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藍苹--毛澤東(毛沢東)三番目の妻たる江青の芸名で、貧しい妾の子から舞台劇の女王・映画スターに、さらに「偉大な指導者毛澤東」夫人まで登りついた伝説な女性です。やがて中国No.2の権力者にもなった劇的な人生を歩んだ。
現在悪女と言われたが、美しい努力家である彼女の若い時の生き様を数多くの史実に基づいてリアルに再現し、まだ悪女ではない時の女性として魅力な一面を描いた作品です。

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藍苹演繹--毛澤東のシンデレラ

塩的知恵

三和軒出版



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  この本はタチヨミ版です。

      毛澤東のシンデレラ
        ---藍苹演繹
      (ランピインエンエキ)
        作者:塩的知恵



         声明
  この作品は事実の記録性質を有する小説です。数多く歴史上の事実に基づいて、当時の歴史人物の名前、史実などを借りて、一部は合理的な推理、描写、記述等文学的な加工手法を用いて、出来上がった文学創作作品です。ノンフィクションではありません。
  この本には、いかなる人物を毀損する意図が微塵もない。同時に、いかなる政治思想か理念かに傾く意図も全くない。もし偶然があれば、拡大解釈とか、自分と思い込みとかしないでください。











目録
序言
1. 運命の交錯
2. 諸城の記憶――妾の娘
3. 幸運な小学生
4. 新世界天津での出来事
5. 芝居一座の美少女
6. 最初の挫折
7. 一回目の結婚
8. 青島に於ける美しい人生
9. 海鳴劇団の革命伴侶
10. 心が迷った暗い上海時期
11. 《人形の家》を出演した代償
12. スター藍苹の誕生
13.《賽金花》の役争いから映画スターへ
14. 唐納と離婚の真相――三角関係の縺れ
15. 新天地へ――シンデレラの誕生
後記

参考文献




      毛澤東のシンデレラ
        ---藍苹演繹
        著者 塩的知恵


序言
1914年――
これは混乱極めた時代です。
孫文(注.1)が彼の革命者一同と共に、二千年余りも続けた封建的の帝政を転覆した後、帝政を復活しようとする袁世凱(エンセイカイ)(注.2)と第二回目の革命戦争をせざるを得なくなった。全国の軍閥が割拠して、南方の孫文の政府軍と北方の袁世凱の政府軍と泥沼の合戦が行っている最中だ。
3月19日には諸城にとって、これまでと少しも変わらない極めて平凡な一日でした。
太陽が燦燦と輝いて、烈をあぶって地平線から徐々に上っている。従来の三月と同じ、何も変わりがなく、重大な事件でも発生するような予示も何も感じない日でした。
諸城の空にも、依然に普段と同じ、ほこりのつむじ風が漂っている中にカラスはあちこちに乱舞していた。垢をいっぱいで落ちていた木製の城門口に、牛車と乱れ足な通行人らが頻繁に行き交って行っています。通りの両側には、簡易店舗や屋台や行商人やの貨物が無造作に並んでいる。
清王朝(注.3)が滅亡してから、中国各地至るところと同じ、ここにも、活力を少しも感じることがなく、物乞が町に溢れる有様だ。

この大通りに少し離れたある横丁の曲がり角に、一つの目立たない四合院(注.4)の中から、何度も人に気を揉まれるような甲高い声が伝えて来た。「ワイワイ」な声と共に、一人女の子が出産されました。この李雲鶴(リウンホイ)と名付けられた女の子が、大工李徳貴と妾の李欒(リランと発音する)の娘でした。当時、男の子が貴重され、跡継ぎを望まれる時代に、当然に女の子の誕生がこの家には喜ばしい様子を見られない。妾のせいか、お金がないか、いずれにせよ、祝う親戚もなし、助産するお医者さんもなし、ただ一人の王梅と言う友たちがあれこれ忙殺され手伝っていた。
この李雲鶴という女の赤ちゃんが、二十四年後に江青と改名して、中華人民共和国の建国者毛澤東の夫人になり、二十世紀六十年代から権力を極めた「紅都の女王」と呼ばれた人物になったことは、この時誰一人も思いもしませんでした。
江青――かつての舞台スター、ファーストレディ、巨人の肩上に立って十億中国人の運命を主宰する伝説になった人物が、このように人目を引かず静かに生まれて来た。
われわれの物語もこの日から語り始めました……

