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扉写真・デザイン 幸坂かゆり
まずは、この本を手に取って下さり、ありがとうございます。
この本を作ろうと思ったきっかけは、二〇〇六年からずっと続けていたお題提供サイトからお借りしていた「三十二のお題」が、二〇一八年にようやく完成したので、その三十二篇を一冊に纏めようと思い立ったことが始まりでした。
しかし、実際完成した三十二篇を順番に並べて読んでみると違和感がありました。それはお題に添って書いてはいるけれど全体として連なりがなく、非常にバランスが悪かったためでした。そこで何篇か外してみましたが、それでもちぐはぐな印象は拭えず、結果「三十二のお題」という、当初の目的そのものを取り払うことにしました。そして、今まで書いて来たものと、これから書いて行く作品へ繋がる架け橋のような一冊にしたい、と考えが変化していきました。
そんな訳で、ここに収録した物語は、二〇〇六年頃から二〇十八年までかけて書いてきたものの一部で、掲載順もバラバラになっていますし、当時参加していた個人サークルに寄稿したものも含まれています。結果的に六十篇ほど書いた中から収録に選んだ条件は、拙くても私が読みたくなるものでした。
ここを分岐点とし、これから書いて行くものは、記憶の小説であると同時に少しだけ趣向を変え、幸せを感じるようなものも紡いでいけたらと思います。行動の文学、追憶の文学。
物語には様々なジャンルがありますが、物語は絶対に人を救う手助けをしてくれるものだと考えています。それはもしかしたら一冊の中の一ページだけかも知れないし、さらに、たった一言だけかも知れない。けれどそれが、目にした誰かの大切な啓示になることがある。文学にはそんな力があると信じながら書いています。
それにしても、ほんの少し前までは長い文章が書けなくて悩んでいたのですが、現在は横書きでネットに載せるのが憚られるくらいの長さになってきました。多分、私の中で書きたいものが細分化していっているのではないだろうかと思っています。ただそんなことを言いながら、ここに収録したものはあくまでも掌編という短さです。まずは短篇一本書いてみろ、と言う話ですね。次回はぜひ短篇を、そして長編を書き上げたいと思います。がんばります。どうか応援してください。(祈願)
表紙は著者の家にいた愛猫、らむ子さんと言う女の子です。(現在は天国在住)彼女との物語を書いたものはまだないのですが、タイトルに使用している大切な「記憶」という言葉を語る上でぴったりだと思い、脚を投げ出した無邪気な可愛らしい姿を選びました。
最後に、この本を目にし、読んで下さった皆さま、この本を作る上で、掲載当初感想を寄せて下さった皆さま、たくさんの刺激を下さったサークルの物書きさま、そしてこうして物を書く時間、幸坂かゆりの人生の中に住み着き、かき回し、凛とした強さを教えてくれた、らむ子さん、愛猫たち、沢山の方々のお力なくしては本書は生まれませんでした。心より感謝申し上げます。
二〇十九年三月一日
幸坂かゆり
深夜、消し忘れたテレビから激しく誰かを罵るような台詞がイヤフォンから聞こえてきた。
入院中の病室で薫(かおる)は驚いて目を覚まし、煩わしくてすぐに消した。うとうとしかけていたけれどそのお陰ですっかり目が冴えてしまった。
「薫兄さん、慶ちゃん、あたしこの家を出て一人暮らしをしようと思うの」
この日の昼間、三人兄妹の末子である聡子(さとこ)は長男である僕、薫と次兄、慶(けい)にそう話をした。長男を妙にかしこまって呼ぶのと次男を『ちゃん』付けで呼ぶのは子供の頃からだ。僕ら三人はそれぞれふたつ違いで時々喧嘩もするがそのくらい仲が良かった。それは現在まで変わらない。僕は二十七歳、慶は二十五歳、聡子は二十三歳だ。ただ突然のことで驚いたのは否めない。僕ら三兄妹は、ごく普通の、職場で出会って恋愛結婚をした両親を持つ、滅多に波風の立たない家庭に育った。聡子はこの話を既に両親には済ませてあると言う。
「そうか。聡子は昔から活発な子だったからね。やりたいことがあるのだったらどんどん挑戦するのが良いと思うよ」
僕は動揺を隠して物分かりの良い兄らしい言葉を言ったと思う。しかし慶は激しく反撥した。言い分によると、せっかく持ち家があるのだから母親の手伝いをしながら嫁に行くまでここでやりたいことをやれば良いではないか、とのことだ。勝手な意見だが多分聡子がこの家を出るという告白に対して僕のように動揺して言ったもので決して慶の本心ではないだろうと思った。
しかしその日、僕はこの住み慣れた筈の家の階段から転げ落ちて足を骨折してしまった。平日の昼間、しかもなぜか父母も聡子も慶も皆揃っていた日であった。大した病気もせず健康に育ってきた家族は突然の怪我に慌て、あたふたと僕を病院に担ぎ込んだ。家族全員が病院に集まるなど邪魔であり迷惑なだけだと気づいたときには遅かった。看護師に、仲の良いご家族ですね、と皮肉にも似た言葉をかけられ苦笑された。父はただ右往左往するのみだったため母に、あなたは喫茶店に行っていてくれる? と言われてしまい、慶を同伴させた。それでも父は必要になったらすぐ呼んでくれ、と言ってくれた。母が入院の手続きをしている間に聡子が車を運転し、家に帰って下着や洗面道具など必要なものを揃え、また病室に戻ってきた。
僕の入院した部屋は本来大部屋だったが入院患者が続けて退院したらしく、次の患者が来るまで広い部屋にひとりになった。聡子と母は持参した物を備え付けの棚や引き出しにしまってくれた。
「悪いな。僕も年を取ったのかな」
「何言ってるの。お互いまだ二十代なんだから年取ったなんて言わないで。しょうがないわよ、事故なんだから。薫兄さん、仕事が忙しかったから疲れていたんじゃない?」
母も同調して頷く。そう思ってくれて幸いだ。もしかしたら聡子の一人暮らしの話に動揺したからかも、だなんて死んでも知られたくない。ぽつぽつ話していると父と慶が戻って来た。
「まあ、忙しかったから体を休ませる良い機会になったかも知れんな」
あれほどあたふたしていた父が偉そうに、しかも聡子と同じことを言うので聡子は父に見えない位置でくすりと笑った。そんな聡子をきっと睨みつけて慶は言う。
「聡子、おまえが悪いんだぞ。いきなり家を出るなんて言うから兄貴も驚いて足がもつれたんじゃないか。こんなこともあるんだから」
思わず慶を見た。隠し通そうとしていたことを容易くこいつは。
「薫兄さんの怪我をあたしがどうしろって言うのよ」
聡子も負けずに言い返すがその通りだ。
「ちょっとあんたたち、こんなところで兄妹喧嘩なんてやめなさい」
母が素早く慶と聡子をたしなめると一瞬ふたりとも反抗的な目を向けたが、場所が場所なだけにさすがに二人とも大人しくした。まずはゆっくり治療を優先するということで話は落ち着いた。父の言うとおり僕ら家族が色々と考えるには良い機会なのかも知れない。僕は目だけをちらりと動かして聡子を盗み見した。聡子はまだ少しふくれっつらをしていた。
病院で夕飯を終えるとうとうとして、目覚めたときには消灯時間を過ぎた真夜中だった。
寝付けなくなり、そこで普段あまり観ないテレビをつけたが感じの良くない台詞を聞いてしまったのだ。唐突に慶を思い出す。あいつの時代錯誤な台詞めいた言葉は一体どこから来たのだろう。うちの中では誰一人として娘は嫁に行くまで家にいるものだなんて考えることはない連中ばかりだと言うのに。父も母も昔から共働きで互いに自分のできることは自分でしていた。
年代的に母の方が家事の量は多かったがそれでも父は率先して洗い物をしたり、風呂掃除をしたり、母に聞きながら細やかに動き回っている。そんな両親の姿を見て育った僕ら三人兄妹も当然のように自分の衣服の洗濯などは自分でしたし食後の茶碗洗いも人任せにせず出来る限り自分で行った。慶もそうしていた。妹だからと『ずる』をして聡子に頼んだりなんかもしてこなかった。そう考えると要するに慶はまだ甘えん坊なのだろうか。子供の頃ならまだしもとっくに成人した妹に向かって脅しのような言葉をかけたところで言い返されるのがオチなのに。そして肝心の聡子のことを思う。よく笑い、溌剌とした性格で子供の頃から友人も多く、しょっちゅう遊びに来るし聡子も友人の家にお邪魔していた。多少世話焼きの傾向はある。そんなところが慶にあのわがままな言葉を言わせたのかも知れない。もちろん聡子が悪い訳ではない。
もっと遡ってみるとしよう。
僕が小学校三年生くらいの頃だったろうか、三人でよく近所の鮭、鱒の孵化場や川に遊びに行った。僕と慶はスニーカーだったが聡子は踵の低いお気に入りの赤いサンダルを履いていた。河川の一部が孵化場へと続く設備になっており、水の流れを調整するために水の両側を狭めて細い道になったところがあった。僕らはよくそこを跨いで反対側に飛ぶ遊びをしていた。
ある日、草に足を取られた聡子は片足だけ水に浸かってしまったことがあった。浅いので足はすぐ底についたが靴下を濡らしてしまった。サンダルはビニール製だから何ともなかったが幼い聡子は『お母さんに怒られる』と言って泣き出した。僕も慶も困ったが一緒に謝ってやるから泣くなよ、と一生懸命慰めた。聡子はしゃくり上げながらも頷き、僕は靴下を脱がせてぎゅっと水を絞った。帰りは片足だけ靴下とサンダルを履いた聡子を僕が背中におぶって濡れた靴下と片方のサンダルは慶が持った。聡子はそれでもまだ母親のことを気にしていたので、靴下を水に濡らしたくらいでそんなに気にすることはないよ、洗えばいいんだからと言ったが頷きながらも涙が止まらないようだった。
それからしばらく歩いていると聡子が静かになった。ちらりと見ると眠っていた。ついでに慶を見ると何にも考えていないような顔で聡子の軽いサンダルと靴下をぶらぶらさせながら持ち、川景色を見ながら悠々と歩いていたので憎らしかった。すっかり眠ってしまった聡子のからだが重かったのと暑さのせいだ。五月だったがあの日は陽射しの強い夏に近い気温だった。
ふとサンダルを履いていない方の聡子の素足が目に入った。陽射しに照らされた小さな爪はほんのりピンク色に染まっていた。マニキュアを塗っていたのだ。多分母親のものを黙って失敬したのだろう。ああ、それであんなに気にしていたのか。もう一度見ると不思議と爪先だけが大人のようでそれでいて華奢で、守らなくてはいけない存在なのだと改めて背負い直したのを記憶している。まっすぐな道の周りは、桜やつつじやさつきの花が満開でむせるような花の香りが強い陽射しとともに辺りを包んでいた。この病室からもほんのり花の香りがする。五月上旬の同じ季節だからだろうか。そんな昔のことを考えてしまった。
次の日、聡子が面会に来た。
家にいると落ち着かないと言う。一応僕が退院するまで一人暮らしの話は保留にしてあるだけなのだが慶はすっかりその話がなくなったものと思い込んでいて、やはり家を出ると知った途端、また喧嘩になったそうだ。
「いやになっちゃう。慶ちゃんの言葉、すごく息苦しいの。俺たちや家を捨てるのか、とか大袈裟なんだもの」
聡子はため息をつく。
「そうだな……、慶の言葉は少し子供っぽいな。だから自分の空間を持って生活をするために新たな場所を見つけるって言う聡子の考えがまっとうだと思うよ。距離を置くことでまた以前のような関係に戻れるさ」
「あたしもそう思う。離れて暮らしたって家族は家族なんだし、捨てるなんて次元じゃないもの」
言いながら聡子が窓辺に向かった。
「あ、薫兄さん、すごいわ。この部屋ちょっとしたお花見スポットになるわよ。桜もつつじもさつきも、みんなもうすぐ咲きそう。ここからよく見えるわ」
「道理で。昨夜すごく花の香りがした。窓は閉じているのに」
「換気口から香りが入ってくるのかしら」
「まさか」
「窓、開けていい?」
「うん」
僕は体を窓に向けた。聡子は僕のベッドに腰掛けた。風が心地良かった。
「静かね」
「病院だから」
「久しぶりな気がするの。物音とは別のところで静かなのは」
不思議なことを言う。思わず聡子の横顔を見る。薄く化粧を施した顔。ゆっくりと瞬きをする空を見つめる瞳は、何か強い意志を感じさせた。そのとき病室の扉は開いているが、聞こえよがしにノックをして慶が顔を出した。
「元気そうだな、兄貴。眠れたかい?」
「うん。あれからすぐに寝てしまったよ、ぐっすり。やっぱり疲れていたんだな」
僕としては本心から言ったつもりだったが慶はそのように受け取らなかった。慶は聡子の方に向き直って言う。
「おまえの心配をしてたんだよ、兄貴は」
慶は突然聡子に向かってきつい口調で話した。
「またその話?」
「だっておかしいだろう。ずっと家族五人で仲良く一緒に暮らしてきたのにそれをいともたやすく壊そうとするなんて」
「落ち着けよ」
怪我人である僕が二人をなだめる羽目になった。
「あたし、飲み物買ってくる。適当に選ぶけどいいでしょ」
聡子はうんざりした顔をして素早く病室を出た。
「慶、何を熱くなっているんだよ。そりゃあずっと家族仲良く終生暮らすのもありだろう。でもそれは全員納得している場合のみだ。おまえはこの間も言っていたな、母さんの手伝いをしながら結婚するまで聡子に家にいろだとか。けど聡子がいつ結婚するかはおまえが決めることじゃないし、聡子は家族だけれどひとりの人間だ。結婚も生き方も聡子自身が決めることだろう」
「そりゃあそうだけどさ……」
「淋しくなるけどな」
結局、慶の意見を詳しく聞いていると、聡子に実家にいるべきだと言うのは口先だけで特別な思想として信じ込んでいるものでも大した意味を持つ訳でもなかった。
「ちぇっ。癪に障るけど兄貴の言うとおりだよ。急に生活に変化が起こるんじゃないかと思って戸惑ったのはあると思う」
慶は顔を赤くして淋しさの部分は否定しようと試みた。けれどうまくいかず下を向く。
「何だかさ」
「うん」
「おれ、一応あいつより年上なのにあいつと話をするとこっちがいつまでもガキみたいに思えて口惜しいし、焦るんだ」
「わかるよ」
「あいつ時々夜中まで起きてて熱心に勉強みたいのをしててさ。おれはまあビールとか取りに居間に行くんだけど、そういう姿を見るとすっかり大人でさ。やっぱり結局は取り残されるように感じているのかなあ。情けないけど」
「情けなくなんかないさ」
僕は子供の頃のままに拗ねた横顔を見せる慶の背中をぽんと叩き、早合点はするけれどすぐに非を認め、考えを改めようとする慶を内心素直でとても良い奴だと思った。本当は慶に対してこんなに兄貴風を吹かせているが自分こそどうなのだと自省する。
「兄貴と話せて良かった。おれの言葉のせいって言うのもあるかも知れないけど聡子と少し距離を置いたら少し客観的に見られるようになった気がするよ」
「そうだな。今回は色々考える機会になったから良かったけど、ただ生活しているだけでもきっとストレスを感じているんだと思うよ」
「じゃあ、こういう機会のために時々階段から落ちてくれるか」
「勘弁してくれよ」
他愛のない会話で話を終えて、ふたりは淡く笑う。ふとドアの入り口を見ると聡子が飲み物を手にして戻ってきていて雰囲気の良くなった場を見て不思議そうに目をしばたかせていた。事情を知り仲直りした聡子と慶と僕の三人で今にも咲き誇りそうな蕾たちを見ながら飲み物を飲んだ。
退院の日。
その日は快晴だったが風は強く、桜の花は満開で既に花びらが大量に舞っていた。もちろん入院した時のように家族全員で来ることはせず父母は家で待つことにし、慶は仕事があったのでその日休日の聡子が迎えに来てくれることになった。聡子は少し先になるが既に一人暮らしをする部屋を契約しており、薫が家に戻り落ち着いた頃引っ越す予定になっていた。慶は渋々ではあるが薫との会話の中で自分の心境を自覚して以来、説教じみたことは言わなくなった。
車に荷物を詰め終え、すぐに病院を後にしようとしたが薫は思いついて聡子に花を見て行こうと言った。花見スポットだと言っていたとおりつつじとさつき、そしてこの地域では梅も桜も一緒に咲くので正に百花繚乱だった。
「やっぱり蕾だけを見るよりお花を見る方が好きだわ」
「あれはあれで良い花見だったよ。兄妹三人で久しぶりだった」
「小さい頃はよく三人で色んなところに遊びに行ったわね。孵化場で私が足を引っ掛けて水に落ちたのを憶えているわ」
「落ちてはいないよ。落ちたのは片足だけだ」
「あら、そうだった?」
「そうだよ、聡子はしきりにお母さんに怒られるって泣いて、僕が聡子をおぶって……」
「こっそりお母さんのマニキュアを足の指に塗っていたのよ」
その後に続く言葉があるように聡子の唇が開く。薫は待ったが言葉は出てこなかった。聡子が憶えている記憶と同じものを薫も記憶しているだろうか。家に着いて聡子のからだを下ろしたとき、薫が聡子の足の指に意図的に触れた、あの刹那を。
強風が、かぶっていた聡子の帽子を飛ばしてしまった。それは少し背の高い枝に引っかかった。聡子が背伸びをすれば取れる距離ではあるが足許が小石だらけで不安定だ。それでも一生懸命取ろうとする。
「薫兄さん、ちょっとだけ支えていてくれる? 無理のない範囲で」
「うん、気をつけて」
聡子は近くにあった大きめな石の上に足を乗せた。薫は聡子の体に手を添えた。手のひらに聡子の体の熱が伝わる。あのときのようだ。幼少時代の聡子の体の重さを思い出す。薫はそっと聡子の細い腰から上に手のひらを移動させ、なだらかな曲線を描いて整列した肋骨に触れる。あの頃背負った幼い聡子の小さな体はすっかりのびのびと大人に成長していた。帽子はすぐに取れたが聡子と薫は少しだけそのまま動かなかった。ほんの数分の出来事だった。聡子が石から降りる。
「絵に描いたような風のいたずらね」
聡子が微笑む。帽子はもう被らず、髪を靡かせた。桜の花びらが風に舞う。
「せっかくの桜が散ってしまうわ……」
聡子は言葉とは裏腹に桜を見ていない。ずっと薫を見ている。薫も聡子を見ている。
……聡子、僕らは前世で夫婦だったのかも知れないな。
聡子は頷く。
そうよ、だから一緒にいてはいけないのよ。
