『楽しくつづるエッセイ教室』受講生随時募集中!
だれの人生にもドラマがあります。
でも自分の一生を描こうと思うと、果たして最後まで描けるものかどうか不安になったり、
描く前から重苦しく感じたりします。
このエッセイ教室では、テレビドラマや映画のシナリオの基礎技術をヒントに、気負わないで楽しく、少しずつ、人生のひとこまひとこまをつづっていただきます。
ひとこまひとこまの積み重ねがその人の歴史です。
気負わず、楽しく、人生のひとこまをつづってみましょう。
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いつかは行こうと思っていた町がある。
日々の忙しさにも感け、ずっと先伸ばしていたが、今日行こうと思い立った。
両親が亡くなり家を処分し40年近く訪れていない私が育った町だ。遠く懐かしく切ない気持ちが漂う町である。
早朝から電車を3つ乗り継ぎ、やっと目的の駅に降り立った。ホームに立つと急に肌寒く今にも雨がこぼれそうである。
私の気持ちも萎えてきた。とりあえず実家のある方角を目指す。遠くに謎めいた落とし物のようにタワーマンションらしきが、つき刺さっている。周りを見渡すも、異次元の町のように思えてきた。
しばらく歩き、ようやく昔、商店が立ち並んでいた通りに巡り合った。もちろん商店は消え、今風な四角い家が行儀良くチンと並んでいる。ここは昔、駄菓子屋、魚屋、八百屋、味噌屋、乾物屋があった。向えには花屋があった。花屋の角を下った路地先に我が家があるはずだった。
しかし路地はプツンと消え、駐車場になり番地も変わっている。記憶の町は、根こそぎ何もかも一掃され、煙のごとくかき消えていた。その時だった。
見覚えある一軒の表札に目が留まった。
このあたりだ、間違いなくここ辺りに家があった。そこには、終日誰かしらの姦しい声が響いており懐かしい人々がいた。
振り返ると道に、お絵かきしている女の子がいた。山吹色のカーデガンの袖先とポケットには同じ花が並んで刺繍されている。おかっぱ頭のその子に見覚えがある。叱られたのか背中が寂しそうだ。「大丈夫ですよ」と、そっとつぶやいた。
あなたは、これから多くの人と出会います。そして揺れながら強く逞しく生きて行きます。そう、この町以上に変わるのは私だった。
我が家の料理は簡単に短時間で仕上がる。レシピも見ず、味付けもパッとで上手く完成。私の料理はちょっとイケてる。自信がある。
味の秘訣はお店の色々な味を知っているからだ。家族も笑顔で食事し、お酒も進む。私の料理自慢は母のおかげと今も感謝している。
料理を作ることが好きな私はある時期、様々なシェフに様々な料理を習っていた。朝からパンやケーキを焼き、一日中キッチンに立ち、次から次へと病気のように作ってしまい家族に呆れられたりする。もうどうにもとまらない状態だ。これは母に似ている。
まだ私が子供の頃、母は家族の為に、腕を振るっておシャレで美味しい料理を作った。
私は母の料理を食べるのが大好きだった。
母はオリジナル料理を作り出しては、「どう?美味しい?」と小さな私に意見を求めた。
勿論、美味しいに決まっている。母は私の笑顔を見ると安心するのだ。
しかし、失敗もあった。中華料理のお芋の飴炊きは三回に一回の割合で焦がして失敗する。
そんな時は少し悲しそうな顔になるが、すぐ気を取り直し「まあ、プロじゃないからね」と笑って忘れてしまうという便利な性格だ。
母とはよく外食もした。怪しげなお店でもホテルのディナーでも「入ってみようか?」と気軽に食事をした。
相棒は小さな私。仲良しの二人だ。
大人になってからの私は新しくできたお店や気になるお店は一人で探検するのが好きだ。
ドアを開けて、店内の空気で、美味しいか、心地の良い空間かをすぐにキャッチできる。
