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 真実の恋、偽りの恋、純粋な恋、打算の恋、永遠の恋、束の間の恋、魅惑の恋、堕落の恋・・・男も女も恋に魅せられ恋に酔い痴れる。恋は生命と燃焼の媚薬である。
この作品集はそんな恋の形相(けいそう)の物語である。

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七つの恋の行方

齊官英雄

啓英社



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  この本はタチヨミ版です。

 目 次

第一話 想い出の恋

第二話 骨まで愛した恋

第三話 未練恋

第四話 移り恋

第五話 永遠の恋

第六話 晩生の恋

第七話 あぶく恋

 第一話 想い出の恋

          (一)

 小宮美沙が午前十時に京都駅で東京行きの新幹線に乗り込んだ時には、その日の朝目覚めてから未だ二時間しか経って居なかった。昨夜は半徹夜で眠りに就いたのは明け方だった。不眠の所為で身体が怠るく、疲れても居て体調は良くなかった。彼女はこれから東京へ出て人に逢い、また折り返し新幹線に乗って京都へトンボ帰りすることになっていた。
・・・こんな生活は馬鹿げている・・・
そんなことを考えていると美沙の疲労は一層深まるのだった。
 列車が発車した後、美沙は空席になっている隣の座席に新聞を置き、シートを斜め後ろに倒して眼を閉じると、直ぐに、浅い眠りに就いた。彼女は深い森の中へ迷い込んだ鬱としい夢を見た。
 目を覚ました時、列車は名古屋の辺りを通過したところだった。彼女はシートの下の足元に置いたアタッシュケースに手を伸ばして仕事用のファイルを取り出した。資料は既に京都のオフィイスできちんと整理し纏められていた。
コンピューターで弾き出されたデータには、彼女が会うべき人たちの氏名、性別、生年月日、出身地、出身校、ニックネーム、既婚か独身か、或は、大学で入って居たクラブなどと言った情報が詰まっていた。彼女は東京の風土や歴史を知らなくてはならなかったし、都の条例についての知識も必要だった。その上に、東京の街で人が話題にするような話のネタも仕入れておかなければならなかった。また、他に彼女が調べておかなければならないのは、東京都や民間企業が過去五年間に、情報改革に費やした年額と京都支社が見積もった美沙の売上高の予想額であった。
 美紗がふと顔を上げたその時だった。
一人の男性が通路を歩いて此方に向かって来た。
昔と変わらぬ締まった身体つき、ダークブラウンのシャツとズボンにツイードのジャケットを合わせている。綺麗にブラッシングされた耳まで隠れる長い髪が首の後ろでカールしていた。男は薄い茶色がかった眼鏡で眼を隠し、片手をズボンのポケットに入れて、大股の急ぎ足で此方に向かい乍ら、何か考え事をしている様子だった。
・・・彼だわ!何ということだろう?
美沙は何か言おうとしたが、男は彼女の前を通り過ぎて行ってしまった。
男はなかなか戻って来なかった。
美沙は何度も座席から腰を浮かしながら、男を待った。
やっと男が通路に現れた時、美沙は微笑いながら声をかけた。
「忠彦さん!」
男は美沙に目を凝らし、やがて何かに気付くと、眼鏡の奥で何度か素早く瞬きをし、彼女が何処の誰だかを確かめるように繁々と彼女を見た。
「君か?・・・」
男は美沙を認めて小さな叫び声を上げ、真白い歯を見せて微笑した。
「美紗!」
