男と女が居れば恋が生まれ愛が育つ。結ばれる愛も有れば別れる恋もある。運命的な出会いも有るし、運命に引き裂かれる恋もある。想い出に残る愛も有れば消し去ってしまいたい恋もある。
愛は男と女の覚悟を迫る。愛が生きるも死ぬるも男と女の覚悟次第である。
此処に収められた掌編はそんな男と女の愛と覚悟の物語である。
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この本はタチヨミ版です。
(一)
白い羽根が青い空に舞い、社員たちが混合ダブルスでバトミントンに興じていた。此処は本社ビルの屋上、丁度昼休みで、仕事から解放された同僚たちは誰もが明るい表情をしていた。その一隅で、川本聡と仲田由美が眩しそうに彼等のプレイを眺めて居た。
聡がポツリと言った。
「おかしいよ、君は」
由美は黙ってプレイを見ている。
「俺の両親に逢わせようとすると、もう少し待って、と言うし、それじゃ君のお母さんに逢いに行く、と言えば、未だ早い、と言う」
由美はじっとプレイを見たまま返事をしない。
「俺との結婚に二の足を踏んでいるとしか思えないよ」
由美は未だ何も言わない。
「なんでお互いの親に逢うだけのことで、そんなに考えなくちゃいけないんだ?」
「・・・兎に角、もう少し待って欲しいの。今は、それしか言えないわ」
「俺の両親は、いつ連れて来ても良い、って言っているんだ。君のお母さんは反対しているのか、俺達の事を?」
由美が首を横に振った。が、彼女はそれ以上何も言おうとはしなかった。聡は次の言葉が継げなくなった。
「ごめんなさい、真実に・・・」
聡はきつい眼差しで由美を見つめた。
午後の始業の予鈴チャイムが鳴って社員たちは夫々に職場へ戻って行った。
従業員五千人余、年商三千億円、国内各地の他に欧米や中国、東南アジアに完全子会社を持つ東証一部上場の中堅企業。乾電池や飲料水ボトルに貼るラベル、仮面ライダーやアンパンマンなどのシール、その他世界中のありとあらゆるラベルとシールを受託生産販売して市場占拠率五割を超える業界ナンバーワンの会社、隙間産業ではあるがその特異な存在感は広く経済界に認知されていた。その大阪本社ビルは、超高層建築が林立する駅前のビル街では埋没してしまいそうな大きさでしかないが、全面ガラス張りの壁面には照り付ける陽光がきらきらと反射して輝いていた。
一階が受付と商談室とショールーム、二階に本社営業部、三階は社員食堂と喫茶ルーム、四階に商品開発部門、五階のフロアには人事、総務、経理などの管理本部と世界中の情報が飛び交うコンピューター室、最上階の六階には社長室と役員室と経営企画本部室が並んでいた。七階は屋上であった。
経営企画本部に勤める聡は階段で六階のフロアへ降り、経理課員の由美はエレベータで五階へ降りて、それぞれの執務室へ入って行った。
三日後の朝、慌しく出勤した聡を経理課の小林詩織がエレベータの前で呼び止めた。
詩織は由美と同期に入社して何でも相談し合っている仲の良い友人であった。
「あ、川本さん」
「やあ、おはよう」
「由美、今日、休むのだけど、聞いている?」
「いや、別に、何も」
「そう。昨日帰り際に、休む、って聞いたんだけど、何か元気なかったみたいで・・・私の気の所為かも知れないけど・・・」
「そう。とにかく、どうも有難う」
詩織が五階でエレベータを降りて行った後、聡は由美のことが気に懸かった。
・・・この前、昼休みに気まずく別れたのをずっと気にしているのだろうか・・・
夕方六時過ぎ、ラッシュアワーの通勤客に揉まれながら聡はJR元町駅の改札を出た。此処は由美が毎日通勤で乗り降りする駅であるが、三ノ宮駅と神戸駅に挟まれた神戸随一の繁華街に在って、その乗降客は一日五万人にも及ぶ。今日も夥しい人の群だった。