自然に身についた母との歴史の技なのだ。
母は90近くになるがとても行動的だ。思い立ったが吉日でデパートでもレストランでも可愛くオシャレしてホイホイ出掛けてしまう。
今日も一人キッチンに立っていると
「お料理上手の秘訣!仕上げには魔法のスパイスをひとふり、忘れずにね」
優しい母の声が聞こえてくる。
子供の頃、私はニュータウンに住んでいた。町には近年見かけない、野良犬がけっこういた。私は小学校からの下校途中、給食のパンを残しては一人、野良犬にやっていた。
ある日の下校途中、白と茶のぶち模様の子犬を見つけた。耳が垂れたその子犬は、親犬とはぐれたのか、ぽつんと道端にうずくまっていた。ほってはおけないがうちは団地住まい。飼えない。前にも野良犬を連れて帰って叱られた。仕方がない。私は子犬を飼ってくれそうな家を探すことにした。
団地の近くには、庭付きの戸建てが並んでいて、私は戸建ての家々を塀の外から覗き、犬を飼ってくれそうな家を審査して歩いた。審査基準は『おうちの人が優しそう』これ一点だった。そして見つけた。芝生がきれいな庭で、花の手入れをしている優しそうなおばちゃんのいるおうちを。私は子犬を門の前に置き、インターホンを一回だけ鳴らし、猛ダッシュで逃げた。これは飼い主を探したというより、ただ子犬を置き去りにしただけだが、小学一年生の私が出せた勇気はここまでだった。私は置き去り事件について誰にも言わず、子犬が無事に飼われているか見に行く度胸もなかった。
犯行から数日たったある日、母と近所の市場で買い物中、
「お嬢ちゃん、わんちゃんを連れてきてくれたでしょう」と声を掛けられた。
声の主は、子犬を置き去りにした家のおばちゃんだった。私はおばちゃんに目撃されていたのだ。私は叱られると覚悟した。けれどおばちゃんは、
「ありがとう」と言った。子犬はコロンと名付けられ、優しいおばちゃんちの家族になっていた。
その後、時折、コロンのおばちゃんと市場で出会った。おばちゃんは会う度にコロンの近況と、家族みんながいかにコロンのことが好きかを話し、コロンを連れてきてくれてありがとうと毎回言ってくれた。
数年後、私の家は引越し、市場は閉鎖され、今、跡形はない。コロンはもう、生きてないだろう。おばちゃんとご家族はどうしているだろう。コロンとおばちゃんに出会ったあの町がどこかに残ってないだろうか。
私の勤務していた日本企業の英国人の社員ディックさんは50代のスリムで素敵な紳士である。女性と会話する前にはリステリンで口をすすいで来る。スーツの着こなしはもちろん、冬の紺のコートにレモンイエローのマフラーなどハッとする色遣いのうまさ。仕事には厳しいが、彼の秘書の女性とも親しかった私は、楽しくワインの会など催してよく一緒に遊んだ。営業部のフロアには100人位の机が並び、その最も端っこに私達が「外人部隊」とよんでいた4人の席があった。ディック、日本人秘書、クリス、ウォルターパーマー2世である。ディックは日本人と結婚し、六甲在住。このたび、20代のウォルターパーマー2世がやはり日本人女性と結婚することになり、ディックは生まれて初めて「仲人さん」をすることになった。私の席にとんで来て嬉しそうに報告してくれた。「ついては、ワタクシ、今、勉強中ですが、正統派の日本式でやりたいので、教えてくださいね!!」
「ディック、とっても信用しているみたい。何でも聞きに来ると思いますよ……」と秘書。嬉しくもあるが……私は鼻をピクピク……。
毎日、質問に来る彼。「ディックさん、当日の服装は?」「ワタクシ、やはり正式に和服です!!」「えっ、和服!? タキシードがとってもお似合いなのに……?」「イーエ、ハオリハカマです!!」「そ、そうですか。お宅まで訪問を?」「トーゼンです!!」秘書が近づいて来て言う。「地方にお住まいのご家族、びっくりされますよねぇ。ただでさえ目立つ風貌、国際結婚、しかも、ガイジンが結納品ささげてハオリハカマでやって来るんですよぉ」
