ある男の日常を描いてみた。兼一というSOHO事業者の失敗談。
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日本中の長男の嫁が全員揃って実家へ帰ろうと言ったらどうするのだろうか。
長男の中には『家を守る』と宣言してしまっているから断れない人達が一定の割合で存在するかも知れない。
血統を維持するだけでは、長男以外の人達は納得しないのだろう。『家を守る』というのは文字通り不動産を維持管理する意味なのだろうか。
仏壇、神棚、墓所は『そんなものは必要無い』と財産の勘定科目に入らないのだろうか。その手の専門家しか理解出来ないのだろう。
それじゃあ、長男の嫁は『ただいま』と言われたら、どういう反応をするのだろうか。兼一は想像してしまって、ご飯を噴出してしまった。
流行歌の一つでも出来そうな勢いで噴出してしまった。ドラマに出てきた挿入歌を『実家へ帰ろう』という風に替え歌にして勝手に想像し、メロディになって頭の中でそれに合わせて様々なシュチュエーションで、当事者の嫁同士がパラパラを踊る姿が彷彿と湧き上がり噴出してしまっていたのだ。
兼一の家は自分が長男なので、妻の顔をも、つい想像してしまうのだ。考えてみると兼一の妻も長男の嫁なのだ。妻の困った顔を想像するだけで、噴出すのだ。一種になって軽い感じで踊っているのだ。無理も無いのかも知れない。唯一救われるのは、兼一は『家を守る』などという口実で意識的に財産を独り占めした記憶はないのだ。口が裂けても言う筈はない。というか、言える状況ではなかった。
守る財産などとっくの昔に全て使い果たしていた。今は七十平方メートルの公営住宅に大人が四人で肩を寄せ合って生活をしている状態なのだ。片意地を張り続けた先進国幻想なのかもしれないが、狭いのもここまで来ると笑えるものだ。法事などで東京から帰ってくる兼一の姉も仕方がないからホテルを予約しなければならない。そうしないと廊下に寝なければならない、などと冗談でやり過ごさないといけない状態なのだ。
それでも公営住宅の抽選に四回もややこしい書類を出し続け、三年目で抽選に受かり、やっとの思いで入居出来たのだ。役所の裏の事情はそれなりにあるのだろうが、知る由も無く、入居出来たのは奇跡のようなものかも知れない。まあ、宝くじよりは確率は遙かに上等なのだろう。
住宅ローンの返済に行き詰まり、家を競売寸前で任意売買し、公営住宅へは如何に切羽詰った状態であっても『持ち家の名義』が存続する限り入れない、という奇妙な受け皿の規定があり、名義の変更が完了するまで、一旦、借家へと撤退するハメに陥ったのであった。貧乏の無限連鎖は制度で出来上がるのではないかと疑ってしまう位に雁字搦めの規定だった。
借家の家賃も小さな家ならこの地方では住宅ローンが組めると判断出来る程高い金額で、若かったら別に任意売買する必要があったのかと考えざるを得なくなり自分の年齢を恨むほど、生活に困窮し切るところまで追い詰められていた経緯があった。兼一の持ち家はかなり大きかったので、金銭貸借表的にはそんなことは思う方が変な話だったのだが。
丁度、その借家に住んでいた頃は、娘二人がまだ大学生であり、収入はアルバイトのみで自分たちの小遣い程度だった。それでも親としては充分に助かっていたのだ。引越しの際にこれもまた役所の規定で、変な理屈なのだが、下見することが許されず、ただ3LDKだと聞いていて、団地サイズであることも知らず、簡単な見取り図だけ見せられていた。兼一はこれほど狭いとは夢にも思わず、引越しの時には借家に入る時と似たように荷物を大量に処分しなければならなかった。京間という名前は狭い日本の誤魔化し的な単位で、別に京都を連想して貴族のように気取る必要は無いのだ。
荷物は処分しても公営住宅の床の空間には入りきらず、一時は歩く処がなく、トイレは驚く程遠くに感じるくらいだった。トイレが済んだ後の家族で『ヤッホー』と登山のような掛け声を掛けてやらないと間に合わなくて失敗しそうだった。
事実、引越しの後の夜にはベッドは中身の詰まったダンボールの上だった。中の食器がガラガラ音を立てて擦れあって一睡も出来なかった。
借家に入る時には、仕事上で知り合ったモンゴルから留学に来ていた医師の家族に二トントラック一杯に荷物を引き取って貰った。兼一には『あげる』という感覚は無く、遥々モンゴルから日本へ勉強をしに自費でやって来た事に感動し、少しでも役に立つのなら良かろうという軽い気持ちだった。不思議な話なのだが貰うことよりも何かを他人に差し出す方が幸せを感じるものだ、などと思い知らされたりもした。
モンゴルでは社会主義の遺産であるかどうかは解らないけれど、ランドセルは国から支給されるもので、日本では自分で買わなければならないとその医師は知らず、兼一の次女のランドセルが一番金目のものだったと言える。タイガーマスク的な行為が嫌いな人達には一寸理解が難しいかも知れない。あとは子供用の机が下に設置出来る種類のベッド類や若干の家具や、あり余っていた食器があった。日本の『物持ちの良さ』が少しはモンゴルの人に伝わったと自分に言い聞かせないと精神が落ち着かなかった。日本での慈善行為は偽善と直列的に見なされる風習があるようで、兼一は何度も苦い想いを経験したことがあった。
このモンゴルから来た医師も、モンゴルでの医師免許は何の役にも立たず、ホテルの皿洗いで生計を維持するしかなかった。言葉の問題が多かったと推測される。専門職は専門であるという理由でその世界でしか通用しない言葉を操るという極めて限定的な意味だったようだ。
喪失感が慈善の精神を上回ることは余りなかった。
ただ、ピアノの引取りには娘二人は眼に一杯の悔しさを滲ませていた。引き取り運賃は無料だがピアノは預からせて貰うというもので、不思議なことに何年経っても引き取り業者からは何の連絡も無い。
再度、公営住宅へ入居する時も同じように、荷物の処理に困り、今度は定年後に農業を郊外の潟を埋め立てた干拓地で始めるという知人に引き取って貰った。これは結構大変なことで、喪失感は大きかった。大事に書斎用に買った机や椅子が軽トラックで無造作に運ばれて行くのを見送り、涙さえ出たのだった。
二度の引越しで大量の〈財産〉を失ったのだが、そのことを何時までも引きずるとロクな事がないのを兼一は経験値で心に刻み込まれていた。というのは、これまで次女が生まれてから兼一の自営業の失敗や保証人がらみの問題で何度も引越しを余儀なくされていたからだ。
家族もなんだか慣れたもので、兼一の気紛れに付き合う程度の表情しか絶対に兼一には見せなかった。家族は沢山の涙の封印は物の喪失感でやってくるのを知らない筈はなかった。兼一の妻も諦め顔で黙々と引越しの段取りをしたものだった。
胃から胃液が逆流するような貧乏の想いが無い訳でも無かったが、幸い胃癌にも食道癌にも至らなかった。
心の中に風が吹き、無限の喪失感が湧き上がるのを我慢しなければ生きていけないのが娑婆なのだろう。自分達に言い聞かせるように日々を過ごすしかない。何時の日にかか、どうかは解らないが様々な想いが爆発してとんでもない事態に陥るかもしれないのだが、過ぎた事は日常の優しさの中で忘れ去るのかも知れない。そして、忘れ去ることが唯一の希望であるようなロジックが人間の幻想と言う自然から見たら化け物のような存在なのだろう。
