王様の初恋
王様の苦悩
王様と護衛
王様と教会
王様と墓所
王様と誘拐
王様と謝罪
王様と魔女
王様と回想
王様と臥所
王様と友達
王様の秘密
王様の悩み
王様とお祭
王様と前夜祭
王様と従者
王様と挑戦状
王様と先王様
王様と猫橇
王様の誤算
王様の決意
王様と舞踏会
王様と危機
王様と猫軍
王様と氷の塔
王様の耳は、猫の耳!!
「あなたなんて猫になっちゃえばいい!」
そう俺に叫んだ彼女の顔が忘れられない。いつも笑顔を浮かべている赤い眼に涙を浮かべ、彼女は俺を睨みつけていた。
「なんでっ! なんで私ばっかりこんな目に合うのよっ! どうしてっ!」
突き飛ばされた俺は、唖然と彼女を見あげる。彼女は両手で顔を覆い、大声をあげて泣き始めた。
俺は立ちあがり、彼女へと近づく。
「来ないでっ!」
顔を覆ったまま、彼女は俺を怒鳴りつけた。びくりと俺は歩をとめてしまう。そっと両手を顔からとり、彼女は俺を睨みつけてきた。
「カットなんて、猫になっちゃえっ!」
「えっ……」
「カットなんて大っ嫌いっ!」
彼女が残酷な言葉を吐き捨てる。俺はびくりと肩を震わせていた。
彼女に嫌われた。その事実がどうしようもなく悲しくて、重く俺の中にのしかかってきたのだ。
大粒の涙をこぼしながら、彼女は俺の横を駆けていく。俺は、遠ざかっていく彼女の足音を聞くことしかできなかった。
俺の眼から涙が零れる。俺はその涙を止めることができなかった。
だって、悲しかったんだ。
悲しくて、悲しくて涙がとまらなかったんだ。
それが、俺の初恋。
彼女は今、どこで何をしているんだろうか。
ぱちりと暖炉の火が跳ねて、猫耳がぴくりと動く。カットはがばりと上半身を前のめりにし、両手で顔を覆った。顔の両脇に生じている猫耳を力なくたらして、呻き声をあげる。
「舞踏会は来月開催される。それまでに、その猫耳をなんとか克服するんだ」
向かいに座る父が厳しいまなざしをカットに送ってくる。王としての位をカットに明け渡したとはいえ、彼の威厳は衰えることがない。
「カット、お前はこの国の王であることを忘れてはいけない。王には国の母となる妃と、跡継たる子が必要なのだ」
きりっと皺の寄った眼に鋭い光を宿し、先王ティーゲルはカットを睨みつける。
「いや、父上は孫が欲しいだけしょ……。ウルに先週愚痴ってるの聞きましたからね……。というか……。本当に結婚だけは勘弁してください、父上!」
びんっと両猫耳を立ちあげ、カットは父に叫んでいた。潤んだ眼でティーゲルを睨みつけ、カットは父王から顔を逸らす。
顔を逸らした先には、窓があった。
窓硝子に映る自身の姿を見て、カットは唸り声をあげる。
アイスブルーの眼が嫌そうにカットを見つめ返してくる。雪を想わせる白銀の髪からは二つの猫耳がにょっきりと生えていた。銀灰色の猫耳の内側には飾り毛があり、外側に向かってくるんと丸まった状態で伸びている。
鏡像の向こう側には、雪に覆われた大地があった。峻厳な山脈と平地が続く白い土地を、細長いフィヨルドが走っている。フィヨルドの終わりには、カットのいる王城の建つ王都が存在する。
赤い木製倉庫が建ち並ぶ港が、雪景色の中でひときわ映えていた。港の向こう側には暗い海が広がり、海の彼方には氷山が浮いている。
北極点に近いこの国ハールファグルでは、氷山は見慣れたものだ。氷山の向こうに位置する北極点には、この世界を支える大樹ユグドラシルが生えている。
雪に霞む海の最果てに、その巨大な姿を眺めることができる。
父から王位を継いだとはいえ、この土地を治めているという自覚をカットは持つことが出来ない。
猫耳もそう思う原因の一つだ。
こんな耳を持つ自分を受け入れてくれる女性がいるだろうか。
自分が一国の王だとしてもだ。
この猫耳を隠すために、カットは一年中帽子を被っている。ノルウェージャンフォレストキャットの上等な毛で作られた、真っ白な帽子だ。
そのため、ついたあだ名が帽子王。
これまでティーゲルに隣国の姫君や貴族の娘たちに散々付き合わされたが、すべて破局に終わっている。
幼い頃に生えたこの猫耳のせいで、カットは極端に人付き合いを避けるようになった。亡き母の面差しを継いだ容姿は端正で、見る者にどこか儚げな印象を抱かせる。だが、人見知りな性格が女性たちとの触れ合いをためらわせるのだ。
特に帽子にふれたら破局は必須だ。
カットはこの猫耳を見られることを恐れている。仲の良くなった女性が帽子を脱がせようものなら、大変なことになる。カットは容赦なく帽子を脱がせようとした人間を突き飛ばすだろうから。
「そんなに嫌か、その猫耳……」
はぁとティーゲルのため息が聞こえる。ぴくりと猫耳を動かし、カットは父へと顔を向けていた。
「こんな呪いが王にかかってるって知れたら……」
「それはそうだが、いつまでも隠し通せるものではないだろう?」
カットは父を睨みつけていた。このハールファグルは難攻不落の王国として名高い。国土は峻厳とした山脈に取り囲まれ、長い季節を深い雪に閉ざされる。海から攻めようとすれば、細長く複雑に枝分かれしたフィヨルドの地形に進行を阻まれる。
それゆえ、この王国は長年にわたって平和を築いてきた。そのあいだに築きあげられた豊かな国財を狙うものが後を絶たない。
例えば、ティーゲルの子供はカットだけだ。彼が王に相応しくないと国民が声をあげれば、近隣諸国を治めるティーゲルの兄弟や、その子息たちが我先にと王位継承権を主張するだろう。
そうなったらこの国は、王位を巡る争いの渦中に放り込まれることになる。
それに――
「呪いに打ち勝てない人間が王だとして、国民はともかく近隣諸国の王たちがなんというか……」
カットの顔には自嘲が浮かんでいた。ティーゲルは顔を曇らせる。顎髭をなでながら、彼はカットの後方へと眼をやっていた。
後方の壁には、大きな肖像画がかかっている。
たくさんのノルウェージャンフォレストキャットを従え、玉座に座る女性が肖像画には描かれていた。
カットと同じアイスブルーの眼と、眩いばかりの白銀の長髪を持つ女性だ。女性は整った顔に優しげな笑みを浮かべ、膝に赤毛の猫を乗せていた。
亡くなったティーゲルの妃ヴィッツだ。彼女は国の母であるとともに、豊穣の女神フレイヤの血を引く魔女でもあった。
王の妃には女神の血を引く魔女が選ばれる。
魔女は女神の血を引き、生まれながらにして魔法を使うことが出来る女性の総称だ。
もちろん、その王妃から生まれた王子たちにも魔女の血は引き継がれる。
遠い昔、この世界は神々とその敵である巨人族との戦いによって一度滅びたという。そして遠い未来、また神々の黄昏と呼ばれたこの争いが巻き起こり、世界を滅ぼすと予言されているのだ。
その言い伝えに則り、古来より諸国の王たちは女神の血を引く魔女たちと婚姻を結ぶことを義務づけられている。
戦いが再び始まったときに、神々の軍勢に加勢するためだ。女神の力を受け継ぐ者たちは、巨人族たちと対等に戦うことができるという。
そして、この婚姻にはもう一つ意味がある。
魔女から生まれた子供は、その血によって祝福される。魔女の血は国の王族たちを呪いから守ってくれるのだ。
その守護の力が強ければ強いほど、その者は神々に祝福されているとされ、王に相応しいものだとされる。
だが、カットは幼い頃に猫耳が生える呪いを受けてしまった。魔女でもあるヴィッツが四方八方手を尽くしたが、彼の猫耳が治ることはなかった。
だからこそカットはこの猫耳が人目に触れることを恐れる。もちろん、一国の王に生える猫耳など容易に隠し通せるものではない。
臣下たちはカットの帽子の下に何があるかを知っている。周辺諸国を治めるティーゲルの兄弟たちも同様だ。
秘密にしていても、諸国の王たちはは密偵を放ってこの秘密を暴くだろう。それほどまでにカットの叔父たちは、抜け目がなく油断ならない人たちなのだ。だからこそこの事実を国民に知られてはならない。叔父たちはすきあらば帽子の秘密を公にし、カットに対する王の資質を問題にしてくるだろう。
「叔父上たちは油断ならない。この国を守るためにも、私は妻を娶る前に父上から教えてもらいたいことが山ほどあるのです」
すっと眼を細め、カットは父を見すえる。ティーゲルは盛大に息を吐いて、椅子から立ちあがった。彼は壁にかかった肖像画の前に行き、口を開いてみせる。
「ヴィッツや、私たちの子供はいつからこんなに立派になってしまったのやら……。父上、弟が欲しいと泣きついてきたあの可愛いカットはどこに言ったのかのぉ……。お前が子供を産めないから、代わりにカットが孫をたくさん作ってくれると幼いときにしてくれた約束は、いつになったら果たされるのかのぉ」
ひしっと両手を亡き妻の肖像画に押しつけ、ティーゲルは肖像画に頬ずりをする。ちらっとカットを一瞥してから、彼は悲壮な声で言葉を続けた。
「私も老い先短い身の上。だからこそ若いと懸念しつつも、カットに王位を譲ったというのに……。この息子ときたら王の最大の仕事である子作りを軽視しておる。あぁ、孫の顔が見たい。孫の顔が見たいぃ……」
愚図りながらティーゲルは頬ずりを肖像画に続ける。そんな父の様子を見て、カットは怒鳴り声をあげていた。
「やめてください父上! 恥ずかし過ぎますっ!」
「ぶぅー、息子が恐いよぉ、ヴィッツ……」
わざとらしく頬を膨らませ、ティーゲルはカットを見つめる。カットは猫耳をだらんとたらし、額に片手をあてた。
「父上のお気持ちは痛いほどわかります。でも、この猫耳を何とかしないことには女性との交際は……」
すっと初恋の少女のことを思い出し、カットは猫耳を力なくたらす。
ティーゲルには言っていないが、女性と交際できない理由がカットにはもう1つあった。
自分に呪いをかけた少女を、カットは忘れることができないのだ。
「何、それだったら手は打っておる」
弾んだ父の声にカットは我に返る。
くくくくっと怪しげな笑い声をあげながら、ティーゲルは指を鳴らしてみせた。 その音を合図に、部屋の扉を叩く音が聞こえる。
誰かが部屋に入ってくる。カットは手早く卓上に置いていた帽子を取り、被ってみせた。
「今日から国王陛下警護の任を受けました。王族警護隊所属フィナ・ムスティー・ガンプンっ。参上いたしましたっ!」
凛とした声が扉の向こう側から響いてくる。びくりとカットは猫耳を立ち上げ、扉へと眼を向けていた。
扉が静かに開かれ、軍服姿の女性が部屋へと入ってくる。
彼女は豊かな黒髪を後方へ結わえ、紺青の軍服に身を包んでいた。彼女は赤い眼をカットへと向けてくる。
一瞬、カットの脳裏に幼い頃の記憶が蘇った。
――あんたなんて猫になっちゃえばいい!!
そう言い放った少女に、彼女の面差しはどこか似ていたのだ。
まるで、成長した少女がその場にいるような気がしてしまう。カットは女性から目を離すことができなかった。
すっと眼を伏せ、彼女は右手を頭の前に翳し敬礼をする。その流れるような動作に、カットは見惚れていた。
「陛下、いかがなさいました?」
凛とした声に呼ばれ、カットは我に返る。軍服の麗人は、不安げにカットを見つめていた。
「その、国王陛下警護の任というのは……」
「はい。先王様から仰せつかり、今日から私が陛下の身の回りの警護にあたることとなりました。よろしくお願いいたします」
整った顔に笑みを浮かべ、彼女はカットに答えてみせた。彼女から視線を放し、カットはティーゲルを睨みつける。
「すまんカット。言うの忘れとったわ……」
好々爺然とした笑みを浮かべ、ティーゲルは得意げに笑ってみせた。
先週か、いや先々週だった気がする。
王族警護隊が突然解散させられる事態が起こった。彼らはその名の通り王族を警護する、近衛兵の中でもエリート中のエリートだ。
そのエリートたちが、ティーゲルの鶴の一声で解散させられた。
――王族って、儂とカットしかいないではないか? 警護隊自体、その数を縮小させるべきだと思うのだが? つーか、カット警護隊より強いし問題ないだろう?
これがその時のティーゲルの言葉だ。
先々代の王の時代、近隣諸国では次々と後継ぎが急死する不幸に見舞われていた。度重なる政略結婚により、この国の王族は近隣諸国と血縁関係にある。そのため、第一王位継承者であるティーゲルをのぞき、他の王子や姫たちは次々と他国の王位継承権を得るという幸いに見舞われた。
これによりティーゲルの代になって困ったことが起こった。王位継承権を継ぐことが出来る人間が、息子のカット以外いなくなってしまったのだ。
彼は考えた。
たった一人しかいない王位継承者をどうやって守っていけばいいのか。
そして彼は、鬼のような特訓により息子を日々鍛えていったのだ。剣豪王ティーゲルと呼ばれた父の血を継ぎ、カットは剣の腕をめきめきとあげていった。
今や、貴族たちの中でもえり抜きの実力者とカットは肩を並べるほどに強い。強すぎて、昨年行われた剣術大会で自分を警護する隊員すべてを倒し、優勝してしまったぐらいだ。
その実力を逆手にとられた。
彼が王族警護隊を解散させる様を、カットも指を銜えてみていたわけではない。散々ティーゲルに掛け合ったが、彼の意向を変えることはできなかった。
王位についているとはいえ、カットはまだ半人前だ。実質的な権力はティーゲルが握っている。
「父上は何を考えているんだ……」
はぁっとカットはため息をついて、顔をあげる。窓を走る雪景色を眺めながら、カットは頬杖をついていた。
馬車の心地よいゆれが、沈んだ気持ちを慰めてくれているようだ。窓に映る自身の姿を眺めながら、カットはさらに物思いに沈む。
銀髪で覆われたカットの頭は、愛用の猫毛帽子ですっぽりと覆われていた。忌々しい猫耳も帽子に隠れて見えなくなっている。
「その帽子、お好きなんですね」
向かいの席から愛らしい声がして、カットは肩をピクリと動かしていた。顔を向けると、軍服に身を包んだ麗人がこちらに微笑みかけてくる。
「母が、作ってくれたものなんだ」
「お妃さまが……」
頭の帽子をなでて、カットは彼女に曖昧な微笑みを浮かべていた。
フィナの表情が曇る。そんなフィナの表情を見て、カットは少しばかり胸を痛めていた。
帽子のことにふれられたら、カットは帽子の制作者の名前を挙げることにしている。そうすれば、誰もが帽子を被ることを自然と黙認してくれるのだ。
カットの亡き母ヴィッツは温厚な性格から国民に慕われていた。そして、幼いカットを残し夭逝してしまった悲劇の王妃でもある。
今でもカットは鮮明に思い出すことができる。
純白のドレスに身を包んだ棺の中の母親の姿を――
彼女の棺をノルウェージャンフォレストキャットたちが橇に乗せて教会まで運んでくれた。
王都の人々は黒衣に身を包み、涙を流しながら母を見送ってくれたのだ。
カットはあのときのティーゲルの姿を忘れることができない。
必死になって涙をこらえる父を見たのは、後にも先にもこのときだけだった。
自分を結婚させたいという父の気持ちをカットは痛いほど分かっている。自分もできるならその気持ちに応えてあげたい。
でも――
じっとカットはフィナを見つめる。
昨日から自身の警護の任についている彼女は、父が結婚相手にと自分に用意した女性で間違いないはずだ。
「どうかなさいました? 陛下」
「いや、フィナは女の子なのにどうして俺の警護なんかしてるのかなって思ってっ」
「女が、王をお守りしてはいけないということですか?」
眼を鋭く細め、フィナがカットを見すえる。
そんな彼女の様子をみて、カットは苦笑を浮かべていた。フィナはこういった質問をすると、すぐに機嫌が悪くなる。それも仕方のないことだ。
先々代の王の時代から、この国では貴族の女性も軍隊に入ることが出来るようになった。未だにその数は少なく、軍では肩身の狭い思いをしている女性たちがほとんどだという。
貴族の娘たちは家のために良い結婚をすることが幸福だと教えられるものだ。同じ貴族の女性たちも、軍隊に身を置く彼女たちを理解する者は少ないだろう。そんな少数者であるフィナが自分との結婚を望んでいるとは思えない。
「すまなかった。質問を変えよう。フィナに好きな人はいるかな?」
彼女の頬が赤く染まる。眼を伏せ、彼女はカットから顔を逸らしてみせた。
「なぜ、そのような……」
「いや、俺にも気になってた子がいてさ、その君が……」
カットの脳裏に、幼い頃の記憶が蘇っていた。
――あなたなんて猫になっちゃえばいい!
雪が降っていたあの日。カットは、友達であった少女を傷つけた。
突き飛ばした彼女は、赤い眼で自分を睨みつけそう叫んだのだ。
その次の日から、カットの耳は猫耳になった。
「違いますよ、陛下……」
小さくフィナが言葉を紡ぐ。
そっとカットに向き直り、フィナは微笑んでみせた。その微笑みが、どことなく悲しげなのは気のせいだろうか。
「私に、人に愛される資格などありません。私は、国王陛下をお守りしたい一心で軍隊に入った身です。愛されるのではなく、この国の盾になり誠心誠意お仕えする。それが、私の望みなのです……。私は女です。出過ぎたことをしていることは分かっています。そんな私と、初恋のお方をお比べになってはいけません……」
胸に手を当て、フィナは言葉を紡ぐ。美しく煌めく彼女の眼から、カットは眼を離すことができなかった。
王都の外れには、古くから佇む樽板教会がある。
大きな木製の梁と柱を利用して造られた教会は、丘のうえに建っていた。
褐色の木製瓦で葺かれた屋根は五層にも折り重なっており、その外壁も鱗状の木製タイルで覆われている。中央に時計台を備えた教会の扉には、ユグドラシルを図形化した複雑な文様が透かし彫りで施されている。
教会の建つ丘は急な斜面を持つ山で覆われており、その斜面には若い針葉樹林が疎らに生えていた。
教会の建つ丘のうえに、カットを乗せた馬車とフィナはやって来ていた。
手で廂をつくり、フィナが教会を見上げる。
雪がやみ、空には太陽が昇っていた。雪に反射する陽光は眩しい。その陽光から眼を守るために、フィナは手を自分の眼のうえに翳しているのだろう。
そんなフィナを見つめながら、カットは従者の助けを借りて馬車を降りる。降り積もったばかりの新雪は柔らかく、カットは靴底に広がる感触に笑みを浮かべていた。
「いつ来ても、凄いですね……」
教会を眺めながら、フィナが口を開く。カットは彼女の横に並び、表情を窺っていた。美しい彼女の容貌は、心なしか曇っているように感じられる。
「ここに来たことが?」
「ここは、思い出の場所なんです。それに、王妃様の葬儀が行われたのも――」
フィナの眼が伏せられる。その眼は遠い昔に思いを馳せているようだった。
彼女は、母を知っているのだろうか?
ふと、そんな疑問がカットの中に浮かぶ。そして思ってしまう。
似ている。猫になってしまえば言いと、自分に呪いをかけた少女に。
彼女と同じフィナの赤い眼が、その思いをより強くする。
「にゃあー」
物思いに沈むカットを、猫の鳴き声が引き戻す。足元を見ると、教会で飼われている猫がカットのブーツに体をこすりつけていた。
赤毛の長毛を持つ、この教会の看板猫だ。
「どうした? アップル」
「にゃー」
猫の名を呼び、カットは足元の雌猫を抱きあげてみせる。抱き上げられた猫は上機嫌で喉を鳴らしてみせた。
「猫……。好きなんですか?」
「んっ?」
ぎこちない声をかけられ、カットはフィナを見つめていた。フィナは興味深げにカットの腕に抱かれたアップルを見つめている。
「もしかして、フィナ……」
「いえ、任務中……」
「にゃあっ!」
フィナの言葉を、アップルの愛らしい鳴き声が遮った。アップルはアーモンド型の眼をフィナに向けている。
愛くるしい眼を見つめながらフィナは苦しげに呻き、胸元に手を当てる始末だ。
「い、今は任務中……。可愛くなんて、可愛くなんて……」
「抱いてみるか?」
「えぇ?」
カットの言葉に、フィナは大きく叫んでいた。
「ですが……その……猫なんて、そんな……」
「命令だよ、フィナ。アップルを抱くんだ」
「畏まりましたっ!」
カットの命令に、フィナは嬉しそうに声をあげる。ばっと彼女はカットの前方に移動し、素早くカットに抱かれていたアップルを掠めとった。
「命令だったら、仕方ありませんね……。猫なんて可愛く……あ、何だかモフモフしてます。さすが、ノルウェージャンフォレストキャット……。あぁ、気持ちいい! 気持ちいい! 気持ちいぃい!」
「にゅぁいあいあぁいいあぁぁぁ!」
アップルを抱きしめ、フィナはアップルの体に激しく頬ずりを繰り返す。驚いたアップルが奇妙な鳴き声をあげた。
「みゃう!」
「あうっ!」
怒り狂ったアップルの猫パンチが、フィナの頬を襲う。ぶにゅりと柔らかな肉球でフィナの頬を叩き、アップルは彼女の腕から跳びおりる。
「シャー!」
地面に着地したアップルは毛を逆立ててフィナを威嚇した。牙をフィナに見せつけながら、アップルは教会へと走り去っていく。
「アップルさん……」
絶望に身を震わせながら、フィナは地面に膝をつく。彼女は力なく去っていくアップルへと手をのばしていた。
「ははっ、猫好きなんだな」
腹に手を当て、カットは笑う。
規律に厳しい女性かと思いきや、フィナの意外な一面を見ることができて嬉しかった。会ったときはとっつきにくい印象を受けたが、根は可愛らしい女性のようだ。
「あ……あ」
地面に座ったままのフィナは、カットの笑い声に顔を赤くしてみせた。彼女はがばっと両手で顔を覆い、声をあげる。
「こっ、これは陛下の命令に従っただけでっ! その、けっしてそのような……」
「母さんも、猫が好きだった……」
「えっ……」
カットの言葉に、フィナは顔をあげていた。
きょとんとカットを見あげるフィナには、初めて会ったときのような凛とした印象は窺えない。おそらく、こちらが素の彼女なのだろう。
「フィナも女の子なんだな」
カットは彼女に近づき、そっと手を差しのべていた。すっとフィナの頬が赤く染まる。
「陛下……」
「命令だよ、フィナ。俺の手を取ってくれないか?」
「はい……」
カットから顔を逸らし、彼女はカットの手を取った。その行為に少しばかり寂しさを感じつつ、カットは言葉を続ける。
「一緒に来てくれないか? 母さんに君を紹介したい」
丘の外れには、緩やかな傾斜面が広がっている。短い春がやってくるとブルーベリーの白い花で覆われるそこは、十字架の形をした墓石が点在している。傾斜面の最後は崖になっており、峻厳としたフィヨルドの一部を形づくっていた。
苔で覆われた墓石にはうっすらと雪がかかっていた。カットはその雪を手で退かし、持ってきたドライフラワーの花輪をかける。ブルーベリーの花でできたそれは、まっさらな雪と違い乳白色だ。
亡くなった母のことを思い出し、カットは微笑んでいた。
ブルーベリーの花輪をプレゼントすると、ヴィッツはいつも嬉しそうに微笑んでカットをなでてくれた。
「ブルーベリーの花。母さんが好きだった花なんだ」
ヴィッツの墓石をなでながら、カットは後方へと振り向いてみせる。眼を曇らせ、フィナがカットを見つめていた。
「そんなに辛気臭そうな顔しないでよ。俺に仕えることになった者たちには、みんな母さんに挨拶をしてもらってる。フィナにもそうしてもらいたいんだ……」
カットは弾んだ声でフィナに話しかける。フィナは覚束ない足取りで墓石に向かい、そっと頭をさげた。
「お初にお目にかかりますお妃さま。このたびカット国王陛下の護衛任務を仰せつかった、フィナと申します」
そっとフィナは顔をあげ、墓石に微笑みかける。
「どうかご安心ください。お妃さまの大切な陛下は、このフィナが誠心誠意お守りいたします」
フィナの声に応えるように小さな風が吹き、雪を巻き上げていく。ゆれる黒髪を片手で押さえ、フィナは空を仰いだ。
漣の音が聞こえる。ヴィッツの墓石の向こう側には、どこまでも続く海洋が広がっていた。
エメラルドグリーンに光る氷山の間から、崩れかけた巨大な塔がいくつも顔を出している。その昔ラグナロクで滅んだ巨人族の都だというその遺跡は、海中に没し全容を窺い知ることはできない。
その遺跡の向こう側に、北極圏に生えたユグドラシルが聳えている。
「神たちに滅ぼされた巨人たちは、どこに行ってしまったのでしょうか?」
フィナの赤い眼が崩れた塔を映しこんでいた。
そっとカットはフィナに顔を向ける。彼女は眼を伏せ遺跡の塔に見入っていた。海風が吹いて、塔が唸る。
フィナの言葉に、カットは遠い昔に起きたラグナロクに思いを馳せていた。
冬に覆われた終焉の世界で、神々と巨人族はお互いに争い滅び去ってしまう。戦が終わったあと、新たな大地が海から浮かび上がり世界は再生した。その地が今この国がある場所なのだ。
遠い昔に、同じやり取りをあの少女と交わしたことがある。
猫になってしまえばいいと、自分に言い放ち別れてしまった少女。
目の前にいるフィナに、よく似た少女。
「フィナ……。やっぱり君は――」
放った言葉は、体に走った衝撃によって遮られる。カットの体は宙に浮き、凄い速さでフィナから遠ざかっていくではないか。
「陛下っ!」
「フィナっ!」
フィナの叫び声が聞こえる。彼女に手を差しのべるが、その手は彼女から遠ざかるばかりだ。
気がついたときには、もう遅かった。
カットは後ろから誰かに抱きすくめられ、橇に乗せられてしまったのだ。
ノルウェージャンフォレストキャットに引かれる橇は教会の建つ丘をくだり、深い谷を目指して疾走する。
「お久しぶり。愛しい人……」
そっと帽子越しに頭をなでられ、カットはびくりと肩を震わせていた。自分を抱きしめている相手を見上げ、カットは眼を見開いていた。
自分より長身なその男は、長い赤毛を風にゆらしながらカットに微笑みを向けている。
「レヴ……。お前、実家に帰ったんじゃ……」
「陛下のことが好きすぎて、帰ってきちゃった」
翠色の眼を煌めかせ、レヴは笑みを深めてみせた。
レヴ・クラスティ・オーブシャッティンサンは、カットの警護を勤めていた男だ。
貴族の子息で構成されていた王族警護隊の中でも屈指の実力者であり、幼い頃からカットに仕えていた人物。その男がなぜかカットを誘拐している。
「ちょっと待て、なんでお前が俺を誘拐してるんだよっ?」
「陛下が好きだからっ!」
カットは疑問に、レヴは得意げに笑ってみせた。
猫橇を巧みに操るレヴに、カットは後方から抱きしめられている状態だ。
「お前、実家に帰って、家継いでる義兄さんを助けるんじゃなかったのか?」
「いや、義兄さんに嫁が出来ちゃってさ、なんかいづらくなちゃった。義父さんが俺にも結婚しろってしつこいんですよぉ。一応婚約者はいるけれど、そんな気分じゃないし……。俺、陛下のせいで今無職だし。どうしよう……」
こくりと首を傾げ、レヴは笑みを深めてみせる。彼の言葉に、カットは何も言うことができなかった。
彼の解雇を止められなかったのは自分の責任だ。王族警護隊に入っていた隊員のほとんどが、他の部隊へと移動となった。だが、レヴのように軍を辞めていったものもいる。
「それに俺というものがありながら、あんな可愛い子ちゃんが新しい護衛ってどういうことです? そりゃ、俺は陛下より弱いですけど……」
「すまん……」
去年の剣術大会を思い出し、カットは謝罪の言葉を口にする。
腹痛で思うように剣が振るえないレヴを、カットは容赦なく倒したのだ。自分の言うことをきかないこの男を懲らしめたくて、手加減が出来なかった。
「あ、もしかしてまだ去年のこと悩んでます? そんなもんとっくに水に流しましたよ。本当に陛下は生真面目なんだから……」
レヴが顔を覗き込んでくる。眼を不機嫌そうに歪め、彼は言葉を続けた。
「俺がご挨拶したいのは、後ろから俺たちを追いかけてくる、こわーい女の子ですから」
レヴの弾んだ言葉に、カットは思わず後方へと顔を向けていた。
猫たちに引かれた青い橇が、物凄いスピードでこちらへと迫ってくる。橇を引く最前列のリーダー猫はアップルだ。
そして、橇を操るのは――
「陛下を返せっ! この不届き者がっ!」
紅蓮のごとく眼を光らせ、怒り狂ったフィナだ。彼女はカットたちの乗る橇を睨みつけ、アップルに指示を送る。
「アップルさん。お願いしますっ!」
「にゃうっ!」
アップルが後方を走る猫たちに合図を送る。
『にゃー!』
猫たちはいっせいに鳴き、走るスピードをあげる。フィナの橇がまた近くなり、カットは彼女に叫んでいた。
「フィナこっちは大丈夫だ! これには訳が――」
「陛下、橇お願いしますっ!」
後方にいるレヴがカットの言葉を遮る。彼はカットから離れ、立ち上がった。
「ちょ、レヴっ?」
「我はオルム・クラスティ・オーブシャッティンサンが義息子レヴ・クラスティ・オーブシャッティンサンっ! フィナ・ムスティー・ガンプンに勝負を挑むっ!」
両脇に差していたレイピアとタガーを抜き、レヴが高々と名乗りをあげる。
「フィナ・ムスティ・ガンプンッ! その勝負承ったっ!」
フィナも高々と声を上げ、腰に下げていたサーベルを抜刀した。フィナの橇が、カットたちの橇と並ぶ。
フィナとレヴはお互いに睨み合い、剣を構える。
「アップルさんっ!」
「にゃうっ!」
アップルが鳴く。その鳴き声を合図に、両者は刃を振るった。フィナの小ぶりなサーベルを、レヴのタガーが防ぐ。すきの出来たフィナの首元に、レヴはレイピアの刃を伸ばした。後方に下がり、フィナはその刃を交わす。
「おい、お前たちっ!」
「陛下は黙ってっ!」
戦いを止めようとしたカットの言葉を、レヴが遮る。彼はカットへと振り向き、嗤ってみせた。
「陛下は俺のなの……。それを、あんな小娘に盗られてたまるかっ!」
レヴが跳ぶ。フィナの橇へと着地した彼を、カットは唖然と見送ることしかできない。橇へと着地したレヴの剣劇を、フィナはサーベルを滑らせしなやかに受け流して見せる。フィナの腹部に、レヴのタガーが肉薄する。フィナは足を浮かせ、レヴに蹴りをお見舞いした。
フィナの蹴りがレヴのタガーの軌道を逸らし、レヴの腹部に命中する。
「ぐぅ!」
レヴは橇の外へと突き飛ばされ、カットの乗る橇に倒れ込んできた。
「レヴっ」
カットが叫ぶ。
「女だからと言って甘く見るな、下郎っ」
サーベルの刃を倒れるレヴに向け、フィナは不敵に笑ってみせる。レヴはそんなフィナを睨みつけながら、体を起こす。
「くそっ、剣以外ってアリかよ……」
蹴られた腹部が痛むのか、彼は腹に手を当て立ちあがる。フィナは鋭く眼を細め、片足をあげてみせた。先ほどレヴのタガーがあたったせいだろう。フィナのブーツには、細長く切れ込みが入っている。
「どうしてくれる……? 陛下を攫っただけでは飽き足らず、国民の血税で賄われている軍備品をお前は傷つけた。まったくもって、万死に値する下郎だな」
怒りに燃えるフィナの眼がレヴに向けられる。びくりとレヴは肩を震わせ、顔を引き攣らせてみせた。
「おいおい……。かりにもレディがそんな……」
「軍人に男も女もないっ!」
橇の縁に足をかけ、フィナが跳ぶ。フィナは軽い身のこなしでカットの橇に着地した。彼女は、ためらうことなくレヴに向かって刃を振るう。レヴは横に逸れ、刃を躱した。
「小賢しいっ」
容赦なくフィナのサーベルがレヴを追う。レヴはタガーを逆手に握り直し、かろうじてサーベルの刃をいなした。
「さて、ダンスといこうかレヴ殿っ」
美しい唇を歪め、フィナが不敵な笑みを浮かべる。
「誘ってるんじゃねぇよっ!」
レヴもまた苦笑を滲ませ、フィナに突きをお見舞いしていた。まるで蝶が舞うようにひらりとその突きを躱し、フィナはレヴの背後へと移動する。笑みを深め、フィナはレヴの両肩に手を置いてみせた。
「まだまだ、リードが甘いな。そんなんじゃ、レディの相手はできないぞ……」
ふっとレヴの耳に息を吹きかけ、フィナは囁いていせる。びくりとレヴは体を震わせ、後方にいるフィナへと顔を向けていた。
「さらばだ。もう、顔を合わせることもないだろうがなっ!」
レヴの両肩から手を放し、フィナは彼の背中に思いっきり蹴りを入れる。
「ぐわっ!」
レヴが呻く。彼の体は橇から投げ出され、接近していたもうもう一つ橇へと倒れ込んだ。
「アップルさん。その不埒者を憲兵たちのもとに送り届けてくださいませんかっ?」
「にゃーうっ!」
フィナの言葉に、橇を引くアップルが上機嫌で返事をする。アップルの引く橇は速度をあげ、ぐんぐんとカットの乗る橇から遠ざかっていった。
「ちょ、おいまてっ! 陛下っ! 陛下ー!」
橇から身を乗り出し、涙目のレヴがこちらに向かって叫んでくる。
「なんなんですか、アレは……」
「ごめん……。あとでゆっくり話す……」
呆れた様子のフィナに、カットはそう返すことしかできなかった。
ふわりと粉雪が肩にとまって、カットは顔をあげていた。
空が灰色に濁っている。その空から、柔らかな雪が降っているのだ。
「にゃー」
橇を引く猫たちが鳴き声をあげる。顔を正面に向けると、丘のうえに建つ樽板教会を認めることができた。
「とんだ災難に会いましたね」
フィナの声がする。後方へ顔を向けると、フィナは微笑みを浮かべ、空を仰いでいた。
「うわー、柔らかそうな雪ですね。早く馬車の待っている教会に着かないと、大変なことになりそう」
フィナが笑顔をこちらへ向けてくる。笑みを刻む彼女唇が愛らしい。どきりとカットの心臓は高鳴っていた。
先ほどまで、レヴと戦っていた女性には見えない。そのギャップに、戸惑いを覚えてしまう。
「そうだな。急ごうっ」
弾んだ声をフィナにかけ、カットは慌てて正面を向いていた。
「もっと速く走ってくれっ」
先頭を走るリーダーの猫に声をかけ、カットは橇の速度をあげる。
カットたちを乗せた橇は、丘の斜面を登っていく。
そっとカットは後方を向く。フィナの黒髪が風に煽られ、舞い散る雪の中で煌めいていた。そんな髪を、フィナは優美な手つきで押さえてみせる。
その仕草から、眼が離せなくなる。フィナの視線がこちらに向いて、カットは慌てて顔を逸らしていた。
教会が迫ってくる。カットは猫たちに合図を送り、橇をとめる。
「ありがとうございます。陛下」
フィナがお礼の言葉を述べてくる。カットが彼女へと振り向くと、彼女は橇から降りようとしている最中だった。フィナは、破れているブーツにかまうことなく地面に足をつけようとする。
「フィナっ」
そんな彼女をカットは引き寄せ、横抱きにしていた。
「ちょ、陛下っ!?」
腕の中のフィナが叫び声をあげる。そんなフィナを睨みつけ、カットは言葉を放っていた。
「ブーツが破れたままじゃないかっ? そんな状態で君を歩かせるわけにはいかないっ!」
ぎゅっとフィナを抱き寄せ、カットは橇を降りる。そんなカットの腕の中で、フィナは必死に抵抗を続けていた。
「ちょ、いいです! 大丈夫です! 放してくださいっ! こんなっ――」
「フィナっ!」
カットの叫びがフィナの言葉を遮る。びくりとフィナは怯えた様子でカットを見つめた。
「まだ、俺が許せないのかい?」
「陛下……」
眼を歪め、カットはフィナを見つめることしかできない。フィナは困ったように眼をゆらしながら、カットの帽子へと手をのばしていた。
白い帽子にフィナの細い指が伸ばされる。しばらくのあいだフィナの手は、帽子の前でとまっていた。
フィナはぎゅっと眼を瞑り、カットの帽子を脱がせる。
窮屈な帽子が取れて、猫耳がふわりと広がっていく。帽子に絞めつけられていたせいで、耳が痛い。
帽子を手に持ったフィナが、そっと眼を開ける。彼女はカットの顔を怯えるように見あげ、その両側についた猫耳をじっと凝視した。
カットもフィナを静かに見つめる。
フィナの顔が苦痛に歪む。彼女はカットから眼を逸らし、その眼に涙を浮かべた。泣いている姿をカットに見られたくないのか、フィナは帽子を持った手で顔を覆ってしまう。
「フィナ……」
「私のせいなんですね……」
フィナの言葉にカットは答えない。
「ごめんなさい……」
ただ、彼女の謝る声だけがカットの猫耳に響き渡った。
フィナと出会ったのは、まだカットが幼い頃だった。
病に臥せっていた母のヴィッツを慰めたくて、カットは城を抜け出し、教会の墓所へとブルーベリーの花をよく採りに行っていた。
そこで、泣いている女の子に出会った。
今でもカットはその時のことを思い出すことができる。
巨人たちの廃墟を眺めながら、フィナは眼に真珠のような涙を宿していた。背中に流れる黒髪に雪がかかり、儚い光を放っていた。
そんなフィナからカットは眼を離すことができなかったのだ。
眼を離したら、彼女が崖の向こうに姿を消してしまう気がして。そんなことを彼女にさせたくなくて、カットはフィナに声をかけていた。
「お花、好き?」
声をかけると、フィナは驚いた様子でカットへと振り向いてきた。そんなフィナに、カットは真っ白なブルーベリーの花を差し出したのだ。
真っ白なブルーベリーの花が壁一面を彩っている。ここは王城にある王妃の間だ。亡くなった母親の自室を見渡しながら、カットはフィナと出会った頃に思いを馳せていた。
部屋にある大きな丸窓の外では、雪が降っている。フィナに帽子をとられたあと、彼女を抱いたままカットは迎えの馬車へと移動した。
帰りの馬車の中で、自分の猫耳を眺めていたフィナを思い出してしまう。
赤い眼を潤ませ、彼女は悲しげな眼差しをカットに送り続けていた。
彼女は言った。
自分は魔女だと――
カットに生えた猫耳の呪いは、彼女がカットにかけたもの。そして自分は呪いを解くことが出来ない未熟な魔女であることも、彼女は話してくれた。
「フィナは冥府を治める女神ヘルの血を引いた魔女だ。そして、呪われた娘でもある」
室内に厳かな声が響き渡る。
カットは声を主へと顔を向けた。寝台の側に置かれた椅子にティーゲルが腰かけている。彼の前には猫足のテーブルがあり、その上に一枚のキャンパスが置かれていた。
キャンパスには、ティーゲルの部屋に飾ってある肖像画と同じヴィッツの姿が描かれている。肖像画はこのキャンパスに描かれた絵を拡大して描かれたものらしい。
アイスブルーの眼を細め、絵の中のヴィッツは笑っている。そんなヴィッツの頬を、ティーゲルは皺の寄った手で優しくなでていた。
「ヴィッツは儂の花嫁候補としてこの城に連れてこられたんだ。そしてもう一人儂の花嫁になるべく、連れてこられた女がいた。それがフィナの母親だ――」
ティーゲルの言葉に、カットは息を呑んでいた。
太古から魔女を妃に迎えることは王の役割とされている。魔女の血は呪いから王の血族を守ってくれるからだ。
王位継承者が婚期を迎えると魔女たる娘たちが集められ、王はその中から妃となる女性を探すのだ。
近々行われる舞踏会にやってくる娘たちも魔女だ。側室として、数人の女性が王に召し抱えられることもあるという。
「まさか、フィナは――」
「安心しろ。血は繋がっていない」
ティーゲルの苦笑をみて、カットは安堵を覚えていた。
「だが、お前と彼女には不思議な縁があるみたいだな……」
すっと、ティーゲルの顔が後方にある寝台へと向けられる。白い天蓋がついた寝台には、かつて病に臥せったいたヴィッツが横たわっていた。
「なぁ、カット。ヴィッツはどうして死んだと思う?」
眼を伏せ、ティーゲルはカットを見つめる。父の真摯な言葉に、カットは彼を見つめ返していた。
「ヴィッツは魔女の呪いを受けて殺された。あの女は、お前の母さんより強力な力を持った魔女だったんだ……」
ティーゲルは言った。
結婚などしたくなかった彼は、花嫁候補として連れてこられた二人の魔女にこう命じたのだ。
『この国を、お前たちの力で豊かにしてみろ』
ヴィッツは豊穣の女神フレイヤの血を引く魔女である。彼女はその血に宿る力をもって、国を豊かにした。前年以上に小麦がたくさんの穂をつけ、国の特産品であるサーモンは価格が暴落するほど大量に捕れた。
そしてもう一人の魔女はムルケといった。彼女は冥府の女神ヘルの血を受け継いでいたのだ。
ムルケは近隣諸国の跡継ぎたちを次々と呪い殺していった。これにはティーゲルも驚いた。ティーゲルは彼女にこの行為をやめるよう迫ったが、ムルケは笑いながら答えたのだ。
――どうしてですか陛下? 国を豊かにしたいのなら、邪魔者を殺して奪ってしまえばよろしいのに。
彼女の力は強力であり、対抗できるのは女神フレイヤの血を引くヴィッツだけだった。ヴィッツは戦いの末にムルケを封印するが、体に呪いを受けてしまう。
そして、ムルケには娘がいた。彼女には夫がいたのだ。
宰相のウルだ。
ウルは国のために自らの妻をティーゲルに差し出した。
生まれたばかりの娘フィナと引き離され、彼女は王の妻となるべく王城に連れてこられたのだ。
父との会話を思い出し、カットは大きく息を吐いていた。自室にある机に片手を置き、カットは後方の窓を見つめる。
月が明るい。
蒼く照らされる雪景色の向こうには、丘の上に佇む樽板教会がある。その教会の外れには崖が続き、海が広がっていた。
浅瀬に浮かぶ巨人族の遺跡が、月明かりに紺青の影を浮かび上がらせている。
切なげに遺跡を見ていたフィナのことを思い出し、カットは窓辺に手をついていた。窓を開けると、身を切るような冷たい風が頬にあたってくる。
あの崖の上に、母が眠っている。
そして、海にはフィナの母親が封印されているのだ。
幼いフィナは、けっして名前を教えてはくれなかった。しつこく聞くたびに、彼女はカットにこう言ったのだ。
――本当は私、いちゃいけない存在なんだって……。だから誰にも名前を教えるなって、お父様が……。
彼女が見せた悲しげな眼差しを、カットは忘れることができない。
「それでもあなたは、フィナを政治の道具にしろと言うのですか? 父上――」
カットの言葉は、夜闇に溶ける。
ティーゲルは言った。
フィナを妻に迎えることこそが、この国のためだと――
彼女はヴィッツすらも呪い殺した魔女の娘なのだ。
そしてフィナ本人も、ヴィッツを凌ぐ力を持っている。
冷たい風にカットは猫耳を震わせていた。女神フレイヤの血の守護さえも破ったフィナの呪い。この猫耳こそ、フィナが強力な魔女である証なのだ。
もしフィナが妃となれば、この国はこの上ない安定を手に入れるだろう。
フィナは近隣諸国の王位継承者たちを呪い殺した魔女の娘だ。強力とされるフレイヤの血の守護さえも、彼女の呪いは破った。
フィナがカットの意のままになると知ったら、近隣諸国の王たちはハールファグルに忠誠を誓うようになろうだろう。
空を仰いで、ティーゲルとのやり取りを思い出す。
――フィナを政治の道具にするつもりかっ!
