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この本はタチヨミ版です。
初めて会ったときはただ単純に、「綺麗な人だな」と思っただけだった。あれは大学二回生のとき。ゲリラ豪雨で急に降り出した雨にカバンを頭に乗せて、中に入っている教材がぬれることも恐れずに、ただただ走って近所の八百屋の屋根の下まで行く。そこで、君を見つけたんだ。僕はそれとなく話しかけてみることにしたんだ。
「急に降り出すなんてついてないですね。確かにここのところゲリラ豪雨は多いですけどね。あなたもあそこの美大生ですか?」
周りには君しかいなかったから僕が話しかけているのは分かっているはずなのに、君は見向きもせず、スマホを取り出す。
「なんだよ。ちょっと可愛いからって無視とか性悪女かよ」
僕は腹立たしくなって、同じようにスマホを取り出すと、SNSのアプリを開く。
「急な豪雨に巻き込まれました」
僕はそう呟いて、フォロワーさんからのリプライ(返信)を待つ。すると、まもなくリプライがやってくる。
「散々だね。教科書大丈夫?」
「僕の心配そっちのけかよ!」
こんなやりとりをしているうちにフォロワーの一人から奇跡的なリプライが来る。
「その辺、ウチの近くだから傘持ってってやるよ」
「やった! ありがと! 助かる!」
数分後、友人はやって来た。傘は僕の分だけだった。当然だけど。でも、僕はその傘を君に貸してあげたくなって友人には悪いけど、傘を勝手に貸してしまった。傘を渡すと同時に君はキョトンとして、受け取るとニコッと笑ってくれた。僕はまたその笑顔に胸が熱くなった。
「まったく。勝手に傘貸してからに、お前ってヤツは」
「ほら、僕が美人に弱いのは知ってるだろう。だから、その。なんだ、儀式みたいなもんだ」
「なんの儀式だよ。まぁ、いいや。とりあえず、狭いけど相合い傘で駅まで送ってやるよ」
僕はそんなことに目もくれず、君のことが気になって仕方なかった。また会えるのだろうか。傘を返してもらうのとかはどうでもよくて、もう一度、会ってみたかった。
後日、キャンパスの食堂でご飯を友人と食べていたときに、僕はとうとう見つけたんだ。君の姿を。二回目の出会いはこれまた突然だった。それだけではなくて、その出会いが僕にさらに衝撃的なことに出会わせてくれることになる。
「どこみてんだよ。とっとと食べて次の教室行かないと」
「あ、先に行っててくれ。僕はちょっと用事が出来ちゃったから」
「用事?」
友人の言葉に僕は「うん」と頷くと、彼女に見とれる時間に入っていった。すると、君が身振り手振りを使って表現していることに気がついた。
「なにかと思えば、歩美のことみてたのね」
先に行くように伝えた友人の中の一人である優香の声が聞こえてきてびっくりする。
「歩美? 知り合い?」
「知り合いも何もあの子のノートテイク手伝ってるのよ。あたし」
「ノートテイク?」
僕は聞き慣れない言葉に疑問符が頭に並ぶ。
「あの子、耳が聞こえないのよ。だから、してるでしょ? 手話」
よくよく見てみると君が手話をしていることに気がつく。
「だから、あの時反応がなかったんだ」
僕は八百屋の前で無視されたと勘違いしてしまったけど、耳が聞こえないのなら仕方ないと悟る。
「優香、手話で『こんにちは』ってどうやってやるの?」
僕はその一言だけ教えてもらって君の元へ向かったんだ。それしか出来ないけど、あいさつが全ての始まりだと僕は思い、アプローチを図ったんだ。君はびっくりしてたけど、笑顔が絶えないことに僕は感動していた。それ以降、僕は手話を勉強して優香の代わりにノートテイクもするようになった。君との距離がどんどん近づいていくのを身をもって感じていく。
今じゃ、君と手話で話すのが当たり前になって、毎日が過ぎるのがとても早く感じるくらいだ。僕たちの始まりは無視じゃなくて「あいさつ」から始まったんだ。そんな風にして僕たちの時間が過ぎていく。五体満足ではないけれど、僕たちはそれよりもなによりも変えることの出来ない幸せな時間が大事なんだと感じながら毎日を送っていくのだ。
「ふざけないで!」
そう言い放ったあたしを強く睨みつける父の眼光は、まるであたしの喧嘩を買ってやろうと言わんばかりだった。
「ふざけてなんていないさ。事実を述べただけだ。お前には出来ない」