いよいよ明日は晴れの結納の日。最終確認にやって来た彼に私は伝えた。「絶対にお玄関では無言です。それと和服でしたら、やはりまっ白のハチ巻をまく方がより丁寧です……」
週明け、恙なく終了した旨、お礼に来てくれた。「で、ディックさん、ハチ巻は?」「しめてませんっ!!」日英交流に溝をつくったかも。
夏休みに同じような顔ぶれが集って、インドネシアの島々を巡る旅が二十年以上続いている。冷房などない小さな島の飲食店で、汗をかきかき、地元ビールを飲み放題、熱々の料理に舌鼓を打つ、というツアーだ。北九州から参加しているグループが俳誌を発行していて、ある夜、たまたま近くの席にいた関西勢と意気投合した、のかどうか、翌朝、「ようこそ!」とメモが張られた小袋のお菓子が配られて、関西に住む六人ほどが、俳誌の仲間になっていた。
歳時記を買い、句作についての本をちょろちょろっと読み、四苦八苦の俄俳人となった。仕事を辞めた今では旅に参加することはなくなったが、メールのやり取りで俳誌への投句は続けている。もう七、八年になるだろうか。
同人になってすぐに、俳号を決めるよう、言われた。どうやってつけるんだろう? ネットを覗くと、女優の岸田今日子さんはいつも眠っているから俳号が「眠女」、という記事を見つけた。そうなると、毎晩酔いつぶれている私は差し詰め「酔女」? 俳誌の世話をしていてお菓子を配ってくれたY夫人に相談すると、「ぴったり」と言われた。
そしてY夫人から、毛筆で宛名書きされた封書が届き、俳誌が送られてくるようになった。おお! 俳人というものは優雅に筆で字を書くんだあ、と感動した。習字、というのは長年の夢だったが、定年を機にようやく重い腰を上げた。とにかく行動を、というので、知り合いの知り合いの、というようなあるかないかのつてで、先生のことはよく知らないまま教室に通い始めた。漢字の楷書、草書と進んだが、先生のお手本通りに書くのが精一杯で、毛筆での宛名書きなど、果たしてできるようになるのだろうか?
定年から三年は嘱託として働いたが、毎日が日曜になると、俳句教室に通い始めた。地元情報誌の募集を見て、習字同様、先生がどのような句を作られるか知りもせず申し込んだ。初日先生から、坪内捻典さんを師とし、前衛俳句、俳号なし、と自己紹介を受けた。先生も含め年配の女性が八人ほど、私ともう一人が新参者、という教室だった。前衛を自称するだけあって、席題、宿題に出されるお題には「なに? それ?」というようなものがある。「アルミホイル」「スタイル」「ぽくりぽくり」「無」「泡」等々。時には、空想の世界に入り込んで句作をしなければ間に合わず、近況報告ともいえる句が並ぶ旅仲間の俳誌には、投句できそうもない。月二回の宿題と月一回の投句、締め切りが近づくと、古びた雑巾を絞るがごとく、駄句をひねっている。
土台、十七文字で言い表すことが無理、ならば、ということでエッセイ教室に通うことにした。口下手な私は、せめて文章では自分のニュアンスを正確に伝えたい、と、推敲に推敲を重ね、時を忘れる。メールの一文にもうんうんとうなっているが、エッセイ教室では課題を四百字で書かなければならない。一年経って八百字にグレードアップしたが、教室からの帰り道、宿題に出された課題が頭を占め、さて、どうしたものか、と、途方に暮れる。
身の丈に合わないことにうつつを抜かす老後だが、寄り道する余裕もなく過ごしてしまった人生が本名なら、俳号を名乗って横道に逸れるのも、面白いかもしれない。
「えー! うそぉー、ほんま?」封筒を開けたとたん思わず口から飛び出した言葉。京都マラソン当選の知らせだ。エントリー抽選倍率5倍以上という人気のあるマラソン大会。まさか1回目で当たるとは思わなかった。うれしいというより、なぜかショックを受けている私。でも、「何回も落選している人もいるんや。こんなこと言うてたら罰が当たる。がんばらな!」と自分に喝を入れた。