父の言葉にカットは叫んでいた。そんなカットに父は静かに言ったのだ。
それでもお前は、一国の王かと。
自分を照らす月が眩しくて、カットは眼を細めていた。鋭い月光は、ティーゲルの眼差しを思い出させる。
射貫くような、彼の眼差しを。
カットは顔の前に手を翳し、月の光を遮る。
「フィナと同じだ……」
太陽の光を手で遮っていたフィナを思い出し、カットは苦笑していた。
ティーゲルに何も言い返せなかった自分が情けない。
たしかに自分はこの国の王だ。
この国を護り、この国の礎である国民に尽くす義務がある。
だが、いまだにその実感がカットにはないのだ。
そんな男を、フィナは愛してくれるだろうか。ましてや、この国のために彼女は身を捧げてくれるのだろうか。
「今のフィナなら、やりかねない……」
――ごめんなさい。ごめんなさい。
帰りの馬車の中で、顔を覆いながら謝罪を繰り返していた彼女の姿を思い出す。
――ごめんなさい。カット……。
何度も謝るフィナの言葉を反芻しながら、カットは口を開いていた。
「君を傷つけたのは、俺なのに……」
その言葉は誰にも聞かれることなく、夜闇に溶けていく。
ブルーベリーの花が壁一面に咲いている。床には色とりどりのローズマリングが描かれ、部屋を彩っていた。
そして真っ白な寝台には、母であるヴィッツが横たわっている。まるで雪のような白銀の髪をシーツに流し、ヴィッツは安らかに眼を閉じていた。
長い睫毛に覆われた母の眼はぴくりとも動かない。
幼いカットは心配になって、ヴィッツの手に自分の小さな手を重ねていた。
「母様……」
小さくヴィッツを呼ぶ。だが、彼女は返事してくれない。
「母様っ……」
少し大きな声を出してみる。瞬間、ヴィッツは大きく眼を見開き、上半身を乱暴に起こしていた。母の突然の奇行に、カットは体を震わせる。そんな我が子を抱きしめ、ヴィッツは耳元で優しく囁いたのだ。
「どうしたの、カット。また、お父様に怒られた?」
「ううん」
母親の囁きに、カットは首を横に振って応えてみせる。ヴィッツの腕から、じんわりとぬくもりが伝わってくる。母の心地よい香りに、カットはとろんと眼を細めていた。
「あのね、女の子に会ったの……。その……」
「また、城を抜け出したのね……?」
母の声が固い。カットはその声に身を強張らせていた。
カットが城を抜け出すことをヴィッツは快く思っていない。それでも外に出られない母をカットは慰めたくて、城をよく抜け出していた。
でも、今日は母に渡すはずの花を見知らぬ少女にあげてしまった。
泣いている少女を慰めたかったから――
「ねぇ、その子はどんな子だったの?」
ヴィッツが顔を覗き込んでくる。カットは驚いて眼を丸くした。顔を綻ばせ、ヴィッツは言葉を続けた。
「私はここから離れられない。だからね、カットがその子とどんな風に遊んだのか教えてほしいの。そしたらお母さん、嬉しいな」
母の思わぬ言葉に、カットは笑みを浮かべていた。
墓地で出会った少女のことを思い出す。流れるような黒髪と、涙に濡れた眼が印象的な少女だった。
ブルーベリーの花を彼女は震えた手で受け取り、彼女は一瞬だけ微笑んでくれた。
でも――
「笑顔が可愛いねって言ったら、逃げちゃった……」
「まぁ、恥ずかしがり屋さんなのね」
俯くカットに、ヴィッツは優しく声をかけてくれる。
白い頬を赤く染め、駆けだした少女の姿を思い出す。待ってとカットが叫ぶと、彼女は潤んだ眼をこちらに向けてきた。
カットが彼女に近づくと、彼女は黒髪をゆらして走り去ってしまったのだ。追いかけたが、彼女を捕まえることはできなかった。
「ねぇカット、顔をあげて御覧なさい」
ヴィッツの言葉にカットは顔をあげる。彼女はカットの額にそっと唇を寄せた。
柔らかな感触が額に広がり、カットは眼を丸くする。
顔を離したヴィッツは、優しく微笑みながらカットに言った。
「女の子と仲良くなるおまじないよ。額は信頼の証。でも、カットがその子を好きになったら――」
ヴィッツは人差し指でそっと自分の唇に触れてみせる。母の唇を見て、カットはほんのりと頬が熱くなるのを感じていた。
黒衣を纏った人々の列が、フィナの前を取り過ぎていく。道路に積もった雪を踏みつけながら、人々は王都の外れにある丘へと向かっていた。
丘の上には、美しい樽板教会が建っている。
そこで今日、この国のお妃さまの葬儀が開かれるのだ。
フィナはお城に行ったことがないから、お妃さまに会ったことはない。
でも女神フレイアの血を引くお妃さまは、白銀の髪と、アイスブルーの美しい眼を持つ人だと父から聞いている。
「フィナ……」
父の声がする。
フィナが顔をあげると、父のウルが険しい顔をして前方の道を見つめていた。
王族を従えた葬列がこちらに向かってくる。
黒いヴェールを纏ったノルウェージャンフォレストキャットたちが葬列の前方を歩いていた。その後方に、大きな橇を引く猫たちが続く。橇の上には棺が横たわっており、その棺の中で一人の女性が眠っていた。
ブルーベリーの花が敷きつめられた棺の中で、女性は横たわっていた。ゆるやかなウェーブを描く白銀の髪が、彼女の体を包み込んでいる。
そんな彼女を見て、フィナは眼を見開いていた。
お妃さまの髪色は、喧嘩別れした友達のものとよく似ていた。大嫌いと言葉を投げつけて、そのまま別れてしまったカットのものと。
棺を乗せた橇は粛々とフィナの前を通り過ぎていく。その後ろに続く王と王子を見て、フィナは口に手を当てていた。
白い帽子を被った王子は、どうみてもカットだったからだ。彼は母親である妃の肖像画を両手に持ち俯いていた。
今にも泣きそうな眼を地面に向けながら、カットはフィナの横を通り過ぎていく。フィナはカットを見つめる。けれど、カットがフィナに気がつくことはなかった。
「どうして……?」
フィナの口から、声が漏れる。
お願いをしたお陰で、彼の母親は助かったはずだ。
それなのに、どうしてカットの大切なお母様は亡くなってしまっているのだろうか。
そのときだ。フィナは強く肩を引かれ、思わず顔をあげていた。
父のウルが険しい顔をフィナに向けている。
「あれは……お前がやったのか?」
威圧感のある声を発し、ウルはそっとカットの帽子を指さしていた。何のことだか分らず、フィナは父を見つめることしかできない。
「王子には呪いがかかっている。それはお前のせいかと聞いているんだ?」
父の言葉の意味を、フィナは葬儀の後に聞かされることになる。
回想を終えて、フィナは静かに眼を開けていた。
彼女の眼の前には、立派な寝台がある。欧州唐檜で作られ、ユグドラシルの透かし彫りが施された寝台には男性が横たわっていた。
そっとフィナは寝台の中を覗き込む。
夜闇に慣れたフィナの眼には、美しい白銀の髪が映りこんでいた。そっと、整った彼の顔に手を伸ばす。頬に触れると、彼はかすかに声を漏らした。
大人になった彼は、それは美しい男性に成長していた。
亡き王妃ヴィッツの面影を引く王には、猫耳が生えている。
それはフィナの呪いによって生じたもの――
「カット……」
彼の名を呼ぶ。
カットの猫耳に、フィナはゆっくりと手をのばしていた。
妙に体が重い。
息苦しさを感じて、カットはうっすらと眼を開けていた。王の間にある寝台は布団が固くて寝心地がいまいちだ。
そのため、どうしても眠りが浅くなる。
――父上は、よくこんな固い寝台でお休みになることが出来たものだ。
苦笑しながら、カットは横に顔を向けていた。欧州唐檜で作られた寝台の縁には、樽板教会と同じようにユグドラシルの透かし彫りが施されている。
寝台の縁に腰かけている人物がいることに気がつき、カットは眼を見開いていた。その人物が体を屈ませてくる。ふわりと長い黒髪が靡き、人物の体を覆っていた。
暗闇で切なげに光る赤い眼が印象的だ。細長い五指がカットの顔にのばされ、カットは眼を見開いていた。
「フィナ……?」
何も言わず、フィナは寝台へと入り込んでくる。カットの体にまたがり、彼女は顔を近づけてきた。
「フィナっ!」
カットは叫び、彼女の腕を掴んでいた。そのままフィナの両腕を掴んで、体を仰向けに倒す。
「あっ……」
フィナの口から呻き声が漏れる。カットは急いで寝台から跳びおり、側の卓上に置かれていたランプを手に取った。
ランプに火を灯したカットは息を呑んでいた。
ベッドに倒れるフィナは何も纏っていなかったのだ。白い彼女の裸体は、ランプの灯りを反射しクリーム色に輝いていた。顔をあげ、艶やかな髪の間からフィナは不安げな眼を向けてくる。
「何を考えている? 君は……」
口から出て来た声音は、想像以上に冷たいものだった。その言葉を聞いたフィナの眼が、怯えるように震えている。
「申し訳……ございません……」
フィナは居住まいを正し、カットに頭を下げる。震えているフィナを見つめ、カットは顔を曇らせることしかできなかった。
「フィナ……」
そっとフィナの肩に手を置く。
フィナは顔をあげた。
赤い眼が、不安げにカットに向けられている。そんな彼女の肩にカットは寝台の毛布をかけていた。
「陛下……」
「眼のやり場に困るからな……」
フィナから顔を逸らし、カットは小さな声で言う。
恥ずかしいことだがカットは女性を抱いたことがない。ティーゲルが差し向けた女性たちがカットを夜這いしたこともあったが、そのたびにレヴが自分の身を守ってくれていた。
「陛下……」
弱々しいフィナの声が自分を呼ぶ。カットは顔をあげフィナを見つめていた。
フィナの赤い眼がカットに向けられている。切なげな視線をカットに向けながら、フィナは言葉を紡いだ。
「私を抱いてくださいますか……?」
フィナの言葉にカットは眼を見開く。自身を抱く彼女を見つめ、カットはフィナの両肩を抱いていた。そっと彼女を寝台に押し倒す。
「あっ……」
フィナが小さな悲鳴をあげる。ぎゅっと眼を瞑る彼女を見て、カットは嘆息していた。
「やめよう、フィナ……。震えてるじゃないか?」
カットは優しくフィナの頬に手を添えていた。フィナがその手を掴む。
「でも、私のせいで陛下は……」
フィナの視線はカットの猫耳に注がれていた。ふっとカットの中で、小さな怒りが生じる。
「君は、俺に抱かれる覚悟があるのか?」
低い声をフィナにかけると、彼女は驚いた様子でカットを見つめてくる。カットはそんな彼女の裸体に馬乗りになり、両手を取り押さえた。
「いやっ!」
フィナの唇から悲鳴があがる。そっとカットは彼女の両手から手を放し、言葉をかけていた。
「ほら、嫌がってるじゃないか……」
震えるフィナの頬にカットは手を伸ばす。
「いやっ」
だがフィナはカットの手を弾いてしまう。弾かれた手の甲が妙に痛くて、カットは顔を歪めていた。
そんなカットを、フィナは眼を見開き凝視する。彼女は眼を歪め、両手で顔を覆った。
「ごめんなさい……。そんなつもりじゃなかったの……。ただ、あのときは凄くあなたが憎くて……」
「俺も、一緒だよ……」
上擦った声をフィナはとぎれとぎれに発してみせる。そんなフィナに、カットは優しく声をかけていた。フィナは顔から両手を離し、カットを見あげてくる。
「君を悲しませたことを、ずっと後悔していた……」
「陛下?」
「ねぇフィナ、少し出かけないか?」
笑みを深め、カットはフィナに問いかける。カットを見つめながら、フィナは不思議そうに眼をしばたたかせた。
「カットは、どうしてここに来るの?」
赤い眼をしばたたかせ、少女が問う。カットはブルーベリーの花にのばしていた手を止めていた。カットは自分の脇に置いた籠を見つめる。籠の中には真っ白な花がたくさんつめこまれていた。
「誰にあげるお花?」
カットの横で彼女はこくりと首を傾げてみせる。春風が彼女の髪を優しくゆらしていった。
青白い母の顔を思い出し、カットは言葉を詰まらせてしまう。そんなカットを見て、少女は困ったように眉根を寄せていた。
「ごめんなさい……。言いたくないのね……」
「母様に、あげるお花なんだ……」
顔を逸らした少女に、カットは小さく告げる。少女は驚いた様子でカットに顔を向けた。
「母様、死んじゃうかもしれない……。僕、そしたら……」
ここ数日のことを思い出し、カットは泣きそうな声を発していた。ヴィッツが突然高熱を出し、意識が戻らない状態が続いているのだ。。
ティーゲルは国中に使者を放ち、有能な医者や薬学師、魔女たちを城に集めた。連日ヴィッツの周囲には彼女の治療のために大勢の人が行き交い、カットは母の様子を見ることすら出来ない有様だ。
じんわりと視界が滲み、カットは眼を拭っていた。
「カットは独りなの……?」
カットに少女が優しく声をかけてくれる。顔をあげると、額に柔らかな感触が広がった。彼女がカットの額に唇を寄せている。
頬が熱くなる。心臓が激しく脈打って、カットは何が起こっているのか分からなかった。
「元気が出るおまじない……」
そっとカットから離れ、彼女は微笑んでみせる。その微笑みから、カットは眼を逸らすことができなかった。
氷山に削られた険しい山の斜面を橇が滑っていく。青い橇を引いているのはノルウェージャンフォレストキャットたちだ。橇を操っているのはカット。カットの後ろには、男性の服に身を包んだフィナが乗っていた。
「どこに行くのですか?」
後方のフィナが不安げに声をかけてくる。カットはちらりとフィナを一瞥した。黒狐のコートを羽織ったフィナは困ったように眉を寄せていた。カットはそんなフィナに笑みを送り、前方へと顔を向ける。
「お前たち、もっと速度をあげてくれっ!」
「にゃう!」
カットの声に先頭のリーダー猫が鳴く。白いその猫がもう一鳴きすると、橇はぐんとスピードをあげて山の斜面を下り始めた。
「みぁあ!」「にぃ……」「みゅう!」
猫たちが嬉しそうに鳴く。カットが顔をあげると、七色に輝くオーロラが雪の降る夜空を覆っていた。
「フィナ、空を見てっ!」
カットは思わず声をあげてしまう。フィナへと顔を向ける。彼女は嬉しそうに赤い眼を空へと向けていた。
「こうやって、二人で空を見つめましたね……」
フィナが口を開く。眼を細め、彼女はカットに微笑みを向けてきた。
「あぁ、懐かしいな……」
うねるオーオラを見つめながら、カットは懐かしさに顔を綻ばせていた。
幼い頃、カットはフィナと一夜を共にしたことがあった。
ヴィッツが高熱を出し生死の境をさまよっていたとき、フィナが言ったのだ。
オーオラに願いを託せば、望みは叶うと。
二人はオーロラに祈りを捧げながら一夜を過ごした。翌日カットが城へ戻ると、ヴィッツの熱は下がり、彼女は命の危機を脱していたのだ。
今思えば、あれはフィナの魔法だったのかもしれない。彼女が無意識のうちに自分に流れる魔女の力を使い、ヴィッツを助けたのではないかとカットは思ってしまう。
フィナ本人に、その自覚はないかもしれないが――
橇は深い谷を走り、樽板教会の聳える丘を目指していた。教会が近づくにつれ、後ろにいるフィナの表情が暗さを帯びていく。
「陛下……」
フィナの声が夜闇に溶けていく。カットはかまうことなく橇を進め、樽板教会の前へと橇をとめた。
教会は月明かりに照らされ、空色の影を雪に覆われた大地に伸ばしている。カットは橇から颯爽と降り、フィナへと手をのばしていた。
「行こうフィナ」
「陛下?」
「母さんにもう一度挨拶をし直しに行こう。昼間はとんだ邪魔が入ったからな」
カットの言葉にフィナは苦笑する。彼女はカットの手をとり、橇を降りた。
「陛下は男性にもモテますからね」
降り立ったフィナが悪戯っぽく笑ってみせる。そんな彼女を見て、レヴとの腐れ縁を話して聞かせたことをカットは少しばかり後悔した。
でも、カットにとってレヴは特別な存在だ。フィナに呪いを受け、ヴィッツを亡くしたカットの側にいてくれたのはレヴだったのだから。
「明日から、レヴのことよろしくな」
お返しとばかりに、カットはフィナに告げる。カットの言葉に、フィナの表情が不機嫌なもになる。
「いくら陛下のお世話を幼少の頃からしていたとはいえ、あのような者を側に置くのは心配です。陛下を、誘拐したんですよ……」
「レヴはああいう奴なんだよ。慣れれば案外楽しい奴だぞ」
フィナの手を放しカットは言葉を続ける。
カットはティーゲルにレヴを側に置きたいと進言したのだ。表向きはカットに対する今までの忠義を鑑みての役職復帰となっている。フィナには王の護衛が女性一人ではさすがに不安だと言って承知してもらった。
何よりフィナはカットの花嫁候補だ。そのことを負目に感じているのか、フィナは不満げながらも首を縦に振ってくれた。
カットの本音を言うと、レヴと離れるのが嫌だったからだ。
フィナがカットの本心を知ったら、それこそ烈火のごとく怒るだろう。
「私は、そんなに頼りないですか?」
フィナの言葉に我に返る。
彼女は不安げな表情を浮かべカットを見つめていた。そんな彼女にカットは苦笑を返すことしかできない。
「君が強いことは昼間の決闘で証明済みだろ?」
「そうでしたね」
カットの言葉にフィナが笑う。彼女の花のような笑みをみて、カットは少しばかり安心していた。
崖から見える海は不気味なほどに静かだ。海洋に浮かぶ氷山は月光に輝きながら緩やかに浮沈を繰り返す。小さな氷山は崖の側に広がる遺跡にも漂着し、ゆれる氷の地面を形作っていた。
「遺跡に行けそうだな」
ヴィッツの墓所の前に立ち、カットは感嘆とその光景を眺めていた。隣にいるフィナを見つめる。彼女はじっと遺跡を見つめていた。
フィナの眼がどこか悲しげなのは気のせいだろうか。
「フィナ?」
声をかけると、フィナは驚いた様子でカットに顔を向けた。
「君は、何を見ているんだ……?」
カットの言葉にフィナは顔を逸らす。しばらく沈黙したあと、フィナは重い口を開いた。
「あの遺跡に、母が眠っているんです……」
フィナの眼は遺跡に向けられたままだ。カットは息を呑み、彼女の言葉に猫耳を傾けていた。
「正確にはヴィッツ様によって封印された、といったほうが正しいのかもしれません。死後も母の封印を維持するために、ヴィッツさまはここに葬られたと父から聞かされました……」
フィナの顔がゆっくりとカットに向けられる。どこか寂しげな笑みを浮かべるフィナを見て、カットは口を開いていた。
「ここに、君のお母さんが?」
「父に、そう聞かされています……」
カットの問いにフィナは静かに答える。
フィナの父親はこの国の宰相たるウル・ムスティー・ガンプンだ。王になって間もないカットに代わり、宰相であるウルは甲斐甲斐しく職務をこなしてくれる忠臣だ。
これはティーゲルがカットの花嫁にフィナを推す理由の一つでもある。頼りになる忠臣の娘が息子の妃ならば、これ以上の縁談はないということだ。
けれどウルは自分の妻であった女性を、ためらうことなくティーゲルに差し出した男でもある。
そして教会に残されているフィナの出生記録に、彼の名前はない。その呪われた出自のためにフィナは父との関係を隠匿され、身分を偽って育てられてきたのだ。
「陛下……。一緒にオーロラを見た夜を覚えていますか?」
フィナが空を仰ぐ。空では、オーロラが消えることなく煌めいていた。
「私はヴィッツさまの回復ではなく、母に会いたいと心の中でひたすら願っていました……。母のことはほとんど覚えていません。でも、ぬくもりだけはずっと覚えていたんです。母が抱いてくれた感触が……ずっと、体に残っていて……。もう一度母に抱きしめてもらいたくて……」
フィナの声が震えている。
彼女は自身の体を力いっぱい抱きしめ、言葉を続けた。
「でも、母は私のもとには来てくれなかった……。そんな私に陛下は言いました。ヴィッツさまが回復されたと。彼女に会えるのが楽しみだと……。その言葉を聞いて、私は無性に陛下が憎くなって……」
フィナが顔を俯かせる。今にも泣きそうな声を発しながら、彼女は言葉を途切れさせた。
「フィナ……」
カットはフィナに声をかけていた。
フィナがカットに顔を向ける。泣いているフィナにカットは雪玉を投げつけていた。雪玉は、悲しげな顔をしていたフィナの顔面に容赦なくあたる。
「ははっ!」
「陛下……?」
「ほらっ、もっと行くぞっ」
カットは笑いながらフィナに雪玉を投げつけた。フィナは躊躇することなくその雪玉を叩き落とす。
「やるなっ! フィナっ!」
「陛下……あなたと言う人はっ!」
「ははははっ!」
額に青筋を浮かべたフィナがカットを追う。カットは笑いながら駆けだしていた。
「待ちなさいっ!」
「ほら、注意しないとまた雪玉が当たるぞっ!」
カットは手に持っていた雪玉をフィナに投げつける。フィナは雪玉が体に当たっても気にすることなくカットを追った。
「人が真剣な話をしているときに、何を考えているんですかっ?」
「いいじゃないかっ! ほら、もっと行くぞっ」
「いい加減にしなさいっ! カットっ!」
フィナが地面の雪を手早くつかみ取り、カットに投げつけてくる。カットは颯爽とその雪を躱して、フィナに手持ちの雪玉をお見舞いした。負けじとフィナもカットに即席の雪玉を投げてみせる。
ひらりとカットは踵を返し、再び駆けだした。
「ははっ! フィナに俺を捕まえられるかなっ?」
「いい加減にしなさいっ!」
叫びながらフィナがカットを追う。カットは笑いながら、そんなフィナから逃げだしていた。
駆けながら、カットは空を仰ぐ。後ろからは、フィナの怒声が聞こえていた。
その声が楽しげなのは気のせいだろうか。
オーロラがたゆたう空から、白い雪が降ってくる。紺青の空を彩る雪は、月明かりを受けて煌めいていた。
フィナの笑い声が、聞こえてくる。
後ろを振り返ると、笑顔を浮かべた彼女がカットに雪玉を投げつけてきた。カットもフィナに向き直り、負けじと雪玉を投げつけてやる。
ぽんっとフィナがカットに向かって跳んだ。カットの胸元に彼女は跳び込んでくる。
その反動で、カットの体は仰向けに倒れていた。降り積もった雪が優しくカットの体を包み込んでくれる。
白い粉雪が視界のすみを覆う中、カットは胸の中のフィナを見つめていた。
フィナは、じっと眼を瞑ってカットの胸に顔をのせている。
「フィナ」
カットが話しかけると、フィナはうっすらと眼を開けカットを見つめてきた。
「捕まえましたよ、陛下……」
赤い眼が笑みを刻む。そっとカットはフィナの頭をなでていた。艶やかな黒髪がフィナの頬を滑り落ちていく。
「小さな頃も、こうやってフィナに捕まってたな」
「はい……」
「ねぇ、フィナ……」
そっとカットは空を仰いでいた。オーロラが、燃えるように周囲を明るく照らしている。
胸元に広がるフィナのぬくもりを感じながら、カットは彼女とオーロラに願いを託した夜のことを思い出していた。
フィナとずっと手を繋いでオーロラを見つめていた。
ずっとずっと、夜が開けるまで――
「あのときは、本当にすまなかった……」
「陛下……」
フィナの声が震えている。カットがフィナに顔を向けると、彼女は今にも泣きそうな眼をカットに向けてきた。
「謝るのは私の方です。勝手な嫉妬で私はあなたの耳を……。それに私の母は――」
「この耳、変かな?」
笑って、フィナの言葉を遮ってやる。
カットは帽子を脱いでみる。驚いたように見開かれたフィナの眼が猫耳に向けられる。
「やっぱり、可愛い耳は嫌いかい?」
カットは銀灰色の猫耳を困ったように動かしてみせる。フィナは表情を曇らせながらも、猫耳へと手をのばしてきた。
「いえ、可愛らしいです。とっても……」
「よかった」
フィナの顔に笑顔が広がる。カットは優しくフィナに言葉を返し、オーロラを見つめた。
「俺は自分のことばっかりで、君のことなんて何にも分かってなかった。母さんが助かって喜んでばっかりで、君の悲しさに気づくことすらできなかった……。それが、悔しいんだ……」
「陛下……」
「二人きりのときは、カットでいい。命令だよ、フィナ」
「陛下……」
「カットっ」
カットの言葉に、フィナは困った様子で顔を逸らしてしまう。カットは苦笑を浮かべ、フィナに言葉を返していた。
「また、君と友達になりたいんだ。だから、あのときみたいに呼んでほしい……」
フィナの顔がカットに向けられる。潤んだ眼を細めて、彼女は微笑む。
「ありがとう。カット……」
ぽつりと、カットの頬にフィナの涙が落ちた。
王都の外れには、かつて王城であった城の廃墟が広がっている。石材を加工して造られた城は風化によって崩れ去り、威厳ある面影を窺うことができない。
鬱蒼と針葉樹の生える敷地内には、しんしんと雪が降り積もっていた。
雪を凌げる場所もこの廃墟には辛うじて残っている。そんな崩れかけた石造りの部屋に座り込む人物がいた。
「たっく……何考えてるんだよ、あの猫耳王……」
壁にもたれかかるレヴは自分の両手首を睨みつけていた。彼の両手首は鉄製の枷によって拘束されている。長い鎖で枷同士が繋がっているので、身動きは取れるが移動には邪魔だ。
しかもこの手枷は、彼を監禁したカットがつけたものだ。
――お前は俺を攫った重罪人だからな。ちゃんとそれなりの処遇を与えておかないと、他の臣下に示しがつかないから。
手枷を自分にしながら、笑顔でそう言い放ったカットの姿を思い出す。
レヴが護衛に就くことを断ったところ、カットは問答無用でレヴを城の独房に放り込んだのだ。
――命令だよ、レヴ。俺を守るんだ。命令が聞けないようだったら、お前は王を誘拐した重罪人として裁かれることになる。明日また返事を聞きにやって来るから、そこで頭を冷やすといいよ。
笑みを刻んでいたカットの眼を思い出し、レヴは背筋を凍らせていた。美しいアイスブルーの眼は氷のように冷たかった。
長年カットに仕えていたレヴは知っている。温和な主は、自分の思い通りにならないことがあると態度を豹変させることを。
それも、自分だけにだ――
「どうして陛下は、そんなに俺のこと――」
自分が言える立場ではないが、レヴは自分の主人に言いようのない異常さを感じることがある。
特に、自分への執着心は理解しがたいものがあるのだ。
自分の中にも、カットに対する執着はある。だがそれは、彼がレヴの命を救ったことから生じているものだ。
カットはレヴにあらゆるものを与えてくれた。
教養も、家族も、そして友人すらも――
レヴが望むものを与えることで、カットは側にいることを強要した。
片時でも離れようとすれば――
「あぁ、こんなところにいたのか、レヴ」
弾んだカットの声が聞こえてきて、レヴはびくりと肩を震わせていた。どうしてここが分かったのか、疑問に思う。追手は完全に巻いたはずだ。
「ほら、出ておいで……。恐くないよ……」
雪を踏みしめる音が周囲に響く。自分の主人がこちらにやってくる様子を、レヴは凝視することしかできなかった。
笑みを湛えるアイスブルーの眼が、月光に輝いている。
まるで、猫の瞳のようだ。
そんなカットの後方から、瞳を光らせる猫たちが姿を現す。猫たちは甘えた声を発しながら、カットとともにレヴへと近づいてきた。
「ごめんな、レヴ。独房なんかに閉じ込めちゃって。でも、俺から離れようとしたお前が悪いんだよ……」
そっとカットはしゃがみ込み、レヴの赤髪を優しくなではじめる。レヴは反射的に、カットの手を弾いていた。
「レヴっ……」
「どうしてここが……。また、猫に訊いたんですか?」
寂しげに顔を歪めるカットに、レヴは不敵に笑ってみせた。そんなレヴをきょとんと見つめながら、カットは満面の笑みを浮かべる。
「うん、寂しからお前に会いたいって言ったら、みんな快く教えてくれたよ。ありがとうな、お前たち」
レヴの質問に嬉しそうに答え、カットは周囲の猫たちを優しくなで始めた。猫たちは気持ちよさそうに喉を鳴らし、カットに体をすりつけてくる。
「猫と話すって、あなた本当に人間ですか? いや、あなたは魔女だったな……」
乾いた笑みが顔に滲んでしまう。
「それは話さない約束だろう、レヴ……」
すっと唇を歪めてカットが嗤う。人差し指を唇に当て、レヴの主は蒼く光る眼を向けてきた。
その眼差しは、獲物を狙う猫のそれだ。
レヴは、カットの秘密を知っている。
曰く、カット・ノルジャン・ハールファグルは人間ではなく猫なのだという。
そのため彼は魔法を使えるそうだ。
「どうして俺なんかに……」
「お前が、俺のものだからだよ」
「俺のこと捨てたくせに、何言ってるんですか……」
レヴはカットから顔を逸らしていた。視界のすみでカットが顔を悲しげに曇らせる。
自分が護衛の任を解かれ、王城から出ていくときも彼はそんな眼をしていた。
自分を引き留めることは一切せず――
「すまない、レヴ……。父上は自分のやったことを実行しないと気がすまないお方だ。ほとぼりが冷めてから、ちゃんと呼び戻すつもりだった。でも、お前から戻って来てくれるなんて、思いもよらなかったよ……」
「だって酷いじゃないですか……。陛下は結婚なんてする気がないのに、ティーゲル様は……」
言いかけて、レヴは口を閉ざす。
自分の中にある本当の気持ちが恥ずかしくて、レヴは頬を熱くしていた。
「レヴ、フィナに嫉妬したろ?」
弾んだカットの声が聞こえて、レヴは俯いてしまう。
護衛という名目で、カットに婚約者候補が押しつけられたことにレヴは憤っていた。でも、それ以上にレヴはフィナの存在が許せなかったのだ。
カットの側にいて、彼を守ってきたのは自分なのに――
「やっぱり、レヴは俺のレヴだ……」
そっとカットがレヴの手をとる。
顔をあげると、微笑みを湛えたカットが視界に入り込んでくる。
「陛下……」
「レヴ、怪我してる……」
手の甲に湿った感触が流れる。カットが、手の甲についた傷を舐めたのだ。
どくりと、レヴの心臓が脈打つ。
「やめて下さいっ!」
レヴは思わずカットを突き飛ばしていた。カットは横向きに倒れてしまう。
「いた……」
「陛下っ!」
顔を歪めるカットを見て、レヴは反射的に彼に駆け寄っていた。
「陛下っ、陛下っ!」
しゃがみ込み、カットの名を何度も呼ぶ。だが、カットからの応答はない。
「へい――」
突然、カットが起き上がる。驚くレヴに笑みを浮かべ、カットはレヴを力いっぱい抱き寄せていた。
「捕まえたっ! もう、逃がさないからな!」
「陛下……」
「あーあ、せっかく独房に入れる前に梳いてやったのに、毛だってこんなにぐちゃぐちゃじゃないか。それに、全身泥だらけ。お風呂にも入れなくちゃな……」
唖然とするレヴを他所に、カットはレヴの髪をなでてくる。彼のあやすような話声が妙に心地よくて、レヴはカットの肩に頭を預けていた。
「また……たくさんなでてくれますか?」
「もちろん」
「膝の上にあがっても、もう怒らないですか?」
「それは時と場合による」
「俺のこと、もう捨てないですよね……?」
カットの顔を覗き込み、レヴは不安げな表情を浮かべてみせた。困ったように微笑むカットを見て、レヴの視界は潤む。
「あんなことして、本当にすみませんでした……。もう、わがままも言いません。護衛もちゃんとやります。だから、お側においてください。陛下に捨てられたら、俺……」
涙声になっている自分が情けない。それでもレヴは、流れてくる涙を止めることができない。
レヴにとって、カットは生きる意味そのものであり、絶対的な存在なのだ。そんな彼に見捨てられたら、自分はどうやって生きていけばいいのだろうか。
「ごめんな、レヴ……」
カットが口を開く。
頭を優しくなでられて、レヴは眼を大きく見開いていた。
「もう絶対にお前を手放したりしないよ……。夜の王城はただでさえ寒い。お前が側にいなきゃ、とうてい眠れたもんじゃないからな」
「また、添い寝させされるんですか?」
「だって、お前抱きしめてるとすっごくあったかいし、安心できるんだ。嫌なことだって、すぐに忘れられる」
「そりゃ、陛下は満足されるかもしれませんけれど……」
「命令だよ、レヴ。今夜は俺と一緒に寝るんだ。」
カットが鋭く眼を細め、たしなめるように声をかけてくる。その声にレヴは思わず頷いていた。
「本当にお前は良い子だな。それでこそ俺のレヴだ」
満面の笑みを浮かべ、カットはレヴの髪をなでてくる。その手をレヴは掴んでいた。
「それ以外にも、色々と命令されるおつもりなんでしょ?」
苦笑を浮かべてみせる。カットの顔から一瞬にして笑みがなくなった。
「そうだな……。頼みたいことは山ほどある。それにお前たちがいないと、俺は父上にも反抗できない未熟者だ」
「なんなりとお申し付けくださいませ、我が君。俺の心はあなたと共にありますから……」
寂しげにカットが言葉を紡ぐ。レヴは得意げに笑ってみせ、カットにそう返していた。
「なあ、レヴ……」
「何ですか、陛下?」
「フィナを救いたい。手を貸してくれるか?」
「フィナちゃんの気持ちが知りたいから、デートの指南をしてくれっ?」
レヴが机から身を乗り出し、カットの顔を覗き込んでくる。
「近いよ……レヴ……。それに、デートじゃなくて一緒に出かけるだけだ。その、フィナともっと分かり合えたらいいと思って……」
「それって、思いっきりデートじゃないですか……」
カットはレヴの顔を手で押しやり、苦笑いをしてみせる。レヴは納得いかない様子でカットから離れていった。
「その……フィナは、本当に俺との結婚を望んでいるのかな?」
レヴから眼を逸らし、カットは疑問を口にする。レヴは盛大にため息をついて、机の向こうにある椅子に腰かけた。
「まぁ、フィナちゃんとの関係はお友達から始めるとか言ってましたよね。それに……」
「フィナを政治の道具にはしたくない……」
眼を鋭く細め、カットは言葉を吐き出していた。
フィナに問いつめたところ、案の定、夜這いをけしかけたのはティーゲルだった。
「夜這いかけられたのに指一本触れず、野外デートに連れ出して仲良し宣言をした仲ですもんね。ほんと、妬けちゃいますよ……」
