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ジージーとセミの声がうるさい。
家に着いたら、まずは冷たいアイスを食べよう。そんなことを考えて、学校から帰ってきたら、玄関で不思議な声がした。
「おー、まっとったでぇ。おかえりっ」
ぼくはおどろいて、あたりを見回してみる。
誰もいない。
おかしいな、気のせいかな?
カギを開けドアノブに手をかけた時、また声がした。「どこ見てますねん。ここですやん、こーこ」
声がした方に目をやると、大きくてりっぱなクワガタが、植木鉢の上にちょこんとのっかっていた。
こんな大きなクワガタが、ぼくんちの植木鉢にいることにもびっくりだけど、ソイツがさらに言葉をしゃべっている。アリエナイ。
何かの間違いなのか、あまりの暑さでぼくの頭がおかしくなったのか、汗だらけの額から、さらに汗がじわりと吹き出した。
とりあえず一回落ち着こうと、背中のランドセルを下ろすと、大きく深呼吸をして、もう一度クワガタの方へ目を向けた。
「ハハハ、コイツがしゃべるわけないよな」
すると、クワガタは、アゴをカチカチぶつけてから
「なんや、ワシ、小学生男子のあこがれのマトのはずやぞ。オオクワガタやで! そやのになんちゅうリアクションのうすさ。つまらんなぁ。もっと、わぁー! とか、すっげー! とかないんかいな。せっかくわざわざ恩返しに来たっちゅうのに」
クワックワッと笑っているような声を出した。
「恩返し? ぼく、クワガタを助けた覚えなんかないねんけど」
「いややなぁ、忘れましたんか? 幼虫やったワシを助けてくれましたやん。そりゃ丁寧にあつかってくださって。ワシおかげで命拾いしましてん。そやから頑張っていっぱい食べて、りっぱなオオクワガタになったんですわ」
クワガタが、エッヘンと言わんばかりにアゴを大きくふり上げた。
そう言えば、去年の秋に、道端でもぞもぞくねくねしていた幼虫を、すぐ近くの神社まで持っていったことがあった。なんの幼虫だかわからなかったし、さわるのはおっかなかったから、ノートを一枚ちぎってそれですくいとった。別に丁寧にあつかったつもりはない。そのまんまほっといたら、車にひかれてグチャグチャになった幼虫を見るはめになるかもしれない。そう思ったからだ。
「へぇ、キミがあの時の幼虫なんだ。けど恩返しって言われてもなぁ、ぼく虫は大の苦手やし……大したことしてへんし、もういいよ、お気持ちだけで。どうもありがとう。じゃあね」
正直、今はクワガタの恩返しなんてどうでもいい。映画で見たような、金銀財宝がぎっしりつまった宝箱が出てくるわけでもなさそうだし。そんなことよりアイスだ。アイスが食べたい。それからゲームの続きをしたい。ぼくは、ランドセルを背負い、玄関のドアを開けた。
「オイオイオイ、ちょー待てって」
クワガタは、ブンと羽を広げ、玄関の中に飛び込んできた。
「くーー、ぼっちゃんが虫苦手やったとは。ちゅうか、小学生男子やったら、みんなワシを見たら、それだけで大喜びすると思っててん。しゃーない。ちょっと勉強して出直すから、待っててや。あ、ワシ名前はガタキンな。クワガタキングでガタキンや。カッコエエやろ? 覚えといてや!」
そう言うと、クワガタは開けっ放しになっていたドアのすき間から、サッと飛んで行ってしまった。
ぼくはぼうぜんとクワガタを見送ると、にぎっていたドアノブから手をはなした。ガチャリとドアの閉まる音がするのと同時に、自分のほっぺたを思い切りバチンとたたいてみる。イタイ。めちゃくちゃイタイ。
今のはなんだったんだろう。夢ではないらしいが、こんなことはアリエナイ。
きっと暑さのせいで、どうかしてるだけだ。気のせいだ。ぜったいに気のせい。
暑さは遠慮を知らない。
ジリジリとなんでも溶かしてしまいそうな勢いで、肌に日差しがチクチク突きささる。小学校生活四回目の夏休みが始まった。
クーラーのきいた部屋で、ゲームをしていたら、仕事が休みのお母さんに、たまには外で遊んできなさいと、ゲーム機をとりあげられた。お母さんがいる時は、大抵いつもこうだ。
このクソ暑いのに、外で遊べだなんて、お母さんはどうかしている。自分は涼しい家でテレビ見てるくせに。大人ってずるいよな。
仕方なくすぐ近くの公園に行くと、木陰のベンチに体を投げ出した。
「ほら、やっぱこんな暑い時に、だれも外でなんか遊んでへんやん」
一人でブツブツつぶやいていたら、
「ぼっちゃーん、やっと外に出てきおった。まっとったでぇ」
と、頭の上で声がひびいた。聞き覚えのある声だ。
また暑さのせいで、ぼくの頭の中がショートしているにちがいない。とは思ったけど、声が聞こえてくると、つい声の主をさがしてしまう。ブンと羽音がして、大きなクワガタが、僕の目の前に飛んできた。
「えーっと……ガタキンさんとか言う名前のオオクワガタさん?」
「せや、ガタキンや。ちゃんと覚えてくれてたんか。うれしいなぁ。ほな宝探しに行きまっせ」
前と同じ、クワックワッと笑っているような声。
ガタキンは、ベンチの背もたれに止まると
「このベンチの下にスコップがありますやろ? それ持ってワシについてきなはれ」
そう言って、アゴをカチカチ鳴らした。
ベンチの下をのぞきこんでみると、言われたとおり、サビだらけのスコップがころがっている。おそるおそるスコップを手にすると、ガタキンが、ブンと宙に浮かんだ。
「ほな、ワシについてきなはれ。ええお宝がありますねん」
オ・タ・カ・ラかぁ。
ちょうどいいひまつぶしにはなるかな。
ぼくは、ガタキンにあやつられるようにフラフラと立ち上がると、足を前へと踏み出した。
「ここや、ここでっせ」
ガタキンにつれてこられたのは、神社だった。幼虫だったガタキンを運んでやった神社。
ぼくの背中にいやーな汗がツーっと流れる。
神社の奥にソウタの姿が見えた。
「ちょっ、ムリムリムリ。ここはムリやって」
ヤバイ。みつかりませんように。
ぼくはくるりと背を向けて、元来た道を歩き出した。
同じクラスになったことはないけど、ソウタはケンカっぱやくて、目があっただけでも殴られるから、近づいたらあかんとか、六年生の男子もボコボコにしたとか、みんながコソコソ言ってるのを聞いたことがある。とにかく要注意人物として有名だ。みつかったらきっとめんどうなことになる。
早足で歩き出したぼくにガタキンが叫ぶ。
「ぼっちゃん! 待ちなはれ! 絶対に大丈夫やさかい。ワシの言う通りにしたら大丈夫やさかい。お宝はいりませんのかっ? ワシを信じてくだされ」
お宝には興味がある。けどやっぱり怖い。
どうしていいかわからなくなって、ぼくの体は氷で固められたみたいに身動きが取れなくなった。
「おい! アツシ!」
こちらに気がついたソウタが、ぼくをにらみつけ、真っ黒に日焼けしたこぶしをバキバキ言わせて近づいてくる。学年の中で一番大きくてガッチリとした体つき。ぼくとは正反対だ。
オワッタ。みつかってしもうた。
ぼくの頭は思考停止状態。
「ええか、ワシの声はぼっちゃんにしか聞こえてへん。これからワシが言うことを、そのまんまあの子に言うんやで」
こうなったら、ガタキンに頼るしかない。ぼくは大きくうなずくと、ゴクリとつばを飲んだ。頭の中にガタキンの声が聞こえる。そのとおりしゃべるだけでいいんだ。
「おまえ、ここになにしにきたんや」
今にも殴りかかってきそうな勢いで、ソウタの怒鳴り声がひびく。
「え、えっと、そのう……あのう……ク、クワガタとりにきたんやけど」
ソウタがぼくのことをジロジロとながめて、手に持っているスコップに気がついた。
「なんや、そうか。おまえ、クワガタのこと、わかってるやん。ほんならこっちこいや。コクワやったら、いっぱいおんで」
鬼のお面みたいになっていたソウタの顔が、一気にやさしい笑顔に変わった。
どういうこと?
ぼくがあっけにとられていると、
「虫キライとか、キモイとか言うヤツやったら、ぶっとばしたろ思っとってん。そやけどなんか意外やな。おまえがクワガタ好きやったとは。それにこのへんの丸太とかほじくり返してクワガタとるって、なかなかのツワモンやで。普通みんなトラップ仕掛けるとか、木を思い切りけって落とすとかしてクワガタとると思ってるやん」
ソウタが笑いながら言った。
フー。ぼくは大きく息を吐き出す
ここで虫がキライだなんてバレたら、一発アウトだ。
「自分の好きなもんのこと、キライとかキモイとか言われたらイヤやろ?」
「う、うん」
ぼくは、気の入らない返事をして、ガタキンの指示通りに、足元に転がっている朽ち木をスコップでコンコンとたたく。
「前にな、ここに六年のやつらがきたんやけど、土の上に落っこちてしもたチョウの幼虫見てな『うっわ〜キモ〜』とか言うて、ふみつけやがってん。オレそんなん許されへんかって、つい突き飛ばしてしもうてん。ほんなら、それから、あることないこと言われるし、ここでもいやがらせされるし、もう散々や。そやからオレ、てっきりおまえもアイツらの仲間かと思ったわ」
「そっかぁ。そうやったんや。さっきはぼくも殴られるかと思ったよ」
ぼくの体は少しずつ緊張からとけていく。
「アホか、なんでもかんでも殴らんわ」
あれ? なんか聞いてたイメージとはちがうな。
「うわっ!」
朽ち木の割れ目で、何かがもぞもぞと動いたような気がして、ぼくはとびはねた。
ぼくの声とおおげさな動きに驚いたソウタが、朽ち木の割れ目をのぞききこむと
「おっ! ヒラタやん。コイツでかいで!」
そう言いながら、スコップで、朽ち木をガッガッと掘るようにして、ヒラタクワガタをほじくり出した。
「ほら! おまえ、すごいな。オレ、ずっとさがしてるけど、ちっこいのとかメスとかコクワしか、みつけられへんかったのに。それより、おまえなんで虫ケースもってきてへんねん。これ貸したるわ」
ソウタは今つかまえたクワガタを、自分のケースに入れると、ぼくに差し出した。
ケースにはすでに土や折れた木の枝が入っていて、そのまんま飼育できそうな状態だ。よく見るとちゃんと昆虫ゼリーまで入っている。
「いや、ぼくはええわ。ソウタがとったからソウタが持って帰りや」
ガタキンに言われるがまま、ぼくはそう答える。
「ほんま? ほんまにええんか? こんなんめったにとられへんで」
「ええよ」
「やった! おまえほんまにええヤツやな」
キリッとしたソウタの目が、三日月みたいなカーブを描く。
「おまえの分も、はよみつけようぜ」
ソウタは、神社のすみに転がっている朽ち木を、片っ端からスコップでコンコンたたいたりけったり、ひっくり返したりして、クワガタをさがしはじめた。
なんや、ソウタって案外いいヤツやん。
ソウタとは逆の方向から、テキトーに朽ち木をスコップでたたいていく。
突然、ずっと聞こえていたガタキンの声が聞こえなくなった。あせって立ち上がろうとした時、さっきたたいていた朽ち木の割れ目からガタキンのアゴが見えた。
「え? ガタキン?」
ぼくが割れ目をのぞき込んでいると、ソウタがこっちにやってきて
「ちょちょっ、なにこれ、すっげー! オオクワやん! しかも超デッケー!」
大声で叫んだ。
ガタキンは、クワックワッと笑うような声で
「ほらな、これが小学生男子がオオクワに出くわした時の正しいリアクションや」
楽しそうにそう言うと、ブンと飛んで、ぼくのTシャツの胸元にしがみついてきた。
ほくは思わず、ヒィッと声を出しそうになる。
「大丈夫や。ワシはここでジッとしてるさかい。それより平気そうな顔して今から言うとおり言いなはれ」
コクンとうなずいて、ぼくは言った。
「こんな服着てるから、なんか木とまちがえられたんかな」
自分の茶色いTシャツのすそを軽くひっぱってみる。
「ほら、これやったらケースなくてもこのまんま連れて帰れそうやん」
ソウタがゲラゲラ笑いだした。
「ほんまやな。おまえ、めっちゃ気に入られてるやん。ええなぁ。そんなに気に入られて。クワガタ、飼ったことあるんか?」
ぼくが首を横に振ると、
「これ貸したるわ。んでこれもやる。オレ、今オオクワ育ててるから、なんでも聞いてくれ。ちゃんと育てたら、冬も越すねん。七年生きたヤツもおるらしいで」
ソウタはそう言うと、自分のリュックからボロボロになった図鑑と昆虫ゼリーを取り出した。
「しゃーないなぁ。ぼっちゃん、こうなったからにはワシのこと、飼育するしかないで。ま、よろしゅうたのんまっさ」
Tシャツにしがみついているガタキンが、満足そうにつぶやく。
今まで怖くて、じっくりクワガタなんか見たことなかったけど、よく見たらなかなかかわいい顔をしている。アゴもツヤツヤ光っててカッコイイ。
ぼくは、ちょっぴりクワガタが好きになれそうな気がしてきた。
クワガタを持って帰って、しかも飼育したいなんて言ったら、お母さん、きっとビックリするだろうな。
「アツシ、ほんまにありがとうな! ヒラタずっと探しとってん。今度うちに遊びに来いよ! オレのクワガタ見てもらいたし。じゃあな」
そう言って手を振るソウタの背で、太陽がまぶしい光を放っている。ちょっとはずかしそうにニッと笑った顔が、キラキラとかがやいて見えた。
あ! 忘れてた!
