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ある寒い冬の日、雪のひとひらは空の上で生まれます。彼女はやがて地上に舞い降りて町に積もる雪となり、やがて春が来て水になって川を流れていきます。
雪であったころは橇に踏まれたり、雪だるまにされたり。川に流れてからは水車に巻かれたり、下水道に流されたり。
そんなさまざまな経験を経ながら、雪のひとひらは海へと流れてゆくのです。
この物語はひとひらの雪を女性になぞらえています。
だからこの物語の中の出来事、先に述べた橇に踏まれることや雪だるまにされることや水車に巻かれることや下水道に流されること、というのは人間の体験できることではないのですが、それにもかかわらず、この物語を読んだ人はまるで「自分にもそういうことがあったような気がする」という気持ちになることでしょう。
最初この物語を読んだとき、僕はこの物語は雪を擬人化したものだと思っていました。
でも、もしかしたらそうではないのかもしれません。
僕たち人間が生物ではない雪ですら擬人化することができるというよりも、むしろ僕たち人間が生きるということが、実はあまりに自然に似ているのかもしれない。
老子に「上善は水の若(ごと)し」という有名な言葉があります。
水は万物の生長をりっぱに助けて、しかも競い争うことがなく、多くの人がさげすむ低い場所にとどまっている。そういう生き方が美しいのだ、と。
水というのは、自分の意志があって流れるものではありません。それはただそういうものとして流れているものです。
人が生きることもまた同じように、石にぶつかったり、急流に飲み込まれたりしながらも、それでも流れ続けていくのでしょう。そこに意味があろうとなかろうと。
雪のひとひらは何度も心の中で思います。「私はなんのために生まれてきたのだろう」と。
その答えは結局示されません。僕たちが生きていく中でそんな答えに巡り合うことがないように。
自分が生まれてきたことに意味なんてないのだとすれば、ならば生きるということは空しいことなのでしょうか。
でも彼女は思うのです。自分は「終始役立つものであり、その目的を果たすために必要とされるところに、終始居合わせていた」と。
結局のところ、その時その時でやるべきことを、役立つであろうことをやり続けることが生きるということ。そしてそのようなことを続けてきた者のみが、その自分のなしてきたことを振り返って、そこに意味を感じることができるのかもしれません。
雪が美しいのは雲の中でつくられている時ではなく、空から降っている時であり、どこかに積もっている時です。
人の美しさ、人が生きる意味というのもまた同じ。そんなものはあらかじめ用意されているわけはないし、特別な存在として生まれてくる人なんていないでしょう。ただその生きてきた道のりが、その流れが特別なのです。
「自分なんて所詮…」そんなことをつい考えてしまうけれど、でも、僕も君も、空から舞い降りて流れてゆく雪のひとひらなのです。
「雪のひとひらはうれしくてうれしくて、ぼうっとする思いでした。自分ではしんじつ誰よりおびえあがっていたつもりなのに、それをよくやるなと思っていてくれるひとがあったのです。」
これは一風変わったカモメの物語です。
ふつう、カモメは食べるために空を飛びます。ところがジョナサンは違います。彼にとっては飛ぶことの方が食べることよりも重要なのです。
そんなジョナサンは、空気を読まない変人、もとい変カモメですから、やがて群れから追い出されることになり、一人で飛ぶことを究めようとします。
そこに同じような仲間が現れ、師と呼べる存在と出会います。
師に導かれて飛ぶことを究めたジョナサンは、しかし師に言われます。
「君はもっと人を愛することを学ばなければいけない」と。
そしてジョナサンは群れに戻ります。群れに戻り、群れの中で自分と同じように食べることよりも飛ぶことを重要だと思っているカモメたちを教えるのです。
この物語はまるで宗教のようだ、と感じるかもしれません。たとえば聖書のキリストの話にもよく似ています。
でも、ジョナサンは神さまになりたかったわけではありません。
ただ「自由」でありたかっただけなのです。
では、「自由」とはなんでしょうか。
「自由」とは、どこかの方角に向かって立つようなものです。
西に向かって立てば太陽は背後から昇るし、東に向かって立てば太陽は目の前から昇ります。そこにどちらが正しい、ということはありません。
西を向けば暗くなるし、東を向けば眩しくなります。それでも目は一方向にしかついてないので、暗さか眩しさか、どちらかを我慢するしかないのです。
この物語の中で、なぜジョナサンは群れに帰って行ったのでしょうか。それは彼の教えを広めるため、飛ぶことよりも食べることの方が大切だと思っているカモメたちを改心させるためではありません。
自分が正しいのだから、自分が神さまになってみんなを導こうというのではないのです。
そうではなく、飛ぶことの方が大事なカモメたちと、食べることの方が大事なカモメたちが、それぞれ自分たちだけの群れをつくってお互いを否定し合うことよりも、どちらも同じ群れの中にいる、ということが大切だからなのです。
自由であるということは、自分が正しい、と主張することではありません。自分が間違っているかもしれない、ということを受け入れることです。そして百パーセントうまくいくことなんて何もない、ということを知ることなのです。
かつてあるカルト教団が地下鉄で毒ガスをばらまくという事件がありました。
その事件を起こした信者の一人が出家する時、「僕の心はここにある」と言ってこの本を家族に渡した、というニュースを聞いて、僕は本当に嫌な気持ちになったのです。この物語を読んで、どうして宗教を信じようなんて思うのか、と。
「自由である」ということはむしろ、「何も信じない」という態度です。神はもちろんのこと、自分のことすらも。
だからこそ、自分と違う考え方であってもまず認める、ということが「自由」の絶対条件なのです。
自分だけが「自由」でほかの人たちがそうじゃないとしたら、それはただのわがままでしかないのですから。
そしてまた、「自由」とは「自分のやりたいことをやる」ことではありません。
もしも西を向くなら暗さを、東を向くならば眩しさを受け入れる、そういう責任ある態度のことです。
ジョナサンは「食べることのために飛ぶのではなく、ただ飛ぶことが好きだから飛ぶんだ」と思いました。
だからジョナサンは飢えに苦しむことになりました。「自由」とは、それを受け入れる覚悟のことなのです。
「自由」って本当に必要なものでしょうか?
「自由な方がいい」なんて、本当にそう思いますか?