足をだらしなく組み、レヴはカットに苦笑してみせた。カットもつられて顔に苦笑を浮かべる。
「父上は、何としてもフィナを俺の妻にするつもりだ。」
思いのほか硬い声が口から出てきて、カットは内心驚いた。側にいるレヴもそうらしく、眼を見開いてカットを見つめている。
フィナの怯えた顔を思い出す。
自分に押し倒された彼女の嫌がりようは尋常ではなかった。とてもではないが自分との結婚を望んでいるとは思えない。
はぁっとレヴのため息が聞こえる。
「どうした、レヴ?」
何か言いたげな彼に、カットは声をかけていた。
「はっきり言います。子供ですか? あなた……」
「えっ?」
突然、レヴが口を開く。カットは思わず声をあげていた。
「フィナちゃんの気持ちを踏みにじったようなもんですよ、それ……。彼女、嫌なのに我慢して身を捧げてきたんでしょ……。それをお友達から始めましょうって……。ちょっと、俺の恋愛観だとありえないです」
レヴの冷たい言葉に、カットは猫耳を硬直させていた。
「だってその……」
へにゃりと猫耳をたらし、カットはもじもじと付き合わせた指を動かし始めた。
「分からないんだ……」
「はいっ?」
「人を好きになるのがどういうものか、分からなくて……」
「はいっ?」
「それに、フィナは凄く震えてたし……。そんなの可哀想じゃないか……」
猫耳を恥ずかしげにもじもじと動かし、カットはレヴから顔を逸らす。昨夜のことを思い出して、カットの顔は熱くなっていた。
震えていたフィナの体は、柔らかく甘い香りがした。まるでブルーベリーの花のように。
「その、フィナは、フィナの気持ちを考えてあげないと……。フィナはどうしたいのかな? それに俺に呪いをかけたからって、その責任をとって結婚て……」
がばりと両手で顔を覆い、カットは俯く。
「やっぱり、俺に結婚はまだ早い……」
「そんなんでよく国王勤められますね、あなた……」
レヴの呆れ声が猫耳に届く。カットは猫耳の毛を逆立て、レヴに叫んでいた。
「仕方ないだろっ! 初恋からずっと恋愛経験は止まってるんだよ! この猫耳のせいで!」
「へぇ、そんなにフィナちゃんのこと好きなんですか、陛下……」
翠色の眼を細め、レヴが嫌らしい微笑みを浮かべてている。そんなレヴの反応を見て、カットはアイスブルーの眼を見開いていた。
「フィナのことが、好き?」
「え、初恋フィナちゃんなんでしょ? 会ってから、ずっと気になってたんでしょ? 忘れられなかったんでしょ? それって、今でもフィナちゃんのことが好きってことじゃないんですか?」
カットに呆れた表情を送り、レヴは顔を逸らしてくる。レヴは腕を組み、深くため息をついてみせた。
「俺が、フィナのこと……」
カットの脳裏に幼い頃の想い出が蘇っていた。
額に柔らかな感触が走る。自分の額にキスをしてくれたフィナのことを思い出し、鼓動が高鳴っていた。
そして、成長したフィナの姿を思い出す。
軍服にきっちりと身を固めた彼女は、見惚れるほどに凛としていた。
でも、アップルを抱きしめていたフィナの姿は、幼い頃の彼女そのままで――
かっと頬が熱くなる。カットはがばりと両手で顔を覆い、呻き声をあげていた。
「重症ですねぇ、陛下」
嬉しげなレヴの声が恨めしい。ちらりと指の間から彼を見つめる。案の定レヴは意地の悪い笑みを浮かべていた。
猫耳を逆立て、カットはレヴに唸ってみせる。おお恐いと、レヴはわざとらしくおどけてみせた。
「じゃあ、どうすればいいんだよ……。その、フィナは……どうすれば幸せになってくれるかな……? フィナは……」
「だ、か、ら、デートに誘うんじゃないんですか?」
すっとレヴが立ち上がり、カットのもとへと歩んでいく。彼はそっとカットの猫耳にふれてきた。
「レヴっ?」
「この猫耳、もしかしたら陛下のせいで元に戻らないのかもしれませんねぇ」
優しく猫耳をなでながら、レヴはカットの耳元で囁いてみせた。
「俺のせいで……?」
「フィナちゃんのことが忘れられなくて、彼女との思い出を消したくなかったとか……?」
レヴの言葉にカットは大きく眼を見開いていた。急いでレヴを見つめる。彼は相変わらず意地の悪い笑みを浮かべてばかりだ。
フィナを思うあまり、呪いが解けるのを自分自身が拒んでいた?
そんなことが、ありえるのだろうか?
「いいですかぁ、陛下。フィナちゃんの気持ちなんてどうでもいいんです。その気持ちを変えるのがあなたの仕事。フィナちゃんの気持ちを変えて、幸せにするのもあなたの仕事。恋って言いうのはね、相手の気持ちを変えてあげるお仕事なんですよ」
カットの猫耳を優しくなでながら、レヴは言葉を続ける。まるで諭すようなレヴの言葉に、カットは猫耳を傾けていた。
「いいですよぉ、愛しの陛下のためです。このレヴ・クラスティ・オーブシャッティンサンにお任せください。きっとフィナ嬢の心をあなたに振り向かせて差し上げますよ」
「レヴ……」
「今、俺がこうして生きていられるのはあなたのお陰ですから……」
レヴの笑みが優しいものにかわる。カットを抱きしめて、レヴは猫耳に囁いてみせた。
小さな頃からのレヴの癖だ。彼は幼い頃からカットの面倒を見てくれていた。カットが思い悩んでいると、レヴはカットを抱き寄せ耳元で慰めの言葉を囁く。
その言葉がカットは好きだ。
レヴはいつも自分の欲しい言葉をくれるから。
「あなたのためだったら命だって惜しくない……。恋人ぐらい何人でも作ってあげますよ」
あやすようにカットを抱き寄せて、レヴは優しく頭をなでてくれる。その感触がくすぐったくて、カットは思わず微笑みを浮かべていた。
「いや、何人もはいらないんだが……」
「先々代の王なんてそりゃもう凄かったって言うじゃないですか? ティーゲル様の兄弟って軽く十人以上はいるんでしょう? 側室の一人や二人いなきゃ王族絶えちゃいますよ。まぁ、陛下にはフィナちゃんしか見えてないらしいけれど……」
「そうかもな。今は、フィナのことで頭がいっぱいだ……」
レヴの言葉に思わずカットは苦笑してしまう。その言葉を放ったとたん、レヴが不機嫌そうに口元を歪めてきた。
「レヴ?」
「なんか面白くないんだよなぁ。陛下を側でお守りしてきたのは俺なのに、その……大切な人をとられたというか……」
「レヴも、俺の大切な人だよ」
カットはレヴに微笑んでみせる。
レヴは驚いた様子で眼を剥き、さっと顔を赤らめた。カットから顔を逸らし、レヴは小さく言葉を告げる。
「陛下……その天然ジゴロ、治しません……?」
「天然ジゴロ?」
レヴが意味のわからない言葉を放ってくる。何のことだか分からず、カットは猫耳をぴくぴくと動かしていた。
「あぁ、もういいっ。そういうところも可愛いし……」
カットの頭をわしゃわしゃとなで、レヴはカットを放す。
「なにを言っているんだ? レヴ」
首を傾げ、カットは猫耳を動かしてみせる。
レヴは盛大に肩を落とし、カットを見つめてきた。疲れきったような彼の表情がなんだか印象的だ。
「フィナちゃん……苦労するだろうなぁ……」
「えっ、フィナがどうかしたのか?」
「何でもないです、陛下……。それより、デートって具体的に何を考えているんだすか?」
「それが……」
レヴの問いかけに、カットは言葉を詰まらせる。ばっと両手で顔を覆い、カットは呻き声をあげてみせた。
「なぁレヴ。女の子ってどうしたら、喜んでくれるかな?」
「つまり、何にも考えてないわけですね……」
「だって、フィナのこと少ししか知らないし……」
しゅんと猫耳をたらし、カットは俯く。小さなときに少し遊んだだけで、フィナのことはほとんど分からない。
分かることと言ったら――
「そういえばフィナ、猫は好きだな」
「おぉ、いいじゃないですか、それ!」
レヴが弾んだ声を発する。その声に驚き、カットは思わず猫耳の毛を逆立てていた。
「レヴっ?」
「ほら、もうすぐフレイア祭があるじゃないですか? フィナちゃんをメロメロにするチャンスですよっ!」
がばりとレヴがカットの顔を覗き込んでくる。にいっと意地の悪い笑みを浮かべる彼をみて、カットは言いようのない不安に取りつかれていた。
「だから近いって……」
ぐいっとレヴを押しやり、カットはうっとうしいと猫耳を動かしてみせる。レヴは苦笑しながら、カットから離れていった。
「まぁ、デートの話はそのぐらいにして……本題に入りましょうか、陛下」
すうっと翠色の眼を細め、レヴが得意げに笑ってみせた。カットは苦笑しながら、レヴに言葉を告げる。
「俺とフィナがデートに行くことを、それとなく父上に伝えて欲しい。きっと喜んで俺とフィナの邪魔をしにくるだろから……。その隙に、みんなに声をかけてくれないか。それからこれ、出しておいてくれ……」
カットは机の引き出しから分厚い紙の束を取り出していた。近隣諸国を治める叔父たちに宛てた書状だ。
「なんですかこれ? フィナちゃんへのラブレター?」
レヴは書状を受け取りながら、意味深な笑みを浮かべてみせる。
「恋の指南役を叔父上たちに頼もうと思って書いた手紙だよ」
そんなレヴに、カットは微笑みを返していた。
「恋愛の指南役ねぇ……。本当ですかぁ?」
書状を口の側に持っていき、レヴはいやらしく眼を歪めてみせる。
レヴの言った通り、叔父たちに宛てた書状は恋愛指南を請うためのものではない。ティーゲルを出し抜き、フィナを自由にするための手段だ。
「いや、誰かに王位を譲渡しようと思ってな。その相談に乗っていただくために手紙をしたためた……」
「はっ?」
「そもそも俺とフィナの結婚は、この猫耳のせいで俺が王に相応しくないことが原因だ。だったら俺が王位を捨てれば、フィナは自由の身になれる」
「陛下……」
「フィナを助けるためだったら、何でもしてみせるさ……」
アイスブルーの眼を細め、カットは小さく口を開いていた。
――ありがとう、カット。
そう泣きながら、微笑んでくれたフィナの顔が脳裏をちらつく。
あの笑顔を守るためだったら、何でもしてみせる。例え、父と対立することになるとしても。
「仰せのままに。でも陛下、大丈夫なんですか?」
「どうした……」
「顔、悲しげですよ……」
翠色の眼を曇らせ、レヴがカットの顔を心配そうにのぞき込んでくる。
「お前がいるから、平気だよ」
そんなレヴにカットは寂しげに微笑んでみせた。
フレイア祭は、その名の通り女神フレイアを称える祭りである。
冬は豊穣を約束する季節が過ぎ去り、大地が雪に覆われる季節でもある。
この国では、冬を女神フレイアの旅立ちの季節とも呼んでいる。
豊穣を司る女神が、ノルウェージャンフォレストキャットの引く橇に乗ってこの地を離れるのだ。それにより、大地からは実りが失われ冬がやって来る
だから人々は女神に願う。
また、この地に戻って来て実りをもたらしてほしいと。
そして人々は女神を見送る。
この地から離れ、他の土地を潤すために旅立つ女神を労うために。
雪原は様々な毛色のノルウェージャンフォレストキャットで埋めつくされていた。にゃあにゃあと愛らしい鳴き声をあげながら、猫たちは雪の上を行ったり来たりしている。
「猫……猫……猫さんがいっぱい……」
そんな猫たちの中央で、フィナは感嘆と声をあげていた。フィナの横には青い橇が置かれており、その橇には猫たちが繋がれている。
猫たちが行き交う雪原にはたくさんの橇も置かれていた。その橇に、防寒服に身を包んだ人々が猫たちを繋いでいく。猫たちは嫌がるそぶりも見せず、橇に設置された鎖に繋がれていた。
女神フレイヤは猫に引かせた橇で世界中を移動するのだ。その伝説にあやかり、フレイヤ祭では猫橇レースが毎年開催されている。
その会場にカットとフィナはいた。
「にゃあ!」
フィナに抱かれたアップルが声をあげる。フィナははっと我に返り、腕の中のアップルを見つめていた。
「すみません、アップルさん……。アップルさんが一番可愛いです!」
「にゃー!」
フィナの言葉にアップルは嬉しそうに鳴く。そんなアップルにフィナは思いっきり頬ずりを繰り出していた。初めて会った頃のように、アップルがフィナを嫌がる様子はみられない。
「本当、いつの間に仲良くなったんだ……お前たち」
一人と一匹の見つめていたカットは、思わず苦笑を漏らしていた。
「陛下……じゃなくて、カットを助けるときに私とアップルさんは心の深い場所で分かり会うことが出来たんです。今では、アップルさんの考えていることが手に取るように分かります……。アップルさんは、私の心の一部なんですっ!」
「にゃー!」
フィナの言葉に、アップルが興奮した様子で鳴き声をあげる。橇に繋がれた猫たちも、にぃにぃと鳴き声を発し始めた。
「あぁ、みなさんレースまでもうすぐです! そんなに興奮しないでっ!! 厳しい特訓の成果を、あの老害に見せつけてやりましょうっ!」
びしりと、フィナはカットの後ろを勢いよく指さしていた。
カットの後方には黄色い橇が止まり、その橇にティーゲルが乗っていた。不敵に笑いティーゲルはカットに顔を向けてくる。カットは全速力でティーゲルから顔を逸らしていた。
ティーゲルは、女物のコートに身を包んでいたのだ。顔には厚化粧が施され、唇には紅が引かれている。いつもだったら後方に流されている霧髪は美しい縦ロールに整えられていた。
どう見てもティーゲルは女装をしている。それも、目に入れたくないほどかなり強烈なものだ。そんなティーゲルの後方にいるレヴは、今にも泣きそうな眼をカットに向けてくる。
「陛下……」
「レヴ……」
弱々しいレヴの声がカットの猫耳に響き渡る。カットは思わずレヴへと顔を向けていた。
「絶対に、お前を取り戻すからなっ!」
「すみません、陛下……」
カットはレヴに力強く声をかける。だが、レヴは泣きそうな声を返してくるばかりだ。
「さて、カットごときがこの儂に勝てるのかのぉ?」
そんなカットを、ティーゲルは邪悪な笑みを浮かべ見つめていた。そんなティーゲルをフィナが一喝する。
「先王様だろうと許しません! アップルさんは、私のものです!!」
「にゃー!」
フィナの宣戦布告とともに、アップルが雄々しく鳴く。そんな一人と一匹を見つめながら、カットは大きくため息をついていた。
こんなはずじゃなかった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。自分はレヴのアドバイスを受けて、フィナをデートに誘っただけなのに。
レヴとアップルを守るため、フィナとともにカットはティーゲルと猫橇レースで戦うことになってしまった。
帽子に隠した猫耳をへにゃりとたらし、カットは数日前に起こった出来事を思い出していた。
「フレイア祭にフィナを誘うっ?」
「そっ、お忍びで猫橇デート鑑賞なんてどうですか? フィナちゃんきっと喜びますよ」
きょとんと猫耳を立ちあげるカットに、レヴが得意げに笑ってみせる。
彼はカットの座る背もたれに両肘を置き、頬杖をついてみせた。カットが顔を向けると、レヴはカットの猫耳をなでながら言葉を続ける。
「王たるもの庶民の暮らしを身近なところで感じたいとか、フィナちゃんに適当なこと言って王都に連れ出しちゃえばいいですよ。あの子いっつも軍服着てて女の子らしい格好なんてしないじゃないですか……。チャンスかもしれませんよ?」
「チャンス?」
「ちょっと調べてみたんですが、フィナちゃん巷じゃちょっとした有名人らしいんですよ。猫関係で……」
「フィナが有名人?」
「そ、泣く子も黙る猫退治人らしいです」
「猫退治人……」
レヴが放った言葉に、カットは顔を顰めていた。
猫退治人の活動を共に行おうという父からの誘いを、カットは度々受けていたからだ。
ティーゲル曰く、ヴィッツが遺言で発足することを嘆願した猫退治屋なる組織の構成員をそう呼ぶらしい。
どんな組織なのかカットは誘われるたびに父に尋ねた。だが、こちらへ来ればわかるとティーゲルは意味深な笑みを浮かべるだけで何も教えてくれないのだ。
ただ『退治人』などという物騒な言葉に、カットはあまり好印象を抱いていない。あのティーゲルのことだ。ロクな組織でないことぐらいは予想がつく。
フィナがその猫退治屋の組織の一員とは、どういうことだろうか。
「まぁ、フィナちゃんに聞いてみれば分かるんじゃないですか?」
笑みを深め、レヴは返事をする。彼は翠色の眼を楽しげに煌めかせ、カットの猫耳を弾いてみせた。
「猫とは、創成期から存在する人類の友ですっ!」
凛とした声がカットの猫耳に響く。帽子に隠れたその猫耳を意識しながら、カットは前方にいるフィナを見つめていた。
カットたちは、港にある倉庫街にやってきていた。奥行きのある切妻屋根の倉庫は様々な色合いの赤色で塗装され、灰色の海が広がる港を鮮やかに彩っている。
サーモンの輸出も盛んである王都の港には、様々な都市国家からなる連合組合の支社も数多く置かれている。観光地としても有名な倉庫街には大勢の人間が集まっていた。
倉庫街を行き交う人々が不思議そうに二人を眺めている。そんな人目を気にすることなく、フィナは大声で言葉を告げた。
「そして、そんな猫たちに救いの手を差し伸べるのが我ら猫退治人の仕事っ! その総数は王都だけで数百人を超え、今や国境を越えて我々の勢力は拡大を続けているのですっ!!」
「にゃああぁあああ!」
そんなフィナの言葉に応えるように、雄々しく鳴く猫がいた。アップルだ。フィナの胸にはなぜか教会にいるはずのアップルが抱かれている。
「あぁあ! アップルさん、分かってくれるんですねぇ!」
「にゃあ!」
フィナはアップルに頬ずりをする。そんなフィナにアップルは嬉しげに鳴いてみせる。
「アップルさん、最高です!」
そんなアップルを、フィナは優しくなでてみせた。
「その……だから……猫退治人って何なんだ。それに、なんでアップルがここに……?」
カットの言葉に、びくりとフィナが肩を震わせる。
アップルは教会で飼われている大切な猫だ。
女神フレイヤは、ノルウェージャンフォレストキャットを従えていたという。
その伝説にちなんで、教会では聖なる猫であるノルウェージャンフォレストキャットを飼う習慣があるのだ。彼らは教会の信徒たちにより大切に育てられる。教会のシンボルである彼らは、その地域を代表する看板猫でもあるのだ。
だから、その猫がいなくなれば教会は大変なことになるだろう。みんな、アップルがいなくなってパニックになっているに違いない。
「その……帰りの馬車に……乗ってたみたいで……。気がついたら、王城の私の部屋にいたんです……」
気まずそうにカットから眼を逸らし、フィナは小さな声で告げる。
「フィナ……それって」
「その……あの……えっと……」
「いや、言わなくていいからっ! あとでちゃんと話は聞くからっ」
じわりとフィナの眼が潤む。カットは思わず彼女に叫んでいた。
「にゃあっ……」
「アップルさん」
悲しげな鳴き声をアップルがあげる。アップルもフィナと同様、今にも泣きそうな眼をしていた。
「アップルさんっ!」
「にゃあ!」
一人と一匹は見つめ合い、しっかりとお互いを抱きしめ合う。そんなフィナたちをカットは見つめることしかできない。
「ちゃんと教会の方には話を通します。……だから……その」
「分かった……。俺が何とかするよ……。教会には手紙を送っておくから、アップルの面倒はフィナがみればいい」
縋るようにフィナがこちらを見つめてくる。カットは思わず苦笑を浮かべ、彼女に甘い返答をしていた。
「本当ですかっ?」
赤い眼を細め、フィナは花のような笑みを浮かべる。その笑みに、カットは思わず見惚れていた。
フィナの服装がいつもと違うせいかもしれない。
紺色の軍服ではなく、フィナはこの国の民族衣装であるブーナッドを纏っていた。
ブーナットは鮮やかな刺繍が施されたスカートとチョッキからなる民族衣装だ。地域によって特色があり、布地の色が違っていたり、刺繍されているローズマリングの柄にも個性がある。
フィナは白いブーナットを纏っていた。
真っ白なベストとスカートには色鮮やかなローズマリングが施され、フィナの胸元は赤い鉱石が印象的なビーズのネックレスで彩られていた。
普段は素っ気なく後方に束ねられた黒髪にも編み込みが施され、色鮮やかなビーズがフィナの三つ編みにされた髪を彩っている。ブルーベリーのドライフラワーが髪のサイドを控えめに飾り、華やかさを彩っていた。
「陛下っ?」
声がしてカットは我に返る。フィナが小首を傾げ、カットを見つめていた。きらりと彼女の髪を飾るビーズが陽光に煌めく。その煌めくビーズのように、フィナの赤い眼は輝きを放っていた。
「フィナ、名前で呼ばなきゃ……」
口元に手を添え、カットは小声でフィナに告げる。フィナは大きく眼を見開き、カットに向かって頭をさげていた。
「申し訳ありませんっ! その……」
「フィナ、誰も分からないよ」
慌てるフィナにカットは苦笑していた。
フィナと同じく、カットも市井に混じるために男物のブーナットを着ていた。
お気に入りの白い帽子はレヴに取りあげられてしまった。仕方なくカットは濡羽色の帽子を被っている。髪だって酷いありさまだ。カットの白銀はレヴによって焦茶色に染められてしまった。
――その白帽子とお妃さま譲りの白銀はあなたのトレードマークなんですから、我慢して隠してくださいよっ!
嫌がる自分にレヴが放った言葉を思いだす。たしかに、帽子王なんてあだ名がつく自分がトレードマークの帽子を被って市井に紛れてもすぐばれてしまう。
「ところでカット……。この服は、本当に着る必要があったのですか? 女性物の服は動きにくいので、あまり好きではないのですが……」
ブーナッドのスカートをたくし上げ、フィナが不満げにカットに声をあげる。カットはフィナに笑みを送り、言葉を返していた。
「似合ってるよ、フィナ」
カットの言葉に、彼女の頬が赤くなる。
具合でも悪いのだろうか。心配になって、カットは彼女に近づいていた。
「カ、カット……」
「フィナ、顔が赤いけれど大丈夫?」
フィナの顔を覗き込み、彼女の額に自分の額を当ててみる。
フィナの額は、冷たくて心地がいい。幸い、熱はないようだ。
「カット……」
フィナの声が震えている。カットは額を離し、彼女の顔を見つめていた。フィナが顔を真っ赤にしてカットを見あげている。
「フィナっ! 本当にどうしたのっ?」
「なっ、何でもありません。それより、猫退治人についてお聞きになりたかったのではありませんかっ?」
「にゃあっ」
自分を非難するように、フィナが声を荒げる。フィナに抱かれたアップルも、不満げに鳴き声をあげてみせた。
「ご、ごめん……」
「行きますよ……。お目当ての子が逃げちゃいます」
踵を返し、カットから逃げるようにフィナは足早に前方へと歩を進める。
どうしてフィナが怒っているのか分からない。カットは帽子の中の猫耳をしゅんとたらしながら、フィナの後に続いた。
猫たちは女神フレイヤの使いだ。
大切にされなければならない猫たちを、人間が無下に扱うことはできない。だが時として猫は、人に害をもたらす存在にもなりうる。
そこで立ち上がったのが、世の愛猫家たちだった。
彼らは自らを猫退治人と名乗り、人に害をなす猫たちの駆除を買って出たのだ。愛猫家である彼らが猫に害をなすことはない。
彼らは猫を保護し、新たな飼い主を見つけたり、猫に仕事を与える行動を率先しておこなっている。
「つまり、フィナはボランティアのようなことをやっているわけだね……」
「いいえ、ボランティアではなく使命ですっ!」
カットの言葉に、フィナは凛とした声を発する。二人は倉庫街の裏路地をひたすら突き進んでいた。上方を見あげると、建物に遮られた細長い青空が広がっている。
「カット……いました……」
フィナが小さな声をかけてくる。カットは前方にいる彼女へと向き直っていた。フィナはしゃがみ込み、何かを見つめている。
フィナの視界の先には、細い袋小路があった。その袋小路の真ん中で寝ている生き物がいる。
猫だ。
鯖虎柄のノルウェージャンフォレストが、柔らかそうなお腹を上下させながら気持ちよさげに寝息をたてている。
「いました……。ターゲットの子です……」
「なぁ……」
小さな声をフィナが発する。フィナに抱かれたアップルも用心深げに鳴いた。
「あの猫が……どうかしたのか?」
「市場のサーモンを盗む常習犯なんです……。ここで私が保護してあげないと、どんな目に合うか……」
赤い眼を曇らせ、フィナが俯く。その様子を見て、カットは胸を痛めていた。
女神の使いともてはやされる猫たちも、人に危害を加えられない訳ではない。
とくに悪さをする野良猫は、近隣住民により駆除されてしまう場合もあるのだ。
愛猫家である先王ティーゲルもこの実態に胸を痛め、猫を保護する法律を制定してきた。王城の敷地内には、そのような身寄りのない猫たちを世話する施設もある。王城の中庭には、猫たちが生活する猫舎も設けられているのだ。
それでも、猫を捨てるもの。害になるからと、猫を駆除する者は後を絶たない。
そんな現状を打開しようと立ちあがったのが、フィナたち猫退治屋なる一派だ。身分を問わず猫に対する愛情で結ばれた彼らは、弱い立場にいる猫たちを保護することを主な任務としている。猫退治屋に所属する者は猫退治人と呼ばれ、悪さをする猫の保護活動を率先して行っているのだ。
特にフィナは熱心で、休日のほとんどをこの活動に充てているという。
フィナから猫退治屋の話を聞いたカットはつくづく思った。
普通のボランティア団体じゃないか。どうしてティーゲルは意味深な笑みばかり浮かべて、猫退治屋の詳細を教えてくれなかったのかと。
「アップルさん……お願いしますっ」
「にゃっ」
フィナの声に、アップルが得意げな返事をする。フィナは抱いていたアップルを地面に下ろし、しゃがみ込んだ。
フィナが見守るなか、アップルは寝ている鯖虎へと近づいていく。ぴくりと鯖虎は見事な耳飾りを動かし、うっすらと眼をあけた。
緊張しているのか、ごくりとフィナが唾を飲み込む。そんなフィナを見て、カットも額に汗を浮かべていた。
「にぃにぃ……」
アップルが鯖虎に向かって鳴いてみせる。鯖虎は顔をあげ、めんどくさそうにアップルを見つめてきた。そんな鯖虎のもとへと、アップルは近づいていく。
「にぃ……」
ごろんと横になり、アップルはお腹を見せる服従のポーズをとってみせる。敵意がないことを相手に伝えるには、とっておきの手段だ。
びくりと鯖虎の眼が見開かれる。そんな鯖虎を安心させるように、アップルはきゅるきゅるとした翠色の眼を鯖虎に向けていた。
「シャアアアァアア!」
鯖虎は毛を逆立て、アップルを威嚇する。アップルは困った様子でフィナへと顔を向けてきた。
「アップルさん……」
「なぁ……」
「シャア!」
アップルを追い立てるように、鯖虎は低く唸ってみせる。アップルは悲しげに眼を歪め、フィナのもとへと駆け戻ってきた。
「なぁ!」
「あぁ、アップルさん……」
跳びついてきたアップルを、フィナは優しく抱きしめる。
「にゃぁ! にゃあ!」
首を激しく振りアップルは悲しげに鳴く。そんなアップルをなでながら、フィナは鯖虎へと眼を向けていた。
「おのれ! アップルさんを傷つけるとは、猫さんと言えども許しませんっ! カット、アップルさんをお願いしますっ!」
「えっ?」
投げ渡すようにアップルをカットに託し、フィナは袋小路へと駆けていく。シィーとこちらを威嚇する鯖虎の前に立ちふさがり、フィナはきっと眼を怒らせてみせた。
「にゃあ!」
そう叫び、フィナはころんと地面に横になる。
「にゃあ! にゃあ!」
仰向けに倒れたフィナは、猫の鳴き声を真似しながら体を左右にゆらしてみせた。鯖虎は猫耳をびくりと震わせ、後ずさりする。
「服従のポーズ……?」
「にゃぁ……」
カットの唖然とした呟きに、アップルの鳴き声が重なる。カットたちがが見守るなか、なおも服従のポーズを続けるフィナは体をゆらし続けていた。
「うぁああああぁああん!」
猫は、悲鳴のような鳴き声をあげフィナの横を全速力で駆ける。鯖虎はカットの後ろに隠れ、怯えた様子でちらりとフィナの方へ顔を覗かせていた。
「あれ……?」
足元の鯖虎をカットは見下ろす。
「なぁ……」
頼りない声を発し、縋るように鯖虎はカットを見あげてきた。
「振られたっ?」
フィナが叫ぶ。
仰向けの体制のまま、彼女は動揺に見開いた眼をカットに向けていた。
「ちょっと、びっくりさせちゃったんじゃないかな?」
カットはしゃがみ込み、自分の後ろに隠れる鯖虎に体を向けた。アップルを地面におろし、そっと鯖虎に掌を差しだす。
「ほら、恐くないよ……」
鯖虎はゆっくりとカットに近づき、掌に鼻を押しつけてきた。ふんふんと鼻で掌を嗅いでから、鯖虎は顔を掌にこすりつけてくる。
「にゃあ……」
甘えた声を発しながら、鯖虎はきゅるきゅるとした眼をカットに向けてきた。その愛らしい仕草にカットは顔を綻ばせる。
優しく頭をなでてやると、鯖虎は気持ちよさげに喉を鳴らし始めた。
「フィナっ! なついてくれた……よ……」
目の前にいるフィナの惨状に、カットは声を失っていた。彼女は手を地面につき、力なく首をたれている。
「フィナ……」
「負けた……。カットに負けた……」
がばりと頭をあげ、フィナは潤んだ眼をカットに向けてくる。
「やっぱり、猫耳だからですか?」
「いや、関係ないと思う……」
喉を鳴らす鯖虎を抱きあげ、カットはフィナに言葉を返していた。フィナは眼を拭い、すくっと立ち上がる。
「それはともかくとして……きちんと保護できて良かったです。ありがとうございました。カット、それに――」
「役に立たない猫だのぉ……」
聞きなれた声がフィナの言葉を遮る。
カットは咄嗟に、声のした方向へと体を向けていた。
凛とした佇まいをした老人が、得意げにカットたちを見つめている。彼の視線は、カットの足元にいるアップルへと向けられていた。
「父上?」
「おいでー、猫ちゃーん」
「にゃぁーっ」
老人の呼びかけに、鯖虎は甘い声を発してカットの腕から逃れていた。
地面に着地した鯖虎は、一目散に老人のもとへと駆けていく。老人は、足元にすり寄ってくる猫を優しく抱きあげ、言葉を続けた。
「フィナ、やはりお前はその程度か……。それにしても、アップルがここまで使えない猫だったとは思わなかったのぉ」
「ティーゲル様」
アップルにからかうような視線を向けながら、ティーゲルは嫌らしい笑みを深めてみせる。そんなティーゲルにフィナは厳しい眼差しを送っていた。
「この猫は丈夫そうだし、フレイア祭の猫橇レースに使えそうじゃ。それにしても、教会の看板猫ともあろう存在が、同族すら懐柔できないとは……。女神フレイヤの使いなんて、口先だけじゃのう」
ケラケラとティーゲルが笑う。その笑い声がとてつもなく煩わしく感じられ、カットは口を開いていた。
「父上は、なにをなさりにこちらに来たのですか?」
「いや、お前たちのデートの様子を見にきた……。ではなくて、儂が結成した猫退治屋がきちんと活動しているのか見にきただけじゃよ。だが、とんだ期待外れだった見たいだのぉ」
「期待外れって……」
「それにしてもお前にはがっかりしたぞ、カット。猫たちの保護のために、市井の者に身分を問わず協力を仰ぐ活動。猫退治屋はその運動の一環だ。その活動に王たるお前が積極的に参加しないとは……。王城で保護している猫たちは、ほとんど猫退治人たちが集めてくれた猫ばかりだというのに……」
眼を細め、ニヤリとティーゲルはカットに笑みを向けてきた。そんな父からカットは思わず顔を逸らしてしまう。
「まったく、お前たちでは話にならん……。命の危険が迫っている猫一匹救えない王と教会猫に、どれほどの価値があるというのか?」
自身を嘲笑う父の声が猫耳に木霊する。苛立ちを覚えながらも、カットは父に言い返す言葉をみつけることができない。
「先王様ともあろうお方が、ご子息を嘲笑うとは何事ですか」
そんなカットの猫耳に、凛とした声が響き渡る。フィナの声だ。
カットは思わずフィナに顔を向けていた。彼女は鋭く細めた眼をティーゲルに向け、なおも言葉を続けた。
「陛下は、わたくしのワガママに付き合ってくださったのです。即位してまだ日の浅い陛下に足りない部分があるのは、むしろ一人の人間として当たり前ではないでしょうか? その未熟さが、陛下を良き君主へと育てる土壌になるとは思いませんか?」
フィナの真摯な言葉に、カットは眼を見開いて聞き入っていた。ティーゲルも驚いているのだろう。じっとフィナに眼をやったまま父は微動だにしない。
「護衛の身でありながら、出過ぎた発言をお許しください」
フィナはティーゲルに向かい優美に頭を下げてみせる。その動作を見つめるティーゲルの眼が、嬉しそうに細められる。
「カットの眼はたしかみたいだの……」
ふっと眦に好々爺然とした笑みを宿し、彼は呟いた。
「えっ?」
フィナが急いで顔をあげ、ティーゲルを見つめる。
「猫の扱いは、まだまだだがのぉ……」
嫌らしい笑みを顔全体に広げ、ティーゲルは顎髭をなでてみせる。そんな彼の言葉に、フィナはしゅんと首をたれてみせた。
「どうしたら猫さんたちは、心を開いてくれるのでしょうか……」
眉を困ったように伏せ、フィナはカットを見つめてくる。縋るようなフィナの眼差しを見て、カットは口を開いていた。
「父上、猫で俺に勝てると思ってるんですか?」
「うん、なんじゃ? カット」
息子に突然話しかけられ、ティーゲルは怪訝そうな表情を浮かべてみせる。そんなティーゲルを冷めた眼で見つめながら、カットは帽子を脱いだ。
ぴこんっと帽子に押しつけられていた猫耳が勢いよく立ち上がる。
「にゃあ!」
その猫耳を見つめながら、ティーゲルの抱く鯖虎が興奮した様子で鳴き声をあげた。
「ちょ、カットっ! お前っ!」
ティーゲルが叫ぶ。
にゃああああああ!