住所録の手帳を手に、さて何方へ行くのかな、と辺りを見回した聡の眼に、幸運にも、交番所が飛び込んで来た。
応対した若い巡査が街の区分地図を広げて丁寧に教えてくれた。
「この先の元町通商店街を真直ぐ行くと、五筋目の角っこにその店は在ります。直ぐに判ると思いますよ」
元町商店街は東京の銀座、大阪の心斎橋と並ぶ老舗商店街で、多くの人が行き交って活気に満ちていた。
教えられた五筋目の角に目指す「青空文具店」は在った。仕舞屋風造りの旧い家だったが店構えはモダンだった。
半開きになっているガラスドアの入口から中へ入って行くと、「文房具フェスティバルコーナー」と言うのが設けられて在り、聡がこれまで見たことも無いような新しいタイプの文房具類が並んでいたし、その奥には事務用品が几帳面に整然と並べられていた。聡はそれらを左右に見ながら奥へ進んだ。
「いらっしゃいませ」
声の主は五十歳くらいの細面の美人だった。聡には由美の母親だと直ぐに判った。
店の奥に重役タイプの中年男性が腰かけているのがチラッと聡の眼についた。
「いらっしゃいませ、何を差し上げましょうか?」
「いえ、あの、私、由美さんの同僚の川本と申します」
「まあ、それは、それは。いつも娘がお世話になっております」
母親は深く腰を折って丁寧に頭を下げた。
「いえ、とんでもありません。あの、由美さんは居らっしゃいますか?」
母親は不審げな眼を向けて、答えた。
「はあ、あのぅ、娘は今朝、会社に行ったきりで未だ戻っておりませんが・・・」
「えっ?あぁ、そうですか・・・。それじゃあ又・・・」
聡も腑に落ちぬ態で応答した。
「あのぅ、会社では、ご一緒じゃ・・・?」
「いえ、実は、私は今日、会社を休んだものですから」
聡は慌てて答え、ズボンのポケットからハンカチを取り出して顔を拭った。
「もう間もなく帰ると思いますから、どうぞ中へ入ってお待ち下さい、さあ、どうぞ」
「いえ、少し買い物が在りますので、もう少ししたら、又、伺います・・・」
「そうですか、でも・・・」
「いえ、一時間ほどしたら又来てみますので、はい・・・」
聡は逃げるようにして店を出、商店街の中を歩きながら呟いた。
「あいつは何を考え、何処で何をしているんだ?」
駅の方へ向かう道の傍らに、ガラス張りの喫茶店が在るのを眼にした聡は徐に中へ入って、窓際の席に腰を降ろした。注文を取りに来たウエイトレスにコーヒーを注文し、水を一口飲んで彼は苛々と煙草に火を点けた。
コーヒーを飲み終え、灰皿の吸殻が三本ほどになって、ふっと通りを見た聡の眼に、先ほど文具店で見た中年男性が駅の方へ歩いて行く姿が映った。
・・・貫禄のある恰幅の良い紳士だけど一体誰なのだろう?客ではなさそうだし・・・
灰皿の吸殻が数え切れないほどになって、もうそろそろ帰ろうか、と聡が思った時、重い足取りで通りを歩いて来る由美の姿が見えた。聡は伝票を掴むとあたふたと精算を終えバタバタと店の外へ飛び出した。
ゆっくりと歩いて来た由美の眼の前に立って彼は彼女に呼びかけた。
「由美!」
顔を上げた由美がアっと驚いた。
「聡さん!」
二人は商店街を抜けて神戸港のメリケンパークまで歩いた。
此処は嘗てのメリケン波止場と神戸ポートタワーの建つ中突堤の間を埋め立てて造成された公園である。北側には著名な建築家フランク・ゲーリー作の「フィッシュ・ダンス」という開港百二十周年を記念するオブジェが在り、中芝生には平成二年に催された第一回神戸ファッションフェスティバルを記念する鐘楼「オルタンシアの鐘」が設置されていた。
東側の一角には、阪神淡路大震災で崩壊したメリケン波止場が復旧されずにそのまま残こされ、後に神戸港震災メモリアルパークとして整備されて、震災の貴重な記録として残存していた。
