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アナタの心に雨が降ったなら。

葵月 さとい



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  この本はタチヨミ版です。

序章 君がくれた夢

星樹セイジュ先生は、生まれ変わるような、そんな経験をしたことがありますか?﹂
 都内にある出版社ビルの一室。
 パイプ椅子に姿勢を正して座る、四十歳の文芸雑誌の記者──小金井こがねいトオルは、二十代の青年作家に、そう質問をした。
﹁生まれ変わるような、経験……ですか?﹂
﹁ええ。人生の転機と言ったほうが、いいかもしれません﹂
 小金井は若い青年作家に向かって頷いた。
 今日は二ヶ月後に書店に並ぶ、作家──星樹セイジュが書き下ろした青春小説﹁君の心をつつむ、僕の宇宙﹂についての取材だった。
 取材は順調に進み﹁では、最後に……﹂と、前置きを挟んで、小金井は先ほどの問いかけをする。
︵さて、どんな話が出てくるか……)
 用意してきた質問は、これが最後だった。
 この取材が終われば、星樹と話す機会はしばらく訪れないだろう。だから、ほんの少し名残惜しく感じた。
 小金井は星樹の書く物語が好きだった。
 読み手が楽しめるようにちゃんと工夫をらしているし、安定した文章力は最初の一文から、安心して物語に身をゆだていける。それに、弱いモノを救いたいという、正義感に溢れる作風にも好感が持てた。
 星樹本人も、物腰が柔らかく見目もいい男だ──
﹁そういうことなら……そうですね。ありますね……﹂
 理知的な星樹の眼差しが、まるで愛しいものを見つけたように、優しい輪郭に変化していくのが分かった。
 小金井はこれまでも取材で、何度か星樹に会ったことがある。
 しかし、こんなふうに感情がにじみでた星樹を見るのは、初めてだった。
︵俺はいま、星樹という作家の﹁心﹂に触れているんだ……!)
 小金井は、妙な感動を覚えた。
 それから星樹の愛しさに満ちた表情が、何かのキッカケで壊れてしまうことの無いよう、小金井は息を詰めて、次に語られることに全神経を傾けた。
﹁僕の物語を見て、感動してくれた女の子がいたんです。僕がまだ、小学生の時です……﹂
 星樹が語り始めた──
﹁ご存知ない方も多いと思うのですが、僕の処女作は絵本でした。と言っても、僕は絵が描けるわけでなく……僕が書いた短編小説に挿絵がついたものでした。タイトルは﹁鍵をなくした妖精﹂という、ファンタジーの物語でした﹂
﹁すみません、初めて知りました……﹂
 星樹という作家の経歴は掌握しょうあくしていたはずなのに。
 ──これは明らかに自分の落ち度だ。
 小金井はプロの記者として恥ずかしくなる。
 しかもプロ作家に対して﹁知らない﹂と、口に出してしまった。これはさすがに失礼だと、小金井は青くなる。
 しかし星樹は、申し訳無いと頭を下げる小金井に、﹁とんでもない﹂と慌ててかぶりを振る。
﹁当然だと思います。どちらかと言えば、僕よりイラストレーターの方が注目されてましたし。もう十数年以上も昔の……小学生の時ですし、実力があるわけでもなく、たまたま書いた物語を編集者だった叔父おじに見せたのがキッカケだったんです﹂
﹁そうだったんですか。それはスゴイですね──﹂
 これは確かに、人生の転機に相応ふさわしい話だ。小金井は大きく頷く。
﹁ただ僕は、その時、社会の意味すら分からないほどの子供ガキで、自分の書いた物語が絵本になったということも実感がなく、もちろん作家になりたいという気持ちすら無かったんですね……。だけどそんなある日、雨宿りのために入った本屋で、隣のクラスの女の子が僕の書いた絵本を立ち読みしているのを目撃してしまったんです。僕はドキドキしながらその様子を物陰から見ていて……﹂
﹁なんか、僕までドキドキしてきました……﹂
 きっと星樹が、初めて読者という存在を認識した瞬間だろう。
 ランドセルを背負った小学生の星樹を、小金井は想像して微笑ましく思う。
 自分の書いた物語を夢中になって読む女の子と、胸を高鳴らせながらそれを見つめる、幼い星樹──
﹁その女の子がページをめくるたびに、どの場面を読んでいるのだろうと予想したりして落ち着かなかったですね。そして読み終えるわけなんですが……。その子は、こう……大事そうに絵本を抱きしめたあと、涙をこぼしたんです……﹂
﹁──!﹂
﹁僕にとってそれは衝撃でした……﹂
 星樹の切れ長いまぶたの奥にたたずむ瞳が、かすかに揺れた気がした。
﹁そして、その時に思ってしまったんです。かなり大袈裟ですが﹁ヒトの心を救うものが、自分には書けるかもしれない﹂──と。生意気ですよね。後々、大きな勘違いだとすぐに解るのですが。でも……それが大きな転機となって、僕は本気で作家を目指すことにしたんです﹂
﹁なるほど……。それが星樹先生の転機……﹂
﹁そうですね。あの時、本屋で女の子に会っていなかったら、僕は作家にはなっていなかったかも……﹂
︵星樹先生が、こんな風に、自分の過去を話してくれるのは珍しい!)
 取材の中で過去の著作について触れることは今までもあったが、私的プライベートな事柄について語ることは少なかった。
 冷静に聞き手にまわっていた小金井は、内心、歓喜した。
 星樹の過去の姿を引き出すことが出来たのが自分であること。また、星樹という作家を形成していた一つの断片ピースに触れたこと。そして何より、それを記事にする役目が自分にあるということ──小金井の記者魂が熱く震えた。
︵だが、もっとだ。もっと、引き出せるはずだ!)
 小金井はさらに質問を重ねる。
﹁確か星樹先生は、海外に住んでいた事がありましたよね?﹂
﹁ええ、親の都合で中学の時に、海外に引っ越しました﹂
﹁それも大きな転機だったと思うのですが。違う国で、色々な刺激を受けている中で、興味の対象が変わる事もあったはず……﹂
﹁確かに──﹂
 小金井の言葉に、星樹は首肯しゅこうする。
﹁新しい事を吸収できる環境にはあったので、色々なことに興味を持ちました。ただ……やっぱり新しい事を知ったり感動する事があっても、頭の中では﹃じゃあ、これをどう物語に活かすのか』という事しか考えてなくて……。うまく書けなくて腐った時期はありましたし、諦められたら楽だったんだろうけど……。あの時の女の子がもしかしたら待ってくれているかもしれない……、そう思ったら、自然に書いてたし、書くことが好きになりました。今もそれは変わらずです──﹂
 星樹はそう答えたあと、懐かしい景色を思い出したように窓から差しこむ光に視線を移すと、微笑みを深めた。



