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名無し少女と、百目女

 名無し少女と、百目女




ナナシ少女

狐の夜市場

鬼灯と一つ目

赤目と大鎌

カミはヒト、ヒトはカミ

一つ目花魁、ポン菓子鬼灯

龍と狐の奉納舞

ナナシと一目連

祭の終わり

終章 菫色の眼

 ナナシ少女

 閉じた少女の目で分かるのは、暗闇だけだ。視覚を失った彼女の頼りはもっぱら鋭敏になった聴覚と、嗅覚と、触覚だった。
 ほら、今でも彼女は風を肌で感じている。
 
 さぁさぁ。
 
  風が冷たく、夜が来たことを少女に告げてくれる。少女に名はない。呼び方があるとすれば、きっと『ナナシ』だろう。みんなは彼女をそう呼ぶし、彼女は母親から『名前』と言うもので呼ばれたこともなかった。
 母親の腹の中にいるときは、『名前』をつけられていたかもしれないけれど。
 そっと、少女は閉じた瞼に触れる。ぶよぶよとした感触は、瞼の下が空洞であることを知らせてくれる。ちょっと力を押すと、瞼の皮膚が空っぽの眼窩に入り込んでしまう。
 ナナシには、生まれつき目がない。だから、誰も彼女に名前をくれないし、母親は山奥の神社に彼女を捨てていった。
 その辺に落ちていた枝をやっとこさ拾って、彼女は何とか山道を下っているところだ。といっても彼女が目指しているのは、住んでいた集落ではない。
 この山のどこかで開かれるという、八百万の神々の市場を目指しているのだ。
 また、風が少し温かかった頃――たぶん夕暮れどきだ。お寺の鐘が、野良仕事に出ている集落の人間に落日を告げていたもの――ささっと、ナナシの前を通り過ぎる小さな気配があった。
 気配は二つ。それがこんこん鳴きながら、こんなことを喋っていたのだ。
「一目連さまが、新しい目を新調なさりに夜の市場にくるらしい。お陰で、我らが主は大忙しだ。あの方の気にいる目は、そうはない」
「だから、百目女が呼ばれたらしい。百個も目があるんだ。一つぐらい、恵んでくれるさ」
「くれるかね。くれるかね。こんこん」
「くれなきゃ困る。くれなきゃ困る。こんこん」
 しばらくこんこんと鳴き合いながら、二つの気配は通り過ぎていく。
「夜の市場……」
 気配がすっかり消えたあとで、ぽつりとナナシは呟いていた。
 夜の市場。一目連。たくさん目を持っている、百目女。
 くれなきゃ困る。こんこん。こんこん。
 ぐるぐると、あたまの中で気配たちの声が反響する。
 ――この穀潰し!
 自分を罵る母親の声を思い出す。
 もし、自分に目があったら。その市場で、目が手に入るとしたら。
 ぶよぶよとした眼をナナシは撫でる。つぅっと頬を伝う熱い涙がある。
 
 こんこん。こんこん。

 また、小さな気配がナナシの前を通り過ぎる。

 こんこん。こんこん。こんこん。

 たくさん、たくさん、急いだ様子で通り着ていく。

 そっとナナシはかがみ込み、周囲の地面を手で探った。その手に当たるものがある。それが手頃な大きさの枝だと分かり、ナナシはほっと息を吐いた。
 その枝を持って、立ちあがる。枝で地面を叩きながら、障害物がないかをたしかめる。

 こんこん。こんこん。

 ナナシの前を次々と小さな気配が通り過ぎていく。ナナシはそっと、その気配の後をついていった。

 狐の夜市場

 こんこん。

 気配の声を頼りに、ナナシは歩いていく。冷たい草の感触がだんだんと足元を覆うようになり、その感触が、膝まで広がっていく。
 ナナシの足に当たる草の丈が長くなっているのだ。
 
 ほぉう。ほぉう。
 
 頭上からは梟の声がして、夜が来たことを教えてくれる。それでもナナシは枝を振り回し、ずんずんと歩き続けた。
 
 こんこん……。
 
 遠くから、小さな鳴き声が聞こえる。草の感触が、だんだんと足元から引いていく。
 その感触が完全になくなった瞬間、ナナシの耳に賑やかな祭囃子の音が聞こえてきた。

 こんこん。こんこん。
 こんこん。こんこん。

 たくさんの鳴き声と一緒に、がやがやと人の行き交う音がする。
「油揚げだよ! こんこん。カリカリに焼いた油揚げだよ! こんこん。にんげんたちが伏見様に献上した、霊言あらたかな油揚げだよ」
「こんこん。美味しいポン菓子はいかかがなぁ。伏見様がお育てになった新米から作ったポン菓子だよぉ! こんこん!」
 甲高い客引きの声が、あちらこちらでする。それと一緒に、何とも言えない美味しそうな香りがナナシの鼻腔を満たしていた。
 
 ぐるぐるぐる……。
 

 腹が鳴る。その瞬間だ、柔らかな感触がナナシの足元を覆った。もふもふとしたその気配たちは、ナナシの足元をぐるぐると巡っている。
「こんこんこん。お嬢さん、そこの目瞑ってる女の子! 油揚げは如何だい?」
「こんこんこん。なんの、なんの。やっぱりお腹の虫にはポン菓子でしょ!」
「おいおい、この嬢ちゃん。にんげんくさいぞ。こんこん!」
「でも、客だ客だ! さぁさぁお嬢ちゃん! 拝んでおくれ。拝んでおくれ。伏見様を拝んでおくれ!! こんこん」
 ふさふさとした感触にナナシはうっとりと、口元を綻ばせていた。そっとしゃがみこむと、さっと足元から気配が逃げる。
 試しに手を差し出してみると、湿った鼻がナナシの指先に押しつけられた。
「うぅん。こんこん。参ったなぁ。こんこん。本当ににんげんだよ。こんこん……」
「我らの神域になぜかしら触れてしまったんだなぁ。こんこん。困った、さてはて困った。こんこん」
 気配たちはナナシの匂いを嗅いでくる。困惑する気配の声が、ナナシは少しばかり気にかかった。
 こくりと首を傾げると、気配の一つがそれに応えてくれた。
「すまんだなぁ。お嬢さん。こんこん。君は私たちの領域に迷い込んでしまったらしい。こんこん。神隠しにあってしまったんだ。こんこん」
「すまんねぇ。お嬢さん。こんこん。あなたは、にんげんの領域に帰れんかもしれん」
「それは、伏見さま次第だが。一目連さまが、お嬢さんを気に入ったら……」
 しゅんと気配が押し黙る。ナナシは急に不安になって、気配の一つに触れていた。
「お、どうした。こんこん」
 気配の背中を撫でると、柔らかな毛の感触が伝わってくる。ナナシは思わず気配を抱き寄せていた。
「ちょ、こんこん! お嬢さん、やめたまえ! こんこん。形は小さいが、私は君より百歳は年上だぞ! 目上の者を抱き寄せるとは何事だ!」
 気配が叫ぶ。それでも、頬を流れる涙を止めたくて、ナナシは気配を抱き寄せていた。
「こんこん。お嬢さん。泣いてはいるが、あんた……」
 冷たい肉球の感触が、瞼を覆う。肉球は、軽く瞼を押してきた。瞼が、すっと空っぽの眼窩に入り込む。
「盲か……。それも、目がない。こんこん……。これは気の毒に……」
「なんと、なんと」
「神隠しにあった上に、そんな不憫な身の上とは……。不具者だからこそ、神域に迷い込んでしまったか……。体の欠損は、巫女の印だからなぁ……」
 気配たちは、気遣うようにナナシに擦り寄ってくる。ナナシは寄ってきた気配にそっと触れた。
 くぅーん。こぉーん。
 ナナシを慰めるように、気配たちは優しい鳴き声を発する。
「なんだぁ! 狐ども! 屋台さぼって、女引っ掛けてるとは何事だぁ?」
 そのときだ。女性の怒鳴り声が、ナナシたちにかけられた。
「百目女!」
「百目だぁ!」
「百目女だ!」
 気配たちがいっせいに悲鳴をあげる。
「あぁん。せっかく上客の一目連さまが来るっつから来てやったのに、その態度はなんだぁ。うぅん?」
 荒っぽい女性の声に、ナナシはびくりと体を震わせていた。
「これ、百目女! お嬢さんがビックリしているではないか!」
「恐がらせるな! こんこん」
「こんこん。そうだ。この百目」
 気配たちがいっせいに声をあげる。
「あぁあん。ちっせぇなりして、この百目様とやり合おうっていうのかぁ! おぉおいぃいぞ! かかってこぉい!」
 女性が声を荒げる。
 今度はきゅんきゅんと鳴きながら、気配たちがナナシにすがりついてくる。ナナシは気配たちをかばうように、彼らを背後へと匿った。
 近づいてくる足音に耳を澄ませ、ナナシは顔をあげる。
「お前ぇ、盲かぁ?」
 ひたっと乱暴な足音がとまる。顎を持ち上げられ、ナナシは顔を覗き込まれていることに気がついた。
 冷たい感触が瞼に触れる。それが細長い指だと分かり、ナナシは身を固くした。
「ひゅう! 綺麗な眼窩を持ってるじゃないかぁ! おうっ。中が空ときぃてる」
 口笛がナナシの耳に届いた。指はナナシの瞼を何度も押してくる。その先に広がる空洞の感触を楽しんでいるかのようだ。
 ――たくさん目を持っている、百目女。
 こんこんと鳴いていた気配たちの会話を思い出して、ナナシは唾を飲み込んでいた。自分の瞼を弄んでいる指の持ち主は、きっと百目女に違いないのだ。
 ――この人は、自分に目を売ってくれるだろうか?
 でも、自分は売れる物を何も持っていない。
「どぉれ、目でも一つ入れてみようかぁ!」
 逡巡するナナシの耳朶に、明るい百目の声が飛び込んでくる。ひんやりとした指の感触が瞼から無くなる。次の瞬間、ナナシの瞼に冷たい何かが押し付けられた。
「ぎゃぁ!」
「うるせぇぞ! ガキ! 黙って我慢してろぉ!」
 ぐいっと瞼を眼窩に押し込まれ、ナナシは悲鳴をあげてしまう。そんなナナシを叱りつけ、百目女は冷たい異物を眼窩に押し込んでくる。
 ごろごろごろごろ。
 頭蓋に異物が放つ音が轟く。
 痛い。
 頭が割れるように痛い。瞼が焼けるようにひりひり痛む。
「あれっ?」
 ぼんやりと、真っ暗だった視界が違った色を帯びてくる。
 それが光だと分かった瞬間、ナナシは自分に眼がついていることに気がついた。