にゃああああああああああぁ!
その叫び声と前後して、倉庫街のいたるところから猫の鳴き声が一斉に轟き始めた。ティーゲルの腕に抱かれた鯖虎も暴れ出し、彼の腕から逃れてしまう。
「にゃああああ!」
地面に降り立った鯖虎は、嬉しそうにカットのもとへと駆け寄ってくる。それと同時に、軽い地響きと無数の猫の鳴き声がこちらへと迫って来ていた。
「なっ、何なんですかっ?」
「んなぁーー!」
狼狽えるフィナの横で、興奮したアップルが叫ぶ。
にゃああああああああああ!
その鳴き声に応え、地響きともに近づいてくる猫の鳴き声が返事をする。地響きはしだいに大きくなっていく。
「「「にゃああああぁあああああ!」」」
猫の鳴き声が袋小路に轟く。
「やっと来たっ!」
得意げな笑みを浮かべ、カットは上空を仰いでいた。
たくさんの猫たちが倉庫の屋根から我先にと、こちらへと降りてくるではないか。袋小路へと続く通路にも、たくさんの猫が殺到している。
「にゃあ!」「にぃあああ!」「みぃぃぃぃい!」
猫たちは、一目散にカットのもとへと向かっていく。カットは屈みこみ、集まって来た猫たちを優しくなでてやった。
「あ……あの、カットっ」
「あぁ……これのせい。フィナにかけられた呪いのせいなんだ……。たぶん」
たくさんの猫に囲まれ固まるフィナに、カットは苦笑を向ける。カットは自分の猫耳を指さし、フィナに語りかけた。
「猫耳が、原因?」
「どういう訳かこの猫耳を出しておくと猫が集まっちゃって……。人に見られないようにっていうのもあるけれど、猫たちを集めないためにも帽子は被っていなきゃいけないんだ……。さすがに室内にまでは殺到しないから、城では帽子は脱いでるけど……」
「私の、せい?」
「そうみたい、だね……」
へなへなとフィナが力なく地面にへたり込む。そんなフィナを見て、カットはぎこちない表情を浮かべることしかできない。
「カット……」
ティーゲルが震える声をカットに投げかけてくる。猫に埋め尽くされた地面を唖然と見つめながら、ティーゲルは体を震わせていた。
「それはしないって約束だろう?」
涙に濡れたティーゲルの眼がカットに向けられる。むっとカットは彼を睨みつけ、言葉を返していた。
「父上がフィナを虐めようとするからですっ!」
「カットっ!」
カットの毅然とした言葉に、ティーゲルが悲壮な声をあげる。きっとティーゲルはフィナを睨みつけ、カットたちに背を向けた。
「酷い! 儂だけ仲間外れにしてイチャイチャしおって、カットなんで嫌いだっ!」
声をあげながら、ティーゲルは脱兎のごとくその場を走り去っていく。嵐のように去っていくティーゲルを、カットは唖然と見送ることしかできなかった。
「父上は、いったい何がしたかったんだ……」
にゃあにゃあと歩を進めるたびに猫たちが鳴く。そんな猫たちを引き連れ、カットとフィナは裏路地を散策していた。
「さぁ、何となく心当たりはありますが……」
カットの後ろを歩くフィナは、曖昧な返事をする。そんな彼女が気になって、カットは後方へと顔を向けていた。
「昔からこうなんだ。俺がレヴを拾って来たときも、いつも俺と一緒にいるレヴにちょっかいだしてきて……」
「拾った……。レヴ殿を、カットが?」
「あ、その……レヴには色々とあって……」
うっかり口を滑らせてしまったことを後悔し、カットはフィナから顔を逸らす。眼のすみにフィナの寂しげな顔をが映り、カットは猫耳をたらしていた。
「今度、話すよ……」
「あの、カット……帽子は被らなくていいのですか?」
フィナが、突然違う話題を振ってくる。驚いて、カットは彼女に視線を戻していた。優しげに眼に微笑を浮かべ、彼女はカットの猫耳にふれる。
「びっくりしました。私のかけた呪いに、こんな力があっただなんて……」
苦笑する彼女はどこか寂しげだ。そんな彼女を慰めるように、猫たちがにぃにぃと鳴いてみせる。
「生えて数日後に分かったんだ。王城の中庭を散歩してたら、猫舎で飼ってる猫たちが俺に殺到してきて大変だった……」
猫耳に触れるフィナの手にそっとふれ、カットは苦笑してみせる。フィナの手をなでながら、カットは言葉を続けた。
「レヴに言われた。この呪いが解けないのは俺のせいだって。俺が……」
――フィナちゃんが忘れられなくて、彼女との思い出を消したくなかったとか……。
レヴの言葉を思い出し、すっと頬が熱くなる。カットは猫耳にふれるフィナの手をつかみ、歩きだしていた。
「カットっ?」
「しばらく、このままでいいかな?」
しゅんと猫耳をたらして、フィナを振り返る。フィナは困った様子で美しい眼を歪めるばかりだ。
フィナの手は滑らかであたたかい。レヴを倒したほどの剣戟が本当にこの手から繰り出されていたのか、カットは疑問に思ってしまう。
ぎゅっとフィナが手を握り返してくれる。白い頬を赤く染め、フィナは俯いたままカットの手を両手で握りしめていた。
「フィナ……」
「私が、カットに猫になる呪いをかけたのには、理由があるみたいなんです……。自分でも、最近まで気がつかなかったけれど……」
俯いたまま、フィナは自分のことを語り始めた。
「母がいなくて孤独だった私の側には、いつも猫たちがいてくれました。でも、あの日……。カットに呪いをかけたあの日……。カットが私と違って独りじゃないって分かって、私は凄く悲しかった。思ったんです。もし、カットが猫だったら――」
フィナの言葉が途切れる。
彼女は悲しげに眼を細め、地面を見つめるばかりだ。
「馬鹿ですね、私。カットには大切な家族がいるのに……。でも、たまにカットとティーゲル様を見ていると、羨ましくなることがあるんです……。私も、父とあんな風に話せたらいいのに……」
フィナの声はかぼそく、今にも泣きそうなものだった。
「俺が猫だったら、フィナは悲しくなかった?」
思わずカットはそう言葉を発していた。俯くフィナが、大きく眼を見開く。そっと彼女は顔をあげ、驚いた様子でカットを見つめてきた。
赤いフィナの眼から、カットは眼を逸らすことができない。吸い寄せられるようにカットはフィナの背に手を回し、彼女を抱き寄せていた。
「カット……」
「命令だよ、フィナ。このまま、話を聴いて……」
彼女の耳元でカットは囁く。自分の吐息にフィナが体を震わせるのが分かった。
「俺は、恋がどういったものなのか分からない……。この猫耳のせいで、ずっと女性を避けてきたんだ。でも、レヴに呪いが解けないのが自分のせいだと言われて、気がついたことがる。ずっと、君のことが忘れられなかった……」
「カット……」
「これが何を意味しているのか、俺には分からない。ただ、君といると……君の笑顔を見ていると、凄く、凄く……」
心臓が早鐘を打って、言葉が上手く出てこない。もどかしくなって、カットはフィナの顔を覗き込んでいた。
「これが恋なのか? フィナ……」
カットの眼の前で、フィナの眼が困惑にゆれる。そんなフィナをカットは力強く抱きしめていた。
「友達からやり直そうって俺は言った。でも、もし叶うなら……君が望んでくれるなら――」
にゃあああああああああ!
カットの声は、猫たちの歓声に遮られる。とつぜんの出来事にカットは思わず周囲を見つめていた。
猫たちが、カットから離れ前方へと駆けていく。通路の先には魚市場が広がっていた。その市場の中央にシートがひかれ、大きなサーモンの切り身が皿に山盛りになって盛られている。その皿めがけ、猫たちはいっせいに駆けていた。
「な……なんだ?」
――さぁ、主役たちのお出ましだー! フレイヤ前夜祭のスタートを飾るのは、やっぱり女神の使いである猫たち! この倉庫街に住む猫たちをみなさんにご紹介しましょう!
カットの疑問に応えるように、高らかな男性の声が市場に広がる。それと同時に大きな炸裂音があたりに響き渡った。
フレイヤ祭の開催を祝う、前夜祭が始まったのだ。
唖然とカットは皿に群がる猫たちを見つめていた。
色鮮とりどりのブーナットを纏った乙女たちが、くるくると踊りながらそんな猫たちに近づいていく。彼女たちは鮭が大盛りに載せられた皿を持っていた。その皿を猫たちの前に差し出し、彼女たちは輪をつくって舞い始める。
ブーナットを着た男性たちが踊りの輪に加わり、彼女たちとペアを組み始めた。
「にゃあ!」
弾んだ猫の鳴き声がして、カットは足元を見つめる。猫たちの群れに紛れていたアップルが、喉を鳴らしながらカットの足に頭をすりつけていた。
「アップル……」
「にゃあ!」
楽しげに踊る人々に顔を向けながら、アップルは鳴く。瞬間、ふわりと頭に何かを被せられ、カットは頭をあげていた。
「帽子を被らないと、猫耳がバレちゃいますよ」
フィナが微笑みながら、自分に帽子を被せてくれる。そっと視線を逸らし、彼女は言葉を続けた。
「ごめんなさい。私も……恋がどんなものなのか分かりません……だから――」
潤んだ赤い眼がカットに向けられる。フィナがつま先立ちになる。そっとフィナはカットの顔を両手で包み込み、額に唇を落とした。
「今は、これで許してくれますか……?」
唇を額から離し、フィナは問いかけてくる。フィナの頬が赤いのは気のせいだろうか。
「フィナ……」
そっと額を手でなぞり、カットはフィナを見つめることしかできない。そんなカットの手をとり、フィナは微笑んでみせた。
「行きましょう、カットっ!」
「フィナっ!」
弾んだ声をあげ、フィナは駆けだす。嬉しそうな彼女の笑い声を聞いて、カットも自然と笑みを浮かべていた。
楽しげに踊る人々の輪に加わり、二人は手を取ってくるくると回る。
陽気な音楽が、祭りを祝う人々のダンスを彩っていく。
嬉しそうなフィナを見つめながら、カットは笑みを深めていた。
「今度、ウルも誘って一緒に猫退治人の活動でもしようか?」
そっとフィナの耳元でカットは囁く。フィナは大きく眼を見開き、花のような笑みを浮かべてみせた。
「女の子の手って柔らかいんだな……」
寝台に寝そべり、カットはうっとりと言葉を紡ぐ。
「もうさ、どんだけお子様レベルなんですかあなたたちの恋愛……。聴いてるこっちがこっぱずかしくなりますよ……」
寝台の縁に座るレヴが辛辣な言葉を返してくる。カットははぁっと猫耳をたらし、枕に顔を埋めた。
「仕方ないだろう……。小さい頃のフィナで恋愛経験は止まってるんだ……。その……今はフィナといるだけで……なんていうか」
ふっと額が熱を帯びる。
フィナの唇の感触を思い出し、カットは猫耳の毛を膨らませていた。頬が熱くなり、心臓が苦しいほどに鼓動を高める。
「恋って、苦しいんだな……レヴ」
ぽつりと、カットは言葉を漏らしていた。レヴを見つめると、彼は寂しげな笑みを眼に浮かべ、カットの猫耳をなでてくる。
「フィナちゃんとの恋が叶ったら、この猫耳も消えちゃうんですかねぇ」
「えっ……」
レヴの意外な言葉に、カットは眼を見開いていた。物心ついたときから一緒に過ごしてき猫耳がなくなるなんて、考えもしなかったのだ。
たしかに、この猫耳のせいでカットが極度な人見知りだったことは事実だ。
ティーゲルに強要され付き合った女性たちとだって、ロクに手も繋がず別れた。
彼女たちが、カットの帽子の秘密を知りたがるから。帽子の秘密を知っている女性もいたが、カットの猫耳を見ただけで嫌そうな顔をした。
恐らく、自分が王位継承者として相応しくないと思われたのだろう。魔女の血を引き継ぎながら、呪いに負ける王が国を治められるとはカットも到底思えない。
だから、ティーゲルが自分に王位を譲ると言い出したときは心底仰天した。てっきり、彼は近隣諸国の親戚たちから王位継承者を選ぶとばかり思っていたのだ。
ティーゲルはカットを王位継承者として育ててきた。それにも関わらず、カットはそんな父の想いを信じることができなかったのだ。
父はいつもカットに言っていた。
猫耳など関係ない。お前は立派な私の子だと。
第一王位継承者、カット・ノルジャン・ハールファグルだと。
「お前と父上だけだ。この猫耳を嫌がらなかったのは……」
猫耳をなでるレヴの手を握りしめ、カットは笑ってみせる。すっとレヴが頬を赤らめ、カットの手を強く握りしめた。
「レヴ……」
「そりゃ、俺の初恋は陛下ですから……」
「えっ?」
レヴの放った言葉に、カットは声をあげる。レヴは恥ずかしそうにカットから視線を離した。
「初めて会ったときは女の子だと思ってたんですよ。陛下って王妃様に似て女顔だし、小さいころは見た目がまんま美少女だったし……。ほんと驚きました。猫耳生やした女の子が、死にかけてた俺を雪の中から引きずり出してくれたんですから……。フレイヤさまが、生きる価値のない俺を拾ってくださったのかと思った……」
レヴの顔に、笑みが刻まれる。その笑みがどことなく寂しそうで、カットは彼と出会ったときのことを思い出していた。
ヴィッツが亡くなってから、カットは毎日のように母親の墓参りにやってきていた。城を抜け出すカットをティーゲルは必死になって探したものだ。
だがカットの居場所がわかると、ティーゲルは息子が城を抜け出すのを黙認するようになる。
あとでティーゲルに聴いた話だが、彼は密かにカットの護衛を教会の関係者に紛れ込ませていたのだという。
父はきっと、母親を失ったばかりのカットを思い墓参りを黙認していたのだ。そんな父の思いも知らず、カットは墓標の前でいつも泣いていた。
フィナに会いたいという思いもあった。
ここにいれば、自分を嫌いと言った彼女にまた会える気がしたのだ。
でも、春が終わって長い冬がやって来ても、フィナが教会にやって来ることはなかった。
そんなとき、レヴを拾ったのだ。
雪の中に埋まっていたレヴを見つけたときには本当に驚いた。ゴミだと思っていたものが、レヴだったのだから。
カットは、必死になって雪を掘り起こしレヴを救い出した。
幼くして親とはぐれてしまった彼は、たった一人で生きていたのだ。
生き延びるために何でもやったとレヴは言った。
盗みも、人を騙すこともすらもレヴはしたという。
本人は語らないが、もっと辛い経験をレヴはしているかもしれない――
「本当にお前には、色んなことを教わった。城しか知らない俺に王都の友達を紹介してくれたり、危険な遊びを教えてくれたり……。二人で城を飛び出して、王都で浮浪児になったこともあったけ」
「陛下がティーゲルさまを恋しくなって、三日でリアイアしましたけどね」
「本当、父上とつまらないことで喧嘩して、腹いせで城を出て行ったのに、あの幕切れは今思い出しても恥ずかしいよ……」
レヴの言葉に、カットは苦笑いを浮かべていた。そして、レヴを見つめる。
翠色の眼が優しくカットを映し出している。いつもレヴはこの優しい眼差しで自分を見守ってくれていた。
どんな話にもレヴは耳を傾け、カットの言うことを聞いてくれた。
「あなたが俺を人にしてくれた。命を助けてくれた。他人を信じることを教えてくれた。文字も、教養も、そして家族もあなたがすべて与えてくれた……。あなたが俺を作ったんです、陛下」
レヴが両手でカットの手を包み込むように持つ。カットの手に顔を近づけ、彼は言葉を続けた。
「でもね、陛下……。俺はあなたに何も返すことが出来ていない。あなたがくれた家族とも上手くやっていけない……。義父は言いました。お前も私の息子だ。どうか義兄のように結婚して、私を安心させてくれと……。俺、これでも可愛い許嫁もいるんです。その子と結婚しろって義父に笑顔で言われたとき、頭の中が真っ白になりました……。その子のことは良い子だって思ってます……。でも、俺はその子に恋はしてない……」
レヴは顔をあげ、なおも言葉を続けた。
「だから、陛下を誘拐しました。結婚しろって言われたとき、陛下に無性に会いたくなったんです。それに、義父がティーゲル様と話しているのを聞いてしまって……。俺の代わりに、陛下の結婚相手になる女を護衛にするとかぬかしやがるんですよ……。もう、結婚とか俺を我が子みたく可愛がってくれた義父への恩義とか、どうでもよくなりました。
陛下に俺と同じ思いをさせたくなくて……。ううん、陛下を誰にも渡したくなかったんです。陛下と一緒にいられれば、それでいいって思えてきて……。だから、陛下とフィナちゃんにあんなこと……」
レヴの言葉が途切れる。彼は俯き、両手で握りしめるカットの手を強く引き寄せえた。
「レヴ……」
そんなレヴにカットは優しく声をかける。それでもレヴは顔をあげない。
「レヴっ」
苛立ちを含んだ声でレヴを呼ぶ。レヴはゆっくりと顔をあげ、怯えた眼をカットに向けてきた。そんなレヴの額にカットはそっと唇を落とす。
唇を離すと、眼を見開くレヴの顔が視界いっぱいに広がった。
「陛下……」
「大好きだよ、レヴ。お前がいたから、俺はこうしてここにいられる。たぶん結婚相手がフィナじゃなきゃ、俺は喜んでお前について行ったよ……」
微笑んでレヴに言葉を返す。レヴはそっと額に手を当て、苦笑してみせた。
「陛下……いい加減、天然ジゴロ治しません?」
「だから、その天然ジゴロって何なんだ……?」
「フィナちゃん本当に苦労するだろうなぁ……」
カットの言葉に、レヴは乾いた笑い声をあがる。何だか馬鹿にされたような気がして、カットは猫耳をビンッとたてていた。
カットの自室、王の間の扉前でフィナは立ちつくしていた。寝る準備をしたカットがレヴを自室に招き入れたことに、警戒心を抱いたためだ。
レヴ・クラスティ・オーブシャッティンサンは帽子王の恋人である。
そんな噂が、王城の女性たちの間で密かに囁かれていたのだ。
彼女たちは自分たちのことをこうも噂している。彼がカットの恋人だからこそ、先王は彼を解任し、花嫁候補であるフィナを護衛につかせた。
彼がカットを誘拐したのは、フィナに嫉妬したためだとも。
いきなりカットを誘拐し、初対面にも関わらず決闘を挑んできたレヴをフィナは快く思っていない。王城の女性たちのあいだで囁かれる噂が、それに拍車をかけていた。
けれど、その思いが空しく崩れ去ろうとしている。
カットがレヴの額にキスをした現場を、目撃してしまったからだ。そして、彼らの秘められた過去を立ち聞きしてしまった。
フィナにとってレヴはカットを誘拐した不埒者だ。
だが、カットにとってレヴはかけがえのない従者であり、友人以上の存在なのだ。
顔を赤くしたレヴが、寝台から降りて扉へと向かってくる。扉を開け部屋の様子を窺っていたフィナは、慌ててその場から離れた。
「たく……なに考えてるんだよ……。あの、天然ジゴロ……」
扉を開け、レヴが暗い廊下へと歩を進める。彼に見つかりたくなくて、フィナは台座に鎮座する猫の彫像の後ろへと隠れた。
その彫像の前をレヴが歩んでいく。フィナは物陰から顔を覗かせ、レヴを見つめた。
額に手を当てながら、レヴは何かをぼやいている。
「たっく、すぐに戻って来て命令だよレヴって、何様のつもりだよ。一体、いつになったら俺抜きで眠れるようになるんだか……」
「同衾っ?」
レヴの言葉に、フィナは大声をあげ彫像の後ろから跳びだす。
レヴの言葉を真に受けるのなら、彼は少なくともカットと寝起きを共にしていることになる。それはもう、友情の枠を軽く超えているのではないか。
「フィナちゃん……?」
突然現れたフィナを、レヴは唖然と見つめていた。そんなレヴにフィナは声を荒げる。
「カット、じゃなくて陛下と一緒に寝ているとはどういうことですかっ? レヴ殿っ!」
びしっとレヴに人差し指を突きつけ、フィナは彼を睨みつけていた。
この男のことだ。添い寝だけでは飽き足らず、カットに何かやましいことをしているかもしれない。カットの護衛として、そんな不埒なことを見逃すことはできない。
「いや……一緒には寝てるけど……。陛下の命令だし、断れないんだよね。うん……」
「カットの命令っ?」
後ろめたさそうなレヴの返答に、フィナは叫び声をあげていた。びくりとレヴが体を震わせ、フィナを見つめる。
「いや……その、痴女対策というか……。もう分かってると思うけど、あの人ヴィッツ様似の美形な上に、あの天然ジゴロでしょ。そこにあの可愛い猫耳がつくんだよ……。本人自覚してないけど、結構モテるのよ……。過去にも何度かティーゲル様が差し向けた女の子たちが陛下を夜這いしたことがあって、護衛の俺が陛下の貞操を守ってた訳……。陛下、そのせいで凄い女性不信になったことがあってさ、夜這いから身を守るために俺に添い寝を強要してたのよ……。独りじゃ女が恐くて眠れないなんて、猫耳震わせながら言うんだよ。断れる?」
苦笑を浮かべながら、レヴは理由を話してくれる。その話を聞いて、フィナの背筋を冷汗が伝っていく。
レヴの話は、物凄く身に覚えのあることだったからだ。
「もしかして……陛下がレヴ殿に一緒に寝るのを強制したのって……」
「あ……あの、言いにくいんだけど、フィナちゃんも陛下を夜這いしたそうで……。お互いの気持ちもはっきりしないうちに、そういうのは良くないっていうのが陛下の意見で、けっしてフィナちゃんを嫌がっている訳じゃないよ。うん……」
レヴがすかさずフォローを入れてくれる。それでもフィナの心的ダメージは深刻だった。レヴがカットと寝ている理由が女の夜這い。しかも、自分もその夜這いを仕掛けた内の一人だ。
「いや……。あのときは、カットの側にいたい一心で……。そうじゃないと、国も傾いちゃうってティーゲル様に言われたし、呪いをかけた償いをするためには、彼の側にいるしかないってずっと思ってて……。その……」
顔が熱を帯びる。恥ずかしくなってフィナは両手で顔を覆っていた。
夜這いを仕掛けたあの日、フィナはたしかに追いつめられていた。自分の正体がバレたとたん、カットが口を聞いてくれなくなったのだ。
帰りの馬車の中で、彼は思いつめた表情をしながら車窓を眺めるばかりだった。
そして彼はフィナにこう告げた。
――君を、側に置くことはできないかもしれない……。
その言葉を聞いたとたん、フィナの中で何かが弾けたのだ。
彼の側にいられないかもしれない。そう想像しただけで胸が張り裂けそうになった。
そんなフィナにティーゲルは言ったのだ。
だったらカットを、お前のものにしてしまえばいいと。
その言葉に突き動かされるように、フィナはカットの寝室に忍び込んでいた。
「そう言えばフィナちゃんて、家出少女だったらしいっていうけど、本当?」
レヴが突然、話題を振ってくる。驚いてフィナは広げた指の間からレヴを見つめていた。レヴは気まずそうに視線を逸らしながら、長い赤髪を弄んでいる。
「その……フィナちゃんて経歴詐称されてるけど、ウル宰相の一人娘なんでしょ? その気になれば、軍になんか入らなくても陛下の側にはいられると思うし……」
「私が、女にならなくていい場所だったからです……」
そっと顔から両手を退かし、フィナは静かに答えていた。顔の熱が急速に引いていくのが分かる。
――お前は、嫁ぐことでしか王子の役に立つことが出来ない身だ。女なんだからな……。
父に聞かされてきた言葉を脳裏で反芻させながら、フィナは自分の身の上に想いを馳せていた。
王妃ヴィッツが死んでから、フィナの日常は一変した。カット本人に告げられることもなく、フィナは彼の花嫁候補となったのだ。
それは先王ティーゲルの勅命でもあり、父の希望でもあった。
もともとフィナはその出自から、周囲に存在を隠され育てられてきた娘だ。
フィナの出生記録を辿っても、そこに父であるウルの名前を見出すことはできない。フィナの身を守るために、ウルは彼女を田舎貴族の娘と偽証し手元に置くことはしなかった。
幼少期のフィナは、自由奔放に育てられた。おらく母を先王に売り渡した負目からなのだろう。父のウルはフィナを溺愛していたように思う。
養父母の家にときおりやって来る父はとても優しく、フィナのワガママを何でも聞いてくれた。
そんな父が、態度を一変させた。
彼はフィナを手元に呼び戻し、未来の妃となるべく教育を始めたのだ。それと同時に、フィナからは自由が奪われた。
いつもフィナの周囲にはたくさんの侍女が控え、彼女の言動をすべて監視していたのだ。住んでいる城の敷地から出ることも許されず、着るものすら自由に選べない。
そしてフィナは、誰よりも女性らしくなることを周囲に強要された。
みんなが言った。
これは償いなのだと。そして何よりカット自身がフィナに望んでいることなのだと。
けれども、フィナはその言葉を信じることが出来なかった。
優しかったカットがそんなことを自分に強要するだろうか。
疑問は、ティーゲルがカットに妃候補となる女性を絶えず差し向けていることを知ってから確信となった。洗練された女性たちを相手にしながらも、カットはその女性たちに指一本触れることすらなかったのだから。
カットに無性に会いたくなった。
彼が自分に何を求めているのか、自分の眼で確かめてみたくなった。
そしてフィナは出奔する。
自分を育ててくれた養父母を頼り、士官学校に入隊しても父は何も言わなかった。それが、ティーゲルの思惑だと知ったのはつい最近のことだ。
老獪な先王は、小娘であるフィナの思惑などお見通しだった。
彼は、フィナが自分たちに反発して士官学校に入隊したことも十分承知していた。カットを守り、呪いをかけた償いをしたいというフィナの気持ちも見抜いていたのだ。
士官学校を卒業し近衛隊に入ったフィナに、先王は自らの思惑を伝える。
彼の言葉に、フィナは従うしかなかった。
結局のところ、フィナに逃げ場はなかった。
カットの側にいることでしか、自分は彼に償いをすることができない。そんな思いが、フィナを突き動かしていた。
「でも、私は女でなくてはカットの役にたてないんです。変ですね……。父が強要したせいで、女の子らしい服装もすっかり嫌いになってしまったのに……。軍にまで入って、カットを守れる力も身に着けたつもりなのに……。結局、私は女じゃなきゃいけないんです。そうじゃなきゃ、カットを守れない……」
俯き、フィナは言葉を締めくくる。
カットに押し倒されたときのことを思い出す。
――君は、俺に抱かれる覚悟があるのか?
抱いてくれと懇願した自分に、カットは冷たく言葉を返してきた。少なくともカットはフィナに女を求めてはいない。
彼は、フィナそのものをまっすぐに見つめてくれているのだ。
「まぁ、あの人はフィナちゃんが真っ黒なノルジャンでも溺愛するんだろうなぁ」
レヴの苦笑が、フィナの回想を押しとどめる。レヴは優しげな微笑みをフィナに向けていた。
「はぐれ者だった俺だって、大切にしてくれた人だから……。あの人に限ってさ、君を女だの、政治の道具だのに使うとは到底思えない訳よ。だって俺たちの王様は、凄い天然でお人良しじゃない」
「たしかに……」
レヴの言葉に、フィナは苦笑してしまう。
あのカットが、自分を所有物のように扱うとは思えない。ましてや、フィナに女であることを強要するなんてもってのほかだ。
「だからさ、フィナちゃんには陛下と触れ合って変わってもらいたい。俺じゃ、あの人を幸せにできないから……」
寂しげなレヴの言葉が耳に突き刺さる。フィナは、とっさにレヴに向き合っていた。
レヴは真摯な眼で、じっとフィナを見つめるばかりだ。躊躇うフィナにかまうことなく、彼は片膝をつきフィナに頭を下げた。
「カット陛下の未来の妃たるフィナ・ムスティー・ガンプン様にお願いがあります。どうか、我が王カットを幸せにしていただませんか? このレヴ・クラスティ・オーブシャッティンサン、命に代えて二人をお守りいたします」
「レヴ殿……」
「フィナちゃん、陛下を幸せにしてくれないかな? 陛下の友であり、従者である俺の一生のお願い。あの人を愛して欲しい……」
顔をあげ、レヴは微笑んでみせる。どこか寂しそうな彼の眼から、フィナは視線を放すことができない。
フィナの手を取り、彼はフィナの手の甲に唇を落としてみせた。
「レヴ殿っ?」
「このキスは忠誠の証。今後、俺は陛下と同じく君のことも全速力で守ってみせる。君は、陛下の運命の人だから……」
驚きに声を荒げるフィナに、レヴは笑ってみせる。無邪気なその笑みを見て、フィナも思わず顔を綻ばせていた。
瞬間、レヴの表情が険しいものになる。
「フィナちゃんっ!」
彼はフィナに抱きつき、廊下へと押し倒した。
「レヴ殿っ」
「ごめん。慌ててたからつい……」
フィナの乱れた衣服を整え、彼は素早く体を起こす。フィナは上半身を起こすと、先ほどまでいた場所に何かが突き刺さっていることに気がついた。
それは一本の矢だった。この矢からフィナを守るために、レヴはフィナを押し倒したのだ。
「私としたことが……」
悔しさに奥歯を噛みしめ、フィナは立ちあがる。国王であるカットの護衛を任されておきながら、この程度の奇襲に気がつかない自分が情けない。
「フィナちゃん……。これって……」
そっとレヴが片膝をつき、矢を抜いてみせる。フィナは、レヴの抜いた矢をまじまじと見つめた。弓矢の箆の部分に紙が括りつけられているではないか。
レヴはその紙を解き、紙を広げてみせる。
瞬間、彼の顔に苦笑が滲んだ。
「レヴ殿……」
「何、考えてるんだろうね……。あの老害……」
レヴは手に持っていた紙をフィナに渡してくる。紙は、手紙のようだった。
フィナは紙を広げ、書かれている文字を追っていく。それはティーゲルがフィナに宛てた挑戦状だった。
手紙には下記のようなことが、書かれていた。
猫退治人フィナ嬢。
そなたに勝負を挑む。
明日行われるフレイヤ祭の猫橇レースで、決闘をしないか。
貴殿の大切なものを賭けて戦おう。
どちらがアップルの飼い主になるのか、この猫橇レースで決めるは如何だろうか?
もしそなたが負けたら、カットのコネを使って手に入れたアップルは、儂の飼い猫として可愛がってしんぜよう。
その日の夜にカットと床を共にしてもらうことになるかもしれんので、覚悟しておいてほしい。
かつて軍において活躍をみせたそなたが、この勝負を受けない道理はあるまい。そのような場合においても、アップルは儂の権力を持ってそなたから没収させてもらうぞ!
そなたの未来の義父ティーゲルより
PS 孫の顔が早く見たいです。カットとくれぐれも仲良くね!
