spine
jacket

───────────────────────



鬼和尚の仏教勉強会3

修行中



───────────────────────

 目 次

自己敬愛の法

慈母観世音菩薩観想法

慈父普賢菩薩観想法

運気向上法

悟りを得るための修行法

悟りを得るための修行法Ⅱ

悟りを得るための修行法Ⅲ縁起の法

悟りを得るための修行法Ⅴ空の法

元気が出る説法

悟りの真実

ダンマパダ(法句経)解説

わしの考え

未分類

苦滅の道理論

苦滅の道実修

自己敬愛の法

承認の罠に気付くのじゃ。

投稿日:2021-03-02 Tue
この世に生きる大抵の者は他者からの承認を欲しがっているものじゃ。
他人から認められ、賛美されることに命をかける者さえおるのじゃ。
他人に認められることに強く囚われているのじゃ。

他人からの承認を求めるのと同じく、逆に他人からの非難を恐れているのじゃ。
他人から少し注意されただけでも酷く落ち込んだりするのじゃ。

そのような者は他人からの評価を気にする余り自分のしたいこともできなくなるのじゃ。
そのために依存になったり、他人が怖くてひきこもりになったりもするのじゃ。
それだけならまだよいほうなのじゃ。
時には犯罪に走ったり、集団でテロ行為をしたりもするのじゃ。
そのように人を惑わし、多くの障害を引き起こす承認を求める心には観察してみれば実に簡単なわながあると気付くじゃろう。
そもそも他人の承認を欲するのは、子供の頃の心理に原因があるものじゃ。
子供の頃は親からの承認が全ての生活の基準であったから、それに依存していたのじゃ。
親が認めることをすれば生きるために役立ち、親が認めないことをすれば死の危険さえあったのじゃ。

そのように世の中で危険なこととか、安全なことも親から承認されるという形で教育されたから、大人になっても承認に依存する心の働きが残ってしまうのじゃ。
例えば車に気をつけて歩けば偉いとほめられる。
道路にいきなり飛び出したりと危険なことをすれば叱られる。
そのような教育を繰り返して、承認が生死にもつながる大事な生きるための規律と認識されているのじゃ。

親も叱ったりするのは子のためであると言い聞かしたりするじゃろう。
それは子に批判されると死の危険が有り、承認されれば生きられるという絶対的な価値観を植えつけるのじゃ。
そして批判されれば自分は生きることも難しい、弱くて愚かな者というイメージを持ってしまうのじゃ。
承認される自分は生きる強さと賢さを持つ者というイメージが持てる故に、強く囚われてしまうのじゃ。

自分自身が何故、他人からの承認に執着し、批判を恐れるのか理解したい者は心の中のそのような原因を追求するのじゃ。
そしてその原因から執着と恐れがあることに気付けば、それもまた滅するのじゃ。
わしの話でその通りじゃと、想うだけでは何も起こらないのじゃ。
自分で心を観察して、その原因から承認への執着があり、原因が無ければ執着も無いと気付かなければならないのじゃ。
既に生きるための智慧と力を持つ者には、そのような価値観による観念は必要ないのじゃ。
それに気付けば自然に囚われも消えるのじゃ。

他人からの承認に囚われなければ自分の意志で、好きな道を歩んで生きていくこともできるのじゃ。
他人を恐れることも、依存することもなくなるじゃろう。

更に他人からの承認が必要でなくなれば、承認の価値観を利用して自己イメージを高めることも出来るのじゃ。
そもそも承認とは他人からの肯定に拠って、自分自身を肯定的に捉える心の働きなのじゃ。
親に褒められれば、自分は偉い者であると自分で自分を認めるのじゃ。
親に褒められるという条件は、実は自分で自分を承認するためのスイッチに過ぎないのじゃ。

そうであれば承認とは実は自分で自分を承認することが実体であり、他人からの承認はただの観念遊戯に過ぎないとも言えるのじゃ。
他人からの承認への依存を脱却した者は、他人からの承認を待つ必要なく、自分自身を承認することができるのじゃ。
そしてそれは自己イメージを高め、自分の能力と意欲を高めることも出来るのじゃ。

それには先ず自分自身をこれからは何がなんでも全て認め、愛することを決意しなければならんのじゃ。
自分で自分の全てを認めて愛することを誓うのじゃ。
実際に口に出して自分に自分を認め、愛することを誓うと善いのじゃ。
それは毎日何度も行うと善いのじゃ。

自分に対して全ての善きものと善いものごとを与えると誓うのじゃ。
自分自身に最高の待遇をすると誓うのじゃ。
そしてその通りに実行するのじゃ。
そうすれば環境もよくなっていくのじゃ。

そのような実践をして自我を強化するのではないかとか、自分本位のエゴイストになってしまうのではないかと恐れるものも居るかもしれん。
しかし、自我は幻想のものであるから強化はされないのじゃ。
観察が出来れば直ぐにでも消えてしまうものじゃ。
そうであるから自我が強化されるとかは気にしなくて善いのじゃ。

そして自分を愛することで利己主義になることもないのじゃ。
なぜならば本当は誰でも自分を一番に愛しているからなのじゃ。
一番愛している自分を最も大きく強く愛していなければ、他人をも愛することは出来ないのじゃ。
例えば自分を100位しか愛していなければ、二番以下の他人は90以下しか愛せないのじゃ。
一番の自分が少ししか愛していなければ、二番目以下の他人を愛することが少ないのは当然なのじゃ。

自分をどこまでも強く大きく愛していくことで、ブラフマンの法にも繋がるのじゃ。
愛が無ければブラフマンの法も出来ないのであるからのう。
肉体の限界を超えて、どこまでも愛を広げていくのがお釈迦さまが説いたブラフマンの法なのじゃ。
承認に囚われた者や、他人からの批判を恐れる者は、観察と共に実践するとよいのじゃ。


自己敬愛の法。

投稿日:2021-04-02 Fri

前回の続きなのじゃ。

前回の記事にあるように、他人の承認を欲して日々の修業もままならない者は、先ずは自分の心を観なければならないのじゃ。
承認を求める心の原因は親からの条件付けなのじゃ。
まだ他人からの承認を求める心が残っている者は、そのような原因から承認を求める心があることを観察しなければならないのじゃ。

他人が自分を認めたら、自分が自分を認める。
そのような観念遊戯が自分の心の中にあると知れば、他人からの承認を強く求めることもなくなるのじゃ。
それがただの観念遊戯であり、心のトリックであり、もはや不要な条件付けであるとわかるからなのじゃ。

他人からの承認を求めなくなったら、自分を自分で認めると善いのじゃ。
それがなければ自分の行動も正しくできないからなのじゃ。

例えば犯罪者は自分を憎み、他人をもっと憎んでおるものじゃ。
犯罪は憎い他人を傷つけ、憎い自分をも破滅させるから、犯罪者の心の中では合理的な行動なのじゃ。
そのように正しく自分を認め、自分を愛し、自分を尊敬するようにしなければ、最悪の場合は犯罪まで行うようになるのじゃ。
犯罪までいかなくともギャンブルや薬や酒に依存する等、自分にも他人にも不利益な行いばかりしてしまうのじゃ。

そのような事態を防ぐためにも自分を承認して愛敬すべきなのじゃ。
まずは自分に最高の評価をすると誓うと善いのじゃ。
自分を最高に愛すると誓うと善いのじゃ。
自分を最高に尊敬すると誓うと善いのじゃ。
自分を認めるとは自分自身に最高の評価をすることじゃ。
自分の世界は自分の心が作ったものであり、自分とは世界の創造神なのじゃ。
自分以外の存在は自分の創造物に過ぎないのじゃ。
神でさえも自分の心が作り出した観念なのじゃ。

そうであるから自分自身に最高の評価をすることが正しい心のありようなのじゃ。

そして自分自身を最高に愛することで、他人をも愛せるのじゃ。
誰でも自分が一番愛しいものであるから、自分を強く愛さなければ他人も愛せないのじゃ。
数で表せば自分を100くらいしか愛していなければ、他人は90位しか愛せないのじゃ。
自分を1000くらい愛せれば、他人も900くらいは愛せるのじゃ。

更に自分を尊敬することで自尊心も養えるのじゃ。
自分を尊敬できないと想う者もいるかもしれん。
しかし、今まで生きてきたことだけでも尊敬するに値するのじゃ。
さまざまな苦難を乗り越えて今生きているという事実だけでも自分を尊敬するべきなのじゃ。
その上にわしの教えを聞いて信の念を抱く者は正しい法を見抜く法眼浄を得ているのであるから、正しい法の下でも尊敬すべき者であるのじゃ。

そのように朝晩に何度も自分に誓うと善いのじゃ。
一度や二度では潜在意識には響かないのじゃ。
何度も何度も誓うことで、潜在意識にまで自分を敬愛する心が染み込んでくるのじゃ。
そして自他に利益をもたらす行いも自然に出来るようになるのじゃ。

更にそのような誓いを自分に対して最終決定とするが善いのじゃ。
もはや永遠に変える事が無い決定とするのじゃ。

そのようにして自分を敬愛する念をブラフマンの法に拠って全てに広げていくが善いのじゃ。
そうすれば全てが自分を敬愛していることになるのじゃ。
全てが自分であるから、全てが自分を敬愛しているのじゃ。
それが感得できれば歓喜が心に起こるじゃろう。

そのような喜びの境地こそ真のブラフマンの境地なのじゃ。
それは実践によってのみ感得できるものじゃ。
全ての修行者は全てを敬愛し、全てに敬愛される喜びの境地を実践に拠って確かめるのじゃ。

自己敬愛によるブラフマンの法

投稿日:2021-05-02 Sun

自分自身を十分に認め、愛し敬えるようになったら、次はブラフマンの法に則りその感覚を全てに広げていくのじゃ。
自分を認め敬愛した時の体の感覚を、自分の体全体に広げ、更に体の外にまで広げて行くのじゃ。
その実践は座りながらでも、寝ながらでもやってよいのじゃ。

数息観などをして心を鎮めたら、自分を認め敬愛する誓いを心の中や言葉に出して唱えるのじゃ。
そうすれば肉体にもそれによる反応が出るじゃろう。
その感覚は人に拠って違うものじゃ。

在る者は胸の温かさとして感じるかもしれん。
或いは他の者はおなかの辺りの震える感じになるかもしれん。
それらのどれが正解で、どれが間違いということはないのじゃ。
各々が自ら感じるままにそれを受け入れ、大きくしていくのじゃ。

温かさを感じるならば、先ずは温かさを体全体に広げるのじゃ。
震えるのを感じるならば、それをまた体に広げていくのじゃ。
初めは難しくとも、日々実践していくうちに出来るようになるものじゃ。

全身に広げられるようになったら、今度は体の外にまで広げていくのじゃ。
その時、自分とは体でしかないという強い思い込みがあれば、なかなか外には広げられなかったりするじゃろう。
そのような思い込みを捨てれば外にまで広げられるのじゃ。
本来人の意識は肉体を超えて広がっている故に、思いもどこまでも広げられるのじゃ。

自分の周りから、部屋の中一杯に広げ、更に部屋を越えて広げていくのじゃ。
途中で感覚がなくならないように、さらにそのまま誓いの言葉を唱えるのもよいのじゃ。

自分は自分を認める。
自分は自分を愛する。
自分は自分を尊敬する。

と、唱えながら意識をすべてに広げていくのじゃ。
もはや限界まで広がったならば、唱える言葉を変えるのじゃ。

全てが自分を認めている。
全てが自分を愛している。
全てが自分を尊敬している。

と、唱えればまた別の反応があるじゃろう。
全てに認められ、敬愛される喜びがそこにはあるじゃろう。
それはただの空想ではないのじゃ。
本来全てである意識にブラフマンの法によって、自ら参入したからには全てである自分で自分を認め、敬愛することができるのじゃ。
そして俗世では決して味わえない歓喜を味わうことが出来るのじゃ。

その歓喜に身を委ね、自己の境界さえも忘れたならば、既にサマーディに入っているのじゃ。
自分を忘れていながら意識はあり続けることを自覚するのじゃ。

その境地に何度も参入し、意志によって保持し続けられたならば、その境地から自分というものの観念を見ると良いのじゃ。
そうすれば観照が訪れ、無我にもなるのじゃ。
無我になれば無認識も容易に訪れるのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。


自己敬愛の法を実践し続けるのじゃ。

投稿日:2021-06-02 Wed

自己敬愛の法を実践して確かに善い効果があったと、何人か報告があったのじゃ。
自己評価があがったとか、自己肯定感が構築されて他人の言動が気にならなくなったというのじゃ。
実践してよい法であったと知るのはよいことじゃ。
そうであれば、更に続けるべきなのじゃ。

確かに実践して善い効果があったと知っても、やめてしまう者も居るじゃろう。
仏陀から善い法を教えて貰った、実践して効果があった、ではこれはまたいつかやろうと、心の奥にしまいこんでしまうのじゃ。
今の自分には相応しくないと感じてしまうのじゃ。
それもまた親とか友人とかの環境から与えられた自己イメージによるものなのじゃ。

自己イメージが矮小化されていると、そのイメージに相応しい行動をしようとするのじゃ。
そのために自分を敬愛するという実践も違和感をもってしまうのじゃ。
そのような与えられた自己イメージに負けてはいかんのじゃ。

誰かに与えられた自己イメージに拠って自分を縛ってしまうならば、それは何も考えずに偶然に任せて生きているのと同じなのじゃ。
自分で自分をコントロールできていないのじゃ。
そのような者は多くはないが、たまにニュースになったりするのじゃ。
大学の教授にまでなった者が痴漢で捕まるとか、大会社の社長が僅かな金を惜しんで横領するとかのう。
それは偶然ではなく、自分の自己イメージと合わない職業についたりすると、自分を矮小な自己イメージに合わせて犯罪まで行ってしまうのじゃ。

それが自己イメージの働きなのじゃ。
自分を敬愛する法は自己イメージを改善できる法でもあるのじゃ。
長く続ければ自己イメージも改善され、自ら自他の利益をもたらす善い言動を選択できるようになるのじゃ。
そして環境も改善していく効果があるのじゃ。

そうであるから一時だけ実践して、後はやめておくということをしてはいかんのじゃ。
朝起きた時と、夜寝る前には常に実践すると善いのじゃ。
その他、瞑想の時間にも常に実践すると善いのじゃ。

環境に与えられた矮小な自己イメージを持つ者には、強い抵抗があったりもするじゃろう。
自分は誰にも、自分自身にも敬愛されるに値しないとか思ったりするのじゃ。
しかし、今生きてこの文も読めるような者ならば、全ての者が全てから敬愛される資格があるのじゃ。
何故ならば人は自分で自分の世界を今創っているからなのじゃ。
自分が認識する世界の創造主であり、創造神は常に自分なのじゃ。

全ての神に向けられた敬愛と崇拝の念を自らに捧げ、自ら受けるべきなのじゃ。
それを忘れて外に居る筈のない神を拝むのは、滑稽な謬見なのじゃ。
全ての者は自己を創造神として極限まで敬愛すべきなのじゃ。

そのように極限まで自己敬愛しても、傲慢とはならないのじゃ。
そこまでしてようやく平常といえるのじゃ。
それが通常であり、やっと平均なのじゃ。
自らを限界の外まで敬愛して、人は自らの能力を全て発揮できるのじゃ。

そもそもこの娑婆世界ではあまりにも尊敬や慈悲の心が少ないのじゃ。
人々が争いあい、憎みあうのが普通と多くの者が思っているのじゃ。
人類の歴史はどこかの国と国が戦争したとか、紛争で何万人も死んだというものばかりなのじゃ。

敬愛の精神で長く栄えたという国や都市も存在するのに、歴史という学問では無視されているのじゃ。
まるでそれが存在してはいけない事態であるかのようなのじゃ。
人々が争いあう歴史こそ正統であるかのように、考えられているのじゃ。

そのような娑婆世界の慣習で子供の頃から罵られ、虐待されて自己イメージが矮小化していたとしても、今ここからは自らを敬愛して善い自己イメージを創るべきなのじゃ。
そうすれば自分で自分の人生をコントロールできるようになるのじゃ。
善い自己イメージによって善い言動と選択が出来るようになるからなのじゃ。

そして自分を敬愛できる者は、他人をも敬愛できるようになるのじゃ。
この暴虐のはびこる娑婆世界で、自ら選んで世の光となる事が出来るのじゃ。
敬愛の法を常に自ら実践し、他人にも教え多くの者に広まれば、そこから慈悲と尊敬の心から生まれる歴史も始まるのじゃ。
それまで実践あるのみなのじゃ。



自分を許すのじゃ。

投稿日:2021-07-02 Fri

今まで自分を敬愛する法を説いてきたのであるが、人に拠ってはそれが酷く困難である者もいるじゃろう。
過度に自分を責める者や、苦が自分のせいで起こったと考える者は、自分を敬愛する事は困難に感じるのじゃ。
敬愛とは反対に常に自分を卑下して罰しようとするからのう。
それも親とか友人等からの条件付けによるものじゃ。

親が過度にしつけに厳しかったり、虐待を受けたりしていると自分を責める心の性質が出来てしまうのじゃ。
それが原因で何かあれば自分を責めたりするのじゃ。
特に社会的な失敗や親しい者と別れる愛別離苦とかがあれば自分のせいだと思ったりするのじゃ。

悲しみを癒すために自分を責めるのじゃ。
自分を心の中で罵ったり、楽しみを奪うというような罰を与えるのじゃ。
それしか悲しみを癒す方法を知らないからなのじゃ。
そのようにして自分を責めれば更に心が沈み、ノイローゼとかうつになったりするのじゃ。

それは自分の利益を損ない、他人をも不幸にすることなのじゃ。
そのような者は自分を許す誓いも必要となるのじゃ。

自分が何か悪事を犯したというならば、懺悔告白して二度としないと誓うのじゃ。
そうすれば許されるのじゃ。
それでも自分を許せないと感じるのは、他人からの条件付けによる観念妄想なのじゃ。
そのような観念妄想も滅していかなければならないのじゃ。

自分を責めることは修行ではなく、悟りを得るための実践でもないのじゃ。
むしろ修行を困難にする煩悩とさえ言えるものじゃ。
自分を責めていればノイローゼやうつにもなりやすく、修行も困難になるからなのじゃ。
そのような障害を取り除くことが、修行であり、悟りを得るための実践とも言えるのじゃ。

そのために自分を過度に責める自覚のある者は、自分を許すという誓いも宣言するべきなのじゃ。
今までの全てにおいて自分を許すという誓いを宣言するのじゃ。
自分を許したからには、もはや自分を罵ったり、楽しみを奪うこともやめると誓うのじゃ。

そのように自分を許し、自分を責めないことで精神の安定も取り戻せるのじゃ。
それでこそ修行もうまく進んでいくのじゃ。
自分を敬愛することも出来るようになるのじゃ。

そのように自分を責める観念遊戯は観察してみれば、それが正しいという観念によるものと気付くじゃろう。
親とか友人に事あるごとに責められたりすると、何かあれば自分を責めるのが正しいと条件付けされるからなのじゃ。
そのような心理構造に気付くことが、自分を責める心の性質から抜け出すために必要なのじゃ。

自分を責めることを捨てられれば、自分をコントロールすることもできるのじゃ。
自分を責める性質の者は時には自分にとって好ましいことや、楽しみさえも犠牲にしたりするものじゃ。
それによって余計にストレスが溜まり、落ち込んだりするのじゃ。
自分を責めずに、時には息抜きに趣味なども楽しんだりすることで、落ち込まずに進んでいけるのじゃ。
それが自分をコントロールすることなのじゃ。

そのように自分と他人の利益を図ることが大事なのじゃ。
自分を過度に責める性質の者はこのように自分を許す誓いを立てて、進んで行くのじゃ。


敬愛を受け容れるのじゃ。

投稿日:2021-08-02 Mon

今まで説いてきた敬愛の法を、実践してきた者も多いようじゃ。
実践してきた者は自らを認め、敬愛してきた筈なのじゃ。
そうであるならば、自らの承認と敬愛を自ら受けるべきなのじゃ。
言葉だけの誓いで終わらせてはいかんのじゃ。

自らを承認し、承認を自ら受ける。
自らを愛し、愛を自ら受ける。
自らを敬い、敬いを自ら受ける。
自らを許し、許しを自ら受け容れる。

そのように承認と敬愛と許しを、自ら受け容れるのじゃ。
心に何か罪悪感のような原因があって、それらを受け容れることが出来ない心境の者も居るじゃろう。
それも原因から観察すれば消えるじゃろう。
それから自らの承認と敬愛と許しを受け容れるがよいのじゃ。

それらの誓いを受け容れたならば、生活や修行の妨げになる障害を取り除くのじゃ。
障害を取り除けば自らに適したストレスの無い環境を作り上げることができるのじゃ。

それが必要なのは大抵の者が親からの条件付けとか、習慣とか罪悪感などから、自らに重い制約を課していたりするからなのじゃ。
それは具体的には悪習とか破滅的な行動に拠って現われているものじゃ。
それは時には薬とか酒とかギャンブルとか借金とか、犯罪にまで及ぶ悪習になっているものなのじゃ。

自らを承認し、敬愛する者がそのようであってはいかんのじゃ。
そのままではいずれ肉体の滅亡やストレスで精神も滅してしまうのじゃ。
例えば今ここに敬愛する他人が居たとしたら、そのような待遇をするじゃろうか?
敬愛する者に重荷を負わせ、破滅に導く選択をする者はいないじゃろう。

そうであるから自分も意味の無い制約や悪習で破滅に導くような選択をしてはいかんのじゃ。
今自らの環境や生活を見直してみて、重荷となっている無意味な制約や悪習はないか探してみるのじゃ。
それは生活の中だけでなく、心の中にもあったりするじゃろう。
小さな失敗をする度に心の中で自分を罵るとか、自分の力を疑ったりするのじゃ。

そのようなことを敬愛する他人に行うであろうかと、自ら心の中で問うてみるのじゃ。
敬愛する者にするようなことでなければ、すぐに捨てるが善いのじゃ。
そして自らに安楽を施すが善いのじゃ。

気付けばすぐに捨てられる悪習でなければ、観察してみると善いのじゃ。
子供の頃から続いている習慣でさえ、ただひたすら観察すれば捨てられるのじゃ。
そのように実践して生活にも修業にも適した環境を手に入れるが善いのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。


自分の敬愛を受け入れるのじゃ。

投稿日:2022-04-02 Sat

今まで自己敬愛を誓言してきたが、どうしても自分への愛や敬意を受け入れ難いという者もいるじゃろう。
そのような者は、自らの意志によって愛や敬意等を受け容れることを宣言すると善いのじゃ。
そのような抵抗もまた、親や周囲の者達による条件付けに過ぎないのであるからのう。
自らの意志で自分の心を変化させるがよいのじゃ。

自分は自分の許しを受け容れると、誓言するのじゃ。

自分は自分の承認を受け容れると、誓言するのじゃ。

自分は自分の愛を受け容れると、誓言するのじゃ。

自分は自分の敬意を受け容れると、誓言するのじゃ。

このように言葉に出して誓えば、自ら受け容れられるようになるのじゃ。
これを実践して初めて、実は自分の敬愛等を受け容れていなかったことに気づく者もいるじゃろう。
激しく動揺することもあるかもしれん。

今までの自分の心の習性が、修正されるからなのじゃ。
自分でも知らなかった心の働きを知ることになるのじゃ。
それによって自分自身を信頼し、自分をコントロールできるようになるのじゃ。

そもそも自らの心が本当にコントロールできる人間は、この世には少ないものじゃ。
コントロールできているつもりで、実際にはできていなかったりするのじゃ。
日常でもダイエットしようとか思っても、やはり一時間ぐらいで腹いっぱい食べてしまったりすることでわかるじゃろう。

そのような心をコントロールできない原因は、承認欲求とか、愛情の不足から来ている事も多いのじゃ。
自らの不満からストレスが溜まり、感情を抑えきれないのじゃ。
そして不安からの逃避としても、感情的な行動に走るのじゃ。

自らの敬愛等を受け容れ、心が一時的にも満たされれば、コントロールも可能になるのじゃ。
更に自らの敬愛等を受け容れることで、自分を信頼することができるのじゃ。
自分の意志が統一されて、自分で決めたことも守れるようになるのじゃ。
自分を信頼することが自信になるのじゃ。
そのようであってこそ修業も日々続けることが出来るのじゃ。
実践して確かめるのじゃ。




自分を無条件に愛するのじゃ。

投稿日:2022-06-02 Thu

この娑婆世界は一切皆苦であるとお釈迦様は説いたが、その中でもとりわけ苦になるのが自分を愛せず、痛めつける苦であると言えるじゃろう。
自分で自分を傷つけ、否定する者は珍しくないのじゃ。
それに自分では気づかない者さえいるのじゃ。

愚かな者は自分に対して仇敵のようにふるまうと、お釈迦様も説いたのじゃ。
自分で自分を傷つける者が多いことは、二千五百年前のインドでも変わらず多く居たのじゃ。
悪事を行ったり、酒とか薬とか賭博で自分を破壊しているのじゃ。

そのように自分を傷つけるように振舞うのも、親などから条件付けされたからなのじゃ。
子供は親によって自分への待遇を決めるものじゃ。
親から虐待されたり、条件付の愛を与えられたりすると、それを真似て自分を扱ってしまうのじゃ。

勉強しない子はうちの子ではないとか、言われていると勉強しない自分を愛してはいかんとか、条件付けしてしまうのじゃ。
そして勉強しなかった自分に、罰を与えようとしてしまうのじゃ。
自分でも意識できない心の働きで、そのように行動してしまうのじゃ。

あるいはお前は頭が悪いとかいわれていると、自分は頭が悪いと条件付けして能力が発揮できなくなってしまうじゃ。
自分の能力に自分で制限をかけてしまうのじゃ。

しかし、人は自分の意志もあるものじゃ。
自分の意志によって、自分への待遇を変えることもできるのじゃ。
自分の意志で条件付きの愛を、無条件の愛に変えることもできるじゃろう。
自分の能力をどこまでも信じることもできるじゃろう。

そして自分の心を観察して、そのように自分を罰する原因を観察できれば、それは滅することもできるのじゃ。
それができれば条件付けも効果をなくすのじゃ。
さらに自分は頭がいいとか、自分は天才だとか口に出して言えば能力も上昇していくのじゃ。
実践で確かめるのじゃ。

そもそも親が条件付きの愛しか与えてくれなかったという理由で、自分も自分自身に条件付きの愛しか与えないでいる必要はないのじゃ。
無条件に自分を愛してよいのじゃ。
そうであれば、他人をも愛することができるのじゃ。

人は自分への待遇によって、他人への待遇も変えるのであるからのう。
自分を愛し、大事にできない者は、他人も愛し、大事にすることはできないのじゃ。
自分の意志で自分を愛し、他人をも愛するがよいのじゃ。

そのようにして自他の利益を求めるのじゃ。


自己敬愛の実践

投稿日:2023-01-02 Mon

自分を敬愛すると誓ったならば、その実践をしなければならないのじゃ。
自分に対して敬愛する者のように態度を改めるのじゃ。

人によって親などからあまり愛とか敬意をうけられなかった者もいるじゃろう。
そのような者はどのように自分に愛と敬意を表したらよいのか、わからない者もいるかもしれん。

自分に対する敬愛がわからないという者は、他人に対する敬愛を模範にするとよいのじゃ。
自分自身を敬愛する他人の如くもてなすのじゃ。

例えば愛する者に自分は何をしてやりたいと思うのかと、考えてみるのじゃ。
そうすると自分に勧めたいこともわかってくるのじゃ。

大抵の者は愛する者がいれば、先ずはその身の安全を考えるじゃろう。
命を危険にさらす行為はやめるように言うじゃろう。
犯罪とかスリルを求めての暴走とか、薬とか酒に溺れるのをやめさせようとするじゃろう。

一時的には安楽に見えても、いずれは肉体を損なうような悪習慣をやめさせるように言うじゃろう。
それを自分にも適応すべきなのじゃ。
それが自分を愛する誓いを実践することなのじゃ。

あるいは自分の尊敬する者が小さな失敗をした時、罵ったりする者がいるじゃろうか、と考えてみるのじゃ。
そのような者はいないじゃろう。
そうであれば自分にもそのようにするべきなのじゃ。

自分が失敗した時、心の中で、これだから自分ダメなのだとか、親の言うとおり自分はドンくさい奴なのだとか、思ったりしてはいないか気をつけてみるのじゃ。
それが尊敬する者への態度ではないと気づいたならば、即刻やめるがよいのじゃ。
そして日々、自らを尊敬する者として扱えば、それが習慣になり、自然にできるようになるのじゃ。

その習慣が積み重なれば、自分自身に常にできる限り最良の選択ができるようになるのじゃ。

さらに自分を許す誓いを立てたならば、自分の行いを見直し、自分を痛めつけるようなことがなかったか見守るべきなのじゃ。
虐待を受けた者などは自分を罰する習慣があったりするからのう。
そのようにして自分を罰する行為があったならば、それもやめるべきなのじゃ。

そしてまた自分がした小さな働きでも、成果が少しでもあれば認めて賞賛すべきなのじゃ。
自分を賞賛する習慣が無い者には難しかったりするが、それもまた誓いを立てたからには実践すべきなのじゃ。

このように自分を敬愛する言動を日々実践するならば、世界が違って見えることじゃろう。
物理的には小石一つも動いていなくとも、世界が正に敬愛の念に満ちているように感じられるじゃろう。
それも心が世界を作っているからなのじゃ。

そのようであれば他人にも慈悲を持てるようになるのじゃ。
そして人にとって最良の道である悟りへの道も、導かれるように入っていけるのじゃ。


詳しい自己敬愛の実践

投稿日:2023-02-02 Thu

自己敬愛の日常での実践について、さらに詳しく説くのじゃ。
まず第一に実践しなければならないのは、自分を責めることを止めることなのじゃ。
苦しんでいるからとわしに相談する者でも、自分を責めている者が居るのじゃ。

自分を責めていては苦しいのは当然なのじゃ。
心の中で常に自分は駄目だとか、愚かであるとか、繰り返していれば本当にそうなるのじゃ。
今までしてきたからとか、自分にはその影響がないとかの理由で続けていてはさらに苦しくなるばかりなのじゃ。

心の中の呟きで自分を責める事は本当に危険な効果があるのじゃ。
自分の能力を制限する上に、その言葉通りに愚かな選択をするようになるのじゃ。
その結果、貧困や悪い環境から抜けられず、最悪の場合には早く死んだりすることさえあるものじゃ。
そのような危険から自分を遠ざけるためにも、自分を責める習慣をやめるべきなのじゃ。

それにはまず自分を責める事は止めると強く決意するのじゃ。
その習慣を厭離するのじゃ。
自分を責めるという習慣は、親とか友人などから条件付けされたりするものじゃ。
それらの原因から自分を責めていると観察できれば消えるじゃろう。

そして敬愛する人に行うように、常に自分を褒めるのじゃ。
小さなことでも出来ればよくやったとか、自分は天才だとか褒める実践をするのじゃ。
それを日々続ければ、習慣になり常に出来るようになるのじゃ。

自分を褒めることができれば、能力が高まり、常に最善の選択も出来るようになるのじゃ。
そして環境もよりよくなっていくのじゃ。
そうすれば自他の利益も追求できるようになるのじゃ。

さらに出来ればこのブログにあるような数息観のような瞑想と苦を滅する実践もするとよいのじゃ。
心がコントロールできるようになり、苦も減って安楽になっていくじゃろう。
そして真の安楽である悟りも目指すとよいのじゃ。

心について敬愛を実践できたならば、次は肉体にも留意するとよいのじゃ。
薬とか酒とかを遠ざけるのは当然なのじゃ。
愛する者に薬や酒から遠ざかるように告げるように、自分もそれらの悪癖から遠ざかるのじゃ。

さらに他の肉体を壊すような悪習慣も止めるとよいのじゃ。
スリルを求めて肉体を破壊するような行為や、ゲームとかのやり過ぎも辞めるとよいのじゃ。

働き過ぎもまたいかんのじゃ。
過労死することもあるからのう。

愛する者に対して、出世や金のために健康を害しても働けとは、誰も言わないじゃろう。
勤労は自分や家族を養うためであるから、それで健康を害しては本末転倒なのじゃ。
そのように肉体の健康を第一として、働くとよいのじゃ。

これらの要するに自分の心と体を守り、大事に育成することが自己敬愛の実践と言えるのじゃ。
そのためにストレスを解消するような娯楽も必要じゃろう。
瞑想を含めて自分が楽しめてストレスがなくなる娯楽を、適度に楽しむのもよいのじゃ。

自分の心身の健康と育成を念頭に置いて、自己敬愛の日常での実践に励むのじゃ。

気づかないことも許すのじゃ。

投稿日:2023-03-02 Thu

大抵の者は自分を許すようにと言われても、そんなことは当然していると思っていることじゃろう。
誰も自分を裁いたり、罰したりしていないと思い込んでいるからなのじゃ。
しかし、わしが観察したところでは、多くの者が日常的に自分を裁いたり、批判したり、罰したりしているのじゃ。
そしてそのことに気づかないのじゃ。

しかもそれが当然であり、正しいこととさえ思っていたりするのじゃ。
自分を罰したりすることでこの世の中で生きるのが苦しくなり、悟りの道も閉ざされてしまうこともあるのじゃ。

そのような心の働きがあるのも、親などから植え付けられた条件付けによるものなのじゃ。
たとえば親が保守的で、常識外の行動をいさめるようなしつけをしたならば、子供は大人になっても常識を外れた行動をしないようになるじゃろう。
そしてそれを正しいこととして、疑いもしないのじゃ。

世間で生きていくにはそれでよいが、悟りの道を行く時には障害になったりするのじゃ。
常識的に考えて世の中に悟りなんてあるはずはないとか、自分がそれを得られるはずはないとか思ってしまうのじゃ。
それは親に条件付けされた価値観によって判断する故に、疑うこともできないのじゃ。

そのような原因がまだわからない内には、自分を許すという誓いも必要なのじゃ。
それを何度も繰り返せば、自らに正しい知識と悟りを許すこともできるのじゃ。

日常でも自分を罰したりしている者は珍しくないのじゃ。
世間は甘くないとか、働くのは楽ではないと聞かされてきた者が、苦しい職業に就いたり、いわゆるブラック企業で働くこともあるじゃろう。
過労死するまで働いてしまうのも、自分をそのような条件付けから罰していることもあるじゃろう。

自分が楽しんでやれる楽な仕事に就くこともできる、ということが信じられないのじゃ。
仕事は苦しくつらいものという価値観から逃れられないからなのじゃ。

あるいはまた自分が住む家を掃除しないで汚いところに住んだり、好きな服を着ることができないというような制限もあるじゃろう。
親から度々叱られたりすると、自分にはきれいな家で暮らしたり、好きな服を着る資格もないと思い込んだりするからなのじゃ。
親も子供が憎くて叱ることはめったにないが、子供の頭で解釈するとそのような条件付けが大人になるまで植えつけられてしまうのじゃ。