以下に「注1」は「注釈1」の意味で、「注2」以下も類推して表示します。
注1.孫文:中国近代民族民主主義革命の開拓者で、中国ブルジョア革命の偉大な先駆者、中華民国と中国国民党の創設者。彼の指導の下に中国二千年余り続く封建的の帝政を転覆され、アジア初めての民主共和国を成立させ、中国近代史上において、最も偉大な人物と評価された。
注2.袁世凱:中国近代史上著名な政治家、軍事家、中華民国初任大統領。帝政を復活させる動きが各方面に反対さ、護国戦争を引起した。中国近代史上に論争が最もある人物のひとり。
注3.清王朝:1636年~1912年に中国に存在した王朝。中国史上二番目の少数民族(満民族)が建立した統一中央政権、中国最後の王朝でもある。12人の皇帝を在位し、267年間に渡って中国全土を統治した。ファストエンペラーは溥儀。
注4.四合院:(発音はシホエン)中国漢民族の伝統的な合成式家屋建築で。一つ庭の四面を家屋で囲こむような格式故に四合院という。三千年余歴史を持つ。建物と造りが中国伝統的な尊卑思想及び陰陽五行学説の意味合を含められた。



      1.運命の交錯
1937年、日中戦争は全面的な対峙段階に入りました。日本軍が天津地域を占領した後、上海へ突進し始まった。日本軍の猛威なる勢いの中、戦う意欲も能力もない国民党軍隊が次々と敗退した。
他方、“攘外必先安内” (注1)のスローガンを掲げて、所謂外国の侵略を抵抗する前に、内政をまず安定、充実させると言う政策の下に、蒋介石(注2)が牽いている国民党政府が、日本政府との妥協を模索し、軍の力を温存しながら、主力軍隊を動かし、反政府の共産党に対して、掃討作戦を行なおうとしている。政権将来の災いを根絶する目的だ。
このような内憂外患な情勢の下に、数多くの若者達が国の将来を憂慮する立場から、日本に対して消極的な態度を取った蒋介石政府に対して、不満が高まっていた。日本に対して強硬な抵抗方針を取る共産党側を支持するようになりつつある。多くの知識人、大学生らが大都市の豊かな生活を捨てて、国と民族を救うという名分に釣られて、貧しく辺ぴな片田舎にあった共産党の「聖地」と言われた場所:延安に集めて来た。
延安は、現在に「赤色中国の聖地」と呼ばれた。かつて中国春秋時代(紀元前770年から紀元前403年まで)に、晋国の公子重耳つまり後の「春秋五覇」の一人と数えられた晋国国王の文公が、十二年間も亡命生活を送った由緒ある場所であった。当時まだ白狄と呼ばれたこの辺りには、今、蒋介石の軍隊に一年間も追い詰められた果てに、「二万五千里長征」(約一万二千五百キロ、共産党の宣伝と思われた距離で、実際は6000キロぐらいしかない)という長い道のりを経って、漸く辿り着いた休養生息な救命の所でした。ここには勿論、風水上の所謂宝地と言われた場所であった。事実上に、重耳も毛澤東も同じ十二年間滞在した後に、ここから出て、一人が春秋時代諸国の覇者になり、一人が現代中国の建国者となった。
いかに奇妙な偶然と言えるだろう。歴史は時々こんなに不思議であることが示していた。
有名な「西安事変」(注3)が発生した後、国民党と共産党が内戦を停止し、共産党が消滅される難を免れた、名義的に共に日本軍と戦う政策を実施した。この原因で、封鎖された蘇区(注4)が外部に通常な往来が出来,延安へ行く道も容易になった。
藍苹(若き江青の芸名)つまりこの物語の主人公が、当時全国に著名な映画と舞台のスーパースターであった人気女優の彼女が、まさか、この時、荷物を片付けて、延安へ通じる道に行こう所でした。
全く同じ時に遥かに遠くにあった陜北高原の延安に、「呉光偉事件」によって、大きく騒がせていた。
呉光偉(ウコウイ)は別名で吴莉莉(ウリリ)とも言います。河南省出身で、二歳時父母と共に北京に引っ越しました。父親当時は北京塩務局(塩の管轄を担当)局長に努めた高級官僚でした。彼女がアメリカに留学したから、英語がとても流暢でした。日中戦争が始まってから、アメリカから帰国して抗日活動に参加した。左翼的な青年として、アグネス・スメドレー(Agnes Smedley) (注5)と一緒に延安に行き、スメドレーと共に毛澤東の通訳を勤めていた。
北京師範大学外国語学部を卒業した呉光偉は、若くて美人だけでなく、国立南京演劇学校にも通うことがあったから、芸術の造詣も相当なレベルに到達している。普段に仕事が優秀な人で、社交ダンスの腕前もタダではないほど上手でした。延安に社交ダンスブームを作った張本人でもあった。
二十六歳になった呉光偉、非常に評判高い美人でした、当時に延安の第一美女と称賛された。小学校と中学校は北京の教会学校に良好な教育を受けられた彼女が、エレガントで上品な立ち振る舞いは、名家のお嬢さんのような風格を有する一方、現代女性の独立的高貴な気立ての持ち主でもあった。
一幕物の劇《母親》中の母親役を演じてから、元気を満ち溢れた表情で舞台から降りた時、肩まで伸ばした綺麗な巻髪をして、白人のスメドレーの隣に微笑みに立っていた時、当時の延安では、まるで絵になるような最も美しい風景の一つでした。
