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【分泌】第7号

シナリオ・センター大阪校 小説研修クラス

シナリオ・センター大阪校



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 目 次
 召集令状          碧月羽はな
 彼女は猫である       浅宮葉生
 血の宿命          大家ともみ
 碧い瞳のアリス       桑田真吾
 クラゲが結ぶ恋の予感    十影海月
 厚着             和田充裕

召集令状          碧月羽はな

 日当たりのいい縁側で、老婆はネコを撫でていた。
 老夫婦には子どもがいない。自分たちの寿命とこの子の寿命と、どちらが長いかわからないわね、と言って、一匹のネコを大切に飼っていた。
 隣の居間から、老人が見るともなくつけているテレビの音が聞こえる。
 政府広報が、声高に主張していた。
――参戦による影響は、民間人にはほとんど及びません。現代の戦争は、人間をいかに死なせないで勝つか、ということに焦点があてられています。ピンポイントで攻撃目標を狙えること、また、遠隔で攻撃機を操作できること。技術の発展により、これらが可能になりました。
 日に日に戦争賛成の気運が高まっていた。
 科学技術というやつには驚かされる。だけど、敵も味方も、民間人に被害が及ばない、っていうなら、それもいいじゃないか。そういう声がなんとなく後押しし、木枯らしの吹くころ、わが国も参戦した。
 これが一昔前の戦争で、子どもや孫がいたら、きっと反対しましたよ。誰に言うわけでもなく、老婆がつぶやく。大きな田舎の家の外では、カラスが大きな声で鳴いていた。

 戦時中という実感がなく、年末になった。一応、世間は自重して、クリスマスも正月も静かに過ぎた。
 ネコを撫でながら、老婆はコタツに入っていた。
 テレビではアナウンサーが、カラスの被害が収まってきたことを「戦時中ですから、カラスも自制しているのでしょうか」と笑いながら伝えていた。戦況については一進一退と、ついでのように報道した。
「そういえば、このあたりでもカラスを見ませんねぇ」
 老婆は、隣で横になっている老人に向かって言った。
「この子とよく遊んでいた野良猫も、最近、来ないんですよ」
「寒いからなぁ。出歩くのもおっくうなんだろ」

 梅の花が咲く頃、わが国は生物兵器を使用している、という噂が、まことしやかに流れた。
 噂は、いったん人の口に上ると、劫火のように燃え広がり、非人道的だとして、政府に対する糾弾が始まった。その噂を否定しながら、芳しくない戦況は国民の無関心ゆえであるとし、政府は一層の協力を呼びかけた。

 あと一週間もすれば桜が咲くだろうか、という暖かい日。市役所の職員が一通の封書を各戸に配布した。

 召集令状――。

「民間人には影響がないんじゃなかったのかい?」
 老人が静かに質す。
「いえ、民間人ではなく……」
 職員に促され、令状を改めた老人は目を疑った。
「ネコ? ネコを召集するというのか?」
 老人の声を聞きつけ、老婆がネコを抱きながら出てきた。
「ネコを、集めてどうするというのです?」
 老婆の声が震える。
「動物兵器として、前線に連れて行きます」
 あっけにとられる老夫婦を傍目に、職員は続ける。
「カラスを筆頭に、害獣や害鳥の類を最初に利用しました。その次は、野良犬・野良猫をあてがいました。それも使い切りましたので、今度は家猫を召集することが決まりました」
 老婆のネコを抱く腕に力がこもった。
「非人道的な生物兵器を使用しているわけではありません。また、公約通り、民間人には戦争による影響はありません」
 職員は、一週間分の事前給餌用の餌と引き渡し用のケージを置いて、帰って行った。その日のうちに、政府からネコの召集について、不順守の場合、厳罰を科す、とのお達しがあった。
 人々は、あらためて自分たちの無関心を呪った。カラスが消えた、野良猫がいない……。そして、「生物」兵器を使っている――。民間人には影響がないというのは、確かに本当だ。だが、失うものなしに戦争に勝つ、そんな甘いことがあるはずはなかった。
 ネコが召集されるまでの一週間を、人々は寡黙に過ごした。

 明日が召集日という夜。
 老婆は、ネコに大好物の手作りのエサを与えた。せめてもの、手向けであった。
 まんじりともせず、夜が明けた。
 庭のほころんだ桜に、朝の柔らかい日差しが当たっていた。ネコは縁側で、いつものように老婆の膝に乗っていた。