自分を常識で縛り付けるとか、我慢して生活しているというような罰や制限を自らに課していないか、自分と環境を観察してみるのじゃ。
それができれば時には人によっては驚くような気づきがあったりするじゃろう。
それを観察して自らを許すようにすれば、よい環境で自分を進歩させることもできるのじゃ。

自らを許し、よい環境で進んでいけば悟りも訪れるのじゃ。




自分を認める

投稿日:2023-04-02 Sun

自分を認めるとはどのようなことじゃろうかと、多くの者は思っているかもしれん。
自分を認めるということは自分の行いを認めるということなのじゃ。
お釈迦様は自分のしたことを見よ、と説いたのじゃ。
自分のしたことを見るのであるから、それを認めるのも当然なのじゃ。

大抵の者は自分を正しく認めていないのじゃ。
自分のしたことも、自分の歩んだ道も間違いばかりだと思って、後悔ばかりしているのじゃ。
そもそも自分のしたことを認め、褒めたりする賞賛したりするという習慣もないのじゃ。

自分のしたことを認めず、褒めることもせず文句ばかり自分に言っていたら、やる気もなくなっていくものじゃ。
例えば瞑想を実践していても、今日はうまくできなかった、だから自分は駄目なんだとか、自分に呟いていればいずれは修行さえも嫌になってやめてしまったりするのじゃ。
逆に自分のしたことを認め賞賛していればやる気もわいてくるのじゃ。
そのように心の中で呟く声にはかなりの効果があるものじゃ。

いつもやる気が出ないとか、自信がないとか感じる者は自分が自分に呟く言葉を、注意して観察するのじゃ。
その言葉が自分を認め、褒めたりする言葉ではないと見極めたら、直ぐに捨てるようにするのじゃ。
自分を認め、褒める言葉を自分に呟くことを、日々続ければそれが新しい習慣になって心の中に根付くのじゃ。
それが自分を認めることになるのじゃ。

しかし自信がない者は自分は褒められるようなことはしていないとか、思うかもしれん。
他人と自分を比べたりして、自分は何一つよく出来ないから、何も認めたり、褒めたりすることがないとか思ったりするかもしれん。
過去に間違ったことをしたり、今も間違った道を歩み続けるしかないから自分を認められないと思ったりもするかもしれん。

そのように思う者でも、ただ今生きているだけでも認められるべきなのじゃ。
今まで生きているだけでも相当に困難なことがいくつもあったじゃろう。
世にある苦しみを乗り越えて生きてきた、それだけでも認められ、賞賛されるべきなのじゃ。
それが正当な承認と言えるのじゃ。

さらにここにきてわしの言葉に従って実践する者は、過去と現在と未来の全ての仏陀達に認められ、賞賛されるべき者なのじゃ。
悟りを求める者も、ただ苦から逃れたいだけの者でも、福楽を求めて善事だけをする者でも実践するならば、全ての仏陀達の賞賛を集める者となるのじゃ。
お釈迦様も、わしも、未来に目覚める仏陀達も、そのような菩薩達を認め、賞賛するのじゃ。
そのように実践する者が人間としての最高の目標である悟りに向かって進んでいるのであるからのう。
真の叡智がある仏陀達も認め、賞賛せずにはいられないのじゃ。

そのように仏陀達でさえ認め、賞賛する者である自分自身を、自ら認め賞賛すべきなのじゃ。
今日も修行を実践したとか、小さなことでも自分を認め、褒めるとよいのじゃ。
小さな善事をしたことでも、小さな気づきがあったことでも全てを認め、賞賛するのじゃ。
そうすればやる気も湧いてくるのじゃ。
そして日々実践し続けることも出来るのじゃ。


自分を好むのではなく愛するのじゃ。

投稿日:2023-06-02 Fri

自己敬愛の法は本来は仏教の法ではないのじゃ。
ただ自分の心を癒す法なのじゃ。
仏教ではないのにわしがあえてこれを説いているのは、この世にはあまりにも心が傷ついている者が多いからなのじゃ。
さらにその上に、自分で自分を傷つけ続けている者までいるのじや。
自分を傷つけることが止められないのじゃ。

そのような状態ではとても悟りを求める修行はできないのじゃ。
自分で自分の心と体をコントロールできていないのであるからのう。
そして自らの行動をコントロールできなければ、善事を行うことさえ困難なのじゃ。

そうであるからわしは先ず心を癒し、コントロールできるようにするために自己敬愛の法を説くのじゃ。
自分で自分を傷つける性癖も悟りへの障害であるから煩悩の一つと言えるじゃろう。
それを直す法は煩悩を滅する法とも言えるのじゃ。

しかしそれを実行しようとしても、どうしても自分を好きになれない、許せないという者もいるじゃろう。
自分の性格や、性質や、過去の行動や、肉体的な欠陥等で、自分を嫌い、憎んでしまうという者じゃ。

そのような者は無理に好きにならなくてよいのじゃ。
ただ自分を愛すればよいのじゃ。

好きになれなくても愛することはできるのじゃ。
好きになることと、愛することは違うからなのじゃ。

好きになるとは性格とか、性質とか、言動とか、容姿を好むということじゃ。
自分の嗜好する条件をもったものごとを、気に入るだけなのじゃ。
それは執着を生み、ついには苦になるものじゃ。

愛とはどのような性格や、性質や、言動や、容姿であっても、自らの意志で慈悲をもたらすことなのじゃ。
自らに慈悲を施すのじゃ。

例えば子供を持つ親が、他人の子は性格とか、言動がよいから好むが、自分の子は無条件に愛するようなものじゃ。
親は自分の子が世界中の者に憎まれても、庇い愛し続けるじゃろう。
子を守り、育てようとする。
そのように自分を愛するのじゃ。
自分を守り、育てるのじゃ。

自分が許せないというのも心の中に原因があるからなのじや。
心の中の原因から自分を許せず、憎んだりするのじゃ。
心の中に自分を憎む、憎まないとか、許す、許さないための条件の基準があり、それに照らし合わせて自分を許せず、憎んだりするのじゃ。

それは親とか仲間とか教育者から条件づけられた価値観によるものじゃ。
例えば嘘をつくのは絶対にいけないとか、厳格に育てられたら少しの嘘でも自分を許せなくなったりするのじゃ。
実際に世間で働いていれば、実情とあわない小さな嘘は毎日何回もついてしまうことじゃろう。
昼頃に出ておはようとか挨拶すればそれがもう嘘であるからのう。
その度に自分は嘘つきだとか、自分を責めてしまえば心が病んでしまうのは当然なのじゃ。

そのような心の働きも、原因から起こり、原因がなければ起こらない観察すれば消えるのじゃ。
何が起ころうとただひたすらに観察し続けるのじゃ。
そうすればそれもまた消えていくのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。


日記のつけ方。

投稿日:2023-07-02 Sun

自分がどのくらい進歩したのか、知りたいという者には、わしは常々日記をつけることを勧めているのじゃ。
日記をつけて今の自分の状態を記して置けば、後に読み返した時に自分がどれほど進歩しているのか分かるのじゃ。
さらには日々弛まず善事や修行の実践をするための、励みにもなるものじゃ。
そのような効果が期待できるから、わしは進歩を知りたい者に日記を付けることを推奨するのじゃ。

日記を書くには、まずそれが自分以外の誰にも見せないことを決意しておくのじゃ。
誰かに見せると思えば、自分の本音までも書けないものじゃ。
自分だけが読むものであるから、自分のことをありのままに隠さず書けるのじゃ。

日記を書く時間は一日が終わって寝る前がもっともよいのじゃ。
その日、一日に起きたことや気づいたことを全て思い返して書くのじゃ。
夜にはどうしても時間が取れないならば、翌日の朝でもよいのじゃ。
前日のことを思い出して書くのじゃ。

昼に半分とか少し書いて、夜に書き足すというように分割してもよいのじゃ。
夜に時間が取れないからといって諦めずに臨機応変に対応するのじゃ。

日記に書くのはまずはその日に自分がしたことなのじゃ。
悪事も善事もありのままに書くのじゃ。
悪事は懺悔告白して二度としないと誓うのじゃ。
それも日記に書くのじゃ。

善事には機会が与えられたことに感謝してさらに実践することを誓うのじゃ。
そうすればさらに善事を積む機会も増えるのじゃ。

その他、自分を誉めることが何回できたか、とか、自分で決めた実践が何度できたとかを書くのじゃ。
毎日、それらを書いていれば、自分を誉めることや他の実践が、心の中に習慣として定着するのじゃ。
それもまた日記をつけることで出来ることなのじゃ。

そして今自分が苦しんでいることや悩んでいることも赤裸々に書いておくのじゃ。
苦や悩みも書くことで、詳しく理解できることになり、滅する道も見えてくるものじゃ。

その他、気になることや書き残したいことなど、何でも書いておくのじゃ。
記録しておくことで自分という人間の性質もわかってくるのじゃ。

そして一週間が過ぎたら、その週に何回自分を褒められたか、何度善事をして来れたかを記しておくのじゃ。
後に読み返した時に、週ごとに、あるいは月毎にその数が増えていたならば、進歩してきたとわかるのじゃ。
そのように自らのありのままの行いを日記にしておけば、読み返した時に進歩してきたことか分かるのじゃ。

そして今までしてきたことが間違いではなく、これからも実践すべきであることもわかるのじゃ。
実践する道について確信を持って進んでいくことも出来るようになるのじゃ。
そのような利点があるから、自分がどの位進歩してきたのか知りたい者に、わしは日記をつけることを推奨するのじゃ。
どんどん実践して効果を確かめるのじゃ。


罪悪感を滅するのじゃ。

投稿日:2023-09-02 Sat

自分を愛し、敬おうとしてもどうしても出来ない者も多くいるじゃろう。
実践しようとしてもどうしても自分を虐待して、心の中で罵ったりしてしまうのじゃ。
それが正しい事だとさえ感じるのじゃ。

その原因の多くは罪悪感であるのじゃ。
子供のころに虐待を受けたりして、自分が罪深い者であるから虐待を受けるとか、思ったりするのじゃ。
あるいは兄弟姉妹の多い家庭で、親の関心が他の子に移ってしまうと、自分が悪い子だからとか思うのじゃ。

そしてそんな自分を虐待したり罵ったりしてしまうのじゃ。
それが親からの態度で学習したことであるから、正しいことだと感じてしまうのじゃ。
自分の意志でやめようとしても、やめられないのじゃ。

自分を虐待するとは、わざとさまざまなものごとを失敗するように仕向けたり、危険な行動をしたり、拒食症になったりすることなのじゃ。
なにかよいことが起きても、それを自分から壊したりするのじゃ。
金を手に入れたら散財してしまい、名を上げたら恥ずかしい真似をして自分を貶めたりするのじゃ。

そのようにして自分が常に困窮するように仕向けるのじゃ。
それが正しいと感じるから、止められないのじゃ。
そしてついには自分を破滅に追い込んだりするのじゃ。

そのような作用をする罪悪感を滅するには、先ずはそれが正しくないものであると確信しなくてはいかんのじゃ。
親から与えられた条件付けで、それが正しいと思っていれば、いつまでもなくなることはないのじゃ。

そのように説かれてもまだ自分が罪悪感を持つのは正しいと感じる者もいるじゃろう。
自分は本当に罪を持つものであり、常に罪悪感を持っていなければいけないと思うのじゃ。
しかし本当に罪があるならば、ただ懺悔告白して、二度としないと誓えばよいのじゃ。
それ以上に思い悩む必要はないのじゃ。

無理に思い悩むのはただ親から与えられた観念であり、それが自分であり、自分の一部と感じるからなのじゃ。
それは倫理的に正しいからではなく、ただ何も知らない幼少期に植えつけられた観念であるから、失うことに抵抗があるだけなのじゃ。
それが自他に害があり、破滅をもたらすものであれば、取り除くのは当然なのじゃ。

このように罪悪感とは過去の間違った条件付けによって生じた、有害な観念であると、はっきり理解するのじゃ。
それも煩悩の一つであり、滅すべきものとして認識するのじゃ。
そして決別する決意を固めるのじゃ。

決意が確かなものになったならば、自分の心を観察して原因を追究するのじゃ。
初めて罪悪感を感じたのはいつであるのか、それが強く感じられたのはいつごろのことなのか、追求してみるのじゃ。
それが原因を探すことになるのじゃ。

原因が分かったならば、その原因から罪悪感が起こり、諸々の自己虐待や自己への暴言などが起こったと観察するのじゃ。
原因がなければ罪悪感はなく、諸々の自己虐待や自己への暴言などが起こらないと観察するのじゃ。
そうすれば罪悪感も消えていくのじゃ。

諸々の自己虐待や自己への暴言などを止められない者は、このように実践して自らの心を罪悪感から解放するのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。


新しい習慣を身につけるのじゃ。

投稿日:2024-06-02 Sun

わしのブログなどを読んで修行しようとしても、新しい習慣を身に付けるのはなかなか難しいことじゃ。

二、三日は張り切ってやってもいつのまにか実践するのを忘れてしまい、やめてしまうということもよくあることじゃ。
そのような者のために新しい良い習慣を身につける方法もあるのじゃ。

このように表を作り、身に付けたい良い習慣を左に書き、上には日付を記すのじゃ。
うまく出来た時には○を書き入れ、できなかった時には三角を書くのじゃ。
普通のノートやメモ帳に書くのもよいのじゃ。
パソコンソフトとか、カレンダー的なソフトに書くのもよいのじゃ。

一日の終わりに自分の行いを思い出して、このように書いて置けば、日々の実践も忘れることなく続けられるのじゃ。
そして悪い習慣を止めて、よい習慣を身につけられるのじゃ。

自分を敬愛しているならば一日に十回は自分をほめるべきなのじゃ。
一日の仕事をし終えただけでも賞賛すべきことなのじゃ。
その他、小さなことでも何でもほめるのじゃ。
好きな俳優とかでもポーズがよいとか、服装のセンスがよいとかほめるじゃろう。
そのように自分も小さなことでも見つけてほめるようにするのじゃ。

仕事や修行で結果がでなくとも、努力した自分をほめるのじゃ。
そうすればまた実践する情熱もわいてくるのじゃ。
そのようにしていれば自分を責めることに違和感を感じて止める事もできるのじゃ。

このように表にする時はバッテン印をつけないようにするのじゃ。
バッテンをつければ自分を責めることになるからのう。
日に7回しか自分をほめられなくとも及第として三角をつけるようにするのじゃ。
自分によい事を実践しようとした志だけでもよいことであるからなのじゃ。

このようにして日々、自らの行いを観察して修正していくのじゃ。
そうすれば新しい習慣も身についてくるのじゃ。
およそ三ヶ月くらい実践して表が丸ばかりになればやめてもよいのじゃ。
その時には新しい習慣も完全に身についている筈なのじゃ。

他の修行を習慣として身につけるときにも実践するとよいのじゃ。
善事をするとか、無財の七施をするとか、六波羅蜜を実践する時なども活用するとよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。


自己虐待はやめるのじゃ。

投稿日:2024-09-02 Mon

わしは以前、相談を受けた時にいじめている者がいれば止めるじゃろうと、答えたのじゃ。
人をいじめるのは悪であり、言葉でも行いでもしてはいかんことであるからなのじゃ。
しかし、今もっていじめや虐待をしている者は多いのじゃ。

わしが観察しただけでもかなりの者がいじめや虐待をしているのじゃ。
叡智ある菩薩でも知らずにしていることさえあるのじゃ。
多くの者がしているいじめとか虐待とは、自分が自分にしていることなのじゃ。
それが自己虐待なのじゃ。

多く学び、善事を心がけている菩薩でさえ自分をいじめ、自分に虐待されていたりするのじゃ。
以前からわしは心の中の言葉によって自分を貶めるのはやめるように説いていたのじゃ。
それだけでなく、さまざまな心の中の思い込みや行いで、自分を虐待している者が多いのじゃ。

それも自ら知らずにしているのじゃ。
そしてそれを正しいことだとさえ思っているのじゃ。
言葉による自己虐待はまだ分かりやすいじゃろう。
しかし思い込みや行いによる自己虐待は自らの心をよく観察しなければ、わからないのじゃ。
そしてそれは潜伏している病のように人の能力を削減し、ものごとを完遂できないように追い込むものじゃ。

例えば自分は愚かであるから大した仕事などはできないという思い込み、これなども自己虐待なのじゃ。
もし他人に汝は愚かであるから仕事ができないと言われたら、それは悪口であり虐待と知れるじゃろう。
しかし自分が自分にそのように思うのは許しているのじゃ。
このようなことがわかりにくい、潜在する自己虐待なのじゃ。

或いは体に悪いと知りながら大酒を飲み、薬を服用するのも自己虐待なのじゃ。
もし他人から無理やり酒や薬を飲まされたりしたら、肉体も壊すような虐待であり、拷問なのじゃ。
しかし自分が自分に飲ませることは許しているのじゃ。
ギャンブルとか危険な行為にはまるのも同じなのじゃ。

さらには過剰な罪悪感を持ち続けることや、自己憐憫を続ける事なども自己虐待といえるのじゃ。
何か悪いことがおきれば、全部自分のせいだとか思うことが過剰な罪悪感なのじゃ。
他人に冤罪をなすりつけられたら否定する者でも、自分で自分を罪に陥れるのは正しいと思ったりしているのじゃ。
自らを貶め哀れむ心の働きも自己虐待なのじゃ。

そのような自己虐待を正しいと思うのが、一番の病根なのじゃ。
そのような心の働きは大体親とか友人などから条件付けされたものじゃ。
親などから度々叱責され、能力がないと言われているとそれが正しいと思い込んでしまうのじゃ。
そして自ら知覚できない自己虐待を延々と繰り返してしまうのじゃ。

そのような自己虐待とその正当化が心の中にあれば、自分の能力が制限されて、ものごとを成就するのが難しくなってしまうのじゃ。
仕事でも修行でもうまくいきそうになっても、自分にはできないと思い込んで自ら自分を失敗に追い込んでしまうのじゃ。
そうであるから自己虐待はいまだ知覚できないものでも心の中に追及して滅していかなければならんのじゃ。

他人に愚かであるとか、仕事ができないとか言うことが悪であるように、自分をそのように思い、そのように言うのも悪なのじゃ。
他人の体を傷つけるのが悪であるように、自分の体に悪いものを与えるのも悪なのじゃ。
他人の財産を損なうのが悪であるように、自分の財産を損なうような行いをするのも悪なのじゃ。
他人に冤罪を被せるのが悪であるように、自分に罪悪感を持たせるのも悪なのじゃ。
他人を貶めるのが悪であるように、自分を貶めて憐憫に浸るのも悪なのじゃ。

このように心の中に潜在する自己虐待は全て悪であるとはっきり知って、自らの心をよく観察するのじゃ。
そして自己虐待があれば原因から観察して滅するのじゃ。
そうすれば自己の能力が十分に発揮されて、なにごとも容易になり仕事も修行も成就するようになるのじゃ。
実践して確かめるのじゃ。


慈母観世音菩薩観想法

投稿日:2021-11-02 Tue

この娑婆世界は愛を求める者が多いが、もたらされる愛は非常に少ないものじゃ。
この世の親は子を愛していても自らの苦もあり、無常であるから死や離別を免れないから愛も十分にはならないのじゃ。
特に母親の愛を必要とする者は、慈母観世音菩薩観想法を行うと善いのじゃ。
慈母である観世音菩薩をイメージする法なのじゃ。

先ずは観世音菩薩がいる阿弥陀浄土をイメージするのじゃ。
宝石で作られた地面に、清浄な池があり大きな蓮の花があると観るのじゃ。
それは母子の安全な部屋となるから家位の大きさで善いのじゃ。
そのように周辺からイメージすることで、心も集中してイメージに入り易くなるのじゃ。

その蓮の花の中に観世音菩薩がいるのじゃ。
白い衣と鮮やかなピンク色に近い肌の色なのじゃ。
それは自分の理想の母親のイメージで善いのじゃ。

自分の本当の母親でもよいし、女優とかで慈母のイメージが湧いてくる者でもよいのじゃ。
理想の母親のイメージが出来たら、自分が赤子となってその母親に抱かれていると観るのじゃ。
そして自分の頭や体を撫でる慈母の手をイメージするのじゃ。
その時、本当に撫でられている感じがするかもしれんのじゃ。
それは感応道交ができた証なのじゃ。

更に観世音菩薩が自分にやさしく語りかけてくると観るのじゃ。
自分が親に言って貰いたかった言葉を、そのまま語りかけてくるのを聞くのじゃ。
そのようにして慈母の愛情を受けるのじゃ。

十分に受けたと感じたら、次は観世音菩薩の光が増してくることをイメージするのじゃ。
白や鮮やかなピンク色の光が強く大きくなってくるのじゃ。
その光に自分が包まれると、体の境目もわからなくなるのじゃ。
光に拠って観世音菩薩と一体になるのじゃ。

一度ではなく、体を分けて光に溶けて行くと観るのもよいのじゃ。
足から腰、腹、背中、腕、頭と下から順々に光になっていくのじゃ。
逆でも善いのじゃ。
全てが光になれば、もはや観世音菩薩と一つになっているのじゃ。

そのまま自分の体も忘れればサマーディに入っているのじゃ。
可能な限りその境地に止まるのじゃ。
雑念が湧いてきたら、やめるとよいのじゃ。

これが慈母観世音菩薩の観想法なのじゃ。
次第とか服装とか細部は自分の好きなようにしてよいのじゃ。
自分のやり易いように工夫して実践するのじゃ。

母親の愛情に飢えて居る者は、このように慈母観世音菩薩の観想を実践するとよいのじゃ。
孤独や満たされぬ思いで日常も乱れて居る者には、大きな効果があるじゃろう。
日々精進あるのみなのじゃ。


慈父普賢菩薩観想法

投稿日:2021-12-01 Wed

今回は慈父普賢菩薩の観想法なのじゃ。
父親の愛情が足りないと思う者や、意志が弱く、自信がないものに有効なのじゃ。
慈母観世音菩薩の観想法と違うのは、主に生命力の強さを養うことにあるのじゃ。

観世音菩薩は生きる上での基盤となる自己肯定力を養うのじゃ。
いうなれば大地のように安定した心を作り出すのじゃ。

普賢菩薩はその上で意志の強さを養うものなのじゃ。
さまざまなものごとをやり遂げる生命力を心の中に起こすのじゃ。
生きてさまざまな実践をやり抜く意志の力を養うのじゃ。

瞑想をしてから目の前に普賢菩薩の座をイメージするのじゃ。
普賢菩薩は牙が六本ある象に乗っているのじゃ。
それは父親が持つ力と意志の象徴なのじゃ。

普通に蓮華に座っているイメージでもよいのじゃ。
普賢菩薩は浅黒い肌か、白い肌をしているのじゃ。
衣は明るい黄色なのじゃ。
縁が黒いのじゃ。

観世音菩薩と同じく、理想の父親のイメージを思いえがくのじゃ。
必ずしも仏画の通りではなく、俳優とかタレントなどのイメージでもよいのじゃ。
自分が理想の父親と感じる者のイメージをつくるのじゃ。
それができたら自分が赤子になり、普賢菩薩に抱かれていることをイメージするのじゃ。
普賢菩薩が微笑みながら自分に掛ける言葉をイメージするのじゃ。
それは自分が本当に父親にかけてもらいたかった言葉で善いのじゃ。
自分が努力したことを誉めてもらう言葉もイメージすると善いのじゃ。
さまざまに自分を賞賛し、正しい道を行くための言葉をかけてもらうのじゃ。

その時、普賢菩薩の真言とか、名前とかを唱えても善いのじゃ。
ただ父親の名前をよぶとか、おとうちゃんとかいうとか、ありがとうというのもよいのじゃ。
言葉と共に集中も深まるからなのじゃ。

やがて観世音菩薩と同じく金色の光とともに普賢菩薩と自分が一つになることをイメージするのじゃ。
集中が十分に深くなっていれば自分を忘れることができるじゃろう。
その時、サマーディに入っているのじゃ。

その状態を自分を知るために使うのもよいのじゃ。
日々実践すれば精神を安定して、自信を深めてくれるじゃろう。
精進あるのみなのじゃ。



運気向上法

真の幸運を招く法

投稿日:2019-05-02 Thu

人は誰でも幸福と安楽を求めているものじゃろう。
そのためにさまざまな行いをしているじゃろう。
しかし、自分では幸福や安楽のためと思いながら、実は幸福や安楽をもたらさない行いをしていることもあるのじゃ。

例えば真面目に規則を守っていれば、幸福や安楽が来ると思っていたりするのじゃ。
そしてそのために規則を破るものを弾劾していたりするのじゃ。
それは自らの幸福と安楽をもたらさないばかりか、破滅の道でさえあるのじゃ。
実際に真面目に規則を守って暮らしていたのに、不幸になったと言う者も多いじゃろう。

それで今まで教わってきたことは嘘だったと知れるならば、それも教訓になるがのう。
それでも真の幸福の道を知ることの出来ない者も多いじゃろう。

そもそも真面目に規則を守ることは、社会や組織のためになるから喧伝されていることに過ぎないのじゃ。
民衆が真面目に規則を守る者だけであれば、社会も秩序が守られると思うから為政者によって教育され、広められているのじゃ。
それは実際には個人には幸福をもたらさず、社会のためにもならない愚かな洗脳なのじゃ。

民衆が上から押し付けられた規則を真面目に守るだけであると、為政者のおかしな命令を誰も止められず、ナチスがユダヤ民族を虐殺したようなことも起こってしまうのじゃ。
ナチスの者達も真面目に規則を守って虐殺を実行して行ったのじゃ。
それは社会と民衆の全てを破壊してしまったのじゃ。
ただひたすら真面目に規則を守るという行いは、個人も社会もいずれは破滅に導くだけの愚かな行いなのじゃ。

規則を守るだけならば、虫にもできることじゃ。
蟻などは社会を持ち、全て規則に従っているものじゃ。
規則を守ることで他人に苦を与えていた者が虫に生まれかわっても何の不思議も無いものじゃ。

昔の中国に過酷な法律を作っていた大臣がいたのじゃ。
旅人には水をあげてもいかんとか、厳しい法で民を苦しめていたのじゃ。
後に大臣は没落して無一文で村をさまよいあるいていたのじゃ。
一軒の家で水を頼んだが、法律があるからと水もくれなかったのじゃ。
大臣は飢えて死んでしまったのじゃ。
厳しい規則を他人に課していたものが、自分もその規則で苦しんだのは当然なのじゃ。

とはいえ全ての規則を破って出鱈目に生きるのがよいということもないのじゃ。
人が行動の基準とすべき真の法がある。
それに従えば個人は幸福と安楽がもたらされ、社会や国家も繁栄するものじゃ。
それは一人一人の心の中にあるものじゃ。

それが慈悲なのじゃ。
慈悲の心に従って行いをすれば、人には幸運がつき従い、組織は繁栄するものなのじゃ。
慈悲に従って全てを行う人や組織は、周りの者や組織もありがたいと思うから、周囲に支えられて繁栄するのじゃ。
規則ばかりを押し付ける人や組織は周りも無い方が善いと思うから、衰退していくしかないのじゃ。

本来は社会の規則も人の利益を図るものであったはずなのじゃ。
しかし、ただ規則を守ればよいとだけ思えば、人を苦しめるものともなるのじゃ。
お釈迦様も多くの戒律を作ったが、迦葉が年をとって戒律を厳格に守るのも苦しかろうと、少しは戒を破ってもよいとよいと勧めたのじゃ。

規則に従って人の苦を増す者は、いずれ自分が苦しむ時になれば規則によって更に苦が増すことになるじゃろう。
時には規則を破っても人の利益を図るものは、自分が苦境に陥った時に他人が規則を破ってでも助けることがあるじゃろう。
慈悲に従って全てを行うことが、自他の繁栄を図る最も賢いやり方なのじゃ。

人が未だ修行が足りなくて智慧が無くとも、慈悲という基準に従うことで真の繁栄の法を実践できるのじゃ。
自らと組織の繁栄を願う者は、慈悲を自らの行いの基準として実践に励むのじゃ。


怒った時こそ許すのじゃ。

投稿日:2019-06-02 Sun

自我のある者は自分を守るために、命が危ういと思った時や正当な権利を侵害されたと思った時、怒りが起こるものじゃ。
それは自分を守るための心の働きであるから、意志によって起こさないようにしようとすることはできないのじゃ。
実践を重ねて心が不動になった時から、怒らないことも出来るようになるじゃろう。

それまでには怒りも起こり、それが正当であるとさえ感じられるものじゃ。
正当な怒りであるから他人を責めたり、二度としないようにと痛めつけようとするじゃろう。
正当であるからそれも正しいと感じるのじゃ。

しかし、それは自らを獣以下の存在に陥らせることなのじゃ。
獣は自分の命が危険になるような事態には怒り狂って戦うのじゃ。
餌をとられたり、縄張りに入ってこられるという身の危険が感じられれば激しく戦うのじゃ。

それは獣の習俗であるから怒りに任せた行動をしていると、獣と同じ所に生まれるようになるのじゃ。
怒った時にこそ用心して、注意深く自らの心を観て、寛容を心がけるのじゃ。
そうすれば自らも許されるのじゃ。

自分も他人も心の奥深い所では同一と認識される故に、他人にしたことは全て自分に返るのじゃ。
他人が許せなければ自分も許せないのじゃ。
他人に辛く当たれば自分にも辛いことをするようになるのじゃ。

他人を許せば自分も許せるようになるのじゃ。
そうであるから先ず他人を許すようにするのじゃ。
他人に優しくすれば、自分にも優しく出来るようになるのじゃ。
他人を愛すれば、自分を愛して、他人にも愛されるのじゃ。

そのように他人を許し、常に慈悲をかける者は常に福楽に見舞われ、人の世界以上にも行くことになるのじゃ。
福楽を求める者は怒った時にこそ、寛容を心がけるのじゃ。
ただ一時の感情によって獣に落ちるようなことがないようにするのじゃ。

正当な権利を侵害されたと思った時に、自らに怒ってよい、これは怒ってよいことであると、思う者も居るじゃろう。
それは攻撃欲を誤魔化す為の隠蔽に過ぎないのじゃ。
自分は攻撃的な者ではなく、正当な権利のために怒っていると欲を隠蔽しているのじゃ。
それに気付かず他人を攻撃すれば自らの心に嘘をつき、攻撃欲をも満たす二重の悪を為すことにもなるじゃろう。

そうであるから怒った時にこそ自らの心を観て、寛容を心がけるべきなのじゃ。
未だ心を制御できない者が怒りを生じてもそれは仕方のない事じゃ。
それでも心の中の怒りを観て、寛容を心がければ悪事を避ける事も出来るじゃろう。

心に怒りを覚えない境地には至らなくとも、怒りを寛容に換えることは意志によって出来ることじゃ。
正当に思える怒りが起こっても、怒りに正当なものなどないことを思い出すのじゃ。
怒りは自我から起こるただの心の反応であるだけなのじゃ。
福楽を求め、苦を避ける者は怒った時にこそ、他人を許すことを心がけるのじゃ。


災いのない場所を作るのじゃ。

投稿日:2024-10-02 Wed

この娑婆世界は決して天国のような楽園ではないのじゃ。
常に災害が起こる可能性がある場所なのじゃ。
地震や水害や噴火、台風等の災いは免れないのじゃ。

しかしそのような世界でも災いを避けられる場所もあるのじゃ。
それも自らの努力で作ることのできる場所なのじゃ。
その場所とは善人のいる場所なのじゃ。

常に善事をする善人のいる所に災いはないのじゃ。
日々怠らずに善事をしていれば、災いは自然に避けていくのじゃ。
お釈迦様も常に善事を心がける善人、心の清い人には災いはなく福楽が訪れるというのじゃ。

さらに善人も多くいればそれだけ広い地域が大きな災いは避けられるのじゃ。
三人もいれば一つの町は災いから守られるのじゃ。

それは聖書にも書いてあることなのじゃ。
世界中の聖典に明白に書いてあることなのじゃ。
わしにも叡智ある菩薩にも明白な事実なのじゃ。

しかし世間の衆生はその真理を知る者も少ないのじゃ。
真理を知って行う者はもっと少ないじゃろう。
多くの者達は他人同士はもとより、家族親類の間でもいがみあったりしているのじゃ。

互いに争い、あら捜しをして欠陥があれば責めて自ら驕り昂ぶるものじゃ。
意味もなく他人の損失を喜び、他人の利得を損なおうとするのじゃ。
そのような悪事を喜び、穢れた心でいながら、災いがくれば何故自分がこのような目にあうのかと嘆くのじゃ。

自らの悪しき行いによって自ら招いた災いで苦しむのじゃ。
愚かさと無慈悲の心が招いたこともわからないのじゃ。
そうであるから慈悲と叡智を備えた菩薩は人々を救うためにその真理を伝えていかなければならないのじゃ。
善事とは尊敬とか慈悲の心で行う行為なのじゃ。
悪事とは欲とか攻撃欲、害意で行う行為なのじゃ。

常に尊敬や慈悲の心でものごとを行うようにしていれば、自他の利益は自然に成立して福楽もやってくるのじゃ。
それも以前に書いた記事の無財の七施のように無理に金銭を施さなくてもできることもあるのじゃ。
常に慈悲の心で他人には笑顔で接し、優しい丁寧な言葉で話しかけ、席を譲ったりするというようなことでも立派に善事といえるのじゃ。

そのように慈悲と尊敬の心で常に善事を実践して、自ら災いのない場所を作り上げるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。


真の防災

投稿日:2024-11-02 Sat

前記のとおり善事を実践する善人が災いを免れるのであるから、如来や菩薩はさらに災いを防ぐことができるのじゃ。
その範囲は善人の比ではないのじゃ。
ただ一人の如来や菩薩でも一つの都市や地域を災いから守ることができるのじゃ。
如来や菩薩のいる地域は真の防災地域といえるじゃろう。

法華経には他の地域が災いにあっても、如来のいる地は安穏にして宝樹は宝の実を多く実らせ、天、人は常に充満すると記してあるのじゃ。
自慢するのではないがわしがこの都に生まれて五十年余り、壊滅的な天災は無かったものじゃ。
噂では都に第二関東大震災が来るとか、富士山が爆発して関東が壊滅するとか、いろいろな話があったがそんなものは全く無かったのじゃ。
これからもわしがいる限りあり得ないのじゃ。

この都は常に安穏であったのじゃ。
ここではさまざまな科学技術や芸術が花開き、多くの実りをもたらしたのじゃ。
他の都市が人口を減らしても、この都だけは逆に増えているのじゃ。
まさに経典に記してある通りなのじゃ。

如来がこのように災いを防ぐのであるから、菩薩もまた同様に防災の要となるのじゃ。
我が教えに従う菩薩は皆、清浄な心を持ち慈悲深く、善事を実践しているのじゃ。
よく学び、博識であり、知者であり、賢者なのじゃ。
精進怠り無く、お釈迦様の真の教えである四諦をよく知って実践しているのじゃ。

そうであるから災いも忍び寄る隙が無いのじゃ。
その存在だけでも衆生を救い、助けているのじゃ。
どのような宗教や思想を持つ者でも菩薩の余徳によって守られているのじゃ。