花びらは二人の心を喋り、二人の体をうっすらと互いの指のように撫でる。ただ触れて、ただ舞い踊る。花びらの愛撫に身を委ねて見つめ合い、そよ風によって現れる花の香りは鼻をくすぐり、不意に恋が、あなたの姿として具現化されるようだ。
元気でやれよ、時々母さんたちに顔を見せに来いよ、と薫が言う。もちろんよ。薫兄さんも元気でね。慶ちゃんとケンカしないようにね。聡子じゃないから大丈夫だよ。薫は兄としての態度を全うさせる。薫の返した言葉に聡子が笑う。聡子が花の中で笑う。花のように笑う。桜も梅もつつじもさつきも二人の目の前で乱れ咲く。
少しずつ秋の深まる庭の落ち葉を箒で掃き終わると、そのひとは冷えた家の中に戻り、手を洗った。窓からは色鮮やかな秋の風景。風は目に見えるほど冷えている。もう薄手の着物じゃ寒い季節だ。手ぬぐいで手を拭ったあと、手にクリームを塗って保湿をした。その姿をじっと見ていた郵便配達の青年は時を見計らって、さもたった今来たかのように声をかけた。
「こんにちは」
「あら、こんにちは。今日は早かったのね。ちょっと待っててね、すぐ出来ますから」
居間に戻ると、そのひとはおもむろに机の引き出しを開け、封筒と便箋を取り出した。慣れた仕草で便箋を四つに折りたたみ、封筒に入れると糊の部分をそっと舌でなぞって封をした。配達員の青年はその慣れた仕草をいつも心ときめかせて見ていた。
背の低い木の茶箪笥の上には額に入った男の写真が飾ってある。その相手に出しているのは一目瞭然だ。青年は幽かに嫉妬する。一方、そんな事を知らないそのひとは陽を浴びて色褪せたその写真を一瞥した後、すぐに席を立ち、青年の元に小走りでやってくる。今日は珍しく髪を肩に垂らしたままだ。いつもは緩く髪を上げ、べっ甲の髪留めを使い、うなじを見せていた。肌の白さと手紙を差し出す溌剌としたその笑顔に青年はくらくらする。
「お待たせしてごめんなさい。これ、よろしくね」
「はい。こちらの手紙はきちんとお渡しします」
「ありがとう。それじゃ明日ね。ご苦労様」
そのひとの話し方は、まるでどこかの小料理屋の明るい若女将のようでその色白の人形のような井出達とはかなり印象が違った。それはそうと、それは不思議な手紙なのだった。青年は一度、空に向けて中身を確認した事があったが便箋は入っているものの字らしい字なんて何ひとつ見当たらなかった。けれど、まるで儀式のようになってしまった白紙の手紙の配達は日課になっている。
青年がしていることは業務外の用事なので違反になるのかも知れない。けれど、そのひとは細くて髪がきれいで優しそうで、要するに青年の好みの女なのだ。そんな愛しいそのひとに「毎日手紙を運んでくれませんか?」と、潤んだ瞳で懇願されたのだ。それはまるで愛の告白を受けたように思えてしまったのだから仕方がないと言うものだ。
そのひとの家を離れると近所の噂好きのご婦人方が青年の顔を見ていた。青年は郵便帽子のつばを押さえて頭を下げる。
「毎日毎日大変ねえ。ちゃんとお給料は貰っているの?」
「もちろん。大丈夫ですよ」
頬を上げ、愛想笑いを浮かべ、余計なお世話だ、と言わんばかりにすぐに自転車を走らせた。そのまま近くの土手に向かった。もちろん本気で青年が余計なお世話だとご婦人方に向かって考えている訳ではない。なぜなら彼女たちもまた、あのひとの境遇を知っていて青年がしていることも見て見ぬ振りをしてくれているからだ。あのひとがひとりで生きていける命の根源が一体なんであるのか、彼女たちは知っている。その上でなお、僕に気を使ってくれているのだ。
自転車を降り、しっかり鍵をかけてから川のそばに場所を見つけて腰を下ろし、先ほどの封筒を取り出した。ほんのり紅のついた封筒の口をぺりぺりと丁寧に剥がした。中身をそっと開けると便箋には案の定何も書かれていなかった。青年はその便箋をそっと水に流し、封筒だけを握り締めてポケットにしまう。
あのひとが指定している住所に家はなかった。少し前、その家は火事で全焼してしまったからだ。最初は青年も驚いた。あのひとが手紙を渡す主のいる家じゃないか、と。燃え尽きてしまった家の焼け跡に呆然と立ち尽くす青年に先ほどのご婦人方のひとりがそっと教えてくれたのだ。
あなたがいつも渡している手紙を受け取るご主人は、とうの昔にいないのよ。焼けてしまったあの家はずっと前から無人なの……。
あのひとも知っていた筈だとご婦人は言う。
豪邸だったでしょう? あのひとと火事のあった家の主の息子である男の人は恋愛関係になったけれども家の方が許さなかった。許婚がいて、このご時勢に身分違いからふたりの仲は裂かれそうになった。どうしても離れられないふたりが選んだ答が心中だった。そして実行した。けれど心中は失敗した。
豪邸の息子だけが彼岸に、あのひとは此岸に残った。もっと詳しく言うと体だけは。そんなふうに心が時空を彷徨うあのひとに対して豪邸にいた親類縁者たちはもう何も言えなかった。だからあのひとの心は昨日も今日もそしてきっと明日も恋人の元にいられるのだろう。
毎日、受取人のいない手紙を青年に託し、そうやってあのひとは生きている。そうやって毎日食事をし、睡眠を摂り、掃除をして日常を過ごしている。どちらが良いのかなんて誰にもわからない。けれどいつか現実に気づいてしまう時が来るのだろうか。もしも真実を知ったとしても誰も幸せにはならない。だからこそみんなあのひとに恋をする青年を哀れむような目で見る。構うもんか、と青年は思う。
けれどもしもほんとうにその時が来てしまったら。あのひとが衝撃を受けてしまわないように僕がそばについていて悲しませる隙を与えたくない。どんな嘘をついてもいい。傷つけるような真実の方を嘘だと言ってあげたい。いつもあのひとの気持ちのそばにいてあげたい。
青年はそう決意を新たにし、紅のついた封筒をもう一度取り出して封にそっと唇を押しあてるのだった。便箋は冷たい水の中を泳ぎ、もう姿は見えなくなっていた。
台所の床にごろり、とじゃがいもが転がった。
突然響いた鈍い音に少し驚いてあなたの方に目をやると、その瞬間私の目に映ったものは瑞々しい白い花びら、ではなく、それは捲れたいちまいの皮膚だった。昼食の支度のためピーラーでじゃがいもの皮を剥いていたあなたは手を滑らせ、自分の手も一緒に削いでしまったのだ。
「あっ、大丈夫?」
「うん、平気平気」
そんな訳には行かない。私は急いで隣の部屋に置いてある救急箱を持ってきた。中を引っかき回すと傷につかない大きなパッドのついた絆創膏が入っていたのですぐに取り出して台所に戻った。しかし皮膚は捲れているものの一部は手のひらにくっついている状態だった。血は出ていないし表皮だが、だからと言ってまさか無理矢理剥がすなんてできない。どうしようかと迷っているとあなたは救急箱に入っていた小さな鋏を見つけて、取り出した。
「ね、これで切るから悪いけど皮の端っこを持っていてくれる?」
「えっ」
「だってこのまま皮をぶら下げていたら何もできないわ。ね、お願い」
そう言われてしまっては……。確かにそのままにはできない。私は意を決して緊張しつつもあなたを傷つけないよう細心の注意を払いながら皮膚をつまんだ。伸ばされた皮膚と手のひらの間にあなたは鋏を差し込んだ。私は思わず息を止める。
鋏が切れ味の良い音を立てた瞬間、思わず目を瞑ってしまったが同時に私の手は軽くなった。切り取られた皮膚は私の手のひらに落ちた。
「大丈夫? 痛くない?」
「うん、大丈夫。心配させちゃってごめんね」
拍子抜けするほど軽くあなたは言って絆創膏をぺたりと貼った。
「やっぱり私っておっちょこちょいなんだわ。じゃがいもをまるで親の仇みたいに強く握っていたから、恐れおののいたじゃがいもが私の手から逃げ出してしまったのかも」
あなたのじゃがいも評に気が抜けて笑ってしまう。
「とりあえず軽い傷で良かった。今日のお昼は出前を取らない?」
「そうね。なんだか作る気力がなくなっちゃった」
あなたは困ったような顔をして笑う。そして私にはひとつの秘密ができた。鋏で切ったあなたの皮膚をラップに包み、素早く自分の服のポケットの中に隠したのだ。なぜそんなことをしたのか判らないし、どうしようと言うのだろう。
あなたが注文したのは寿司だった。
先ほどの「事件」を思うと少し生々しく感じたが、気を取り直してお寿司屋さんが付けてくれたインスタントのお吸い物にお湯を入れた。あなたが真っ先にオヒョウを選んだときはまたぎょっとしたけれど。薄く半透明の白身魚はあなたの皮膚を思わせたから。私は動揺を隠し、急いで穴子に手を伸ばした。「ああ、それにしても楽しみ」突然あなたは言う。今日はふたりで花火大会に出かける予定だった。
「浮かれ過ぎて慌てちゃったのかなあ」
「じゃがいもをふっ飛ばすくらい?」
あなたは明るい声で笑った。多分私の動揺は気づかれている。だから急に話題を変えたのだ。あなたはこれまでもなるべく他人に気を遣わせないよう心を砕くひとだったから。それから……現実の理由はあるが抽象的な言い方をすると、あなたはあまりにも邪な心を持たないひとだからだ。
あなたは小学校の頃の同級生だった。
おかっぱ頭をして黒目がちな大きな瞳を輝かせながら級友とはしゃいでいた。はしゃぎ過ぎてぬかるみで転んだり、ほんの小さな冗談ですら真に受けて大慌てしたり、感情の忙しい女の子だという印象があった。けれど人の話をきちんとよく聞き、その瞳でじっと見つめられると惹きつけられてしまう。大抵の子は男女に関わらず、そのままあなたに恋のようなものを経験しただろう。しかし男児は幼さゆえの照れ隠しか、好きであるはずのあなたに意地悪をする、という想いを誇示する方法を取ることが多く、あなたは生傷が絶えなかった。
傍から見ていると苛められているようにも見えたが、あなたはいつもうっすら微笑みを浮かべていたので間違えた意思表示はますます執拗になっていった。スカート捲りや玩具を武器のようにして彼女を追いかけるなんて日常茶飯事で、羽交い絞めにしたり(これは彼女に触れたいという欲求だろう)髪や洋服を切られたり、自転車に乗っているところを横から蹴られて突き落とされたこともあった。ここまで来るとさすがに担任の教師が気づいて男児たちに注意をした。
低学年の彼らは教師の言うことをおとなしく聞いた。しかしこっそり学校帰りに後をつけてくる子は数人いた。ある日私とあなたの家の方角が同じだと判り、一緒に帰るようになると後をつけてくる気配はきれいになくなった。そのときに見たあなたは顔も体も痣だらけで痛々しかった。
「まだ男子から変なことされているの?」
「うん、時々ね。でも大抵は追っかけてくるだけだから逃げれば済むの」
しつこい奴らだ。あなたはとても人懐こくて私たちのお喋りは弾んだ。あの日も確か花火を一緒にやろうと話していたと思う。けれど後日それを知った焼きもち焼きの私の友達といざこざがあり(女児は女児でタチが悪い年頃だった)あなたと一緒に帰ることもなくなり、花火は口約束になってしまった。そのときはこうして大人になってから再会するとは思ってもいなかったけれど。
寿司はあっという間になくなった。「お昼からこんなに食べるなんて私たちって食いしん坊ね」とふたりで笑いながら片づけを済ませて、私は帰り支度をする。
「それじゃ、夕方六時半に迎えに来るわ」
「うん、わかった」
玄関のドアを閉めて、あなたが部屋の奥に遠のいて行くのを確認してからそっと音がしないよう、外からドアの鍵を閉めた。私の職業は介護師だ。友達として接しているあなたも介護者のひとり。ある日地域包括センターから連絡があり、介護されているご家族からあなたのことで相談を受けた。「妹のことで」と相談をしてきたのは女性で、あなたと血を分けたたったひとりのお姉さまだった。初対面のはずのあなたが実は小学校で一緒だったあなただと判ったときは驚いた。あなたは特別変わった名前でもなかったので咄嗟に思い出しはしたけれど同姓同名だろうと思っていた。相変わらずあなたの瞳は人を惹きつける魅力があったが視線に違和感を覚えた。あなたの右目は義眼だった。義眼側の前髪は少し長めに調節されていた。お姉さまが気遣ってそういう髪型にしていたのだが、あなた自身は邪魔になるとすぐに髪を耳にかけてしまうのであまり意味はないようにも思えた。齢三十にも満たないあなたになぜ介護が必要なのか、お姉さまに詳しく聞いた。
あなたは高校に通っていた頃、ストーカーと化した男に付きまとわれていたらしく、いつも友達数人と一緒にいたが、その事件は友達が去ったほんの僅かな時間の隙間を狙って起きた。あなたは家の前でナイフを持って身を潜めていたその男に襲われ、片目を抉られてしまった。犯人はすぐに捕まった。なぜなら男は逃げずにその場でうつ伏せに倒れたあなたの隣に同じように横になり、血まみれのあなたの顔をいとおしそうに見つめながら抉ったあなたの目を両手に大事そうに抱きしめて男はその場で死んでいたからだ。死因は心臓発作とのことだが実は不明だとも噂されていた。お姉さまはあなたが倒れているその現場を見てしまった。気の毒に。そしてそのせいであなたという硝子細工は壊れてしまった。厳密に言うと脳に繋がる神経の一部が損傷した。あなたは顔の左側を少し前方に寄せて見えている方の瞳で私を見た。あなたは小学生の頃のように微笑み「初めまして」と元気な声で私に片手を差し出した。とても無邪気だった。
あなたは炊事や洗濯など家事は普通にこなせたし、片目が見えない以外は一見どこにも障害がないように見えた。ただ時折、どこからか指令が来るかのようにふらりと徘徊を始めるようになった。夜の中を裸足でどこまでもどこまでも歩き、疲れ果て、倒れているところを発見されることが繰り返され、やがてその回数が増え、目が離せなくなったため心療内科や精神神経科に通い、障害者認定を受けた。
ずっとひとりで看ていらしたお姉さまも今は落ち着き、結婚して家を出ていた。お姉さまに、ご両親の所在などを聞くと「今はどちらもどこにいるのか判らないんです」としか言葉にしなかったが一瞬見開いた目に幽かな火焔が揺れて見えたので、立ち入ったことを聞くべきではないと判断し、両親はなし、とあなた専用のノートに書きとめた。
そのため現在も詳しいことは知らない。一人暮らしになったあなたの部屋には監視カメラを設置した。徘徊以外に障害はなく、ドアに鍵がかかっていたら諦めておとなしく部屋に戻る。だが放っておくとまったく動かず、飲まず食わずになるため、一緒に料理をするという健康上の介助も計画に取り入れた。いつもそばにいる私の存在は毎日遊びに来る仲の良い友達として位置づけていると思う。事実、私たちは友達だったこともあるので友達口調で喋ることに不都合はなかった。
花火大会に行くのは遊びではなく、付き添いという私の仕事だ。
ただあなたが花火大会を見に行きたいと言ったとき、行かせてあげたいと思ったのは幼い頃の約束が果たせると考えた私個人の勝手な罪滅ぼしのためだとも思った。再びあなたの部屋を訪問し、音を立てないように鍵を開けてから呼び鈴を押した。はーい、と元気にドアを開けたあなたは白地に藍色の大きな花が描かれた浴衣を着ていた。とても良く似合っている。
外を歩くと、人の群れはあなたを振り返るがそれは義眼のせいではなく、昔と変わらずあなた自身に惹きつける魅力があるせいだ。暗がりなので義眼だなんてよほど近くに寄らない限り気づかれないし、そういう負に充ちた人間の視線はすぐに察しがつくものだ。私は雑草と小石だらけの道の中であなたを見失わないよう手を繋いだ。昼間の傷がある左手だった。絆創膏のせいか傷のせいか少し浮腫んでいるようだ。柔らかい赤ちゃんのような手。なんて可愛いらしいのだろう。大人のような子供のような不思議な存在感を醸し出すあなたはまるで体温のある人形だ。花火が上がり、辺りで歓声が起こる。大きな音が腹部に響いた。
突然、耳鳴りがした。私の周囲の賑わいが耳鳴りにかき消される。花火の音も。繋がっているのはあなたしかいない。花火が夜空に赤く広がる。あなたが目を抉られた瞬間が幽霊のように映像として私の脳裏に浮かぶ。
怯える余裕もなくただ男に腕を掴まれたあなたが驚いて振り返った瞬間の出来事だった。あなたの視界を奪ったナイフが瞳から抜き去られるとき、飛び散る血はきっとこの花火のように美しかっただろう。あなたの瞳を手に入れて死んだ男はさぞ幸福だったことだろう。あなたがあの事件のすべてを忘却してしまった今、瞳は永遠にあの男のものになってしまったからだ。
無邪気に空を見上げるあなたの横顔を見るとその表情を歪ませてやりたくなった。その浮腫んだ手のひらをぎゅっと握りつぶして、引きちぎって、私のものにしてしまいたくなった。数分後、耳鳴りが止んだ。瞬時に我に返る。
この妄想はあなたと再会してから起こるようになったものだ。
それだけではなく、あなたが手のひらを削ってしまった日以来、私は頻繁に同じ夢を見る。とても美しい夢だ。あなたの艶やかな皮膚がなんまいも夜の闇の中から舞い降りてきては樹の枝々に花びらと化して、はらりとかかる。私はそのいちまいを手に取り、口の中に入れる。あまりにも美味なので、実はここは涅槃で、これは禁断の食べ物で、私はお釈迦様に罪を試されているのではと思う。
私があなたの皮膚を持ち帰ってもあなたに事実上、危害を加えることはないけれど、もしもあなたに知れたら恥ずかしくて死んでしまいたくなるだろう。
ただ欲しかったの。あなたの一部が本気で欲しかったの。子供が玩具を欲しがるように。手に入れたら、もっと、もっと、と欲が深くなるように。だからあなたの美しい目を抉った男の気持ちが痛いほど理解できる。しかし男は自らの欲求に負けた。私に起こる激しい欲求は発作のようなもので、耳鳴りが始まり、その音が消え去ると次第に消えて行く。本当はその発作と呼ぶようなものでいつでもあなたをどうとでもできる。けれど何もしない。俗な言葉だけれど私はあなたの子供のような笑顔を見ていたい。つまり、まだ私はあなたとのこの関係を終わらせたくないからだ。
ただこの先のことはわからない。いつあの男のようにこの世の常識という糸が切れてしまうかは。不意に不安が胸を渦巻くが花火の大きな音と観客の歓声で我に返った。花火大会は最高潮を迎えており、大きな花火が連続で上がり、私とあなたの顔を明るく照らす。あなたは無邪気にぴょんぴょんと小さく飛び跳ねて喜んでいた。だから、今はまだ……。