 鬼灯と一つ目

「うそっ!」
 声をあげたとたん、ナナシの『視界』に艶やかな夜市場が映り込む。
 橙色に光る神社の境内。赤い鳥居の向こう側には参道が続き、その参道の頭上には光り輝く鬼灯が鈴なりに吊るされている。
 
 ぼぉう。ぼぉう。
 
 鬼灯が明滅する。
 菱形の形をした鬼灯たちは、橙の光を放って、提灯のように輝いているのだ。
 その鬼灯の下で、こんこんと鳴く白狐たちが、赤い屋台を行ったり来たりしている。
 こんこん。こんこん。
 
 鬼灯灯篭はいかがかね? こんこん。 

 伏見さまの神子米で作った、餅を食べないかい? こんこん。

 ポン菓子も美味しいよ! こんこん。
 
 掛け声の轟く狐たちの屋台には、どっさりと珍品が並んでいた。
 茫茫と光る鬼灯。油揚げに包まれたお餅。星屑みたいなポン菓子に、カリカリに炙られた油揚げの串焼き。
 屋台に立つ狐たちの尻尾は二つだったり、三つだったり。狐たちはそんな尻尾をゆらして、参道を行き交う客たちを誘う。
 屋台を覗き込む客も、これまた珍妙だった。
 二足歩行の猫又やら、どっしりとした体を持つぬり壁。ちょこんと角が生えた愛らしい鬼の少年に、その後を追いかけるかまいたち。鳥獣戯画にいそうな二足歩行の兎やら、蛙なんからもあちらこちらにいる。
 そこでふと、ナナシは奇妙なことに気がついた。
 私は、これまで一度も眼でモノをみたことがない。それなのに、どうして眼の前にあるものを理解することが出来るのかしら。
「おぉ、不憫だと思ってなぁ。私の視る記憶を少しばかりアンタさんに分けてやったわけだよぉ。そんな驚くな。人外は大概みんなやってることだぁ」
 乱暴な声がする。
 ナナシは驚いて、声のした斜め左へと顔を向けた。ぎょっとナナシは眼を見開いて、両手で口を覆ってしまう。
 そこには、女が立っていた。巨大な一つ目を美しい造りの顔に嵌め込んだ、いかにも人間離れした女だった。
 艶やかな絣の着物を着崩した女の体は、包帯で覆われている。その包帯の隙間から、ぎょろぎょろとこちらを覗くものがあった。
 眼だ。
 幾つもの、おびただしい数の眼が、包帯の隙間からナナシを見つめている。橙の光を帯びて、宝石みたく光り輝いている。
 百目女だ。
 その女が、なんの気まぐれかナナシに眼をくれたらしい。
「こんこん。お嬢さん。大丈夫かい?」
「こんこん。痛くない。痛くない?」
「こんこん。百目は女の癖に乱暴なやつだからな」
 ナナシの背後からゾロゾロと白狐たちが姿を表す。彼らは、ひょんと後ろ足で立ち上がり、心配そうにナナシの顔を覗き込んできた。
「大丈夫に決まってんだろぉ! なぁ、ガキィ。調子はどうだぁ!」
「調子……」
「眼だぁよ、眼! ちゃんと見えてるんだろ?」
 一つ目を指差し、百目女はにぃっと口元に笑みを浮かべてみせる。
「見える……?」
「そぅ、ちゃんと見えてっか?」
 心配そうに巨大な一つ眼が瞬いた。秋の楓を想わせる赤い眼は、心配そうにナナシを見つめている。
 その眼の中に、眼を真ん丸くして驚く、少女の姿があった。
 ボサボサの長い黒髪に包まれた顔は薄汚れている。だが、その顔に嵌ったふた粒の眼は、愛らしい光を放っていた。
 あぁ、あれは私だ。私の姿が、百目女の眼に映っている。
 じぃんと、ナナシの涙腺が熱を帯びた。ほろほろとナナシの眼から大粒の涙が零れていく。ナナシはその涙を止めたくて、眼を擦っていた。
 それでも、涙は後から後から出てくるのだ。
「百目がお嬢さんを泣かせた。こんこん!」
「この、意地悪女が。こんこんこん!」
「謝れ、謝れ! こんこん!」
「えっ……。眼、いらなかった……?」
 百目女の言葉に、ナナシは首を振ってみせる。涙で濡れた眼を百目女に向け、ナナシは笑っていた。
「ちゃんと、見える……。ちゃんと、見えてるよ……」
「そぉか! 見えるかぁ! 良かった! 良かった!」
 膝をバンバンと叩き、百目が笑う。彼女は軽やかな足取りでナナシに駆け寄り、ぽんっと頭に手を乗せてきた。
「良かった、良かった! こりゃぁあ、市場に来た甲斐があった!」
 笑う百目を、ナナシは驚いた眼で見上げてみせた。
「うぅん!? なんか変か、ガキ?」
「その……眼のお代は……? 私、お金持ってない……」
「あぁ、いぃいぃ。んあこたぁ、気にすんなぁ! この百目様のために、感謝の祈りを絶えず捧げてくれりゃぁ、それで良い。零落したとはいえ、これでも一応は八百万の端くれだからなぁ! にんげんたちの祈りが一番の報酬なんだよぉ」
 百目女は豪快な笑いで応えてみせる。ナナシはぽかんと口を開け、彼女を見つめることしかできなかった。
「なぁに、こんな神様いちゃ駄目かぁ?」
 にぃっと百目が口の端を持ち上げる。ナナシは、とっさに頭を振っていた。百目の一つ目が、夕陽のように眩しく煌く。彼女はナナシの頭をバンバンと乱暴に叩いてみせた。
 さすがに痛かったが、ナナシは我慢してみせる。かわりに、百目に笑顔を送ってみせた。
「おぉ、そんなに嬉しいかぁ!」
 百目が嬉しそうに声をあげる。その声が、ナナシには妙に心地よく聞こえた。
 なぜだろうか。
 こんな奇妙な人に会うのは初めてなのに、懐かしさを覚えてしまうのは。
「いぁあ、にんげんのガキにゃぁ何度か会ったがぁ、こんなに可愛いやつぁ、久しぶりだ! 昔会ったぁ、腹の中のガキ以来だなぁ……。にしてもぉ、どぉしたお前? 何でこんなところにいる? それに――」
「やや、百目! 百目ではないか?」
 百目の言葉を、声が遮る。しゃがれた、男の声だ。百目が鋭く一つ目を細める。
「ぉお、久しぶりだなぁ! 一目連さま!」
 どことなく剣呑な百目の声に不信感を覚え、ナナシは百目が見つめる方向へと顔を向けていた。