例えば慈父や慈母が子供たちのさまざまな妄想を持っていることをしりながら、守り育てるようなものじゃ。
子供が自分は忍者だとかスーパーマンだとかいろいろな妄想を抱いていても、構わず愛育するのじゃ。
それと同じように菩薩もその存在だけでも地域の衆生を守り、災いを防いでいるのじゃ。

それこそ真の防災なのじゃ。
災いが起きてから対処するのではなく、根本から災いを防いでいるのじゃ。
正に大慈大悲の菩薩なのじゃ。

しかし如来や菩薩といえども、人災は防げないのじゃ。
人には僅かながら自由意志があるため、悪事をすることも出来てしまうからなのじゃ。
その自由意志によって悟りも目指すことができるのであるから、それを無くすことはできないのじゃ。

ただ人々を教え諭して善事に導くことができるだけなのじゃ。
善事を実践する善人が多くいる地域には、災いは無いと、教え諭すのじゃ。
そうすれば人災もなくなっていくじゃろう。
それこそが完全なる真の防災活動と言えるのじゃ。


善果

投稿日:2025-04-02 Wed

わしは以前からこのブログ等で善事を薦めていたが、多くの者が菩薩として善事を行いその結果を報告してきたのじゃ。
それらの報告は真の奇跡とも言うべき驚くべきものだったのじゃ。
多くの菩薩達が継続して善事を実践していた所、次々に福楽が寄ってきたというのじゃ。

ある菩薩は善事を実践していたら、自分でも忘れていた保険金の払い戻しが二度もあったというのじゃ。

ある菩薩は善事をしながらネットで芸術作品を披露していたら、出版社に認められて仕事をして念願の芸術家になったというのじゃ。

ある菩薩は身体が弱っていたが善事をしながら治療をしたら大病を克服して元気になったというのじゃ。

ある菩薩は少し疑いながらも善事をしていたら、給付金が入ったというのじゃ。

ある菩薩は善事を続けて会社で仕事をしていたら二度も続けて昇給したというのじゃ。

ある菩薩は何年も投資を続けて損ばかりしていたが、善事を実践したら初めて儲かったというのじゃ。

ある菩薩は善事を続けて念願であった外国留学にいけるようになったというのじゃ。

ある菩薩は親族の会社が傾いた時に善事の実践を教え実践させたら、会社が危機を脱したというのじゃ。

このように善事を続けて善果を受けた菩薩と衆生は数え切れないほど多くいるのじゃ。
この全てが偶然ということはあり得ないのじゃ。
もし偶然だとしたら、むしろ幸運な偶然を必然的に引き起こす方法を身につけたとも言えるのじゃ。

それも全て菩薩達の実践によるものなのじゃ。
これこそ真の開運法であり、繁栄をもたらす経営術であり、福楽を引き寄せる方法なのじゃ。

菩薩達だけでなく、歴史上の人物にも善事を実践して福楽を呼び寄せた人は居るのじゃ。
例えば二宮尊徳氏なども善事を実践し続けて福楽を享受した人なのじゃ。

尊徳氏は元は富裕な農家であったが両親に早くから死に別れて無一文で伯父さんの世話になっていたというのじゃ。
その若い頃からわらじなどを編んでは道に置いて人に施していたというのじゃ。

しかし新品のわらじなどは忘れ物かと思って誰も持っていかない。
そこで尊徳氏はわざと少し壊して道に置き、誰かが壊れ物と思って持っていくのを喜んでみていたというのじゃ。
そのように自らが無一文でありながら、身を尽くして善事を楽しんでいたというのじゃ。
それだけ善事を実践していたのであるから幸運も寄ってくるのは当然なのじゃ。
後に三十代で元の財産や田畑を取り戻し、村の立直しを依頼された頃には何千両も持っていたというのじゃ。

村の立直しの仕事をしていた時にも、陰日向無く働く民には十両も施していたというのじゃ。
そして立直しもうまくいったのじゃ。
このように善事を積み重ねることこそ、自分一人の福楽を引き寄せるだけでなく、人のための仕事も成功させる方法なのじゃ。

お釈迦様の教えだけでなく多くの宗教でも善事を積む事を奨励されているじゃろう。
特に秘術という訳でも無いのじゃ。
しかし強い信仰が無ければ続かなかったりするのじゃ。
仏陀に対して信頼の念を持ち、法を正しく見る目がある菩薩達が実践し続けて善果を得るのじゃ。

そのような菩薩達はただ自らの善果を得るだけでなく、今のこの娑婆世界も支えているのじゃ。
災いを防ぎ、衆生を助けてこの娑婆世界を照らす光となっているのじゃ。
本当にこの娑婆世界を支えているのは善事を実践する菩薩達なのじゃ。

これこそ真の自他の利益を得るための実践と言えるのじゃ。
さらに実践あるのみなのじゃ。

死によっても奪われないもの。

投稿日:2025-05-02 Fri

お釈迦様は死の苦を観察するようにと説いたのじゃ。
それは絶望をもたらすためではないのじゃ。
死を観察することで死を超越することができる上に、死によって奪われないものも理解できるからなのじゃ。

悟りの境地は死によってもなくならないのじゃ。
悟りを得れば永遠の安らぎに回帰するのじゃ。
それは死によっても妨げられないのじゃ。

そして行いの報いも死によって奪われることはないのじゃ。
悪事をすれば死後に生まれ変わっても悪い報いが起こるのじゃ。
善事をすれば生きている時にも栄え、死後にも良い所に生まれ変われるのじゃ。

このように死を観察して理解すれば、今どのように生きるべきなのかもわかるのじゃ。
人として生まれたならば多くの善事をするとよいと、お釈迦様も説いているのじゃ。
そうすれば生きている時にも福楽がよってきて、死後には天等のよいところに生まれると説いたのじゃ。

死という現実を知ることで、実際に死を超える叡智も得ることができるのじゃ。
その叡智を知らないでいると、死ぬときに後悔するのじゃ。

もっと良いことをしておけばよかったと、死の床で嘆いても遅いのじゃ。
死んだ後に奪われてしまうものに執着することも後悔のもとになるだけなのじゃ。
金や権力や名声などを死ぬ間際にまで求めていれば、非現実的な幻想のもとに生きて死んだことになるのじゃ。

誰もそのような社会での決め事によるものを死んだ後にはもっていけないのじゃ。
死んだ後に一円の金も使うことはできないのじゃ。
どれほどの権力があっても死後には指一本動かすこともできないのじゃ。
死んだ後に名声を実際に享受できたものは誰もいないのじゃ。

それらは死という現実に対抗できない夢幻の性質を持つものなのじゃ。
幻想であり、迷妄の元であるに過ぎないのじゃ。
社会での決め事から生まれたものであり、肉体の停止によって社会に参画できなければ奪われてしまうものじゃ。

しかしそれらによって善事を積むことができたならば、奪われてしまうものによって真の福楽への道を開いたことになるのじゃ。
いずれは必ず失い、奪われ、無くしてしまうものならば、それらを活用して善事を積むことで死によって奪われないものを積んだことにもなるのじゃ。
それこそ真の叡智による行いといえるのじゃ。

このように死を超える叡智を持たないものは、自らの力を永遠なものと勘違いして人を苦しめたりするかもしれんのじゃ。
そのような者もいずれは死によって連れ去られ、後悔することになるのじゃ。
それを知る者は他人の行いを見ずに、ただひたすら自分は善事を積むと良いのじゃ。
そうすれば愚かな者たちが苦しんでいる時にも、安楽でいられるのじゃ。

死によって奪われないものをどんどん積むと良いのじゃ。


わしを商業利用してよいのじゃ。

投稿日:2025-06-02 Mon

以前からわしはこのブログは著作権解放していると書いて在るのじゃ。
さらに商業利用も一々断らずに実践してよいのじゃ。
わしに一つ一つ断らずに勝手に利用して善いのじゃ。

出家したというものが現金を稼ぐのはいかんが、在家のものならば稼いで善いのじゃ。
お釈迦様も在家のものは若い時は頑張って稼いで、財産を守るのじゃ、と説いているのじゃ。
商売に励むことを勧めているのじゃ。

そしてよく仏教では欲を捨てなければならないとか、言われているがそれは貪欲なのじゃ。
必要以上に貪る欲がよくないのじゃ。
苦を生む元になるからなのじゃ。
適切に稼いで財産を守るのはよいのじゃ。

商業利用する時にはわしの名前も出さないで善いのじゃ。
わしはもはや名声もいらないからのう。
自分で思いついたとか言って善いのじゃ。

このブログにも運気向上法とか、自己敬愛の法とか、慈母慈父の観想とか、実践して癒しになるような法はいろいろ書いて在るのじゃ。
それらを実践して体験したことを書いたりして出版してよいのじゃ。
自ら体験した法は説得力のある技法になるものじゃ。
今はインターネットでもそのような癒しの法を売る方法もいろいろあるからそれを利用すると善いのじゃ。
人々を助けて財産を築けるならばこれ以上に善いことはないのじゃ。

そして稼いだ財産からできれば5パーセントは善事に使うとよいのじゃ。
そうすれば運気も上がり、ますます財産も増えていくことじゃろう。
商業として成功すれば多くの人の目に留まり、今まで縁がなかった人々も助かるようになるのじゃ。

それもまた善事であり、菩薩の実践と言えるのじゃ。
さらに人の助けになるよいものならば、わしのこのブログにもリンクを張ったりするじゃろう。
この道で実践しながら財産を築きたいものはわしも助けるのじゃ。

躊躇わずに実践あるのみなのじゃ。


ためしと試練

投稿日:2025-10-02 Thu

わしは以前に善事を実践しようと志した者には試練と、ためしが起こると書いたのじゃ。
その違いがよくわからないという者達もいるというからそれを書いてみるのじゃ。

実際に起こるのは全てはためしであると言えるのじゃ。
自分の心が本当に善事を実践する清浄な心になったのか、自らためすのじゃ。
それが終われば清浄な心になったと自ら証明して福楽も訪れるのじゃ。

ためしの内で以前にした悪い行いの報いを軽いものにするのが試練なのじゃ。
大抵は悪いことが起こるのじゃ。
他人に罵られたり、冤罪をかけられたりするのじゃ。

それらに反抗する事無く受け入れれば地獄にいくような悪い報いもそれで無くなるのじゃ。

それと同時か、その後に起こるのがためしなのじゃ。
善い事が起こるがそれは正しいものではないことなのじゃ。
財布を拾ったり、自分のものではない金が手に入ったりするのじゃ。
それらも警察に届けるとか、適正に処理することで運気も上がって行くのじゃ。

自らの実践で誠実で清浄な心の持ち主と証明されるからなのじゃ。
このようにして本当の清浄な心の持ち主となり、福楽も心身にもたらされるのじゃ。

試練とためしに分けたのはそのように悪い報いを軽減することと、自ら善心を証明するという違いがあるからなのじゃ。
試練は悪い報いを軽減するために悪いことが起こる。
ためしは善心を証明するために善い事が起こるが、正しいものではないから自ら正す。

それが試練とためしの違いなのじゃ。

幾つかの試練とためしを経た者には、さらに最後のためしがあるのじゃ。
それは怠惰を克服する事なのじゃ。
善事を怠らずに続けることなのじゃ。

善事をしている者の中にはしばらく善事をしても何も変らないと思ってやめてしまう者達も居るのじゃ。
実際には進歩がないと思う時ほど進んでいるのじゃ。
静かな海を進む船が止まっているように感じるようなものじゃ。
それは全ての修行の実践にも当てはまることなのじゃ。

怠惰によって善事を止めてしまった者達は、よい報いもまた途中で終わったりするのじゃ。
一時期は繁栄していた会社が衰退するとか、一回だけ大儲けした後に没落した投資家とかはそのせいだったりするのじゃ。
その他、一作だけ売れた作家や、さまざまなアーティスト達もそうだったりするじゃろう。
死ぬまで繁栄し続ける実業家とか、いつまでも売れ続けるアーティストとの差はそのような所にあるじゃろう。

それに気付いて又善事の実践を再開した者には、又福楽がやってくるのじゃ。
自らの心が見ているのであるから誤魔化すことはできないのじゃ。
自他の福楽を求める者は、怠らずに実践あるのみなのじゃ。



悟りを得るための修行法

ブラフマンの法

投稿日:2018-07-02 Mon

ブラフマンの法とは元はヴェーダに記載されていた法なのじゃ。
肉体をどこまでも広がっていくイメージをすることで、意識を拡大していくのじゃ。
そのようにイメージすると実際に拡大された空間に自らの意識を感じることができるのじゃ。

集中の行を実践していると意識が際限なく広がる識無辺処定に入るが、その境地を直接に目指すのがこの法なのじゃ。
密教に伝えられている法と同じなのじゃ。
ヴェーダによって伝えられているのは、体が広がるイメージなのじゃ。

集中して座っている自分の体がどんどん大きくなっていくとイメージするのじゃ。
体が部屋一杯に広がり、更に広がっていくのじゃ。
部屋からもはみ出していって、どんどん大きくなっていくのじゃ。
山川海空の全てに体が広がり、全ての空間を満たすようにイメージするのじゃ。

このようにイメージして行くと、ただのイメージではなく、空間に意識が感じられるようになるのじゃ。

お釈迦様は三明経等で感情を使うブラフマンの法を説いているのじゃ。
ブラフマンと同じ境地になる法としているのじゃ。

心の中で慈悲を感じる対象を想い起こし、慈悲の感情を起こすのじゃ。
その感情が体中に広がっていくとイメージするのじゃ。
更に体から外にまで慈悲が広がっていくとイメージするのじゃ。
今座っている部屋一杯にまで広がっていくのじゃ。
そして部屋からも広がって、慈悲がどこまでも大きくなるようにするのじゃ。
慈悲がどこまでも広がり、大地も空も埋め尽くすほどに大きくなっていくとイメージするのじゃ。
地球とか宇宙とかの知識として知っている全ての空間を埋め尽くすのじゃ。

集中が途切れてきたら、その感情が少しずつ小さくなり、自分の体に収まるとイメージして行を終えるのじゃ。

そのようにイメージしていくのがお釈迦様の教えられたブラフマンの法なのじゃ。
これも同じように日々続けているとただのイメージではなく、空間に実感が在ることが感じられるのじゃ。

元々意識は全てに繋がり、空間にも在るものであるが個我の観念があればそれは感じられないのじゃ。
肉体の感覚だけが自分の感覚と認識するからなのじゃ。
そして自分の肉体と感覚以外に自分は無いと認識するのじゃ。

このブラフマンの法を行えば、観念を超越した空間の意識が感じられるのじゃ。
それを感得することで、肉体や感覚だけが自分であるという観念が薄れ、無辺の境地に至ることが出きるのじゃ。
未だ悟りに至らなくとも、無辺の意識に到達しただけでも死という肉体の消滅によって全てが消滅するという観念は無くなるじゃろう。
そして死の恐れも超えることが出来るのじゃ。

死を恐れる者、更なる集中の境地を求める者、真実の意識を確かめたい者はこの法を日々修業するとよいのじゃ。


怒りを捨てるのじゃ。

投稿日:2018-11-02 Fri

お釈迦様は法句経で怒りを捨てよと説いているのじゃ。
捨てるとは慈悲喜捨の捨なのじゃ。
心に怒りがあれば心が長く乱れ、修行も進まないのじゃ。
それだけでなく怒りが起こった心は善悪もわからなくなり、正しいことと思って悪事をしてしまうこともあるのじゃ。
そのような害悪がある故に、お釈迦様は怒りを捨てよと説いたのじゃ。

怒りに駆られた者は正しい知識すらも無くなり、暴力に走ったりしてしまうものじゃ。
肉体的な暴力だけでなく、言葉による暴力も使ってしまったりするのじゃ。
それによって犯罪にまで発展してしまったりするのじゃ。
そして怒りが消えてから何故そんなことをしたのかと、後悔したりするのじゃ。

時に怒る者は正しさとか、正義という偽りの観念によって自らを欺いたりもするのじゃ。
悪を正すとか、正義感による行いによって怒りを正当化するのじゃ。
そのような正しさや正義は、攻撃欲を満たす為の欺瞞でしかないのじゃ。

正義の欺瞞によって怒りと攻撃欲を発揮すれば、それは虚偽と他者を傷つける二重の罪を犯すことにもなるのじゃ。
自分が正しいからと他人を責める者には、このような悪徳が付き纏うのじゃ。
怒りや攻撃欲を正義として偽るならば、懺悔告白することも無い故に悪しき報いも免れないのじゃ。

ただ一時の怒りでこの世では犯罪に発展し、後には地獄に行く可能性もあることを考えれば、怒りは常に捨てるべきものであることがわかるじゃろう。
怒りが起こったことを知覚したら、常にそれを捨てる心構えで居れば、習慣の力によって怒りも制御できるようになるのじゃ。

自分が今怒っている、或いは怒りそうだと感じたらそれを捨てるのじゃ。
怒りの感情に囚われず、巻き込まれないようにしてそれから離れるのじゃ。
何度でも怒りが起こる度に行えば、それが習慣に成り、怒りも直ぐに制御できるようになるのじゃ。

或いは怒りを観察し、その原因から起こる事が観られれば怒りは消えるのじゃ。
そして同じ原因から怒りが起こることもなくなるのじゃ。
それはただの反応で在るから消すこともできるのじゃ。
怒りの原因とは、誰かが自分から何か奪ったとか、自分のイメージを傷つけたとかなのじゃ。
そのような原因から怒りが起こり、原因が無いと怒りも起こらないことを観察出来れば消えるのじゃ。

怒りを抱える者は怒りによって自分を無能にしてしまうのじゃ。
怒りを制御した者には敵わなくなるのじゃ。
怒りを捨ててこそ優れた者になることもできるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。


法は意を超えず。

投稿日:2020-02-02 Sun

今までさまざま法を示してきたが、それによって必ず悟りを得られるとは限らないのじゃ。
どんなに法を実践しても悟りを得られない者も居る。
そのような者は悟りを得るという意志がないからなのじゃ。

例えばこの道を真っ直ぐ行けば目的地に着けると教えられても、目的地に行く意志が無い者はどこか別の所をさまよい、目的地には着かないのじゃ。
それと同じように悟りを得る方法を教えられても、悟りを得る意志が無い者は、実践も迷いのうちに入って悟ることも無いのじゃ。
人の意志はこの世で最も強いものである故に、法もそれを曲げられないのじゃ。

この世の執着を全て捨てて悟りを求める意志がある者に、悟りは訪れるのじゃ。
それほどの意志がない限り悟りは訪れないのじゃ。
金は大事だから悟っても金儲けはしようとか、今の地位や権力は維持したまま悟ろうと思っても無理なのじゃ。
そのような都合の善い悟りはどこにもないのじゃ。

本来一切衆生は老病死の限界がある故に、全てを捨てて悟りを求めるのも正しい考えなのじゃ。
金や地位や名声をどんなに求めても、やがては老病死によって消えてしまうのじゃ。
自分の意志で捨てなくても、消えてしまうのが必然なのじゃ。

やがては誰もが必然的に捨てなければならないものを、自分の意志で捨てるだけなのじゃ。
そうすれば全てを手に入れ、永遠への道が開かれるのじゃ。

死を恐れる余り、死を考えることを拒否した者はいつか自分が死なないようにさえ思うようになるものじゃ。
それはもはや現実を見ていないことになるのじゃ。
幻想の中で生きている狂人と同じなのじゃ。
自分が死なない前提で金や権力や名声を求めていれば、老病死の苦が迫ってきた時に絶望するのじゃ。

更には社会への貢献とか人類のためとかの目的さえ、幻想に他ならないのじゃ。
それらも滅び去る性質からは免れないからなのじゃ。
社会や人類や生物とかの集合より、個人の中にこそ永遠への道が在るのじゃ。

初めから人や社会には老病死の限界があり、それを超える道があると正しく考えれば、悟りを得る意志も芽生えるのじゃ。
人が自らの意志で老病死の苦を超えようとした時にこそ、法は役に立つのじゃ。
悟りへの意志によって実践された法は、速やかに人を悟りに導くのじゃ。
幻想に陥る事無く、老病死という現実について正しく考え、悟りへの意志を持つことが真の正見なのじゃ。

強い意志があれば法など無くとも悟りに行くことも出来るのじゃ。
法は意志を超える事は出来ないが、意志は法をも超えることができるのじゃ。
マハリシのように法など知らなくても、強い意志によって悟りを得た者も居るのじゃ。

法は意志を超えないという事は、法を選択する時にも心がけるべきなのじゃ。
自分の意志に沿わない方法を、師匠に勧められたからとかの理由で続けるべきではないのじゃ。
そのような実践は全てを捨てるという選択もできないじゃろう。

自らの全てを捨てる意志を持つこともできる、真に自らに合った法を選ぶべきなのじゃ。
意志とは選択の際に最も力を発揮する故に、意志による法の選択に注意を払うべきなのじゃ。
自らの全てを捨てるに足りる信頼できる法を選ぶべきなのじゃ。

自らの意志で選んだ法により、全てを捨てて実践し続ければ悟りは速やかに訪れるじゃろう。
その時、法よりも悟りを求める強い意志が悟りへと導いたことを知るじゃろう。
その意志をも捨て去った時、真の大悟徹底の境地が現われるじゃろう。
それまで精進あるのみなのじゃ。


ブラフマンの法 詳解

投稿日:2020-03-02 Mon

以前にお釈迦様が説いたブラフマンの法を書いたが、更に詳しく解説する必要があるようじゃ。
前の記事は慈悲の感情を自分の肉体から全ての空間に広げる法と書いただけだったのじゃ。
それだけではなかなか難しかったようじゃ。
そこで今回の記事ではブラフマンの法を詳しく解説するのじゃ。

ブラフマンの法を実践するには、最初に慈悲の感情を起こさなくてはならないのじゃ。
自分が慈悲を感じるものをイメージするとよいのじゃ。
愛する者とか、ペットとかでもよいのじゃ。

するとその縁によって、慈悲の感情が起こるじゃろう。
それは胸の辺りに感じるかもしれん。
頭の中に感じるかもしれん。
人によっては腹に感じるという者も居るじゃろう。

どこに感じても構わないのじゃ。
そしてその感覚も人によって違うじゃろう。
少し暖かい感じがするとか、むず痒いとか、少し痛いとかいろいろあって構わないのじゃ。
その感覚を全身に広げていくようにするのじゃ。

その感じが肉体に広がると念じたり、広がっていくことをイメージすることで少しずつ広げていくのじゃ。
頭に感じるものは頭から下に広げ、胸や腹に感じるものは頭や手足にまで広げていくのじゃ。
そのようにして全身に慈悲の想いから起こる感覚を広げていくのじゃ。

どうしても広げられないという者は、慈悲を起こす縁となるものを手足にイメージすると善いのじゃ。
手で猫を撫でるとか、そのようなイメージによって手に感じる慈悲の感覚を広げるのじゃ。
広げている途中で感覚がなくなってしまったら、また感じるところにまで戻ってやり直すのじゃ。

そのようにして慈悲の感覚が全身に広がって感じられるようになったならば、それを肉体の外に広げるのじゃ。
最初は頭からとか、胸から丸く広がっていくとか、少しずつ広げていくのじゃ。
それも途中で感覚が感じられなくなったら、感じられるところからやり直すのじゃ。

それが出来ない者は、常識で考えて感情が肉体の外にある筈はないとかの観念に囚われているからかもしれん。
或いは全ては脳で感じるのであるから、肉体の外に感情は無いと、唯脳論から離れられないからかもしれん。
実際には全ては意識であるから肉体の外にも感情は在るものじゃ。
観察と実践によって囚われを打破するのじゃ。

肉体の外に広げられるようになったら、その感覚を部屋の中一杯にまで広げるのじゃ。
人によっては頭から上には広がるが横に広がらないとか、腹から横にだけ広がるとか感じる者もいるかもしれん。
そのような者は囚われずに、上でも横でも構わないからどんどん広げていくと善いのじゃ。

慈悲の想いが今ここにある全てに浸透して、慈悲に変っていくことをイメージするのじゃ。
全てのものが名前と形を無くして慈悲の思いになっていくことを念じ、イメージするのじゃ。
更に慈悲の想いが今ここに感じる全てから、認識する全てに広がることを念じ、イメージするのじゃ。

その時、頭の中で地球とか宇宙とかをイメージして、それが慈悲に変化することを念じてはいかんのじゃ。
それでは観念遊戯になるからなのじゃ。
あくまでも自分が今ここで感じ、認識する全てが慈悲となることを念じ、イメージするのじゃ。

全てが名前と形を無くして、慈悲の思いになることを念じ、イメージするのじゃ。
自らの肉体と精神もまた名前と形を無くして慈悲の想いそのものであることを感じるのじゃ。

それが出来たならば、全てのものごとはただ慈悲の想いだけになるのじゃ。
そうすればそれはサマーディと呼ばれる境地なのじゃ。
自分も他のものもなく、全てが一つであるから自他を忘れたサマーディなのじゃ。

それはまだ悟りではないが、自己を見ることのできる最良の境地に入れるのじゃ。
そのように大いに成果の在るブラフマンの法を実践するとよいのじゃ。




自我消失の恐れも利用して進むのじゃ。

投稿日:2020-11-02 Mon

今多くの修行者が悟りへの道を辿っているが、修行が進むにつれて自我を無くす恐れが湧いてきた者も多いようじゃ。
それは修行が正しく進んでいる証でもあるのじゃ。
修行しているつもりで、観念遊戯に浸っているだけならば、そのような恐れは起こらないからのう。
本当に自我を滅しようとすればそのような恐れも起こるのじゃ。

その恐れは観念である自我を、本当の自分と誤って認識しているから起こるものじゃ。
自我が無くなる事を、本当に自分が無くなることと認識してしまうから、恐れが起こるのじゃ。
自我消失を肉体の死と同じものとして認識することからくる恐れなのじゃ。

そのような恐れを乗り越えるためには、やはり観察が大事なのじゃ。
自我消失の恐れを、原因から観察する事で滅することが出来るのじゃ。
むしろその恐れをも利用して自我を観ることすらもできるのじゃ。
それも悟りに向かう意欲があればこそ、可能になるのじゃ。

先ずは自我消失の恐れそのものを詳しく観察してみるのじゃ。
それは自分が無くなるという恐れと、自分を守るものがなくなるという恐れがあることがわかるじゃろう。
他にも自分の好みとか楽しみがなくなるとかいろいろあるが、大別してこの二つが大きな恐れの原因と言えるのじゃ。

先ずは自分が消失するという恐れから説いていくのじゃ。
それは人が持ち続けている死の恐れとほぼ等しいものじゃ。
肉体が消滅する死と、自我が消滅することは同じ自分がなくなる事として捉えられているのじゃ。
そのために悟りの道を断念する者も多いのじゃ。

元々死を超えるために悟りを目指していたのに、自分が無くなる死と同じ状態になるならば意味がないと思うのじゃ。
それで修行もやめてしまうのじゃ。
観察が出来れば、それもまた誤認に基づく誤解であると気付くのであるがのう。

観念の自分が消える恐れを観れば、それが実におかしな間違いであると気付くじゃろう。
観念が消えるだけであるのに、肉体が消えるのと同じ恐れがあるというのじゃ。
それは取りも直さずただの観念を自分と認識している証なのじゃ。

修行をしても肉体は毛一筋の傷がつくわけでもないのじゃ。
ただ観念を消すだけなのじゃ。
それが肉体を失くすほどの恐れが生じるのは実におかしなことなのじゃ。
この奇妙な事実に気付く時、自分が消える恐れはなくなるじゃろう。

ただ観念が消えるのに、肉体が消えるのと同じ恐れを持つのはおかしいからのう。
それが気づきによる自分がなくなる恐れの厭離なのじゃ。
全体の関連性が俯瞰的に見えたことで矛盾に気付くのじゃ。

自分を守るものがなくなるという恐れも詳しく観察すれば滅するのじゃ。
それは自我は自分であり、自分を守るものでもあると認識しているからある恐れなのじゃ。
自我が無ければ自分が守れないという不安が恐れの原因になっているのじゃ。

自我が自分を実際に守っているかどうか、詳しく観ていけばそのようなことはありえないとわかるのじゃ。
守っているという幻想があるだけなのじゃ。
むしろ自我は自分を危険な目に合わせているのじゃ。

自分の名前とイメージを良くする為に、肉体を危険に晒したりしているのじゃ。
勇敢な自分という名誉とイメージのために戦争で自他を傷つける選択をしていたりするのじゃ。
更には言葉で罵られれば、自分の名前とイメージが傷付いたと思って怒り狂い、自他を破滅させたりするのじゃ。
怒りは本当は肉体的な危険に対して、アドレナリンが出て体の動きを活発にして守る反応なのじゃ。
それが観念の自分を守るために作用してしまうから、言葉で罵られると怒りで肉体が活発になり自他を傷つける行動に出てしまうのじゃ。

そのように自我の働きは自分を守るよりも、傷つける事が多いのじゃ。
そのような反応を観察する事でも自分を守る自我が消える恐れを滅することが出来るのじゃ。
自我を滅する恐れも実践に拠って失くすことができるのじゃ。

それも悟りを得ようとする意欲が在れば出来ることなのじゃ。
強い情熱があれば、自我を失う恐れもまた観察して自分を知る実践にすることができるのじゃ。
修行者はこのように自我を失う恐れもまた利用して進むが善いのじゃ。



悟りを得るための修行法Ⅱ

身受心法を順に観察するのじゃ。

投稿日:2024-12-02 Mon

お釈迦様は修行者が観察するには身受心法を順に観察するべきだと説いたのじゃ。
身とは肉体なのじゃ。
受とは感覚なのじゃ。
心はそのまま心の働きなのじゃ。
法とは四諦、因縁を観る縁起の法なのじゃ。

その順番で観察することで初心の者も観察に速やかに習熟し、悟りに至れると説いたのじゃ。
わしも観察するには先ずは肉体を観察すべきだと、説いているのじゃ。
なぜならば心は捉え難く、初心の者には観察が難しいからなのじゃ。

肉体はそのままそこにあり、観察することが難しいということはないのじゃ。
自分の手などはどこでも直ぐに観察できるものじゃ。
観察に慣れるためにも、先ずはいつでもできて簡単な肉体から観察するとよいのじゃ。

それから感覚の観察に移るのじゃ。
肉体だけの観察より少し難しくなるじゃろう。
肉体はすぐに移り変わるということはないが、感覚は時に数秒でも変化することがあるから難しくなるのじゃ。

例えば音なども時に数秒で変わることもあるじゃろう。
虫の声が聞こえていると観ても、直ぐに止んでしまうことあるじゃろう。
止んでもまだ虫の声があると思えばもはや観察ではないのじゃ。
すでに記憶による観念を見ていることになるのじゃ。

そのように感覚は直ぐに変化することもあるから肉体より難しくなるのじゃ。
直ぐに変化する感覚が観察できるようになったら、心を観察するのじゃ。

心は初心のうちは感覚よりも素早く移り変わり、少しも止まることがないじゃろう。
今何か考えていても、直ぐに対象が別のものに入れ替わるのじゃ。
その考えに巻き込まれないように観察し続けるのは、感覚よりも困難なのじゃ。

そうであるから肉体から感覚、心の観察へと順々に難しい方に習うべきなのじゃ。
そうすれば迷った時にも肉体の観察からやり直すこともできるのじゃ。

そして肉体と感覚と心を観察することに慣れたら、法に従って縁起を観察するのじゃ。
心の内にある苦が、執着から起こり、執着は好悪から起こり、それは根本的には自己があるという観念から起こると、ありのままに観察するのじゃ。
そのように法に従って観察できるのも、今まで身受心を観察してきたからなのじゃ。

文字が書けない者が文章を書くことができないように、身受心を観察してこなかったら、縁起の法もうまく実践できないのじゃ。
そうであるから順々に観察していくべきなのじゃ。
そして肉体や感覚や心について気づくことで悟りにも至れるのじゃ。
修行者は順々に実践あるのみなのじゃ。


悟りを得るための修行法Ⅲ縁起の法

強い心になるのじゃ。

投稿日:2021-02-02 Tue

わしに相談する者は自分の弱い心を嘆き、強い心になりたいという者が多いのじゃ。
人と合うのが怖いとか、人になにか言われると弱気になるとか、人も外の世界も怖いから部屋から出られないとか、自分の心の弱さを嘆いているのじゃ。
そのような心の弱さに苦しみ、強い心になりたいとわしに相談するのじゃ。

強い心とは自らの弱さを知る心なのじゃ。
自らの弱さから目を背けていては、心は強くなれないのじゃ。

自分の弱さから逃避していて、何か別の観念を用いて強くなろうとしても無理なのじゃ。
観念は最初は効いても、用いる内に効かなくなってくるからなのじゃ。
本来の心の状態が弱いままであるのに、強いと思い込むだけであるから、効かなくなるのじゃ。

例えば体についた傷口に布を当てているようなものじゃ。
傷口に布を当てれば最初は血が見えず傷も見えないが、徐々に血が染みてきて傷も塞がらないのじゃ。
傷を治す役にはたたないのじゃ。

それよりも傷がどこにあり、どれぐらい傷ついているのかを完全に把握し、手当をしたほうが良いのじゃ。
そうすれば傷も速やかに治るのじゃ。

心も同じように弱さを隠蔽して自分は強い強いと言い聞かせても、弱いままなのじゃ。
むしろ自分を偽っているせいで弱くなったりするのじゃ。
集中の瞑想をして不動心を得ても心は強くはならないのじゃ。
心が弱いまま不動になるだけなのじゃ。
不動心もまた万能の薬ではないからなのじゃ。

それよりも自分の弱さを知って原因から観察すると、弱さがなくなるのじゃ。
心の手当は調査することと、治療することが一つであるからなのじゃ。
完全に詳しく自分の心の弱さを観察できれば、それだけでも弱さが消えるのじゃ。

今まで逃避していた自分の心に直面し、真摯に見つめるのじゃ。
その弱さはどこから来るのか、どのような時に、どのような場面で弱くなるのか、くわしく観察するのじゃ。
そしてその原因を追究するのじゃ。

原因がわかれば、原因が心に思い浮かんでいる時には心が弱く、原因が心にない時は弱さがない事を観察するのじゃ。
そうすれば心の弱さは消えていくのじゃ。
心から弱さが一つ一つ消えていくにつれて、心は強くなってくるのじゃ。
人を恐れていたものはもはや恐れなくなり、外が怖かったものも怖くなくなるじゃろう。
そのように実践して心を縛る障害を乗り越えて進んでいくのじゃ。



心を清めるのじゃ。

投稿日:2023-05-02 Tue

仏教とは諸々の悪をなさず、諸々の善事を行い、自らの心を清めることであると法句経に説いているのじゃ。
悪事をやめて、善事をすることで心は清められるのじゃ。
心が清められれば福楽もやってくるのじゃ。

さらに心を清める方法とは、自らの心を観察することなのじゃ。
それをお釈迦様は縁起として説いたのじゃ。
縁起とは心を見るための方法であるから、そんなに難しいものではないのじゃ。

