇
会場は暗くなり、大きな扉だけがライトに照らされていた。司会者が高らかに声をあげると美以子は鍵盤を叩きだした。拍手が巻き起こり、スモークが焚かれ、その中から周と実穂があらわれた。強士はあてがわれた席からそれを見ていた。周はシルバーグレーのタキシードを着て立派な新郎を演じていた。実穂は扉が開く前から泣いていたようで、会添人に渡されたハンカチで目許をおさえていた。彼女にとっても美以子が弾くピアノの音は、ある意味、心を揺さぶるものだったのだ。
新郎新婦が席につくと、美以子は強士の隣に座った。会場は広く、人も多かった。すべての者が高いところにいる二人を見つめていた。まるで見世物だな――強士はそう思っていた。観衆はこれからどのようなものを見せられるか知っている。すべては予定されたことなのだ。
﹁強士くん、また真顔になってる。笑顔よ、笑顔」
美以子が小声でそう言ってきた。
﹁ああ」
﹁スピーチするんでしょ? そんな顔でしたら駄目よ。それとも緊張してるの?」
薄いブルーのドレスを着た美以子は背筋を伸ばして椅子に浅く座っていた。強士はその顔を見て、目を細めた。
﹁どうしたの?」
﹁いや。美以子、さすがだな。よかったよ、ピアノ」
﹁ありがとう。でも、ちょっとだけ間違っちゃったわ。強士くんにはわかったでしょ? ほら、終わりの方で音を飛ばしちゃったの」
強士はしばらく美以子を見つめていた。美以子の目つきはいつか見たのと一緒だった。ただ、いつのものか思い出せなかった。強士は肩をすくめさせ、正面を向いた。
結婚式は誰のものであってもさほど変わらない。仲人の挨拶があり、上司のスピーチがあり、キャンドルサービスがあった。周と実穂は二人の座るテーブルにもやって来た。中央にある蝋燭に火をともし、恥ずかしそうに笑った。強士と美以子は拍手をしながら周の顔を見つめていた。
﹁周くんも緊張してたみたいね。あんな顔してるのはじめて見た気がする」
美以子はそう言ってきた。
﹁そうか? 余裕があるようにみえたけどな。周は演じるのが上手だ」
﹁演じる? 強士くん、そういう言い方はあまりよくないわよ。周くんは精一杯やってるんだから」
強士は目許をゆるませた。新郎新婦は会場から出ていった。お色直しをするようだった。
﹁なんで笑うの?」
﹁いや。美以子に叱られるのも久しぶりだと思ってさ。昔よく言われたもんな。﹃もうちょっと笑って』とか﹃もうちょっと話しなさい』って」
﹁さっきも言ったわ。ほら、顔がまた硬くなってる。もうちょっとわかりやすく笑った方がいい。強士くんの顔は怖いんだから」
顔を手で覆い、強士は昔したように表情を整えさせた。それを見て、美以子は笑った。
﹁うん、それでいい。自然な笑顔になってる」
二人は二次会にも出た。ホテルの近くにあるダイニングバーのような店でそれは行われ、そこにも大勢の人がいた。ただ、大学時代の友人や職場の人間が多く、二人はやはり隣の席についていた。
﹁美以子、ピアノ弾いてくれてありがとうな。すっごくよかったぜ」
周の顔は真っ赤になっていた。飲まされたのと疲れもあるのだろう、目は重たそうになっていた。
﹁それに強士のスピーチもよかった。俺、ほんとに泣けてきたよ。ま、あれだけ長くしゃべる強士を見るのはじめてだったから、泣くより驚く方が強かったけどな」
﹁うん、ほんとうにいいスピーチだった」
美以子は穏やかに笑っていた。
﹁私もすこし泣きそうになっちゃったもん。昔のこと思い出して」
﹁ほんとかよ」
強士はネクタイをゆるませ、ジャケットのポケットに手を突っこんでいた。
﹁あと、いい笑顔でもあったぜ、強士。それも驚きだった。あれだけ長く笑顔を保てるようにもなったんだな」
大声で美以子は笑った。目尻に指をあててもいた。
﹁周くん、そんな言い方ってないわ。だけど、スピーチの前はすごく緊張した顔してたのよ。かたまっちゃってて大変だったんだから」
﹁美以子に叱られたよ。ほんと久しぶりにね」
﹁﹃ほら、強士くん、顔がかたまってるわよ。もうちょっと笑って』ってだろ? 俺もいい加減にしないと怒られそうだな。﹃周くん、しゃべり過ぎ』って」
﹁やめてよ。それじゃ私がいつも怒ってたみたいじゃない」
周も大きな笑い声をたてた。それまで友人たちにつかまっていた実穂は微笑みながら近づいてきた。
﹁お邪魔しちゃっていい?」
﹁なに言ってるの。今日の主役は実穂じゃない」
美以子は実穂に駆け寄り、軽く抱きしめた。
﹁美以子、ありがとね。あんたにお願いしてよかったわ。私、あれ聴いた瞬間に涙がダーって溢れてきたもの」
﹁ほんとう?」
﹁ほんとだよ。隣で見ててびっくりした。それに、ちょっと心配にもなったな。入場のときから泣いてちゃ、結婚したくないように思われるんじゃないかってさ。だけど、それだけ感動したってことだろ」
周がそう言うと実穂はその隣に立った。美以子は眩しそうに二人を見ていた。
﹁だったらよかった。私、最後の方でちょっと間違っちゃったんだけど」
﹁そんなの全然わからなかったわ」
﹁きっと強士くんにはバレてたでしょうけど、強士くんは優しいから気づかない振りをしてくれてるの。ね?」
美以子は強士に近寄り、腕を組んできた。周は首をすこし引いて二人を見た。強士も首を曲げ、美以子の顔を見つめた。
﹁あ? いや、ほんとに気づかなかったんだよ。まったくわからなかった」
幹事が大声でなにか言ってきた。店の奥には扮装をした者たちが集まっていた。出し物でもはじまるのだろう。周は実穂の背中に手を添えた。
﹁じゃ、またな。あっちに行かなきゃならないみたいだから」
﹁ああ」
強士はそっと美以子の横顔を見た。その表情に変わったところはなかった。ただ、瞳の色だけは別だった。
﹁はーい、注目ぅ。これから私たちの愛しい周様を奪い去った憎っくき新婦にインタビューしたいと思いまぁす。きちんとこたえてくれないと周様にはひどい罰が下るので嘘偽りないところを聴かせてくださいね。じゃあ、まずは二人の馴れ初めから――」
周は赤いロープで椅子に縛りつけられていた。実穂はすこし離れたところに立たされ質問されつづけた。笑い声がそのつど響いた。美以子は組んだ腕に力をいれ、さらに身体を密着させてきた。
﹁じゃ、嫌々ながらですけど周様をお返ししましょうか。そのかわり、ここで本気度マックスのキスをしてもらいますけど」
囃したてる声と手拍子が混じりあい、店の中は大騒ぎになった。周と実穂は扮装した者たちに囲まれながら恥ずかしそうに見つめあっていた。
﹁まるで茶番だ」
強士がそう呟くと、美以子はふっと顔をあげた。そのときに強士は思い出した。あのときの目だ。土手の上の道、吹き抜ける風、色づいた葉。美以子の瞳にはあるべき黒が失われていた。
﹁ほらぁ、早くしないとまた縛っちゃうわよ!」
笑い声は強まった。周は口許をゆるめ、顔を実穂に近づけさせた。美以子の身体が硬くなっているのを強士は感じた。二人の唇が合わさると拍手や口笛が鳴り響いた。すべてが終わり、周と実穂が前を向いた瞬間に美以子の強張りはとれた。強士は首を弱く振った。
それからも強士にとっての茶番はつづいた。美以子はずっと笑顔ではあったものの瞳の色はやはり薄くみえた。二人はしばらく離れ、強士は窓際に立って外を眺めた。月が出ていた。満月だ。やけに黄色く見えるそれはまるで誰かが暗い背景にきらきら輝く真円を貼りつけたみたいだった。すべてが仕組まれたものであるかのようにすら思えた。強士は子供の頃のことを――雪が降りそうだった日のことを思い出した。神社の境内で俺は目に見えぬ観衆に取り巻かれている気になった。あたえられた役割を演じるよう強制されていると感じた。振り返ると笑いあう者たちは見知らぬ人間で、この茶番に参加しているとも、ただ観ているとも思えた。強士は周の言葉を思い浮かべた。﹁俺たちは騎士だ。だから、お姫様を助けなきゃならない」
馬鹿げてる――強士はそう思い、周のいる方を見た。
美以子は隅の方に立ち、かわるがわる声をかけられている実穂を斜め後ろから見つめていた。顔の近くには細長い鏡が嵌めこまれた壁があり、しかし、彼女はそれを見たくなかった。自分の中に意味が多重にあらわれているのを感じていた。それまでに経験したことは有り様を変え、理解しがたいことになっていった。ただ、その方がよかった。事実をそのまま受け容れることは難しかった。複雑で曖昧なものは見えづらいぶん安心させてくれた。
﹁あれ? 美以子、どうしちゃったの?」
﹁え?」
美以子は瞳の色を変えた。舞台に押し出されたかのように自分がすべきことを思い出した。
﹁どうもしてない。それより、実穂、ちょっと顔色悪いんじゃない?」
﹁そう? まあ、疲れてはいるけどね。だって、朝からずっとよ。いろんな人に﹃おめでとう』って言ってもらえるのはいいけど、」
実穂はすこし声を低めた。
﹁あんまり知らない人もいるじゃない? そういうのの相手するのは疲れるものよ。でも、美以子は別。あんたと一緒だとほっとするわ」
﹁ありがとう」
美以子は笑った。自分ではそのつもりでいた。
店を出てから強士と美以子はしばらくその場に立ちつくした。高速道路の高架下を車が連なっているのが見えた。ビルの窓には意味があるかのように明かりが幾つか配されていた。強士はだらしなく着崩れたスーツ姿で片手をポケットに突っこみ、美以子は姿勢を正して両手に引き出物の大きな袋をさげていた。実穂言うところの﹁真顔の二人組」はまさに表情を変えず互いを見あった。
﹁強士くん、すぐ帰らなきゃならないの?」
﹁あ? いや、」
強士は時計に目を落とし、息を深く吐いた。
﹁まだ大丈夫だけど」
﹁だったら、すこしだけつきあって。私、今日はいろいろあったからまだ気持ちが落ち着かないみたいなの」
二人は適当な店に入り、ビールを頼んだ。大きな窓の外には白い花をつけたハナミズキが見えた。その奥にはやはり車列があった。ひしめきあう車はずっと見てないと動いていないように思えた。強士は目を細め美以子の瞳を確認した。色は戻っていた。
﹁憶えてるか?」
彼はそう言ってビールに口をつけた。
﹁え?」
﹁将来なにになりたいかって話したことあるだろ? 美以子はピアニストになりたいって言ってた」
﹁うん。憶えてる」
﹁ほんとになったもんな。すごいよな。今日、美以子の演奏聴いててそう思った。実感したんだな。十年前に言ったことをほんとうにしたんだって」
﹁すごくなんてない。ピアニストっていっても私みたいのはそう名乗っていいかわからないくらいだもの」
﹁そんなことないだろ」
美以子はなにか言いたく思った。でも、言葉は出てこなかった。首を静かに動かし、外を歩く人を見た。背中が遠くなるまで眺めていた。
﹁そんとき美以子は言ったよな。俺のこと、小説家になりたいんだって思ってたって。それも憶えてるか?」
﹁憶えてるわよ、それも」
ゆっくりと首を戻し、美以子は強士を見つめた。その表情は見覚えのあるものだった。美以子は口に手をあてて微笑んだ。あのときと一緒だ。周くんと私はさんざん笑ったっけ。
﹁なにか書いてるの?」
﹁まあね」
ネクタイを引っ張りながら強士はうつむいた。
﹁すこしずつだけど書いてる。だけど、小説家になりたいってわけじゃない。自分でもよくわかってないんだけど、そういうんじゃないんだ」
﹁どういうこと?」
肘をテーブルにつき、強士は前屈みになった。どういうふうに言えばいいかわからなかった。ただ、美以子に知っていて欲しかった。自分がなにをしようとしているか。
﹁高校一年のとき、美以子は発表会で二曲弾いた。﹃木枯らし』と﹃亡き王女のためのパヴァーヌ』だった」
﹁うん」
﹁あのときのことを文章にしたいと思ってる。美以子のピアノを聴いてそう思ったんだ。ピアノの音も、ホールの雰囲気も、自分が感じたこともすべて書きたいって。だけど、なかなかうまくできない。だから、今は違うのを書いて訓練してる。いつかはあのときのことが書けるようにってね」
美以子は微笑もうとした。強士くんも私と一緒なんだ。あのときのことをずっと思い出そうとしてる。それに別の意味をつけ足そうとしてる。ただ、表情がうまく整わないのを感じていた。なにかが微笑もうとするのを邪魔してるのだ。
﹁ほら、周がよく言ってたろ。美以子の演奏聴いて泣いたって」
強士はテーブルに目を落とした。細長いグラスの表面は微細な水滴にびっしりと覆われていた。それらの幾つかが融合し、流れていく様を見つめた。
﹁俺は泣きはしなかったけど、あのとき、すごく――なんて言ったらいいんだろうな? その、心が激しく揺らいだんだ。あのときのことはずっと残ってる。鮮明にね。くっきりと残ってるんだ。どんな細かなことでも思い出せる。あまりにも憶えすぎていて、だから文章にできないのかもしれないな。なにを捨て、なにを取りあげなければならないかわからないくらい憶えてるんだ」
﹁どうして?」
美以子はそう言った。その声は自分の内にだけ響くようなものだった。ただ、強士はそれに気づかなかった。
﹁わからない。でも、憶えてるんだよ。あの日の太陽も、窓から見えた樫の木も、座席の感触もね。もちろん、美以子の弾いたピアノの音もだよ。今でもたまに聞こえる気になるんだ。ふっとね。なにかの具合で聞こえてくる。馬鹿げてるけど、これはほんとうなんだ」
強士は顔をあげ、残っていたビールを一口に飲んだ。それから恥ずかしそうに笑った。ホール係が近づいてきてグラスを引き去った。強士は同じものを頼んだ。
﹁酔ったみたいだな。さっき周にそうとう飲まされたから。それに、無口なくせして妙にしゃべりすぎだ。退屈だったろ?」
﹁ううん」
美以子は背もたれに身体を押しつけた。顎をすこし反らして強士を見た。
﹁そんなことない。退屈そうにみえた?」
強士は目を細めた。美以子の瞳はまた色が薄くなっていた。
﹁いや」とだけ強士は言った。コースターに新しいビールがのせられた。
﹁ねえ、強士くん」
顎を反らしたまま美以子はそう言ってきた。
﹁ん?」
﹁あなた、同棲してるんでしょ?」
﹁あ? ああ」
﹁結婚はしないの?」
強士は美以子の瞳をじっと見つめた。天井から吊られた明かりがそこには反射していた。まるで鏡のようだ――強士はそう思った。美以子にはなにも見えていないのかもしれない。目の前にいる俺のことも見えていないんだ。
﹁なんでこたえてくれないの?」
﹁ああ。いや、まだ結婚はしないよ」
﹁だけど、」
美以子は顔をしかめさせた。自分が出した声は聞こえていたけれど、なにを言ってるかわからなくなっていた。頭の中はすうっと透明になっていき、ただ感情だけがあるようだった。押しとどめようと思っても無理だった。美以子は胸に手をあて、半ば自動的に口をひらいた。
﹁だけど、いつかは結婚するんでしょ?」
﹁わからないよ。まだわからない」
﹁なんで嘘をつくの?」
﹁嘘?」
身体を寄せ、美以子は腕をテーブルにのせた。不要な物を置いたといった感じにだった。
﹁だって、そんなの嘘でしょ? 結婚するつもりがあるから同棲してるんだもの」
﹁どうしたんだよ」
強士はテーブルにのせられた腕を見ていた。手のひらは上向きになっていて、指は力なく内側に曲げられていた。
﹁どうもしてない。――ね、強士くん、憶えてる? 中一のとき、大勢でプールに行ったことあったじゃない」
﹁ああ、あったな」
﹁あのとき、私たちだけ迷子になっちゃったのも憶えてるでしょ? 私は強士くんについていったんだけど、どこにいるんだかわからなくなっちゃったの。強士くんって方向音痴だものね」
美以子の指はかすかに動いていた。まるでピアノを弾いているかのようにだ。
﹁で、周くんの声が聞こえてきて――ほら、いつも大声で話してるから、あの人。それで走ったんだけど、私が転んじゃって強士くんが起こしてくれたの。それから手をつないでみんなのとこに連れてってくれたのよ。憶えてるでしょ?」
﹁うん、憶えてるよ」
﹁よかった。ね、強士くん、手を握って。あのときみたいに私の手を握って」
強士はためらった。しかし、ゆっくりと腕を伸ばし、美以子の手に自分のを重ねた。それから、顔をあげた。美以子の頬は薄く染まっていた。白い肌の内に沈潜した赤がみえた。手は湿っていて、冷たかった。
﹁周くんはひどいわ。そうでしょう?」
美以子はまた顔をしかめさせた。まるで誰かが用意した台詞をそのまま口にしてるみたい――そう思っていた。しかし、思考は空回りをはじめた。感情だけが溢れてきた。
﹁どうして?」
﹁だって、いつだって私たちをおいていっちゃうじゃない。で、自分だけ楽しんでるの。今日もそうよ。私たちをおいてどこかに行っちゃったわ」
﹁そうじゃないよ。周は俺たちをおいていったんじゃない」
強士は不思議な気分になっていた。子供の頃の美以子と話してるように思えたのだ。自分と知りあった頃の――いや、それよりも子供なのかもしれない。美以子は痛いくらいにしっかりと手をつかんでいた。
﹁それも嘘。周くんはどこかに行っちゃったじゃない。ね、強士くん、前に言ってたでしょ。周くんは私のことが好きなんだって。あれも嘘だったのね。ひどいわ」
﹁いや、周は美以子のことが好きだった」
﹁嘘よ。じゃあ、なんで周くんはいなくなっちゃったの? 私は周くんのことが好きだったのに」
﹁美以子」
目をつむって強士はそう言った。身体は重たくなっていた。鉛を詰めこまれたような気分だった。手がゆるんだ。強士は目をあけた。美以子はなにかを探してるみたいに首を左右に動かしていた。
﹁どうした?」
﹁しっ」
鼻先に立てた指をあて、美以子は首を動かしつづけた。
﹁聞こえない? ﹃ギチギチギチ』って音。なにかを潰してるみたいな、そうでなかったら重たいものを無理に引きずってるような音。ほら、今もした。強士くんにも聞こえるでしょ?」
強士は耳を澄ましてみた。しかし、周囲からの話し声しかしていなかった。
﹁ね、聞こえないの?」
﹁ああ、聞こえない」
﹁嘘よ。こんなにはっきり聞こえるじゃない。﹃ギチギチギチ』って」
美以子は強士の方を向いた。色を無くした瞳がふたつあった。頬はすこしばかりゆるみ、笑顔をつくろうとしているのがわかった。
﹁そう、これも中学のときだけど、私が河原に連れ出されて、あなたと周くんが探しに来てくれたことあったじゃない。あのときにも聞こえたわ。枯れた草の奥から﹃ギチギチギチ』って。私、なにがこんな音をさせてるのか見てやろうと思ったの。だけど、ちょうどそのとき声が聞こえてきたの。私を探しに来てくれたあなたたちの声よ。だから、私はそこから離れた。たぶん、あなたたちを守ろうって思ったのね。それに近づけさせちゃいけないって思ったのよ。間違った方へ導こうとするその者からあなたたちを遠ざけたかったの」
﹁間違った方?」
﹁そう、間違った方」
美以子の手は強さを増した。強士は細く息を吐いた。
﹁だけど、周くんは守れなかったのかも。実穂なんかと結婚しちゃったんだもの。ね、ひどいでしょ。周くんは私のこと好きだったはずなのに、実穂なんかと結婚して。許せないわ。強士くん、あなたもよ。あなたも私の知らない人と同棲してるんだもの。私はあなたたちを守ろうって思ってたのに」
﹁美以子」
強士は手を握りしめ囁いた。
﹁なあに?」
﹁もう帰った方がいい。疲れてるんだよ。それにすこし酔ってるのかもしれない。そうだろ? な、帰ろう。送ってくから」
﹁嫌よ」
美以子は背中を椅子にあてた。顎を反らし、強士を見つめた。
﹁そう言って私をひとりぼっちにさせようってんでしょ。わかってる。いつだってそうだった。みんな嘘ついて私をひとりにしようとするの。ね、強士くん、もっとちゃんと手を握って。私をひとりにしないで。私は大丈夫だから。疲れてなんかないし、酔ってもない」
﹁ひとりになんてしないよ。だから、帰ろう。ちゃんと家まで送るから」
﹁嘘よ」
美以子は強士を見つめてそう言った。自分ではそれまで通りに言ったつもりだった。しかし、強士は驚いたような顔をしていた。彼だけではなかった。隣の席にいた者も美以子を見つめていた。ホール係の男が怪訝そうな顔で近づいてきた。
﹁なんでもないよ。大丈夫だ」
強士は顔をあげてそう言った。
﹁彼女は疲れてるんだ。それにすこし酔ってる。だけど、大丈夫だ」
それを聞いているうちに美以子の顔は色を変えた。感情は押しとどめられなかった。今度は自分でも大きな声を出しているのがわかった。
﹁私は疲れてない。酔ってもないわ。なんでそんな嘘をつくの?」
﹁美以子」
鋭い声を出して強士は美以子を見た。それから、店員にもう一度﹁なんでもないんだ。大丈夫だから」と言った。
ホール係はさっと美以子を見て軽く頭を下げ、立ち去ろうとした。美以子にはそれが気にいらなかった。いや、なにが気にいらないのか自分でもよくわからなくなっていた。ただ、あらわれた感情は怒りであり、それを感じたときに彼女は叫んでいた。
﹁嘘つき! みんなして私に嘘をついてる!」
隣の席にいた二人は腰を浮かして美以子と強士を見ていた。ホール係は振り向いた。奥からも三、四人やって来てテーブルを囲んだ。
﹁大丈夫ですか?」
美以子はそう言った男を睨みつけた。すっと立ちあがり、叫んだ。
﹁大丈夫よ! 私は大丈夫! なんでみんなしてそう訊くの? 私は大丈夫なのに!」
﹁美以子!」
強士は手を伸ばしかけた。美以子は脚をひらき、両手をだらりと下げていた。瞳の色は完全に失われていた。まるで放心したかのようだった。しかし、突然グラスを取ると、それをテーブルの角にぶつけた。ガラスの砕ける音が響き、ぬるい液体は彼女の脚にもかかった。
え? と美以子は思った。濡れたことでなにをしたかがわかった。しかし、すぐに知覚は鈍くなった。彼女は崩れるように座り、口を半分あけたまま前だけを見ていた。強士のいるのがわかった。でも、それくらいしかわからなかった。強士は店員になにか言っていた。美以子はふたたびテーブルに腕を投げだした。足許ではガラスを片づけるような音がしていた。彼女は指先をかすかに動かし、強士の手を探していた。
﹁強士くん?」
美以子は囁くような声を出した。
﹁強士くん、私の手を握って」
店を出ると強士はタクシーを探した。美以子は震えていた。コートを羽織らせ、肩を強く抱いても震えはおさまらなかった。強士は考えつづけていた。どうしてこんなことになってしまったんだ? ただ、どんなことが起こってるのか理解できていなかった。思考はある程度まで進むと止まった。
﹁強士くん、離れないでいて。私をひとりにしないで」
美以子は何度も呟くように言ってきた。
﹁わかってる。大丈夫だ」
そう、大丈夫だ。なにも問題ない。彼は自分に言いきかせた。それから周の顔を思い浮かべた。周、どうすりゃいいんだ? 俺は美以子になにができる?
