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よくわかる潜伏キリシタン関連遺産

潜伏キリシタン研究会

エイティエル出版



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  この本はタチヨミ版です。

よくわかる潜伏キリシタン関連遺産
潜伏キリシタン研究会
 
内容
はじめに
構成遺産1 原城跡(はらじょうあと)
構成遺産2 平戸(ひらど):春日(かすが)集落と安満岳(やすまんだけ)
構成遺産3 平戸(ひらど):中江ノ島(なかえのしま)
[構成遺産4 天草(あまくさ)の崎津(さきつ)集落](※※内部リンクが見つかりません※※)
構成遺産5 外海(そとめ)の出津(しつ)集落
構成遺産6 外海(そとめ)の大野(おおの)集落
構成遺産7 黒島(くろしま)の集落
構成遺産8 野崎島(のざきじま)の集落跡
構成遺産9 頭ケ島(かしらがしま)の集落
構成遺産10 久賀島(ひさかじま)の集落
構成遺産11 奈留島(なるしま)の江上(えがみ)集落
構成遺産12 大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)
潜伏(せんぷく)キリシタン関連のキーパーソン
潜伏(せんぷく)キリシタン関連年表
もっと詳しく知るには
 

はじめに
 
隠(かく)れキリシタンと潜伏(せんぷく)キリシタン
 
 隠(かく)れキリシタンという言葉はよく聞きますが、潜伏(せんぷく)キリシタンという言葉は耳なれないですね。
 
 どう違うのでしょうか?
 
 簡単にいうと、
 
 江戸時代を中心とするキリスト教の信仰が禁止されていた時代に、仏教や神道を信仰するふりをしながら、ひそかにキリスト教信仰を守った人々を、広い意味で「潜伏(せんぷく)キリシタン」といい、
 
 江戸時代末期に大浦天主堂でプチジャン神父によりキリスト教の「信徒が発見」され、明治になって禁教令が解かれてからもキリスト教信者であることを秘している人々を、狭い意味での「隠(かく)れキリシタン」と呼びます。
 
 ですが、従来の日本史で使われていた「隠(かく)れキリシタン」には両方の意味がこめられていたので、実質的な違いはないといえるでしょう。
 
長崎と天草地方の潜伏(せんぷく)キリシタン関連遺産
 
 12の関連遺産で構成され、離島を含めた広い範囲に点在し、建物だけでなく、ごく普通の集落や里山なども含まれています。
 
 そのため、たとえば世界文化遺産に登録された群馬県の富岡製糸場(せいしじょう)や白川郷(しらかわごう)の合掌(がっしょう)造り集落などとは大きく異なり、過疎地や船の便が少ない離島も多く、「全部を1日で見てまわる」のはとても無理です。
 
 平戸(ひらど)の中江ノ島(なかえのしま)のように、一般には渡航する手段がなく上陸できないところもあります。
 
 さらに、当初の世界文化遺産の申請では「長崎の教会群」という異国情緒あふれる、いかにも観光の目玉となりそうなフォトジェニックな(写真うつりのよい)建物が中心になっていましたが、世界文化遺産登録をユネスコに勧告する立場の国際記念物遺跡会議(イコモス)は、建物中心ではなく、潜伏した信者が命がけで伝えてきた伝統の文化や信仰の形を中心にするよう助言し、現在の潜伏キリシタン関連遺産となったわけです。
 
 ですから、必ずしも「インスタ映え」する風景や珍しい品々がそろっているわけではありません。ごくありふれた日本の田園風景にしか見えないところも多くあります。
 
 しかも、そこに住んでいる人々の日常の生活/信仰にもふれるデリケートな問題でもあり、有名な観光地やレジャーランドに遊びに行くのとは違った配慮が必要になります。
 
 そこで、何回かにわけて、あるいは季節ごとに、長崎市内の観光やハウステンボスでのお楽しみなどと上手に組み合わせて、いわば百名山を一つずつ登っていくように、手近なところから少しずつ訪ねてみることをお勧めします。
 
 地域ごとに分けた探訪コースについては、地元旅行サイトで紹介されていますし、そういう情報をうまく活用して、自分なりのプランを考えるのも楽しいかもしれません。
 
ご注意
 
 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産や周辺にある教会の内部を見学するには、大浦天主堂は別にして、事前に連絡する必要があります。
 