ともあれ、公営住宅が割合新しく、部屋も比較的綺麗で、構造が合理的に出来ていたのには少し驚かされたのだ。狭さは人によって感じ方が違うのだろうけれど、とにかく飛んでもなく書籍の多い一家なので、廊下など隙間の無い位に埋め尽くされてしまったのだ。それで狭いと思っただけなので、一般的・合理的には生活困窮者にはこれで大丈夫なのかもしれない。何時の間にか貧困の受皿であることを忘れる事にしてしまい『公営住宅とは生活困窮者が入る場所ではない』などと言い張る古くからの定住者の意識とは一体何なのだろうか。社会性を欠いて行くとは恐ろしいことのように思える。その辺の事情は社会学者ではないので良く解らなかった。
一寸だけ想像していたより生活様式が古く出来ていて、住む予定の人の実体験ではなく建築設計士の時代的制約で公営住宅の設計が極めて限定的になってしまうのは仕方がないことだと思えた。公営住宅は新しければ新しい程に外見上は貧乏の意識を薄れさせる道具に変遷して来たのだろうか。詳しくは知る由も無い。
兼一の仕事が狭さに追い討ちをかけ、SOHO(在宅自営業)などと気取って見せるのだが、居室以外に事務所を開設する費用など何処にもなかったのだ。当然、3LDKのDKと仕事場は同じ場所になり、兼一の個室は無く、夫婦の寝室は箪笥が人格を押し潰すように並べられた京間の八畳だった。妻の嫁入り道具が公営住宅入居を前提としたものではなく大きいものが多かった。地震が大きく来たら、たぶん夫妻は何処へも逃げられないし、想像しただけで卒倒しそうになるだろう。五階建ての一階の部屋なのだ。地震が異様に増えている日本では、恐ろしいから想像はしない方が身の為だ。
兼一は一度眠りに陥ると朝まで何事があろうが目覚めない性分なのだ。鼻を摘まもうが、冷水を浴びせようが無駄な存在だった。大学生の時には友人達が面白がってマジックで顔に眼鏡を描いても、そのまま満員電車に乗り大学で教授に指摘されるまで気付かなかったぐらいだ。想像しない方が人生が楽しくなるだろう。
仕事で使うPC(パソコン)は、一週間に一回、分解して中を噴射スプレーで掃除しなければ、台所の都市ガスに付着する油に埃が吸着して熱効率が最悪になったのだ。
普通の株価を見る程度のPCならば機密性の高い物を買って置けば済むのだが、兼一の仕事はPCのレンダリング(画像計算描画)能力を最大限引き出すものが多く、自作機でチューニングを(能力向上改造)無理矢理してあり、CPU(中央演算処理装置)やグラフィックボード(画像高速描画装置)の発する熱に気を付けなければ駄目だった。
まあ、そういう環境も影響しているかどうかは解らないが、恐ろしいほどマニュアル化された就活を実践し、就職した子供達の『みなし・なんとか』だらけの忙しさに紛れて、普通の会話もあまり出来ない状態になっていた。
家族団らんの時間に親戚の話をする時間も余りないのだ。生計は老齢年金と僅かばかりの自営の収益だけでは続行するのはかなり難しく、二人の娘からの手助けを受けなければならない状態だった。生活保護という手も無い事はないのだが、二人も娘がいるのだ、沢山の人々と同じく役所の世話になりたくないという意識は極めて日本的に兼一にもあったのだ。想像力の欠如した官僚や政治屋達の希望の星のような状態だと書けば、二〇一五年の人達には分かり易いかも知れない。貧乏ではない人達が『家族』とか『自己責任』とか言うだけで笑えてくるものだ。一回でも総てを裸にしてスタートラインに立たせたら、口が裂けても自分からは言えない言葉だと思えないのだろうか。『優秀』だとされる人達だけを集めたら、純粋馬鹿の純粋培養にしかならないように思える。
『寄生虫と宿主の因果関係』などと言う馬鹿な人もいないこともなかったが、そんな概念ではとても表せない微妙な家族が日本には数多く存在することを忘れては人間失格なのかもしれない。
一家四人の団らんの時間が無いのはきっと、労働者全般に対する経営者達の労働時間の概念への構え方が違って来ているからに違いない。それを新自由主義というのか、どうかは経済学者やエコノミストではないので解らない。それでも、自然にそう感じていることに絶対的な問題があるように思えてしまうのは何故なんだろうか。兼一にはよく解らなかった。
拘束時間という概念が何時の間にか経営者ではない人の間でも実働時間だけという風に変わって来ているのだ。そう考え無理に納得しないと辻褄が合わないし、とてもじゃないが生活を続行するのは『やってられない』気分にさせてしまうものだ。仕方がないと諦める仕組みが常識なのかも知れない。
娘二人も例外ではなく、今は会社に勤めているのだが、残業から残業へ渡り歩くしかなく、嫁入り支度の時間もないのだ。習い事も何も出来ず、膨大な時間を勤め先で潰しているのだ。他人に拘束される時間がどうしてお金に変換出来ないのか、解らないまま、多くの若者が同じように働いている。
解り易い例を言うとガードマンの仮眠時間を想定するだけで全てを納得できる筈だ。仮眠時間は労働時間から外され、六十五歳以上の年金受給者は会社とは関係の無い年金の金額も合わせて時給のように経営者が考えている場合が多いのだ。他人の年金を前提に考えるのは国家への詐欺に思えないのだろうか。兼一の現役の時代には考えられないことで、随分と経営者が「楽」になったとしきりに関心もするのだ。二代目三代目に苦労をさせたくないと合理的に考えた結果、非人間的になったような気が兼一にはしていた。産業革命前夜のように戻ってしまったような錯覚に陥ることもしばしばあったのだ。『蟹工船』がよく読まれるのは兼一と同期しているようだ。
夢のような家族団らんの時間が取れた時に兼一は不謹慎にもその時間を潰すように噴出してしまったのであった。唾液とご飯とが混ざった混合物が辺りに散らばり無残な画面が展開した。理由は比較的単純で、昼間に妻の今日子の姉と今日子との間の長電話の内容が話題になったからだ。
今日子の姉の年齢は七十を過ぎており、それでも夫から執拗に叱られ続けているという内容だった。かなり深刻な精神状態になった時に今日子にいつもとは違うニュアンスの長電話をしてきたのだった。
今日子の性格は晴れ渡った青空のように底知れない明るさを世界全体に振り撒くようなものだった。満天の空に全てを包み込むようにしなやかで、時々様々な言い間違いをするのだが、それは薄笑いを誘うような面を持っていて、明るさからくる自然なものだった。
兼一は密かに『天然記念人(てんねんきねんびと)』と命名していたぐらいだが、とても口に出して他人に言える訳もなく、本人に言うと修羅場が襲い掛かりそうで、もちろん本人には絶対に言えず、一人で命名を楽しむしかなかった。明るく今日子のような人間でなければ、とても兼一の妻は務まらないと周囲から思われていた。
次から次と面白いことを思い付くので、家族全員が飽きることが皆無であるような記録的な人なのだ。
『検索エンジン』を『詮索エンジン』などと言い間違えたり、付議密通を一つ目の義理、二つ目の義理と義理を三つ果たさないことだと勝手に思い込み、指摘すると笑って『あら、そうなの、意味が違って覚えていて良かったわ。』などと誤魔化して自分で無かったことにしてしまう性格なのだ。
その後、実際にグーグル検索窓の横に《もしかして》というリンクが付けられた時には、兼一の笑い声が街中に届くかと思われる程に響いたものだった。
今日子の出す結論は何時も『答え一発カシオミニ』的だったのだ。かなり古い例えかも知れないが。カシオミニという電卓のキャッチフレーズで、兼一の青年の頃に大層流行ったものだ、結論を出す早さに悪気を一つも感じさせないのは〈今日子の徳の高さ〉だ、などと兼一は勝手に決め付けることにしていた。その方が何かと都合が良かった。兼一はブログなどに『女房殿』と、『殿』をくっつけて書いたりもしていた。嫌味ではないのだ。本当にそう呼んでも可笑しくはない存在なのだ。