タクシーに乗り込むと彼は美以子のバッグから免許証を探し、その住所を伝えた。運転手はルームミラー越しに美以子を見つめ、すこし目を細めた。タクシーは車列の中に入っていった。美以子は頭を強士の胸におき、かたく手を握りしめてきた。震えはとまったかと思うと、またはじまった。
﹁強士くん?」
﹁ん?」
﹁どうしちゃったんだろ。自分がなにをしたかわからないの。あなたにひどいこと言ったんでしょ? ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」
﹁大丈夫だよ。わかってる」
強士はうつむいた。しかし、美以子の頭しか見ることはできなかった。手の甲には涙が落ちてきた。強士は顎をかたくさせ、正面を向いた。なにが大丈夫で、なにをわかってるっていうんだ? 黄色い月がフロントガラスの右上辺りにあった。過ぎ去っていく明かりとは違って、月はその場所から動かなかった。まるで目印のようだ――強士はそう思った。向かうべき場所を示す目印。しかし、大きなカーブを曲がるともう見えなくなった。強士は口をゆるめさせた。俺はなにを求めてるんだ? 奇跡的な力か? すぐに自分が真顔になっていくのがわかった。運転手が強士の顔を見た。彼は弱く首を振ってみせた。
﹁強士くん、私――」
美以子は小さくそう言った。強士は美以子の頭を撫でた。
﹁大丈夫だ、美以子。俺はここにいる。後でゆっくり話そう」
美以子の部屋はとても簡素で、ピアノがあるのを除いたら住んでいる者の生活を想像させるものはほとんどなかった。強士は窓際に立ち外を眺めた。タクシーで見たのと同じ月が輝いていた。二次会の会場で見たのとも同じはずだった。模造品のような月だ。雲もなく際をくっきりとあらわす月はほんとうに作り物のようだった。強士は音楽室の窓から見た景色を思い出した。演劇部の連中はなにをやっていたんだろう? 騎士の物語、あるいはお姫様の物語か? 強士は力なく首を振り、ガラスに浮かぶ顔を見つめた。俺はいまどんな役をしてるんだ?
美以子は部屋に入るなり長いこと強士を見つめ、寝室へ入っていった。その表情について彼は考えた。泣いた後だから瞼は腫れていたけれど、それ以外はいつものものにみえた。昔から知ってる美以子の表情だ。そういえば泣いた顔を見たことなかったな――強士はそう思った。寂しそうにしてるのは何度も見たし、泣きそうになったこともあった。ただ、美以子は泣いたりしなかった。激しい感情をあらわしたのもあの発表会のときだけだった。
どうしてこんなことになってしまったんだろう? でも、じゃあ、どんなことになってるんだ? それだって俺はわかっていない。書いているものと同じにストーリーは勝手に動きだし、戸惑わせる。この後はどうつづくんだ? そして、結末はどうなる? 強士は顔をごしごしと擦った。結末? 結末ってなんだ?
﹁電気つけなかったの?」
美以子の声がした。強士は振り返り、薄暗い中に立つ美以子を見た。寝室のドアは薄く開けられ、明かりがすこし洩れていた。美以子は白いワンピースに着替えていた。
﹁スイッチ」と言って美以子は足を前へ出した。
﹁どこにあるかわからなかった?」
﹁ああ」
強士はふたたび窓の外を眺めた。美以子は隣に立ち、その横顔を見た。身体中を血が巡っていくのがわかった。この気持ちは子供の頃から変わってない、と思った。二人は黙ったままでいた。まるで雪が降っているみたいにさやさやと音をたて月光は降りそそいだ。積もらないのが不思議だ――強士はそう思っていた。
﹁落ち着いたようなら帰るよ」
美以子は手を握ってきた。
﹁駄目。帰らないで」
﹁いや、」
強士は美以子に向きなおった。顔の半分には月光があたり、もう半分は暗くなっていた。瞳の色は薄く、そこから涙が溢れかかっていた。強士は腹の奥に熱いものがあらわれたのを感じた。久しぶりの感覚だった。彼も手をかたく握った。しかし、こう言った。
﹁帰るべきだ」
美以子は瞳を閉じた。溢れかかっていた涙はあらかた落ちていった。彼女は身体を寄せた。そう、肉体が求めてるんだ。私の肉体は確かなものを求めてる。強士くんならきっとそれをあたえてくれるはず。
﹁離れないって言ってくれたでしょ? 後で話そうって」
叫ぶようにそう言うと美以子は抱きついてきた。強士はふっと窓の外を見た。月の輝きは時が経過しているのを否定しているようだった。この部屋に入ってから一秒も経っていない。そう思わされた。美以子の身体は小刻みに震えていて、今どうにかしてあげないと溶けて消え去ってしまうように思えた。
﹁ひとりにしないで。怖いの。どうにかなっちゃいそうで怖いの」
美以子はさらに身体を押しつけてきた。背中にまわした手はなにかを探しているかのようにせわしなく動いていた。強士は腕をゆっくりとあげた。彼の手が触れると美以子は大きく身体を震わせた。それきり細かな震えはとまった。
﹁ああ――」
そう声を洩らし、美以子は強士の首筋に頬をあてた。強張っていた身体がゆるんでいくのを感じていた。こうなるはずだったんだ。いろんなことが邪魔をして、こうなることを妨げてた。もっと早くにこうしていたかった。そうすれば私は間違ったりしなかったんだ。
一度美以子の身体を抱きしめると強士はなにも考えられなくなった。美以子は顔を寄せ、強士を見つめた。唇は半ばひらかれていて、それは非常に大切な言葉を囁こうとしているようにみえた。顔の半分はやはり輝いていて、強士は模造品のような月を思い浮かべた。――これは劇なんだ。俺ははからずも舞台に立たされた役者だ。筋書き通りに演じることを求められている役者なんだ。だったら、それに従うしかないじゃないか。強士は色の薄い美以子の瞳を見た。それから、唇を覆った。
寝室の明かりを消すと美以子はベッドに横たわった。その部屋にも鈍く月あかりは洩れ入っていた。強士はベルトをゆるめズボンを脱ぎ、もどかしそうにシャツのボタンをはずした。ワンピースをたくし上げると彼は驚いたように美以子の顔を見つめた。彼女はその下になにもつけていなかった。白い肌の内側はうっすらと赤味がはしり、全身が薄い汗で湿っていた。強士は口でその肌に触れた。指や唇が這うと美以子は身体を捩らせ、弱く声を洩らした。長い髪は乱れ、幾つもの複雑な線を枕に描いた。
美以子は不思議だった。すごく濡れているのがわかったからだ。強士を受け入れるときも痛みはなかった。二人はなにも言わずに互いの息づかいだけを聞いていた。美以子は首をのけぞらせた。息は間歇的になっていった。ふとなにかが思い浮かぶと強士は目を見ひらいた。美以子は口を大きくあけ、両腕を上へ伸ばしていた。それを見るとなにも考えられなくなった。今のことだって理解できていないんだ、それも当然だ――彼はそう思うようにした。
すべてが終わると彼らはタオルケットをかぶってそのまますこし眠った。先に目を覚ました強士は丸まって寝ている美以子の顔を見つめた。それから天井に目を向け、しばらくそこを見ていた。どれくらいの時間が経ったのかわからなかった。部屋は月あかりに満ちていて、さやさやという音が聞こえてくる気がした。もし月の光が降り積もるものなら俺たちは今頃その下に埋もれているはずだ。この息苦しさはきっとそれによるものなんだろう。そう考え、強士は弱く首を降った。――馬鹿げてる。すべて悪いことは外からやってくるというのか? これは俺のしたことだ。それに、俺たちがやってきたことの結果なんだ。
目をつむり、強士は深く息を吐いた。周、これでよかったのか? 俺たちは美以子を守ってきたのか? 傷つけてきたんじゃないか? いや、誰かが悪いわけじゃない。これは決まっていたことなんだ。あんな状態の美以子を放っておけるわけないじゃないか。あたえられた役割を演じるように俺はすべきことをしただけなんだ。そう、この劇はこういう筋書きだってことだ。強士は唇をきつく噛んだ。――しかし、この展開はひどい。
﹁それこそ悲劇だわ」
佐和子にそう言われたことを思い出し、強士は目のまわりを手で覆った。吐く息は自然と深いものになった。横を向くと美以子は目をあけていた。
﹁なに考えてたの?」
﹁ん?」
美以子の表情はごく普通のものにみえた。今日一日のこと――とりのぼせたようになったことや、ついさっきまで自分たちがしていたことなど知らないといった顔つきだった。美以子は天井を見あげ、かすれた声を出した。
﹁私、夢見てた。最近よく見る夢よ」
強士も天井を見た。洩れ入る光が窓際を鈍く照らしていた。しかし、その逆側は仄暗かった。
﹁その夢の中だと強士くんは犬なの」
﹁なんだよ、それ」
﹁夢の話よ。私だって強士くんがなんで犬なのかわからない。でも、そういう姿で出てくるんだもの。でね、私はなにかに追われてるの。よくそういうのあるでしょ?」
﹁ああ、俺もたまに見るな。そういうの」
﹁私は知らない町にいて、なにかに追われてるの。その町はね、すべての建物が壁に囲まれてるの。ものすごく高い壁よ。よじ登ることなんてできそうもないくらい高い壁」
美以子はずっと同じ調子で話していた。なにかを読んでいるかのようだった。強士は首を曲げ、その顔を見た。
﹁私はどこかに逃げこみたいの。だけど、建物には門もあって、かたく閉ざされてるの。だから、走るしかないの。私って走るの苦手なのよ。知ってるでしょ?」
﹁ああ、そうだったな」
﹁夢の中でもそうなの。なにが追いかけてくるのかわからないんだけど、私はとにかく怖いの。逃げなきゃいけないって思ってるの。でも、もう走れない、助けて欲しいって思うの」
﹁そこで俺が出てくるってことか?」
﹁そう。でも、強士くんは犬でしょ。助けてはくれないのよ。こっちだってふうに先導してくれるだけ。だけど、そっちに向かって走っていくと行き止まりになっちゃうの。高い壁に囲まれた場所で私たちは足をとめるの。そしてね、そこには周くんがいるの」
﹁なるほど」
強士はそう言って窓の方を見た。風が出てきたのだろう、窓枠は軋んでいた。
﹁やっとご登場ってわけだ」
﹁周くんはなんだと思う? 猫よ。高い壁の上にいて、私たちを見おろしてるの。たまにみせるでしょ? お前たちは子供だなって目つき」
﹁そうか?」
﹁そうよ。昔はそうじゃなかったけど、大人になってからはよくそういうふうに見てたわ。まあ、そんな感じに猫の周くんは私たちを眺めてるだけなの」
﹁それでどうなるんだ?」
﹁わからない。いつもそこで目を覚ますのよ」
美以子はずっと天井を見たまま話していた。それこそ夢を見ているような顔つきだった。
﹁怖い夢なんだけど、それを見るとすこしだけ安心するの」
﹁どうして?」
﹁それもわからないわ」
美以子は身体を起こした。髪がさらさらと裸の肩に落ちかかった。強士は肘をついて美以子を見た。姿勢を正した美以子は凜としていた。裸でなかったら中学生の頃となにも変わっていないように思えた。
﹁ねえ、強士くん?」
その声も聞きなれたものだった。強士は自分が変化したことを感じた。自分や周は大きく変化をし、美以子だけが取り残されてしまったのではないか、と思った。
﹁私は大丈夫よ」
美以子は強士の目を見つめた。そう、私は大丈夫――と心の内で復唱した。
﹁今日、強士くんがしてくれたのは私を助けたってこと。私、ちょっと混乱しちゃったの。ずっと仲良しだった三人の関係が壊されたって思ったのかもしれない。ほんというとよくわからないんだけど、でも、私が混乱して、それを強士くんが助けてくれたってことに変わりはないわ。そうでしょ?」
手を伸ばし、美以子は強士の頬に触れた。指先は非常に冷たく、血が通っていないかのようだった。
﹁私の言いたいことわかる?」
美以子の指は顔を這っていった。指先の感覚でかたちを記憶にとどめようとしているかのようにだ。強士はただ美以子の瞳を見ていた。
﹁わからなくてもいい。私がわかってればいいの。あなたがしてくれたことは私の助けになった。そうとだけ思っていてくれればいい。でもね、私はわかってる。このことの意味がわかる。強士くんは私をしっかりしたものに繋ぎとめてくれた。これからだって、きっとそうしてくれる。そう私が思えさえすればいいの」
強士も起きなおった。真顔の二人は裸で向きあった。強士は美以子の手をとり、握りしめた。なにかは言わなければならない――そう思っていた。しかし、美以子は表情を寂しそうなものにかえた。強士がこれから言う台詞を知っていて、それを聞きたくないといった表情だった。
﹁強士くん、あのときのことを書きたいって思ってるんでしょ?」
手をかたく握って美以子はそう言ってきた。
﹁あ? ああ」
﹁書いて欲しい。それで、私に読ませて欲しい。私、いろんなことがわからなくなってるの。すべてのことに自分なりの意味をあたえてたら事実が見えにくくなったみたい」
美以子は髪を耳にかけた。
﹁だから、知りたいの。事実を。――ね、私も書くわ。強士くんにお手紙を書く。子供の頃から今までのことを書くから読んでもらいたい。私がなにを考え、どう感じ、行動してきたかを素直に書く。それを読んでもらいたいの。それに、強士くんが書きたいって思ってるものに役立つかもしれないでしょ?」
強士の中には文章の断片らしきものが幾つも浮かんでいた。これまで書こうとして断念したものが無作為に出てきたのだ。彼は目をつむり、首を激しく振った。
﹁どうしたの?」
﹁いや、」
呟くように強士は言った。
﹁書けないよ。自分のことはうまく書けない。いまわかった。美以子の言う通りだ。俺だってすべてのことに自分なりの意味をあたえてきたんだ。そこにはもう事実なんてない。だから、書けなかったんだ」
﹁でも、」
美以子は指をきつく絡ませてきた。顔を近づけ、強士の目を覗きこんだ。
﹁書いて欲しい。私も書くから、お願い。そうしていれば大丈夫だって思えるの。私の言葉が強士くんの言葉になるって思えたら、これからもやっていける。だから、書いて。時間がかかってもいい。私たちがおじいちゃんやおばあちゃんになってから読むのでもいい。ね、だから、書いて」
強士は目線をさげた。頭の中はすっと透明になっていった。なにも考えることなんてできなかった。ひとつだけわかっていたのは非常に重要な決断を迫られているということだった。ただ、強士は美以子の瞳を見つめ、こう言った。
﹁わかった。書くよ。書きあげてみせる」







₁
₂
₃
﹁待ったか?」
﹁いや、それほどじゃないよ。俺もさっき着いたばかりだ」
腕時計を見ながら周はこたえた。空は濁ったように灰色で、陽光がまだらに道を照らしていた。
﹁車で来たんだろ?」
﹁ああ。強士も乗せてくりゃよかったよ。二時間も黙ってるのは単純にキツイもんだ」
強士は周の全体を眺め、すこしうつむいた。それからポスターを見た。
﹁どうかしたのか?」
﹁は?」
﹁なんだか様子が違うぜ」
﹁そうか?」
強士はそう言ってからふっと笑った。
﹁前にちょうど逆のことを言いあったな。憶えてるか?」
周は曖昧な顔つきをして、ポスターの方へ身体を向けた。ホールへ入る者たちは背後をぞろぞろと歩いていた。ポスターには美以子の他に六人の写真が載っていた。全員が前を向き、控えめな笑顔をみせていた。二人も入口へ向かった。
﹁ほんと久しぶりだな。前に会ったのは俺たちの結婚式だった。ってなると、もうすぐ四年ってことか? 長い時間だ」
﹁ああ、長い時間だ。そういえば子供ができたんだって?」
﹁まあな。やっとできたよ。実穂も来たがってたんだけど、今は安静にしてた方がいいんだってさ。ま、近場ならまだしもこんなとこまでってなると――」
そう言って周は入口の看板を見あげた。
﹁よしといて正解だったな。俺たちの田舎も相当のもんだけど、それよりすごいとこだ。道が悪くてさ、腰がやられたよ」
周が電話をかけているあいだ、強士は大きな窓から外を見ていた。落ち着かない気分になっていた。自分が間違った存在になったかのように思えたのだ。雲は切れ、陽射しが中庭を照らしていた。花を落としたばかりの桜は薄緑の葉を出しはじめていた。不確かな状態にいても季節は巡っていく。花は散り、葉が萌え出て、やがて大きくひらく。それが夏の陽を浴び、秋の終わりに落ちていく。もうすぐ四年だ。そのあいだ俺と美以子は間違ったことを重ねてきた。どうしてこんなことになった? いずれは破綻がくる。佐和子は気づくだろう。いや、もう気づいてるかもしれない。だったら、どうすればいい?