 赤目と大鎌

 その男はぎょろりと光る一つ目が印象的な巨漢だった。赤く輝く一つ目には斜めに痛々しい傷が走っている。その一つ目の両側に、菫色をした愛らしい眼がついていた。
 男が物音に反応するたび、その二つの目が音のした方向へと向けられる。
 どうやら男は、一つ目の脇についた菫色の眼でものを見ているらしかった。
 手に持った大釜で幅広な肩を叩きながら、男は分厚い唇に笑みを浮かべている。
「百目、ちょうど良かったよ。やや、この愛らしい紫色にも飽いてきたところでね。眼をもらえるとありがたい。ありがたいのたが……」
 一つ目の脇についた眼を指差し、男は懇願するように百目に語りかけてくる。
 この人が一目連さまなのだろうか。
 そう思い、ナナシは大男を見つめる。そんなナナシの前にさっと狐たちが立ちふさがった。
「いやいや、一目連様、ようこそようこそ。こんこん」
「どうぞ、ポン菓子はいかがですか。こんこん!」
「それともぉ、油揚げはいかがですかねぇ、こんこん」
 ナナシを隠すように背伸びをして、狐たちは両前足の肉球をもみもみともみ合わせる。
「なんだぁ、狐ども。そんなチンケなものをこの一目連様に売りつけようというのか? お伊勢様が天の岩戸にお隠れになったさい、八咫鏡を作ってお伊勢様を岩戸から出す手助けをしたのは、誰だと思っておる?」
「わかっております。こんこん。あの、乱暴狼藉須佐之男さまに怯えて岩戸にお隠れになってしまったお伊勢様。太陽であるかの尊き御柱様がお隠れになり、地上は闇で覆われたと伝え聞いております。こんこん。
それを救ったのが、一目連様がお造りになった八咫鏡。神々が騒がしく楽しんでいるのを怪しみ岩戸から顔を覗かせたお伊勢様は、八咫鏡に映るご自身の姿を自分より高貴な神だと思い込みびっくり仰天。こんこん。
慌てて岩戸から出たところを、天手力男様がぐいっと力ずくで岩戸からお出しになり、天には光が戻ったという……。こんこん。一目連様がいなければ、この卑しき狐どももお天道様を拝むことは出来ていないでしょう」
「なんとも、なんとも、偉大な御柱様だ。こんこん」
「その上、大きな一つ目が凛々しい麗しきお姿。なんとも、なんともご立派ご立派。こんこん」
「そおぉか。言うなぁ、この狐ども。それ、ポン菓子とやらはそんなに上手いのかぁ。試してみたいのぉ。油揚げも食おうかな」
 一目連の眼が、嬉しそうに光り輝く。その眼を見て、ナナシは妙に懐かしい思いに囚われた。
 あの一つ目を、自分はどこかで見た気がする。
 遠く、遠く、凄く昔に――
 じぃっと一目連を見つめるナナシの手を、強く引くものがあった。びっくりして、ナナシは後方へと顔を向ける。
「しぃ……」
 口元に人差し指を宛てた百目が、ナナシの手を引っ張っていた。百目は驚くナナシを自分の背後へと引きずり込んでしまう。
「あの……」
「あの、色ボケジジィなぁ……。人間の子供が大好きぃなんだよぉ。気に入られたら、連れてがれちぃまう……」
「えっ……」
「だからぁ……しぃ、な。しぃ……」
 固まるナナシに顔を向け、百目は口元に指を充ててみせる。こくりとナナシは頷き、百目の背中にぴったりと体をくっつけた。
 そっと背中から前方を覗き見る。
 狐たちに囲まれた一目連は、鳥居をくぐり夜の市場へと向かっているところだった。
「おぉ、ポン菓子、上手いなぁ、これ上手いなぁ。多度大社に奉納してくれんか!」
「でしょう、こんこん。いくらでも奉納致しますよぉ、こんこん」
「油揚げ、かりかりの油揚げも奉納いたしますよ。こんこん」
「ところでだなぁ、狐ども。ちょっと、人間の子供の匂いがだなぁ……」
「あぁ、それ私のせいですね! こんこん。昼間、人間たちの里に降りたからそのときに付いた匂いでしょう。こんこん」
 首を傾げる一目連の言葉に、狐の一匹が大声で答える。
「それより、ポン菓子もっとどうですかっ! こんこん!」
「おぅ、追加か? 嬉しいのぉ!」
 ささっと狐に差し出されたポン菓子の袋を掴み、一目連は豪快に笑った。その笑い声が、遠ざかっていく。
 去っていく一目連を見て、ナナシはすっと胸が悲しさを帯びるのを感じていた。
 どうしてだろう。
 あの、優しい一つ目をもっと見つめていたいと思ってしまった。
「よかったぁ……。もう、大丈夫だぁ。あとで狐どもの店に寄って、例でもしねぇとなぁ」
 ほっと百目が肩をおろし、ナナシの頭を撫でてくる。そんな百目にナナシは困ったような顔を向けることしかできない。
「どうしたぁ、ガキィ?」
 百目の一つ目が、曇る。その一つ目を見つめ返すことができなくて、ナナシは顔を逸らす。
 一目連の快活な笑いが、遠くから聞こえてくる。過ぎ去っていく笑い声を聞いて、ナナシは寂しさを覚えていた。