早期退職を機に始めた朝ジョギング。初めは、ダイエットと認知症予防のためだった。運動会ではいつもビリ。走ることなんて全く私の世界にはなかったから。それなのに、ちょっとしたきっかけで3キロから始めたエントリー。完走する度に「私でもできた!」と自信がつき、どんどん距離が伸びていった。そしてついに、フルマラソンも完走してしまった。一番驚いているのは誰よりも私だ。
京都マラソンのコースは坂が多い。師匠のラン友おじいちゃんは言う。「坂道トレーニングを毎日やれ」と。「それは、無理です。週1回だけします」と宣言してしまった。いつも平坦な道を走っている私には恐怖の坂道。でも、やるしかない。私は、坂道トレーニングを開始した。ところが思ったより大丈夫だった。「ほらな、何でもやってみな分からんやろ」と心の声が聞こえた。
改めてコースをまじまじと見てみた。私が以前勤めた小学校の校区を3つも通る。そして終盤は生まれ育った実家の近辺。中学校へ通った道。夕暮れ時まで遊んだ鴨川の土手。走りながら思い出が浮かんでくるだろうな。ご縁に導かれて走る思い出マラソンになりそう。なんだかワクワク、楽しみになってきた。けれども、42・195キロは、やはり過酷な戦いだ。余裕を持って、楽しんで走れるように、早朝ジョギングと週1回の坂道トレーニングは続けなければ。「継続は力」「走った距離は裏切らない」を信じてがんばろうと思っている。
「おい、聞こえるかあ?」
年は七十過ぎのおじいさんが、ケータイの前で叫んでいる。
朝の淀屋橋。用事がてらに寄った駅近くの喫茶店でのこと。
コーヒーを買って席に向うと、お客さんはそこそこいるのに、店中がシーンとしている。
そのおじいさん一人を除いて――。
大都会大阪を知らない去年の私は、思った。
(昔からの大阪の人ってこんな感じなのかな。元気いっぱいだね。今のビジネスマンは、お茶するところでも物音ひとつ立てない……)
大声での携帯電話はマナー違反? でもまあ、お年寄りだし、とおおらかに構えていた。
「おい、聞こえるかあ?」
おじいさんは何べんも言う。電話の相手の耳が悪いのか? それともおじいさんが聞き取れないのか?
「ほんでな、知りたいのはな、住所と電話番号と……」
この人は、迷子にでもなったのだろうか?
ところが、聞き耳を立てているうちに、話の雲行きがだんだん怪しくなって、やっと自分が相当なお人よしなのだとわかった。
「あとな、保険証の番号とな、銀行の口座番号とな、カードの暗証番号と、血液型や!」
どうやっ! もう、バナナの叩き売りかと思うほどの威勢だ。こ、これって、まさか!
「おい、聞こえるかあ? おい、おーい!」
相手は電話を切ったらしい。詐欺案件は未遂に終わった。おじいさんはがっくり肩を落とし、今度は誰にも聞こえない小さな声で、ボスと思われる人物に報告電話している。
まるで新喜劇だ! このわかりやす過ぎる展開に、鼓動が激しく高鳴った。もしかしたら、素人相手のドッキリカメラ? とも疑ったが、他の人は何事もなかったかのようにコーヒーをすすっている。
その後私は大阪に越して来て生活している。日々のお笑い劇場にも場慣れしつつある。
故人ですが作家の井上ひさしさんが、
「老人が一人亡くなられるというのは一つの図書館が無くなるようなものだ」
というようなことを語られました。
認知症は、年を取ってゆくとある程度は自然な事かもしれませんが、現代の日本が直面している状況は、そんなのんびりしたものではないように感じます。
地球の温暖化や地震・台風も恐ろしいけれど、脳が壊れてゆくことは、もしかしたら最も恐ろしい事ではないでしょうか?