美以子は頻繁に手紙を書いてきた。はじめは三人が出会った頃のことが書かれ、それからもっと子供だったときのことが綴られるようになった。その文章は一見してごく普通のものだった。しかし、どことなく奇妙に思えるところがあった。一貫性がないとまではいえないものの、乏しさを感じさせた。そして、何通かに一度は耐えられないほどの寂しさを訴えてきた。そのたびに強士は美以子の部屋を訪ね、身体をあわせた。
ピアノを弾いて聴かせてくれることもあった。強士は﹃亡き王女のためのパヴァーヌ』を頼むことが多かった。それを聴いていると昔のことが思い出された。そういう話をすることもあった。美以子は穏やかに微笑みながらしゃべった。どこにもおかしなところなど感じさせなかった。
﹁書いてるの?」
そう訊いてくることもあった。強士は﹁書いてるよ」とこたえるようにしていた。しかし、それは嘘だった。他のものは書いていたけれど、自分たちのことについては手をつけてもいなかった。
﹁だけど、うまくまとまらないんだ。ま、すこしずつ書いてくよ」
﹁私の手紙は役に立ってる?」
﹁ああ、助かってるよ。忘れてたことも多いからね。それに、ひとつの出来事でも視点が変わると違う面が見えてくる。そういうのは重要なんだ」
﹁だったらよかった。私、もっと書くわ。強士くんの役に立てるなんてうれしいもの」
部屋を出ようとすると美以子はきつく身体を押しつけてきた。強士はその瞳を見つめ、なんともいえない気分になった。美以子が見ているのは俺じゃない。いや、俺ひとりじゃない。色の失われた瞳を見ると、そう思ってしまった。何度身体をあわせてもその思いを拭い去ることはできなかった。
﹁――強士! 強士!」
周の声が聞こえてきた。強士は目を幾度も瞬かせてからゆっくりと振り向いた。
﹁あ?」
﹁どうしたんだよ、ぼうっとして。裏からまわって楽屋に行けば会えるってよ。行くだろ?」
﹁ああ、悪い。行こう」
周はしばらく強士を見つめ、肩をすくめさせた。深刻さがたちあらわれたような気分になっていた。それがなにか彼は考えたくなかった。ただ、そう思える理由はなんとなくわかった。
美以子は白いドレスを着ていた。強士はその姿を見て激しい既視感に襲われた。前に見たのと同じドレスだったからだけではなかった。すべてのことが既に定まっていて、それをただこなしていってるように思えたのだ。強士は馬鹿な考えを消しこむため目を手で覆った。美以子は頬を染めて二人を交互に見つめた。
﹁うれしい。二人とも来てくれるなんて。実穂も来てくれたらよかったのに。だけど、そういうわけにもいかないんでしょ?」
﹁ああ、なにしろこれになったからな」
周は腹の前へ手を突き出してそう言った。
﹁元気なの?」
﹁元気だよ。ちょっと元気すぎて困るくらいだ。妊娠したらおとなしくなるかと思ってたけどな」
二人は声をたてて笑った。強士はドアの前に立ち、ただそれを見ていた。
﹁赤ちゃんができるんだから元気すぎるくらいがいいんじゃない? ま、実穂がおとなしくなったら、それはそれで笑えるけど」
﹁伝えとくよ。美以子がそう言ってたってね」
﹁やめてよ。実穂に怒られちゃうわ」
美以子は首を伸ばして強士を見た。その瞬間、口許にはそれまでと違った表情があらわれた。
﹁どうしたの? 強士くん。そんなとこにずっといて」
﹁あ? ああ」
強士も表情を整えて一歩前に出た。周はその顔をじっと見た。
﹁私、ほんと久しぶりに大きな舞台に立つじゃない? だから、すっごく不安だったの。でも、二人の顔を見て安心できた。これでちゃんと弾けるように思える」
﹁大丈夫だよ、美以子なら。俺は二時間もかけて泣きに来たんだぜ。ハンカチも二枚持ってきた。ほら、見てみろよ。冗談じゃなくほんとに持ってきたんだ」
周はポケットとバッグからハンカチを取りだして見せた。笑顔でそれを振ってもいた。
﹁だから、いつもみたいに泣かせるの聴かせてくれよな。終わったら泣き腫らした後の顔を見せにくるよ。今日は洗わずにおくからさ」
﹁いやだ。――でも、頑張るわ。今日こそ周くんを泣かせてあげる」
二人は強士の方を見た。美以子の瞳は色が薄くなっていた。強士はそれに気づいていた。
﹁じゃ、強士の番だな。いや、懐かしいな、こういうの。ほら、なんか言ってやれよ」
強士はまた前へ出た。自分が真顔になっているのがわかった。それをやめなければと思っても、うまくいかなかった。
﹁美以子、」
そうとだけ言って強士はしばらく黙った。周を見ると、その顔はかたまっていた。
﹁その、なんだ――」
強士はその後をつづけられなかった。自分を見つめる美以子の瞳には色が無く、なにものも見ていないかのようだった。
﹁どうした? いつものあれを聞かないと俺も落ち着かないんだぜ」
周は笑顔をつくって強士の顔を覗きこんだ。膝に手をおき、美以子がしてるのと同じように見あげた。そのときに周の笑顔はさっと滑り落ちた。表情は消え失せ、真顔になった。周は二人を交互に見つめた。それから息を深く吐き、身体を起きなおらせた。
﹁強士、」
ロビーに戻ると周は強士の腕をつかんできた。
﹁ちょっとこっち来いよ」
﹁は?」
﹁いいから来いって」
﹁どこに行くってんだよ。それに、もうはじまるぞ」
﹁美以子のは休憩の後だろ? それまで時間はある」
周は腕をつかんだまま喫茶室へ入っていった。二人は頑丈そうな椅子に座り、コーヒーを頼んだ。ホールの扉はまだひらかれ、聴衆はなにかしゃべりながらそこに入っていった。初老の男が皿にのせられたコーヒーを運んできた。周は口をつけると顔をしかめさせ、それきり飲もうとしなかった。
﹁どうして真面目にやらないんだろうな」
髪をかき上げ、周はその手を途中でとめた。
﹁この店――って言っていいかもわからないけど、ここのことだよ。コーヒーは不味いし、床も壁も汚い。テーブルだってちゃんと拭いてない。こんなのコーヒーっていっていいかもわからない。そう思うだろ?」
﹁まあ、そうかもな」
﹁そうだよ。そうかもじゃない。そうなんだ。ほら、見てみろよ。店員にもやる気が感じられない。ただぼうっと突っ立ってるだけだ。小銭をもらって不味くて黒いのを渡してるのを仕事だと思ってる。そんなだから店が汚いってことにも気づけないんだよ」
周はカウンターの方へ目を向けていた。強士はその横顔を見つめた。まだらな陽射しが中庭を覆っていた。
﹁真面目さってのは重要なんだ」
椅子に深く身体をあずけると周は正面から強士を見すえた。
﹁どれだけ仕事ができなくても真面目で丁寧であればそれなりのことはできる。逆に、能力があっても不真面目な奴は駄目だ。どこかでミスをすることになる。そして、そういう奴のするミスはたいてい取り返しのつかないものになるんだ」
強士はコーヒーを飲んだ。不味いのは確かだけど、飲めないほどではなかった。
﹁そうなんだろうよ。でも、真面目にやってる奴だってミスはする。違うか?」
﹁まあね。だけど、その質は違う。どうしようもない状態にはならない。普段からちゃんとしてればいろんなことに気づけるんだ。そうすりゃ、ひどいミスにはならない。補正できるんだよ」
すこしうつむき、強士は唇を歪めさせた。気づける? と思っていた。
﹁なにがおかしい?」
﹁いや、立派な意見だよ。たいへんに立派だ。それに、いかにも周の言いそうなことだ。ただな、自分は真面目だって思ってる奴はそうじゃないと決めつけた人間のことを簡単に切り捨てるんだ。表面的につきあうくらいはするだろうけど、その人間のことを知ろうとしない。知ればそんなことは言えないはずだからな。それぞれの人間には抱えてるものがある。誰もがいろんなもんを抱えてるんだ。それでたいていは混乱してる。深く関わろうとしないから、そういうのがわからないだけだ」
﹁違うね。常に自分に厳しくしていれば混乱することなんてない。混乱するってのは、そいつが普段から真面目に事にあたってないからだ」
﹁誰だって真面目にやろうとはしてるんだよ。その方向とやり方が違うだけさ。それに、そうできない状況だってある」
周は脚を大きくひらき身体を寄せてきた。投げだすようにテーブルに両腕をのせた。
﹁状況? まわりのせいにするっていうのか?」
﹁なんの話をしてるんだよ」
強士は目を細めさせた。頬は削ぎ落とされたようになった。
﹁強士、お前、彼女と何年一緒に住んでるんだ? もう十年近くになるんだろ?」
﹁ああ」
﹁それでいて結婚してない。そうだよな? それは真面目なことじゃないだろ」
周はじっと強士の目を見た。強士も同じようにした。そらすことはできなかった。
﹁それに、お前は美以子とも関係があるな? さっき気づいた。そうなんだろ?」
目を合わせたまま周は深く息を吐きだした。深刻さがたちあらわれていた。美以子のことを考えるとそうならざるをえなかった。けっきょくはこうなるんだ。美以子はこいつを選んだってわけだ。俺にはそうなるってわかってた。そう、わかってたんだ。だけど、これじゃ納得できない。どうして美以子を苦しませるようなことをしてる? 周は強士の表情を確認するかのように見た。あの真顔だ。でも、なにを考えてるか今はわかる。
﹁美以子を巻きこむな。お前の不真面目な生活に」
歯の隙間から洩れるような声を周は出した。自分でもそういう音に聞こえた。どうかしてる――そう思っていた。なんでこんな声を俺は出してるんだ? それも、よりによって強士にたいして。
﹁俺が巻きこんでるわけじゃない」
﹁は? じゃあ、美以子の方が巻きこんでるっていうのか?」
大声になりそうなのをすんでのところで周はとめられた。呼吸を整え、気持ちを鎮めさせた。強士の顔は急に歪みだした。
﹁周、気づかないのか?」
強士は腕をぐっと握りしめてきた。周はつかまれた腕を見た。前にもこういうことがあった――と思った。ただ、いつだったかは憶えてなかった。
﹁なにを?」
﹁美以子だよ。美以子の様子だ」
﹁だから、俺はそれを言ってるんだ」
周は手を払おうとした。しかし、強士はしっかりとつかんでいた。
﹁違うんだ」
囁くような声を強士は出した。これから口に出したくないことを言うことになる。そう思い、うつむいた。
﹁なにが違うんだよ」
﹁すこしおかしいんだ。ちょっと変なんだよ、美以子。突然感情を抑えられなくなるみたいなんだ。意味のわからないことを口走ったこともある。普段だってちょっとおかしいんだ」
﹁おかしい?」
自分の声がまたさっきと違っていることを周は知った。乾いて、ざらついた声だ。強士の手は力を増し、にわかには信じられないことを事実だと訴えているようだった。
﹁お前が苦しめてるからそう思うってだけじゃないのか?」
﹁違う。その前からそうだった」
﹁いつから?」
﹁俺がわかったのは、」
強士は言いよどんだ。周の目を射抜くように見つめた。
﹁お前の結婚式の日だ」
周は半分だけ口をあけた。なにか言いそうで、しかし、なにも言わなかった。軽く首を振ると、椅子にもたれかかった。つかまれた腕だけが伸び、テーブルに残された。
﹁あの日、俺たちは飲みに行った。それまでは俺もちゃんと気づけてなかった。もしかしたら、――いや、たぶんそうなんだろうけど、前からそうだったんだ。俺たちが見ないようにしてただけだ。高校一年のとき、ほら、発表会のときに美以子が大声出したことあったろ? あの頃からそうだったんだよ、きっと」
﹁信じられない」
首を振りながらそうとだけ周は言った。
﹁俺たちは昔のことを話してた。それまでは普通にみえた。目つきは気になったけど、疲れてるんだろうって思ってた。でも、突然様子が変わった。美以子はお前が自分をおいていってしまったって言った。私は周くんのことが好きだったのにとも言ってたよ」
﹁嘘だ」
そう口にしてから周はなににたいして﹁嘘」と言ったのかわからなくなった。幾つかの光景が頭に浮かんだ。プール、図書館、土手を歩く三人。
﹁嘘だ」
周はもう一度言った。
﹁嘘じゃない」
強士は手を離した。深く椅子に腰をしずめさせ、天井を見た。蛍光灯は輝く一本の線のようにみえた。
﹁美以子は大声を出した。あの発表会のときと同じだった。それから、立ちあがってグラスをテーブルに打ちつけた。なにをしているかわかってないみたいだった。自分でもそう言ってたよ。なにをしたのかわからないってね」
﹁嘘だ」
﹁周――」
雲が切れてきたようだった。大きな窓を通して射しこむ光は二人の影を床に伸ばしていた。影は足許の方が濃く、頭の方は薄く滲んでいた。強士はそれを見て、あたりまえのことだよな――と思った。こんなにも自明なことに囲まれているというのに、どうして俺には理解できないことが多いんだ?
周はかたく口を閉じた。言いたいことがあるはずなのに、どんなふうに言えばいいかわからなかった。深刻さが覆っていった。彼はそれに立ち向かおうとした。しかし、怒りが途切れると目を背けたくなった。
﹁俺たちは騎士だ。美以子を助けなくちゃならない」
強士はかすれた声でそう言った。
﹁キシ?」
周は身体を起こし、髪をかき上げた。
﹁なに言ってんだ?」
﹁周、これはお前が言ったことだ。忘れたのか? 中学の頃だ。美以子が真田沙織に連れ出されて――」
﹁ああ、」
語尾を伸ばすようにして、周は考えるときの表情になった。
﹁あったな。そういうことが」
﹁そのときにお前が言ったんだ。俺たちは騎士だ。お姫様を助けなくちゃならないって」
睨むような目つきを周はしていた。しかし、瞳をぎこちなく動かした。
﹁思い出したか? 俺はそれを聞いたとき冗談かと思った。俺たちが騎士? ってな。だけど、俺たちはやっぱり騎士なんだ。お姫様を守る義務を持ってる騎士だ。これまではうまくできてなかった。でも、それじゃ駄目なんだ。美以子には助けが必要だ」
強士は唇をひきつらせた。馬鹿げてる――と思っていた。だけど、他にどう言ったらいい? 美以子に助けが必要ってのはまさにその通りのことだ。俺たちが助けなくちゃならない。
﹁なに子供みたいなこと言ってるんだよ」
周は首を弱く振った。
﹁助けるって、いったいどうやって? いや、俺は信じてるわけじゃない。だって、さっき会ったばかりじゃないか。美以子はすこしだけ変だった。それは確かだ。だけど、それはお前が苦しめてるからだ。俺にはそうとしか思えない。――仮に、もし仮にだよ、お前が言ったのがほんとうだったとして俺たちになにができる? それがお前にはわかるのか?」
﹁わからない。わからないけど、助けなくちゃならない」
強士は深く息を吐いた。周は腕を組み、目をつむった。そのままで細かくうなずくようにした。
ひとりになった美以子はじっと鏡を見つめていた。白い肌のすぐ内側には沈潜した赤が薄く見えた。そうしようと思ってもないのに口許はゆるんでいった。周くんと強士くんが来てくれた。私に会いに来てくれたんだ――そう思うと身体中を血が巡っていくのを感じた。
美以子は口紅をとり、鏡に顔を近づけさせた。やっぱり私はあの二人が好き。この思いは子供の頃から変わらない。いや、変えられない。それに、あの二人も私のことが好きなんだ。今はちょっと間違った感じになってるけど、それもじきにおさまる。いつかあの二人は私のところに戻ってくる。これは決まっていたことなんだ。
なにかが擦りあわさるような音が廊下の方から聞こえてきた。美以子は首をすこしだけ曲げて、その音を聞いていた。なんの音だろう? 重たいものを無理に引きずってるような―― 美以子はこめかみに指をあてた。目をつむり、眉をひそめた。ギチギチギチという音がした。
え?
さっと振り返り、美以子はドアを見つめた。自然と胸に手をあてていた。息は浅くなり、顔は青ざめた。――いるんだ。あの者がいる。ドアの向こうから私の様子を窺ってる。美以子は深く息を吸いこもうとした。しかし、うまくできなかった。なにかがつかえたようになっていて浅くしか吸えなかった。ギチギチギチという音はふたたび聞こえてきた。部屋の中は静かで、秒針が刻む音しかしていなかった。
どうしよう? どうしたらいい?
美以子は周と強士の顔を思い浮かべた。あの二人ならきっと助けてくれる。――でも、それじゃ駄目。私があの二人を守らなきゃならないんだ。間違った方へ連れて行こうとする者から遠ざけなければならない。そうしていれば、あの二人は私のもとに戻ってきてくれる。子供の頃そうだったように一緒にいてくれるようになる。
ノックの音が高く響いた。胸に手をおいたまま美以子は姿勢を正した。ふたたびノックの音がした。ドアに嵌められた磨りガラスには黒い影が見えていた。
﹁はい」とだけ美以子は言った。声が震えているのは自分にもわかった。黒い影はすこし動いた。ドアノブがまわっていった。
﹁あの、そろそろ出番ですので」
ドアの隙間から顔を出したのはホールスタッフだった。美以子はこたえずに、その背後を見つめていた。
﹁あの、斎藤さん? そろそろ、」
﹁え? あ、はい」
深く息を吐き、美以子は肩の力を抜いた。ただ、目だけはずっと廊下の方を見つめていた。
◇
大きな扉が押し開かれ、聴衆はわらわらと出てきた。周と強士はその中に紛れこんだ。中学生らしき一団が前を通り過ぎていった。彼らはそこで足をとめた。笑いあう中に背の高い女の子がひとり笑顔もなく混じり、姿勢良く歩きながら髪を耳にかけていた。瞳はかたく、周囲に溶けあうのが難しいなにものかを抱えているようにみえた。一瞬のことだったし、実際はそうじゃないのかもしれないけれど、周も強士も似た印象を持った。まるで昔の美以子を見せつけられているように思えたのだ。二人は目を合わせた。それから、すぐに顔をそむけた。
ホールのざわめきは波のように高くなり低くなりを繰り返していた。二人は並んで座り、舞台の上を見つめた。暗い中にピアノがぽつんと置かれていた。ブザーが鳴る頃には席はあらかた埋まった。煌々と舞台が照らされ、客席側は仄暗くなった。司会者が出てくると拍手が巻き起こった。
﹁第二部のはじめに演奏されるのは斎藤美以子さん。曲目はセルゲイ・ラフマニノフの﹃モスクワの鐘』、モーリス・ラヴェル﹃亡き王女のためのパヴァーヌ』です」
白いドレス姿の美以子が出てくると拍手は一段と高まった。光量の強いライトを浴びた美以子は気高さを感じさせた。深く頭を下げ、ピアノの前に腰をおろすとホールは静まった。強士はそっと隣を見た。周は前屈みになって舞台を見つめていた。その横顔はよく見たものだった。子供の頃から何度もこうしてホールの暗がりにいる周を見ていた。舞台からの明かりで薄く輝く横顔だ。強士は脚を組みなおし、正面を向いた。
美以子は鍵盤に指をかざした。深く息を吸いこみ、とめた。指をのせた瞬間に轟くような低音が三つ余韻を残して響き渡った。その余韻が消え去る寸前に高音があらわれた。主客は転倒し、低音は奥へと引っこんだ。それからは高音がひとつひとつの音をくっきりと奏ではじめ、歌っているかのように鳴った。それは高まり、低音と絡みあい、くしゃっと崩れた。そして、ふたたび低音が三つ響いた。美以子の腕は高く跳ねあげられた。高音は叫ぶようで、低音は脅かすかのようだった。繰り返されるテーマは強士に様々なことを思い出させた。何度も似たようなシーンを見せられているように思えた。すべてのことが一つの存在を際立たせるためにあるかのようだった。それを強調しようと似たシーンを何度も見せられてきたんだ――そう思った。でも、だったら、なにを強調しようっていうんだ?
