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投稿日:2015-09-03 Thu
人々が集まって暮らす社会では、競争と慈悲による助け合いの、二つの原理があるものじゃ。
競争は人の心を捉えやすく、行いも熱中し易いものじゃ。
慈悲は人の心の奥にあり、日常では中々現れにくく、行いもつい忘れ勝ちじゃろう。
社会は競争によって強い者、賢い者だけが得をすると考え、弱き者、劣った者を押しのけ、貶めればいずれは滅ぶじゃろう。
何故ならば競争する者は一時は強く、賢く立ち回って勝者になったとしても、いずれは弱く、頭脳も衰えるのが無常の法則であるからなのじゃ。
そのような法則も知らずに、一時の隆盛を鼻に掛けて驕り高ぶり他人を酷く扱えば、やがて力が劣って敗者になる時、他者に同じように扱われるじゃろう。
競争のみを原理として生きれば、いずれ誰もが敗者になるのは免れないのじゃ。
最近は人工知能の研究も進んできて、コンピューターに任せれば人よりも上手く出来るような仕事さえあるというからのう。
人が自らの力で幾ら競争に勝とうと、もはや及ばなくなる事にもなるじゃろう。
しかし、人の世界も競争のみによって成り立っているのではないのじゃ。
人々が互いに慈悲を以って助け合う事もまた、人の世のあり方なのじゃ。
慈悲を以って助け合えば勝者も敗者も無く、皆が福楽を得るのじゃ。
力のあるものが力によって助け合う事が無ければ、力は永遠に失われるのじゃ。
力によって助け合えば、力は永久にあるじゃろう。
富める者が富によって助け合う事が無ければ、富は永遠に失われるじゃろう。
富によって助け合えば、富は永久に無くなる事も無いのじゃ。
智慧のある者が智慧によって助け合う事が無ければ、智慧も永遠になくなるのじゃ。
智慧によって助け合えば、智慧は永久に無くなる事も無いのじゃ。
今、どれほどの力や富や智慧があっても、それは何時までもあるものではないのじゃ。
他人を助けるために使ってこそ、それらを永久のものにする事が出来るのじゃ。
今世にあって力や富や智慧を持っている者は、それらに奢ってつい助け合い、分かち合う事を忘れ勝ちになるかもしれんが、そのような道理があることを知って慈悲を以って他人に尽くすが良いのじゃ。
そうすれば力や富や智慧も己の身を離れる事は無く、福楽も常に得る事が出来るじゃろう。
投稿日:2015-12-02 Wed
人間は大抵の場合、誰かに教え込まれた価値基準を持っているものじゃ。
両親とか、保護者とか、友人などに教えられた価値基準を、そのまま死ぬまで持っていたりするのじゃ。
それは必ずしも善いものであるとは限らないのじゃ。
環境や状況によっては生きるのにも困難になるものもあるのじゃ。
例えば犯罪を行うように奨励するものすらあるのじゃ。
そのような価値基準があったならば、人は正しい道を歩もうとしても、どうしても犯罪を行ってしまったりもするのじゃ。
人々が知識では悪い事と判っていながら、つい犯罪を行ってしまうのもそのせいなのじゃ。
お釈迦様が善い友とだけ付き合い、悪い友とは付き合わないようにせよ、というのもそのためなのじゃ。
悪い価値基準を持つものと付き合っていれば、その価値基準をいつの間にか受け入れてしまい、自分も悪い行いをするようにもなってしまうのじゃ。
悪い環境に育った者は、窃盗などの軽い犯罪より、強盗のような重い犯罪のほうが勇気があって偉い、というような価値基準を受け入れて持ってしまったりするのじゃ。
友人達の中でも、重い犯罪のほうがえらいとか誉められたりすると、それがやっぱりえらいのだと思ってしまうのじゃ。
そのような価値基準が出来てしまう故に、お釈迦様は友を選ぶようにというのじゃ。
両親などは選べない故に、無条件にその価値基準を受け入れてしまうのじゃ。
そのように無条件に受け入れた価値基準により、自分でやりたいことも出来なかったりするのじゃ。
勉強が出来るものだけが偉いとか、競争に勝つものが偉いとか、医者とか政治家になることだけが偉いとかの価値基準を植えつけられ、一生逃れられなかったりするのじゃ。
そのために好きな事も出来ずに一生を棒に振ったりするのじゃ。
そのような無意味な価値基準も、観察する事によって滅する事が出来るのじゃ。
自分が苦に思っている事や、やめたいのにやってしまう行いや、出来るのにやれない行いなどがあれば、その原因となる価値基準を自分の心の中に探すのじゃ。
それがどのように植えつけられたかも、探してみるのじゃ。
親とか親戚などから植え付けられた価値基準は、長い間に渡って経験したものであるから、幾つも原因となる記憶があったりするのじゃ。
その場合も原因から価値基準が起こり、行いも起こると観察するのじゃ。
そしてそれが無ければ誤った価値基準も無く、行いも無いと観察するのじゃ。
そうすれば誤った価値基準も消えるじゃろう。
そして真に福楽をもたらす価値基準を自ら作り出し、受け入れるのじゃ。
人として生まれたならば多くの衆生に慈悲を施して行く事が最も尊い、真に福楽をもたらす価値基準なのじゃ。
そして自らの心を整え、清める事も尊い事と受け入れるのじゃ。
日々その基準を元に行いを考え、時にはその基準通りに行いが出来たか省みる事で、そのような基準を自らの心の内に確立する事が出来るじゃろう。
そのようにすれば行いも日々改められ、福楽も付き従うようになるじゃろう。
善い報いは増え、悪い報いは消えていくようになるのじゃ。
修行者はそのようにして自らの内にある価値基準をも整え、福楽を楽しむ者となるのじゃ。
投稿日:2017-05-02 Tue
お釈迦様は福楽を求めるならば、悪いことをせずに善い事をするのじゃ、と教えておる。
そのような善悪も、心によって成されることをも教えているのじゃ。
行為とその結果がどうであろうと、心に悪意があれば悪であり、善意があれば善いことなのじゃ。
例えば道の真ん中にでかい石が転がっていたとしよう。
このでかい石を悪意のある者が、
「道の真ん中に転がっていてもみんな気付いて避けてしまうから、道の端に転がして誰かを転ばそう」などと考えて道の端に転がせば、悪となるのじゃ。
善意を持つ者が、
「このような石が道の真ん中にあれば、道行く人が躓くかも知れんから道の端に転がしておこう」と、考えて道の端に石を転がせば、善となるのじゃ。
このように道の真ん中にあった石を道の端に転がすという、行為はまったく同じでも、心に悪意があれば悪となり、善意があれば善となるのじゃ。
そしてそれぞれに相応しい報いを、心がもたらすのじゃ。
このような基準を知らなければ、善い事をしているつもりで善くない事をしている事もあるものじゃ。
そのような例は多くあるじゃろう。
本来は善い事として始めた事が、次第にただの習慣となり、やがては欲や見栄のために行うようになれば、もはや善ではなくなるものじゃ。
或いは常日頃から人のためにと掃除などをしていたが、ある日心に怒りがあるまま習慣として掃除をしていれば、善いことではなくなるのじゃ。
そのように善事とは心で成される故に、自らの心の持ちようで善も悪になってしまう事があるのじゃ。
他の人のためにと慈悲の心から行うのが、本当の善事なのじゃ。
例え莫大な金銭を施そうとも、見栄や何かの得をするために行うならば善ではないのじゃ。
僅かな施しでも哀れみの心で行えば善事となるのじゃ。
善を成そうとする行いが、善ではなくなってしまわないように、常日頃から自らの本心をかえりみて、何事かを成すときにこれは慈悲からの行いなのか、悪意や怒りや欲から行おうとしているのか吟味すべきなのじゃ。
そうすれば心も整えられ、善事を間違わずに行う善人となり、福楽も付き従うようになるのじゃ。
自らの本心を観察しながら、実践あるのみなのじゃ。
投稿日:2014-07-31 Thu
自我を観察する一つの手がかりとして、今まで自分が経験してきた事を思い出すと言う方法もあるのじゃ。
所謂、自分史を作ってみるのじゃ。
自分自身の経験してきた歴史を、可能な限り客観的に思い出して観察するのじゃ。
人の自我イメージは経験によっても構築されているから、それが自我を見る手がかりと成るのじゃ。
例えば犬にかまれて嫌いになったと言う経験があれば、かつて犬にかまれた所為で犬嫌いになった自分と言うイメージが出来るじゃろう。
そのように小さな事でも、自分のイメージは変わるものじゃ。
そうした今までの多くの経験が重ねられて、自分のイメージが構築されるのじゃ。
更にそのような固有の経験を積んだ固有の自己という観念も起こるのじゃ。
今までの経験を持ち、さまざまな条件付けを持ち運ぶ観念が自我なのじゃ。
それらには安全のためのものもある故に、自我がなくなるとそれもなくなるのではないかと、不安になるのじゃ。
実際にはそれは自我が持っているのではなく、記憶によるものでしかないのであるがのう。
記憶による認識を持つ人間は、記憶による条件付けの回路に、自分と言うイメージを投射してしまうのじゃ。
それら条件付けとイメージの両方ともが記憶に依存しているのじゃ。
それ故に自分が経てきた道や、経験を思い出し、さまざまな経験による条件づけと、経験によるイメージを観察することが 、自我を観察することに役立つのじゃ。
あまりに多くて混乱するならば、メモやノートなどに書くのも役に立つじゃろう。
詳細に観察すれば、大きな成果が現れるじゃろう。
直ぐに悟りは得られなくとも、自分の今の条件付けや習慣がどこから来ているのか気付く事が出来るのじゃ。
そして今はもう不要となった無意味な囚われからも解放されるのじゃ。
自分を知り、心を整える事にもなるじゃろう。
良く吟味して実践してみると良いのじゃ。
投稿日:2015-03-02 Mon
人が全てを認識するのに記憶に依存しているように、自己の観念もまた記憶によっているものじゃ。
その自己観念によって、自分は何が出来て何が出来ないとか決めているのじゃ。
悟りへの道もそうであるが、一つの物事を出来る者と出来ない者が居るのもそのせいなのじゃ。
自己観念が人の可能性を狭めているとも言えるのじゃ。
その自己観念を改革し、自らの可能性を広げることは、自らを知り悟りへの道をいくにもよい効果が在るじゃろう。
全ての観念は言葉とイメージによってできているのじゃ。
自己観念もまた言葉とイメージによって出来ているのじゃ。
自分の名前、自分のイメージが自己観念であり、自我の実態なのじゃ。
その名前とイメージは過去の記憶による条件付けから起こるのじゃ。
両親のしつけや過去の体験から、自分とはこのようなものとかの言葉やイメージが成立するのじゃ。
例えば親から叱られたりばかりしていた子は、自分に否定的な言葉とイメージしか持てずにいたりするものじゃ。
それが自分の可能性を限定したりするのじゃ。
残念ながら全ての親が愛情はあっても智恵も在るとは限らない故に、多くの者はしつけによる条件付けから、自分の可能性を限定されていたりするものじゃ。
例えば命の危険が在ることを教えるのに、いろいろな事をしてはいけないと教えるのに、他の有用なさまざまな事もしてはいけないと教えたりするのじゃ。
そのような条件付けがあれば、後に大人になっても有用な行いが自分には出来ないとか、やってはいけないとか自己観念によって否定してしまうのじゃ。
そのようなものも修行者を煩い悩ませる、煩悩といえるのじゃ。
それらもまた観察によって滅することが出来るのじゃ。
縁起を観察し、自己観念を改革するのじゃ。
先ずは自分の名前を思い浮かべた時、他にどのような言葉が思い浮かぶのか、観察してみるのじゃ。
何もまともに出来ない鈴木とか、何をやってもだめな吉田とかが思い浮かぶかも知れん。
それらは過去に言われてきたことと関連していたりするのじゃ。
それが過去の記憶から起こり、過去の記憶がなければそのような言葉も無いと観察するのじゃ。
そうすれば言葉による自己観念の束縛はなくなるのじゃ。
更には自分のイメージを思い浮かべてみるのじゃ。
そのイメージは小さく怯えたものかも知れん。
それもまた過去の記憶からくるものじゃ。
それが過去の記憶から起こり、過去の記憶がなければ無いと観察するのじゃ。
そうすればそのイメージも消えるじゃろう。
そのようにして自己観念を改善していくのじゃ。
改善したならばそのように自分の名前やイメージに対する否定的な観念はなくなり、さまざまなことができるようになってくるのじゃ。
自分には悟りが得られないと諦めてしまう事もなくなるじゃろう。
そして自分と思っているものが観念であり、意志によって変化させられるものであるとも理解できるじゃろう。
修行者はそのようにして自己観念を改革し、道を遮る障害を乗り越えて進むのじゃ。
投稿日:2015-06-02 Tue
例えばどこか遠くに人形の国があるとするのじゃ。
そこでは生まれた者に人形を与えるのじゃ。
人形を自分として扱い、人形のために生きるように教えられるのじゃ。
人形が無くなれば自分が守れないとか、死ぬとか思い込まされるのじゃ。
そして人形の名を広めるために人は働き、人形のイメージをよくする為に人は苦しみながらも力を尽くして生きるのじゃ。
しかし、人形は人のために何もしないのじゃ。
それどころか人形は人を苦しめる元と成るだけなのじゃ。
苦しみの元と成る人形を人々は一生抱えて、その名前とイメージをよくするために生きて死ぬだけなのじゃ。
その人形のために人々は争い、殺しあったりもしたのじゃ。
あまりに苦しむ人が多くなると、それを緩和するような考えも生まれたのじゃ。
自分の人形だけでなく、外にある大きな人形を自分の人形より大事にする事も教えているのじゃ。
他にも本当の人形があるとか、高次の人形があるとかの宣伝もなされているのじゃ。
しかし一人の人がある時、人形を棄ててみたのじゃ。
すると苦はなくなり、安楽に成ったのじゃ。
人形が無くても自分が守れないと言う事は無く、死ぬ事も無いのじゃ。
むしろ楽になり、賢くもなったのじゃ。
人形を持つ事は単なる習慣であり、苦しみの元でしかないとはっきり知って他の人々にも教えたのじゃ。
それもただ言葉で伝えても判らんのじゃ。
人形が苦をもたらす事に繋がっていると、自ら観察する事で気づかせたのじゃ。
その人形とは人が持つ自分と言う観念、自我なのじゃ。
人は子供の頃から自分と言う観念を持ち、それが無いと自分が守れないとか、死ぬとか思っているのじゃ。
しかしそれは本当は観念であるから、無くても自分を守れなくなる事は無く、死ぬ事も無いのじゃ。
むしろ無くなれば苦も無くなり、智慧が生じる事にもなるのじゃ。
外にある大きな人形とは人の世で神とか、精霊などを信奉する事なのじゃ。
それは自分の自我にのみ囚われる苦からは、少々離れられるが、根本的な解決にはならないのじゃ。
本当の人形等は真の我とかを提唱する事にも等しいのじゃ。
どこかに本当の自分があるとしても、やはり個我への囚われからは離れられず、代用品に過ぎないのじゃ。
自我を手放した時に自我からの苦は本当に滅する事になるのじゃ。
そのためにお釈迦様は自ら観察して、気づかせる法を遺したのじゃ。
因縁を観察する法では、自分があるという観念から刺激に対して好悪の感覚が起こり、それが愛別離苦とか、怨憎会苦等の苦に繋がると観察するのじゃ。
それによって我という認識が、苦の元になっていることを気づかせるのじゃ。
これによってただ言葉で話しても実現できない自我の厭離が可能となるのじゃ。
修行者はそのような法を実践して、自我を滅し、認識をも滅して大悟徹底に至るがよいのじゃ。
投稿日:2015-07-03 Fri
長らく座禅や瞑想をしていると、不眠になったりする者も居るじゃろう。
古くは白隠のように禅病になる者もいたのじゃ。
それは下丹田の気が頭に上るのが原因なのじゃ。
特に毎日、熱心にやっている者ほど起こりやすいのじゃ。
インドではクンダリニーの上昇とか言ったりするのじゃ。
正しい姿勢で座り続けていれば自然に起こるものなのじゃ。
それによって頭に気が集中すると、眠れなくなったり、熱が出てのぼせたようになったりするのじゃ。
それを治すにもいろいろな方法があるのじゃ。
頭の中心に集中する。
ヨーガなどでは頭の中心に光を観想する方法があるのじゃ。
耳の上の線と体の中心線が交わる辺りにある点に集中するのじゃ。
白い月の光のように冷たくて明るい光を頭の中心にイメージすれば、頭の中で気が冷たいものに変換され、熱が取れるというのじゃ。
快が生じてサマーディにも繋がるのじゃ。
その光は月の千倍もあり、冷たさは氷の千倍も在ると大げさにイメージするのがこつなのじゃ。
頭の天辺に集中する。
頭の天辺にも月があり、冷たく白い光で輝いているとイメージするのじゃ。
下から登ってくる気が月で冷やされ、冷たい雫となって体の下に落ちていくとイメージし続けるのじゃ。
眉間に集中する。
眉間にも月があり、涼しい光を放っているとイメージするのじゃ。
胸に集中する。
ただ胸に集中するのもよいのじゃ。
胸に月があるとイメージする法もあるのじゃ。
滝を浴びていると観想する。
頭の上から清潔で冷たい水が流れ落ちてきて、体の中まで通っていくとイメージするのじゃ。
頭の天辺から水が入ってきて、体の中を下に流れていって汚れを下に洗い流し行くように思うのじゃ。