文章を読み終わったフィナは、容赦なく手紙を握りつぶす。先王のあまりに横暴かつ挑発的な挑戦状に、フィナの怒りは沸点に達していた。
「アップルさんを奪うつもりですかっ! あの老害はっ!」
「怒るとこ、そこっ?」
怒りに震えるフィナに、レヴが突っ込みを入れる。フィナはレヴを睨みつけ、彼に叫んでみせた。
「アップルさんはもはや私の一部っ! それを先王様とはいえ勝負をけしかけ奪おうとするとは許せませんっ! 成敗してくれますっ!」
「いや……。成敗っていっても……」
フィナの言葉に、レヴは口ごもる。彼は、気まずそうにフィナから顔を逸らした。レヴの言葉にフィナは思わず俯いてしまう。
「分かっています……。ティーゲル様は老害ですが、若かりし日は剣豪と称えられ、猫退治屋を組織した愛猫家でもある。それゆえに猫橇の腕も天下一品です」
ティーゲルの老獪な笑みがフィナの脳裏を掠める。
ティーゲルは一筋縄ではいかない相手だ。正攻法で勝てるとは思えない。けれど、フィナには秘策があった。
「勝てるの、あの老害に……?」
「大丈夫、秘策はあります。アップルさんは誰にも渡しませんっ!」
心配そうなレヴに、フィナは笑顔を向けてみせる。
瞬間、レヴの眼が驚愕に見開かれた。
「フィナちゃん……その耳」
「はい、カットと仲直りしたら、少しだけ操れるようになりました」
驚くレヴにフィナは弾んだ言葉を返していた。
フィナの耳は、いつの間にかカットと同じ猫耳になっていたのだ。
「ほぅ、フィナの奴、いつの間にか魔法が使えるようになったみたいだのぅ……」
老獪な笑い声が、暗い部屋に木霊する。
フィナとレヴがいる対面の棟を窓から眺めていたティーゲルは、フィナの猫耳を夢中になって見つめていた。
今日は満月で、月光が周囲を照らしてくれている。そのためティーゲルは、向かいの棟にいるフィナたちをよく観察することができた。
「あの子が魔法を操るとは……」
驚いた男性の声が聞こえる。ティーゲルは後方へと顔を向けていた。そこにいる人物に、ティーゲルは得意げな笑みを浮かべてみせる。
「フィナの奴、カットを好いておる。儂らに反発して、軍に入ったはのじゃじゃ馬娘がだ。本当に、これだから人は面白い」
「えぇ、本当に私も驚いています……」
ティーゲルの視線の先には、片眼鏡をかけた初老の男性がいた。若い頃はさぞかし美しかったであろう細長の顔を、彼は綻ばせる。
「あの子は、国のために妻子を売った男が自分の幸福を望んでいると知ったら、もっと驚くのでしょうね……」
宰相ウルは悲しげに微笑んでみせる。その微笑みを見て、ティーゲルは顔を歪めていた。
娘がカットに呪いをかけたと分かった瞬間から、ウルはフィナの身を国に売り渡すことを決意していた。
その決意を口にしたときの彼の表情を、嫌でも思い出してしまう。
今にも泣きそうな顔をした、ウルの姿を。
「お前は優し過ぎる……。それがフィナにとって最善と思ったから、そうしただけだろう?」
皺の寄った眼を細め、ティーゲルは忠臣に笑みを送っていた。ウルは軽く眼を見開き、自嘲を浮かべてみせる。
「そう思って、私は自分の妻さえあなたに差し出した。彼女の気持ちなど考えもせずに……」
窓辺に立つティーゲルの横に並び、ウルは向かいの棟にいる娘を見つめる。彼女は弓矢についていた手紙を丁寧に畳み、懐に入れている最中だった。
レヴと話をする彼女は、どこか楽しそうだ。
「ムルケは本当にフィナを愛してくれていました。それを私は……」
「フィナは幸せになる」
ティーゲルは凛とした口調でウルに告げていた。隣にいる彼を見ると、驚いた様子で彼はティーゲルに顔を向けてくる。
「儂の息子が、意地でも幸せにしてみせるよ」
向かいの棟へとティーゲルは視線を戻す。猫耳をゆらしながら、寝間着姿のカットが廊下を歩いている。彼は二人と合流し、何やら話を聞いているようだった。
アイスブルーの眼が、鋭くこちらを睨みつけてくる。
「おぉ、息子が恐いのぉ」
顔に笑みを浮かべながら、ティーゲルはこちらを睨みつけてくる息子を眺めていた。
ひょこひょこと、レヴは王城のすみにある庭を歩いていた。背中には、カットから預かった手紙を背負っている。立ちどまって横を振り返ると、燭台のように明るい王都の街並みが視界に入ってきた。
紺色の夜空に、赤い王都の倉庫街がよく映えている。
昼間、カットがフィナとデートをした場所だ。前夜祭に紛れ込んで、自分も二人の様子をこっそりと見にいった。ブーナットを纏って踊る二人は、レヴから見てもお似合いのカップルだった。
――恋って、苦しいんだな……レヴ。
今はもう床に就いている主の言葉を思い出し、レヴは眼を曇らせる。フィナのことを話すカットは、とても楽しそうだ。そんなカットを見ているとこちらまで幸せな気分になってくる。
でも、寂しい気持ちを抱いてしまう自分もいるのだ。
「何を見ていらっしゃるの? レヴ兄様」
上空から声がふってくる。驚いて顔をあげると、自分の前方に立つ老木に一人の少女が腰掛けていた。
自分と同じ翠色の眼を細め、少女はレヴに微笑みかけてみせる。
「よ、婚約者ちゃん。今日もよろしく頼むぜ……」
背中に載った手紙の束をゆらし、レヴは弾んだ声をかける。少女は軽やかに木から跳び下り、レヴの眼の前でしゃがみ込んでみせた。
「また、陛下の悪だくみのお手伝いをさせられるの? お母様に怒られちゃう」
癖のついた赤髪を弄びながら、少女は愛らしい眼を困ったように歪めてみせる。
「今、教会に勤めてるのはお前だろう? あ、首になったばっかりだっけ?」
「首じゃないっ! 転職したの!」
レヴを怒鳴りつけ、彼女は背中にある手紙の束を奪い取る。
彼女は以前、教会に勤めていた。今は訳があり、フィナの身の回りの世話をしている。
彼女の知り合いを通じ、レヴは今までカットの密書を送り続けてきたのだ。
そして今回も、レヴは彼女の世話になることにした。
「陛下、フィナ様のために王位を捨てられるつもりなの?」
「そうみたいだね。あの人、本気になると何言っても聞かないから……」
手紙を見つめながら、少女は顔を曇らせる。そんな少女に、レヴは苦笑する顔を向けてみせた。
「恋って本当に、人を変えてしまうのね……」
そっとレヴをなでながら、少女は眼を伏せる。レヴを見つめながら、少女は口を開いた。
「兄様は、恋をしていないの?」
「恋ねぇ……。陛下に寄ってきた女狐だったらあらかた食い散らかしてるけれど、本命はいないかなぁ……」
「私は、これでもレヴ兄様の婚約者よ」
得意げに微笑む少女に、レヴは乾いた笑みを浮かべていた。
「それは義父さんが勝手に決めたことだろう? いくら毛色が俺と同じだからって、実の兄妹に手をだすほど俺は鬼畜じゃない。そりゃ、俺たちは近親婚も許されてるけど、お前を恋人にするとかないなぁ」
「私も、兄様だけはごめんだわ」
「ありゃ、気が合うね」
「だって、兄様は陛下の恋人でしょ? みんながそうに言ってる。兄様は、陛下に恋をしてるって」
「はいっ?」
楽しげな少女の言葉に、レヴは声をあげていた。少女はレヴを睨みつけ、人差し指を口に当てる。
「駄目よ、兄様。人が来てしまうわ。めっ!」
「いたっ!」
レヴの額を少女が指弾する。ずきずきと額の痛みにたえながら、レヴは口を開いていた。
「何で俺が、あんな鬼畜猫耳王を好きになんなきゃいけないのかなぁ?」
「あら、王に愛人はつきものよ。先々代の王デュール様なんて、小姓と肉体関係を持って――」
「お兄ちゃん、お前をそんな不埒な子に育てた覚えはありませんっ!」
少女の言葉をレヴは大声で遮る。少女はびっくりした様子で眼を見開き、レヴを唖然と見つめていた。
「ないからっ! マジないからっ! やめて! 本当にやめてっ! 俺はあの人を敬愛しているだけであって、性愛云々みたいな感情はマジで抱いてないからっ!」
カットと不埒な関係にあるなんて、考えるだけで怖気が走る。レヴは、そんな感情を叫び声と共に吐き出していた。少女はきょとんとレヴを見つめるばかりだ。
「じゃあ、なんで兄様は陛下に近づく女の人を嫌うの? どうして、フィナ様と陛下が仲良くしていて、とても寂しそうなの?」
「それは……」
不機嫌そうな表情を浮かべ、少女はレヴに問う。少女の言葉に、レヴは答えを返すことができない。
カットに近づく女性たちを嫌悪し、片っ端から彼女たちを誘惑してカットから引き離していたことは事実だ。カットとフィナの仲に、嫉妬したことすらある。
でも、それはカットがレヴの主だから起こる感情ではないのだろうか。
「ほら、答えられない。兄様は陛下を愛してるのよ。番にしたいと思っているのよ。陛下と結ばれたくて、たまらないのよ。陛下が欲しくて欲しくてたまらないのよ」
「違う……」
「じゃあどうして兄様は、陛下とフィナ様のことをいつも悲しげに見つめているの?」
少女の発言に、レヴは言葉を失う。
彼女の眼が恐くて、レヴは顔を逸らしていた。すべてを見透かしているような彼女の眼が恐い。
彼女の、無邪気な言葉が恐い。
「手紙……。頼むわ……」
「兄様っ?」
少女が自分を呼ぶ。
その声にかまうことなく、レヴは駆けだしていた。
――兄様は陛下を愛してるのよ。
否定したはずの少女の声が、頭の中で繰り返し聞こえる。そんなはずはないと何度も彼女の言葉を否定しながら、レヴは一心不乱に走っていた。
途端、視界が暗転する。何かに躓き、転んでしまったと思ったときはもう遅かった。
がしゃんと、背後で何かが閉まる音がする。レヴはとっさに後方へと顔を向けていた。
細い鉄格子が、自分の眼の前にある。あたりに視線を配り、レヴは自分が檻の中に捕らわれていることに気がついた。
「くくくくっ! 間抜けなやつよのぉ~」
老獪な笑い声があたりに響き渡る。嫌らしい笑みを浮かべたティーゲルが、檻を覗き込んでいた。
どうもハールファグルの王族には、緊縛を好む趣向があるらしい。カットに手枷をされたことを思い出しながら、レヴはつくづくそう思った。
そんな自分は今、背もたれのついた椅子に座らされ、手を後ろ手に縛られている。
「あの、ティーゲル様……。縄、解いてもらえませんか?」
顔に無理やり笑みを浮かべ、レヴは出来るだけにこやかな声をだしてみる。そんなレヴを嘲笑うかの如く、老獪な笑い声が暗い室内に響き渡った。
「くっくっくっくっ、せっかく手に入れたそなたをみすみす手放す訳がなかろうっ!」
笑い声をあげながら、ティーゲルは暗闇から姿を現す。嫌らしい微笑みをたたえる彼の眼は、月光に鈍く光り輝いていた。
「陛下のドSなところは本当にティーゲル様とそっくりですよ。でも俺、愛してるのは陛下だけなんでこういうことは……」
「ずっとお前を奪いたいと思っていたといったら、どうするんじゃ……?」
ティーゲルがレヴの言葉を遮る。彼は笑みを引き、真摯な眼でレヴを見つめてきた。どこかカットと似た鋭い眼光に、レヴは思わず息を呑む。
「レヴ、お前は本当に美しい。カットが儂の差し向けた女たちを差し置いて、お前に夢中になっていたのがよくわかる……」
ティーゲルがそっとレヴに近づき、耳元で囁く。耳に息を吹きかけられ、レヴは体を震わせていた。
「おや、眼が潤んでおるぞ。お前は本当に感じやすいな……」
そっとレヴの赤髪を梳きながら、ティーゲルはレヴの顎を掬っていた。
「やめてくださいティーゲル様。ぶっちゃけ気色悪いです……」
自分の体にふれてくる、皺の寄った手が不快だ。レヴはティーゲルに不敵な笑みを浮かべていた。
「くく……。それでこそ堕とすのが楽しみという訳だ。今夜はカットとではなく、儂と寝てもらうぞ……。お前をこの手に抱く日を、どれほど心待ちにしておったことか……」
「ちょ、親子そろって何なんですかあなたたちはっ? 嫌ですよっ! たまには一人で寝させてくださいっ!」
「いやじゃ! 儂もレヴと寝たい。毎日、毎日、あったかいレヴと寝たいっ!」
駄々をこねながらティーゲルはひしっとレヴに抱きついてくる。眼に涙を浮かべる老人を、レヴは心底呆れた様子で眺めていた。
「でも、俺に手を出したら陛下が――」
「なに、お前はもうすぐ儂のものになる。いや、儂のものにしてみせるぞっ!」
にやりと口元に嫌らしい笑みを浮かべ、ティーゲルは得意げに言い放つ。
「カットの奴め、息子の分際で儂をのけ者にしてフィナとイチャイチャしおってっ! パパは寂しいぞカット! だから、お前を奪ってカットに復讐してやるのじゃっ! 孫もお前も儂のものじゃっ! カットには渡さんっ!」
「やめてください! うっとうしいっ! つーか、なんですかその逆恨みっ? あなたが陛下にフィナちゃんをけしかけた張本人でしょっ? 息子に相手にされなくなったからって、俺を巻き込むのはやめて下さいっ!」
すりすりとレヴに頬ずりをしながら、ティーゲルは叫ぶ。そんな彼にレヴは怒声を浴びせていた。
「ふふ……。囚われの分際で、態度のでかい奴じゃのぅ。カットが負ければ、お前は儂のものになるというのに」
「陛下が負けたらの話でしょ?」
得意げに笑うティーゲルにレヴは嘲笑を浮かべていた。
ティーゲルの顔が曇る。
「はて、またカットは護衛のおぬしらを使って悪さをしておるのか?」
「まぁ、そんなところですよ」
ティーゲルの問いにレヴは笑みを深めていた。
王族警護隊が解散させられた理由の一つに、カットが彼らを自身の手足として使っていたという事実がある。現にレヴを中心とした警護隊のメンバーは、カット直属のスパイのようなことをさせられていた。
今回もレヴはカットが叔父たちに宛てた手紙を密かに送った。
といっても、レヴが得意げに笑う理由は他にある。
――はい、カット仲直りしたら、少しだけ操れるようになりました。
猫耳を生やしながらにっこりと笑うフィナのことをレヴは思い出す。
カットの思い人である彼女は、どうやって眼の前にいるウザい老害を退治してくれるのだろうか。
「なんじゃ、ニヤつきおって……。気色悪いのぉ」
「いえ、明日の猫橇レースが楽しみでつい……」
「儂のモノになるのが、そんなに楽しみか?」
「いえ、陛下とフィナちゃんにあなたがぶっ飛ばされるところを想像したら、楽しくなっちゃいまして」
ティーゲルに、レヴはにこやかな声で答えてみせた。
猫橇レースがついに始まろうとしている。
会場を自由に跳びまわっていた猫たちは橇に繋がれ、スタートラインの前で行儀よくレースが始まるのを待っている。
そんな猫たちを、カットはじっと見つめていた。
自分たちの橇の先頭にはリーダー猫としてアップルが繋がれている。レースに負ければアップルをティーゲルに取り上げられてしまうとフィナは訴えていた。
そして、カットに言ったのだ。
ティーゲルに確実に勝てる秘策がある。だから、一緒にレースに臨んで欲しいと。
真摯な光を宿すフィナの眼を見て、カットは申し出を断ることができなかった。
それだけではない。ティーゲルは、カットにもレースの出場を強制してきたのだ。
もし出ない場合には、レヴを自分の護衛にすると父は脅してきた。
レヴを手放すなんて想像すらできない苦痛だ。そんな苦痛をティーゲルはカットに与えようとしている。
「すみません……陛下……」
レヴの声が聞こえて、カットは自分の脇へと顔を向ける。隣にはティーゲルとレヴの乗る橇が止まっていた。その橇の上で、レヴが悲しげにこちらを見つめている。
「大丈夫、絶対に助けてやるからなっ!」
「陛下……」
励ましの言葉を送っても、レヴは泣きそうな声を返すばかりだ。
彼は今、ティーゲルに捕らわれている。
フレイヤ祭が始まる前日にレヴが忽然と姿を消した。彼はティーゲルが城に設置していた罠に、間抜けにもかかってしまったのだ。
レース会場にやって来たカットが見たものはおぞましい女装姿の父と、なぜかその父の橇に乗っているレヴの姿だった。
フレイヤ祭の猫橇レースは愛を司るフレイヤに因み、男女ペアでの出場が義務づけられている。優勝したカップルは女神フレイヤによって祝福され、生涯を幸せに過ごすことができると伝えられているのだ。だからティーゲルは醜悪な女装姿に身をやつしているのだろう。そして女装ティーゲルの伴侶がレヴという最悪なカップリングだ。
「レヴ殿、絶対に救ってみせますっ!」
「にゃう!」
「くくくっ、それはどうかのぉ」
フィナとアップルがレヴに励ましの言葉を送る。その声を、ティーゲルが無残にも嘲笑う。
「父上っ」
そんなティーゲルの声に苛立ちを感じ、カットは彼を睨みつけていた。ティーゲルの表情が固まる。怯えた様子でこちらを見つめる父に、カットは言い放っていた。
「このレースが終わったら、分かっていますよね……?」
怒っていることを分からせるために、わざと重い声をだしてみせる。ティーゲルは冷汗をかきながら、カットに言葉を返していた。
「た、ただの冗談に何を怒っているのだ……カット?」
「これが、冗談……」
ティーゲルの橇に乗ったレヴを一瞥し、カットは父を睨み続ける。
ティーゲルはカットに怒られることが大の苦手なのだ。理由は、自分の顔がヴィッツに似ているせいだという。
温和だった母は、怒らせると笑顔で攻撃魔法を連発するほど恐ろしい女性だった。そんな父のトラウマを、カットは呼び起こすことがるのできるらしい。
「ティーゲル様……」
そんなティーゲルにフィナが冷たい声をかける。ティーゲルはびくりと肩を震わせ、彼女へと視線をやった。
「覚悟してくださいね……」
フィナの声はどこまでも冷徹だった。その声音に、カットも帽子の中の猫耳を震わせる。
「シャアアアアァっ!」
フィナの声に呼応するように、アップルが毛を逆立てティーゲルを威嚇した。
「そこまで、嫌わんでも……」
うっすらとティーゲルの眼が潤む。
そのときだ。爆音があたりに轟いた。レースのスタートを知らせる合図だ。
「カットっ!」
「分かってる、フィナっ」
フィナに声をかけられ、カットは橇の後方へと下がる。橇に置かれている袋からサーモンの切れ端を取り出し、カットは橇の前方へと勢いよくそれを投げた。
「にゃー!」
興奮したアップルが声をあげ、駆けだす。アップルの後方にいる猫たちも、我先にと駆けだした。
いっせいに走り出した猫橇の群れは、雪に覆われた急斜面を駆けていく。その中でも群を抜いて速いのは、女装ティーゲルが操る黄色の橇だ。
その様子を上空から見れば、凍りついたフィヨルドの谷を色とりどりの猫橇が走る勇壮な光景が見られるだろう。
細く複雑に入り組んだ谷を、何十匹という猫が引いた橇を操り駆け抜けるのは至難の業だ。突如として現れる突き出た岩壁に行く手を阻まれ、転倒する橇が続発する。
そんな難所を、ティーゲルの操る橇は難なく通り過ぎていくのだ。その少し後を、フィナの操る青い橇が追いかける。
だが、ティーゲルの橇に追いつくことはできない。
ゴールはフィヨルドの谷を抜けた先にある。ティーゲルの橇を追い越さなくては、カットたちに勝ち目はないのだ。
「フィナ、このままじゃっ!」
前方を走るティーゲルの橇を見つめながら、カットは厳しい表情を浮かべていた。ティーゲルの橇は氷上の粉雪を舞わせながら、カットたちの橇から離れていく。
「分かってますっ! アップルさんっ!」
「にゃう!」
フィナがアップルに声をかける。アップルは勢いよく返事をし、後方を走る猫たちを振り返った。
「にゃー!」
「にゃーーーー!」「にゃう」「なうなぁ!」
アップルの鳴き声に、猫たちがいっせいに返事をする。瞬間、アップルは進路を大きく右にとった。
「なっ!」
カットが驚きの声をあげる。
アップルはコースである谷から外れ、比較的穏やかな谷の斜面を昇っていく。それでも、猫たちが登るのには急な斜面だ。
転がり落ちそうになりながらも、固い岩の突き出した斜面にかぎ爪を立て、アップルたちは前方へと進んでいく。
そんな猫たちの前足が血で汚れていることに気がつき、カットは叫んでいた。
「フィナ、無茶だっ! 猫たちがっ!」
「私を信じて、カットっ!」
フィナが叫ぶ。彼女は橇を懸命に引くアップルたちを見すえ、言い放った。
「アップルさんっ! 進んでくださいっ!」
「にゃああぁあああああっ!」
アップルが叫ぶ。
橇はみるみるうちに斜面を登っていき、針葉樹林が生い茂る森へと辿り着いた。巨木に囲まれた森の中を猫たちは巧みに動き、橇を前進させていく。
橇が進むたびに低木の枝が絶えず体を襲う。カットは顔の正面で腕を交差させ、迫りくる枝から身を守る。
やがて木々が疎らになり、フィヨルドの谷に続く崖が姿を現した。このまま進めば、橇は深い谷に落ちてしまう。
「フィナっ! ちょっと待ってっ? まさか――」
「飛びますっ!」
「嘘だろっ?」
フィナは叫んでみせる。カットが悲鳴をあげるその瞬間、橇は崖から大きく跳び立ち、宙に浮いていた。
「アップルさんっ!」
「にゃああああああああ!」
アップルの力強い鳴き声が、谷に響き渡る。
直後、フィナの体が眩い光に包まれた。
フィナから放たれた光は、橇を包みこみ猫たちの体を輝かせる。やがてその輝きは形を成し、猫たちの背には愛らしい翼が生じていた。
青い橇にも、木製の美しい羽根が生えているではないか。
橇に生えた羽は大きくはばたきを繰り返し、猫たちに引かれながらフィヨルドの上を旋回する。
「これは……」
帽子を片手で押さえながら、カットは橇からフィヨルドの谷を見下ろしてみた。細長い谷をアイスブルーの美しい影が彩っている。その影の中で、色とりどりの橇が止まっていた。橇に乗る人々は、あんぐりと口を開けてカットたちを見あげている。
「魔法……少しだけ使えるようになったんです……」
小さなフィナの声が猫耳に響く。カットは前方にいるフィナへと顔を向けていた。
「父に昔、教わりました。魔女は自分ために魔法を使うことができない。使ったとしても、それは不完全な魔法になると。愛する人のためにしか、魔法は使えないそうです……。だからカットは耳だけ猫になった……」
「フィナ……」
「多くの場合、魔女は恋をして初めて魔法を使えるようになるんだそうです。だから――」
フィナがゆっくりと立ちあがる。彼女はカットに振り向き、言葉を続けた。
「きっとこれが、私があなたに抱いている本当の気持ちなんだと思います」
赤い眼を細め、フィナが笑ってみせる。その美しい笑みをカットは見つめることしかできない。
「私は、きっとあなたに恋をしています。まだ実感が持てないけれど、あなたといると凄く胸がドキドキする。あなたといると、私は――」
「フィナっ!」
カットは、フィナを抱きしめていた。
ただ、目の前にいる彼女をこの手に抱きたかったのだ。この世で一番愛する女性の存在を、カットは全身で感じたいと思った。
「カット……」
フィナの声が耳元でする。そっと彼女を抱き寄せると、フィナの鼓動がよく聞こえた。
動揺する彼女の心音は、心地よくカットの猫耳に響き渡る。
「フィナの心臓、俺と一緒だ……。凄い、ドキドキしてる」
フィナの顔を覗き込み、カットは笑みを浮かべてみせる。
「カットの心臓も、私と一緒……」
フィナも赤い眼を煌めかせ、カットに微笑みを送っていた。
二人を乗せた橇は雄大に空を飛び、ゴールを目指す。その様子を、谷にいる人々は静かに見守っていた。
「あーあ、見せつけてくれちゃって……」
空を仰ぎながら、レヴは苦笑を顔に滲ませていた。彼の乗る橇の前方には、ティーゲルがいる。女装をいつの間にか解いたティーゲルは、眩しそうな眼差しで空を飛ぶ橇を見つめていた。
「若い頃を思い出すのぉ。儂もヴィッツに空飛ぶ橇に乗せられ、告白されたもんじゃ。あなたを愛していますとな……」
「王妃様とは、政略結婚じゃないんですか?」
ティーゲルの言葉に引っかかるものを感じ、レヴは言葉をかける。ティーゲルは後方のレヴへと顔を向け、得意げに笑ってみせた。
「公式にはそうなっておるが、バリバリの恋愛結婚じゃっ! 迷い猫を保護するために森に入って遭難したとき、救ってもらったことがあっての。こっそり付き合うようになった……。じゃが、彼女が魔女だとは気がつかなかった……」
そっとティーゲルは空へと顔を向けた。
「今の陛下とフィナちゃんみたいな感じだったんですね……」
「あぁ、儂の親父は利益になるものは何でも利用したからのぉ。ヴィッツが結婚相手の一人として連れてこられたときには、本当に肝を冷やしたわい……。そして、そのせいでフィナの母親には、辛い思いをさせてしまった……」
彼は空を舞う橇を見つめながら黙ってしまう。
レヴは伝え聞いているだけだが、フィナの母親は周辺諸国の王位継承者を根こそぎ呪い殺した魔女だという。
それを命がけでヴィッツが封印した。母親が犯した罪から身を守るために、フィナは身分を伏せられて育てられてきた。
「今思うと、父の判断は正しかったのかもしれない。あの人は、フィナの母親であるムルケが何をするのか、儂がそれにどう対処するのかお見通しだったのかもしれないな……。そのお陰で儂の兄弟たちは周辺諸国の王位を継承し、ハールファグルはこの上ない安定を手に入れた……。本当に政治とは恐ろしいものだ……」
「ティーゲル様……」
「ただ、こうも思ってしまうのじゃよ、レヴ。息子には、カットだけには儂と同じ思いはさせたくないと……。それは、儂のわがままかのぉ」
ティーゲルがレヴへと顔を向けてくる。笑みを浮かべる彼の眼は今にも泣きそうだった。
「失礼ですがティーゲル様、俺の陛下は人を不幸にする王ではありません。あなたと違ってね」
すっと眼を細め、レヴは微笑んでみせた。ティーゲルは唖然とレヴを見つめてくる。
「だって、辛い思いをしたあなたが大切に育てた人ですよ。あなたと同じ過ちを繰り返すはずがない。だから、大丈夫です。陛下はあなたのように人を傷つけるような王にはなれない。俺の存在が、それを証明しています」
そっと胸に手を当て、レヴは笑みを深めてみせる。胸に当てた手をみて、レヴは過去に想いを馳せていた。
雪に埋まっていた自分をカットが掘り起こし、抱きしめてくれたあの瞬間を。
そのときの彼のぬくもりを、レヴは生涯忘れることはないだろう。
「あぁ、そうでなったな……」
微笑むレヴを見て、ティーゲルは笑みを浮かべていた。
「それにしても、大切な息子をお嫁さんに盗られちゃいましたねぇ、お父さん。道化を演じるものいいけれど、寂しいんじゃないですか?」
「はて、なんのことじゃ?」
レヴは眼を歪めて意地の悪い笑みを浮かべてみせる。そんなレヴにティーゲルは弾んだ声を返していた。
ティーゲルは空を仰ぐ。空飛ぶ橇を映す彼の眼は笑みの形をしているのに、どこか寂しげだ。
「俺も……義父さんに手紙書こうかな……」
そんなティーゲルを見つめながら、レヴは呟いていた。
実家に帰ってきたとき、自分を温かく迎えてくれた義父のことをレヴは思い出していた。眼の前にいるティーゲルが優しかった義父と重なってしまう。
「ヤバい。俺も寂しいかも……」
空を仰ぐティーゲルを見つめたまま、レヴは苦笑を顔に滲ませていた。
「嘘だろ……。そんな……」
読んでいた手紙がはらりと机の上に落ちる。カットは糸の切れた人形のように、力なく椅子に座りこんだ。
「なんで……こんなことになるんだよ……」
そっと机にある手紙を引き寄せ、文面を何度も確認する。だが、カットの望みは叶うことなく、そこに書かれている文章は残酷な現実を告げていた。
「まさか……母さんがそんな……」
動揺に声が震えてしまう。それでもかまうことなく、カットはもう一度手紙の内容を確認した。
「嘘ですよね……。叔父上……」
また、手紙を落としてしまう。むなしく机に落ちる手紙を見つめながら、カットは両手で顔を覆っていた。
「陛下っ! ちょっと聞いてくださいよっ!」
部屋の扉が乱暴に開けられる音がする。同時に騒がしいレヴの声が聞こえて、カットは猫耳をぴくりと動かしていた。
「あの老害っ、フィナちゃんを陛下の婚約者として舞踏会でお披露目するとか言い出しやがったっ! しかも、お祝いの品と一緒にフィナちゃんを王妃の間に押し込めて……」
かつかつと彼の足音がこちらに近づいてくる。
「陛下……どうしたんですかっ?」
自分の様子に気がついたのだろう。レヴが慌てた様子で声をかけ、こちらに向かってくる。カットは顔から手を離し、立ちあがっていた。
「レヴっ……」
自分に近づいてきたレヴにカットは抱きついていた。顔をあげると、レヴは心配そうに自分の顔を見おろしている。彼はカットを抱き寄せ、耳元で囁いてみせる。
「大丈夫ですよ陛下、落ち着いて……。俺が側にいます……」
「レヴ……」
「何があったか、教えてくださいませんか?」
レヴの言葉にカットは俯いていた。唇を引き結び、カットはレヴに言葉を告げる。
「最悪だよ……。フィナを救いたい一心で叔父上たちに手紙を出したのに、思わぬ返事が帰ってきた……」
狡猾な叔父たちに助力を乞うた自分の愚かさを、カットは呪っていた。レヴの胸元に顔を埋め、カットは言葉を続ける。
「このままじゃ、ファールファグルは戦争に巻き込まれる……。フィナと俺の力が戦争に利用されるかもしれない……」
「フィナとは、結婚しません」
そう自分の意思を伝えると、父であるティーゲルは大きく口を開けて黙り込んだ。そんなに口を開けたら顎が外れてしまうかもしれないと、カットはどうでもいい心配をしてみせる。
ふぃんと猫耳を動かすと、ティーゲルは我に返りカットに言葉を返してきた。
「ちょっと待て、カットっ! お前は、フィナのことを愛していないのかっ?」
「愛してますよ。だから結婚はしません」
椅子に深く座り、両指を組んだカットは父に優しく微笑んでみた。そんなカットをティーゲルは唖然と見つめる。
「フィナと結婚しなければ、お前の王位は――」
「だから、王位も誰かに譲位しようと思います」
笑みを深め、カットは言葉を続ける。ティーゲルはぎょっと眼を見開き、怒声をカットに浴びせていた。
「お前、それがどういうことを意味してるのか分かっているのか?」
「だから、相談のために叔父上たちに手紙も書きました。いくつか返事も届いてますよっ」
机を両手で叩く父の前に、カットは手紙の束を転がしてみせる。譲位を相談するためにしたためた手紙の返事は、すでに半数を超えようとしていた。
「カットお前……」
「それから、父上が解散させた王族警護隊も近々復活させる予定です。レヴを使って元隊員たちに話も通しておきました。昨日は城をこっそり抜け出して、久々に会ったみんなと王都で酒盛りもしましたっ!」
「カットっ!」
「父上は、俺に何かと進言してくれるみんなの存在が疎ましかったんですよね……。俺を慕ってくれる彼らを利用して、父上には色々と悪さもしましたし。それを、フィナを利用することで俺から遠ざけようとした」
机を激しく叩き、カットは父の言葉を遮っていた。
「レヴも含め実力重視で選ばれたせいか、彼らは的確なアドバイスを俺にくれます。父上は、そんな彼らが権力を持つことを恐れた。だから、俺から彼らを引き離したんですよね?