零れ落ちるみたいに高音が三つ鳴って、曲は終わった。美以子は息を吐きだした。ただ正面を向き、無心になった。磨かれたピアノの黒に自分が映りこんでいるのはわかっていた。しかし、彼女はそれを見ようとせずに、ふたたび息を深く吸いこんだ。周と強士にも美以子が息継ぎするかのように背を伸ばしたのがわかった。指は鍵盤におりていった。
﹃亡き王女のためのパヴァーヌ』
最初の音が鳴ると、それは不確かさを思わせた。そして、たどたどしく連なっていった。高音と低音は寄り添いながら、しかし、融合することなく進んだ。周は幾つもの光景を思い出していた。色褪せたものもあったし、輪郭がくっきりとしたものもあった。ただ、それらは断続的だった。まとまったストーリーではなかった。どんよりした雲、ひとつだけある街灯、夏の陽射し、プールの生ぬるい水温。思い出せる物事はきちんとした意味を持っていなかった。ただ感情を揺さぶるだけのものに思えた。それがあったからどうなったっていうんだ? 周はそう思っていた。一瞬一瞬は思い出すことができる。そのときにどう思ったかもわかる。でも、それでどうなった? 自分は継続した存在なのか? まるでその場限りの感情で動いていたようにも思える。感じたままに動き、考えることをしてなかったみたいだ。だから、俺には見えないことがあったのかもしれない。深く関わろうとしていなかったからだ。時の経過ばかり気にしていたせいで、俺はたくさんのことを見ないようにしてきた。美以子のことだってそうだ。
美以子が鍵盤から指を引き去ったとき、周は自分がほんとうに泣いているのを知った。瞳は潤み、熱くなり、そこから滴となって手の甲へ落ちた。どうして出てきた涙なのかはわからなかった。周は口をひらき、弱く浅い息を吐きつづけた。そうしていないと涙がとまらなかった。
強士は手をかたく握りしめていた。あのときと同じだ――そう思っていた。高校一年の冬、小さなホールでこの曲を聴いたときと。天井を見るとそこには幾つものライトがあった。それだって一緒だ。ほんとうに何度も同じシーンを見せられているみたいだ。聴衆が鳴らす拍手もあのときと変わらない。それらは言葉となって俺の中に降り積もっていく。息苦しくなるくらいそれらは積もっているんだ。この思いをすべて言葉にできれば――強士はそう思いながら鈍く光るライトを見あげていた。
拍手が鳴り響く中で美以子は頭を深くさげた。ライトが彼女の全体を包んでいた。顔をあげた美以子は二人の姿をさがした。しかし、見つけられなかった。手を叩いている者たちの顔は一様にみえた。ひとつの感情に統一された幾つもの顔は深いところから不安を呼び起こさせた。美以子は首をゆっくりと振ってホール内に目をはしらせた。周くんと強士くんはどこ? また私の前からいなくなってしまったの?
拍手はすこしまばらになった。ずっと立ったままでいる美以子に違和感をおぼえたのだろう、囁き声も洩れはじめた。周も手をとめて強士の顔を覗きこんだ。なにか言いたく思ったけれど、なんて言えばいいかわからなかった。美以子はまだ舞台に立ったままで、ぼうっとホール内を見渡していた。拍手は鳴りやみ、ざわめきが起こった。舞台袖から司会者が出てきて美以子の腕に手をかけた。それでも美以子は首を動かしていた。ざわめきは強まった。司会者が腰に手を添え美以子を連れていくまでホール内はざわめいていた。
周は次の演奏を聴かなかった。ホールの外に出て、あてもなく歩きまわった。なにが起こっているか考えるための時間が必要だった。ゆるやかな階段を降り、大きな窓から外を眺め、ロビーに向かった。様々なことを考えているはずなのに、そのいずれもがぼんやりとしていた。輪郭を持たないものに過ぎなかった。ソファに座り、周は正面をじっと見つめた。赤い壁、そこを照らす明かり。首を曲げると、その先は仄暗くなっていた。周は手にしていたプログラムに目を落とした。子供の頃から何度も見ていたはずの美以子の笑顔。しかし、どこかに間違った部分があるように思えた。記憶にあるものとすこしだけ違っているのだ。周は目をつむって思い出そうと試みた。あらゆる場面で見てきた美以子の笑顔を思い浮かべようとした。それでも、どこがどう違うのかわからなかった。ただ、なにかは違うのだ。
舞台の上で立ちつくす美以子の姿をついさっき見た。ざわめきも聞いた。強士は﹁すこしおかしいんだ。ちょっと変なんだよ、美以子」と言っていた。おかしい? そんなことあるわけない。美以子がおかしいっていうなら、他の者も全員おかしいんだ。俺だって、強士だっておかしいはずだ。手で目を覆い、周は首を後ろへ倒した。なにができる? 俺になにができる? いや、なにかできたはずなんだ。今じゃなく、もっと前になにかができたはずだ。なぜそれをしなかった? 強士、お前は美以子を助けなくちゃならないと言った。それだって間違ってるんだよ。俺たちは美以子を助けてあげなければならなかったんだ。今のことじゃなく、もっと前からそうしているべきだったんだ。
楽屋はひんやりとしていた。顕著な音もなく、ただ時計が動いているのがわかるだけだった。美以子はドレスを脱いだ。鏡には自分の姿がくっきりと映りこんでいた。顔までは見えず、細い肉体が映っているだけだった。美以子は思い出した。初めて自分の陰部に触れたとき私はあの二人のことを想像してた。私の肉体はあの二人を求めてた。感情なんてどうだってよかった。それ以外のことなんて必要なかった。
美以子はそこに触れてみた。熱くなってるのがわかった。濡れそぼち、求めてる。私の肉体はいまだに二人を求めつづけているんだ。強士くんは私を愛してくれてる。わけのわからない女につかまってるけど、それは間違ったこと。いつか私だけを愛してくれるようになる。周くんだってそう。実穂なんかに満足するはずがない。この美しい身体に触れればすぐに夢中になる。強士くんがそうであるように。
廊下を歩く音が聞こえてきた。それでも美以子はそこを刺激しつづけた。鏡台に手をつき、前屈みになった。腰はすこし浮き上がり、脚は半端に開いた。あの二人が欲しい。肉体がそう言ってる。これは子供の頃から変わってない。私の肉体は狂おしいほどに二人を求めつづけてるんだ。脚が震え、美以子は前に倒れるようになった。鏡には顔が映りこんだ。それを見た瞬間に身体は痙攣した。
しばらく美以子はそのままでいた。頭はすうっと透明になっていった。なにも考えることなんてできなかった。しかし、美以子は安心できた。すべてのことが明らかになった。複雑さなんてどこにもない。肉体が求めるままに行動できればいいんだ。それが私にとって唯一の事実なんだ。
息を整えると、美以子は着替えをすませた。乱れた髪をなおし、鏡台に向かった。きっとあの二人は来てくれる。私をひとりぼっちになんてするわけがない。肌の内側が赤くなっているのは顔を近づけずともわかった。唇は半ばひらき、瞳は潤んでいた。脚をきつく閉じていてもそこがまだ熱いままなのを感じていた。
ノックの音がした。美以子は振り向いた。顎を引き、細長いガラスに映る黒い影を見た。
﹁美以子?」
周くんの声だ――美以子は穏やかな表情をつくりこみ、﹁はい」とこたえた。
﹁入ってもいいか?」
﹁もちろん」
立ちあがると美以子は口角をあげた。子供の頃そうしていたように笑顔で二人を迎えいれるつもりだった。ドアがひらき、二人の姿がみえた。美以子は自分の肉体が疼いているのを感じていた。血は全身を駆け巡り、うっすらと汗ばんでもきた。
周と強士は真顔で美以子を見つめていた。笑顔をつくろうとしてもできなかった。美以子の頬は紅潮し、首筋まで赤味をおびていた。シャツは大きくひらき、そこに見える肌は湿っていた。ただ、瞳は色をなくし、なにものをもほんとうには見ていないかのようだった。どう声をかければいいか周にはわからなかった。なにか口にしても、その先をつづけられそうになかった。
﹁どうしたの?」
美以子はそう言ってきた。声は単調で、抑揚がなかった。まるで人形がしゃべっているかのようだった。
﹁ねえ、なにか言ってよ。どうしたのよ」
周は強士を見た。説明を求めるような目つきでだ。しかし、強士にも説明できることはなかった。
﹁よかったぞ」
強士が声をかけた。
﹁すごい演奏だった。これまでで一番よかった」
﹁ありがとう」
美以子はにっこり微笑んでいる自分を想像していた。いつもそうだったように私は笑いながら二人としゃべってるはず。
﹁周はほんとに泣いてたんだぜ」
﹁ほんとう? そうだったらうれしいんだけど」
美以子は周を見た。私の好きな周くん――そう思いながらだ。ただ、周の表情は変わらなかった。いつか見たことがある顔。ああ、あのとき。中学生の頃、冬の河原、私を探しにきた二人。この人は心配そうな顔をして﹁大丈夫か?」と訊いてきた。私は大丈夫なのに。あんなのなんでもなかったのに。
そっと溜息をついて、美以子はうつむいた。私はあのときも間違ったんだ。言えばよかった。﹁私は周くんが好きだ」って。そうしていれば、こんなことにはなってなかったはず。実穂なんかに獲られることもなかった。私の好きな周くんを。
顔をあげ、美以子は周を見つめた。この人は私をおいていってしまった。私はずっと好きだったのに。子供の頃から好きだったのに、この人は私を愛してくれなかった。
﹁どうしたのよ、周くん」
美以子は強士に近づき、その手をとった。それを腰にまわさせ、しだいに上へと持っていった。強士は身体を硬直させた。やめさせようと思っても難しかった。どうするのがいいかわからなかったのだ。
﹁なんでなにも言ってくれないの?」
強士の手をシャツに入れ、美以子は上から揉むようにした。目はずっと周の方へ向けていた。瞳はガラス玉のようになっていた。
﹁ねえ、どうしちゃったの? 周くん」
﹁どうかしてるのはお前たちの方だ」
静かな声で周はそう言った。
﹁なにを怒ってるの? 周くん」
手をさらに奥へと入れさせ、美以子は腰を折るようにした。敏感なところに指先があたると唇をひらいた。感情が波のように高まり、退いていった。なにかは考えているはずだけど、肉体にあたえられる刺激がそれを遠ざけた。
﹁ああ、妬いてるんでしょ。私たちのこと」
強士の手には力が入っていなかった。それも美以子には気にいらなかった。耳許に顔を近づけ、﹁いつもみたいにして」と言い、そこをきつく噛んだ。
﹁ほら、もっと見て。強士くんってすごいのよ。いつも私を気持ちよくさせてくれるの。私、初めてだった、あんなに濡れたの。ね、強士くん、ここでしちゃおうか。周くんに見せつけてあげるの。私が強士くんの入れてるとこ」
﹁もうやめろよ、美以子」
力なく強士はそう言った。その声は弱く零れ落ちていった。
﹁どうして? なんでやめなきゃならないの?」
ドアに手をかけ、周は首を弱く振った。身体の芯が揺らいでいるように思えた。言葉が出かけたけれど、それは美以子にたいして言いたくないものだった。
﹁出てっちゃうの? 周くん。ねえ、見ていってよ」
周は向きなおり、美以子の目をじっと見つめた。息は浅くなっていた。美以子は強士から離れた。姿勢を正し、周を見つめかえした。
﹁大丈夫かって言うんでしょ!」
美以子は叫ぶようにそう言った。手を握りしめ、胸を何度か叩いた。
﹁その目。その口のかたち。知ってる。大丈夫かって言うつもりなんでしょ!」
﹁美以子!」
強士は後ろから腕をつかんだ。それでも美以子は叫びつづけた。
﹁私は大丈夫なのに! いつもみんなして言ってくるのよ! 大丈夫か! どうかしたかって! 私は大丈夫なのに!」
腕に力を入れ、強士は美以子を引き寄せた。顎に手をあてて自分の顔を見せようとした。それでどうなるかはわからなかった。ただ、そうすべきだと思ったのだ。美以子は息を荒げていた。深いところからあらわれ消える前にふたたび聞こえてくる自分の吐息は耳障りだった。美以子は指を突き出し周へ向けると、さらに激しく叫んだ。
﹁出てって! 出てってよ! 私はこの人が嫌いなの! 顔も見たくないの!」
美以子は急に力を抜いた。顎をおさえる強士の手にしたがって、その顔を見た。髪はほつれて、頬に幾筋もの線を描いていた。強士は大きく目をひらき、美以子の顔を見つめた。
﹁どうして? 強士くん。これでいいんでしょ? 私はこの人が嫌いなの。あなたのことが好きなの」
﹁やめてくれ、美以子。そんなこと言わないでくれ」
涙が流れていくのを強士は感じていた。目は閉じられなかった。
﹁嫌よ。私はこの人が嫌いなんだもの。私をひとりぼっちにさせる人なんて大嫌い」
ふたたび指を突きたて、美以子は周を睨みつけた。周は顎を引き、絡みあう二人を見ていた。
﹁出てって! 強士くんと二人きりにさせて! あなたが嫌いなの!」
息を大きく吸って、美以子は一瞬だけ強士を見た。それから、こう叫んだ。
﹁私は好きだったのに! ずっと周くんのことが好きだったのに!」
強士は目を閉じた。涙は溢れ出た。美以子から手を離し、腕を自分のものでないように下げた。周はかたまっていた身体を震わすようにして表情を変えた。笑ったような顔になり、美以子を、そして強士を見た。それからうなずくように顎をおろした。すべての行動にどういった意味があるのか彼自身にもわかっていなかった。声のなくなった部屋は静かになった。周はもう一度笑顔に似た表情をつくると振り返り、ドアに手をかけた。
閉じられたドアがその平面を見せたときに美以子は声をあげて泣いた。昂ぶった感情が破裂したかのような泣き方だった。両手で顔を覆い、身体を揺すらせていた。強士はその場に座りこんだ。立ってなどいられなかった。
◇
﹁私は大丈夫よ」
椅子に座ると美以子は胸に手をおいた。
﹁私は大丈夫」
強士は閉じられたドアを見つめていた。涙が流れたあとは引きつるような感覚をあたえていた。どれくらいの時間そうしていたかはわからないけれど、二人は長いあいだ黙っていた。美以子が声を出したときに強士は顔をあけた。美以子の後ろには鏡があり、その姿を映していた。
﹁大丈夫――じゃないわね。きっとおかしくなってるんでしょうね、私」
美以子はゆっくりとそう言った。かすれた声だった。胸を押さえている様はまるで押すことで言葉が吐き出されていくかのようだった。
﹁なにをしたのかよくわかってないの。ううん、全部じゃないわ。だけど、途切れ途切れにしかわからないの。信じられる?」
強士は顔をそむけた。言うべきことを持っていなかったのだ。
﹁私、周くんにひどいこと言ったんでしょ? 強士くんにもひどいことした。そうなんでしょ?」
﹁なんて言ったらいいかわからないよ。俺も混乱してるんだ」
﹁そう。――そうよね。ごめんなさい」
﹁いや、」
そう言ったきり強士は黙った。美以子は乱れた髪をなおし、顔を撫でるようにした。
﹁時々、わからなくなるの。――ううん、いつだってよくわかってないの。子供の頃からそうだったのかもしれない。あなたたちに会う前からよ。自分でもよくわからないことをしちゃうの。ずっと気に入っていたはずのお人形を突然壊しちゃったこともあるわ。だけど、憶えてないのよ。気づいたら手足がバラバラになってて、そこには私しかいなくて、だから、きっとそれをしたのは私ってことなんでしょう? ただ、わからないのよ。どうしてそんなふうになったのかが」
美以子は胸に手をあてた。口を半開きにし、浅く息を洩らしていた。
﹁それも手紙に書こうと思ったの。でも、そんなの読んだら強士くんはもう会ってくれないかもって考えてやめといた。よくわからないんだけど、たぶんそう思ったのよ。私、いろんなことを隠してた。あなたたちに会う前のことは自分にたいしてだって隠してた。違う意味をあたえ、見ないようにしてた。お人形のことだってそうよ。きっと私の近くには悪い者が潜んでいて、目を離した隙に壊していったんだって思うようにしてた。見たくないことは全部そうしてたの。そしたら、いろんなことがほんとうにわからなくなってきたの。ほんとの私がどんな人間なのかもわからない」
強士はずっと鏡に映った美以子を見つめていた。言葉は渦巻いていたものの、そのいずれも口にできなかった。美以子はうつむき、背中をまるめたまま話しつづけた。
﹁事実が全部見えにくいものになってて、私は自分がつけ足した意味の中にうずくまってるの。たまにふっと事実のほんとうの姿が見えてくると私は顔をそむける。ずっとそうしてきた。だから、強士くん、あなたが知ってる私はほんとうの私じゃないのよ。偽物なの。ほんとうの私は自分にだってわからなくなってる。なんだかずっとあたえられた役を演じてたみたい。斎藤美以子って役をやらされてたように思える」
﹁それは違うよ」
強士は静かにそう言った。
﹁違う」
﹁なにが?」
美以子の身体はすこしだけ動いた。ただ、うつむいたままだった。
﹁俺は美以子を知ってる。子供の頃から知ってる。それがほんとうの美以子なんだ。偽物なんかじゃない。俺の知ってる美以子が本物だ。いいか? 人間ってのはその場その場で変わっていくものなんだ。話す相手によって違うことを口に出すことだってある。だから、自分でもよくわからなくなることもある。でも、俺が知ってる美以子は子供の頃から変わってない。よく寂しそうな顔をしてたろ? 俺はそれも見てきた。俺は知ってたんだ。ちゃんと見ようとしてなかっただけで知ってたんだ」
﹁強士くんにはわかってたっていうの?」
﹁全部とは言わない。でも、わかってることはあった」
顔をあげ美以子は微笑んだ。その表情は強士の言葉を否定も肯定もしていないようだった。
﹁そう」
美以子は背筋を伸ばし、手の甲を目尻にあてた。
﹁ううん。それはもういい。――私、周くんにも謝らなくちゃ」
胸に手をあて、美以子は立ちあがろうとした。しかし、身体は痺れたようになっていた。脚に力がはいらず、額には汗が浮き上がってきた。口をあけたけれど言葉は出なかった。頭の奥の方で音がしていた。モーターが鈍く回転しているような音だ。息は浅く、喉になにかがつかえているみたいだった。美以子は身体を揺らした。胸にあてた手でシャツをつかんだ。もう一方の手はドアへと向けられていた。そのまま激しく身体を震わすと美以子は前へと倒れこんだ。
◇
病院の廊下は薄暗かった。背もたれのない黒い長椅子に強士と周は座っていた。窓はなく、低い天井に蛍光灯が間隔をおいて配されていた。壁はオリーブグリーンで、床には模造大理石の板が嵌めこまれていた。周は顔の前で手をあわせ、親指を顎にかけていた。強士は脚を投げだし背中を壁に押しあてていた。美以子が救急車で運ばれてから二人は周の車で病院に向かった。そのあいだ彼らは一言もしゃべらなかった。椅子に腰かけてからもずっと黙ったままだった。
病室のドアがひらき、看護師が逆側へと立ち去っていった。周はちらと看護師を見て目を閉じた。強士は目を細めさせ、その背中を睨むように見つめた。ふたたびドアがひらくと今度は若い医者が出てきた。彼は長椅子に近づいてきた。たとえどんな病気でも患者を安心させられるといった笑顔を浮かべていた。二人は立ちあがり軽く頭を下げた。
﹁斎藤美以子さんのご家族ですか?」
﹁いえ」と周は言った。
﹁でも、似たようなものです」
強士はそうこたえた。若い医者は強士を見つめ、目の脇を掻いた。それから、それまでとは違う種類の笑顔をつくった。より人間らしい、正直な表情だった。
﹁結論からいうと過換気症候群ですね。いわゆる過呼吸ですよ。もう落ち着いてます。ただ、繰り返しなる可能性はあります。これまでにも似たようなことは?」
周は強士を見た。強士は肩をすくめてみせた。
﹁本人にはつらい症状です。ピアニストの方だと伺いましたが?」
﹁ええ」
周がこたえた。
﹁今日もコンサートでした」
﹁過度な緊張が原因ですかね。まあ、今日一日休んでいただければ帰れますよ。重ねてなるようでしたらお近くの病院に行かれることをお勧めしますがね」
医者は頭を下げて立ち去ろうとした。
﹁会えますか?」
強士はそう訊いた。医者は振り返った。無表情だった。しかし、すぐに笑顔を取り戻した。
﹁今は眠ってます。薬でね。明日にして下さい」
二人は長椅子に腰をおろし、同じ姿勢をとった。周は腕時計に目を向けた。それから手をあわせ、向かいの壁を見つめた。