例えば心の中に怒りが起こった時、その怒りの原因を追求するのじゃ。
怒りの原因を追究して、それが恐れから起こったとわかれば怒りも消えていくじゃろう。
さらに恐れがない時には、怒りもないと観察できれば、怒りは何度でも消えていくのじゃ。

一度、観察によって気づきが起これば、次に怒りがやってきた時にも、直ぐに恐れが原因であると気づいて収まるのじゃ。
そのようにして観察によって気づきが起これば、怒りを制することもできるのじゃ。
そうなれば怒りという心の穢れから心が清まったと言えるのじゃ。

さらに恐れが何から起こるのかと、追求していけば恐れは自己保身から起こると気づくじゃろう。
自分の身の安全が保てないのではないかという不安がある時、恐れも起こるのじゃ。
それに気づけば恐れもまたなくなるのじゃ。

そしてさらにまた自己保身が何から起こるのかと、原因を追究していけば、肉体や自分の精神と自己同一化していたからと気づいたりするじゃろう。
肉体や精神が自分であり、自分のものであると感じていれば、それを守りたいという自己保身も起こるのじゃ。
それができないのではないかと感じれば、不安も起こるのじゃ。
そして恐れや怒りも次々に起こっていくのじゃ。

それらの繋がりが見られれば、それもやむのじゃ。
そしてさらに肉体や精神と自分が同じであるという思いが、どこから起こるのかと原因を追究していけば、ついには自分があるという観念にもたどり着くじゃろう。
どのような苦を生む観念も、どこまでも追及していけば、自分があるという観念にたどり着くのじゃ。

自分があるという観念から肉体と精神への自己同一化も起こると、気づくのじゃ。
それに気づけば肉体と精神への自己同一化もなくなるのじゃ。
肉体も精神もただ使うことができる道具と気づくのじゃ。


自分があるという観念から肉体と精神が自己であるという観念が起こり、自己保身が起こり、自己保身ができない不安から恐れが起こり、怒りが起こるという全体に気づいた時、自我を厭離する観照も起こるのじゃ。
そして自分があるという観念も消えるのじゃ。
自分があるという観念がない時、肉体と精神への自己同一化が無くなり、自己保身が無くなり、恐れが無くなり、怒りもなくなるのじゃ。
そうであれば、悟りの障害となる煩悩の穢れから、心が清められたといえるのじゃ。

自我が無く、無我になってもそれを見ているものがあるじゃろう。
それすらも観察してなくなれば、大悟徹底の境地なのじゃ。
そして全ての観念が無くなり、心は完全に清められたと言えるのじゃ。

このように心の中に起こった観念の原因をどこまでも追究していくのが、お釈迦様の説いた縁起の法なのじゃ。
とは言え全ての者がこのように
原因を追究するべきだということでもないのじゃ。
これは観察の一例に過ぎないのじゃ。

人の心の働きは一人一人違う故に、違う原因が観察できる者もいるじゃろう。
例えば怒りの原因は損失であったとかのう。

その時に厭離が起こり怒りが無くなれば、それが正しい原因の観察ができていたということなのじゃ。
そのようにお釈迦様が遺した十二因縁もまた、観察の一例に過ぎないのじゃ。
悟りを求める者は法にも囚われず、自らの心を正しく観察して、清めるとよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。

修行者の身受心法による観察例

投稿日:2025-09-02 Tue

ここに一人の修行者が居るとするのじゃ。
この修行者は正しい法を知り、お釈迦様が説いた通りに身受心法の観察を実践しようと決意するのじゃ。
そうすると先ず最初にやらなければならないのは、集中の実践なのじゃ。

集中力が無ければ観察もままならないのじゃ。
観察しようとしても雑念に阻まれて出来なかったりするのじゃ。
雑念が完全に止められるようになるのが理想であるが、ほんの少しの間、雑念を無視して集中できる位でもよいのじゃ。

集中が身についたら観察を始めるのじゃ。
先ずは肉体を観察するのじゃ。
自分の手足などの簡単な所から始めて、胴体とか鏡を見て自分の顔をも観察するのじゃ。
日常の動作とか、自分の動き等も観察していくのじゃ。

そのように観察し続けると肉体の厭離が起こるのじゃ。
肉体の自己同一化の観念がなくなるのじゃ。
肉体が自分であるとか、自分のものであるという観念もなくなるのじゃ。
修行者は肉体への囚われや執着がなくなり、肉体の苦に悩むこともなくなるのじゃ。

それが出来たら感覚の観察に移るのじゃ。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚等を次々に観察していくのじゃ。
視覚の観察ならば今、赤いものを見ているとか、目で見ているとか、赤という色を感受しているとか詳細に観ていくのじゃ。
他の感覚も同様に詳細に観察していくのじゃ。

そうすれば厭離が起こり、感覚への自己同一化がなくなるのじゃ。
感覚が自分であり、自分のものという観念もなくなるのじゃ。
修行者は感覚に囚われなくなり、感覚による苦もなくなるのじゃ。

それが出来たら心の観察に入るのじゃ。
心の働きを観察して、これは喜んでいる心であるとか、怒っている心だとか観察していくのじゃ。
今何について思考しているとか、何について感情や意志を起こしたとか観察するのじゃ。
ものを見てこれは椅子であるとか、机であるとか認識していると観察するのじゃ。

そうすれば心について厭離が起こり、心の自己同一化がなくなるのじゃ。
心の働きが自分であり、自分のものであるとも認識しなくなるのじゃ。
修行者は心の働きに囚われることはなくなり、心の苦がなくなるのじゃ。

それができたら縁起の法を用いた観察に入るのじゃ。
苦があれば苦の原因を心に追究して、観察するのじゃ。
苦は依存とか執着によって起こるものじゃ。

それが肉体の感覚による原因ならば、肉体の感覚に依存して執着が起こり、苦が起こるとありのままに観察するのじゃ。
そうすれば修行者の苦は消えるのじゃ。
今まで身受心の観察を実践していた修行者ならば、肉体や感覚や心の働きにも通じている故にそれも容易に出来るのじゃ。

このようにして修行者は依存や執着による苦を観察して気付き、縁起の法を実践し続けたならば、自分という観念を観ることも出来るようになるのじゃ。
修行者が肉体の操作により、自己の観念が起こるならばそれを観察して厭離できるのじゃ。
感覚が起こる時に、それに対して自分であるという認識が起こるならば、それを観察して厭離できるのじゃ。
思考や感情や認識が起こる時、それらに自己観念が投射されて自分という認識が起こると、観察できたならば厭離も起こるのじゃ。

これらは一つの例であるから、絶対にこのように観察や気付きが起こるという訳ではないのじゃ。
人によっては肉体と感覚の結びつきに自己同一化しているとか、思考と記憶こそ自分と認識しているものもいるかもしれん。
そのような者達も詳細に身受心法の観察を続けていれば自己観念に気付くじゃろう。

さらに自己観念が継続する者には、自己観念から縁起が起こることを観察するのじゃ。
自己観念から自分の認識が起こり、感受が起こり、好悪が起こり、執着が起こり苦が起こる等と観察するのじゃ。
そして自己観念が無ければ自分の認識がなく、感受がなく、好悪がなく、執着がなく苦もないと観察するのじゃ。
そのようにして全体を観察できれば自己観念も厭離されるのじゃ。

これもまた一つの例であるから絶対にそのようになっているという訳でもないのじゃ。
修行者は各々身受心法の観察を続け、ありのままの自分の心の働きを観て確かめるしかないのじゃ。

このようにして修行者は身受心法の観察を実践して苦と障害を取り除き、無我の境地にも至れるのじゃ。
さらに無我を見るものさえも厭離できれば、大悟徹底の境地にも参入できるのじゃ。

これがお釈迦様の説いた本当の法なのじゃ。
これを知れば真の法によって自ら苦を取り除き、他人も助けることができるのじゃ。
修行者は自ら実践して、安心の境地に至り、さらに衆生を助けるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。



悟りを得るための修行法Ⅴ空の法

般若心経の実践法①

投稿日:2019-08-02 Fri

以前に般若心経の実践法を書いたが、かなり難しいようであったようじゃ。
これから詳しい実践法を書いていくのじゃ。

基本的に般若心経の法は色受想行識の心身の観念を空と念じて、自己同一化を滅するものじゃ。
観察とは違う法であるが、心身の自己同一化を無くすという結果は同じなのじゃ。
観察が観念を観念と気付かせる法であるのに対し、空と観る法は観念を滅する観念によって自己同一化を無くすものといえるのじゃ。

どちらの法が優れているということはないのじゃ。
修行者の性質によって、法も違うのじゃ。
自らの性質に合う法を選ぶとよいのじゃ。
観察がどうしても難しいという者は般若心経の空の法を実践すると善いのじゃ。


般若心経では最初は色身の空を観想するのじゃ。
肉体を空と観るのじゃ。
色即是空、空即是色と記されている通りに、肉体が空であると念じるのじゃ。

それには先ずは空の感得をしなければならんのじゃ。
前にも書いたが空を感得しなければ、全ての空の法は無意味な観念遊戯となるのじゃ。
肉体の空を念じる法は、空の感得に最も便利な法なのじゃ。

空を感得し、肉体を厭離するための最初の一歩として指一本の空を念じるのじゃ。
任意の指一本を選び、その指が空であると強く何度も念じるのじゃ。
人差し指ならばその人差し指が空であり、無であり、夢幻であり、陽炎のようなものであると念じるのじゃ。
口に出して念じるのもよいのじゃ。

指が空であり、無常であり、あるものでもなくないものですらもないと、一切の観念を否定して観想するのじゃ。
空であるから生じることも滅することも無く、垢つかず清浄となることもなく、増すことも無く減ることも無いと観るのじゃ。
日々繰り返し何度も念じていると、実際に指が空と感じられるようになるのじゃ。

指が自分のものではないと感じるのじゃ。
麻酔をかけられたようにあるのにないような感じなのじゃ。
どこか遠くにあるような感じなのじゃ。
そのように感じられたならば、空の感得は出来ているのじゃ。

肉体は実在の物体であるが、人はそれを観念として自分のものであると認識しているから、空と感得すれば自分のものではないように感じるのじゃ。
それができたならば、空の感得を全身に広げていくのじゃ。
一本の指から他の指も空と念じ、手や腕も空と念じて行くのじゃ。

腕から胸や胴体や足や頭も空と感得していくのじゃ。
人によっては脳が全てと唯脳論を信じている者もいるじゃろう。
そのような者は脳も空と念じるのが効果的なのじゃ。

そのようにして全身の空が感得されたならば、肉体に強く自己同一化していた者は直ぐにでも忘我や無我の状態に入るじゃろう。
それほどではなくとも、肉体の不安や苦は消えるじゃろう。
恐れずにその結果を見るのじゃ。

途中で迷ったり、空の感得が消えてしまったりしたら、指一本の空の法に戻るのじゃ。
それから全身の空を念じるとよいのじゃ。
後に説く心の働きを空と観る法に就いて迷った時も、指一本の空に戻るとよいのじゃ。

これで色身の空の法は正しく説かれたのじゃ。
その他の法は後日に書くのじゃ。

このようにして日々実践すれば、大きな効果があるじゃろう。
むしろ効果が大きすぎて恐れる者もいるかもしれん。
肉体が消えてなくなるというような恐れや不安も起こるかも知れん。
そのような不安や恐れを乗り越えて、日々実践すれば悟りも向こうからやってくるのじゃ。
日々精進あるのみなのじゃ。


般若心経の実践法②

投稿日:2019-09-02 Mon

身体の次は感覚を空と観想する方法を実践するのじゃ。
眼耳鼻舌身意の感覚器官と、見聞臭味触意の対象を空と念じるのじゃ。
眼によって見る、耳によって聞く、鼻によって嗅ぐ、舌によって味わう、皮膚によって触れる、心によって思いを感じるという感覚もまた空と念じるのじゃ。
それらの感覚が空と感じられれば感覚による自己同一化がなくなり、自我や苦もなくなるのじゃ。

実践としては暫く瞑想をして心を鎮めた後、眼を見開いて見るのじゃ。
眼を見開いてそこにあるのは壁とかでもよいのじゃ。
今見ているものが空であると強く何度も何度も念じるのじゃ。
それはあるものではなく、かげろうのような幻であり、どこまでも無であり、在るものでも無いものですらもないと念じるのじゃ。

更に今見ている眼も、見ることのできる力である視覚も空と念じるのじゃ。
そのように何度も何度も空と念じていると、本当にその空が感じられるのじゃ。

見ているのが壁ならば、それが壁として感じられない、見えているのに壁と認識できないというような状態になるのじゃ。
確かに眼の感覚として捉えているのに、見ることがない空の状態になるのじゃ。
そうすれば視覚の空は完成したと言えるのじゃ。

同じように耳で聞くことも空と念じるのじゃ。
虫の声でも騒音でも何でも聞こえている音を空と念じるのじゃ。
聞いている耳も、聞くという感覚も空と念じるのじゃ。
何度も実践していると、耳に聞こえている音も認識せず、聞こえているのに聞くことが無い状態になるのじゃ。
感覚としては聞こえることがあるのに、認識は出来ない空の状態になるのじゃ。
そのようになれば聴覚の空は完成なのじゃ。

鼻で嗅ぐ匂いも又空と念じるのじゃ。
臭覚も鼻も空であり、在るものでも無いものですらないと観想するのじゃ。
何度も何度も念じていれば、臭覚も空となるのじゃ。
嗅いでも匂いがわからず、何の分別も無くなって臭覚の空は完成するのじゃ。

舌で味わうものも空と念じるのじゃ。
味は空であり、何等存在するものではなく、無でさえ無である絶対的な無であり、空と念じるのじゃ。
味わう舌も味覚も空と念じるのじゃ。
そのように何度も実践していれば味覚も空となるのじゃ。

更に身体で触るものも空と念じるのじゃ。
触っている手や足も空であり、触覚も空と念じるのじゃ。
触れたことによる分別が無くなり、何を触れているのかわからず、触れるということすら失念した時に触覚の空は完成するのじゃ。

最後に心に感じることも空と念じるのじゃ。
怒りや悲しみ喜びや楽しささえも空と念じるのじゃ。
いかなる思想や主張や主義も全て空と観るのじゃ。
それら全てが空であり、幻であり、存在せず、あるものでも無いものでも無いと念じるのじゃ。
それらを感じる心も、感じられる心の感覚すら空と念じるのじゃ。
そうすれば心で感じることも空となるのじゃ。

心に何が浮かんでもそれを認識せず、心が働くことも自分とは無関係に感じられるのじゃ。
心は何もしなくても勝手に働き、何もしないで静まっていくじゃ。
それにも囚われないならば、心の空が完成したと言えるのじゃ。

このようにして感覚の空を完成すれば、感覚に主体を投影していた者は自我を厭離して無我にもなるのじゃ。
感覚に主体を投影していなかった者も感覚に依存していたことに気付き、感覚から起こる苦や囚われを無くすことができるのじゃ。

感覚そのものは存在し、在るものであるが、人はそれを観念として認識している故に自己同一化や囚われが起こるのじゃ。
空と観想することでそれらの謬見が無くなり、厭離も出来るようになるのじゃ。
修行者はこのような効果のある空の法をひたすら実践するとよいのじゃ。


般若心経の実践法③

投稿日:2019-10-02 Wed

般若心経の実践法の三番目には想念の空を観想するのじゃ。
想念とは観念と言ってもよいのじゃ。
名前と形のイメージによって認識される心象なのじゃ。

悟って居ない者にとって全ての物事は、この観念によって認識されているのじゃ。
あるものが在ると認識するには、名前と心の中のイメージに拠るしかないのじゃ。
名前とイメージによって分別できないものは無いとされるのじゃ。

観念を空と見なすことで、あらゆる認識の対象から解放され、囚われなくなるのじゃ。
それは自分という観念にとっても同じなのじゃ。
観念が自分として自己同一化している者は、この想念の空を怠り無く実践することで無我にもなれるのじゃ。

想念の空には二つの効果のある実践があるのじゃ。

一つは執着する全てのものごとの観念を空と観ることなのじゃ。
心の中で何かに執着していれば、修行の道も進まないのじゃ。
金とか名声とか権力とか異性に執着したままでは、心は悟りを求めて自我を滅しようとはしないじゃろう。
そのような執着を捨てるために、執着の対象を空と観る方法が必要なのじゃ。

もう一つは自己の観念の空なのじゃ。
これが本来の修行の道といえるものじゃ。
自分という観念を空と観ることで、自我の厭離が起こり、自己同一化がなくなるのじゃ。

修行の順序としては先ずさまざまな執着を空として取り除くことから始めなければならないじゃろう。
執着があれば修行は進まないからのう。
あらゆる執着を取り除いてこそ、修行も速やかに進むのじゃ。

何かに執着していれば、苦も起こるものじゃ。
執着の対象を空と見なすことが出来れば、苦もなくなるのじゃ。
これこそ心経の法を実践する上での最も大きな利点と言えるのじゃ。

観念を全く生じないようにするのは、悟っていない者には困難なことじゃ。
観念を消そうとすると、観念は消えず、観念が消えないというその観念によって又苦しめられるのじゃ。
そのような苦は誰もが経験したことがあるじゃろう。
例えば異性に強く執着して何度も考えて、苦しいからもはや考えないようにしようとしても又考えてしまう。
更に考えないようにしようとしても出来ないことが苦になる。
異性だけでなく、いろいろな執着によって何度も体験したことじゃろう。
そのような繰り返しで貴重な人生の時間を消耗してしまうのじゃ。

そのように観念に取り付かれて消せない時に、心経の空は効果を発揮するのじゃ。
観念は悟りを得ていない者には容易に消すことは出来ないが、何度も繰り返し観想することで変えることは出来るのじゃ。
観念を空に変えれば、消したことと同じ効果があるのじゃ。

金に執着しているならば金とは空であり、無いものであり、増えることも無く減ることも無く、清浄でも汚くも無く夢幻であり、存在し無いものであると観るのじゃ。
名声に執着しているならば名声とは空であり、無いものであり、増えることも無く減ることも無く、清浄でも汚くも無く夢幻であり、存在し無いものであると観るのじゃ。
そのようにして執着の対象となるあらゆるものを空と何度も観想し、念じるのじゃ。

執着の対象を空とすることで厭離も起きて、修行も進むのじゃ。
更には修行のための法もあまりに執着すれば、苦になり、修行の妨げにもなるのじゃ。
それもまた空と見なして捨てるべきなのじゃ。
心経には苦集滅道も空と記されているのは、そのためなのじゃ。
四諦十二因縁全てが空と見なせば、法に対する執着をも消せるのじゃ。

それが出来れば自己の観念をも空と観ることに進むのじゃ。
悟りを得ていない人間は自己をも観念として認識しているのじゃ。
心の中の観念を自分と認識しているのじゃ。
観念の自分は自分の名前と、自分の姿形、形象、イメージによって出来ているのじゃ。

それを自分と認識しているから、自分の名前を広めたいと思い、他人に与えるイメージを良くしたいという執着も生まれるのじゃ。
そのために時には自分や他人の命さえも顧みないことさえあるのじゃ。
それが多くの苦と混乱を引き起こしているのじゃ。

自己の観念を滅するために、名前とイメージの空を実践するのじゃ。
自分の名前が空であり、自分の姿形、形象、イメージも空であると何度も観るのじゃ。

自分の名前が空であり、無であり、夢幻であり、減ることも増すことも無く、あるものではなく、無いものでもないと観る時、名称による自己同一化がなくなるのじゃ。
そして自分の名前による執着、名前を広めたいという欲が無くなるのじゃ。

同じように自分のイメージ、姿形、形象が空であり、無であり、夢幻であり、減ることも増すことも無く、清浄となることはなく垢つくこともなく、あるものではなく、無いものでもないと観れば形象による自己同一化がなくなるじゃろう。
それが出来れば安らぎがあるじゃろう。
他人に与えるイメージを良くしようと思う欲がなくなるからなのじゃ。

名前と形象による自己を守ろうとする緊張も無くなるから神経も解放されるのじゃ。
同時に自己の観念のための欲と動機も無くなるから、あらゆる心の働きも沈静化するのじゃ。

そのようにして一時的な忘我であるサマーディも容易に達成できるじゃろう。
更に自己の観念が空であると、完全に気付いたならば、無我にもなるじゃろう。
無我になっても観ているものがあると気付き、それもまた空であると観るならば、大悟徹底も完遂されるのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。


般若心経の実践法④

投稿日:2019-11-02 Sat

行とはものごとを分別する働きなのじゃ。
知覚したものごとがどのようなものか、記憶に拠って分類するのじゃ。
認識の一環として働くものであり、通常はその働きは無意識に行われ、観ることもできないものじゃ。

それを見極めて空として観想することで、妄念を産む分別の働きを止めることができるのじゃ。

人が通常、何かを知覚したならば、即座にそれが何か観念によって分類する働きが心に起こるのじゃ。
例えばりんごを見たならば、それが赤く、丸いという特徴から、りんごの記憶と照合され、それがりんごであると観念によって認識されるのじゃ。
何かを知覚すれば、その働きはそうしようと想わなくても自動的に起こってしまうのじゃ。

観念を自動的に起こす働きなのじゃ。
その行の働きがあれば観念はいつまでも起こり続け、思考や感情をも次々に起こるのじゃ。

それは記憶しているものならば、直ぐにそれらの特徴がわかって便利な反面、人には不利益なことも在るのじゃ。
分類が素早く無意識に行われてしまう故に、苦を生じるものごとを知覚した時にも、素早く苦をもたらしてしまうのじゃ。
そしてその働きは無意識であるから、意識的には止められないのじゃ。

そのような苦を生む働きを止めるために、空の観想が役に立つのじゃ。

通常ならば余りにも素早く働く故に、行はその働きを感じることすら難しいじゃろう。
しかし、それを自覚する方法もあるのじゃ。
今まで見たこともないものごとを知覚した時、行の働きはいくつもの記憶と照合するために、かなり遅く働くのじゃ。
りんごに似ているが色が違うとか、形が違うという物を見れば、それはりんごかなしか、或いはみかんかと、暫くの間迷いが生じるのじゃ。
その時には分別する働きは遅く成る故に、自覚できる時間もあるのじゃ。

そのようにして行の働きを自覚できたならば、それを空と観ることも可能になるのじゃ。
常日頃から注意して自分の心の働きを観察しようとしているならば、それも観られるのじゃ。
それは観念を起こす働きである故に、それを空として止める事が出来れば、観念をも生じなくさせることが出来るのじゃ。

行の働きを自覚することは困難であるが、一度それが観られて空と観想することができれば、観念の根本から止める事が出来る故に、観念を滅するよりも強力な方法となるのじゃ。
観念がいくら滅しても次々に湧いて止められないという者も、行から滅すれば止める事が出来るようになるじゃろう。
原因から滅する事が出来るから、強く執り付かれている観念に対しても有効な方法となるのじゃ。
実践によって確かめてみるのじゃ。


般若心経の実践法⑤

投稿日:2019-12-02 Mon

般若心経の最後の実践は認識の空を観じる方法なのじゃ。
認識とは人の全ての心身の働きの根本にあるものじゃ。
認識が無ければ全ての心身の働きは行うことが出来ないのじゃ。

認識するという心の働きと、認識の対象と、認識の主体が全て空であると念じれば、全ての心身の働きも消え去るのじゃ。
認識することが無く、認識対象と認識主体が無ければ、全ては無になるのじゃ。
認識することが無ければ何かをしてもしなかったことになるのじゃ。
知識も無く、分別も無く、およそ言葉にする事も全てなくなるのじゃ。

そのようにして認識が止まれば、自分という認識も止まるのじゃ。
自分という主体が無く、他人という客体もない。
知覚するものも無ければ、働きもない。
その時、真の無為が為されるのじゃ。

自分が無くもはや心の働きも無く、言葉にする事もない無為の境地に在れば真の大悟徹底の境地にも参入できるのじゃ。

最後の境地にまで至るには、悟りを達成するという強い意志が必要になってくるのじゃ。
認識が空であると強く念じれば、あらゆるものごとが認識できない状態になるのじゃ。
それは狂気の状態に似ているのじゃ。
それに恐れをなして逃避してしまう者もいるじゃろう。

そもそも人は認識された知識による世界に住み、それを自己よりも先にあり、従うべき世界であるとして自己よりも高い価値観を持っているものじゃ。
それがなくなるということは混乱に還ることであり、知識による世界の整合性を求めていた者には
到底受け容れられない事じゃろう。
洋の東西を問わず、人の作り上げた世界は知識の大きな集合としてあり、知識の王国とも言えるものじゃ。
知識を多く集め、知識を積み上げることが人間の最も偉大な営みとして認められてきたのじゃ。

それらが無くなる事は自分個人としての破滅ではなく、世界全ての破滅にも思えるものじゃろう。
西洋では知識を愛することが哲学として全ての学問の上位に位置づけられているのじゃ。
分別や知識を無くせという教えは、人の営みとして本来ありえないものとさえ言えるのじゃ。
しかし、大乗仏教ではそれを実践せよと説かれるのじゃ。
知識や分別を無くすことが、生き物としての至高の境地である悟りに通じるものであると言うのじゃ。
このような逆説的な教えを実践し続けるには、正に強い悟りへの意志を奮い起こさねばならないのじゃ。

狂気にも似た無分別の状態を乗り越えたならば、更に法を捨てる段階に入るのじゃ。
般若心経で苦集滅道、十二因縁さえも空と説かれた通り、仏陀の教えさえも空としなければならんのじゃ。
それは空の法も同じなのじゃ。
このすべてを空と念じる法さえも空と観るのじゃ。

正に空を空と観るのじゃ。
空は空と異ならず、空は即空であると観るのじゃ。
これこそ般若心経の文字には表れない、文底に隠された最後の法なのじゃ。
狂気にも似た混沌から無為に入り、法をも捨て去った時、真の悟りは芽生えてくるのじゃ。

その時、自己を捨て去ったことから心身の完全な統御を得ているじゃろう。
観念を捨て去ったことから観念の完全な理解を見出すじゃろう。
知識を捨て去ったことから智慧の完全な完成を遂げているじゃろう。

観念の一つである死はもはや無く、永遠の安楽が実感できるじゃろう。
時間が無いことが永遠であり、全てが意識であるから空間と言えるものも無いのじゃ。

そのような大悟徹底の境地に至るまで実践あるのみなのじゃ。


般若心経実践法⑥

投稿日:2020-01-02 Thu

般若心経によって空の法を実践しようとしている者は、特に注意して心がけなければならないことがあるのじゃ。
それはいかなるものごとをも、空であるという見解を持ってはいかんということなのじゃ。
今まで空の法を述べておきながら、おかしなことを書くと想う者も居るかもしれんが、それが最も肝心なことなのじゃ。

空の法とは修行のための方法であり、一般的な真実ではないのじゃ。
実在する何かが空であるという事はありえないのじゃ。
修行のために実在するものごとを空であると、念じるだけなのじゃ。

それを理解できずになにものかが空であると、知識として覚えれば見解を持つことになるのじゃ。
何かを空であるという見解を持つことは、法に囚われることになるのじゃ。
空見を持ってしまうことになるのじゃ。

いかなる見解をも破壊するのが空の法の真髄なのじゃ。
それを理解できずに空という見解を持てば、法の核心を取り逃がすことになるのじゃ。
空見を持てば却って悟りから遠ざかることになるのじゃ。

空見を持つものに自己同一化が起こるからなのじゃ。
空という見解を持つ主体が自分であるという自己同一化が起こり、厭離できなくなるのじゃ。

そもそも五蘊を空と見なすことは、自分という観念を空として厭離するためなのじゃ。
それが全ての般若経の目的とも言えるものじゃ。
自己同一化を取り除くための観念が空なのじゃ。

空の法を実践して自己同一化が厭離できなくなり、逆に強化するならば、それは本末転倒というべき事態なのじゃ。
そうであるから空という法とその主体をも空であると見なさなければならないのじゃ。

それが般若心経の最も肝心な法なのじゃ。
全てを空と見なしても、それを実践する主体が残ってしまえば空ではないのじゃ。
空の法を実践する者も空と観るのじゃ。
空の法を実践する主体もまた空であると見なすのが、正しい空の法なのじゃ。

空という法を知る者も実践する主体も空であると観るのじゃ。
空という法をも空と観るのじゃ。
空という法を行使する心も、行使される対象も空と観るのじゃ。

それが実践できれば主体が空であるとして感じられない無我に至るのじゃ。
更に主体が感じられなくとも、それを認識するものがあるのじゃ。
それを阿頼耶識と唯識論では呼ぶのじゃ。

それもまた空と見なせば、消えていくのじゃ。
そのようにして菩提、悟りも究極にまで至れるのじゃ。
記憶に依存した認識である阿頼耶識さえも空として滅すれば、もはや大悟徹底の境地なのじゃ。
究極涅槃であり、不死の境地なのじゃ。
一切の苦悩と憂いが無く、永遠の至福と唯一つの意識が残るだけなのじゃ。

空の法を実践する者は、そのような言語も絶した究極涅槃の境地に至るまで、実践在るのみなのじゃ。



元気が出る説法

自分を知るのじゃ。

投稿日:2018-12-02 Sun

洋の東西を問わず、昔から今に至るまで全ての賢者達は一つの教えを繰り返し説いているのじゃ。
それは自分を知ることなのじゃ。
観察や経験によって自分を知ることが、賢者によって説かれた真の利益ある教えなのじゃ。

自分を知ることで人は世間で大きな利益を得て、最後には世間を出る悟りにも到達できるのじゃ。
自分を知らなければこの世で苦しみ、迷いのうちに死んで後にも苦しむのじゃ。
自分を知ることがこの世に生まれてきた理由とも言えるのじゃ。

例えば幅が三メートルのトラックに乗る者が自分のトラックの幅を知らなければ、幅が二メートルしかない山道に無理に乗り入れたりしたら転落して事故になるじゃろう。
逆に四メートルの道幅のところに走るのは無理だと諦めてしまうこともあるかもしれん。
そのように自分を知らなければ能力を過信して事故にあったり、逆に能力を低く見積もってチャンスを諦めてしまうこともあるじゃろう。

能力についてだけでもこのように自分を知ることで事故を防ぎ、チャンスを生かすこともできるようになるのじゃ。
その他、自分の好悪や肉体の習癖や心の働きについて知ることが多ければ、不調を減らし利益を多く出来ることは言うまでも無いのじゃ。

自らの好む所を知ることで、それを生かして楽しめる職業に就いて成功することも出来るのじゃ。
自らの好まないことを知って、利益が多いからと嫌いな職業に就いてストレスで心身を壊すということもなくなるのじゃ。

肉体についても寒さに弱いとか暑いと倒れるとか、よく知っていれば病を防ぎ、長生きも出来るのじゃ。
他人に効く薬も体質によって自分には効かないこともあるものじゃ。
自分の肉体について日頃から知れば薬も合うものを選ぶことが出来るのじゃ。

更には心の働きを知ることで苦を滅することも出来るのじゃ。
苦しみも自分の心を観察することで滅することが出来ると知れば、安楽の境地に至れるのじゃ。

自分の心を観察するといっても初めはわからないことばかりじゃろう。
そのようなことが出来るということさえ知らない者も多いじゃろう。
何事も初めはわからないことばかりであるが、実践し続けることで知識も増え、慣れてくるものじゃ。
何があろうと自分の心を知る努力を続けることが大事なのじゃ。

人が苦を嘆き、迷いの内に生きていくしかないのも自分を知らないからなのじゃ。
自分のしたいことも、すべきこともわからないのは自分に対して無知であるからに他ならないのじゃ。
それは地図を持たない者が目的地も無く道なき道を旅するようなものじゃ。
そのような状態ではただ苦しみ迷い続けたというだけの人生になってしまうのじゃ。

自分を深く知っていれば、理想とすることも目的も自ずから明白になってくるものじゃ。
それは慣れた道を行くものが行く先も、道筋も完全にわかって晴天の下で歩くようなものじゃ。
確実に目的地に着くであろう事は明白なのじゃ。

自分を知れば世間において大きな利益を得て、出世間の道においても永遠の安楽に辿り着けるのじゃ。
自分を知れという賢者達の言葉は、真に虚しくないと言えるのじゃ。
修行者は日々自分を知る努力を続けるとよいのじゃ。


自己イメージを新しくするのじゃ。

投稿日:2019-01-02 Wed

人が自己イメージを持ち、それによって自己を認識してることは既に書いたのじゃ。
その自己イメージの働きを観察できれば無我にも至る事ができるのじゃ。
十二因縁とはそのためのものなのじゃ。
自分があるという観念から好悪が生まれ、執着から苦も起こるというのじゃ。

その自分があるという観念が無明であり、自己イメージによるものなのじゃ。
自己イメージによって次々に起こる働きを観察することで、自己イメージそのものも厭離できるというのじゃ。

そのように自己イメージがあれば諸々の苦が起こるのであるが、自己イメージが健全でなければ修行もままならないこともあるのじゃ。
自己イメージとはその者の能力を限定する役割も果たしているからなのじゃ。
自分は何をやっても駄目だという強い否定的な自己イメージをもっていると、その通りに行動し、修行も達成できずにやめてしまうこともあるじゃろう。
否定的な自己イメージによって自分の能力も否定してしまうからそうなってしまうのじゃ。
そして更にそれを改善しようとしても、思考すらも否定的になってしまうから行いも常に失敗してしまうのじゃ。

逆に自分には何でも出来るという強い肯定的なイメージがあれば、修行も完成できる可能性が高くなるのじゃ。
それもまた自己イメージによって能力が開放されたからなのじゃ。
自己イメージが善ければ考え方も善いものなるから迷うことなく進むことが出来るのじゃ。
このように自己イメージによって能力や結果が左右されてしまう故に、健全な自己イメージを持つ事が大事なのじゃ。

しかし、自己イメージも観念であるから改善することは出来るのじゃ。
その法が以前にも書いた献身の道である神仏のイメージと一体化する法なのじゃ。
自分のイメージを神仏のイメージと一致させることで、自分のイメージに縛られずに智恵や能力を開放することができるのじゃ。
それはインドのヨーガに古くから伝わり、密教にもある法なのじゃ。
古くから生身の者が神仏の智恵と力を授かる法とされてきたが、現代の心理学も漸く追いついてきたのじゃ。

この法を自己イメージの改善に使うには、出来るだけ大きな神仏のイメージを使うとよいのじゃ。
自己イメージが卑小である者は、物理的にも自分を小さなものとして感じているのじゃ。
それを打破するために出来るだけ大きなイメージを用いるのじゃ。
浄土三部経にあるような身長何キロもある阿弥陀如来になるというような大きさがよいのじゃ。
少なくとも十メートルぐらいの神仏を思い描くのじゃ。

強いイメージが出来たら自分の体と合体したとイメージするのじゃ。
献身の名の通り、神仏に心身を献納し尽くして自分のイメージを抹消するのじゃ。
神仏に自己を捧げ尽くし、神仏に成り切るのじゃ。
無限の智恵と能力を持ち、出来ないことなど一つも無いという万能感が起こるまで一体化するのじゃ。
何日も続けて熱心に行っていればそのような感覚もわいてくるのじゃ。