でも「自由」であることは、本当はとてもつらいし、苦しいことです。
誰かの言いなりになって、誰かの言葉を信じていた方が、ずっとずっと楽なのです。
何か困ったことがあったって、それを全部誰かのせいにできるのですから。
だけど、そんなことはしたくない、たとえリスクを背負ってでも「自由」でありたい、そう願う人のためにこの物語はあるのです。
たとえこの物語の導く先が光輝く未来なんかじゃなく、誰よりも苦しまなければならない、いばらの道だったとしても。
舞台は古代のイングランド南部、ルブリンは族長の息子として生まれます。
彼は幼いことから絵を描くことに強い興味を持っていました。しかし当時、立派な男とは戦士のことであり、ルブリンも当然、絵を描くことよりも強い戦士になるために日々を過ごします。
そんな中、ルブリンは無二の友人となるダラと出会います。ルブリンとダラはいつか二人で北の国へ向かう夢を見るのです。
ダラはルブリンの妹の婿に選ばれ、次期族長として一族を率いる立場になります。そのためダラは二人の夢をルブリンに託すことになるのです。
ところが、そこへアトレバテース族が攻めてきます。アトレバテース族を率いていたのは、ルブリンがかつて一度出会ったことのある若者クラドックでした。
ルブリンは自分も戦いに参加することを望みますが、父から城に残って女子供を守ることを命令されます。
ルブリンの一族は戦いに敗れ、アトレバテース族に支配されることになります。そこでクラドックはルブリンを自分の命令を伝達する役目をルブリンに言い渡すのです。
ある日、ルブリンの絵の才能を知ったクラドックは、ルブリンに命令します。白亜の丘の斜面にアトレバテース族の栄光をたたえる白馬を描くように、と。
ルブリンはその交換条件として、絵が完成したら自分たちの一族を自由にすることをクラドックと約束するのです。
丘の斜面に巨大な馬の絵を描く、ということはどういうことでしょうか。それがただの絵ではなく、魂が込められているような、「芸術作品」のような絵を描く、ということは。
絵を描くということ、それは世界を認識し、自分の手でつかみ取るということです。
それは絵に限ったことではないかもしれません。写真であれ、音楽であれ、物語であれ、つくられたものが受け取るものの心を動かすのは、それが世界の本質を表現しているからです。
現代であればそれは「芸術」と呼ばれるでしょう。でも、そんな概念がそもそも存在しなかった時代であれば、どうでしょうか。
世界が「神」(あるいはその言葉は正しくないかもしれません。それはある意味では「悪魔」かもしれない。なんであれ、とにかく人間ではないもの、人間の力を超えたもの)によってつくられたと信じられていた時代、今で言う「芸術作品」のようなものは、おそらくただ賛美の対象であっただけでなく、畏怖の対象でもあったはずです。
この物語は宮崎駿の映画「もののけ姫」の冒頭に似ています。
「もののけ姫」では、主人公のアシタカは村を襲ったタタリ神を殺しますが、その際にタタリ神から死の呪いを受けます。アシタカはその呪いを解くために村を出て旅立つのです。
この冒頭の場面はあたかもアシタカが自分の運命を見定めるために旅に出るというように表現されていますが、実際にはアシタカは村から追い出されているのです。だから、しきたりによって誰も見送ってはいけないのです。
ではなぜアシタカは村から出ていかなければならなかったのでしょうか。それは、アシタカが神を殺したからです。神を殺す、ということは、本来人間にできることではありません。人間にできないことをなした者というのは、人間ではないもの、神か、あるいはそれ以外の何かか、とにかく人間とは別の世界のものなのです。だからアシタカは人間の住む村にいることができなくなったのです。
僕は民俗学や神話学についての詳しいことは知りませんが、おそらくこういう物語の流れというのは、あらゆる神話の定型としてあるのではないでしょうか。
「ケルトの白馬」では、「もののけ姫」とは逆の形をとっています。主人公のルブリンは追い出されるのではなく、取り残されるのです。
ルブリンの指導の下、一族の生き残りたちが作業をしている時、こういう描写があります。
「それが馬の形だなどとは、作った当人たちにはわからない」と。
ルブリンの一族が馬の絵を完成させるために作業をすることは、僕たちが生きているということと実は同じことなのです。
例えば、僕たちは誰も自分がなぜ、なんのためにこの世に存在しているのか、知りません。それでももしそれに近いものを知ることができるとすれば、それは自分の過去を振り返った時でしょう。
自分の過去を振り返った時、当時は気づかなかったけれど、自分の身に起こったさまざまなことの一つ一つに実は意味があったのだ、ということに気づく人は多いと思います。
「もっとも彼らはどんな形を作っているか知るには、近くにいすぎた。近すぎて、草の上に散らばった枝以上のものは見えなかったのだ。彼らが馬を目にするのは、北に向かって砦を出発し、谷の向こうから振り返る、その瞬間だろう。それまで、彼らが馬の形を知ることはない。」
では、もしも、君の目の前に、これから君がするべきこと、君の人生、あるいはこの世界のために君がしなければならないことを教えてくれる存在があらわれたとしたら、君はどうするでしょうか。
もしもそれが真実であると実感できたならば、きっと僕はその人のことを神だと思うでしょう。あるいは悪魔だと。なんにせよ、素晴らしい存在であると同時に恐ろしい存在と感じるでしょう。
それが、ルブリンが成し遂げたことなのでした。ルブリンがこの世界の本質を自分の手でつかみ取ったということなのでした。
そして僕はきっとそのような所業を成し遂げる人を目の前にした時、この人と一緒にはいられない、と思うでしょう。賞賛よりもむしろ恐れの方をより強く抱くことでしょう。
それゆえにルブリンは絵が完成し、一族が自由の身になって北の国へ旅立つとき、しきたりによって誰も触れてはならない者になったのです。ルブリンはもはや人ではなくなったのだから。「もののけ姫」におけるアシタカのように。
しかしその別れの時、ダラはルブリンを抱きしめ、言うのでした。「魂の友よ」と。
それはしきたりであるとか、人であるとか、もはやそういうことを問題としない、単なる存在と存在の結びつきとしての本当の「魂の友」の言葉だったのでしょう。
そしてクラドックはどうでしょうか。クラドックの側からすれば、ルブリンを殺すということは、彼の描いた絵を認めることになるのです。それが人知を超えたものであるということを。
だからこそ、クラドックはルブリンという存在を認めているがゆえに、彼を殺さなければならないのです。ルブリンに対する、魂の友情の証として。
ルブリンが丘に描いた馬の絵は、大地からは見えないものでした。鳥のように、空高くから俯瞰して初めてわかるものだったのです。
ルブリンは死の直前、北の国にたどり着く一族の者たちの喜びの声を聞きます。それは彼が最後につかみ取った世界の本質なのでした。時間や空間といったものから自由になることで知ることができる、神の視点だったのです。
菜穂は中高一貫の女子校に通う十二歳の女の子。入学して二日目の日、前の席に座っていた子が振り向いて、彼女に問いかけたのでした。
「ねえ、自分がもう子どもじゃないって思ったときって、いつだった?」
急な問いかけに、菜穂はびっくりして言います。
「子どもじゃないって、あたしたち、まだ子どもじゃん」
すると女の子は嬉しそうに笑って
「じゃあ、きっとまだあなたは子どもなのね」
と言うのでした。
やなやつ! 菜穂はそう思いましたが、気がつけば菜穂とその女の子、亜矢はクラス一の仲良しになっていました。
亜矢は菜穂から見ても自分の意志をはっきり持っている女の子。読書が好きで、二人はいつも甘いキャンディの匂いを漂わせながら、図書館に入り浸っていました。
学校から帰ると、ママがいつも菜穂のためにお菓子を作って待っています。そしてママと二人でお手製のお菓子を食べるのが、菜穂の毎日なのでした。
菜穂の誕生日は七月十三日。亜矢は菜穂に一冊の本をプレゼントします。レイ・ブラッドベリの「十月はたそがれの国」。その中の一篇「みずうみ」が一番好きだ、と亜矢は言います。それは永遠に特別な十二歳をすごす男の子の物語。
誕生日の前日、ママは菜穂に言います。
「知ってる? あしたからあなたはティーンエイジャーで、ほんものの女の子なのよ」