﹁どうするつもりだ?」
そのままの格好で周は言った。か細く聞きとりにくい声だった。強士はこたえなかった。なにについての問いかけかわからなかったのだ。今のことなのか、それともこれからずっと先についてのことなのかわからなかった。強士は腕を組み、靴先を見ていた。
﹁どうすりゃいいんだ? 俺たちになにができる? もし、ほんとうに美以子が――」
周は唇を噛んだ。昔のことがさっと頭をよぎった。断続的な記憶は感情を鈍く刺激した。ただ、それは理屈のともなわないものだった。彼は考えたくなかった。考えてどうにかなるものでもないと思った。
﹁俺には家庭がある。子供だって生まれるんだ。わかるだろ?」
﹁わかるよ」
強士の声は平坦なものだった。周は手をおろし、強士の横顔を見つめた。あの真顔だ。しかし、自分も真顔になってるのがわかった。周は立ちあがり、息を深く吐いた。
﹁帰るよ。帰らなきゃならない」
周を見あげ、強士は口を歪めさせた。脚を大きくひらき、そこに両腕を垂らした。周は顔をそむけさせた。
﹁俺たちは友達だった。そうだろ?」
強士はそう言った。周の腕は意味もなく動いた。
﹁斎藤美以子、佐伯周、佐藤強士。名字がサ行ってだけで俺たちは近くの席に座らされた。それだけのことだった。考えるまでもなく俺たちに似たとこなんてない。それでも俺たちはずっと友達だった」
蛍光灯がふっと消え、それから明滅しだした。強士は目を細め、それを見た。交換するのを忘れたんだ。きちんとしてないとこういうことになる。変化がないか知るには細心の注意が必要なんだ。真面目にやらなきゃ駄目だ。誰かが真面目にならなければならないんだ。
﹁そうさ。俺たちには似たとこなんてまったくない。どうしてこれまでこんな関係だったのかわからない」
周は背中をみせた。明滅する蛍光灯は彼の姿を強調させているかのようだった。
﹁美以子がそうしくれてたんだ。周、お前も俺も美以子のことが好きだった。そうだろ? 俺たちは美以子が寂しそうにしてるのを知ってた。子供の頃からそうだった。俺たちは美以子を守ってやりたかった。守ってやるべきだったんだ」
強士は目を閉じた。涙が流れているのはわかっていた。ただ、そのままにしておいた。周は振り向いて強士を睨みつけた。
﹁どうすりゃよかったっていうんだ! どの時点で、どのように!」
周は激しく腕を振った。かすれた叫び声は廊下に薄く響いた。
﹁お前にはわかるのか? いつ、どうやっていたらよかったって。俺たちにはどうすることもできなかった。なにができたっていうんだよ。突然、こんな――」
額に手をあて周は口をかたく閉じた。顎の辺りは腫れあがったかのようになっていた。短く息を吐きだすと周はふたたび背中をみせた。
﹁お前は何年も前から知ってたんだろ? どうして放っておいたんだ。なあ、強士、俺にはお前が美以子を追いこんだように思える。そして、実際にもそうなんだよ。お前が美以子をああいう状態にしたんだ。友達だって言ったよな? お前は美以子にとっていったい何者のつもりなんだ? 美以子はお前を選んだんだ。そのあいだにどんなことがあったかなんて知りたくもない。知る必要だってない。美以子はお前を選んだんだからな。これ以上、俺になにも求めないでくれ」
周は歩きだした。蛍光灯はしばらく点いていたけれど、また明滅をはじめた。周が角を曲がり、その姿がなくなると強士は靴先を見た。
﹁美以子はお前を選んだ」
その言葉が床に転がっているように思えた。そうであればまだよかった――強士はそう考えていた。
病院近くのビジネスホテルに入り、シャワーを浴びると強士はビールをたてつづけに二本飲んだ。テレビをつけ、音は消し、動く絵だけを眺めていた。ベッドに放った携帯電話には着信を示すライトが点いていた。
窓からは様々な明かりが見えた。屋上に据えられたネオンサインや、マンションの部屋を照らすもの、信号や街灯も輝いていた。遠くを見ると山の稜線がうっすらとわかった。月もなく、その辺りはほんとうの闇に覆われているようだった。どんな明かりでも打ち消すことのできない闇だ。強士はビールの缶を潰した。普段はしないのになぜかそうしていた。テレビはニュースを流しはじめた。事故があったようだ。大型のトラックが横転し、運んでいたなにかが道に散乱していた。その後にはあらかた破壊された軽自動車が映しだされ、名前が三つ画面の下にあらわれた。子供もひとり死んでいた。八歳の子供だ。
電話が鳴った。強士は窓へ顔を向け、闇を見つめた。ガラスには顔が映っていた。それは真顔で、自分でもすこし怖く感じるほどだった。
﹁もしもし?」
強士はベッドに腰をおろし、電話に出た。
﹁もしもし、じゃないわ」
佐和子の声がそう言った。
﹁いったいどこにいるの? 何回電話したと思ってるの? 着信履歴見た?」
﹁ああ」とだけ強士はこたえた。佐和子は溜息を洩らした。長く深い溜息だった。
﹁ねえ、何度も訊くのは嫌だからすぐこたえて。いまどこにいるの?」
強士はいる場所と、どうしてそうなったかを言った。可能な限り事実だけを伝えるようにした。
﹁ふうん」
佐和子はそう言った。それからすこし黙った。息づかいだけが聞こえてきた。
﹁わかった。だけど、それでどうしてあなたがそこに泊まらなくちゃならないわけ? お友達が倒れたってのはわかるけど、そこまでする必要があるの? それに、仕事は? 明日どうする気なのよ」
﹁会社には連絡しといた。明日は休むよ」
ふたたび佐和子は黙った。強士は窓へと近づき、そこに映る顔を見た。真面目にならなきゃ駄目だ――と思った。
﹁ねえ、その友達って、」
佐和子はそう言って間をおいた。強士は息をとめた。身体の中を重たいものが降りていくのを感じていた。
﹁あなたの大切なお姫様のことでしょ? 私がなにも知らないと思ってたの?」
窓に映る顔を食い入るように強士は見た。ぼやけて滲んでいるはずの顔はいやにくっきりとみえた。それは見るにたえないものだった。赤黒く濁り、浮腫んでいた。
﹁ま、いいわ。とにかく一度は戻ってきなさい。私たち、話しあう必要があるみたいだしね」
﹁ああ」
﹁それだけ? 他に言うことはないの?」
﹁すまない」
強士がそう言うと、佐和子はまた溜息をついた。その音が聞こえているうちに電話は切られた。
病室に入ってきた強士を見て、美以子は微笑んだ。上体を起こし、背筋を伸ばした。強士はベッド際の簡単な椅子に座った。
﹁あなたが来てくれるって聞いてた」
﹁ああ」
﹁ありがとう。それに、ほんとにごめんなさい。周くんにも謝らなきゃならないんだけど」
﹁あまりいろいろと考えない方がいい」
カーテンは開け放たれ、病室には薄く光が満ちていた。広い駐車場の向こうには葉を繁らしはじめた木が並んで立っていた。美以子は手を伸ばし、強士の腕をつかんだ。
﹁気分はどうだ?」
﹁まあまあよ。薬で眠ったでしょ? まだぼんやりしてるけど、その方がいいみたい」
﹁息苦しかったりしないか?」
﹁うん。そんなに心配しないで。私は大丈夫だから」
腕をつかむ手に力をいれて美以子はそう言った。
﹁そうか。よかった」
﹁午後には出られるわ。一緒に帰りましょう」
美以子は窓の方へ顔を向けた。その声は子供の頃に聞いたそのままに思えた。まるで学校から帰るみたいだった。強士は美以子の手を握った。そのままで横顔を見つめていた。
電車は空いていて二人は向かいあって座席についた。美以子の顔は青白くみえたけれど、それ以外は普段通りのものに思えた。ただ、目が時折せわしなく動いた。鉄橋にさしかかり電車は揺れ方を変えた。空は昨日のつづきのように曇っていた。
﹁見て」
美以子は窓に手をつき、そう言ってきた。
﹁大きな川。私たちが生まれた町にあったのと変わらないくらい大きい」
強士も外を眺めた。青くみえる大振りな石が河原をつくり、背の高い草が風に靡いていた。川はゆったりと流れていた。
﹁川の色って不思議じゃない? 川自体には色がないみたい。だって、こんな曇った日には薄く濁ったようにみえるし、晴れてるときは輝いてるでしょ。それに、風のあるときは小波がたつし」
﹁確かにな」
﹁きっと川には色なんてないのよ。いつも空の色や風をうけて自分を変えてるの。決まった色なんて持ってないんだわ。見る人によって違うかもしれないしね。私が見てるこの川と強士くんが見てるのも違うんじゃないかって思う」
美以子は川が見えなくなるまで外を眺めていた。電車は進んでいき、首を動かしていた美以子は強士に向きなおった。
﹁子供っぽいこと言ってるって思ったんでしょう」
﹁いや、そうじゃない。面白いと思ったよ」
強士の手をとって美以子はきつく握ってきた。その手は冷たく湿っていた。電車は長い鉄橋を越え、田園地帯を走った。点々と家が建ち、水の張られていない田圃は剥き出しの地面をさらしていた。美以子は一度目をつむり、すぐにあけた。それから、なにかを区切るかのように息を深く吐き出した。
﹁私、強士くんに手紙書いてたじゃない。そのとき思ったことがあるの。ただ感じていただけのものを言葉にするのって勇気のいることだって」
﹁どういうことだ?」
﹁だって、曖昧な感情や不確かな出来事を正しく――ううん、より正しくっていった方がいいんでしょうけど、書くのって難しいじゃない。それに、そうすることで事実が確定されるように思えるの。曖昧さや不確かさがなくなって、このことはこれで決まりってなるように思えるの。後戻りできなくなるっていうか、訂正がきかなくなるっていうか」
美以子の手からは力が抜けていった。強士はつながれた手を見つめていた。
﹁私の言ってることわかる?」
﹁ああ、わかるよ。なにかを書こうとしてる人間ならわかる。美以子の言う通りだ。曖昧だったはずの感情を言葉に置き換えようとすると捨てなければならないことが出てくる。感情なんてひとつのはずがないのに、そこから選ばなきゃならないもんな。より正しいものを」
﹁そう、より正しいものをね。だけど、そんなことってほんとうにできるのかしら。そのときに感じたことはたくさんあるのに、そこからひとつを選ぶなんて。そう考えてたらわからなくなっちゃったの。混乱してるのを抑えようとして、さらに混乱しちゃったのよ」
﹁今はあまり考えこまない方がいい」
﹁じゃあ、いつ考えればいいの?」
電車は停まり、幾人かが乗りこんできた。強士は乗客の方へ顔を向けた。すべての者が自分たちを見ているように思えた。
﹁昔ね、実穂に言われたの。あんたは難しく考えすぎなんだって。もっと楽に考えなさいって」
握った手に美以子は力をいれた。乗客たちはシートに腰を落ち着けた。強士は周囲を見まわし、弱く息を吐いた。
﹁でもね、私、別に難しいことなんて考えてないし、複雑に考えてなんかなかった。それどころか、ほんとうに考えなきゃならないことを考えないようにしてた。いろんな理由をつけて、後回しにしてたの」
話しているうちに美以子の顔は青白くなっていった。息が速くなり、指先はさらに冷たくなった。強士はその手をさすった。
﹁私は大丈夫よ。――でも、まるで息継ぎしてるみたい」
美以子は胸をおさえ、薄い笑顔をつくった。
﹁もっと考えなくちゃいけないの。あなたとのこともそう。ずっとこのままじゃいけないでしょ」
﹁俺はいま住んでるとこから出るよ。一緒に暮らそう、美以子」
目を大きくひらいて美以子は見つめてきた。息を深く吸い、手をしっかり握ってきた。しかし、その力はすぐに弱まった。
﹁うれしい」とだけ美以子は言った。
停車するたびに乗客は増えた。強士の隣には太った男が座り、二人のことをじろじろと見た。それから、つながれた手も見た。彼らは話すのをやめた。ただ、手だけは離さなかった。
駅に降りると、もう日は暮れかかっていた。美以子はひとりで帰ると言った。
﹁大丈夫よ、私は。しっかりしなくちゃいけないし、そうできる。それに、昨日いろんな人に迷惑かけたでしょ。お詫びの電話もしなくちゃいけないから。――今日はほんとうにありがとう。強士くんのおかげで落ち着いたわ」
ホームは混みあっていた。通り過ぎる人々と自分たちに変わったところなんてない。強士はそう思っていた。背筋を正した美以子は凜としてみえた。しかし、なにかが彼女を蝕んでいるのだ。強士は﹁大丈夫か?」と言いたかった。ただ、そうは言えなかった。
﹁さっきの話、後でもう一度しよう。電話するよ。時間をとって話しあおう」
美以子は笑顔をつくった。ごく普通の笑顔だった。
﹁俺が美以子を守る。そう決めたんだ。真面目になるよ。周にもそう言われたしね。だから、」
強士の手をとり、美以子はその目を見つめてきた。遮るつもりはなかったのかもしれない。しかし、強士は言うべきことをのみこんだ。
﹁ね、強士くん、笑ってみせて。だって、あなたの真顔は怖いのよ」
そう美以子は言った。強士は口角を上げ、できる限りの笑顔をみせた。美以子は表情が変わっていく様をじっと見ていた。
﹁これでいいか?」と強士は訊いた。
﹁うん。それでいい」
美以子と別れてから強士は駅の中をうろつきまわった。人混みの中にいる方が楽だったのだ。駅には様々な人間がいた。年老いた者もいれば、子供もいた。楽しそうにしている者もいたし、打ちのめされたような顔の者もいた。強士はそれらの者たちをじっと見ていた。いろんなことを考えているはずだったけれど、なにひとつとして結論づけられなかった。
強士はデパートに入り、エスカレーターを何度も乗り継いだ。ジャケットのポケットに手を突っこんだまま本屋に入ると、整然と並んだ背表紙を見てまわった。古馴染みのタイトルがあり、まったく知らないものもあった。ここに書かれた文字にはきちんとした意味がそなわっているのだろう――そう考えながら端から端まで見ていった。しかし、それがなにを示しているかわからなかった。
屋上の広場には人気がなかった。強士は適当なベンチに腰をおろし、空を見上げた。月が出ていた。細く歪曲したような月だ。オレンジ色の明かりが広場を照らしていて、月の光は届いていなかった。強士は溜息をついた。なにも考えたくないのに、なにかは考えなければならない――そうとだけ思った。だけど、なにを考えればいいんだ?
清掃係の男がゆっくりと近づいてきた。手に大きなビニール袋を持ち、ゴミ箱に据えつけられたものと交換しはじめた。強士はその様子を見ていた。男の作業着にもオレンジ色の明かりがあたり、奇妙に濁った色合いにしていた。ゴミ箱から離れるときに、その男は強士の顔を見た。真顔だった。ゴミを見ているのと変わらない目つきだ。強士は男が立ち去るのを待って立ちあがった。身体は芯から冷えていた。
アパートに着いたのは十時を過ぎた頃だった。部屋には明かりがついていた。強士は足許を見た。靴がべったりと道に貼りつき動かない――そう考えて唇を歪めた。ごまかしのための文章だ。俺の靴は道にべったり貼りついてなんかいない。これ以上ごまかすことなんてできない。真面目にならなきゃ駄目なんだ。
ドアを開けると、見馴れたはずの部屋はすこしずつなにかが異なるようにみえた。でも、これだってほんとはそうじゃない。俺がそのように考えたいってだけのことだ。ありのままを見ようとせず、違う意味をつけ足そうとしてるだけだ。リビングのドアが静かにひらいた。強士は靴を脱ぐために顔をさげていた。
﹁お帰りなさい」
佐和子の声は小さく聞きとりづらかった。
﹁ああ」と言って強士は顔をあげた。
﹁ただいま」
佐和子がコーヒーを淹れているあいだ、強士は背もたれに腕をのせて窓の方を見ていた。部屋には換気扇のまわる音しかしていなかった。誰かの小説にこういうシーンがあったよな――閉ざされたカーテンを見ながら強士はそう考えていた。ほんとにどうしようもない状態。立ち向かわなければならないことがあるのに誰もそうすることができない場面。登場人物のすべてが怯え、強張りきった身体でそれが過ぎ去るのを待つだけのシーンってわけだ。そう考えると、これまでに経験した時間がなにかのパロディのように思えた。あてがわれた役を求められるままにこなしていたように感じられた。自分だけじゃなく、美以子も周も、実穂や佐和子だってそうなんだ。俺たちは演者だ。観衆はじっと見てることだろう。これから俺がなにを言い、どう行動するかを。
カップを置くと、佐和子は向かい側に座った。一瞬だけ強士を見て、煙草に火をつけた。たちあがったけむりを手で払い、燻っている先を見つめた。
﹁で?」
そうとだけ佐和子は言った。強士の顔を見ようとはしなかった。瞼は腫れていて、目の下は落ちくぼんでいた。一定の間隔をおいて佐和子は煙草を喫い、けむりを吐き、灰を落とした。
﹁なにも言うことはないの?」
佐和子は煙草の先を向けてきた。けむりは漂い、キッチンの方へと流れていった。
﹁訊かなければ話さないつもり?」
強士は黙ったままだった。言うべきことを彼は持っていた。しかし、どの言葉も適当でないように思えた。佐和子は大きく溜息をつき、ずっとそらしていた目を向けてきた。鋭く刺すような目つきだった。彼女は立ちあがり、紙の束を持ってきた。それをテーブルの上に放った。
﹁斎藤美以子」
口にしたくないことを無理に言わされているような声を佐和子は出した。
﹁これ、全部その女からの手紙でしょ。差出人が書かれてないのを見ると、これが届くようになった頃からそういうご関係だったってことよね。読んだわ。ひどい内容だった。なによ、これ。イカレてるとしか思えない。それに、つらく悲しい物語みたいに書いちゃって」
強士は顔をあげ、佐和子を見つめた。自分がどのような表情をしているかわからなくなっていた。佐和子はノートも持ってきて、それも放るように置いた。
﹁あなたのお姫様なんでしょ、それが。中学生の頃からの幼馴染み。美しく、気高いお姫様。あなたとお友達――周くんだったわね? その三人はずっと仲良しで、いつも一緒だった。そうでしょ? 憶えてるわ。忘れるはずもない。私たちがはじめて話したときに言ってたわね。騎士の話を書いてるって。お姫様を守る二人の騎士。二人はお姫様が大好きで、」
佐和子は手を伸ばし、手紙をつかみとった。
﹁私がなにも知らないと思ったの? 馬鹿にしないで」
強士の目を見つめながら佐和子はそれをゆっくりと裂きはじめた。
﹁そのとき私は言ったわ。――さっきの話のつづきよ。二人の騎士とお姫様の物語。騎士は二人とも死んでしまって、お姫様も自殺するの。あなたは結末はそうじゃないって言ったわ。よく憶えてるものでしょ? 私は憶えてるの。それに、知ってるの。あなたの言ったこと、書いたもの、全部憶えてる。そのノートだって全部読んだわ。びっしりと﹃美以子、美以子』って書いてあった。まるで呪われてるみたいにね。そこに書かれてたのだって憶えてる。全部、憶えてるの。あなたのしたことだって全部知ってる」
佐和子は強士を睨むように見つめた。紙を裂くのはやめなかった。
﹁死んでしまえばいいのよ、みんな。結末はそれでいいわ」
千切った紙を佐和子は投げつけてきた。幾つかの紙片はテーブルに落ち、あとはばらばらと床へ散った。
﹁美以子は様子がおかしいんだ。放ってなんておけない。誰かが彼女を助けなきゃならないんだ」
強士が声を出すと佐和子はテーブルに腕をのせた。顎を突き出し、強士を射竦めるように見つめた。
﹁おかしいってどういうことよ」
﹁突然大声を出したりすることがある。自分でもよくわかってないみたいなんだ」
そう言いながら強士は弱々しく首を振った。自分の声は聞きなれないもののように響いた。
﹁昨日もそうなった。その後で倒れたんだ。その前だって様子が変だった。周に嫌いだ、出て行けって叫んで――」
﹁なによ、それ。頭がおかしいってことでしょ?」
﹁やめてくれ、そういう言い方をするのは」
顔を佐和子に向けたまま強士は目をつむった。できることなら耳もふさぎたかった。そうしていると、なぜあのときのことを書けないのかわかった気になった。事実にきちんと向きあっていなかったからだ。ラブレター、弱く眩しい陽光、ピアノの音、ひんやりとした廊下。すべては明らかで、しかし、同時にぼんやりとしていた。ただ、強士はこうも思った。そんなことがわかったからといってなにになるっていうんだ?