 二時間ほどで取材は終わった。
 小金井は﹁今日は、貴重なお話が聞けました﹂と、満足げな様子で帰っていった。
 星樹セイジュ──本名、保志ほし龍樹たつきは、自身の担当編集の深山みやまアカリに挨拶をしてから、出版社を後にする。
 ──暑い……
 初夏の太陽が天頂で眩しく光を放ち、地上をジリジリと焦がしている。気温はとうに三十度を超えているだろう。
 龍樹は着ていた紺色ネイビーのコットン素材のジャケットを脱いで手に持つと、陽射しを避けるようにビルの影を歩き出した。
 ──まだ自分の鼓動が早い。
 小金井と話しをしているうちに、龍樹は大切にしている思い出のふたを、つい開けてしまった。
︵誰にも、話すつもりなかったんだけどな……)
 いったん漏れ出てしまった熱は、ちょうどこんな──夏の太陽を浴びた時のように、胸の奥をジリジリと焦がしていく。
 ビル街の隙間を縫うように、少し湿った風が吹き抜けていく。
 龍樹の脳裏に、鮮明に残る思い出がまた浮かび上がる。
 ──あの日も、確か、こんな夏のはじまりだった……



 あの日──龍樹たつきの小学五年の夏の始まり。
 学校の帰り道を一人で歩いていると、強く叩きつけるような風が一瞬吹いてきて、驚いた龍樹は空を仰いだ。
 風にのって、いくつかの濃い灰色の雲が流れてきたと思ったら、ボタボタと大きな雨粒が落ちてきた。それでも太陽の光は完全に遮られていないし、灰色の雲の隙間からは澄んだ青空がのぞいて見えたから、これは通り雨だ……と思った。
 傘を持っていなかった龍樹は、慌てて小さな本屋に飛び込む。
︵ウチまであと少しだったのに、ツイてないな……)
 叔父おじから買ってもらったばかりの新品のスニーカーの爪先が少し濡れていて、そこだけ布地の色が変色している。
 がっかりしながら、龍樹は児童書が置いてある本棚コーナーに向かう。
 この本屋は小さい──なのに書籍の量は多い。
 そして、本棚と本棚の間はかなり狭くて、人が一人やっと通れるくらいの幅しかなかった。
 龍樹の他にも学生が何人かいた。皆、雨宿りが目的かもしれない。この小さい本屋の人口密度がいつもより高いのだ。
 龍樹はこの本屋の常連客だった。
 ここでいつも、漫画本やファンタジー小説を買う。
 とくに買いたいものが無い時でも、よく足を運んでいた。
 本の一冊一冊が、異なる世界の入り口のようだと龍樹は思う。
 本を手に取り表紙を開く瞬間は、いつだって胸がいっぱいになった。
 ──本さえあれば、知らない場所にだって簡単に行ける……
 龍樹の弟は生まれつき身体が弱く入退院を繰り返していたし、母はそんな弟の看病とパートタイムの仕事で毎日忙しい。父は天文学者で研究に没頭していた。
 だから龍樹は、旅行など行ったことがない。
 家族旅行が恒例となっている同級生たちを見て羨ましいと思うことはあったが、不思議と、不満な気持ちは芽生えなかった。
 ──だって、本を開けば、そこには未知の世界が広がっている。
 龍樹にとって﹁本﹂は心を弾ませる﹁自由﹂への扉そのものだった。
 ふと、足を止める。
 目的の児童書の本棚のとなり──絵本が並んである本棚の前に、ランドセルを背負った女子が立っていた。
 その女子を龍樹は知っていた。
︵隣のクラスの、都築つづきハルカだ……)
 色白で、細っこくて、影が薄い。母子家庭で、貧乏で、噂では母親が夜の仕事をしているとか……。
 家は近いがクラスが違うから、龍樹はあまり話したことはない。