呉光偉は延安の男達のマドンナであり、抵抗できない魅力の持ち主でした。毛澤東もその例外ではなく、彼女の魅力にのめり込んでいた。毛の翻訳兼ねて社交ダンスのパートナーでもあって、個人的な関わりが自然に多くなり、しかも仕事が終わったら、二人が昼も夜も天空海闊に親密な談笑することで、生真面目で強情な性格を持つ毛澤東の妻たる賀子珍(ホシジン)の心に、疑惑の念を深めている。
ある日の深夜、スメドレー、呉光偉と毛澤東と親密に談笑している最中に、憤りを抑えきれなくなった賀子珍が突然窑洞(注6)に突っ込んで来た。呉光偉を殴打しながら、“ダンスホールの娼婦”、“どんな男でも誘惑するような恥知らず”、“毛主席を騙したい”等と罵倒した。仲裁に入った毛澤東とも体のぶつかり合いをした。ある説には、彼女が毛澤東をも殴打した。頭から血を流した呉光偉がこの一件で、アメリカCIAから派遣されたスパイと疑われ、中共中央(注7)に強制的に西安までに追出された。
だた、人々が忘れたかもしれません。毛澤東(注8)が偉大な思想家、軍事家、政治家である同時に、優れた詩人でもあった。彼が非常にロマンチックな心の持ち主でもあった。
美しい呉光偉が、彼のロマンチックな心情中に一番繊細な神経を始めて触れた人だと思われた。だから当初から、毛澤東が呉光偉に対して一途に夢中になっていた。呉光偉が西安に行った後でも、わざわざ人を西安までに派遣し、四十通以上の手紙を送っていた。その中に、纏綿たる苦悩する詩詞と一番愛読の綴じ巻式の小説集《聊斎志異》(注9)も含まれた。しかもその小説集の表紙には「潤之が吴莉莉に贈る」と自筆した(潤之が毛澤東の別名である)。しかし、毛澤東も中共中央的决定に違反出来ないから、呉光偉が再び延安に戻ることが夢になった。
呉光偉が延安から離れた後の長い間に、毛澤東が心の痛めて鬱々として喜ばない毎日だそうです。
それから、呉光偉と言う名前が中国共産党のあらゆる記録中から痕跡を消された。後に、彼女が国民党軍隊の武官張研田と言う人と結婚した。張研田は西安事変の実施者の一人楊虎城将軍の参議という役職を務めた人物です。一九四九年に彼に継いで台湾に渡り、一九七五年に呉光偉が台北に病死した、これは後で話すべきことでした。
しかし、今回の「呉光偉事件」は毛澤東と賀子珍の結婚生活に致命的な打撃を与えた。賀子珍の心をすっかり傷つけて、痛めを極めた余りに、夫に対する怨念が胸に一杯抱き込んで、延安から去った。後に西安を経由してモスクワに出走した。毛と賀の婚姻もここで、徹底的には破綻した。
賀子珍が毛の一番苦しい時期に苦楽を共に過ごし、転々と零落な九年の軍隊生活中に、毛澤東のために、男の子三人、女の子が三人を生んだ(一人だけ生き残った)、敵と対戦の最中に、毛澤東を守るために、銃弾を受け、体中に三か所の弾丸の屑はまだ残っていた。二十八歳の若奥様にあるべき艶やかな模様と穏やかな姿がない。悲しみに沈んだ愁い気持ちと長年に積った疲労によって、彼女が生涯後悔させる決断をしてしまった。この別れが果たしなく長い四十年の離別になるのは、彼女が思いもしなかった。
「山不転水転、水不転路転」という諺がある。つまり山が回らないけど、水が回る;水が回らなければ、道が回るという意味。世界がとても狭いで常に変動していることを喩えていることで、ここには会えないけど別の場所には会えるという意味です。縁があれば何れに逢える。この諺を言ったように、賀子珍が家出したとほぼ同時に、一九三八年八月に、山を越え、川を渡り、長い困難な旅をして、藍苹が延安まで二十五キロまでの洛川県馮家村に漸く(ようやく)到着した。
馮家村は馮という一族が多く住んでいたことで、名付けられた小さな村で、地図上にも載せないぐらい知られていない集落でした。長い年月に土砂の流失が深刻で、村の周りに立ち木が殆ど見られない、視界の及ぶ限り、黄色な土だけ、「黄土高原」と呼ばれたこの辺り、人家のある気配が気付きにくい所です。
北方面の丘陵地帯に目立たない窑洞の中、煙草の煙に包まれた一間に、一つ長方形のテーブルに、人々によって、十重二十重に取り囲まれている。彼らが「すべての勢力を動員し、抗日戦争を勝つために戦おう」と言う論文を議論している最中でした。
この文章の作者がこの部屋の中に一番の権力者である同時に延安にも一番の権力者である人物で、毛澤東と言う人物でした。
この会議は中国共産党史上にとても有名な「洛川会議」でした。この会議を通じて、遊撃戦(ゲリラパルチザン戦とも言える)、持久戦等対日戦争に於ける重要な政策を確立された(“七分の自我発展,二分の妥協,一分の抗日”という内部決議をされた会議とも言われた)。この出来事は、今どきの中国高校文系の受験生達が必ず覚えなければならない一つ重要な史実となった。このような全く目立たない所で、このような重要な会議が物静かに行われたとは信じられないぐらい驚きでした。