﹁その女は頭がおかしいのよ。そんな女を助けたいっていうの?」
﹁やめてくれ」
強士は目をひらき、佐和子を見つめた。瞳に涙があらわれたのがわかった。それはまだ流れていなかった。しかし、じきに溢れ出るはずだった。
﹁もう言わないでくれ」
佐和子は首を激しく振った。両手を挙げ、テーブルに振り下ろした。
﹁これはあなたが言わせてることよ! その女は頭がおかしいの! イカレてるの! 人の男を獲るなんてはじめっからイカレてるんだわ!」
そう叫ぶと佐和子は声をあげて泣いた。強士は背もたれに力なく寄りかかり、弱く息を吐きつづけていた。佐和子の泣く声と、自分の吐息、あとは換気扇のまわる音だけがしていた。
﹁わからないの? 私はあなたのこと愛してるの。自分自身にたいしてより強くあなたのことを愛してるわ。もちろん、その女よりよ」
肘をテーブルにつき、頭を抱えるようにしながら佐和子は言った。
﹁あなたがしてるのはひどいことよ。私にとっても、あなたにとっても、それに、きっとあなたのお姫様にとってもね。ねえ、あなたになにができるっていうの? ずっとその頭のおかしい女と一緒にいてあげるつもり? その覚悟はあるの?」
強士は顎をかたくさせ、佐和子の声を聴いていた。そして、覚悟? と思った。テーブルにばら撒かれた紙片には美以子の書いた字がみえた。目を細め、強士はその一部分を見つめた。﹃強士くん』と書いてあるところをだ。じっと見ていると急に怖れがたちあらわれてきた。子供の頃に感じたのと似た恐怖だった。なにかのきっかけで自らが著しく変化をし、果てには存在を消してしまうかもしれない。いや、――と強士は思った。ほんとうの恐怖は曖昧なままに存在しつづけることの方にある。真面目にならずに生きていくことこそが怖れを呼び起こすのだ。
あまりにも強士が黙っているので佐和子は顔をあげた。強士はテーブルを見つめているようだった。しかし、どこか遠くを見ているようにも思えた。なにを考えてるかわからなかった。理解したかったけれどできなかった。佐和子はしばらく強士の顔を見ていた。そして、寂しそうな顔――と思った。
周はあの日以降なにを見てもなにかを思い出しそうになった。風の音は強士と一緒に美以子を探した日のものであり、人混みの喧噪はプールで聞いたのと変わらなく思えた。過去と現在が密接に絡みあい、激しく混乱させられた。周は立ちどまった。たくさんの人が歩き去っていった。彼はひとり取り残された。そのままで考えた――どうすればよかったんだ? どの時点で、どのように?
実穂は気づいていた。どんなことがあったのかはわからないものの、美以子が関係してることはわかった。あのときと同じ、と実穂は思った。美以子が突然大声を出したときだってなにも言わなかった。この人はまだあの子のことを忘れきっていない。あのお姫様のこととなると隠し事をする。もうすぐ父親になるっていうのに。
夜中に実穂は目を覚ました。嫌な夢を見ていたようで身体は汗ばんでいた。周の姿はなかった。実穂は汗を拭うと、いつも周が寝ている側を見つめた。もう十年経った。はじめて手を握った日から十年以上も経ったんだ。その思い出にだって美以子の影は色濃く染みついてる。実穂は時計を見た。どういうふうに過ごしていようと時は過ぎ去っていく。昔のことを思いつづけてたっていいことなんかない。実穂はカーディガンを羽織ると立ちあがった。
﹁どうしたの?」
周は首をすこしだけ動かした。実穂にはその横顔が見えた。疲れきり困惑した顔だった。
﹁どうもしてないよ。ちょっと眠れなくて」
実穂は向かい側に座った。大振りなグラスには強そうな酒が注がれていた。周はそれを手にとって、一口だけ飲んだ。
﹁嘘はつかないで。あなたにはなにかがあった。私にはわかるの」
グラスを静かに置くと周はテーブルの上を眺めた。折りたたまれた新聞、テレビのリモコン、実穂が買ってきた育児雑誌。グラスの中では氷が溶け、揺らめくように色を変えていた。ずっとこのまま見ていれば、その色がどのように変わっていくか知ることができるのだろう――周はそう考えてみた。だけど、そんなことになんの意味がある? 放っておいても変わるものは変わる。いや、変わらないものなんてないんだ。車が走っていく音が聞こえてきた。その後は音がなくなった。周は顔をしかめさせた。思い出したくないことがふっと浮かんできたのだ。
﹁美以子のことなんだ」
しばらくしてから周はそう言った。
﹁でしょうね。それで?」
﹁なんて言ったらいいかわからないよ。俺だってまだ信じられないんだ」
周は目を伏せた。言葉はうまく見つからなかった。だけど、なにかは言わなければならない。
﹁信じられないってどういうことよ」
﹁様子がおかしいんだ。美以子の様子がだよ。この前、ピアノを聴きに行ったろ? 俺と強士とで。美以子は普通に見えた。でも、強士はちょっとおかしいって言った。俺は信じられなかった。だって、いつもと変わらなくみえたんだ。ピアノもちゃんと弾いてた」
﹁うん」
﹁でも、弾き終えた後は確かにすこし変だった。舞台に立ちつくしてたんだ。引っ張られるようにして連れて行かれてた。その後に会ったときは顔が違ってた。あんな美以子、見たことがなかった。ほら、前にもあっただろ? 高一のときだ。急に美以子が大声を出したとき。あれと同じで、それよりも変だった」
周は目を閉じた。考えたくない光景や言葉を思い出していた。美以子の顔、声。それに強士の手。
﹁強士に、」
そうとまで言って周は酒を飲んだ。喉を通る液体は思考を冷やしてくれた。そうしないと話せなかった。
﹁強士にべったりとくっついて胸を揉ませてた。考えられない。それから、俺のことを指さして﹃嫌いだ、出て行け』って叫んだ」
実穂は身体を揺するようにした。表情は変わらなかった。あまり驚かないのが自分でも不思議だった。しかし、理解できることはあった。あの子は確かにどこかおかしいところがあった。
﹁強士は前から知ってたみたいだ。俺は気づいてなかった。美以子があんなふうになってるなんて」
周は自分が泣いているのを知った。実穂はその顔を見つめていた。それから、なにか大切なことを思いついたかのように目をそらし、カーテンを見た。ここに住みはじめたとき二人で選んだカーテンだ。
﹁ほんとに気づいてなかったの? あんなに仲がよかったのに? あの子、だいぶん前からおかしかったわよ」
周は目を細めた。
﹁なんで言わなかったんだ?」
﹁言えるわけないでしょ。私がそんなこと」
﹁どうして? どうして言えるわけないんだ?」
﹁だって、」
実穂は正面を向いた。そして、考えた。どうしてそのことを言わなかったんだろう? 誰のために? どういう意図があって? だけど、よくわからなかった。わかりたくもなかった。
﹁強士に言われたよ。俺たちは友達だったってね。実穂、君も美以子と友達だった」
﹁そうね。それは確かだわ」
実穂は背中を椅子に押しあてた。まるで自分たちの話ではなく、名前だけが同じ登場人物の物語を聴いているような気分になっていた。気持ちが動かないわけではなかった。しかし、それらはすでに過ぎ去ったことなのだ。
﹁でも、なにができたっていうの? あの子は前からちょっとだけおかしかった。それが気になることもあった。だけど、どうすることもできないじゃない。違う? それはあなただって同じでしょ?」
周はうつむき、口の中で小さく呟いた――なにができたっていうんだ?
﹁悲しいのはわかる。私だってそんなこと聴けば悲しく思うもの。私とあの子は友達だったんだものね。でもね、なにをすればよかったの? それが、あなたにはわかるの?」
周は大きく目をひらいた。幾つかのこたえを持っている。そう信じた。しかし、口から出たのはこういう言葉だった。
﹁考えたくないんだ」
﹁考えることなんてないでしょ。違う?」
実穂はテーブルの上に手を置き、それを伸ばしてきた。
﹁いくら考えたって解決しないこともあるじゃない。これはそういうことなのよ。すくなくとも私たちが考えてどうにかなることじゃないわ。でしょ? あの子がどうにかしなきゃいけないことなの。冷たいことを言うようだけど、実際にそうじゃない」
テーブルに伸ばされた手を周は見つめた。ピアノの音が聞こえたように思えた。耳の奥で重たい低音が鳴りつづけていた。周は美以子と強士の顔を思い浮かべた。しかし、それは息継ぎにならなかった。かえって息苦しくさせた。眉間に皺を寄せ、周は差しだされた手を握った。
やわらかく、繊細な手――と実穂は思った。あのときと変わらない。美以子はいつだって私たちを遠ざけようとしてきた。それだって今も変わってないんだ。実穂は不自然にならない程度の笑顔をつくった。周の頬に流れる涙を見ないようにした。見たくないものは初めから存在していなかったかのようにできる。実穂は記憶にある周の笑顔を思い出そうとした。それを重ねあわせ、泣いた顔を消しこもうとした。しかし、溜息を洩らした。うまくできなかったのだ。
この人の中にはたとえどんな状態になってもあの子が居座りつづけるんだろう。そんなことはわかってる。だって、異常な関係なんだもの。だけど、私はこの手を絶対に離さない。幾分ごつごつしてるけど、それでもしなやかですべすべしてる手。これはこの人のものであると同時に私のものでもある。
◇
美以子は電話に出なかった。メールの返信もなかった。強士は話したかった。話すことがあったのだ。なにをどのように言うことになるのかはわかっていなかった。それでも顔を見て話すべきだと思っていた。幾度かはマンションを訪ねもした。しかし、部屋にいるのかもわからなかった。
七月の終わりに周から手紙が送られてきた。分厚い封筒には印刷された文字が並ぶ用箋が十枚ほども入っていた。そこには子供の頃からのことが綴られていた。
﹃――正直言って、俺はお前の真顔を怖く思ってた。はじめて見たときからそうだったし、それはいまだに変わってない。なにを考えてるかわからないんだよ。だけど、強士はいい奴だってずっと思ってた。それに、誰からも好かれてたもんな。ちょっと問題のあるような奴にも強士は優しかったからな。俺はすこしだけ羨ましく思ってたよ。誰にも分け隔てなく接することができるお前が羨ましかった』
強士は喫茶店でそれを読んでいた。コーヒーを飲みながら目だけを動かし、たまに顔をあげた。薄暗い中を仕事帰りの者たちが歩き去っていった。
﹃――中学二年の夏だった。俺たちは花火大会に行った。そのとき美以子が家の鍵をなくした。憶えてるか? 街灯もなにもないようなところだった。俺たちは一時間くらい探しまわったよな。あのとき俺は自分が見つけてやると思ってた。お前じゃなく俺がってことだ。だけど、心のどこかではお前が見つけることになるとわかってた。いいか? 俺にはわかってたんだ。そして、実際にそうなった。美以子はお前に抱きついて﹁ありがとう」と言った。俺はそれをすこし離れたところから見てた。
いろんなことを忘れたつもりになっていても、あのときに見たのは残ってるんだ。たぶん、俺はあの頃から美以子がお前を選ぶだろうって思うようになったんだな。そして、これもその通りになったってわけだ』
弱く溜息を洩らし、強士は紙を捲った。できる限り落ち着いていようと思っていた。大声をあげたくなるのを抑えていたのだ。最後の方にはこう書かれていた。
﹃これをお前に読んでもらうことでどうにかしたいなんて思ってるわけじゃない。ただ整理したかっただけなんだ。お前も混乱してるんだろ? 俺だって混乱してる。いくら真面目にやっていてもこうなるものなんだな。お前の言った通りだよ。
とにかく、俺は混乱してる。昔のことを思い出すことでそれをどうにかしたかっただけだ。それが成功したかは自分でもよくわからないけど、整理だけはついたように思えるよ。
強士、お前が言ったように俺たちは友達だった。俺と強士と美以子はずっと友達だった。でも、今じゃよくわからなくなってるんだ。お前は﹁美以子を助けなくちゃならない」って言ったよな。でも、どうやって? 実穂はだいぶん前からおかしなところがあったって言ってた。俺たちもそれに気づいてはいたんだろう。そのときになにかすべきだったのかもしれない。だけど、どうすりゃよかったっていうんだ? いつの時点で、どのように? 俺にはまったくわからないんだ。この時点でもわからないし、時間が経ってもわからないかもしれない』
一度さらっと読み、強士ははじめから読みなおした。それから外を見つめた。無性に腹がたっていた。周の手紙は自分たちの関係にひと段落もうけるためのものに思えた。勝手に結末を用意されたような気分だった。周は考えることを放棄してる。行動することだってそうだ。整理するというのは、いま起こっていることを過去のものにしてしまう言葉だ。強士はぼんやりと浮かぶ顔を見つめながら唇を噛んだ。なにができるかなんて自分にもわかってない。どうなるのかだってわからない。ただ、そうであってもなにかはしなければならないのだ。
強士は最後の一枚に目を落とした。それまでの文章とは切り離された追伸みたいな部分だ。
﹃前にも書いたけど、俺はお前が羨ましかった。いつだって俺はみんなに好かれようとしてた。でも、お前はそうじゃなかった。愛想笑いすらしないで黙ったままだった。それなのに好かれてたろ? いろんな奴がお前を頼ってた。美以子だってそうだ。最終的にはお前を頼るんだ。それが俺にはわかってた。子供の頃からなんとなくそう感じてたんだ。
強士、俺たちは騎士じゃない。美以子もお姫様なんかじゃないんだ。俺たちはただの無力な人間なんだよ。思い出に浸って生きることすらできないほど無力な、ただの人間なんだ』
こんなもの破り捨ててしまいたい――強士はそう思った。しかし、封筒にしまい鞄に放った。いつか役に立つかもしれないと考えたのだ。自分が書きたく思ってるものの補強材料くらいにはなるかもしれないとだ。そして、そんなふうに考えたことを恥じた。
九月になって、やっと美以子からメールがきた。二人は美以子のマンション近くにある公園で落ちあった。雲が低く垂れこんだ蒸し暑い日だった。公園は川縁の桜並木に沿って細長くつくられていて、胸の高さくらいまであるフェンスがずっと先までつづいていた。その底には淀んだ水があった。流れているのかわからないような川だ。二人は歩き出した。子供たちの遊ぶ声が聞こえていた。
﹁ごめんなさい。ずっと連絡しないで」
美以子はそう言った。二人の距離はすこしだけ離れていて、強士はその隔たりの意味を考えていた。昔に戻ったかのようだった。見えるものは違うけれど、三人で歩いた土手の道を思い出しもした。ラブレターを渡した日、あのときも俺たちはこれくらい離れて歩いていた。﹁またなの?」と言って美以子は受け取らなかった。実穂は振り返り﹁あらあら」と言った。周は俺たちを見つめていた。あのときの桜は葉を散らしはじめていた。強士は前を見つめた。そこに周と実穂がいないのが不思議だった。
﹁お母さんの具合がよくないのよ。それで、ばたばたしてたの」
﹁そうだったのか。どんな感じなんだ?」
﹁おとなしく家にいさえすれば平気みたい。もともと丈夫な人だったから。でも、お父さんが亡くなってから急に弱くなったの」
美以子は姿勢を正して歩いていた。ずっと前を向いていて強士の方を見ようとはしなかった。
﹁だけど、ほんとはそれだけじゃない」
立ちどまった美以子は強士に向きなおった。
﹁私たち、もう会わない方がいいんじゃないかって思ったの。半分はあなたのためよ、強士くん。もう半分は自分のためでもあるわ。このままじゃ、もっと駄目になってしまうような気がしたの」
強士はただ美以子の顔を見ていた。言うべきことはたくさんあるはずなのに言葉がうまく出てこなかった。美以子はしばらく強士を見つめ、無言で歩きだした。公園は徐々に幅を広げていって、突然に開けた。二人はベンチに座った。背後には高台に至る斜面があり、折り重ねられたような階段がつづいていた。
﹁私、あれからも手紙を書こうとしたの。でも、最後まで書けなかった。いつも途中で混乱しちゃうの。あのとき自分はこう思ってたんだってわかってるはずなのに、書こうとするとわからなくなるのよ。ほら、より正しいものを選ぶって話したじゃない? それがほんとにできなくなっちゃったみたい」
美以子は川のある方を見ていた。強士は脚を組み、片手を頬にあてた。
﹁だんだんいろんなことがわからなくなっていくの。なにを感じ、どんなことを思ってたんだろうって考えてもわからないの。前にも言ったでしょ? まるで誰かに操られてたみたいだって。斎藤美以子っていう人間は存在してなくて――私の肉体はあるんだけど中身は空っぽで、したことも言ったことも全部が決められてたみたいに思えるの。つくられたお話に出てくる人間みたいに」
強士は美以子の横顔を見つめた。前を向いたままで美以子は手を伸ばしてきた。指は力なく開いていた。強士はそこに自分のをのせた。
﹁昔はそうじゃなかった。私たちが一緒に遊んでた頃よ。あのときはしっかりしたものを私も持ってた。ううん、きっとあなたたちがそうさせてくれてたんだと思う。強士くんと周くんがよ。間違った方へ行きそうになる私をずっと助けてくれてたものね。あの頃は幸せだった。ずっとあのままでいたかった。なんでこうなっちゃったんだろう」
﹁美以子」
手を握りしめ、強士はそうとだけ言った。
﹁大丈夫よ。私は大丈夫。――ね、強士くんから一緒に暮らそうって言われて、私ほんとにうれしかったのよ。そうなれたらどんなにいいかって思った」
美以子の頬はうっすらと赤くなっていった。ただ、表情は硬かった。
﹁だけど、やっぱりそれはできない。どうしてできないか言うわね。ひどいこと言うけど、できたら私のこと許して。これは、強士くん、あなたには知っておいて欲しいことなの」
﹁ああ」
強士は前を向いた。目の前を子供がはしゃぎながら走りまわっていた。
﹁いろんなことがわからなくなってる私だけど、これはきっとほんとうよ。私はあなただけじゃ足りないの。あなたに抱かれてるときにも、ふとそう感じることがあった。これだけじゃ足りないって。自分が求めてるのはあなただけじゃないんだって」
二人は示しあわせたように互いを見た。強士も美以子も真顔だった。子供が転び、父親が後ろから抱き上げた。美以子は顔をそむけた。
﹁これは罰なんだって思ってる。いい気になってた私への罰よ。私はあなたたちのことが好きだった。好きで、好きで、たまらなかった。だけど、あなたたちは二人いるんだもん。私は身体が二つに裂けてくれればいいって思ってた。心は裂けてるんだもの、そうなったってかまわなかった」
空を覆う雲はしだいに厚さを増していった。強士は首をあげた。太陽があるところからは鈍く光が洩れてきそうにみえた。しかし、そうならないのはわかっていた。
﹁私、家に戻ることにしたの。近所の子にピアノを教えて暮らしていければって思ってるんだけど」
美以子はそう言って立ちあがった。手は離れた。
二人は高台へとつづく階段をのぼった。木々にかこまれた薄暗いその場所に人はいなかった。子供たちの声もすこし遠くなった。しばらく進むと二人の距離は広がっていった。強士は振り返った。手摺りをつかみながら美以子はゆっくりとのぼってきた。腕を伸ばし、強士は口許をゆるませた。その顔をじっと見てから美以子は手を握ってきた。
﹁強士くん、あれ書いてるの? それともやめちゃった?」
踊り場のようなところで立ちどまると、美以子はそう訊いた。その場所から川は見えなかった。ただフェンスの並んでいるのがわかるだけだった。
﹁ああ、」
強士は額に浮かんだ汗を手でおさえた。
﹁ほんというと全然書いてない。書けないんだよ。美以子がさっき言ったのと一緒だ。いろいろ考えてると言葉が出てこなくなるんだ」
﹁そう」
美以子は下を向いて、弱く息を洩らした。
﹁それもきっと私のせいね」
﹁違うよ。美以子のせいなんかじゃない。これは俺の問題だ。俺だけの問題なんだ」
風が吹き、木々を揺らした。遠くからくぐもった雷鳴も聞こえてきた。二人とも空を見あげた。木の間から見える雲はところどころ茶色くなっているようだった。
﹁書くのやめるつもり?」
﹁どうだろう? わからないな」
﹁でも、書きたいとは思ってるんでしょ?」
﹁そうだな。いつかは書きたいね」
美以子はつないだ手を引くようにした。ごく自然な笑顔をしていた。どんなささやかな問題だって存在していないといった表情にそれはみえた。
﹁だったら、私たちのことを書いて。あなたが書きたいと思ってるのとは別にまったく違うお話として、私とあなたと周くんのことを。子供の頃からよ。私たちが知りあって、いろんなことして――ほら、よく一緒に遊んでたでしょ? プールに行ったり、花火にも行ったわ。憶えてる? 私が家の鍵なくしちゃったの。暗い道で、どこかに落としちゃったの」
﹁ああ、憶えてるよ」
強士は川がある方へ目を向け、額に手をおいた。そのときに、ふと文章が浮かんだ。周の結婚式でのスピーチ、あれをそのまま使えないだろうか?