公園の外灯に照らされた「オルタンシアの鐘」の下で二人は話した。遠く夕闇の中に貨物船が一隻、幽かに靄って居るのが見えた。
由美がポツリと言った。
「そう。逢ったの・・・」
「誰だよ、あの人は?」
由美は直接それには答えず、思い詰めた顔付きでぐっと唇を噛み締めた。
「私が嫌になるなら、それでも良いのよ。恨んだりしないから」
「何を言い出すんだ、いきなり」
聡が憤然として問い質した。
「誰なんだ?あの人」
由美が顔を背けて呟くように答えた。
「あの人は母の旦那さんなの」
「お母さんの旦那さん?何だよ、そりゃ」
「つまり、お金で囲われているのよ、私の母は・・・。ううん、私もそう・・・」
「・・・・・」
「私は小さい頃に父に死に別れた。おじさんが一人居たけれど、奥さんの尻に敷かれて力にはなってくれなかった。心の中では私たち母子のことを心配してくれていたみたいだけど、結局は何もしてくれなかった。で、母は私の手を引いて彼方此方と仕事を捜して歩いたの。結局、大阪ミナミの藤川と言う小料理屋に住み込んだわ、そう、水商売よね。良いことも悪いことも私には耐えられなかった。未だ六歳だったけど住み込んでいたから、飲めないお酒を飲んで無理矢理笑っている母を観るのが凄く嫌だったし、それに、お客にだって色んな人が居るでしょ、母が慣れないことを慣れているような素振りをしているのが、どうしても不憫に見えて・・・。こんな所、出たいって随分泣いたことを覚えているわ。その頃にあの人が店に来るようになったの。私にも来る度に何か買って来てくれて、何だか、お父さんみたいな温かいものを感じていた。ワールド自動車(株)って知っているでしょう?」
「ああ、観光バスとタクシーの・・・」
頷きながら由美が話を続けた。
「その頃は未だ小さなタクシー会社の社長さんだったんだけど、それから観光バスの事業にも乗り出して、それが上手く行って、数年後には大阪市内だけでなく神戸にも進出していたの。私たちは一軒家の借家を借りて・・・それが改装前の今の家なの。結局、お妾さんになったのね、母は。私はずうっと新しいお父さんが出来たんだって信じていた、中学に入るまでは。毎日居ないのが不思議には思っていたけど・・・」
「どうして今まで言わなかったんだ?」
由美は急に口を噤んでその後は話さなくなった。
「言ったら愛想を尽かされる、とでも思ったのか?そうだとしたら、感覚的には一昔ずれているぞ」
「でも、結局は私も短大まで出して貰ったんだし・・・」
「ナンセンスだよ、君は」
由美が聡をじっと見つめた。
「俺は君が好きなんだ、真実に好きなんだからな。君が拘っていることは馬鹿げているよ。そんなことは俺たち二人と直接的には何の関わりも無いじゃないか、そうだろう?」
由美は熱い眼で聡をじっと見つめて、言った。
「何も考えなくて、あなたを信じて良いのね、信じて居れば良いのよね」
「そうだよ」
聡は由美の肩に手を置いてにっこり笑った。
「俺の顔をちゃんと見ろよ。いつも二人でこうやってしっかり向き合って行けば、それで良いんだ、解かるな」
由美は聡の顔を凝視して頷き、その胸にそっと顔を埋めた。やがて、顔を上げた由美の唇に聡の唇が重なった。二人は暫くじっと動かなかった。
由美を自宅まで送り届ける道すがら、聡が、如何にも驚いた、と言うように訊ねた。
「それにしても、新しい色んな文房具類が出回っているんだなぁ、入学や進学や入社のシーズンだからか?」
「そうね。雑貨店の限定品や学生用の軽量ノート、幼児向けの学習用品など楽しみながら勉強や仕事が出来るように工夫を凝らした商品が多いわね」
由美は近頃の新しい文房具類について聡に解り易く説明した。