会議は既に最終日に迎えた。毛澤東と彼の同志ら:張聞天(中共中央総責任者等歴任)、周恩來(毛の揺るぎない支持者、後の総理大臣)、朱徳(中国共産党軍隊の創設者の一人、後に軍の大元帥)等二十三人が出席された。今回の会議には、中国共産党政治局拡大会議となり、「現在の情勢と党の任務に関する決定」、「抗日救国の十個基本方針」と、これら決定のために起案した宣伝用の要綱たる論文つまり前に述べた「すべての勢力を動員し、抗日戦争を勝つために戦おう」と言う論文も決議されました。会議がいよいよ終了に迎える所に、秘書室の方が来て、皆様に驚きと意外なニュースを知らせて来た:
上海著名な映画、舞台スター藍苹様が今延安に赴く途中で、しかも、ここから遠くないある村民の家に休憩している所です。
有名人等人物に対して歓迎の儀式を行うため、高級幹部達が出迎えするのは通常の流儀で、以前に、エドガー・スノー(「中国の赤い星」の著者、ジャーナリストとして中国の報道で有名)、前文に述べたスメドレー、丁玲(著名な女性小説家)等方がこのような格上の儀式を受けたから、全国に名を知られた文化人とした藍苹を接見するかどうかについて、秘書が尋ねて来た訳です。当然のように、この意見がすぐ許可された。
藍苹のようなスーパースター級な人物が延安に来るのが初めてのことです。中共中央は陜北(陜西省の北部の略称)に来たばっかりで、革命の擁護者を切に必要としている。藍苹が左翼系有名な文化人として、このレベルの儀式を受けるのは当たり前様なことだと思われた。
窑洞から二十何人と他の警備担当者らが次々と席を立って外に出られた。みんな窑洞の前に列を並べて、盛大な雰囲気を感じさせた。周囲の村人達も徐々に集まって来て、いつも静かな村は何故こんなに賑やかになったか、みんな不思議に思いながら、窑洞の回りに囲んできました。
長めな七三分けのヘアスタイルにしていて、一杯継を当てた灰色の粗末な衣服を穿いて、高くて逞しい体格をしている毛澤東が最後に窑洞から姿を見せた途端、大きな騒ぎになった、村民達が窑洞前までに押し寄せて来て、興奮気味で見物をして来た。
国民党系新聞に悪党とか土匪とかよく呼ばれた革命家たる毛澤東が、1893年12月26日に湖南省湘潭市にある裕福な農民家庭に生まれた。深刻な農民問題と武力闘争の重要性をいち早く認識できで、1927年歴史に名を残った「秋収暴動」(注10)を指導した後、抜群な才能とずば抜けた計略で、すぐさま中国共産党の中心メンバーに登りついた。
毛澤東の姿が現れることで、ここにはある重要な会合を行っている意味をしている。
まさか、上層部幹部たるリーダー達がこのような無名なド田舎に一度揃って現れたのは、滅多にない出来事で、人々の興奮が高まって、
「毛委員!毛委員!」
と大きな歓声で浴び始めた。これは毛澤東の役職の称号に対する呼び名です。当時毛澤東が中華蘇維埃共和国政府(注4に参照)の委員も努める。
暫くすると、歓声が一瞬にして静かになった。人々の視線が向うから歩いてきた二人の女性に一斉に向けられた、正しく言えば、二人の内に左側の綺麗な女性に注目していた。
男女の比例は50:1であった延安には、女性がいるだけで画になる風景と思われたが、画報、新聞にしか見えない超美人を見られるのは、勿論夢の様な話でした。
目の前に立っていた彼女が、藍色のチャイナドレスで、美しくなる体の曲線を程よく纏われていた。整っている顏立ち、白い肌で、彫り深く顔の回りに胸まで伸ばした長い黒髪がまばゆく感じられるほどに美しい。なんということでしょう、天上界から降り下りた仙女とか、ビーナスの再生とか、吸い込まれた美しさにみんなただただ息を呑んで、黙って見るだけです。
時間が止まった様な沈黙になった。
「藍苹同志を熱烈に歓迎いたします!」後ろから秘書官の呼びかける声が聞こえた。これで、漸くみんなが何かがあったが分かりました、すぐさま拍手が沸き上がって、喝采の音が鳴り響くこととなった。
このような歓迎を受けた蓝苹の緊張が体中に走り回った。女優として、このような場面に慣れたとは言え、向うに立った男達が、今中国に指入りの実力者達で、共産党の最高指導者達です。
興奮と不安で、彼女の足取りを動かせにくくなった。失神しないように心の中に何度も言い聞かせて、背筋を伸ばし、気を静めて、微笑みをし始めて、向うに待っていた人達の方向に歩き出した。
「藍苹同志を歓迎します。」
身長が高く物腰が洗練された毛澤東が大股でこっちに歩いて来た、すぐ向う側にいる蓝苹に手を伸ばしながら、濃い湖南方言で挨拶をしました。続いて、
「遠い道のりを厭わせずこのような貧しく苦境に立たれた蘇区に来てくださって、皆さんを代表して、真摯な挨拶と歓迎を送りたいと思います。」と大声で言いました。
毛澤東から、果敢さ、不動な意志、聡穎さ、情熱等気質が瞬間に感じさせた、藍苹が驚くほど心を震撼されました。
これは絶対なる英雄的気概だと思われた。
目と目にあった途端、二人の心臓が意味不明な鼓動をし始めた。この鼓動の意味は、ある種の予感ある種の暗示若しくは以心伝心で、二人しか解らないメッセージかもしれませんでした。
女性に恋慕わせる男だなあ、妻がいるかなと藍苹の心には、さざ波の立つように静かに揺れていた。蘇区の共産党に対する封鎖はまだ解除されたばかりの当時に、藍苹が勿論「呉光偉事件」を知らないだけでなく、賀子珍と言う人物の存在すら知らなった。
喝采は一陣終わったら、再び一陣に始めた。見物の人溜りがどんどん大きくなってきた。まるで多くの星が月のまわりに集まるように、藍苹が囲まれてその美しさが人人の視線に浴びられて、注目を集めた。
短く熱い歓迎会は藍苹の心の中に小さな感動を巻き起こした。他の幹部達も一人ひとりとも握手したが、藍苹の手には毛澤東の体温がまだそこに留まっていたような感じをした。先ほど毛澤東と見合わした場面を思い返してみると、気持ちが浮き浮きし続けた。
青い空を見上げて、白い雲が悠々と浮かんでいた。藍苹が心に大きな声で叫んでいた:遂に来ました。ずっと前から憧れの聖地に、ここから、新天地を拓いて見せる。
会議室を後にした共産党幹部達を乗せるはずのジープに、藍苹一行もついでに乗せてもらって、一緒に延安へ行く方向を向いて進んでいく。
車窓から、遠くまで見渡したら、黄色の黄土で出来た段々畑みたいな緩やかな丘が延々と続いて行く。藍苹がこれを見て、深い追憶に浸りに行きました……