十一はイレヴン、十二はトュエルヴ、十三はサーティーン、十四はフォーティーン……。「ティーン」になる十三歳からは、もう子どもじゃない。十二歳最後の日は、子ども時代最後の日なのだと。
そして十三歳の誕生日、ママは菜穂にある決意を話すのでした。
…と言ってもそれは、大人の立場からすると「いいじゃない、それぐらい」と言いたくなるような、そんなことなのだけれど。
夏休み、菜穂は初めて亜矢の家に遊びに行きます。そしてその日、亜矢はそれまで話したことのなかった自分の過去を話すのでした。
両親が離婚したこと。小学六年生のある日、急にいじめにあったこと。そこからどうやって立ち直ったのか、ということ。
そして亜矢は菜穂に言うのでした。
「変わるのは、菜穂の方だよ」
大人になるっていうことは、どういうことなのでしょう。大人の階段はきっといろいろある。例えば責任を持つこととか、我慢することとか。
この物語で描かれているテーマもまた、そのうちの一つなのでしょう。
お菓子のレシピが一つずつ増えてゆくように、人生というものは様々なことが起こって、そのたびに僕たちは少しずつ何かができるようになったり、何かを忘れてしまったりしていきますよね。
そして、そう、「大人だっていつまでも子どもの自分を持っているんだ」って気づくこともまた、大人の階段の一つかもしれません。
物語の最後、菜穂はママに手紙を書きます。それは、こんな手紙。
「このごろ、なにかを乗り越えるのがたのしくなってきました。たとえば、ママのいないこの毎日、期末テスト、寒い冬。それを過ごしたあとになにが見えるのか、どんなじぶんに出会うのかと、想像するだけで、わくわくします」
これは子ども時代の最後から大人への階段を上り始めるその瞬間の、あの瞬間に誰もが過ごす濃密な時間の物語です。今思うととても些細なことかもしれないけれど、あの時は本当に傷ついたこと、喜んだこと、苦しかったこと、楽しかったこと、悩んだこと……。
大人になったら「なんであれぐらいのことで」というようなことでも、そんなことで感情を動かせるのは子どもだけの特権なのでしょう。
まだ子どもの人はもちろん、もうとっくに大人になってしまった人だって、この物語を読むとその時代にタイムスリップしてしまうかもしれません。
そして菜穂の心に突き刺さったこの言葉は、きっとそんなもう大人の人の心にも問いかけてくるでしょう。
「ねえ、自分がもう子どもじゃないって思ったときって、いつだった?」
「何せうぞ くすんで
一期は夢よ ただ狂へ」
時は戦国、奈良の春日大社の勧進興行。
それは新進気鋭の一座、出雲阿国の舞台でした。
その舞台を見ていた三人の少年少女。彼らはその公演にすっかり魅せられてしまったのです。
一人は掏摸や置き引きを生業としていた藤次郎。彼はたまたま盗んだ三味線に、すっかりはまってしまったのでした。
もう一人の少年は小平太。笛職人の息子の彼は、しかしその舞台を見て、作ることよりも演じることに興味を抱きます。
そしてもう一人の少女はちほ。まだ幼かった彼女は母に背負われながら、呟くのでした。
「うちも、あんなふうに踊りたい」
一方その頃、京の都では、大事件が起ころうとしていました。
「謀反じゃあ! 惟任日向守、謀反ぞ!」
明智光秀の大軍の中をなんとか逃げだした一人の信長の家来。身の丈六尺八寸(187センチ)で体中墨を塗ったような大男、その名は弥介。アフリカから奴隷として宣教師に買われ、この日本に連れてこられて信長の家来となった黒人の侍です。
彼は何とか堺まで逃げ延び、故郷へ帰ることを夢見て働きます。そこで偶然手にしたのが、大きな太鼓。それを叩く日本人にはないビートは不思議な感覚を聴く者にもたらすのでした。
やがて藤次郎、小平太、ちほ、弥介は京都で出会います。
弥介のアフリカン・ビートに加えて、藤次郎と小平太は立ったまま演奏とするという画期的なスタイル、そして中心で踊るちほもまた、当時の踊りの常識からはかけ離れた軽やかな舞い。
「京童どもの鼻っ面にきついのガツーン、かましたるんや。この国の芸の歴史を、俺らで塗り替えたる」
藤次郎のそんなうそぶきとともに、一座は結成されたのでした。
さて、時は廻り、豊臣秀吉の太平の世が訪れます。
諸国への修行の旅を経て京に戻った彼らは五条河原に小屋を建て、そこで演奏をはじめます。京都中で話題を集める中、そんな彼らを苦々しく思う人物が一人。石田三成です。
三成は太平の世の象徴として京の都に秩序を求めます。
徹底した合理主義者の三成からしたら、戦にも出ず、年貢を納めることもない芸人たちなどこの世界に存在しなくてもかまわないのです。
でも、そんな世界はつまらない。「芸」とはむしろ混沌の中からこそ生まれるもの。
そんな時、彼らはある人物と出会います。
その名は豊臣秀次。
「芸」や「美」の世界にも造詣が深い秀次は、三成によって河原を追い出された主人公たち一座を陰で支えます。
豊臣秀次と言えば、秀吉の後継者として関白にまでなった人物。しかし後年秀吉に跡継ぎ拾(後の秀頼)が誕生したことにより、彼の存在はむしろ豊家の安泰を脅かす者とされてしまいます。
豊家の安泰のため、くだらない芸人風情も、秀次の存在も、この世から消してしまわなければならない。その陣頭指揮を執る石田三成。
やがて運命の時が訪れて……。
豊臣秀吉の時代にロックバンドが存在した、なんて言うと、いかにも荒唐無稽な話の様に感じるかもしれません。
まあ実際その通り、そんなことはあるはずがないのだけれども、この物語の面白さはそれをファンタジーとして描くのではなく、あくまでも「歴史小説」として描いていることにあるのです。
この物語は「歴史上の事実」と混合することによって、ただの音楽を題材にした小説とは一味違ったものになっています。
でも不思議なことに、そんな歴史的事実があるからこそ、この物語のテーマである音楽がより鮮明になっているのです。
怒り、反抗、自由への渇望、そんな抑えきれない感情。
ロックという音楽のジャンルがその時代に存在したかどうかなんてことはどうでもいいのです。いつの時代にも、そういう感情を爆発させる何かが存在したに違いないし、それを今僕たちが見ればきっと「ロックだ」と思うのですから。
三条河原の処刑場、藤次郎はにやりと笑って、言います。
「音楽の力っちゅうもんを、見せつけたろうやないか」
その力は、何の具体的な効果も、意味も持たないかもしれない。
だけどその力を、今生きている僕たちは知っています。
きっと、数百年前の人たちも知っていたに違いない。
そして絶対に、数百年後の未来の人たちも知っていることでしょう。
たとえその頃にはもう、「ロック」なんて言葉はもはや死んでしまっていたとしても。
「すぐに、太鼓の音が聞こえはじめた。怒りを押し殺したような重く低い音色が、静寂の中響き渡る。
続けて、小平太が笛を構えた。甲高い音色は、どこか女の泣き叫ぶ音にも似ていた。
藤次郎は三味線を構え、周囲を見回す。誰もが熱に浮かされたような目で、四人に見入っている。ちほの狂気が徐々に群衆にも伝染しているのだと、藤次郎は思った。
よっしゃ、もっと狂わせたる。」
一期の夢のこの世界で、真面目くさって生きて何になる?
ただ狂え、この浮世を。
それは荒唐無稽な話でもファンタジーでもない、いつの時代でも普遍的な、力なきものの生き様、「力」なのだから。
「いざや、傾かん」
これはあるネイティブアメリカンの女の子と男の子の姉弟の物語です。女の子は「朝の少女」と呼ばれていて、男の子は「星の子」と呼ばれていました。
「朝の少女」は早起きが好きだから。「星の子」は夜更かしが好きで、嵐の夜に一人で星空の下にいたから。
彼らの両親も、彼らのことをその名前で呼びます。きっと、僕たちが普通に考える「名前」という文化を持たない人たちなのでしょう。
彼らの名前は、成長とともに変わってゆくようです。「星の子」は元々「腹ぺこ」と呼ばれていました。
もちろん両親から授かった名前だって素晴らしいものだけれど、彼らのように、周りの人からあだ名で呼ばれるのもなんだか素敵です。
なぜなら、ちゃんと彼らのことを知っていなければ、彼らの物語を知っていなければ、その名前で呼ぶことはできないのだから。
たとえば、本が好きな人だったら「文字に恋する人」とか、「時間を旅する人」なんていいかもしれません。誰かからそう呼ばれたら、「ああ、この人は自分のことを分かってくれてる」って、そう思いませんか?