﹃僕たちは中学生の頃からのつきあいだった』
はじめの文章が生まれると、次も出てきた。
﹃斎藤美以子と佐伯周と佐藤強士――名字がサ行であったために僕たちは近くの席に座らされることになった。ただそれだけのことだったけれど、僕たちはそれからずっと友人として過ごすことになった』
額にあてた手を払うようにすると強士は弱く首を振った。――駄目だ。書けるわけがない。
﹁どうしたの?」
﹁ん? いや、なんでもないよ」
美以子は頬を染めていた。薄暗い木の陰でもそれはわかった。
﹁あのとき、あなたと周くんはずっと探してくれた。私、すごくうれしかった。あなたたちはいつだって私を助けてくれた。河原まで探しに来てくれたこともあったでしょ。あのときだってうれしかった。これだけはちゃんと思い出せる。強士くんがしてた笑顔も憶えてる。ちょうど、さっきしたのと変わらない笑顔だった。振り返って手を出してくれたときにしてたじゃない」
﹁そうか?」
﹁そうよ。私がはじめて見たあなたの自然な笑顔だったもの、忘れるはずない。それまでのあなたはぎこちない笑顔しかしてなかったのよ」
手をしっかりと握りしめ美以子は笑った。自分でも不思議だった。ここ何年も失われていたほんとうの笑顔が意識せずに出せている――そう思っていた。
﹁私たちは仲良しだった。そうでしょ? あの頃が私の一番幸せな時間だった。だから、書いて欲しいの。あの頃のまま三人は仲良しで、ずっと楽しく暮らしましたって終わり方で」
強士は美以子の瞳を見た。それはガラス玉のようになっていた。違和感がぐっと近づき息苦しくさせたのを強士は感じた。美以子の手は血が通っていないかのように冷たかった。
﹁自分のことなんて書けないよ。これまでずっと書こうとしてた。だけど、やっぱり自分のことは書けない」
﹁そうなの?」
美以子はガラスの瞳を向けてきた。そこに映る自分を強士は見た。ぼやけもせず、際をはっきりとあらわしている顔をだ。
﹁でも、あなたはきっと書くわ。私たちのお話を書くことになる。それがどんなストーリーになってもね。だけど、終わり方はさっきのにして。私と強士くん、それに周くんは仲良くずっと一緒に暮らしましたってふうに。ね、お願いよ」
しばらく進むと高台へたどり着いた。そこからはもうフェンスすら見えなかった。彼らは美以子のマンションまで歩き、その前で別れた。強士はすこしのあいだそこに立ちつくし、美以子の姿が仄暗い奥の方へ消えるまでを見ていた。言わなければならないことは手許に残ったままだった。
◇
彼らのかたちづくる図形は歪になり、もはやそれを指し示す言葉が用意されていないものに変わってしまった。三人ともにそれがわかった。距離も物理的なものだけでなく離れてしまっていた。
十一月になる頃には強士の生活も元に戻っていた。仕事に行き、帰りに喫茶店でノートに向かうという生活にだ。自分のしてることも整理をつける作業のように思うことがあった。嫌悪感を持つこともあった。それでも彼は書きたかった。もう一度きちんと言葉に向きあうことで自らを立て直そうと考えたのだ。彼は様々なことを思い出そうとした。子供の頃に見た色、聞いた音、気持ちを揺り動かしたものたち。
騎士たちにもそれぞれ抱えてることがある――だいぶん前にそう言ったのを思い出し、強士はペンを握ったまま息をとめた。真顔になっているのがわかった。そう、騎士たちにはお姫様のもとへ行けない理由があるんだ。そうでなかったら、二人の騎士はすでに死んでしまったのかもしれない。
周は深刻に考えないことで過去と現実の結びつきを弱めようとした。風の音はいまを吹き去るその日の音であり、喧噪もただの雑音に過ぎなかった。なにかを思い出しそうになると周は顔をそむけた。彼にとっての事実はつねに目の前にあった。目に見えるわかりやすいものがあるのに理解しがたいことを考える必要なんてない――そう思うようにしていた。
美以子は実家に戻り、母親の世話をして日々を過ごしていた。彼女の家は二人だけで住むには広すぎ、掃除をするのも半日がかりだった。誰も使っていない部屋は寒々しく感じられ、すべてのものがぼやけてみえた。美以子はたまに父親が使っていた部屋に入ることがあった。陽のあたるその部屋に立っていると埃がさやさやと降り積もっていくような気になった。このままにしていたら、それはだんだんと積もっていくのかもしれない。美以子は目をつむり、膝の辺りまで埃が積もった様を思い浮かべた。そして、時間がもっと経ち、カーテンが傷み破れ、窓も割れた廃屋を想像した。目をあけると鏡がみえた。そこには自分の左半分だけが映っていた。美以子はじっとそれを見つめ、それから目をそらした。
心臓を悪くした母親は二週間に一度病院に行く以外は外出することもなかった。それでも美以子が戻ってからは天気のいい日にすこしだけ外に出るようになった。二人は土手の上を歩くこともあった。美以子は母親の腕を支えてゆっくりと歩いた。冬の太陽はいたわるような陽射しを道に落としていた。
﹁あなた、仲のいい男の子たちがいたわよね?」
母親がそう言ってきたことがあった。桜の木はうす寒そうに立っていた。土手の下には枝を払われた紫陽花の株があった。
﹁あの子たち、どうしてるの?」
美以子は母親の腕をつかみながらゆるゆると歩いていた。
﹁どうしてるってどういうこと?」
母親は美以子の手に触れてきた。長い年月を経てきた者の肌が弱い温もりをあたえた。
﹁結婚したりされたの? だって、もうそういう年でしょ」
﹁知らないわ」
美以子はそうこたえた。母親は足をとめ、手を離した。そして、まじまじと美以子を見つめた。
﹁どうしたの? あなた、そんな大声を出して」
﹁え?」
美以子は息をとめ、さっと周囲を見た。河原には枯れたアシやガマが倒れていた。川は灰がかった銀色にみえた。冬の太陽を映しているのだ。
﹁あなた、大丈夫? どうかしたの?」
胸の辺りで息が塊のようになっているのを美以子は感じていた。吐くべきか吸うべきかもわからなかった。母親はふたたび手を添えてきた。温かな手だった。しかし、さっき触れられたものと同じには思えなかった。この一瞬で著しくなにかが変わってしまったかのようだった。
﹁大丈夫よ、なんでもない」
静かに美以子はこたえた。そして、ゆっくりと足を前に出した。見られているのはわかっていた。たぶん、これまでにも様々な人間の顔にあらわれたあの表情をしているのだろう。私は大丈夫なのに。なにも問題なんてないのに。
美以子は毎日ピアノを弾いた。楽譜が数式のようであるのは変わらない。しかし、指示通りの音を出せているか不安になった。完璧な存在である譜面と、その模造品でしかない音は意味合いの違うものに思えた。弾き進めていくと複雑さは増していき、理解できないものになっていった。
手を休め、美以子は窓の外を眺めた。高い窓が幾枚も並んでいるその先は暗かった。モミジやハゼやモクセイが月の光にぼんやりと見えた。ピアノの前に座ったまま美以子は考えた。きっともう舞台に立つことはないだろう。――いや、私は舞台に立ったことなんてなかったのかもしれない。輝くライトの下で弾いていたのはほんとうの私じゃなかったんだ。それに、今の私はきちんと弾き通すことすらできなくなっている。ひとつの音にも多重な意味がつけ足され、わけがわからなくなる。突然に破綻し、最後まで行きつけない。
自室に戻ると美以子は手紙を書いた。出すつもりもない手紙――そう思い、しかし、毎日それを書きつづけた。長い手紙はなかなか書き終えることができなかった。どれだけ書いても言い尽くせぬものが残っているように思えた。言葉はもどかしい。自分の中にあることすべてが置き換えられればいいのに。
ただ、書きつづけているうちに不確かで曖昧だったはずのものは事実に定着していった。複雑にしてしまった意味もばらばらとその対象から剥がれ落ち、そのものとして屹立していった。美以子は書き終えたぶんを読みとおし、まるでラブレターみたい――と思った。強士くんから何通ものラブレターを手渡された。だけど、あの頃の私は彼に手紙を書こうなんて思ってもなかった。これまで出したのだって自分のことしか書いてなかった。でも、これは違う。ほんとラブレターみたいだ。
抽斗に便箋をしまうと美以子は目をつむった。時間はわからないけれど深夜なのは確かだった。風が強く吹き、窓になにかがあたる音がした。美以子は立ちあがり、カーテンの隙間から外を窺った。月が見えた。白く冷たい色をした満月だ。雲はきれぎれにしかなく、それは闇の中にくっきりと浮かんでいた。
――ああ、そうだったのか。
その月を見ながら美以子は思った。はじめて強士くんと寝た日。月あかり。私はずっとしっかりしたものを求めていた。そして、あの日、求めていたものがひとつ失われたと思った。でも、それは間違っていた。こんなにも簡単なことだったんだ。私の心は引き裂かれてなんかなかった。ほんとうはそうだったんだ。美以子は机に向かうと、それまで書いたものをすべて捨て、新たに書きはじめた。
まだ夜がつづきそうな仄暗い中で美以子は瞼をひらいた。夢を見ていた。その残滓がまだ身体の内にとどまっているような気分だった。腕で目を覆い、美以子はぼんやりした映像を思い出そうとした。そして、それがはっきり像を結ぶと怒りを感じた。
その夢はよく見ていたものと変わらなかった。高い壁、閉じられた門、逃げ惑う自分。犬となった強士があらわれ、行き止まりへと導く。猫の周は壁の上に寝そべり、行き詰まった自分たちを見おろしている。
しかし、それからは違っていた。突然、強士が自分を押し倒し、上へのしかかってきた。いつのまにか裸にされた自分は股を無理に開かれペニスを挿入された。周は壁から飛び降り、嫌がる自分を押さえつけてきた。強士は射精を終えると周と入れ替わった。二人は交互に何度も犯してきた。代わる代わるペニスを入れられ射精された。自分はしだいに彼らを受け入れ、歓喜の声を洩らしはじめた。追いかけていた者の足音は徐々に近づいてきた。その者は立ちどまり、ゆっくりと歩きだした。犯されている自分の側まで寄ると覗きこんできた。その顔を見たときに自分は絶頂をむかえた。覗きこんできた顔は知っているものだった。それはまぎれもなく自分自身だった。
﹁ふうっ」
深く息を吐くと、美以子はパジャマの中に手を入れた。そこは濡れて熱く、腫れているかのようになっていた。美以子はその濡れた部分に触れた。その瞬間に身体は波うつように震えた。
カーテンの隙間からは弱く青の混じった灰色の光が洩れていた。ベッドから離れ、指をきれいに拭うと美以子は鏡台の前に座った。息があがってるのがわかった。ひどく興奮したのもわかっていた。それを恥ずかしく思い、怒りもこみあげてきた。美以子は背筋を伸ばし、脚をきちんとつけて自分を見つめた。その部分が湿っているのは嫌でもわかった。浅ましいと思った。鏡に映る姿はいつもと変わりなくみえた。そのいつもというのが実際にはいつのことなのかわからない。ただ、あんな夢を見る人間の顔とは思えなかった。
美以子は薄暗い中でじっと鏡を見つづけていた。我ながら美しいと思った。﹁美人の美以子ちゃん」と実穂に言われたのを思いだした。そう、私は美しいの。みんながそう言ってきた。子供の頃からずっとそうだった。表情を硬くしてるとお高くとまってると思われちゃう。それだって私が美しいから。みんな、自分が持ってないものを羨むの。でも、私はそうじゃない。誰のことも羨ましく思ったことなんてなかった。
そう、ずっとひとりでも平気だった。誰とも仲良くする必要なんてなかった。女友達? そんなもの要らない。私には周くんと強士くんがいるんだもの。あの二人は私のことが好きで、私もあの二人が大好き。いろんな男の子からラブレターが届いた。でも、私は相手にしなかった。あの二人が好きでいてくれたから。彼らに会うまでの自分は思い出したくもない。なにかが欠けた存在のように思える。だけど、あの二人は私を正しい姿にしてくれた。美しく凜々しい美以子に。
気がつくと、鏡に映る顔からは表情が抜け落ちていた。お人形みたい――そう思い、美以子は顔を近づけた。手足がバラバラになっていたお人形と似てる。私はあの子が好きだったはずなのに、いつのまにかああなっていた。どうしてそうなったのだろう? 誰があんなふうにしたんだろう? 私がするわけない。だって、あんなに好きだったんだもの。
カーテンの隙間から洩れる陽光は透明になっていった。美以子は光が射す方を見た。夜が明けるのだ。昨日までの自分を捨てるためにあんな浅ましい夢を見せられたのかもしれない。きっとそうだ。この場所からもう一度やり直せってことなんだ。美以子は立ちあがりカーテンを開けた。光を浴びると気分はよくなった。そう、私はもうわかってる。私の心は二つに裂かれてなかった。あの手紙を出さなきゃ。強士くんならわかってくれる。私がどう思ったか、きちんとわかってくれる。美以子は抽斗から便箋を取り出し、さっと読んでみた。
うん、これでいい。強士くんは言ってくれた。一緒に暮らそうって。これを出せばきっとそうなる。私のことを迎えにきてくれる。鳥の声が聞こえてきた。ピチュピチュと鳴き、遠くの方からそれに応えるような声がした。美以子は顔をあげた。鏡に映る自分を見た。
あれ? と美以子は思った。
そこに映る顔は想像していたのと違っていた。自分がしてるはずの表情ではなかった。美以子は笑顔をつくろうとした。でも、鏡に映る自分は笑顔にならなかった。うまく笑えないと知ったとき、美以子は悲しくなった。もう一度、顔を近づけた。じっと見ていると表情はすこしずつ変わっていった。美以子は目を大きくひらいた。唇は無残に歪んだ。自分の意思でそれを押しとどめることはできなかった。唇は歪みつつひらき、白く整った歯を見せた。美以子は顔全体を眺め、おぞましく思った。目をそらしたかったけれどそれもできなかった。唇は動きつづけ、聞きとりにくい音を洩らしはじめた。美以子はそれを聞きたくなかった。しかし、その音はだんだんと大きくなっていった。
――ギチギチギチ、ギチギチギチ。
美以子は手を伸ばした。鏡台の前に並んだ化粧道具から大きな瓶を取り、それを握ったまま鏡を睨みつけた。そして、底を鏡に打ちつけた。一度目はすこし傷がついたくらいだった。歪んだ顔はまだそこに映っていた。美以子はもう一度強く叩いた。大きなひびが入り、打ちつけた中心から放射状に伸びていった。それはなにかが逃げ出したあとのようにみえた。鏡の中に潜んでいた悪い者を私は追いやったんだ――美以子はそう思った。今の自分は笑ってるはず。だって、こんなに気分がいいんだもの。鏡の方が間違っていたんだ。
鏡台から離れると美以子はクロゼットを開け、服を幾つかベッドに並べた。これを着るならスカートはこっちの方がいいかも――と考えた。身支度をすませ、美以子は外に出た。冬の明け方は道に背の低い靄を漂わせていた。大きな通りに出ると冷たい風が吹き抜けていった。美以子はコートの前を押さえるようにして歩いた。私はどこに行くんだろう? そうか、あの二人に会いに行くんだ。周くんと強士くん。私たちは仲良しで、いつも一緒に遊ぶ。あの二人は私を守ってくれる。どこにいたって探しにきてくれる。
あのときだってそうだった。私が不良たちに呼び出され、河原に連れて行かれたとき。なんなの? あの連中は。私のことを羨み、妬む人たち。周くんが私のことを好きだからって、みんなして脅してきた。私は言ってあげるべきだったんだ。﹁そうよ。私は周くんが好き。周くんも私のことが好きなの」って。お気の毒さま。でも、私は美しいんだもの。周くんはそういう私が好きなの。あなたたちじゃ無理よ。だって、ブスなんだもの。だから、妬むのよ。ずっとそういう人間には苛々させられてきた。子供の頃からそうだった。あの二人に出会うまでは。
美以子は土手の上へのぼっていった。桜の木は捩れて苦しそうにみえた。強士くんが手紙を渡してきたのはこの辺だった――そう思い、立ちどまった。あの手紙。私を間違った方へ引っ張っていったのは、あれだった。どうしてあんな人とつきあったりしたんだろう? 私が好きだったのはあの二人だったのに。誰が悪いんだろう? 私はあの二人が大好きで、彼らも私を好きでいてくれたのに。美以子はかつて恋人だった人間の顔を思い浮かべようとした。でも、それはうまくいかなかった。ぼやけていた。ガラスに映る顔みたいにだ。実穂は私に言った。﹁二人からちやほやされていい気になってる」って。﹁でもね、そういうのってあの二人にもよくないわ」とも言われた。
手をかたく握りしめ、美以子は振り返った。電車の窓に映った自分の顔を思い出した。透きとおり滲んだ顔。実穂の顔も同じように滲んでいた。そのようにしか思い出せなかった。振り返った先にはなにもなく、ただ明け方の景色がつづいているだけだった。しかし、美以子はなにかを怖れた。足早に歩きだした。
私は満足できなかった。あの人は私を満足させてくれなかった。下手だったのよ、セックスが。強士くんは私を満足させてくれた。私をほんとうに愛してくれてたんだもの、それも当然のこと。強士くんは一緒に暮らそうって言ってくれた。そうできればどんなによかっただろう。
――ああ、そうだった。
美以子は足をとめ、川の向かい側を眺めた。土手は高い壁のようにみえた。私はわかったんだ。私の心は裂けてなんかなかった。私は誰からも愛されなかったんじゃない。強士くんは私を愛してくれた。そして、私も強士くんだけを愛した。美以子の表情は穏やかになっていった。しかし、すぐに頬は平板になった。
なんでもっと早く気づけなかったんだろう? 今になってわかったからってなにができるの? それに、あの夢。裂かれていたのは心じゃなく、肉体の方だったのかもしれない。――そうだったんだ。肉体の方が間違っていたんだ。美以子は首を巡らせた。遮るものがなく広がった景色は美しかった。明らかで、しかし、すべてが灰色にみえた。冬の朝の色だった。川面にはきれぎれに浮く雲が映りこんでいた。
ほら、やっぱりそうでしょ? 強士くん。川には色なんてないの。いつも空を映してるだけ。美以子はゆっくりと土手を降りていった。ここにいればあの二人が迎えにきてくれる――そう思った。頭の中にはピアノの音が鳴っていた。はじめのうちはなんの曲かわからなかった。よく知ってるはずなのに思い出せない。高音はたどたどしくなにかを探るかのように鳴り、しだいにしっかりとしたメロディに馴染んでいく。低音は寄り添うように進む。
――ああ、そうか。
美以子は思い出し、それを口ずさんだ。小さな声で歌いながら歩いていった。砂利が歩くのを阻んだ。それでも彼女は川へ近づいた。まるでこの曲と一緒。空の色を映しつづける川を見つめながらそう思った。最初はたどたどしい。でも、ゆったり流れる川のようにゆるゆると一体になっていく。繰り返されるテーマもほんと川みたい。流れていき、いつも違う水があるはずなのに見ているだけではわからない。美以子はしばらくそこに立ちつくした。周と強士が探しに来てくれるのを待った。心配そうな顔をした周くんと仏頂面の強士くん。あの二人はいつだって私を助けてくれた。だから、私はあの二人が大好き。美以子は川をじっと見た。一歩そこに近づこうとした。砂利が音をたて、それは大きく響き、美以子は背中を押されたような気になった。そのまま足は川へと入った。
――ああ、冷たい。
そして、その瞬間にくっきりと昔の映像を思い出した。そう、プール。あのときの冷たさ。夏休みの終わり、足だけプールに入れて―― いろんなことを忘れてしまったというのに、あの水の記憶だけ残ってるのはどうしてだろう? それも、こんなにもくっきりと。美以子は水を掬い、それを自分にかけた。あのとき周くんはボチャンってプールに飛び込んで、私と強士くんはずぶ濡れになった。監視員のお兄さんが周くんを睨んでいたっけ。周くんはいつもふざけたことばかりして。強士くんは難しそうな顔してたな。なにを考えてたんだろう?