オ・タ・カ・ラみつけたかも。
ガタキンがうなずくようにアゴを振る。
「うん! 図鑑大事なんやろ? 貸してくれてありがとう。今度遊びに行くな!」
ぼくは、遠ざかっていくソウタに大きく手を振った。
ハコヤマさんは、「はこ」が大すきなおじいさんです。
あきばこは、けっしてすてません。
集めたはこには、どれもお気に入りのきれいな紙をはりつけ、庭から見えるひろいへやに、山のようにつんでいました。
つめたい風がふく日のことです。おくさんが、庭のそうじをしていると、うさぎが一ぴき入ってきました。
「あら、うさぎさんが来るなんて、めずらしいわ」
うさぎは、大きなまどからへやを少しのぞくと、サッとにげました。そして、畑の続く道を通って、山の方へ走っていきました。
次の日には、タヌキ、その次の日には、キツネがきて、へやをちょっとのぞいては、にげていきました。
それから、何日かすると、ポストに小さなふうとうが入っていました。
『サンタクロースさんへ』
ハコヤマさんとおくさんは、びっくり。
『サンタクロースさん、
にんげんのこどもは、
クリスマスイブに、プレゼントもらえるのに、
ぼくたちは、もらったことありません。
プレゼントほしいです。
ポンポコやまのどうぶつたちより』
「サンタクロースって、ぼくのことか?」
おくさんが、ぽんと手をたたきました。
「きっと、へやにいっぱいつんであるはこをプレゼントと思ったのよ。きれいな紙をはった、いろんなはこがあるでしょ。それと、うさぎが庭にきた日、あなた赤いセーターを着て、はこのおいてあるへやにすわってたし」
ふたりは、クスッと笑いました。サンタクロースとまちがえられるなんて、ゆかいです。
「こうなったら、プレゼントしたくなったなあ。ああっ、クリスマスイブは、あしたじゃないか。まにあうかなあ……」
「これから、わたしたちにできるプレゼントを考えましょうよ」
ふたりは、プレゼントをどうするか、そうだんしはじめました。
そして、クリスマスイブ。
ハコヤマさんは、プレゼントをつめたはこを車につんで、ポンポコ山へむかいました。
赤いセーターに、赤いスラックス、赤いぼうしをかぶり、気分はすっかりサンタクロースです。
「プレゼント、よろこんでくれればいいけど」
山の入り口で車をとめると、プレゼントを入れた白いふくろをかついで、歩きはじめました。
山はすっかり葉をおとし、はだかの木ばかりです。
しばらくいくと、どうぶつの子どもたちが出むかえてくれました。
「サンタクロース、来てくれたんだ!」
「やっぱり、あそこは、サンタさんの家だったんだ」
「プレゼント、はやく、ちょうだい」
ハコヤマさんは、てれながら、プレゼントをくばりました。
プレゼントをつめたはこは、集めていたきれいな紙をはったものばかり。
どれにも、金のリボンがむすんであります。
うさぎの子どもが、いいました。
「サンタさん、ありがとう。あけてもいい?」
「ああ、いいよ」
うさぎが、はこをあけると、あまいかおりがしました。入っていたのは、クッキー。おかし作りがとくいな、おくさんの手作りでした。
ひと口、かじると、
「おいしい! こんなおいしいクッキー、はじめて」
はこの中には、とても小さな四角いものが、いっしょに入っていました。水玉もよう、チェック、金、銀などいろいろあります。
「きれいねえ。これ、なに?」
「小さいはこだよ。ぼくは、はこが大すきなんだ」
ほかのどうぶつたちのプレゼントも、クッキーと小さなはこでした。小さなはこは、ハコヤマさんが集めた、お気に入りのばかりをえらびました。
「かわいいはこ。なに入れようかしら」
「たからもの、入れるんだ」
「食べものつめて、おでかけしたいな」
「つんで遊ぶほうが、楽しいよ」
「あたしは、おうちに、かざるわ」
どうぶつたちは、大よろこびだったので、ホッとしました。
帰り道を少し歩くと、ハコヤマさんは、ハッと立ち止まりました。赤い服の人が、近づいてきたからです。
「ああっ、あなたはっ!」
本物のサンタクロースでした。
サンタクロースは、あたまをさげました。
「全部、見てましたよ。どうも、すみませんでした。気をつけているのですが、このひろい世界、どうしても見おとしてしまうところがありまして。来年からはきっちりくばります」
「できれば、来年、ぼくもいっしょにくばらせてもらえませんか。プレゼントするのって、ほんとに楽しいものです」
サンタクロースは、笑ってうなずきました。
お父さんと一緒に歩いていると、「お兄さんと仲よしね」ってよくいわれる。
確かにお父さんは、五年生のぼくと、うんと年の離れたお兄さんだっていっても信じてもらえるくらい若く見える。
休日のファッションだって、お隣の大学生のお兄さんより絶対にセンスいい。
おじさんみたいにお腹が出て無いし、長い足に細いGパンがぴったしのスタイルだ。
もっと若かったたらなんだけど、ルックスもどっちかといえばジャニーズ系。
お父さんと買い物に行く途中、ぼくの同級生の女の子に出会ったりすると「やーっ」って片手をあげて挨拶する。そんな時のお父さんって、カッコイイ。
「佑人のお父さんって、めっちゃ若い!」なんて、クラスの女子がうわさしてるのも、「佑人って、似てないじゃん」って言われているのも、ぼくは知っている。
でも、でも、そのカッコイイお父さんに、重大なヒミツがあるんだ。
ある日、お父さんの髪が、いつもと何だか違っているのに気づいた。
「お父さん、髪、変になってるよ」
「ううん? 何が?」
ソファにひっくり返って、テレビのバスケの試合を見ていたお父さんは、めんどくさそうに返事をした。
「ここんとこ」
さわろうとしたぼくの手を、お父さんは突然バシッと払いのけた。
「やめろっ!」
「なんだよう、ちょっと直してあげようとしただけなのに」
何も悪いことしたわけじゃない。いつもきちんと横向きになっているてっぺんの毛が、オウムの頭の毛みたいにつっ立っていたからだ。ぼくは腹が立った。
「ぼく、悪いことでもした?」
お父さんは、だまってしまった。
何だか気まずい空気。だって超マジな顔してるんだもの。
「ごめん、ちょっとな……」
腕組みをして、天井を見上げているお父さん。
テレビでは、どっちかのチームがポイントを取ったらしく、すごく盛り上がっている。
部屋の中の空気は、その正反対。
「……そうだよな、家の中で秘密にしているのはいけないな。秘密を守るのに、変に気を回わしたり、今みたいに怒ったりイライラするのは良くない。自分にも家族にも良くない事だ。よーし、今日から家の中では自然体でいくことにする」
お父さんは真面目な顔でそう宣言すると、髪の毛をぬいだ。
「ええっ! ……だったんだ!」
本当はお父さんの名誉のためっていうか、プライバシーなんとかのため、ヒミツはヒミツのまま、秘密にしておかなきゃならないのかも……。
でも、これはぼくにとっても重大な問題、そしてナヤミの一つになった。
そしてこの事は、今のところ家族しか知らない。
それからというもの、家の中では、お父さんの帽子感覚がスタートした。
とっても変だった。
だって家に帰ると、お兄さんサイドのお父さんからおじいちゃんサイドのお父さんに変身するんだから。
お姉ちゃんは、もうれつに反対している。
知っているはずのお母さんだけど、これには一番きびしかった。
「家にだって、突然誰かが見えるってことあるでしょ。仕事上、人様に会う時の印象が大事だからって、高いお値段出してあつらえたんじゃない。二つも!」
「ええっ! 二つも!」
ぼくとお姉ちゃんは、同時に叫んだ。
「何にだってスペアってのがいるだろ。それに、もし失くしたり、間違って捨てたりした時に、あわてないようにだ」
「失くしたり捨てたりって、だれが? するとしたら、お父さんだけだよっ!」
お姉ちゃんは、完全に頭にきている。
それにしてもお父さんは、いつ頃から使っていたんだろう。ぼくもお姉ちゃんも今まで気がつかなかった。
お姉ちゃんは中学生になってから、あんまりお父さんと話なんかしなくなった。でもカッコイイお父さんのことは、いいなって思っていたはずだ。
ぼくは……まったく。
だってお父さん、遅く帰ってくること多いし、お風呂から上がった時には、頭にタオルをきっちり巻いているんだから。
ぼくたちの部屋は二階にあって、夜中に家の中で出会うことも少ない。それにぼくはいつだって寝ぼけていたから、お父さんの変化に気付かなかった。ってことは、お父さんの髪は本当に自然体に見えていたんだ。
今のお父さんのいう自然体とは、まるっきり正反対なんだけど。
「あのさあ、もう一つって、どこにあるの?」
そっとお母さんに聞いてみる。ぼくはそっちのほうに興味があった。
髪の形で変身するって、どんななんだろう。
「非常用持ち出し袋の中。夜中に地震があっても持ち出せるように」
お母さんは、あきらめモードになっていた。
家の中では自然体のお父さんだけど、お客さんが見える時とか、ぼくの友だちが来る時とかは、若々しいお父さんになってくれる。
ちょっとしたお出かけでも、鏡の前でていねいに形づけてから出かける。
そうしてもらわなくちゃ困るし、その方がうれしい。でも大変だなあとも思う。
まあその努力の結果が「まるでお兄さんみたい」ってなるんだけど。
おじいちゃん(お父さんの、お父さん)も、写真を見ると、だいぶ若い頃からパーフェクトだった。
これって、ご先祖様から受けつぐもの?
ということは、ぼくも……ええっ!
シャンプーの時に、抜け毛が多いと心配になる。こっそりお父さんが前に使っていた整髪料(もう古くなってるけど)をふりかけて、マッサージしてみたり、毛根に刺激を与えるといいって広告にあったから、ブラシで頭を叩いてみたり。
お父さんだって、子どもの時から気にしていたかも。
「ねえ、お母さん。結婚した時、お父さんの髪どうだった?」
「結婚した時? ふさふさしてたわよ。そりゃ、少しはね。額が広いなあって」
「将来、っていうか……気にならなかった?」
「どうだったろ。お父さんって話がおもしろいし、友だちの面倒見もいいし、人気あったもの。髪がどうだなんて、気にもならなかったわ」
「ふーん、そっかあ……」
ふさふさのうちに結婚しちゃったんだ。
お母さんはお父さんのナカミの方に魅力を感じたってことかな。
お母さんみたいな女の子って、絶対いるよな。
ぼくは何となくホッとした。
お姉ちゃんは、自然体のお父さんを認めたくないらしい。お父さんをさけているし、まず直視しない。
中学生の女子なんだから、ルックスにこだわるのも仕方ないと思う。
でも高いお金を払って二つも用意したのって、つけたらどんな感じなんだろう。
ぼくはちょっと試してみたかった。
お父さんの言うスペアは、非常用の持ち出し袋の中のプラスチック・ケースに、くりんと丸まって納まっていた。
これって、人間の髪の毛でできてるのかな?
だれの?
ちょっと頭にのっけて見る。鏡を見ながら、お父さんみたいに前髪をななめに下げてみる。
「へえっ!」
お母さんに似た顔が出現!