もちろん、共有されるのはいい話ばかりではありません。星の子がかつて「腹ぺこ」と呼ばれていたように。でも、だからこそ、みんな道徳的に振る舞おうとするでしょう。誰だって素敵な名前で呼ばれたいから。
「名前というものは不思議な、かけがえのない贈り物だ。人が自分につける名前、世の中に示す、すぐに忘れられてしまう名前、いつまでもずっと残る名前もある。その人のしたことからきた名前、ほかの人たちから送られて受け取る名前もある。あたしの弟が昔、腹ぺこだったことは、だれも忘れないだろう。けれども今日、みんなはまえとはちがうあの子のことばに耳をかたむける。星の子も、自分が大きくなっていて、もう子どもみたいにはふるまえないことを知るだろう。名前がほんとうに身についたとき、人は名前どおりの人になる。」
姉弟は本当に仲が悪くて、いつも喧嘩ばかりしています。でも、心の奥ではお互いを大切に思い合っていて、星の子が二人だけしかいないときに朝の少女を呼ぶ名前があります。
その名前を見た時、ただ誰かの名前を呼ぶということだけで、「あなたを愛している」とか、「あなたを大切に思っている」とか、「あなたを理解している」と言うことができるのだ、と気づかされるでしょう。
本当は誰だって、特別な名前で人から呼ばれたいもの。もちろん僕もそうです。でもその前に、僕はどれだけの人を特別な名前で呼んであげられるのだろう。
「父さんはいった。どんなものでも、おまえからかくれたり、おまえが通りすぎるのをじっと待っていたりはしない。だからこの世の何に対しても、おまえは礼儀正しくふるまわなくてはならないのだよ。」
ところで、この物語のエピローグは衝撃的であることで有名です。もしかしたらそれが作者のいちばん書きたかったことなのかもしれないけど、僕はどうでもいいと思っています。あれがなかったとしても、この物語の魅力は少しも損なわれることはないと思うから。
最後に僕の一番好きなエピソードをご紹介。
「朝の少女」は自分の姿がとても気になります。自分はどんな顔をしているのだろう、と。水に映して見てみようと思うのですが、いつも弟が邪魔をするのでそれもできません。
ある日朝の少女はお母さんにそのことを尋ねます。するとお母さんは朝の少女に目を瞑るように言うのです。
そうして少女の手を自分の顔に当て、もう片方の手を少女自身の顔に当てます。手でふれて感じてみなさい、と。
少女は答えます。
「あごはヒトデみたいで、まゆげは水平線にかかった雲みたい。鼻は役に立ってる。ほっぺたは笑うと、もりあがって小さな山になる。ひとつだけまともなのは、耳だけね」
「そうよ、その通り」お母さんは少女にささやきます。
「そんな女の子が、わたしの朝の少女」
翌日、今度はお父さんが少女に言います。
「一つ、方法がある。わたしの目の中をのぞいてごらん?」
少女がお父さんの目をのぞくと、そこには二つの瞳に映った二人の少女自身がいるのでした。
「これが、おまえが知りたがっていたことの答えなんだ。この子たちはいつも、いつもここにいるよ。おまえが会いたくなったら、いつでも会いにきたらいい」
主人公はソフィー・アムンゼンという名前の十四歳の女の子。この女の子の元に、ある日どこかから手紙が送られてきます。その手紙にはたった一行、こう書かれていました。
「あなたはだれ?」
ソフィーはびっくりします。「あなたはだれ?」って、私はソフィーに決まってるじゃない!
やがてまた手紙が来ます。その手紙にはこう書かれていたのです。
「世界はどこからきた?」
ソフィーは自分宛に届いたこの謎の手紙に驚きます。一体誰が、どうしてこのような手紙を送ってくるのだろう?
そしてその謎よりももっとソフィーが頭を悩めてしまったもの、それこそがこの二通の手紙に書かれていたことだったのです。
「あなたはだれ?」
「世界はどこからきた?」
それはなんて当たり前の質問でしょう。そしてそんなこと分かりっこないに決まっている、なんてくだらない質問なんでしょうか。
その翌日、ソフィーの元にはまた手紙が来ました。だけど今度の手紙が違ったのは、たった一枚の紙ではなく、タイプでびっしり文字が打たれた大判の紙が三枚入っていたのです。
「すべての人に関心のあることなんてあるだろうか? だれにでも、世界のどこに住んでる人にでも、あらゆる人間に関係あることなんて、あるのだろうか? あるんですよ、親愛なるソフィー。その、すべての人間がかかわらなければならない問題をあつかうのが、この講座です」
そうして、ソフィーはどこかの誰かから送られてくる手紙を通して、「哲学」の歴史を学んでいくことになるのです。
いいえ、厳密には「哲学」だけではありません。この講座で語られるのは「数学」の歴史でもあるし、「科学」の歴史でもあります。要するに、「人類がこれまで考えてきたこと」の歴史です。
手紙の先生は言います。
「まさかソフィーは、世界をわかりきったものだと思っている人の仲間ではないよね? これは私にとって切実な問題なのです、親愛なるソフィー」
もしも今これを読んでいる君が「世界をわかりきったものだと思っている人の仲間」なのだとしたら、ここから先は読む必要がありません。またそのような人には、本書をおすすめしません。
でももしも君がそうでないのなら、僕は君に本書を強く強くおすすめします。
そしてもしも今この文章を読んでいる君がこんなことを考えていたり、考えていたことがあるのなら、その人にも本書を強くおすすめします。
「科学や数学を勉強して、一体なんの役に立つというのさ? 計算機使えばよくね?」
とか、
「学校なんて何で行かなきゃいけないの? 何で勉強しなきゃいけないの? 結局はたくさん金儲けした人の勝ちでしょ?」
なんてね。
というのは、僕自身がそんなことを考えているすごーく嫌な子どもだったから。
でもそんな僕はこの本を読んで、初めてそれが間違いだったと気づいたのです。
学校なんて、ずっと大嫌いでした。勉強だって好きでやったことはなかった。でもこの本を読んだ時、初めて僕は「勉強したい」と思えたのですね。
だって、ずっとずっと昔から多くの人が考え続けていた問題について知らないまま生きていくなんて、損じゃないですか。
勉強しなきゃいけない、なんて僕は思いません。ただ、こう思う。本当にそれでいいの? って。もったいないって思わないの? って。
でも、残念ながら僕が本書と出会ったのは、大学を卒業する頃でした。そして、ちゃんと「哲学」を勉強しなかったこと、「科学」や「数学」を嫌だ嫌だと思ってずっと避け続けてきたことを後悔したのです。
「だけどこの世界の物質ってなんだろう? 何が数十億年前に爆発したんだろう? それはどこから来たんだろう?」
「大きな謎ね」
「この謎はわたしたちみんなに深くかかわっている。わたしたちもこの物質でできているんだからね。わたしたちは、何十億年も前にともされた巨大な火から飛び散った火花なんだ」
「そう考えるとすてきね」
「でも、大きな数なんかもちだすことはない。石ころを手にとってみるだけでじゅうぶんだ。宇宙がオレンジくらいの大きさの石だったとしても、やっぱり理解を超えているだろう。この石はどこから来たのかという問題は、同じようにむずかしい」
もちろん、本書を読んだからといって「哲学」が分かるようになるわけではありません。ただ本書を読めば、人類というものがこれまでいかに多くのことを考えてきたのかという「歴史」を知ることができる。
その意味では、本書は正に最適の「哲学の入門書」と言えるでしょう。でもそれは、本書を読めば「哲学が理解できる」ということではありません。そんなことを望む人は、「世界をわかりきったものだと思っている人の仲間」です。
だってそもそも「哲学」というのは、「理解できないことにちゃんと向き合う」ということなのですから。
本書を読んで「分かる」ことよりも、本書を読むことで始めて実感する「分からなさ」の方が、ずっとずっと多いでしょう。
それこそが本当に大切なことだと僕は思うのです。
右手に月石、左手に黒曜石、口の中に真珠をもって生まれてきたカリュドウ。
彼は大魔道師アンジストが支配する都市エズキウムの近くにある村で生まれました。
彼を引き取って育てたのは、村の魔道師エイリャ。
ところがある日、彼らの元にアンジストが現れます。そしてエイリャと幼馴染の女の子フィンを殺してしまうのです。
何とか逃げ出したカリュドウは、エイリャの言葉を頼りにパドゥキアの村にたどり着きます。
そこでカリュドウは村の大魔道師ガエルクの弟子となるのですが、ある事件がきっかけとなり、カリュドウは破門されてしまうのです。
同じガエルクの弟子であるティモナはカリュドウに言うのでした。