「罫線に細かい文字で百人一首や国名が書かれたノート、パステルカラーのボールペン、水書き練習ノート、鉛筆後部の消去ラバーでこすると摩擦熱で筆跡を消すことが出来るフリクション色鉛筆、その他にも未だ未だ色々在るわよ」
「何だい、その水書き練習ノート、ってのは?」
「未就学児童が文字を覚える為の商品よ。特殊なシートの上に書かれた文字を水で濡らした専用ペンでなぞると文字が浮かび上がるの。乾くと元に戻るので何度でも練習出来るの」
「へえ、なるほどね」
「フリクション色鉛筆は、ぬり絵やお絵かきで、はみ出してもテーブルを汚さないから好評なのよ」
「色んな物が有るもんだな」
「文房具の女子会、って言うのも在るわよ」
「何だ、それ?」
「ブレンドして、好みの色の万年筆用インクを作るワークショップなのよ」
「然し、そういう新しい商品や情報をお母さんが見つけたり捜し出したりして来られるのか?」
「母一人ではそれは無理よ、出来ないわ。あの人が色々手助けしてくれているのよ。あの人の事業や経営に関するセンスや嗅覚は結構鋭いものがあって、上手く行くケースが多いのよね」
「屋号もその人が考えたのか?」
「ううん、屋号は母の考案よ。少しでも明るい名前が良い、って“青空”にしたらしいわ」
由美はそう言って、文房具についての話を切り上げた。
店の前で聡と別れて、玄関から家の中へ入った由美は「只今」と声を掛けただけで直ぐに二階の自分の部屋へ上って行こうとした。が、途中で下から母親が顔を覗かせて声を掛けた。
「お帰り。先ほど、川本さんと仰る方がお見えになって、後でまた来る、って言っておられたけど・・・」
「ああ、今、逢ったわ」
「そう」
玄関の方を見やりながら母親が訊ねた。
「で、お連れしなかったの?」
由美はそれには答えず、さっさと自分の部屋へ上がって行った。
「・・・・・?」
直ぐに着替えて降りて来た彼女は食卓に着くなり母親に告げた。
「お母さん、わたし、あの人と結婚するわ」
由美の唐突な話に母親は戸惑い、どぎまぎして返答に窮した。
「それはまあ、あなたさえ良ければ私は何も言いませんが・・・然し・・・」
「だから、お母さんもあの人とのこと、はっきりさせて欲しいの。今の侭じゃ、やっぱり私、嫌なの」
母親は困惑して何とも答えられなかった。由美は苛立つ眼で母親を眺めた。
週末の金曜日の夜、聡は由美を自宅に招待して両親に引き合わせた。
食卓には母親道子が手作りした料理が盛り沢山に並び、それを挟んで父親の剛が向き合って座っていた。
時刻は既に七時半を過ぎている。時計を見上げて道子が言った。
「遅いわねぇ、何しているんだろう?六時半には来る、って言ったのに・・・」
剛は何も言わずに新聞を読んでいた。
暫くして、道子が苛つき始めた頃、漸く玄関の開く音がした。
「只今!ご免、遅くなっちゃった」
そう言った聡の後ろから仲田由美が腰を屈めて入って来た。面長の色白の顔に艶のある黒い瞳、口元はやや大きめだがなかなかの美形だった。
「お邪魔致します」
「どうぞ、どうぞ、遠慮なく此方の方へ」
剛が立ち上って由美を迎えた。
「突然、お伺い致しまして、済みません」
聡が両親に由美を紹介した。
「此方が仲田由美さん。課は違うけど同じ会社に勤めている」
「初めまして、仲田と申します」
「よく居らっして下さった」
両親は既にニコニコ顔である。
「親父とお袋だ」
聡の言葉に継いで道子と由美が挨拶を交わした。
「いつも聡がお世話になっております」
「いいえ、とんでもありません、私の方こそ・・・」
剛が座を寛がそうと
「さあ、固い挨拶はそのくらいにして、どうぞ、楽にして下さい、楽に・・・」
由美は微笑して
「はい、有難うございます」