注1.“攘外必先安内”:北宋時代に宰相の趙普が太祖皇帝に書き送った上奏文から出典された。後の日中戦争初期段階に国民政府の基本的国策となる。意味とは内戦等内政を優先に処理し、国力が充実出来たら、日本と本格な対抗を行うという。この政策が各界の反対を引き起こす、「西安事変」のきっかけとなった。
注2.蒋介石:1927年から1949年まで中華民国大統領、中国国民党総裁、第二次世界大戦同盟国中国戦域の最高司令官等を努めた。1949年毛澤東との対戦で負けた後台湾に敗走し、今の台湾政府の建立者でもある。
注3.西安事变:1936年12月12日国民政府の東北軍リーダー張学良と西北軍リーダー楊虎城が西安の華清池と言う温泉地に、国民政府の最高権力者たる蒋介石を拘留し、二週間にも軟禁し、日本に対して強硬な対抗措置を要求する事件という。共産党の周恩来等の斡旋を得て、平和に解決し、国民党と共産党と連合して日本に対抗するという認識を一致した。十年間の内戦が終わりに迎え、日中戦争が全面的対抗する段階に入った。日中戦争転換点になる事件です
注4.蘇区:蘇はそと発音し、ロシア語ソビエトの中国訳語に由来する。1931年共産党が中華ソビエト共和国という政権を立て、その管轄地域の略称です。蘇区を支える主力は共産党配下の中国工農赤軍で、蒋介石政府の統治時期に主な活動基地で、西安事変の後陝甘寧辺区政府と改名した。
注5.スメドレー:アグネス・スメドレー(Agnes Smedley, 1892年2月23日-1950年5月6日)、アメリカ合衆国のジャーナリスト、マンチェスター・ガーディアン等新聞紙の記者を務めた。1928年12月中国に入国、中国共産党と中国赤色中革命の報道で注目され、「西安事変」の最終協議を事前にリークしたことで、国際的な有名になった。著書『偉大なる道』は西洋人に中国共産党を紹介する経典的著作とされた。
注6.窑洞:中国西北部の黄土高原という地域の住民達が古くからの居住形式です。「穴居式」様な造りは高原の地形を上手く利用して穴を掘って、土屋を住居とする。特徴は冬が温かい、夏が涼しい、外観は半円アーチの形です。
注7.中共中央:中国共产党中央委員会的略称です。中国共产党組織の核心的な権力機構で、現在の最高指導者が習近平です。
注8.毛澤東:モウゼトウと呼ぶ(1893年12月26日-1976年9月9日)別名潤之。日本語はよく毛沢東と訳されたが、本文には本名の毛澤東で表示する。中華人民共和国の創設者で、1949年から1976年まで中国の最高権力者。この本の主人公藍苹の四番目の夫であった。   
注9.《聊斎志異》:中国清朝の著名な小説家蒲松齢が創作した文言短編小説集。作品の多いは美しい妖怪、御先狐等が人間との恋愛物語で、作者の理想的な愛情世界を表現された。
注10.秋収暴動:1927年9月所謂収穫の季節で、中国語で「秋収」というで、共産党がこの時期に各地で行った百回以上の武装暴動の総称。共産党の名義で反政府武装暴動の始まりです。その内、毛澤東が湖南省と江西省の堺に自ら引起した暴動が最も有名です。