「師匠が悩んでいたのはね、あんたをあのまま魔道師にしていいかってことだったらしいわよ。魔道師にしたら師匠をもしのいでいただろうって言ってたわ。でもそれでは、『同じことを繰り返すだけ』だって言ってた」
そしてカリュドウは兄弟子ラームの言葉に従い、ラームのおじイスルイールの元で写本師となるための修業を始めるのでした。
魔道師ではない方法でアンジストに復讐をするために。
優れた物語に出会った時、それはまるで結晶のように重要なテーマが分かち難く結びつき、描かれるすべての場面や展開が決して偶然ではなく必然なのだと感じることがあります。
これは正しくそんな物語。
この優れたファンタジーの重要な要素はもちろん「魔法」であり、「呪い」です。
なぜカリュドウの育ての親であるエイリャと幼馴染のフィンはアンジストに殺されたのか。それはエイリャが有力な魔道師であったがゆえであり、フィンもまたその可能性があったがゆえなのでした。
「魔法」とは「力」です。それは力であるがゆえに、人を助けることもできるし、同時に人を殺すこともできる。
ガエルクはカリュドウに言います。人がなすことは、善意であれ悪意であれ、必ず因果が発生する。魔法もそうだと。
その「力」はまた、「知識」と置き換えることもできるかもしれません。
僕たちは誰でも「力」を、あるいは「知識」を求めます。この世界でうまく生きていくために。
そして誰もがそれを奨励するでしょう。「強くなろうとすること」や「賢くなろうとすること」を。
だけどこの世界に全き善なるものなど存在するでしょうか。
どのような物事にも光と闇があるのです。もちろん「力」や「知識」にも。
「強くなること」、「賢くなること」はそういったものの「闇の部分」も自ら背負うということ。
それゆえに大魔道師であるアンジストもまた、彼自身が持つ「力」に相応するだけの「闇」を抱え込んでいるのでした。
その「闇」に対して、もしもそれを超えるほどの「力」や「知識」があったとしたら。
……でも、それは結局、より「深い闇」として、新たな「呪い」を生むだけなのでしょう。
それが「魔法」というもの。それが「力」。それが「知識」。
カリュドウは魔道師としてではなく、「夜の写本師」としてアンジストに戦いを挑みます。
「写本師」は、「魔道師」ではありません。「魔道師」ではないから、自分で魔法を作り出すことはできないのです。
カリュドウにできることは、すでにつくられた「魔法の本」を「写す」ということだけ。
「写す」ためには、「読ま」ないといけません。
そして「読む」ということは、そこに書かれている言葉を、とりあえず「受け入れ」るということです。
書かれている言葉には、物語には、道理には、光もあれば闇もあるでしょう。
カリュドウの同僚である写本師ヴェルネは言います。
「あたしたちは魔道師にはならない。あなたが言うように、闇に侵されるようなことはしない。けれど、魔法を無効化し、魔道師と対等になることができる」
本を読むことなんて誰にでもできる、と思うかもしれません。それよりも本を書くことのできる人の方がすごい、と。
だけどものを書く、ということは一方的に自分の考えを述べているにすぎません。でも、その文章を自分にとって光とするか、闇とするかは読んでいる人が決めることができる。
光と闇の両方を知ることによって、その光と闇が反転することも知ることができる。
それが、「力」に「力」で対抗するのではなく、「力」を「受け入れ」て「知る」ということ。
先に引用したセリフの後、ヴェルデはこう言うのでした。
「女は男のもつものをもたないけれど、女にしかもてないものをもって男と対等になることができる。それと同じ。互いに虐げもしないし、侵しもしない。否定もしない。その土壌から、理解しようと手を差しのべること、喜びあうこと、助けあうことが生まれると思う」
現実の世界でも、終わらない「呪い」の連鎖が連日報じられています。
テロリスト。民族主義者。自称「愛国者」。
彼らの論理のいかに安っぽいことか。「やられたらやりかえせ」「正義は必ず勝つ」なんて、作り話だとしたら三文の価値もない、そんなくだらない似非ファンタジーを真に受ける人たち。
彼らの行為は新たな「呪い」を生み、互いにかけ合った「呪い」に縛られて殺し合いを続けるのでしょう。
一度生まれた「呪い」は決して消えることはなく、たとえ何度返り討ちを重ねようとも、復讐は未来永劫続いていくのですから。
その「呪い」を終わらせることはできないけれど、同じことを繰り返さないためにできることがあります。
それはとても、とても簡単なこと。
赦すことはできないかもしれなくても、認めることはできないとしても、とにかく憎むべき相手の「言葉」を、彼らの「物語」を受け入れること。
そのための魔法の道具は、誰もが持っているし、誰でも手に入れることができる。
ペンは剣よりも強く、そして何よりも、読者はペンよりも強いのだから。
そう、この世界にも、この現実の世界にもすでに魔法があって、僕たちは誰でもその魔法を使うことができる。
僕たちの手元に「本」があるのならば。
そんなのまるでファンタジーじゃないかって?
ええ、確かに僕は空想の話をしているのです。「夜の写本師」という傑作ファンタジーの。
なぜなら優れた空想はいつだって、現実よりも真実を映し出しているものなのですから。
退屈に負けないこと。
自分たちの力でおもしろいことを考えつづけること。
テレビやゲームじゃどうにもならない、むずむずした気もち。ぜったいに我慢しないこと。
わたしたち姉弟にとっては、それがすべてだった。
生きていく知恵のすべてだった。
一言で言うなら、これは中学二年生の姉の陽子と弟のリン、そして陽子のクラスメイトの七瀬とキオスクが屋根に上るお話です。
屋根に上る、というのがいいですね。これが異次元世界を探検する、とかだったら心の中で「そういうモード」にしないといけません。でもこれはそんなすごい話じゃない。ただ屋根に上るだけですから。
だけどただそれだけのことで、変わってしまう世界の見方がある。
それはこの世代の心と同じようなものかもしれません。ばかばかしいってことは分かってる。でも、そのばかばかしいことがどうしてもしたいんだ、という思い。それはきっと、大人は分かってくれない。屋根に上ることと同じように。
そしてそのばかばかしいことが、実はとても大事なことだったりする。それも多分大人は分かってくれない。
とは言え、たぶん僕のような大人が「ああ、分かるなあ、そういうの」なんて言っても、それはそれで絶対どこか違うのでしょう。彼らは愛想笑いを浮かべながら心の中で「ああ、こういう分かったふりをする大人って一番めんどくせーんだよな」なんて思うに決まってるのですから。
僕はこの物語に登場するキオスクという少年が好きです。
彼はいわゆるいじめられっ子で、パシリなんですね。いてもいなくてもどっちでもいいけれど、いたら便利な存在、だからキオスク。
そんな彼は心の中で、実は自分は世界を救う戦士なんだ、と思っています。そういうところがまたかっこ悪い。
でもそんな彼も、主人公たちと一緒に屋根に上ることになります。そして、そうすることによって彼もまた、少しだけ成長するのです。
自分を変えたいと思ったら、何も世界を救う戦士になんてならなくてもいい。ちょっと屋根に上ってみる、それだけで目の前の世界が変わるのだから。
「富塚先生、学校やめるまえにぼくんちにきたんだよ。二年C組のみんなはだいじょうぶだろうけど、ぼくのことだけは心配だって。ぼくんちにきて、いったんだ。大人も子どももだれだって、いちばんしんどいときは、ひとりで切りぬけるしかないんだ、って」
(中略)
「ぼくたちはみんな宇宙のみなしごだから。ばらばらに生まれてばらばらに死んでいくみなしごだから。自分の力できらきら輝いてないと、宇宙の暗闇にのみこまれて消えちゃうんだよ、って」
星と星との間は実際には気の遠くなるくらい離れているのだけれど、地上から夜空を見上げてみれば、線でつなぐことができます。
人と人との関係もそういうものかもしれません。たった一人で輝いているようで、手を伸ばせばつなげる誰かがいるかもしれない。
「遠い」ということと「近い」ということ、「ひとり」であることと「ひとりじゃない」ということは、どこかでつながっているのかもしれません。
屋根の上に上ることが、くだらないことでありながらとても重要なことであるのと同じように。
アメリカの北東部、ヴァーモンド州。深い森に囲まれたこの地に、ジュールズとシルヴィアという姉妹が住んでいました。
妹のジュールズは石マニアの女の子。そして、シルヴィアはココナッツの香りが大好きで、そして学校で誰よりも足が速いのが自慢でした。
二人が住む家の近くには、ホイッパーウイル川という川が流れていました。その川には、ある伝説があったのです。それは、強い願い事を書いた「願い石」をその川に投げ入れれば、その願いが叶えられるという伝説。