彼女は立ち上がった。二人は笑い合い、好奇心に溢れる他の乗客の視線を無視して、ごく自然に互いの両肘を抱え合った。
「驚いたわ。眼鏡を架けているんだもの。それに、その髪!然もスーツじゃなくてラフなジャケットにノーネクタイ!まるで人が変わったみたいね」
そんな風に言う美沙の声の調子は、嘗て、五年前まで、互いが狂おしいほどに激しい恋の相手であった頃と同じように、明るかった。美紗は二人で歩いた街の名前とか一緒に観た映画のタイトルとかと共に二人だけの歴史的デートの数々を瞬時に想い出した。今彼女の眼の前に居る水谷忠彦は、嘗て、彼女が結婚することになっていた相手だったのである。
「止めてくれよ。自分の姿を見てから言って欲しいね。君こそ高価そうなブランドのスーツなんか着ちゃってさ」
忠彦の声は美沙が記憶しているよりも幾分低めだった。
美沙が窓際の席の新聞を取って空席へ身を移そうとすると、忠彦が遮って、言った。
「立ち話もなんだから、それに、もう直ぐ昼だし、食堂車へ行かないか?」
「うん、そうね。それじゃ一緒にお昼を食べましょうか。五年振りなんだものね」
昼時の混雑には未だ間があったのか、食堂車は比較的空いていた。二人は窓際の白いテーブルに向かい合って座った。忠彦が手慣れた様子で、美沙にはスモークド・サーモン・サンドイッチと自分にはシュリンプサラダを注文した。
やがて美沙は陽に焼けた忠彦の貌を見ながら驚くほどの早口で話し始めた。
「わたし、今、大手の銀行のコンピューター・オペレーションに関するコーディネーターをしているの」
「へえ、凄い仕事なんだな」
「一年前に結婚して子供は未だだけど、夫は小児科医なの」
「なるほど。それなりに幸福な生活を送っているんだ」
「あなたも知っている原千秋さんね、あの人、市長の男性秘書と結婚したのよ、知っていた?」
「いいや、知らなかったよ」
「大藪義郎さんが亡くなったことは?」
「いや、知らない。亡くなったのか、彼?」
「ええ、昨年よ。肝臓癌だったんですって、未だ若かったのに・・・」
そう言った話を忠彦は相槌を打ちながら遠い思いで聴いていた。
「あなたは今、どんなお仕事を?」
彼はサラダをつつきながら短く答えた。
「俺は、売れない映画のシナリオを書いているよ」
「まあ、素敵なお仕事なのね」
「昨日、次回作の打合せが太秦の撮影所であって、今はその帰りだよ」
美沙は忠彦の貌を見ながら、昔と変わらず、やっぱり良い男振りなのを確認していた。
眼の周りにはうっすらと小さな皺が現れてはいるけれども、高い鼻梁の顔には張りが在り、顎の辺りはすっきりと余分な肉が無く、髭剃り後はつやつやと輝いている。何よりも彼の肉体は昔と何ら変わらずによく引き締まり、強靭なまますらりと伸びていた。
「相変わらず良いスタイルなのね、あなた」
「まあ、今でもあの頃と同じように毎朝走っているし、週に一回はジムに通って鍛えているよ」
彼はそう言って微笑した。
 やがて、舞い上がったような再会の興奮が鎮まると、二人の間に妙に居心地の悪い雰囲気が漂い出した。二人とも暫くの間、黙って食べ物を口に運んだ。
「もう五年になるのね」
美沙が口を切った。
彼女は自分の声が上辺だけの落ち着きを装っていることに苛つきながらも平静に言った。
「五年も前に起こったことについて、あなたとこうして語り合うなんて思ってもみなかったわ」
美沙は飲物を一口、呑み込んだ。
「あれは、何の日だったかしら?」
彼女は窓の外を流れる景色に視線を投げかけながら少し微笑んだ。
「うん」
忠彦は頷きながら、頭の中に幾つものイメージが溢れて来るのを感じていた。