そんな風な今日子でも、姉からの電話には肉親の情もあり、簡単に直線的に結論めいたものを出せないでいるようだった。
今日子は言った。
「なんで、男の人って貴方ぐらいの歳を取っても我儘なのかしらねぇ。歳を取ると余計にそうなるのかしら。やれ、あれをせえ、これをそっちへやれ、あれを持って来い、って。」
兼一は何時もの事ながら、一寸だけ恐れ、一寸だけ怯んで、突然始まる脈絡のない今日子の話に準備体操のように身構えた。
「えっ、俺のことかい。」
一応、お決まりのように聞いてみることにしているのだった。自分のこととは思ってはいなかったが、そうしないと都合が悪かった。
「そうじゃなくて、姉さんのことよ。」
「姉さんって、青森のかい?。」
「そうなのよ。何時ものことだけど、いい歳をして、未だに旦那さんが我儘の言いたい放題らしいのよ。」
「姉さん、お元気なの?。」
「元気そうだけど、かなり無理しているみたいだよ。」
テレビを横目で観て、スマートフォンを撫ぜながら年上の、ひと月の間にそう何度も夕飯を一緒に食べる機会が少ない長女の優香が一寸、からかいたい衝動を抑えられない感じで、口を挟んだ。
「また、その話。他に話すことないのかなあ。たまにのんびりしようと仕事を切り上げて、早く帰ろうと必死に思って、帰って来てるのに。」
つっけんどんな言い方なのだが、別に何の悪意もない。今日子はそれを解っている様に普通に続けた。
「そうなのよ。ごめんね。でも、姉さんの声の調子が何時もと少し違って変だったのよね。何時もは、私に電話をするとスッとするらしいのよ。私に想いを吐き出すと暫くは頭がすっきりするらしいのよ。なんだか取り止めもない長い愚痴には間違いないけれど、胸の中のモヤモヤが消化されるんだわ。きっと。でも、今日の電話は調子が変だったのよ。少し心配なのよ。」
次女の詩織が付け加えたそうに口を挟んだ。詩織は優香より少し早く帰る程度で、四人揃って夕食を取る事は本当に少なかった。
「おばあちゃんもそうだったよ。私なんか二時間立ちっぱなしで話を聞いてあげたことがあるのよ。青森で青春時代を送ったら、お喋りになるのかもしれないわ。冬に他に娯楽が無いもんね。お母さんの実家の皆のおばあちゃんへの扱いやら、お母さんの妹の幸子おばさんの愚痴やら。何から何まで、喋って、私の声を聞こうとしない感じだったわ。頷くだけで精一杯って、感じだったのよ。うちの電話、今みたいに子機なんてなかったから、まるで学校の行事で、原稿が無い政治家のくっだらない長話を立たされて聞かされているみたいだったわよ。」
兼一の両親はかなり早く他界しており、複雑な家庭環境と合い重なり、兼一にとって『かあさん』と自然に呼べる人は今日子の母だけだった。
兼一は今日子の母のことを思い出していた。ふくよかな顔と優しい気配りが懐かしかった。ときどき怒ってもいたのだが、最後には自分で気持ちを仕舞い込み決して他人に深い追求はしなかった。習字が大好きで、兼一が仕事の合間に突然尋ねたりすると、頬に墨を付けているのに全く気付かないように応対してくれた。指摘すると、大らかに笑い他人事のように言い、顔を拭くとまた炭が拡がるのを全く気にしていない様子が、微笑ましかった。なんだか学生時代の自分に似ているように思えたのだ。太っていたのだが、愛嬌のある太り方で、額に汗を浮かべ、何もそこまでしなくても構わない程に賢明にもて成してくれたものだった。
話し出すと止まらなくなるのは別に気にしていなかった。兼一が好きな鱈子や津軽漬などの食べ物を常に用意してあり、『娘婿は子供より可愛い』などと兼一を持ち上げてくれていた。あれも食べるかこれも食べるかと沢山食卓に山のように並べ、自分はちっとも座らずにあちらこちらと動き回り、兼一の世話ばかりをしていた。座ったらどうですか、と言っても、なかなか容易に座ろうとはしなかった。まさに『かあさん』と気軽に誰からも慕われるような明るさを持った性格だった。事実、子供の頃に親しかった遠い親戚の沢山の子供も大人になってからでも『かあさん』と呼んでいたものだ。青森へ嫁に行った先の平賀町(現平川市)で雑貨屋を営んでいて、そこへ買い物に来ていた小学校の沢山の子供達も大人になってからでも『かあさん』と懐かしそうに語るのを兼一は知っていた。『かあさん』という言葉の津軽の発音から津軽の風習がそうさせているに違いないと兼一は心から思っていた。
そんな『かあさん』が、なんだかこの食卓へ空からやって来て、別に幽霊然とした感じでもなく自然に、すうっと座り其処に居るように思えていた。微笑みながら四人の様子を見詰めているようだった。
詩織が兼一の『我が心此処にあらず』の顔を覗き込み、なんだか楽しそうな表情で、
「お父さんが、また、フリーズしてるわ。」
兼一の物思いに耽る癖を家族は『フリーズ』と表現していた。コンピュータが誤作動で動かなく状態を指していた。暴走ソフト扱いではないのだが。詩織は兼一が『フリーズ』状態に陥った時。ピエロが間抜けな笑いを逃した時のような様子が面白かった。実際に『ピエロさんのお鼻』と言いながら小さい時は、兼一の鼻を摘んで、兼一が息が詰まって気付くまでそのまま同じ仕草を続ける位だった。
今日子は、困った表情をし、
「ねえ、お父さん、お父さんってば。」
と、大き目の声で言った。
兼一は少し再起動したように我に帰って来ていた。
「お、おう、今、一寸おまえの母さんが此処に来ているような気がしていた。なんだか、泣く程、懐かしくなって来ていたよ」
優香はスマホの手を休めず、俯きながら、何かを見透かしているように、
「また、なんだか誤魔化している。」
と、一寸だけ不自然な兼一の様子に違うものを感じ、釘を刺すように言った。
今日子が優香の話を補充するように追加して言った。
「そのお父さんの『フリーズ状態』って、なんとかならないの?。」
少し驚いては見せる卑怯な癖と同時に、兼一は弁解のように、
「『フリーズ状態』って言い方なんとかならんか、俺は機械じゃないよ。お、俺は考えることがとてつもなく多いんだよ。心配しなくても学生時代からの癖なんだよ。頭の中が時々一杯になるんだ。頭の要領が少し小さいのかもしれないし、頭の回路がとてつもなく悪いのかも知れない。ビッグ・データーを保存しきれないんだよ。たぶんそうなんだよ。別に気にしなくていいよ。ラム(PCメモリーのこと)の容量を増やすのは人間の頭では物理的に不可能なのかもしれない。大したことじゃないし、すぐに元に戻るから、大丈夫だよ。ステージ4のWの癌じゃないんだから、故障してショートしてしまうなんてことは在り得ないし、たいした病気もしてないし、今までもちゃんと作動してきたじゃないか。これが普通だと思うけどなぁ。」
詩織が追求するような視線で兼一を追い詰めた。
「全てがパソコン用語になってるよ。少しボケてきているんじゃないの。固まってしまった方が楽だったりして。変な謙遜の仕方、辞めてよね。」
「そりゃあ、おまえ、謙遜って、お母さんの方が上だよ。」
兼一は少しだけ狼狽えながらも、自己主張はして置かないと不味いと思い、せい一杯言っていた。話の脈絡が少しずれている事には自分でも気付いてはいたのだ。
すると今日子が、
「私は貴方と違って、この子たちに言わすと、謙遜が上手なんだってよ。」
優香は、スマホを触る手を止め、
「『けんそん』って、言葉の使い方がなんだか少しヲカしいわよ。」
一家四人の目が点になり、勢い良く笑い声が部屋中に響いた。
「お父さんのコンピュータの仕事のせいで、我が家の言葉の使い方が少し変になってきているのかもしれないわ。」
今日子が言うと、兼一は我が意を得たりという風に体勢を立て直しながら、