 カミはヒト、ヒトはカミ

 どぼんと、川に落ちたと思ったときには遅かった。水しぶきが視界を過ぎ去っていき、ナナシは暗い川面に飲み込まれていく。あがろうと顔を水から出すと、百目に頭を押しつけられた。
「そぉの汚ねぇナリで市場に行くつもりかぁ? 少しは、体洗えぇや!」
「うぅ!」
「うぁあ、服も汚ねぇなぁ。お前、こんなんでよぉく生活できてたなぁ」
 嫌がるナナシの着物を、容赦なく百目が剥ぎ取っていく。
 一目連に勘付かれると色々とまずい。人間臭いから少しはその匂いを取れと百目はナナシを近くの川まで無理やり引っ張ってきたのだ。
 体なんてナナシは生まれてから洗ったことがない。そんなナナシをひょいっと担ぎ上げ、百目は容赦なく川に突き落としてくれた。
「ほれぇ、ほれぇ、にんげんの匂いとれろぉ、とれろぉ」
 ナナシの頭を何度も川につけながら、百目は嬉しそうに声をあげる。苦しくて、ナナシは何度も頭を持ち上げようともがいてみせた。
 秋になったばかりの川の水は冷たい。母親は、気に食わないことがあるたびに家の近くを流れていた川にナナシを突き落とした。
 覚えているのは冷たい水の感触と、自分を飲み込むぬるりとした水の流れのみだ。
「やだ! やだ!」
 嫌なことを思い出して、ナナシは悲鳴をあげていた。
「あれぇ、にんげんってこう洗うんじゃないのかぁ?」
 そんなナナシの頭を百目はわしゃわしゃと撫でてきた。ぱちくりぱちくりと一つ目を何度も瞬かせ、百目は自分の両手を見つめる。
 細長い五指をわしゃわしゃと動かしたあと、百目はにまっと口元に笑みを浮かべてみせた。
「こうぅか。こうかぁ!」
 細長い指で、百目は百舌鳥の巣のようなナナシの髪を梳いていく。百目の細い指は、上等なつげの櫛のようだ。彼女がナナシの髪に指を滑らせるたび、髪はするすると解けていく。
 髪を撫でられる感触が気持ちよくて、ナナシは眼を細めていた。
 こんな風に、誰かに髪を梳かしてもらったことなんてなかった。髪を引っ張られたことだったら、たくさんあったけれど。
「おぉおぉ! なんか、真っ直ぐになった!」
 百目が感嘆と声を上げる。ナナシが驚いて振り向くと、百目は嬉しそうに自分の一つ目を指差してみせた。
「鏡の代わりぃ! 見てみろぉ、見てみろぉ。にんげんって、水に入れるだけで変身するんだなぁ! 妖と変わんねぇ!」
 ぱちくりと瞬きする一つ目を、ナナシはじっと見つめる。そこに映る自分の姿を見て、ナナシはあっと声をあげていた。
 艶やかな黒髪を纏った、何とも愛らしい少女が一つ目には映っているではないか。黒髪はぴったりと少女の細い体に絡みつき、形の良い乳房にも張りついている。一つ目を照らす月明かりが、少女の体を蒼く照らしていた。
「これが、私……?」
 ナナシが自分を指差してみると、一つ目の中の少女も自身の体を指差してみせる。ナナシがぱちくりと眼を瞬かせると、少女も同じことをした。
「すげぇなあ! 私も昔はにんげんだったけどぉ、こんな風には変身しなかったぞぉ!」
「百目さんが、人間だった?」
「うん、そだよぉ。つーかぁ、にんげんって死んだらカミになるもんだろぉ。最近はぁ、ホトケさまになるっつーけど、原理はおんなじゃあぁん」
「にんげんが、カミサマに?」
「最近のにんげんは忘れてるみたいだけどさぁ、にんげんは勝手に自然にあるそこらのもんから生まれてきたんだぞぉ。だからぁ、帝のご先祖なんてお伊勢様じゃん。お伊勢様って、太陽だろぉ。
ご先祖様のカミさま遡ればぁ、そのカミさまが貝殻だったりぃ、稲穂の神様だったりなんて日常茶飯事ぃ! にんげんは自然から生まれてぇ、死んだらカミになって万物動かしたりぃ、自分の子孫見守ったりぃ、稲穂の化身になって、生きてるにんげんに食われたりぃ、結構忙しいんだぜぇ。
で、その忙しさに飽きたら、またにんげんに生まれ変わんのぉ。にんげんってのは、生きて死んで、くるくる回って、世の中動かしてるんだよぉ!」
 両手をがばーと広げ、百目は大声をあげてみせる。百目の一つ目は月明かりを帯びて、きらきらと輝いていた。
 何だか百目は、楽しそうだ。
「でなぁ! でなぁ! にんげんだった私を育てたのはぁ、一目連様なんだぁ。私の家系はぁ、遡れはあのエロジジイィまで行き着くんだけどさぁ、これがぁ、私の代で絶えちゃってさぁ。見かねたエロジジイが私を引き取ったんだよぉ。
つーても、世話になってた家から私を誘拐しただけだけどぉ! 一目連様そんときから眼が見えなくてよぉ、そんなエロジジイを何とかしたいと思って死んでったらぁ、何か目玉集めるカミになってたんだぁ。見てみん、見てみん。私のぉ、目ん玉」
 ナナシの眼の前で、百目はがばりと纏っていた着物を脱いだ。びっくりして、ナナシは両手で顔を覆ってしまう。
「ちょ、百目さん」
「気にすんなぁ! 女同士じゃんかよぉ。このぉ!」
 恥ずかしがるナナシに、百目は弾んだ声で応えた。
「ほぉら、恥ずかしがらずにぃ、見てみぃん。見てみぃん」
 両手の指を開いて、ナナシはその隙間から百目の様子を窺う。
 するりと、百目が着物を川に落とす。赤絣の着物は、ゆったりと水面に落ちて、沈んでいった。
 百目の裸体が、月光に照らされる。百目が包帯を丁寧に外していくと、月光に照らされた無数の眼が顕になる。

 ぎょろぎょろ。

 白い体に穿たれた無数の目玉たちが、てんでんばらばら好きな方向を向く。その目玉たちは示し合わせたようにナナシを見つめてきた。
 びくりとナナシは肩を震わせていた。
 だが、同時に奇妙なことに気がつく。ぴくりとも動かない目玉が、いくつもあるのだ。その目玉たちは月光に輝くこともなく、瞳孔を開いたまま正面を向いている。
 どうも、百目についた眼のいくつかは見えていないようだった。
「百目さん、その……」
「私の仕事はなぁ、盲の人間を癒すことなんよぉ。盲の家族が生まれるとなぁ、自分の目と引換にぃ、その盲を直して欲しいって身内が出てくるんだわぁ。そんな人たちの願いがぁ、私に力をくれたんさぁ。
一目連様の末裔ってのがぁ、決め手だったみたいでさぁ、死後にちっちゃい村の衆が私のことをカミとして祀ってくれたんだぁ。盲を癒す神様だぁてなぁ。一目連さまの目を治したかった私にはぁ、ぴったりの転生先って訳だぁ」
 にぃっと一つ目に笑みを浮かべ百目は言葉を続ける。百目は、自分の体についた目玉たちを愛しげに見下ろしてみせた。
「この目はさぁ、盲たちの目玉なんよぉ。穢れた盲たちの眼を浄化してぇ、見える目にすんのが私の役目。その眼を、祈りと引き換えに、見えるようになりたいっていう盲たちに分けてやんのよぉ。祈りが目の穢れを払ってくれるからなぁ」
 百目は体についた目玉たちを優しく撫でる。

 ぎょろり。

 応えるように、目玉たちは百目の顔をいっせいに見上げてみせた。そんな目玉を見て、百目は悲しげに一つ目を曇らせてみせる。
「でもなぁ、最近こいつらの穢れが取れにくいんだわぁ。キンダイカってやつのせいかなぁ。ひとが祈りをくれなくなったんよぉ。私たちのことぉ、ただの想像の産物だって言いやがんのよぉ。そのせいで、私は零落して妖怪になった。なんか、さみしいよなぁ、それって……」
 そっと百目はナナシを見つめる。百目の一つ目は、なんとも寂しげげな光をあたりに投げかけている。
「魂とかぁ、心とかぁ、カミとか、眼に見えんもんはぁ、信じられないと小さくなって消えてしまうんだよぉ。そこにはただぁ、肉の塊みたいな世界が残るんだよぉ。それってさぁ、生きてるのにぃ、死んでるってことだぜぇ。寂しいよぉ。そんな世界は……。でもぉ、にんげんたちはぁ、ゆっくり私たちを忘れようとしてんのよぉ。仕方のないことだけどなぁ……」