    2.諸城の記憶---妾の娘
諸城(ジョセイ)、江青(コセイ・雲鶴も藍苹も名乗った)のお陰で天下に名が轟いている。正確の言い方は現代中国に名が轟いている。
その場所は山東省南部にあり、大きい城壁で囲まれた小さな古城です。太古時代の名君舜帝が生まれた場所で、名前の由来となった。古くからずっと山東省の区域に属する。
山東省は古代に姜太公(注.1)の斎国と周武王(注2)の弟周公の領地魯国の所在地です。「礼儀の国」と称賛された。山紫水明で「斎魯文化」(注3)に涵養されて、古来風水の錦地と言われた。
儒家思想の創立者孔子、孟子、墨家(注4)思想の創立者墨子、軍事家孫子、書道家王義之、智慧の聖人諸葛亮など、みんなが山東省に生まれた。
時間が流れ、歳月を過ぎ去って行く。
時代が代わって、清朝晩期の混乱を経って、北洋政府(注5)から、軍閥の割拠により、内戦が絶えず、ここにも全国各地と同じ経済が沈滞して活気が無いです。この時諸城の人口が三万人に過ぎない。
灰色大形な煉瓦で築き上げた城壁は十何メートル高さにあった。風雨に浸食された垢が散り嵌めている。虎をモチーフする巨大な鉄輪で飾った城門は色褪せていて、ぶらぶらして今にも落ちそうで、歴史の移り変わりを無言に演繹し尽くしていた。
静けさに包まれた小さい町が古い城壁と高い城門で囲まれて、地図上の多く目立たない場所と同じ、歴史の洗礼を受けている所です。
皇帝が転覆させられたが、新生の民国(注6)は依然として平和ではない。袁世凯が帝政を復活しようの動きを阻止するために、孫文があちこち走り回って方策を講じていた。
社会全体が新旧のイデオロギーが互いに激しく衝突し、中国広い範囲に革命の血雨腥风に覆っていた。
戦争がまだここに来ていないが、戦乱を避けるための流民が日日に増えつつある。
雲鶴(藍苹後の江青の幼少時代の名前)の母親李欒も災害を逃れるために少し前に隣の臨沂市から来た訳です。
雲鶴の祖父が李純海という、本来200畝(1畝は1ヘクタールの15分の1)余り土地を所有する地主が、戦乱と干ばつで、耕作する農民達が相次いで郷を離れ、土地は次第に荒れ果てた。家運が段々と傾くことになった。李欒が二十歳になったところ、家計を軽減するために、親戚と共に各地に転々と女中の仕事を頼って暮らしを立てた。
諸城に来られたのは、戦争はまだここまで及んでいない、比較に安全だから。
通りがかりの人の教えに従って、女中を雇いそうな大家に運を試しに行ったが、結果全て成功しませんでした。女中で暮らしを立てたい流民が実に多いから、職探しはそう簡単にできません。
李欒が店舗など集中している繁華街付近に一戸一戸に尋ねるしかない。収穫を得られるよう祈っていた。
こと時李欒が繁華街の1軒小さな宿に未来の夫李徳文と出会った。
李徳文が路地の入口辺りに八つの部屋ある小さな宿のオーナーです。
李徳文が李欒と始めた会った瞬間、パッと光が付いたように目が点になった。店舗に欠員していないのに、目の前この女性が彼の男としての心を久しぶりに蠢かせていた。
継を当てた服と汚れは二十代女性特有な豊満なボディーを隠せることができない。端正な顔から僅かな怯える表情を表れたが、人に慈しめる気持ちを催しさせることが堪られない。砂の中に金の塊を発見したように、李徳文がすぐさま彼女を女中として採用し、奥様を含む家族全員住んでいた自宅の四合院に引越するようと要求した。しかも、その夜に、引越しに来たばかりの李欒の部屋に入り、男女の関係を結んでいた。
李欒が断り切れないか若しくは内心では望んでいたか、よそには分かり難いですが、女中を名乗ったが実際に愛人と言う曖昧な関係が一年ぐらい続いた時、彼女の妊娠をきっかけに、正式に妾となった。若い妾が大きなお腹をして、目に前に毎日うろうろすることが、本妻にとって、当然いい気にしない。ただ夫のメンツを立つために、表面に平気に振舞いをするだけ。実際遺産と夫を奪いに来たライバルが突然に表れたから、陰で拳を握り締めて、戦おう気満々だ。李欒が穏やかな性格で、嫌がらせがあっても、常に我慢し衝突があまり起こしません。