最後には足から流れ出して行って、全身が清潔で涼しくなったと思うのじゃ。
薬が体の中を流れていくと観想する。
白隠が行ったという軟酥の法というのがあるのじゃ。
軟酥とは牛乳を煮込んで作るというからクリームのようなものじゃな。
昔は薬としても使われていたというのじゃ。
その薬剤が頭の上から体の中を流れて行って、足にまで流れて外に出て行くとイメージするのじゃ。
この時も体の熱や汚れを流していくと思うのじゃ。
このように頭に溜まった熱を処理するにも、いろいろな方法があるものじゃ。
修行者は自ら試して自分に合った方法を探すと良いのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
投稿日:2015-10-02 Fri
ヨーガでは集中の瞑想の深さに三つの分類があるのじゃ。
最初の集中段階はダーラナと呼ばれるのじゃ。
ダーラナでは強い意志を以って呼吸などの対象に集中し、他の雑念などに囚われないようにするのじゃ。
最初に瞑想をしようとするならば、いらいらしたり、雑念に囚われたりして上手く行かなかったりするものじゃ。
それらを克服して集中し続ける事が出来るようになったならば、この段階に達したと見て良いのじゃ。
その次の段階をディヤーナと呼ぶのじゃ。
中国に伝わった時に禅那と音訳されて、禅の元になったものじゃ。
ディヤーナは強い意志で集中し続けなくとも、自然に集中が続いていく状態なのじゃ。
ダーラナとの違いは、このように意志で保たなくとも、自然に集中が続く事なのじゃ。
最後がサマーディなのじゃ。
集中が強くなり、自我を忘れた状態なのじゃ。
ディヤーナでは未だ自我は起こっているが、サマーディでは忘れ去られているのじゃ。
サマーディにまで到達したならば、自我を忘れたり、思い起こす事も度々起こる故に、自我も観易くなるものじゃ。
止観を行うならばディヤーナまででも、自我を観る事が出来るのであるが、サマーディにまで到達したならば、より容易に自我を観る事が可能になるのじゃ。
自我を忘れる事で自我の制約を離れ、その消失による恐れなども消えるからなのじゃ。
ディヤーナにまで達したならば、自我を忘れる事でサマーディにまで達する事も容易になるものじゃ。
自我は観念である故に、自分の観念を忘れるように念じればサマーディも近いのじゃ。
ディヤーナに入れば心のコントロールもかなり出来るようになっている故に、自分の名前やイメージなどの観念を忘れるように念じれば、速やかに対象の無いサマーディにも入れるようになるのじゃ。
最初にサマーディに入ると、ただ単に意識を無くしてしまったと思えるかも知れん。
しかし、それは自我が主体と思っているから、意識が無くなったと思うだけなのじゃ。
実際には意識はあり、その間の記憶も思い出すようにすれば思い出せるのじゃ。
何度もサマーディに入れば、その最中でも意識はあると知れるじゃろう。
そして自我は忘れたり思い出したり出来る観念と気づき、完全に厭離されるのじゃ。
そのような無我の状態で、認識をも滅すれば真の悟りが得られるのじゃ。
修行者はこのような法をも実践し、進んでいくと良いのじゃ。
投稿日:2015-11-02 Mon
三毒とは修行の妨げになる煩悩の事なのじゃ。
三つの障害があるから三毒なのじゃ。
一つは欲に駆られて貪る事なのじゃ。
二つ目は瞋恚、怒りなのじゃ。
三つ目は愚痴、愚かさなのじゃ。
この三つは修行者を悩ませ、煩わせて修行の妨げになるから出来る限り取り除かなければならないのじゃ。
それは本来自分の心の中にあるものであり、他人や社会に見ても無意味なのじゃ。
自らの内の三毒は修行によって滅する事が出来るものじゃ。
しかし、他人や社会にある貪欲や瞋恚や愚痴は滅せないものじゃ。
何故ならば他人や社会は年毎に多く生まれ、変わっていくものであるからなのじゃ。
次々に生まれ、変化していく人の集まりである社会は、三毒が無くなる事は無いのじゃ。
そうであるから社会の貪欲や瞋恚や愚痴を指摘したり、治そうとしても無意味なのじゃ。
しかし、自分自身の三毒は自分の意志によって滅する事の出来るものであるから、それを先ず滅するべきなのじゃ。
生きるために必要なもの以上に求める心が貪欲なのじゃ。
貪欲はその原因を自らの心の中に追い求めれば、必ず滅するじゃろう。
不安や恐れなどの原因があれば、逃避の為に何ものかを求めようとする貪欲も起こるのじゃ。
その原因から起こる貪欲が観察できれば、厭離も起こるのじゃ。
怒りも原因がわかれば滅するじゃろう。
自分が傷ついたとか、何かを失ったという観念があれば、怒りは起こるじゃろう。
観念によって起こる怒りが観察されれば、怒りもなくなるのじゃ。
それらの自らの心の中に起こる働きを、観られない事が愚かさなのじゃ。
日々、自らの心を真摯に観察し続ければ、そのような愚かさも無くなり、明知を得られるのじゃ。
自らの心を開かすことが真の明知なのじゃ。
要らない知識がどれほどあっても、自分自身について知らなければ愚かさは去らないのじゃ。
自分の心について気づく事が多くなれば、愚かさも滅したといえるのじゃ。
そのように自らの心の中に三毒を滅すれば、人は安楽になり、喜びと安らぎに満たされるのじゃ。
そうであるから修行者は世間に三毒を観ず、自らの内に観察の目を向けて三毒を滅ぼしていくのじゃ。
投稿日:2016-01-02 Sat
怒りは修行を妨げる煩悩の三毒のうちの一つであり、なかなか制御しがたいものじゃ。
人は時に怒りの為に理性を失い、犯罪まで行う事すらある。
そのような怒りを制する事は、大事な修行の一つなのじゃ。
怒りは本来自己防衛本能の一つなのじゃ。
それは自分の命が脅かされる時にのみ、発揮される筈の働きなのじゃ。
既に野生の生活を脱した人間には、滅多に発揮されるはずが無いものなのじゃ。
それが何度も頻繁に発揮されれば、体にも悪い影響が出るのじゃ。
健康を害し、精神もおかしくなったりするのじゃ。
そのような怒りが、人によって平常時でも何度も起こるのは、自己イメージと名前が脅かされると思うからなのじゃ。
自己イメージと名前を自分と同じと認識していると、それが脅かされる時に、自分の命も危ないと認識してしまうのじゃ。
それによって心の中に怒りが湧き起こるのじゃ。
例えば自分の悪口を言われた時、特にそれで命が脅かされるものではない。
しかし、自分の名前とイメージが、それによって傷つくと認識するから、怒りによって守ろうとするのじゃ。
その他、思想や信条や主義主張なども、自己同一化されていると、それらが他人によって貶された時などに、怒りによって守ろうとするのじゃ。
そのように本来、自分ではないものを自分と同一と認識し、それらが脅かされると怒りは起こるのじゃ。
そのような怒りも、正しく観察されれば、心の中で収まり、鎮められて行くのじゃ。
例えば猛獣も飼いならされて餌をやり、可愛がればなついてくるようなものじゃ。
怒りも適切に扱えばコントロールできるものじゃ。
先ずは何が原因で怒りが起こるのか、観察によって見極めるのじゃ。
自分のイメージや名前が傷つくと思うから起こるのか、自分と同一と思っている主義主張等が傷つくと思うから起こるのか、良く観察して確かめるのじゃ。
そしてそれらの謬見が無い時、怒りも起こらないと観察するのじゃ。
そうすればどのような怒りも消えていくじゃろう。
そして一度、怒りを滅する経験が出来たならば、どのような怒りも同じように滅する事が出来るようになるじゃろう。
そのように修行者は日々、怒りを滅する修行に励み、怒り無き者になるのじゃ。
投稿日:2016-03-03 Thu
観察は本来難しいものではない。
例えば道を歩いている時に道端に花が咲いているのに気づけば、それがもう観察によって気づいた事になる。
昨日は気づかなかった事に今日は気づいた事で、観察して真実を知った事になるのじゃ。
それによって花の咲いている道である事が分かり、季節の変化も知られる。
このような観察による気づきで真実を知る事となり、対応の変化も自然に行われるのじゃ。
或いは自分の手を観察して、皺が多いと気づいたならばそれも正しい観察による気づきなのじゃ。
腕を観察して太いと気づいたならば、それも正しく観察して気づいたことになるのじゃ。
足を観察して固くなっていると気づいたならば、それも正しく観察して気づいたことになるのじゃ。
或いは赤いものを眼で見た事を、赤いものを眼で見たと気づいたならば、それも正しい観察なのじゃ。
耳で聞いた音を今耳で聞いたと気づいたならば、それも正しい観察なのじゃ。
それらの刺激によって心が不快になったとか、快くなったと気づいたならば、それも正しい観察により気づいた事になるのじゃ。
そのように身体と感覚と心に、いまここで起こっている事に注意を向け、ありのままに気づいたならば、それが観察による気づきなのじゃ。
そのように観察は本来難しいものではなく、誰にでも出来るものじゃ。
しかし、観察に似て観察ではない心の働きもある。
道に咲いていた花が昨日はあったから今日もあるであろう、というのは観察ではない。
記憶によって推測しているだけなのじゃ。
自分の腕は皺が多いから今日見ても多いだろう、と思うのも観察ではないのじゃ。
自分の肉体への観念があり、それを思い出しているだけなのじゃ。
昨日の花は今日は咲いておらず、肉体も日々変化しているから昨日とは違うかも知れん。
そのようないまここにあるものを見ないで、記憶や観念によって考えたり、思い出したりするのは観察ではないのじゃ。
そうであるから例えば仏教用語の無常とか、見性とか、そのような言葉による観念があり、それを観察して理解したというのも実は観察ではないのじゃ。
何の観念も無く、今ここにあるものをありのままに見る事が観察なのじゃ。
観察をすれば日々刻々と移り変わる心身の働きに対して、何らかの新しい発見がある筈なのじゃ。
そのように新しい事に気づく事が、観察の目的なのじゃ。
そしてそれは知識を得るためではなく、心の変容をもたらすためなのじゃ。
苦を観察して執着によるものと気づけば、執着を離れ苦を滅することもできるのじゃ。
観察によって気づき、厭離したことで苦のある心が、苦の無い心に変容したのじゃ。
そのように観察によって気づきが起これば、心は自ずから変容するのじゃ。
同様に自我は単なる観念であったと気づけば、自我の観念を捨て去り、自我のもたらす苦が無い心に変容するのじゃ。
そして記憶に依存した認識があれば観念をつくり、個我の観念を生じて苦の世界をさまよい続けると気づいたならば、認識を脱して真の悟りに至るのじゃ。
それもまた言葉によって仮に表したものであり、真実ではないのじゃ。
人によって自我とは感情の主体と気づいたとか、感覚の主体としてみていたと気づく事もあるじゃろう。
観念は人によって違い、自我の観念も又人によって千差万別あるものじゃ。
修行者は自ら観察して、己の自我を見極めなければ成らないのじゃ。
投稿日:2016-05-02 Mon
自我も全てのものごとと同じく、観念として認識されておる。
自我が観念である事から、変化も常に起きているのじゃ。
その変化を観る事で、常に変わらぬ自分というものが幻想である事も気づくのじゃ。
その変化を観察するにも、お釈迦様の教えである縁起が役立つのじゃ。
自我は全てを認識する上での基礎であるから、自我の変化は、環境や人の観念である世界にも影響が起こるのじゃ。
例えば自分を駄目な者と思っていれば世界も灰色に見えたりする。
逆に自分を偉いと思っていれば世界は明るく見えたりするじゃろう。
苦が一つ滅しただけでも、世界が変わるように感じられるのも、自我が変化したからなのじゃ。
そのように自分の観念である言葉とイメージが変われば、自分が見る環境や世界の言葉やイメージも変化するのじゃ。
そのような変化を感じたならば、十二因縁の縁起の観察法などを参考に、自らの自我を観察してみるのじゃ。
環境の変化が感じられたならば、その変化は自我の変化によって起こったと観察し、自我の変化が無ければその変化も無かったと観察してみるのじゃ。
感覚が変化したならば、自我の変化によって感覚が変わり、自我の変化が無ければ感覚の変化も無かったと観察するのじゃ。
感情が変化したならば、自我の変化によって感情が変わり、自我の変化が無ければ感情の変化も無かったと観察するのじゃ。
感覚の変化は十二因縁の分類に随うならば、無明の変化によって蝕が変わり、無明の変化が無ければ触の変化がないという事になるのじゃ。
感情の変化は無明の変化によって想が変わり、無明の変化が無ければ想の変化がないという事になるのじゃ。
感覚や感情の変化は観易く、捉え易いものじゃ。
未だ自我を捉えられない者も、そのように変化を観る事で、自我に気づくきっかけにも成るじゃろう。
常住にして変化しない自我など無い事がわかるからのう。
修行者はそのようにして観察してみるのじゃ。
投稿日:2017-03-02 Thu
苦を滅するためには先ず最初に、それがどのような苦であるかを見わけなければならんのじゃ。
苦が見わけられなければ、原因も分からず、滅することはできないのじゃ。
例えば周りに人が居ない孤独と、愛する者と別れた苦は違うものじゃ。
周りに人が居ないと不安や心細さという感情があり、それが苦になるものじゃ。
孤独の苦なのじゃ。
それは自分という者があるという観念に対する執着が原因となっているのじゃ。
愛する者と別れた苦は愛別離苦といい、愛する者への執着が原因なのじゃ。
共に周りに人が居らず、孤独を感じる故に、同じものと間違いやすいが感じる苦は違い、原因も違うのじゃ。
そのように同じような状況で同じ苦に見えても、それぞれ違う苦があるのじゃ。
苦が違えば原因も違い、それぞれに自らの本心を観察して見わけなければならんのじゃ。
観察というものに慣れてしまうと、時に似たような苦には同じものであろうと見当を付けてしまい、同じ原因として観たりするものじゃ。
しかし、実は違う苦であれば原因も異なり、観察も効果が無かったりするのじゃ。
観察は常に自分の心の中に新しい何かを発見する心構えで行わなければならんのじゃ。
習慣化してしまうと観察ではなくなるのじゃ。
観念を観ているだけになってしまうのじゃ。
記憶に依存している人間は、同じことを繰り返していると、つい習慣化してしまい、観念遊戯に陥ってしまうものじゃ。
観念をもてあそぶのは観察ではないのじゃ。
常に心の中に新しい何を見つけようと、全ての注意力を注ぐのが観察なのじゃ。
それによって困難な苦の見わけもつくものじゃ。
更に人は生き物の本能によって苦しいことからは逃げようとするから、苦からも目を逸らす作用が働くのじゃ。
苦が人の心にあり続けるのも、そのような逃避があるからなのじゃ。
時には何年も、或いは何十年も苦から逃避し続けて一生苦しんだりもするのじゃ。
そのような逃避からも脱却するために、観察は全ての注意力と集中力をもって行わなければならんのじゃ。
全ての注意力と集中力をもって観察を行えば、苦も見分けがつき、確実に滅することもできるのじゃ。
このように観察は習慣によってはならず、逃避も乗り越えていかなければならぬ故に真に困難であるが、実践できれば確実に苦を滅し、悟りに導くことができるのじゃ。
修行者は力を尽くして実践するがよいのじゃ。
投稿日:2017-04-02 Sun
お釈迦様の説いた法は集中の他には多くが観察の法なのじゃ。
あらゆる方法で徹底した観察をすることこそ悟りに向かう方法なのじゃ。
縁によって起こる心の働きを観る縁起の法だけではなく、さまざまな方法をお釈迦様は教えているのじゃ。
五蘊によって心身を観察するのもその方法の一つなのじゃ。
別に身受心法の四つに区別して観察する方法もあるのじゃ。
特に明確にこれらの法に名を付けているのではないが、それぞれ別の方式によるのは確かなのじゃ。
或いは又目などの感覚器官と視覚などの感覚を十二の処にわけて観察するものもあるのじゃ。
更に感覚の世界を足して十八処の観察をするのもあるのじゃ。
それら全てに共通するのはとにかく徹底した観察をするという事なのじゃ。
心身を徹底して観察することで自我も完全に観察され、厭離が起こるのじゃ。
その観察も難しいものではないのじゃ。
人が生きて行く上で、度々観察は行っているものじゃ。
医者が患者の顔色などを観て診断している時、観察を行っているのじゃ。
或いはパン屋がパン生地を捏ねて混ざり物がないか観ている時も観察を行っているのじゃ。
母親が子供の服を選ぶ時、観察をしているのじゃ。
道を渡る時に車が来ないか見渡しているのも観察なのじゃ。
それらの観察を自らの心の中に向ける時、変容は起こるのじゃ。
ただ集中力が無ければ、観察は続かないのじゃ。
そのように観察は誰にでも出来る方法であり、自分に向いた方法を探すのが続ける原動力となるのじゃ。
悟りを目指す修行者は自らに合った観察を日々実践し、進んでいくがよいのじゃ。
投稿日:2017-07-02 Sun
悟りへの道はただ一つではなく、かなり多くあるものじゃ。
お釈迦様が直接説いた止観でさえ、集中と観察にそれぞれ幾つもの方法があるのじゃ。