          (二)

 初めてのデートは八年前のジャズフェスティバルだった。
美沙は初めて忠彦と二人で出かけたフェスティバルのことを思い出していた。
忠彦が用意したのは二階前列の一般席だったが、ジャズは心にずしりと響き、二人は我を忘れるひと時を過ごした。
開演のアナウンスと同時に演奏が始まり、二人はいきなり何か強烈な力で全身を激しく揺さぶられたような気がした。エネルギー満開の炸裂するフリージャズバンドの演奏だった。
緞帳が上がった時には、既に、バンドリーダーが全身全霊でサックスを吹き捲り、メロディーやハーモニーよりも音そのものが場内高くに放射されていた。観客は全身でそれを受け止めているようだった。
強烈な三曲が終わると、奇妙なユーモア溢れるトークが始まり、観客が爆笑した。音楽と言葉による絶妙の緩急だった。
時にサックスを、時にユーモアを武器にして、バンドリーダーはまるで祈祷師の如く、集まった観客の自我を吹き飛ばそうとしているように見えた。会場に満杯の観客を前に演奏して、ミュージシャンは何時も以上に感情が高ぶったに違いなかった。
トークの後、再び演奏が始まるとそれまで爆笑していた客達が一斉に立ち上がって踊り始めた。時折、皆で掛け声を合唱したりする。スーツ姿の男性だけでなく中高年の女性も一緒になって歌い踊っている。一人一人の動きは微妙に違っていたが、それでいて全員が綺麗に揃う時もあった。観客は誰もが貌を崩して我を忘れていた。
美沙は一瞬、虚をつかれた。これほど瞬時に人が我を忘れる姿を始めて見た気がした。乗る前の前兆などまるで無かった。
終演後に入った近くのレストランで二人は語り合った。
「やっぱりジャズは素晴らしいね。リズムもテンポも心の奥底に深く響くんだな、それでいて凄く恰好良いんだよ」
「そうね。鮮烈なリズムが心と身体を直撃して電撃が走り、痺れちゃうのね」
「今日の演奏でもそうだったが、ビッグ・バンドスタイルによるスウィング・ジャズではソロ演奏が大変重要なんだよな、演奏者の力量と才覚に大きく左右されるところがあるからね」
「昔、ルイ・アームストロングがトランペット奏者でありながら自ら歌も唄って、ジャズとヴォーカルとを融合させたように、ジャズは何よりも自由に表現することが出来る。私はその自由な表現形式にジャンルを超えた現代音楽芸術の源流を見る気がしているの」
「ジャズは基本的には金管楽器と木管楽器とドラムスの組み合わせだろう。それにスピリチュアル、ブルース、ラグタイムの要素を含み、ブルー・ノート、シンコペーション、スウィング、バラード、コール&レスポンス、インプロヴィゼーション、ポリリズム等を演奏の中に組み込む。だから演奏者の力量に大きく左右されるし、何よりも自由に表現できるんだと思うよ」
「ジャズは身体の中から力が漲って来たり、小気味よくワクワクして来たりするのよね」
美沙はジャズ音楽の魅力について更に続けて忠彦に話した。
「ジャズは同じ曲でも弾く人によってイメージが違うのね。演奏者によって音楽の表現の仕方が違うので、音質やテンポ、強弱や緩急などが変わるんだわ。同じ曲でもいろいろな雰囲気が楽しめるのはジャズならではの魅力なのかも知れないわね」
二人のジャズ談義は尽きることを知らなかった。何時の間にか夜は深更に及んでいた。
話を聴きながら忠彦は、彼女は感性豊かで聡明なんだ、と感嘆した。
それから二人は交際うようになった。