そのような感覚が強く起こるようになったら、その視点から今の自分や環境を観察するのじゃ。
神仏の視点からは今の自分に足りないことや、すべきことなどがありのままに見ることができるじゃろう。
開放された智恵によって今までの自分では知りえなかったことも知ることが出来るのじゃ。
それが神仏と一体化することの効果なのじゃ。
献身の道の記事も参考に実践するとよいのじゃ。

神仏に借りた智恵によって自らの道を見出すことが出来るのじゃ。
強い否定的な自己イメージがある者は思考さえも否定的になる故に、このような方法で正しい智恵を養い、正しい道を見出す力を身につける必要があるのじゃ。
数回やって駄目だったと諦めてしまえば何も効果は無いのじゃ。
ただ一念を通す心構えで日々続ければ、点滴石を穿つように大きな効果も得られるのじゃ。
今の自分を変えたいと思う者は実践あるのみなのじゃ。


足跡と足元を見て進むのじゃ。

投稿日:2019-04-01 Mon

長く修行している者の中には、もはや飽きてしまったとか、成果も見えないのに続けるのは苦しいとか想う者もいるじゃろう。
それは悪いことではないのじゃ。

昔からそのように感じる者は多いのじゃ。
それを苦にしたり、否定したりすると本心もわからなくなるのじゃ。

そのような修行への熱意を取り戻すにはいろいろ工夫が必要なのじゃ。
先ずは今まで辿ってきた修行の過程を振り返ってみるのじゃ。
日記をつけている者ならば、最初の頃から読み返してみると善いのじゃ。

修行を始める前のことを読めば、以前は苦しんでいたことも、今では夢のように感じるかもしれん。
そのように成果が見られれば、やる気もまた湧いてくるものじゃ。

人間は何の成果も見えない仕事をさせるとだんだんと飽きて、能率も下がるというのじゃ。
時には以前の状態を振り返って、今までの修行を積んできた足跡を振り返ってみるとよいのじゃ。

次には最初の話と矛盾しているが、過去も未来も思わずに今、ここでだけ修行しようと思うことなのじゃ。
今日のこの日、今この時だけ実践すると思えば気も楽になって、修行に励めるのじゃ。

そもそも修行に飽きたり、苦に感じるのは、今までやってきたのに成果があがらなかったと、過去のことを思い出しているか、その修行がこれからもつづくと未来を思うから憂えるのじゃ。
過去や未来を見て、今を見ていないのじゃ。
そのようにして修行に飽きたり、苦に感じたりするのじゃ。

それを防ぐために、今日の今、この時だけ修行しようと決心するのじゃ。
そうすれば過去も未来もなく、今ここにあることもできるのじゃ。
それが足元を見ることなのじゃ。

更には環境を少し変えてみるのもよいのじゃ。
服を変えるとか、座布団を変えるとか、いろいろ変えてみるのじゃ。
それだけでも新鮮な気持ちになってやる気が出るものじゃ。

瞑想の助けにするために、今までやったことのないこともやってみるとよいのじゃ。
お香を焚いてみるとか、自然の音や瞑想に向いた音楽をかけるのもよいのじゃ。
集中のための曼荼羅やヤントラ等の図形を壁にかけるのもよいのじゃ。
信じる神仏の図像も使うとよいのじゃ。

それに囚われてはいかんのじゃ。
囚われない程度に何でも助けになるものを使ってよいのじゃ。
瞑想は形にも囚われないで善いのじゃ。

自分がやり易いようにいろいろ工夫してとにかく続けるようにするのじゃ。
特に病とか多忙で続けるのが難しいと思う時こそ実践すべきなのじゃ。
毎日五分でも欠かさず実践することで、大きな力になるのじゃ。
日々の実践で整えられた心が、苦から逃れる避難所になるのじゃ。
修行者は工夫して日々実践するとよいのじゃ。


自分を知る事の効用

投稿日:2020-04-02 Thu

自分を知ることは、この世の全ての賢者達の教えであることは前にも説いたのじゃ。
しかし、多くの者はそれにどのような効用が在るのかと、不思議に想うじゃろう。
それは今生きている世の人が、悩み苦しむ目の前の問題には無意味であるとさえ想うかもしれん。

自分を知るということは、日常から逸脱した象牙の塔の住人や遊んでいられる者のすることだとさえ想うかもしれん。
生活を無視して悟りを求めたり、真理を追求する者だけがやるものと考える者も居るじゃろう。
日常生活には役立たないものと感じたりもするかもしれん。

しかし、自分を知ることは日常生活と遠くはなれたものではないのじゃ。
今の生活を安楽にすることにも役立つものじゃ。
安楽への道は先ず自分を知ることにあるのじゃ。
人が進歩するのは自分を知ったことによるものとさえ言えるのじゃ。

例えば在る者は通勤する度に強いストレスを感じていたのじゃ。
仕事はそれほどでもないが、騒音の多い都市での通勤が苦だったのじゃ。
それが何故かと追求したら実は自分は聴覚過敏だったと知ったのじゃ。
騒音が多い環境では強いストレスを感じる体質だったのじゃ。
それを知ってからは通勤の時には音楽を聴くようにしたら、ストレスが無くなったと言うのじゃ。

このように今まで自分の性質に無知だった者が、自分を知ったことで安楽になることは珍しくないのじゃ。
他にも臭いに敏感な者が自覚してマスクをつけるとか、自分を知ることで身近な生活のストレスが改善することはよくあることじゃ。
長年生活して苦にしている自分自身の性質でさえも、知らなくてストレスを受け続けている者は多いじゃろう。
まして心の性質を知らないことによって苦を受け続けている者は、更に多いことじゃろう。

それらの無知を解消し、己の心身の性質を知ることは今ここにおいて生活を安楽にする効用が多くあると言えるのじゃ。
肉体の性質に精通していることだけでも、その効用は大きいのじゃ。
肉体を温めれば免疫が上がるとか、胸や喉をマッサージするだけでも風邪やウィルスの予防になるとか、小さな知識だけでも助かったりするものじゃ。
呼吸法を実践し、さまざまな運動をするだけでも健康になるのじゃ。
肉体に多くある経穴を押すだけで血行がよくなったりするのじゃ。

このように肉体の知識だけでも精通すれば、病の予防と治療と健康増進に役立つのじゃ。
肉体の性質に無知であったことで今まで苦しんで来た者は、自らをよく観察して原因を知れば、その苦を滅したり緩和することもできるのじゃ。

更に心の性質によって起こる苦も、自らの心を観察する事で滅することが出来るのじゃ。
苦を観察し、苦が原因から起こることを観察し、苦の原因が無ければ苦が無いことを正しく観察できれば、苦も消えるのじゃ。
それがお釈迦様の教えた苦を滅する法なのじゃ。
それもまた自らの心を観察して知る法なのじゃ。

このように自らを知ることは、今の生活と離れたことではなく、今ここでの日常生活を安楽にする効用があるものじゃ。
今の生活でさまざまな苦に悩まされている者は、常に自分を知ることに務めて、その効用を受けるが善いのじゃ。




病苦を観るのじゃ。

投稿日:2020-05-02 Sat

今のように疫病が流行ると誰もが不安に思うものじゃ。
誰もがストレスを抱え、他人に攻撃的になってしまったりするのじゃ。
体が病にかかる前に心が病んでしまうのじゃ。
それが真の病の苦なのじゃ。

病そのものは人が生きている限り常にあり続けるものじゃ。
二千五百年前にお釈迦様が四門を出て病人を見た時から変っていないのじゃ。
人としての肉体がある限り免れないのじゃ。

現世の快楽に逃避していると、それを忘れてしまうのじゃ。
そして今のように流行り病が蔓延して免れないようになると、驚いて不安になってしまうのじゃ。
それは病の苦に苛まれていることになるのじゃ。
病そのものよりも、病に対する不安や恐れが苦になるのじゃ。

病に拠って心が苛まれる時に人は道を誤まってしまうこともあるのじゃ。
大事な人を傷つけたり、法を犯したりして一生悔やむことにもなりかねないのじゃ。
この娑婆世界は楽園ではなく、一切皆苦の世界であるからそのようなことも起こるのじゃ。

そのような苦を滅するためにはやはり観察するしかないのじゃ。
心を鎮めて観察すれば、病の苦も滅せられるのじゃ。
病を観察するとは、自らの心の中にある病の観念とそれに反応する心の働きを観るのじゃ。

病が流行っているという観念から、自分もかかるかもしれないという不安が起こるじゃろう。
その全体を観察すれば不安も消えるのじゃ。
病にかかるかもしれないという予測する観念は残り、変らずにあるのじゃ。
しかし、それがもはや苦にはならないのじゃ。
自己同一化が観察することで消えたからなのじゃ。
そのようにして病苦は滅するのじゃ。

観念は残っても同一化が無いから苦がなくなるのじゃ。
苦である自分が無くなるのじゃ。
ただ苦のない予測が残るのじゃ。

そのようにして病があっても観察して苦を滅することが出来るならば、病苦を進歩の機会に変えたことになるのじゃ。
病が流行っていて外に出られないならば、そのように実践するとよいのじゃ。
そうすればそれもまた自分を知る善い機会に恵まれたと言えるのじゃ。
病苦に悩む者は実践あるのみなのじゃ。


自分を責めてはいかんのじゃ。

投稿日:2020-06-02 Tue

この世に子供の頃、親に叱られなかったという者は殆ど居ないじゃろう。
誰でも多少の違いはあっても大抵は親に叱られて育つものじゃ。
親も大方は子供が憎くて叱るのではないのじゃ。
命に関わる危険なことや、社会での生き方を教えるために叱るものじゃ。

しかし、その叱責が子供の頃に、心に定着してしまうと、何かあれば過度に自分を責めるという心の悪癖を作り出してしまうことがあるのじゃ。
何かを失敗したりすると自分を心の中で叱ったり、罵ったりしてしまうのじゃ。
例えば仕事の失敗をしたり、家で皿を割ったりしても自分を責めたりするのじゃ。
自分の責任ではない近親者の病や死去でも自分を責めることもあるのじゃ。
自分のせいで近親者が死んだとか、もっと何かしてやればよかったとか思うのじゃ。

そのように自分を責める心の性質があれば、それもまた苦になるものじゃ。
自分で自分を責めることが苦になるのじゃ。
自分で自分を責めればちょっとした失敗でも強く落ち込んで、意気消沈し、やる気も無くなるものじゃ。
うつになる者も居るじゃろう。

そのような者は他人も強く責めたりするものじゃ。
自分が許せないのであるから、他人もまた許せなくなるのじゃ。
他人を責めれば他人からも責められるじゃろう。

こうして自他共に不幸になるばかりなのじゃ。
それも子供の頃に叱られた経験を繰り返していることが原因だったりするのじゃ。
もはや必要も無い子供の頃の経験が心に残って、今の生活を不幸にするのじゃ。

その苦から抜け出したいと思う者は、先ずはそれを完全に滅することを決意しなくてはいかんのじゃ。
自分を責める性質を持つ者は、それが正しいと思い込んでいる事も多いからなのじゃ。
それも親から叱られていたからなのじゃ。
親の言動を子供は正しいと思い込むものであるからのう。

正しいから自分を責めるという認識をも捨てることを決意するのじゃ。
そして真摯に心の中の原因を観察してみるのじゃ。
子供の頃の原因から、今の心の性質が起こる事を観察するのじゃ。
子供の頃の経験から今の自分を責める心の性質が出来ていると理解できれば、それは消えるのじゃ。

完全に理解できればその無意味であることが心身に染みてわかるのじゃ。
ただ子供の頃に叱られた経験から、今の人生さえも暗くしているという全体像が見えればその性質も訳無く捨てられるのじゃ。
それは完全に気付けば自然に起こるのじゃ。

完全にその性質から逃れるためには、人に拠っては何度も観察しなければならないこともあるのじゃ。
全てが完全に観られるまで何度も何度も観るがよいのじゃ。

そのようにして自分を責める性質が無くなれば、小さな失敗で落ち込むことも無く、他人の言動で自らを責めることもなく、他人を責めることも無く生きられるのじゃ。
少しのことで意気消沈する事も無く、やる気が出て過去の経験に縛られることも無く、やりたいことも出来るようになってくるのじゃ。
それもまた自己を理解することの効用と言えるのじゃ。
自分を責める性質の者は実践して、無用な性質を取り除くが善いのじゃ。





条件付けから離脱するのじゃ。

投稿日:2021-01-02 Sat

条件付けは人の心の中に根付いている習慣的なものじゃ。
スポーツとかゲームのルールのようなものじゃ。
それも人が従わずに居れない強制的なルールなのじゃ。
まだ悟りを得ていない観念に依存する者はそれが強制する通りに行動してしまうのじゃ。

それは幼少の時から植えつけられるのじゃ。
親から植え付けられるもの。
友人や仲間から植え付けられるもの。
社会的な思想や宗教によって植えつけられるもの。
等々があるのじゃ。

例えば嘘をついてはいかんとか、盗みや暴力もいかんとかなのじゃ。
多くの条件付けは社会で生きるために必要なものなのじゃ。

それはスポーツやゲームと違って時には一生人の心に巣食い、行動を規制するものともなるのじゃ。
スポーツやゲームならば止めればそのルールには従わなくてよくなるのじゃ。
しかし、条件付けは常に心の中にあり日常の行動を規制するものなのじゃ。
大抵の者はそのような条件付けに従っていることさえ意識しないのじゃ。
無意識のうちに条件付けの通りに行動しているのじゃ。

それが時には生きることの妨げになったり、修業の障害になったりすることもあるのじゃ。
小さなことでは嘘をつかないようにと条件付けされた者が、社会に出ると毎日多くの嘘をつかなくてはならない故に、罪悪感に苛まれてうつになったりするとかなのじゃ。
他にもいつもうちは貧乏だと条件付けされた者が、大金を手にして逆に破滅してしまうという例は多いのじゃ。

そして常識の範囲で生きることを条件付けされた者は、修業に拠って心に変容が訪れても拒否してしまうということもあるのじゃ。
更にはカルト的な思想や宗教の条件付けがあると、真実の教えが目の前にあっても理解できず、否定してしまうこともあるのじゃ。
そのような選択と行動は自分の意志でやっているように見えて、実は過去の条件付けによる無意識のものであるから実に危険なのじゃ。

誰でも今現在の知識で考えれば、自ら好んで苦しんだり、破滅したり、安楽への道を閉ざしたりするのは、おかしいとわかるじゃろう。
理性的に行動できればそのような選択は拒否する筈なのじゃ。
しかし、そのような思考や理性は条件付けされた心の働きには抵抗できないのじゃ。
思考や理性で考えるよりも、人は条件付けされた方向へと向かってしまうのじゃ。

そのような条件付けも自らの心を観察する事で滅することも出来るのじゃ。
それには先ず自分がどのような条件付けに従っているのか、知らなければならないのじゃ。
そしてその原因から観察するのじゃ。

親から教わったとか、友人達の間の決め事とか、思想や宗教的な規則とかそのような原因から自分の心に条件付けがあると観察するのじゃ。
それらがなければ今の条件付けも無いと逆からも観察するのじゃ。
そうすれば消えて行くのじゃ。

多くの条件付けは社会で生きるためのものであり、全て滅する必要は無いのじゃ。
ただ生きることを困難にするものや、修業の障害になるものだけを滅すると善いのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。


死の法則を知り、乗り越えるのじゃ。

投稿日:2021-10-02 Sat

この世にはさまざまな法則があるものじゃ。
引力の法則とか、電気の法則とかいろいろな法則に拠って、物理的な限界があるのじゃ。
引力に逆らって崖から飛び降りれば、傷付いたり死んだりするじゃろう。
そのように法則に逆らった行いをすれば、自らを損なうようなはめになるのじゃ。

そして法則は誰にでも平等に作用するものであり、地位とか名誉とか金でその作用を免れることは出来ないのじゃ。
誰でも法則に逆らえば、自らを損なうことになるじゃろう。
法則とはそのように作用するものじゃ。

しかし、法則は絶対に超えられないとか、悪いものということもないのじゃ。
引力も飛行機やロケットを使えば法則に逆らって飛ぶことも出来るのじゃ。
或いは電気の法則を知れば、利用して人の役に立つこともできるのじゃ。
法則もそれをよく学び、利用することで役に立つものにできるのじゃ。

死という法則もまた同じように働くものじゃ。
死は誰もが免れず、平等に来るものじゃ。
自分は死なないなどと思っていれば、死ぬ時に後悔するじゃろう。
又、死が怖いから、或いはわからないからと考えないようにしていればそれもまた後悔することになるじゃろう。

それは例えば臆病な者が目の前に車が暴走してきた時に、眼をつぶって止まってしまうのと同じなのじゃ。
そのようにすれば恐れからは逃避できるが、目の前の危険からは逃れられないのじゃ。
本当に危険から逃れるためには、それがどのように動いているのかを眼を見開いて見極めなければならんのじゃ。

死もまた同じように、それ自体をよく観察して見極めれば、超えることも利用することも可能なのじゃ。
それが死の法則を知り、乗り超えることなのじゃ。

それでは死の法則とはどのような性質のものなのか、わかり易く書いてみるのじゃ。

一 死は誰にでも平等にやってくる。

二 死に拠って今まで自分がしてきたことは中断される。

三 誰もが死に拠って金や名声や権力などを捨てなければならない。

四 死に拠って全ての人と物理的に別れなければならん。

死とはこのような性質のある法則といえるのじゃ。

最初の誰にでもやってくるというのは、誰でもわかるじゃろう。
事故とか病で死は明日にもやってくるかもしれん。
そうでなくとも寿命で死ぬこともあるかもしれん。
そのように確実に来ることを知って、覚悟しなければならんのじゃ。

そして死に拠って仕事が中断されるというのも理性ではわかるじゃろう。
しかし、感情ではわからない者達もいるじゃろう。
年をとっても仕事にしがみつく者は多く居るものじゃ。
いつまで自分が元気に仕事が出来るという考えでいると、死後に遺族が困ったりするじゃろう。
そのような者は死から逃避していたといえるじゃろう。

三番目の誰もが死に拠って全てを捨てなければならないということは、誰もが理解出来る筈であるが、実際は大多数の者がわかっていないのじゃ。
まるで金や権力や名声が永遠に保持できるかのように、多くの者が貪欲に求めているのじゃ。
そのために法律を破り他人を苦しめることさえ平気でしたりしているのじゃ。
いずれは全て捨ててしまうもののために、そのような行いをするのは実に愚かなことなのじゃ。
そのような者達は自ら苦しみを呼び寄せているといえるのじゃ。

四番目の誰もが物理的に全ての人と別れなければならないというのも、感情的には理解し難いじゃろう。
愛する家族や友人達等は感情的には永遠に変らないように見えるものじゃ。
しかし、いずれは別れなければならないのじゃ。
他人に執着すればいずれは苦がやってくるものじゃ。

実にこのように死の法則は人を苦しめるためのものに見えるじゃろう。
しかし、他の法則と同じように死の法則も叡智によって乗り越える方法があるのじゃ。
それが悟りを得る法なのじゃ。
悟りを得る法を実践すれば死も乗り越えられるのじゃ。

悟りを求める者でなくとも、死の法則を知り、利用すれば安らぎを得ることも出来るのじゃ。
或いは今の生と来世にも安楽を得ることも出来るのじゃ。

死が誰にでも平等にやってくることを知り、死ぬものと死なない意識を探求すれば悟りもやってくるのじゃ。
或いはお釈迦様の残された法を実践すれば、永遠に死の苦から脱却できるのじゃ。
それこそ死の法則を十分に理解して利用したといえるのじゃ。

悟りを求めない者も、死を覚悟してこの世のものにも、仕事にも執着しなければ苦はないじゃろう。
一切の執着を捨てれば、一切の苦がないと知れるじゃろう。
苦がない安楽の境地で生きることが出来るのじゃ。

福楽を求める者はこの世のものに執着せず、ただひたすら施すことを実践すればこの世でも来世でも福楽が訪れるじゃろう。
いずれ捨てるこの世のものを、施すことで自らに真の財産を積んだといえるのじゃ。
それもまた死の法則を知って、賢い利用が出来たことになるのじゃ。

賢い者は死の法則を知り、実践に拠って悔い無き時間を過ごすのじゃ。


いらないものを捨てるのじゃ。

投稿日:2022-01-02 Sun

昔、名声や金や権力を全て欲しがっていた者がいたのじゃ。
大金や名声や権力があればあるほど自分は自由になって、何でも出来ると思っていたのじゃ。
もはや心配することは何もなく、遊んで暮らせると思っていたのじゃ。

ある時、夢を見たのじゃ。
夢の中ではその者はスターであり、金持ちであり、権力も得ていたのじゃ。
しかし、少しも自由ではなく、したいことは何も出来なかったのじゃ。
それらを維持するためには、多くの時間を取られていたのじゃ。

名声を維持するために多くの人に笑いかけ、心にも無いことを言い、人を喜ばせることを次々に考え出さなければならなかったのじゃ。
そして名声を失わないように常に心配していたのじゃ。
話す言葉に細心の注意を払い、嫌いなものにもお世辞を言ってばかりいたのじゃ。

金も減らないようにといろいろな投資とか、管理に気を使い、一日何時間も費やして増やそうとしていたのじゃ。
増えた時は嬉しいが、少しでも金が減ると胃が痛み、落ち込んだりしていたのじゃ。

権力もなくさないようにと、有力者の間を駆け回り、いろいろな人に会って根回ししていたりしたのじゃ。
役所とか会社とかを訪問し、少しでも影響力を大きくしようと焦っていたのじゃ。
誰かが自分の地位を狙っては居ないかと、常に気を配って休む閑も無かったのじゃ。

毎日毎日心身ともに疲れ果てていたが、休めば自分の名声や金や権力がなくなると思えば、休むことは出来なかったのじゃ。
一度得てしまったそれらのものを失うのが、何よりも恐ろしかったのじゃ。
しかし遂に全てを失う時がやってきたのじゃ。

疲れ果てて病に倒れてしまったのじゃ。
病床で動けず話すことも出来なくなったその者を何人もが訊ねてきたのじゃ。
そして財産や権力や名声を勝手に奪い去り、持っていってしまったのじゃ。
悔しくて泣きながら死んでいくしかないのか、と思っていたら眼が覚めて、全部夢だとわかったのじゃ。

全部夢であったとわかってその者は喜んだのじゃ。
もはや何の心配も後悔も無いとわかったからなのじゃ。
自分の環境は何一つ変っていないが、もはや金や権力や名声をもとめなくてよいと気付いたのじゃ。
それらは自由をもたらすものではなく、不安や心配を増すだけのものだからなのじゃ。

この者のように娑婆世界という夢の中で、自由をもたらすものと思い込んで、見当違いのものを追っている者も多いじゃろう。
露骨に金や権力や名声でなくとも、微妙な仲間内での評判とか、保障とか、保険のようなものとか、いろいろに人が執着するものごとはあるものじゃ。
本当は必要でもないのに、条件付けされた心の働きで追い求めてしまうものじゃ。
追い求めているうちに、それらが貴重なもののようにさえ思えてくるものじゃ。

それが執着による心の働きなのじゃ。
貴重なものは得ればそれを失くさないかと、不安や心配も増えるものじゃ。
二つ有れば不安や心配は二つに増えるものじゃ。

そして必然的にやってくる死という全てを失う時が来れば、より大きく嘆くことになるのじゃ。
全てを得て全てを失った者のようにのう。

そのようなことが無いように、今の自分の環境を観察してみると善いのじゃ。
多くの時間を費やして得ようとしているものが、本当に必要なものなのか観察によって明らかにするのじゃ。
そしてそれを失う時に大きく嘆くことにならないか、自分に問うてみるのじゃ。

そうすれば失って嘆くもののために貴重な時間を費やすことも無くなるじゃろう。
不安や心配も減って心が安らかになるじゃろう。
実践在るのみなのじゃ。


貧窮困苦

投稿日:2022-02-02 Wed

この娑婆世界の苦の一つに貧窮困苦というものがあるのじゃ。
文字通り金銭がなくて苦しむことなのじゃ。
それもまた苦しいものじゃ。

貧窮していると常に不安があるから怒りやすくなり、家族仲も悪くなったりするのじゃ。
そうすると貧窮の上に怨憎会苦も重なり、真に苦しいものじゃ。
身に覚えのある者も多いじゃろう。

貧窮していれば修業の時間もなくなり、進歩も止まったりするじゃろう。
仕事に追われていれば、修業もできないのじゃ。
そのような者には貧窮から抜け出す方法もあるのじゃ。
自他の利を求めて金を稼ぐ方法なのじゃ。

しかし、仏教では欲から離れるようにと、教えていると想う者も居るじゃろう。
金を稼ぐ方法などは知るべきではないと思ったりするかもしれん。

煩悩の一つには貪欲というものがあるのじゃ。
それを離れよというのじゃ。
貪る欲なのじゃ。
貪るほどではない欲は持っていてもよいのじゃ。

食欲や睡眠の欲がなければ死んだりするからのう。
全ての欲を捨てなくてもよいのじゃ。

大乗仏教では自他の利益を求めるようにいうのじゃ。
他人と同じく自分の利益を求めて善いのじゃ。

お釈迦様も、若い時に遊びすぎて金を使えば、老後に苦しむからやめよ、と教えているのじゃ。
在家の者のために、金を貯める方法を教えているのじゃ。
その通りに先ずは貧窮から脱出するためには、貯金するのが一番なのじゃ。

自分で貯金できないならば、信用できる身内とか他人に貯金してもらうとかするのじゃ。
他にも給料を銀行に振込みしているならば、天引きで定期預金にするとかするのじゃ。
そのように自分の強い意志で貯金しようと思うならば、いくらでも方法は在るのじゃ。

更に金が溜ったら、投資して増やすようにするのじゃ。
投資にもいろいろ方法が在るのじゃ。
株とか為替取引だけでなく、不動産とかブランド製品にも投資できるのじゃ。

いろいろ調べて自分にあった投資をするとよいのじゃ。
それから投資によって増えた金が、更に金を生むように再投資するのじゃ。
そうすると複利になるから速やかに財産が出来るのじゃ。

このようにして若いうちから財産を守り、増やしていけばお釈迦様の言うとおりに老後も貧窮困苦を受けなくてすむのじゃ。
それもまた苦を滅する修業と言えるのじゃ。
貧窮困苦から逃れたいと思う者は、財産を守り、大いに稼ぐが善いのじゃ。
実践在るのみなのじゃ。


自分をドライブするのじゃ。

投稿日:2022-03-02 Wed

今の時代には車をドライブしている者も多いじゃろう。
車でドライブする時、さまざまに気をつけなければならないことがあるとわかっているじゃろう。
そのようにさまざまに気をつけ、注意深くドライブすることは、車だけでなく修業にも生き方にも通じるところがあるものじゃ。

人は車でドライブする時、決して感情的になってはいかんと、教えられ、気をつけているじゃろう。
感情によって車をドライブすれば、怒りや不安で運転を誤り、事故を起こす可能性も高いのじゃ。
そうであるから感情的であってはいかんのじゃ。

実生活でも感情によって行動すれば、破滅が待っているのじゃ。
ついかっとなって人を傷つけたというような事件は、毎日のように新聞に載っているじゃろう。
他にも別れ話がもつれて元の恋人を攻撃したとか、感情の暴走による破滅は日常のように起こっているのじゃ。

そのように感情によって自分を動かせば、環境を悪化させて最悪の場合は犯罪をも実行してしまうのじゃ。

それでは知識や記憶に拠ってドライブするのは善いじゃろうか。
目的地までの道とか、目的地についての知識や記憶を持ってドライブするのは正しいじゃろう。
しかし、道を走っている時には、知識や記憶に依存してはいかんじゃろう。
昨日はこの道に通行人が居なかったからと、知識や記憶に拠って走れば、今日は通行人が居たりして、やはり事故を起こしたりするじゃろう。

日々の暮らしも知識や記憶に依存していれば、何の進歩もない生活になるじゃろう。
日々新しくなる環境に対応できなくなり、同じ失敗や苦を繰り返しながら死を待つだけになってしまうじゃろう。

そのように感情的になるのもいかんが、知識や記憶に依存してしまうのもいかんのじゃ。

それではどのようにドライブすれば善いのじゃろうか。
それは知識や記憶に拠って目的地を定め、行く道も知りながら、今の場所で注意深く見極めながら進むべきなのじゃ。
実際に運転する時もそうじゃろう。
感情的になることも、知識や記憶に偏重することもないじゃろう。

日常でもそのようであれば、過ちもすくなくなり、日々進歩して行くのじゃ。
自分の人生の目的を知識と記憶に拠って確定し、日々変り行く環境に対応しながら今ここで自分をドライブしていくのじゃ。
そのように自分の体と心を制御できるならば、この世界で成し遂げられない事など一つもなくなるじゃろう。
人は自らの環境を自分の肉体の働きと、言葉によって変えていけるのであるからのう。
車をドライブするように、自己の心身をコントロールしてドライブしていくならば、どのような仕事でも一流のものになれるのじゃ。


修業の道もそのようにするべきなのじゃ。
怒りや欲望に陥る事無く、知識や記憶で悟りという目標を定め、日々自らの心を注意深く観て進むのじゃ。
それは恰も自分をドライブしていくようなものといえるじゃろう。
そのようにして進んでいくとよいのじゃ。


どこまでも生きて悟りを求めるのじゃ。

投稿日:2022-10-02 Sun

お釈迦様はこの娑婆世界は一切皆苦であると説かれたものじゃ。
それは悲観主義ではなく、この世から解脱する法があるからこそ、そのように説いたのじゃ。
例えば火事になっている家から人々を自ら脱出させるために、その家は燃えていると告げるようなものじゃ。

全ての苦から逃れられる道は、確実に存在するのじゃ。
それが悟りの道なのじゃ。

他の娑婆世界の全ては苦をもたらすだけなのじゃ。
それを得ようとするのは、ただ苦や現実からの逃避に過ぎないのじゃ。
金や権力や名声や理想の異性やさまざまなコレクション等、人が執着するものごとは、ただ一時苦
を忘れさせるだけなのじゃ。

それらは老病死の苦には何の効果もないただの時間潰しの遊戯であり、おもちゃであると言えるのじゃ。
死という締め切り時間の前に、全て失われてしまう夢幻なのじゃ。
死に対抗できる唯一の手段が悟りへの道なのじゃ。

悟りの道がある限り、どのような苦が今あろうとも、抜け出す道はあるといえるのじゃ。
他の手段では達成できない不死の境地を得ることができるからなのじゃ。
死の苦でさえ滅することができるのが、悟りの道なのじゃ。
それゆえに悟りを得ることこそ人の最高の目標と言えるのじゃ。

そしてその悟りへの道は、自分一人でいつでも実践できるものじゃ。
ただひたすらに自分の心を見つめ、自分を造る心の働きを観察できれば、悟りの門は開かれるのじゃ。
自分を観て無我になり、無我を見ているものさえも観察して滅すれば大悟徹底の境地なのじゃ。

それには何の道具も、金銭も不要なのじゃ。
自分一人でどこまでも追求していけば、誰にでも出来るのじゃ。
明日死ぬ身であっても、死の床に倒れていても、未だ悟りへの道は開かれているのじゃ。

例え世の中全てに見捨てられ、世間の希望が全て絶たれていても人の最高目標である悟りの道はいつでも開かれているのじゃ。
そうであるからどれほどの苦があろうと、どれほどの恥辱があろうと、生きて悟りを求めるがよいのじゃ。
真の人生の最高目標である悟りを達成するまで、どこまでも生きて精進するがよいのじゃ。


過酷な世界を心で乗り切るのじゃ。

投稿日:2022-11-02 Wed

最近は流行病とか、戦争とか、大きな事件や事故が続いて世間も騒がしいものじゃ。
以前に比べて人の命が軽くなったかのように、感じられるものもいるじゃろう。
しかし、そのように過酷な世界こそ、実際には娑婆世界の現実と言えるのじゃ。

この国も以前には大きな戦争をしていたものじゃ。
多くの者が悲惨な目にあったのじゃ。

それから平和になり、豊かにもなってかなり楽に生きられるようになったのじゃ。
他の国ではありえないほど、安全で快適に生活できるようになったのじゃ。
その為に本来、この世界が過酷なものであることを忘れる者も多くなったのじゃ。

この娑婆世界には老病死があり、人と人との争いもあり、なかなか生きにくい場所なのじゃ。
それを忘れてはいかんのじゃ。
そのように過酷な世界も心を制すれば、修行の場とすることもできるのじゃ。
心によって世界は作られているのであるから、それも可能なのじゃ。

過酷な世界の現実を知り、自らの心を制して自らを知れば、周りの状況がどのように悲惨なものであっても安楽でいられるのじゃ。
心によって人の体も動かされるのであるから、心を大事にして制御できるようにすれば苦も減らすことができるのじゃ。

心をどのように制するのかといえば、先ずは善事を実践する心構えを養い、自他の利益を得るように志すのじゃ。
そして苦を滅し、悟りを目指すがよいのじゃ。
そうすれば苦難の道も容易く歩めるようになるのじゃ。

自らの心身を慈しみ、大事にするのじゃ。
心と体を自ら労わるのじゃ。
それが大事なのじゃ。
生きることも、悟りを目指すのも苦が多いものであるからのう。
長い旅を行く旅人が、自らの体をいたわるように、苦の多い世界を乗り切るには自らの心身を労わることが肝心なのじゃ。

そのように実践すれば道標の無い旅路である筈の人の生きる道にも、目覚めた者の祝福された道標を受け取ることはできるのじゃ。
わしの教えの通りに実践する者達が、安楽になり真の悟りを得て過酷な世界を乗り切れるように祈るのじゃ。

仏陀と菩薩。

投稿日:2023-10-02 Mon

例えば医者がいない地方に一人の医者が、派遣されてきたとしよう。
その医者は患者一人一人に対して適した治療を行い、診断書を書いていたのじゃ。
しかしその医者は死んでしまったのじゃ。

医者が死んでしまった後、残された村人達は暫くは残された処方を使っていたが、次第に忘れ去られてしまったのじゃ。
そしてその処方が書かれた診断書が、何か神秘的な効力があるのではないかと、死人に向かって唱えたりしていたのじゃ。
何の効力もないのに、迷信としてそのような儀式をしていたのじゃ。

そのような村に長い年月が経って、やっと一人の医者が派遣されてきたのじゃ。
新しい医者は村人が持っている診断書を見て、前の医者がどんな治療をしていたのか、即座にわかったのじゃ。
診断書は長い年月のうちに破れたりして、文章も半分しかわからない位であったが、同じ医者であるから半分からでも理解できたのじゃ。
そして迷信をやめさせ、正しい治療を復興する事によって村人を治したのじゃ。

仏陀もまた同じように人々の苦を治す医者のようなものじゃ。
お釈迦様は福楽を招き、苦を滅して悟りに導く法を説いて人々を導いたのじゃ。
それは医者が人を癒すのと同じなのじゃ。
しかしお釈迦様も涅槃に入って長い年月が経って、次第にその法も忘れ去られてしまったのじゃ。