 インターネットからオンラインで事前連絡することができます。
 
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター
http://kyoukaigun.jp/
 12の関連遺産は、
 
「はじまり」
「信仰にかかわる伝統の形成」
「信仰にかかわる伝統の維持と拡大」
「伝統の変容と終わり」
 
の4段階に分類されています。
 
 厳密には、どれか一つではなく、複数の段階にまたがるものが多くあります。
 
 江戸時代の初めに九州の島原半島(島原藩)と天草諸島(肥前・唐津藩の飛び地)で起きた一揆(いっき)である島原・天草の乱(1637年~1638年、寛永十四年~十五年)は、重い年貢など圧制に苦しむ地方の農民一揆であるにもかかわらず、各藩で鎮圧できず、九州の諸藩はいうにおよばず、江戸の老中・松平信綱(まつだいらのぶつな)まで出陣するなど、幕藩体制をゆるがしかねない大事件になってしまいました。
 
 一揆勢にキリシタン(キリスト教徒)が多く含まれていたことなどから、乱の平定後、江戸幕府はキリスト教禁止をそれまで以上に徹底するため鎖国(海禁政策)へと大きく舵を切っていくことになったのです。これがそもそものはじまりです。
 
 秀吉のバテレン追放令や江戸時代の1612年(慶長17年)の禁教令、翌年の追放令など、島原・天草の乱の以前から、キリスト教の信仰や布教を禁じる命令は何度も出されていたのですが、南蛮貿易で利益がもたらされることなどもあって、あまり徹底されていませんでした。
 
 それが、この乱をきっかけにして、棄教(ききょう)の徹底とはげしい取り締まりや弾圧がはじまったのです。
 
 その島原・天草の乱の最後の舞台となったのが、一揆勢が立てこもった原城跡(はらじょうあと)で、これが構成遺産1になります。
 
 キリシタンは棄教[ききょう:キリスト教の信仰をすてること]を強要され、従わない場合は処刑されたため、どうしても信仰を捨てられない人々は、表向きは仏教や神道を信仰するふりをしながら、キリスト教信仰を維持し守りつづけました。潜伏(せんぷく)キリシタン/隠(かく)れキリシタンの「はじまり」です。
 
 すぐにキリシタンとわかる十字架などは使えないため、人々は地元の山や島を聖地や殉教地としてあがめたり、仏教の子抱観音やアワビなど、ごくありふれた日常の道具を信心具(しんじんぐ)として用いたりしました。
 
 それが信仰にかかわる伝統形成で、
 
 平戸(ひらど)の聖地と集落:春日(かすが)集落と安満岳(やすまんだけ)が構成遺産の2
 
 同じく平戸の中江ノ島(なかえのしま)が構成遺産の3、
 
 天草下島(あまくさしもしま)の崎津(さきつ)集落が構成遺産の4、
 
 東シナ海に面した西彼杵(にしそのぎ)半島西岸にある外海(そとめ)の出津(しつ)集落と大野(おおの)集落が、それぞれ構成遺産の5と6になっています。
 
 しかし、長い年月の間には信仰を隠しきれないこともありますし、それが露見し処罰された「〇〇崩(くず)れ」は江戸時代に何度も起きています。
 
 そのため「もっと人眼につきにくいところへ」というわけで、あまり人の住んでいない(監視の目が届きにくいと思われた)離島への移住と開拓がはじまります。
 
 黒島(くろしま)の集落[構成遺産7]、
 
 野崎島(のざきじま)の集落跡[構成遺産8]、
 
 頭ケ島(かしらがしま)の集落[構成遺産9]、
 
 久賀島(ひさかじま)の集落[構成遺産10]、
 
 奈留島(なるしま)の江上(えがみ)集落[構成遺産11]
 
が、信仰にかかわる伝統の維持と拡大段階の関連遺産です。
 
 ペリー率いる黒船来航から十一年後の1864年(元治1年)、長崎で居留地(きょりゅうち)などの外国人向けに大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)が完成しました。
 