夢なのか。それとも幽霊なのか。
目を閉じると彼女は現れる。彼女は日を追うごとに段々と現実味を帯び、悩ましい体温さえ感じさせる。もう昼に近い。僕は名残り惜しい布団に勇気を出して別れを告げ、のろのろと起き上がった。
「そんなこと不思議でもなんでもありませんよ」
お手伝いの千代子は言う。千代子は先日七十五歳になったばかりだ。僕が幼い頃、体の調子を崩した母の助けになるようにと父が千代子を雇い、いつも三人兄弟の末子である僕の身の回りを世話してくれるのだがそんなに高齢だとは思えないほど細い裁縫針を器用に操り、掃除をする時などは忍者のように庭まで素早く移動をするので時折別の星から来たのではと思える。僕は千代子が淹れてくれる、程良い温度の美味しいお茶を啜りながら言葉を返す。
「身も蓋もないな」
「ここまで生きていますとね、そんな物の存在なんて普通に感じるんですよ。坊ちゃんはお仕事柄もあるんでしょうけども浮世離れした考え方ばかりなさるからそんな幻想もどきが成長してしまうんです。もう少し現実をご覧になってみたらいかがですか。ほら、お茶を飲み終わったらお庭でも散歩していらっしゃい。お花がきれいですよ」
箒で掃かれるように僕は庭へと追い出される。まったく。坊ちゃん坊ちゃんと。もうすぐ三十に手が届くようになる男に言う呼び方かと半ば本気半ば冗談で悪態をつく。もちろん千代子が言うように不思議だとは思わない。彼女の存在が仮に幽霊であろうが何であろうが嫌であれば僕はもっと切羽詰っているだろうし、そのままの状態ではいないだろうと思う。彼女の事を話す時はどことなく自慢に近いのだ。わかってはもらえないのだが。
満開の五月の庭は美しい。艶かしく咲き乱れる花に葉も誘いに乗るように活き活きと揺れる。僕はつつじの木の前に立ち、うっとりと絞り出される花弁を見る。とても淫靡で人工的な色をしている。ふと自転車のブレーキ音が聞こえ、それは家の前で止まった。
「こんにちはー。千代子さんいらっしゃいますか?」
艶のある元気な若い自転車の主の声に僕は思わず居住まいを正して振り向く。
「いますよ、どうぞ」
「すいませーん。うわあ、すごい! つつじ満開ですね」
近隣に住む今村さんは千代子とは祖母と孫ほど歳の差があるのに友人のようにとても仲がいい。ただ存在するだけで細胞の成長が勢い良く眼前に迫ってくるようでその生身の迫力に僕は一瞬昏倒しそうになるが、そんな動揺をおくびにも出さず引き戸の玄関を開けて今村さんを家に促した。彼女の腕の中には沢山の青々とした野菜が存在感を示していた。千代子が出て来て二人でかしましくお喋りを始める。野菜は今村さんが自ら栽培したものだと言うのが二人のやり取りから読み取れた。しかし話すスピードといい千代子は本当に年齢を感じさせない。やはり早寝早起き、塩分カロリー控え目、昼間は一瞬足りとも座っていないような運動量、そして違う世代とのコミュニケーションなどは体や脳にも良いことなのだろうか。思わず考え込みそうになったが僕は僕でしかないのだ、と勝手に言い訳をして自分の書斎に戻った。
千代子が言った『お仕事柄』というのは僕が作家を生業としているからだ。それだけでなんとなく不健康な烙印を押されている。時折知人のような人間から『名前を見ないが売れてるのか』『食っていけてるのか』などと聞かれるがそんなやつらに限って本をくれだのサインをくれだの厚かましい夏の虫の如くだ。買えよ。それはそうと二階にある僕の書斎はよく換気されていて薄暗い本棚、というイメージは払拭されていて幽霊などいそうもない清潔で心地良い空間だ。千代子のおかげだと思いながら書斎の大きな椅子にもたれると、途端にうつらうつらしてしまう。
眠りに落ちると僕の恋情が目覚める。
雨の中を駆けてくる頬をつやつやと輝かせた少女。彼女は明らかにただ濡れて不快になるだけの雨を楽しんでいる。踊るように歩くので雨は跳ね、靴なんて履かない方がマシに思えた。するとそれが通じたのか彼女は靴を脱ぎ捨てる。シャツもスカートも体に張り付いて女性らしい線が露わになっている。彼女が僕の方に向き直り、雨の中に誘う。僕は眉をしかめて遠慮するが彼女は強引に僕の部屋のドアをないもののようにすり抜けてその濡れた手で、濡れた髪で、僕の体の一部分を熱くする眼差しで、しっとりとした腕を伸ばして僕を雨の中に誘うのだ。僕は雨の中に飛び出すのは嫌だけれど彼女を離したくなかったから彼女の腕を僕から掴み直し、からだごと引き寄せる。雨の匂いが火照る体から蒸発する。僕らはくちづけ、僕の指は彼女の張り付いた髪から顔へと流れ落ちる水滴を拭う。野生のような、風に小さく震える植物のような彼女。贅肉のついていないまっすぐな背中に掌を広げて愛撫する。弾んだ息が僕を虜にさせる。
気づくと夕方になっており階下から千代子が、坊ちゃん、お仕事に熱中するのは感心なことですけどもあまり根を詰めちゃ体に毒ですよ、と声をかけてきた。なんだよ、そんなことで。僕は少々気分を害した。千代子にとってはいつまでも僕は小学生くらいのガキ扱いなのだ。……彼女と抱き合っていた最中だったと言うのに。その間(かん)の確かな肌の感触も彼女の雨を纏った匂いもすべてこうして僕を包んでいる。僕は納戸から持って来たアルバムを出した。新しい小説に取り掛かるために資料として必要なものがあったからだ。
しかしついついアルバムに見入ってしまった。古い写真はどれも見覚えがあり懐かしく長兄も次兄も当然だが幼くて、いつも説教くさい兄たちがべそをかいている写真を見つけると実に痛快だった。若き日の母は清楚で細い体をしていた。それは父も同様でまったく腹なんて出ていない。今では恰幅が良過ぎるのでもう少し痩せてもいいと思うほどなのだが。しかし写真の中の父は母に、母は父に心から愛する視線を向けていた。千代子も途中から家族に加わり、僕はいつも千代子に抱っこされていた。幸せな家族の肖像を振り返る理想的なアルバムだった。しかしそのアルバムに挟まれていた小さな冊子に貼られた写真たちを見つけた。粗末にはされていないが後から付け足すにはどのカテゴリーにも属せずこのような形になった、といった風情の迷子のような冊子だった。
開いてみるとそこには夢の中の少女が写っていた。驚いた僕はすぐさまその冊子を抱えて寝室と言う誰にも邪魔されない空間へと駆け込んだ。すぐにドアを閉め、鍵をかけると興奮しながら震える手で冊子を捲った。彼女は夢の中と同じ小さな襟のついたシャツと膝の下まで隠すスカートを纏い、長い髪を垂らしていた。なんだか母にも似ているし千代子が若ければこの少女のような顔立ち……かも知れない。しかし写真は白黒だ。本来どのような色なのかはわからない。とある一枚には少年の姿も一緒に写っていた。それは紛れもなく十四~五歳頃の僕だ。なんと彼女に抱っこされている。もちろん体は大きいから体全部を預けているのではなくて椅子に座る彼女の膝にあくまでも座らされているという少々強引なポーズだ。
僕はこめかみを押さえて顔を伏せ、一生懸命思い起こそうとした。風の音。何かわからない虫の羽音。むせ返るような花の匂い。蒸し暑い夕刻。僕の名前を愛称で呼ぶ少女の声が頭の中に蘇る。僕と彼女は川に遊びに行くことが多かった。なぜ僕たちがふたりきりで一緒にいたのかまるで思い出せない。十四~五歳くらいと言えば物心はついている。実際他のことは思い出せる。学校での事、級友の事、喧嘩をしたり流行を追ったり映画を観に行ったり様々なありきたりな思い出すらも。
「わたしを憶えてる?」
彼女の声に僕が顔を上げるといつの間にか僕は川にいた。川面の涼しい風が僕と彼女の髪やシャツをはためかせる。不思議なことに彼女の姿を見るとすべてを悟ったようにするすると腑に落ちる。よく考えるとそれはいつもそうで普段の生活の中で、彼女はまぼろしのように無色透明で目に入るか入らないかのところに佇んでいるのにこうして顔を見るとずっと古(いにしえ)から知っていると瞬時に理解するのだ。
「憶えてる。僕の中の何かが知ってる。僕たち、愛し合ったんだよね。たったいちどだけ」
「ええそう。あなたが十五に届くか届かないかくらいだったと思うわ。わたしは童顔だったけれど成人していた」
彼女の姿は写真の中の姿と何ら変わりがない。それは夢の中だからと考えれば当然だが目の前にいる彼女は生身の人間なのだ。僕がぐつぐつと頭の中で色々考えていると彼女は、ついと僕に手を伸ばし、僕の頬に触れた。柔らかな手のひらに僕は目を閉じる。
僕が十五歳……と統一してしまおう。十五歳のあの日、雨が降りそうな天候だった。いつものように僕と彼女はふたりきりで川にいたが突然激しい雷が鳴ったので僕らは近くの洞穴に隠れた。
「蒸し暑いわ」
「うん。でも雷が落ちたりしたら危険だし少しここにいよう」
「そうね」
雷はなかなかやまないが、しかし雨も降ってこない。息苦しかった。それはその場所が狭くて弥が上にも密着せざるを得ないからだ。彼女の髪や体から花のような芳香が放たれるたびにどうしようもなく僕の鼓動を早める。そしてここには今誰もいない。こんな恐ろしい雷の中じゃ誰も来ることもないだろう。狡賢い頭で僕は思い、彼女にぐいと近寄った。いつも子供相手の遊びしかしなかった僕だが今このような状況になった時、ずっと埋まっていた種火がちりちりと表面に火を熾し始めたのを自覚した。向き合う格好になり僕は欲望の赴くままに彼女にくちづけた。少し歯がぶつかってしまった。僕の行動に驚いて見開いた彼女の目はすぐに僕の心身の状態に気づいたようだった。
「誰にも言わないって約束して……」
「約束するよ」
かっこつけて言おうと思ったが声がうわずった。ただそうは言いつつもまだまだガキの僕はそこからどうして良いのかわからなかった。すると彼女が僕の迷うくちびるをそっと塞いだ。先ほどの僕のくちづけと違い歯がぶつかるなんてあり得ないほど柔らかな感触だった。彼女は着ているシャツのボタンを上から数個だけ外した。首から鎖骨、胸の膨らみがなだらかな曲線を描き暑さから少し汗ばんでいた。たまらなくなった僕は気持ちだけが急いて彼女にただ体を強く押し付けた。
「痛い」
「ご、ごめん」
慌てて少しだけ体を離したがそんな僕に彼女は微笑んでそっと導くようにスカートの裾を上げた。そこからは彼女がすべてリードしてくれたのだろう。気づくと僕の性器は彼女の中に入っていた。温かい。僕を包む彼女の中で性器がこすれるたびに僕は声をあげずにはいられなかった。自慰では快楽を感じるが相手がいる快楽というものは初めて経験した。しかし別物だと思った。一人でしていたって感慨深さなんて生まれない。僕は今とてつもなくいとしい気持ちで彼女に夢中になっている。はっきり言って棒のように突っ立ったままだったが、彼女のかすれた声は僕の耳を、脳内を麻痺させる。彼女と一緒に揺れていると雷と言う楽器の演奏の中で踊っているみたいだった。僕は生まれて初めて射精をした。
結局、空は思わせぶりで曖昧な色をしたまま雨も降らせず雷もどこか遠くへとやってしまった。僕と彼女は再び川に出た。涼しい風が汗を乾かして行く。彼女はボタンを掛け直して川の浅瀬に行き、僕に背を向けて太腿の付け根を洗っているようだった。僕ものろのろとシャツの裾をズボンに入れ直した。心地良い気だるさが残り、ふたりで川のそばに大きい石を見つけてそれに座った。僕らは先ほどのぬくもりを惜しむように互いの手を愛撫した。彼女は涼やかな風を髪に浴び、瞳を伏せた。
あの時と同じように僕は昂ぶり、彼女に甘えるように胸もとに顔を寄せた。懐かしさといとおしさはそのままで、僕はあの頃より伸びた背と筋力と大きな手で彼女を抱いた。ちいさいけれど確かな彼女の声を再び聴き、崩れ落ちそうな彼女の体を支え、今度は僕が彼女に快楽を感じさせたいと思った。彼女が誰だとかあれほどに蠱惑的な体験をなぜ思い出せなかったのかとかは多分あの冊子に秘密があるんだろうとは思う。けれど誰も教えてくれない気がしている。でも肝心の彼女が会いに来てくれたからどうでもいい。忘れても忘れてもこうして蘇るのだから。
気づいた時には僕は家にいて水枕が頭の下に敷かれてあった。千代子が僕の世話をしてくれていた。僕はすぐに起き上がり周りを見渡した。
「気分はいかがですか? 坊ちゃん、川で倒れていたんですよ。近所中を探したんですから」
「……千代子が連れて帰ってきてくれたの?」
「私と上の坊ちゃんと一緒にですよ。書斎にいるとばかり思っていたら何もかも開けっ放しの放りっぱなしでいなくなっていたから心配しましたよ。そしたらあんな雨の中で倒れてるんですから」
「雨? 雨なんて降ってた?」
「坊ちゃん、大丈夫ですか」
「ふざけないでくれよ。あと彼女は?」
「どなたですって?」
「女の子がいただろ」
「坊ちゃんの他にはどなたもいらっしゃらなかったですよ。ええ。どなたもおりませんでした」
千代子はきっぱりと口を閉ざし、それ以上その話は続けさせてくれなかった。千代子の伏せた眼差しは眼鏡に隠れ、何も窺わせてくれなかった。
僕は熱に溺れていた。あんな寒い川でしかも雨だったらしいところで何時間も倒れていたら風邪を引いて当たり前だと両親や兄に言われたけれど、しかしこの熱は彼女が連れてきたんじゃないかと思う。彼女がくれた熱で、ぼうっと過ごすなんて幸せだと思ったが栄養を摂って休んでいたらどんどん健康に戻ってしまい、仕事の関係で外出もしなければならなかった。
出かける当日は晴れの予報のはずだったのに夕方急に雨が降り出した。急ぐのも面倒なので雨の中をゆったり歩いた。雨の匂いはまた彼女を思わせた。バス停に着いた時にはもう全身がびしょ濡れだったが拭う気にもならなかった。しばらくすると同じように急な雨に降られた女性がバス停に駆け込んで来た。今村さんだった。彼女は頭に申し訳程度のハンカチを乗せていたが既に全身はびしょ濡れだ。僕たちは気づいて互いに挨拶を交わした。
「急な雨でしたね」
「ほんと。天気予報を信じてたのに」
人懐こい笑顔で濡れた髪を気にしている今村さんは躑躅のように華やかな面差しをしていた。僕らはバス停の中に守られているけれど雨は暴力的なほどアスファルトに叩きつけている。
「すごい。ここまで降るとやっぱり水って見事だわ」
「え?」
「あ、突然ごめんなさい。たった今ダンスを観て来たばかりなのよ。つい思い出しちゃって」
「ダンスですか」
「基本はバレエなのだけど大掛かりな舞台でね。水を大量に使ってダンサーにぶちまけたりしちゃうのよ」
今村さんは半ばうっとりしていたが急に我に返りまた僕に謝った。僕はもう少し続きが聞きたくて話の先を促した。今村さんは喜んですぐさま夢中になって聞き手である僕を置いて行かないよう気を使いながら熱く語った。あの作品の水はパッションだから熱いのよ、どれほどバケツからの大量の水だったとしても。そんなふうに今村さんなりの解釈を教えてくれて僕は感心して礼を言った。今村さんは照れていた。それから僕らはやって来たバスに乗り、僕は今村さんが降りる停留所のひとつ手前で降りた。彼女は降りる間際、僕に会釈をした。今村さんは華やかで瑞々しく厚みのある葉のようにきっぱりとしている。パッションだからその水は熱い。僕は想像したくて目の前の雨をよく見ようとした。
ふと夢の彼女を思う。彼女も雨の中を幸せそうに踊っている。もしも千代子が言うように雨が降っていたと言うのならきっとその水も温かだったことだろう。甘い夢。甘い現実。どちらも同じ時空だ。たった今も彼女はここにいないけれど僕の意識の中に確かに息づいている。肉体を持たなければ生きていないと言うのか? 僕は決してそうは思わない。記憶こそが生命そのものだ。
この日の打ち合わせで次回の小説の構想を話した。彼女との逢瀬について書こうと思った。編集者は最初首を傾げ、納得していないようだったが僕は現在進行形の物語なのだと力説したらその熱意に折れた。まずは初稿を楽しみにしています、と編集者は言った。話が反対になってしまったけれど彼女に言わなくちゃ。きみとのことを書くよと。どんなちいさなことも憶えていたいから。どれだけ夜を越えても僕は夢の中の彼女と雨の中で踊るのをやめないし、誰もやめさせられる権利を持たない。
虫の知らせだったのか、なぜ今日連絡をしてしまったのだろう、と原田は思う。
昔、原田の恋人だった女性で今では友人である葵(あおい)に電話をしたところ、恋人が死んだからたった今遺品整理をしていると言われ、仰天した。少し大きな荷物もあると葵が言うので手伝いに行くことにした。葵と死んだ男については原田と別れた後の恋愛だったし、過去に電話で葵から直接、男が病気に罹って病院通いもしていたとも聴いたことがある。原田はもう友人という以外、葵とは関係がなかったのに。なんだってこんなタイミングで。そこでまさか、自分だったら土葬と火葬のどちらがいいか、なんて質問が飛んでくることになるとは思いもしなかった。
「おれは火葬にして欲しいかな。土葬だとゾンビになりそうで抵抗感がある」
葵と一緒にいた青年に質問され、原田は答えた。
「そうですね。ぼくも最初、父がこんな遺言を残すなんてバカじゃないかと思いました」
「ちょっと、ゾンビとかバカとか酷いわよ」
そうたしなめつつも葵はふたりの会話に噴き出す。原田と青年と葵は、狭い部屋の床に散らばった葵の恋人だった男の遺品を囲んでまるく座って片付けをしていた。テレビはなく、ちいさな音でラジオがかかっていた。葵と原田は数ヶ月恋人だった時期があるが葵の希望で友人として関係をやり直した。……なんて言うと聞こえはいいが、要するに原田は振られたのだ。しかし、あの時から謎めいた部分を持っていた葵を諦めきれず、時々一緒に飲むけれど、やはり色気のある方向には持って行けなかった。だからこそ、今回他人の遺品整理なんて面倒なことにわざわざ足を運んだのは、葵と付き合っていた奴がどんな男だったのか知りたいという下心もあったせいだ。