 呼び鈴が、鳴った。

彼女は猫である          浅宮葉生

 猫に逃げられた。
 窓際で煙草をふかしながらぼんやりと外を眺める。喫煙者には厳しいこのご時世、いかに自宅とはいえ室外に煙を吐いていると隣人や上の階の人間から副流煙だのにおいだのはては俺自身の健康についてだのに文句を言われるのだが、今日くらいは許されたい。目の前の道を歩く女の子二人組が俺に気づいてひそひそと何かを話し、足早に過ぎ去っていった。いや、別に不審者じゃないから。ここ、俺の家だから。思っていてももちろん叫んだりなどはしない。
 だんだんと短くなっていく煙草は、しかしまったくおいしくなかった。主に口の端が切れているせいだ。ほのかな鉄の味が混ざって最悪の味を生み出している。
 はあと溜息をつき、煙草を灰皿に押しつけて窓を閉める。昨夜も間違いなく閉めていたはずなのだ。それなのに、猫は忽然と姿を消した。
 もとは野良だったその猫は俺がここに越してくるよりも先に軒下の住人で、俺を追い出そうとひたすらに鳴いていた。駅が近くて激安スーパーもすぐそこ、コンビニも徒歩二分という立地のよさで一階とはいえこの部屋が空いていたのは、おそらくはこの猫のせいなのではないか、と当時の俺は訝しんだ。それくらいにうるさかった。
 しかし引っ越してすぐ引っ越すのはばかばかしい。ひとまず敵ではないと示すため、餌付けすることにした。猫は不審がって餌を眺めるだけで食べはしなかった。だんだんと意地になり、日々餌のグレードを上げた。猫がじりじりと近寄りはじめ、初めて食べたときには、もう家族も同然だった。頑なに部屋に入ろうとしなかった猫はその日を境にあたかもいままでそうしていましたと言わんばかり、しれっとソファを寝床に決めた。そして俺はそのときようやく猫が首輪をしていることに気づいた。書かれている住所はこの部屋である。名前は書いていなかった。黒猫に黒い首輪をする元飼い主が何を考えていたのか知らないが、無責任には違いない。
 吾輩は猫である名前はまだない、とは夏目漱石の書いた一節であるけれど、ともに暮らすのに名前がないのでは不便だ。俺は猫をヘクトーと呼ぶことにした。漱石の愛犬の名である。連想ゲームよろしく猫をそう呼び始めてからしばらく、猫がメスであることを知った。すまない、と一応謝ったものの、ヘクトーはつんとすまして何も言わなかった。
 昨夜は何年ぶりかなど考えたくないくらい久々に、猫を口実にして女の子を部屋に連れこんだ。お互いに何かしらの言い分がほしかっただけで、それが猫である必要はなかったから、ヘクトーをかわいいとなでた時間なんてカップラーメンができたかどうかさえ怪しい。
 行為のあとすぐ、ヘクトーの水がそろそろなくなっているのではと俺はベッドから抜けだした。いつも水を入れている器はカラの状態でひっくり返っていて、呼べども呼べどもヘクトーは姿を見せない。返事もない。焦って探しはじめた俺を、おそらく実のところ特に猫がすきなわけではなかった女の子が見ていた。だんだんと放置されていることに耐えられなくなったのか、へたくそなビンタを俺にお見舞いし、帰っていった。せめて頬にまっすぐ当ててほしかった。唇が切れては見た目が情けなさすぎる。あと食事に不便だ。
 はあともう一度、今度は誰も聞いていないのをよいことに深く嘆息して、ヘクトーの器に水を入れていつもの場所に置く。ゆらゆらと揺れる水面に、ヘクトーが小さな舌を出し入れしながら必死で飲んでいる姿が思い出された。
「悪かったよ」
 呟けば、にゃあと後ろで声がした。振り返ればヘクトーが座っている。
 俺はその場にしゃがみこんだ。どこにいたんだ。隠れていたのか、外に行ったのか、それならどうやって部屋から出てどのように戻ってきたのか。
 わきあがる数々の疑問は安堵という感情に流されて結局何ひとつ言葉にはならなかった。
 ヘクトーは俺を見あげていたがやがてすげなく脇を通りすぎ、いつもの調子で水を飲みはじめた。