 きらり、きらり。

 笑う百目の一つ目は、なんとも悲しげに輝いている。一つ目は、まるで泣いているようにみえる。
「百目さん……」
「だから、お前は私のことぉ、忘れないでなぁ。祈ってくれなぁ。その祈りがさぁ、他の人の眼を見えるようにしてくれるんよぉ」
 にっと口元に笑みを浮かべて百目は締めくくる。それでも、百目の一つ目から寂しげな色が消えることはない。水を含んだ黒髪をゆらし、ナナシは百目に飛びついていた。
「おぅ、どうしたぁ!?」
「忘れないよ、私……。この眼をくれたのは、百目さんだもん……」
 ぎゅと百目を抱きしめ、ナナシは彼女の胸に顔を埋めてみせる。水に濡れた百目の体は、それでも温かかった。びっくりたように瞬きをする胸の目玉たちが、少しばかりくすぐったかったけれど。
「かわぁいいぃ!」
「うぁ!」
 がしりと、百目がナナシを抱きしめ返してくる。びっくりして彼女を見つめると、ナナシは一つ目を嬉しそうに輝かせていた。
「ほぉんと、お前みたいにかわぃぃにんげんのガキに会うのは久しぶりだぁ。かわいいぃなぁ、かわいぃなぁ!」
「ちょ、百目さんっ!」
 百目は嬉しそうにナナシの頭をぐりぐりと撫でてくる。撫でられた部分が妙にくすぐったくて、ナナシは声をあげて笑っていた。
「くぁぃぃなぁ! かわいぃなぁ!」
「やめてよ、百目さんてばっ!」
 お返しとばかりに、ナナシは百目の胸にぎゅむっと顔を埋めてみせる。おぅっと百目が妙に艶っぽい声をだしてみせた。
「ちょっ、何をしているお前らー!! こんこん!」
 そんな二人を、怒鳴りつけるものがあった。びっくりして、ナナシは岸辺へと顔を向ける。
 真っ赤に顔を染めた白狐が、ナナシたちを睨みつけていた。

 一つ目花魁、ポン菓子鬼灯


「えっ、何ってイチャイチャしてただけだぞぉ! ほれほれぇ!」
「わっ!」
 狐に見せつけるように、百目はナナシの頭を胸に強引に胸に押しつけてくる。柔らかい百目の胸からは、ほんのりと甘い香りがした。
「百目さん……」
「いいじゃぁん。相思相愛なんだからぁ、私たちぃ」
「やめんかぁ! このハレンチ女がぁ! うおんどりゃぁぁ!」
 
 ぼぉん。ぼぉん。

 顔をドス黒く染めた狐の周囲で、狐火があがる。

 ぼぉん。ぼぉん。

 次々に灯る狐火は蒼く燃え、狐の周囲でとぐろを巻いた。
「いけぇ、こんこん!」
 狐のか
け声とともに、狐火は夜闇を疾駆しながらナナシたちへと襲いかかる。
「ちょっ! 狐火とか本気かよぉ!」
「百目さんっ!」
「のぉ!」
 百目が危ない。
 ナナシは、とっさに彼女を押し倒していた。水しぶきがあがって、ナナシたちは川の中に倒れ込んでしまう。
「ごぼぉうぅう」
「ひゃくぶぇめさぁん!」
 水の中で、百目が呻く。苦しげに一つ目をグルグルと回しながら、彼女の体は水底へと沈んでいく。
 ナナシは彼女に手を伸ばすが、百目がその手を掴むことはない。
 そのときだ。川の水が、いっせいに引いた。
「えっ!」
 自分を取り囲んでいた水がなくなる。ナナシは驚きのあまり声をあげていた。
 代わりに自分たちを取り囲んでいたのは、蒼い狐火だった。
 狐火はナナシたちを取り込み、静かに宙に浮いているらしい。
「うぅえぃ……」
「あっ、すみません」
 ナナシの下にいる百目が、気持ち悪そうに声を上げる。ナナシは慌てて、百目から体をどかしていた。
「えぇい、破廉恥な! こんこん。 少しはまともな衣を纏え! こんこんっ!」
 狐火の外から、怒声が聞こえる。それと同時に、狐火がナナシたちの体に襲いかかった。
「きゃあ!」
 ナナシはとっさに眼を瞑る。
 だが、不思議と熱くない。奇妙に思い、ナナシは恐る恐る眼を開いていた。
「あっ!」
 驚きに、声が上がる。
 まるで炎が衣服のように、ナナシと百目の体を包み込んでいるではないか。ぐるぐると螺旋を描き、狐火は大きく燃え上がる。すっと、ナナシたちの体から消えてなくなる。
 足もとを軽い浮遊感が襲う。気がつくとナナシは地面に立っていた。
「あれ……?」
 さっきまで水の中にいたはずなのに、これはどういう事だろう。
「おぉー。すげぇぞぉ!」
 小首を傾げるナナシの耳朶に、百目の大声が飛び込んできた。ふいっと百目を見て、ナナシは驚きに眼を見開く。
 まぁまぁ、なんとも煌びやかな衣装を纏った百目がいるではなか。
 結い上げられた髪には無数の鼈甲簪。体には地の色が鮮やかな濃緑に、鬼灯の絵が描かれた見事な染絵の着物を纏っていた。艶やかな朱色の帯を前方で結わえた姿は、まるで花魁のようだ。
「すげぇ、すげぇ。なんかまたぁ変わったぁ!!」
 百目は一つ目をきらきらと輝かせ、しきりにナナシを指差してくる。不思議に思って、ナナシは百目の一つ目をじっと見つめた。
 そこに映っている自分の姿を見て、あっと声を上げる。
 一つ目の中のナナシは、上品な赤い小袖を身に纏っていた。結い上げられた黒髪には、ぼうぼうと輝く鬼灯が巻きつけられている。
「どうだぁ! 私の見立ては完璧だろぉ! こんこん。さぁ、この白狐さまにひれ伏すがい! 感謝を述べよぉ! こんこん」
 驚くナナシの横で、白狐が声を張り上げる。両腰に前足を押しつけ、狐は偉そうにナナシたちを見つめていた。
「あんがとぉ。じゃあ、ガキィ。市場に行こうかぁ!」
「軽っ!」
 そんな狐に軽く会釈をし、百目はナナシの手をとり歩き出す。ツッコミを入れる狐の声が、虚しく聞こえるのは気のせいだろうか。
 去りゆくナナシたちの横で、狐はしょんぼりと尖った耳をたらしてみせた。
「あの、百目さんっ! ちょっと、いいですか?」
「あぁん? どした?」
 百目の手をぐいっと引いて、ナナシは立ち止まる。不思議そうに一つ目を細める百目に微笑みかけ、ナナシは狐に顔を向けた。
「ありがとうございます。こんな綺麗な着物、着たことなかった。すごく、嬉しいです」
 深々とお辞儀をして、ナナシは狐にお礼を言う。驚いた様子で、ひゅっと狐が耳をあげる。そんな狐に、ナナシは笑顔を送っていた。
 だって、ナナシは本当に嬉しかったのだ。捨てられる前は、襤褸ばっかり着ていた。こんな上等な着物なんて、触れることすら叶わなかった。
「こんっこんっ! それは、本当かい! 本当かいっ!」
 嬉しそうな狐に、ナナシは頷いてみせる。
「あぁ、百目と違ってなんていい子なんだ。こんこんっ!」
「んだぁとぉ! 狐のくせにぃ、生意気なんだよぉ!」
 ナナシの言葉に、狐は細い眼に笑みを浮かべて見せた。そんな狐を百目は怒鳴りつける。
「ふん! 年端もいかない人間の娘よりも礼儀がなっていないということだ。零落したとはいえ、本当にお前は八百万の末席に位置するカミなのか疑いたくなるわっ。こんこんっ」
「んだとぉ! 長生きしてるだけの狐に言われたかねぇよっ!」
「我らも人々の捉え方によっては、拝められる伏見様の使いの狐よ! 存在すら忘れ去られたお前と、一緒にしてもらっては困るなぁ。こんこん」
 ぎっと百目と狐はにらみ合う。喧嘩をする二人を見て、おろおろとナナシは狼狽することしかできない。

 ぐぅぅぅう。
 
 そのときだ。ナナシの腹の虫がなったのは。
 睨み合っていた二人が、いっせいにナナシに振り向いてみせる。ナナシは急に恥ずかしくなって、顔が熱くなるのを感じていた。
「どうしたぁ! ガキ? 具合悪いのかぁ?」
 不思議そうに百目がナナシに尋ねてくる。自分の顔を両手で覆い、ナナシは首を振ってみせた。
「おぅ、こんこん。そう言えば、お嬢さんに渡すものがもう一つあったっ!」
 ぽんっと狐が両前足を叩く音がする。ナナシは両指の隙間から、狐を見つめてみせた。
「ほれ、腹が減っているのだろう? 一つどうだ? 伏見様の神子米で作ったポン菓子だ」
 狐が片前足をナナシに差し出してみせる。その上には、ポン菓子がたくさん詰まった鬼灯の袋があった。
 顔から両手を放し、ナナシはポン菓子に手を伸ばす。
 猫の目玉よりもふた回りほど大きな鬼灯の袋は、赤い和紙で拵えてあった。
指で捉えて袋を月にかざす。ぼんやりと、鬼灯の種を想わせるポン菓子の影が赤い和紙に映える。
「食べてごらん。こんこん。もうすぐ、伏見様の奉納舞も始まるからね。腹ごしらえをしとかないと」
 狐が優しく声をかけてくれる。
 ナナシは狐を見た。にっと眼を細め、狐はナナシに笑ってみせた。