暫くたったら、李欒が雲鶴を出産した。
この時、李徳文が六十六歳で、李欒が二十八歳でした。
妾としては人前に誇り高く胸を張って生きるのは難しいことですが、ようやく一人頼れる男ができたから、自分の人生を黙々受け容れることにした。
見習いから初めて、何十年に苦労して、ようやく小さな工場を持つようになった李徳文が、やり手である。経営に得意な彼がこの時既に二つの小さな工房を持つ四人の内弟子を率いる。しかも小さな旅館を開いていた。この規模なら既に裕福とは言える。若くて美人な妾を娶ることで、見栄を張ることが出来るだけでなく、自分の自己満足にも叶える、夜も喜びが倍増。彼は密かに鼻高々だ。
李徳文の最初の結婚が早くで、李欒との年の差も多きいから、雲鶴が異母兄弟達との年齢差も激しい。一番上の警察署長を務めたお兄さんとの年齢差が二十六歳でした。しかし李徳文が年齢的遥かに年下の妾に対して、寵愛と関心を示していなかった。生まれつきに女性を蔑視するべきと言う考えの持ち主か、ベッドの上に若い妻に対して、意余って力が足りないのせいでやけになったか、李徳文が李欒に対して、完全に召使のような扱いでした。もっと酷いのは李徳文が酒の好きで、酒癖も悪いので、飲む度に李欒に絡むようになって、彼女をストレスの発散する道具化していた、今言うとDVに会ったと言える。
「男の子も生めない役立たず女」
「ただ食い奴め」
と雑言暴言を浴びつつ後に、理由も無く殴り罵りに来る。彼の頭中に女房が衣服のような物で、好き放題にやってもいいと思っていた。
このDV生活が李欒にとって、耐え難い苦痛その物です。逃げたいけど逃げる場所がない、女の手一つで子供をどう育って行くのも、目処が立たずことを思うと、無気力になり、唯ただ幼い雲鶴を抱いて泣きながら:
「あんたが男の子だったらいいのに」と溜め息を付くだけでした。
何故、母親が自分を男の子になることを願っていたか、何故、正室の奥様がいつも母親に眉をつり上げ.目を怒らせる様な険しい表情をするか、更に、母親がいつも何か間違いをしたような態度で、黙々と我慢するだけか、雲鶴がすべて理解できない。
雲鶴がこの日常生活に対して、常に不公平と憤りを感じていた。
毎日母親の浮かない顔を見ると、父親とこの家に対して深い嫌悪感を抱いている様になった。
大体六歳ぐらいの大晦日の夜の出来ことでした。
突然に、父親と正室が住んでいた母屋からワーワーな母親の泣き声を伝わって来た。いうまでもなく、父親がまだ酔って荒れ狂っていた。
雲鶴が片屋から飛び出してすぐ母親の所に駆け付けた。目に入ったのは父親が手に棒を持って母親の背中に打ち振っていた所でした。
雲鶴が自分を構っていられず、庇うように思わず母親に向けた棒に立ち塞がっていた。棒が雲鶴の顔に当たって、雲鶴の口から血が溢れて出きた。
「母を虐めるな!」
雲鶴がすべての力を使い出しで父親に怒鳴りつけた。普段なら我慢するかもしれませんが、今日は大晦日で、家族が一堂に集まり、和やかに楽しみにする家族団らんのはずだが、この有様にはどうしても許さなかった。
「父親に言えるか?何の権限で母を叩くか?」
雲鶴が怒りのこもった目で父親に睨めていた、絶対に譲らない気持ちで、大声で父親に問いただしていた。
「権限?お前の父親だから叩けるの!」
李徳文が酒で赤くなった顏をして、酒気をぷんぷんしながら、大威張するように叫んだ。
全ての怒り、長く積んだ我慢が火山噴火のように一気に込み上げた。
「母さん、ここから出よう、このような理不尽な人から離れよう」と雲鶴がようやく長い間心に潜めた願望を叫び出した。母親の手を繋いで、力を尽くして、母親をドアの外に引っ張り出した。
「根性があったら、戻るな!どこに行けるか見る所だ!」李徳文がテーブルを叩いて、ハアハアあえいで息が途切れるほど怒っていた。