 けれど……同じクラスにいる、強気で、男っぽい言葉遣いで話す女子とくらべ、都築ハルカは﹁おしとやか﹂で女の子らしさがあった。顔立ちも、目がくりっと丸くて可愛く見える。
 だが今は──その可愛らしい瞳も、手元の絵本に釘付けになっているようだった。
︵なに読んでるんだろ?)
 さりげなく視線を滑らせて、ハルカが呼んでいる絵本の装丁を見て、龍樹はぎょっとする。
 それから素早く──ハルカに見つからないように、龍樹は本棚の陰に身を隠した。
 心臓がバクバクと大きな音を立てていた。
 念のため、もう一度ハルカが読んでいる絵本を確認する。
︵──やっぱり、そうだ。間違いない!)
 ちらりとしか見えなくても分かる。
 だって何度も何度も、龍樹はそれを手にしたことがあるから。

 ──﹁かぎをなくした妖精ようせい﹂の絵本だ!

 それは龍樹がはじめて書いた物語──﹁鍵をなくした妖精﹂。
 絵本になることが決まって、龍樹の名は伏せられ、かわりに﹁星樹セイジュ﹂というペンネームが付けられた。
 物語は龍樹がつくり、イラストは﹁はかりアキラ﹂というイラストレーターが描いている。
﹁まじかよ…﹂
 龍樹は身体が汗ばんでいくのを感じた。
 恥ずかしい。
 けれど……面白いと思って書いた物語だったから、読んでくれて嬉しいような、今までに感じた事のない高揚感で龍樹の胸はいっぱいになる。
 心臓がさっきから、ずっとうるさく騒いでいた。
 その物語を龍樹が書いたということを、当然、ハルカは知らない。けれど……

︵──たくさんの本の中から、オレが書いたものを見つけてくれた!)

 奇跡のように思えた。
 まるで埋もれていたの龍樹の心を﹁ずっと、探していた﹂と、光を当ててくれたような、そんな感覚だった。
 売り物を傷つけないよう、ハルカは細い指先を慎重に滑らせ、ページをめくる。
 ハルカが着ている白いカーディガンには幾つもの小さな穴があいていた。それに背負っている赤いランドセルも、たくさんのシワと引っかき傷でボロボロになっていた。
 けれど龍樹の目には、ページをめくるハルカの細い指の動きと、熱心に物語の行方を追う、かげりをおびた真っ黒な瞳しか映らなかった。
 ハルカが自分の書いた物語を読んでどう思うのか……、それしか無かった。
 気づかれないように、龍樹は息を殺しながらハルカの様子を窺う。
 ……ゆっくりとページをめくり、視線を落とす。
 またページをめくり、視線を落とす。たまに一つのページを繰り返し読んだあと、感情を含んだような溜め息をつく。
 ハルカの瞳が揺れるたび、龍樹の鼓動も早くなった。
 ──外は晴れたのだろう。
 雨宿りのために訪れていた一元客いちげんきゃくたちは、いつの間にかいなくなっていて、店内には龍樹とハルカの二人だけだった。
 静寂に包まれた二人の間に太陽の光が伸びてきて、陰陽いんようをつくりだす。
 それからどれくらいの時間が経ったのか……、ついにハルカが絵本を閉じる。
︵最後まで、読んでくれた……)
 見守っていた龍樹も、やっと肩の力を抜いた。
 ──しかしそれで終わりでは無かった。
 太陽の輝きに包まれたハルカは、閉じたばかりの絵本の表紙を泣きそうな表情で見つめたあと、その絵本をぎゅっと抱きしめた。
﹁────!﹂
 驚きすぎて、龍樹の呼吸が一瞬止まる。
 ハルカはそんな龍樹の存在に気づきもせず、ゆっくりと慎重な手つきで絵本を本棚に戻すと、すっと顔を上げる。
 さっきまで頼りなく揺れていたハルカの瞳に、今は強い光が生まれていた。瞬きをしたその瞳から、ひとつ……透明な雫が滑り落ちる。