 龍と狐の奉納舞

 
「わぁあ!」
 市場に戻ったナナシは、目の前に広がる光景に歓声をあげていた。あんなに賑わっていた市場はどこにもない。代わりに、際限なく広がる水田が崖に遮られるまでどこまでも続いている。崖の向こうには海が広がっていた。
 田園風景の中央には、立派な檜でできた舞台が設置されていた。舞台の四隅には狐たちが鎮座し、狐火を絶えず口から吐いている。

 ぼぉう。ぼぉう。

 狐火が消えるたび舞台は闇に沈む。

 ぼぉう。ぼぉう。

 狐火が灯るたびに舞台は、暗がりに浮かび上がる。
 舞台を凝視していたナナシは、にわかに周囲が騒がしいことに気がついた。あたりを見回すと、狐やら鬼やら、鳥獣戯画を想わせる面々が周囲を取り囲んでいるではないか。
 みんな、市場で見かけた妖たちだ。その中に、ちょこんと一目連が紛れ込んでいるのを見つけて、ナナシは眼を伏せていた。
 一目連の傷ついた一つ目の横では、相変わらず菫色の眼が忙しなく動いている。
 その眼を見つめていると、ナナシはとても悲しい気持ちになるのだ。
「おぉ! 伏見! 伏見ではないかっ!」
 一目連が舞台に向かって大声を張り上げる。
 ナナシは驚いて舞台に視線を戻す。舞台の上に、さきほどまではなかった人影があった。
 狐火が灯り、人影を映し出す。
 それは、狐の面を被った女だった。赤襦袢に白い小袖を纏った女は、これまた白い袿をその上から羽織っている。
 奇妙なのは、狐面にあるのと同じ狐の耳が、その女に生えていることだった。尻尾だってほら、九本も背後から伸びて、後光のごとく女を飾り立てている。
 すると、凛と舞台に立つ女性の前に一匹の黒狐が現れた。
 尻尾が五本もあるその狐は、ぐるりとナナシたち観客に体を向ける。
 こんっと咳払いをして、彼は重々しい口調で語りを始めた。
「ようこそ。ようこそ。お集まりのお客様方。こんこん。今宵は、伏見さまの夜市場によくぞお出でくださいました。
ひとのキンダイカが始まって早数十年。愚かにもにんげんたちはカミを忘れ、外から来たセイヨウ文化なるものを信奉し始めた。我ら狐が喋ることも、ひとを化かすことも、狐火すらも迷信だとのたまわる始末。
忘れ去られたカミたちは怒り、お隠れになったり、ひとを祟る始末である。
そのためこの数年、この日出る国は未曾有の旱魃に襲われることとなった。伏見様に仕える我ら狐一同も、前にも増してにんげんどもを化かしまくった。
この祟が功を奏したのか、全国の神社で今や雨乞いの祈願は絶えることがない。ひとが救いを求めてカミたちに奉納する品も、うなぎ上りに増えている。
そして嬉しいことに、お隠れになっていたカミたちが常世の国から還ってくるというではないか。
そして、伏見さまも一目連さまも、反省したにんげんたちに豊穣を約束してくださるとう。
キンダイカが進もうとも、ひとはひとでしかない。カミは祟るのである。カミは与えるのである。そして、ひとはカミになるのである。
さぁ、ここににんげんたちへの豊穣を約束しよう。常世からお戻りになられるカミを祝福しよう。
さぁ、伏見さまの舞が始まるぞ!!」
 黒狐の叫びに応じ、舞台にいる狐が吠える。
「受け取れっ! 伏見」
 その鳴き声に応じて、一目連が大鎌を宙に振り上げた。
 ナナシは鎌を眼で追っていた。鎌は弧を描いて、舞台へと飛んでいく。
 舞台に立つ女は、飛んでいた大鎌を手に収めた。
 女が鎌を大きく振る。すると女が、一瞬にして五人に増えた。
 ぎょっと眼を見開くナナシの前で、鎌を手にした女たちはくるくると回り始める。
 
 ごうぅ。ごうぅ。

 渦を巻く狐火が、そんな女たちを照らす。

 こんこん。こん。こぅ、こぅ、こぅ。
             
 こんこん。こん。こぅ、こぅ、こぅ。

 いつのまにやら、舞台の周りを二足で立つ狐たちが巡っていた。彼らは尻尾に狐火を灯している。よく見ると、狐たちは両前足に何かを持っていた。
 どうもそれは、五穀らしかった。
 米、麦、粟、稗、豆の五穀は、生活に必要な食料とされている。
 それら五穀の束を狐たちは持っているのだ。その束を、狐たちは掛け声とともに左右に振っていた。
 
 ごぅう。ごぅう。ごぅう。

 狐火が唸る。

 ひゅん。ひゅん。ひゅん。

 女たちが鎌を振るう。

 こう。こう。こう。

 狐たちの掛け声が、舞台を彩っていく。

「今行くぞぉ! 伏見ぃ!」
 一目連の大声が上がり、ナナシは彼を見つめていた。大声に驚いたのか、観客たちが一目連から凄い勢いで離れていく。
 一目連の周囲から人だかりが消える。彼の周囲に無数の水柱が出現し、彼を飲み込んでいく。
 一目連が危ない。
 ナナシは、とっさに一目連に駆け寄ろうとしていた。そんなナナシの肩をぎゅっと掴むものがいる。驚いて振り返ると、にぃっと一つ目に笑みを浮かべた百目がいた。
「大丈夫だよぉ……」
 にぃたにぃたと笑いながら、百目は空を仰ぐ。ナナシも百目に習って、空を見上げていた。
 天高く聳える水柱は、唸り声をあげて一つになっていく。その水柱が二つに割れ、中から巨大な龍が姿を現したのだ。
 月光が龍の鱗を照らし、傷ついた龍の一つ目を輝かせる。龍は蛇行を繰り返しながら、水飛沫の舞う空へと上っていくのだ。
「一目連さま……」
 呆然と、ナナシは空を飛ぶ龍を見つめることしかできない。
「エロジジィの本業はぁ、暴風雨を起こす事なんだよぉ。鍛冶職人はぁ、副業みたいなもぉん。ほぉら。来るぞぉ! 来るぞぉ!」
 そんなナナシに、百目は得意げに空を指差してみせる。
 巨大な狐の形をした炎が空を疾駆していた。
 舞台で舞う女たちが鎌を振るたびに、狐火が巻き上げられ、炎の狐に取り込まれていく。
 炎の狐は上昇する龍を追う。龍に追いつくと、その周囲をぐるぐると巡る。
 狐と龍のあいだでは白い蒸気が絶えず生まれる。蒸気は雲となって空へと広がっていく。
 やがて雲は月すらも覆い隠し、あたりを暗闇に染めてしまった。
 ただ、上空で巡る炎の狐と、その狐に照らされる龍の鱗が地上に光を投げかけているだけだ。

 うぉーん。うぉーん。

 こぉーん。こぉーん。

 炎の狐が唸る。地上の狐たちが鳴く。

 ぐぉぉぉおおお。
 
 龍が雷鳴の如く唸る。
 龍の唸りに空がにわかに蠢いた。空を覆う雲は雷鳴を小さく轟かせる。
 そのとき、ぽつりとナナシの額に落ちるものがあった。肌を滑るそれが雨粒だと分かり、ナナシはじぃっと空を凝視する。
「おぅ! 来るぞ! 来るぞ!」
 百目が弾んだ声をあげる。それと同時に、大量の雨音が地上に降り注いできた。