聡が砕けて
「要するにこういう両親なんだ、家は。尤も、もう一人、明と言う弟が居るけど今日も又、遅くなるみたいだな」
由美がニッコリ笑顔で応えた。
「さあ、兎に角、待って居たんだ、家内が腕によりをかけて作った手料理です。遠慮なく沢山食べて下さい」
「有難うございます、戴きます」
「母さん、随分無理したな。旨そうだよ」
剛が早速に日本酒の封を切り、四人が箸を割って、和やかに夕餉が始まった。
(二)
土曜日の夕方、慌しい急ぎ仕事を処理するための休日出勤を終えた聡は、眦を上げてワールド自動車(株)の本社ビルへ入って行った。正面玄関を真直ぐ入った受付で面会を乞うた聡に受付嬢が丁寧に応えた。
「いらっしゃいませ」
「あのう、竜崎社長にお目に掛かりたいのですが」
「はい。あなた様は?」
「川本と申します。それでお判りにならなければ、仲田の知合いの者です、とお伝え下さい。ご不在なら日を改めますし、ご在社であればお目に掛かれる時刻まで待たせて頂きます」
「はい、川本様・・・少々お待ち下さい」
受付嬢が取り継いでいる間、聡は唇を引き締めてじっと待った。
やがて、受話器を置いた受付嬢が言った。
「お待たせ致しました。社長は只今来客中ですが、待って頂けるなら、お会いするそうです」
「解かりました。それでは待たせて頂きます」
「それでは、此方へどうぞ」
導かれたのは「第三応接室」と表示された小室だった。
「此方で、どうぞ・・・」
「どうも・・・」
受付嬢はドアを閉めて去って行った。
ソファーに腰掛けた聡の眼に入ったのは「社是」と「社訓」の書かれた二枚のパネルだった。それは竜崎社長の、顧客に対する姿勢と自社の経営についての考え方を簡潔明瞭に集約したものだった。
聡は背広の内ポケットから煙草を取り出して口に咥えたが、火を点けようとして、一瞬、躊躇った。虎穴に入ったような緊張感に包まれて、フーッと息を吐き、徐にタバコとライターをポケットに締まった。
待つこと暫し・・・外の廊下は静かである。聡の気持は落ち着かない・・・
やがて、靴音がし、その音が近付いて来て、聡は身を固くした。
靴音が止まってドアがノックされ、入って来たのは竜崎社長だった。
「どうも、お待たせしました」
聡は立ち上がって名乗り、丁寧に挨拶した。
「川本聡と申します。突然お邪魔致しまして申し訳ありません」
「竜崎です・・・ま、どうぞお掛け下さい」
腰を下ろすと直ぐに竜崎社長が誘った。
「どうです、これからご一緒に食事でも・・・」
「いえ、僕は結構です」
「そうですか・・・」
だが、社長は頷きながらもう一度言った。
「プライベートな話は出来るだけ外でしたいのです。此処は職場ですから」
思いを察した聡は、判りました、と答えた。
「コーヒーくらいなら・・・」
「では、参りましょうか」
案内されたのは近くのレストランだった。二人が席に着くと直ぐにウエイトレスがやって来てメニューを差し出した、が、社長は、どうぞ、あなたから、と言うように聡の方へそれを回させた。
「僕はコーヒーだけで結構です」
「そう・・・それじゃ私は失礼して食事をさせて戴きます。お昼に時間が取れなかったものですから」
「どうぞ、どうぞ」
幾つかの注文を聞いたウエイトレスは、畏まりました、と言って、直ぐに立ち去って行った。
「さて、と・・・あなたは確か由美君の・・・」
「はい、何れ近い内に結婚する心算です」
社長がニッコリ笑って言った。
「先日お逢いしましたな、元町の家で」
「はい」
「私のことは由美君から・・・」
「先日初めて聞きました。それも、僕が強引に言わせたのです」
社長は黙って小さく頷いた。
「僕は彼女と知り合って二年経ちますし、結婚を申し入れてから半年になりますが、彼女は、僕の両親に逢うのも、僕を彼女のお母さんに引き合わせるのも、頑なに躊躇したんです」