 四月初めの温かい春の一日、忠彦と美沙は連れだってサイクリングに出かけた。
二人はサイクル・ターミナルでレンタサイクルを借りた。忠彦はマウンテンバイクのスタンダードクラスを、美沙は一般自転車のハイクラスをレンタルした。
「そんな怖い自転車、敵わんわよ」
忠彦のマウンテンバイクを見て美沙は大仰にふざけた。
二人は街中を一気に東へ突っ走って鴨川沿いの街道へ抜け、犬の散歩をしている人やベンチに座って休んでいる人達を見やりながら、綺麗に舗装整備されたサイクルロードをゆっくりと走った。
「うわッ、きれい!」
天蓋のように道の両側から覆い被さる桜並木や前方にも左右にも広がる山々の霞たなびく薄緑の美景を見やって美沙は感嘆の声を上げた。
「見て、見て!ほら、まるでオブジェのようよ」
彼女が指差した川面には鷺が一羽、じっと動かずに立っていた。
更にサイクルロードを北上すると自然エリアが待っていた。
二人は川岸に降りて缶コーヒーを口にし、暫しの休憩を取った。忠彦は大きく背伸びをして、思い切り空気を吸い込んだ。まるで生命が洗われるようだった。
そこから直ぐ近くに大きな古い神社が在った。
敷地は広大で、中に川が流れており、多くの文化財指定を受けた社が幾つもあった。何とも歴史深い森厳な雰囲気を醸し出していた。
「京都市で最も古い神社の一つなんだって。雷神を祭っていることから、厄除けの信仰を集めているそうよ」
美沙が博識を披露した。
「社殿が造営されたのは六百七十八年で、鎮護の神として多くの人々の崇敬を受けたそうよ」
「良く知っているじゃないか」
「そこの立看板に書いてあったのよ」
「何だ、そうだったのか!この野郎・・・」
二人は声を合わせて笑い合った。
美沙が参道東側に群生する野生のカキツバタを見つけた。
「五月下旬には一斉に紫色の花を咲かせて、とても綺麗だそうよ」
五分ほどペダルを踏んで北へ進むと急な上り坂になって来た。
マウンテンバイクを漕いでいる忠彦にとっては格別きつい坂道でもなかったが、身体を鍛えることの殆ど無い日常生活の美紗にとっては、この坂道は少し堪えるようであった。一キロ余り続く坂道をフーフー言いながら美沙は頑張って忠彦に従いて走った。
右手前方に小さな社が見えてきた時、美沙は「わあッ!やっと着いたわ」と思わず歓声を上げて喜んだ。
「一寸、一服しようね」
「うん、そうしよう」
境内は静寂だった。物音一つ聞こえない。誰一人居ない。まるで時間が止っているようである。二人は暫し無言で山門を潜り、石段に腰を降ろして自然の厳粛さに浸った。
冷厳な空気に少し寒くなった二人は、再び自転車に跨って、京都国際会議場の勇姿を左手に見ながら市が造営した大きな宝ヶ池公園へ入って行った。
公園の内は大勢の人で混み合っていた。今がシーズンの桜の花を見物する人、遠くの山々と国際会議場を借景として楽しめる遊歩道を散策する人、双眼鏡を覗いて野鳥を観察する人、自然林や芝生の庭園で寛ぐ人等々、春のうららかな陽光の下で、それぞれが思い思いに憩っていた。二人も自転車を降りてゆっくりと池の周りを歩いた。池では何組もの若いカップルが自分達だけの夫々の世界にひたってボート遊びを楽しんでいた。二人は自転車を止めて遊歩道の手すりに手を置き、眼前に広がる素晴しい絶景を見やって暫し佇んだ。
それから二人は人で混雑する遊歩道を避けて、「子供の楽園」を走り抜け「いこいの森」へ出た。沿道は広々とした芝生地とマツとが絶妙の景観を呈していたし、森には枝垂れ桜が白や紅の見事な花を咲かせていた。芝地にはタンポポが群生し、空にはオオタカが餌を求めて飛翔していたし、アオバズクの繁殖も見られた。
「うわぁッ、良い匂い!」
美沙が歓声を上げて眺めた桃林からは甘酸っぱい仄かな香りが漂って来る。
「この桃林には百本の桃が植えられていて、市内でも屈指の場所なのよ。梅の後の三月中旬から四月中頃までが花の見頃なの、良い時期に来たわね」
桃林の中には花見に訪れた人達がゆっくり観賞出来るように、散策路やベンチが整備されていた。
桃林の南側には梅林があったが、既に花は無かった。ざっと見て二百本ぐらいの梅の木があり、早春の二月中頃から三月中旬にかけて、赤、白、ピンクの花が満開になれば、さぞかし綺麗だろうな、と忠彦は思った。
更に、地下から汲み上げられた井戸水が深さ数センチの浅い人工の小川となって木陰を流れ、水辺には様々な植物が植えられて、周辺のサトザクラは今を盛りと咲き誇っていた。夏には母子で水に触れ合う子供達の人気スポットになると言うことであった。
二人は街中とは思えない広大な緑の空間に浸り、自然や歴史に触れあって心と身体を洗われた。
十分に心身を癒し気力を回復させて充足した二人は元のサイクル・ターミナルでレンタサイクルを返却し、二人きりの夕食を楽しむ為に、肩を並べて雑踏の始まりかけている通りを歩いて行った。夕焼けは未だ残照を残しているものの、四月上旬の夕暮れの風はもう肌に冷たかった。

 京都の街に夏の兆しが感じ始められた五月、鴨川西岸の二条から五条の間に納涼床が組み上げられた。忠彦と美沙は蒸し暑い六月の初めに涼を求めて出向いて行った。賑わいは既に本格的だった。二人は清らかな川のせせらぎと鴨の自然を感じながら、情緒あふれる川床料理を堪能した。
「この納涼床は桃山時代に始まったんだって」
「えっ、そんなに古くから在ったの?」
「うん。店によっては夜だけでなく、昼間もやっていて、家族連れでも気軽に利用出来るって好評らしいよ」
「これだけ風情が在れば、昼間でも良いかも、ね」
因みに、この納涼床は鴨川だけでなく、貴船にも高雄にも、そして、鷹峯にも鞍馬にも在る、と忠彦は言った。