それが今ここで正しく復興されたのじゃ。
ここで正しく説かれた法を実践するならば、誰もが正しく利益を受けることができるのじゃ。
福楽を望む者は善事を実践すれば福楽がやってくるじゃろう。
苦の滅を望む者は観察による四諦を実践すれば、苦は滅するじゃろう。
全てを捨てて悟りを目指す者は、自らの心を因縁によって観察することで悟りもやってくるじゃろう。

そのように仏陀によって正しく説かれた法は、同じ悟りを得た仏陀によって復興されたのじゃ。
それはかつての医者の診断書を、後に来た医者が正しく解読できたのと同じようなものじゃ。
もはや死人に診断書を唱えるような迷信は、不要なのじゃ。

仏陀の法は生きている者が福楽を招き、苦を滅して悟りを得るためのものであるからなのじゃ。
死人に読み聞かせても何も意味はないのじゃ。
実際に今ここで多くの者が善事や苦滅の法を実践して、その利益を得ているのじゃ。
全ての法は復興され、再び新しい仏陀によって説かれたのじゃ。
この機会を逃さず実践に励むのじゃ。

しかし仏陀であっても、ただ一人で法を広めることは出来ないのじゃ。
多くの菩薩の献身によってそれも可能となるのじゃ。
仏陀の教えを実践する者全てが菩薩なのじゃ。
出来る限り多くの者に安楽を得させるために、菩薩達は日々実践に励んでいるのじゃ。

そのような菩薩達は仏陀の弟子ではないのじゃ。
家族や兄弟でもないのじゃ。
仏陀の一部なのじゃ。
同じ体と心を繋ぐ同体無異の者達なのじゃ。

菩薩の口が仏陀の口として、人々に正しい法を説くのじゃ。
菩薩の手が仏陀の手として、善事を行うのじゃ。
菩薩の足が仏陀の法をどこまでも広めていくのじゃ。

後の人々は仏陀の法は理解できなくとも、実践して利益を得た菩薩の話は理解できるじゃろう。
そして菩薩の名を唱え、加護を求めるじゃろう。
さまざまな苦を滅した菩薩の話しを、唯一の心の拠り所として、実践するじゃろう。
今苦の中にあって実践する菩薩が居るから、後の世にも仏陀の法を信じる者も出てくるのじゃ。
苦しみを味わい、法を実践して滅することが出来た者が他人にも苦を滅する法を教えることができるのじゃ。

苦しむ者に、「私も苦しんだ、実践して苦を滅することが出来た」と、言えるのじゃ。
もはや苦がない仏陀にはそれは出来ないことなのじゃ。

そうであるから菩薩達は仏陀の法を真に実践する者であり、仏陀の一部であり、仏陀の法を体現する者なのじゃ。
今ここで苦の中で実践するのは、自分だけのためではなく、未来の菩薩達のためであり、仏陀のためであるとも言えるのじゃ。
そのような菩薩の心が仏国土そのものなのじゃ。
仏国土の中心にのみ仏陀は存在することが出来るのじゃ。

仏陀の法を実践する全ての菩薩に福楽と真の悟りが訪れるじゃろう。
それまで精進あるのみなのじゃ。


死の前に悟りを選ぶのじゃ。

投稿日:2024-04-02 Tue

お釈迦様はこの娑婆世界は一切皆苦であると言われたのじゃ。
この世に生きる者は等しく老病死の苦を受けているのじゃ。
その中でも重病とか老衰で死に直面している者こそ最も大きな苦を受けていると言えるじゃろう。

もはや長く生きる望みのない者は自ら死を選択しようとさえ思ったりしているかもしれん。
死が避けられないのならば、長く苦しむより速やかに死んだほうがよいとか考えているかもしれん。
そして実際に死を選ぶこともあるじゃろう。

しかしそのような者こそ最後まで悟りを求めるべきなのじゃ。
常に死に直面して、死を考えている者こそ悟りに近い者と言えるのじゃ。
真の安楽への道があるのに、苦から苦への道を選んではいかんのじゃ。

例えば旅人がどこかに行こうとしているのに、目的地のことをまるで知らなかったらそこにたどり着くことはできないじゃろう。
そして着いたとしてもそこが汚辱の地域では、苦しむばかりじゃろう。
目的地にはどのようにして行くのか、そこには何があるのか知り尽くしてこそそこにもたどり着き、安楽に過ごすこともできるのじゃ。

同じように死を選択しようとしている者も、死について知り尽くしていなければ安楽はなく、さらなる苦にも遭う危険もあるじゃろう。
死について知り尽くしてこそ不安はなくなり、安楽ももたらされるのじゃ。

それには悟りを得ることが一番なのじゃ。
そこまでいかなくとも三昧の境地、サマーディにまで到達できれば、自分というものがない方が安楽を感じることがわかるじゃろう。


放棄しようとしている命ならば、万一の可能性にかけて悟りを得るために使うのが賢明な選択なのじゃ。
死は100%免れることはできないのであるから、僅かな可能性でも悟りにかけるしかないのじゃ。
常に死を想う者ならばそれがわかるじゃろう。

そしてそのような決死の熱意こそ奇跡を呼ぶのじゃ。
テーリーガーターという尼僧の記録には、長く修行していたが悟りを得られなかった尼僧が、もはや絶望して首を吊ろうとした時に悟ったという証言があるのじゃ。
お釈迦様も身を捨てる覚悟で七日間座り続けて悟りを得たのじゃ。
インドの聖者、マハリシはまだ子供のころに死を深く想い、一日で悟ったのじゃ。

以上のように本当に死を想い、決意して悟りを得ようとすれば短期間でも悟りは得られるのじゃ。
修行の上で一番難しい自我を放棄するということが死を賭ければできるからなのじゃ。
もはや死が避けられないのならば今悟りを得るために放棄しようとすると、無我にもなり、大悟徹底することもできるのじゃ。
そうであるから今重い苦を抱えて死をも選択しようとする者は、艱難辛苦を乗り越えて悟りをめざすべきなのじゃ。

社会の役に立たないからとか、家族の負担になるからと死を選ぶこともないのじゃ。
例え肉体を動かすことも困難であっても、まだできることはあるのじゃ。
それがお釈迦様の遺した止観の法なのじゃ。

集中によって自らの心をコントロールして、自らの心を観察するのじゃ。
自らの苦をよく観察し、それが究極には自分という観念から起こることが見えたならば、無我になるのじゃ。
それは今、苦があるからこそできることなのじゃ。
苦しみを和らげ、安楽を求めるための行いとして実践するのじゃ。
そうすれば最後には悟りを得て、死の苦さえも滅することができるのじゃ。

そのようにして悟りを得るか、あるいは気づいたことを人に伝えるだけでも人の役に立つことになるのじゃ。
それこそが本当に人を助ける法の一つとなるのじゃ。
身は動かなくとも人の役に立てることなのじゃ。

今までお釈迦様の法など知らなかった、悟りなど自分には縁遠い等と考えている者も、死から逃れられないと知ったならば今から始めるとよいのじゃ。
悟りの境地、不死の境地は必ずあるのじゃ。
死を決した者こそ悟りの境地が近いものなのじゃ。

わしは悟りを得た仏陀として死を超越した悟りの境地はあると宣言するのじゃ。
悟りの境地に至ればもはや死の苦さえも消滅するのじゃ。
誰でも死を決して自分を自分だと思う自らの心を観れば、不死の境地に至れると確言するのじゃ。

その境地とは何か特別な力とか知識によって至るのではないのじゃ。
自分の心をどこまでも深く観て、自らの本質に至ればそれが永遠の意識であり、悟りの境地なのじゃ。
例えば人は海の表面に形作られる波のようなものじゃ。
一つ一つの波か消えても海の水は決してなくならないのじゃ。
そのように人も肉体が消えてもその本質である母体は永遠の意識としてあり続けるのじゃ。

もし波に知性があり消滅を苦にしていたならば、自分をよく観察して水でできていることを理解すればよいのじゃ。
そうすれば自分が消え去る一つの波ではなく、大海の水そのものと知れるじゃろう。
そして自らが消滅することは無く、水としてあり続けるとわかるのじゃ。

人も同じように自らの心をどこまでも深く見てみれば、意識そのものとわかるのじゃ。
それはすべてのものごとと同じ本質と知れるのじゃ。
天も地も空間でさえその意識で満たされていることがわかれば、もはや死はないと知れるのじゃ。
そこに至るまで悟りの道を選択して生きるのじゃ。


法の効能と効果

投稿日:2024-05-02 Thu

今までわしはさまざまな法を説いてきたのじゃ。
それらは全て衆生の苦を滅したり、和らげたりするためなのじゃ。

それらの法はそれぞれ違う効能があり、実践すれば効果があるものじゃ。
今回はその効能と効果を説いていくのじゃ。

先ずはじめに自己敬愛の法なのじゃ。
この法は親などから虐待を受けたり、自分に自信がないとかの心境にある者に効果があるじゃろう。
自分自身を愛して敬うことができなければ、何をしても失敗したりするのじゃ。
自分を嫌い、卑しめる心構えが身についていると修行もうまくいかなくなるのじゃ。
自分の心を奮い立たせ、修行を成功させるためにも自己敬愛の法は必要なのじゃ。

この法を実践した者が、今までの自分の弱さを払拭して自信がついたという報告もあるのじゃ。
他にも自分を虐待していたことに気づいたというものもいるのじゃ。

次は慈母観世音菩薩観想法と慈父普賢菩薩観想法なのじゃ。
この法は親からの愛情を十分に受けられなかったと感じる者に効果があるのじゃ。
親からの愛情は人が生きる上での根本的な心の糧となるものであるから、それが不足すると生きる気力もなくしたりするのじゃ。

この法によって初めて安らぎを得たという者もいるのじゃ。

運気向上の法は善事による心の浄化法なのじゃ。
善事をする心の清い者には福楽が常に付き従うとお釈迦様も説いているのじゃ。
行いだけでなく、言葉でも優しい言葉や礼儀正しい言葉を使えば幸運もやってくるのじゃ。
言葉でも善い事をすれば善事なのじゃ。

店員の者がよい言葉を使っていたら品物が売れて儲かったというすぐに目に見える報いもあったのじゃ。

悟りを得るための修行法は止観の法が中心なのじゃ。
集中力を養って心をコントロールして、心の働きを観察するのじゃ。
それができたらお釈迦様の説いた縁起の観察に入るのじゃ。
自分という観念から好みや執着が起こり、苦に陥る縁起が観察できれば自我も滅して無我になるのじゃ。

この法によって自我への執着が無くなったという報告もあるのじゃ。
さらに実践すれば着実に悟りに近づいていくのじゃ。


縁起は正確な原因がわからなければ執着を滅することはできないが、原因が分からなくとも執着を滅することができるのが空の法なのじゃ。
執着する対象を空と念じれば執着も滅するじゃろう。
これによって執着の苦しみから脱したという者もいるのじゃ。

空が難しくてよくわからないという者には、金剛経とその解説もあるのじゃ。
非論理による論理によって執着を滅することができるものじゃ。
さらに人が自我を謬見するさまざまな観念についても説いているのじゃ
わしもこの金剛経を読んでいる時に自我に気づいたのじゃ。
大きな功徳のある経と言えるのじゃ。

ブログのお布施所では貧窮困苦を滅することができるのじゃ。
自分の収入の5%ずつでも慈悲や尊敬の念によって施せば、金運もあがると世界中の賢者達が教えているのじゃ。

布施を始めたら給料が上がったという者が二人も報告してきたのじゃ。
他にも投資がうまくいったとか、忘れていた口座のお金を取り戻したという者もいたのじゃ。
善事の中でも布施はかなりはっきりと効果がわかるものと言えるのじゃ。

以上が今までわしが説いた法の一通りの効能と効果なのじゃ。
全て衆生の苦を滅するか、あるいは和らげるための法なのじゃ。
皆、自ら実践して効果を得るのじゃ。


菩薩賛

投稿日:2024-07-02 Tue

お釈迦様が涅槃に入ってしまわれて以来、今まで長い年月が経ってしまったのじゃ。
かつては正しく伝えられていた法もいつのまにか失われてしまったのじゃ。
苦を滅する正しい法を伝える者は途絶えてしまったのじゃ。

衆生は正しい法を知らず、孤独や不安、それにさまざまな苦、老病死に悩み苦しんでいるのじゃ。
悟りへの道も知らず、迷いの中にいるのじゃ。
互いに争い暴力で得たものが永続するとさえ思っているのじゃ。
この世の大多数の者は悟りの境地があることさえ知らないのじゃ。
衆生の生きる道は無知と争いと苦しみだけが続いているのじゃ。

しかし今ここに、お釈迦様の正しい法は蘇ったのじゃ。
ここには苦を滅する正しい法があるのじゃ。
悟りに至る正しい法もあるのじゃ。
福楽を招く正しい法もあるのじゃ。

今ここに悟りの門は開かれたのじゃ。
悟りへ道も開かれたのじゃ。

苦を滅する門も開かれたのじゃ。
苦を滅する道も開かれたのじゃ。

福楽の門も開かれたのじゃ。
福楽の道も開かれたのじゃ。
今ここに仏国土は成就したのじゃ。

仏陀の国土とは寸土の領地も無く、国旗や国歌もないが永遠に続く国家なのじゃ。
形は無く、境界も無いが金剛石より堅固な国家なのじゃ。
それは正しい法を実践する菩薩の心から成り立っているからなのじゃ。

悟りを求めて法を実践する者が菩薩なのじゃ。
苦を滅する法を実践する者が菩薩なのじゃ。
ただ福楽を求めて実践する者も菩薩といえるのじゃ。
正しい法を実践して自ら験し、他人をも救うことができるからなのじゃ。

正しい法も実践する菩薩がいなければ何の意味も無いのじゃ。
実践する菩薩達が居てこそ法は正しいものとして伝わるのじゃ。
そうであるから菩薩の心こそ仏陀の国土であるのじゃ。

今ここでわしの説く真の法に目を向ける菩薩達は実に皆賢明であり、勤勉にして法を見る眼があるものじゃ。
正しい法を怠り無く実践して、ますます叡智の輝きを日々増しているのじゃ。
わしも未来の仏陀達も常に賞賛してやまない菩薩達なのじゃ。
お釈迦様や阿弥陀如来のもとに居る菩薩達に勝るとも劣らない菩薩達なのじゃ。
そのような菩薩達こそこの娑婆世界の唯一の希望の光なのじゃ。
もし今ここに目を向ける菩薩達が人々を救わなければ、この先百年も持たずに人類は滅亡するじゃろう。

実際に愚かな衆生の行いを観察してみればよくわかるのじゃ。
愛と許しを口に説きながら、手には武器を持って争っているのじゃ。
自ら平和の民と称しながら、平和の民同士で戦っているのじゃ。
宗教が違うといって争い、同じ宗教でも戦っているのじゃ。
イデオロギーが違うからと戦い、同じイデオロギーでも争っているのじゃ。

悟りを知らず、正しい法を知らず、自らの安楽を求める方法さえも知らないのじゃ。
無知の上に無知を重ね、苦しみからさらなる苦しみを生み出しているのじゃ。
そのような衆生ばかりでは、百年も持たなくて当然なのじゃ。
無知から迷い争う幼子を導くように、菩薩達が導いてやらなければ滅亡があるだけなのじゃ。

いずれは苦悩する衆生は菩薩に救いを求めるじゃろう。
その時こそ自ら試した法を説くのじゃ。
どのような宗教、宗派、思想の者であっても分け隔てなく教えるのじゃ。

菩薩がかけたただ一言によって、一人の人間が救われるじゃろう。
その一人が十人を救うじゃろう。
十人が百人を救い、百人が千人、千人が万人を救い、億人を救うのじゃ。
そのようにして真の正しい法を知り、実践した菩薩だけがこの娑婆世界の人類を救うことができるのじゃ。

それ故に菩薩達こそ衆生の真の救世主なのじゃ。
ただ一人の菩薩だけでも億人を救うことができるのじゃ。
自らの苦悩を癒し、一人の他人を救う力が億人を救い、人類をも救うのじゃ。
それが真の菩薩の力なのじゃ。
偽りの法を伝える者には決して出来ない事なのじゃ。

そうであるから菩薩こそ人類の至宝であるのじゃ。
億万の衆生はやがて菩薩達を渇仰し、賞賛することじゃろう。
口々に菩薩に帰依する真言を唱え、心身を捧げ尽くすと誓うじゃろう。
全人類を救う真の導師として信仰するじゃろう。

そのようにして衆生を万年も億年も保護することができるのじゃ。
菩薩達は全人類の保護者として、さらに実践に励むのじゃ。



菩薩達に委託するのじゃ。

投稿日:2024-08-02 Fri

金剛般若経には如来は菩薩達に最高の委託を与えていると書いてあるのじゃ。
最高の委託とは全てを任せ託しているということなのじゃ。
如来の全てであり、同時に認識できる世界全てを委託しているのじゃ。

こんな話しがあるのじゃ。
お釈迦様が涅槃の前に、付き人のアナンダに、「わしはもう涅槃に入ったほうがよいか」と、聞いたのじゃ。
アナンダはその時、魔に憑かれて「はい」と言ってしまったというのじゃ。
あるいはもう寝てよいか、と聞かれたと勘違いしたのかもしれん。

しかしそれを聞いたお釈迦様は次の日に涅槃に入ってしまったというのじゃ。
この話しは伝説に過ぎないが、それほどまでに如来は菩薩に自らの身をも委託しているということを伝えているのじゃ。
如来の命は菩薩に委託されているのじゃ。

お釈迦様は悟りを得た時にもはや自分の人生や生命の目的は達したとして、そのまま涅槃に入ろうとしたのじゃ。
しかし教えを聞くものがいるとブラフマンに説得されて、まだ生きて教えを説くことにしたのじゃ。
教えを聞く者がいなければそのまま涅槃に入ってしまったじゃろう。

そのように如来の残りの人生は教えを聞く菩薩のためにあるのじゃ。
菩薩によって如来は生かされているのじゃ。
菩薩がもはや如来もいらないと言えば、速やかに涅槃に入ってしまうのじゃ。

これが最高の委託なのじゃ。
如来の存在そのものが菩薩に委託されているのじゃ。

同じようにこの認識できる全ての世界も、菩薩に委託されているのじゃ。
仏国土であるこの世界全ては菩薩のものなのじゃ。
この世界に住む衆生を全て善導する資格と能力を持っているのじゃ。

今この世界に住む多くの衆生は悟りを知らず、善事を心がけることさえも知らないのじゃ。
互いに争い、貶めあい、それで自分の身が安全になるという愚かな幻想を持っているのじゃ。
暴力や権力によって境界を作り、それが永久のものと信じているのじゃ。

そしてやがては老病死の苦によって泣きながら死んでいくしかないのじゃ。
死後には自らの悪事によって地獄などに行くじゃろう。
実に無知で愚かな者達なのじゃ。

今ここに悟りへの法を見出し、実践する菩薩達は実に叡智ある者達なのじゃ。
正しい法を選ぶ知恵と知識に優れ、法を見る目が清浄なのじゃ。
懺悔告白をして心を清め、謙虚にして慈悲のある者たちなのじゃ。

そうであるから如来も世界もすべて委託できるのじゃ。
今ここにある菩薩たちこそこの世界の全ての衆生を正しく善導できる唯一の存在なのじゃ。
菩薩達がいなければ世界は苦痛のうちに滅びるばかりなのじゃ。


お釈迦様は戦場において千人の敵に打ち勝つより、自分に克つ者こそ真の勝利者であるというのじゃ。
自分に克つとは怠惰に流れる心を抑え、法において実践に励むことを言うのじゃ。
今ここで正しい法を知り、正しく実践する菩薩こそ、お釈迦様の言う真の勝利者と言えるのじゃ。
すでに勝利の道を歩み、さらに永遠の勝利である悟りへと確実に近づいている者達なのじゃ。

多くの衆生を正しく導き、永遠にして真の栄光である悟りを得ることが約束された者なのじゃ。
真の悟りに至ればもはや一切の苦はなく、悲嘆もなく、永遠の喜びに参入するじゃろう。
それこそが真の勝利者である菩薩達に約束されている境地なのじゃ。


安全宣言

投稿日:2025-07-02 Wed

近頃、世間ではこの夏に大きな災害が起こるという噂があるようじゃ。
大災害で全国が大きな被害を被るというのじゃ。
そのためにかなり動揺している者も多いようじゃ。

そのようなことは決して起こらないとわしは宣言するのじゃ。
安全宣言を提唱するのじゃ。
この夏にもこの先にもそのような大災害は起こらないのじゃ。

なぜならばここにわしが居て、各地に菩薩たちが居て日々善事を実践しているからなのじゃ。

善事を実践する善人の居る地には災害は起こらないのじゃ。

この真実を衆生はよく心得ておくべきなのじゃ。

この真実は仏教だけでなく、旧約聖書などにも明示されているのじゃ。
創造主が街を滅ぼす時に善人が三人とか、三家族もいれば滅ぼすのを止める筈だったとかのう。
あいにくそんなにいなかった地は災いにあったというのじゃ。

そのように多くの宗教で善事をするものは災いにあわないと知られているのじゃ。
引力の法則がここでも地球の裏側でも、間違いなく働くように、災いは善人の居る地を避けるのが正しい法則なのじゃ。
それはどのような地域にも通用する真実なのじゃ。

そうであるから日々善事に励む菩薩達の居るこの地域に、災いが来る筈はないのじゃ。
善人が三人も居る地域に災いが起きない程であるから、菩薩は一人でもその地域を守ることが出来るのじゃ。
慈悲深く聡明で正しい教えを深く理解する菩薩は、衆生の救世主であり娑婆世界の光であるからなのじゃ。

正しい法によって心の苦を取り除き、平安に至った菩薩の境地は神々でさえ羨むほどなのじゃ。
三世の如来達も称賛を惜しまない真の慈悲を持つ菩薩達なのじゃ。
そのような菩薩達がいる限り、この地域に大災害など起こる筈はないのじゃ。
例えば科学的に100パーセントの確率で大災害が起こることになっていても、止められるのじゃ。
この世で最も強い善人の意志の力が働いているからなのじゃ。
それが正しい法則なのじゃ。

重ねて安全宣言を出すのじゃ。
この夏もこの先も菩薩達がいる限り、又善人達が居る限り、この地に大災害などは決して起こらないのじゃ。

善事を実践する善人の居る地に災いは決して起こらないのじゃ。

この真実を動揺する者達にも宣伝するとよいのじゃ。
時が経つほどそれが真実であることがわかってくるじゃろう。
安心して善事を積み、修行に励むとよいのじゃ。

衆生のために生きるのじゃ。

投稿日:2025-08-02 Sat

人が何のために生きるのかとか、生きることの意味は本来、自ら考えて気付いたり、見出すものじゃ。
しかし、一つだけ確実に言えることも在るのじゃ。
最低限の心構えとして身につけていくべき観念も在るのじゃ。
それは衆生のために生きるということなのじゃ。
人に限らず他の生き物を愛し、慈悲を施すことが、最低限の生きる意味となるのじゃ。
それを心構えとしてもっていれば、他の衆生だけでなく自らも愛され、福楽もやってくるのじゃ。
例えばSF映画とか、小説などによくあるようにこの地球の最後の人間となってしまったら、生きる意味もなくしてしまうじゃろう。
何をしても誰にも認めてもらえない。
誰かと話すことも愛し合うことも永遠にない、と知ったら多くの者は生きる意味をなくしてしまうじゃろう。
実際に海で遭難して孤独になってしまった者等は、水や食料があっても死んでしまうことがあるという。
孤独という絶望に生きる意味をなくしてしまうからなのじゃ。
気付かなくとも誰もが一人ではなく衆生のために生きているのじゃ。
お釈迦様も悟りを得て生物として最大の目標を達して涅槃に入ろうとしたが、梵天に勧請されて衆生のために生きることにしたのじゃ。
そして残りの人生を捧げて衆生の苦を取り除き、悟りに導いたのじゃ。
菩薩たちも衆生のために生きているのじゃ。
苦から逃れ福楽を望む者達は全て衆生のために生きるべきなのじゃ。
わしもまた衆生のために生きているのじゃ。
お釈迦様の法を伝えて苦を滅する道を説いているのも衆生のためなのじゃ。
今、苦しんでいる者のために法を説いているのじゃ。

人だけでなく生き物を愛し、常に慈悲をかけることが生きる意味の一つであり、喜びとなるのじゃ。
本当の生きる喜びはそのような生き方の中にあるものじゃ。

その上で自らが生きがいとすることや、個人として生きる意味を探すのもよいことじゃ。
どのようにして衆生のためになることを実現できるのかを考え、実践するのじゃ。
それが自らの道となるのじゃ。
そのようにして選んだ道こそ決して後悔しない道となるじゃろう。

今の世でも福楽があり、死後には天にも行けるのじゃ。
そして望めば永遠の安楽である悟りもやってくるのじゃ。
賢い者は後悔しない道を進んで行くのじゃ。

悟りの真実

自我の苦

投稿日:2018-08-02 Thu

お釈迦様は自ら衆生の病を治す医者であると言ったのじゃ。
衆生は病にかかっているから、それを治すというのじゃ。

それがどのような病かといえば、衆生は自我という観念による病にかかっておるのじゃ。
自我があれば、そのイメージによって苦も受けるのじゃ。

自分が他人より劣っているというイメージを持った者はそれによって劣等感に苦しむのじゃ。
自分が他人より優れていると思う者は、それを証明するために必死に働かなくてはいかんようになるのじゃ。
逆に優秀な自分を守るためにと、引きこもりになったりもするのじゃ。

自分があれば自分の好きなものが認識され、それに執着して苦になるのじゃ。
自分があれば自分の嫌いなものも認識され、それを避けるために行動も制限されるのじゃ。

このように自我はあらゆる人間に苦をもたらし、行いも制限しているのじゃ。
自我によって認識する全ては苦になり、一時の快楽さえもやがては苦に変わるのじゃ。

それも観念によって起こる病なのじゃ。
観念による主体を自己と呼び、観念による客体を他己と呼ぶのじゃ。
自己以外の全てが他のものであるならば、小さな自己と自己以外の全ての世界が対立するという観念を生むのじゃ。

その観念が強い孤独感や孤立感、寂しさを起こすことになるのじゃ。
それらからまた逃避、執着、攻撃欲等の苦に繋がる観念が起こるのじゃ。

自我の観念は多くの苦の源であり、苦の上に苦を積み重ねるものなのじゃ。
お釈迦様はそれを無明と呼び、観察することによって滅することが出来ると説いたのじゃ。
苦を生じ、迷いを起こす無明も一度完全に観察されれば、煙の如く消え去るのじゃ。
賢明な修行者は無明のもたらす大きな苦を知り尽くし、恐れを超えて進むのじゃ。


見られただけならば自我は無いのじゃ。

投稿日:2018-09-02 Sun

自我のある人間はなにものかを認識する時、自分との関連によって認識するものじゃ。
知覚したものごとに自分との関連による意味を与えているのじゃ。
例えば何かを見れば自分のものであるとか、自分のものではないとか、自分の好きなものとか、自分の嫌いなものとか認識するのじゃ。

修行によって自我が薄れてくれば、自分との関連も薄くなり、すべてを意味の無いものと見られるのじゃ。
そこまでくれば忘我から無我にも近くなったと言えるのじゃ。

昔、バーヒヤという外道の行者がいたのじゃ。
修行に行き詰ったのかお釈迦様に教えを請いに行くと、お釈迦様はこのように教えたのじゃ。

「バーヒヤさん、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。
見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうと。

バーヒヤさん、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。
バーヒヤさん、まさに、あなたにとって

見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、

バーヒヤさん、それですから、あなたは、それとともにいないのです。
バーヒヤさん、あなたが、それとともにいないことから、
バーヒヤさん、それですから、あなたは、そこにいないのです。
バーヒヤさん、あなたが、そこにいないことから、バーヒヤさん、それですから、
あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、
両者の中間において〔存在し〕ないのです。

これこそは、苦しみの終極“おわり”です。」

この教えによってバーヒヤは即座に悟りを得たのじゃ。
バーヒヤも外道ではあるが、それなりに集中の修行をしていたのじゃろう。
見たものに意味が投射されない境地であった故に、自我もそこに無いことに気付けたのじゃ。

自我が無い時には何を見ても聞いてもそこに意味は投射されないのじゃ。
見たものは見ただけのものとなり、聞いたものはきいただけのものとなるのじゃ。
あらゆる意味と好悪と是非が消えうせた、知覚されたままの姿に認識されるのじゃ。

その時、過去の経験の蓄積がある自分、現在知覚している自分、これからも将来のある自分という観念は存在しないのじゃ。
それが、この世にもあの世にも中間にも自分というものが無いということなのじゃ。
この言葉によってバーヒヤも自分が無いことに気付けたのじゃ。

何も無いところに観念による自分を作り上げていたと知れたのじゃ。
それが観照なのじゃ。
そして厭離が出来たのじゃ。

見たものが見ただけのものとして知覚されたり、聞いたものが聞いただけのものと知覚されるということは経験が無い者には理解しがたい事じゃろう。
それでも真摯に修行していればいずれは経験することもあるじゃろう。
その時は自我を厭離するよい機会であると知って観察すると善いのじゃ。
どこにも自分というものが無いことが、明らかに観察されるじゃろう。
そして観照も起こるのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。

不死の境地

投稿日:2019-03-02 Sat

悟りを得られれば不死の境地に入れるとお釈迦様は説いたのじゃ。
不死の境地とは死を超越した境地なのじゃ。
苦の最たるものである死を超越することがお釈迦様の教えの真髄なのじゃ。
仏教の全てはそのためにあるのじゃ。

死を超越したならばもはや他の苦も一切なくなるのじゃ。
死以上の苦はないからのう。

それでは人はどのようにして死を超越することが出来るのじゃろうか。
死とは肉体の働きが停止することなのじゃ。
それに伴って肉体に拠っていた全ての能力もなくなるのじゃ。
感覚とか思考とか感情とか認識などもなくなるのじゃ。
それらが自分であると思っていたならば死は自分の消滅であり、絶望しかない現象なのじゃ。

しかし、肉体とその能力だけが自分であり、その他に自分は無いという観念に囚われていなければ死は消滅ではなく、絶望でもないということになるのじゃ。
そのように自分という観念を正しく捉える事で、死を超越することになるのじゃ。

実際に肉体が自分であり、自分は肉体しかないという観念は謬見でしかないものじゃ。
人の肉体は呼吸や食事や飲み物を通して物理的にも全てと繋がっているのじゃ。
それが個体であり、個我であり、他のものと分別された自分であるということはありえないのじゃ。

例えば呼吸ならば鼻から入った空気がいきなり自分になり、鼻から出て行けば自分ではなくなるということもないじゃろう。
自分とはそのようにはっきりした境界を持たず、あいまいな観念を習慣によって認識しているだけなのじゃ。
自分とはどのような存在であり、どこからどこまでが自分であり、何があれば自分と呼べるのかと知らなければ、そのあいまいな観念に囚われ続けることになるのじゃ。

瞑想と観察はそのあいまいな観念を明確にして、それが自分ではないことに気付く方法なのじゃ。
自分というものを明確に観るように努めることで、それが観念であることに気付くのじゃ。
自分とは主体ではなく実際にあるものではなく、習慣によって形成された観念なのじゃ。
境界さえも不明確な観念が、どうして全てのものごとを認識する主体であり自分であるという事がありえようか。

そのようにして自分という観念から離れたならば、もはや死もあり得ないのじゃ。
自分が無いのに自分の消滅はあり得ないからのう。

更に認識をも超えたならば、全てが繋がっていることが実感としてわかるじゃろう。
天も地も全てのものごともただ一つの同じ本質を持っていることがわかるのじゃ。
膨大な空間さえも又意識が充満していることが感じられるのじゃ。

全てであるならば二重の意味で死は無いのじゃ。
死という観念はなく、死という実際も無いのじゃ。
全てである意識が存在するだけであれば、肉体の消滅はその一部が変質するだけとわかるからなのじゃ。
それが不死の境地なのじゃ。
もはや永遠に意識があるだけなのじゃ。
人は誰でも死の瞬間まで自らを知る努力を続けることで、その境地に到達することもできるのじゃ。



苦が増加する仕組み

投稿日:2019-07-02 Tue

お釈迦様はこの世の一切は皆苦として、人が苦から離れられない事を説いたのじゃ。
悟りを得ていない者は正にその通り、苦から苦へと苛まれて生きるしかないものじゃ。
生きて苦しみ、死んでも又苦しむのじゃ。

そのように苦しむのも悟りを得ていない者には、無明である自分が存在するという観念の原因があるからなのじゃ。
他のものから完全に独立した主体的な自分があるという観念から苦は起こり、離れられないのじゃ。
間違った観念を正さなければ苦しみは続くのじゃ。

例えば頭のおかしい者が自分は飛べるという間違った観念を持って高い所から飛び降りれば、死んだり怪我をしたりするのじゃ。
そのように現実とは離れた間違った観念を持っていては苦しみは尽きないのじゃ。

悟っていない者が自分は主体がある、自分は思考や感情の主体であると思うことが苦を増す間違った観念なのじゃ。
自我が思考や感情の主体であるならば、それらをコントロール出来る筈であるが、実際は出来ないのじゃ。
自我は思考や感情の主体ではなく、それらに隷属しているものなのじゃ。

自我は思考や感情が勝手に反応することを止められず、それらの奴隷となっているだけなのじゃ。
思考や感情を満足させるために、無駄な行いに時間と心身を費やしているだけなのじゃ。
自我が思考や感情の主体ではなく、思考や感情をコントロールできないことが苦を生み増加させる原因の一つなのじゃ。

例えば異性に強く執着しながら離れてしまう愛別離苦があれば、何度もそれを考えてしまうじゃろう。
思考をコントロールできないのであるから、苦しくても何度も考えてしまうのじゃ。
そして考える度に悲しみの感情を起こしてしまい、苦しむのじゃ。
それも感情をコントロールできない故に、考える度に悲しみの反応が自動的に起きて苦しむのじゃ。

このように一つの苦があれば、それを何度も何度も繰り返して苦しむことになるのじゃ。
それも自我が思考や感情の主体ではなく、それらをコントロールできないからなのじゃ。
更にそれが新たな苦を引き起こすのじゃ。

一度、苦を味わった心はそれを未来に起こるかもしれない事と認識するのじゃ。
そして、それを避けようとするのじゃ。
それが不安と呼ばれる心の働きなのじゃ。

それは本来は苦を避けるための心の働きであるが、却って苦を増加させることになるのじゃ。
不安は心を苛み、更に行動を制限するようにするのじゃ。
この先そのような苦しみを味わう事がないようにと、消極的に行動してしまうのじゃ。
それも思考や感情を制御出来ないことから来る苦の増加なのじゃ。

そのように激しく増加する苦も、原因から観察されれば滅するのじゃ。
未だ悟りを得なくとも、苦を完全に観察できれば消すことが出来るのじゃ。
何度も苦が起こっても、その度に観察できれば消えていくのじゃ。