社長は聡の話を静かに黙って聞いていた。
「僕はその意味を先日、初めて知りました」
社長が小さく頷いた。
「彼女はあなたに大変感謝しています。だが、別の意味であなたを軽蔑してもいます」
社長の眉がピクッと動いた。
「僕はそのことであなたにお願いがあって、今日、お伺いしました」
「私は真面目な気持で光江さん、いえ、由美君のお母さんを愛して来ましたし、今も真剣に彼女を愛しています」
「然し、あなたにはちゃんと奥さんも子供さんも居らっしゃる」
「そうです、息子はもう直ぐ大学を卒業しますので、その後には私の会社を引き継いで貰おうと思っています」
「不徳ですよ、それは」
「そうです、或は、間違っているのかも知れません。私は、私の妻も子供も偽り続けて来て、今も、偽っている。だが、私はやっぱり心から光江さんを愛している」
「?・・・・・」
ウエイトレスがコーヒーと料理を運んで来た。
「お待たせいたしました」
そう言って、テーブルに飲物と料理を並べた。
彼女が去った後、どうぞ、と社長がコーヒーを勧めたが、聡は黙ったまま俯いていた。社長も料理に手を付けようとはしなかった。
「彼女は苦しんでいます。あなたを決して嫌っている訳ではないのです。いや、寧ろ、あなたが正式の父親であったら、とその方を望んでいると思います。それだけに彼女は苦しみ悩んでいるのだと僕は思います」
「・・・・・」
「このままで、これからも良い結果が生まれると思われますか?」
社長は幾度も頷いた。
「君はなかなかしっかりしている。由美君も良い人に巡り会えた」
「話を逸らさないで下さい」
「いやいや、逸らしている訳ではありません。君が言っていることは多分全てが正しいでしょう。然し、私たちはもう若くは無い。光江さんも私も、夫々、それなりに考えている。考えて、考えた末に、今までこうして過ごして来た。そのことを理解して欲しいとは言えない。言えないが、然し・・・」
「狡いですよ、それは」
社長が静かに聡を見つめた。
「経済的にゆとりのある人間だけがそういうことを許されて、自分たちの意思でしたいことが出る。結局、それはエゴであり、倫理、道徳の問題じゃないですか」
「倫理、道徳だって?」
聡は、社長の強張った顔を見て、少し言い過ぎだったかな、と思った。
「君はなかなかはっきりものを言うね。そうか、私たちの事を解って貰うことは無理なんだね?」
「解かりませんね、僕たちには。兎に角、彼女はあなたに感謝の気持を持ちながらも、あなたに綺麗な形で、と望んでいます。お母さんの今後のことは僕たち二人で面倒を見ますので、あなたにも考えて頂きたいと思うんです」
「君っ!」
「今日はこれで失礼します」
聡は丁寧に頭を下げて、席を立った。
「君、一寸、待ちたまえ」
一人取り残された竜崎社長は静かにナイフとフォークを取って、無感情に料理を口へ運んだ。
夕闇に包まれた中突堤の、灯を点し始めた神戸ポートタワーの下に、聡と由美は佇んでいた。
「此処まで来て、迷ったって仕方が無いよ」
「そうね」
「はっきり言うべきだよ。竜崎社長がどう変わろうと、或は、変わらなかろうと、お母さんにははっきりした気持で居て貰わないと・・・。でないと、何時まで経ってもずるずるべったりの状態が続くからな」
「解かっているわ。解って居るけど、真実にこれで良いのかしら・・・。二十年近くもの歳月なのよ。その長い間、精神的にも物質的にも二人の結びつきはとても大きかった筈よ。その結びつきが仮令否定されるものであっても、私たちだけの考えで簡単に断ち切ってしまって良いのかどうか・・・」
「そういう考えがやっぱり君の中にも在るんだ・・・」