フィナのこともそうだ。フィナと俺の猫耳を使って、父上は周辺諸国への影響力を強いものにしようとした。この国も守り、自分の権力を保持するために……」
今まで父に言えなかった言葉が、口をついてすらすらと出てくる。そんな自分がおかしくて、カットは苦笑を顔に滲ませていた。
「それに父上は、フィナをずいぶんと自分勝手にあつかっていたそうで……」
「カット……」
「気になって色々と調べさせていただきました。俺の花嫁になるはずの女性でしたから……」
すっとカットの顔から笑みが消える。怯える父親を睨みつけながら、カットは言葉を続けていた。
「その咎で、フィナの父親であるウルを城の独房に拘束しました。それから、父上の息がかかった軍も、臣下たちも近々更迭する予定です。軍の方はフィナが活躍してくれたこともあって掌握が簡単でしたよ。今頃は、フィナの同僚たちが上官たちを拘束してくれていると思います。臣下たちの方に関しては、ウルに見せしめになってもらう予定ですが、父上はいかがお考えですか?」
頭の中であらかじめ諳んじていた台詞を言い終え、カットはティーゲルを見すえる。ティーゲルは呆気にとられた様子で、カットを見つめるばかりだ。
「お前、いつのまにそんな……」
「レヴを俺のもとに戻したのが、運のつきです。あいつがいなきゃ、俺は何にもできない……」
父に苦笑を浮かべながら、カットはレヴのことを思っていた。
今回の件は、レヴがいなければ成功しなかったことだ。自分に忠誠を誓う臣下を遠ざけられていたカットにとって、レヴは唯一の味方といえた。
レヴを密かに手足として使うことで、カットは父を出し抜くことができたのだ。
すべては、フィナを守るために――
「たった一人の女のために、父を、この国を裏切るというのか、お前は……」
「俺が王位についていること自体が、国民を裏切っている行為と言えます……。それにフィナと国を天秤にかけたんですけれど、俺にとって大切なのは少なくともこの国じゃなかった……。だから、俺は王である資格がない」
「カット……」
「来週の舞踏会で、この猫耳のことを公にするつもりです。それから、集まってくれた叔父上たちとこの国の行く末についても話したい。申し訳ないですが、父上にはその話し合いの席に俺と一緒に同席していただきたい」
「儂が断ったら、どうするつもりだ……」
「ウルの首が文字通り飛びますよ」
アイスブルーの眼を怪しく煌めかせ、カットは父に嗤う。人差し指で首を掻き切る仕草をしてみせると、ティーゲルは大きく眼を見開いた。
「それとも、このハールファグルで内戦でも起こしますか? 母さんの愛したこの国を、父上は戦地に変えることも出来るんですよ」
「カットお前……」
「命令です父上。俺に全権を譲り渡してください……。あとは、自分で何とかします」
すっと眼を鋭く細め、カットは父に冷たい言葉を送る。ティーゲルは大きく眼を見開き、両手で顔を覆った。どさりと、彼は椅子に深く腰掛け大きく息を吐く。
「父上……」
「はははははははははははあははははあはっ!」
両手で顔を覆ったままティーゲルは哄笑する。彼は顔から手をどけ、満面の笑みをカットに向けてきた。
「でかしたカットー! 儂を出し抜くとは、さすが儂の息子じゃー!」
「父……」
「カットッー!」
「うぁっ!」
ばっと椅子から跳び下り、ティーゲルはカットに抱きついてくる。とっさに避けようとしたものの、カットはティーゲルの腕に捕まってしまった。カットの体は無残にも椅子から転げ落ち、床に叩きつけられる。
「父上……」
背中に走る激痛を感じながら、カットはティーゲルに呻き声をはっしていた。
「すまん、お前が可愛くてつい……。でも、そんなお前がついに儂を出し抜きおったっ! 寂しいが、子離れどきかのぉ?」
ひょっこりと、ティーゲルがカットの顔を覗き込んでくる。
「お前の好きにするとよい。父である儂を愛するフィナのために超えたのだからな。なのにどうしてお前は、そんな悲しそうな顔をしとる?」
しゅんとたれた猫耳をティーゲルがなでてくる。カットは潤んでいた眼を拭い、ティーゲルを見つめる。
「だって、俺だってこんなこと父上に言いたくない……。父上を傷つけたくなんて、ないんです……。その気だって、俺にはない……。でも、そうしなきゃフィナを守れない……。父上のお力が必要なんです。お願いです父上、俺を助けてください……」
両手で顔を覆い、カットは父に助けを乞うていた。
ウルを捕えているのは事実だが、彼にはすでに本当のことを話している。その話を承知したうえで、ウルは今回の件に乗ってくれた。
すべてはフィナを救うため――
ティーゲルを脅したのは、彼から全権を奪うためではない。ティーゲルから本音を聞き出すための芝居に過ぎない。
「何があったカット……」
そっとティーゲルがカットの体から退き、声をかけてくる。カットは両手を顔から離し、涙に濡れた眼をティーゲルに向けていた。
「母さんが、俺を裏切ったんだ……。俺のせいで、ハールファグルが大変なことになるかもしれない」
掠れるような声が喉から出てくる。その声を聞いたティーゲルは、眼を見開きながらも静かに言った。
「話してみなさい。理由を聴こう……」
「父上……」
「お前は本当に泣き虫だな、カット。昔から変わらない。だが、それでいい。一国の王である前に、儂はお前に人でいてもらいたい」
そっと父に頭をなでられ、カットは眼を見開いていた。そんなカットに微笑みながら、ティーゲルは言葉を続ける。
「儂は、先々代の王を、自分の父を殺して王位を奪った。お前の祖父は、王としては立派な方だったと思う。だが、人として何かが欠けていた。だから、儂は恐ろしくなって兄弟たちと父を殺したんだ……。お前には、儂と同じ思いをさせたくない……」
ティーゲルは寂しげに眼を細め、言葉を紡ぐ。カットは体を起こし、自分の横に座る父に話しかけていた。
「おじい様は、それは恐ろしい方だったと、叔父上やウルからも聞いています……。だから、殺すしかなかったと……」
自身の祖父のことをカットはほとんど知らない。だが、彼がティーゲルによって葬られた愚王だったことは伝え聞いている。多くの魔女を捕え、無理やり自分の子供たちを生ませていた。その子供たちが自分に逆らうと、彼らの家族を人質として捕え、処刑したことも。
「父に歯向かい、ヴィッツと腹の中にいるお前を殺されそうになった……。だから、儂は実の父を手にかけたんだ……。儂はお前を、もうそんな目に合わせたくはない。カット・ノルジャン・ハールファグルは、王である前に一人の人でなければいい。王である前に、儂はお前に人であって欲しいのだよ」
そっとティーゲルはカットに微笑みかけてみせる。どこか寂しげな眼差しを向けてくる父を、カットは抱きしめていた。
「ありがとうございます。父上……」
泣きそうな声で父に感謝を告げる。
「それに、お前にはまだ儂が必要みたいだからのぉ。甘えん坊の息子を持つと大変だ……」
「そうですね。早く俺も、親離れしないと」
ティーゲルが、カットの背中を優しく叩いてくれる。そんな父の優しさに、カットは笑みを浮かべていた。
ブルーベリーの花が壁一面に描かれた王妃の間に、フィナはいた。フレイヤ祭でカットに告白したとたん、ティーゲルにここに押し込められたのだ。
けれど、それでもいいとフィナは思っていたのだ。
この国の妃になるということは、政治の道具となることすら意味する。
カットの猫耳を公のものとする。その呪いをかけたフィナが彼の手中にあることを公表すれば、この国はかつてない安定を手に入れることができる。
カットはそれを嫌がっていた。けれどフィナにはそれを受け入れる覚悟があった。
彼のためなら喜んで道具になれる。
償いではなく、愛する人として彼を守るために。
「でも、それができなくなったとカットが言いました……。私たちが結婚したら、このファールファグルが争いに巻き込まれるって……」
寝台の上で、フィナは膝を抱えて蹲っている。フィナがいる寝台の前にはレヴが立ち、彼女の話を黙って聴いていた。
「陛下も、王位を誰かに譲渡したら君と一緒になるつもりだったらしいよ。だから、ティーゲル様がフィナちゃんをこの部屋に押し込めても、なんにも文句を言わなかった。でもそれが、できなくなった……」
レヴの言葉に、そっとフィナは顔をあげる。後ろ姿しか見えないのに、彼の背中は寂しげにみえる。
「まさかヴィッツ様が陛下を裏切っていたとは、俺だって驚いたよ。しかも、息子を守るためにやったことが仇になったとか、何の因果だろうねぇ……」
はぁっと大きなため息をついて、レヴは言葉を続ける。
「まぁ、陛下がフィナちゃんと同じ魔女であることは知っていたけれど、それがこんな結果になるとはなぁ」
振り向いた彼は、フィナに苦笑を向けてくる。潤んでいた眼を拭い、フィナはカットが教えてくれた彼の秘密を思い出していた。
カットが母ヴィッツの魔法によって魔女になっているという事実を。それがどうことなのか、彼は詳しく教えてくれなかったが。
「しかもそれがフィナちゃんの呪いを応用した大魔法っていうんだから、俺も教えられたときは驚きのあまり、鳴くことすらできなかったよ。体中の毛なんて、何か恐くてぞわっと立ちあがちゃうし……」
寝台の支柱に体を預け、レヴは憂いた様子で眼を伏せる。
「レヴ殿、鳴くことすら出来ないって……?」
彼の奇妙な発言に、フィナは思わず口を開いていた。ぴくりとレヴの体が反応する。彼は苦笑を顔に滲ませ、気まずそうに口を開いた。
「その……えっと」
「すみません。でも、さっきの発言はまるで……」
「にゃ?」
フィナは隣で丸くなっているアップルに視線を移す。顔をあげたアップルは、きゅるきゅるとした眼をフィナに向けてきた。
先ほどの発言は、レヴが自分自身を猫だと言っているみたいだ。
「あー、仲良くなり過ぎたせいで油断した……。やばいよ、陛下にお仕置きされる……」
レヴは呻きながら、がしがしと自分の頭を搔き始める。
「ま、相手はフィナちゃんだし教えてもいいか……」
「レヴ殿……?」
「かなり驚くかもしれないけど、ごめんねフィナちゃん」
満面の笑みを浮かべ、レヴはフィナに向き直る。何を思ったのか、レヴは寝台に倒れ込んできた。
「ちょっ!」
驚くフィナの眼の前で、彼の体が淡い光に包まれる。雪を想わせるその光が消えたとたん、そこにはレヴではなく一匹の猫が横たわっていた。
美しい赤毛を持つ、大きなノルウェージャンフォレストキャットだ。翠色の眼を猫はフィナに向けてくる。
「あー……。王の間の寝台と違って、王妃の間の寝台ってふかふかで寝心地最高……」
気持ちよさげに眼を細め、猫はごろごろと喉を鳴らす。その光景を見て、フィナは固まっていた。
レヴが消えて代わりに猫が現れたと思ったら、その猫が喋った。
「猫さんが……喋った……」
震えた声を発しながら、フィナはおそるおそる猫に手をのばす。ごろんと猫は仰向けになり、フィナにお腹を向けてきた。
「ほーらフィナちゃん出血大サービスっ! 陛下にも滅多にさわらせない、もふもふのお腹だよぉ」
眼を無邪気に輝かせ、猫は愛らしく髭を動かしてくる。柔らかな毛で覆われた猫のお腹は、とても気持ちよさそうだ。
物凄くさわりたい。
さわりたいが、驚きの方が勝っていてフィナは出しかけた手をとめていた。
「あ……あなたは一体……?」
「どうも、カット国王陛下の護衛兼飼い猫のレヴ・クラスティ・オーブシャッティンサンですっ」
びっとピンク色の肉球が愛らしい片前足を持ち上げ、猫が返事をする。
「カットの飼い猫……?」
「フィナちゃんだって橇に翼生やしたり、陛下の耳を猫耳にしたりってやりたい放題やってるじゃないかよ。そんなに驚くことかなぁ……」
不満げに眼を細め、猫になったレヴは前足をばたつかせてみせる。フィナはその前足を掴み、柔らかな肉球にふれてみた。
湿り気のある肉球の弾力は、間違いなく本物だ。
「これは……一体」
「まぁ、これも陛下の魔法の一端ってやつだな。俺は陛下の魔法で人間になることができる猫なのよ。ちなみにアップルは、年の離れた俺の妹ですっ」
「にゃうっ!」
レヴの言葉に、アップルが元気よく鳴いてみせる。フィナは勢いよく体を起こしたアップルを一瞥し、またレヴに視線を戻した。
レヴは服従のポーズをやめ、俯せになっている。お腹にふれられなかったことを後悔しつつ、フィナは彼に話しかけていた。
「じゃあ、陛下を誘拐したのって……」
「だって、陛下ってば俺が実家に帰るときに引き留めることすらしなかったんだよ……。陛下が恋しくなって城にこっそり戻ってきたら、なーんかフィナちゃんといい感じだし、ちょっとムカついてというか……。あ、ちなみに俺の義理の家族も俺が猫なのは知ってるよ。それを承知で俺を養子にしてくれたんだぁ」
「同衾しているのも……」
「同衾とか凄く生々しからやめてほしい……。冬になると夜の城ってすっごく寒くなるから、陛下は俺を湯たんぽ代わりに使うんだ。それと、前言ったように夜這い対策ね。おかげでこっちは毎日寝不足だよ……。もう、たしかに俺はもふもふであったかいけど、陛下は俺の苦労をちっとも分かってくれないんだ……」
「ティーゲル様に罠で捕まえられた話は……」
「あの老害おっさん、俺のことを狙ってるんだよ……。だからときおり城の中に猫用の捕獲機を忍ばせておいて、猫になった俺を捕まえようとするの。ほんと、俺は陛下一筋なのに迷惑な話だよね……」
「そもそも、あなたは猫と人間どちらなんですか?」
「猫だよっ! 可愛いでしょ? 猫の俺」
フィナを見あげ、レヴはくるっと小首を傾げてみせる。その仕草がなんとも愛らしく、フィナは思わず彼の頭をなでていた。
「可愛いですっ! カットがうらやましいっ!」
眼をくわっと見開き、フィナは迷うことなく本心を告げていた。
「にゃあ……」
横になっていたアップルが顔をあげ、フィナに非難の鳴き声を送ってくる。
「すみません、アップルさん。でも、でも……可愛いものは、可愛い!」
「フィナちゃん、気持ちいよぉ……」
頭をなでてやるたびに、レヴはごろごろと気持ちよさげに喉を鳴らしてくる。うっとりと眼を細める彼の表情はなんとも愛らしい。
「にゃーっ!」
鳴き声をあげながら、アップルが立ちあがりフィナに突進してくる。布団のうえでぽんっと軽く飛び、アップルはフィナの膝に乗ってきた。
「アップルさんっ!」
「にゃうっ!」
顔をあげ、アップルはフィナをじっと睨みつけてくる。
「あーあ、何かあったときのためにフィナちゃん見守ってくれってお願いしただけなのに、俺よりも強い独占力を発揮してるのこの妹は……。兄妹って似るもんだなぁ……」
フィナに頭をなでられながら、レヴは深いため息をつく。そんなレヴにアップルは非難の眼差しを送っていた。
「じゃあ、アップルさんが私の部屋にいたのって……」
「うん、俺がフィナちゃんを見守って欲しいって頼んだせい。まぁ、それが俺らの役目でもあるしね」
「レヴ殿とアップルさんの役目?」
「そ、我らが猫の王様であるカット王が、王たる器の持ち主かどうかを決める査定人ってところかな。王をお守りする護衛も兼ねてるけどねぇ」
前足を思いっきり伸ばしながら、レヴはフィナの質問に答えてみせる。彼の言葉にフィナは軽く眼を見開いていた。
カットが猫の王様とは、どういう意味なのだろうか?
フィナの疑問を察したのか、レヴは言葉を続けた。
「フィナちゃんは陛下に詳しく話を聞いていないから分からないだろうけど、あの人が魔法を使えるのは俺たち猫のお陰なんだ。俺たち猫はフレイヤ様の使い。そのせいか、微量ながら魔女と同じ魔法が使える力を持っている。ま、それを扱えるのは俺みたいな一部の猫だけだけどね。
陛下は、猫たちから力を譲り受けることで魔法が使えているんだよ。その見返りとして、俺たちファールファグルの猫たちは厚い保護を受けることができるよう保証されている。この国が猫に優しいのには、そういったカラクリがある訳」
「まさか、私たち猫退治人も……」
「猫退治屋は、ヴィッツさまが遺言で立案されたボランティア団体らしい。ティーゲル様は亡き妻の意思を引き継いで、俺たち猫を保護してくれているの」
ふさふさの尻尾をなまめかしく動かしながら、レヴは言葉を続ける。彼の告げる真実に、フィナの頭はパンクしそうだった。
通常、女神の血を引いていても魔法を使えるのは女性だけだ。その魔法をカットが使えることすら驚きだったのに、その彼が猫の王様というではないか。
もう、何が何だか分からない。
「俺も生まれる前だから伝え聞いた話しか知らないけど、ヴィッツ様は陛下の将来を憂いて猫との契約を伴う大魔法を実践なさったらしい。そもそも陛下はフィナちゃんの中途半端な呪いのせいで半分猫なんだ。そのことに気がついたヴィッツ様は我ら猫に契約の話を持ち掛けた。陛下を猫の王にすえる見返りとして、我ら猫を全速力で庇護すると。呪いのせいで不遇の人生を歩むであろう息子を、救ってほしいと。
俺たち猫がヴィッツ様によって受けた恩恵は果てしないものがある。俺たちは陛下が猫の王に相応しい存在であるかどうかを判断するお目付け役を置くことを条件に、この契約を承諾した。そしてヴィッツ様は、陛下にこのことを伝えられたんだ。陛下の力が政治の道具といて扱われないように。陛下自身にこの力を悪用しないように何度も言い含めて。
だからこの事実を知っているのは、俺たち猫と、天国にいるヴィッツ様とティーゲル様、そして陛下だけのはずだった……」
レヴが翠色の眼を鋭く細める。そんなレヴの様子を見て、フィナは口を開いていた。
「ヴィッツ様は近隣諸国の王たちに、この事実を伝えられていたんですよね」
「そう、猫耳があったとしても陛下が王位を追われないよう、彼女なりの配慮だったと思う。でも、時の権力者たちは思った以上に狡猾だった……」
レヴの声が不機嫌になる。
――君とは一緒になれない。なっちゃいけないんだ……。
カットの言葉を思い出す。今にも泣きそうな彼は、フィナに何があったかを教えてくれた。
カットの力を使って、他国に攻め入る。
このファールファグルを中心とした軍事同盟を結成し領土を広げようという主張を、カットの叔父たちは手紙の返事に書いてきたのだ。
そこに自分たちを恐怖に陥れた魔女の娘が加わったら、どれほど心強い事だろう。彼らは喜んでフィナとカットを同盟の象徴として祭りあげることだろう。
「カットは、私を戦争に巻き込みたくないそうです。軍人である私をですよ。おかしすぎて、彼から理由を聞かされたときは涙が出ました。私は、女ではなく一人の人間として彼の役に立ちたくて……。彼のために強くなりたくて軍に入ったのに……。私はカットに辛い思いばっかりさせてる……」
自嘲にが顔に滲んでしまう。
「力で陛下を守れないなら、女の武器で陛下をお守りしたら?」
くると首を傾げ、レヴはフィナに問う。彼の意外な言葉に、フィナは言葉を失った。
「よっこらせっと……」
そんなフィナを鑑みることなく、レヴは体を起こして寝台から跳びおりる。床に着地した瞬間レヴの体が光り輝き、彼は人間の姿に戻っていた。
「俺たち猫はヴィッツ様から預かってるものがあってさ、これこれ」
レヴが両掌をうえに向ける。すると、その周囲を光の粒子が旋回し始めた。それは形をとり、美しいドレスに変わる。絹でできたそれは、ゆったりとレヴの両手に収まった。
白銀のドレスにはビーズが散りばめられ、まるで雪原のように光り輝いている。
「もうすぐ舞踏会だし、お姫様はおしゃれしなくちゃね」
そっとレヴはウインクをして、そのドレスを寝台の上に広げてみせた。星屑のように輝くビーズ刺繡にフィナは思わず見惚れてしまう。
手をのばしてドレスにふれると、絹の滑らかな感触が伝わってきた。
「これは……」
「ヴィッツ様がティーゲル様と舞踏会で踊ったときに着ていたドレスだってさ。もし陛下のお嫁さんが着てくれるなら渡して欲しいって、俺たち猫に託された形見の品。さぁてフィナちゃんどうする? もうすぐ陛下の婚約者を決める舞踏会が行われる予定だけど、肝心の陛下にダンスのお相手がいないんじゃ、様にならないよねぇ」
にっとレヴは微笑み、フィナに言葉を送る。フィナは微笑みながら、ドレスを手にとっていた。
ぎゅっと胸元にドレスを抱き寄せ、眼を瞑る。
女の子らしい服もドレスもフィナはあまり好きでない。
女性らしくあれと強制された反動のようなものだ。
カットと街に出たときもブーナットを着て欲しいと頼まれたが、内心はあまり着たくなかった。
でも、今はどうだろう。
このドレスを見て、胸をときめかせている自分がいる。
このドレスを着てカットと踊ることができたら――
「やっぱり私も、女の子なんですね……」
そっと眼を開け、フィナはドレスを見つめる。フィナの顔にはいつのまにか笑顔が浮かんでいた。
「レヴ……。フィナに俺の秘密喋っただろう……?」
不機嫌そうな主人の声に、全身の赤毛が逆立つ。レヴは後方へと振り向いた。自分を抱きしめ、その背中に顔を埋めるカットの表情は窺えない。
「さぁ、何のことですか?」
「アップルが教えてくれた……。フィナをお前に盗られそうになったって文句と一緒にね」
ぶわりと猫耳の毛を逆立て、カットはレヴの背中から顔を離した。アイスブルーの眼は不機嫌そうに歪められている。窓から入ってくる月光が、彼の眼を妖しく照らしていた。
カットは王の間にある天窓に身を預け、レヴを抱きしめていた。叔父たちとの手紙の一件があってから、彼は部屋に籠ってばかりだ。
よく行っていた教会にも足を延ばさないし、もちろんフィナとも顔を合わせない。部屋に籠ってはいるが、臣下を呼びつけ仕事だけは怠らない。
唯一側にいることを許されたレヴからしてみると、カットは仕事に逃げ場を求めているようだった。仕事の合間には政治に関する書籍や、ティーゲルの手記を読み足りない知識を必死になって補おうとしている。
そして、机の上に突っ伏して寝ることも多くなった。
ここ数日で彼の顔つきは変わったように思える。柔らかな笑みを浮かべることがなくなり、何かに追いつめられたような鋭い表情を見せることが多くなった。
そして、泣きそうな表情を浮かべては猫姿のレヴを抱きしめ、何時間もそのままで過ごす。
ごめんねフィナと、何度も呟きながら――
「やめてくれよ、レヴ……。フィナにこれ以上迷惑はかけたくないんだ。俺に呪いをかけたせいで、彼女はウルにずっと閉じ込められて育ったんだぞ……。それなのに、また――」
「俺は、陛下の方が閉じ込められてる気がしますけどね。今の陛下なんて、まさしく籠の中の鳥じゃないですか」
「俺が鳥? 鳥を捕まえる猫の間違えじゃないのか?」
カットが嗤う。自嘲ともとれるその笑みが妙に寂しげで、レヴは口を開いていた。
「陛下、向き合うように俺を抱っこしてくれませんか?」
「なんだよ、レヴ」
不機嫌そうな声を返しながらも、カットはレヴの顔と自分の顔が向き合うよう、体を抱きなおしてくれる。
「ていっ!」
レヴはカットの頬に、ぶにゅりと肉球パンチをお見舞いしていた。
「レヴ……?」
「もう一回、ていっ!」
もう片方の頬にも、レヴは肉球パンチをお見舞いする。
「レヴっ!」
カットは眼をいからせ、レヴの前足を掴んでいた。
「いや、ちょっとムカついたんで……。フィナちゃんは無理やり鳥籠の中に入れられちゃたけど、陛下は自分から籠の中の鳥になっているなって思っちゃって……。あの、引きこもりってやつですね。何かすっごくカッコ悪いですよ今の陛下……」
「自分から引きこもってる?」
「はい。ティーゲル様に助力を乞うたのは及第点だと思いますよ。でも、肝心のフィナちゃんの気持ちはどうなさるおつもりで? アップルに訊いたら、フィナちゃん毎日部屋で泣いているそうです。もう、百パーセント陛下のせい……。女の子泣かせるとかチョーサイテー。これだから総天然ジゴロ自己中猫耳王は役立たずなんですよっ!」
後ろ足でカットの胸を思いっきり蹴りながら、レヴはたまっていた鬱積を罵倒にして吐き出していく。ここ数日辛気臭いカットのおもりをさせられ、レヴのストレスも頂点に達していたのだ。
「フィナが泣いてるっっ?」
レヴの罵倒に、カットは眼を見開いて声をあげた。
「あー吐き出したらスッキリしたーっ! 当たり前でしょっ! 好きな男に告白したのに振られたんですよっ! 結婚できないとか言われたんですよっ! さんざん誘惑しといて、都合が悪くなったらポイですよ! そんな最悪な男があなた以外にいますかっ?」
びしっと前足をカットに向け、レヴはカットに言い募る。カットはレヴを見つめ返すばかりだ。
「あー、本当に陛下にはガッカリですよ……。猫耳がなんです? ヴィッツ様の魔法がなんです? 親戚の恐い叔父さんたちはそんなに脅威ですか? つーか戦争ぐらい国王やってたら一生に一回は体験するもんだと思いますよっ! それに妃が巻き込まれるなんてあたりまえでしょうっ? 巻き込まれる覚悟を決めてる好きな女の子も守れないんですか、あなたはっ? あなたの気持ちなんてこのさいどーでもいいっ! 今、一番大切なのはフィナちゃんの気持ちでしょうがっ!」
カットに対する怒りが、言葉となってあふれ出てくる。自分の思いをカットに叩きつけ、レヴはだらりとカットに向けていた前足をたらした。
喉が痛い。
それ以上に、怒りすぎたせいで疲れが小さな体を襲っていた。
「はぁ……はぁ……」
「猫も息切れするんだな……」
息を切らせる自分にカットが声をかけてくる。レヴはカットの顔を見つめ、ぎょっと毛を逆立てていた。
カットが泣いている。大粒の涙を流して、笑顔を浮かべている。
「陛下……」
「やっぱりお前は凄いな、レヴ。いつも、俺に必要な言葉をくれる……」
レヴを胸元に抱き寄せ、カットは俯く。彼の涙が、毛を濡らしていく。それが何だか不快で、レヴはカットに言葉をかけていた。
「陛下……。おろしていただけませんか?」
「レヴ……」
「いいから下ろせ、猫耳総天然王っ!」
「す、すまない……」
レヴの気迫に押され、カットはレヴを天窓の窓枠に下ろす。瞬間、レヴの体が淡い光に包まれた。レヴは人の形をとり、そっと窓枠に腰を下ろす。
「お前の人間姿。久しぶりに見たかもな……」
隣に座るカットが、眼を拭いレヴに笑顔を向けてきた。彼の笑顔が愛らしくて、レヴはカットの肩に手を差しのべる。
レヴは、そのままカットを抱き寄せていた。
「レヴっ?」
「たっく、これだから天然ジゴロは……。泣きたいんだったらこっちの姿でお願いします。猫の姿だと毛が濡れて大変なんですよ……」
カットと視線を合わせることができず、レヴは彼から顔を背ける。そんなレヴにカットは小さく声をかけてきた。
「ありがとうな、レヴ……」
振り返ると、自分の主人はいつもの優しい笑顔を浮かべている。そんな彼にレヴも笑顔を返していた。
「ちゃんと責任とって、俺とフィナちゃんのこと幸せにしてくださいね」
「お前は、余計だと思うけどな……」
レヴの冗談に、カットは弾んだ声で答えてみせた。
どうしてだろう。主のその発言が、妙に心に突き刺さるのは。
「俺は、余計か……」
「えっ……?」
苦笑を浮かべ、レヴは呟いてみせる。自分はカットを愛しているという妹の言葉をレヴは思い出していた。
日頃からカットの天然ジゴロには悩まされていたが、自分はそのカット以上に鈍感だったみたいだ。
――じゃあどうして兄様は、陛下とフィナ様のことをいつも悲しげに見つめているの?
アップルの言葉が脳裏に蘇る。
違うと否定していた感情が、自分の中で肯定されていく。
「レヴ?」
カットが自分を呼んでくれる。愛しい主へと顔を向けると、彼は心配そうに自分を見つめていた。
そんな眼で見つめないで欲しい。また、攫いたくなってしまう。
どこか遠くへと連れて行きたくなってしまう。
レヴは、自分を見つめてくるカットの両頬を手で包み込んでいた。そっと彼の顔を覗き込み、優しく微笑んでみせる。
「ごめんね。陛下……」
「レヴっ……」
カットの耳元で囁き、レヴはカットの額に唇を落としていた。顔を離すと、唖然としたカットの顔が視界に広がる。
本当は唇を奪ってやりたかったが、それはできない。カットの唇に触れられるのは、この世界でたった一人の女性だけだから。
「どうしよう俺……陛下のことが……大好きだったみたい」
カットを映した視界が歪む。
潤む眼に笑みを浮かべ、レヴはカットの頬から手を離していた。
「さようなら……愛しい人……」
「レヴっ」
カットの叫び声が聞こえる。その声に応えることなく、レヴは部屋から駆けだしていた。
王の間を跳び出すと、廊下を歩くフィナと眼があった。
「レヴ殿……。その、どうされたのですか?」
彼女が驚いた様子で声をかけてくれる。レヴはそんなフィナを抱き寄せていた。
「ちょ、レヴ殿……」
「陛下のこと、お願いね……。フィナちゃん」
涙声になっている自分が情けない。それでもレヴは、フィナに自分の思いを告げていた。
「レヴ殿……」
涙を流しながらもレヴはフィナに微笑んでみせる。驚くフィナを離し、レヴはその場から駆けだしていた。
「レヴっ!」
レヴを追いカットは駆けだしていた。
涙に濡れたレヴの眼を思い出し、カットは胸を痛める。
自分の額にキスをして逃げた彼は、どうして泣いていたのだろうか。
その理由がカットには分からない。
レヴはカットにとって親友であり、愛すべき飼い猫だ。
でも、もしかしたらレヴにとってカットは――
「カットっ!」
カットの思惟は凛とした声に遮られる。その声に猫耳の毛を膨らませ、カットは立ちどまっていた。
フィナが王の間の扉に手をかけ、カットを見つめている。彼女はカットに駆け寄り、カットを抱きしめてきた。
「フィナ……。どうしてここに……?」
「いかないで、お願い……」
「フィナ……」
「私の側にいてっ!」
顔をあげ、彼女は泣きそうな眼をカットに向けてくる。彼女の切なげな眼から、カットは眼を離すことができなかった。
「私を見て……カット」
そっとフィナは俯き、カットの胸元に顔を埋めてくる。
「どうして、ここに……?」
声が震えてしまう。それでもカットはフィナに問いかけていた。
彼女を拒絶し、傷つけたのは自分だ。
その彼女が眼の前にいることが信じられなかった。
「カット……」
縋るようにフィナがカットの顔を見あげてくる。恥ずかしそうに眼を潤めながらも、彼女は言葉を告げていた。
「私を……抱いてくれますか?」
「えっ?」
「私を、抱いてくださいっ!」
顔を真っ赤にしながらフィナはカットに大声で告げる。彼女の言葉を、カットは理解することができなかった。
「フィナ、ちょ、何言って――」
「あなたは私に言いました。自分に抱かれる覚悟があるのかと。訊かれたときは、そんな覚悟はなかった。でも今は、あなたに抱かれる覚悟がありますっ! あなたと一緒にいる覚悟がありますっ! だから……私を捨てないで……」
フィナの手がカットの背中にのばされる。彼女はカットを抱き寄せ、カットの胸の中で静かに嗚咽を漏らし始めた。
「誰にも、あなたを渡したくない……。側にいて欲しいの……」
猫耳にフィナの言葉が突き刺さる。そんな彼女を、カットは強く抱き寄せていた。
「カットっ……」
「一生離さないよ。それでも、君はいいの?」
フィナが涙に濡れた眼をカットに向けてくる。そんな彼女にカットは優しく微笑んでいた。
眼の前にいる愛しい女性は偽りのない気持ちを告げてくれている。
その気持ちに、自分は応えなければならない。
悲しげなレヴの顔がカットの脳裏を過る。それでもカットは、フィナの顔に両手をのばしていた。
カットはフィナの顔を両手で包み込み、彼女の唇に自身のそれを重ねていた。
フィナが眼を見開く。彼女はその眼を細め、カットを強く抱きしめてきた。
唇を離すと、うっすらと頬を赤らめたフィナが自分を見つめてくる。
「俺は君を傷つけた。君に思いを押しつけて、それが重荷になったら君を拒絶して……。そんな俺でも、君は側にいてくれる?」
「ずっと、側にいるわ……。カットの側じゃなきゃ、嫌」
フィナは笑ってくれる。そんなフィナにカットは静かに口を開く。
「もう少しだけ待って欲しい。全部、全部終わらせるから……。絶対に君を離したりしたりしないから……」
彼女のために、やらなければいけないことがある。その決意を、カットはフィナに告げていた。
「ティーゲル様……」
「レヴ、どうした?」
突然、部屋に入ってきた自分を先王は驚いた様子で見つめてくる。部屋の中央で立ちつくす彼に、レヴは抱きついていた。
「レヴっ!」
ティーゲルの腕の中で、レヴは猫の姿に戻る。悲しげな翠色の眼を彼に向けると、ティーゲルは優しくレヴを抱きしめてくれた。
「どうした? またカットと、喧嘩でもしたのか?」
「にゃぁ……」
「そうか……。何も言いたくないか……」
鳴く自分をティーゲルは優しくなでてくれる。皺の寄ったその手の感触が気持ちよくて、レヴは眼を細めていた。
「なぁ、レヴ……。大切な人が自分の側を去って行ってしまうのは、とても寂しいことなだぁ。ヴィッツが死んだときもそうだったが、まさか息子の一人立ちでも同じ思いをするとは、年をとるとは恐ろしいものだ」
「なぁ……」
「お前も、そうか……」
「なぁ……」
ティーゲルは自身と向き合うようにレヴを抱きなおす。自分に微笑みかける彼がどこか頼りない。
レヴは慰めるように彼に鳴き声をかけていた。
ここ数日、ハールファグルではオーロラが夜闇を明るく照らしている。雪降る空を見あげ、人々はそのオーロラを嬉々として見つめるのだ。
それは若き王を称える神々からの贈り物だと人々は言う。今宵はその王の花嫁を決める舞踏会が開かれるのだ。
「帽子王様、是非とも私と踊ってください」
「いやよ、陛下は私と踊るのっ!」
「あの……手を離していただけませんか?」
香水のきつい匂いに鼻がおかしくなりそうだ。カットは自分を取り巻く女性たちを見つめた。彼女たちはカットの手をしっかりと握りしめ、離してくれない。
煌びやかなドレスを身に纏った女性たちは、輝く眼でカットを見つめている。
カットは苦笑を浮かべる。彼女たちは黄色い声を発し、ますますカットにつめよってきた。
「いつ見ても素敵ですわぁ、その笑顔! やっぱりその麗しい美貌に、その爽やかな笑顔は欠かせませんっ」
「あぁ、素敵ですわぁ、陛下……」
彼女たちはうっとりと眼を細め、カットを見つめてくるではないか。
彼女たちも苦労しているとカットは思った。今日は自分の花嫁を決める舞踏会だ。自分の親類でもある彼女たちは、狡猾な叔父たちに自分と仲を深めるよう言い包められているのだろう。
そうでなければ、帽子で耳を隠すような自分がこんなに好かれるはずがない。
「申し訳ございませんが、その手をお放し願いますか? 陛下が困っております」
凛とした声が女性たちの後ろから聞こえてくる。声を聞いたカットは、帽子に隠れた猫耳をビンと立ちあげていた。
「あの、これは……」
「私たちの邪魔を――」
「申し訳ございません。失礼いたします」
声のしたほうへと女性たちは体を向ける。そんな女性たちの言葉を、フィナはやんわりと遮り、顔に微笑みを浮かべてみせた。
「フィナ……」
いつもと同じ紺色の軍服に身を包んだフィナは、眼を細めカットに微笑んでくる。その微笑みを見て、カットは身を固くしていた。
自分の決意を告げてから、フィナとはあまり口を聞いてない。どこか気まずくて、彼女と会話をすることが憚られたのだ。
彼女もカットと同じ思いなのだろう。思い切ってフィナに話しかけようとしても、彼女は会話をすぐにやめてしまう。
そんなフィナが、自分に微笑んでくれていることが信じられなかった。
颯爽と女性たちの横を通り過ぎ、フィナは優美な所作でカットの手から女性たちの手を離していく。
「申し訳ございません。陛下は先王様とお話があるようですので」
女性たちに優しい微笑みを送りながら、フィナはホールの上段に設けられたテラスへと顔を向けた。
カットはテラスへと顔を向ける。白いマントを纏ったティーゲルが、楽しげに笑いながら手を振っているではないか。
驚いてフィナへと視線を戻すと、彼女はカットに悪戯めいた笑みを浮かべてみせた。唖然とする女性たちに向き直り、フィナは優美にお辞儀をする。
「もしよろしかったら陛下の護衛たるこのフィナ・ムスティ・ガンプンがダンスのお相手をさせていただきます。こんなに愛らしいレディたちを、壁の花には決してさせませんよ」
そっと顔をあげ、フィナは爽やかな笑みを女性たちに向けてみせた。彼女たちはいっせいに顔を赤らめ、黄色い声を発する。
「きゃー、フィナ様っ!」
「フィナお姉さまっ!」
先ほどまでカットに夢中だった彼女たちは、すっかりフィナの虜だ。自分につめめかけてくる女性たちに笑みを浮かべながら、フィナは小さく声を発する。
「この場は私にお任せを……。もう、大丈夫ですから」
カットは思わず彼女に振り返る。フィナはカットに振り返り、赤い眼に微笑を浮かべてみせる。
困ったような、それでいて悲しい彼女の眼からカットは眼が離せなかった。