しかしそこにまさか男の前妻との間にできた息子が手伝いに来ているとは知らなかった。青年は最初、原田の姿を見て不審に思っていたし、原田にしても同様だ。その後、青年が前妻の息子であること、原田が葵の古い友人であることを互いに理解するまではしばらく気まずい空気が漂っていた。説明をした葵自身はあっけらかんとしていた。こういうことは事前に知らせて欲しい、と心の底から原田は嘆いた。
その息子である二十代の青年、草市によると、葵は草市の父親と結婚を前提に付き合っていたがしばらくして病気で臥せてしまった。それでも葵は変わらずに恋人という立場を貫き、面倒を見、最終的には看取った。その父親が生前、葵に遺した言葉が『土葬にして欲しい』というものだった。籍も入っていない上に病気になって面倒な遺言まで彼女に託すなんて、とどこか憎々しげに草市は話す。
「男って勝手だなって思うんです。病気のことじゃないですよ。もちろん自分も男だし、厳密には父の世代の男の一部に思う感情であって全員ではないんですけど、そいつらはどれだけ普段、女性に偉そうにしていたって、結局は女性の世話になるんじゃないかって思うんです」
「君のお母さんは何か言ってるの?」
「いいえ、離婚後の恋愛だし。葵さんと僕の母との間に確執はないですよ」
草市は葵に親しげに「ね」と返事を促し、葵もこくりと頷いた。
「何より実子である僕が葵さんに感謝しているので……。父が死んだ時も葵さんがいなければ孤独死で片付けられたと思います」
そして草市と葵は協力して死する父親の最後の願いを叶えた。そこで先の質問が飛んできたと言う訳だ。
「でも土葬ってタイムカプセルみたいでいいじゃない」
「あばく気ですか」
草市の返事に葵は屈託なくころころと笑う。
「草市くんはあのひとの息子さんなのに全然タイプが違う」
「顔は不気味なほどそっくりなんですけどね」
「本当よね」
そしてまたころころと笑う。葵は昔からよく笑う人なのだ。
「多分、父が割と破天荒な人間だったから息子は反面教師で慎重に育ったんだろうなって思います」
「そうかもね。『割と破天荒』って変な言葉だけど」
そう言ってはまた笑う。しかし巷では色んなタイプの家族が増えたけれど、まだまだ日本は世間体を気にしてお堅い意見に縛られている連中も多いのだから、亡くなったのが父親とは言え、息子が現在の父親の恋人の家に行くなんて大抵の場合、眉を顰めるだろうし、義理堅さを優先するなら母親が来るのが筋だろう。けれど、この草市という青年は葵によく懐いていた。言い方が正しくない。何と言うか、性別を越えた接し方をしているようで原田は不思議に思った。そしてこの草市の外見が葵の男にそっくりだという言葉にも少々反応した。
亡くなった男には本当に遺産がなにひとつなく、遺されたのは遺品整理と言う名目の掃除だけだった。この部屋も元々葵がひとりで住んでいた部屋で、そこに転がり込んで一緒に住んでいた。そのため、ただ荷物が増えただけだった。遺品は、下着や日用品などは既に処分したが、それ以外の礼服や、ネクタイ、時計、鞄等を葵はどうしたら良いのかわからないようだった。しかしまだ着られると言っても原田はその男の服なんて着たくはなかったし、草市も趣味じゃないと言う。おまけに服を畳もうとするとポケットからいちいち何かが出てくるのでその度に手が止まってしまう。何でもポケットに入れて持ち歩く癖があったようだ。それでも葵は新居に引っ越すかのように楽しそうに遺品をあれこれ動かしている。
「あ、これまだ持ってたんだ」
葵が紺色の上着の胸ポケットから転がり出て来た物をつかまえて言った。それは親指の先ほどしかない小さなプラスチックの招き猫だった。
「なんだ? それ」
「夏に夜店に行った時に見つけたの。お守りでも何でもないって言われたんだけどなぜかあのひとがとても欲しがって。猫が大好きだったのよ。そうそう、猫の写真集なんかもたくさんあるわ。それは私も見るから捨てないけど……。それでこういう物も見つけるとずっとそこを動かないの。これは数百円で買ったものだけどものすごく喜んでいつも持ち歩いていたわ。このジャケットもよく着ていたものだったの」
そんなふうに葵自身が関わった思い出の物に突き当たるとその逸話を昨日あったことのように言葉に掬い出しては原田と草市に聞かせた。
原田から見るとただの壊れたおもちゃにしか思えなかった。
「もしかして、引き出しとかにそんなやつがいっぱい入ってるんじゃないのか?」
原田が何気なく言ったひとことが発端で箪笥の一番上の引き出しを外して持ってくると、原田の言う「そんなやつ」がたくさん見つかった。小さな裁縫セットに入っていた鋏、新品のようにきれいな蝶番、小箱に詰めたねじ、日本刀の形をしたペーパーナイフ、キーホルダー型のペンライト、先ほど見つけた招き猫のように小さな物は、猫ばかり蒐集していたようで洋菓子の空き缶の蓋を開けた中に白いのや黒いのやブチに三毛などたくさんの猫がびっしりと体をすぼめるようにして入っていたのを見つけた時には、葵が思わず声をあげて狂喜した。
「父は猫アレルギーだったんですよ」
「そうだったの? じゃあ本当は飼いたかったのかな」
「うーん、でも父が世話をするのは想像がつかないや……」
「ベッドの中で私のことをたまに僕の大事な子猫さん、なんて言ってくれたことがあったわよ。それで満足してたのかも」
原田はぎょっとした。息子に聞かせる話にしては生々し過ぎないか? 原田は思わず葵の話を遮った。
「大丈夫です。気にしないでください。葵さんが話す父の姿は僕の知らない男なのですごくおもしろいんです。そうか、葵さんが子猫ですか。父にしてはなかなか洒落たこと言いますね」
原田はこうして淡々と話す草市も少し謎を秘めている存在に思えた。
「ね、どちらか、お昼ごはん作ってもらえるかな。戸棚にスパゲティと和えるだけのソースが入ってるんだけど作るのお願いしてもいい?」
気がつくと原田と草市はまったく手を動かさず話に夢中になっていた。
「あ、うん。ごめんなさい、気がつかなくて」
草市が言って立ち上がったので原田もとりあえず痺れそうになっていた足を動かし、男二人でキッチンに立った。戸棚を開けると中はさっぱりしていて物が少なかった。そこからスパゲティと和えるだけのソースの袋を取り出して鍋に水を入れた。湯を沸かし、スパゲティが茹で上がる間、草市は葬儀の時の様子を原田に話してくれた。葵がいつも少し抜けているような態度で物事を笑い飛ばし、深刻さを煙に巻いてくれるおかげで救われた、と言った。
「葵さんはお葬式で、常に唇の端にわずかな微笑みを携えてその場を取り仕切ってくれました。最初こそ親戚連中が『あの女は遺産目当てだ』なんてうるさかったけれど、結局、葵さんほど段取りの良い人間などいなかった。本人にはなかなか言わないけれど母だってとても感謝しているのをぼくは知っています。
ぼくの両親が両親であった頃の父は酷く荒んだ性格で母はいつも情緒不安定だった。その余波がぼくにも影響しました。正直それまで父のことが大嫌いだった。それがたった数年後、父が葵さんと出会って驚くほど静かな老人になったんです。魔法のようでした。ただそのあと病気になってしまったのは不運だったと思います。そのために父と葵さんの恋愛生活は長く続けられなかった。母と一緒にいた年月とは比べ物にならない。
けれど葵さんから連絡を受けて病院に駆けつけて父の最期の顔を見た時、ぼくも母も絶句しました。すごく穏やかだったんです。いつも目を吊り上げている顔しか知らなかったぼくは初めて見る父のそんな顔を見て泣けてしまった。父は幸せな惰眠を貪るように少しずつ少しずつ永遠の眠りについたんです……」
草市の理路整然とした話し方を原田は小説の物語のように聴いた。
草市は話しながらスパゲティの茹で時間を計り、好みの硬さに茹で上げると、ざるで湯切りをしてソースを絡めた。慣れた手つきだった。原田はほとんど手出しをせず、せいぜいソースの名前を憶えたくらいだった。ソースの袋には『濃厚チーズのカルボナーラ』と書いてあった。三人分の揃った食器がなかったため、適当な器を三つ選び、スパゲティを盛り付けてダイニングテーブルに移動した。
「スパゲティって父は食べました?」
「ううん。これはもっぱらわたしの夜食用」
「やっぱり」
原田は何となく自分の出番がないように思えてスパゲティをフォークに絡ませながら部屋を見渡すと遺品以外に置いてある物が少なく、がらんとしていた。葵はそんな原田の視線に気づいた。
「物が少ないでしょう。私は何かを集めるような趣味はなかったし、雑誌にしても読んだらすぐに捨ててしまうし、お洒落にも興味が薄いし、強いて言えばそんなふうに物を少なくすることが趣味だから。あのひとの服だってほとんど私は着られないものばかりだし形見にするものが見つからなくて少し途方に暮れてた。だからほんとはね、あのひとが土葬を希望しなかったら小さくてもいいから骨が欲しかった」
原田はぎょっとして葵を見た。
「結構、作家さんとか有名人でもいるでしょ。勝新だってお兄さんの骨をマスコミの前で食べちゃったじゃない」
「カツシンて誰ですか」
「勝新太郎。俳優だよ」
「葵さんも食べたかったんですか?」
「うん」
とりあえず動揺を隠したくて原田はスパゲティを頬ばった。草市は葵の言葉にそれほど驚いてはいないようだった。
「だから、あの小さな猫たちが見つかって嬉しい。あの缶ごと大事にするわ」
葵はスパゲティを頬ばりながら幸せそうに笑った。
夕方になり、何とか片付けに区切りをつけた。どれほど荷物が少なくても遺品整理となると時間がかかってしまうものらしい。ましてや、ただいらなくなったものを捨てるのではなく思い出との決別も意味するせいだろう。三人でゴミステーションに纏めたゴミを出しに行くと近所の住人らしき女性数人がこちらを見ていた。葵が「こんにちは」と明るく声をかけたが、彼女たちは少し頷いただけで声を発しなかった。しかし何か言いたげな目をしているのはこちらにも伝わった。
「なんですか?」
草市がずばりと彼女たちに声をかけたので、原田も当の女性らも戸惑った。
「あなた……あの亡くなった方の息子さんなのよね」
「はい。そうです」
「お父さんにお顔がそっくり」
「よく言われます」
彼女たちは次に原田に目をやった。
「あら! もう新しいひとができたの? やるわねえ」
草市は原田の静かな怒りに気づき、落ち着くよう原田の肩に手を置き小声で、放っておきましょう、と言った。
「葵さんっておとなしそうな顔をして抜け目ないのね」
一人の女性の嫌味な一言で原田は頭に血が上った。原田は草市の手を振り払い、ひとこと言ってやろうとしたが、その僅かな一瞬、ゴミステーションから、ガン! と大きな音が響いた。その場にいたみんなが驚いて思わずそちらを振り返った。
ゴミステーションの前に両腕をだらりと下げた葵の後ろ姿があった。ゴミステーションを囲む鉄パイプを葵が思い切り蹴ったのだ。誰かを怯えさせるには充分な迫力だった。正直、今も残響が頭の中でぐわんぐわんと揺れている。微動だにしない後ろ姿であるはずなのに葵の物言わぬ背中は全員の眼前に迫って来るようだった。葵はゴミを置いたその場所をじっと見つめていた。いや、ゴミではなくゴミや地面を通り抜けて誰も見ることのできないどこかを見ているようで誰も話しかけられない雰囲気を纏っていた。その葵が、くるりとこちらを振り返ったのでその場にいた者は皆一様に心臓が止まりそうなほど驚いた。
「いやですね。冗談ばっかり言って」
葵は拍子抜けするくらい、いつもの調子でうっすら笑い彼女たちの顔を順番にゆっくりと眺めながら近づいていった。そこまでいつもどおりの葵があまりにも不気味で彼女たちも葵につられて笑顔を貼り付けていたが、明らかに葵に対する恐怖で引きつっていた。葵はそのまま彼女たちの横を素通りして部屋のドアを開けた。早足になっていたので原田と草市も慌てて葵の後を追い、閉まる寸前のドアを手で押さえて中に入った。あの女どものことなんて知るもんか。どうだっていい。
葵は大雑把につっかけを脱ぎ捨て、そのままベランダまで歩き、やっと足を止めた。
「大丈夫か?」
「大丈夫ですか?」
男二人は同時に葵に話しかけた。草市は葵のつっかけを揃えてくれていた。
「ごめんね。せっかく作ってくれたスパゲティおいしかったのに」
「僕は平気ですよ。噂なんて噂でしかないんですから。いつでも声をかけてください。あんなくだらないことで遠慮なんてしないでくださいね」
草市は葵に丁寧で優しい言葉をかける。原田は草市のまっすぐさと葵への心遣いに対して素直に感心したが、ちらりと嫉妬も混じった。大人である原田が葵に言うべきことのような気がしたからだ。
「ありがと。草市くん、ちょっとお願いがあるの。目を瞑ってもらってもいい?」
「目を瞑る?」
「うん」
「ここで? このままでいいんですか?」
「うん。できれば一分間」
「いいですよ」
草市は葵の前に立ち、ぎこちなく目を閉じた。原田は一体何が始まるのかと思い、二人の顔を交互に見た。葵は目を閉じた草市の顔をただ見つめていた。その間、一瞬だけ葵の指が草市の頬に伸びかけたが、そのまま動きを止めて手を下ろした。目を閉じたままの草市は葵の動作に気づいていないだろう。原田は葵の意図を読み取り落ち着かなかった。しばらくすると「はい、一分経ちました」と言って、葵は草市の肩を軽く叩いた。それが合図のように草市がゆっくりと目を開いた。部屋の僅かな光で草市の瞳孔が拡張したのが葵の目に映った。
「ありがとう」
「いいえ」
草市は答を知っているかのように、葵に訊ねたりしなかった。
草市が帰宅する時間になり、原田と葵に挨拶を告げた後、玄関を出て駐輪場に停めてあった自分の自転車に乗り、一度二人を仰ぎ見て手一礼をした。原田も礼を返し、葵は手を振った。草市の姿が見えなくなるのを見計らい、玄関のドアをしっかり閉めてから原田が切り出した。
「おまえ、もしかしてあいつに死んだ男の面影を見てるのか?」
どうして別れた女の次の男のことがこれほど気になったのか。なぜこうして来てしまったのか。謎めいた女、と一言で片付けてしまうには納得の行かないことが多すぎたからだ。葵は原田の恋人だった時からそうだった。いつも何も言わない。肝心な事を言ってくれない。いつもこちらが気づいてから、遅かった、と思わずにはいられない。葵は常にこちらを悔やませる女だった。思わず原田は葵の肩を掴んでこちらを向かせた。
「あいつはおまえの男の息子であっておまえの男じゃないんだからな」
「そんなこと……。急にどうしたの」
「じゃあ、なぜあんなことさせたんだ?」
「目を瞑ってもらうって、そんなにいけないこと?」
葵がまっすぐに見つめるので一瞬、原田は怯んだ。
「……誤解を生むかもしれないだろう」
「まだ生まれてもいないことについて心配してるの?」
「そうだよ。さっきみたいに噂好きの連中にでも見られたりしたら何を言われるかわからないからな」
「草市くんとは普段から今日みたいに何の気を使うこともない関係よ。年の離れた姉弟みたいで、いつも笑ったり笑わせたりしてるわ。草市くんはあのひととまるっきり違うの。思っていることをきちんと言葉にできる子。あのひとはまったく逆で、感覚だけで喋るから何を言ってるのか意味がわからないことが多かった。それでも私はこんないい加減な性格だし、もどかしそうでも最終的に出てくる言葉を探し当てるあの人をとても楽しい人だと感じたのよ。あの人にとっても自分の言葉にならない感情を受け止めてもらえたことが新鮮だったみたい。
それまでは随分と周囲から『きちんと話せ』って咎められたらしいの。長い時間ずっと傷ついてた。私にはあのひとが純粋そのものに見えた。私たち二人でものすごくたくさん話をしたわ。他愛もないことばかりだったけど。互いを見て、頷いて、また言葉を返す。そんな単純に思えることをあのひとは今までできずにいた。それがやっと自然にできるようになった時病気になって、呆気ないほどすぐに逝ってしまった。
さっき改めて草市くんを見た時、なんてそっくりなんだろうって思ってつい言葉に出ちゃった。見ていたかったの。でも見つめ合うのは何か違うと思ったから目を瞑ってもらった。一分間よ。そのくらい許してよ。私にはあのひとが最後の恋なんだもの」
そんなに詳しいことまで聞く気はなかった。しかし葵はするすると死んだ男について語った。
「これからのことはわからないだろう? 出会いなんてどこに落ちてるか」
葵は答えず、笑ってはぐらかしたが少しだけ原田の目を見た。一瞬何か反応が返ってくるものと思い原田は期待したが、葵は空気を動かすだけのため息のような囁きを発しただけで、もういつもの葵に戻り柔らかく微笑んでいた。ラジオからは場違いに明るい流行りの曲が流れていた。
しばらく世間話をしたあと、原田も葵の部屋を出た。
法事にも来ると言ってくれたので葵は最初恐縮したけれど「乗りかかった舟だ」とか何とか言って、勝手に原田自身が盛り上がっているようだったので葵もわざわざ断らなかった。
それにしても随分と内面をさらけ出してしまった、と葵は恥じた。あれ以上一体何を話せと言うのだろう。もう二度と誰にも話さない。あとは秘密。私と、そして草市くんの。葵は誓う。
今日という日を終え、風呂で一日分の汗を流し、後は眠るだけのベッドの上で葵は葬儀を終えたあの夜のことを思い浮かべる。ゾンビだろうと何だろうと、もしもあのひとが黄泉の国から会いに来てくれるのならどんな姿だっていいと思ったあの夜のことを。
そんなものは幻想で、もう二度とあのひとは葵の前には現れない。あの日、そう思うと気が狂いそうになった。葵はそのまま何もかもかなぐり捨てるように部屋着のまま靴も履かず、真夜中に墓地へと駆け出したのだった。あのひとの遺体の横に私も寄り添おう。そのまま土を被せてしまおう。ただその一心だけで。しかし、息を切らして着いた墓地には先客が、草市がいた。葵はあのひとの息子である草市の前でだけは務めて感情を露わにしないようにしていた。それが礼儀だと思っていた。それなのに。思いがけない所で思いがけない状態で再会してしまった。
それに今、草市を前にしている葵は涙で顔がぐしゃぐしゃになっていて、頭もぼさぼさで、裸足で、服装もあのひとが愛用していたサイズの合わないものを着ていたため、肩が半分ずり下がっていた。そんな半狂乱の女を前にして、草市は何も問わず、腕を僅かに広げた。