 ここで宣教師と潜伏していた信徒がほぼ二百五十年の歳月を経てふたたび出会うことになる(「信徒発見」)のですが、その舞台となった大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)が構成遺産12になり、潜伏キリシタンの信仰はまたここで新たな「変容と終わり」の段階へと進んでいくことになります。
 
 長崎と天草地方に現存するキリスト教会群(建築物)はすべて、禁教令が解かれた後の容と終わりの時代のものです。
 
 ですから、キリスト教の教会は、日本の風景として異国情緒にあふれ、観光の目玉にもなっていますが、禁教時代の潜伏キリシタンにとって、実際に見たことがないものなのです。
 
 目に見える信仰の対象としては、ごくありふれた里山や島や仏教の子抱観音、アワビの貝殻の模様などしかなかったということを考えると、一口に信仰の維持と継承といっても、生半可な決意で守り通すことなどできなかっただろうということは想像できるのではないでしょうか。
 
 
おことわり
 
1.写真の撮影・掲載に当たっては大司教区の許可をいただいています。
2.写真には個別に著作権表示を行っていませんが、 一般社団法人長崎県観光連盟提供のものが多く含まれています。
3.交通アクセスは代表的なルートを示しています。
  運行/運航に変更が生じる場合もありますので、ご利用の際は最新情報をご確認ください。
4.本書は、レイアウトを固定しない、リフロー型の電子書籍です。
  スマホやパソコンなど画面の大きさに応じて表示が変化します。
5.所在地の「座標」(GPSの緯度経度データ)は最適と思われる地点の位置を示しています。
  かならずしも車や徒歩でのナビに適した座標(道路沿い等)にはなっていません。
 
長崎と天草地方の潜伏(せんぷく)キリシタン関連遺産の構成遺産
 
どこにあるの?


 
1.原城跡(南島原市))  2.平戸の聖地と集落:春日集落と安満岳(平戸市))
3.同:中江ノ島(平戸市) 4.天草・崎津の集落(天草市)
5.外海の出津集落(長崎市)  6.外海の大野集落(長崎市))
7.黒島の集落(佐世保市)  8.野崎島の集落跡(小値賀町))
9.頭ケ島の集落(上五島町)  10.久賀島の集落(五島市))
11.奈留島の江上集落(五島市)12.大浦天主堂(長崎市)、
 
長崎県を中心に、一部は熊本県を含めた地域に、点在しています。
 

構成遺産1 原城跡(はらじょうあと)
Remains of Hara Castle
 


本丸付近から二の丸を望む
左上の背景に見えているのは雲仙・普賢岳
少し色の違う右側のコブが平成新山(最高点)
右手は有明海
 
所在地
長崎県南島原市有馬町
 
座標(本丸付近)
北緯32度38分04秒
東経130度15分29秒
 
交通アクセス
JR九州・諫早駅-<島原鉄道>-島原駅-<島鉄バス>-原城前バス停
 
照会先
JR九州(電話095-822-0063)
島原鉄道(電話0957-62-2232)
島鉄バス(電話0957-22-4707)
 


「南島原市が現地に設置している案内図」より
現在地とあるのは本丸正門付近
 
1:ほねかみ地蔵 2:本丸正門跡
3:本丸櫓台跡 4:天草四郎像(北村西望作)
5:天草四郎の墓碑 6:池尻口門跡
 
 
 島原・天草の乱(あるいは島原天草一揆、島原の乱など)では、一揆勢にキリシタン(キリスト教徒)が多数含まれていたことなどから、この乱がきっかけとなり、幕府は平定後にキリスト教禁止を徹底するため鎖国へと大きく舵を切ることになりました。
 
 キリスト教を信仰する人々は、信仰を捨てて仏教などに転向することを迫られました。
 
 死か信仰か、という究極の選択です。
 
 表向きは仏教や神道を信仰するふりをしながらキリスト教信仰を守りつづけた人々を、広い意味で「潜伏(せんぷく)キリシタン」と呼び、それが世界の歴史でも稀な日本独自の信仰のかたちとして貴重だとされています。



  タチヨミ版はここまでとなります。


よくわかる潜伏キリシタン関連遺産

2018年7月1日 発行 初版

編 著 者:潜伏キリシタン研究会
発  行:エイティエル出版

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