ある冬の日、二人は学校に行く前に家の近くで雪だるまを作っていました。そのとき、二人は「願い石」にぴったりな石を見つけたのです。
シルヴィアはその石を持って、川に投げ入れに行きました。
でも、それはパパから禁止されていたこと。二人はパパから強くこう言われていたのです。
一つ、決して学校へ行くバスに乗り遅れてはならない。
そしてもう一つ、決して奈落の淵へは近づかない。
でも、願い石は「奈落の淵」から投げなければ、その効果がないのです。
ですから、二人は時折パパとの約束を破っていました。
その日も、シルヴィアはジュールズにこう言ったのです。
「まだ時間はあるよ。すぐもどるから」
ジュールズは止めました。いくらシルヴィアの足が速いからって、もうバスが来る時間が迫っている。
でも、ジュールズは知っていたのです。シルヴィアが願い石を投げに行くと言い出したら、もう誰にも止められないということを。
なぜならシルヴィアにはとても強い願いがあったのだから。
それは、今よりもっと、ずっと早く走れるようになること。
ジュールズはその理由をこれまで何度もシルヴィアに尋ねました。
でも、シルヴィアはその答えを教えてくれなかったのです。
シルヴィアは願い石を持って走ってゆきました。雪の降る中、奈落の淵へ。
ジュールズは不安でした。でも、きっと、足の速いシルヴィアだから、ちゃんとバスの時間までには戻ってこれるだろうと、そう思っていたのです。
でも、シルヴィアはそれっきり、戻ってきませんでした。もう、二度と。
ジュールズはそれから、「シルヴィア以後」の時間を生きることになるのです。シルヴィアのいない、たった一人の日々を。
彼女は何度も自分に問いかけます。どうしてあのとき、もっと強く引き止めなかったのだろう、と。
そんなとき、森では一匹のキツネが生まれました。そのキツネの名前はセナ。セナはある特別な魂を持って生まれたキツネでした。ただのキツネではなく、ケネンのキツネとしてこの世に生を受けたのです。
「どんな生き物も誕生する前からなにかとつながっているといわれる。木とつながっているものもあれば、空とつながっているものもある。ほかにも雨や風や星とつながっているものもいる。ではケネンは? ケネンは魂とつながっている。どうしてなのかは、誰にもわからない」
セナにはなにか、特別な使命があるようでした。誰かに何かを伝えなければならないような。
そしてセナの心の中には、いつも誰かの声でこう言っているのが聞こえたのです。
「セナ、もっと早く走って!」
僕たちは誰か大切な人を喪ってしまったとき、その人のことを弔います。
よく言われることですが、「弔い」という行為は実は故人のためにするものではなく、取り残された人たちが自分たちのために行うものです。
これって、実はとても大切なことであるにも関わらず、なんだか忘れられがちなことのような気がしています。
たとえば、「死後の世界なんて信じない」という人もいるでしょう。「幽霊なんていない」という人もいるでしょう。
まあ、誰かが何をどう信じようと信じまいと、それはその人の勝手なのです。ただ僕が言いたいのは、その人が死後、その人自身が信じているように単なる「無」となって死後の世界にも行かず幽霊にもならないかどうかということは、実は「その人の問題ではない」ということなんです。
つまり、僕たちにとって僕たち自身の「死」はとても重要な問題であるように僕たち自身には思えるのですが、本当は僕たち自身の「死」は僕たち自身よりも僕たちが関係する周りの人々にとってより重要な問題なわけです。
「memento mori=死を想え」という言葉がありますね。これは「自分の」死を想うことで、より今を楽しんだり、あるいはより正しく善き生を送るようにという戒めとなるのでしょう。
でも、もしかしたらもっと重要なことは、自分じゃない誰かの、自分にとって大切な人の「死を想う」ことなのかもしれない。そんなことを考えるのは不吉だと言われるかもしれないけれど。でも、「死」はとても残酷だから。ある日突然、君にとって一番大切な人を「死」が奪い去ってしまうかもしれないのだから。
僕たちが死ぬとき、そこにファンタジーなんて必要ないのかもしれません。あるいは僕たちが生きるうえでも。
でも、僕たちが「死を想う」とき、そこにはどうしたってファンタジーが必要なのです。君は君自身、ファンタジーなきままで生きることも死ぬこともできるかもしれない。でも、君が君自身の大切な人の死を想う時、決してファンタジー抜きには、絵空事の迷信抜きには「弔う」ことができないのだから。
だから、そう、これはとても、悲しい物語。でもそれと同時に、とても優しい物語でもあるのです。
「キツネはゆっくり深く息を吸い、セナの毛のにおいを体にとりいれ、巣穴で背中におしつけられて感じた体のぬくもりと鼓動を思いだしていた。
キツネはいま目をとじ、どこまでも高く広がり、星がきらめいて息づく空に顔を向け、その未知の世界へ悲しみをはきだした。
キツネが一匹、妹が恋しくて泣いていた」
この本は、作者の梨木香歩さんが学生時代に留学していたイギリスに再び訪れた時の思い出を語ったエッセイです。
半年間イギリスに滞在することになった作者は、20年前に下宿していたウェスト夫人の家へと向かいます。その道すがら思い出すのは、かつてその下宿で共に過ごした友人ジョーのことでした。
教師をしていたジョーは小説よりもドラマティックな人生を歩んできた女性でした。そんな彼女の元に、ずっと消息不明だった恋人エイドリアンが訪れます。
しかしそのエイドリアンはインドで妻子を持っており、犯罪まがいのことを繰り返してここまでたどり着いたようなのです。
エイドリアンはウェスト夫人の小切手帳を盗み、お金を引き落とそうとして失敗、再び行方知れずとなり、ジョーもまた、彼に付き添って下宿を出て行ったのでした。
そんなことを思いながら、作者は彼女に言いたくても言えなかった言葉を思い出します。
「――ねえ、ジョー、私はもう、救世主願望は持たないことにしてる。」
そう言うときっとジョーは、こう言うのだろう、と作者は思うのでした。
「――そうね、それは賢いわ。けれど人間にはどこまでも巻き込まれていこう、と意志する権利もあるのよ。」
その他、本書で語られるのはウェスト夫人の下宿で出会った人々の話。尊大でプライドがありすぎるナイジェリア人の家族やご近所の婦人方と引っ越して来たばかりの有名人夫婦、かつてウェスト夫人のナニーだった忠義者のドリス。
イギリス滞在の後、作者はカナダへ向かいます。「赤毛のアン」の作者として有名なモンゴメリの暮らしたプリンスエドワード島へ行き、ウェスト夫人の謀略で行きたくなかったニューヨークでクリスマスを過ごし、カナダのトロントに滞在します。
この時出会うのが、大家のジョン。彼は自閉的傾向のある人物でした。
トロントを去る時、作者は迎えに来てくれたジョンとこんな会話をするのです。
「――言ってないことを察するのは難しいね。
――そうなんだよ、難しいんだ、化学の論文なんかよりずっと。
――ああ、化学の論文の方がそれは、遥かに論理的合理的だものね、でも私にはそっちがずっと難しい。
――僕たち、足して二で割れないもんだろうか。
――そうだねえ、全ての人間を足してその数で割ったら、みんな分かり合えるようになるかなあ。
――うーん、でもそれもどうかなあ。
――分かり合えない、っていうのは案外大事なことかもしれないねえ。
――うーん……。この間、不動産屋がアラブから来たばかりの人たち連れてきただろう、君、初めてだったんじゃないか。
――いや、初めてではなかったけど。
――そう。彼らのことをわからないと言う人がいるけど、自分の論理を押し付けてくるという点では、僕にはみんな同じだな。」
このエッセイの根底にあるのは「分かり合えなさ」だと思うのです。僕たちは誰も、絶対に分かり合うことなんてできない、というどうしようもなく残酷で、不条理にも思える現実。
例えば海外で暮らすことを「国際交流」だとか「相互理解」とか言うけれど、そんなものは嘘っぱちだと思うのです。実際に海外で暮してみて分かる、理解できることというのは、「郷に入れば郷に従う」しかないってことで、「あ、やっぱり自分は日本人で、この国の人たちとは違うんだ」っていうことなんじゃないかと。
この「分かり合えない」という現実を前に、人それぞれ様々な反応をすることでしょう。
そのことに思い悩む人、自分が悪いと自分を責める人、他人を責める人、諦める人……
そうして「分かり合えなさ」を補うために、僕たちはみな、何らかの暫定的な拠って立つ何かにすがるでしょう。