「来るんじゃないかと思ってました」
「……見ないで」
言葉とは裏腹に、葵は駆けて行き、草市が広げた腕の中にすがるように飛びついた。
その勢いで二人して土の上に転がった。月明かりが照らし出した草市の顔が葵の目に映る。先ほどの小さな独り言のような葵の呟きを守るように草市は目を閉じてくれていた。たまらなくなって葵は草市の胸の上で泣き崩れた。心臓が潰れそうだった。喜びも哀しみも、色褪せたはずの欲情も、この瞬間にすべてが溢れ出し、葵は塞ぐように草市に口づけ、土まみれになって草市をかき抱いた。草市は獣のような葵が不思議なくらい自分の体と同化していくのを感じていた。喘ぐような息で葵が見下ろす草市の顔に、葵の涙があとからあとから零れ落ちた。透明な血のような涙は葵の体中からすべて草市に向かって溶け出し、草市の体の内部へと浸透して行った。
また引っ越すのか。
さとみは、うんざりしてキッチンから話しかける母親の声を聞いていた。もう何度目になるだろう。何となく茶の間の窓のカーテンの隙間から目に入る公園の桜の木をぼんやり見ながら、さとみは思う。
最初に引っ越すことになったのは父親の転勤が理由だった。
その頃、小学校低学年だったさとみはクラスでも明るく人気者だったのでみんなと涙で別れを惜しんだが、新しい街でまたたくさんの友達を作って行こう、という希望を持っていた。折しも桜が咲く季節だったので、さとみの状況とは違っても出会いや別れはあった。
しかしある日突然父が失踪した。その街に着いて二ヶ月経った頃だ。引越し後、父と母の口論を度々目撃することはあったが、まさかいなくなるなんて。その頃の母は夜中にも関わらず親戚中に電話をしては泣いていた。一体何が起こったのかわからない小学生のさとみにとって、その声は耳障りで堪らなくてなかなか眠れなかった。それから何日もしないうちに引っ越しが決まった。友達関係が少しずつ構築できて来た頃だったのでさとみは反発したが所詮子どもの意見は通らず、夜明け近く夜の電車で引っ越し先の家に向かった。さとみは昼の明るさを消してモノクロに染め上げてしまう夜の電車も、桜の花も、そこからすべて苦手なものになった。
その街もまた半年を待たずに引っ越した。その次の街も、またその次の街も。さとみはもう友達を作るのをやめた。疲れてしまった。ある街では学校に行かずそのまま昼間の時間を散歩して過ごし、ある程度の時間になったら家に戻るということもしばしばあった。どうせ誰も気にかけない。気にかけるとすれば補導員とかどこかの知らない男の人くらいだったので散歩すら面倒になり外に出ることもしなくなった。母親はずっと失踪した父を捜している。噂を聞けばそこへ行く。それが引っ越しの理由だった。さとみは父に対してそんなに深く考えたことはなく、注意をされるから怖いと思っていたのでいなくなって自由になり、良かったとすら感じていた。絶対言えないけど。けれど母だっていつも父を足蹴にしていたのにどうしていなくなったらこんなに慌てるのだろう。自業自得ではない? さとみは冷めた目でふたりの大人を見ていた。そして、さとみは十四歳になった。
次に引っ越して、転入した学校では誰からも相手にされなかった。
いじめを受けていた訳ではなくて中学二年生の途中からだと、既にそれぞれグループが出来上がっていたため入って行けなかったのだ。要するにみんな無関心だった。さとみは自分が透明人間になったようだと思ったが、それでも気にならず悲しくも淋しくもなかった。どうせまた引っ越すのだから馴染まない方が楽だ。そんなふうに諦めていた。頬杖をついて自分の席から外を見ると桜の木が連なり、蕾を持っていた。ああ、だからこんな気持ちなんだ、と投げやりな自分を桜のせいにした。ふと気づくと、さとみの隣の席がいつも空いていたので不思議に思い、別段無視をされている訳でもないので新しいクラスメイトに問うと不登校をしている子だと言う。その子の名前は川田友子、と言った。
ある日、学校に行くのが面倒で休んで家にいると電話が鳴った。川田友子からだった。川田友子は自分と同様に学校を休んでいる人間に興味があるから電話してみたのだと言った。
「ええと、初めましてだよね」
少し緊張してさとみが訊ねた。
「うん。会ったことないもんね」
川田友子は電話口で人懐こく笑った。その声に何となく安心してさとみは友子を家に呼んだ。
「えっ、いいの? 家の人は?」
「うち今、お母さんしかいなくて昼間は仕事に行ってるからいないんだ。おいでよ」
そうして訪ねて来た友子は、同い年とは思えないほど、すらりとした長身で髪が金色で長くうねり、ほんのり化粧を施した顔がとても綺麗だった。最初は互いにもじもじと自己紹介のような話し方をしていたが、学校に行きたくない理由を話しているうちにどうでもよくなり興味のある物事に話は移っていった。すると友子は突然、さとみの前髪に触れてきた。
「目の中に髪の先が入ってるよ、痛くない?」
「そう言えばしばらく切ってないなあ」
「切ってあげようか? わたし上手いんだよ。将来美容師になりたいんだ」
「ほんと? 切って切って。あたし、そう言うの苦手でできなくて伸び放題になっちゃう」
さとみはわくわくして鋏を持ってきて彼女に渡し、新聞紙を体の前に置いて前屈みになった。友子が前髪を櫛で梳く。暖かい手で気持ちいい。しゃきん、と鋭い音がして新聞紙の上にさらりと髪が落ちた。友子の手は良い香りがした。香水でもつけているのだろうか。その指先も薄い色のマニキュアが塗られていた。
「はい、できました。見て」
友子の言葉に我に返ったさとみは、いそいそと鏡を見に立った。どきどきして覗くと程よく切り揃えられた前髪は、さとみの顔を明るく見せてくれた。
「うわあ、なんかかわいい! あたしじゃないみたい。すごいね。上手!」
「本当? 良かった。ね、友子って呼んでいいよ。わたしもさとみって呼ぶから」
「うん。じゃ友子、ありがとう」
さとみは照れながら言って切りたての髪を触った。遅い時間になったのでふたりは明日も会う約束をして手を振った。友子が学校に行かない理由は、さとみの家のように父母の仲が悪いのともうひとつ、優秀な姉と比較されるせいだと言う。最初は反抗して学校にわざと行かずにいたのだが、いつの間にか行きにくくなってしまい、そのままずっと休みのままになっていると言う。さとみは一人っ子だったので姉妹がいるなんて羨ましい、としか思っていなかったが友子の話を聴いて姉妹がいると言うのも大変なんだな、としみじみ考えた。そして同時にそんな話をしてくれた友子という友達ができて嬉しかった。
その日、さとみは母が帰って来るのをわくわくして待っていたが、残業だと電話があり、がっかりして布団にもぐった。前髪を見てもらいたかったのに、と少し不貞腐れた。しばらく時間が経ち、眠っていたさとみが目を覚ましたのは、いつの間にか帰宅していた母が電話で話をしている声が聞こえたからだった。母はまた泣いていた。どうやら父の居場所がわかってそこに電話しているらしい。母は「どうしてよ、どうして」と繰り返していてそんなに泣いて何度も聞かれたら父も困るだろうな、と思った。どちらにしても、ちらりと見えた母は手が震え、背中も丸まっており、悲しみに充ちていたので、さとみには恐ろしくて声をかける勇気はなかった。
次の日、さとみと友子は人がいないのを見計らって近くの公園に飲み物を持って出かけた。休んでいるので仮に級友や学校の関係者に会ったら何を言われるかわからないので、そこだけは慎重になった。
「昨日、親がケンカしちゃってさ、うるさくって眠れなかった」
友子が言う。
「あ、うちもだよ。お母さんが電話口で泣いちゃって悪いけど面倒だと思った」
さとみも教えた。
「ああいうのって困るよね」
「うん」
「何だってうちらのこと考えてくれないんだろうね。一応わたしもどうしたらいいのか迷ってるんだけど」
「何を?」
「学校だよ、行こうかなって思って」
おいでよ、と、さとみは喉元まで出かかったが自分も時々休んでいるので黙った。
「このままじゃ何にも動かないからさ」
友子はブランコを軽く揺らし、遠くの景色を見ていたがその目は景色をすり抜けて、もっともっと遠くを見つめているように見えた。さとみは自分よりも友子の方が学校に行かなければいけないように思える。何故なら夢を持っていたからだ。そのことを友子に告げた。
「そっか。だからわたし焦ってるのかな」
友子は淋しそうに笑って、ふたりはその後も夕焼けが消えるまで一緒にいた。さとみ自身は時々休むくらいで訝しく思われない程度に登校していたが、友子は本当にまったく学校に来ない。友子の席はいつもぽっかりと空いていて今ここに友子がいれば、と思わなくもなかったが、その一歩を友子は迷っている。その小さく芽生えてきた気持ちを大切にしてあげたかった。そしていつ引越しの話が来るのかと内心びくびくしていた。友子といると本当に楽しくて大切に思えたからだ。
そんな中、さとみは十五歳の誕生日を迎えた。友子はコンビニでショートケーキを二個と飲み物を買ってきてくれた。
「ありがとう。すごく嬉しい……」
友子は細いきれいなキャンドルを出してケーキに刺していった。そしていきなり友子は調子っぱずれな声で歌った。
「ハッピバースデイトゥー さーとみー」
その歌声に驚きつつも、さとみは鼻の奥が急につん、として涙が溢れた。
「やだ、どしたの?」
「嬉しいよ、こんなの初めてだよ。ありがとう、友子」
さとみの言葉を聴いて友子の目も潤んだ。キャンドルの灯りのせいかも知れない。少し照れて笑いながらふたりはケーキを食べた。こんなにも甘くておいしいケーキをさとみは初めて食べたと思った。
ある日、さとみの下校途中を待ち伏せて友子がいた。そしてそのまま今日は誰もいない、という友子の家に行った。
「わたし、明日教育委員会の人に会ってくるんだ」
「教育委員会?」
「うん。わたし結構な日数休んでるから留年になるかも知れないんだ。その話を聞きにね」
教育委員会、という言葉はさとみにはどこか重くて理解できない類のものであったが友子が真正面から自分の道を切り拓こうとしている姿は眩しく映った。
「あたしにそんな大事なこと言っていいの?」
「あんたにだから言ってるの!」
そう言って友子はさとみの髪をくしゃくしゃにした。重要な話を終えるといつものお喋りになり、ひとしきりそうして過ごすとすぐに時間が経った。さとみは帰り支度をして玄関で靴を履いた。
「わたし、さとみに出会えたから決心がついたの」
唐突な友子の言葉に思わず靴を履く手を止めた。
「みんな、こんな金髪の一匹狼みたいなやつ話もしてくれなかったもん。訪ねて行ってもそこの家の親に断られたり、学校で配られたプリントに、わたしに気をつけろ、まで書かれたし」
さとみは振り返って友子の顔を見た。友子の目は涙でいっぱいで今にもこぼれそうだった。さとみは言葉を失くして、ただ友子を力いっぱい抱きしめた。友子の髪が揺れて一瞬輝いた。靴脱ぎの段差でやっと揃う二人の身長は、抱き合うとちょうど同じ高さだった。友子は声を出さずに体を震わせて泣いていた。その静かな泣き方は我慢を重ねてきた証に思えてさとみは表現し難い感情に包まれていた。その感情に押し潰されそうだった。
さとみが家に戻ると母が帰ってきていた。夕飯の温かな煮物の匂いと久し振りに聞いた「お帰りなさい」と言う声を聞いて少し、ほっとした。
「あら、さとみ」
「なに?」
「前髪、切ったの?」
「もう結構前だよ。友達で将来美容師になりたいって子がいて切ってもらったの。もう伸びてきてるのに」
「あら、そうなの。上手ねえ」
「でしょ?」
さとみはそれでも母とは仲が良かった。ある意味わがままな女友達のような気がしていた。父とのことを除いては。
次の日、約束をして友子と会った。友子は出席日数が足りなかったため、留年したと言う。
「一学年下になっちゃいました。さとみセンパイ」
「うそ!」
「でも仲良くしてよね」
「当たり前じゃない!」
「ま、少しバツは悪いけどちゃんと卒業して美容学校に行くんだ」
「すごいよ、友子。あたしなんて何の目標も持ってないよ、十五歳になったのに」
「そう言えば、さとみは卒業したらどうするの?」
「就職」
「高校行かないの?」
「うん。お母さん一人で働いてるから」
「そうかあ。でも色んな道があるもんね。お互いがんばろ」
「うん」
そんなふうに決意したその日の夜、さとみは母から引っ越しが決まったと告げられた。夕飯を食べ終えてのんびりしていた矢先だ。今まで引っ越しの話を出されても、さとみは、はいはい、仕方ない、と肩をすくめて頷いた。けれど今回ばかりは動揺し、反撥せずにはいられなかった。
「行きたくない! すごく仲の良い友達ができたんだよ。離れたくない」
そう言っても母親は黙って洗い物をしていた。さとみはそんな母親を憎らしく思った。
「……そんなに大切なの?」
さとみは俯いて問いかけた。
「何が?」
「お父さんが」
母親は洗い物をする手をぴたりと止めた。
「あたしは今までの生活で満足してたよ。もう何年もお父さんに会ってないし、今帰って来たって素直になんかなれないと思う。お母さんは平気なの?」
「帰って来て欲しいから捜してるのよ」
「……また口ゲンカ始めるくせに」
さとみは腹立たしくなってきて、くぐもった声を出した。
「なんですって?」
「お父さん、何でいなくなったの? お母さんが嫌になったから出て行ったんじゃないの?」
「違うわよ! 女ができたからよ!」
母は大きな声で叫んだ。その拍子に持っていたコップを落とし、キッチンの中で割れた。鋭利な音が部屋中に響いてさとみは驚いて体が竦んだ。母親もはっとしてすぐに割れたコップを片付けた。
母はたどたどしく言葉を選びながらその経緯をさとみに話した。そうだったんだ。お父さんには女の人がいたのか。浮気ってやつだ。お母さんがいるくせに。何度目かの引っ越し先でたまたま行った飲み屋で出会い、そこに勤めている女の人と恋に落ちたふたりは手に手を取って、それで逃げてしまった。それを知った母は興信所に頼んでふたりを追跡し、見つけた。さとみが友子に前髪を切ってもらい、母親が残業だと言っていたあの日、実は母はさとみに嘘をついて父のいる家に向かっていたのだ。その時、父が、つまり母にとっての自分の夫が、自分が買った物とは似ても似つかないラフな恰好で玄関口に出てきたのを見て泣き崩れたと言う。
ごめん。
その時、母に向けた父の言葉はそれだけだった。
母の姿を想像すると哀れに思えた。お父さんも逃げ回ってないでどうして話し合いをしなかったんだろう。そう思うけど、だけどたった一言、ごめん、としか言わないそんな人が帰ってくるって本気で母は思っているのだろうか。謝られた時点で、もう帰らないよって言っているように聞こえない? 理解できるけれどしたくないと、さとみは思う。理解して認めてしまったら大人の事情で大切な友人から離れてしまうことも認めてしまう気がしたからだ。押し黙るさとみの肩に母がそっと手をかけた。
「そんなに遠い街じゃないのよ。そんなに大事なお友達なら行ったり来たりできるじゃない」
さとみは母の手を振りほどいた。
「お母さん、わかってないよね。そんなのすぐ終わるのよ」
さとみの目はきつい光を放って母を睨んでいた。
「一度遊びに来たら、今度電話するね、手紙書くね、そう言って一度は来るけどそれだけ」
実際に、何度も何度もさとみが経験したことだった。
「だからそれは、それだけのお友達だったからでしょう?」
「それぞれの街で暮らしていて普通に同級生もいる子たちがわざわざ遠いところに行った友達の所に来ると思う? 受験のシーズンなのに」
何だか言えば言うほど言いたいことから遠ざかって行く。こんなことが言いたいんじゃないのに。友子。友子。どうしたらいい? さとみはそのまま夜中だと言うのに家を出た。背後から母のさとみを呼ぶ声が聞こえた。
「すぐ戻るから放っておいて!」
こんな時でも母に心配をかけたくない気持ちが言葉に出た。情けない。さとみは自分の気遣いにも腹を立てていた。現に角を曲がると母はさとみの言葉を信じ、追ってくる声も聞こえなくなったからだ。
さとみは友子に会いに行こうと思って飛び出したが、思い切り走って涼しい風を浴びたことで少し冷静になって考え直した。こんな時間によその家に行くなんて迷惑になるし。さとみはため息をついて結局いつも二人で行く公園に一人で行った。公園の桜が満開になっていた。
たったひとつの街灯の中に浮かび上がる桜の鮮やかさは美し過ぎてさとみを戦慄させた。怖い。何もできない。こんな中じゃ。そう思った時、桜の花びらが今にも煙になってさとみに襲いかかってくるように感じて思わずその場にしゃがみこんだ。その時、ブランコが軋む音がして、金色の髪の見慣れた人影が動いた。
「友子……?」
「さとみ? どしたの? 泣いてるの?」
さとみはいつの間にか涙を流していた。友子に言われなければ気づかなかった。
「友子こそどうしてここにいるの?」
「桜の中で感傷に浸ってたのさ」
軽く笑った。笑いはすぐにやんだ。
「また、引っ越すことになっちゃった」
さとみは友子に告げた。
「そっか」
思ったより友子は落ち着いて返事をした。
「確かに嫌だよね。それに子どもが何にもできないって言うのも癪だ」
「うん、まだ一人暮らもできないし」
「でも別にあたしたち、離れるからって不安?」
友子の言葉に驚いた。今までの友達とのことをさっき母に話したように友子にも話した。
「確かにそれだけの間柄だったんだよ」
「だって、また来るね、って言ってたんだよ」
「でもその言葉をさとみは信じていなかったんでしょう?」
「うん……」
「もしもね、わたしたちが電話番号や住所書いたメモを渡しても互いが忙しかったら、やっぱり自分の方が優先になると思う」
「どうしてそんなこと言うの?」
「待って。最後まで聞いて」
激昂しかけたさとみを制して友子は話を続けた。
「でもね、わたしはいつもさとみに話したいって思ってるよ。その気持ちは会わなくたって変わらない。会う時までに話を心のどこかの袋みたいなとこに貯めておいて次に会った時にぶちまけて笑い飛ばしちゃおう、って思う。さとみにも一緒に笑い飛ばしてもらいたいから。さとみの代わりには誰もなれないよ。さとみにだからそう思うんだよ。だから半年離れても一年離れても絶対に会いに行く。話がしたいから」