ぼくはお母さん似だ。
「佑人っ! なにしてんのよっ!」
鏡の中にお姉ちゃんが現れた。
「あ、お姉ちゃん。ぼくけっこうイケると思わない? どう? わたしって」
「止めなって! ふざけて使うもんじゃないよっ」
あれ、お姉ちゃん本気だして怒ってる。
ぼくはちょっと驚いた。だってあんなにお父さんの自然体に反対してたのに。
「お父さんの超大事なグッズなんだから、戻しときな」
「へーぇ、お姉ちゃん、お父さんの自然体みとめてるんだ」
「だって現実じゃん。嬉しくなんてないよ。でもさ、お父さんの努力を考えたら、子どもとして感謝しなきゃならないのかもね」
「へえ、そうなん」
「佑人だって、若くってカッコいいお父さんがいいでしょ? そのためにお父さん、気をつかっているんだからね」
お姉ちゃんは手を伸ばすと、自分の髪の上にのせた。
鏡の中のお姉ちゃんは、自分の長い髪をぐちゃぐちゃにして、唇を突きだす。
「なんだよう、ふざけるなっていったじゃん! ああっ、まるで原始人だぁ!」
下ろされるげんこつより早く、ぼくは鏡の中から消えた。
日曜日、春奈おばさんが突然訪ねて来た。
お父さんのお姉さん、春奈おばさんは、たまにしか来ないけど、バリバリのキャリア・ウーマンで、会社でも重要ポストについているらしい。
お父さんは、春奈おばさんが苦手みたいだった。
おばあちゃんが亡くなったあと、春奈おばさんはお父さんを叱れる唯一の存在だったし、何かと要注意の人物だった。
「業者さんの付き合いで、現地調査に行って来た時にいただいたお土産のお菓子。一人じゃ食べきれないから持ってきた」
おばさんはリビングに入るなり、「あら、いつから赤ずきんちゃんになったの?」って、お父さんを見ていった。
お父さんは、最近家の中ではバンダナをしている。このスタイルは何かの職人さんみたいで似合っていたし、今日は赤いバンダナをしていたんだ。
「ねえさん、赤ずきんちゃんは無いだろ。ところでちょっと聞くけどさ、あのう、おやじの髪、いつ頃から少なくなったか覚えている?」
「なによ、そんなこと……あ、そうなんか、あんたも気になりだしたってこと?」
そこにお母さんも加わる。
「お姉さん、実はねえ……」
大人三人組の話が始まったので、ぼくは二階に逃げることにした。
春奈おばさんの豪快な笑い声が、ぼくの部屋まで聞こえてきた。
「佑人、下りてらっしゃい。おばさんお帰りだって」
おかあさんに呼ばれてぼくがリビング入ると、帰り支度をしていたおばさんが封筒を渡してくれた。
薄くって軽いから、多分お小遣い……千円かな。
「佑人、お父さんの自然体、家ん中限定なんだって? なんでさ」
「だってぇ……あのさあ、やっぱ見た目って大事なんじゃない」
「まあ、そりゃそうだ。私も中学生の頃、父さんの髪のこと友だちに言われて、嫌な思いしたことある。佑人のお父さん、あんたたちのことを考えてるんだよ」
おばさんは、ぼくの頭をトントンと突いた。
「でもさ、ここんとこが空っぽじゃあ、値打ちない。社会に出たら、中身で勝負ってなるんだよ。あんたのお父さんも、そろそろ勝負って言う年なんだからね」
嵐のようにやってきて、嵐のように去って行くおばさんは、中身も詰まっていそうだし、見た目もキャリア・ウーマン・バッチシっていう感じだった。
中身が大事だってのも「当たり!」と思う。
おばさんぐらいの大人は、「見た目じゃないよ、中身が大事」なんてよく言うけれど、じゃあ何で小顔がいいとか、パッチリ目がいいとかってなるんだ。
ぼくはお母さん似で一重まぶた。でもお出掛けの時のお母さんはお化粧するから、すごく変化する。
ぼくはそのまんまだから、時々「細目 佑人」なんていう奴がいる。
ぼくの名前は「細見 佑人」だって!
ぽっちゃり形の丸顔。背も中くらいの高さ。でもけっこう友だちも多いし、楽しくやってる。
お姉ちゃんはお父さん似で、アイドル系。そして見た目を気にするタイプ。
だから学校に行く前、洗面所を長いこと独り占めにする。
「早くして! ぼくだって使うんだから」
「待ってよ、髪の毛、ここがはみ出ているんだ」
「そんなの何ともないって。気にし過ぎ」
「佑人だって、そのうち気にし過ぎになるよっ!」
ポニーテールをぶるんと振って、お姉ちゃんはぼくの脇をすり抜けて行った。おまけに一つ、どんとぼくの背中を叩いて。
「お姉ちゃん、見た目って大切だと思う?」
お姉ちゃんは、ぼくの部屋で新作のマンガを読んでいた。持ち出し禁止ってぼくが決めてるから、仕方なしにぼくの部屋に入って来る。
「それって、お父さんのこと?」
「うん、ぼくたちのことを考えてるからだって、春奈おばさんいってた」
「そりゃ子どもが小さいうちは、若々しい親でありたいっての、本当の気持ちだと思うよ」
「お父さん、自然体をいつまで続けるんだろう」
「さあ……でも会社とかご近所なんか、急に変わったらびっくりするじゃん。当分は今のままで行くんじゃない」
「じゃあ、ぼくたちが大人になったら?」
読みかけのマンガを、お姉ちゃんはパタッと閉じた。
「その頃になったら、自然体ぴったしのカンロク親父になってるかもよ。あ、でも私が結婚してからにして欲しいな」
「ぼくだって、それがいいけど……。見慣れたら、やっぱお父さん、自然体でもカッコいいよね」
「おっ、理解ある息子! ま、佑人も覚悟しとくのね。これは細見家の男子の受けつぐべきもの」
「いうなよっ!」
ぼくはお姉ちゃんを追いかけて、階段をかけ下りた。
「ただいま。なんだ、なんだ、小さい子みたいに追いかけっこして」
玄関のドアが開いて、若々しいお父さんが帰って来た。
† トライやる一日目
「はじめまして…… 私は、大川中学二年の木下笑子です……」
ふっと息をついて顔をあげた時、おじいさん、おばあさん、車椅子の人たちと目が合った。
とたんに頭が真っ白になって、次の言葉が出てこない。
デイサービスにやってきた人たちが集まる、食堂を兼ねたリビングルームでのことだった。
横を見ると、スタッフの石川さんが「頭を下げるのよ」と、小声で言ってくれた。
「よろしくお願いします。頑張ります!」
くちびるをプルプル震わせながら、何とか挨拶がすんだ。
「若いお姉ちゃんが来て、花が咲いたようでいいなぁ」
「かいらしい子が来て、ええね」
まわりがざわつくと、石川さんが話し始めた。
「はーい! 今日から五日間、この『スマイル』に笑子さんがいます。皆さん、かわいがってくださいね。じゃあ笑子さん、館内を案内するわね」
「わしが案内するわ。さあ、笑ちゃん行こう」
といったのは、田中さんという人だった。
やさしいおじいちゃんって感じ。
でも田中さんが、手をつなごうとするのに戸惑ってしまい、石川さんをふり返る。
目が合うと、「大丈夫、大丈夫」という小さな声が返ってきた。
食堂からスタートして、談話室、洗面所、トイレ、お風呂場と見てまわっている間、田中さんは私の手を離さなかった。
食堂まで戻ってくると、
「田中さん、ありがとうございます。じゃあ、笑子さんを借りますね」
と、石川さんがいった。
「あの、田中さんが、ずっと手を離さなかったんですけど……」
「それはね、田中さんは弱視なの」
「弱視?」
「わかりやすくいったら、視力がとても弱いこと。誰かの助けが必要なのよ」
「そうなんだ……でも、よく見えている人みたいでしたけど」
「それはね、多分この館内を、ご自分の感覚でわかっているんだと思うのよ」
後になってわかったのだが、田中さんは、いつも誰かと手をつないでいるのだった。
私は、おじいちゃんもおばあちゃんも嫌いじゃない。でも一度にたくさんのお年寄りの中にいるのは、初めての経験だった。
「笑子さん、館内を見てまわって、どうでしたか?」
「いろいろなところに、手すりが付いていました。あと、段差が無いことです」
「よく、気付いたわね」
「それに、トイレが気になりました。カーテンのついたトイレがあったことです。初めて見ました」
「それは、車椅子用のトイレよ」
「そうだったんだ」
「車椅子に乗ったことある? 一度、体験してみましょうか」
私は乗ってみたいと思った。興味本位だけど。
操作するのは簡単だった。すぐに慣れて廊下をぐるりと回ってみる。
「車椅子、どうでしたか?」
「簡単でした」
「じゃあ今度は、右まひになった状態で体験してみましょうか」
「右まひ?」
「事故や脳梗塞の後遺症などの何らかの理由によって、右や左の手足がまひしてしまうのよ。体感するには、右手を三角巾で固定して、右足首には重しを付けて車椅子に乗るの」
「そんなの無理です」
「まひのある人の感じを、体験してみましょう」
その状態で乗った車椅子に振り回されて、私は悪戦苦闘する。
「笑ちゃん、どやった? しんどいやろ」
声をかけてきたのは「かいらしい子が来て、ええね」といった、佐藤さんというおばあちゃんだった。
私は、佐藤さんに答える余裕などなかった。気持ちが悪くなって、うつむいたままだった。
「どうでしたか?」
石川さんの問いかけに、ぶっきらぼうにいってしまう。
「こんなに難しいと思わなかったです。足元ばかりに目がいって、思うようにいかない!」
「じゃあ今日の体験は、ここまでにしましょうか」
私は、車椅子から解放されてホッとした。
帰宅して、一日の記録をつける。
ダイニングキッチンで、独り言をいいながら記入していると、ママが話しかけてきた。
「今日は、どうだった?」
「うん、疲れた。お腹すいた」
「なにそれ。今晩は、ハンバーグとコーンスープよ。しっかり食べて明日に備えてね」
「うん、わかった……」
「まあ、笑子ったら、もう居眠りしてる。まるで赤ちゃんみたい。小さい頃と変わってないのね」
ママは、好物を前にしてうとうとしてる私に、あっけにとられたようにつぶやいた。
† トライやる二日目
「さあ、今日はまわりをよく観察して、お手伝いできることを見つけてください。そして、それを私に教えてね」
石川さんが私のそばから離れてしまうと、ポツンと取り残された気分になってきた。
「観察……」
私はもう一度、館内を見てまわった。
一番気になっていたトイレに行ってみる。
このカーテンのトイレは、どんな風に使うんだろう。車椅子に乗っていて、カーテンの開け閉めはできるのかな。スイッチで扉が開いたほうが、いいんじゃないかな……と考えている時、車椅子を押したスタッフさんが入ってきた。
「ちょっと、ごめんなさいね」
「あっ、すみません」
スタッフさんはカーテンを開けて、車椅子ごと中に入ると、サッとカーテンを閉めた。
あっという間のことだった。ゴソゴソする物音と共に、中から小さな声が聞こえる。
「さあ、座りましょうか。ここを持って、いいですか? 一、二、三…… はい、座れました。もう少し深く座れますか? そうです。では私は、外で待っていますね」
そっとカーテンが開いて、出てきたスタッフさんと目が合った。
「しっ」というように口に指をあてて、私に外へ出るようにと手ぶりで示す。
「ごめんなさい」
私は小さく答えると、トイレから出た。
そうか、カーテンは大事なんだ。介護する人と一緒に入るトイレには、カーテンが必要なんだ。
廊下の端まで歩いてみる。確かここは三階。エレベーターがあったはず。でも階段も無い。
廊下の突き当たりには、鉄の扉があった。
そっと押してみる。動かない。カギがかかっているようだ。
スタッフさんが、通りかかった。
「あの、この扉は、非常口ですか?」
「それは、階段との間の扉よ。そこはカギがかけてあるの」
「えっ、なぜ…… カギを?」
「利用者さんが、知らない間に館内から出て行って、事故にあったりしないようによ」
「それって、閉じ込めるってこと?」
「ちょっと違うわよ。私たちスタッフも同じ空間にいるのよ。利用者さんと一緒でしょ。命を預かるのって、とても大変な仕事なの」
私は、軽はずみな発言を反省した。
今日の仕事は昼食の配膳と、お風呂から上がってきた人の髪を、ドライヤーで乾かすお手伝いだった。
帰りがけに「はい、宿題」と、石川さんから手渡されたのは、紙パンツ!
「これをはいて、できたらおしっこをすること」
ガーン!!