彼らの声が聞こえてくるように思えた。ただ、どこからなのかはわからなかった。前からなのか、後ろからなのか。なんて言ってるの? 私をどこかへ導こうとしてるの? でも、どこへ? 美以子は腰の辺りまで川に浸かっていた。水を含んだコートは重くなり、身体を下へ沈ませようとした。このままだと死ぬのだろう――美以子はそう思った。唇は自動的に動き、頭に浮かぶメロディを歌わせていた。指も勝手に動いた。右手は高音を、左手は低音を。音をひとつでも出したら、あとはつづけるしかないんだ。前の音に連動し、次の音は規定される。自分があたえた意味は予期していなくても次の意味に影響をあたえる。それは終わるまでつづく。前へ進むのが終わりへとつながっているのか、後ろへ行くのがそうなのか美以子にはわからなくなっていた。
でも、大丈夫。私はかたちを変えるだけ。それは終わりなんかじゃない。生というのはもともと無形。かたちなんてないの。川の色と同じ。いつだってなにかを映してるだけの存在。だから、大丈夫。肉体なんかがあるから難しくなってるの。私にはかたちなんてない。水とも一緒。だから、私は水にのまれていく。――そう、溶けていくんだ。溶けて、いずれは雨になり、空から落ちてくる。強士くんや周くんのところにも私は降りそそぐ。それが終わるわけない。だって、私は水になるんだもの。降った雨はまた川へと流れるでしょ? だから、大丈夫。心配しないで。
心配しないで――そう思ったとき美以子は涙を流した。身体はあらかた水の中にあった。長い髪は川面を漂い、水を吸い、まとわりついてきた。どうして私は泣いてるんだろう? 悲しいことなんてなにもないのに。でも、大丈夫よ。私は大丈夫。なにも問題なんてない。私はあなたたちに降りそそぐ。だから、大丈夫。もう心配なんてしないで――

₀
葬式の日には雨が降っていた。それはよく見ていないとわからないくらいの細かな雨だった。参列者は少なく、灰色に塗りこめられたような式場には黒い服装の者たちが緩慢に動いていた。強士は後ろの方に座り、それをずっと見ていた。幾人か見知った人間がいることに気づいていたけれど、目を合わそうともしなかった。脚を前へ投げだし、背中を椅子に押しあてていた。弱く息を吐きつづけているのが自分でもわかった。
式場にはピアノの音が流れていた。﹃雨だれ』がかかり、﹃木枯らし』がつづき、﹃モスクワの鐘』になった。周は実穂と一緒にやってきた。強士の脇を通り、空いている前の席に座った。献花のときも強士は動かず、ただ前を向いていた。自分が持っているはずの感情がどういったものかもわかっていなかった。もやついていて見えにくいものがあるだけだった。
繰り返されるピアノの曲が﹃木枯らし』になったとき、強士はあの発表会を思い出した。舞台の上にいる美以子、光量の強いライト、聴衆は美以子の内なるものを見たいという欲求を持っているかに思えた。奏でられる音を聴いては、その先を知りたいという興味を持っているようだった。ただ、その先? と強士は思った。冗談じゃない。お前たちになにがわかるっていうんだ。なにも知らないくせに。美以子の寂しさ、不安、怖れ。誰ひとりとしてそれを理解してなかったじゃないか。知ろうとさえしていなかったんだ。
アナウンスが流れ、まわりの者は立ちあがった。強士は椅子にもたれかかったままだった。なにを言われたのかもわかっていなかった。じっと祭壇を見つめ、ぼやけている遺影の顔はたぶん笑ってるものなのだろうと考えていた。黒い服装の者たちはぞろぞろと外に向かっていった。強士は目を細めさせた。周もその中にいた。実穂も青ざめたような顔をして近づいてきた。漫然と歩く者たちの中に周の顔を見たとき、強士は言いようのない怒りが湧き起こってくるのを感じた。それはもやついたものなどではなかった。対象のはっきりした怒りだった。
周が横を通ったときに強士は顔をあげた。周も目を大きくひらいて見おろしてきた。手を伸ばし、強士は周の腕をつかんだ。
﹁なんなんだよ」
喉に絡むような声を周は出した。実穂はその背後に隠れるようにした。高い窓からは鈍く光が射していた。実穂はあたりを見渡した。開け放たれた扉から最後のひとりが出ていくと、その先は濁った灰色の景色が見えるだけになった。
﹁なんのつもりだ?」
周は手を振り払おうとした。強士は腕をつかんだまま立ちあがった。
﹁なにか言いたいことがあるならさっさと言えよ。どんな言い訳でも聞いてやる。言えよ」
強士は周の目を見ながら囁くような声を出した。
﹁俺たちは騎士だった。そうだろ? お姫様を守る騎士だった。周、お前がそう言ったんだ」
溜息を洩らし、周は歩き去ろうとした。しかし、強士は立ちふさがった。
﹁それなのに俺たちは守ってやれなかった。それだけじゃない。ずっと美以子を傷つけてきたんだ」
手を払って、周は首を振った。
﹁違う。美以子を傷つけてきたのはお前ひとりだ。いつまで子供みたいなこと言ってるんだ。騎士だって? ふざけるなよ。強士、お前が美以子を傷つけてきたんだ。これは全部お前のしたことだ」
声を出しているうちに周は怒りがこみあげてきた。間違ったことを言ってるように思えたけれど、そのぶん腹がたった。
﹁いいか、強士、これは全部お前のしたことだ。お前が美以子を傷つけたんだ。それで、」
そこまで言うと周は強士の襟をつかんだ。強士は椅子の並べられている中に押されていった。
﹁それで、美以子は死んでしまったんだぞ!」
叫ぶように周は言った。手を突き出し、強士を押しやった。騒ぎを聞きつけた者たちがばらばらとやってきて二人を引き離そうとした。なにか言っているようだったけど、二人の耳には意味のある言葉として入ってこなかった。
﹁どうしてそんなことができたんだ! なんでこんなことをした!」
襟をつかむ手に力をいれ、周は強士を引き寄せた。二人は息が吹きかかるほどに顔を近づけさせた。
﹁俺は!」
叫びながら周は前へ足を出した。強士は後ずさった。椅子は音をたてながら列を乱されていった。まわりにいた者たちは互いを見るだけでなにもしようとしなかった。
﹁俺はずっと! 子供の頃からずっと! 美以子がお前を選ぶならそれでもいいって思ってた! それなのになんでこんなことになった! どうして美以子を苦しめるようなことをしたんだ! 美以子は死んだんだぞ! お前が殺したんだ! お前が美以子を――」
強士はずっと真顔のままだった。ただ後ずさり、並ばれた椅子のかたちを崩していった。
﹁美以子は俺を選んでなんかいない」
遺影のある方を見ながら強士は小さな声で言った。周も遺影を見た。それから、ゆっくりと強士に向きなおった。
﹁美以子は俺を選んだんじゃない。周、お前にもわかってるはずだ。そうだろ?」
﹁どういう意味だ?」
﹁わからないのか? それとも、わからない振りをしてるのか?」
強士の頬は削ぎ落とされたようになっていた。その表情でじっと周の目を見つめた。
﹁なんなんだよ。言ってる意味がわからない」
周の声も小さくなった。乾いて、ざらついた声だった。
﹁違うよ、周。お前はわかろうとしてないんだ。見ようとしてなかっただけだ。目の前にあるものからずっと顔をそむけていたんだ。美以子はお前のことが好きだった。お前だってそうだった。美以子のことが好きだった」
﹁違う」
﹁なにが違うんだ? 周、なにが違うっていうんだ? 美以子は俺を選んでなんかいない。周、お前のことがずっと好きだったんだ」
﹁違う!」
周は叫びながら強士の頬を殴った。強士は倒れこんだ。椅子はさらに列を乱し、その幾つかは倒れた。実穂は遠くから二人を見ていた。深く長い息を吐くと、遺影を見つめた。なにかが大きく間違ってしまったんだ。美以子の死も、この二人がこうしてるのもそれがもたらしたものなんだ――そう思った。そして、自分もその間違いに荷担していたことを知った。強士は立ちあがり、口の端を手で拭っていた。周は背中を見せ突っ立ったままだった。実穂は目を閉じた。この三人は異常な関係なんだ。今だって私には理解できないものを共有しあってる。それはつづくんだ。美以子の死は終わりなんかじゃない。これからもずっとつづいていくことなんだ。
﹁周、俺たちは騎士だった。お姫様を守る騎士だった。お前がそう言ったんだ」
息を整えると強士は周の胸ぐらをつかんだ。
﹁美以子はいつも寂しそうにしてた。俺たちはそれを知ってた。そうだろ? お前だってそうだった。周、お前も寂しそうにしてた。それは美以子にもわかってた。だから、お前のことを好きになったんだ。俺じゃない。美以子は俺を選んでなんかいなかった」
﹁嘘だ!」
﹁嘘じゃない!」
強士は殴り返した。椅子の列はまた乱され、がたがたと音をたてた。雨はすこし強くなったようだ。開け放たれた扉から冷たい湿気が流れるように入ってきた。周は膝をつき、頬を押さえた。そこは腫れ、熱くなっていた。強士はゆっくりと近づき、もう一度殴った。周は倒れなかった。強士の顔をじっと見つめていた。
﹁お前はどうなんだ?」
肩に手をかけ、周はそう言った。それから、額を強くあててきた。二人は間近で睨みあった。
﹁わかったようなことを言ってるお前はどうなんだ? 最後になって美以子を見捨てたんじゃないのか? なんで助けてやらなかった。なあ、強士、俺たちはなにをしてきたんだ? どうして美以子を守ることができなかった? いったいなにに遠慮してたんだ?」
二人は絡みあうかのようになり、押しあいながら扉の方へ動いていった。段差に足を踏み外し、もつれたまま雨の降る中に倒れこんだ。細かな雨は周と強士に降りそそいだ。傘をさした者たちは遠巻きから彼らを見ていた。まるで観衆のようにだ。
﹁どうしてこんなことになった? 強士、教えてくれ。なんで美以子は死んでしまったんだ!」
周は馬乗りになり、強士の襟元を何度も引っ張り上げた。
﹁俺たちは美以子をずっと守ってきた。俺はそのつもりでいた。それなのに――」
強士は腕を広げ空を見ていた。雨が顔にあたった。幾滴も幾滴もあたった。周の髪はぐっしょりと濡れていて、そこからも水はしたたり落ちてきた。周は首を上へあげた。彼の顔にも雨はあたった。雲は低く垂れこめ、ずっと先までつづいていた。すべてのものが均等に濡れていて、あたりは灰色にみえた。周は両手で顔を覆い、泣き叫んだ。意味をなさない言葉が口から吐き出された。強士はそれを見ながら考えていた――俺たちが言ったことはすべて間違ってる。正しいことなんてひとつもない。それだって俺たちは知ってる。
首を曲げると傘をさした者たちが見えた。細かい雨の中に立ちつくし、ただ見てる者たち。いつだってこういう連中はいる。自分と関係無いことを見物してる気になってるんだろう。ただ、それだって間違ってる。お前たちはこれを経験したことで変容するんだ。気づけなくてもそうなってしまうんだ。すこしでも関われば、その経験は棘になる。そして、棘はいつまでもお前たちに鈍い痛みをあたえつづけるんだ。
観衆の中から実穂が出てきた。黒い大きな傘をさし、うつむきながら歩いてきた。その姿はこれから大切なことを教えてくれるかのように思えた。もしかしたら周が言ったことのこたえを教えてくれるのかもしれない。
俺たちはなにをしてきたのか?
どうして美以子を守ることができなかったのか?
いや、――と強士は思った。腹の上に力なく座り、泣いている周を見あげた。そんなこと教えてもらうまでもない。俺も周もわかってることだ。強士は身体を起こし、手を前に伸ばした。軽く押すと周は首を深く沈めるようにして退いた。泣くのをやめ、地面に座った。実穂は二人の前までくると首をかすかに振った。
﹁周くん、強士くん」
二人は顔をあげた。実穂はその頬を平手で叩いた。それから、手を伸ばした。差しだされた腕は傘から出ていて雨は実穂にも降りそそいだ。周はその手をとり、引きあげられるようにして立ちあがった。強士はずっと下を向いていた。ずぶ濡れになっている姿はプールからあがった子供の頃のもののようにみえた。プールサイド、足だけ水に浸らせて三人で座っていた夏休みの終わり。
﹁どういうわけか、いつもこの三人になっちゃうんだよな」
周はそう言ったことがあるのを思い出していた。そのときに見たものもくっきりと思い出せた。
﹁ほんと、なんでなのかしらね」
美以子はそう言っていた。
﹁で、強士、お前の感想は?」
俺はそう訊いた。
﹁あ、ああ」とだけ強士はこたえた。いつもこいつは言葉が足りないんだ。こっちがなにか訊かないとしゃべらない。
﹁ね、強士くん、あなたしゃべらなさすぎ。楽しいときは楽しいって言うものよ」
美以子は穏やかな顔で俺たちを見ていた。
﹁ん? 楽しいよ。こうしてるのは」
﹁だろ? だったらそう言えよ。美以子の言うとおりだぜ」
雨はまた強くなった。周はしばらく強士を見つめ、深く息を吐いた。
黒い傘が離れていくのを眺めながら強士は口許をすこしゆるませた。立派だよ、と思っていた。周、お前は立派な男だ。スーツだって似合ってる。雨に濡れ、泥もついてるけど、それでもお前の立派さを打ち消すことはできない。俺たちには似たところなんてひとつもなかった。今だってない。美以子がいたから俺たちはかろうじて友達だったんだ。
遠巻きに見ていた観衆は動きだした。幾人かは周に近づき、なにか話しかけていた。
これが結末だ。
歩き去る背中を見ながら強士はそう思った。俺たちは友達だった。斎藤美以子、佐伯周、佐藤強士――三人はなぜか仲良しで、いつも一緒に遊んだ。土手の道を並んで歩き、将来のことを話した。美以子はお姫様で、俺たちは騎士だった。騎士たちはお姫様を愛していて、だけど、互いにその感情に気づいていた。二人は自分よりも相手の方がお姫様には似つかわしいと思っていた。
雨はずっと降りそそいでいた。強士はふと川を思った。細かな雨があたり、小さな飛沫を無数にたて溶けこんでいく様をだ。川には色がない。空を映してるだけなんだ。今だってきっとこの雨を映してることだろう。強士は空を見あげた。どこかに太陽が光のありかを示していないかさがしてみた。月でもいい。しかし、空はずっと先まで灰色に濁っていた。雨は強士の目にもあたった。
そう、結末だ――強士はうつむいた。
お姫様が亡くなり、葬儀がはじまる。二人の騎士はもういない。いや、最初からいなかったのかもしれない。悲しく寂しいお姫様が見ていた幻影だったのかもしれないんだ。彼女はその幻影に押し潰されるようにして死んだ。ピアノの音が鳴り響き、物語は幕を閉じる。
強士は激しく首を振った。――違う。結末はそうじゃない。騎士がいなく、お姫様が亡くなろうとも、この物語の結末はそうじゃない。
﹁じゃあ、どうなるの」
そういう声が聞こえた気がした。誰の声だろう? 強士は目をつむり、耳を澄ました。聞き覚えのある声だった。それに、それはいつだってなにか書いていると聞こえてくるものだった。
﹁じゃあ、どうなるの」
強士は目を細め、濡れたアスファルトを見つめた。
――どうなるんだ?
十四、五歳くらいの女の子に腕を支えられた女性が静かに近づいてきた。その背後には霊柩車が用意され、棺を運んでいるのが見えた。小型のバスもエンジンをかけたまま停車していた。黒い服装の者たちは灰色の中を動き、バスに乗りこんでいった。
﹁あなたが佐藤強士さん?」
その女性は強士の前に立った。痩せ細っていて、顔色は悪かった。しかし、どこかにまだ凜としたものを持っているのがわかった。強士はうなずいてみせた。女の子は睨みつけるような視線を向けていた。
﹁美以子の母親です」
﹁ああ――」
強士がそう言うと女の子はさらに強く睨んできた。美以子の母親は薄く微笑んだ。バッグの留め金をはずし、そこから白い封筒を出した。
﹁これ、美以子が書いたものです。机の上に置いてありました。あなたに宛てたものみたいだったから」
﹁ああ、」
強士は立ちあがった。
﹁ありがとうございます」
﹁おばさま、もう行かなきゃ」
美以子の母親は深々と頭を下げた。強士も同じようにした。顔をあげたときには背中がみえた。二人はゆっくりと歩き、バスに乗りこんでいった。霊柩車がクラクションを大きく鳴り響かせた。強士は内ポケットに封筒を入れ、目を細めた。霊柩車はのっそりと動きだし、式場を出ると左に曲がった。すこし先の交差点で停車し、信号が変わるとスピードをあげた。ほどなくそれは見えなくなった。強士はそれからもしばらくそこに立ちつくしていた。
◇
新しいノートは罫線がひかれているだけでまっさらだった。強士はペンを持ったまま白い紙を見つめていた。店の中は混みあっていて、そこここで話し声がしていた。もう一時間も彼は同じ姿勢のまま動かなかった。書くことは決まっているのに、どう書いたらいいかわからなかった。たまに顔をあげ、窓に滲む自分の顔を見つめた。美以子に言われたことを思い出しもした。
﹁でも、あなたはきっと書くわ。私たちのお話を書くことになる。それがどんなストーリーになってもね。だけど、終わり方はさっきのにして。私と強士くん、それに周くんは仲良くずっと一緒に暮らしましたってふうに。ね、お願いよ」
強士は気分が悪くなった。嫌悪感がわいてきて吐きそうになった。ただ、逃げるわけにはいかなかった。もうこれ以上逃げ出す場所なんてないんだ――そう思った。
﹃僕たちは中学生の頃からのつきあいだった』
そう書いて、ペンをとめた。すこし考え、線をぐちゃぐちゃに引いた。ページを捲り、新たに書きはじめた。
﹃彼らは中学生の頃からのつきあいだった』
これは物語なんだ――強士はそう考えるようにした。自分も美以子も周もその登場人物に過ぎない。言い訳じみて思えもするけれど、そう考えないと書き進められなかった。
﹃斎藤美以子と佐伯周と佐藤強士――名字がサ行であったために彼らは近くの席に座らされることになった。ただそれだけのことだったけれど、彼らはそれからずっと友人として過ごすことになった。
名字がサ行であること以外に彼らにはあまり共通点がなかった。周はその頃から背が高く性格も快活ですぐにクラスの人気者になった。強士は背が低く口数も少なく、いつもなにかしらの本を読んでいた。美以子はおとなしい性格だったものの二人によく注意した。
﹁周くん、ちょっと浮かれすぎ」とか、
﹁強士くん、もうちょっと楽しそうにできないの?」とだ。
その美以子はほっそりとしていて、同級生の女子の中では突出して背が高かった。手脚もすらりと伸び、肌の色は透きとおるように白い。ただ、周や強士に注意するときには頬が赤く染まった。彼女は三人でいるときにだけ過剰であったり過少である周や強士をたしなめた。しかし、普段の美以子はその容姿が目立つものであるにもかかわらず、あるいはそうであったためにひっそりと目立たぬようにしていた。強士も周もそのことには気づいていた。放っておくと自分たちの知らぬ間に美以子は消えてなくなってしまうのではないか――二人ともそう思うことがあった』
雨に濡れた封筒は抽斗の奥にしまっておいた。強士はそれを一度だけ読み、たぶん二度と読むことはないだろうと思った。終わったことだからではない。つづいていることだからだ。
﹃私の好きな強士くん』
その手紙にはそう書かれていた。
﹃私、ひどい思い違いをしてたみたい。あなたに言ったことはまるで間違ったことばかりだったの。心が二つに裂かれてたって言ったでしょ。でも、そうじゃなかったんだっていまになってわかったの。いまさらこんなこと書いたって信じてもらえないかもしれないし、私自身もまだ信じられないことなんだけど――』
離れた席に学生らしい女の子が二人いて、楽しそうにしゃべっていた。強士はコーヒーを飲みながら二人を眺めた。ひとりがテーブルに腕をのせていて、もうひとりが笑いながらそこに自分の手を重ねた。そのとき、触れられた方の女の子は一瞬だけ真顔になった。すっと笑顔が滑り落ち、無表情になった。それを強士は見た。
強士はペンをとり、ノートを見つめた。出だしはこれでいい。書くことも決まってる。あとは結末をどうするか、それだけだった。
2018年7月26日 発行 初版 ver.3ー22
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けっこう、いろんな感じのものを書いております。 まあ、だいたいは馬鹿な感じのものが多いですが、深刻っぽいのもあります。 順次、こちらで公開していきますね。 ブログもご覧ください→ http://ameblo.jp/kiyoharu-satou/