観察の方法には、四諦があり、それに関連して因縁を観る方法があり、他にも五蘊を観る方法や、感覚とその世界を観る方法などもあるのじゃ。
集中にも数息観の他に、色彩を周囲に観想する方法や、胸や眉間に集中する方法などがあるのじゃ。
お釈迦様が説かなかった方法にも空を観想する方法や、真言を用いる方法や、神仏との一体化を観想する方法もあるのじゃ。
マハリシが説いたような自分とは何か、直接に追求する方法も悟りへの道と言えるのじゃ。
しかし、多くの方法があっても全て行う必要は無いのじゃ。
それらの方法は修行者が自らに合ったものを選び、その一つを続けていくことが大事なのじゃ。
自分に合った方法がわかり、一つの方法に決めたならばそれに専念し、他の方法には心を移さないようにするのじゃ。
ただ一つの自分に合った方法を続けた方が、進歩は早く、高い境地にいけるのじゃ。
例えば山に登るのにいろいろな道があるが、一つの道をひたすら辿って行けばやがて頂上に着けるようなものじゃ。
途中でその道を外れて他の道に行けば、一番下から上り直すことにもなるのじゃ。
今まで上ってきた事は帳消しになり、また最初から上らなくてはならないのじゃ。
修行者が今まで行ってきた法を止めて、別の方法を行ったりするのも同じ事なのじゃ。
今までやってきたことは帳消しになり、最初からやり直すことになるのじゃ。
一つの方法に専念すれば、次第にそれに習熟し、技も上達して、自らの心も知り尽くすことが出来るのじゃ。
いつまでもあれこれと別の方法ばかり探していれば、技も上達せず、心も観えないのじゃ。
例え才能は無くとも一つの方法を根気よく日々続けることで、悟りも向こうからやってくるのじゃ。
昔、シュリハンドクというあまり頭のよくない僧がおったのじゃ。
あまりに物覚えが悪く、兄にも見捨てられるような者であったが、お釈迦様が教えたただ一つの方法を続けることで、悟りを得て十六羅漢の一人にも数えられる目覚めた者となったのじゃ。
そのように物覚えが悪く、才能も無くとも日々一つの方法を続けることで、悟りも得られるのじゃ。
そして一つの方法に通暁すれば、他の全ての方法にも通じるようになるものじゃ。
一法は万法に通じ、万法は一法に帰すというのじゃ。
一つの道から登って山の頂上に立てば、全ての道が見渡せるようなものじゃ。
一つの道によって悟りを得れば、全ての法を説く事もできるのじゃ。
修行者は自分に合う方法を決めたならば、その道を一筋に精進することで最も速やかに悟りを得られるのじゃ。
そのように一つの道を辿って日々精進あるのみなのじゃ。
投稿日:2017-09-02 Sat
最近はマインドフルネスとか、気付きの瞑想について書かれた本などを善く見るようになったのじゃ。
自分に気付くのはよいことであるが、それを実行しようとしても大抵の者が失敗するじゃろう。
本に書かれている通りに自分を見ようとしても、五分後には別のことを考えていたりするものじゃ。
それも集中力が無いからなのじゃ。
集中力が無ければ観察も上手くいかず、心は雑念に巻き込まれてしまうのじゃ。
集中力を養う修行も必要なのじゃ。
数息観などはこのブログの記事にも書いてあるが、それが苦手という者も居るじゃろう。
そのような者は心臓や眉間などに集中するとよいのじゃ。
今回はそれを詳しく書くのじゃ。
先ずは眉間に集中する方法なのじゃ。
両目の間、少し上のほうに眉間はあるのじゃ。
文字通り、眉と眉の間なのじゃ。
そこに意識を集中するのじゃ。
しかし、集中する時に注意しなければならないのは、視線を眉間に強く向けないことなのじゃ。
眉間に視線を向けるとより目になり、普段使っていない筋肉や神経が疲れて頭痛がしたりするのじゃ。
それを避けるために視線は一メートル位先を見るようにして、意識だけ眉間に集中するのじゃ。
なかなか難しいが慣れれば出来るようになるのじゃ。
五分ぐらいするとよいのじゃ。
次は胸に集中する方法なのじゃ。
胸の真ん中のみぞおちより少し上に心臓はあるのじゃ。
そこに意識を集中するのじゃ。
この集中にもあまり視線を向けてはいかんのじゃ。
人間は自分が意識を向けたところに視線を向ける習慣があるからなかなか難しいが、日々続けていれば出来るようになるのじゃ。
胸に集中していると安心感が出てくるじゃろう。
人によっては体が熱くなったり、手が熱くなったりする者も居るじゃろう。
それらの反応に囚われずに、ただひたすら集中するのじゃ。
集中が強くなれば自分がそこにいるような感覚にもなるのじゃ。
今まで体全体が自分であり、眉間や胸に集中していたが、自分が小さくなって集中している所に居て、体全体をみているような感覚なのじゃ。
それは集中によって対象と一体になった感覚なのじゃ。
それにも囚われずに続けるのじゃ。
更に集中すれば集中と集中するものを見ている意識に気付くじゃろう。
自分が自分の体から離れて見ているような感覚なのじゃ。
それは感情や思考が無い無念夢想の意識なのじゃ。
そのような意識に到達して初めて何の動揺も無く、自分の心が完全に観察できるのじゃ。
そこまで集中が高くなってから自分の心を見るようにするのじゃ。
そうすれば心の葛藤や逃避などもありのままに受け入れ、観察することが出来るのじゃ。
そして自分を変えることも容易に出来るようになるのじゃ。
ただ単に自分を観察するより、余計に手間がかかるように思えるかも知れんが、実はこのように集中力を身につけてから行うほうがより近道なのじゃ。
マインドフルネスとか気付きの瞑想で何の効果も無かったという者も、ちゃんと集中力を身につけてから行えば、効果もでるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
投稿日:2017-12-02 Sat
大抵の者は恐れや不安等から日常的に逃避しているものじゃ。
何か恐れや不安の対象があれば、それから目を逸らし、別の対象に耽溺することで観ないようにしているのじゃ。
数々の娯楽や時には薬やギャンブルや犯罪などもその逃避の対象となるのじゃ。
人がそのような悪習をなかなかやめられないのも、それが恐れや不安等からの逃避であるからなのじゃ。
例えば道に蛇が居てそれを恐れて逃避していれば、いつまでも目的地には着かないのじゃ。
蛇を恐れて逃避して娯楽に耽溺していれば、そのまま一生目的地にはつかないで終えるじゃろう。
更に逃避していることを認めないで、朝は眠いからとか、夜は日が暮れたからとか逃避したことをも逃避して認めないならば、どんどん欺瞞が心に積もっていくのじゃ。
そのように自分を誤魔化していれば、本心を観ることも出来ないのじゃ。
修行者にもそのような逃避はあるものじゃ。
自分の心の中の恐れから逃避して、修行が進めなくなるのじゃ。
自分が無くなる恐れや常識から外れるのではないかという恐れ等、さまざまな恐れからの逃避が障害となるのじゃ。
恐れから本心を観ることから逃避し、逃避したことも誤魔化してしまうのじゃ。
終には自己欺瞞と傲慢の故に修業もやめてしまうのじゃ。
多くの修行者がそのようにして悟りへの道から脱落して行ったのじゃ。
そのような恐れも観察によって無くすことができるのじゃ。
逃避しないでいようとか、逃避はやめようとか思わないでよいのじゃ。
ただ自分が逃避している事に気付き、恐れが原因であることを観察できればよいのじゃ。
逃避はその瞬間に消滅するのじゃ。
人が不要になった荷物を手放すように、恐れと逃避は自然に消えるじゃろう。
勇気を持って自分の逃避を観察しようとする以外に何も必要は無いのじゃ。
今まで逃避し続けてきた習慣を変えようとするのは、勇気がいるものじゃ。
しかし修行者は勇気を奮い起こして恐れに目をむけ、逃避を観察するのじゃ。
そうすれば障害はなくなり、悟りへの道を進んでいくことも出来るのじゃ。
投稿日:2018-01-02 Tue
修業のために心を観察しようとする時は、体になにか動きがあればそれも観察するべきなのじゃ。
今は心を観察しているから、体の働きは観察しないでおこうとか思わなくてよいのじゃ。
今ここに起こる事を注意深く全て観察するのじゃ。
それでこそ観察は完全になり、自我も観られるのじゃ。
例えば心を観察してお腹に反応が有るとか、喉がしめられるような感じが有るとか、そのような肉体の反応も全て観察すると善いのじゃ。
それもまた心の反応とも呼べるのじゃ。
心と体は完全に離れている訳ではないからなのじゃ。
心の動きはからだの反応としても現れるのじゃ。
心身は一つのものであるからそのような反応があっても当然なのじゃ。
それを無視していれば観察も不完全になってしまうのじゃ。
肉体を観察していて心に反応が有る事も珍しくは無いのじゃ。
肉体の記憶が心にも反映されるのじゃ。
例えば昔、転んで怪我をした傷を観察すると痛い想いが蘇ってくるとかのう。
そのような心の反応も肉体を観察する時に観るとよいのじゃ。
つまりは今ここで起こる全ての反応を注意深く観て、受け容れ、認識することが大事なのじゃ。
観察している時の心身の全ての反応に注意していれば、観察力も高まるのじゃ。
自我も認識対象への主体の投射として現れるものであるから、そのように全てに注意して観察していれば観察できるようになるのじゃ。
観察から余計なものを排除しようとすれば、自我も観えないのじゃ。
それは観察しようとする主体の観念であるから観察対象からは外れてしまうのじゃ。
自我は観察対象外の働きとして見過ごされているのじゃ。
しかし、常日頃から観察領域を広げていれば、それも観察対象のうちに入れることが出来るのじゃ。
常に全てに観察を加え、注意深く全てを観ようとすれば、主体の観念が働くところも観られるようになるのじゃ。
全てを観ようとすれば主体も全ての内であるから観られるのじゃ。
観察によって何を観るのかと、思い煩うことは無いのじゃ。
全てをありのままに観るのじゃ。
それでこそ悟りも向こうからやってくるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
投稿日:2018-05-02 Wed
観察とは本来そんなに難しいものではないのじゃ。
例えば道を歩いている時に、道端に花が咲いていると観ればそれも観察なのじゃ。
花びらが五枚在るとか、葉っぱが二枚とか観ればそれもまた観察なのじゃ。
そのように何でもありのままに観ればそれが観察であり、誰にでも出来ることなのじゃ。
今ここに在るものごとをありのままに観ることであるから本来は簡単なのじゃ。
しかし、人は記憶に依存している故に、観察も一度で終わり、記憶による認識が始まってしまうのじゃ。
先ほど観た道端の花も、少し経つとさっきの花だとか思って同じものと分別し、認識してしまうのじゃ。
実際には時が経って花が散ってしまったり、葉が落ちているかもしれんのじゃ。
そのような変化を観ずに、記憶によってさっきの花と同じと認識してしまうのじゃ。
それはもう観察ではないのじゃ。
記憶による分別になってしまうのじゃ。
このように観察は本来、簡単なことであるが、記憶に拠ってしまえば観察は観察ではなくなってしまうのじゃ。
そのような記憶による分別には注意しなければならないのじゃ。
心の働きを観察する時にも、そのような記憶による分別に注意しなければいかんのじゃ。
昨日観察した心の働きが、今日も同じく在ると思うのも記憶による分別となるのじゃ。
観察を日々続ければ心は変化していくものじゃ。
昨日観察できた心の働きも、今日にはなくなっているかもしれんのじゃ。
記憶によらずそのような心の働きの変化も、よく注意して観察しなければならんのじゃ。
毎日、自分の本心を初めて観るかのように注意深く観察していくのじゃ。
記憶による連想や雑念が生じたら、それに構わず流していくとよいのじゃ。
数息観等の集中の行が出来ていればそれも可能なのじゃ。
毎日観察を続けていると、やはり習慣化して過去と同じようになってしまうものじゃ。
昨日と同じ心の働きが在るだろうと思って集中すると、その働きを自ら作り出してしまうこともあるじゃろう。
それは観察ではなく観念遊戯なのじゃ。
毎日観察しているつもりでも、長く何の発見も無いというならば、そのような観念遊戯に陥っていないか、自らの状態を観察してみるのじゃ。
全力を集中して今ここにある心の働きを初めて観るかのように注意深く観察すれば、新たな発見も在るものじゃ。
そのようにして自我の働きが観られたならば、無我にもなるのじゃ。
そして記憶に依存していたことも気づき悟りも訪れるのじゃ。
投稿日:2018-06-02 Sat
驕りとは自らの知識や能力を過信して現実が見えなくなることなのじゃ。
長年学んだり修行したりしていると、それによって驕りが出てきたりするものじゃ。
驕りにかかると進歩も止まってしまうのじゃ。
驕りは自己イメージを肥大させて修行すらもやめてしまう原因になるのじゃ。
自分はもう十分に知っているとか、悟ったとか思ってしまうのじゃ。
それで修行をやめてしまえばもはや進歩することもなくなるのじゃ。
そのような驕りも原因があるから起こるものじゃ。
驕りの原因は大抵、劣等感なのじゃ。
自らを劣っているという観念があるから、逆に肥大した自己イメージを設けるのじゃ。
そのような者が謙虚に自分の本心を見て驕りに気付くのは困難なことじゃ。
自らが劣っているという観念から逃避している故に、原因を見出せないのじゃ。
劣等感を認めることが非常に辛いからのう。
実際にはその劣等感さえも植え付けられたものであったり、ただ虚偽の観念に過ぎないのじゃ。
虚偽の観念からの逃避から、驕りが起こり、修行も止めてしまうのは愚かなことじゃ。
修行者は気をつけなければいかんのじゃ。
自分はもう十分に知っているとか、修行などはもう必要ないとか思うならば、それは驕りでしかないのじゃ。
お釈迦様でさえ、日々自ら乞食をして家々を回り、時には断られたりしていたのじゃ。
毎日瞑想をして弟子達に模範を示していたのじゃ。
悟っても悟らなくても日々学び修行を実践するのが真の道なのじゃ。
未だ死を超えていないのに、実践を止めてしまうのはもはや苦から苦へと迷う虫や獣と変わりないのじゃ。
真の道を行く修行者は驕りに気をつけて進むのじゃ。
投稿日:2014-09-02 Tue
日々、瞑想を続けていくと、やがて思考も感情も無い意識に入るじゃろう。
何も無い状態によって、人によっては恐れや孤独感を感じるかも知れん。
しかし、その状態にこそ安らぎと喜びがあるのじゃ。
世間の喜びというものは、物や地位や人を得たりする事にある。
それは確実に見えるが、得ても不安は消えずやがては消えて行くものじゃ。
瞑想の喜びは世間の喜びと違い、何も無い所にあるものじゃ。
思考も感情も無くなった意識に、安らぎと喜びがあるじゃろう。
それが瞑想による無の喜びなのじゃ。
何かを得る訳ではないから、無くす事も無いのじゃ。
世間の喜びとは違う故に、恐れや不安を持つ者も居るかも知れんが、それこそが確実なものであると知れば、真の喜びと安らぎに入れるのじゃ。
思考も感情も無い瞑想の境地に、安らぎと喜びが感じられるじゃろう。
一度、その境地に至れば深い安らぎと喜びが比べる事も出来ないものと知るじゃろう。
一度瞑想を止めても、再び入れば叉安らぎと喜びを感じるじゃろう。
瞑想によって辿り付いた安らぎと喜びは、確かなものとして身に付くのじゃ。
瞑想がもたらす無の安らぎ喜びは、更に深く、深くなっていくじゃろう。
そして自分という観念も無い状態にまで至れば、安らぎと喜びは一層深くなるのじゃ。
自分と言う観念すらない意識では、もはや過剰な防衛観念が無くなりもっとも深い安らぎが訪れるじゃろう。
そして人の知る限界を超えた喜びが訪れる。
もはや己が消え去り安らぎと喜びそのものになるのじゃ。
安らぎと喜びだけが残り、後は何も無いのじゃ。
そして更に心の悟りを得れば安らぎと喜びは永遠に尽きないものとなる。
極め尽くす事も出来ない安らぎと喜びが永遠に続くのじゃ。
お釈迦様でさえ時に瞑想の安らぎと喜びを味わい、瞑想を楽しむようにと言ったのじゃ。
修行者は瞑想の安らぎと喜びを楽しみ、永遠に苦を滅した境地に参入するのじゃ。
投稿日:2014-10-01 Wed
自我の厭離を願う者は、無我への恐れと不安を無くす事で、無我への道が開かれるじゃろう。
自我を己と思い、無我になるとは己を無くす事であると過って思っている者には、無我への不安と恐れも生じるのじゃ。
無我に進むには、それを無くす事が重要に成るのじゃ。
人が自我を自分であるとか、主体であると想うのは、子供がおもちゃの人形を自分の分身と想うのと同じ事なのじゃ。
人形を自分の一部であり、己の身の分身と思えば、子供は人形を飾ったり、食べ物を食べさせようとしたり、寝かせたりするじゃろう。
人形にそのような事が必要なのではないが、子供は自分と同じ者と見る故に、無意味な事をするのじゃ。
大きくなった人が金や権力や名声を求めようとするのも、実は同じ事なのじゃ。
観念である自我の名前やイメージを拡大するために、金や名声や権力を求めたりするのじゃ。
それらは老病死という現実には、何の力も持っていないのに、自我という観念を己と同じと想っているから、それをせずに居られないのじゃ。
そしてそのような不要な事をする為に、不要な苦まで生じる事に成るのじゃ。