例えば国家や文化、例えばお金、例えば宗教、例えば科学的合理性。
もちろん、暫定的な拠って立つ何かを持つこともまた重要なのです。最初の話で作者がジョーにこう問いかけるように。
「……こういう嗜好は私たちの中に確かにある、けれど私たちはお互いの知らないそれぞれの思春期を通して、注意深くそれをコントロールしてきたよね、それがあくまでも趣味の領域をでないように、そうだったでしょう? こんなにも無防備に、それに――つまり無所属というようなことに――激しく感応するセンサーは、何か不吉な方向性をもっているのではない?」
でもそれらはあくまでも「暫定的」なものであって「絶対的」なものではないのに、僕たちはついそれを忘れてしまい、そしてジョンが言うように誰かに「自分の論理を押し付け」てしまう。
このエッセイの最後はウェスト夫人から作者に送られた幾つかの手紙で締めくくられます。
それらの手紙が送られてきたのは、ちょうどニューヨークで連続自爆テロがあった頃。
ウェスト夫人は手紙の中で、こう言うのでした。
「ああ、こういうことがすべてうまく収まって、また一緒に庭でお茶が飲めたらどんなにいいでしょう。私は左肩にドリスを、右肩にはこの間亡くなったマーガレットを乗せてるわ。貴方の大好きなロビンも、きっと何代も前のロビンたちを引き連れてクッキングアップルの木の上で歌うでしょう。いつものように、ドライブにも行きましょう。春になったら、苺を摘みに。それから水仙やブルーベルが咲き乱れる、あの川べりに。きっとまた、カモの雛たちが走り回っているわ。私たちはまたパンくずを持って親になった去年の雛たちの子どもたちにあげるのよ。私たちは毎年そういうことを続けてきたのです。毎年続けていくのです……」
もしこの世界に「真実」というものがあるのなら、「私たちは決して分かり合うことなんてできない」ということもまた、「真実」の一つなのかもしれません。
もしかしたら僕たちが「分かり合おう」とする限り、僕たちは争い続けなければならないのかもしれない。僕たちは分かり合えるはずだ、という思い、信念や理想のようなものが、「分かり合えない」と感じる人たちに憎悪を抱かせるのかもしれない。
「分かり合おう」という思いはもしかしたら、「分かり合えない」という現実から目をそらしているだけなのかもしれない。
でも、作者はこう言いたいんじゃないか、と僕は思うのです。
大切なことは「分かり合おう」とすることではないし、お互いを理解することでもない。そんなことよりももっと大切なことは、一緒にお茶を飲むことや、一緒にドライブをすること、一緒に苺を摘みに行くことだ、と。「分かり合う」のではなく、経験を「共有」することなのだ、と。
そうして経験を「共有」することで、僕たちは「分かり合え」ていなくても「通じ合う」ことができる。作者とウェスト夫人のように。
「春になったら苺を摘みに」。そんな風に誰かを誘うことができる、そういう人になりたいものですね。
もしかしたら君は、こんなことを考えたことがあるかもしれない。どうして世の中には、科学とか、数学とか、そういうものに興味を持てる人がいるんだろう? と。
だとしたら、これはそんな君のためのお話。
主人公の「僕」は、染色工場でアルバイトをしています。そこで、自分よりも少し年上の佐々井という青年と出会う。「僕」は佐々井に頼まれて、彼が株の取引でお金を稼ぐ手伝いをすることになるのです。
佐々井君というのはとにかく不思議な人です。彼はバーでお酒を飲んでいるときに、宇宙のかなたで爆発した星の粒子が地球に飛来して一瞬光るのを見ようとしたりします。いろいろな山の写真をスライドに映して、延々とそれを眺めていたりします。株でお金を稼ぐことに、抜群の才能があります。
佐々井君が興味のあることは、つまりこういうことです。
たとえば、料理を作るとしましょう。君はその料理の名前を知っている。レシピも持っている。材料も揃えました。
そうして君が料理を作ったとして、果たしてその料理は、以前に作った同じ料理と、本当に全く同じ料理でだと言えるしょうか。
ほとんど全く同じかもしれない。でも、完全に同じではありませんよね。
何を細かいことを、と思うでしょうか。
だとしたら、僕たちはなぜ流れ星を見たときに少し嬉しくなるのでしょう。流れ星なんて、ほんの一瞬、ほんの一部分の夜空が光るだけです。夜空の広さと夜の時間の長さに比べれば、流れ星が一瞬光ったとしても、それは光っていないのと変わらないはずなのです。
だけど、僕たちはその一瞬に特別なものを感じるでしょう。だから嬉しくなります。そこで、何を細かいことを、とは言わないのです。
ところが、その特別は、実は特別なんかではありません。なぜなら、そんなことを言ってしまえば、世の中特別だらけになってしまうからです。夜空を見上げて流れ星が光る瞬間と、いつも通りの夜空が見えるということは、実は同じくらい特別なことなのです。いつも通りの夜空のように見えても、厳密に言えばいつも通りの夜空なんてものはあり得ないのだから。
とはいえ、現実的にはそうは思えませんよね。流れ星を喜ぶように、毎日の当り前な夜空を楽しめばいいのに、それができないのです。僕たちはレシピ通りに作った料理のほんのわずかな違いを驚くことができずに、毎回同じものができたと思ってしまうのです。
なぜでしょう。それは、僕たちが出来上がった料理という現象そのものを見ているのではなく、料理という現象の反復性を見ているからなのです。夜空に流れ星が流れる反復性と、いつもと同じ夜空の反復性を比較しているからです。
佐々井君はたくさんの山の写真をスライドに映して眺めます。彼が眺めているのは、ただの山の写真ではありません。どの山も特別な山なのです。どれもが特別な山なのに、その特別な山が「山」という言葉で全部同じものとされてしまう、それが彼には面白いのです。
「山」の反復性を解体していく、そうすることによって見えてくる山の本質があるのです。
大事なこととはなんなのでしょう。それぞれの山がそれぞれ違う、ということでしょうか。それとも、それぞれ違う山がある意味では同じだ、ということでしょうか。
「僕」は染色工場で働きながら思います。同じ色ができないとイライラするよりも、毎回できるわずかな色の違いに合わせて商品を作ればいいのに、と。
もちろんそういうわけにはいきません。工場というのはまさに反復性が、特別なことを日常的にすることが重要なのです。
そう考えると、科学、というのはある意味不思議です。なぜなら、科学というのは、特別なことを、それが特別じゃないように説明することなのですから。
つまり、科学や数学が導き出す答えを当たり前だと思うから、面白くなくなってしまうのです。それは、現象の反復性だけを見ているということ。特別じゃなくなった、当たり前の部分だけを見ているということ。
一方、小説のような、物語、文学はまさにその逆です。当たり前だと思っていたことが、実はそうじゃないんだ、と気づかせてくれること、物語の、文学の魅力はそこにこそあります。
ただ、本をよく読む人ほど納得してくれると思いますが、小説というのはたくさん読めば読むほど頭が悪くなるものです。何の役にも立たないものです。
そして科学の反復性とは、まさしく実用性のことです。現実に役に立つものです。
だとするなら、僕たちの住むこの世界というのは、一体なんなのでしょう? 特別な、面白い、本質的なものが役に立たず、日常的な、つまらない、反復性のほうが役に立つということは。
佐々井君というのは、現実的にみると何の魅力もないように見えます。家もなく、職もありません。株でお金を稼ぐことは抜群に上手ですが、彼にとってはそれこそが反復性の象徴のようなもので、面白くないのです。僕たちの普通の感覚とは全く逆の感覚を生きているのです。
それはまさに、主人公の僕が感じたような「雪が降っているのではなく、自分が雪のほうに浮き上がっていく」ような感覚です。
同じような感覚を、この本を読んだ人は感じることができるかもしれません。
この物語は科学の反復性を解体して、その本質を描いているのです。まるで佐々井君が山のスライド写真を延々と眺めるように。
そして佐々井君というのはその存在自体があらゆる反復性、どんな家に住んでいるのか、どんな仕事をしているのか、なんていう名前なのか、といった僕たちが社会生活を営む上で必要な反復性、日常性を否定する象徴なのです。
ということはつまり、主人公の「僕」と佐々井君との関係を描くこの物語を読む、ということは、物の本質、現象の本質を読むということ、科学の面白さを読む、ということです。
さて、そんなこの物語は確かに佐々井君を描くことで、文学として科学の反復性を解体しているわけですが、では「物語」というのは一体なんでしょう?