「俺がいけないのかもしれん。『2チャンねる』の見過ぎかなあ?それは確かだ。最近はシーケンス(機械的自動処理数式)を直す仕事も殆ど無いし、バリバリ仕事をしていた時の方が言葉を大事にしたのかもしれない。いい年をして、テレビの見張りしかしてないから、野球か刑事ドラマの蒸し返しも飽きるほど看たし、最近は芸人の馬鹿騒ぎばかりで、吉本チックになっているのかもしれない。」
優香は少し意地悪な顔をし、スマホをテーブルに置き、その整った顔できっと見詰めるように、
「そういう風に言うと、お笑い芸人に対して、とっても不謹慎だと思うわ。彼らだって人を笑わす為に必死で生きているのよ。」
詩織が続けた。
「そうよ。お父さんの言い方は何に対しても慇懃無礼なのよ。」
兼一は、子供たちには自然の法則であるかのように『かあさん』から今日子へ、そして優香と詩織へと遺伝子を受け継ぎ、しっかり螺旋的遺伝子の情報が伝わっていると、漠然と思っていた。
「芸人の話はどうでもいいけれど、ところで、何の話をしていたんだっけ、訳が解らなくなってきているよ。」
優香が客観的な目をして、微笑みながら、やれやれという表情で言った。優香の性格は明るさの中にも、慄然とした整頓された本棚のように論理的なものを持っていた。その切り返しの早い反応に対して今日子は我に帰ったように、
「そうそう、青森の姉さんのことなのよ。旦那さんがね、自分で失敗したオシッコの着替えまで姉さんに取ってこさせて、まるで姉さんが故意に漏らさしたように言うそうよ。心臓の二十四時間測定装置を着ける時だって、お医者さんに散々文句を言って、お医者さんや看護士さんじゃ駄目で、皮膚が弱くて絆創膏でかぶれるから、姉さんに病院まで着いてきて、絆創膏を小さく切れって、命令するんだって。馬鹿みたいな話しでしょ。本当に何を考えているのかしら?あそこの家から病院までどれだけの距離があるか知ってる?一人で行けばバス費も安くなって助かるでしょ。車の免許がないんだから。絆創膏なんて、そんなの看護士さんに丁寧に頼めば済む話でしょ。看護師だと体裁が悪いとでも思っているのかしら。お金の問題も言っていたわ。御歳暮も見栄を張って別に仕事も貰えない古い付き合いの人にまで礼儀だと言って、しなければ義理が立たないって言うらしいのよ。それも姉さんの年金から出しておけって言うんだって。絶対におかしいわよね。我が家だったら金輪際在り得ない話でしょ。そもそも我が家はお金はひとまとまりにしないとやっていけないわよ。」
詩織が小さく想像してしまった時の気軽な感じで笑っていた。詩織の性格は静かな今日子という感じのもので、今日子よりさらに抜け切った青空に近いと言えるのかもしれない。何かを見透かすようではあるけれども、少し内側で止めておくタイプだ。他人から見ると内側に篭っているに違いないと自分では思っていた。気軽な笑いは何時もの癖で別に他意は殆ど無いも同然なのだ。
優香は冷静な言葉遣いで、なんだか決め付けるように兼一に対して言った。
「青森のおじさんは、どうしてそうなのか疑問だらけだけれど、なんでもかんでも、お父さんにそっくりなのよ。」
「えっ。うそっ!なんで?どこが?そんなに?そう見えるのかなぁ?なにかい?俺に似てると悪いことででもあるのかい?」
兼一は自分でも少しだけ似ているように思っている節があり、否定しなければなんだか自分も電話の愚痴の中へ悪役として巻き込まれてしまうような気がしていた。優香はするどく見抜いているように、
「我が屋の歴史上の問題に似ているのかもしれないわ。お父さんは好きな商売をして、家族を巻き込んで、失敗ばかりして来てるのよ。男のエゴを感じて仕方がないわよ。お父さんから上の年代の人って、みんな『知ったか』だし、自分の都合の悪いことは他人に押し付けるのよ。自分が読んだことのある本に価値があって、他人の読んだものは駄目だって言い張りたいのよ。相手のことを知りもしないのに一般論で片付けて、選挙行かないのか?なんて聞くのよ。若い人はみんな選挙に行かないとでも思ってるのかしら。馬鹿じゃない!くっだらない。お父さん達の世代は『赤信号、皆で渡れば怖くない』『他人の不幸は蜜の味』『責任は今日の足かせ明日の忘却』だって先輩が教えてくれたわ。」
兼一は少し黙り込み、色々な思念が頭を駆け巡るのを感じていた。腹立たしくは微塵も無いのだ。兼一はIT起業に失敗した自分を情けないと思っていて、家族から何を言われても笑って誤魔化すようになっていた。『絶対に安全です』とか『正直言って』とかの裏には、『比較的危険です』と『本心は嘘です』が存在するのを嫌という程、味わって来ていた。常に『味わってどうするんだ』と自問自答を繰り返す性分だった。
『俺は、パソコン・ゲームで一儲けしようとして、失敗したなあ。変な機械の運行ソフトを作る仕事を辞めて集中すれば良かったかな。アイデア止まりで、何もまともなコードを書けなかったなあ。色んなアイデアがあったんだけど、マッキントッシュのハイパーカード(改札式経路開発環境)で作ろうと悪戦苦闘した〈嫁・姑バトラー〉というのが一番駄目だったのかもしれない。パッケージのイラストが駄目だったのか。鬼婆が箒を持って若い嫁を追い回す……どぎつかったかな。鬼婆が柳田國男の遠野物語を連想させてしまって、ヲドロヲドロしくなってしまったのかな。うーん、あれは確か、あなたは長男へと嫁ぎましたか、それ以外ですか?ケースその一、小姑がいる場合とそうでない場合、ケースその二、同居か別居か?ケースその三、兄弟姉妹が同居かそれ以外か?そんな設問の仕方が駄目だったのかなあ…………現行の法律と現行の日本の常識の決定的な違いを表現したかった…………団塊の世代に受けるように思ったんだけど、団塊の世代にはロールプレイイング・ゲームというのは無理だったのかなあ。ワードとかエクセルの教室へ十万円以上払って何も覚えないで、教室へ通った事実だけで他人に空威張りする人だらけだものなあ。何か一つでも裏技的な技術を伝授出来たら、教える先生も嬉しかっただろうなあ。せいぜい頭脳を使うのはウィンドウズに入っている無料のソリティア・ゲーム程度で、それで自分を論理的な人間だと思い込むぐらいが関の山で、上海かテトリス止まりだったんだろうなあ…………。その癖、なんだか知らなければ取り残される気分だったのかもしれない。なんだか、悔しいような、このもったいない気分って、一体何なんだろうかなあ…………。今度はスマホのアプリでやってみようかなぁ。アイコンは若い子が〈カワイイッ〉って叫ぶようにユルいのが受けるのかなぁ。ユルいのは意外と難しいんだよなあ。俺には無理かなあ。無理なんだろうなあ。外注を使っても、良し悪しの判断も出来ないだろうなあ。子供っぽいから俺のやることじゃないような気がする。辞めた方が無難かも知れない。』
詩織は兼一の状態にすぐに気付いていた。
「お父さん、また、フリーズしてるよ。」
優香も大きく頷いていた。今日子も頷いて『納得の極みを私達は見ました。そして共有しました。』と心の中で三人揃って叫んでいるようだった。
兼一は我に帰った。
「俺は少なくとも青森のおじさんと違って、お母さんに無理強いはしないよ。」
優香は長女らしく、間髪を入れず言った。
「家族が家を失って、何もかも失って、お父さんは、私たちに申し訳ないと思ってるから優しくしているだけでしょ。演技みたいに思えるよ。」
少し冷たい風が吹いたように団らんは進行を少しだけ止められたようになった。詩織は姉妹らしく同意するように静かに頷いていた。兼一は進行方向を変更しなければならない状態に自然に追い込まれていた。
其処にいるように感じている今日子の母が、優しく兼一の背中を撫ぜて、