 夏の休日には琵琶湖の水泳場へ、美沙が手作りした昼食と水筒と水着の入ったナップザックを担いで出向いた。
JRと私鉄バスを乗り継いで着いた浜辺は、綺麗な砂浜が四キロも続き、松並木が美しく、白い砂浜と青い水面のコントラストが絶妙だった。
太陽はすでに中空高く浜辺は暑かった。点在する島の向こうに見える遥かな山々は将に最高の眺望だった。
暫し絶景に見惚れた後、二人はバンガローを一部屋借りて、水着に着替えようと中へ入って行った。
「早く着替えて外で待って居てよ」
「解ったよ、覗かれないように外で見張って居てやるよ」
着替えを終えた二人は肩を並べて水辺へ歩を進めた。
長い髪を風に靡かせ、すらりと伸びた足で颯爽と闊歩し、黒い瞳はきらきらと輝いて、笑顔がとても眩しい美沙は、擦れ違う誰もが振り向いてその容姿に見惚れる魅力を備えていた。そんな美沙を連れて、忠彦は自慢げに誇らしげに砂浜を歩いた。
半裸になり肌の露出が増えた分だけ心が解き放たれて、二人ははしゃぎ、笑い、走った。
水の中では、形の良いクロールでゆっくりと大きく水を切って泳いだ。
「なかなか良い泳ぎじゃないか」
忠彦が立泳ぎで美沙のクロールを誉めた。
「そうよ、子供の頃、夏休みに、毎日のように水泳教室に通ったんだもの。それに女の子の平泳ぎは見っとも無いからね」
美沙も立泳ぎしながら答えた。
「あなたの泳ぎも上手いじゃない?」
「俺の泳ぎは我流だよ。幼い頃、親父に近くの川の泳ぎ場で水の中へ放り込まれて、沈まないように必死で足掻いた。犬掻きって奴だよ。あれ以来そんなに変わっていないよ」
二人は又、ゆっくり沖の方へと泳ぎ始めた。
暫くして、泳ぎ疲れた忠彦が浜辺に上がって腹這いになった。その忠彦の大きな背中に美沙がオリーブオイルを塗り、寄り添って汚れた砂の上に砕ける波を見つめた。
二人は自分達だけの小さな世界に閉じこもって、喧騒する周りの人間には聞こえないほどの小声で話合いながら、暫し遠くを眺めた。真夏の浜と雲と風が二人を優しく気だるく包んだ。
やがて、空腹を覚えた二人は昼食を摂る為にバンガローへ戻った。
美沙が用意した献立は、ハンバーグと卵焼きとホウレンソウのお浸し、それに拳ほどの大きさのおにぎり二個に一口大のおにぎり七個であった。
「大きい方はあなたの分よ」
「其方は随分と可愛らしい手間の掛かかった握り飯じゃないか」
忠彦が小さい方を指差して言うと、美沙が微笑いながら答えた。
「これは私の分。だって女の子が大きなおにぎりに齧り付いている姿は格好悪いでしょう」
手作りの美味い昼食で腹の満ちた二人は暫し、うとうととまどろんだ。満腹感は人を心地よく寛がせる。
「宝探し大会、始まるよ!」
大きな呼び声に目覚めた二人は、バンガローを出て声のする方角へ歩いた。
七月十五日から八月十二日までの間、毎週一回開催される恒例の「水中宝探し大会」であった。色を付けたシジミを探し当てると景品が貰えると言う。
「折角だから参加してみようよ」
美沙の一言で、余り乗り気でなかった忠彦も一緒にやることになった。家族連れから若者達、若いカップル等大勢の参加者が集まった。
午後一時の開始合図と共に皆が一斉に水中へ入って行った。
十分もしない内に美沙が、百メートルほど沖合いの水中で、金色の着いた小さなシジミを見つけた。
主催者のテントへ持って行くと、千円の金券が貰えた。売店や屋台で好きなものと交換出来ると言う。
「やったあ!何か思い出になるものを買おうよ」
美沙は素直に喜びを表して忠彦の腕を捕った。
おやッ、という表情で忠彦が美沙の横顔を見たが、彼女は素知らぬ顔で正面を向いたまま歩いていた。二人は腕を組んだまま売店の方へと急いだ。
琵琶湖から戻った二人はグランドホテルの屋上で学生バンドのハワイアンを聴きながら、冷えた生ビールのジョッキーを傾けた。灯りさざめく京都の街並を眼下に見下ろし、幸せ気に微笑み交わす二人の頬を夏の夜風が優しく撫でて通り過ぎた。
 
 十一月の初めに二人は神戸へ海を見に出かけた。
神戸ポートタワーは和楽器の鼓を長くしたような双局面構造の美しい外観で、港神戸のランドマークとして赤く聳え立っていた。
一階チケット売り場でチケットを買って、二人は地上二階に在る乗り場から展望エレベータに乗った。エレベータが上昇し始めると途中からシースルーになって眼下に景色が広がった。
「わあ~、すてき!」
美沙が思わず感嘆の声を挙げた。
展望二階で降りてベンチに腰掛けると、だんだん小さくなるフロアと窓の角度に双局面構造であるタワーの形状を実感した。
「双局面構造ってよく解らなかったけど、こういう感じだったのね」
二人は又、エレベータに乗って最上階の展望五階へ上がった。
其処から望んだ港と街は六甲山系の山々から海へと広がる大パノラマだった。



  タチヨミ版はここまでとなります。


七つの恋の行方

2019年1月9日 発行 初版

著  者:齊官英雄
発  行:啓英社

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齊官英雄

80歳の恋愛小説家
経営コンサルタント

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