真っすぐな友子の瞳はきらきらと桜を反射するように輝いている。
「あたしも友子にだから話したいし、ぶちまけたいし、会いたい」
「そうでしょ」
友子はさとみの髪をそっと撫でた。
「それにね。ちょっとしたことじゃ切れないよ、この縁は。なんたって不登校仲間だったんだから」
そう言うと友子は腰に手を当ててモデルのようなポーズをとった。
「それって全然偉くないよ」
「うん、まあ、偉くはないけど愚かでもないでしょ。言ったもの勝ちさ!」
そう言って笑う友子の顔の周りで桜の花びらが舞っていたので、友子が舞台の上で派手な外国人を演じる役者のように見えた。
ずっと同じ悩みを抱え、思えば出会ってそれほど時間も経っていないのに誰よりも気持ちを理解し、理解されているようだった。そして短い時間の中で前髪を切ってもらったり、ふたりで誕生日も祝った。内緒の話を、誰にもしたことのない話を、さとみは友子にだけ話した。それは友子にとっても同じことだった。だからこそ大丈夫だよ、と友子は言う。さとみの頬を涙でくっついていた桜の花びらごと包んで。
「他に友達できても、恋人できても、どんな人か教えてもらうからね」
「あたしも友子の状況聞くよ。美容学校入れたかとか。その前に学校卒業できたかとか」
「そこ重要だよね」
ふたりは大笑いした。桜の花も笑っているように思えた。お腹を抱えて笑い、苦しくて千鳥足のようにふらふらと歩く。酔っ払いみたい。そう言えば、お父さんが今一緒にいる女の人ってお酒を飲む店で出会ったんだっけ。こんなに笑顔で色んなこと言えたら家になんか帰りたくなくなっちゃうかもね。母には絶対言えないけど。
── 結局、引っ越した先でさとみの暮らしは落ち着いた。
父はやはり戻って来なかった。母はしばらく親戚に救いを求めるほど落ち込み、少しの間病院通いもしたけれど何とか落ち着いて、新しい場所でパート勤めを始め、さとみも中学校からの支援もあり軽い面接のみで就職することができた。もちろん中卒なので大きな企業ではないけれど、さとみは多くを望んでいないから平気だと思っている。そしてさとみの髪を毎月切ってくれるのは友子だ。
それからさとみは慣れない仕事で、友子は勉強と受験とで、それぞれの忙しさで進んだ。毎日慣れない出来事が続いてさとみは疲れたが友子も美容師になるためにがんばっていた。そして時々友子から電話が来た。
「おばさん、こんにちわ。さとみいる?」
こんなふうにかけてくる友子の電話がさとみは好きだった。
「元気?」
「疲れた!」
毎度同じ返事をするのは、これから始まるお喋りの合図だ。案の定、軽く二時間を越えて話してしまうほど話が積もっていた。電話を切る時は、また貯めておくから、と言うのがふたりの決まり文句だった。仕事を始めてからさとみも友子も押しの強さが出てきて、時折軽い口ゲンカになることもあったけれど、きちんと意見を言って、解決させて、仲直りする。引っ越すことで何度もたくさんの理不尽な絶望感を味わい、会話とすること自体がさとみには慣れなくてなかなか大変だったけれど、向き合ってくれる友達がいる今は間違いなく幸せの道を見つけて歩んでいる、と思える。経験したことが糧になっているのだと。その言葉は他人に言われたら、私の何を知っているのだ、と腹が立つけど、自分で思う分にはいいのだと考えている。互いに「疲れた」と正直に打ち明けられるのは安心できる相手だからだ。いつもお腹をすかせていたような子供だったさとみは、友子との電話を切るとお腹がいっぱいになって満ち足りた、と思う。
今、友子の目標は車の免許を取ることだ。
友子は提案する。
「免許を取って車に乗れるようになったら、ふたりでこれまでさとみが引っ越して来た場所すべてにふたりで見に行こう、今はこんなふうに寄り道みたいに前に住んでた家を見る余裕があるんだよって確かめるみたいに。まあ、ちょっとした感傷旅行? そんな軽い気分で」
さとみは友子の提案に大賛成だった。もう夜の電車に乗らなくてもいいということ、一緒にその電車すら眺めてくれる友達がいることを、さとみ自身が実感したかった。
「車買ったら、海とか行こう」
「うん、約束」
「その前に免許取らなきゃ」
「そうだよね!」
ふたりは盛大に笑う。初めて会った頃から変わらない笑顔。
さとみの新しい家の窓からは毎年咲かせているであろうご近所の桜の花が見えた。その桜は公園で笑ったあの日の友子の笑顔のようで、もうモノクロにも見えないし恐怖で戦慄もしない。ただ儚くて美しいけれど毎年花を咲かせるほど強いのだと頼もしく思う。
一体この道はどこまで続いているのだろう。これは夢なのだろうか。
愛子はずっとそんな独り言を心の中で思いながら昼間から歩き続けている。繰り返される独り言は頭から離れず、振り払うこともできないまま、ここがどこなのかもわからない。陽が沈んだ山道は暗く、携帯電話はとっくに充電が切れていて腕時計も暗くてよく見えない。でも道は舗装してあるのだから間違いなく人間が拓いた道だろう。でもここで何か起きたとしても構わない。どうなってもいい。そう思っていた。今も思わないでもない。けれどたった今のこの状況は先ほどと少し違う。
真っ暗な中を歩く幽霊のような女に話しかけてきたツワモノがいたのだ。
「お姉さん」だなんて言って。こんな女に声をかけるような男はさぞや女に飢えているのだろう、と意地悪く思った。愛子は立ち止まって傍らに停まった車に目を向ける。
「こんな時間にこんなところを歩いていたら危ないですよ」
先入観で男だと思い込んでいたが車の中のその人は女性だった。愛子は少し驚いて沈黙してしまった。
「あの、もしもね……」
声と同時に助手席のドアが開いた。
「おかしなこと考えてるんだったらわたしに騙されたつもりで乗らない?」
「おかしなこと?」
「自殺とか」
思わず声の主の方を見る。
「別に攫ってどこかに売るとかしないから。わたしはこれから宿泊先のビジネスホテルに行くんだけど一緒にどう? 部屋は別々でも構わないし」
「お金ないの」
「払うわよ」
愛子は困惑して下を向いた。
「どうぞ」
彼女は助手席へと誘(いざな)う。こうなると断る方が失礼だと思える。しかしつい先ほどどうなってもいいと思っていたのだ。
「……ありがとう。乗せてもらいます」
彼女は親切に助手席のドアを開けてくれた。慌てて車に乗ろうと片足を浮かせた瞬間、足に力が入らずその場で転んでしまった。
「大丈夫? もしかして歩けない?」
「だ、大丈夫。慌てたからよ」
「どこから歩いてきたの?」
愛子が場所を告げると女性は驚いた。
「そんな遠いとこから?」
女性が大きな声で愛子に聞き返したので山に響いた。女性の声を聞いて我に返ると羞恥心が出てきて自分の足許を見てもじもじしてしまう。ここがどこだか判る? と聞かれ、首を振る。歩いて来るような距離でも場所でもないことを女性から聞かされた。愛子が歩いてきた所からだと車でも五時間以上はかかる場所だ。
「やばいから。熊出るよ。さっきラジオで襲われた人がいたってニュースやってたし」
熊……。さすがに人間以外に襲われるかも知れないというのは頭になかった。よたよたと歩き出し、やっと辿り着いた車のシートに体をうずめると何よりも柔らかだと思えた。女性は車内の照明を点ける。眩しい。
「足、平気?」
明るい中でもう一度自分の足を見ると靴が破れて指が数本顔を出していて、おまけに血が出ていて滲んだせいで靴ごと血まみれになっていたので愛子はぎょっとした。
「車を汚しちゃうわ」
「いいよ。近くに店があるからちょっと寄るね」
どうして、と言いかけて言葉にできない。疲労が溜まりすぎていた。どうしてそんなに親切なの。どうしてそんなに優しい言葉遣いなの。どうして……。
ドアが閉じる音がして、はっとする。眠っていたらしい。深夜まで営業しているドラッグストアに女性が入っていくのが見えた。車だとこうしてすぐに拓けた場所に着くのだ。しばらくすると女性はビニール袋を二つ持って店から出てきた。はい、と言って袋の一つを愛子に渡した。ごそごそと中を見ると底が平たいサンダルや靴下、レギンス、絆創膏など今の状況を救ってくれる物たちが顔を出した。戸惑って女性の顔を見るとこちらには目もくれず、もう一つの袋を開けていた。
「こっちは食べ物と飲み物。宿泊先のホテルまでまだ少しかかるからお腹に入れておくといいよ」
愛子の頭の中にまたたくさんの疑問が湧く。とりあえずズキズキ痛む足を消毒してマメが潰れた所に絆創膏を貼って靴下を履いた。ふっくらと足が包まれたようだった。そして恥ずかしさはあったがワンピースの下にレギンスを穿いた。こんな状況なのに、今の時代はファッションに多様性があって良かった、などと愛子は考えていた。袋の中にはまだ何か入っている。
「メイク落としシート……」
「余計なお世話かなとは思ったんだけど、あの、化粧が落ちてるって言うか」
女性はしどろもどろになる。愛子はバックミラーで顔を確認した。化粧が落ちてるなんて奥ゆかしい言葉で片付けられないほど、マスカラもアイシャドウも溶け落ち、顔がまだらに黒くなって、こすったせいで口紅の赤い色も顔中に広がっていた。つまり、ほとんど過ぎ去った車は案外本当に愛子が幽霊のように映っていたのではないだろうか。しかし酷い。酷さが突き抜けていて思わず笑ってしまった。
「こんなに酷い自分の顔見たの初めて」
女性も笑った。
「最初ぎょっとしたもん」
「こんな顔の人間に声をかけたあなたは勇気があるわ」
すると女性は不意にどこか痛んだような顔になり、下を向いてしまった。
「ごめんなさい。ありがとう」
愛子はこの何の責任も罪もない女性に心から非礼を詫びる。メイク落としシートで顔を拭くと涼しい風が顔中を愛撫した。拭き終えたシートを見るときれいに見せるためだった化粧は何もかもが混ざり合って汚れの色になっていた。それでも何とか人様を驚かせない姿になったと気を取り直して女性がくれた水とおにぎりを口にした。パリパリの海苔と鮭は、しょっぱくてたまらなく美味しかった。
女性が予約していたホテルは割と新しい外観のビジネスホテルだった。学生たちの夏休みが終わる頃と季節の行事がない時期のためか空き部屋がたくさんあり、すんなりとツインルームに替えてもらえた。それにここは多くの人が憧れるような土地でもなかった。都会でもなく田舎と言うには中途半端に物が揃っていて旅行先としては見過ごされてしまう地域なのだ。家から目的地までの休憩地点とでも言おうか。愛子は自分がしてきた恋とこの町が似ている気がした。
エレベーターに乗って部屋まで向かった。エレベーターの鏡には素顔によれよれのワンピース、ぺたんこのサンダルという井出達のいい年をした女が映っていた。それでも先ほどの姿よりは大分マシだと思う。泣き腫らした目はフロントで気づかれただろうか。女性を見ると長い髪をひとつに結び、丸首の黒い長袖Tシャツの袖を捲り、色褪せたジーンズを合わせていて飾り気がないのに華やかに映った。エレベーターを降りて女性はカードキーを通して部屋を開け、照明のスイッチを点けた。愛子はふらふら部屋を歩き、ほとんど吸い込まれるようにベッドに倒れた。
「少し休んでから色々するといいよ。わたしは先にシャワーを使わせてもらうね」
女性は既にタオルを用意してシャワーのドアに手をかけていた。
「……あなたの名前は?」
「友子」
「ともこさん」
「呼び捨てでいいよ。友達の友って書くの。あなたは?」
「あ、愛子です。愛する、の愛」
「好きな名前だわ。きれいよね」
友子は笑顔で答えてそのままバスルームのドアを閉めた。しばらくすると湯が出る音が聴こえた。乾いた部屋の空気がシャワーの湯の湿度で潤おってゆく。愛子は深呼吸をして淡いアイボリー色の天井を眺めているうちに眠りに落ちた。
目が醒めたときは既に友子がシャワーから出ていた。目が醒めた、と言うより起こされた。愛子は寝ながら泣いていたらしく友子が涙を拭ってくれてその手の感触で目が醒めたのだ。
「大丈夫? 吐くんじゃないかと思った。嗚咽してたから。具合悪い?」
「ううん、大丈夫。ごめんなさい……」
「謝ることじゃないよ。疲れたんだよ、あんなに歩いたんだもん」
友子の長い髪からシャンプーの香りが漂い、くらくらするほど心地良かった。
「ね、動けるようなら夕飯食べに行かない? ホテルを出てすぐの所に美味しそうな店があったから」
愛子は慌てて時計を見た。真夜中かと思ったら午後十九時だった。先にシャワーを浴びるのを選択してそれから夕食を摂ることにした。
友子が言っていた通り、ホテルの斜め向かいの場所に『お食事処 湖水の里』と書かれたのぼりを見つけ、暖簾のかかった引き戸を開けた。明るい和風の店内は塗り立ての漆のように艶やかでどっかりと力強いテーブルが印象的だった。席に着き、さっそくお品書きを広げる。車の中で食べたおにぎりでは到底満腹にはならなかった。愛子が定食を吟味していると友子も「それ美味しそうね」と言ったので同じものを頼んだ。
「『湖水の里 香り御膳』二つください。あとビールも」
注文した料理を待つ間にやって来たビールのグラスを軽く合わせた。
「こんなに親切にしてくれてありがとう」
愛子がそう切り出すと、友子は少し考えてから自分の話を始めた。
「多分、友達の影響だと思う。昔は一匹狼のヤンキーで誰とも口をきかなかったから。友達は中学二年の途中から転校してきた子でお互いに不登校してて話もしたことがなかったんだけど、どんな子なのかなって気になって訪ねて行ったの」
何となく意外だった。こうして目の前にいる友子という女性はとても人懐こくて物怖じもしない。圧倒的に相手を誘い込める力がある。だから愛子も今こうして向かい合っている。
そして友子がヤンキーだった話は序章に過ぎず、その時転入してきた同じ不登校の子との不思議な縁で親友になり、連日互いの夢を語り合ったと言う話を熱っぽく飽きさせない口調で聞かせてくれた。友子はその頃から美容師を目指していたと言う。その後必死に勉強をして美容学校を卒業し、今は希望が叶って美容師をしている。
「あたし、その頃は子供なのに脱色してて金髪で化粧もしてたから怖がって誰も近寄って来なかったんだけどその子だけは怯えもせず受け容れてくれたの。だから彼女は特別な存在。今は毎月一度逢ってお喋りをして、彼女の髪を切ってあげているの。多分誰かと面と向かって話ができるようになったのは彼女のおかげ」
「いいな、親友がいて」
「ヤンキーだった頃は親友ができるなんて夢にも思わなかったよ。その子に会いに行ったのもどうしてだかわからなかった。何か抜け道を探してたんだろうなって今なら思うけど」
「抜け道?」
「うん。あたしも友達も不登校がずっと気になってたから。親や先生に下手に相談しようとしても頭ごなしにただ学校に行けって言われるだけだったから相談できなかったしね。行けって言われて行けるんなら悩んでないわって思った。ただ美容師になりたいって夢があったからやっぱりこの状況を何とか抜け出さなきゃって焦ってた。そんな話もその子には言えた。そして全力で応援してくれて、一緒に学校に行こうって話に持っていけた。二人の力よ。すごく嬉しかったし感謝してる。後ね、あたしのこときれいだって言ってくれたのも大きかった!」
そう言って友子は豪快に笑った。けれど冗談などではなく目の前にいる友子は本当にきれいな人だった。髪の色は既に金髪ではなく薄い色に染めてはいたが波のように艶やかで豊かだった。
「ここです」
友子はテーブルの上に何かを置いた。美容室の名刺だった。
「そこで働いてるの。下っ端だけど勝手に名刺作っちゃった。もらって」
「ありがとう。いつか私の髪もお願いするかもしれないわね」
「ぜひ」
話をしている内に料理が運ばれてきた。天麩羅と鮭節をまぶした出汁巻き玉子、和風ハンバーグ、ごぼうの和え物、味噌汁にごはん。ボリュームたっぷりの膳で空腹はみるみるうちに満たされていった。
ホテルに戻って寝巻きに着替え、後は眠るだけのスタイルになると気持ちが落ち着いた。すっかり夜の帳が下りた町の景色を愛子は窓から眺める。灯りがぽつぽつと浮かぶ中、暗い一角が目に入った。愛子はあそこをひたすら歩いていたのだ。
「なにを考えてるの?」
友子は道すがら買った缶ビールを開けながら聞いてきたので愛子が歩いて来たであろう場所を指し示した。
「うん、そう。あそこらへん」
「……どうして私に声をかけたの?」
友子はベッドに座り、しばらく天を仰いで言葉を探していたがやがて口を開いた。
「あんな歩き方をしている人を放っておけなかったのよ」
「そんなにおかしかった?」
「実際の歩き方じゃないよ。自暴自棄で体中が涙にくるまれているように見えたんだ」
愛子は俯き、そして思い出す。愛子は恋を失くしたばかりだった。所謂、不倫の恋。不倫なんて言葉は嫌いだけれど世間ではそうとしか呼ばないだろう。あの人の手は大きくて温かだった。けれどあの人は本物の手で妻を抱き、私を抱いていた手は贋物だった。結婚していたなんて知らなかった。酷い。だから私は千切れそうな想いで別れを告げたのに。
「何だか裏切られたような気分だよ」とあの人は言った。どっちがよ。どっちが裏切り者なのよ。愛子は叫んで思いきりあの人を殴りつける。触れない。幻だ。愛子はまた殴ろうとして振り上げた自分の腕を見る。マネキン人形のような義手だった。ほら、君の方が裏切り者だ。振り向くとあの人が笑っている。違う。こんなの私の腕じゃない。愛子は義手を取り外してあの人に投げつけた。
「愛子さん、大丈夫? 愛子さん」
気がつくと友子が愛子の体を揺すっていた。
「うなされてたよ」
気の毒そうな顔をして友子は愛子にティッシュを箱ごと渡してくれた。また眠りに落ちて泣いていたようだ。
「何度もごめんなさい」
「平気だよ」
「私の話をしてもいい?」
「うん」
「私、最初は普通に恋愛していると思ってたんだけど相手に奥さんがいたの。ほんの小さなきっかけでわかったの。その人、ばれたかって言ったのよ。頭に来たからすぐに別れようと思ったのに結局ずるずると半年くらい付き合ってた。とうとう別れ話をした時はもう自分の家にもどこにも帰りたくなかった。でもどこに行っていいのかもわからないから、その足でずっと歩いてたの。どこまで行こうかも考えていなかった。