先日、私は年配者対象のパソコン教室に参加しました。
私は機械オンチで、仕方なくやっとやっとのガラケー人間で、スマホの前にやっぱりパソコン出来ないと時代に取り残されるという気持ちで教室をのぞくことにしました。
「やはり、年配者はWクリックからかな?」
と思っていたら、甘かったようでした。
確かに少しわかりにくい場所ではありましたが、まず参加者が教室にたどり着くまで皆でビデオで説明をききながら待つことからでした。
そして指導者がインターネットで脳トレや指操作を指導すると、参加者の中に家でインターネットを使用することへの不安を述べる人が出てきます。
それで指導者は、パソコンの中に練習用のプログラムがたいがいついているので家では、そちらを使って下さい、と安心させます。
最後に、パソコン操作終了の説明の時に参加者の一人がのどかに発した、
「コンセントを抜いてはダメなのですね」
のショッキング発言にもめげず、にこやかに、
「それはダメですよォ」
とやさしく応えて下さいました。
若い頃はタイプライターをやってた様な人達なので、先生方、日本の図書館のカギを預かると思ってどうぞよろしくお願いします。
5年前のある日、私は、生きる気力を失っていた。長時間勤務に疲弊し、仕事を辞めたところだった。病院給食の調理は、食事を作り、またすぐに次の食事作りをする、エンドレスな仕事だ。作るのに2時間、食べるのは一瞬。大切な仕事だとは思うが、日に日に虚しくなっていった。
仕事を辞め、楽になったと同時に、虚無感が押し寄せてきた。やりたいことが無かった。
そんなある日、レンタルショップで出会ったのが、「UVERworld」というアーティストのCDだった。以前から名前は知っていたが、ちゃんと曲を聴いたことが無かった。
早速聴いてみると、吸い込まれるようにハマった。以前のアルバムも全部買い集めて、毎日聴いた。その世界観は、夢や希望に溢れ、私の燃え尽きた心とは、正反対だった。特に、『いつか必ず死ぬことを忘れるな』という曲には、ハッとした。まさにその通りだった。
その年、イナズマロックフェスに行った。そこで、CDよりもさらに、生命力に溢れる彼らを、目の当たりにした。希望に満ちあふれた歌詞に、よく響く高めの声。腹に響くドラムの音と、ベースの重低音。軽やかなギターに、バンドでは珍しいサックス。
人生で初めて観たライブは、大迫力で衝撃の世界だった。「私も、もっと好きなことをやって生きたい」と思った。
それからは、興味があった「ドラム」と、前から好きだった「絵」を習い始めた。好きなことと両立できる、シフト制の書店のバイトも始めた。彼らの単独ライブにも行き、ファン友達もできた。とても楽しかった。
私は、彼らの音楽に出会えて良かったと思う。それは、乾ききった砂漠にもたらされた、恵みの雨のようだった。今でも、聴くと元気になるビタミン剤だ。この文章も、彼らの曲を聴きながら、楽しく書いている。
彼らの曲に『一滴の影響』という題名のものがある。
「UVERworld」という名の一滴は、「一度しか無い人生を楽しみ、アツく生きろ!」と、私に教えてくれた。
弟がこの世を去った。8月の末の暑い日だった。博多署から連絡があった。自宅での孤独死だった。弟は56才それなりの歳ではある。
弟が生まれた時のことをよく覚えている。母が病院から退院した時、宝物のように弟を抱いていた。子ども心に私の立場は危うくなったと感じて軽くショックを受けたものだ。
弟は私と違い、大人しく優しく素直でいい子。「あんたとは全然違う」と言うのが母の口癖だった。そんな弟に嫉妬しつつも弟が可愛いかった。私が転ぶと私より先に泣く。私が母に叱られると先に謝ってくれる。私が妊娠したとき「これは赤ちゃんの分」とご飯を二人分作ってくれた。みんなに愛されて育った弟はずっとずっと優しいままで両親を大切にしてくれると勝手に思っていた。
でもそんな弟が30歳になり険しい顔をするようになった。結婚を考えているらしい。おめでたいことなのにわが家の空気は最悪。父は激怒し母は泣いていた。弟のお嫁さんは「親戚付き合いをしない」と宣言したらしい。それなのに弟は「彼女と結婚する」と言う。まさに青天の霹靂だった。弟は逃げるように家を出た。衝撃を受けた母は認知症を発症し、徘徊とせん妄がひどく、父と私は介護に振り回され疲れ切って弟を恨んだ。
その後、月日は経ち弟夫婦は別れることになったようだ。弟が自宅で発見されたのは死亡後2日たっていた。死因は心不全で、孤独だったことが死に直結した。葬儀は親戚や職場の方、私たち家族と大勢で賑やかに見送くれたのがせめてもの救いだった。
ここ数年、弟を憎んできた。でもいつの日か笑いながら話せる日がくると信じていた。「最愛の人と結婚出来て幸せだったね」笑顔の写真を見たら納得だよ。「人生初の反抗期だったね!」と。
でも、弟の思いを受け止めることができなかった。すべてを包む優しさが私にあればと悔やまれて仕方がない。
2018年11月24日 発行 初版
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