『あなたは一生懸命に仕事をして、この子らを育ててきたのよ。何も卑下することはないのよ。この子らもこんなに大人になったじゃないの。しっかりと自信を持ちなさい。自信を持って子供達としっかり接していれば大丈夫だよ。』
と、微笑みながら若干困った声で言っているように思った。
で、兼一は話の方向を自分から遠ざけようと決意したのだ。決意に違いなく、自己弁護の方向へしかこの手の会話は進まないのかも知れない。
「お、俺の話じゃなくて、青森のおじさんの我儘について語ってるんじゃなかったっけ。俺のことはどうでもいいじゃないか。目の前にいるんだから、何時でもどうでも料理できるだろうに。」
優香は理性的な自分を確認するように、
「まあ、そうだね。お父さんは何時でも血祭りに上げられるね。」
「優香!血祭りって、一寸ひどい言い方じゃない。」
今日子は笑って冗談とは知りながら、窘めるように言った。詩織は黙って頷きながら、口を挟まなかった。
「しっかし、ひどい話だなあ。信じられない。まあ、頼むだけなら俺にもあるだろうけど、叱るのは在り得ないなあ。どうして叱られなければならんのか?良く解らないなあ。姉さんのことを気が利かない奴だと思っているのかな?若い時の出稼ぎ先の寿司屋のとんでもないデッチ奉公のトラウマで、そういう風に思うのかなあ?。」
兼一は話の進行方向を自分から離すことに成功したように若干笑みを浮かべていた。
「しかし、姉さんは何だって長男の処へ嫁に行ったのかなあ?良くは知らないけれど、青森って、あれだろ?こっちよりも遙かに因習的なんだろ?。」
「あなた。何を言ってるのよ。此処だって同じだよ。私だって長男の嫁よ。」
兼一は笑いを誘おうと、親父ギャグとは厭と言うくらいに覚悟していて、
「ああ、ちょうだった。」
と、巫山戯てみせていた。
優香と詩織は爆笑し、『爆笑が問題だね。』と芸人の名前を玩具にし、巫山戯るのに追い討ちを賭ける様に笑い崩れていた。なんだか、久し振りの団らんで笑いたかったのだ。
心の底から笑いたかったのだ。今日子も釣られて笑っていた。兼一の目論見はまんまと成功したようになった。
兼一は、空から此処へやってきている今日子の母の家のことを考えていた。
今日子の母は、薫子という名前で昭和の始めの生まれとしてはお洒落な部類の命名に違いなかった。今日子の実家へ嫁いできた嫁は、亡くなった薫子のことを『薫子母さん』と呼んでいた。何故、そんな風に他人のように頭に『薫子』と付けなければならないのか、兼一は常に不思議に思っていた。嫁に来てしまっているのだ。いくら自分の実家の母さんが存命していても、それと区別するためであったとしても、変な呼び方も世の中にはあるものだと思っていた。
それに薫子が亡くなった後始末を、まるで燻し銀の半透明のモルタルか何かで、見え隠れする一寸した〈確執の痕跡〉を丁寧に上塗りするように消し続ける姿が哀れでしようがなかった。なんだか想い出の遺し方が奇妙に見えていた。仕方がないのかも知れないが、実の子とそうでない人では一言では言えないような差異があったのだ。
そんな哀れみの対象が、兼一の思っていることと違うように、今日子には兄嫁とそれに同調しなければ立つ瀬がないように見える兄の姿が許せなく、情けないものに映っていたに違いないのだ。それは少しだけ兼一は理解しているつもりだった。
兼一の親友の妻も一周忌も過ぎないうちに夫と住んでいた家を子供の敷地内での同居を理由にして解体し、新しい家を建てたのだ。何十年も一緒に暮らした家を壊さなければ、人間と言う生き物は〈過去の確執〉と決別できないのだろうか。どんな確執があったのかは、兼一には全く解らなかったが、何か得体の知れない到底〈憎悪〉までも至らない〈程度の軽い拒否〉の感情が沸いたのを経験している。それと似ているのかも知れなかった。人格とは別の何かの問題であることだけは感じていた。
兼一は確執を図式化出来たら、人間の幻想の出来上がり過程を数式に仕上げられるのではないか?さぞかし複雑で、難解であろうけれども美しい絵柄が描けるのではないか、そしてその数式は人類が滅んだ後も発生するかもしれない知的生命体によって、理由も無く封印されるのかも知れない。そのパンドラの箱には『確執の捻れ』などと書いてあるのではないか。もちろん今の人類には読み解けない原語で。そんなことまで考えが及んでいた。まさに『フリーズ』というのは、思念が計算式だらけの自分の仕事上のストレスの作り出す避難所のようなものなのだ。
優香と詩織は『お父さん、また、固まってるよ。』などと小さく言い合いながら、そのことには深入りせずにテレビの芸人の話を始めていた。話を迂回するように一寸だけ顔を上げ、優香は理性的なその目をさらに理性を輝かせるように、
「小賢しい知性が見え隠れするのは駄目だよ。技とらしく映画の監督をしてみせたり、多分自分の立ち位置を解っていて、意識的にやってるんだよ。気持ち悪いのよ。」
詩織も同調するように、彼女らしい小さ目の低い掠れた声で、
「そうよね。知性って、見えないように努力しなきゃ駄目なのよね。妙に技とらしかったら、それをそのまま出すのは芸人じゃないかもしれない。何て言うか、知性は隠しても自然に溢れ出ないと、知ったか振りに見えちゃうのよね。」
テレビの『ダメよ、ダメダメ』というのを批判しながら、それでも可笑しくて笑っているようだった。
兼一はフリーズしている場所から戻ってきた。妙な感じが伝染したように周りを一瞬だけ凍らせていた。兼一が口を開くと折角の団らんが壊れるようで、優香と詩織と今日子はすぐに身構えた。まるで兵士の臨戦態勢とでも言いたくなるように。
「青森のお姉さんは大変だね。内職もそんなにお金にならんのだろ?何時までも苦労が絶えないね。」
安心を誘うような優しい声だった。
今日子は兼一の優しさが愛おしくなる瞬間の自分を見逃さないように、
「姉さんは、旦那さんに何かをしてあげるのはちっとも苦労に思ってないのよ。内職の編み込みの仕事だって手が曲がるぐらいに頑張っているし、買い物だって重い荷物を自転車に積んで二キロも往復しているのよ。交通量の多い場所だから危なくて仕方がないそうよ。そんなことより、問題は旦那さんが叱ることなのよ。誰だって訳も解らず叱られたら面白くないでしょ。私だって、いちいち下着を用意するとか、絆創膏を切るのが義務みたいに言われて、何も気が利かない奴だって叱られたら、頭にくるわよ。」
「そうだね。」
「あなただって現役の頃によく怒っていたわよね。長幼の序がどうとか。それとは一寸違うけど、自分の奥さんをデッチ奉公の弟子みたいに言うことはないと思うわ。」
「ああ、駄目だね。長幼の序って言うのは年長者を敬うことだけど、年長者には年長者で『年の功』というのが必要と言うか、あって当たり前なんだけどね。」
「ねえ、優香、詩織、どうすればいいと思う?。」
突然、今日子に話を振られた二人は顔を見合わせて、若干悪戯っ子のように囁き合い、姉の優香が代表して言った。
「『実家へ帰らせて貰います。』って、きっぱりと、やっちゃえばいいのよ。青森のおじさん、慌てて迎えに来るわよ。そうしないと生きていけないから。」
これに兼一は無残に噴出してしまったのだ。
今日子の優し過ぎるぐらいの姉がキッパリと『実家へ帰らせて貰います。』というシーンを頭の中で演劇のように組み立ててしまったのだ。それを聞かされた今日子の実家の長男の嫁の顔が即座に浮かんでしまったのだ。噴出したご飯を慌てて口へ戻そうとして、また噴出してしまっていた。