カルチャーショック! どうしよう……。
帰宅してすぐに、部屋で紙パンツをはいてみた。何か、もこもこして変な感じ。
ダイニングキッチンで記録をつける。
「今日は、どうだった?」
ママが聞いてくる。
「うん、疲れた。お腹すいた」
昨日と同じ会話だ。
「ママ、紙パンツはいたことある?」
「ええっ? どうしたの、急に…… ないわね」
「そうだよね、普通大人ってはかないよね。今日の宿題は、紙パンツをはいて、そこにおしっこをすることでーす」
もう、やけっぱちだ。
ところが、これが難題中の難題だった。
頭の中はおしっこのことでいっぱいで、いきたいような、そうでないような、右を向いても左を向いても眠れなかった。
夜中になって、お腹が痛くなってしまい、紙パンツをぬいだ。
† トライやる三日目
今朝は『スマイル』へ行くのがユーウツだった。
宿題ができなかったからだ。
足取りも重かった。
「おはようございます。ごめんなさい」
私は、石川さんと会うと頭を下げた。
「どうしたの?」
「私、宿題できませんでした…… あのー、私、年長さんまで時々おねしょしていたんです。だから、紙パンツにおしっこをすると、また、おねしょをしてしまいそうで、考えていたらできませんでした。ごめんなさい」
「そうか、そうよね。笑子さんのヒミツまで聞いてしまったわね…… ちょっとこっちへ来て」
石川さんが、スタッフルームへ私を誘った。そして紙パンツを取り出して、突然ペットボトルの水を注いだ。
「何するんですか?」
「これを、ジャージの上からはいてごらんなさい」
「えっ?」
「大丈夫! 吸水率抜群だから、もれないわよ」
私は、恐る恐るそれをはいた。
「わあ、重たい!」
「重いでしょ。それで歩いてごらんなさい」
「何か、変な感じ。歩きにくい」
「お年寄りの人たちは、こんな感じの人もいるのよ。それをわかってほしかったのよ」
「相手の人の身になって理解するってのはわかるけど、昨日の宿題はイヤ……」
私は、少しつっけんどんになってしまった。
「中学生には無理だったかな。ハーイ、じゃあこれでおしまい。紙パンツをぬいでいいわよ。じゃあ今日は、利用者さんと趣味を楽しみましょうか」
石川さんは話題を変えた。
「趣味?」
「カラオケを楽しむ人、折り紙を折る人、ソフトバレーをする人、習字……あと何かあったかな。笑子さんは何をする?」
「私、いろいろなものをみたいです」
「じゃあ、まずはカラオケに行きましょ」
カラオケルームでは、すでに音楽がかかっていて、大きな音が漏れている。
中では、女の人がにこやかに歌っていた。画面を見ると、『大阪ラプソディ』と書いてある。
男の人も女の人も、みんな楽しそうに手拍子している。
幸せそうな顔!
次に、ソフトバレーをしているという食堂に向かった。
十人くらいの人が、大きなテーブルをかこんでいる。中には、車椅子の人もいる。大きなボールを転がしてパスをする。
男の人も女の人も、子供みたいに笑っている。
とても楽しそう!
「笑ちゃん、ここ座り」
佐藤さんが私を呼んでくれた。
私は隣に入れてもらい、プレーをする。
手を伸ばさないと届かなかったり、強いボールがきたりして、これって結構難しい。
きゃあきゃあいいながら、みんなが盛り上がる。
年の差を感じない瞬間だった。
次は、どうしようかなと思って移動している時、一人の女の人のことが気になった。
食堂の片隅で、何かぶつぶつ言いながら、タオルをたたんでいる。
一人で、さみしくないのかなと思った私は、
「お手伝いしましょうか」
と、声をかけながら近づいた。
「何がおかしいのかね。全くやかましいわ。あんたも、ヘラヘラしてるんじゃないよ。これは、私の仕事! 取るな」
石川さんが、私を手招きしている。
「笑子さん、こっちへいらっしゃい。あれは、彼女の唯一の楽しみなのよ」
「楽しみ?」
「あの人若い頃、クリーニング屋さんだったのよ」
ここには、いろいろな環境の人が来ているんだと思った。
† トライやる四日目
まだ三日しか過ぎていないのに、とても長い月日がたったような、あっというまの四日目のような、変な感じがする。
私はいろいろ考えながら、窓の外の空を見上げていた。
「おはよう! 笑子さん」
石川さんから、肩をポンとたたかれた。
「あっ、おはようございます。今日もよろしくお願いします」
「なんだか、一人前の顔になってきたわね」
「戸惑いばかりで……昨日は生意気なこといってごめんなさい」
「もう、いいのよ。私もあせりすぎた。笑子さんがあまりにも一生懸命なので、錯覚起こしてた。中学生のトライやるだものね」
石川さんは、頭をポンとたたきながらいった。
「私が小学生の時、病気のおばあちゃんがいたんです。そしてある時、一瞬ママの疲れた横顔を見てしまったんです。すぐにいつものママの顔になったけれど。私、何のお手伝いもできなかった。早く役に立ちたいと…… それが今でも心に引っかかっていて」
「そんなことがあったのね。だから、大人っぽく見えていたのかな」
「スマイルでの体験で、自分が変わったような気がします」
「そう。じゃあ今日は、自分の目で見て仕事を探してね。ほら、利用者さんたちがやってきたわよ」
玄関に、ワゴン車が到着したところだった。
「おはようございます」
石川さんは、車から降りてくる人々に笑顔を向けている。
私も走って行って、石川さんのように挨拶する。
「今日もお姉ちゃんがいるな」
「かいらしい子がいたね」
「若いお姉ちゃん、わしの車椅子押して」
「はーい、すぐ行きます」
慌ただしい時間が流れ、自分から仕事を見つけることなどできなくて、スタッフさんたちのお手伝いをするのが精一杯だった。
お昼休みの時に、やっと石川さんと会えた。
「自分で仕事を探すって、難しいです」
「お手伝いだって、立派な仕事よ」
「そう言ってもらえるとうれしいです」
「利用者さんが、お風呂の後、食堂でゆっくりお茶を飲む時間があるでしょ。その時、笑子さん私と何かしてみる?」
「何かって?」
「一つ提案があるのよ」
石川さんに教えてもらったのは、マジック。
私にできるかな? でも、みんなの笑顔は見たいし、石川さんと一緒なら大丈夫かな。
サロンでの余興の時がきた。
「種も仕掛けもありません。この紙コップに水を入れます」
私は前に座っている人に、紙コップ見せながら水を注ぐ。
「誰か、頭に水をかけられてもいい人いますか?」
「いや、ぬれたくない」
「冷たいのは、いや!」
「誰か、来てください…… 石川さんヘルプ!」
「私? 仕方ない。犠牲になるわ」
打ち合わせ通り事が運ぶ。
「では、いきます。いざ、覚悟!」
「水もしたたるいい女とは、私、石川です」
といって、首をすくめる石川さん!
「せーの!」
ところが、水はかからない。
「せーの!」
何度コップを逆さにしても水がこぼれない。
「なんで、なんで?」
あたりがざわめきだした所で、種明かし。
紙コップの底の大きさに紙パンツを切って、貼り付ける。そこに水を入れる。
吸水率抜群なので、こぼれないというわけ!
このマジックは、大成功だった。
† トライやる五日目
今日はトライアル最後の日。
どんな日になるのだろう。
一日目から、ドキドキハラハラの日が続いている。ワクワクとまではいかない。
学校だったら時間割があって、好きな科目、嫌いな科目があるから大体の予測がつく。それなりの向き合い方がある。
でもここでは予測がつかない。どうしてかな……なんて考えていたら、石川さんと目が合った。
思っていたことを、石川さんに問いかけてみる。
「そうね。学校との違いは、この仕事は人の命と向き合っているからかしら。生きものって、なかなか思い通りにいかないものよ」
「生きもの?」
「そう、国語や数学とは違うわね。私、これ嫌いです! じゃすまないでしょ」
「私、石川さんて、すごい大人だと思います」
「すごい大人か。でも私だって日々勉強。満足したことないのよ」
「そんなぁ、いつも完璧じゃないですか」
「ありがとう! 今日も頑張りましょう」
「はーい」
「今日は、トライやる最終日よ。もっと知りたいことがあったら、何でも聞いてください」
「あのー、私の頭の中は、いっぱい詰め込まれていて…… もう、これ以上は…… ムリ……」
ちょっと気を抜いて、ため口になってしまう。
「そうか、そうよね。じゃあ、まわりを観察していて。自然に体が動いたら行動してみて」
「そんなんで、いいんですか?」
「じゃあ、今日も一日よろしく! そうじゃなくて、最後まで手を抜かない。車椅子の右まひの続きをしますよ」
「また、ですか?」
石川さんは、気の進まない私のことを全く無視。
車椅子に乗って、右まひの体験をする。
冷房の効いた館内にいても、必死になっていると汗が出てくる。気分が悪くなってきた。
どこからともなく、石川さんが現れた。
「そのままで、お昼ご飯も体験してみましょうか。もう少し頑張ってね!」
「えっ、ご飯って、左手で食べるんですか?」
「そうよ、お箸で食べてみて」
食堂では、すでに配膳がすんでいて、一つのテーブルに四人ずつ座って食べ始めていた。
「笑ちゃん、ここにおいで」
田中さんに手招きされて、私は車椅子のまま席に着いた。
田中さんはおかずを食べだすと、おかずばかりを食べている。
「ごはん、おかず、みそ汁って、順番に食べてください」
私は、スタッフさんたちの声かけをまねてみる。
「ごはん、おかず、みそ汁」
と、リズムをつけてつぶやいた。
すると、田中さんもまねるように「ごはん」といって一口食べて、「おかず」といって一口食べ始めた。
「そうそう、その調子」
私も食べようとして、左手が思うようにいかない自分に愕然とした。
「ごはん、おかず、みそ汁」
田中さんが、私に声をかけてくれた。
左手でお箸が使えない。ご飯は口に入る前にこぼれてしまう。
おかずの煮豆は全くつかめない。
みそ汁は、お箸を置いて左手でお椀を持って、何とか少しだけ飲むことができた。
何てことだ。
車椅子に奮闘して気分が悪くなったり、お箸が思うように使えず、ご飯が食べられない。
涙がこぼれそうだ。大好きな煮豆が嫌いになる。 その時やっと、石川さんの助け船がでた。
「よく頑張ったわね。もう、普段どおりに食べていいわよ」
右手でお箸を持って、食事できることのありがたさを、実感した瞬間だった。
当たり前のことだと思っていたことが、当たり前じゃないんだと気づいた。
「よく、頑張りましたね。これでおしまい」
こうして五日間が終了した。
トライやるウィークの感想
木下笑子
私は二年生になって三ヶ月、クラスメイトとやっと仲良くなったころ、トライやるウィークで、実習、体験学習に突入した。
受け入れ先がある場合は、いろいろな体験が可能だった。
ケーキ屋さん、ボーリング場、スーパーマーケット、保母さん、消防士などだ。変わっていたのは、接骨医院や遺跡発掘だった。
小さい時からの夢だったり、部活の先輩からの情報だったり、涼しい所で遊べるからとか、楽だからとか、人とは違った体験がしたいとかそれぞれの理由だった。
私が、介護施設を選んだのには訳があった。
小三の時、おばあちゃんが病気なのに、何の役にも立たなかったことだ。
家族みんなで頑張らないといけないのに、母だけが大変だったと思う。
「早く大人になってね」と、いう母の言葉の意味が理解できたのは、つい最近のことだった。
そんな思いをもって体験した五日間だった。
私は、『スマイル』の石川さんに色々なことを教えてもらった。
最初は、なんて厳しい人だと思った。
私は、生意気な事をいってしまった。
自分からやることを見つける「自立」を教えてもらった。しきりに「観察」と、いう言葉を使っていた。
何よりも、うれしかったのは、スタッフさんたちと同じように、私を一人前として接してくれたことだった。
汗水流して頑張るって、かっこいいなんては思ってなかったけど、見方が変わってきた。
大変だったけど、頑張ることの大切さを学んだような気がする。
ありがとうございました。
駅の駐輪場から赤い自転車をひっぱりだした時には、午後の六時半を過ぎていた。
「もう、こんな時間か。おなかすいたあ」
ラケットバッグを前かごに放り込み、人の多い駅前の道を抜けて、自転車に乗る。家まではゆるやかな上り坂だ。夏休み三日目のテニスの部活ではらぺこの体には、結構きつい。次の日から始まる三泊四日の合宿のことを考えながら、ペダルを踏む足に力を入れた。
自転車で十五分ほどの住宅地にある二階建ての家が、中学二年のわたし天野麻友子と父と母の三人の住まいだ。
自転車を降り、おでこの汗をぬぐって、
「ただいま」
と、だれにいうともなく小さな声で言い、門を開けた。するとだれかが「おかえりなさい」と言うのが聞こえた。
家にはまだ、どこにも明かりがついていない。会社員の父も、小学校で保健室の先生をしている母も帰ってくるのはもう少し後だ。
声がした方に目を向けると、東向きの薄暗い玄関の前に、だれかがひざをかかえて座り込んでいる。
「だれ?」
背中には黒いランドセル。阪神タイガースの帽子をかぶり、右手にはやっぱり阪神タイガースのマークの入ったスポーツバッグを持った男の子。どう見ても小学生?