煌びやかに着飾った女性たちが、次々とホールに入ってくる。ジャンデリアの灯りが眩しいテラスから、カットはその様子を眺めていた。
緊張を解くために息を大きく吐き、カットはホールを一望する。よく見ると、自分の護衛を務める二人がうら若き女性たちに囲まれているではないか。
壁際に立ちオロオロとしているフィナを庇うように、レヴが女性たちの前に立ちふさがっている。
先ほどまでの出来事を思い出し、カットは苦笑を顔に滲ませていた。
カットを取り囲んできた女性たちをフィナがたしなめたところ、女性たちはフィナの虜になってしまったのだ。
フィナの取り計らいによりカットはその場を逃げることができた。だが、フィナは女性たちに取り囲まれてしまった。そのフィナを助けるべくフォローに入ったレヴは、どうも苦戦しているらしい。
フィナと手を組んで自分を逃がしてくれたティーゲルは、叔父たちと話があるからとカットの元を後にしてしまった。
「フィナ様素敵すぎます!」
「お姉さま! 麗しい! 麗しいですわ!」
「フィナお姉さま、帽子王の護衛などやめて私と結婚して下さいっ!」
テラスの下から聞こえてくる女性たちの大声で、カットは我に返る。階下を見ると、彼女たちは立ち塞がるレヴを押しのけフィナに迫ろうとしている。
フィナが女性にここまでモテるとは思わなかった。苦笑を浮かべながら、カットはそっと二人に手を振ってみる。気がついたのかフィナが顔をあげ、困ったような笑顔をカットに向けてきた。
そんな彼女を見て、カットは安堵に顔を綻ばせる。
フィナが思ったより元気で良かった。
本当だったら、彼女は自分の婚約者としてこの場にいるはずだった。美しく着飾ったフィナと一緒に踊ることが出来たらどんなにいいだろうか。
けれど今は、彼女と踊ることはできない。
その前に、やらなければならないことがある。
「あー、フィナちゃんこっちっ!」
「あ、待ちなさいこの赤毛野郎っ!」
「フィナ様を返してっ!」
レヴがフィナの手を引いて、取り巻きの女性たちから逃れようとする。 彼女たちは、そんな二人を追いかけ始めたではないか。
「まったく……」
羽織っていたマントを翻して、カットはホールへと続く階段を下りる。
女性たちが自分に声をかけてくるが、笑みを浮かべてやりすごす。すると彼女たちは顔を林檎のように赤らめ、その場に立ちつくすのだ。
そんな女性たちを尻目に、カットは逃げるレヴとフィナの前に颯爽と立ち塞がった。
「陛下……」
「よくやった。レヴ……」
立ちどまったレヴの手を引き、カットは彼に囁きかける。さあっとレヴの耳たぶが赤く染まる。
「カット……」
「おいで、フィナ」
レヴに手を引かれていたフィナを抱き寄せ、カットは不敵に微笑んでみせた。
「ちょ、カットじゃなくて、へ、陛下っ?」
「フィナは黙ってて……」
ふっとフィナの耳元に息を吹きかけ、カットは彼女の顎を掬ってみせる。フィナは恥ずかしそうに眼を潤ませ、カットから視線を逸らした。
「あ、あの陛下……」
「その……私たち」
二人を追いかけていた女性たちが、気まずそうにカットに声をかけてくる。カットは眼を鋭く細め、彼女たちを見すえた。
怯えた様子で、彼女たちは黙ってしまう。
「俺の護衛が迷惑をかけたようだね。でも、素敵なレディたちがパーティー会場を走り回るなんて少しお転婆かな? 俺は、君たちのそんなところも魅力的だと思うけど……」
顔を綻ばせ、カットは彼女たちに優しく声をかけてみせる。彼女たちは驚いたように眼を見開き、頬を赤く染めていた。
「あと、フィナは俺にとって大切な人なんだ。だから、君たちには渡せない」
腕の中のフィナを抱き寄せ、カットは笑みを深めてみせる。
「カ……カット……。その……迷惑です。こんなの……」
消え入りそうなフィナの声がして、カットは彼女の顔を見おろしていた。頬を赤く染めたフィナが、困った様子でカットを見あげている。
「ほら、フィナも嫌がってるじゃない。だから、ね……」
「す、すみませんでしたー!」
カットは女性たちに問いかける。彼女たちは顔を真っ赤にして、走り去っていった。
「あれ、俺……。なんか、嫌われるようなことした?」
「陛下……」
ぽんっと後ろにいるレヴに肩を叩かれ、カットは彼へと振り向く。顔に手をあて自分から視線を逸らすレヴを見て、カットは口を開いていた。
「どうした、レヴ? 何だか具合悪そうだけど……」
「フィナちゃんに迷惑をかけてるのは、あなたですよ……」
「えっ?」
「その……放してください。周りの眼が……」
フィナの言葉を受け、カットはとっさに周囲を見渡す。
周囲にいる人々の視線が、一様にこちらを向いているではないか。彼らは意味深な笑みを浮かべながら、フィナとカットを見つめている。
特に父であるティーゲルは、期待にみちた眼差してカットを見つめているではないか。
あぁ、そうだったとカットは父との約束を思い出していた。その約束を実践すべくカットは息を大きく吸い込む。
「みなさんにお話がありますっ!」
フィナを抱いたまま、カットは大きな声を周囲に発する。客たちは騒めき、声を発したカットに注目した。
カットはティーゲルに視線を向けていた。父はぐっと親指を突き立てカットを応援してくれる。そんなティーゲルが何だかおかしくて、カットは苦笑を浮かべていた。
「俺は、この胸に抱きしめている女性フィナ・ムスティー・ガンプンを心より愛していますっ! そしてハールファグル国王の座を辞し、父ティーゲルに王位を返上する意思をお伝えいたしますっ!」
凛とした声をカットは発する。周囲の奇異に満ちた騒めきが、一瞬にして驚く声に早変わりする。
「カット……?」
フィナの声が聞こえる。腕の中の彼女は、眼を見開き自分を凝視していた。
「俺は、この胸に抱きしめている女性フィナ・ムスティー・ガンプンを心より愛していますっ! そして、ハールファグル国王の座を辞し、父ティーゲルに王位を返上する意思をお伝えいたします。」
カットの言葉に、フィナは耳を疑っていた。
「カット……」
彼に声をかける。
カットはフィナに振り向いてくれる。悲しげなアイスブルーの眼でフィナを見つめ、カットは言葉を続けた。
「俺は王に相応しい人間ではありません。それは、この耳が証明してくれます」
凛とした声を張り上げ、カットが自分の頭に手をのばす。一瞬だけその手をためらうようにとめ、彼は被っていた帽子を脱ぎ捨てた。
ふわりと帽子に隠れていた銀灰色の猫耳が露になる。
その猫耳に、会場にいる誰もが釘付けとなった。ざわめきがホールを埋め尽くす。
カットは怯えた様子で猫耳を伏せながらも、言葉を続けた。
「この猫耳をご存知の方も多いいはずだ……。みなさんは公然の秘密として俺が呪われている事実と、それを示す猫耳の存在を隠してくれました。ですが、それは国民に対する裏切りに他ならないっ。だからこそ、俺は父に頼みました。どうか王位を返上することをお許しくださいと。そして将来生まれてくるであろう俺の子供を、王位につけて欲しいと」
すっとカットは言葉を切り、腕の中のフィナを見つめてくる。
「ごめん……フィナ」
そっとフィナの耳元で彼は囁く。驚いたフィナが顔をあげる前に、彼は次の言葉を放っていた。
「王位を父ティーゲルに返上した暁には、俺はこの胸に抱いている愛しい女性と共に人生を歩んでいくつもりです! この言葉に嘘偽りはありませんっ! 俺はここにフィナ・ムスティー・ガンプンを妻として迎えることを宣言いたしますっ!」
自分を妻として迎える。
彼の爆弾発言に、フィナは頭が真っ白になった。
「カット、何言ってるんですか……?」
「俺は心の底からフィナを――」
「カットっ!」
フィナは腹の底から大声を出していた。フィナの声はホールに響き渡り、天井に吊るされたシャンデリアすらもゆらす。
「どうして私を妻に迎えるなんて勝手な宣言を、みなさんにしてるんですかあなたはっ!」
がしっとカットの胸倉を掴み、フィナは彼を怒鳴りつけていた。
「フィナ……」
猫耳を震わせ、カットは怯えた様子でフィナを見つめてくるだけだ。
「その……君は俺と結婚したく……」
「結婚しますっ! 猫耳の責任とって今すぐあなたと結婚しますっ!」
おどおどするカットに、フィナは凛とした声を発してみせる。カットの腕を振りほどき、フィナは唖然とする客たちを見すえた。
彼らに、フィナは優美な仕草でお辞儀をしてみせる。
「私は先々代の王の時代に、近隣諸国の王族を根絶やしにした魔女ムルケの娘フィナでございます。この陛下の猫耳も私が生やしたもの。陛下を愛するあまり、私は彼に忌まわしい呪いを施しました」
そっと顔をあげ、フィナは口元に嫣然とした笑みを浮かべてみせた。客たちが驚きに眼を見開き、フィナを見つめてくる。それでもフィナは言葉を続ける。
「私は陛下を愛しております。そんな陛下に弓を引く者たちが現れました。そんなならず者から私ごときを守るために、陛下は王位を捨てると宣言なさった。でも、そんなの私が許しませんっ! 猫です! 猫さんです! 今後、陛下を苦しめる者は誰であろうと、この魔女フィナ・ムスティー・ガンプンが呪いによって猫さんにしてあげますっ!」
びしっと人々に指を突きつけ、フィナは高々と自分の覚悟を宣言する。人々はぎょっと眼を見開き、フィナを凝視するばかりだ。
「あれ……」
気まずい静寂がフィナを取り巻く。
「あははっ。フィナなんだよそれっ」
その静寂を、カットの無邪気な笑い声が打ち破った。
「カット……?」
フィナが背後のカットへと振り向くと、彼はお腹に手を当て笑っているではないか。
「猫にするって……。いくらなんでも、それ……おかしいだろ?」
笑い声を堪えながら、カットはフィナに言葉をかけてくる。彼の言葉にフィナの顔は一瞬にして熱くなっていた。
「いっ、いやーー!」
急に恥ずかしくなって、フィナは叫び声をあげながら両手で顔を覆う。それと同時に、大きな笑い声がホールから響き渡ってきた。
「猫っ、猫となっ!」
「これは恐ろしくて戦争などできぬわ!」
「カットも、面白い女性を射止めたものだなぁ!」
客たちの口から、弾んだ言葉が溢れ出てくる。
「いやー。兄上これは上手くいきましたねっ!」
「まったもって、お前たちがカットに出鱈目な軍事同盟の話を持ち掛けてくれたのには驚いたぞっ! 二人をくっつけるためとはいえ、少しやり過ぎではないかなぁ?」
「いやぁ、カットの呪いを逆手にとってフィナ嬢を権力保持の道具に使うアイディアを思いついた兄上には及びませんよっ! 初恋の少女を救うために尊敬する父に弓を引く若き王! 最高のシュチュエーションだと思いますよっ!」
「えっ……?」
盛り上がるティーゲルたちが、とんでもないようなことを言っている気がする。笑い合う彼らの様子が気になり、フィナはそっと顔から手を退けた。
「ちょ、どういうことですか父上っ!」
カットが隣国の王たちと肩を並べるティーゲルに詰め寄っている。
「さぁ、儂らはちょいっと息子の恋を応援しただけだがのぉ。それって悪いことかぁ、カット……?」
「応援って、まさか……」
「そのまさかじゃ息子よー! 儂を出し抜くには、まだまだ修練がたりんようじゃのぉ!」
へなへなと猫耳をたらすカットをみながら、どっとティーゲルたちが大声で笑い始める。フィナは唖然とその様子を見つめることしかできなかった。
カットたちのやり取りを聞いている限り、どうやら自分たちはティーゲルの掌の上で踊らされていたらしい。
「老いぼれ共の、最後のわがままじゃ……。年老いた父の頼みを聞いてはくれまいか、息子よ……」
カットにティーゲルが優しく声をかける。弱々しい笑みを向けるティーゲルを見て、カットは微笑んでいた。
「ほんと、あなたには敵いません……」
カットの言葉に、フィナは大きく眼を見開く
「フィナ……」
そっと誰かに肩を抱かれ、フィナは後方へと振り返る。
「父様……」
父であるウルが、フィナに笑顔を向けている。彼は静かにフィナに告げた。
「私の最後のワガママだ。幸せになってくれるか?」
問いかける父の顔はどこか寂しげだ。そんな父を慰めたくて、フィナは彼に笑顔を返していた。そっと彼に向き直り、フィナはウルを抱きしめる。
「フィナ……」
「ありがとう。父様……」
泣きそうになってしまう。父に泣き顔を見られたくなくて、フィナはウルの胸に顔を埋めていた。
「フィナっ」
カットが自分を呼んでくれる。フィナは顔をあげ、ウルを見あげた。
「さようなら、フィナ……」
離れたフィナの頭を、ウルは優しくなでてくる。いつぶりだろうか。彼に、なでてもらったのは。
「行ってきます。父様…… 」
フィナは眼を細め、父に微笑みかけてみせる。そっとフィナは父に背を向け、愛しい男性の元へと歩んでいた。
彼は優しく微笑みながら、フィナへと近づいてくる。
「フィナ……」
そっとフィナに手を差しのべ、カットは口を開いた。
「命令だよ。俺と結婚して」
「だから、それは命令されても……」
身勝手な彼の言葉に、フィナは苦笑してしまう。
「やっぱり、俺と結婚したくない?」
しゅんと猫耳をたらし、カットが悲しげに眼を潤ませる。フィナは言葉を失い、彼から顔を逸らしていた。
「します……」
「フィナ聞こえない……」
「結婚します。あなたと結婚しますよっ!」
「フィナー!」
フィナはカットを怒鳴りつけていた。そんなフィナにカットが抱きついてくる。
「ちょ、カットっ!」
「ごめん……つい嬉しくて」
カットは照れくさそうに笑いながらフィナを放した。煌めくアイスブルーの眼にフィナを映しこみながら、カットはフィナに手を差し伸べる。
「俺と踊っていただけますか? 愛しい人……」
「へっ……」
「命令だよ、フィナ。俺と踊って」
囁くようにカットが言葉を紡ぐ。彼の顔には優しい笑みが浮かんでいた。
「カット……」
そっと差し伸べられた手をフィナは握りしめる。
大きくてあたたかな彼の手は、触れているだけで心が落ち着く。
次の瞬間、フィナの体が淡い光に包まれた。
「えっ?」
驚く暇もなく、フィナの服装は軍服から雪原を想わせる美しいドレスへと変貌していく。ビーズが星のように煌めくそのドレスは、フィナがレヴから受け取ったヴィッツのドレスだ。
カットを見つめる。
彼は笑みを深めフィナに優しい眼差しを送ってくるだけだ。そんな彼を見て、フィナも自然と微笑んでいた。
そっと二人は手を取り合い、ホールの中央へと進んでいく。そんなフィナたちを祝福するように、小さな旋律が周囲に流れ始めた。
カットとフィナはお互いに向き合い手と手を取り合う。
二人が近づくと、広間に流れる音楽が大きくなる。
流れるような旋律に身を任せ、カットとフィナは踊る。
二人が回るたびに、フィナのドレスが雪のように美しく煌めくのだ。
カットの猫耳も楽しげにひらひらと動いている。猫耳のように嬉しそうな彼の笑顔を見つめながら、フィナは静かに微笑んでいた。そんなカットの後ろを、横切る赤い猫がいた。
フィナは、猫を視線で追う。
悲しげに眼を伏せ、猫はホールから出ていくではないか。そのあとを、静かにティーゲルがついていく。
「ごめんな……」
寂しげなカットの声が聞こえ、フィナは彼を見あげる。カットはアイスブルーの眼を悲しげに歪めていた。
「カット」
そんなカットにフィナは声をかける。
「フィナ?」
「笑ってください」
フィナの言葉にカットは驚いた様子で眼を見開く。彼は眼を細め、静かに微笑んでくれた。
月光に照らされた雪原を青い橇が駆けていく。橇は赤いノルウェージャンフォレストキャットを先頭に、猫たちによって引かれていた。
橇が走るたびに、猫たちの首についた鈴が軽やかになる。橇のうえには、カットとドレス姿のフィナが乗っていた。
カットたちを乗せた橇は、雪に覆われた丘を静かに登っていく。丘の上に建つ教会は、橇に乗る二人を見守っているようだ。
「たっく、なんで俺がこんな目に……」
橇を引っ張る先頭の猫はレヴだ。彼は愚痴をこぼしながらも、丘を登っていく。
「フィナに自分の正体を教えた罰だよ、レヴ」
橇の前方に乗るカットは、にこやかな声をレヴにかける。
「このっ鬼畜猫耳王がっ!」
ぐるっとカットを振り返り、レヴは全身の毛を逆立ててみせた。
「ははっ。いつものレヴだ……」
「陛下……。たくっ、今回だけですからね」
「ありがとうな。レヴ……」
レヴの言葉に、カットは思わず微笑んでしまう。カットは、小さくレヴに感謝の言葉を告げていた。レヴは一瞬だけ眼を見開き、嬉しそうに眼を細めた。
「ちゃんとフィナちゃんのこと幸せにしてくださいよ、陛下」
優しくカットに言葉を返し、レヴは正面へと顔を向ける。レヴの言葉に、カットは笑みを浮かべていた。
自分の額にキスをしてから、レヴは心なしか元気がなかった。そんな彼が調子を取り戻してくれたことが嬉しい。
彼の気持ちに、応えることができないけれど――
「あの……カット」
「なぁに、フィナ?」
フィナに呼ばれ、カットは彼女に振り返る。彼女は困惑した様子でカットを見つめるばかりだ。
「その……これはさすがにやり過ぎでは」
「フィナ、王都の外れに崩れた古城があるのは知ってるよね? そこを改装して俺たちの新居にしようか? もちろん俺たちの子供が生まれても、父上は新居に招いたりしないけど」
「あーあ、この人かなり怒ってるわ……」
レヴが呆れた様子で声を発する。
ティーゲルと叔父たちは、フィナとカットを結婚させるため密かに団結し策略を張り巡らせていたのだ。
カットの猫耳を逆手にとってフィナを政治的に利用することも、カットとフィナの力を利用して他国に攻め入るという叔父たちの申し出もすべてデタラメだった。
自分とフィナは、結局のところ老害たちの掌のうえで弄ばれていたことになる。
それが、彼らの親心から生じたものであることをカットは分かっている。だから、少しぐらい意地悪をしてもティーゲルは許してくれるはずだ。
「カット……顔がニヤけてますよ」
フィナが困ったように笑ってみせる。
「もし子供ができたら、たまにはおじいちゃんのところに遊びに行っても良いですよね?」
フィナの優しい言葉に、カットは軽く眼を剥いていた。
自分と違って、フィナはとっくの昔にティーゲルを許しているらしい。子供っぽい自分がばかばかしくなり、カットは苦笑を浮かべていた。
顔をあげる。
月光に照らされた教会は、いつも以上に荘厳な印象をカットに与えた。
「母さんたちのところにも、一緒に行こうな……」
教会を見あげながら、カットはフィナに話しかけていた。
「そうですね……」
フィナの声は心なしか暗い。後方を振り向くと、彼女は寂しげに教会を見つめていた。
この教会の裏側に、カットの母であるヴィッツの墓と、フィナの母親が封印された遺跡がある。フィナはその場所を思い教会を見つめているのだろう。
カットはフィナに向き直る。
「カットっ?」
フィナは不思議そうに眼をしばたたかせる。カットはそんなフィナの手を取り、微笑んでみせた。
「大丈夫、俺も一緒だよ」
「はい……」
すっとフィナが頬を赤らめ微笑んでくれる。嬉しそうに細められたフィナの眼を見て、カットは思わず胸を高鳴らせていた。
フィナは舞踏会で着たドレスの上に、猫の毛で織られたローブを羽織っている。
二人で舞踏会をこっそり抜け出し、カットたちは教会へと赴いたのだ。
ヴィッツに結婚の報告をしたいというカットの願いを、フィナは快く聞いてくれた。
それに――
「母は、私の報告を喜んでくれるでしょうか?」
不安げなフィナの声がする。だが、彼女の眼は幸せそうに笑みを刻んだままだ。
「大丈夫だよ。反対されても絶対に君のお母さんを説得してみせる」
フィナを引き寄せ、カットは優しく微笑んでみせる。フィナは眼を潤ませ、カットから視線を逸らした。彼女は何も言わず、カットの胸に体を預けてくる。
「少しだけ、こうさせてください……」
そっと眼を閉じて、フィナはカットの背中に腕をのばしてきた。
「フィナ……」
「幸せすぎて、恐いんです……。ここに母もいたらいいのに……」
眼を瞑ったフィナが、唇に笑みを浮かべてみせる。そっと瞼を開け、フィナは寂しげな眼をカットに向けてきた。
赤いフィナの眼は、縋るようにカットに向けられている。
「俺も君のお母さんに会ってみたいよ……」
ふっとカットは微笑み、フィナに優しく言葉を返していた。
そして、心の中で強く思う。
自分の力を使って、フィナの母親を封印から解き放つことが出来たらどんなにいいだろう。だが、カットもフィナと同じく自分の力は少しか使えない。
できることと言ったら猫と話したり、ちょっとした攻撃魔法を使えるぐらいだ。
その力は、偉大なる魔女であったヴィッツの足元にもおよばない。
ムルケの呪いを解くことができたら、フィナはとても素敵な笑顔を見せてくれるに違いない。
そのときだ。暗かった空が明るく輝き始めた。
カットはとっさに上空を仰いでいた。オーロラが夜闇にはためき、周囲を明るく照らしている。
そのオーロラの輝きを見て、カットは猫耳を震わせていた。血のような鮮やかな色彩をオーロラが放っていたからだ。
美しいはずのオーロラが禍々しいものに見えてしまう。フィナもそう感じたのか、カットに抱きつき不安げに上空を見つめていた。
酷い海鳴りが猫耳に響き渡る。
強風が周囲に吹き荒れ、雪を巻き上げながらカットたちの視界を白く染めていく。オーロラから、一条の光が教会の裏にある海原に向かって放たれた。
「なんだ……」
カットが唖然と光を見つめる中、地面が大きくゆれ、橇を引く猫たちがいっせいに暴れ出した。
「陛下っ!」
橇に繋がれたレヴが大声をあげる。カットは立ちあがり、猫たちを拘束する鎖をいっせいに解いた。
蜘蛛の子が散るように、橇に繋がれていた猫たちは丘下へと走り去っていく。
「フィナっ!」
後方を振り返り、カットはフィナに声をかけていた。ゆれる橇の縁をしっかりと握りしめ、フィナは怯えた様子で空に視線をやっている。
「母さま……?」
彼女の言葉に、カットは空を仰いでいた。
漆黒の夜空に女が浮いていた。
夜空よりも黒い髪を宙に流し、ゆったりとしたローブを纏った女は、赤い眼を歪め嗤っている。そっと彼女は教会の屋根に降り立ち、カットたちを眺めていた。
その面差しは、フィナとそっくりだ。
「あぁ……フィナなのね。大きくなって……」
女性はうっとりと眼を細め、自身を凝視するフィナに優しく声をかける。
「母さま? 母さまなのっ?」
フィナは立ちあがり、女性に大声で叫んでいた。驚いたように女性は眼を見開き、優しい笑みを顔に浮かべてみせる。
「私が分かるのね、フィナ……。別れたときは、まだあんなに小さかったのに……」
「母さま……」
「でも、その男は何かしら?」
女性の眼がカットに向けられる。氷のように冷たい彼女の眼差しに、カットは戦慄を覚えていた。
猫耳の毛が膨らんでしまう。間違いない。彼女はカットに対して、敵意を抱いている。
女性を睨み返し、カットはフィナを庇うように自分の背後へと隠す。
「カット……?」
「変だ……。君の母さん……」
フィナに短く伝え、カットは女性を見すえた。
「その面差し……あの女と王の息子か……。なぜお前がフィナと一緒にいる? 忌まわしきハールファグルの王族よ」
鋭く眼を細め、女性はカットを睨みつける。彼女の眼が妖しい輝きを放ち、カットはその眼から視線を逸らすことができなくなっていた。
体が動かない。指に力を込めてみる。だが、カットは指先一つ動かすことができなかった。
「そうか……。またお前たちは、私から大切なものを奪うのだな……」
女性の眼から輝きが消える。彼女は悲しげに眼を伏せ、フィナへと視線を戻していた。
「母さま……」
「おいで、フィナ……」
顔を綻ばせ、彼女は優しくフィナに微笑んでみせる。
瞬間、フィナの眼から光が消えた。フィナの体は宙に浮き、吸い寄せられるように女性のもとへと向かっていく。
「フィナ……」
顔を歪め、カットはやっとのことで声を絞り出す。
カットが見つめる中、自分のもとへとやってきたフィナを女性は優しく抱きしめていた。
「フィナ……」
カットはやっとのことで震える手をのばし、フィナを呼ぶ。その声にフィナが答えることはない。
「おや、フィナのかけた呪いが中途半端なようだな……。ちゃんと猫にしてあげよう」
優しくフィナを抱え直し、女性が眼を歪めてカットに嗤いかけてくる。
彼女は人差し指を軽く振ってみせた。そこから漆黒の靄が現れ、瞬く間にカットの周囲を取り巻いていく。視界を靄にふさがれ、カットはなにも見えなくなってしまう。
――フィナっ!
叫んでも、声が出てこない。辛うじて掠れた息を吐けるのみだ。その開いた口の隙間から、靄はカットの中へと流れ込んでいく。
瞬間、カットの体を激痛が貫いた。体中が激しく痙攣し、カットの体は縮んでいく。目線がどんどんと低くなり、気がつくとカットの正面には橇の板があった。
――なんなんだ、これはっ!
「にゃあ!」
声を発したとたん、カットは恐怖に憑りつかれていた。自分が猫の鳴き声を発したからだ。
――そんなっ!
「にゃあ!」
もう一度口を開いて、カットは確信する。
自分の尻に違和感を覚え、カットはその確信を強めていた。尻の先に何かが生えている。それを試しに動かしてみる。
尻に生えたそれはいともたやすくカットの思い通りに動いた。カットは、それを自分の眼の前へと持ってくる。
ふさふさとした銀灰色の尻尾が、カットの眼の前にあった。
「あははははははっ! どうだ、猫になった気分は? 最高だろうっ?」
女の哄笑がカットの猫耳に響き渡る。
――うるさいっ! フィナを返せっ!
「シャー――!」
全身の毛を逆立て、カットはアイスブルーの眼で女を睨みつけた。すっと女の顔から嘲笑が消える。女は色のない眼でカットを見つめ、言い放つ。
「目障りだ……。消えろっ!」
女が片手をカットに向ける。瞬間、カットの周囲に猛烈な暴風が吹き荒れる。地面に積もった雪が巻き上げられ、カットを襲った。
「陛下っ!」
視界が白く染まった瞬間、カットの体は宙に浮いていた。あたたかなぬくもりに体中が包まれ、カットは顔をあげていた。
人の姿になったレヴが、自分を抱え走っている。
――レヴ……。
「なぁ……」
「大丈夫ですよ、陛下……」
腕の中のカットに顔を向け、レヴは翠色の眼を細めてみせる。
「待て、逃がさんぞっ!」
後方から女の怒声が聞こえる。それと同時に地面が大きくゆれ、強烈な衝撃がカットたちに襲いかかった。
「あぅ……」
レヴが顔を歪め呻く。
彼の腕から滴るものがあることに気がつき、カットは体中の毛を逆立てていた。血だ。レヴの腕から血が滴り落ちている。
――レヴっ!
「みゃう!」
「大丈夫……。大丈夫ですよっ! 陛下っ!」
レヴが叫ぶ。
瞬間、彼はカットの体を大きく宙に投げ飛ばしていた。
――レヴっ!
「にゃあ!」
宙に浮くカットは、必死になってレヴを呼ぶ。そんなカットにレヴは寂しげに微笑んでみせた。
カットの体は誰かに受けとめられる。驚いて顔をあげると、見知らぬ少女がカットの顔を覗き込んでいた。
癖のある赤毛を長く伸ばした少女は、大きな翠色の眼でじっとカットを見つめている。
どこかレヴに似た彼女の面差しを見て、カットは少女の正体に気がついた。
――アップル……?
「にゃあ……」
「行きましょう、陛下っ! ここはレヴ兄さまがなんとかしてくれますっ!」
カットを抱え直し、アップルは物凄い速さで丘を下っていく。丘の下には、黄色い猫橇がとまっていた。彼女は大きく跳躍し、その橇に乗りこむ。
「走ってっ! 早くっ!」
「にゃあ!」
彼女の言葉に、先頭に繋がれた赤猫が鳴く。猫たちは鳴き声を発しながら、勢いよく橇を動かし始めた。
雪原を走りながら、橇はぐんぐんと丘から遠ざかっていく。
爆音が夜闇を劈く。
カットは眼を丸くして、アップルの手から跳びおりていた。急いで橇の後方へと走り、前足を橇の縁にかけて丘を見つめる。
丘の上では絶えず閃光が走り、白い雪を夜闇に巻き上げているではないか。
――レヴっ!
「にゃあ!」
叫んでもレヴは応えてくれない。
あの爆発の中で、レヴはフィナの母であるムルケと戦っているはずだ。
だが、猫であるレヴがヴィッツすらも呪い殺した魔女に勝てるとは思えない。
「陛下、兄さまは大丈夫ですっ!」
凛とした声がカットの猫耳に響き渡る。縁から前足を退かし、カットはそちらへと顔を向けていた。
少女の姿をしたアップルが、力強い眼差しをカットに送っている。彼女の潤んだ眼は、今にも泣きだしそうだった。
涙をこらえ、アップルはカットを慰めようとしているのだ。
――体制を立て直そう。早く、城へ。
「にゃあ!」
「はい、分かってます陛下……」
アップルの眼から涙が零れる。それでも彼女は力強い返事をカットにする。
――大丈夫だよ、レヴはとても強いんだ……。だから、大丈夫。
「にゃあ……。なぁ……」
「陛下……」
ぺたりとアップルが座り込む。カットが彼女に近づくと、彼女はカットを抱きあげてきた。
小さな嗚咽がカットの猫耳に響く。
「にゃあ……」
静かに泣くアップルに、カットは優しく鳴いてやることしかできなかった。
一条の光が、海原に落ちていく。ティーゲルは眼を見開き、テラスからその様子を唖然と見つめていた。
「目覚めたのか、ムルケ……」
自身の声に応えるように、光は輝きを増し海原の流氷を砕いていく。その海中から、勢いよく競りあがってくるものがあった。
巨大な氷の塔だ。
エメラルドグリーンに輝く塔が、海から生えてくる。塔は軋む音をたてながら、成長していく。
――にあぁああぁあぁああぁあああ!
そのときだ。王城の中庭から耳をつんざくような猫たちの雄たけびがあがった。
「何だっ?」
ティーゲルは海から視線を離し、急いで部屋へと戻る。部屋を突き抜け中庭の窓が見える廊下に出たティーゲルは、そこでありえないものを見た。
中庭を何かがうめつくしている。それは、たくさんのノルウェージャンフォレストキャットだった。
「これは……」
急いで窓を開け放ち、ティーゲルは窓から身を乗り出す。中庭の猫舎の屋根に一匹の猫がいることに気がつき、ティーゲルは眼を見開いていた。
その猫の毛色が息子の猫耳と同じ銀灰色をしていたからだ。
「なぁああああああぁああ!」
――にゃああぁあああああああああ!
尻尾を凛々しくたて猫は大きく鳴いてみせる。その鳴き声に中庭を埋めつくす猫たちが返事をする。
くるりと小さな頭を動かし、猫はティーゲルへと視線を向けてきた。アイスブルーの美しい眼が、縋るようにティーゲルに向けられる。
「カット……カットなのかっ?」
息子と同じ眼をした猫は、ふっと眼を伏せティーゲルから顔を逸らした。猫舎の屋根から中庭の木へと跳びあがり、バルコニーを伝って猫はティーゲルのいる窓辺へとあがってくる。
「なぁ……」
窓辺にやって来た猫は寂しげに鳴き、ティーゲルに体をこすりつけてきた。
――なぁああああああああああぁ……。
外の猫たちも悲しげに鳴く。
「その方はカット・ノルジャン・ハールファブルその人です」
凛とした声がして、ティーゲルは後方へと顔を向けていた。癖のついた赤髪の少女が、真摯な翠色の眼を自分に向けている。
どこかレヴと似た面差しをしたその少女を見て、ティーゲルは思わず口を開いていた。
「アップル……。まさか、アップルか?」
「はい、アップルでございます。レヴ兄様に力の一部をお譲りいただき、兄さまの命でフィナ様を見守っていました。フィナ様に何かあったとき、レヴ兄様の代わりにフィナ様をお守りするよう言われております」
「まさか、レヴに何かあったのかっ?」
「陛下と私を逃がすために、兄様は……。いえ、兄様は無事なはずです」
アップルの眼が涙ぐむ。彼女は俯き、震える声を必死になって絞りだした。
「にゃぁ……」
「陛下……」
そんなアップルを慰めるように、猫は廊下に降りたち彼女に体をこすりつける。
「陛下……」
「まさか……お前、本当にカットなのか? ムルケの呪いがお前を……」
わななく声を発するティーゲルを猫はじっと見あげた。真摯なアイスブルーの眼は、愛しい息子を想わせる。猫はティーゲルから顔を逸らす。猫は隙間の空いた扉から、ティーゲルの部屋へと侵入していった。
「待てっ! カットっ!」
ティーゲルは急いで猫の後を追う。
部屋の扉を開け放つと、猫はバルコニーの手すりに座り、じっと外を眺めていた。
ティーゲルはバルコニーへと走る。その先に続く光景に、ティーゲルは言葉を失った。
猫がいた。
バルコニーから見える雪原をどこまでもどこまでも猫が覆っている。何百匹、いや何千匹ともいえる猫たちが雪原に集い、バルコニーの手摺にいる銀灰色の猫を見つめているではないか。
「にゃあああああああああ!」
猫が鳴く。
――なぁあああああああああああああ!
猫に応えるように、雪原の猫たちがいっせいに鳴き声をあげる。その声は大地を震わせ、王城にいるティーゲルの足元すらもゆらした。
「カット……お前……」
ティーゲルの言葉に、猫は真摯な眼差しでティーゲルを見つめ返してくる。
亡き妻の言葉をティーゲルは思い出していた。
カットは猫たちとの契約により、彼らの王になったと――
彼とこの国に危機が訪れたとき、猫たちは力を貸してくれると――
その言葉が今、現実のものとなっているのだ。
「にゃあ!」
凛としたカットの鳴き声が室内に響き渡る。その鳴き声にティーゲルは静かに頷いていた。踵を返しティーゲルは颯爽と廊下に出ていく。
彼は厳かな声で城中の者たちに、命令する。
「誰かおらぬか? 今すぐにウルを呼べっ! 城にいる者たちは戦の支度をするのだっ! 魔女が蘇った! 戦じゃ! 城に集った猫たちと共に、魔女を狩りに行くぞっ!!」
雪原を何千匹という猫たちが駆け抜けていく。
その様子を、ムルケは氷で形作った水鏡を通して眺めていた。彼女は先頭を行く銀灰色の猫を見つめている。
鋭い眼差しをその猫に送りながら、ムルケは眼を歪めてみせる。自分の運命を狂わせた王と魔女の息子。その息子が、引き離されていた自分の娘すらも奪おうとしているのだ。
「させるものか……。もう、お前たちの思い通りになる私ではない」
水鏡の水に手を翳しムルケは笑う。彼女の手から黒い靄が生じ、それは水面へと吸い込まれていった。
「母さま……」
ムルケを呼ぶ者がいる。愛らしいその人物の声に、ムルケは顔を綻ばせていた。
「どうしたの? フィナ……」
「また……母さまを苦しめる人たちがやってくるの……?」
ムルケの側に立つフィナが、そう言葉をかけてくる。フィナの眼は虚ろで、光を宿していない。
そして彼女は雪原を想わせるドレスではなく、漆黒の衣服に身を包んでいた。腰には、直刀が下げられている。
「そうよ。でもフィナは私を守ってくれるわよね……」
愛しい娘を抱き寄せ、ムルケは彼女の耳元で囁く。
「えぇ、母さまを守るわ……」
色を宿さない眼を細め、フィナはムルケに笑ってみせた。
雪原を猫の大群が駆け抜ける。その猫たちを守るように、馬と猫橇に乗った兵たちが猫たちの周囲を取り囲んでいた。
その先頭には雪のように煌めく銀灰色の猫がいる。
カットはアイスブルーの眼を鋭く細め、雪原の遠方にある氷の塔を睨みつけていた。
駆けるカットの速度があがる。
去り際に見せたレヴの笑顔が脳裏を過る。そしてムルケの手に落ちたフィナの姿も。
フィナは言っていた。
魔法は、他者のためにしか使えない。
そして、ムルケの封印を解いてしまったのはきっと自分に違いないのだ。
ずっとカットは思っていた。フィナをムルケに会わせてあげたいと。
――ここに、母もいたらいいのに。
フィナのこの言葉を聞いた瞬間、その思いは明確なものになった。
フィナをムルケに会わせたい。
そう思ったとたん赤いオーロラが現れ、ムルケが自分たちの眼の前に姿を現したのだ。
「カット、止まれっ!」
後方から、ティーゲルの声が聞こえる。
カットの正面で、地面が盛りあがる。そこから巨大な氷の大男が姿を現した。
手に持った氷のこん棒を巨人は振り下ろしてくる。カットは大きく跳躍し、巨人の腕を伝ってその体をかけあげっていく。
「息子の邪魔をするなぁ!」
ティーゲルの怒声が響き渡る。後方へと振り返ると、馬に乗り大剣を振るうティーゲルが、巨人の足首に斬撃を食らわしている最中だった。
「足だっ! 巨人たちの足を狙えっ!」
ティーゲルは巨人の足元を馬で駆けながら、周囲の兵たちに叫ぶ。巨人の頭にのぼったカットは、ありえない光景に言葉を失っていた。
雪原から氷の巨人が無数に生えてくるではないか。それらはゆったりとした足取りで、こちらに向かっている。
「カット! 走れっ!」
ティーゲルが叫ぶ。それと同時に、カットが登る巨人が軋んだ音をたてながら倒れ始めた。
ティーゲルが巨人の足に何度も斬撃を食らわせ、片足を折ったのだ。カットは巨人の頭から跳躍し、雪の大地へと着地する。
「にゃあああああああ!」
目の前に迫る巨人の群れに怒声を叩きつけ、カットは全速力で駆けだす。
―――にゃああああああああああぁああああ!