実はこの「物語」もまた、ある種の反復性なのではないでしょうか。
「本質」というものがあるとすれば、そもそもそれだけで物語になりえるものなのでしょうか。物語、というのは僕たちがある種の「本質」を理解するために必要な反復性、日常性なのではないでしょうか。
だからこそ、それができているかどうか分かりませんが、今、僕はこの物語の本質を自分なりの言葉で描こうとしているわけです。
この物語は「文学」としての視点から「科学の本質」を見つめているのですが、実はこの物語を読んでいる人は、同時に「文学の本質」を見つめることでもあるのです。当たり前ではない、特別な物語の本質は、文章という反復性によって理解できるものとなるのです。
そしてまたこの物語の感想を語る人がいたとすれば、その感想を読んだ人は「文学と科学の本質を描いた物語の本質」を見つめることにもなるでしょう。
そうするとあら不思議、反復性それ自体を一つの現象と考えれば、「反復性の本質」というのもあり得ることになります。
もはや本質的だから面白い、反復的だからつまらない、とは言えません。反復性にもまた本質があるのだとすれば。
佐々井君が延々と山の写真を眺めるということは、周りの人からしたら何が面白いのかさっぱり分からないでしょう。でも彼は知っているのです。そうすることによって山の本質が見えてくることを。それが反復されることがどれほど特別なことかを。
そしてそのことを語っているこの物語は、佐々井君が本質を反復しようとしている行為がどれほど特別なことかを反復しようとしているのです。
そしてその物語について語っている僕は今、この物語がどれほど特別なことかを反復しようとしている。
ということは、もしこれを読んだ君が、誰かに僕が語った今までの文章について語るとしたら、その時あなたは僕が語ったことの特別さを反復しようとすることになるでしょう。
そう考えると、どうでしょう。
もう、本質だろうが反復性だろうが、特別だろうが日常だろうが、科学だろうが文学だろうが、とにかくなんでもかんでも面白くなってくるのです。この世界に、つまらないものなんてなくなってくるのです。
分かる、というのはそういうことなんじゃないか、と僕は思うのです。
でもそれは、結局何も分かってないのと同じなのかもしれませんけどね。
中学生の女の子、瑠璃はおばあちゃんの家がある風早の街にやってきました。沖縄生まれのおばあちゃんはこの街で小さな食堂を経営していたのです。今年は法事があるので瑠璃たちの家もみな集まることになっていたのだけれど、姉も両親も忙しいので瑠璃が一人で先に来ることになったのでした。
瑠璃は本を読むことと歌うことが大好きな女の子。そしてこれはきっとおばあちゃんの血なのだろうけれど、不思議なものを引き寄せる体質でした。
さて、お母さんの書いてくれた地図を頼りにおばあちゃんの家に着くと、びっくり仰天、おばあちゃんは久しぶりに会う孫に美味しいものを食べさせようと食堂を忙しく立ち回っているうちにうっかり階段から落ちてしまい、病院へと運ばれていたのです。
幸いおばあちゃんの怪我は大したことはなかったのですが、大事を取ってしばらく入院することになり、瑠璃はおばあちゃんの家でしばらく一人で暮らすことになります。
おばあちゃんが飼っている犬の次郎さんを散歩に連れている時、瑠璃は不思議な洋館を見つけました。
まるで物語に出てきそうなその洋館には七匹の黒猫と、そして一人の赤い髪と青い眼をした魔女のような外国の女性が住んでいたのです。
彼女の名前はクラウディア。そしてその洋館は彼女が営むルリユールの工房だったのでした。
ルリユールというのは本を製本したり修復したりする技術のこと。その昔ヨーロッパでは、本というのは今のようにちゃんと製本された状態ではなく、紙の束で売られていたのです。
そしてそれを買って帰って自分でお気に入りの装幀をしていたそうです。だから本というのはとても高価なものであり、子々孫々に受け継いでいくものだったのです。
この風早の街の不思議なルリユール工房には、こんな看板が立てられていました。
「ルリユール黒猫工房 クラウディアが魔法で本をつくります」
この世界に本当にあるかどうかわからないその工房の、誰もが会えるわけではない魔女のような女性クラウディアに瑠璃は弟子入りし、ルリユールの技術を習い始めます。
その工房には大切な本の思い出を持つ人が現れて、クラウディアに大切な本の修復や製本を頼みに来るのでした――。
クラウディアは言います。
「まずは、どんな本を、誰のために作るのか、それを考えてね。それが本作りの第一歩。スタート地点なんだから」
「誰のため――?」
「世界中の本は、すべからく誰かのために生まれてくるものです」
本というものは不思議ですね。それがただの情報、データでしかないのなら、もしかしたらすべての本は電子書籍にしてしまうのが正しいのかもしれません。
でも、きっと本が好きな人はみんなそうだろうけれど、この世の中には電子書籍にしちゃいけない気がする本が、ちゃんと紙の本で読まなきゃいけない本があるような、そんな気がしませんか?
それはもしかしたら、魔法とか、神様を信じるとか、そういう話と少し似ているのかもしれない。
世の中のほとんどの本はもろい紙でできていて、だからこそ水にも火にも弱いし、汚れやすいし、時が経つとともに劣化もする。
「本というものは、人間と似ているのよね。こんなに未来の、科学の力で人間が月へも行く時代になったのに、いまだにこんな柔らかいものでできていて、水や衝撃に弱く、傷つけば壊れてしまい――死んでしまう。永遠に生きることはできない存在のまま……」
だからこそ、本というものもまた人間や人間関係と同じように、ちゃんときめ細かくメンテナンスしなければ、ちょっとしたことで壊れてしまったりしてしまう。
クラウディアが直してくれるもの、それは大切な本だけではなく、その本の持ち主の心でもあるのでした。
なぜなら本というものは、人間と同じようなものなのだから。
「ルリユールの技は、儚い命しか持たないはずの本を、読み手と共に生きていけるように作り直すための技術。そして未来の、そこに待つかもしれない新しい読み手のもとまで届けるための技術なの。
本の命を延ばすために、できるだけのことはしてあげないとね」
この本は電子書籍だけど、でも僕はやっぱり紙の本が好きなのです。
君にはルリユールしてもいつまでも大切に持っていたい、そういう本がありますか?
もしまだ君がそういう本と出会っていないなら、いつの日か、君が君のために生まれてきた本と出会うことができますように。
2018年10月6日 発行 初版
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