金や権力や名声を求めようとして得られなければ苦が生じる。
それらを得ても、今度は無くさないかと不安が生じる。
そのように実際の現実には役立たず、不要な遊戯を繰り返して苦と不安を生じているのが、自我を自分と想う故なのじゃ。
自分ではない観念を自分と思い、余計な苦を抱えるのが自我を持つ無明なのじゃ。
そのような観念を自分と思う事が無ければ、余計な苦を背負うことなく、安らぎがあるのじゃ。
実際に無我となれば、無用な行いへの焦燥から離れ、深い安らぎがあるものじゃ。
要するに自我を持つとは子供が人形を自分と想うように、観念を自分と想う事なのじゃ。
そして本来必要ではないものを欲求し、余計な苦を抱える事でもあるのじゃ。
自我を己と思う事から離れれば、安らぎがあるのじゃ。
修行者はその事を良く知って、無我になる事への不安と恐れを超えて行くのじゃ。
投稿日:2015-02-01 Sun
善き修行者よ、この世には苦しみへの道と安楽への道が在る。
人を苦しめるのが苦しみへの道であり、人を喜ばせるのが自らも安楽になる道である。
この法則を知って実践し、安楽を付き従えるものとなるのじゃ。
善き修行者よ、人を苦しませるものでも稀に幸運に見舞われることも在る。
人を喜ばせる者でも不幸がくるときも在る。
しかし人を苦しめるものの幸運は長く続かず、人を喜ばせる者の不幸は直ぐに終わる。
そのような道理が在ると知って人を喜ばせるものとなるのじゃ。
善き修行者よ、人を苦しめる者の幸運は直ぐに終わり、再び自分と他人に苦しめられる。
人を喜ばせる者の不幸は直ぐに終わり、再び自分と他人によって喜びをもたらされる。
このような法を知って人を喜ばせる行いを積み上げるのじゃ。
善き修行者よ、人には多くの苦があり、お釈迦様はその苦を滅する法を説いた。
多くのものはその法を知らず、様々な苦にまとわりつかれながら一生を終わる。
法を知る者の幸運を逃さず実践に励み、苦を滅して安楽になるのじゃ。
善き修行者よ、この世の全ての宝を集めても、ただ一つの小さな苦さえも消すことはできない。
苦を滅する法を知って実践する者は、一切の宝を持つ王よりも幸運な、苦を滅した安楽を味わう事が出来る。
実践によって一切衆生もうらやむ境地に至るのじゃ。
善き修行者よ、全ては心によって作られる。
心を制したものは全てを制するに至る。
心を制する実践を行えば、全ての苦も無くなるのじゃ。
善き修行者よ、日々の精進によって悟りへの障害はなくなり、煩悩も滅する。
実践に励む修行者には真の悟りが約束されている。
不死の境地に到達して修行者は、苦に悩む衆生を助ける者となるのじゃ。
善き修行者よ、実践に励む修行者を目覚めた者は常に認め、賞賛する。
そのような修行者こそ菩薩であり、衆生を本当の安らぎへと導ける。
自らの経験と智恵により、衆生をも慈悲によって導くのじゃ。
善き修行者よ、善を行い、苦を滅し、悟りを得たならばもはや一切の憂いがなくなり永遠の喜びとともに在る。
その時、全ての苦しみは購われ、全ての努力は報われ、全ての存在が証される。
生まれて生きたことによる最高の成果を受け取り、目覚めた者と呼ばれるのじゃ。
投稿日:2015-04-02 Thu
例えばここに大きな樹があるとしよう。
大地に広く深く根を張り、多くの枝と、数え切れないほどの葉を持っている。
春には葉をつけ、夏には花を咲かせ、秋には実を結び、冬には葉も花も実も全て落とすじゃろう。
しかしまた春になれば葉をつけるじゃろう。
その葉や花や実の一つ一つが衆生であり、生き物の姿なのじゃ。
それらの葉や花が意思を持ち、自分が個体だと思う事から輪廻も始まるのじゃ。
大樹の葉は樹から離れてあるのではない。
枝を通して樹に結びつき、それがなくなれば葉としての存在もなくなるじゃろう。
生き物も本来、呼吸や食物や空間を通して環境と繋がっており、離れてはその存在もなくなるのじゃ。
周囲から離れた個体と思うことが無明であり、謬見なのじゃ。
春についた葉が冬には落ちれば、存在が消滅したと思う。
しかし同じ枝に去年と同じ葉がつけば、生まれ変わった、同じ個体が新しく生まれたと思うのじゃ。
それが人の輪廻と同じなのじゃ。
本来、個体は無いが、同じ記憶を持つ意識が肉体を持てば生まれ変わったと思うのじゃ。
意識は樹の本体であり、枝と同じようなものじゃ。
それを通じて肉体は存続し、それが無くては肉体は滅ぶものであり、本来のありようそのものなのじゃ。
ここで葉の一枚が意思を持ち、自分だけが得をしようと日の光を独占し、他の葉の迷惑も考えずに広がったならば、樹はその葉をむしろ落とそうと思うじゃろう。
一枚の葉のために全体が迷惑すれば、樹の意識はそのように働くのじゃ。
人も悪行をなして他人を害し、反省することなければ滅びるのも早いものじゃ。
個体であるという考えから生まれる欲とは別に、意識は知恵を持ってその肉体を滅ぼそうとするから自ら消えていくのじゃ。
逆に一枚の葉が他の葉をも助け、それらを繁盛させようとするならば、樹はその一枚の葉をもっと助けようとするじゃろう。
その葉を広げ、枝を伸ばし、全体のためになる働きを助長しようとするのじゃ。
それと同じように人も他人を助け、慈悲によって接するならば、福楽は自らやってくるようになるのじゃ。
全ての意識と智慧がそのような者を助け、繁栄させようとするのじゃ。
そうであるから世において福楽を求める者は慈悲によって人々を安らがせ、喜ばせる行いを積み重ねるのじゃ。
そうすれば自らも福楽を得られるじゃろう。
特に肉親や身内に慈悲をもたらすのは優しいが、他人にも慈悲を示すのは難しいものじゃ。
つけいれられないようにとか、だまされないようにとか、見知らぬ他人には気をつけろと教育されても居るから、より困難ではある。
しかし見知らぬ他人にこそ、よく気をつけて慈悲を行うべきなのじゃ。
他人もまた同じ樹に繋がる葉の一枚一枚であるが故に、身内と同じように慈悲を示すのじゃ。
そして葉の一枚が自らの生じては散る苦のありように絶望し、そのような状態から逃れようとして目覚めれば、独立した葉というものがないと知る。
自らが一枚の葉だけの存在ではなく、花も実も細い枝も太い枝も幹も根も全てが一つであったとわかるのじゃ。
一年毎に生じては散る自らの性質も変化していく法の一つであったとわかるのじゃ。
もはや葉としては生じることも無いようにできるのじゃ。
そのように人も一切が苦にしかならない世に絶望して一切を捨てて修行に励み、目覚めれば個体であるという認識が謬見であったことを知る。
自我が無く、認識をも滅すればもはや一切がひとつの意識であったと感じるのじゃ。
輪廻も又変化していく永遠の意識の表れと知るのじゃ。
そしてもはや個体として生まれることも無い永遠の喜びである涅槃にも入れるのじゃ。
そのように人として福楽を求める者も、修行者として悟りを求める者も、自らが他と離れたものではなく、今ここでも常に全てと繋がりのあるものとして心がけるのじゃ。
迷った時や、不安な時や、恐れのある時、常にこのような例えを思い出して進むのじゃ。
投稿日:2015-08-02 Sun
人が持つ自分の言葉とイメージには、自らの予定する行動も入っているものじゃ。
良い言葉とイメージを持つ者には、良い行動をするという予定があり、悪い言葉とイメージを持つ者には、悪い予定の行動が入っているのじゃ。
そのために人は福楽を願いながらも、自分を苦しめたりするのじゃ。
例えば駄目な人間と親や周りの者に言われて、そのような言葉とイメージを受け入れてしまった者は、その言葉とイメージ通りに行動しようとするじゃろう。
仕事とか勉強でも何をしても駄目になるとか、少しうまく行っても自分から駄目にしてしまうのじゃ。
まれに成功したとしても自分で事件や事故を起こして、やはり駄目だったと自分の言葉とイメージを正当化してしまうのじゃ。
そのような者は世間によくいるのじゃ。
商売で成功しても法律違反をして刑務所に入ってしまう者とか、博士になったのにちかんなどをして逮捕される者とか幾らでもいるのじゃ。
そのような者達も自分の言葉とイメージが、悪かったからなのじゃ。
そのために言葉とイメージの通りに行動し、成功を失敗に変えてしまったのじゃ。
そのような言葉やイメージも自ら受け入れているのであるから、自ら滅する事も出来るのじゃ。
日頃から自分の心を観察し、自分が受け入れている言葉とイメージを良く知っていれば、そのような事も避けられるのじゃ。
お釈迦様も心を浄めるのじゃ、とか、心を整えるのじゃ、と言っているのじゃ。
心は観念によって働くものであり、観念は言葉とイメージで成り立っているのじゃ。
観察によってそれは滅する事も出来るのじゃ。
しかし、大抵の者は自分に悪い言葉とイメージを持っていても、それを自分で見ないようにしているものじゃ。
自分から自分の言葉とイメージを隠し、無理に良い言葉とイメージを作るのじゃ。
例えば意味も無く知識を蓄えて自慢したり、自分だけが他人の知らないことを知っているとか妄想したりするのじゃ。
そのような二重構造の謬見で自らを苦しめているのじゃ。
最初の自分が駄目な人間とかの言葉とイメージも、実際は謬見でしかないのじゃ。
自ら受け入れなければ苦になる事も無いのじゃ。
そのような者達は、自らの限界を知る者よりより大きな混乱があり、心を隠す習慣の為にそのような苦を滅する行も受け入れがたいものじゃ。
先ずは自らの心にある劣等感や卑小感を認め、そのために過大な言葉やイメージを作り上げていたと、認めるが良いのじゃ。
劣等感等も本当は観念妄想に過ぎないと、気づけばもはや自ら知識を自慢する事も無いのじゃ。
集中と観察によって少しずつでも自らの心が観られれば、大きな混乱も収まってくるのじゃ。
そのように修行者は真摯に心を見つめて励むのじゃ。
投稿日:2016-07-02 Sat
世間には多くの知識が溢れておるが、最も重要で有効な知識は自分自身の性質の知識なのじゃ。
自分がどのような性質のものであるのか、知る事が生きる為にも最も役立つのじゃ。
自分の性質を知らないまま、多くの人と同じように自分もしようと思っていると。苦や迷いが起こるのじゃ。
例えば自分はにんじんが嫌いな者であると、知っただけでも買い物にはにんじんを買わないようにするとか、にんじんの料理は覚えないとかの選択が起こり、行動も起こるのじゃ。
多くの人にとってにんじんが善い物であるから自分も無理に食べようとすると苦が起こり、栄養のために食べるか食べないかというような迷いも起こるじゃろう。
そればかりかにんじんが食べられない自分に劣等感を持ったり、悪いものであるとさえ思ったりするじゃろう。
そのように自分の性質に対する一つの小さな知識だけでも、それがあれば苦は少なくなり、迷いもなくなるが無ければ苦や迷いがあるのじゃ。
一つの知識だけでもそうであるから、自分について知れば知るほど、苦は無くなり、迷いも減るじゃろう。
仕事を選ぶときや人生の目標を決める時なども、自分の性質を知ることで最も善い選択が出来るのじゃ。
世間でよい仕事であるとか言われているという理由で、嫌いな仕事を選べばやはり苦しむこととなるのじゃ。
先ずは自分の性質を知ることで、正しい選択も出来るようになるのじゃ。
仏家において見性と言われるのも、実には自らの性質を知ることに他ならないのじゃ。
自らの性質を見る故に見性と呼ぶのじゃ。
それもまた難しいものではない。
ただ今ここにある自らの性質を観察し、ありのままに認めるだけでよいのじゃ。
その積み重ねがやがて自我にも気付く道になるのじゃ。
姿形の無い自我を観るには、その働きや性質から観察するしかないのじゃ。
自らの性質を否定も肯定もせず、ありのままに観察する実践が悟りを招きよせるのじゃ。
お釈迦様が教え、インドから伝わった悟りを得る方法と聞けば、なにやら遠大なものと思うかもしれないが、何のことは無い自らの性質を観察して気付くというだけのものなのじゃ。
それは知識の多さや記憶力が優れていなければ出来ないというものでもないのじゃ。
むしろ真摯に一つの法を続ける事でも、気付きは起こるのじゃ。
昔、しゅりはんどくという者が居ったのじゃ。
自分の名前も忘れるというほどの鈍根の者であったが、お釈迦様に教えられ、心のちりを払う行をしていたのじゃ。
ある日、心のちりを持つという性質のあるものが自分であると思っていると気付き、悟りを得たのじゃ。
それこそ煩悩即菩提というものじゃ。
悟りの道を妨げる筈の煩悩やちりでさえ、自らの性質を知る手がかりになれば、却って悟りへの道となるのじゃ。
記憶や知識によるのではなく、自らの性質を受け入れ気付く事でそれも可能になるのじゃ。
自らの性質を知ることに勤めればこのように日常にも役立ち、終には悟りにも導かれるのじゃ。
修業者のみならず、安楽を求める全ての者は自らの性質を知る事に勤めるのじゃ。
投稿日:2016-12-02 Fri
仏教に限らず多くの宗教は愛を尊び、愛による行いを推奨するものじゃ。
お釈迦様は慈悲と言い、他者と自分を同じように扱うことを説いておる。
しかし、愛によって他者を苦しめ、自分自身も苦しむ事もあるのじゃ。
それは愛や慈悲と、執着を区別していないからなのじゃ。
愛や慈悲と執着は似ているが、まったく違うのじゃ。
愛や慈悲による行いは自他を幸福に導くものじゃ。
執着による行いは自他を苦しめるものなのじゃ。
例えば愛するものと別れる愛別離苦という苦があるのじゃ。
それは執着の故に苦になるのじゃ。
本当に愛しているだけならば、どんなに離れようと相手が安楽ならば苦にならないものじゃ。
今ここに無いことを悔やめば執着になり、苦を起こすのじゃ。
愛や慈悲とは相手をありのままに認め、今ここにある状態に満足する事なのじゃ。
執着とはありのままの状態を認めず、今ここには無いことを願うことなのじゃ。
愛するものと別れ、今ここにいればよいとか、過去にはここにいたとか、未来にここにいるようになるとよいとか、思うことが執着なのじゃ。
今ここにいる愛する者にも、今このようであればよいとか、過去にこのようにすべきであったとか、未来にこのようになればよいとか思うことが執着なのじゃ。
例えば子供に良い学校に入ればよかったとか、この先よい学校に入るべきであるとか、入られなければならない故に今は全てを犠牲にして学ばなければならんとか思うのが執着なのじゃ。
そのような執着があれば苦は自他に起こり、争いあう不和となるのも当然なのじゃ。
相手がどのような状態であろうと認め、慈しむことが真の愛であり慈悲なのじゃ。
相手の安楽を喜び、苦境にあれば哀れむのが慈悲なのじゃ。
それでこそともに助け合い、進歩していくことも出来るのじゃ。
愛や慈悲を実行しているのに、何故自他共に苦しむのかと迷う者は、このように愛や慈悲と執着を間違えていないか、よく観察してみるのじゃ。
その執着も不安や孤独感から起こるものじゃ。
自らの本心をよく観察し、愛や慈悲を行っているつもりで、執着していないか気をつけて進んでいくのじゃ。
投稿日:2017-01-02 Mon
絶望とは希望が絶たれた状態なのじゃ。
前途に希望がないと、絶望の余り何もしたくなくなったり、時に自分や他人を傷つけてしまったりする事さえあるものじゃ。
人が犯罪に走ったりするのもそれが原因の一つだったりするのじゃ。
そのような絶望もよく観察してみれば、滅することも出来るのじゃ。
自分に前途が無いとか、悲観しているよりその状態をよく観察してみれば絶望も実は幻想であったと気付けるのじゃ。
絶望にも原因があり、原因から観察できれば厭離されるのじゃ。
絶望の原因に多いのは恐れじゃろう。
例えば道に落ちている縄を蛇だと思い、道を通れないから仕事が出来なくて絶望するなどという事があるとしよう。
しかし、よく見れば縄だと気付いて道が通れるようになり、仕事も出来るようになるのじゃ。
そのように他人への恐れとか、仕事そのものに対する不安や恐れ等があって仕事が出来ず絶望していても、恐れの原因を観察してみれば、実は恐れそのものが幻想によるものだと気付いてなくなり、恐れも消えるのじゃ。
観察によって恐れが無くなり、仕事が出来るようになれば絶望もなくなるのじゃ。
そのようにして恐れによって絶望があっても、恐れを原因から観察して滅すれば絶望も消えるのじゃ。
更には自分自身のイメージが小さいために絶望に陥ることもあるじゃろう。
親等からあれも出来ないとかこれも出来ないとか言われて育つと、その者の自己イメージは矮小となり、本当に自分は何も出来ないと思い込むようになるのじゃ。
或いは親子共に依存していれば、親を正当化するために自分は無意識に失敗を繰り返し、無能力であることを証明する。
そして絶望してしまうのじゃ。
それらもよく自らの心を観察し、過去の記憶に縛られていたと気付けば消えるのじゃ。
例えば子供が遊戯で悪役を演じていたとして、遊戯が終わればもはや悪役を演じる必要もないと気付くようなものじゃ。
親兄弟との関わりで演じていた自己のイメージを離れれば、全て変わるのじゃ。
特にしばらく離れていれば自らを省みて気付く事も容易になるのじゃ。
他にも希望に強く執着していた為に、それを失ったという事で絶望に陥る事もあるじゃろう。