全ての策略が崩れる瞬間というものは、客観的になぞると喜劇になるのかもしれない。そんなことも連想させる雰囲気に近かったのだ。別に策略として意識しなくても、無意識の内に〈家〉を崩壊しなければ自分の〈個〉が成立しないと刷り込まれてしまったのだろうか。法律でも長男の嫁は長男が死なない限り〈家〉へは入り込めないように出来上がっているような気がしていた。
両親の面倒を看るという実質的な中身は忘れ去られているように世間は出来上がってしまっている。別に長男の嫁だから何かをしなければいけないという大正の最全盛期の日本的な因習も消えかかっているにも関わらず、意外としぶとく現在まで常識として生き残っているようだ。常識の壁はそう容易く乗り越えられるものとしては存在しないものだ。
兼一は飲み屋で司法書士の友人と大層醜い大喧嘩をしたことがある。子の平等を謳い上げ、相続の家父長制度を否定しなければ、日本の未来がやって来ないなどという風に彼が言ったからだ。
兼一は余り深くは考えてはいなかったのだが、何故か猛然と食って掛った。少しだけ酔っていたのが理由の一つだと思える。
『現実と合ってないじゃないか。日本中が都会じゃあるまいし、おめえらのやる事は観念論なんだよ。一方的な面からしか物事をみてないじゃないか。被害者根性からしかものが見えないのかよ。しかも、とんでもなくロジック・エラーを含んだ悪魔的なものだって、なんで、おもえ程の奴が気付かないんだよ。情けない。何時から魂を売って、効率だけで物事を考えるようになったんだよ。後ろ側に流れている人間模様ってのを無視してまでも、法律を創り上げていかないといけないのかよ。そんなに制度って奴が大事かよ。制度と心中してろってんだ。』
兼一の友人の司法書士は黙って聞くしかないような顔をして、何も言い返そうとしなかった。ゆっくりとグラスのビールを飲み、飲み屋の親父と『また、始まったか。』という無言の合図を交わしていた。この態度に兼一はなおさらのように怒りが込上げてきた。
『てめえ、原則論を何時から逸脱したんだよぉ。原則論は生の人間が其処に生きて生活しているってことと違うんかい。』
古くからの知り合いの飲み屋の親父は話を逸らそうと別の話題に切り替えるのに必死だったように思えた。けれどその思惑は上手くいかなかった。
その後、司法書士の友人が『素人が語ることじゃないよ。』というような事を口走ってしまい大喧嘩になったのだ。
から、くら、からとその辺りの記憶が回り込むように蘇り、身体中が暴走電子回路のようにむせ返った時に、今日子がむせている兼一の背中を摩りながら、妙に優しく、
「ねえ、あなた、私が実家へ帰るって言ったら、どうする?。」
それは兼一にとっては死の宣告のようにあっけらかんと冷たそうな言葉だった。兼一は今日子の顔を見詰め、思考停止のようになってしまっていた。
すかさず詩織が、
「辞めてよね。そんなことされたら、誰がお父さんの面倒を看るのよ。私はご免だからね。ねっ、お姉ちゃん。」
優香は理性的な性格らしく、
「大丈夫よ。お母さんはそういう事しないわよ。それにお父さんは何時も『高田渡』の生活の柄って世界観が好きだって言ってるじゃない。放って置けばダンボールの壁に遺書が書いてあるわよ。お母さん、子供達、有難う、って、汚い字で、ね。」
それは正確な現状分析のようで、常日頃からあまり世界観の話など口にするものではないと言わんばかりだった。すると、突然詩織が口を開いた。
「高齢化社会で女性が輝かなきゃいけないんだから、男性の社会と女性の社会を分断してしまえばいいのよ。そしたら都合が良く経済が廻るような気がするのよ。男性の方が沢山年金を貰ってるんだから、面倒を看て貰った分を金銭に置き換えて支払えばいいんじゃないの。」
兼一は負け犬の遠吠えのように口を尖らせ、若干もどもどして言った。
「そんなことしたら、男性の社会は一週間で壊れてしまうよ。そもそも社会ってのは分明の進化で男と女が混ざっているから成り立っているんだよ。アマゾネス社会は男性を全て焼き殺したんだって、何かに書いてあったよ。」
今日子がすかさず、
「一週間?生きられると思う?そうね、三日で駄目かも知れないよ。生き残れる人はきっと、お父さんのように『男子厨房へなんとか』って言い張る人とは違うと思うわ。」
兼一はまた、ご飯を噴出してしまった。
詩織は笑いながら、
「きったない。何を噴出しているのよ。お母さんが大変なんだから。自分で始末してよね。ったく。」
優香は横目で、『またかよ。』という顔をして、舌打ちしていた。黙って雑巾でそこら辺りを拭き出していた。
兼一は慌ててその場の修復作業に掛からなければならなかった。そうしなければ立場が悪くなる一方のような気がした。
「まあ、なんだ、とにかく女性がいなければ政治家も仕事は出来ないだろうな。」
優香は割りと冷静な言葉で、
「お父さんは大丈夫よ。『お母さん・命』みたいな面を持ってるから。何が大丈夫か解ったものじゃないけどね。」
今日子は薄笑いを堪えながら困ったような表情を隠さずに言った。
「優香、冷静に過ぎると嫌われるわよ。」
優香のスマホが通話の受信メロディのミスチルの曲を流しだした。優香は小さい時から自分で単独で生きているような感じで、なんでも出来る子に親からは見えていた。優香は性格的に他人から無前提に信頼を得ているらしかった。で、短く『また、相談かよ。』などと言いながら自室へ行ってしまった。詩織は何時ものように食器を流し台に仕舞いこみ、自分の時間がやって来ました、と言わんばかりにさっさと自室へ退去していった。まるで、二人とも場の力学を心得ているように幕を引く技術を自然と身に着けてしまっているようだった。
「明日、俺の携帯を使っても、休みだから大丈夫みたいだよ。お姉さんと同じ会社の契約だろ?お姉さんのところの台所事情も大変そうだから電話してあげなよ。電話代も馬鹿にならないぜ。おまえに愚痴るだけで、救われる気分になれるのなら、それはいいことだよ。」
「聞く私の身にもなってよね。」
と少し長めの抑揚のある調子で言いながら台所の食器を洗い出した。なんだか兼一は滅多にしないのだが、その場の雰囲気が自然と食器を拭く作業に向かわせた。
今日子はほんの一寸だけ嬉しそうな顔をしていたが、余りにも珍しい行為なので困ったように。
「あなた。何してるのよ。あなたが拭いたら、後でもう一回洗わなければならなくなるような状態になるわよ。あなたの不器用な手でお皿でも割られたら、後始末がたいへん困るのよ。『邪魔をしなければ一人前』だって、私のお父さんも言ってたでしょ。テレビでも観ていてよ。後で優香か詩織が手伝ってくれるから、そのままにして置いてよ。」
「そんなに言わなくても…………。」
兼一はおずおずと引き下がることにした。テレビでは相変わらず経費節約と思われるお笑い芸人の馬鹿騒ぎを流していた。かといって肩が凝りそうな教育番組も観る気力も完全に無く、野球を観るのも自分の好きなチームが早々と敗退して気分が悪かったし、原作者の意図が観えてしまう刑事ドラマもなんだか調子が狂いそうで、チャンネルを次々と替えていった。
今日子は振り返り、
「あっ、そのチャンネルにしてよ。それ、観たかったんだけど…………。聞きながら洗い物をしていても、観なくて大丈夫だから。聞くだけでいいから。」
テレビはNHKの番組で、やたらと最近増えてきた高齢者の健康法の内容だった。誰でも死ぬまで健康で、死ぬ瞬間に〈パタ〉っと死んで逝きたいと願う。誰にも迷惑を掛けたくないと思うのは当然のようだが、健康法の番組も度が過ぎると嫌味になるような気が兼一はしていた。自分の年齢を繰り返し宣言されているようでそう感じていた。『さっさと早く死んでしまえ。』と言われ続けているような気がしたのだ。回遊魚のように人間も人間との間で、無限に運動を繰り返さないと息切れしてしまう、そういう風に考えられたのだ。当たり前の事のようだが、他人から言われると腹が立つことがあることも事実だろう。ようするに『動いて、平均的に喰って、有害なものは吸わず、早く寝ろ。』そう命令されているようで、気分の良いものでないことは確かだ。奴隷に対する命令としてではなく、優しい言葉で笑いながら言われると反抗心が沸いてしまう性格もこの世にはあるのだ。兼一はそれに近かった。