﹁わたし……生きるよ……﹂

 ハルカが涙をこぼしながら、そう小さく呟いた。
 そして背筋を伸ばし、迷いのない足取りで本屋を出ていった。
 一人になった店内で、龍樹は、ハルカが戻したばかりの絵本を手に取った。
 ──まだハルカの温もりが此処ここにある気がした。
 ハルカの瞳。
 指先。
 そして、呟いた﹁生きる﹂という言葉……
 龍樹はぐっと唇を噛んだ。
 そうしなければ、今度は自分が泣いてしまいそうだったから。
 ──﹁鍵をなくした妖精﹂は、龍樹が心をこめて書いた物語だ。
 不自由さを感じている龍樹自身と、生死をさまようばかりの幼い弟の運命や、それでも愛情を注ぎ続ける人たちが疲れていく姿とか。言葉にするのは難しいが──そういうものを見て、感じて、願いそのままに書いた物語だった。

 ──その物語を、大事に思ってくれる人がいた! 

 それは龍樹にとって、自身の心を認めてくれたのと同じだった。

﹁読んでくれて、ありがとう……﹂

 我慢できずに溢れてしまった涙を、手の甲で拭いながら、龍樹はもういないハルカに向かって呟いた。

線路に落ちる雨

 保志ほし龍樹たつきは二年前──二十二歳の夏、日本に帰ってきた。
 日本で作家になると決めていたからだ。
 その夢は小学五年のあの夏のはじまり……通り雨に降られた日から変わる事は無かった。

 龍樹が中学に上がる年。
 保志家は一家の支柱である父親──賢二けんじの仕事の都合で、アメリカの田舎町に引っ越すことになった。
 賢二は天文学者だった。
 大学で講師をしながら、﹁宇宙﹂や﹁星﹂に関する研究をしている。
 引越し先の町には、大きな天文台と研究施設があって、そこに賢二は呼ばれていた
 本当はもっと早くに移住するつもりだったらしいが、龍樹の六歳年下の弟──夏樹は生まれつき身体が弱く、一家は引越しどころじゃなかった。
 夏樹の身体の具合がようやく安定してきた頃、賢二はアメリカ行きを家族に告げた。
︵日本で、作家になると決めたのに!)
 龍樹は、まだ自分が幼くて力が無いことを自覚しながらも、引っ越すことに猛反対した。
 日本から離れることで、夢が遠ざかってしまうと思った。
 龍樹の主張に、賢二は手を焼いた。
 そこで見かねた叔父が仲裁に入る──
﹃本当に行きたくないなら、俺が龍樹の面倒見てもいい。だがな……アメリカで暮らすのも良い経験だぞ。作家になった時、その経験は必ずおまえの武器になる……』
 何人もの作家の担当編集を生業なりわいにしている叔父は、そう言って龍樹をなだめた。
 さらに叔父は、海外で活躍する日本人作家の話もしてくれた。そこまで言われたら、龍樹も納得するしかない。
 最終的に……叔父から﹁プロ作家になるまで、ちゃんとサポートする﹂という約束を取り付け、龍樹は家族とともに見知らぬ土地へと旅立った。
︵──いつか、ぜったい日本に帰ってくる! それまで海外むこうで磨くんだ!)
 幼い胸の内で、決意を固めた。

 新しい環境と、異国の言葉……。
 龍樹は同年代の子供達のなかでも浮いた存在だった。
 遊びに誘われても断り、﹁ちびっこ﹂と揶揄からかわれることがあっても歯牙しがにもかけない。ちびっこと言われても、そもそも人種的な問題だから争っても意味がない……。



  タチヨミ版はここまでとなります。


アナタの心に雨が降ったなら。

2018年10月5日 発行 初版

著  者:葵月 さとい
発  行:葵月 さとい出版

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葵月 さとい

葵月さといです。 誰かの心にそっと寄り添えるような文章を書きたくて、ずっと小説を書いていました。 良かったら、読んでみてください。 アメブロやってます⬇︎ http://ameblo.jp/satoi-moon-story

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