男の子は立ち上がった。そして、
「山坂健斗といいます。きょうからお世話になります」
関西なまりのある甲高い声で言うと、ぺこりと頭を下げた。
「え?」
知らない子どもだった。日に焼けた顔に、二重まぶたの大きな目はまつげが長い。
「あの、よくわかんないんだけど」
首をかしげたわたしに、男の子は困ったような顔を見せた。
「うち、天野だよ。他の家と間違えてるんじゃない?」
「アマ……ノ……」
小さな声でつぶやいたその子は、あわてたように首をふった。
「ううん。あってます。天野武志さんの家ですよね」
天野武志は、父の名だ。
「そうだけど」
男の子は一瞬泣きそうな顔になった。それからふるえる声で言った。
「ぼく、天野武志って人の子どもです」
リビングのソファにおずおずと腰を下ろした男の子は、きょろきょろと周りを見回している。
家に上げてよかったのかどうかわからなかったけど、あのまま玄関の前に置いておくわけにもいかなかった。
冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して、コップに注ぐ。キッチンからカウンター越しに見る男の子は、どこにでもいる普通の小学生に見えた。
「何年生?」
男の子ははっとしたように顔をこちらに向けて、「四年生です」と答えた。
「家はどこ」
男の子は首をかしげて何か言いかけたけど、あわてて首をふった。
目の前にジュースの入ったコップを置いたわたしに「ありがとう」と小さな声で言うと、男の子はそれ以上何も答えなかった。
ぼく、天野武志って人の子どもです……さっき確かにこの子はそう言った。
父の顔を思い浮かべ、似ているところをその顔に探している自分に気がついて、思わず首をふる。この子が父の子どもだってことは、つまり、その……カクシゴ?
え?
急に胸がドキドキする。
母と結婚してわたしが生まれて、三人でまあまあ仲良く暮らしていたはずなのに、実はどこか他にも父の子どもがいた? その子の母親っていうのは、つまりその……フリン? アイジンってこと?
父は関西の出身だったし阪神タイガースのファンだったから、なんとなくつながりがあるような気もした。
でも「フリン」も「アイジン」も、テレビドラマや芸能ニュースで聞くことはあっても、自分からは遠いところにある言葉だと思っていた。
胸の中にじわじわと不安だかなんだか、うまく説明できない気持ちがわいてくる。こういうのをセイテンノヘキレキというのかと、混乱した頭で国語の授業に出てきた言葉を思い出していた。
その時、家の電話が鳴った。
「もしもし」
電話の向こうからは、だれも話さない。
「もしもし」
もう一度呼びかけたけれど、遠くのざわめきが聞こえるだけで、カチャリと切れた。
「なによ。いたずら電話?」
むっとしてわたしは受話器を置いた。振り返ると、男の子があわてて視線をそらせた。
わたしと同じセイテンノヘキレキだっただろう母は、意外と冷静だった。
少し眉をしかめ、男の子がランドセルから取り出した白い封筒をながめた。封筒には「天野武志様へ」と書かれ、裏にはわたしの知らない女の人の名まえがあった。
母は少し考えこんでから、封筒を開けることなく「ひとまずご飯の用意をしましょう」と、落ち着いた声で言った。
「健斗君だっけ。おなかすいたでしょう。きょうはチキンカレーなんだけど、好きかな」
母に白い封筒を渡してから、まるで固まったようにうつむいたまま動かなかった男の子は、はっとしたように顔を上げ首をふった。
「だいじょうぶです。ぼく。その……ここに来る前に食べてきたから、腹減って……おなかすいてないです。それより天野武志って人は……その……ぼくのお父さんはまだですか」
「ごめんなさいね。どうしても抜けられない得意先との会合があって今日は遅くなるって、さっきメールがあったの」
男の子はがっかりしたように肩を落とした。
「とにかくテレビでも見ながら、ご飯の用意ができるまで待っていて」
立ち上がった母を追うように、わたしもあわててキッチンに向かった。
食器を出しながら母の横顔をうかがう。手早く玉ねぎとにんじんをきざみ、鶏肉を炒める母は無口だった。
「麻友、レタス出して」
「はい」
「ツナ缶あったかな」
「うん」
いつもならお互いにその日あったことを話しながら、夕食の用意をするのだが、二人とも必要なことしか声に出さない。時々キッチンのカウンター越しに男の子の様子を、ちらちらとうかがうのは二人とも同じだった。
「お母さん、それ」
わたしがおどろいて声を上げたのは、母がサラダに使うはずのツナ缶の中身をカレーに入れようとした時だった。母は手に持ったツナ缶をながめ、それから「もう、やだわ。わたしったら」と顔を赤くした。冷静に見えた母も、本当は結構動揺してるんだと思った。
男の子はぼんやりと、テレビをながめている。だけどクスリとも笑わない。気持ちはどこか別のところにあるみたいに見えた。
「できたから、いっしょに食べましょう」
出来上がったカレーライスとサラダをテーブルに並べ、母が男の子に声をかけた。
男の子は「いらない」というように首をふったけど、母がもう一度「少しでもいいから食べてみて」と言うと、少し迷ってテーブルに着いた。それからおずおずとカレーに口をつけた。
「どう? 口に合うかな」
チキンカレーはいつもより甘口だった。男の子は小さくうなずくと、後はつめこむようにスプーンを口に運んだ。「おなかすいてない」なんて言っていたけれど、本当は朝から何も食べてなかったくらいに見えた。一心にカレーをすくって口に運ぶ様子を横目で見ながら、わたしもスプーンを手に取った。
父が帰ってきたのは、午後十一時前だった。得意先との話がうまくいったらしく、お酒が入って上機嫌だった。
玄関に迎え出た母から白い封筒を渡され、裏に書かれた名まえを見ても、父はきょとんとしたままだった。
「お父さん、隠し子がいたの?」
「はあ?」
非難するような声でたずねたわたしの顔を、父は何のことだというような顔で見た。
男の子は夕食の後しばらくして、ソファに座ったまま眠ってしまった。よほど疲れていたのか、隣の和室に母が布団を敷いて運んでも、目を覚まさなかった。
「部活から帰ってきたら、その子が玄関の前で待っていたの。自分は天野武志の子どもだって。お父さんどういうこと? 他に好きな人がいて、子どもまでいたってこと? ずっとわたしとお母さんをだましてたの?」
わたしの高ぶる気持ちをおさえるように、母が「麻友子」と呼んだ。
「おれの子ども?」
父は狐につままれたような顔のまま、和室に寝かされた男の子の顔をのぞきこんだ。ずいぶん長い間じっと見ていたけど、困ったような顔のままわたしと母を見て首をふった。
和室の扉を閉めてリビングに戻ると、父は疲れた様子でソファに座った。すっかりお酒も抜けたみたいだった。
「何のことか全く分からない。全然知らない子だ」
わたしの疑いの目を避けるように、父は白い封筒の封を切って手紙を読み始めた。
白い便箋一枚の短い手紙だったが、途中から父の表情が変わった。何度も読み直し顔を上げ、わたしと顔が合うとあわてて首をふった。
「違う。誤解するな。隠し子じゃないから」
「でも、なんか心当たりがあるみたいじゃない」
「それは」
父は母が目の前に置いた麦茶の入ったコップをとり、ごくごくと飲んで大きく息をはいた。
「あの子の母親のことは確かに知っている。高校の時の知り合いだ」
「大阪の?」
「うん。名字が変わっていたからわからなかった。でも最後に会ったのはもう十年以上前で、それも大阪に帰った時に偶然に出会っただけだ。その時彼女は、近く結婚するんだと話していた。それからは会ったことはない。だからあの子がおれの子どものわけはないんだ」
母は黙って父の話を聞いていたけれど、わたしはまだ高ぶった気持ちを抑えられずにいた。
「だったらあの子がうそをついているってこと? どうしてそんなうそをつくの?」
「……」
言葉に詰まった父は、少し考えて静かに話した、
「おれにもわからん。でも彼女はちょっと……その……なんて言うか突拍子もないところのある人だったから」
「突拍子なさすぎるよ。わけわかんない」
父は母に顔を向けた。
「ここには、しばらくあの子のことを頼むとしか書いていない。必ず迎えに行くからそれまでよろしく頼むって。今どこにいるのかもわからないし、とにかく彼女のいる所がわかったらすぐに送り返すから。あの子が目を覚ましたら、きっと何かわかると思う」
母は「わかった」というようにうなずいた。それからわたしに、
「麻友は明日から合宿でしょ。きょうはもう寝なさい」
と、言った。それ以上何も言わないでと言っているみたいな言い方だったから、わたしはしかたなくもやもやした気持ちのまま「はあい」と返事をして、自分の部屋に上がった。
次の日、いつもより早く目が覚めた。
昨夜はなかなか寝付けなくて、眠っても変な夢ばかり見たような気がする。今日から始まる部活の合宿は楽しみだったけれど、浮き浮きした気分とはほど遠かった。
自分の部屋のある二階から降りていくと、土曜日で仕事が休みの父と母も、もう起きていた。男の子はまだ布団の中で眠っていたけど、しばらくすると目を覚ました。そしてゆっくり起き上がり周りを見回すと、はっとした顔をした。自分のいる所がどこか、思い出したようだった。わたしと母の顔を見て、それから父のほうを向いた。
布団の上に正座をして「お父さんですか」とかすれた声でたずねた。
父はどう答えていいのか、「違う」と簡単に言ってしまっていいのか、迷っているようだった。せきばらいをすると「君の名まえを教えてくれるかな」とゆっくりした声で言った。
「ぼく、山坂健斗です」
「どうしてここに来たのかな」
「ママに、お父さんのところに行きなさいって言われて。昨日新幹線に乗って来ました」
「一人で?」
男の子は少し考えて、首を振った。
「近くまでママが連れてきてくれて、そこからは一人で行きなさいって」
「その……ママは今、どこにいるのかわかる?」
男の子は黙って首をふった。それからおずおずと「おしっこ行っていいですか」と、たずねた。
男の子はトイレに行って、それからシャワーを浴びることになった。昨夜はご飯を食べてそのまま寝てしまったから、ひどく汗臭かったのだ。持っていた阪神タイガースのスポーツバッグには、着替えの服や下着がつめこまれていた。男の子の母親が用意したらしかった。
男の子がシャワーを浴びている間に、母は朝食の用意をした。父はコーヒーを入れ、わたしは合宿に出かけるために着替えた。
シャワーを浴びた男の子は、さっぱりした顔をしてリビングに戻ってきた。阪神タイガースのTシャツに着替えている。父が「お、タイガースが好きなんだ」と、うれしそうに笑っているのを見て「そんなのんきなこと、言ってる場合じゃないじゃん」とよけいに腹が立った。
ベーコンエッグとサラダとトーストが、テーブルに並んだ。いつもより一人分多い。
「朝ご飯ができたから、食べましょう。健斗君も座ってちょうだい」
母の声に遠慮するような表情を見せた男の子のおなかがぐぅと鳴って、母と父が笑った。わたしも笑いそうになったけど、あわてて顔をそらしてごまかした。男の子の顔は真っ赤だった。
昨日もそうだったけれど、食べ始めると男の子は遠慮がなかった。夢中でバターを塗ったトーストをかじり、ベーコンエッグを頬張った。砂糖を入れたカフェオレをごくごくと飲んで「うめぇ」と、声を上げた。サラダのニンジンは苦手だったみたいで、お皿のすみに寄せて残していたけれど。
「パンもう一枚食べていいですか」
「いいわよ。たくさん食べてね」
「すごいおいしいです。今まで食べた中で一番おいしい朝ご飯かも」
大げさな男の子の言葉に、母はうれしそうに笑った。
結局食事の間、男の子の食欲にあっけにとられ、父が何かを聞き出すことはなかった。
四日間の合宿が終わって帰宅したときには、男の子が自分の母親のところに帰っていることを信じて、わたしは家を出た。
女子テニス部の合宿は、毎年隣の市のスポーツセンターである。テニスコートだけでなく、体育館やプール、陸上競技場もあって、宿泊施設も併設されているから、わたしたちの合宿は毎年そこだった。
一日目は部屋割りの後、ストレッチと軽めのランニング、ラリー練習で、コーチをかってくれた大学生の先輩が三人、飲み物の差し入れを持って練習に参加してくれた。夕食の時に先輩たちの大学の話を聞くのが楽しかった。話はテニスからいつの間にか先輩たちの恋愛話……恋バナに移り、盛り上がった。
今のわたしたちと同じ中学生の時、男子テニス部の部長と付き合っていた先輩は、高校に行っていったん別れたものの、最近また付き合いが復活し、今は結婚を考えているそうだ。
別の先輩は、夏休み後半に彼とグァムに旅行に行くらしい。今はまだ恋には縁のないわたしには、大学生の先輩たちはずいぶん大人に見えた。
二日目は早朝から厳しい練習の開始だ。ストレッチとランニング、素振りが終わってやっと朝食。その後も少しの休憩をはさんで、炎天下の中練習が続く。一日が終わるころには使い古した雑巾みたいにくたくたで、前の日恋バナで盛り上がっていたような余裕はなく、布団にもぐりこむのだった。
三日目は試合形式での練習が中心だ。夕食後はミーティング。最後の夜だったから、まじめな話の後はお菓子をつまみながら交流会。バカ話も先生たちが大目に見てくれて、楽しく盛り上がった。
最後の日は昼まで練習した後、昼食を食べ片づけをして部屋を出た。四日間の合宿の間、ずっといい天気だったからみんなずいぶん日焼けした顔で、スポーツセンターを後にした。