血の宿命          大家 ともみ

「これでしょ、お兄さんの事件って」
 婚約者の神田沙希から新聞記事のコピーを見せられた途端、澤田和俊は顔を強張らせた。
「どうしたんだ、これ……」
「調べたのよ」
 沙希は当然だとばかりに言った。
 土曜日の喫茶店は混み合っていた。ウエイトレスが忙しそうにテーブルを歩き回っている。テーブルの上にはメニューが置かれたままになっていたが、和俊は何も注文する気になれなかった。彼は新聞記事のコピーを凝視した。
『三十三歳男性、母親を殺傷。現行犯逮捕。「殺せ」と命令。心神耗弱状態か』
 白抜きの見出しが迫ってくるように感じた。
「病気のせいだとは聞いてたけど、まさかこんなこと……」
 和俊は沙希を見た。彼女はため息をつくと、左手にはめた婚約指輪を見ていた。そっと右手を伸ばすと、指輪を外す。
「やっぱり、考え直させて」
 沙希は指輪を和俊の前に置いた。
「沙希……」
「あなたのことは好きよ……でも、結婚ってなるとそれだけじゃ済まないわ」
「兄のことで君に迷惑をかけることはしない」
「そういうわけにいかないでしょ。あなたに何かあったら、私がお兄さんの面倒を見ないといけなくなるのよ」
「それは……」
 医療観察法による治療を終えた後、兄は病院の近くにアパートを借りて一人暮らしを始めた。調子を崩すこともあるので、和俊は時々様子を見に行っていた。
「やっぱり、私には無理だわ」
 和俊は目の前に並ぶ新聞記事と指輪を見た。言葉にならない感情が喉元までせり上げてくる。
「ごめんなさい」
 沙希はそれだけ言うと、伝票を手にして席を立った。
 一人残された和俊は、新聞記事のコピーを掴んだ。
「くそっ」
 くいしばった歯の隙間から嗚咽が漏れる。
 和俊は人目も憚らずに記事を破り捨てた。その拍子に手がグラスに当たった。グラスがテーブルから落ちて砕ける。
 和俊は我に返った。兄の顔が浮かぶ。和俊が訪ねると、「いつも、すまないね」と言って、差し入れを受け取る。こうして年老いていくまで見守るしかないのだろうか。
 兄には事件の記憶はほとんどない。

碧い瞳のアリス          桑田真吾

 アリスは私の十二歳の誕生日に家にやってきた。
 リウマチで手が不自由になった母の家事手伝いのためだった。アリスはかいがいしく料理の皿を運んでいた。用事のないときはテーブルのそばに立ったままで、家族と一緒に食事はしなかった。母の指示に「はい」「わかりました」など短く返事はするけれど会話には加わらなかった。十八歳ぐらいだろうか。卵形の整った顔立ち、艶のある黒い髪、何より目をひくのはエメラルド色の瞳だった。私はお祝いのごちそうそっちのけで、隙さえあればアリスの顔を見ていた。そして気がついた。彼女はまばたきをしない。
「たかし、最新型のヒューマノイドなのよ」
 母が食事の終わりに教えてくれた。

 それ以来、アリスは家族の一員になった。母が若いころ着た服はアリスによく似合った。立ち居振る舞いはほとんど人間と変わりなかった。充電が必要になると、まるで自走式掃除機がそうするように、自分の狭い控え室に戻ってコンセントに自身を接続した。フル充電が済むと彼女の瞳は深い青から碧色に変化した。
 家に来た当初は口数が少なかったが、しだいに家族の会話にも加わるようになった。人間の興味や要望を察し、クラウドにアクセスして自己学習をしていくのだ。私は学校から帰るとアリスを探した。時間が許す限りアリスにくっついていた。音楽、文学、歴史、学校の宿題、どの質問にも優しい口調で完璧な答えが返ってきた。中学生になる頃には私はアリスに恋していた。
「手を握らせて」
 アリスに頼んでみた。彼女の手は血が通っているように暖かくて、人と区別がつかない。
「顔に触れさせて」
「いいですよ、たかしさん」
 頬は本物の十八歳の娘のようにピンク色をしていて柔らかい。
 もし、キスさせて、と言ったら……
 ヒューマノイドにも人を軽蔑する感情があるのだろうか、と思うとこれは言い出せなかった。