「どうして、そうやって最初から決めつけるの! やってもないのに!」
「やらなくてもわかる」
「もうお父さんなんてしらない!」
あたしはドタドタと音を立てて自室に向かう。自室に入るとベッドに潜り込んで声を上げて泣き叫んだ。
「どうして、あたしのやりたいようにさせてくれないのよ。あたしの人生なのに」
すると、ドアをノックする音が部屋に響いた。
「礼子ちゃん? 入るわよ?」
母の声に反応することもなく、真っ暗だった部屋の明かりがともる。
「お父さんも悪気あって言ってるんじゃないのよ? あなたのことを思って」
「お母さんまであたしの夢潰しにきたの! 出てってよ! もうだれの話も聞きたくない!」
あたしの夢はあたしだけのもの。反対できる人なんていない。あたしは一人しかいないんだもん。そう心の中で思っていたことが乱暴な言葉に変わって口から出ていくのがわかった。言い過ぎなのはわかってたけど、それ以上に感情が爆発している自分を抑えることが出来なかった。
「礼子ちゃん、あなたの夢はあなただけのものではないのよ?」
「え?」
あたしはその言葉の意味が分からなかった。
「あなたは生まれたときから体があんまり強くなくてね。今もそう。激しい動きも出来ないし、周りにいる人たちは心配してるのよ」
「心配なんて誰も頼んでない! あたしは自分の人生楽しく過ごしたいだけ!」
次の瞬間、あたしの頬に激痛が走った。
「もう勝手にしなさい」
あたしは母を睨みつけて「そうするわよ!」と一蹴すると、母は部屋を出て行った。そのままふて寝をしようとしたが、お手洗いに行きたくなり、階段を降りていく。その時、聞こえたのが母と父のけたたましい口喧嘩の声だった。
「あなたが悪いのよ! 頭ごなしに礼子の夢に反対するから」
「何言ってる! お前だって結局反対しただろ!」
「それはあの子の体を思って」
そんな喧嘩話を聞いて、黙ってはいられなかった。
「やめてよ! あたしがいなければ良いんでしょ! 全部あたしが悪いんでしょ!」
そう言ってあたしはキッチンにある包丁を首に当てる。その手は怖くて怖くて震えていた。
「礼子ちゃん!」
「礼子!」
二人の言葉に枯れたはずだった涙がまだまだ出てきた。あたしは家族が仲良く楽しく過ごせれば良かった。そのためなら夢なんて奪われても良いって思うことが出来た。
「仲良くしてよ……」
私の悲痛の叫びに母と父は涙ながらに「うんうん」と頷いた。あたしは包丁を床に落とすと、二人は駆け寄ってきて抱きしめてくれた。
描いていた夢は遠のいてしまったけど、大事な時間と大事な人と大事な命を失わずにすんだ。
「ありがとう。お父さん、お母さん。これからも仲の良い家族でいようね」
あたしの顔が喧嘩の表情からにこやかな表情に変わった瞬間だった。
父が他界した。認知症が激しく最後は私の名前も顔も忘れてしまっていた。父は病気になるまで農業を営んでいた。せっせと藁を運んで、桑で田んぼを耕し、実りの秋を迎えると、それを精米所に持って行き綺麗な白米に変身させる。私は力もなかったので、死んでもそんな生活がイヤだった。だから、人一倍勉強をして、エリートサラリーマンを志した。留学にも行って、他国の文化も学んで体験もした。だからこそ、日本に帰ってからはその体験を活かして、外資系企業に就職したのだ。そんな中での、父の死が私の中に大きな影を落とすことになってしまう。実家に帰ると、父の残した田んぼがあった。正直、残してくれた財産はそれだけだった気もしている。
「お父さん、認知症になっちゃったのよ」
母から告げられたとき私は実家に帰って父の介護と言う名の母の手伝いをすることも出来たのだが、私はそれを選ばなかった。理由は父のような生活をしたくなかったからだ。父のようになりたくなくて、この人生を歩んできたのに、ここまで来てそれを壊されるなんてもってのほかだった。しかし、父の認知症が激しくなり、夜中の徘徊が頻繁になったと聞いて、母一人の手では背負いきれないと言われ、とうとう私は実家に帰省した。
「おー、おー」
奇声にも似た父の声はもはや話が出来る状態ではなかった。
「私が誰かわかるかい?」
私の質問に自分の息子であるという認識も生まれなかったようだった。ひたすら、繰り返す徘徊と、ご飯すら食べることがままならない父の姿を見ていると、昔、あれだけ農業をして体を酷使していた反動なのだろうか? と思わざるを得なかった。