目標や希望を持つ事はよいことであるが、それに執着してしまうと却って苦になり、絶望したりすることもあるのじゃ。
余りにも高望みし過ぎて失敗したり、進歩が遅いと希望は絶望に変わり苦になるものじゃ。
そのような原因の絶望も観察によって滅するじゃろう。
希望することや目標を持つ事がいけないのではなく、それに執着しすぎると苦になり、絶望することにもなると、気付く事でそれも無くなるのじゃ。
そして結果に執着することなく、ただひたすらに新たな希望に向けて進んでいくこともできるじゃろう。
そのように絶望も詳細に観察することによって、滅することが出来るのじゃ。
日々実践に勤める修行者には絶望も、もはや無に等しいのじゃ。
賢い者は日常に於いても絶望を超えて進むのじゃ。
投稿日:2017-02-14 Tue
人間は同じような環境が続くと、いつまでもこのままでいられると思ってしまうものじゃ。
それにはこのままでいたいという願望もあり、真実を見ないようにしているのじゃ。
実際にはこの世では全ては変化してとまらないものじゃ。
世間では常にあるものは何も無いのじゃ。
それを無常とお釈迦様は教えたのじゃ。
全ての世間のものはやがて滅していく性質のものなのじゃ。
不安や恐れからそれを見ようとしていなければ、労病死の定めが訪れた時に嘆くことになるのじゃ。
それは目覚めた者の肉体も同じなのじゃ。
心は既に不死の境地にあっても、肉体は滅びていくものじゃ。
お釈迦様も涅槃に入り、その後の多くの目覚めた者達ももはやいなくなったのじゃ。
わしもいずれはいなくなるものじゃ。
それは予め定められたことなのじゃ。
仏陀も肉体がある間だけ存在し、道標になることが出来るのじゃ。
人として生まれ、正しい道を示す者が居る間に、修行できる環境にあることは実に稀なことなのじゃ。
稀な機会を逃せば後に悔やむことにもなるじゃろう。
この稀な機会にただひたすらに修行に励めば不死の境地にも至れるのじゃ。
お釈迦様が無常を説いたのも、世間を超えた所に無限の境地があるからなのじゃ。
修行者はこの有限の時間で無限の境地に至るまで精進あるのみなのじゃ。
投稿日:2017-10-02 Mon
修業の妨げになる煩悩は三毒と呼ばれるものじゃ。
貪欲、瞋恚、愚痴の三つなのじゃ。
貪欲は必要以上に執着し、求める欲なのじゃ。
執着は苦を次々に生み出し、修業の妨げになるじゃろう。
瞋恚は怒りなのじゃ。
一度怒れば長く興奮が続き、心を統一して観察する事もできないのじゃ。
最後の愚痴は今のように不満を言う事ではなく、愚かさなのじゃ。
自分があるという観念である無明こそが最も妨げになる愚かさであるのじゃ。
それは大きく見れば自分というものを知らない愚かさでもあるのじゃ。
自我が観念であることを気付かないのは最大の過ちであるが、それ以前に自己イメージが卑小であれば、悟りを得る可能性も少なくなってしまうのじゃ。
多くの者は自分のイメージが本当の実力より過小であると信じておる。
それによって自ら力を制御してしまうのじゃ。
昔みんなから頭が悪いと思われていた者が居ったのじゃ。
自分でも頭が悪いと思って低賃金の仕事ばかりしていたのじゃ。
ある時、IQを計ってみたら150という天才並にあったのじゃ。
自分が天才だとわかってからその者は会社を作って金持ち社長になったのじゃ。
そのように真実ではない誰かに与えられた自己イメージを信じてしまうと、実力も行いも制限されてしまうのじゃ。
それは修業の道にも影響してしまうのじゃ。
自分には到底悟りなど得られないと信じていると、その通りになってしまうじゃろう。
自分には出来る、自分にも悟りは得られると信じるとその通りになるのじゃ。
そのように大抵の者が自己イメージの低い原因は、子供の頃に親とかに叱られてばかりいたからとかなのじゃ。
親も子が憎くて叱るのではないのじゃ。
例えば交通安全を教えないと命に関わるからと、厳しく叱ったりして教えたりするのじゃ。
しかし、そのようなしつけによって子供は自分が駄目な者であるとか、信じてしまうのじゃ。
そのような心の働きは観察によって滅することが出来るじゃろう。
そして新たな信念を何度も繰り返し、心に植えつける事で変えることが出来るじゃろう。
今ここに生まれここで正しい悟りへの道を知り、信じて実行できる者は大いなる幸運に恵まれているのじゃ。
偉大な才能があり、修業を全うする事もできるのじゃ。
慈悲と勇気を持ち、智慧があり悟りへの高い志がある者じゃ。
やがて悟りを得て多くの者を助け、全人類の光となるじゃろう。
かつてお釈迦様の元で悟りを得た阿羅漢の聖者達のように多くの者に渇仰され、教えを授ける者となる。
人の世が続く限り人々が賞賛し、次の二千年以上もその名によって救いを求める者達の慈雨となるのじゃ。
それこそが今ここで修業する者達が正しい信念とするべきなのじゃ。
投稿日:2018-03-02 Fri
この世界に苦は尽きないものじゃ。
この世で苦を味わった事の有る者や、今苦の中にある者もいるじゃろう。
執着によって、身の病によって、貧窮によって、あらゆる苦がこの世に生きる者には襲い掛かるものじゃ。
果てしなく続くように思える苦に、人は時に絶望してしまうかもしれん。
この世で苦に悩まされた最後には、死の苦が待っておる。
誰もが逃れられない苦なのじゃ。
そのような一切苦のこの世に生きる意味はあるのかと、疑問にさえ思うかも知れん。
しかし、そのような苦の中に真の幸福への道は有るものじゃ。
人が苦に苛まれもはや今までの生活をも捨てて、新たな人生に脱却しようとする時、欺瞞を捨てて真の幸福への道は開かれるのじゃ。
苦は確かに人にとって忌むべきものであるが、大局を見れば人を進歩させるものとも言えるのじゃ。
苦がなければ決してしなかったであろう瞑想も、苦によって行うことが出来るじゃろう。
瞑想をすれば心は整い、智慧もわくのじゃ。
苦に負けない心が芽生えるのじゃ。
更に苦を滅する法を知れば、自らの行いによって苦を克服できることも知れるのじゃ。
苦は人を強く、賢くしてくれるのじゃ。
今苦の最中に在る者にはわからんかもしれん。
そのような法より今有る苦をどうにかしようと、酒や薬やさまざまな逃避に走ってしまう者も居るじゃろう。
しかし、逃避は苦をますます強くするだけなのじゃ。
逃避によって苦がなくなることは無いのじゃ。
むしろ逃避に執着する苦が加算される故に、ますます苦が強くなるのじゃ。
そのようにして人は苦から苦へと逃避し続け、何をして良いのかもわからない迷いに陥るのじゃ。
苦は逃避によっては決してなくなりはしないのじゃ。
そのことをはっきりと知って逃避をやめることが出来れば、真の苦を滅する法を行うことも出来るじゃろう。
正しい法に従って観察すれば苦は滅することもできるのじゃ。
苦は心に有る故に心を観察すれば苦は滅するのじゃ。
たとえ身の痛みであっても、観察する事でそれが苦にはならないのじゃ。
痛みよりも痛みによる不安、恐れが苦になるのじゃ。
痛みは痛みだけのものと知り、それが自分ではないことに気づけば苦にはならないのじゃ。
お釈迦様がこの世は一切が苦であると説いたのも、苦を滅する道が有るからなのじゃ。
例えば冬に降り積もった多くの雪は何をしても消えることは無いが、春になれば忽ち全て融けて消えるように、逃避に拠ってなくなることの無い苦も正しく観察する事で全て無くすことも出来るのじゃ。
正しく苦を観察し、苦が原因から起こる事を観察し、原因が無ければ苦が起こらないことを観察すれば苦は春の雪のように跡形も無く消えていくのじゃ。
そして更に苦の根本原因である自分が有るという観念をも観られたならば、自我もなくなるのじゃ。
更に認識をも観察すれば苦を起こす観念も無くなり、永遠の安らぎへと導かれるのじゃ。
そこまで達すれば一切の苦は永遠に無くなり、不死の境地に辿りつくのじゃ。
その時にこそ苦は人が超越するためにあったと言えるのじゃ。
投稿日:2014-11-30 Sun
禅宗三祖僧璨禅師の信心銘を現代語で解説したのじゃ。
初心者には難しいかも知れんが、修行の道に迷ったものには大いに参考になるじゃろう。
一度は読んでみると良いのじゃ。
01 至道無難 唯嫌揀択 但莫憎愛 洞然明白
至上の道と言うのは難しいものではなく、ただ分別を嫌う。
ただ憎愛の想いが無ければはっきりと明白なのじゃ。
これは修行の道というものが分別によらず、憎しみや愛好の思いをを棄てるところから始まる事を示しているのじゃ。
修行が難しいというのは日常で使う分別を、修行の道でも使おうとするからなのじゃ。
修行の道は日常と違い、分別をなくし、憎愛を消す所から始まるのじゃ。
02 毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆
ほんの僅かな分別による差別の心が有れば、天地の如くはるかに隔たる世界が生まれる。
ありのままの世界を捉えようとするならば、順逆の分別をもあってはならん。
少しの分別の心があれば、そこから我と他人、人と獣、社会と個人などの全ての世界が起こるのじゃ。
在りのままの世界を見ようとするならば、これが正しいとかあれが間違いであるとかの分別をも捨てなければならんのじゃ。
03 違順相争 是為心病 不識玄旨 徒労念静
あれは違う、それは正しいとかの争いが心に在れば、それこそが心の病なのじゃ。
その道理を知らなければ、静かな心も徒に消えてしまうじゃろう。
人々の中でも、己の心の中にも何が正しいとか間違っているとかの争いがあれば、それこそ心の病とするべきなのじゃ。
それらの心掛けを知らなければ、修行しようとしても徒に疲れてしまうだけなのじゃ。
04 円同大虚 無欠無余 良由取捨 所以不如
分別を棄てて天空のように心が円かになれば、欠ける所も余る所もない。
まことに取捨分別に依るが故に、意の如くならないという事があるのである。
そのようにして順逆とか憎愛の分別を棄てて心が天空のように丸くなれば、何かが欠けているとか、余り過ぎるというような思いも無い。
本当に取捨分別の働きによって、一切が思い通りにならないという不満が起こるのじゃ。
05 莫逐有縁 勿住空忍 一種平懐 泯然自尽
俗世間の縁を駆逐せんとしてはならん、空に住もうと忍耐してもいかん。
一つの根本の態度を平らかに抱けば、雑念は滅び、自ら尽きる。
修行のためと本心を隠して無理に俗世間を避けたり、自分に合わない空の法を無理に続けていてはいかんのじゃ。
むしろ分別の無い自らの根本に立ち返れば、雑念は自ら滅び、消えてなくなるのじゃ。
06 止動帰止 止更弥動 唯滞両辺 寧知一種
動く心を止めて、静かにしようとすればその止める働きが更に動きを起こす。
止めるとか動かすなとかの分別を働かすよりは、ただ一つの根本の態度を知るが良い。
瞑想のときに心を止めようとすればますます心が動き回るじゃろう。
そのような時には止めるとか動くとかの分別を止め、むしろ自らの根本を追及するのじゃ。
07 一種不通 両処失功 遣有没有 従空背空
自らの根本に通じなければ、何もかもいかんようになる。
有効な事をしようとすればなくなり、空の法にしたがって心を止めようとしても無理なのじゃ。
自らの本心、本性に還る事が無ければ、一切の法は意味が無いのじゃ。
自らに善い事をしようとしても上手く行かず、空の法をしようとしても駄目になったりするのじゃ。
08 多言多慮 転不相応 絶言絶慮 無処不通
言葉や考えが多くては法も心に作用しないのじゃ。
言葉を絶ち、考えも絶てば自らの本心にも通じるのじゃ。
言葉や考えが多くては本心に還る事は出来ず、いかなる法も効果を無くすのじゃ。
心の中での言葉や考えも絶てば、自分の本心に通じないという事は無いのじゃ。
09 帰根得旨 随照失宗 須臾返照 勝却前空
自らの根本に還れば一切法の意も得られるが、分別に従えばその根本をも失うのじゃ。
その分別を一瞬でも観察できたならば、一切の観念妄想に打ち勝ち、脱却する。
父母の観念にさえも触れない自らの根源に帰れば、一切の法も明らかとなり、悟りも得られるのじゃ。
記憶の照会による認識を行っていれば、その根本の姿も失なってしまうじゃろう。
しかし、その認識の作用も一瞬でもかえりみられたならば、自我を滅し悟りも得られ、観念妄想も無くなるのじゃ。
返照とはそのような認識の作用を見る気付きを言っているのじゃ。
10 前空転変 皆由妄見 不用求真 唯須息見
観念妄想が止まないのは皆妄見による。
それを放って置いて真実を求めようと努力するのは無意味なのじゃ。
ただ分別の見解を止めるべきなのじゃ。
人の観念妄想は己があると言うような妄見によって起こるのじゃ。
仏教では我見といい、それが無明そのものなのじゃ。
その妄見による妄想を放って置いて、真実は何かとか追い求めるのは無意味なのじゃ。
分別によって生じる妄見をやすめることこそ大事なのじゃ。
11 二見不住 慎忽追尋 纔有是非 紛然失心
有るとか無いとかの二元論を立てず、いつまでも囚われていてはいかんのじゃ。
これが正しいとかあれは悪いとかの見解に縛られていては、心も乱れ見失うのじゃ。
哲学者のようにさまざまな見解を追求していけば、論議は更に別れ自らの心も判らなくなってしまうじゃろう。
そのような自縄自縛の論理や見解があれば心も乱れ見失う故に、いかなる見解や依って立つ論理的な立場なども棄てるべきなのじゃ。
12 二由一有 一亦莫守 一心不生 万法無咎
二元論の見解も一元論に帰するものであるが、その一元の論理さえ守ってはいかん。
一つの論理も無くなれば、一切の法が滞りなく作用するのじゃ。
論理が収束して一つの見解に落ち着いたといえども、その見解さえも守ったり囚われたりしてはいかんのじゃ。
何らの論理も見解も心に無い時、心もまた根本に回帰し、一切の法が明らかとなり、欠けることなく働くのじゃ。
13 無咎無法 不生不心 能随境滅 境逐能沈
咎なければ法は無く、観念が生じなければ心も無い。
認識能力は世界が滅するに従って滅し、世界は認識能力が沈む事で駆逐される。
法が明らかに作用して心が観られれば、心の働きは止むじゃろう。
その時観念は生ぜず、観念が生じないからそれを対象とする心も起こらないのじゃ。
認識能力は境界を区別する力を失って止まり、境界を区別する事が無ければ認識能力も働かないのじゃ。
14 境由能境 能由境能 欲知両段 元是一空
境界は認識能力によって境界としてあり、認識能力も境界を認識する事でなりたっているからじゃ。
それら二つのありようを知ろうとすれば、一つの空として観ぜよ。
何故ならば認識は自他の境界を区別し、さまざまな万物を分別する事で成り立っている故に。
その区別された境界が更に認識を確固たるものに思わせ、疑いようが無いから認識と境界は互いにますます強め合っているのじゃ。
それら二つの仕組みを観察しようと欲するならば、一つの空なるものとして観察すべきなのじゃ。
15 一空同両 斉含万象 不見精粗 寧有偏党
一つの空として二つを等しく観察すれば、一切の認識するものが斉しく包含されているのがわかるじゃろう。
その特徴を探ろうとして観れば、偏りが生じ、見ることができないのじゃ。
心の内に深く秘められた認識と境界の仕組みを観察すれば、その中に一切のものごとが包含されているのがわかるのじゃ。
認識によって自他の境界があり、世界があり、万物の起こる縁となるのじゃ。
その世界が認識をますます強固とさせる故に、終わることがないのじゃ。
その働きをあまりにも集中して観察しようとすれば、自己同一化が起こり、観る事が出来ないのじゃ。
あくまでも両者を斉しく空なるものとして放念し、自ら起こるままに観察する事が肝心なのじゃ。
16 大道体寛 無難無易 小見狐疑 転急転遅
大いなる道の本体は広く、難しくも無ければ易しくも無い。
小さな見方や疑いがあれば、焦りや遅滞を招く。
本来の修行の道のあり方は大きな道が広く、行くのに難しいという事も無ければ、歩みが易しすぎるという事も無いのじゃ。
ただ囚われた見解や疑いがあれば、焦りや遅滞を招き、自ら迷妄に陥るのじゃ。
17 執之失度 必入邪路 放之自然 体無去住
そのように執着すれば度を失い、邪道に入る。
自然に放念すれば、本来去る事も住する事も無い。
修行の道や心に執着すれば心は鎮まることなく、邪道に陥るのじゃ。
心に囚われる事が無く、自然に心を解き放てば、心は居着く事も去る事も無く、鎮まるのじゃ。
18 任性合道 逍遥絶悩 繋念乖真 昏沈不好
自らの本性に任せれば、却って道に合致し、逍遥として苦悩を絶てる。
何事にでも念を繋ぐ事あれば、真の法と乖離し、昏沈して好くないのじゃ。
己の本心、本性を知り、それに任せて力を抜けば、心は却って安らぎ、苦悩も無くなるのじゃ。
なにごとも念を囚われていれば、法でさえ上手く働かず、智慧も働かない状態になって良くないのじゃ。
19 好不労神 何用疎親 欲趣一乗 勿悪六塵
好くないままに続ければ精神は疲労するから、何ものも遠ざけたり、親しんだりしてはいかんのじゃ。
修行の道をまっとうしようと想うならば、修行の妨げとなる六つの塵とよばれるものも無理に遠ざけたり、親しんでもいかんのじゃ。
そのような良くないままに修行を続ければ、瞑想をしても精神は疲労するばかりであるから、何かを遠ざけたり、親しんだりしようとしてはいかんのじゃ。