恋愛中は幸せだと思っていたのになぜかずっと眠っていても意識がなくならなくて一種の睡眠障害みたいな感じになってた。だから目を開けた時まだ外が暗いと安心できた。ああ、まだ夜だ、世の中の誰も起きていないんだって思ったらほっとした。そのままもう暗闇から出たくないなって思えた。無意識に罪悪感を持っていたのを知らされているような毎日だった。くだらない恋愛をしていたくせに恋の心地良さだけを享受しようとしていたんだって気づいたら、すごくバカみたいだった」
その時、友子は愛子の手をぐっと力強く握った。あまりにも唐突に手を取られたので驚いて彼女の顔を見た。
「愛子さん、自分を責めすぎてる。その男がバカなんだよ。愛子さんみたいに常識を持った人を裏切ったりして。別れるってすごいエネルギーがいるでしょう? せっかく作り上げた関係を壊すんだもの。だから愛子さんが別れを選んだって言うのは気づいていない心の奥深い部分で本当は限界がわかっていたんじゃないかな。どんな関係にも永遠なんてないんだから……」
友子の言葉を愛子は黙って聞いた。そう。永遠の関係なんてない。そして永遠がどこまでなのかも本当はわからない。きっと忘れるまでが永遠なのだろう。二度とやってこない季節などないように、もしかしたら永遠という概念自体が存在しないのかもしれない。
「今日は晴れそうね」
朝になり、カーテンをさっと開けて友子が言う。もう既に暑くなりそうな空の色をしていた。友子の提案で、愛子を家まで送る前に愛子が歩いて来た道を車で通る事にした。あの暗い一角は本来名所でもある湖だった。
道路脇に車を停めて、愛子は改めて穏やかな湖を眺めた。湖は澄んで溶け出すような陽射しを受け、さざ波が煌いていた。
「こんなにきれいな所だったのね。全然気づかなかったわ」
「真っ暗な中だったんだもん、当然よ。自然だって別の顔を持ってるってことさ」
友子の言葉に、どきんとした。
「愛子さんは感情がすぐ顔に出ちゃうタイプね。今動揺したでしょ?」
参った。友子には見透かされてしまう。
「わたしはここまでしかしてあげられない。ごめんね」
友子が言う。愛子は激しく感情が揺さぶられた。
「なに言ってるの! これ以上ないほど良くしてもらったわ。私、あなたがいなかったら野垂れ死にしていたかも知れない。すごくすごく感謝してる。どんなにありがとうを言っても足りない」
「ありがと」
友子は少しはにかみ、遠い目をするように湖を眺めながら「少しは役に立てたみたいね」と笑った。愛子は思う。少しなんてものじゃない。大げさではなく友子は命の恩人だと言ってもいい。
愛子の住む街に着き、愛子の指定で家ではなく駅で車を停めた。愛子は運転席の窓を開ける友子のそばに行って話しかけた。
「本当にありがとう。さよなら」
「うん」
「友子さん、お願い。さよならって言って。ちゃんと言って」
風の音だけが聴こえて友子は寂しそうな目をしていた。
「そんな目をしないで……」
思わず愛子の口から出てしまうほどに友子の目は憂いを含んでいた。
「鏡みたいなものよ。愛子さんもきっとわたしと同じ目をしてるのよ」
また不意を突くようなことを言うので、愛子は突っ立ったままになってしまう。
「愛子さん」
「なに?」
「寂しさに勝とうと思ったらだめだよ」
「え?」
「寂しさの真正面に立っちゃだめ。どうにかごまかして。そして生きて。生きてないと会えない」
「寂しさごときに負けるなんて子供みたいだわ」
一瞬、話を逸らしかけた愛子の目を友子はまっすぐに見て続けた。
「人は憎しみよりも寂しさで死ねるのよ」
どうしてこのひとはこんなにもすべてを肯定してくれるのだろう。そう思った瞬間、愛子の目に涙が溢れ、堪えきれず幾筋も涙が頬を伝った。それは昨日夢の中で流していた激しい号泣でも嗚咽のそれでもなく、ただ静かに揺れる清い湖のような涙だった。友子は指で愛子の涙を掬いながら微笑む。
「わたしは昨日渡した名刺の美容室にいるから。いつでもいるから。もし愛子さんが髪に手を入れたくなったら任せて。わたし、腕は確かよ」
友子は微笑んだ。友子の笑顔は大輪の花だ。そして真実だ。その笑顔に助けられた人はきっと数え切れないほどいるのだろう。彼女の友人も、そして愛子もまたその一人になるのだろう。
「だから、さよならは言いません」
「うん。じゃ、また」
「またね」
友子は愛子が歩き出すまで車を出さずに待っていてくれた。愛子は前を向くために一度だけ振り返った。友子は思い切り手を振った。愛子も真似をして思い切り手を振り、笑顔を返し、その後は振り返らずに歩き出した。愛子の背中に車のエンジンの音が心地良く響いた。
夏の終わりという一種、郷愁を含んだこの季節でなかったら、もしかしたらもっと上手に、感情に流されずにいられたのかも知れない。
そんなノスタルジーに浸ったのはその時だけで現実の僕は方向音痴に悩まされていた。飛行機を降り、駅に着いた迄は良かったが、どの電車に乗るのかわからなくなってしまった。上りと下り、上りと下り、ああダメだ。わからない。そのまま人混みに押され、ぼやぼやしていると後ろのひとに迷惑をかけてしまうから目の前で扉が開いていた車両にとりあえず乗り込み、窓側の席を見つけて座った。どこかに着くだろう。間違えていれば乗り直すまでだ。
席に座って落ち着くと、先ほどまで慌てながら歩いて硬くなっていた体の節々にやっと全身の血が巡ったようで、じわりと汗をかいた。しばらくすると扉が閉まった。僕は、もう慌てる心配がなくなったことに一安心して窓から外を見る。慌てて走る人々の姿が見える。先ほどの自分がそうであったことを棚に上げて、そんなに走ってももう遅いのに、と意地悪く考えながらぼんやりと見るともなく人々を目に映した。
ふと視界が翳ったのでそちらを見ると、全身を覆い尽くすマントのようなデザインのコートを着た男性で重そうなカゴを持って僕の向かいの席を示して声をかけてきた。
「ここ、空いてますか?」
「あ、どうぞ」
この人ならまあいいか、と思った。もちろん口には出さないけど、何となく気配のしない人だったから。こんなことを言うと相手を幽霊呼ばわりしているようで失礼だが。間もなく車体がガクンと傾き、動き出した。動作の始まりというものは十代の頃の恋愛のようにわくわくする。整列した機械音が加速して行くと見慣れない人々は流れ、瞬きの瞬間、目の前は風景になる。額縁のような窓枠は遠くの山なみをスクリーンのように映していた。紅葉の始まった豊かな色を纏った木々が並ぶ。美しい景色だが、長く田舎で育ってきたので見慣れている。しばらくこの情景が続くだろうと判断してなんとなく向かいのマントの人を盗み見すると、窓枠に頭をつけて眠っているようだった。深く被っているフードで表情が見えなかったが、どことなくマントと言い、カゴと言い、童話に出てくる悪巧みをする老婆のように見えた。男性だし、とても失礼なのだけど。
ところで、僕は逃げてきた。大げさか。
取り掛かるべき仕事を一端中断して来ただけだし任された仕事の期限もまだ余裕がある。どちらにしても必然的に戻らなければならない。こうして旅に出る前、少し精神が不安定だった僕は原因不明のめまいを頻繁に起こすようになっていたのですぐに病院に掛かった。
『自律神経失調症、抑うつ状態』
会社にそう書かれた診断書を提出して正式な休みを取った。繁忙期から外れていたということもあり、割と簡単に連休が取れたが、それでも仕事を休む自分にどこか罪悪感があったのでそれを宥めるものとして診断書を利用した。何なんだ、この気の弱さは……。とにかく再び新たな気持ちで仕事に取り組むために、そして、肝心な君との関係を一端、頭の中で整理する必要があった。
まずは一人になりたかった。
現在、東京で一人暮らしをしているが、どこか近隣を意識して知らない間に緊張を強いられているようで気持ちが一人になった気がしない。その点、実家なら療養という意味でもぼんやりできる。僕の両親は大人になった息子をちゃんと放っておいてくれる。そういう家だ。要するに両親に甘えて一人になろうという魂胆だ。それからすぐに実家のある町への飛行機のチケットを予約し、飛び立ち、今こうして電車に乗っている。
僕が向かっている実家は海のある町で、人口は十万人ほどだが土地が広いため実際よりも人口は少なく感じる。観光地でもなく海の色も陽気さがない。それでもずっと暮らしていた大切な原風景である実家のある町を僕は愛している。四方八方どこに手を伸ばしても掴めるものがまったくない広い空間。掴みどころのない揺らぎ。心的ダメージを食らい、心が恢復するときにはいつも水の中から勢い良く浮上して呼吸するイメージだ。そして僕は常に知らぬ間に気持ち良く溺れている。もしくは水の底で体をふたつに折り曲げ、まるくなって胎児のような姿で眠りについている。僕の体の中にはいつもこの町の幻の海がある。
そういえば、君も眠るとき、まるい体勢になっていた。
君とは僕がまだ大学に在籍していた頃に出会った。付き合ったときは同じ大学生だったが僕は卒業後就職し、君は大学院に進み、研究者を目指していた。君が何を研究していたのかは忘れた。興味がなかったと言うより、そのときまだ就職したてでわからないことばかりだった僕が勝手に劣等感を抱いていたせいだ。学生時代と環境が変わった僕らが会うのは、外ではなく大概どちらかの部屋に行き、夕食を一緒に食べることが多かった。その日は僕の部屋で。食べ終わって何てことない話をしながら君はソファーで寛ぎ、僕は机に向かってパソコンを触っていた。ふと静かになったので君の方を見るとソファーで眠りこけていた。くるりと体をまるめて。寒いのかと思い、そっとブランケットをかけてそのままにしておいた。君が目を覚ましたのは数時間後で、気づくとほぼ明け方に近い時間になっていた。
「うわ、どうしよう、寝ちゃったなんて! ごめん! 終電とっくにないよね。どうしよう」
「あんまり気持ち良さそうに寝てたから起こせなかったよ。始発まで時間もあるし今日はこのまま泊まって行きなよ」
「え」
実はさらりと言ったが、まだ互いの部屋に行き来することはあっても泊まることはなかった。僕も言ってしまってから「しまった」と思ったが、それくらいしか方法がない。
「いやあの、大丈夫。疲れてるし何もしないよ」
そう言った僕の言葉は、本当に今までの付き合いの中で異質だったので、互いに動揺してしまった。君はすぐにぎこちなく頷いて自分が眠ってしまったその場を整えた。
「ベッド使っていいよ、僕はいつもこのソファーで寝てるから」
「そんな、悪いよ。わたしがへまをしちゃったんだからソファーでいいよ。朝一で帰るから」
「そ、そうかい?」
僕は彼女の勢いに負けた感じで「じゃあ」と言ってベッドに行こうとした。
「あの、ひとつだけわがまま言っていい?」
「ん?」
「何かパジャマ代わりになるもの、貸してもらっていいかな……」
また僕は少し動揺した。何を貸せばいいんだろう。慌ててクローゼットを引っ掻き回し、君にも見てもらって灰色のスウェットを貸した。君は僕が歯を磨いている間に着替えていた。僕自身それほど体格のいい方ではないが君は更に小さいので肩の線が見えてしまうくらい首元が大きく開いていた。僕は思わず目のやり場に困ってしまったが、動揺を見せないようにした。その日、結局別々の場所で眠りについた僕らの間には何も起こらず、そのまま朝を迎えた。
君は僕よりも早く起床していて、既に服も何もかも整えていた。
「昨夜はごめんね。泊めてくれてありがとう」
「いや、気にしないで」
寝ぼけ眼で僕は答えた。すると君は少しの間考えてから僕にキスをした。そうだよな、このくらいはしたかった、と僕は相変わらず独り言のように考えた。そのまま君は始発が出る時間に帰った。何となく朝陽が眩しいのが気恥ずかしかった。何もなかったというのに。僕は本当にガキだったのだ。今もまだその一連の会話を思い出すと当時の自分が頭に浮かんで恥ずかしくなる。
その後も僕たちは互いの部屋を行き来したが、結局何年も付き合っていながら肉体関係にまで発展していなかった。もちろん抱きしめあったりキスをしたりはした。けれどそこから先に進もうと考えたことがなかった。もちろん多忙なことは多忙だった。だからこそ君は転寝してしまった訳だし。それからも時間が遅くなった日は君を泊めるようにした。遅い時間に一人で帰すよりも安心だったからだ。ただ一度だけ、深夜に君が僕のベッドの前に立っていたことがある。暗がりの中だったので僕は違う意味で驚いた。その時、君は少しだけ薄着をしていたような気がする。けれど僕は見なかったことにしてそのまま寝返りを打った。実はその日から僕と君の間に微妙な風が吹き始めた。そこから自律神経が乱れていたこともあり、何も解決しないままこうして電車に乗っている。海なら、ちっぽけな僕ひとりの悩みごとくらい受け止めてくれるだろう、と自分の悩みごとなのに大自然に任せるという謎の選択をした。
終点で電車を降りると、駅前にはいつの間にか小さな洋食屋ができていた。空腹だったので店に入った。匂いにつられて入った店内は適度に混雑しており、窓からは碧色の海の水平線が見えた。僕はメニューを見て『日替わりカレーセット』を注文した。
店を出て改めて実家に向かう道を歩き始めると、アスファルトなのにでこぼこでヒビが入っていて歩きにくかった。おまけにヒビの隙間からは雑草が生えている。幅が狭く、対向車がすれ違うのも困難な田舎の小道を進んで行くと、一戸建ての家がぽつぽつと点在している。その中の最も古い家の小さな、しかし立派な庭に僕の母が手入れのためしゃがみ込んでいるのを見つけた。僕はしばらくしゃがむ母の姿を見ていたが、そんな僕の視線を感じたのか母が振り返った。
「あら! 声くらいかけなさいよ、久しぶりじゃないの。おかえりなさい」
「ただいま。え、そうかな。この間来たと思ったけど」
「いつのこと?」
「憶えてないなあ」
「ほら、帰って来てない証拠よ。いっつも事務的なメールばっかりでしょう。ゆっくりできるの?」
「ああ、うん。連休取れたから。突然来てごめん」
「あんたの家なんだから堂々としてなさい」
「父さんは?」
「パークゴルフ行ってる。お腹すいてない?」
「うん、カレー食ってきた。駅前にあんな洒落た店できたんだね」
「本当に最近よ。美味しかったでしょう? 話題になってたからこの間お父さんとふたりで行って来たのよ」
「うん、うまかった」
先ほど、ただいま、とは言ったが、僕がこの2LDKの一戸建ての実家を出てから既に数年経っていた。最初は父にも母にも一人暮らしを心配された。僕の性格があまりにも内向的なのとそれにそぐわない衝動的な面があったせいだ。だから時折こうして会いに来て、ほら、ちゃんとひとりでもやっていけてるだろ? とメッセージがてら顔を見せに来た。しかし同時に両親のためだけに帰郷するのではなく、いつ見ても母に手入れをされたこの小さな庭を見て、幼い頃から変わらない景色があることに安堵する自分のためでもある。
「手伝おうか?」
「あら、どうしたの? いきなり」
母の問いかけに僕は頭を掻いた。確かに手伝いなんて今までしたこともなかった。
「いや……。電車の中が狭くてずっと同じ姿勢でいたから」
もちろん嘘だ。僕の横は空いていたから体なんて伸ばし放題だった。けれど、そう言い訳をして犬走りの窓の引き戸をがらがらと開けて荷物をほぼ投げ入れた。
しかし、手伝うとは言ったものの草むしりなんてしたことがないので母の手許を見ながら覚束ない手つきで乱暴に雑草をむしっていた。すると突然母が僕の手を遮った。
「それは *爪切草だから抜かないで」
今にも引き抜こうとしていたその草から僕は慌てて指を離した。
「爪切草って言うの? これ」
「そうよ、可愛いお花が咲くの」
「知らなかった」
こんなふうに草花にはまったく無頓着な僕だけど、先ほど電車の向かいにいたマントの人が、僕の降りる一歩手前の海がよく見える駅で降りた時、珍しく風に揺られている背の高い草に目が行った。その細長い草の中には守られるように小さな花がぽつぽつと咲いていた。もしかしたらあれが爪切草の花だったのかな。あの時、僕はぼんやりとさっきまで向かいに座っていたマントの人が駅弁を持って砂浜に歩いて行く後ろ姿を見ていた。砂浜以外に何もない町。この町の海をわざわざ選んでたったひとりで昼食に駅弁を食べるというのはとてもせつなく映った。知らない人に対して大きなお世話だけど、地元の人間として思うのは、この土地の海はあまりにも深い碧色で寂し過ぎてバカンス向きではないからだ。この海の色を限定して求めて来ること自体が哀しみを抱えた人だと思うからだ。マントの人の背中が遠ざかって行くのを、僕と揺れる小さな花が見ていた。
「何か飲み物ある?」
「冷蔵庫にカルピス入ってるわよ」
カルピスは父親がずっと毎朝欠かさず飲んでいるお気に入りの飲み物なのでその変化のなさに思わず笑った。最初は健康のためなのかと思ったが、ある日作るのを面倒に思った母が試しに希釈用のものではなくペットボトルに入った製品を買ってきたらそれで充分だったので、ただ単にカルピス飲料というものが好きらしい、とわかった。どうしてこんなに呑気な両親の元に僕みたいな堅苦しいことばかり気にする息子が産まれたのか不思議になる。
「勝手に飲んだら父さん怒る?」
「そんなことでいちいち怒らないわよ」
母はけらけらと笑う。
「あら、手伝ってくれるんじゃなかったの?」
「ごめん。飲んでから」
僕が笑いながら言うと母は、はいはい、なんて呆れた素振りを見せながらも幽かに微笑み、安心したように柔和な表情になった。きっと来たばかりの僕の雰囲気は母を不安にさせていただろう。いくら陽射しが強いとは言え、長旅だと言うのに薄手のシャツ一枚だけで羽織るものすら持たず、荷物も近所に買い物に行くのかと言うくらい簡素なものだけで、母をただ背後から見つめたまま声もかけずその場に突っ立っていたのだ。僕自身がマントの人の心配なんてできた義理じゃなかった。母は僕に付き合っているひとがいるのを知っていたから何かを感じ取っていたんじゃないかと思う。