やがて苦が完全に滅して心が鎮まる安心の境地に入れるのじゃ。
苦から逃れたいと思う者は、実践によって確かめるのじゃ。


悟りとは死を超える道。

投稿日:2020-10-02 Fri

悟りとは何かと多くの者が疑問に思っているじゃろう。
お釈迦様が悟りという優れた境地に到達したと、2500年前から知れ渡っているが、一体それがなんの役に立つのかとか、なんのためにあるのかと、未だに人の中には知らない者が多いじゃろう。
この娑婆世界の人間の半数以上は、未だ悟りというものがあるということすらしらないのじゃ。
悟りというものがあると知っているものでさえ、それがなにであるかと聞かれればあまり良くわかっていなかったりするじゃろう。
お釈迦様は悟りへの方法だけを説いて、それが何であるか詳しく説くことはなかったために、そのような疑問も起こるじゃろう。

そのように悟りとは何か知らなくては、求めることも困難なのじゃ。
自分が何を求めているのか、知らなくては求めることも出来ないのじゃ。
悟りとは何かはっきりと知れば、求めることも出来るのじゃ。

真の悟りとは死を超える道なのじゃ。
お釈迦様が得た悟りは、死というものを克服できる境地なのじゃ。
その悟りに拠ってお釈迦様や阿羅漢達や諸々の先達は、死を克服して永遠の意識に没入したのじゃ。
人が死を超えて永遠に安楽な境地に入ることを、悟りと呼ぶのじゃ。

それこそが真の悟りなのじゃ。
死を克服できない境地は悟りではないのじゃ。
悟ったと思う者は自らを省みて死を克服したか、確かめるのじゃ。

お釈迦様が語っていなくとも、師弟の行状を見れば悟りは死を超える道とわかるのじゃ。
お釈迦様は王子だった時に四門を出て、老病死を免れぬ人の定めを知ってそれらを超える道を探したのじゃ。
そして得たのが真の悟りであったのじゃ。
更にその境地を弟子にも伝えたのじゃ。

お釈迦様の弟子で阿羅漢と成った舎利弗がまだ、お釈迦様に会ってもいないころに、目連と互いに死を超える道を探し、もしどちらかが得ることがあれば教えあおうと、誓ったことがあったのじゃ。
後に舎利弗がお釈迦様に逢い、修行して悟りを得た後に目連に逢ったのじゃ。
目連は舎利弗を一目見て忽ち彼が死を超えた境地にいるとわかったのじゃ。
それで目連もお釈迦様の下で修行して悟りを得ることが出来たのじゃ。

このように師弟の行いを見ればお釈迦様が目指した境地とは、死を超えた境地であり、それは他人にも伝えることが出来るものであるともわかるじゃろう。
お釈迦様が言い残したことは、その境地を得ることが出来る方法のみであるためにわかり難いが、このように師弟の行状を見ればよくわかるのじゃ。

では人はどのようにして死を克服するのかといえば、それは誤まった認識を排除することで可能になるのじゃ。
誤まった認識とは記憶による認識なのじゃ。
その認識に拠って自分という謬見も起こるのじゃ。

自分という個我がある、他からはなれた実体としての個体がある、独立した主体があるというのが、謬見なのじゃ。
その謬見から老病死や他の一切の苦も起こるのじゃ。

この謬見と認識の誤りから抜けることが出来れば、死を克服できるのじゃ。
それらのためにこの肉体だけが自分であり、自分の全てであると誤認していたから死もあったのじゃ。
それらが無ければもはや死も無いのじゃ。

例えば大樹が自分を末端の木の葉の一枚と誤認すれば、それが落ちる時に自分全体がなくなる死と死の恐れもあると誤認するのじゃ。
大樹の全てが自分であると知れば、一枚の木の葉が落ちても樹の自然な働きの一つであると理解して、自分が無くなる死も死の恐れも無くなるのじゃ。
そのように人も肉体が自分であり、自分の全てであると誤認していれば死があるが、全てが自分であるという正しい認識を感得すれば死も無くなるのじゃ。

以上の如き死の克服は、自己とは何かという認識を観察する事で可能になるのじゃ。
自分を何度も何度も観察してその不在に気付くことが出来れば、自己の謬見はなくなるのじゃ。
更に自己の観念を生み出す認識さえも滅すれば、真の悟りも訪れるのじゃ。
それがお釈迦様の示した方法なのじゃ。

死を克服するために修行者は精進あるのみなのじゃ。

悟りとは何か。

投稿日:2020-12-02 Wed

悟りとは何か、何故悟った者は悟りを人に教えようとするのか、疑問に思っている者も多いじゃろう。
人類はどんどん発展して、悟りが無くとも上手くやっているように見える。
余計なことを教えなくとも全て良くなっているようにも見える。

そのように世間が見えていれば悟りも必要ではなく、それを教えるのも無意味に見えるものじゃ。
しかし、それも一時の状態に過ぎないものじゃ。
人には個人個人に老病死の苦があり、社会もまたいつかは滅びることを免れないものじゃ。
永遠に個人や社会が繁栄することは無いからのう。

やがては全ては滅び、その時には大いなる苦があるものじゃ。
そのような苦を永遠に免れる道を悟りと呼び、それを教えることが悟った者の役割なのじゃ。

例えば一つの村から外に出る道に朽ち縄があったとしよう。
村人はその朽ち縄を蛇だと思って村から外に出られず、苦労しているのじゃ。
道に蛇が居ると思うから外に食べ物を買うことも出来ず、村の外に何が在るのかも知れないのじゃ。

一人の者が近づいて行ってそれが蛇ではなく、ただの朽ちた縄であったと気付いたならば、他の村人にも大声で知らせて、苦難を逃れさせるじゃろう。
それが蛇ではないとわかれば、苦難は無くなり、皆外に出かけて何が在るのかも知れたのじゃ。

そのようにただの誤認による大きな苦を無くす事が悟りであり、そのための方法がお釈迦様の教えなのじゃ。
衆生は観念により、自分というものが肉体や精神としてあるという誤認をしているのじゃ。
その誤認がある限り、苦も免れないのじゃ。

蛇に近づくように勇気を持ってその誤認を確かめてみれば、自分というものは無いと気付くのじゃ。
そして苦もなくなるのじゃ。

自分が無いとはどのようなことであろうかと、皆は不思議に思うかもしれん。
自分が無いといっても、自分はここにちゃんとあるではないかと、肉体や精神の働きを見て言うじゃろう。
肉体や精神は確かにあるものじゃ。
しかし、それに自分であるという観念を重ね合わせることが誤認なのじゃ。

朽ち縄を蛇と思うのと同じなのじゃ。
肉体や精神が朽ち縄なのじゃ。
自分という観念が蛇なのじゃ。
まだ悟りを得ていない者は、村人が朽ち縄を蛇と誤認していたように、肉体や精神が自分と誤認しているのじゃ。
そのために村人が幻想の蛇によって行いが制限されていたように、苦を受けているのじゃ。

このように悟りとは間違って認識されていた自分という観念から解放されることなのじゃ。
そして正しい認識に還る事で苦からも解放されるのじゃ。
何か別のものに変化するのではなく、認識の過ちを正すだけなのじゃ。
ただそれだけで人は苦から解放されるのであるから、悟った者は皆に悟りへの道を教えるのじゃ。
それを理解した者は正しく実践して、恐れをも滅して、悟りの道を進むが善いのじゃ。


この世の真相を垣間見るのじゃ。

投稿日:2021-09-02 Thu

今回はこの世の真相について説くのじゃ。
お釈迦様を初めとして多くの悟った者達が、自らだけでなく他人にも悟りを得ることを勧めるのは、衆生がただ単に間違った認識のために苦しんでいるのが、哀れであるからなのじゃ。
本来、苦しむべきではないことに苦しみ、悲しみがない筈なのに悲しんでいるのが、悟りを得ていない衆生の真の姿なのじゃ。

例えばたくさんの部品がある大きな機械があるとするのじゃ。
その機械には気体や液体を通すパイプが沢山ついているのじゃ。
便利がよいようにとそのパイプに記憶とか、検知能力とか、演算の機能をつけたりしたのじゃ。
すると便利がよくなるどころか、逆に不具合が出たりしたのじゃ。

そのパイプは記憶と演算能力に拠って、自分が個体であり、他と切り離された個我のあるものと思ったりしていたのじゃ。
そのために孤独や不安に悩み、他のパイプと喧嘩したりしていたのじゃ。
自分があり、自分がなくなるということに恐れを抱いて奇行をしていたのじゃ。

その故障は記憶とか演算能力の間違いではなかったのじゃ。
ただ記憶と周囲を認識する検知能力が直結してしまったために起きた故障だったのじゃ。
そのような間違いを取り除いたら直ったのじゃ。

悟っていない人間が苦しむのもそのような原因からなのじゃ。
記憶と認識が直接結びついてしまっている故に、全体と繋がっている肉体や心を個体とか、個我であると認識しているのじゃ。
それ故に孤独や不安を抱え、死の恐れが起こり、他のものと争ったりするのじゃ。

この世の真相とは自らと繋がっている世界をありのままに知覚することなのじゃ。
肉体と心は常に周囲と繋がって存在しているものじゃ。
息を吸っては吐いていることで空気を通して繋がっているのじゃ。
食物を食べて排泄することで物理的にも繋がっているのじゃ。
その繋がりを絶てば五分で死んでしまうのじゃ。

繋がっていなければ生きていけないのじゃ。
正にパイプや管と同じなのじゃ。
それが他から離れた個体とか個我であると認識すれば、正しく認識していないことになるのじゃ。
正しい認識が無ければ苦が起こり、争いも生じるのじゃ。
それが観察に拠って正されれば、悟りが訪れるのじゃ。

そして正しい世界の認識が起こるのじゃ。
そこに苦は無く、死もまたありえないのじゃ。
全てであるからなのじゃ。

全てである認識を取り戻した時に、人は老病死の苦から永遠に解放されるのじゃ。
肉体と肉体に付属する心の能力や作用が無くなっても、全体としては何も無くなっていないからなのじゃ。
ただ古びた部品が取り除かれて新しくなる循環の作用が繰り返されているだけであるからのう。
そのような大悟徹底の境地に至るまで精進あるのみなのじゃ。


習慣を観るのじゃ。

投稿日:2022-07-02 Sat

人間は習慣の生き物と、昔デューイという学者が言っていたのじゃ。
正にその通りなのじゃ。
人の日々の言動の殆どは習慣で行っているものじゃ。
特に考えるでもなく、習慣で話したり、行動したりしているのじゃ。

人の日々の生活の殆どは、習慣によって決められているのじゃ。
いつも着ている服を着て、いつもの食事をして同じ道を通って学校や職場を往復しているじゃろう。
雑多な生活の選択一つ一つを、考えて実行する者は殆どいないじゃろう。
それを観察すれば確かに人は習慣の生き物であると、理解できるじゃろう。

お釈迦様は人は行いによって、分別されると説いたのじゃ。
悪いことをするのが悪人であり、善い事をするのが善人と言えるのじゃ。
それもまた習慣によることが多いのじゃ。
悪人は常日頃から悪いことをしているから、機会があれば悪事をしようとするのじゃ。

善人は日々善事を実践しているから、機会があれば善事をするのじゃ。
そして悪人は報いが来れば悪い所に行き、善人は善い所に行くことになるのじゃ。
行いの報いも、習慣によって増減するものと言えるのじゃ。

このように習慣が人の本性や性質をも司るものであるからには、自分を知るには自分の習慣を観察することも、修行の助けになるものじゃ。
自分はどのような習慣を持っているのかとか。
その習慣は自分にとって善いものなのか、悪いものなのかとか、観察して明らかにしていくのじゃ。

よい習慣ならば意志によって続けることができるじゃろう。
悪い習慣ならば、滅することもできるのじゃ。
観察には習慣を止める力があるからなのじゃ。

観察によって習慣に気づいたならば、それは即座に停止されるのじゃ。
その後に続けることも自在になるのじゃ。

以前にある年老いた者が、タバコをすう習慣がやめられなかったことがあったのじゃ。
いろいろ試してみたが、どうしてもやめられなかったのじゃ。
最後にその原因を心の中に観察してみると、実は高校生のころにかっこいいと思って始めたのが原因だったのじゃ。
それが習慣となって老いるまで続いてしまったのじゃ。
それに気づいてすぐにやめられたのじゃ。
もはやかっこつけたい年ではないからのう。

このように長年の習慣は、心の中の些細な原因で続いていることも多いのじゃ。
そして原因から観察できれば、すぐにでも止められるようになるのじゃ。
それが観察による気づきの効果なのじゃ。

実は仏教でいう無明もまた、習慣によって心の中に強く結び付けられているのじゃ。
無明とは自分があるという観念なのじゃ。
その観念を長年使っていると、習慣によって心の中から排除するのが、難しくなるのじゃ。
つまり毎日毎日、自分がどうしたとか、こうしたとかの観念を使用していれば、自分という観念が心に染みついてしまうのじゃ。
それを疑うこともできなくなってしまうのじゃ。

それに対抗するには、修行の実践を習慣にするとよいのじゃ。
習慣の力は修行にも役立てることができるのじゃ。
日々集中と観察を続けるならば、それらの力は非常に大きなものとなるのじゃ。

日々の実践によって習慣化された無意識の観察によって、自我を観ることも可能となるのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。



智慧の源泉。

投稿日:2025-02-02 Sun

誰でも今よりさらに賢くなりたいとか、智慧や叡智を発揮したいと思うじゃろう。
泉から水が湧き出でるように、智慧の源泉を知ればいつでも智慧を発揮できるのじゃ。
そのような智慧の湧き出でる源泉は誰にでもあるものじゃ。

智慧の原因とは慈悲の心、敬愛の心、自他の利益を求めて他人に尽くそうとする心なのじゃ。
それこそが智慧の湧き出でる源泉なのじゃ。

一般的には智慧とは知識を適切に使うことだと言われているのじゃ。
しかし、例えば詐欺をする者が知識を上手く使って人の金銭を奪ったとしたら、それは智慧とは呼ばないのじゃ。
なぜならばその報いはやがて自分に返り、警察に捕まったり一生逃げ回ったりしなければならないからなのじゃ。
そのようなありさまではとても智慧を発揮したとは言われないじゃろう。

あるいはどこかの会社が持てる知識を使って、自分達だけが儲かる商品を作ったとするのじゃ。
そんな商品はとても売れないじゃろう。
やがて会社は大きく損をしてしまうことじゃろう。
それも智慧を発揮したとは言えないのじゃ。

慈悲や慈愛の心から人の役に立ちたいと行動する者に真の智慧は現れるのじゃ。
そこに自他を助ける力が働くからなのじゃ。
自他の利益をもたらすものこそが真の智慧と言えるのじゃ。

会社でも人の役に立つ製品を適切な値段で売れば、多くの人が求めて客も会社も繁栄するじゃろう。
そうであってこそ智慧は発揮されたと言えるのじゃ。

要するに慈悲、慈愛の心によって自他の利益のために知識を適切に使うことこそ智慧なのじゃ。
そうでなければ智慧とは言えないのじゃ。
それは自他の繁栄をもたらしてくれる能力となるからなのじゃ。
そうであってこそ智慧も尊いものとなるのじゃ。

実際にその源泉から智慧を発揮させるには常に全ての活動を慈悲、慈愛の心から考えてみることが肝心なのじゃ。
例えば会社で製品やサービスを作ろうとするならば、それが人の役に立つものなのか、人に利益を与え、喜ばせるサービスなのか考えてみるのじゃ。
人に利益をもたらす物やサービスであると見極めたら、製作や実践したらよいのじゃ。
例えそれが思ったように売れなくとも、本当に慈悲の心に基づいているならば善事となり、善い報いが期待できるのじゃ。
それでこそ智慧を発揮したといえるのじゃ。

そして又慈悲の心で製作や実践を続けるとよいのじゃ。
その源泉があれば智慧が尽きるということはないのじゃ。
人の役に立ち、利益をもたらす方法は慈悲があればいくらでも考えられるからなのじゃ。
そのようにして続ければ繁栄が約束されているのじゃ。
善事を続けることになるからなのじゃ。

このように慈悲心によって活動することは一見、社会的には不利なように見えて、実際には最も適切な行いとなるのじゃ。
その智慧には社会よりも強い報いの力が働くからなのじゃ。

このように智慧の源泉は慈悲の心と理解したならば、実践あるのみなのじゃ。


智恵の源泉2

投稿日:2025-03-02 Sun

お釈迦様は、愚かな者は自分自身に対して仇敵のようにふるまう、と説いたのじゃ。
その通りに2500年前のインドでも、自分で自分を破壊するような愚かな者は多くいたのじゃ。
現代でもそのような者は時折、新聞記事でも見かけるじゃろう。

立派な会社の社長なのに違法薬物に手を出して捕まったり、僅かな金額のためにギャンブルや賄賂等をして罪を犯すのじゃ。
或いは、政治の高官の地位にあっても無意味な犯罪で失脚したりする者たちなのじゃ。
実に自分を破滅させる愚かな振る舞いをしてしまう者は、今も昔も後を絶たないのじゃ。

仇敵があの社長は犯罪か何かで捕まればいいとか、思っているようなことを、自分自身でしてしまうのじゃ。
自分が自分の仇敵であるかのように、自己破壊行為を実践してしまうのじゃ。
周りから見れば普通に働いていれば栄耀栄華を享受できるのに、何故そんなことをしてしまうのかと不思議に思えることじゃろう。

それもまた自分に対する慈悲や敬愛が欠けているからなのじゃ。
慈悲によって智恵が生じるのであるから、自分自身に対する慈悲や敬愛が欠けていれば愚かな振る舞いにも陥るのじゃ。
実際に犯罪に走るものは苦境に陥ってどうすればよいかわからなくなったとか、他にやれる事がなかったとか言ったりするのじゃ。

まともに考えればただ普通に働いていればよいとわかる筈であるが、それすらも思いつかないのじゃ。
知識を生かすことができないのじゃ。
それが愚かさなのじゃ。

富貴の身であれば一般の者より多くの知識を身につけていたりする者も多いじゃろう。
それなのにその知識を適切に使うことができないのじゃ。
知識を適切に使うことが智恵であるから、その反対に知識を適切に使えないのであるから正に愚かさなのじゃ。

自分自身に敬愛や慈悲がないと智恵も働かず、逆に愚かさが発動してしまうのじゃ。
その愚かさによって自己破壊に励んでしまうのじゃ。
むしろ自分自身をどこかで憎んでさえいるから、自己破壊にも陥るのじゃ。

それにもさまざまな原因があるじゃろう。
子供のころに親の期待に応えられなかったからとか、親子兄弟の葛藤からとかなのじゃ。
そのような原因を大人になっても引きずって自己憎悪にも繋がっているのじゃ。

自らを苦境に陥れないためにも自らの心を観察して、そのような原因を追究するのじゃ。
そして、原因から観察できればそれも滅することができるじゃろう。
原因から自己憎悪を滅すれば愚かさもなくなるのじゃ。

それから自らを敬愛し、慈悲を持って生きればそのような自己破壊行為を避けることもできるのじゃ。
自己敬愛と慈悲によって真の智恵も湧くのじゃ。

自己敬愛と慈悲によって真の智恵が生じれば、自他を生かす知識の活用もできるようになるのじゃ。
その智恵によって自他に多くの利益をもたらすこともできるのじゃ。
福楽を受け取り、真の喜びの道を選ぶこともできるのじゃ。

実践あるのみなのじゃ。


ダンマパダ(法句経)解説

愛とは

投稿日:2018-10-03 Wed

お釈迦様はこのように言っておる。

210、 愛する人と会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。

211、 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらわしの絆が存在しない。

212、 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

213、 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

ここで愛と言われているのは愛着であり、執着なのじゃ。
慈悲とは違うものなのじゃ。

慈悲は自他の同一観から起こるものであり、他人の喜びを自らの喜びとして感じ、他人の悲しみを自らの悲しみとして観るものじゃ。
愛着や執着は自分の孤独や不安から起こるものであり、逃避に過ぎないものじゃ。
苦である孤独や不安から逃れようとして愛着し、更に苦を増やすことになるのじゃ。

愛する者と離れる苦が愛別離苦であり、憎む者と会わなければならないのが怨憎会苦なのじゃ。
愛するものがあれば、反対に憎む者も出来るのじゃ。
愛する者を傷つける者や愛する者と反対の特徴がある者を憎むのじゃ。
そして憎む者と共に居ることで苦しむのじゃ。
そのように愛憎共に人を苦しめるものなのじゃ。

愛する者によって苦しむ人の姿は日常でも多く観られるものじゃ。
愛する者と離れる苦だけでなく、会っていても互いに傷つけあう苦もあるのじゃ。
愛し合っていても自我があれば傷つけあわずにはいられないのじゃ。
更には情痴のもつれからの犯罪や、ストーカーなどの犯罪までも引き起こすものじゃ。

愛とは麻薬のようなものとも言えるのじゃ。
人に一時的な快楽はもたらすが、やがては苦になり、破滅にさえも陥らせるものなのじゃ。
しかし、麻薬も使いようによっては薬になるように、愛も慈悲になれば人に利益をもたらすものとなるのじゃ。

愛着は自らのために他人を求めるものじゃ。
慈悲は自他双方の利益を求めるものなのじゃ。

愛着は人をありのままに慈しむことはなく、離れていれば会いたがり、会えば自らの思うとおりに操ろうとするものじゃ。
それによって傷つけあうことにも繋がるのじゃ。
慈悲は人をありのままに慈しみ、苦楽を共にして、自他の利益を図ろうとするのじゃ。
そうであるから傷つけあうことも無く、進歩していくことも出来るのじゃ。
そのような慈悲はそのまま善事であると言えるのじゃ。

愛とはこのように両面の働きがあり、慎重に見極めなければならないものなのじゃ。
自分が愛着し、執着しているならば、自らを観察して気付くのじゃ。
そうすれば執着から離れ、破滅することも無いのじゃ。
更に意志によって愛着を慈悲にまで昇華し、自他共に利益を図るのじゃ。



わしの考え

悟りの生物学的な解釈。

投稿日:2022-08-02 Tue

悟りとは一体何であるのかと、疑問に思う者は少なくないじゃろう。
よくわからないが昔から伝統的に尊いものであると言われてきて、信仰している者もいるじゃろう。
今の西洋的な教育を受けた者には、それだけでは承服できないという者達も居るじゃろう。
そのような者には生物学的な解釈も必要なのじゃ。

その解釈が絶対的な真実でもないのじゃ。
言葉によって伝えられる観念は全て真実ではないからなのじゃ。
それでも疑問を持ったままでいるより実践する上で役に立つ故に、それも説かれるのじゃ。

そもそも生物とは個別の物質的な実体をもたず、環境や同質のものと繋がって存在するものじゃ。
例えば樹は地面に根を下ろして一つとなっているのじゃ。
水や養分を吸収して空気中に放出したり、葉を増やしたりしているのじゃ。
枝を切り取って、地面に刺せばそれがまた一本の樹になって増えたりするのじゃ。

そこには個体とか、個我はないのじゃ。
同質の環境に繋がっているものが増えていくだけなのじゃ。
動物でもくらげなどは多くのものが繋がって成長して、大きくなると一つ一つ切り離されて海を漂うのじゃ。

人間もまた同じように環境や同質のものたちと一体であり、個体とか個我はないのが事実なのじゃ。
しかし、人間は進化していくことで他の動物にはない能力が発達したのじゃ。
それは記憶能力なのじゃ。

記憶能力は文字を作り出して知識を伝達したり、遺したりして生活に役立つ技術の発展に役立ったのじゃ。
しかし、その反面、記憶に依存してしまう認識をも作り出したのじゃ。

認識能力が記憶に依存してしまうと、人は記憶を通してしか世界を認識出来なくなってしまったのじゃ。
全ては知識と記憶による観念として、認識されるようになったのじゃ。
そして知識と記憶から、この肉体とか精神が個体であり、個我で在ると認識するようになってしまったのじゃ。

個体とか個我の観念から、孤独とか不安とか恐れが起こるようになったのじゃ。
さらに孤独から他人への執着が起こり、恐れから怒りが起こり、不安から欲が起こるようになったのじゃ。
そして他人への執着から愛別離苦が起こり、怒りから闘争の苦が起こり、欲から欲求不得苦も起こるようになったのじゃ。

このように記憶能力の発達は認識からの依存を起こし、個我の謬見を起こし、さまざまな苦を引き起こすことになったのじゃ。
それは生物学的には一種の退化であり、事実を誤認することになったのじゃ。
事実を誤認する故に、苦痛に苛まれながらも戦わずにはいられないのが人間なのじゃ。
それは進化の袋小路に入ったと言えるのじゃ。
そのままでは牙を大きくし過ぎた虎とか、でかくなりすぎたアンモナイトのように肥大し過ぎた能力によって、却って現実的には役立たずになり、種として消えて行く定めなのじゃ。

それを正しい進化の道筋に戻すのが悟りで在ると、生物学的には言えるのじゃ。
肥大し過ぎた記憶能力も、正しい手段によって依存から解放することができるのじゃ。
そのための方法が心を観察する方法なのじゃ。
例えば学者が虫眼鏡で砂から植物の種を正しく見分けて取りのぞくように、心も観察して謬見を取り除けば正しく機能するようになるのじゃ。
そのためには心をコントロールする方法も必要なのじゃ。
それが集中の法なのじゃ。
集中と観察の二つの方法によって、真実を見分けられるようになるのじゃ。

このように生物学的に解釈してみたが、それが絶対に正しいということもないのじゃ。
前述したようにこれもまた実践のための解釈なのじゃ。
それで納得がいったら実践あるのみなのじゃ。


愚かな者は相手にしなくてよいのじゃ。

投稿日:2025-01-02 Thu

昔、お釈迦様の元に一人のバラモンが尋ねてきたのじゃ。
そのバラモンはお釈迦様の話を聞こうともせずに罵詈雑言を吐くばかりだったのじゃ。
実に愚かなバラモンだったのじゃ。

お釈迦様は武士階級出身であり、元々僧侶階級の生まれの人ではなかったのじゃ。
当時も今もインドのバラモン達の多くは、僧侶階級の家に生まれたものがバラモンとなり、他の階級の者はバラモンになれないと主張していたのじゃ。
しかしお釈迦様は行いによって人はバラモンとか武士とか商人になると教えていたのじゃ。

そうであるから愚かなバラモンは自分達の生業が侵されると思って抗議に来たのじゃ。
実際には古ヴェーダには社会的な役割により、階級があると記してあるだけで生まれによって階級が定められるとは書いていないのじゃ。
そうであれば役割による行いで階級が決まるというお釈迦様の主張が正しかったのじゃ。
自分の子孫に利益をもたらしたいバラモン達が生まれによって階級の別があると、嘘を説いていたのじゃ。

そのバラモン達によって生まれによって階級の別があるという偽経典等も作られて、今もインドでは信じられているのじゃ。
そのような愚かな教義で今もインド人は苦しんでいるのじゃ。
ガンジー等もそれを撤廃しようと色々平等の教えを説いたが、根強い迷信は未だ続いているのじゃ。

その愚かなバラモンにお釈迦様は何も答えなかったのじゃ。
バラモンは去って行ったのじゃ。
後で弟子に何故愚かなバラモンに何も答えなかったのかと聞かれたお釈迦様は言ったのじゃ。

「もし誰かの家に行って食事を出されたとしても受けとらなかったらその食は誰のものとなるのじゃ?」
と、聞かれて弟子たちは、
「それは食事を出した主人のものとなり、主人の元に返るでしょう」
と、弟子たちは答えたのじゃ。
「わしはあの愚かなバラモンの罵詈雑言には答えなかった、受けとらなかったのじゃ、そうであればその言葉は元のバラモンに返るのじゃ」
と、お釈迦様は答えたのじゃ。

このようにして愚かなバラモンの言葉は自らに返り、愚かなバラモンは死んで当然悪しき所に行ったのじゃ。
お釈迦様は真の教えを説き、身内が死んで苦しむ者や人を殺して悩んでいた者、悟りを求める者達を救っていたのじゃ。
そのような法やおこないを見もせずに、愚かなバラモンは罵詈雑言を吐いてたのじゃ。
地獄に行って当然なのじゃ。

わしがこの話を書くのも、実に現代にもこのような愚かなバラモンにも似た偽宗教者がいるからなのじゃ。
愚かな偽宗教者は真の悟りの法を知らず、ただ自分達の商売が侵されると思って罵詈雑言を吐くじゃろう。
ここで説かれている真の悟りへの法などは実践せず読む事もなく、非難するだけなのじゃ。
賢明であり慈悲深い真の菩薩達がお釈迦様の真の教えを実践して、苦を滅している事なども知らぬ愚かな者達なのじゃ。

賢明なる菩薩達はそのような愚かな偽宗教者はお釈迦様のように相手にしなくてよいのじゃ。
あまりに雑言が過ぎれば警察とか病院に任せるとよいのじゃ。
カルト宗教の狂信者は精神障害者であることも多いからのう。
そのような者達はすでに地獄に住み、死んで又地獄に行くことが決定しているのじゃ。

賢明にして慈悲深く、正しい智恵で実践精進している菩薩はそのような者達が罵詈雑言を吐いても捨てておくとよいのじゃ。
そして自らの目的に専念して、苦しむ者達だけを助けるとよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。

未分類

名前の苦

投稿日:2020-08-02 Sun

お釈迦様はダンマパダで名色からの厭離を説いているのじゃ。
名色とは名前と形象なのじゃ。
形象とはイメージなのじゃ。
未だ悟りを得ぬ者は、全てのものごとをこの名前とイメージである観念に拠って認識しているのじゃ。

その中の名前について今回は説くのじゃ。
誰でも生まれた時から名前を持っているものじゃ。
名前に拠って自分と他人を識別するのじゃ。
名前が無ければ社会も成り立たないのじゃ。
そんな便利な名前も自分として認識していると、苦を生む原因にもなるのじゃ。

例えば軍人などは名誉のために死をも選ぶのじゃ。
勇敢な者という名前を得るために自分の体が壊れることも厭わず、己の死をも省みず、他人をも殺すことを選ぶのじゃ。
勇敢といわれ、臆病と言われないようにするために、自他の苦の道を選択してしまうのじゃ。

或いは名声を欲する者が自らの肉体を傷つけても見目良く容貌を形成し、多くの時間を費やして技を磨き、終には人生の大半を費やしてしまうことも名に囚われて苦に陥ることなのじゃ。
愚かな者はまともな手段によって名を広めることが出来ぬと思えば、犯罪まで行って名を広めようとさえするものじゃ。
そのために被害に遭う者も苦であり、本人にとっても大いに苦になるものじゃ。

そのように極端な例でなくとも、多くの者が日常で名前に執着した為に苦を受けているのじゃ。
例えば他人に頼まれると嫌といえない者も居るのじゃ。
そのために嫌な頼みごとや仕事を抱え込んで苦しむのじゃ。
人に良く思われたいと思うから嫌とはいえないのじゃ。
人に良く思われたいというのも、名前への囚われであることも多いのじゃ。

或いは他人からの評価を気にして、己の意志を曲げてしまうのも名前への囚われからであることも多いのじゃ。
自分の好きなことも体裁が悪いとか、体面が悪いとか、世間の評判を気にして事業とか趣味でも出来なくなってしまうのじゃ。
そのような心構えでは後々に後悔することになるのじゃ。
事業でも趣味の事でも、若いうちにやって置けばよかったとか、後悔しながら人生を終えるのじゃ。

人が最も良い評価を得たいと願うのは、大抵親からの評価なのじゃ。
親からいい子であるという評価を得たいがために、子供は頑張るものじゃ。
ゲームとか遊びとかの好きなことも抑制し、勉強に励んだりするのじゃ。
そのような心の習慣が大人になっても残ってしまうことが多いのじゃ。

親や他人から褒められる事が人生で一番価値の在ることであるという、価値観が条件付けされるのじゃ。
そうなれば自分の好きな事を抑圧し、世間の評判のために頑張りすぎてしまうのじゃ。
そしていつの間にか気がつけば、自分が何を好み、何を楽しみとしているのかすらわからなくなってしまうのじゃ。
世間の評判に合わせすぎてしまったために、己がわからなくなってしまうのじゃ。
己がわからなければ迷いの世で更に迷いの中に入っていくようなものじゃ。

そのような苦悶の生活に心当たりの在る者は、よく自らの生活や環境を省みてみると善いのじゃ。
何故、自分は今このように窮屈な生き方をしているのか。
何故、好きなことも出来ずに苦しいことばかり選択しているのか。
そもそも自分の好きなことは何であったのか。
等の疑問を自らの胸に聞いてみるのじゃ。

それがただ親や世間からの評価を得たいと思っているからであったならば、名前に囚われているから苦が起こるのであると気付くこともできるかもしれんのじゃ。
気付くことで厭離は起こり、名前との自己同一化も消えるのじゃ。
そして他人の評価や世間の目を気にせずに、好きな事を思い出して安楽に生きることも出来るのじゃ。
それもまた自分を知ることによる安楽と言えるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。

形象の苦

投稿日:2020-09-02 Wed

名色の内、今回は色についてなのじゃ。
色とは形象であり、心の中ではイメージとして認識されるものじゃ。
名前とイメージによって、全ては観念として悟りを得ていない人に認識されているのじゃ。

その名前も実には言葉のイメージとして心の中で処理されているのじゃ。
意味や音の有る一つ一つの小さなイメージとして言葉もあるのじゃ。
言葉の組み合わせに拠ってイメージだけでは伝え難いような、複雑な概念や抽象的な観念も伝えられるのじゃ。
そうであるから全てはイメージとして認識されているとも言えるのじゃ。

天も地も山も川も森も林も星も雲も人も、全てイメージとして認識されているのじゃ。
全てがイメージとして認識されていると言う事は、自分もまたイメージとして認識されているということなのじゃ。
自分のイメージは全てのイメージの捉え方を決めるものなのじゃ。
自己イメージに拠って、全ての認識対象は分別されているのじゃ。

例えば自分が弱いというイメージを持つ者には、この世界が恐ろしいものと認識されているじゃろう。
自分が強い者というイメージがある者は、この世界がそれほど恐ろしくは無いと認識するのじゃ。
そのように自己イメージは他の全てのイメージを決定付けるものなのじゃ。

自己イメージに拠って人は認識する世界が違うとも言えるのじゃ。
そのように自己イメージは、人の認識する全ての世界と人生をも左右する重大なものであるが、これを自覚する者は少ないのじゃ。
自己イメージは主体として謬見されているから、認識し難いのじゃ。
自分の眼が眼を見れないようなものじゃ。

そのような状態である為に、心理学的な言い方をするならば自己イメージは潜在意識として働いているとも言えるのじゃ。
通常の意識状態では認めることも出来ないものなのじゃ。
人にとって生きている世界と、人生を決めるものであるのに、自分では知覚する事も出来ない心の働きである故に、それを知らなければ困難な状況にも陥るのじゃ。
ブレーキもアクセルも不明な車に無理やり乗せられて、知らない道を走っているようなものじゃ。