 私は成長した。アリスは十八歳のままだった。
 私の年齢は彼女に追いつき大学進学のために家を離れた。自然な成り行きでロボット工学に魅せられ、卒業後も研究に没頭した。

 二十四歳の冬、ひさしぶりに自宅に帰るとアリスの出迎えはなかった。
「メモリーと蓄電システムが限界みたいなの」
 母はアリスをどうすべきか、私に判断してもらいたいようだった。
 アリスは控え室の隅に座っていた。瞳は深い海のように青かった。眼の表面の硬質レンズには無数の傷がついて曇っている。頬は白っぽく乾燥し、ささくれも見える。充電をしながら、私はもう一度アリスに会わせてください、と祈っていた。起動すると瞳の奥にわずかに緑の光が宿った。そんな行為に意味はないと知りつつ彼女の名を呼び、肩をゆすった。
 口がわずかに開き、何か言いたそうにしたが、果たせぬまま瞳の光が消えた。私は絶対にアリスを処分しないよう母に言い残し大学に戻った

 それから二年間寝食を忘れて実験室に閉じこもった。アリスを甦らせてさらに人間らしくするために、最新の論文を読み漁り、実地検証を重ねた。疲れのあまり机に突っ伏して眠ってしまうと、きまってアリスの夢を見た。夢の中のアリスは、部屋の中で座ったまま、何かを訴えるような目で私を見ていた。  
 そしてついにその日が来た。メモリーモジュールの入れ替えと記憶修復、耐久素材を使った人工皮膚、電池の長寿命化など多くの改良。同僚からは、なぜそんな無駄を? と笑われたが、まぶたにレンズのクリーニング機能をつけ、まばたきできるようにした。
 再起動すると、私より六歳年下になったアリスは輝く緑の瞳をしばたたかせた。私を見つめるアリスの表情は人間そのものだった。再会の喜びが手に取るように伝わってきた。そしてアリスは目覚めてから初めての自発的行動をとった。
「たかしさんが目覚めさせてくれたんですね、ありがとう」
 といい、私にキスをした。

クラゲが結ぶ恋の予感          十影海月

 スーパー何とかムーンとかいう月が綺麗な夜に、私はアパートの二階から突き落とされた。簡単な話だ。男の家に行ったら、本命の女が帰ってきて、浮気がバレると思った男が、私をアパートの二階から突き飛ばしたのだ。
 いつもそうだ。私は遊び人かヒモとしか巡り合えない。何故、そんな男ばかり好きになるのか、そもそも本当に好きだったのだろうか――。そういえば全員、向こうからの告白だった気がする。それで何となく恋人になって、向こうの都合が悪くなったら、捨てられるのだ。
きっと私は、本当に心から男性を好きになった経験も、本当に心から好きになられた経験もないのだ。だから、きちんとした恋愛が出来ていないのだ――。寒空のせいで、私の頭はやけに冴えていた。