そうであるから真の修行をしようとする者は、身心の刺激となる色や音や香りや味や触感や法などの六つを憎んでもいかんのじゃ。
本来の教えではそれら六つを遠ざけるべきであるとされているが、それにさえも囚われれば却って良くないのじゃ。
20 六塵不悪 還同正覚 智者無為 愚人自縛
その六塵を憎んで遠ざけたりしなければ、却って修行の道に還ることにもなるのじゃ。
賢い者はそのように無理に六塵を避けようとせず為すがままにするが、愚かな者はそれらを遠ざけようとして却って自ら縛られるのじゃ。
六塵を憎んで遠ざけたりしないならば、それが却って修行の道としては正しい事にもなるのじゃ。
賢い者はそのように法にも囚われず、縛られず、あるがままにして修行の道を進むが、愚かな者は自ら法に縛られて苦悩するのじゃ。
21 法無異法 妄自愛著 将心用心 豈非大錯
それは法が間違いなのではなく、妄りに自ら愛着するのがいかんのじゃ。
それは心を以って心をあやつるのであるから、大いなる錯覚というものに違いないのじゃ。
六塵を遠ざけよという法が間違いなのではなく、それらにも妄りに自分から愛着するから、法によっての苦も起こるのじゃ。
執着する心を、心によって操作しようとするから、法が苦悩を起こすことにさえもなるのじゃ。
それは正に大きな錯覚としかいいようがないのじゃ。
22 迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 浪自斟酌
そのように迷いは心の乱れを生むが、悟れば好悪も無いのじゃ。
一切の二元の論は、自ら斟酌する故に在るのじゃ。
迷いや囚われがあれば法でさえも心を乱すが、悟れば好悪の区別も無くなるのじゃ。
それは全ての好悪や得失や是非などの二元論が、自ら分別し、斟酌するからある故なのじゃ。
23 夢幻虚華 何労把捉 得失是非 一時放却
夢幻や虚ろな花は、どのように労力を費やしても捉えられないのじゃ。
得失も是非も、まとめて一辺に放り棄てるのじゃ。
夢幻や幻覚の花は、どのように苦労しても捉える事が出来ないじゃろう。
そのような夢幻は、得る事も無ければ失う事も無く、好いものとすることも無ければ悪いものとする事も在りえない。
そのように一切の得失や是非などの分別も、夢幻として両方とも一度に放ち、脱却するのじゃ。
何故ならば得るという事があれば、同時に失う事もあり、是認する事があれば、否認する事も生じるからなのじゃ。
正に夢幻の花が得る事も失う事も無く、是認する事も否認される事も無いように、一辺に捨て去るのじゃ。
24 眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如
もし眼が寝ていないのならば、全ての夢が自ら除かれるように、
心にもし不異がなければ、一切の法は一つの如くなるのじゃ。
どれほど沢山の夢を見ていても、目を開けば夢は自分から消えるじゃろう。
そのようにもし心に、あれとこれが違う、異なっているというような分別が無ければ、全てのものごとが一つであると認識されるのじゃ。
25 一如体玄 兀爾忘縁 万法斉観 帰復自然
一如として本体をも無為となれば、俗世間も忘れ去られる。
全ての法は斉しく観じられ、自然に復帰するのじゃ。
そのようにして一切が一つと認識し、自らも無為に帰したならば、俗世間も忘れられるじゃろう。
一切が皆斉しく平等に観られ、在るがままに回帰するじゃろう。
26 泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止
その理由などを考えて、ああだこうだと比べてはいかん。
動きを止めれば動きは無い、止まる事をやめて動けば止まる事は無い。
法とはこのような理由でこうなるとか、ああなるとか理由などを考えてもいかんのじゃ。
例えば動いているものが止まれば動きという現象は無い。
ものが動けば止まっていると言う現象は無いじゃろう。
27 両既不成 一何有爾 究境窮極 不存軌則
止まる事と動く事の両方が成立する事は無く一つである事は無い。
究極の境地においては、もはや俗世間の論理などは存在しないのじゃ。
そのように止まる事と動く事が、二つとも一緒に成立すると言うことが無いように。
一切が平等の究極の境地は、俗世の規範を離れた所で成立するのじゃ。
28 契心平等 所作倶息 狐疑尽淨 正信調直
平等の境地に心を一つに止めて在るならば、所作は共に止む。
疑いを浄め尽し、正にまことの心をもって直く調うのじゃ。
平等の境地に一心に心を止めるならば、何事かを為すという事も無い。
それが無為の境地なのじゃ。
疑いはきよめ尽し、正にまことの心が真っ直ぐに整えられるのじゃ。
本心と離れた不浄の心はもはや一つも無いのじゃ。
29 一切不留 無可記憶 虚明自照 不労心力 非思量処 識情難測
一切の観念を留めず、記憶すべきものも無い。
無心にして自ら心を明らめ、心配事によって心を疲れさせない。
思量も及ばぬ境地であり、認識や感情も届かぬ深い境地に入るのじゃ。
一切の観念が無くなり、記憶すべきものも無いとは、記憶による認識を離れた真の悟りの境地なのじゃ。
記憶による認識の生み出す自我の観念や、そこから生じる一切の苦をも永遠に離れているのじゃ。
観念の無い心は虚ろであるが、自らの光で照らされている。
他の観念の対象によって満たされぬ心が、観念の無い無心の境地によって自ら満たされ、一切は光り輝くのじゃ。
そこにはもはや一切の苦も無く、心を疲れさせる事も無い安心の境地なのじゃ。
思う事も無く、認識や感情もそこには無いのじゃ。
そのような無認識の境地こそ真の悟りなのじゃ。
30 真如法界 無他無自 要急相応 唯言不二
そのような真理の世界には、自他の区別も無い。
要求に応じて言うとすれば、ただ不二と言うしかないのじゃ。
悟りを得て見る世界には、もはや自分とか他人と言う区別は無く、認識も無いのじゃ。
それ故に目覚めた者は自分と同じ事が他人もできると思ってしまうのじゃ。
その世界はもはや言葉には到底できないものであるが、要請に応じて無理に言葉にするとすれば、不二というのじゃ。
不二とは自他好悪得失等の区別無く、一切がただ一つの意識である事を表しているのじゃ。
31 不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗
不二にして皆同じならば、包含しないものとて無い。
全ての世界の智者は皆この本源に入ったのじゃ。
そのようにただ一つの意識が在り、皆同じと感じるならば、その中にこの世の一切が含まれているのじゃ。
一粒の砂から広大な大地まで、一つの雲から境界の無い天空まで、何もかも一つなのじゃ。
一切の世界の智者、目覚めた者達は、皆この本源の世界に入ったのじゃ。
それは本来の在り方であり、そこに回帰する事でもあるのじゃ。
32 宗非促延 一念万年 無在不在 十方目前
その本源の在り方には時の急迫も延伸も無く、ただ一瞬の念が万年の時間と同じなのじゃ。
在るという事も無く在らない事も無い、一切が目の前にある。
そこにはもはや時間の観念も無く、急がなければならないとか、まだ時間が在るとか想う事も無いのじゃ。
一瞬の念が万年の時間と等しく、三千の大世界とも同じと感じるのじゃ。
そしてもはや在ることも、在らない事も無く、一切が目の前に現れているのじゃ。
33 極小同大 忘絶境界 極大同小 不見辺表
極小と大は同じ、その境界も忘絶するのじゃ。
極大も小と同じ、その辺も見られないのじゃ。
不二であれば極小の砂粒さえ、大地と同じであり境界も無いのじゃ。
極大の天空も掌中の空間と同じなのは、その辺縁が表われないからなのじゃ。
何もかもが不二であれば、そこに境界は無く、縁も無いのであるから極大極小はいずれも同じなのじゃ。
34 有即是無 無即是有 若不如此 必不須守
不二であればものごとが有るということは即ち無いと同じであり、無いという事も有るのと同じと感じられる。
もしこのようにならないのであれば、未だ真の悟りには至っていないのであるから、その境地を守り続けてはいかんのじゃ。
そのように不二の境地に在れば、もはや有ると言うことと無いという事も全く同じに感じるのじゃ。
もしこのようにならないのならば、それは未だ小悟の境地であり、真の悟りには至っていないのじゃ。
そのような境地は守るべきではないのじゃ。
速やかに棄てて、真の悟りの境地を目指すのじゃ。
35 一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢
分別が無ければ一つの全てがあり、全てが一つであるのじゃ。
もしこのような境地にまで到達したのならば、もはや涅槃を究極していないのではないかという想いも要らんのじゃ。
分別を厭離して悟りに達したならば、一切が途切れる事の無い一つのものとして感じられるじゃろう。
肉体も一つのものでありながら一切と感じられ、一切は一つと感じられる。
それこそ究極涅槃の境地なのじゃ。
その境地にまで達したならば、もはや大悟徹底の境地であり、小悟に陥っているのではないかという思いも不要なのじゃ。
36 信心不二 不二信心 言語道断 非去来今
信とはまことであり、究極の真実、真理、悟りと同じなのじゃ。
まことと心は一つである。
まことと心が一つ在るのみなのじゃ。
その境地はもはや言葉では現せぬ、ただ今ここに在るのみなのじゃ。
人が求めるべき究極の真実、真理、悟りとは、人の心そのものなのじゃ。
それこそが人の求めるべきもの、知り尽くすべきもの、観察し尽くすべきものなのじゃ。
人が自らの心を求め、知り尽くし、観察し尽くしたならば、その時こそ究極の真実を知り、真理を得て、悟りに達したと言われるのじゃ。
心が真実そのものであり、真理そのものであり、悟りそのものなのじゃ。
それ故に心と別の所に真実や真理や悟りを求めてはいかんのじゃ。
それ以上にはもはや記すべき言葉は無いのじゃ。
ただ今ここに在るのみなのじゃ。
以上で信と心について記銘すべき事は終るのじゃ。
投稿日:2016-02-01 Mon
お釈迦様はこのように言っておる。
129、すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。
已が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。
130、すべての者は暴力におびえ、すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。
已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。
中村元訳 「ブッダの真理のことば」から引用
全ての衆生は生命を脅かされる暴力に怯え、死を恐れておる。
それ故に、自分の身にそのような暴力が加えられるのを厭うように、他人にも暴力を加えてはならないと教えておるのじゃ。
そのように他人に暴力を振るい、生命を取る事は悪い事なのじゃ。
善い事とは他人を守り、命を養う事なのじゃ。
時に邪な考えに囚われた者などは、他人を害するのが善い事と思う事がある。
そしてそのような邪な教えを受け入れ、多くの者が従う事もある。
自ら善い事と思うことをすれば、それが善い事になると邪に考えているのじゃ。
そのような者達が他人を害すれば、忽ち自らも害される事になるのじゃ。
そして何故、善い事をしているのに悪い事が起こるのかと愚かにも悩み苦しむ事になるのじゃ。
人が邪な考えで勝手に他人を害する事が善い事と思っても、実際は違うのじゃ。
人が何を考えようと、この世に於いて善い事とは、他者の命を守り養う事なのじゃ。
その原理から外れれば、どのような考えも邪なものとなり、その考えを持つ者を破滅させる事となるのじゃ。
時に人は大勢の意見に惑わされたり、邪な理論や政治的な理由によって、他人を害するのが善い事と思ったりする事もある。
時には善事を勧める筈の宗教でさえ、そのような邪な教えを広める事もある。
しかし賢明な修行者は実際にはそれは悪い事であると、はっきりと知り、自ら諌めるべきなのじゃ。
他人を害する者は自らも害されるじゃろう。
他人を守り養う者は自ら守り養われるのじゃ。
他人を害するような考えがどのように巧妙に説かれようと、決して惑わされてはいかんのじゃ。
それに惑わされて他人を害すれば、自らも滅ぶ事になるのじゃ。
修行者はそのように真の善い事を知って、自ら実践するのじゃ。
投稿日:2016-09-02 Fri
苦をもたらす執着は、ただ一つの原因から起こるとは限らないのじゃ。
いくつもの原因から執着が起こる事もあるのじゃ。
執着がかなえられぬことが執着を引き起こし、それが苦を大きくすることも在るものじゃ。
例えば子供の頃におもちゃを買えなかったから、今、いろいろなものを集めているが求めても得られない苦が起こるとかなのじゃ。
孤独感から親に執着し、その関係を維持するために自分がギャンブルなどに執着しては失敗し、無能の振りをするというのもあるのじゃ。
そのように執着から執着が起こり、苦を深くする構造が生まれるのじゃ。
縁起するという心の習性から、そのように次々に執着が生まれ、苦を深くする構造も出来てしまうのじゃ。
観察によってそれらも滅することはできるのじゃ。
しかし、執着の全てを無くすためには、そのような根本の執着の原因から観察しなくてはならないのじゃ。
執着の根本に自分の孤独感や不安があると、薄々わかっている者もいるじゃろう。
それを知っても何にもならないと、知る事を拒んでいたりもするのじゃ。
そのような状況でも勇気を出して、自らの本心を観察してみれば、執着による苦は消えるのじゃ。
今までわからなかった執着の構造を観察する時、それがやはり自分の心から起きていたこともわかるじゃろう。
原因は常に自分の心から起こるものじゃ。
他人や環境は根本的な原因ではないのじゃ。
自ら生み出した苦の連鎖が人を苦しめるのじゃ。
執着の原因から執着へと次々に因縁を観察し、追求していったならば、やがては苦の根本原因である自己という観念に行き着くじゃろう。
自分があるという観念から不安や孤独、恐れが生まれ、そこから執着が起こる。
その観念がない時、不安や孤独、恐れも無く、執着も無いと観察することが出来るじゃろう。
そのように観察できた時、お釈迦様の説いた四諦十二因縁の法が正しく実践できたというべきなのじゃ。
何度も何度もそのように観察できれば、自己という観念から離れることができるじゃろう。
自我を厭離し、無我に至ることができるのじゃ。
更に無我を認識するものさえも厭離できた時、大悟徹底の境地もやってくるのじゃ。
その時まで精進あるのみなのじゃ。
投稿日:2016-10-02 Sun
この世では慈悲をもって生きるのが一番よいのじゃ。
慈悲を基準にして行いをすれば、ほぼ間違うことはないのじゃ。
世間では真面目なことが善いとか、頭がよければよいとか言われるが、それだけではいかんのじゃ。
慈悲の無い者が真面目であれば、悪い法令なども真面目に実行してしまうじゃろう。
それによって虐殺なども起こるのじゃ。
法令や規律であるからと真面目に守れば、そのような事態に対応できないのじゃ。
慈悲をもって基準とすれば、そのような事はおかしいとわかるのじゃ。
幸福を求めて真面目に生きても、慈悲が無ければ不運にもなるじゃろう。
慈悲が無ければ真面目に生きてきたのに酷い目にあうこともあるじゃろう。
真面目なだけでは福楽を求めても無意味なのじゃ。
頭がよくても慈悲が無ければ他人を追い落として自分だけが得をする事も考え、実行したりするじゃろう。
それは一時は栄えても、いずれは自分を陥れることになる道なのじゃ。
慈悲を持って自他の利益を図ることが出来てこそ真の智恵なのじゃ。
世に言う情けは人のためにならずという格言も、今は人に情けをかけてはいかんというような意味になっているが、本来は人に情けをかければ自分に返ってくるという意味なのじゃ。
常に人の為に行動する善い者には、福楽が付き従うとお釈迦様も言っているのじゃ。
情けないという言葉も、慈悲の無い者のことなのじゃ。
今ではみっともないというような意味になっているが、本来は慈悲の無い者の事なのじゃ。
慈悲の無い者こそ世間において最も非難され、恥ずべき者であったのじゃ。
そのように慈悲を尊ぶための言葉が本来の意味を失うのも、競争や効率のために慈悲を蔑ろにしてきたからなのじゃ。
慈悲が無く競争や効率だけの世の中になれば、いずれは人間も要らないことになるじゃろう。
もはや機械や人工知能に任せた方が、より競争に有利で効率が良い事になるなるからのう。
競争や効率が一番重要である世界は、そのように最後には全ての人間が不要である世界になるのじゃ。
人間が居ない方がよい世界になれば、いずれは人間も速やかに消えていくのみなのじゃ。
人々が競争や効率を最も重視するのではなく、慈悲を尊ぶようになれば、そのような世界も訪れないのじゃ。
正に情けは人のためではなく、己のためであり、全ての人のためなのじゃ。
慈悲といっても人に金銭や物を与えたりする事ではないのじゃ。