カットの後方を走る猫たちも、雄叫びをあげてカットに続く。
「猫たちに後れをとるな! 我らが王を守るのじゃっ!」
――うおぉぉおおおお!
ティーゲルの掛け声に兵たちは大きく叫び、猫たちに続く。
「にゃあ!!
カットが鳴く。瞬間、カットの体は淡い輝きに包まれた。巨人たちの前方に氷の壁が立ち塞がる。突如として進路を塞がれた巨人たちは、壁にぶつかり倒れていく。倒れた巨人たちの体躯の上を猫の大群が駆け抜ける。
氷の壁を出現させたことにカットは驚きを覚えていた。いままで、こんな思い通りに魔法を使えたことなどない。
それがなぜ――
――愛する人のためにしか、魔法は使えないそうです……。
フィナの言葉を思い出し、カットは眼を見開いていた。
ヴィッツは愛する人を守るために、カットを猫の王様にしてくれたのだ。
そして自分には、たくさんの猫たちがついている。
びんと猫耳をたちあげ、カットは雄たけびをあげる。
「にゃああぁあああ!」
体制を立て直した巨人たちがカットに襲いかかってくる。振り下ろされるこん棒を俊敏な動きで躱し、カットは海に佇む塔に向かって駆けていく。
「かかれぇっ! 巨人どもを根絶やしにしろっ!」
迫りくる巨人たちに馬に乗った兵たちが襲いかかる。彼らは巨人の足元に絶えず攻撃を加え、巨人を倒していく。
カットを先頭に、一行は教会の建つ丘へと迫る。そこでカットは、足をとめていた。
丘の上に建つ教会が、無残な廃墟と化していたからだ。
ムルケによって燃やされたのだろうか。
教会は崩れ去り、炭化した柱や梁がいたるところに散乱している。その教会の前方に動くものがいることに気がつき、カットは全速力でそれに向かっていた。
走るにつれ、それが猫に戻ったレヴだと分かる。艶やかな赤い毛はところどころ焦げつき、レヴはぐったりと横たわっていた。
そんなレヴにカットは鳴き声をかけていた。
「にゃあ!」
レヴの腹に前足を置き、体をゆすってみせる。だが、彼はぴくりとも動かない。
「にゃあ……」
「うるさいですよ、陛下……。あなた人間でしょう……。なんでにゃあとしか言えないんですか?」
うっすらと眼を開け、レヴが言葉を返してくれる。
「にゃあ……」
そんなレヴの頭をカットは優しく舐めていた。これだけ嫌味が言えるなら、大丈夫そうだ。
「それよりすみません……。守れませんでした……」
そっとレヴが頭をあげ、焼け落ちた教会へと眼を向ける。レヴが視線を向ける方向を見つめ、カットは眼を見開いていた。
そこには、無残に壊されたヴィッツの墓石があった。フィナと共に墓石に飾ったブルーベリーのドライフラワーが砕けた墓石の周囲に散乱している。
「俺がとどめを刺されそうになった瞬間、突然教会に落雷が落ちてきて……。気がついたらこうなっていたんです……。本当にすみません……」
レヴがよろけながらも体を起こす。カットはそんなレヴを残し、覚束ない足取りで砕けた墓石へと向かっていた。
肉球に柔らかな感触を感じ、カットは立ちどまる。地面に顔を向けると、前足がブルーベリーのドライフラワーを踏んでいた。
自分がこの花を差し出すたびに、笑顔を向けてくれたヴィッツのことを思い出す。きっと彼女はレヴを守るために、この墓に残していた魔法を使ったに違いない。
フィナは言っていた。
ヴィッツはムルケの封印が解けないよう、ここに葬られたと。ムルケを封じ込めていた力は、もうこの場所には残っていないことになる。
眼を鋭く細め、カットは崖の向こうに広がる海原を見つめる。海原の遠方に聳え立つ氷の塔に、ムルケとフィナはいるに違いないのだ。
「行きますか? 囚われのお姫様を助けに」
レヴの声が後方から聞こえ、カットは顔を向けていた。人の姿になったレヴが、得意げな笑みを浮かべ氷の塔を見つめている。
「にゃあ!」
レヴの言葉にカットは力強く鳴いていた。
海原が物凄い勢いで凍っていく。その凍りついた海の上を猫の大群が駆け抜けていく。先頭にいるカットは猫に戻ったレヴと共に、塔を目指し一直線に氷の海を疾走していた。
塔は近づくにつれ、その不気味な巨大さを露にしていく。そんな塔の前に、氷の巨人が待ち構えていた。
「陛下っ!」
レヴの体が光り輝く。彼は人間の形をとって、腰にさげていたレイピアとタガーを抜き放った。氷の巨人の手にも、氷でできた剣が握られている。一直線に振り下ろされたその剣をレイピアとタガーで受け止め、レヴは叫んだ。
「行っちゃって下さいっ!」
「にゃあ!」
巨人の股を潜り抜け、カットは閉ざされた氷の扉へと駆けていく。カットの前に火球が生じ、それは勢いよく氷の扉へとぶつかった。
カットは円状に溶けた扉から、塔の中へと跳び込んでいく。
扉の向こうには、大ホールが広がっていた。そこに佇む独りの女性を認め、カットは歩みをとめる。
「にゃあ!」
――フィナ!
カットは黒衣を纏ったフィナを呼んだ。だが、彼女の眼は虚ろでカットの言葉に眉一つ動かさない。
「おやまぁ、そんな姿でよく戻ってこれたものだっ……」
笑い声がホールに響き渡る。フィナの背後からローブを纏ったムルケが姿を現した。整った顔に笑みを浮かべ、ムルケはカットを嘲るように言葉を続ける。
「だが、フィナはもうお前のことなど覚えていないよ……。私を守ってくれる、大切な娘なんだ。ほらフィナ、母さまを敵から守って頂戴……」
そっとフィナの頬に細い指を這わせ、ムルケは彼女に囁いてみせる。フィナは背後にいるムルケに振り返り、空虚な笑みを浮かべてみせた。
「にゃあっ!」
カットはフィナを呼ぶ。だが振り向いた彼女は、カットに色のない眼差しを送ってくるばかりだ。
「にゃあ!」
それでもカットはフィナを呼ぶ。その瞬間、彼女の眼に光が宿った。
「猫……さん……?」
「フィナ、その猫を殺しておくれ……」
ムルケがフィナに言葉をかける。
フィナはゆったりとムルケに振り向いた。その眼は少しばかり動揺にゆらいでいるように見える。
「フィナ……」
「はい、母さま」
無感動な声でムルケに返事をし、フィナはカットへと向き直る。その眼に光は宿っていなかった。
氷を砕く音が、ホールに響き渡る。フィナの直刀がホールの床に突き刺さったのだ。カットはすんでのところで斬撃を躱し、横へと跳ぶ。
「にゃあっ!」
必死になってフィナに呼びかける。だが、フィナは無感動な眼を向け、カットに向かい刃を振るうばかりだ。その刃を避け、カットはホールの中央にある螺旋階段を駆けあがり始めた。
「まって……」
フィナもカットを追いかけ階段を駆けあがってくる。カットはフィナを振り返った。その手には剣呑な光を放つ、直刀が握られている。
このままではフィナは自分を殺してしまう。そうならないために、カットは螺旋階段をのぼっている。
上手くいくかは分からない。だが、カットはフィナに賭けることにしたのだ。
おそらくフィナはムルケによって意識を乗っ取られている。だったら、その意識を何かしらの手を使って呼び起こせばいい。
先ほどの呼びかけで、フィナは自分の鳴き声に反応を示してくれた。
だったら、もっと大きな刺激をフィナに与えば――
幸い螺旋階段には手すりがない。そして、この階段は高い塔の最上部まで続いてるらしかった。
カットは歩みをとめ、下を見おろす。
ずいぶんと高いところまでのぼって来てしまった。嗤うムルケの顔が小さく見える。
「まって……」
すぐ後方では、フィナの声が聞こえてくる。
条件は整った。緊張に心臓が早鐘を打つ。カットはそんな自分を落ち着かせようと大きく深呼吸をしてみせた。そして、下に広がる氷の床を見つめる。
体を小刻みに動かし、カットは螺旋階段から跳び下りた。
「猫さんっ!」
フィナの悲鳴が聞こえる。彼女もまたカットを追って螺旋階段から跳び下りたではないか。
目論見が当たった。フィナは大の猫好きだ。そんな彼女が、猫になった自分の危機に反応しないわけがない。
「フィナっ!」
ムルケの悲鳴が塔に響き渡る。
フィナはそんな彼女の声に反応することなく、落ちていくカットを抱きしめた。ぎゅっとカットを胸元に抱き寄せ、フィナは背中を下にして落ち続ける。
このままいけばフィナは猫になったカットを庇い、氷の床に体を打ちつけることになる。
だが、そんなことはさせない――
「にゃあ……」
しっかりと抱きしめられたカットは、フィナの腕から辛うじて体をのばす。
「猫さん……」
フィナが自分を呼んでくれる。
彼女に顔を近づけながら、カットは亡くなったヴィッツの言葉を思い出していた。
――女の子と仲良くなるおまじないよ。額は信頼の証。でも、カットがその子を好きになったら――
額にされた、あたたかな口づけを思い出す。
でも、自分はフィナを愛している。だったら口づけをするのは額ではない。
そっと彼女の顔に近づき、カットはフィナの唇に口づけをしてみせる。フィナは大きく眼を見開き、カットを凝視した。
「カット……?」
フィナが震えた声で自分に問いかけてくる。
「にゃあ!」
「カットっ!」
そうだと鳴いた瞬間、フィナの眼に光が宿った。
「そんな、私のせいで猫になっちゃうなんて、そんな……」
カットの顔を覗き込み、フィナは震えた声を発する。彼女の涙が、カットの猫毛を濡らしていった。
その瞬間、カットの体が光に包まれた。
光の球となったカットの体はフィナの腕から抜け出し、みるみるうちに人の形へと姿を変えていく。フィナの漆黒の衣装もまた光に包まれ、雪を想わせる純白のドレスへと戻っていた。
光は次第にやんでいく。人の姿を取り戻したカットの体は、眼を瞑ったままゆったりと落ちていくではないか。
「カットっ!」
フィナは叫び、そんなカットの体を両手で支えていた。
カットは眼を開く。眼を潤ませるフィナの顔を見て、カットは苦笑を浮かべていた。
フィナの思いが彼女の魔法を発動させ、カットをもとの姿に戻してくれたのだ。それなのに、フィナは悲しげに眼を潤ませている。
「ごめん……。また、悲しい思いをさせちゃったみたいだね……」
「カットのバカ……」
そっとフィナの頬をなで、カットは笑みを深める。泣きそうな眼に笑みを浮かべ、フィナはカットを抱き寄せていた。
お互い笑顔を浮かべながら、二人は再び口づけを交わす。
溶けた氷の扉から、続々と猫がホールへと跳び込んでくる。猫たちはぎゅむぎゅむと身を寄せ合わせ、落ちてくるカットとフィナに顔を向けていた。
猫たちが作ったふかふかなクッションの上に、カットとフィナはゆったりと降り立つ。
そっと二人は唇を離し、お互いの顔を見つめ合った。
「フィナ、俺が分かる?」
「えぇ、迎えに来てくれたのね……」
カットの問いかけにフィナは笑みを深める。カットはフィナを抱きしめ、そっと耳元で囁いた。
「もう、絶対に離さないよ……。フィナが嫌がっても駄目。命令だよフィナ、ずっと俺の側にいて……」
「うん……。ずっと、カットと一緒にいる」
フィナの腕がカットの背中にのばされる。カットを抱きしめ返しながら、フィナはカットの胸に体をゆったりと預けてきた。
「フィナ……」
そっと眼を細めカットは笑っていた。
フィナが自分の腕の中にいる。フィナのあたたかさを全身で感じることができる。それが無性に嬉しくて、たまらなかったのだ。
「フィナから離れろっ!」
そんなカットに非難の声を突きつける者がいた。すっとカットは笑みを消し、その人物へと顔を向ける。
ムルケがフィナと同じ赤い眼を歪め、カットを睨みつけていた。
「お前たちは私からまた奪うのかっ! またっ!」
彼女の怒声と共に、地響きがする。氷のホールは激しいゆれに包まれた。ムルケの後方から氷の床を突き破り、巨大な蛇が姿を現す。
赤い眼に縦長の瞳孔を持つ巨大な蛇は、舌をちらつかせながら雄たけびをあげる。その雄たけびが、周囲の空気を震わせた。
「ヨルムンガンド……」
フィナが怯えた声を発する。
ヨルムンガンド。冥府の女神ヘルの兄にして、大地を取り囲むほどの巨大な体を持つ蛇。神々によって地中に閉じ込められたこの大蛇が動くことで、地震は起きるという。
神話の怪物を彷彿とさせる魔物の出現に、カットは奥歯を噛みしめていた。フィナから離れ、カットは腰にさげた剣を抜き放つ。
猫たちのクッションから降り、カットは大蛇に剣を向けていた。
「カット……」
フィナの不安げな声が猫耳に響く。カットはフィナを振り返った。彼女は、不安げな眼をカットに送るばかりだ。
「大丈夫、君のお母さんと少し話をするだけだ」
口元に笑みを浮かべ、カットはフィナに弾んだ声をかけていた。
「ふざけたことを抜かすなぁ!」
ムルケの怒声が聞こえてくる。蛇の唸るような声が猫耳に響き渡り、カットは素早く後方へと振り向いていた。
蛇がカットに襲いかかる。巨大な口を開き、魔物はカットを呑みこまんとしていた。猫のごとき俊敏な動きでカットは横に逃れ、斬撃を蛇の脇腹にお見舞いする。蛇は悲痛な叫び声をあげながらも、尻尾をカットの背中に叩きつけた。カットの背中に衝撃が走る。激痛にカットは呻き、胃液を口から吐き出していた。
カットは歯を食いしばり、自身を襲った蛇の尾へと向き直る。後退する蛇の尾を跳躍して追いかけ、剣を振り上げて一刀する。蛇の尾は赤い血をまき散らしながら、蛇の体から分断された。
悲鳴をあげながら、蛇はカットに鋭い牙を見せつけてくる。その牙でカットを威嚇しながら、蛇は襲いかかってきた。
「カットっ!」
フィナの悲鳴が聞こえる。
「フィナちゃんっ!」
そのときだ。レヴの大声がホール中に響き渡った。
溶けた扉からレヴがホールへと跳び込んでくる。彼は手に持っていたレイピアをフィナめがけて投げた。レイピアは放物線を描いてフィナのもとへと跳んでいく。フィナはそのレイピアを受け取り、猫たちのクッションから跳び下りてみせた。
「カットっ!」
レイピアを手に、フィナはカットのもとへと駆けつけてくる。
「フィナっ!」
カットの叫び声を合図に、二人は剣を振るった。
跳躍したフィナが放った一突きが大蛇の眼を抉る。もがき苦しむ大蛇の喉を、カットの斬撃が襲う。
喉から血を噴き上げ、蛇は悲痛な悲鳴をあげながら氷の床に倒れ込んだ。蛇の鮮血を浴びながらカットは蛇の後方へと駆けていく。
そこには、ムルケがいた。唖然とするムルケに向かい、カットは剣をふりあげる。
「やめてっ!」
フィナの悲鳴が猫耳に響き渡る。
それでもカットはためらうことなく、ムルケに剣を振り下ろしていた。
「結局、あなたに助けられてばかりですね母さん……」
眼の前にある真新しい墓石に、カットは話しかける。そんなカットに応えるように、温かな春風がカットの猫耳を優しくなでた。
亡くなったヴィッツに猫耳をなでられてときの感触を思い出し、カットはそっと猫耳にふれてみせる。不思議と苦笑が顔に滲んだ。
周囲を見渡す。
冬の象徴である雪は消え去り、ブルーベリーの花が墓所ある崖を彩っている。
今は春。
フィナと初めて出会った季節だ。
「時が流れるのは早いですね」
風にゆられるブルーベリーの花を眺めながら、カットは呟く。
フィナを救い出したあとは本当に色々とあった。
そのせいか、このあいだまでの出来事が随分と昔のことのように感じられる。
それに今日は――
「カットっ!」
愛しい人に名を呼ばれ、カットは笑みを浮かべていた。笑みを浮かべたフィナがこちらにやって来る。
彼女は、鮮やかな花嫁衣装に身を包んでいた。
ドレスの布地はブルーベリーの花を想わせるクリーム色。布地には、美しいローズマリングが施されている。美しいヴェールで飾られたフィナの黒髪は結い上げられ、ブルーベリーの花で飾られていた。
「みんなが待ってますよっ」
赤い眼を細め、フィナはカットの手を握ってくる。
「ごめん。母さんに結婚の報告してた」
そんなフィナにカットは応えてみせる。
――命令です。俺のお義母になってください。
ムルケに放った言葉をふと思い出し、カットは苦笑する。
あの瞬間、カットは彼女に剣を突きつけながらそう命じたのだ。
ヴィッツすらも凌ぐ魔女を相手にすることに、カットは動揺を覚えていた。だがムルケはフィナの母親だ。フィナを誰よりも愛し、その気持ちがカットへの敵対心となって表れたに過ぎない。
だから、カットは笑顔を浮かべ、お義母にこう告げだ。
――フィナを幸せにします。だから、あなたの大切な娘さんを僕にくれませんか? 一緒に暮らしましょう。お義母さん。
あのときの唖然としたムルケの表情を忘れることができない。彼女は大きく見開いた眼でカットを見つめたあと、腹を抱えて笑ったのだ。
そしてカットに告げた。
――私の負けだ……。
「カットっ」
フィナに呼ばれ、カットは我に返る。気がつくとフィナの不満そうな顔が眼の前にあった。
「ごめん、考え事してた……」
「もう、みんな待ってますよ」
カットは微笑みフィナに返す。フィナは苦笑しながら、後方へと振り返った。カットもフィナに倣って、教会へと顔を向ける。
あたたかい春の太陽に照らされ、氷の教会はアイスブルーの光を放っている。
氷の教会はムルケが魔法で造りあげてくれたものだ。
焼け落ちてしまった教会を修復するには莫大な時間がかかる。
そのため、彼女は和解の意味も込めてこの教会を建ててくれた。
尖塔についた氷の鐘が玲瓏とした音をたてる。
もうすぐ、式が始まるのだ。
「なんか、まだ実感がわかないな。君と夫婦になるなんて……」
「私もですよ」
フィナが微笑んで、カットの猫耳に手をのばす。細い指先でフィナはカットの猫耳を優しくなでていく。
「フィナ?」
「結局、私の呪いは消えないんですね」
「あぁ、これ」
寂しげに笑うフィナに、カットは得意げに微笑んでみせる。次の瞬間、フィナは驚きに眼を見開いていた。
カットの猫耳が消え、普通の耳になっていたからだ。驚くフィナにカットは言葉を続ける。
「実のところ、とっくに呪いは解けているらしい……。俺がフィナを忘れられなくて呪いが解けなかったっていうレヴの推理は、当たっていたみたいだ。きっかけは、フィナが俺の額にキスをしてくれたせいだと思う。その次の日に猫耳が人の耳に戻っていた……。戻っていたんだけど……」
「カット……」
フィナが唖然と声をあげる。カットの耳がもとの猫耳に戻ってしまったせいだろう。
「でも、こうやって意識しないとすぐに猫耳に戻ちゃうんだ……。だから、これは解けたというのか、呪いがかかったままというのか……。どっちなのかなぁ、フィナ」
返答に困りカットは曖昧な笑みを浮かべてみせる。そんな彼を見て、フィナは苦笑を浮かべていた。
「なんだか、あなたらしいです。でも、いいじゃないですか。猫耳の王様がいても。だって、その猫耳――」
フィナが頬を赤らめカットから顔を逸らしてしまう。そんなフィナの反応が愛らしい。カットは満面の笑みを浮かべ、フィナに言葉を返していた。
「うん、君が好きだからこのままなんだと思う」
「カット……」
「命令だよ、フィナ。一緒に幸せになろう」
ぎゅっとフィナの手を握り返し、カットは彼女に告げる。
笑みを浮かべ、フィナはカットを見つめた。
「はい、喜んで」
猫耳に嬉しそうなフィナの言葉が響き渡る。
そっと二人は手を繋ぎ、みんなの待つ氷の教会へと向かっていた。
教会の前に、一組の男女が立っている。
ウルと、黒いドレスに身を包んだムルケだ。二人は気まずそうに顔を見合わせ、カットたちに視線を送ってきた。
そんな二人に、フィナが駆け寄る。二人を抱きしめ、フィナは満面の笑みを顔に浮かべてみせた。
愛らしい娘を抱き寄せ、ウルとムルケはお互いに顔を見合わせる。その二人の顔に笑みが浮かんでいるのを、カットは見逃さなかった。
その横にティーゲルが歩み寄ってくる。彼は幸せそうな花嫁の親子を優しい眼差しで見つめていた。
「あれー? さっそく愛しの花嫁を義父さんと義母さんにとられてますよぉ。陛下っ!」
弾んだ声が聞こえ、カットは後方へと顔を向けていた。赤いノルウェージャンフォレストキャットが、翠色の眼を細め笑っている。
彼の首は愛らしいブルーベリーの花輪で飾られていた。
彼の周囲には、たくさんの猫たちが集っている。猫たちは、嬉しそうに眼を煌めかせカットを見つめていた。
「あなたは俺たち猫の王様でもあるんだから、ちゃんと花嫁さんは幸せにしないとねぇ」
「にゃー」
レヴの言葉に、レヴの隣に座るアップルが弾んだ鳴き声をあげる。カットは笑みを浮かべ、言葉を返していた。
「幸せにしてみせるさ。お前たちの猫のことも、フィナのことも、この国も。俺は、猫耳の王様だからな――」
これは、昔々のお話だ。
その国には猫耳を持つ王様がいた。王様は自分に呪いをかけた魔女を愛し、彼女と結婚したそうだ。
そして王様はその猫耳と共に、末永く国民に愛され国を豊かに治めたという。
彼は猫たちの王様でもあった。
その証拠に、彼の隣にはいつも愛らしい猫たちがいたという。
王様の耳は猫の耳!! END
「はぁ……」
ぴょんと猫耳を立ち上げ、カット王子はため息をついていた。周囲を見回し、カットはアイスブルーの眼を嫌そうに顰める。
カットを取り囲む、猫、猫、猫の群れ。
その猫たちが後ろ足でちょこんと立ちあがり、カットを睨みつけているではないか。猫たちの前方にはひときわ大きな赤毛のノルウェージャンフォレストがいて、潤んだ翠色の眼でカットを睨みつけている。
ノルジャンのモフモフな毛に顔を埋めたい欲求にかられながらも、カットは口を開いていた。
「レヴ……。これは一体どういうことなんだ?」
「煩い! 心当たりがないとは言わせません! 俺たちはあなたに毎日毎日苦しめられているんだ! 今日こそはその恨みを晴らしてやる!」
ぴんっと愛らしい前足をカットに向け、レヴは叫んでみせる。その声がカットたちのいるすり鉢状の法廷に響き渡った。
そう、ここは動物たちの裁判所。
カット王子は今まさしく、猫たちによって裁判にかけられているのだ。
――セクハラという罪状によって。
ぴっとっとレヴの髪に顔を埋めると、モフモフの猫毛を体感できる。それを発見したときのカットの喜びようと言ったらそれはトンデモナイものだった。
彼が人の姿になっていても、彼の柔らかな毛並みを楽しめるということなのだから。
人の姿をとったレヴの体温は人間のそれというより、猫のそれに近いのでカットはレヴを抱きしめることも忘れない。
「だから人の姿のときに俺を抱きしめるなって言ってるだろうが! このクソ糞猫耳王子!」
怒声と共にレヴの肘鉄がカットの腹部を直撃する。うぐっとカットは呻いて、レヴから腕を放した。そのままカットは力なく床にへたり込む。
「そんな……俺はレヴが可愛いから抱きしめただけなのに……。酷いよ、レヴ……」
へにょんと銀灰色の猫耳を力なく垂らし、カットは涙目でレヴを見あげた。
自分より背の高い青年に変身したレヴは、美しい赤毛を翻してカットを睨みつける。その眼がほんのりと潤んでいることに気がついて、カットはうっとりと眼を細めていた。
「レヴってば、俺に抱きしめられたのが嫌で泣きそうなのか……。女の子みたいでかわ……」
「だからそういう言動をやめろって言ってるんだよ!」
カットを怒鳴りつけながらも彼は腰を折り、カットに手を差し伸べてくる。
「本当、猫の姿のときは我慢しますけど、俺が人の姿になってるときはそういうのやめてくださいよ……。周囲の眼があなたをどう見るか……」
レヴがため息とともに吐き出した言葉に、カットは苦笑していた。
カット・ノルジャン・ハールファブルは猫の王である。
王子であるカットが魔女の呪いによって耳を猫耳に変えられたことにより、すべては始まった。
国を継ぐ王子に猫耳が生えた。それは幼いカットを混乱させたし、王族の間に激震が走った出来事でもあったのだ。
古来より、王族は魔女との婚姻を義務づけられている。その魔女の血により王族に所属する者たちは祝福され、呪いから護られるのだ。その守護の力が強ければ強いほど、その者は王を継ぐ人物に相応しいとされている。
それなのに、王位を継ぐカットが魔女の呪いにかかってしまった。
魔女である亡きカットの母は彼の猫耳を元に戻そうとしたが上手くいかなかった。苦心の末、王妃である彼女は猫たちとある契約を交わすのだ。
猫耳の呪いによって半分猫になったカットを、猫たちの王にするという契約を。猫たちは魔女の使いであり、魔女と同様に魔力を持つ生き物だ。
そんな彼らに王妃は嘆願した。
人間たちが王国をあげて猫たちを保護する。代わりに呪いにかかった王子を王として守って欲しいと――
カットが猫の王になれば、密かにこの国を狙っている近隣諸国への牽制にもなる。なぜなら、彼に何かあれば国中の猫たちが彼のために動き出すのだから。
「お前が守ってくれるから大丈夫……」
立ちあがったカットはレヴに抱きついていた。
「だからっ!」
「レヴ、俺の事嫌いか?」
顔をあげ、カットはレヴを見あげていた。彼に嫌われているのではないかと不安になって、眼が潤んでしまう。
「嫌いな訳ないでしょう……」
困惑した表情を浮かべながらもレヴが猫耳をなでてくれる。そんな自分たちに向けられる眼差しにカットは気がついた。
廊下に立ち自分の部屋を守っていた近衛兵の一人が、扉からこちらを見つめている。彼はげんなりした眼差しをカットとレヴに送っていた。その彼の背後から女性の近衛兵たちが顔を覗かせ、小さな悲鳴をあげながら何やら話し合っているではないか。
ぱっとレヴが自分の体を放し、彼らを睨みつける。こちらを覗いていた近衛兵たちは慌てた様子で持ち場へと戻っていった。
「また噂になるな。俺たち……」
ふっとレヴの耳に息を吹きかけ、カットは囁いてみせる。レヴの耳が赤くなって、振り向いた彼はカットを睨みつけてきた。
「あなたって人は……」
「いいだろう? 俺たち恋人同士なんだし――」
「それは噂でしょっ!」
「まぁ、その噂を流したくてお前にじゃれついてるってものあるけど――」
背後からレヴを抱きしめ、カットは彼の耳元で囁く。
「お前が人の姿のままでも、可愛すぎるってのがある……」
「ひぃいいいいぃぃ!」
「あれ?」
レヴが悲鳴をあげる。彼はカットの腕を振りほどき、きっとカットを睨みつけてきた。
「だからセクハラはやめろっ! 俺だけじゃなくて、人の姿になってあなたを見守ってる城内の猫たちにもあなたは同じようなことしてますよねっ? あなたは俺たち猫の王様なんですよ! 少しは自覚を持ってください!」
城内には、レヴのようにカットを守るために人の姿をとった猫たちが密かに紛れ込んでいるのだ。レヴの仕事はカットの護衛だが、そんなレヴ以外の擬人化猫たちにもカットは同じような仕打ちをしている。
例えば、急に抱きついたり。ちょっとした仕草が可愛いと耳元で囁いたり。
「それの何がいけないんだ?」
レヴがどうして怒っているのか分からず、カットは首を傾げてみた。困惑したようにカットは猫耳をゆらしてレヴを見つめる。
カットにしてみれば可愛い猫の臣下たちにじゃれついているだけなのだ。猫の姿のときはいくら抱きしめても、お腹をモフモフしても、猫たちは甘えてくれる。
なのに人の姿になるそれらを拒絶して、みんな冷たい態度をとってくる。
人の姿になった猫たちの冷たい眼差しを思い出して、カットは眼に涙を浮かべていた。
「俺はお前たちが可愛いから、可愛くてしょうがないから抱きしめたり、なでたりしたいだけなのに――」
「いやーーー!」
カットの言葉にレヴが頭を抱えて悲鳴をあげる。その悲鳴に呼応するように、にゃーと城内のいたるところから猫の鳴き声が聞こえてきた。
カットの発言に抗議するようにその鳴き声は大きくなり、城を包み込んでいく。
「な、なんだっ?」
「ああぁ、もう限界だ! 我慢できない! こんな職場やってられっかぁ!」
ぼんっとという音と共にレヴの体が煙に包まれ猫の形をとる。しゅたっと彼は床に着地し、しゃーとカットを威嚇してきた。
「訴えてやる! 法廷にあんたを引きずり出す!」
「法廷っ?」
「容疑はセクハラだ―!」
レヴの叫び声と共にカットの視界が暗転する。ぐわんぐわんと回る視界を見つめながら、カットの意識は遠のいていった。
気がつくと、カットはすり鉢状の法廷にいて、その被告人席に立たされていた。手にはマタタビで作られた手枷が嵌められ、傍聴人席にはにゃーにゃーと非難の鳴き声をあげる猫たちが座っている。
「これより法廷を開始するっ!」
聞きなれた声が法廷に響き渡る。驚いてカットは自身の前方を見つめた。法衣服に身を包んだ猫姿のレヴが、裁判官の席に座っているではないか。
「レヴ可愛い! この前着せた猫用のドレスも可愛かったけど――」
「うるせぇ! 雄猫の俺にフリフリのフリルとレースがふんだんにあしらわれた特注の雌猫用ドレスなんて着せやがって! それもセクハラ容疑の一つとしてここで訴えてやるぅ!」
『にゃー!』
レヴの叫び声に呼応し、傍聴席の猫たちが非難の鳴き声をあげる。レヴはカンカンと槌を打ちつけ静粛にと猫たちに呼びかけた。
こほんと咳払いをして、レヴは厳かに口を開く。
「被告人カット・ノルジャン・ハールファブル。貴殿は我ら猫の王でありながらその臣下たる猫たちに度重なるセクハラ行為をおこなってきた。その罪は重い。よってこの法廷にて貴殿の罪を明らかにし、罰を言い渡す」
『にゃあああああ!』
レヴの言葉に猫たちが賛同の鳴き声をあげる。何が何だか訳が分からず、カットはきょとんと片猫耳をたらしていた。
「俺の罪って何? セクハラって、何でお前たちを可愛がることが罪になるんだ」
しんと法廷が静まりかえる。猫たちは唖然とカットを見つめてくるではないか。何だか居心地が悪くなって、カットはあきれ顔のレヴを睨みつけてみせた。
「レヴ、俺の何が気に食わないんだよ! お前だって猫のときは俺に体をすりつけてきたり、ご飯を食べたあとなんて、夢中になって俺の唇を舐めてくるじゃないか。人間の姿のときだって酒飲んで酔っ払うと俺に抱きついてきて、上目遣いで陛下大好きです。捨てないでって甘えてくるくせに……。それに一緒に寝るときはいつも……」
レヴと寝ているときのことを思い出し、頬が熱くなる。恥ずかしさのあまりカットは両手で顔を覆い、猫耳をたらしてみせた。
「駄目だ……お前が可愛すぎて、その……」
「いやぁああああ! 話さないで陛下! 恥ずかしいから! やめて!」
前足で猫耳を折りたたみ、レヴは叫ぶ。そんなレヴを傍聴席の猫たちが睨みつけてきた。
「陛下にそんなことをしてもらっているのか? レヴ殿は」
「私、陛下と一緒に寝たことないです」
「そうだよ。たまに陛下を譲れと言っても、護衛という自身の立場を利用してレヴ殿は我々猫を陛下から遠ざけている……」
「私たちの王様を独り占めしている」
「独り占めしている……」
「そう、独り占め……」
にゃあああああああと傍聴席から猫たちの非難の鳴き声があがる。その鳴き声を浴びるレヴはびっくりした様子で猫たちを見つめることしかできない。。猫たちは牙を剥き出しにしてレヴに襲いかかっていく。
「何でーっ?」
「レヴっ!」
悲鳴をあげるレヴのもとへとカットは駆けていた。両手を拘束するマタタビの手枷を千切り、カットは愛しい飼い猫のもとへと迫る。にゃあにゃあと同胞たちによりぷにぷにの肉球を押しつけられ、体を甘噛みされ、背中に乗っかられ、しっぽでぺしぺしと額を叩かれているレヴの元へと。
「やめてぇ! ごめん。ごめんなさい。でも、俺だって陛下のことが大好きで、この中で陛下を守れるのは俺だけで……陛下を守るためには常に側にいなくちゃいけなくて……あぁ、やめて、背中に乗っからないで。首筋をはみはみしないでぇ……」
「レヴっ!」
レヴに群がる猫たちを押しのけ、カットはレヴを抱き上げる。そんなカットにレヴはいひしっと抱きついてきた。
「陛下―! 恐かったよ! なんでみんな急に怒るの? 俺だって好きで陛下を独り占めしてるわけじゃないんだ! そうじゃないと陛下を守れないから、そうしてるだけなのに!」
涙で眼を潤ませながらレヴはカットの顔を見あげてくる。ぷるぷると震えるレヴの姿がなんとも愛らしく、カットは思わずレヴを抱き寄せていた。
「ヤバい! レヴ、めっちゃ可愛い!」
「あぁ、レヴがまた陛下を独り占めしてる!」
「ズルいぞ!」
そんな二人の様子を見て猫たちから非難の声が上がる。体を震わせるレヴを抱え直して、カットはそんな猫たちを睨みつけてみせた。
びくりと眼を見開いて、猫たちが鳴くのをやめる。
「じゃあ、俺が独り占めされないように、今夜はみんなで寝よっか!」
固まる猫たちに、カットは満面の笑みを浮かべてみせた。
「で、何でこうなるんですか?」
人の姿をとったレヴがカットに問いかける。そんな彼の額に自分のそれを押し当て、カットは微笑んでみせた。
「だって、猫の姿のお前と寝てたら、みんながお前に嫉妬して、またお前に襲いかかるだろ?」
得意げな笑みを浮かべ、カットはレヴに答えてみせる。レヴは呆れた様子でカットから視線を逸らし、周囲を見回した。
自分たちが寝そべる寝台を所狭しと猫たちが埋め尽くしている。猫たちはぐるぐると喉を鳴らし、体を気持ちよさそうに主人のカットに擦り付けていた。何を考えているのか、にゃぁと人の姿をしたレヴに甘えてくる猫もいる。
「いいじゃないか、みんなの嫉妬心も収まったことだし一件落着。なんの不満があるんだ?」
ふいんと猫耳を動かしカットは笑顔を深めてみせた。はぁとレヴはため息をついて、カットを抱き寄せていた。
「ありがとうございます……。その、お陰でニャンモナイトの刑は免れましたし……」
「なんだ、その刑?」
「何でもないです……今日はもう疲れたから、眠りたい……」
カットの胸元に顔を埋め、レヴはだるそうに声をはっする。そんなレヴの髪を優しく梳いて、カットは彼の耳元で囁いていた。
「愛してるよレヴ。だから命令だ、これからも側にいろ……」
かっとレヴの耳が赤くなる。長い赤毛の間から顔を覗かせ、彼は不機嫌そうに吐き捨てた。
「当たり前でしょ……。そんなの……」
潤んだ彼の眼が何とも愛らしい。カットは導かれるようにレヴの髪を掻き分け、その額に唇を落としていた。
2018年9月20日 発行 初版
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