兼一はテレビから離れてパソコンのスイッチを押していた。今日子は後ろ目線で、
「また、ネット?余計なこと書き込まないでね。あなたの書き込みは他人を不愉快にするだけで、暗いんだから、辞めた方がいいのよ。くれぐれも我が家の事情なんて書き込まないでよ。お願いよ。」
「ああ、解ってるさ。俺は専門家だぜ。嘘八百のネットなんか初めから信用していないし、お茶羅家しか書き込まないさ。」
学生時代の知り合いのブログを一通り見て廻った。相変わらずの反応が其処に読み取れたりして、結構楽しみながら読んでいた。
学生時代の短い間の時間の大切さは、かなり歳を取らないと身にはならないのだろうか、自分では理解出来なかった。とくに『吉本隆明』と出会ってしまった友人のブログは生活観を表しながら、主張したいことを語っている気がして、不遜なのかもしれないが、読み取る楽しみがあるのだった。
意外とブログで物を書くのにエネルギーが必要らしく、兼一と同年代の人々のブログは少なかった。無理もないのかも知れない、インターネットの普及が余りにも早くて、本という紙の媒体で自分の思想みたいなものを作り上げた人達には『付いていけない』という感覚が強いのかも知れない。それは工学系でも同じようで、論文とかメールはそれなりに使いこなせるが、表現としてのブログは苦手のようだった。
ツィッターやフェースブックも、他人のそれを見ることが出来ないので登録するだけで、自ら発信することは余りなく、誰かが発信するのをひたすら持っている状態のようだった。
何も言わない団塊の世代を卑怯だと若者は思うのかもしれないが、スキルというか基本と言うか、が、無いのだから仕方が無いと諦めた方がすっきりするのだ。彼らから何かを聞きだすには〈会話〉しか方法が無く、これがまた何時の時代でも若者は年長者と会話が上手ではないのだ。様々なヒントが其処にあるのに手に入れることが出来ない歯がゆさは、昔も今も同じだから安心して置いた方が効率的だと諦めた方が利巧そうだ。
兼一はスラッシュ・ドットの書き込みが割りと好きで、年長者らしいことを書き込んだりしていた。若者のデジタルの現場の様子が伺える気がしていた。顕かなロジック・エラーには丁寧な書き込みをしたが、反応はあまり素敵ではなかった。
兼一はアメリカのサーバーにあった技術が知りたくてブログを始めた。兼一の少ない顧客の一社に何があったのか兼一は知らないのだが、どうしてもホーム・ページの更新をお願いしたいと頼んで来たからだった。以前にその会社の多国語のページ作成にユニコードを駆使して作り上げた経緯があったからかもしれない。兼一にはその会社の内部事情など知る機会もなかった。自分のブログの運営方法が徐々に一般に拡がって行くのが楽しくもあった。CSSというもので、見た目を全てのページに渡って統一して変えられるものだった。HTMLの次のバージョンの日本語の扱いにも興味があり、割と自然体で始めていた。
デジカメで、今日の〈おかず〉を撮り、作り方や味の行方を書き続けていた。失敗を含めて面白おかしく書いている姿に、旧友から励ましというか、野次というか、色々なメールが飛んできていた。
兼一は自分で料理をすることなど皆無なのにそんなブログを日々更新していた。料理を作るのは今日子で、兼一は味見をするだけだった。まあ、そういう経緯もあり、今日子のことを『女房殿』と『殿』付きで、馬鹿丁寧に書いていたのだ。
パソコンに向かって今日の料理の写真をフォットショップで加工していると、後ろから今日子が覗き込みながら兼一の耳元で囁くようにこそばゆく言った。
「今日ねえ、向井電子の川上さんが来ていたのよ。貴方が珍しく外出してるから、神様が授け物を授けてくれたのよ。アポを取らずに来てしまって、玄関先で失礼しますって帰ったわ。オムレットを持ってきてくれたのよ。食べる?」
振り向きながら兼一は一寸大きめの声で、
「オムレット!早く食べないと溶けるんじゃなかったっけ?」
今日子は兼一の言っていることがなんだか楽しくなった。
「オムレットは溶けないわよ。馬鹿ねえ。大学病院の前のケーキ屋さんのだから、美味しいわよ。珈琲でも煎れましょうか?」
「川上さんって、何時までも律儀なんだなあ。ほんの二年ぐらいシステムの相談に乗ってあげただけなんだけどな。むしろ、俺の方が何かをしてあげなきゃいかんのだろうけどな。」
今日子は兼一のお人好しの側面を空かさず指摘するように、
「あなたは何でも無料でしてあげるからいけないのよ。いくら一人親方でもきちんと料金を請求しないからいけないのよ。きちんと請求しないから相手も何時までも恩義みたいなものを感じて、蟻地獄みたいにあなたに吸い込まれ続けるのよ。」
「蟻地獄はひどいなあ…………。一寸言い過ぎの気がするよ。でもね、余りにも進化に追い付かなくちゃならないので、若い技術屋さんは基礎的なロジック・エラーに気が付かないことが多いんだよ。それで、未だに電話して来るんだ。」
今日子は珈琲を煎れながらなおも兼一をなじるように言った。
「それでも、向井電子の方はあなたがものを頼むと、会社からは一時間二万円って、請求書が来ていたのをどう説明するの?。」
「まあ、いいじゃないか、川上さんだって定年してしまったし。済んだ事だし、それより律儀さの方が今の我が家は助かるんじゃないか。珈琲まだぁ?」
今日子はお人好し過ぎる兼一に言っても仕方が無いことだと諦め気味に肩を落とす仕草を大袈裟にしてみせ、溜息をこれ見よがしに吐いていた。
「ブログに頭を使ったら、貴方だったら頭が禿げるわよ。あなたが真剣にブログを書いたら碌な事はないわ。内田樹先生のように、あなたはインテリじゃないんだから、テキトーに済ませなさいよ。この間みたいに人参の鱈子和えで、人参の産地の土壌成分までデーターで表組みしたって、誰が理解出来るのよ。誰も見ていないわよ。他人って、自分の役に立つ情報を自分で勝手に拾い上げるだけだって、あなた自身が自分で言ってたじゃないの。本当にいい加減にしなさいよ。すぐに珈琲入るからね。」
兼一は向井電子の印刷機の二枚差し防止装置のシーケンスや、大きな工場の始業時の電源点火シーケンスを下請けで書いていた。川上はその担当で、別の会社の仕事を兼一が請けた時にハードウェアの仕入れに協力してくれたり、兼一の不得意分野のセンサー部の3D画像開発に向井電子の若手を廻してくれたりしていた。
川上が定年した後、向井電子との関係は当然のように無くなっていた。多くの下請けの命運なのかもしれないが、次世代を担おうとする次の世代は定年を玩具にしているように少しだけ兼一は思えていた。関係を次世代と構築出来ない自分が腹立たしかったりもした。定年延長を叫ばれても、『飼い殺し』の範疇では上手に回るかも知れないが、回すというだけで実際はそうなのだろうか、兼一には解らなかった。会社へ勤めた経験が乏しく、生涯現役と嘯いてきた兼一には到底理解し難い何かがあるように思えていた。
珈琲が入り、芳ばしい香りが辺りに立ち込め、今日子が優香と詩織を呼んだ。
優香が、
「うわぁー、オムレットだ。川上さんでしょ。何時も在り難いね。引き篭もりのお父さんに良く気遣ってくれるのね。」
詩織も嬉しそうな笑みを浮かべ。