優しい言葉をかけたりするのも立派に慈悲の行いなのじゃ。
そのように全ての者は慈悲の行いを実践して福楽を身に付けるのじゃ。
投稿日:2016-11-01 Tue
悟りを得れば各種の智恵は自ずから生じ、自在に使えて極まる所も知らないようになるものじゃ。
しかし、悟りを得なくとも、智恵は本来人の心の中にあり、使おうとすれば使えるものじゃ。
その智恵は悟りを得た者のように極まりないものではないが、限界があっても使い方を学べば人の助けになるじゃろう。
その前に知識と智恵の違いを知らなければならんのじゃ。
知識とは一切のものごとに対して人が持つ観念なのじゃ。
観念は記憶によるものであり、間違いもあったりするのじゃ。
なるべく正確な知識を持つために、日頃から観察や実験を繰り返さなければならんのじゃ。
智恵とは必要な時と場において知識を活用するものであり、又観察によって今ここにあるものごとの真実を明らかにするものじゃ。
例えば山に行く時は山の知識を出し、海に行く時には海の知識を出すものじゃ。
そして観察により知識の誤りも訂正することが出来るのじゃ。
自己の観念を離れた智恵を平等性智と呼ぶのじゃ。
自分の贔屓目とか恐れや不安を離れている故に、ものごとを正確に判定することが出来るのじゃ。
その智恵は普通の者にも使えるのじゃ。
自分の観念が薄くなる寝入る前とか、睡眠から起きた直後などにはこの智恵も働きやすいのじゃ。
大事な問題等はこのような時に考えれば、利害を離れた判断も正確に出来るのじゃ。
或いは一度問題を全て考え抜いた後に、わざと忘れるようにするのじゃ。
そうすれば智恵が自分という観念のない所で働き、自然によい答えが出るのじゃ。
まだ正確な答えが出ないうちに思い出しそうになっても、忘れるようにするのじゃ。
そうすれば十分に正確な答えが沸いてくるじゃろう。
悟っていなければ自分を離れた智恵にはなかなか到達し難いが、それでも工夫すれば使うことは出来るのじゃ。
更には観察智というものもあるのじゃ。
今ここにあるものごとを観察して理解する智恵なのじゃ。
止観を十分に練習していれば、既に観察による智恵は身についているのじゃ。
日頃から見慣れているものには観察もつい習慣的になって重要なものを見落とし易いものじゃ。
今ここにあるものを初めて見たような心がけで、十分に観察すれば答えは自然にわかるのじゃ。
特にいつもは見過ごしてしまうような小さなことや気にかかったことなどを深く観察することで、正確な答えに辿り着くことも多いのじゃ。
気になることはそれ自体が心によって導かれる正答であるからこそ、目を引くのであるからのう。
そのような智恵の使い方を知れば、悟りを得なくとも十分に智恵を発揮し、自らの問題を自分で解決することも可能なのじゃ。
問題のある者は自ら実践して確かめてみるのじゃ。
投稿日:2017-11-02 Thu
気付く事は厭離を起こす手段であり、観察の目的でもあるのじゃ。
観察し気付くことで人は真に変ることができるのじゃ。
何にも気付かないで変ることもないならば、それは観察ではなく観念遊戯をしている事になるのじゃ。
気付く事はサティと呼ばれ、念と訳されるものじゃ。
八正道も正しい観察から始まり、正しい念を以って終わるのじゃ。
正しく観察し、正しく気付く事で苦は滅し、悟りにも至るのじゃ。
気付く事を表すためには、よく朽ち縄の比喩が使われるのじゃ。
道に蛇が居て、そのために道を通れなかったが、よく観察してみれば朽ちた縄であったというものじゃ。
このような話がなぜ度々使われるのかといえば、この話こそが気付く事の重要性を物語っているからなのじゃ。
苦を滅することも、悟りを得ることも気付くことによって達成されるのじゃ。
気付くことがなければ苦は滅せず、悟りも得られないのじゃ。
苦は今心の中に在る原因から起こることに気付けば、その苦は滅するのじゃ。
例えば他人が怖い者が、その恐れが親からの虐待が原因であったと完全に気付く時、他人への恐れは無くなるじゃろう。
環境は全く変らないが、心の中の原因に気付く事で苦は消えるのじゃ。
或いは人が酒や薬やギャンブルに溺れていても、それが不安や恐れからの逃避でしかないと原因に気付けばやめられるのじゃ。
それは道に落ちている蛇が縄と気付く過程と全く同じなのじゃ。
気付く事で蛇が縄になるのではないように、苦の原因に気付いても環境は全く変らないが心は変容して安楽になるのじゃ。
苦の根本原因である自分という観念に気付くのも全く同じなのじゃ。
人は自らの名前とイメージに執着して、自ら苦を作り出しているのじゃ。
兵士は勇敢な自分という名前とイメージを作るために自他の命も捨てるのじゃ。
商人は金持ちの自分という名前とイメージのために金という道具を貯め続けるのじゃ。
政治家や慈善家も立派な自分という名前とイメージのために時間や金を費やすのじゃ。
それがかなってもかなわなくとも苦を増すばかりなのじゃ。
観念である自分の名前とイメージは架空のものであるから幾ら求めてもきりがないからなのじゃ。
そのような自分という観念も気付く事で滅するのじゃ。
名前とイメージが自分と想っていたと気付く事で、その認識から解放されるのじゃ。
そして無我にもなるのじゃ。
更に認識をも分別している心の働きに気付けば厭離されるのじゃ。
全てを分別する働きが消えた時、全ては一つである意識が実感されるのじゃ。
そのように気付く事が苦を滅する法の要であり、悟りへの道なのじゃ。
そうであるから心を極力鎮め、注意深く本心を観察し続けるのが仏法の実践なのじゃ。
苦を滅し、悟りを求める者はただひたすらに心を鎮め、観察を重ねて気付く事を多くするのじゃ。
投稿日:2018-02-03 Sat
悟りとは人が変じて別の何かになることではないのじゃ。
むしろ本来の状態に戻ることなのじゃ。
偽りの観念世界から真実の家に帰ることとも言えるのじゃ。
例えば金持ちの子が家に飽き足らず、どこか遠くへ旅に出たとしよう。
その子は厳しい世間で何年も暮らし、乞食に成り果ててうろつきまわっていたのじゃ。
持っている物は汚い破れた衣と、破れた地図とけものを打つ為の折れた杖と壊れたお椀だけなのじゃ。
どんどん流れて行き着いたのはかつて暮らしていた自分の家だったのじゃ。
しかしあまりに長くよそに行っていたために自分の家ということもわからなかったのじゃ。
金持ちの子はただ一日の糧となる食事を求めて、その家に行ったのじゃ。
その家の門を叩くと金持ちの親が出てきたのじゃ。
すると金持ちの親は直ぐにそれが自分の子供とわかったのじゃ。
親は子にこう告げたのじゃ。
「お前はわしの子じゃ。この門を入ればこの家も財産もこの地方の土地も全ておぬしのものじゃ。
しかし、この門に入るにはその汚いものを全て捨てなければいかんのじゃ」
すると子は直ぐに破れた衣を脱ぎ捨て、破れた地図も折れた杖も壊れたお椀も捨てたのじゃ。
そして門に入り、家も財産も土地も全てを自分のものとすることができたのじゃ。
悟りを求めるのも元からある本来の全てを取り戻すことなのじゃ。
それには今自分のものと思っているものを悉く捨てなければいかんのじゃ。
人が自分と思っている破れた衣のような自我。
破れた地図のような愚かさ。
獣を追うための折れた杖のような怒り。
壊れたお椀のような貪欲。
それらを捨ててようやく全てを得られる悟りの門に入れるのじゃ。
自我は衣のように人を守り、他人から見られる自分があると言う観念なのじゃ。
しかし、それは実は破れた衣のように心身を守れず、我執によって醜さをあらわすだけのものじゃ。
自分の名前とイメージがその本体であり、それらのために人は自らの心身を疲弊させ、壊すのも厭わないのじゃ。
その観念に囚われて全てを自分のものとしたいと思う醜さが現れるのじゃ。
それは捨て去ってよい薄汚れた観念でしかないのじゃ。
人の愚かさは破れた地図のようなものじゃ。
我執や囚われによって人は愚かさを保ち、自らの利益を図ろうとして却って迷い、苦しんでいるのじゃ。
それもまた必要な物ではないのじゃ。
怒りは折れた杖のようなものじゃ。
折れた杖でけものを打とうとしても役に立たないばかりか、自らを傷つけるものじゃ。
恐れから逃れるために人は怒りを起こすが、それは却って自らを傷つけるのじゃ。
そのような怒りも捨て去るべきものじゃ。
貪欲は壊れたお椀のようなものじゃ。
壊れたお椀に食物を入れても、こぼれてしまうからいつまでも一杯にならないのじゃ。
そのように欲は不安に拠って起こるものであるから、限りが無いのじゃ。
貪欲があればいつまでも満足することは無く、無駄に時間を過ごしてしまうのじゃ。
それも捨てなければ悟りの門には入れないのじゃ。
人がただ老病死の苦を逃れようとして悟りの道を行くのは、自分の家に一日の糧を求めて行くようなものじゃ。
そのために今自分であり、自分のものとしている全てを捨てれば全てが得られるのじゃ。
それは他から与えられるものではなく、自らが変ることでもなく、本来のありように回帰することなのじゃ。
そのような悟りによって全てと本質的に繋がり、永遠の安楽に到達するのじゃ。
修行者は実践によって確めるのじゃ。
投稿日:2014-11-01 Sat
お釈迦様はこのように言っておる。
153 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、
家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて。
あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
154 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。
汝はもはや家屋を作ることはないであろう。
汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。
心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
これはお釈迦様が何度も個我の観念を持って生まれ変わり、その元となったのが分別の作用であることを表しているのじゃ。
家屋とは自我であり、個我の観念なのじゃ。
それを作るのは作り手があり、それが観られればもはや家屋である自我は作られる事もないというのじゃ。
その家屋の作り手は五蘊では色受想行識の行であり、唯識では末那識にあたるものなのじゃ。
物事を分別する心の働きであり、りんごとかみかんとかの見分けをする認識の一部なのじゃ。
この物事を分別し、見分ける働きがある限り自我は生成されつづけ、輪廻も止まることなく続くのじゃ。
元々輪廻とは個我の観念のある者が、その個我が生死を越えてありつづけると思う故に起こるものなのじゃ。
個我の観念の無い者には輪廻もまた無くなるのじゃ。
誤った観念が無ければ個我は消え、真実である意識に回帰して不死の境地にもなるのじゃ。
個我の観念を成り立たせ、認識させるものが分別と言う心の働きなのじゃ。
我と他を分け、他と我の間に好悪の感情をもって順列をつける分別が自我の原因なのじゃ。
分別は肉体があるからそれが我であり、感覚や思考も我のものであるとか我であると認識させるのじゃ。
そして自分ではないものは他であり、その他の物も自分との好悪とか遠近によって分別されて個人の世界を形作るのじゃ。
それが人の心の作る世界なのじゃ。
禅宗三祖僧璨禅師も信心銘に書いておる。
「至道無難、唯だ揀択を嫌う、但だ憎愛莫ければ、洞然として明白なり。毫釐も差有れば、天地懸に隔たる」
「至上の道は難しいものではない、ただ分別を嫌い、愛するものとか憎むものとかの分別がなければ明白である。
ほんの僅かでも分別を用いれば、天地も別れるほどの差になる」
このように分別の心を用いればそこに我が起こり、世界もまた生じる事を表しているのじゃ。
その分別する心を止めるには、ただそれを観察するだけで良いのじゃ。
「家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。
汝はもはや家屋を作ることはないであろう。」
と、お釈迦様も言うとおり、その作用はただ観られるだけで、もはや二度とは起こらなくなるのじゃ。
自己同一化が観察によって消えるからなのじゃ。
目覚めた者本人が仮に使用する場合は使う事も可能であるがのう。
その作用は素早く観難い故に、一切は空であるとして分別の作用を止める方法も存在するのじゃ。
一切を空として僅かでもその作用が止まるか、動きが鈍くなれば観察も多少は容易になるのじゃ。
素早く観難い分別の働きも、日々の修行によって滅する事もできるじゃろう。
修行者は分別をも観るために日々精進し、実践に励むのじゃ。
投稿日:2015-05-02 Sat
お釈迦様はこのように言っておる。
63 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。
愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
賢者とは自らを愚と知る者であるという。
なぜならば人がこの世で最もよく知らなければならない事は、自分自身についてなのであるからなのじゃ。
たとえどれほど多くの知識を持っていたとしても、自分自身について正確な事を知らなければ、賢いとはいえないのじゃ。
自らが愚であると知れば、それが即ち自らについて知り、賢者ともなるのじゃ。
自らの愚から眼をそむけ、自分が賢いという偽りの言葉とイメージによる観念をもって自分を騙しているならば、どれほど多くの知識が在っても賢者ではないのじゃ。
自分を偽ってる限り進歩は無く、何処にもいけないのじゃ。
例えば旅行に出ようとする者が、資金も目的も持たないようなものじゃ。
そのような者は結局何処にもいけないのじゃ。
同様に自分を偽っている者は、自らの今の状況を判っていないために、進歩できないのじゃ。
自分の今の状況を知り、どのようになりたいのかはっきり知ってこそ進歩はあるのじゃ。
今の自分が愚かな者ならば、愚かであると認め、受け入れて自覚する事で、もはや自分について知る賢者となり、進歩もすることが出来るのじゃ。
今の自分が弱い者ならば、弱い者と認め、受け入れて自覚する事で強き者ともなるのじゃ。
今の自分が嘘をつく者であるならば、嘘をつく者であると認め、受け入れて自覚する事で正直な者にもなれるのじゃ。
今の自分が悪事をする悪人ならば、悪事をする悪人と認め、受け入れて自覚する事で善事をする善人にもなれるのじゃ。
最初に今の自分の状況を受け入れて自覚する事が大事なのじゃ。
それは苦を滅する道にも通じるのじゃ。
今まで劣等感や他人との比較などの観念が原因で、自分を過大に偽っていた者には苦しい事かも知れん。
しかし、勇気を持ってひとたび自分を受け入れれば、大きな喜びが待っているのじゃ。
多年にわたり原因がわからず苦しんでいた事も、それで無くなるかもしれん。
自分を率直に認める効果は、それほどに大きいものじゃ。
そうであるからお釈迦様も自らの愚を認める者は賢者であると言うのじゃ。
修行に励む者は、自らを認めて賢者となるのじゃ。
投稿日:2016-04-02 Sat
人の苦は過去の原因によるが、今の選択の結果にもよるものじゃ。
過去の原因が今も効果を及ぼすのは、今自分自身がそれを受け入れているからなのじゃ。
それに気づけば今の苦も滅する事が出来るのじゃ。
過去の原因から人は自分を駄目な者とか、汚い者とか、怠惰な者とか、生きる価値の無い者とか信じ込んでおる。
それらは過去の原因からのものであるが、今それらを信じることを選択し続けているのは自分なのじゃ。
もはやそれを信じないとするならば、それらの信念がもたらす苦は軽減されるのじゃ。
完全に滅するには原因から観察しなければならないが、今苦しむ者には効果があるものじゃ。
それには先ずそれらの信念が、自らの選択権によってある事を認めなければならんのじゃ。
他人のせいにしていては、自らの選択権は発揮できないのじゃ。
例えば船に乗る者が梶棒のそばに居ながら、「自分には責任がない」と船の方向を変えるのを拒否しているようなものじゃ。
自分の責任によって船の方向を変えるのを拒否している事になるのじゃ。
そのように何でも他人のせいにしていては、自分で信念を変える選択を拒否している事になるのじゃ。
自分の責任による選択を拒否しているから、目の前にある信念を変える能力も気づかないのじゃ。
今の自分の信念は、今の自分の選択によっている事を認め、どのような結果になろうと信念を変える事による責任を引き受ける覚悟をしなければ、信念を変える事は出来ないのじゃ。
一度その覚悟が出来れば、信念を変えるのは簡単なことなのじゃ。
先ずは「今の自分の選択によって信念はあり、それを自分で変えることが出来る。
その結果についても自分が全ての責任を負う」
と、言葉に出して言うか、強く念じるのじゃ。
そうすれば信念を変える能力が自分にあることがわかるじゃろう。
そして「自分はもう自分が駄目であるとか汚いということを二度と信じない」
と、言葉に出して言うか、強く念じるのじゃ。
同時に駄目な自分のイメージ、汚い自分のイメージなどを理想の自分のイメージに変えるのじゃ。