そんなこんなで、ハードな四日間があっという間に過ぎた。次の日一日休養を取ったら、また翌日から練習が始まる。
学校まで帰ってきて解散した。家に帰ったら、今日と明日はガンガンにクーラーの効いた部屋でソファに寝転んで、思いっきりぐうたらに過ごすぞと思いながら、家の門に手をかけた時だった。
「おねえちゃーん」
だれかが叫んでいる。
「麻友ねえちゃーん、おかえりー」
ぽかんとしているわたしのほうに、道の向こうから小学生の男の子が駆けてくる。
阪神タイガースのシャツと帽子、日に焼けた見覚えのある顔。合宿の一日目には心のすみっこで気になっていたけど、二日目からは全く思い出しもしなかった。
なんでこの子がまだここにいるの? 麻友ねえちゃんて……。
頭の中が「?」でいっぱいのわたしに、満面の笑顔でもう一度「おかえり、麻友ねえちゃん」と言った男の子は、振り返ると「じゃあな」と叫んだ。
少し離れたところで、同じくらいの小学生の男の子たちが数人、手を振っている。
「健斗んち、ここかあ」
「また明日遊ぼうぜ」
「またな」
「バイバイ」
口々に言って、その子たちが背中を見せて行ってしまうと、まだ自分を取り戻せないでいるわたしの横を抜け、男の子は玄関の鍵を開けた。
「麻友ねえちゃんもアイス食べる?」
靴を脱ぎ散らかしてリビングに向かう男の子を、あわてて追いかけた。
「ちょっと、君、どういうこと?」
男の子はキッチンの冷蔵庫を開けて、アイスキャンディーを二本取り出し、わたしに一本を差し出した。
「お母さんが、帰ってきたら食べって。昨日買うてくれたんや。麻友ねえちゃんにもあげる」
押し付けられたアイスキャンディーを受け取って、わたしは「なにこれ……」と呆然としていた。男の子はそんなわたしを見上げながら、おいしそうにアイスキャンディーにかじりついた。
「麻友ねえちゃんもぼくのこと、健斗って呼んでな」
よごれた口の周りを手の甲でぬぐって、健斗はにっこり笑った。
「さっきのは、どういうこと?」
「さっきのって、ああ、あいつら? 公園で仲ようなったんや。ぼくとおんなじ、四年生なんやて」
「そうじゃなくて。その、玄関の鍵、なんで君が持ってるの」
「君じゃなくて、健斗やって。鍵はお母さんが貸してくれたんやで。昨日はお母さん仕事休んで、一緒に買い物に行ったりしたんやけど、今日は休まれへんから留守番しときやって。遊びに行く時は、ちゃんと鍵かけて行きって言われててん」
来たときは関西なまりはあるものの標準語で話していたのが、今はすっかり大阪弁になっている。わたしのいない四日の間に何があったのか、合宿の疲れが一時に吹き出してきた気がして、わたしはソファに座り込んだ。
「何もなかったのよ」
帰ってきた母は問い詰めるわたしに、ため息をついて言った。
「お父さんが大阪の知り合いに電話やメールでたずねたんだけど。昔あの子の母親が住んでいたところには大きなマンションが建っていて、電話ももう使われてなくて」
「何もわからなかったの?」
「そう。手がかりが何もないってこと。とにかくこの話はお父さんが帰ってきて、あの子が寝てからしましょう」
母はきっぱりと言うと、夕ご飯のしたくを始めた。
わたしがぐうたらするはずだったリビングのソファには健斗が寝転んで、テレビのアニメを見て笑っていた。
しばらくして父が帰ってきた。ドアが開く音に、健斗が玄関に飛んでいく。
「おかえり、お父さん」
「ただいま」という父の声がやけに明るい。
「ほら、お土産や」
「すげぇ。グローブやん」
「これで今度の休み、キャッチボールするで」
「やったあ」
リビングに入ってきた父がわたしに気がついて、
「お、麻友。帰ってたんか。よう日焼けしたなあ」
と、笑顔を向けた。
東京での生活が、生まれ故郷の大阪での生活より長くなった父は、ふだん大阪弁では話さない。大阪のおばあちゃんのところに帰った時にしか聞いたことのない、父の大阪弁だった。
なに、これ。どういうこと?
納得のいかないまま夕食がすみ、風呂に入って健斗が寝てしまうと、父はわたしのいない間にわかったことを話し出した。
「高校の頃の友達に連絡を取って聞いてみたんだ。もともと加奈子は友達が少なくて、あ……その加奈子……さん、てのが健斗の母親の名まえなんだけど……彼女のことがわかるやつがほとんどいなかった。……彼女の実家も今はもうなくって、跡地にはマンションが建っているらしい。 何とかわかったのは、結婚してから大阪の吹田に住んでいたけど、今はそこにもいないらしいってことだけだった」
「あの子はなんて言ってるの。四年生なんだから、自分の住所くらい言えるでしょ」
「健斗は自分がどこに住んでいたか、言おうとしないんだ。他のことはよくしゃべるのに、そういう話になったら、口を閉じてしまう。きっと母親にかたく口止めされてるんじゃないかな」
この家に初めて来た日「家はどこ」とたずねたわたしに、健斗が何も答えなかったことを思い出した。父の隣に座った母が「わたしにもそうなの」とうなずいた。
「ほかの話のついでに聞き出そうとたずねるんだけど、わかったのは隣にダテさんていうおばさんが住んでいたってことくらい。ダテさんの作るご飯と同じくらいわたしのもおいしいって言ったことがあったから、ダテさんてだれってたずねたら、教えてくれたの。母親が遅くまで働いていたから、ダテさんによく晩ご飯を食べさせてもらっていたみたい」
「あの子の父親は?」
「友達の話では、離婚したんじゃないかって」
父はまゆをしかめて言うと「結婚相手を知ってるやつは、だれもいなくて……」と、ため息をついた。
「とにかく当面はうちで面倒を見てあげましょうって、お父さんと決めたの。手紙にはしばらく健斗のことをお願いしますと書いてあったから、きっとそのうち連絡があると思うの。幸い今は夏休みだし、学校のことも心配しなくていいしね。だから麻友も協力してちょうだい。弟ができたと思えばいいでしょ。ね、お願い」
母におがむように両手を合わされて、わたしは仕方なくうなずくしかなかった。
わたしがいなかった四日の間に、健斗はすっかりうちの生活になじんでいるように見えた。父とは大阪弁で阪神タイガースの話で盛り上がり、休日は何をして遊ぶか楽しそうに相談している。一番迷惑をこうむっているはずの母も、健斗にはやさしい。
健斗は父のことを「お父さん」と呼び、母のことを「お母さん」と呼ぶ。知らない人が見たら、生まれた時から家族だったみたいに見えただろう。
家の外でも健斗は、持ち前の人なつっこさで自分のテリトリーを着実に広げていたようだ。公園で仲のいい友達を次々と作り、その子たちの家に遊びに行くこともあったみたいだった。健斗といっしょに行ったスーパーで、母は「あら、健斗君のお母さんですか」と話しかけられたそうだ。
「うちの子が健斗君のこと大好きみたいで、おもしろい子だって話してるんですよ。これからも仲良くしてやってくださいね」
と、頭を下げられて、母は「うちの子じゃないんです」とも言えず、「こちらこそよろしくお願いします」と答えたらしい。
「なんだかすっかりあの子のペースに乗せられているわね」と言いながらも、母は健斗に「お母さん」と呼ばれると、笑顔で答えるのだ。
わたしはと言えば、父や母のようには、健斗に対して心を広く持つことはできなかった。それまでずっと父と母とわたしの三人家族だったところに、突然うるさい小学生が入り込んできたんだもん。しかも父の隠し子かもしれないという疑惑が、完全に晴れたわけじゃない。父と健斗が話す大阪弁も、耳についてイライラした。また父のことはともかく、母のことを「お母さん」と呼ぶ健斗に、心の中で「あんたのお母さんじゃないだろ」とたびたび突っ込んだ。
占領されたテレビの前のソファや、汚れた風呂の湯、わたしが食べるはずだったスイカの一番甘いところ……小学生相手に自分でもみっともないと思うのだけど、時には本気でけんかした。 母に「姉弟げんかしてるみたいね」と言われて「姉弟じゃないもん」とむきになって言い返し、あきれられることもあった。
突然やってきた小さな侵略者に、自分の王国を占領されたような気がして、わたしのイライラは高まる一方だった。
その日はわたしの十四回目の誕生日だった。
夕方母が買ってきてくれたケーキのふたを取ると、健斗が「すげぇ」と声を上げた。
いつもは三人だから一番小さなサイズのケーキだったけど、今年は健斗がいるからひとまわり大きい。たっぷり乗った生クリームとイチゴやメロンのフルーツに、わたしも「ゴージャスじゃん」と思わず笑顔になった。
「すげぇ。すげぇ」と健斗がはしゃいでテーブルの周りを跳びはねる。
「ちょっと、やめてよ。ほこりが入る」
うでをつかもうとしたわたしの手をすりぬけて、健斗が逃げる。伸ばしたわたしの手を避けて体をひねった健斗のひじが、テーブルの上のグラスにふれた。
「あっ」
ガシャンと音を立ててグラスが三本、ケーキの上に次々と倒れた。健斗もわたしも動きを止めて、目を見開いた。グラスは白い生クリームのデコレーションを押しつぶし、ハッピーバースデー麻友子と書かれたチョコレートのプレートをなぎ倒していた。
「ひどい……何やってんのよ」
かっとなって思わずグウにしてふり上げた手は、本気で健斗をたたこうと思ったわけじゃない。
だけど首をすくめ頭をかかえるようにして床にすわりこみ、ぎゅっと目を閉じた健斗に、わたしは息をのんだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
ふりしぼるように健斗の口から声がもれる。その肩がふるえている。
「ごめんなさい……ゆるしてください……」
ぼうぜんと立ったままのわたしのふり上げた手を下ろさせ、母が健斗の肩を抱いて、隣の部屋に連れて行った。
しばらくして帰ってきた父が話をして、青い顔をした健斗がリビングに顔を見せたのは午後八時をまわったころだった。
「ほら健斗」
父に背中を押されて、涙のあとをほおにつけたままの健斗がわたしの前に立った。
その顔が、泣きそうにゆがむ。
「こら、もう泣くな。ほら、麻友に言うことがあるんだろ」
父に頭をくしゃくしゃっとなでられて、健斗は小さくうなずいた。
「おねえちゃん、ごめんなさい。ぼく、ケーキ見て調子にのって……おねえちゃんのケーキやのに……なんかめっちゃうれしくなって……」
健斗のほおをまた一すじ、涙が伝う。
わたしはぶっきらぼうに「もういいよ」と返事をした。
それまでの間、わたしはずっと「ケーキを台無しにしたのは健斗だ。手を上げたのだって、本気でたたくつもりなんてなかった。わたしは何も悪くない。悪くない。悪くない」と、自分に言い聞かせていた。
それなのになぜか自分のほうがすごくひどいことをしたような気持ちになって、それを消すことができずにいた。だからその気持ちを追い出すように、もう一度「もういいから」と、うつむいた健斗に、声をかけた。
夕食はしずんだ空気で始まった。
母の作ってくれた、わたしの好きなビーフストロガノフとアボカドとエビのサラダを、だまって食べた。
父だけが「うまいなあ、うまいなあ」と何度もくり返し、「健斗のエビ、おれが食っちゃおうかな」とちょっかいをだしたりしていた。
つぶれたケーキも「見た目が悪くたって、味は同じや。ほら人間だって、見た目より中身だって言うやろ」と調子のいいことを言って、ハッピーバースデーを歌った。
「ほら、健斗も歌え」と言われて、二回目の歌は健斗も小さな声で歌った。母もいっしょに声を合わせて歌ってつぶれたケーキをみんなで食べた。
「あの子の体には、タバコの火を押し当てたようなやけどのあとがあるの」
母の言葉を理解するのに、時間がかかった。健斗はもう眠っている。父は風呂に入っていた。
「わき腹とかうでのつけ根の内側とか、服を着ていたら見えないようなところに、いくつか」
わたしはつばを飲み込んで、やっと声を出した。
「何……それ。だれがそんなこと」
母は深くため息をついて「わからない」と言うように首をふった。
「ただどの傷も最近じゃなくて、ずいぶん前につけられたものみたい」
「ひどい」
ずうずうしいくらい元気で人なつっこい子だと思っていた健斗。そのやわらかいわき腹にタバコの火が押し当てられる……私は思い浮かべた場面にぞっとして、それをふりはらうように頭をふった。
それからわたしは自分があやまらなかったことに気がついた。健斗はわたしに「ごめんなさい」を言ったのに、わたしは「いいよ」と言っただけだった。
健斗がうちに来てから二週間が過ぎた。
このころになると父と母も、少し不安な顔を見せるようになった。そのうち何か手掛かりが見つかるだろうと考えていたのに、相変わらず何もわからないままだったからだ。
誕生日のことがあって二、三日で、健斗はもとの元気でずうずうしい子に戻った。でも時々ぼんやりと、何かを考えていることがふえたような気がする。父や母が「健斗」と呼びかけると、 あわてたように笑顔に戻るのだ。
そしてある日の夕方のことだった。
インターホンが鳴って玄関に出て行った母が、かごにいっぱいの何かを抱えて戻ってきた。
「お隣の山川さんが、これどうぞって」
それはとれたての枝豆だった。
「お隣、市の貸農園を借りてるでしょ。たくさんできたから、食べてくださいって」
「こんなにたくさん、すごいね」
「毎日畑に行って、熱心にお世話してるもの。お父さん枝豆好きだから、喜ぶわ」
「でもこんなに一度に食べきれないよ」
「だったら、冷凍しておこうかしら」
その時、ソファに寝っ転がってテレビを見ていた健斗が体を起こした。
「それやったら、ずんだ餅作ってよ」
ずんだ餅?