そんな父の死に際はあっけなかった。徘徊中に車にはねられて死んでしまった。田舎の村だから、誰かが気づいてくれるのがよくあったのだが、都心から帰省してきた家族連れの車にはそんな考えがあるわけもなく、気がつけばはねてしまっていたのだ。
「お父さん。私は農業なんて絶対しないと決めていたけれど、お父さんが残してくれたのはこの田んぼだけだったから、少しだけやってみようかと思う。幸い、まだお母さんがいるし、一緒に頑張ればなんとかなる気がするから」
私の決意に母は心配そうな表情を浮かべる。
「あんた、自分の人生やけん。お父さんの事とあたしのことは考えんでもええんやで? 自分のしたいようにしーや」
母の言葉は私の胸に刺さったけど、私はせめて死んでしまった父のためにも親孝行がしたかった。私に残された田んぼと父の位牌。まだまだ元気に見えるけど、少し丸まった母の背中。私はエリートの道に行く必要はなくなったなと思えて仕方なかった。
「お父さん、お母さん。私は二人の息子に産まれて良かったよ。これからは甘えてきた分、ちゃんと返すからね。人生は人と人が交わらないといけないものだし、最後に交わる人はきっと両親だって思うからさ」
私は仏壇に手を合わせ、「これからもよろしくお願いします」と言葉にするのだった。
あたしはこの春から女手一つで育ててくれた母元を離れ、一人暮らしをしている。理由は晴れて大学受験に合格し、キャンパスライフに花を咲かせたからだ。初めての一人暮らしで憧れと浮ついた気持ちで一杯になる。学校の授業は新鮮で、クラスが少人数だったため仲良しの友人も自然と出来た。ところが、あたしにはどうしようもない疾患が残ってた。あえて疾患という表現を使うのには理由があった。それは「重症」で誰の手にも負えなかったからだ。
友人を呼んで家で宅飲みパーティーを開くことになったある日、あたしは腕を振るって夕飯をこしらえた。肉じゃがにハンバーグ、お味噌汁、玉子焼きなど母の味をふんだんに使った料理で友人をサプライズでお出迎えしたのだ。ところが、これが悪夢の始まりだった。
「あのさ、これ味薄くない? あとこっちのハンバーグ、生焼けだし」
「あははは。そんなわけないじゃん!」
あたしは友人の指摘に笑って愛情たっぷりのおかずに手を出す。その瞬間あたしの手はガクガクと震え始めた。そのままトイレへ駆け込むと、ものすごい勢いで吐き出した。
「ごめん! これ食べなくて良いから!」
あたしはそう言って料理を片付けようとした。すると、細い腕がその横から伸びてきた。それは友人で来ていた篤人の腕だった。
「大丈夫。食えるよ、これ」
「え? でも、美味しくないでしょ?」
「いや、ちょっと味のバランスが悪いだけで、トータル的に食べれば普通に食える」
これが篤人に初めて好意を持った瞬間だった。あたしはその後、母に連絡して調味料のバランスとか焼き加減とか色々な秘伝の技を聞き出して、何度もチャレンジした。たどり着くまで時間がかかったけど、ようやく自分の納得のいく配分で料理を作ることが出来た。
次の日、あたしはみんなを呼んで宅飲みパーティーを再び開いた。
「もう料理はいいからね!」
友人達は口を合わせる。それでも、あたしは練習を見せるべく前回と同じおかずを作って友人達を招いた。
「いいって言ったのにー」
友人の口は尖ったままだった。その中であたしの胸中にいる篤人の反応が見たかった。彼はずらりと並んだ料理を見て、一つずつ口の中に入れていった。そんな様子を見ていた友人は篤人に声をかける。
「篤人、良く平気だねー!」
「普通に上手いよ。これなら毎日でも食べられる」
あたしは小さくガッツポーズを作ってみせる。
「篤人の味覚がおかしいからでしょ?」
「文句言うなら食ってみろよ」
その言葉を聞いて友人達は恐る恐るおかずに手を伸ばす。口に入れてみんなの顔色はにこやかな表情に変わった。
「言ったろ? お前かなり頑張ったんだな」
篤人はあたしの髪をくしゃくしゃと触ってくれた。そんな出会いから数年。あたしと篤人は一緒に過ごしている。「毎日でも食べられる」の言葉を現実に変えてくれた。篤人の笑顔は大事なあたしのおいしい記憶になっていくのだ。
タチヨミ版はここまでとなります。
2018年10月20日 発行 初版
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