そうすれば変わっていくのを感じるじゃろう。
更にその駄目な自分や汚い自分に対する名前などが付いていたら、それも理想のものと変えるのじゃ。
だめ男というのならば好男にかえるとかするのじゃ。
人は自分の名前とイメージによって自分を認識している故に、そのように名前とイメージを変える事によって変化して行くのじゃ。
これらの行を駄目な自分の名やイメージが思い浮かぶ度に、何度も何度も行うのじゃ。
そのように苦を軽減して、心が落ち着いたら観察によって完全に滅するとよいのじゃ。
実践によって確かめるのじゃ。
投稿日:2016-08-02 Tue
老病死という人の持つ根源的な苦の内、未だ悟りを得ず老死は防げなくとも、病は自らの努力でかなり防げるものじゃ。
人として生まれた幸運を生かし、修行に励むならば肉体の健康にも留意するのが賢い者の執るべき道なのじゃ。
健康について学び肉体について知ることは又、自分を知る事にも繋がるのじゃ。
肉体が一つの機構を持って働いている事が判るじゃろう。
肉体について学ぶ事が無く、何も知らないまま、病気になってから慌てるのは賢い者とは言えないのじゃ。
修行に限らず人生においてやり遂げたい目的のある者は、全て健康に留意して日を送るべきなのじゃ。
そうすれば目的を果たせないまま病に倒れるという事もなくなるのじゃ。
健康に役立つ方法としては西式健康法とか、天真療法とか、気功法、ヨーガなどがあるのじゃ。
いずれも合理的に考えられ、実行して効果のあるものじゃ。
わしも自ら試して効果を検証したのじゃ。
現代の医学も勿論、活用して良いのじゃ。
既に現代の医学では治せないと知れば、これらの健康法を試してみるのじゃ。
世間には疑わしい金儲けの為の健康法なども多いが、これらは実際に効果があり、無料で学ぶ事が出来るのじゃ。
しかし、他の健康法も自ら試して効果があるならば、否定する事も無いのじゃ。
大体少し試して快いものならば、肉体が喜んでいるから正しいものの可能性も高いのじゃ。
病に対して効果がなければ意味は無いがのう。
そのような事に留意して、健康法も研究してみると良いのじゃ。
そのようにして自分の体によって試した健康法は、他人にも薦めることが出来るのじゃ。
それも他人の利益を図る善事と言えるのじゃ。
といっても無理に勧めるものでもないのじゃ。
病に苦しむ者が助けを必要とした時に教えると良いのじゃ。
そのように自らの健康に常に留意しておく事は、他人の助けにもなることじゃ。
自他の利益を図る仏道にも叶っているのじゃ。
そうであるから全ての者は、生きて目的を果たし、他者をも助ける為に健康に留意すると良いのじゃ。
投稿日:2017-06-02 Fri
大乗とはお釈迦様の死後に創られたものであり、お釈迦様の真の教えとは異なり、過誤が多いものじゃ。
真の悟りを得たお釈迦様の英知に及ばない者達が作り上げた故に、お釈迦様の教えを広めるつもりで逆に間違いを広める羽目に陥っているのじゃ。
その間違いの中でも次の六つのものが最も愚かであり、人々が広めたり、従ったりしてはならないものなのじゃ。
① 生まれつきの身分による差別。
これは所謂インドのカースト制度と呼ばれるものじゃ。
お釈迦様は明確にこれを否定しておる。
しかし、大乗ではこれを承認しておる。
このことは明らかな誤りであり、お釈迦様の教えからも、今日の人道上の常識からも外れておる。
大乗を作った者達が実際にはお釈迦様の教えをよく学ばず、理解せず、間違った教えを信奉していたせいじゃろう。
元々、お釈迦様の時代の古い教えであるヴェーダでは、倒れた巨人が人の元となり僧侶の階級であるバラモンが頭から生じ、武士であるクシャトリアが手から生じ、商人のバイシャが腹から生じ、労働者階級のスードラが足から生じたとあるのじゃ。
この暗喩はそれぞれの身分の者が社会で果たす役割を示しておるのじゃ。
バラモンが精神的な指導をして、武士が敵を防ぎ、商人が社会を豊かにして、労働者が社会を進ませるというような意味なのじゃ。
社会役割説なのじゃ。
各々が役割を分担するだけで、それぞれの階級に上下の差は無いのじゃ。
お釈迦様はこれを正確に理解し、役割を果たさなければバラモンもバラモンではなく、それぞれの役割に上下もないと正しく教えたのじゃ。
しかし、後の愚かなバラモン達が新しいヴェーダを捏造し、身分は生まれつきのものであり、バラモンが一番偉いと我田引水の教えを広めたのじゃ。
そのように間違った教えを広め、定着してしまった故にインド人達は今も苦しみ、嘲笑を受け、非難を浴びているのじゃ。
その過ちを大乗は受け入れ、正しいものとしておる。
これは明白な誤りとして退け、捨てなければならないものじゃ。
これこそ大乗の最大の誤りと言えるのじゃ。
② 女子が悟れないという誤り。
大乗では女子は悟れないというのじゃ。
法華経では竜女が一度男になり、それから悟ったなどという無理な話を捏造しておる。
女子でも修行すれば悟りを得られることは、尼僧の告白であるテーリーガーターにおいて証言されておる。
女子も男子と同じく、正しく修行すれば悟りを得られるのじゃ。
③ 悟りを得るのに何劫もかかる。
華厳経などでは人が悟りを目指しても、何度も何度も生まれ変わって修行しなければならんというのじゃ。
今生きている時間では悟りを得るには足りないと書いておる。
そのような思想も明白な誤りなのじゃ。
お釈迦様が座って七日で悟ったように、本当にやる気があれば今この世で修行するだけで、十分に悟りは得られるのじゃ。
④ 阿羅漢の悟りの後に如来の悟りがある誤り。
法華経では阿羅漢となり、心の悟りを得ていた聖者も後に生まれ変わって如来になるという、無理な話も展開しておる。
これも従来の仏説より、自らの教えを高める為の嘘なのじゃ。
一度、阿羅漢となれば真の悟りを得て、もはや生まれ変わらないのじゃ。
⑤ 一切空と教える誤り。
大乗の般若経典では一切が空であると説いておる。
これはお釈迦様の否定した外道の教えに近いものじゃ。
外道はこの世には善悪も無く、善悪の報いも無く、修行もその成果もないと説いたのじゃ。
お釈迦様はこれを否定して、この世には善悪があり、善悪の報いがあり、修行とその成果もあると説いたのじゃ。
今、これを知らず善悪も修行も成果も無く一切を空と教えたのでは、外道の主張と変わりなくなってしまうのじゃ。
一切が空ではなく自らの心身と自らの観念を空と観るべきであると、教えるのが正しいのじゃ。
⑥ 真のお釈迦様の教えを非難する誤り。
大乗ではお釈迦様の真の教えを小乗として非難しておる。
これも大きな誤りなのじゃ。
教えを非難することは僧がしてはならない戒の一つの筈であるが、それを自ら破り、真の悟りへの道を閉ざす大罪なのじゃ。
大乗にはこのような誤りがあるのじゃ。
しかし、全てがいかんのではないのじゃ。
悟りを得る前に行う菩薩の請願は悟った者にこの世に止まらせ、教えを説くのに役に立つものじゃ。
空の法も適切に用いれば、執着を去り、自我を滅し、認識をも滅することができるじゃろう。
真言や陀羅尼を唱え、神仏と一体化する法も集中の方法としては優れたものじゃ。
それらの誤りと優点を知り、果実を摘む者が善き果実と悪い果実を見わけて摘むように、修行者は大乗の法をもよく選択して実践するとよいのじゃ。
投稿日:2015-01-02 Fri
お釈迦様は清い心でいれば、福楽は影のように付き従うといっておる。
清い心とは何かといえば慈悲の心なのじゃ。
人が慈悲の心を持って日々を過ごせば、幸運も安楽も自ずからやってきて離れないのじゃ。
それこそが幸福への道なのじゃ。
どれほど知識や金や名声や権力があっても、慈悲が無ければ幸福も安楽も無いものじゃ。
慈悲が無ければ知識は疑いを生み、金は不安の元となり、名声は非難となり、権力は恐れを生じるのじゃ。
慈悲によって人を導かなければ、多くの知識は却って猜疑心を生むのじゃ。
慈悲が無いまま資産を作れば、人はそれを奪おうとするから不安の元となるのじゃ。
権力によって人を無慈悲に扱えば、恨みを生じ、自分も無慈悲に扱われるのではないかという恐れを生じるのじゃ。
常に慈悲を持って衆生に優しくすれば、かえって自分の元に良い報いが返ってくるのじゃ。
それが情けは人のためならずという格言の本当の意味なのじゃ。
人の社会は慈悲を以って存在する理由となっているのじゃ。
慈悲の無い社会は強い者だけが得をする弱肉強食の野生の世界と同じなのじゃ。
そのような社会が速やかに無くなるのは当然なのじゃ。
慈悲の多い世の中こそ人々は長く存続させようと願うから、長く続くのじゃ。
社会の規則も慈悲によって司るのが肝心なのじゃ。
時には規則に反しても慈悲を優先させるのが良いのじゃ。
規則は人のためにあるのであり、規則のために人があるのではないのじゃ。
そこの所をよく心得ていないと、時に恐ろしいことにもなるのじゃ。
心理学者の実験でも、人が規則によって命令されると、どんな恐ろしいことでもやってしまうという結果があるのじゃ。
そのような心理があるから戦争中に残虐な事が多く起きても不思議ではないのじゃ。
規則に何でも無条件に従う習慣が身についていると、そのような事も起こるのじゃ。
常に慈悲を心がけていれば、規則によって無慈悲な事をする恐れも無いのじゃ。
お釈迦様の教えだけでなく多くの宗教によって認められる善事も、全て慈悲によって行われるものじゃ。
悟りを得たいとか、修行したいと思っていなくとも、人として生まれて幸福を願い、生まれ変わっても良い所にいきたいと思うならば、常に慈悲の心をもって善事を行うが良いのじゃ。
常に慈悲の心をもって善事を行うならば、お釈迦様の言うとおり、常に幸福と安楽が付き従うじゃろう。
そして良い所にいくことが約束されている故に、死ぬときにも不安は無いのじゃ。
そのような者こそ人として生まれて良かったと言えるのじゃ。
投稿日:2016-06-02 Thu
お釈迦様はこの世を一切苦と説いたのじゃ。
その通りこの世に生きる者は多くの苦を抱えておる。
しかし大抵の者はその苦に対して一つの対処しかしておらん。
それは苦から眼を背けて逃避したり、無い振りをする事なのじゃ。
そのような対処は苦を増大するばかりで、少しも和らげる役には立たないものじゃ。
苦から逃避すれば他に執着するものが生まれ、その為に余計に苦を受けるはめに陥るのじゃ。
例えば苦から逃避するためにギャンブルや薬に嵌れば、ますます苦しくなるようなものじゃ。
そのように極端な例ではなくとも、多くの者が苦からの逃避により、新たな執着を生み出し、苦を増やしているのじゃ。
自分に今苦があることを認め、受け入れなければ苦は増大し続けるばかりなのじゃ。
そのようにして苦を認めないと、何が苦しいのかすらも判らなくなるのじゃ。
何も判らないのに何故か生きるのが辛いとか、何やら不安があるとかで自ら生きる事を断念する者まで居るじゃろう。
自らの苦から逃避し続ければそのように、迷いも起こるのじゃ。
それも苦から連鎖する縁起がある故なのじゃ。
苦があれば人はそれを自分であり、自分のものと思う。
そしてこれからもその苦と共に生き続けると、認識してしまうのじゃ。
そうであるからこれからも苦があると思い、生き続ける事も辛いと思うのじゃ。
過去の苦を未来に投射して、これからも苦のある生活を不安に思うのじゃ。
そのような苦に対する正しい対処は、苦から逃避せずに受け入れ、それを認め観察する事なのじゃ。
人に苦があるのは当然のことであり、当たり前なのじゃ。
誰もが苦を持っているのじゃ。
ただしい対処を知らないから見ないようにして、益々苦を増やしているのじゃ。
自らの苦を認め、それを観察すれば苦はなくなるのじゃ。
そして苦から逃避する為に起きた苦もなくなる。
更に苦をこれからも受け続けるという不安などもなくなるのじゃ。
そのようにしてただ一つの苦が無くなるだけでも心は安楽になり、住んでいる世界さえも変わって見えるのじゃ。
知識として知るだけでは苦は消えないのじゃ。
苦が自分にあると認め、その心を観察することで苦は消えるのじゃ。
苦を持つ者は自らの苦を認め、観察を実践する事で安楽に生きるのじゃ。
投稿日:2017-08-02 Wed
心の観察は先ず本心を受け入れ、認める事から始めなければならんのじゃ。
本心とは自らの偽らない心なのじゃ。
自分の心を偽っていては、観察にはならないのじゃ。
例えば本当は心に恐れがあるのに、恐れていないと偽れば、恐れはいつまでもあり続け、滅することも無いのじゃ。
その恐れによって行いも制限され、修行も止まってしまうこともあるものじゃ。
日常生活に於いても、本当は疲れているのに疲れていないと自分を誤魔化せば、疲れをとることもできず、いずれは倒れてしまうのじゃ。
疲れている時には疲れていると認め、受け入れることで疲れを癒すことも出来て、倒れることもないのじゃ。
今の自分の本心を認め、受け入れることで現実に対応できるようになるのじゃ。
本心を認め、受け入れないならば現実に目を背けて、観念遊戯に浸っていることになるのじゃ。
それではいつか破綻することは目に見えているのじゃ。
本心を認めようとしない理由には、幾つかの理由があるものじゃ。
恐れから認めないものも居るじゃろう。
恐れがあれば逃避があり、本心から逃げ続けるのじゃ。
今まで弱音を吐かず頑張ってきたからという習慣によるものもあるじゃろう。
ただの習慣により、本心を認めない故に苦しみ続けるのは愚かなことじゃ。
或いは本心がわかってもどうしようもないからと諦めからの理由もあるじゃろう。
自分が疲れたり、恐れているのを認めても現状が変るわけではないからと無理に本心を認めないようにしているのじゃ。
他にも意地になっていたり、自分に怒りを感じているからとかの理由もあるじゃろう。
それらの理由により、本心を認めなければ苦は続き、いずれ破綻することもあるものじゃ。
時に人は本心を認めない故に一生、苦を抱えて生きることもあるのじゃ。
ただ本心を認め受け入れるだけで消えていく苦を、死ぬまで抱えていくのは愚かなことじゃ。
どのようなものであろうと本心を受け入れ、認める覚悟をすれば、それらの理由をも超えて本心が観られるものじゃ。
そして観察によってどのような苦も滅していくことができるのじゃ。
無意味な理由で長く苦しむことが無いように、全ての者は自らの本心を認め、受け入れて進むがよいのじゃ。
投稿日:2018-04-04 Wed
未だ悟りを得ていない者には条件付けされた価値観と自己評価が心の中にあるものじゃ。
その価値観と自己評価によって行いも決められてしまうのじゃ。
それが善いものならば善い行いに繋がるが、悪いものならば悪い行いに繋がってしまうのじゃ。
それらは親とか友人等によって条件付けされるのじゃ。
例えば犯罪を良いものとする価値観を条件付けされた者は、泥棒より強盗が勇気が在るとか間違った価値観を身に付けてしまうものじゃ。
そして今の自分は泥棒しかしていないから強盗をして勇気があることを証明しようとしてしまったりするのじゃ。
そのようにして悪事を続け、何度捕まってもやめられないのじゃ。
心にそのような価値観と自己評価の働きが在る限り、自分でやめようとしてもやめられないのじゃ。
何の得にもならず、明らかに損になるとわかっているのにやめられないのじゃ。
知性や理性で理解していることも、心の中の条件付けによる行いをとめることは出来ないのじゃ。
逆に親から駄目な者とか条件付けされた者は、自分を駄目な者と想い、駄目な行動をしてしまうのじゃ。
それも自己評価から起こる行いなのじゃ。
思春期になれば親から独立した自分の考えを持つようになるが、心の中の条件付けは変わらないのじゃ。
それは心の中に残り、行いを選択する時に働いてしまうのじゃ。
そのようにして親から与えられた価値観と自己評価に沿った行いを一生繰り返してしまう者もいるのじゃ。
そのような価値観と自己評価を乗り越えるためには、やはり観察するしかないのじゃ。
自分の本心を観てそのような価値観と自己評価があり、今までそれに反応して行いをしていたと気づいた時、それは滅するのじゃ。
悪しき行いに向かおうとする価値観と自己評価が在る限り、悟りに向かう修業も全うできないじゃろう。
悪しき行いを求める心は、自己の心を整える行ないに反発するからのう。
そうであるからそれも修行の妨げになる煩悩の一つといえるのじゃ。
金や権力や名声をひたすら求めることが善いとする価値観や自己評価も同じなのじゃ。
必要以上の欲は貪欲として三毒の一つとして教えられているのじゃ。
今の知識や理性と照らし合わせて不要の価値観と自己評価は滅するべきものと言えるのじゃ。
修行者が自分の本心をよく観察してそのような価値観と自己評価に気づけば、それも滅するのじゃ。
そして今の自分の知性と理性に沿った行いも出来るようになるのじゃ。
真の悟りを求める心の働きを最も尊ぶべきものとして進むことも出来るのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
2018年10月18日 発行 初版
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