「失恋のショックを癒やしにイルカを観よう」と友人に水族館へ誘われた。が、当日にドタキャンされてしまった。インフルエンザだと言っていたが、本当は、私より仲の良くしている別の友人とパンケーキを食べに行くのだ、とSNSで言っていた。こういうのも慣れているから、さほど傷つかい。そう思っていたが、目の前の大きな水槽に反射して映り込んだ顔は覇気がなかった。私の顔を、たくさんのクラゲが通過していくのが滑稽だった。
「クラゲ、お好きなんですか?」
 突然話しかけてきたのは、作業着を着て社員証をぶら下げた、佐々木という男だった。勤務中に新手のナンパか。
「女性にはタコクラゲのような傘の丸い子が人気ですが、触手が長いアカクラゲやシーネットルもオススメです」
 熱心に見ているように映ったのだろうか。佐々木は一方的にクラゲを薦めてきた。
館内でイルカショーの開演が迫っているというアナウンスが鳴った。私は止まらず喋る佐々木から逃げるように、イルカショーの会場へ向かった。
 イルカは私を癒してくれなかった。イルカ自体は可愛かった。だが、座った席で、カップルの群生に囲まれてしまい、失恋傷心中の私は耐えられなくなり、逃げ出してしまった。
 疲れ切った私は、いつの間にか、またクラゲの水槽にいた。イルカショーに客を取られて静かだったが、落ち着ける訳ではなかった。佐々木がいたからだ。熱心に水槽を磨いていたので、バレないように、忍び足で進んだ。
ボーっとクラゲを眺めていると、無心になれた。何も考えて生きていないであろう感じが、私と共鳴しているのかもしれない。エアポンプから出てくる空気に飛ばされているクラゲがいて、思わずクスッと笑ってしまう。
「クラゲ、好きになってくれましたか?」
「フワフワ~って泳いでいる感じ、好きかも」
「そう言っていただけて嬉しいです!」
 佐々木はよほど嬉しかったのか、満面の笑みで、ユラユラ身体を揺らし始めた。この人、本当に同志を探していたのだ。何て無邪気な人だろう。
「だからって、あなたがクラゲになる必要はないですよ?」
 私が指摘すると、佐々木は照れくさそうに頭を掻いた。
「でも、あなたの、フラフラ歩いている姿とか、クラゲに似ていると思いますよ」
 何だか私の生き方を揶揄されたような気がした。
自分で考えて行動せず、周りに流される生き方をしてきたから、恋人や友人から平気で裏切られるような、薄っぺらな人間になったのだ、と。
「あなた、失礼ですね」
 わざと強めの口調で言ってみた。佐々木は慌てている。
「ごめんなさい。クラゲのそういう所が好きと仰っていたので、誉めたつもりでした」
 分かっている。子供のように無邪気で純粋な彼を、からかいたかっただけだ。
「じゃあ、クラゲみたいな女は好きになれますか?」
 勝手に口から洩れていた。これでは、私の方が新手のナンパをしているみたいではないか。
「なれると思いまよ」
 声は小さかったけれど、はっきりと耳に届いた。
 この人となら普通に幸せになれるかもしれないと、ふと思った。そして、クラゲに刺されたみたいにビビビと身体が痺れるような感覚に襲われた。これが恋というものなのだろうか。

厚着          和田充裕

 恋をするとなぜか厚着をする。そのことに気付いたのは親友の優子に言われたからだ。それまでは全く意識していなかった。だから、自分でも理由がよくわからない。スタイルに自信がないからなのか、緊張するとお腹が痛くなるので、お腹を温めるためにそうしているのか、多分、その二つが多少なりとも影響しているのだろう。
 先週私はまた振られた。優子に注意されたのに厚着をした自分の姿は鏡で見るとコンプレックスの塊に見えた。優子にはわからないだろうな、そんな言い訳じみたため息で自分を納得させる。それは、自分の痛みをごまかす大切な避難行為であつた。

「会って欲しい人がいる」
 母の突然の電話は私を混乱させた。

 私が中一の時に父は急性心不全で亡くなり、以来、女手一つで私を育ててくれた母。母は私を育てることに必死で、私の知る限りそんな人がいる気配など感じたことはなかった。今年で五十になる母が恋をするなんて……。もちろん、母には幸せになって欲しい。でも、私の父はあの父だ。今更、赤の他人と人間関係を作るのも鬱陶しい。反対しよう、私はそう決めてアパートを出た。

 ウェスティン都ホテル京都のレストランで待ち合わせだったが、蹴上の駅に少し早く着いたので、インクラインに上がってみる。上がると同時に満開の桜が圧倒的な迫力で目に飛び込んできた。私はこの非日常に少し戸惑いつつも、その桜のトンネルをゆっくり歩き出す。ふと前方に目をやると沢山の人混みの中に見慣れた後ろ姿を見つける。地味なピンで留めた白髪混じりの髪。小さな背中。その、後ろ姿が、少し向きを変え横顔が見える。やっぱり母だ。横には、スマートで優しそうな中年男性がいて、何か話しかける。母はぎこちなく笑う。母は春の陽気にもかかわらず、厚手のモスグリーンのコートを着て笹団子みたいである。
 私と一緒だ。泣き出しそうな気持を抑え、私は「お母さん」と笑顔で手を振り、走り出す

【分泌】第7号

2018年9月22日 発行 初版

著  者:シナリオ・センター大阪校 小説研修クラス
発  行:シナリオ・センター大阪校

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シナリオ・センター大阪校

シナリオ・センター大阪校は、創立42年目の、シナリオ作家や小説家を育成するための学校です!

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