どこかで聞いたことがあるような……。
「なにそれ? 枝豆でお餅作るの?」
「ちがうやん。豆をつぶして砂糖を混ぜて、それを柔らかいお餅にのせて食べるんやん。おねえちゃん知らんの?」と、健斗はちょっと得意そうな顔をした。
「ずんだ餅知らんなんて、はずかしいで。うちはよく隣のダテさんが作ってくれてん。他の人が作ったのも食べたことあるけど、ダテさんのが一番おいしかってん」
「ダテさん?」
そういえば、前にも聞いたことのある名前だった。
わたしが知らなかったことがよほどうれしかったのか、健太はいっそう得意げに続けた。
「ダテさんいうても、殿様とは関係ないらしいけどな」
「殿様? 殿様ってなによ。枝豆のお餅と殿様ってどんな関係が」
わたしと健斗が話している横で、母がぶつぶつと何かをつぶやいていた。
「ずんだ餅……ダテさん……殿様……」
それから「あっ」と、声を上げた。
まさか阪神タイガースのファンであんなに大阪弁でしゃべる子が、宮城県の仙台から来たなんて、父も母もわたしも考えもしなかった。
ずんだ餅は宮城県の郷土菓子で、今は牛タン・笹かまぼこと並んで、仙台の三大名物の一つらしい。
殿様というのはもちろん伊達政宗だ。伊達家の第十七代当主で仙台藩の初代藩主。歴史の苦手なわたしでも、子どものころに右目を失明し独眼竜と呼ばれた武将だということぐらいは、大河ドラマ好きの父に付き合ってテレビで見て知っている。母の話では、ずんだ餅の名付け親は伊達政宗だということになっているらしい。
「仙台に住んでいたの?」
と、たずねられた健斗は、母と帰ってきた父を前にして、唇をかんでうなずいた。
「二年生の時に大阪から仙台に行って、ママと二人で住んでたんや」
そしてもうそれが限界だったのだろう。次の瞬間、両方の目から大粒の涙がこぼれた。
「ごめんなさい。ぼくのお父さんやないこと、ほんまはわかっててん」
しゃくりあげながら、何度も「ごめんなさい」を繰り返す。
「初めはママからお父さんて言うように言われてたからやけど、自分でもだんだんほんまもんのお父さんやったらええなって思うようになって。ここに来るまではお父さんなんかいらんて、ずっと思ってたのに」
父は「よしよし」と言うように、健斗の頭をくしゃくしゃっとなでた。それから、
「健斗のお母さんに会いに行こうか」
と、言った。止まらない涙をぬぐいながら、健斗は何度もうなずいた。
仙台は父の通った大学があるところだ。
以前健斗の母親の加奈子さんのことを、高校時代の知り合いだと話していたけど、父が大学に進学して仙台で住むようになり、半年くらいして加奈子さんが押し掛けるようにしてやってきて、しばらくいっしょに暮らしたことがあったそうだ。
「彼女にはずっと振り回されっぱなしだった。明るいのにどこか影があって、だれにでも遠慮がないくせに、気がつくと一人で窓の外をながめているような子で、高校生の男子には魅力的に見えたんだよな。他に何人も彼女のことを好きだというやつがいたけれど、年上の大学生と付き合っているという噂だった。卒業式の前におれのことが好きだと言われたときは信じられなかった。仙台にも突然やってきて一緒に暮らすようになって、それなのに三か月で急にいなくなったんだ」
健斗が眠った後、父は母とわたしにそのころのことを話してくれた。と言っても、母はだいたいのことをすでに父から聞いているようだった。若いころの恋愛を中学生の娘に話す羽目になった父は、かなり参っていた。
「それっきりになってしまって、結局十年以上前に大阪で偶然出会うまで、会うことはなかった。おれも探さなかった。大学での生活がいそがしくなったのもあるし、彼女の気まぐれに付き合いきれなくなったんだ」
父は大学を卒業後、東京で就職し母と知り合った。
「時々思い出すことはあったけど、もう縁のない人だと思っていた。おれには大事な家族ができたしね」
それはきっぱりとした口調だった。
次の父の休みの日、健斗を連れて父とわたしは、仙台を訪ねることにした。母は少し考えて「わたしはやめておく。二人に任せるわ」と言った。
健斗の住んでいたアパートは、昔父が借りていた学生用のワンルームマンションの近くにあった。「山坂」と書かれた小さな札が張られた部屋は、ベルを押してもだれも出てこなかった。
健斗が「こっち」と言って、向かいにあるドアの横に取り付けられたベルを押すと、
「はあい。どなた様ぁ」
と、少しだけドアが開いて、ふっくらとした顔の七十過ぎの女性が顔をのぞかせた。女性は、父とわたしを見てけげんな顔をしたが、わたしの横に並んだ健斗に気がつくと、大きく目を見開いた。
「健ちゃん」
ドアが大きく開いた。
「やんだ。健ちゃん、あんた、どこさ行ってたの。ママが知り合いに預けたって言ってたけど、どこのだれのところに預けたのか言ってくれないし。心配してたんだよ」
肩をつかんで体をゆすぶられ、健斗は「伊達のおばちゃん」と、うれしいような困ったような顔をした。
「まあ、とにかく上がって。せまくて汚いところだけど」
となりの部屋の伊達のおばちゃんは、健斗の母親を訪ねてきたという父の話を聞いて、部屋の中に上がるように言った。
ドアを入ると狭いダイニングキッチンがあった。その奥にある和室に通され、冷たい麦茶を勧められた。伊達さんも腰をおさえながら「どっこいしょ」とわたしたちの前に座った。クーラーはなかったが、開けっ放しの奥の部屋のベランダから、涼しい風が入ってくる。ベランダの外には桜の木があって、風が吹くと濃い緑の葉がさわさわと揺れるのが見えた。
「東京から? それはまあわざわざ……本当はうちで預かってあげれば一番良かったんだけど、わたしも仕事があるし、腰の持病もあってねぇ。ちょっと言い出せなかったの。そうしたら知り合いに頼めることになったからって。まさか東京だなんてねぇ、思いもしなかったわ」
伊達さんは自分の麦茶を一口飲むと、ため息をついた。
「入院が決まったのも、突然だったからねぇ」
「え? 入院って、加奈子は病気なんですか」
父とわたしの驚いた顔に、伊達さんのほうが驚いたようだった。
「やんだ。それも知らなかったの」
その時健斗が立ち上がった。
「ぼく、公園で遊んでくる。さっき、おんなじ組のやつがおったから」
そういえばここに来る途中に確かに公園があった。でも本当は伊達さんとわたしたちの話を聞いているのが、いたたまれなかったのだろう。父もそう思ったのか「遠くへ行くんじゃないぞ」と言っただけだった。
健斗がドアを出ていくのを見送って、伊達さんは「無邪気に見えて、すごく気を使ってるんだよねぇ、あの子」と、ため息交じりにつぶやいた。
「お腹にガンがねぇ、見つかったの。すぐに手術が必要だって言われて。健ちゃんのこと、頼める親戚もいなくてどうしようかって困ってた。やっぱりわたしが預かってあげるしかないかって思っていたら、頼める人が見つかったからって。わたしは別れた旦那にでも連絡を取ったのかと、思ってたんだけど……」
伊達さんのうかがうような視線に、父が首をふると、伊達さんは「ぅんだよねぇ」とうなずいた。
「仙台さ来たのも、旦那の暴力から逃げてきたんだって、話してたもの。引っ越しのあいさつに来た時に顔にあざがあって、なんかわけありだと思ってたの。健ちゃんもそのころはやせていて、びくびくしている感じだった。だいぶたってから、そだな話をしてくれるようになってねぇ」
「そうだったんですか」
父も初めて聞く話だったようだ。
わたしは健斗が「お父さんなんかいらんてずっと思ってた」と言っていたことを思い出した。 それから母から聞いた健斗のわき腹のことも。
「それで、加奈子の手術は……具合はどうなんですか」
伊達さんは顔を曇らせた。
「手術はうまくいったんだけど、回復に時間がかかっててまだ退院できないの。なんだか気力もないみたいで。ほら、病は気からって言うじゃない」
伊達さんが「知ってる?」と言うみたいにわたしの顔を見たので、わたしはあわててうなずいた。
「病院には三日に一度くらい仕事帰りに寄って、必要なものを届けたり洗濯物を預かったりしてるんだけど、わたし以外にはだれも見舞いに来る人はいないみたい。健ちゃんとも会えないし、さみしいのもあるかもしれないねぇ」
父は黙って麦茶の入ったコップに目をやった。コップの周りについた水滴が、ツーッと流れた。
病院への行き方を説明しようとする伊達さんに、父は「わかりますから、だいじょうぶです」と答えた。
「大学生のころ、このあたりに住んでいたんで」
父の言葉に、伊達さんはすごく納得した顔をした。それから父にだけささやくような声で言った。
「どうして仙台に来たのって聞いたら、昔好きな人が住んでいた場所だからってあの人言ってたのよ。好きで好きでたまらなくって、それなのにその気持ちと反対のことをして困らせたんだって」
先に入り口で靴をはいていたわたしは、聞こえていないふりをして外に出た。こういうのを武士の情けっていうのだろうと思った。違うかもしれないけど……。
加奈子さんの病院は、広瀬川という仙台の町を流れるきれいな川を見下ろす高台にあった。
六階のエレベーターを降りたところは談話室になっていて、その奥に病棟の入り口があった。
「先におれが話をしてくる。しばらくここで待っててくれ」
少し緊張した顔の父は、わたしと健斗に言うと、病棟に入って行った。
健斗も緊張しているようだった。母親の病気のことは、東京に行くよう言われたときに聞かされていたらしいけど、病院に来るのは初めてだったようだ。加奈子さんはうちの近くまで健斗を連れてきて、すぐ仙台に戻り、次の日には入院したらしかった。
そわそわと落ち着かない様子の健斗に、「ママの手術はうまくいったみたいだよ」と言うと、健斗の表情が明るくなった。
しばらく待っていると、病棟のガラス戸が開いて、父が顔を見せた。その後ろには、女の人が立っていた。
「健斗」
「ママ」
健斗がのどの奥からしぼり出すような声を出した時、健斗の顔はもう涙でぐしょぐしょだった。
二十数年前、父をなやませたという加奈子さんは、わたしが考えていた影のある悪女のイメージとずいぶん違う人だった。
「これでも入院して、五キロやせたんやで」
と、大阪弁で弁解するように言ったけど、どう見てもぽっちゃりという枠より大きく見えた。大きな胸と豊かなお腹で泣きじゃくる健斗を抱きとめ「何や健斗、泣いたらあかんやろ。ママが退院するまで絶対泣かへんて、約束したやんか」と、ちょっとかすれた声で言い、自分も涙を流した。
「天野君のご家族には、本当にご迷惑をかけました。ごめんなさい」
大阪弁でない改まった口調で加奈子さんが頭を下げたのは、健斗の涙が枯れてからだった。
「頼る人がだれもいなくて……天野君がこの子のお父さんやったらよかったのにってずっと思ってたから……あの頃からもう二十年以上たったのに、天野君も結婚してこんなかわいいお嬢さんもいるのに……本当にごめんなさい」
そのまま頭を上げようとしない加奈子さんに、父は「もういいよ」とふくよかな肩をたたいた。
「これからは自分が退院するまでの間、健斗はなんとかします。これ以上迷惑かけられないし」と言う加奈子さんに、父は「何かあてがあるのか」とたずねた。
「あては……ないけど、ひとまず今日は看護師長にたの
んで……その……わたしのベッドで……」
加奈子さんのいいかげんな返事に、父は困ったような顔をしてわたしを見た。
「お父さん、ずるいよ。なんでわたしを見るの」と思った。あとはもうやけくそだった。
「そんなこと、できるわけないじゃないですか。他の患者さんだっているんでしょ」