犬走りで靴を脱ぎ、そのまま勝手知ったる我が家の奥の冷蔵庫まで、足の裏を全面に使ってどたどたと歩いた。僕が今暮らしている東京の狭いマンションだと下の階や隣の人に気を使うのでこんなやかましい歩き方はできない。一戸建ての醍醐味だ。冷蔵庫からペットボトルに入ったカルピスを取り出し、グラスは父の愛用品の細長いものを拝借した。冷凍庫も覗いて製氷皿にたくさん入っていた氷を数個掴んだ。それをいくつかグラスに落とし、上からカルピスをなみなみ注ぐと氷がグラスの中で踊った。僕はカルピスの入ったグラスを持って犬走りに戻ると、そこに腰掛けてゆっくり味わうようにひとくち飲んだ。酸味と甘みが溶け合って涼やかでおいしくてひと息に飲みたくなるが何となくそんなふうに飲むのはもったいなかった。夏の終わりの涼しい風が洗ったこの庭に太陽の陽射しが照ったり翳ったりしている。何もかもが緩やかだった。旅行前の忙しなさが嘘のようだ。僕は空を仰ぎ見た。
君と初めて会ったのは大学の学生食堂で席が向かい合わせになった時だ。
物静かで化粧っ気もなく、これから色付く花びらのようで印象的だった。僕は牛丼のセットみたいなのを食べていたと思う。君は天ぷら定食だった。おいしそうだったから憶えている。今度は僕もそれを食べようと思っていた。すると、海老の天ぷらを食べてしばらく時間が経ったとき、君の唇が腫れていることに気づいた。君は独り言で「おかしい、唇がピリピリする……痒い、なんだろ」と繰り返して掻き毟ろうとしたので思わずその手をとって止めてしまった。もちろん友達でもなんでもないので君は驚いた。
「すいません、突然。あの、君、甲殻アレルギーなんじゃないかな」
「でも、これまで普通に食べてたのに……」
「疲れとか体調で突然発症することもあるみたいだよ。僕の友達にも大人になってから発症したヤツがいるから」
「そうなんだ……。教えてくれてありがとう。怖いよね、アレルギー」
「うん」
そのまま君はショックだったのか、黙って唇を触ったままその場で動かなくなってしまった。僕はなぜだか慌ててスマートフォンで甲殻アレルギーを検索し、医師が運営している信頼できそうなサイトを探して君に見せた。君は僕に再び礼を言ってそのサイトを見るため、僕のスマートフォンの画面を覗き込んだ。君が真剣に文章を読んでいると、ひとつに結んだ髪から一筋、はらりとリボンのように前髪が落ちて、スマートフォンを持つ僕の手に触れた。女の子に慣れていなかった僕は慌ててしまい、画面がぶれた。
「あ、ごめんなさい。ちょっとパーソナルスペース破ってたね」
「いや、僕こそ……」
人懐こい顔で君は笑った。色が白くて唇だけが(アレルギーのせいとは言え)赤い顔はとても色っぽかった。恋愛にどんなきっかけがあるのかなんて本当にわからない。僕らはこれがきっかけで互いの名前を知り、どこの学部で何をしているのか知り、会う回数が増え、やがて付き合うようになった。
家に来る前に入った店でのことを思った。僕が注文したカレーセットの日替わりカレーはこの日『帆立と海老のカレー』だった。その他にタンドリーチキン、もやしのサラダ、マサラチャイがついていた。最初は海老と聞いただけでどきっとした。突然アレルギーを発症した君との出会いの日を思い出したからだ。注文をしてから頭には君とのことばかりが浮かんでぼうっと外を眺めていると『日替わりカレーセット』がやって来てテーブルに置かれた。細長いプレートひとつにすべてが盛り付けられており、ナンとごはんの両方がついていたのは驚いたがスパイスのよく効いた良い匂いで僕はもう食べることしか頭になかった。カレーはとても美味しくて辛さもほど良かった。もしもこうして食べている最中にアレルギーのような症状が出たら心から口惜しいと思うだろう。あの日、君は半分以上残してしまってお腹がすいただろうな。僕だったら耐えられず、きっとヤケも手伝って別のものを注文してがっつくだろう。
出会いから数年経った頃、僕は大学を卒業して就職をし、君は相変わらず熱心な研究者として院で活動を続けていた。君といるのはとても楽しかったが、弁が立つ君との会話は僕の劣等感を煽った。元々おとなしくて自己評価もあまり高くないことが災いし、僕は君より少しでも優位に立ちたいと思った。バカな考え方だけど。それで二人で会っているのにメインでしなくてもいいような政治経済やテクノロジー関連などの話ばかりしていた。別に僕だってその話題にそれほど詳しい訳ではなかったが、それ以上に君がその辺の話題に疎かったからだ。君はそれでもきちんと相槌を打って聞いてくれた。僕は君のそんな抑制の効いた返答にすら、自分が言葉を憶えたての子供のように思えてまたそれも癪に障った。それでも君が僕の部屋で眠ってしまったあの日からなんとなく距離が縮まり、それほど細かく考えることも少なくなっていたのに。今度は恋愛としての僕たちの間に距離が生まれてしまった。
そんなとき、君が更に研究を突き詰めるため海外留学を希望しているという噂を当時の級友から耳にした。……何だよ、それ。僕はすっかり君と付き合う自信をなくしてしまい、勝手に別れを決意した。僕の中では既に君との関係に『惨めな恋』というレッテルを貼っていて早く傷を塞いでしまいたいと思っていた。
僕は旅行のことを君に告げなかったのだが、なぜか君は空港に来ていたので僕は動揺した。
「お見送り」
君は微笑んで言った。
「どうやって知ったの?」
「わたしたちの共通の友達と話してたらあなたの話になって、それで……。黙って行くつもりだったの?」
「……君も色々と出発の準備があるから忙しいんじゃないかと思って」
「何の準備?」
「留学するんだろ?」
「……そんなのしないよ」
君に聞くと海外に行くなんて言うのはただの噂で今後もそんな予定はないと言い、どうしてそんな噂が流れたのかもわからないと続けた。僕はその噂を信じた上、君本人に一言も確認していなかった。思わず脱力して空港の待合室の椅子にどさりと座った。君も隣に腰を下ろしたのでそのままふたりで並んでいた。これまで以上に僕は無口になっていた。息苦しさに耐えかねて、意を決して立ち上がろうとした。すると君が僕のシャツの袖を掴んだので不意にバランスを崩した。僕は驚いて瞬時に君を見た。君は今にも泣き出しそうな顔をしていた。掴まれた袖越しに君の思い詰めた感情が手の震えとともに伝わった。君が何かを声にする。囁くような、か細い声は構内アナウンスの振動にさらわれた。僕はと言うと、君にそんな表情をさせてしまったことと覚悟をして立ち上がろうとしたのに止められた無様さに不甲斐なさを感じ、もう意地を張るのをやめてゆっくり椅子に座り直し、君の片手をそっと握った。
「……だった?」
君は俯いたまま話しかけて来たのでよく聞き取れず、ほんの少し顔を寄せた。
「わたしのこと、少しでも好きだった?」
君の声は今度こそ握った手を伝いまっすぐ僕だけに届いた。何か言わなければ。もちろんだよ、なんて白々しいことを今さら言ってもいいのか? 僕はもうさよならを決めていたのだ。しかし頭の中は雄弁だが現実に君を前にした僕は何も言葉にできない。どうしたらいいんだろう。すると君がきっぱりと顔を上げて言った。
「そろそろ時間だね」
明るい口調だった。ああ、僕が先に言いたかった。勝ち負けではないのにまだこんなことに拘っていた。君の手はまだ震えていて、冷たくて、緊張しているのがわかった。けれど僕が何も言わなかったから君は諦めたのだ。
「それじゃ、気をつけて。体を大事にしてね」
「ありがとう、君もな」
「うん。それじゃね」
僕は搭乗口に向かい、君は僕に手を振って僕も手を振り返し、そのままその場で別れた。さよならも言わなかった。君の姿が完全に見えなくなった時、悲しいような安心するような不思議な感情が支配し、体が浮遊しているようだった。さっきあらためて久しぶりに君の顔を間近に見た。化粧をしていて、ふんわりした薄い色のスカートを穿いていた。きれいだと思った。僕は連休が終われば戻るし、君も日本にいる。しかし別れを決意していたことは既に君にばれていたのだろうか。そうでなければ、あんなに不自然な会話にはならなかった筈だ。
「一人暮らしはどうなの? 色々と大変でしょう、ちゃんと食べてるの?」
母は手を休めて僕に尋ねた。
「食べてるよ。まあ、大変は大変だけどそれなりに楽しんでるよ」
僕は、道中起きた小さな失敗談などを聞かせて母を笑わせた。しばらく談笑し、母はまた草むしりの続きを始めた。
僕の心の中は全く違う考えが頭を占めていた。君と付き合ったことはつくづく僕の人生で初めての経験だらけだった。もしこの感情を言葉にしたらノート一冊くらい簡単に埋まってしまう。そのくらいたくさんの感情がたった今押し寄せている。グラスの中の氷が揺れて澄んだ音を奏でる。乳白色のカルピスのぼんやりとした透明感が何かに似ていると思ったら、最後に見た君が纏っていたスカートだ。儚くて風に溶けてしまいそうだった。スカートも。君も。カルピスを陽にかざすとたちまちグラスは汗をかき、水滴がひと筋流れた。それは僕の二の腕まで伝った。途端に景色が木漏れ日のように揺らいだ。
本当は、目の前にいる君をきちんと見ていれば良かったんだね。それだけで良かったんだ。その服似合うね、とかそんな一言でも良かったし、別れなんて決意しなくたって、調子が悪いことを正直に言えば良かった。忙しいならしばらく会えないけどお互いがんばろう、くらい言って励まし合うこともできたのに。僕の勝手な劣等感や小難しい知識の会話なんか君に向けたって仕方がないことだったのに。君の問いかけにすら答えなかった僕はなんて卑怯だったんだろう。好きだよ。ずっと好きだったよ。ただどうしていいのかわからなかった。わからないと決め付けていた。僕は熱を醒ますようにグラスを額に当てた。
「こんにちはー」
玄関先で突然大きな声がして、現実に返った。
母が応対していた。ああ、これだから実家は楽だ、と勝手なことを思う。客人は腕に色んな食材を入れたカゴを下げたマントのような服を着て……。
「あ」
思わず声に出てしまったのでマントの人は僕に気づいた。
「あれ、同じ電車にいましたよね。こちらの方でしたか」
「うちの息子なの。普段は関東に住んでいるんだけど連休で帰ってきてるのよ」
母が適当に代弁してくれた。僕はとにかく童話の中にいるような風貌のマントの人が喋ったのでとても驚いた。しかしフードを脱ぎ、ジッパーを下げたコートの中に着ている縞模様の現代的なカットソーなんかが見えると至極普通の男性で、別に毒林檎をカゴに入れているような怖い顔つきでもなかった。訊くとその人は行商さんで朝、色んな町で仕入れて来たものを夕方ご近所に売っていて、元々はこの町に住んでいると言う。田舎だから続けられる商売かな、と言っていた。
僕がマントの人に駅弁の話を振ると、この町の駅弁は有名だからすぐに売り切れてしまっていつも買えずにいたのに今日は偶然最後の一個だけ残っていたから嬉しくて広々とした景色でも見ながら昼飯にしよう、と思いついて海で降りた、と教えてくれた。あの後ろ姿は嬉しくてたまらない時だったのだ。別に悩みや哀しみを抱えてこの海を求めている人ではなかった。僕の勘はなんてあてにならないんだろう。現実は時折凄いこともあるかも知れないけれど、大概はこのように平凡で波風の立たない日常的なものでしかないのだ。
夜中、スマートフォンを取り出し、失礼になるのは承知で君にメールを送信した。君からはすぐに返事が返ってきた。『なんか、変な感じの別れ方になってごめん。連休が終わったらすぐ帰るよ。その時に会わないか?』と打って再度送信した。しばらくして君から『うん』と返信があって、またしばらく時間を置いてからメールの着信音が鳴った。『そう言ってくれて嬉しい』君はそう返信してくれた。安堵のため息が漏れた。
もしも周囲の人間がこんな僕らの会話を覗き見したら、なんてまどろっこしいんだ、と思うかもしれない。けれどこれが今の僕と君なんだ。あらためてそう感じ、僕は君からの返事の画面を開いたまま、スマートフォンをずっと離せなかった。君とのことは僕が思って名付けようとしていた独りよがりな『惨めな恋』ではなかった。そんなちっぽけなことよりも、ここに来ることすら黙っていた事実も含め、きっと何度も君を傷つけたであろう後悔だけが残っている。
昼間、電車の中で、僕の悩みごとくらい海が引き受けてくれるだろうなんて思ったが、そんな考えすら傲慢に思えた。海にしてみたら僕の悩みなんて手の中のカルピスと汗をかいたグラスで充分事足りると思うだろう。事実そのふたつは面白いくらい、感傷も、つまらないプライドも洗い流してくれたが、君が好きだという想いだけは氷のように簡単に溶けそうになくて、グラス越しに映る水平線を眺めると、海と少し氷の溶けた薄い色のカルピスの断層で僕のような氷がたゆたっているだけだった。
編者注* つめきりくさ
「咲き乱れる」「涅槃の子」「埋み火(うずみび)」「迷宮」「センチメンタルジャーニー(「軌跡」改題)そして本書のタイトルになっている「君と僕の記憶のすべて」は昨年まで参加していた個人サークル、Mistery Circle様(当時の表記まま)に寄稿し、掲載していただいたものを大幅に改編したものです。
当初は一作書き下ろしを加えようかとも考えていたのですが、このタイトルにしてこの表紙でこの体裁で、と熟考したところ、敢えて新作は加えず「記憶のすべて」をこの一冊に閉じ込め、これからまた先に向かうために今までのものだけに絞って完成させることにしました。では一作ずつの解説を少々。 ※わかるもののみ掲載日表示。
『咲き乱れる』(二〇一六年 Mistery Circle 第六十二回掲載作品)
この物語は当初、賛否が分かれました。今まで書いていたものはストーリーがはっきりし過ぎていて、自分自身どこかもどかしさを感じておりました。他の方が書くエンターテインメントは好きですが、私個人はあまり強い感情に飲み込まれたくない性質なので、自分が書くものはできる限り静かなものを目指しております。なかなかうまく書く段階には至ってはおりませんが、この作品ではその芽のようなものが垣間見えた気がしています。
『眠れる手紙』(二〇〇六年)
「三十二のお題」の一作です。記憶はあやふやなのですが多分二〇〇六年くらいに書いたものです。当時載せてもらったサイト自体が閉鎖してしまったため、正確な日付けは記憶しておりません。ただこちらも設定以外は穏やかです。当時いただいた感想で私の作品に出てくる女性は痛々しい、と言うものがありました。自分ではそんなふうに考えたことがないまま書いていたのでとても不思議な気分になりました。果たしてこの女性は痛々しいでしょうか……。
『涅槃の子』(二〇一六年 Mistery Circle 第六十三回掲載)
画像を色々眺めていて、とある女性のポートレートに目が釘付けになり、唐突に彼女を主人公にして物語を書きたくなりました。ポートレートの彼女は素晴らしく大きな、形の良い目を持っていてこちらを見据える視線がビームを当てられているかのような強烈な印象でした。彼女の写真がなければ書けなかった一編です。完成した時は魔法にかかっていたように全身の力が抜けてしまいました。
『埋み火(うずみび)』(二〇一七年 Mistery Circle 第六十七回掲載)
主要人物がおりながら、場所が変わると関わる人間も変化し、その都度そこに書かれる人物が主人公になっていく。その部分をぶれさせずに完成できた作品です。個人的にとても好きな作品です。当初、少しだけ登場人物が憑依してしまいました。
『迷宮』(二〇一七年 Mistery Circle 第六十八回掲載)
怒りや戸惑いと言った、火焔のような想いを抱きながら淡々と書き進めることを目標として書きました。実はこれを書いた時、何を考えていたのか思い出せないのです。自分の中で何があったのでしょう。きっと私も、感情の火焔の中にいたのでしょう……。
『君の住む街角』(二〇〇六年)
こちらもどこにも寄稿していないオリジナル小説です。この物語に登場する「友子」は、この本の中に何度か登場させています。著者自身、引越しの多い生活を送ってきたのでその時に感じた寂寞感などを閉じ込めた心のノンフィクションだと思っています。
実生活で出会った、本名は書けないけれど私の大切な「友子」には今でも感謝の気持ちで一杯です。中学校卒業後、音沙汰がなくなってから何十年も経ちます。憶えていたらあの頃渡せなかった「ありがとう」という言葉を受け取って欲しいな、と思います。
『センチメンタルジャーニー』※『軌跡』改題(二〇一六年 Mistery Circle 第六十四回掲載)
この物語を書いた年は、ほぼ二ヶ月に一作と言う無謀な書き方をしており、燃え尽きる一歩手前の時期の一作となりました。辛い心情ではありましたが、その辛さを武器にして登場人物と手を組み、共有できたのは収穫です。軌跡の物語ではあるのですが、もう少し時間が経てば失くした恋はセンチメンタルな記憶になるよ、との思いを込め、改題しました。
『君と僕の記憶のすべて』(二〇一八年 Mistery Circle 第七十五回掲載)
最新作となります。掲載当初のタイトルは「日々の瞬き」というものでしたが、このタイトルこそ、表紙のらむ子さんが思いつかせてくれたものでした。らむ子さんの表紙にしてから本作自体が随分と変化を遂げました。物語は、作中登場するもどかしいカップルの一歩進む前の記憶のすべてです。そして、このなかなか進んでいかないまどろっこしさが私の文章なのだと思います。
そして、理不尽さに苦しみ、愛しい人を失くし、記憶も変化し、翅を震わせるかの如く懸命に生きるこの本のすべての登場人物たちが望む幸せを、著者自身が一番に願ってやみません……。
2019年3月1日 発行 初版
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1969年北海道生まれ。ウェブを中心に小説、エッセイ、コラムなどを寄稿。言葉を紡ぐことで色々な可能性を見出したいと考えております。なだらかな文章の美を追求中。