 どぉう。どぉう。どおおぅう。

「雨……」
 滝のように激しく降る雨を、ナナシは呆然と見つめる。
「うぉお! うぉぉ! うぉぉぉお!」
 そんなナナシの周囲で、百目は絶えず弾んだ声をだす。
 百目を見る。
 彼女は周囲にいる観客とともに両手を広げ、雨の中で踊っていた。

 やれ、めでたい。やれ、めでたい。
 豊穣の雨が降りしきる。
 やれ、めでたい。やれ、めでたい。
 カミが海から還ってくる。

 弾んだ歌が、踊る観客たちの中から聞こえてくる。
 いつのまにかナナシを中心に、妖たちは輪を作って踊っていた。妖たちの視線は、舞台の向こう側にある海に注がれている。
 豪雨に荒れ狂う海の遠方に、微かに光るものがあった。灰色の海を照らしながら、それは荒波に揉まれこちらへと近づいてくる。
 それが炎を灯した無数の船だと分かったとき、ナナシは眼を見開いていた。
「歌えぇ! ガキぃ! 歌えぇ! 踊れぇ!」
 踊りの輪の中から、百目の声がする。
 ひょこ、ひょこと百目は輪の中から顔を覗かせ、ナナシに笑いかけてきた。ナナシは百目に笑い返し、両手を天高く広げて見せる。
 温かい雨を体いっぱいに浴びながら、ナナシは回ってみせた。

 こんこんこん。
 こんこんこん。

 狐が私を呼んだよ。

 こんこんこん。
 こんこんこん。

 百目女が目をくれた。


 ナナシの歌に、踊りの輪から歓声があがる。それに呼応するように、荒波がひときは高く轟音をたてる。雷鳴が鳴り響く。

「おぉー! やはり、あのときの稚児ではないかぁ!」

 雷鳴とともに、大きな声が空から降ってくる。驚いてナナシが顔をあげると、一つ目の龍がナナシめがけて落ちてくるところだった。
 

 ナナシと一目連


 わっと、踊りの輪がかき乱される。妖たちは龍を恐れて、我先にと逃げ出していった。
 ナナシは、ただ龍を見つめることしかできなかった。逃げ出そうとしても、体が動かないのだ。
 そのあいだにも、龍はぐんぐんとナナシめがけて落ちてくる。体に衝撃が走り、視界がぐらつく。
 逃げ惑う妖たちが小さくなっていく。ナナシは龍にくわえられていることに気がつき、わっと悲鳴をあげていた。
 
――案ずるな! 案ずるな! 取って食いわせん! 取って食いわせん!
 
 頭に、一目連の声が響き渡る。龍の一つ目がぎょろりとナナシを捉え、ナナシは叫ぶのをやめた。
 
――お前はあのときの稚児であろう。儂のために、百目に眼をくれてやった稚児であろう。

 匂いでわかる。儂の愛らしい菫色の眼と同じ匂いがする。
 頭に響く一目連の声に、ナナシは言葉を失っていた。
 一目連が何を言っているのかよくわからない。まるで一目連の顔についた菫色の眼が、ナナシのものだと言っているようだ。

 ――覚えてないものも、無理はない。お前はまだ、生まれてさえいなかった。生まれていなくとも、眼の病に苦しむ母を何とかしてやりたいと思い悩む優しい子だった。
 だから、生まれる前にお前は我らカミに願ったのだ。母を救ってくれと願ったのだ。その願いを、百目がお前の眼と引き換えに叶えようとした。だが、母の病は重かった。だから、百目は儂に助けを求めたのだ。儂は百目に力を貸し、お前の母の病は癒えた。
 百目は礼として、儂にお前の眼を寄越した――

 一目連の話に、ナナシは唖然とすることしかできない。

 ――百目は珍しいことだと、お前のことを儂に話してしてくれたよ。生まれる前の稚児が、カミに願うなんてことは滅多にないからなぁ。お前に会いにも行ったが、生憎と腹の中におって、声しかかけられなかったのが残念だった。
 お前に何かあったら、助けてやってくれとも百目は私に言っていた。だから儂がお前を育てよう。ともに行こう、稚児よ――

「どこへ私を連れて行くの……」

 震える声で、ナナシは一目連に問う。ぎょろと傷ついた一つ目をナナシに向け、一目連は続ける。
 
 ――不満か? 儂とともに来るのが、不満か? 何も不自由はさせぬ。着るものにも困らぬ。儂の使いがお前を可愛がってくれる。とても幸せになれるのだぞ? それでも、不満か?――
 
 頭に響く一目連の声は、どこか寂しげだ。その声を聞いて、ナナシの心はゆれた。
 一目連を初めて見たとき、ナナシは彼に懐かしさを感じていた。
一目連にあった記憶はナナシにはない。ただ、ナナシは心の深い場所で一目連を覚えていたに違いないのだ。
 一目連のことを語りながら、笑っていた百目を思い出す。
 一目連のことを語る百目は、とても幸せそうだった。
 きっと、彼はいい人だ。
 だからナナシは彼のことを覚えていたし、彼を見て懐かしさを覚えた。
 でも――
「お母さんには、もう会えないの?」
 溢れる涙に、声が震えてしまう。
 どうしてだか、ナナシの脳裏に過ぎったのは母のことだった。

 ――穀潰し。穀潰し。

 そう罵って、ナナシを捨てた女だ。ナナシは母親に優しくされた記憶すらない。
 でも、生まれる前はどうだったのだろう。
 もし、眼さえあれば、お母さんは私を愛してくれたんじゃないかしら。
「お二人さぁん。 お取り込み中、ごめぇん」
 ナナシの思いは、呑気な声によって遮られる。涙に濡れていた眼を剥いて、ナナシは声のした方へと顔を向けていた。
「よぉ!」
 呑気な声は、ナナシに向かって挨拶をしてくる。一目連の頭の上に、ひょっこりと百目が乗っていた。