自己イメージに拠って世界は自分にとってどのようなものなのか、決定付けられるのであるから、自分は駄目な者とイメージされていれば、この世界でだめな者として行動してしまうのじゃ。
そのような者はその自己イメージを滅しない限り、一生駄目な者として行動し続けるのじゃ。
何故そのような自己イメージが作られるのかといえば、それは大抵は親とか親代わりになった者から条件付けされたからなのじゃ。
子供は親に拠って全て教えられるものであるから、駄目な者と叱られてばかりいれば、自分を駄目な者としてイメージしてしまうのじゃ。
それによって人生まで駄目にしてしまう者も多いのじゃ。

それが自己イメージによると言えるのじゃ。
更には自己イメージが自分であると認識するのであるから、自己イメージだけを良くしようと勤める者も少なくないのじゃ。
学力が無いのに本をかじり読みした受け売りで知ったかぶりをしたり、実力が無いのに自慢ばかりして顰蹙を買う者も、そのように自己イメージにのみ囚われて失敗する者なのじゃ。
心に悪意を持ちながら外面だけを綺麗にしている者も、イメージに囚われた愚かな者と言えるのじゃ。

そのようにイメージだけをよく見せようとするのも、親に対する執着から起こるものじゃ。
子供にとって親に気に入られるのは死活問題であるから、今の自分の本性や実力よりも善いイメージを与えようとするのじゃ。
それは殆どの者にとって一生続けられる観念遊戯となってしまうのじゃ。
親が居なくなれば社会や親代わりの者に自己イメージを見せるために、全ての労力を費やしてしまうのじゃ。
それもまた自己イメージのもたらす苦なのじゃ。

更には自分が世界とはなれて孤立した者というイメージから、孤独感や寂しさという根本的な苦の原因が起こるのじゃ。
それから逃れるためにさまざまな逃避が起こるのじゃ。
権力や金や名声に囚われ、果てには酒や薬とかに頼って身の破滅をもたらすのじゃ。
それが自己イメージによって起こる苦の最も大きなものじゃろう。

以上の如くに自己イメージはさまざまな苦をもたらす、苦の根本原因とも言えるものじゃ。
しかし、その苦も自己イメージから起こることが一瞬でも観られたならば、即座に消えるのじゃ。
自分のイメージから起こる苦の連鎖が全体として観られることで、気づきが起こり、厭離されるのじゃ。
日々の精進によって観難い自分というイメージも、いずれは観ることができるのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。

日々の懺悔告白

投稿日:2022-09-02 Fri

仏教では罪を犯しても、懺悔告白すれば報いもなくなるか、小さくなると説いているのじゃ。
懺悔告白によってあらゆる罪も許されるのじゃ。
しかし、すでに自分でも忘れてしまった罪は懺悔告白したくてもできないじゃろう。

小さな子供のころに虫を殺したとか、誰かの悪口を言ったとか、そのように昔の小さな罪は忘れてしまっているじゃろう。
さらに前世で犯した罪などは、大抵の者は知ることもできないじゃろう。

そのような罪も懺悔告白する法が、仏教の各流派にいくつか伝わっているのじゃ。
その内の一つが以下のようなものじゃ。

無始である輪廻の遠い過去から、私は十悪の罪を犯してきました。
今ここに全てを懺悔告白して二度と犯すことのないように、身を慎むことを誓います。
これからは悪事を止めて、善事を積む事を誓います。

このように懺悔告白して、善事を実践することを誓うことで前世の罪も償えるのじゃ。
これは朝起きたときとか、瞑想をする前とか、夜寝るときに実践するとよいのじゃ。
当然であるが、唱えただけでなく、悪事をやめて善事を積むようにしなければいかんのじゃ。

このような懺悔告白は、実践してみると分かるが実に心がスッキリするものじゃ。
心が清浄になった感じが如実に分かるのじゃ。
人によっては心が軽くなったとか、温かくなったとか感じるじゃろう。
それもまた心が浄化される感覚なのじゃ。

しかし、このように懺悔告白をしても、いやな事にあう者もいるじゃろう。
そのような事にあったら、それも試練であると捉えるのじゃ。
その試練によって本来は地獄に行くような罪も免れたと思うとよいのじゃ。

さらに弛まなく善事を積み重ねていけば、福楽もやってくるのじゃ。
それも懺悔告白によって心が浄化されたからなのじゃ。
福楽によって環境がよくなれば、修行も進むことじゃろう。
心を浄化するために毎日、実践あるのみなのじゃ。

貧窮困苦を滅するのじゃ。

投稿日:2022-12-02 Fri

病苦と同じように、お金が無くて困るという貧窮困苦も正しい方法によって、滅することができるものじゃ。
お釈迦様も在家の者に、若い時に財産を守っていないと、年をとってから困ると説いているのじゃ。
仏教では欲をなくせと説いているから、貧乏でいなければならないということもないのじゃ。

むしろ財産を作り、守ることはお釈迦様も薦めることなのじゃ。
お金を作り、守ることは正しい貧窮困苦から脱する道なのじゃ。

貧窮困苦を滅するには、まずはお金を貯めることが一番最初にすべきことなのじゃ。
「バビロンの大富豪」という本にも、最初にそれが記されているのじゃ。

自分の収入から一割を月々貯めておけば、一年もたたずに月収と同じ金額の貯金ができるのじゃ。
そして次にそれを投資して、増やすのじゃ。
それが正しい道なのじゃ。

投資と言っても、株とかFXをしなければならないということもないのじゃ。
むしろ専門的にそれらを研究して実践している者以外はやるべきではないのじゃ。
大きな損をする恐れがあるからなのじゃ。
お金を増やそうとしているのに損をしては本末転倒なのじゃ。
専門的に研究や実践するならばやってもよいのじゃ。

投資の極意とは、まだ多くの者が知らない価値あるものをいち早く見抜いて投資することなのじゃ。
そうであれば株や金融に限定することも無いのじゃ。

わしが調べたものでも少ない資金からできる投資はいくつかあったのじゃ。
今はブランド物への投資があるのじゃ。
時計とか、バッグとか、値上がりが見込めるブランド品を買うのもよいのじゃ。

ゲームなどが好きならば、ゲーム用のカードもかなり値上がりするから研究する価値があるのじゃ。
数百円で買えるカードが数万円になったという例もあるのじゃ。

数万円で買えるグランドセイコーとかの時計は7年で3倍になったとかいうのじゃ。
このようなブランド物の投資は、いきなり値下げするというリスクが少なく、高品質の現物が手元にあるから損をする可能性も少ないのじゃ。

不動産への投資も、いきなりアパートやマンションを買えなくとも、小さな土地でも駐車場や貸し倉庫などができるのじゃ。
そのように常に世間の動向をよく観察して学べば、少ない資金でも投資して増やす道はいくつもあるのじゃ。

シューズやクワガタムシでさえ投資できた時期があったのであるからのう。
人気が集まる所に資金も集まってくるのじゃ。

危険なのは他人の言葉を鵜呑みにして、言われるままに資金を提供してしまうことなのじゃ。
それで資金が増えたという話しは聞いたことが無いのじゃ。
たとえ身内や友人でも投資については、信用してはいかんのじゃ。
常に自分で研究して投資すべきなのじゃ。

さらに資金を増やすには運も大事なのじゃ。
幸運があれば安全に資金も増やせるのじゃ。
運気をよくするには、布施をするのがよいのじゃ。


資金を使わなくとも無財の七施ができるのじゃ。
さらに今はクリック募金というのもあるのじゃ。

いずれも幸運を呼び込むことができるのじゃ。
知恵と幸運を養って、正しい方法で貧窮困苦を滅するとよいのじゃ。

争いに加担してはいかんのじゃ。

投稿日:2023-11-02 Thu

今世界では複数の戦争が起きてしまっているのじゃ。
そのせいで今この地域も危ないとか、何とかしなければいけないとか、思ってしまっている者もいるかもしれん。
騒がしい周囲の雰囲気に巻き込まれて、自分も浮き足立ってしまうのじゃ。

そのような集団の雰囲気で自分にも何かできるだろうとか、何かしなくてはならんと思い込んでしまうのじゃ。
戦争の不安があるから心も騒いでしまうのじゃ。

しかしそのような雰囲気に巻き込まれてはいかんのじゃ。
疫病の後に経済や民衆の支持を得るために、為政者が戦争をすることは歴史上何度も起こったことじゃ。
今がこれまでの歴史にもない転換点かと思うと、興奮して進退を誤り、身をも危うい事態になりかねないのじゃ。

人々が争うのは今に始まったことではないのじゃ。
思想の違いとか、宗教の違いで争うというのも間違いなのじゃ。
同じ思想、同じ宗教の者同士でも争っているのであるからのう。

争っている間は人は孤独や恐れを忘れられる。
そうであるから争っているだけなのじゃ。
酒や薬に溺れているのと一緒なのじゃ。

そのような争いに、どのような理由があっても加担してはいかんのじゃ。
正義であるとか、正当な報復であるとか、果ては争いをやめさせるための争いだとか、どのような理由でも関わるべきではないのじゃ。

争いについて意見を聞かれれば、反対というのは善いのじゃ。
又、傷ついた人や困窮した者を助けるのは善いのじゃ。
それらは慈悲の言動であるからなのじゃ。

それ以外の理由ではどのような争いにも加担してはいかんのじゃ。
何故ならばどちらかの集団に加担して、その活動を手伝ったりすれば集団意識に巻き込まれるからなのじゃ。
周囲のみんながやっているとその価値観を受け入れてしまい、自分もしなければいけないように思うのじゃ。
特にそのような集団では過激な意見が通りやすくなるから、巻き込まれるのは危険なのじゃ。

それが集団意識なのじゃ。
例えばただボランティアで掃除をするだけと説明されて一つの集団に加われば、他にもいろいろ頼まれて気がつけば銃を持って戦場にいる羽目になるかもしれんのじゃ。
それは極端な例であるが、集団意識に巻き込まれると、いつでもそのような危険があることを忘れてはいかんのじゃ。

これから争いはこの地域にも降りかかってくるかもしれん。
社会を守るために共に戦おうとか誘われるかもしれん。

争いの集団に加担しなかったために、卑怯者とか、惰弱な者とか言われるかもしれん。
時には経済的にも不利になるかもしれん。
それでも争いに加わらず、善事を積み、ただひたすらに自分を見る実践に励むのじゃ。

正義のためにでも戦う者は滅びるじゃろう。
勇敢な者もついには居なくなってしまうじゃろう。
戦いに勝ったとしても残されるのはただ屍だけじゃろう。

慈悲を実践してきた者が栄えるのじゃ。
自らの心身を観る実践に励んだ者が永遠の境地を得るのじゃ。
それは争いによっては永遠に手に入らないものなのじゃ。
それこそが人が得られる最大の利益なのじゃ。

争いを避けて今この身で得られる最大の利益を求めるのが、賢いものが行くべき道なのじゃ。
賢者は常に正しい道を歩むのじゃ。


六波羅蜜を修めるのじゃ。

投稿日:2023-12-02 Sat

大乗仏教では菩薩は六波羅蜜という六つの修養徳目を実践するように説かれるのじゃ。
波羅蜜とは完成という意味なのじゃ。
六つの徳目を完成させることで悟りにも近づいていくのじゃ。

その六つとは、
布施
持戒
精進
忍辱
禅定
智慧
なのじゃ。

第一の布施は欲を離れ、生活環境を守るためのものじゃ。
慈悲や尊敬の想いによって布施をしていれば、自然に囚われがなくなり、福楽も付き従うようになるじゃろう。
初めのうちは布施をしても、生活は変わらないとかでやる気もなくなるかもしれん。

しかし続けていけば確実に福楽は身についていくじゃろう。
増えた福によって布施を増していけば、さらに福も増していくことができるのじゃ。
そのようにして好循環ができるようになれば、もはや布施も完成に近いのじゃ。

戒を守ることは悪を滅し、善事を増すために重要な徳目なのじゃ。
環境もよくなり、心も静まるじゃろう。
不殺、不盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五戒でも守れば、大いに利益もあるのじゃ。

精進は日々実践を続けることなのじゃ。
毎日、弛まずに実践することが、すべての道において速やかに進歩する秘訣なのじゃ。
これこそがどの道においても最も近道なのじゃ。

忍辱は汚辱をも忍ぶことなのじゃ。
辱めを受けても耐え忍ぶことなのじゃ。
この娑婆世界では正しいことが必ずしも認められるとは限らないのじゃ。

娑婆世界は不完全な一切皆苦の世界であるから、正しいことをしていても汚辱に塗れることもあるのじゃ。
そのような時にも耐え忍び、ひたすら修行に励むのが忍辱なのじゃ。

禅定は瞑想の実践なのじゃ。
集中によって心の制御方法を修めるのじゃ。
これも日々続ければサマーディにまで至り、悟りもやってくるのじゃ。

最後は智慧の完成と呼ばれるものじゃ。
この智慧とは、空の法による智慧なのじゃ。
全ての徳目の完成は、この智慧の完成によって成し遂げられるというのじゃ。

一切の観念が空であると念じることにより、煩悩を滅し、欲を離れ、自己の観念をも打破できるのじゃ。
無我になった後にも、観念を生む認識をも滅して、大悟徹底の境地にまで至ることができるのじゃ。
そうであるからこの智慧の完成こそ、他の全ての徳目を完成させるものなのじゃ。
今この世の菩薩も、この六波羅蜜を実践して悟りを得るのじゃ。


報い

投稿日:2024-01-02 Tue

わしが報いというのは、昔から業とか、インドではカルマとか呼ばれている、他人にしたことが自分に返ってくる現象なのじゃ。
業とかカルマと言うと、昔からの観念があるからそのようなものが存在していると思われるからわしは報いと言うのじゃ。
それは物理的に存在する物事ではなく、やはりこの世のすべての物事と同じく心で起こされる現象なのじゃ。

お釈迦様も他人に悪いことをすれば悪い報いが起こり、死ねば地獄とかの悪いところにいくと言っているのじゃ。
他人を喜ばせる善い事をすれば善い報いが起こり、天界などの善い所にいくと言うのじゃ。
それは昔からヴェーダなどの聖典に説かれてもいることなのじゃ。

仏教だけではなく、他の多くの宗教でも報いは説かれているのじゃ。
悪い事をする悪い者には悪い報いがあり、善い事をする善い者には善い報いがあると教えられているのじゃ。
それは国や宗教を問わず、全ての人に共通している普遍の法則であるからなのじゃ。

なぜそのようなことが起きるかといえば、それは自分も他人も全て繋がっているからなのじゃ。
自他は常に一つであり、一度も離れたことはないのじゃ。
それが真実の姿であるのじゃ。

自分の右手で左手を叩いたら痛くなるじゃろう。
一つの体であるから当然なのじゃ。
同じように自分と繋がっている他人を叩けば、時間はかかってもいずれ自分が痛くなるのじゃ。
心が痛くなるようにと仕向けるのじゃ。
報いを受けるように無意識に行動してしまうのじゃ。

そのようにして報いは作用してしまうのじゃ。
それは悟りを得ても免れないのじゃ。
昔、999人をあやめたと言うアングリマーラのアヒンサーはお釈迦様にあって悟りを得たのじゃ。
しかし、村に托鉢に行くと石を投げられたのじゃ。
そのように悟りを得て心は自由になっても肉体は報いを避けられないのじゃ。

この報いが人によって理解し難いのは、心の中の動機によって善悪が違ってくることじゃろう。
この基準についてわしにもいろいろ相談してくる者も多いが、悪い動機による行いが悪事であり、善い動機による行いが善事であるという基本的な原理を理解すればよいのじゃ。

悪い動機とは害意や欲等なのじゃ。
害意や欲等によって他人を傷つけたり、財産を掠め取ったりする事が悪なのじゃ。

善い動機とは慈悲とか敬意とかなのじゃ。
慈悲とか敬意で他人を労わり助け、施しをしたりする事が善なのじゃ。

例えば道を歩いている人を突き飛ばしたりした時、それがその人を傷つけるつもりで実行したならば悪なのじゃ。
人を傷つける害意で行ったからなのじゃ。

しかし車に轢かれそうになった人を助けるつもりで突き飛ばしたならば善なのじゃ。
人を助けると言う善意による行いであるからなのじゃ。

このように人を突き飛ばすという行動は全く同じであっても、心の中の動機によって善悪が違ってくるのじゃ。
そして当然ながら報いも違ってくるのじゃ。
害意によって人を突き飛ばした者は、いつか自分も傷つけられるじゃろう。
助けるつもりで人を突き飛ばした者は、自分も命が危ない時に助けられるじゃろう。

それは心で起こる現象であるから、同じ行動でも動機によって報いは違ってくるのじゃ。

さらに現実的には害意でやったことでも稀に人のためになる結果になったり、善意でも人を傷つける結果になったりすることもあるじゃろう。
その場合も結果に関係なく、害意でやれば悪であり、善意でやれば善なのじゃ。

前のように人を突き飛ばした時の場合でも、害意で突き飛ばしたらたまたま車に轢かれる所だったのを助けたとか、そのような場合でも悪なのじゃ。
害意による行いであるから、悪い報いを免れないのじゃ。

人を助けようとして突き飛ばしたら、別の車に轢かれてしまったという場合でも善事ではあるのじゃ。
善意でやったことであるから善い報いがあるのじゃ。
なかなか承服し難いことであるが、心で起こる現象であるからそのようなことも起こるのじゃ。

要は常に慈悲に満ちた清い心で何事も実践すべきであるという事なのじゃ。
そうすれば多少の間違いはあっても、善事を常に行うことができて、善い報いも期待できるのじゃ。
そして福楽は常にもたらされ、死後も安楽な所にいけるのじゃ。
福楽と安寧を求める者は常に善事を積むとよいのじゃ。


報い2

投稿日:2024-02-02 Fri

報いは全ての世界における法則であり、天界の者でさえ逃れられないのじゃ。
それは神とか如来が作ったという法則ではなく、個我のある者が全てのものが一つであることを知らないために起こる現象なのじゃ。
お釈迦様もわしも、そのような法則を作ったから従えと言っているのではないのじゃ。

この世にはこの報いという法則があるから、それによって衆生が苦を自ら招かず、好いほうに利用して福楽を従えるようにさせるためにと、説いているのじゃ。
この法則自体は悪いものではないのじゃ。
悪事によって悪い報いを受けるが、善事をつめば福楽も招くことができるのであるからのう。

例えば引力の法則があるから高い所から落ちたら人は傷つくが、うまく利用して水を高い所から落として発電して生活に役立てることもできるようなものじゃ。
正しい知識と慈悲心を身に付けて、善事を行えば誰でも自らの身の周りを良くすることができるのじゃ。
この娑婆世界は一切皆苦の世界であるが、善事を行うことで安楽な環境に行くこともできるのじゃ。
それが真実であるからお釈迦様もわしも説いているのじゃ。

この世で悪い環境にいる者は以前の自らの行いによるものと、知るべきなのじゃ。
それは悪い知識ではなく、福楽に通じるよい知識でもあるのじゃ。

今、この世で悪い環境にいる者でも、自分の行いによって善い環境にすることができるのであるからのう。
たとえ身は動かなくとも口から出る言葉だけでも、善事はできるのじゃ。

お釈迦様は人は生まれつき、口の中に斧を持って生まれてきたというのじゃ。
その斧は口から出て自分を傷つけるというのじゃ。
これは悪い言葉を使っていると、いつか自分に報いが来て苦しむことになると説いているのじゃ。

言葉だけでも悪意によって発せられれば、悪い報いになって返ってくるというのじゃ。
逆に善い言葉を発すれば、善い報いも訪れるのじゃ。
無財の七施でも愛語があるからのう。
言葉も慈悲の心で発するべきなのじゃ。

言葉だけでも善事になるのであるから、行いによってさらに福を招くこともできるのじゃ。
これは法則であるから地上のどこでも効果はあるのじゃ。
西洋でも寄付をすることを天国に財産を積む、と言ったりするのじゃ。
西洋でも昔から寄付をすることが善い所に生まれる報いになると知られていたのじゃ。

現代の世間的に成功して金持ちになる道を教える導師達も、施しや寄付をすることを薦めているのじゃ。
それが金持ちになる近道になるというのじゃ。
本来ならばできる限り金を節約して、増やすべきだと教える筈の者が、逆に施しや寄付をしていると金持ちへの道が開けるというのじゃ。

収入の10%から5%とか、1%でも慈悲の思いで与えれば、十倍になって返ってくるというのじゃ。
実際に億万長者の多くが、慈善団体に寄付をしたりしているニュースはよく報じられているから知っている者も多いじゃろう。
彼らは多くのお金があるから寄付しているのではなく、寄付しているからお金持ちになったのじゃ。

この寄付によって失敗した例はないとまで言うのじゃ。
慈愛とか敬虔な気持ちで与えれば必ず見返りはあると、教えているのじゃ。
報いは引力と同じように地上のどこでも起こる現象であるから、西洋でも知って実践している者も多いのじゃ。

人は誰でもお金を倍にする財布を手に持って生まれてきていると言えるのじゃ。
その財布とは慈悲とか尊敬の心なのじゃ。
その財布にお金を入れるとは、そのような清い心で施しをすることなのじゃ。
自他は一つであるから施したものは自らの手を離れることではなく、ありのままなのじゃ。
そして倍になって返ってくるのじゃ。

貧窮困苦を滅しようとする者は、この報いの法則を利用して福楽を呼び込むとよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。


医者の喩

投稿日:2024-03-02 Sat

昔、医者のいなかった村に一人の医者が来たとするのじゃ。
医者は村人たちを診て正しい処方を授けて病を治していたのじゃ。
村人達はありがたいことであると、医者を敬い処方を実践して健康になっていったのじゃ。

しかしその医者も年には勝てず、死んでしまったのじゃ。
残された村人達は医者の書いた処方箋や話を伝えてきたのじゃ。
それも最初のうちは正しく伝えられてきたから効果はあったのであるが、年月が経つと次第に正しい意味が失われてしまったのじゃ。

処方箋の間違った解釈による治療で、誰も治らないのにただ昔の医者のありがたい処方箋であると思って伝えてきたのじゃ。
ついには死者が出るとその処方箋を唱えて送るような迷信も行われてきたのじゃ。
誰もおかしいとは思わなくなってしまったのじゃ。

そこに新しい医者がやってきたのじゃ。
その医者は昔の医者が残した処方箋を読んで正しく解釈したのじゃ。
同じ医者であるからそれも出来たのじゃ。

そして正しい処方を蘇らせて村人を治したのじゃ。
迷信も無意味であると説いてやめさせたのじゃ。
医者の処方箋は生きている者のためにあるものであるからなのじゃ。
村人達は確かに病が治り、効果があったから新しい医者が正しく昔の医者と同じ医療を伝える者と認めたのじゃ。

この喩である昔の医者とはお釈迦様のことなのじゃ。
お釈迦様の教えも衆生の無明の病を治すための、処方箋ともいうべきものであったのじゃ。
そしてお釈迦様がいなくなっても、暫くは正しい教えが伝わっていたのじゃ。

しかし長年経つうちに次第に意味が分からなくなってしまったのじゃ。
意味が分からなくとも昔の偉い人が説いたのであるから、なにかありがたいものであると思って信じていたのじゃ。
そして死人に向けて唱えるような迷信まで出来てしまったのじゃ。

しかし今わしがお釈迦様の教えを正しく蘇らせたのじゃ。
新しい医者が昔の医者の処方箋を読んで正しく解釈して人々を治したように、このブログにも書いてある法を実践すれば確かに苦は滅するじゃろう。
お釈迦様が説いた苦を滅する四諦が正しく説かれたのじゃ。
そして善事によって心を清め、福楽を付き従える法も説かれたのじゃ。

賢い者は自ら実践してその法が確かに効果があるとわかるじゃろう。
そしてその法を正しく伝える者もお釈迦様と同じ境地の者と知るじゃろう。
新しい医者が昔の医者の処方箋を正しく解釈して村人に知られたようにのう。

お釈迦様が説いた法は、生きている者が実践して安楽になるためのものじゃ。
死人に唱えても何の意味もないのじゃ。
おろかな迷信に囚われてはいかんのじゃ。

それが正しい法の解釈なのじゃ。

善事を積めば誰でも福楽が訪れるじゃろう。
今まで何が起きたのかもわからず苦しんできた者も、自らの心を正しく観ることで楽になるじゃろう。
自分という観念をどこまでも観察し続ければ無我になり、さらに認識しているものまで観られれば大悟に到達するじゃろう。
そして永遠に苦はなくなり、言葉にも出来ない不死の境地に到達するのじゃ。
それがお釈迦様の説いた正しい法なのじゃ。

今こそ正しい法が再び説かれたのじゃ。
実践すれば必ず大きな果報が得られるお釈迦様の説いた法なのじゃ。
このチャンスを逃さず、実践して自らの望みを叶えるとよいのじゃ。

苦滅の道理論

心を観て苦を滅するのじゃ。

投稿日:2019-02-02 Sat

お釈迦様がこの世は一切皆苦と説かれたように、今も多くの者が苦しんでいるじゃろう。
その苦にもまた多くの種類があるものじゃ。

金が無いのに苦しむ貧窮困苦
愛する者と会えなくなる愛別離苦
怨み憎む者といがみあう怨憎会苦
欲するものが得られない欲求不得苦
そして万人が避けられない老病死苦等と人はさまざまな苦に悩まされるものじゃ。

それらの苦を滅するには苦を生み出す自らの心の働きを、完全に観察しなければならないのじゃ。
心を観ることから逃避していれば苦はいつまでも起こり続けるのじゃ。

苦とは心から起こるものであるからなのじゃ。
貧窮困苦などは環境の要因であるから、心から起こるのではなく、心を観てもどうにもならないと想う者もあるかもしれん。
しかし、貧窮も実際はそれを苦にする者の心からあるものなのじゃ。
金が無いことへの不満とか、将来への不安とか、金に執着する心が苦になるのじゃ。
それらがなければ貧窮も苦ではないのじゃ。

そのような苦を心の中にはっきりと観て、原因からも観察する事で苦はなくなるのじゃ。
誰かが苦を持っていてそれが完全に解消するということがあったならば、それは心の中の苦を見る事ができたからなのじゃ。
それ以外に苦がなくなることはありえないのじゃ。

環境が変ることで苦は一時的に感じなくなることも在るのじゃろう。
しかし、その場合は苦をもたらした環境に戻ればまた苦が感じられるようになってしまうのじゃ。
苦を完全に解消するには、自らの心の中にある苦をはっきりと観る必要が在るのじゃ。

とはいえ心をどのように観察すればよいのかと、疑問に想う者もいるじゃろう。
そのためにお釈迦様は縁起の法を説いたのじゃ。
人の心は刺激に対して同じ反応をするように出来ているのじゃ。
そのために同じ原因からは同じ苦が何度も起こるのじゃ。
それを自己同一化している故に、苦は自分のものとして人を悩ませるのじゃ。

観察して自己同一化がなくなれば、苦は自分のものではなく、悩むこともなくなるのじゃ。
それが観察によって苦が無くなる理由なのじゃ。

要は観察すればよいのであるから縁起の法だけでなく、さまざまな方法で苦を滅することも出来るのじゃ。
最近の心理学でもいろいろな方法で心を観ることができるようになっているのじゃ。
どのような方法でも人が真に苦から逃れることが出来るのは、苦を生み出す心の中をありのままに観たことによるものであると知るがよいのじゃ。
今苦を抱えている者は自らの心をありのままに受け入れ、観察して苦を取り除くと善いのじゃ。

苦滅の道実修

共に執着を離れるのじゃ。

投稿日:2020-07-02 Thu

世の中の親子や兄弟や夫婦や友人や恋人関係の者達はしばしばお互いに執着し、依存し合ってしまうこともよくあるものじゃ。
そのような関係はお互いに苦になり、時に破滅的な最後も迎えてしまうことも在るのじゃ。
心理学では共依存というのじゃ。
新聞にもしばしば載っている情痴のもつれからの犯罪等はそのような関係から起こる事が多いのじゃ。
お互いに苦しんだ挙句に命の危険もあるのがお互いに執着し、依存する関係なのじゃ。

そのような関係の始まりは孤独や寂しさからなのじゃ。
孤独や寂しさから他人に執着する逃避が起こるのじゃ。
孤独や寂しさから他人に強く執着して、相手もまた孤独や寂しさから逃避しようとして執着しあえば共に依存する関係になるのじゃ。
それは一人が執着するよりも多くの苦をもたらすのじゃ。

お互いの依存が更に執着を高めあい、苦もまた強くなっていくのじゃ。
執着が孤独を強め、孤独が執着を起こして悪循環になるのじゃ。
それを愛と勘違いしたりもするのじゃ。
お互いに相手の愛が足りないと不満を持ち、愛を求めて罵りあったりするのじゃ。
互いに愛し合っていると錯覚しているだけで、実は憎しみ合うもの同士の行いをしているのじゃ。

仏教用語でいえば愛別離苦を恐れ、怨憎会苦に陥っていると言えるのじゃ。
お互いに離れてしまう別離の苦から逃避しようとして、憎しみ合う者同士が離れられない状況になっているのじゃ。
二重の苦に陥っているのじゃ。

そのような関係は互いに苦をもたらすばかりなのじゃ。
それを滅するにはやはり観察しかないのじゃ。
どちらかでも観察に拠って依存を離れれば、相手もまた変り、苦から離れて互いに楽になるのじゃ。
それもまた縁起しているからなのじゃ。

孤独や寂しさからの逃避として執着が起こり、それがまた離れる事への恐れを生んでいるとありのままに観察するのじゃ。
他に原因があるのならば、それもまた正しく観察するのじゃ。
原因から次々に執着が起こり、苦が増していくのを全て観るのじゃ。
原因から末端の苦が起こるまで全てが見られればそれも消えていくのじゃ。
そして安楽が起こるじゃろう。

身に覚えの在る者は実践して確かめるのじゃ。


わかりやすい苦を滅する法。

投稿日:2022-05-01 Sun

以前からわしは苦を滅する法を説いてきたが、まだよくわかってない者も多いようじゃ。
わしの説明もわかりにくかったようじゃ。
そうであるからこれから苦を滅する法を、わかりやすく簡単に説明していくのじゃ。

まず簡単に言えば、苦は心を観察することでなくなるということが最も大事なことなのじゃ。
人の苦は心から起こるものであるからなのじゃ。
心から苦がなくなれば、苦はないのじゃ。

肉体の苦痛でさえ、心によって苦になるじゃ。
痛みや障害さえも、心が苦としなければ苦ではないのじゃ。
それらが心によって苦の原因となると苦が起こるのじゃ。

このように苦は心によって引き起こされる故に、心によって滅することも可能なのじゃ。
そのための方法が観察なのじゃ。
観察が完全にできたら苦は滅するのじゃ。

観察というのも難しいものではないじゃ。
観察とは今ここにあるものごとをありのままに観ることなのじゃ。
たとえば道端に咲いた花を見て、花びらが五枚あると見たら、それが観察なのじゃ。

しかし、その観察もしばしば記憶を見てしまうことがあるのじゃ。
道端に咲いている花が、昨日は花弁が五枚であったから、今日も五枚あるじゃろう、などと思ったらもはや観察ではないのじゃ。
観察とは今ここにあるものごとを観ることであるからのう。
記憶に依存した認識を持っている人間は、このように観察をしているつもりで、記憶を観てしまうことがあるから注意が必要なのじゃ。

そのように観察するにしても、集中力がないと難しいのじゃ。
観察しててもすぐに別のことを考えたりしてしまうからなのじゃ。
そのようなことがないように、集中力を養うのが数息観などの集中の法なのじゃ。

集中と観察の方法を二つあわせて止観と呼ぶのじゃ。
心の雑念を生み出す働きを止めて、観察するのじゃ。

ではどのように観察するのか、といえば原因から苦が起こることを観察するのじゃ。
例えば愛するものと別れる愛別離苦ならば、執着が原因で苦があると観るのじゃ。
心の中に執着から起こる苦の縁起をありのままに観察するのじゃ。

そうすれば苦は滅していくのじゃ。
苦との自己同一化がなくなるからなのじゃ。
簡単に説明すれば、このようになるのじゃ。

一つ一つの法を詳しく知りたい者は、このブログの苦を滅する法の記事をよくよんでみるとよいのじゃ。
今苦に悩まされている者は、実践して楽になるとよいのじゃ。


不安を滅するのじゃ。

投稿日:2023-08-02 Wed

不安は人が心に持つ苦の一つと言えるのじゃ。
不安によって人は日々苦しんだりしているのじゃ。
人によっては不安が強くなりすぎて、死んだり、心の病になったりすることさえあるのじゃ。

そのような不安もよく観察することで、滅することができるのじゃ。
不安がなくなれば、少しは生き易くなる者もいるじゃろう。
生きていく苦を少しでも減らすために不安を正しく観察して、滅するべきなのじゃ。

わしが観た所、不安とは今の苦や、過去の苦を未来に当てはめる不完全な予測なのじゃ。
たとえば今、病で苦しいとすれば、これから先もずっとこの病で苦しいのではないかと、悩み苦しむのじゃ。
あるいは過去に車に轢かれたりして痛い目にあったとすると、また車に轢かれたりするのではないかと、悩んで外に出るのが怖くなったりするのじゃ。

そのように過去や今の苦を未来に予測して、苦にする心の働きが不安なのじゃ。
それは苦だけを予測するから不完全な予測なのじゃ。
今の病や過去の苦も、いつまでも、何度もあるというものではないのじゃ。
それなのに苦だけを予測してしまうのであるから、不完全なものなのじゃ。

そのような心の働きは、本来は未来の苦を避けるためのものなのじゃ。
しかし認識が記憶に依存しているから、自分ではそれを止められず、苦になるのじゃ。
苦を避けるための心の働きが、記憶により新たな苦を作り出す働きになってしまっているのじゃ。

心に不安が湧いてきたら、それを正しく観察してみるのじゃ。
今自分は苦を未来に予測していると、心の働きをありのままに見るのじゃ。
そうすれば不安は滅するじゃろう。
ただそれだけで不安は消えていくのじゃ。

さらにその予測を良いものに変えてみるのじゃ。
病があれば健康になった未来を予測し、過去の苦ならばそれがない未来を予測してみるのじゃ。
その時、心に不安はないじゃろう。
そのように実践して不安の原因が心にない時には、不安がないことを観察するのじゃ。

そのように何度も観察すれば、不安は何度も滅するのじゃ。
そうすれば不安とは何の力もない、観念遊戯であるとわかるのじゃ。
想念によって遊んでいただけと、理解できるのじゃ。

不安が心に湧いてくる度に、そのように正しく観察して滅していくのじゃ。
そうすれば不安はいつでも滅することができるとわかるのじゃ。

ただの観念遊戯によって、心を苦しめないようにするのじゃ。
不安をすべて滅して、不安のない生活をするとよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会3

2025年11月19日 発行 初版

著  者:鬼和尚

編  者:修行中

bb_B_00156552
bcck: http://bccks.jp/bcck/00156552/info
user: http://bccks.jp/user/129051
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

jacket