「どこに行っても、ここには戻るか!」
雲鶴が手で流血した口を覆いながら、全力に口返した。
後ろから父親の大きな怒鳴り声まだを響いていた。
歯が少し揺れて、血が唇から襟と胸回りに垂らして来た。
李欒が顔に血だらけな雲鶴を見て、悔しさ、うっとうしさ、悲しさが涙と一緒に流れ込んでいった。もしまだここに留まったら、後は娘にも同じ目に遭うかもしれませんとようやく悟りました。
李欒が雲鶴を連れて家出をすることを決め込んだ。その夜のうちに、郊外の膠県あたりに李徳文が所有する小屋に身を寄せた。
この小屋が二間造りの土屋で、窓から隙間風が入り込む、中に何もなく、ただがらんとした壁が残るだけである。少しの着替えと雲鶴の姉たる李雲霞から密かに渡された僅かな銀貨以外、母女親子の財産が何もない。
いくら節約しでも、お金がすぐ底を突いた。お金がないと生活が苦しくなる一方でした。生活するため、最低限のご飯代を稼ぐため、李欒が外で働き口を探すしかなかった。
母親が外に働いた間の時間に、雲鶴が寒いオンドルの上座って、独りぼっちお腹を空かせて、母親の帰りを待つしかない。たまに待ち切れずの日に、寂しさと怖さを絶えなくて外に出て、路上にぶらぶらしたことがあるが、飢えた野良犬に追いかけられた仕舞いから、この長々しく日々の待つは恐怖と不安の連続で、彼女の心に暗い影を落とされた。
多い日は雲鶴が一人で割れた窓の一角から空をじっと見つめる。遠い空の模様が青くなったり、灰色に変わったり、太陽も出たり隠したり、見るうちに、自分もそのあちこち浮き雲の如く、暮らしの中に漂流していたと感じた。
母親が短期的な零細な雑用で得た収入は腹を満たすこともまま足りない。段々、母が外泊する日が増えた。その都度に恐ろしくて震えながら、体を丸く縮こませて薄い布団の中に母親の帰りをじっと待っていた。この漫漫たる夜が早く過ぎ去ることを祈るばかりでした。
母親の外泊を「しんねこ」(注7)で簡単に片付ける問題ではなかった。一番大きな可能性としては、女中の仕事をした後、雇い主の依頼を断れず、ついでに雇い主と夜を共にすることで、臨時収入を得るために仕方がないことでした。当時もこのようなことも決して珍しくないからです。
へとへとに疲れきって帰った母親を見て、雲鶴がいつも泣き止まない、恐怖と不安は彼女の心に大きな傷跡を残した、四十代に入った後の藍苹が酷いうつ病に悩まれたのもこの時期の体験と大いに関係していると思われた。
夏のある日、母親がいつもより早く家に帰った。熱くて美味しそうな饅頭を持って来た。張と言う大地主の家に女中の仕事をついたと言う。
もともと臨時に張家に雑用に行ったが、あちこち必死に働き口を探す李欒の境遇を知った奥様が不憫と思って、長期な召使いの仕事をさせたのです。
張家は諸城の至る所に名が知れ渡っている四大名家の一つで、財力も勢力も大きく持つ、使用人に対して、思いやりがあり、誰もが皆褒め称える。李欒が有難くて、感謝の気持ちが伝えきれないぐらい、お礼を申し上げた。
ようやく安定な仕事を得られて、親子の心身共に少し落ち着いた。後に康生(この張家の息子)との堅い友情が、自分の一番困窮した時に手を差し伸べた張家に恩返しを込めて出来たのかもしれません。
村の西の端に住んでいた雲鶴が、昼間に一人で寂しさを絶えず、いつの間にか村の東の方にあった張家の家に行って、母親の仕事帰りを待つことにした。



  タチヨミ版はここまでとなります。


藍苹演繹--毛澤東のシンデレラ

2018年8月15日 発行 初版

著  者:塩的知恵
発  行:三和軒出版

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塩的知恵
中国出身で、日本国籍、日本在住。中国語言文学学士と日本法学学士の学位を持つ。本業は経営者。

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