「・・・・・?」
「そういう考え方が、要するに、二十年もの間、続いて来ちゃった訳だ。何処かで断ち切らなければ、これから先も死ぬまで続くよ。人間なんて所詮弱いからね。解っていながらどんどん流されて行っちゃうんだよ」
「そうよね、解っているのよ、私も。解っているんだけど・・・。でも、そうなのよね」
二人は尚も話し続け、タワーの灯は深い夕闇の中で益々映え亘っていた。
翌週の日曜日、聡と由美は青空文具店の居間で、母親光江の前に正座していた。光江の表情は極めて静かだった。
「お母さん、私たちはお母さんを責めて居るんじゃないのよ」
「解かっているわ」
「・・・・・」
「・・・・・」
「聡さん。こんな娘ですけど宜しくお願いしますね」
聡は光江の出し抜けの言葉に面食らって返事に戸惑った。
「はぁ、はい・・・」
「私もね、世間から責められることくらい十分に承知していますよ。でもねぇ、あの人は優しい真実に良い人なんです。お恥ずかしい話ですが、私はあの人を今でも愛しているんです」
「・・・・・」
「私はあの人から与えられるばかりで、私が与えたものは何一つありません。あの人は求めたりもしませんでしたし・・・。真実に、それはもう真実に、綺麗なお付き合いをして来たんですよ」
聡と由美は意外な面持ちで話の続きを待った。
「あなた達から見れば、却って不自然かもしれないけれど、あの人はそういう人なのよ。此処へ来ることも私は随分お断りをしたの。でも、結局、私は甘えてしまったの、私のことよりあなたのことを考えてね」
由美が唇を噛み締めて肩を震わせた。聡の胸に、竜崎社長と母親光江の、二人の心の真実が掴めなかった己の単純さへの深い後悔が充満した。
半月後の夕方、和服姿の光江が交差点を渡り終わった処で携帯のボタンを押した。目指す相手は直ぐに電話に出た。
「いやぁ、驚きましたね、あなたから電話を貰うなんて・・・」
「突然で、ご免なさい」
「いやいや、とんでもない・・・えっ、出て来ているんですか?」
「ええ、一寸お話ししたいことがありまして。でも、今、お忙しいんじゃありません?」
「そんなことはありません。私など居なくても会社は独りで動いて行きますよ」
「まあ、そんなことを・・・。それじゃお会い出来ます?」
「勿論です。久し振りにミナミへでも出ましょう。鳥の旨い店が在りましたね、もう随分前の話になりますが、えぇ~っと・・・」
「鳥清ですわ」
「そうだ、鳥清でした。未だ在りますかねぇ。何れにしてもこれから直ぐに出ますから・・・それじゃ、後ほど」
通された座敷の長卓の上に盛り沢山の絶品料理が並べられた。
仲居が座を整えて去った後、ビールを注ぎながら竜崎社長が微笑みを湛えて言った。
「然し、よく覚えていましたねぇ、此処の名前を」
微笑み返しながら光江が答えた。
「他に覚えること、有りませんもの」
光江が竜崎のグラスにビールを満たした。
「鳥清が潰れずに残っていたことに乾杯しましょう」
二人はグラスを軽く合わせた。が、その時、光江の顔がふっと曇ったのを竜崎は見逃さなかった。
「先日、由美君の恋人が私の処へ来ました」
光江は静かに頷いて話の続きを待った。
「なかなか良い青年です、しっかりしていて。由美君もきっと幸せになれるでしょう。良い青年に巡り会えて真実に良かった」
「私、実は今日、そのことで・・・」
「解っています。あなたからお電話を戴いた時に直ぐにそれと判りました。何も言いますまい。然し、そういう歳になったんですねぇ、あなたも私も。そんな子供を持つような歳に・・・」
タチヨミ版はここまでとなります。
2018年9月1日 発行 初版
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