わたしは大きく息を吸って、一気に言った。
「健斗は今まで通り、うちで預かります。加奈子さんは自分の体のことだけ考えて、早く元気になってください。そして早く健斗を迎えに来てください」
加奈子さんが切れ長の目を大きく見開いた。長いまつ毛におおわれたきれいな二重の目だった。やっぱりこの人、若いころは魅力的だったのかもしれないと思った。
「おねえちゃん、ええの?」
健斗が、母親と同じ二重の目を輝かせた。
「ほんまに、ほんまにええの?」
わたしはやっぱりやけくそでうなずいた。
「しゃあないやんか。最後まで面倒みたる。まかせとき」
健斗が目を丸くして、
「おねえちゃん……大阪弁うまいやん……」
と、つぶやいた。
ぎりぎりまで病院にいたから、父の通った大学も伊達政宗の銅像の立つ青葉城跡も、今回は訪ねることはできなかった。
名物の牛タンを口にすることができなかったのも心残りだったけど、仙台駅でずんだ餅と笹かまぼこをお土産に買って、三人で新幹線に乗った。
父が電話で報告したら、母は「よかった」と何度も言ったそうだ。
健斗と父は新幹線に乗ってすぐ、肩を寄せて眠ってしまった。なんだか本当の親子みたいに見えた。向かいに座ったわたしは「わたしのお父さんなんだからね」と心の中で文句を言って「ま、いっか」とため息をついた。
新幹線の窓から夕暮れの空の向こうに山が見えた。だれかが「あれが蔵王だよ」というのが聞こえた。
ちょっとくやしい気がしたけれど、仙台はきれいな街だった。今度はゆっくり、父が大学生のころ四年間暮らしたあの町を歩いてみたいと思った。
十四年間一緒に暮らしている愛犬―-パセリという名の雌犬です――が、いよいよ老年期になりました。七月には飲まず食わずの状態になり、獣医さんに連れて行くと「体のどこかで炎症が起きている。非常に重症の数値なんで、覚悟をしておいてください」とのこと。
しかし点滴や注射が効いたのでしょう。その後元気を取り戻し、すっかり回復したかのようでした。よかったよかったとホッとしたのもつかの間、八月には真っ赤なおしっこをしました。膀胱炎のお薬で症状はすぐ落ち着きましたが、今度はまた謎の食欲不振。
どんな、とっておきのドッグフードを出しても、一口も食べません。しかたなくささ身やカボチャを茹でては、手作りフードを作る毎日。しかもわたしが、手で口に、お運び申しあげないと食べません。ほとんど離乳食期の赤ちゃんです。
そんな日が何日か続いたあと、再び少しはドッグフードを食べるようになりました。あのお犬様待遇が功を奏したのでしょうか。けれども、今のこの状態が何日続くかはわかりません。モノ言わぬ動物ゆえ、気持ちも体調もさっぱり予測できません。
いずれは別れのときがくる。愛犬家の言葉でいうなら「虹の橋を渡る」のです。亡くなったペットはその橋のたもとにある緑の草原で、飼い主との再会を待つのだそうで。そのときのことを思うと、わたしのほうが泣き伏しそうになるのでした。
お馬鹿さんな犬でした。
他の犬とまったく仲良くできず、どうも自分のことを人間と思っているふしがありました。暴れん坊で、落ち着きがなくて、若いころは手がつけられませんでした。
しつけ教室の先生にも「この犬はこんな犬なんですよ」と婉曲に匙を投げられました。
けれども、わたしが入院したとき。
長期間見知らぬペットホテルに預けたのに、体調を崩しもせず、ひがむでもなく、ケロッと帰ってきてくれたのでした。「こんなこと、別になんでもないですから」と、言っているかのようでした。
病み上がりの体で散歩に出ると、あれほど落ち着きなかった犬が、リードを引っ張ることなく、おとなしくわたしの歩調にペースを合わせました。あとにも先にも彼女があんな歩き方をしたのは、あのときだけでした。
お馬鹿さんなようで、人に気を使う犬なのです。
いけません。
こんな回想をして泣いている場合ではありません。パセリはまだ生きています。
ヨボヨボと散歩に出て、小さな段差にけつまずこうと。
時にはクルクルと円を描くように歩いて、前に進まずとも。歯がガタガタになって、食べたフードが口の端からこぼれ出ようと。
パセリは生きています。体の衰えに落ち込むでもなく、今日も淡々と生きています。モノ言わぬ動物ゆえ、自分の老いをスルッと受け入れているように、わたしの目には映るのでした。
苦しい時には眠り、ちょっとよくなるとなるたけ歩き、食べられるときには(できるだけ自分が楽な方法で)食べる。その日その日を淡々と、あるがままに生きているように見えます。
「こんな年になってしまうとは。ああ、嫌だ嫌だ」などと愚痴をこぼせないからでしょうか?
けれど仮に彼女が言葉を話せたとしても、そうは言わないような気がするのです。
老いを受け入れたくないのも、若さに固執するのも、やはり脳が発達しすぎた人間の性かもしれません。きっと、犬の方が老い上手です。
犬より速度は遅いですが、わたしも年齢を重ねました。出版社さんからのゲラも、ルビの字が「ぱ」だか「ば」だか見分けがつきません。校閲さんからのご指摘も、コピーが薄くてよく見えません。
なのに、「もうちょっと濃くコピーをとってください」
のひと言が、どうしても言えないわたしは見栄っ張り。ちょっとでも若く思われたいという、この虚栄心。
ああ、犬を見習おうと思う、秋のはじめなのでした。
そうして一日でも長く、この子といられますようと、そっと祈ったりもするのでした。
朝、孫を保育園に送り出す時、門の横にある松の根本に、白いきのこが一本生えているのに気が付いた。そのきのこが素敵で、凛として美しく見えた。
きのこの傘は半ドーム型に綺麗に丸みがかっている。傘の大きさに比べて茎は細いけれど、松の根本にしっかりくっついている。
いくら眺めても飽きがこない。
家の庭に、こんな立派なきのこが生えるなんて、嬉しくなってきた。
孫を送り出した後、スマートフォンで写真を一枚撮った。私にしたら珍しいことである。
昼過ぎに、気になってきのこを見に行った。きのこは茎が曲がって、しおれていた。なんと短い命だったのだろう。それでも、このきのこは、精一杯生きて、人の心をとらえたのだ。
先日、女優の樹木希林さんが亡くなられた。全身ガンの病を抱えながら、一日一日を大切に、生きてこられた希林さんに深く共感した。きのこや希林さんの生き方に心を打たれた私は、自分を省みた。
私はなんとその日その日をだらだらと過ごしてきたことだろう。きのこでさえも精一杯、己が身を細い足で支えて生を全うしたのに、私はどうだろう。残り少ないが、これからの自分の人生を精一杯生きる努力をしよう。
気になってスマートフォンでこのきのこを検索しても、似たようなきのこでも、茎が違っていたし、茎が似ていても、傘が違うし、全く同じ物は見つからなかった。
後日、図書館できのこの本を数冊借りて調べて見たが、やはり同じきのこは載っていなかった。このきのこの写真は、貴重な一枚となったのかもしれない。
渡邊 千砂
長い長い、長――い育児休暇をいただいておりましたが、このたび、めでたく復帰することとなりました。
早いもので、息子も小学六年生のりっぱなやんちゃ坊主に育ち、日々いろんなことをやらかしてくれます。
おかげでネタには困らないのですが、スポーツと同じで、文章を書くことも、長い時間離れてしまうと、おそろしく頭がなまってしまい、言葉が出てこなくなってしまうのです。
せっかくのネタ、無駄にしないように、日々トレーニングに励まなければ……とは思うのですが、三日坊主さんが、ひょっこりと顔を出し、なかなか思うようにトレーニングは進まないのでありました。
大枝 良子
五月末に、百二歳だった義母が永眠しました。
満州で終戦を迎え、夫は三度目の徴兵にとられていて留守の中、子ども二人を連れて帰国。二人目の子は病気で亡くしたものの、三人の子どもを育てた後も孫の面倒をよくみてくれた、小さいけれどたくましいおばあちゃんでした。
わたしは夫と結婚をして、義母から聞く満州や引揚げ船での話がなにより衝撃でした。
身近にそういう人がいなくて、それまでは過去の遠いところの話だと思っていたからです。
老いを嘆きながらも「今が一番いい」が口癖だった義母は、可愛がった孫たちに見送られ旅立ちました。
植田 良枝
二百十日を過ぎて、秋の気配を感じる。
思い立って、千日紅のハーバリウムを作った。
LEDライトの上にのせると、七色に変わっていく。
そこに、日々のうつろいを見る。
秋 って、色々考えてしまう季節なのか?
松浦 信子
書く事から遠ざかっていました。最近は読み手側。
ミステリーから時代小説まで、面白そうなものを探して読んでいます。そして物語、小説の舞台になった場所を旅するのが楽しみです。
今年は天正の四少年使節がローマを訪れた足跡をたどり、ポルトガルを旅しました。ユーラシア大陸の最西端ロカ岬に立った時、東の果ての日本から、よくぞここまで来たものだ。そして信仰とはいえ、ここから東洋を目指したパードレ達の勇気を想いました。
長谷川 由美
こてまりに入会して、三年目になりました。
エッセイっぽいとよく言われましたが、少しは小説らしくなってきたでしょうか?
もう少し長いものにも挑戦したいと思います。
読者の皆様に共感して頂けるものを、書いていきたいと思っています。
安田 夏菜
今回は、創作作品での参加ができず、エッセイでの参加になりました。
ちょっと感傷的な内容になってしまいました。お許しください。
十二月と一月に、それぞれ長編と短編を、発表できるかもしれません。あくまで予定は未定ですが、実現できましたら、お手にとって頂けると嬉しいです
藤田 通代
先日の大型台風の後、九時間余り停電が続いた。
押し入れの奥深くに入り込んでいた防災グッツ袋を取り出してみると、今時お目にかかった事のない黒の大型ビニール袋、切れた電池、若干黄ばんだタオル、旧モデルのシャンプー等々、使えなさそうな品々が出てくる、出てくる……思わず苦笑い。
阪神大震災で培ったはずの防災意識、すっかりカビが生えてました。
増田 澄子
今年の夏から、パソコンを始めました。遅いスタートだったと思います。
基本を主人から教えてもらい、慣れない機械相手に悪戦苦闘。まだまだ、わからないことだらけ。
でも、最近、やっと余裕が出てきたのか、使うのが楽しくなってきました。パソコンを通じて、新しい世界が広がればいいなあと思います。
松林 和子
きのこに魅せられて、初めてエッセイを書いてみましたが、自分の思いを文章にするのって難しいです。
私はパソコンも満足に使えず、息子に、「韓ドラ見る時間があったらパソコンさわり」と言われても、返す言葉も無く、何度も聞き、短い文を悪戦苦闘して書きました。情けない自分ですが、怠けていた罰ですので、拙い文ですが、ご勘弁を……。
平成最後の年となりました。
確かに日本では、戦争の無い平和な時代でした。
しかし、何と天災の多い事だったでしょう。台風や水害、地震など、まさに天も地も、地球に怒りをぶつけた様な平成でした。
新しい年号を迎える日本は、世界の中でどのような一員となるのでしょうか。それを担う青少年たちに、大きな希望を持って貰いたいと願う昭和人です。
『こてまり』三十五号をお届けします。
平成より長い年月です! さて成長の方は……
皆さまのご意見ご感想を糧に、これからも成長への努力を続けて参りたく思います。
伊丹市中央公民館のお力添えに、感謝致します。
「こてまり」同人一同
2018年10月23日 発行 初版
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