 祭の終わり

 こんこんこん。
 こんこんこん。

 舞台を巡る狐が鳴く。
 稲の穂を想わせる尻尾を狐たちが振る。そのたびに、水田に植えられた稲がぐんぐん伸びていく。
 その様子を、ナナシは妖たちと踊りながら見つめていた。
 一目連が起こした騒動も収まり、奉納の舞は終盤へと近づこうとしている。そのときの様子を思い出して、ナナシはくすっと笑っていた。
 空を仰ぐ。
 もう、雨は降っていない。代わりに、美しい一つ目の龍が夜空を優美に舞っていた。龍は月光に照らされ、蒼い光を地上に投げかけてくれる。
「どぉした? 何おかしいんだぁ?」
 笑うナナシに百目が小さく声をかけてくる。
「何でもないです」
 人差し指を唇に当て、ナナシは百目に笑いかけてみせた。
 ――少しはガキの気持ちぃも考えろぉ! エロじぃじぃ!
 そう叫んで、一目連の頭をぽかぽか殴りつけた百目の姿を思い出す。百目の攻撃に狼狽えた一目連は慌てて地上に降りた。
 そこで彼を待っていたのは、五柱の伏見様たちの説教と、狐たちが放ったお仕置きの狐火と、妖たちの冷ややかな視線であった。
 しゅんと小さくなって、伏見さまたちの説教を聴いていた一目連の姿を思い出す。立派な龍が小さくなっている様子は、何とも滑稽だった。
「帰りたいかぁ……。母ちゃんところ……」
 百目に声をかけられ、ナナシは引き戻される。
「帰りたいよなぁ……。眼の代わりに、私に母ちゃんの眼治してくれって頼んだぐらいだからなぁ」
「百目さん、その……」
 ナナシの顔をじぃっと覗き込み、百目は言葉を重ねた。悲しげに一つ目を曇らせる百目から、ナナシは顔を逸らす。
「どぉしたぁ? 私が生まれる前に会ってたこと黙ってたぁの、そんなに不満かぁ?」
 ぐるりと百目が一つ目を動かして、尋ねてくる。
「だって――」
「分かんなかったんだよぉ。しゃあないじゃぁん……。私はぁ、一目連さまみたくぅ、鼻よくないんだぁ。ましてや生まれる前のにんげんなんてぇ、区別つかないよぉ」
「怒ってなんか、ないです」
「じゃぁ、どうしてぇ、顔逸らすんだよぉ!」
「もうすぐ、お別れしなくちゃだから……」
「えぇ?」
「私、ちゃんと、お母さんと向き合いたいんです……。でも、それって、――」
「だよなぁ、寂しぃ!」
 とつぜん、百目がナナシに抱きついてきた。ぶわぁっと一つ目から涙を流し、百目はナナシを抱き寄せる。
「もうちょぃ、一緒にいてもいいよなぁ……。でもぉ、出来ないんだよなぁ……。寂しいなぁ……」
 百目は、すりすりと頬ずりをしてくる。それが妙にくすぐったくて、ナナシは笑っていた。
「百目さん、ずるいよ……」
 不意に悲しさを覚えて、ナナシは呟いていた。だって、会えなくなって寂しくなるのは、百目だけではないのだ。
 私だって百目さんと離れたくない。
 でも、それは現し世に生きる私には叶わない夢なんだ。
「あぁ、でもぉ。よおぉく考えたら、ずっと一緒だぁ……。悲しんでぇ、損した」
「えっ?」
 あっけらかんとした百目の言葉に、ナナシは彼女を見つめていた。百目はにっと一つ目に笑みを浮かべる。
「だって、姿が見えなくなるだけでぇ、私はどこにでもいるんだぁ。だからぁ、いつでも会えるんだぁ。心で繋がってればぁ、カミさまとはいつでも会えるんだよぉ。ほらぁ、いつもあのお方には、会ってるだろぉ」
 ぽんっとナナシの肩を抱いて、百目は空を指差していた。
 夜闇に覆われていた空が、白み始めている。空のかすかな明かりは、海に浮かぶ無数の船を優しく照らし出していた。
 空が明るくなるたびに、船から矢のように飛んでくるものがある。
 それは、無数の火の玉だった。地上に降り注ぐ火の玉は、成長していく稲へと吸い込まれていく。
「ほぉら、あのお方の導きを受けて、常世から還ってきた豊穣のカミさまたちが稲に宿り始めてらぁ。今年はぁ、ちゃんと豊作になるぞぉ!」
 百目が声を弾ませる。
 それと同時に、光が世界に満ちた。
 海の水平線にすっと光の線が現れ、それは大きな円へと成長していく。紺青だった空は紫に転じ、薄紫色になり、にわかに白を帯びて、桜色へと変わっていく。
 その空の絵巻物を背景に、光を帯びた一柱のカミが、海に立っていた。
 白い光で、女体を形作りながら、高天ヶ原の主は地上を眩しく照らしていく。
「眩しい……」
 眼を細め、ナナシはじっとその女神を見つめていた。
 青く澄み渡った空を背に、女神は光り輝く。その輝きに包まれ、雨露に濡れた立派な稲穂が大地を覆い尽くしている。

 うぉおーん。
 うぉおーん。
 うぉおーん。

 狐たちの遠吠えが聞こえる。女神は輝きを増し、光の中に黄金色の田園風景が飲み込まれていく。
「おぅ、思いついたぁ! お伊勢さまからのぉ! 贈り物だぁ。たぶんっ!」
 とつぜん、百目が大声をあげた。ナナシはびっくりして、彼女を見つめる。海上で輝く女神を見つめながら、百目は続けた。
「お前の名前ぇ、思いついたぁ! いつまでぉ、ガキのままじゃぁ、不便だからなぁ。それにぃ、一目連さまがぁ、贈り物をくれるってよぉ!」
 ぱぁっと一つ目を輝かせ、百目はナナシを見つめる。百目の一つ目は、どことなく悲しげに見えた。
「一目連さまがぁ、お前に優しさを返すってさぁ。お前はぁ、優しくするんじゃなくてぇ、優しくされるべきだってさぁ」
「優しさ……」
 ナナシの頭を撫でながら、百目は空を仰いだ。青く輝く空の向こうへと、龍が飛んでいく。
 白く輝く女神に溶け込み、その姿はやがて見えなくなった。

 終章 菫色の眼

 気がつくと、黄金色の田園の中にナナシは立っていた。あたりを見回しても誰もいない。ただ、菫色の夜空に輝く月だけがナナシを優しく照らすばかりだ。
「あれ……百目さん……? 百目さんっ!」
 百目がいないことに不安を覚え、ナナシは叫んでいた。
「百目さん!」
 叫んでも応えてくれる声はない。ただ、涼やかな秋風がナナシの頬を撫でて、通り過ぎていくばかりだ。
 どうしようもなくなって、ナナシは田んぼを見つめる。稲穂は、狐の尻尾のように風にゆれていた。
「どこにも……いないの?」
 ゆれる稲穂を見て、ナナシの眼が熱を帯びる。じぃんと沸き上がってくる涙をこらえて、ナナシはもう一度叫んでいた。
「百目さーんっ」
「どうしたの? こんな夜更けに家を抜け出したりしてっ!」
 そんなナナシを叱る人がいた。びっくりして、ナナシは後方を見つめる。
 一人の女性が、菫色の眼を怒らせナナシを睨みつけていた。彼女の長い黒髪を、秋風がさらさらと弄ぶ。
 自分にどこか似た面差しの女性を見て、ナナシは声を発していた。
「お母さん……? お母さん、なの?」
「当たり前でしょう。何を言ってるの、菫?」
「菫?」
 女性の言葉に、ナナシは小首を傾げてみせる。女性ははぁっと溜息をついて、ナナシに近づいた。膝を曲げて、彼女はナナシの顔を覗き込んでみせる。
「あなたの眼が素敵な菫色だって、大切な人がつけてくれた名前でしょう。どうして忘れちゃうの?」
「大切な……人?」
「そ、百目様があなたにつけてくれた名前」
「百目さんが……」
 ――お前の名前ぇ、思いついたぁ!
 別れ際に聞いた、百目の言葉を思い出す。じぃんと目頭が熱くなるのを感じながら、ナナシは女性を見つめていた。
 ふっと女性は微笑み、自分の腹部に手を充ててみせる。
「でも、あなたの眼の色は菫色じゃないの。それは私の病気を治すために、百目様にあげちゃったから。でも、お腹の中にいるあなたに、百目様は新しい眼をくれたのよ。だからあなたをうんと大切にしなくちゃいけないって、夢で百目様は教えてくれたの……。
神様って言うよりかは、ひょうきんなお姉さんって感じの、一つ目の美人だったけどね。ほら、まだ菫には教えてなかったね。神社の本堂の裏に、百目様を祀った小さな祠があるのよ。百目様は眼の神様でね。大切なものと引き換えに、眼の病を治してくれる神様なのよ」
 ナナシの母親は、暗がりに浮かび上がる山の頂を指差してみた。あそこにあるのは、母親がナナシを捨てていった神社だ。
 とっさに、ナナシは山の頂きに視線を巡らせていた。
 
 ぼぉん。

 爆音があたりに響いて、周囲がとつぜん明るくなる。ナナシの眼の前で、闇に沈んでいた田んぼが無数の狐火で満たされた。

 こんこん。
 こんこん。

 遠方から、狐の鳴き声が聞こえてくる。
 その声を合図に、狐火は神社のある山をゆっくりと登っていく。
「まぁ、狐の嫁入りじゃない……」
 母親が感嘆と言葉を漏らす。そっとナナシは首を振り、母親に言葉を返していた。
「違うよ。狐たちは、百目さんに、会いにいくんだ」
「百目様に?」
「そう、夜の市場で売る眼を貰いに行くの」
 涙をこらえて、ナナシは母親に笑ってみせた。


   名無し少女と、百目女   完

名無し少女と百目女

2018年9月22日 発行 初版

著  者:ナマケモノ
発  行:けもの書房

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ナマケモノ

摩訶不思議な物語を生産する『けもの書房』へようこそ。 管理人のナマケモノが神話に関する本から、個性的なSF、ファンタジーの世界に至るまであらゆる異世界をあなたにお届けします。

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