「これだけあったら、切り分けてみみっちく食べなくていいよね。」
最高級の香りが二重に部屋を席巻し、それだけで幸せを感じていた。兼一が生クリームを口の周りにつけながら、
「そう言えば、川上さんちも長男だったよね。なんか結婚の時、大変だったんだって。おまえ何か聞いているか?」
今日子は川上家の話を少しだけ聞いて知っていた。
「なんでも、息子さんが好きになった人が父一人、子一人の家で、親御さんがどうにかなった時に誰が面倒を看るのかで、揉めたらしいわよ。」
「なんだか、俺の聞いた話では結納や結婚式で五百万円ぐらい退職金で使ったらしいけど、一方的に出したのかな?」
「そうらしいわよ。お相手の家には何もなくて、お相手のお父さんが自分の事は構わないからって、しか言えなくて、結局川上さんの家が全部負担したんだって。川上さんの奥さんもきつい人だけど、なんとか納得させたって、川上さんが言ってたわよ。」
「そうか…………あの奥さんが納得したのか。大変だね。」
詩織が静かな性格のそのままにオムレットを飲み込み終え、珈琲を啜りながら、
「今日はなんだか長男の嫁の話ばかりね。」
優香も、
「なんだか、ヤだなあ、自分が早く嫁に行けって言われてるみたいで…………。」
「そうだよね、まるで家に居るのが悪いみたいに聞こえてくるよねぇ。」
と詩織も続けた。
また、兼一は噴出しそうになっていた。この子らがそう思うとは考えたことが殆どなかった。噴出すと今度は生クリームが飛び散り無限地獄絵のようになるような気がして、早速話を違う方向に誘導しようと考えた。
「でもね、余り女性に無理無体を言う青森のおじさんみたいな男性は、男性の眼からみてもどうかと思うけどね。優しい側面もあるのにね。」
優香が難しい顔をして、オムレットの美味しさに誤魔化されでもしているかのように、
「日本って、どうしてこんなに男性的な社会が何時までも続いているのかしらね。仕事でも最後には上司を連れて来いって、上司の女性を連れて行くと、この人じゃ駄目だってなるのよね。」
詩織も同意しながら、
「なんだか女性と男性の役割分担が効率的に出来る訳が無いのよ。コンピュータの弾き出した結論か何かは知らないけれど、効率的に割り切れるんだったら、人類はとっくに新しい世界を作り出しているわ。」
『新しい世界』そんなものが在り得るのか、どうか、兼一には解らなかった。概念を組み立ててイメージを組み立てることすらも出来なかった。ただ、二人の娘の将来に大きな疑問が頭を掠め、自分でも理解出来ない『新しい世界』へ自分が踏み込んだような気になっていた。
長男の嫁になるのは、長男の長女に限られるのかも知れない、そんな馬鹿なことも考えていた。まるでそれが真理であるように、下らないとも思わないこともない状態に陥ってしまっていた。場の居心地の悪さは加速度的に膨らんでしまって、取り返しが付かないように思われた。
「でもね、好きになったら仕方がないかもしれないわ。」
今日子の言葉に一気に救われた気分になった自分を兼一は感じていた。
そうだ、個人が他人を好きになってしまえば、全てはどうでも良いことなのだ、という風に思えた。なんだか自分の真横に座っていると感じていた『薫子かあさん』が一寸だけ心配そうな顔をしたのを感じていた。それを兼一は一度に時代のなせる業だと信じようとしていた。信じなければ立つ瀬がないように思われた。
そうなのだ、信じ続ければ真実になるのだ。例えそれが時代の制約の中であっても、『薫子かあさん』の時代も、その前の時代も同じではないか。全ては時間の流れと共に真実になるのだ。嘘でも。そう思えるようになってしまっていた。
詩織が家族の空気を柔らかく流すように、
「とにかく、青森のおじさんにはお父さんから何か言ってあげてよ。」
優香も少しずる賢目の顔をして、
「そうよ、そうなのよ。青森のおばさんよりも、おじさんにお父さんが何か言ってあげればいいと思うよ。」
言葉に兼一は自分の態勢を保つことが不可能なように少しよろけてみせた。
今日子が続けて、
「何を言ってるのよ。お父さんが『なま・板の鯉』になってるじゃない。お父さんを苛めたら駄目だよ。」
優香がゲラゲラ笑い出した。
「お母さん。『なま』じゃなくて、『まな』でしょ?ま・な・い・た。」
『ははははははははははははは。』という笑い声が居間に拡がっていた。今日子の言い間違いは、時として一家を救うものになり得たのだ。
詩織が突然思い出したように口を開いた。
「ところで、神奈川の幸子おばさんはどうしてるのかな?元気なの?お母さん。」
「幸子のこと、思い出してくれたの?ありがとうね。この前の電話では、旦那さんが嘱託扱いとかだけど、お給料は前と余り変わらなくて良かった、って、言ってたけど。」
優香が空かさず、
「うん。一部上場の製菓会社って、結構待遇がいいらしいよ。」
優香は企業のコンサルタント会社の社員で、様々な会社の事情に詳しかった。兼一は自分の知り得る最大の情報で、対抗するように言った。
「そうなんだよな。昔はお菓子屋さんて、誰も見向きもしなかったけど、ブランド化に成功したら世界が相手で、儲かっているんだよなあ。」
優香も詩織も兼一の語りに乗ってしまうと話が際限なくなるのを良く心得ていた。詩織は小さな声で、兼一の話を遮るように、
「幸子おばさんの旦那さんは確か三男だったよね。」
すると今日子がまた聞き間違いをし、
「さいなん?何か事件でもあったの?どうして、あなたが知ってるの?」
優香は気付いていた。詩織も気付いて、
「『さいなん』じゃなくて、さ・ん・な・んって言ったのよ。お母さんの聞き間違いも、言い間違いも、プロだね。」
小さく笑ったのに釣られて優香も笑っていた。兼一は気を取り直した燕尾服を着た皇帝ペンギンのように背筋を伸ばして、
「話の筋から言ったら、『さんなん』だろう…………。」
今日子はケラケラ笑いながら自分の聞き間違いをすっかり忘れたように続けた。
「幸子は色々な目に遭ったけど、幸せなのかも知れない。」
兼一も今日子に追随するように、
「温泉巡りの趣味は続けられてるのかな?給料が変わらなかったら羨ましい限りだね。」
「続けているみたいよ。あの子も色々大変だったからきっと神様からの贈り物なのよ。旦那さんも少し糖尿みたいだけど、その方が深酒したり、煙草辞めたりで良かったんじゃないかなあ。ところで、詩織はどうして急に幸子おばさんのこと気になったのかな?」
「なんだか知らないけど、おばあちゃんが気にしなさいって、言ってるように思ったのよ。お父さんへの結構な嫌味なんだけど?解るかな?。」
優香は詩織の言葉が無限に気に入ったらしく、笑いを堪えるのに口を抑えながら俯いていた。
「おまえらはなあ、どうしてそんなに皮肉っぽくなったのかなあ…………。」
空かさず優香がお決まりのように言った。
「それは、お父さん達の教育のせいでしょ。私達姉妹は被害者かもしれないよ。」
兼一には返す言葉は何処にも無かった。他愛も無い会話の全てが優しいと感じる歳を取ったのだ。ただ、『薫子かあさん』が悲しそうな顔をしているように感じていた。
次の日の午後、インターフォンの音が突然鳴り響いた。玄関のドアを開くと今日子の実家の兄嫁が立っていた。
「近くに用事があったから寄ったのよ。これ『薫子かあさん』の着物で作ったセカンドバックなの、良かったら使って。」
と言うのである。
応対に出た兼一は口から『薫子かあさん』という言い方は変だと出そうになったが、出なかった。
何だか、訳も解らないのに理解出来るように思った。
完
2018年11月10日 発行 初版
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